『平城京エイリアンズ・第二話「震える一月」』 ... ジャンル:リアル・現代 未分類
作者:中村ケイタロウ
あらすじ・作品紹介
「僕」と「お姉ちゃん」と家族が住む「日本で一番古い街」を舞台にした連作シリーズの第二話です。今のところ全7話を予定しています。SFではありません、基本的に。【http://novelist.eldorado-project.com/temp/viewer.cgi?mode=read&id=2008_08_28_00_37_42&log=20081130に、第一話「ミカと僕の夏休み」がありますので、あわせて読んでいただければ幸いです】
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第二話 震える一月
布団の中で、僕は何かに驚いて目を覚ます。
「何か」って何だ。一瞬、分からない。
重い低音。
耳鳴り?
部屋はまだ暗くて寒い。目に入るのは豆球の明かりと、CDラジカセの電源ランプと、光る時計の針だけ。六時前だ。
びりびりと震える地響きが続く。ダンプカーか。そう思ったとたん、窓ガラスが激しく鳴動しはじめ、僕は跳び起きた。
一呼吸置いて、大波が来た。すべてがゆれる。水平方向に強くゆさぶられ、古い家の骨組みがきしむ。電灯のひもが踊る。マンガを積んだ上に置いてあったミスチルのアルバムが滑り落ち、ケースから飛び出したディスクが畳をつうっと転がった。
僕はタンスが倒れてくるのを恐れて、毛布を引きずりながら部屋の隅へ這って逃げた。
階下でガラスが割れるような音がする。下は姉の部屋だ。原爆の映画を思いだし、頭から破片を浴びた姉を想像して心臓が縮んだ。
タンスは倒れなかった。揺れが止んでも電灯のひもはまだゆらゆらと振り子運動を続けている。僕は転がるように階段を降り、姉の部屋のふすまを開けた。
「お姉ちゃん!」
明かりのついた部屋には、誰もいない。ガラスも割れていなかった。
僕は土間に下り、冷蔵庫の前に立っている姉を見つけた。
跳ねた髪。眼鏡をかけ、パジャマの胸に通学カバンと制服のスカートを抱えている。冷たい三和土を踏む白い素足は、食器棚から落ちて砕けた陶器のかけらに囲まれていた。
僕の気配に気づいて姉は振り返った。
「トモちゃん、危ないよ。来たらあかん」
少し寝ぼけていたらしいけど、教科書を持って逃げようとした姉の心がけは立派だ。ランドセルを持ち出そうなんて、僕は夢にも思わなかった。十三歳の少女なら他にもっと大切なものがありそうなものなのに。
土間にぽつぽつと黒い血が見えた。姉は茶碗のかけらで足の親指を少し切っていた。
それが、わが家における震災の唯一の直接的被害だった。震源から七十数キロ離れたこの街の揺れは震度4で、被害らしい被害はほとんどなかったのだ。
家族四人は自然と表座敷のテレビに集まる。NHKは限られた情報をもどかしげに繰り返すばかりで、ただスタジオの緊迫感だけが画面からぴりぴりと顔を刺した。
「おい、これは東京は壊滅とちがうか」
父ははじめ興奮気味でそんなことを言ってたけど、具体的な状況が報じられ始めると次第に曇り顔になり、低い声を母と交わした。
「タルミのミッちゃんとこに電話しゃんな」
「通じひんかも知れへんわ」
血の気をなくした母と父は土間へ出て行った。当時わが家には店の黒電話しかなかった。姉が最初の携帯電話を持つのは五年後だ。
僕と姉は表座敷に残され、こたつに並んで口もきかずにニュースに見入った。画面には、誰もが直感的に恐れていた事態がありありと姿を現し始めていた。
明け方の街。粗い映像。ひしゃげた建物の前で、人々が腕を振り回して何か訴えている。傾いた線路で電車が身をくねらせている。落ちた高架道に押しつぶされたタクシーの横を、頭を低くした人々がくぐり抜けてゆく。
打ちのめされた街の光景。サラエボやヒロシマと同じくらい遠い場所、遠い時間の出来事に思える。でも、そうじゃない。
「……神戸」
姉はささやくように言って、こたつの中でそっとぼくの手を握った。姉の手は冷たかった。かえって僕を不安にさせるほど。
同じ関西とはいえ、小学生の僕にとって神戸は遠い街だった。ただ、家族で何度か訪ねた「タルミ」という土地がそこにあるのは知っていた。母の妹の倫子おばさん一家が住んでいる高台の住宅地。建設中の大きな橋がそびえる海峡が見下ろせた。
神戸市垂水区は、テレビによるとほぼ震源地だった。電話がつながるはずもない。
両親は垂水との連絡をいったんあきらめて、ほうぼうの親戚に電話をかけたが、神戸方面以外への通話もつながらなかった。
報道スタジオのざわめきの中で、アナウンサーは行方不明者の名を読み上げ始める。ヨシムラ・カヘイさん、シンセキ・ケンジさん、シンセキ・キョウコさん、シンセキ・アイナさん、キム・ミョンチョルさん、タバタ・コウイチロウさん、タバタ・リカコさん、トモコ・シュナイダーさん……。
果てることなく続くリスト。姉の細い五指にだんだん力と熱がこもってくる。山と海にはさまれた細長い市街地のあちこちで煙が上がる。握り合う手に汗がにじんだ。
ガラス障子が開き、母が白い顔をのぞかせると、姉は僕の手を放して身を乗り出し、触れると砕けそうな声でたずねた。
「お母さん。ミチコおばちゃんは? タカノのおじさんは? ……イサムくんは?」
母は力の無い声で「あそこの家は頑丈やし」とだけ答えた。姉は眉をしかめ、両手をみぞおちの上で重ねた。
湿った手をこたつの外に出すと、すーすーと冷たい。
