『水仙の君へ(微修正)』 ... ジャンル:リアル・現代 恋愛小説
作者:ピンク色伯爵                

     あらすじ・作品紹介
べたな恋愛。ひたすら女の子といちゃつく展開。

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水仙の君へ


プロローグ


 曰く『水仙ちゃん』はネットゴーストだという。
 曰く『水仙ちゃん』は(多分)女である。
 曰く『水仙ちゃん』は腐っている。ボーイズラブが大好きである。
 曰く『水仙ちゃん』はこの琴ノ海高校の生徒らしい。
 ちょっと待ってくれと言いたかった。幽霊のくせにその『水仙ちゃん』とやらは琴ノ海の生徒だと言うのか。なんだかいきなり決定的な矛盾点を発見してしまった感じだ。
 曰く『水仙ちゃん』は夕方オレンジ色の光に包まれた廊下に出現する。
 曰く『水仙ちゃん』はロリ系美少女である。
 曰く『水仙ちゃん』現在恋をしている。
 何だかありがちな話である。夕暮れの学校に現れる美少女。しかもその娘は誰かに恋をしているとかベタベタな設定である。この話を作ったのは絶対に男だろうとか思った。それも二次元に恋して「萌えー」とか叫んでいる人種に違いない。
 やった事はなかったが噂に聞くエロゲーじゃないか、というのが水島ノリユキの感想だった。もちろんだが信じる要素はゼロである。というかそんな女の子といちゃラブするとかどこの恋愛小説だよという話だった。
 信じてなかった。
 だというのに、ノリユキの目の前にはその当の本人らしき女生徒がこちらにお尻を突き出して(青と白の縞パン)、顔を少しだけこちらに向けて(ロリータ万歳)、夕日と同じ色に頬を染めていた。
 そして距離にして二十メートル離れた美術室前に足を肩幅に開いて腰をやや後ろに引いて、両手を体の横から二十度くらい広げた位置に固定した黒髪で細身の男生徒、つまりノリユキは立っていた。
 すごい。女の子のパンツをここまでマジマジと観察したことはなかったが、すごい。というかこんなモロ見えだとどきりとするどころか妙な生々しさしか残らず逆に気分が悪くなる。
 オレンジ色の夕日が憎い。あれのせいできっちりと顔が見えない。
 いやぼんやりとは分かる。
 あの顔は確かにどこかで見たことがあった。
 というかさっきまで見ていた。
 さっきまで美術の課題で彫っていた。
 今も振り返ればすぐに見られる美術室の扉。その向こうにある自分の作った蝋(ルビ:ろう)人形。
 少女の顔のイメージは妙にそれと合致していた。
 声が出ない。
 自分が夢中で彫っていた蝋の胸像。ただ頭の中にあったものを引き出しただけのものだったはずだ。だからこそ信じられなかった。虚構の世界からあらゆるものを越えて現実世界に現れたとしか思えない美少女。自分の頭の中だけの美少女。みんなには秘密にしていた、秘密。
 ロリコンという心理をもった自分が脳内から蝋細工を通して現実に引き出そうとしていたイメージがそこにあった。
 ふと思う。
 今少女にそこを動かないように頼んで、美術室に戻る。それからあの蝋人形のスッと通った鼻筋をトンカチでかち割ってやれば、同じようにあの少女の鼻も醜く歪んでしまうのではないか――そんな破壊衝動に似たものが沸き起こる。
 ……彼女はいったい何者なのか。
 ただそんな疑問が沸き起こって、動かないはずの自分の口を必死で開いた。まごついた音を出したあと、ノリユキは言葉を発した。
「き、君は――――誰なんだ?」
 静寂に包まれた廊下にこだまする自分の声。
 少女はゆっくりと口を開いた。


第一章


「水島ノリユキにこの聖なる剣を与えよう。さあ選ばれし勇者よ、とく試練を乗り越えて帰ってくるがよい」
 芝居がかった台詞が水泳部の部室に響き渡った。水泳部の面々は着替え終わってスポーツバッグを手にしてノリユキを見ている。彼らに囲まれるようにして、ノリユキは前水泳部部長田中マサトから一万円札二枚と二千円札一枚とを突きつけられていた。
「えーっと。あの、先輩? とりあえず鍋の材料買ってくればいいんですよね」
 ノリユキは頬をポリポリとかきながら目の前で『聖なる剣』を掲げている色黒の巨漢に訊き返した。巨漢――マサトが口をへの字に曲げる。
「なんだ、ノリが悪いな! お前の名前はノリユキだろ、水島。ノリユキだけにノリ良く行こうぜ。フククッ。ほらもっかいだ。水島ノリユキに――」
「いや、いいです。分かりました。謹んで拝命いたします。吉報をお待ち下さい」
 ノリユキは二万二千円を受け取りながら苦笑を漏らした。他の水泳部の面々もくつくつと笑い声を漏らしている。
「よし、忘れちゃいけないのがメインのカキだかんな。ネギは買い忘れてもカキは忘れるなよ、部長サン。でもネギ忘れたら筋トレセットかける二十だから覚悟しとけ」
 丸太のように太い腕でマサトがノリユキの背中をバンと叩いてくる。なんだか二十という数字が妙に現実的すぎて嫌だった。
「俺も行きますし、買い忘れはないと思いますよ」
 そう言って割りこんできたのは副部長の平ユウカだった。ユウカは名前も女っぽければ顔も女のように綺麗な美男子で、水泳部のホープである。ノリユキも水泳には自信があったが、ユウカにタイムで勝てるのは平泳ぎだけだった。そんなイケメン副部長も今日の三年生お別れ会の買い出しに付き合ってくれることになっていたのである。
 ユウカがノリユキにウインクして見せる。普通なら「なにこいつキモい」となりそうなところを全く違和感なく、それどころか微かな色気さえ出しながらやってみせるところはさすがたらしというか、もとい美男である。
 トム・クルーズ顔負けのウインクに、更衣室の扉周辺に立っている女子水泳部の人たちから黄色い声が上がる。リアルに嫉妬してしまいそうだったが、そこは顔色一つ変えないのが男の美徳である。ノリユキは部費二万二千円を財布に押し込み、ユウカと二人で人込みをかき分けて外へと出た。途中ユウカがさりげなく女子連中からボディタッチされていたがそこのところ淑女としての品格を保って欲しいところだ、女子水泳部。
「よっしゃ、今夜記念棟(ルビ:きねんとう)の一階アリーナは俺ら水泳部の貸し切りだ! みんな移動ー!」
 そんなマサトのどら声を背に聞きながらユウカとノリユキは寒空の下に出た。
 二人の息が白くなる。人の体温で生ぬるかった更衣室の外は、刺すような冷気が立ちこめている。もう十一月なのだ。このくらい寒くても当り前である。確か三日前に木枯らし一号が来たからこの東田市も西高東低の気圧配置に覆われて北から冷気が流れ込んできているのだろう。薄い学校指定のウインドブレーカーはほとんど役目を果たしていなかったが、かわりにブレザーが少し厚めなので、貧弱なウインドブレーカー分の仕事をそれが遂行してくれていた。日が沈んで空は朱色の少し混じった紺色をしていた。その中に微妙に光る星がぽつぽつと見える。
 隣でウインドブレーカーのチャックを上げる音がした。横を見るとユウカがウインドブレーカーのファスナーをあご辺りまで上げていた。
「急ぐぞ。とっとと買い出し済ませちまおうぜ」
 ノリユキは頷いた。学校の完全下校時刻は九時である。いつもは七時だが、今日は特別に九時になっているのである。
 今は六時過ぎである。最低でも七時前にはパーティーを始めたいところだった。              
「走る?」
「いいな」
 二つ返事で頷いてくる。二人は寒空の下、駆け出した。
「そう言えばさあ」
 前を走るユウカが言葉を発する。こういう調子で彼が話を切り出してくるときは大抵色恋沙汰である。ユウカは続ける。
「もうすぐクリスマスだな。どう? どんな感じ?」
 予想通りだ。
「お前が言うとものすごく嫌みに感じるよ。僕がモテないの、知ってるだろ」
「お前顔はいいけどロリコンだもんな。多分そういう危ないオーラが出ているから女子も近寄って来ないんだろうぜ」
 ユウカはそう言ってくつくつと笑った。
 平ユウカはノリユキの趣味を本当に知っている数少ない友人の一人である。というかロリコン言うな。いや確かに自分はロリコンだけど面と向かって言われると腹立つ。
 日本人の九割はロリコンの因子を持っているのだ。したがってむしろロリコンは正義である。多数派である。海外にだってたくさんの同志がいる。ロリコンロリコンと蔑まれているけれども、ロリータは美しい美術品みたいに崇高で純粋なものなのである。
 そんな葛藤を真面目にやっているノリユキの様子には気付かずにユウカは続ける。
「俺さ、今まで普通の女に満足してきたと思う」
「うん、死ね」と思わず返しかけたが、ここは男の美徳と言うやつで乗り切った。
「で、このクリスマスは一味違った奴と過ごしたい」
「ふーん」
 興味がなかったので適当に流す。ユウカはそんなそっけないノリユキの語調に気付いているのか、いないのか、続ける。
「俺、スイセンちゃんを落とす」
「は?」
 前を走っている男は今なんて言ったのだろうかと首をかしげる。スイセンって、推薦、水洗、垂線のうちどれだろうか。文脈上どの言葉も入りそうになくて、むしろ入るのは人の名前じゃないかと思ったところでスイセンなるものに当てはめるべき漢字が思い浮かんだ。
「スイセンって、あの水仙ちゃん?」
「そう、それ。――俺見ちゃったんだよねー」
 ユウカが夢見るような口調になる。
「俺が美術室から出てきたときに、こう、オレンジ色の光の中に自分の影を落として、孤影がたたずんでいたんだ。背丈は一五〇センチくらいで、胸はわずかに膨らんでいて、まだ幼さの残る細い足に」
「――お前もロリコンじゃないか」
「俺はかわいければ全てを受け入れる」
 もとい、ただの節操無しだった。
「なるほど。それで僕にどうしろって言うんだ? お前はただ単にその子のことを僕に話したかったわけじゃないだろ。言っとくけど人から聞いた話で興奮するほどの重度のロリコンでもないぞ、僕は」
 話し始めた目的。こいつが普通の奴なら、このまま『オチ』なしに終わるのだが相手がユウカだからそうはならないだろう。
 嬉しいことと言うのは秘密にしておきたいと思う一方で誰かと共有したいと思うものだが、この合理的なユウカにはそんなことはありえない。彼は何かしらの『オチ』があって話し始めているのだ。
「探すの手伝ってくれ。いや、見かけたら俺に報告してくれるだけでいい。多分一年だ。背丈は一五〇弱。細身。まっすぐな黒髪。肩くらいまで。プラス美少女」
「あーはいはい、見かけたらね」
 ノリユキは返した。
「いやっほーっ! 春が始まったぜ、ノリユキ!」
「もう冬だよ。そんなかわいい娘絶対彼氏いるって」
「なら奪い取るまで」
 がちょ、と右手を前に突きだすユウカ。
 つくづくユウカの倫理観が分からない。しかし元気なのは良いことだ。来年受験だということもあって何かと気分が沈みがちなこの時期にあってその能天気さがうらやましい。
 もっとも、ユウカの成績はノリユキに負けず劣らず優秀である。いやむしろノリユキの方が負けている節もある。水泳と同じだ。つまりユウカは何でもできる天才型で、ノリユキは何をやっても二流で終わってしまう半端者なのである。
 とにかくユウカは志望校どうしようとかそういう世知辛いことは考えなくても天衣無縫にそのまま突き進んで行けるだけのハイスペック人間だったりする。持って生まれた星というか、凡人に生まれてしまった自分がちょっと憎かった。そんなわけだから色恋沙汰にうつつを抜かしていられるのかもしれなかった。
「で、お前は青春しないわけ?」
 話をあくまで蒸し返すユウカ。
「青春ねえ。――まあできたらいいけど、色々と他に悩むこともあるしな」
「恋愛は人間の最大の関心事だぜ」
「うーん」
「じゃあ俺と勝負しないか?」
 といきなりユウカはそう切り出した。
「勝負?」
「ああ、どちらが先に彼女作るかだよ。それで、勝った方が負けた方の言うこと何でも聞くってので」
「そんなの絶対お前が勝つだろ」
「いや、相手が心底うらやましがるような奴とくっついて、かつ見ていて嫉妬するくらいラブラブになるって条件付きだ。どうだ?」
「ふむん」
「どうよー?」
 きらきらと目を輝かせてくるお祭り男ユウカ。
 青春は、できるならしたい。お金と同じであるに越したことはない。
 なら、この賭けに乗っても別に悪いようには思えない。これは賭けと言うよりも、お互い青春しようぜ、頑張ろうぜという意味合いが強いものだ。一日言うことを聞くと言うのはおまけで、真の狙いは二人ともがハッピーになることである。
「いいな。まあ僕はぼちぼちやるけど、それでいいなら乗る」
「いや、がっついても中身が伴わなくちゃ駄目なんだぜ?」
「分かってる。つまりお互いリア充になりましょうってことだろ」
「さすが親友。分かってるじゃないか」
 ユウカが愉快気に笑う。ノリユキは満天の星空を見上げた。
 青春はしたい。高校生活の中で許される範囲ならリア充になりたい。そう思っているのは確かである。それに冷めた自分もアツアツになるような恋愛は存在するのか試してみたいという気持ちも無きにしもあらずである。
 そこまで考えて唐突に理想の彼女像が思い浮かんだ。雷光のように閃いたのである。
 そう、ロリータとか彼女にできたらいいなと漠然と思ってしまったのだった。

