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『傷口にハチミツ【中編】』 ... ジャンル:リアル・現代 恋愛小説
作者:アイ
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あらすじ・作品紹介
別れてしまった元カノが記憶喪失になり、自分とつきあっていた中学2年生までの記憶しか残っていない。空から降ってきたようなそんなチャンスをチャンスと思えず、しかし利用したいという気持ちに挟まれ右往左往する彰。中学2年の意思と高校2年の身体の差異に苦しむ夏香は、それでも彰の手を借りながら学校へ復帰する。クラスメイトたちと打ちとけたかのように見えた夏香は、やがて彼女らのひそかな噂にすこしずつ追いつめられてゆく。そして夏香の現彼氏である村山への飛び火、謂れのない疑惑、さらに彰と別れた理由を知られず苦しむ夏香の葛藤―――― ただ「守りたい」「愛したい」という気持ちだけではままならない現実。「過去の恋をやりなおす」という神の采配は、リスクが高すぎた。
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翌朝、彼女の家まで迎えに行ったら「おっはよう!」と玄関口で夏香に抱きつかれた。情けなくも鍛えていない貧弱な僕は、そのはずみでうしろにひっくりかえる。なんだこの小動物は。昨日あんなことがあったから多少心配していたが、サヨナラホームランを打ったバッターを出迎える選手たちのように女子に歓迎されていたから、元気が出たのかも知れない。杞憂のようだ。僕は彼女の胸が腹にあたるのを意識すんな意識すんなと自分に言い聞かせてひきはがし、「早く行くぞ」と先に道路へ飛び出した。夏香の胸を触ったことなんか一度もないから、気分はほとんど初めてエロ本を友達から借りた中学生だ。しょっぱい。うしろから夏香が腕に飛びついてきたので、今度は二の腕に胸があたる。二の腕になりたい。
枯れ葉が地面を占拠する公園で賢一と合流して、一緒に学校へ向かった。教室に入るなり元気よく「やっほー!」と声をはりあげる夏香に女子たちがいっせいに集まってきた。ほっぽらかされてしまった僕は苦笑しながら賢一と席につき、転校生のような扱いを受ける夏香を見ていた。授業はどうするかとか、お昼を一緒に食べようとか、チャイムが鳴るまで学校を案内してあげるとか、あれこれ話しかけられていた。
「元気そうじゃん、昨日のことがあったのに」
賢一の言葉に、僕は笑って「みたいだ」と答えた。昨日、僕らが一番恐れていたことが起こり、さっそく夏香を登校拒否にしてしまうかと思ったら、夏香本人の力のあるスピーチと再自己紹介。少し臆病で朴訥とした子だが、意志がしっかりしているところはこれまでの夏香と何も変わらない。
ひょっとしたら僕以上に冷静に現状を把握しているかも知れない賢一が、椅子をかたむけて顔をよせ、小さい声で話す。
「村山とは、どうするつもりなんだろうな、夏香」
意図的に避けていたその単語に僕はがっくりとうなだれた。どうするつもりかなんて夏香から聞いていないし、僕も最善の方法が分からない。
夏香は恋人らしく抱きついてきた村山を、目が覚めるなりいきなり突き飛ばした。愛する彼女への抱擁を思わぬ暴力でかえされた村山もそうだが、夏香だって、彼女の中では彼氏でもなんでもない男にいきなり抱きつかれてそうとうな心理的ダメージを受けているはず。強烈な牽制。
となりのクラスに村山が在籍している。夏香が学校へ復帰したという話はとっくに耳にはいっているだろう。
「むしろ、他の女子がそのことについて言及しないのが不思議」
机に頬杖をついて台風を見つめながら、ぼそりとつぶやく。賢一はさらに椅子をかたむけて危なっかしく足を机に乗せ、「今はそれどころじゃないのかもな」と言った。椅子の足がギイとおびえた声をあげた。
「夏香が記憶喪失になってるっていうことが一番、女子たちの関心ごとなんだろうよ。でも、覚悟はしとけよ、あいつら絶対に村山のこと触れてくるから。あと、夏香が普段、お前のこと嫌って避けてること。そのときにどうするか、考えとけよ、当座の彼氏」
びしっと人差し指をつきつけられて、僕は少し身をひいた。が、すぐに唇を突きだして「分かってるし」と返事をした。賢一は相変わらず無愛想な顔を夏香に向けて、「だといいけど」とそっけなくかえした。
当座の彼氏。なんだかその言い方がしっくりきた。期間限定、仮の彼氏、しかたないから彼氏、夏香の中での彼氏。彼女を遠まきに見つめて二年、あたえられたこの不思議な身分に僕は首をゆっくりとかしげた。少し伸ばしている髪が目にかかって痛い。
僕らへの朝のあいさつもそこそこに夏香のところへ飛びこんでゆく瞳を見て、まあいいか、と勝手に決めた。それでいいんだ、と思えるだけのしあわせが今はある。
午前中の授業、夏香はまったくついていけないようすで頭をかかえていた。彼女が幼いころから習っているという英語は、基本さえ覚えればほとんど問題なかったらしいが。彼女は休憩時間中、瞳の席にアクセスし「古いノート貸して」と頼みこんでいた。もちろん瞳は大喜びで、家にある一年生の教科書も貸すという。あっというまに放課後の予定をたててしまう夏香を見て、その順応性の高さと人なつっこさに感服してしまった。
彼女が一番苦戦しているのは数学のようだった。休み時間じゅう、彼女は友達のノートを借りてできる範囲で予習し、女子たちに中学三年と高校一年の基本公式をあれこれと教えてもらい、授業中もとなりの席の子に何度も話しかけては説明をしてもらっていた。先生も気をつかって、ときどき補足解説をする。
無茶だと最初は思ったが、たった一日で彼女は中三で習う公式を自前のノートにまとめてしまった。もちろん付け焼き刃なので自宅に戻ってからきちんと自分なりにまとめるつもりらしいが、夏香は「まずはざっと頭に叩きこむのが最初。しっかり応用がきくようにするのはもっとあとでもいい」と真剣な瞳で語った。「頑張ってるね」と言うと、照れくさそうに笑った。少なくとも、僕はできない。
そばにいたいと願った。ずっといれば、何かが変わるかも知れないと思った。
心からうれしそうに僕らのいる机に走ってきて、「井端さん、あー間違えた、瞳ちゃんに古い教科書貸してもらえることになったんだ! これで結構早くに授業に追いつけるかも知れない」と黄色い声で叫んだ。僕ら男には理解できない女特有のハイテンション。箸が転げば抱腹絶倒。僕は金切り声に目を細めながら、「よかったじゃん」と笑った。夏香が笑いかえしてくれた。
放課後、僕と賢一に「ごめん、瞳ちゃんの家に寄るから、先に帰ってて」と嬉しそうな笑顔で報告してくれたときは、子供の結婚式が終わったあとの父親の気分をぞんぶんに味わえた。あるいは子供のはじめてのおつかいを見守る母親。僕はいったい誰だ。
そういうことならば帰るしかあるまいと、僕は賢一の背中を蹴とばして教室を出た。窓ごしに、夏香が瞳と話をしているのが見えた。もともと友達だったとはいえ、あっという間に仲良しになってしまったようだ。僕は少しだけ笑って、長い廊下をかけぬける。背後で賢一が「こけんじゃねえぞ」と叫んだ瞬間、靴底のゴムが床にひっかかって前のめりに転んだ。いてえ。
すりむいた手の甲を指さして馬鹿みたいに笑う僕を見て、賢一があきれたように肩をすくめて苦笑していた。
夜、風呂あがりで濡れたままの髪を乾かしもせずに部屋でジャンプを読んでいると、窓をコンコンとノックする硬質の音がひびいた。わざわざ電気のついている部屋の窓をノックして「ごめんください」と侵入してくる律義な泥棒もいるまい。「ごめんなんかあげられません」と返事をすべく、僕はカーテンをひらいて音の主を確認した。
雪でも降るんじゃないかと冗談抜きに言えるほど寒い外界で、夏香が出窓の隅によりかかって「やっほう」と手をあげた。
「何やってんだ、寒いのに」
「なんて冷たいんだ、寒い中彼女が遊びに来たのに」
夜の十時に何を言うか。玄関から突撃せずに出窓をノックするあたりが夏香らしいというか、突飛というか、変というか。別に今まさに読んでいるジャンプが実はエロ本とか、そんなわけじゃないからかまわないのだけれど。
夏香は窓から身を乗りだして、マフラーからちょこんと出た口をめいっぱいひらいて実に楽しそうに報告した。
「瞳ちゃんのメアドがあった!」
文法的にあれこれと欠落しまくりで困惑するしかない僕に彼女は説明してみせた。つまり、自分にとっては初対面であるところの瞳と仲良くなり、アドレスを交換しようと思ったら、すでにケータイの中に井端瞳のデータがあった、と。クラスのみんなとのつながりが残っていたことが、夏香にとってはよほどうれしかったらしい。
僕は、そんなことをわざわざメールでも電話でもなく直接報告しにきた夏香の行動がどうしようもなくかわいくて、笑ってしまった。肩を震わせる僕を見て、夏香がいつものように「笑いごとじゃないよ」とふくれる。
かわいいな、と思った。こんなかわいいところを僕は好きになったのだ。
僕はこみあげる笑いをなんとかおさえつけながら、「わざわざご足労かたじけない」と手をふった。
「アド、ものすごい登録数で。ていうか、ケータイが変わっててびっくりした。私、七十件も登録したことないよ。そんなに友達増えたのかって自分にびびったし、驚いた」
「びびったと驚いたは同じ意味です。なんで浅田真央の真似してんだよ」僕はとうとう笑った。「よくメールとか交換してるやつに、明日から話しかけるといいよ。その子は夏香と特に仲良くしてくれてるってことだから、理解も早いだろうし、手助けもしてくれる」
「そのつもり。二日目だからね、まだまだ転校生の気分だよ。それに、授業に追いつくために勉強もしなきゃだし」
どこからそんなバイタリティが湧いてくるのだろう。僕は今の環境に必死になじもうとしている夏香のなみなみならぬ努力に感服してしまった。僕なんて、試験前の晩に一夜漬けで勉強しているだけなのに。
僕は「あがって、あたたかいものでも飲まない?」と夏香にたずねたが、彼女は首をふった。
「もう帰るよ。私が言いたかったのはそれだけなんだ。瞳ちゃんの家に寄った帰りでね。あの子、中学のときの教科書をちゃんと持ってて、ごっそり貸してくれたんだ」夏香は地面に置きっぱなしだった紙袋をかかげて見せる。
「家に帰って、一年生の基本を勉強しておかないと。目標、三日で一教科」
「強いよね、女子って」僕はため息まじりに言う。「逆境に強いというか、打たれ強いというか。男は逆だからさ、逃げ腰になるんだよ。普通、中二が急に高二の授業に追いつけるようになれって言われたら、拒否るか逃げるかのどっちかだろ。まあ夏香の場合、そうせざるを得ない状況だけどさ。それを受けいれて努力するのは素直にすごいと思う」
夏香は窓を閉めながら小首をかしげた。「どうして?」純粋な疑問が口からこぼれる。
「クラスのみんな、そもそもは私の友達なんだもん。最初のあれはびっくりしたけど、今はノートを貸してくれたり、学校を案内したりしてくれる。だから私も、みんなが知ってる片岡夏香になれるようにって思ったら、楽しくてしょうがない。宮崎駿監督の、お湯屋で働く千尋の気分だよ。ちょっと違うけど」
夏香は本当に、心からうれしそうに笑った。「早くみんなと仲良くなりたい」
外から窓をぴたんととじて、夏香は笑顔で手をふった。僕は窓の鍵をしめながら手をふりかえす。石垣をのりこえて道路のむこうに転げ落ち、そのまま走って帰路につく夏香を、僕はずっと見ていた。
彼女の願いはかなうのだろうか。あまりにも小さくて、ささやかで、けれど尋常ならざる願い。「みんなと仲良くなりたい」と言う夏香を見て、思わず唇を噛んだ。
そんなに簡単なことじゃない。だけど、甘い夢でもそれを現実に覚醒させる努力さえおこたらなければ、前向きでいれば、人の願いは確かにそこに昇華されるのだ。
僕はカーテンをしめ、しばらくその模様をじっと見つめた。次々と暗転をくりかえす現在。持ち前の明るさでクレバスをつぎつぎ飛びこえてゆく夏香が危なっかしくて、僕は転ばないようその手をしっかりとにぎっていなければならないのだとほぞを固めた。
現実味を全く帯びていなかったものが、僕の中で確かな質量を持つと同時に、表面張力でふらふらしているコップの水の中に溶けこんだ。透きとおって、あまりにも美しい水。
僕はジャンプを床にほうり、ゲームをすることにした。電源を入れ、セーブしておいた箇所からはじめる。物語の明暗を分ける重要な選択肢の直前。
ボタンに親指をかけて、僕はおおいに悩む。勇者一行、どっちに向かう?
