『群神物語〜閃剣の巻〜1』 ... ジャンル:リアル・現代 ファンタジー
作者:玉里千尋
あらすじ・作品紹介
これは、神と人の世が混じり合う物語……。※第一巻、第二巻の内容は『あとがき』に記載しております。
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一 『慕春』
(一)
◎◎
◎◎◎◎龍一はうす闇の中でそっと目を覚ました。そろりと手を伸ばし辺りを探る。ごわごわした毛布や重ねられた衣類の肌ざわりが伝わり、その向こうからがさがさとしたビニールの音が聞こえた。
ため息をついて体を起こす。一瞬、自分は違う場所で違う自分になっていたと思ったのだが、それはやはり夢の中での出来事だったようだ。
毛布を半分かけたまま、今みていた夢のことを考える。夢の中では自分は今のような小さな子供ではなく成長した一人の大人だった。
《あれはほんとうに将来の僕の姿だったのかな》
それからもう一度ため息をついた。そうかも知れないし、そうでないかも知れない。だとしても龍一にとってそれはあまりなぐさめにはならなかった。彼は今の自分よりもずっと大きく力も強そうだった。しかしそれは龍一が望んでいるような姿ではなかった。そしてそれを彼自身も悩んでいた。結局のところ、龍一は龍一以外のものにはなれないのだろうか。
龍一は自分がいる部屋を見わたした。六畳間と小さなキッチンがついているだけの狭苦しいアパートの一室。室内はひどく散らかっている。
毛布から出て自分が寝ていた場所から起き上がり、洗濯前や洗濯後の服がごたごたに積まれた山を乗り越え、向こうのビニール袋の山の前にしゃがみこむ。一つ一つ袋をよけていく。たいていは弁当の空箱やお菓子の包装紙が入っているだけだが、丁寧にかき分けていくとようやく奥のほうに探していたものを見つけることができた。中には食パンがひと切れ。
龍一はほっとして座り直し、パンをつかんでちょっと匂いをかいでみたあと口に入れた。多少ぱさついているがまだ食べられる。口の中で唾液と混ざるようにゆっくりと噛んで少しずつ飲みこんでいく。その間も玄関のドアから目を離さないようにした。母が帰ってくるまでにまだ少しの時間があるはずだった。それでも龍一は期待をこめてドアの向こうに神経を集中させていた。
《もうすぐ、もうすぐ、母さんが帰ってくる。僕のところに帰ってくる》
今日こそは少しでもうまくいくだろうか? 龍一はまた先ほどの夢のことを思い出して悲しくなった。彼もやはり常に失望を感じていた。それも今の自分と同じだ。誰よりも自分自身にうんざりしているのだ。しかも彼は、龍一が唯一もっているもの、母すらももうもっていなかった。龍一は身震いをした。
《あれが未来の僕であるはずがない》
龍一は半分にまで減ったパンを見、それをビニール袋の中に戻した。
《これは次のためにとっておこう》
パンをビニールの山の中に隠すと、またドアのほうへ目をやる。次第に不安が湧き上がってくる。今日は少し母の帰りが遅いようだ。
カーテンがかかっている窓をちらりと見る。少しずつ外が明るくなり始めている。本当に母は帰ってくるのだろうか。龍一は涙を流しそうになって、自分で自分の体をぎゅっと抱きしめた。
《泣くな、泣くな》
母が帰ってきたとき泣き顔で迎えるわけにはいかない。母は龍一が泣くのをひどく嫌った。龍一は楽しいことを考えるようにした。
《母さんがもうすぐあのドアを開けて帰ってくる。母さんは仕事でとても疲れているけれど、僕に早く会いたくて走ってきたんだ。母さんは言う。『遅くなってごめんね、龍一』僕は言う。『ううん。母さんこそお仕事お疲れ様。あとはゆっくり休んでね』『いいえ。これからあなたの朝ごはんを作らなくちゃ』『僕はパンを食べたから大丈夫だよ』『それだけじゃ栄養がないわ。母さんが今から何か作ってあげる』『僕、本当にお腹いっぱいなんだ』『じゃあ、あなたがしたいことをしましょう。龍一。何がしたい?』母さんは優しく僕の顔をのぞきこむ。『ほんとに、本当のことを言ってもいい?』『もちろんよ』『じゃあ僕、母さんと一緒に寝たいな』母さんは笑う。『ほんとにそれがあなたのしたいことなの?』『うん』母さんは僕を抱いて横になる。母さんはすぐに眠ってしまう。何故って母さんはとっても疲れているから。でも僕のことは離さない。僕は母さんの匂いと母さんの心臓の音を感じながら、眠らないようにするけれど、いつの間にか一緒に眠ってしまう……》
龍一は空想にふけっていたので、ドアノブががちゃがちゃと音をたてて回るまで人の気配に気づかなかった。びくりとして顔を上げる。安堵感がどっと押しよせたあと、いつもの慣れきったあの感情が体中を満たしていく。失望と、悲しみと、あきらめが……。
『さあ、入って、入って』
母は言いながらドアの向こうから現れた。いつもよりもずっと酔った声だ。続いて男が後ろから入ってくる。母は男をぐいと家の中に引き入れすぐに鍵をしめた。母が靴を脱ぐためにかがむと、真正面にいた龍一と男の目が合った。初めて見る顔だった。
『おい、おい。何だよ。お前、子供がいるのか。勘弁しろよ』
そうして部屋の中を一瞥する。
『それに、きったねえ部屋だなあ。こんなとこでやれるかよ』
母はブーツを脱ぎ捨てると、玄関に突っ立ったままの男の腕を引っぱった。
『今、かたすって。それにこの子は気にしないでいいのよ。龍一』
母が龍一に目くばせをする。龍一はうなずいて、かたわらの洗濯物の上に置いてあった自分のうす汚れたジャンパーをとり、カーテンの向こうのガラス戸の鍵を開けてベランダに出た。そうしてまたガラスを閉める。男と母の会話がきこえる。
『いいのか?』
『いいんだって。あの子はあそこが好きなんだから。さ、早く寝よ』
『ちょっとシャワーを貸してくれよ』
『いいじゃない、シャワーなんて。どうせ汚れるんだから……』
母のくすくす笑う声と二人が倒れこむ音がしたところで、龍一はぎゅっと目をつむった。龍一には、母たちが何をしているか、全部きこえ、みえている。カーテンやガラス戸や、まぶたも、それを防ぐことはできない。
龍一は目を開けて深呼吸をした。明け方の湿った空を柵の間から眺める。部屋の中をみないようにするには別なもので心をいっぱいにする必要があった。今は母のことを考えないようにしよう。空想の中の母は、現実の母がいる前ではひどく脆くてあっという間にばらばらになってしまった。
龍一は小さな声で唄った。
『春の小川は さらさらながる 岸のすみれや れんげの花に 匂いめでたく 色うつくしく 咲けよ咲けよと ささやくごとく』
龍一はこれを近くの幼稚園から流れてくる歌声で覚えたのだった。龍一は、すみれもれんげも見たことがなかった。でもそれを想像することはできた。
すみれやれんげの花って、どんな色をしていてどんな形をしているのだろう。
龍一が知っている一番美しいものは空だった。空には無数の色と形があった。
すみれは、朝の太陽の金と青が交じったような色だろうか。れんげは、真っ赤な夕焼けを映した雲みたいだろうか。そしてそれらがたくさん咲いている春の小川の風景は、どんなにきれいで、どんなにかかぐわしい匂いに満ちているのだろうか。
龍一は背伸びをしてベランダの柵によじ登り、正面にある幼稚園の建物を眺めた。あと数時間もすればあそこは黄色い服を着た園児たちの楽しそうな姿であふれかえるのだ。龍一はそれを見るのが好きだった。みんな思うとおりに泣いたり笑ったり唄ったりしている。毎日のように彼らを見ていたのですっかりみんなの顔や名前を覚えてしまっていた。
《ようじ君は、いつもみたいにお母さんと別れる時に泣いちゃうかな。かなちゃんとのぞみちゃんは、今日も手をつないでいつも一緒にいるだろう。たくま君が、またほかの子のおもちゃをとり上げてけんかしなければいいのに》
それから、お昼ご飯をみんなで食べて、お昼寝をしたり、歌を唄ったり、おゆうぎをしたりするんだ。そうしてまたお母さんたちがお迎えにきて、みんな家に帰っていく。
《まゆこ先生はまた、こっちまで出てくるかな》
龍一は考えて嬉しくなった。まゆこ先生は幼稚園の生徒たちに一番慕われている若い女の先生だった。ふわふわの長い髪をしていて、いつも白やピンクのきれいな色の服を着ている。夕方、園児たちが帰る時はよく、龍一が住むアパートの前の道路まで出てきてみんなを見送るのだった。
ある日龍一がその様子を見ていたら、まゆこ先生がこちらに気がついて手を振ってくれた。龍一は真っ赤になって部屋の中にすぐに入ってしまった。
《今度、まゆこ先生がまた僕に気がついて手を振ってくれたら、僕もちゃんと挨拶をしよう》
龍一はそう心に決めていた。
ちゅん、ちゅんという声をたてて、目の前の電線にすずめが二、三羽並んでとまっている。龍一はそれを見て後悔した。ベランダに出るときにはいつもパンを持ち出してすずめにあげようと思っているのだが、今朝はつい忘れてしまった。龍一はちょっと後ろを振り返ったが、すぐにまた外を向いた。まだまだ中には戻れそうもなかった。すずめに話しかける。
『ごめんね。今度は忘れないよ』
すずめたちは互いに笑うようにさえずったあと、いっせいにどこかへ飛び去っていった。どこかに餌を探しに行ったのだろう。何か美味しいものが見つかるといいな、と龍一は思った。
がたがたという音が後ろでしたかと思うと、母と男が話す声がはっきりと聞こえてきた。
『じゃあな』
『もう行っちゃうの?』
『やっぱりここじゃ落ち着かないよ。ベランダに子供がいるんじゃ』
『じゃあ、場所を変える?』
龍一は胸がつぶれる思いがした。しかし男は玄関で靴を履きながら言った。
『これから仕事なんだよ』
母の落胆したような声。
『そんなら、今夜も店に来てね』
『行けたら行くよ』
『約束よ』
『ああ……』
男が部屋を出ていく。龍一は男とまた目が合わないよう急いでベランダの隅のほうに体をよせた。かちかちと階段を下りる音がし、去る間際に男がちらりとこちらを見上げたのが背を向けている龍一に分かった。男は龍一の姿が陰になって見えないのにほっとしたようだった。
部屋から何か物が投げられてガラス戸がかたんと鳴った。部屋に入ってもいいという母の合図だ。龍一はガラスを開けてうす暗い部屋の中に入った。むっとこもった空気に思わず咳きこむ。
『すぐに閉めて。寒いから』
龍一はうなずいて急いで戸を閉め鍵をかけた。そしてカーテンを隙間がないようにきっちりと閉じる。今から母が眠るのだから光が漏れないようにしなければならない。
母はすでに部屋の真ん中に敷いてあった布団に潜りこみ、あくびをしていた。
『龍一。あんた、お腹減った?』
龍一はどきどきしながら答えた。
『ううん、全然』
『あっ、そう。母さんはこれから寝るから、お腹が減ったら適当に食べてて。そこにおにぎりが入っているから』
ちゃぶ台の上に置いてあるコンビニの袋を指さす。
『ありがとう、母さん』
『おやすみ』
『おやすみなさい』
すぐに母は寝息をたて始めた。
龍一はそうっと袋の中身を点検した。ビニールにつつまれたおにぎりが二つ。ペットボトルのお茶が一つ。ビールが二缶。龍一はお茶とビールを冷蔵庫の中にしまった。おにぎりを開けるのは母が起きてからにしよう。音をたてて起こしたら悪いし、目が覚めた母のお腹が空いているかも知れない。それに自分にはまだ食パンの半分が残っているのだ。
龍一は静かに移動して母のそばに座った。そしてその寝顔を見つめる。幸福感がいっぱいに龍一を満たした。幼稚園や、まゆこ先生のことは、龍一の頭の中からすっかり消えていた。母は今、龍一だけのものだった。
母のまぶたがぴくぴくと動き、眉が少し真ん中によせられる。龍一は布団の中から出ている母の白い指をそっと握ってやった。母の顔はまた穏やかになった。龍一はそのまま身じろぎもせず母の顔を見つめ続けた。いつまた母の夢が悪いものになるか分からない。そのときのために龍一は母をみ続けていなければならないのだ。
《母さん。母さんの夢を僕が守ってあげるからね。だから、ぐっすり眠って》
悪い夢は本当に頻繁に母を訪れていた。母は繊細で傷つきやすくて、そしてとても疲れていた。だから常に守ってくれる人間を必要としていた。しょっちゅう男を家に連れてくるのもそのためなのだ。母の心はいつも寂しがっていた。
《僕が大きくなって、もっと強くなったら、母さんをちゃんと守ってあげられるのに》
龍一は早く大人になりたかった。そうしたらきっと母も気まぐれな男たちに惑わされることもなくなるだろう。
龍一には男たちは単に母を利用しているだけだと分かっていた。自分の都合のいいときにだけやって来て、母の心と体を弄んでいるだけなのだ。母の見ていない隙に財布から金を抜きとったりもした。しかし龍一にはそれをどうすることもできない。一度それを母に言ったら、母はものすごい剣幕で龍一に怒鳴り散らし、しまいに泣き出してしまった。母の涙を見て龍一もひどく泣いてしまった。
『ごめんね。母さん。泣かないで、泣かないで』
『あんたには分かんないのよ。あたしの気持ちなんか』
母は少女のようにしゃくりをあげた。
『許して、母さん』
『あんたは、あたしにどうしろっていうの。あたしはまだ二十二なのよ。ほんとは男にちやほやされて遊んでいればいい年なの。あんたを妊娠したとき、あたしはまだ高校生で、ほんとは産まないこともできたけど、学校も辞めて産んだんだから。あんたの父親は町で一番大きな家の跡とり息子で、お金持ちで、もう結婚相手も決まってたのよ。でもね、彼は、婚約を破棄してあたしと結婚するって言ってくれてたの。あたしはそれを信じて待っていたのよ。それが、それが、あんたのせいで……』
龍一はぶるぶると震えて母の顔を見つめた。耳をふさぎたかったができなかった。ふさいだとしてもやはりきこえただろう。母の声はだんだんと大きくなる。この話をするときの母はいつもこうなのだ。
『あんたが二歳になったころ、あたしはあんたを連れて彼の家に行ったわ。そうよ。彼の両親に挨拶に行ったの。可愛い孫の顔を見れば彼との結婚を許してくれると思ったのよ。最初はうまくいきそうだった。彼のお父さんもお母さんも、しぶしぶだけど結婚してもいいと言ってくれていた。ひと月後に結納を交わそうなんて話も出ていたのよ。彼のお祖母さんはあんたの頭を撫でて、ずいぶん利発な子だねえって言ったわ。あんたはもういっぱしにしゃべれたからね。結納にはこの子も連れておいで、あたしが面倒みていてあげるからって。そうしたらあんたはなんて言ったと思うの。おばあさんは、もうすぐ死んじゃうから、だめだよ≠チて、言ったのよ! そしてその言い方ったら……』
母の声は今度はぞっとするほど低くなった。
『そうして、お祖母さんはほんとに一週間後に死んじゃった……。みんなは、あんたと、そしてあたしを気味悪がった。町中に噂が広まった。彼はこう言ったわ。本当に、それは俺の子か?≠烽ソろん結婚なんてとりやめよ。あたしはいたたまれなくなって町を出るしかなくなった。あんたを連れてね』
龍一はただうつむくしかなかった。悪いことに龍一はそのときのことを細部に至るまですべて覚えているのだ。その家はひどくだだっ広かった。玄関も廊下も家具も何もかもが、大きく暗く寒々しかった。
龍一は父だという男の顔も鮮明に記憶している。その男は龍一を初めて見て驚いたような表情をしていた。その場にいる者全員が同じことを思っていた。龍一があまりに父親にそっくりだったからだ。それに気がついていないのは母だけだった。
父の祖母は冷たい目つきをしていたので龍一は嫌だったが、押されるようにしてその膝に乗った。しわくちゃの手で撫でまわされて背中がぞくぞくした。そのとき、はっきりとその心の声がきこえた。
《籍を入れて、一年もしたら女だけ追い出せばいい。この子だけ手もとにおいてうちの跡とりとして育ててやろう》
龍一にはその意味がはっきりと分かった。母と自分を引き離す気なのだ。
すると次の瞬間、老婆の死が目の前にありありと浮かんだ。息をつまらせ真っ白になって苦しみ死んでいく様子だ。ただ龍一には分からなかった。死がもともとそこにあったものなのか、それとも龍一が引きよせたものだったのか。いや分かりたくなかった。
外から子供たちの歓声が聞こえ始めた。
龍一は自分があの中に一緒に交わるなどということは一度として夢想したことはない。彼らと自分とは、どうしようもなく違うものなのだ。それだけははっきりしている。どうしてかなどというのは考えても仕方がない。
龍一は息をひそめて母だけを見ていた。今自分にできることをするしかないのだ。時が経てば龍一が母にしてやれることも多くなっていくに違いない。
《だからもう少し待っていて、母さん》
龍一は首を横に振った。今朝みた夢を忘れたかった。あの中で自分は今以上に孤独だった。
でもそうだ。龍一はけして忘れないのだ。だから今までと同じようにじっとしていた。
記憶はなくならない。泥のように龍一の中に沈殿していくだけだ。かき回したりしなければ、慣れたふりをすることもできる。
◎◎
龍一が最近ベランダで楽しみにしていることが、すずめにパン屑をあげることのほかにもう一つある。
ベランダはひどく狭くて洗濯物を干すとそれでもういっぱいになってしまう。龍一は前の住人が置いていった空の植木鉢をひっくり返してその上に座るようにしていた。
植木鉢はもう一つあって、そちらには土がつまっているが何が植えられているわけでもない。ただ片隅に放置されているだけだ。
いつのころからか、その植木鉢の上のほうに一匹の蜘蛛が巣をはり始めた。足が長くて細くて、それほど大きくはないが黄緑色のきれいな色をしている。
蜘蛛はとても働き者で、風やちょっとしたことで巣が破れるとすぐにせっせとまたはり直す。おかげで銀色の巣はいつも放射線状のうつくしい形を保っているのだった。
龍一はその蜘蛛を飽くことなく眺めた。あまり近くにいて餌になる虫が飛んでこないとかわいそうなのでベランダの向こう端から眺めることにした。その蜘蛛に龍一は『くもすけ』と名前をつけた。
『くもすけ。お前、寒くない?』
身を切るような寒風が吹く冬の午後に外に出されたとき、龍一は蜘蛛に話しかけた。くもすけは、はたはたと巣と一緒に揺られながらじっとしていた。龍一はもうすぐ暖かい部屋の中に入ることができるが、くもすけはずっと同じ場所にいなければならない。
巣にはなかなか虫がかからなかった。くもすけは何日も何も食べないこともあるようだった。龍一は蜘蛛に何か食べさせてやりたかったが、パン屑を巣にひっかけてやっても、くもすけは手を出さなかった。蜘蛛には蜘蛛の食べ物と生き方があるのだ。
春が近づき空気がゆるんでくると、くもすけの巣にもようやく小さな虫が何匹かかかるようになった。くもすけはそのたびに虫をくるくると丁寧に糸で巻いて捕らえた。そしてその糸の塊は巣の隅に運ばれ、網はまたきれいにはり直される。くもすけはとても几帳面で清潔好きなのだ。
糸の塊が四つか五つ溜まったころ、くもすけが近くの壁に別の巣を作った。それは今までのものとまったく違う綿のようにふんわりとした真っ白いベッドのような巣だった。くもすけは一日中そのベッドの上でじっとしていた。その間、自分の網に虫がかかっても巣が破れてもまったく気にしなかった。
あくる日。早朝に龍一がベランダに出てみると子蜘蛛がたくさん生まれていた。子蜘蛛たちはとっても小さくて、頼りなさげで、そして透き通るようにうつくしい。
彼らは世界を確認するようにくもすけの巣のまわりをうろうろしたあと、申し合わせたようにベランダの柵の上によじ登った。
春の風が、ざんざんと音をたてて激しく吹き始めていた。龍一は子供たちが吹き飛ばされて落ちてしまうのではないかと心配になり、柵につかまりながらゆっくり彼らのほうへ近づいた。自分自身もうっかりすると足をとられそうなほどの強い風だ。
(あっ!)
