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『“CUBE” [下] 【完】』 ... ジャンル:リアル・現代 ミステリ
作者:コーヒーCUP
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あらすじ・作品紹介
『“CUBE” [上]』『“CUBE”[中]』をお読み下さい。
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第七面[パンドラの箱]
最初はあまりにぼやけていて、視界の一面が白色だった。それが徐々に鮮明になっていく。ただそれと同時に、身体の所々に痛みを感じる。そのせいでせっかくはっきりとしていた視界を一旦閉ざしてしまったが、すぐにまた開ける。もう景色はぼやけてなくて、私の目の前に広がっているのがわずかなラインが入った白色の天井だと分かった。
自分が寝かされているのが分かる。ベッドにくっついていた右手を挙げて、目の前に持ってくる。包帯がされていて、自由に指を動かすことが満足に出来ない。それでも握ったり、開いたりしてみて、生きてることが実感した。
その次に首を左に動かしてみる。窓があり、そこから外の世界が広がっていた。ただ外の世界といっても、ただの白い建物。ただそれのおかげでここがどこか分かった。隣町の病院だ。
そうか、なんか思い出してきた。
今度は右に首を回すと一人の女性が丸イスに座って、私を見ていた。目を合わすと何か息苦しくなってしまったのは、何と言葉をかければいいか分からなかったから。いつもならこんなことはりえない。
「おはよう。お目覚めね、嘘つきさん」
春川が何で嘘つきと言ってきたのかは、驚くほどのスピードで思い出せた。そうか、結局私は彼女に心配させてしまったか。
「……すまないね」
返す言葉も見つからず素直に謝ると彼女は立ち上がった。
「お医者さんを呼んでくるわ。それに他にも色んな人に連絡してくる」
彼女が病室を出ていく直前に私は引き留めた。
「私はどれくらいこうしていたのかな」
「三日よ。今日起きてくれてよかったわ。流石に限界だったから」
そう微笑むと目の下のクマが目立ってしまう。どうやら寝ていないらしい。年頃の女の子に連日徹夜をさせてしまったのなら、本当に申し訳ない。
「その間、どうなったんだい」
「……今はじっとしといた方が良いわ」
それを一番知りたかったのに、彼女は答えずに出て行ってしまった。そんな誤魔化し方をされてしまったら気になって仕方ないし、嫌な想像しかできなくなる。事態はいつだって最悪だ。私がのんきに眠っている間、最悪はどこまでいってしまったんだろうか。
痛みに耐えながら両腕を使って、上体だけを起こす。自分の身体がこんなに重いなんて信じたくない。これでもカロリーなどは計算して食生活は送っていたのに……。いや、この重さはそんなんじゃない。重いんじゃなく、腕に力が入らないんだ。
それでも腕はとんでも無く痛かった。なんとかベッドの上で座った。両腕には包帯がエジプトのミイラみたいに巻かれていて、少し圧迫感があって不快だ。顔を触ってみると、右の頬にガーゼがテープで止められているのが分かった。頭にも腕と同じ様な圧迫感があるのでたぶん包帯が巻かれているんだろう。
足は少々動かせるものの、これに全体重を預けて歩けたり走ったり出来るかと問われると、答えは絶対にノーだ。
痛い。全身が痛い。ただ、それこそが私の生きてる証だった。
「残念だったね、『主』」
医者と看護師が一人ずつ入ってきた。簡潔な自己紹介をされた後、私の体の状態を教えてもらえた。全身を強く打っていて、ちょっとの間生活に多大な支障をきたすことになるし、しばらくは入院生活になるということだった。
幸いにも骨折などという大きな怪我はなく、しばらく安静にしていれば後遺症の心配などは大丈夫だそうだ。この三日眠り続けていたのはもちろん事故のせいでもあるが、それ以前に溜まっていた疲労やストレスの影響も大きいという説明まで受けた。
その後は身体検査を受けた。説明を聞いている間もそうだったかが、私の意識はずっと事件のことに向いていて、医者が何の目的で検査をしているのかも分かっていなかった。
医者と看護師が出ていった後、入れ違いで入ってくる人物がいた。
「あんたの生命力はゴキブリ並みだ」
私服姿の仁志はとても女性にかける言葉ではないないことをさらっと言ってきた。
「ひぃ君か。久しぶりだね」
「ぼけてんのか。まだ三日しか経っちゃいねぇよ」
本当に久しぶりに感じる。この三日、私だけえらく時間が長く感じていた。いや意識がないときの記憶はないが、あの事故から三日しか経ってないというのはどこか信じ難いものがあった。もうずいぶん昔のことのように思える。
「ところで、事件のことだけど」
仁志も春川同様、事件のことはあまり話したくないのか、急に仏頂面になった。
「……知りたいのかよ」
「こう言ってはなんだけど私には知る権利があるはずだね。なんせ被害者なんだから」
いやそんな立場じゃなくても、私には知らなきゃいけない義務があるはずだ。それは多くの生徒を助けられなかった責任で、それから逃げることは許されない。
仁志は頭をかきむしった後、覚悟を決めたのか何かを言おうと口を開いた。しかし彼の声より先に、私の耳元に届いたものがあった。
「事件は終わった」
子供の頃からずっと側にいてくれた父の声。仁志の姿で隠れて見えなかったが、どうやら病室の入り口にいるらしかった。少し顔をずらしてみると、少しやせたんじゃないかと思えてしまう様な父の姿があった。彼は乱暴に扉を閉めた。
「終わった?」
「そうだ。あの一連の殺人は終わって、被疑者死亡で片付けに入ってる」
まだ目覚めたばかりの体の中で、血液が一気に逆流し始める。被疑者死亡……それはつまり――。
「荻原君は」
「荻原治は三日前、お前の事故の日の晩に自殺した。屋上から飛び降りてな。即死だったそうだ」
逆流した血が、今度はすぐさま止まる。そして私の体から力や気力というものが抜けていき、折角痛い思いをして起こした上体をベッドの上に戻してしまう。その時、勢いのせいでまた痛みが走ったが、そんなことはどうでもよかった。
荻原治が自殺した……。ああ、もう最悪だ。またしても一人の少年の命が、無駄に消えていった。いや、消されていった。
「……事件が終わったっていったね。なら警察は荻原治を犯人と断定したわけだ」
私の言葉に非難が含まれていたことは父も分かっていただろう。言葉を返さない。
「小野君はどうなる。彼女は彼の恋人だった」
「恋人だからこそ恨んでいたのかも知れない」
「その論理でいくなら、他の被害者はどう説明するのさ。恋人で恨んでいて、その彼女がたまたま“cube”で、そして彼がたまたま『主』だったのかい。だから“cube”を殺すついでに恋人も殺してしまったのかい。おお、素晴らしいねっ」
思わず語尾が強まってしまい、お腹に力を入れたせいで胸痛がして顔を歪ませてしまう。
「……遺書があったんだよ」
胸に手を当てて小さく深呼吸を繰り返す私に、黙っていた仁志が諭すように言ってきた。
「荻原は遺書を残してた。それが自白だったんだよ」
悔しそうにする仁志の横を通って、父が私のベッドの横に立った。そして胸ポケットから四つ折りにされた四角い白い紙を取り出して渡してくる。受け取って開いてみると、そこには短くこう書かれていた。
『死んで償うべきだ』
紙にはそれだけ書かれていた。コピーされた物なので断言は出来ないが、恐らくはシャープペンで書かれたんだろう。
「筆跡鑑定の結果、荻原の書いたもので間違いないことが分かった」
持っていた紙をぎゅっと握って、丸めて床に叩きつけた。
「こんなの書かせただけだろっ」
「どうやって書かせる、こんな文章を」
語気を強める私とは対照的に父はずっと落ち着いていた。いや、落ち着いているというよりむしろ、何とかして感情を殺している。
そしてそんな父に私は反論できない。確かにこんな文章をどうやって書かすんだろう。殺すぞと脅すか。けどそうしたら、文字がふるえたりしないか。少なくともこの紙に書かれた一文は震えたりはしていない。紙の真ん中に堂々と綺麗に書かれていた。
かと言って荻原治が偶然こんな文章を書くことはない。これが彼の文字なら、彼は何らかの覚悟を持ってこれを書いた。そしてそれは何の覚悟かと聞かれると、一番納得のいく答えは警察と同じだ。
「彼が犯人だとすると、私を事故にあわせたのも彼になるね」
「バイクの残骸から、荻原の指紋が出てる。間違いなく彼だ」
そこまで判明しても、私は納得できない。
「どうして私を殺そうとしたんだろうね」
「邪魔だったんだろう」
「その邪魔を排除したすぐ後に、何で自殺したんだろうね」
それでも何とかして否定したかった。だからこんなことに頭を回す。けど、これは確かに疑問だろう。私を殺そうとして、そしてそれを実行したなら自殺の意味が分からない。
「……恋人を殺しかけて罪の意識に苛まれたのかもな」
歯切れがよくないし、その理屈はむちゃくちゃだ。
「そんな奴なら人なんて殺してないだろ。だいたい、それにしたって私を殺そうとした理由にはなってない。だいた麻由美君はどうなるんだよ」
「彼女は被害者になった。きっと荻原が殺して、どこかへ埋めたりしたんだろう」
「バカなこと言わないでくれっ。ならどうして他の被害者はいかにも殺されましたって感じで放置されてたんだよ! それも近くに『箱』までおいて、同一犯だと告げてい――」
「もういいっ!」
まだまだ続けようとしていたのに、父がここを病院だと忘れた様な大声でそれを止めてきた。父は顔を俯かせて、肩を震わせていた。
「もういいっ。事件は終わったんだ! これ以上お前は何も考えなくていい」
その絞り出すような苦しげな声を聞いているだけで、こっちまで苦しくなった。いつもの父なら、私と兄を育てあげたあの正義感の塊みたいな父なら、こんなことを絶対に言わない。
「終わってなんかない……」
論理が破綻していてもいい。だけどこれだけ主張しておく。
「けが人はもうじっとしていなさいっ」
「ああ、ああっ、分かったっ! なら休むからすぐ出ていってくれっ!」
頭に血が昇って、大声を出したせいでまた体が痛くなった。それでも私は右手を横一直線に振って、父に対して拒絶を表した。これ以上、私に近づかないでくれ、と。
そして俯いたままの父に追い打ちをかけた。
「出て行けっ!」
近くに投げられる物が枕しかなくて、私をそれを力一杯父めがけて投げつけた。枕は父に当たると、音もなく床に落ちた。父はそれを拾って、手で叩いてはたいた後、枕を仁志に渡して何も言わずに病室から出た・
考えなくていいなんて父に言われたのは初めてだった。これ以上踏み込むな、なんて言われたのも……。どんな時でもあの人は私を止めるようなことはしなかったし、言わなかった。私がどんなに無茶をしてもそれを叱っても、次回からやめなさいとは止めなかった。
なのに、なのに……。
「……あんたの気持ちも分かるけど、親父さんの気持ちも考えてやれよ」
仁志が気まずい雰囲気が支配する病室でぽつりと呟く。
「……分かっているさ」
二つ年下の弟分にそんなこと注意されて格好悪い。
分かっている。父が何であんなに辛そうにしていたのか。どうして今までの自分の信条を変えてまで、私にもうやめろと言ったのか。そんなの一九年も一緒に暮らしていれば分かるに決まっている。あの人は嘘が下手なんだ。
私が容疑者になって、次は殺されかけた。父にしたらもう耐えられないだろう。よく心臓がもったものだ。ただもっただけで、それ以上は無理なんだろう。結局、父は私の父親だった。そしてその事実が父をああした。
「……親バカめ」
悔しく涙が出てきそうになる。ここで臥すしかない自分が、父をああしてしまった自分が、結局だれも救えなかった自分が、ふがいなくて情けなくてたまらない。私は事態をかき混ぜただけで何も出来なかった。
「そういや鴻池は生きてたぞ。今もこっちにむかってるはずだ」
「そうかい。あのときは混乱していたからね、彼女のことがとりあえず心配だったんだ。生きていてくれたなら、それはよかった」
春川が部屋に入ってきて、私にペットボトルのお茶を差し出してきた。何も言わずに受け取って一口飲んだ。彼女は仁志にも同じ物を買ってきていて、それを彼に渡していた。
「興奮を収めなさい。体によくないわ」
彼女はどうやら警察が事件にどういう決着をつけたのか知っていたみたいだ。そして私がそれを聞いて納得しないで怒るということも予想していた。
春川がいれた連絡によってその後、知り合いがたくさんやってきた。おかげで果物や花は見飽きてしまうことになったのだが、やってくる人たちが一様に私の姿を見るなり喜んでくれたのは、へこんでいた気持ちを復活させるいい薬になった。
有華ちゃんもやってきた。あの日はどうやら午後からは茜ちゃんの墓参りに行っていたそうだ。
「ご心配をおかけしたみたいで」
「いいんだよ。それにかけた心配なら私の方が大きい」
彼女も事件の決着には納得いってないようだ。荻原治が犯人だとは思えない。ただ、私と同じでそれを否定できる材料を持っていなくて、彼女の中ではそれが屈辱らしい。
「結局、茜の仇はどうなるんですか……」
どうやらそれが果たせないのが一番の理由みたいだ。荻原治が犯人にせよ、そうじゃないにせよ、結局彼女の望みは果たされない。
大学の友人たちや先輩たち、高校の後輩たちが駆けつけ終わってひと段落していると仕事が終わった兄が来た。
「親父がへこんでた」
開口一番にそんなことを言うのだから、たまったものじゃない。
「そうかい。知らないよ」
「お前らの親子喧嘩なんて珍しいな」
そう言われれば中学生の時以来になるか。あのときはまだ私も子供で、父が口うるさくて仕方なかったので、それに対していちいち応戦していた。ただ高校になると聞き流したり、軽口で誤魔化したりしていたので喧嘩にはならなかった。
兄はそれ以上この話題をせず、丸イスに座って心配そうな目を向けてくる。
「顔の傷は大丈夫なのか」
「お医者様の話だと痕は残らないらしいよ」
それを聞いて安心してくれたみたいで、ほっと息を吐いた。兄は私の顔に傷が残るのが怖かったらしい。確かにそれは私だって嫌だけど、生きているだけありがたいんだからそれくらいいかと今なら思える。
「明日はオフクロがくるよ。今日はいいって」
「母上、戻ってきてたんだ」
「親父が呼び戻したんだよ。オフクロはずっと、生きてるんだから心配ないって言い張ってたけどね。今日だって目覚めたって教えたらな、当たり前でしょって返されたし」
そのエピソードは面白い。いかにも母らしく、聞いているだけで何か元気が出てきた。しかし、同時に怖くもなる。私は母の旅行の邪魔をしたわけだから、下手をすると母の逆鱗に触れているかもしれない。それはとんでもなく大変なことだ。本気で怒ると父なんかとは比較にならない人だから。
これは気が重いことができてしまった。
兄が帰った後はもう誰も来なかった。なんとも評価し難い病院食をたいらげて、ベッドを半分だけ起きあがらせ、窓の外をじっと見ていた。納得できないことが多すぎて、どこから考えていけばいいかも分からない。
荻原治が犯人になったと聞けば、小野夏希はどんな表情をするだろうか。きっと彼女なら待ち合わせの論理を用い全力で論破にかかってくるだろう。ただ仁志の話によれば彼女はまだ起きていないらしい。依然として危うい境界線の上で眠り続けているらしい。
私も今日までそこにいたわけだ。なのに私だけ先に戻ってしまった。それに意味があるんだろうか。単なるたまたまか、神様とやらが私に何か与えてくれたのか。全く、バカバカしい考えだ。
ノックがして一人の若い女性の看護師が入ってきた。
「包帯を換えましょうね」
一日で何度か包帯を買える必要があるのはちゃんと聞いていた。ただその前にどうして聞いておきたいことがある。
「質問なんだけど」
「はい」
「アルコール類はあるかな」
タバコでもいいんだけど、今はやけ酒が飲みたい気分だった。いっそ酔ってすべて忘れてしまい、その後また情報を入れ直すというリセットをした方がいい推理が出来そうな気がする。もちろんこんなの詭弁で、ただ呑みたいだけど。
彼女はそんな分かりきった質問に動じることなく、笑顔を保ったまま答えてくれた。
「ええ、消毒ならいくらでも」
やられた。いや、確かにそれも必要なんだけどね。
2
「ずっとその調子ね」
三日後、春川はビニール袋片手に病室に入ってくるなり、そんなことを口にした。私のベッドの横のテーブルはこの三日のうちにお見舞いの品で賑やかになっていて、彼女はその横の丸イスに座った。
「その調子というのは何かな」
「窓の外を見ては、思いふけってる。いつものあなたらしくないわ」
