『“CUBE” [中]』 ... ジャンル:リアル・現代 ミステリ
作者:コーヒーCUP
あらすじ・作品紹介
[上]のあらすじ――。女子大生の蓮見レイは友人の紹介で、母校の後輩から「友人が部屋から出なくなったので助けて欲しい」と頼まれる。彼女の友人の安藤茜は学校で起きた殺人事件以降、何かに怯えているという。蓮見は安藤と会う前に事件に、その学校に以前から存在する秘密結社“cube”が関与していると推理し、彼女と会って“cube”が殺されていると確認したが、その彼女もすぐに殺されてしまう。蓮見は母校に戻り犯人であると推測される『主』(“cube”のリーダー)と、ターゲットの“cube”を探しだそうとするが、目をつけたた小林陸という少年も殺されてしまう。何とか反撃をして『主』と“cube”を特定しようとする蓮見の前に、怪しげなカップルの存在が浮かび上がった……。
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第五面[邪悪]
翌日の朝、生徒会室にはいつも仁志と有華ちゃんが揃っていて、二人仲良くソファーに腰掛けていた。ただあまり眠れなかったのか、二人して欠伸を連発している。
「さて今日からが正念場だね」
実を言うと私もそんなに眠れていない。それでもここでそういう雰囲気を出したら場がだらけてしまうので、欠伸などは堪えて、きわめて元気な声を出してみる。仁志はそれがうるさかったらしく、両耳をふさいだ。
「まあ早速で申し訳ないけど、昨日頼んどいた件、どうだったかな」
有華ちゃんと仁志はお互い目を合わせて、何か小声で話しあった後、仁志が先に発表することにきまったらしく、けだるそうな声で報告し始めた。
「小野夏希について、色々と聞いて回った。細かい経歴とはあんたのリストに載ってるから省略するぞ」
昨日の夜に父の教えてくれた細かい情報とともに頭に入れ込んだ、彼女のデータを思い出す。二年生の女子で、一年生の頃は美化委員会に属していた。あまり人気のない美化委員に立候補して入り、しかもその活動の積極的だったから高い評価を受けていたが、どういうわけか二年生になると美化委員会を辞めて今はどこにも属していない。
美化委員会の先生がどうして辞めるのかと訊いたとき、彼女は端的にこう答えたらしい。やるべきことが他に見つかった、と。それが何かは答えなかったらしいが、とにかくそう言って辞めていった。
部活動もしていないし、塾に通ってもいない。だから彼女が日頃何をしているのかは知られていない。交友関係はある程度あるが、それはなんと美化委員会。やめているのに時々手伝いには顔を出すらしく、後輩の面倒見もいいと聞く。そこから派生した交友関係が結構広いとのこと。
「小野は物静かっていうか、基本的に喋ることがないらしいんだ。それでもたまに発言するとすっげぇ的を射たことを言ってくるんだと。だから先生とか後輩から慕われてるけど、先輩からの受けはあんまりよくないみたいだな。美化委員を辞めたのは先輩たちとそりがあわなかったからだって言われてるよ」
高校一年生の頃は先輩が怖いとか、鬱陶しいとか愚痴っていた子に限って自分が先輩になると後輩に強くあたるものだ。そういう知り合いはたくさんいて、友達としてつきあってる限りはいい人たちだったのに、どうして後輩関係になりとああなってしまうのかと不思議だった。
そんな先輩たちからすれば小野夏希という後輩は、可愛くともなんともなかったに違いない。そうなると彼女がどういう扱いを受けたかは、想像しやすい。
「同級生からは案外好かれてるみたいだな。頭がいいんだよ、成績もトップクラス。けど塾とかは通ってないだろ。普通は妬みの対象になるんだろうけど、テスト前になると気軽にノートを貸してくれたり、時間をかけて勉強を教えてやるらしいんだ。それがえらく好評だ。頭にいいことを鼻にかけるわけでもなく、分かるまでちゃんと優しく教えてやるだってさ」
時々世話好きの同級生がいるが、彼女もそういう部類なのかもしれない。無口という評価とは、なんか相反する評判だな。
