『螺旋の王 三』 ... ジャンル:リアル・現代 SF
作者:チェリー
あらすじ・作品紹介
高校生・最上下明人は慣れてきた学園生活を順調に過ごしていた十二日を終えた日を境に理解しがたい現実に遭遇する。それは十二日の次の日は、十五日になっていたのである。そして空白の二日間に亡くなった桐生円、さらにはその葬式。それだけでは終わらず、次の日にはまた新たな現実へと明人は巻き込まれていった。
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一。
凪比良学園に入学してから一ヶ月。
それなりに学園生活は慣れてきたし友達もできた、一人ほど。一人っていう数字は俺にとって百人に値する数字だ。友達百人出来るかな? という歌があったがもうこれは達成と思っていい。
勉強については今までまったくそんなものをやったことが無かったので授業が拷問のように感じる。学園入学も親父のコネであり、必死に勉強してようやく掴み取った合格と、金で掴み取った合格との差を見せ付けられている気分だ。周りの奴らが所謂強くてニューゲーム状態。
まあいいさ。別に俺は凪比良学園なんて興味も無かったし進学すら考えてなかったのに、親父に高校くらい出ろと強引に凪比良学園に入学させられただけなので仕方が無い。これから頑張ればいい。
「最上下明人だな?」
多少の不安はあったけど今のところそんな不安など何だったんだろうと思わせるくらい勉学以外の学園生活は躓きも無く割とやっていけそうな気がする。
生活面では現在一人暮らし。
わざわざ親父がマンションの一室を用意してくれたので遠慮なく頂いたのだ、学園に通っている三年間は家賃の心配する必要は無いってよ。何かと親父とは衝突しがちで親子ながら犬猿の仲といったところだが、こういう面では感謝している。顔を合わせると無表情な親父と、梅干を口の中いっぱいに含んで勢い良く噛み砕いたような表情をする俺が毎年一回は成立するのだがね。
それはいいとして、マンションにいざ住んでみるとなれば普通に一家が不自由なく住める空間を一人で使うのだから九割がたもてあました感じしか否めない。居間にはソファと丸形テーブルにテレビ、普通の居間なら丁度良い住み心地だろうが、周りを見ればぽつんと中央に設置されてる家具。寂しさしか無い、かといってこれ以上居間に置くものも無く、結局寝室があるにも関わらず居間にベッドを持ち込む始末。それでもまだ寂しい空間。残った子供部屋とかどうすればいいんだよ。俺に子供なんていないんだからそこらは考えて欲しかった。
「おい、聞いてるのか?」
利点は口うるさい家族に鬱陶しさを感じていたのもあったからか伸び伸びとしたこの生活が楽しくてたまらない。
多少の不安に含まれていた一つは一人暮らしするにあたって朝飯昼飯夜飯やら母さんが今までやってくれた家事はこなせるかというものも、鈍った体で長距離走を行うに等しいくらい大変だが、母さんがスーパーのチラシを見てにんまりする気持ちが解ったり、激安セールというかスーパーでの小戦争で戦利品を得る嬉しさを味わったりで満更でもない。最近はうんざりしかけているのと料理の腕がなかなか上達せずに苦い顔しつつ食べるってのが現実だが。こうして過ごして解ったのは、レトルト商品は偉大。冷凍庫はレトルト商品で埋め尽くされている。
あんまりそれらに依存するのも自分のためにならないからある程度の食材も確保して三日に一度は料理しているけどね。
「お前によお……うちの奴らは先週からもう何人、いや何十人もやられてんだよ!」
しかし外野が五月蝿いな。
学校に行くべく近道を選んで脇道に入って空き地を横断していたはずなんだが。
「……随分と集まったもんだな」
意識してなかった、こうしてみると俺の周りには囲むように多くの人々が群がっている。人相も悪い連中だ、服装も派手で歩く威嚇射撃みたいだな。それぞれが必需品と言わんばかりに木刀や鉄パイプなどを所持してじりじりと距離を詰めてきているときた。
その中に一人、この連中のリーダー格であろう人物が俺との距離をさらに詰めて足を止めて彼は口を開く。
「ここらの島は俺らのもんだ、勝手に暴れてもらっては困るんだよ」
時代錯誤も甚だしい。
「悪いけど、俺は正当防衛を繰り返してるだけでね」
「正当防衛? 両腕折られた奴や両足折られた奴もいりゃあ入院した奴もいる。お前の名前を出すだけで逃げ出す奴もいるんだぞ? やりすぎだろう」
理不尽だ、小さく俺は呟いた。
彼らは所謂不良、警察の目の届かないところで金を巻き上げたり暴力を振るったりしている。
俺はそいつらに運悪く絡まれて、そいつらは運悪く俺に殴られただけの事。正当防衛であり、悪い奴らを懲らしめたのだから逆に賞賛してもらいたい。この先二度と悪事を働かないようにと少しばかり荒く扱ったが。
「お前らが今まで行ってきた悪事に比べればかすり傷みたいなものだと思うけど」
「ほざけ! やっちまえ!」
話し合いよりも殴り合いを要求しているようだ。
怒号がうねる中、溜息をついて上着のボタンを二つ開ける。
とりあえず視界に入る連中全員の顔がつぶれたトマトにみたいになるまで殴るとしよう。
……。
…………。
疲れた、嗚呼疲れた。
六十三人、今日この場に集まった人数であり俺が殴り倒した人数でもありこれから病院でゆっくり看護婦に治療されて鼻の下でも伸ばす人数でもあり。
「てめえ……!」
おっと、一人数え忘れてた。
残ったのはリーダー格、片手には木刀。
彼は大きく振り上げて声を荒げては木刀を振り下ろした。
その際に俺の前足を踏んで後退できぬようにして、だ。
喧嘩慣れしてるなやっぱり。普通ならこんな戦法など無駄な動き無く出来ようか。
視界がぶれて一瞬、閃光が走るかの如く真っ白。
……避けられなかった。
いや、避ける必要は無い。
「な……!?」
自分にとって適切な対処法は頭突きだったからだ。石頭には自信がある、それもよく頭を殴られたからか頑丈になったっていう経験値がお墨付き。
カラン、と乾いた音が鼓膜をつつく。
折れてしまった木刀はもはや使い物にはならない、この音はその証明と不良の心も折れて諦めたものが含まれていただろう。
戦意喪失の後退、俺は一歩二歩と距離を縮める。
逃げようとしたところで胸倉を掴み、右腕を振り上げて全身全霊を込めた右手で殴りつけそのまま地面に叩きつけた。顎の骨が砕ける音がしたけど、こりゃあしばらくは流動食かな。けれどもこっちは正当防衛だ、頭を木刀で殴ってきたんだからそれ相当の反撃は覚悟してもらわなきゃね。
……さて、静かになった事だし学校に行こうか。
五月十二日、月曜日。
ゴールデンウィークが過ぎた数日間はいつもよりも倦怠感が増して睡魔も目蓋にぶら下がっている状態が続いて嫌になる。
朝から激しい運動をしたのでそりゃもう疲労困憊。これから授業と考えればそりゃもう過労死まであるね。
『――で起きた殺人事件の犯人は未だに捕まっておりません。以上、ニュースでした』
携帯電話の機能でテレビを見てみるも欝な報告ばかり。少しでもこの倦怠感と睡魔を解消しようと思って見てみたが逆に気分が落ち込む。世の中、朝から悪いニュースは一つも無しっていう日は来るのかね。
一人で携帯電話片手にしているのもなんだか寂しい、そう思って教室を見渡すと生徒達はそれぞれグループを作って楽しそうに話をしている。
俺の周りには人っ子一人いない、一応友達はいるがさすがに一人という数字は少ないのは解っている。こういう新しい環境で友達を作るのは苦手だ。克服できない不安要素だがこうなる事は想定内。
もう自己紹介の時点で俺の友達作りは終了したと言っても過言では無い。
自分では自覚していなかったがどうやら俺は悪い意味で有名らしく、名前を出した途端にクラスのほぼ全員が顔を引きつり、男女共に視線を机に落としては俺が視線を送るたびに着信拒否するように視線を決して合わせてくれない。
今も奥に集まっているグループがひそひそと話し合っているが耳を澄ませばなんとか声は拾える。「赤鬼がこっち見てるよ……」「俺、何か悪い事した?」「皆、俺今日死ぬかもしれない」なんて囁いていた、こっちは何もしてないのに臆されていると理不尽だとかしか言えない。
教室に入るだけで生徒は俺を一瞬だけ見て視線を落とすし、凶悪犯罪者かなんかと勘違いしてないかこれ。そりゃあよく喧嘩はするけどそれはただの喧嘩なだけで誰もが一度は経験するものだと思う。俺の場合は何故か何十人という規模だけど襲われたから反撃してるだけだ、俺から理由も無く喧嘩を売っているのでは無い。
それなのに生徒達は毎日笑いあったりしている朝の時間、教室に俺が入ってくれば今日はもう閉店ですなんていう雰囲気を醸し出されると俺がお前らに何をしたと言いたい。
言えば言ったできっと現状は悪化するのでここは黙っているけど。
けど……あまりに理不尽だ。
「明人……また喧嘩したでしょう」
こういう日は机に突っ伏すに限る、なんて思ったところで肩を掴まれて阻止される。
顔を上げると一人の少女が眉間にしわを寄せて立っていた。
幼さ残した綺麗な卵形の顔のライン、前髪が少々遮っているがつぶらな瞳は魅惑を秘めているように輝いている、まるで水晶。整った目鼻の配置はバランス良く、思春期まっしぐらの男子なら一目見れば誰もが心臓の鼓動を跳ねてしまうね。
うざったいくらいに伸びている前髪から覗く瞳はどうにも目が離せず、時々そのゆらゆら漂うように靡き瞳を遮る前髪を切ってしまいたくなる。
しかしながら今は啄ばまれるような危うさ、威圧感に似た雰囲気を醸し出して油断すれば噛みつかれそうだ。
「運動してただけだが」
「返り血を浴びる運動なんてどこにあるの?」
「ボクシングとか空手かな」
「そ、そうね。いや、そうじゃなくて……」
こいつをからかうのは楽しい。
彼女、桐生円とは幼少時代からこんなやり取りを繰り返している気がする。
馬が合うのか、このやり取りからでは馬が合うなんて微塵も要素が無いしよく口喧嘩もする。
口喧嘩したら次の日にまた口喧嘩してるの日もある。不愉快になっても無視し合わないし普段通りにこうして毎朝接触。内気な円が俺にはこうやって濁流の如く口を開くのも考慮して、一応馬が合うって言えると思う。
中学卒業間近には隣町の凪比良学園に入学が決まって円とはもう話す機会も無いだろうと思っていたけれど、結局彼女も凪比良学園に進学とは腐れ縁もいいとこだ。こうして俺達は毎日口喧嘩の平行線を沿って過ごしている。
「別にお前が気にする事でも無いだろ? それに俺は悪い奴を懲らしめてるだけだ、褒めてくれたっていいじゃねえか」
「懲らしめる? 明人はただ人を殴りたいだけに思うけど」
ふむ、図星である。
サンドバッグを叩けば気分が晴れるのと似ているかも。
「お前は甘いものを食べたいと思ったときに目の前にケーキがあったらどうする? 食べるだろ? それと同じことだ」
「違う、違うわ……絶対それとは違うと思うの。だからもう人を殴るのは止めようよ」
「ならお前はケーキを一生食べるなよ?」
むむむ……彼女はそうやって口篭る。
悔しそうにスカートの端を両手で握っては体を小刻みに震わせていた。怒ってるねえ、面白いなあ。
くだらない屁理屈を我侭に言ってるだけなのは承知の上。
それでもこうやって真剣に説得する彼女を見ていると何故か口からは屁理屈しか出てこない。
「あらら、またやってる」
すると、教室に入ってきた少女は隣の席に座って溜息混じりで声を漏らした。
時刻は八時三十分間近、担任の木崎なる美人教師が壇上に上がるまで数分ってとこ。まったくいつも遅刻するかしないかの境界線を跨ぐような時間帯にやってくる奴だな。
「おはよう、道房」
「おはよう。あんまり円をいじめるのもよくないと思うよ?」
と言いつつ微笑を溢している少女、道房静枝は俺達の口喧嘩を見て楽しんでいる気がする。
彼女は凪比良学園に入学して知り合えた友達であり接点は俺の隣の席ってるのと、円との知り合いだった事だ。二人目の友達はいつ出来るのやら。ちなみに円は友達というよりも目の上のたんこぶに分類され、数字も一人ではなく一個と数えている。単価としては九十円(税抜き)くらい。
「わかってるけど、面白くてね」
「僕もそれは否定しないけどさ」
「え? 私いじめられてるの? 面白がられてるの?」
俺と道房へ視線を交互に送って、両者にやついた顔に自分は遊ばれてる感を得ては頬を膨らませる円。
スカートの端はこれ以上伸びると弾けますと訴えんばかりにピンと張り詰めていた。
「そういえば明人君、噂になってたよ。今日は朝から不良五十人ほどをボッコボコにしたらしいね」
妙に冷たい視線を送られていたのは朝の喧嘩が原因のようだ。
「正確には六十四人に襲われたから正当防衛を行ったまででね」
「正当防衛で六十四人が病院行きってのもやりすぎな気がするけど……」
しかし人数が人数なので手加減は出来なかったが、やりすぎたところで不良が街から一掃されるのだから別に良いとは思うのだが。
「そうよ、明人は正当防衛という便利な言葉を盾にして暴力を振るってるだけ」
彼女の細く艶やかな指先は俺の鼻に。
爪が当たって少し痛い。
「あーあーうるさいなあ。はいはいそうです、俺は暴力振るいたいだけですよ」
「開き直らないで……」
確かに正当防衛を利用して人を殴って快感に浸っているだけかもしれないが、反省するつもりも無いし止めるつもりもないね。
しばらく円の説教をくらいつつ早く予鈴が鳴ってくれないかと時計を見た。
同時に、予鈴が鳴ってまだ言い足りないと言いたげに眉間を歪める円は俺が手を小さく左右に振って見送っている様子に悔しがりながらもようやくして離れては二つ隣の席へと着席。
「はい座ってー」
笑顔が眩しい木崎先生は教室に入るや快活な足取りで教壇へ。
そこはかとなく男子生徒の背中と視線には高揚感が滲み出ている気がする。
俺はまったく興味無し、男子は皆同じとは思ってほしく無いね。いや、女には興味が無いという意味では無いので勘違いして欲しくないが、俺の好みでは無いと言っておいたほうが正しいかな。
出欠を取って今日は特に言うことも無いのか、頑張ってと一言言われて終了。こういうのが木崎先生の人気へと繋がると思われる。ホームルームを終えて授業が始まるまでの僅かな休憩時間にて俺は瞳を閉じて夢の中へ。
その後は目が覚めれば昼休み、昼飯を食べて睡魔に襲われて気がつけば全ての授業が終了、一日はあっという間だ。
俺の一日なんてただただ退屈を詰め込んだ缶詰みたいなもの。刺激が欲しいから喧嘩という缶切りで缶詰を弄繰り回しているだけ。
残すところ後は帰るだけとなった放課後。
「も、最上下君……ちょっと時間頂けるかしら?」
終礼してすぐさま声を掛けてきたのは木崎先生、震えた声はどうしたものか。
「ええ、まあ……いいですよ」
「なら生徒指導室に来てもらえる?」
俺は咄嗟に道房を見た。
道房は首を左右に振って必死に否定を表現。
その奥で口元を緩ませて溜息をついている円の様子からして告げ口はしていないようだが予想通りだねとか聞こえそうな皮肉含んだ溜息に思わず俺もつられて溜息をつく。
彼女は溜息の後に、
「貴方の言う正当防衛とやらで生徒指導室に呼ばれるのはどういうことなのでしょうね?」
などと胸を張って口元を緩ませるだけでは飽き足らず満面の笑みに近い表情をして円はそんな棘のある口調で言う。
ふふん、と最後に鼻で軽く笑われるとちょっと憎らしい。
「きっとよくやったって褒めてくれるんじゃねえの?」
「そんなわけないでしょ。反省して」
壁に手をついて反省のポーズで円をからかった後にて叱咤されつつ俺は生徒指導室へ。
生徒指導室ってことは朝の喧嘩の件に違いないが、告げ口した奴なんて別にどうだっていい。ただ帰る時間が遅くなるとなれば愚痴の一つでもぶつけたいが、文句を言わねばならぬ相手が解らないとなればこの心に渦巻くもどかしさはどこに吐き出せばいいのやら。
……結局のところ根本的な原因を辿れば俺が朝に喧嘩したのがいけないのだけれど――が、しかしだ。同じ学校の生徒が告げ口したのなら俺は同じ学校の生徒なんだから見逃してくれたっていいじゃないかとだけは言いたいね。
さくさく終わらせるには真面目な感じを装おう。
生徒指導室の扉を開けるとそこには眼鏡を掛けた男性教師が一人、望月先生である。
「やあ、最上下君。今回で七回目だね」
見た目は若いが既に歳は四十を跨ぐとか。生徒の評判は良いし木崎先生と一、二を争う人気者だ。
「ありがとうございます」
「ああ……いや、褒めてるわけじゃないんだけどね?」
苦笑いに合わせて笑みを溢しそうになるがここは表情を崩さず中央に置かれた椅子に着席。
「最初は確か……そう、この学校で素行が良くない生徒に暴行を加えた件でだったね」
「ええ、そうです」
「その後は街の不良に大乱闘、以降はその繰り返しだったかな」
「はい、そうです」
「今日も朝からすごかったらしいね、五十人ほどとやり合ったとか」
本日二度目であるこの質問、何故勝手に五十で区切るのやら。
「正確には六十四人です」