急に目の前が光で満ちたような気がして龍一は目をしばたたかせた。宙にきらきらとした光が無数に立ち昇っている。よく見ればそれは子蜘蛛たちの尻から一本ずつ吐き出された細い糸なのだった。
糸は次第次第に天に向かって長く長く伸びていく。龍一の目もそれを追い遠い空の向こうへと彷徨う。
本当に糸があの天空の一番てっぺんにまで届いたように思われたとき、どおんという波のような大きな風のかたまりが後ろからやってきた。
はっとして龍一が思わず手を伸ばそうとしたとたん、子蜘蛛たちはいっせいに地から足を離し、そのまま空気の波に乗って次々と青く澄んだ空へ飛び立っていった。
ごうごうという風の音の中、龍一は必死に子蜘蛛たちの行方に目を凝らした。
銀色の光の線は、揺らめき合いながら高く遠くにまで昇り、やがて本物の光と一緒になって消えていった。
震えるような感動を覚えながら、龍一は長い時間子蜘蛛たちが消えた空を見上げていたが、ようやく視線を下におろした。
『くもすけ?』
白いベッドの上にくもすけの姿はなかった。あれほど大事にしていた巣はほうぼうが破けてだらりと垂れ下がっている。くもすけも子蜘蛛たちと一緒に旅だってしまったのだろうか。
さんざん探して龍一はようやく植木鉢の陰でくもすけを見つけた。
くもすけは死んでいた。
仰向けになり長い足は折れ曲がったようにくるりと丸くなっている。うつくしかった体の色はひからびたように黒くなっていた。
そっとくもすけをつまんで手のひらに乗せる。
『くもすけ。お前はお母さんになったんだね。お母さんになるために、一生懸命、巣をかけたり、餌をとったり、していたんだね』
龍一はくもすけを植木鉢の土の中に埋めてやった。涙がその上にぽたぽたと音をたてて落ちかかった。
これはうれし涙だ。くもすけがあんなにきれいな子蜘蛛たちの母親になれたことへの。子蜘蛛たちがちゃんと空へ旅だてたことへの。くもすけはきっと自分自身の人生に満足して死んでいったことだろう。
龍一は数日をぼんやりとしてすごした。幼稚園のおゆうぎの声が聞こえてくる。
『勝ってうれしい はないちもんめ 負けてくやしい はないちもんめ 隣のおばちゃんちょいと来ておくれ 鬼がこわくて行かれない お布団かぶってちょいと来ておくれ お布団ぼろぼろ行かれない お釜かぶってちょいと来ておくれ お釜そこぬけ行かれない たんす長もちあの子がほしい あの子じゃわからん 相談しましょ そうしましょ』
龍一が見ていると、はないちもんめというのは二手に分かれて互いにほしい子をとり合う遊びらしい。選ばれる子もいれば選ばれない子もいる。勝つ子もいれば負ける子もいる。人数が多い組が勝つので相手は弱い子を選ぼうとする。すると最後に残るのは一番強い子ということになる。選ばれるほうがいいのか選ばれないほうがいいのか、龍一には分からなかった。
くもすけが死んでから一週間ほどが経った。季節はすっかり春めいてきている。
ある朝龍一はベランダに出てみて驚いた。くもすけを埋めた植木鉢に小さな芽が出ていのだ。それは、くもすけと同じような黄緑色をした双葉だった。
以来、龍一は息をつめてその芽を見守った。夜中でも強い雨や風があると心配になって様子を見に行ったりした。しかしその草はそんなことに関係なくどんどん大きくなった。そうしてついに小さなつぼみをつけた。
《花が咲くだろうか》
龍一はわくわくすると同時に、あまり期待するのをやめようと思った。それでも翌日はまだ暗いうちから目が覚めてしまった。しかしすぐにベランダには行かず一時間ほど部屋の中で目を開けたままじっとしていた。頭の中では、
《どんな花だろう》
と様々に想像するとともに、実際に見に行くのが怖いように思った。思うほどにうつくしくもなく、それどころか枯れてしまっているかも知れない。
しかしカーテンの向こうが明るくなり、すずめたちのさえずりが聞こえるころになると、ついにがまんできなくなってベランダに出た。そうして息を呑んだ。花は咲いていた。
すっと伸びた茎の先に、一つだけ。その姿は何といったらいいのだろう。ひらひらとした花びらがいくつもついている様はまるで何匹もの蝶がとまっているようだ。色は鮮やかな白と紫。
花に顔をよせると、えもいわれぬうっとりするような甘いがほのかにたち昇る。
『龍一、龍一』
母の呼ぶ声に龍一は驚いて立ち上がった。母の帰りに気づかなかったのはこれが初めてだった。
『なんだ、ここにいたの』
ベランダのガラス戸が開いて母が顔をのぞかせる。
『今日はこっちにいなくていいのよ』
『母さん。これを見て。花が咲いたんだよ』
龍一は嬉しさの余り母の手を引いて植木鉢のほうを指さした。母はそれを見るなり、
『なんだ、れんげじゃない』
と言った。
『これ、れんげっていうの』
『そうよ。よく田舎の川や田んぼにいっぱい、それこそ一面に咲いているわ』
『これがいっぱい……』
龍一はこのようなうつくしいものが数えきれないほどたくさん咲いている様子を想像することができなかった。
『要は、雑草よ』
言い捨てて母は部屋の中に戻った。それで龍一も部屋に入った。
いつものように寝ている母のそばにつき添っているときも、龍一の心はしばしばれんげの花のほうへさまよった。春の小川に咲くと唄われているれんげとはあの花のことだったのだ。あれはきっとくもすけからの贈りものなのだ、と龍一は思った。れんげも春の小川も見たことのない龍一に、くもすけが教えてくれたのだ。たぶんくもすけは、れんげがいっぱいに咲く春の小川からやって来たのだ。
龍一は母を見た。母は春の小川を知っているようだった。母の中には母自身も気づかないほどにきれいなものがたくさんつまっているのだ。
母の布団をかけ直してやる。龍一にとって母は、世界で一番きれいで貴重なものだった。その匂いはれんげの花のようにかぐわしかった。
春の小川には百万ものれんげが咲いているかも知れない。しかし龍一のベランダには一本しか咲いていなかった。それと同じように龍一の母もたった一人だけなのだ。
れんげの花びらは日が経つにつれ次第にしおれてきたが、龍一はがっかりしなかった。花とはそういうものだということはもう知っていた。
花が散ったあとの茎の先には固い緑色のさやができた。さやは次第にふくらみ、やがて茶色から黒へと変化していく。充分に黒く乾燥したところで、その炭のようになったさやを破ると中から茶色いあわ粒のような種が出てきた。
龍一はそれを植木鉢の中に埋めた。こうしておけばきっと、来年の春もまた、くもすけと同じように花を咲かせることだろう。
(二)
◎◎
晴海幼稚園に勤める教諭の野中繭子は、ある一人の少年がずっと以前から気にかかっていた。それは園児ではなく幼稚園近くのアパートの二階に住んでいる少年だった。おそらく四歳か五歳程度と思われるが、冬の寒い時期も今のような真夏でもしょっちゅうベランダに出ていつも一人ぼっちでぽつんと座っている。母子家庭で母親は自分と同じくらいの年の若い女性らしい。
《虐待かしら》
繭子は考えた。それとなく近所に住む園児の母親たちに訊いてみたが、子供の泣き声などは目だってないらしい。といっても母親の評判がいいわけではない。夜の勤めに出ているようで子供はその間一人ぼっちで部屋に待たされ、さらに複数の男性の出入りもあるという噂だった。子供が育つ環境としては憂慮すべきものだが、そうであっても明白な虐待行為がなく義務教育の段階でもない場合、外部の者ができることはほとんど皆無である。
それでも繭子は彼に何かをしてあげたかった。少年は人見知りはするが特に臆病な性質ではないようだ。繭子が道端から手を振ると最初ははにかんでいたが次第に笑顔も見せるようになった。
夏休みを目前に控えた日の午後、帰る園児たちを見送ったあと繭子はちらりとアパートのほうを見た。少年と目が合う。手を振ると彼はぺこりとお辞儀をした。
繭子は嬉しくなって近くへ行った。
『こんにちは。お名前は何ていうの?』
『龍一です』
『お年は?』
龍一はちょっと首をかしげたあと、
『たぶん、四歳です』
と答えた。繭子はにっこりした。
『そう。お利口さんね。いつもそこにいるのね。今日は何をしていたの?』
ちらりと後ろを向き、龍一は小さな声で言った。
『お母さんを待っています』
『お母さんはお仕事?』
『はい』
『何時ころに帰ってくるのかしら』
龍一はうつむいて答えない。それで繭子は話を変えた。
『龍一君。私、向かいの幼稚園で働いているのよ』
すると龍一は微笑んだ。
『知ってます。まゆこ先生でしょ』
繭子はちょっと驚いた。
『あら、知っていたの?』
『はい。みんなが、そう呼んでいるから』
そうしてちょっと顔を赤らめる。それに繭子は力を得て思い切って言った。
『龍一君。お外で遊ぶのは好き? 幼稚園は明日からお休みなんだけど、夏休み中は幼稚園に通っていない子も遊び場やプールを使えることになっているのよ。龍一君と同じような年の子がたくさん遊びに来るわよ。龍一君もよかったら遊びに来てくれると、先生、嬉しいな』
龍一は目をみはって繭子を見つめていたが、やがて首を横に振った。
『ありがとうございます。でも、僕は行けません』
『どうして? お母さんには私からお話ししてもいいのよ』
『母さんのせいじゃありません。僕が行けないんです』
その口調はひどくきっぱりとしたものだったので、繭子は次の言葉が見つからず、しばらく龍一の顔を見つめた。第一にこんなにもきちんとした話し方をする四歳児に会ったことがなかった。この子の言うことはちゃんときかないといけない、そう本能的に感じた。
『分かったわ。残念だけれど』
だが次の瞬間、繭子の頭にいい考えが訪れた。
『それなら本は好き? お近づきのしるしに龍一君に本をプレゼントしたいわ』
『本?』
目をぱちぱちさせる龍一に、繭子はうなずいてみせた。
『龍一君は本が好きなんじゃない? 幼稚園にはたくさん本があるの。みんなのお母さんからもらったものもあって、おんなじ本が何冊もあったりするのよ。だからそのうちの一冊を龍一君にあげたって、全然構わないの。龍一君はどんな本が好きかな?』
龍一の顔がみるみるうちに真っ赤になってゆく。
『ごめんなさい。僕はまだ、字が読めないんです。だから、本をもらっても読めません』
繭子はしまったと思った。慌てて言う。
『あら、字なんか読めなくたって本をみることはできるのよ。字は小学校で習うんだものね。幼稚園にある本は、絵本といって絵ばかりなの。だから字の読めない子でも、ものがたりがちゃんと分かるようになっているのよ』
繭子がそのあとに『字はお母さんに読んでもらえればいいのよ』と続けようかどうか一瞬迷って言葉をきった時、龍一がぱっと横を向いた。
『あっ、母さんだ!』
『えっ』
思わず同じ方向を振り向いた繭子だったが、その先には誰もいない。だが龍一はにっこりとすると、
『まゆこ先生、ありがとう。僕、部屋の中にいなくちゃ。さようなら』
と言っていそいそと部屋の中へ入っていってしまった。繭子が我に返ると、その姿はすでに黄色いカーテンの奥に隠れて見えなくなったあとだった。
繭子がいぶかしい思いでアパートのわきになおも佇んでいると、やがて本当に龍一が見た方角の道の角を曲がって、一人の若い女性がぶらぶらと歩いて来た。ぴっちりとした豹柄の丈の短いワンピース、そして素足にヒールの高いミュールという格好である。大きめのショルダーバックをぐるぐると回しながら繭子には目もくれずさっさと通りすぎる。昼間なのにぷんと酒の匂いが漂い、繭子はちょっと顔をしかめた。彼女はかんかんと踵を鳴らしながらアパートの階段を上がっていき、そのうちの一室へ入ったようだ。やがて真上でからからと窓が開く音、女性の声が続けて聞こえる。
『なんで閉めきっているの、龍一。暑いじゃない』
繭子はその場を離れながら考えた。やはり先ほどの女性が龍一の母だったようだ。彼女の顔を思い出す。長いまつげにたっぷりつけたマスカラや濃くひいたアイシャドウ、少しはげかかったルージュ。確かに夜の商売をうかがわせるような化粧だったが、不美人とは言えない。龍一とはあまり似ていないが愛嬌のある可愛らしい顔をしていた。声は高くはないが独特の柔らかみのあるものである。それから繭子は『母さんだ!』と言った時の龍一の表情が忘れられなかった。その目は嬉しそうに輝いていた。
《やっぱり虐待というほどではないみたい。彼は母親をとっても愛しているんだわ》
繭子はそれでも龍一に対する自分のちょっとした計画を遂行しようと決意した。龍一の母親に対しても同じ働く女性としての共感を覚えていた。
◎◎
『で、あんたと龍一は、いったいどういう関係なわけ?』
翌日の午後、龍一の部屋を訪れた繭子に対し、龍一の母親はあからさまに不審そうな視線を浴びせた。眠っていたようで髪は乱れタンクトップとショーツという下着姿である。繭子は目のやり場に困りながらしどろもどろになって話した。
『どういう関係ということもないんですが、私は向かいにあります晴海幼稚園に勤めておりまして……』
『言っとくけど、勧誘ならお断りよ。うちには幼稚園に通わせるような余裕はないんだから』
『そうではなくて、あ、あの、これを龍一君に渡してほしいだけなんです』
そう繭子がとり出した一冊の絵本を、彼女は眉をひそめて受けとった。そして本と繭子とを交互に眺める。
『これを買えっていうの?』
慌てて繭子は手を振った。
『違います。龍一君へのプレゼントです。あの、中古で申しわけないんですけど……』
龍一の母は小鳥のように肩をすくめた。
『あんたの言っていること、全然、意味分かんないんだけど。で、あたしにこれからどうしろっていうの?』
繭子は自分の顔が火照っていくのが分かった。
『いえ。どうしろ、なんていうことはありません。ただご近所なので、ご挨拶がてら伺っただけなんです』
彼女はちょっと眉を上げた。結構表情豊かである。
『ああ、挨拶に来てくれただけなの。なあんだ。そうならそうと早く言ってくれりゃいいのに……。龍一! この人があんたにおみやげをくれるっていうんだけどもらっとく? ええと』
本の題名に目を走らせる。
『かさこじぞう≠セってさ』
龍一は先ほどから窓際のカーテンの前に立って二人の様子を見ていた。その目と合い、何故か繭子は気恥ずかしい思いにかられた。龍一は静かに言った。
『ありがとう、まゆこ先生』
『――だって。じゃあ、この本はもらっとくね。サンキュー』
龍一の母はひらひらと手を振って、そのままばたんとドアを閉めた。
繭子はのろのろとアパートの階段を下りた。ちらりと二階に目をやるがカーテンは閉まったままだ。
そのまま帰り道をたどりながら、繭子は今の自分の中にある感情を考えていた。龍一に絵本を渡すという目的は達成した。龍一の母親は初めは警戒しているふうだったが、これはむしろ当然の反応だろう。今どきの若い母親としては普通の受け答えだという気がした。それなのに自分は何故こんなにも沈んだ気分になっているのだろう。
《ああ、あの目だわ》
龍一の真っ直ぐな目。それは繭子の心の奥底をみ通しているかのように澄んでいた。繭子の軽薄で、偽善的で、おごり高ぶった心の内を……。
◎◎
龍一は、繭子が帰って母も仕事に出かけてしまったあと、窓際に座りこみ外からもれる街灯の明かりで絵本をめくった。
繭子の言うとおり、字が読めなくともだいたいのすじが龍一にも想像できた。
一枚目は家の中にいるおじいさんとおばあさんの様子。暖かそうな火にあたっている。しかし二人の表情は何故か悲しそうだ。
それからおじいさんは大きな荷物を背負って外にでかけていく。次にたくさんのお地蔵さんの前を通る。いつの間にか空からは雪が降ってきている。だからお地蔵さんの頭の上にも真っ白い雪が積もっている。おじいさんはお地蔵さんの頭の上に帽子をかぶせてあげる。持っていた荷物は帽子だったのだ。
しかし龍一は注意深く見て、おじいさんがかぶせたものが帽子だけではないことに気がついた。一番端の一番小さなお地蔵さんの頭には、帽子ではなくて赤い布がまかれてあった。それはおじいさんがその前のページまで首に巻いていたものである。
龍一は表紙を確認した。そこにも同じ絵が描かれてあった。帽子をかぶったお地蔵さんが五体と、赤い布をかぶったお地蔵さんが一体。
母はこれを『かさこじぞう』の本だと言った。たぶんこの六つのお地蔵さんの名前が『かさこじぞう』というのだろう。
そうしてまた、ものがたりの中に戻る。場面は夜になっていた。たくさんの雪が降りかかる中、六体のお地蔵さんが、昼間のおじいさんよりももっと大きな荷物をそれぞれに背負って歩いている。中でも赤い布を巻いた小さなお地蔵さんが一番先頭に立って、一番大きく重そうな荷物を背負っていた。
次の場面では、おじいさんとおばあさんが家の外に出て嬉しそうに踊っている。目の前にはお地蔵さんが背負っていたたくさんの荷物が置いてある。でもお地蔵さんはその場にいない。
最後のページをめくる。暗い夜道にいくつもの影だけが小さく黒く描かれてあるだけ。だが、数や形でそれがお地蔵さんたちのものだと分かる。お地蔵さんはそっと家の前に荷物を置いて黙って去っていったのだ。
龍一は考えた。お地蔵さんはもらった帽子や布のお礼に、おじいさんたちが喜ぶようなものを渡しに行ったのだ。しかし、おじいさんやおばあさんはそれをお地蔵さんがくれたものだと分かっただろうか。分からなかったかも知れない。でもお地蔵さんは、おじいさんがそれを分からなくてもいいと思っていたに違いない。
もう一度絵本の表紙を眺める。お地蔵さんたちはみんな嬉しそうに笑っていた。雪は相変わらず頭や肩の上に高く積もっている。帽子があってもなくても寒さにあまり変わりないように見えた。それでもやっぱりお地蔵さんは嬉しかったのだ。中でも赤い布をかぶせてもらった小さなお地蔵さんは一番嬉しそうな表情をしていた。たぶんおじいさんが大好きだったのだ。だからおじいさんが首に巻いていた布をもらって、ほんとに嬉しかったのだ。お地蔵さんは思ったに違いない。こんなに嬉しい気持ちをおじいさんにも感じてほしいって。それでみんなで一生懸命考えたのだろう。おじいさんが喜ぶものって何だろう。いやもしかしたら、お地蔵さんにはおじいさんの心の中が分かったのかも知れない。
しかし龍一には分からないことが一つあった。お地蔵さんはどうやっておじいさんの欲しいものを手に入れることができたんだろう。それまでは一つの帽子も一枚の布ももっていなかったお地蔵さんたちが、どこからどうしてこんなに多くのものを持ってくることができたのだろうか。何度ページをめくってみても、お地蔵さんがどこで荷物を手に入れたかを描いた場面は見つからなかった。
龍一は本に印刷されている文字の部分をなぞった。きっと自分が読むことができない、この字の中にその答えが書いてあるのだ。母さんに訊いたら教えてくれるだろうか。龍一はそれまで一冊の絵本も持っていなかった。もちろん母に本を読んでもらったこともない。龍一も母にそんなことを期待しているわけではなかった。
《もう少し自分で考えよう》
この本の一番の謎がその部分なのだ。だから長い時間をかけて、じっくり考えなければいけないと思った。
◎◎
夏の間中、龍一は『かさこじぞう』の本を見続けた。家の中で、ベランダで。