学校の門の前で夏香と一緒に賢一を待っていると、彼から寝坊をした旨のメールが届いた。ケータイを閉じ、ぶすくれる夏香の頭をぽんぽんと叩く。
「残念でした。とりあえず行こう。俺たちまで遅刻しちまう」
「世界はそれでも動いてるんだね」夏香は門をワンステップでくぐって言った。「たった一人の男子高校生の寝坊なんておかまいなし」
僕は彼女の手をとって笑い、「そうでなくちゃ面白くないだろ」と言う。
教室に入って夏香がいきなり大勢の女子に囲まれる、といった事態は少なくなってきた。彼女が学校に復帰してから四日、早いものだ。
夏香がいつものように席に座ると、僕は彼女のとなりにしゃがんだ。雑談をはじめる。僕らの朝はこんな調子。彼女が学校に戻ってきてからというものの、僕の勉強に対するモチベーションもぐんと上がった。もちろん、夏香に勉強を教えるためだ。
ひとりの女子がやってきて、夏香に「貸してくれてありがとう」と言ってCDケースを渡した。エリック・ルイス。夏香が幅広く音楽を聴いているのは知っていたが、フュージョンミュージックにまで手を伸ばしているとはつゆ知らず、少し驚いた。
「すごくよかったよ、泣けるね」
彼女はいくつか感想を言って去っていった。彼女の背中を見送る夏香の笑顔がふわふわのメレンゲのようで、僕はしばらく見入ってしまった。なんだ、仲良くやってんじゃん。そう思うと力が抜けた。
夏香はCDを僕に見せて「聴いてみる?」と笑った。
「そういうタイプの音楽ってあんま聴いたことないんだけど」
「私もついこないだ自分の部屋のCDラックにあったから知ったの。好みが分かれそうだから、なんとも確信しておすすめできないけど、聴かず嫌いよりいいんじゃないかな」
「てか、夏香の部屋って映画のDVDに負けないぐらい、CDめっちゃあるじゃん。さすがの俺でも全部把握できてない」
「さすがのって何、自意識過剰」夏香は口元に手をあてて笑った。
僕は受けとったCDを鞄にしまって、「まずはつまみぐい」と言った。夏香は笑って手をふった。自分の席についても、まだ僕は彼女の背中を見ていた。
とても、とてもかわいいと思った。好きだったんだから当然と言えばそうだが、二年もたってしまったというのに中学時代から変わらない。それは僕が変わらなかったからなのか、彼女が今、中学時代の時を生きているからなのか。
くりかえされる、空。僕の中の記憶。
こうしていられるのもまるで幻のようで。
すべて夢だったとしたら、いったいどこで悪夢に変わってしまうのか。そのとき僕は、素直に救いを求められるだろうか。
一時間目がはじまる少し前、賢一が「おそよう」と言って背中を叩かなかったら、僕はこのまま夢の世界に堕ちていたかも知れない。
胡乱な事件が起こったのは、お昼休みの弁当どきだった。
クラスに早くなじめるようにと夏香はこの四日間、女子たちと一緒に机をつけて弁当を食べていた。僕はいつものように賢一と一緒に食堂で昼食をとり、さらに購買のパンを五個もかかえて教室に戻る道中だった。
「お前これ全部食う気かよ」「元野球部の胃袋は四次元なので」「一瞬しか入ってねえだろ万年セカンドゴロ」「うるせえファーストゴロのほうが多いわ」「胸をはるな大して変わらねえし」「ホームランバッターは走らなくていいから腹も減らねえだろ」そんな戯言をかわしてどつきあいながら教室のドアをあけようとすると、廊下にいても分かるほどすぐ近くで夏香とその他大勢の女子の声が聞こえた。ドアをあけることをためらったのは、彼女たちが村山のことについて話題にしていたからだった。つい、ドアの陰に隠れて盗み聞きをしてしまう。
「えー、それじゃあ、村山にはぜーぜん会ってないの?」
「うん、別に引け目感じてるわけじゃないんだけど、私が彼の記憶を全部なくしちゃってる以上、失礼なことしないかなって」
「村山は夏香のこと、彼女だと思ってるだろうし実際そうなんだからさあ。遠慮せずにどんどん話しかけたらいいじゃん」
ああまたデリカシーのないミーハー女子につかまりやがって。僕はハラハラしていたが、なおも夏香たちの会話はつづく。
「記憶ないってめんどいよねえ。さっさと戻ればいいのに」
「そうそう、村山がかわいそうになってきた」
「大丈夫だよ、病院にはちゃんと行ってるし、私もみんなに迷惑かけてられないから」
「うわ、初々しさがにじみでてる。迷惑だなんて思ってないのにね」
「いやいや、ほんとごめんね、みんなの名前もまだ覚えてないのに」
「あ、そういえば、同中の子たちは覚えてるんだよね。立浪も?」
僕はドアにもたれかかっていた背をふっとあげた。窓から夏香が困ったような笑顔で弁当をつついているのが見える。僕は壁に背をつけて彼女から見えないようにしながら、耳をそばだてた。心臓がうるさい。無駄に緊張する。
「うん、彰とか賢一とかは中学で仲良しなんだよ」
「現在進行形になってるし。しかも夏香、立浪のこと彰って」
「だって、中学んときの夏香と立浪って、つきあってたっていうし」
夏香は「あ、うん、まあね」と小さい声で言った。僕の心臓が浜に打ちあげられた魚のように跳ねたのは、別の女子が決定的な一言をはなったとき。
「えー、でもさあ、今の夏香と立浪って、口もきかないじゃん。夏香がすっげえシカトしてるって感じでさ。それって、やっぱ別れたから?」
僕は思わずガラリとドアを勢いよくあけて、教室内をずけずけ横断していった。廊下側の壁に机をくっつけて弁当を食べていた夏香たち一同が肩を震わせる。「聴こえてた?」「あ、あたし今すっげえ無神経なこと言った」女子のひとりがゴメンナサイと頭をさげたが、彼女は空虚を見つめて何も言わなかった。僕はふりかえらなかった。
自分の席にどっかりと座って、手にかかえていた大量のパンのうちひとつをひっぱりちぎり、かぶりつく。ただひたすら、無心にカレーパンを追った。前の席に勝手に座った賢一が、「つっかえるぞ」と言って僕の鞄からペットボトルをとってさしだしてくれた。それでも僕は、パンを食べ続けた。口の中の水分が全部パンにもっていかれてしまう。
夏香のほうを少しだけ見た。一瞬だけ目があって、僕はペットボトルの水をラッパ飲みしたその姿勢のまま、じっと見つめてしまった。
彼女の瞳は今にも泣きだしそうだった。僕は不覚にも、何も言えなかった。
放課後、誰かがむらがる前に僕は鞄をかかえ、夏香の席へ走ってゆく。
「補習、終わったら会おう。一緒に帰ろう」
呆然としている夏香を見て付言する。「ふたりで寄り道しよう」
寄り道しようと言うわりに僕の表情に笑顔や高揚感がないのは、夏香の戸惑いを隠せていない顔で分かる。昼休みにうっかり現実をばらした女子たちが、机ひとつをはさんで見つめあっている僕らを一瞥して逃げるように教室を出てゆく。「やばい、あの剣呑な雰囲気」「えっこのせいだよ、あんなこと言うから」「だって」好き勝手に言い散らかす女子たちの声に耳もかたむけず、夏香は僕をじっと見つめかえした。いつものあどけない、きょとんとした顔に少しだけ悲しみをトッピングしたような、大きな瞳。僕は「図書室で待ってる」と言い残して教室をとびだした。賢一に、今日は一緒に帰れないという旨をメールしながら。
うぬぼれていたのかも知れない。そして、僕がうぬぼれる以上に、現実と言うものはうまくいかない。勘違いをしているのは僕だったのだ。都合がよすぎる。独占欲にかまけて僕は卑怯なことをしようとしていた。陶酔。
ほとんど誰もいない図書室で延々と本を読む。ゲーテの格言集。記憶をなくす直前、夏香が「ゲーテも知らないの」と鼻で笑っていたのを思い出したからだ。僕は黄ばんだページを何気なく適当な箇所でめくった。
『だれでも、人々が自分を救世主として待望しているなどと思わないでくれ』
はい、ごめんなさい、ゲーテさん。おもっきし考えてました。
机につっぷして、でも人々じゃないんだよなあ、と反論を並べる。むしろたったひとりでもいいから僕を救世主だと信じてくれればそれでいいんだと自分勝手なことを思っていた。そう、例えば夏香とか。
離れていってしまう原因は、強く強く願うことだった。
文章が長くて途中で読む気がうせそうだったが、言葉を一字一句のがさず噛みしめてみる。バニラエッセンスのような味がした。甘い香りで誘われて、けれどなめてみるとこれがとてつもなく苦い。そんな言葉。
「お待たせ、彰」
五時半をまわるころ、夏香が息せききって突撃してきた。終わってからすぐに走ってきてくれたのだろうか。夏香は照れたように顔をそらして「別に、早く会いたかったとかそういうわけじゃないんだけど」と唇をとがらせる。僕は笑って彼女の頭をぐいぐいと撫でつけ、「行こう」とうながした。
学校をあとにして、いつもの下校ルートからはずれた。僕のうしろについてくる夏香も少しずつ気づいたようだが、高校の校区から少し北に行くと、僕らがいた中学校に近い住宅街にはいる。自宅に戻るルートからはずれる僕に「どこに行くの」とたずねる夏香の上目づかいが、妙に淫靡だった。僕は何も言わずにどんどん先をゆく。
学校から二十分ほど歩いたところで、住宅地のどまんなかに突然あらわれたような大きな公園にたどり着いた。秘密基地レベルの大きな滑り台に豊かな芝生、並木道をぬける散歩コース、ネットに囲まれた小さな野球グラウンド。学校の校庭ほどの広さのあるそこは、近くの小学生たちが毎日のように遊び場にしていて、日常的にうるさい。が、今日はいささか気温が低いせいか、または凶悪犯罪を恐れて親が遊ばせないのか、さほど子供の姿が見受けられない。犬の散歩をする奥様が数人立ち話をしているだけだった。いっそさびれている。
「ここ、中学のときによく来たよな」
つい過去形で話してしまい、慌てて「夏香にとっては今だけど」と訂正した。夏香は僕のとなりに立って公園をぐるっと見わたし、そして僕を見あげた。
「覚えてたんだ」
「何を」
「ここが初めてのデートの場所だったこと」
そりゃあ覚えてるさ、と肩をおとした。つきあいはじめのころ、夏香が「デートは近場がいい」と言い、かといってこの近くにレジャー施設があまりないので、仕方なくこの広い公園に来て、並木道を散歩し、ベンチで雑談をしてすごしたのだった。今思い出せば甘酸っぱい記憶。
並木道には一面に枯れ葉がしきつめられてあった。木々にもまだ何枚かしがみついていて、見事な秋の光景とは言いがたいがそこそこ風情は残している。僕はこの並木道を絵に描いた。今はホコリをかぶってしまっているが。
夏香に手を差しだすと、思いのほかためらいなくにぎりかえしてくれた。僕にとっては二年ぶりだが、夏香の中ではつい最近まで僕と恋人同士で、一緒に手をつないでデートしていたのだ。僕はその手をひいて歩きだした。枯れ葉まみれの並木道を、ふたりで。
手に汗をかかないかと心配してしまうほど緊張していた。中学三年の夏からつないでいない、夏香の手。男の僕よりやわらかかくて、あたたかくて、小さな手。確かに僕は二年前まで、この手を絶対に離すまいと毎日のようにこうしていたのだ。デートのときも、登下校のときも、何かにつけて僕らは手をつないでいた。周囲は冷やかしたが、僕にとってはこれが限界だ。手をつないで、抱きしめて、キスをして。
夏香の手が冬先にしてはあたたかい気がして、けれど僕は彼女の顔を見ることができなかった。夏香も何も言わなかった。僕は顔から火が出そうだった。ドキドキして、けれど夏香と一緒にまたここを歩ける嬉しさでいっぱいいっぱいだった。
――またここに来ようね、彰。
甘い記憶。なつかしい香り。
僕は半歩うしろを歩く彼女を肩越しにふりかえった。「寒くない?」
夏香はうつむいていた顔をあげてぶんぶんと勢いよく首をふった。
「大丈夫、大丈夫」早口で、頬を赤く染めて言う。「彰が手をつないでてくれてるから、あったかいよ」
僕は「うん」と答えて、道の端においてあるベンチを指さした。このまま歩いていたら、恥ずかしさのあまり地面に穴を掘ってしまいそうだった。
枯れ葉を少しはらって、そこに夏香を座らせる。僕は彼女のとなりにそのまま座った。尻の下で枯れ葉がパキパキと悲鳴をあげる。鞄を地面においてしまうと、急に会話がなくなってしまい、十秒ほど無言が続いた。
初恋の相手が夏香だったとはいえ、もうここまで緊張することはないのに。だけど意思に反して、ポケットにつっこんだ手はじんわりと汗をかいていた。空の向こうを飛行機が飛び去る。高く細い音が地上へ落下し、地面で跳ねかえって、僕らの耳に届く。風がそれらをさらおうとして、空振りする。
ひらり、と目の前に落ちてきた枯れ葉を合図に、僕は「あのさ」と話を切りだした。
「こんな状況下で悪いんだけど、その、あえて気まずいこと訊いてもいいかな。昼休みに女子たちと話してたこと」
うつむいて話していると、夏香が「聴いてたの」と声をはりあげた。
「ごめん、なんか私、見当違いのことばっかり言ってたよね」
「いや別に見当違いとかじゃねえけど、ていうか、盗み聞きしてて悪い」
「しょうがないよ、あんだけ大きい声でしゃべってたんだから」
今の夏香だったら間違いなくぶん殴られてただろうな。僕はぼんやりとそう思いながら、単刀直入に結論を告げる。
「夏香が、高校生の夏香が俺を避けてるってのは、事実だ」
彼女の肩が跳ねる。
「でもさ、同じなんだよ」僕は空を見あげた。「俺も夏香のことを避けてる」
空はほとんど昼間の明るさを失って、バニラ色の夕焼けもはるか遠くのほうに消えてしまっている。深い紺色の空。すうっと僕らの前をかけぬけてゆく風。まいあがる枯れ葉。
夏香は膝を閉じて、その上で拳を強くにぎっていた。表情は怖くてうかがえない。
「私、彰に嫌われるようなことしたのかな」
消えいりそうなその声に、僕は慌てて彼女の肩をつかんだ。
「そんなことはない、むしろ逆だよ。俺が夏香に嫌われてるんだ」
「どうして?」夏香は顔をあげて、悲しそうな瞳で僕を見た。「ごめんね、また訊いちゃうけど、どうして私と彰は別れちゃったの。何があったの。私が彰を嫌いになるなんて、ありえない。今もずっと好きなのに」
今も、ずっと。その言葉が生きていれば。
僕が何も言えずに黙っていると、夏香はうつむいて「ごめん」と言った。「禁句にしてたんだけどな、別れた理由を訊くの」
「する必要はないだろ。いつかは分かることだろうし」
「それでもさ、耐えられないよ。私の中では確かに彰は彼氏なの。だけど彰がどことなく私を他人扱いするのが苦しいよ。どうしてこんなことになっちゃったの」
夏香の眉がぐっとひそめられる。秋風にあおられる前髪がそれを隠した。
僕はじっと彼女の目を見つめた。色んな種類の悲しさが狭い場所に同居していて、まつ毛が震えている。薄いピンク色の唇からちらりとのぞく歯がやけに白かった。泣かないほうが不思議なのに、彼女は強い意志を持って僕を真正面から見ていた。僕のほうが泣いてしまいそうだった。
僕は彼女から目をそらし、軽く首をふった。
「君の大切なものを、俺が傷つけてしまったんだ」
ささやくような、懺悔。
彼女の耳に届いたかどうか分からなかったけれど、僕はすでに全力だった。もう何も言えなかった。これ以上を語ることは、破壊と同じだ。犯してしまえば情状酌量の余地はない。
今でも覚えている。憤怒の形相で歯を食いしばって泣く夏香と、となりで床にぺたんと座りこんで放心状態だった、和久井。
――そういうやつだったんだね、彰。
火のように熱い、呪縛。
幼かった十四歳のころの自分を責めながら、僕は今ここにあると夢見たはずの、あの教室に忘れてきた甘い幻惑を探してる。ふとしたときに卒業アルバムをめくるように。
夏香は僕の言葉を何度か頭の中で反芻していたらしい、しばらく硬直していた。そしてゆっくりと氷が解けるようにまばたきをして、そっと僕から視線をそらす。気まずい沈黙が空間を支配した。
僕らが望んだことは、こんな結果じゃなかったはずなのに。
階段から落ちたときの夏香の表情が何度も追いうちをかける。あの表情、あの瞳、届かなかった手。
失いたくないものの守り方が分からないんだ。大切な女の子を、どうやって大事にすればいいのか分からないんだ。何も変わっていない僕。大切なものを傷つけたことを、自分の若さや幼稚さのせいにしてはいけない。
赤さを失いつつある木々に囲まれ、夏香が顔をあげた。泣いているようにも見えた。
「今の私は、彰が大好きだよ」