お昼前にようやく電話がつながったのは、京都姉小路で饅頭屋を営む母の実家だった。
「おおきに、若畝堂どす」
涼しい返事で電話に出た祖母は、ニュースなど全く見ていなかったという。京都も震度5でかなり揺れたはずなのに。
庶民的な饅頭屋とはいえ、幕末以来の家業を継いで切り盛りしてきた祖母だ。物に動じないことを誇りにしているようなところがある。多感な少女だったはずの敗戦の時でさえ「アメリカはんやったら祇園で見たことあるわ。赤い顔したはったえ」とか「進駐軍て、大層らしい自動車に乗った舶来の壬生浪士みたいなもんどすな」などとうそぶいていたという。親類の集まりではいまだに語り草だ。
神戸の状況を懸命に伝えようとする母に、祖母は冷淡にもこう言ったそうだ。
「そやし倫子と鷹野さんにはせんど言いましたんえ。神戸はやめとおきやすて。神戸は前の大水害のときにも、鉄砲水でえらいことどしたやろ。昭和十三年どしたな」
「お母さん、今そんなこと言うてる時とちがうの。連絡もつかへんのよ」
「あの子はいつも連絡なんかつきしません。結婚のことかて、家のことかて、最後の最後まで親に黙って。だいたい鷹野さんかて、洛外とは言うても京都のお人どっしゃろ。何を好きこのんであんな遠い遠い田舎に住まんとあきませんのどすか。京都は千年王城の地、地震も台風もあらしませんのに。須磨浦いうたら、王朝の時分で言うたら都落ちどっせ」
母はあきれて、受話器を置いてからも泣きそうな声で「あれが母親の言うこと?」「信じられへんわ」と繰り返していた。十年以上たった今でも、母は祖母との間で何かいざこざがあるたびにこの話を持ち出す。
姉小路の祖母はそもそも倫子おばさんたちの結婚自体に反対で、うちの母などの親族のとりなしでしぶしぶ認めたらしい。くわしい事情はよく分からない。ただ僕や姉の結婚のときに京都が口を出して来ないことを願うだけだ。そんな時代でもないとは思うけど。
明くる十八日になって、倫子おばさんから電話があった。三人とも無事だと聞いて、母と姉は崩れ落ちそうなほどほっとしていた。
だけど、事はそれでは終わらない。
その夜、表座敷の石油ストーブの前でパジャマの姉が髪をふきながら僕に告げた。
「トモちゃん、イサムくんが来るで。イサムくん覚えてるやろ?」
覚えてる。鷹野勇は倫子おばさんの一人息子で、僕より三つ年上、姉の一つ下の従兄弟だ。でも小一のとき会ったきりだったから、背が高かったことや、人生ゲームで強かったことくらいしか印象に残っていなかった。
「言うとくけど、イサムくんの邪魔したらあかんで」と姉はつけ加えた。
なんとなく、いやな予感がした。
勇が来たのは三日後の土曜の夕刻だった。レジ番を命じられた僕が店で『謎の日本超古代文字』を読んでいると、目の前に父のカローラが停まった。助手席から降りてきたのは、黒いロングコートをひるがえし、革手袋の手にボストンバッグをさげた男の子だった。
そいつは、小学三年の僕はもちろん、中一の姉よりも明らかに背が高く、小学生には全く見えなかった。テレビで毎日見る気の毒な被災者ともまるで似ていないし、人生ゲームのイサムくんの印象とも一致しなかった。
少年は僕には目もくれず、古書の山と書棚の間を足早にすりぬけて店の奥に向かい、大人になりかけの低いかすれ声で言った。
「チカコ、俺や。来たで」
待ちかねていたみたいに、姉は暖簾をくぐって駆けて来た。ピンクのタートルネックにジーンズで、両耳の後ろで髪をとめたヘアゴムはサクランボのやつ。普段ならパジャマに褞袍(どてら)といったところなのに、大阪へ買い物にでも出るような格好だった。
「イサムくん。大丈夫やった? 怪我はない?」
「俺は大丈夫や。家も倒れんで済んだわ」
並ぶと、勇は姉よりもリンゴ一個分ほど背が高かった。上から顔をのぞきこむようにして姉に言う。
「でも家の中は滅茶苦茶や。俺の部屋もガラスだらけやしな。電気も水道も止まっとうし、塾も学校も休んどうし、受験勉強なんか、とても出来ん」
「イサムくん、中学受験するんやんな?」姉の目が輝いた。「私立やろ? すごいやん」
「まあな。でも、受けてみんと勝負は分からん。あと三週間しかないからな。大阪のヤツらは勉強続けとうやろし、こんな時こそ、俺らも休んでられへん。地震なんかに負けとう訳にはいかんねん」
僕は美術書コーナーの踏み台に腰かけて二人をながめていた。何やねんこいつ。「まあな」「勝負は分からん」やて。何を粋っとんねん。なんで小六のくせに中一を呼び捨てにできるねん。だいたい「続けとう」「負けとう」って何や。日本語か、それ。
「あ、そうや」思い出したように、姉が僕を指さした。「ほら、あれトモちゃん」
「おう、トモ。俺や。覚えとうか?」勇は革手袋の片手を上げた。「しばらく邪魔すんで。勉強するから遊んだられへんけどな」
覚えてへんわい、遊んで要らんわい、という言葉を喉の奥に落として僕はうなずいた。
「この子、もうすぐ四年生やねんよ。大きくなったでしょ?」
「ああ。俺は二年の時あんくらいやったな」
勇は笑う。姉はまっすぐに勇を見上げた。
「また伸びたね、イサムくん。もうわたしよりずっと高いやん」
「まあな」勇は白人みたいにちょっと肩を上げた。「そっちもな」
「うち、背はあんまり伸びてへん」
「でも、綺麗なった」
勇は得意顔で言う。姉は唇をとがらせた。
僕はその唇から「あほ。なに生意気言うとんねん」という言葉が飛び出すのを待った。
でも姉は少しうつむいて、眼鏡のつるに触りながら細い声で答えた。
「……そんなこと、ないし」
なんや、この雰囲気は?
地震か。地震の影響か?