彼女に説明を求めたものの、自分がどういう状態かくらいは自覚があった。ただ、悔しいことに今の私にはこうすることしか出来ないのが現実で、あろうことか私にはそれに刃向かう気力も失せていた。
警察はあの事件を終結させた。荻原治が未成年だったことから、犯人の実名発表などは行われなかったが事件関係者ならまちがいなく彼だと分かる発表の仕方だった。被疑者が死亡したことで捜査本部は大きく縮小された。まだあるのは裏付け作業のためだそうだが、それを本気でしているのかは知らない。
父もまだ捜査本部にいるらしいが、私は結局連絡を取っていない。兄や母を介して会わないと宣言している。だから見舞いにも来るなと。完全に拗ねた子供のやることだった。
結局、被害は今のところ止まった。被害者だけで死者三名、けが人が私と小野夏希で二人。まさしく大事件だ。ただ警察は、被害者は四名と発表した。その一人は麻由美君で、彼女は結局被害者として換算された。恐らくは、彼女の望み通りに。そうなれば彼女はしばらく動かないだろう。ただずっとというわけではないだろうが。
私の方はようやくミイラのような姿から解放されつつあった。足は自由がきくようになり、もう歩くのには支障がなかった。ただ走ったりすることはまだ当分は無理。腕の方もまだ包帯は取れないが、もう手を握ったり開いたりという単純作業や指の自由は確保していた。
ただそれでも、体を動かす気にはなれない。
「小野って子はまだ眠り続けてるわ」
私の代わりに動いているのがこの友人だった。頼みもしないのに一度も会ったことのない小野夏希の見舞いに毎日行っているし、その報告をしにここへ毎日足を運んでいる。
「……眠ってる方が幸せかもね」
少なくとも恋人がえん罪を被って世間に晒されている現実は、彼女にとっては辛すぎるだろう。
春川は私の言葉に反論しようとはせず、さっきのビニール袋から大学ノートを取り出した。そしてそれをおもむろに膝の上に広げると、何かを書いていく。
「何をしてるんだい」
「大学の授業よ。いくらなんでもあなた、今度授業出たときついていけないでしょう」
どうやら彼女は私のためにノートを作ってくれるらしい。しかも何も見ずに。授業の内容は全て頭に入っていて、それを要約しているみたいだ。超人技だ。私はそんなに真面目に授業を聞いたことは無い。断じて、ない。
「もういいよ、そんなことしなくても」
「ダメに決まってるじゃない。進級できなくてもいいの」
「君に後輩扱いされてかわいがられるのも良い」
「言っておくけど、私はあなたが進級できなくなったら付き合いをやめるから」
相変わらずの母性本能だ。全く、世話好きなのも大概にしないといけない。彼女だって暇な訳じゃない。大学生だから授業もあるし、バイトもサークルも、彼女に至っては大学の自治会にまで入っている。正直、一日が二四時間では足りないだろう。今は多くのことを休んで私に尽くしてくれているが、それもいつまで出来るか。
ただ私はもう本当にどうでもよかった。全身にある敗北感が、無気力を駆り立てた。このまま退院して、大学に戻る……。そんな生活、嫌だ。
大学に戻ったところで授業などろくに聞かないだろうし、どうせまたタバコと酒に明け暮れるだけだ。そしてたまに厄介事を……引き受けるのか。いや、今のままじゃ断るだろう。解決できる自信がないし、誰かのために動くという覇気がもうどこにもない。
ため息を吐いて備え付けの冷蔵庫から缶コーヒーを取り出して、一口含んだ後、春川にも何か飲むかいと尋ねた。
「飲み物はたくさんあるんだよ。皆してお見舞いにきてくれるのはありがいけど、見舞い品までいらないのにね」
「あなたが好かれている証拠よ」
「君もかい。一緒に寝てみるかい。ちょうど無駄に大きなベッドもあるし」
ガーゼが貼っていない左の頬を思いっきり抓られた。恐らくは加減をしてない。
開放された後、母が持ってきてくれた手鏡で腫れていないかをチェックする。母曰く、入院中は身だしなみがおかしくなるから、これで整えときなさいとのこと。母がそんなことを気にするなんてと驚いたが、考えてみれば母はまだ若いときに二度入院しているんだ。兄と私のために。その間に色々と学ぶことがあったんだろう。
ガーゼのサイズも小さくなって、それを押さえるためテープが漢字の「井」の形で貼られている。そして頭の包帯は無くなったが、まだ額に応援団か昔の受験生みたいに残っていた。
「乙女の大事な顔を抓るなんてひどいね」
「乙女と思うならあんな発言はしないで」
頬を摩りながらまた一口缶コーヒーを飲むと、同時に春川の腕が止まっているのに気がついた。彼女は眉間に皺をよせて難しい顔をしながら自分が書いた文字を追っていき、しばらくしてああと声を漏らした。
「やっちゃたわ、ミスよ。変なところで間違えちゃった」
これはすごく珍しい。彼女がミスをするなんて、そうそうあることじゃない。いやもちろん彼女だってミスくらいはするんだけど、彼女の場合はそれが人より圧倒的に少ないから。
「珍しいね」
消しゴムで文字を消していく彼女に素直に感想を述べた。
「別の授業とごちゃ混ぜになっちゃった」
彼女によると彼女が別で受けている授業と、少し内容が似ていたそうだ。ただ似ていただけ。難しさでいうと彼女が受けている方が数倍難しいらしい。しかしながら、ここで彼女の悪癖が出てしまった。
「君は難しく考えすぎるときがあるからね。簡単な問題を、頭の中で勝手に難しくしちゃうんだよ」
「言い返せないわね。恥ずかしいわ、このミスは何回やっても治せない」
彼女にも少しは人間らしいところがあって安心した。あまり完璧すぎると、少し怖いからね。はははと笑っていると、頭の中に一本の細い糸が見えた。一体これは何だろうかと思っているうちに、頭の中で勝手にありとあらゆる記憶が自動再生されていく。そして、一本の糸を掴むと、その先にある人物がいた。
「え――」
急に笑うのをやめて深刻な顔になった私を、春川が訝しげに見ていた。どうしたのと訊いてくるが、私はそれに答える余裕がない。すぐさま彼女の持っていたノートとペンを奪い取って、そこに今まであったことを書いていく。
最初の一件、私がまだ事件に介入していたかった頃。被害者は黒沢明子、三年生の女子。殺害方法は刺殺。授業中に殺されたところから生徒のほとんどにアリバイがとれた。そして彼女の死体、正確には握っていた『箱』を見て、茜ちゃんが不登校になる。男性関係を広く持っていてその中には荻原治もいた。
そしてそれから二ヶ月後、春川の紹介によって有華ちゃんが私の所へ依頼にくる。茜ちゃんを助けて欲しいと。そして私は捜査資料を手に入れて、そこから“cube”が事件に関与していること、彼女がそれであること、そして犯人が『主』であることを確信する。
しかしすぐに茜ちゃんは殺されてしまう。彼女は二年生、女子。殺害方法は焼殺。マンションの一室で閉じこもっていたところをやられた。ただマンションの入り口にあった監視カメラには、私がマンションから出てからは不審な人物は入っていなかった。だから、犯人は私より早くマンションに潜んでいたと言うことになる……。
そして私が現場に駆けつけると、待っていたかのように『主』から電話が入った。
次に小林陸だ。彼は三年生の男子。野球部のエース兼四番で部長。私が彼を疑ったのは噂で屋上で“cube”の仕事をしているんじゃないかというのがあったことと、彼に周りからの絶大な信頼があったから。ただ彼は私が“cube”かと尋ねても、違うと答えた。ただ資格の強奪と言うことがあり得るらしい情報だけ残してくれた。殺害方法は撲殺。
初めて私が反撃に出たのが次だ。婆さんを味方につけて、警察の弱みにつけこんで放送を利用して、“cube”に呼びかけた。そして持ち物検査をするとまで言った。さすがにこれには『主』が反応して、二度目の通話となったがろくな情報はえれず、結局荷物検査もやめろという指示に従って出来なかった。
その仕返しといわんばかりに生徒会室が襲われた。
ただ反撃のおかげで、多くの怪しい人物が浮上して、そこから浮かび上がったのが小野夏希と荻原治だ。
荻原治は私が放送中に携帯を使っていたことから『主』の容疑者に、小野夏希は翌日休んだことから“cube”の候補者になった。二人が恋人だという情報と、荻原治が黒沢明子と接点があるという情報から私の中で徹底的にマークすることに決まった。
荻原治は最初、『主』であることはもちろん、黒沢明子との関係も否定していたが結局、後者の件については自滅という形で自白がとれた。ただ私はそういったところから彼が『主』ではないと判断する。
そして同時期、今里麻由美、いや香月麻由美が入学してすぐやめていたことが判明して、彼女が『主』であると判断した。彼女はこの高校に入学して、たまたま『主』に選定されてそのことによって“cube”の存在を知り、姉の死にその組織が関わっていると悟って、復讐に走ったと考えた。そのために自らを退学に追い込み、容疑者リストから外れることにしたんだ。だから黒沢明子が殺された日から行方が分からない。それは今もだ。
そういえば有華ちゃんが“cube”じゃないかという噂もこの時に得た。
麻由美君に目を絞って調査していたら、なんと堂々と小野夏希が刺されてしまった。しかも私の目の前で。何とか一命は取り留めたものの、今も意識不明。そして私が容疑者にされる。ただ事前に春川に頼んでいたおかげで、すぐに開放されたが今度は荻原治が容疑者にされていて、そして私は、殺されかけた。
最終的に荻原治が遺書を残し自殺し、万事休す。
そこまで書き上げたところで、全ても文字を目で追っていく。一見すると繋がっているかも分からない事柄たちが、ある一つの可能性にだけ反応して、一本の糸になり真実を導き出していた。
ただ……。
「これが本当だったとして……」
私が考えた可能性が本当だったとしたら、それはもう悲劇だ。
「どうしたのよ、一体」
「春川……。君、答えは分かった。ただこんなの嫌だよ。これは確かに動機にはなり得る。うん、確かにそうだ……けどね、こんなことで何人も死んだのかと思うと、耐えられない」
この事件がどうして起きたのか。起きてどうなったのか。それらを考えていけば、信じられないような答えが浮かぶ。確かにそれは事件を起こさないといけない。犯人が得たかったものは、事件が起きないと得られない。
けどそれはどう考えても、人を殺す理由にはなってなさすぎる。
「……もういい、直接訊く」
私はそう心に決めてノートを閉じると、病院服を脱ぎ始めた。突然の行動に春川が慌て始める。
「ちょ、ちょっと何を考えてるのよ」
驚いている春川に私は脱いだ上着を投げつけた。
「悪いけど、しばらく身代わりになってくれ。頼む、一生のお願いだ」
母が持って来てくれていた私服が詰まった紙袋から、着替えを取り出していく。看護師や医者に見つかったら、すぐに連れ戻されるだろう。それは嫌だ。申し訳ないが、今は自分の体より重要な事案がある。
春川は素早く着替えていく私を見て、止められないと分かったのか、ため息を吐いた。
「それが最善ならやるわ」
そう答えてくれる春川に、私は心の中で返事をする。
残念、事態はいつだって最悪だ――。
着替え終わった私は出来るだけ人通りの少ない通路を選びながら、何とか病院の外へ出た。その間、この三日で知り合いになった看護師とすれ違ったが、なんとかばれずにすんだのは奇跡だったと思う。
病院を出た私はタクシーを拾って、学校へ向かった。仁志の話では、今日は体育館で臨時の全校集会があり、そこで婆さんが事件の経緯を生徒に説明するらしい。学校側としても、それで事件を終わらすということだった。だから、今日がタイムリミット。
携帯であまり気は進まなかったが、父に電話をかけた。しばらくコールが続いていたが、しばらくしてから三日ぶりに父の声を聞くことになった。
「今から学校に行くから。出来れば数名こっちに寄越して欲しいね」
『今からって……お前病院はどうしたっ』
「いいから、たのんだよ」
たった数秒で会話を終えて通話をきった。そして携帯をポケットにしまい、窓の外へ目を向ける。走り抜けていく景色を見ながら、さっきまでの推理を頭の中で反芻する。そしてやはり間違いないと言うことを確信して、頭を抱えた。
「――馬鹿馬鹿しい」
なんでそんなことで、彼らは死ななきゃいけなかったんだ……。
タクシーを校門の前で停めてもらい、そこからは走りたかったがやはりまだ体がついていかなくて、小走りで集会の行われている体育館へ向かった。体育館に入ると、綺麗に整列させられた生徒たちの前の壇上で、婆さんがマイクを手にやけに難しい言葉を使いながら、事件の経緯と、命の大切さを説いていた。
生徒たちが並べられている体育館の真ん中の方とは違い、四隅は数名の人間しかいなかった。そしてその一角に仁志と海野先生がいたので、そっちへ近づいていく。仁志は生徒会長として、何か話すことや仕事があったんだろう。
気づかれないように体育館に入ったつもりだったが、足音でほぼ全員に気づかれてしまった。そのせいで静かだった館内が、一気にざわめき出す。私が殺されかけて入院中のことは周知されているだろうか、この登場には驚いたようだ。
私の姿を確認した仁志は目を大きく開けたが、すぐに駆け寄ってきた。この頃にはすでにあきれ顔になっていた。
「あんた、こんなところにいて大丈夫なのかよ」
「心配してくれてありがとうね。ただ、今は私のことなんてどうでもいい。ひぃ君、使えるマイクはないかな」
「そんなの急に言うなよ、マイクは今学園長が……」
何か使えそうな物はないかときょろきょろと辺りを見渡す仁志の横に、大きな人影が立って、黒いマイクをすっと私に差し出してきた。それを笑顔で受け取る。
「ありがとう、ティーチャー」
海野先生は私の体を気にかけることもなく、マイクを渡し終えると元の場所へ戻っていった。全く、信頼されているということを変なところで実感させてくるんだから。
マイクの電源を点けた後、何度か掌で叩きちゃんと館内に音が響いているか確認する。どうやら問題は無いようなので、マイクに声をかける。
「ああ、婆さん、すまいけど時間を頂くよ」
私の突然の乱入に話しを止めてしまっていた婆さんに一言詫びを入れると、向こうもマイクを使って質問してきた。
「あなた、何をするつもりなの」
私が答えようと口を開けると騒々しい音が体育館の入り口の方からして、見ると父を含んだ数名の警官が入って来ていた。なんと驚いたことに、その中には須藤もいる。
「ご到着だね、遅かったじゃないか」
額から後頭部に撒かれた包帯を掻きながら父たちを出迎えると、父はまた大きな声を出す。
「お前は一体何を考えてる。何をするつもりだ」
その質問はさっきもされた。何をするつもりって、もうここまで来れば大方分かると思うけどね。それでも訊かれたからには答えるしかない。
「何をって決まってるじゃないか」
最初は仁志に、次は海野先生に、そして父と須藤に、今度は体の向きを変えて婆さんに、そして最後は事態の行方を見守っている生徒たちへと目線を移していき、私は放った。
「こじ開けるんだよ、パンドラの箱をね」
3
「最初に言っておくけどね、これから話すことは私が見たり聞いたりしたことに基づいての推理だ。だからもし私が間違った噂を口にしたら、遠慮なく指摘して欲しい」
生徒たちへそう頼むと、前列にいて目のあった名前も知らない男子生徒が頷いてくれて、そしてそれを合図に、その場にいた多くの生徒がぞくぞくと同じことをしてくれた。それに満足して、今度は警官、特に須藤に目を向けた。
「私は素人でたまたまこの学校にいただけだからね、そこまで多くの情報を得ていない。だからもしこれから話すことに追加しておきたことがあれば、口を挟んでくれ。まあ、必要はないと思うけどね。えん罪を生まないためさ」
最後の皮肉を唇の片側をつり上げて不快感を表した須藤は、納得はいってなかっただろうが分かったと答えた。なら、もう話しを始めるとしよう。
「どこから話したらいいだろう。まあ、最初に言っておくけど、この事件は根本的に見方を変える必要があるからね。だから、今まで当たり前だと思っていたことが、多分途中で事実じゃないと分かると思う。驚かないで欲しい。まず、問一だ。結局、“cube”は誰だったのか」
「誰だったのかって、だから黒沢明子と小林陸と、あと安藤茜と小野夏希だろ。ああ、それと香月麻由美もか」
仁志が一人ずつ指を折りながら慎重に数えていった。そんな彼に邪魔が入る。
「忘れるな。荻原治もだ」
報道では実名を隠す必要のある名前を須藤は躊躇もなく出した。ここなら隠す必要もないと考えたんだろう。けど、それは否定させてもらう。
「申し訳ないけど荻原治は“cube”じゃない。よって『主』でもない。だから犯人じゃないよ」
「どうしてそう言えるんだ」
