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『傷口にハチミツ【後編】』 ... ジャンル:リアル・現代 恋愛小説
作者:アイ
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あらすじ・作品紹介
あまりにもハイリスクな学校生活に耐えきれず、登校拒否になった夏香。自分の望みと夏香の幸せが微妙に釣り合わないことに葛藤する彰。そんな中、夏香はかつてふたりが恋人としてすごした中学校へ行こうと誘う。幸せだった日々の数々を反芻しながら、夜の教室へ忍びこむ。そこで彰は夏香に、ふたりが別れた理由を話す決心をする。きっかけとなった事件は支離滅裂で、幼くて、だけど14歳だったふたりを引き裂くには十分すぎた――――そしていつしか、音もなく、逃げ回っていた悲劇がふたりの背後まで迫っていた。誰かを愛することは、幸せを願うことは、自分を破滅に追い込むことなのか?愛した女の子のために、たった17歳の男が出来ることは何か?幼稚でカッコ悪くて無鉄砲で、だけどありったけの愛と幸せを捧げた一生に一度の初恋、完結です。
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『デートに行こう』
夏香からそんなメールがきた。夕方四時に家の前で、という指定だったので僕はめいっぱいおしゃれをしたつもりで服を選び、ケータイと財布だけを持って家を出た。
片岡家のインター・フォンを押すと、すぐに夏香が出てきた。もう靴をはいて玄関口にスタンバイしていたのかも知れない。
「中学に行こう」
門をあけるなり夏香はそう言った。遠出ではないと思っていたが、まさかの出身中学。だから夕方だったのか。僕が「そこでいいのかよ」と言うと、夏香はきょとんとした表情で首をかしげた。
「今の私にとっては、あの中学が自分の学校なんだよ。記憶をたどるために高校に行くのはしんどくなった。だからよくなじんだ中学に行きたい」
言い終わるより早く夏香は僕の手をとり、中学への道をずんずん進んでいった。
僕にとって中学は苦い思い出の場所だ。夏香とつきあい、キスをし、手をつなぎ、殴られ、別れた場所。思い出すだに身の毛がよだつ。が、僕の手をつかんで離さない夏香を見ているうち、しゃあねえな、という気持ちよりもさらに前むきに、彼女が行きたそうだからいっか、とひらきなおってしまった。
ここから中学まではさほど遠くない。夏香の自宅からなら徒歩十分で行ける。つきあっていたときは、よく僕が夏香の家の前で待っていて、一緒に登校したものだ。人が多くなる通りに出るまで、手をつないで。その道を今、夏香に手首をつかまれて歩いているという状況がどうも不思議でならず、僕は彼女の手を軽くふりほどくと、自分の手の甲が前にくるように手をつなぎなおした。
「こっちのが自然じゃないか」
ちょっと笑いかけると、夏香が一瞬照れたように赤くなった。直後に大爆笑に変わったけれど。なんで笑われなきゃならないんだ。
僕らの出身中学は住宅街の奥においやられるようにでんと建てられていて、大きな校舎がひとつと別館がふたつ、汚いプール、さほど広くないグラウンドとその隅の体育館で敷地を陣どっている。僕はジャージを着た運動部員たちがちらほらと出てくる正門をくぐって、正面玄関から入った。私服の僕たちをいぶかしげに見てくる在校生と、興奮をおさえきれないようにあたりを見わたす夏香。僕は彼女のぶんの来客用スリッパも出し、手をとってブーツをぬぐのを手伝った。
職員室に突撃すると、一年と二年つづけて担任をしてくれていた先生が当時と変わらない席でテストの問題用紙に赤ペンで乱雑に丸やバツをつけていた。
「うわ、片岡さんと立浪くんか。どしたの急に」
「どしたのって、単なる母校参り。なつかしくなって遊びに来た。元気?」
「そりゃ私は元気だけどさ。なんだ、君たちまだ仲よしだったんだ」
三年の担任ではなかったが、先生は僕と夏香がつきあっていたこと、別れたことを嫌というほど知っている。それほど夏香は中学時代からかがやいていて、そんなお姫様を恋人にしたさえない僕とセットで目だっていた。夏香はとなりで困ったように苦笑していた。知っている先生だからか、夏香の態度に緊張の色はない。僕は学校内を見学する許可をもらった。当時の担任に話すのはおかしいと少し思ったが、他によく見知った先生がいないのでしかたない。職員室を出るとき、僕は二年のときに使っていた教室の鍵をこっそり持ち出した。
僕と夏香は思いつくかぎり、思い出の場所に手当たりしだい足を運んでみた。
体育館の裏。文化祭のとき、誰もいないここで、二人で買ったやきそばを並んで食べていた。まだつきあっていなかった二年の夏、合唱コンクールの打ちあげ前にみんなで集まって騒いでいた。夏香はすぐ後ろの立ち位置で歌っていた僕を指さして「立浪くんの声が一番よく聴こえてた!」と笑っていた。
別館と本館をつなぐ連絡通路。いつだったか放課後、ここで風にあたりながらふたりのデジカメを見せあっていた。気にいったものはパソコンでプリントして交換しあった。夏香はかわいらしい花柄の袋に入れて持ってきてくれた。彼女がくれたのは、京都に修学旅行に行ったときの写真と、机の上に飾ってあるぬいぐるみを撮った写真と、彼女の家でふたりで撮ったツーショット写真の三枚だった。僕が何をあげたか、もう覚えていない。
一階の保健室。鍵がしまっていて入れなかった。僕が仮病を使って寝ていると、夏香も仮病をわずらって入ってきた。並んだベッドにそれぞれもぐりこんで、保健医の先生の目を盗み、一枚のルーズリーフにシャーペンで文字を書いてこっそりやりとりをしていた。「なんて言って保健室に来たの」「とりあえず腹痛」「私は生理痛」「ひどいほう?」「そんなにじゃないよ」「女子って大変だよなあ」そんなことを書きながら、ベッドのあいだで交換していた。夏香が「結局サボリじゃん」と書いてよこしたときは、ふたりで枕に顔を押しつけて笑いをこらえた。
一階から二階へあがる階段。小学生のように手すりをすべる僕を見て、夏香が「がきんちょか」と笑っていた。やってみろと言うとひとこと「パンツが見えるから嫌だ」と言われた。俺だけが見てるから大丈夫というと、彼女は一気に手すりをすべってそのまま僕にタックルをかました。死ぬかと思った。夏香は「初めてすべった」と笑っていた。
二階のトイレ。僕は思わず「あ」と言ったが、そこから先は何も言えなかった。ここで和久井が女子たちに水をかけられているのを見た。夏香が「人にできるんだから自分がされる覚悟もあるはずだよね」と言って同じように水道の水をバケツでかけようとしていたので、僕が必死に止めた。
そういったことを、トイレの事件以外、夏香はすべて覚えていた。僕も覚えていた。たくさんの思い出話をしながら、僕らは母校を練り歩いた。
「そういえばあそこで」「ここで確か」「最初にここに来たとき」「冬にこのへんで」
滝のように記憶があふれてくる。
彼女が覚えているのは中二の冬までだが、それだけでもじゅうぶん宝箱のような記憶がたくさんあった。毎年何百という生徒が入れかわっているのに、卒業生である僕らの手でこの校舎はいつでも過去にタイムスリップできるんだと、天井をあおぎながら思った。壊れかけた電灯も、当時のままだ。上の階からひびいてくる、吹奏楽部の練習の音も。
美術室。僕はここで美術部員としてすごし、夏香に告白し、夏香の絵を描き、夏香とファーストキスをかわした。
あかりがついている美術室に入ると、ラジカセでロックをかけながら後輩たちが活動をしていた。「あー立浪先輩。何してんすか、元カノさんひきつれて」と、僕が卒業した当時一年生だった男子が大声をはりあげた。彼は美術部の部長になっていて、絵の具臭いエプロンをはがしもせずに近よってきた。夏香は入り口前で立ったまま見ていた。
「OBの威厳をふりかざしに来たんだったらまにあってますよ。俺、先輩がとった賞のさらにいっこ上の賞、取りましたから」
「え、嘘」
「こんな嘘つくとか俺どんだけ寂しい人なんですか。嘘じゃないっすよ。ほら、あの絵です」
彼が指さす先を見るとなるほど、アクリル絵の具で描かれた写真のような教室の風景画が壁にかけられてあった。夕日が差しこむ美しい絵だった。オレンジと青が微妙に混じっているようで混じらない、淡いバニラ色の光がうまく表現されている。僕はアクリルを使ったことがないので素直にすごいとしか感想を述べられず、後輩は得意げに胸をはった。
美術部に入ってきたばかりのときの彼は、ものを鉛筆で描きうつすのはうまかったが絵の具を使うとなると上達せず、当時部長だった僕もいろいろと苦労したものだ。それが県大会で賞をとるほどだから、めざましい進化だ。
僕らの会話を聞いて室内に入ってきた夏香が、彼の絵をみて「わあ」と感嘆の声をあげた。「すごくきれい。写真みたい」
「どうもです。てか先輩、なんで元カノさんと一緒なんですか」
「ああ、いや、ちょっとな」
「よりを戻したとかですか。まあいいですけどね、先輩がいいなら。おしあわせに」
無邪気に笑う後輩になんとも返答できず、僕はいくつかあいさつをかわしたのち、夏香の手をひいて美術室を出た。なつかしい油絵の具の匂いが残っていた。
三階にあがり、僕は二年四組の教室の鍵をあけた。夏香と僕が一年間すごした教室。
僕は二年に進級したころに夏香とこのクラスになり、「あれが噂の片岡夏香か」と遠目にかの美少女を見ていた。入学当時に全女子の選定をしていた男子から彼女のことは聞いていたが、確かにダブルAプラス級だとため息をついたのを覚えている。まさか彼女が数ヶ月後、恋人になるとは当時の自分はまったく思わなかったに違いない。
夕闇せまる教室は暖房などかかっているはずもなく、凍えるほど寒かった。四十個の机がならぶあいだをぬけて、僕は自分が使っていた机に座った。少し身長が伸びたのか、当時よりも机に座るのが楽に思えた。確かにここには誰もいないのに、机の横にかかっている置き勉のトートバッグや体育館シューズの袋、掃除用具入れのロッカーからあふれているモップ、前の授業が数学だったとすぐに分かる黒板の乱雑な消しかたなどから、人の活気をいくらでもうかがうことができた。
僕が使っていた机には、知らないやつの体育館シューズがかかっていた。引き出しからは中間テストの問題用紙がはみだしていた。今の自分なら楽に分かる問題に、シャーペンで薄く途中式が書きこまれてある。
不思議だ。人の歩み、営み、雑多な感情。
夏香は僕の前にある椅子に座りながら、「ここだね」と言って笑った。
「私はまだここの生徒のつもりだったんだけどなあ。いつのまにか高校生になってるなんて、ちょっと夢でも見てたみたい。本来、ここにいるべきなんだけど、現実が許してくれなかったな」
「というか、俺が許さなかったな、悪かった」
「彰は悪くないよ。最初に高校へ行きたいって言ったとき、超心配してくれたもんね」
その心配が的中したことで、自分のふがいなさに苦しんだのだけれど。僕は膝のあいだに手をつき、がっくりとうなだれた。
まだかすかに地平線にしがみついている太陽を、僕は夏香と一緒に見ていた。建物の谷間から悪あがきのように伸ばしてくる光の筋が、教室にほんの少しの明るさをもたらしている。電気をつけるほど暗くもないが、本を読むには適さない暗さ。それが余計に夏香との距離を埋めているような気がして、僕は急に恥ずかしくなり、肩をすくめた。顔が赤くなっていないことを願いながら。
「私、ここで彰と一緒にすごしたんだよね」
夏香が立ちあがりながら言った。「私の中では今でもすごしてる最中なんだけど」
ゆっくりと窓際に歩みよる夏香の足取りは重く、枷をつけられているようだった。僕は何も言わず彼女の背中を見つめる。
「それでも、別れちゃったんだよね。三年生のときだって言うから、この教室じゃないんだろうけど。でも、なつかしいな、この教室で私は彰を好きになって、彰も私を好きになってくれて、つきあうことになってっていうの。別れたなんて、ばかみたい。作り話を聞いている気分」
ふりかえった夏香の笑顔は、少し寂しげで、けれど嬉しそうだった。夕日が逆行になって、顔の半分は薄暗く見える。はかなくて、繊細で。
「覚えてる? 私がはじめて彰と話をしたときのこと」
嫌というほど覚えている。
すべての男子があこがれるお姫様にまさか童貞でチキンの僕が話しかけられるはずもなかった。が、ゴールデンウィークがあけてすぐのころ、夏香が職員室から持ってきた大量のプリントをかかえて廊下を歩いていたら、一番上のプリントが床に落ち、あろうことかそれをふんづけた夏香が転んだのだった。偶然すぐ近くにいた僕は「大丈夫?」なんてありきたりなことを言いながらあたふたして、あちこちにぶちまけられたプリントを一緒にかき集めたのだった。「ごめんごめんほんとごめん」と言いながらプリントを床でならす夏香を見て、つい「半分持とうか」と声をかけたのだった。それだけで全身の穴という穴から汗が滝のように吹き出ていたが、夏香はそれに対し、カサブランカかひまわりかという笑顔を顔いっぱいに浮かべて言った。
――これは私が頼まれた仕事だから、私がやらなきゃ。ありがとう、立浪くん。
それまで夏香は小柄でかわいらしく、ペンはともかく自分の鞄以上に重いものは持ったことがなさそうな華奢な体つきで、背景に花を散らしながら教室で本を読んでいそうな雰囲気があった。弱々しく、男が守ってあげたくなるような、天使のような子。
だけどその小さな身体は、男の弱さが浮き彫りになってしまうほど意志が強く、たくましい心を内に秘めていると知り、今思えば僕はその瞬間に夏香を好きになってしまったのかも知れない。
僕は机からおりて、「多分そのときだな」と言った。
「夏香のことが好きになったの」
「プリントを拾ってくれたときのこと?」
「そうそう。なんだこの子、ちゃんと強いんじゃんって思った。もっと繊細で壊れやすいお嬢様だと思ってたけど」
「失礼な。確かに女の子って男に守られたい願望が強いけど、守られっぱなしが悪いっていうのはじゅうぶん分かってるもん」
僕は肩を震わせて笑った。どうしようもなくおかしくって、僕は笑い続けた。つられて夏香も「なんなの」と言いながら笑う。少しずつ暗くなってゆく教室で、電気もつけず、僕らふたりはただ、笑っていた。
僕は夏香の手を離してはいけない。死が僕らを分かつまで、離してはいけない。
何もかもを忘れてしまっても、きっと、僕らは本能のままにここへ戻ってくるのだろう。どんなに遠まわりをしても、昨日がすっかり遠くなってしまっても、疲れた足をひきずってふたたび出会い、手をつないで、笑いあえるのだろう。諫山美生とエリック・クラプトンが溶けあい、混ざりあい、ひとつの小さな粒になる。