向かいの幼稚園には、繭子が言ったとおり、いつもはいない子供たちの顔もあって毎日校庭やプールは賑やかな歓声であふれていた。
繭子の姿もたまにアパートの前に見ることができた。しかし何故か龍一と目が合っても、繭子はわずかに微笑むだけですぐ目をそらしてしまうのだった。それで龍一も繭子と会いそうな時間帯にはベランダに出ないようした。繭子が可哀想だったからだ。自分には何故か分からないが人を戸惑わせるものがあると知っていた。龍一は部屋の中にいても繭子の姿や声をみたりきいたりすることができたし、繭子にはいつも楽しそうに笑っていてほしかった。それに龍一には繭子がくれた『かさこじぞう』の本がある。
ある日、母が呆れたように言った。
『あんた、ほんとにその本が好きなんだねえ』
母は龍一がまだ字を読めないことなど、まったく気づきもしないようだった。ましてや、龍一にほかの本を与えたり本を読んであげたりする必要性があるなどということには、考えも及ばないのである。
龍一は赤くなって母を見上げた。母の前ではあまり本を開かないようにしていたのだが、本が次第にぼろぼろになっていくので分かってしまったのだろう。
『母さんは、この本を読んだことがある?』
ファッション雑誌をぼんやり眺めていた母は、ちらりとこちらを見たがすぐに目をもとに戻した。
『それ、かさこじぞう≠セっけ。さあ、小さいころ見たと思うけど』
龍一は思い切って訊いてみた。
『一つ、分からないことがあるの。訊いてもいい?』
『なによ』
母は上の空で訊き返す。
『かさこじぞうは、どこからどうやって、おじいさんとおばあさんにあげる荷物を手に入れたの?』
龍一はどきどきしながら答えを待った。母にそんなことも分からないのかと呆れられる気がした。母は、
『は?』
と言って龍一の手から絵本をとると、ぱらぱらめくった。
『そんなことはどこにも書いてないわよ』
『書いていないの?』
『書いてない』
母は龍一にまた絵本を突っ返すと、煙草に火をつけ煙をひゅうっと吐いた。
『だってお地蔵さんだもん。何かの不思議な力で手に入れたんでしょ。あんた、変なことを気にするのね』
それから、母は、
『じゃ、仕事に出かけてくるね。明日は遅くなるから』
と部屋を出ていった。しかし龍一は知っていた。母は仕事にではなく男に会いに行ったのだ。今日は仕事が休みであることも知っていた。
龍一はそっとベランダに出て角の向こうに消える母の後ろ姿を見送ったあと、空の植木鉢の上に力なく座った。そして夏の終わりの夕焼けの中で、どうしたらかさこじぞうのように、大切な人の欲しいものを手に入れてあげる力を得ることができるのだろうかと考えた。
何度も見てすっかり細部まで覚えてしまった『かさこじぞう』の絵を思い浮かべる。
《かさこじぞうって、たぶん僕と同じような子供なんだ》
龍一はそう思った。本の絵の地蔵たちは、おじいさんたちよりもずっと背が小さかったからである。
《かさこじぞうになるには、いったいどうしたらいいんだろう》
地蔵たちは最初から力をもっていたわけではないだろう。龍一はそれを、おじいさんがくれた帽子や赤い布のおかげなのだと考えた。何かをしてあげたい人からもらったものが、地蔵をかさこじぞうに変えたのだ。かさこじぞうになれば、どんな小さな子供でも大きな力を身につけることができるのだ。本では一番小さな地蔵が一番大きな荷物を持っていたではないか。あのおじいさんやおばあさんの嬉しそうな顔。地蔵たちはそれを見てほんとに幸せだっただろう。
龍一が一番喜ばせたいのは、もちろん母だった。母の笑顔がもっとも好きなものなのに、めったにそれを見ることがなかった。そうだ、母は自分をとても不幸だと考えているのだ。
龍一は母を幸せにする力が自分にないのは、まだ小さい子供だからだと思っていた。しかし、子供でも大人を幸せにする力を手に入れることができるのだと、かさこじぞうは教えてくれた。地蔵たちはおじいさんからもらった帽子や布でその力を手に入れた。龍一はどうやってその力を手に入れることができるのだろう。
龍一は誰も見ない隙に洗濯物の中の赤いタオルを頭に巻いてみたりした。しかし何日か続けてみても、いっこうに変化はないようだった。龍一はため息をついた。こんなことではやはり、かさこじぞうにはなれないらしい。もっと特別なものが、たぶん必要なのだ。
(三)
◎◎
その年の秋がすぎ、やがて冬になった。母の外出時間は次第に長くなり、丸一日帰ってこないこともしばしばだった。龍一の生活はただ母の帰りを待つことですぎていった。
母は部屋にいるときはほとんど眠っている。その寝顔を龍一は一瞬も目を離さないように見守った。母を悪夢から守ってやるために。
しかしだんだんいったいこれが何になるのだろうという気がしてきた。母が望んでいることは安らかな眠りなどではないのだ。その証拠に母がここにいる時間はどんどん短くなっているではないか。しまいにまったくここに帰ってこなくなるのではないかという恐怖に龍一は襲われた。そのとき自分はどうしたらよいのだろう。母なしでどうして生きていったらよいのだろう。
龍一の眠りはいつも浅く不安に満ちたものだった。一、二時間ごとに目が覚め母の気配をみ逃さなかったかと部屋を見わたす。押入れの前に母が大事にしている大きな旅行かばんが置いてある。それを見ると龍一は少し安心するのだった。もし本当に母がどこかに行ったきりになるのであれば、あれを持っていくだろうと思っていたからだ。
◎◎
ひどく冷えこんだ真冬の朝。火の気のない部屋の中、龍一は何枚もの毛布や衣類を体の上にかけてうつらうつらしていたが、目の奥が真っ赤になった気がしてはっと目が覚めた。慌てて起き上がり辺りを確認するが、部屋の中はしんと静まり返っている。しかし心臓はまだ大きく鼓動をうち今みた夢への警鐘を鳴らしていた。
急いでカーテンを開けベランダに出る。霜で満ちたような冷たく透き通った朝だった。人気はまだない。向かいの幼稚園も朝もやの中にまだ眠っている。
龍一はそのままじっと二時間程度を、ベランダの植木鉢の上に座って待った。
そのうち前の道路にも通勤や通学をする人々の姿が行き交い始めた。向かいの幼稚園へも園児やその親たちがやって来ていつもの賑やかな光景となる。
龍一はその様子を注意深く眺めていたが、門の前の混雑が収まり始めたのを見てぱっと立ち上がった。
『まゆこ先生! まゆこ先生!』
園児たちの出迎えをしていた繭子は、自分を呼ぶ声に驚いて顔を上げた。向かいのアパートの二階のベランダから柵をしっかり握った龍一の姿がのぞいていた。
『まゆこ先生。こっちに来て』
繭子は不思議に思いながらも、もう一人の教員にその場を任せて道路を渡った。
『どうしたの、龍一君』
『幼稚園が、火事になるよ』
龍一は、はっきりと言った。
『えっ』
ぎょっとして繭子は思わず後ろを振り返った。園児の母親たちが不審そうな顔をしてこちらを見ている。しかし幼稚園の中はいつもどおりだ。ほっとしながら龍一に向き直る。
『幼稚園は大丈夫よ』
龍一の表情はひどく真剣だった。
『違うよ。今じゃない。今日の夜だよ。今日の夜に幼稚園が火事になるんだ。僕、みたんだ。本当だよ』
繭子は笑顔を作った。
『龍一君。夢をみたのね。でも本物の幼稚園は大丈夫よ。ありがとう』
だが龍一は、怒ったように大きな声を出した。
『違う。僕がみたのは、本物の、幼稚園なんです。だから、幼稚園の火事も、本物なんです。お願い、信じて、まゆこ先生。僕は嘘をついたりしない』
繭子はなだめるように小さな声で言った。背後で母親たちがひそひそ声で話し合う気配を感じる。
『分かっているわ、龍一君が嘘つきじゃないことぐらい。龍一君は幼稚園が火事になるのを夢にみたのね。それで先生に教えてくれたのよね。ありがとう』
龍一はいらいらしたように足踏みをした。
『先生は、分かっていないんだ』
『いいえ、分かっているわよ。今日の夜でしょ。幼稚園が火事にならないように私が見回ってちゃんと気をつけるわ』
震えるようなため息が、龍一の中から漏れた。
『幼稚園は、火事になるんです。≠サれはもう決まっていることなんだ。僕にもそれをどうすることもできない。まゆこ先生にだって、それはとめられないよ』
繭子は龍一の目を見上げた。それは悲しげに青く澄んでいた。
『野中先生!』
同僚の呼ぶ声がする。
『今、戻ります』
返事をしてから、繭子はまた龍一のほうを向いた。
『とにかく龍一君の言葉は忘れないわ。幼稚園を心配してくれてありがとう。……そうだ。今日は幼稚園でクリスマスパーティがあるの。龍一君もよかったら来ない? そうしたら幼稚園が無事かどうかも、先生と一緒に確かめることができるでしょ。パーティには、大きなケーキや美味しいご馳走が出て、サンタクロースも来てみんなにプレゼントもくれるのよ。龍一君はとってもいい子だから、サンタさんも特別にいいものをくれるんじゃないかしら』
龍一は黙って首を横に振った。
『分かったわ。じゃあ先生は幼稚園に戻るわね。どうもありがとう。お母さんにもよろしくね』
繭子は龍一に別れを告げて幼稚園のほうへ戻った。門の中へ入る前にちらりと振り返ると、龍一はまだじっとこちらを見ている。繭子が笑顔で手を振ると弱弱しく笑い返した。繭子は龍一がひどく気にかかったが、幼稚園の中に入ったとたんに園児たちにわっととり囲まれその相手をするのにたちまち忙殺されてしまった。
◎◎
今日は園児たちはことのほか興奮気味であった。今夜は年に一度のお泊まり保育の日だからである。
毎年十二月の第三金曜日は園児を幼稚園内に一泊させることになっていた。夕食はクリスマスパーティ形式にして、園児たちにプレゼントを配ったり寸劇や紙芝居を見せたりといった様々なイベントも企画している。それだけ教員たちは準備が大変だが、子供たちが楽しそうにしているのはやっぱり嬉しい。園内は華やかな雰囲気であふれ返っていた。
繭子は自分の受けもちの『たんぽぽ組』に入ると、園児たちに話しかけた。
『みんな。今日は何の日か、知ってるかな?』
『クリスマスパーティの日!』
『おとまりほいくの日!』
口々に子供たちが声をあげる。
『そうですね。パーティは夕方からです。パーティには、給食の先生たちがいっしょうけんめい作ってくれた美味しいご馳走がたくさん出るわよ。それから、クラスの先生たちがみんなにお芝居を見せることになってます。がんばって練習したのよ。ぜひ見てね。さて、今年一年みんながいい子にしていたので、パーティにはもう一人すてきな人がみんなに会いに来ることになっています。いったい、だれなんでしょうね?』
『サンタさんだ!』
一人の男の子が叫んだ。クラス内は騒然となった。
『プレゼントをくれるんだよ』
『サンタさんなんて、ほんとはいないのよ』
『うそだ。ぼく、きょねん本物のサンタをみたもん』
『それは、おとうさんが化けているのよ』
『ちがうよ。声がちがったもの』
繭子はきらきらしたたくさんの色紙を振って子供たちを注目させた。
『さて、だれが来るかはそのときまでのお楽しみよ。とにかくその方は幼稚園のお客さまです。お客さまにきれいな幼稚園を見せたいと思って、先生たちは昨日いっしょうけんめい、お部屋や校庭をおそうじしました。今度はみんなにおねがいです。おゆうぎ室には今、クリスマスツリーがおかれてあります。でもほかにはなんにもかざりがなくて、とってもさみしいの。だからこれでお星さまやお花のかざりを作って、お部屋をきれいにしたいと思います。みんなもいっしょに手伝ってくれるかな?』
『はーい!』
子供たちがいっせいに手を上げた。
繭子は午前中いっぱい園児たちと一緒にクリスマスの飾り作りをした。それから昼食の時間。晴海幼稚園は給食制である。弁当だとどうしてもそれぞれの家庭の事情によって園児たちの間に差ができてしまうからだ。中にはコンビニで買ったおにぎりやサンドウィッチをそのまま持たせてきたり、あるいは単にお金を園児に預けてよこすだけの親もいたりするので、十年前から給食をとり入れるようになったと聞く。その分納めてもらう保育料は高くなったが、親たちからの評判もおおむね良好である。
午後はツリーが置いてある遊戯室に移動して、午前中に作った飾りを子供たちと一緒にとりつけた。普段だと昼食後はすぐに家に帰る時間となるので、午後になっても幼稚園にいるというだけでも園児たちには新鮮なようだった。
飾りつけが終わるといったんクラスに戻り、園児に自分たちの荷物を持たせると、今度は園内で一番広い体育室に向かった。そこにはすでに園児たち全員分の布団が敷かれてある。ずらりと並んだたくさんの布団の光景が珍しくて子供たちは歓声をあげた。ほかのクラスもみんな来ている。
『ばら組の人はこっちよ』
『ききょう組。クラスのおともだちが、ちゃんといるか確認してください』
それぞれの教員たちが声をからして自分の園児たちをまとめようとしている。
『自分のお布団を決められたかな?』
布団の色や位置を争う若干の調整のあと、ようやくざわめきが収まってきた。それを見計らい、年のいった男性教員が園児たちに話しかけた。晴海幼稚園園長の武村である。
『ようし、みんな。おとなしくなったか? 今日は待ちに待ったお泊り保育の日だね。お泊りの準備はちゃんとしてきたかな?』
『はーい』
『よし、よし。じゃあ今日、幼稚園にお客さまが来るっていうのも知ってるね』
『サンタでしょ』
『サンタは、園長先生なんでしょ』
武村は笑った。
『私はサンタクロースじゃないよ。サンタは今、北の国からこっちに向かっている途中だ。さっき先生に電話があったから、本当だよ』
『ほら、やっぱりサンタは別にいたじゃないか』
たんぽぽ組の男の子が隣の女の子に得意げに言った。武村はにこにこした。
『しかし今日は、先生がお願いしてもう一人のお客さまを呼びました。佐々木さんです』
武村が紹介すると、中年の女性が部屋に入って来た。
『佐々木さんは、みんなにお話をしてくれるそうです。民話といって、日本には昔から伝わる古いものがたりが、たくさんあるんだよ。昔の子供たちは、みんなそういうものがたりを聞いて楽しんだんだ。佐々木さんは民話をお話しするのがとっても上手な人です。佐々木さんがどんなお話をしてくれるか、先生も前から楽しみにしていました。じゃあ佐々木さん。よろしくおねがいします』
佐々木はにこにこしながら園児たちの前に座った。園児たちが目をみはって佐々木を見つめる。
『あらあ、みんな。そんなに緊張しておばさんを見てなくていいんだよ。さ、お布団の中に入って、ごろんと横になってちょうだい』
園児たちは顔を見合わせた。
『大丈夫。おばさんの話はとっても長いからね。だからみんなが疲れないように楽なかっこうで聞いてもらうことにしているんだよ。眠くなったら途中で寝たってかまわないんだからね』
子供たちが布団の中に潜りこんだところで、佐々木は話し始めた。ゆっくりとした、しかし一定の調子のある、柔らかいなまりの入った話し方だった。
『さあて今日はね、おしらさま≠ニいうおはなしをしようかね。
……あるところに一人のお百姓がおった。お百姓はとってもまずしくてな、自分の財産なんてなんもなかった。あるもんといえば、好き合って一緒になった若い嫁しかなかったんだ。
田んぼや畑はみんな地主さまのもんで、お百姓はそこを借りてたがやしてたんだ。毎日、毎日、いっしょけんめい働いても、できた野菜や米はみいんな殿さまや地主さまにおさめなくちゃならなかったから、自分たちの食べるもんは、ほんのちょっぴりとしか残らんかった。
それでもお百姓は嫁と一緒に、朝は星が光る暗いうちから起きて夜は月が出るまで、どろだらけになって働いた。そうしないと飢え死にしてしまうからな。だども若い嫁には、そんな暮らしはきつかったんだろな。
ある年、ずうっと雨のふらん日が続いた。ひでりといって、太陽がかんかんに照って、田んぼも畑も水がなくなって、からからに乾いてしまった。それで育てていた米だの芋だの大根だのも、みいんなだめになってしまったんだ。体の弱い嫁は食べるものがなくって、とうとう死んでしまった。
嫁は死ぬ前に一人のおんなの赤ん坊を産んで、お百姓にこの子を、おれの代わりだと思って、大事に育ててけろ≠チて言い残したんだ。それでお百姓はその子を嫁の代わりと思って、大事に大事に育てた。娘はおかげですくすく育って、十五年もすると村一番のきりょうよしになった。
あるとき、お百姓は自分の手伝いをさせようと思って馬を一頭買ってきた。真っ白いおとこの馬で、たいへん立派な馬だった。お百姓はそれをとっても安くで買えたんだ。なんでかというと、そのおとこの馬はたいへんな暴れ馬で、だれのいうこともきこうとしないから、安くで買えたんだと。
お百姓は《おれはびんぼうで、この馬しか買えなかった。なんとかこの馬を馴らして、使ってみるしかあんめえ》って考えた。それでその馬をうちに連れて帰って、外になんかつながないで、人間とおんなじような小屋を建てて入れてやった。それから、いい匂いのするわらをしいてやったり、栄養のある草をたんと刈って食わせてやったりして、馬を大事に大事に飼ってやったんだけんども、いざ畑仕事を手伝わせようとすると、馬はやっぱり暴れてさっぱりいうことをきかんかった。
お百姓はがっかりして《やっぱり、この馬はきかん馬だったなあ》と思った。すると、それを見ていたお百姓の娘が『おっとう、おれに馬のめんどうをみさせてけろ』と言い出した。お百姓は『だめだ、だめだ。おれだって近よることもなかなかできんのに、おめえなんか後ろ脚でけっぽられて大ケガしちまうぞ』って言った。それでも娘が『そんでも、おれ、おっとうの役にたちたいんだ、とにかくやらせてみせてけろ』と何度もせがむので、お百姓はしかたなく娘に馬の世話をまかせることにしたんだと。
娘はそっと一人で馬小屋に入っていった。おとこの馬はじっと娘を見ていたけど、別に暴れもしなかった。娘は一歩ずつ馬に近づいていって、ついには馬の目の前に立ったけども、馬はやっぱりしずかに娘を見ているだけだった。それで娘はわらで馬の体をていねいにふいてやった。馬は気持ちよさそうに目をつむっていた。娘は《この馬はきかん馬だっておっとうは言ったけど、そんなことなかったなあ》って不思議に思った。
馬は娘が世話をしている間ずっとおとなしくて、娘があげる、あおあおとした飼い葉や、つめたい水を、おいしそうに食べたり飲んだりした。そして娘が小屋を出ようとすると、またじっとこっちを見つめた。《あれ、なんだか馬がさみしそうにしているなあ》って娘は思ったもんだ。
家に帰って娘はおっとうに『おっとう、馬はとってもおとなしかったよ』って言ったので、おっとうは喜んで馬小屋に行って馬に畑仕事をさせようとたづなをつけようとしたら、また馬は暴れて暴れて、おっとうはあやうく頭をかち割られそうになって、びっくりして家に逃げ帰ってきた。
『おめえは、馬がおとなしくなったって言ったが、今おっとうが行ったら、やっぱり暴れてわがんねかったぞ』
それで娘が代わりに馬のとこさ行って『馬っこ、馬っこ。おれたちの畑仕事をどうか手伝ってくんろ。年貢もおさめねばなんねえし、おれたちも、おめえとおんなじように食べねば死んじまうから』と頼んでみた。そうしたら馬はおとなしくたづなをつけられて畑に出てきたんだと。