誤差は十四人、たったそれだけなのに先生は口をぽっかりとあけて苦笑いの度合いが増した。五十人ほど、それはどうせ大袈裟に扱われた数字だからもっと少ないだろうとでも思っていたのかも。
「うちの学園はさまざまな部があるけど、どうだろう? 部活動に専念してみるのは。空手部もあるし柔道部もある。君の才能を活かす場は整っているよ」
部活動……ね。
そんなものをやるよりならば真っ先に自宅へ帰ってごろごろと過ごしたい。
何より俺を引き取ってくれる部がどこにあるというのやら。そりゃ入学当初はバスケットやサッカー、テニスや野球等々に惹かれて体験入部期間ってのが二週間ほどあったのでこれらの部活にお邪魔したのはいいものの、バスケット部にて最初の生徒指導室へご案内される件へと繋がる結果に陥ったわけだ。
その後はどの部に行っても狂犬扱い。半径一メートル以内に見えない防御壁でも設けられてるかの如く誰も近寄らない、話しかけない、目を合わせれば逃げ出すの三拍子。
だから今更部活動に専念してみてはなんて言われても俺は「先生、バスケットがしたいです」や「テニスの王子様になりたくて」とか「巨人の星になる!」なんて口にするとでも思ったのか。
「考えておきます」
兎に角この話はおしまいにしたい。
こういう時にこの一言が役に立つ。保留にしつつ時間が経過すれば自然と有耶無耶にしてくれる言葉。
結局、お咎めも無く今日のところはただ話をするだけで終了。時間にして数分ってとこ。長引かなくてよかった。
流石に警察沙汰にでもなるのかと思ってたが今日は、いや今日もが正しい。自分でも今日は大事を仕出かしたとは思うが、望月先生と話をして終了となるときっと親父が裏で圧力を掛けてるに違いない。
それだけ俺の親父はすっげえ存在でたとえ六十四人を病院送りにしても悠々と俺は欠伸をしつつ過ごせる。
どら息子、まあそうだね。この烙印が押されてるからこそあえて胸を張って好き放題やってくさ。
「おい、そこの君」
さて帰ろうと右足踏み出すこと一歩目にて二歩目の阻止をされた。
振り返れば腕を組んで偉そうな女子生徒が仁王立ち。
「ああ……えーっと。さいじょーひでこさん?」
「西の院の城と書いてさいじょう。美しいに菜の花の菜に子供の子で美菜子。生徒会長・西院城美菜子だ、と説明するのは何度目であろう」
くどい説明ありがとう。
丁寧に漢字まで教えてくれるのは実に解りやすいがあんたの名前を漢字で書く日など来るもんか。
「またお咎め無しのようね、おめでとう」
乾いた拍手を送られてもどう反応していいか困る。
「俺が生徒指導室から出るたびにお出迎えとは暇なんすね」
「暇なものか、放課後とは貴重な時間だからな。今この経過している時間さえ惜しいが、君が何度も揉め事を起こすからこうして私が直々に注意せねばと足を運んだのだよ」
最初は呆れたと言いたげな視線が、終盤には憎らしいと言いたげな視線へと変わっていった。
「君の親がどれほど偉いかは知らん、教師は顎でも殴られたような足腰で君には何も言えんだろうが私には関係無い。だから言うのだ、いい加減にしろとな」
どこからともなく男子生徒が現れて駆け足で生徒会長の下へ。
光が生徒会長を表すとしよう、その男子生徒はまったくその逆の闇って感じで不気味だ。一応、生徒会の役員であろうがそうだとしたら無闇に生徒会の仕事である悩み相談にも伺えないね。彼を見たら心が萎えそうだ。
そしてよく見ると男子生徒の手には竹刀、随分と慎重に扱って彼女に手渡される。
「……生徒会長は剣道部に所属してるんでしたっけ?」
「いいや、所属はしていないが両親が剣道の道場を開いているから物心ついたときには竹刀を握っていたよ」
なるほど、構えられてなんだかすごく様になってると思ったらそういう事ですか。
男子生徒はそのまま生徒会長の長い黒髪を後ろに結って奥へと隠れる、何なんだあいつ。
「ちょ、ちょっと西院城さん。生徒会長が揉め事を起こすのはよくないよ?」
あれだけ声を荒げていたので廊下に声は響き、生徒指導室から望月先生がご登場。
生徒会長の声はそりゃもう当然筒抜けなので事情もある程度把握している様子。
さらには生徒達がいつの間にか距離を置いてこちらをじっと見ている状況に。囁き声が背中に突き刺さるが、耳を傾けるまい。
「しかしですね、一太刀入れねば気が済みません! 先生も知っているでしょう? 彼の暴君ぶりを、生徒達は血の赤に彼の印象から赤鬼とも呼んでるくらいです」
「ちょっとその呼び名は酷いな、チェンジで」
「いや、今は呼び名とかじゃなくてだね最上下君」
慌てふためく望月先生にはこの場を収める手腕も見込めない。
ここは一太刀とやらを受けてさっさと帰るとしよう。大丈夫、怪我はしてもすぐに治る。まあ、痛いには変わらないけどね。
「覚悟せよ!」
こんな状況、本日二度目。
最初のほうが凶悪だったけど、どいつもこいつも俺の頭を狙うのが好きだね。それくらい叩きやすい頭ならいっそのこと芸人がつっこみをする練習台にでも利用してもらおうかな。
くだらない事を考えているうちに、竹刀は振りかざされる。
歯を食いしばってこれから受ける痛みを我慢する準備をした。
風を切る音、衣擦れの音、それらは一瞬にて混ざって鼓膜に届いた時には頭部に視界が激しく揺さぶられるほどの衝撃が響く――と思いきや、こつんと軽い衝撃が頭に。
迫る竹刀に堪らず目を閉じていたが、目を開けてみると生徒会長は竹刀を下ろして溜息をついていた。
「とは言いつつも、生徒会長としてこれが限界だ」
背中を向けて、肩を落としては少し猫背になりつつ陰にいた男子生徒に竹刀を渡す生徒会長は無念そうに歩数を刻む。
野次馬が一斉に「また赤鬼か?」「なんで処罰しないの?」「私あの人怖いわ……」というもはや聞こえるように言ってるだろと訴えたくなる言葉の暴力が背中を突いてきて肩身が狭い。振り返れば蜘蛛の子みたく散っていってあっという間に一人ぼっちときた。なんだよ、野生の猛獣じゃないんだぞ俺は。
「君よ、気をつけて帰りなさい」
最後にそう言い残して生徒会長は廊下の奥へと消えていった。
まったく……予想外の時間ロスだ。
教室に一度戻って鞄を回収、すぐさま帰宅だ帰宅。
「明人、見てたわよ」
「なんだ、まだ帰ってなかったのか?」
そこへ遮るように現れた円、部活もしてないはずだし何をしているのだろう。
道房は? と聞くと用事があるから先に帰ったとか。となれば一人で帰るのも寂しいから一緒に帰ろうという魂胆か。友達の少ない奴、って俺も言えた義理ではなかったりする。それに円が友達が少ない原因としては俺とよく話しているからであろう。
それでもこうして俺と向き合うこいつは、よく解らないな……。
ふと何故か微笑んでいた円はしばしその表情を崩さずにいた。
何だよ、嬉しそうに緩んだその口元は。吊り上げてやろうか。
「痛い痛い痛い! 吊り上げないで……」
実際吊り上げてみると鼻で笑っちまう阿呆な顔になったのでしばらく観察。
やわらかいほっぺただね、すべすべして触り心地がいい。
「せっかく待っててあげたのに酷い……」
一緒に帰るつもりなのかね、別に構わないけれども俺の住むマンションはすぐ近く。
歩いて数分ってところにあるのだから一緒に帰るとしてもすぐにお別れである。
「頼んでもいないんだけどな。まあお疲れさん」
「本当に明人って性格ひん曲がってる……」
「そりゃどうも」
なるべく足早に俺は学校を出た。
歩幅の違いからか、遅れ気味の円は速い速いと文句を背中にぶつけるが関係無い。
「俺と一緒にいると不良に絡まれるから距離を置け」
今日は朝の件もあったんだ、報復をする輩がいるかもしれないし、俺は非常に目立つらしく普通にしていても喧嘩を売られるのが日常茶飯事。何だよ、目つきが悪いってか?
「別にいいじゃない、今の時間帯は人も多いしこんな公衆の面前で絡んでくるのも珍しいと思うわよ?」
それもそうだな。
今日はいつもより帰る時間がずれたから夕焼け照らすこの時間、疲れた顔したスーツの青年やらスーパーでこれから小戦争だと意気込む主婦やら、警察官も巡邏して帰路は賑わしい。それに比例して俺に向けられている視線もそこはかとなく多い気がする。
「それで、わざわざ一緒に帰るなんて何か俺に用でもあるのか?」
「用が無ければ一緒に帰っちゃ駄目?」
開きつつあった距離を彼女は急激に縮め、肩を並べては頬を指で突付いてくる。
別に、と一言だけ言って俺は歩幅を広げた。
速い、と一言だけ彼女は言ってついてくる。
マンションは差し掛かった信号を渡ればもう目と鼻の先。
それなのに円は俺の袖を引っ張って強制的に方向転換させた。早く家に帰りたいのに、結局用があるんじゃないか。
「暇だから話でもしない? ちょっと遠回りでもしようよ。それにこっちはなんか嫌」
これだよ。
いつも円は唐突に我侭を言う。
そんでもっていつも付き合ってやる俺は円以上に暇な奴かもな。実際俺の放課後の時間の使い方なんてまったくの皆無。寄る場所も無く、寄るとすれば不良に絡まれてそこらの公園か空き地に行くくらい。別に喧嘩は構わないがだらだらと連れ込まれるのが面倒だからマンションへ直帰、マンションについたらごろごろして夕飯の時間になれば飯を食べてまたごろごろ。
信号は青になっても横断歩道は渡らず、帰路は些か変更。
時に、円の勘は良く当たる。
俺は円がどうしようもない世間話をしてる間、傾ける耳は後方の横断歩道に向けていた。気味が悪いくらい良く当たりやがるんだ。
角を曲がる時でも、円が手を引いて方向を変えてくれると角から自転車が飛び出してきたり、くじ引きなんか円がやれば百発百中。
数歩の後、地面を削るようなブレーキ音と金属同士が潰し合う破壊音にガラスが割れる音、それらが同時に耳を劈いた。
「ねえ、事故だよね事故……」
円は両肩を縮めてしばらく事故現場へ視線を送り続けた。
ハンドル操作を誤ったのか、車両が歩道へ飛び出してきて建物の角に衝突。運転手はエアバッグに埋もれているが無事のようだ。助手席には誰もいないのが見られる、軽傷一名ってとこ。通行人の巻き込みも無く悲惨な事故には繋がらなかった様子。
そうだな、と円に一言だけ言って俺はすぐさま踵を返す。ある程度予想はついていたからそれほど驚きはしない、ただ背筋に冷気が走るのはあそこを普段通り歩いていたら車両と建物にサンドイッチプレイをされてた事だ。命の恩人だと称えるのが筋だけど、円は意識してないのだ。心の中で感謝しておく。口に出すのは何だか照れるんでね。
「誰かが救急車呼んでくれると思うし大丈夫だろ、帰ろうぜ」
「明人は冷たい!」
「このご時世、熱い奴より冷たい奴のほうがいいさ。解ったか馬鹿、阿呆、チビ」
肩をぽかぽか殴られた。
円は暫し心配そうに凹んだ車両を見つめるもその隙にと歩数を刻む俺に気づいて慌てて追いつく。
「おいてくなんて酷い!」
「誰が待つかよ」
なんて言葉を投げつけても追いつけるようにと短く歩数を刻んでいたり。
そうしている内に遠回りしてもそれほど時間はかからずマンションに着いた。
少し寂しげにマンションの前で両手の人差し指を絡ませている円は上目遣いでこちらを見る。気になるものでもあるのか、俺が右へ動くと彼女の視線も右へ。左へ動くと彼女の視線も左へ。嗚呼、俺を見てたのかよ。
「……入るか?」
こくりと頷き、円は微かに浮かれた歩調で歩み寄る。
例えば、例えばの話だ。
一人の少女がいる。その少女は高校を凪比良学園に進学せよと強要され、更には今まで住んでた自宅ではなく学園と同じ都市内にある本家から通うよう言われて毎日強面が囲む生活を強いられているとなれば放課後にて後は帰宅するだけの時間、果たして歩数は何の抵抗無く刻めるだろうか。
そんなの少しくらい我慢すればいいだろ、なんて言葉を投げつけて一度どんなものやらと彼女が帰宅するのを観察したことがあったが、平たく言えばヤクザもどきに囲まれながらの帰宅。これだけで萎えるなと思いつつ軽はずみな言葉を投げつけたものだと自分に叱咤したくなった。
この時点で彼女の生活は見ずとも簡単に想像できたのでこうして俺は手を差し伸べた。
堅苦しい家に生まれたものだ、だからこんな内気な性格になったのかね。御三家と呼ばれた家柄の関係上、幼少期から付き合いも多く何度か顔を合わせていたが思い返せば手厚く扱われすぎてこうなったとも考えられる。というか強面に囲まれ続けられると誰でも内気になるか。
そんでもって俺は円に晩飯を作らせる。付け焼刃丸出しの俺が料理をして円に微妙な顔をしてもらうのもあれだし、その後は自分も食べなければいけないので二つの意味で美味しくない。
つまりこれは色々と疲れる事が重なって今日は晩飯を作るのがだるいから円を使おうとかではないのだ、言い訳みたいに聞こえると思うが。
しかしながら円の作る飯は美味い。
今日のは炒飯と味噌汁に玉子焼き。実に和風で締め括られているが、ただ単に冷蔵庫を開けてみれば素材不足だっただけなのだ。冷凍庫はレトルトの宝庫だけどね。冷凍庫を開けた円は随分と引きつった表情をしていたが、見なかった事にしよう。というか、円も見なかった事にしてください。
そうして暫し余韻に浸りつつ時刻は七時過ぎ。
「そろそろ帰るね」
「ああ、送っていくよ」
「別にいい、きっと使用人が何人か探してると思うから」
そうだったな、円の家の門限は六時。
既に門限が過ぎているとなると蟻の数ほどいる使用人が街を徘徊して円という餌探しを始めているに違いない。
以前に一度だけ遠慮する円を半ば強引に送った機会があったが使用人に囲まれて散々な目にあったのでここは見送るのみにした。
部屋に戻って後はゆっくりと明日を待つのみ。趣味も無く暇な毎日を彩ってくれるのは喧嘩くらい、切ないね。
でも円が構ってくるのでそれなりに楽しい。
なんだろうなこの気持ち。
いや……そんなわけねえ、絶対に違う。ああ、絶対にだ。俺はもっとこう、ぼんきゅっぼんで同年代、色気の塊みたいな女性が好みであってだな。あいつとはただの腐れ縁、それだけの仲であってこうして俺が部屋へ何度か誘うのもあいつに同情しているだけ、他意は無くただそれだけ。
……止めだ止め。
満腹で眠気も押し寄せてきたし少々早いがやる事も無し、今日のところはもう眠るとしよう。まったく、俺は何を考えてるんだか……。
まどろみ数分、意外とすんなり夢の中へ。
窓からは陽光が差し込んでいて、目蓋の裏を刺激しての目覚め。
随分と眠ったな、最近無意味にテレビを見たり本を読んだりして夜更かししていたに加えて喧嘩も多かったからか積み重なった寝不足と疲れを一斉返済した感じで体が軽い……と感じるはずがやけに倦怠感が背中に染み付いていた。
それにいつの間にかベッドからソファに移動して、まさか学生服を着て眠っていたのはさぞかし自分は寝ぼけていたらしい。それが倦怠感を巻き起こしているのかね。眠りながら学生服を着て、尚且つソファまで移動しているとなると自分は夢遊病かと不安になるな。
横目で床に転がっている少々凹みがちな目覚まし時計を見ると、同時に目覚ましのアラームが鳴り出したので俺は止めを刺すように拳骨を食らわして倦怠感を引きずったまま朝食やら摂って学校へ。
教室に入るといつもの視線が押し寄せ、そのうち豆を投げつけられて鬼は外とか言われるんじゃないかと思わせる雰囲気。
続いてその雰囲気は重みへと変わり、毎日グループ同士で談笑している生徒達の口数はやけに少なくなる。今日はいつもよりも雰囲気がどんよりしてるんだが理由など聞いても逃げられるだけ。教室内を一瞥して自分の席へ、と向かった時に妙なものが移りこんだ。
窓側の一番後ろが俺の席。その隣が道房、そして道房の隣が円。
ああ、合っている。
確かに道房の隣が円の席、円の席で間違いない。珍しく先に来ていた道房も既に着席してるから間違える要素など何一つ無い。
その机には花瓶が置かれて綺麗な花が挿されている。何の冗談だろう、実に悪質。再び教室内を一瞥するが誰も視線は合わせず、先ほどよりも静謐が付加されて空気が痛くすら感じる。
「なあ、道房。これは何の冗談だ?」
道房は机に視線を落としてその空気に侵食されていた。
「え……? いや……明人君、もう解ってるでしょ?」
「何がだよ、説明してくれ。円の机に花瓶を置いて、これが冗談だっつうんならまったく笑えねえよ」
道房はじっと涙を浮かべて俺を見てくる。
何だっていうんだ、この状況。
「もう……現実から目を逸らさないで。円は……三日前に事故で死んじゃったんだよ!」
「……あぁ?」
もう一度、もう一度だけ言って欲しい。
「だから……三日前に死んじゃったの!」
……三日前?
先ず今日は五月十三日だ、三日前は五月十日。昨日に円と一緒に帰ったばかりなんだからありえないだろうそれは。ひょっとして皆して俺を騙そうとしているのか? だったら普通に怒るぞこの野郎。
道房とのやり取りで生徒達はこっちを見てくるが、やけに悲しそうな――まるで同情するかのような視線を投げつけてくる。同情しているとしたら何に同情しているのかを伺いたいね。
「三日前って十日じゃねえか」
花瓶をどかそうと手を伸ばそうとした時、
「違うよ、十二日。だって今日は十五日じゃない……」
俺は思わず手を止めた。
なんだって……?
