『轢断の常磐線【輪舞曲】』 ... ジャンル:リアル・現代 ファンタジー
作者:天野橋立                

     あらすじ・作品紹介
小説の内容を繰り返し思い出しては、あの部分にはこんな感想がつくのじゃないかとか、勝手な想像を僕は巡らせた。頭の中の常磐線を、予備電源による弱々しい光を放つ前照灯を点したD51機関車が、煙を吐きながら何度も走り抜けて行った。【輪舞曲】企画参加小説。

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「このような状況と立ち向かい、経営陣に対して強い姿勢で対峙して行くためにも、我々には今後一層の団結力が求められていくものであります!」声を張り上げた支部長は、集会室に集まった五十数名に及ぶ労働組合員の顔を見渡すと、一呼吸置いてからこう言った。「それでは恒例、メーデー歌の合唱で、最後を締めくくりたいと思います。では大杉さん、伴奏をお願い致します」
 古ぼけた電動オルガンの前に座った、大杉さんがうなずく。長い髪をひっつめにして、白いブラウスを着た彼女の姿は、まるで音楽の先生のように見える。
 短いイントロに続いて、みんなが「メーデー歌」を合唱し始めた。「聞け万国の労働者、とどろき渡るメーデーの」で始まるこの労働歌には、歌う者の気持ちを否応なく奮い立たせる高揚感があり、組合員たちの心を一つにまとめるためにはうってつけの曲だった。
 合唱が終わると、全員で「団結がんばろう」を三唱し、今日の全螺労東逢坂金属工業支部定期大会は終了した。組合員たちが、列をなして集会室を出て行く。その中の一人として、他のみんなと同じく誇らしい気持ちで部屋の外へ出ようとした僕を、聞きなれた声が呼び止めた。
「よお、永田」
 振り返ると、副書記長の宮本さんが、四角い顔でにこにこと笑っていた。隣には、大杉さんの姿もある。
「今から、ちょっと飲みに行こうや。『えれじい』、大杉も行くってさ」
「いいですね」僕はうなずいた。「僕も、ちょっと宮本さんに相談したいことがあったんです」
「おいおい、組合の生活貸付の話ならもう駄目だぞ。君はもう枠一杯借りてるだろ」
「違いますよ、創作活動のほうに決まってるじゃないですか」
「ああ、そっちか。なら、大杉もいるから、ちょうどいいな」
「そういうことです。東金工文芸部の小委員会って感じで」
「分かった。よし、じゃあ行くぞ」
 灰色の作業服姿の宮本さんはそう言うと、力強い足取りで廊下を歩き始めた。僕と大杉さんが、その後に続く。集会室のある五階の廊下、その壁には組合関係のポスターが古いものから最近のものまでところ狭しとベタベタ貼られていた。照明も弱々しい蛍光灯だけで薄暗く、恐らく初めてここに足を踏み入れた人間には、何だか恐ろしげな場所のように思えるのではないだろうか。
 会社のビルを出た僕ら三人は、坂江宮田の駅前にある居酒屋「えれじい」へと、まっすぐに足を向けた。この「えれじい」は、我が社の文芸部員行きつけの店である。大杉さんも僕もこの文芸部の部員で、組合の副書記長でもある宮本さんがその部長を務めていた。いつもは七人の部員が集まって、文学について語ったり、お互いの作品を批評しあったりするのだが、今日はそのうち三人だけが集まったということになる。
「えれじい」は流行りの大手居酒屋チェーン店とはまるで違っていた。建物は物置小屋のようなぼろさだし、そもそも看板のペンキが色褪せていて、一見しただけでは店の名前も、何の店なのかさえも良く分からないのだ。しかし、僕らにとってこの店は、住み慣れた我が家のような、居心地のよい場所だった。なんと言っても、出てくる食べ物がうまい。明太ペペロンチーノ風焼きうどんとか、キムチ入りニラ玉など、オリジナルのメニューがいずれも絶品だった。もっと店構えがまともなら、かならずや雑誌などで取り上げられるだろうと思うのだが、それは必ずしも我々の望むところではなかった。あくまで、隠れ家的な場所だというのがいいのである。
「いらっしゃい。お、今日は三人だけ?」
 店の大将が、いつもの通りの愛想いい笑顔で迎えてくれる。
「ああ、今日は小委員会なんでね。ここ、上がらせてもらうよ」