娘は馬に畑を耕すための大きなスキをつけた。すると馬はずんずん進んであっという間に、広い畑を一日で全部たがやし終わってしまった。『ありがとう、馬っこ。おめえのおかげで仕事がとってもはかどったよ』娘は汗と泥で汚れた馬の体を、小川の水できれいに洗ってやった。それから馬小屋に馬を入れて、娘が帰ろうとすると馬は娘の首に自分の首を回した。それで娘はなんだかせつなくなって、馬と別れたくないような気持ちになったっけな。
それからというもの馬のことは一から十まで娘がすることになった。馬はあいかわらず娘のいうことだけきいて、おっとうのお百姓のいうことはきかなかったからだ。んだども娘がついている限り、馬は村中のどんな馬よりも力が強くて働きもんだった。お百姓はこの白い馬のおかげで、自分とこの田んぼも畑も村で一番早くにすき終わることができた。
すると村のほかの家から『おめえのとこの白い馬っこ、うちにも貸してくんねえか。うちの馬よりも力が強くてはかどりそうだから』と言われるようになったそうだ。白い馬は娘のいうことしかきかないから、娘が馬をひいてほかの家の田んぼや畑をたがやしにいくことになった。手伝ってもらった家はよろこんで娘に米や野菜をおれいにくれてな、それでお百姓の家のくらしもだんだん楽になっていったんだと。
そのうちお百姓の娘を嫁にほしいという家が出てきた。『あそこの家の娘は働きもんで馬のあつかいにも慣れとる。きりょうもええから』って評判になって、うちの嫁にぜひきてけろって話がたくさんお百姓にくるようになったそうだ。お百姓は娘に『そういやおめえも嫁にいってもいい年だからなあ』って話したんだけど、娘は笑って『おれにはまだはええよ』と嫁にいこうとはしなかった。お百姓も『そうかあ』と、せかすようなことはしなかったんだ。
そうやって何年かたってな。そのあいだ娘と馬は村中の田んぼや畑をたがやして歩いた。娘と馬がたがやすと土は深くまで掘られて、植えた苗はみんなしっかり根づいたんだと。そのおかげで稲は垂れさがるほどよく実るし、芋は太く肥えたそうだ。それで娘の家だけでなく村中のくらしがだんだんよくなっていった。そうして娘はあいかわらず嫁にいかずに、おっとうと馬と一緒に暮らしていたんだよ。
すると今度は働きものできりょうよしの娘のうわさを聞いて、村の庄屋さまがお百姓の娘を息子の嫁にほしいと言ってきた。庄屋さまは村で一番大きい田んぼを持っていて、村の山はぜんぶ庄屋さまの持ち物で、蔵にはたくさんの宝物がつまっているお金持ちだった。
お百姓は娘に『庄屋さまが、おめえのことを嫁にほしいんだと』と言ったんだけどな、やっぱり娘は首をふって『おれは、嫁になんていかね』って言うだけだったんだ。
お百姓がそれを庄屋さまにお返事したら、庄屋さまは怒って『おめえが、たがやしとる田んぼや畑は、おれとこの田んぼや畑でねえか。おめえがたきぎをとっている山は、おれとこの山でねえか。おめえがのどをうるおしとる川の水は、おれとこから沸いている川の水でねえか。おれの言うことがきけねえんだったら、これからは田んぼも畑も山も川も使っちゃならん』って言うんだ。
さあお百姓はこまって家に帰ると娘に言った。『田んぼも畑も山も川も使えんかったら、おれたちは日干しになっちまう。どうしたもんかなあ』
娘は黙ってうつむいとった。
お百姓はまた『おめえが、庄屋さまんとこに嫁にいってくれたら、そんなことにもならんのだがなあ』とも言った。娘はぽたぽたと涙を流して『おっとう、おれは庄屋さまとこには嫁にいかれないんだ。なんでかというともう嫁にいくと約束した相手がいるからだ』お百姓はおどろいて『おめえ、一度もそんなこと、おれに言わなかったでねえか』『言えば、おっとうにごしゃかれると思ったんだよ』『そんなこと、ね。おめえが決めた相手ならおっとうがだめだと言うわけねえでねえか。それで相手はどこのどんなおとこだ?』そうしたら娘は『それはうちの白いおとこ馬だ』と答えたのでお百姓はびっくりした。『おめえは、ほんとにあの馬の嫁になる気か?』
娘がこっくりうなずいたので、それでお百姓はまた庄屋さまのとこに行った。『おれとこの娘は、おれとこの白いおとこ馬の嫁になるってきかねえんです。だもんで庄屋さまとこに嫁にいかせるのはかんにんしてくだせえ』すると庄屋さまは『人間の娘が馬の嫁になるなんて、そんなばかなことあるか。そんならおめえとこのその白いおとこ馬を殺してしまえ』『娘が好いとるもんを、たとえ馬でも殺すなんてできねえですだ』お百姓は言ったが、庄屋さまに命令されてしかたなくうちに帰って、馬小屋に入った。
『馬っこ、馬っこ。おれはおめえを殺さなくちゃなんねくなった。でないと庄屋さまに田んぼも畑も山も川もとりあげられて、おれも娘も飢えて死んじまうんだ』
すると白いおとこ馬は、自分で馬小屋から出てきて、家の裏の大きな桑の木の下に静かに立った。お百姓は『かんべんしてけろな』と言って草を刈るカマをようくといで、それで馬の首をばっさり切って殺したんだと。
それから庄屋さまのとこに行って『おれとこの白いおとこ馬を殺しました』と言ったらな、『ただ殺したらもったいね。あの馬の皮は高く売れそうだから、はいでもってこい』と庄屋さまは言った。それでお百姓は桑の木の下に戻って、そうして馬の皮をはぎはじめた。
そこへ娘が用足しから帰ってきた。娘はおっとうのやっていることを見るなり『おっとう、おっとう。なして馬を殺した? なしておれの大事な馬を殺して、その皮をはぐんだ?』そう言って半分皮をはがれたおとこ馬にとりすがっておいおい泣いた。
すると、馬の皮がふわーっと浮かんだかと思うと、娘の体に白い着物みたいにしっかりと巻きついたんだと。それからそのまま娘はすーっと天の高く高くにのぼって、そうして見えなくなってしまったそうだ。お百姓はいっしょうけんめい天に向かって娘を呼んだけど、娘はついに帰ってこなかった。お百姓は娘を思って毎日毎日泣いて暮らしてな。今日は帰ってくるか明日は帰ってくるかと待っていたけど、やっぱり娘は戻ってはこなかったんだと。
お百姓はすっかり元気をなくして畑にも出ずに家の中で寝てばっかりいた。そしたらある晩、娘が夢に出てきてこう言った。『おっとう。おれ、おっとうに黙って発ってしまったけんど、どうか許してくんろ。あんな、明日の朝目が覚めたら、土間に臼を出してな、その上に、おれのあの晴れ着をかけておいたらな、次の日にその中に真っ黒な虫がいっぺえいるからな、そうしたら今度は裏の桑の木の葉っぱをたくさんつんできて虫の上にかぶせてやってけろ。桑の葉っぱを虫は食って大きくなるからな、そうしたら虫はひとりでに白いまゆを吐いてくるまっから、おっとうはそのまゆから糸をとって、その糸を売って生活のたしにしてけろ』
お百姓は、次の朝目が覚めて《ゆうべ、娘がおれの夢に出てきて不思議なことを言っていたっけな》と思い出して娘が言ったとおり土間に臼を出して、その上から娘の晴れ着をかけておいた。そうして次の日に見てみると、本当に臼の中に真っ黒な虫がいっぱい動いていたんだと。お百姓はその上に桑の葉っぱを虫が見えなくなるほどたくさんかぶせてやったんだよ。
虫はその葉っぱを食べて大きくなって、二十日ほどたつと真っ白い糸をたくさん口から吐き出して自分の体にぐるぐると巻きつけた。お百姓がこのまゆをほぐして糸をとってみると、これが絹糸といってとっても高くで売れたんだと。絹糸でおった布は柔らかくて丈夫で軽いというので、お金持ちの家で喜んでたくさん買ってくれたそうだ。
黒い虫っこは桑の葉を食べるからクワコと呼ばれて、そのうちなまってカイコというようになったそうだよ。お百姓は村の人たちにもカイコを分けてやって、みんなで大事に育てて増やしたので、村は絹糸をたくさん売って豊かになったんだと。
でも娘をなくしたお百姓はさみしくってさみしくって、娘がいなくなった裏庭の桑の木の枝で娘の顔と馬の顔を彫って、家ん中にかざって毎日それをながめて暮らしていた。村人はそれを大事なカイコをさずけてくれた神さまだと言って、村の氏神さまとして拝むようになった。それが、おしらさまなんだよ。おしらさまというのは大事なことを知らせてくれる神さまだから、そう呼ばれるようになったんだそうだよ。
……はい、おしらさまのお話は、これでおしまい』
佐々木が話し終わるころ、子供たちの半分は布団の中でぐっすり眠っていた。あとの半分もうつらうつらしている。佐々木は武村に微笑んでそっと体育室を出ていった。
幼稚園の帰宅時間は保育園よりも早いので、普段は園児たちに昼寝をさせることはない。しかし年に一度のお泊り保育のときは、やはり昼寝の時間を作ったほうがいいということになったのだが、子供たちがなかなか寝てくれないので教員たちは手を焼いていた。それで園長の武村が一計を案じたのだが、これが功を奏したようだ。
武村は佐々木に頭を下げて見送ったあと腕時計を確認した。二時半だ。このまま四時くらいまで子供たちを寝かせておこう。体育室の中には自分ともう一人の教員だけになっている。ほかの教員たちはこの間にクリスマスパーティの準備を進めることができるだろう。
◎◎
繭子はパーティの間もなんだか落ち着かなかった。今朝ほどの龍一の言葉が気にかかっていたのだ。それで何度も幼稚園内を見回って、火の始末がちゃんとなっているかを確認して歩いた。
クリスマスパーティ自体は大成功で、子供たちは唄ったり踊ったりご馳走を食べたり、サンタクロースからもらったプレゼントを開けて喜んだりして、とても楽しそうだった。目いっぱいはしゃいだ彼らは、たっぷりと昼寝をしていたにもかかわらず、パーティが終わったあと比較的早く寝ついた。教員たちはようやくほっとした。数人の教員が子供たちのそばに残り、あとはパーティの片づけや戸じまりに向かう。
繭子がそっと廊下を歩いていると、後ろから声をかけられた。振り向いてみると同じ教員の堤だった。
『どこに行くんだい』
堤は繭子のそばに立った。
『調理室のガスの元栓がしまっているか確認にしに行くの』
『さっき俺が確かめたよ』
『そう? でもやっぱりもう一度見に行ってみるわ』
堤の腕が繭子の腰に回る。
『何をそんなに神経質になっているんだ?』
繭子は堤を見上げた。そのキスを受ける。それからすぐに体を離して歩きかけたのだが、堤がその腕をつかんで引き戻した。
『繭子』
『なあに』
繭子は上の空で答えた。
『君にプレゼントがあるんだ』
堤がポケットから小さな箱をとり出す。開けると、きれいなダイヤの指輪が輝いていた。繭子が驚いて顔を上げると、堤はにこっと笑った。
『どうだい?』
繭子は戸惑ったまま堤を見ていた。
『どうって……』
堤は繭子の左手の薬指に指輪をはめた。
『一応、婚約指輪のつもりなんだけど』
『それってプロポーズってこと?』
『まあね。本当はクリスマスイブに渡そうと思ったんだけど、待ちきれなくて……』
繭子はまじまじと自分の手を眺めていた。あんまり黙っているので堤が急かすように、訊いた。
『オーケーかい?』
繭子はあいまいに首を振った。
『……分からないわ』
『なぜ?』
『だって、あんまり突然で』
『でも俺たちは学生のころからつき合っているんだぜ。そろそろ、いいだろ?』
堤は繭子の大学時代の一年先輩である。
『私は、今年の春に就職したばっかりだし』
『いいじゃないか。なにも結婚したからといって、すぐに退職する必要はないんだから。子供が生まれるまでしばらく共働きでいればいい』
『子供が生まれるまで……』
繭子はぼんやりと宙に視線をさまよわせた。何故だか小さな龍一の顔が浮かんだ。悲しそうに澄んだ目をこちらに向けている。
『私にちゃんと子供を育てられるかしら……』
堤は笑った。
『おい、おい。幼稚園の教員がなんでそんなことを心配するんだ』
そうして繭子を抱きしめた。
『君の子供ならきっと可愛いよ。もちろん二人で協力して育てるんだ。何も心配する必要はない。……君を愛している』
慣れた男の匂いが体を包みこむ。繭子はそれを一息吸った。
『私もよ』
『じゃあ、いいんだね』
堤が繭子の目をのぞきこんだ。繭子はうなずきかけたが思い返した。
『もう少し考えさせて』
『何を考えるっていうんだ?』
しかし堤はすぐにつけ加えた。
『いや、分かったよ。俺はいつまででも待つから。といっても返事は早いに越したことないけどね』
『ありがとう……。じゃあ、ちょっと見回りに行ってくるわね』
そうして繭子は堤と別れた。
角を曲がり廊下の端にある調理室の扉に手をかけようとして、指にはめられたダイヤに気がつく。それをはずして箱にしまいポケットに入れる。調理室はしんと静まり返ってどこにも異常はなかった。ガスの元栓もちゃんとしまっている。
そのあとで幼稚園内のすべての部屋を見回りながら、繭子は堤からのプロポーズのことを考えた。ポケットの上から四角いケースの感触を確かめる。嬉しくなかったといえば嘘になる。堤は真面目な性格だし、なにより繭子を愛してくれていた。結婚には何の支障もないように思えた。
《彼と結婚して、しばらくして子供ができて、子育てをする》
堤が言ったとおり子供が小さいうちは仕事を休職することになるだろう。繭子にもその点は異存がなかった。堤の親も繭子の親も遠くに離れて暮らしていたし、それにやはり自分の子供は自分の手でできるだけ育てたい。すべては流れるように自然だ。それなのに何故自分はすぐに返事をしなかったのだろう。いやたぶん、あまりに急に言われたから心の準備ができていなかっただけなのだ。繭子は仕事中はいつもとても緊張しているのだ。
《仕事中にあんなことを言うなんて》
繭子はちょっと腹だたしく思った。
《そうでなかったら、きっともっと素直になれたはずなのに》
明日園児たちが帰ったら一日半の休日となる。そうしたら堤に結婚の承諾をしよう。そう繭子は心に決めた。
◎◎
誰かに揺さぶられた気がして、繭子は目を覚ました。
体を起こして体育室を見わたす。園児たちはぐっすりと眠っている。ほっとしたが耳の奥に何か違和感を覚える。まだ頭がはっきりしない。首を振ってそれが何かを考える。そうして、はっとする。音だ。ずっとぱちぱちという音がしているのだ。しかしどこからその音が来ているのか分からない。
静かに立ち上がって、布団の間を横ぎり体育室を出た。急に音が大きくなる。音のする方向へ素足のまま廊下を進み、角を曲がって息を呑んだ。遊戯室から火が出ている。廊下側のガラス窓の向こうが真っ赤になっている。扉の隙間から白い煙が漏れ出ている。
『火事!』
繭子はすぐに駈け出さなければならないのに、しばらくの間呆然と炎が燃えさかる様子を、突っ立ったまま見ていた。近くで何も知らずに眠っている数十人の園児たちの姿が頭の中をぐるぐると回った。
《早く、早く、動くのよ》
繭子は自分の体を無理やりにその場から引きはがした。いったん走り出すと、とまらなかった。転がるように廊下を駆けぬけ、体育室の扉を勢いよく開けた。
『みんな、起きて! 火事、火事よ。早く逃げて!』
※作中の“おしらさま”は、『遠野物語(柳田国男)』『遠野むかしばなし(鈴木サツ自選五十話)』『白幡ミヨシの遠野がたり(吉川祐子編)』に掲載された話を基に、作者が創作したものです。
(四)
◎◎
晴海幼稚園は全焼した。木造だったため、あっという間に火が回ったのだ。しかし早めの避難により園児や教員たちはみな無事だった。
恐怖に震える子供たちが親に引きとられていったあと、朝日の中で繭子たちは晴海幼稚園の姿を見、愕然となった。真っ黒な柱だけになった建物は消防車の放水によってどこもかしこもびしょ濡れになっていた。
園長の武村は涙ぐんでいたが、自分の後ろで押し黙って固まっている教員たちのことを思い出し話しかけた。
『みなさん。よくやってくれました。おかげさまで一人の怪我人も出すことなく子供たちも全員無事でした。今日はもう帰っても構いません。晴海幼稚園は……』
そうして少し声をつまらせる。
『当分の間休業です。私はこれから警察の事情聴取があるので行かなくてはいけません。今後のことは追ってお知らせいたします。連絡だけはとれるようにしておいてください』
警察の事情聴取は武村だけでなく幼稚園の教員全員に対しておこなわれた。現場の状況から放火らしいことが分かったからである。特に第一発見者の繭子は執拗に当時の様子を訊かれた。それはすでに取り調べといってもいいようなものだった。繭子は連日のように警察に呼び出され、ぐったりした。
『あなたは何故、夜中に遊戯室まで行ったのですか』
『ですから何回も言いましたとおり、ふと目が覚めたらぱちぱちという音がしたのです。それで不思議に思って部屋を出て廊下を歩いていったら、火事に気づいたんです』
『あなたは火事が起こることを、事前に分かっていたのではありませんか』
『そんなわけありません』
『しかしあの日、あなたが火の始末ができているかをとても気にして、何回も園内を見回っていたという証言もあるのですが』
『それは、年に一度のお泊り保育の日ですから念には念を入れただけです』
刑事は手もとの資料を確認した。
『あなたは今年の春に晴海幼稚園に就職したばかりですね』
『そうです』
『給料や待遇に不満はありませんでしたか』
『ありません』
『園長やほかの教員たちとの間に問題はありませんでしたか』
『ありません』
『堤という教員とはどういうご関係ですか』
繭子の顔が真っ赤になった。
『それが今回の火事と何か関係があるのですか』
『関係があるかどうかは、こちらが判断することです』
繭子は小さな声で答えた。
『堤さんとは、おつき合いしています』
『つまりは恋人?』
『はい』
『幼稚園内では、教員同士の恋愛は禁止されているのではありませんか』
『禁止? ……いえ、そんなことはないと思いますが』
『堤さんはあなたの大学時代の一年先輩で先に晴海幼稚園に就職なさっていた。その翌年、今度はあなたが晴海幼稚園に就職した。これには園長へ堤さんの推薦があったからだそうですね』
『推薦というか、大学の先輩である堤さんに紹介してもらっただけです』
『幼稚園の先生も今は就職難らしいですねえ。資格をとっても就職できるのはごくわずか。そんなとき、やっぱりものをいうのはコネってことになりますね。あなた方は大学時代からの恋人同士だった。あなたは恋人の力で就職を勝ちとることができた』
繭子は思わず泣き出してしまった。刑事は容赦なく続ける。
『武村園長に訊いたら、あの人はあなた方の関係をまったく知らなかったそうですよ。堤さんからはあなたが大変優秀な人だからと採用を勧められただけだそうです。そういうこともあって、何十人もの応募者の中からあなたを選んだとおっしゃっていました。しかし、教員たちの間ではあなたが入ってきた当初からあなた方の関係について噂になっていたようですね。……すでに結婚という話も出ていたそうじゃないですか』
繭子はぎょっとなった。
『誰がそんなことを言ったんです?』
『誰かというのはこの際おいておきましょう』
刑事は言ったが、むろん堤しかいない。その後も職場や私生活の様子に至るまで根掘り葉掘り訊かれ、繭子はノイローゼになりそうだった。と同時に繭子を恐怖が襲った。
