『過剰進化――over skill 『空想、けれども現実』』 ... ジャンル:SF アクション
作者:スケスケタロウ                

     あらすじ・作品紹介
「つまり、俺たちは体の良い的ってことだよ。――生身の……な」 環境問題の深刻化に際し、「国際環境対策義務条約(IEMDT)」が締結されて数十年。各国の科学技術の全てが環境対策に当てられ、人類は何とか地球環境の保全に成功しつつあった。エコロジーの一点にのみ突出した発展。軍事発展の衰退により平穏を手に入れた世界。 ある“特性”に苦悩する少年、はそれでも充実な学生生活を送っていた――覚醒するまでは。 襲いかかるトラウマ、社会からの偏見・弾圧、能力の暴走、ADHD、新型兵器の実験、救いの使途、スマイル。「だから貴様の存在は許されないのだ!! 恵まれた……貴様のような可能性が私たちの過去を、彼らの救いを消し去ってしまう!!」 戦いの真実を知った少年の決意とは? 

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 @『あれが聞こえてきたんだ。聞こえちまったんだ』

――扉を開けた瞬間、何かが、俺の心に入ってきた。違う、俺が同調したんだ
 真っ赤な世界。
 暗闇に包まれた部屋を紅い光がぼんやりと照らす。
 白い壁も、緑のソファーも、透明なガラスも、全て紅い。視界に入る万物が紅に彩られている。
 紅い世界に佇むは二人の青年――いや、兄弟。
 頭を抱え、体を震わす弟はただ、赤黒い液体を目から流し続ける兄の姿を眺めていた。
「――!!」
 言葉にならない咆哮。理性など欠片もない。けれど、困惑、恐怖、怒り、悲哀、憎悪……あらゆる負の感情を表すに足る叫び声。
 瞳の血管を肥大させ――まるで、視界に映る全てを恐れているかのように――体中の筋肉を震わせ――まるで、皮膚に触れる全てを憎くむかのように――黒く濁った紅い何かを生み出す、変わり果てた兄。
 骨に皮が張り付いた程度のか細い腕を膨らませ、激しく痙攣する両手から、部屋を紅く照らす何かを吐き出し続ける。
 吐き出されているそれは、黒く濁った表面の内に内包された怪しく揺らめく炎。
 それが……部屋一面を覆い尽くしているのだ。
 けど、弟は変貌した兄の姿に驚愕しているわけでも、視界空間全てが未知の存在によって埋め尽くされている異常事態に怯えている訳ではない。

 “声”

 この異世界を生み出している紅い何かから聞こえてくる言葉に、少年は怯えていた。
 溢れ出る冷たい汗に濡れた両手で耳を塞ぐ。何も聞かないために。自分の心を保つために。
 だけど、聞こえてくる。
 姿かたちを自在に変える水のように、蓋に開いた僅かな隙間を通り抜け、獲物に絡みついた蛇のように、頭の中で回り続け、遅行性の毒をふりまき、少年の闇を精神の奥深くから引きずり出そうとしている。
「うぅぅ……何で、また聞かなくちゃいけねぇんだよ」
 その声を、少年は幾度となく聞いてきた。
 同年代の子どもたちに囲まれていたころも、兄と共に町に出かけたときも、いつでも聞いてきた。そのたびに、重いものが胸の内に溜まっていって――苦しかった。そして、記憶の海底に沈めた。どこまでも深くどこまでも奥底に……再び浮き上がってこないように。
 その沈めたはずの言葉が、部屋一面から少年に襲いかかる。
「――」「え?」
 そして、声が鮮明に耳を抑えているはずの両手から少年に伝わった。
 恐る恐る首を曲げ、ゆっくりとした動作で、少年は自分の手を見る。

 “紅”

 彼の手から噴き出される何か。
 深遠なる闇に包まれ、ゆらゆらと燃える炎。兄が生み出してるものと全く同じものが弟の手から次々と、次々と生まれていた。
「俺も……憎んでるのか?」
 ――ニクイダロウ?
 少年の頭の中で声が響く。
 紅い世界に渦巻く負の連鎖の中で、一際(ひときわ)クリアで、けれど、魅力的な音が脳内を反響し続ける。
 ――ズットクルシメラレツヅケテ、クルシカッタダロウ?
 明瞭で優しい言葉は、崩れ始めた少年の心を容易く浸食していく。彼の心を真っ黒に染めてゆく。
 ――ダッタラ、コワソウ?
 顔を上げた少年の目の前に真っ赤な渦が浮かんでいた。触れてしまえば引きずり込まれそうで、けれど、この醜い世界ではどうしても手を出してしまいそうなブラックホール。
 意志のない壊れた瞳を向け、弟は混沌の象徴である声の主へと手を伸ばした。



