『雨の朝』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:黒みつかけ子                

     あらすじ・作品紹介
 その日、街は夕方から雨が降り続いていた。

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 その日、街は夕方から雨が降り続いていた。
 男は、鞄を傘代わりにして、広場を一目さんに駆け抜ける。外灯のあかりが、彼のひょろりと長い身長をいっそうひきのばす。上品なコートは雨に濡れてその色を一層濃くしている。水たまりに足を思いきり入れてしまい、頭のなかで舌打ちをする。でも男は走るのを止めない。広場を雨音が覆っている。街全体を雨が覆ってしまったようだ。
 広場の大通りをすぐにはいった立派な入口の家。表札には小さく金色のカラスの紋章が掲げられている。男はその前で、扉を強くうった。
「あけてくれ、ぼくだよ」
 すると、中から小走りに足音が近づいてきて扉が内側に引かれた。彼の妹がそこに立っていた。
「降られちゃったよ」
 彼が両手をぶらぶらさせて指先の水を飛ばすのに、妹は眉間にしわをよせる。
「ちょっと待って、いまタオルをもらってくるわ」
 彼女が小走りに姿を消すと、情けなさそうに靴を脱いで壁にたてかけた。それから靴下も脱いで両手に持った。先ほどの水たまりのせいで、それは絞れるくらいに水を吸っており重い。彼のまわりの絨毯のうえにだらしなく沁みを作った。
 母親がやって来て「さあ、上着を脱いで」と脱がしにかかる。彼はされるがままにしていた。上着を脱がされて、ズボンのベルトまで緩められるのを制して自分で脱ぐ。そしてすぐさま新しいものに着替える。
「夕食の準備が出来ているから、着替えたらすぐに来なさいね」
 母親は着替えるのを横目にその場から立ち去る。そして母親が部屋に入る前ふりむいたときに、微笑みかけるのを忘れない。
 男はある保険会社に勤めている若いサラリーマンだ。彼は仕事に対する堅実で、かつ時計のような正確さがあった。そのために、その年では不可能な昇進をその能力の高さでやってのけた。友人からは、「お前は機械のような男だ」とその能力の高さに対する嫉妬かからかわれることもあった。彼はそのたびに、今のようなどこか行き場のない弱々しい微笑みを投げかけて続けている。
 夕食には、年取った父親と母親、それから妹がきちんと座っている。彼はばつが悪そうに、背をかがめて席につく。 
父親はすでに退職している。母親は内職をしていたが、最近は肺の調子が悪い。妹はまだ高校に入ったばかりだ。家は十分に裕福であることが、家の中の調度品を見てとれた。四人で使うには広すぎる部屋に、母親の咳が苦しげに響き渡る。
 彼はサラリーマンでありながらも、毎晩のように小説を書いていた。夕食が終ってからの数時間と決めていた。そうして決めないと、次の日の朝早くに起きられない。寝ないで書き続ければ、仕事に支障をきたすのは目に見えている。いくらまだ書きたいと願っても彼は時計が鳴ると必ずその場でペンを落とすことに決めていた。そして、いそいそとペンを筆箱に戻し、名残惜しそうに原稿を引き出しにしまう。
 次の夜になるともっと書いていればとおもうこともあった。しかし、一家の担い手は自分であるのだと言い聞かせて、堪えてペンを落とした。既にその堪えはなくなっていた。時計が鳴ると同時に、彼は反射的に落していた。だから、この家には夜中に「カツン」と乾いた音が響いた。
 夕食を済ませて、彼は自室に上がる。八畳の自室には窓に向かって机といすが一つ、壁際にベット、反対側には本棚。それだけの、酷く閑静な部屋だ。
 彼は布団に寝転がり、目を閉じる。こうして目を開いたときに、仕事も何もかも無くなってしまえばどんなに楽だろうか。今も、耳の奥で彼をけたたましく呼びつける電話のベルが鳴っている。ベルが鳴りやまないのを案じて医者に相談したところ、一種のノイローゼだと診断を受けた。
