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『ビューティフル・ナイト 【前編】』 ... ジャンル:ファンタジー 未分類
作者:アイ
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あらすじ・作品紹介
大日本共和国の関西南部、紀伊半島沖から七十キロ前後地点、という噂。人口は三百人弱。面積は十四平方キロメートル強。三人にひとりがお年寄り。コンビニもゲーセンもマクドナルドもない。その「水無孤島」は、何千年ものあいだ1日もやむことなく雨が降りつづいていて、スコールにかこまれ本州からの上陸も島からの脱出も不可能な、不思議な謎におおわれた「鎖島」だった。―――これは、その島の住人で、神の花と呼ばれる「タカネノハナ」をひっこぬいた兄妹のおはなしです。
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母とミナの帰りを待っていられる、わけがなかった。
戸棚にプロポーズせんばかりのいきおいで観音扉をひらき、そこに上半身をつっこんで奥にひそんだリンゴジャムの瓶を右手でつかんだ。ひらいたときと同じ勢いでガラス戸を閉める。全身を全方位から犯す夏の熱波に、僕は牽制するように舌打ちをした。
きらきらと宝石のように輝くリンゴジャムの瓶をカロリとあけ、バッグの中につっこんだままの大きなバゲットの袋をとりだした。本土からの物資はやはり少なく、三人暮らしの僕らがもらえたバゲットはたった一本のみである。包丁でみっつに切りわけ、そのうち二つをビニールに戻した。残ったひとつを手でちぎり、スプーンでリンゴジャムを瓶からすくって、パンにのせてかじった。じんわりと広がる酸味と甘味の絶妙なバランスがたまらない。
本当はリンゴといえば、皮ごと実にじかにかぶりついてやるのがセオリーだと信じている。が、それをかましたのは一度のみである。本土でどれだけ高度な室内栽培がおこなわれていたのやら、一時、大量のリンゴが水無孤島に送られたことがあった。遺伝子組み換え実験の失敗作ばかりじゃないだろうかと危惧したが、別に人体に異常はなかった。
そのとき僕はまさに運よく輸送の現場を見学してもらえたのだが、吹き飛ばされんばかりの大荒れの天気のなか、無人ヘリに積みこまれた鉄製の巨大なクーラーボックスの中にあった大量のリンゴを見たときは、ミナと一緒に飛びはねて喜んだ。その怒涛のリンゴ攻めを当初はありがたいと思いつつも多少処理に困っていたが、害がないものだと分かると大喜びで均等に配分していった。僕の家にまわってきたのは八個。半分を加工しよう、ということで母が作ったのがこのジャムだった。他にもパイや煮リンゴへと変貌を遂げたが、僕はジャムが一番気に入っている。残りのリンゴはセオリーどおり、丸かじりしてやった。
もうひと口、とあらたにバゲットをちぎったが、スプーンをとろうとして伸ばされた僕の手は虚空をつかむ。瓶に突っこんでいたスプーンが、ない。いつの間にか背後にミナがいて、僕が切りわけたバゲットの残りふたつのうちひとつに直接ジャムを乗せてかぶりついてた。唇の端にパンくずやジャムがくっつく。
「おい、ミナ」
呆れて僕は彼女の左手からスプーンをひったくる。久しぶりの内地からのパンに舌鼓をうつミナは、島の湿気などものともしないストレートの髪を揺らして笑った。
「いいよね、この、口の中の水分ぜんぶ持ってかれる感じ。ごはんとはまた違う味がなんとも。お兄ちゃん、和食派なのにバゲットなんてめずらしい」
「めずらしくって悪かったな」
「やっぱりいいなあ、ミナもこうやって本土の食べ物、もっといっぱい食べたいな」
「明日はテストじゃなかったのか。こんなところで油たたき売ってないで、年号のひとつぐらい覚えたらいいんじゃないか」
「御忠告どうもありがとうです。でもミナはその前にトイレに行きたいな」
上からもの食って下からトイレかよ。そのツッコミはミナの無邪気に立ち去る背中にかき消えた。ひゃっほい、と叫んでトイレのドアをいきおいよく閉める。はしゃぐなパンツが見えるなどと言えば「ベッドの下に夜のソロ活動を埋蔵する年頃の人に言われたくない」と年頃の妹にアッカンベーをされることは目に見えている。
僕はビニールに戻したバゲットをパンかごの中にいれ、戸棚にしまった。戸に背をあずけ、頭のうしろで手を組む。ただでさえうつりづらかったのにデジタル放送に完全移行してただのでかい箱になりさがったブラウン管のテレビの画面が、僕の身体を少し魚眼っぽく、横に拡大してうつしこむ。メタボになったらこう見えるんだろうな、と思いつつその場にずるずるとしゃがみこむ。手の中に残っていたリンゴジャムのバゲットの端をかじる。紙を手でまるめるような音がした。これを大きめの紙袋にいれて片手でかかえたりしたらヨーロッパっぽい、なんてことを思った。行ったこと、ないけれど。
父さんは行ったことがあるのだろうか、とふと思ってみる。島民の誰も海へ出ようとしないなか、村でいちばんの腕っぷしを誇っていた父が本土を目指して相棒の漁船に乗りこんだとき、確かに彼は言いのこした。この海のむこうには必ず美しい空が広がっている、と。その青空を撮るためだけに、その写真を僕たち兄妹に見せるためだけに、父は使い捨てのコンパクト・カメラを持っていった。
窓の外に目をやると、銃弾じみた雨がいっさい止む気配を見せずに、飽きることなく降りつづける。それ自体が牽制であると言いたげに、吸い殻色の空が泣く。
ミナが水を流す音に相乗して、外の雨音が少し強くなった気がした。海が荒れる、と思うより早く部屋にミナが突撃してきて、うんこ座りの僕の肩を蹴飛ばした。彼女は床にひっくりかえる僕を指さして笑った。新しいおもちゃを買ってもらった子供のように。僕は体裁悪く頭を掻く。
悪かったな、つきあわせちまって。
いいよ、どうせ宿題終わって暇だったし。
縁側に立つ和明とそんな会話をして、傘をパチンと閉じた。和風にしつらえてある庭に面したその縁側から直接室内にあがらせてもらう。コンクリートで床下を補強しているけれど表面の板張りが湿気でいたみかけて、足元で木目がギイとちいさな悲鳴をあげた。外で傘をふると、犬が身体をふるわせて水滴を飛び散らせている姿を思いだす。年中うるさいと和明がいつだったかぼやいていた鹿威しがひとつ、哀愁いっぱいに音を鳴らす。よく手入れされた庭だ。海の果てに取り残された島の、一面平地でビニールハウスと田んぼと何もない原っぱだらけの山村に、日本の切なさを一滴たらす。
和明が居間に手招きした。彼の母親がTシャツにジーンズといういでたちで出てきて、あらあらまあまあ、とパチンコ玉が転がるような声をあげて走り寄ってきた。靴下と畳がこすれて乾いた音をたてる。
「隆人くん、濡れてない? タオル持ってこようか」
「いえ、大丈夫です、もうそんなに激しく降ってないので」僕は一瞬の豪雨からふたたび小雨に戻った空を見あげてこたえた。
「じゃあ、お茶いれてくるから」
彼女は十代の少女のようにうきうきしながら去っていった。和明が不機嫌そうに座布団の上に座り、朝から変に元気なんだよ、と言った。
「誰が」僕は傘を縁側に立てかける。
「母さんが」
「なんで」
「さあ? 女って感情の起伏が激しいから、箸が転げば抱腹絶倒なんだろ。つっまんないことで転げまわって笑うし」
うわあ経験者的発言。そう茶化しながらちゃぶ台の前に座った。昼間の学校で飽きるほど顔を見たのに、自宅でくつろぐ和明は糸が切れたマリオネットのようにぐだぐだしていて新鮮だ。
僕は和明の母親が運んできてくれたお茶を飲み、ちゃぶ台に頬杖をついた。
「つきあわせちまって悪かった、と言うからには」畳の上でマグロと化している和明に問う。「そのかわりに面白いものを見せてくれるんだろうな」
「そう、それなんだよ」和明はバネでもついているように飛んで立ちあがり、情感たっぷりに両手をひろげて見せた。オペラでもはじまるのか。わざとらしく両手を腰にあててふんと鼻を鳴らす。
畳の匂いがようやくじんわりと鼻に届いた。
「隆人。先一ヶ月間、俺の掃除当番を代わるという条件でブツを見せてやってもいい」
「ブツなんていう婉曲表現であらわされるほど上等のものだっていう確証があれば」
「見る価値はあると思うぜ。歴史の遺物だ。本土では博物館なんかに置いてあるんじゃねえのか。少なくとも、土まみれでそこらへんに転がってるものはそうそうない」
楽しそうに話しながら、和明は部屋の隅に置いてあった古い缶ケースを持ってきた。クッキーの缶か何か。あちこち汚れてへこんで落書きまでされてあり、幼いころの和明少年のやんちゃぶりを如実にあらわしている。彼はその缶の蓋をあけ、中身を両手でひよこでも扱うように慎重にとりだした。
小型の通信機を思わせる、手のひらサイズだがずっしりした質量のある直方体の機械。アンテナらしき細い棒が先端から突き出し、正面にはちいさな液晶がある。藻のように深い緑色をしていてもう何もうつしていない。いくつかのボタンは名称の印刷が完全に削げ落ちていて、どれが電源なのかも分からない。電池カバーはなく、新品の電池が四本ぴっちりはめこまれていた。元の色が分からないほど雨風にさらされ土気色に染まっている。
思わずめぐりあえた時代錯誤なその電子機器に、僕は眉をひそめた。
「昔の無線機か何か?」
「俺も最初は思ったんだけどさ。色んな本をひっくりかえして調べてみたら、泣く子もビビる、昔アメリカ兵が使ってたラジオだったんだ。この電池はさっき、俺が新しくいれた。日本の番組を受信するのに使ってたんじゃねえのかな。水洗いしたらお釈迦になるだろうと思って、汚いままだけど、どうぞ」
そう言って彼は僕にラジオをくれた。持ってみると想像していたほど重くもない。かつて島の奥のひろい湿地帯周辺は米軍基地だったらしく、撤退してずいぶんたつ今になっても置き土産がごくまれに見つかるという。もう十八年も前の話なのに、彼らの遺物が僕らのような世代に東亜戦争のリアリティを無言でうったえかけてくる。土まみれのラジオひとつが、僕の手を外側から浸食してきそうだった。