いくら俺の知能が中学時代には進化を止めて退化を始めたからといって昨日の今日で日付を間違えるはずが無い。
「だから十五日だよ、明人君。認めたくないのは解るけど……」
携帯電話を開いてみる。
確実に日付を確認できる身近なものといったらこれだが……。
そこには5月15日と表示され、どの角度で見ても、しばらく見ても15日。狐につつまれた気分ってのはこういう時なのか、わけもわからず俺は次に道房の携帯電話を奪い取って日付を確認。胸ポケットに手を突っ込むのは朝から自分でも大胆だと思うがそれどころではない。その結果、画面の数字は変わらず今日は十五日と如実に語っていた。
状況を理解できずに頭の中は真っ白。教室に木崎先生が入ってきたので無意識に席へつき、同情こもった道房の視線を浴びつつ今日の授業が開始した。
一時限目から全ての授業が終了するまで俺は席を立たず、いや――席を立てずに頭の中を整理。どう考えてもおかしい、今日が十五日だなんて明らかにおかしいのだ。皆が俺を騙そうとして練った手の込んだ冗談とも考えられない。俺の携帯電話の機能に小細工なんて出来るはずが無い、俺が道房の携帯電話を取り上げるまでも予測して彼女の携帯電話にも小細工するのも不可能だろ。どんだけ手を込んでるんだよ。
今日は十五日だと考えたところで、十三日と十四日はどこにいったのやら。
記憶にも無く俺がはっきりと覚えてるのは昨日は十二日で円が晩飯を作ってくれて、その後は就寝。それだけだ、記憶するに難しいものでは無い。ただ目が覚めたら今日は十五日と道房は言っている、周りが醸し出す雰囲気も携帯電話の表示も然り。
どこを見ても日付という日付には十五日が記されていると流石に頭が痛くなってくる。周りがおかしいのか、俺がおかしいのか。どちらが正しいのやら、多数決では圧倒的に俺が大敗を喫するのが納得いかない、納得できるものか。
「明人君……その、今日は葬式が夜にあるから」
誰のだよ、と言いかけたが言葉を喉で止めて引っ込めた上で俺は小声で承諾して首を小さく縦に振った。きっと三日前に亡くなったらしい円の葬式、実際信じられないし納得も出来ない心情で、もし素直に喉から誰のだよとか飛び出たら道房に同情をふんだんに込められた視線を送られるに決まってる。
その帰り際、道房の左手に包帯が巻かれているのが目に入った。
今更ながら気づいたのは彼女が妙に左手をポケットに入れていたり、陰に隠すのが多々見られたからだ。
「その手の怪我はどうしたんだ?」
すると彼女はさっと手を引いて陰に隠した。隠すのを忘れていた、そんな仕草。
「あ、その……ほら、昨日見てたじゃない」
「昨日……?」
混乱してくるな。
俺にとっての昨日は十二日、彼女にとっての昨日は十四日だと思われる。
「見てないの?」
何が? と質問の意味も解らず答えると、
「なら……いいけど。じゃあ今晩迎えにいくから、一緒に行こうよ。ではでは、この後ちょっと用事があるからお先に」
彼女はそう言って踵を返し、些か歩数を刻んでは意味深に俯き、歩数を刻み直して教室を出て行った。
暫しの時間が経過し、赤い夕焼けが沈みかけている夕方六時半にて。
制服に着替えて窓際へと寄り、外を眺めて考える。
今日は十五日で、円は三日前に亡くなっていてこの後に葬儀。
やはり何度考え直してもおかしい、自分の頭ではなく周りがだ。でもそれを証明する事など出来ず、理不尽にも俺の頭がおかしいと決定付けられるだけ。
俺にとって昨日である十二日に円は亡くなったらしいが、十二日に円は俺の家で晩飯を作ってくれていたのだから円は帰宅中、もしくは帰宅後に亡くなった事になる。もしもあの時俺が円を送っていれば、こうはならなかったかもしれない。
そろそろ道房の奴、来るかな。
制服のままソファに横たわるのもしわになりそうで嫌だし、時間を持て余しかけていた時にようやく呼び鈴が鳴った。
扉を開けるや飛び込んできたのは同情をふんだんに込められた道房の視線。まだその視線を止めないのかよ。大丈夫? なんて言いたげに顔色を窺い、小さく安堵の溜息をついてくる。
「なんだよ」
「いや、別に何でもないよ」
些細な気遣いが逆に些細な苛立ちを呼び込んでしまうが、この感情をなんとか抑えて道房の先を歩いた。
円の家なら解っているし、後ろを歩いて連れられてると思われるのも癪だ。
これから向かう桐生本家、多分この街では知らない奴なんていないと思う。広いと括れるほどでは無く広すぎる庭を囲う白を基調とした塀はどこまで続くのか歩くだけで一時間は余裕で掛かるであろう。なので正門の位置はしっかりと把握していないと強制的に長距離走をさせられる。他に裏門といくつかの小門があるにはあるが、いつも閉じられているので開かずの扉と化してしまっている。時々、中から強面の黒いサングラスをかけた男性達が出てくるのを見たと道房は言っているので一応開くには開くらしいが、裏門だとか小門だとか、今日正門から入るに限るのでどうでもいいけど。
街を抜けてすぐのところで塀が見え、既に周りは喪服や学生服が目立ち始めた人の流れと共に塀を沿っていくと正門が見えてきたのでここは歩数を縮めて道房を先に行かせた。既にクラスメイトや先生達がいたのだ、俺が先に行けば逃げるか怯えるか葬式よりも沈んだ空気の三拍子になる、それよりも道房を先に行かせて仲介役として活かすのが最適。
周りを見ていると多くの生徒が来ていたが、生徒会長は不在のようだ。都合が合わなかったのか、どうであれ顔は合わせたくないね。あの人は何だか苦手だしさ。
正門の前は黒塗りの車両が列になって大富豪ご一行様ご案内といったところ。数え切れない多くの人々が正門へ入っていく。中にはテレビで見た顔もちらほら。うちの親父も御三家最上下の代表として来ているだろうが、会う気は無い。連絡取り合うほど仲は良くないし、むしろ会った瞬間に舌打ちでもしてしまうかも。
クラス一行と合流したものの、一応周りに気を遣って少し後ろを歩いて流れに身を任せた。
流石に桐生本家の中は広い。家は知っていても中へ入ったのは数える程度しかなかったが、幼い頃の記憶ではもっと広く感じたけど成長した今でも尚広い。中庭は木々や池がいくつかあり、今日は特に人が多いためか開放している様子。多くの老若男女が喪服で場を染めて綺麗な中庭もそこはかとなくどんよりとしている気がする。何だろう、重い空気と雰囲気がそう感じさせるか。
葬儀場として設けている場所は一度中庭を通って、その先にある離れ。
中にはもう何十、いや百を越える人々が席についていた。こういう場は慣れていないので心臓の鼓動がゆっくりと脈動していく。緊張もあるが、これから待ち受ける現実に脈動し始めているのかもしれない。
着席して間も無くに葬式は始まり、進行する毎に一人また一人と涙していく。道房もその一人で、俺はただただ沈黙し続ける。
……桐生円は亡くなった。
会場に広がるこの雰囲気が、円の笑顔が写された遺影が、涙する皆の声が全てそう語っているのに何一つ実感が沸かない。御焼香を済ませて席に着き、気がつけば葬式は終わっていて皆席を立ち始める。
遅れて席を立ち、あえて歩数を遅めの短い間隔で刻んで群から距離を取った。遺族の方には遠くから会釈をする程度で終える、忙しいだろうし積もる話も特に無い。逆に話をしても涙を誘って逆効果になりそうだ。後は親父と母さんに任せるとする。
正直、周りの感情についていけない。
十二日が終わり、目が覚めれば十五日。自分だけ置いてかれたような現実。その間に円は亡くなって、気がつけば葬式。
そうだ、こう考えよう。
俺は円の死を知って現実逃避し、記憶もすっかり欠けてしまったのだと。
クラスメイトは帰路につく中、道房は一緒に帰ろうと言うが後ろで道房と仲の良い女子生徒ら(同じクラスメイトだが名前は知らん)がどこか臆した瞳で固まってたので彼女達と帰るよう言って別れ、俺は正門を出てしばらく塀に寄りかかって風に当たる。五月の夜風は微かに肌寒いが、心地良い。
ふと頬に、冷たいものが一滴撫でるような感触。
雨でも降り始めてきたかな。
頬を拭ってみると微かなぬくもりを宿した雫が指に触れた。
それを辿ると自分の左目に。
泣いてる、多分……俺は泣いてる。
人生で数える程度しか泣いた記憶の無い俺が、泣いてる。不思議だ、この感情はいつ以来かも解らない。
そうして時間を忘れてずっと俺は塀に背中を預け続けた。
耳を澄まして会話を拾うと「事件に巻き込まれたらしい」「門限を破っての帰宅途中だったようだ」「犯人は見つかってないんだね」「妹も失踪中だしな」など様々な情報が入ってくる。そういえば、円には妹がいたな。数年前に突然居なくなって当時は大騒動、結局見つからずに今に至る。
同時に円が亡くなった原因は俺にあると把握。
あの時、俺が円を家まで送っていたらどうなっていただろう。
むしろ先ず家に招き入れなければ円は門限を破る事無く日が暮れる前に帰れたはず。それならば人通りも多いし襲われる心配も無かったのだ。
円の死は俺が招いた、それは揺るがぬ事実。
後悔しても時間は戻らない。
……もういい、帰ろう。
ここにいても何かが変わるわけでもなく、変えられるわけでもない。ただただ後悔が体を蝕むだけ。
今まで背中を預けていた塀からようやく離れ、俺は帰路に。
その時、正門を見つめる一人の女性に視線が移った。後ろ髪が腰まで伸びる特徴的な長さの黒髪は夜光に照らされて艶やかを強調し、その髪に見合った大人びた顔立ちの女性、だけど目つきはやや鋭い。
黒いズボンに黒いレインコートを身を包んでいてまさに黒ずくめ、喪に服しているように見られるその女性は煙草を吸っているが、すでに葬式は終わりを告げ始めているにもかかわらず尚入ろうとしない。
地面に落ちている吸い終えた煙草は何本もあり、通り過ぎて歩数を重ねて数分後にて振り返ってもまだ現状維持を繰り返している女性。親戚でもないだろう、知らない顔だ。円の顔見知りとも到底思えないね。
気になるが今日はもう何も考えたくない。
思考は停止、機械のような足取りで俺は歩数を刻んだ。
帰宅するや制服を脱ぎ捨ててそのままベッドに。
今日の記憶全てを払拭すべく、目を閉じて俺は睡眠という名の現実逃避を試みた後にて意識は彼方へ。
就寝は夜の九時時過ぎだった気がする、起床は朝の七時。
思考がまだ夢の中に取り残されたままの起床では朝日を浴びても瞼は開眼という仕事を放棄し始めた。眠りすぎるのも良くないのかも、頭がぼんやりとして倦怠感が体感で百キロくらいの重みで背中にぶら下がっている。
何とか体を起こして朝食の準備、ぽつぽつとその間にまるで走馬灯の如く昨日の記憶が蘇る。
昨日は十五日だった、可笑しな確認を自分でした。
俺にとっては十三日だったのに、昨日は十五日。まさか世界のルールが改変されて十二日の次は十五日になったわけでもないだろう。彼方へ飛んでいった十三日と十四日、それらの記憶は頭の中を駆け巡っても見つからずに俺は妥協した。
この二日間はきっと、十三日に円の死を知ってそれ以降の思考は停止したのだと。
今日は学校へ行こうか悩むところだ、気分は最悪。学校なんてただ眠りに行くだけみたいなものだが、道房や円に会うっていう目的があったからこそ今まで続いたんだと思う。
これからも続く? そんな問いには口ごもるしかないね。
口ごもりつつ俺はパンを齧るのをやめて数分後にて自分に答えてやる。これからも続くさ、と。
学校を休んで次の日に学校へ行ったとしよう、待ち受けてるのは同情の視線ばかりな気がする。道房に関しては昨日以上の同情込めた視線を送ってきてしまいそうなのでその内それらの視線で俺の両目が焼き潰されかねない。
今日も学校へ行って何事も無かったかのように振舞っておきたい、同情されるのは嫌いだ。
とはいえ、マンションを出て学校へ向かう道中の歩幅は元気が出ずに短い間隔。強がっても得など無いけど、ただただマンションにいるのも嫌だ。気を紛らわすものが欲しかったのかな、その結果が学校に行くってのもどれほど自分の頭が他に選択肢など無いのやら。
それにしても朝はやはり通行の流れが激しくて何度も通り過ぎ際に肩を擦るくらいにすれすれで如何せん、気が散る。俺は近道として利用している脇道が見えてきたので迷わずそちらを選んで入り込んだ。少し歩けば空き地があって、それを横断すればなかなか楽に行ける。
「最上下明人だな?」
空き地を横断中、空き地の中央にて声を掛けられた。
見た事のある風貌、口調。
数多の足音が周りに纏わり、それらは数歩が数歩を連ねて数多になり予行練習していたかのように取り囲まれた。何に、って言われたら不良と答えるのが一番良い表現だ。
でもこいつらは、確か十二日に絡んできた連中。今頃病院で看護婦に看病されつつ鼻の下を伸ばしてると思ったんだがもう退院したらしい。それにしては綺麗に完治したものだ、それも数えずとも解る六十四人。全員の顔面に殴った記憶もはっきりしてる。
「おい、聞いてるのか?」
しかしながら同じ台詞を言われると、十二日を思い出すね。
あの日もまったく同じだった、空き地に入ってすぐに囲まれて考え事してる俺に苛々した様子で話してきたっけな。
「お前によお……うちの奴らは先週からもう何人、いや何十人もやられてんだよ!」
これまた同じ台詞。こいつらは繰り返し機能でもついてるのか、それともよくあるゲームでの村人みたいに同じ台詞しか言えない設定なのか。まあいいさ、十二日のお礼参りっていうのなら受けてたとう。
「懲りないね、またやってくるなんてさ」
「何がだ? お前に会うのは初めてだが」
初めて……?
話が噛み合わないな、まさか殴ったおかげで記憶がすっ飛んじゃったのかねこの人達は。
「十二日にも来たじゃないか、本当にあんたらって暇人だね。俺に構ってる暇があったら学校に行きなよ」
「十二日ってのは今日だがな、何を言ってるのかわからねえがまあいい。これだけは言わせてもらう。ここらの島は俺らのもんだ、勝手に暴れてもらっては困るんだよ」
何を言ってるのか解らないのはこちらの台詞だ、殴ったおかげで脳みそを落としたのかな彼らは。下に落ちてるんじゃないか下に、どれどれ……優しい俺が一緒に探してやろうじゃねーか。おっと、そこにあるのは? ああ、すまないね。それはただの大きな石ころだったよ。
そうしている内に怒号がうねり、俺は溜息をついて上着のボタンを二つ開ける。
とりあえず視界に入る連中全員の顔がつぶれたトマトにみたいになるまで殴るとしよう、十二日と同じようにね。
……。
…………。
疲れた、嗚呼疲れた。
あんたらも元気だな本当にさ。
「てめえ……!」
最後に残っているのはリーダー格、片手には木刀。
違和感、そうだ。違和感しかない。どうして彼らはまったく十二日と同じ行動を取るのだろう。
だから次に彼が起こす行動は、大きく振り上げて声を荒げては木刀を振り下ろすはず。
その際に俺の前足を踏んで後退できぬようにして、だ。
彼は踏み込んだ、直前に俺は前足を引いて彼の踏みつけを回避。
驚愕、何故見破られたのかと顔に書かれた彼の表情といったら笑っちまう。だってその次にさ、諦めたような顔をした瞬間に俺の右腕が頬にめり込んだのだから。
何だろう、さっきからずっと頭の中で引っ掛かってる違和感が気になる。
今日は十二日に戻ったみたいだっていう違和感。多分……いいや、もう多分じゃなく確実に俺は円が亡くなってから心が疲れてるんだ。朝から暴れるのは今日に限ってだがいい気休めにはなったから、心の疲労なら少しずつ回復させるとしよう。帰りにはゲームセンターかバッティングセンターにでも行くのがいいかもな、学生とかサラリーマンとかがストレス発散に使う場所だ。最も俺はストレスなんか溜まってはいないが心の疲労が代わりに溜まっているのだからこの疲労を癒すべく放課後の予定を遊ぶという項目で埋めるのが良さそうだ。
教室の扉を開けて中へ入ると、円の机には花瓶は置かれていなかった。
何だよ、もう葬式は済んだから死人に花なんて添えなくていいってか。
些か不愉快になりながらも俺は席について携帯電話を開いた。道房も来てないし、話し相手がいない。探そうとしても俺が教室に入った時点でクラスメイトは硬直して、俺が席に着けば何故か全員が安堵の溜息を一斉に吐くのだから困ったものだ。俺はいつ爆発するか解らない不発弾かよ。
『――で起きた殺人事件の犯人は未だに捕まっておりません。以上、ニュースでした』
このニュースは毎回同じ放送をしてるな、それとも再放送なのかね。最近のニュースには疎いから解らないが、もしかしてこの殺人事件は意外と注目されてるのかもしれない。所詮、どんな大事件でも他人事なので特に興味は沸かないが。
円の席を見て思う、これからはこんな毎日が続くと。
円のいない朝は道房が来るまでこうしてただただ窓の外を眺めるか、机に突っ伏すかのニ択。
「明人……また喧嘩したでしょう」
今日はまた不良に絡まれて少し疲れたから机に突っ伏すに限る、なんて思ったところで肩を掴まれて阻止された。
聞き覚えのある声、口調。
いやまさか、そんなはずが無い……。
俺の鼓膜は正常に機能しているか? そうだとしたら今聞こえたのはあってはならない声だ。正常に機能してるのなら今聞いた声は聞き間違いで、肩を掴んだ主は道房か誰かに違いない。
俺はゆっくりと、ゆっくりと視線を移動させた。
そこには……彼女がいた。
彼女は……彼女の名前は桐生円。
そう、昨日の葬式の主役――円だ。何度も目を擦って目の前にいる彼女が目の錯覚かを確認するが、開眼すれば円は確かにいた。長い前髪から覗く眉間はしわを寄せてあの日と同じようにだ。
驚きを隠せずに勢いよく席を立った。
椅子が音を立てて揺れて、なんとか倒れまいと持ちこたえる。その音が止むと同時に俺は円の両肩に手を置いた。意味は無い、あるとすれば実体かを確かめるくらい。手を置いてから何も行動の計画をしてなかった俺はそのまま硬直。クラスメイトが一斉にこちらへ視線を寄せているが構うもんか。
「ねえ、ちょっと……」
幼さ残した綺麗な卵形の顔のライン、前髪が少々遮っているがつぶらな瞳は本人にしか持ち得ぬ魅力。
「円……だよな?」
今更ながらの確認。
「……明人には私が誰に見えるの?」
首を傾げる円、どこをどう見ても円にしか見えない。偽者にしては上出来すぎて後にルパンとか名乗れるくらいだがそんな奴がこんなところにいて俺を騙そうとするのならば大いなる才能の無駄遣い。
これは夢か? 現実か?
