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『誰だよ、裕也って。』 ... ジャンル:リアル・現代 未分類
作者:神夜
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九回目の擦り石の回転で、ようやくライターに火が灯った。
煙草に火を移して煙を吸い込みながら、安っぽい透明のプラスチックで構成された百円ライターをまじまじと見つめる。
これをどれくらい前から使い始めたのかはもはや皆目検討もつかないが、擦り石はすでにほとんど平らになっており、ガスに至ってはもう1ミリも残っていない。高々百円ライターがここまで生き残ったことを称えるべきか、それとも最後までしっかり仕事をしろと活を入れるべきか。しかし本当に活を入れられるべきは果たして誰なのであろう。むしろこの百円ライターの方が自らより遥かに仕事をこなしているのではないか。百円ライターですら底辺のサラリーマンに扱き使われながらも最後まで真面目に仕事をこなしているのに、こちとら社内ニート同然である。そんな底辺サラリーマン風情がこの勤勉なる百円ライター様に活を入れるなどと抜かすとは何様のつもりか。
自嘲染みた笑いが口元に浮かぶ。
煙を肺に入れて、ゆっくりと吐き出す。
耳に突っ込んだイヤホンからは、音声ソフトで作れた女の子の声が「一人じゃ何も出来ない」と歌っていた。
こんなとこで何してんだろうな、とぼんやりと思う。
失敗を振り返ればたぶん中学生の頃まで遡るはずである。学生の頃、遊び呆けていたツケが今更に回って来ただけの話だ。一度の挫折もなく、一度も真面目に勉強をするでもなく、ただ己の学力に見合った場所へ流れに身を任せて進んでいたら、いつの間にかここにいた。そこにはもちろん目的や理由なんてこれぽっちもなかった。夜から朝になれば太陽が昇るかの如く当たり前の日常の中、当たり前に日々を過ごしていたら本当にいつの間にかここにいた。ただ、それだけの話。
再び吐き出された煙草の煙は形を変え、寂れた駅のプラットホームを抜けてお世辞にも綺麗とは言えない中途半端な夜空に飲まれて消えた。
上げていた視線を、ゆっくりとプラットホームに移していく。すぐ近くでは特急待ちと思われる酔っ払った中年のおっさん三人組が煙草を咥えながら何かを大声で話していて、待合室には大きなボストンバックを持った坊主頭の高校生が雑誌を読み、その向かいではリクルートスーツを着た女性が携帯を弄っており、さらにその隣で薄汚い爺がうつらうつらと船を漕いでいた。
他に人の姿は見受けられない。時刻は二十二時三十分。曜日は金曜。週末のその時間なら、駅に人が溢れ返っていても何ら不思議ではない。にも関わらず、どうだこの光景は。実に寂れた光景である。これがまさか県庁所在地の駅であろうと、一体誰が思おうか。そらここまで中途半端に寂れていたら、某掲示板の「県庁所在地の駅の写真貼っていこうぜ!」というスレで、なぜかこの駅だけ「駅の写真」ではなく「看板のみの写真」になる訳である。
煙草を灰皿に投げ捨て、いつだっかの誕生日に貰った腕時計で時刻を確認する。次の急行が来るまでに、まだ後十分以上あった。ちなみにこれが終電である。これを逃すともはや帰る手段はない。駅を出てすぐにビジネスホテルが二件ほどあるが、まさかそんな所で無駄金を使うつもりなんてさらさらにないがしかし、生憎として二十四時間営業のカラオケや漫画喫茶、ネットカフェなんて洒落たものがこの辺りにある訳もなく、二十三時を過ぎればこの駅周辺は本当の静寂に支配される。
どうしてここが県庁所在地に選ばれたのか、未だに理解できない。他に幾らでも有名な市はあっただろうに。田舎ではあるが、全国的に知名度のある鈴鹿サーキットや伊勢神宮だってあるのにも関わらず、なぜ誇れるものが何もないこんな市を県庁所在地にしたのか、本当に謎である。おまけにここより更にもうひとつ進んだ駅前の方が賑わっているというのは一体どういう了見か。
スーツのポケットから再び煙草を取り出す。ハードケースの中から一本だけ抜き取ってライターを手にした。今度は二度目の擦り石の回転で火が灯った。