勇が来たこと自体が、僕にとっては二次災害だった。勉強のために静かな環境が必要だとかで、離れの二階の僕の部屋を勇に与え、僕は母屋の奥座敷で寝るはめになった。しかもそれが三週間も続くという。
勇が風呂に入っているすきに、僕は台所で青ネギを切っている母に抗議した。
「なんで僕が部屋を出やんといかんねん。家が無くなったんはイサムの方やろ。蔵に閉じ込めて勉強さしといたらええねん」
母に口を開く暇も与えず、姉がホーローのカップで僕の頭を小突いた。
「言うてええ冗談と、あかん冗談があるわ」
夕食はすき焼きだったけど、五人で鍋を囲んでいる間、英雄気取りの勇の体験談を聞かされ通しだった。揺れでゴトゴト歩いて来る洋服ダンスをサッとかわしたとか、いつも須磨海岸でサーフィンをしているおかげでベッドから振り落とされずに済んだとか。アホらしいとしか思えなかったけど、両親は真顔で聞いていたし、曇り眼鏡をはずした姉も、うるんだ近視の瞳で熱心にうなずいていた。
「俺、温かい物を食うの、地震以来や」
そんな言葉さえ、勇が言うと自慢に聞こえる。その勇の器に、姉は肉や野菜をせっせと入れてやる。聞いたこともない優しい声で「このお肉はもうちょっと炊かんとね」とか「いくらでも食べてね」とか言いながら。
肉や野菜の陰に隠して味を染み込ませていた僕の豆腐も、姉の箸を逃れることはできず、やはり勇の口に入ってしまった。
その夜、衣類やCDラジカセ、教科書とノート、『寄生獣』の九巻など、身の回りの最小限のものだけ段ボール箱に入れて僕は部屋を明け渡した。勇は「すまんな」とか言ったと思うけど、僕は聞いてなかった。
母屋は古く、奥座敷は夜になると冷える。電気ストーブを置いても、欄間から染み込んでくる冷たい風はどうしようもない。
冷えた畳にごろんとすると、縁側のガラス戸越しに、中庭の向こうの離れが見えた。下は姉の部屋で、雨戸の間から光が漏れていた。二階の僕の窓も明るく、机に向かう影が見える。勇だ。本当なら、あれは僕なのに。
座敷机をずらして布団を敷き、明かりを落とす。床の間に掛かった薄気味悪い翁の絵をつとめて見ないようにしながら、僕は横になった。なかなか寝つけず、時々布団から抜け出し、障子を開け、雨戸の隙間から離れを眺めた。十二時ごろに姉の部屋が暗くなっても、二階の明かりはずっとついていた。
翌日は日曜だった。子供たちだけで買い物に出た。
駅前への近道を姉が案内した。勇は当然みたいにその隣を歩く。僕は二人に追いつこうとしたけど、自転車や単車に邪魔されて横並びになれない。ダッフル・コートの姉の肩で、短く二つに結んだ髪と赤いマフラーが、歩調に合わせて楽しそうに踊っていた。
格子戸とシャッターの連なる細道を、冷たい風が通る。霧吹きで吹いたような雨が時折混じった。電柱と電線と瓦屋根の間のグレーの空に、霞んだ五重塔が見え隠れした。
コートのポケットに手を突っ込んだ勇は、大またで歩きながら左右に目をやり、白い息を吐いた。
「なあチカコ、ここら辺の古い家みんな、震度6が来たら一発やで。道も狭いやろ。倒壊したら消防車も入れんくなる」
「そうよね」と姉は深刻な声でこたえた。「テレビ見て、わたしも考えてたの。うちも百年前の家やん? 震度4でもすごい怖かったわ。もちろんイサムくんの経験したことに比べたら、全然たいしたことじゃないけど」
「チカコ、足に怪我したんやろ? もう痛くないんか?」
「うん。……ありがとう」
「あの家、早く建て替えた方がええわ。俺から伯父さんに言うといたる。まあ、経験者の俺が言うたら説得力あるやろ。地震のたびにチカコの心配すんのも嫌やしな」
無知な奴。ここは第二種伝統的景観保全地区や。それにそもそも、むかし都だった土地に大災害は起こらない。古代人は自然の理を知り尽くしていて、四神相応の霊地に王城を築いたのだ。そんなことも知らんのか。
全て父からの受け売りなのだけど、僕は勇の後姿にそんな考えを投げつけていた。
私鉄のターミナルに近い小さなモールに当時あったS書店で、勇は参考書と試験問題集を十数冊買った。神戸の家は倒壊こそ免れたものの、壊れものが散乱して足の踏み場も無く、ほとんど何も持ち出せなかったらしい。
同じ通りにある大手スーパー系のファッションビルで、勇のパンツの裾上げを待つ間、僕らは三階の喫茶室で時間をつぶした。
注文を済ませ、姉がトイレに立つと、僕と二人になった勇はふっと力を抜き、テーブルに頬づえを突いた。
窓の下をあごの先で示して、勇は言う。
「ど田舎やな。見ろや、あの商店街」
冷たい霧雨の日とはいえ、駅に近い通りはそれなりの人出だった。ぽかんとしている僕にちらと目をやり、勇は邪魔くさそうに続けた。
「俺の欲しいもん何ひとつ無かったわ。本屋もショボい。服もダサダサ。いちおう県庁所在地なんやろ。元町や三宮とえらい違いや。ふつう駅前にデパートぐらいあるもんやで。大丸とか阪急とかそごうとか」
「ここ、デパートとちがうんか」
僕がつぶやくように言うと、勇は頬杖をついたままで肩を揺らし、低い声で笑った。
「はは、おもろい。これがデパートか。はは。お前、めっちゃおもろいな」
籐の椅子に、姉のコートとマフラーが畳んで置いてある。女はトイレが長いから嫌だ。
コギャルっぽい茶髪のウェイトレスが来て、僕らのテーブルにコーラとコーヒーとフルーツパフェを置いていった。そのエプロンの後姿を、勇は目で追っていた。
姉の前で言えない言葉が、僕の口からこぼれ落ちた。
「……神戸に帰ったらええやろ」
「おう。帰るで」
あっさりした答えに、僕の方が驚いた。勇はコーヒーを傾ける。
「でも今はしゃあない。遊びに来とう訳やないからな。あと三週間。入試さえ終わったら、電気もガスも無くても俺は帰る。デパートも無いような、こんな淋しいところにおれるかい。俺は帰るで、神戸に。当たり前や」
僕は黙っていた。姉はまだ帰って来ない。
勇は首を振って、カップを置いた。
「それより、なあトモ。お前の姉ちゃんのことやけどな」勇はテーブルに身を乗り出して声を潜めた。「あいつもうすぐ中二やろ。……胸、あるんか?」