彼女はつづけた。「今も、これからも、ずっと大好きでいると思ってる。だけど、中学を卒業して、高校生になってしまえば、現実が変わってしまうのかも知れない。そんなことが考えられない」
夏香は吹きだすように笑った。夏香の息がふわりと顔の前で白く濁る。
僕はいっそ嫌味だろうと思いながら、それでも彼女の少し近くに寄る。太ももが密着する。彼女の髪を耳にかけてやると、とたんに悲しそうに細められた目が僕をじっと見あげる。
彼女を優しく抱きしめ、髪に顔をうずめた。
「ごめん」
そっと呟く。「ごめん、夏香」
――君は何も悪くない。
しあわせに、してやれないと分かった。
けれど、僕はふたたび自分に問いかける。
彼女の頭を両手で抱いた。風が吹いて、残り少ない枯れ葉を木からふるい落とす。僕は何も言えない夏香を離さなかった。耳元で「大丈夫」とくりかえす。怖い夢を見た子供をあやすように。
夏香が学校へ復帰してから丸一週間がたった。クラスの女子たちの名前も覚えたようで、朝、学校へ来ると元気よく「なっちゃん、おはよう!」と手近な友達にあいさつをしていた。僕よりも女友達を優先するあたりが、中学時代の夏香らしい。嫉妬はまったくしない。今の彼女に必要なものは、できるだけ多い理解者と、安心できる空間だと分かっていたからだ。仲よしの友達がいるならそれが一番いい。
最近、「立浪とどうして仲がいいのか」という質問に対して、夏香は同じ答えをかえすようになった。
「階段から落ちたとき、助けようとしてくれたって聴いたの。入院してるあいだもずっとお世話になったから、仲良くなっちゃった」
いまいち理論がズレているような気がしたが、ミーハー女子たちはそこに気づかない。僕の脇をこづいて「やるじゃん」なんて言う始末だ。中三のときのトラブルを知らない友人は、しかたないことだが、いろいろと勝手である。
僕が席についたとき、夏香にひとりの女子が近づいて「松永センセが呼んでたよ」と言った。夏香はみんなに手をふって教室を出ていく。廊下を去ってゆく足音を聞きながら、僕は空をながめた。
苦みを知らない、今日の蒼天。青くスコンと抜けていて、気が遠くなる。
ホームルームのとき、先生と一緒に入ってきた夏香を見て驚いた。夏香は少し苦々しい表情で席につき、一時間目の授業の準備をはじめる。その背中を見つめる僕とその他大勢のクラスメイトたちに、先生の残酷なアナウンスメント。
「何億回も言うように、水曜からテストだから、いつまでもだらっだらぐだっぐだしてちゃダメよ。気持ちを切りかえて、シャキッとすがすがしい気分で試験にのぞむこと!」
できるわけねー! 各方面からの豚ブーイング。
それなりに勉強をしていればよっこらせで合格するようなレベルの学校なので、試験前の一夜漬けでどうにかなる。だけど、僕はその場ですぐに夏香のことを考えた。
その日の放課後、僕はいつも賢一と待ち合わせをしている公園で試験のことについて触れてみた。
「そのことについて先生に呼びだされてたんだけどさ」夏香はため息まじりに言う。「苦手な数学の公式とか、中学三年と高校一年のぶんはほとんど覚えてるし、確かに応用はきかないかも知れないけど、大丈夫だと自分で勝手に思ってる。でも、先生の意図が違ってたみたいで」
夏香はブランコに座って言った。「私の試験だけ高校一年生の問題でやろうと思うけど、どうかって」
おいおいそれはまずいだろう。僕でもすぐに分かることだった。
同じクラスの人間なのに、ひとつもふたつもハンデを与えた試験なんて、周囲が反感を出血大サービスでセールしているようなものだ。教師たちはこれでも最善の処置だと思ったのだろう。夏香ののみこみが早いことは補習の先生も十分承知しているので、それを考慮しての提案らしい。
が、問題があまりにも多すぎる。特に、クラスのみんなに知れたら。
「それで内申書がとおるのか。もう二年の冬なのに」
「内申書に書かれる試験じゃないから大丈夫。どっちにしても無理あると思うんだけど。もちろん私が拒否したら撤回できる話なんだけど、他にいい方法が見つからない」
「無理ありまくりだろ。それでいいのかよ、夏香」
「いいわけないじゃん。でもさ、確かに私もまだ授業についていけるほどじゃないし、多分、みんなと同じ試験を受けたらさっぱり分からないと思う。来週まで頑張って勉強したら、ギリギリ追いつくかも知れないけど」
それって夏香が苦しいじゃないか。授業に追いつくための勉強も、最初はペースがよかったから僕も錯覚していたが、試験が近いとなれば別問題だ。
「夏香、それはちょっと条件を変えてもらったほうがいい。クラスのみんなに知られたらまずい」
「だよね、超やっかまれちゃうよね」楽しそうに苦笑する夏香の額に汗が浮いている。
やっかまれるなんてものじゃないだろう。全員が協調性を持って仲よしこよしのクラスなんてどこにも存在しない。だけど、贔屓にしてしまったら、いざクラスメイトたちが知ったとき、妬み嫉みの渦が彼女を襲う。思春期の十代にとって、自分ではない誰かが優遇されるという場面は当然のことながら、苦しい。クラスのみんなにばれなければいい、なんていう単純な話ではないのだ。
さすがの夏香でもそれをすぐに予測できているらしく、「どうすればいいのやら」と首をふった。僕はとなりのブランコに座り、うーんと顎に手をあてて唸った。
「妥協案が見つからない」
「だよねえ、どうしたって私が贔屓されてるってなっちゃうもんねえ」
ブランコをゆるやかにこぎながらあれこれと思案していると、夏香が「あっ」と声をあげた。彼女の視線の先を見ると、公園の入り口に同じ制服の男子生徒が立っていた。あのイケメン。
夏香はチェーンを強くつかんで固まってしまった。無理もない。病院で突き飛ばしてから一度も会っていないのだ。
こちらを見ていた村山がやがて視線をそらし、立ち去ろうとしたので、僕はブランコから飛び降り「待てよ」と叫んだ。夏香は止めなかった。入り口まで走ってきた僕を見て、村山が眉をひそめる。
「お邪魔じゃないのか」
「むつまじい雰囲気だとしたら邪魔だろうな。でも今は違う。むしろタイミングよすぎ。相談があるんだ」
僕は立ったまま事の経緯を説明した。村山はときおりブランコのほうを見ながら、何度もうなずいたり、首をかしげたりして聞いていた。
「それは確かに、まずい」
「なんていうか、うちの先生って単純思考な気がするんだよなあ」
「単純思考かどうかは分からないけれど、生徒の情報網を甘く見てるような気がするな。いまどき、ケータイひとつでなんでも分かるのに。まあ、撤回できるんだとしたら、こっちから何か別の解決策を用意すべきだよな」
村山はひとつため息をつき、腕を組み、空を見あげ、考えていた。軽く二分ほどそうしていただろうか。仁王立ちしていた村山がゆっくりと歩きだし、ブランコに近づいた。
チェーンをよせて驚く夏香を見て、数メートル手前で歩みを止める村山。おびえたようすでいる夏香の肩を抱くこともはばかられ、僕は村山の背後で立ち尽くすしかなかった。
やがて村山が「夏香」と名前を呼んだ。彼女の肩がぴくりと跳ねる。
「久しぶり」
ふんわりと笑って優しく言葉をかける村山。ほんの少し警戒心をといた夏香が、チェーンから手を離して立ちあがる。
彼女はバキンと音がしそうなほど勢いよく頭をさげて、「ごめん」と謝った。
「私、あの、村山くんが彼氏だったなんて何も覚えてなくって」
「村山くんて。なつかしいわ、その響き」村山は肩を震わせて笑う。「つきあう前、そう呼んでくれてた。今はノブって呼んでくれてるんだけどな。あ、ごめん、夏香にとっては三年後の今だけど」
何週間かぶりに会ったというのに、ややこしい話をすんなり広げる村山。夏香は子犬のように震えて立っていたが、笑っている村山の目をじっと見つめていた。彼氏になった見知らぬ男。記憶にない男子生徒。
僕は、記憶のない夏香と今の状況を否定しない村山とのあいだに、消えない絆があることを知っている。いつも休み時間のたびに教室に迎えに来ては、夏香を連れだしていた村山。楽しそうな笑顔。心から愛しあっていたふたり。
あいだに割りこむなんて無粋なことはできず、固唾をのんで見守った。やがて村山がため息をつき、「忘れられちゃったもんはしょうがない」と言った。
「待つよ。夏香」村山の瞳はまっすぐに夏香を向いている。「苦しいし、つらいと思う。でも、それをひとりで背負いこむ必要はもちろんない。夏香には立浪がいるし、他にも友達がいる。思いっきり頼れ。俺だって求められれば何でもする。で、何もかもの答えを見つけたとき、お前が一番しあわせになれる場所に帰ってきたらいい」
アイドルのようにさわやかな笑顔で言う村山に、夏香は数秒の逡巡のあと、同じ笑顔で答えた。恋人だけじゃない、すべての人に平等に見せる笑顔で。
ああ、と僕は思った。やっぱり村山は、夏香のことを大切にしているんだ。
僕なんてとうてい及ばない。それどころか僕はこの状況に接して、自分が甘い蜜をすするために利用しているにひとしい。
警戒心をといて笑っている夏香に、「悪い、それで本題だけど」と村山がきりだした。
「立浪からあらかた聞いた。まだ案を出してる段階だったら、夏香が拒否ればいくらでも撤回できると思う」
「そう、やっぱりそうだよね」夏香はほっとしたように肩を落とした。僕もなんだか安心してしまう。
村山は腕を組み、右手の人さし指をくるくる回しながら言う。
「夏香、確かにお前は頭がいいけど、試験までに万全の状態で挑むのは難しいだろ。まして同じクラスのやつらと同じ条件でいけば、平均以下になることは目に見えてる」
「そりゃそうだよ、私、まだ高一の基礎だってやっとこさできるかどうかってな段階なんだし」夏香が苦笑した。
僕は彼らのあいだに割って入った。「逆にさ、さっきのレベルの低い問題をやるって話を拒否って、例えば、夏香だけ一週間遅れっていうのは? それだけの時間があれば、夏香だって結構追いつけるんじゃないのか。そりゃパーフェクトじゃないだろうけど、試験内容は同じだから反感も買わないだろうし」
「それも難しいっぽい」村山が一閃する。「一週間も期間が延びて、余分に勉強する時間を与えたっていうのも、フェアネスじゃない。こっちも他の生徒の反感まとめ買いだ」
僕はブランコに座り、頭を両手でかかえた。「あーっもう」と半ばヤケクソで叫ぶ。夏香がしゅんとうつむいて「ごめんなさい」とつぶやいた。頭にたれさがった犬の耳が見えそうだった。
「いいよいいよ、そんなこと。夏香ひとりで考えたってしんどいだけだろ」村山が自然に夏香の肩に大きな手をおいてそう言う。なんだこのイケメン。やることがいちいちモテそうで、凡人の僕は落ちこむしかない。
村山と僕があれこれと思案していると、夏香が思いきったように立ちあがった。
「ごめんね、ふたりとも」彼女の声が震えている。「私、このままでいい。みんなと同じようにテストを受けるよ」
僕と村山は同時に「はああ?」と声をはりあげた。犬の散歩をしている近所のおじいさんが何事かとこっちを見ている。
「お前なあ、学校に復帰したいってときも言ったけど、無茶するなって。ていうか最近、無茶しすぎ。先生と話して、うまい方法を考えよう」
「大丈夫だよ、まだ三日もあるし、私の勉強は短期集中型が一番いいから」
「そんな単純な話なのかよ」
「単純だし、わりと軽く見てるよ。もちろん、みんなほど実力はだせないだろうし絶対に低い点になるだろうけど、それはそれでしょうがない。考えてみなよ、期末まではあと一ヶ月あるんだよ? それまで頑張れば、きっと普通の高二ぐらいまで追いつける。それなら、一旦この中間は中途半端な状態でもきちんと受けて、低くてもフェアな条件で点数をとっておいたほうがいい。期末でいくらでも挽回できる」
確かに、大学入試の内申書に響く試験ではないので、あとの試験で全力を尽くせばとりかえせるかも知れない、が。
夏香がいつものように僕をにらみつけて主張を崩さない、首元をねこじゃらしでいじられているような感覚。ついに「分かった、分かった」と観念せざるをえなかった。
「夏香の好きなようにしなよ。でも、ボロボロの成績になるのは目に見えてるぞ。それでもいいのか、プライド的に」
「プライドなんて最初から持ってないよ」夏香は無邪気に笑う。「使いこなすのが難しいから。あるのは自分だけだし」
試験の日、夏香はギリギリまで教科書とにらめっこして、答案が配られてからおもてにひっくりかえすまでのあいだ、ずっと膝が貧乏ゆすりをしていた。開始の合図と同時に血気迫るいきおいで回答を書きこみはじめる。僕は、そうだ、すごいと思う。
中間テストなので実施されない単元もあり、二日で終わってしまったが、最終日、一緒に帰ろうと声をかけたときの夏香の表情がいつもの溌剌さを失っていたので、僕はなんとも言えず困った。「失敗したことは挑戦したこと」夏香は笑って言った。
テストが終わったぜ、さあ遊びに行こう、という平凡な高校生らしい思考回路にしっかりたどりついている僕たちは、そのまま賢一と夏香と瞳と僕の四人で駅前のゲームセンターに行き、マックで延々と駄弁り、ファッションビルで服を買った。高校デビューしてから少しギャルっぽい服装が目立っていた夏香が冬物の白コートを買っているのを見て、僕は素直にかわいいと思った。
不変のものは何ひとつない。だけど、忘れはしない。
僕はニーチェの永劫回帰にイエスをたたきつける。オノ・ヨーコとジョン・レノンが出会ったきっかけになった天井絵のように。「このままでいられるのなら、夏香が僕と別れた過去だってもう一度くりかえしてもいい」と。百万回だって、この人生をそっくりそのままリプレイできる。
テンションが下がる傾向がまったくなく、僕ら四人はそれぞれの家に連絡をいれて、夕食のためにファミレスへとなだれこんだ。僕は腹が減っていたので焼肉とハンバーグとから揚げの甘酢かけを食べた。正面に座る夏香はスープに和風ドリアというあっさりしたとりあわせだった。僕らは学生らしくただひたすらにしゃべりながら次々と料理を口へと運び、ドリンクバーでねばりながらそれでもまだしゃべっていた。
夏香と賢一が音楽の話で盛りあがっているとき、「マイケルの命日にはずっと映画見てたもんねえ」と瞳が口をすべらせたものだから、夏香が驚いて身を乗りだした。
「マイケルって、死んじゃったの?」夏香が叫ぶと、瞳がばつの悪そうな顔をした。「うっそだあ。私、あの人不死身だと思ってたし」
「なわけねえだろ。実際死んでんだし」
ときどき、会話のはしばしに、夏香の時間が巻き戻されていることを思い知る言葉があらわれて、僕は動揺を隠せない。
誰も夏香のテストのことには触れない。僕だってそこであれこれ言えるほど理屈っぽくはない。夏香の中では今でもなお、世界は新幹線の車内に閉じこめられているようなものだろうから。人間の足ではとうてい追いつけない速さで走り、有無を言わせない。
時間は、流れるものじゃない。常に全力疾走で一目散にどこかへむかっている。わきめもふらず、何も考えず。
帰る直前になって、僕らは最初に立ちよったゲームセンターに再び入った。瞳が「四人でプリ撮ろう」と言いだしたのだ。手近なプリクラ機に入り、それぞれ百円ずつ出す。「機種がすごい近未来になってる」と夏香は興奮気味で瞳と一緒に画面を操作していた。僕と賢一はふたりで呆然と見ているしかない。適当な背景を選んで、六枚ぶん撮影する。並んだりひっついたり、アップになったり、変顔を作ったり。撮影したものを落書きコーナーでスイスイいじくる夏香と瞳を、また僕らは背後で見ているだけだった。女ってどうしてプリクラの機械をここまで使いこなしているのだろう。ついていけない、女子の文化。
「ねえねえ、ここに日付いれてさ、名前書こうよ。直筆で」
瞳が僕にペンを手渡して言う。僕はふたりのあいだに割りこんで、自分の胸元に「あきら」とひらがなで書いた。賢一もそれに続く。そして瞳、最後に夏香。それぞれの名前を書き終わり、瞳はすでにあるスタンプから日付のものをひっぱってきて、一番下に据えた。
二〇一〇年。この数字の残酷さは尋常じゃない。だけど、夏香は自分のらくがきしているプリクラにも貼りつけた。
プリントされたプリクラをハサミで切り、四人で分けた。「ケータイに貼ろう」という瞳の提案に乗り、全員がケータイの充電パックの蓋に貼った。ストラップも何もつけていない僕の黒のケータイが、急に華やかになった。夏香と、瞳と、賢一と、僕。縦幅二センチもない、小さな写真。