「“cube”じゃないかって噂は流れたことはないみたいだな。ただ小野自身が“cube”について発言したことがあるんだって。それによると、姿が見えないから無意味だっていうんだ」
「なるほど。それはいい意見だよ。彼女から知性の香りがする」
この高校の生徒は入学したときから“cube”という陰の存在を知らされていて、それが何かをしているという噂を信じ込んでいるが、それは普通に考えればおかしい。だって“cube”という存在がこの学校にもたらしているのは、“cube”という秘密結社があるということだけで、その仕事などは明かされていない。ならそれは、小野夏希が言うように無意味だ。だって、本当にあるかどうかは一般の生徒からすれば確認さえできないんだから。
しかしずっと受け継がれてきた噂の効力というか、魔力と言うべきか、多くの生徒は“cube”はあるんだ、何かしているんだと信じている。小野夏希はそれがおかしいと思っているんだろう。
「男性関係だけど友達とかにはずっと彼氏はいないって言ってたらしいけど、最近は荻原とつきあってるって公言してるらしい。なんでも美化委員の後輩の紹介で知り合ったんだってさ」
「小野夏希のとって荻原治は後輩だよね。変な言い方になるけど、年下好きなのかな」
「さあ、そこまでは知らねぇ。ただ言ってるぜ。なんか放っておけないって。世話好きなんじゃないか」
なるほど、それはたぶん合っている。美化委員を一生懸命つとめるところや、辞めた後も後輩たちに会いに行ったり手伝ったりしているのは、彼女がそういうのを好きだからだろう。無口だという評判だけど、たぶん根暗ではない。
「報告はだいたいこんなもん」
仁志が報告を終えて、間髪入れず有華ちゃんがしゃべり始める。
「じゃあ、荻原治の女子生徒の評判について、聞けた範囲で話します」
有華ちゃんはどうやらメモをしていた様で、かわいいピンク色のメモ帳を片手に語りだした。
「入学前から彼と同じ中学の女の子たちからは有名だったみたいです。すぐに遊びに誘ってくるとか、遠慮なく電話をかけてくるとか。高校生になるとそれが激しくなったみたいですね。みんな無視すればいいんですけど、なんていうか、カッコいいからつき合っちゃうって子が多いみたいです」
私がみた顔写真は学校に提出されたもので、真顔で表情が硬かったが、それでも男前の部類には入った。ただ私の好きなタイプではなかったので、そのへんは残念だったけど。ああ、不謹慎かな。
「乱暴だとか、横暴だとかわがままだという評判はないですね。単に女の子にすぐに手を出すってだけみたいです。ただ飽きるのも早いらしくて、だいたいつき合った子も二週間はもちません。たいていは彼の方から別れを告げるらしいです。また別の子を見つけたって理由で」
語る有華ちゃんの顔がだんだん険しくなっていく。それはこの荻原治が彼女の唯一無二の親友を殺したかもしれない犯人の容疑者であるということと、単純に彼女の中の正義感というか恋愛観が、こういう男を許せないというのもあるんだろう。確かに誉められたような女性関係は築いてないみたいだが、積極的にアタックしていく姿勢はなかなかのものだと思う。
「一年生なのに、二年生や三年生にも手を出したみたいです。なんかそれで三年の先輩と喧嘩になったって聞きました。だから三年の黒沢先輩とつき合ってても不思議じゃありません」
それだけ手広く交流をもっているなら確かに黒沢明子と関係があったかもしれない。目撃情報が少ないのも、彼がいつも通りすぐ別れたから。あるいはつき合うまでに至らなかったか。彼が黒沢明子が死んでも警察に名乗りでないのは、厄介ごとをさけるためか、関係者と思われたくないからと考えていたが、もしかしたら彼自身が彼女のことを重要視してなかっただけかもしれない。
考えていたら、急に有華ちゃんの声のトーンが下がった。思いっきり残念そうだ。
「ただ今の評判は最近のじゃありません。ついこの間までのです」
「最近は違うのかい」
「はい。最近は落ち着いたって。というか、小野さんがすごい人らしくて、その荻原をうまくコントロールしてるっていうか、飼い慣らしてるっていうか。とにかく荻原も小野さんには頭があがらないみたいです。小野さんとはもう長い間つき合ってるみたいですし……」