「何やて?」
「だから、胸や。女の胸や。コートとか着ようからよう分からんねん。どや? そろそろふくらんで来とうか?」
「知らんわ、そんなん」と僕は吐き捨てた。
勇は真剣で、それが僕には気持ち悪かった。男が姉に異性としての興味を寄せる場面に、僕はその時初めて出くわしたのだと思う。
「お前一緒に住んどうねんから、見ることあるやろ。多少は大きなって来とうはずや」
「うっさい。ええ加減にせえ」顔が熱くなって、僕は声を荒らげた。「お前、姉ちゃんのこと好きやねやろ」
その一言でやり込めたつもりだった。でも勇は僕の目の中に何か面白いものでも見つけたみたいにニヤリと笑った。
「さあな。それはチカコに聞いてみ」
何か言い返そうと口を開いたものの、一言も出ない。勇は満足顔で大人みたいにコーヒーをすする。僕はコーラのストローを噛んだ。
戻ってきた姉は何か感じたらしく、ハンカチを握ったまま椅子の後ろで足を止めた。
「イサムくん、トモちゃん、どうしたん?」
僕と勇は示し合わせたみたいに姉のセーターの胸元に目を向け、顔を見合わせた。
「……何も無いよな」
「うん。何も無い」
「変なの。二人でなんか悪いこと考えてるんやろ」
レンズの反射で目の表情は分からなかったけど、怒ったような声と裏腹に、口角をきゅっと上げた姉は楽しそうだった。勇も含みのある笑みを浮かべていた。遠くのテーブルで女子高校生たちの笑い声がはじけて飛び散る。浮かない顔は僕ひとりだった。
それから一週間は、でも、何も起こらないままに過ぎた。余裕が無いのか、興味が無いのか、勇は大仏さんすら見に行かず、部屋に(僕の部屋に!)こもりっきりだった。二階の明かりはいつも姉の部屋より先に消えた。姉と僕は通常通りに学校へ行った。
普段は小学校から帰るとすぐにテレビをつけていた僕だが、震災報道が続いたこの時期のテレビは恐ろしかった。
もちろん地震のニュース自体も怖かった。死者は暗闇を転げ落ちるように増え、たちまち五千を超えた。何万もの人々が傷つき、凍えと悲しみの底で憤りに震えていた。でも僕をもっと不安にさせたのは、日頃と全く違う放送内容が生む非現実感だった。
在阪各局は通常番組の多くを中止し、企業もCMを自粛していた。ひたすら続くニュースの合間には「ニッポン全国ポイ捨て禁止!」のマナー広告や、袈裟をまとった寂庵さんが「人間と人間の助け合い」を呼びかける公共メッセージなどがループされた。
それはブラウン管の窓を通して見ていた「外の世界」が全て滅びてしまったような、寄る辺ない心地だった。
父はそんなテレビをずっと見ていた。暇さえあれば原稿用紙を広げて歴史小説でも書いていた父が、レジ横に液晶テレビを置いて、客が来ても目を離さなかった。
僕はテレビから離れた。表座敷に人がいなければテレビゲームで遊び、誰かがニュースを見ていれば奥座敷に引っ込んでヘッドフォンで音楽を聴いていた。
苦痛だったのは、勇と接する数少ない機会となった夕食だった。異様なことに勇は毎晩全く同じ話を繰り返したのだ。
「洋服ダンスが、ごとごと歩いて来よんねん。マジびびったで」「いつも須磨海岸でサーフィンしようからな。うまいことバランス取ってベッドから落ちんかったんや」
紅い頬で、一字一句違わない武勇伝を夜ごと披露する勇。まるで初めて聞くみたいに真剣にうなずきながら聞き入っている両親と姉。夕食の席は、明け方の悪夢に似ていた。
そして一月は残り数日になった。
みぞれの降りだした土曜の夜、シャッターを下ろした店で、僕は星新一の短編集を小脇に抱えて考古学書を漁っていた。売り物の古本を部屋に持ち帰って読むことを、父は僕らに許していた。
静かだった。表座敷は無人でテレビの音もしない。棚の前にしゃがみ、凍りかけたしずくの落ちる音と、虫の羽音に似た電気ストーブのうなりを聞きながら、コトコトと本を出し入れするのは心地よかった。
ふいに、何かが耳の奥をくすぐった気がして、僕は手を止めて耳を澄ませた。
しんとした空気に、さざ波が立つ。
気のせいじゃない。風でもない。忍び寄ってくる低い音。靴の底からも。
足元の震動は徐々に強まり、ガラス障子がぴりぴり鳴りだす。僕は立ち上がり身構えた。
でも揺れはそれより大きくならず、遠くから聞こえてきたのは、ごろごろと回るエンジン音だった。裏の旧街道に大型車が入り込んできたらしい。珍しいことじゃなかった。
胸の息を吐いた瞬間、たーん、と障子の開く音が響いた。土間を駆けて来る靴音に、驚きの声をもらす暇もなかった。暖簾をつき破るように、転げそうな勢いで勇が飛び出してきた。
「いま揺れたやろ。なあ、揺れたよな?」
裏返って悲鳴に近い勇の声に、頬がゆるむのを僕は隠せなかった。
「地震とちゃうで、イサム。でかい車が通っただけや」
ディーゼルの音が遠ざかる。コートとバッグを抱え、青い顔で勇は立ちつくしていた。
ふふん、と僕は鼻から笑いをもらした。
「よう聞いてみ。車の音や。あんなんが怖いんか?」
勇は暗い眼をして頭を振ると、きびすを返して暖簾の向こうへ消えようとした。その背中に、僕はさらに声を浴びせた。
「かわいそうやから、お姉ちゃんには言わんといたるわ」
暖簾の前で歩みを止め、勇は振り返った。その眼差しには悔しさも気恥ずかしさも無く、寒々とした憐みに近い色があった。
「言うてもええで。チカコにやったら」
胸が冷たくなった。喉をしめつけられるように感じながら、僕はなおも言った。
「ほんまにええんやな。お姉ちゃんめっちゃ笑うで」
「チカコはそういうことでは笑わへん。お前とはちがう」
投げ返す言葉が見当たらない。勇の目から緊張が消えた。バッグを置き、近づいてくる。
「なあトモ。俺はお前がまだこの世におらんかったころから、チカコのこと知っとうねん。お前が生まれた時、あいつは姉小路の家に預けられて俺らと一緒に暮らしとったんや」
「だから何やねん……」
僕の声は尻すぼみだった。勇は膝を曲げて視線を下げ、僕の眼をのぞき込んだ。
「知っとうか? いとこ同士は結婚できるねん。これは衆参両院で決まっとう法律や」
「結婚? あほくさ」僕は笑い飛ばそうとした。「小学生やろ、自分」