 宮本部長がそう答えながら、勝手に店の奥の座敷へと上がり込む。この場所は、僕らの指定席なのである。
 生ビールで乾杯すると、宮本部長はさっそく、という感じで僕に訊ねてきた。
「で、何か創作で悩んでるんだって?」
「そうなんです」僕はうなずいた。「今ちょうど、次号の『全螺労文芸』向けに書いてる作品が山場に差し掛かってるんですけど、どうも主人公の人間性、いや肉体性と言った方がいいかもしれません。そこがうまく表現できなくて、悩んでるんです。宮本さんの書かれるものって、働くことの喜びや苦しみが、それこそ汗が目の前で飛び散ってるような迫力で表現されてると思うんです。僕も、ああいうものが書きたい。でも、どうしてもうまく行かなくて」
「なるほどなあ」宮本さんが、腕を組む。「君の言う通り、良い小説を書くためには、人間の肉体性の表現と言うのは重要な要素だからなあ。肉体表現を伴わずにいくら労働というものを書いてみても、どうにもリアリティがないからね。これは例えホワイトカラーを主人公にしても、やはりそうなんだ」
「僕もそう思うんですけども、何度書き直してみても、汗の匂いがしない乾いた文章になってしまうんです。これはもしかすると、僕自身の労働者としてのあり方自体に、地に足がついていない部分があるんじゃないか、もっと掘り下げて自己批判するべきなんじゃないかって、そう思ってしまいます」
「いや、そこまで考える必要はないだろう。少なくとも、永田君の労働者としてのあり方には、俺は問題を感じないがな。自己批判自体は悪いことではないが」
「宮本さんにそう言ってもらえると、安心ですけども」
「すごいですねえ」大杉さんが、ため息をついた。「わたしから見ると、永田さんの作品は素晴らしいと思います。宮本さんの書かれるものに、迫る出来映えだと思う。それなのに、そこまで考えてもっと良いものを書こうとされてるなんて。自己批判しなければならないのは、わたしの方です。ほんとに、未熟な作品しか書けなくて……」
「いやいや、君の書く文章にも、なかなか光るものがあると思うよ、僕は」と宮本部長は、優しく彼女を見遣って言った。「この前の作品、『双眸』だったっけ、あの女主人公の葛藤、あれなんか良く描けていた」
「自分の女性性と、労働者としてのあり方に板挟みになって悩む、あの心境描写は確かに良かったと思うよ」
 僕も、宮本さんの意見に同意してうなずく。
「ありがとうございます。でも、やっぱりまだまだ皆さんに比べると未熟だと思いますし……。悩んでしまいます」
「そうだなあ、本当はもっと多くの人に読んでもらって、たくさん感想をもらうのが一番いいんだが、まださすがに『全螺労文芸』に原稿を載せてもらうのは難しいだろうし」宮本さんは、また腕を組んでうなる。「大杉くん、君は確かパソコンは持ってたな? インターネットには接続できるかね」
「はい。時々ニュースを見たりしています」
 彼女は素直にうなずく。
「インターネットには、掲示板と言うのがたくさんあるのだが、その中には小説を投稿して感想をもらえるページと言うのがいくつかあるのだよ。大多数は下らないものだが、一ヶ所だけ真の文学、つまり労働文学を主に扱う投稿ページと言うのがあるんだ。『文芸インターナショナル』という名前なんだがな」宮本さんはえへん、と咳払いをして、ビールの残りを飲み干す。「実は俺も、時々投稿している。ペンネームは変えているがな。君も、ここに投稿して感想をもらってはどうだろう」
「意外ですね」僕は、驚きの目で宮本さんを見た。「インターネットの掲示板と言えば、保守反動分子の巣窟だと思ってました。まさかそこに宮本さんが」
「そうとも決めつけられんさ。『文芸インターナショナル』と言う名前を見れば分かる通り、国際労働運動の文芸版を目指そうと言う、一応はそれなりの志を持った連中が集まって立ち上げたインターネットだからな」
「分かりました!」大杉さんが、目を輝かせて言った。「わたし、そのインターネットに投稿してみます」
 うなずき合う二人を、僕は何とも複雑な気持ちで見ていた。僕としては、インターネット空間という場所に対して、どうにも拭い切れない不信感のようなものがあったのだ。