《このまま本当に放火の犯人として捕まってしまうのではないか》
繭子は真っ暗なトンネルの中に放りこまれた気がした。それは晴海幼稚園が燃える匂いで充満し、あざけりと恥辱に満ちた未来へとつながっている。
が、突然、その恐怖は終わった。ある日、刑事が言った。それまでとはうって変わった丁寧な口調だった。
『野中先生。今まですみませんでした。あなたへの疑いが晴れたので、明日からはもう、いらっしゃっていただかなくても結構です』
繭子はぼうっとして、刑事を見上げた。
『犯人が捕まったのですか』
『いえ、そうではありませんが、ほかに有力な容疑者が浮かび上がってきましたのでね』
『まさか、ほかの先生方のうちの一人?』
警察は内部の者の犯行とにらんでいたはずだ。
刑事はにやりとした。
『そうではありません。しかし野中先生、あなたはご存じかも知れませんなあ。ほれ、幼稚園の真向かいのアパート、あすこに住んでいる若い母親ですよ。あなたはその女性の子供とは顔見知りでしょう』
繭子の頭が、がんがんした。
『龍一君のお母さんが犯人だっていうんですか?』
刑事は繭子を出口まで案内した。
『ま、今のところ重要参考人といった段階ですがね。先生には、これまで色々不愉快な思いもさせてしまったかも知れませんね。しかしあなたも悪いんですよ。火事が起こった日の朝のことを、ちゃんと話してくれなかったのですからね。そうであれば、あなたへの疑いももっと早くになくなったでしょうに。幸いその場にいた方が、あなたとあの母親の子供との会話を聞いていて我々に話してくれたので、こちらも情報をつかむことができたんですよ。あなたは彼に感謝すべきですな。むろん調べてみれば、ほかのお母さん方からも同様の証言がとれましたので、その人の言うことが虚言でないというウラをとった上で信用するのですがね』
繭子は警察署から、ふらふらとした足どりで自分のアパートに帰った。ドアを開けると堤が待っていた。
堤が喜色を浮かべて立ち上がり、繭子を抱きしめようとやって来た。繭子はそれをぐいと押しやった。
『あなたね、警察に龍一君が言ったことをしゃべったのは』
堤は上げかけた自分の手を下ろした。
『龍一? ああ、あのアパートの子供の名前だね。そうだよ。俺はてっきり、とっくに警察は知っていると思っていたんだが。君があのことを話していなかったなんて驚きだよ。どうだい? おかげですぐに君への疑いが晴れただろう』
繭子はむかむかして堤をにらんだ。
『その代わり、龍一君のお母さんが罪をかぶせられるかも知れないのよ』
堤はダイニングテーブルによりかかった。
『罪をかぶせられるかも、じゃなくて、本当に犯人かも知れないんだぜ』
『そんな馬鹿なことあるわけないわ』
『なんで、そんなことを言いきれるんだ?』
『だって、火事が起こることを教えてくれたのは、ほかならぬ龍一君なのよ』
堤が呆れたように首を振る。
『だから、それが怪しいという理由なんじゃないか』
繭子ははっとして堤を見た。堤は繭子を優しく眺めている。
『繭子。君はだいぶ疲れているね。そもそもあの子は、どうして火事が起きるなんて、あの朝君に言ったんだ?』
『それは、そういう夢をみたんだって言っていたわ』
繭子は力なく言った。堤は肩をすくめた。
『しかし、そのあと本当に火事が起こった。しかもあの子が言ったとおりの時間帯だ。偶然にしてはできすぎているよ。たぶんあの子は知っていたんだ。夢なんかでじゃなく、もっと具体的なことでね。それをはっきり話すことができなかったから、夢でみたなんて言ったんだよ。しかしそのおかげで、君の火事に対する警戒心が高まり、結果的に夜中にも関わらず火事を早期に発見することができた。君だって、あの子の言葉に真実味を感じたから、あんなに火事のことを心配したんだろ?』
繭子はうなずいた。そうだ、龍一の言葉には聞き逃すことのできない真実が含まれていた。だから繭子は忘れられなかったのだ。自分でも思っている以上に龍一の言うことを信じていたのだ。
繭子は夜中に目を覚ましたときのことを思い出した。誰かが繭子を起こしてくれた。繭子はそれを今まで龍一だと思っていた。何故そんなふうに思っていたのだろう。冷静に考えてみれば、そんなことがあるはずもないのに。
だが繭子は、なおも逆らうように言葉を押し出した。
『でも、警察は内部の人間のしわざだって言っていたのに、方針が変わったのかしら……』
堤は温かい紅茶を二つのカップに淹れると、一つを繭子に渡した。
『そのようだね。というのは、発火源の詳しい調査の結果が出たためらしいよ。今まで警察が教員たちを疑っていたのは、火もとが遊戯室の中だったからなんだ。外から遊戯室に入るには、玄関か校庭に面した窓から入るしかないけど、そのどちらもしっかりとしまっていた。玄関はセキュリティシステムが作動していたし、窓は数人の教員たちが代わる代わる何度も鍵がかかっていることを確認していたからね。ま、一種の密室だよ。それに、火の気だって全然なかったわけだし。それで園の建物内にいた俺たちが怪しいっていうことになっていた。ところが、火事の原因は時限発火装置によるものだと分かったんだ』
『時限発火装置?』
『うん。警察も詳しいことは教えてくれなかったけど、どうやら、パソコンと発火装置を組み合わせたものらしい。あらかじめ設定しておいた時刻になると、電流の変化が起こって発火する仕組みなんだそうだ』
『パソコンなんて遊戯室にはなかったわよ』
『だからさ、隠してあったんだよ。それがいったいどこだと思う? ツリーのわきに置かれた袋の中だったそうだ』
『袋? 袋って、もしかして、あのプレゼントの袋?』
繭子はぎょっとした。クリスマスパーティでは、サンタクロースが子供たち全員にプレゼントを配った。それはお菓子のつめ合わせだったが、そのほかに別のプレゼントもあって、それは翌日の朝にあげることになっていた。サンタは言った。
『さあ、みんな。君たちがとってもいい子だから、サンタのおじさんは別のプレゼントも用意してきたよ。でもそれは、明日までのお楽しみだ』
『どうして、今くれないの?』
誰かが訊いた。サンタはにっこり笑った。
『何故かっていうとね、今、この中にはまだプレゼントが入っていないんだ』
『うそだあ』
『なにか入っているじゃない』
サンタは子供たちを見回し、
『しいっ』
とくちびるに指をあてた。
『ほんとは秘密なんだけど、君たちには特別に教えてあげよう。今ここに入っているのは、何人もの小さな人間、小人さんたちなんだ』
子供たちは目を丸くして、サンタの袋を見つめる。
『サンタクロースは世界中の子供たちに配るプレゼントを、どうやって用意しているかって考えたことがあるかい? 実をいうと、たくさんの小人さんたちに作ってもらっているんだ。小人さんはとっても器用で、なんでも作ることができるんだよ。お菓子だって、おもちゃだって、子供たちの好きなものなら、なんでもさ。小人さんは一年かけて、世界中の子供たちにあげるプレゼントを一所懸命作っているんだよ。それはとっても大変だけど、小人さんたちはいつもせっせと働いている。何故って、小人さんもサンタのおじさんと同じくらい子供たちが大好きだから、クリスマスの日にみんなが喜ぶ顔を見たくって、がんばっているんだ。
さっきサンタのおじさんが小人さんたちと話をしたら、小人さんたちは、ここの子供たちはとってもいい子なので、お菓子だけじゃなく別のプレゼントも作ってあげたいって言い出したんよ。おじさんは言った。でも、わたしは、これからほかの子供たちのところに行かなければいけないよ≠サうしたら小人たちは、わたしたちをひと晩袋の中においていてくれれば、明日までにプレゼントを作っておきます。それからわたしたちは暗いうちにそっと袋を出て、風に乗って、朝までにサンタの国に帰れますから
だからね、今この袋の中では、小人たちが君たちのプレゼントを作っている真っ最中なんだ。小人たちはとっても恥ずかしがり屋だから、姿を見られるとあっと言う間に風に乗って消えてしまうからね。だから明日になるまでは、絶対に袋を開けちゃいけないんだよ。それにパーティが終わったら、小人さんの仕事がはかどるようにできるだけ周りを静かにしてあげよう。小人はみんなが寝静まったあとに本格的に仕事にせいを出すんだから……』
『あのサンタクロースは、なかなかよかったわね。お話もとっても上手で』
『そりゃ、そうさ。あれは単なるバイトじゃない。つい今年の春まで晴海幼稚園に勤めていた教員なんだから』
繭子はびっくりした。
『そうなの?』
『そうか、君は彼を知らないんだっけね。君と入れ替わりで辞めていったからな。奥住って言って俺と同期で入った奴なんだよ』
『どうして辞めちゃったの?』
堤はくるくるとカップを揺らして中の紅茶の渦を眺めた。
『まあ、基本的には子供好きのいい奴なんだが、割に色んなことをくよくよするタイプでね。俺たちも、たまに父兄からなんだかんだと言われることがあるだろ? 奥住もそれで軽いうつ病のようになって、今年の初めに辞めてしまったんだ』
『まあ……』
繭子は、あのときのサンタクロースの様子を思い浮かべた。といっても始めからひげや帽子をつけていたので素顔は分からなかったが。
『そんな、うつ病の人には見えなかったわ』
『治療のおかげでだいぶよくなったらしいよ。先月、園長先生に奥住から連絡があったらしい。社会復帰の第一歩として、クリスマスパーティでサンタクロースの役をやらせてくれないかって。サンタなら変装して自分と分からないし、子供たちにも会えるからってさ。園長先生も奥住のことは心配していたから喜んでいたよ。実際、見る限り大丈夫そうだったね。帰りがけにちょっと話をしたよ。もう一度晴海幼稚園に戻ってくる気かって訊いたら、奥住は、できればそうしたいって言っていた。……それが今回こんなことになって、奴もがっかりしているだろうな』
『そうだったの』
繭子はちょっと考えたが、話のそもそもの出発点を思い出した。
『ちょっと待って。時限発火装置付きのパソコンがそのプレゼントの袋の中に入っていたって言ったわよね』
『ああ』
『あの袋の中に、そんな重いものなんて入っていなかったわよ』
袋の中身は教員たち全員で作った小さな人形だった。繭子はサンタクロースが帰っていったあと片づけの際に袋をちょっと持ち上げたことがあったが、人形以外のものが入っているようには感じられなかった。
『パソコンといってもモバイルパソコンだよ。PDAと言ったほうがいいような簡単なものらしい。それなら重さだって百グラム程度だろう。持ったくらいでは分からないよ』
『ねえ、それならやっぱり、私たちだって誰だって、その場にいた人間ならいつでもあの袋の中に装置を入れることができたってことじゃない。袋にはなにも鍵がかかっていたわけじゃないんだから。ところが幼稚園の玄関には鍵がかかっていて、入口には用務員のおじさんがずっといたのよ。それでどうして龍一君のお母さんが犯人だといえるの。居もしない人が、遊戯室に装置を仕掛けられるわけがないじゃない』
堤は真面目な表情になり、繭子を見つめた。
『ところが、あの子の母親は、あの夜、幼稚園の中にいたんだよ』
繭子の顔が凍りついた。堤が説明する。
『君は片づけのあと、子供たちを寝かしつけるために体育室にいたから知らないだろうけど、あの日の夜八時ころにあの子の母親がぶらりと幼稚園にやって来てね。園内を見学したいって言ってきたんだ。それは、用務員さんもその場にいたほかの教員たちも知っていることだよ。そもそも、そんな時間に幼稚園に来ること自体普通じゃないよな。あの人は、通りすがりにちらりと見たら幼稚園に明かりがついていたからって言っていたけどね。俺は、今日は特別で、教員たちも色々忙しいから後日にしてほしいって言ったんだけど、勝手に見て回るからって、どんどん中に入っていくんだ。俺ももう面倒だから放っておいた。あの人は十分くらいですぐに戻って来て、ここは何日くらいまでなら預かってくれるのかって訊くから、俺は呆れて、幼稚園は原則昼間だけですって答えたよ。そうしたら『なあんだ。ずっとおかせてくれるんじゃないの』と言ってすたすた帰ってしまった。
今考えると、いくらなんでも一部始終が非常識な行動すぎるよ。そのときは、今どきの若い母親なんてこんなもんなのかなっていうくらいにしか思わなかったけど。確かに、幼稚園の見学というのは実は発火装置を仕掛けるためのカモフラージュだったと考えれば、納得がいくよな。あの人は大きめのかばんを肩から下げていたし、俺やほかの教員も忙しくてあまり目を配っていなかったから、装置を仕掛けようと思えばいくらでもできただろう』
『あなたはそのことも警察に言ったの?』
『もちろん。あの日に起こったことは全部話をしたよ。あの朝≠フことからね』
繭子はうつむき小さな声で、
『そんな……、彼女が放火の犯人だなんて、とても信じられないわ』
と、つぶやいた。
『どうしてそう思うんだい』
繭子は思いついて顔を上げた。
『だいたいあの人がパソコンで時限発火装置を作ることができるなんて、とうてい思えないわよ』
堤は笑った。
『その意見には俺も賛成だな。たぶん主犯がほかにいるんだよ。おそらく男だな。彼女は男に言われるままに装置を置いてきただけなんじゃないかな。もしかすると、それで火事が起こるなんていうことも知らなかったかも知れない。まあ、あとは警察が詳しく調べるだろう』
繭子は、龍一の母親が自分と同じく毎日のように警察に呼び出され、取り調べを受けている様子を想像した。そしてもし本当に逮捕されてしまったら……。
『龍一君が可哀そうね』
堤はため息をついた。
『確かにそうだけど、仕方ないよ。繭子。君はずいぶんあの子のことを心配しているようだけどね。もしかすると、今ここに俺も君もいなかったかも知れないんだよ。あの火事で全員が無事だったのは、ほとんど奇跡に近い。君が夜中に目が覚めて火事に気づかなかったら、子供たちを含めた五十人の命が失われていたかも知れないんだ。犯人は捕まらなかったらまた同じことをするかも知れない。建て直された晴海幼稚園がまた狙われるかも知れないんだよ』
堤は少し語気を強めた。晴海幼稚園は警察や消防の現場検証がひととおり済んだら、正月明けから建て直されることになっていた。園長の武村は、できれば春から幼稚園の営業を再開したいと考えていた。しかし、また園児たちが集まるかは不透明だった。今いる園児の親からはすでに退園希望の申しこみがいくつかきている。そうでなくとも休園中の保育料は入ってこない。教員たちには幼稚園再開までは通常の給料の半額が支払われることになっていたが、これを機に転職を考える者も少なくないようだった。火事が起こったということで入園を希望する親は格段に少なくなるだろうと、堤も言った。
『でも、火事が起こったのは園のせいじゃないのよ』
繭子は憤慨した。
『園のせいか、そうでないかなんて、親には関係ないんだよ。火事が起こってしまったという事実だけが大事なんだ。起こってしまったら言いわけなんてできないんだ。責められるべき点はあとからいくらでも指摘できる。外部の者を夜に入れてしまったこととか、確認不足とか。警察にとっては幼稚園も被害者だけど、親にとってはそうじゃない。安心して預けることができない場所というレッテルを貼られてしまうんだ。このレッテルは、そう簡単にはがすことはできないだろう。……俺たちも来年からどうするか考えたほうがいい』
『晴海幼稚園を見捨てるっていうの?』
『よく考えろよ、俺たちの将来のことを。俺たちの子供のことを。不安定な職場と収入じゃ、やっていけないんだぜ。まさに今が考え時なんだ』
繭子は黙った。堤の言うことはいちいち正しかった。所詮、繭子の力などたいしたものではないのだ。自分と自分の愛する者を守ることで、精いっぱいなのだ。龍一の母のことを聞いた時、自分はショックを受けたが、それでも心のどこかでほっとしたではないか。自分が逮捕されるという恐怖から逃れられて嬉しさを感じたではないか。人は自分のことが保証されたあとでしか他人のことを考えることができないのだ。
繭子は目をつむった。そうして堤に体を預けた。堤の体は暖かった。堤は繭子の耳もとでささやいた。
『心配するな。俺が君を守ってやる。君は何も考えなくてもいいんだ……』
◎◎
龍一は、アパートのベランダに立って黒こげた目の前の風景を眺めていた。
『龍一』
部屋の中から母の呼ぶ声がする。いつもはすぐに母のもとに行くのだが、今日だけは体がなかなかいうことをきかない。ベランダの片隅に置かれた植木鉢に目をやる。くもすけのれんげの種を植えた植木鉢だ。
『さよなら』
龍一はそっと言って、部屋の中へ入った。
部屋の中はがらんとしていた。ここ数日の間に龍一の母親が片づけたのだ。母が部屋の中を片づけることなど今までになかったことだ。しかし母はその理由を龍一に説明しようとはしなかった。いや、この半月というもの、母が龍一に声をかけることすらほとんどなかった。
三週間前、突然アパートに警官がやって来て龍一の母親を連れていった。その日の夜遅くに母は帰って来たが、その顔は疲労と怒りでゆがんでいた。そうして龍一を見るなり、
『あんた……』
と言って絶句した。龍一はとても母の顔を正視できず、部屋の隅に縮こまってうつむいていた。
それから五日間、母は毎日警察に呼ばれていった。母は夜遅く帰って来て、弁当を一つちゃぶ台に放り投げるように置くと、
『食べな』
と言って、すぐに布団の中に入って眠った。
龍一は温められてもいないその弁当を食べた。ただ死なないためだ。
母が警察に行くようになってから一週間後、晴海幼稚園に放火した犯人が逮捕された。それは、火事の当日、幼稚園のクリスマスパーティでサンタクロース役となった奥住という男だった。
奥住は、晴海幼稚園に勤めていたもと教員だったが、園児の親たちとうまくいかず小さなトラブルが絶えなかった。そして次第にうつ病を患うようになり、就職後一年足らずで退職していた。退職後、精神科に通ってうつ病の治療をしていたが回復ははかばかしくなかった。奥住の中には徐々にいらだちと不満がたまっていった。自分を病に追いやった園児の親たちを恨み、さらには退職して治療をすることを勧めた園長をも恨むようになっていった。放火に利用した小型の時限発火装置はインターネットで購入したものだった。警察は、奥住が電子機器に詳しいことや、実はうつ病が完治していなかったことを知り、奥住を呼び出して少し強く尋問してみたところ、奥住はあっさりと犯行を自供したのだった。そのため龍一の母親への疑いもようやく晴れた。
龍一はそんな一連の経緯については知るすべもなかったが、母が警察に呼ばれずに済むようになったことだけは分かった。しかしそのあとも母はひどく口数が少なかった。
それから母は、突然アパートの中を片づけ始めた。ほとんどの物が捨てられた。布団や服さえも捨てられた。龍一が繭子からもらった『かさこじぞう』の絵本も捨てられた。母は一応龍一に、
『これ、いる?』
と訊いた。龍一は、首を横に振った。それで母はゴミ袋に本を放りこんだ。