 A『どうせ俺は人の話がきけませんよ……けっ。空気も読めませんよ……ちきしょぅ。』

  透明な仕切りから入る温かな日差しが、白一色のタイルを優しく照らす。窓の外で風に吹かれ、秋に染まった葉をなびかせる木々。空間を舞う無数の踊り子たちを、少年はただ眺めていた。空気の働きに流され、空中を漂う赤と黄に彩られた幻想的な風景に魅入られたかのように。卓上に置かれたモニターに映し出される電子情報を読むわけでもなく、目の前で数十人の生徒たちに対しデータを解説する男の熱弁を聞くわけでもなく。
「時守(ときもり)!!」
 びくっ、と時守と呼ばれた少年の肩が震えた。
 罰が悪そうに、ぎこちなく頬を緩ませながら、時守は視線を戻す。
「あ〜……どうしました? 先生」
 何事もなかったかのように自然に振舞おうとしている少年だが、よく見ると日に焼けた肌から粘りつく液体がとめどなく溢れだしている。細身の体が少々力んでいるのもよくわかる。
「ん〜? わからないか?」
 先生と呼ばれた男が、柔和な、不自然なくらい優しい笑顔を浮かべて、銀色の机と生徒の隙間を縫いつつ少年の元へとゆっくり歩を進める。同時に、少年の心臓が鼓動を速めていく。周囲に視線を向け、助けを求めるが、視線をそらされるばかりか、くすくすと笑いだすものまでいた。
「はて、何の事だか……」とお茶らけて見る優。
 目前で腕を後ろに組み、至近距離まで顔を近づける男に、少年は右手で黒く後ろにはねた癖っ毛をかきながら、目を逸らす。
 瞬間、少年の鼻っ面に軽く拳が飛んできた。
 いてっ!! と声をあげながら、両目をつぶる少年の頭を乱暴に鷲掴み、男は強引に視線を合わせる。少年の視界には背筋が凍るほどの満面の笑みを浮かべる先生。そして、握られた右拳は細かく痙攣している。相当、力がこもっているようだ。
「お・ま・え・さー、しっかり話を聞けって何回言えば分かるんだ? 授業があるたびに一回以上は必ず言ってんだけど? え?」
「いたいいたい!! 頭つかむ手に力いれないで!!」
 涙目になりながら自分の頭を握りつぶさんとする手を引き剥がそうとする少年。しかし、びくともしない。このままでは自分の頭がい骨が割られた卵の殻になってしまう。そんな錯覚が脳裏をよぎるほどの握力が、時森を襲っていた。
「いやだったら俺の話をちゃ〜んと聞け。次またやったらどうなるか……分かってるな?」
 一段と低いトーンで男は少年の耳元にささやく。相変わらずの笑みを浮かべて。背後に陰りが見えるのは気のせいだろうか?
 機械のように首を縦に往復させ続ける少年の姿を確認した先生は、ゆっくりと頭から手を離すと教卓へ戻り、何もなかったかのように授業を再開した。
 ――くくく、あいつまた叱られてやんの。馬鹿だなぁ。
 ――お前さぁ、いい加減話くらい聞こうぜ。これで何回目だよ……ぷぷっ。
 クラスメートたちの笑いが入り混じった小声が聞こえてくる。
 毎度毎度で悪かったねと時守優(ときもり ゆう)は心の中で吐き捨てた。注意されて直後ということもあり、優は改めて、落書きの一つもないピカピカの机に置かれた、携帯端末の液晶画面を眺めた。長方形型の小さな機械を手に取る。スイッチやボタンなど備え付けられていない、映像だけを一方的に流す装置。先生の話と共に、勝手に次々と切り替わる画面を必死に読み取る。
(なんだよ……前回の復習じゃねぇか)
 んなことなら別に聞かなくてもよかったじゃんと声に出さずに愚痴る優。椅子の背もたれに体重を預け、ふうっ、とため息をつく。授業でする復習なんてやる気がまるででないが、叱られた矢先に、授業を流し聞きする勇気はない。めんどくさいが、当てられた時困らないように優は前回習った範囲を思い出すことにした。
 確か――
「水野、2019年6月17日に何が起きたか覚えているか?」
 先生が突然、生徒に質問をふった。
 水野と呼ばれた生徒は眼前に掲げたモニターを睨みつけながら、首を捻り少しの間唸る。
 そして、自信なさげに答えた。
「海底水爆搭載魚雷実験による海底沈下CO2の大量浮上事件……でしたっけ?」
(そうそう、海に溶けた莫大な二酸化炭素が米国が行った最新兵器の実験による衝撃で地上に浮き上がっちまったんだよな)
 椅子に体重をかけたまま、両手を組み、うんうんと頷く時守。
彼は水野の回答を元に記憶の引き出しから情報を引き出していた。
「そうだ。いまや世界(ワールド)の転換点(ターニングポイント)と呼ばれるこの事件によって、人類は深刻化した環境問題に直面したわけだ。まあ、途中でよそ見なんかせずに最後まで話を聞いてればこんな問題簡単だな。なあ、水野?」
 眉を吊り上げ、さも当然であるかのような口ぶりで水野に問いかける男。
「まあ、話を聞いてれば簡単ですね……話を聞いてれば、ですけど」
 同様に、当たり前といった口ぶりで返す水野。二人はちらっ、と優に視線を向け、微笑を浮かべた後、各々の作業に戻った。それを見た優の表情筋がピクッと震える。
(あのやろぉ……人を小馬鹿にしやがって!!)
 わなわなと体を震わす優。すると、小刻みに揺れる優の肩にポンと手がおかれた。その覚えのある感触に振り返る。
「学習能力って言葉知ってる?」
 開口一番仏頂面で失礼なことを聞かれた。馬鹿にされたわけではない。本人はいたって真面目な顔で聞いてくる。しかし、そんなことを真剣に尋ねられてる時点で優の沸点は鰻登りである 
「あん? 隼人、そりゃどういう意味だ?」
 若干苛立った口ぶりで聞き返す優。対して、失礼千万な少年は相変わらずの仏頂面でこう言った。
「いや、だって優さ、一日数回は同じことで叱られてんじゃん」
「そうそう、お前ちっせぇ頃からずっとおんなじこと言われてるよなぁ。ほんとに学習してるのか?」 
 右隣りから相槌を打つ少年がいた。ちらっと声のした方へ優が視線を向けると、そこにはからかいたい、ネタにしたいとうずうずしている腐れ縁の神野がいた。
「うっせぇな。直したくてもなおせねぇんだ。仕方ないだろ。」
 いつものメンツからの口責めにめんどくさそうに返す優。
 すると、神野の口が三日月に裂けた。まるで、そのセリフを待ってましたと言わんばかりに。