自分に問いかけた。
頬を抓る行為はせずとも、円の両肩に手を置いているこの感触と伝わるぬくもりが現実だと訴えてくる。いや、でもよく考えてみろよ明人。現実ってのは酷く冷徹で面白みも無く、非現実を求めてる奴には唾を吐いて鼻で笑うようなもんが現実だ。死人が蘇って目の前にいるってのはどう考えても非現実。この矛盾した状況はどう対処していいのか、もはや思考が停止寸前。
意味も無く円の両肩に置いていた手は両頬へ移動して頬を抓っていた。
「いふぁい……」
何なんだ、何が起こってる。
腰が砕けたかのように席についた俺は朝から沸々と頭の中に浮かび上がっていた違和感を思い出す。
今日は十二日に戻ったような、違和感。
はっとして携帯電話を開いた時、その違和感は視界にはっきりと飛び込んできた。
5月12日。
日付はそうなっている。
「円……今日は何月何日だ?」
「今日……? 五月十二日だけど、どうかしたの?」
そうしている内に時刻は八時三十分間近、担任の木崎なる美人教師が壇上に上がるまで数分。この時間帯にはあの日と同じならば、と思い教室の扉に視線を向けたその時、一人の少女が教室に入ってきた。道房だ、円を見ても驚きもせずに挨拶を交わして着席。
どうして円が生きてるんだとか慌てふためくのが普通なのに、これじゃあ俺が普通ではないみたいじゃないか。
「おはよう、どうしたのそんな顔して」
そんな顔ってのはきっと今の俺は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしているに違いない。
「そういえば明人君、噂になってたよ。今日は朝から不良五十人ほどをボッコボコにしたらしいね」
言下に道房は十二日と同じ台詞を同じ口調で言った。
「……ああ、正確には六十四人に襲われたから正当防衛を行ったまでだ」
俺も無意識につられて十二日と同じ台詞を言う始末。
「正当防衛で六十四人が病院行きってのもやりすぎな気がするけど……」
「そうよ、明人は正当防衛という便利な言葉を盾にして暴力を振るってるだけ」
よくあるデジャブとも、棚の中を整理していたら出てきた懐かしい思い出が詰まったビデオテープを気まぐれに再生しているのとも比にならない。こんな光景見たかも、とかこんな事もあったなあでは無く、確実に完璧に同じ日を体験しているのだ。
夢ならきっと円の顔を見たときに驚愕と同時に目が覚めてるであろう。
だから問題はこのような現実に、現状をどう受け止めて対処するのかだと思うがどう受け止めるかとかいうよりも思考がまったくついていけてない。その結果、今日は睡眠授業なんてせずにずっと自分を落ち着かせる作業に時間を費やした。精神統一ってのは意外とためにならない。十二日を終えたら十五日、十五日を終えたら十二日なのだから考えれば考えるほど混乱を引きずった。
こうして考えると十三日と十四日はまだ迎えてないと考えたほうがいいのかもしれない。俺が円の死を受け止めきれずにその二日間の記憶がすっ飛んだっつうのはね。
「も、最上下君……ちょっと時間頂けるかしら?」
気がつけば終礼も終わって目の前には臆しつつも作り笑いを必死に作っている木崎先生が立っていた。
そうか、放課後か。
となればこれから木崎先生は俺に生徒指導室へ来るよう言ってくるのが十二日の筋書き。
「はい、生徒指導室へ行けばいいんですね?」
「わ、解ってたのならそれでいいわ……!」
木崎先生はそのままそそくさと教室を出て行った。
この後は円がなんか言ってきたのを憶えている。
「貴方の言う正当防衛とやらで生徒指導室に呼ばれるのはどういうことなのでしょうね?」
そうそう、それだ。
「なんか褒めてくれるんじゃねーの?」
「そんなわけないでしょ。反省して」
前回とは違い、からかう余裕も無く俺は生徒指導室へ。
それからはまったく同じ流れ。
生徒指導室を出れば生徒会長と出くわして、竹刀で頭を軽く叩かれて終了。
そしてそれからよりもこれからが重要だ。
結局どうして今日がまた十二日なのかとか、どうしてこうなっちまったのかなんて何も解らないがこれから起こる事くらいは解ってる。
先ずは教室に戻って鞄を回収、その際に円と会う。
「明人、見てたわよ」
「ああ、そうかい。帰るぞ」
「え? あ、うん」
俺から帰るぞなんて言ったのが予想外だったのか、一瞬瞼をぱちぱちと瞬きして頷く円。
とにかくこれからが重要だ。
円は前回の十二日に亡くなったと道房は言っていたのだから円が亡くなるとすれば以前に考えていた通り、俺の家で食事をした後に帰宅中か帰宅後に亡くなった事になる。葬式の日に拾った話では帰宅中、事件に巻き込まれたと話していたので帰宅中が確実。帰宅後なんて誰があの家に忍び込んで円を殺害できるものか。むしろ忍び込んだ時点で自殺志願者しかいないと思うね。
ならば、今日は円を家に招き入れるのは止めといてだ。
帰路はいつもとは変わらないが、前回の十二日には円が急遽帰路の変更を言い出して横断歩道を渡らず、その結果にて横断歩道の先で事故があった。だから横断歩道が見えてきたところで俺は事前に言っておく。
「今日は遠回りでもするか」
「そうね。それがいいと思う」
円も既に嫌な予感ってのを感じていたのだろう。
こいつの勘の良さを分けてもらいたいね。
数歩の事、地面を削るようなブレーキ音と金属同士が潰し合う破壊音にガラスが割れる音、それらが同時に耳を劈いた。時間通りで、予想通り。
「ねえ、事故だよね事故……」
「解ってるよ。誰かが救急車呼んでくれると思うし大丈夫、帰ろう帰ろう」
「明人は冷たい!」
「そりゃどうも」
冷たい冷たい! と連呼されて肩をぽかぽか殴られた。
円はしばし心配そうに凹んだ車両を見つめるもその隙にと歩数を刻む俺に気づいて慌てて追いつく。
「おいてくなんて酷い!」
「だったら早く来い、さくさく来い、てきぱき来い」
「明人は意地悪!」
「どういたしまして」
褒めてない! と睨まれる。
そうしている内に遠回りしてもそれほど時間はかからずマンションに到着。
少し寂しげにマンションの前で両手の人差し指を絡ませている円は上目遣いでこちらを見る、普段ならば招き入れるところだが今回は出来ない。ここが転換点、逃してはならない。
「今日は……駄目だ」
「そう……」
肩を落として残念そうに溜息を吐かれた。何だか非常に罪悪感で体が蝕まれたがこれも円のためだ。
「送ってくよ」
「別にいい、門限もまだ過ぎてないし今は明るい」
「いいや、送ってく。何が何でも送ってく」
「そ、そこまで言うなら……」
念には念をってね。
帰るのが遅かったから事件に巻き込まれたといっても、遅い早いの問題ではなく円の帰路に何かあるという可能性も無視できない。それに本家の近くは人通りが少ないので注意すべき場所。見通しは良いがそれだけだ。
時刻は夕方五時前。あの日と同じく行動していれば今頃は部屋でごろごろとしていて、円と面白みの無いテレビ番組を見つつ腹の虫が鳴き始めたら夕食の準備をして、といった流れになってた。
これは天啓と受け取っていいのだろうか。
俺にやり直せというのならばこうして現在進行形で違う十二日を歩んでいるが、不安で心は満員だ。それ以外は入り込む余地も無く押し出されてる心情。
しかし本家の塀が見えてきて、俺は胸を撫で下ろした。
後は円を正門に突っ込めば終わり。
門限までそう時間も無く、円が一度家に帰ってから外出の可能性もほぼ皆無になる。
「円、今日は家に帰ったら外出はもうするなよ?」
「え? うん、しないよ? どうして?」
「いいや、別に。最近は冷えるからさ」
釘を刺しておく。
念には念をの、さらに念には念を。
「そうね、ありがとう」
「別に、感謝されるほど俺は何もやっちゃいねえ」
「ふふ、そうかも」
正門までもう数メートル。
ふとその時、道端に細長い何かが落ちているのが目に留まった。
先端が踏み潰されたようになっているそれは、煙草。
まだ周りには煙草の独特な臭いが漂っている。煙草の数も相当のもの。
まるで煙草でも吸いながら何かを待っていたように受け取れる。
その中に一本、火が完全に消沈せずに煙を微かに出しているものがあった。消したのはつい先ほど、待っていたものを見つけたのかもしれない。
その時だ、その消えかけの煙草の煙が揺らいだ。
風を切る音、踏み込みの音が後方から。
「円!」
咄嗟に円の手を引きつつ残った手で頭を下げさせる。
「……ちっ」
轟音、空振りの後に舌打ち。
そこには見覚えのある女性が立っていた。両手に着けている皮製の手袋がぎちぎちと音を立てて、俺に刺すような視線を送りつける。黒いズボンに黒いレインコート、間違いない。昨日に本家の正門前にいた女性。喪に服していたと思った服装は普段着らしい。
その女性の視線はゆっくりと移動し円を見る。
目的は円、それ以降俺には視線を向けず暫しの沈黙と膠着状態が続く。
「円、走れ! すぐに本家に行け!」
沈黙を破り、声を荒げた。危険を円に訴えるように、理解してもらえるように。
こいつが円を殺害した犯人に違いない。
ならば全力で止めなければ。
追いかけようとするその女性の前に立ちはだかり、俺は横目で円が逃げるのを確認。少々足はもつれつつだが大丈夫だろう。後はこの先一歩でも全力で阻止しなければ。一分、それだけでいい。円が正門まで行くにもあのもつれた足ではそれくらいの時間。
女性が右へ足を動かせば俺もその前に。
左へ動かせば、また移動してその前に。
時間稼ぎが出来ればいい。
すると後方から駆ける足音。
よし、円がきっと本家の人に知らせてくれたに違いない。
女性は再び舌打ちをして踵を返した。
ここで逃してしまったらまたいつか円が襲われる、それだけは阻止したい。
俺は逃げる女性を追いかけた。
「少年、何故追いかけてくる」
後ろをちらりと見ながら言葉を落とす。
「追いかけないほうがおかしいだろ!」
街へ向かっているようだ。
俺と後ろの連中をどう撒くつもりなのか。
街に入ってすぐに女性は脇道へと入っていった。
我先にと後ろの連中に追い越されて、俺は自分の足って遅いのかもと思いつつ遅れて脇道へ。
と、思ったが追いかけづらかった。
その理由として、脇道から聞こえるのは鈍い音だったり物が激しく破損する音だったりで凹んだ空き缶が脇道から俺の足元まで転がってくる。この脇道に入ったらどうなっているのやら。流石に女性一人に対して先ほどの連中、確かごつい三人が掛かっていく様子を想像すれば女性は長い入院生活を強いられる未来の目撃者に俺は嫌々なれるだろう。
ちらっと見て、想像通りならそのまま帰ろう。俺の出る幕じゃないし何より目的は達成されるのだから。
ようやく静かになった。
俺は忍び足でそっと脇道に近づいて覗いてみる。
ビルとビルの間に伸びる脇道は些か暗いが、奥に何か見えた。
「少年、君は私が倒れてる姿でも想像して覗いているのかな? そうだとしたら誠に申し訳ないがその想像は裏切ってしまうね」
倒れているのはごつい男性三人。奥で積み重ねられて女性はその上に座って煙草を吸っていた。
信じられないねまったくさ、いや……俺が体験してるようなものと比べるとこっちのほうがまだ信じられるけど。
ばれてるし、ここは隠れず堂々と脇道へ入る。
ここで俺が捕まえなければならない、円のためにも。
俺は全力で踏み込んだ。
走った後なので息はまだ荒れ気味、されどそれは相手も同じ。
踏み込んだのは右足、それを軸にして左足を回す。所謂回し蹴り。狙いは相手の頭、頭を叩けば大抵は倒れてくれる、たとえ相手が防御したとしても体重を乗せた回し蹴りを受け止めて瞬時に攻撃へ転じるのは難しい。どう対処してくるか、左足が受けたのは腕の感触。防御に回ったようだが体はよろけもしてくれない。そんな細い腕のどこに回し蹴りを受け止める力があるんだ。
すると目の前に何か飛んでくる。細長くて、先端は赤い――煙草!
首をやや右へ回して煙草を回避、近くて熱気が肌を撫でて通り過ぎていく。避けたのはいいが視界はまったく関係の無い方向へと向いているので相手が次にどんな攻撃を仕掛けてくるのか解らない。幸いな事に防御されて掴まれるかと思った左足は掴まれておらず、俺は煙草を避けると同時に今度は逆回転。裏拳へと移行した。
いいね、そんな声が聞こえると裏拳も通らず右手は掴まれていた。
なんつう握力だ……握られてる右手はまるで縄で硬く縛られたように痛い。振りほどこうにも皮製の手袋が滑り止めになって外れない。
「まったくどうして私に構うかな? ああ、少年……君は私に好意があるのかな? 私はこう見えて結構街を歩いているだけで若い好青年は二度見してくるくらいなので自分ではそれなりの美人だと思うから構うのも致し方ないが。しかし君の愛情表現は少しばかり刺激的すぎやしないかな? まあ私は全力で受け止める覚悟もあるし格闘技ならある程度は学んでいるので心配は無いよ」
暗いが確かにこの近距離で見るとなかなかの美人。円と似たつぶらな瞳は水晶のように、整った目鼻の配置も大人の魅力を感じさせる。化粧せずとも綺麗なのが解るが今はそんな事を考えて鼻の下を伸ばす余裕も無い。
「悪いが俺はあんたに殺意しか沸かねえよ」
「そりゃ酷いね、私が君に何かしたかな? いいやしてないね、会ったのは今日が初めてだ」
お互い、その間は腕に力を入れて相殺し合っていた。
女性は残った右手で煙草の箱を出して、軽く上に振ると綺麗に一本だけが飛び出してそれを口で咥えると、次はライターを出して着火。煙草を吸いながらまた女性は口を開く。
「最も君は昨日にも見たが……知らないだろうね」
「昨日……だって?」
普通ならば昨日は十一日だが、俺にとっては十五日。そう、葬式のあった日だ。この女性を見たのもその日である。
「昨日……正門で俺はあんたを見た。でも……」
煙草を持つ右手がぴたりと口元に運ばれる寸前で止まった。
「……ふむ。奇跡だね、奇跡だ、奇跡に違いないよ明人」
奇跡とかはどうでもいいが、こうして話すたびに疑問が増えていく。
「……なんで俺の名前を知ってる。それにだ」
そこへ遮るように女性は言葉を投げた。
「あー、君はやはり明人か。何、名前を知っていても対して意味は無い。それよりも君が頭の中で巡らせてクエスチョンマークと遊んでいる内容は、私の昨日は十五日だったのか、それとも十一日だったのかってことだろうね。今日は十二日、普通ならば昨日とは十一日だが私には十五日が適切だ。君と同じくね」
無意識に俺は腕を引いて戦意は消失していた。
それでもまだ警戒心だけは残したままだ。
一応距離を取って攻撃されてもすぐさま対応できるように、逃げられたら追いかけられるようにと二つの意味を兼ね備えた間合い。
「安心したか? 君の頭は正常であると証明されたが」
ああ、すごく安心した。
おかしいのは俺じゃなく世界のほうで俺の頭は正常とのお墨付きを貰ったのだ、危うくノイローゼにでもなりそうだったよ本当にさ。俺の頭が正常だと証明してくれたあんたは救世主だ。握手でもしたくなるぜ。
「けど、何が起こってる?」
「私も解らん。普通なら、ああ――いや、君には以前の事も理解できまいか。言えるとすれば解決方法は円を殺す事。邪魔はしないでほしいな」
前言撤回、握手どころか手を掴んだらそのまま腕ひしぎ十字固めでもして取り押さえなければ。
「ただ今日のところはもう無理だね、君と遊んでいる内に時間も無くなってきたよ。さて、ここで一つ問題だがそんな鋭い眼光をしている君は果たして私を無事に帰してくれるのかな?」
俺はじりじりと距離を詰める、女性はじりじりと距離を広げる。
帰すつもりは無い、絶対にだ。
「あんまり見つめないでくれ、照れるじゃないか。満更でも無いからね、私は二十五歳の独身。こういう場面から始まる愛の物語も悪くは無い」
「ふざけてる場合じゃないと思うけど」
その余裕はどこから出てくるのか。
煙草を吸い終えたと思ったらすぐにもう一本吸い始める、警戒心も無くだ。
「そうそう、私の右側にあるビルは随分と老朽化してると思わないかな?」
横目で一瞬、ビルを見る。
白が黒く濁ったような色をした壁は亀裂がいたるところに走っており今でも崩れそうであるが、何故今それを言う。注意を逸らすには役足らずだ。
すると、それは一瞬の事。
残像すら見えない速さで女性は壁を殴りつけた。
壁には拳がめり込み、亀裂は更に拡大。轟音が響き始めると積み木の土台を取ったように崩れ始める。
「危ないから下がってくれ、突っ込むのは元々死にたがりならばどうぞごゆっくり」
滅茶苦茶な奴だ、先ずビルに殴りかかって壁を壊すのも滅茶苦茶だが逃げるためにビル一つを倒壊させるなんてありえないだろ! いや、この際こうなっちまった世界と比べるとなんでもありな気がするから慌てふためくだけ損かもしれないけど!
壁が崩れていく中で、女性は最後に一言言い残した。
「明日は何日なのか、それだけは確認しときなよ……明人」
まんまと逃げられた。
一応回り道をして脇道の出口には行ってみたが気絶した男性三人が積み重ねられていただけで女性は見当たらない。
この時、俺は自分でも理解しがたい何かが始まったのを確実に感じていた。
二。
ここ数日の目覚めは最悪を二乗したくらい最悪ってやつだが、今日の目覚めはそれなりに良い。
あれからの事、唯一の手がかりが逃げ出してしまい途方に暮れるや、同時に日が暮れる街に佇む中で傍らに置いてあるように倒れている黒服の男性三人を放置するのも如何なものかと俺はタクシーを拾って本家までわざわざ運んだ。
ついでに円の顔も見たかったし、生きているかの確認と安心を得たかったから重いとかいう文句は喉から出る必要はなかった。
会うや円は俺の胸に飛びついてきて、今日初めてまともに攻撃を受けた。あの女の攻撃も一撃さえ受けなかったのにさ。それはまあいいとしてだ、円はしっかりと十二日を生きて終えた。
円が襲われたとなれば本家も警戒態勢、塀に沿って警備員が既に巡邏して蟻んこ一匹だって侵入させまいっつう雰囲気。これなら安心だと俺は円を引っぺがして帰宅。
未来は確実に変わったのだ。そう確信して空に笑顔を投げつけてやった昨日。
未来は変わったんだぜ。
そして目が覚めてから真っ先にこの一文が頭に思い浮かんだ。
次に思い浮かんだのは「明日は何日なのか、それだけは確認しときなよ……明人」という言葉。あの女が言っていた助言ともとれる言葉。手っ取り早い確認として携帯電話がある、俺はすぐさま画面を確認。
「十六日……か」
今日は十六日。未来が変われば、この現状も変わるかもなんて思っていたがそんな事もなく冷徹に現状維持。
これで日付の進行は十二日、十五日、十二日、十六日となった。進行の法則性は無いと思う、確信も無く多分という範囲だけど。この滅茶苦茶な日付の進行を止める方法は、円を殺せばいいらしい。しかしながら、言い回しが妙だったな。
――私が円を殺す事。
誰でも良いのではなく、あの女が円を殺さなければならないような、そんな言い回し。
あの女は何者かなんて解らない、名前さえもね。だけど俺よりもこの現状について何か知ってるのは確実、ご丁寧にも解決方法まで教えてくれるなんてさ。
敵か味方か、その質問には今のところ敵だと認識しておく。
立ち会って感じたのは敵意の無さ、殺意の無さ、それどころか助言までしてきたあの女を敵だと認識するには俺の心が二割ほど否定派に定着してしまっている。それでも円を殺すなんて言ったのだからやはり敵だという認識は大きいが、しっくりこない。
学校へ向かう道中、歩数を刻むのは一度止めて空を仰いだ。
解らない、全ての物事に対して。
今起きている事が果たして本当に現実なのかさえも解らないのだ。ほら、時々こんな話があるだろう、現実では自分は交通事故とかに巻き込まれて昏睡状態で今は夢を見ている、とかさ。そういう類なんじゃないのかってのも一応可能性の一つではある。考えて、馬鹿らしくなったがね。
その内、気がついたら今日は十三日で、教室の扉を開ければ円がいて普通の日常に戻ってたりするんじゃないだろうか。
空を仰ぐのを止めて再び前進、無意味に携帯電話を開いて再び今日は十六日だと確認。そりゃあ、これが今のところ現実で今日は十六日なのは変わらない事実。何を期待してたんだか、俺って奴はくだらねえ。
そんなくだらねえ事ばかりを考えるのも疲れる、それよりももっと明るい事を考えよう。
現時点でで俺が考えられる明るい事といえば昨日じゃないけど、昨日である十二日に円の死を回避したって事。その結果、円が生きている未来になっているはずなので俺が学校へ行って教室の扉を開けて席について窓の外でも眺めて居りゃあ円が来るはず。
生きているか、生きていないかについては教室に入ればすぐに解る。円の机に花瓶が置かれているか、置かれていないかという簡単な間違い探しだ。
そうして俺は教室の扉の前まで来た。
明るい事だけを考えよう、そう思っていたはずなのに嫌な言葉が脳裏を過ぎる。
――もしも、円の机に花瓶が置かれていたら?