なるほど。有華ちゃんの中では悪はずっと悪であってほしかったのかな。ただまだ拝見したことはないが、小野夏希という生徒は何かすごいな。荻原治が単純に彼女に惚れているのか、彼女が惚れさせているのか不明だが、本当にただ者じゃなさそうだ。
「報告といった報告は以上です。荻原と小野さんの関係は櫻井先輩の報告通りです。お互いにつき合ってるって公言してます」
二人の報告を聞き終えて、それらの情報を頭の中に入れていく。つい最近までは誰にでも手をだしていた男の子と、それを飼い慣らした世話好きの少女。この二人がどういう人物か。そして本当にただの恋人同士か。そうじゃないとしたら、どういう関係を持っているのか。
色々と考えるべき事は多いが、今はまだ何も出来ない。情報処理っていうのはまずは完璧に理解してから始まるものだ。そして完璧に理解するには、少々時間がかかる。
「それであんた、これからどうするんだよ」
仁志の質問ににんまり笑ってやる。それが不気味だったのか、彼は失礼なことに顔をひきつらせた。
彼らが情報収集に奔走している間、私だって寝ていたわけじゃない。私にしか出来ないことをちゃんと考えていた。
「小林陸のときは暢気にやりすぎて、『主』に計画を立てる時間を与えてしまった。だから今回はスピード勝負でいこうかと思う」
「スピード勝負、ですか」
有華ちゃんが首をかしげて、どういうことかと問いてくる。
「ああ、まずは早速、『主』の容疑者の荻原治――彼の動きを封じ込める」
かなり雑で乱暴な作戦にはなるが、背に腹はかえられない。
2
廊下の窓を開けてタバコを味わいながら、気持ちを落ち着かす。愛人であるニコチンが肺を満たしてくる間、今から仕掛ける作戦を頭の中で反芻する。本当に乱暴なものだ。ただ一晩で思いつける作戦なんてそうはないという言い訳はしておく。
父を通して警察の許可も得ている。そもそも警察は昨日からすでに荻原治に監視はつけているらしい。ただじっとしているだけではなんともならない。いつもの捜査ならずっと我慢強く監視して、容疑者が怪しい動きをとることで逮捕までこぎ着けるが、今回はそうもしてられない。なんせ三人死んでしまっていて、警察としては早々に解決したい事件だ。早くけりをつけたい。
だから犯人に分かりやすい動きを求めないといけない。そのためには私の考案した作戦は悪くないと判断したらしい。それに警察は荻原治を犯人か犯人じゃないのか、早く知りたいに違いない。だって、犯人じゃないのに彼に目を奪われている間に次の被害者が出たら、一貫の終わりだから。
まあ、そういう弱みにつけこんでるわけだけどね。けど、早く解決するには必要なことだとは思う。
「さてと、そろそろいきますか」
窓を閉めて、タバコを携帯灰皿へつっこんだ。だいぶ気持ちも決まったし、後は頭の中で思い描いてることを実行すれば良いだけだ。
廊下には今現在、生徒や教師は誰もいない。当たり前、なんせ授業中なのだから。それぞれの教室から教師の声や、生徒のおしゃべりが聞こえてくる。廊下には私から距離をとるかたちで、父とほかの警官がいる。不測の事態にそなえてのことだ。
その父たちにウィンクをしてやってから、ある教室の扉の前に立つ。
「――お手並み拝見」
そう呟いてから、一気にそのドアを開ける。教室の中にいた全員の視線が私を射た。美人はこれだから困るんだよ、全く。
「ちょいと失礼するよ、ティーチャー」
教壇の前に立っていた海野先生にそう挨拶する。先生は数学の教師で、私が在学中だった頃から変わらない懐かしい数式を黒板に書き連ねていた。
入ってきたときとは対照的に、今度は静かに扉を閉めた。多分、今頃さっきまで離れたところにいた父たちが、静かにこの教室に近づいてるはずだ。
すかさず海野先生が諫めてくる。
「今は授業中だ」
相変わらず端的で、この人らしい。
「存じているよ。だから失礼するって言ったろ」
今回の作戦は海野先生にももちろん説明してはいる。だからこのやりとりも今朝、ちゃんと打ち合わせをしておいたお芝居だ。海野先生にはあくまで生徒の味方でいてもらわないと、今後困るし、私と繋がっていると分かると危ないから。