昼間は社内ニート、帰宅時は如何にも疲れたサラリーマンの如く煙草を吹かす。滑稽であろう。何様のつもりなのだろう。こんな日常に対して生きている価値など見出せるのだろうか。
欠伸が出た。イヤホンからは女の子が「前に進め」と歌っている声が聞こえる。
構内放送が流れた。
『二十二時、四十二分発、近鉄、名古屋行き急行をご利用のお客様に、お知らせ致します。津新町にて、人身事故が、発生しました。現在、運行を、見合わせております。また、復旧の目途は、立っておりません。お急ぎの中、誠に申し訳ありません。事故の影響で、二十二時、五十三分発、名古屋行き特急も、大幅なダイヤの乱れが、予想されます。――繰り返します、』
煙草を咥えていた中年連中が「おいおいマジかよー母ちゃんに怒らちゃうよー金返せよー」と喚き始める。
煙と一緒にため息が出た。果たして何時に帰れるか、もはやこれで不明である。日付変更前に帰れる訳は、まさかあるまい。唯一の救いと言えば今日が金曜日で明日が休日だということだろうか。さすがにこんな状況で明日も仕事に行けと言われるのは御免である。御免であるがしかし、結局は社内ニートであるからして、特にやることもやる気もないのであった。
煙草を咥えたまま、スーツの胸ポケットに手を入れて中から音楽プレーヤーを取り出す。何時に帰れるかもはや不明であるのだ、ならばこの時間を有効活用しない手はあるまい。撮り貯めていたアニメが確か六本くらいあったはずである。今の内に見てしまおう。そんなことをぼんやりと考えつつも、プレイヤーを操作しながらアニメの一覧にカーソルを合わせた。
肩を叩かれたのは、その時だった。
煙草を咥えたまま振り返る。
女性だった。歳はこちらとそう変わらないように見える。たぶん二十代半ば、顔の偏差値は中の上、あるいは上の下。キャバクラの出勤帰りだと思う。そうでなければこんな糞寂れた駅のプラットフォームで、胸元が大きく開いた紫のドレスのような服を着ている女なんているはずがあるまい。髪も茶髪でカールを巻いているし、普通の女性よりは化粧が濃い気がする。こんな格好の女性が普通のOLや大学生である訳がないだろう。どう見てもキャバ嬢だ。さっきホーム内を見た時にはこの女性はいなかったはずである。しかしこんな駅の周辺にキャバクラなんてあったかな、と思いつつも、そう言えば時たま駅の手前でキャバ嬢がポケットティッシュを配っていることがあるような気がする。ただ、生憎として行ったことがないのでその店の場所までは知らない。
キャバ嬢に知り合いなんていないが、肩を叩かれたので無意識の内にイヤホンを外していた。
「――何すか?」
そう尋ねると、キャバ嬢はにっこりと笑う。
「ライター貸してくれない?」
派手にデコレーションされた煙草ケースから爪楊枝みたいに細い煙草を取り出しながら、キャバ嬢はそう言った。
「誰だよ、裕也って。」
奇妙なことになった。
喫煙スペースの灰皿から少し離れた椅子に、なぜかキャバ嬢と並んで座って煙草を吹かしている。
「早く帰れると思ったんだけどねー。お兄さんも大変だねー」
「あー……そーっすねー……」
「そうそう、ちょっと聞いてよ見てよ。今日さ、お客さんからDSもらったのDS。これこれ。凄くない?」
「あー……それ、DSじゃなくて3DSっすねー……」
「なんか見てると気持ち悪くなるの。見て見てこれ。凄くない?」
「あー……そーっすねー……」
「それでさ、そのお客さんが『欲しいものあれば何でもあげるよ』って言ってきてさ、」
「あー……そーっすかー……」
「あたし、冗談で『車欲しいなー、車ー。きゃはっ』って言ったらさ、そいつ引き攣った笑顔浮かべてトイレって行って戻って来ないの。凄くない?」
「あー……そーっすねー……」
生憎として、キャバクラには高校の時に一度だけしか行ったことがない。ただしそれは友達に「カラオケ行こうぜカラオケ」と誘われて付いて行ったら騙されてキャバクラだったため、テンションがだだ下がってしまい、ほとんど嬢と会話なんてものをせずに過ごしていた。あの時は嬢が気を利かせてただひたすらに喋り掛けてくれていた記憶があるが、その時と細部は違えど、今の状況は非常によく似ていた。