ふと扉に伸ばしかけていた右手が、まるで錘でもつけられたかのように重くなった。恐怖すら感じる、扉を開けるだけなのにまるで心臓を掴まれているような気分ってやつだ。
ゆっくりと扉を開ける。
俺の席、道房の席、そして円の席。
順番に見ていって、
「……くそったれっつう気分ってやつだ」
唾でも吐きたい気分だがここは学校であると察してやめておく。
円の机には花瓶が置かれていた、花もまだまだ元気に咲いている。白い花だ、名前は解らないけれどそんなもんはどうでも良い。問題は、何故未来が変わっていないかって事。
教室に入るや生徒達は視線を床に落としての会話。床に話し相手はいねえだろうが、それとも何だ? 床に視線を落とせば俺と視線を合わせる可能性は皆無になるからかおい。
毎日こんな調子なので軽い気持ちで会話など出来ず、聞きたい事があっても俺は道房が来るまで質問は喉に待機させて着席。いいよいいよ、俺はどうせ嫌われ者さ。
結局道房は遅刻するかしないかの境界線を跨ぐような時間にいつも来るなと思っていたが、今日は珍しくも境界線を跨いだようで予鈴が鳴っても教室の扉を開けて入ってくる姿は見られなかった。
授業中、一時限目を終えて二時限目、そんで三時限目と続く中、自分の性格が嫌になる。円がどうして亡くなったのか、知っていそうな奴は視界の中に何人もいるが、話しかけようにも喉から言葉が出てこない。目の前に座る男子生徒とか、斜め前に座る女子生徒とか、歩数を軽く刻めば誰にでも話しかけられる距離にも関わらず俺は只管道房を待ち続けた。
その後、ようやくして道房が来たのは昼休みの時間。
「今日はどうしたんだ?」
「ちょっと頭痛がしてね」
笑みを浮かべているが、顔には無理してますってご丁寧に書いてある。
それに目元が赤みがかっているのを察してそれ以上は何も問わなかった。問いかけたら泣かれそうだしね。こうなると益々質問も出来ない。
円がいつ亡くなって、どうして亡くなったのか。十二日に円の死を回避しても過去が変わっていないのならば円が死んだ日は“十二日のまま”だが、十二日に死を回避して十二日の出来事は変わったのに円が死んだとなれば“十三日から十五日”の間に亡くなった事になる。
となると、十五日は葬式だったので円は十三日か、十四日に亡くなったと推測。一番良いのは誰かに聞く事だ。
放課後にて。
道房に話を聞くのはいつでもできるが、きっかけも無く何より道房に聞くのは酷を強いている気がする。
そうして言葉を喉に待機している内に、いつの間にか放課後になってたわけだ。
道房は忙しそうな足取りで教室を出て行ってしまい、兎に角誰かに円の事について聞かなければならない焦燥感だけが募っていく。
教室を出て、なんとしてでも道房に聞こうとするも道房は望月先生と話をしていた。話が終わったら、と思って教室に一度入って陰から見ていると、
「生徒会長は休んでるからね、頼みますよ」
「はい、解りました」
何かの手伝いでもするのか、そんなやり取りをして廊下の奥へと消えていったので結局道房には話は聞けず。
あの生徒会長がお休みねえ、まあ別に理由とか興味は無い。
しかしどうしようか、まだ教室で談笑してる生徒達に話を聞くのがもう一番の方法かなと振り返れば、生徒達は実に快活な足取りで教室を出始める。放課後は暇だから喧嘩を売ろうとか、お金持ってそうな奴を探してますとかそういう振り返りでは無いんだがなあ。
流石に教室を見渡したりする仕草が誤解を呼んだのか、距離を取られると同時に見えない壁も作られた、確実に。
溜息ついて、暫しの長考。
こうしていても仕方が無い、動こう。
教室を出て直ぐの事。
「……あ」
丁度良い、すごく丁度良い。
目の前には木崎先生がいた、プリントの束を抱えておりさっきまでこれを印刷してましたというような様子で。
「……あ」
お互い、視線が合い、お互い同じ声を漏らした。
最上下明人に限りこういう場合、先ずは敵意が無い事を伝えなければならない。俺には生徒と先生の関係は冷戦状態に等しいので、それを解除すべく笑みを見せた。笑うのが下手だねって円によく言われたけど、笑みは笑みだ。
「ひぃぁ……」
喉の奥から滲むように声を出して木崎先生はプリントを床にぶちまけて反転、即座に駆け足。
敵意は無いと確かに表現したのに、これだよ。
「先生!」
俺が何をしたって言うんだよ。
理由も解らず、しかし追いかけなくてはならないので追いかけたものの、生徒から受ける視線が刺々しい。
俺にとって、今は木崎先生に聞きたい事があるのでただ追いかけてるだけなのだが、周りからすると涙目で逃げる木崎先生を追い詰める最上下明人と変換されているかもしれない。
「ご、ごめんなさい!」
何故謝る、木崎先生は何も悪い事などしていない。謝るとすればこうして必死に逃げる木崎先生を追いかけている俺のほうだけど、俺も俺で質問があるから追いかけているだけの行為が謝罪に値するとは到底思えないが。
木崎先生はろくに前も見ず、ただ只管に廊下を突き進んだ結果、行き着いたのは資料室の前。
資料室は鍵が掛けられており、一方通行なので唯一の退路は俺が塞いでいる。
意外と歩数を重ねたおかげで人通りの少ない場所に来たのは好都合。余計な誤解を受ける必要は無いようだ、それに生徒会長が不在ならば大胆な行動をしても俺を止める奴はいないんじゃないかな。運がいいね。
資料室には用などある生徒もいるはずが無く、念のために振り返って人気の確認なんてする必要も無い。静謐に乾いた空気が人気の無さを教えてくれる。
このまま俺はじりじりと距離を詰め、一歩――二歩と歩数を刻むと木崎先生は資料室のドアノブを何度か回して逃げようとするも開くはずの無い現実を掘り返すだけだった。
「木崎先生、別に俺はとって食おうなんて考えてないんですけど」
「い、生きててごめんなさい……」
腰が砕けたように床へへたり込み、何故か土下座をされた。
これまでの過程で木崎先生は土下座するほどの不備がどこにあったというのだろうか、俺にはどう考えても見つけられないね。逆に俺が追いかけた上に土下座までさせてしまって申し訳ありませんと土下座すべきなのかもしれない。
「いやあ、そうじゃなくてですね。質問をしたいだけなんです」
「し、質問……?」
顔を上げた木崎先生は半ば涙目。やりづらい、嗚呼、この人とは会話するっていう簡単な事でさえやりづらいのだ。
すぐ逃げる、すぐ謝る、すぐ泣く。
この三拍子はどうにかしてほしい。他の生徒ならば、笑顔とか見せていたりしてもっと接したいとかそんな感情を抱いても仕方が無いくらい木崎先生は良い先生だ。まあ、俺に対しては先に挙げた三拍子があるのでどうにも上手く生徒と教師という関係さえも築いていけてない気がする。これでは加害者と被害者だ。加害者といってもさ、何もしてけどね。こう、一方的に泣かれるのは俺が泣かせていると同等なので加害者は一見正しいとは言えるが。
「変な質問ですけど、円は……円は何日に亡くなったんですか?」
多少、訝しげな表情をするも木崎先生は自分はそんな立場にすら立っていられないのだと言わんばかりに微笑浮かべた表情へと変えて答えた。
ここではっきりとさせておきたい。
十二日に円の死を回避できた結果から、まだ円の死が続いてる今日というこの現状で円の死は十二日のままで、回避など出来ないのか。それとも、十二日に回避しても十二日以降に亡くなったのかをだ。
「あの……その、十三日に亡くなったのよ」
十三日……一日ずれたようだ。となると少なくとも十二日の円の死は回避できた。出来事は変えられるのだが、しかしだ。
よくある、過去に行って恋人の死を回避させるも運命によって必ず恋人は死んでしまうみたいなものだとしたら、十三日にまた円を死から回避させたら今度は十四日になるのだろうか。
だが、十四日も回避したとしたら次は葬式が行われた十五日。もう迎えた十五日が新たに変わるとなると、また十五日が来るのか、それとも十五日に円が亡くなった事になっているのか、もはや予測が出来ない。
おかしいものだ、未来も過去も解らないこの現状。
だけど必要な情報は集めなくては。
次は亡くなるまでの過程だ。
「どうして亡くなったのか、知っていたら教えてくれます?」
「そ、その時は望月先生が対応してて、確か夜に自宅で亡くなった……とか」
自宅……?
自宅で亡くなったというのは、
「事故ですか? 事件ですか?」
それが重要だ。はっきりさせるべきその二つの境界線。
「その……」
木崎先生は視線を落とし、躊躇した。
事故ならば何を躊躇する必要があるだろう。そのまま事故だと伝えればいいだけの話だ。
けれど、事件だから……円は殺されたから躊躇したのだ。木崎先生は優しいから、すんなりと口には出来なかったに違いない。
「ごめんなさい、なんて言ったらいいか……」
「いや、いいんです。もう、解りました」
踵を返して俺は廊下の壁を沿うように歩いた。
通行の邪魔にならないように、とか常に壁を沿うように歩いているとかでは無く、数多の視線によって壁に追いやられたと表現していい。理由は考えなくとも解る、大胆かつ派手に木崎先生を追い掛け回したのだから。
視線の矢が体に突き刺さる中、教室に戻って更に視線の矢を打たれつつも鞄を持ち、俺は学校を出た。
見えない視線の矢は数本、いいや数十本に及び、学校から離れるにつれてその視線も徐々に薄れていって、街に入る頃には“ほぼ”視線は無くなった。
言葉通り、完全には無くなっておらずまるで粘着するような視線を背中が感じていた。気のせいかと思ったが、気のせいを拭おうとしてもべったりと背中にくっついてしまって離れない。このまま素直に帰路を歩むのは寝床を紹介して寝首を掻いて下さいと言うようなものだ、遠回りして様子見するべきかもしれない。
十二日での喧嘩の残党か、それとも俺に恋心抱く少女かもしれない。後者は可能性が無いとして、よくよく考えてみると今日は十六日。
もしかすればまだ迎えていない十三日と十四日に何かあって、今日俺に用がある奴かもしれないしあれやこれやと考えたところで俺の予想は必ず外れるだろう。用があるとして、尾行する奴なんているはずがないのだから。
警戒心は尖っている、昨日の件があったためだ。いつもとは違う帰り道を通り、いつもは素通りする本屋に入って興味の無い本を立ち読みをしては時間を潰してみる。
もしかして昨日に会ったあの女かとも考えたが、今更陰で監視するような行動を取るのもおかしいし誰でも解るような視線を送りつけてくるのも妙だ。まるで気づいても構わないという姿勢のような、むしろ気づいてほしいとも受け取れる。
店を出て、すっかり日が落ちてきたのを確認。ついつい夢中になって立ち読みをしてしまった。足は自然と歩調が速くなっていく。
早く帰ろうなんて思ってはいない、粘着性溢れる視線に構うのも疲れるからどうにか振りほどこうとしているのだ。街の小道ならある程度知っているし携帯電話の機能で地図も確認できる。記憶と地図を照合して、最も歩数を刻んで最も曲がり角の多く、時には迎撃できるような小道を選ぶ。
丁度街灯も届かず左右に立ち並ぶビルからは光も無く漆黒に脅かされそうな小道、使われているのか解らないガスボンベや段ボール箱の山が壁に寄り添っていると一人くらいは隠れられる余裕がある。ほんの少し壁に寄りかかる程度で、すっぽりと隠れられる余裕がね。
息を潜めて待つこと数秒、足音がまるで左右のビルを跳ねるかのように聞こえてくる。予想外な事に、歩調は落ち着いていた。つけられていると思ったのは俺の勘違いだったのか、それにしてはこんな小道までついてくるのは考えられない。つけられていたのは間違いないと思っていい。
カリカリカリカリカリカリ――。
何だろう、鼓膜を痛いくらいに刺激する音が近づいてくる。
刃物が、凹凸したものを削るような音。
カラン――。
次に、何かが落ちた音。金属音だ。
カラン――。
それはもう一度。
悪戯に、何かを落としている気がした。
挑発? 威嚇? それならば俺が隠れているのもお見通しという意思。
心の中に浮かんだ選択は二つ。
一つは、隠れるのを止めて物陰からゆっくりと出て行く。
もう一つはこのまま身を潜めてやり過ごして相手の姿だけ確認して逃げるか先制攻撃。
後者はもしも俺が隠れている事を相手が把握していれば先に何かされるかもという不安が大きい。相手の目的は解らないが、尾行している時点で襲うという結論が備え付けられているかもしれない。音を立てるというのも、まるで尾行はもう止めてこれから襲いますと不器用に伝えているようだ。
選択は早いほうが良い、音が既に体感五メートルほどまで近づいている。
俺は物陰からゆっくりと動いて先ずは視界での距離を確認。
一メートル、三メートル、いいやその間くらいの距離に人影。片手には何か細長いものを持っているが暗闇のおかげで何かは解らない、それに周りにあるものが邪魔でよく見えないのもある。
ある程度、そう、ある程度の距離は必要だ。
どういう状況にも対応できる距離がね。
だから、その人影が一歩踏み込んだ時点で俺は完全に物陰から出て行った。
「なあ、俺に何か用かよ。今更白を切るのは無しだぜ、むしろ白を切ってみせたら関心するけどさ」
人影は動きを止めた。
それからの最初の行動は、先ず首が傾いていった。
疑問を抱くように傾げるような、そんな動きで緩やかに。
次に、人影の片手が動く。
ようやくしてその持っている何かが解った。微かな光に反射したのは刀身、短刀であるがこの場合はナイフと表現するのが正しいか。鼓膜を刺激した音はビルの壁を削っていた音、後に続いた音は壁についていた金属片でも削り取った音のようだ。
頬に鋭い感覚――痛み。
気がつけば紅い線をつけられて、紅い雫が垂れていた。
用があるとするならば、先ずは口頭で述べるのが普通だが、こいつの場合は口より先に手が動いちまうようだ。
ふらついた体はナイフを勢いよく振って生まれた遠心力にでも振り回されたのか、俺の頬を切りつけた後の動作はよろめきながら横を通り過ぎて左側に立つビルへ体を委ねた。
暗闇に目が慣れてきて、そいつの風貌がどういうものなのか徐々に形作られていく。
振り返ったそいつはフードを深々と、顔は半分が隠れてしかも見えている半分も包帯を何十にも巻いており素顔など覗ける部分が皆無。見るからに異常者か、通り魔か、妥協しても表現はイカれた奴としか言えない。
荒い呼吸は乱暴に鼓膜をつつき、覚束無い足取りでありながらもその行方は俺に向けられていた。
そういえばニュースで殺人事件が起きたとかあったな、犯人は捕まっていないらしいがもしかしてこいつかもしれないけど、狙われる理由が無い。この帰宅中に狙われる理由でも何か該当するものがあったのだろうか。もしも事件の犯人とは違っても何らかの理由を持ってこれから殺人事件の犯人になる候補者といったところ。
「一応聞くけど話し合いとか、そういうのは好き?」
とりあえず会話を促してみる。
もちろん却下と言わんばかりに、そいつはナイフを振り上げてふらついた体のまま振り下ろした。
ふらついているとナイフの軌道もやや左右に揺れている。余裕があれば手元を殴ってナイフを落とそうと考えたが、下手をすれば頭に刺さる。ここは後ろへ後退するのが一番だ。
すぐさま後退すると同時に、今までのふらついた動きなどは嘘だったかのように俊敏な動きでそいつは距離を縮めた。
遠心力を利用して攻撃するのが得意なのか、左回転しながらナイフを振るってくる。辛うじて避けたものの、学生服が少し切れていた。第三ボタンはナイフに引っ掛かったらしく、取れて壁に叩きつけられて粉々。
心の中で舌打ちをしつつ、床に落ちていた鉄パイプを手にとって応戦した。
とはいえ、独特な動きに加えて回転しながらの攻撃は軌道が読みづらい。こちらから攻撃しようとしても、鉄パイプは地面を叩くだけで衝撃に両手が痺れている間にナイフは容赦なく襲ってくる。
鉄パイプは諦めて手放し、体を転がして回避。
よろめきつつも、膝を突いて安定。
小石が背中に減り込んで中々痛いが顔をそんな些細な痛みで歪めている余裕すら無く、顔を上げればすでにそいつは回転を始めていた。
自身の腕の長さと、左右に立ち並ぶビルの幅は完璧に把握しているようで、ナイフの刃先が軽くビルの壁を削る程度で歪な軌道になっても決してナイフが何かに引っ掛かるような可能性など皆無に等しかった。
頬をナイフの刃先が切る寸前で、顔を反らして綺麗に皮のみ切られて避けられたものの、その回転力は次の攻撃へ再び転じる。
俺は立ち上がって距離を取ろうと後退した。
回転後の攻撃は空振りに終わる、その時に全身全霊で腹に蹴りを入れてやる。
そう、思っていた。
唐突に、空気を切る音に加えて膝に鋭い痛みが走る。次には何かが地面へ刺さる音、音の主をと視線を動かしてみると、地面には何かが左右に揺れながら刺さっていた。何かっていうのはもう、ナイフしか無いわけで俺は再び視線を動かすと回転を終えたそいつの手にはもちろんナイフは消えていた。
ナイフを投げたようだが、手元には武器が無くなったそいつは無防備。
この機会を逃してはならないと足の痛みなどお構いなしに俺は一歩目を踏み出したと同時にそいつは懐から二本目のナイフを取り出して回転を始めた。
「冗談……にしては笑えねえな」
距離は以前、離れている。
それなのに回転を始めたという事はつまり、だ。
回転で切りつけるのを止めて回転で投げつけるに移行したのを意味する。
二本目は肩を掠めて横を通り過ぎていった。
二本目の回転を終えると同時にそいつは三本目を懐から取り出して既に半回転。
三本目が飛んできた軌道は、俺の心臓部分。
避けられるか、などと考える時間は普通ならあるはずも無いが、現時点で数秒、数十秒と考えていられる時間が生まれているのはそう、そういう事だ。
どういう事かなんて説明する時間さえある気がする。なんていったって、ナイフはとても緩やかに動いていて俺の動きも緩やか。思考だけが冴えていて走馬灯を思い浮かべようかなという余裕さえもある。
こういうのは、大抵この先に待っているのは、だ。
俺の場合は胸にナイフが刺さって地面に倒れこんで暗転、人生の終演を迎える現実が待っている。
その時だ。
「若い時ならば死など考えるだけ損だとは思わない? いや、若くても老いていてもいつの時でも死なんて考えるだけ損かもしれないね。所詮人間は皆いつかは死ぬのだからさ、それでも死を考えるのは、よっぽどの心配性かなあなんて私は考えるわけよ。ねえ、君は今死を考えた?」
横から伸びた手がナイフを指で挟みこみ、見事に止めてみせたその曲芸紛いの芸当を見せ付けた主は能弁に語ってはナイフを乱暴に地面へ投げつけるように落とした。
――意外。
「……し、質問しなくてもわかるだろ」
一年分の冷や汗を一度に掻いたように額はびっしょりと濡れていた。
――意外だ。
「ほら、言ったとおり君は死を考えて損しちゃった。その冷や汗分の水分を失い、心の疲労感は蓄積したと思っていいかな?」
真面目に返答する気分にはなれず、今の気分はしばらく深呼吸させてほしいという事。
深く息を吐いたところで落ち着いたと思いきや次には待機していた疑問が口の外へと出て行った。
「なあ、どうして助けた?」
――俺を助けたのは、昨日に拳を交し合ったあの女だった。
今俺が抱いている警戒心は懐から四本目となるナイフを取り出した俺への殺人未遂野郎と、俺の隣で懐から煙草を取り出して火をつけて一服しはじめる女へ。
警戒心を放っているという事はつまりだ、説明せずともこの女も俺は敵と認識している。拳を交し合った相手なのだから、お互いの認識は当然敵であると思われるのに俺は助けられた。
「君の帰宅経路を推測して通行人に聞いていたらこの道に入ったというから中に入ってみると修羅場になってたから割って入ったんだけど……死にたかったの?」
いや、そういうのじゃなくてだな。
「そうだとしたら申し訳無い、あいつは四本目を出したし刺してもらうなら今のうちだよ?」
だから、違う。ずれてるぜ。
「もういい、あんたと話をするのは面倒になってきた」
それよりも今は目の前の脅威を追い払いたい。
「面倒? そんな事言わないでよ、私は明人と話すのは楽しいと思ってるのに、面倒って返されたらそれはまるで付き合い始めたけど、いざ付き合ったら予想外ですぐに別れようなんて言われた彼女みたいじゃない」
「……ああ、そう。それよりも、あいつをなんとかしないか?」
こうしている内に回転を始めているのだから、今はこんな無駄と蛇足を混ぜ合わせたような会話をしている暇など一瞬たりとも無い。
そうね、と一言だけ言って女は構えた。
両手を前に差し出すように出して、じっと待つ。
何を待っているのか、すぐに物陰へ隠れるかしないとナイフが飛んでくるぞと助言したいところだったが、既にナイフは飛んできていた。
それを、両手で白刃取りのように挟み込んで鼻で笑う。
「面白い、これは面白いよ明人。駒のような動きでナイフを振り回して近距離からの攻撃を防ぎつつ、ナイフを的確に投げ込めば中距離、遠距離にも対応できる戦い方のようだけど目が回らないように訓練しないと大変そうだね」
白刃取りしようなんて考えるあんたの頭も面白かったよ。
俺にはそんな度胸は無い、今も物陰へ非難しようとしていたのだ。
そしてこれから飛んでくるであろう五本目に備えてやや物陰へ移動。
懐に手を伸ばしているのは見えるが、何だろう……躊躇しているのか中々ナイフを取り出さない。
「意外と考えてるねこいつ」
女はそう言うと、そいつは背中を向けて走り出した。
考えているのは、自分が有利であるか、不利であるかの状況を見極めた結果が逃げるという行動だったようだ。ニ対一で、しかも一人はナイフを白刃取りするような奴となれば俺でも逃げるね。
しかし物陰へ移動したのはまったくの無駄になってしまった、今から追いかけても見失わずに追跡できるかどうか微妙である。女は棒立ち、何をやってるんだと言いたくなるがそもそも別にこいつとは行動を共同する義務も無かった。
「追わなくていいよ、どうせフードと顔に巻いてた包帯を脱ぎ捨てれば私達には見つけられない。追いかけたところで無関係な人達が巻き込まれる可能性もあるしね」
出鼻を挫かれて俺は足を止め、不満を募らせた視線を送ると女は言下に再び言葉を繋いだ。
「今追って確実に見失うか、ここで私と話をするのとではどっちが良い? 聞くまでも無いかな、明人は私の言葉に一理あると思ったからこそ追いかけるのを止めたのだからね」
その通りだ。
追いかけても見切り発車にしか過ぎないが、何か一つだけでも現状を打開できる要素が見つけられれば、変わる気がするという焦燥がそうさせただけで、冷静に考えれば見失うのは目に見えていた。
それにもう追いかけるまでもなく見失ったと言っていい状況だが、差し出された提案には問題がある。
「あんたと話をするだって? 敵であるあんたとよ」
「君を助けたのにそう言われるとはね。敵ならそんな事しないでしょう? 昨日は確かに熱ぅくなっちゃったけど出会い方が悪かっただけで、こうして君の味方として出会う、これこそが正しい出会い方だと思うの」
敵ならわざわざ俺を助けたりはしないのは、ある程度なら認めよう。今現在にて敵意も殺意も感じず和やかな雰囲気さえ醸し出している彼女を見ると警戒心は自然と薄れていった。
だが、油断は出来ない。何が目的かが不明確なのだから、軽い気持ちで信じるのも浅はか。
「それに、昨日は円を殺そうとはしたけど、十三日の件は私じゃないわ」
意外な事実、信じていいのか……?