 変なことを言った覚えのない優は頭の中に疑問符を浮かべる。困惑している優をしり目に、神野は水を得た魚のように生き生きと語りだした。わざと、皆にも聞こえるように少しばかり大きな声で。
「そうそう、直したくてもなおせないんだよな〜。たしか、中学のころも言ってたよな。授業中に先生の話そっちのけで女子の胸を凝視してて注意された時も「こればっかりは直せないんです〜」とかなんとか……」
 バンッ!!と机を全力で叩く音が神野の言葉をさえぎる。音源には顔を真っ赤にした思春期の男が一人。優から目をそらし、口笛を吹く神野。優は締りの悪い口を閉じた悪友の襟首を腕を小刻みに震わせ掴む。
「テ・メ・エ・ハ、意気揚々と人の黒歴史を語るんじゃねぇ!! つうか、それとこれとじゃ話がちげぇし!! それに声がでけぇんだよ、周りにきこえちまってるじゃねぇか!!」
「声がでかいのはお前だ」
 刹那、優の頭上から重厚な衝撃音が響いた。頭がい骨まで伝わる痛みに思わず頭を抱える。ふと、傍らの馬鹿二人を見ると、やはり優と同じポーズで固まっていた。恐る恐る、声がした方へ首を曲げる。優の目には握りこぶしを固めた先生が映っている。
「ったく、注意した矢先にこれだ。人の話はちゃんと聞け!! 小学生のころに教わらなかったのか? 」
――ええ、言われ続けましたよ。執拗にね。てめぇに言われなくても十分わかってるっつーの
 と吐き捨てようとした優だったが、喉を通ろうとした空気を強引に飲み込む。怒りを隠しきれずに睨みつけてくる中年の男が怖いわけではない。以前、似たような失敗をした気がするからだ。
 確認のため、先生にばれない様に眼球だけを動かし神野の様子をうかがう。
 神野は机の下で両手を合わせて祈っていた。縋(すが)るような目で優の後ろ姿を眺めている。周囲のクラスメートも、ピリピリとした視線を優に送っていることに気付いた。まるで、訴えかけるように、抑止するように。
(はいはいなるほど。今は口答えするなってことね)
「おいっ、いつまで黙ってる」
 何も言い返さない優を不審がる先生。
「いえ、反省してたんです。さすがに聞かなさすぎだな〜って」
 片手で髪をかきながら、苦笑いを浮かべて答える優。
 周囲から安堵のため息がちらほらと聞こえた。
「なら良いが……とにかく二回目だ。罰として今から聞く質問に答えろ」
 そう言うと、先生は教卓へ戻った。
 ガクッと肩を落とす優。「神野や隼人も思いっきり喋ってたのに、あいつぜってぇ俺に目つけてるだろ」と自分以外に聞こえない音量で愚痴る。とはいっても、文句をつける筋合いなど自分には特にないことぐらい分かっているのだが。
(まあ、愚痴ってもしゃあねぇか。幸い、前回やったことの復習だし。楽勝楽勝)
 気持ちを切り替え、再び、電子教材から流れてくる情報を読み取る。前回の授業で叩きこまれた記憶が画面に映し出される字面によって引きずり出されていく。
「どうせ聞いてないだろうから教えとくが、世界の転換点以降、人類存続の危機に追い込まれるほど進行した二酸化炭素問題に対応するために、国連で“国際環境対策義務条約(IEMDT)”が採択されたという時点まで授業は進んでいる」
「となると、今話してるのは環境対策として何が行われてきた……ですか?」
 画面にのめりこんだまま、顔も上げずに先生に問いかける優。
 注意された内容をさっそく忘れている生徒にため息をつく先生。気を取りなし、話を続ける。
「ああそうだ。では、主な環境対策として国際的に縮小されていったものは何だ?」
「軍事ですね」
 間髪いれずに、即答する優。不安の欠片もない芯の通った声だった。だが、相変わらず眼球は液晶画面に映るデジタルデータをとらえ続けている。
「正解だ。兵器の製造に消費される資源。戦争や実験などによって発生する多大な二酸化炭素。もっとも環境問題を解決するさいに不必要な無駄を排除したというわけだ。同じように、エネルギー節約、資源の保全、特にCO2排出の抑制のために、衣服やゲームのような娯楽文化などを縮小していった」
 コキッと優の傍らに座る神野の頭が下がった。今は昼時、秋特有の温かな日差しの前で自分には当てられないと安堵している高校生が、睡魔に打ち勝てるわけがない。けれど、そんなことなど気にもせず、優はひたすら読み続ける。
「そして、職を失った人々は環境対策員として割り振られ、余った資金は全てCO2問題解決に割り振られたわけだが……時守、無駄を排除した上で、我が国日本が最初に行ったことはなんだ?」
「これ……ですね?」
 銀色の机を指差す優。
「そうだ。石油製品の精製によるCO2発生を抑えるための新素材開発だ」
 先生も、自分の目の前で夢の中をさまよう生徒の机を軽く蹴飛ばす。はっと身を起こした水野の広い額に力強いデコピンがヒットした。しかし、その決定的瞬間すら見ず、優は画面を見つめる。授業後に、クラスメートからその時の話を聞いて激しく後悔することはまた別の話である。
 二人が指した机にはプラスチックなどの石油製品が全く使われていない。日本の開発チームが生み出した製造過程において100%CO2を排出しない特殊素材と廃棄された空き缶などからリサイクルされた素材から作られているのだ。もちろん生徒たちが腰かけている椅子も同様の素材でできている。
「他にも、空き地やスペースのいたるところに木々を植えたり、太陽光発電や風力発電などの効率を格段に向上させるなども日本が行った試みだ。俺たちが手に持つこれとかもそうだな」
「そして、我が国のもっとも偉大な成果と言えば――」
 カーン、校内放送から流れる鐘の音が先生の言葉を遮った。
 口惜しそうに、先生は端末のスイッチを切る。すると、生徒たちの端末も連動するように電源が落ちた。
「仕方ない。この続きは次回だ。それまでに人の話を聞かない癖、治しとけよ!!」
 そう言い残し、先生は早々にドアをスライドさせて廊下に出て行った。
(うっせぇな!! てめぇも人を直ぐに叩く癖直せや!!)
 若干憤っていた優だが、ふと時計を眺める。電黒板が午前12時を告げていた。昼休憩の時間だ。つまりは昼飯時。
「もうこんな時間か……今頃兄貴は飯でも食ってるかな?」
 そう呟くと、優は神野と俊也と共に購買という戦地へと向かう。