やがて部屋の中には小さな家具以外ほとんど何もなくなった。母は自分の荷物は全部一つの大きな旅行かばんにつめこんだ。龍一は部屋の隅に座ってそんな様子を黙って見ていた。龍一の持ち物は、もう今着ている服しかなかった。龍一は部屋の中でもジャンパーを着ていた。家の中は、外と同じくらい、寒かった。
その日、外から帰って来た母は龍一が見たことのないナップザックを持っていた。そうして龍一に言った。
『あと一時間したら出かけるよ。あんたも一緒だからね』
『僕も?』
『そ。あんた、電車に乗ったことないでしょ。母さんと一緒に電車に乗ってとおくに行くの』
『遠くに……』
母はナップザックを振りながら、言葉を区切るように言った。
『これは、あんたの荷物。あと一時間で、電車の時間が来るの。それに乗って、遠くに行くの。ここには、二度と戻って来ないの。分かった?』
龍一はうなずいた。とうとうこの日が来たのだ。龍一は出かけるまでの一時間、すべてのものに別れを告げた。
母は出かける間際、龍一にナップザックを背負わせた。ナップザックはとても軽かった。それから母はちょっと考えたあと、自分のかばんの中から赤いスカーフを取り出して龍一の首に巻きつけた。
『あんた、ずいぶん寒そうな顔をしてるよ。これでも巻いといたら』
『ありがとう、母さん』
母はきゅっと龍一の首の周りでスカーフを結ぶと、自分の大きなかばんを持って立ち上がった。
『これでよし。さ、行こうか』
母は鍵も閉めずに部屋を去った。
龍一は黙って母のあとをついて行った。
電車に乗っている間、母はずっと窓の外を見ていた。龍一はその横顔をじっと見つめていた。
がたがたと二時間以上も電車に揺られたあと、母は龍一の手を引きある駅で降りた。駅員もいないような小さな駅だった。出口で母は、置いてある箱に持っていた切符を一枚投げこんで通りぬけた。
駅前のさびれたロータリーをすぎると、すぐに辺りは農地ばかりになった。水をぬかれ稲の刈り跡だけが残る田んぼや、黄色く枯れた大根の葉が地面に垂れ下がっている畑が延々と続いていた。寒風がびゅうびゅうと音をたてて母と龍一の間を通りすぎていった。龍一の首に巻かれたスカーフがぱたぱたとはためいてちくちくと肌を刺した。
やがて道の向こうにコンクリートの壁に囲まれた大きな平屋建ての建物が見えてきた。母はその建物の塀に沿って黙々と歩いた。
角を曲がったところで、母はぴたりと立ちどまった。そうしてしゃがんで龍一に道の向こうを指さした。
『ねえ、龍一。ここからはあんた一人で行けるよね』
龍一は振り返って母の指す方角を見た。塀が途切れて中への入口が開いているのが見える。龍一はもう一度母の顔を見た。
『母さんは、来ないの?』
母はため息をついた。
『悪いけどこれ以上は行けないの。あのさ、あそこの中に入ったら、大人の人を見つけて声をかけなね。お母さんはって訊かれたら、どこにいるか知らないって答えるの。実際、母さんはこれからあんたの知らないとこに行くんだから、そう言うほか、ないわけじゃない? そしたら大人の人があんたに食べ物をくれて、きっとちゃんと面倒をみてくれると思うよ』
龍一はだめと分かっていたが、震える声で母に頼んでみた。
『お願い、母さん。僕を捨てないで』
母はもう一度大きなため息をついた。
『あたしさ、この六年間ずっとがんばってきたんだ。でもやっぱり無理だったみたい。ねえ、こう言っちゃ悪いけど、あんたがもっと普通の子供だったらね。そうしたらあたしもこんなこと、せずに済んだかも知れない。あたし、もうあんたをどうしていいか分かんないの。だから、ここに連れて来たら何とかなると思ったんだけど』
そう言うと母は本当に途方に暮れたように龍一を見た。風があちこちから吹いて母の髪をくしゃくしゃにした。龍一は胸がしめつけられた。それで母から目を離して施設の入口のほうを見た。
『あそこに入れば、僕は食べ物も服ももらえるんだね』
『そうよ』
『学校にも通って、友達もきっとたくさんできるね』
『うん』
『じゃあ、僕、行くよ』
『ほんと? いいの?』
『うん』
母が立ち上がった。その顔には、ほっとしたような表情が浮かんでいた。
『じゃあね、龍一』
龍一は口を開こうとしたが、閉じた。母は一瞬、龍一の顔を見下ろしていたが、
『ばいばい、元気でね』
と手を振ると、くるりと後ろを向いてそのままもと来た道を逆戻りして行った。龍一はその後ろ姿をまばたきもせず見つめた。少しでも長く母の姿を見ているために。しかしその姿はすぐに角を曲がって見えなくなった。
龍一はざらざらした氷のように冷たい塀に頬を押しつけた。何かによりかかっていないと倒れそうだった。
《やっぱり、あの夢は本当だった。僕には母さんをもち続けることができなかった。母さんは僕といても、ちっとも幸せになれなかった。僕は母さんのために何でもしたかった。でも僕のすることは全部母さんを不幸にするだけだった。どうしてなんだろう。僕はどうしてこんなふうなんだろう》
龍一はふと気がついて通りの反対側に目をやった。ぼんやりした視界の向こうに一体の地蔵が立っていた。色あせた赤い前掛けをつけている。
『君は、かさこじぞうになれた子供なの? それとも、なれなかった子供なの?』
地蔵は、黙っている。
龍一は、首に巻かれた赤いスカーフをはずし、頭の上からすっぽりとかぶってあごの下で結んだ。そして塀に背をつけてもたれかかった。ナップザックの中身が、がさがさと音をたてた。
龍一はそうやって地蔵の向かい側に長い間こと立っていた。
冬の午後はゆっくりと暮れていった。空には分厚い灰色の雲が垂れこめ、冷たい風が斬るように吹きすさんでいた。しかし、雪が降ってくる気配はなかった。
◎◎
その日の夜遅く、養護施設『はぎの園』の職員は、人気のない裏口側の塀のそばでぽつんと立っている子供を発見した。頭に安物の赤いスカーフをかぶり、背中にお菓子ばかりがいっぱいにつまった大人用のナップザックを背負ったその奇妙な子供は、肺炎を起こしかけていた。
(五)
◎◎
龍一は、その『はぎの園』という児童養護施設に引きとられ育てられることになった。そこは何らかの事情で親もとにいることができない子供たちが暮らしていた。
龍一はこんなにも自分に適した場所を母が見つけることができたことに驚いていた。自分は最初からここにいるべきだったのだという気がした。
はぎの園には二十名程度の子供たちと二名の職員が共同で生活している。施設には十八歳までいることができるが、今は高校二年生の男の子が施設内で一番年上だった。彼は精密機器の組み立て工場で働きながら夜間の定時制高校に通っていた。
職員のうち一人は五十代後半の太ったにこやかな牧野という女性で、子供たちは彼女を『お母さん先生』と呼び、もう一人の三十代前半の二瓶という女性を『お姉さん先生』と呼んでいた。お姉さん先生は近所に夫と住んでいて、はぎの園には通いだった。龍一を見つけたのはこの二瓶である。
龍一は自分の下の名前は答えたが名字は言わなかった。誕生日も知らなかった。しかし『龍一』という名前は生まれの干支からつけられたことを覚えていたので、年齢は推測することができた。そのほかは父親の名前も母親の名前も住んでいた場所も、何を訊ねてもただ首を横に振るだけだった。そうしておずおずと牧野に訊いた。
『僕は、ここにいることが、できますか?』
牧野は胸がいっぱいになった。はぎの園はすでに定員をオーバーしていたが、牧野は園の経営者や警察や行政や様々なところでのうち合わせを何度も経て龍一を引きとる手続きを完了させたのである。
龍一はとてもおとなしい子供だった。はぎの園の子供たちはみな新しい子を迎えることに慣れていたし、この五歳の男の子のこともずっと前からここにいたようにすんなりと受け入れた。龍一はけして無愛想ではなく、話しかけられればきちんと受け答えもするし笑顔すら見せるのだが、かといって自分から積極的に遊びに加わったりすることはない。
牧野は長年にわたり様々な問題を抱えた多くの子供たちを見てきた。龍一は一見素直で扱いやすい子のようだった。ほかの子供たちのようにおもちゃやお菓子をとり合って喧嘩することもない。本が好きなようだったが見ている本を別な子が欲しがるとすぐに渡してしまう。
しかしそれは実は周囲に対してまったく心を開いていないという証なのだ。
《この子は周りと自分とを厳密に区別し壁をつくってしまっている。欲求を素直に表現することを非常に恐れているのだ》
おそらく龍一の親は龍一の本当に欲しがるものをめったに与えてはくれなかったのだろう。しかし壁をつくっている子供の中に無理やり入ろうとすることは禁物である。子供がしていることには必ず理由がある。それはたいてい彼らにとって非常に真摯なものなのだ。龍一の壁は必要不可欠なものだった。龍一はそれを、生き延びるために自分で編み出し築き上げたのだ。これを壊すことは龍一を壊すことになってしまう。
今龍一に必要なものは、壁を維持しながらも個人的で具体的な外とのつながりである。それは包括的なものではなく、むしろ限定された小さなもののほうがいい。
それで牧野は、龍一より二つ年上の李花(りか)という女の子に龍一に字を教えることを頼んだ。施設では職員の手が不足しているので子供たちは自分よりも小さな子の面倒をみることが当然となっている。李花は面倒見のよい優しい子で、施設で一番小さな一歳になる赤ん坊のおむつ替えなども積極的にしている。
『李花ちゃん。この龍一君に字の読み方や書き方を教えてくれないかな? お母さん先生やお姉さん先生は、忙しくてなかなかできないの』
『うん、いいよ。龍一君。こっちに来て』
李花は自分が小学一年生のときに使っていた国語の教科書を本棚から引っぱり出した。施設の子供たちが使った教科書は別の子がまた使えるように全部とってあるのだ。
『あのね、これがあ=Aこれがい≠チて、読むんだよ』
龍一は覚えが早くてあっという間に字の読み書きができるようになった。龍一は今まで読めなかった本を夢中になって読んだ。李花は龍一のために小学校の図書館から色々な本を借りてきてくれた。
『龍一君、すごいね。もう、あたしと同じくらい読めるようになったじゃない』
李花に褒められると、龍一は照れたように少し笑った。
『龍一君って、いつもどこで本を読んでいるの』
龍一は李花に借りてきてもらった本を持ってよく外に出かけていった。
『裏山だよ』
『裏山? 怖くないの?』
『怖くないよ』
はぎの園の一方は山に面していて、子供たちはそれを裏山と呼んでいた。裏山は大きな山地につながっていて奥に行くほどに山はどんどん深く高くなっていく。
『裏山には、狐が住んでいるのよ』
龍一は笑った。李花は真面目な顔をして続けた。
『裏山でお化けを見た人もいるんだって』
『ふうん』
『龍一君は、裏山でなんにも見たことないの?』
龍一はちょっと首をかしげて考えたあと、
『別に』
と答えた。
しかし龍一は裏山で狐もお化けもみているのだ。龍一は毎日のようにそのお化けと会っていた。名前は『クシコ』。
◎◎
龍一はいつも本を抱え裏山に一人で登っていく。たいていは昼食後の午後だ。裏山には山菜採りのため村の人たちが使う小道があったが、龍一が使うのは別の道だった。龍一は自分でその道を発見したのだった。それは小さな子供や動物しか見分けられないようなほんのわずかな踏み跡のような道だった。しかしその道を行けば山の一番なだらかな面を通りながら楽に奥へと向かうことができる。途中で野兎や狸が同じ道を通るのに出会うこともある。彼らは龍一を見るとちょっと頭を下げるようにするので、龍一も、
『こんにちは』
と挨拶をした。
そうしてしばらく行くと道の両側から笹がおおいかぶさっている場所に出る。それをのれんのようにかき上げて中に入ると、そこがクシコの場所だ。
クシコの場所には赤い小さな社がある。誰も知らない場所のはずなのに、社はいつも手入れがいき届いて塵ひとつなく磨かれたばかりのように鮮やかな朱色を保っている。
龍一が社の階段に座って本を広げると、いつの間にか後ろから大きな霊孤が現れる。人間の大人よりもずっと大きく、尾は九つもあった。全身が輝くような銀色の毛でおおわれている。
『今日は何の本を持ってきたんだい』
クシコの声は銀の砂を振るような深い響きをもっている。
『雪の女王≠ニいう本だよ』
『いい題名だ』
龍一はしばらく本を読むことに没頭する。クシコはその間龍一の背後にいて寝そべっている。龍一はその絹のようなクシコの毛皮によりかかりながら本を読む。クシコの体は冬は鳥の羽毛のように暖かく、夏は苔のようにひんやりとしている。
本に飽きると、龍一はぼんやりと空を見上げたり、クシコの扇のように広がる九つの尾を眺めたりする。
ある日クシコが訊いた。
『龍一は、将来何になりたいんだい?』
龍一は頬杖をついて、昨日の雨でできた水たまりの中で泳いでいる小さな緑色の蛙を眺めていた。
『僕? 僕は、かさこじぞうになりたい』
『かさこじぞう? お前は本当にそんなものになりたいのかい?』
『うん。なれるものならね』
『龍一。お前は、お前が望むなら、いつか、かさこじぞうになることができるだろう』
『ほんと?』
『本当さ。ただ、ずっと長い間、そうなりたいと思い続けるならね』
『僕、きっと、そう思い続けるよ』
『しかし、お前は、かさこじぞうなんかよりも、もっとずっといいものにもなれるんだよ。お前にはそれだけの価値がある。かさこじぞうは自分を犠牲にして、道端に立ち続けて、体をすり減らして、そうして終いには誰からも忘れられていくんだよ』
蛙はぞんぶんに泳いで満足げに半身を浸しながら水たまりの縁で休んでいた。
『僕は忘れられることは怖くない。だって僕はけして忘れないもの。僕が忘れなければ、僕は何もなくしたりしない。そうでしょ?』
『ああ、龍一。お前は忘れたくないんだね』
『うん。僕は何でも忘れたくない。だってそれは、全部僕の一部だもの』
クシコはちょっと黙った。龍一はクシコの波うつように揺れる尾を見ていた。やがてクシコが口を開いた。
『お前は私たちの世界にくる気はないかい? そこではお前はもっとお前らしくなれるし、お前を否定したり、お前を傷つけたりするものもいない。お前は自分を理解してくれるものだけを相手にすることができる。そうだ、そこでは、お前はすべてのものの王なのだよ』
『クシコの世界って、どこにあるの?』
『どこにでも』
『どうやって、いくの?』
『お前が望めば、いつでも』
龍一はクシコの世界のことについて考えた。
『クシコの世界ってよさそうだね。でも、そこにいくのは、もうしばらくしてからにするよ。だって僕はこの世界のことだってよく分かっていないんだ。僕はこの世界のことをもっとよく知りたい。そうすれば、かさこじぞうになる方法も分かる気がするんだ。そのあとでクシコの世界へいってもいい?』
『もちろんだ。私たちの世界は、けしてなくなったりしない。いつまででもお前のことを待っている』
◎◎
龍一の生活は小学校に上がってからもほとんど変わらなかった。学校では目だたないおとなしい生徒だった。放課後には一人で裏山に行き、本を読んだりクシコやほかの動物たちと遊んだりする。
龍一が、たった一つ、とても大事にしているものがある。それは母と別れた日、母が首に巻いてくれた赤いスカーフだ。それを龍一は小さなお菓子の缶の中にしまって、誰も見ていないときそっと出しては、撫でたり匂いをかいだりした。スカーフの中に顔をうずめれば、母の顔や声や匂いが、すぐそばにあるように感じられる気がするのだった。
『僕は、あのスカーフで、母さんとつながっているんだ』
龍一はクシコに説明した。
『もし僕が、かさこじぞうになれたら、母さんに、母さんが本当に欲しいものをもっていってあげたいんだ。そのときスカーフはきっと母さんの本当の居場所を教えてくれると思う。だってあのスカーフは母さんが僕のためにくれたものなんだもの。本の中のじぞうは、おじいさんに赤いてぬぐいをかけてもらって、それで、かさこじぞうになれたんだ。だからきっと僕も、母さんの赤いスカーフをもち続けていれば、いつかは、かさこじぞうになれるんだと思う。もち続けて母さんのことを忘れずにいれば、いつか母さんのところに荷物を運んでいけるんだと思う』
『じゃあ、龍一。おまじないをしてみるかい?』
『おまじない?』
『そうだ。けしてお前がお前の母のことを忘れないようにする、おまじないだよ。おまじないをすれば、何十年たってもスカーフは色あせることもなく、宿った匂いもそのままで、お前はそのことを考えるだけで、いつでも母の姿を目の前に本物のようにみることができるんだ』
龍一は目を輝かせた。
『本当? ほんとに、そんなことができるの?』
『本当さ』
『僕、やるよ』
『じゃあ、そのスカーフをここに持っておいで』
龍一が息をきらせてスカーフを持ってくると、クシコは自分の銀色の尾をぱたぱたと振った。
『さあ、そのスカーフをわたしの尾の一つに結びなさい』
龍一はうなずいて、九つのうち一番小さな尾の根もとに赤いスカーフをしっかりと結んだ。
『これで僕は、母さんのことを忘れないの?』
『そうだ。しかしお前はこれから少し眠らなければならない。この尾に頭をつけて目をつむりなさい。時がきたら私が起こしてあげよう。目が覚めたらお前は、母のことをより鮮明に思い浮かべることができるようになっているだろう』
それで龍一はスカーフを結んだクシコの尾を枕にして横になった。とたんに深い眠りが龍一をつつみこんだ。
龍一が眠っている間、スカーフは徐々に銀色の尾と混じり合い、ついには溶けてなくなった。
龍一が次に目を覚ましたとき、辺りは夕焼けで真っ赤に染まっていた。龍一はきょろきょろと周囲を見回したあと、自分をのぞきこんでいるクシコを見上げた。クシコの目は優しく金色に輝いていた。
『目が覚めたかい、龍一』
『僕はどのくらい眠っていたの』
『ほんの二時間ほどだよ』
龍一は気がついて指さした。
『クシコの尻尾、一つが金色になっているよ。いつの間にそうなったの?』
『次第にそうなったのさ』
『ふうん』
龍一は眠る前のことを思い出そうとしたが、ぼんやりして思い出せなかった。
『僕たち、眠る前に何の話をしていたんだっけ』
『本の話だよ』
『ああ、そうだった。クシコに手袋を買いに≠フ話をしようと思っていたんだ。だってこれは狐の話だものね。クシコ、聞きたい?』
『聞きたいね』
それで龍一はクシコに読んだばかりの『手袋を買いに』の話を聞かせた。クシコは目を細めてじっと聞いていた。八本の銀の尾と、一本の金の尾が、ゆっくりと輪を描いて、くるりくるりと、回っている。龍一はそれを見ながら話し続けた。
銀の尾は、ものがたりの初めは、朝日に照らされたまぶしい雪のようにみえた。それから子狐が夜の町に手袋を買いに行く場面では、一本の金の尾は雪の夜道にひとすじに伸びた店の灯りのようだった。小狐が無事に手袋を手に入れ、森の母狐のもとに帰ってきて、その胸の中に飛びこむ。龍一はこの部分を最初に読んだとき、泣きたいほどせつない気持ちになったのだが、今は何故自分がそんな気持ちになったのかを思い出すことができなかった。母狐の胸の毛皮はクシコの尾のように、こんなに温かくて、きらきらしていて、なめらかなのだろうか。龍一はクシコの金の尾を抱きしめてみた。ほんのり陽だまりの匂いがした。