目の高さまでケータイをあげてみた。少し逆光になった写真は、それでも笑っていた。そして浮かぶ「二〇一〇年」の文字スタンプ。今は確かに二〇一〇年だ。ここは間違いなく二〇一〇年で、疑いようのない事実。誰も新幹線の前にすすみでて止めようとは思わないはずだ。僕も夏香も、不変の二〇一〇年を生きている。
十時過ぎに駅前で解散したあと、僕は夏香を家まで送っていった。街灯のあかりがぼんやりと足元を照らすだけの暗い住宅街を、他愛もない話で時間をつぶして歩いていった。暗い海の底にのまれてしまったような街。活気はあるけれど、夜になれば万物が静かに眠りにつく街。
夏香の家の前で「じゃあ」と帰ろうとすると、うしろから呼びとめられた。夏香がふっきれたような表情で笑っている。
「本当に、いろいろとありがとう」
「いや、俺、何かしたっけ」
「したよ。私、彰に相談しなかったら先生の案にのってたかも知れない。ノーと言えない日本人だから」
なんだよそれ、と笑いあう。よく似ている笑顔だった。
「俺は素直にすごいと思うけど。夏香のその心意気というか、俺が手を貸さなくても、結局夏香はひとりできちんと解決しちゃうところがあるから」
「あんまり褒められてる気がしない」夏香が腹をかかえて笑った。
風が少し冷たい。冬本番はもうすぐそこまで来ている。僕は「家に入りなよ」と言ったが、夏香は首をふった。
「もう少し、話したいことがあるの」
「何、言ってごらん」
僕は門にもたれかかって、彼女の返答を待った。夏香は門の取っ手に手をかけ、そのまま硬直した。彼女の笑顔が鉄板の上に乗せられた氷のように、じんわりと溶けてひろがっていく。消滅して吸いこまれてゆく。
夏香の顔をのぞきこんでいると、彼女は「分からないの」とつぶやいた。
「まだ、ちゃんとのみこめてないの。私と彰が別れたこと」
前髪を指先で耳にかける仕草が美しかった。僕は何も言えない。
「そりゃ、現実なんだからって何度も言われてるし、分かってるつもり。でもね、確かに私と彰はつきあっていたし、恋人同士だった。それが私の中で今でも生きているから、消化不良感がいなめないの。ずっとこのまま一緒にいるんだって誓いあったのに、どうして三年後には私が彰を嫌って、避けるようになって、言葉もかわさないような仲になってるんだろうって」
夜空を見あげた夏香は、気丈に笑ってみせた。
「不思議だよね。本当に、何度も言うけど、タイムスリップしてきた気分」
ふたたびうつむいてつづける。「記憶が戻らないかも知れない、そう考えると、きっと彰とこのまま一緒にいられるんじゃないかと思うんだ。でも、もしそうなったらね、誰もしあわせにならないんだよ。必ず誰かが傷つくんだよ」
空をあおいで涙をこらえる夏香の言葉を聴いて、僕はようやく自覚した。
――夏香と、よりを戻したいと思っているのかも知れない。
ここまで来てもなお「かも知れない」と付随することが嫌になった。
あまりにも卑怯で、情けなくて、幼稚。僕の中で何度も警告の鐘が鳴っていることにはとっくに気づいていたが、夏香の優しさで耳をふさいでいた。きっと大丈夫、なんとかなるんだと甘い言葉でつられるままに。
夏香は肩をすくめ、困ったように笑った。
「こんなこと、今考えてもしょうがないね」
いや、むしろ今考えなきゃだめなことだろう。そう思ったが口にしなかった。門をひらいて敷地内に入った夏香は、一度だけふりかえって叫んだ。
「なんとかなる! しあわせになろうね、彰。プリもとったし、きっと私たち、このままずっと一緒だよ」
そう言ったきり、扉の向こうへ消えてしまった。夏香の部屋に明かりがつくのを見届けて、僕は自宅のほうへ足を向けた。
しあわせ。ただ僕はそれを望んでいた。誰に向けるでもなく、誰にむけられたものかも分からないまま、一途に。優しいかおりに誘われて誰もがその色にキスをする。人は誰もが、ただしあわせになるために生きているのに。
バニラ色の空の向こうには、確かに、僕が知っている色があるはずなのに。
僕は住宅街を一目散にかけぬけた。
試験が終わった翌日はのんびりしていたが、こちらの都合など考えずに全力疾走でやってくる冬将軍に誰もが死にもの狂いで応戦し、しかし桜のように散り、暖房のない教室でカイロなどを頼りに暖をとる日々が続いた。そんなふうに比喩すると夏香が「『ラスト・サムライ』の最後のシーンみたい」と笑った。空は手をのばせば届きそうなほどひくく、ずっしりと重い灰色をしていた。
朝、教室でのんびりと二人で雑談を交わしていると、賢一が僕を廊下に呼びだした。寒いのに。ズボンのポケットに両手をつっこみながら「なんだよ」と文句をたれると、賢一はさらにひと気の少ない渡り廊下近くまで僕をひきずっていった。本気で寒い。風がドアの隙間から吹きこんでくる。
賢一はポケットに手をいれながら、いらついたようすで「お前さ」ときりだした。
「夏香とよりを戻したいと本気で思ってんの」
寒さが四割増しになる。
僕は貧乏ゆすりをやめて、棒立ちになって賢一から視線をそらす。たっぷり数十秒は時間をおいて、「分からない」と答えた。
「自分でもどうしたいのか、分からねえんだよ」
「分からないのか」
「分からないままのほうがいいんじゃないかって今一瞬でも思った自分が嫌んなった」
ため息をついたのは同時だった。賢一はあきれたように腕を組んで目を伏せている。
「俺はさ、彰のこと、理解してやりたいと思ってるよ、基本」
ひらかれた目はけわしかった。「だけどさ、お前が分からないことを俺が分かるわけがない。だから何も言えない。でもお前のこと、はたから見てると情けなさマックスでこっ恥ずかしくなるわ。どうすりゃいいんだよ、俺」
「悪い、心配かけて」
「心配してない」賢一が眉をひそめる。「見てて腹立つだけ」
だろうなあ、と僕は肩をすくめた。自分の女々しさや情けなさはよく分かっているつもりだ。同じ男からすれば少年漫画じみた情熱や根拠のない思いこみだけがつっぱしって、思いきりの悪さが嫌というほど露呈しているだけに見えるのかも知れない。分かっているのにやめられない。足元がふらついて、手に持っているものがこぼれそうになる。
「なんとか決断しなきゃ、って思うんだけどさ」僕はついと視線をそらした。「今、ぐちゃぐちゃなんだよ。より戻せるなら戻したいって本音では思ってるはずなのに、夏香を大事にする方法が見えてなくて、そのくせいっちょまえに自己弁護だけはできて。何をやっても夏香を傷つけちまいそうで、怖くて何もできねえし、言えねえんだよ。情けない」
僕は繰りかえした。「情けないんだよ」
そんな状況下で、好意とはいえ誰かの手を借りたら、それは急に自分の意志とは違うものになってしまうんじゃないかと思った。それは無責任ではないのかと僕は、恐れた。
賢一は中学から今までずっとつるんでいる腐れ縁だが、互いのことは言葉にせずとも自然と理解しあえる仲だし、どちらかというとクラスで目立たず地味な僕が拳も涙もかわした唯一の関係である。
だからこそ、僕は。
ここは僕が道を決めなくてはいけない。それが男ってものだ。
「でさ」僕は思ったことをそのまま口にした。「まずは自分がやりたいこととか決めて、気持ちに整理つけようかと。時間をかけてでも、ちゃんと。それで進むべき方向が決まったら、オールをこぎだすのにお前の力を借りるかも知れない」
そういうわけでよろしく、親友。
普段あまり口にしない単語のせいで、最後の言葉はこっぱずかしくて喉の奥でひっこめられてしまう。が、賢一は数秒の無言ののち、珍しくいたずらっぽく笑って「決まってんだろ」と言った。いつもと寸分たがわぬ笑顔。そして、ああ、こいつやっぱり俺の友達なんだ、と僕は思った。夏香のためだけに自分と闘っているんじゃないと気づいた。
「それでなのか、彰」
「何が」ふたりで教室のほうへ戻りながらたずねかえした。
「お前と夏香が別れた原因を、彼女に話さない理由だよ」
賢一はアメリカ人のようにおおげさに肩をすくめた。賢一は知っている。世界中でほんの数人しか知らない、僕らが別れた本当の理由。
「忘れられるわけないだろ、和久井のこと」
「あいつ、何してんだろうなあ」
「年賀状とか見てるかぎりは元気してるみたいだけど。問題は、今の夏香が和久井のことを知らないってことだ。もしかしないとは思うが彰、話さないままずっとこのままでいようとか思ってるんじゃないだろうな」
ちょっと思ってた。
だけど、そう考えるとたいして何もつまっていない胸の隅がチクリと痛むので、毎度毎度、撤回をくりかえしている。
賢一はややあって僕の肩を叩き、「彼女を大事にしろよ」と言った。
教室に戻ると、夏香がまっさきに僕の手を触ってきた。「超冷たい」そう言ってカイロを押しあててくる。冷えきった手のひらにそれはほとんど無意味だったけれど、僕は笑って、彼女の耳に口をよせて「ありがとう」とささやいた。
胡乱な事件その二が起こったのは、その直後だった。
となりの教室から一瞬、にぶい破壊音と女子の槍のような悲鳴が聴こえた。何事かと腰をあげつつも見に行こうとはしないクラスメイトたちと同様に、僕も賢一も夏香も、ただ耳をすませてようすをうかがっていた。
次に聴こえたのは男子の怒鳴り声だ。何を言っているのかまでは分からない。だが、発生源は声ですぐに分かった。――村山だ。
僕と賢一ははじかれたように立ちあがって廊下に飛び出した。肩越しにふりかえって、夏香に「ちょっと待ってて」と叫ぶ。となりの教室のドアをあけるとすぐ目の前で女子のかたまりが数人分、そのまわりには野次馬。何人かの視線が一瞬僕らにむいたが、すぐに渦の中心に戻る。
女子に囲まれている村山は、椅子をたおして立ちあがり、机の真ん中に手をついている。その手のひらの下でシャープペンシルがまっぷたつになっているのを見て、さっきのごつい音がこれだとすぐに分かった。
村山は僕らに一瞥もくれず、普段の彼からは想像もつかない憤怒の表情で顔をあげる。彼の視線をもろにくらった女子たちが「きゃっ」と短く叫んだ。
「言ってくれんじゃねえかよ」村山が、その甘いマスクに似合わないドスをきかせた声で叫んだ。「夏香に滅ぼされるなら願ったりだ、何か文句あんのか!」
僕と賢一は教室にどやどやとおしいり、今にも目の前の女子に噛みつかんばかりの形相の村山を押さえつけた。腕をひっぱって「何やってんだよ」と叫ぶ。周囲の好奇の視線にさらされながら、僕は耳から蒸気をふいて怒っている村山を廊下にひきずりだした。
もつれあいながらほうほうのていで渡り廊下まで来る。チャイムが鳴った。「サボりになるぞ」と賢一が言ったが、僕はため息をつきながら「ホームルームぐらいどうでもいいよ」と一蹴した。
いまだ熱冷めやらぬ村山が顔を真っ赤にして、強く地団太を踏みながら何事かを高らかに叫んだ。日本語訳、不可能。
「ああもうムカつくムカつく、俺久々にすっげえキレた!」
「うん、村山があんなにキレるキャラだと思わなかった」賢一がおっかなびっくり彼の肩をおさえて地団太をやめさせた。
「どうしたん、クールなシノブくんが珍しい。女子が原因なのは状況で分かったけど」
村山がキレると迫力があって怖い。まったく話しかけられずにいるチキンの僕をさしおいて話をすすめる賢一に感服。村山はほてりが少しおさまってきた顔を片手でおおい、あきれたようにため息をついて話しはじめた。
ことの発端は単純。
村山が夏香とつきあっていることは公認だが、あきらめ半分だった女子たち数人が急に村山に色気を使うようになってきたのだという。夏香を気づかって距離をおいている村山だが、事情を詳しく知らない女子にとっては夏香にふられたとしか見えなかったらしい。というより、都合よく解釈されてしまった。
「夏香が立浪になびくなんて、ひどい。夏香のことはもう忘れなよ。私は村山のこと、夏香より大好きだもん。一緒にいてあげる。だから大丈夫だよ」
日本語に訳すと「夏香はもうあきらめて自分を選べ」としか聴こえない言葉をかけ、使い古されたテクニックをさんざんに駆使してくるスナイパーたちが鬱陶しくなり、かたっぱしから断ってきた。が、先刻の女子の反論はこうだ。
「どうして記憶がなくて、自分のことを全然愛してくれない女子を、そんなにも待っていられるの? そんな一方的な恋、切ないじゃん。村山って優しいけど、ずっとそんなんじゃ村山が身を滅ぼしちゃうよ。しあわせになろうよ」
少女漫画から丸パクリしてきたような紋切り型のセリフに「うええ」と賢一が吐く真似をした。僕もさすがに気分が悪い。けなげな女の子を演じているつもりなのだろうが、下心がつつぬけで興ざめだ。男は胸の谷間で勃起する単純な生物だけど、かといって盲目ではない。
怒る気持ちはおおいに分かる。モテ自慢ムカつく、とはならなかった。それはひとえに村山の人柄か、その堂々たる態度ゆえんか、そもそも到底かなわないせいか。
「えげつねえなあ、女子。獲物の男の前では擬態した昆虫か。かわいい女の子を演出するためのテクニックってか?」
「あああなんかもうまた腹立ってきた」
「まあ落ち着け青少年。女子に暴力ふるわなかっただけ賞賛に値するんじゃねえの。俺が村山の立場だったら絶対殴ってる」
僕は拳をにぎってジャブの真似をした。当然、賢一から「万万が一でもそんな立場はありえねえから安心しろ」とつっこまれるれる。そりゃそうだ、僕が夏香と別れたとき、チャンスとばかりに夏香に言いよる男はいても、僕を狙う女子は誰もいなかった。
「なんかさあ」村山が肩をすくめた。「情けないってずっと思ってたけど、下手なかけひきとか使わない立浪のほうが恋愛に真面目じゃないかって思えてきた」
いやいやむしろ不真面目ですよチキンなだけですよ。
「そんなに夏香、嫌われものだっけ」
「ほら、夏香ってかわいいからさ。かわいい女子って性格もかわいくないと女子からは嫌われるんじゃね? みんなの王子様である村山をゲットしたとなれば、身体でもなんでも使ったって思われるんだろ」賢一が残酷なことをさっくりと口にする。
「ああ、夏香がそう思われてんのかって考えたら、そっちのほうがうぜえ」村山が再度地団太を踏む。「俺、どうすりゃいいんだよ。夏香が怖がったらだめだから近づかないようにしてるけど、このままだと夏香だって女子にいびられんの、確実じゃん。へたしたら俺どころか立浪まで詰問の嵐だし。うぜえことの連鎖だな、今回のこと」
――誰もしあわせになれないんだよ。
僕は「やばい」と思った。何がどうやばくて、どういう経緯で「やばい」のか、そういったことを理解するにはあと数分必要だったが、単純に、このときの脊髄反射で本能的に「この状況はやばい」と判断していた。村山は僕をいっさい責めなかったのに、心臓をナイフでメッタ刺しにされている気分だった。
「村山さ」
僕はふりかえらずに声をかけた。彼も僕を見ず「何」と言った。
「夏香のこと、好きなのか」
「好きだよ」
間髪いれずかえってきた答えは、予想していたとはいえ首筋にぶすりとつきささる。
「どれぐらい、好きなんだ」
僕のその野暮ったい質問に、村山はふむと顎に手をあてて考えていた。
「バイロンじゃないけど」彼の笑顔は優しくて、父親のようだった。「夏香のためにすべてを失うことがあっても、他の何かのために夏香を失いたくないってぐらい」
連絡通路のドアをあける村山は、ライフルのレーザーポインターのようなするどい目で僕を見た。何も言えなかった。
教室に戻るとホームルームは終わっていて、僕たちは一時間目の授業がはじまるまでのわずかな時間をエンジョイしている空気にふらふらと足をふみいれる。夏香が自分の席でにやにやとさも面白そうに笑っているので、苦笑しながら「なんだよ」とたずねた。
「いーけないんだ、サボり」
まあ、ホームルームだけどね。夏香は僕と賢一が教室を飛び出していった事情を訊かなかった。席ふたつぶんの距離を飛び越えてカイロがひとつ、投げこまれた。僕はそれを受けとって笑った。夏香も笑いかえした。
自分の席に座ってカイロで手をあたためているとき、「そうだ」とつぶやいた。何が「やばい」のか、そのときになってようやく気がついた。
記憶喪失になった夏香と一緒にいる僕の存在が弊害をもたらしていることは重々承知だったが、村山にここまでひどく飛び火するとは思わず僕は机に顔を伏せた。迷惑をかけていることは確かだ。