 B『時森直人』

  数個の机と椅子が規則的に並べられた部屋の中。がらんと開いた室内に一人だけ男がいた。彼は銀色の椅子に腰かけ、片手に収まるほどの携帯端末しか置かれていないビジネスデスクに肘を立てる。男が眺めているのは壁に備え付けられた長方形の画面で作りだされる映像。2D画面内では紺色のスーツを着た清楚な女性が画面の向こう側に淡々と話しかけている。
「H.oxygen(重酸素)誕生からちょうど5年。開発者である尾野(おの) 健二(けんじ)に国際環境保全功労賞が授与された……か」
 水色一色の作業服に身を包んだ男はアナウンサーの下に流れるニュースのテロップを読んだ。画面から目を離し、男は窓の外に視線を移す。秋の日差しが照りつけるコンクリートの道には幾多の通風孔が等間隔に設置されている。件のH.oxygenは男が見つめるその穴から大気中に放出されていた。
 薄型テレビから発せられる女性の声が、室内に響き続ける。
「世界の転換点以降、人類は急激に悪化した環境問題を改善するため、心血を注いで様々な対策を講じていきました。しかし、どれも事態を好転させる程の結果を上げることができずに終わっています。そんな中、先の見えないトンネルとかした環境問題に光を見出したのがこのH.oxygenでしたね、先生」
 再び、男は視線を液晶画面に戻す。同時に、カメラのアングルが切り替わり、今までアナウンサーが占めていた画面に、彼女の傍(かたわ)らに座る白髪の老人が映し出される。眼鏡が印象的な皺の目立つ顔は、見る者に知的な印象を持たせる。
「そうです。H.oxygenはCO2から生み出され、酸素と全く同一の働きを行う気体。日本がこの気体を精製したことで、最も問題視されていた二酸化炭素濃度を軽減させることに成功したのです。おかげで、ここ近年、制限されてきた娯楽文化が解放され、少しずつ自由な社会に戻りつつあります」
 そこまで聞くと、男はテレビの電源を消すために立ち上がる。ニュースなどの情報伝達番組を除き、無駄を排除するために次々と消えていったチャンネル。おかげで、リモコンの必要性は消え去り画面の操作は全て本体につけられたスイッチで行わなければならなくなった。カチッという音と共に、液晶が黒一色に染まる。
(まあ、H.oxygenの成果はそれだけじゃないけどな)
 かつて、ヘルパーとして体の不自由な老人や身体障害者の世話をしていた男は、椅子に座りなおし、目をつぶりながら記憶を呼び起こす。
 彼が介護人として引き締まった肉体を酷使していたころは、従来から騒がれていた人員不足と医療技術にまで介入してきた無駄の削除のために、過酷な労働を強いられていた。高齢化社会も重なり、負担は増す一方、余りの激務に職を辞めるものも後を絶たずにいた。そんな折、H.oxygenが生まれたのだ。
(Heavy.oxygen(重酸素)略してH.oxygen。捻りの欠片もない名前だよな)
 H.oxygenと酸素の違い……それは重さだ。この新気体は酸素の10倍の重量を持っている。
 そんな気体が、溢れかえっている二酸化炭素(軽い気体)と取り換えられれば、必然、大気の圧力が変化し従来の環境に慣れ切った生物は運動機能を大幅に制限されてしまう。人間の場合も例外ではない。生存すら困難な状況に陥るだろう。
 よって、ホモサピエンス自体の性能向上が必要とされた。縮小されてきた医療に意識が集まり、全世界で医療技術の進歩が始まった。人工筋肉、関節駆動補助機器、移植負担軽減術式、耐圧用肉体組織強化剤、数多の発明が次々と生み出されていき――
(俺のこの肉体は相も変わらずっとな)
 腕を軽々と振る男。十倍に膨れ上がった大気圧をものともせずに。
 人類は変動した環境に適応することに成功したのだ。10倍に膨れ上がった気圧下において、以前と同様に体を動かすことができる。
(おかげで、ヘルパーの仕事も楽になったんだよな)
 さらに副産物として、人のスペックアップは老化や身体障害の克服をも可能にした。人工筋肉や関節駆動補助機関は体を自由に動かせない人々をサポートし、移植負担軽減術式が体力の低い老人や子供の可能性を広げていった。その他、様々な新技術が多くの問題を改善したのである。
 結果、ユーザー自体が数を減らしたため、ヘルパーの負担も大幅に減少する。人手不足が過剰人員に変わり、必要とされなくなった職員たちは時に解雇され、時に他の職に切り替えた。そして、この男は自発的に職を辞した。
(何かが欠けてる人を助けたいって俺にしたら、今はこっちの方が向いてるしな)
 そこで男は思考を一時切る。席を立つと、テレビの隣に設置されたデジタル時計を見る。
 人工の光が表す文字は12:00。会社の皆で食事をとる時刻だ。
 男はスライド式のドアを開き、廊下にでる。人気はない。どうやら皆、既に食堂に集まっているようだ。
 彼は廊下を歩きだす。不自然に曲がり角が多い廊下を慣れた足並みで進む。脇道のない一方通行の道の奥底に目的地の入り口が見えた。扉のない人ひとり分の小さな門をくぐり、男は食堂に入る。
「リーダー、おつかれさまです」
 ホールに入ると、男に気付いた青年から声をかけられた。歌っているような語尾上がりの声。動きも、どことなく……ぎこちない。手足は不自然に突っ張っており、軽く頭を下げてはいるが、尻を異常に突き出している。
「和也君、おつかれさまです」
 男も、和也と同じように礼を返す。落ち着いた発音、動きに力みはなくいたって自然だ。
 二人は同時に顔を上げる。和也君はにこりと笑うと皆が集まる大テーブルへ戻る。男の視線が、和也君から部屋全体に広がった。
 不思議な空間が広がっていた。食堂にはたくさんの人――外見上はいたって普通、なのに、行動に違和感を覚える――がいる。ひたすら手を振り続ける青年。うーむ、うーむと唸り続けている三十路ほどの女、子どものように椅子を揺らし続ける中年の男、席に着かず、部屋中を走り回っている小太りした男、特異な光景がそこかしこに広がっていた。
(ここが……今の俺が満足できる職場だからな)
 男――福祉作業所“助け合いの樹”所長、村上(むらかみ) 俊樹(としき)は、数年前ヘルパーの職を辞して父からこの施設を受け継いだ。福祉作業所とは、精神的、身体的に何らかのハンデを持つ人々が働く場である。身体障害が克服されつつある今、この施設は主に発達障害者に働く環境を与えるのが目的となっている。
 俊樹がこの職に目をつけたのはH.oxygenの影響でヘルパーの需要が急激に減少した頃。身体障害者だけでなく、発達障害者の対応も経験していた彼は、助けたくても機会を与えられないくらいなら、未だに医学的に解明しきれていない知的障害者の世話をしてみたいと考えた。そして今、俊樹はこの施設の所長となり、リーダーと呼ばれている。
 俊樹は利用者たちの奇怪な行動の一つ一つを入念に眺めていく。そして、ある一点でピタッと止まった。彼の視線の先にいるのは走り回っている小太りの男。彼もまた、“自閉症(じへいしょう)”という障害を抱えている。
 自閉症――名前からして精神的なものと思う人も少なくない、いや、むしろそちらの方が多いだろう。しかし、自閉症は決して精神的障害ではない。まして、親の育て方などの環境により引き起こされるものでもない。先天的な脳の障害なのだ。
(でも、それが知られてないから親のせいにされたり、見た目障害があると分からないから変人だといじめられたりするんだよな)と思いつつ、小太りの男から目を離さない。
 俊樹は彼の走り回るという行動が気になっていた。障害をもっているのだから、奇怪な行動をとっても別に問題ないと思う人も少なくないと思うが、違う。放置すればするほど、行動はエスカレート、さらに様々な問題を引き起こす。自分の手で止めようかと考えていた俊樹だが、小太りの男を担当していた若いスタッフが先に動いた。
(一樹(かずき)が亮(りょう)さんを担当してたのか。……しかし、あいつ、何かやらかしそうだな)
 一抹の不安を覚える俊樹。
「今の亮さんは不安定で関わり方をミスるとまずいんだよな……」
 そして、彼の不安は的中する。
 一樹は走り回る亮の肩に後ろからポンと手を置いた。
「亮君、みんなと一緒に席に着こう」
 幼児番組の体操のお兄さん張りの声で呼び掛ける。振り返る亮。彼はニッコリと頬を緩ませ笑った。
(あの笑顔は――まずい!!)
 俊樹は早歩きで亮と一樹の元へ向かう。二人の間に素早く体を入れ、強引に亮の肩に置かれた手をどかした。
「え?」
 事態を理解できず、口をあけて唖然とする一樹。彼のことを無視し、俊樹は亮の前に進み、語尾下がりのトーンで、空いている席を指差しながらクールに指示を出す。
「亮君、席に着こう」
 亮は一瞬笑顔を張り付けたまま俊樹を見つめていたが、直ぐに指示通りに椅子へと向かった。俊樹は亮の体に触れないように席を指しながら彼の指定席に誘導する。亮が大人しく席に着く。そこで、俊樹はほっと息を吐いた。そして振り返り、やらかした馬鹿(一樹)の正面に立つ。
「お前……興奮してるのに後ろから刺激与えるなよ」
「え? どうしてですか?」
 ここまで言っても分からないのかと俊樹は嘆息する。こんな基本的なタブーも知らないとは、真面目に障害について勉強したことがあるのか疑わしい程だ。
「ここに来る前に習わなかったのか。自閉症は外部からの刺激に敏感で、過剰に反応してしまう。見えないとこから触られるとかには異常に弱い。特に、走り回っているような興奮状態で周りに合わせられない、見えていない時は、何気ない刺激一つでパニックを起こして暴れてしまうことだってあるんだ……さっきも、俺が止めなかったらそうなってただろうな」
 俊樹の言葉に、顔を青くする一樹。自分が致命的なミスを犯していたことに初めて気づいたのだ。その様子に俊樹はあきれ返る。
「というかそもそも、何であんな状態になるまで放置した。しっかり常同行動の意味を分析して、うまく抑えとけよ」
 常同行動とは、手を振るや走り回るなどのような同じ行為を繰り返すことだ。自閉症の特徴的な症状の一つである。だったらそのまま同じ行動を繰り返していればいいんじゃないかとおもうかもしれない。しかし実はこの行動には様々な意味がある。だから、その時々の常同行動の意味を分析し対応を変えていかなければ先ほど周囲が見えなくなって、周りに合わせられなくなっていた亮のような状態に陥ってしまうのだ。
「す、すいません」
 掠れた声で、一樹は返事をする。悪気があったわけではない。単に経験不足のせいでミスを重ねてしまっているだけであることを俊樹は分かっていた。
「よし。今度からは繰り返している動作を見たら、まずは分析だ。そして分析結果を元にやめるさせる方向へもっていくんだ。じゃあ、亮君のとこに戻って」
 優しく声をかけ、俊樹は一樹の前から立ち去る。二人はそれぞれの席に着く。同時に、食事当番の利用者が「いただきます」のあいさつをした。いただきますの合唱と共に、皆食事を始める。俊樹も食事を始めようとして……
「ん?」
 目の前に座る男の行動が目に付いた。
「直人(なおと)君、チャーハン食べないの?」
 一口食べたスプーンを皿の上に置いたまま、時守(ときもり) 直人(なおと)は首を横に振った。重度の自閉症である彼は言葉を使えない代わりに、家族に教え込まれたジェスチャーで感情を表現していた。
「大好きなチャーハンなのに? いらないの?」
 俊樹の記憶では、チャーハンは直人の大好物である。ちらっと自分が食べているチャーハンを眺める。特に直人が嫌いなものは入っていない。
(なんか変なもんでも入ってるのか?)
 俊樹は自閉症者は様々な感覚過敏、知覚鈍磨があり、特に味覚に過敏な人が多いことをおもいだす。味覚過敏になると、科学調味料などの人工的な味を受け付けなくなることもあるのだ。しかし、この施設では科学調味料は使われていない。そもそも、環境を保全することを第一命題としていた今のご時世、自然調味料が使われていないはずがない。
(けど一応、味見してみるか)
 もしかしたら、薬品の類が間違って混入されているかもしれないと考えた俊樹は、直人のチャーハンを一口食べた。
「別に変わんないな」
 一言つぶやく。やはり、味覚過敏である直人には分かっても、普通の感覚しか持たない俊樹には分からないようだ。
「食べない?」
 懲りずに催促するが、やはりかたくなに否定される。結局、俊樹は仕方なく直人がチャーハンを残すことを許した。
 その後、何事もなく食事は終わった。「ごちそうさま」という掛け声と共に、皆一礼し、席を立つ。俊樹も席を立とうとして……
(なんか変だ)
 妙な視線を周囲から感じた。