 僕の仕事は経理事務で、得意先からの発注を整理したり、見積書や請求書を作成する仕事を一手に引き受けている。「東逢坂金属工業」と会社名は一人前なものの、所詮は社員六十人の中小企業だから、独立した経理部などといった部署は存在しないのだ。
 もちろん、経理事務だって立派な労働のうちだとは思う。でも、宮本さんたちのように毎日体を動かしてフライス盤を操作し、製品を作り出すような仕事と比べてしまうと、どうしても自分が労働者として見劣りするのではないかと感じてしまうのも確かだ。
「労働者の姿を描いた小説を書いて、労働行為の尊さを世に知らしめる」ということを目指す僕の気持ちの底に、そんな劣等感があるのは否定できなかった。その動機の不純さも、僕の創作活動における大きな悩みの一つなのだった。どんなにリアルに労働者を描いてみたつもりでも、所詮お前は真の労働というものを知らないではないか――どうしても、そう嘲笑われているような気がしてならないのである。何か、一歩前に踏み出すようなきっかけを、僕は必要としていた。

「えれじい」での飲み会が終わり、アパートに帰った僕は、ノートパソコンの電源を入れて、インターネットに接続してみた。どうこう言ってみても、やはりあの宮本部長が参加している小説投稿掲示板というものがどんなところなのか、やはり気になった。
 検索をかけてみると、「文芸インターナショナル」のページはすぐに見つかった。想像していたのとは異なり、モノトーンに近い落ち着いたデザインの、シンプルなホームページではあったが、トップページに書かれた「起て飢えたる者よ 今ぞ日は近し 醒めよ我が同胞 暁は来ぬ」という言葉は、言うまでもなく労働歌「インターナショナル」の冒頭部分である。やはりここは、労働文学者の集う場所に違いなかった。
 掲載された小説のいくつかに目を通した僕は、思わずうならずにはいられなかった。もちろん稚拙な物も多いのだが、中にはすぐにでも「全螺労文芸」に掲載できるのではないかという質の高い作品も見られたのである。それらのうちのどれかが宮本部長の作品ではないかと、僕は部長の文章を思い起こしながら、改めて掲載作品を順番に読み直してみた。しかし、「この作品がそうだ」と断言することは、僕にはついに出来なかった。
 こんなレベルの高いインターネットもあるのか、と認識を新たにしながらページのあちこちを見て回るうちに、僕はあることに気づいた。なぜか、似たようなテーマで書かれた作品が、様々な書き手によっていくつも投稿されていたのである。その疑問は、「管理者からのお知らせ」というページを開いてみて氷解した。そこには、あるテーマに沿った小説をみんなで書いて投稿する、という企画の実施が案内されていたのである。次回のテーマは、「鉄道の仕事に従事する労働者の物語」というものだった。その案内文を読んだ僕の頭の中に、はっとひらめくものがあった。以前から、僕は「下山事件」に関わる小説のアイデアを持っていたのだが、それを機関士の視点で書いてみてはどうだろうかということを思い付いたのだ。
 次の瞬間、僕は思わず「一太郎」のアイコンをクリックしていた。今頭に浮かんだ内容、この物語を一刻も早く文章にしてしまわなければならない。今までに経験がなかったほどの勢いで、僕はキーボードを叩き続けた。

