『シンクロニティー『ブラッドイニング』 その7』 ... ジャンル:リアル・現代 ミステリ
作者:鋏屋                

     あらすじ・作品紹介
『シンクロニティー』という特殊な感覚を持つミステリアスな美少年、真堂九籠【マドウ クロウ】と渋谷区刑事課の年下好きな女刑事、胡桃田茜【クルミダ アカネ】の関わる最初の事件。

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「あぁ……」
 部屋中に満ちた淫靡な香りに微かな衣擦れの音に混じり、切なさを感じるような女の声が響いた。
「あっ ああぁぅ、あん…… い……っ!」
 とぎれとぎれの意味のない言葉が女の口から零れるたびに、シーツに爪を立て掻きむしる手がまるで断末魔を思わせるようにせわしなく動き回る様は、この淫猥な空気が支配する部屋に良く似合っていた。
 今まで弄ばれていた乳首にザラリとした舌の感触を感じると同時に、先ほどから繊細な指の動きに狼狽えていた股の間から、体の芯を通り一直線に脳髄へと突き抜ける様に走る快感に女は鬨の声に似た嬌声を放ち、痙攣する体をシーツに投げだし果てた。
 豊かな胸のふくらみを激しく上下しつつ、女は朦朧とした頭と、ぼんやりとした視界の中に映る背中に視線を投げた。
 先ほどまで自分の体を執拗に弄んでいた相手は、ベッドの端に座り、脇にあったテーブルにある女の煙草に手を伸ばし、そのくわえた先に火を灯していた。
 女は仰向けになった自分の顔の上をゆっくりと流れる紫煙を眺めながら深い息を吐いた。
「もう…… いいの?」
 果てた直後で体を動かすのが億劫なので、女は首だけを動かしその目に映る背中に問いかけた。
「ああ」
 相手はそう短く返し深く吸い込んだ紫煙をゆっくりと吐き出した。女は相手が時折こうなるのを知っていた。いつもの優しい笑顔が一転し、今のように荒々しく責め立て、そして相手が果てると同時に体を離す。まるでそうしないと自分が消えてしまうような、そんな危うい気配を纏うときがこの人にはある事を……
「1回だけでお仕舞い? 今度はあたしがしてあげようか?」
 女はそう言いながらようやく回復した腕に力を込めて、ゆっくりと上体を起こした。
「いや、いい。今日はやることがあるんだ」
 頭上を漂う紫煙に浸みるような声で相手は答えた。
「ずいぶん掛かったが、ようやく決心がついた」
「決心?」
 女はオウム返しにそう聞いた。
「借りを返しにいくのさ。そして俺はもう一度マウンドに立つ」
「マウンド? マウンドって野球の?」
「ああ、ピッチャーの聖域だ」
 そう言いながら煙草を灰皿でもみ消し、鼻先で指を握りの形にした。
「俺の高速シンカーは誰も打てやしないんだ……」
 そう言って握り拳を作った。そしてもう一方の手でその拳を上から握った。女は相手のそんな姿を眺めながら聞いた。
「野球、好きだもんね。でも借りって何なの?」
 すると相手はゆっくりと立ち上がり上着に袖を通し始めた。そして不意にボタンに掛けた指が止まり軽く女の方を振り返る。
「俺から野球を奪った連中に借りを返してやる。俺から全てを奪っておきながら、のうのうと生きてるあいつら…… 俺が死んだと思ってるあいつらに復讐するのさ」
 口元に浮かんだ笑みは、いつもの優しい笑みなのだが、その話の内容に背筋が寒くなり、女は足下の毛布をたくし上げ、その豊かな胸を覆った。
「しばらくこういう形では会えなくなるかもしれない」
 女は無言でその言葉を聞いていた。この関係を続けてもう一年になる。大学を卒業しようやく入った就職先の会社で配達に来ていたこの人を見たとき、すぐにピンときた。自分と同じ種類の人間であることを……
 それから数回会って話をするウチに自然とこういう関係になった。今では週末はこうしてラブホテルで過ごす事が常になった。
「また連絡するよ、カオリ」
 今はもう着替え終わった相手はそう言って口づけをしてきた。カオリと呼ばれた女は舌先に相手の体温を感じながらも、自分が愛した者がもう人でないことを悟った。






 私が署の自動ドアを出ると、辺りはもうすっかり明るくなっていた。対面の歩道橋と首都高速三号線、更には山手線の橋脚が乱立する間を数台の車が縫うように走り抜けていった。あと3時間もすればこの車の流れも鈍足になり、あちこちでクラクションが鳴り響くいつもの雑踏に包まれるだろう。
 若者の街なんて言うキャッチフレーズまであるこの街では、昼になればそれを立証するように若者であふれかえる。そんな若者で賑わうハチ公口や宮益坂口ほどではないにしろ、やはりこの東口側も専門学校などが多いため、普段は道行く若者も多い。だが流石にこの時間は人通りが少なかった。
「ふぁぁ……」
 思わず大きな口を開けて欠伸をしてしまったが、この時間ならばと開き直りもう一度大きな欠伸をした。今年でもう27になる。若者の街で恐らく平均年齢層外な私は最近女であることすら捨ててそうな気がする。
 先週から引きずったひき逃げ事件の捜査報告書を何とか送検前に仕上げるために、ここ3日間は部屋に帰っていない。風呂は近くにあるコインシャワーを使いしのげたのだが、着替えはストックが尽きてしまった。
 いくら最近女らしさを捨てていると自覚はしているが、流石に汚れ物を何日も着ているわけにもいかない。とりあえず報告書は終わり、係長から非番の許可を取って今日は一端部屋に帰り風呂に浸かって、ゴロゴロ癒されよう。
 脳内でリフレッシュプランを考えながら、私は旅行者のような洗濯物の詰まった大きめのバッグを肩から提げて渋谷駅に向かった。
 東急東横線の改札を抜けてホームに立つと、線路向こうに旅行会社の広告があった。熱海の温泉激安旅行パックの文字が踊っているのを見てため息が出る。
「温泉かぁ…… 良いなぁ……」
 思わずそう呟いた。良い空気を吸って、温泉浸かって、おいしい物食べて…… 後は隣にいい男でもいたらもう最高、くぅぅ〜 良いなぁ〜
 いい男は無理でも、今日非番だし強行日帰り温泉ツアーにでも行ってやろうかなんて考えが浮かぶが、どう考えても無理だということに気付く。今日は元々の非番の日じゃない。ここのところれいのひき逃げ事件の捜査で残業や泊まり込みが続き、流石に哀れと思った係長からの温情采配である。携帯は繋がらないといけないし、呼び出しが掛かって仕舞ったらすぐさま署に戻らなければならないのだ。いいとこ近くのスーパー銭湯がギリギリの妥協点だろう。これが公務員の辛いところ。
 考えてみれば亡くなった父の影響からこの職に就いたのだが、子供の頃家族で温泉なんて行ったことがなかった。ちゃんとした非番の日ですら呼び出しがあると父はすぐに署に飛んでいった。子供の頃はそれでよく父に文句を言ったものだが、同じ職に就くと父の当時の苦悩が良くわかり、すまない気持ちになる。親の心子知らずとはよく言ったものだ。
 ふと何気なくホームの支柱にある停車駅案内が目に入る。その中の駅名、中目黒で目が止まった。
 温泉においしい料理は無理でも、せめて『いい男』の部分はどうにか出来るかもしれない。別に彼氏という訳ではない。いや、彼と言うには歳が離れ過ぎているのは良くわかっているつもりだ。でも残業続きで疲れ切り、ぱさぱさになった自分の心に少しだけ潤いを与えたかった。疲れた心を癒してくれる自分へのささやかなご褒美。頭の中に、あの少し寂しそうだけど澄んだ色の瞳が思い浮かぶ。その少し俯く横顔を想うと、忙しさで忘れていた感覚が蘇り鼓動を刻むリズムがワンテンポ上がるのがわかる。
 左手にはめた腕時計で時刻を確認すると午前6時を少し回ったところだ。こんな早朝に彼が起きているかもわからない。でも無意識に携帯を開ける自分がいた。
『おはよう、起きてる?』
 音声電話にしようかメールにしようか悩み、メールを選択したのだが何を書いて良いのかわからなくなりなんとも素っ気ない内容になってしまった。送信ボタンを押して列車の発車時刻表示板を見る。あと7分ほどで電車が到着する。それまでに返事が来なかったら諦めよう…… そう心の中決めた。
「何やってるんだろう、私……」
 思わずそう呟いた瞬間、握った携帯がブルブルと震え、メールの着信を伝えてきた。私はすぐさま携帯を開き画面を覗き込んだ。携帯を操作しメーラーを起動して受信ボックスを開けると、新着メールの欄に『シンクロウ』と表示があったのを見たとき、思わず小さくガッツポーズをしてしまった。ほんといい歳してどうかしている。相手は17歳の少年なのに。
『おはようございます、茜さん。はい、起きています。これからその辺を散歩しようかと思っていたところです。茜さんはお仕事ですか?』
 その内容を目で追いながら自然と口元に笑みがこぼれてしまう自分を自覚した。私は急いで返信の言葉を打ち込んだ。
『うん。でもこのところ忙しくて泊まり込みが続いたから課長からお休みを貰ったの。これから自宅に戻るところ』
 そう打ち込んだ後、私は少し考えてもう一言付け加えた。
『今電話しても大丈夫?』
 送信ボタンを押してから、ちょっと失敗だったかなと考えた。だってどう考えてもあからさま過ぎる気がしたからだ。すると次の瞬間また携帯が震えた。今度はメールの着信を伝える震え方ではない。画面には音声電話の着信表示と『シンクロウ』の文字があった。私は慌てて通話ボタンを押した。
「も、もしもし」
『あ、おはようございます。茜さん』
 こんな時間なのに迷惑など少しも感じない弾むような相手の声。もうこれだけで干からびた心がじんわりと潤っていく感じがする。
「お、おはよう。ゴメンね、こんなに朝早く」
 ホントだよ、と心の中で自分の言葉にツッコミを入れた。
『いいえ、僕は5時半には起きていますから大丈夫です。茜さん今帰りなんですよね。やっぱり刑事さんって大変な仕事ですね。お疲れさまです』
 ああ…… 癒される〜 同僚から言われたり、家族からの言葉と何故こんなにも違うのだろうか。
『それで、今日は何ですか?』
 電話先から至極真っ当な質問が投げかけられ、私は返答に困った。『何ですか?』って言われて返す言葉が見つからない。「ただ声が聞きたかった」なんて言えるわけがない。だがそれ以外全く理由がないことに今更気付いた。
「あ、い、いや別にこれと言って用事がある訳じゃ無いんだけど…… その、なんのけなしに、何してるのかなぁとか……」
 27歳の社会人とは思えないしどろもどろな言葉。すると電話先でクスクスという相手の笑いが聞こえてきた。は、恥ずかしい……
『何も考えずにメールしたんですか。あははっ、なんか茜さんらしいですね』
「ど、どういう意味よ、それ」
『悪い意味じゃないですよ。むしろ僕はそういうほうがありがたいですから』
 そういってシンクロウはまた笑った。
 そう、シンクロウにとっては確かにその方がありがたいのかもしれない。彼は少し変わったものを持っているから……
「ウ〜ン、なんかそれフォローになってない気がするんだけど……」
『フォローですよ。なんか話してたら顔が見たくなりました。今どちらにいらっしゃるんです?』
 突然のその言葉に動揺した私は思わず携帯を落としそうになってしまった。『顔が見たくなった』なんて普通に聞いたら赤面ものだ。
 たぶんシンクロウには全く他意はない。彼はある事情で他人とのコミニュケーションを必要最小限しか取らない。いや、取れないと言い変えた方が正しい。そんな彼だから言葉に何かを含んだり、遠回しで何かを伝えたりすることが出来ないのだ。だから今の言葉も素直に『話していたら顔が見たくなった』のだろう。そういう全く他意のないが故に、さらりと言ってしまえる辺りがこの子の恐ろしい所だと痛感する。その容姿もさることながら天性の年上キラーといえる。
「渋谷駅の東横線のホーム。ほら、これから自宅に戻るところだったから」
『ああそうか、お疲れなんですよね。ごめんなさい、今日1日ゆっくり休んでください』 そのシンクロウの言葉に私は慌てて答える。
「い、いや、いいの。私も、は、話してたら顔が見たくなったし。こ、これから散歩でしょ? わ、私も付き合っても良い?」
 嘘をついた。『話していたら』ではなく、初めから会いたくてメールしたのに。ただそれを伝えるのに、少しだけ年齢差と社会的な立場が邪魔をしていた。あと5歳近ければきっとさらりと言えただろう。いや、どうかな……
『本当ですか? 僕は大歓迎です。なら少し一緒に歩きましょうか。この時間は人通りも少ないし、僕にとっては歩きやすいんです。それに、少し寒いけど気持ちいいですよ』
 シンクロウの声は、澄んだ空気のこんな朝にはよく似合っていた。その声の響き方に若干喜びの気持ちが含まれている様に感じるのは錯覚じゃないと思いたかった。
『僕は今から出ます。改札のところで待っていますね。じゃあ後ほど』
 シンクロウはそう言って電話を切った。私が電話を仕舞うと、丁度電車がホームに入ってきた。私ははやる心と一緒に大きな鞄を提げながら、そそくさと電車に乗り込んだ。

 中目黒駅に着き、改札を抜けて私はシンクロウを探した。クルリと周囲を見渡すと。切符売り場の横にある柱にもたれかかり、ヘッドフォンをした黒いダッフルコートの少年を見付けた。手にはipodを持ちなにやらいじっている。不意にその少年が顔を上げこちらを見た。すぐに私に気づいた彼はコートのポケットにipodを仕舞いながらこちらに歩いてきた。
 コートの下から覗く均整の取れた長い足、身長は167cmの私より少し高く175cmぐらい。耳までの髪を自然に後ろに流し、目に掛かる程度に伸びた前髪の隙間から覗く、若干色素の薄い茶色の瞳。少し彫りの深い鼻筋を下に辿り、若干色が薄いが愛くるしい唇から覗く健康的な歯と、その下に続く顎までのラインが見事なカーブを描いている。
 カツラを被せて女の子の服を着せても10人中10人が美少女と疑わない美しい顔立ち。彼には絶対無理なのだが、もし竹下通りを歩かせたらモデル事務所や芸能プロダクションのスカウトマンが殺到すること間違いなしの超美少年。それがこの子、真堂九籠【マドウ クロウ】だった。
 その証拠に早朝出勤のOL達が皆彼に視線を奪われている。彼に釘付けになり出口用の改札に入ってしまいストップバーにぶつかってるOLも何人か見受けられた。
 こんな光景を見ると私がこの10コも年下の男の子に参っちゃうのも仕方ないじゃない、と開き直りたくなる。
 因みに『シンクロウ』は彼のニックネーム。彼をそう呼ぶのは今のところ彼の家族と私ぐらい。これは私にとってちょっと嬉しい特権だった。
「おはようございます、茜さん」
 シンクロウは耳のヘッドフォンを外して首に掛けながら、先ほどのメールと同じ言葉を私に言った。その笑顔に溶けそうになりながらも私も挨拶を返した。
「おはよう。ごめんね、急にメールしちゃって」
「いいえ、電話でも言いましたけど僕はいつも5時半には起きていますから」
 そう言ってシンクロウはコートのポケットに手を突っ込み、それから缶コーヒーを取り出して私に見せた。
「茜さん、甘いのとブラック、どっちが良いですか?」
 そう言ってニッコリ笑った。その笑顔がたまらなく可愛い。私はICカードを仕舞いながらそんな笑顔のシンクロウに意地悪く聞いてみた。
「どっちだと思う?」
 するとシンクロウは少し眉を寄せて困った顔をした。その顔もまた可愛いのなんの……
「僕にそれを聞くなんて、茜さん性格悪いですよ」
 シンクロウはそう言ってブラックの方を私に差し出した。私は「ゴメン、冗談よ」と言いながらその缶コーヒーを受け取った。手のひらに感じるぬくもりが心地よかった。
 勿論私はコーヒーはブラック党だが、シンクロウに言ったことはない。しかも受け取ったブラックの缶コーヒーは私のお気に入りの銘柄だったが、もう慣れてしまった私は別に驚かなかった。こんな事は彼には当たり前のことなのだから。
「フリをしろって言ったの、茜さんじゃないですか」
 シンクロウは口をとがらせてそう文句を言った。
 そう…… そう言ったのは確かに私だ。以前私は彼に『わかっても知らないフリをして』と頼んだのだ。彼と私が自然なままでいられるようにと。
「うん、ゴメン。シンクロウがこんなに可愛いコトしてくれちゃうから、お姉さん意地悪したくなっちゃったのよ」
 するとシンクロウは少し俯いて「まったく」と呆れたように呟いた。でもその仕草が照れ隠しのように見えてちょっと嬉しかった。だってほら、毎回やられてばかりじゃマズイじゃない? 年上としては。
「あ、鞄持ちますよ」
 シンクロウはそう言って私の肩から鞄を取って担いだ。中身が微妙なだけにちょっと恥ずかしかったが、肩が痛かったのも事実。まあ黙っていればわからないかと考え、そしてはっと思い当たり『しまった!』と心の中で舌打ちした。
「まるでどこかに旅行に行ってたみたいですね。3日分だもんお洗濯も大変だ。でももうちょっと整理して入れればこんなにがさばらないですよ」
 そう言ってシンクロウはニヤリと笑いながら私を見た。さっきの仕返しって訳ね。鞄の中身を言わなくたってシンクロウ相手じゃ教えているのと同じだった。やっぱりこの子には勝てないわ……
「よ、余計なお世話よ!」
 私はそう言ってシンクロウの背中をパンと叩いた。シンクロウは余裕そうに「あははっ」と笑いながら歩き出した。私もその後に続いて歩き出した。

 私たちは線路脇の小道を進み、左に折れて遊歩道に入った。11月も半ばを過ぎ、寒さが本格的になりつつある。しかし頬に当たる空気はひんやりと心地よかった。私たちは先ほどシンクロウがくれた缶コーヒーを空け、飲みながら歩いていた。
「いつもこんなに早い時間に散歩するの?」
 私は横に並んで歩きながらシンクロウに聞いた。
「ええ、この時間帯だとまだ人通りが少なくて外を歩きやすいんです。でもこれは付けて歩きますけど」
 シンクロウはそう言って首に掛かったヘッドフォンを指した。彼は外出するとき必ずこのヘッドフォンをして、音楽を聴きながら歩く。これは彼にとって外を歩くための必須アイテムなのだ。今外しているのは側に私が居るから。外して一緒に歩く事が出来るのは私以外では彼の保護者である叔父と、その叔父が経営する診療所に住み込みで働いている看護士のおばさんだけだ。彼が心を許した相手と一緒にいるときだけ、彼はヘッドフォンを外すことが出来る。だがこれはシンクロウが編み出した、自分の特異な感覚への彼なりの対抗手段なのだ。
 もっともそれでも4,5時間が限界なのだと彼の叔父は言っていた。こうして2人でゆっくりと朝の散歩を楽しんでいる間でも、彼はその強靱な精神力を使って戦っている。『思考』という名の刃と……

 シンクロニティー
 正式には『精神同調感覚』と言うらしい。それが真堂九籠が持つ特殊感覚だそうだ。世界でも20人もいないと彼の叔父である脳医学者、望月庄太郎【モチヅキ ショウタロウ】は私に説明した。
 シンクロウは自分の脳波を他人の脳波に同調させ、その結果相手の思考を自分の思考として認識してしまう特殊な能力を持つ人間だった。いや、彼の場合もはや『障害』と言い換えても良いかもしれない。なぜなら彼はその能力を他の五感と同じく『感覚』として身につけてしまっているからなのだそうだ。
 感覚として身につけてしまっているが故に、彼はその能力を決してOFFに出来ない。彼の脳は常に他人から発生する思考の脳波パルスを片っ端から受信し続けてしまう。気を許せばすぐに他人の思考に自分の意識が乗っ取られてしまうのだという。
 そんな状態だから彼は今まで一度も学校に通ったことがない。幸い通信学校やすぐ近くに脳医学者でもある叔父がいるおかげで学力自体は並以上だが、17年間彼は絶えずたった一人でその気が遠くなるような戦いを続けてきたのだ。本当の意味で誰にも理解されないまま……