「これをどこで?」プラスチックのかたまりを目の高さまであげて和明にたずねた。
「河内のおっさんちの裏手にある林。あそこさ、人の手がくわわってるように見えて結構放置されてるし、木の量も多いから地盤があんまし雨水の影響受けてねえんだよ。ちょっと掘りおこしてみたら、こういうのがこんにちはだ。捨てられたのかね」
爪の先でコツコツとラジオをつつく和明。中の密度が高いのか音も高い。僕は和明の冒険ごっこに長年つきあってきた年季に自信があったが、今回ばかりは彼の肩を叩いて「まあ落ちついてこれ以上首つっこむな」と言うことはしなかった。単純に知的好奇心をつつかれたからだ。
大日本共和国の本土と水無孤島との交通手段がまだ生きていたころのもの、特に電子機器は貴重だ。二十年近く前の生活文化がそのまま凍結している島に電化製品は少ない。僕が生まれた直後、アナログ放送の終了と共に島内のすべてのテレビが巨大な黒い箱と化した。以前からある送電用海底ケーブルが機能をはたしつづけ、ライフラインには基本的に事欠かないのだが。まさか山の中からいきなり米軍兵士が使っていたものがひょっこり掘りあてられるなど、そうそうあったもんじゃない。
僕は手の中でくるくるとラジオを遊ばせ、中島さんのとこに持っていくか、と言った。
「やめとこうぜ、こんなおいしいもん、そう簡単に人の目にさらされてたまるかよ。とっておけば空から宇宙人が飛来してきて、この機械はラジオに見せかけて実は人類の営みを研究するための調査機的なものでしたってな結末を俺は期待する」
和明はさも面白そうに片頬だけで笑った。こいつが馬鹿なのか天才なのかはたまたただの変人なのか、ときどき分からなくなる。十五年のつきあいは人を理解するには短い。パターンは把握しているが、言動行動そのものが珍妙だ。
「でも、押し入れの肥やしにしておくっていうのももったいないよなあ。おもしろい悪だくみをやったときこそ人に話したくなるっていうけど」彼がため息と共にぼやく。僕はラジオの電源を入れようとして、やめた。動きそうで動く気がしない。脳死状態で眠りつづける人の横顔のように。
「こういうの、ミナに見せたら馬鹿みたいに喜ぶぞ。あいつ、本土のことにやたら興味があるらしくて、そんな本ばっか読んでんだよ。まあ誰だって一度はたどる道だろうから、そのうち飽きてくれるといいんだけど」
僕はそう言いながらラジオを和明にかえした。彼は液晶の表面を指先で撫ぜる。結婚式のときの写真をいとおしそうに見る夫婦のような目で。
「危なっかしいことに愛する妹を巻きこみたくない、っていう兄の愛か」からかっているわけではなく、本気らしい口ぶりでそう言う和明。「そのへん、隆人もミナちゃんも、あの親父さんの血を濃くひいてるってことだ。男のロマンじゃないか」
「ミナはれっきとした女子の小学生なんですが」
「ジャンヌ・ダルクを思い出せ。男装の戦士や侍の話はあちこちで聞く」
「本筋からそれてるそれてる」
目を伏せて手をふる。では本来の責務を果たしていただきましょうか、と言って和明がラジオの電源を入れようとしたそのとき、僕の耳に鈍い破砕音が届いた。つづいて元気よい少女のあいさつと和明の母親の喜ぶ声が交互に聴こえる。やばい隠せ、と言うが早いか和明はラジオをクッキーの缶に戻した。廊下をかけぬける足音が響き、それは居間の前でドリフト音が聴こえてきそうな急ブレーキをかける。
ミナは居間の障子を左右にかっぴらいて奇襲をかけてきた。もうどうにでもなれ。僕はため息をつく。高揚したミナは誰にも止められない。
彼女はどやどやと室内に入ってきて、スカートがふくらむのもかまわず僕の前に腰を落とし、にぎった右手をさしだした。嫌味なほどにこにこ笑っていた。
「ミナ、用事の前に和明にごあいさつ」
僕はミナのにぎりこぶしの意味を問う前に叱る。は、と気づいた彼女はちゃぶ台をはさんだ和明に「こんにちは、和明さん」と正座をしたまま機械じみた正確無比の四十五度でお辞儀をした。「はいこんにちは」とかえしつつも苦笑を隠せないらしい和明から顔を戻し、ふたたび右手をつきだすミナ。
「これ、とってきたんだ、お兄ちゃん」
何を、とたずねるよりも先に彼女がそのにぎりこぶしをゆっくりとひらいた。あざやかな白と緑が僕の目をくすぐる。
手の熱で少々だれているそれは純白の花だった。一輪で咲いているアリッサムとヒメウツギを足して割ったような美しい花で、茎は細くまっすぐ、そして親指サイズの葉が交互にならんでいる。無残にもミナの手によって根っこからひっこ抜かれていた。
子供がタカネノハナを無断で採集してはいけない。それは島の子供たち全員が物心ついたときから叩きこまれている言いつけのはずだが、そんなものは自由奔放なミナには通用しない。その憂うべき成長の方向性を変えるべく、僕は誇らしげに笑う彼女の眉間に無言でデコピンを打った。痛そうな音と同時にわめきながらもんどりうつミナ。彼女の手からタカネノハナがぽろりとこぼれ落ちて、畳の上に這いつくばる。
年中雨がやまない島、という現状を考えれば水無孤島という名前はちょいと空気が読めていない。そのことに最初に気がついたのは和明だった。
「水無月って、六月のことだろ。梅雨が明けて灼熱の夏の熱波に地上の水が枯渇するっていう意味で。その水無に孤立の孤って、皮肉だよな。うちは水がありすぎて孤立したんだって感じ」
そんな細かいことまで考えていなかった。生まれ故郷の名前の由来や、ましてや空気の読めなさ具合など、はっきり言ってどうでもよかった。だが和明に言われて気づく。ここは水があるからこそ孤立したのだと。
おそらくはこの島ができたときから何百年、何千年と、激しい嵐から傘いらずの小雨まで多種多様の雨が三百六十五日降りつづいている水無孤島。所在地は大日本共和国における関西南部、紀伊半島沖から南南東へ七十キロ前後地点、と言われている。人口は三百人弱。面積は十四平方キロメートル強。三人にひとりがお年寄り。コンビニもゲーセンもマクドナルドもない。
連絡船が自由に行き来できた十八年前までの文化をそのままに、環境にあわせてアダプトしてきた農産物と豊富な水産資源、そしてタカネノハナとひきかえに本土からわけあたえられる物資で島民はささやかなくらしを営んでいる。雨のやまない島と化す以前のライフラインはギリギリ生きているが、電話線もひいていない、テレビやラジオの電波も届かないここが、鎖国ならぬ「鎖島」となっている事実はそのままだ。
島民は本土に戻れず、本土の日本人は水無孤島に上陸ができない。
そういった歴史話を飽きるほど授業で聞かされてきたからか、下級生に話す際、すっかり覚えたフレーズを一から十まで順ぐりにたどるだけでじゅうぶんになってしまった。七人しかいない島の小学生たちは、ただ純粋に畏怖するのみ。水無孤島を神に守られた島だと信じてうたがわない。ならば僕はどうだろうか、という類の質問は常に、かわす。
「じゃあ、別に最初から何もないわけじゃなかったんだ」
「そう、昔は普通に和歌山や大阪の港と船があったみたいでさ。それが十八年前を境に、本土の人間がこの島に入ろうとするとスコールが来て、船が津波にさらわれるようになったんだって」
「うっそくさ」
「嘘くさいし漫画くさいけど、事実なんだよなあ、これが」
机をはさんで反対側に座る小学生の少年少女四人は、不満そうな顔でペン回しをする。つきだした唇は眼鏡をはずしたのび太の目のようだった。彼ら彼女らはたったひとつしかない教室で、すべての関節がはずれてしまったかのように伸びきり、僕の歴史話に曖昧な返事をする。別に聴かなくたって大した損害にはならないだろう、というのは僕の甘ったれた考えだった。先生に後頭部をはたかれ、「真面目に説明しなさい」と怒られる。
水無孤島に上陸を試みる本土の船は例外なく突然の大嵐に見まわれ、荒れ狂う海の底に転覆する。年中雨が降りつづいているのに地表や自然に影響がなく、デジタライズの少ない最低限の生活を営んでいけるだけの環境がととのった水無孤島の謎を解析しようと、これまで幾人もの研究者たちが船を出したそうだ。が、犠牲者を多く出したために現在は海よりの来訪者はゼロ。本土からの物資は数ヶ月に一度、プロペラのない近未来的な無人ヘリコプターを使っておくられる。かわりにこちらが島に自生する植物、タカネノハナを出荷することで需要を保っている。なぜ本土の人間がタカネノハナを大漁に必要とするかを僕は知らない。そのヘリや本土の食糧や生活用品や本などはやはりめずらしく、日本列島は近代化・機械化が急速に進み、本で読んだ未来都市そのままに発展しているのだと僕らは勝手に認識している。物資の内容は税金や募金でまかなわれているらしいものから一般のチャリティーで集められたものなどがほとんどで、すべて本土の人たちの好意で寄せられたものだと分かる。
一時は未曽有の「鎖島」現象に経済水域内の水産資源管理主権問題や、無断上陸・漁業・調査をこころみる命知らずの輩と航行の規制法案とのおいかけっこがつづいていた。大日本共和国政府、海上保安庁らをおおいに困惑させたが、現在はあらゆる他の問題におされ保留をくりかえし、しかしつつましい島民の生活を多方面で援助することを惜しまない。タカネノハナさえ絶やさなければ。
そんな雨ばかりの島で一生農作業に従事するよりは、本土に出て働いたり進学したほうがいい。それは誰もが子供たちに願うことなのだが、いかんせん島民が脱出をこころみても同様にスコールに見まわれる。上陸も船出も許されない、雨によって箱庭と化した島。その箱の中に僕は生まれ、ひねくれた十五年をすごした。
父は今どこにいるのだろうか。もうどこにもいないかも知れない実父の記憶。七歳の息子と三歳の娘を置いて、もっとも近い本州の陸地、和歌山県、潮岬を目指した男。海賊か鮪漁船の漁師のようだった、背中。
教室の窓から見える空は、黒い画用紙に白い絵の具を塗ったような色をしていた。絶えず雨が降りそそぐ。弱すぎず強すぎず、しかし傘は必要な降水量。田んぼで敷き詰められた平地の足元が、綿をまいたようにぼんやりと白くなっている。雲のうえを歩いているよう、には、見えない。傘をさした女性が雨合羽を着た子供の手をひいて教室の前を横ぎった。目があったので頭をさげると、彼女も一礼した。