         ×           ×

 カキ鍋パーティーは九時まで続いた。ノリユキ個人としてはもう少しはっちゃけたいところだったが、顧問の竹下が巌を砕くような声で「いい加減にせぇ!」と一喝したものだから解散するより他なかった。
 一気に冷水を浴びせられたようにして現実に引き戻された部員たちは喧々囂々(ルビ:けんけんごうごう)としながらも、ポツリポツリと後片付けを始めた。
 部長としての責任というやつで最後まで残って後片付けしていたせいで、気が付けば九時をとっくに回って十時過ぎになっていた。
 ノリユキはユウカと別れて寮への帰路に立った。ユウカは実家から直接通っているが、ノリユキは寮生だからである。田舎からちょっとした都会に出てきたノリユキは、電車通学などできないほどに実家と離れていた。そもそも都道府県が違うのだ。新幹線を使ったとしても通うのは不可能なのだ。
 しばらく出会っていない父と母。二人はありったけの期待を込めて田舎からノリユキを送り出した。いっぱい勉強して、えろうなってかえってきいや、と二人が言っていたのを思い出す。大げさかもしれないけれども、秘密で飲んだアルコールが回ってきているのかもしれないのだから、こんな感傷も少しくらいはありと言えばありなのかもしれなかった。
 思えば、小学、中学と自分は両親に抑圧されて生きてきた。その抑圧された自由意思が自分の中に眠るおかしな属性を呼び起こしたのかもしれなかった。
 すなわちロリコンという心理をだ。
 いや、真面目にそう考えることがしばしばある、という話である。

          ×          ×

「ロリータ、わが生命のともしび、わが肉のほむら。わが罪、わが魂。ロ、リー、タ。舌のさきが口蓋を三歩進んで、三歩目に軽く歯にあたる。ロ。リー。タ」
 寮の部屋に帰って、シャワーを浴びて部屋に戻ると、ルームメイトの水泳部前部長――田中マサトが何やら気味の悪い歌を歌いながら腕立て伏せをしていた。
「ちょ、先輩! 筋トレするときは窓開けて下さいって言ったじゃないですか!」
 ノリユキはタオルを首に引っかけてミネラルウォーターの飲み口に口をつけながら、窓へと歩み寄った。窓を開け放つ。冷たい木枯らしが吹きこんできて、汗臭い室内の空気をさらっていってくれる。冬の香りのする風を顔に浴びる。ノリユキはジト目になって尋ねた。
「というか、何ですか、その気味の悪い歌」
「あれ? 水島お前知らないの? ナボコフの『ロリータ』の冒頭だよ。ロ。リー。タ。ってのがいいよな、筋トレがテンポよく進む。お前もどうだ?」
「遠慮します」
 ノリユキがそう言うと、マサトはわはははは、と笑った。
 マジでこの人の頭の中がどうなっているのか探求したかったけれども、考えるだけ無駄だと思いなおす。この田中マサトという人もユウカと同じ天才型なのだ。ただ、こっちはむさくるしいし、筋トレ馬鹿と言う多大な欠点を抱えていた。ちなみにロリコンは欠点ではないとノリユキは思っている。
 とりあえずそんなマサトは無視して、今日で名実ともにお別れする先輩方にメールを送ろうと制服のズボンをまさぐる。
と、あるはずの四角い金属が手に触れなかった。
「しまった。携帯記念棟に忘れてきた」
 ノリユキは茫然と呟いた。しかも携帯と一緒に入っていたはずの財布まで無くなっている。
「ロ、リー、タ、おう、男なら取りに行けー!」
 腕立て伏せをしながらマサトが口をはさんでくる。
「まだ開いているでしょうか?」
「ロ。リー。タ。開いていないだろうなー。……ほれ、これ使え」
 腕立て伏せを片手でしながらマサトはポケットから銀色に光る鍵を投げてよこした。
「何ですか、これ」
「マスターキーのコピー。合鍵だ。代々水泳部の部長には受け継がれているんだよ。早く取りに行け。俺ら三年にお疲れ様メール送るんだろ」
 変な人には変わりないが決めるときはマジでかっこいい――それがマサトが水泳部の部長に選ばれた理由だった。ノリユキはマサトに気持ち悪いとか思ってごめんなさいと心の中で詫びた。
 ノリユキはペンライトと体育用の運動シューズを引っつかむと寮の窓から外へ飛び出した(ノリユキの部屋は幸いにも一階だった!)。窓から微かに聞こえてくるマサトのロリータの音頭に見送られながら、ノリユキは闇の中へと飛び出した。
 冷静に考えれば別に今夜取りに行かなくてもよかったかもしれない。でも、先輩達にメールを送らないというのは筋が通っていないような気がして、つまるところ、きちんと部長としての責務というか、義務というか、とにかくそういった類のものはきちんとこなしておきたかった。
 誠実にやるべきことはやる。
 それがノリユキが部長に選ばれた理由だった。
 校舎の内部は別だが、記念棟の内部はセコムが働いていない。記念棟というのは、偉そうな名前だが、その実大きな体育館だ。それも二階建ての。今は最新設備を備えた新しい体育館が使われていて、こうした部活のお別れ会とか、そういう学生だけのパーティーにしか使われていない建物である。
 水泳部は一階を貸し切ってパーティーを行っていた。パーティーの余興で男子部員たちでバク転やら側転やら倒立前転などをやっていたから多分その時にポケットからこぼれ落ちたのかもしれない。誰かが気付いてくれてもよさそうだったのだが、皆ちびちび酒を舐めていたからそうもいかなかったのだろう。というか片づけの時に最後まで残っていたくせに気が付かなかった自分が情けない。
 とにかく、財布と携帯は記念棟の一階に忘れて来たに違いなかった。ノリユキは闇にまぎれて記念棟の扉に近寄った。闇とは言ったものの、目が慣れてくれば意外と明るい夜だった。空を見上げると半分より少し膨らんだ月がほんのりと地上を照らしてくれていた。ペンライトで足りるだろうかと心配だったが、これなら何とか行けそうである。
 受け継いだマスターキーを記念棟の扉の鍵穴に差し込む。ガラスの扉の上下の鍵を開けて、ノリユキはするりと中へ侵入した。
 記念棟の中は側面の窓から差し込んでくる。
 それが青やら赤やらのテープで色々な印しがつけられた体育館の床を照らしていた。
 きょろきょろと辺りを見回す。
 ペンライトを取り出そうとポケットをまさぐった時、ふとアリーナの隅に何やら黒くて小さい物体が二つ並んで転がっていることに気が付いた。
「よっし。見つけた」
 ノリユキは小さくガッツポーズを決めると、駆け寄った。近づいて、ペンライトで照らしてみると確かにそれはノリユキの携帯と財布だった。
 何だか拍子抜けした感じだった。寮の窓をまたいだ時は見つかるだろうかと不安だったが、いざこうしてみると簡単に探し当ててしまった。でも早くに見つかったのは良いことだ。これで先輩達にメールを送れるようになったのである。
 ノリユキは安堵の息を吐くと踵を返した。
 ……と、その時、ふと闇の中ら誰かがすすり泣くような気配が伝わって来た。記念棟の中は静寂で静まり返っていたが、 それでもその音は微かにしか聞こえてこない。空耳、と切り捨ててもよいようなものだった。
 ノリユキはごくりと唾を飲み込んだ。
 いや、普通に聞こえてくる! 
 これはもう空耳とは言えなかった。すすり泣きは断続的に続いていた。
 泥棒? でも何を盗みに? あり得ない。ここに盗みに入るメリットがない。
 じゃあ誰だろう? 鍵は確かに閉まっていた。教師や警備員ではないだろう。
 もしかして……幽霊、だろうか?
「まさか!」
 ノリユキは首を振った。とりあえず一階アリーナを出て、向かってすぐ右にある階段に足をかける。すすり泣きは大きくなっていく。確実に誰かがいて、暗闇の中で泣いている。
 ノリユキは階段を一段飛ばしで駆け上がった。
 自分がどうして誘蛾灯に誘われる虫の如く聞こえてくる声に誘われているのかは分からなかった。怖いもの見たさだけだったのかもしれないし、泣いている誰かを助けないといけないという理由の無い義務感だったのかもしれない。
 ふともっと単純な理由に思い至った。簡単な、本当に簡単な理由。
 そう、すすり泣きは、間違いなく幼い少女のものに違いなかったからだ。