「……いいぜ、話くらいはしてやる」
その際に条件を出しておいた。
一つ目は俺との距離は最低三メートル以上取る事。襲ってきても大丈夫なように。
二つ目は話をするにあたって、多くの人がいるところでする事。流石に多くの人がいる場所で暴れはしないだろうと思ってだ。
三つ目は武器等を携帯している場合は全て捨てる事。さっきの奴も然り、懐からナイフとか出してきたらたまらないからね。
「その慎重さはすごく評価できる。よかったな、私の高感度が上がったよ?」
「解ったから条件を呑め」
特に拒む様子も無く彼女は全ての条件を呑んだ。
早速距離は三メートル以上取り、先ずは話をする場所を探すべく移動したいところだが念には念をと、彼女の提案でしばらくその場で待機。
女は指でしばらく空をなぞり続けた。下手に動いて奇襲に遭うのを避けるに加えて、曲がる回数が最も少なく最短距離で公道へ出る経路を想像して探しているんだとか。
ようやくして動き始めたので彼女の背中をついていき、終始荒い心臓の鼓動とは裏腹に何事も無く公道へ出られた。
時間帯はいつもならすでに晩飯を食べ終えてくつろぎ始められるくらいな十九時半、まだ晩飯を食べていないので腹の虫が五月蝿くなってきたのは自分だけじゃないと言いたげに女は近くのレストランへ入った。高級そうで、学生服の俺はあまり入店は気が進まないが胃袋を満たしたいのもあるし、差し出した条件も満たしているので仕方なく続いて入る。さっきの奴のおかげで第三ボタンが取れてしまったので、あえてボタン全てを開けて乱した服装にしているために少々周りの視線が気になった。
レストランは満員、かと思いきや奥の隅に一つだけ不自然に空いていた。女は入店して店員と目が合うや、「いつもの場所を」と一言言うと店員はその空いた席へと案内する。予約にしては名前も言って無いし先ず彼女の言葉から察するに、常に彼女のために用意された席と思われる。ノーネクタイは駄目なんじゃないかと店員の視線を気にしたが、こちらを見てもまったく動じない。むしろ歓迎の姿勢で皆が会釈するときた。料理長らしき人が彼女を出迎えるとなるとこりゃあすげえ人と一緒に俺は食事をしようとしているんじゃあないだろうか。
席へと向かう中、周りを一瞥して彼女は口を開く。
「私達って周りからはどう見られてるかな? カップルとか見られてるかもしれないかな? どう思う?」
「どう見られるかと言われりゃあ、母親と息子だろ」
彼女はスーツ姿、俺は学生服。まるで問題でも起こして学校に呼び出された母親と息子のようだ。母親と例えるには若いが、カップルにしては俺にとって少々歳が釣り合わないので、ここは母親と表現しておいた。
それに他人事のように今の自分達が映る窓を見た率直な感想である。
「さらりと酷い事言うね。せめて姉さんくらいに妥協して欲しかったな」
姉さんね、そういう表現もあったがあんたの絡みを鮮やかに返答して付き合ってられるほど俺には会話の才能は無い。
「そういえばまだ名乗ってなかったね。私は虎屋虎子、虎子と呼んでくれ」
「解ったよ虎子」
「呼び捨てとな」
「冗談だよ、虎子さん」
偽名の臭いがぷんぷんするが問いただしても本当の名前など教えてはくれないと思うので何も聞くまい。
虎子さんと呼んだ途端に、彼女は高揚感表す表情が更に加速して食事がし辛くなった。この些細なやり取りと何も無い食事風景のどこに楽しくなる要素などあったのだろう。
料理は前菜から運ばれてきて、テーブルにはナイフとフォーク、それにスプーンが何本も置いてある。
虎子さんは並べられたそれらを外側から順番に使っているので、俺も外側から使っていく。
前菜とスープだけでも、感動の声を漏らしたくなるような味。高級そうと先入観を抱いていたが事実高級であり、料理も一級品を凝縮したようなものなのだと舌で理解した。毎日食べてますと言わんばかりに虎子さんは特に感想も無く、まるでこれらは当然であるかのように食していく。表情は俺がよく朝に時間が無くて粗末に焼いた目玉焼きを食べるのと変わりなく、少し嫉妬してしまう。
魚介のメイン料理が運ばれてきた頃に虎子さんは口を開いた。
「どう? 君の口には合うかな?」
「十分すぎるほどね」
メイン料理は格別、ほっぺたが落っこちるってのはこういう時に使うんだなと賢くなった気分にさえ浸ってしまう。
「ここなら君もさほど警戒心を尖らせないと思ったが、失敗だったかな」
椅子には凭れずに浅く腰掛け、いつでも動けるようにしている俺の姿勢を見て彼女は首を傾げた。
こう見えても警戒心はさほど尖ってはいない。
この美味しい料理と、店の雰囲気が少しずつ和ませてくれたのだ。一般人が多くいて賑やかなこの空間で彼女が暴れる可能性は既に無いと思われる、ここは素直に警戒を解くのが筋かもしれないと、俺は背もたれに背中を預けてゆっくりと食事を楽しむ。
「とりあえず話す事があるならさっさとしてくれ」
「そうだね、時間は貴重だ」
軽くワインを彼女は口に含んで喉に通す。
ワインの色からして白、ほのかな白葡萄の香りが鼻腔をくすぐった。
「さて、どこから話そうかな」
言下に、料理を食べ終えた店員に彼女は視線を送る。
店員は皿を下げに来ては足早にその場を立ち去った。話を終えたら肉料理でも運ばせよう、なんて彼女は呟いて煙草を懐から取り出して火をつける。店内の雰囲気から禁煙なんじゃないかと思うが、店員が灰皿を素早く持ってきたところからそうでも無いらしい。
「確認だけはさせてほしい」
「確認?」
「あんたが敵か、味方かという確かな確認だ」
助けてくれただけでも、それは確かな確認にはなる。
――がしかしだ。
俺がそう言葉を切り出したのは昨日に彼女が言い放った言葉が原因である。
――解決方法は私が円を殺す事。
そんな殺人予告を洗い流して味方だからこれからはよろしくと手を組めるだろうか、まったくをもって否である。
「そう、君は気がかりなのね。私が円を殺すと言ったから」
彼女も既に把握はしている、お互い承知の上でこの会話は成立しているのだ。
「一つだけ言っておくわ。“解決にはそうしなければならない可能性もある”と」
「他にもこの現状を解決する方法があるのか?」
「あると言えばあるけど、無いと同等な意味を持つ“ある”よ。でも先ずこの現状について話そう、全ての話を聞き終えてから私が敵か味方かなんていう判断すればいい」
彼女は煙草を吸い終えると同時に新しい煙草を一本取り出して火をつけた。
ヘビースモーカーにもほどがある。
これから話される内容について、唾を飲んでしばしの沈黙の中を待つ。
「結論から言うと、この現状を引き起こしてる原因は円にある」
目が合うや、それが合図かのように彼女は口を開いた。
「円……だって?」
「ああ、そうだ。まあ……円自体は普通の人間だけどね」
何を言いたいのかはっきりさせてほしい、そんな視線を送る。
「いや、ね。こんな現状になった理由は円にあるけど、こんな現象を起こしたのは円じゃなく、世界なのだよ」
「世界……?」
「そう、世界よ。円は何も特別な力は持って無いの。世界が円を特別視してるだけ」
「頼むからよお、俺にも解りやすいように教えてくれ」
話を遠まわしにされているようで苛々が募ってくる。
煙草の煙も煽るように鼻腔を刺激して苛々を加速させた。それほど苦手でも無いが、常に嗅いでいられるほど平気なわけでも無い。俺の様子を察してか、彼女はそっと煙草の火を消した。
「例えば、例えばの話だけどさ。円の生命に危機が訪れた場合があったとして、ね。世界は円が愛しいから一週間前に日付を戻して、訪れる脅威を円は自然と回避するように仕向けるという大掛かりな愛し方をしてた、なんて言ったら君は納得するかな? そして一週間前に日付が戻った現実に気づくのは一部の人間しかいないとしたら、どう思う?」
「……何度か、日付が戻ってたってのか?」
「ええ、そうね。私は螺旋現象と呼んでるわ。最近は五月六日から五月十二日までの六日間だったのよ」
今まで円の勘が異常に良かったのも納得できるし、五月十二日は帰りに円がその勘を発揮して確かに危機を回避した。
でも円はその危機を回避したのに俺が家に招き入れて、すっかり日が暮れてからの帰宅途中に亡くなったのだ。それなら、また日付が戻るはず。
「だけどさ。円は十二日に亡くなったって話だ、それなのにどうして日付が戻らないんだ? しかも進行が滅茶苦茶だ」
「そう、そこが問題なのよ。普通なら円が亡くなった時点で五月六日に戻るはずなの。それなのに今回は五月十二日を終えて、しかも次の日は五月十五日。そしてまた五月十二日。でもこれはおそらく、五月十二日を終えた時点でこの現象が発生したと考えて、今の現象での日付進行は十五日、十二日、十六日と考えたほうがいいかしら」
十二日までは普通の日常だった、らしい。
いや、普通の日常としても既にそれは一度繰り返された日常なのだけれど。
では十三日を無視して迎えた十五日からこの現象が始まったとしたら、それがまた理解に苦しむ。知識不足、理解不足、不足に不足が押し寄せてまだ話にははっきりとついていけない。
「ここからは憶測だけど、これからおそらく滅茶苦茶な日付進行で三日間がくると思うわ」
日付の流れからして、そうなると俺も思う。
既に迎えたのは十五日、十二日、十六日。
足りないのは十三日、十四日、十七日。
「昔にね、まったく同じ現象を起こした奴がいたのよ。滅茶苦茶な日付進行の後に待ってたのは何だと思う?」
さあね、俺が知るわけ無い。
「単純に言えば、時間の崩壊よ」
時間の崩壊……?
そろそろ攻略本でも欲しくなるな。
「でも今、私達は何の異常の無い世界を過ごしてる。日付進行は滅茶苦茶だけど今はそれに目をつむるとしてね。それはかつてそんな現象を起こした奴がこの世界からいなくなったから、時間の崩壊が防がれたのよ」
いなくなった、ねえ。
それは亡くなったとか、殺されたという意味でのいなくなったなのか。それとも突然消しゴムで消したようにいなくなったとでもいうのか。意味の候補は多数あるが、俺は亡くなった及び殺されたの意味を含んだいなくなったを採用した。
「ならこの先に待ち受けてる時間の崩壊を防ぐために円を殺すっていうのかよ? そうしたらまた一週間前に、つまり螺旋現象ってやつが起きるんじゃないのか?」
「そうだね、普通ならそうだ。でもね、私なら螺旋現象を起こさずに円を殺せるわ」
彼女の視線は煙草へ何度か送られる。
そろそろ我慢できなくなったようだが、吸い終えてから五分とも経っていない。これこそがニコチン中毒の見本かな、だとしたらよく目に焼き付けておこう。興味本位で煙草を吸ってみたいなんて思ってしまったら、彼女の姿を思い出せば伸ばした手はきっと止まる。
あまりにもそわそわし始めたのでここは吸うなというのが酷に思えてきた俺は煙草をつついて、吸いたければ吸えばいいだろうという合図をする。
途端に、虎子さんは表情を輝かせて煙草に火をつけた。
一服して、緩んだ表情の後にて口を開く。
「突然だけど……ご飯とパンのどちらかといったら、今日はパンの気分だといってパンを食べたり、右か左かといたら右に行こうなんていう些細な迷いや悩みを君は何度も体験してるでしょう?」
本当に突然な切り出しだが、頷いておく。
意味の無い話をする雰囲気でも無いし、応答すればそれなりに進行がなされるのだから素直にしよう。
「そう考えるだけでもね、“もしも”とか“こうだったら”なんていう未来は蓄積するのよ。“時間の滓”としてね、それが所謂パラレルワールド、多重世界、未来予知など広まり既知の事実として誰もが記憶している……けど、まあそれらとはまったくの別物。重要なのは螺旋現象が噴出す瞬間に、その時間の滓を詰め込めば螺旋現象は時間の滓に呑まれるはずと考えてるの」
「……そんな話をされてもあまり理解はできねえが、要するにその“もしも”とか“こうだったら”っつう“時間の滓”に螺旋現象を詰め込んで、それ事態を“もしも”とか“こうだったら”にするって話か?」
「そう、そういう事よ。今の時点で君は現実を知り尽くした気で鼻で笑っているような奴らより頭が良いわ」
そりゃどうも。
大筋は解ったが、この方法は円が死ぬ事を前提としている。そうですかで済ませられる話でも無い。聞き終えて、円を殺さなければならない理由は解ったが敵か味方かという判断をするならば……やはり敵だ。
身近なもの――嗚呼、あった。
俺は右手をそっと伸ばしてナイフに指を当てる。いつでも武器として使えるぞ、という合図。
「待ちなさい。いい? よく聞いて。私が円を殺さなければ時間が崩壊するのよ? 君は世界と、一つの命といったらどちらを取るべきかな……」
現在、世界の人口は六十九億だそうだ。
一呼吸置いて、彼女はそう付け足した。
沈黙が流れ始めた頃に、彼女は店員へ視線を送るとしばらくしてまた料理が運ばれてくる。肉類のメイン料理のようだ。どうしてこのタイミングで料理を運ばせたのか、問いの視線を送ると彼女は食べなよ、と一言だけ言う。
話は中断、というよりもここで休憩をしようということかよ。
焼き加減はレア、胡椒かトリュフかわ知らないけど黒い粒が散りばめられており軽く茶色のソースがかけられている。俺は一口サイズに切ってソースをつけて口へ運んだ。この状況では、口の中に広がる美味をどれほど舌で転がして堪能しても特に感想は思いつかず反応もせず、ただ淡々と口へ肉を運ぶ作業へと変わっていた。
デザートはチーズケーキ。これまた淡々と、しかもすぐさまに俺は食べ終えて沈黙。店員はちらりと何度か遠くで俺の顔を窺っているのが解った。流石に虎子さんの連れというだけで店側は緊張を隠せずにいる様子、料理長は何か不備でもあったのかとそわそわしているが俺にとっては逆に何か不備でもあるのかと探すほうが難しいくらいに美味しい料理だったので、杞憂に終わるのに心配性な人だと心の中で笑った。
最後は軽く飲み物をという事で虎子さんは紅茶を、俺はコーヒーを頼んだところでどれほど続いたのかさえ解らない沈黙を俺は雲散した。
「一つ、疑問があるんだけど円を助けたのに、今日聞いた話では十三日に亡くなった事になっていたけどこれはどういう事なんだ? それに……やったのはあんたか?」
「その件に関してはなんとも言えないわ。十二日に円の死を回避しても円が“死ぬ可能性のある期間”として十三日が入っていたとすれば、その死は十三日へ自動的に移行したのかもしれない。十三日に救えば十四日に、十四日に救った場合……十五日は既に迎えてる。葬式という事実があるから既に巡った十五日が変わる事は無いはず。だから十三日と十四日が“死ぬ可能性のある期間”と私は思っている」
言葉を重ねすぎたのか、一度喉を紅茶で潤した。
「……もちろん推測だけど、確信すらもてる推測だ。だから、これから重要なのは十四日と十三日はどちらが先に来るかで円の死ぬ日が決まる」
残っているのは十三日、十四日、十七日だが明日はどの日が来るのかなど解らない。
まるでそれは気まぐれな天候のように読めないのだ、法則性を探そうとしても探すだけ無駄な気がする。
今日は十六日、明日は十七日だろう?
――いいや違うね、明日は何日かなんて解らないってのが正しいのさ。
俺は今、そんな状況に置かれている。
「私は君の邪魔はしないし、むしろ君を守ろうと思ってる。今日のようにね」
それはありがたい。
「ただ、君がどうしたいかを聞きたい」
というと……?