僕は現在、中学三年生だ。水無孤島に高等学校はない。十八年前までは本州の高校に進学する選択肢もあったのだろうが、現状をかんがみればこのまま僕は無理して家業を継ぐことになるのだろう。僕の母と祖母は島では希少な医者だ。きちんと本土の医大を出たふたりと違い、僕は彼女たちが持っている大学の教科書や医学書を見て勉強するしかない。そんなデタラメな医者がいるわけがない、となかばあきらめぎみだが、せめて本土の大学へ進学できればいいのに、と希求したことは三度ではすまない。
どうしたら、とつぶやきながら渦の中心でぼんやりと本ばかり読んでいるわけにはいかないのだ。作られた物語はいつか必ず終わりをむかえる。
三時になる少し前に授業が終わり、僕をふくめ五人しかいない中学生一同はリュックをかかえて一階建ての校舎を出る。制服も制鞄もなく、全員が徒歩通学だ。和明が魔法瓶の中蓋をあけて茶を一気飲みする。
「お前んち、行ってもいい?」
僕はイエスとしか言えなかった。暇だったし、家が隣どうしで生まれたときからうんざりするほどつるんできた仲なのだ。本土に生まれていたなら、ベッドの下の埋蔵金だって共有する腐れ縁になったろう。
突然、背後から誰かがタックルをかましてきた。こういう誘いには絶対利香が片足をつっこんでくると相場が決まっている。豊かな胸を僕らふたりの腕に押しつけて、「なに、隆人、和明、遊びに行くの?」とはしゃぐ利香。長い髪が僕の手の甲を撫でてすぐ離れていった。
「俺の家で遊ぼうっていう話だよ、離せ変態」
「男に変態って言われる女とか終わってない? あたしも誘ってよ」
「それは」僕は口ごもった。和明がうちに遊びに来るのはミナのようすを見に来ることであって、つまり、タカネノハナを見に来ることである。
「男の密やかな遊戯に女が口出すな」和明が食ってかかる。
「あー、男尊女卑なんだあ。今どきダサいね。アナログタイプだね」利香なりのボケなのかと思ったがどうやら本気で間違えているようだった。
「男には男なりの事情ってのがあるんだよ。武士の誇りだ」
「司馬遼太郎か何かの読みすぎじゃない? いいもん、あたし佐代子と帰るから。中島さんに手作りのチョコレート・クッキーを持っていってあげるんだもん」
ぴょんとジャンプして方向転換し、そんじゃねー、と手をふって走り去る利香。ミナと同類のはしゃぎっぷり。そして島の駐在さんである中島さんは妻子持ちなのに甘いマスクを標準装備で、若い女性の島民に人気だ。
ま、そーゆーもんだぜ。和明が肩をぽんと叩く。僕は顔を伏せながらその手をしっしっと払った。苦笑する声が降ってくる。
数日前にミナが無断でとってきたタカネノハナは、地べたにひょっこり自生していたものを思わず根元からひっこぬいたのだという。一時は驚き、叱り、どうしようかと頭を悩ませたが、純粋に興味をそそられてその花を持っておくことにした。今はちいさな鉢植えにうつしかえられ、ミナの部屋の南側の窓にかざられている。母は僕たちのプライバシーを尊重するひとなので、掃除を僕たちにやらせるかわりに一切部屋に入ってこない。
規制によってくすぐられた好奇心がそうさせた。「神の花」が敬意と畏怖をこめてタカネノハナなんていう冗談のような命名をされた事情を知りたかったのも、事実。三人の隠しごとはラジオだけでもじゅうぶんだったが。
自宅に戻ると、僕ら中学生より一時間早く授業が終わっていたミナは、自分の部屋でタカネノハナの鉢植えをじっとながめていた。薄いグリーンのパーカーにデニムのショートパンツ、赤と白のボーダーの靴下。茶色い鉢からひょんと伸びるタカネノハナは、たっぷりの水と土を与えられて、濡れたハンカチのようだったのに今はすっかり元気になっている。白い花びらには張りが戻り、島の空気をぞんぶんに味わおうと葉をひろげる。シルクのような表面はなめらかで、透明感があった。
神の花は魅惑的なリンゴの実と同じ艶をはなっていた。
振りむいたミナはきょとんと首をかしげる。
「帰って来てたの? お兄ちゃん」
「兄上の帰還に気づかないとはなんと愚劣な」
「復活したみたいだな、その花」和明は一歩二歩と部屋に入って、胸を張るタカネノハナを見た。ミナは拒絶しない。僕は彼の頭をひっつかみ、ミナに「男をホイホイ部屋にあげるな」と言った。彼女はやはりきょとんとして「だって和明さんだし」と言った。和明は「だって俺は年上が好きだし」と言った。
見た目は息をのむほど美しいが、そのタカネノハナを本土の人間が躍起になって追い求めている理由がいまだに分からない。自給率が高いのに生活用品や食糧を惜しみなく援助するほど。おそらく僕たちが知らないだけなのだろうが、大人たちに訊くこともどうしてだかはばかられてしまっている。
ミナは一ミリも動かないタカネノハナを、飽きることなく凝視していた。窓の外は相変わらずの小雨だ。生まれてから十五年、何も変わっていない天気。僕も和明も、ミナも利香も、太陽や月や青空や星を見たことがない。大気圏のひくい位置にタールをたらしたような雨雲が、昼も夜も四季をとおして泣きじゃくるばかりだ。
太陽の光が明らかに足りない島の天気に歴史を重ねてアダプトしてきた植物や農産物と同様、タカネノハナも何らかの進化をとげて光合成の必要性を欠いている。ミナがちょいちょいとひっぱる葉の表面には幾筋も葉脈がはしり、光沢を忘れていない。
「とっちゃ駄目とか大人は散々言うのに、ほら」ミナは不満そうに眉をひそめて僕をふりかえる。「なんにもありゃしない。つまんないの。だまされた気分。子供だけが駄目なものって、つまんない」
「文句言うな子供」
「こんなのが必要なの? 本土の人たちって。ミナも行ってみたい。この花をなんでたくさん欲しがるのか、なんで水無孤島にみんな入れないのか、気になるよ。お父さんみたいに船を出して、本土に自力で行きたい」
「馬鹿言うな」僕は少し声を荒げた。「俺らだって島から出たら命の保証がないって分かってんだろ。なんでそんなに本土に固執するんだ。いいか、本土は漫画で見たような近未来都市になってて、俺らの住むような場所じゃない。そこを目指そうとしたから父さんは帰ってきてないじゃないか」
「でも、本土では青い空が見えるんだよ。雨ばっか降ってるこの島とは違うんだよ。鳥もいて、虫もいて、空気も乾いてて、晴れた日は誰も傘なんかささないでおしゃれな服を着て歩いてるんだよ、きっと」
僕は肩を落とした。本土から送られてくる本には、そういった生活様式が記されてあるものもいくつか混ざっていて、ミナを容易に本土上陸の夢へかりたてる。
「島の伝統を守らないで、タカネノハナをひっこぬいて家で育ててるのは、その憧れのあらわれか? 見つかったら怒られるどころじゃすまないぞ」
「お兄ちゃんだって、どうしてミナが見つけてきたこれをどこかに植え直したりしないの? 止めないってことは、いいってことじゃん」
子供らしい純粋な質問に、言葉に詰まる。おおざっぱに好奇心だと言ってしまえばそれまでだが、採取してみて本当に何かまずいことでも起きるのかというリスクをはらんだ体験をしてみたかったとか、世界で唯一水無孤島にしか自生していない理由を知りたかったとか、いろいろ内訳は考えられる。何より、日本人が命がけで本土へ持ち帰ろうとしたこの花のニーズの大元を知りたかった。僕らからすればただの植物であり、ただの「神の花」なのに、彼らにとっては文字どおり高嶺の花なのか。
だけど誰だって、高い場所にいるからってその場が居心地いいとは限らない。箱庭のように思えたこの島に、すすり泣きのような雨が降りつづくように。落ちたときに怪我がひどくなるのは高い場所だ。
僕らは雨を避けてなお天空に向けて背をのばすタカネノハナを見ながらジュースを飲み、お菓子を食べ、トランプをして遊んだ。ゲームもネットも携帯電話もない、つつましいと言える縮尺で僕ら若者もこの島で過不足なく生活している。本土の生活がいかに豪奢なものか、僕らは知らないから、今日も傘をひらき泣きむしな空を意味なく見あげる。
退屈な日常をぶちやぶろうとして冒険に出る主人公の本はいくつも読んだ。本土の図書館から飽和された本たちがボランティアで集められ、水無孤島に贈られ、僕らはその紙束から本土を知る。絵に描いた餅は餅の味を知らないから旨そうかどうかも分からない。
本土の日本人は僕ら水無孤島の住民をあわれんでいるのだろうか。だけどそれは、生まれてすぐに捨てられ段ボールの中で凍死した子猫に「外の広い世界を知らないまま死ぬなんて」と同情するような傲慢さをはらんでいる。それは嫌だし、そこまで島民は絶望していない。
僕らはそもそも、このちいさな島でのささやかな田舎生活を十五年つづけてきたから、傘を持たない生活の幸福なんて憧憬れるとっかかりも、これまでなかったわけで。
「ミナ、あのタカネノハナ、どこで見つけた?」
大貧民の僕は手元に残った六と九を床にほうって言った。ミナはもちろん、和明まで僕をいぶかしげな目で見やる。僕は片鼻をすすった。
電話線はなく、ラジオの電波もとどかない。テレビは媒体がデジタル放送を受信できない。だが天気予報は必要なかった。間違いなく日々の天気は小雨で、一週間に二日は強い雨、ときどき荒れ模様、嵐、横殴りのみぞれ、冬場には軽い雪、ひどくて雹、そんなところだ。僕らは玄関を出るとき、かならず傘を手にする。右手がオートマ化された装置の作業工程のように傘の柄をつかみ、パンとひらく。しめった空気が肌をやさしく撫でた。揺れた前髪がまつげに触れる。変わらない小雨。僕の十四年間、「鎖島」の空はいつでも吸い殻色で、泣いていて、偉大な宇宙と僕らをとおせんぼしていた。
そして、現在。
くるくると肩の上でまわるミナの傘。ピンク色の花がちらばっている。万華鏡のようにまわりまわって、ふりかえって、ミナが「こっち」と山側方面への道を指さす。最近替えたらしい黒い傘の柄に手首をかけて、和明が「子供は元気だねえ」と笑う。僕は柄を持っていないほうの手をズボンのポケットにいれて歩きだした。