 C『昔はこんなことなかったな……』

  日が陰り始めた空の下、時守優はポケットの中に手を突っ込み、中身をいじくりながらコンクリートの地面を歩いていた。校内にいた時とは違い、前のボタンが閉められていない黒のブレザーの下から緑と青で彩られた縞模様のTシャツが見える。今は下校の時刻、学校の規則に縛られて堅い服装にする必要もない。
 優は車一つ走らない道路を歩き続ける。そもそも、彼は自家用車が道路を走っているところを見たことがない。数年前まで行われてきた環境対策により、排気ガスの元になる自動車は全て電気自動車となり、やがて部品に使われる資源の保全のため、電子バスなどの公共機関以外は既に排除されている。H.oxygen開発の成果によって娯楽文化の制限が解除された今になっても、スペックアップした肉体を手に入れた人類が再び一家に一台車を持つようになるわけがなく、結果、電子バスが通る一定の時間帯を除き、歩道と車道の区別はほぼ皆無である。
 よって、優も車道の上を歩いている。ただ、目は正面ではなく真横に向いているが。彼が見ているのは川の淵を固めるコンクリートだ。いや、正確にいえば、コンクリートを覆い尽くす緑を眺めている。
 河川の護岸に設置されているのは“緑化コンクリート”。コンクリートはセメント・骨材・水の組み合わせで様々な隙間をあけることができる。この隙間に土壌や肥料、保水材や種子を入れることで植物を育てることができるのだ。
 しかし、別に緑化コンクリートに興味を持ったわけではない。環境対策の一環として、川沿いのコンクリートは全て緑化されている。特に目新しいわけではない。優はただ、風になびく緑の動きに目を奪われているだけだった。ぼーっと、遠くを見る目で、何かを考えてるわけでもなく。
「なぁ、優、昨日さぁ……」
 ひたすら、植物の動きに合わせて目を動かす優。まるで惚れた女に見とれてるかのように、何も考えずに。
「お〜い優、聞いてるかぁ?」
 とにかく見続ける。後ろから話しかけられていても、まるで気付かないほどに、ただ風になびくだけの植物を。
「あ〜……駄目だこりゃ。こうなったらいつものあれ、やるしかないな――せーの!!」
 ガンッという衝撃音と同時に頭上を駆け抜けた痛覚によって、優は虚ろになっていた意識を取り戻した。
「っ……いってぇな!!」
 優は頭を押さえつつ、振り返る。すると、優の予想通り握りこぶしを固めた神野がいた。神野と優の視線が合う。神野はわざとらしく真面目な顔で、わざとらしく低い声で優に言った。
「人の話はちゃんと聞け!!」
「先公の真似してんじゃねぇよ……ったく」
 友人のくだらない物真似に嘆息する優。若干似ていたこともあり腹立たしさも追加されていた。神野はと言うと、若気の至りを暴かれ、赤面になりながら声を荒げたところを折悪く注意された優の様を思い出して腹を抱えている。
「てめぇ……過ぎた話をいつまでも引きずりやがって」
 いつまでたっても笑い続ける神野に対し、頬をひくつかせ始める優。拳を握りしめ、いつまでも高笑いを続けるお調子者に少しばかりお灸を据えようとしたところで
「まあまあ落ち着けって。からかい続ける神野も悪いけど、いつまでたっても直さないお前が悪いんだろ?」
 神野の傍らにいた俊也に肩をポンッと叩かれた。仕方なく、振り上げた拳を下げる優。自分が悪いなど一かけらも思っていないが、俊也の言うことにも一理あるなと思い優はなんとか平静を保った。
「そうそう。大体、こんな至近距離で話しかけてるっつーのに、1メートルもない距離からの声が聞こえないってどういうことよ」
 肩で息をしながら掠れた声でしゃべる神野。笑い疲れたのか、右手で腹を抱えながら左手で俊也の肩に寄りかかっている。
(てめぇらにゃ不思議でも自然になっちまうんだよ。俺は“AD/HD”だからな)
 とは流石に言えないので、心の中で愚痴る優。「自分には発達障害があります」だなんてそう簡単に言える台詞ではないのだ。
 AD/HD(注意欠陥・多動性障害)――注意集中を持続させること、衝動を抑制すること、体を動かさずにいることが通常の人よりできない特性により、日常生活や学校生活がうまくやれない障害だ。
(俺はAD/HDの中でも不注意優勢型に入るんだよな。おかげさまで注意力が散漫になって……昔から人の話は聞けだの、話の最中にあさっての方向を向くなだの言われ続けてきたんだよな)
 優が今日の授業で注意されたのも、この帰り道で神野に頭を殴られたのも、この注意力が持続できない点に問題がある。優は話を聞く気がないのではない、聞けないのだ。いや、訂正しよう。優にとって興味のない話を聞き続けることは非常に難しい。その上、仮に聞いていたとしても自分の興味関心のあるものが少しでも視界に入ると意識が一気にそちらに引き寄せられる……いや、そんな甘い引力ではない。意識が一気にワープすると言っても良いだろう。
(特に植物の動き……あれはいけねぇ。俺の興味関心はどうやら植物だからな。あんなもんが視界にちらついちまったら人の話なん――)
 ガンッ!!と優の頭上から再び重厚な衝撃音が響いた。音は一つ。けれども振動は右脳と左脳の両側から伝わっている。
「お〜す、戻ってこれたか?」
「……いってぇ」
 二倍に増した激痛に頭を押さえながら、優は座りこむ。彼の前には握りこぶしと共に悠然と優を見下ろす神野と俊也。音を一つにするほどぴったりな息の二人である。
「全く、注意した矢先にこれだ」
 嘆息し、首を振る俊也。俊也は小学校のころからこれだけは変わらない優に呆れていた。ほんとだぜ、と神野も首を縦に振りながら相槌を打つ。だからって殴んなくてもいいじゃんという小さな呟きは二人には聞こえない。
「ったく、こんなに人の話聞けない癖に勉強ができるってのもむかつくんだよなぁ」
 神野がにくったらしげに呟く。
(そうそう、AD/HDの特性って悪い点だけじゃねぇんだよなぁ。興味関心のねぇもんには注意力皆無だけど、逆に興味関心があることにはとんでもねぇ位の集中力発揮するからなぁ)
 優にとって興味関心のあるもの、その一つが勉強だった。パターンを覚えていけば面白い位問題を解けるという快感が優の興味を引き付けている。そして、興味関心のあるものに対しての優の集中力は並大抵のものではない。英語、社会、理科系のテスト勉強は教科書ガン見のみ。数学などは全く授業の話を聞かずに自学のみ。驚異的な集中力にものを言わせた独自の方法で、常にクラストップに君臨している。
(相対性理論を発見したアインシュタインや発明王と呼ばれたエジソン、H.oxygenの製造者である尾野健二もAD/HDだったかもしれないってのは発達障害関連の人の中じゃよく聞く話だしな)
 歴史に名を残した発明家や美術家などの偉人の背景には、AD/HDの特性による成功が隠れていることが多い。自分が身近で様々なものにAD/HDの功績が含まれているのだ。それを考えると、AD/HDであることもそこまで悪い気がしないと優は思う。むしろ――
「俺らの発想と頭脳が世界を作っているんだ!! やっべ、俺超TUEEE!!」
「人の話を聞かずに意味不明なこと叫んでんじゃねぇ!!」
 俊也から放たれた怒りの鉄槌が優の顎をきれいにとらえた。型どおりに振りぬかれる拳。優はぐはっという汚い叫び声と共に背をのけぞらせ、なすすべもなく地面に倒れる。
「……何か言うことは?」
 真っ黒なコンクリートの上で大の字を描いている優を見下ろす俊也。表情筋はピクピクと震え、鋭い視線を仰向けになって伸びている馬鹿に向けていた。
「……すみませんでした」
 優は掠れた声でそう返す。若干涙目になっている優の顔を見て、ふうっ、と俊也は息を吐く。その二人の様子を眺めて高笑いを上げる神野。
「くくっ、最後の最後まで天然キャラ炸裂してんじゃねぇよ馬鹿。俺の腹筋ぶち壊す気か……ぷくくっ」
 最後? という言葉が引っ掛かり、辺りを見渡す優。コンクリートの地面がちょうど二つに割れた地点に優は寝そべっていた。いつも神野や俊也と別れる場所である。思考に意識を捕らわれている間に、ここまで来てしまったらしい。
「もう、こんなところか」
「ま、そういうこと。んじゃまたな〜優」
 倒れたままの優を放置して、神野と俊也は背後に向かって手を振りながら左の道を歩き出す。相変わらずひでぇ扱いだと思いつつ、優は勢いよく地面から飛び起き、右の道を歩き出した。
(しっかし、ほんとに個性の欠片もない景色だよ。ここは)
 優は道の周囲に立つ建造物を眺める。土地を埋め尽くしているのは青いドームの群れ。規則正しく区分けされた土地という土地に、全く変わり映えのない半球状の家が建てられ、建物を囲むように詰めれるだけ木々が植えられている。
(H.oxygenが生まれてまだ数年とはいえ、環境対策の名残を残しすぎっていうかなんというか……)
ここは住宅街。H.oxygenが発明される前までの環境対策により、構造を統一された住居がところせましと並べられている。半球状の家を彩る青い壁の正体はソーラーパネル。大幅に向上した性能により、100%自家発電を可能としている。このドーム状の形態は、ソーラーパネルに効率よく光をあて、少しでもエネルギー効率を上げるためのものだ。塀の代わりに家屋を囲む木々は少しでも酸素を生み出すために植えられている。どれも家と呼ばれるものの標準装備だ。
(まっ、別に変わり映えがないのが悪いってわけでもねぇし)
 住宅群の中を迷うことなく歩く。通いなれた道、自我を持ち始めてから十数年、変わらない風景と言うのも悪くないなと優は思う……物足りないとも思うが。
(だから、植物の動きってのに意識を奪われるのかもな)
 この硬質な人工物に囲まれた変化のない世界で、木という自然だけが、僅かな環境の変化によって姿を変えている。その様が、優の心をとりこにし続けるのかもしれない。
(まあ、そのせいで人の話が聞けなかったりするわけだが……。おかげで先公には毎度叱られるは、クラスの連中にはお笑いキャラとして弄られるは、神野や俊也には小馬鹿にされるは――)
 そこで、優は立ち止まった。口元が緩み自然に笑みがこぼれた。
「こんなこと、昔なら考えられないな」
 生き生きとした笑顔で呟く。夕焼けが優しく、優を照らしていた。
「っと、もう家か」
 気づいたように、傍らにそびえ立つ門を見る。他の家と変わらない銀色の四角ばった門には「時守」と書かれた表札が付けられていた。どうやら、思考を巡らせている間にたどりついてしまったらしい。
 家に帰ったら何すっかなぁと思いつつ、家の門をくぐる。そこで彼は違和感に襲われた。