「なぁに、時間はとらせない。ちょっとお話したい生徒がいるんだよね」
そこで私は一人の生徒に目を向けた。教室の窓側の端の席でつまらなそうに肘をついた男子生徒。前髪の毛の一部を金髪にしていて、制服も着崩している。よく見ると光り物のピアスもしていた。
そんな彼、荻原治にゆっくりと近づいていき机の前で立ち止まった。
「荻原治君だね」
分かりきった確認をしておく。彼はまっすぐと私を見つめたまま、薄ら笑いを浮かべた。
「あんた、知ってるぜ。暇人大学生だろ」
私はここの生徒たちにそんな風に呼ばれているのか。否定できないし、する気もない。事実だもん。
「名前は蓮見レイっていう。覚えていただけると光栄なんだけどね。こんな美人が自己紹介してるんだから、忘れられないとは思うけど」
教室の中に小さな笑い声が生まれたが、すぐ消えた。みんな、私がここでなにをしてるのかは知ってる。だから私がどういう目的で彼に近づいているかも、なんとなくだが予想がついているのだろう。
「そういえばそんな名前だったな。それで、そんなのがどういう用なわけ?」
一応卒業生で彼の先輩にあたるし、年上なのだけど敬語などは一切使う気がないらしい。仁志が親しい間柄だから使わない敬語だけど、彼の場合は誰に対してもこういう態度なのだろう。
「うん、ちょっと質問したくてね。これを見てくれるかい」
そうして胸ポケットから一枚の写真を取り出した。写っているのは、一人目の被害者の黒沢朋子。
「彼女、君の知り合いだよね?」
彼は写真を見てから聞こえないような舌打ちをした。彼自身、無意識でやってしまったのだろう。けど残念、お姉さんは地獄耳なんだよ。
「君と一緒にいるところを見たって子がいるんだけどね。どうだろう」
「しらねぇよ。見間違いだろ」
なるほど。もしかしたら素直に白状してくれるかもと期待していたけど、どうやらそうはなってくれないらしい。まあ構わない。どちからというと口実ができて好都合だ。
「彼女、この一連の事件の一人目の被害者なんだよ」
「へぇ、そうなのかよ」
「うん。それで警察や私としては彼女の知り合いにはよく話を聞きたいんだ。ただ、この事件はもう二ヶ月以上前の話しだから、知り合いと思われた人間にはもうしつこいくらい話してもらっている。しかし残念なことに、そこから有力な手がかりはでていない」
本当に嘆かわしいことなのに、彼はそうかよという相づちでそれを片づけてしまった。本当に興味がないのか、それとも早く終わらせたいのか。
「けど、もしも被害者と知り合いなのに、知り合いだと告白していない人間がいるとしたら警察としてはそこから有力な何かが得られるかもしれないと期待してしまうんだよね」
「そうかよ。けど残念だな、俺はこんな女知らない。それとも証拠でもあんのかよ」
推理小説の常套句ならば証拠を求めるのは犯人らしいが、バカを言っちゃいけない。どんな人間でも疑いをかけられたらます証拠を求める。そう、まず証拠を求める。
まず、だ。彼はその言葉を発するまでに少し時間があった。
「ないね。うん、きれいさっぱり何もない」
そう素直に白状したら、嫌らしい笑みを浮かべられた。
「ほら見ろよ。当たり前だっつうの。こんな奴知らねぇもん」
昔、知ってるのと知らないの、証明するのが難しいのは知らない方だということが本に書いてあった。知ってるのを証明するのはきわめて簡単、ただ言えばいい。けど知らないことを証明するのはかなり難関だ。だって知らないっていくら言っても、それは嘘かもしれないと疑われるから。
「本当に知らないんだね」
「しつけぇって。知らないって言ってるだろ」
彼は机の置いた写真をそのまま弾いて、床に落とした。ひらひらと写真が落ちていき、後ろの席の子の足下にたどり着いた。その子が戸惑いながら拾ってくれて、渡してくる。
「ありがとうね」
礼を言ってから写真を胸ポケットに戻す。
「まあ、知らないっていうならそれでいい。次の質問をしていいかい」
彼は強く頭を掻きむしった。せっかくワックスか何かできめていたのに、それが崩れてしまう。
「まだあんのかよっ」
「これで最後さ。大声を出さない。小野夏希との関係について、聞きたいんだけど」