夏香の背中が、僕への見せしめのように暗く逆光になっている。あのころとはあらゆるものが変わってしまったけれど、彼女が僕に笑いかけてくれる瞬間のよろこびやうれしさは、決して変わらない。そう願いたい。
だから僕は、思いきって口をひらいた。
「俺と夏香が別れたのは」
彼女の身体がこわばった。
「君の大切なものを傷つけたからだって、前に話したよな」
長い間があき、太陽の光が完全に地平線へ消えてしまったころ、夏香がうなずいた。覚悟はしていたのだろう、彼女の目は思っていたよりしっかりと焦点をむすんでいた。
僕は彼女の腰をかかえて少し持ちあげ、出窓のスペースに座らせた。着ていたコートを彼女の肩にかけ、となりに座る。教室の床の影が徐々に夜闇に溶けこんでいくのを、じっと見つめている夏香。夜につつまれる街に背をむけ、僕らはかつて恋人同士としてすごした教室を、少し高い場所から見ている。何も変わらないはずなのに、何かが変わっていた。それは単に机の数が変わっているとか、黒板の落書きが違うとか、そんなものじゃない。二年間で変わるものは、世界を変える。
まるで、冗談のように。
「君が聞いたら、納得のいかない事件だと思う。誰だってたぶんそう。こんなことぐらいで夏香が俺を無視してるの、信じられないと思う。だけど、な、言い訳にしたくないけど、子供だったんだろうな、俺たち」
夏香が覚悟を決めたように僕を見た。彼女の髪を少し撫でて、ため息をつき、後ろに手をついて話しはじめた。
和久井千夏。
いじめられている、夏香の友達。
僕のところにも「彼女と口をきいたやつは無視」などといった内容のメールが届いたことがあった。中三で初めて同じクラスになったのでそれまで知らなかったが、彼女がいじめられている理由が単に彼氏持ちだったというだけであり、僕はおおいに納得がいかなかった。同時に、そんな簡単なことでいじめる女子の性分を心底怖いと思った。
いじめられている和久井に、同情でもなんでもなく友達になりたがった夏香。「夏の字が名前に入ってるところ、かぶってるね!」という口説き文句はさぞかし、当時の和久井にとって救いだったろう。すぐに仲よくなったふたりだったが、和久井と話しているだけで夏香もいじめの標的になったことは当然の帰結だった。それは僕や賢一も同じで、夏香と和久井以外の女子全員から相手にされなかったこともある。男子の何人かも和久井をいじめていたが、そういう男子と交流があるような僕ではないので気にしていなかった。
だが、主犯格の女子に呼ばれたことが、僕らの運命をビリビリに引き裂いてしまった。他人に責任転嫁するつもりなんてない、すべて僕のせいだ。
女子トイレでの、いじめっこたちの胡乱な会話。すべて聞こえたわけではないが「明日の朝」「和久井の机」などという物騒な単語に僕は心臓に重りをぶらさげられた気分だった。和久井に話せず、かといって夏香に相談もできず、煩悶したまま僕は翌朝、緊張からか妙な気分のまま早起きしてしまって、そのまま登校した。
七時半前、職員室に鍵を取りに行くと、僕の教室のものはすでに誰かが持ち去っていた。まさかと思って教室に入ろうとしたとき、窓に貼られたポスターの隙間から見えたのは、いつも和久井を姑息にいびっているギャルの女子たちだった。彼女らは雑談をかわしながら和久井の席を囲み、銀色の箱から次々とコンドームを出しては机の上に嬉々としてばらまいていた。そのうちひとりは小さいサイズの牛乳パックを持っていて、ゴムの中にそれを注いだり、机に垂らしたりしている。机の引き出しにゴミが大量に入っている、なんていういじめはもはや古典的だが、非処女であることをネタにいじめられている和久井にとって、これは下手な嫌がらせよりもたちが悪い。
僕は一瞬ひいたものの、すぐにいじめっこの女子たちの新しいネタだと分かり、猛烈に怒りがこみあげてきた。悔しくて、悔しくて、脳天をノコギリでけずられるような音をたてて歯ぎしりをして。
僕は自分でもやりすぎだと思うほど激しくドアをひらいた。窓ガラスが割れるかと思った。げらげら笑いながらコンドームで遊んでいた女子たちがちいさな悲鳴をあげてこちらをいっせいにふりむく。その目は一瞬恐怖に見ひらかれ、みるみる青ざめていく。彼女たちのもとへずかずかと大股で歩いてゆくと、その中でコンドームの箱を持っていた一番性格のきつそうな女子の胸倉をつかんだ。黄色い悲鳴があがり、他の女子たちはいっせいにあとずさる。
「どういうことだ、説明しろ」
顔が一気に熱くなる。沸点はとうに超えている。急にちいさな女の子のようにおびえて涙目になる女子だったが、僕はかまわずセーラー服の襟をさらに強くひっぱった。真ん中の三角の布をとめているボタンがはずれる。
「説明しろって言ってんだよ! なんなんだよ、あの机は!」
「痛いよ、離してってば」
「ちょっと立浪、何しやがんだよ」他の子たちがおっかなびっくり僕から女子をひきはがし、守るように前にたちふさがった。慌ててセーラー服の襟をなおす彼女に「大丈夫?」と声をかける子をかばうように立った女子が、「なんか文句あんの」と僕を見あげた。僕と同じぐらいの背丈なのに妙に迫力があって、化粧で偽装された目がアイスピックのようなするどさをもって僕を睨みつける。僕は一ミリたりともひかず、むしろ一歩前に出て彼女に食ってかかった。
「てめえら、こんな姑息でセコいやりかたしかできねえのかよ、卑怯者。言いたいことがあるなら正面から和久井に言え」
「立浪には関係ねえし。うちらのやってること止めてなんかいいことあんのかよ? 正義のヒーローぶんの、超カッコ悪くね?」
「それこそ関係ねえだろ論点そらすな。自分に彼氏いないのが悔しいだけだろ、女の妬みは怖いね。てめえみたいな腹黒の女が男に好かれるとでも思ってんのか」
「はあぁー? 人のこと言えんのか立浪ぃ! 誰もお前みたいなブサイク相手にしねえしよ! 鏡見てからもの言え! つーかこんなイノシシみたいな顔の男とか好きになった夏香の気が知れねー。和久井もよくこんな動物みたいな男になつくよねえ、暗いもん同士、類友ってか。ああキモいキモい、うぜえやつらの仲間で固まって群れて。いやそれでいいけどね、うちらに近づかなかったら」
「それ、そっくりそのままお前らにあてはまってんじゃねえか、片腹いてえよ」
「は? 何言ってんのこいつマジきめえ」
「男いねえヤンキーどもが集まって、自分の弱さを直視すんのが怖いからって和久井に視点そらしてんだろ。ここまでされなきゃならねえ理由が和久井にあると本気で思ってんの? 男つかまえる努力したほうが早いのに。自己満足のために和久井をこんな目に合わせて、それで本当に心から満足してんのか? 俺はいいけど、和久井や夏香の悪口言ったら本気で殴るぞ」
「はー何お前、意味分かんねえし、日本語しゃべれよ」
「別に俺、英語でしゃべってねえっしょ? 日本に住んでんだから、日本語とそれ以外の国の言葉の区別ぐらい普通つかね?」
言ってる意味分かんねえ、と連呼しながら上目づかいで挑発する彼女たち。このていどだったら勝てる。こんな自我のちいさいやつらに和久井がいじめられてるんだとしたら、あまりにも不憫だ。絶対にやめさせる。たとえ自分が悪役になったって。
僕が胸倉をつかんだ女子がゆっくりと立ちあがって、他の子たちの制止もきかず僕の前にすすみでた。彼女は指先でそっと前髪を整え、勝ち誇ったように笑った。
「このていどで終わり? 女には本気で手を出せないんだよね、臆病で優しい立浪くん」
そして僕の耳元に唇を寄せて、そっとささやいた。
「夏香、和久井のことかばって、ピュアっ子演じてんのがウザいし。あんたもあんたで、女友達を下心ゼロで守ってやる王子様きどりかよ。は、キモすぎ。何かっこつけてんの。視界に入ってくんな眼球が腐る。もうじゅうぶん懲りたでしょ? あんたがなんとか言って、和久井に転校でも不登校でも自殺でもなんでもするように仕向けてよ。そしたらあんたらバカップルには手だししないから」
――臨界点はとっくに突破していた。
そうだ、もともとすべてがこいつらのせいなんだ! くだらない理由で和久井をいじめて、ケータイで嫌がらせばかりして、犯罪行為すれすれのことをして、ここまで追いつめたのはこいつらじゃないか。僕たちの大事な友達なのに、和久井がどんなにすばらしい子か知らずに、傷つけてばかりで。男がらみのちっせえ嫉妬で人の学校生活を潰していいと思ってるのか? 和久井は何も悪くないじゃないか、いじめがどれだけ心に深い傷を負わせるか、知らないのかこいつらは。あげく、僕や夏香まで巻きこんで破滅に追いこむ気なのか。許せない、許せない、許せない!
僕は彼女の両肩をつかみ、そのまま強く押した。細い身体は簡単にコンドームまみれの和久井の机に叩きつけられ、鈍い音と共に悲鳴があがった。僕は「ぜってえ許さねえ!」と叫び、椅子もろともくずれ落ちた彼女の右頬を、そのまま片手で強く張った。風船が割れるような激しい音が鳴って彼女は床に倒れ、甲高い声で泣きはじめた。口の中を切ったのか、唇の端から血が垂れている。他の子たちが慌ててかけよって状態を起こし、机にぶつけた背中をさすったり、ハンカチで血や涙をぬぐったりしていた。「てめえ」女子のうちひとりが猛獣のような声をあげて立ちあがり、僕に殴りかかろうとした、そのとき。
なんの前ぶれもなく教室のドアがひらく。
入ってきたのは、和久井と、彼女と一緒に登校してきた夏香。
黒板の右下には、「日直 和久井」と書かれてあった。
和久井と夏香はいつも一緒に学校へ来ているので、それは問題ない。普段なら。今日はタイミングが悪すぎる。和久井ひとりでもじゅうぶん悪いが。
僕はドアをあけた体制のまま硬直している夏香と和久井とを交互に見て、つづいて自分がどう見ても目の前の女子を殴ったと一瞬で分かる現状を確認し、全身の血が一瞬で凍りついた。心臓が和太鼓のように激しく波打つ。
机の上を見て、和久井がその場にへたりこんだ。夏香がかかえるより早く、彼女は泣きだす。「ちーちゃん!」という夏香の声も遠く聴こえた。自分の置かれている状況を瞬時に把握し、同時に何も分からなかった。
夏香は数秒、何が起こったか理解できていないようだった。机の上のコンドームと、口から血を垂らして泣いている女子。組み合わせが異常だ。だが、どう判断したのか夏香は文字通り憤怒の形相にかわり、僕を憎しみたっぷりの目でにらみつけたあと、かけよっていきなり僕の頬を殴った。平手ではない、グーだ。僕は身体ごとよろめいた。間髪いれずに夏香が叫ぶ。
「何してんの、彰! これはなんかの罰ゲーム? この机、彰がやったの?」
「違うんだ、夏香、そっちは俺がやったんじゃない」僕は口の中が切れた、と思いながら必死で反論した。
「そっちは? じゃあ、そこの子を泣かせたのは彰なわけ?」
「違う、いや実際違わないんだけど、違うんだ。ぐっちゃになっててどこから説明すればいいのか」
「私だってぜんぜん分からない! この状況見せつけられて納得できるわけないよ、ちゃんと説明して」
僕と夏香が口論しているあいだも、和久井は床にへたりこんで泣いていた。僕が殴った女子は涙をぬぐい、「ムカつくムカつく」とちいさい声で連呼していた。
そして叫ぶ。「夏香、もうこんな男とつきあうの、やめなよ」
服の中に氷を落とされたようだった。僕はふりかえって、口の中の血をハンカチに吐きだしている女子を見た。
「あたしを殴ったの、立浪だよ」
僕は息をのんだ。夏香はすすり泣く和久井を胸元によせ、「うそ」とつぶやく。
「だって、どういう状況で彰がそんなこと」
「あたしらが学校来たらさあ、立浪が和久井の机にこれやってんの」夏香をにらみながら和久井の机を指さす女子。「で、なんだ立浪の和久井のこと嫌いなんじゃんって思ってたら、いきなり殴られてさあ」
「違う! 何言ってんだお前、勝手に話作るな!」
僕はあわてて叫んだ。夏香は呆然とし、和久井の机をもう一度見て、目をそらした。彼女の肩をつかんで「違うんだ、今のは全部あいつの嘘だ」と叫んだが、夏香はうつむいたままだった。
小馬鹿にするように鼻を鳴らして「いい迷惑だよ」と言う女子たちは、みんなで寄ってたかって僕が殴った頬を触ったりハンカチを当てたりしている。そんなようすを見ていた夏香が、そっとつぶやいた。
「あれは、彰が殴ったんだよね」
状況のいかんにかかわらず。消えた語尾は僕にも分かった。
僕がなかば先を予想しながらかすかにうなずくと、彼女は顔をあげて僕をまっすぐに見あげた。
怒りや憎しみよりも強く、ただひたすらに真剣な瞳。真っ黒ですきとおった夏香の瞳。いつわらない、瞳。腹のあたりが急に冷たくなった。
夏香の目から、ぽろり、とちいさな涙があふれた。決して嗚咽はもらさないけれど、強く優しい彼女が僕だけに何度も見せてくれたその涙が、血の赤色に染まるのを、仁王立ちして見ていた。
一度もまばたきをしないまま、夏香は和久井をその場に残してゆっくり、ゆっくりと僕の近くに歩み寄ってきた。そして、的確に僕の左頬を、叩いた。
バチン、なんてものじゃない。一瞬目の前が真っ赤に染まり、一度グーで殴られた箇所なだけに痛みは三倍増しだった。雑誌で叩かれたのかと思ったほど強い痛みだった。じわじわと熱を持ち、しびれるような感覚が脳にまで伝わる。耳鳴りがする。口の中が鉄臭い。
右にそれた顔を戻すと、夏香は僕の胸の前でうつむいていた。彼女の前髪のあいだから、ぼたぼたぼたっ、と信じられない量の涙が床にこぼれた。しゃくりあげるたびに夏香の肩が跳ねる。
誰も何も話さない。僕の背後にいる女子たちも、僕を呆然と見ている和久井も、何も話さない。夏香の泣き声と、僕の頬の痛みだけが、その場の時間を止めていた。身体の筋肉がひとつも動かなかった。
耳が聞こえなくなったのかと錯覚する。
僕が夏香の肩に手をおくと、それこそ感電したように夏香があとずさった。僕から三メートルほど距離をおいて、涙でぐしゃぐしゃになった目で僕をにらむ。憎しみと、悲しみと、後悔と、絶望と、混乱と、怒り。僕が初めて見た夏香の直接的な怒り。
彼女は糸が切れたように、叫んだ。
「彰のこと、本当にいい人だと思ってた。ちーちゃんと友達になってくれて、優しくて。彰は大多数に屈しないって信じてたのに。男として、人間として最低。軽蔑する。クズ同然。生きる価値ない。女の子に手をあげるなんて、死んだらいいよ、本当に。もう、どうでもいいよ、あんたなんか」
そして夏香はすがすがしい朝日の中、僕が死んでも、来世でも忘れそうにない声で、僕に呪縛の言葉を言い放った。
――そういうやつだったんだね、彰。