           ×             ×

 簡潔に言うと、幼女の泣き声につられて二階へ上った。
 で、上って、すぐ横の女子トイレからすすり泣きは聞こえてくるという事実に気が付いて本当に後悔した。すすり泣きは幽霊のもの説が頭の中でどんどん有力になっていく。トイレに現れるお化けと言えばトイレの花子さんが代表的だろうか。ノリユキにはそれくらいしか思い浮かばなかった。
 泣いているのはトイレの花子さんなのだろうか。すすり泣きは入ってすぐそこの個室から響いて来ている。何番目のトイレに花子さんが入っているのかは忘れてしまったが、確か一番端っこではなかったと思う。そもそもこの世に幽霊なんて非科学的な現象は存在しないのである。だと言うのに自分は何を恐れているのだろうか。
 でも、怖いものは怖い。一方で、おかしな仮定になるが、中にいるのが人間ならば何か困ったことになって助けを待っているのかもしれないのだ。
「あのー。どうしたんですかー?」
 意を決して、恐る恐る尋ねる。泣き声が一瞬にして止み、ひっ、と息をのみ込むような音が聞こえてきた。ノリユキの声が非常に不気味な調子だっただろうか。低い声かつ一本調子で言葉を紡いだから、むしろこちらの方がお化けらしい空気を醸し出してしまったのかもしれない。
 中にいる花子さん(仮名)は何だか妙におびえているようだった。
「えーと、開かなくなったんですか?」
 とりあえず続ける。すると中から急きこんだ声が聞こえてきた。
「そ、そうです! あ、あの、――お化け、じゃないですよね!」
 妙にノリユキと波長の合う思考回路を持っていらしゃるようだった。ノリユキは安堵のため息をついた。
「違う違う。僕は人間。――僕から見て左だから、えっと右に寄ってくれる? 力任せに押しあけるから」
 中から頷くような雰囲気が伝わって来て、物音が左に寄る。
「よし、せーのっ!」
 ドアに体当たりする。すると、トイレのドアは軋みをあげた。もう一度扉に負荷をかけると、扉はあっけなく開いた。中から小柄な人影が出てくる。
 暗いので顔は確認できなかった。
 女の子はぺこりとノリユキに頭を下げた。
「ありがとうございました!」
「あ、いえいえ」
 沈黙。ノリユキは目を細めて少女を観察しようとしたが、少女はもう一度ぺこりと頭を下げるとタタタタタと階段を下りて行ってしまった。
 本当に止める間もなかった。
「なに、あれ」
 そう呟いてから頭の中を整理する。二秒後くらいに自分は非常に人道的なことをしたのだという結論に至った。本日二回目の拍子抜けである。なんだか色々と身構えていた自分があほらしくなってきた。
 ふと足元を見ると、弱い月光を反射して白く光る何か特徴的な形のものが落ちていた。眼鏡だった。それも俗に言う瓶底である。
「あの娘が落としたのかな」
 そう呟いた瞬間、下から硝子戸を押しあける音が聞こえた。どうやら先程の女の子が外に出たらしかった。眼鏡なしに暗闇の中を帰るつもりなのだろうか。追いかけようかとも思ったが、こう暗い中探すよりも明日職員室に届け出る方がいいだろうと判断する。
 ノリユキは仕方なしにその眼鏡を拾うとポケットに入れた。せっかく助けたのだから眼鏡分くらいは付き合ってもいいだろうと思ったのである。
 ていうか、ちょっと待って。
 さっきの娘、誰?
 めっちゃかわいかった気がするんですけど!
 自分は何を考えているんだ。ここまで来たのは何のためだったのか。ただ人助けをするためだけだったというのだろうか。いや、そんなことはありえない。あり得ないほどにノンである。つまり幼女を助けてそれをきっかけに仲良くなろうとしていたのではないのだろうか。幼女、ロリータである。そのすすり泣きに誘われてやって来たというのに、自分は何をやっているのか。名前も、顔も満足に確認できずにそのまま彼女を返してしまった。失敗だ。失態だ!
「ロ。リー。タ。……か」
 ノリユキはそう呟いて唇に手を当てた。
 呟いてから、自分がとてつもなく気持ちの悪いことをほざいているのではないかと一気に熱が冷めた。
 いけない。自分は何を考えていると言うのか。暗闇。そう、暗闇のせいだ! 暗闇が自分を大胆にさせているのだ。
 うん。とりあえず、今夜の収穫。
 ロリータを見つけた。それもうまくいけば合法ロリータとなりうる逸材をである。

             ×            ×

 寮へ帰ると、妙にあわただしくなっていた。
 部屋に入ろうと取っ手に手をかけたところで隣の部屋の扉が開いて、マサトが顔を出した。マサトはノリユキの顔を見るなり、手招きをしてこっちへ来いと低い声で繰り返した。
「何かあったんですか?」
 ノリユキが訝しげに尋ねると、マサトはついにノリユキの手を引いて隣の部屋へ連れ込んだ。隣の部屋――久保田と片平の部屋に連れ込まれたノリユキは目を見開いた。なんか男どもがベッド回りにたむろしていたのだ。まるで人間ピラミッドでも作るかのようなむさくるしい構図である。
「なんすか、これ?」
 げんなりとしながら尋ねると、マサトがようやく訳を話してくれた。
「水仙ちゃんとのチャットさ」
「――――――――――は?」
 意味が分からなかった。スイセンって、あの水仙ちゃんだろうか。あのネットゴーストで腐女子で、しかも訳の分からんことにこの学校の生徒でもあるという、あの水仙ちゃんのことだろうか。
「そう、その水仙ちゃんだ!」
 如何にしてノリユキの真意を汲み取ったのかは謎だったが、とにかくマサトは行間をすっ飛ばして、俳優のように両手を広げてそう叫んだ。
「しっ。先輩、静かにして下さいよ」
 ベッドから久保田が低い声を飛ばしてくる。マサトはにやにやしながら「すまんすまん」と謝った。ノリユキは人だかりの上に首を伸ばして様子をうかがった。ベッドの上にノート型のパソコンが置いてある。
 このパソコンはCPC――コンピュータ・プログラミング・クラブの所有物で、部員である久保田と片平が無断で持ち出したものである。それをうまいことしてグローバル接続もできるようにしたらしく、久保田と片平は色々下世話な方面でこれを有効活用しているらしかった。ちなみにそのおこぼれをあやかりたくて夜な夜なこの部屋に集まる男子達もいた。夜中に何が行われていたかは容易に想像がつくが、ノリユキは敢えて考えないようにしていた。隣の部屋からときたま「むほぉぉぉぉ、久保田汁でちゃうのぉぉぉぉ!」とか卑猥な声が聞こえてきたような気もするが、全面的に無視することを決め込んでいた。学生の本分は勉学である。
 今は、久保田と片平のノートパソコンにはチャット部屋が展開されていた。真っ黒な背景に人の顔のアイコンが左端にあって、そこから噴き出しマークが出ている。ノリユキは目を細めて会話文の内容を読み取ろうとした。

水仙
 この前友達に『攻め』の反対は? って訊かれて、思わず『受け』って答えてました。やっちゃったー。てへ。

「どんな会話だよ」
 ぼそりとノリユキが呟く。瞬間人間ピラミッドを形成している男どもが一斉にノリユキに振りかって睨んでくる。ノリユキは口をすぼめた。水仙ちゃんの会話は続く。

水仙
 私最近BLの時代が来たと思うわけ。ほらあれじゃない? 深夜とかにもたまにやってんじゃん? サンテレビ。最近まではキモオタ向けの萌えアニばっかだったけど、ようやく私らの時代が来たって感じ? ていうか土方さん萌えー。

クボぴゅー
 分かる分かるー。あたしもそう思う。

「クボぴゅーって誰だよ」
「俺だよ、俺、俺」
 久保田がせき込んで答える。何だか最近はやっている詐欺みたいな文句である。
「お前一人称『あたし』なのか?」
「ばっか! ネカマなんだよ! ネットの中だけでも女の子になりたいって思うだろうが! きゃぴきゃぴしたいんだよ! つまるところ女の子としてふるまうことによって、女の子になったような一体感が得られてだなあ」
「いや、ネカマは知ってるけどさ」
 まさかお前がその人種だったとは思わなかったぞ久保田。

水仙
 僕「うー寒いな」モゾモゾ。サワッ。
 医者「こら、どこ触ってんだ。……おはよ。寒いなら暖房入れてきてやるよ」
 僕 ギュ(←手の小指を握った)「行くな。寒い」
 医者「暖房入れないと寒いぞ」
 僕「ん……。じゃあおはようのキスしてから」
 これ私が書いてる小説の出だし。ヤバい。自分の小説読んで萌えた。
 どこかにこんなお医者様いないかなー。もち男ね。
 あー、男の子ほしいよー。

「腐ってるな」
 むさくるしさが一段と強まったかと思うとノリユキの横にマサトがやって来ていた。
「ですね」
 ノリユキが相づちを打つ。
「ちょっと俺、このチャットにインしまーす」
 いきなり声をあげたのは片平だった。片平が二段ベッドの上に消えて行き、すぐに別のノートパソコンを持って現れた。
「お前らいつこの『水仙ちゃん』と知り合ったんだよ。こんなチャットしているなんて初耳だぞ」
 ノリユキがそう言うと、他の面々も口々に「そうだよなー」「びっくりした、マジで」とか言っている。どうやら皆も『水仙ちゃん』と久保田、片平がチャットしていたことは今日知ったらしかった。
「いや、なんか恥ずかしくてさ。あと噂の『水仙ちゃん』とチャットしているのは俺らだけなんだっていう、なんつーか、そういう気持ちもあったわけ。すまんな皆の衆」
「片平、いっきまーす!」
 久保田の言葉を半ば遮りながら片平が一声叫ぶ。皆から歓声が上がる。
 チャットに新たにヒラカタとかいうアイコンが表示された。名前のところにヒラカタとある。
「ヒラカタって片平を逆にしただけじゃないか。なんか遊園地の名前みたいだな」
 とは言わなかった。言った瞬間に睨まれるに決まっているからだ。

ヒラカタ
 俺がいるぜ、水仙ちゃん!

水仙
 え?wwww ギャグで言ってんの?wwww 受けるーwwwww

クボぴゅー
 ヒラカタ撃沈wwww

ヒラカタ
 Orz まじかよ。リア充目指してたのによぉー。いいじゃん、いいじゃん。どうせ彼氏いないんだろぉ。付き合ってよー。

「なんかスゲーウザい奴だな」
 マサトが珍しく常識的なことを言っている。
「ていうか、片平、お前さ、付き合うことになってブサメンだったらどうする気だったのよ?」
 と久保田が笑いをこらえながら訊く。
「いや、俺らが選べる立場じゃねえだろ」
 哀しくも片平はそう返す。

クボぴゅー
 ヒラカタ、ウザす。

ヒラカタ
 ぐは。

水仙
 そんなに彼女欲しいわけ? いいじゃん一人でも。

ヒラカタ
 女の子と付き合うのは男のロマンですたい!

クボぴゅー
 死ねwww

ヒラカタ
 ぐは。

水仙
 んーと。じゃあ、私を見つけてくれたら付き合ってあげる。

クボぴゅー
 は?

ヒラカタ
 へ?