自分に腹が立った。どんどん目の前の崖をのぼってゆく村山を、僕は地上から呆然と見あげるどころか木の枝でつついていたのだ。
朝見たとき「落っこちてきそう」と思ったほどひくい、タール色の空から、よく耳になじんだ雷の音が落っこちてきた。雨の匂いは、しない。
六時間目の科学は理科室で実験。移動教室になりぞろぞろと教科書類をかかえて廊下に流れてゆく人ごみのなか、僕は夏香をつかまえて「行こう」と声をかけた。少し元気がない夏香の笑顔を見て、僕は理由をたずねる。
「なんでもない。勉強しすぎで疲れただけ」
嫌味かそれ。僕がぼやくと夏香はいつもどおり笑って廊下をかけてゆく。彼女の表情はうかがえない。うかがうこともおそらく許されていない。
同時に、胡乱な事件その三が勃発する。
走っていた夏香が急に立ち止まった。女子トイレのほうを見ている。僕が何事かと歩いていくと、トイレから複数の女子たちの会話が聴こえてきた。
「ああそうか、それで先生に呼び出されてたんだ」
「だと思うよ、ていうか確実にそうだって。いくら夏香が頭いいって言っても、記憶ないんじゃテストとか無理あるしさ」
「だからって、夏香だけ高一の問題でテストって、状況が状況っつってもさすがにやばくね? ていうか、ムカつくじゃん、それ」
「え、でも夏香、うちらと一緒にテスト受けてたよ? もしかしてあれ、カモフラージュなのかな」
「カモフラージュ?」
「つまりさ、うちらの目をあざむくために先生が配慮して、テストを形だけ受けさして、あとで高一のテスト受けて、そっちをメインにしてたとか」
「うっわ、やっば。それウザすぎ。どんだけ贔屓されてんの、夏香」
「違う!」
僕の制止もきかずに夏香は女子トイレに飛びこんでいった。鏡の前で噂話に華を咲かせていた四人ほどの不良っぽい女子たちがいっせいに動きをとめてあとずさる。僕はさすがに女子トイレに入る勇気はなく、外から「やめとけって」と言ったが無駄だった。まさかの本人登場に女子たちも呆然としている。
「違うの、それは撤回されたの」夏香は必死に叫んだ。「確かに先生からそのことについて提案されたよ。でもただの提案だったし、不公平だから、私があとから取り下げたの」
「でも、えっこはほとんど確定っぽい感じで職員室で話してたって言ってるじゃん。取り下げたなんて話、聞いてないよ」
「そりゃ言ってないもん。試験をどうするかって、いちいちみんなに報告することじゃないでしょ?」
「何こいつ、マジきめえ」
「じゃあ夏香、こないだの試験の内容がうちらと同じやつだっていう証拠、あるの? 先生から贔屓されてないって、百パーセント言いきれる?」
言葉を失って立ちすくむ夏香に、僕は何も言葉をかけられなかった。こうなることは多少なりとも予測できていたはずなのに、いざその場に接して何も言葉が出てこない。夏香は確かに、僕らの見えないところで、見えないように贔屓されていたのだ。
夏香が授業に追いつこうと毎日補習を受けて勉強していることは誰でも知っているはずなのに、女子はどうしてこう。僕は頭をかかえて、何か言おうと口をひらいた瞬間。
「私だって、好きで記憶喪失になったわけじゃない!」
夏香が叫んだ。大股ひらいて、髪を乱して、目の端に涙をためて、隠してきたものを一気に放出するように。
「どうしてなの、私、頑張ってるのに、贔屓だなんて言葉を使うの。贔屓されたくて記憶をなくしたんじゃないのに。みんなのこと大好きで、記憶をなくす前の私もみんなのことが大好きだったはずだから、早く仲間に入れてもらえるようにって、元どおり接してもらえるようにってしてるのに、贔屓されたいなんて一度も思ったことない! テストの内容はみんなと同じだし、みんなとフェアでテストが受けられるように、教科書借りて一生懸命勉強したもん。絶対成績が落ちること分かっててあえてそうしたんだから!」
「そんなこと言ったって」女子の中で一番気が強そうな子が反論する。「疑いが晴れるわけないじゃん! 証拠になってねえし。第一、贔屓されすぎなんだよ、夏香は。試験のこともそうだけど、そもそも高校二年生が中学の授業内容を先生に教えてもらって復習できてるって時点で、もうすでに優遇されまくってんじゃん。それで贔屓されてないとか意味分かんないんですけど」
「もうよせ、落ちつけ、それ以上言ったら」割りこもうとすると、女子たちの死神のような視線で一蹴されてしまった。夏香の小さなうしろ姿がかわいそうで、震えている肩がいたたまれなくて、けれど僕は、余計なことを言ってしまう恐怖に、何も言えなかった。
夏香は反論の言葉をととのえてふたたび叫んだ。
「試験が贔屓されてないっていうのは先生に訊けばいい。誤解だって自信あるからこんだけのこと言えるんだからね。それと、確かに私は高二だけど、実際、三年間の記憶が何もないの! 授業内容ももちろん、全部忘れてるの。そして私は、望んでそんな状況に自分を追いこんだんじゃない、早く記憶を取り戻したくてしょうがないの!」
「だったら医者にでもさっさと行けよ! こんなところで授業とか受けてる暇があったら、入院でも手術でもなんでもして治してもらえばいいじゃん」
「なくした記憶をなぞれば健忘が治るっていう効果が実証されてるからここに戻ってきたんじゃんか、私はまだその途中なの。頑張ってる途中なの!」
「頑張ってまーすでまかりとおるんだったら誰も苦労しないよ、記憶がないからってなんでもしていいわけじゃないんだからね! 立浪のことも、村山のことも!」
さすがに止めに入ろうと女子トイレに一歩踏み出した僕を、夏香がおしとどめた。名前を呼ぼうとすると、夏香が「それがどうしたの」とつぶやいた。
魂をぶち抜くような、真っ黒で、血のような言葉だった。
黒くねばついた吐息がその場の空気を凍りつかせる。ぽろり、ぽろりと熱がころがり落ちてゆく。僕のいる位置から夏香の表情は見えないけれど、それがどれほどの形相か、僕は容易に想像できた。想像できるぶん、背筋を金属質なもので撫でられる。
夏香が、キレた。その怖さは二年前から、誰よりも僕が知っている。
「私は彰が好き。それの何がおかしいっていうの」
歯をくいしばって顔をあげた夏香に、女子たちが短い悲鳴をあげた。僕と夏香の顔を交互に見る。女子トイレの周辺にはすでに大勢の野次馬が集まっていて、もの珍しそうに事態を見物している。夏香は彼らに見むきもしない。僕にすら、見むきもしない。
ちいさな、無意味ではない歌声が、響く。声が空をぬけて、宇宙へ飛んでゆく。
「だろうね」ひとりの女子がひきつった笑顔を浮かべた。打開策を見つけた笑みだった。
「だって、立浪と夏香、中学んときにつきあってたんでしょ? んで、理由は知らないけど、別れたんだって? あんたらと同中の子に聞いた。何があったか知らないけどさ、あんたにとって立浪はもう元カレじゃん。忘れたなんて理由で、村山をほったらかしにしていいと思ってんの」
「よせ」僕は彼女を止めようとしたが、女子たちはさらにヒートアップしていった。
「うちらにとって村山がどんだけ高嶺の花か、あんたには分からないだろうね。顔がいいってだけで男に不自由しなくていいんだし」「それ以上言うな、夏香はそんな」「村山とつきあってるって聞いたとき、この美人じゃしかたないって思ったよ。それが恵まれた立場だってこと、自覚してんの? 努力して手に入れた顔でもないくせに」「もうやめてやれ、でないと」「みんなの憧れの村山を彼氏にしてる身分の女が、記憶がないからってその村山をあっさりポイして、元カレと一緒にいてもいいって思ってんの? 何様誰様?」「違う、俺は」「元カレにすがっといたら、学校に復帰しても大丈夫かーぐらいの気持ちでいたんじゃないの。記憶ないって言えばあるていどは優遇されるかなーって思ってたんじゃないの。あんたさあ、それで許されると思ってんの。自分で勝手に事故っといて勝手に記憶なくして」「それ以上言ったら殴るぞ」「記憶喪失ってのも、実は演技なんじゃね?」「てめえ、いい加減にしろ」
「性悪! 偽善者! 村山のこと捨てたくせに調子のんな! 死ねよ!」
僕が胸倉をつかむ前に、彼女たちに夏香の平手が飛んだ。
強烈なデジャ・ヴュ。古いフィルムが、ケースをやぶってさらされゆく。
頬にくっきりと真っ赤な手のひらの跡を残して、好き勝手にしゃべっていた女子は何が起こったのか分からないような表情でぽかんとしていた。
夏香は張った手をぎゅっとにぎりしめ、その場に膝をつき、ゆっくりと座りこんだ。そして、泣いた。廊下にも響くほど大きな声で、子供のように泣いた。唇を震わせ、ぽろぽろと涙をこぼして、顔を真っ赤にして。
誰も動かなかった。僕も、一歩も動けなかった。その肩を抱いてやればよかったと後悔した。だけど僕は、頬を叩かれた女子が痛みにじわりと涙をにじませているのを見て、自分の右手を強くにぎりこんだ。何かをすることすら罪悪だと思った。だから僕は呼吸を止めたかった。ここでもまた傍観者なんだと、逃げだしてしまいたかった。
夏香の声をきいた先生がとんできて間に入った。野次馬を帰らせ、へたりこんで泣いている夏香と不良たちをひきはがした。僕も夏香からひきはがされた。そうされてよかったと今は思う。
夏香に平手打ちを食らった女子は、半泣きになりながら「超きめえ、うざすぎ、マジ死んで」とさんざんに悪態をついて先生たちに連行されていった。夏香と僕も同様だった。状況判断で、夏香が一方的に女子たちにいびられていたという結果に終わってしまった。女子たちの言うことは、正しかったのだ。
夏香はそれ以来、学校に来なくなった。
彼女が学校に復帰していたのは、たった十三日間だけだった。
僕が二年前に犯した罪を、ほんの少しだけ。
中学三年に進級したばかりのころ、夏香に新しい友達ができた。和久井千夏という、おとなしくて本ばかり読んでいる子だった。髪型も毎日同じで、制服もきちんと着ている、真面目だけどとても素直でかわいらしい女の子。女子が女子を真面目と言うと悪口に聞こえやすいが、僕にとっては褒め言葉だ。遊び慣れている不良の女の子より誠実でいい。何より夏香が真面目だから、僕が和久井と親しくなるにも抵抗がなかった。
新しいクラスで僕と夏香が最初に見たのは、和久井が女子からプリントをわざと落とされたり、触れるまいと大げさによけたり、目の前で教室のドアを閉められたりといった、小学生かと思うほど幼稚ないじめの光景だった。目に見えるいじめだけでなく、学校の裏掲示板に悪口やメールアドレスが書きこまれたりといった悪質な嫌がらせも受けていた。彼女は一瞥して分かるいじめられっ子で、クラスでひときわ浮いていた。
和久井は中学一年にして彼氏を作っていて、それは同年代の女子たちの反感をおおいに買った。中一で恋人を作るなんていうやつ、そうそういない。まともに彼氏がいたことがない女子たちからねたまれ、いびられ、「十二歳で非処女」とののしられていた。避妊していれば別に十二歳でエッチしたって構わないと僕は思っているが、その経験値自体がどうやら悪かったらしい。その彼氏とは三年生の後半で別れてしまったらしいが。
「私、夏香っていうの。夏の字が名前に入ってるところ、かぶってるね!」
夏香はそう言って、教室の隅で目だないように本を読んでいる和久井にアクセスした。いつもひとりでいる和久井と机をつなげて弁当を食べていた。僕と賢一もくわわって四人で食べたこともあった。夏香は彼女を「ちーちゃん」と呼んでしたっていた。
単にいじめられてる子かわいそう、一緒にいてあげよう、というくだらない正義心ではなく、夏香は単純に彼女と友達になりたいと思ったのだろう。明るくて元気で、いつも目立つグループに所属している夏香が、和久井のように暗めの子と仲良くするとは思わなかったのか、夏香の本来の友人たちはみなこぞって彼女と距離をおいた。和久井はそれを何度も心配していたが、夏香は「自分が気に入らないやつと仲良くしてる子は除名、なんていう幼稚なことしてるやつは友達じゃないし」と笑っていた。
その気丈さが逆に、和久井をいびっている生徒たちの反感を買ったのだろう。夏香も千夏も「消えろ」「学校来んな」といったメールが届くことは日常茶飯事、女子からは無視され、教科書を鯉の池に放りこまれ、いじめはエスカレートしていった。関係ない女子たちもいじめっこたちの脅迫により話しかけることを許されず、結果として和久井と夏香は孤立した。
慣れているようで「大丈夫」と連呼する和久井を、それでも夏香はかばっていた。
「ちーちゃんはいい子なんだよ。優しいし頭いいし、かわいいじゃん。どうしてみんなが彼氏いるとかつまらないことでいじめてんのか、分かんないし。嫉妬してるんならそう言えばまだ素直でいいのに、醜態さらしてる自覚ないとかって、ありえない」
そう怒る夏香に、和久井はいつもくっついていた。僕と賢一もくわわって、四人一緒にいることが多くなった。他の友達は僕らと和久井が仲がいいということで首をかしげていたが、それでも僕らは仲良しだった。夏香がいうように、和久井はかわいらしくて品があり、こまめに気遣いもしてくれる子だった。夏香といい勝負の映画好きで、優しくて、授業で分からなかったところはていねいに教えてくれた。本が苦手だった僕に、読みやすい小説を貸してくれた。僕が風邪で休むとプリントを家に持ってきて、しょうが湯までくれた。とてもいじめられるような子に見えなかった。
だからこそ、二年前の事件は夏香と和久井の心に一生消えない傷を残してしまった。
僕は和久井をいじめている主犯格のギャルたちが、「明日の朝」「和久井の机」などと話しているのを女子トイレの前で聞いた。さすがに中に入ることはしなかったが、ただならぬ予感がして、翌朝、僕は早起きをして学校に向かった。
今思えばそれが一番の失点だったのだ。僕があそこまで怒り狂わなければ、いじめが過熱しても和久井を守るぐらいの友情を見せていれば、僕らの平和はここまで転落しなかったはずだ。
三人の友情なんてそのていどだったのだ、と言われれば、僕は胸をはって反論できる。――それは違う、と。
そうでなければ、夏香が僕を殴ったりしなかった。
だから、僕の記憶の中では、夏香の暴力はいつも優しい。
まさに腫れものに触るような扱いだった。腫れものどころかケロイドのような。いっそ地味にニキビか。つぶすと悪化する。
モーゼの十戒のごとく僕のまわりの人々が半径三メートル以内に入るまいと見えない垣根を作っているのはなんだろう。別に噛まないぞ、と言いたいのだが言うチャンスを永久に失って今にいたる。
元々そんなに友達は多くなく地味で人づきあいが苦手だから、誤解をとくために「あのう、今出まわってる噂のことなんですが」なんて言ってまわる勇気はない。ほとんど話したことがないやつらの、訊きたいことがあるけど訊く雰囲気じゃねえしとりあえず空気読んどけ、みたいなノリが居心地悪い。
僕をニキビ扱いしない少数派のひとりである賢一は、女子トイレでの事件のあと、僕をペンケースでひっぱたいた。布ではなく缶のあれ。痛い。
「おっまえなあ」普段クールなだけに半分キレた賢一は怖い。「どうするか考えとけよって俺、先に釘さしといただろうが。絶対にこうなること予測できてたんだから。一番しんどいのは夏香なんだぞ、お前じゃなくて」
「わーかってる、今回は俺もたいへん反省してますって。こっちこそ悔しいし」
夏香は事件のすぐあとに早退してしまった。二日たった現在もクラスメイトのよそよそしさは変わらず、賢一はいつもどおり変わらず。
夏香と口論していた女子生徒は、夏香が登校拒否になったことで一方的に悪者扱いされてしまい、先生から厳重注意を受けていた。それで元々やさぐれていたのがさらにやさぐれ、ないことないこと吹聴してまわっているらしい。いわく、僕の知っている限り、夏香が村山を簡単にポイしたところを元カレの僕がつけこんだだの、夏香のフリ文句が「あたしみたいなかわいい女の彼氏ならもっとイケメンでなきゃ嫌なの」だの、夏香が別れるときのあて馬に自分が利用されただの、自分を悲劇のヒロインにしたてあげるための設定数多。どうしたらそんなに昼ドラマの意地悪女の設定がパッと思い浮かぶんだ。ケータイ小説かくだらない少女漫画の読みすぎだ。
結局誤解がとけたのは一部の友達だけだった。他の生徒は夏香が村山を捨て記憶喪失を盾にしているなどという筋のとおらない噂を鵜呑みにし、当人の僕や村山をほったらかして好き勝手にストーリーを展開されてしまった。