気がつくと夏香は泣いていた。僕のとなりで、膝の上で両手を強くにぎりしめて。僕は指先で彼女の涙を拭いた。拒絶されなかったことが、僕にとっての救いだった。すっかり日の沈んだ夜闇の中、静寂に守られて、彼女のすすり泣く切ない声だけが教室に響いていた。
夏香は鼻をすすりあげ、気丈にふるまおうと目をひらいて正面をむいた。白目が真っ赤に充血している。夏香は静かに「それからどうなったの」と言った。
僕は固くにぎられた彼女の手の上に自分の手のひらをおきながら「和久井はすぐあとに転校した」と言った。
「そうとうなショックだったんだろうな。いや、俺が悪いんだけどさ。もともと彼氏がいるなんていうのがいじめの理由だったから、あのゴムの仕打ちはやっぱり傷ついただろうな。決定打あたえちゃったみたいでさ」
「でも、誤解だって」
「そう、誤解。事件のあと、和久井に話したらあれは俺がやったんじゃないって、ちゃんと分かってもらえたんだ。で、実は今も、彼女のメアドはケータイの中に入ってて、たまに連絡してるし年賀状も来る」
事件の日の昼休み、拒絶されることを覚悟で和久井を校舎の裏側まで呼び出した。そして夏香に話したように、まったくの誤解だということを細かく説明した。すると和久井は目を伏せてしばらく考えていたが、やがていつものように静かに笑い、「立浪くんを信じるよ」と言った。
「疑って何かが変わるわけじゃないし。立浪くんが優しいのはじゅうぶん分かってる。だから、そんなに自分を責めないで。つぶれちゃうよ。でも、もう誰かを殴っちゃだめだからね。相手の子にも謝って」
元々、もの静かで大人っぽい和久井だったから、僕の話も冷静に聞いてくれた。ただ彼女にそうとうな心理的ダメージを与えたことは否定されるべきではない。男性恐怖症になっていなければいいが。素晴らしい友達であったことは、間違いない。
「それじゃあ、和久井さんは彰がゴムを机にばらまいた犯人だとは思ってないんだ」
「彼女はそう言ってくれたから、信じてる。メアドも変えられてないし、返事もくれる。新しい中学に行って、高校にも進学して、今度はいじめられてなくて、元気そう。まあ元々彼女の人格や性格に原因があったわけじゃないんだから、環境が変わればいじめも終わるって分かってたし」
「そっか、よかった」
夏香は目に涙を浮かべながら安心したように笑った。未来の自分が知りあう見知らぬ友達のために本気で泣いているのが、夏香の優しいところだ。そもそもがこういう子だからこそ、外見を抜きにしても男子に人気だったのかも知れない。
「で、和久井をいじめてたやつらは、俺が殴ったからか、それ以来和久井をいびるのをやめた。暴力をふるったことを素直に謝ったら、こっちこそごめんなんて言われた。その子たちはそろって超頭のいい高校に進学して、連絡がとれなくなった。だからそいつらと、俺と夏香と和久井と賢一以外は、この事件のことを知らない」
「じゃあ、瞳ちゃんは」
「彼女も知らない。俺が夏香の元カレで、別れた今は夏香が俺を嫌ってるってことしか」
だから瞳の目には僕が一方的な悪人にしか見えなくて、一応僕の友達でいてくれているけど、僕らのいざこざに関しては無条件に夏香の味方でいるのだ。大切な友達だしそれは悪いことではないけれど、事件のことを話したいと思ったことは一度ではすまない。
そうして事件は公にならず、他の生徒が登校してくるころにはコンドームもきれいに片づけられ、いじめの首謀者はいっさい口をつぐみ、僕と夏香はそのまま言葉を交わさなくなった。事実上の消滅。別れ。
それから長く、絵筆を折り、僕の世界は凍ったままだ。
「私とは」
夏香がそっと口をひらく。僕は彼女の次の言葉を待たず、話しはじめた。
「君とはそれっきりだよ」背中をそらして天井をあおぐ。「和久井が転校したころには、君は俺と口をきかなくなってた。話しかけても逃げられるから、事件についてはなかなか誤解が解けなくて。俺が学校で和久井と話そうとすると、夏香がそれを拒んで。もしかしたら和久井が夏香を説得してくれてたかも知れないけど。メールで別れようって言われたときは、多少納得して同意して、でもすぐに泣いたなあ。さすがにきつかった。メアドも変えられた。だから俺は、君に直接自分の無実を主張する機会を永遠に失って今に至るんだ。どっちにしても、女の子を殴った事実は変わらないけどさ」
「私と彰が別れた原因って」
「そう、全部この事件がきっかけ。俺がいじめグループの女子にはめられて、和久井を傷つけ、君を傷つけ、女に手をあげ、何もかもが土石流みたいにざああって崩れて流れていった。それだけの話だよ」
それだけの話。
彼女はふたたび泣きだした。声もあげずに、静かに、静かに。
どこかで間違えていた。何かのはずみで歯車がかみあわなくなり、つぎつぎに芋づる式にずれていって、最後には動きを止めてしまった。そんな幼い恋。
別れを言いわたされたとき、たくさん泣いた。いろんなことを死ぬほど後悔した。声をあげて、けれど布団にもぐりこんで親に聴こえないように、泣いた。泣くことをやめられなかった。
一年弱、僕が夏香と一緒にすごした日々はなんだったのかと何度も自分に問うた。めいっぱい泣いた。泣きやんだのはいつだっただろう。どうやって泣きやんだんだっけ。
今、夏香が泣いている。一生懸命、泣いている。子供のように涙をぼろぼろこぼす夏香を、僕は横からそっと抱きよせた。優しく、優しく、赤ん坊を抱くように。
僕の腕にしがみつき、胸に顔をうずめてなお、泣きつづける夏香。僕は彼女の頭をそっと撫でてやりながら、「君は優しいよ」と言った。
「だって」かえす夏香の声は震えていた。「信じられないし、想像もできないのに、現実だなんて。この手が、彰を殴ったなんて」
夏香の目からつぎつぎ涙がこぼれてゆく。僕のTシャツはすでにぐしょぐしょだ。冷たかったけれど、僕はかまわず、さらに強く夏香を抱きしめた。そして髪に頬をよせ、彼女の言葉をひとことたりとも聞き逃すまいとすべての身動きをとめる。自分の呼吸すらうるさくてしょうがない。
僕は彼女の手をとって言った。
「大丈夫、悪いのは俺なんだ。夏香は和久井の友達として当然のことをしたんだ。第一、男が女を殴るなんて、最低だろ」
嗚咽を少しおさえる夏香。僕は彼女の髪に指をとおした。シルクのようになめらかで、冷たかった。
「夏香が俺を殴るほど怒ったのは、和久井が泣いていたからだろ。あと、俺が女子に対して殴りかかったとかさ。今の夏香だって、そんなの嫌だろ?」
夏香は小さくうなずいた。当然だと思う。
「だから君の暴力は、優しかったんだ。女の味方って感じでさ」僕は夏香の右手を左手で包みこんだ。「彼氏よりも女友達が大事って、今どき珍しいだろ。いじめっことはいえ女を殴るのを許さないとかさ。国民総自己中で理不尽な世の中に生きていて、こんなにも優しい子がいるんだなあって、別れて一ヶ月ぐらいたって気づいた。不謹慎だけど、あたたかい気持ちになれたよ」
そして同時に僕はたくさん後悔した。
誰もが冷静になれなかった、十四歳がひきおこした事件。それはそれぞれにとって看過できることではなく、確実にそれぞれの記憶にとどまっている。
それでも、確かに、当時の僕は必死だった。初恋で、攻略本を持たない新人が持てる小さな知恵をふりしぼって、ひとりの女の子をしあわせにしようとしていたのだ。僕のしたことが間違っていたと大人がいうのなら、十四歳の少年にとっての正解はいったいどこにあったのだろう。
ひとつしかない幼い心が傷だらけになったとき、ああすることでしか自分を守れなかった。傷口から滂沱と流れる血の止めかたを、教えられなかった。砕けた空の破片が落っこちてきたとき、甘い痛みを覚えていた。
僕はとりわけ強く夏香を抱きしめた。
「ごめん、傷つけて。これだから話したくなかったんだ」
「ううん、知らないままのほうが嫌」夏香は目元を拭いて顔をあげ、ふわりと笑った。「むしろスッキリしちゃったよ。モヤモヤしてた霧が晴れたみたい」
「怒らないんだ」
「怒っても過去は変わらないよ。それにね、そのときに彰なりに一生懸命だったことは確かなんだよ。結果はどうあれ、そのとき正解だと思ったことをしたんだよ。友達の仇、みたいなさ。でも、ちゃんと後悔してる?」
「超後悔してる。男として一番やっちゃいけないことだった。この二年間、そのためだけに自殺するかと思った」
「よろしい。じゃあもう二度と女の子に暴力をふるったりしないこと。その子がどんな悪人であってもね」
「誓うよ。なんで俺があんなことしたのか、今でも信じられない。自分のことなのに、どんだけ激高してたんだよ的な」
僕は自分の右手を見つめた。事実だけが濁流のように頭になだれこんできて、そのとき教室にいたいじめの首謀者たちを見たときは、とにかく一発殴らなければいけないと思った。他に何も考えられなかった。思いだすと、少し怖くなってくる。
和久井は僕を許してくれた。彼女をいじめていた女子たちは僕と同様に反省した。女の子がみんな優しくて、救われて。高校二年生の夏香は、どこまで知っているのか。僕がどこまで自分を切りきざめば、許してくれるだろうか。
僕はたずねた。「悲しくはないの」
「悲しいよ。でも、それだけ。だからもしこのまま記憶が戻れば、少なくとも私は彰を許せるよ。その事件が大勢の人を悲しみでいっぱいにしたのは確かだけど、彰はそんなに自分を責めなくていいはずだよ」
「でも、和久井が」
「和久井さんは彰の誤解を分かって、暴力の件も許したんでしょう? 和久井さん、優しいよね。自分が一番傷ついたっていうのに。だから、彼女にちゃんと感謝するんだよ。和久井さんの家に足むけて寝ちゃだめ。生かされてるってことを忘れちゃだめ」
けろっとして、泣いていたことを恥じるように笑う夏香を見て、僕も笑って彼女の頭を撫でた。「ありがとう」とつぶやくと、頭を撫でかえされた。
僕は誤解をとくためだけに二年間、彼女の背中を追いかけていた。それで何かが変わると思っていた。
「彰こそ、よくがんばりました」
夏香はバンと強く僕の頭を叩いて話した。
――覚えてる? 「バニラ・スカイ」のデイヴィッドの夢に、死んだはずのジュリーが何度もでてきて彼の神経を逆なでしていく場面。あれはね、デイヴィッドが過去の罪から逃れていたことの罪悪感のあらわれなんだよ。ジュリーの愛をもてあそんで捨てた罪ね。彼が目をそむけている限り、欲しかったものは手に入らないし、しあわせにもなれないんだよ。罪をなかったことにはできない。だけどソフィアとのしあわせを失った原因であるその過去と、たとえ傷ついてもむきあったら、デイヴィッドは本当のしあわせを自力でつかむことができるんだよ。
僕の脳裏に、映画のラストシーン、デイヴィッドが高層ビルの最上階から飛び降りるシーンが想起された。夢からの覚醒。戦い。その先にある光。
僕は夏香の髪に顔を伏せた。甘いシャンプーの香りが僕の鼻孔を満たす。夏香の匂いが体中にしみわたって、溶けてしまいそうだった。
彼女の顔の横の長い髪を耳にかけ、頬を両手でそっと包んだ。小さな頬は僕の手のひらに簡単におさまってしまう。親指で目尻を優しく撫で、ゆっくりと唇を寄せた。彼女の吐息が顎にかかり、目を半分伏せたそのとき。
「あ、雪」
上唇が触れる数ミリ手前で夏香が突拍子もない声をあげるので、思わず「は?」と硬直してしまった。夏香は僕の唇からそっぽをむいて窓の外を指さしていた。「ぼた雪だよ!」
すっかり夜になってしまった街には、あられをぶちまけたように大ぶりの雪がぼろぼろとこぼれ落ちていた。まさにぼた雪。積雪必須。細かくちぎった和紙がまうようなその光景にしばし見とれる。日本によく似合う雪。
だが、僕は二年ぶりの夏香との接近戦に心臓が壊れる思いだったというのに突然中断され、がっくりとうなだれた。ばつが悪くなり頭を掻く。
夏香は出窓から飛び降り、「外に行こう」とはしゃぎながら机のあいだをかけぬけて行った。呼びとめながら僕もあとを追いかけたが、夏香はすでに廊下をぱたぱたと走り去っていた。早い。水の上をすべっているような軽い足どりに、運動不足の僕の足は早くも悲鳴をあげた。それでも涙で濡れたTシャツをはためかせて必死であとを追う。
校舎の端の階段を全速力でかけてゆく、子犬のような夏香の背中を追いかける。にじむ視界。矩形にゆがむ画面。夢のようで実は夢じゃなかった、現実。
外へとつづく重いドアをタックルするようにあけると、夏香はスリッパのままグラウンドにかけだしていた。僕は「おい」と呼びながら走りより、頭を軽く叩いた。
「靴もはかずに何やってんだ、冷たいだろ」
「彰だってスリッパのままじゃん」
「君がかけずりまわってるっていうのに俺だけ靴取りに行くって変な構図だろ」
ため息をついてあきれたが夏香は気にせず、上をむいて「わあ」と感嘆の声をあげる。灰色の空から涙のようにばらまかれる雪。雨よりも冷たくて、けれど雨よりも優しくはかない粒。夏香はそれを見て「スキー場でしか見たことないよ、こんな雪」と言った。
「スキー行ったことあるんだ」
「うん、中三のときに」
三秒ほど間をあけて、僕はすぐに「あれ?」と気づいた。
「え? あ、私、中三って言ったっけ」
「言った言った。思い出してんじゃん」
「多分」夏香は腕を組んで首をかしげた。「でも、もやっとしか思い出せないよ。それが中三だったっていうのは分かるけど、他の何も思い出してない」
「そっか。じゃあつまり、一部を思い出したっていうだけなんだ」
「だろうね。残念」
困ったように笑う夏香。彼女は手のひらをひろげて雪を受けとめながら、「私はちゃんと、私のままなんだね」とつぶやいた。
あたたかいものに触れた瞬間に溶けてしまう雪の中で、夏香の輪郭もはかなく消えてしまいそうな気がして。僕は夏香の視線の方角を同じように見あげて、空の破片を頬で受けた。キンと一瞬冷たく刺激したが、すぐに水っぽくなって頬を伝う。まるで涙のように。
僕はぽそりとつぶやいた。
「もう一度、君の大切な人になることは、許されるのかな」
夏香はゆっくりと僕を見た。
「それは、罪なのかな」僕は言った。
ふたりの距離を埋めるように、雪が降り注ぐ。互いの頭や肩に雪が積もるほど見つめあっていた。長く暗い時間。果てしない夢。夏香の大きくて丸い目は、きらきらしていて、今この目に僕だけがうつっているんだと思えば、涙があふれてきそうだった。
何かを恐れていても、多分、恐れることを恐れているだけだ。
僕は彼女の冷たい両手をとり、手のひらで優しく包んだ。
「ただ、君をしあわせにしてやりたいだけなんだ。俺は罪人だし、こんなこと言う権利がないって分かってる。卑怯だとも分かってるけれど、俺の最後の願いなんだ。情けない男の、情けないなりに願いたいことなんだ」