「茜さん、忙しそうですね」
 不意にシンクロウがそう聞いてきた。
「まあね、先々週に起こったひき逃げ事件の捜査が難航しててさぁ、私も出っぱなし。なんとか車の持ち主を特定して自供に持ち込んだんだけど、今度は報告書をまとめるのにも一苦労…… 何回も係長にダメだしされて家にも帰れなかったわ」
 私はついつい愚痴っぽくなってしまった。本当に大変だったなぁ。
「お疲れさまでした。最近あまり来てくれないし、メールもくれないんで忙しいんだろうな、とは思ってましたよ」
 そんなシンクロウの言葉に思わず反応してしまう。
 来てくれない? メールもくれない? まるで私に会いたいみたいじゃない!?
「なぁんだ、もしかして私に会いたいのかな〜?」
 と動揺を隠して冗談っぽく言ってみた。すると
「ええ、もちろんです」
 自分から振っておいて何だけど、顔から火が出そうだった。
 私は思わず持っていた缶コーヒーを落としそうになった。こういう台詞をさらりと言ってしまうから、私としては降参するしか無くなっちゃうんだ。言い訳になるかもしれないけど、彼のその顔で正気じゃいられなくなるのは絶対私だけじゃないからね。
「僕が家族以外でこうして会ってまともに会話出来るのは茜さんぐらいですからね。会いたいって思うのは無理ないことでしょう?」
 そんなシンクロウの言葉を聞きながら、私は余計なことを考えないようにと、必死に妙な考えを頭の中から追い出していた。シンクロウ相手には自分の中の葛藤など手に取るようにわかってしまうのだから。まったく、神様はこの子になんてとんでもない感覚を持たせてしまったのだろう。
「あ、茜さん朝ご飯はもう食べました?」
 不意にシンクロウはそう聞いた。
「うん? まだだけど」
「もしよかったら家で食べていきませんか?」
 ええっ !?
「あ、いや、いくら何でもそれは…… それに望月さんも迷惑だろうし」
 こんな早朝に会いに来て、さらに朝ご飯までご馳走になるって女として…… あ、いや社会人としてどうかと思うんだ。
 しかし結局私はシンクロウの強い薦めもあって現在の彼の家である望月診療所の敷居を跨いだのだった。
「シンクロウ、散歩から帰ってきたのか? あれ? 胡桃田さん」
 私が診療所の玄関に入ると左手のドアからこの診療所の主である望月庄太郎が顔を出し、私を見てきょとんとしていた。私は慌てて頭を下げた。
「おはようございます。あ、あのさっき駅で九籠君と会って散歩に付き合ってたら、その、朝食を一緒に食べないかと誘われて…… ご迷惑と思ったのですが九籠君がどうしてもと……」
 どう考えても不自然すぎる理由をしどろもどろで喋る自分が情けない。そもそもこの時間に偶然会うなんてあり得ない。
「どうぞどうぞ、迷惑であるはずがない。胡桃田さんなら大歓迎ですよ。幸枝さん、胡桃田さんの分も用意してくれないか?」
 完全に上がってしまっている私にニッコリ微笑んで、望月氏は住み込み看護士である幸枝さんにそう言った。幸枝さんも「ええ、ご用意いたしましょう」とにこやかに返してくれた。
 この幸枝さんは、シンクロウから聞いた話では実は望月氏の教授時代の教え子なのだそうだ。大学を卒業した後、就職先で知り合った人と結婚。しかし彼女は元々子供が出来ない体だったらしくそれが原因で離婚。その後独身のまま初老を迎えた望月氏の所に身を寄せこの診療所で住み込みで看護士をしているそうだが、2人の間の関係は想像に難くない。年齢差を気にしているせいもあってか、独身を貫き通している望月氏の数歩後ろで見守る彼女の目を見ればそれが良くわかる。しかしその件に沈黙を守る望月氏に習い、彼女も自身の内にある感情を決して口に出すことは無いのだという。今となっては古風とも言える奥ゆかしさをもった日本人女性の典型的な人だった。
 2人とも本当に気さくで素敵な人である。シンクロウが『シンクロニティー』なるやっかいな感覚があってもこれまで大きな事故や問題を起こさずにいられるのは、この2人の人柄に依るところも大きいのだと思う。
「はい、茜さん」
 望月さんと幸枝さんが置くに引っ込むと、そう言ってシンクロウが用意してくれたスリッパに、私は「ありがと」と言いつつ足を入れ玄関に上がった。
 とその時、急に後ろにある玄関の引き戸がガラガラと勢い良く開かれた。
「おはようございま〜す。庵クリーニングで〜すっ!」
 私が振り返ると同時に、元気のいい声で戸口から叫ぶショートカットの女の子。
「あ、九籠君〜っ!」
 と私のすぐに横にいるシンクロウを認めると花が咲いたような笑顔で小さく手を振った。
「おはようございます、駕籠芽【カゴメ】さん。今日は少し早いですね」
 シンクロウも自然な笑顔でそう返した。むむっ、思いがけない伏兵かっ!?
「うん、今日ちょっと大口の配達が重なっちゃってね。いつもの時間じゃ間に合いそうもないから、さっき庄太郎先生に電話して早めにして貰ったの」
 その駕籠芽と呼ばれた女の子はそう言って引いてきた台車からプラスチックのケースを持ち上げた。ケースには『庵クリーニング』と書いてある。
「あれ? お客さん?」
 ここでようやく私に話題が振られ彼女が私を見た。すぅっと鼻筋の通った目鼻立ち、薄いナチュラルメイクを施したその顔は健康的でショートカットがよく似合っていた。全体的にボーイッシュな雰囲気で美少年と言っても良い印象を受けるが、決して男っぽいという事ではない。顔立ちは整っているので女性的な装いをすればガラリとその印象が変わるだろう。
「ええ、僕が以前お世話になった胡桃田【クルミダ】さんです。近くに来たので寄ってもらったんです」
 シンクロウはそう彼女に説明した。
「胡桃田です」
 私はそう名乗り頭を下げた。
「こう見えても渋谷署の刑事さんなんですよ」
「え? 刑事さん? へぇ〜」
 シンクロウの説明に、駕籠芽はまじまじと私の顔を覗き込んだ。私は何だかむず痒くなって顔を引いた。何なのこの子?
「あの、何か?」
 私は顔を引きつつ駕籠芽にそう聞いた。
「あっ、御免なさい。女性の刑事さんってもっと男勝りな感じの人ってイメージだったけど、こんな綺麗な人もいるんだぁって思っちゃって……」
 あは、あはは…… そう来ましたか……
「えっ、い、いや、そんな……」
 私は頭を掻きながら照れてしまった。そう面と向かって言われた事なんて今まであったかな? 言われ慣れてない褒め言葉は素で動揺してしまうものだ。
「茜さん? 社交辞令って言葉知っていますか?」
 私が照れまくっていると隣でシンクロウがそう呟いた。私が睨むとシンクロウはニンマリして肩をすくめた。くうぅ、小憎らしいけど可愛いしぐさだ。
「ううん、お世辞抜きで。あたしお世辞言わないもの」
 うん、この子とってもいい子だわ〜
「あたし庵駕籠芽【イオリ カゴメ】って言います。実家は駅前でクリーニング店をやってます。望月先生の所では診療所のシーツや白衣なんかのクリーニングをやらせて貰ってるんです。うちのお得意さまなんですよ」
 駕籠芽は歳に似合った明るい声でそう自己紹介した。22,3歳ってところかな。
「渋谷署刑事科の胡桃田です、よろしくね」
「はい、こちらこそ。あっ、そうだ胡桃田さん、クリーニングをご用命の際は『庵クリーニング』を宜しくお願いします」
 駕籠芽はそう言って台車に掛けてあった手提げ袋からクリーニングのサービスクーポンが付いたチラシを取り出し私に手渡しながらそう言った。
 クーポン使うとYシャツ1枚70円か…… 安いなぁ。
 なんて事を考えていると、背中のシンクロウがぼそっと呟いた。
「流石にこの時間にお店はまだやってないと思いますけど」
 その言葉に私が振り向くとシンクロウは肩から提げた鞄を持ち上げてニッコリ笑った。私がその顔を睨むとシンクロウは肩を竦ませて言った。
「茜さんの考えることは、茜さんを知ってる人なら僕じゃなくてもわかりますよ」
「どういう意味よぉ」
「別に他意はないですよ。そう言う茜さんだからこそ、僕は安心して付き合えるんですから」
 むぅ…… そんな言葉聞いたら黙るしかないじゃない。もうホントにずるい。
 そんな私とシンクロウのやり取りに駕籠芽は首を傾げて見ていたがそれも数秒のことで、すぐに上がり框の上に真っ白なシーツが詰まったプラケースを置いて伝票を取り出した。
「シーツ6枚に白衣が4枚。あとタオルが20枚…… はい、以上お届けです」
 駕籠芽は伝票と品物を確認し、控えの伝票をシンクロウに渡した。
「請求はまた金曜の引き取りの時にって先生には言っておいてね。じゃああたしは配達もあるからこれで。またね九籠君。胡桃田さんも」
 駕籠芽はそう言ってペコリと頭を下げた。私もお辞儀を返すと彼女は爽やかな笑顔を残しつつ玄関を出ていった。
「感じのいい子ね。元気で明るくて。看板娘って感じ」
 私がそう言うとシンクロウも頷いた。
「ええ、彼女がお店の配達するようになって評判良いみたいです」
「シンクロウは彼女と話すときはどうなの? その…… ヘッドフォンはいらないの?」
 私がそう尋ねるとシンクロウは苦笑して答えた。
「この家でしか会いませんからね。外で会ったらやっぱり必要ですよ」
 シンクロウはそう言って「ただ……」と呟いた。
「彼女の思考は時々少し変になるんです。急に違う事を考え出したり。う〜ん、なんというか…… ノイズって言えば良いんですかね。まあ、あんな事があったのでそのショックが今も心のどこかに残っているんでしょう」
 私はシンクロウの言葉がひっかかった。
「あんな事?」
「彼女のお兄さん、彼女が高校3年生の時自殺したんです。今はああ元気ですけど、その時彼女ショックでしばらく口が利けなくなってしまって。それで叔父さんが知人の精神科の先生を紹介してあげたんだそうです。すっかり回復したみたいですけど、心には大きな傷が残っているんでしょうね」
 シンクロウの話しに私は「そんなことが……」と呟いた。確かに兄妹が自殺をしたらショックだろう。そんなショックで口も利けなくなるくらいだ、きっと仲の良い兄妹だったんだろう。
「彼女のお兄さん、この辺じゃちょっとした有名人だったんです。5年前の高校野球で甲子園こそ逃した物の、ドラフト3位に指名された投手なんです。今では珍しいサイドスローの『シンカー使い』庵鞍馬【イオリ クラマ】って選手、聞いたこと無いですか?」
 私は少し考えたが思い出せなかった。そもそもあまり野球に興味がなかったのだ。高校野球も自分の母校が出るなどと言えば興味も出るだろうが、あいにく毎年県大会の1,2回戦が精々だった。
「う〜ん、ゴメン聞いたことないや。そもそも私あまり野球って大まかなルールぐらいしか知らないのよ。そのシンカー使いって何?」
「『シンカー』はボールが投手の利き手側に曲がりながら落ちていく変化球のことですよ。それを使う投手をシンカー使いって呼ぶんです。腕をこう、横にして振るうサイドスローって独特の投げ方をする投手が決め球で良く使うんです。プロ野球じゃヤクルトスワローズの高津選手なんかが有名ですよ」
 シンクロウは腕を横に振って投げる真似をしながら私に説明してくれた。そんなちょっとしたポーズでも絵になる男はそうはいない。
「シュートと似ていますが、シンカーはバッターの懐で曲がりながら落ちるんです。このポジションに高速で投げられたシンカーは、決まれば左バッターには打てませんね」
 シンクロウの説明に私は「へぇ〜」と感心しながら頷いた。
「シンクロウ、詳しいけど野球好きなの?」
 私がそう聞くとシンクロウは元気に「ええ」と答えた。
「自分でやったりしたことなくて、もっぱら観戦専門です。と言ってもテレビの中継でしか見たこと無いですけどね」
 なるほど…… シンクロウは学校に通ってない。友人と野球をやったりすることがなかったのだろう。それに彼の場合球場に行って見ることは出来ない。確かにテレビでしか見ることが出来なかったのだ。少し可愛そうな気がする。
「ねえ、今度一緒に野球見に行こうか?」
 私は軽くそう言った。するとシンクロウはビックリした顔をして私を見た。あれ? 今のは私の思考が読みとれなかったのかな? 
 そう言えば今の言葉はあまり考えずに言った気がする。
「ほ、本当に!?」
 シンクロウはそう言って私の顔を覗き込んだ。キラキラと目が期待で輝いている。私はそんな子供のような…… いや実際子供なんだけど、そんな目で見つめられ鼓動が一気に加速する。
「え、ええ。その…… シンクロウが大丈夫で、もちろん望月さんが許してくれればだけど……」
「僕は大丈夫です! それに茜さんが一緒なら叔父さんだって絶対許してくれますよきっと!」
 シンクロウは嬉しそうにそう言って私の手を両手で握った。外で冷えた私の手を包み込むように握るシンクロウの手の感触に私はドキドキしながらウンウンと頷いた。
「ありがとうございます茜さん。僕叔父さんに早速聞いてみます。楽しみだなぁ〜」
 と本当に嬉しそうに言いながらシンクロウは私の鞄を持ち奥に歩いていった。私は高鳴った鼓動をどうにか落ち着かせようと必死頭の中で呪文を唱えながら、早速本屋で野球の本を探さねばと考えていた。シンクロウと話を合わせたいから、せめてルールとチームの有名な選手ぐらいは憶えておきたいところだった。
 後日私は野球の本を買い、ある程度の知識を身につけたのだが、そんな野球のにわか知識が全く別の件で役に立つ事になろうとは、この時私は考えもしなかった。





 学生の頃毎日通った駅の改札を久しぶり抜け、不知火卓【シラヌイ スグル】は南口のロータリーに出た。周りにある店には見覚えのある店もあれば、知らない店もちらほらある。
 高校を卒業してからこれまで2,3度訪れた事はあったが、少なくとももう2年は降りていない。この駅も毎日ここを通っていたあの頃に比べると結構変わったものだと不知火は思った。
 不知火は右腕にはめた腕時計で時刻を確認する。時刻は午後8時40分を指していた。
 ぐずぐずしてはいられないな……
 不知火はそう考え、タクシー乗り場に向かって歩いた。今の不知火には当時を懐かしむ暇は無かった。彼は午後9時までにある場所に行かなければならなかったからだ。
 リーマンショック以降の不況下で、タクシー業界もその煽りを受け閑古鳥が鳴く状況と言われるが、それを裏付けるように居並ぶタクシーの列の横を歩き、不知火は一番先頭のタクシーに乗り込んだ。
「南工業団地」
 後ろのシートからそう運転手に声を掛けると「はい、工業団地……」と運転手が復唱し、車が発進した。
 歩いても15分程度の場所で、タクシー側からすればあまり好ましい客じゃないだろうな、と思いつつ窓の外に流れる風景を眺めた。
 ふと、今日の午前中に会社の自分のPCに入ってきたメールを思い出す。とにもつかないくだらない内容のメールだ。何かの悪戯だろうと削除しようとして、そのメールの差出人の欄にあったふざけた名前を見て指が止まったのだ。
 その名前を見て不知火は鼻で笑おうとして上手くできなかった。個人名ではないそれを見て、もう一度メールの内容を読み直し、生唾を飲み込んだ。

『9番より2番ショートへ』
 貴方の秘密を知っている
 貴方が5年前に何をしたのかを
 貴方の生活を壊され、全てを失いたくないのなら
 今夜9時、南工業団地内、自動車廃工場まで1人で来られたし
 PS.このことはくれぐれも他言無用に
『墓の下のシンカーより』

 全く、愚にもつかぬ悪戯だと笑い飛ばしたかった。だが最後に記された差出人の名前が、彼がそうする事が出来なかった最大の要因だった
 墓の下のシンカー?
 馬鹿げた名前だ。普通なら三流推理小説の悪役然としたベタな名前だが、不知火にとって『シンカー』と名乗られては無視できなかった。
 誰かの悪戯だ、そうに決まっている!
 心の中で何度もそう繰り返しながら、そんなことをする人間を頭の中に思い浮かべる。思い浮かぶのは3人。当時所属していた高校野球部の同級生。何となく馬が合い、良く一緒に悪さをした仲だ。万引きに後輩へのカツアゲ。部活があるため薬には手を付けなかったが、それでもそれに近いことも何回かやった。もう忘れかけている思い出の仲間達。
 高校卒業と共に自分を含めて2人が大学に進学、残り2人は専門学校に行った。4人とも今はもう企業に就職して社会人になっている。ここ数年連絡も取ってない。
 だが、あのメールを打ったのは間違いなくあの3人の誰かだと不知火は確信していた。5年前という単語を持ち出していることでそれは明らかなことだ。『5年前』と言えば自分たちが高校3年生で、甲子園最後のチャンスだった頃だ。
 2番ショート、それは不知火の当時打順とポジションだった。打順やポジションなど、当時の自分たち野球部を知るものなら、今でも憶えている者もいるだろう。
 だが、不知火達4人の間で、5年前という単語は彼らしか知らないことだ。だから不知火はこの事を知っている3人のうちの誰かだという確信があったのだ。
 5年前、高校3年、甲子園最後のチャンスの年。夏がまだ今よりもずっと暑かった頃の話だ……。

 あの夏、不知火達4人は罪を犯した。
 それは若気の至りでは許されない罪。当時は体つきは大人と変わらないものの、その精神は幼かった。未成熟な心を内包した体は興味と好奇心を燃料にして疾走した。若い頃にはありがちな行為だが、彼らはブレーキのかけ方を知らなかった。
 暴走の結果、彼らは罪を犯し、それは間接的にある人間の未来を奪う結果となった。事を知った学校側は当時順調に勝ち進んでいた野球部を考え、その一切を伏せた。その結果不知火達が罰せられる事はなかったが、4人の間に罪だけが取り残され、4人はそれを共有した。その事は今まで決して外部に漏れることはなかった。一人の部員の未来と引き替えにして……
 
 前に座る運転手から「お客さん、着きましたよ」と声を掛けられ、不知火は我に返った。そして運賃を支払うとタクシーを降りた。
 車を降りると顔に当たる風の寒さと同時に、機械油とサビの臭いが鼻についた。目の前の街灯に照らし出されるその廃工場は、まるで物の怪の棲む城のような佇まいで不知火を迎えていた。
 その風景に一度身震いした不知火だったが、気を取り直し入り口を探した。
 正面の門は太く頑丈そうな鎖と南京錠で施錠されており、切断したり破壊したりすることはできそうになかった。門の高さは乗り越えられないこともない高さだったが、不知火は周囲を見回し他の出入り口を探した。
 5年前ならば簡単に乗り越えていったであろうが、今はもう社会人であり、この時間にそんなことをしているのを見られ、不審者と思われるわけにもいかなかった。
 他を当たり、出入り口を見付けることが出来なければ、その時はここを乗り越えればよい、不知火はそう考え門に繋がる塀沿いを歩いていると5,6m先に出入り口のドアを見付けた。見ると南京錠が壊されて地面に落ちていた。
 南京錠の破壊痕を見るに、最近の物だとわかる。先に来ている誰かが壊したに違いない。つまりはあのメールの送り主であろう。不知火はそう考えながら注意深くそのドアを開け、ゆっくりと中へ入った。
 中に入ると、外にいるときに感じた機械油とサビの臭いが一層きつくなった。中は暗いかと思ったのだが、まだ電源が生きているようで数カ所照明が弱々しく灯っていた。
 左右にスクラップにされた車が壁のように積み重なり、まるで通路のようだった。不知火はその廃車の通路を抜け、正面のスチールスレートが張られた大きな建物に入った。
 そこはもう使われなくなったスクラップ工場だった。天井には古ぼけた水銀灯が揺れていて、その間に配されたレールから大きな円盤形の物体が吊り下がっていた。
「誰かいないのかぁっ!!」
 不知火は少し大きな声でそう叫んだ。しかし返ってくるのは自分の声の語尾と工場内を吹き抜ける風の音、そして遠くに聞こえる車の音ぐらいだった。
 不知火はもう一度叫んだが、結果は同じだった。
 やはり悪戯だったか……
 不知火はそう心の中で呟いた。どうやら自分の考えすぎだったようだ。あまりに一致する単語につい本気にしてしまったが、なんて事はない。あの3人のうちの誰かが、懐かしくなってくだらない冗談を書いてきたのだろう。あいつらならやりかねないしな……
 不知火はそう考え、自然に口元が緩んだ。だがその時、不知火の後ろで何かが落ちる音がした。不知火は心底驚き、慌てて振り向いた。
「誰だっ! だ、誰かいるんだろっ!!」
 口の中が妙に乾き、若干掠れた声でそう叫んだ。すると薄暗い前方で何かが動く気配がした。
「あのメールを送ったのはお前かっ!? 出てこいよっ!!」
 不知火は再び怒鳴ったが、目の前の暗闇は沈黙を守ったままだった。しかし誰かがいることは間違いなかった。
 誰だか知らないが、ふざけたマネしやがってっ!
 そう心の中で毒づき、不知火は首のネクタイを緩めた。先ほどまでビクビクしていたのだが、確実に誰かが悪戯をしていることに気がつき不知火は怒りが沸いてきた。そして相手の正体を突き止めてやろうと考え、相手の裏を掻いてやろうと早足で歩き出した。
 すると暗闇の中の相手の気配が明らかに動揺したように感じられ、不知火は口元を歪めた。暗がりに目も慣れてきて視界が取れたせいもある。不知火は大きな機械の向こう側に躍り出た。
 その時、首筋に何かが当てられ、次の瞬間全身にしびれを伴った衝撃が走り、不知火は意識を失った。