 下山事件――一九四九年七月某日の朝、時の国鉄総裁・下山定則氏が北千住駅付近の常磐線線路上で、轢死体として見つかったというこの事件は、国鉄が大量の人員整理を控えていたことから、労働組合による他殺説が流布され、労働運動に大きな衝撃を与えた。現代に至るも、自殺・他殺の両説があり、決着はついていない。GHQによる陰謀説がささやかれるなど、戦後期最大のミステリーの一つに挙げられることの多い事件である。
 ほとんど徹夜に近いくらいの時間を費やして、僕はその下山事件を題材とした作品を書き上げた。当然、寝不足で翌日の仕事は辛く、何度か伝票を取り違えて係長に叱られてしまうことになった。しかし、それでも僕は満足だった。久しぶりに、納得の行く作品を書き上げることが出来たのだ。特に、自分のD51機関車が轢いてしまった死体を確認した機関士が、それがかつての上司であった下山国鉄総裁であることに気づいて驚愕する場面の出来には、手応えを感じていた。
 問題は――書き上げたこの作品を、どうするかであった。あのページの企画が元になって出来上がった作品なのだから、やはり投稿してみるべきだろうか。実際のところ、僕は今まで一度も、インターネット上の掲示板に何か書き込んだりしたことは無かった。その僕がいきなり小説を投稿するなどということには、ためらいが残った。インターネットへの不信感が、払拭されたわけではないのである。
 しかし、ふらふらの一日を何とか終えて帰宅した僕が真っ先にしたことと言えば、パソコンを立ち上げて「文芸インターナショナル」のページを開くことだった。新たに投稿されていた、いくつかの作品に目を通してみたが、そのどれを取っても僕の作品のほうが良く書けているように思える。
 もし、僕のこの作品を投稿したならば、果たしてどんな反響があるだろう。もしかしたら、絶賛の嵐が吹き荒れるのではないか。そう思うと、僕は居ても立ってもいられなくなった。ついに僕は、画面上の新規投稿ボタンを押してしまう。「一太郎」から文章をコピーして投稿フォーム上に貼り付け、タイトルを入力して、送信ボタンをクリック。次の瞬間、「轢断の常磐線」という文字が、新規投稿一覧の一番上に表示された。
 ああ、やってしまったという後悔の念が、途端に湧き上がってきた。しかし、こうなったら後は感想が付くのを待つだけだ。僕はウインドウを閉じて、パソコンの電源を落とした。明日の夜まで、このページは見ないことにしようと決める。そう決めないと、夜中に何度も何度も感想をチェックしてしまうことになるだろう、そう思ったのだ。

 翌日は仕事中もずっと上の空の状態で一日を過ごすことになった。小説の内容を繰り返し思い出しては、あの部分にはこんな感想がつくのじゃないかとか、勝手な想像を僕は巡らせた。頭の中の常磐線を、予備電源による弱々しい光を放つ前照灯を点したD51機関車が、煙を吐きながら何度も走り抜けて行った。
 こんな具合では当然、またしても仕事でミスを連発させることになり、とうとう係長にも「お前、昨日から何かおかしくないか?」と怪訝な顔をされてしまう始末だった。
 ようやく仕事を終えて家に帰り着いた僕は、アパートの外側に取り付けられた階段を、その鉄板を蹴りつけるように駆け上がって部屋に飛び込み、パソコンの前に座り込んで電源ボタンを押した。しかし、いざ「文芸インターナショナル」のページを開こうとする段になって、僕は急に怖くなってきた。酷評ばかりだったら、どうしようか。そもそも、誰一人感想なんか書いてくれていないかもしれない。あの作品が傑作だなんて、僕の全くの勘違いなのだという可能性は十分に有り得るのだ。ページを見てしまえば、その現実が目の前に突きつけられることになる。
 しかし、このまま一生あのページを開かずにいるなどということが、できるはずもなかった。数分間の躊躇の後、どんな結果でもがっかりするな、と自分自身に言い聞かせながら、僕は投稿サイトを開いた。
 新規投稿一覧を見た瞬間、まずは「感想がつかないのでは」という懸念が払拭された。「轢断の常磐線」には、何と一晩で十二人分の感想がついていた。これは、昨日から今日にかけて投稿された作品の中では、断トツに多い感想の数だった。そして、それらの感想の中身を読んだ僕の気持ちは、いっぺんに高く舞い上がることになった。そのいずれもが、大変な高評価だったのだ。
 それらの感想をまとめるならば、「戦後最大の闇の一つとも言える下山事件を、図らずもその当事者となってしまった一機関士の視点から描いた傑作短編」と言ったところだった。とにかく、僕が見た範囲において、ここまで絶賛の感想ばかりがつく作品は今まで一つもなかった、それくらいの好評ぶりだったのだ。何よりも嬉しかったのは、「鉄道労働者としての主人公の姿が良く描けている」という感想がいくつもあったことで、中でもかつて国鉄動力車労働組合に属したという老鉄道マンの「この文章からは、デー51機関車のあの鉄の匂ひと、動力車操縦者の汗の匂ひが共に立ち昇つてくるかのやうであり、大変に懐かしき思いをした」という感想に、僕は強く心を打たれたのだった。