夏香の両眼に、じわりと涙がにじむ。僕は一瞬たりとも目をそらさなかった。
手をにぎったまま、その場に片膝をつく。
「君が好きです。もう一度、俺の恋人になってください」
不思議と、彼女が記憶をなくす前に感じた高揚感や緊張は何もなかった。
夏香の瞳からまた、涙が一粒、ぽろりとこぼれた。彼女はそれを自分の手の甲でぬぐい、僕の両手を包みかえした。小さな、ちいさな手だった。
「いつか記憶が戻るかも知れないよ。そのとき、私はこの一ヶ月のことを忘れちゃうかも知れないんだよ」「かまわない。そうなったら君がそばにいたい男のところに行けばいい」「どうして別れて二年がたっても私を好きでいてくれるの」「分からない。でも、説明したら嘘になる」「彰が苦しいだけじゃん」「夏香が笑ってくれるなら受けてたとう」
ふたたび僕の胸にとびこんできた夏香。笑っていた。「嬉しいよ、彰」と言って、シャツに顔を押しつけた。
「しあわせすぎて」
僕は彼女の細い身体を、壊さないように抱きしめた。やわらかくて、あたたかい、生きもの。僕は空をあおいだ。記憶がつらい思い出で満たされても、世界はこんなにも美しいということを忘れちゃいけない。
僕の知っている淡くて長い音楽が、砂の山のように崩れ落ちていた。あらたな夢がはじまる。それでも、僕はまた目を覚ます。
暗くて広い校庭で、僕らは抱きあった。触れていない部分がないぐらい、強く抱きあった。雪の中、指をしもやけにしてしまいながら。
――もう一度、スタートラインに戻ろう。そして、限界までふたりで走ろう。
彼女を必ずしあわせにしてあげたい。これ以上、悲しい涙を流して欲しくない。落ちこんでいる場合じゃない。罪を償うたび傷跡はひらいて血が流れるけれど、苦さの中の甘い香りでまた、君に気づけるから。こんな僕を許して、見守ってくれている大勢の友達がいるから。
僕はふたたび夏香の頬を包んで、ゆっくりと、重ねるだけのキスをかわした。寒さで唇が乾燥してひびわれていた。二年ぶりの口づけ。一瞬でも忘れなかった、ついばむようなキスは、あたたかかった。
雪はやまなかった。ぼた雪が僕らの頭や肩に積もって、その時間の流れの遅さを具現化するようにのんびりと溶けてゆく。熱を帯びた砂糖水が垂れるように。
僕らは泥まみれになった来客用スリッパを水道で洗い、先生に挨拶し、鍵をこっそり返して、手をつないで帰った。
くだらない話をして、笑って、こづきあって、君が手をにぎりかえしてくれて。
どこか見知らぬ森の中、と言い、扉のむこうに安らぎがある、と返事をする。
それはジョン・レノンの命日にやってきて、氷水を浴びせられたかと思うほど僕は驚いた。テレビで「イマジン」が飽きるほど流れる中、僕は自宅で、ソファで寝そべってテスト勉強をしていた。夏香からメールが届く。
『インフルエンザにかかっちまったぜー』
僕はすぐに身支度をして夏香の家にむかった。あいさつもそこそこに片岡家へあがる。部屋のドアをあけるなり「やっほーう」と夏香がベッドで敬礼をしているのを見て、クレヨンしんちゃんの母ちゃんがするように彼女の頭をゲンコツでしばいた。「心配かけさせやがって!」パジャマの夏香は布団の中で暴れる。元気なもんだ。一時期パニックをひきおこした新型インフルエンザではないらしく、まるで風邪のようだった。
「生まれて初めてかかったよ。ちゃんと薬は飲んでるから大丈夫。勉強もできるし、本も読める。気づかい無用」
気づかうわアホ、と僕は夏香の額にぽんと手刀をいれる。その額がかなり熱い。
まさか雪の中でぼけらーとしていたのが悪かったのか。僕は「ごめん」と謝った。夏香は「多分関係ないと思うから大丈夫だよ」と笑っていたが、納得いかない。
そのインフルエンザのせいで夏香はとうとう期末テストの日に登校できなかった。テストだけでも受けるつもりだったらしいが、これでは追試どころか外出もできない。本格的に彼女は留年の危機にさらされることになってしまった。
僕はテスト前だというのに足しげく夏香の家にかよった。例のごとく母に買い置きしてあるレトルトのおかゆをどさっと持たされて、それは夏香の両親にたいそう喜ばれたのだが、なんだかすっかり彼氏きどりだ。
日に日に夏香の病状が悪化しているような気がしたのは間違いではなかった。インフルエンザにかかったことがないので分からないが、山があるものなんだろうというぐらいにしか思えなかった。夏香の母親は「たまに意識が混濁するみたいだけど、高熱出したら誰でもそうなるだろうしねえ」と心配そうな顔で言っていた。
ある日、僕は夏香の部屋に入るなり、肩にさげたバッグから大判サイズの本を取りだした。中学の卒業アルバム。夏香は布団から顔を出しながら少し緊張した面持ちでいた。
「おもしろくはないだろうけど、持ってきてみた。退屈しのぎにどうぞ」
集合写真は三年生のものだった。僕は当時在籍していたクラスのものをひらき、夏香の上半身をゆっくり起こして膝の上に乗せる。一様に制服をきちんと着てならんでいる四十人の中で、夏香はすぐに自分を見つけた。まだ茶髪にする前の、十五歳の夏香。彼女から少し離れたところにいる、ぶすくれた顔の僕もすぐに見つけられた。「一年後の私かあ」と夏香は笑っていた。
中三の秋になると、あちこちでカメラマンが写真をとっていた。授業の風景や、調理実習のようす、廊下で遊んでいる生徒たち。つるんでいる女子たちがカメラマンをつかまえて撮らせたらしい写真もあった。そういったものが自由きままに、時系列を追ってはりこまれてあるのを、夏香は丁寧に見ていた。拒否することは一度もなかった。
最終ページにある三年間の重大事件を集めたページで、リーマンブラザーズ、オリンピック、秋葉原無差別殺傷事件、オバマ大統領就任などといった二〇〇八年の主要ニュースを見て、夏香は「このへんは知らないなあ」と言っていた。
「私が記憶をなくしても、世界ごと逆戻りしたわけじゃないんだね」
「当然だろ、地球はずっとまわってる」
「私にしてみたらタイムスリップした気分だからさ、三年間に何が起こったのかを知るって、おもしろいよ。誕生日新聞を読んでる気分かな」
僕はベッドの脇に夏香のデスクの椅子をもってきて座り、彼女の手をにぎった。小さくて、あたたかくて、優しかった。夏香はただでさえ赤い頬をさらに染めて「どしたの」と笑った。部屋の隅におかれたピンク色の加湿器がごぽりと音をたてた。
「いや」僕もつられて笑う。「夏香が愛しいと思って」
「うわ、だっさ。インフルエンザがうつったの? てかうつるから離せ。マスクしなよ」
「うつってもいいから離さない。マスクしたら気持ち悪いからしない」
彼女はうつろな目で僕を見ていたが、やがて大人っぽく笑った。顔はまだ赤い。
「気持ち悪いぐらい犠牲的だね」
「借りがたくさんあるからな」
「前も言ったでしょ。あんまり王子様ぶられると逆にウザいって」
「ウザいとまで聞いてない。俺が夏香と一緒にいたいだけだよ、文句あるか」
ないないない、と夏香は笑って手をぱたぱたとふった。その動きがあまりにも緩慢だったので、僕は卒業アルバムをとりあげてふたたび夏香の背中を支え、ベッドに横たえた。布団を首元まであげ、汗をタオルでぬぐう。急に彼女が生まれたばかりの、目もあいていない子猫のように見えてしまった。
夏香の笑顔は一瞬ではかなく消えてしまいそうだった。
「ごめんね、なんか最近、無性に眠くって」
「インフルエンザなんだから、身体が体力を温存しようとしてるんだろ。知らないけど。あんまり寝すぎてもどうかと思うけどさ。とりあえず、おとなしくしとけ」
彼女の頭をそっと撫でた。髪が少し濡れていてきしむ。全体的にふんわりと熱をおびている夏香の顔がなんだかいたたまれなくて、僕は汗まみれの頬を何度も手の甲で撫でた。
じき冬本番だ。それまで夏香が耐えられるのか。
僕は彼女の汗をぬぐいながら、「なあ」と声をかけた。
「記憶がないあいだの出来事を覚えたまま、記憶が戻ることはあるのかな」
フィクションに踊らされて一喜一憂している自分が少し情けなくなったがしかたない。夏香は目を伏せて「だといいね」と言った。
「よくないだろ、前も言ったけど」
「だって、それなら、彰のこの手も忘れずにすむ」
「俺の言葉も?」
「そう、一言一言たたきこむ」
「つらくないの」
――そうでもないと思うよ、きっと。
そっとつぶやき、僕の手に鼻先をすりよせる夏香。僕は熱くてしょうがない彼女の額に軽くキスをした。汗で少ししょっぱかった。
夏香が笑う。ふたりして、笑う。
「俺さ、こないだ『バニラ・スカイ』のDVDを借りて見たよ」
「やっと見た」夏香はかすれた声で笑った。「私のお気に入りなのに」
「久しぶりに見たけどおもしろいな。原作も好きだけど、トム・クルーズでもいいかも」
「テーマ曲がマッカートニーなのもいいよね」
「でさ、俺思ったんだけど」
僕は汗でしめった夏香の手をにぎった。彼女は「何?」と言って寝がえりをうった。
「高二の夏香はきっと何かを探していたんだ。そして、その何かを探さないといけなくなった要因と向きあわないと、何も変わらないと思ったんじゃないかな。だから無意識に記憶をなくしてしまったんじゃないかと思う。デイヴィッドが夢の中で過去の罪と向きあったように」
もちろん夏香がそれを意図して階段から落ちたとは思わないけれど。夏香は夏香なりに夢の中で苦しみ、過去とむきあおうとしていたのかも知れない。
「失った原因から逃げてるうちは、とり戻そうとしても何も手に入らない。教訓その一」
そう言いながら、僕は遠くの壁をじっと見つめた。花の模様の時計がかざられてある。僕は目の前にいる夏香と僕の知っている夏香が同じ人間だということを知っている。否定できない現実。まわる世界。僕の中でやわらかいメレンゲに包まれた記憶。
しばらくきょとんとしていた夏香だったが、やがて目を伏せ、手をつかんでいる僕の手の甲に唇をよせた。夏香は自分に言い聞かせるようにうなずき、安心したように笑った。目が真っ赤に充血していた。
「彰」夏香がちいさな気泡のように静かにつぶやく。「私、彰に愛されてよかった。しあわせだった。うれしかった」
「何を言ってんだ、今になって」
「そのままだよ。ほっとしちゃったの」
「そんなに俺って危なっかしいかな」
「満塁でセーフティーバンドするような人。こんな彼氏には、私みたいにふかーくひろーい心を持った彼女が必要なのかもね」
ふたりでクスクス笑う。「お水が飲みたい」と言うので、僕はベッドの脇においてあったストローつきのカップをとる。夏香の後頭部に手をやって、ゆっくりと水を飲ませた。ほんの少しだけ嚥下した夏香が「ありがとう」と笑う。
「彰はいつもこうして、私のそばにいてくれるんだね」
「当たり前だろ。ずっと一緒にいよう」
「そうだね、ずっと一緒にいよう」
「誓うよ。俺は夏香と生涯を添い遂げる」
「ごめんね、さっきも言ったけど、最近無性に眠いの」
「かまわないよ。ゆっくりおやすみ」
夏香の大きな瞳が完全に閉じられ、寝息をたてはじめるまで、僕は彼女の頭を撫でていた。幼子を寝かしつけるように。危うい眠り姫を、悪夢から救いだすように。
それから夏香の母親がようすを見にくるまで、僕は椅子に座ったまま夏香の寝顔を見ていた。世界一大好きな女の子の夢が、文句のつけようがないほど楽しくてしあわせなものであるようにと、それだけを願っていた。
「ずっとふたりで一緒にいたい」
僕は眠る夏香の額にもう一度キスをした。「ふたりでいられるなら、それ以上のしあわせはのぞまない」
中二の今ごろ、夏香と一緒に「オーロラの彼方へ」という映画を見た。オーロラが発生している日、古いアマチュア無線機を通じて、主人公が三十年前の父親と話ができるようになるというストーリーだった。消防士の父親が火事で殉職したことを思い出し、息子は父に「倉庫火災にかりだされたら気をつけろ」と忠告する。からくも生き延びた父は、机に「俺は生きている」と彫り、三十年後、主人公がその字を見つけるシーンがある。
鑑賞後、夏香がそのシーンをさして「私も何か未来に残したい」と言った。だが、机に傷をつけると母親に怒られると言い、僕らは考えた。
そして僕が思いついたのは、僕の描いた絵すべてにこの映画のようなメッセージを書きたすということ。何年たっても、その絵を見るたび夏香を思い出すように。
メッセージはもちろん「どこか見知らぬ森のなか、扉の向こうにきっと安らぎがある」に決まった。僕はその言葉を、並木道の絵のキャンバスに書いた。確かに書いた。夏香の絵に書いたかどうかは、覚えていない。
十年前の映画に触発された僕らのちいさな遊びは、優しい記憶の奥で生きもののように、生きていた。ゆっくりと呼吸をして、僕らに気づかれないように。
その日、僕は借りていた「バニラ・スカイ」のDVDを返却するために駅前のツタヤにいた。山のようなDVDの山を見てまわり、あらたに「フィールド・オブ・ドリームス」を借りた。同じ野球ものなら「がんばれベアーズ」のほうが好きだが、基本的にシリアスストーリーをよく見ている。
僕はそのまま駅前のモールに入り、CDでも物色しようと思った。が、一回のスーパーの前で大々的にクリスマスフェアをやっているのを見つけて立ち止まる。開店直後だというのに恐ろしいにぎわいっぷりで、期末の結果への恐怖をぬぐおうとして映画三昧の今日を送ろうとしている僕の心を少しだけやわらかくした。週明けに涙をのむにしても。
ケーキにはじまり、ツリーの飾りや部屋のオーナメント、プレゼント用のラッピング用紙などがひとつのスペースに台車でごちゃっと売られている。僕はそこを素通りしようとしてふと、サンタのブーツに目がいった。
それはサンタブーツではなくサンタブーツの形をしたお菓子セットで、くそでかいブーツの中にはおなじみの駄菓子などがめいっぱいつめこまれてある。ひとつ千円というお値打ち価格。こういうのは子供むけのものだろうと思っていたけれど、気がつくと僕はそのサンタブーツのひとつを持ってレジに行き、あまつさえ「プレゼント包装お願いします」なんて注文していた。目がチカチカしそうなほど細かいホログラムのラッピングでリボンまでつけられてしまったサンタブーツ。ツタヤの袋には入らないのでそのまま片腕に抱くとおおいに目立った。
僕はモールの最上階にある百均ショップへ行き、十枚入りの小さなメッセージカードとカラーペンを買った。ベンチに座り、カードに「夏香へ」としたためる。しばらく膝に頬杖をつきながら考え、一文字一文字、細かい細工の仕上げをするように書いた。
「メリークリスマス。つきあっていたときは、確かマリオカートをして、映画を見て、ふたりで俺の家でケーキを作ったんだっけ。今年は、まあ何もいらないわ。ケーキを食べながら、夏香の好きな『ホーム・アローン』を見てめいっぱい笑おう。来年もまた一緒にいたい」