 肌を刺すような冷たい風に頬を当てられ、不知火は不意に目を覚ました。地面の上にうつぶせに倒れていた。
 唇にまとわりついた砂粒が口に入り、前歯がザリッと嫌な音立てる。まだ若干グラつく頭を振りながら、不知火はゆっくりと起きあがった。
 恐らくはスタンガンか何かだろうが、今までそんな物を浴びた経験がないだけに確証はなかった。しかし自分は確実に誰かに気絶させられたのは間違いない。不知火は砂の混じった唾を吐いて辺りを見回した。
 そこは先ほどのスクラップ工場の中だった。先ほどと違い妙に明るいのは、天井から吊り下がった水銀灯が全部点いているからだろう。
 不知火は周囲を見回したあと、続いて天井を見上げ「うわぁっ!?」と叫んだ。
 自分の頭上に乗用車が吊り下がっていた。先ほど見た大きな円盤にくっつき、頭上4mほどの高さでゆらゆら揺れている。
 不知火は慌ててその場所を移動しようと歩き出したが、何かに足を引っ張られ見事にその場にひっくり返った。呻きながら自分の足を見ると、右足首にチェーンで繋がった足かせが付いていた。
「な、なな、なんだよこりゃ……!?」
 不知火は混乱した頭で状況を必死で考え、その足かせが何とか外せない物かと藻掻いた。
 とその時、どこからか声が掛かった。
「久しぶりだな、不知火……」
 聞いたことのない掠れた声に不知火は耳を澄ました。
「わからないか? まあ無理もない、こんな声だからな」
 声の主は自嘲したようにフンっと鼻で笑った。
「誰だてめぇ! どこにいやがる! 出てこいよコラっ!!」
 不知火は足かせを外すのを諦め、立ち上がるとそう怒鳴った。すると左の方で、何かが動く気配がした。不知火はゆっくりと振り返った。
 視線の先に、人が立っていた。
 距離にして20mぐらいだろうか。丁度照明の影になってはいるが、野球帽を深めに被り、同じく野球のユニフォームの上からグランドジャンパーを肩に羽織り、左手にグローブをはめている。距離があるのと、その人物がいる場所が影になっているせいか顔がよく見えなかった。
 だが不知火はそのユニフォームと帽子のマークに見覚えがあった。それは自分が着ていた高校時代のチームユニフォームだったのだ。
「お、お前は誰なんだ……!?」
「フンッ わからねぇかよ…… いいさ、忘れたんなら思い出させてやるよ」
 その男はそう言うとジャンパーを脱ぎ、足下に置いてあったプラカゴからボールを取り出して顔の横でクルクルと回転させながら弾いていた。
「思い出させる? なんだよ、なんのことだよ? 何がしたいんだよてめぇ!?」
「ゲームさ、1対1のワンボックスマッチだ。もっともデスマッチだけどな」
 ぽんっとボールを軽く上に放り、それをグローブでキャッチしながら、その男は薄ら笑いを浮かべながらそう言った。
「ゲーム?……」
「そこにバットがあるだろう? それを使えよ」
 その言葉を聞き足元を見ると、そこには確かに木製のバットが転がっていた。不知火はそのバットを拾った。
「ルールは簡単、1イニングで終了。三振したら俺の勝ち。逆にヒット級の当たりを出せばお前の勝ち。お前が勝ったらその鎖を外してやる。しかし俺が勝ったら……」
 その男はグローブで目から下を隠しながら上を向いた。
「あの車が落ちてくる。お前の頭の上に」
 そう言ってクスっと笑った。
「ば、馬鹿言ってんじゃねぇよっ! てめぇ何考えてるんだよっ! 誰がやるかよそんなゲームっ! お、俺はやらねぇぞ!!」
 不知火は慌ててそう言い返した。だが相手は声を上げて笑った。
「オイオイ、これはチャンスなんだぜ? 俺としては問答無用で落としても良いんだよ。お前はクソ野郎だが同じ球を追い掛けた仲間であることには違いない。だから助かる機会を与えてやろうって言うんだ。なあ不知火、お前には端から選択権なんて無いんだよ」
「て、てめぇは一体……」
 不知火はカラカラに乾いた喉でそう呻いた。
「諦めてバットを持ってボックスに立てよ不知火。俺の球を見たら嫌でもわかるさ」
 そう言ってその男は顔の前にあったグローブをゆっくり降ろし、ボールをグローブに納めると静かに帽子のツバを引いた。わずかに顎を引き、こちらを睨むその仕草は不知火の記憶に微かに残る仕草だった。
 不知火は「くそ、くそっ!」とバットを何度か地面に叩き付け、ヨロヨロとバットを構えた。
「ち、ちくしょう、本当に打てたら助けてくれるんだろうな!?」
「ああ、約束してやる。だが打てたらの話だ」
 相手の言葉に不知火は自分を奮い立たせた。
 やってやる…… 俺だって高校時代はその安定したヒット率で2番を打っていたんだ。誰だか知らないが、打たなきゃ殺される。なら死にものぐるいで打ってやる!!
 不知火は心の中で何度も自分にそう言い聞かせ、バットを肩に乗せて深く息を吸い込んだ。高校時代に監督が言った言葉を思い出す。
『いいか、基本的に野球はバッターが有利だ。冷静に球種を見極め、狙いを絞って振っていけば必ず打てる』
 当時はそんな言葉より体が覚えていたのだが、野球から離れた今ではそんな言葉だけが残滓のように耳に残っていた。
 不知火はぐるりとバットを体の前で回したあと、肩の高さでバットを構えながらギリリッとグリップを絞って腰を落とした。
 グリップ尻から握り1コ半開けたショート打法だ。この勝負、長打を狙わなくて良い。バットを短く構えた方が旋回速度が速いだけに複数の球種に対応できるはずだと不知火は考えていた。
 そのまま不知火は相手を睨むと、相手はそんな不知火の葛藤をせせら笑うようにフンっと鼻を鳴らしてグローブを掲げてモーションに入った。
 ややゆっくりとした動作で腕が下がり、落とし込む膝と腰に加重を残したまま腰上半分を良質なゴムのように捻りながら力を溜め、利き腕の旋回半径をめいっぱい使ったダイナミックなフォームで、引き絞ったパワーを指先に集め放出する。
 地面と平行に滑る腕から放たれた球は、唸りを上げて飛んでいき、コンマ何秒の一瞬で不知火の腹の前を通過した。ど真ん中のストレート。剛が付くほどの速球だった。
 不知火の後ろで今通過した球が、あらかじめ備え付けてあったレザークッションに吸い込まれズバンっと大きな音を立てるが、その音は不知火の耳には届いていなかった。
「サイド…… スロー……!!」
 不知火は目を見張った。過去に何度その姿を見たことだろう。全身の筋肉をゴムのように絞り、鞭のようにしなりながら振るわれる腕。オーバースローより遙かにダイナミックなその独特の投球フォーム。今はもう殆ど使われなくなったフォームだった。
 記憶に鮮烈に残るそのフォームは、不知火にとって忘れられないある人物を思い出させていた。
 それと同時に、不知火の背中に冷たい物が走った。本当に馬鹿馬鹿しいことだが、今目の前にいる相手が、もし不知火が思い出した人物であるなら、自分はたぶん打てない。
「ま、まさかお前は……? いや、そんなはずは無い。お前はもう―――」
 その先は言葉にならなかった。そんな馬鹿なと自問しつつも、現実に今この目の前にいる相手は、その人物の全盛期の姿に酷似していたからだ。
 驚愕している不知火を無視し、その相手は再びモーションに入る。やはり先ほどと同じようにややゆっくりとした初動作、それから全身をねじるように引き絞ったあと、上半身をゴムのようにしならせて一気にパワーを開放する。鞭のように弧を描き水平に滑る腕から放たれる白い弾丸。飛んでくる球が自分の手元でわずかに跳ねた。
 不知火は必死に合わせようと小刻みにバットを振る。するとバットの先にチッと微かな音と共に手応えを感じた。チップファウルだった。だが明らかに振り遅れている。
 ここまで短く持っても振り遅れるなんて……!?
 この位置から見る球速は時速135km以上は間違いなくでている。初球のストレートは下手をしたら140kmに達していたかもしれない。
 あっという間に追いつめられてしまった。自分も素人ではない。だがだからこそ、そのポテンシャルの違いに慄然とした。当時の自分なら何とかなったかもしれないが、離れて4年以上経つ今の自分では打てない。かすらせることすら容易ではないと自答した。
「思い出したか? 不知火よぉ」
 掠れた声が響いた。不知火は震えながら頷いた。声は違えどコイツはあの男に間違いない。何よりあの独特の投球フォームを使う人間が2人もいるとは思えない。不知火の脳裏に当時の彼の姿が蘇がえっていた。
 もしヤツなら、次の球は何だかわかる。だがそれは同時に自分では絶対打てないとわかっていた。たとえ現役時代の自分だったとしても。
 その球は当時のヤツの決め球、ここ一番で三振を取る時のウイニングボール。
「思い出した、思い出したから! た、助けてくれ、も、もう止めてくれよ、なあ頼むからっ!!」
 バットを握りながら震えつつ不知火はそう相手に懇願した。だが相手はそんな不知火を見て薄く笑った。
「『止めてくれ、助けてくれ』か…… 5年前、そう言ってお前は止めたのか? 泣きながら懇願する相手に、お前達は何をした?」
 響く声が不知火を刺した。不知火の双眸から大粒の涙がしたたり落ちた。
「わ、悪かった、謝る、謝るから助けてくれ! 何でもする、あの時の事を警察に言って自首したって構わない。だ、だから殺さないでくれっ!!」
 そういう不知火を無視して相手は三度セットポジションを取った。それを見た不知火は泣きながら叫んだ。
「チクショウっ! チクショウっ!! なんでだよぉっ! 今になってなんでなんだようっ!!」
 涙と鼻水が泥だらけのスーツを濡らし、半狂乱でバットを地面に叩き付ける。だが相手は無言のまま腕を持ち上げモーションに入った。
 不知火はガチガチと歯を鳴らしながらバットを構えた。「死にたくない、死にたくない!」とまるで念仏のように繰り返しながら。
 先ほどと変わらぬフォームで白い弾丸が放たれる。自分の1mほど手前で球が跳ねる様に見えるのは、球速が落ちてない証拠だ。だが物理的に指先から放たれた球がその球速を損なわずにホームベースを通過することなどあり得ない。そう見えるのはその速度の衰え方を回転によってセーブさせているのだ。
 文字通り弾丸となって飛ぶ白球は、不知火の手前でわずかに跳ね、続いて脇腹を抉るように曲がりながら落ちていく。内角低めのインコース。ストライクゾーンギリギリのポイント。左バッターの鬼門とも言えるその場所に、神懸かりとも言えるコントロールで突き刺さる魔球。不知火の振るったバットは無情にもそのわずか上を通過していった。
 高速シンカー!!
 不知火の脳裏にそんな言葉が浮かんだ。かつて同じチームの押さえの切り札として登板した天才ピッチャーが最も得意とした勝負球。土壇場で何度その球にピンチを救われ勝利の美酒に酔っただろうか……
 その球が今は自分の命の火を消す、まさに魔球として目の前を駆け抜けていった。
「ストライク! バッターアウトっ!!」
 マウンドの上のピッチャーがそう叫び、その男はポケットから小さなリモコンを取り出した。
「ボックスアウトだ…… 罪の重さを噛みしめな、不知火」
 そう言うとその男は静かにリモコンのボタンを押した。するとギィィとさび付いた金属が擦れるような音がして、吊り下がった車が重力に従い落下した。
 不知火はこの世の最後に、自分の脳髄が飛び散る音を聞いた。





 非番明けに私が定時に出勤し机の上にショルダーバッグを置いてマフラーを解いていると、館内ベルが鳴り響いた。
『110番通報、恵比寿南1丁目で男性の遺体発見。年齢20〜30代。方面機動捜査隊及び出動可能な刑事課員、並びに機動鑑識隊に出動要請。場所は渋谷区恵比寿南1丁目3……』
 マフラーを外していた手を止め、放送される住所を机の端にあるメモに書き写し、先ほど脱いだコートを再び手に取ったところで背中から声が掛かった。
「茜、出れるか?」
 警察学校で同期だった留目昭正【トドメ アキマサ】がコートに袖を通しながら私にそう聞いた。
「ええ、大丈夫」
「なら悪いがお前、運転頼む。俺1本電話入れなくちゃならない所があるんだ」
 留目は片手で拝むような仕草をして車のキーを差し出した。
「了解、何番?」
「2号車だ。黒のレジェンド」
 私は留目「OK!」と言いながらコート片手に今しがた入ってきたばかりの事務所を飛び出した。


 私が覆面パトカーを運転して現地に向かっている最中、助手席の留目は携帯で電話をしており、何度か「まことにスミマセン」と謝罪していた。
 私は電話が終わった頃を見計らって「大丈夫?」と声を掛けた。
「いや、今朝9時に聞き込みのアポとっちゃっててさ。行けなくなったんで先方へのお詫びと、次回のアポ取り。先方が良い人で助かったよ」
 留目はそう言ってため息をついた。留目は大学時代ラグビー部に所属しており、大柄な体をしている。そんな彼が電話越しで小さくなりながら「スミマセン」を連発する姿は少々滑稽で思わず口元がほころびてしまう。
「……なんだよ」
 そんな私を見て留目が口をとがらした。
「いやぁ、体のおっきなトメちゃんが小さくなって謝ってるのが可愛くて」
「言ってろ」
 留目はそう言って恥ずかしそうに俯いた。その仕草がまた滑稽で、私はさらに笑いを堪えるのに難儀した。
「でもさぁ、ホントサービス業だよね、この業界」
 私は正面の明治通りの信号を左に曲がりながらそう言った。留目はスピーカーマイクで前の車に脇に避けるよう指示したあと、マイクスイッチを切ってその言葉に応えた。
「だな…… 企業のサラリーマンとあまり変わらないもんな」
 留目は助手席の窓上にあるグリップを握り直しながらそう言った。
 確かに留目の言うとおりである。本社の捜一、警視庁捜査第一課強行犯係ならまた違うのだろうが、私たち所轄の捜査員は支払われる給料が税金か売り上げ金かの違いだけで、一般企業のサラリーマンと殆ど大差はない。毎日テレビで報道されるほど殺人事件や重大事件が私たち所轄にあるわけでもなく、内容は違えどテレビや新聞などには小さすぎて載らない様な似たり寄ったりの事件をコツコツ捜査するのが日常だ。
 聞き込みや事情聴取もドラマや映画のようにカッコイイ事など全くなく、バッジを見せれば嫌な顔をされ、聞き込みのアポを取ってもすっぽかされ、今回のようにアポの取り直しをお願いするのに気を遣いながら頭を下げまくる。
 そりゃあ凶悪犯や常習者、または反抗的で非協力的な被疑者相手なら鋭い恫喝も行使するが、大抵の場合はこちらが被疑者相手に気を遣いながら協力をお願いする場合が殆どだ。
「茜は親父さんが同業だったからアレかもしれないけど俺なんか実家農家だろ? 東京出て警察官になって、あこがれてた仕事の理想と現実を目の当たりにして実際ショックだったよ」
 留目はそう言ってため息をついた。彼の実家は新潟で農家をやっていた。秋になると新米が大量に送られてくるらしく、私たち刑事課の仲間にもお裾分けを配ってくれるのだ。私も毎年5kgほどおいしい新米を頂くので密かに楽しみにしていたりもする。先日も今年の新米を貰って目下おいしく頂いてる最中だった。
 ただ、新米と一緒にお見合い写真も送られてくるのが頭痛の種だといつもぼやいている。「まあねー でも所轄は所轄なりにやりがいある事件もあるじゃない。どうしてもって言うなら1種国か2種国受けてキャリアか準キャリ目指せば?」
 1種国とは国家公務員1種試験のことで2種国はそれの2種試験。一般に「キャリア」と呼ばれる人は1種、「準キャリア」と呼ばれる人は2種の試験をパスして採用された省庁職員を指す。司法試験や公認会計士試験と並び、我が国を代表する難関試験だ。合格者の4割が大学院生、5割が大学卒業見込み、及び中退者。大卒者は全体の1割弱しかいない。
 そもそも合格者の在籍大学上位3位は、上から東京大学、京都大学、早稲田大学とこれまた我が国を代表する名門大学だ。私や留目のように2,3流の大学卒見込みで警察官採用試験を経て警察学校に入った者からすれば、雲の上と言っても良いぐらいだ。
 我々ノンキャリが巡査からの採用であるのに対し、キャリア組はいきなり刑事である今の私たちの役職である巡査部長を飛び越え『警部補』からの採用で普通の係長クラスからのスタート。その後も私たちノンキャリとは比べ物にもならない速さで出世して行き、私たち都道府県採用組が40歳以上にならないと昇進できない警視にわずか4,5年で昇進する。20代後半で警視、つまり所轄の警察署長と同じ階級になるわけだ。まさに幹部候補のエリートで私たちとは別物な存在と言っていい。
 だから留目も当たり前のことだけど、本気で言ってるとは思っていない。そんな私の言葉に留目は自嘲気味に返した。
「はっ、そりゃなおのこと無理だ。刑事になれたのだって奇跡に近いんだからさ」
「フフッ、じゃあ仕方ないじゃん。まあ愚痴ぐらいは聞いてあげるわよ、おいしい物プラスおいしいお酒付きだけど?」
 私がそう言うと留目はフッと笑った。
「なんだ茜、俺に気があるのか?」
「馬鹿ね、同僚として気を遣ってるだけよ。言っとくけど私、年下好きの面食いだから」
「なるほど、だから結婚出来ないんだな」
 一言多いぞトメ!
「あんたに言われたくないわよ」
 私は少し鋭くハンドルを切った。すると狙い通り留目は助手席の窓におでこをぶつけていた。口は災いの元、特にレディーに対してはもっと気を遣わないとダメだよトメちゃん。