 D『あの声が……また聞こえたんだ』

 門に備え付けられている廃材で作られた小さな扉を開け、庭に入る。砂利を踏む音が、やけに優の耳にさわった。
(なんだ?この感じ)
 外見上は変わりない、けれど何かがいつもと違う。優の体全体がそれを実感していた。肌に触れる空気の異様な冷たさ。胸に襲いかかる奇妙な重圧感。吸っても吸っても残り続ける息苦しさ。
(気のせい……か?)
 しかし、外見上は何も変わらない。優の視界には、相変わらず植物の緑と砂利の灰色で飾り付けられた庭と太陽光を収集する青いドームしか見当たらない。何かの間違いだろうと思い、優は歩き続ける。家を囲む木によってぼんやりと暗くなった庭を進む。やけに溢れてくる汗をぬぐいつつ、家の扉の前にたどりついた。ドアノブを回そうとして……優の腕はそこで固まった。
「なっ!? 腕が、動かねぇ」
 ドアノブに手をかけたまま、彼の手首は固定されてしまった。ドアが壊れて開けないわけでもない。本当に優の体が石になっている。手を、放したいのに放したくない。相反する二つの感情が、優の意思を無視して肩から先の筋肉を硬直させていた。
(な――なんなんだよ、これ)
 足が小刻みに震える。呼吸が荒い。心臓の鼓動が高鳴っていくのが手に取るようにわかってしまう。掴んでいる金属から伝わってくる何かを体が勝手に恐れていた。その先を見てはいけないと、その扉を開いてはいけないと、全身が優に訴えかけてくる。
 けど、ドアノブから手を放せない。体の内にある何かが、それを妨げる。握る手にこもる力が段々と強くなっていく。皮膚から伝わってくる、体が恐れているそれと共鳴するかのように。その先を見ろと、目の前の扉を開け放てと、無意識の奥底に潜む何かが優に命令していた。
(っ――手が、勝手に動いて)
 ドアノブがゆっくりと回りはじめる。心の中から命令する何かが、体の抵抗を抑えつけ、少しずつ体の所有権を持ち始めていく。膝の震えが一段と増した。抵抗がさらに大きくなる。呼応するかのように、ドアノブを握りしめる力が一段増した。確実に、扉を開けたいという衝動が、支配権を広げてゆく。――ついに、ドアノブが回り切る。勢いよく、扉が開かれた。
 瞬間、紅い世界が優を招き入れた。
 優の背筋が凍りつく。声も出せずに、口をあけたまま固まった。目の前の現実に脳の処理が追いつかない。
 優の目の前に広がるはずだった世界は、真っ白な壁に挟まれた空間、白いタイルの上に置かれた外靴たち、LEDの光を反射する黄色一色の硬質な廊下、環境対策のために無駄な装飾をはぶかれた、どこにでもある家の玄関。けれど、優の目に飛び込んできたのは紅い光。闇に包まれた玄関を、人を惑わす妖しい紅い光で照らす何か。真っ黒で汚らしい外見の内に不気味に揺らめく炎を内包したそれは、液体と固体の境目を彷徨うように姿かたちを変えつつ、時には地面を這い、時には宙をゆらゆらと漂い、目前の空間を埋め尽くしている。
 そんな別世界を前にして、優は迷うことなく家に足を踏み入れた。恐怖がないわけではない。手足は大きく震えている。溢れ出る汗は留まることをしらない。心臓の鼓動が嫌なほど鮮明に聞こえてくる。一歩を踏み出すだけで、口を大きく広げて呼吸をしなければならない。むしろ優は、今すぐにでも踵を返して一刻も早くこの世界から逃げ出したいのだ――けれど
「くそっ!! 今度は足が!?」
 足が優の命令を聞かない。躊躇することなく、ゆっくりと紅で満たされた玄関を勝手に進む。まるで、膝から先だけ全くの別人であるかのように。
 優は、両手で勝手に動き続ける足を抑える――止まらない。自分の足とは思えないとてつもない力で邪魔な腕を振りほどき、強引に歩を進める。
(なんで、なんで止まらねぇんだよ!?)
 頭が回らない。理解を超えた事態に、優の理性はどんどん消え去ってゆく。興奮し、優は自分の足を殴り始めるが――びくともしない。紅い光が一際溢れるリビングへ淡々と進む。その先にあるものを求めるかのように、優の内にいる何かは優の足を無造作に動かす。
「母さん!? 直兄(なおにい)!? おいっ、だれかいねぇのか!?」
 大きな声で叫ぶ。家の中を、優の声だけが反響した。ひたすら叫び続けるが、返事はない。そんなことをしている間に、黒い未知の何かが次々と飛び出し、這い出てくる部屋がすぐそこまで迫ってくる。――ついに、部屋の前に辿りついてしまった。
 右側から、奇異な紅い光が溢れてくる。優は必死に目をつぶった。最後の抵抗。絶対に部屋の中は見ないよう、持てる力の全てを眉間に込める――こじ開けられた。優の内に潜む何かはそれすらも許さない。ぎこちない動作で、優の視線がリビングへと向けられる。彼の視界に映ったのは……紅い炎を内包する闇に覆われ、地面に倒れている母親の姿だった。
「母さん!!」
 刹那、体の呪縛が解かれる。恐怖など忘れ、優は一目散に横たわる母の元へ駆け出し、リビングへと足を踏み入れた。途端、声が頭の中に響いた。雑音だらけの不鮮明な声が、部屋中から、傍らに立つ何者かから聞こえてくる。
「な……直、兄」
 振り返った優の視線の先にいたのは彼の兄。紅い炎に包まれ、時守直人が宙に浮かんでいる。か細い腕を震わせ、直人の手から次々とあの黒い何かが生まれていく。
「がぁあああああ!!」
 もはや言語ですらない絶叫が、部屋中に響く。地面が揺れる錯覚を優は覚えた。それほどまでの音量、その華奢な体の一体どこから出しているのか。聞いているだけで気が狂いそうな――困惑、恐怖、怒り、悲哀、憎悪、負の感情の渦に引きづり込まれるような感覚に襲われる――叫びが続く。
「――っ」
 思わず、優は耳を塞ぐ――今度は別の声が聞こえた。耳を塞いだことで、自分の声が鮮明に聞こえるように、体の内から響く若干鮮明になったその声に優はようやく気付いたのだ。兄の咆哮とは全く異質の音。明瞭な音ではない、むしろ部屋に入ったときに感じた雑音混じりの音と同じ。けれど、それは理性を伴った言葉であった。
「うそ……だろ……」
 驚く、優。彼はその声を知っていた。幾度となく聞き続けてきた言葉。学校にいる時も、兄と外にいる時も、どこでも、ADHDと自閉症を持つ二人が常に言われ続けてきた言葉。必死に心の奥底に封印してきたはずの言葉が、兄から吐き出される紅から聞こえてくる。
――きめぇんだよ
 それは、差別、偏見。発達障害をもつものに理不尽に向けられてきた言葉のナイフ。冷たい視線と共に向けられてきた言葉。
――頭の変な奴を外に連れまわしてんじゃねぇよ
――病院にでもぶち込んどけってな。ガハハッ!!
――うちの子に近寄らないで、変態!!
 実際に、兄が言われ続けた声が、部屋中を満たす紅い炎から優の脳に響いてくる。震える両手で優は耳を塞ぐ。その声だけは聞きたくない、それを聞き続けたら俺の心は粉々に砕かれてしまう、だから優は必死に耳を塞いだ、聞かないようにした。なのに、聞こえてくる。紅い炎から聞こえてくる兄へ向けられた罵詈雑言は耳を介さず、直接優の脳に浸食してきた。
「ぁぁああああああ!!」
 兄の叫びが、また一段と大きく、高くなる。もはや絶叫ではない、その声は悲鳴だ。理由も分からず、ただ彼にとっては自然な行動をしただけでいつも言われ続けてきた罵声。それを恐れ、憎んでいるかのように、兄は世界を揺るがす咆哮を上げる。
――店の近くに寄らないでくれ、客が逃げちまう
――障害者が住んでるんですって、この地区には住みたくないわよねぇ
「うぅぅ……何で、また聞かなくちゃいけねぇんだよ」
 膝をつき、脳内に響き続ける声に悶える優。頭を幾度も地面に打ち付ける。これは夢だ、現実じゃない、夢から覚めるために、紅い炎から聞こえてくる言葉から逃れるために、優は自分の頭を傷つける――現実は変わらない。優の額から生々しい血が溢れても、目の前に展開される事実は変わってくれなかった。
「くそっ、くそっ!?」
 優の理性はもはや消し飛んでいた。炎から聞こえてくる言葉に対する恐怖のみが心の内を渦巻き続ける。早くここから逃げだしたい、その思いだけが優を支配する――耳を引きちぎろうと、手を掛けた。
――……
「え?」
 優の動きがピタッと止まった。耳にかけた手から声が聞こえた。ゆっくりと、恐る恐る、優は手を目前にもっていく。