「考えたら分かるだろう。もし彼が“cube”で『主』だったら、どうして“cube”である小野夏希や黒沢明子と関係を持つんだよ。興味があったから、どういう人物か知りたかったから、かな。けどそのために恋人関係に行く必要はない。下手をしたら自分の秘密がばれる。“cube”が『主』に正体がばれるのと、『主』が“cube”に正体がばれるのとじゃ、また危険性が違う」
ここまで話したところで、生徒たちが首をかしげていることに気がついた。そうか、彼らは『主』のことは知らないんだった。すっかり忘れてしまっていた。念のために生徒たちに『主』の説明をして、また話しを戻す。
「ましてや彼は浮気がばれるのを恐れていたんだ。自分から積極的につながりを持ったなら、そんな浮気なんて状況は作らないだろう。黒沢明子との関係が終わってから、小野夏希に近づけばいい。逆でも構わない。そうしなかったのは、そう出来なかったから。それだけだ。彼から黒沢明子に近づいたんじゃなく、向こうが言い寄ってきたそうだしね。まだ否定が必要かい」
まだ否定材料はあった。それは荻原治の小野夏希の事件後の行動だ。彼は病院に来ていた。なのに話しを聞いてどこかへ消えた。しかし彼が犯人だったとしたら、病院へ来るか。もしかしたら警察がいるかもしれない病院へ。ましてや彼女はまだ生きている。何らかの目的で殺そうとしたのなら、確実に殺すために何かするはずだ。けど、彼はもう死んでいる。
これを自殺だと警察は断定したが、それならどうして小野夏希にとどめをささなかったのかが疑問に残る。
「遺書はどうなるんだ」
今度は父が反論してくる。どうしてこの事件を彼の仕業としたいらしい。全く、組織人というのはこれだから困るね。
「あんなものを遺書と言えるのかい。たった一言、死んで償うべきと書かれただけじゃないか」
「けど事実、あの字は荻原のもので、彼はお前を殺そうとした」
「ならそれが答えだ」
私のはっきりとした答弁に父は目をぎらつかせた。あらあら怖い怖い。
「意味が分からん」
「そうかな、考えれば単純なことだと思うけど。知っている人もいるだろうけど荻原治は小野夏希が刺された後、病院にかけつけた。そしてそれがどういう場面だったか。私が彼を見たのは理不尽に乗せられた警察の車の中だ。私が彼を見たのはそこ。つまり彼が私を見たのは、私が警察に連れて行かれるところだったわけだ。さてここで思い出して欲しい。あの時、学校にはどんな噂が流れていたかな?」
あの時、ある噂が流れていたせいで私の拘束というシナリオが描かれた。それを思い出した仁志が呟く……。
「あんたが真犯人だって噂だ」
「そう、大正解。さてそんな噂が流れているさなか、小野夏希は私と二人きりのところで殺されそうになり、荻原治は私が連行される姿を見た。私が彼ならこう確信する。蓮見レイこそが恋人を殺した犯人だって。そしてこう憎んだはずだ。死んで償うべきだって」
あの遺書と思われた手紙は遺書ではない。私への告発文だった。恐らくは荻原治を殺した真犯人がそれを見つけて遺書に見せかただけだろう。
「お前への告発文なら、どうしてそれをお前に渡さず荻原は自分で持っていたんだ」
「私へ渡すつもりだったろうさ、恐らくはバイクに仕掛けてね。けど彼がバイクに細工をしている最中、思わぬ邪魔が入ったんだよ」
仁志が何か思い出したようで、口を小さく開けた。そんな彼に私は頷く。
「そうか、あの時あんたのバイクをいじってたのは荻原。それで俺が声をかけたせいで告発文を仕掛ける時間がなかった」
その通り。私は警察から解放された後、学校へ行った。その時バイクに乗るまでの間に仁志は私のバイクを誰かが見ていたと言っていた。状況的にそれは間違いなく荻原治だろう。そして彼は告発文もちゃんと残すつもりだったんだ。
思い返せば、私が荻原治と協定を結んだときに彼は「破ったらぶっ殺す」と脅かしてきた。私は結局、その協定を守れなかったわけで彼にそうされても文句は言えなかったわけだ。
確かに殺されそうになったかもしれないが、私は恨む気も憎み気もない。そもそも、そんな資格がない。
「さあ、これで分かっただろう。荻原治は“cube”じゃない。ならさっきのひぃ君の五名を除いて、あと一人、いるはずだね。それが誰かは、実を言うと簡単に分かる。怖い思いをさせるのも何だから、さっさと指摘してあげよう。――有華ちゃん」
横にいた仁志がえっと声を漏らす。そして全校生徒が一気にざわめき出して、自然と有華ちゃんを避けて、彼女を中心とした円になっていく。そして二年生だったせいで、丁度体育館の真ん中辺りにいた有華ちゃんが、一人ぽつんと立っているという状況になった。私はそんな彼女に一歩ずつ近づいていく。
「君は“cube”だ。そもそも小野夏希を一人にするために、誰かが荻原治を呼び出さないといけないはずだ。それは君がやったんだろうね。私が真犯人だって噂が流れている中、疑心暗鬼になっていただろう荻原を君が呼び出したんだ。私の協力者として知られていた君なら簡単に彼はついていったはずだ。さあ、どうかな。言っておくけど、否定は許さない。ただ反論の余地くらいなら、与えてあげてもいい」
固まっていた有華ちゃんがようやく動いた。はははと笑いながら、一歩後ろに下がる。
「は、蓮見さんどうしてそうなるんですか。だいたい、私は“cube”じゃないって言うのは、蓮見さんが言ってくれたんじゃないですか」
「あれは君を安心させるために言ったことだよ、本心じゃない」
言っておくけどこれは本心だ。あの時の安心した姿は演技で、彼女にかけた言葉は嘘だ。
彼女は笑顔を引きつらせた。
「何でですか。私が“cube”だって噂はあります。けどだからと言って……」
「申し訳ないけど私が君を疑ったのは、君の噂を聞く前だよ」
今度は笑顔が凍る。この回答は予想外だったのかな。
ちょっと待てっと父の声が響いたので、くるりと父の方を向く。
「俺はそんな報告は受けてないぞ。情報はこっちに渡してくれてたんじゃないのか」
「ああ、ちょっと事情があってね。まあ細かいことは後で説明するよ。今は有華ちゃんの言い分を聞こうじゃないか。もしも、あるならね」
父に向けていた体を有華ちゃんに向け直す。彼女はもう真顔になっていた。
「どういうことですか、疑っていたって」
未だに言葉は堅いが語気が強く、敵意を感じた。どうやら応戦体勢になったらしい。
「君を疑いだしたのは、あの生徒会室襲撃の時だよ。君が第一発見者になった事件だ。あの時から、私はもしかしたらとは思っていた」
「確かに私は第一発見者でした。けど、それだけですよね」
「ああそうだ。けど君は第一発見者になったんじゃない。第一発見者になってしまったんだ。本来なら君はそうなるつもりなんかなったよね。だって第一発見者だ、普通に考えたら疑われる。事実、私は小野夏希の件でそうなった。君だって避けたい。ましてや私と違い、君は犯人だったんだから」
「いい加減にしてくださいよっ。私が犯人だっていう根拠は何なんですか」
正直、早く彼女との話は終わらしたい、後がつかえているから。それでもここで、事件関係者が全員集まったここで、彼女が“cube”だと証明しないといけない。彼女がさっさと認めてくれれば楽なんだけどな。
私はマイクから口を離して、一度せきをして、またマイクに口を戻す。
「最初は部屋の惨状に唖然としてろくに思考が働かなかった。けど、君が出て行った後、おかしいことに気がついた」
彼女は何も言わず、目を尖らせて続きを促す。
「どうして君はあのタイミングで悲鳴をあげたんだい」
あのタイミングと言っても分かるのは私と有華ちゃんだけ。だから補足説明を始める。
「私が君の悲鳴を聞いたのは廊下。その前に小野夏希と会っていた。私は君の悲鳴を聞いて、急いで部屋に入ってすぐに部屋の異常に気づいて言葉を失った。そして、部屋の中に君が尻餅をついて怯えていた。間違いないよね」
「ええ、けどそれのどこがおかしいですか」
当人は自分のミスに気づいていなかったが、それはおかしいと後ろの方から声がした。振り向かずとも仁志のものだと分かる。彼は駆け足でこっちに来た。
「鴻池、それは確かにおかしい」
「何ですか会長まで。あんな光景見たら誰だって怯えます」
今度は別の方向から声が届いた。体育館の隅で腕を組んでいた父のものだった。
「そうじゃない。そいつはそんなことを言ってるんじゃない。君が悲鳴をあげるタイミングがおかしいと言っているんだ」
流石は父だった。ナイスアシストだ。そう意味をこめてウィンクをしてやろうかと思ったけど、喧嘩中だったことを思いだしてやめた。
「そういうことだよ。まだ気がつかないかな。私は部屋に入って、すぐに異変に気づいた。対して、君は部屋の中で悲鳴をあげたんだ」
ようやく私たちが言っている意味が分かった有華ちゃんが思わず舌打ちをするが、それでもまだ抵抗してみせる。
「最初は普通に入ったんですよ。それで扉を閉めてから、異変に気がついたんです。普通部屋に入るときなんて部屋の様子なんて見ないでしょう」
「そうだね。けど君が入った部屋は、テーブルの上に猫の頭部があったんだよ。すごく目立ったんじゃないかな。事実私はすぐに目に入ったよ」
「それは蓮見さんが私の悲鳴を聞いて、部屋に異常があるって入る前から心構えしてたからでしょう」
「けど私は廊下を歩いているとき、君が部屋に入るのを見なかったよ。君があの部屋に入ったのは君の供述よりずっと早いはずだけど」
「悲鳴をすぐあげたわけじゃありません。しばらくどういうことか分からなくて、頭が真っ白になってたんです。供述に嘘があったのは、そういうことで疑われたくありませんでしたからね」
自分が言っていることが無茶苦茶だという自覚はあるんだろうか。ここまで追い詰めているのに、言葉に一切詰まらないのは流石と言うべきだろう。それで余裕が出てきたのか、彼女が強気になってきた。
「蓮見さん、私が犯人なら茜を殺したのも私ってことですか。けど無理ですよ。茜のマンションに私が入る姿は捕らえられていません。それどこか、茜が死んだとき、私はマンションの外にいました。知ってますよね。どうやって私は茜を殺したんですか」
「さあね。それはまた後で話す。君がそうまで言うのなら、ちょっと指紋を、あそこにいる人たちに提出してくれ」
私はそこで隅の方で須藤を中心に固まっている警官たちを指さした。しかし、彼女は従わない。首を横に振る。
「嫌ですよ」
「だよね。嫌だろうね。君があの時悲鳴をあげたのは、第一発見者に思わせるためだ。だけど、君はそんなつもりはなかった。なのになってしまったのは、予想外なことに私が帰ってきたらだろう」
「変な言いがかりはいい加減にやめてもらえませんか。どうやって私は、あなたが帰ってきたことを知ったんですか」
「それを言わすのかい。随分と恥ずかしいな。まあしょうがない。――くしゃみだね」
その場にいた全員が首をかしげそうな勢いだった。あの場にいなかった人間からすれば当然のリアクションになるだろう。ただ、私と有華ちゃんだけは違った。私は勝ち誇った様な笑みを浮かべていて、彼女はそれを真正面から受け止めて、表情を変えないために頑張っていた。
「あの時、私は廊下でくしゃみをした。いややっぱり恥ずかしいな。まあいい。それで君は気づいたんだろ、外に私がいるって。君はその時まだ犯行の途中だった。だから嫌々ながら悲鳴を第一発見者になった。そして――」
私はそこで腕を伸ばして、彼女の右の手首を掴んで持ち上げてみせた。
「持っていたトンカチを、咄嗟にソファーの下に隠した」
なんでトンカチが現場に残っていたのか。私はてっきり『主』が挑発してるんだと考えていた。ただ、これは複雑に考えすぎだ。持っているところを見られたくなかった、ただそれだの理由だ。彼女は私が部屋に入ってくるまでの、本当に僅かな時間で指紋を拭き取り、そして持っていたら怪しまれるという理由でソファーの下に隠した。隙を見て取り出す予定だったのだろうけど、予想外のことに私に指示を出されて、取れなかった。
「だから指紋を提示するのが怖いんだろう。今は指紋じゃなくてもDNAだけでどうにかなるからね。さて、けど今この場で拒むと言うことは、自供ということでいいかな」
彼女の歯ががたがたと音をたてる。何かを言葉にしたいのに、それが出来ない。ここで強気に出ることは彼女には不可能。しかしここで黙ることの方が、自分にとって不利になるというのが分からないんだろうか。
もうどうしていいか分からなくなった彼女が、私の手を払いのける。
「嫌です、そんなの絶対に嫌ですっ。あなたは警察に身内がいる。後で自分が都合のいいように書き換えるつもりなんでしょっ!」
「余裕が無くなってきたみたいだね。大丈夫、警察は私の味方はしないよ。ねっ?」
須藤の方を見て同意を求める。彼は待ってましたとばかりに大きく頷く。そしてこのやりとりで確信を得たのか、周りにいた部下たちに指示を出した。そして彼に指示を受けた数名の警官が、こっちへ歩いてくる。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ、待って、待ちなさいって――」
その動きに有華ちゃんが一気に焦り始めた。待ってと懇願するが、もちろん警官たちが待つはずもない。彼女はさっきよりもずっと早く後ずさるが、そのせいで足が引っかかって、後ろ向きに転倒する。ただ痛いという暇も与えないで、命令通りに接近してくる警官を目にして、何とか尻餅をついたまま手だけで後ろに下がる。
「待ってよっ、本当にっ!――そうよ、『箱』はどうなんのよっ!」
彼女の土壇場の言い分に警官たちが足を止めて、私の方を見てくる。
「私があいつの言う通り“cube”なら、『箱』を持ってるはずでしょ! それはどこにあんのよ! 探してみなさいよっ!」
もはや涙目の彼女がそう必死に訴えるが、これまた他の生徒たちには全く伝わっていない。
「ああ、『証の箱』のことかい」
私は『箱』の説明を端的にした。“cube”になると貰える物で、それが“cube”の証拠になると。
「荷物検査でも何でもすればいいじゃない! 私は持ってないからね!」
仁志が不安になってきたのか、私の袖を引っ張る。そんなに心配しなくても大丈夫なのに。
須藤が彼女の指摘を受け別の部下に彼女の荷物を調べてこいと指示を出して、部下たちが体育館を飛び出していこうとするので、ストップと私は彼らを止めた。それに須藤が明らかに不快そうな顔をした。
「何だ、推理が外れているから怖いのか」
「あなたじゃないんだから、そんなことはないよ。無駄だからやめた方がいいと言ってるんだよ。彼女は『箱』は持ってない」
私が自分の間違いを認める様な発言をしながら、自信に満ちあふれているという矛盾する姿に須藤は苛立たしげに頭をかきむしる。禿げるよ、気をつけないと。
「どういうことだっ」
「私が無実ってことに決まってんじゃないっ!」
立ち上がった有華ちゃんがそう叫ぶが、残念ながらそれは違う。彼女は倒れてホコリがついてしまったスカートをはたきながら、私を糾弾する。
「『箱』がないなら、私は“cube”じゃない。お前が『箱』を持ってるから“cube”だって断言したんだろう。それを私が持ってないってことは、私は“cube”じゃないっ。違うのっ!」
「違うね、全然、全く。君は『箱』を持ってない。けどそれは君が、今は“cube”じゃないからだ」
せっかく勢いが戻りそうだった彼女の顔色がまた沈んだ。もういい加減に諦めて欲しい。
「なによ、今はって……」
「あんたまさか、鴻池まであんたみたいに資格を剥奪されたって言うんじゃないだろうな」
仁志が実に惜しいことを言う。
「違うよ、剥奪じゃないんだ。――強奪だ」
その一言で有華ちゃんは折れた。青白かった顔を覆い、顔をうつむけて髪を垂れ流す。そして声にならない声で、何かを呟いていた。そんな彼女に私は、追い打ちをかける。
「小林陸が教えてくれたことだ。“cube”の資格の強奪。君はそれをされたんだ……そうだよね」
「ちょ、ちょっと待て!」
黙って聞いていた父が声を荒げて、全校生徒を見渡し始める。
「その子が資格を強奪されたというなら、強奪した生徒が犯人じゃないのか」
「残念、早とちりさ。なぜなら資格を強奪したのは……黒沢明子だから」
この発言に体育館の右側の生徒たちが一斉に喋り始める。そこは三年生の場所で、黒沢明子の知り合いが多くいるのだろう。急に知人の名前が予想外のところで出てきて困惑してる様子だった。
私は両手を叩いて、静かにしてくれと促してから、またマイクに向かって話し始める。
「黒沢明子は荻原治に言い寄っていた。そして、“cube”についてこんな発言をしていたらしい。あんなのより私の方がすごい、とね。ついで“cube”に対しても批判的だったそうだ。さて、けど彼女は“cube”として殺された。はて、どういうことか、考えてみた。すると小林陸の証言にたどり着く。彼は資格が強奪できると聞いていた。もしその噂が本当なら、黒沢明子が聞いたらどう思ったか。彼女は、まあ言い方は悪いが少しヒステリー気味のところがあったらしい。周りを見下していたとも聞いた。そんな彼女にとって、“cube”になることは当然だったに違いない。けど彼女は“cube”じゃなかった。それを許せなかった彼女は、噂を聞いてなんとか資格を強奪出来ないかと考えた。そして行きついたのが、有華ちゃんが“cube”じゃないかという噂だ」