 私たちが現場に到着すると野次馬の他に、どうやって聞きつけたのかもう記者達がウロウロしていた。現場はマンション横の公園だった。入り口横にはテニスコート2面は取れそうな広場があり、奥には幼児を対象とした砂場や遊具、小さなアスレチック風の遊具なんかも見受けられる中規模の公園だった。
 公園の公衆トイレと思われる小さな建物の周りにはトラロープが張られ、制服姿の警官が3名、野次馬達を制止しており、その背中では一足早く現場についていた捜査員がロープを張り、遮蔽用のブルーシートを広げている姿が見えた。私と留目も手伝おうと早速手袋と腕章をはめながら早足で近づいていった。
 トラロープの手前で通せんぼをしている制服警官が私たちを確認し敬礼しつつ「おはようございます。ご苦労様です」と早口に挨拶してきた。私たちも「おはようございます」と挨拶を返し、ロープを跨いで作業中の捜査員と合流した。
「おはようございます。キタさん、あとは私たちがやりますから」
 私はトラロープを張り、木の枝に縛り付けている中年の男にそう声を掛けた。私たち刑事課の先輩、北条敬三【ホウジョウ ケイゾウ】警部補だった。
 私たちが所属する刑事課係長である萩沼警部とは同期のベテラン刑事だ。普通警部補と言えば都外の県警所轄なら係長クラスなわけで、本来なら現場でこんな風にロープ張りなんて言う雑用はますやらない立場の人なのだ。
 しかし北条刑事はキャリアではなく私たちと同じように交番勤務の巡査から順を追ってこなし、昇進試験を一つずつクリアして警部補になったノンキャリ組の典型みたいな人であるだけに、しょっちゅう現場に出て動き回る人だった。しかしそう言う経緯を経た、いわゆるたたき上げで警部補になっただけあって経験豊富で、そんな自分の経験から得た捜査の知識を惜しみなく教授してくれていた。しかも教え方が上手いので私や留目の先生のような存在の刑事だった。
 ウチの刑事課は元々人数が足りず万年人手不足なので、北条警部補どころか警部である萩沼係長でさえ現場で捜査を行うことも多々あるが、縦社会色が強い警察組織にあって流石に雑用をやらせるわけにはいかなかった。
「おはようさん。おう、お嬢も来たか、じゃあアッチの大木曽と変わってやってくれや」
 とキタさんはロープを持ったままそう言って顎をしゃくった。
 どうでも良いけど、その『お嬢』って言うのは止めて欲しい。なんか組長の娘みたいで嫌なんだけどなぁ。
 実はこの北条警部補、通称キタさんは私の父の部下だった。父が生前の頃、良く一緒に仕事をしていたらしい。確かに私も子供の頃、実家に遊びに来ていたキタさんと良く顔を合わせていた。そんな私が大学を卒業し警察官採用試験を経て警察学校に入ったときや、巡査から巡査部長に昇進し晴れて刑事になったときなど、まるで自分の娘のように喜んでくれてお祝いまで頂いた。
 基本的に警察というところは警官の子供や孫が警官になった場合、周りは非常に暖かく迎えてくれる身内意識が強い組織だ。そんな理由もあってかキタさんも私を暖かく迎えてくれた。もう私から見れば、父が殉職してからは実の父以上にお世話になりまくってる人だったが、まさか同じ署の同じ課に配属になるとは思わなかった……
 そんなわけで、キタさんはかつて父に教わった事を私にも伝授してくださるありがたい大先輩なのだが、私を子供の頃から知っているだけに少々やりにくい上司でもあるのだ。
「いやいや、参りましたよ胡桃田さん」
 とロープのもう片方を持っていた若い男性職員、大木曽君が困った顔でそう言った。そもそもこの大木曽君は刑事課の人間ではない。彼は安全部地域課の職員だった。
「出勤途中で信号待ちしてたら北条さんがいきなり助手席に乗り込んできて『行け!』でしょ? 何が何だかわからないまま連れてこられて…… 遺体は見せられるわ、雑用させられるわ、もうホントカンベンして欲しいですよ」
 大木曽君は泣きそうな顔でそうこぼした。
「大体このロープやシートだって、今日ウチの課で使う備品なんですよ? 班長になんて言おう……」
 どうやら通勤途中にキタさんに捕まり、無理矢理ここまで連れてこられたようだ。可愛そうに。私はそんな大木曽君に「ご愁訴さま」と声を掛けた。
「全くコイツと来たら、仏見た瞬間にいきなり吐きやがってよぉ」
 反対側のロープを留目に任せ、キタさんは手を叩きながらこちらに歩いてきた。そんなキタさんの言葉に思い出してしまったのか、大木曽君は「うっ!」と呻いて手を口に持っていった。キタさんはそんな大木曽君に「現場汚すなよ」と声を掛けていた。
「ウチは人手が足りないんだよ。お前も違法駐輪の自転車整理なんて止めて、ウチに来いよ。なあ、お嬢からも言ってやってくれや」
 すると大木曽君は青い顔をして切り返した。
「断固お断りします! 僕は血とか死体とかってダメなんです。冗談じゃない! 胡桃田さん達も来たんですから、僕はもう署に行きますよ!」
 そう言う大木曽君にキタさんは「そうだな、ご苦労さん」と言って彼の肩をポンと叩いた。それを合図に大木曽君はなにやらぶつくさ文句を言いながらそそくさと歩いていった。
 それから私と留目でブルーシートを張り、簡易的な遮蔽膜を作った。
「マル鑑の連中ももう着くだろう。お前達も仏さん見ておくか」
 キタさんはそう言ってトイレ裏のもう一枚のシートが掛けてある遺体の前に立ち、両手を合わせた。私と留目もそれに習って両手を合わせた。
「ほれ、今回の仏さんだ」
 キタさんはそう言ってシートをめくった。シートの下からスーツ姿の若い男の遺体が現れた。年齢は20代半ばぐらいだろうか。中肉中背で均整が取れた体だ。スーツは泥だらけで、流れ出た血を吸って変色していた。首の骨が完全に折れていて頭があらぬ方向に曲がっており、折れた骨が皮膚を突き破って露出している。一方その頭は頭頂部からこめかみに掛けて完全に粉砕し、内容物が零れ出ていた。
 しかしまあ……
 いくら警察組織の人間だからとはいえ、刑事課の私でさえ目を背けたくなるようなこんな遺体を予備知識無しで見せられた大木曽君はらたまらないだろう。キタさんもエグイことするなぁ……
「何やったらこんなに損傷するんでしょう?」
 私は遺体を見ながらそうキタさんに聞いた。
「さあなぁ…… お嬢見てみな、乗っかった腕の重みで胸がへこんでるだろ? 恐らくあばらもバラバラ、中身もペシャンコだ。即死だったろう。その証拠に口元に腑【わた】吐いた痕もある。まるで交通事故の害者みたいだなこりゃ……」
 キタさんは遺体をしげしげと観察しながらそう感想を漏らした。私は「確かに」と呟きながら頷いた。
「何があったかはわからんが、間違いなくここで亡くなった仏じゃねぇな。遺体の損壊から考えても出血が少なすぎる。どっか別の場所から運ばれてきたんだろうさ」
 キタさんはそう締めくくってシートを元に戻した。
「殺しですかね?」
 留目はそうキタさんに聞いた。それは私も興味があった。
「殺意があってやったのか、それとも事故の隠蔽を図ったのかはわからんが、人間が自然にこんな場所でこうなるわけねぇ。マル鑑の報告聞かなきゃわからないが……」
 キタさんは後退した白髪交じりの頭を掻きながら少し考え、こう答えた。
「これは俺のカンだが、たぶん殺しだな。それも相当恨みを持ったヤツだ」
 キタさんはそう結論を出した。
「刑事のカンってやつ? なんかかっこいいな」
 留目はそう言って目を輝かせた。そんな留目にキタさんは「馬鹿野郎ぅ」と冗談っぽく言った。私も留目に顔を向け「馬鹿」と声に出さずに言った。
「カンって言っても根拠はあるんでしょ? キタさんなりに気になる所が。それを教えてくださいよ」
 と私はキタさんにせがんだ。キタさんは少し困った様な顔をして「しょうがねえなぁ」と呟きながらしゃがんで、もう一度ブルーシートをめくった。
「マル鑑の報告を聞く前に、お前達若いモンにあまり先入観を与えたくないんだよなぁ。断っておくが、あくまで『俺が見てそう思った』だけのことだから、あまり信用するなよ?」
 キタさんはそう前置きした上で、自分の所見を説明し始めた。
「脊髄が首を突き破って出ちまってるだろ? こりゃ頭から落ちたかしないと絶対ならねぇ事だ。だから初めは飛び降りかとも思ったんだが、そうなるとあばらや中身が潰れてるのはおかしい。さっきは交通事故なんて言ったが、考えてごらんよお嬢、鼻から上がこんなに潰れているんだ。ってことは頭から跳ねられたって事になる。でも頭から車に突っ込む状況ってどんな時だ?」
 キタさんの言葉に私は少し考える。
「う〜ん、かがんでるときぶつかったとか?」
 私のその答えにキタさんは「なるほど、それもあるわな」と頷いた。
「だがよ? 車にはねとばされたら着ている服なんてズタボロになるはずだ。しかしこの仏さんの服は汚れてはいるものの、殆ど破れていない」
 確かにキタさんの言うとおりだ。害者が着ているスーツは、確かに汚れているが、すり切れている様な箇所は見あたらない。
「とすると、この害者は何をやってこうなったのか…… 実は俺は昔、これとよく似た遺体を見たことがあるのさ。工事現場でな」
「工事現場?」
 私はオウム返しにそう聞いた。
「ああ、クレーンで吊り上げてたコンクリート製のパネルが上から降ってきて、下にいた作業員が下敷きになった。犠牲になった作業員はこの仏と違ってヘルメットを被ってたが、そんなもん2t近い重さのコンクリート塊には役に立たなかった。首が折れて今みたいに脊髄が飛び出し、頭は半分に潰れて体の中身もペシャンコだ。そん時の遺体によく似ている」
 そう説明してキタさんは再びシートを被した。
「しかしこの仏は作業着じゃねえ。どう見たって営業か内勤のサラリーマンだ。そんな人間がそんな何か重い物が上から降ってくるような危険な場所に行くつー理由がわからねぇ。だが、無理矢理連れて行かれたんなら話は別だ。だから俺は殺人じゃねぇかと思ったのさ」
 キタさんの推理に私は正直驚嘆した。まだ現場に到着してない鑑識からの報告が無いのはもちろんだが、害者の遺体にも触れず、それを観察するだけでそこまで考えられるキタさんの推理力というか洞察力みたいな物に私は少なからず感動した。長年この仕事をして培った経験が、ベテラン刑事の最大の武器なのだ。
「じゃ、じゃあ恨みが深いというのは?」
 横にいた留目ががっつくようにキタさんに聞いた。
「だってお前、考えて見ろよ。仮にこれが殺しだとして、人一人殺すのに普通ナイフ1本で事足りるだろ? 相手を重い何かで押しつぶすなんざ普通の人間のすることじゃねぇ。よっぽど恨み辛みが積み重ならねえと出来ねえ事だと思ったまでよ」
 私と留目は感心して頷いた。ホントに凄い。たったこれだけの情報からそこまで推測できるなんて驚きだ。そしてこんな人を育てた父にも今更ながら畏敬の念を感じていた。それは同時に、私なんてまだまだ嘴の黄色いひよっこだってことを思い知らされた気分だった。
 そうしているウチに遠くからサイレンの音が聞こえてきた。どうやら鑑識隊を引き連れた本隊が到着したようだ。
「さて、老いぼれデカの講釈はここまでだ。後はマル鑑の報告を聞いて自分なりに考えてみるこった」
 キタさんはそう言って立ち上がり「あ〜腰が痛ぇ」と呟きながら背中をさすっていた。私と留目はそんなキタさんに「ありがとうございました」と頭を下げた。
「よせやい、てんで見当はずれかもしれねぇんだから」
 キタさんは後退した頭を撫でながら手を振った。謙遜してはいるが、私はキタさんの所見に疑問を挟む余地を見いだせなかった。やっぱりこの人は私たちの先生なんだ。
「だか、もしこれが俺のカンどおり殺しとなればウチに捜査本部が立てられる。区外で殺されたんなら他の所轄と合同捜査だ。場合によっちゃ本社の偉いさんも出張ってくるかもしれん。年末も近いのに忙しくなるなぁ、いやだいやだ……」
 そうぼやきながら、キタさんはコートのポケットに両手を突っ込み、こちらに歩いてくる鑑識や捜査員達を眺めていた。そして遠からず、このキタさんの言葉通りウチの署内に捜査本部が立てられ、キタさんの言うとおり私たちは忙しく動き回ることになった。
 そしてこれが、私と九籠が初めて直面した忌まわしい連続殺人事件の始まりだった。
 




 結局キタさんの予想通り、その日の内にウチの署内に捜査本部が設置された。今後の捜査の進行状況によってどうなるかわからないが、とりあえず当面はウチの課だけで捜査をするとのことだ。
 害者の頭部は損壊が酷く、顔の判別が難しいので身元を特定するのに難儀するかに思われたが、害者の着ていた上着のポケットから名刺、さらに財布からは運転免許証が発見されすぐに身元は割れた。
 遺体の名前は不知火卓、年齢は23歳で独身。渋谷区内の中堅広告会社に努める新卒入社の営業で、実家は麻布だが今は池袋で一人暮らしだとわかった。
 死因は頭部挫傷によるショック死ではないか? とのことだが、心臓並びに内臓の殆どが圧壊しているので正確な特定には至っていない。というかそもそも殆どの部位も損壊しており、無傷で残っている部位がほとんど無い状況では、死因の特定など後の捜査にはそれほど影響は出ないだろうとの判断が下ったのだ。
 当面の目的は、現場でキタさんも挙げていた『死亡場所の特定』とのことだったが、それについて鑑識班から興味深い情報がもたらされた。

「アルミニウム?」
 私は手元の鑑識から上がってきた検分結果の書類を見ながらそう係長に聞いた。
「ああ、害者の潰れた頭の中から細かな破片が見つかったそうだ。どうやら害者の頭部を潰した物体から剥がれたものらしい」
 係長は私の持つ書類と同じ物を机に放うり、椅子の背もたれにずっしりと寄りかかってそう答えた。
「アルミ金属ダイガスト、若しくはそれに類似した物ではないかとのことだ」
「アルミの鋳物…… 何だろう?」
 私はそう呟きながら首を捻った。アルミ鋳物で重い物って何があるだろう?
 すると係長が私の疑問に答えるように説明した。
「まあ俺達の身近な所じゃ車のエンジンなんかがそうだ。エンジンの下にあるオイルパンなんかによく使われるらしい。それに害者の上着の首筋から粘度の高い油質も検出された。車のエンジンオイルに使われる物に成分が近いそうだ。害者の頭を潰したのは車でまず間違いないだろうな」
「ってことはやっぱり車に轢き殺されたって事ッスかね?」
 係長の説明を聞いて私の隣で留目がそう聞き返した。
「いや、それにしては服が綺麗すぎる。2人ともキタさんから教えて貰ったんだろ?」
 私たちは係長の言葉に頷いた。確かにそれは今朝現場でキタさんが指摘したことだ。鑑識もその点についてはキタさんと同じ見解を示しているようだった。
「それにな、害者の服から検出された油の成分はずいぶん古い物のようだ。仮に車のエンジンオイルだったとしても、もう使えないほど劣化しているとのことだ」
 私はその話を聞いてピンときた。劣化して使えないオイルが入っている車なんて一つしか考えられない。つまりそれはもう動かない車って事だ。
「廃車…… もしかして害者は廃車工場とかで死亡したんじゃないかしら?」
 私は今閃いた自分の考えを声に出してみて確信した。留目も私の方を向いて「あ、なるほど!」と手を叩いた。
 そうだ、廃車工場だ。廃車工場なら重い車を人の頭上に落とす方法なんていくらでもある。クレーンだってあるだろうし、何台も積み重ねた車が何かの拍子で落ちてきたのかもしれない。この害者、不知火卓はどこかの廃車工場、若しくはスクラップ工場かそれに近い場所で死亡し、それから何者かの手によってあの公園に運ばれたんだ。
「スクラップ工場か…… 確かにこの情報から考えると他に浮かばない。鋭いな、胡桃田」
 係長はそう言うと、私に向かってニヤリと唇を歪めながら頷いた。
「親父さんも鋭い人だったが…… お前もだんだんデカらしくなってきたな」
 私はそんな係長の言葉に「いやいや、まだ私なんか……」と呟きながら頭を掻いたが、正直言ってちょっと嬉しかった。
 でも確かに嬉しいんだけど、キタさんといい、係長といい、事あるごとに父を出すのは止めて欲しいんだけどなぁ……
「よし、じゃあ胡桃田と留目は渋谷区内にある廃車工場を片っ端から当たってくれ。最近は工場も少なくなって来ているからそう数は無いはずだ。隣接した区にある物も当たるようにしてくれ」
 係長は私たちのそう指示を出した。
「害者周辺の聞き込みは、渡田【ワタリダ】とキタさんが一足先に害者の住んでたアパートに行ってるから、引き続き2人に回って貰おう。俺もこれから城箕【ジョウキ】と勤務先に行って見るつもりだ」
 萩沼係長はそう言って椅子の後ろに掛けてあったコートを手に取った。どうやら係長も出るようだ。渡田さんは私たちの2年先輩の刑事。城箕さんは3年先輩の刑事だ。2人とも結婚していて子供もいる。渡田さんなどは今年結婚した新婚さんだ。
 この2人の先輩刑事を含めて、ウチの課は6人で回している。小さな所轄では刑事課で5〜6人は普通なのだが、都内でも犯罪発生率の高いこの渋谷区ではこの人数では到底手が回らない。年末には毎年区外や、場合によっては都外からも2〜3人応援が来るが、細かな捜査はやはり土地勘ある正規配属の刑事でないとできない事だ。これが地方の大きな県警本部や警察署なら、強行犯係、知能犯係などの犯罪種類に対応した班編制がされているらしいが、ウチは全部ひっくるめて私たち6人で当たっている。
 本来なら係長はここで指揮に専念するハズなのだが、こういった範囲が広く、軒先渡りな捜査では課長も座って指揮を執ってはいられない。これが凶悪な殺人事件との判断が下れば、本社から号令が掛かり応援の捜査員が派遣されるが、当面の捜査はウチで行うとのことなので、この初動捜査で何らかの発見をしなければ応援は見込めない。そう考えるとウチの課の人手不足は本当に深刻な問題だ。
 だが、現場の志気は上がっていた。普段は小さな事件ばかりだが、今回は殺人事件の可能性が高い。しかも被害者を重い何かで押しつぶしたかもしれないという異常性のある殺害方法だ。かく言う私も極めて不謹慎ではあるが、今までにない高揚感があるのも事実だった。
 そりゃあ確かに速やかに解決すれば注目されたり、何か賞を貰えるかもしれないという気持ちもある。しかしそれ以上に『凶悪犯罪を許さない』といった警察官としての誇りみたいな物をくすぐるに十分な事件なんだと感じていた。それは私がこの仕事に就いて初めて感じるもので、もしかしたら父から受け継いだ遺伝子がそうさせているのかもしれない。俗っぽく言うなら『警官の血が騒ぐ』といったところだろうか……
「じゃあ2人とも捜査を開始してくれ。何かわかったら携帯で連絡すること。コッチも何か出てきたら連絡を入れる」
 萩沼係長はそう言って留目の肩を叩いて出ていった。私と留目も「はい」と答え、係長の後に続き部屋を出ていった。

 私と留目は2人で地図を片手に渋谷区にある廃車を扱う専門の工場を回った。しかし渋谷区内では4件、しかも廃車専門の工場ではなく修理工場だった。規模もそれほど大きくはなく、廃車の殆どが川口や湾岸の方に運ばれるらしく、回った工場には2日前に入った車数台しか無かった。
 回った工場の社長から品川や目黒方面にはまだまだ工場があるとの情報を貰い、私たちは区外を回る事にした。電車で隣にある目黒区に向かおうと駅に向かい歩き出したとき、係長から連絡が入った。
『勤務先の害者の机のパソコンに妙なメールの履歴が出てきた。とりあえず打ち出してコピーを取ったんで皆に見て貰おうと思うんだが…… 一度署に戻れるか?』
「わかりました。渋谷で4件回って空振りだったのでこれから目黒に足を伸ばそうかと思っていたんですが、そっちに行ってからじゃ遅くなるんで一度戻ります」
 私がそう手短に答えると係長は『わかった、そうしてくれ』と言って電話を切った。
「何だって?」
 私が携帯をバッグに仕舞っていると、そう留目が聞いてきた。
「勤務先で何か出てきたみたい。私たちにも見せたいから戻れって」
「脅迫状か何かかな?」
 留目は私にそう聞いた。心なしか声のトーンがいつもより高い気がする。まあわからないでもないけど。
「さあ? でも妙なメールって言ってたから案外そうかもね……」
「妖しげなメール…… なんか益々殺人事件っぽくなってきたな」
「ちょっと、声を弾ませて言わないでくれる。人が1人亡くなってるのよ? 不謹慎にも程があるわ」
 私は自分のことを棚に上げ、そう留目に文句を言った。
「そ、そうだな。すまん」
 留目はそう言って顔を引き締めながらのど元のネクタイを直した。
「ほら、信号変わっちゃうわよ」
 私はそんな留目にちょっぴり罪悪感を感じながらそう言い、駅前に配されたロータリーの横断歩道を駆け足で渡った。

 私たちが署に戻ると、刑事課メンバーが全員戻っており、私たちが最後だった。係長は早速先ほど不知火の勤務先で入手したメール本文のコピーを配った。

☆ ☆ ☆ ☆
『9番より2番ショートへ』

 貴方の秘密を知っている
 貴方が5年前に何をしたのかを
 貴方の生活を壊され、全てを失いたくないのなら
 今夜9時、南工業団地内、自動車廃工場まで1人で来られたし