 寮の部屋がしーんとなった。
 そのまま時は流れる。誰もがにやついた顔をそのままかちんこちんに凍らせていた。

水仙
 冗談じゃないよ。私をリアルで水仙だって見破ってくれた人と、付き合う。

「おおおおおお!!!」
「う、う、うおおおお!」
「きたー!!!!」
「わっひょう! なんじゃこれ! マジ? まじなのかあああ!」
「探せ! 水仙ちゃんを探すんだー! ワン○ース!!」
「なんでワ○ピースが出てくんだよ」
 しかし信じられなかった。というかこの『水仙ちゃん』なる女子は少々投げやりなのではないのだろうか。こんな自分の体を投げ捨てるような真似をするなんてどんな心理状態だと言うのだろうか。
 ともかく、『水仙ちゃん』の問題発言により久保田と片平の部屋は騒然となっていた。これではまずい、寮館が様子を見にくるかもしれないというマサトの冷静な意見に皆は一瞬固まって、それからいそいそと自室に帰り始めた。久保田と片平は『水仙ちゃん』に別れを告げてノートパソコンを閉じていた。
 ノリユキとマサトも自室に戻ることにした。もう就寝時間はとっくの昔にすぎているのである。寮監はお役所仕事しかしないが、一方で規則違反者を見つけると、能率悪く罰則を科す。つまり、罰則の時間が理解できないほどまで伸びる。時は金なりだ。ねちねち続く罰則こそが、『罰則』と言うことなのである。
 したがって捕まるのは非常に嬉しくない。速やかに自室に戻って就寝するのが吉である。
 それにしてもあれだ。良く分からんが、なんだか面倒なことになってきた気がする。ノリユキの第六感がそうぼやいていた。

           ×            ×

 次の日は快晴だった。昼休みになって、パンを購入したノリユキはどこで食べようかと逡巡していた。どこで食べても味は変わらないのだろうが、これだけ晴れた日には教室でうだうだとだべりながらのランチなど無粋な気がしてならなかったのだ。冷たい木枯らしも昨日の夜までで止んだ。今日は日の光が地上を温めればそのまま素直に気温が上がっていく、温かい日だった。
 今日を逃せばもうしばらくは外で昼食を取るなどという優雅なことはできなくなるだろう。
 キーワードはマスターキー。そして鍵の掛けられた屋上。
 この二つが脳裏に浮かんだ瞬間、今日のお昼ご飯を食べる場所は確定した。屋上へ上り、こっそり鍵を開けて、開放的な気分で優雅な昼飯タイムといこうではないか。
 ノリユキは周りを見回し、誰もこちらに気を配っていないことを確認すると、屋上への階段を駆け上がった。閉ざされた屋上。開放的な空へと通じる扉に鍵を差し込む。
 しかし、意に反して鍵穴は、ガチャリとは言わなかった。まるで抵抗もなくひねられた鍵に、ノリユキは首をかしげた。そっと取っ手に手をやって、押す。するとキィとわずかに金属がすれる音を立てて屋上の扉が開いた。
 屋上には、先客がいた。
 ポニーテイルに結わえられた長い髪が風に揺れる。すらりとした健康的な白さをした足がスカートから出ている。紺のブレザーに赤っぽいスカートというわが校の制服がその後ろ姿にはよく似合っていた。
 健康美人という四文字が似合いそうな女生徒が、屋上の端に立ってそこから街を望んでいた。
「え……?」
 女生徒がこちらに振り向く。長い髪がさらりと揺れた。さわやかな風がこちらにも香って来そうな仕草である。
 振り向いた女生徒は見知った女性だ。
 大野キミカ。
 色白、それも健康的な色白である。青白さではなく、はつらつとした白さの肌が目立つ娘だ。目は大きくて鼻はスッと通っていて、唇はきりっと引き締まっている。優しげな眉毛のラインが彼女のチャームポイントだった。
「びっくりしたぁ。水島じゃん」
 彼女はため息をついた。
 大野キミカとは一年以来の付き合いである。一年の時にはノリユキとユウカ、それにこのキミカの三人でよくつるんでいたものだった。二年になってからはユウカが別のクラスに行ってしまったためか、あまりつるむことは無くなっていた。
 大野キミカは彼氏持ちだ。
 いわゆるリア充である。
 だから、ノリユキもユウカもその辺りは一線を画して付き合えていたのかもしれない。彼氏持ちの女性だから気兼ねなく話ができていたのである。特にユウカはそうである。彼は超の付く女たらしなのだ。
 それはそうと、何故――、
「なんで大野がここにいるんだ?」
 ノリユキは驚いたふうに尋ねた。キミカは「ん?」と首をかしげたあと、ポケットから銀色に光る鍵を取り出して揺らしてみせた。
「へへーん、昨日もらったんだよ。いいでしょ。でもここに来たってことは、もしかして水島も鍵貰ったの?」
「ああ、うん」
 なんでキミカがマスターキーを貰っているんだと思考すること一秒、彼女がブラスバンド部の部長で、ノリユキと同じように前部長から受け継いだんだと思い至る。
「今日はあたしの貸し切りだと思ってたのになー。残念。幸せ半分ね。空気読め水島」
 彼女はそう言って足元に置いていたコーヒー牛乳を拾い上げた。
「……なんだよ。僕だって悪気があってここに来たわけじゃないんだ。でもまあこの場合先客に譲るべきなんだろうな。いいよ。僕は中庭にでも下りて食べるから」
 ノリユキがそっけなくそう言って踵を返すとキミカに呼び止められた。どうやらノリユキがお相伴にあずかるのをよしとしてくれたようだった。そういうわけでノリユキは屋上のど真ん中に腰をおろしてパンをむさぼり始めた。イチゴジャムパンはいつもと違ってさわやかな空の味がした。
「ねね。タイム縮まった?」
 不意にキミカが話かけてきた。タイムというのはおそらく水泳の四百メートル個人メドレーのタイムを聞いているのだろう。ちなみに個人メドレーはバタフライ、背泳ぎ、平泳ぎ、クロールの四種目で構成されている。
「まあまあ。三分切った」
「へえすごいじゃん。さっすが水泳部部長」
「そうでもない。お前、適当に会話つなげようとしてるだろ」
「水泳は分かんないからね。でもまああれじゃん? タイム縮まってんでしょ。ならえらいえらい」
「お前らはどうなのよ。演奏会近いんだろ。この時期に三年抜けるんだし、調整とか大変なんじゃないのか?」
「んー、まあまあ。あたしに水泳の話が分かんないように、あんたも楽器の話しなんか分かんないでしょ。アルトサックスのパートリーダーだった先輩が抜けちゃってしんどいとか言っても、あ、そうって、それで終わっちゃうし」
「青春してるってことは伝わってくるよ。忙しい中に充実感があるってやつ? うん、それだよ」
「青春ねえ」
 キミカが遠くを見るような目つきになる。
「そうだ。お前、水仙ちゃんって知ってる? ネットゴーストでうちの生徒っていう」
「――知ってるよ。夕暮れの廊下に現れるっていう美少女でしょ」
「そうそれ。実はさ、なんだか成り行きでその水仙ちゃんを探すことになったんだよ。んで、女子にそれっぽい娘いるかなーって」
 キミカは少し考えたあと、あきれ顔を作った。
「あのねえ。幽霊なんてものに心当たりあるわけないでしょ。あったらアニメやマンガの世界よ。非現実的」
「そりゃ、僕だって幽霊なんてものは信じてないさ。そうじゃなくて、昨日チャットに書き込みがあったんだ。見つけたら付き合ってあげるとかなんとか」
「……それで血眼になって探してんの? 驚きね、アンタが女の子に興味があったなんて」
 感情の読めない声でキミカがそう返してくる。
「いや、正直水仙ちゃんに関してはかなり胡散臭いと思ってる。個人的には男じゃないのかとかな。まあそんなこと言ったら久保田達に殺されそうだから言わないけど。で、知らないか?」
「知らないわね」
「まあお前には聞くだけ無駄だったってことだな。お前噂話とか興味無さそうな奴だもんな」
「なんか言葉の節々に喧嘩売っているような感がぬぐいきれてないわね。悪うござんしたね、あたしはどうせ女の子らしく噂話一つできない人間ですよ」
「そういうつもりで言ったんじゃない」
「あら、あたしを女として見てくれるわけ?」
「冗談」
 ノリユキはパンの最後のひとかけらを口に放り込むと立ちあがって伸びをした。
「邪魔したな。あと十分くらいだが、ゆっくりやってくれ」
 キミカに背を向けて右手をあげる。すると、キミカが呼び止めるように声をかけてきた。
「ねえ、その水仙ちゃん、興味本位で探してるの? それとも――探して、付き合うため?」
「かわいかったら付き合うんじゃないか?」
 昨日の夜出会ったあの女の子のようなロリータなら性格を鑑みることなく即オーケーだ。ユウカとの賭けもあるし、勉強や部活等のもろもろに差し障りないように気をつけて、その上でなら普通に付き合いたいと思っている。
「じゃ、じゃあさ、もし、アンタのこと好きって娘が他にいるとして、それでも興味ある?」
 キミカがごにょごにょと尻切れトンボに言い終わる。ノリユキは眉根を寄せた。
「どうした? いきなり口ごもって」
 悪いものでも食ったかー? と尋ねる。
「え……だから、その、」
「その、なんだ? 言っとくけど僕はお前の言う空気読めない水島だからな。言いたいことははっきり言ってもらわないと伝わらないぞ」
「あ、あたしが、言いたいのは、つ、つまりぃ」
 急に顔を赤くして挙動不審になったキミカに向き直る。正面からじっと見つめていると、ぎろりと睨み返された。
「そのつまり、アンタのことが、ス……」
「僕が、ス?」
「ス……、ス……、」
「早く言えよ」
「スキヤキッ!」
 キミカが怒鳴った。それはもう天をもつかんほどに声を張り上げて。キミカは涙目になって続ける。
「うう、ぐすん。アンタがスキヤキだって言ってんのよ! アンタスキヤキの臭いするのよ! 昨日鍋だったでしょ! 馬鹿!」
「お? おお! すまん。スキヤキじゃないけど昨日はカキ鍋だった。おっかしいな。まだ制服に臭いついてるかな? ファブ○ーズしたんだけどな」
「ついてるわよ! プンプンするわよ! そんなんだから女の子にもてないのよぅ! このアホ! 死んじゃえ!」
「ちょ、おい。いくらなんでも言いすぎだぞ。でもお前さっきからなんかおかしいぞ? 訳もなく機嫌が悪そうだけどなんか嫌なことでもあったのかぶッ?」
 なんか飛んできた。顔にベシとぶち当たったのはコーヒー牛乳の空き袋だった。
「アンタのことが好きって言ったのよ、馬鹿」
「うん、だから僕がスキヤキ………………は?」
 風で張り付いたパックを引きはがして彼女を正視する。キミカは頬を赤くしていた。
「僕の、ことが、す、き……?」
 何度も言わせるな、みたいな顔でキミカはおもむろに頷いた。
「っ何で? いやちょっと待て! お前が僕のこと好き? 何言ってんだ、だいたいお前付き合って――」
「半年前に、別れた」
「へ?」
「波長が合わなくてね。別れた方がいいって話しになったの」
「いや、でもお前、この前も楽しそうに会話して――」
「まあ、普通に付き合う分にはいい奴だもんね、あいつ」
「…………マジ?」
 キミカは黙り込んだ。ノリユキはポケットから携帯を取り出して時間を確認した。
「あと三分で予鈴だ。教室に戻るぞ」
「え? ちょ、ちょっと、待ちなさいよ! 返事は? 後回しとか止めてよ! 言っとくけどね、あたしは本気で言ってるの! ここでお茶を濁すとか道端に落ちてるエロ本以下よ! さあ、答えなさーい!」
「じゃあ、断る。僕、背が高い奴より低い奴の方が好きなんだ」
ロリータの彼女が欲しかった。欲張りすぎかもしれないが。キミカがあと十センチ背が低ければ良かったのにと思う。
「せ、背? ちょっと、私だって一六〇無いわよ! 多分一五八くらい」
「うーん……」
「じゃあ訊くけど、水島はあたしのこと嫌い?」
「嫌いじゃない。というか、かなり好きな方だと思う」
「じゃあ、体験版! 少しの間付き合って、波長があってたら付き合うってのはどう?」
「体験版って、ゲームかよ」
「ゲームでもなんでもいい。とりあえず一回付き合ってみようよ! 一週間でどう? 身長がどうとかで振られるとかあたしのプライドが許さないての!」
 何だか必死である。というかなんだろうか、このリア充シチュエーション。冷静になって考えてみれば綺麗な女の子から告白されているという久保田達に言ったら千切りにされそうなくらいおいしい立場である。
 お試しとかキミカは言っている。まあ、向こうもなんか知らないが必死だし、ここで断ったら彼女がかわいそうに思えるし、というかそもそも身長だけで女の子を振るというのは男としてどうなのだろうかとも思う。
下手すればロリコンの烙印を押されかねない。女子連中に自分がロリコンだということが広まるのは避けたかったので、ここは適当に付き合って、お試し期間最後に堂々と別れるのが吉だろうと判断する。どうせ体験版である。
「まあ、いっか」
 それで、気が付いたらそんな返事をしていた。
 