 このインターネットに参加してみて良かった、僕は心からそう思っていた。でも僕は、自分が「文芸インターナショナル」に参加したことも、作品が高い評価を得たことも、宮本部長には特に話そうとはしなかった。あくまで内緒のうちに実力をつけて、文芸部のメンバーを驚かせようと、そういう気持ちがあったのだ。実際、感想をくれた人たちの誰かが宮本さんであるという可能性もあり、ならば直接話を聞いてみればもっと深い意見をもらえるかも知れなかったが、それでも僕は黙っていた。
 だから、おなじみ「えれじい」での文芸部の集まりで、先輩部員の不破さんが突然言い出したその言葉に、僕は冷やりとする思いをしたのだった。
「そう言えば、宮本部長が参加してるっていう投稿サイトだけど、この前見たらすごいのが上がってたよね、あの下山事件のやつ」
 キュウリのラー油漬けをかじりながら、不破さんはそう言った。
「わたしも、読みました」大杉さんがうなずいた。「リアルな迫力があって、戦後労働史のことも良く調べてあって、あれは傑作だと思いました」
「もしかしたら、あの『示威者』っていう投稿者って」と不破さんは僕の使っているペンネームを口にした。「実は部長なんじゃないですか? あれだけのものを書ける人間が、そうそういるとは思えないんですけどね」
「さあ、どうだろうな」
 宮本さんはとぼけて見せた。
「おや、否定しませんね。やっぱり怪しいなあ」
 不破さんはにやにやと笑う。
 しかし僕は、宮本さんのそんな態度に不満を感じた。なぜきっぱりと、否定しないのだ。これではまるで、あの傑作を自分が書いたと言わんばかりの思わせぶりな態度ではないか、そう思った。