テンションがだだ下がっていた。せっかくアニメを見ようとしたのに、何が楽しくて見ず知らずのキャバ嬢と世間話なんぞしなければならないのだろう。ギャルは見ている分にはエロくて好きだが、関わり合いになるのは避けたい。中学生の頃、ひょんなことからギャルと大喧嘩して、そのギャルの兄がギャングだか暴走族だかの頭だったために、非常にややこしい事態に発展した頃から、ギャルと関わり合いになるのはなるべく避けて来た。
そこから考えると、この状況は非常にマズイ。いつスーツ着たおっかない兄ちゃんが出て来てもおかしくないのである。訳のわからない因縁を吹っ掛けられて恐喝でもされたら本当に面倒だ。幸いにして財布には諭吉が一枚くらいしか入っていないが、これは明日家に届くフィギュアの金である。盗られたら死ぬしかない。
「でさー、店長がまたムカつく奴でさー。キー君思いっきり殴られてんの。凄くない?」
誰だよキー君って。ところで最近の流行の言葉は「凄くない?」なのだろうか。それともこのキャバ嬢の口癖なのだろうか。
煙草の煙を吸い込んで、ため息を一緒に吐き出す。最後の一口を吸い終えた煙草を下に落として、足で揉み消した。
隣のキャバ嬢が下から不思議そうに覗き込んで来る。
「どうしたの? 疲れてるの?」
貴女のせいで、と口から出そうになるのを何とか押し止める。
しかしふと視線をキャバ嬢に向けると、胸元が大きく開いた谷間が目に入った。普通に考えて胸が大きい。DかEくらいあるのではないだろうか。下から覗き込まれているせいで、それがよりいっそう強調されている気がする。こういうのは遠目から見ている分にはやはりエロくていいのだが、しかし実際に絡んでみるとこの上なく面倒臭い。早く電車が来て欲しい。
視線をゆっくりとズラしながら、
「あー……まぁ、仕事帰りだしねー……」
「お兄さん、仕事何してるの?」
言おうかどうしようか迷ったが、別にこれくらいの情報なら流しても問題はないだろう。
「あー、……SEやってる。システムエンジニア」
予想外の返答が返って来た。キャバ嬢が目をキラキラさせて身を乗り出してくる、
「えー!? それってあれでしょ!? あのパソコン使ってプログラムとか作るやつ! 凄くない!? じゃあ映画みたいにさ、どっかのコンピューターに侵入できるの!?」
それSEじゃなくてただのハッカーだろ、と言いそうになりながら再び堪える、
「あー……そんなことが出来るなら、おれはここにはいないだろうねー……」
そんな技術があれば、こんな寂れた県庁所在地で社内ニートなんぞやってる訳はないのである。
なーんだ、とキャバ嬢が離れて行く、
「でもさ、パソコンには詳しいんでしょ?」
詳しいかと言われれば、微妙なところである。素人よりかは詳しいであろうが、それを専門に扱っている人間には遠く及ばない。どっちつかずな一番中途半端な知識しか持ち合わせていない。だからこその社内ニートなのである。
返答に困りながらも、小さく口を開く。
「まぁ……人並みには……」
「じゃあさじゃあさ、今度あたしにパソコン教えてよ! 今度さ、お店のホームページを新しくするんだって! それ手伝ったら臨時ボーナス出るって言われててさ!」
知らねえよ、と言う言葉がため息を一緒に出そうになる。
ホームページを作るためのHTMLの知識ならばある程度はあるが、やはり本職レベルではないし、素人に毛が生えた程度の知識に頼るくらいであれば、市販のソフトを買って来て作るか、業者に頼んだ方が遥かにマシである。おまけにこのキャバ嬢に言語を教えたとしてもまともに扱えるようになるとも思えないし、下手をすれば「タグの説明」どころか、「ホームページとはそもそも何なのか」あたりくらいから説明しなければならないような気がする。ボランティアでそんなことなど、絶対にしたくない。
ただしここで理詰で捻じ伏せようとしても、おそらくこういう人種には通用すまい。
「あー……まぁ、また今度、機会があれば、ね……」
適当に濁して逃げるが吉に決まっていた。