その瞬間、小野夏希という名前が出た途端、彼の目が大きく開かれた。そしてつい今まで自分が座っていた椅子を倒して、立ち上がって私の胸ぐらを掴んで引き寄せてくる。ちょっと苦しい。
これは想像以上のリアクションだ。予想できなかった。出来ていたらかわしていたのだけど。
「あの人は関係ねぇだろっ!」
「大声を出すなと言ったところなんだけど」
教室の中が一気にざわめき出す。海野先生が教壇から「荻原!」と声をあげるが彼は手を離さない。先生にはよっぽどのことでない限り、何があっても動かないようにと頼んでいるのでここまでは来ないはずだ。ここで先生を危険をさらすわけにはいかない。
「君らはつき合ってる。イエスかノーかだけでいいから答えなさい」
やらっれぱなしは趣味ではない。それに女性の胸ぐらを掴むとは言語道断。掴んでいた彼の手の手首を捕まえて、そのままひねりあげてから、彼の肩をもう一方の手で捕まえてそのまま力にまかせて彼の体を机に押しつけた。中学の時に兄から教わった護身術の一つだ。
教室のざわめきがましていく中、彼は声をあげてながら、痛みを耐えようと体を曲げていく。なんとか私の手を払おうとするが、放してやらない。
「答えた方がいい。君が答えないなら彼女に直接訊くから別にいいんだ。ただ答えたら開放してあげるよ」
「て、てめぇ……卑怯じゃねぇかっ!」
体を押さえられて机に顔をひっつけながら、的外れな抗議をしてくる。
「先に手を出してきたのはどっちかお忘れかい」
そう返してやるとまた舌打ちをして、くそっと悪態をつく。
「約束しよう。小野夏希には手は出さない。だから答えなさい」
この技は非常に体力がいる。そもそも護身術の一つなので、長時間向けではない。手がつかれてきたのでそう条件を出してやる。それでもまだしばらく彼はなんとかしようと暴れていたが、そこはなんとか押さえつけた。全く、往生際が悪すぎる。
「分からないのか。君が黙ると、彼女が怪しくなるんだ」
そう告げてやると、初めて彼の抵抗が小さくなっていき、やがて止まった。
「……つき合ってるよっ。これでいいんだろっ」
「よくできました、合格さ」
手を放して彼を解放する。まさかこんなところであの技術が活かされるとは思いもしなかった。サンキュ、ブラザー。愛してるよ。
「約束は守ろう。私から彼女に近づくことはない」
押さえられていた体や、捻られていた手がまだ痛いのだろう、彼は恨めしそう目で私を睨みながら、その箇所をなでていた。やりすぎてしまったかもしれない。そういえば兄には力加減までは教えてもらっていない。
「時間を取らせて悪かったね。じゃあ」
踵を返して彼に背を向けて、すたすたと歩き出す。教壇の海野先生と目があった。やりすぎだったとお詫びのつもりで小さく頭を下げて、その前を通っていく。
「……暴力はよせ」
おそらく教室の中で私にだけに聞こえる最小限の声でそう叱られた。容疑者とはいえ先生にとっては生徒の一人。私の行動は許せないものがあったんだろう。あとで職員室にちゃんと謝りにいこう。
扉の前についたとき、再び教室を振り返って荻原治をみた。彼はずっと私を睨んでいたようですぐに目があう。
「言い忘れていたね。君は今回の事件の容疑者になったから。今後警察の監視がつくよ。気をつけてね」
最初はおそらく何を言われたか分からなかったのだろう、口を小さくあけた間の抜けた顔になったが、すぐにそれを理解したらしく、瞬く間に顔が強ばっていく。それを最後まで見届けることなく手を振って、扉を開けた。
「おいっ!」
その怒声を遮るように、教室から出て扉を閉める。外で待機していた父たちが不安げな顔を向けたいた。
「――兄さんに力加減を教え忘れたろうって叱ってやってくれ」
そんな責任転嫁の一言に、父は首をかしげた。
3
昼休み、今日の昼食は今朝コンビニで買ってきた野菜たっぷりのお弁当。最近のコンビニ弁当は安値のくせにそこそこおいしいのだが、今日のこれはちょっと例外のようだ。まるで野菜の味がしなくて、野菜の良いところを全て殺してしまっている。どうやったらこんなの作れるんだか。