田んぼにかかる浮橋のような細い道をさくさくぬけて、やがて田んぼの海もぬけ、ミナは地盤を固めた道ときっちり区切られた茂みをさした。ミナが大好きな「となりのトトロ」で、メイが小トトロと中トトロを追いかけているときにもぐりこんだ榛莽によく似ていた。低木がからみあい、葉が限界までつめこまれた茂み。幅は学校の敷地ほどもあり、先は山のほうへ向かっているので奥まで行けば森までぬけられるだろう。
「リスを追いかけてこの中にもぐったら、真ん中あたりに一本だけあった」
リスなんかおっかけんな、メイじゃあるまいし。
体格のちいさい彼女なら背をかがめるだけでぬけられそうなトンネルがひとつ、足元にできていた。身長百七十センチ近い僕らならスティーヴ・マックィーンまがいの匍匐前進になることうけあいだ。自然にできたらしいその葉っぱのトンネルを、ミナが膝をついてずんずん進む。観念して僕らも傘を閉じ、腹ばいになった。
葉に何度か頬をチクチク攻撃されながら、小ぶりで触り心地の悪そうな妹の尻を追いかける。葉の密度が高いのか雨はほとんどとどかない。地面も乾いている。肘の力だけで前進するため、息が乱れてくる。目前に妹の素足があるので背景を消せば僕はただの変態だ。
やがて少しトンネルの背が高くなり、中腰になれるほど空間が広くとれた。やはり雨は届かない。背丈が足りているミナは服の土をはらう僕と和明のとなりで伸びをした。
「ここだよ。はしっこにね、タカネノハナがぽつーんと」
ミナが指さす方向には、確かに無造作に地面が掘られた跡があった。ここで無残にも神の花を根っこごと引き抜いたのだろう。神に喧嘩を売っている。そんな霊験あらかたな花だとは僕も本気で信じていないけど、生きたままの虫を無邪気にかっさばく幼子を見るときと同じ類の気持ちになった。
あたりをみわたすがどこにも同じタカネノハナは見つからない。ひとりぼっちで咲いていたことを思えば不憫だ。急に力が抜けてしまう。
僕はその場にあおむけに寝そべって、秘密基地のように長くのびる葉っぱの天蓋を呆然と見あげた。木漏れ日はなく、薄暗い。ここでカードゲームをすれば立派に子供の遊び場になりそうだ。こういうところで遊びたかったなあ、と思えば自分の生まれを少し呪いたくなる。トトロの映画はいつだって憧れだった。蒸し暑い灼熱の太陽。晴れた空の下で洗濯ものを踏む。僕らが毎日使っている傘で、大きな樹も伸びるし、空も飛べる。
雨にぬれることのない、風すら通りすぎてゆく木のトンネル。
「何してんの、お兄ちゃん」
ミナがしゃがんで僕らの顔をのぞきこむ。和明がひらひらと手をふった。
「隆人おじさんは子供より体力がないんだよ」
「うわ、おじさんだって。終わりだよ、それ」
「俺がおじさんなら同い年のお前もおじさんだバカ明」僕は身体をぐるりと半回転させて和明の顔にチョップを落とした。「まだまだ若造だぜ、ガキだぜ、野山をかけずりまわって暴れまわって泥まみれになってこそ青春を謳歌していると申せましょう」
「無茶言うな、おたがいインドアのくせに」
ミナが頭上でけらけら笑っている。地面が冷たくて心地いい。風にざわめく葉擦れの音が耳に甘い。気を抜くと眠ってしまいそうだった。ミナは和明にタカネノハナを見つけたときの高揚具合をあれこれと説明している。うわー見つけちゃったあっていう感じでね、気がついたらひっこぬいてたの。で、やばいと思ったんだけどこんな楽しいことないと思ってさ、それでダッシュで和明さんちにむかったの。お兄ちゃんがそこにいるのは知ってたからね。頭がふわふわしてて、私、何考えてたのかぜんぜん思い出せないよ。とにかく楽しかったんだ。楽しくてしょうがなかったんだ。これが本土と水無孤島をつないでるものなんだって考えたら、この花さえあれば本土に行けるような気がしたんだ。
風が内緒話のような声をあげる。僕はタカネノハナが一輪も咲いていなかったトンネルの草木をながめ、目をとじる。
足がしびれた。
彼女ができても腕枕なんか絶対してやれない、と思った。
正座をくずした途端、力の強すぎるマッサージ器を押しつけられたような痛みとしびれと冷たい感覚が足首を襲い、顔がこわばった。当然立てるはずもない僕はその場にへろりと膝を折る。隣のミナも同様だった。足の甲に畳の跡がくっきりと残っている。
「お兄ちゃんのせいだ、タカネノハナの場所を知りたがったお兄ちゃんが悪いんだ」
「ひとのせいにすんな諸悪の根源。だいたいなんでひっこぬいたタカネノハナを持って帰ってきたんだよ、あの場所に植えなおせよ」
「だってお兄ちゃんも見たがるだろうって思って」
それはそうだけど、いろいろともうちょっと勉強してほしい。
夜遅くまで森で遊んでいた僕らは、薄暗いトンネルの中にいたせいで時間間隔が狂い、結果として門限を大幅にすぎて村に戻ってきた。怒れる母によって拘束され、居間で座布団もひかずに畳のうえにダイレクト正座、そのまま一時間放置された。同じ一時間かけて説教されるより、無言で正座をつづけるほうが精神的につらかった。隣の妹はしゃべりたがるし、僕はそれを払いのけるのに必死だったし。確かにタカネノハナは神の花だ。ひっこぬいた天罰を兄の僕まで受けるなんて。
今ごろ和明も両親に叱られているのだろうか。あの家はくだんのお茶目な母親が放任主義だから、もしかしたらここよりはましかも知れない。僕とミナは血流をとり戻しかけてなおしびれる足を必死にマッサージしながら、母があたためなおしてくれた夕食を食べた。ごはんと味噌汁と、バゲットを使ったサラダと、ひさしぶりの肉じゃがだった。
その日の夜、僕は不思議な夢を見た。
父が遺したジョン・レノンのレコードに、「あれは夢だったのか? あれはただの夢だったのだろうか?」という歌詞の曲があったが、今はまさにそんな気分だ。
僕の部屋と反対側のミナの部屋とをへだてたふすまの隙間から、青白いとも黄金ともとれない光がかすかに漏れていた。僕は目覚まし時計で深夜二時半だとぼんやりした目で確認し、布団から這い出て、ふすまを数センチだけあけてミナの部屋をのぞき見た。
足元には、トトロの絵柄がプリントされたタオルケットにくるまって眠るミナ。彼女の手元には本土の町の写真集。そのさらにむこうで、窓がやわらかく光っていた。タカネノハナの鉢植え。艶のある花びらのひとつひとつが、少女が笑うように、歌うように、ふんわりとかがやく光を遊ばせていた。神の後光じみた荘厳さを宿し、それでいて赤ん坊の無邪気さとやさしさを両手で抱きしめたような、強く惹かれる光だった。
きれいだ、と純粋に感じた。
翌朝目覚めたとき、タカネノハナはすでにただの花に戻っていて、あれは夢だったのか? あれはただの夢だったのだろうか? と布団を押し入れにしまいながら虚空に問うた。今朝も雨が降りつづく。湿気に乗って鼻をつく畳と障子の匂いが、鎖島と化していても水無孤島は大日本共和国の領土であり僕らは日本人なのだということを、何も言わずに思い出させる。とどめに居間からは味噌汁の匂いがただよってきて、僕は押し入れの戸を手早くしめた。
どうやら僕はそうとう嫌な顔をしていたらしい。中島さんはさも面白そうに笑う。
「そんなあからさまに不快ですって感じの顔をするなよ、隆人」
不快なんだからしょうがない。これから出るべきところが出て曲線も美しくなってゆくだろう年頃の妹の部屋に、妻帯者、五歳の息子持ち、甘いマスクで島中の女性のハートを絨毯爆撃で串刺しにする村の駐在さん、中島さんがいた。ミナの貞操の危機を察知し僕は彼に飛びかかった、という妄想が瞬間的に頭をよぎったが、僕は通学用のリュックを畳の上に無造作に置いてその場にあぐらをかいた。一日中授業が退屈で死ぬかと思ったのに、帰ってきてこんな密会をまのあたりにするとは思わなかった。
中島さんはミナとむかいあって正座し、教本をひらいて裁縫をしていた。
「やっぱり、らしくねえ」僕は顔を限界までしかめて言った。
「何が?」
「あんなに優しくて料理も上手で聖母みたいな笑顔の千晴さんを射止めてるイケメンが、年端もいかない娘っことお裁縫なんてしてるこの光景」
「えー、年端なんかとっくにいってるよお」ミナがぷうっと頬をふくらませた。彼女を見て中島さんが笑う。
数日前から中島さんは一週間に二度ほど、我が三沢家にやってきてはミナや母と裁縫にうちこんでいる。何かを作りたいなら奥さんの千晴さんに教えてもらえばいいのに、なぜか針仕事好きな母娘に指導されている。
というか、何をトチ狂って裁縫なんぞ。何を作ってるんだ。そう言及することははばかられやがて機会とやる気を失った。
「千晴さんと裕介くんは元気?」僕は鞄の中から弁当箱を出しながら中島さんに言った。
「元気すぎて手に負えないぐらいだよ。千晴は祭りの準備にはりきるし、裕介は押し入れの中に子供の秘密基地を建立しはじめるし」
中島さんは僕が近づくと針と布を隠した。だけどすぐに興味を失った僕は、弁当箱を宙に投げては取る。箸箱が乾いた音を鳴らす。そうか、裕介くんももうすぐ小学生なんだ。そう思うと急にジジくさい、なごやかな気持ちになる。ついこないだまで千晴さんにだっこされて、おむつを替えてもらうあいだじゅう泣きじゃくっていたのに、今じゃ僕や和明と林の中へ探検ごっこに出かけたりして、転んでも歯を食いしばって涙を我慢するようになった。
見ているだけであらゆる問題や悩みがプリンのようになめらかに、人を傷つけないものに変化してゆくあの笑顔を思い出すだに、頬がゆるむ。
「秘密基地かあ、子供のころ、木の上よじのぼって見つけた座りやすい場所とか、そんなふうに呼んで、大量に本を持ちこんで読んだりしたなあ」
「中島さん、おっさんくさい」
「隆人だってそういうこと、しただろう」
「そりゃしたけどさ、なつかしがってほんわかするほど年食ってないって」
まだ十代の折り返し地点だというのに。
ミナは一心不乱に針を動かして、ピンクの布地に白いレースを縫いつけていた。小物か何かでも作るつもりなのか。ぽやんとしていて天然な彼女にも色気が出てきたか、と思えば兄として嬉しいが、複雑だった。レモンティーにホットチョコレートを混ぜているような気分になる。
もうすぐ祭りだ。子供が主役になり、島のヒーローになり、みんなが雨水を浴びる。そんな日になっても、ミナはやっぱり、参加することを拒むのだろうか。去年もさんざん大人たちが参加をうながしたのに、彼女は衣装合わせにも顔を出さなかった。