「チカコは今十三歳や。今年の九月には十四や。そしたらあと二年で十六。結婚できる歳や。これも法律や」耳打ちするような小声で勇は言う。「考えてみ、姉小路のトシコ伯母さんに子供がおらんやろ? せっかくヤス伯父さんが婿に入ったのに、若畝堂の跡取りがおらんねん。どうしたらええ?」
僕は首を振り、半歩さがってゴムの靴底を踏みしめた。勇の顔にははっきりと喜色が浮かんでいた。
「簡単なことや。俺があいつと結婚して、姉小路の家も店も継いだらええねん。二人ともお祖母ちゃんの孫やし、文句無しやろ。お祖母ちゃんは本気やで。京都の親戚はみんな若畝堂を他人に渡したないて思っとうしな」
話が急に現実味を帯びた気がした。お姉ちゃんと勇が夫婦になって、姉小路の店を継ぐ? お祖母ちゃんがそんなこと言うたんか。それで勇がうちに? そんなこと母さんが認めるか? お父さんは? 許すはずが無い。
「まあ、それはとりあえず先の話や。今回はそのために来とう訳やないしな」
大型車の震動におびえていたのが別人だったみたいに、勇は大きく暗い影になって、僕の前に立ちはだかっていた。僕は唾を飲む。勇は暖簾の向こうをちらっと見やってから、目を細くした。
「これもええ機会や。お前には教えといたる。俺はあと十日ぐらいここにおる。十日あれば、まあ充分やろ。帰るまでにチカコとは、そやな、まあキスぐらいまでは行っとく」
「あ、頭おかしいんちゃうか」笑おうとしたけど、僕の頬は寒さで動かなかった。「そんなことしたら、お姉ちゃんめっちゃ怒んぞ。殺されるぞ」
「いや、チカコは怒らん。俺には分かる」
そう言うと勇は僕からすっと離れ、そのまま暖簾の向こうへ消えた。
結局、星新一の本だけ持って奥座敷に戻り、畳に寝転んで開いた。でも僕の集中力はすぐにページから剥がれて、名前の無いもやもやとした辺土へと漂ってしまう。
風呂に入って寝ることにした。
マフラーを巻き、着替えを抱え、土間の裏口から裏庭へ出た。古井戸と物干し場にみぞれ混じりの風が舞う。吹きさらしの渡り廊下を靴下の足で踏むと、冷たい板がきしんだ。
裏庭のいちばん奥で土蔵に寄り添うプレファブ小屋が風呂場だ。昔は風呂が無くて、近くの山門湯に通っていたらしいのだけど、姉が生まれたとき存命だった祖父が「女の子やから」と作らせたそうだ。
渡り廊下の中ほどで、僕の足が止まる。
蔵と風呂場との数十センチのすき間から、湯気があふれている。浴室の窓が開いているのだ。湯を使う音も聞こえる。湯気は電灯のオレンジ色にぼんやり染められ、夜空へ上がりかけては風にかき消されていた。
僕は舌打ちした。生活リズムがめちゃくちゃだった。余計な奴がひとり増えたせいだ。
冷たい頬にみぞれが降る。やり場の無いいら立ちを抱いて母屋に戻ろうとしたとき、離れの二階の明かりが消えているのに気づいた。
すると、入浴中なのは勇か。
冷たい悪意が頭をもたげるのを、僕は抑えられなかった。あいつ、畜生。誰の家やと思うとんねん。
勇がトラックの音におびえていたことを、姉にぶちまけてやろう。ちょっと大げさに、レジの下に隠れたとか、小便ちびったとか言って、お姉ちゃんと一緒に笑ったる。
素晴らしい思いつきに血が騒いだ。くけけけ、と子供らしく邪悪に笑いながら、僕は土間から離れの上がり口へ跳び上がり、ふすまに手をかけて、一気に開けようとした。「お姉ちゃん、イサムがなあ」と叫ぼうとした。
けどその前に、中から声がした。
「――二等辺三角形や」
姉の声ではない。僕はふすまに耳を寄せた。
「そう」と今度は姉が答えた。「ACとABが等しいの。でもここは直角にならへんよね? だから斜線部は」
「そうか、ひし形」
「ピンポーン。ね? 簡単やろ?」
「おう。やっぱチカコはバリ頭ええな。感心するわ。美人ってだいたいアホやのにな」
「なによ、もう。真面目にしないんやったらもう教えたげへんよ――」
朗らかな姉の声の途中で、僕は静かにそこを離れた。
夜が深まると、表座敷はますます寒くなった。毛布二枚と掛け布団をかぶっていても、床下の冷気は畳から染み出して、背中を丸めた小さな僕の身体を捉えた。雨雪の音が耳を濡らし、僕は怖い夢を見た。濁流に飲まれ、声も出せずに流されていく僕を、誰も振り返らなかった。何度も目を覚ました。
雨樋を流れる水音は、やがて聞こえなくなった。
結局その夜僕は風呂には入らず、服のままで、雨戸も閉めずに眠ったのだろう。翌朝家を出る前に着替えたとも思えない。
そしていつもとちがう朝のまぶしさに目を覚ましたのだ。
気がつくと、奥座敷は乳白色の光に満ちていた。中庭からの光が障子紙を通して天井まで照らしている。何が起きたのかすぐに分かった。
飛び起きて障子を開け放つ。視野いっぱいに白いものが輝いた。
中庭の松も、離れの屋根も、まぶしい結晶に柔らかく覆われている。たいした厚さじゃない。地面のところどころに草の先端が出ている。でも全ての場所に降り積もっていた。
空は青い。屋根の上ではもう朝の日射しに融けはじめ、しずくになって軒端から垂れていた。
鉄道会社は白い冬景色のポスターを毎年バラまいているけど、実はこの街でこんなことは年に数日あるか無いかだ。めったに見られない清らかな世界に僕は有頂天で、靴下のまま土間を駆けぬけ、勢いよくふすまを開けた。
「雪や! 雪つもってんで、お姉ちゃん!」
部屋は蛍光灯がついたままだった。ベッドで毛布にくるまった姉が重たげに頭を上げた。眼鏡が鼻に引っかかっている。
「ん、トモちゃん……? 今、何時……?」
僕の胸は一瞬のうちに冷え切っていた。
お姉ちゃんの他に、もう一人いる。僕は気づいていた。気配っていうか、たとえば匂いみたいなものに。
参考書の広げられた机に突っ伏して、そいつは眠っていた。背中に掛けたオレンジ色の毛布は姉のものだ。眼の周りが熱くなる。お姉ちゃんの机で、寝ている。勇が。
「地震じゃ」と叫ぶと、僕は勇の椅子の背もたれを両手でつかみ、力まかせに揺すった。「イサム、起きろや。地震や。はよ逃げろ」
「トモちゃん? 何すんの。やめなさい」