ものがたりは、母狐が『ほんとうに人間とは、いいものなのだろうか』と考えるところで終わる。それで龍一はクシコに訊いてみた。
『クシコ。クシコは人間のことをどう思っているの?』
クシコは九つの尾の毛づくろいを順々と丁寧にしながら言った。
『さあてね。人間といっても色々あるからね。私たちはつき合うことのできる人間しか相手にしない。私たちをみることができる目をもっている人間にとって、私たちは確かに存在する。目をもっていない人間にとっては、私たちはいないも同然だ。人間たちの目はたいていの場合、とても限定された方向にしか向いていない。しかしそれは人間が生きるために必要なことでもあるんだ。多くのものをみすぎることは人間の心と体に大きな負担をかけてしまうのだ。だから人間は、自分で自分の世界をわざと小さいものにするよう進化してきたんだよ。世界を小さくすることで、人間は自分の力を集中させ強めてきたんだ。しかし人間の中でも大きな世界を受け入れることができる器をもつものも、いる。そんな人間は、ほかの人間には分からないものもみたりきいたりすることができるんだ。龍一。お前もそんな特別な人間のうちの一人なんだよ』
龍一は目の前の水たまりをじっと見つめた。緑色の蛙は、もういない。
『僕が、特別……』
『そうだ、特別だ』
特別という言葉は龍一にはあまりいいもののように響かなかった。特別というのはすなわち孤独ということだった。龍一は運命という言葉をまだ知らなかったが、しかし自分がほかの人間と異なる特別なものであるとしたら、これに伴うすべてのことがらもまた受け入れなければならないのだと思った。
《僕はほかの人がもっているものとは違うものをもっている。だからほかの人がもっているものを欲しがったりしちゃいけないんだ》
龍一は自分の中に非常に強い力が存在することを感じていた。そしてそれは昨日よりも今日、今日よりも明日と、日増しに大きくなっていくようだった。クシコは大きな器をもつ人間には大きな世界がみえるのだと言った。龍一には分かっていた。力は、低いところに水がたまるように、器がある場所に流れてくるのだ。たくさんの世界にはたくさんの種類の力があり、それらは常に居場所を求めて動いている。龍一は流れこむ力を拒むことはできない。しかしその力は龍一がもてるだけの大きさであるはずだ。龍一が大きくなれば、それだけ力も大きくなるだろう。
龍一は以前みた夢のことを考えた。大きくなった自分も今の自分と同じように思っていたのだ。彼には充分に分かっていたのだ。力は自分の全身全霊をこめて抑えなければならず、けして自分の欲望を満たすためにつかってはならないこと。そうしなければ力は、龍一の制御を超えて暴れ出し、大切なものを壊してしまうだろう。
《僕が母さんと離れたことは、ほんとに、いいことだったんだ》
龍一は母の顔を思い浮かべようとしたが、うまくできなかった。母と別れたときのこともうっすらとした記憶しかない。不思議に思ったがこれでいいという気もした。母の世界と、自分の世界とは、もう別々のものになったのだから。
※作中引用図書『手袋を買いに』新美南吉著
(六)
◎◎
龍一は、次第に自分の力を意識しコントロールする術を身につけていった。自分をしっかりもっていることが一番大事だった。そうすれば力は龍一を超えて外に流れなくなるし、逆に外から影響を受けることも少なくなる。あえてしようと思わない限り他人の心の声がきこえるようなこともなくなった。しかし体がふれ合ったりすれば強い声が勝手に流れこんでくることもあるので、龍一はなるべく誰の体にもふれないようにした。そういったことに気をつけていれば、ほかの人と交わって普通の生活を送ることも可能だった。
そうやって龍一は生き延びていった。
はぎの園で龍一と一番仲がよかったのは最初に字を教えてくれた李花という女の子だった。李花と龍一はよく連れだって園の近くにある大きな川の土手に行った。たいていは小さい子供たちのお守りを兼ねてである。
川の両岸には何百本もの桜の木が植えられ、春になるとまるでそこは雪が積もったかのように満開の桜の花でいっぱいになる。ほかの季節でも、夏は川遊び、秋は岸に高く伸びたススキや萩の中でかくれんぼをしたりと、川は子供たちの大好きな遊び場なのだった。
桜の時期が終わった初夏のある日、龍一は李花とそのほか二人の小さい子供たちと一緒に土手にいた。李花はシロツメクサを摘んで輪を作っていた。辺りはシロツメクサの甘くそしてほんの少し青くさい蜜の匂いでいっぱいだった。
『龍一君』
李花が龍一に話しかけた。
『うん』
龍一は上の空で答えた。連れてきた一番小さな男の子が土手の下へ走り出そうとしていた。
『こっちにおいで』
龍一は彼を捕まえてしっかりと膝の間に抱えこんだあと、李花を振り向いた。
『なに?』
李花が龍一の頭の上に今作ったばかりのシロツメクサの冠(かんむり)をかぶせる。
『はい、どうぞ』
龍一は照れくさがってすぐに外すと男の子の首にかけてやった。男の子の首にはすでにもう一つの首飾りが下がっている。李花の隣では今年三歳になった女の子が教えられたばかりの方法で夢中でシロツメクサをつなげている。彼女は自分の背よりも長くつなげようとはりきっていた。
『あたし、来年はもう中学生なの』
李花が言った。
『知っているよ』
龍一は答えた。
『朝にゆっくりできるからいいね』
小学校は歩いて三十分はかかるが、中学校は十分ほどで行ける近さにあった。李花は長いこと黙っていた。それで龍一も黙って川のほうを眺めていた。群生しているアシの隙間を暖かい風がざあざあと流れて緑の波のような動きを作っていた。
李花がまた口を開いた。
『あたし、来年はもう、はぎの園にいないかも』
龍一は驚いて李花を振り返った。李花はにこりと笑った。
『川崎町の叔父さんの家に引きとられることになっているの』
川崎町というのは、はぎの園がある町よりももう少し内陸に入った山間部にある地区である。
『李花ちゃんに、そんな叔父さんがいたの?』
李花の両親は二人ともずいぶん昔に亡くなっていて、李花は親戚中をたらい回しにされたあげく、はぎの園にきたのだというところまで龍一は知っていた。
『お父さんの腹違いの弟なの。お父さんが生まれたのは川崎にある大きな農家でとっても古い家柄なんだって。でもお父さんはその家を出てお母さんと別の場所に住んだの。というのは、お父さんのお父さん、つまりあたしのお祖父さんの二番目の奥さんとあんまり仲がよくなかったらしいのね。そのあたしの義理のお祖母さんの子供が、その叔父さんという人なの。川崎の家は叔父さんが継いだんだけど、お祖母さんがいる間はやっぱりあたしをその家に入れることができなかったんだって。でもこの間の冬にお祖母さんが亡くなったので、叔父さんはあたしを引きとることを考え始めたの。ずっと亡くなったお兄さんの娘のことを気にしていたんだって。叔父さんのお母さんとあたしのお父さんは仲が悪かったけど、叔父さんとお父さんは結構仲が良かったらしいわ。お父さんが川崎を出たあともお祖母さんには黙って会ったりもしていたそうよ』
李花はうっとりと空を見上げながら話した。
『この間、初めて叔父さんと会ったの。叔父さんは何もない所だけど、良かったら川崎の家に来ないか≠チて言ってくれたわ。川崎の家には前にお父さんが使っていた部屋があって、そこをきれいにしてあたしの部屋にしてくれるんだって。叔父さんはまだ結婚していないけど、近所にはあたしと同い年の女の子も住んでいるんですって。もしかしたらその子と一緒に学校に通うことになるかもね』
『その叔父さんって、どんな人なの?』
『すごく優しそうな人よ。でも少し体が弱いみたい。畑も田んぼもたくさん持っているんだけど、自分では耕せないから親戚や近所の人に貸しているんだって。あ、そうそう。これは秘密だよって言っていたけど、家の裏にある山には松茸や舞茸がたくさん採れるそうよ。山に入れるのは叔父さんだけで、キノコが生えている場所も人には絶対に教えないんだって。でも秋になったらあたしにだけは教えてくれるって言っていたわ。これは荒木家の秘密だから、荒木の人間にしか教えないんだよって。キノコが採れたら、はぎの園にもたくさん送るね』
『李花ちゃん、荒木っていう名字になるの?』
李花はちょっと神妙な顔になった。
『叔父さんはあたしを養子にしたいと思っているみたい。お父さんは荒木という名字を捨ててお母さんの名字に変えちゃったから、あたしも今は荒木じゃないでしょ。叔父さんは自分が体が弱くて結婚できないかも知れないから、養子をもらって跡継ぎにしたいんだって。でもやっぱりどうせ養子にするなら、荒木の家の血をひいた子のほうが親戚のとおりもいいし、それに叔父さんは、家から自分のお母さんがあたしのお父さんを追い出すようにしたことを今でもとっても気にしているの。ほんとはあたしのお父さんが荒木家の財産をもらう権利があったのにって。だからお父さんの子供のあたしに家を継がせてやりたいんだって』
『ふうん』
『でも、もちろん、あたしは荒木家の財産なんてどうでもいいんだけどね。お父さんが住んでいた家に、お父さんの弟と一緒に住むことができるなんて素敵じゃない?』
『ふうん』
龍一にはよく分からなかった。しかし李花がとても嬉しそうにしているので自分も楽しい気分になった。
『よかったね、李花ちゃん』
『ありがとう、龍一君。でも川崎はそんなに遠くないから、たまに遊びに来てもいい?』
『もちろんだよ。僕も、みんなも、いつでも待っているよ』
李花はちらちらと光る川面を見ながら、ぽつりと言った。
『ほんとは、ちょっと不安なの。叔父さんとも一度しか会っていないし』
龍一はうなずいた。はぎの園はどこにも行く場所のない子供たちがいる場所だ。行くあてができれば出なくてはいけない。
龍一は今までに施設を出て行った子たちの顔を思い浮かべた。李花のように親戚が引きとっていく例もあるし、まったく知らない人の養子になる子もいる。そうでないとしても満十八歳になれば必ず施設を出ていかなくてはならない。だから子供たちは高校を卒業するとたいていはすぐに就職した。自分の生活費を自分で稼ぐ必要があるからだ。
うまい具合に夜間の定時制高校が近くにあるので、はぎの園の子はたいがいそこに通って働きながら学費を稼いだり自立する準備資金を貯めるようにしていた。
成績優秀だったりスポーツなどの特技をもっている子供には、仙台の萩英学園高校に特待生として入学する道もある。というのは、はぎの園の経営者が萩英学園の経営者でもあるからだ。特待生になれば学費が免除になることはもちろん寄宿舎に住むことができ高校生活三年間の生活費や小遣いすら援助してもらえるということだった。しかし、はぎの園の出身者だけが対象ではなく、萩英学園は全国から特待生を募集しているのでかなりの狭き門である。はぎの園でも過去に二人しか萩英学園に入学した者はいない。萩英学園は私立なので、特待生以外ではぎの園の子供たちが入ることは経済的にまったくの無理であるのだ。
『龍一君は、将来何になりたいの?』
クシコと同じことを李花も訊いた。龍一は肩をすくめた。
『さあ。たぶんみんなと同じように夜間に通いながら工場にでも就職すると思うよ』
『龍一君は頭がいいから、萩英に入れるかもよ』
『まさか。僕の成績じゃ無理だよ』
龍一は本はよく読んでいたが学校での成績は中の上といったところだった。
『李花ちゃんは、何かなりたいもの、あるの』
『あたし? あたしは花屋さん』
『へえ』
李花はシロツメクサの花を一本折って目の前でくるくると回した。
『荒木の家には使っていない畑がたくさんあるんだって。あたし、そこを少し借りて花を作りたいの。そうして将来は、仙台とか東京とか、いろんな場所に花を出荷したいな』
『女の子らしい夢だね』
龍一が言うと、李花がくすりと笑って、
『あら、花農家ってすごくもうかるのよ』
と言ったので、龍一は思わず笑ってしまった。
『李花ちゃんも、案外しっかりしているね』
李花も龍一と声を合わせて笑う。
『そりゃ、そうよ。はぎの園の子は、みんなそうよ。だっていつも、あと何年したら自立しなくちゃいけないかって考えているんだもん。あたし、花を育てていっぱいもうけて、それではぎの園みたいな施設をあちこちに作るわ。そして施設でも花を育てるの』
『えっ。子供たちに働かせるの?』
『そおよ。施設でお金を稼ぐことができれば経営も楽になって、十八歳になったからといって、無理に出ていかなくても済むようになるかも知れないじゃない』
『そうか』
『李花ねえちゃん、みて!』
シロツメクサを一生懸命つなげていた女の子が立ち上がって花を見せた。鎖は女の子の背丈よりも長くなっている。李花は感嘆したように言った。
『わあ、ゆきちゃん。とっても長くつなげられたね。すごいわ。あたしだってそんなに長いのを作ったことないよ』
女の子は嬉しそうに顔を赤らめた。
『そろそろ、帰ろうか』
そう言って李花は立ち上がった。龍一も小さな男の子の手をとり立ち上がる。龍一の背丈はすでに李花を超えていた。
四人は沈む夕日を浴びながら土手の道を歩いた。龍一は眠そうな目をしている男の子を背中におぶった。女の子はみんなの先頭に立ってシロツメクサの長い花の鎖の片端を持ち、もう片一方を李花が持って歩いた。
女の子が時折振り返る。
『李花ねえちゃん。早く!』
李花は笑いながら言った。
『ねえ、そんなに引っぱったら、鎖がちぎれちゃうわ』
◎◎
翌年の春、李花は叔父さんの養子になって、はぎの園を去っていった。
◎◎
川崎に行った李花からは何ヶ月経っても手紙も電話もこなかった。李花になついていた四歳になるゆきという女の子は、寂しがって何度も牧野に、
『李花ねえちゃんは、いつ帰ってくるの?』
と訊いた。牧野は、
『李花ねえちゃんのおうちは新しいところにできたの。だから今はそっちで暮らしているのよ』
と説明したが、ゆきは納得しなかった。
『李花ねえちゃんは、ゆきにおてがみをくれるって、いってたよ。なんでくれないの?』
『きっと、学校やおうちのことで忙しいのよ』
そう牧野はゆきをなだめたが、自分でもやはり李花のことが心配だった。それで一度荒木家に電話をしてみた。
『はい、荒木です』
男の声が出た。
『私、はぎの園の園長の牧野と申します。あの、李花ちゃんをお預かりしておりました者ですが』
『ああ、孤児院の人ですか』
荒木の声の口調がわずかに変わった。
『何かご用ですか』
『いえ用というほどのことでもないのですが、李花ちゃんは元気でやっているかな、と思いまして。園の子供たちも心配しているものですから』
『心配? 心配には及びませんよ。李花は元気でやっています』
男の言い方に不機嫌さが交じる。しかし牧野は重ねて言った。
『よろしければ李花ちゃんに代わっていただいてもいいでしょうか?』
『李花はまだ学校から帰ってきていません。クラブ活動をしていますので。……あなたから電話があったことは伝えておきますよ。では』
牧野の耳もとでがちゃんと電話が切れる音がした。牧野はため息をついた。
◎◎
その半月ほどあとの土曜日の午後、突然李花がはぎの園にやって来た。李花は中学の制服姿で、手に持った袋の中いっぱいに舞茸やシメジをつめていた。
『園長先生。これ、お土産です。みんなで食べてください』
『まあ、李花ちゃん。元気だった? 心配していたのよ』
牧野は李花を抱きしめようとしたが、李花が恥ずかしそうに身を引いたので、牧野はその肩をぽんぽんと叩くだけにした。
『李花ちゃん。今日は泊っていくんでしょ。あなたのお布団、まだあるわよ』
李花は下を向いた。
『いえ。暗くなる前に帰らなくちゃいけないんです。そういう約束なんです』
『叔父様、いえ、お義父様と?』
『はい』
李花は顔を上げてにっこりした。
『お義父さんはあたしのことを心配しているだけなんです。だからいつも暗くなる前には、必ず帰る約束なんです』
牧野はちょっとほっとした。
『そう。お義父様とは仲よくやっているのね。安心したわ。でも何か不安なことがあったら連絡ちょうだいね。それに寂しくなったらいつでも園に遊びに来ていいのよ』
『分かっています。ありがとうございます、園長先生』
『あら、ここでは、前みたいにお母さん先生≠チて呼んでちょうだいよ』
李花は恥ずかしそうにちょっと笑った。
『はい、お母さん先生』
園長室を出ると李花はたちまち子供たちにとり囲まれた。
『李花ねえちゃん!』
駆けよってきた女の子を李花は抱きしめた。
『ゆきちゃん。大きくなったね』
『さみしかったよ。なんで、おてがみくれないの?』
『ごめんね』
『あのね、ゆき、少しだけ字が読めるようになったんだよ』
『まあ、すごいじゃない』
『うん。龍一にいちゃんが教えてくれるの』
李花は体を起こした。少し離れたところに龍一の姿があった。龍一が微笑む。李花も微笑み返そうとしたが、何故か目をそらしてしまった。
『李花ねえちゃん。絵本を読んで』
ゆきが李花の手を引っぱった。
『李花。川崎の学校のことを聞かせてよ。クラブは何に入ったの? あたしは陸上部よ』
李花と同学年の女の子が移動しながら話しかけた。李花のはぎの園での時間はあっという間にすぎた。
牧野が時計を見ながら龍一に言った。
『龍一君。李花ちゃんを駅まで送っていってあげて。あの辺は人通りが少ないから』
『はい』
牧野は仲のよかった龍一と話す機会を李花に作ってやろうと思ったのだった。
子供たちに見送られながら李花と龍一は門を出た。塀の角を曲がるまで李花は何度も振り返って手を振った。角を曲がったとたん辺りがしんとなった。
龍一と李花は駅までの長い道のりをしばらく黙ったまま並んで歩いた。
やがて李花が口を開いた。
『久しぶりね』
『そうだね』
李花は龍一を見上げるようにした。
『また背が伸びたんじゃない?』
龍一は李花の口調にほっとしながら答えた。
『そうかな? 李花ちゃんこそ、ちょっと変わったね』
李花の顔色がさっと変わった。
『何故、そう思うの?』
龍一は驚きながら言った。
『いや、きっと李花ちゃんの制服姿を初めて見たせいだよ。大人っぽくなったなと思って』
『そう……』
李花はまた黙りこくった。
龍一は真っ直ぐ前を見て歩いた。そして隣にいる李花のほうに気を向けないようにした。このごろでは特に意識をしなくても他人の考えが入ってくることを防ぐことができるようになっていたが、なんだか今は李花の心の中をみてしまいそうな予感がしたのだ。
二人はそのまま駅に着いた。傾いた秋の午後の日の中に浮かぶ小さな駅は、古ぼけた小船のように見えた。相変わらず駅員はいない。
龍一は券売機で川崎までの切符を買って李花に渡した。
『じゃあ、李花ちゃん。元気でね』
龍一から渡された切符を李花はじいっと見つめていた。そうして押し出すように、言った。
『龍一君』
『うん』
『今、萩は咲いているかな』
『萩?』
『龍一君、前に言っていたじゃない。はぎの園の裏山の奥には萩がたくさん生えている場所があって、秋になるととってもきれいだって。そこは自分しか知らない秘密の場所なんだって』
『ああ……、あそこのことか。うん。咲いているよ。ちょうど今が満開の時期だ』
『いつか、あたしにその場所を教えてくれるって言っていたわよね』