自由奔放なところは父親似なのだろうか。あまり厳格な母に似たとも思えない。
「ミナ」僕はあらためて妹に問うた。「今年も祭り、参加しないのか?」
「しないよ。今までずっとそうだったじゃん。毎日雨に降られてるのにさらに水浴びなんて、嫌だよ。あんなことしたら、ミナ、島から出られなくなっちゃう」
針からいちども目を離さずに言う。だよなあ、と僕は落胆した。島を脱出して本土に行きたがっているミナには暖簾に腕押しだ。
外では小雨が降っている。あいかわらず、飽きもせず。僕は台所で弁当箱を洗い、ミナに「ロリコン色情狂の毒牙に注意」と声をかけ、中島さんに「俺をなんだと」とつつかれ、傘を持って外へ出た。これでもそれなりに中島さんを信頼している。
田んぼに囲まれた村落を海側へくだると、道路が石畳敷きになる。本で見た内地の長崎を縮小したような町だ。町と言っても水無孤島基準なので、ただ役場や市場や学校があるというだけで中心街扱いされているだけだ。人が多いので活気はあるし、漁船の出入りもくりかえされにぎやかだ。僕は町ゆく知りあいにすれちがいざまあいさつをして、ごつごつした岩だらけの段差を飛びおりてショートカットし、西側にある真っ白な建物に入った。水無孤島唯一の診療所である。
鎖島化以前からあるこの三沢病院は、本土の医大を卒業し総合病院勤務をへて戻ってきた祖母が作ったもので、現在は同じく医大出身の母と数人の医者で運営している。薬品や医療機器などは本土からの救援もあり不足することはほとんどなく、鎖島以前の設備が今も生きているので、ほとんどの治療行為はここでできる。が、難病や大量出血などのひどい外傷などには対応しきれない場合が多く、水無孤島の医療環境と医師の不足は特に重大な問題となっている。
だからこそ、この島が再び本土とアクセスできるようになれば。それは島民全員の願いだが、十八年間、それは凍結したままだ。じゅうぶんな治療ができずに命を落とした病人も毎年、少なくない。ゆえに、島民の平均寿命は本土と比べて二十歳近く低い。
普段からそんなに混雑していないが、今日は待合室に誰もいなかった。顔見知りの受付の女性に挨拶をし、母のいる診療室をノックした。
「母さん、祭りの件、やっぱミナは駄目だった」
「あいさつもなしにいきなりそれ言うか隆人」
けだるげにカルテをくっていた母が紅茶に手をつけかけて笑った。長い黒髪を後頭部でむすび、白衣をきっちり着た彼女は、患者の来ない日を逆に喜ぶ人間だった。怪我や病気がないことがいちばん。そう言える彼女は夫を失い、年ごろの子どもふたりを育てることになって、一体どんな心境でここに立っているのだろうか。
母はふうっとため息をつき、「一応あたしからも参加するように言ってるんだけどね」と言った。
「十一歳がリミットなんだから、ミナにとって今年で最後なのに。大人になってやっときゃよかったって後悔するよりは、最後くらいやればって思うんだけど、それって大人の傲慢なのかなあ。なんなんだろ、あの子。秋人に似て、嫌なことは絶対やらないというか」
秋人とは三沢秋人、僕の父であり彼女の夫である。
「別に、毛嫌いしてる感じでもないけど」
「そお?」
「学校の友達や年下の子が参加するってとき、ものすごくうれしそうだったし、がんばれって応援してるし。ただ自分がやりたいかどうかと言われたらノーってだけの話じゃないの」
ぽやーんとしてるし気まぐれだからなあ、と小声でつけたす。
窓の外からは広大な海がのぞめる。灰色の空と、静かな雨と、港を絶えず出入りする漁船。海岸線にむかってゆるやかな坂道になっていて、排水溝に流れた雨水はそのまま海へすべってゆく。道端には花が咲き、草木が空をめざし、雨の中なのに野良猫がふらつく。肩に鯖をつめた籠をふたつ背負った漁師の水野さんが、集まってきた猫たちのためにちいさくて傷がついた売りものにならない魚をばらまいてやっている。あ、と思うよりはやくこちらに気づいた水野さんは、その恰幅のいい身体をめいっぱいアピールするように、ヒゲ面をくしゃくしゃにして笑った。僕は苦笑してため息をつき、母は彼に手を振る。
水野さんも祭りの主催者なのだから、ミナの参加を心待ちにしているはずだ。島の子供たちは誰もが楽しみにしているというのに、あまのじゃくな我が家のお姫様はそれに応じない。決して嫌いなわけじゃないはずなのに、ただ「あのお祭りに参加すると、嫌でも島から出られなくなりそうで」という理由ひとつで拒絶する。しかしその横顔に悲壮や嫌悪の色はない。
近く七十歳になる祖母が診療室に入ってきて、「患者さんだよ」と母を呼んだ。背筋をぴんと伸ばした祖母は一点のシミもない白衣を片手でなおし、片岡さんちの五歳になる雪ちゃんが熱を出したことを子細に告げた。僕は「手伝うよ」と言って机によりかかり、過去のカルテをめくった。医学の知識は母に少し教えてもらったていどのレベルだが、見学を兼ねてこうして母の手伝いをする。
「ねえ、隆人」
母は紅茶を一気に飲み干して言った。「ミナが本土に固執してることは知ってる。でも、秋人のことがあるからさ。あたしからも言うけど、ほどほどにって、お兄ちゃんからもたしなめてやって」
うん、と僕は生返事をかえした。採血の注射を打たれ半泣きで歯をくいしばる雪ちゃんの頭を撫でてあやしながら、でもそういうのはむしろ利香が適任なんだろうなと思った。ミナと利香の仲の良さは姉妹さながらだ。兄の僕の存在が薄れるどころか消滅しそうなほど。
針を抜いたとたんにせきをきったように泣きじゃくる雪ちゃん。彼女の肘の針跡にちいさなガーゼを貼りながら、「よく我慢できたね、えらいね、今度のお祭りもきっとちゃんとできるよ」と笑って言いきかせた。雪ちゃんは泣くのに必死で何も答えず、うなずくだけだった。彼女の母親、片岡さんは雪ちゃんをだっこして「ほら、隆人お兄ちゃんが雪のこと、えらいって」と言ってほほ笑んだ。水無孤島にしか自生していない夏の花が、窓辺でちいさな鉢植えにしがみついて花弁を伸ばしている。
井戸のきれいな水を凍らせた塊を、包丁の柄を使って少しずつ砕いた。二センチ四方ほどのかけらをとって紅茶とココアの中に放りこむ。注文の多いお嬢さんがふたりもいるから困る。僕は自分用の冷えた麦茶とアイスティーとアイスココアを盆にのせて、居間の障子を足であけた。
ミナはココア、利香は紅茶。好みが見事にわかれたふたりは今、荒れ狂う外の景色を見て何かを話している。コップをちゃぶ台の上におき、窓ぎわでならんで立て膝をつくふたりの背中に「まだ来ないって」と声をかけた。
外は大荒れの天気だ。暗い夜をやぶり捨てるような雷が数秒おきに鳴り、いっそ攻撃的な雨が斜めに吹きつける。本土からのヘリが来るときは役人以外の島民全員が自宅で待機し、電球等を一切つけない規則になっていた。村役場の敷地内にある専用ヘリポートへの着陸をスムーズに行うためだ。村役場につとめている利香の両親はかならず輸送作業に出向くので、その日の夜は毎回僕の家に泊まる。ひとりでは退屈だからと利香は言うが、おそらくは雷を怖がるミナをなだめるお姉さん役を買って出たいからだと僕は思う。
そしてまた、雷。ミナはびくりと身体をこわばらせ、しかしヘリを見たがって窓から離れない。夜の十時ごろに一度、島へ上陸したヘリが上空を飛ぶのを見た。プロペラのついていない、まるでUFOのような迫力の無人ヘリ。戦闘機のような轟音を響かせて、点滅する三色のライトが黒い塊の存在を浮き彫りにする。銃弾のような雨をはじいて、たった一瞬飛び去っただけのヘリだが、ミナはおおいによろこび、僕は呆然とした。「あれに飛びのったら、嵐に巻きこまれずに本土まで飛べるかも知れない」とはしゃぐミナの頬をつねった。
大日本共和国というこの極東の国は、すでにSF小説でえがかれた近未来の文明を超越している。そう確信するに足る迫力だった。森と田畑と古い日本家屋しかない、デジタライズを拒まざるを得なかったこの島の住人にとって、プロペラを使わず飛ぶ巨大な輸送用ヘリの上陸は侵略されている気分になる。一体どれほどの機械化がすすんでいるのか、分からない僕らは畏怖するしかない。その気持ちは着実に、子供たちに本土への憧れと敬遠を植えつける。
ふわっとあくびをしたミナの肩をたたき、利香はアイスココアのグラスを彼女の手ににぎらせた。ミナはそれを何口か飲むと、ふたたび窓の外に目をやった。が、それでも眠気に耐えきれなくなったのか、ころんと利香の肩に頭をあずける。
僕はやがて静かな寝息をたてはじめたミナを横抱きにし、子供部屋に寝かせた。サンタクロースの到着を待ちわびてそのまま眠ってしまう子供のようだった。この島にサンタの概念は、ない。そもそも子供たちに贈るものがせいぜいお菓子しかない。十二月二十四日の晩は、単に親が子へクリスマスプレゼントとして少し豪華な食事を作るていどだ。
布団の中でちいさくなるミナの手元に、いつも大事にしているうさぎのぬいぐるみをあてがうと、彼女はそれをそっと抱きしめて頬をすりよせた。この島の神秘や謎や本土への憧憬など、このときばかりはすっかり忘れて、僕は妹の無防備な寝顔を見つめた。
静かに障子をあけて部屋に入ってきた利香に、「本土に興味があるらしくて」と話しはじめた。
「誰だって一度は子供のころにあこがれるだろうから、別に不自然ではないんだけど、ミナの場合は好奇心から来るそれ以上の執着を感じる。こいつ、まだ十一歳だぞ? もう十一歳、とも言えるけど。本土への興味は薄れて現実的に考えるようになるころだけど、逆に本気で本土やこの島のことについて調べようとするにはちょっとまだ子供」
「タカネノハナをひっこぬいて持ってかえっちゃうぐらいだもんね、大物の器だよ」利香は苦笑して、窓際においてあるタカネノハナの鉢植えを見た。「子供はとっちゃいけないとか言いながら、大人はさんざんに集めて本土に出荷してることが、不思議でしょうがないんだろうね。あたしも、隆人もそうだった。でもね」