「あの子が死ねば螺旋が組まれる、そして世界はまた一週間前に戻るが日付は無茶苦茶のままだろうね。その内世界と言えない世界になるかも。それかあの子を私が殺す事で時間の崩壊を防ぐか」
うまく言葉が出てこなかった。
言葉を出そうにも、頭の中には真っ白な台本しか無く代わりに沈黙を放つしかない。
どうしたいか、だって? そんなのいきなり聞かれても、どう答えればいいのか、どうすればいいのか何もかもが解らない。
正しい選択は身近なところに転がってるが、俺はそれを見てみぬ振りをしている。それだけは自覚できる。だからこそ沈黙を放つしかないのだ。
「……先ずは明日になってから考えよう。明日が何日か、それが重要だ。しかし……君を襲った奴はなんだったんだろうね、十割がた通り魔にしか思えないけど、誰かに恨みを買うような事はした?」
「そりゃあ、数え切れないくらいに」
でもナイフを持って本格的に襲い掛かるほど仕返しをするような奴はいない気がする。
それに、襲ってきたあいつの体躯はそれほどがっしりともしておらず、背が大きくもなく小柄な体躯。微かに見えた指は細かった。印象的に女性……いや、それは無いかな。体を回転させてナイフを振るう動きは女性特有のしなやかさを感じられたが、それでもだ――女性の通り魔は考えられない。いるとしてもそいつは目の前で紅茶を飲んでいる奴だが、彼女は俺の目の前で対峙していたので分身の術でも使えない限りありえない。実は使えました、とか言われれば結構納得は出来るだろうけど。
「調べてみようかと思ったがやる前から気が遠くなりそうだ」
「そういえば、ニュースで事件が起きたって耳にしたけど……?」
記憶では十二日に携帯電話の機能を使って聞いていたニュース。犯人はまだ捕まっていないらしいがその後はどうなったかなどニュースは見ていないので解らない。ただ、もしも捕まっていないのならば俺を見かけて気まぐれに襲ったのかもしれない、なんて考えてみる。
「殺人事件を起こした犯人はそこで目的を終え、次は逃げるのを最優先にするはずだ。他に目的が無ければね」
言われて納得。
「……だよな。でも目的はあったはずなんだ、尾行されてたから」
「尾行……? それは興味深い。十三日に円が亡くなったのもそいつが関与してるのかもしれないね。でも、もしかしたら……ああ、いや……」
彼女は口ごもりつつ、それを誤魔化すかのように紅茶を飲んで口元を隠した。
「……今日はもう遅い、送ろう」
刹那に、視線は何かを思い出すかのような、詮索するかのような、「もしかしたら」の答えを探すかのような、そんな考えをめぐらせた動きをさせたと思いきや、腕時計を見せてきてはそう言葉を放つ。
時刻は既に二十一時を回っている、俺には何分、何十分、いいや何時間だって長引いても構わないがここで話を終えるというのなら従おう。
席を立つと料理長らが揃ってお見送り、なんだか気分が良い。
店を出るや黒塗りの車両が道路の傍らに寄せられて、運転手らしき男性が会釈をして後部座席の扉を開けた。胴が長い車両、それに両開き。これが所謂リムジンって奴か、ああすげえ。中へ入ると鼻腔を撫でるように通る花の香りがお出迎え。ふかふかの座席に身を委ねるとこれが心地いい感触、このまま熟睡していられるほどね。もはや座席というよりもソファだ。
そんなソファに心地よさを得ながら走ること数分。
「明日は何日だろうね」
さあね、と俺は簡単な言葉で返す。
「とりあえずだ、お互い連絡できるようにはしておいたほうがいい」
彼女は懐から名刺を取り出して手渡した。
名刺には携帯電話の番号と、メールアドレス、それに虎子と名前が書かれていた。会社等の表記は無し、ただの連絡手段を簡単に与えるために作ったような印象を得るね。
夜空に伸びるマンションの頭が見えてきたところで俺は車を停車してもらい、虎子さんとはそこで別れた。
最後には、
「明日は何日か確認は怠らないようにね?」
と言葉を添えられた。
部屋に戻ると自動的に大きな溜息を吐いた。肺に溜まっていたように、それらを全部吐き出すかのように。
多くの課題を押し付けられた気分だ。
残る三日間の内、円が死ぬ可能性のある期間である十三日と十四日。十三日が先に来た場合は彼女の推測が正しければ死から回避させたとしても十四日にまた死ぬ可能性が生じるが、十四日が先に来た場合は十三日が円の死ぬ日と確定される。
それまでに、俺は決断しなければならないらしい。
このまま滅茶苦茶な時間の中を過ごして時間の崩壊を待つか、円を虎子さんが時間の滓を使って殺す事で時間の崩壊を防ぐか。
正しいのはもちろん後者。
その為には円が生きている日がきたら、彼女を虎子さんへ引き渡さなければならない。
だから、その決断。
引き渡すか、それとも円を連れて逃げ回るか。
引き渡せばその岐路の先に待っているのは元に戻った日常、でもそれだけだ。
円は、いないんだ。
十三日に円が亡くなったという事実、犯人は虎子さんも知らないようだけどこの現状で未来も過去も解らないのだから、十三日に円を殺したのは虎子さんになるかもしれない。それは、俺が引き渡した場合にそうなるのかもしれないし、はたまた今日俺を襲った奴が関係しているのかもしれない。
この現状で過去と未来を知る事などは不可能なのだから、大事なのは明日だ。
何日か解らない、明日……だ。
三。
現実味の無い話でも、こうも身に振りかかる非現実の割合が多いと全てがすんなりと理解できる。
それは抵抗も無く、まるで今までそうだったかのように。
昨日は十六日だった、だから今日は十七日だ――などという現実は未だに到来していない。
本日の日付は五月十四日。
つまり、これで確定されたのだ。十四日が先に来たのだから明日か明後日に迎える十三日に起こる円の死はこれ以上どう干渉しても日にちがずれる事は無い。来る十三日にむけて、決断しなければならない。円を十三日に死から回避して時間を崩壊させるか、それとも虎子さんに円を差し出してそれを防ぐか。
考える時間が少ない、最短で一日、最長で二日しかないのだから。
理不尽だ、心の中で愚痴を吐きつつ俺はいつもどおりの朝を過ごして学校へ。次の日が二日前の日付なんて今となっては別にそれほど驚愕たる事実でも無い。逆に今日が何日であれ未だに慌てふためくようではこの先、生きてはいけないね。
教室に入ると生徒達は毎回の如く葬式のような重みと静けさを携えて、円の机を見ると案の定花瓶が置かれている。
これが今の現実だ、今更否定しても決して変動などしない現実。
先に席についていた道房は助けを求めるかのように俺へ視線を投げ掛けていた。
俺を見れば何か解決でもするのか? いいや、違うだろう? 何も解決しないさ。だからそんなに見つめるなよ。
着席と同時に、道房は喉の奥から小さな声を振り絞るかのように口を開いた。
「円……昨日亡くなったんだって」
それは既に知っている、けれども言葉に出したら妙な誤解をされそうなので口数は控えめに、そうか……と今はその一言で終えた。
昨日に亡くなって、今日知らされたのが周りの現実だが俺には十二日から知らされてその事実は十三日になっているので多少周りが感じている現実とは異なる。なんとか逐一頭の中を整理して、今がどのような時間軸をなぞっているのか把握していかなければ過ごしづらい。
十六日だった昨日、木崎先生によると、円については望月先生が対応していたらしい。望月先生は生徒との交流も良好なので、ある程度の話も生徒達に広まっているかも。右往左往と教師達が廊下を歩いているところや、円が亡くなったとしか道房が知らないような口振りから単純な説明しかされてないようだが。
その後は、ホームルームにて木崎先生が円の件について説明して黙祷。
葬式は十五日などの説明も付け加えられたが俺には既知の事実で、それらの事実には特に変化はみられなかった。
授業中、前はいつ開いたかすら憶えていない教科書を開いて俺は視線を落としていた。文字など読むつもりなど無く、思考は授業を放棄。
明日が十三日かもしれない、そう考えるだけで気が気じゃない。
たとえ明日じゃなくても、違いは一日しかないのだからほとんど変わりなど無いだろう。
いつでもその日がきたら揺らぐことの無い心構えと決断力が欲しい。
俺は静かに沈黙し、教室内もその雰囲気と同化していた。
とはいえ、俺の沈黙と教室内の沈黙は同化しているとはいえ大きな違いがある。周りは円の死に心がどん底で低迷しているので、その雰囲気には合わせておかなければなるまい。
俺にとっては明日か明後日にまた円に会える、会えるとはいえそれからが問題だけど、その会えるか会えないかの差は意外と心に僅かな安らぎを与えてくれる。小さな希望みたいなものだ。彼らはその僅かな安らぎ、希望など微塵も与えてもらえずに突き出された唐突で冷徹な現実に打ちひしがれるしかない。
そんな生徒達を相手にするのは教師も気がめいっているのか、視線を机に落とし気味の生徒達には一時限目から四時限目の四科目全ての授業にて、それぞれ科目担当である四人の教師は誰もが文句を言わずにただ淡々と授業を進行して昼休みを迎えた。
いつもなら談笑やら授業の愚痴やらで言葉が飛び交い投げ合いと賑わっている教室も、それぞれが言葉を軽く宙に投げては誰か拾ってくれないかと漂う言葉に、沈黙は避けようと誰かがその言葉に言葉を投げては繋げるといった不器用な言葉のキャッチボールが続く。
そんな教室内を見るのは痛々しく感じて俺は視線を外へ。朝に買っておいたサンドイッチの味がやけに味気が無く感じる。
なあ円、お前は幸せ者だと思うぜ。
なんていったってクラスメイト全員が悲しんでくれるんだからさ、羨ましいよ、まったく。
「昨日まではいつもどおりだったのに……」
いつもどおりとはいえ、まだ昨日が来ていないのが心の中に暗雲を催してくれる。
「そうだな、でも今日からはこれがいつもどおりになる」
いまいち……女子の慰め方には疎いと自覚する。
こう滑らかさある純度百パーセントで構成されたような言葉で軽やかに女子を慰めたいが、どことなく俺が今道房に言った言葉は棘があるなと後悔が押し寄せてきたもんだ。
「うん、解ってるけど……」
背中を丸めて項垂れてしまった道房が窓に反射して視界に入る。
それを避けて俺は視線を机へ落とした。八方塞、そんな気分。
放課後にて、そんな気分っつうやつを未だに引きずったままの俺は大半の生徒が教室に居座り続ける中にて、漂い蓄積していく重い空気を味わい続けたくないので早々に教室を出る事にした。
「君よ、桐生円のいたクラスはここでいいかな?」
教室の扉を開けるや、一輪の白い花を持った生徒会長・西院城美菜子と出くわした。
眉間にしわがさも自動的かのように寄りつつも俺は頷く。人差し指でそっち、と説明も付け加えて「どの席?」なんていう質問をされる可能性を潰してこれ以上会話の余地を無くする。
「実に悲しい知らせだった、君も悲しいだろう。だがしかし自暴自棄に陥ったりしないように、いいね? 相談なら私がいつでも受け付けよう、目安箱に投書するのも良い」
「そりゃあどうも。目安箱なんてどこにあるかも知らないし俺が利用する日がきたら奇跡だけどね」
「では期待しているよ、奇跡は起こるものじゃなく起こすのものなのだからね」
肩を軽く二回ほど叩かれて、妙な笑顔をして生徒会長は教室へ入っていく。
励まされた、よく解らないけれどそう思っていいのかもしれないが俺は首を傾げるしかなくしばらく生徒会長の背中に視線を投げつけた後にて帰宅した。相変わらず生徒会長への苦手意識は払拭できない。
昨日の件もあって神経を集中しての帰宅、誰かに見られている感じとかも無く今日は普通に帰宅してもよさそうだ。
それでも念には念をと遠回りはしておく。
十六日に襲ってきたのだから、十四日である今日に再び襲ってくるのは考えられないし特に心配も警戒もする必要は無いが、何が起こるか解らないから微々たる余裕すら持たないようにはしている。
何事も無く長い帰路を終えて自然と溜息が出た、安堵もあるけどそれ以外の感情としては一日が短いと感じたからだ。この後は夕食を摂ってあとはごろごろとしてりゃあ気がつけばソファで寝ているか、まどろみかけてベッドへ無意識に飛び込んでいるかして明日になってるかも。
時間の経過一分一秒に心臓の鼓動は終始不安定。
無意味に俺は立って歩き回ったり、喉なんて渇いていないのに水を飲んだりして自分でも挙動不審な奴だと思う。
どうするべきかっていう話に対して、そうするしかないっていう答えしかなく、そうするしかないっていう答えは大切なものを失う事で得られる答え。そうするしかない、そうしなければならない、そうするべきだ、否定したくても自分の頭の中は二つの選択を一つに絞ってしまっていた。
世界と一人の少女を天秤に乗せれば世界のほうが地面へ減り込む勢いで傾くのは当然であるのかもしれないけれど、当然だからこそ俺は壁に拳を叩きつけて心の中にまどろみ続ける何かを雲散しようとした。
日が暮れ始めた頃にて俺はそろそろ夕食をと冷蔵庫を開けるも、中にはまともな食材は無かった。ゴミ箱には冷凍食品の包装の残骸、きっと“十三日の俺”が食べたに違いない。
仕方なく俺は外へ出ていつも行っているスーパーへ足を運んだ。
簡単に済ませたいので冷凍食品をいくつか放り込んで店を出る。こういう時、円がいりゃあ俺の好きな料理の材料でも買って作ってもらうんだけどな。今の現状じゃあ円は死んだ事になってるから会えもしない。
「やあ、明人君」
帰路を歩く事数分、偶然にも道房と遭遇した。
制服姿のままである彼女は今まで学校にいたらしくようやく帰路についた様子。
自然とお互い肩を並べて歩く、共通の寂しさがそうさせたのかもしれない。
「さっきまで学校でね、円の話ずっとしてたんだ」
そうか。
「泣いてる人もいたよ」
その中にはお前もいただろうに。
「円は皆に好かれてた、その再確認が出来てすごく嬉しかったの」
そうだな、今日のクラスの雰囲気から俺も同じ事を思ったぜ。
「なんだか、実感が沸かないよ」
「まったくだ」
「悪い夢なら、頬を抓って起こして欲しいな」
「抓ってやる」
「うん……。あっ……すっごく痛い」
そりゃあそうだ、どう足掻いてもこれは紛れも無い現実なんだからさ。
お互い、そうしている内に交わす言葉も無くなり、しばし沈黙を引きずりつつ歩数だけが増えていく。
「高校入学する前に円はよくこの街に来てたんだ」
住宅街に入って間も無くのこと、道房は回想でもするかのような口調で口を開いた。事実、彼女の頭の中には円との思い出が回想として流れていたかもしれない。
高校入学前に円がこの街へ来ていた事、本家との関係もあったのだろうか、俺は初耳である。おそらくはあまり言いたくは無い事情が絡んでいたと思われる。
「ほら、すぐそこに公園があるでしょ?」
道房が指差す先には小さな公園。
ブランコと砂場、それに滑り台があるくらいで一軒家くらいの広さしかなく遊んでいる子供の姿は無し。街中の過疎地みたいだ、こう表現するのも失礼だけどこのご時世、やっぱり家でゲームが主流なのかな。
「円はいつもあのブランコに座ってたの」
今は誰も座っていないブランコ、微風に煽られてキイキイと音を立てて揺れていた。
懐かしがるかのように道房はブランコへ歩み寄り、過去の思い出と重ねるように、自分が座っていたであろう場所へと座り、ゆっくりと口を開く。
「『いつもここで何をしてるの?』って言ったんだ。別に、その日は赤の他人でも抵抗無く接していられるような陽気な日とかでもなく、ただ僕はなんとなく聞いただけだったんだよ。好奇心、うん……好奇心だったと思う。なんとなくっていう中身の中にぎっしりと詰まった好奇心」
円が座っていたであろうその空いているもう一方のブランコに座るのは些か思い出の妨害になりそうなので、俺はブランコの囲いに座った。座り心地は最悪、鉄棒という不安定さに加えてざらついた錆が嫌な感触。
「『何かしたいと思って、ここに座ってるの』って円は答えたの。目的を探すように空を仰いで、さ」
道房は空を仰いだ、それは回想の円を真似するかのように。
俺も空を仰いだ、円の気持ちを少しでも知りたかったから。
「それからいつもこの公園で会うようになってブランコに座りながら話をして過ごして楽しかった。入学してからは場所が学校に変わっただけでこれからもずっと続くと思ってたけど、短い幸せだったよ」
なんと言葉をかけてやればいいのか、終始沈黙で返すしかなく俺は視線を落とした。
「もうすっかり日が落ちてきちゃったね」
再び空を仰いだ道房は名残惜しそうに言葉を空に溶かした。
電灯が一つ一つ灯りをともし始めてきた時間帯、ようやく俺は口を開く。
「そろそろ帰るか」
なんて、どうしようもなく淡々とした口調でつまらない言葉。
冷たい奴と思われたかもしれないけど、頭の中にある俺の辞書には気の利いた言葉を探してみても登録されてないのだから致し方が無いのだ。
唯一探せた言葉は「送るよ」ってやつ。「ありがとう」って返してくれて少し嬉しかった。
帰路についたのはいいとして、道房の家が解らないので彼女の少し後ろを歩く形となった。これじゃあ送るっていうよりもついていくって感じだ。
「あいつさ、前髪長かったろ」
「え? あ……うん、確かに前髪長かったね」
無言の帰り道もなんだし話題を一つ、と話をしてみる。
「俺とあいつは御三家とか言われて親戚みたいなもんでさ、昔からよく付き合いはあったんだ。いつも監視されてるような生活だったからさ、人の視線を感じたくなかったんだろうな。前髪を伸ばして心の壁を作ったつもりでいたんだよあいつは」
「そうなんだ……。でも僕はあの前髪に惹かれたかも。個性的で、あの前髪に隠れた表情を見たいってそそられるものもあったかな」
確かに、ああ、確かにそうだな。
あの前髪も、それに俺はあの前髪の奥から覗く瞳には特に惹かれた。
俺の心を優しく束縛してくれる瞳だった。
「もしも、もしもだけどさ」
だからこそ、内心にくすぶる感情はブレーキを自ら放棄したいと願っている。
「うん、どうしたの?」
「円は誰かに殺されたとしたらお前はどう思う?」
そのブレーキを足で押さえつけているものの、このままアクセルを踏み続けてもお先は真っ暗。
どうするべきか、そんな答えは自ら見出せない。だからといって道房に聞くのもどうかと思うが、迷走するよりはいいかもな。
「……そう、だとしても……どうしようもないかな。逆に聞くけど君は……もし円が殺されたとしたら、どうするつもりなの?」
「どうしてほしい?」
「そんなの聞かないでほしいな」
そりゃあそうか。
答えがどうであれ、さ。
「それじゃ、ここら辺でいいよ。すぐそこだし君はそっちでしょ?」
「ああ。またな」
手を振ってお互い十字路にて道房は右へ、俺はそのまま直進なのでここでお別れ。
同時に、俺は余った方の手には冷凍食品を詰め込んだビニール袋を持っていた事を思い出す。相当時間が経っているが、大丈夫かなこれ。
カリカリカリカリ――。
鼓膜を痛いくらいに刺激する音――どこからか聞こえてくるそれは、いつかどこかで聞いた音と類似、いいやそっくりだった。
カリカリカリカリカリカリカリ――。
振り返ってみるも何も無く、十字路まで引き返してみて左右に視線を投げる。
黒い影、それは二つ。そこは道房の帰路だ。運悪く街灯の灯りが無く丁度光が届かない所で何かが動いている。
「おい、道房……?」
応答は無い、がしかし二つの影には反応があった。
足を引きずるような音、かすかに声が聞こえる。
もがいているような、いや、よく解らないが……声には間違いない。
嫌な予感がする、むしろもう嫌な予感は確実であるとお墨付きの如く先ほどの音が再び聞こえてくる。
カリカリカリカリカリカリカリカリカリ――。
地面に火花が走る。
かすかに見えたのは刃先、地面を削っているようだ。
「そこに行くぞ? いいな?」
「きひっ」
声、ああ……声がした。
笑い声だ、道房の声では無い。
目を凝らしてみた、暗闇には少しずつ慣れてきたのでそろそろ人影がどのような状態なのかを把握できる。
道房らしき人影を確認、身長や髪型から間違いは無いだろう。彼女口元は手でふさがれているようだ。
音が止むと共に道房らしき影はもがこうとする様子が止まり、動かなくなった。おそらくは刃物を持っている相手に放心状態といったところか。
彼女の後ろにあるもうひとつの影はフードを被っているようだが、見覚えがある。まさかとは思うが、以前に襲われた奴と同一人物……なのか?