僕はそのカードを、サンタブーツのリボンのあいだにはさんだ。落ちないように付属の針金モールで結びつける。ここまでしてしまうとさすがに大仰に見えたが、気合いは見せたほうがいいのかも知れない、なんて、ポッと決めのクリスマスプレゼントの罪悪感を埋めるように僕は理由をつけた。
モール内にはワムの「ラスト・クリスマス」が流れていた。どいつもこいつも僕も、気が早い。窓の外から空を見あげて、地雷原なんて見たことないのに「地雷原みたいだ」とつぶやいた。
しらじらしさすら感じる朝の青空。さよならを言いそこねた空の色。
僕はモールの外へ続くドアを力いっぱい押して、連絡通路の橋へと出た。通路の端々には冬の花が飾られてあって、橋全体がガラスのチューブの中に入っているが少し寒い。ガラス越しに見える街は冷え冷えとしていて、今にもパキンと凍ってしまいそうで。
三年前のクリスマスは、夏香と一緒にすごした。マリオカートをしているとき、夏香は身体を右へ左へとかたむけていた。僕の家でケーキも作った。初心者だったのでクリームを塗る段階でぐちゃぐちゃになってしまい、家族に爆笑された。地上波で吹き替えの「ジングル・オール・ザ・ウェイ」の映画を見ながらケーキを食べた。
そのときの思い出が、まるで氷の中に閉じこめられたちいさな宝石のかけらのように思えて、僕はガラスに両手をついた。当然のことながら温度差があり、僕の手ごときでガラスはあたたまらない。
十一時をすぎたので、このまま夏香の見舞いに行こうと思った。何か果物でも買っていこうと一階のスーパー目指して歩きはじめたそのとき、コートのポケットのケータイが震えた。着信は公衆電話から。「もしもし」と出ると、相手は夏香の母親だった。
「連絡が遅くなってごめんね、彰くん」彼女の声は慌てふためき、奥から看護士が誰かの名前を呼ぶ声も届いた。「夏香が今朝血を吐いて、ぐったりしていたの。今は救急車で運ばれた先の病院にいる。一触即発の状態よ。夏香が一生懸命、彰くんの名前を呼んでいたの。お願い、来てあげて。駅を南にくだったところの救急病院だから」
電話で心臓をぶちやぶられるのはこれが何度目だろう。
僕は「分かりました」と返事をして電話を切るときにはもう走り出していた。駐輪場にとめてあった自転車の前かごにクリスマスプレゼントを放りこみ、鍵もあけずにハンドルを押しだした。はずみで前輪の古い箱型錠がバキンと音を立ててはじけとぶ。そのままこぎ出し、病院の方角をまっすぐくだった。モールから駅までは五分とかからない。全力疾走だったらもっと短い。
自転車をこぎながらコートのポケットからふたたびケータイを出し、メールを打とうとしてやめた。村山の番号を呼び出し、片手でハンドルをあやつりながら電話をかけた。
「おう、休みの日にどした。何お前、外?」
「夏香が救急車で運ばれたらしい。ただのインフルエンザじゃなかったんだ。俺も向かってるから、駅南の救急病院に来てくれ」
村山は詳細はあとだとばかりに「すぐ行く」とだけ言って電話を切った。同じことを賢一にも電話で伝える。僕はケータイをしまってふたたびハンドルを両手でにぎり、尻をサドルから浮かせて全力でこいだ。信号も無視して、最短距離を一直線に。
――行かなくちゃいけない。
たとえ世界がこわれても、君を追いかける日々がすでに終わってしまっていても。
病院に到着するやいなや、僕は自転車をほうりだして中に入った。窓口で処置室の場所をたずね、階段を三段飛ばしでかけあがる。病院らしい真っ白で明るい廊下で、隅のベンチに腰かけていた夏香の両親に、あいさつよりも真っ先に「夏香は」と声をかける。一度も休まずに走ってきたせいで息がすっかりあがっている。
うつむいて泣いている母親に代わり、眉をひそめて動かない父親から事情を聞く。
「朝なんだけどな、夏香が急に血を吐いて、痙攣しはじめたんだ。息もしたりしなかったりで、そのまま救急車を呼んでここまで運んでもらった。今はそこで治療をしてもらってるところだ」
彼は目の前のドアを顎で示した。無言のままぴたりと閉められたドアの向こうからは、何も聴こえない。窓もないので人がいるのかどうかも分からない。全身の血液が一瞬でプールの水に変わったような感覚だった。カルキが入った水が脳髄を犯し、ぶっ倒れそうになった。僕はそれをこらえて「容体は」と訊いた。
「やっぱりインフルエンザなんですか」
「それが分からないって言われたんだよ」彼はいらついたように吐き捨てた。「CTの画像を見せてもらったが、はっきりしないんだと。医者は症状がライ症候群によく似ているが、まあそれはないだろうと言っていた」
「それって、小さい子供しかかからない病気のはずですよ。テレビで見ました」
「新型インフルがあるから分かんねえぞ。素人が言うな」背後から突然別の声が響き、僕は「うわっ」と大きな声をあげてしまう。
すぐ後ろに立っていたのは息も絶え絶えの村山で、前髪がすっかりぼさぼさになっていた。「来るのはええよ」「悪いか近所住みで」村山は一連の会話を聞いていたようで、腰に手をあててふうとため息をついた。
「インフルエンザにかかったとは本人からメールで聞いたけど、なんでこんなことに」
「俺も外にいたから分かんない」
「病名は分からないけど」夏香の父親が割って入る。「処置室に入ってもう一時間ぐらいたつんだ。治療が終わったらすぐにICUに移動らしい。そのあいだに少し面会ができるかも知れないから、ここで待とう」
彼はベンチに座りなおして沈黙した。ふたたび静かになってようやく、僕は無言でパニックに陥った。心臓が暴れて、視界がぼんやりする。なぜだ。なぜ、どうして? どうして夏香が何度もこんな目に遭うんだ? 記憶喪失の次は原因不明の吐血かよ。彼女が何をしたっていうんだ。何も悪いことなんてしてないだろう。ただ必死に生きて、記憶喪失になってもまっすぐに生きて、泣きたいのを我慢しながら走ってるじゃないか。どうしてあんなに強くていい子がこんな仕打ちを受けなきゃならないんだ。むしろ僕が受けるべき罰だろう。どうして僕が肩代わりできないんだ。理不尽すぎる。こうなることが必然だとでも神様は言うのか。すばらしい未来のために必要な犠牲だとでも言うのか。そんな未来のどこがすばらしいのか。その犠牲の末に手に入れた未来を僕に生きろと言うのか。
ちくしょう、夏香をかえせ、もといたしあわせな場所へかえしやがれ!
何より、血を吐いて苦しんでいる夏香が僕の名前を呼んでいたと考えると、そのときそばにいてやれなかった自分に腹がたった。憎らしかった。
奥歯がぎりりと鳴る音は、脳天をノコギリでけずられるほど不快だった。僕の肩に乗せられた村山の手が「落ちつけ」と語っていた。だけど、何も分からなかった。彼女の両親も、村山も、賢一も、もちろん僕も、夏香が今戦っている病魔の矢をいちいち受けとめて傷ついていた。
僕らは立ったまま壁に背をあずけ、ひらかないドアをひたすら見つめた。少しして賢一も到着し、ひととおり説明する。「夏香は脳に爆弾かかえてるし、楽観視したらアウトだな」賢一は悔しそうに舌打ちして言った。それを聞いた村山が「『ミッション・イン・ポッシブル』みたいだな」と言った。
僕は病院の窓から外を見あげた。さっき見たときと変わらない青空なのに、ずっとずっと曇って見えた。空が落っこちてきたら、僕は真っ先に夏香をかかえて逃げ出すのに。
夏香の担当医が出てきた。一ヶ月半前、記憶喪失になった夏香を看た脳外科医も一緒だった。状況の毒々しさを感じさせない白衣をまとった彼らの姿をみとめると、にわかに僕の背筋が伸びた。あれこれと病状を解説されたが、僕にはほとんど理解できなかった。
「片岡夏香さんは以前、階段で転倒し頭部に外傷を受け、記憶障害を起こしていますね。そのことが関連している可能性はあります。記憶喪失は脳の損傷ですから、何らかの合併症が出てもおかしくありません。詳しい検査と治療を行いますので、これから脳神経外科の集中治療室にお嬢様を搬入します」
脳の中であらゆる仮説や結果がフルーツバスケットのゲームのように飛び交い、エラーを起こしかけていた。後遺症が残るのか、半身不随になるのか、また記憶をなくすのか、死ぬのか……。
集中治療室、という言葉はドラマでこそ聞いたことがあるが、生で、現役の医者の口から聞いたのはこれが初めてだ。聞き慣れたはずなのにずしんと重みがあり緊迫感を一気に耳穴へ流しこむその言葉に、僕は貧血になりそうだった。数人の医者が集まって夏香の命を救うために尽力する光景を思い描いてしまう。
ICUに搬送される前、少しだけ面会を許された。僕らはこぞって処置室におそるおそる入り、ベッドで機械に囲まれている夏香と対面した。残酷な、電気の力で無理やり生きている人間のなれの果てを見ているような気分で、僕はベッドに一歩ずつ近づいた。
横たわる夏香の顔は紅潮し、汗の玉がいくつも浮いている。傍目には眠っているようだったが、ときどき瞼が持ちあがるので昏睡状態ではないらしい。呼吸は素人にも正常ではないと分かる。全身にコードがつながれ、ベッドのまわりには点滴がぶらさがり、それらがすべてチューブで夏香とつながっていた。夏香の悲鳴を代弁しているように見えた。
生きているというより、生かされている。
夏香の両親が声をかけると、夏香がゆっくりと目をあけた。まだ夢見心地の、ぼんやりした表情。ふたりは「夏香、大丈夫、すぐに元気になるから」と彼女の手をにぎってはげましている。呼びかけに「うん」「平気だよ」と答えている。賢一や村山が声をかけても笑って受け答えしていた。つらそうに眉をひそめてはいたが、痙攣はおさまっているらしい、落ちついていた。
僕は両親と賢一と村山が夏香をはげましているのを、少し離れたところで見ていた。だが、やがて夏香が「彰」と小さくつぶやいた。村山がふりむき「こっちへ来い」と目線でうながす。僕は、行ってもいいんだろうか、という怖さで思うようにすんなり動けず、ゆっくりとベッドの脇まで歩いていった。ここにいる夏香は、僕と同じ時間を過ごした恋人であり、僕の元恋人でもあり、村山の現彼女であり、賢一や瞳の友人だ。そして同時にそのどれでもない、ただここにいる単独の「片岡夏香」という名のいきものでもある。僕の知らない夏香。知っている夏香。そのどれもが真実で、ただの夢で。
僕はベッドの脇にしゃがみ、「夏香」と声をかけた。
「夏香、俺はここにいるよ」
彼女は僕を見て、ゆっくりとほほ笑んだ。半開きの瞳に、鼻につながれたチューブ。ついこのあいだまでものを壊しそうなほど元気で快活だったのに。僕は布団の中から、点滴の針だらけの彼女の左手をとり、両手でにぎった。どこまで強くにぎればいいのか分からず、優しく、そっと。
「まだ、絵が完成していないんだ」
小さい子に話しかけるような声で言う。「だから、元気になるまでに、彩色をするよ。きれいな水彩絵の具でしあげたら、見せてあげる」
ほほえんだまま、夏香がそっと目を閉じた。長いまつ毛が頬に影を落とす。僕の大好きな彼女の髪は、ここ数日の病気との闘いですっかりからまり、汚れていた。
僕はどうすれば夏香をこの環境から救い出せるのか、そんなことばかり考えていた。人間が人間を救えるなんて傲慢なんだろうけれど、今、機械によって生かされている、まともに首も動かせない、話すのがやっとの夏香をこのままにしておきたくなかった。「マイ・フレンド・フォーエバー」のように、夏香を治してくれる医者を求めてふたりで冒険の旅に出たかった。
僕は夏香の手を強くにぎった。必ず生きてかえってこい、と願いを込めて。
しばらく目を伏せていた夏香だったが、やがてちいさな声で「ごめんね」とつぶやいた。「一緒にいられなくて」
「そんなこと」僕ははじかれたように顔をあげる。「謝るなよ、夏香。大丈夫だよ。何もかもうまくいくよ。俺がいるから。だから笑っていてくれ。いなくならないで。俺のいる世界から消えたりしないで。ずっと一緒にいようって言ったじゃないか。そうだ、退院したら遊園地に行こう。ジェットコースターに乗って、メリーゴーランドをふたり乗りして、観覧車でキスをしよう。今度のクリスマスには、とびきりすてきな夜景が見えるとこに行こう。夏香に指輪を買ってあげる。もちろんおそろいだ。大学に進学したら、結婚して、ふたりで勉強しながら一緒に暮らそう。家族になるんだ。すてきな響きだろ、家族なんて。並木道も散歩しよう。そして、映画を見に行こう。一生しあわせにする。もう二度と、君に悲しい思いはさせない。しあわせになろう。君とこの人生をリスタートしたいんだ。君がくじけそうになったら、ずっとそばで励ましてあげる。理不尽な目にあったら、俺の一生分の幸福をすべて君にさしだしてもいい。だから、大丈夫なんだ。安心して、これから君はずっとしあわせな人生を送れるんだ。俺にまかせて、俺が必ず」
僕は笑った。せいいっぱい、笑った。笑いながら泣いていた。勝手に涙がせきをきってあふれてきた。嗚咽を止められなかった。
――貧弱で臆病で根暗で誰からも恋愛対象にされなかった立浪彰は、世界でただひとり、片岡夏香だけを愛した。
僕の震える手を、夏香がほんの少し、弱々しい力で僕の手をにぎりかえした。ちいさくてあたたかい、夏香の手。こわれもののような手。
離したくなかった。
「君と同じ世界の、同じ時代に生まれてくることができて、うれしいよ」
僕がそうつぶやいたとたんに、夏香の目から涙がこぼれた。細くすっと頬を伝う涙を、僕はしゃくりあげて泣きながら指でぬぐった。夏香の頬は熱く、肌が乾燥していた。
彼女の表情はおだやかだった。苦しみも、恐怖も、何もない。ただただ優しい笑顔。過去からやってきたような子。僕の好きな子。強くて、優しくて、友達思いで、だけど少し怖がりで、たまに甘える女の子。そのおぼつかない足どりを僕が支えてあげたいと思っていたのに。
ぼた雪を見た夏香は教室から駆けだしていった。その背中を追いかけているとき、彼女がまた僕の前からいなくなってしまうんじゃないかという恐怖に駆られた。
ほんの少しだけ戻ってきた僕の甘い記憶。つかの間ふさがった僕の傷。ふたたびおとずれるであろう日々に見覚えがあった。だけど、あらがえなかった。
「夏香」
僕の呼びかけに、夏香が一度だけまばたきをした。そして、さらに強く、だけど弱い力で僕の手をにぎりかえした。ひび割れた唇がかすれた声を出す。
「彰、私ね、彰のことが大好き」
聖母のような笑顔とデジャ・ヴュ。ゆっくり、ゆっくりと言葉をつむぐ。
「さっきみたいなことを臆せず言うところを好きになったんだから。彼女になれてよかった。好きでいてくれてありがとう。しあわせだったよ。この思い出だけで死に際まで笑っていられる。どうかその優しい愛を、いつか生涯を誓う女の子のために大切にとっておいて。しあわせになって」