「えれじい」からの帰り道、いつものように坂江宮田の駅へと向かおうとする僕を、宮本部長の声が呼び止めた。
「おーい、永田」
 振り返ると、商店街の通りの真ん中に立った宮本さんが、僕に向かって手招きしていた。
「ちょっと、話があるんだ。もう一軒、付き合わんか」
「いいですけど」
 僕はうなずく。一体、何の話だろう? もしかすると。
 宮本さんと僕は、電車のガード下にある小さな飲み屋に落ち着いた。宮本さんに合わせて芋焼酎の麦湯割りを頼んだ僕は、ところで、と切り出した。
「僕に話って、何ですか?」
「うん、それがな。ちょっと君に聞いてみたいことがあったんでな」作業服姿の宮本さんは、胸ポケットから「チェリー」の箱を取り出すと、中から一本タバコを抜いて、火を点けた。「どうだ、君も一本」
「いただきます」
 僕はうなずくと、右手で軽く拝むような動作をして、その古臭いタバコを受けとる。
 しばらくの間、僕と宮本さんは二人で黙ってタバコをふかしていた。「チェリー」独特のクセのある香りの煙が辺りに立ち込め、空気が白っぽくなった。本当は僕自身はもっと軽いものが好みなのだが、こういうきついモクこそ労働の香りという気もする。少なくとも、宮本部長がメンソール入りの洒落たシガレットを吸うところなど、想像もつかない。
「で、話って?」
 と僕は、再び宮本さんに訊ねる。
「ああ、そうだったな」宮本さんがうなずく。「あのさ、さっきも話が出てたんだが、例のインターネットに投稿されてた下山事件の小説だけどな」
 やっぱりそれか、と僕は宮本さんの顔を見つめる。
「あれ、書いたの永田だろう。みんなは気づかなかったみたいだがな、あの主人公の人物造形はお前が以前に『全螺労文芸』に書いた三井三池争議の話、あの主人公とそっくりだからな。俺はすぐにわかったよ」
「さすがですね」僕はため息をついた。「見破られましたか。もしかして、あの感想のどれかって、宮本部長だったんですか?」
「いや、俺は感想書かなかったんだが」
「そうですか。いや、僕もまさかあそこまで高い評価がもらえるとは思いませんでした。もちろん、書き終えた時はそれなりの手応えはありましたけどね。いや、宮本さんにあのインターネット紹介してもらって良かったです」僕はそう言うと、冗談めかしてさらに付け加えた。「もっとも、その宮本さんを超えて評判になっちゃうような作品書いちゃって、ちょっと申し訳ない気もしてるんですよ。でも、こればっかりは純粋に作品の勝負の世界ですからね、まあ仕方ないって言うか」
 向かいの宮本さんが、不意に暗い目をして黙り込んだ。しまった、プライドを傷つけたかなと僕がそう思っていると、宮本さんは再び口を開いた。
「それなんだがな、残念ながら俺はあの作品がそれほどのものだとは思っておらんのだ、実は」宮本部長は、重い口調でそう言った。思わず険しい表情になった僕に、部長はさらに続ける。「確かに、歴史的な部分は良く調べてある。背景に関してはリアリティもある。みんな、そこに惑わされてしまったんだろうな。しかし、いつも俺が言っている通り、労働者としての人間性が描けていない小説というものには、価値はないんだ。その点では、さっきも言ったことだが、あれは君の昔の作品と比べて何の進歩もない。だから俺は、敢えて感想をつけなかった。こうやって、直接言ってやった方が良かろうと思ってな」
「そうですか。あれは駄目ですか」知らず知らずのうちに声が低くなるのを、僕は自分でも感じていた。「でも、皆さんの感想は、どれも大変な好評でしたけどね。実際、『人間性が良く描けている』と言ってくれた人も何人もいました。そんなケチをつけた人は、宮本さんだけですよね」
「少なくとも、あの小説では、世の中の人たちに労働の何たるかを啓蒙することはできない。俺はそう思う。あれを読んで感想を書いた人は、みんな良く勉強している人ばかりだ。当然、下山事件のことも熟知している。それ故に、あの小説に描かれた事件の展開にリアリティを感じて、一種の錯覚を起こしたんだろうと思うな。きつい言い方になって済まないが、これは一種の内輪受けだ。それでは社会を撃つことは出来ん」
「内輪受け、ね」僕は苦笑して見せようとした。しかし、上手く笑えない。「貴重なご意見、感謝しますよ。でも、本当にそうでしょうかね。僕としては、高い評価をくれた、あの沢山の人たちの意見を尊重せざるを得ませんよ。部長には悪いですがね」
 ほとんど口を付けていない焼酎のグラスをテーブルのままに置いたまま、僕は立ち上がった。
「済みませんが、今日はこれで失礼しますよ。次回作に取りかからなければなりませんのでね。僕の作品を期待している皆さんのために。まあ、宮本さんも、早く僕ぐらいの評価が貰えるようなものを書けるように、頑張ってくださいよ。期待してますよ」
 宮本部長は悲しげな、そしてそこに映る相手を哀れむような目をして、僕のほうを見ていた。その視線を振り切るように、僕は昂然と胸を張って店を出た。

 帰りの電車でも、駅からの夜道でも、僕の体は震え続け、自分でもそれを抑えることが出来なかった。あの小説が内輪受けだって? そんな馬鹿なことがあるはずがない。僕は心の中で繰り返し繰り返し、宮本部長の言葉を打ち消し続けた。たかがたった一人の読者の感想に、何をそんなに必死になることがあるものか、そう考えてもみるのだが、どうしてもそんな風に割り切ることはできなかった。
 立証されなければならない。僕はそう考えた。僕が正しいということが、立証されなければならない。
 アパートの部屋に帰りついた僕は、ノートパソコンの電源を入れて、投稿サイトへと接続した。ただし、「文芸インターナショナル」ではない。以前検索したときに見かけた、他の投稿サイトへと接続したのだ。そこはかなり大規模なホームページで、様々なジャンルごとにそれぞれ掲示板が設置されていた。投稿されている小説の数も、「文芸インターナショナル」とは比べ物にならないほど多い。もちろん、その分作品のレベルは低く、小説の体をなしていないようなノイズ同然の文章が、大量に投稿されていた。
 僕は「文学」のカテゴリーを開いて、いくつかの作品を斜め読みしてみた。どれも、全く話にならない。個人的な感覚を箇条書き同然に羅列したもの、ただ小難しい言葉をもっともらしく書き連ねたもの、どの作品を取ってもそんなものばかりで、これを文学だと思って書いたのだとしたら、片腹痛いという代物が並んでいた。
 画面のポインターを「新規投稿」ボタンの上に合わせて、僕はマウスのボタンをクリックする。見ていろ。僕が、真の文学の姿を見せてやる。人間が描けていてこそ文学なのだということを、彼らに知らしめてやる。僕がこの手で描き出した労働者の姿は、必ずや彼らを撃つことだろう。そして彼らは目覚めるはずだ。そう、メーデー歌の歌詞の通り、「示威者」に起こる足取りが、未来をつぐる鬨の声を、彼らに上げさせることになるのだ。
 爆弾の投下ボタンを押すように、僕は「投稿確認」ボタンをクリックした。新着投稿作品の最上列に「轢断の常磐線」という見慣れたタイトルが表示される。そのタイトルは、まるで革命の旗の如く、他の作品群の上に君臨していた。