 PS.このことはくれぐれも他言無用に

『墓の下のシンカーより』
☆ ☆ ☆ ☆

 皆が手元にあるメールのコピーを読み終えた頃を見計らって、萩沼係長は説明を始めた。
「これが害者の勤務先のメール履歴にあったメールの本文だ。この日害者は営業先の取引会社から直帰するとの報告を会社に入れている。鑑識から上がって来た死亡推定時刻と概ね一致する事から考えて、害者はこのメールにある『南工業団地』という場所に向かい、午後9時以降に亡くなったと見てまず間違いないだろうな」
 萩沼係長の言葉に皆は納得したように頷いた。
「南工業団地…… 中目黒の方にそんな名前の場所があったわよね」
 私はそう言いながら留目を見た。留目は無言で頷いた。
「5年前って事は、害者の年齢から考えて害者が高校時代って事になるかな?」
 とキタさん。この文面から見ても、今朝方キタさんが言った『恨みのある者の殺し』である可能性が濃くなったわけだ。やっぱりキタさんって凄いわぁ……
「しっかし、この『墓の下のシンカー』ってずいぶんケレン味のあるハンドルネームですね…… 発信元の特定は? メールならプロバイダ会社から追っかけられるんじゃないですか?」
 と渡田先輩は係長に聞いた。渡田先輩は課の中でもわりかしパソコンやらネットと言ったいわゆる『デジモノ』に詳しくて、良く係長やキタさんにパソコンを教えていたのだった。
「それがどうも相手さんもそうとう知識があるようで良くわからないらしい。その辺は俺じゃわからんから城箕から説明してやってくれ」
 すると係長の横にいた城箕先輩が「了解です」と言って皆に説明した。
「害者の勤務先と契約しているプロバイダ会社に問い合わせて調べて貰ったんですが、数十箇所もサーバを経由しているらしく追跡しきれない様です。そっち系に相当知識のある者の手際みたいですね」
「メール1通にそんな周到に手を回すヤツだ。割り出しても足のでないどっかの中規模ネットカフェなんかから送ってるんだろうな。会員証を作らなくても良いようなトコでさ」
 城箕先輩の報告に渡田先輩がそうオチを付けた。城箕先輩も「ええ、恐らく」と答えていた。
「墓の下のシンカー…… このシンカーってなんの事だろう?」
 留目が私の隣でそう呟きながら首を捻る。
「たぶんそれ、変化球の事じゃないかしら。アンダースローやサイドスローの投手がよく使うヤツね」
 と私がすかさず答えた。先日シンクロウと行く野球観戦の為に購入した野球の本を良く読んでいるので知っていた。しかしこんな事でそんな知識を使うなんて思いもしなかったけどね。
「おっ? お嬢詳しいねぇ。お嬢が野球好きなんて知らなかった」
「いやぁ、近々知り合いと野球を見に行くかもしれないんで話を合わす為に本を読んで勉強していたんで…… でも本の受け売りのにわか知識ですよ」
 キタさんの言葉に私はそう答えながら、ふと思い出したことがあった。
「害者の履歴書に高校時代野球部だったとあった。中目黒第二高等学校って所だ。結構野球部が強かったみたいだな。たまに名前を聞くくらいだから」
 萩沼係長も結構野球が好きみたいだ。まあこの年代の人ならサッカーよりも野球なんだろうなぁ。
「中目黒…… そう言えばその辺りで何年か前にドラフト指名されたサイドスローの投手が居たって聞いたことがある……」
 私のその呟きに萩沼係長が頷いた。そう言えば係長は今でこそ麻布に住んでいるが、地元は祐天寺で中目黒から近い。
「そういやいたな、そうそう、確かサイドスローで高速シンカーを使う珍しい天才ピッチャーって騒がれた事がある。えっと、なんて名前だったかなぁ……?」
 萩沼係長は少し白髪の交じり始めた頭を掻きながら首を捻っていた。
「しかしお前マジで詳しいな。高校野球にまでチェック入れてるのかよ」
「違うわよ。たまたまその知り合いから聞いた話を思い出しただけ」
 留目の言葉にそう答えながら、私は鞄から財布を取りだしてクリーニングの引き取り伝票を取り出した。結局あの日、シンクロウのいる望月診療所に長居をしてしまい、あの洗濯物を駕籠芽さんの店でクリーニングに出したのだ。そう言えば昨日が出来上がりの日だったんだっけ……
「えっと…… 庵じゃないですかね。実家はクリーニング店をやってます」
 私は引き取り伝票を見ながら係長にそう言った。
「ああ、そんな名前だった気がする。たぶんそれで間違いないな。場所や害者の年齢から考えて、2人が同じ高校の同じチームメイトだった可能性が高いだろう」
 係長はそう結論付けた。するとキタさんが唸るように呟いた。
「このメールにある5年前に何かがあった。その落とし前を付けるためにこのシンカーってヤツは害者を呼び出したってわけか。そう考えるのが一番スジが通るわな」
 キタさんの言葉に私たちは頷いた。5年前に何があったのかを調べることが、この事件の全容を知る一番の近道のようだ。とすると、関係者と思われる人間に聞くのが一番なんだけど……
「じゃあ早速その庵ってのを事情聴取しましょうよ。何なら参考人として引っ張る事も出来るんじゃないッスか? これを上に見せれば」
 留目はそう言って手に持つコピーをヒラヒラと振った。私はそんな留目に素っ気なく言葉を返した。
「それはたぶん無理よ」
 そう返した私に留目が「なんでだよ?」と真っ当な質問を投げてくる。係長やキタさんなんかも留目と同じ疑問を顔に浮かべながら私を見る。どうやら係長も知らないらしい。
「なんでって…… だってその投手、もうとっくに亡くなってるもの」
 私のその言葉に、皆一斉に無言で私に目を向けた。
「本当か?」
 萩沼係長は確かめるように私にそう聞いた。
「私もその…… 知り合いから聞いた話なので詳しくは知りませんが、何でも卒業してすぐに自殺したって話です」
「ドラフト指名された選手が自殺? 何でまた……」
 留目が心底不思議そうにそう呟いた。まあ確かに。私は詳しくないけど、野球にしろ何にしろ、本気でスポーツをやってきた人間ならプロになるのがある種の目標と思う。その道が約束されていたにもかかわらず自殺するなんておかしな話だ。何か引っかかるなぁ。
「でも自殺ならコッチ側に記録が残るはずだから目黒署に問い合わせればわかるだろう。係長、一応裏取りましょう」
 城箕先輩の言葉に係長も「そうしてくれ」と頷いた。
「なるほど、それで『墓の下のシンカー』って訳かよ。洒落た名前付けるもんだ。でもそれじゃこの害者は尚更その庵ってヤツと関係があったってこった。それにこの5年前の出来事ってのが重要になってくる…… 萩やん、こりゃぁけったいなヤマになりそうだな」
 キタさんがそう言うと係長は苦い顔をしながら頷いていた。2人は同期と言うこともあってお互いを愛称で呼び合う仲だった。
「南工業団地の工場に行った後に、その庵って選手の実家に行ってみます。実は私クリーニング店も利用していて服を取りに行かなくちゃならないので。それにその妹さんとも面識があるんです」
 私がそう言うと留目がそれに続いて言った。
「じゃあ俺は工場の後に高校に行ってみるよ。5年前に何があったのか、当時を知る人もいるだろうし」
 すると係長は「よし、2人ともそっちは任せる」と言いながら頷いた。
「なら俺は渡田と組んで引き続き害者の自宅近辺で聞き込みをやってみるわ。ここ最近変わったヤツが尋ねてこなかったかどうかを当たってみることにしよう」
 とキタさんはめっきり薄くなった頭を撫でながらハンチング帽を被った。
「城箕は目黒署に庵の自殺の裏を取った後、害者の取引先での聞き込みに回ってくれ。俺はもう一度勤務先に行って害者の友好関係なんかを聞いてみる」
 係長の言葉に一同頷いて部屋を出ていった。階段を下りていると隣の留目が話しかけてきた。
「廃車工場、ドンピシャだったな」
「たまたまよ、ヤマカンが当たったってだけ」
 私は素っ気なくそう答えた。内心はちょっと天狗だったけど。
「しかしお前が野球なんてなぁ、誰と見に行くんだ? 男か?」
 そんな留目の言葉に私はちょっと考えた。まあ確かに男だけど、そう言う意味で聞いたんじゃないよね、この場合。
「まあ、一応男性だけど……」
「おお、茜にもついに春が来たか。一足早い…… いや、少し遅いか?」
 余計なお世話だ。
「馬鹿、そんなんじゃないってば!」
 と言いながら私は留目のお腹をパンチした。留目は「ぐへっ」と奇妙な声で呻いた。全くオーバーなヤツ、そんなに強く叩いてないでしょーが。
 でも……
 一緒に見に行く相手が17歳の男の子だなんて言ったら、トメはどんな顔するだろう?
 そんなことを考えながらシンクロウの顔を思い出したら急に顔が熱くなった。こんな顔はトメには見せられない。私はそう思い少し早足で署のドアの外に出ると、そんな熱い頬に思ったよりもずっと冷たい風が当たって首を竦めてしまった。
 もうすぐ12月。街はにわかにクリスマスムードに染まり、冬の訪れを予感させるに充分な寒さを増しつつあった。
 そのせいか先日シンクロウがくれた缶コーヒーの仄かな暖かさを思い出す。
 クリスマスか……
 駅に向かう途中、赤と緑に彩られた駅前のデパートのショーウィンドウに数人の小柄なサンタクロースが踊っている。毎年今年こそはと思いながらも一人で過ごすことが多いなぁと考えたとき、何故かシンクロウの笑顔と『茜さん』と自分を呼ぶ声を思い出してしまった。
 庵クリーニングに寄った後、またシンクロウに会いに行こうなどと考える辺り、今年は『あわよくば』と結構本気に考えちゃってる私がいた。





 私と留目はまず南工業団地の廃車工場に向かった。タウンページで目星を付けた2件のうち1件目は渋谷と同じ系列の修理工場で、2件目は廃車の仲介業者だった。
 2件とも空振りで私たちは肩を落としたのだが、2件目の社長から、少し先に以前廃車工場があったとの情報をくれた。もうずいぶん前に廃業したのだが、建物は今も当時のまま残っており、まだそこそこの数の廃車になった車も残っているとのことで、私たちは早速その廃業した工場に向かった。場所は先ほどの社長が手書きの地図をくれたのですぐにわかった。
「もう何年も使われていないみたいだな。頑張れば乗り越えられそうだけど……」
 留目が門の前から工場を眺めてそう呟いた。確かに留目の言うとおり、門はそれほど高くはなく、頑張れば乗り越えられそうな高さだった。門自体は赤錆が浮き、所々腐食していて穴が開いていた。もう何年も門を開いた形跡は無い。
「ぐるっと回ってみようよ」
 私の言葉に留目も頷き、私たちは2人で工場の周りを高い塀づたいに歩いた。すると5,6m先に通用口らしき出入り口があった。
「あれ? この鍵新しいぜ」
 ドアの目の前まで来て留目がそう言った。留目の言葉通り、見るとその鉄製のドア自体はサビだらけだったが、付いているダイヤル錠は真新しかった。よく見るとドアの横に『私有地につき関係者以外立ち入り禁止』と書かれたプレートがあったが、そちらもつい最近付けられた様で真新しい物だった。
「管理会社の看板とかって無いのかな」
 見回すとドアの横にある電柱の影に、薄汚れたスチール製の看板か掛かっていた。『イワサ商事』とあり、その下に連絡先が書いてあった。私は早速その連絡先に電話をしてみた。
 電話口には最初女性が出て、その後年輩の男性に代わったようだった。私が警察であると告げると、相手は「速いですね」と返してきた。私は意味がわからず聞き返したのだが、相手はこちらの言葉を殆ど聞かずに一方的に喋り、「すぐ行きますよ」と言って電話を切ってしまった。何だったんだ、今の?
「どうした?」
「何かね、私たちが来るのを待っていたみたい」
「はぁ? なんでだよ?」
「知らないわよ。向こうの人、一方的に喋って切っちゃったんだもの。すぐ行くって言ってたけどこの近くみたいよ、この会社」
 電話口の男の言ったとおり、それから5分ほどで一人の初老の男性が現れた。年齢は50代後半と言ったところか。スラックスにセーター、そしてサンダルと言った出で立ちで、薄くなった頭頂部を気にしながら、遠近両用の眼鏡の奥から私達を見て頭を下げた。
「昨日の今日で何かわかったんですか?」
 その男の言葉に、私は驚いて尋ねた。今回の事件はまだ発表されていないはずである。恐らく今日の夕刊に小さく名前と遺体発見場所が載るぐらいだ。
「スミマセン、私たちは今初めてここを訪れたのですが……」
 留目がそう注意深く聞いた。すると男は眼鏡の奥の細い目を見開いて言った。
「え、警察の方なんでしょ? 昨日の件で来られたんじゃないんですか?」
 昨日の件? 何のことだろう。
 私たちがその事について聞くと男は昨日の件について話してくれた。
 昨日近くを通りかかった通行人から、この通用口の鍵が壊されているとの電話があったので、彼が見に来ると確かに壊されており、誰かが中に入った形跡があった。中を調べたところ、案の定荒らされており、作業機械まで動いた形跡があったので警察に通報したらしい。それで昨日、恐らく最寄りの交番勤務の巡査が調べに来て調書を取って帰ったそうだ。男は私たちをその件で後日調査に来た捜査員だと思ったらしい。
「鍵が壊されたのは昨日なんですか?」
 私がそう聞くとその男は少し困った顔をして答えた。
「昨日来たお巡りさんにも言ったんですがね、連絡があったのが昨日なんです。その前から壊されてたのかはわかりませんよ」
 何でももうすぐ人手に渡るらしく、来月頭には使える機械の搬出が始まるのだそうで、取られる物も無いのでそれほど厳重に施錠チェックしているわけではないそうだ。
「相手先の担当の話では取り壊してマンションを建てるそうです。もうどこが壊れようが構わないんですが、火事だけは心配でね。ほら、防火管理者の責任云々…… 色々あるでしょ、そういうの。一応私がここの防火管理者として登録してあるんで、そんなのでごたごたするのはゴメンです」
 そう言ってその男は肩をすくめ、ドアの鍵を外して私たちを中に招き入れた。
 埃の積もった床の通路を抜けると、両側に数台の潰れた車積み重なった作業場に出た。天井には鉄骨の梁に取り付けられたレールと、丸い円盤のような物体が太いワイヤーでぶら下がっていた。
「さっき機械が動いた形跡があると仰っていましたが、電気は来ているんですか?」
 留目の言葉にその男は首を捻って答えた。
「いえいえ、メーターごと東電に返却してます。自家発電もバッテリー液や燃料を抜いてます。だからそこが変だなと思って警察に電話したんです」
 なるほど、確かに変だ。動力が来ていないのに機械が動くなんてあり得ない。でも電気は繋がっていない。ならどうやって動いたんだろう。
「でももう何年も使ってないんですよね。そもそもメンテナンスもしないそんな状態で動く物なんですか?」
「動く…… と思いますよ。ただ動かすだけならね。それを使って仕事をするのは無理です。いつ止まるかわからないですから」
 私は「なるほど」と頷いた。
「でも電気がなきゃ動かない。メーターが無いんだし盗電でもしない限り無理ですわ」
「盗電?」
 私はそう聞き返した。東京電力じゃないよね?
「盗む電気と書いて盗電。ようはメーターを介さずに直接漏電ブレーカーに電気を突っ込むんです。メーターが無いからどれだけ使ってもわからないって訳です」
 なるほどね。それで盗電か。
「でもコイツは200Vの『動力』ですからね。単相ならまだしも三相200Vは専門の電気業者か関電工じゃなきゃ危なくて出来ませんよ」
 ふむ、つまりは動かすには電気を扱う専門的な知識と装備がいるって事か。
 私はその男の声を聞きながら、天井を見上げつつ丸い円盤の下まできが、流石に真下に潜り込むのはしなかった。そのまま真下の地面に目を落とす。砕石を敷き詰めて固められた地面に黒いシミが広がっていた。
「トメちゃん、これ何の痕に見える?」
 私の言葉に留目は早足で私の横まで来ると、私と同じように地面を眺めた。
「……血の痕、血痕……かなぁ?」
 と自信なさげに呟く。けど私は何となく確信めいた物があった。
「あの円盤みたいなのって車を吊る機械でしょ? 磁石でピタッてくっつけるの。前に何かの番組で見たことある。でもってここであの高さからガイ者めがけて落っことす。マル鑑の報告に3m〜5mの高さってあったわよね? 車吊ったらそのぐらいじゃない?」
 私がそう言うと留目は「確かにそうだな」と頷いた。不知火卓はこの場所で死亡した。たぶん間違いない。しかも積み重なった車が落ちてきたんじゃない。頭の上に落とされたのだ。それはこの事件が事故の隠蔽を計った物ではなく、確実に殺人であるという意味が含まれる。
 何故彼は逃げなかったのか?
 いや、逃げられなかったのだ。ガイシャの左足首に付いていた赤黒い痕。アレは何かの枷の痕だった。その枷を外そうとして藻掻き回った末にあのような痕が出来た。意識があったなら、恐らく泣きながら命乞いをしたことだろう。それが無駄だと知ったとき、頭上にある自らの死と、それを招く相手に呪詛の言葉を吐いたのかもしれない。
 そんな彼を醒めた目で見つめながら機械を操作する人物。今朝キタさんが言ったように、どれほどの恨みが積み重なればそれを行えるのだろう……
 そんなことを考えて、私は背中に寒気を憶えた。
 『墓の下のシンカー』恐らく彼の頭上に死を振らせた者。この世にいない天才ピッチャーの怨念? 墓の下から恨みの触手を伸ばして生者の足を掴む亡霊?
 いいや、決して亡霊などの仕業ではない。これは人の狂気がなせる所行だ。そうさせてしまう人の意志に、私は生唾を飲んだ。
「マル鑑要請しよう。たぶんここが『殺害』現場よ」
 私はそう留目に言った。