僕は彼女の手をつかんで、手の甲にキスをした。涙が止まらなかった。
――さようなら、彰。
おだやかに笑い、そして深い眠りに落ちた夏香を、ストレッチャーがICUへと運んでゆく。目の前でとじられた扉を前に、僕は立ちつくしていた。
快復すれば一般病棟にすぐ戻ってくる。その医者の言葉を信じた。だけど、僕はいつまでも立ちつくしていた。消えてしまった幻を前に、網膜に残像を焼きつけようとして。
村山が僕の肩に手をおいた。王子のようなルックスの彼が、すっかり元気をなくしていた。彼は無表情のまま「きっと大丈夫だ、あんなにいい子じゃないか」と言った。僕はすぐに目をそらした。彼が泣きだしそうだったからだ。
クリスマスは、サンタクロースの夢を見る。
ぬけるほどすがすがしい青空が広がっていた。終業式を終えた子供たちが、くたびれたランドセルと荷物の入ったサブバッグを背負って下校する住宅街。そのかたわらにある片岡家のインターフォンをおして、夏香の母親にあいさつをした。
「中学のとき、夏香を絵に描いたはずなんです。あれ、まだ残ってますか」
彼女は「本当に上手な絵だったよねえ。リヴィングに飾ってたんだけど、夏香がもう見たくないからって言って、物置に押しこんじゃったの」と言って、階段の下にある物置をあけて中を探る。出てきたのはF十二号のキャンバス。かけられた大きなタオルケットにホコリがつもっていた。
僕はそのタオルケットをそっとはずした。椅子に座る夏香。原物そのままに描いた、夏香の絵。ぴんと背筋を伸ばして、セーラー服を着て、髪をきちんと整えた、微笑を浮かべる夏香の絵。汚れはほとんどなく、保存状態はすばらしい。
ほとんど構図も思いだせなかった、僕の描いた夏香の絵。
僕は何層にも重ねてあるその油絵の具をなつかしがって見つめる余裕もなく、ひっくりかえして絵の裏を調べた。右下には「二〇〇八年二月二十一日 立浪彰」とサインがあった。確かに僕の筆致だ。二〇〇八年なんて、もうずいぶんと昔のように思える。
その下に、僕のものとは違う字体で、こう書かれてあった。
――どこか見知らぬ森の中、扉の向こうにはきっともうひとつ、扉がある。
それは夏香の字だった。鉛筆で、キャンバスの表面の凹凸に翻弄された筆跡。いつ書かれたものか分からない。だけど夏香がほほえみながらこれを書いたのだということは、直感で分かった。彼女はけっして、泣いていなかったと。
僕はキャンバスに額を押しつけて、目を閉じた。思いだすのは、夏香が雪の中ではしゃぎ、僕が彼女を抱きしめ、永遠を誓ったあの瞬間。病院で見えない死神と闘っている夏香を想像し、僕は奥歯を噛みしめた。愚かなのは僕だけだったんだと、考えるたび頭が拒否したけれど、考えなければいけなかった。
「彼女いないやつらで集まってクリパするぜ」という男どもの誘いも断って、自宅でせっせと水張りの準備をしていた。机に座って勉強をする夏香の絵だ。紙をまるごと洗面所で水に浸し、水張り用のパネル板にのせ、ハケで水をつけたミューズテープで四辺を固定する。絵を乾かしているあいだ、僕は両親と一緒に豪華なターキーが主人公のクリスマス・ディナーを食べ、プロ野球珍プレー好プレーの特番を見た。夏香のために買ったサンタブーツのお菓子は、渡すこともできず、食べることもせず、そのまま放置してしまう。
翌日、僕はすっかり乾いた夏香の絵を前に、水彩絵の具を机にぶちまけて作業を開始した。全体に黄色をおき、つづいて青、茶色、と色を重ねてゆく。塗った絵の具の上から、水をふくませた筆でなぞってにじませる。水の端に色をよせたり、他の色と適当に混ぜたりする。僕は直感で色をどんどんのせ、水でにじませる描写法でずっととおしている。誰にも教えられなかった、好き勝手な描き方。描いているあいだ、僕はCDデッキで夏香に借りっぱなしだったエリック・ルイスをかけた。
夏香の両親からの連絡がないまま年末になり、僕は一度筆をおいて近所の神社まで初詣に行った。除夜の鐘をつき、おみくじをひく。小吉。賢一や友達と一緒にはしゃぎながらも、僕は今も闘病中の夏香から心が離れなかった。くばられた甘酒と、破魔矢を焼くためのたき火のあたたかさが骨にしみる。
正月には親戚が我が家に大集合した。おせち料理を食べているとき、和久井千夏からメールがきた。
『あけましておめでとう。元気にしてる? 私は学校に大学決めろーって超言われまくってて、大変だけど楽しいよ。去年は友達と海に行ったりしたんだ。また写真を送るね。今年も立浪くんにとってすてきな年になりますように』
絵文字つきの年賀メール。同じような内容のものが夏香のケータイにも届いているに違いない。彼女が記憶喪失で、しかも入院中だなんて言えなかった。和久井があまりにもしあわせそうだったから。僕は『あけおめっす。去年はあれこれと大変なことに巻きこまれたよ。でも大丈夫、決着がついた気がするし、結構楽しかったから。和久井も元気そうで何より。今年は会えるといいな』と返事を打った。
僕はあいかわらず絵を描いていた。三が日のうちにほとんど完成してしまい、両親の仕事がはじまる四日の夕方には、完成した。
椅子に座る夏香を、じんわりとにじんだ水彩絵の具がいろどる。色を水筆でぬいて夏香の優しい雰囲気は絶対に崩さないように、だけど意思の強さを表現するために輪郭ははっきりと。全体にふわっとかけたオレンジと青の背景は、彼女が大好きな映画の「バニラ・スカイ」を表現したつもりだった。沈みかけの夕陽、重なる雲と天使の梯子。
記憶と闘いながらも勉強を続けて、同じようにしたいんだとはりきっていた夏香。その悲しみが瞳に浮かんでいるような気がして、急に描きなおしたくなったけど、やめた。それはただ、そのときの夏香だったから。
しっかり両足で立っているつもりが気がつけば地面がゼリーだった、というような不安定さ。生まれたばかりの子馬はすぐに立ちあがらないと死んでしまうというのに、どうして僕はこんなに弱いのだろう。
この二ヶ月は、夢を見ていたんじゃないかと思った。
ICUに搬入される前の夏香を思い出す。彼女は一度泣いただけだった。だけど、笑っていた。いつもの、ひまわりのような笑顔。
目を閉じる直前、彼女は天井を見ていた。その先に何かを見つけたように、安心した笑顔を浮かべて。
夏香はどこに行ったのだろう。どこか行くあてがあるのだろうか。いや、元々記憶喪失の結果として産み落とされた彼女の意識は、彼女の中に戻るしかないのだ。チューブにつながれて「シックス・デイズ」の主人公のようにあたらしい彼女が生まれ、それは確かに彼女と同じ形をしているけれど、彼女ではない。二ヶ月間をともにした夏香は、どこから来たわけでもなく、どこに行くでもなく。先に待っているのが死でないとすれば、おそらくは「無」だ。
僕はパネルからカッターナイフで丁寧に絵を切りだし、紙の裏に鉛筆で「二〇一一年一月四日 立浪彰」と書いた。そしてその下に書きくわえる。
――どこか見知らぬ森の中、あらたな扉をふたたび探している。
記憶を失った夏香との、たった一度だけのキスを思い出した。人生で二度目のキスだった。
忘れてしまいたかったけれど、冷たい雪の中であたたかい口づけをかわしたことは嫌というほど覚えていた。壊れてしまいそうな夏香を、そのときの全力を出して、ただ必死に守りたかったのだ。
それが、僕のすごした十七歳。
十四歳の甘い思い出をしゃぶって、それで生きながらえてきた十七歳。
世界はそれでもまわりつづける。一度だって時間は戻らない。だけどふりかえる勇気ぐらいは、ある。高村光太郎が言うようにどこにも道がまだないから、きっと僕は前にも右にも左にも、上にも下にも行ける。
僕は、夏香を全力で愛していた。それだけは真実だった。
一回きりの十七歳の終わりに接して、二度と後戻りできない過去を忘れられないまま、立ったままでいることはできないのだ。誰かに背をおされたら、きっとあとでいくらでも言い訳や責任転嫁ができるようになってしまうから、自力で足を踏み出さなければならない。踏み出したことに間違いはなかったと、笑って誰かに話せるように。
ケータイを耳にあてたまま、僕はいれたばかりのコーヒーを飲んだ。少し長く蒸らしすぎたか、苦みが増している。僕は片手で牛乳をそそぎながら、笑って「それはよかった」と電話ぐちに言った。
「じゃあ、意識は戻ったんですね」
「少しだけどね。こちらの応答にぼんやりと返答をするだけだから、まだ完全に目覚めてはいないらしい。しっかり起きあがれるようになるまでは、まだかかりそうだ」
「一般病棟にうつるのは?」
「明日から。もう少ししたらきっと面会も許されるだろう。そのときは、夏香に会いにきてやってくれ」
もちろんです、と返事をして僕は電話をきった。牛乳をくわえたコーヒーは苦みが消えて、優しい味わいになっていた。リモコンを操作して、着信のために一時停止させていた「トゥエンティ・ブラザーズ」の映画のDVDをふたたび再生する。
夏香の父親からの、彼女が意識をとり戻したという知らせは、コーヒーを注ぐ手を一瞬跳ねさせるほどの衝撃があった。倒れた原因はいまだ不明。まさかのインフルエンザ脳症などではなく、高熱と吐血と痙攣と意識障害があっただけ、といういっそ逆に危ないんじゃないかと思われるアバウトな結果が出た。快方に向かっているらしく、今では両親の声にもぼんやりながら返事ができるほどに元気になっているようだ。
治療室では無情な機械や点滴につながれていた夏香。あのチューブが夏香のすべてを吸いとってしまうんじゃないかと錯覚すらした。だけど、生きていた。一時は危険な状態だったが、夏香は無事だった。それだけでじゅうぶんすぎた。
口をしめた牛乳パックを冷蔵庫に戻しながら、自然と顔がほころんだ。
三学期の最初の登校日、放課後に花束を買って病院にむかった。病室には夏香の両親がいて、軽く頭をさげる。夏香は白いベッドで眠っていた。強烈なデジャ・ヴュにおそわれる。僕はベッドの淵に浅く座り、夏香のおだやかな寝顔をじっと見つめた。しあわせそうで、天使のようで、無垢。苦しそうに眉をひそめ、汗をびっしょりかいていた夏香はもうここには、いない。
彼女の耳元で、そっと「夏香」と声をかけた。
その声に反応して彼女は寝がえりを打ち、布団の上で思いっきり伸びをして、つづいて大きなあくびをした。気が抜けるほどぼんやりとしたあくびだった。僕はそのあくびですっかり安心してしまい、もう一度「夏香」と声をかけた。
夏香はあくびをしながら、起きぬけのくぐもった声でゆっくりと言った。
「ごめんなさい、ちょっと寝すぎちゃったみたいで」
そこに担当医がいるとでも思っていたのだろう。夏香は敬語でそう言って手をふる。そんな彼女のしぐさにほほえみながら、僕は目を手の甲でこすっている夏香の頭にそっと手をおいた。ぱさぱさになってしまった髪をゆっくりと撫でる。背後にいる両親がほっと息をついたのが気配で分かった。
眠そうな目をこすりながらあけた夏香は、その瞬間、凍りついた。
すべての動きをとめて、何が起こったのか分からないように口を半開きにして硬直する夏香を見て、僕も彼女の頭を撫でる手をとめた。冷や汗をかいたときにはもう遅かった。あ、やばい、と脊髄反射するより早く夏香の表情がみるみる青ざめ、そして「きゃあっ」と叫び僕を突き飛ばした。手元の毛布をかきよせる。
「やだやだやだ、なんで立浪がここにいるの! お父さん、お母さん! あ、よかった来てくれてたんだ。どうして立浪なんか呼んだの。どうせならノブ呼んでよ。事故っていきなり立浪と顔を合わせるなんて、最悪!」
遠くから誰かの叫び声が聴こえた気がしたが、何を言っているのかは分からなかった。思わず「あれ?」なんてまぬけなことを言う。
夏香の声が、妙に優しい。
病室のドアを半分あけると、すでに夏香のまわりには大勢の女子がつめかけていた。彼女たちは一様に「記憶が戻ったんだって?」「おめでとう、夏香」「事故ったときはヒヤッとしたよ」と夏香の手をとっている。輪の中心にいる夏香は、僕の知っている、快活で友達思いの明るい夏香だった。彼女はベッドの上で笑って、「ほんと迷惑かけてごめんね」と何度も言っていた。本当に何度も。
記憶をなくした夏香の悪口を影で言い、テストで優遇されているという噂を信じて嫌っていた女子たちですら、今の夏香を前にして手のひらをかえしかえしている。全員の名前をちゃんと覚えていて、しっかりはきはきと話す夏香はいつもどおりだった。何も変わらなかった。
何も、変わらなかった。
「じゃあ私、二ヶ月近くも記憶なかったの? そんなドラマみたいなこと、本当にあるんだなあ。本当に階段から落ちたことまでしか覚えてない」
「大丈夫だよ、夏香は夏香のままだから」
「ちゃんと学校に来て勉強もしてたんだよ。夏香、超かっこよかった」
「えー、そんな自分が想像できない。真面目なんだな、記憶喪失の私」
病室に女の子たちのかん高い笑い声のウェーブが起こる。ちょっと嘘をまじえた会話に唖然とし、僕はどうも歓談の中に入れず、すぐにドアをしめて退散しようとした。
「立浪」
背後に立っていたのは村山だった。コートと花束を脇にかかえて、無表情で。ドアの向こうから楽しげな声が聴こえる。村山は僕を素通りして病室に入るのをためらっているのか、その場に立ちつくしてしまう。
僕と村山はしばらく、互いにかわすべき最良の言葉を探しあぐねていた。最初に病院で初めて顔をあわせたときのよう。先に目をそらしたのは村山だった。
「夏香、記憶が戻ったんだってな」
「うん」
「この二ヶ月の記憶は、何もないのか」
「らしい。俺のこと、立浪って呼んでたし、記憶喪失になったときにかかった医者の顔も覚えてない。彼女の記憶は、階段から落ちたときまでだ」
「元気そうか」
「むちゃくちゃ元気。今、クラスの女子とはしゃいでる」
村山は僕がいまだノブに手をかけたままのドアを見て、「それはよかった」と安堵したような声で言った。
狭い廊下に立ち尽くす高校生の男ふたり。異様なとりあわせ。僕は何も言えず、うつむいてしまった。何かを言いたかったはずなのに、言えなくなってしまった。
やがて村山は僕の横をぬけてドアに手をかけた。反射的にドアノブから手を離す僕を見て、彼が小さく笑う。何も知らない、けれど何もかもを知りつくした、賢者の笑顔。
「立浪ってさ」
彼はドアをほんの少しだけあけて言った。「すごいやつだよな。尊敬する」
ふりかえると村山は病室に入ってドアをしめてしまった。室内から「ノブ!」という夏香の嬉しそうな声が聴こえ、女子たちの歓声が重なる。