 もう焦りもせず、不安になったりもしなかった。明くる日一日の間、僕はごく平静な気持ちで、淡々と仕事を片付けることができた。昼休みには、会社の近くにある食堂で宮本さん達と顔を合わせたりもしたが、僕はまるで昨日の出来事を忘れたかのように、にこやかに挨拶してみせた。もう間もなく、この人は自らの過ちを認めざるを得なくなる。そう思うと、自ずと鷹揚にもなるというものだ。
 こうして、僕は悠然たる気持ちで仕事を終え、家への帰路についた。高架を走る電車の窓から、春霞に包まれた夕暮れの町を見下ろしながら、僕はそこに住む大衆のことを思った。逆光でシルエットとなったその家々の一つ一つに、平穏な日々の暮らしがあるのだろう。恐らく、文学などというものには普段触れることもないだろう彼ら大衆の、その心を動かすことが出来るような小説を、僕は書いていかなければならない。それが「目覚めた者」としての僕の使命なのだ。右手で掴んだ吊革に体の重みを預けながら、僕はそんなことを考えていた。
 部屋に帰り着き、夕食を終えた僕は、さてとばかりにノートパソコンの電源を入れた。どのような感想がついているか、確認してみるとしよう。
 例の大手投稿サイトにつなぎ、「文学」カテゴリーのページを開くと、投稿作品の一覧が、ずらりと画面に表示された。その画面を目にした僕の、マウスを持つ手が思わず止まった。「轢断の常磐線」というタイトルのその文字が、赤い色に変わっている。これは、この小説のトータル評価がマイナスになっていることを意味していた。あの小説の価値が分からない誰か愚かな人間が、批判的な感想をつけたらしかった。僕は慌てて、感想の一覧を開いた。
 十人ほどの読者が、この小説に感想をつけていた。そして、そのほとんどが「悪い」「非常に悪い」という評価を下していた。血の気が引き、頭の中が真っ白になるのを感じながら、僕はそれらの感想を片っ端から読んで行った。
「いきなり『メーデー歌』とか出てきて、何のことだかわけが分かりませんでした。それがどういうものなのか、ちゃんと説明が欲しかったなあと思います」
「人物造形が古すぎて全く共感できない。古典文学ならいざ知らず、現代に書かれたものである以上、もう少し読者が感情移入できるきっかけとなる要素が欲しい」
「主人公たちが、『労働者がいかにあるべきか』とかそんなことばっかり考えてるのが、まるで何かに洗脳されてるみたいだ。正直言って、読んでて気持ち悪かったな」
「キャラクターに魅力がなくて、読む価値がないとすぐに見抜いて、五行で読むのをやめた。勉強が足りないねきみは」

 闇の中に伸びる二条の線路の上に、僕は横たわっている。鈍く光るレールが、ひどく冷たい。やがてレールがため息のような音を立てて振動を始め、間もなくそれは大きな地響きへと変わる。彼方から、巨大な鉄の塊が煙と水蒸気を吐きながら近づいてくる。「D51 651」。弱々しく点る前照灯の下に取り付けられたナンバープレートには、そう書かれているはずだ。蒸気機関車は、線路の上の僕になど気づかぬまま、走り続けた。そして、まずはレール上を進む先輪が、僕の体を瞬時にして轢断した。続いて動輪、ロッドで駆動されるあの巨大な鉄の車輪が、熱い蒸気と共に通過していく。ごとん、ごとんという貨車の列は、いつまでもいつまでも続いた。そして貨物列車「869レ」が通りすぎたその後、赤茶けたバラストの上には、いくつもの部分に引き裂かれてばらばらになった、僕の体が転がっていた。