 それでも毎日朝になれば仕事はこなさなくてはならない。
 彼には心の支えとなる恋人はいなかった。時折、友人に誘われて風俗街に行くこともあったが、どうにも女は彼に必要でなかった。ならば男か、と再びからかわれたがそれも違うのだ。しかし、何かを心の奥底で求めていることがあった。なにかに支えられてこれから行けるならば、自分の肩の荷はどれだけ楽になるのだろうかと。
 雑念をかき消すように勢いよく起きて、彼は机に向かう。引き出しから眠っていた昨日の原稿を引きずりだす。そして、最初のページから読み返していく。わが子を育てるようにして、はじめて挑戦した長編小説だ。昨日はその山場を迎えるところで文章が途切れている。最後の一文字を見た瞬間、どうして昨日のうちに書かなかったのかと後悔に苛まれる。しかしそれも一瞬のことで、またはじめからゆっくりと言葉を追いかけはじめる。
 部屋のスタンドを一つだけつけた部屋は薄暗く、彼の顔と原稿をほのかに照らす。クリーム色の壁にうすく影がひろがっている。彼の頭に雨が少しの隙間もなく降り続けていく。それから、自分の声が耳の奥のほうでずっとしんしんと言葉を紡ぐ。彼は原稿を破るようにしてめくると、新たな真っ白いページを黒い文字で少しずつ埋め尽くしはじめる。もっと、と彼は頭のなかで唱える。もっと、もっと、もっとだ。何にたいしてもっとなのかは分からないが、ただもっとなのだ。いつもは姿勢を正して一字ずつ書いているのに、その日ばかりは原稿に顔を付けんばかりに近づけていた。一字一句、自分の言葉を逃さないようにしているようにしているようだった。
 原稿をめくる、ペンを置く、書きだす。溢れだした言葉が自分の頭の中で声になる。がりがりがり、ベリッ。がりがりがり、ベリッ。そのスピードがどんどんはやくなっていく。がりがりがり、べりっ。雨は街全体を穿つように降り続ける。ふとその中に時計が鳴ってやいないかと耳を澄ます。しかし、鳴りやむことのない雨音はその意識さえも掻き消した。見えない何かに突き動かされ続ける男を雨音はやさしく包み込んだ。
 そして、最後の句点を打ったとき彼は思わず床にペンを落とした。その日の「カツン」は、誰にも聞えることはなかった。彼は背もたれにもたれて、腕をだらんと伸ばした。訳の分からない達成感とどこかでくすぶる不安が、彼の心を占めていた。手を握りしめて、また開く。それを何度も繰り返しているうちに、心地のいい疲れと柔らかな眠りが体全体におとずれた。
 しかし突然、それをかき消すように激しく扉を打つ音がした。あまりの激しさに、彼はまた幻聴かと耳を疑ったがそれも杞憂に終わった。
 顔を上げると時計はすでに朝の八時を打っている。外は白ばんでいる。窓の外で雨は降り続けているが、雲の向こうに確かに太陽は昇っているようだった。
「ちょっと、起きなさい。寝ているの。ねえ、どうしたの」
 母親は扉を思いきり叩ぐノブを壊れんばかりに回して、ヒステリックに叫び続けている。そのあとから、妹のかすれた声が名前を呼び、父親の野太い声が罵声を飛ばす。
「ああ、なんて朝だ」
 そう呟くと机に突っ伏した。原稿からはまだ乾いて居ないインクと新しい紙のにおいがしてくる。目の近くには先ほど打ったばかりの句点があった。彼はそれを指先で撫でてから、かるく目を閉じる。
 
 そして間もなくして、彼を叩き起こすような役所からの電話が家中に響き渡ったのだ。

2011/03/22(Tue)17:00:07 公開 / 黒みつかけ子
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■作者からのメッセージ
 「真夜中」「朝の雨」ともにフリーペーパーように書きました。
 今回はテーマは「朝の風景」で何篇か小説が載ったものを刊行しようと思ってます。はじめての試みで緊張しています、がんばります。
 

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