『夏色ノスタルジア』 ... ジャンル:リアル・現代 未分類
作者:風丘六花
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テニスボールの一言を聞いて、白を思い浮かべる人間ははたしてどれだけいるものか。手の中の白いゴムボールを握りながら、雪谷はぼんやりと思案した。自身の苗字から連想されるのと同じ色のボールの弾力は、もう何年も慣れ親しんだ強さで指の一本一本を跳ね返す。少し空気を入れすぎただろうかと手近な篭から水色の小さなポンプを取り出した。土のコートを幾度も跳ねたゴムのボールは、もはや白とは程遠い色となっていたけれど、蛍光イエローとは違うものだということが強固なアイデンティティであった。
自らがマイノリティである劣等感があるわけではない。雪谷にとって白いボールを打つことがテニスと称せられるものであることはもはや疑いようもないことであった。マイノリティであるのは結果であって、それ以外の何でもないと雪谷は細いラケットを握る。世間一般とは違っても、俺が俺であることに変わりはないのだからとジャイアニズムを謳いながら、名前に不釣り合いな夏の青空に白いボールを投げ上げた。黄色であったのならそれはもはや空の絵とは切り離された別次元であったのに、なまじ雲と同じ白をしているがためにその形はあからさまに異端であったのだ。
「ねえ、ガヤ」
休憩時間、水筒のスポーツドリンクを煽った雪谷に、ひとりがベンチの上から声をかけた。夏の暑さに熔かされない、凛とした鈴に似た声が気怠い空気を揺らして蜃気楼にも似た幻影を作り出した。その声が本物であることは理解しながらも、雪谷は当たり前のように思い浮かべてしまった鈴のモチーフに眉をひそめた。ガヤ。世界に両端があるとして、きっとこの世界を端から端まで探してもたったひとりであろう、雪谷をそう呼ぶ少年は、白いボールを手にとってほんの小さく投げ上げた。
「暑いねえ」
「なんだよいきなり」
雪谷は唐突な言葉に溜息をついて、額から流れ出る汗を使い古したタオルで拭い取った。その姿を見て、話し掛けた方も首の白いタオルに顔を埋める。雪谷のタオルにはクレーコートの土が混ざった茶褐色の薄い染みが顕著に見えたのだけれど、もう片方にはそれがなかった。同時に、数年前まで同じ色であった自分の(元、の文字は使いたくないのだけれど)相方の肌の白さに、雪谷はえもいわれぬ虚無感に襲われた。
それは「元」の一文字を使わざるを得なくなったあのときから雪谷の真ん中を支配している感情であって、目の前の少年以外にそれを埋めることができないことは重々承知していた。そのこととともに、それは自分自身が開けた穴であることも、雪谷は誰よりもわかっているつもりであった。少年の、小柄な体に似合わぬ器具で固められた左膝に雪谷はそっと目をやって、かと思うとすぐにその視線をどこか別の、どこでもない場所に向けてしまった。自分が逃げているということも、それをわかられているということも、雪谷はわかっていた。
「ガヤは、ハイボレーがうまくなったね」
少年は、初瀬晃は暫く雪谷の汗に濡れた横顔を眺めていた後、ふと両目を茶色の地面に伏せて歌うようにそれを告げた。青と黄色のベンチの上で、脚を遊ばせながら言った。初瀬の言葉は、雪谷の体の膜を全て透過して、まるで放射線が甲状腺に溜まるように雪谷の真ん中そこにだけ染みこんだ。それは虚無の穴に降り注いで出口のない湖を作る。溢れ出たら息が出来なくなるのではないかと覚えたのはほんの少しの恐怖で、雪谷はそのままゆるゆると首を横に振った。
(だって、俺が外してもお前がフォローしてくれなくなったんだから)
雪谷は初瀬に対して何も言わなかった。ただ、初瀬と同じベンチの端に腰を降ろした。雪谷が見ていたのは茶色の対義語、空の青色であった。真っ青な夏の空に浮かぶ白い雲の行方に意味なんてないことはわかっていたけれど、それにすらなにかを求めたい心持ちであったのだ。動かないものを見ていることが出来なかった。太陽の眩しさに雪谷はくぅと目を細め、その絶対的な存在からあからさまに目を背けてみせた。ほんの少し顔をうつむけると、サンバイザーの庇が太陽を遮る。そのほんの小さな影に閉じこもって、雲が動くのを見ていた。隣から聞こえる放射線は、その流れと同じ色をしていた。
「中ロブも、随分と止めるようになったし」
(それは、お前が走り込んでくれるわけじゃないから)
「俺と組んでた時よりずっと、守りのボレーがうまくなった」
(あの頃俺は全力で攻めに行っていたから、お前のボールを完全に信用してたから)