彼女は自分が優秀だと主張していた。なのにこの学校で『優秀な』生徒に与えられる“cube”の資格は与えられず、二年以上の高校生活を送ってきたんだろう。それはきっと彼女のプライドを傷つけたに違いない。だから彼女は“cube”に対して批判的だった。自分を認めないあんな組織が、本当に優秀なわけがない。ただただ感情論で否定していた。
しかし、そんな彼女にちょっとした情報が入る。強奪の噂だ。そして彼女はそれに動く。そのために彼女はまず、私と同じことを考えたはずだ。“cube”としての噂がある子を探し出す。そしてそれを実行した。すると、有華ちゃんの噂を耳にする……。
それがおそらく、悲劇の始まり。
「彼女は有華ちゃんを徹底的に調べた。そして『箱』を見つけた。“cube”として噂のある子が、怪しげな箱を持っていた。彼女は確信したはずだ、有華ちゃんが“cube”だと」
そもそも強奪の噂の中には『箱』の存在を示唆する内容が含まれていた。そこからでも簡単に推測できたはずだ。
「そして彼女は『箱』を奪い、有華ちゃんから“cube”の資格を強奪することに成功した」
プライドの高い少女が、ずっと我慢していた。そしてようやく巡ってきた、自分を認めるチャンスに飛びついたんだ。
「だから彼女は言ったのさ。あんなのより私の方がすごいって。そうだよね」
「……知らないわよ、あんな奴のこと。ああ、もう、なんでよぉ」
それはもう泣き声だった。ただ、最後の最後で何かを爆発させないと気が済まなかったのか、彼女は両手に埋めていた顔を勢いよく上げて、声を張り上げた。その目は充血していて赤くなっている。
「証拠よっ! 証拠がないわ、物証っていうの!」
生徒たちの白けた視線が彼女を射ぬいていた。証拠を求めるのは、犯人と相場が決まっているからね。
「ああ、あるね。きっと君の家にでもいけば荻原治の写真が見つかるんじゃないかな」
「……写真?」
有華ちゃん、そして仁志も含めた生徒の全員が黙った。
「あの部屋が襲撃されたとき、荻原治の写真が盗まれた。たぶんだけど彼を犯人に疑わせるための工作だ。君が犯人なら、まだ持ってるかもしれないね。ほら須藤さん、お仕事だよ」
「言われなくてもやる」
彼は胸元から携帯を取り出して、それのボタンを押そうとしたが、それを遮るものがあった。
「ば、バカ言わないでよっ! 私は写真なんか知らないわ、そんなのありえないっ! あの部屋からなにも盗られてなんかないはずよっ!」
「はは、盗られてなんかない、か。まるで犯人みたな台詞だね」
声を張り上げて必死に主張する有華ちゃんに、私は小馬鹿にするような笑みを浴びせた。そして彼女はそれで、全てを察したようだ。自分の口元を押さえるが、放った言葉はもう取り戻せない。
「……あんた、まさか」
「お見事、大正解だよ。これが君の件を父上にも報告出来なかった理由だ」
私はポケットから写真を取り出して、それを彼女の方へ軽く投げた。写真はひらひらと舞いながら、すとんと彼女の足下へ落ちていく。それを見届けた彼女が、踏みつけた。
「あんた、あの一瞬で!」
「そう。君が出ていって警官を連れてくまでの間、まだ部屋にあったその写真を拝借したのは、この私だ」
写真の件は一般の生徒たちは知らない。それは仁志もだ。私がいざという時のために黙っておいた方がいいと助言して、ありがたいことに警察がそれに従ってくれたから。しかし事情を知る警察の方々は、怒り心頭だ。
「どういうつもりだ、お前はっ」
須藤が代表して声を上げる。私はそれに肩を竦めた。
「どういうって、だからこういうのが必要だろ。犯人しか知らないことで動揺で煽るのは定番だけど、それに備えられる心配がある。だから今回はちょっとそれをアレンジした。犯人さえ知り得ないことで、動揺を得たんだよ。そして結果は、大成功だ」
あの時、彼女が出て行ってから私は彼女が怪しいと感づいた。そしていざという時のため、何か手を打っておいた方がいいとも。だからあまだあの部屋に合った彼の写真を拝借し、それを警官に報告した。あの時、有華ちゃんが一緒に戻って来ていたら、後で警察に気づいてもらう予定だった。
そして写真がなくなった事実を警察に黙らせておき、この時を待っていた。
「まあ、探偵がいつでも合法的とは限らないさ。誰も傷つけないなら、私は喜んで法を犯そう」
手には手を、歯には歯を。ならば罪には、罪を。あまり好きな原理はではない。そもそもハンムラビ法典なんてものはもうずっと前の歴史の上の原理だ。今の現代社会でこんなものを応用するなんて、非常にバカバカしい。
バカバカしいが、やる価値はあったみたいだ。
「どうかな有華ちゃん、自白した気分は」
彼女は白い歯を唇から剥き出しにして、今に私に襲いかかろうとする気配があった。しかし、すぐに落ち着いて、冷笑を浮かべる。
「そんなの物証じゃない。言っておくけどあのトンカチもよ。私は第一発見者。混乱していてよく覚えていないけど、トンカチに触っちゃったかもしれないわ。おびえてて、よく覚えてないけど」
「おいっ、鴻池もう諦めろよっ!」
仁志が説得にかかるが、説得でどうにか出来るなら私が推理する必要なんてない。それくらいわかって欲しい。けど、彼女の言い分はまだ通る。追いつめられながらも、まだ頭は回るみたいだ。ただ、今更だけどね、そんなの。
「どうするつもり、蓮見さん」
「あのね、言っておくけど」
ポケットをいじって携帯を取り出して、ボタンを押していく。そして準備ができたら、携帯を持った腕を伸ばして彼女に見せつけた。
「君の負けは、ずっと前にもう決まってるんだよ」
持っていた携帯のボタンを押すと、再生が始まった。
『私が『主』に選ばれるわけないじゃないですか』
それはあの時の屋上の会話の中での、有華ちゃんの一言だった。
「気づいてなかったみたいだけど、私はあの時屋上に君が入ってくる前に携帯をいじっていた。そして君が入ってきたら、録音機能をオンにしてポケットにしまったんだ。そして会話は全て録音した。今のは編集して一言だけにしたものだよ。さて有華ちゃん、君はまだ気づいてないだろうね、私がなにを言いたいのか。答えが知りたいなら、周りを見てご覧。きっと教えてくれるから」
意味が分からない彼女は私の勧めた通り、周りの生徒たちを見渡し始める。生徒たちは彼女を凝視しながらも、お互いにひそひそと話し合っている。中には首を左右に振る生徒も少なくない。
「な、なんなのよ」
それでもまだ有華ちゃんは気がつかないので、私は近場にいた女子生徒に目を向けて、彼女に近寄っていく。彼女はさっき首を左右に振っていた生徒の一人だ
「君、いきなりで悪いね。どうして首を振っていたんだい」
「え、あの……」
彼女はいきなりのことでどう答えていいかわからない様子だったが、意を決してか私が差し出していたマイクに答えをかけた。
「私たちが聞いてる言い伝えでは、“cube”は“cube”が選ぶって聞いてました。その『主』って人に選ばれるなんて、初めて知ったんです……」
そう、それが全てだ。彼女にお礼を言ってから、有華ちゃんを見ると彼女は右手で頭を抱えて、自分がやってしまった最大のミスを後悔していた。本当に後悔だ。遅すぎるけどね。
“cube”の後継者は“cube”が選ぶ。言い伝えでは『主』の存在を隠すため、そうなっていた。もちろんそれを知ってるのは“cube”だけとなる。だから“cube”だった私は知っていたが普通の生徒、例えば今の彼女だったり仁志なんかは知らないで当然。彼なんか私があの食事の時、“cube”の説明をするとまで後継者は“cube”が選ぶと信じていたんだから。
しかし、あの食事のメンバーを思いだしてみると不思議がわかる。
「私は『主』によって“cube”が選ばれるとは言った。ああでも話したのは仁志と父上と兄さんだけだ。はてさて、君はどこからこのことを知ったんだい。父上を通じて情報は警察にしれたはずだが、警察が君に教えるとは思えない。では、ひぃ君から聞いたのかな」
私が隣に立つ仁志に目を向けると、彼は熱意のこもった目で首を振った。
「おや彼も教えてないそうだよ。じゃあ有華ちゃん、教えてくれないかな、君がどこで知ったかを」
頭を抱える手が右手だけじゃなくなる。両手で頭を抱える、いやもう押さえると表現した方がいいか。彼女はそのまま、また一歩ずつ後ずさる。その後を私が追っていく。
「説明できるのかな、言い訳できるのかな。言ったろう、反論の余地くらいは与えてあげると。どうしたんだい、今までの威勢は」
状況証拠も、物証もつきだした。今の彼女に反論の余地なんてない。そのために長い時間をかけてピースを組み合わせて、パズルを完成させたんだから。全てのピースが埋まったパズルに隙間なんてない。後は出来上がった絵を、どんなものでも受け入れるしかない。
それが例え、認めたくないものでも。
「本当はこの録音だけでさっさと片づけてもよかった。けど、君にはこれがいいと思ったよ」
私は頭の中から、彼女から受けた報告を全て思い出して、それを唇にのせた。
「鴻池有華はプライドが高い。一年生の頃は授業で自分一人だけが間違った問題に対して答えが間違ってるんだと主張し続けて授業を中断させた。友達と喧嘩になっても自分からは絶対に謝らない。相手が謝っても自分が謝ることは少ない。自分が好きなミュージシャンを否定した男子生徒に対して水をかけたこともある。注意をしてきた教師の悪口をさんざん言って、かなり根に持つ」
受けた報告はまだまだあったが、とりあえずそれだけまくし立てた。有華ちゃんが、顔を上げてどうして知ってるのかという顔をしていた。
「さっきの録音の証拠を得たとき、君についてもっと知る必要があると思ったから調べてもらった。君にそんな一面があったなんて驚いたよ」
彼女はそこで仁志に殺気のこもった目を向けたが、仁志は見に覚えがなく首を左右に振る。どうやら彼女は今の情報を掴んできたのが仁志だと考えたみたいだ。
「仁志じゃないよ。私はうっかり君が“cube”じゃないかという噂を掴んできたのが仁志だとばらしてしまったから君が彼を監視するんじゃないかと危惧したんだ。それに彼は三年の男子で、情報集めに長けてはいなかった。だから私はもう一人、協力者を得たんだよ。もう分かるよね。二年の女子で、すごく聡明な子だよ」
「あ、あのっ……」
有華ちゃんが絶望に染まった声音で恨みを爆発させた。
「あのクソ女ぁぁっ!」
有華ちゃんが“cube”だと確信を得た屋上での会話の後、私は彼女と別れた隙を見て、以前小野夏希から渡されていた電話番号を思い出しながら、ボタンを押していた。
「ハロー、ハニー」
私の明るい挨拶とは対照的な、驚くほど冷たい返事があった。
『こんにちは』
「つれないね。まあ、君にハローと言われても困るけど。今、大丈夫かな」
小野夏希は私が電話をかけてきたことには驚きもしないで、ええ大丈夫ですとだけ答えてくれた。時々電話やメールだと態度や性格が変わる人がいるけど、彼女はどうやら統一されているらしい。そこがまた彼女らしいな。
「前に仲間に入れてくれって言ってたよね。それで電話番号もくれた」
『はい。けど、蓮見さんは明らかに嫌がってましたよね』
やっぱり顔にでてしまっていたか。
「いやそうだけどね。まあ予定変更だよ、協力してほしい」
彼女はしばらく黙っていた。電話口から何か小声で聞こえてきていたが、これは彼女が考えるときにする呟きだろう。電話口でもやはり聞き取れない。
『……どちらですか』
その質問を聞かれたときは思わず笑みがこぼれた。私が彼女に協力を頼むと言うことは、人員が不足したというより、既存の協力者が信用できなくなったからと考えたんだろう。そしてそうなると彼女に調べて欲しいのは仁志か有華ちゃんだけになる。その聡明さは、今後頼もしい。
「鴻池有華。君と同じ二年生の女の子だ。是非、調べてほしい。できる限り極秘でね。どうかな」
『聞いたことはあります。ええ、協力を申し出たのはこちらですから引き受けます』
そして間を置いてから、彼女は言い放った。
『任せてください』
「そんなわけで彼女は協力してくれたよ。そしてたった三日で君についての多くの情報をもたらしてくれた」
報告を受けたのはあの土手だった。彼女が私の無実を証明した後、私たちは事件の話をしていて、その中で彼女は少しですがと前置きをして、ちっとも少しじゃない情報をくれた。
「それで君の性格が分かったから、ここでそれを叩き潰してやろうと思ってね。どうかな、全校生徒の前で論破される気持ちは」
自分が殺すのに荷担した少女が、最後の最後で自分を追いつめていたことを知った彼女は、両手で頭を押さえつけたまま、あのアマっなどと罵っていった。
「君の負けだよ。ああ、そういえば忘れていたね」
私は彼女の前に静かに立った。そんな私を彼女が少し見上げる。私はその頬めがけて、平手をくらわした。肌と肌がぶつかり合う、乾いた音が体育館に響く。
「犯人をひっぱたくのが目的だったね。君じゃできないから、私がしといてあげたよ」
わざとらしく彼女を叩いた右の掌を自分のズボンで拭った。その動作が許せなかった彼女が私に襲いかかろうとしたが、すぐに動きを止めた。私の後ろから大きな足音が複数聞こえてくる。振り向くと、さっきまで止まっていた警官が彼女を目指して進行していた。
「い、いや……」
お得意の後ずさりをしようとしたが、彼女の背中はもう体育館の壁についていた。後はもう迫り来る現実を受け入れるしかない。
「い、いやよいや。いや……」
もう何か取り繕う余裕もなくなった彼女が泣きながら、警官たちに首を振っていた。私はそんな彼女に最後に言ってやった。
「これからも君は“cube”だよ、おめでとう。ただ、ブタ箱って名前だけどね。――一生、そこで償っているといい、鴻池有華」
彼女は今から自分を包み込むあまりに厳しく、けれど当然の現実に恐怖し始め、肩を大きく震えさせながら膝をついた。
「いやいやいやいや……」
すぐに警官たちが彼女を囲んだ。そしてそれを彼女が見上げている。彼女はその現実に目を背けるように額を床につけて、絶叫した。
「いやあああああああああああああああああああああっ!」
私は彼女に背を向けた。後は私が関与することではない。警察とか、法とか、大きすぎて私の思考に収まりきれない物がどうにかしてくれるだろう。
とにかくこれで、一人は片づいた。そして、まだ話は終わってない。
「さて、では続きを始めようか。今の話で混乱した人は多いはずだね。なんせ鴻池有華が“cube”で、その資格を強奪したのが黒沢明子だったなんて、どう考えてもおかしいよね。だって生き残った“cube”が鴻池なら、彼女が『主』のはずだ。けど彼女には彼女自身が言っていた通り、安藤茜のとき、そして黒沢明子のときにアリバイがある。さて、これを崩そうか。なーんてことは言わないよ。なんせ、彼女は『主』じゃないんだから」
「はっ?」
素っ頓狂な声をあげたのは須藤だった。
「生き残った“cube”が『主』じゃないのか」
「須藤さん、まだ分からないのかい。落ち着いて考えてみなよ。鴻池は“cube”だけどアリバイがあるじゃない。なら、こういう発想はできないかな」
無理難題だとは思うが、ある一つの可能性が出てくる。それはこの事件を根底から覆すもので、首をかしげる一同に私はそれを提示した。
「“cube”は、全員生きている」
最後の一言で体育館の時間が止まったみたいだった。みんな動きを止めて、お互いの顔を見合わせている。仁志も首を傾げているし、須藤も眉間に皺をよせた。ただ父だけが目をつむって表情を変えていない。
「あんたはなにを言い出すんだよ」
「だから最初に言っただろう。見方を変えるって。当たり前が当たり前じゃなくなるって」
「だって、“cube”が殺されてるっていうのはあんたがはじめに言ったんだぞ」
「そうだよ。鴻池に事件に介入させられた私が、そう証言したんだ」
前半部分を強調して言うと、仁志は言葉を失った。そう、鴻池有華が“cube”で事件の容疑者だとするなら、その人物の手によって介入させられた私は、どこか怪しげだ。
今度は須藤だった。彼はずっと壁にもたれかかっていたのに、そこから離れて私に近づいてくる。
「どういうことだ。まさか、おまえも共犯だという自白か」
「バカは休み休み言ってほしいね。なんで共犯の私が鴻池を追いつめるんだか……。いいかい、ならまず思い出そう。私が黒沢明子を“cube”だと断定した理由はなにかな」
そこからが私にとっての、この事件の始まり。
「『箱』というやつだろう」