慎重に俺はゆっくりと距離を縮めた。
心臓の鼓動が次第に跳ね上がり、動きが少々ぎこちなくなってくる。落ち着け、なんて自分に言い聞かせられる状況でも無い。確定しているものを脳内で並べてみると、先ずは刃物、そして人影二つに返事の出来ない道房。これだけで状況が飲み込めてくるぜ。
よく見て何が起きてもすぐに対応できるようにしておかなければならない、一先ずこの左手にぶら下がっている冷凍食品つまった袋は道路の片隅へと投げた。
「きひっ」
奥の街灯はついているが、些か光不足。逆光もあってか表情は窺えないがこうして笑い声が聞こえるのだから想像くらいは出来る。何が愉快で笑っているかは知らないがね。
相手が持っているのは日本刀であろうか、長い刀身がもはや疑うのも不要であると語っているが一応よく見て確認しておく。前回はナイフだったからな、投げてこられるのも困るが刀身が長いのも困る。どちらかを選べと言われりゃあ、ナイフだけどさ。こちらの場合、かすったつもりが腕一本落ちてるという状況になりかねない要素を秘めているのだ。人質付きとなれば、五体満足でいられる自信は無い。
「おい、俺に用か? だったらさあ、そいつは関係ねえんじゃねえだろうよ」
「……きひっ」
会話のキャッチボールは無理、か。
投げたボールが破壊されて地面に落ちたようで相手には何一つ伝わってないと思われる。
道房を強引に引きずりながら後退していくがどこへ何の目的で連れて行くのかがまったくの謎である。
「道房ぁ……大丈夫か?」
道房は小さく頷いてみせたが、徐々に後退していくうちに後方の街灯に照らされてはっきりと姿が確認できるようになって見てみると左手には紅い線が走っていた。線の端からは紅い雫が垂れて地面に赤の点をつけていく。
そういえば、十五日の日に道房は左手を怪我していた。
その怪我の原因が現在目の前で起きている状況によるもののようだ、がしかし今はこの状況を眺めてそうだったのか、と頭の中をすっきりさせている場合じゃあない。この状況をどうにか打破しなければならないのだ。
ただ、よく見てみれば道房を押さえつけているそいつは本来脅しの武器として利用する日本刀を地面に只管刃先をこすり付けているだけ。ややこちらが歩数を増やして距離を縮めてもそれは変わらず、道房は押さえつけられているだけで今のところ脅威は無いのだ。
このまま隙を見て日本刀を持っている右手を蹴るかどうかして武器を手放させて道房を奪い返したいが、不安が心臓を縛り付けるように刺激する。
きっかけを作ろう。
そう、きっかけだ。
こういうときにやるぞ、っていうきっかけ。
単純に、俺は自分の足を見て考えた。
三歩目に行動しよう、三歩目というのは特に意識した数字でも無いが四歩目よりは良い。四という数字を担ぐよりは三だ、ならばニならどうだっていう話にもなるが一歩目で覚悟して二歩目で行動よりかは、二歩目でいくぞ! と意気込むほうが三歩目での行動に快活さが生まれるのではないか。
これまで味わってきた場数によって余計な緊張は与えられず、油断せずにいられる丁度良い緊張感が保たれていた。
一歩目で予定していた覚悟を整える、ちょっと待って欲しいなんて我侭が通じる状況でも無いので、結局のところ覚悟が出来ていても出来ていなくても俺は三歩目で行動を起こすほかは無いが、出来る限りの覚悟はしておく。ついでにもしも成功した場合、それまでの完璧な一連の動きを想像する。
二歩目で少しだけ腰を低くする、相手には気づかれない程度の腰の高さで来る三歩目に両足の力を入れてぐっと前進できるよう準備行動のようなもの。
三歩目で俺は踏み込む前に地面に転がっている小石を思い切り蹴り飛ばした。
「ぎゃっ……!」
どこかに当たれば良い、僅かな隙を作りたかっただけだと思っていたがどうやら頬に当たったようだ。
これは僥倖、すぐさま両足に力を入れて腰を低くして思い切り踏み込む。
先ずは日本刀を弾き飛ばすべく右足で思い切り相手の手を蹴り飛ばした、日本刀が地面に落ちる音を聞くと同時に俺は道房を奪い取り、振り返る動作に回し蹴りのための回転力を含めて、完全に道房を奪い取れたと確認して俺は回し蹴りをぶち込んだ。
「いぎっ……!」
腹部に直撃、膝を折ってしばし悶絶。
「道房、お前は逃げろ!」
「で、でも明人君はどうするの!?」
「いいから! 誰かに知らせてこい!」
「う、うん……」
道房の足音が消えるまで俺はこいつに目を離さず、立ち上がろうとしているためにすかさず構えた。
地面を両手で這うように振り回しているのは日本刀を探しているようだ、ここからでは奴を跨いで日本刀を奪いに行くのは流石に危険が伴うので動けない。
近くに日本刀が無いのを理解したのか、そいつはよろめきながら立ち上がり、俺をじっと見つめるように直立した後にてゆっくりと日本刀を取りに行った。奪いに行く余裕はあったかもしれない、と考えたが足でも掴まれて泥沼みたいな戦いにもつれ込まれでもしたらなかなか面倒だ。それよりかはいつでも逃げられるという状況を自分に与えておいたほうが良い。
日本刀は街灯の近くにあり、少しだけそいつは光に照らされた。
そいつは振り返ってフードの奥から僅かに見える双眸は右へ左へ、上へ下へと動いては、俺と目が合うやそのまま目の動きは止まった。
「きひっ……」
気色悪い笑い声は再び再開。
歩き出したのはいいが、日本刀は重いのか引きずりながら向かってくる。
速度は歩くよりも少し遅め、小走り程度でも十分に逃げられると思う。
軽く動いたとき、懐に固いものが当たり俺は一つ思いついて懐から恐る恐る携帯電話を出した。何か反応されるかと思ったが、そいつは無反応で依然その遅い歩調で向かってくるだけ。
携帯電話を耳へ近づけてもそいつは無反応のまま、俺を追いかけるという動作以外はするつもりがないのか。とりあえず気にせずに電話をかけられるならそれでいい。
『やあ、電話待ってたよ。昨日の今日で直ぐに連絡してくるとなれば、やばい状況かすごい状況かまずい状況なのかな?』
電話の相手は虎子さん。
「やばい状況ってだけ言っておくよ、なんていったって日本刀持ったフード野郎が目の前にいるんだからさ」
『でも電話できる余裕があるということは、ものすごくやばいわけでは無いと思っていいのかな?』
まあ、そうだけど目の前のやばさがこれからものすごくやばい状況を引き起こしかねない。
『ああ、そうそう。一つ気になる事があるんだ。今、君の周りには誰か人はいるかい?』
「……いや、いない。それがどうかしたのか?」
ううむ、そんな曇った声が届く。
目の前の敵にも意識しつつの電話だが、まったくそいつの歩く遅さときたらどうしたものかと言いたくなっちまう。今のところ電話の通り周りには人はいない、不思議にもね。住宅街なのだから誰か歩いていてもいいと思うし、腕時計をしていないので時間はわからないが体感で十九時前後といったところか、まったく人が通らない時間帯でも無いのだ。
『それなら君を見つけやすい』
「どういうことだ?」
『簡単な事よ、その場所を無意識に避けてしまうようになってるだけ。どうしても通らないといけないならば通るとは思うけど君達への認識力は極力低下して何かこちらから手を出さない限り認識できないと思うわ。そういう場所は直ぐに見つけられるから待ってて』
「待っててとは言ってもさ」
『日本刀を持ってる奴にどうかしようと考えるのはやめたほうがいいと思うわ』
どうかしようと考えてる中、どうしようもないと行き着くので確かにやめたほうがいいのははっきりとしている。
最後に近場の情報を一通り教えて電話を終えた、スーパーもあったし近くには俺の家もある、探すにはそう時間は掛からないだろう。
一先ず俺は敵を見て様子見を始める事にする。
地面を日本刀で引っ掻きながら相変わらず遅い歩き方。日本刀の重みに体がついていけてないのか時々よろめいたりもしている。
そろそろ近づいてきたので俺はニ、三歩ほど後ろに後退。簡単な作業だね、後は虎子さんが来るまでじっくりと待っていればいいかな。
そんな事を思ってしばし何度も後退。
一応、背は向けず常に神経を張り詰めた状態を保ってはいる。
そんな中、妙な違和感を感じた。
すぐ近くに十字路があったはず、それなのにいつまでたってもその十字路に到達出来ていないのだ。
こいつと遭遇したのは十字路を曲がってすぐであるにも関わらず、だ。
後ろをちらりと振り返ってみるものの、一本道が続くだけ。途中、灯りの無い街灯があるくらい。一本道の先は暗闇、一体どこまでこの一本道が続くのだろう。
携帯電話を取り出して、再び虎子さんに電話をかけようとするが“おかけになった電話番号は現在電波が届かないところに――”などと感情のこもってない声が鼓膜に入り込んでくるだけ。
待っていればいいと思っていたが、そんな簡単な思考ではいられないようだ。明らかに先ほど俺がいた道とは違う、ここは別の道だとは思うがいつどこでどうやってこんな一本道になっていたのかすら感じ取れなかった。この原因として目の前の奴が何かしたとは思うが、何をどうやってしたのかとかそんなものは予測すらつかないね。
だけど十字路を曲がって進んで日本刀を持った奴に遭遇して戻ったら十字路が消えて一本道だった、などという現象も滅茶苦茶に日にちが進行してるのと比べてしまえばこんなものに一々驚愕などしない。
どうにも、これは目の前のこいつをどうにかしなければ出られないとかそういう話なのかもしれないな。
まあ、いいさ。こうして逃げていても何かが解決したわけでは無い。円が亡くなった原因としてこいつが関わっているかもしれないのだから、そういう疑問を解消できないもどかしさをどうにか消耗すべく目の前の敵に拳を振るうのも悪くない。日本刀を持っているのは流石に心が引けるには引けるが、敵の動きが鈍いために勇気は沸いてくる。
このままずっとこの一本道をこいつから逃げ続けても終わりはなさそうだし、虎子さんを待つとしても希望は薄い。
よし、と心の中で決意して俺は敵へ視線を向ける。
かかってきやがれ、とか決め台詞でも吐こうかと思ったが日本刀が目に入るとその言葉は喉の奥へと引っ込んだ。
いくら相手の動きが鈍くても持ってる武器は立派なもの、どう立ち回ればいいのか、流石に日本刀を持った奴を相手になんてした事は無い。
一先ずは相手の動きが鈍いのを大いに考えて、だ。
間合いは十分、問題は日本刀。さっきはうまくいったが二度目も上手くいくとは思えない。
しかもそいつは構え始めたので絶対に上手くいかないと言い切れる。
間合いは十分? いいや、違うね。もっと距離を取らなければならないさ。
近くに何か、武器になるようなものはと周りを探そうにも左右には住宅街の塀が立っているだけ。もちろん、住宅に入れるような玄関は無く塀が続いている。高さもこれほど高かったかな、と思うくらいでよじ登れない。逃げる場所はただ只管奥に逃げるしかないという話らしい、角材の一つくらい落ちてればいいけど、そんなものが落ちてる事すら日常生活でも珍しいので武器を探すよりも地面に転がっている小石を拾ったほうがまだマシだ。
さっと小石を拾い上げて、しばしお互い動かず。
試しに一粒小石を思い切り投げ込んでみると、普通にそいつの顔面に当たり普通に痛がっていた。
「おお……。うう……」
視界は悪いようで何が当たったのかすら理解していない様子。まあフードを被っているのだから当然ではあるが、だったら脱げという話でもある。それがこだわりのファッションならば口は挟まないがね。
よし、と俺はもう一度一粒投げると同時に前進。
今度は塀に向かって投げて音を出しておく。さっとそちらへ向いたのを確認したその一瞬を狙って腕を狙おうと思ったのだが、すぐにこちらへ警戒を向けてそいつは一歩後退。
このままではこちらの攻撃を見てから対応もしくは反撃されるので、俺は走りつつ腰を低くして体当たりを試みる。
空気を切るような音、そして奴は日本刀を一度振り上げて、更に一歩後退して振り下ろす。実にこの状況で的確な判断、振り下ろすときにある程度の間合いが無ければ対象に当てるのは難しい、そのための一歩。
けれど、今までの自分が積み重ねてきた経験がそういう行動の予測も考えられた。これまで殴ってきた奴らに感謝したいよまったくさ。予測を元に体が既に回避するための体勢を整えて、振り下ろした日本刀は俺が顔を傾けたときには前髪を、体を傾けたときには服を切って地面に音を立てて火花を散らした。
うまく体当たりは出来なかったものの、よろめく程度に突き飛ばせたのでそのままもう一度突き飛ばそうと体勢を立て直して突っ込んだ。
その際に上着を脱いで日本刀を持つそいつの腕に投げ込み、絡ませるようにした。
上手く絡めばいいが、日本刀の刃の部分で上着をうまく斬られればどうしようも無い。そうだな……手首あたりを絡ませて、せめて日本刀を振りづらくはしておきたい。反撃されるかも、よりは反撃されるかもしれないがやりづらいであろうっていう結果に行き着きたいね。
「いぁ……!」
上着は手首に絡んだのを確認、そのまま引っ張りつつ体当たり。
意外と、ああ、先ほどから意外と軽い衝撃。
まるで女性のように重量感が無い、もしかしたら女性なのかもしれない。たとえそうであったとしても手加減などしないけどね。むしろ、こちらの首がいつ地面に落ちるかもしれないっていう状況なのだから絶対に手加減なんてしないさ。
突き飛ばしたと同時に、そいつは片手を日本刀から離して俺の襟を掴んできた。
お互い躓き地面に転げてしまい、視界は荒く回転。さらに勢い余って塀に頭をぶつけてしまい悶絶。もはや何がどうなったのかすら解らず、目を開けると答えは目の前に広がっていた。
「きひっ……」
突き飛ばしたには突き飛ばしたが、先に体勢を立て直されていたようで目の前にはフード野郎が立っていた。
しかも、日本刀をゆっくりと構えている。絶望的な状況に、それを打破すべきものを何とか探そうにも小石程度ではどうにも出来ない気がする。
狙いを定めたのか、そいつは日本刀を振り上げて――。
「待ちなよ、ああ、待って欲しいのよ」
振り上げたところで、停止。
どこかで聞いた声だ、希望の光とも言える声、待ち望んでいた声。
「虎子さん……」
「いやあ、間に合ったようだね」
一本道の奥からすたすたと歩いてきては、フード野郎の傍まで普通に歩いてくる。フード野郎も思わず動揺して一瞬たじろぐもすぐさまに刀を振り落とした。対象は俺から虎子さんへ、だ。
虎子さんは冷静に日本刀の柄の部分を掴み、そいつに蹴りを入れた。見るだけでこちらが痛くなる部分、股間に。男性か女性かなど解らないが、どちらであれ痛いのは変わらないだろう。男性なら恐ろしく痛いがね。
俺は立ち上がってフード野郎から離れて彼女の元へ。
「君からある程度の場所を教えてもらえれば人が無意識に避けて通ってる場所を見つけてすぐにさ、女の子が走ってきたから尚更解りやすかったよ。言い訳をするつもりでは無いんだが、見つけたのはいいけど結界のようなものが出来ててね。ちょっと苦労しちゃった」
どうであれ、ここへ来てくれたのだから感謝の気持ちしか浮かんでこない。
今ならあんたが聖母に見えるよ、それくらいの感動感謝感激。
「君は少し離れてなさいな」
「あ、ああ……」
でも、大丈夫なのか? なんて声を掛けようとはしたけどそんなの杞憂でしか無いので無意味と察した。
戦うつもりなのだろう、日本刀を持ってる奴と。それでも言葉を掛ける必要など無いのだ。どうしてこんなに虎子さんなら大丈夫なんていう根拠の無い確信が沸いてくるのかはわからないけれど、彼女の背中が確信を教えてくれる。
フード野郎は日本刀を使ってようやく上体を上げて、少々前かがみ気味で立ち上がった。
日本刀を構えて、しばしの膠着状態の中で虎子さんは煙草に火をつける。
それと同時に、そいつは虎子さんの顔面めがけて日本刀で突きをした。命を取る行為に躊躇の欠片も無い動作だ。
虎子さんは反転してそれを交わし、反転と同時に裏拳の動作を含ませてそいつの頭に直撃。
さらには膝に蹴りを食らわせて膝をつかせると日本刀を奪い取る。
そこからは無防備になったそいつに、
「歯ぁ食いしばりなよ」
一言声を掛けてやり、虎子さんは懇親の一撃を食らわした。
鼓膜に届くのはなかなか痛そうな音と、地面に倒れこんだ音。こりゃあ……相当な衝撃だったに違いない。
「ひ……ひひっ……」
倒れながら笑うそいつは、もう戦闘は出来ないとは思われるも近づきがたく、俺はしばらく遠目からの観察。
虎子さんはそいつの上体を起こしてフードを取ると、包帯だらけの顔が露になった。その包帯をやや乱暴に剥ぎ取り、素顔が次第に見えてくる。
「ふうむ、知ってる顔か?」
そいつを街灯の近くまで引きずって俺に顔を向かせた。
「せ、生徒会長……!?」
それは紛れも無く生徒会長・西院城美菜子だった。
不気味な笑みと表情を見せて、目の焦点はどこを向いているのかもわからず確実に正気ではない様子が窺える。俺と一瞬目が合っても何も言わず何も反応せず只管に辺りを見回していた、不気味な笑みは絶やさずに。
生徒会長がなぜこのような事を仕出かしたのだろう、この人は決して人を襲ったりなどするはずが無い。
「頭の中をやられてるな」
「……どういう事だ?」
「時間の滓でもねじ込まれたとか、操られたとか、まあ……そういう話さ」
つまりは、これは彼女の意思ではなく誰かが彼女を使って襲わせたという事でいいのだろうか。
「日本刀を拾ってくれ。この子は私が預かっておくよ、明日までに治さないと日付が変わって面倒な事になるからね」
ふといつの間にか近くに十字路が見えた。
いつの間にかあの恐ろしく長い一本道では無く普通の道に戻っていた。
「でも誰が……?」
「私が聞きたいよ、目的が不明確だ。君を狙うにしても理由が解らない、君をこの子に殺させたとしてそれで得られる利益も解らない。どうであれ、今はこの子を正気に戻すのが先決、かな」
首の裏をトン、と叩くと生徒会長は軽く声を漏らしてぶらんと首を下げた、気絶したようだ。
しばらくして車両が通りかかり、目の前で停車。
虎子さんは彼女を中へと放り込んだ。
「乗ってくかい?」
「いや、すぐ近くだから別にいい」
それにいつ生徒会長が目を覚まして襲い掛かってでもこられたらたまらないからね。
「そうそう、今日は十四日だね」
ああ、そうだ。
円の死が訪れるのは十三日だと証明した十四日だ。
「明日か、明後日か。君には言わずとも考えてるだろうけれどさ」
「解ってるよ」
そう、と一言声を落とすように言って虎子さんは車両に乗り込んだ。
彼女が去ったのを確認して、片隅で土に塗れていた冷凍食品の入った袋を回収して俺は自宅へ帰る前に道房を探したが、どこにもいない。助けを求めて、虎子さんには会ったようだがその後はどうしたのだろう。まあ、怪我をしていたからどこかで治療してもらってるかもしれない。
とりあえず脅威も去ったのだ、別に彼女を探す必要も無い。このまま帰ろう。
生徒会長の件も然り、徐々に問題が拡大していっている気がする。いや、気がするのではなく確実に拡大している。俺と虎子さんとの間での問題で、俺と虎子さん以外は立ち入っていないはずなのに誰かがこうして何らかの攻撃を仕掛けてきている。
これは二度目、動機などは知らないが気のせいでは無いのだ。
俺を狙う理由は……?
それを知る事が出来ればいいが、しかしながら来る十三日の件もあるのでもうどうしていいのかわからない。
俺を考える気力すら出てこなくなり、ベッドに身を投げて目を閉じた。
2011/04/05(Tue)14:12:40 公開 /
チェリー
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■作者からのメッセージ
お久しぶりで御座います、本当は先月中に載せようと思っていましたがご存知の通り東日本大震災があり、青森ではそれほど被害は大きくは無かったのですが八戸が津波などの被害があり、八戸に住む兄などの安否確認やら、その後の節電やら生活ではガソリンや食料問題やらで少々時間を取れませんでした。四月に入り、徐々に落ち着いてきたのでようやく更新できました。
この度は東日本大震災の被害者様に心よりご冥福を祈ります。色々と自分が恵まれているという実感と有り難味が身に染みた日々でもありました。
さてさて、ようやく第三章まで着ました。三章まで何ヶ月掛かってるんだよって話になりますでしょうがもう遅筆ゆえに申し訳ありませんと。次で最終章となりますのでなんとか五月中には更新したいですが、いやはや難しい……かも。もう少し早い執筆が出来ればいいのですが、なかなか上手く出来ません。そして文章表現にもっと彩りもつけたいなあなんて思っているとその日は何もかけずに終わってたりとかして自分に喝を入れたくなります。
ではでは読んでいただければ誠に光栄で御座います、チェリーでした。
11/01/01-第一章
11/02/18-第二章
11/04/05-第三章
作品の感想については、
登竜門:通常版(横書き)
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等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で
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の『文庫本的読書モード』。
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MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。