身を起こした姉はもうはっきりと目覚めていて、その声は年長者としての威厳さえ帯びていた。僕は余計にムカついて罵声を彼女に向けた。
「うっさい。なんでコイツが姉ちゃんの部屋で寝とんねん。おかしいやろ。お母さんに言うからな、お前がコイツと一緒に……一緒の部屋で寝とったって。言うしかないやろ、こんなん」
「あんたなあ」
姉は眼鏡をなおし、ベッドを出て僕の前に立った。紅い頬に、結んでいない髪がぱらぱらとかかる。パジャマの身体からお姉ちゃんの匂いがすごくした。
「イサムくんはね、昨日、夜中までずっと勉強してて、疲れてつい寝ちゃったのよ。見たら分かるやろ?」
「分かるか。知るか」
「なあ、なんでもっとイサムくんに優しく出来ひんの?」
姉のため息が、僕を逆上させた。お前こそ、なんでそんなにこいつに優しするんや。どういうつもりや。
勇が顔を上げて、口を開いた。
「ええねんチカコ。かまへん。トモの気持ちも分かる。女の部屋で寝てしもた俺も悪い」
「分かって要らんわい」弾けるように、僕はわめいた。「えらそうに言うなボケ。ええ格好すなカス。早よ神戸帰れ。言うといたるけどな、神戸なんて、もうあれへんのじゃ。デパートも何も、もう全部ぶっ潰れてもうとるわ。テレビで見たわ」
勇は答えず、ただ「困ったな」という顔をしていた。僕は姉に向き直って、つばを飛ばしながらまくし立てた。
「こいつが何でお姉ちゃんの部屋に来るか言うたろか。勉強のためとちゃうぞ。お姉ちゃんが好きやからと違うぞ。地震や。地震が怖いからや。ひとりでよう居らんねん。こいつ、車が通っただけでも、地震や思ってびびっとんねん。アホやでアホ。アホ。あははは」
「智弘!」
笑う僕の頬を、衝撃と熱が走った。
「あんたがそこまで馬鹿やと思わんかった」
下あごを血が伝うのを感じた。姉の爪は思いもよらない鋭さで、僕の頬の皮膚をえぐっていた。滅多に手を上げたりしない姉だ。平手打ちのつもりで手元が狂ったのだろう。
「……あんたみたいなん、おらん方がええ。出て行き」
青い唇を曲げた姉の、ぶるぶると震えている肩を、僕はベッドにどんと突き倒すと、後ろも見ずに土間へ跳び降り、運動靴を引っかけて駆けだした。
雪と泥のぬかるみになった道を歩きながら、僕はぼろぼろ泣いた。涙が頬の傷にしみた。まだ血が出ていた。シャツは昨日のままで、上着は着ていなかった。寒かった。
いつしか家並は途切れ、僕は広大な公園に足を踏み入れていた。奥山の聖なる原始林へと続く木立の足元、蹄の跡が散らばった雪をゴム底の靴形で汚してゆく。
一足ごとに、森は静かに、暗くなる。やがて人影も消え、獣の気配だけが残った。
もう戻れないほど深い森の奥まで来たのではないか。
そう思った僕をあざ笑うように、小ぎれいな公衆トイレが姿を現す。むきになってさらに歩む。分かれ道では、できるだけでたらめな方角を選んだ。木々はますます高く、日差しはかそけく、僕の身体は冷たく、さらに冷たく、体温を剥がされていった。
寒い方がいい。それが姉への仕返しになる。
やがて、光でいっぱいの視界がひらける。
明るい海の色をした空の下には、色が無い。滑らかに波打つ雪の原の向こうに、凍ったように静かな灰色の水面が広がる。その対岸は黒い森だった。
僕しかいない。
たぶん僕はただ公園の中をぐるぐると巡っていたのだろう。たどり着いたのは、いま思えば鷺池か荒池だったのだろう。晴れた午後には観光客がぶらぶらする場所だ。でもそのときは、人跡未到の神秘な湖水にでも出会ったように思えた。
大きな平たい石をみつけ、雪を払って座った。膝を立て、目を閉じる。裸でいるみたいに背中が冷たい。身体の奥から震えが来る。こんな状態が一時間も続けば、僕は凍えて死ぬのだろうか。そしたら、あんな姉でも泣いて後悔するだろうか。
背後の草むらで何かががさごそと動き、僕は息を殺した。
小さな足音が、注意深く雪を踏みながら、僕の前に来て止まった。僕は目を閉じてうつむいたまま、何かが起こるのを待った。
そしてひとりの少女が、僕の冷たい肩に細い腕を回し、僕の頭をダウンジャケットの胸に抱き寄せ、僕の髪に頬ずりして「ごめんねトモちゃん。お姉ちゃんが間違ってた」と温かい息でささやいたりするようなことは、いくら待っても無かった。
足音は姉のものではなく、もそもそした冬毛の若い獣だった。秋に角を切られた跡がかゆいのか、石にごりごりとこすりつけると、首を振り振り森の奥へ帰っていった。
それから、僕はどうなったのか。
別にどうもならなかった。
意識が遠のくこともなく、身体が凍てつくこともなく、ただ寒いだけだった。日が高くなると、ゆるみ始めた雪をカメラ片手の観光客がぺしゃぺしゃと踏み荒した。
静けさを奪われた池を離れてあてどなく歩くうちに、見覚えのある茶店に出た。空気で膨らませたビニールの動物を軒に吊るして売っている。緋毛氈(ひもうせん)を敷いた縁台にお年寄りと並んで座った幼い女の子が、缶紅茶で両手を温めていた。
僕はなんだかアホらしくなって、泥みたいになった雪を踏んでまっすぐ家に帰った。
店は無人だった。表座敷からはテレビの声が聞こえた。誰も僕を出迎えなかった。
頬はもうほとんど痛まない。蛇口をひねり、お湯が出るのを待って血の跡を流してしまうと、鏡を見ても傷はよく分からなかった。
全てはいつも通りだった。夕食の席で顔を合わせた姉は、かすかに「すん」と鼻を鳴らし「トモちゃん、のりたま取って」と言った。勇はいつもの勢いでしゃべりつづけた。
その夜もまた、風呂場へ行こうとすると、誰かが先に入っていた。窓から流れ出た湯気が、雪の残った裏庭の上でねじれていた。
風邪はひいたけど学校を休むほどじゃなかった。積もった雪は翌朝には消えた。勇は僕の部屋で受験に備えた。裏庭で黒っぽく汚れていた融け残りも三、四日のうちに消えた。
姉の変化に気づいたのは、風邪が治ったころだった。
たとえば、夕食の席でふと視線を感じて顔を上げると、姉がレンズ越しの目配せを僕に送っていたりする。そしてそんなとき、姉のふっくらした唇には、彼女が時々見せるあのぞくっとするような冷笑があるのだ。