 天高くにてトンビが鳴いていた。

            ×            ×

 気軽な感じでOKしたら、間髪いれずにじゃあ今週の日曜日デートね、と半ば強引にデートの約束をさせられた。そんないきなりデートするとか言われても色々心の方が着いていかなかった。正直な話あまり実感が無い。だからその時は軽く頷いて流してしまったのだが、現代文の授業を受けながら思索にふけっていると、自分がトンデモナイ過ちを犯してしまったことに気がついた。
 デートである。逢い引きである。男女でいちゃいちゃである。
 今まで友達としてしか見ていなかった女性からいきなりそんなこと言われても困る。贅沢な悩みだとは思うが、棚から牡丹餅過ぎて脳内がてんてこ舞いだ。
 だいたい体験版って何なのだろう。恋愛に体験版? 恋愛を弄んでいるような節さえある響きである。
 斜め四十五度右前を見る。キミカが何だか必要以上の速さで必要以上の分量のノートを取っている。
 ――普通に美人なんだけど……。
 現代文のノートに彼女の後姿をデッサンする。ちょっとかじった程度の絵だが、それでもキミカの特徴を捉えた鉛筆画が出来上がる。
 ――できればロリータがいいんだけど。
 でもだ。久保田じゃないけれども、そもそも自分に選ぶ権利などないのである。いや、賭けと矛盾するかもしれないが些細なことに囚われて大事を見謝ってしまうのはいけないことなのではないだろうか。
もしかしたらこの機を逃せば自分は一生独り身なのではないかとか大げさだけど割りと現実的な未来予測が脳裏をよぎる。人生ある程度の妥協は必要である。
 それに、言っても体験版だ。彼女の言葉を借りるなら、波長が合わなければ(やっぱりロリータがいいなら)別れればいいという話である。そんなに思い悩む話しでもないだろう。
 そう、むしろどきどきわくわくで胸が高鳴って興奮しちゃってもいいことなのだ。
 デートである。リア充である。
 さて、なら思い悩む話はそんなことなどではなくて、週末のデートに着ていく服とデートコースであるべきだ。百歩譲ってデートコースはどうでもいいとして、着て行く服が特に問題だ。
 高校生になってからこっちほとんど私服など必要無かったから、ノリユキはまだ中学の頃に買ったものを使っていた。それも割りとぴちぴちのジャージとトレーナーである。寮内は体操服で過ごすし、外を歩く時は制服を推奨されるしと私服の出番などないのだ。
 いかに体験版といえども、ぴちぴちのジャージと色あせたトレーナーに運動靴で街に繰り出すわけにはいかなかった。そんな恰好で街を歩けば周りから奇異の目で見られること間違いなしだった。恥ずかしいことこの上ない。
 服を買うお金はあった。両親から送られてくるお小遣いはたまりにたまって五万円を超えているのだ。この辺りで自分用の服を買っても問題ないだろう。
 でも服って何を買えばよいのだろうか。デートに着ていくべき服って何?
 田舎から出てきて、そのまま寮生になったノリユキはその辺りにものすごく疎かった。
 寮の皆に頼むのはNGだ。「実はデート用に新しい服を買いたいんだけど」と切り出した瞬間に周りから袋叩きに合うこと間違いなしだからだ。唯一話しても大丈夫そうなのはマサトだったが、マサトの服のセンスはノリユキから見ても良いと言えるものではなかった。緑のインナーに赤色のはおりものの重ね着、それに黒いおっさん用のコートとかチャック全開で着ちゃっている彼にはさすがに相談するべきではないだろう。
 と、もっとも身近なところに一番の適役がいたことに気がついた。
 平ユウカだ。
 彼なら服のセンスも多分良いだろうし、都会っ子だから最近の流行とやらにも詳しいかもしれない。何故もっと早くに気がつかなかったのだろうか。
「……島。水島!」
「は、はい!」
 不意に名前を呼ばれてノリユキは弾かれたように立ち上がった。周りからくすくすと笑い声が漏れる。
「珍しいな。居眠りかー?」
 現代文の教師に茶化されながら、ノリユキは急いで教科書のページをめくった。

           ×           ×

 放課後、隣のクラスにダッシュしたノリユキはすぐに親友でありライバルでもあるイケメン野郎の姿を見つけた。ユウカの席は窓際の一番後ろの席なのである。
 ユウカに駆け寄っていくと、彼はこちらに気付いて振り向いた。
 ユウカがにやりと口の端を釣り上げた。
「ノリユキ、俺分かったぜ」
「何が?」
 いきなり出鼻をくじかれた感じになって訊き返す。ユウカは茶髪に染めた髪の毛をかき上げながら低く笑った。
「水仙ちゃんの正体がだよ」
「ええー!」
 思わず大声を出してしまう。ユウカが怖い顔をして唇に人差し指を当てる。
「誰なんだよ」
「聞いて驚くな――多分大野キミカだ」
 一気に熱が冷めた。どういう思考をしてその結論に至ったのか知りたいくらいである。
「絶対違う。まず背が高いし」
「そうか? 普通だろ。背丈なんて噂に尾ひれついてロリータ云々になったんだよ! なんか自分でも強引な気がするが、とにかくあれだ。大野って考えてみればかわいいじゃん? 付き合ってた奴とも別れてるみたいだし」
 それは先程知った情報だった。
「お前確かに前から大野に興味津津だったもんな」
「だいたいかわいい奴なんて学校に何人もいるもんじゃない」
 ユウカはどんどん話を進めていく。
「で、俺の見た情報を思い返してみて、考えれば考えるほどあいつに違いないって思えて来たんだよ。古文の授業まるまる使って導き出したこの俺の解答、どうだ!」
「んー、まあありじゃないか」
 ノリユキの冷めた声に気が付いていないのかユウカはぐっと拳を握りしめた。
「決めた。俺大野に告る。今日からちょっとずつあいつの心をとろけさせていって、一週間後にはチェックメイトだ」
「あー……そう、か」
残念だが、この賭け貰った! と拳を握るユウカ。
 一人盛り上がっている親友とは裏腹にノリユキは暗澹たる思いだった。まさかここで「その大野とお試しデートするんだけど、服買うの手伝ってくれ」と言いだすわけにはいかなかった。なんか申し訳ない気がする。ここは体験版をとっとと終わらせてこの件とは縁を切るのが吉だろう。
 いやでもここは正直に「悪いけど大野と僕は……」と切り出すべきなのかもしれない。黙っていたらそれはそれでなんか男らしくない気がする。しかし体験版って何よという話しになりそうだし、沈黙は美徳とも言うし。この場合どうすべきなのだろうか。
 と、その時教室のドアの方からユウカを呼ぶ声が聞こえてきた。
 見ると、現代文の教師がユウカに手招きをしていた。
「そうだ。俺職員室に呼ばれていたんだ。すまんな。またあとで」
 ユウカはそれだけ言うと教師についていってしまった。あとに一人残されたノリユキは途方に暮れるしかなかった。

           ×              ×

 気付いたら部活が終わっていた。
 部活は昨日のパーティーで皆に幾分かお酒が入っていたこともあり、早めに切り上げることにした。一年生に欠席者が非常に多く、出てきているメンバーもうだつの上がらない練習状況を展開していたので、ノリユキは今日はとっとと終わらせるべきだと判断したのである。
 練習のあとにユウカを呼びとめようと思った。サウナで切りだそうと思った。更衣室で腹を割って話そうと思った。しかし、そこは普段から行動が無鉄砲なほど迅速なユウカのせいで全て失敗に終わってしまったのである。
 何をやっているんだろうかと自責の念にかられながら夕暮れの廊下を歩く。
 虚ろな意識のまま更衣室の鍵を返すと、ノリユキは一礼して職員室の引き戸を閉めた。
 不意に指先に鋭い痛みが走る。見るととげが刺さっていた。古い木でできたドアのささくれに何も考えずに触れてしまったようだった。わずかに苛立ちながらとげを引っこ抜くと自分でも驚くほどの血がにじんできた。
 ティッシュなど持っていないし、指を口にくわえるなんてばっちいことしたくなし、なによりノリユキは血の味が大嫌いだった。
 そういうわけで廊下の端っこに見える手洗い場にかけていく。美術室の前にある水道群である。ノリユキは長い廊下を走って、水飲み場にたどりついた。
 蛇口をひねって傷口を洗う。水の冷たさに傷口のほてりが癒えていくのを感じながら、ふと背後の美術室の中から人の気配を感じた。第六感とかそんな高尚なものではないが、何となくの雰囲気である。蛇口を止めたノリユキはそっと美術室の中をのぞき見た。
 小柄な女の子が、花の絵を描いていた。