学校のマドンナである夏香が、最大のライバルたる村山と離れたことはこの悪質な噂とともに広まり、学校の裏掲示板には「記憶がないというのは本当らしい」「彼女の記憶は八時間からもたないからレイプして大丈夫」「犯したあと殴ったらまた記憶が飛ぶ」という映画の影響丸出しな書きこみが夏香のメールアドレスと共に乱立し、彼女がいないとはいえ学校はすっかり危険区域になってしまった。さいわい書きこみを賢一が見つけていたので、僕は夏香にメールアドレスを変え、僕、賢一、瞳、村山にだけ教えるよう言った。今はしかたない、緊急措置だ。
新しいアドレスが「2ovas-NandA-toi.et.moi」だったので笑ってしまった。
しかし事態が悪化を極めていることは変わらない。どうしてこんなことに、と机につっぷして頭をかかえる僕の前に、パックのコーヒーをすすっている賢一がしゃがみこんだ。
「やっぱさ」僕はぽつりとつぶやく。「俺って、夏香のこと、守ってやれねえのかな」
「そんなこと言ってるうちは無理だわな」
あっさりかわされて言葉につまる。賢一は「腹筋ねえし生っちろい肌してるし背も普通丈だし、ルフィやゾロじゃなくてウソップ系」と追いうちをかけた。ぐさぐさと矢がつきささる。
「いや、その守るにしたって、今回にしたって」
「分かってる。だから言ってんだよ、なんで夏香の前に立って女子たちに対抗しなかったのかって。拳じゃなくて、言葉でな。まあ、男が口で女に勝つとは思えないけど。あんだけ頭いい夏香だって人間なんだから精神的にくればやられるし、泣きたくもなるだろうし。そのとき守ってやるのがお前の役割だろ、ボケカス」
おっしゃるとおりで。賢一は鼻をふんと鳴らした。馬鹿にされてる気がした。
僕のチキンさが悲しくもよく出た結果だった。夏香が学校に来なくなったことを考えれば、焼き鳥になる覚悟で彼女たちと対峙していればよかったはずなのに。後悔ばかりが僕の身体に根をはやす。縦横無尽に這って、神経ごとからめとる。
「彰のばーかばーか」空から矢が降ってくる。「あんなにかわいくて優しい子をずだずだにしちまってよ。だから夏香を守ってやれって最初に言ったんだ」
「俺、なんも変わっちゃいねえなあ。あの事件からなんも。夏香は優しいままなのに」
「まさにそのとおり」
一拍おいて賢一はつづけた。「彰、もしお前があの事件の誤解をとくために夏香に未練を持ちつづけているんだとしたら、もうそれは執着だ。そんなことしても、変わらないものは変わらないままだぞ」
彼の目に軽く圧迫され、息を吸いこみづらくなる。頬杖をついてリラックスしているように見えて、賢一の目がそれ以上の多くを語っていた。
今でも覚えている、夏香が僕を殴った痛み。熱。記憶。忘れたりしない。
僕はその痛みで何度でも夢から目を覚ます。……何度でも。
一度たりとも僕を裏切らないたったひとりの親友を前にして、僕は顔を伏せた。その頭を、賢一がコーヒーのパックで何度もこづいた。
「そう落ちこむなって」彼が笑う。「前も言ったけど、俺はお前を理解してやりたいよ。でも、俺に理解されるために行動するな。馬鹿で裏表がないのが唯一の取り柄だろ」
顔をあげると賢一はいなくて、代わりにコーヒーのパックが机の上に置かれていた。パッケージの表面に浮いた水の粒が、まわりのちいさな粒をまきこみながらたどたどしく落ちてゆく。机にキスをし、広がってゆく。
夏香がいなくなってからほとんど話しかけてくれなくなった瞳が、僕のふたつ前の通路をぬけていった。僕のほうをふりかえって一言、「嫌な男」と言い放った。連絡通路での短い会話と、一緒にとったプリクラを思い出す。その短いスカートを挑発ぎみにひらつかせて、瞳は僕の前からいなくなった。
賢一がおいていったコーヒーは、間接キスになるのでどうも飲む気になれなかったが、少し考えてストローをひっこ抜き、パックの隅をひらいて、そこから飲んだ。中身は半分近く残っていた。
その日の晩、僕はずいぶん久しぶりに二年前の夢を見た。
コンドームまみれの和久井の机。僕は女の子たちの胸倉をつかんで机に叩きつける。夏香が僕に平手打ちをする。和久井が教室の床に座りこんで静かに涙を流す。口をおさえて半泣きのいじめっこたち。
夏香が震える声で言う。
――そういうやつだったんだね、彰。
僕は汗びっしょりで飛び起きた。真っ暗な自室で、自分の心臓と目覚まし時計の秒針の音だけが響いていて、まるで時間が止まったようだった。午前三時半。キンという耳鳴りを感じる、海の底のような暗さと寂莫。息ができなくなるほどの圧迫感。意識がとろりと現実に密着してゆく。
僕は心臓がエイトビートを刻むのを数秒間、目をとじてじっくりと感じていた。そして落ちつくのを待ち、ふたたび布団に入る。淡いブルーのカーテンの向こうで、新聞配達のスクーターの音が聴こえた。
夏香に殴られた箇所が、ヤケドをしたように熱い。その熱を僕はまだ覚えている。忘れるわけがない。だけど、できれば忘れたかった。氷づけにして、美しい氷像にしてしまいたかった。
ここ最近、二年前の事件を夢に見ることがなかった。それは多分、夏香とのしあわせな日々を再放送したような日常に、すっかり慣れてしまっていたからかも知れない。記憶喪失の元恋人。
思い出せ、思い出せ、ゆめゆめ忘れるなと、悪夢が無言で叱咤している気がした。
和久井が泣いている顔が瞼の裏に焼きついて離れない。
一度僕の手で傷つけた夏香を、二度目も守れなかった。
どうして僕らはしあわせな夢を見つづけるのだろう。やがて激しい警告のベルの音や誰かの拳で目を覚まし、現実のあまりの空虚っぷりに立ち尽くすのだろう。誰もいない、僕らのよく知った街で。
からっぽの道路を走ってゆけば、嫌でも気づく。それは確かに真実なのだと。そして真実はいつだって直球ストレートなのだと。
もう、目をそむけつづけることはできない。
僕はその晩、ほとんど寝つけずにいた。
決心がつくには週末まで時間を要した。僕は日曜日、片岡家の前に立ちつくす。インターフォンを鳴らすのに二分かかり、出てきたのが夏香の父親だったので心底ほっとした。
が、奥から夏香の母親がみえたので、僕は反射的に頭をさげた。
「すみません、俺、あんなえらそうなこと言っておきながら」
「いいのよ」彼女は優しく笑ってくれた。「私たちも夏香を止めようとしたけど、あの子の決めたことだからって。それに夏香が自分で決めたことなら、後悔するような子じゃない。自分の主張を曲げず、信念を曲げず、間違ったことはしていなかったって自分で言ってたわ。だとしたら、彰くんが謝ることはない」
僕はここまで来るのに数日かかったことを恥じる。寂しそうに笑って「頭をあげて」と言う彼女の言葉に、さらに頭があがらなくなった。僕は再度「すみません」と言った。
お茶の誘いを断って会釈し、夏香の部屋へむかった。セーター姿の夏香が笑顔でむかえた。
「来てくれたんだ、彰。ありがとう」
不良女子たちと真っ向から対峙し、激しい論争をくりひろげ、登校拒否になった子とはとうてい思えなかった。夏香の母親が言うように、彼女は自分のしたことに間違いはなかったと言う。ただひとつ、自分の手のひらを見て「でも叩いたのは駄目だったな、痛いに決まってるのに」とつぶやいたが。その言葉は僕の腹をも串刺しにする。
「私の言ったことに嘘や脚色はいっさいなかったよ。それを信じてもらえなかっただけ。それどころか、自分の憧れの人が彼氏にならないっていう苛立ちだけであんな露骨なやつあたりしてさ。子供っぽい」
彼女はいったんため息をついた。「でも、こんなくだらないことでみんなに迷惑かけられないよ。だから、やっぱりしばらく学校はお休みするよ」
むちゃくちゃ言うねえ君も。僕は額に手をあててあきれた。
「ごめんな、夏香」僕はつぶやくように言った。「あの場にいながら、守ってあげられなくて」
「いいよ、そんなの。お姫様みたいに守られっぱなしなんて嫌だし、むこうの言い分だって間違っちゃいない。あんなふうに言われたっておかしくない状況だったもん。現実って残酷だよね」
夏香は悲しそうに笑って、ベッドに座りパンダの大きなぬいぐるみを抱きしめた。
「駄目だったんだね、学校に復帰するなんてさ。記憶喪失ってだけで問題がたくさん出てくること、最初から予測していたのに、いろいろ急ぎすぎたのかな」
素直に「そんなことはない」と言えないだけにはがゆい。僕は夏香のとなりに座って、彼女の抱いているパンダの頬をこづいた。
うぬぼれていたのは僕のほうだ。きっとうまくやっていけるんじゃないかと思った。初日はヒヤリとしたが、翌日からみんなの名前も覚えて、授業にもついていけるように勉強をはじめて、友達と弁当を食べたりして。
僕は過去のゆがみのひとつひとつを覚えているし、それをくりかえさないようにと思っている。だけど、それがかなわないのはむしろ当然で。かなえようとすることのほうがちゃんちゃらおかしくて。
別れた原因をいつまでもはぐらかして、周囲の目は冷たくなってきて、そのたび僕は自問自答をくりかえした。悪い記憶をすべてなくしてしまった、僕だけに都合のよすぎる状況。それを利用して甘い蜜をなめてやろうと、一瞬でも思った。本来、やり直してはいけない状況だったはずなのに。夏香が笑ってくれることで満たされて、それでよかったはずなのに。
僕はパンダの頭をぽんと叩いて、「夏香」と呼びかけた。
「なんとかして、記憶、戻そう」
夏香が僕をじっと見つめる。僕も彼女を見つめる。彼女の胸に抱かれているパンダだけがそっぽを向いている。
僕はすうっと息を吸って、もう一度「記憶をとり戻そう」と言った。
「何もいいことはない。確かに、逆行性健忘って一生治らないケースもあるし、難しいかも知れない。だけど、ちゃんと医者には行ってるんだろう?」
夏香はこくんと小さくうなずいた。
「場面場面だけど」つづいて、弱々しくつぶやく。「思い出しているフシがあるの。彰には言ってないけど、クラスのみんなと一緒にいるとき、たまにね、ああその話聞いたことあるなって思うときがあるの。なんとなく聞いたことあるような感覚ってだけで、はっきりと思いだしたわけじゃないんだけどね。だから、それは海馬がどうこうというより、身体が覚えてるんじゃないかと思うの。まあ、これは記憶が戻ったって言わないか」
夏香は自分の手を電灯に透かした。血潮が見えて、赤く染まる。
「私はまだ十四歳。だけど世界は、私が十七歳だと断言してやまない。この身体が本当に私のものなのかって、私の知っている私としてこの世界に今いるのかって、今でもたまに不思議な気持ちになる。他人になったような気分。心だけ他の人の身体に移植したような気分。気分だけね。だけど確かに分かっているのは、この意識が片岡夏香のものであることと、私は確かに人生の一部を彰と一緒にすごしていたんだということ」
僕は夏香の腕からパンダのぬいぐるみをとっぱらい、身体を寄せた。彼女の右手を左手でとり、強くにぎる。驚いたようすで僕を見やる夏香の目は、少しだけうるんでいた。
僕はまばたきすらもためらわれるほど、彼女の瞳を真剣に見つめた。
「大丈夫、俺がいるから」
確証のない言葉。あきるほど使われた言葉。
「もう、俺のわがままで誰かが傷つくのを見ているのは嫌なんだ」
夏香が「どういう意味」と首をかしげたが、僕はかまわず彼女の手を強くにぎった。
「耐えられないんだ。俺はこのままだと、夏香をしあわせにしてやれない。だから、記憶を戻そう。君がなくしてしまった日々をとり戻そう。そうしたら、きっと」
きっと、僕も、つぶれてしまわずにすむ。
賢一も、瞳も、村山も、夏香の両親も。
僕は自分のしあわせを、あるいは望んではいけないのかも知れない。夏香が忘れても、僕は悪夢をくりかえすだろう。凍った記憶を抱きしめて、土の中でじっとしているほうが賢明だ。彼女を本当に心から愛しているなら、記憶が戻って欲しくないなんて、一瞬でも思ってはいけないことだったのだ。
夏香が悲しそうな顔をしたので、僕はあいている右手の指の背で夏香の頬をそっと撫でた。化粧をしていない素肌はなめらかで、陶器のように白い。手の甲をそっと当てると、夏香のあたたかさがじかに伝わってくる。あまりにも、あまりにも美しい、あまりにも純粋で、あまりにも無垢で。
この頬が二度と涙で濡れてしまわないように。
夏香が蚊の鳴くような声でつぶやいた。
「怖いの、彰」
一度だけ、鼻をすする。「もし記憶が戻ったら、私は彰を」
目尻がうっすらと赤くなっている。彼女の身体をひきよせて、壊れものを扱うように優しく抱きしめた。ふわり、とシャンプーの匂いが鼻をつく。夏香はぴくりとも動かず、僕の胸に額をあずけていた。
彼女ひとりを苦しませているのかも知れない。悔しくて、情けなくて、こんなときにかぎって何もできない自分に憤って、僕は夏香を抱く手が震えはしないかと、怖かった。
そのとき、突然外からインターフォンの音が響いて、僕ら二人は反射的に離れた。顔を真っ赤にして両腕をかきだく夏香を見て我にかえり、「ごめん」と叫んだ。夏香は狂ったようにかぶりをふった。
ドアのむこうから聴こえる声で僕は来訪者が瞳だと分かった。慌ててベッドから立ちあがると、それとほぼ同時にノックの音が部屋全体に響く。ドアをあけると、案の定、瞳がお菓子か何かが入ったビニール袋をかかえて入ってきた。
「やっぱり」
瞳は僕を見て、開口一番に言った。「もう一人お友達が来てるっておばさんが言ってたから、賢一かあんただろうと思ってた」
「ご期待にお応えできて光栄至極」
肩を落とした。くそ寒いのにミニスカートをはいている瞳は、むしろ沸騰せんばかりの目線を僕にむける。僕は空気を読んで夏香の部屋を出る。
一旦トイレを借り、ふたたび夏香のドアの前に立った。入ろうかと思ったが、数秒逡巡してやめる。
「彰のこと、今でも彼氏だと思ってるの?」
防音設備がととのっていない和風の家なので、瞳の声がつつぬけだった。
「私さ、正直、今でも夏香と彰が中学のときにつきあってたっていうのが信じられない。月とナメクジじゃん。あいつ、そんなにルックスよくないし、むしろ頼りなくて貧弱で」
「つきあいはじめのころは友達にもさんざん言われたよ。もっと顔のいい男選べよって。でもね、まあ、自分でもよく分からないんだけど、それでも彰が一番いいって思ったんだよね。頼りなくても、勉強できなくてもさ」
「夏香とのつきあいも一年半だけどさ、そのへんがよく分かんないなあ。どう考えたって村山がすべてにおいて完璧じゃん。超イケメンで頭いいし、優しいし。女子トイレでの事件で日名子たちが言ってたように、王子様じゃん」
「うん、村山くんはいい人だよ。三年後の私が好きになるのも分かる。でも、十四歳の私にとってはやっぱり彰が王子様だなあ。ごめんね、わがままで」
「ううん、そんなことない。ただ、意外すぎるんだよ。だって、今の彰さ、明らかあに夏香に未練タラタラで鬱陶しいのなんの。気持ち悪いぐらいだったから、好きの形がおかしいって思ってね」
どこまでぶっちゃけてるんだあの子は。僕は中に入ることができず、こっぱずかしい思いに駆られながらドアの前に座りこんだ。冷気がじっくりと身体の芯まで冷やそうと襲いかかってきていたが、気にならなかった。一階からテレビの音がかすかに聴こえる。外で大きなトラックが通過したらしく、タイヤの音と共に床が少し震えた。
「どうかな、中学生の恋愛なんて、高校生の瞳ちゃんにしたらくだらなくてつまらないのかも知れないけど」
「くだらなくはないよ。私も中学のときに彼氏いたことあるもん。ただねえ、私じゃどうころんでも彰を彼氏にしようとは思わない。村山のが百億倍いい」
悪かったな。僕はがっくりとうなだれて体育座りをし、膝のあいだに顔をうずめた。どうせ僕はナメクジですよ。夏香以外の女子に男として見られたことがない根暗だし。
でも、僕は夏香とつきあっていた。長い夢を見ているのではないとしたら。
数秒の空白のあと、夏香が扉の向こうで小さく「それでも」と言った。
「それでも彰が一番なんだよ。私にとって、彰は誰にもかえられない王子様。あとにも先にも同じ人はいない、たった一人の、立浪彰を私は愛してるんだよ。三年後になれば私は村山くんを愛してるのかも知れない。だけど今このときは、間違いなく彰を愛してる」