吉に決まっていたはずなのに。
「本当に!? じゃあさ、メアド教えてよメアド!」
予想外の台詞に動揺する。
見ず知らずのキャバ嬢にメアドを渡すとか、絶対に御免被りたい。そこから足がついてスーツ着た兄ちゃんが迫ってくるかもしれない。最悪、ここで教えてメアドを変更してトンズラをこく方法もあるにはあるが、今のメアドは気に入っているし、おまけにこんなキャバ嬢のせいでアドレス帳の全員にメールアドレス変更メールを出すなんて労力を使うのは馬鹿げている。
ぼやけた笑みを浮かべた。上手く笑えていたと思う。
「あー……後でね……」
えーいいじゃんー、とキャバ嬢が不服の声を上げながらも、派手なブランドバックから光り輝くデコレーションが施された携帯電話が取り出され、それを開けながらいくつか操作を行う。
「ほらほら。赤外線」
逃げ道が出来た、
「あー、ごめん。おれの携帯スマフォで赤外線ついてないんだ」
むぅ、とキャバ嬢が不満たらたらな顔をしつつも、再び鞄をごそごそしながら何かを取り出す。
一枚の紙切れだった。
「じゃあこれあげる、あとで、」
なぜかそこでキャバ嬢は少しだけ困ったような顔をした後、ううん、と首を振り、
「――うん。あとで絶対に連絡してよ。絶対だからね」
一応、受け取るだけは受け取る。名刺だった。
手に持った名刺をマジマジと見つめる。
薄ピンク色の名刺にはハートマークがいっぱい描かれており、その中心に名前と思わしき文字がある。「奈菜」と書いてある。源氏名であろう。あとは店名とその電話番号、そしてこのキャバ嬢の携帯電話のメールアドレスと電話番号。これに連絡をしろ、ということなのだろう。助かった、と思う。受け取るだけ受け取って、連絡せずに逃げ切れば問題はあるまい。この場で教えずに済んだことに安堵の息を吐く。
隣のキャバ嬢が笑った。
「そう言えばまだ名前言ってなかったね。あたし、片瀬琴美。お兄さんは?」
おいこの源氏名はいきなり無視か、と少しだけ呆れる。
そして名前を聞かれたその一瞬で、頭の奥の脳細胞が少しだけ動く、
「あー……、田中太郎」
「それ偽名でしょ」
一発でバレた。
ため息を吐く、
「わかった、ごめん。村上裕也です」
「裕也。裕也君。裕也さん。どれがいい?」
「村上さんで」
えー、とキャバ嬢は不満の声を上げる。
そしてもちろん、「村上裕也」というのも偽名である。どこから足がつくかわかったものじゃないため、本名は絶対に伏せておくべきなのだ。あとで名前から住所を探られ、このキャバ嬢との「会話料金」なんてものを請求される可能性だって零ではない。リスクは回避しておくに越したことはあるまい。
「ところで裕也さんはどこに住んでるの?」
村上さんだっつってんだろ、と思わず口から出そうになる。
そしてその台詞に対して、再び脳細胞が動き、どちらにするか一瞬だけ悩んだ後、こう答えた。
「あー……っと、鈴鹿、の方……」
「そうなんだー、あたし名古屋なんだ」
セーフ、と心の隅で思う。危うく名古屋と答えるところだった。もし名古屋と返答していたら最後、このキャバ嬢の性格上、本当に家までついてきてパソコンを教えろと食いついて来るかもしれない。咄嗟に出た「名古屋」と「鈴鹿」のどちらかにするか迷ったが、どうやら「鈴鹿」が正解であったらしい。もちろん名前同様に、住んでいる所も真っ赤な嘘である。
その二択に正解したことから、少しだけ気分が良くなっていたのかもしれない。気づいた時には無意識の内にふと浮かんだ疑問を口に出していた。
「しかし住んでるとこが名古屋なら、なんでまたこんなとこでキャバ嬢?」
ですよねー、とキャバ嬢が笑った。
「ホントの勤務先は名古屋なんだ。ただちょっと前に、こっちの津新町の方に姉妹店がオープンしてね。その助っ人として、ちょくちょく顔出してるの」
なるほど。通りでキャバ嬢が電車なんか使う訳だ。詳しくは知らないが、たぶんキャバ嬢や風俗店なんて言うものは商売上、送迎とかがあるのであろう。ただ、ここから名古屋までの送迎なんてしようものなら物凄い時間が掛かる。そうであれば電車を使った方が交通の便が良い。ただ、こんなドレスのまま電車に乗るのはどうなのだろう。人目を引いて危ないのではないだろうか。たぶんこのキャバ嬢が馬鹿なんだと思う。