 その後、現地にマル鑑と係長が来てくれたのでそっちは係長に任せ、私と留目は次の目的地に向かった。私たちは中目黒駅で別れ、留目は不知火の通っていた高校へ、私は庵クリーニング店に向かった。庵クリーニングは駅のロータリーを越えた対面にあるこじんまりとした店構えだ。黄色地のテント庇に赤い文字で「庵クリーニング」と書かれた文字が浮いたように見えた。
 私が店の引き戸から中の様子を覗くと、カウンターの向こうに駕籠芽が見えた。下を向いたまま机に向かってペンを走らせていた。なにやら難しい顔をしている。
 私はちょっとタイミング悪いかなと思いながらも、出入り口の引き戸に手を掛け「こんにちは」と言いながら中に入った。
「いらっしゃいませ…… あ、胡桃田さぁん!」
 駕籠芽は左手に握ったペンの動きを止め顔をあげながらそう言い、私を認めるとこっちまで嬉しくなるようなとびきりの笑顔で迎えた。彼女がお店の配達をするようになって評判が良くなったとシンクロウは言っていたが、それも頷ける気がした。確かに看板娘だ。
「御免なさい、本当は昨日が出来上がりだったのに取りに来れなくて……」
「いいえ、1,2週間、酷いと1月取りに来ないなんて人もいますから。胡桃田さんなんて次の日じゃないですか。全然問題ありませんよ」
 1週間なら私も時々あるが、流石に1ヶ月は無い。クリーニング店を自分のクローゼットと勘違いしてるんじゃないだろうか。
「そう言う場合はどうするの?」
 私は鞄から財布を出し、折り畳んでしまってあった引き替え伝票を広げて駕籠芽に渡しながらそう聞いた。
「何度か電話して、それでも取りに来られないときは私が配達します」
「でもそれじゃあ経費がかかって大変なんじゃない?」
 すると駕籠芽はちょっと困った表情でため息をついた。
「一応お渡しする伝票に『お預かり期限が過ぎた場合は処分する場合がございます』って書いてあるんですけどね。でも実際に処分なんて出来ません。ウチみたいなチェーン加盟じゃない個人経営店は一人一人が大事なお客様ですから…… 仕方がないですよ」
 そう言って駕籠芽は笑い、後ろのハンガーから私の服を取ってカウンターに載せた。
「ご自分の物に間違いないかどうか、汚れが落ちているか、あとボタンなどが取れていないか確認してください」
 駕籠芽はそう言って私の服を広げて私に見せた。私は一通りそれらを確認した。
「ええ、間違いないわ。ボタンも全部付いてるみたいだし、気になる所もないみたい。充分満足な仕上がりだわ」
「はい、ありがとうございます」
 そう元気良く答える駕籠芽は仕上がった真っ白なワイシャツのように爽やかだった。ひまわりのプリント柄のエプロンがよく似合っている。
「刑事さんってやっぱりお忙しいみたいですね。女性なのに職場に泊まったりするんですもの」
 駕籠芽は仕上がった服を丁寧に手提げビニールに入れながらそう聞いてきた。
「たまたまよ、この前は週を跨いでちょっと面倒な事件があったから。流石に年中泊まってなんかいられないわ。仮眠室の布団なんてペラペラで2日も寝たら背中が板みたいになっちゃうのよ?」
「うわ〜 それはキツイですね」
 私と駕籠芽は2人で笑い合った。ほんと、とてもいい子だわ、この子。出来ればこの子には嫌われたくないなぁって私はぼんやりと心の中で思った。そう思わせる何かがこの子にはあるのだ。
 さてと、ここからは刑事として接する事になる。こんなに打ち解けていても、聞かれたくない事を聞かれると人は皆相手に嫌な感情を持つ。それでも私たちは聞かなくちゃならない。たとえ嫌われようが、事実を明らかにすることが刑事の一番大事な仕事なのだから。
 前にキタさんが言っていたっけ。
『交番勤務のお巡りさんは住民に好かれてなんぼ。だけど刑事は嫌われてなんぼ。だがな、嫌われるのが嫌だなぁと思えんヤツは刑事には向かん。人の気持ちがわからんヤツに誰も本当の事は喋らんよ。人間だもの』
 だから警官は交番勤務から始めるのが良いと言って笑っていた。私が聞き込みをするとき、キタさんのこの言葉が耳の奥に響く。ああ、確かにその通りだと私も思う。
「ねえ駕籠芽さん、実は今日はもう一つ用があって来たの。あなたのお兄さんの事について少し聞きたいことがあるの」
 その瞬間、駕籠芽の動きが止まり、それからゆっくりと私の顔を見た。その表情をなんと表現すれば良いんだろう。
 外見上は殆ど変わらない。爽やかに作る笑顔に一瞬刺す陰り。私を見つめる瞳が瞬き一回分色を無くした。夏の空を元気に見上げるひまわりの花を古いフィルムと画質の荒いレンズでシャッターを切った様な、そんな一瞬を私は垣間見た気がした。確かに花は咲いている。なのに花びらに残る色が褪せて見える瞬間を。
「兄のことですか? でもすみません。兄はもう……」
「ええ、九籠君から聞いているわ。亡くなったって」
 私は努めて声に感情を乗せずにそう言った。
「……亡くなり方も?」
「ええ、それも聞いたわ」
 私のその答えに、駕籠芽は「そうですか……」と息を吐きながら呟いた。私はそんな駕籠芽にさらに続けた。
「サイドスローの天才ピッチャーで、ドラフト指名までされたって聞いたわ。凄いお兄さんだったのね」
 すると駕籠芽は目を細めて頷いた。
「ええ、とても凄い兄でした。『目黒の至宝』なんて言われたこともあったんですよ。私にとって兄は誇りでした」
 駕籠芽はそこで話を切り、私に不思議そうな顔を向けて聞いた。
「でも何故胡桃田さんが兄の事を?」
「実は今朝方、恵比寿の方で男性の遺体が発見されたの。遺体の損壊が激しくて顔がわからなかったけど、所持品から身元が判明してね。遺体の名前は不知火卓、どうやらお兄さんと同級生で、高校時代同じ野球部にいたみたいなのよ」
 私がそこまで話した瞬間、駕籠芽の手からビニール袋に入った品物がカウンターの上に滑り落ちた。
「不知火先輩が……っ!?」
「知っているの?」
 私の問いに駕籠芽はショックを飲み込むように生唾を飲み込んだあと、青ざめた顔で息を吐き「ええ」と答えた。
「私も同じ高校でしたし、私は野球部のマネージャーでしたから…… 確かに学年は兄と同じで私の一つ上でした」
 なるほど、これは好都合だった。マネージャーならば当時の事を良く知っているだろう。例の5年前の出来事についても何か知っているかもしれない。私はより貴重な情報を得るため、少し詳しく話すことにした。
「それで彼の勤務先のパソコンから妙なメールのログが出てきて…… これなんだけどね」
 私はバッグから先ほど係長から貰ったメールのコピーを広げて駕籠芽に見せた。駕籠芽はそのコピーを食い入るように見つめていた。
「2番ショート…… 確かに不知火先輩の3年生の時の打順とポジション。確か通算打率2割6分……」
 駕籠芽はそうブツブツと呟いていた。
「打率まで憶えてるの?」
 マネージャーってそんなことまで憶える物なのかしら。それともこの子が単に記憶力が良いだけなのかな。
「ええ、チームで兄と同じ代にレギュラーだった人は大体憶えています」
 たいしたものだと私は素直にそう思った。この子も結構野球が好きなのかもしれない。
「問題はここ、この差出人らしきハンドルネーム。『墓の下のシンカー』って名前」
 私の言葉に促され、駕籠芽は視線をそこに移して固まった。
「シンカー……」
「確かお兄さん、シンカー使いだったのよね?」
 私の言葉に駕籠芽は無言でこくりと頷いた。そのまま目が張り付いたようにその部分を見つめていた。
「お兄さんと同じ野球部でこの名前…… 気を悪くするかもしれないけどウチの課の人間は当初このメールを出したのはあなたのお兄さんだと考えたのよ」
 駕籠芽は私のその言葉で我に返ったように手元のコピーから視線を放し、私の目を見つめた。見つめる瞳の奥がわずかに揺れていた。
「でも兄はもう……」
「ええ、この世にいないわ。誰か別の人間がこのメールを出したのは間違いない。私はそれを確認するためもあって今日ここに来たの」
 私を見つめる駕籠芽の目が少し痛かった。この子は何故こんな目をするのだろうか。何故だろう、私はそこに微かな違和感を感じた。
「何故このメールの主はシンカーと名のったのか。彼が野球をやっていた時代、シンカーと名のったらまず間違いなくあなたのお兄さんの事を指すでしょう? そこに何の意味があるのか…… 恐らくそこにある5年前にあった出来事が鍵になるはず。駕籠芽さん、5年前に何があったのか、心当たりは無い?」
 駕籠芽は少し考えながら呟くように言った。
「5年前って言うと兄や不知火先輩が3年、最後の甲子園…… 最後の試合、兄が試合出られなくて結局都大会の準決勝で負けちゃったんだよなぁ」
「出られない? お兄さん出られなかったの?」
 すると駕籠芽は少し寂しそうな顔をして頷いた。
「部室で筋トレ用のバーベルウエイトが外れて、それに当たって怪我しちゃったんです。関節の骨折と肘の靱帯を切っちゃって…… 」
 駕籠芽は沈んだ声で続けた。
「先発の府田平先輩はストレートは速いけど後半バテやすくて。だから7回までに同点、若しくは1点でもリードして、それから兄が押さえて逃げ切るってのがウチの必勝パターンでした。案の定府田平先輩は8回にスタミナ切れで相手打線に捕まっちゃって、スコア8対1のコールドゲーム。惨敗でした」
 押さえの切り札的な投手が不在でチームは惨敗か……
 でも、果たして本当に事故だったんだろうか?
「肘は回復しても元のように肘を使う変化球は投げられないと言われました。それでドラフト指名も流れちゃって…… 結局それが原因で兄は……」
 駕籠芽はそう語尾を詰まらせた。至宝と謳われた天才ピッチャーが再起不能と宣言され死を選ぶ。まるでドラマのような話だが、当時彼は17歳か18歳の少年だ。まだまだ人生やり直しがきくと思うんだけどなぁ……
 ただもしそれが事故じゃなかったら、その恨みは相当な物だろう。まあ、当人が生きていればの話だけど。
「本当に事故だったのかしら? そのお兄さんの怪我って」
「そう…… 聞いています。私、その場所に居たんですけどショックでその時の記憶が曖昧で…… 気が付いたときは兄が腕を押さえて倒れていました」
 シンクロウから聞いた話では、この駕籠芽さんはお兄さんの自殺がショックで一時期言語障害に陥ったという。そんな娘だけにショックで一時的に記憶障害が起きても不思議じゃない。
「御免なさいね、ずけずけと聞いちゃって。刑事ってこれも商売だから」
 私はそう謝罪した。駕籠芽は「いえ、良いんです」と作り笑いとわかるそれを私に返した。もう過去のことですからと薄く笑う彼女が痛々しかった。きっと彼女は私のことを思ってそう言ってくれているのだろう。本当にいい子だわ。
 とそこで、背後の引き戸がガラガラと引かれ誰かが入ってきた。私が振り向くと同時にその人物が私に声を掛けた。
「こんにちは、茜さん」
 シンクロウはいつものとろけるような笑顔で私にそう言った。耳のヘッドフォンから微かにロック調の音楽が漏れていた。シンクロウはゆっくりとした動作でそのヘッドフォンを外し、続いて首元のマフラーを解いた。
 そんな何気ない仕草でも、この美しい少年は優雅に見える。私はぽーっと霧が掛かる頭を振ってどうにか声を出す。
「シンクロウ、何でここにいるの?」
「なんでって…… ここは僕の地元ですし、庵クリーニングは診療所の出入り店ですもん。今日は叔父さんのお使いで来たんですよ」
 そう言ってシンクロウはダッフルコートのポケットから封筒を出し、駕籠芽に差し出した。
「はい駕籠芽さん、この前のお代です。金曜は臨時休診なので引き取りは土曜の午前中か月曜日にして頂けないかとのことです…… 駕籠芽さん?」
 そう言って封筒を差し出すシンクロウをぽーっとした表情で見つめる駕籠芽は、急に我に返り慌てて封筒を受け取った。
 ウンウン、わかるよその気持ち。シンクロウ相手じゃ無理もないよマジで。
「あ、ああ、御免なさい九籠君、引き取りね。そ、それじゃあ月曜日に窺います」
「中身、ちゃんと確認してくださいね」
 シンクロウはそう駕籠芽に言いながら私を見て、またニッコリ微笑んだ。
「診療所に寄るつもりだったんですか? 茜さん」
 白々しくそう言うシンクロウは、憎らしいけほど可愛かった。
 シンクロウは確実に私の思考を受信しているはずである。なのにそう聞く所が小憎らしい。そりゃあ『わからないフリをして』って言ったのは私だけどぉ……
「さ、さあね。たまたま私は預けた服を取りに来ただけだし」
 と言ってみたくなる。
「そうなんですか? じゃあ偶然ですね。せっかく近くまで来たんだし、診療所にも寄ってくださいね」
 そう言ってシンクロウはクスッと笑った。
「そ、そうね、ち、近くまで来たんだし寄らせてもらおっかな〜」
 無駄な虚勢とわかっていながらも私は精一杯年上の余裕を見せようとした。しかしシンクロウの「ええ、是非寄ってください」という言葉と笑顔で敢えなく陥落。ええもう降参です、私の負けですよ。カウンター越しで中身を確認しながら、私をチラッと見てクスッと笑う駕籠芽にも、私がいっぱいいっぱいだってのがバレているんだろうなぁ……
「はい、確かに。ありがとうございました」
 駕籠芽はそう言ってシンクロウに頭を下げた。とその時、店の奥から一人の男性が現れた。
「カゴちゃん、テレビの調整終わったんで確認してほし…… あ、ゴメンお客さんいたんだ?」
 そう言って奥から出てきたのは22,3歳ぐらいの男性だった。背はシンクロウよりちょっと大きいくらい。グレーの作業着の上からでも引き締まった感じの体つきがわかる。たぶん長いことスポーツをやっていたのだろう。細いフレームの眼鏡の奥から、少し細目の瞳が私とシンクロウを見ていた。
「あ、ケンさん、ご苦労様です。お母さん2階に居ない? 昼から楽しみにしてたから……」
「それが2階行ったら寝ちゃっててさ。起こすの悪いと思ったからカゴちゃんに確認して貰おうと思ったんだけど…… 間が悪かったね」
 そう言って彼は私たちに頭を下げた。私とシンクロウもそれに釣られてお辞儀をした。
「すみません、こちら箕原賢治【ミノハラケンジ】さんって言います。私の幼なじみ…… というか兄の幼なじみなんです。実家がこの裏の通りの『箕原電設』って電気屋さんなんです」
 駕籠芽がそう言うと、箕原は「どうも」と良いながら再度お辞儀をした。
「先週テレビが故障しちゃって、どうせなら地デジ対応の液晶テレビに買い換えちゃおうって事になって、ネットで安く買ったんですけど、繋げ方がさっぱりで頼んだんですよ」
 駕籠芽はそう言って箕原に笑いかけた。すると箕原は顔を赤くして照れていた。私はそんな箕原の姿を見て納得した。はは〜ん、なるほどなるほど……
「ケンさん、こちらが望月さんの所の九籠君。それでこちらがその知り合いの胡桃田さん。胡桃田さんは刑事さんなんですって」
「刑事さん!? へぇ〜」
 箕原は少し驚いてそう言い、それから改めて「箕原です、電気でご用命の際は是非『箕原電設』をお願いします」と名乗り名刺を差し出した。私はそれを受け取ろうとしてちょっと違和感を感じた。
「あ、すみません。自分左利きなもので……」
 ああそうか、だからちょっと混乱したんだ。私は「いいえ、私の方こそ」と素直に言った。
「左利きは電気屋に向かないって言われるんですけどね」
 箕原はそう言って頭を掻いた。私は無言でそんな箕原に目で問いかけた。何でだろう?
「ほら、左手だと心臓に近いでしょう? 電気を扱うにはちょっと不向きなんですよ」
 なるほど、それはそうだ。初めて聞いたけど。
「そうだ、ケンさんは高校時代野球部の正捕手だったんですよ。ちっちゃい頃からずっと2人でバッテリー組んで兄の女房役だったんです」
 えっと…… 正捕手? バッテリー? というか女房ってなんだ?
 するとシンクロウが小声で私に耳打ちした。
「正捕手はレギュラーキャッチャーのことですよ。ピッチャーとキャッチャーを合わせてバッテリーって言うんです。電気のバッテリーじゃないですよ。それで息の合うバッテリーの捕手は良く『夫婦』になぞらえて女房役って言うんです」
「ああ、なるほどね」
 そんなの、あの本に載ってたかな? 後で見てみよう。
「ねえケンさん、不知火先輩亡くなったんだって」
 駕籠芽がそう言うと箕原は驚いて「え? マジで!?」と驚いて聞き返した。
「うん、本当みたい。でね、先輩の使ってたパソコンから変なメールが出てきたんだって。これ、ちょっと見てみて」
 駕籠芽はそう言ってメールのコピーを箕原に見せた。箕原は先ほどの駕籠芽の時と同じように食い入る様に見つめ、最後の部分で目を見開いた。
「墓の下のシンカー…… これって……」
 やはりそこで引っかかったらしい。当時の同じ野球部員なら、シンカーと言えば一人しか思い当たらないようだった。それからゆっくりと私に目を向け。
「不知火は…… 殺されたんでしょうか?」
 箕原は一言一言確かめるようにそう聞いた。私は少し迷ったが、自分の考えを述べた。
「恐らくそうでしょう。たぶんそこにある5年前に起こった何かが原因で」
 私の言葉を聞きながら再度箕原はコピーに目を戻し「5年前……」と呟いた。
「駕籠芽さんからは5年前にお兄さんが部室で怪我をしたって聞いたんだけど、あなたは何か他に思い当たる事ないかしら?」
 私の問いに箕原はしばらく考え「いえ、それ以外は特に何も……」と答えた。
「そう、でもまあお兄さんの事故って情報聞けたし、収穫無しって訳じゃなかったわ。あ、御免なさい、私無神経なこと言ってるわね」
 駕籠芽さんのお兄さんが自殺した直接の原因かもしれない事を、無神経にも『収穫』なんて言ってしまった。私ってこう言うところがまだまだだなぁ……
「いえ、さっきも言いましたけどもう過去のことですから、気にしないでください。それより事件が速く解決するのを兄も願ってると思います」
 駕籠芽はそう言って目を伏せた。そんな駕籠芽に私はせめてもの罪滅ぼしと思い「ええ、必ず解決するわ」と根拠のない自信を持ってそう答えた。
 それから私とシンクロウは庵クリーニングを後にした。外に出ると日がもう傾いていてひんやりとした空気が鼻先を撫でた。
「茜さん、持ちますよ」
 シンクロウがそう言って私が抱えるビニールを持ってくれた。その時手に握ったままの領収書を落としそうになり、私は慌ててそれを掴み直した。見ると少し少女じみた丸文字が踊っていた。お世辞にも綺麗とは言えない字だったが、可愛い彼女らしい文字だった。
 そう言えば駕籠芽も左で字を書いていたっけ……
 私はそんなことをふと思い出した。あの箕原も左利きだ。そしてあの反応、何となくお似合いな感じがして思わず頬がほころんでしまった。2人はもしかして付き合ってるんじゃないかな?
「いや、付き合ってはいないようですね」
 そこにシンクロウが言葉を挟んだ。な〜んだそうか、結構お似合いなのになぁ。
「―――ってかシンクロウ、フリはどうしたのよ!」
 まったく、この子ったらまた先読みしてペラペラと!!
「あ、ごめんなさい。ただちょっと気になることがあったんで……」
 気になること? そう言えばシンクロウ、途中から何も喋らなくなってたけど。
「何? 気になる事って」
「いえ、あの箕原さんなんですけど、急に思考が変わったんです。僕はあの方が奥にいるときからあの方の思考を感じてて、それまではテレビの繋ぎ方とか、駕籠芽さんのこととか考えていたのに、茜さんと話してるときは全然別の思考に支配されていました」
 シンクロウはそう言うが、私には全く何も感じなかった。
「変わったって、どんな風に?」
 するとシンクロウは少し視線を流しながら考えていた。
「う〜ん、僕は茜さんの思考ばかり追い掛けていたので、漠然としかわかりませんけど」
 ふ〜ん…… ってちょっと待って。
「ちょ、ちょっと! 何で私の思考ばかり追い掛けるのよ!」
 と私が言うとシンクロウは私に向き直り、真面目な顔でこう答えた。
「茜さんの思考が僕にとって一番安全だからですよ。茜さんはこのヘッドフォンと同じか、それ以上に安心できる人だからです」
 ああ、もう真顔でそんなこと言われたら溶けちゃうでしょうが……
 一瞬にして寒さがどっかへ飛んでいってしまった。変わりに顔全体が湯気が出そうなほど熱くなっていくのがわかる。天然でこれをやられると破壊力が大きすぎる。ノーガードだっただけに被害甚大だ。
 そんなクラクラする頭の私を知ってか知らずか…… いや間違いなく知ってるんだろうけど、シンクロウは気にした風もなく続けた。
「警戒と…… 恐れ。あの方は常に何かを恐れていた。そう、茜さんが刑事とわかった瞬間からね」
 メロメロな私の鼓膜に、そのシンクロウの聞き流せない言葉だけがぴたりと張り付いた。






 ユニフォームの上からグランドジャケット肩に引っかけ、額からゆっくりと短く刈られた頭を撫でながら深めにキャップを被り直すと、妙に落ち着いた気分になった。
 座るベンチの脇にあるグラブを手に取り、その表面の感触を確かめつつ鼻の近くまで持ち上げその臭いを嗅いだ。
 牛革にドロースが染み込んだ独特の臭いを嗅ぐと、さらに気持ちが落ち着いていくのがわかる。良く使い込まれ、隅々まで手入れされた使い慣れたグラブの臭いと感触は、投手にとって高ぶった意識を鎮める神聖な儀式のようだといつも思う。だから投手はセットポジションでグラブを顔の前で一度止めるのだ。
 マウンドに棲む何かの気配を感じ、その緊張感を和らげるために、投手は自分のグラブの臭いを嗅ぐ。
 さっきまで聞こえていた耳鳴りがする程の大歓声が一瞬にしてかき消える瞬間。自分の腕から放たれた白い弾丸が、捕手のミットに納まるまでの間、聞こえるのは自分の胸で脈打つ鼓動の音のみ……
 その領域に足を踏み入れた事のある者なら誰でも1度は経験する世界。バッターボックスが打者の聖域ならば、マウンドはゲームを支配する神様の領域だ。たとえそれが極度の緊張と興奮から来る錯覚だと言われようが、それは確かに存在する。
 その瞬間、確かに自分は神を感じているのだ。

 出番だ

 そう前から声が掛かった。顔を上げてベンチの向こうの真っ白な光に目を細めた。連日35度を超える猛暑も、そこでは40度近い体感温度になる。だが、あの光の中にこそそれはある。
 左手をグラブに滑り込ませ、ゆっくりと立ち上がる。スパイクの中の親指の踏ん張りを確かめながら振り向くと、期待と不安を混ぜ込んだ二つの瞳が自分を見つめていた。

 ちょっと神様に会ってくる

 いつもと同じ台詞を吐くと、その瞳は「うん」と頷いた。
 それを確認して再び白い光の世界に目を向けその場所に飛び出す。何度か肩を叩かれながら巣穴のようなベンチを飛び出すと、むせかえるような熱気と大歓声に軽い目眩を憶えた。そして割れんばかりの歓声の中に自分の登場を告げるアナウンスが混じる。
 マウンドに向かう自分に、水を浴びた様な汗を滴らせながら先発が近づいてくる。そして「頼むぜ!」と息を切らせながら白球を自分のグラブに押し込んできた。その顔に無言で頷きマウンドに立った。
 足下のロジンバッグを拾い、2,3度揉んで粉を指に馴染ませる。
 ああ、任せろ。至宝の名に恥じない最高のピッチングを見せてやる!
 そう心の中で宣言しながら見上げる空は、泣きたくなるような蒼さでどこまでも高く続いていた。

☆ ☆ ☆ ☆

 漁利火灯也【イサリビトウヤ】はもう一度バットを握り直し、口の中に溜まった唾を吐いた。
 吐いた瞬間唇に付いた液体を舐めたせいで舌先がぴりっと痺れる。そのせいでまた唾を吐こうとするが、出る唾はなく代わりに鼻を指す独特の臭いで吐き気がしてきた。
 服に染み付いた液体は臭いばかりではなく、その用途においても自分を追いつめている。 漁火はそう考えながら小さな声で「ちくしょう!」と今日何度目になるかわからない言葉を吐いていた。
「カウントツースリー。もう後がないぜ? 漁利火」
 自分がバットを構える先に睨む相手は、どこか嬉しそうにそう言った。いや、実際にこの状況を楽しんでいるのだろう。
 その声を聞きながら、漁利火は昨夜から今に至るまでの状況を思い出していた。

 昨日の午後、前々から事あるごとに誘っていた女がようやく折れ、食事からホテルにまでこぎ着けた。ホテルに着くなり抱きつき唇を求め、手で女の腰から尻にかけてをまさぐった。塞いだ口の中で女が何かを言っているが、無視してタイトスカートをたくし上げ、ショーツの中に手を滑り込ませた瞬間、首筋にひんやりとした感触が当たったかと思うと痺れを伴った痛みと共に目の前に星が瞬き、続いて意識が無くなった。
 それからどのぐらい経ったかわからないが、体に冷たい水を掛けられている感覚で目が醒め、目を開けた瞬間に顔にも水を掛けられ思わずむせった。
 鼻を指す刺激と、痛みを伴った苦みで吐き気が込み上げ、数回げぇげぇやりながらも、その液体が何であるのかを必死に思い出そうとしていた。鼻の奥がツンとする独特の臭いからそれがガソリンであると悟った瞬間、固い地面を転げ回る自分の頭の上の方から声が掛かったのだ。
 声を掛けた人物は20m程離れたところに立ち、野球のユニフォームを着ていた。そして笑いながら勝負を持ちかけてきた。
 1体1の野球の勝負、ワンボックスマッチ。「俺が投げ、お前が打てれば開放し、俺が三振を取ればお前の体に火を付ける」と……
 ふざけるなと、半ば呆れた声で怒鳴り立ち上がった。この瞬間までふざけた野郎だと思っていたが、立ち上がった瞬間、それが嘘やジョークじゃないことに気が付いた。
 自分の足に枷がはめられ、丈夫そうなチェーンがこれまたでかい端の橋脚コンクリートにがっちりアンカー固定されていたからだ。
 俺は考えられる全ての侮蔑の言葉を並べ立て相手を罵倒したが、相手はそんな俺をケラケラと笑いながら眺めていた。それを見ながら俺はそんな言葉の全てが無駄であることを知った。
 相手はひとしきり俺の罵倒を聞いた後、静かに、そしてどこか嬉しそうに「足下のバットを拾え」と指示した。俺は抵抗など出来ないことを悟り、震える手で足下のバットを拾った。
 周りを見渡すとどこかのガード下の空き地のようだった。頭上には鉄橋が掛かっている。右手には投光器が光を放っているが、それが無くとも辺りは明るい。ふと見上げると鉄橋とビルの間から覗く空がうっすら光を帯びている。そこから判断して今の時間帯は夜明け前だろう。
 濡れた服に冷えた風が当たるが、俺はそれとは別の理由で体の芯から来る震えに歯がガチガチと鳴らせ、頭の中で「何故俺が!?」と繰り返す。するとそれを見越したように相手が言う。
 思い出せ、忘れたとは言わせない
 「何をだ!?」と返すと、相手は足下にあるカゴからボールを拾いグラブに納めてセットポジションを取った。
 ならば、思い出させてやるさ
 その言葉を合図に相手はグラブを掲げ、ゆっくりとモーションに入った。そして次の瞬間、その異質な投球フォームで俺はこの相手が何を言っているのかを理解し戦慄した。