「ああでも、ガヤは意外とアタックを止めるのがへたくそだよね」
(だってお前は、相手にアタックなんて打たせなかっただろ)
雪谷は何も言わなかった。言えなかった。初瀬の言葉の意図が、雪谷にはもはや掴むことが出来なかったのだ。同じコートに立っていたときにはわからないことなんて何一つなかったとかつてを思い出して、どうしようもなくもどかしくなった。今はそれよりも近くにいるのに、離れてこそいるけれど体温がわかるまでに近いのに、物理的な近さと精神的な近さが比例しない。晃。何度も何度も呼んだ名前を舌の上に喉を振るわせない空気で乗せた。それは休憩の喧噪とはどこか遠いところにあって、まるで自分達だけこのじめじめとした夏の空気に隔離されているのではないかと思ったのは二人同時であった。互いがそう思っていることは知らないまでも、その点で二人は同一であったのだ。
「なあ、晃」
ようやく雪谷は口を開いた。その声がほんの少しの波を持っていたことに、初瀬が気が付かないわけもなかった。なあに。間延びした声で続きを促す初瀬はそれに見て見ぬふりをしたけれど、わかられているであろうことを雪谷は知っていた。
「テニス、したいか」
それはひどく不器用な雪谷らしい質問ではあると、初瀬は思わず苦笑した。自分の体重を支えることの出来ない左脚をぶらぶらと動かして、雲を眺める雪谷の視線を追った。
「テニスは、したいよ」
「だよ、な」
「謝ったらコート十周」
「ごめん」
「そんなに走りたいの?」
下を向いて溜息をついた初瀬が、改めて雪谷の顔を見る。雪谷はゆっくりと振り向いた。それは初瀬の見慣れた表情であって、見たくない表情でもあった。この顔で雪谷がごめんの一言を言う度に、初瀬はこの上なくどう形容すればいいかわからない感情に駆られるのだ。それが揺さぶるのは罪悪感であり申し訳なさでもあり、だけれどほんの少しの優越感や独占欲といったひどく柔らかく立ち入りやすいところにまで踏み込んで、普段整然と並ぶ初瀬の感情をぐるぐると混沌へ落としていく。
初瀬の左膝の怪我は、雪谷のせいだと言ってしまえばそれまでだ。事実雪谷にとってはそうでしかない。雪谷の逃したたった一本のボールを追いかけて、初瀬は地面に左膝を打ち付けた。この状況はその結果でしかないと初瀬は考えているために(ミスをしたのはなにも雪谷だけではないのだ)、雪谷が初瀬に抱く罪悪感を初瀬は快く感じていない。けれどそれも表面上であることは薄々初瀬自身感づいているのだから。ペアというたった二文字が、二人の間では強固な絆であり裏を返せば鎖であった。友情に巻いた鎖に雁字搦めにされて、初瀬はそこからもがいて自分だけ抜け出してそれを客観的に見つめる器用さを持っていたけれど雪谷は真逆であった。もう自分が身動きを取れないことを察して、動かずにそこで絡め取られたまま目を瞑って全て受け入れようとしてしまうほどには不器用だったのだ。この場合の器用と不器用は同値変換であることは、自明の事実としてそこにあるのだとは互いに認識していたけれど。
「だってさ。俺がお前とテニスしてないと、お前は一人でダブルスやるでしょ?」
初瀬が投げ出した言葉に、雪谷は目を丸くした。意図が通じなかったことは意図的。どういうことだ、は言われなくともそう思っているのはわかる。
雪谷は初瀬の言葉を何度か噛み砕いて咀嚼しようと努力したけれど、それはどうしてか頭の奥の理解の広場に辿り着く前に何か固い、それがなんであるかもわからない壁にぶつかって跳ね返されてしまうような気分を覚えた。その壁を作り出したのが誰であるかは考えずともわかった。
「俺が出来なくなったこと全部自分でやろうとしてさ、ほんとならペアで解決しなきゃいけないことなのにひとりでどうにかしようとしてる」
目を瞑って初瀬はそれを雪谷に語った。雪谷はそれを真っ直ぐに聞いてから、かつて、まだ初瀬が「元」の付かないペアで合った頃に戯れに呟いた言葉を思い出した。「お前に硬式のシングルスは出来ないね」。その時聞かされた理由を、初瀬は未だに持っている。それは雪谷の頭の中にも、ずっと一番根本のところに液体として染み付いて同化してしまっていた言葉であった。想起する、なんてまどろっこしいとすら思えるほどに、そして常に雪谷の後ろから付いてきている言葉であって或いは概念であった。
「お前は、ひとりで抱え込めるほど強くなんかないのにね」