もうちょっとだけ突いてみる。
「でも津新町でキャバクラって、お客来るの?」
ぼちぼちだねー、とキャバ嬢は再び笑う、
「それなりには来るよ。ただ初回の人が多いかなー。常連になる人はまだあんまりいなさそう」
そら「あたし車欲しいなーっ、きゃはっ」なんて言うふざけた嬢がいるキャバクラになんて誰がリピーターになるものか。自分であれば絶対に御免である。
そんな内面など露知らず、キャバ嬢がまたもや下から覗き込んでくる。
「ねえねえ。裕也さんキャバクラとか興味ないの? 裕也さんみたいな人にならサービスするよー」
「結構です」
「えー、なんでなんでー。楽しいよー。ドンペリ入れろなんて言わないからさー、お喋りしようよー」
隣から身体をゆっさゆっさ揺すられる。本気で邪魔である。
何が楽しくてこっちから金を払ってキャバ嬢と話をしに行かなければならないのか。同じ金を払うくらいであれば、まだ風俗店の方が良さそうである。ただ、正直なことを言うのであればキャバクラも風俗店も一回しか行ったことはないが、どっちもリピーターになろうとは思わなかった。そんなことをしている時間があれば、とっとと家に帰ってアニメでも見ていた方が有意義である。
ゆっさゆっさと揺られるのを無視しながらぼーっとする。
隣から聞こえる「ねーねー、裕也さんー」と猫撫で声を発するキャバ嬢には返事を返さず、思う。
本当に、何をしてるんだろう。キャバ嬢が、そして自分が何をしたいのかさえさっぱりわからない。
ちらりと視界に納めた腕時計の針は、十一時二十四分を刺していた。いつもであればとっくの昔に家に到着し、パソコンの前で日課の音声ソフトの女の子の画像収集などをやっている時間である。にも関わらず、今日はどうだ。いつまでもいつまでもこんな糞寂れた駅のプラットホームのベンチに座り込み、キャバ嬢に身体を揺すられている。まったくもって、意味がわからない。
いつになったら電車が動くんだろう。このままこのキャバ嬢とこんな場所で一夜を過ごすなんて御免である。
そう考えながらさらに三十秒ほど身体を揺られた後、唐突にふと気づく。駅のプラットホームに視線を投げ、少しだけ考える。小さな違和感が浮上する。だけどその違和感の正体がなかなか掴めず、まるで小魚の骨が喉に引っ掛かったかのようなもどかしさがある。何だっけ。何だろう。そう考え続け、さらに十秒ほど揺られてようやく、その違和感の正体に気づいた。
寂れた駅のプラットホーム。いつもと変わらない光景。ただしそこに、ついさっきまで見ていたはずのものが足りない。近くで煙草を吹かしていた中年のおっさん連中、待合室で雑誌を読んでいた高校生、その向かいで携帯を弄っていたリクルートスーツの女性、さらにその隣でうつらうつらと船を漕いでいた薄汚い爺。それらがいつの間にか、いなくなっていた。
寂れたプラットホームには、自分とキャバ嬢しかいなかった。
違和感の正体はそれか。中途半端な大きさの駅に、自分とキャバ嬢を残し、いつの間にか誰もいなくなっている。
人の気配が感じられない。いつからだろう。いつからこの駅に誰もいなくなったのだろう。ここでずっと待っていた訳だから、まさか電車が来て乗って行った訳ではあるまい。電車が復旧したというアナウンスも流れていない。ということは、ここにいた連中はどこへ行ってしまったのか。仕方が無いから電車とは別の、例えばバスやタクシーで帰路に着いたのだろうか。もしかしたら自分が聞き逃しただけで、臨時バスのアナウンスがあったのかもしれない。だとしたらしまった、下手をすれば本当にこのままここで一夜を過ごさなければならなくなってしまう。
言いようのない焦燥感のようなものが急激に湧き出してきて、身体をゆっさゆっさ揺すっていたキャバ嬢に向き直る、
「ちょっとストップ。臨時バスかなんかあるかもしれない。駅員さんに聞いて、」
言葉はそれ以上続かなかった。
身体を揺することを止めたキャバ嬢が、満面の笑みで笑っていた。
「――そっか。もう終わりだよね、うん」