いくらなんでもこれはひどいと少し怒っていると、お湯が沸いた。この生徒会室には家から持ってきたガスコンロを配備している。最近禁酒を強いられている身としてはブラックコーヒーが代わりの恋人。それに警察関係のお客さんが多いので、接待にはもってこいの優れものだ。
その脇に置いてあったインスタントコーヒーをスプーンで計り、好みの分量を間違えないよう注意を払いながらコップに入れているとノックが聞こえた。
ノックだけをする客人は少ない。ここには基本的に有華ちゃん、仁志、父のような警察関係者がくるが、仁志や父はノックなんてしないし、有華ちゃんや警察関係者はノックもするが声もかけてくる。けど、今回はノックだけ。
そんな訪ね方をしてくるの一人いるが、それは海野先生。ただ海野先生はさっき職員室で会ったばかり。やりすぎたことへの謝罪にちゃんと行った。会ったばかりなのにこっちに来るとは思えない。
粉末をいれ終えて、ドアへと向かう。こういうときにドアスコープがあれば便利なのだけど、さすがに望み過ぎか。
「はい、どちら様かな」
ドアを開けると、そこには一人の女子生徒が立っていた。彼女は私の顔を見ると、ゆっくりとお辞儀をする。
「お昼時にすいません。蓮見さんとお話がしたいと思いまして」
彼女が顔をあげる。細身の体に、少しの乱れもなく制服を着込んでいる。黒髪で前髪を、ヘアピンでとめてはいるがお洒落とかではなく、単純にそうしないと目にかかってしまうからだろう。そうすればせっかくの銀縁のメガネが意味をなくす。
「お邪魔だったでしょうか。それでしたら、また出直しますが」
「いや、君の可愛さに見とれていたんだよ。うん、最高だね」
「それはどうもありがとうございます」
今までこう冗談混じりの誉め言葉はいつも初めて会う女の子に使ってきたが、たいていは笑い飛ばされるか、やめてくださいよと謙遜されるか、無視されるかのどれかだった。今回みたいに素直に真顔でお礼を言われたのは初体験。
けどちゃんとそう言われて喜んでるようでもないので、単純に相手にしてないだけだろう。そんなに冷たくあしらわなくても。
「入るといい。今はコーヒーがある。あっ、ココアもあるね」
「いえ、結構です。先ほど昼食を終えたところなので。お気遣い、ありがとうございます」
なんかこっちが緊張してしまう話し方だ。まあ、そういう子なのだろう。単純に冷たくされているとかいう悪意は感じない。
彼女は室内に入るとソファーの前まで行ったのはいいが、座ろうとはしない。何をしてるんだろうと不思議に思っていたが、私を見てるその視線で気付いた。
「座ってくれて良いよ」
彼女は頭を下げて、静かに腰掛ける。バイトの入試の面接じゃないんだから、そこまでしなくていいのに。
ドアを閉めて、そのままさっきの場所に戻ってコップに入れたままの粉末にお湯をそそいでやりコーヒーにする。インスタントだけど、いいに香りがする。
コップを片手に彼女と向き合うようにソファーに座った。
「まさかそっちから足は込んでくれるとはね。感謝するよ。そういえば昨日はお休みだったみたいだけど、もう大丈夫なのかい」
「はい。昨日は少し体調が良くなかっただけですので。心配していただいてありがとうございます」
とても高校生とは思えない対応の仕方で彼女、小野夏希は初めて小さく笑った。もちろん、愛想笑いであるけど。
「私の方から君に会うのは約束をしてしまって出来なかったから君が来てくれて本当に助かった」
場の勢いと、彼から返答を得るための強硬手段の代償として、あの約束をしてしまった。破ることは簡単だけど、そうすると今後の調査がしにくくなるだろうと私から小野夏希を調査するのは諦めていた。もちろん、私が近づかないだけであって、仁志や有華ちゃんは無関係だったのだけど。
「その話は聞きました。授業中にいきなり乗り込んできたんだと、彼はずいぶん憤っていましたけど」
そこで彼女が急に立ち上がった。コーヒーを飲んでいた私は急なことに何も言えなかったが、彼女はそんな私をよそに深々と頭を下げてきた。
「私が謝るのは何か違いますが、本当にすいませんでした」
一体、彼女が何について謝ってるのか全く検討がつかない。私は謝られるようなことをされただろうか。