初瀬のその一言は、やはり雪谷の湖を氾濫させかけた。喉の奥に感じたしこりを無理矢理飲み込んで、夏の熱い空気を短く吸い込む。それは喉の筒の中でとぐろを巻いて、空気そのものに喉を内側から押さえ付けられるような錯覚を覚えた。初瀬の言葉がなによりも正しいことは、雪谷自身が一番よくわかっていたのだ。それはかつてから常々言われていたこと。
(俺が弱い人間だなんて、そんなのとうに)
「だって、晃」
「いいよ言わなくて、わかるから」
ぐるぐると渦巻く喉で無理矢理空気を震わせて、雪谷は初瀬のその言葉などなかったかのように口を開いた。それは、雪谷が何度も何度も舌に乗せた言葉。
「俺のペアは、古今東西お前だけだから」
馬鹿。初瀬は小さく呟いた。その言葉を、雪谷が自分に言い聞かせていることを初瀬は知っている。
「ダブルスしかない競技やってるのに、一人でどうにかしようなんてどうしようもないよ」
初瀬の右脚がベンチの下から引きずり出したのは、蛍光イエローの丸い球であった。それを拾い上げたのは雪谷で、手にのし掛かる重さを感じながら思い出した一人の姿があった。あの泣き虫で弱虫なあいつも、シングルスプレーヤーである以上きっと俺より強いのだろうと、雪谷はそう考えて名前の付けようもない笑みを浮かべた。
「俺が軟式やってるのは、俺が弱いからとは関係ねぇし」
「俺の存在とも関係なく、ガヤには軟式そのものに意味がある?」
「ある、と思う。少なくとも、結果論として」
「そう」
自分の弱さを認めることは強さであるとのパラドックスを内包して、雪谷は黄色のボールをコートの隅に投げ捨てた。初瀬はベンチの上で小さく笑った。その笑顔の意味がどうとも取れなかったのは、どれかひとつの理由ではなかったからであって、そのまま初瀬は雪谷に手元で弄んでいた白いボールを手渡した。そろそろ、休憩終わりだろ? 初瀬の言葉に雪谷は頷いた。日に焼かれない白い手から渡されたボールは、その色から連想する温度とは裏腹に、存外人肌の体温と気温とを含んで温かかった。
それをラケットの上で何度か跳ねさせながら、雪谷はベンチを立ち上がった。首にかけたタオルでもう一度顔を拭って、隔離されていた世界から喧噪の中に足を踏み入れる。集合。喧噪を通って当たりに響いた声が、あっという間に意味をなさない雑音を掻き消して全て足音に変えてしまった。テニスシューズと土の地面が掠れる音が、雪谷の周りに集まっていく。
ソフトテニス部のキャプテンは、名前と同じ色のボールを握った左手に力を込めた。
雪谷が投げ上げたボールをラケットで反対側の地面に叩きつけるのを、初瀬はベンチの上でぼんやりと眺めていた。じりじり照りつける日差しと蒸し暑さは、見てる世界をまるで白昼夢のように宙に浮いた姿で投影すると実感し、溜息を付いた。動いてる方がむしろ汗と息苦しさで生きている心地を感じるのではないだろうか。そんなことを考えた途端に、雪谷の二本目がサービスコートの隅で跳ね上がった。
変わらないものはないのだと、初瀬は先の雪谷と同じに空を見上げた。自分の穴を埋めようとひとりで全て抱え込んだ雪谷が、その重さに耐えきれなくなるかもしれないことを初瀬は懸念していた。けれど、同時にそれを望んでいることにも気が付いて、思わず自嘲した。ガヤがそれに耐えきってしまったら、俺の居場所はなくなってしまうのだから。
自分に背を向ける雪谷をちらと一度見て、初瀬はベンチに立てかけた松葉杖を手に取った。土埃の舞うコートの端をゆっくりと歩いて出口に向かう。ドアを開ける直前に転がってきた白いボールを、踏みつぶしてしまいたい衝動に駆られた。晃。自分を呼ぶ雪谷の声に手を振って、初瀬はコートを後にした。
(馬鹿馬鹿しいのはわかってるんだ、それでも)
(あの夏に戻りたいと、どうしても)
2011/08/04(Thu)14:27:09 公開 /
風丘六花
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■作者からのメッセージ
お久しぶりです。風丘です。
この話は某所で連載している物の番外編ではあるのですが、これだけでも読めるように書きたい、という思いで書きました。
ですので、その連載をご存じない方に読んでいただきたいなあ、とこちらに投稿させていただきました。
ペアの間にあるものというのは、友情とはまた少し違った形をしているのかなあ、なんて考えながら。
よろしければ、ご感想ご指摘お願いいたします。
作品の感想については、
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42文字折り返し
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