僕は瞳のあきれる声を聴きながら、ゆっくりと立ちあがった。ドアをノックし、「ご歓談中失礼」と中に入る。床に置いたままの自分の鞄とコートをとった。
「先に帰るわ。夏香が元気そうならそれでよかった。ゆっくり休め。瞳、夏香と一緒にいてやってくれな」
夏香に余計なことを言わせないために早々に身支度をととのえ、部屋を出ていった。「あっ」と夏香が何かを言いたそうだった。
リヴィングで夏香の両親に挨拶をし、玄関から出ていく。雪が降っていた。昼から少し降るという予報を見て傘を持ってきていたが、このていどの粉雪なら必要ない。
僕はコートの上からマフラーを首に巻き、空をあおいだ。吸いがら色の空から無数に降ってくる小さな白い粒たち。はかなくて、一瞬で消えてしまうような存在。次から次へと降ってきては、地面にたどりついた瞬間にその白さを失ってしまう。
僕はマフラーを口元までひきあげ、門の鍵をあけた。が、同時に背後から玄関のドアをあける音が響いたので反射的にふりかえる。そこにいたのは夏香ではなく、荷物とコートを持った瞳だった。
「どうしたんだ」僕はマフラーをひきさげて言った。「俺のことなんか気にしないで、夏香と遊んでいればいいのに」
「誰があんたなんか気にするか、うぬぼれ屋」
そうでしたごめんなさい。彼女は僕の近くまでゆっくりと歩みよる。僕はハイエナの晩御飯にえらばれたライオンの子供のように固まってしまった。
僕は平均と比べてそんなに身長が高くないけれど、瞳と並ぶと彼女も夏香と同じぐらい小柄だということが分かった。彼女は少し下から僕を睨み、そして言った。
「夏香、本当に彰のことが好きなんだね」
その言葉の裏を読みとりかね、僕は「かも知れない」なんて答えてしまった。そして、何度か賢一から訊かれたことをここでもくりかえされる。
「彰は、夏香とよりを戻したいって思ってんの」
粉雪が、彼女の鼻先にまいおりる。空がこなごなにくだけて、その破片がおっこちてきているような粒。風にゆれ、踊り、何も語らない。無音の夢。
僕は何も言えず、瞳の目を見つめかえすしかできなかった。一瞬でも目を離したらきっと噛みつかれる。そんな気迫とオーラをただよわせていた瞳が先に視線をそらしたときは、心底ほっとした。
「私ね」普段の瞳らしからぬ、弱々しい声。「彰や賢一みたいに、中学のころの夏香を知らない。それが歯がゆい。でもね、これだけは絶対に言えるの。私はみんなが大事。みんな、大事な友達なんだよ。たとえ夏香が彰を嫌ってても、私はずっとみんなの味方だった。そのスタンスでずっと行くつもりだった。女子トイレの話を聞いて、びっくりした」
次の瞬間、瞳の拳が僕の腹にくいこんだ。当然、鍛えてなんかいるはずもない僕の貧弱な腹筋は一瞬で崩壊し、呼吸が止まる。よろめいて腹をおさえた。軽く咳をすると、胃のあたりに縄で締めつけられるような痛みが走った。ぎちぎちとひびいてくる鈍痛に歯をくいしばる。
瞳が、その目にいっぱいの涙をためて僕を見ていた。
「女の子はね」
彼女は子供に話しかけるような声でつぶやいた。「男に都合いいように扱われるのが一番嫌いなんだよ」
最後はほとんど叫んでいるようだった。瞳は顔を伏せたまま僕のとなりを走ってすりぬけ、道路をかけだしていった。一度もふりかえらずに、ひたすらに。
ガラスがくだける音が、聴こえる。なつかしい痛み。逆回転をはじめる秒針。
ふたたび夏香の家に入る勇気は僕にはなく、何度か腹をおさえて咳をしたあと、コートのポケットに両手を入れて歩きだした。雪は夜にかけて激しくなるらしい。僕はもう一度空を見あげた。紺と白が絶妙なコントラストをもってまじりあっているその色は、僕の中で消化不良になっている感情を全部まぜてしまいそうな、そんな空気をまとっていた。瓦礫のような白い粒。壊れざるをえなかった空の、かけら。
テストの答案がかえってきた。かえってこなくてもいいのに。爆発物処理班を呼ぶべきだ。こんなものに地球の貴重な紙資源を消費する必要はない。
僕は職員室に呼ばれ、夏香のぶんの答案をすべて受けとった。彼女に届けるには僕が一番適任だと判断されたらしい。女子トイレでの事件があったあとなのに。教師は適任なんていう話になると、もしかしたら単なる距離感だけを考えているのかも知れない。この指導方針が我が校だけであることを願う。
天罰を覚悟で夏香の答案をのぞき見た。普段の彼女なら八十点や九十点などあたりまえのようにかっぱらってくるが、予想どおり、理数系科目で五十点台なども見受けられて僕は素直に「やばいな」と思った。期末でどう挽回していくのだろうか。十四歳が高二の二学期の中間テストで五十点といえばたいそうなものだが。
廊下で瞳とすれちがった。彼女は何も言わず、僕に一瞥もくれずに去っていく。透明人間扱い。僕は何度か声をかけようとして、そのたびに言葉をひっこめた。傷つけたのは自分だと思えば、何も言えるわけがなかった。
昼休み、賢一と食堂で食券を買うために列にならんでいるとき、夏香のことについて話した。
「彼女の記憶が戻るように従事するつもり」
そう報告すると、逆に殴られた。最近殴られすぎだ。理不尽だ。
「それはやって当然のこと。そう思うよりずっと前からお前、夏香ともう一度やりなおしたいって思ってただろ」
「だからそれは分からないって」
「分からないもラナイ島もあるか。あからさまな態度がみえみえだったっての。事件の記憶がない夏香ならまたやりなおせる、元サヤ狙えるって一瞬でも思わなかったか? 彰の行動の端々にそういうのが見えてて、痛々しい。別に悪いことだとは思わんけどさ」
だったらなんで殴るんだ。僕は財布の中の小銭を確認しながら、「はいはいはいはい分かりました」とやけになって叫んだ。
「認めますって。夏香との元サヤ狙ってました。でも過去形です。ごめんあそばせ」言ってみれば思ったほど重圧のある言葉ではない。
「だから悪くはないんだって。人間、単純だからさ、俺だってお前の立場になれば復縁だって考えてたよ。だって都合よすぎだろ、状況が」
「んだよ、おちょくってんのか理解してくれてんのか、はっきりしろっつの」
「たぶん両方。でもさ、過去形にしてるってことは、今のお前は夏香の記憶を戻してやりたいって思ったんだろ。その経緯が不思議」
列が減り、僕たちの番になった。先に賢一が券売機に小銭をいれる。
「ドラマとかじゃありがちだけど」彼の太く長い指がきつねうどんのボタンを押す。「記憶喪失から戻ったとき、記憶をなくしてるあいだのことは全部忘れるみたいな描写、あるよな」
「あるなあ」
「だとしたら、夏香の記憶が戻ったらお前、この一ヶ月ちょいのことも忘れられて、今までの夏香に戻っちまうんだぞ。それでも彰の決心、揺るがない?」
小銭を入れる手が一瞬止まる。すぐに我にかえって百円玉をほうりこみながら、そのことについては長らく考えていなかった、ということを考えていた。「いや、別に揺るがそうとして言ったわけじゃないんだけどさ」と賢一が言う。
別れていた日々がもう遠い昔のように思える。この一ヶ月はあまりにもしあわせで、僕にとってしあわせで。忘れかけていた憂苦の日々にかえり咲きだなんて、考えられない。
そのとき、僕は。
想像もつかない。考えるとそのぶん、何か泥のようなねばついたものが僕の思考になだれこんで、画像の断片をさらっていってしまう。
だけど僕は、保身もふくめて、それらの複合的な疑問や問題をあちらこちらからかきあつめたさまざまな絵の具で上から一気に塗りつぶしていた。アクリル絵の具のような、不透明な色。
僕はためらいなくカツ丼のボタンを押し、電車の切符のようなたよりない食券をとった。賢一にむきなおり、ふんと鼻を鳴らす。
「それなら、夏香にまかせる。夏香が帰りたい場所に、彼女を送りだす。そこがどこであっても恨みっこなし。そういう大人の考えだ。一生一緒にいたいなんて女々しい願望はかけらもねえよ」
「お前は元から女々しいから大丈夫、心配すんな」
「うるせえ、人がちょっとかっこいいこと言ったってのに」
僕はずんずんと大股でカウンターにすすんだ。蛇行列の最後尾にならんで腕を組む。すぐうしろについた賢一が「村山がのりうつった?」といぶかしげな声でたずねた。ふりかえらず彼のみぞおちにパンチをくりだすと、うめき声に変わった。
無理だろ、どう考えたって。村山のがかっこよすぎだろ。イケメンで夏香に一途で、夏香のしあわせを思って距離をおくなんて、普通の十七歳にゃできねえし。
憧れのアイコンが、対象が悪すぎた。僕はぼんやりと食券を指先でいじる。
賢一は背後から手をのばして、僕の鼻先に指をつきつける。
「優柔不断とかって、むかつかねえ?」
僕は言われた言葉の意味を把握しきれず、「何が」とたずねかえした。
「たとえばさ。俺、彼女できたんだけど」
「まじかよ」思わず叫んだ。列に並んでいた何人かが僕を見る。
「賢一みたいな堅物が彼女なんてできると思わなかった」
「うるせえほっとけ。ていうか俺はお前と違って童貞じゃねえし」
「ありえねえ! なんだその勝ち組街頭まっしぐら!」
「いやいや待て待て信じるな信じるな。それ、嘘だから」
「え、な、はあああ?」
あっけらかんと嘘をついてすぐにカミングアウトしてしまう展開についていけず、僕はあっけにとられてぽかんと口、あけっぱなしのままとじられずにいた。周囲の生徒がくすくすと笑い僕らを指さしている。なんなんだこいつ、という以前に賢一の嘘の意図が読みとれずに僕は何も言葉が出なかった。
「嘘に決まってるし、そんなの。一発で察しろよ。童貞じゃないのは事実だけど」
「お前、何それ、嫌味?」
「半分。たださ、さっきの俺のセリフを聞いて彰が素直に喜べたか、嫉妬したか、嫌味だと思ったか、そのへんでお前の力量が決まるだろ」
賢一は僕をぬいてカウンターに身をのりだし、おばちゃんに食券を渡した。寸胴鍋の湯気がここまで届いてくる。
僕はあまりのむずがゆさに、食券を持っていないほうの手で自分の腹をひっかいた。小さな痛みが内臓まで届いているようだった。このまま黒い触手みたいなのがはえてきてタタリ神になるのかな、と思ったが、そこまで誰も恨んでいないし恨むべき相手なんて自分ぐらいしかいない。
けだるい午後の英語の授業中、村山からメールが来た。
女子トイレでの事件以降、村山にはまったく会っていない。意図的に避けているわけではなく単にはちあわないだけで、だからこそ突然のメールに驚いた。
着信音とバイブを両方消しているので、ただライトが点滅しているだけのケータイを机の下でひらく。
「夏香はあれから学校に来てないのか?」
僕は先生のチョークの音にあわせて返信を打ちこむ。
「来てない。自分が学校に行っても迷惑かかるだろうからって、また自宅療養に逆戻り」
「女子トイレの話、人づてに聞いた。大変だったんだな。ていうか、また俺ってば傍観者でごめん。助けてやれなくて、情けない」
「俺だって夏香のこと助けられなかったから、情けなく思う必要はないと思う」
喧嘩の内容に村山がかかわっていることは、人づてに聞いているだろうに。
長いメール交換の果てに、村山は「夏香と戻りたいって思ってる?」と現彼氏らしからぬ核心を突く質問をくりだした。
僕はたっぷり五分熟考し、ゆっくりとメールを打った。
「それは過去形。だって、そんなことしても誰もしあわせになれないだろ」
最後に「記憶が一生戻らない可能性もあるけど」と打ったが、消した。だけど、消した瞬間、送る気がうせた。
チャイムが鳴って、授業が終わる。僕はすぐに席から立ちあがって教室を出ると、となりの教室のドアをあけて村山を探した。彼は教科書を机の中にしまっている途中で、僕は遠慮会釈なくずけずけと室内に入り、彼の脇に立った。
「置き勉かよ、秀才」
彼は僕を見あげて、「勉強しなくても秀才だから」と笑った。嘘つけ。
僕はため息をついた。村山があまりにのんびりとしていたので、気が抜けた。
「いいのか」
「何が」
「もし俺が夏香とよりを戻しても」
「まだ戻りたいって自分でも決めてないだろ」
まあそうですけどね、と僕はつぶやいて顔を手でおおった。この人を前に話をしていると、ちょっとした言葉尻などでこちらの考えをすべて見透かされそうで恐ろしい。
村山は腕をくんで机にうつぶせになり、完全に寝る体制でいる。手をひらひら振ってめんどうくさそうに話をする。
「そういうことはな、立浪。夏香と戻って、彼女をしあわせにしてやるんだって神に誓ってから第三者に報告しやがれ。曖昧な答えのまま夏香を自分の手元におこうとするな。夏香にも俺にも超失礼」
「でも、記憶が戻ったら、記憶がない間のことは全部忘れるかも知れない。そうなったら村山、また夏香の彼氏に戻れるんだぞ」
「ドラマの見すぎ。医学的にありえないことではないだろうけど」
そして村山は顔を横にむけ、片目で僕を見る。「お前はそれを望んでるのか?」
陽の日ざしが直接ふりそそぐ、窓際の特等席。村山は気持ちよさそうに寝息をたてはじめた。ただでさえイケメンなのに、教室に無防備な寝顔なんてさらすもんだから、女子たちの視線がこちらに集められる。焦点はもちろん僕ではない。
僕は悔しくて、けれど首をふって、踵をかえした。廊下は村山のいた席よりずっと寒かった。季節はとうの昔に冬である。
どれぐらい雪がふれば、僕が置き忘れてきた気持ちも何もかも、積もっておおい隠してくれるのだろうか。雪解け水が洗い流してくれるまで、僕は立ちつくすしかないのだろうか。まっしろでふかい、森の奥で。
何か絵を描きたいと思った。こういうとき、つくづく美術部に入っていればよかったと思う。
僕は水彩画がいちばん好きだった。気まぐれに伸びにじみ乾き混ざり、扱いに困る猫のようなあまのじゃくなところが、わがままだけどかわいい恋人のようだったからだ。と、夏香に言うと、「私があまのじゃくってこと?」と笑われたが。
乗せる色によって運命が変わり、紙の乾き具合やとなりの絵の具との仲のよさでいくらでも表情を変えてしまう。にじんだ色や方向がうまく自分のインスピレーションに合致していたときはよろこんだが、ひどいにじみかたをしたときは泣くしかない。でもそれほど手をかけた絵は、何かの賞をとらなくても自分にとっての宝物になる。
だけど僕は、美術部にいたときに描いた二枚の絵をすべて油彩で描いた。かたわらで適当に描いていた手遊び程度の落書きは水彩で彩色していたが、なぜか並木道と夏香だけは油絵にしたかった。
それでも基本的に水彩を相棒とする僕は、いつも水彩色鉛筆と水筆とスケッチブックを持ち歩いて、いつでも絵を描けるように準備していた。
中三にあがったばかりのころだ。
夏香と一緒に近所のショッピングモールのカフェでお茶を飲みながら、そこの窓から見える景色を模写して簡単に色をつけたりしていた。
「どうしたらそんなふうに色が塗れるの。色彩感覚、はんぱない」
「まさに感覚だよ。なあんにも考えてない。思いつくままに色を乗せて、あとは絵の具がにじむままにまかせてるんだよ」
スケッチブックに水筆を走らせながら、苦笑まじりに答える。夏香が「じゃあ私にもできるかな」と言うので、僕たちは文房具屋で十二色入りの水彩絵の具と筆を買い、彼女の家でヨーグルトのカップを水入れがわりにして、絵を描いた。カーペットの上に寝そべって、本屋で買った「大人の塗り絵」の本に色をつける。真剣な表情で筆を神経質に動かす夏香を、同じようにとなりでカーペットに頬杖をついて見ていた。もともと何事ものみこみが早く器用な子だったので、彼女の描く絵は正直、単純にすごかった。
夏香の塗った本をめくりながら、僕は感嘆の声を漏らした。
「俺は小学校のころからずっと絵を描いてるのに、夏香はいきなりこれだもんなあ」
あははとその場に笑いが起こる。ベッドにもたれて絵をながめ、僕は「すごいよなあ」とつぶやいた。
「こんなのが俺の彼女で、畏縮するよ。おそれ多い」
「私にとったら、あんなすごい絵をさらーって描いちゃう彰のがすごいよ」
「どうかな。別に絵を本業にしたいとは思わないし、今すごいと思ってるんだとしてもそこからいっさい上達しないよ、今後」
「もったいない」
「夏香と将来結婚することのほうが夢だよ、俺は」
そう言うと夏香は露骨に顔を赤らめてぷいとそっぽをむいた。なので、僕は彼女の左手をとって手の甲にキスをする。沸騰しそうなほど紅潮した夏香は一瞬僕を見て、すぐにうつむいてしまった。僕が笑うと、夏香も笑う。たがいの額をあわせて、笑う。