「頼むっ、もうカンベンしてくれ。助けてくれたら何でもするからっ!」
 バットが4回目のチップ音を響かせた後、漁利火はバットを放りだし、崩れるようにその場に膝を付くと拝むような仕草で懇願した。
 高校時代で野球を止めた漁利火がここまで勝負を引っ張れたのは、相手が本気じゃないからだ。高校時代にサードのポジションから眺め続けた投手である。初球にあの頃と変わらぬ球の伸びを見せられては、それが嫌でもわかってしまう。そしてその投手が本気になったとき、あの決め球を投げた瞬間、自分の死が決定づけられる事も……
 これほどまでに緊張するバッティングは今までになく、漁利火の心臓は恐怖と緊張でオーバーヒート寸前だった。
「な、頼むから。俺が悪かった。俺達が馬鹿だったんだっ! 俺はあの後何度も謝るつもりでお前の家に行ったんだ。でも…… 恐くなってどうしても出来なかった。でもマジで反省していたんだよ! だから許してくれよぉっ!!」
 漁利火は額を地面にこすりつけながらそう言った。
 確かに漁利火が相手の家に何度か足を運んだのは事実だった。恐くなったのも嘘ではない。だが、謝るつもりだったのでは無かった。自分のしたことを相手が公言することを恐れただけだ。だが今はその事実さえあればいい。理由はどうあれ自分は他の連中とは違い確かに家に行った。その事実さえわかって貰えれば俺は許されるはずだ。そういう根拠のない身勝手で都合の良い願望が自分の中で膨れあがっていった。
「そうか……」
 下げる頭の上から、そう声が掛かり漁利火の心の中に微かな希望の光が差した。
 しめた、コイツは今の言葉を信じている。そう思い込み漁利火はゆっくりと顔を上げ相手を見た。だがその瞬間、それは自分のおめでたい思いこみであることを悟り一気に奈落に落とされた。
 視線の先の相手は肩を振るわせ、声を出さずに笑っていた。
「反省していた? なんだそうだったのかよ? そうかそうか、ならもっと早く言えば良かったのによぅ。そうだな…… 5年ぐらい前にさぁっ!」
 語尾を強めてそう言う相手を、漁利火は涙に滲んだ視界で見つめていた。
「数日前、お前に送ったメールをお前読んだろ? なのにお前は指定された場所に来なかったよな? 本当に反省してるヤツが、あのメールをシカトする訳ねぇじゃん。バレバレだよ」
 その相手の言葉を聞いた漁利火は少し考え、その後「ああ……っ!」と短い呻きを漏らした。
 確かに漁利火は数日前に携帯に入ってきた奇妙なメールを読んだ。その時はどうせスパムか誰かの悪戯だと思い無視していた。だがまさかあのメールがコイツからのメールだったとは……
 漁利火は今更ながらに自分の迂闊さを呪った。
「『やめてくれ』って言わなかったか? 『助けてくれ』って聞こえなかったか? あの時お前らはさ、その声を笑って聞いていたっけなぁ」
 その言葉に、漁利火の中にあった何かが切れた。自分の置かれた絶望的な状況を理解するための何かが……
「はは、フ、フカシだ。お、お前が人を、人を焼き殺すなんてできっこねぇよ。お、お前、わかってるのか? ひ、ひ、人殺しに、なるんだぜ?」
 そんな漁利火の言葉に、相手はグラブで顔を隠しながら冷たく言った。
「めでたいな漁利火よぅ。俺はもうとっくに一人殺ってるんだぜ? 不知火をよ」
 その言葉に漁利火は現実に引き戻された。
「う、嘘だ。俺をビビらせようとしたって……」
「嘘なもんかよ、アイツは車で潰してやったんだ。顔なんてぐしゃぐしゃで誰だかわかんねぇみたいになってたっけ」
 信じられないと言う顔で漁利火は相手を見た。いや信じられないのではなく、信じたくないと言った方が正しい。その証拠に「嘘だ、嘘だ……」と何度も呟いていた。
「昨日の夕刊に出てたぜ? 帰って見てみれ…… ああ、悪りぃ。お前見れる訳無いか? こっから生きて帰れないもんな。あっちで不知火に直接聞いてみな」
 そう言ってまたカラカラと笑う悪魔を見ながら、漁利火は震えながら涙を流した。そして滲む視界でバットを掴むと、それを引きずる様に持ち上げて立ち上がり、震える腕で構える。
 たった一球だ。
 たった一球ミスっただけで23年と数ヶ月の人生が終わる。
 そう思うとまた涙が溢れて視界を遮った。頭で何度も打てば良いんだと自分に言い聞かせるが、もう自分の都合の良い妄想も浮かんでこなかった。
 漁利火には次に相手が投げる球種は予想が付いていた。7回からマウンドに立つアイツの姿をサードから何度も眺めてきた漁利火にとって、決め球とするあの球を投げる時は、敵でなかったことを感謝する瞬間だったのだから……
「おしゃべりにも飽きてきた。そろそろ終わりにしようか、漁利火」
 相手はそう言ってグラブを掲げモーションに入った。ゆっくりとした初動作で左足をあげる。そして流れる動作で腰を落とし、上半身を良質のゴムのように捻って力を溜め、弾かれたように腕を水平に振るう。細い竹のようにしなった腕が地面と平行に滑り、溜め込んだパワーを指先一点に集中させ白い弾丸を解き放つ。そうして全身を使ったダイナミックなフォームは、白い球に命を吹き込んだ。
 風を切る音と共に、白い球が文字通り弾丸のように飛んでくる。バットを構える漁利火の手間で1度ふわっと浮き上がった球は、次の瞬間脇腹を抉るようにその機動を変えた。
 漁利火のバットはその球の数ミリ上を通過していった。
「ストライク! バッターアウトっ!!」
 自分の後ろにある橋脚のコンクリートに球が当たり、バンっと音を立てると同時に相手がそう叫んだ。漁利火の手からするりとバットが滑り落ち、地面に妙に乾いた音を響かせた。
「うわわぁっっ!! 嫌だ、死にたくないっ 死にたくねぇよぉぉぉっ!!」
 漁利火は半狂乱になってその場に座り込み、足の枷を外そうと必死に藻掻いた。するとそんな漁利火を醒めた目で見つめながら、相手が近づいて来た。
「自分の犯した罪で犠牲になった人の、燃えたぎる恨みの熱さを感じながら逝け……」
 いつの間にか右手に握られたジッポライターがカチンと鳴いた。ゆらりと立ち上がる小さな炎が、まだ持つ手の周りを仄かに照らすのを見ながら、漁利火はもう一度相手に懇願した。
「た、た、助けて、くれ…… こ、殺さ、ないで……」
 だが、その言葉に応える声に少しも感情を感じることは出来なかった。
「恨みの炎で赤く紅く燃え散れ……」
 投げ捨てられたジッポライターが自分の服に付く前に、気化したガソリンに引火しズボンが黒い煙と共に燃え上がった。その瞬間、漁利火は絶叫をあげて立ち上がった。燃え上がった炎はすぐさまたっぷりとガソリンの染み込んだ上着に移り、全身を炎が包むのに瞬き一回の間で済んだ。
 薄闇をごうと照らす炎の影の中で、帽子を被った悪魔が笑う。
「ははっ、派手に燃えろ。俺のための『漁り火』になれ……」
 全身に炎の服を纏った漁利火は奇妙な踊りを踊りながら、ひとしきりその場をぐるぐる回った後、糸が切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちた。
 ユニフォーム姿の相手は漁利火を炙る炎の光で自分が放った球を拾うとカゴに納め、漁利火を見ることなくその場を立ち去っていった。

☆ ☆ ☆ ☆

 朝早くに鳴る電話に良い知らせなどありはしない。
 亡くなった父が口癖のように言っていたその言葉通り、起きがけに鳴った私の携帯は新たな事件を運んできた。毎度の事ながら萩沼係長の声で目覚める自分は、比較的不幸な女なんじゃないかと自問しながらも、時計を睨み、「20分で部屋を出ます」と答えて電話を切った。
 寝間着代わりのTシャツとショーツという姿で半分だけカーテンを開くと、見ているこっちが陰鬱になるようなどんよりとした空が広がっていた。
 そんな空が、どことなく事件の先行きを表しているようで、私は無意識に「嫌だねぇ……」とまるでキタさんのように呟き、すぐに恥ずかしくなって洗面所に向かった。

 私は部屋を出て1時間後、部長に指示された通り目黒警察署に着いた。するとドアの前で留目に会った。どうやら留目も係長から電話があったらしい。コートのポケットから右手を出し「おはよう」と挨拶する留目に私も挨拶を返し、留目の頭を見てクスッと笑った。
「寝癖、右の後ろの方」
 私の言葉に留目は「うえっ、マジで?」と言いながら髪の毛を撫でた。留目のそんな仕草にまた笑いながら私は目黒署のドアを潜った。
 ウチの署より少し小さい感じのロビーを見渡し、右手に受け付けを見付けてカウンター越しにいる女性職員に声を掛けた。
「おはようございます、渋谷署の胡桃田と言います。あの、刑事課の野割係長はいらっしゃいますか?」
 私の言葉に、奥にいた数名の職員がこちらをチラリと見たが、私は気が付かないフリをしていた。受付の女性は「おはようございます。少々お待ち下さい」と言って手元の受話器を取り刑事課を呼び出してくれた。受話器に二言三言話し、続いて「今降りてくるそうです、少しお待ちいただけますか?」と私に言った。
 私は「はい、恐れ入ります」といってカウンターから離れ、免許書き換え用の記入カウンターの前にいる留目の横に立った。
「やっぱちょっとアウェイ感あるね。別に良いけどさ」
 私がそう言うと留目は先ほど私が教えた寝癖をまだ気にしながら「そうか?」と気のない言葉で返した。私は心の中で『鈍感!』と文句を言った。
 警察には所轄同士での『縄張り意識』は少なからずある。これでも最近はずいぶん少なくなったほうだ。都外に出向く場合はやはり本社の『お膝元』という事もあってか、県警所轄の対応は結構協力的なのだが、都内のしかも管轄が隣接した所轄では結構露骨だったりする。まあこれでもウチの渋谷署は新宿署に並ぶ大きめの所轄だからまだ良い方だった。
 これでもし私たちが本社の『捜一』だったりすると副署長辺りが出迎えるんだろう。縦社会の典型が警察という組織なのだ。
 しばらくして、奥の階段から一人の中年男性が降りてきた。雰囲気からして私たちと同じ刑事だろう。私たちはその男に頭を下げた。
「いやいや、おはよう。朝早くからご苦労様」
 その男はそう言って私たちに軽く会釈をした。どうやらこの人が割野係長のようだ。
「渋谷区刑事課刑事係の胡桃田です」
「同じく留目です」
 私が敬礼したのを見て、留目も同じように敬礼した。それを見て割野はやんわりとした表情を作り「これはこれは」と言いながら敬礼を返した。
「目黒署刑事課の割野です。ようこそ、目黒署へ」
 そう言って割野は私の顔を見ると目を細めた。私は「何?」と思い眉を寄せた。
「うん、やはりどこか面影がある。名前を聞く前からそうじゃないかと思っていたが……」
 その言葉を聞き、私は心の中で『またか』と呟いた。
「父をご存じなのですね」
 すると割野は嬉しそうに頷いた。
「私がまだ駆け出しの頃、胡桃田警部…… いや警視だな、生前お世話になった。と言っても短い間でしたが」
 そう言って割野はまた目を細めた。
 父は殉職し階級が一つ上がり、最終的に警視となった。階級章の見た目は縦棒が一本増えるだけだが、遺族が受け取る遺族年金や保障は結構変わるのだ。もっと下の階級だと2階級上の昇進となるが、父は殉職時に警部だったので1階級特進となった。いわばこの特進制度は残された遺族への恩情策という側面もあるのだ。
「お父さんは良い刑事だった。惜しい人を亡くしたと思う」
 割野はそう言って目を閉じて数回頷いた。
「その言葉を聞き父も照れていることでしょう。ありがとうございます」
 私はそう言って割野に頭を下げた。
「私は実はね、おたくの萩沼係長とは高校の同級生で、今でも良く一緒に飲みに行く仲なんだ」
 顔を上げた私に割野はそう言った。
「今でこそ2人とも警官になってるが、昔は結構悪ガキでね…… おっと、立場上これ以上は言えないな。荻ちゃんにはナイショにしてくれよ?」
 割野はそう言って笑った。私と留目は少し困った顔で苦笑いをした。結構ユニークで気さくな人のようだ。そのおかげもあってか、先ほど受付で感じたアウェイ感は割野からは全く感じられなかった。もっとも割野が父を知っていたと言うのも大きいのだろう。亡くなってからも父に助けられている自分が少しだけ情けない気もした。
 同じ道を選んだとき、覚悟していた事でしょ。
 私はそう思い直し、気持ちを切り替えて割野に聞いた。
「それで、問題のガイシャの件についてですが……」
「ああ、そうそう。懐かしくてついくだらない前置きが長くなってしまった。私の悪い癖だ。では2階の刑事課で話そう」
 割野はそう言って私たちを2階に案内した。刑事課と書かれた部屋のドアを潜り、私たちは応接室に案内された。割野は一度出ていった後、再びファイルを手に戻ってきた。
「先日萩ちゃん…… 失礼、萩沼係長と会ったとき、今抱えている事件について話をしてね。それで、今朝方、と言ってもついさっきだが、通報があった事件でちょっと気になる事があったんで連絡させて貰ったんだ」
 割野はそう言ってファイルを開いた。そこには現場写真とガイシャと思われる遺体が写った写真が数枚クリアホルダーに入っていた。
「まだ整理が終わってないんで見にくいかもしれないが、それは我慢して欲しい」
 割野はそう前置きして説明を続けた。
「今朝、早朝に『人みたいな物が燃えている』と当署通報が入り、ウチの捜査員が現場に急行したところ、確かに男性が燃えていた。捜査員が現場に到着したときもまだ燃えていたそうで、ウチの捜査員も上着などでバサバサやったみただが埒が明かず、結局近くに住む住人が持ってきた消火器で何とか火を消したそうだ。燃えていた人は、その時はまだ息があったそうだが、追っかけ来た救急車で搬送中に息を引きとった」
 割野はそこまで一気に話し、私たちの理解が追いつくのを待った。
「焼身自殺ですか?」
 留目はそう割野に聞いた。
「まだ断定は出来ないが、私は殺人じゃないかって睨んでいる」
 そう言う割野の目が先ほどとはうってかわって鋭い光を放ち刑事の目になった。
「その根拠は?」
 私がそう言うと割野はそれに答えるように写真を見せた。その写真には汚れた携帯電話が写っており、その画面に1通のメールの本文が表示されていた。
「見にくいかもしれないんでコッチにそれを文面化したコピーがある」
 割野はそう言って1枚のコピー用紙を差し出した。
〜〜〜〜〜〜〜〜
『9番より3番サードへ』

 貴方の秘密を知っている
 貴方が5年前に何をしたのかを
 貴方の生活を壊され、全てを失いたくないのなら
 今夜9時、南工業団地内、自動車廃工場まで1人で来られたし

 PS.このことはくれぐれも他言無用に

『墓の下のシンカーより』
〜〜〜〜〜〜〜〜
 私は目を見開いた。隣で覗き込んでる留目も息を飲んでいた。その文面は先日私たちが課長から渡された、あの潰された不知火卓のパソコンにあったメール本文と全く同じだったからだ。
「先日会ったとき私も萩沼係長から見せて貰ったよ。これが私が殺人だと睨む根拠ってヤツだ」
 そんな割野の言葉を聞きながら、私と留目は目を見合わせた。






 私はそのコピーをもう一度良く見た。だが先日萩沼係長から渡されたメールのコピーと完全に一致する。ただ一箇所だけ違う点がある。
『9番より3番サードへ』
 この相手の打順とポジションだった。そこに何の意味があるのか?
 私は頭の中でその意味について考えていた。そしてふとあることを思いついた。
「割野係長、このメールが携帯に届いた日付ってわかりますか?」
「ああ、えっと確か…… 先々週の火曜日だな」
 割野はバサバサとファイルをめくり、私にそう教えてくれた。
 なるほど、そう言う事ね。
「日付がどうしたんだ?」
 私の横に座る留目がそう聞いてきた。私は留目にコピー用紙を持ち上げて説明した。
「ここね、『3番サード』ってあるじゃない? 不知火に来たメールは『2番ショート』だったの。これは不知火の高校時代の打順とポジションなのよ。一昨日行った庵クリーニングで庵鞍馬の妹の駕籠芽さんから聞いたって捜査会議で報告したでしょ?」
 私がそう言うと「それはわかってるよ」と留目は言い返した。
「たぶんこの『3番サード』って言うのは、今回亡くなった…… えっと、漁利火ってガイシャの打順とポジションなのよ」
「なるほど。で、それとメールが届いた日とどんな関係があるんだよ?」
 私の説明に留目がそう質問した。
 も〜う、鈍いにも程があるわよ、トメっ!
「つまり、このメールは不知火用と漁利火用の2種類あるわけ。で、この漁利火用のメールが届いたのは不知火にメールが届く1週間も前。でも漁利火は今日焼死したの。これって変でしょ?」
 私はそう説明したが、留目はまだイマイチ私が言わんとしていることを読めない様だった。この辺り、シンクロウならすぐにわかってくれるんだけどなぁ。
「えっと、つまり最初に殺されるのは漁利火だったって事か?」
「30点ね…… もう、しっかりしてよトメちゃん!」
 私はそう言って留目の太股をパンっと叩いた。割野はそんな私たちを面白そうに眺めていた。
「そこから推測される事柄は何だね?」
 割野はそう私に聞いた。それはまるで生徒の成長を見定める教師のような顔だった。私は居住まいを正して向き直り、頭の中で整理した事を慎重に説明した。
「たぶん犯人は今留目が言うように、最初は漁利火殺害を計画したと思われます。ですが漁利火は最初に殺されてない。たぶん彼は何らかの理由でこの廃工場にはいけなかった。あるいはメールそのもの無視したのかもしれません。なので彼はこの日に殺されずにすんだ」
 私の説明に割野は頷き「それで?」と私に続きを促した。
「犯人はここで、もう一度漁利火呼び出すか考えます。でもこの時点ではまた来ないかもしれない。もしかしたら別の理由があったのかもしれませんね。そこで同じ内容で不知火にメールを送りました。不知火はメールの内容を読んで廃車工場に行った。たぶん彼は漁利火よりメールの内容に恐れを抱いていたんでしょう。ウチのその後の捜査でわかったことですが、不知火には上司の娘との婚約話があったようです。出世を考えるとかなり良縁だったみたいですからその辺りを気にしたのかもしれません」
 割野は私の話を何度も頷きながら聞いていた。私は少しこそばゆさを感じながらも話を続けた。
「そうして不知火を殺した犯人はもう一度漁利火殺害計画を考えます。しかしメールはまた無視されるかもしれません。ですが漁利火は結果的に殺された…… 犯人はどうやって漁利火を呼び出したのか。私はそこに手がかりがあるんじゃないかって思うんです」
 すると割野は「大したものだ」と言って微笑んだ。
「血は争えないと言う言葉があるが、あれは本当だな。勘の良さは間違いなくお父さん譲りだ。萩ちゃんはいい部下を持ってるなぁ、羨ましいよ」
 そう言う割野の言葉に私は照れながら「いえいえ、私なんてまだまだです」と答えた。
「となると、他に呼び出しを促すようなメールの履歴が残ってないか調べたいって訳だな?」
「ええ、それから亡くなる日の前日の携帯の発信、着信履歴も。一度メールを無視された相手に、再びメールで呼び出すとは考えにくいですから。前日にガイシャが電話で話した中に犯人、若しくはそれに繋がる人物がいる可能性が高いと思います」
 私がそう言うと割野は「わかった」と答えて席を立った。
「携帯から履歴を調べて相手先の人物リストを作り昼までにおたくにFAXする。ウチも独自に捜査を進めるが、何かわかったらそっちに連絡するとしよう。その代わりおたくの方でも進展があったら情報をくれ。どうもこのヤマは一筋縄じゃ行かないような気がする。ここは共同戦線といこう。萩沼係長には私から合同調査の依頼電話を入れておく」
 そう言う割野に私と留目は「恐れ入ります」と頭を下げた。それから私はちょっと気になっていることを割野に聞いた。
「あの…… これは事件に関係のないことなんですが、聞いてもよろしいですか?」
「何だね?」
「今回の事件、確かに最初の被害者である不知火卓はうちの管轄内で発見されました。しかし殺害された場所は目黒署の管轄です。ましてや今朝の事件は現場もそちらの管轄…… 萩沼係長と友誼があるからと言って連続殺人の可能性の高い大きな事件をその……」
 私がそう語尾に詰まっていると割野は私に笑いかけた。
「縄張りのことか? ふふ、若いのに固いな。相手の腹の内が見えなければ手は組めないと?」
 私は逆にそう聞かれて黙ってしまった。
「意地の悪い質問だったな。そうだな、私は萩沼係長に借りがある…… と言えば納得するか? どんな借りかはそれこそ言えないがね」
 割野はそこでいったん言葉を切りフッと薄く笑った。
「だが今日来た者が君でなかったら、私はコピーだけ持たせて帰らせただろう」
 そう言って割野は私を見つめた。私はまた父の事かと思った。
「ふふ、違うよ、お父さんの事があったからじゃない。君は考えがすぐ顔に出るな。刑事としてはあまり好ましいとは言えない。そういうときは愛想笑いの一つでも浮かべるもんだ」
 そう言って割野は後ろのドアを開け、応接室から出た。私と留目もその後に続いた。そして割野はもう一度私に向き直り、私の目を見ながらこういった。
「久しぶりに良い刑事の目を見た…… いや、良い刑事になりそうな資質を持った君の目を見たからだよ。
 さっきも言ったが君はまだ若い。これから先、様々な事件や問題に直面するだろう。人の哀しみや喜び、怒りや恐怖、恨み、嫉み、綺麗な面、汚い面。こういう商売だ、普通の人より多く人の心に接する。事件の被疑者も被害者も、そして我々刑事も心を持った人間だ。我々の仕事はただ事件を解決するだけじゃ無い、人の心を見つめ続ける事、それが刑事の仕事だと教えられたよ。君のお父さんにね。
 そう教えてくれた当時の胡桃田警部の心はきっと君にも受け継がれていると、君の目を見てそう思った。迷ったら自分の心が命ずる道を選ぶと良い。君はきっと間違えないだろう。自分を信じて職務に励む事だ」
 そう言ってドア口に立った割野はゆっくりとした動作で敬礼し私たちを見送った。私と留目も来たとき以上に背筋を伸ばし敬礼を返した。
 割野と別れた私たちは1階の受付に挨拶をして目黒署を出た。空はどんよりと曇ったままだったが、来たときよりは明るい感じがした。
「人の心を見つめ続ける事が刑事の仕事かぁ…… 敵わないなぁ」
 不意に私の口からそんな呟きが漏れた。
 キタさんに萩沼係長。そして今の割野係長と3人が3人とも父に何かしらの影響を受けている。そんな古強者の刑事に惜しまれる父に少し嫉妬めいた物を感じていた。
「敵わないって親父さんにか? 確かに凄い刑事だったんだな。でもお前だって最近すげぇじゃん。なんか俺、置いて行かれた感があるんだけど」
 私はそう言ってため息をつく留目のお腹をパンっと叩いた。
「何言ってんのよ、今回はたまたま割野係長が父と面識があったからでしょ」
「そうかなぁ? でもさっきのお前の分析、俺ちょっと驚いたんだけど」
「順を追って考えたらそうなったってだけよ」
 私は留目にそう言ったが、先ほどの割野の言葉で少し気持ちが軽くなった気がした。
 父は確かに良い刑事だったのだろう。だが、父が優秀な刑事であればあるほど比べられる自分がいるってことに最近少し疲れみたいな物も感じてたから。でもさっきの割野の言葉で私は少しだけ自分に自信が沸いてきた感じがした。
 割野は自分の目を見て良い刑事になる素質があると言ってくれた。確かに自分は父から何かを受け継いでいるかもしれない。しかし割野はそれを抜きで私をそう判断した。今はそう信じたい気分だった。
 やっぱり私は、シンクロウの言うとおり単純でわかりやすいのかもしれないな……
 そんな事を考え、ふと自然にシンクロウの名前が出た事に私はちょっと嬉しくなった。
 シンクロウは今まで他人の思考を、文字通り人の心を見続けてきた。人の綺麗な面も醜い面も全てだ。あの彼の人を吸い込むような神秘的な色を放つ瞳は、そんな人の心を見続けた者の対価なのかもしれない。
 私にはシンクロウのような力はないし、シンクロウの抱えるものがどれほどのものかはわからない。でも、人の心を見続けるのが刑事なら、この仕事を続けていれば彼の抱える物をほんの少しでもわかってあげられるかもしれない。それで彼を救えるなんて思ってはいない。だけど私は彼に「自分は一人じゃない」って思える何かをしてあげたい。
 一人じゃ確かに寂しいよ。でも2人ならきっと寂しくはない……
 駅に向かう道のりの中で感じる11月の風はとても冷たかった。隣を歩く留目は「うう〜っ、寒!」とコートのポケットに両手を突っ込んでブルっと震えていた。
 確かに寒い。でも寒いからこそ『暖かい』って感じることができるんだよね。
 そんな震える留目の姿を見ながら、私はそう思った。