彼女はため息をついて、しあわせそうに眠るミナのそばに座って彼女の頬を撫でた。「あたしも、タカネノハナが本土の人に渇望される理由が分からない。それでもこの花が『神の花』呼ばわりされる理由、なんとなく分かるよ。この島はずっとそんな感じ。神様に守られた島なんだって信じて疑わなかった。ここは本土とは違う場所なんだって。外部からの船を周辺の海が拒絶するようなことになる前は、年中雨が降ってても日本と貿易があったっていうのにね」
ミナがぷすっと鼻を鳴らした。利香は彼女の肩までトトロのタオルケットを引き上げて、背中を軽く叩いてやる。僕は畳の上にじっと胡坐をかいたまま、動かなかった。
水無孤島の水域内に入る船が例外なく嵐に見舞われるようになった十八年前。そのころに何があったかと言えば、僕の知っている限りでは東亜戦争が開戦したことと、タカネノハナの本土出荷がはじまったことぐらいだ。これまで水無孤島にしか自生していない美しい花という認識しかなかったタカネノハナを、開戦前に突然本土の人間が大量に必要とし、あちこちに自生するそれらを買収しにくるようになった。その半年後、くだんの大嵐の発生で外交を絶たれた。
何百年、何千年と雨が降りつづいているにもかかわらず地盤や自然環境に大きなダメージがない、水の絶えない島。その謎を誰もが歴史をかけて追い、「本土からの上陸が不可能」という新たな謎もくわわり、水無孤島は孤立した。杓子定規な政治家のコメントは生きず、高齢化がすすむ島の住民に策があるはずもなく、何もかもが凍ったままだ。
ミナも他の大勢の子供たちと同様、水無孤島の不思議な歴史と現象に興味を持つようになったが、その執着はやがてタカネノハナにも矛先を向けた。ひっこぬいて持ち帰り、部屋で育てて毎日ながめる。なんの変化も起きないしミナにも悪影響はない。ただの花だ。神に守られた島の、美しい花。
利香は畳にうつぶせになって、鉢植えのタカネノハナをちょいと指でつついた。「きれい」とつぶやく声が聴こえる。僕は彼女のとなりに座り、「何も感じない?」とたずねた。
「なーんにも。でも、不思議だね。この花をじっと見ていると、心があたたかくなる」
「ぼんやり寝ているうちの妹のアホ面を見てるときみたいに」
「シスコン兄ちゃん」利香はくすくすと笑いをこらえる。「そうだね、ちいさい子供を見てるときみたいな気分かな。タカネノハナってすごくきれいで、まじりけのない純粋な白で、何ものにも侵されない、そんな感じがする。だから『神の花』なんだよ。人間が容易に触っちゃいけない、禁断の花なんだよ」
僕はくいくいと花びらをひっぱった。罰あたり、と利香に叩かれた。苦笑しながら、僕は「でも今になっても本土に大量出荷してる」と言った。
「花といえば鉢植えに根づくものしかない近未来都市っていう話が本当なら」利香は立ちあがってため息まじりに言った。「焦がれるんじゃない。知らないけどさ。ただひたすらに盲目かつ貪欲なんだよ。私たち含め」
雷。窓から殺人的な閃光が降ってくる。遠くから轟音が聴こえてくる。すぐ近くで戦闘機の飛来を見ている気分になる、三百人ほどの人間がいっせいにコントラバスを鳴らしているような音。強い力をくわえられた鉄塊が熱をもって曲がるような、音。豪雨の中、暗い夜空を横ぎる光。三色のライトが点滅し、巨大な黒いヘリが上空を通過しようとしている。雷。その白い光を背景に、僕は大日本共和国とこの島とをつなぐ無人の機械を、見た。見下されていた。その空飛ぶ機械に腹の底まで貫通されそうだった。ガラスを叩く無数の雨粒が僕を笑う。
ヘリが去り、しばらくして雷もやんだ。何もなかったように、島がいつもの表情をとりもどす。何がそんなに悲しいのか絶えず泣く空。となりで硬直していた利香がふうっと息を吐いて、唇を噛んでいた。僕はその口元に親指を添えてやめさせる。彼女は一度も僕を見なかった。豪雨があいかわらず、空と僕らを邪魔する。
利香は勝手知ったるミナの部屋とばかりに、慣れた手つきで押し入れから泊まりのとき用の布団を一式出した。ミナのとなりにそれらをきちんと敷いてぺそっと座り、「寝間着に着替えたいんだけど」と言った。僕はあわてて部屋を走って横ぎり、「じゃあまたあした」と言って廊下に出た。閉められた障子のむこうから、激しい雨音にまぎれて衣擦れの音が聴こえた。まぶたがしびれたように震えている。
老朽化が進む古い校舎の古い廊下のむこうに、よく見知った小さいシルエットを見つけた。僕よりはやく、となりの和明が「裕介くん」と叫んだ。ああそうだあのサイズは裕介くんだ、と思うより早く裕介くんは和明の足元にタックルしてきた。無様にすっころんだ彼の手から鞄がこぼれる。
「え、てか、なんでここに。ここ、学校だよ? お父さんは?」
僕は和明の鞄を拾って、和明にしがみつく裕介くんにたずねた。戦隊ヒーローのシャツに半ズボンの彼は、「お父さんなら一緒だよ」と答えた。
「今日はね、学校の先生にあいさつに来たの」
「ああ、来年はここに来るんだっけ」和明が裕介くんの腋に手をさしいれて立たせる。「もう一年生か、でかくなったな。これから学校でいろんなことを勉強していくんだぞ。スカートの中身とか、生理の仕組みとか」
「うちの子に変なこと教えんな、悪ガキふたり組」
廊下のむこうからマダムキラー中島さんが歩いてきた。今日は非番なのか。彼に抱きあげられた裕介くんは、「こんにちは、隆人お兄ちゃん、和明お兄ちゃん」と言った。
「こんにちは。ちょっとタイミング遅いけど、あいさつできるんだな、えらいな」僕は裕介くんの頭を撫でた。
「中島さん、まだ夏休みにも入ってないよ。入学はもうちょっと先でしょ」和明が肩をすくめる。
「まあそうだけどさ、古い教科書をゆずってくれる上級生の子も探さなきゃだし、早いとここいつにも慣れて欲しいし」
「慣れるのは入学してからだっておかしくないでしょ。確か来年、裕介くんをふくめてふたりしか新一年生、いないんだし、すぐ仲良くなってあちこちかけずりまわるようになるって」
この島の出生率はそもそもが低い。年々人口は減ってゆくが、この土地柄だ、しかたない。僕は手に持ったままだった鞄を和明にかえし、裕介くんのちいさな手をにぎった。
「裕介くん、先生とのお話が終わったら、お兄ちゃんたちと遊ぼうか」
「いいの?」
「もうお勉強終わって帰るとこだし。裕介くんももうすぐ一年生だから、お父さんいなくたって平気だよな」
「おおい、隆人」中島さんがあわてたが、僕は笑ってかえした。
「どうせ家、千晴さんにまかせて仕事ぬけてきたんでしょ。夕方までには送るよ」
和明が裕介くんに髪をひっぱられ、「いてっ」と叫ぶ。中島さんは苦笑して裕介くんをかかえなおし、「じゃあまたあとで」と言って教務室のほうへ歩いていった。
二時間ほどして親子が戻ってきて、僕と和明は裕介くんを連れて学校探検をした。中島さんはそのまま仕事に戻った。千晴さんに甘えてばっかりの旦那も頼んねえぞ、と言うと殴られた。
誰もいない校舎をぐるっとまわり、いつも僕らが使っている教室で「たたいてかぶってジャンケンポン」をやった。丸めて輪ゴムでとめたプリントの束と下敷きで。勝ったのにプリントの束を裕介くんにとられ、奪いかえしたとたんに下敷きで防御された。和明とのガチ勝負では本気の殴りあいになり、裕介くんが楽しそうに笑っていた。一時間ほど、そうして遊んでいた。僕らの遊びはたいていこんな感じ。ゲーム機がないからないなりに娯楽を見つけて日々の隙間を埋めている。隙間なんて、そんなにないけれど。
雨が朝より少しやわらいできた窓の外をじっと見つめている裕介くんの背中に、荷物を片づけながら「そろそろ帰るよ」と声をかける和明。和明くんはその真ん丸な目で僕らを見すえた。
「ねえ、隆人お兄ちゃん」
まさかの名指しに僕は「何?」と返事をする。
「なんでこの島ってずっと雨が降ってるの?」
「あらためて言われてもなあ」僕は肩をすくめた。「お兄ちゃんにも分からないんだ」
「なんで?」
「理由までは知らない。この島は大昔からずっとこんな感じらしいし。神様に守られた島だよ」僕は紋切り型の返事をした。
「神様に守られているなら、どうして僕らはこの島から出ちゃいけないの?」
「それは」少し考える。「島の外の海には、怖い化け物が住んでいるからね」
がーっ、と叫びながら彼の腋をくすぐる。きゃっきゃと笑う裕介くんに和明も笑う。僕は彼を抱きあげながら、それでもいつかは、と思った。何かに、何かの変化があれば。
校舎を出ると、雨は小ぶりになっていた。傘をさそうとすると、裕介くんがすっとんきょうな声をあげた。
「見て見て、こんなところに花が咲いてるよ」
彼が指さした校舎の陰には、雨からのがれるようにひっそりとタカネノハナが花をひろげていた。「こんなとこにまで」と和明がつぶやく。僕も驚いた。これまでこの花は山奥の、人目につかないところに自生しているものだったから。
誇らしげにその白い花弁を見せつけるタカネノハナを、裕介くんはじっと見ていた。そして「きれい」と言いながらその花を摘もうとしたので、僕はあわててその細い手首をつかんだ。
何も考えずにそうした、その一瞬。
きょとんとした眼で僕を見あげる彼に、僕は何も言えなかった。「子供はその花をとっちゃいけないんだ」と言えばいいものを、その言葉をすっかり忘れてしまったように、僕は呆然と彼の手をつかんだままだった。
和明が僕の手をほどいた。彼の責めるような視線に気圧され、僕は目をそらす。触っちゃいけないのだと思ったらしい裕介くんは、それ以上タカネノハナに近づこうとしなかった。そのかわり、僕のもとへ一歩踏み出した足が大きい石か何かを踏んだのか、その場に前のめりにすべった。
派手な水しぶきをあげて転ぶ裕介くんを見て、うあちゃー、と僕はこめかみに手を当てた。あわてて和明が抱きあげる。泣くかと思ったが、裕介くんは泥まみれになりながら目にいっぱいの涙を浮かべて歯を食いしばっていた。彼の顔の泥をぬぐいながら和明が「どっか痛くないか?」とたずねると、ちいさくうなずいた。
「もうすぐ一年生だもん、泣かない」
真っ赤な顔で、泥だらけの手で涙をぬぐう。顔がさらに泥だらけになってゆく。僕は苦笑して「えらいぞ」と裕介くんの頭を撫でた。
駐在所の官舎に半泣きの裕介くんを送りとどると、千晴さんは泥まみれの裕介くんの服を玄関で脱がせ、「遊んでくれてありがとうね」と笑った。すっぴんで、シンプルなポニーテールにワイシャツなのに、色っぽくて美人だ。