          ×              ×

 大量の花を描いていた女の子がこちらに振り向いた。
 銀縁の眼鏡がきらりと夕日の光を反射する。ショートの黒髪を強引に頭の両端でしばって細いおさげにしている。前髪はぴっちりと分けられていて、いくつかの髪留めで矯正されていた。
 胸のバッジの色から一年生だと判断する。背丈は一五〇センチほどで、体も細いため、否応なくロリータを彷彿とさせた。というかロリータだった。
 一方でものすごく地味なイメージは拭い切れなかった。
 眼鏡のレンズが光を反射していて目元はよく見えない。だが、どう考えてもノリユキと目があっていると考えて良さそうだった。
 選択肢としては、ここから逃げ出すか、それともはにかみながら美術室に入って当たり障りのない会話をするか、それとも会釈だけしてここから立ち去るかの三つがとりあえず思いついた。当然一番最後の選択肢を選ぶべきところなのだが、気が付いたらノリユキの手を美術室のドアに手をかけていた。
 中に入る。なんで中に入ったのかは分からないが、中に入ってしまった。
 入ってしまってから、何を言おうものか逡巡する。女の子の目は依然として光の反射で見えないが、雰囲気でノリユキを上から下まで眺めまわしていることは察することができた。
「えっと、その絵、綺麗だな。思わず見とれちゃってさ」
 緊張に苦笑いしながらノリユキは頭を掻いた。
「笛吹き水仙です」
 一瞬、誰が発した声なのだろうかと戸惑う。それほど響いた声は老成していて、この目の前の少女には似つかわしくないものだったのだ。少女の声は、落ち着いた、甘いアルトだった。聞いていて心地が良くなってくるような不思議な響きを持っている。
「ふーん。黄色くてかわいい花だな。花の横の白いものは雪?」
「笛吹き水仙は雪の中でも咲いている、強い花です。この優しい黄色は私のお気に入りです」
「どうして、こんなところで水仙の絵なんか書いているんだ? 美術の課題?」
 そんな訳はないと思いながらノリユキはそう訊いた。デッサンを少しかじっただけの、素人同然の自分ではあったが、その自分から見ても少女の描く黄色い花は崇高なものだと感じることはできた。黄色く優しい色はまるでキャンバスの上に咲いているかのような錯覚をもって、真に迫っていた。
「いいえ、私はただ一人の美術部員なのです。先輩こそ、何故ここへ?」
 ノリユキの胸に光るバッジの色を見て地味な少女は訊き返した。
「怪我して、傷口を洗ってたんだ。そしたら君のことが見えたんだ」
 ノリユキは女の子のバッジに書かれている名前を判読しようと目を細めた。
「大宝寺ハヅキです。水島先輩」
 そっけなくそう言い捨てた少女は再び背後のキャンバスに向き直った。
「えーと、大宝寺、でいいのか? 絵、うまいんだな」
 そのまま去っていくのも何だったので、ノリユキは一言そう言った。それで、明らかに非友好的なオーラを纏っているこの少女から無視されたら、そのまま帰ろうと思っていた。だが、意に反して少女は一言ぽつりと呟いた。
「ハヅキでいいらしいです。私の中の娘がそう言っています」
 なんか、ものすごく電波なことを言いだした。何をどう答えたら良いのか分からなくて、ノリユキは目を白黒させる。さっきのこの地味子の台詞は文脈的におかしくなかっただろうかというところから思考は始まって、『私の中のコ』というのがそう呼んでも良いと言ったから名前で呼んでいいとこの少女は言ったのだということを経由して、もしかしてこの娘は二重人格だろうかという仮定に達した。
「えーと、私の中のコ?」
 とりあえず訊き返す。ふざけて言っているのかもしれなかった。ならここでワンクッション入れて突っ込む魂胆だった。
「ええ。もう一人のハヅキがそう言っているのです」
 ――やっぱり電波だったー!!
 何かもうアレだった。ドンマイというか、マジでどういう反応すればいいのか誰か教えてプリーズという心理状況だ。
「――そっか。えーっと。邪魔したな、ごゆっくり」
「先輩」
「はい!」
 何故か声が裏返ってしまう。
「絵の具踏んでます」
「えっ!」
 慌てて右の上履きの裏を見る。瞬間、左足がぬるりと床を滑った。そのまま視界が反転してどたーんと豪快に倒れてしまう。おまけに計ったように置いてあった水の入ったバケツが背中にぶつかって肩口からびしょぬれになってしまった。
「待って下さい。ストーブ点けます」
 一定の調子でそう言ったハヅキは教室の隅に置いてあったストーブに歩み寄る。
「……つめた……。あのさ、なんでストーブがもう出てるんだ? まだ十一月上旬だよな」
「家から持って来ました」
「家から! な、なんで?」
「寒いから」
 寒いから持ってくるのか。というかそんなの学校側が許したのか。そもそも石油ストーブの燃料であるところの石油はどこから調達して来ているんだろうか。もろもろの疑問が頭の中でサラダボール状態になっている。こういうのはアレである。突っ込んだら負けである。
「へ、へえ。結構融通がきくんだな、お前の家」
「そうでもありません。色々としがらみがあってむしろ面倒くさいのです」
「そうなの?」
 ハヅキは無言でストーブの電源を入れた。それから再びキャンバスの前に戻る。
 沈黙が流れる。気心の知れた相手との間に流れる沈黙は心地よい緊張感があるものだが、この場合の静寂は痛すぎた。ノリユキは水の後処理を手早く済ませてしまうと、ハヅキに頭を下げた。
「ストーブはもうすぐ点きますが」
「あ、いやいい。せっかく用意してもらったけど、遠慮する。僕寮生だからちょっと我慢すればいいだけだし」
「そうですか」
 ハヅキはそっけなく返してくる。ノリユキは今度こそ踵を返して美術室をあとにした。それから廊下に置いておいた鞄をひっつかんで、そのままいそいそと寮を目指した。早く着替えないと風邪をひいてしまいそうだった。

         ×              ×

 あっという間に週末になった。神様が時間を吹き飛ばしてしまったのかと疑うほどである。
 土曜日、昼までの授業が終わったあと、ノリユキは本気で悩んでいた。今さらドタキャンはできないから、もう明日はデートするしかない状況になっていたのである。向こうも一応本気で楽しみにしている節があるから下手に断ることはできなかった。
 もう明日は行くしかないわけで。
 覚悟を決めなければならなかった。
 いや、なんでお前は嫌がってんだとノリユキはそこで自分に突っ込みを入れた。今の自分はまごうこと無きリア充だ。明日はどこかへキミカと遊びに行くだけである。彼女といるのは普通に楽しいし、嫌がる理由などないのである。むしろ楽しみにするべきなのだ。
 デートは良いとしてデートに着て行く服を何にするかが問題としていよいよ浮上してきた。
 ノリユキの装備品はここに来てジャージにトレーナーという相変わらずのものだった。ピンチである。さすがにこの貧弱な格好で「やあ、待った?」というわけにはいかなかった。
 そう言うわけで、土曜日の午後を使って服を買いに行くことにした。部活は部長権限で休みにした。月曜からビシビシ行くからよく体を休めとけと言ったら、後輩たちが大喜びしていた。
 どこかのユニクロに入ってシャツとジャケットだけ買えばいいかという楽観的な見積もりで寮を出る。寮監にはもう許可はとってある。制服で街に繰り出すのはいつ以来だろうか。たいてい寮から出るときは近くのコンビニまで行って帰ってくるだけだから本格的に街まで下りるのは久々である。ノリユキの高校は、山の上にあるだけに下界と隔離されような空気があるのだ。誘惑がないから勉学に励みやすいのだが、こうも閉じ込められっぱなしだとちょっとした浦島太郎気分になってしまう。
 ノリユキは山のふもとまで下りると電車に乗って隣町の錦田市に繰り出した。
 錦田はこの辺りもっとも発展している市である。大きな建物の中に広がる巨大なショッピングモール、錦田街というものがあって、そこに行けば何でもそろうのである。そろうらしいのである(人から聞いた話)。
 ユニクロがあった場所には新たにナガサワ文具センターという文房具店が開店していた。途方にくれたノリユキは女物の洋服店がたくさん立ち並んでいる中、なんとか見つけた男物の洋服店へと足を踏み入れた。奥の方で何人かの男子学生が服を選んでいる。持っている補助バッグの色から彼らが一年生であることが分かる。やはり最近の若者は高校一年生からおしゃれに気を使うのかと舌を巻く一方で、自分も彼らとはそう変わらない歳だと言うことに気がつく。
 ノリユキはとりあえずその辺に飾ってあるマネキンから見て回ることにした。
 軍資金はある。少なくとも金銭面では恐れることはないのだ。もっと軽い気持ちで行こうではないか。
 奔流する音楽にのって、自然に軽い足取りになりながらマネキンの恰好を見て回る。
 なんか色々あった。帽子かぶっていたり、首になんか巻いていたり、腰にジャラジャラ鎖つけていたり。いずれも街を歩いていたらたいてい誰かが身につけているようなファッションだった。
 とりあえず全部見て回った。結果、良く分からなかった。仕方が無いので一番リーズナブルなものを選ぼうと思い一番安かった店頭に飾ってあるマネキンの前へと移動した。
 移動したのは良いが、色のバリエーションがさまざまでやはりどれを買えば良いか分からなかった。インナーひとつをとっても地味な黒色から真っ黄色のような目がちかちかするようなものまである。一番オーソドックスなのは白だろうか、マネキンも白を来ているし。でも白を選んだ場合、マネキンが首に巻いてあるストールが他に見当たらなくて困ったことになる。手っ取り早いのは、その辺の店員を捕まえて、この人形が来ているものを全部下さいと言うことだったが、それは常識的に考えてかなり恥ずかしいことのように思える。
 美術的センスには自信があった。だからまあ適当に選んでも色合い的に、マサトの重ね着のように残念にはならないだろうという自信はあった。でも服って美術的センス云々で選ぶべきものなのだろうか。流行に合わせるとか、自分らしさの追求とか、そういうことを考えないといけないような気がする。
 どうしたものかと首をひねっていると、ブレザーの袖をクイクイと引っ張られた。
「あぇ?」
 発音記号で言えば『ア』と『エ』の中間音的な音が漏れる。ちなみにノリユキは純正の日本人だ。関係ないが。
 帽子をかぶっている。うん、誰? と聞き返したくなったところでそれが誰だか分かった。
 大宝寺ハヅキだ。
 反射的に一歩後ろに引いてしまう。なんてったって昨日彼女の変人振りを目の当たりにしたところなのである。ここでたとえば、いきなり大声で笑い声をあげながら『もう一人のハヅキ』とやらと一人で会話し出したら即他人のふりをしようと思ったのだ。
「や、やあ」
 とりあえず手をあげて挨拶する。誰か他に良い反応の仕方を知っていたら教えてほしいくらいだった。するとハヅキはそれには反応せずにそのままかがみこむと、足元に落ちていた紙きれを拾い上げた。それを白く細い指でぱっぱと軽くはたく。
「ありがと、お姉ちゃん」
 そう言ったのは後ろでパーカーにジーパンという格好をした男の子だった。ハヅキはもう落としちゃ駄目なのですよ、と言って男の子に紙きれを渡した。男の子は元気よく頷くと両親らしき男女のところへと駆けていった。
「先輩がチケットをふんづけていたのです」
 ハヅキは簡潔にそれだけ述べた。彼女はそれだけ言って踵を返した。返したのだが、そこで時間が止まったかのように固まって、やがてしばらくしたのちにため息交じりにノリユキに向き直った。
 ノリユキは改めてハヅキの服装を上から下まで眺めた。
 何かこうニット帽みたいな素材だけどつばがついているクリーム色の帽子をかぶっている。上はブラウン系のダッフルコート、インナーはピンクの、何だろうか、カーディガンニット……か。下は白のショートパンツに紫っぽい――なにこれ、ニーソックスだろうか? あと靴はブラウン系のブーツを履いている。
 その辺に歩いている女性と比べても見劣りしないと言うか、直感だがなかなか良いファッションである。
 ノリユキは彼女の恰好を観察し終えてからかなりの敗北感に浸っていた。なんだよこいつ変人のくせしてナウい恰好してんじゃねえぞ、と思った。というかナウいって死語だろうか。
「奇遇ですね、先輩」
 ハヅキがそっけなく挨拶する。
「ああ、どうも……」
「何かお困りのようですが、もしかして道に迷われたのですか?」
 単刀直入に尋ねてくる。
「いや、そうじゃないんだ。服を選んでいてね、それで……。ははは」
 それで選べずに途方に暮れていたんだとは言えずにお茶を濁す。
「ええ! いやよ!」
 小声でハヅキが声をあげる。ぎょっとなってハヅキをマジマジと見つめる。ハヅキはノリユキの背後の虚空に目を泳がせながら一人で会話していた。幸い小声で会話しているので、ハヅキの異常な行動に気が付いているのはノリユキだけだった。でも勘弁してほしい。
「しょうがないですね……」
 しばらく硬直していると、ハヅキの会話は唐突に終わりを告げた。彼女の目の焦点がノリユキに合う。
「あの、その服を買おうとしてるのですか?」
 ハヅキが嫌々という感じでノリユキの方を見つめてくる。ノリユキの手にはショッキングピンクのシャツと白い綿パンが握られていた。
「え……? い、いや、まだ決めてないんだけど。もうこれでもいいかなってなりつつはある」
「そうですか」
 ハヅキはそれだけいうと踵を返した。そして立ち止まる。それから彼女は何事か逡巡したのちに再びこちらに向き直った。そして、
「あの、差し出がましいのですが、それはあまり似合わないと思います」
 お前、差し出がましいの意味分かって使ってんのかと訊き返したくなる台詞を吐きやがった。