「うん。私が黒沢明子を“cube”としたのは、『箱』を持っていたからだ。ただ、それだけだ。けど落ち着いて、もっと真剣に考察してみようか。……はい、答えが出た。『箱』なんて死後に何とでも出来る。ましてやあんな小さな物だ。なら犯人が、私に黒沢明子が“cube”だと思い込ませるために『箱』を握らせていたとしたら、これはどうなる」
私が軽率だった。過去の経験だけで物事を判断し、すぐにそれだと断言してしまった。
マイクを握ったまま、生徒たちを見渡す。
「この中の誰でもいい。もしも『箱』を持っていたとしたら、そしてその姿を私が見たとしたら、私は“cube”だとすぐに決めてかかる。そう、誰でもいいんだ」
それが例え、小林陸や小野夏希でも。本当に誰でもいい。
「私たちはどうして小林陸が嘘を吐いていたのかを考えていた。けど答えは簡単だ。彼は嘘なんて吐いていなかった。彼はっ……“cube”じゃなかった」
問題を複雑に考えず、単純に見てみるとそういう答えが出た。ただ、それが一番納得できて、今後私が繰り広げる推理にも大いに役立つ。けど当然だ。彼が嘘を吐くメリットはなかった。なら嘘を吐いていなかったと見るのが普通だ。そしてそれは小野夏希にも言える。
そもそも“cube”か否かなんてものは、全て『箱』頼みだ。けど、あんなものはどうにでも出来る。もしも『主』が本物の“cube”たちへの支持で返却しなさいと言えば、全ての『箱』は『主』の手の中に入る。
須藤は私の推理を顔を白くしながら聞いていた。それは彼だけじゃなく、その場にいた全員だった。今事情を知ったばかりの生徒さえ、声を失っている。
「じゃあ……」
絞り出すように仁志が沈黙を破った。
「じゃあこれは“cube”を狙った事件じゃなくて……」
私は彼を見ながら頷く。そう、これがこの事件の正体。
「そう、これは無差別殺人だ。条件はたった一つ。この学校の生徒であれば、あとは誰でもいい」
黙っている生徒たちに次々と指さしていく。指された生徒は一瞬、何をされているのか分からない様子を見せた。
「君でも、君でも、君でも、君でも」
そう、誰でも。
「被害者になり得たんだ」
だからここでこんな演説をしている。彼らには知る権利がある。一律で、全員の生徒に殺される可能性があったという事実を彼らは知らないといけない。この学校には、第三者なんていなかった。私がずっと探していた被害者候補は、この学校の生徒全員だった。
「ま、待ってください、じゃあ俺もってことですか」
一人の男子生徒が思わず口を挟む。
「そうだよ。まあ、ある程度の選定はしただろうが、大それたものじゃなかったはずだ。意味がわらないと思う。どうして犯人はそんなことをしたのか。どうして“cube”を殺さずに、“cube”と思わせた生徒を殺し続けたのか。……あのね、常人なら分からなくて当然だよ。私だって未だに信じがたい。けど、これを解決する論理は一つしかない」
ただ私はこれが真相だったとしたら、それはもはや外道とか、そんな簡単な言葉で犯人を糾弾する気にはなれない。本当に邪悪だ。いやもっともっと、悪いものだ。今まで作られてきた言葉じゃ、どんなものでも足りない。
「最初に不思議に思ったのは、私の放送の後だ。『主』のリアクション。あれが不思議でならなかった。焦りすぎだって感じた。あの『主』が、らしくもなく取り乱していた。じゃあ、それはどうしてだろう」
「あの計画には本当は反対だったんだ……」
私の言葉を無視して須藤が嫌なことを思い出した様で、顔をしかめる。反対意見があったのは知っている。ただ、反対派は対してほかに策を提示できなかったと聞いている。
「そりゃあ、あんたが荷物検査なんかするって言い出したからだろ。それで『箱』を持った奴がでてきたらマークが厳しくなる……え、いや違う。あんたの推理だとこの論理は通じないな」
仁志が自分で語っているうちに、おかしいことに気がついた。そう、私の推理通りだと『主』は“cube”を殺していない。それ以外をねらったことになる。なら、あの場で誰が“cube”か分かることは計画に支障がでなかった。
それどころか、私の推理では『主』は死体に『箱』を持たせるために、全ての『箱』を持っていたはずだ。あそこで『箱』なんかでてくるはずない。誰が“cube”なのかは結局分からなかっただろう。
けど『主』は焦った。
「混乱を解決する術は一つだけだよね。『箱』がでてくるはずない状況で、『主』がそれをおそれたんなら、それこそが『主』にとっての最悪のシナリオだったから」
「バカを言うな。『箱』がでてこなくても、状況はそんな大きく変わらなかったはずだ」
そうだ。あんな物、本当の“cube”たちが常に持ち歩いているというわけではない。家においているメンバーだっているはずだから、あの時でてこなくても状況は変わらなかった。
「けど、『箱』が一つもでてこなかったら、こんな推理をする奴がいたかもしれないよ。――“cube”なんて実在しない、本当はそんなものなかった」
あの時、一つも『箱』が出なかったら私だって警察だって、どうしてなのかくらいは考える。もちろん家に置いていただけという推理を重要視するだろうが、こういう突拍子もない推理が出来てしまう。『主』がそれをおそれたならどうだろう。
「そんなことが起きてはいけなかったんだよ。それだけは避けないといけなかった。だから『主』はあれだけ焦ったんだ。そして荷物検査を止めた。そうしないと、計画がつぶれてしまうから。『主』は『箱』が出ることを恐れたんじゃなく、一つも出ないことを恐れたんだよ」
「しかし、そんなばかげた推理が出てきたとしても、そうなると犯人は蓮見レイ、やはりおまえということになったぞ。“cube”が実在するとあの時点で断言していたのはおまえだけなんだから。そしてそれは『主』にとって好都合じゃなかったのか。身代わりが用意出来て、それがおまえなら」
「須藤さん、とっても嫌な推理を発展させてくれてありがとう。けど私があの時点で捕まっても意味がなかった。なぜなら『主』の目的はあくまで“cube”に見せかけた生徒たちの連続殺人。あの時点で私が捕まってしまうのは迷惑だ。なにせ私は結構重要な駒だから。それになにより“cube”が実在しないなんて推理はだめだ」
「どうしてだ。お前はさっきから何が言いたい。お前が駒だという意味もこっちは分からない。もっと分かりやすく説明しろ」
須藤がいらだちを隠せない様子だ。分かりやすく、か。おかしなことを言う。わかりやすく説明できるのならさっきからこんなに長々と喋っていないし、事件はもっと早期に解決出来るじゃないか。複雑で、理解不能で簡単じゃないから、こうなっているのに。
「さっきも言った通り、鴻池は“cube”だ。そして『主』の協力者。そんな彼女がどうして私をこの学校に凱旋させ、事件に介入させたんだと思う?」
「お前の推理通りなら、本当は“cube”じゃない生徒を“cube”だと断言させるためだろうな。お前ならそうできる」
「その通り。いくら『箱』を握らせて殺しても、その『箱』の真意を知る人間がいないと死体は“cube”になり得ない。だから彼女はその証言が出来る、在校中、一時的とはいえ“cube”だった私を巻き込んだ。『主』にとって、私は重要な証人だったわけだよ」
情けない。事件に介入すること自体、『主』にとっては計画の一部だったのだから。そして計画通り、私は証言してしまった。しかも、それだけじゃない。
「全く、嫌になる話しだけど私は非常に便利な駒だったと思う。殺されかけて初めて疑問に思った。どうして『主』は私をさっさとこうしなかったんだろうってね」
頭に巻かれた包帯をこつこつと指先で叩く。
「あんな簡単に殺せるなら、『主』は早々にそうすべきじゃないか。どうして長々と、最後の最後まで私を殺さなかったんだろう。そして分かった。私に死なれては、困るのは『主』だったんだ」
「……お前にはほかに役割があったのか」
「ああ、あった。――事件を捜査するっていう、最大の役割がね」
このとき、私はどんな表情をしていただろう。屈辱で歪んでいただろうか、情けなさで沈んでいただろうか、逆にあまりにもバカバカしくて笑っていただろうか。そんなことさえ分からない。いや多分、それら全てだと思う。
周りの人間が呆気にとられている。そのリアクションは正しい。
「待てよ。事件を捜査すること自体、『主』の計画だっていうのかよ。俺もあんたも、踊らされてたのか……」
仁志がショックを隠しきれない表情で、問いかけてくる。彼には本当に申し訳ないことにそういうことになる。黙って頷くと、バカ言うなよと首を左右に振った。
「だって捜査されたら『主』は困っただろ」
「そんなことないだろう。メンバーの一人に、協力者を送り込んでいたんだから」
仁志がはっとして、今は男たちに両手を捕まえられたまま体育館の隅で立っている鴻池有華を見る。彼女は死んだような表情をしたまま、何も言わない。仁志や私が見ていることさえ、気づいてないのかもしれない。
「捜査状況は全て漏れていた。じゃなきゃ、『主』の発言がおかしい」
たびたび『主』とは電話で話しをした。二回目の電話のとき、電話で『主』は私を嘲笑した。あなたがお休み中に小林陸は死んだと。けど、どうしてそれを知っていたのか。知れるはずない。部屋の中で私が寝ているのを確認するには、当然入室する必要がある。しかしそこまでしたかという疑問は拭いきれない。
解決する方法は一つ。『主』は最初から私が眠るのを知っていた。そういう計画だった。思い出せばあの時、鴻池有華が私にガムを渡していた。細工していたら、こんな計画は容易だっただろう。
「いやもうどうでもいい。どうしてあんたに捜査をさせなきゃいけないんだよ。そのせいで鴻池は捕まったんだぞ」
「私がここまでするのは計算外。ついでに言うならあの反撃も予想外だっただろうな。けど捜査してもらわないと困ったんだよ。なぜなら『主』は、事後捜査をおそれたから」
仁志はさらに混乱したようだが、須藤の方は指揮官としてのプライドがあったおかげで、すぐに意味が分かってくれた。
「なるほど。“cube”じゃないとかと、警察に調べられたくなかったのか」
「その通り。もし何もない段階で一人の生徒が急に殺されて、『箱』を握っていたら、警察は当然本当に“cube”だったのか調べただろう。そうされると危ない。けど事後捜査じゃなく、事前捜査があったなら別だ。それも警察じゃなくて、素人ならもっといい」
しかもただの素人じゃない。事件に参入する意志があり、捜査ができて、なるべく警察に顔のきく素人がいい。そんな人間は日本がいくら広くても限られている。
「小林陸も荻原治も小野夏希も思えば、鴻池が容疑者にしたようなものだったからな……」
できすぎだと感じるわけだ。当たり前、最初からできあがったストーリーだった。全ては『主』のシナリオ通りだったわけだ。
「さて私の役割の話しは以上だ。話しを戻そうか、ええと、どこまで話したっけ。ああ、“cube”が実在しないと困るという話しだったね」
「実在しないなんて推理をされたら困るんだろ。よく分からないけど」
「さっきから私が繰り広げている推理は、全てある基礎に基づいている。“cube”が生きていること、“cube”の身代わりが殺されたこと。けどもし、私がこんな馬鹿げた発想をしなければ“cube”は一体どうなったんだろうか。ちょっと考えてみてくれないかい」
周りにいた生徒たちを見渡しながら、そう問いかけてみる。彼らは眉を曲げながらも何かを考え始めた。中にはお互いの答えを確認しあう子たちもいた。私はその中の一組に駆け寄っていく。女子生徒の二名。彼女らにマイクを向けた。
「恥ずかしがらずに、素直に答えてくれるかな。どうなったんだろか」
彼女たちはどちらが言うかを小声で言い合った後、一人が答えてくれることになった。
「私たち、さっきまで話してたんです。これで“cube”はなくなっちゃったんだねって」
私は彼女からマイクをはなして、自分の口元へ戻した。
「そう、大正解だ。ありがとね」
彼女たちだけではないだろう。そう考えた生徒は多いはずだ。cubeは全員死んだ。なら組織がなくなるのは、当然。
「さて、これで理解してもらえないかな」
正直、この先のことはあまり口にしたくない。口にするのさえ嫌だ。それくらいむごい真実だから。
しかし期待とは裏腹に、誰も理解してはくれていないようだった。思わず嘆きたくなったが、仕方ないかとも思った。普通はこんなこと思いつかない。いや、思いついちゃいけない。こんなことを思いつくのは、ただそれだけで狂っている。
そうだから私だって狂っている。けどそれを形にはしない。
「分からないみたいだね」
「だから何度も言わせるな。もっと分かりやすく説明しろ」
「“cube”は秘密結社だ。けど、ある矛盾を抱えている。これは私じゃなく、小野君が気づいたことだけどね」
あの時、荻原治に邪険にされながらもベンチで三人ではなしていた時のことを思い出す。彼女の“cube”についての意見。彼女が見抜いた、一つの矛盾。
「秘密結社といいながらあの組織の存在は公だ。こんなの秘密でもなんでもないそう思わないかい」
「ふん、確かにそう――」
同意しかけて須藤の表情が固まった。そしてそのまま、私に目を向ける。
「まさか……」
そして彼の変化で父や仁志も気がついた。そんな彼らを見ながら、私はマイクに向かって真実を吐き出した。
「そうだ。“cube”は秘密じゃない。だから秘密にしないといけない。けど一度流れた噂を消すことは困難だ、そんなの『主』が一番知っている。だから、力ずくで秘密にすることにした。“cube”にみせかけた生徒を六人殺す」
六人が死ねば“cube”は全員死に、全滅したんだということになる。これだけの大事件になればもはや何十年経とうと生徒の間ではそういう認識になるだろう。
けど影ながら『主』も“cube”も生存し続ければ……。
悔しくて言葉が詰まったが、それでもこのふざけた結論をはき出した。
「これで“cube”は、秘密へ還る」
衝撃のせいで沈黙になってしまった人々を見渡して、私は付け加えた。
「今回の殺人の目的はそれだ。“cube”の秘密への帰還。ただただ、それだけだ」
それだけのために……たったそれだけのために六人は死んだ。
「これが、真相だよ」
あまりに残酷で、惨たらしく、凄惨な真実。
唇をかみしめる。血が出るんじゃないかと思うくらい強く。悔しくてたまらない。それだけのために多くの若い生命が消えた。消された。そしてそれを止められなかっただけでなく、その手伝いまでさせられた。全てが終わってからようやく真相に気がつけたが、もう遅い。遅すぎる。これでは誰も救われない。
「これが『主』の目的だ。そしてそんな『主』はこの中にいるよ」
怒りを抑えながら冷静を装って演説を続ける。続けないといけない。そして『主』をつるし上げてやらないと、私の気が済まない。そしてそれだけが私の出来る唯一の弔いだ。
「主犯の『主』は鴻池に多くの指示を出した。そしてそこから犯人は推測できる。小林陸はどういう選考で選ばれたか分からないが、荻原治と小野夏希は確実に意図的、私の作ったデータを元にした選定したはずだ」
鴻池有華が私に荻原治が怪しいと報告したのは、私が反撃のデータを元に荻原治や小野夏希を疑いだしてからすぐのことだ。情報がまだ完全に回りきっていなかった。
「なら犯人は限られてくる。まず一般の生徒はありえない。そうなる、捜査に加わっていた人間だね。私と仁志、そして警察の関係者――」
最後の一言に生徒たちが一気に須藤へ視線を投げかけ、須藤は呆けて、父はじっと動かないでただ小さく肩だけ震わせた。
「お前いったい何をふざけている」
「ふざけてなんかいない。捜査状況知る者が犯人なら事件が長引いた理由も分かる。警察が疑われるのは、ごく当然だよ」
須藤が怒りを露わにして拳を握りしめ、震わせていた。
「き、貴様は」
「落ち着きなよ。私は可能性があると言っただけで、そうだとは言ってない。警察は『主』になりえない。少なくとも『主』はこの学校の関係者のはずだ。事件が起きて初めて学校へ入れた警察は『主』になりえない。なら残るは、私と仁志」
私が疑いを退けたから一瞬ほっとした表情を見せた須藤だったが、最後の一言ですぐさま表情を変えた。私の無実は警察が証明している。まあ偽りではあるが、証拠がないのは事実。疑わしきは罰せず。ならば答えは、一つだけになる。
全員の視線が一点に集まった。
「君なのか……」
須藤がおそるおそる質問しているのに、仁志は私を見つめたまま動かない。
「……俺をどうしたいんだ」
「消去法でいえば君が残る。ただ、まだ消去は続けられるよ、みなさん気が早すぎる。仁志は『主』じゃない。鴻池有華と同じアリバイがある。そして、仁志は放送の時私の隣にいた。そして計画も知っていた。電話をかけられない。たとえトリックを使ったとしても、焦る必要がなくなる。そして仁志なら、何をしでかすか分からない私を介入させるとは思えない」