僕はドア越しに会話を聴きながら、だけど中には入らなかった。踵を返す。彼らの声が聴こえない場所に行くために。真っ白な廊下を歩きながら、もし村山に「ありがとう」とか「悪かった」なんて言われたら怒っていたかも知れない、と思った。
空は高かった。地面の存在を知らないんじゃないかと思うぐらい、高かった。冬なのに大きな雲の塊が青空のど真ん中を占拠しているのを見て、かつて夏香が入道雲を指さして「竜の巣だ!」だの「父さんはあの中でラピュタを見たんだ!」だのと叫んでふざけていたのを思い出した。
夏香は退院してすぐに学校へ復帰した。結局病名は分からず、だが夏香がいたって健康であり、記憶も戻ったということで、医者たちも安心していた。本人がまったく元気なので、誰も口をはさまない。
出席日数が足りなくて留年になるかと一時は危惧されたが、今後一度も休まなければなんとか大丈夫らしい。夏香は「高認受けなくて済むね」と笑っていた。
僕と夏香の距離感は、むしろ以前よりもずっと離れてしまった。夏香は僕と半径三メートル以内に近づこうとせず、もちろん話しかけようともしなかった。すっかり忘れていたそんな日常がふたたび戻ってきたことを、僕はどうにも嘆くことができなかった。ひらきなおっていたといえばそれまでだが、何より学校で女子たちに白い目で見られていた夏香を覚えている僕は、今ここでふたたびクラスメイトたちと楽しく遊んでいる夏香を見るにつけ、ほっとしてしまった。
戻りたい場所に帰ってきたのだと、僕にはそれだけ理解できた。
記憶喪失のあいだじゅう、僕が夏香につきっきりだったという話を誰かがするたび、夏香は両手をふって否定し、「もうその二ヶ月はなかったことにして」と必死になって叫んでいた。自分の知らない屈辱的な自分を、夏香は一生懸命拒絶していた。そして夏香は僕に近づかないどころか同じ空気を吸うのも嫌らしく、「早くクラス替えになればいいのに」といつもぼやいていた。「せめてノブと一緒のクラスになりたいな」とも。まるで別人のように。
僕を避けるようになったのは夏香だけじゃない。僕が彼女の記憶喪失を利用していたという噂は今も生きていて、僕は結果として大勢の人に嫌われることになった。瞳もすっかり僕の友達からは離脱したのか、一緒に弁当を食べることもなくなり、話しかけようともしなくなった。ときどき彼女は夏香と話しながら、僕に「近づくな」という強烈な視線を送る。
噂の半分以上は本当のことだから、なんとも否定できない。確かに僕は夏香の記憶喪失を好機だと思った。これでまたやり直せると一瞬でも思った。
夏香がしあわせそうだから、と。そう思っていればいつか痛みはおさまると思った。だけど、これでよかったのかと僕が僕に問いかける。それでお前はどうなんだ、と。
悩む僕の頭を教科書で叩いたのは、もちろん賢一だった。殴り癖をなんとかして欲しい。これ以上馬鹿になったらどうしてくれるんだ。
「元気出せ、とは無理っぽそうだし言わんけどさ」彼はポッキーを二本まとめてくわえて言う。「もうちょっと背筋のばせ。夏香は何も覚えてないんだ、お前が落ちこめば落ちこむほど、夏香を追いつめるだろ」
「追いつめられねえって。彼女はもう俺を嫌ってるんだから。人間性の根底から」
「またそうやって卑屈になる。悪い癖だぞ」
そんなこと言われてもさあ。僕は机にぺそっと顔を伏せ、目をとじた。いくらでも思いだせる、ついこのあいだまで一緒にいた夏香のまぶしい笑顔。嬉しそうに僕を「彰」と呼んでいた夏香。抱きしめた感触。ふたりで泣いた記憶。
目が覚めると夢の内容を覚えていないことが多いが、僕は本当に長い長い夢を見て、それをすべて覚えているから現実で困惑しているんだと、そう思った。急に消えてしまったぬくもり。混濁する記憶。空からさしこむ、天使の梯子。
僕は冷たい机に頬をつけて「俺ってさあ」とつぶやいた。
「何がしたかったんだろうな」
記憶が戻ってほしかったのか、ほしくなかったのか。
賢一はぽくぽくとポッキーをかじって飲みこみ、「後悔してんの」と訊いた。
「それすらも分かんない」
夏香の記憶は戻った。だけど、僕と一緒にいたことは覚えていない。彼女はふたたび、村山の恋人に戻ったのだ。それは確かに何も間違っていない。しあわせなのだろう、間違いなく。だけどまだ、病室で僕を拒否した夏香の顔が忘れられない。
細く、長いため息をついた。
「必死だったんだけどなあ、俺なりに」
そうつぶやくと、賢一は僕の頭をばんばん叩いて言った。
「一生懸命になることは間違いなくいいことだろうけど、必死だったからって結果が出るとは限らないだろ。必死で勉強しても試験に落ちるときは落ちる。でも、だからって自分や相手を責めるな。無駄になったと思わなかったら無駄にはならねえよ。一生懸命だったんだって胸を張れるくらいには一生懸命だっただろ? うじうじすんな」
「でも」
「でもじゃねえ」
額にデコピンをされた。針をさされたような痛みにうめく僕の頭上から「ボケナス」と罵倒がふってきた。
「俺さ、ドラマ化した少女漫画とか読んだことあるんだけど」賢一は箱から新しいポッキーを出してまたぽくぽく食べはじめる。「考えが浅いのなんのって。例えば、彼氏が夢を追うために遠いところへ行くから別れようっていうとき、彼女が引きとめようとすんだけどさ、すっげえエゴだよな。私と夢どっちが大事なのっていうあれの変形パターン。そもそも比べるものじゃないだろ。仕事と卵かけごはんとどっちが大事かっていうようなもんだし。なのにわざわざ泣きついて、自分がしあわせになりたいために、相手の努力を無にしようとしてる。つまりさ、みんな相手よりも自分が大事なんだよ。『大切な人のしあわせ』じゃなくて『大切な人と自分のしあわせ』なんだよな。誰かのしあわせを本気で願える人は、自分がかかわっていなくても喜べるし、まして自分が邪魔になるんだったらすぐに身をひけるようなやつだよ。そうそういないけど、いるとしたら親子なんか典型じゃねえのかな。子供がどんなに反抗しても授業料を出すし飯も作る」
僕は少し顔をあげた。デコピンされた額がまだ痛かった。
「病室で夏香を送りだすとき、言ってただろ。『夏香が笑うなら俺のしあわせを全部差しだす』って。そういうことを臆することなく言えるだけ、お前はすごいよ。夏香が生き延びるためにドナーが必要って言ったら、その場で舌噛んで死にそうだったし。だから彰はさ、今はつらいだろうけど時間をかければ、夏香が村山と一緒にしあわせをきずこうとする今後を、あたたかく見守ってるんじゃないかと思うんだよな。彰、犠牲的だし」
「犠牲的じゃねえよ。俺、それでも夏香と恋人になりたかったって思うし、卑怯者だろ」
「卑怯者でもまだマシ。ここで夏香に、一緒にいるって約束したじゃないかー! なんて泣きついたらお前のこと超軽蔑する」
「しねえし、ガキじゃねえんだから」
「いや、最終的に夏香の記憶が戻ったのに一緒にいた記憶がない、って分かればちょっと困惑するだろうし、しただろ。そこで暴走しないだけ十分。よく見てみろよ、お前がしょげてるその横で、夏香はどうだ。お前との記憶をなくして落ちこんでるか?」
賢一は親指で夏香をさした。彼女は女子たちに囲まれてプリクラ交換にいそしみ、きゃあきゃあと笑い転げている。楽しそうな笑顔。僕が心から願った、しあわせな笑顔。
僕はしばしその笑い声に聴き惚れた。立ちあがった賢一は僕にポッキーを一本くれた。
「記憶がないままだったら、夏香が苦しむ未来も想像できるだろ。だとしたら今、彼女は確かに救われた。だからってお前が救われてないわけじゃない。三年前、そしてこの二ヶ月間、お前が彼女を愛して、しあわせにすると誓った事実は変わらないんだから」
最後にもう一度頭を叩かれた。教室を出てゆく賢一の背中を見送ることもせず、僕はただ夏香を見つめていた。瞳と楽しそうに話している彼女の笑顔。ふたりとも、今はもう僕と口をきいてくれなくなったけれど、僕は彼女たちが少し離れた席で騒ぐのを見て、少しずつおだやかな気持ちになるのが分かった。ポッキーをくわえて、少しかじる。くだけた破片とチョコが混ざって、優しくも苦い味がした。
きっとすぐには忘れられない。だけど、いつかは忘れてしまうこと。
大切に、大切に守りつづけてきた甘い記憶の破片。
あの何気ない日々。夏香との日々。彼女の絵を描いた。キスをした。並木道を歩いた。CDを交換した。数えきれないほど映画を見た。ケーキを作った。マリオカートをした。バレンタインのチョコをもらった。一緒に絵を描いた。空き地で話をした。肉まんを食べた。初めての恋を前にして、手さぐりながらも互いをしあわせにしてやりたいとひたすらに願っていた。
ずっと一緒にいるんだとつゆほども疑わず、寄り添ってすごした。ふたりでひとつの、甘く優しい時間。ぬぐいきれないあたたかさ。優しさ。しあわせな思い出。
もうそんな日々は戻ってこない。これからは一緒に笑うことも、泣くことも、抱きあうことも永遠に、ない。だけど夏香はしあわせそうだった。他の誰かと一緒にしあわせをきずくことを目指して、新たな一歩を踏みだしたのだ。しがみついているのは僕だけだ。
夢は、終わる。
地面がどこにあったのか忘れるぐらい、僕らは空の高い場所にいた。でも、そこから落ちたらこなごなにくだけて、破片まみれになって、高い場所にいたことすら忘れられてしまうのだと思っていた。
だけど、かつていた空の美しさを覚えているから。
どんなに離れても忘れないから。
だから、じゅうぶんなんだ。
そっと胸の中で夏香にたずねる。
――君は今、何を思いだせるの?
僕はケータイを出し、電池パックの蓋に貼っていたプリクラをはがした。ぺりっという音と共に丸くなってしまったそれを、指先でつぶす。そしてケータイをひらき、一瞬たりとも迷わず「片岡夏香」をアドレス帳から削除した。彼女のメールアドレスの意味は、「私たち二人、NとA、あなたと私」という意味だった。「はい」を選択して押したセンターボタンは、僕の指に強くくいこんだ。まるで死にゆく瞬間の意識のように。
ひだまりのような女の子だと、思った。
いちばん好きな映画をたずねると、いつも「スター・ウォーズとローマの休日」と答える女の子だった。
授業中、教室の窓を何度も伝う雨粒を見ていた。空は灰色ににごり、夕方のように薄暗い。街灯がついている。先生が話す英語の文法の解説が右耳から左耳にぬけてゆく。
チャイムが鳴って授業が終わる。実力試験に向けてがんばってくれたまえと言うだけのホームルームも一瞬で終わる。あちこちで「傘持ってきてねえし」「帰りに入れてくれない?」という会話が飛びかうなか、僕は天気予報を見て念のため持ってきた折りたたみ傘を出した。鞄をかかえて教室を出ていく。
何も変わらない日常。雨が降ったって泥と混じって余計ににごるだけで、何も洗い流してくれない。曲の歌詞のようにはいかない。
賢一は一年生の彼女と一緒に帰るからと言って、先に出ていった。そりゃ相合傘ぐらいはしたいだろうな、と思ったと同時に、そんな乙女な賢一が想像できなくて笑ってしまった。あいつなりに女の子に恋をして、一緒にいたいと願ってるんだと思った。
居残り組や部活のある生徒でごったがえす廊下をぬけて、階段をおりた。下駄箱で靴を履きかえようと同時に伸ばされたとなりの手に、ふたり同時にふりむく。
夏香だった。
僕は急に申しわけなくなってしまい、慌てて運動靴をとって上靴を脱ぐ。せわしなく履きかえる僕から目をそらしている夏香。彼女はこれまでさんざん「記憶喪失のあいだ、立浪がつきそっていた」という話を聞いていたのだから、気まずくて当然だろう。僕は靴のかかとをならし、自分の下駄箱のドアをしめた。夏香はようやく靴を履き替えはじめていた。
何も言葉をかわさない。無関心。年があける前まで、僕と夏香が互いに抱きあい、泣き、笑い、恋人として一緒にいたなんてきっと、彼女にとっては反吐がでるほど気持ち悪いことなのだろう。僕にとっては事実だけど、彼女にとってこの二ヶ月は、自分の知らない世界のできごとのはずだ。
残酷な結末。誰も望まなかった末路。
それでもつづく、世界。
夏香が僕の横を素通りして昇降口を出ようとしたところを、僕は「片岡」と叫んで呼びとめた。名字で呼ぶのは久しぶりだった。彼女はすぐに立ちどまり、ゆっくりとふりかえる。視線は床をむいていて、決して僕に合わせようとしない。
僕は鞄からタワーレコードの袋で包んだエリック・ルイスのCDを出して、彼女に差しだした。
「記憶喪失のあいだ、君から借りてた」
夏香は驚いて顔をあげ、袋を受けとって中身を見る。ほっとしたような表情に変わり、「なくしたと思ってた」とつぶやいた。
僕は何も言わずに立ち去った。夏香の脇をとおって、雨水が屋根から筋になって落ちる昇降口へ。
折りたたみ傘をちまちまひらいていると、夏香がすぐとなりに立った。彼女の手に傘はない。忘れたのか、と訊こうとしたとき、夏香の唇が少し動いた気がした。雨の音でほとんど聴こえない。僕は「何か言った?」とたずねた。すると彼女は大きな声をはりあげて「ありがとう」と言った。
「何が」
「事故のあと、お世話になったらしいから」
「俺が勝手にやってたことだよ。礼なんて」
「お母さんが」夏香はまた蚊の鳴くような声で言った。「立浪にお礼を言えってしつこいから」
しっとりと世界をうるおわせる涙のような雨を前に、僕らは誰もいない昇降口でたたずんでいた。夏香は沈黙が耐えられないのか、ケータイを出して時間を確かめていた。そのケータイの電池パックの蓋には、プリクラをはがした跡が、あった。
彼女は吸いがら色の空を見あげて、ふうと細くため息をついた。
「私、本当に記憶喪失だったんだ」心から嫌そうな声。「階段から落ちたのは、途中まで意識があったけど、そこから先は何も覚えてない。あんたが手をのばしてくれたことは、覚えてる。嫌味なやつだと思った」
「そうだよ、俺は嫌味なやつだよ。君と村山がちょっとうらやましいって思うし」
「目が覚めたら年が明けてるなんて、なんのイタズラかと思ったよ。でも、みんなして記憶喪失の私がしてたことをやつぎはやに話すし、立浪とラブラブだったなんて言うし、もう最悪。一気に頭を使った気分。私のあずかり知らないところで私は何をやってたんだって感じみたいな」
「もう気にするなよ。なかったことにしたいっていつも言ってるじゃないか。村山も君をずっと待っててくれたんだ」
「でも、立浪がずっと私の面倒を見てくれたって、彼も言ってるの。だから私、このままずっと避けてるのも申しわけないと思って。だから、ごめん」
今の夏香の口から謝罪の言葉が出てくるとは思わなかった僕は、素直に驚いた。そこまで夏香を冷酷な悪魔のように扱うのは無骨だと分かっているが、罵倒はされても謝られることはまずないだろうと思っていた。