           ×           ×

 だからなんだ、と思った。ほっといてくれと怒鳴り返したかった。だいたいいきなり現れて人のファッションセンスにケチをつけるとか非常識にもほどがあると思う。とりあえず外歩く前に礼儀勉強してきなさいと言って良いレベルである。
「うるさい余計な御世話だ」というフレーズが口をついて外へ出かかったが、何とか耐えた。自分でも青筋が立っているのが分かる。目元がぴくぴく痙攣しているのだ。
「そうか。ははは。僕ファッションセンス無くてなぁ」
 百パーセント建前の言葉を(バイトはしたこと無いけれども)営業スマイルでさらりと言うと、ノリユキはハヅキに背を向けた。それから足早にその場を去ろうとする。
「あ、あの、すみません!」
 するとハヅキがあわてた風でノリユキに追いついてきた。
「ぁ、さ、さっきは失礼なこと言っちゃってごめんなさいです」
「お前な! 分かってんなら言うなよ! ナメてるとしか思えないぞ!」
 思わず声を荒げて(それでも周りにはあまり響かないように声は低くした)言葉を叩きつける。するとハヅキはおびえたように首をすくめた。ウサギが体を丸めるような仕草だった。
「っ!」
 ……告白しよう、不覚にも萌えたと。
 小さな体をびくうっと震わせてそのあと丸め、上目づかいにノリユキを見上げてくる一連の動作にきゅっと心を締め付けられるかのような感覚が生じたのだ。
 あれ、意外にかわいいじゃないかと思う。
 一方で、脳みその一部分が強烈な違和感を覚えていた。なんかキャラが違うような気がしたのだ。
「あの、本当にすみません。その、悪気はなかったんです。とにかくごめんなさいです!」
 猛烈な勢いで頭を下げてくるハヅキ。やっぱりキャラが違うように思える。
「いいよ、もう」
 ため息をつく。毒気が抜かれたとはこのことを言うのだろう。
「まあ、実際何買えばいいか分からなくてほとほと困り果ててたわけだし」
「はあ、そうなんですか」
 ぽやーという擬態語が似合いそうな調子でそう言うハヅキ。先程まで放っていた人を拒絶するようなオーラはどこへ行ったのやら、今は和やかな雰囲気を纏っている。
 おかしい。やっぱり別人である。
 もしかして、彼女の言っていた『もう一人のハヅキ』というのが表面化しちゃっているのだろうか。無愛想な彼女とは別の彼女。この天然癒し系の人格が彼女のもう一つの人格だと言うのだろうか。日常の中に非日常をリアルに突きつけられた感じだ。
 脳裏に浮かぶ二重人格の四文字。少しぞっとした。顔に嫌悪の色がわずかににじみ出てしまう。
 それを鋭敏にくみ取ったのか、ハヅキの顔が曇った。
「あの……本当にすみませんでした。私、もう行きますね」
「ちょっと待った」
 思わず声をあげる。ここでこのまま彼女を見送ったら、自分が彼女を残酷にも傷つけて追い払ったようになる。それは彼女にとっても自分にとっても心のしこりになってしまいそうで嫌だったのだ。それで、気がついた時には彼女を呼び止めていたのだった。
 ハヅキが振り返り、ぼんやりとこちらを見上げてくる。その彼女の瞳を見ながら、
「今、暇かい?」
 ナンパまがいのことを口にしていた。本当に自分は何を言っているんだろうかと思う。思うけれども、もう言ってしまったあとである。
「あ、……え?」
 ハヅキが目を白黒させる。
「いや――えーと」
 まずい、このあと何を続けるべきか何も考えてなかった。
 何か突破口は無いかと目の端で周りをうかがう。すると天の啓示か、期間限定ケーキバイキングという文字が目に飛び込んできた。
 間髪いれずに口を動かす。
「お腹、空いてない?」
「――――ぇ?」

           ×             ×

「あの、そんなにお腹空いてるように見えましたか?」
 ショートケーキのイチゴを頬張り、嚥下してハヅキは尋ねた。
「え? あー……」
 あははははーと笑って誤魔化す。
 明らかに女性を客層に想定したであろう店の中を、ノリユキはぎこちない動きで見回した。白と桃色とを基調とした店の内装に自分が恐ろしく不釣合いに思えた。
 ハヅキのトレーの上にはショートケーキを始めとしてチョコレートケーキやチーズケーキ、果てはミルフィーユなども乗っている。本当にこんなにたくさん食べ切れるのだろうか。ハヅキのトレーに山と積まれたケーキの数を数えながらノリユキはコーヒーを口に含んだ。
「それにしてもよく食べるんだな」
「××△(もごもご)」
「ゆっくり噛んで呑み込んでくれ」
 幸せいっぱいですとハヅキの顔に大きく書かれている。言っては何だが、ショートケーキを一生懸命に食べているのはものすごく萌えるものである。自然に顔がほころんでしまう。
「あの、私嬉しいです、先輩」
 ケーキを飲み込んだハヅキが顔を赤らめてそう言う。何が? と先を促すと、彼女は続けた。
「先輩とこうしてお茶できてです。私、入学してからずっと先輩のファンで」
「ファン!」
 思わずコーヒーを吹きかけた。ハヅキはフォークを持ったまま両手を頬にあててきゃーと顔を左右に振った。
「そうなんです。春に水着姿になって部員募集していましたよね。あの時から綺麗な体だなーって」
「ああ……」
 思い出したくもない記憶だった。一年生の半分を水泳部に入れると豪語したマサトによって企画されたキャッチー(主に周りから見ている分には)な企画で、ノリユキやユウカ達を始め水泳部連中が競泳水着一丁になって新人勧誘を行ったのだ。ちなみに今年の新入部員の数は大きく落ち込んだ。当たり前である。
「できれば忘れて欲しい記憶だな」
「いいえ。忘れようにも忘れられません。あのくびれた腰のラインや逞しい大胸筋の描く固い質感は一生物の記憶です」
 そんな風に言われると恥ずかしさのあまり悶え死んでしまいそうだ。
「まさかとは思うけど絵にかいたりしてないよな?」
「えっ! ………………してませ(ポッ)」
「絶対してるだろ! うわーだから嫌だったんだよ、あの企画。どう考えてもいい見世物だったからな、僕ら。水着一枚でショートコントするとか痛いだけだっての」
「そ、そんなことありませんよ! まだちょっと肌寒い中体を張って頑張る先輩はとってもかっこよかったです」
 建前をどうもありがとうと心の中で呟く。ノリユキはコーヒーをまた一口含んだ。
「まあ、ある程度は覚悟してたけどな。まさか絵の題材にされるとは思っていなかったけど」
「先輩のおかげでいいインスピレーションを得られました。発想の転換というものができたんです」
「そりゃどうも。やっぱ絵を描くのに発想って大事なのか?」
「多分そうだと思います。その辺はもう一人の私に聞いてみないと分かりません。私も絵は描けますが、賞を取っているのは主に彼女なんです。私は彼女から記憶を受け継いでいるだけで……」
 そこまで言って、ハヅキはハッと我に返ったようだった。
「すみません。また変なこと言っちゃって。出てくるの久しぶりなので……」
 とりあえず笑って誤魔化した。ハヅキが居心地が悪そうに俯く。ちょっと反応の仕方が失敗だったようだ。だから少しフォローを入れることにした。
「いや、でもこうして会話は成立しているし、ちょっとくらい特徴的でもいいんじゃないかな。ルールさえ分かっていれば、こっちだってそれを踏まえて会話を楽しめるしな」
「はあ、そうですか……」
「いつもはあの無愛想な方が表に出ているのか?」
「多分そうだと思います。お医者様が言うには基本人格はあの子の方だと」
「そうか」
 こんなことを思うのは不謹慎かもしれないが、それが逆だったらいいのに、と考えてしまう。愛想ゼロどころか余裕でマイナス行っちゃってるもう一人よりも、こちらの天然癒し系の方が付き合っていくには好ましい性格である。
「今日もいつも通りあの子が前に出ていたんですけど、急きょ代わってもらいました。本当はこんな人がたくさんいる中であの子に話しかけない方がいいんですが、なんだか先輩がすごく困った顔をしていて、チャンスって思って」
 なんで自分が困った顔をしていたらチャンスになるのだろうか。
「ふーん。まあ、あの服は僕に似合っていなかったんだろ? なら助かったよ。あのままだと余分な買い物した上に明日奇天烈な格好で街を歩くことになってた」
「いえ、あの、私も差し出がましいことを」
「本当にな」と返しかけたが、ぐっとこらえた。コーヒーをすする。ふとハヅキのトレーを見ると、山と積まれていたはずのケーキがもう残りミルフィーユを残すだけになっていた。これだけ甘くてカロリーがあるものをこんな短時間でここまで減らしたというのか。さしずめ彼女の胃袋は異次元に違いない。ついでに言うのならそれだけ食べても全く太っている様子が無いのは生命の神秘としか言いようがない。
「気にすんな。それより、どうして錦田街に来てるんだ? 私服に着替えてるってことは一度家に帰ってすぐに来たわけだろ? なんか急ぎの用事?」
 だったらこんなところでのんびりしてないよな、と心の中で言いなおすが、とりあえず会話を続けるためである。
「映画を見に来たんですが、人気の映画で上映時間ギリギリってこともあって満席になっていたんです。それでどうしようもなくてポスターカラー買っていました」
 ハヅキがそう言って後ろからナガサワ文具センターのレジ袋を取り出して見せた。
「でも良く考えたらポスターカラーなんて使わないのですよね」
 ハヅキがそう言ってぺろりと舌を出した。唾液に濡れるそれが妙に艶めかしくて思わず虚空に目をさまよわせる。
「あの、よろしければ差し上げます」
「え……」
 ハヅキがぎこちない動きでポスターカラーの入った袋を突き出してくる。危うくこちらの唇に当たるところだった。
 ……そう言えば美術の課題で蝋人形を彫るというのがあった。壺を作れば良かったのにわざわざ難しいのを選んでしまったのだ。で、その人形の着色にポスターカラーが必要だったような気がする。
「本当にいいの? 貰っちゃうぞ?」
「はい、使いませんから。今日こうして一緒にお茶してくれたお礼と言っては何ですが、差し上げます」
 彼女がそう言うものだからありがたく頂戴することにした。何だか得した気分である。
「ありがとう。ちょうど美術の課題でポスターカラーが必要でさ。マジで助かるよ」
「課題ですか。何を作っているか、よろしければ教えてもらえませんか」
 ハヅキが食いついてくる。
「いや、なに作ろうかな。実は結構悩んでてさ。この前の時間も隣の奴と結局ふざけてて、何もしないうちに終わっちまったんだよな」
「頭に思い浮かんだものをそのまま形にすればいいと思います。私、いつもそうしています。なんかもわもわーってくるんです。そしたらハッとなって手が動き始める感じで」
「思い浮かんだものねえ」
 ロリータとか。って何を考えているのだろうか自分は。そもそもなんでここでロリータが出てくるのだろうか。心労がたまっているのかもしれない。
「そうだな、何となく思い浮かんだものって自分の個性が滅茶苦茶表れてるもんだしな。参考になったよ」
 ノリユキがそう言うと、ハヅキはもじもじと身をよじらせた。太ももの辺りが、いとエロし。
 それから何ともなしにガラス張りの店の外を見る。屋内にできたショッピングモールにはみなおしゃれに決めた男女が通路を行きかっていた。この中に先程の白のズボンとショッキングピンクのシャツを着た自分を想像の中で歩かせてみる。とても不釣合いな気がした。良く考えればあの組み合わせは今からゴルフにでも行くようなコスチュームだったかもしれない。あの服装で街角に立った自分を想像すると、とても滑稽に思えた。これは買わなくて正解だったかもしれない。
 色の組み合わせ。例えば黄色と青とかだろうか。あそこでティッシュを配っているお面つけた女の子の服の色みたいな。でもあれはキャンペーンガール用の衣装で必ずしもデート用の色の組み合わせではないような気がする。
ってちょっと待った。なにかものすごくこの場に不釣合いなものが見えたような気がする。キャンペーンガールはいいんだ。別にティッシュ配っていても何の不都合もない。日本語おかしいけど不都合はない、多分。でも明らかにキツネのお面かぶっているというのは色々とおかしいだろうと突っ込みたい。
「なあ、おい、大宝寺」
「あ、ハヅキでいいです」
 そわそわとそう言う彼女。そういえば前にも言われていたか。別人格にだが。
「んじゃハヅキ。あの人見える? 狐のお面かぶってる」
「え……? あ、あの子ですか? 知り合いです。友達です」
「友達!」
 明らか浮いてるよなー、変なのーハハハハとか言わなくて良かったと心の中で安堵する。友達いたんだなハヅキという非常に失礼な台詞も言わずに置いておく。
「この時間ってアルバイトしている子多いですよね。私はお父様にきつく言われているのでできませんけど……」
 ハヅキがそう言っていると、お面の女の子はこちらの視線に気づいたのかつかつかとこちらに近づいてきた。それからティッシュの入ったかごを持ったまま店の中に入って来る。バイト中だと言うのに良いのだろうか。
 女の子は店に入って来た。それからコーヒーだけ頼むとノリユキ達の座る席に近づいてくる。周りから奇異の視線がちらりと向けられたが、すぐに視線は戻っていく。これは「ママー、あの人ー」「しっ、見ちゃ駄目」というやつだろうか。真相は分からないままに女の子は無言でハヅキの隣に座った。
「水島先輩、こちらスイセンちゃんです。スイセンちゃん、こちらは水島先輩」
「スイ、セン……?」
 耳を疑った。スイセンと今ハヅキは言ったのだろうか。
「どうも」
 スイセンちゃんと紹介されたお面の女の子が頭を下げる。身長一五〇あるかないかくらいのロリータのくせしてボーイッシュな声音だ。
 雰囲気的に高校生と言うのは間違いないだろう。それにハヅキの友達というなら同じ高校なのだろう。しかしノリユキはリアル水仙ちゃんがいるなどという噂は聞いたことが無かった。
「どうも」
 軽く頭を下げる。それからちらりとスイセンちゃんの顔を見て恐る恐る尋ねる。
「あの、なんでお面してるの?」
 口裂け女みたいなオチだけは止めてくれと願う。
「キャンペーン中だったんで」
 ――どんなキャンペーンだ。
 しかし、しゃべり方も男の子みたいである。スイセンちゃんはそう言うとあっさりとお面を取ってしまった。下から出てきた顔はものすごい厚化粧したけばけばのものだった。口紅をこれでもかというくらいに塗りたくっている。
「バイト中にお茶していいのですか?」
 ハヅキが心配そうに尋ねる。ハヅキはこちらの人格になっているときは割と常識人のようである。強調するが、割と、である。
「今は休憩中だ。もう二時だろ? 今から三十分休憩」
 それから水仙ちゃんは思い出したように持っていたかごからポケットティッシュを三掛ける二取り出した。
「ほい。先輩も是非」
 はきはきとそう言って差し出されたティッシュを受け取る。ポケットティッシュは何かと便利だから貯めておいて損は無いのだ。それはそうとティッシュの後ろに挟まっている紙に『乙女・BL専門店』とでかでかと書かれているのだが、一体これは何を意図しているのだろうか。
「良ければ立ち寄って下さい。昨日色々なものの再入荷の日でして、今なら何でもそろってますよ」
「いや、そんなさわやかに言われても僕はそっちには興味無いからな」
「それは人生の大半を損してますね。先輩、自分から視野を狭くしてますよ」
「す、スイセンちゃん。水島先輩は男の子に興味なんてないですよ」
 全くである。自分の価値観を人に押し付けるのは良くないのである。
「そうなのか? 水泳部の水島先輩っつたら平先輩とできてるって話しだろ? アッーな関係とかもっぱらの噂」
「……それ誰が言ってんだよ」
「一年女子全員ですかね。四月に裸で部員勧誘してたじゃないすか、そのときに平先輩と抱き合ってて……」
 あれは部員勧誘が終わって喜びに浸っていただけである。別にそんなつもりはなかった。
「誤解だ。僕にそんな特殊な性癖はないよ」
 ノリユキがそう言うと、スイセンちゃんは信じていないような目で「そうですか」と返した。そんなにそっちに持っていきたいのだろうか。
 スイセンちゃんがずずーとアイスコーヒーを飲み干す。ノリユキとハヅキはもう食べ終わっていた。
「じゃあ、これで解散と行くか」
 ノリユキが伸びをする。
「そうですか」
 ハヅキが残念そうに言う。スイセンちゃんは再び狐のお面を装着した。
「先輩もお元気で」
「お前今生の別れみたいに言うなよ……」
「いや、またどこかで会えるといいですね」
 さわやかに言い直すスイセンちゃん。断言しよう、こいつ何も考えてない。スイセンちゃんはきびきびと礼をすると店から出ていった。この辺りでのティッシュ配りはもうしないのか、人込みに紛れてどこかへ消えていってしまう。
「なんか変わった奴だな。同じクラスなの?」
 横のハヅキに尋ねる。
「いえ、違います」
「へえ、じゃあどこで知り合ったの?」
「屋上です」
「屋上? またけったいなところで出会ったな」
 しかし、屋上は常時施錠してあるはずである。なんでその屋上で出会えるのだろうか。
「開いていたんです。スイセンちゃんが先にいて。それで一緒にご飯食べました」
「ふーん。そうなのか。屋上で飯とか優雅なもんだな」
「とっても気持ち良かったです! スイセンちゃんはたびたび屋上で食べるそうです。私はだいたい食堂で食べるので、あまり屋上では食べないんですが、あれは癖になりますよ」
 そうなの、と返す。
 それからふと疑問に思った。
「なあ、ハヅキ。スイセンって、下の名前?」
「分かんないです。あの子制服に名札つけてないから」
「そっか」
 ……それにしてもハヅキとスイセンちゃんはえらくさっぱりとした友人関係のようである。