☆ ☆ ☆ ☆

 その後、私たちの初動捜査の報告と目黒署からの捜査報告の結果、本社もこの一連の事件が計画的で極めて凶悪な連続殺人事件と判断、捜査本部を再編し指揮権が本社の捜査一課、通称『捜一』に移行された。
 捜査本部自体は初動捜査から引き続きウチの渋谷署に最設置されたが、万年人員不足のウチの刑事課では捜査員が足りるわけもなく、目黒署と品川署、それに高輪署からも捜査員が応援として派遣され署内は年末の防犯対策の時よりも活気づいてた。
 捜査会議では当然庵鞍馬の件が取り上げられたが、最も疑わしい容疑者が5年も前に死亡している事もあり、未だに犯人の目星は立っていない。
 私たち渋谷署の初動捜査で、私が報告を上げた箕原賢治の件は一応容疑者の一人としてピックアップされている物の、漁利火殺害の件について彼にはアリバイがあった。彼はその日彼の実家である箕原電設の代表として中堅ゼネコンの主催する安全協力会に出席しており、その後同じく出席していたつき合いのある業者と朝まで飲んでいたのだそうだ。相当飲んだようで午前3時まで飲み、そのまま近くのビジネスホテルで泊まっていた。ホテルの従業員や一緒になって飲んでいた業者の専務も証言している。
 容疑者特定は引き続き捜査を続行しているが、もう一つ、不知火と漁利火を含めた元目黒第二高等学校野球部の部員の中で、2人と仲の良かった部員の調べも進んでおり、こちらは犯人の捜査と違って、すぐにその中で2人の部員を特定出来ていた。
 当時2人と親交の深かった部員はいずれも同じ歳の同級生で一人が中臣幸司【ナカオミコウジ】ともう一人が杜泉美千景【モリイズミチカゲ】という部員だ。中臣は現在は大手家電量販店の営業をしており、杜泉美はフリーターだった。
 この4人は最学当時はいつも一緒に居たらしく、他の部員達とは1線を隔つき合いだったらしい。当時の同部員の証言に寄れば、地元でも結構有名な4人だったらしく、あまり世間に胸を張れない様な事もやっていた様子だった。いわゆる悪ガキだったようだ。ただその事が表沙汰にならなかったのは、当時4人は野球部でも成績優秀な選手で、4番を任されていた杜泉美を筆頭に2〜5番の打順を受け持つ、いわゆるクリーンナップだった。
 当時『目黒の至宝』と言われた天才リリーフピッチャー庵鞍馬を擁した目黒二高は順調に甲子園への道のりを歩んでおり、学校側はそれを重んじ『少々の悪さは目をつぶる』と言った感じで表沙汰になる前にもみ消したフシが見られた。
 まあそんな4人だったので結構周りからは白い目で見られる事も多かったが、4人は気にした風もなく野球を続けていたが、それをあまり良く思っていない人は相当居たとの事だった。
 捜査会議ではそんな背景を考え分析した結果、不知火と漁利火を殺害した犯人が、この2人だけで殺人を止める事は考えにくいとの見解が持たれ、中臣と杜泉美の2人が次のターゲットにされるのでは?、との意見が相次ぎ現在は重要監視保護対象者としてピックアップされ警察による監視が付いている。
 もっとも監視保護と言えば聞こえは良いが、ターゲットにされる確率の高さから考えて要保護対象としても良い物だが、捜査指揮を執る『捜一』の考えは別にあった。
 犯人をおびき出す『餌』、つまり囮だ。建前上本部もハッキリと口にはしないが、会議に出席した捜査員全員はその本部の意図に気付いていた。
 目下我々の捜査は大まかに分けてこの2つに別れて捜査を進めていると言うわけだ。
 そんな捜査会議の報告を聞きながら、私は『人の心を見つめ続ける事が刑事の仕事』と生前の父の言葉を語った目黒署の割野係長を思い出し複雑な気分になった。
 そう語りながら、人の命を餌にする…… 警察という組織の理想と現実、建て前と本音。綺麗事だけじゃ区民を守れない。それは確かだろう。それに自分がどれだけ憤りを感じようが、ノンキャリの所轄の巡査部長にはどうにもならない事だ。これもまた理想と現実であり確かな事だった。

☆ ☆ ☆ ☆

「墓の下のシンカーですか…… ずいぶんケレン味のある名前ですね」
 シンクロウはそう呟いてその形の良い眉を微かに歪ませた。隣でコーヒーを啜っている望月も「そうだな」と呟いていた。今日は休診日なのだそうだ。住み込みの看護士である幸枝さんは買い物に出かけているらしい。
 最近は時間を見付けてはこうしてシンクロウの居る望月診療所に入り浸っている。う〜ん、シンクロウに会うというのもあるが、なんというか居心地が良いのだ。でも迷惑そうなら私もこんなに頻繁には訪れないのだが、シンクロウは必ず「次は何時?」と子犬のような目で聞くので、ついつい気が付くとこうして居間でシンクロウの煎れてくれたコーヒーなんぞを啜っていたりという…… いろんな意味で何やってるんだろう、私は。
「確かにケレン味たっぷりの名前よね。『墓の下』なんてわざわざ書く辺り、相手の動揺や恐れを誘う気満々って感じだし」
 私がそう言うとシンクロウはちょっと沈んだ声で言った。
「でも、どんな理由があるにせよ、偉大な投手を汚すような行為には嫌悪を憶えますよ」
 なまじシンクロウは野球が好きなだけに、野球を汚すそんな行為は許せないのかもしれない。
「その5年前の出来事って学校側からは何も証言が得られなかったんですよね」
 その望月の問いに私は出されたコーヒーに口を付けつつ頷いた。
「ええ、私の同期の捜査員が行った時、教頭先生が対応してくれたんだそうです。その人、当時は生活指導担当だったみたいで。でも5年前の事となるとこれと言って記憶に残る事はないって答えだったみたいです」
「前に駕籠芽さんが話してた鞍馬さんの事故についてはどうだったんですか?」
 ああそうか、その件については留目も聞いてないだろうなぁ。あの時は確か私と別行動で彼だけ学校に行ったし……
「そうねぇ、その切り口で今度は私が行ってみようかな……」
 私はそう呟きながら鞄からポケット地図帳を出し高校までの道順を確認した。診療所からだと駅を通り越して歩いて15分くらいだ。確か駅から近くまで行くバスも出ていた気がする。
「あの…… 茜さん?」
 地図で場所を確認していた私にシンクロウがそう聞いてきた。私は顔を上げ「なに?」と聞いた。
「僕も一緒に学校に着いていく事は出来ませんか?」
 はぁ? 私は思わず手にした地図帳を落としてしまった。
「ちょ、ちょっとどうしたの急に?」
 シンクロウの隣にいる望月も驚いてシンクロウを凝視していた。声も出ないといった感じだ。
「僕ならその教頭先生の思考を読みとって、5年前に何があったのかわかるかもしれません。たとえ教頭先生が本当の事を言わなかったとしても」
 私は心の中で舌打ちした。私は考えてしまった。留目から聞いた事、その教頭の印象という物をだ。
 留目の話ではその教頭は『学校の体面』という物をかなり気にする人物のようだった。行ったときも留目が刑事と名乗った時、あからさまに嫌な顔をされたらしい。かりに学校の名前に傷が付くような事なら、『知らない』と答えても不思議は無い人物という印象だったと言っていた。その話を聞いていた私は教頭が何かを隠しているかもしれないと考えてしまい、それをシンクロウが受信したわけだ。
「シンクロウ、お前は自分の意志で人の思考と同調しようと言うのか?」
 そんな望月の言葉にシンクロウは「はい」と答えた。
「馬鹿な…… どれだけお前の体に負担が掛かるかわかってるのか? 気を紛らわしながらの状態でも相当な負担のハズだ。それを自分から進んで同調したらその負担は倍以上だ。そんなもの、許可できるわけがない」
 望月は呆れたようにそう言い、コーヒーを飲み干した。そんな望月にシンクロウは尚も続けた。
「短時間なら大丈夫です。自信があります」
「馬鹿を言うな! お前の感覚は他人の思考を読むだけじゃない、その思考を自分の物だと思いこんで行動してしまうんだぞ! 思考が完全に同調したら自分を保てなくなる。お前がお前じゃなくなってしまうんだ。下手をしたら廃人だぞっ!!」
「僕は何者なんですかっ!!」
 怒鳴る望月にシンクロウの言葉が重なった。私はそんな2人の様子をただ無言で見つめる事しかできなかった。
「……なに?」
 シンクロウの言葉を受け、望月は静かにそう聞いた。
「人の持つ機能や感覚は、一見意味のない物のように思えて実は意味がある。進化の過程でいらなくなった物の名残だったりする物もありますけど、ほとんどは必要な物ですよね? 僕は本でそう知りました」
 シンクロウは先ほど怒鳴った声とはうってかわって静かな口調でそう言った。
「なら僕のこの感覚は何ですか? こんな満足に一人で外も歩けない感覚にどんな意味があるんですか? 僕は人間なんですか?」
「それは…… シンクロニティーはまだ我々には未知の感覚だ。その意味も仕組みも今のところ殆ど解明されてはいない。わからないから調べている。だが、それとお前が人間であるかどうかというのは別の話だ。お前が人間かどうかなど私や幸枝さんには愚問だ。勿論ここにいる胡桃田さんもそうだろう」
 望月はそう言ってチラッと私を見た。私は無言で頷いた。私はシンクロウを人以外で見た事など一度もない。まあ『人外の可愛さ』である事は大いに認める事だろうけど。
「ごめんなさい、叔父さん。別に困らせるつもりは無いんです」
「なら何故あんな事を言った。お前らしくもない」
 望月はそう言ってシンクロウの方を優しく叩いた。それはまさしく父親の仕草だった。実の子では無いけれど、望月はシンクロウを自分の子供のように想っているのだろう。
「僕は茜さんの役に立ちたいんです」
 シンクロウの口から突然私の名前が出てきたので私は驚いてシンクロウを見た。それから思わず顔が熱くなるのがわかる。
「わ、私の?」
「ええ、僕がこの感覚で茜さんの役に立つ…… もしそれで誰かの命を救えるのなら、僕のこの感覚にも意味があるんじゃないかって、そう思うんです」
 そこでシンクロウは薄く笑った。
「いや、違いますね。僕はそう思いたいんです。僕は僕が存在するための理由が欲しい。この感覚と僕が一生付き合えるだけの理由が」
 そう言いながら私を見つめるシンクロウの瞳は、とても哀しい色をしていた。
 他人の思考に同調し、その思考に支配される。他人との境界線が曖昧になってしまう。
 他人が計り知る事が出来ないシンクロニティーと言う特殊な感覚を持ってしまった自分に、意味があるんだと言い聞かせるための理由を探す。私は何となくわかる気がした。
「私は…… かまわないわ。でも2つ条件があるわ。1つは望月さんの『了解』。望月さんの反対を押し切って連れて行くわけには行かない」
 私は少し考え、シンクロウの目を見ながらそう答えた。シンクロウの表情が少し和らいだ。けれど私は真剣な表情を崩さず続けた。
「もし少しでも自分に変調を感じたらすぐに教える事。絶対無理したらダメ。その時はすぐに引き上げるわ。後日私が1人で尋ねる」
 私の出した条件にシンクロウは和らいだ表情をまた真剣な物に戻して頷いた。それを見た後、私は望月に向き直り頭を下げた。
「望月さん、すみませんがその条件で九籠君が同行するのを許して頂けないでしょうか。ご心配は重々承知しているつもりですが、確かに彼の能力は私たちの捜査に役立ちます。私が責任を持って無理はさせないつもりです」
 そう言って頭を下げながら、私は「何やってるんだろう?」と心の中で繰り返していた。ただ私は今のやり取りを聞いていて思ったのだ。
 シンクロウは今まで『何で自分は……』と問いかけ続けながら生きてきたのだろう。
 初めてここを訪れた帰り道、『一番信用できないのが自分の思考だ』と彼は言った。今ではどれが僕の思考だったのか自信がない…… 自分という存在が空っぽだって事に気づいてしまうのがたまらなく空しい、と。
 あの時そう言って遠くを見つめる様な目をしたシンクロウの横顔を見て、私は胸が締め付けられる思いを味わった。だから私はそんな彼に自信を持つチャンスをあげたかったのだ。
「わかりました、胡桃田さん…… シンクロウ、私はもう何も言うまい。お前はもう17歳だった。普通なら自分の将来進むべく道を考える歳だ。ある程度の事は自分で決める頃なのだろうな。良いだろう、自分の好きにすると良い」
 望月はそう言って微笑んだ。それは父親が我が子の成長を嬉しく、そしてどこか寂しく感じるような、そんな眼差しだった。
「ありがとう、叔父さん! 茜さん、条件クリアですよね?」
 シンクロウは嬉しそうにそう言って笑い、私にそう言った。私はそんなとろけるような笑顔を見て、少し惚けたように頷いた。
 それを見たシンクロウは「僕、ちょっと着替えてきます」と言い今から出ていった。私は少々惚けた頭をさますために、手元のコーヒーを飲み干した。すると望月がポツリと呟くように語り始めた。
「まだまだ子供だと思っていましたが、いつの間にか成長していたんですね……」
 望月はそう言って苦笑した。
「あの子を引き受けたのは、確かに妹の子で肉親の情もありますが、私は正直興味もあった。あの子の持つシンクロニティーという感覚にね。学者の性ってやつですね」
 そう言って望月は頭を掻いて「お恥ずかしい」とこぼした。私は黙って聞いていた。
「でも今では実の子だと思っています。あの子のためなら私は何でも出来るでしょう。この歳まで所帯も持たず、教え子の娘の気持ちに答える事すらも出来ない、いい加減な私が『人の親でござい』なんて言う資格などありはしないですがね……
 あの子はご存じの通り、あの感覚のせいで普通の生活は出来ません。誰かが保護しなければ生きてはいけない。だから私はあの子を守る事が私の義務だと、そう自分に枷てきましたよ。あの子を出来るだけ世間に晒さないよう、それだけを考えて。
 普通ならひねくれて育つのでしょうけど、あの子はその感覚のせいで私の考えがわかります。あの子は頭のいい子です。きっと私の思考を理解してああも素直に育ってくれたのでしょう。優しい子ですよ、シンクロウは」
「でもそれは、望月さんや幸枝さんがそうだったからですよ。私はその影響も充分あると思います」
 私がそう言うと望月は少し照れたように笑った。
「そう言って貰えると救われますよ。でも外部から隔離したり、守るだけじゃダメなんですよね。私達は何時までもあの子を見守る事は出来ない。いずれあの子は自分の力だけで生きて行かなくてはならなくなる。この歳になるとその事が現実味を帯びてきます。あの子は普通の子よりもっと強く生きていかなければならないんですよね。私はその事実から無意識に目を逸らしていたのかもしれません」
 望月はそう言ってため息をついた。私はそんな望月を見ながら、亡くなった父を想った。父も今の望月のように、自分の将来を愁いて悩む事があったのだろうか? 自分の知る父はいつも忙しそうに犯罪と戦っていた。父である前に警察官だったという印象が強い人だったからだ。
「でもあの子は私が考えるよりずっと強かった。そりゃあまだまだあの子の『親』としてしなくてはならない事、手を引いてやらなければならない事も多い。でもそろそろ、あの子の考えを聞いて、それを尊重して考える時期なんでしょうね。あの子がこれから歩む未来のためにはそれが必要なんだと、今日感じました。
 胡桃田さん、あなたには感謝しています。あなたは私達にとても大事な事を教えてくれた。
 実を言うと、あの子が最近あんな嬉しそうな表情をするようになったのは、あなたと出会ってからです。きっとあなたはあの子にとって特別な人なんだと思います。あなたにはどうかあの子これからも良い関係でいて欲しい。あの子のことを頼みます」
 そう言って望月は私に向かって頭を下げた。私はもう慌てて返すしかなかった。
「い、いえ、そ、そ、そんな、頭を上げてください! わ、私はもう、ぜ、全然そんな彼に相応しい女じゃ…… いや、そ、そうじゃなくて、つ、つまりその…… け、刑事として、ですね……」
 ああ、もう頭がぐちゃぐちゃでパニックだ。何を言ってるのか自分でも訳がわからない。
 支離滅裂な言葉であたふたしている私を、望月は優しそうな目で見つめていた。

 望月診療所を出て駅に向かう私の隣で、ヘッドフォンを首に下げたシンクロウが並んで歩いていた。私が「大丈夫なの?」と聞くとシンクロウは「はい」と頷いた。
「駅に近くなったら着けますよ。それまでは茜さんの声を聞きます」
 そう言ってシンクロウはニッコリ微笑んだ。いやもう、そういうこと言うから私が変になっちゃうんだよ……
 それにしても嫌に嬉しそうだなぁ。
「でも茜さんの仕事です。真剣ですよ、僕」
「だからフリをしなさいって、全くもう……」
 私がそう言うとシンクロウは「は〜い、ごめんなさい」と言って首を竦めた。その仕草も可愛らしくて私は目を逸らした。絶対わざとやってると思うんだけどなぁ。
 私は恥ずかしさを誤魔化すために話題を振った。
「存在するための理由が欲しいなんて、シンクロウそんなこと考えて生きてきたんだ」
 するとシンクロウが少し拗ねたような顔で聞いた。。
「おかしいですか?」
 シンクロウのその顔が、まるで「ちがうもん!」と大人の言うことに反論する時の子供のように見えて、私は思わずクスッと笑ってしまった。
「おかしくはないわ。ただ、あたしと順番が逆なのね、考え方の」
 シンクロウは私の言葉を黙って聞いていた。思考を読んでいるだろうけど、私はかまわず私の考えを伝えた。
「私の場合まず『生きる』よ、生きることに精一杯。大抵の人はそうなんじゃないかな。どうしても理由が欲しいなら、その後色々こじつけて理由をくっつける。家族のためとか、恋人のためとか…… 生きる理由なんて考えればそれこそいくらでも作れるもの」
「そう言う…… ものですかね?」
 シンクロウは少し考えてそう言った。
「そんなもんよ。生きる理由がないとダメだ〜なんて考え方、私なら絶対息が詰まって窒息しちゃうわ」
 私がそう言って首のところに手を持っていって「うえっ」って舌を出したら、シンクロウがプッと吹きだし、それから「あははっ」と声を出して笑った。
「そこ笑うトコ?」
 私が笑っているシンクロウにそう文句を言うと、シンクロウはひとしきり笑った後、私にこうい言った。
「いやいや、茜さんに笑ったんじゃないですよ。自分に笑ったんです。僕、頭でっかちだったんだなって思って」
 私はそんなシンクロウを眺めた。シンクロウはとても爽やかな笑顔をしていた。
「とても茜さんらしい考え方ですね。アレコレ考えてた自分が馬鹿みたいに思えてきます」
「……なんか引っかかるわね、その言い方」
「でもその茜さんの考え、僕は大好きです。とても気に入りました。僕もそう考えることにします」
 う〜ん、大好きですって言われるともうドキドキなんだけど、余計なの取って言って欲しいなぁ…… 
 あ! イカンイカン、こんな事考えてちゃバレバレだ!! えっと事件事件……
 頭の中で必死に事件のことを考える私の隣を歩くシンクロウの顔を、私は恥ずかしくて確認できなかった。
  


2011/01/25(Tue)15:06:04 公開 / 鋏屋
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■作者からのメッセージ
初めて読んでくださった方、ありがとうございます。
いつも読んでくださる方、感謝いたします。ブラッドイニングその7を更新いたしました。
いやいやシンクロウと茜の話はページ数がかさみます。これでようやくシンクロウが捜査に本格的に加わるんですが……正直やっとカヨって感じです(オイ!)
次回はシンクロウが初めて『学校』と言う場所に行き、初めて自分の意志で他人の思考に同調します。ようやく5年前に何が起こったのかわかるかと……いやどうかな?(マテコラ)
それではまた次回もおつき合い下されば嬉しく思います。
鋏屋でした。

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