「あ、あの悪いけどね、頭を上げてほしい。一体何を謝ってるんだい」
「彼が、荻原治があなたに手をあげたことについてです」
そこまで言われて初めて納得したが、いやいやとすぐに首を左右に振った。
「あの件はどちらかというと私に非があるだろう」
頭を上げてくれと言ったのに、彼女はちっともそうしてくれない。
「いえ、どんな理由があろうと女性に手を出すなんてことは許されません。蓮見さんのしたことは正当防衛ですが、彼のしたことは暴力です」
いや、力加減を誤ってしまっていたから、私がしたことも正当防衛と言うよりむしろ過剰防衛という暴力に値すると思うのだけど。けど彼女は当然ながら力加減のことまでは知らない。
「ああ、いいんだ。その件はもう済んだことだ。そもそも君が謝ることはない。頼むから頭を上げてほしい。ほら」
頭を下げたままの彼女をなんとか促して、頭を上げさせてなんとかして座らせた。かなり義理堅い子みたいだ。いや、正義感が強いのか。いや、それも違う……。なんだ、これは。
「本日の蓮見さんと彼のやりとりについては彼から詳しく聞きました。それで一緒に謝りにいくよう言ったのですが、絶対にそうはしないと拒まれまして」
まあ、荻原治がそうするのは当たり前だろう。急に昔つき合っていたかどうかの女性の写真を見せられた後、今つき合っている女性がまるで事件に関係しているみたいな質問をされて、質問を答えないでいたら武力行使にでられ、挙げ句の果てには容疑者だからと宣言されたんだ。まさに踏んだり蹴ったり。そりゃあ謝る気になんてなれないだろう。
「そういうわけで私だけ謝りにきた次第です」
「うん。まあ事情はわかった。しかし、荻原治はここにくることをとめなかったのかい。約束があるのに」
「蓮見さんから私に接触ははからないという約束でしょう。私から蓮見さんには別です。それにそんな約束をしたところで、警察の方がたくさんいらっしゃるのに無意味じゃないですか」
あの約束の無意味さをすぐに分かったのは中々見所がある。噂通り、やはりただものじゃない。
「それで話っていうのは、それだけじゃないだろう」
「はい。これについては少し異議を申し立てにきました」
彼女はそういうとさっきまでとは少し違う目つきになった。さっきまでは本当に無表情で、何の感情も感じさせなかったのに、今は目を鋭く尖らせて多少の怒りが露わになった。
「彼が容疑者になったこと。これはおそらくはあなただけではなく、警察の判断もあったので、素人で第三者の私がどうこういうつもりはございません。ただその捜査方法はいかがかと思います。噂によりますと、蓮見さんは先日亡くなった小林先輩と接触していたそうですね」
「うん。目を付けたいたんだ」
「はい。けど先輩との接触の仕方は非常に隠密ですね。基本的に屋上で二人でいたという話を聞きました」
それは私自身が警察に話したことで、それが捜査員の口から生徒に漏れて今では校内では多くの生徒が知っている。
「では、なぜ今回、彼には授業中に接触したんでしょうか。休み時間でも放課後でも、時間はほかにありました。なのにあまり時間がとれない授業中を選んだ理由は、彼を監視するため。違いますか」
まっすぐ私を射止める彼女の強く細い視線。仁志や有華ちゃんからの報告を受けて、小野夏希はただものではないと感じていたものの、ここまでとは考えていなかった。まさか作戦の意図を一瞬で見破られるとは。いくら一晩で考えついたものでも、ショックだ。
彼女の言うとおり、荻原治の事情聴取を授業中に行ったのはクラスメイトに彼が事件の関係者で私に目をつけられていると植え付けるため。そして最後に彼に容疑者だと宣告したのは、彼のクラスメイトがそのことをほかの生徒に言い、いわば学校中の生徒たちに彼を監視させるためだった。あまり好きなタイプの作戦ではないが、うだうだと悩んでるとまた凶行がおきてしまいそうだったので実行した。
しかし彼がそれを実感するのはまだ先のことで、ばれるまでには時間がかかるとふんでいたのに、こうも短時間で見破られるなんて。