 “紅”

 優の手から、紅くゆらめく炎を内包した闇が次々と溢れてくる。兄と同じように、あの声を発しながら。
――近寄んじゃねぇよ!! 気持ちわりぃんだよテメェ!!
――優ってさ、なんていうか、動きの全てがキモイと思わない? キャハハッ!!
――あいつも来てるぜ……まじ萎えるんだけど
 優に浴びせられ続けてきた悪意が、彼の手から聞こえてくる。茫然と、優はそれをただ茫然と聞いていた。優の精神は既に限界を超えていた。心に入りこんでくる毒を吐きだそうとする気力すらでない。ひたすら、蝕まれていくだけ。
――触らないで!! 変なのが移るから
――んなこともできないのか。お前使えないな
――お前みたいなのがいるとクラスのみんなが話を聞かなくなるだろうが。授業の邪魔なんだよ!!
 ふと、優は兄に視線を向ける。血の涙を流す兄の瞳に映る自分の姿を見た。兄と同じように、手から紅い炎を生み出し、瞳から血涙を垂らす自分の様を。周りにある全てを憎むかのように叫んでいる兄と同じ姿をした自分を。
「俺も……憎んでるのか?」
 感情のこもってない声で優は呟く。その声は誰に届くわけでもなく、消え去るはずだった。
――ニクイダロウ?
 なのに、返事が返ってくる。兄の叫びとも、闇に包まれた紅い炎から聞こえてくる声とも違う、クリアな声が優の心に直接響く。悪魔の誘いのように魅力的な言葉が、優を誘う。
――ズットクルシメラレツヅケテ、ズットハクガイサレテ、ツラカッタダロウ?
 悪魔の誘いが、容易に優の心を捕えた。彼の空っぽになった心を、憎しみに染めていく。
――ダッタラ、コワソウ?
 優の眼前に浮かぶ紅い渦。触れてしまえばどこまでも引きづり込まれそうで、自分というものが消えてしまいそうで、けれど、この生きづらい世界ではどうしても手を出してしまいそうな魅力的なブラックホール。
 無機質な瞳を渦へと向ける優。意思を持たない操り人形のように、彼は声の主へと手を伸ばした。