「そうだな、あんたの破天荒ぶりは俺が一番知っている」
少しばかり場に似つかわしくない会話をしてしまった。ただ今の消去法の連鎖がないと、今後の話しで『主』を指名できない。
「警察でも私でも仁志でもなく、捜査状況を知れた人間。いや全部の捜査状況を知らなくていい。私が小野夏希か荻原治にたどり着くのを見届けられればそれでいい。そしてそのあとに共犯者使って、私に二人をマークさせる様にすればいいんだ」
「お前は捜査状況をほかの人間に漏らしたのか」
須藤が眉をひそめるが、私は否定する。そんなことはしてない。
「漏らしてないけど、協力はしてもらった。私が荻原治に目を付けたのは放送の時に携帯を使っていた写真があった。そして写真を見てそれが荻原だと断定した人物がいる」
私はそこで一人の男性に視線を向けた。険しい顔つきでたったままの、海野先生と視線がぶつかった。あの時、先生が荻原治を特定した。先生ならあの時だけでも捜査状況を知り得た。
「俺が犯人だと言うのか」
先生は反抗するわけでも、抵抗するわけでもなくただ必要な質問だけしてくる。こんな時でさえ先生らしい。私はその質問に首を振った、もちろん左右に。
「いいや先生じゃない。あの時確かに私は先生に協力を要請したけど、先生がいなかったら他の人に頼んでいたよ。先生の捜査協力は偶然だ、海野先生じゃなきゃいけないってことはなかったんだから。ご存じの通り『主』は計画性が高い。そんな偶然を頼るなんてありえない」
そもそも小林陸の死に出くわしたときのあの先生の剥き出しの感情は演技では無理だ。私も先生が犯人だなんて思いたくはない。これほど生徒思いも先生が生徒を次から次へと殺していくわけがない。
そう、だから残る答えは一つ。
「海野先生は偶然だけど、一人、必然的な人がいたよね。あの日の少し前に、さも当然のように私に捜査協力をしてきて、それで私から情報を得るように仕向けた人物がね」
事情を知る海野先生だけが硬い表情をうつむかせた。あの場、荻原治たちを容疑者に絞り込んだあの日の職員室にいたのは、先生と私、そして残る一人。私は指先にいろいろな思いを乗せて、ゆっくりとその人物を指さした。体育館にいた全員の視線が私の指先を追い、その答えを射ぬく。
「だから、あなたが『主』だ――婆さん」
壇上の最高責任者に、私は答えを絞った。
『主』が生徒じゃないんじゃないかと考えたのは、あの放送の後だった。『主』は電話で私が“cube”を攻撃しようとしたのをなぜか知っていて、そこからもしかしたら生徒じゃないかもと考えていた。あの時はまだ死んだ生徒たちは本当に“cube”だと考えていたが、それだとおかしいことに気づいた。
私が“cube”を攻撃しようとしたのは二年の時。どういう風に情報が巡ったかは分からないが、私が在校中にこの学校にいたのは現在三年生の生徒と教師のみ。しかし、あの次点で三年生の“cube”と思われていた小林陸と黒沢明子は殺されていた。
計算が合わないとはずっと感じていたことだ。
彼女は最初、何も言わなかった。全員の視線を受け止めながらも、そんなのは気にもとめないで、指をさし、そしてその手をおろした私だけを冷たく人間味のない表情で見つめていた。私もそんな彼女と向き合う。
「私が真犯人だというの」
彼女は落ち着いた、まるでこうなることを予め知っていたかのような態度でそう訊いてくる。
「あなた以外に『主』にはなり得ない。それは今証明したばかりだ」
「確かにあなたの推測では私でしょう。けど、あなたがさっき語った動機……どうして私がそんなことをしないといけないのかしら」
彼女の質問は真っ当だ。彼女はここの最高責任者で、ここの利益を真っ先に考えるべき人である。学校内で生徒が複数名殺されたなんてニュースを流されている我が母校は、来年の新入生の数が激減するだろう。そんなことをどうしてわざわざ彼女がしないといけないのか。へたをすると役職を失うかもしれないのに。
それでも彼女にはああしないといけない理由があった。
「海野先生から聞いたよ。あなた、ここの卒業生なんだってね」
彼女は表情を変えない。私は壇上に近づきながら、ゆっくりと語る。
「ええそうよ。もう何十年も前になるわね」
「そうかい。私のたちの先輩でもあるんだ。なら……あなたも“cube”になりえたんじゃないかな」
彼女の目が少し大きく開いた。そこまで予想されるとは思わなかったのだろう。
私は壇上の目の前までくるとそこで足を止めて、彼女を見上げた。
「あなたも“cube”だった。なんせ大人になったら学園長にまでなるんだから、高校生の頃からいろいろと優秀だったんだろう。それなら当時の『主』があなたを選定しても、なんら不思議じゃない」
残念ながらこれはもはや推測でも何でもなく、想像だ。いや創造かもしれない。とにかくこれを証明することは出来ない。当たり前だ、私は彼女がまだ十代の頃の話しをしていて、そんなときの証拠なんて残っているはずもない。
それでも私はこれが真実だと考える。
「私が“cube”だったとしたら、どうしたっていうの」
「あなたはただの“cube”じゃなかったんじゃないか。はっきり言えば、私と同じだったんじゃないかな」
「あなたと同じというと」
「あなたも脱会させられたんじゃないか」
私の、あなたもという発言に体育館が少しやかましくなる。私が“cube”だったこと、そして脱会させられたこと両方ともに驚いている様だ。そんなことは気にせず、私は続けた。
「そして脱会の理由は、“cube”の秘密をばらしたから」
私はまた小野夏希と荻原治とともにベンチで話したことを思い出した。あの時、荻原治が黒沢明子から聞いた情報を自慢げに話して墓穴を掘ったが、あの話しでは“cube”は最初は存在自体が秘められたものだったということだった。そしてそれをばらした“cube”がいると。
それこそが彼女なんじゃないか。
「あなたは学生時代、どういう理由があったかは知らないが“cube”でそしてその存在をばらしてしまい、脱会させられた。そして大人になって学園長になって、『主』になった。私の推測だけど『主』というのは歴代の学園長じゃないかな。だったら『主』なんて名前にも納得がいくよ。まさにここの主なんだからね」
「想像ね」
「想像さ。けどだったら歴代の『主』が一向に名乗りでないのも納得がいく。そんなことをするとこの学校にとって大きくマイナスだ。いやそもそも、すでに全員亡くなってしまっているんじゃないか。ご高齢のはずだしね」
「証拠がないわね」
「ないね。けど、あなたが『主』なのは否定出来ないだろ。あなたに殺す動機があったかどうかは分からないが、あなたが『主』でそして事件に深く関わっていたのは事実だろう」
それだけは動かしがたい。確かに私の推理では“cube”は殺されていない。だから犯行は正直、『主』以外にも可能だ。けど逆に言うならば、この計画では“cube”は絶対に殺してはいけない。そして“cube”を黙らせておかないといけない。そう言うことが出来たのは本当の『主』だけだ。だから彼女が『主』であると証明された以上、事件に関与したことだけは絶対に否定させない。
私と婆さんがにらみ合っていると、ようやく第三者の声がした。
「ちょっと待て。学園長にはアリバイがある」
須藤のもので、彼は彼女を指さしながらそう主張した。
「警察をバカにするな。黒沢明子の事件時、学校にいた人間のアリバイは全て調べている。彼女は学園長室にいた。いや実際にその場をみた人間はいないが、あの部屋の出入りには職員室を通る。こっそり抜け出すなんて無理だ」
父を見てみると頷いていた。そりゃあ、そうだろう。
「須藤さん、ちょっとクイズに答えてみようか」
いきなり訳の分からないことを言い出した私に須藤ははっと聞き返してきた。そんな彼を無視して進める。
「第一問、黒沢明子の殺害方法はなんでしたか」
「……刺殺だ。お前だって知っているだろう」
「うん、正解。第二問、安藤茜はなんでしたか」
「焼殺だ。おい、これはいったい何なんだ」
かまわず不謹慎なクイズを続けていく。
「第三問、小林陸はどうしてか」
「そんなのお前が一番知っているだろう。撲殺だ。おい本当になんのつもりだ」
ようやく目的にたどり着いたので、私は人差し指をたてて、最後の問いを出した。
「最終問題、小野夏希はどうでしたでしょうか」
彼女はまだ死んでいない。ただ、どう殺されようとしたかを思い出してほしかった。須藤はこれにも即答しようとしたが、私がしたかったことに気づいて顔色を変えた。
「……刺された。黒沢明子と同じだ」
そう、それが私の言いたかったことだ。この事件はずっと殺害方法を変えていた。刺殺、焼殺、撲殺と。だから私はてっきり殺害方法も変えてくるだろうと考えていた。けど違った。どういうわけか最初に戻った。
「どういうことだろうね」
はっきり言って犯人は殺害という行動を楽しんでいた。それは間違いないと考えている。だから私に平然とした態度で接してくる。
私は最悪、もしかしたらこれは連続殺人でなく、一件一件に別の犯人がいるんじゃないかとまで考えた。だから方法が違うんじゃないかとまで。いくらなんでも現実離れした推理だと自分の中でケチらしていたが、どうもそういうわけでもなかったらしい。
「この二件の刺殺、いや小野君はまだ死んでないけど。とにかく刺殺されそうになった。どうして犯人は別の方法をとらなかったんだろう」
「そ、それは不思議だがたまたまじゃないのか」
「分かってないな、須藤さん。犯人があの場で小野君を殺害しようとした目的はなんだったと思っているのさ」
その問いに須藤は思いっきり嫌な顔をした。感情が表情に出やすい人だ。けどそれでいいと思う。
「そうさ、私を犯人にしたてあげるため。だから彼女の殺害をあの時にした。だからなるべく急いで犯行をしないといけなかったはずだ」
「なら刺殺は頷けるんじゃいのかよ」
仁志が割り込んできたが、私は首を振った。それは少しおかしい。
「殺害方法が同じでもいいなら、撲殺にしないかな。だってあれなら後ろから近づいて、気づかないうちに殺せるよ。刺殺だと真正面から刺さないと殺せない。事実、犯人は殺害に失敗した。それくらい、経験済みの犯人なら知っていると思うんだけどね」
撲殺なら防犯ベルを鳴らす隙も与えなかったはずだ。それくらい分かる。なのに犯人は刺殺を選んだ。それにもちゃんと理由がある。
「思うに、犯人は刺殺をしてなかったんじゃないかな。だから犯人にとっては順番的に、次は刺殺だったんじゃないか」
私のばかげた推理の一つ。犯人は別々にいるというもの。そこから考え出された答えだった。
「お前はさっき連続殺人だと言ったぞ」
「うん。少なくとも、二件目以降は連続殺人だ。けど一件目だけは別の人間の仕業と思う。だからこそ、二件目以降の連続殺人の犯人は、刺殺がしたくてしょうがなかった」
「だから、それはいったい誰だ」
「私たちの推測通りだ。香月麻由美だよ」
彼女じゃないとなし得ない。だって学校関係者には全てアリバイがある。だから婆さんでも、鴻池有華であるはずもない。それでも誰か、殺す理由がある人間がいた。そして動機を持っていたのは、香月麻由美以外にいない。
「恐らく麻由美君は黒沢明子が本物の“cube”だと教えられた。だから殺害にはしったんだろう。姉の仇としてね」
どういうふうに香月麻由美を操ったかは知らない。ただ“cube”がどういう組織か知り、それが誰かを教えられたら彼女は迷うなんてことはしなかっただろう。
「婆さん、あんたは彼女が入学してから香月亜由美の妹だと知った。そして“cube”を使って、彼女を排除した。しかし鴻池有華が“cube”の資格を剥奪されてしまい、奪い返さないといけない事態になった。そうだろ」
いくら黒沢明子が『箱』だけ奪っても“cube”にはなれない。“cube”は『主』の指令があって、初めて仕事が出来る。そして指令はいつもげた箱だ。恐らく鴻池有華はげた箱に資格を奪われたと手紙を残し、それを『主』に読ませた。私が『主』に連絡が取り合ったのと同じ方法で。
そして『主』であった婆さんはなんとしても資格を奪い返さないといけないと考えた。黒沢明子が口を割るかもしれないし、資格の強奪など認めるわけにはいかなかったんだろう。そんなことしたら一学年二人ずつという法則から覆さないといけない。
しかし単純に黒沢明子から『箱』を奪っても仕方ない。完全に彼女の口を封じるしかない。そして完全に口を封じるということは、つまりは……。
そして婆さんは思いついた。退学させた香月麻由美に黒沢明子が本物の“cube”だと思わせて、殺害させればいいと。そうすれば自分の手は汚れないと。
そしてそれを実行し、初めてある可能性に気がついた。この調子であと五人殺せば自分の過去の失敗を払拭できるんじゃないかと。それはもう人間の思考ではないと思うけど。
「なら一件目のアリバイは無意味だ」
「いや待て。小林陸のときだって」
須藤が何か続けようとする前に私は首を振った。
「あのね、私は鴻池有華が“cube”で、婆さんが『主』だと言った。この二人は協力関係だよ。ならこう考えよう。実行犯がもう一人いると」
婆さんは主犯、そして鴻池有華が共犯、そして恐らくもう一人、それこそが私たちの求めていた答えである実行犯がいる。
私の言葉にこの場にいた全員が口を開けて唖然としていた。
「驚くようなことかな。だって私たちは最初から被害者は組織だと分かっていたじゃないか。なら加害者が組織だと考えるのも不可能じゃなかったはずだ」
通常、犯罪の成功率というのは人数が多くなればなるほど低くなっていく。だからこそ今回の事件も私や小野夏希を殺しそこねて、そして真実がさらけ出されるはめになった。
「香月麻由美がいなくなった。けど一六歳の少女が二ヶ月から三ヶ月も姿を消すことなんて難しい。彼女の場合捜索願いも出てたしね。だから、彼女をかくまった場所があり、彼女を世話した人物がいた」
「ここじゃないのか」
父がこの体育館の床を指しながら訊いてくる。さすがだ、いい点は突いている。
「学校で婆さんにかくまってもらうっていうのはちょっと難しいね。一時期なら十分可能だろうけど、二ヶ月だよ。長すぎるね。誰か気づくだろう。警備員さんだっているし」
「そんな理屈どこでも一緒だ。どこか一カ所に身を潜めるなんて、簡単そうでそうじゃない。ましてや香月麻由美の場合、一時期警察が千人以上の規模で捜索したんだ」
須藤がどこか誇らしげに語る。千人規模というのが少し自分の権力を示すようで快感なのだろう。ただその千人が無駄足だったというのは、全く悲しい結末だ。
「だって探したって見つかるわけない。あの時、彼女はすでに死んでいて、この世にはいなかったんだから」
この告白にはあまり驚きはないようだ。一件目だけ別の犯人だといえば、その犯人の末路くらいは予想できたんだろう。ただ、彼女がたどった道は恐らく予想外だ。
「須藤さん、二ヶ月以上身を隠すのは難しいと言ったね」
「ああ、ましてや未成年の少女だ。夜中に街を歩いていれば職質だってかけられる。そんな簡単なことじゃない」
そう、こればかりはさすがに警察のお偉いさんだ、全面的に正しい。
「けど、警察の手が及ばない場所があった。そして私たちはそこを知っている」
私は二度足を運んでいるし、警察だって何度も行っているはずだ。
「それは……一体、どこなんだよ」
仁志が深刻に訊いてくるので息をのんで答えようとした瞬間、ある音がした。金属と金属がこすり合う、とても不快な音。それが体育館の中に響いた。
全員の視線がその音の発生源に向く。そこは体育館の後ろ、体育用具入れだった。そこの扉が内側から、ゆっくりと開けられていく。そしてしばらくすると全開になり、そこから一人の人物が悠々と出てきた。まるで、待ってましたと言わんばかりに。
「流石、探偵さん」
彼女の右に手には見るかに恐ろしいバトルナイフが握られていた。そして生徒たちは一様に怯えだして、一気に彼女から遠ざかる。そんなのは気にせず彼女は一歩また一歩と私に近づいてくる。神話でモーゼが海を割ったみたいに生徒たちが彼女のための道を作っていく。
警察の方々も最初は驚いていたが、すぐさま動こうとした。しかしそれに機敏に反応した彼女が、持っていたナイフを首にあてた。動いたら死ぬ、そういう脅しだ。それで警察は動けなくなった。
「じっとしててね。私、探偵さんと話したいから」
子供を諭すような優しい言葉遣いだったけど決して反抗を許しはしない威圧があった。
彼女は私からあと少しというところで足を止めて、にっこりほほえんだ。
「遅すぎだね、探偵さん。けどたどり着いてくれてよかったよ。いや、有華も学園長も全く使えないな。かくいう私も、こうやってばれちゃってるわけだけどね。まあ、目的は達成出来たから別にいいんだけどさ」