じわりと内側からにじみでそうになった熱を、僕は必死で押しこむ。
僕はうつむいて、「君がつらそうだったから」と言った。
「夏香が……片岡がつらそうで、見てるこっちもつらくて。すぐ近くにいるのに、俺を頼ってくれてるのに、普段嫌われてるからって無視するほうが男としてどうかと思う。もう忘れただろうけど、三年前の俺は片岡の彼氏だったんだ。大切な存在だったっていうことは、確かなんだから」
ひとつひとつ、文字をこなごなに噛みくだくような話しかたになってしまった。
夏香はじっと空をみあげて、「忘れないよ」と言った。
「私はノブを愛してる。彼と一生添い遂げるつもり。だけど、ね、私もあなたの彼女だった時期があった。文句なしにしあわせだった。あなたが私を好きでいてくれて、しあわせにしたいっていう気持ちが伝わってきて、そういうところが大好きだった。そう感じたことは消せないから、否定しないよ」
そして彼女はくりかえした。「しあわせだったよ」
雨の音が響く。何度も、何度も、執拗に。
雪よりもあたたかい、粒。
「あの事件は、誤解だったんだ」
すべるように僕の口をついて出た言葉。
夏香は笑って「知ってるよ」と答えた。
「ちーちゃんに聞いた。立浪はあの女子たちにはめられただけなんだって」
ふわりとほほえむ夏香に驚き、僕は息をのんだ。
「激高した十四歳の小娘には、何も考えられなかったんだよ、きっと。立浪が殴った女子たちに謝ったことも、ちゃんと知ってる。もう怒ってないよ。ただショックだったんだ、いろいろと。ごめん、それでもね、今の私はノブを選んだの。今は彼を愛しているの」
久しぶりに、夏香が笑うところを見た。
僕も笑いかえして、「よかった」と言う。心から。あんまりにも、ほっとしてしまったから。
そうじゃない、そうじゃないんだと何度も自分に言い聞かせてきたけれど、これからはもうその必要はない。何かが変わると信じて二年間をすごし、実際、僕ののぞまない形で別の何かが変わっていた。
夏香が僕をどうして避けたのか、どうして嫌ったのか、それは言及されるべきことではきっと、ない。変わらないのだから。
背後から靴音が響いて、「待たせた」という声が聞こえた。僕らの少し手前で止まった村山は、僕と記憶の戻った夏香との夢の共演に驚いているのか、言葉を失っている。
「ごめん、村山。俺、もう消えるから」僕はあわてて手をふった。
「おい、ちょっと待てよ立浪、別にふたりを邪魔する気じゃ」
「邪魔されるような状況じゃないって、ほんと。お前、この子の彼氏だろ。一緒に帰ってやれよ、雨なんだから」
「あ、それなんだけど、夏香って傘持ってきてたりする?」
村山は両手を顔の高さにあげて手ぶらをアピールする。夏香は「ええ?」と声をはりあげて、自分も丸腰だと言った。いくら傘の字に人が四人いるといっても、三人は難しい。
僕はひらきかけている折りたたみ傘を村山にさしだして、「これ使って」と言った。ふたりがきょとんとして、傘を僕と交互に見る。
「ふたりだったら入ると思う」
「ちょっと待てよ、それだとお前が」
「教室に置き傘してるから、取ってくる。大丈夫」
彼と夏香が僕を不思議そうな目で見ることが、あまりにも残酷で、優しくて。
ここにいるべきではない、と思う。
もう二度と、戻ってきてはいけない場所。
実力テストが終われば春休みに入り、クラス替えがおこなわれる。
僕は背中を向けた。夏香と村山、ふたりぶんの視線を背中に浴びながら、けれど一度もふりかえらなかった。
角を曲がったところで僕は立ちどまった。心臓が十六ビートを刻むなか、僕は夏香と村山の会話に耳をかたむける。
「なんの話をしてたんだ?」
「別に、大したことじゃないよ。お世話になったみたいでどうも、って言っただけ」
「適当だなあ」
ふたりぶんの笑い声のあと、村山が少し咳払いをして、「なあ、夏香」と言った。
「俺、高校を卒業したら夏香と結婚したい。君は専門学校に行って、俺は大学に行く。勉強しながら、一緒に暮らそう。それで社会人になったら、お金をためて、立派な結婚式をあげよう。もう二度と、記憶喪失とか、そんな悲しい目にあわせたくないんだ。絶対にしあわせにする。神に誓うよ。君を世界でいちばん愛してる、夏香」
僕は夏香の返事を聴く前にかけだし、教室に戻るふりをして裏の昇降口から出た。雨の中をつっきって、正門と反対側の門から学校を飛びだす。さようならを言いそこねた空に笑って手をふる。上をむいてばかりだと石につまづくから、僕は落っこちた空の破片を集めてポケットにねじこむ。映写機を止めずにすむから。何度過去に夢を見ようとも、きっと僕はまた君の優しさを思いだせる。苦く甘い、冬の味。
涙の雨は少し本降りになっていて、僕はうつむいて走った。薄暗い住宅街を一目散に。あがらない雨はないなんて誰が言いだしたのだろう。ぬかるんで、何度も足をとられそうになって、野球なら確実にコールド試合。だけど僕は走った。走れば雨の冷たさなんて分からなかった。怖さは、いっさい感じなかった。
ひだまりのような笑顔の女の子だった。僕をあたたかく照らしてくれた。ただそれだけが僕のすべてだった。あらがいようのない過去が、生きもののように体温を持つ。正義のヒーローが死んで終わる映画はいくらでも見た。
夏香が心から笑っていてくれるならしあわせだった。それでじゅうぶんだったんだ。もう君は、僕のことで悲しんだり、思いつめたりすることはないだろうから。
どうして僕らはしあわせな夢を見つづけるのだろう。やがて激しい警告のベルの音や誰かの拳で目を覚まし、現実の空虚っぷりに立ち尽くすのだろう。誰もいない、僕らのよく知った街で。
ただ無我夢中に全力疾走し、住宅街をかけぬけ、僕は気がつけば空き地にいた。今はなき近所のコンビニで買った肉まんを食べ、夏香と将来について語った場所。あたらしい家を建てるために立ち入り禁止の看板が立っていた。すでに基礎ができていて、足場がいりくんでいて、建築会社の電話番号が大きく書かれたビニールがかかっていた。
変わると思った。誤解がとけたら現実が姿を変えると信じて二年、ずっと夏香を追いかけていただけにすぎない。君のことをずっと好きでいさせて、なんて甘ったるいことを言って大事なものから目をそらして、自分に酔って。だけど、変わるものも変わらないものも、平等に、ある。
服もぐっしょり濡れていて確実に体温を奪われていたが、僕はその場に膝を折ってもろいた。「映画を作りたい。演出家になりたい」そんなふうに目標を語っていた夏香の意志の強いまなざしを思い出す。あの大きな瞳は今も確固たる決意の色に染まっている。
だから、夏香は
「ああああああああああああああああ!」
天に向かって咆哮する。拳をにぎって、大口をあけて。意識しなくても勝手に両眼から涙があふれてきた。顔や口の中に容赦なく降り注ぐ雨と涙がぐちゃぐちゃに混ざった。もうこのまま、あの日の雪のように解けてしまえばいいと思った。だけどそれはできなかった。僕はこれからも生きるんだ。死ぬほど生きるんだ。脇目もふらず、ただ一途に、自分が与えられた人生を生きるだけなんだ。歯を食いしばった激痛をぜんぶ逆噴射させて、傷ついて壊れそうになった心をかかえて何度も何度もツギハギしながら、どこにも見当たらない道を自分で踏み固めて歩いていくんだ。ひらいた傷口から血があふれたって、ふさぎかたを知らないから、知らないなりに血まみれになりながら生きるんだ。昨日までの夢みたいな記憶も、自己嫌悪をくりかえす罪も、夏香を抱いたあたたかさも、ぜんぶを宝箱にしまって鍵をかけて。大切な女の子を全力で愛していたという誇りだけを脇にかかえて。夏香の優しさと僕を許してくれたひろい心と僕にくれた愛を守りながら、そして誰かにその愛をわけあたえながら、生きるんだ。たくさんの人に守られて信じられて救われて今ここに生きているんだと自覚しながら。すべてが終わったんだと、もう自分に言い訳しなくてもいいんだと、大切な人たちがみんな笑っていられるようになったんだと。僕は全身で雨を受けとめながら、ただ、叫んだ。これからも生きていくために。
今日まで。今日までだ。思い出に浸るのは今日までにしよう。明日からはまた笑っていよう。笑顔で友達にあいさつをしよう。おしゃれもしよう。本も読もう。絵も描こう。また野球もやろう。都会へ遊びに行こう。大学も決めよう。好きな女の子ができたら、うんと大切にしてあげよう。だけど今はもう少し、好きでいさせて。
「ちくしょう、村山!」
地面を拳で叩いた。血が出るまで叩いた。
「絶対に夏香をしあわせにしろよ、一度でも傷つけて泣かせたりしたらぶん殴りに行くからな! 俺は夏香をめいっぱい愛したんだから、その十倍ぐらい愛してやらねえとぶっ殺す! 誓ったからには一生そばにいてやれよ、さびしがらないように、俺以上に……」
泣いた。一生ぶん、泣いた。もう二度と泣かなくてすむように。いつかまた誰かを愛する日の自分のために。
地面に額をこすりつけて、両手で地面を掻いた。夏香の涙をぬぐっていた指の爪に泥が入る。僕の身体を包むように降る雨だけが、優しかった。
僕は泥と涙と鼻水と雨で顔じゅうを汚しながら、心の中でささやいた。
君を好きになれてよかった。愛せてよかった。彼氏になれてよかった。
俺を好きになってくれてうれしかった。愛してくれてうれしかった。彼女になってくれてうれしかった。
本当にありがとう。そばにいてくれてありがとう。恋人になってくれてありがとう。
俺は死ぬほどしあわせだった。君がいたからしあわせだった。
もう二度と会わないよ。でも俺は誓う。ずっと笑っている。このままずっと笑っているよ。情けない男だけど、笑ったまま生きるよ。
だから、どうか、一生のお願いだ。俺のことをすっかり忘れて、結婚して、子供を産んで、家庭をきずいて、ずっとしあわせでいてくれ。
その笑顔を絶やさないでいてくれ。
俺にくれたその優しさで、大切な男をめいっぱい愛してやってくれ。
俺もしあわせになるよ。ふたりともしあわせになろう。
僕は両の手を組んで神にこいねがう。
神様、どうかもう二度と、彼女の身に悲しい災厄が起こらないよう。
彼女の人生が、しあわせに満ちあふれたものであらんことを。
おしまい。
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2011/08/16(Tue)16:25:32 公開 / アイ
■この作品の著作権はアイさんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
女性の願いとしては、現実に叶うかどうかは置いといて、願望としては「草食系・ときどき肉食系男子」がいちばん素敵な男性なんだと思います。個人差あれど。
基本はあんまりガツガツしていなくて、性欲などもむきだしでなく穏やかで、だけど決めるべきところはビシーッと決めてグイグイひっぱってくれるときもある。
私も実際はそういう男性が結構理想です。
理想は理想のままなので、実際に好きになる人は違うかも知れませんが。
主人公の彰はバリバリの草食系で、顔も成績もスポーツも平凡、どちらかというとその他大勢の魅力的な男子の影でぽつーんとしてる根暗系男子です。
別れた女の子に未練タラタラで、自分の中で決着をつけることも強行突破することもできず、新しい彼氏とのキスを目撃してショックを受けて逃げ出すような子です。
夏香が記憶喪失になった当初も、「これはやり直すチャンスだ」「いやいや彼女の負担だ」などと葛藤に苦しんで前に進むことをためらって、ビシーッと決めることなんて到底できない優柔不断っぷり。
このままだったら私だって嫌悪感しか残りません(笑)。
実際読んでて「うわこいつキモイ」としか思えないシーンいっぱいありますし(笑)。
だけど、いろんなことが起きて、いろんなことで傷ついて、いろんな人を巻き込んで、殴られたり叱られたりしながらそれでも夏香への愛を貫きつづけた彰は、いろんな意味で魅力的な男の子だと思うのです。
少女漫画の主人公のようにカッコいいわけじゃないし(むしろそれは村山だし)、妙に現実味あってキモいぐらいですが(笑)、やっぱりこいつかっこいい、と思えるし実際そういう感想を周囲からもらっていたので彰が好きです。
何度も「やっぱり村山といたほうが幸せになれるんじゃ」と悩みながら愛し続けて、でも最後には結局夏香が村山を選んだ。
報われなかったといえばそうだけど、彰はずっと夏香のことが好きで、夏香のことが大事で、夏香の幸せのために自分を犠牲にするのをいとわないような子だったんですよね。
そして冒頭では、夏香がかつて自分の彼女だったのに今じゃもうそんなことを忘れてしまったかのように冷たい態度をとることに何度も傷ついていますが、最後には「あなたの彼女だったときがあって、そのときはとてもしあわせだった」と夏香に告げられ、彰はもう自分が追いかけるものは現在のどこにもないんだと気づきます。
現在の夏香の手には新しい幸せがあり、彼女はその幸せのために笑っているのだと分かって、だけど過去の夏香の手にも自分が確かに与えた幸せが握られていることを知るのです。
だから最後には「彼女になってくれてありがとう。彼氏になれてよかった。幸せになってくれ」と願うのです。
自分が追いかけていた過去の恋に執着する理由をなくしたとき、つながりをなくしてしまうような喪失感に駆られることがありますが、この数ヶ月間の出来事を通して彰はかつて自分が彼女を全力で愛したこと、それは今も忘れられずに彼女の中で幸せな思い出として残っている事、そして自分も夏香から与えられた幸せがあり大切に守りつづけていること、それだけは絶対に変わらないのです。
変わらない過去があるから、現在は変わりつづける。
そしてそのベクトルを決めるのは自分自身であり、いくらでもどうにでもできるのだと。
別れたからまったく相手を愛さなくなった、嫌いになった、どーでもいい、なんていうのはやっぱりちょっとさびしいし、別れたからってすべての恋がそうなってしまうとも限らない。
悪い別れ方をするとどうしても後味悪くなると思うんですが、だけど壊れてしまった恋でもかならず幸せな時間があり、それはなくなったりしないんだと。
変な話ですが僕自身に言い聞かせるために書いたような小説でした。
長いお話でしたが、最後まで読んでくださった方々、本当にありがとうございます。
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
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2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。