     *     *     *

「どうもこの作品からは、中産階級的な優越的視点が感じられてならないんだよなあ」いつものようにキュウリのラー油付けをポリポリとかじりながら、不破さんが顔をしかめる。「やっぱり、野坂君はまだ労働者としての自覚に欠ける部分があるんじゃないかねえ。まあ、君は大学出てるわけだし、どうしても特権的な意識が抜け切らないってのは仕方ないのかも知れないけどな」
 厳しい批判に、入社二年目の若い男性社員は、顔を赤らめてうつむく。
「大学出てるのが悪いみたいじゃないか、それじゃ」宮本部長が苦笑いする。「まあ、そこを気にする必要はないと思うぞ。そんなこと言や、永田君だって大学出のホワイトカラーだ。しかし彼の書くものに労働者としての視点が欠けてるなんて、ここに居る誰一人そんなことは思わないだろう」
「それはまあ、その通りですが」
「僕も早く労働者としての意識をしっかりと身につけて、永田さんみたいなものが書けるようになりたいです」
 そう言ってこちらを見つめてくる若手社員の視線に、僕は思わず身震いしそうになった。やめてくれ。そんな目で見ないでくれ。
「えれじい」での作品合評会は、全くいつもどおりの雰囲気だった。なのに僕は、空疎な気持ちになるのをどうしても抑えることができなかった。労働者としての自覚、階級闘争、生産手段の奪還、そんな言葉が全く何の意味も持たない世界。僕らの周囲には、そんな世界が広大に広がっていて、我々の議論など相手にもされないのだ。こんな狭い場所に寄り集まって、うだうだと話し合いを続けてみたところで、一体何の意味があるのだろう。
――いや、違う。あそこがひどいインターネットだった、それだけのことだ。あれが社会一般の代表というわけでは決してないはずだ。我々が続けてきたことには、きっと意味があるはずなのだ。
 いくらそう考えようとしてみても、心の奥底から湧き上がってくる巨大な気泡のような無力感を、僕はどうすることもできなかった。それを打ち破る力を持っていたはずの腕は、すでに車輪に引き裂かれて、枕木の上に転がっている。
 ハイボールのグラスを片手に、みんなの意見をうなずきながら聞いている宮本さんを、僕はじっと見つめた。あなたは、あなたなら知っているはずだ。教えてください。僕たちのやっていることに、本当に意味はあるのですか。労働者階級の輝ける未来などというものは、本当に訪れるのですか。
「そう言えば」不破さんが言った。「『文芸インターナショナル』のあの『示威者』って人、あれから全く見かけなくなりましたね。やっぱり、あれは宮本さんじゃなかったんですね」
「ああ、あれは俺じゃないよ」宮本部長がうなずく。「もう、彼があそこに姿を現すことはないかもしれないな。しかしもし、再び彼の作品が投稿されることがあったとしたら――それは、真に世界を変えるだけの力に満ちた小説が世に出る瞬間ということになるだろうね。実は俺も、その瞬間を待ち続けてるんだよ。革命が輝かしい勝利を収める、その時をな」

2011/04/27(Wed)20:07:32 公開 / 天野橋立
■この作品の著作権は天野橋立さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
えー、遅ればせという感じですが、僕も【輪舞曲】書いてみました。
課題として示された設定にできるだけ忠実な内容で、かつ他の人が絶対に書かないストーリーだろう、という小説を目指して書きました。しかし、我ながら妙なものを書いてしまった感じで、こういう企画というのは普段まず書かないようなものを書けてしまうという点が面白いですね。
僕は労働運動に深く関わったこともないし、左翼思想に傾倒してもいないのですが、こういう世界にノスタルジーを感じることも確かです。風物詩みたいになってた国鉄のストとか、懐かしいですね。
ちなみに、ジャンルに「ファンタジー」を入れましたが、このような人たちが現代に存在するという設定は、これは一つのファンタジーであろうと考えてのことです。ヒロイックファンタジー的なものを期待されたみなさんにはお詫びしておきます。(まあ、このタイトルからそういうものを連想する方はおられないでしょうけども)

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。