「すみません、俺らがついていながら」和明と僕は頭をさげた。
「大丈夫だよ、どこも怪我してないみたいだし、子供はすべって転んでベソかいて大きくなるんだから」
「僕、泣かなかったよ」
「そう、えらいえらい」千晴さんはタオルで裕介くんの足を拭いた。そのままお風呂に直行する裕介くんの背を見送って、僕は「あの」と千晴さんにたずねた。
「裕介くん、祭りに出るんですか」
「本人がやりたがってるからね。今年が初参加だし。天雨祭、ミナちゃんが一緒に出るってことになったらもっとよろこぶだろうけど」
「ミナは」僕は息をのんだ。「今年も出ないつもりみたいで」
千晴さんは泥まみれのタオルをちいさくたたんで、そう、とつぶやいた。さびしそうに笑う千晴さんの唇は、やけに整っているだけに微細な感情を浮き彫りにする。
僕たちは玄関で馬鹿みたいに突っ立って、千尋さんの物憂げな表情を見ていた。遠くから、裕介くんがシャワーを浴びる水音が聴こえる。
「ミナちゃんは」
千晴さんが静かに苦笑した。「不思議な子だね。私たち大人に対して物おじせず本土のことを訊いてくるし。それがいいのか悪いのかは分からないけど、あの探究心はお父さんの影響なのかな」
そこまで言うと千晴さんは口元を手でおさえて「ごめんなさい」と言った。
僕は軽く首をふって、「じゃあ、またお祭りで」と笑って傘をひらいた。自宅へのゆるい坂道をのぼっている途中、和明が僕の背中を強く叩いた。足元で雨水がかすかに跳ねる。
父親の記憶がない、わけじゃない。
三沢秋人という村一番の変人は、娘のミナよりさらに探究心の強い男で、本土上陸への夢を少年のようにむきだしにしている無邪気なおっさんだったと、中島さんや水野さんは語る。父はそれまで自由に行き来できていた本土への航路を断たれ、そのおよそ十年後、妻とふたりの子供を置いてある日突然、島を出ると言いだした。七歳だった僕は泣きじゃくって止めたらしい。父は僕とまだちいさかったミナをまとめて抱きしめ、旧式のコンパクト・カメラを見せてくれた。
「これで本土の空を撮ってくるぞ。お前たちは見たことがないだろ、透きとおるぐらい高くて、きれいな色で、どこまでも広い青空を。父さんはこのカメラにその空の写真を撮って、現像して、かならず戻ってくる。ふたりに空を見せてやる。神様だって、それぐらい許してくれるはずだ」
僕も行く、と言うと父はたしなめた。この海のむこうには怖い怪物がたくさんいるから、父さんがやっつけてきてやる、怪我させたくないんだ、と。
なぜそんなにも本土上陸を願ったのか。タカネノハナとこの島の謎を解明したかったのか、本土の文明に興味があったのか、単に閉ざされた島で一生をすごすことが嫌で脱出したかっただけなのか。もしかしたら本当に、ただ青空の写真を撮るためだったのかも知れない。青空の写真なんて、本で何度も見たというのに。
桟橋から大勢のひとに罵られ、泣かれ、見送られ、父は愛用の船に乗りこんだ。島民の船出を察したように空が怒り、海が荒れた。何人たりとも箱庭から出すまいと。父は最後に一度だけ甲板からふりかえり、子供のように笑った。
それから八年、水無孤島に父が帰ってくることはなかった。荒れ狂う空と海の大口の中へみずから飛びこんでいった無邪気なおっさんを、誰もが称賛も罵倒もしなかった。
玄関の鍵をあけ、傘をスタンドに放りこむ。母は病院にいるはずだ。「ただいま」と声をはりあげても返事がなかった。ミナは友達の家にでも行っているのかも知れない。我が家の門限は六時なので、それまでに帰ってくればいいことになっていた。僕は宿題を手早くすませ、風呂を沸かしているあいだに家族三人ぶんの食事を作った。普段、帰りの遅い母は夕食を作らない。
味噌汁の味見をしているとき、外で雷が鳴った。地の底から響く、強い胎動のような。外界にさらされゆくことを求めず求められず、永久につづくかと思われた母の脈動。その記憶を今もしつこくこじあけるから、この島は古い時代の羊水ごと守られた胎児のようだった。何千年も前から、祭りの起源のころから。
例えば本土との航路がまだつうじていたころはどうだったのかと考えてみる。父も母も、祖母も、あたりまえのように船に乗って本土と水無孤島とを行き来していたのだ。だけど僕らはその時代の名残りすら受け継いでもらえず、教科書の中に置き去りにされた何もかものとぎれた輪郭線をたどって生きている。雨のやまない島。その雨水を夏の祭りでめいっぱい浴びることで無病息災を願い、純白の花を「神の花」として崇めているのにそれを本土へ出荷して政府の機嫌をとる。タカネノハナは僕にとって、ただの花だった。艶っぽい女性の凛々しさと荘厳さをあますことなくふりまく、ただの美しい花。だけどミナにデコピンをしたときから、その意味が少しずつ変化していた。僕のあずかり知らぬところで、物音ひとつたてずに。
だから、と鍋の火をとめて思う。多分僕も、この雷の音におびえている。
ふと時計を見ると六時を三十分ほどすぎていた。一分でも門限に遅れたらタコ殴り、というほど厳しくもないが、少しミナの帰りが遅い。まさかもう帰ってきていて、昼寝でもしているんじゃないだろうか、と思いすべての火を止め、ミナの部屋に入った。そこには誰もいなくて、彼女の学校用の鞄が無造作に床に放ってあった。
僕ははっと息をのんだ。窓辺に飾ってあるタカネノハナが、白く淡い光をはなっている。かつて僕が夢に見たように、美しい光を。だが花弁は張りを失ってだれてしまい、光もかろうじて内側から発光しているだけのような、弱々しいかがやきだった。僕はかけよって花弁に触れる。しわまみれになった白い表面は、少し力を入れればやぶれてしまいそうなほど薄く、力をなくしている。敬意と畏怖を浴びて育った花の威厳は、今の彼女にはどこにもない。おびえる少女のようだった。
雨が強くなる。雷が、鳴る。
僕ははじかれたように立ち上がって駆けだし、鍵も閉めずに家を飛び出した。悪寒が止まらない。傘もささずにぬかるんだ田畑をつっきり、靴底がぐしょぐしょになるのもかまわず走った。この悪寒を僕は覚えている。父が島を出ていくと決めたとき、母も同じ寒気を覚えていたはずだ。ようやくキャッチボールがまともに出来るようになった息子とおしゃまで母親の化粧品に興味を持つ娘を、捨てた、とは思わない。父はそんな人ではない。だけど確かに父は、僕らをこの島に残した。怪我させたくない、と言って。
違う。僕は走りながら首をふった。ミナはたぶん、違う。
雷が、鳴る。島の胎動が、僕らを、この国の国民全体をつよく震わせる。
幾度も泥に足をとられそうになりながら、とめどない嫌な予感を押し戻すようにひたすら疾走し、ミナの友達の家のドアを何軒も叩いた。
「ミナちゃん? うちには遊びにきてないわ」
「いなくなっちゃったの? たいへん。中島さんに連絡しないと」
「ミナなら、授業が終わってからまっすぐ帰ったみたいだったよ」
おぼろげだった嫌な予感が徐々に形を成し、僕は港町のほうまで走った。ミナの行きそうなところは、走っているうちにいくつか思いあたった。冷たい雨が徐々に僕の体温を奪いにかかってくる。
僕は今の中学を卒業したら、どこに行くんだろう。本土の高校に行く選択肢はないに等しい。医大に行きたい、本土に行きたいという願いよりもさらに強く僕は当然のように、すりこまれたように「水無孤島が本土ともういちどつながりを持てたら」と祈った。荒れた海にとざされたこの箱庭の現状が島へのシンパシーを失い、僕らの反発心が暴走をはじめる。誰よりも本土から必要とされているタカネノハナをひっこぬいて、ちいさな鉢植えの中で愛でるミナのように。
そうならない、という保証はどこにもなかったんだ。はじめから。
海沿いの防波堤を飛びこえ、X字がつらなった消波ブロックの上を飛び石のようにわたっていった。海は暗く、激しい雨風が波を人の背より高く巻きあげる。どこまでも深い、嵐の空。飽きるほど見た色の空。暗く沈み、低く牽制する。僕らを拒絶して、拒絶しつづける海。消波ブロックの隙間を、分裂した波がかけあがる。蜘蛛の糸にすがりつく地獄の人々のように。
その糸の先に何があるのかも分からないまま、ただ地獄からは出たいのだという己の気持ちにひたすら忠実。
「ミナ!」
雨音、波音、風音に負けじと僕は叫んだ。入り江につながれた漁船が波に翻弄され、帆が暴れる。僕は消波ブロックの上に立ち、ひたすらにミナの名を呼んだ。シャツやズボンに雨水がしみこむ。今日はどうも子供に振り回されてばかりだ。子供のやることについていけない。
日が落ちてタール色に染まった空から、暴力的な雨と風が落ちてくる。投身自殺をするように。地面ではじけて、こなごなになって、また海に帰ってゆく。僕は呆然と荒れた海を見ていた。この島の何もかもを奪ってしまう海を。
ミナ。僕はもう一度つぶやいた。ひらいた口や目に雨が入ってくる。風にシャツの裾が暴れる。ミナ。
そのとき、僕は海岸沿いの波打ち際にぽつんと立つ人影をとらえた。黒髪に白いワンピース。膝まで海水に浸かっていて、何度も波にさらわれそうになっている。誰だかなんて確認する必要はなかった。海岸側へ戻るべく消波ブロックを飛んでわたり、砂の上に着地する。押し寄せる波に不安定な足元をすくわれ、その場に派手な水しぶきをあげて転倒した。服の中に一気に入りこむ冷たい海水と砂に顔をしかめながら、立ち上がって波打ち際をざぶざぶと走っていった。くるぶしで水が何度も跳ねる。
「ミナ、何やってんだ!」
僕は魂が抜けたように呆然と立っているミナの腕をつかんだ。そのまま浜までほうほうのていでひき戻し、砂の上にもろとも倒れこむ。いたっ、と声をあげたミナはあおむけになって涙をぽろぽろとこぼす。僕は起きあがって彼女の額に手を当てた。すっかり冷えてしまっているが、熱はない。馬鹿なことすんじゃねえよ、とつぶやいた。
「お兄ちゃん」
顔をぐしゃぐしゃにして泣くミナ。髪も服も海水でずぶぬれになっていて、べったりと肌にはりついている。僕も全身ぬれねずみだったが、それよりミナが風邪をひかないか気になってしかたがなかった。意味がないと分かっているが僕は彼女の半身を起こして強く抱きしめた。芯まで冷えたちいさな身体は小刻みに震えている。