僕は何も冗談で言ったわけじゃない。当時は本気でそうしたいと思っていたし、いつかはそうなるんだと信じて疑わなかった。中学生の、些細でありふれている、夢のような、夢。かなわないとするならば僕が馬鹿だったのか、神が方向転換したのか。いずれにしても、重ねられる夜の中、絶えず彼女とのしあわせな将来を夢想し、そんなことをしていられる今このときだってじゅうぶんにしあわせなんだろう、と考えて顔がほころぶのを止められなかった。飽きるほどくりかえされた。夏香とたった一度だけかわした優しいキス。思春期真っ盛りの男子でありながら決して彼女の身体に手を出さなかったことも、中学生なりのけじめと敬意のあらわれだった。今になってそうだったんだと自分のことなのに気づく。
夏香にふられてしばらくは、絵ばかり描いていた。夏香ばかり描いていた。もう彼女にモデルを頼むこともできないので、頭の中に残っている夏香の残像をひたすら画面に描きうつした。笑っている夏香、困っている夏香、ぶすくれる夏香、はにかんでいる夏香、照れている夏香、よろこんでいる夏香、驚いている夏香、怒っている夏香、笑っている夏香、笑っている夏香、笑っている夏香。だけど、そのどれもが僕の目にはただの紙で、ツーディーの幻で、次々に花がそえられてゆく甘美な過去なのだと気づいて、半年後、すべての絵を手でやぶり捨てた。僕が何もかもを覚えていても、夏香が忘れてしまえば意味がない。自己完結もはなはだしい空想の産物に僕は気づいて、むなしくなって、こんなことをして夏香がいない寂しさを埋めている自分が情けなくなって、夏香の絵をゴミ箱に葬り去った。
何もかもが初めてだった。初めての恋だった。あれが一介の、女子が苦手で目立たない中学生男子の、初恋だった。
最後にこうして絵をやぶり捨ててしまえるのだから、もしかしたら最初から夏香に本気じゃなくて、ただ学校一かわいい女子の夏香にミーハー心からあこがれていただけなんじゃないかと、うまく涙を隠そうとした。だけど、粉々になった絵の上で眠ってしまうほど激しく嗚咽を漏らして号泣したそのときの涙の数は、正直だった。
大好きだったんだ。
心から。
枯れた声で「夏香」と何度も名前を呼んだ。むせび泣き、狂ったように絵をやぶり、拾い集めるかけらも残っていない夢を回顧して立ち往生した。彼女とのしあわせな日々が戻ってくるなら、何を失ってもいいと思った。
僕はその日から、一度も絵を描いていなかった。
放課後、夏香の家に向かった。先生からもらった答案を手渡すと、開口一番「見た?」とたずねられた。その強迫まがいの語調におされて素直にハイと答えると、鉄拳が顔面に飛んできた。
答案を一枚一枚、ていねいに見ている夏香の表情が少しずつ曇っていく。彼女は答案をすべてデスクの上におき、ふうっと細いため息をついた。
「絶対にこうなるって分かってたけど、痛いね、私」
あっちゃあ、と笑って腰に手をあてる夏香。僕はそんな仕草をする夏香がかわいくて、頭を撫でてやった。今日の夏香は勉強モードなのか、ポニーテールだった。さらされたうなじが真っ白だった。
「期末で挽回するから大丈夫だよ。彰みたいな馬鹿じゃないもん、私」
「悪かったな。それじゃあまた学校には復帰するのか?」
「いつかはね。嫌だよ、一年ダブるの。あえてそれを選ぶ偉人もいたらしいけど、私は偉人じゃないし」
しかも秀才なのに出席日数が足りなくて留年という微妙な肩書つきで。それはおとなしいくせに強気な夏香だったらきっと、絶対に許さない。
椅子に座って答案とにらめっこしている夏香。デスクの上には高一の教科書や市販の問題集などがちらばっていて、学校からしりぞいたあとでも授業に追いつこうと勉強しているのが分かった。
「無理はするなよ」
僕はつい、野暮なことを言ってしまった。「身体を壊したら意味がない」
すぐにしまったと思ったが、夏香はすでに頬をふくらませていた。
「大丈夫だよ、たかが勉強じゃん。私、英検準二級をとったときも、二日間缶詰めで勉強しただけでとったんだもん。短期集中型なの」
「ダブり、嫌?」
「もちろん。ダブるぐらいなら中退する。そして高認受けて、大学に進む」
夏香は答案をクリアファイルに入れ、デスクの上のブックエンドの隙間に押しこんだ。手近な数学の問題集をひきよせ、シャーペンをはさんである場所をひらく。僕が数ヶ月前に学校で習った内容の問題が書かれてあった。
「なあ、夏香」
「何?」
僕をあおぎ見る。上目づかいがわざとらしくなくてかわいい。僕は単刀直入に、「もし一生記憶が戻らなかったら」とたずねた。
夏香はシャーペンの尻を唇にあて、うーんと長いことうめいていた。
「怖いことを訊くんだね」やりかけの問題をときながら答える。「まずは授業についていけるようにする。出席日数が足りなかったら、さっき言ったように、いさぎよく中退して高認を受ける。あとはそのままの人生だよ」
そんなにうまくいくわけないだろう、と言いたかったが、やめた。
「村山のことは?」
「分からない。こないだの喧嘩で、本人にも迷惑かけちゃったからなあ」
夏香は困ったように笑った。「連絡しづらいんだよね、ケータイにメアド入ってるけど」
「本人はさほど気にしてない感じだったけど。むしろ逆に気遣われた」
「うわ、彰もボロ雑巾さながらだね」
しゃべりながら問題をサクサクといてゆく夏香が恐ろしい。この子は普段何を食べて生きているんだろう。僕だって、去年の問題なんて解けるかどうか分からないのに。
夏香はきりのいいところで手を止め、背もたれに体重をあずけた。
「村山さんのことは」彼女の言葉が途切れる。悔しそうに唇を噛んでいた。
「どうしたらいいのかな。私、きっと記憶が戻ったら、また村山さんを彼氏だと思うんだろうな。でも想像つかない。いまだに私の中では村山さんは他人で、彼氏だなんて信じられない」
「そりゃそうだろ、無理に受けいれようとするなって」僕はデスクの端にもたれかかった。「まして、記憶が戻ったらどうなるのかとか、それも分からないしな。今このときの記憶をかかえたまま戻るのか、それとも完全に一ヶ月前の夏香になってしまうのか」
「そうだね、現実味がなさすぎて、予想がぜんぜんできないね」
気丈に笑っている夏香が痛々しかった。僕は問題集に向かう夏香の髪にそっと触れ、指をとおした。一度もひっかからない、やわらかな髪。染めなおしていないのか、生えぎわのあたりが黒くなっていた。元々黒髪だったのだから、十四歳の彼女に茶髪でいるという自覚があまりないのかも知れない。
いつまでも髪をいじっている僕を、夏香が「何?」と不思議そうに見る。僕は「いや」と苦笑して、髪を手ぐしでといた。
「難しいんだなって」
「何が誰にとって」
「夏香のいる状況が、みんなにとって」
ため息交じりに言う。窓の外で烏が鳴いていた。夕刻になり、オレンジ色の光が窓からさしこむ。あざやかな色。人の肌の色。
僕は夏香のやりかけの問題集を見おろして言った。
「まだ話してないだろ、俺と夏香が別れた理由。話すと君が傷つくんじゃないかって、怖いんだ。君は優しいから、きっと泣いてしまう。だけど、知らないままっていうのもつらい思いをさせている。こんな状態で、俺が君と一緒にいられるとは思えない」
「そんなこと」夏香が言いかけたが、僕はそれを手でおしとどめた。
「そして夏香にとって、記憶がないことは大きな壁だ。それだけで余計なトラブルがくっついてくる。こないだの女子トイレの喧嘩みたいにな。だから、難しいけれど、なんとかしよう。前も言ったけど、夏香の記憶を戻そう。そうしたら、夏香は三年間の記憶をすべて思いだして、学校に復帰できる。村山とも和解できる。別れた原因も思いだせる。普通の生活に戻れるんだ」
言葉のひとつひとつが鋭さをもって、発するたびに喉を小さく切り裂かれているような気がした。傷が重なると大きな傷になり、大きな傷は血を流す。真っ黒で、冷たい血を。
僕の中に巣くう邪魔な言葉が腹の中で暴れる。
「俺が何をさておき願っているのは、君のしあわせだよ、夏香」
それは確かに本心だった。間違いはないはずだ。
夏香はじっと僕の目を見ていた。
僕にとって夏香は強く誇り高いお姫様だった。だけど、守らなければいけない存在。傷つけてはいけない純粋な魂。僕は夏香に救われている。強い彼女が二度とひとりぼっちで涙を流さなくていいように、彼女の太刀打ちできない闇と戦う王子様でいたかった。
だから、何度でも封じこめた。夏香と恋人に戻りたいという願いを。
たったひとつの自分の望みなど、彼女の前ではドブに捨ててもかまわない。だから過去形でしかならなかった。
そして僕はもう戻ってはいけない。今自分が立っているコマから、今度は自分の手でサイコロをふり、盤上で翻弄されながらも、自分自身に問いかけなければならない。何度でも、何度でも。
「今から本当のことを言うよ。嘘はいっさい言わない」
そして僕は息を吸って、とめて、言う。「正直、記憶が戻らければいいって思ったときもあった。そうしたら夏香はまた俺の彼女になってくれて、ずっと俺のそばにいてくれるのかなって」
夏香は僕の目を見たまま何も言わず、僕の話を聞いてくれている。
「でも、いいんだ。いつか記憶が戻ってもいい。そうしたほうが夏香のためだろうし、みんなのためだ。間違いなく、君が好きだった。今はもう、恋人同士じゃないけれど」
夏香が唇を噛んでいた。僕はそこに親指をあててやめさせる。ただでさえピンク色でやわらかい唇が、赤く鬱血していた。
「もし夏香の記憶が戻ったとき」僕は言葉を咀嚼するようにゆっくりと話した。「ここ最近の記憶をすべてなくしてしまったら、夏香は傷つかなくてすむだろ? むしろ覚えたまま記憶が戻るほうがややこしいじゃないか。しあわせになりたいと思っていいんだよ、もうじゅうぶん傷ついたんだから。傷つくのは、君の手をつかめなかった俺だけで十分だ」
僕を見つめる夏香の瞳はまっすぐだった。一ミリたりとも、ぶれなかった。
僕はドレッサーの前においてある椅子をひっぱってきて座り、「君の絵を描きたい」と言った。鞄からいつも持ち歩いている小型のスケッチブックをひっぱりだし、ペンケースから鉛筆をとりだす。
夏香がつぶやくように言った。「今も描きつづけてるの?」
「ごめん、これも正直に言うけど、実はもうほとんど描いてない」元美術部の僕は肩を落として苦笑した。「夏香をモデルにして絵を描いたのを覚えてる?」
「うん、なんとなく。鉛筆で下書きをしていたところまでは記憶にある」
「実はさ、あれ、完成したんだ」
「へえ、描きあがったんだ。ちゃんと美人に描いてくれた?」
「ネタばらしすると、文句をあれこれ言われたよ。原物どおりに描くなって」
二人ぶんの小さな笑い声。夏香は「そう考えると嫌だなあ、未来の私」と言った。
中学生の夏香は、よく笑う子だった。背が小さいのにクラスメイトの二倍はかけずりまわるから余計に子供のように見えて、純粋な天使のようで、あどけなかった。転んでひざをすりむいても笑っていた。そして、ただ僕だけを一途に好きでいてくれた。
僕はスケッチブックのページをひらき、椅子の上に膝をたててその上に置いた。ちょうどいい角度に調節し、鉛筆のキャップをはずす。常にきれいにけずってあるやわらかい鉛筆。夏香は「美人でなくてもいいから、真剣に描いてよね」と笑って、ふたたび机に向かった。僕は彼女の邪魔にならないよう、なるべく鉛筆の音をたてないようにした。
まずは全体のアタリをとり、バランスを確認する。鉛筆を垂直に立て、いきなり彼女の髪から描いた。僕の好きなサラサラの髪。そしてふっくらとした彼女の頬と、高い鼻、大きな目、眉、やわらかい唇。ただでさえ美人の夏香だから、僕は彼女の利点をめいっぱい生かそうと、何度も消しゴムをカッターで切って細かく修正をする。腹の上にティッシュペーパーをしいて、消しゴムのカスを集めた。ねり消しでゆるく線を消し、あまり強弱をつけないようにする。
夏香は化粧なんていらないと言えるほどきれいな目鼻立ちで、東洋風の美人だ。よくテレビに出てくるすっぴん風の女優に似ている。素でも大きな目や長いまつ毛、白くてつややかな肌は素朴でかわいらしい。だから僕は水彩がいいんじゃないかと思った。三年前は油絵の具で描いたが、油彩の重厚でリアルな質感よりも、今はすきとおって軽い水彩画のほうがよく似合っている気がした。
ずっと真剣に勉強をしている夏香と真剣に絵を描いている僕のあいだで会話はなかったが、どこかでキリがついたのか、夏香が「彰は」と言った。
「彰は、私のどこが好きになったの」
恋人同士でかわされる質問のうち、上位に入るほど答えに窮するこの命題。僕は手を動かしながら「分からない」と答えた。
「分からないのにつきあってたの」
「というか、言葉で表現できるようなことじゃない。俺って国語は得意じゃないけどさ、現存する日本語をいくらかき集めてもきっと完璧に説明できないと思うよ。それに、説明できたらきっと好きじゃないんだと思う」
深いことを言うね、と夏香がおじさんのような声を出して言う。笑ったはずみで線がずれてしまった。消しゴムをかけながら「夏香は?」と質問をかえした。
「ひーみーつ」
「あ、ずるいぞ。俺だって、説明できない理由を説明したっていうのに」
「きっと彰と同じだよ。日本語で説明できない、同じことを考えてる」
「まあ妥協してやろう、この国にはシンプルな言葉がある。俺は夏香が好きだったよ」
「私は彰が好きだよ」
「現在進行形でいいのか」
「だって、今でも好きだもん。彰の記憶の中では別れてても、私にとって彰は超現在進行形で彼氏なんだから。異論は許さないよ」
「俺、新しい彼女とかいないからなあ」
「どうして新しい彼女を作らなかったの?」
「さあ、どうしてだろう。君が優しいことを知っているからかな」
「ねえ、彰」
「何?」
「一緒にデートしよう。彰の中で私が彼女じゃなくてもいいから。記憶が戻っちゃう前に思い出が欲しい」
「いいよ、どこに行こうか。あの公園?」
「ううん、遠出したい。遊園地とか、水族館とか」
「じゃあ遊園地にしよう。電車で五駅先にあるだろ。あそこには確か、かなり怖いっていうジェットコースターがあるはずだし」
「私、絶叫系より観覧車とかのほうがいいなあ。メリーゴーランドをふたり乗りしたい」
「好きなものに乗ればいいよ。俺はひとりでジェットコースターを制覇する」
「何それ、私はおいてけぼり?」
「そうだよ、文句はいつでもどうぞ」
「文句ならあるよ、いくらでもね。原稿用紙百枚は書ける」
「貴重なご意見をありがとうございました」
「まだ何も言ってない」
「はいはい、どーぞ」
「彰はしあわせになってもいいと思うよ。そんなに自分を責めないで」
「責めてない。自分に腹が立つだけだよ」
「そんな彰は嫌いだな」
「どうしたら好きになってくれる?」
「しあわせになって。もう彰はいっぱい傷ついたよ。私は彰にしあわせになって欲しい」
「俺は君にしあわせになって欲しい」
「じゃあ、ふたりでしあわせになろう」
「できるかな」
「きっとできるよ。ふたりなら」
「そうだな、しあわせになろう」
「ねえ、笑って、彰。私のために。私はもう笑えないだろうから」
「『ピカソの遺言』かよ。大丈夫、俺は笑えているよ。君こそ、そんなこと言わないで、俺のために笑ってくれよ。それを絵にするから」
夜、賢一からメールがきた。
『俺、マジに彼女できた。嘘じゃないぞ、一年の大人っぽ系。基本モテないお前には負けねえ。さあ毛虫のように地に這いつくばって悔しがるがよい』
あっかんべーをしている絵文字つき。うさんくせえ。
僕はメールの画面をひらいたまま「あっはは」と笑った。腹筋が痙攣する。あとでひねりつぶしてやろうか、古田賢一。決して嫌味や牽制ではないのは彼の性格から分かる。なーにが受験中は彼女作らない、だ。
返信ボタンを押す手はかろやかだった。
つづく。
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2011/08/16(Tue)15:49:53 公開 / アイ
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後編へつづきます。
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