友達に話しかけてみるみたいだ。まるでこの状況を恐れていない。だから私も取り乱すことなく、彼女と向き合った。
「全くだ。もっと早く、君だと気づくべきだった」
それは私がこれから人生を犠牲にして反省していく人生最大の汚点だった。
「まあがんばった方だよ。気を落とさない方がいいね。ところでさ、どこで私だって分かったのか訊いていいかな。ほら、この会話は二時間ドラマとかじゃ定番じゃない。だから、答えてよ」
「ヒントをくれたのは、小野君だ」
私はそこで彼女に向かって右手を差しだし、そしてピースをしてみせた。小野君が刺された直後、私に向かって指さしたのと同じ形で。
「あれはてっきり私が指さされたのかと思った。けど違ったんだ」
私は確かにピースにも見えたと思った。けどあの状況でピースなんかするはずないとその考えを退けてしまった。それがミスだった。
「あれは確かにピースだったんだ。彼女はこう言いたかったんだろう。二とね」
そう、彼女は数字の二を表したかったんだ。それこそが答えだから。
「あらあいつ、そんなことしたんだ。うざいなぁ」
彼女が一瞬顔をしかめたがすぐに笑顔に戻った。
「まあ、それであなたが真相に気づけたならいいか。いや本当、いつも電話越しだったからこうやって会話できてうれしいよ」
「いつもじゃない。最初は、扉越しだ」
彼女は首を傾げたが、すぐにああと何度も頷いた。
「そうだったね。まあとにかく、初めまして蓮見さん。お会いできて光栄だよ」
彼女はナイフを首に当てたまま、ほほえみながら小さく頭を下げた。
「ああ、私も嬉しいよ――茜ちゃん」
顔を上げた彼女、二番目の被害者の安藤茜は会心の笑顔を浮かべていた。
「本来、鴻池有華を疑ったときから君という可能性を見いだすべきだった。彼女が『主』の協力者なら、君の死も見せかけだと予想できた」
「まあそうかもね。けどいい演技だったでしょ。有華、演技だけは上手かったから。まあそれ以外はダメダメだけどね」
思い返してみると私は今まで一度も生きた安藤茜には会っていなかった。確かに扉越しに最初に会話したが、顔も見ていなかった。そして彼女が殺されたと思った場面、つまりあのマンションでの火事。あのときでさえ私は燃えている人間は見たものの、あれが彼女だとは確認していない。
それでも私があれを彼女だと思ったのはほかでもない、極力者である鴻池有華があの燃えている人間を見て、親友の名前を叫び続けたからだ。そして現場の状況的に彼女しかあり得ないと。
けど実際問題、焼殺で死体の顔は確認出来なかったし、歯形だって転落のせいで原型を留めていなかった。だから確認作業というものが出来ず、状況証拠だけであれが安藤茜だと決めてかかった。
初歩的な呪縛だ。
「マンションの防犯カメラに不審な人物が映っていなかったのもうなずける。君があの死体、つまり香月麻由美を部屋に連れ込んだのはあの日の二ヶ月前……流石に警察はそこまでチェックしてない。そして火事になってしまえば蜘蛛の子を散らす様にマンションから人が出てくる。どさくさに紛れて君だけ脱出することは十分に可能だ。入ってきた人がいないんだから、出ていく人間もいないだろうと考えるしね」
「なかなかいい手だったと思うわ。けど相当大変だったのよ」
彼女が死んでいない以上、あの死体は彼女以外の誰かだ。誰でもいいというわけじゃない。出来るだけ彼女と年齢が近くて、そして女だということが最低条件。その条件に一致して現在姿が見えない事件関係者は、香月麻由美だけだ。私はもうあのときに彼女を見つけていたんだ。
安藤茜が引きこもってるという部屋に私が行った時……あの時、部屋の中の少女は一人じゃなかったんだ。二人いた。今にも殺されそうになっていた、二ヶ月も監禁された状況の香月麻由美がいた。そうだ、あのとき私は物音を聞いていたじゃないか。あれはもしかして、助けを求めた彼女が動いた音だったんじゃないか。
今更気がついても遅すぎるけど。
「二ヶ月間、一つしか違わない少女を監禁するのは確かに難しかっただろうね」
「最初はね、隠れ家を提供してやるって誘って、あいつもだまされてくれてたんだけど、一週間もすると出せってうるさくなったから、色々と痛めつけて黙らせたわ」
彼女はそのときのことを思いだして、またにんわりと笑う。
「最後の最後、動けなくした後に部屋を燃やして出ていこうとしたらさ、あいつ叫んでたわよ。お姉ちゃんって」
姉の復讐を誓った少女。その方法は間違いしかなかったが、彼女は確かに自分の正義感に基づいて生きたはずだ。それは法を犯していても、まっすぐなものだっただろう。それを、こいつらは踏みにじった。
「まああいつだって人殺しだもん、殺されたって文句はなしよ」
「君らが殺すようにし向けたんだろ」
「違うわよ、私はそんなことしてない。最初の計画を立てたのは有華と学園長よ。あの二人があいつを利用しようと画策してたの。私はそれに途中から乱入した。けど少なくとも学園長には好都合だったでしょうね。ただで殺してくれる奴がいたんだから」
なるほど、だいぶ分かった。恐らく彼女のいうとおりなんだろう。資格を奪われたと報告した有華ちゃんは『主』に手紙をあてたはずだ。そしてそれを受けとった婆さんも状況を打破するため、そんな作戦を思い描いた。ただ当初は連続殺人なんて考えていなかったんだろう。ただ、黒沢明子を排除する。それだけだ。
しかし手紙のやりとりはげた箱だ。安藤茜はおそらく鴻池有華が“cube”であることに気づいていた。ただ当初は気にもしてなかったんだろうが、どうも親友の様子がおかしいことに気がついた。そして彼女がげた箱に手紙を入れるのを確認して、それを勝手に読んだ。そして状況を察した彼女は、そのままどこかに隠れて『主』が手紙を取りにくるのを待った。日頃ならちゃんと最新の注意を払っていんたであろう婆さんも、状況が状況だけにせっぱ詰まっていた。そしてその姿を目撃される。
そして『主』であることがばれた婆さんに、この快楽殺人者は提案したんだろう。なんなら私が殺してやる、と。
「最初は学園長、目を丸くしてたわ。けどここで私の提案を断ったらどうなるかくらいは分かったから反対も出来なかったみたい」
もしも断れば彼女は事実を公にしただろう。できればそういう結末が、今思うと最善だったのかもしれない。
「しかしここの学園長は優秀ね。すぐに別のアイディアが浮かんだみたい。私はそれにのった。それならもっと殺せるからね」
それが今回の事件だったわけだ。
「おかしいかったはずさ。黒沢明子の死から次の犯行まで二ヶ月もあった。あれは計画を練る時間だったんだね。そして……」
「そう、あなたを事件に介入させるための時間だったわけ」
香月麻由美を疑っていたとき、どうしてこの二ヶ月の空白が気にならなかったんだろう。復讐なら一刻も早くしたいはずだ。二ヶ月も間をあけるなんて真似はしないというより、出来なかったはずなんだ。
「さて……これでお話は終わりかしらね。事件の真相は以上よ。私たち三人が、目的は違ったけど、それぞれ仕事をこなしながらここの生徒を殺していった」
彼女は彼女を避けて壁に張り付くように怯えている生徒たちを見ると、舌で唇をぬらした。
「本当はもっと殺してやりたかったけど」
誰かが小さく悲鳴をあげた。それにまた彼女が笑う。
「にしても警察もバカよね。いくら二ヶ月の間に少し顔つきを変えるようにはしたし、髪も伸ばしたけど、それでも事件の重要な人物が学校内にいれば気づくと思うわ。ちゃんと捜査しないとダメね。流石に香月をあなたたちが疑ったときは逃げ出したけど、基本的にはここに隠れてたのよ。さっき探偵さんが言ったように、一時期なら可能だったわ」
須藤を見ると未だに固まっていた。安藤茜の登場が彼の予想の範疇を遙かに越えていたんだろう。しばらくはオーバーヒートしてフリーズ状態になったパソコンみたいに動かないだろうな。
「校内放送のときだってここにいたわ。まあ電話はさっきの用具入れでしたから誰にも見られなかったみたいね」
「よくそこまであの状況で動けたね」
「楽しかったからね、あなたとやりあっていると。血が騒いじゃったわ」
本当に彼女はどこまでゲーム感覚だったんだ。今、この状況でさえ楽しんでいる。逃げられないと分かっているのに、それに恐れることもない。鴻池有華の方がまだマシか。どうせ反省なんて今後一切しないんだろう。
動いたのは父だった。彼女の方へ駆け寄ろうとする。そんな父をきりっと安藤茜がにらみつける。
「お父様、じっとしてもらえるかしら。娘さんの話しは終わったかもしれないけど、私にだって話したいことがあるのよ。大丈夫、じっとしてたら何もしない。それとも今動いて、大切な容疑者を死なせちゃうのかしら」
彼女は首に当てていたナイフをさらに力を込める。すると首から小さな赤い滴が音もなく垂れていく。父は目を見張ったが、本人は平然としていた。
結局、父はその場から動けなくなった。
「それでお話しというのは何かな」
父を見ていた眼差しが私に戻る。
「いや質問なのよ、ねえ探偵さん」
彼女はさっきまで自分の首にあてていたナイフの刃先を、私に向けてくる。その表情にはさっきの笑顔が残っていたが、どこか違う。目が笑っていない。
「どうして、生きてるの?」
ぞくっと背中に寒気を感じた。彼女は目が笑っていない出来損ないの笑顔のまま、ナイフを私に向けている。
「私はあなたを殺そうとしたの、荻原を使って。本当は直接私が手を下したかったのに、変にあなたに近づくと危ないと思ったから渋々そうしたの。なのに、どうして生きてるのよ」
彼女の表情から笑顔が消えていく。顔が歪んで、本当に鬼の様に見えてきた。怒りのせいでナイフの刃先も揺れていた。それを危険と感じた父がまた動こうとするが、無駄だった。
「動くなっつてんだよっ、聞こえなかったのっ!」
それまでの声とはうってかわった怒声が響く。またしても父が動けなくなった。
「じっとしないとここの誰かが死ぬことになるからな、分かったか」
そもそも凶器を持った彼女がこれだけの人間の前にいる時点で、有利なのは彼女なんだ。こういうときこそトップがしっかりしないといけない。
「父上、動かないでね。ちゃんと答えるから、落ち着いてくれるかい」
「さっさと答えろ」
よほど私が生きていたことが気に食わないらしい。そんなに死んでほしかったのか。そりゃ生きてる甲斐がある。
「君は香月君が疑われてから学校から遠のいたと言ったね」
「ああ。でも事件が終わってからまた戻ってきたんだよ。特に今日は学園長が集会開くって言ってたから。犯人が被害者面で何を語るのか興味あったから」
「そうかい。けど、それが痛かった」
彼女が首を傾げるので、私は頭の包帯をまた指さした。
「危ないところだったよ。医者が言うには、頭をもっと強く打っていたら助からなかったらしい」
けどあの日、私はある物を被っていた。
「君だって事前に調べてはいたんだろうね。私がヘルメットをしてなかったことぐらいさ」
けど、そのデータは古くなっていた。まさに香月麻由美が疑われたその日に。なぜなら、その日の午前中に私がそれこそ私を殺そうとした荻原治からある忠告を受けていたから。
「あの日、私は荻原治からヘルメットを勧められてね」
彼女の顔色が変わっていく。どう形容したらふさわしいか、そんなのもわからないほどに。
「……彼に助けられたよ」
「小野夏希も防犯ベルなんてもってやがった。だから殺しそこねた。そしてあんたも……ああ、もう、ああっ!」
猛獣の咆哮みたいだった。そして叫び終えると、彼女は刃先をまっすぐしたまま私に向かって突進してきた。感情的になっているからよけるのはたやすいだろうとたかをくくっていたが、いざ体を動かそうとすると、ここにきて全身に激痛が走ってしまい、あっと思った時には、もう目の前に彼女が迫っていて、私は死を覚悟した。
しかしそんな私の視界から瞬時に彼女の姿が消える。彼女の横から父が体当たりをして、彼女はそのまま吹っ飛ばされた。そしてしょせんは女子高生と現役の刑事、場数が違った。
彼女は勢いで落としてしまったナイフを拾うとしたが、そんな彼女の上に父がのしかかり、ナイフへのばしていた手を捕まえて押さえ込む。
「はなせっ!」
彼女は足掻くが、しょせんは大人と子供だ。かなうはずもない。
するとばたばたと体育館に数名の男たちが入ってきた。どうやら応援の警察の方々らしい。入ってきた彼らは現場がどういう状況かは完全に理解していなかったが、とにかく父が彼女を押さえ込んでいるのを見ると素早く父の手助けをした。彼女は最後まで抵抗していたが、複数名の警官に押さえられたらすべては無駄に終わった。
父が彼女から離れる。言葉にならない暴言を吐き続けていた彼女を、応援の警官たちが両腕をがっちりと捕らえて引きずるように連行していく。
「蓮見っ、おいっ!」
しばらく彼女は私の名前を連呼していたが、私は無視をし続けた。あんな殺人鬼にかける言葉などもうなかった。私が答えないとわかると、彼女は体育館から出ていく間際、突然笑い始めた。
「まあいいよ、殺したからっ、三人もねっ。あははは」
あはははははははと、壊れたような体育館全体を揺らすような、そんな耳の奥に永遠に残りそうな高笑いを残して、彼女は姿を消した。
そして彼女の次は体育館の隅で捕まっていた有華ちゃんが二人の警官につれられて、静かに退場していった。
ようやく正気に戻った須藤が父と目を合わせて、壇上へあがっていく。そしてそこで一人、呆然と佇んでいた婆さんを挟み込む。彼女は二人の刑事を見ることもなく、ただ私を見下ろしていた。
「春日学園長、ご同行願います」
父がそう告げても彼女は何一つリアクションを示さなかった。そんな彼女の腕を二人で捕まえると、ゆっくりと連行していく。婆さんはもうなすがままにいうように、抵抗も何もしないで、ただ足を動かしていた。
ただ壇上から降りてきて、私とすれ違うときようやく口を開いた。
「“cube”の定義は優秀であること。私は過去に失敗をしたわ。けど、それを補おうとしたの。本当に優秀な人間は、失敗を補おうするものなの」
それが彼女を凶行に走らせた私論か、聞いていて吐き気しかしない。
「そうかい。けど私は思うよ。優秀な人間ならたとえ失敗しても、正しい方法でそれを直していく。失敗を失敗で埋め合わせるのは簡単だ。嘘を嘘でごまかすのと変わりない」
そんなのは優秀なんて言わない。
「言っておくけどね、事件を解決したのは私かもしれない。けどね、鴻池有華の正体に気づけたのは小林陸の証言のおかげで、小野君や私が生きて安藤茜の殺人を阻止できたのは荻原君の優しさがあったからだ。そしてあなたの目的を見抜けたのは、小野君の聡明さがあったからだ。分かるかい、あなたたちはあなたたちが駒のように使った生徒たちに追い詰められたんだよ。優秀なのはあなたたちじゃない、事件を解決に導いた彼らだ」
私と婆さんはしばらく見つめあった。そして、再会したときと同じく異口同音で言葉を選んだ。
「やはり、あなたとは相容れない」
父と須藤が彼女を連行していく。連行されていく彼女の背中を見つめながら、私は自分の私論が間違っていたことを知った。私は優秀じゃない人間なんていないと思っていたが、違った。少なくともあの三人は、救いようのない愚者だ。
彼女の姿が見えなくなると、自然と体から力が抜けていった。そのまま頼りない足取りで壁まで寄っていき、倒れるようにそれに背中を預けた。全身が痛くて、体が言うことをきかない。それにもう精神的にも限界だった。
そんな私に海野先生と仁志が駆け寄ってくる。
「バカ、無茶するからだろう」
そう叱責しながら仁志が手を差し出してきてくれる。それを掴んで、なんとか立ち上がろうとするがなんと力が入らない。困っていると、海野先生がひっぱってくれて何とか立ち上がれた。
その後は二人の肩を借りて、体育館を出ていく。ようやく役目を終えられた。遅すぎたが。出ていく寸前、一人の女子生徒が目の前に飛び込んできた。
「わ、私、野球部のマネジャーです」
野球部ということは小林陸の……。
「ありがとうございます。彼、きっと喜んでます」
それだけ言ってぺこりと頭を下げると、彼女は生徒の中に戻っていった。彼女が小林陸とどういう関係にあったのか、どういう気持ちを抱いていたのかは知らないが、少なくとも遅すぎた解決にも救いはあったらしい。
体育館を出てすぐに海野先生が携帯で救急車を呼び出そうとしたが、私がそれをやめさせた。
「多分だけど校門まで行ってくれれば何とかなると思うんだ」
二人はよくわかってなかったがとりあえずそうしてくれた。そして私の予想通り、校門を出てすぐのところに一台のタクシーがあり、そしてそのすぐ近くに春川が立っていた。
「お疲れさま」
それが彼女の第一声。けど実を言うと、今一番欲しかった言葉。
「さあ早く病院へ帰りましょう。看護師さん、カンカンだったわよ」
それはそれは帰るのが少し嫌になる情報だ。