「お兄ちゃん」
ミナは死に際の子猫のような声でつぶやいた。「どこにも行けないんだよ。この島から出られないんだよ。神様がミナをこの島に閉じこめるの。ミナに青い空を見せたくないんだよ。どうして神様ってこんなに意地悪なの。この島は神様に守られているんだってみんな言うけど、そんなの嬉しくないよ。ひどいよ。何にもならないよ」
とうとう子供のように声をあげて泣きはじめたミナ。冷えきった指先が何を求めてか虚空を掻く。涙と雨水と海水とが混じった水が彼女の頬をぬらす。僕は救いを乞うミナの手をつかんで胸元にひきよせ、上半身をつよく、きつく抱いた。腕の中で際限なく涙を流す妹。潮の匂いがする彼女の髪は、僕の指のあいだで頑固にからまる。
ずっとそうしてミナをあやしているうちに、少しずつ豪雨と高波がやわらいできた。ミナも落ちついた。共鳴するように。それでも目を真っ赤に腫らしてさめざめと泣く彼女を背負い、海岸をあとにした。豪雨で誰もいなくなりすべての窓が雨戸で遮断された、閑散とした港町を横ぎって、自宅へとつづく道を山側へのぼる。母のいる病院へ寄ろうかと思ったが、やめた。耳元でミナがすすり泣く声を聴きながら、いつのまに妹はこんなに重くなったんだろう、と思った。下着までずぶぬれの僕ら兄妹の上に、あたりまえのように雨が降る。優しく、ピアノソナタを弾く指先のように。気がつくと僕も泣いていた。前髪からしたたり落ちる雨水に、僕の涙が混じる。
夕食前にミナがすることは手洗いの次になぜか入浴なので、僕は料理にとりかかる前に風呂を沸かすことが癖になっている。今日はそれが好都合だった。帰るなり玄関先でミナの服をすべて脱がせ、そのまま風呂までかかえていって熱い湯船に横たえた。半泣きのミナは「スケベ」と言ってかろうじて嫌がったが、泣き疲れたのかそもそも放心状態で抵抗になっていない。それどころじゃないだろと叱り、ミナの冷たい肩をおさえて顎まで湯に浸からせた。妹のひらべったい身体なんかに興味はない。不服そうに赤い頬をふくらませるミナ。白くたちのぼる湯気。
僕も身体が冷えていたので、濡れたシャツを剥ぎ捨てて風呂桶にくんだ湯を頭から一気に浴びた。さすがに年齢が二ケタになったばかりの妹の前で全裸になる勇気はなかったので、ズボンは履いたまま湯を何度もかぶる。そうとう冷えていたらしく、肌の表面がピリピリと震えた。耳が氷のように冷たくなって、頭痛を伴う。潮気をふくんだ髪が、濡れた手で黒板を触っているようにきしんでいる。
視界を覆う湯気に全身をふんわりと包まれているような感覚。椅子に座って、徐々にあたたまってきた身体を両手でかき抱く。何度目かの湯を風呂桶にくんだとき、「お兄ちゃん」と蒸気のむこうからミナが僕を呼んだ。
「海が怒ってたね」
だね、と曖昧に答えて頭から水をかぶる。顔を舐めるように湯が流れ落ち、髪からしたたる。鬱陶しい前髪をざっとかきあげて、いや、と訂正した。
「あれは、怒ってるのとはちょっと違うかも」
「なんで?」
「さあ。でも、憤慨してるのとはたぶん別。そもそも海に喜怒哀楽あったら怖いし」
そりゃそうだ、とミナが笑う。両手で湯をすくっているのを見て、ああこいつも、と思った。大人になろうとしはじめてるんだと。転んでも泣かなかった裕介くんのように。
彼女は指の隙間からこぼれる水を見て、「ミナね」と言った。
「船になんて乗れないよ。でも、乗ろうとしたふりだけで、海があんなになっちゃった。毎日漁師さんが漁船を出してるのに、そのときは荒れないんだよ、海。だけど私が『よおし本土に行くぞ』って思いながら船に乗ると、それが海には分かったんだね。なんでも知ってるみたい。本当に神様だ。この島には本当に神様がいるんだね」
いじわるだけど、とミナが笑う。僕は笑えなかった。
湯船の淵に組んだ腕を乗せる。「なんで海に出ようとしたんだ」とたずね、すぐに「っていうのは、愚問だろうなあ」と自分で流した。
「愚問ってどういう意味?」
「んなもん聞くんじゃねえよっていう、つっまんない質問のこと」
つっまんない質問。ミナが復唱する。まだ大人になりきれていない幼い声が天井で反響する。僕は湯船の淵に頬杖をついた。
「お兄ちゃん、ミナに、お祭りに出て欲しいって思う?」
「強制はしないけど、参加できるのは十二歳未満なんだから、最後ぐらいはと思うけど」
「出るよ、お祭り。今年は出る」
僕は顔をあげた。天国にいるような半透明の湯気が、ミナの白い肌をさらにきめ細かく見せる。我が妹ながら将来が不安すぎる、男をあしらう技術を培ってほしいとつくづく思う。「出るって」と声を荒げ、僕はこれまでの頑固なミナから一転して不気味なまでに素直になったその態度に面喰らった。湯船の内側にがっくりと顔を伏せる。テスト勉強を放り投げた学生のようなため息をつくミナ。
「いいの。さっきので、ミナはもうこの島から出られないって分かったし。もういいの。この島にいるだけでもしあわせだから、大丈夫。ミナには友達がいるし、お母さんもおばあちゃんもいるし、何よりお兄ちゃんがいる。だから、お祭りに出るよ」
ミナはすっかりあたたかくなった頬を僕の肩にすりよせる。普段、兄の僕に甘えることの少ない彼女のそんな仕草に、目を半分伏せた。長い髪に指をとおすと、潮でいたんでしまったのかひどくひっかかった。外の雨音が反響して、浴室内に響いていた。ミナはもう泣いていない。
ちゃんとあったまってから出ろよ、と一言注意して脱衣所でびしょぬれのズボンを脱ぎ、かたくしぼって干した。頓挫していた夕食を作って居間のちゃぶ台に並べると、寝間着を着たミナが髪をタオルで拭きながら風呂から出てきた。首筋に手をやると、じゅうぶんにあたたかいのでひとまずは安心した。「海に出ようとしたことは母さんには内緒だぞ」と言うと、ミナは顔をこわばらせてうなずいた。
だが、ふたりでもそもそと夕食を食べているそのわずかな時間に、「ミナが行方不明になったってマジかー! どこ探してもいないぞ!」という中島さん夫婦を筆頭に、母、祖母、天雨祭の主催者である水野さん、和明や利香、その他ミナの友人もろもろが僕の家に突撃してきた。そのたびこのとーり生きてますよと立ちあがって見せるいつものおとぼけなミナを見て、僕はため息をつくのだった。母には裏山に遊びに行っていたと嘘をついた。数時間みっちり説教されたが。水野さんにミナの祭りへの参加表明を伝えると、「じゃ、練習の日程表を今度持ってくるから」と笑って、ミナの頭を撫でていた。僕は、浜辺で転んだときにぶつけたらしい膝と肘が痛んで顔をしかめた。今日の豪雨とスコールをゆめゆめ忘れるなと叱責する、にぶい痛み。
夜、僕は夢を見た。
タカネノハナがミナの部屋で光る夢じゃない。
あの白くつややかな花びらをめいっぱい広げたタカネノハナが、夜闇の中、地面をおおって地平線まで咲き乱れ、燦然とまぶしいほどかがやく夢。ナウシカのラストシーンのように、僕はそんなタカネノハナの大群の真ん中でぽつんと立っている。
やがて風が吹き、雨が降り、雷がとどろく。胎動のような雷鳴。茎にしがみつく力を失った花びらが、一枚、二枚とつぎつぎに宙を舞う。風に乗って、空へと巻きあげられる。大量の花びら。真っ白で、雪のような花びら。地面がそのまま浮きあがってしまうんじゃないかと錯覚するような、タカネノハナの、花びらの舞い。僕はその中心で、うまく呼吸ができずに耳をふさぎ、目をふさぎ、しゃがみこむ。強い地響きが僕を責めている。近くにあったタカネノハナの茎をつかみ、力まかせにちぎった。涙がこぼれそうだったけれど、地面に爪を立てて耐えた。
息がつまりそうな花びらの洪水の奥、僕の視界をさえぎるその先に、ミナがいた。満面の笑みで、タカネノハナの花びらを見あげてはしゃいでいる。ミナ。叫んでも声が届かない。金属をねじまげるような音。プロペラのないヘリコプターが上空に飛来し、花たちのダンスをかき乱す。ヘリが飛んでいった方向へ吹き飛ばされてゆく花びらたちに巻きこまれ、ミナが転ぶ。視界が花びらで埋め尽くされる。ミナ! 僕は叫んだつもりだったが、口の中に花びらが入って、うまく言葉にできなかった。手を伸ばしても、その指先にキスしてゆくのはひたすら花びらと雨の雫だけだった。
殺人的な純白。
祭り囃子が聴こえる。島の歴史をたたえ平和を願う祭り。僕らに雷鳴を忘れさせまいとする、和太鼓の音。
花びらたちの海に溺れ、僕はもがく。白を掻きわけ、口にはいった白を吐きだし、手を伸ばす。横殴りの雨水が全身を濡らし、体力を奪う。雷鳴。ミナ。何度でも叫ぶ。ミナ。
「そっちに行くな」
目がさめたとき、汗で全身がじんわりと濡れていた。僕はタオルケットを蹴って身を起こし、寝ぼけまなこで目覚まし時計を確認する。まだ三時間は眠れる、とふたたび布団に轟沈した。変な夢が多いな、疲れてんのかな、とぼんやり思った僕の耳に、窓の外で延々と降りつづける優しい雨音が届けられる。ほんの少しだけ目をあけて、けれどすぐに眠りに落ちた。
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2011/01/20(Thu)18:26:40 公開 / アイ
■この作品の著作権はアイさんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
前篇です。後篇は執筆なう。
去年の成人式のつっまんないあいさつ(失礼)の最中に思いついた話を長らく放置し、ようやく12月に書きはじめたというこの長期潜伏っぷり(笑)。
理科が超苦手なやつが書いたほぼ初の現代ファンタジーなので、色々荒いと思います。すみません。
その荒さをカバーできるだけの魅力的なストーリーを作りたい……というのは永遠の夢ですね(汗)。
仮題がそのまま本題になったタイトルの「ビューティフル・ナイト」は、ポール・マッカートニーの楽曲「Beautiful Night」をパクりました。
とても美しい曲で、歌詞も幻想的で切ないので、ぜひ聴いてみてください。
ちょっと歌詞が本編にリンクしてるかも。(影響されてるともいふ
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。