勇は夢中で話しつづけ、例の名調子でサーフィンのくだりに差しかかる。姉は目もくれず、相づちも打たない。ただ無言のうちに、冷酷な薄ら笑いで僕に共感を求める。
――ほらトモちゃん、また始まったわ。例のあれ、サーフィン。うふふふふ。
そんなことが続き、いつしか姉は勇と全く口を利かなくなっていた。勇が話しかけても「んー」とか「ふん?」とか生返事だけで、顔も見ない。
僕はだんだん不安になった。
あいつ、ほんまにお姉ちゃんに何かしよったんと違うか。キスか? それとも……。
それ以上のことについて、僕にはあいまいな認識しか無かった。だからこそ僕の不安は痛みを伴った。姉は常に僕より上にいて、僕を傷つけたり守ってくれたりする存在だった。誰かが彼女を傷つけたり汚したりするなんて考えたこともなかった。
入試当日の朝も、姉から勇には「がんばりや」の一言さえ無かった。
建国記念の休日も姉は部屋にこもりっきりだった。僕は座敷でゲームをしていて、父に引っ張り出された。
三条通りのゆるい坂をJRの駅までおりてゆく間、僕は無言だった。父と勇は阪神間の交通事情についてぽつぽつと話した。鉄道は神戸の手前で不通のままだから、垂水までは迂回ルートで半日かかるという。
駅は当時まだ和洋折衷の旧い建物で、厚着の人達がのそのそ行きかうコンコースの中央には、サモトラケのニケ像の大きなレプリカがそびえ立っていた。翼を広げた勝利の女神の足元で、勇は父に向き直って頭を下げた。
「伯父さん、お世話になりました」
「ああ……」大人のくせにこういう場面が苦手な父は、もごもごと口の中で答えた。「まあ、気ぃつけて、な」
「トモ、いろいろすまんかったな」
何がすまなかったのかと聞く気も起こらず、僕はただぎこちなくうなずいた。
革手袋の右手が、僕の前に差し出される。握手なんか嫌いだ。何のためだか分からない。そう思いながら僕はその手を握り、込められた力の弱さに驚いて顔を上げた。
「じゃあな」
手が離れた。勇は壁の大時計に顔を向けたままコートをひるがえして改札口に消えた。
あいつ、お姉ちゃんのこと何も言わへんかった。
間もなく大阪行き区間快速は出てゆき、僕はまるで旅立ちに取り残されてしまったような心地で家路をたどった。ゲームの続きのことぐらいしか考えられなかった。
表座敷のガラス障子を開けると、むっと暖かい空気が押し寄せてきて、電子音と親密な匂いに包まれた。
何や。部屋におったんとちゃうんか?
石油ストーブをがんがん焚いた座敷に、タンクトップに短パンの姉が、コントローラを手に、白い脚をチョキの角度で投げ出して寝転がっていた。
ブラウン管では、まるっこい機体が赤い砲弾を巧みに避けてぴこひゅーいと飛行する。ボタンを連打する姉の腕のひくひくと一緒にタンクトップの下で震えている、二つのふくらみの存在に、僕はもちろん気づいていた。
「あいつ、帰った?」
姉が尋ねる。画面がリセットされた。
「あ……うん。帰った」
「よかったぁ。他人がおらんと気楽やわぁ」
姉はころんとうつ伏せになり、細長い脚をばたばたさせた。髪がはらりと畳に広がる。
「あんなアホがうろうろしとったら、鬱陶うてしゃないわ。なあ、トモちゃん」
「……うん」
「キショいねん」
「……そやんな」
部屋に上がりもせず立ったままの僕に、姉は数秒眉をしかめ、畳をぱんぱんと叩いた。
「ほら。寒いし。そこ閉めてこっちきぃ。対戦すんで」
画面の中で"2 Players Mode"の字が白くなった。
夕食までの間に、四本のゲームでお姉ちゃんと計十九戦交えて、僕は十七回負けた。
こうして、わが家における大震災のささやかな影響は終息した。
勇を無視するようになった理由を、姉は教えてくれなかった。知ったのは偶然だ。
二か月ほど経った三月十九日の夜、姉の部屋の前で、僕はふすま越しに母の声を聞いた。
「チカちゃん、それほんまやの? 雪が落ちた音やったのとちがうの。はっきり見たん」
「そんなん、見やんでも分かるもん。振り返って確認なんかしたら、逆にこっちがバッチリ見られてまうやん」
聞き耳を立てているうちに話が分かってきた。あの雪の後の夜、誰かが窓から姉の入浴をのぞいたというのだ。
風呂場の窓は通気のために少し開けてあることが多い。外は数十センチを隔てて土蔵の壁だから、姉が感じた視線が本当だとしたら、そいつはわざわざ浴室と土蔵の隙間に入り込み、窓のすぐ外に立っていたことになる。
姉は振り向かず、大声も出さず、体を縮めてそのまま湯船にすべりこみ、気配が消えるのをじっと待った。
短い間だったにしても、そいつは見たのだ。オレンジにきらめく、湯気の中の、細い、滑らかな身体を。
ホームズの愛読者だった姉は、翌朝早くから雪の上を調べ、裏口から風呂場の窓の下まで往復しているスニーカーの跡を見つけると、少女探偵の目をきらり光らせた。
一致する靴を探すのは簡単だった。
ふすまの向こうの姉はまるで世慣れた大人の口ぶりで、母をなだめるように言う。
「お母さん、大騒ぎしゃんとったってな。どっちみち身内の恥やし、京都のお祖母ちゃんの耳にでも入ったら、またややこしいよ」
「そやけど、ねえ、やっぱりあの子自身のためにも……」
「男の子って、どうせそういうことするもんやん。しゃないわ。あんまり言うてあげたら、イサムちゃんかてかわいそうよ」
僕は頬が痛いほどの笑みを押さえきれなかった。「イサムちゃん、かわいそうよ」やて。「どうせ、そういうことするもんやん」やて。笑ける。めっちゃ笑ける。イサムお前、めっさおもろい。
今でさえどこか男を寄せ付けにくい潔癖さを残している姉だ。ああ言いつつも頬を引きつらせていたのだろう。でも僕はそんなこと思いもせず、軽やかに階段を踏んで部屋に帰り、遠い首都の不吉なニュースに揺り起される朝まで、暖かい布団でぐっすりと眠った。
それきり、家族の間でその話が持ち上がったことはない。
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さて、この物語をここで終えてもかまわないだろう。
僕はペンを置く。