言っている意味がわからず、何の話?、と問うとした瞬間、キャバ嬢がそっと立ち上がる。
「ねえ裕也さん。ひとつ質問していい?」
三歩だけ前に歩み出たキャバ嬢がこちらをくるっと振り返り、返答を待たずしてこう言った。
「――生きてて、楽しい?」
時が止まったかのような感覚。
何の曇りも無く、そう言って笑い掛けるキャバ嬢から視線を外すことができない。
「……急に、なに……?」
何とか搾り出した声に対し、キャバ嬢は再びその言葉を口にする。
「裕也さんは、生きてて楽しい?」
キャバ嬢の視線に囚われたかのように身動きひとつ取れない中、しかしなぜか思考だけが自分でも驚くべき速度で回転する。
こいつ今、何て言った。生きてて楽しいか。そう言ったのか。どういうことだろう。何の脈絡もなくいきなりそんなことを言うとはどういうつもりなのか。意図がまったくもって理解できない。どのような返答を期待しているのかさえわからない。理詰の質問ではないということはわかる。哲学を求めている訳でもあるまい。では一体、何が目的なのだろう。生きているのが楽しいか。そんなものは決まっている、命あってのものダネである、楽しいに決まって、
キャバ嬢は真っ直ぐにこちらを見つめたまま、本当に清々した笑みを魅せた。少なくとも、卑下したような気配は微塵も感じない。
息を思いっきり吸い込み、キャバ嬢は言い切った。
「あたしはぜんっっっっぜん、楽しくなかった」
いろいろあってねー、とキャバ嬢は続ける、
「在り来たりな家庭の環境、っていうのかな。それが原因で、高校中退して名古屋に飛び出して、何とかひとり暮らし。いろいろバイトもしたんだけど、それだけじゃ生活苦しくて。それでね、とりあえず楽して稼げるような気がしたから、キャバクラに勤めるようになった。でもね、そこでひとつ気づいたことがあったの」
何も言うことができない。そしてキャバ嬢もやはり、こちらの言葉など待たなかった。
「お客さんと話してる時だけは、何かこう、必要とされてるって感じがしてさ。あー、あたしってここにいてもいいんだー、って思ったんだ。白状すると、お仕事だって、バイトだってわかったけど、でも、素直に楽しかった。たぶん、キャバクラで働いてたここ数年が、人生でいちっっっっばん楽しかった」
でもまあ、ふっと悟ったんだ、とキャバ嬢は笑った。今度の笑みは、少し哀しみが入っていたような気がした。
「人があんまりいない駅で電車待ってて、ふっとした拍子に気づいちゃった。あたしって結局、何のために生きてるんだろう、って。確かにお客さんと話してる時は楽しいし、あたしは必要とされてるんだって思ってた。でも、よくよく考えれば違ったんだよね。お客さんにとって、あたしはただのキャバクラの店員でしかない。お客さんは、話を聞いて、話をしてくれる店員が欲しい。それがあたしじゃないとダメな理由はなーんにもない。うん。誰でもいいんだよ。別に、あたしじゃなくても、何も問題ないんだ。それに、気づいちゃった。で、気づいちゃった瞬間、もうダメになっちゃった。今までの全部が、急に真っ白になっちゃった。――だからあたし、人生やめちゃったんだ」
そして、少し困った風に笑うキャバ嬢を見た時、唐突に、理解した。
どうしてキャバ嬢がこんな話をしているのか――。それはたぶん、自分と似ていると思ったからだろう。特に何の理由もなく、特に何の目的もなく、ただ漠然と生きている自分。昼間は社内ニート、家に帰ればパソコンと睨めっこ。同じ毎日の繰り返し。微温湯に頭まで浸かり切った日常。一歩踏み出せばすぐに違う世界が広がっているのにも関わらず、その一歩を踏み出すことを無意識の内に拒み続ける生活。不平不満を嘆くくせに、自らそれを突破することをしない己。
きっとキャバ嬢は、こちらからそんな空気を読み取ったのだと思う。だからこそ、こんな話をしているのだ。
生きていて楽しいのか。キャバ嬢はそう言った。その問いに対して、命あってのものダネ、楽しいに決まっている――、自分は、そう返答しようとした。だが果たしてそれは、本当にそうなのだろうか。楽しい瞬間は確かにある、それは否定しない。しかし、それは無駄に人生を続けてまで得る必要があるのだろうか。生き続ける理由に値するものなのだろうか。