           ×              ×

 ハヅキと別れたあと、再び男物の洋服店に入ってみたものの、やはり何が自分に似合うのかなどさっぱり分からなかった。店員に助けてもらえないかとも思ったが、店員は皆忙しそうにしていて、ノリユキには全く構ってくれそうになかった。買うの迷ってますという雰囲気を最大限に出したつもりだったが、全て徒労に終わったようである。
 それで、気が付いたらもう五時を回っていた。タイムリミットである。七時には寮に戻らないといけないからこれ以上長居はできそうになかった。
 結局収穫は無しに終わった。財布の中身はコーヒー代と往復の電車代が消えたのみで、大きな変動はなかった。まあ服を買っていないのだから当たり前だが。
 とぼとぼと坂道を上っていく。明日のデートが憂鬱だった。一瞬断ろうかと思って携帯電話を取り出しかけたが止めた。着ていく服が無いからドタキャンとか死んでも言いたくなかった。
とりあえず明日は制服で誤魔化すしかないと諦める。今度からこれに懲りてあらかじめ服を買っておこうと思うのだった。
「ん……?」
 ふと鳴り響いたサイレンの音に顔をあげる。見ると明日の待ち合わせ場所である公園前に救急車が止まっていた。わきにはフロントが大きくへこんだハリヤーがとめてある。どうやら事故が起きたらしかった。ノリユキが上っている大きな道に出る脇道があそこにはあるのだが、あそこはちょっと視界が悪かったりするのだ。しかも公園があるということもあって子供との接触事故がかなり多いと聞く。
「信号がついてもいいよな、あそこ」
 ぽつりとノリユキは呟いていた。
 それからもくもくと坂道を上る作業に没頭する。門限まであと三十分である。急がなければならない。

        ×             ×

 部屋に戻るとマサトが珍しく机に向かっていた。
「おうお帰り」
 こちらを振り向きもせずにマサトは言う。
「ただいまっす。勉強ですか? でも先輩推薦で大学受かってますよね」
 正直推薦で受かる奴は勝ち組だと思う。マサトは低く唸った。
「推薦で受かってもきちんと勉強するのは必要だぞ。まあ受験組みたくはせんでもいいだろうが。なにせ俺らの成績が大学で悪かったら、うちの高校の枠が減らされるんだからな。肩の荷が重い」
「受かったあとなんて関係ないじゃないですか」
「まあ正論だわな。あんまり声を大にして言っていいことじゃないが。そして俺は別に勉強しているわけではない……と、できた」
「何がです?」
「方程式さ!」
「……?」
 ノリユキは怪訝な顔でマサトの机を覗き込んだ。そして驚いた。ノートの切れ端に『君のことが好きだ』から始まる長々とした文がつづられていたのだ。これはいわゆるラブレターという前時代の遺物である。
「何を笑っている! 言っとくがな、携帯なんぞで俺のこの熱い気持ちが百パーセント伝わる訳が無かろう。こうじっくりゆっくり熟成した肉筆による文章でもってだなぁ」
「す、すみません。別におかしくて笑ったんじゃないんです。逆説的だけど、発想が斬新だなって、思わず口元が緩んだだけです。で? 誰に出すんです?」
「うむ。今日お前と一緒にいたあの眼鏡の女性だ」
「――――へ?」
「うん。いや、だからな、今日プロテイン買いに錦田街に行ってたら、お前眼鏡をかけたちっこい女性と談笑していたじゃないか。あの絶壁とも言える胸、細く折れそうな腰、なよっちい足!」
 マサトはノリユキの肩を掴んで顔を寄せて来た。
「ロリータ万歳」
「ち、近いです!」
 ノリユキはマサトを引きはがしながら抗議の声をあげた。
「で、今ラブレター書いてたとこなんだ。ああ、誰かに言ったら電気アンマーの刑だから」
「アッー。それはいやですね。……でも、なんであんな地味な娘を?」
 マジで謎である。確かにロリータではあったが、別にそれ以外は目のひくところがあるわけでもない。一体彼女のどこに惚れる要因があったと言うのだろうか。
 マサトはチッチッチと指を振った。
「大輪の花にしか目がいかないとは甘いな、水島。久保田共にも言えることだが、かわいいイコール正義ではないのだ。容姿など偏差値五十プラスアルファフェティシズム的何かがあればそれでいいんだ。肝心なのは自分に合うかどうか。服と同じさ」
「ちょ、僕が服選ぶのも見てたんですか? 声掛けて下さいよ、水臭いな」
「いいから聞け。で、あの娘の何がいいか。まず匂いだ!」
「匂い? ああ、確かにいい匂いしてましたね。香水でしょうか。僕そこのところ詳しくないんで良く分かんないですけど」
「あと知的な眼鏡」
「いや、正直あの銀縁眼鏡はないですよ。地味というか、なんかダサい」
「水島! お前ケチ付けんじゃねえよ!」
 マサトがキレた。何の前触れもなしにだ。
「あ、すみません」
 マサトの剣幕に素直に謝る。するとマサトは鼻からプシューと息を出した。機関車さながらの様子である。
「水島。お前手伝え」
「え?」
「彼女に告白すんだよ。あと三カ月、俺は全力で過ごしてみせるッ!」
 ぐっと拳を握りかためるマサト。その姿が眩しかった。
「まあ、僕にできることなら、別に構いませんけど。あ、でも無茶なお願いとかは駄目ですよ。あとものすごく時間がかかる仕事とか」
「分かっているじゃないか。それでいいんだ。見ていろ。あと二週間の内に彼女を落としてやる。春が来たぞ、水島!」
「もう冬ですよ」
「冬のさなかで、春を探すのさ」
 マサトは叫んだ。


                   (続く)



―――――更新履歴―――――
12月16日第一章途中まで。
12月17日続き。修正、すみません。
12月19日加筆修正。
12月21日第一章終り。
12月21日加筆修正。

2010/12/22(Wed)16:21:13 公開 / ピンク色伯爵
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