『うん』
『明日、連れていってもらっても、いい?』
『明日?』
李花の目が真っ直ぐに龍一を見上げたので、龍一は、その中に自分の影を見ることができたくらいだった。
『明日また、ここに来るの?』
『でも園のみんなには言わないで』
龍一は李花の目から視線をそらすことができなかった。
『何故?』
李花の目がそっと輝いた。
『だって、秘密なんでしょ』
『秘密……』
龍一はさっきから自分が李花の言葉を繰り返してばかりいるのに気がついた。
『分かった。じゃあ、園から裏山に向かう石橋を渡った先のところで待ち合わせよう。分かるよね?』
『お地蔵様の前を通っていく道でしょ』
『そう。何時ころ来られる?』
『そうね。二時くらい』
『じゃあ、明日』
『うん、明日ね』
ちょうどその時、電車が近づいてくる音がしてきたので李花はそのまま改札を入っていった。
龍一は電車が李花を中に飲みこみゆっくりとレールの向こうに曲がって見えなくなるまでを確認したあと、帰り道をたどり始めた。何を考えるべきか分からなかったので、赤く染まった秋の和やかな空気だけを感じるようにした。
◎◎
翌日の二時ちょうどに龍一が約束の場所に来てみると、李花はもう来ていたが姿は見えなかった。
『李花ちゃん』
龍一が声をかけると木の陰から李花が出てきた。今日は制服姿ではなく、うす手のセーターと綿ズボンの私服だった。髪は後ろで一つに編んでいる。
『お待たせ』
『あたしも今、来たとこよ』
李花の表情が昨日よりもずっと明るかったので龍一は嬉しくなった。
『萩の咲く場所は裏山を越えていった先なんだ。ちょっと急な所もあるから気をつけて』
龍一は李花の立っていた木の奥へと入っていく。見た目には藪が生い茂っているばかりに見えるが、地面にはうっすらと道のような踏み分け跡がある。一歩体をさし入れるとはっきりとした小道が続いていた。
李花は目を丸くした。
『こんな所にこんな道があったなんて、知らなかったわ』
『近所の人だって誰も知らないよ。これは僕だけの道なんだ』
『すごい』
龍一は李花を助けながら奥へ奥へと導いていった。最初道は徐々に険しくなり周囲の森も深々と垂れこめてくるばかりだったが、ある所をすぎると急に頭上がさっと軽くなった気がして李花が顔を上げると、木の枝の隙間から青空がのぞいていた。そして道も広くなだらかになってきた。
『わあ……』
李花は思わず歓声を上げた。
どこかの山の頂き付近に着いたのだろうか。目の前が突然に開けて、うすい青の秋空を背景に野原が広がっていた。
そこでは様々な秋の花が風に揺られて咲いていた。秋の花は春の花よりも控え目だ。しかしその種類と色は春にも負けない多様さである。乳白色に柔らかく揺れるススキの穂、花粉の花束のような黄色い女郎花(おみなえし)、赤い火花が散ったような彼岸花、そうしてそれらの隙間を埋めるように咲き誇っているのが、優しいうす紫色をした小さな無数の萩の花だった。
李花は花々の間を歩き回った。龍一はそのあとを黙ってついて歩いた。野原はほかのどの山ともつながっておらず、空の中に浮かんでいるかのようにある小さな丸い場所だった。ひととおりめぐり歩いたあと龍一と李花は枯れた倒木の上に並んで座った。
ほうっとため息をついたあと李花が言った。
『本当に秘密の場所ね』
『気に入った?』
『うん、とっても。ありがとう。こんなきれいな場所に連れて来てくれて』
振り返った李花の顔がひどく間近に迫ったので、龍一はどぎまぎした。それからまたしばらく二人は黙ったまま座っていた。しかしそれは嫌な沈黙ではなかった。
龍一は李花の新しい真っ白なスニーカーを眺めながら、何気なく訊いた。
『川崎の家は、どう?』
一呼吸おいてから李花が答えた。
『どうって?』
龍一はまた李花との会話の進め方が分からなくなった。
『……あの、お父さんの部屋は、どう?』
『お父さんの部屋?』
『うん。亡くなったお父さんが使っていた部屋をもらうって言っていたよね』
李花は大きく息をついた。
『ああ、そのこと。……うん。今、あたしの部屋になっているわ』
それからつけ加えた。
『屋根裏部屋よ』
『あ、そうなの』
李花は龍一に微笑んだ。
『星が見える素敵な部屋よ』
龍一も微笑み返した。が、李花が無意識のようにそばにしだれかかるように生えている萩の枝を、ぽきん、ぽきんと音をたてて折り続けているのが気になった。
ふいに李花が言った。
『龍一君。キスってしたことある?』
『え?』
李花の顔がぐっと近づいた。
『あたしはしたことがあるわ』
『そう。……僕はないよ』
『じゃあ、あたしとしてみない?』
李花の口調には有無を言わせぬ強いものがあった。龍一は動揺した。李花の目がむしろ怒りで燃えているように見えたからだ。それで、目をつむった。李花の手が龍一の腕をつかみ、李花の唇が龍一の唇に押しつけられた。李花の唇はひどく熱かった。
とたんに龍一の頭の奥に食いこむように次々と映像がなだれこんできた。
◎◎◎◎ぼんやりと白い霧の向こうに李花の姿がみえる。つるりとした裸の肩がのぞいている。上からぽつりぽつりと規則正しい間隔でしずくが落ちてくる。天井につけられた電球が暗くて黄色い明かりを投げかけ周囲に光と影を作っている。がらがらという扉を開ける音がしてもやの中から一人の男が現れた。何も、身に着けていない。
李花は驚いて湯の中にあごまで浸かった。
『叔父さん……』
『叔父さんじゃない、お義父さんだろ?』
男は構わず湯船の中に体を入れた。ざざーっと音をたてて湯が外に流れ出ていった。李花は端のほうに身をよせるが、湯船は狭くていくらも離れられない。男は湯船のふちに腕を伸ばして李花の体を抱えこむようにした。李花はその中で小さくなった。男の息が李花の首すじに湯気よりも熱くかかった。
男は李花の濡れた髪をかき上げながら話しかける。
『どうだ? 川崎にはもう慣れたか?』
『はい……』
李花は喘ぐように答えた。
男は李花の顔をつかんで自分のほうを向かせた。
『本当にお母さんにそっくりだね』
李花は震えながら男の顔を見つめた。
『お母さん?』
『そうだ。生き写しだ。君は彼女そのものだよ』
『おじ……、お義父さんはお母さんを知っているの?』
『もちろんだ。私たちは恋人同士だったんだよ』
『恋人? まさか』
『本当だ。それを君のお父さんが無理やり奪っていったんだ。そう、とても汚いやり方でね。私たちは引き裂かれた恋人同士なんだよ』
男の体がぴったりとくっついてきたので、李花は思わず小さい叫び声を上げた。
『やめてください!』
男の手が李花の口をふさいだ。そうして耳もとでささやくように言葉を吹きつけた。
『しいっ。静かにするんだ。田舎は声がよく通るからね。大丈夫だ。誰にも分かりゃしない。君が言わなければいいんだ。君の家は生まれた時からここなんだ。君の住む場所はもうここしかないんだ。君の家族は私だけだ。私たちは叔父と姪であり、親子であり、恋人同士なんだよ。離れられない運命なんだ。私が君を守ってあげよう。だがもし私を裏ぎったら、私はお前を絶対に許さないよ。地の果てまで追いつめて必ず殺してやるからね。お前はけして私から逃げられない。私の言うことをききなさい。そうすればお前は誰よりも幸せになれる。分かったね。分かったら声を出さないと約束しなさい』
李花は小さくうなずいた。男の手が李花の口から離れた。李花がうすい空気を吸おうと唇を開いた瞬間、男の厚い舌がぐいと割りこんできて李花の口を大きく開かせ、そのまま奥のほうまで長く伸び、何かを探るようにいつまでも中でうごめき続けた。◎◎◎◎
龍一は李花の体を強く押しやった。李花が驚いたように龍一を見た。
『どうしたの、龍一君』
龍一は涙ぐみながら李花を見つめた。
『どうして? どうして、そんなことに耐えられるんだ!』
『なに? 何のことを言っているの』
李花が戸惑ったように聞き返す。龍一は怒りで全身を震わせている。
『李花ちゃん。今すぐ園長先生のところに行こう。そうして荒木のことをちゃんと言うんだ。どんなにひどいことをされているかって。毎日、毎日、李花ちゃんがどんな思いをしているかって。園長先生はきっと李花ちゃんのことを助けてくれるよ。あんな男、警察に捕まって死刑になればいいんだ!』
李花は真っ青になって立ち上がった。
『龍一君。何故……』
龍一も立ち上がった。
『何故かなんてどうでもいい。大事なことは、李花ちゃんが少しでも早くあいつから離れることだよ。いや、もう二度とあいつのところに帰っちゃだめだ』
『あたしの、あたしのお義父さんは……』
『李花ちゃん。あいつは李花ちゃんのおとうさんなんかじゃないよ。分かっているだろ? あいつは汚らわしいケダモノだよ。あいつが君のことをどんなふうに扱っているか……』
『やめて!』
『李花ちゃん……』
李花は、龍一がさし伸ばした手を恐怖の表情で見つめた。
『嘘。嘘よ。龍一君は何も知らないのよ』
『嘘なんかじゃない。ね、李花ちゃん。はぎの園に戻ろう。僕たちが君を守ってあげる。園長先生にみんなうち明けるんだ。李花ちゃんが言えないなら僕が言ってあげる』
『いや!』
李花は龍一の手を振り払って、くるりと後ろを向き駆け出した。
『李花ちゃん! そっちに行っちゃ、だめだ!』
十歩ほど駈けていったところで李花の足は宙を踏み、体ががくんと折れるように沈んだ。龍一は李花が崖の下に落ちる寸前でその腕をようやくつかんだ。李花は目をみひらいて龍一を見上げた。李花の体はいまや龍一の右腕一本だけでぶら下がっていた。
龍一は自分の体がめりめりときしむのを感じた。李花から目を放さないようにしながら片方の手でつかまるものを探る。数本の細い枝がさわり必死にそれを指にからませた。
『李花ちゃん。僕の手を放さないで。今、引き上げてあげる……』
龍一は李花の体を持ち上げようとしたが、それは少しも近づかなかった。ぷちん、ぷちんと音をたてて、左手の中の枝が一本ずつ切れていった。
龍一は思わず声を上げた。
『クシコ! お願いだ、助けてくれ!』
李花の手の力が、ふっとぬけた。
『李花!』
ずるりと龍一の手の中から李花のぬくもりがぬけ落ちていった。李花の目は遠くに離れていきながらも龍一の目を見つめ続けていた。その唇は何か言葉を発しかけているように開けられていた。
――ぐしゃり。
という音が聞こえたのは本当だったのだろうか。それは足もとから湧き上ってくるように龍一の中を駆けぬけていった。
崖の下の大きな岩の上に李花は仰向けに倒れていた。その体はひどく不自然に折れ曲がり、ちょうど卍のような形になっていた。目だけが龍一の姿をまだ映し続けるかのようにこちらを真っ直ぐに向いていた。
龍一はふらふらと一、二歩あとずさりした。
ふと気がついて左の手のひらを開くと、つぶれた萩の花が一つ、入っていた。花はそのまま龍一の手の中からこぼれ落ちていった。
突然、世界全体が轟音を響かせながら大きく揺れた。龍一が空を仰ぐと、バリバリという音とともに天が真っ二つに割れ、その向こうから光り輝く巨大な雷が真っ直ぐに下に落ちてきた。そうして衝撃とともに龍一を体ごと飲みこみ、龍一は何も見えなくなった。
第二章『月読』につづく
2011/04/23(Sat)07:27:16 公開 /
玉里千尋
http://konkonkooon.cocolog-nifty.com/blog/
■この作品の著作権は
玉里千尋さん
にあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
第一巻『明鏡の巻』、第二巻『玉水の巻』に続く第三巻目となります。一応これで三部作という区切りになります。
これまでの枚数、積りに積もって2500枚。バカじゃないの? ――というわけで内容を細かく振り返り、ついでに伏線なども記したいと思います。なので思いきりネタばれ、ご注意くださいませ。
【第一巻〜明鏡の巻〜】
@『穴』高校入学を控えた春休み、宮城県遠田郡涌谷町に住む上木美子(かみき・みこ)が母の墓参りに行っている間に、突如巨大な穴が自宅と父・祥蔵(しょうぞう)を飲み込んだ。悲嘆に暮れる美子の前に金色のケサランパサランと土居龍一(つちい・りゅういち)と名乗る男が現れる。
A『躑躅岡天満宮』土居家は古代東北を治めていたヒタカミ国の末裔であり現在も霊能力を駆使して東北の地を護る守護主(しゅごぬし)であるという。そして上木家は土居家に代々仕える守護者(しゅごしゃ)の家柄だった。家を失った美子は、ふーちゃんと名づけたケサランパサランとともに、龍一が宮司を務める仙台市の躑躅岡(つつじがおか)天満宮へ身を寄せる。
B『飛月』伊達政宗が作らせた霊刀・飛月(ひつき)は伊達騒動ののち土居家の管理下にあったが、祥蔵が穴へ飲み込まれた前後に紛失。龍一はこの二つの出来事に関連があるとよむ。ある晩、美子は三沢初子の霊から飛月を託され、伊達騒動の首謀者伊達宗勝の霊が飛月を狙っていると教えられる。
C『瑞鳳殿』萩英学園へ入学した美子は、結城アカネ、田中麻里という友人を得た。美子は伊達家墓所である瑞鳳殿(ずいほうでん)で、龍一と飛月の力を借り、父の仇伊達宗勝の霊を退魔することに成功。その後龍一はひそかに宗勝を操っていた皇祖神ニニギを呼び出す。ニニギの狙いはヒタカミから土居家に伝わる八咫鏡(やたのかがみ)、鏡を渡さねば数万の黄泉鬼(よみおに)で東北の地を蹂躙すると龍一を脅迫する。
D『客人』ゴールデンウィーク、京都から菊水可南子(きくすい・かなこ)が来仙。可南子は眞玉(またま)神社の宮司の一人娘で土居家の親戚、芸妓をしているという。
E『道祖神』龍一は可南子と美子に、東北各地の結界用の道祖神が破壊されている、それは芦原という霊能力者による仕業だと告げる。龍一は芦原との対決の後方支援を可南子に頼む。美子は可南子から父の祥蔵にプロポーズをしたことがあると告白され仰天する。
F『明鏡』芦原との対決の夜、ふたたび来仙した可南子と美子に天満宮を託し、龍一は飛月を手に一人約束の地である福島県白河市へ。白河では東北の守護五家の一つ、中ノ目隆士が龍一を出迎える。可南子は自分の父・秋男との電話から、龍一の相手が神のひとりニニギであることを悟る。さらに美子の母・咲子(さきこ)は女神サクヤヒメの生まれ変わりであった。美子は天満宮の庭師・築山(つきやま)とともに龍一を助けるべく白河へ向かうが、すでに龍一はニニギと対峙していた。そして龍一の真の目的が明らかとなる……。
G『エピローグ』すべてが終わり美子と龍一は祥蔵の墓の前に立つ。それぞれの想いを胸に。
【第二巻〜玉水の巻〜】
@『夢、一』新天地を求め大陸より海を越えてきたニニギ一行。途中ニニギはスクナヒコと名乗る神と出会い、オホヤシマ(古代日本)へと導かれる。征服したクマソ国の美しき巫女・サクヤヒメに心奪われるニニギだったが、その手に落ちる前にサクヤヒメは闇の深淵へと姿を消す。
A『課題』高校二年に進級した美子は、京都の修学旅行での自由課題に頭を悩ませていたが、可南子から「京の伏流水」というテーマをもらう。守護家の一つ、津軽の初島家から圭吾という青年が躑躅岡天満宮を訪れ、可南子から京都の水の調査を依頼されていると話した。
B『夢、二』オホヤシマの三大国家のうちクマソ、イヅモまでがニニギ軍により陥落した。各国に伝わる国宝のうち、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を手に入れたニニギだったが、その心は満たされない。ニニギの子を宿したウズメはクマソに残り、側近たちの間にも不協和音が生じ始める。ニニギはヒタカミ国に最後の宝・八咫鏡(やたのかがみ)を要求する。ヒタカミのナガスネヒコ王は自ら鏡を持参しニニギと相対する。ナガスネヒコはオホヤシマの運命がニニギとともにあることを喝破していた……。
C『伏流水』京都の修学旅行先で、美子は圭吾と可南子と待ち合わせ、伏流水の課題を終わらせる。可南子は京の水の味が変わったと言うがその原因は不明。母・咲子が住んでいた眞玉神社を訪れた美子は、眞玉神社宮司の菊水秋男より、菊水家が熊本から祭神・菊理媛神(くくりひめのかみ)とともに移ってきた歴史を聞く。そののち深い眠りについた美子は、ニニギの姿を夢にみる。ニニギはサクヤヒメを求めククリヒメと取引をしていた。
D『水底』東京。龍一は、上野警察の依頼で事件の参考人・和光吉次(わこう・きちじ)の居場所を霊視する。和光は東京地検特捜部も追っている人物であった。上野署に戻った龍一の前に、浦山由布子(うらやま・ゆうこ)が現れ、水死した息子を生き返らせてほしいと頼む。
E『玉水(ぎょくすい)』目覚めた美子に夢の記憶はない。ふたたび眞玉神社を訪れた美子は瑞々しい笹の枝を拾う。そして思い出とともに帰仙。夏休み直前、美子は萩英学園野球部の人気選手・大沼翔太(おおぬま・しょうた)と心を通い合わせるが、翔太はメジャーリーグを目指し渡米してしまう。美子と龍一は久しぶりに食卓を囲み、獅子と狛犬、左右の話などで和むが、途中美子が京都の舞妓に嫉妬して台無し。落ち込む美子は近所の寺に住む白狐に慰められる。天満宮に立ち寄った圭吾と海へ遊びに行った美子は、自殺した女生徒の霊を除霊。海から帰ると天満宮に可南子が由布子の夫・浦山和也(うらやま・かずや)と来ていた。行方不明の由布子を探すよう依頼された龍一は、彼女の居場所がサクヤヒメの故郷と同じであると霊視。神話の場所を熊本県と推測し、和也、可南子、美子、圭吾の四人は九州へ発つ。さらなる霊視の結果、由布子は菊池渓谷上流にいると確信した龍一は、遅れて四人と合流。満月の夜、五人は水底に眠る由布子を探し川をさかのぼる。そこには三人の神がいて……。
F『エピローグ』長い夜を終え、菊池渓谷をあとにした龍一たち。一年前、手のひらに乗るほどだったふーちゃんは大型犬ほどの大きさに成長していた。龍一は圭吾と美子に退魔の方法を教えると約束する。京の水の味が変わった原因はいまだ不明である。龍一は一人もの思いに沈む。
【未回収の伏線、そしてこれから語られること】
★美子の家を飲み込んだ“穴”はだれが開けたのか。★ふーちゃんはどこから来たのか。★龍一の過去。★祥蔵と咲子とニニギの因縁。★飛月にまつわる逸話。★土居家の真の役割。★美子の恋の行方。★スクナヒコの正体。★京の水の味が変わった理由。★オホヤシマのその後の歴史、ニニギの二人の子、そして三種の神器、三つのヒスイの行く末。★和光事件の顛末。★眞玉神社に置いてあった笹とは。★東北の霊場を護る守護五家の詳細。★龍一の獅子と狛犬、左右の雑談の意味。★白狐が口を滑らせた“三日月”の意味……などなど!
作品の感想については、
登竜門:通常版(横書き)
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等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で
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の『文庫本的読書モード』。
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