理由も無く、目的も無い。変わらない日常をただ漠然と過ごす日々。振り返った後には、何も残っていない。
それで果たして、生きていると言えるのだろうか。
仮定はどうであれ、この目の前のキャバ嬢はきっと、そんな結論に辿り着いてしまったのだろう。そして、その結論と引き換えに得たものが、先の言葉。つまり辿り着いた結論からキャバ嬢が起こした行動は――、
「……お前、もしかして、」
キャバ嬢は、バレちゃったか、と無邪気に笑って、こう言った。
「電車止めちゃって、ごめんね」
ああでも、とキャバ嬢は取り繕うな表情を浮かべ、
「もう動き出すみたい。だから裕也さんとお喋りするのもお終い。正直な話をするとね、なんでここでこうしてるのかあたしもわかんなくて。ただ気づいたら目の前に裕也さんがいた。その背中見てたらなんかあたしみたいだなー、って思って。それで喋ってみたらなんか普通に喋れたから喋ってた。でもなんかさっき、もう終わりなんだ、っていうのが何となくわかった。だからもうお終い」
正直な話をすると、まるで意味がわからなかった。
考えなど何ひとつとしてまとまらない。この状況が果たしてどのようなものであるのかさえわからない。漠然としたこの予想が正解であるのだとすれば、キャバ嬢がここにいるはずがない。だがどうしてかこの予想が外れているのだとは思えない。しかしだとしたら、本当にこの状況は何だ。
すべてが、現実のものだとは思えない。
いつの間にか、線路の向こうから電車が近づいて来ていた。
その気配に視線を向けた時、キャバ嬢が身体の向きを変え、こちらに背中を見せた。
「あたしはちょっと先に行くね。もし裕也さんが一緒に行ってくれるなら楽しそうだけど、無理矢理はなんか怖いからしない。……だけどそうだなー。いつか裕也さんがこっち来た時は、その時はまたお喋りしてね。今度はちゃーんとしたお喋り。向こうで美味しいお酒持って待ってるから、今度はちゃんと相手してね」
アナウンスも無く走って来た電車が、ブレーキ音を一切響かせずにプラットホームに流れて止まった。
見た目は普通の電車と何も変わらなかった。ただし人は誰も乗っていない。そして行き先表示だけがなぜか読み取れない。確かに何かの文字が書いてあって、それを意識としては理解しているのにも関わらず、どうしてか脳みそがそれを認識しない。何か書いてある、知っている字で書いてある、しかしその行き先名がどうしてか理解できない。
キャバ嬢の目の前に停止した車両のドアだけが、無音で開く。
無意識の内に椅子から立ち上がっていた、
「お、おいっ。ちょっと待っ」
すとーっぷ、とキャバ嬢が手を差し出す、
「ここから先はあたしだけ。裕也さんは次の電車。あたしと違って、なんか裕也さんはまだ頑張れそうだから。だからあたしだけ先に行ってる。……いつかまた会えたら、お喋り、しよーね」
キャバ嬢が電車に乗り込むと同時に、ドアが再びの無音で閉まった。
そしてドア越しに、キャバ嬢は言った。
「ちょっとだったけど、楽しかった。またね」
電車が音も立てずに走り出す。
その後を追いかけようとした瞬間、
いきなり空間が捻じ曲がる。
酷い二日酔いのような感覚。視界が暗転したと思ったと同時に、一気に正常に戻って来る。
気づけば、いつもと変わらない寂れた駅のプラットホームにいた。まるで白昼夢から覚めたかのような違和感があった。喫煙所の近くに設置されたベンチから僅かに立ち上がったまま、腕を中途半端に突き出した体勢で停止している。
状況の整理に追いつかない。
姿勢を整えて立ち上がる。辺りをゆっくりと見回して初めて、人の気配が帰って来ていることに気づく。
灰皿の近くで何事かを話し合っている酔っ払いの中年共、待合室にいる坊主の高校生にリクルートスーツの女性に船を漕いでいた薄汚い爺。その他にもいつの間にか人が増えていて、十人以上いると思う。しかしそれらの光景が上手く頭の中に入って来ない。さっきまでいたはずの場所と、ここが同一の場所であるとは思えない。
――夢?