タクシーの後部座席に二人に手伝ってもらい、なんとか座った。怒られるのは仕方ないから、早く病院のベッドで寝たい。
「蓮見、感謝してる」
扉を閉める前に海野先生がそう言ってくれた。
「いいよ、結局だれも救えなかったしね」
「それでも感謝している」
有無を言わない感謝だ。先生らしい。
「今度こそじっとしてろよ。また暇があったら見舞いに行ってやるから」
「ああ、待ってるよ」
そんなこと言いつつ、私のために時間を作ってくれるんだろうとは言わなかった。
扉が閉められて、車が静かに発進する。それと同時に私は隣に座っていた春川の膝の上に頭を預けるように倒れた。
「ちょっと」
「けが人なんだ。いや本当にこっちの方が楽でいい。できるならこのまま一生いたいね。この暖かさがなんともいえない」
「落とすわよ」
そんな怖い脅しをしなくても。
しばらくはなにも言わなかった。春川も文句を言っていたが、結局膝を貸すことを許してくれた。彼女はまだ事件の真相は知らない。ただ、もしかしたら連行されていった三人の姿は見たかもしれない。彼女ならそこから真相をたどるのは容易だろう。
彼女だって事件に無関係というわけではないのに、私に何の質問もしてこないのは優しさだろう。
だから私はその優しさに甘えることにした。
「一生のお願いがあるんだ」
「それ、今日だけで二回目よ」
「そうだったかな。いや、じゃあこれで最後だ。病院に着くまででいいからさ、目を瞑って、耳を塞いでてくれないかな」
彼女は最初きょとんとしていたが、すぐに私がなにをしたいのかを察して返事もせず、言うとおりにしてくれた。やっぱり優しいな。手の甲を目の上にのせると、少し濡れた。そしてそれは止まらない。
一体どこからこれを我慢していたんだろう。そんなことさえ忘れてしまっている自分がいる。ちゃんと病院に着くまでに止められるだろうか。いくら春川といえど、一九歳にもなったら見られると恥ずかしい顔だ。
目や喉の奥が熱くなっていく。痛みのせいだって言い訳は通用しないだろうな。
溢れた涙が頬を伝っていった。
――エピローグ――
事件が解決して十日も過ぎると、加熱していたマスコミ報道も大物政治家の汚職事件へと興味が移ったらしく、テレビや新聞で我が母校の醜聞であり、悲劇のことを見る回数は減っていった。
そんなのは見たくもなかったが一応被害者だったし、事件の重要な立ち位置にいたので色んな方から細かい情報は聞かされたし、無理がたたって入院が長引いてしまい、新聞やテレビを見るくらいしか暇をつぶせなかったので、嫌でも情報は入ってきた。
あの三人の取り調べは今も続いている。一番順調に進んでいるのは安藤茜だった。彼女は事件のことをまるで夢を語る少女の様に、目を輝かせて笑顔で供述するらしい。自分の知っていることは全て、まるで誇るみたいに口から滑り出しているという。警察としては楽だろうけど、それは嫌だろうな。こんな状況はどうってことないと言われているみたいなものだから。
彼女とは対照的なのは鴻池有華だ。ほとんど口をきかず、喋ったとしても自分は巻き込まれただけだという主張しかしないらしい。それでも色々と証拠もあるのでそれを突きつけられては、またあの時にように叫びながら首を振り続けるという無限ループ。ちっとも聴取が進まないと父が嘆いていた。
そして二人とはまた違って、婆さんの方は本当に何も口にしないらしい。
「黙秘します」
最初の事情聴取のときにそう開口一番に口にして、それ以降は一切何も喋っていない。どんなに強面の刑事でも、少しも表情を変えず、取り調べの時間を過ごしているみたいだ。その精神力にはあきれ果てる。
けど結局、安藤茜が全て喋っているので無駄に終わるだろう。
事件後、流石に学園長が生徒を殺したということもあって、学校へのバッシングはひどいものがあった。来年の新入生は激減どころか、一人もいないんじゃないかとさえ言われている。事件後、退学者が急増したみたいだし。
退学と言えば、生き残っていた本物の“cube”の五名は自分から名乗り出て、その中でも二人は自主的に退学した。何でも下手なことを喋ったりすると殺すという手紙が、小林陸の殺害前に届いていたらしい。それで彼らも何も出来なかったそうだ。事態が進む前に、そのことを話してくれなかったのはもちろん恨むが、彼らも背負う必要のない罪を背負ってしまった被害者ともいえる。なんせ一人はPTSDにもかかったそうだし。
「今は学校の存続より、生徒の心のケアが一番重要だ」
海野先生が一度だけ見舞いに来て、母校の行く末を心配する私にきっぱりとこう断言した。全く、どこまでそれしか頭にないようだ。だからこそ、この人なんだろうけど。
「色々と忙しいだろう。無理して体を壊さないようにね」
老婆心でそう忠告したのに、先生に笑われてしまった。
「お前にだけは言われたくはないぞ。それに……」
一度ため息をつくと、優しい眼差しをくれた。
「お前が生徒だったときよりずっとマシだ」
先生にそんなことを言われたのは初めてだった。私が在学中はいつも私が起こす問題に、さも当然の様に取り込んでくれて、疲れた姿など見せなかったから先生は丈夫な人なんだと思っていたが、やっぱり疲れていたらしい。
「それを言われると、辛い物があるね」
先生はとにかく今は大忙しだ。自分の担当のクラスの子たちが受験というのもあるし、事件で心に傷を負った子たちのケアも積極的に買って出ている。まだ先生みたいな人がいるのだから、あの学校も終わったわけじゃない。
お見舞いと言えば仁志も何度か足を運んでくれた。彼も生徒会長して仕事があるし、何より彼自身が受験生ということなので暇というわけでもないが、それでもよく病院に来てくれた。私が退院する日、母は既にまたどこかに旅立っていて、父と兄は仕事だったので退院の手伝いをしてくれたのも彼だった。
「もういい。現役は諦める」
大きな荷物を抱えながら彼がそんな諦めを宣言した。
「一浪してワンランク上を目指す」
「誰の言葉だか忘れたけど、志の低い人間はそれ以下の結果しか出せないらしいよ。そんな諦めなんてせず、ちゃんと最後まで一所懸命にやりなさいな」
病院からの帰り道で私は久々にお姉さんらしい良いことを言っていて、自画自賛したくなっていた。
「そういえばひぃ君、志望校はどこかな」
そう質問したのに、彼は答えない。そんな態度でどこかすぐに分かった。思わず唇が綻ぶ。全く、どこまでも可愛い奴だ。彼の肩に手を回して、耳元に口を近づけた。
「お姉さんが家庭教師になってあげよう。その大学の入り方なら心得ているからね」
「おい、どこなんて言ってねぇぞ」
「うるさい。私が今日から君の先生だ。蓮見先生って呼んでいいよ。あら、なかなか官能的な響きじゃないか」
「バカかあんたは」
そんなこんなで私は無理矢理彼の家庭教師になった。けどそこいらの大学生の様に法外な時給を取るどこか、ただ働きだ。そうは言っても彼の母親であるおば様が、何かと差し入れをくれたのでそれが給料代わりだった。
結局、そんな見事な私の愛のおかげで彼はまた私の後輩になった。本人は不服のようだが、私としては大いに嬉しい。これからのキャンパスライフがまた楽しみだ。
そんな彼は卒業間際に生徒会長のイスをある少女に明け渡した。
「あいつが適任だろうよ」
誰に相談するわけでもなく、彼がそう決めた。私もそれが正しかったと思う。
小野夏希は、事件解決の一週間後に目を覚ました。長い眠りから覚めた彼女に待ち受けていたには、事件解決という朗報と、恋人の訃報で、彼女はそれを聞いたとき何も言わずただ、俯いたという。
私と彼女が再会したのは彼女が目覚めてから三日してからだった。彼女になんと言葉をかけていいかも分からなかったし、いきなり会いに行っても迷惑なだけだと考えた。それに彼女には私以外にも警察やら友人やら、たくさんの人たちがお見舞いに顔を出していたので。
けどその再会の日、私が病室に入ると彼女はベッドから起き上がり、また頭を下げた。そして屈託のない笑顔を浮かべていた。
「待ってましたよ、蓮見さん」
病院服の中は包帯がぐるぐると巻かれているんだろうが、外見では彼女は以前話したときは何も変わっていなかった。どちらかというと、以前よりも明るくなった印象がある。その理由が分かってしまったから、また辛くなる。
「私は君に殺されたって文句は言えないよ」
彼女のベッドとの横に立ち、そう告げると彼女は首をゆっくりと横に振った。
「蓮見さんは恨んでません。憎しみは全部あの三人に向けてます。蓮見さんは治の無実を証明してくれたんでしょう。本当に、感謝しているんですよ」
「けど彼は死んでしまった。私がうかつだったからだよ」
「蓮見さんは彼に殺されそうになったんでしょう。それなら彼が悪いです」
それは最初に私たちが会ったとき、荻原治が私に暴力を振るおうとしたことを代わりに謝ったときと同じ態度だった。
「……彼には迷惑をかけっぱなしだった。そんな彼に命を救われるんだから、私の方こそ彼に感謝しないといけない」
あの時、彼が私にヘルメットを勧めてくれていなかったら、私はこうして生きてはいないだろう。そんな命の恩人である彼を救えなかったのは、心の底から残念でならない。
「実を言うと……私もそうなんです」
彼女はすぐ近くに折りたたんで置いてあったハンカチを取ると、それを開いた。中からは防犯ベルが出てくる。彼女が刺された時に鳴らした、あの防犯ベルだ。
「警察の人に返してもらいました。これ、彼がくれたんですよ。夏希さんは時々遅くまで一人でいるから危ないって」
そうか、彼女が防犯ベルなんて持っていたのはそういう理由があったのか。彼女は美化委員の仕事で遅くまで作業すると、あの時言っていた。なるほどそれを恋人が心配して送ったわけだ。
「本当に……役立つなんて思わなかったですけどね」
多分、笑おうとしたのだと思う。けどそれは出来ていなかった。言葉が途切れ、声が震えてしまっている。私はそっと彼女の頭を抱いて、胸の中に寄せた。明るく見えたのは、気丈に振る舞っていただけに過ぎない。そんな姿は痛々しいからやめてほしい。
「君は聡明だ。正義感も強い。だから、ちゃんと現実を受け止めようとしてるんだろ。けどね、今はいいよ。今は感情的になってもいい。今は、泣いてやるべきだ」
最初は何もなかったけど、すぐに声が聞こえた。子供みたいな彼女の泣き声が。私の服をぎゅっと強く握ってくる。静かな病室に、恋人を失った十七歳の少女の泣き声だけが響く現実は、悲しいという形容詞では何か足りない気がした。
その後彼女は順調に回復し、学校へ戻った。周りの憶測とは裏腹に、彼女は以前より明るくなり多くの人と積極的に関わるようになった。それはつまり、彼女なりの後継だった。そんな彼女に仁志は学校の全権を任せたのだ。
仁志は顔が立たないだろうが、生徒会長になった彼女はめざましい活躍を見せた。生徒が常に相談できる場を設けたし、いざとなれば彼女自身が問題の解決に乗り出すということまでやってみせた。身がいくつあっても足りなかったのだろう、私も「困ってるんです、助けて下さい」という電話で借りだれたことが数度ある。彼女は人の扱い方を心得ているし、人使いが荒いと判明した。
それでも彼女みたいな存在が、香月麻由美の様な子を救っていくのだと私は信じている。
父と兄は相変わらず仕事で日々事件と向き合っている。父との喧嘩はそういえば自然消滅した。私は事件を解決したし、父は私を助けてくれた。貸し借りは無しということだったんだと思う。
母は今日もまたどこかでゆっくり過ごしている。
「ちょっと、また飲み過ぎたでしょ」
大学の寂れたある棟の一室。正式には写真部の部室にドアを開けると同時に、春川が鼻を押さえた。
「あのね、大声を出さないでくれるかい。頭に響くから」
机の上で突っ伏して寝ていた私は、春川の大声に結構なダメージを食らった。
「そんなに大きな声じゃないわよ」
「甘い愛の囁きでもないだろう、それなら震えるほど嬉しかったのに。ところで何の用かな。今日は大学自治会の会議があるって聞いたけど」
「抜けてきたわ。ねえ、ちょっとお願いがあるのよ」
彼女の顔を見てみると、どこか申し訳なさそうだ。あの事件以来、彼女は私に何か頼むとき必ずこういう顔をする。やはり彼女なりに責任を感じているんだろうが、他人行儀な感じがして私は嫌なのでやめてくれと再三にわたって言っている。それでもやめないのは彼女の根が真面目だという性格のせいだろう。
「相談事かい」
「私じゃないんだけど、ちょっと困ってる知り合いがいるの。相談にのってあげてくれないかしら」
全く、愚問だと思う。彼女の頼み事なら断れないし、誰か困っているなら断っていいはずがないじゃないか。
「いいよ。それで、その人はどこかな。ついでに美女かな、美男かな」
「廊下で待ってもらってるわ。すぐに呼んでくるわね」
最後の、私にとっては中々重要な質問は華麗にスルーして、彼女が部屋から出て行く。相変わらず堅いな。あんな質問なら冗談で還してくれたらいいのに。まあ、そこが彼女のいいところなんだろう。
おぼつかない足取りで立ち上がり、新鮮な空気を体内に取り入れるたね窓を開ける。丁度いいタイミングで、優しい風が吹いてきて髪をなびかせてくれた。深く深呼吸をしながら、さてどんな依頼だろうかと思いをはせる。
間違っても楽な依頼ではないだろうな。なんせ事態はいつだって最悪だから。けど勘違いしちゃいけない。そんな風にできているから、誰かが動かなきゃいけない。それが私だというなら、喜んでその役目を受けよう。どうせ、暇なんだし。
胸ポケットから恋人を取り出して、一本くわえて火をつけた。
――“CUBE” [了]
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2011/03/01(Tue)23:13:42 公開 / コーヒーCUP
■この作品の著作権はコーヒーCUPさんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
※物語の核心に触れているかもしれません。念のため作品を読み終わってから読んで下さい。
さて、ついに終わりました! 完結です! いやいや、長い道のりでしたよ……。だって確認したらこの作品を最初に投稿したのが去年の六月二七日。今日が三月一日……約八ヶ月の長期戦。(こんなはずじゃなかったorz)
さて、今回の更新ではようやく全てが明らかになってくれました。ずっと隠し続けていた『主』の正体、そして動機……。自分はこの作品で一番力をいれたのが動機です。全てはあの動機を成り立たせるための物語だったと考えています。この物語じゃないと、あれは成立しません。
本格ミステリはあんまり入れないでおこうと考えていたんですが……蓮見が消去法の連鎖で『主』を特定していく過程は、もろに本格を意識しましたね。けどちゃんと伏線もあったし、読者の皆さんと蓮見は常にフェアだったと思います。当たっていたでしょうか?
この作品はある意味ミステリというジャンルを逆手にとったと思っています。蓮見がいった「当たり前が当たり前じゃなくなる」とは「ミステリ的に」という前文を略してます。組織が全員生きていたとか、被害者が嘘をついていいなかったとか。「どうして彼らは殺されたんだろう?」「どうして彼は嘘吐いたんだ?」というミステリなら絶対に考えてしまうところを「いや、そんな事実はありません」という一言で一蹴してしまっています。ジャンルがミステリだからこそ、考えてしまうところを。あるみ詐欺かも知れません。けど「騙された」と誰かが思って下さることを願います。
これで『“CUBE”』は終わりですが、蓮見の話はまだまだ書きたい。頭の中では短編が二つ、長編が二つ、プロットがあります。いつ形に出来るか分かりませんが、できれば蓮見が誘拐事件に巻き込まれるという長編(仮題『“CALL”』)はもう既にメイントリックなども決まっているので早めに書きたいです(目標は年内)。ついでに最後に出てきた後継者の話も書きたいなあなどと妄想します。
この作品、去年の九月くらいからは週一更新というスピーディーな作品でした。それが続けられたのも一重に毎回読んで下さった読者の皆さんのおかげだと、心から感謝しております! 更新枚数も多かったのに、付き合ってくださって本当にありがとうございました! 皆さんのアドバイスや感想がここ数ヶ月の励みでした、マジで。感謝してもしきれません。
最後に宣伝になりますが、今月中にはまたべつの作品の連載を始めると思います。よかったら読んで下さい。
この作品で少しでもミステリというジャンルを楽しんでもらえていたら幸いです! 騙された爽快感や、全てが明らかになったときの開放感を味わっていただけたでしょうか?(無理だったかな……)
それでは、本当に長い間ありがとうございました!
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。