 伸ばした手が、渦に触れる前に止まった。
「まっ……て」
 ズボンを掴まれた感覚に優は後を振り返る。紅い炎に包まれた優の母が、地面に這いつくばりながらも、優を止めていた。荒い息、上半身をあげることすらままならない、明らかに衰弱しきった様子で、しかし彼女は力強く息子の服をつかむ。
(なんで、あんたは俺を止めれるんだ)
 限界を超えたはずの精神が疑問を発した。それほど、母の行動は優にとって理解しがたいものだった。
(あんたは俺なんかよりも、俺や兄貴よりもこの声を聞き続けてきたじゃないか。なのになんで、憎まない)
――親の育て方が悪いからこんなことになったんだろう?
――お前の家の遺伝子のせいで家の孫が障害を持ってしまったんじゃ
 優や直人が障害をもって生まれてきたせいで、彼女はいわれのない悪評を受けてきたのだ。ADHDや自閉症が先天性の、生まれ持った障害であることが知られていないせいで、彼女の育て方が悪いからと言われたこともたくさんあった。何の証拠もないのに、彼女からの遺伝で優たちが障害をもったと怒鳴られたこともあった。
――その行動は虐待じゃないんですか?
――あなた、それで良心はいたまないんですか!?
 優や直人の持つ発達障害特有の問題を少しでも軽減するためにした訓練を、虐待ではないかと児童相談所に疑われたこともあった。人の心を持ってそんなことをしてるのかと叫ばれたこともあった。それだけじゃない。障害者に対する偏見からできるかぎり、優や直人を庇ってきてくれたはずだ。優や直人が知らないところで、彼らに向けられた言葉のナイフを無数に浴びてきたはずだ。
 なのに、彼女は憎もうとしない。紅い炎に包まれているのに、恐らく、優と同じように声が聞こえてるはずなのに、彼女は優を止めようとしているのだ。
「たしかに……つらかったよ」
 息も絶え絶えに、けれど、振り絞るように彼女は言う。そこまでして伝えたい何かに優の意識は引きつけられた。
「あんたたちが生まれてから……どうすれば良いか分からずに……とにかく一生懸命本で発達障害について学んで……けれど……それでも偏見とかの問題が常に振りかかってきて……つらかった」
 けどね、と彼女は優しい口調で呟く。
「“今”は……幸せよ。辛かった過去から少しずつ積み上げていって……今私は楽しい生活を手に入れることができたわ。……優も、そうじゃないの?」
 “今”という言葉が優の胸にゆっくりと浸みわたっていく。昔、障害を持つ直人が住むことを嫌がっていたこの住宅街にいる人たちは、今では直人の障害を理解してくれて、問題が起こっても偏見を持たず協力してくれている。この住宅街に住む皆が、偏見を持った人々からの罵詈雑言から直兄を守ろうとしてくれている。昔、直人をけむたがった飲食店の店主は、今では自分の息子がADHDだったと診断されて以来、直人を客として毎週笑顔で迎え入れてくれている。
 昔、母の育て方が悪いから、母の遺伝子のせいでと怒鳴っていた優の祖父は、今では自分が軽度の自閉症であったことを知り、母に謝ってくれた。昔、優や直人が持つ障害特性を少しでも軽減するために母が行った訓練を虐待だと疑った児童相談所の担当員は、今では発達障害の子どもたちへの対処、訓練などを教育機関に伝えることに奔走している。
 昔、優がそばに寄ってくるたびに、キモイ、近寄んなと罵詈雑言を吐き散らしていた同級生は……神野は、今では「お前……変わったな。昔と違って、普通だな」と言って一緒に帰宅する仲になった。昔、発達障害のせいで当たり前のことができない優を使えないやつと見下してきた同級生は……隼人は、今では優のことを同等の存在として見てくれている。神野も隼人も、高校に入って昔のことについて優に謝ってくれた。それがたまらなく嬉しくて、一緒に駄弁る仲間ができて、優は幸せだった。
(そうだ……昔は死ぬほどつらかった。けど、今は――)
 優の心を蝕む毒が少しずつ浄化されていくのを優は実感する。胸にかかる重圧感が消え、気持ちの良い解放感を得た。両手から溢れてくる紅い炎も消える。ドロドロとした負の連鎖は……もう優にはない。
 優は、落ち着いた動作で母の隣にしゃがむ。穏やかな笑顔を浮かべて言う。
「ありがとう母さん。……もう、大丈夫」
 屈託のない優の笑みを眺める母。安心したように柔和な笑みを浮かべた瞬間、糸が切れた操り人形のようにズボンを握る手の力が抜ける。
 倒れたまま動かない母をしばし黙って見つめる優。紅い炎にまみれ、苦しそうに呻く母の姿を。次に、紅い炎をまき散らし続ける兄を。血の涙を流し、悲鳴を上げ続ける兄の姿を。
「俺は、壊さねぇ」
 小さな、しかし、力強い声で呟く優。優は背後にある紅い渦に向けて、自分の本当の意思を見せる。
「確かに、昔は苦しかった。この障害のせいで人の中で生きることが、とてつもなく辛かった。……冷たい視線を向けてくる奴らが、どうしようもなく憎かったさ」
 けどな、と一段と声を荒げる優。右手を力いっぱい握りしめながら、優は叫ぶ。
「過去に対する憎しみなんかよりも、皆で築き上げてきた今の幸せの方がよっぽど大切なんだよ!!」
 直人と優は必死になって障害による問題を解決しようと歯を食いしばってきた。母は、息子たちが少しでも偏見や差別にまみれない環境にいられるよう奔走し続けた。そして、家族で掴んだ小さな幸せがある。
「だから、俺に寄こしやがれ!! 壊すためじゃない、この幸せを守る力を!!」
 勢いよく立ちあがり、振り返る優。目の前の紅い渦――いや、紅い渦は姿を変え、青い光になっていた。生命の母である穏やかな海を思わせる深遠な青の光。それ目がけて、優は躊躇することなく一気に手を出した。
 紅い世界の中、青い光が優を包み込む。優から放たれる光に直人が反応した。いや、紅い炎が反応した。青い光を恐れるように、強大になろうとする天敵を今の内に始末しようと、部屋中の紅い炎が優へ突き進む。闇を纏った紅い流星群が、優の目前に迫り――全部消えた。優から放たれた青の流星群が、紅い炎を全て相殺したのだ。
 ひるむことなく、紅い炎が次々に優へと襲いかかる――届かない。優から溢れ出る青い光が紅い炎を打ち消す。マイナスのエネルギーがプラスのエネルギーと消しあうように、青と赤は部屋中を飛び交い、ぶつかり合い、同時に消える。
「がぁああああああ」
 咆哮と共に、紅い炎が直人の元へ集まる。それは直人を中心に渦を巻き、紅い竜巻を生み出す。共鳴するように、青い光が優に集う。光が弧を描くように尾を引き、優を包み込むように青い気流を作り出す。
 ゆっくりと、紅い旋風を恐れることなく、優は兄の元へ歩き出す。青と赤が衝突した。正の感情と負の感情が混ざり合い無心になるように、青と赤の竜巻は衝突するや否や、お互いの身を削っていく。
 二つの力が激突し、生まれた空間を通り、優は一歩一歩兄の元へ向かう。反発するように、直人の手から紅い炎が放たれる。優に届く前に、青の光が壁となり、打ち消した。優の歩みは止まらない。直人の抵抗が激しくなっても、容易に突き進む。
「あああああああ」
 叫び声と共に、直人の前で炎が膨らみ始める。瞬く間に巨大化する炎、優と直人にそびえ立つ壁のように部屋の端から端まで一直線に広がった。ここから先に来るなと、俺のそばに寄るなとでも直人は言いたいのか。優の歩みが止まる。
「……わりぃ」
 一声詫びを入れ、優はあっさりと炎の壁を突き抜けた。既に、優は直人の目と鼻の先にまで接近している。それでも、直人は優が傍に寄ってくることに抗おうとした。恐れるように、目の前の男にも自分が否定されるのを怖がるかのように。炎を纏った手直人は掲げる。寄ってくる恐怖を振り払うように、その手を振りおろそうとした。

 その前に、優が直人を抱きしめた。

 ぎゅっと力いっぱい、自分の思いを伝えるために。直人の動きが、止まった。
「大丈夫……怖がらなくていい……大丈夫だから」
 優しく、言う。たった三語の言葉。けれど、数え切れないほどの思いを込めて、優は直人に言った。
 直人の叫びが段々小さくなっていく。震えていた腕からは力が抜け、瞳から流れていた血が止まる。ゆっくりと、部屋を埋め尽くしていた紅い炎がすーっと消えてゆく。部屋から、母から、そして、ついに兄の手からも消えた。憎しみが、消えた。


2011/01/02(Sun)01:03:48 公開 / スケスケタロウ
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■作者からのメッセージ
 このサイトで作品を投稿するのはお初となります、スケスケタロウです。一応「小説家になろう」というサイトでも活動しているので、そこで拝見されている方がもしいれば、わかるかもしれませんが、この作品は、企画にだそうとしたもので、結局期間内に仕上げられなかったものです。あのままくすぶらせてるのも悔しかったので、より厳しく、的確な指摘を受けれると友人から聞いたこのサイトに投稿させていただきましたorz
 ゆっくり更新ですが、確実に完結させます!!批評もドシドシ受付中です。できれば、今後とも読まれる方がおられれば……それと、交流できる方がいれば、と思ってます。ではでは^^

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