そんな気はする。気はするのだが、どこまでが夢だったのか、それがまったくわからない。
時刻は二十三時半を三分だけ過ぎていた。
構内放送が流れた。
『お客様に、ご連絡、申し上げます。人身事故のため、運転を見合わせておりました、二十二時、四十二分発、近鉄、名古屋行き急行が、まもなく、到着致します。お忙しい中、大変長らく、お待たせ致しまして、申し訳ありません。なお、その後の、二十二時、五十三分発、名古屋行き特急も、あと五分ほどで、到着致します。繰り返します、』
電車が動き出したらしい。つまり人身事故の「処理」が終わったのであろう。
が、処理ってそもそもなんだ。まさか、
線路の向こうに電車が見え始める。音は遠くからでも鮮明に聞き取れた。
ふと気になって背後を振り返った時、ベンチの片隅に一枚の紙切れが落ちていることに気づいた。一瞬だけ目を見開いて、ゆっくりと近づき、紙切れを拾い上げる。
一枚の名刺だった。
「奈菜」と書いてある。その下に電話番号が書いてあることに思い至り、無意識の内に自らの携帯電話で掛けようとして、
――またね、と笑うキャバ嬢の顔を思い出した。
あれが夢かどうかはわからない。いや、そもそも夢かどうかなんてさしたる問題ではないのかもしれない。今に掛けたとしてもおそらく、あのキャバ嬢は喜びはしないであろう。酒を持って待ってると言われた手前、今はまだ掛ける時ではないのかもしれない。何が起こったのか、何が起こっていたのか。それすらもやはり不明だが、だが、それはそれで、いいのかもしれなかった。
電車がブレーキ音を響かせてプラットホームに滑り込んで来る。
その光景を見つめ、手に持った名刺をポケットに入れ、一歩を踏み出す。
なんか裕也さんはまだ頑張れそうだから、とキャバ嬢は言った。
それになぜか、妙に納得してしまった。理屈ではなく、自然とその言葉が脳の奥に落ちてきた。
だから、もうちょっと頑張ってみよう、と思った。
今度会ったら、こっちから話せるように。
今度会ったら、こっちから喋れるように。
美味い酒飲んで、ちゃんと笑えるように。
ただしその前に、一言謝らないとならない。
――名前。
嘘をついたままだったことに、今さらに、気づいた。
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2011/08/05(Fri)10:23:27 公開 / 神夜
■この作品の著作権は神夜さんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
初めましての方は初めまして、お久しぶりの方はお久しぶり、「もうどうにでもな〜れ」以来だからたぶん3ヶ月半振りくらいでしょうか、神夜です。
去年の年末から仕事が爆発云々、とか散々言ってて、本当に爆発してた。ようやく少し時間が取れたから、息抜きも兼ねてホジホジと書き書き。ただしアイディアが何もなかった。何書こうー、何書こうー、とぼーっと駅で煙草吸ってたら、半年くらい前にある人に「駅のホームから一歩も出ない話書こうぜ」と言われたのを思い出したから、相変わらず構想も糞も無くダラダラと書き始め、気づいたらこんな物語になっていた。
突発過ぎるラストは、「このままじゃ収集つかないんだけど」と悟ったから捻じ曲げて着陸した結果です。投稿するかどうか迷ったけど、久々なので投稿して、「神夜は生きてるよ!幻じゃないよ!」と自己主張する。
そして結局の話、この物語で伝えたいことは何なんだ?、っていう謎。いつもであれば「ニーソって最高だよね!!」というメッセージが込められているんだけど、今回は違う。それとは異なり、実は明確な意図がある。それはつまりあれだよ。
仕事辞めたい誰か助けて。
次回投稿がいつになるかは再び不明。
実は随分前に「Fetish Shout!」の番外編「無敵の薔薇派編」を投稿しようと思ったらいろいろあって本編自体消えちゃってそのままなんだ。うん。だから本編と一緒に番外編投稿するか、また別のモノをホジホジ書き書きするか、幻となって消えるか。どうなるかは不明ですが、またふらっと現れたらその時はどうかお付き合いを。
それでは誰か自分を助けてくれと叫びながら、神夜でした。
※ラスト修正。
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。