午前二時を過ぎた。階下の姉の部屋からは物音ひとつしない。
書くことをやめて、少しだけ正直になってみようと思う。
本当のままを文章にするつもりだったのに、僕の作りあげたストーリーはとても不正確だ。古い記憶は切れ切れでとりとめない。行方不明者の名前、数学の問題、姉の服装、ゲームの回数。そんなの覚えてるわけがない。一本の筋書きとして物語るためには、つながらない場面を切り捨てたり、小さな嘘を挟んだりするしかなかった。
たとえば「ダッフル・コートの姉の肩で、短く二つに結んだ髪と赤いマフラーが踊る」なんて書いた。けどこれは姉ではない。ドイツ語クラスの武田さんの後姿だ。昔の姉と同じ髪型だったので記憶のすき間にはめ込んでみた。不思議と違和感が無い。
それから、こんなことも書いた。
「タンクトップに短パンの姉が、白い脚をチョキの角度で投げ出して寝転がっている」
これは確かに姉だ。部屋のにおいも、Aボタンの連打も、震える弾力も、覚えている。
でも、本当に一九九五年二月十一日の記憶なのか。雪のちらつく季節にあんな夏服でごろごろしてたのか。十三歳の姉にあんなにくっきりしたふくらみがあったのか。
分からない。
暗い部屋で布団にもぐりこむ。畳の下でかすかな音楽が始まる。お姉ちゃん、まだ起きてるらしい。遠い耳でベースを追い、姉の部屋のCDラックを思い浮かべてみるけど、どの曲か分からない。ただの音の連なり。
眠れないこんな夜なら、僕は階段を降りてふすまを叩き、本当のことをすっかり話せそうな気がする。家族の間には、そんな夜が三年に一度くらいあるものだ。
でも、何だ、本当のことって?
又従姉のユイちゃんが京都のさる神社で結婚式をあげたのは去年の秋。折悪しく父の入院と重なり、古本家からは僕だけ出席した。
参集殿での直会の宴で、むっくり太った色白の青年が隣に座った。新郎の親族かと思ったら、そいつは満面の笑顔で僕にふるふると両手を振り、芝居がかった標準語で言った。
「おやこれは智弘クン。元気してるかネ?」
草津の大叔父に聞くまで気づきもしなかったが、それが鷹野勇だった。今は理系の院生らしい。
「ジャーン!『ぷにぷにうみんちゅー豪儀なハテルマたんDVDボックス初回特典ソフビ青ヤシガニ付き』を購入したのであーる!」
菓子職人の花婿とユイちゃんが若畝堂を継ぐという話で宴はもちきりなのに、勇の趣味の話は延々と続く。僕は半分も分からない。
「くっはあ! するとおヌシあの『ハテルマたん』の存在すら知らヌと? トホホ……」
おいマジかい。「結婚」だの「キス」だのと、こいつが言うたんか? ほんまに?
勇が変わったのか。僕の記憶が変質していたのか。どちらにしても、十年って長い。
仮定の話をしてみよう。何が本当か知るための、いわば補助線として。
たとえば、一九九五年一月のある夜。昼間の彷徨で冷えた体を風呂で温めようと、僕は少し早めに奥座敷を出た。
と、仮定してみる。
土間は氷のように冷たいだろう。いつもの癖で裸足なら、誰かが脱ぎっぱなしにした靴に、足を突っ込んだりしたかもしれない。
裏庭に出ると、さらさらと湯の音がする。オレンジに染まった湯気が浴室から湧きあがり、軒端の雪を融かしながら夜空へ消える。
またあいつか。あいつが風呂入っとんか。
ぶかぶかの靴に雪が入るのもかまわず、僕はざくざくと足を進め、井戸の蓋に残った雪をかき集める。見とれ。あいつに投げつけたる。馬鹿の裸に浴びせたる。
そして浴室の窓にたどりつく。馬鹿でかい雪玉を手に。
これはあくまで仮定の話だ。
だけど、もしその窓が数センチ開いていたとしたら?
僕は見たかもしれないのだ。
たとえば、石鹸にとろりと濡れた背中を。
肩甲骨を流れ落ちるシャンプーの泡を。
湯気と光のまぶしさに、僕は手足の冷たさも忘れる。
少女は髪をまとめて前に回し、右手のスポンジでうなじを洗う。奇妙な角度に折り曲げられた肘。脇の下の薄い肉が引きつる。背後からは見えない胸の線を暗示するみたいに。
僕は身動きできない。長い間。不意に肩をこわばらせた少女が、泡のついたままの身を湯にすべりこませるまでの一分間。
気づくと手の中の雪は崩れ落ちていた。
これはあくまで仮定の話だ。
僕は布団で背中を丸める。分からない。何が本当で、何が物語なのか。仮定のイメージがなぜこんなに鮮明なのか。こんな眠れない夜に、僕は姉の戸を叩くことも、階段を下りることも、布団を出ることさえできない。
いまだに僕は怖いのだ。パジャマ姿でベッドに座るお姉ちゃんの、全て知ってるみたいな大きな目が。十二年を経た縫い目が突然生々しく開き、全部が裏返ってしまうことが。
音楽は続く。真上の僕に聞こえていることを、お姉ちゃんは知っている。
僕は両腕を膝の間に挟み、ぎゅうと体を縮め、頭がびりびりするほど強く目を閉じる。
おやすみ、お姉ちゃん。
おやすみ、おやすみ、武田さん。
朝になれば、次の物語が始まる。パジャマで歯磨きする姉の後ろを通り過ぎざまに、僕は小声でおはようを言えるだろう。
第二話終わり
2012/12/31(Mon)00:00:31 公開 /
中村ケイタロウ
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■この作品の著作権は
中村ケイタロウさん
にあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
16年前の震災を思い出しながら、過去の出来事のつもりで書いた小説が、このような形で現実と符合してしまったことに愕然としています。被災地をはじめ、この国に住む全ての人々に、穏やかな日常が一刻も早く戻ることを心より願っています。
4/17 第2話完結しました。ありがとうございました。
4/18 こっそり誤字訂正
作品の感想については、
登竜門:通常版(横書き)
をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で
42文字折り返し
の『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。