「彼が黒沢先輩のことを知らないと供述したのは、好都合だったでしょう。容疑者にする要素が増えて。あんな質問をされては、知ってると答えないと本当に知らなくても怪しく見えます。ましてや第三者からすれば知らないと答えただけで、嘘に見えるでしょう。彼のクラスメイトに彼への疑いの目を向けさせるには非常に手間がはぶけた答えだったでしょう。そしてそれを予想してあなたは質問しましたよね。これらはすべて彼から話を聞いた私の推測にすぎませんが、どうでしょうか」
どうでしょうかと訊かれると、お見事です、すばらしいと返すしかない。あの質問は素直に答えるかもしれないという期待もしていたが、そういう効果のほうが期待は大きかった。ここまでわかるのか。やっぱりただ者じゃない。
「……作戦が乱暴だと、怒っているだろう」
彼女はそこで少し困った表情をした。
「怒ってるかと訊かれると、怒ってます。彼とは深い付き合いですから、彼にひどいことをするのは許せません。しかし、事態が事態ですから本気では怒れません」
彼女は目を伏せて、最後の方は声をぼかしてしまっていた。怒りたいことは怒りたい。けど、連続殺人をとめないといけないというこちらの立場も考えてくれているみたいだ。
「乱暴な手段だったことは謝るよ。すまなかったね」
本来、荻原治にしなければならない謝罪を彼女にするのは筋違いだが、そういう謝罪を先にしてきたのは彼女なので、お互い様ということにしてもらおう。
コーヒーを口に含んで、ふと考える。彼女は当然今の推理を荻原治に話しただろう。そうすると彼は自分の潔白を訴えるため、あるいは私の姑息さを糾弾するために今の作戦を吹聴するに決まっている。そうなると監視の目はどうなるだろう。一般の生徒たちから彼の言うことを信じるのか、それと嘘をついていると思うのか。
どちらにしてもこれで予定通りとはいかなくなってしまった。うぅん、これは結構大変なことだ。小野夏希を甘くみすぎた結果だが、そもそも会ってもいなかったんだから甘くみるもなにもない。会う順番を間違えてしまったか。
いらつきを隠せなくて、まだコーヒーを飲み干していないのにタバコを取り出して、ライターで火をつけようとしたが、そうはできなかった。私がくわえていたタバコを、彼女が取ってしまったからだ。
「噂には聞いていましたけど本当に吸うんですね。いいですか、あなたはまだ未成年で、しかもここは校内です。タバコは控えるべきではないでしょうか」
彼女はそのまま立ち上がって、部屋の隅にあるゴミ箱にそのタバコを捨ててしまった。なんて、なんて罰当たりな。いくらなんでもひどすぎるじゃないか。
そう抗議しようかと思っていたのに、彼女は今度は私の前まできて、右手を差し出してきた。
「……キスでもすればいいのかい」
おとぎ話なんかでは、姫がこうやって手を出すとそれに王子が口づけをするけど。もちろん、彼女がそうして欲しくてこうしてるんじゃないことくらい分かってる。理由も理解してる。だから、こうやって逃げたんだ。
ただ、彼女は逃がしてくれない。
「まだタバコをお持ちでしょう。出してください」
やっぱりそれか。けどここは譲れない。
「わかった。もう校内では吸わないよ。うん、約束しよう」
ついでに言うとこの約束は破る。絶対に。だって禁酒しているのでさえきついのに、その上タバコまで奪われたら、もうやってられない。ぐれる。
「……わかりました」
彼女がそう呟いたので納得してくれたんだと思って油断していたら、鋭く、そして素早くのびた彼女の手が私の胸ポケットに住んでいた小さな恋人を捕まえて、そのまま奪い取ってしまった。
「あ、ちょっと――」
彼女に拘束されたタバコの箱は、そのまま中身を灰皿の上で巻き散らかされて、無慈悲にも彼女の手によって私がまだ飲みほしていなかったコーヒーを全身にあびてしった。コーヒーまみれになったタバコたちと、それを見て愕然とする私と、満足したような笑みを浮かべてコップを手にした彼女。室内はその三つを残して、しばらく時がとまった。
「校内で吸わないというのは無意味な約束ですね。ここで吸われたら私は確認できませんから。それに問題は、未成年である蓮見さんがタバコを吸うことなんです。吸う場所の問題じゃありません」
丁寧にそんな説明をしてくれる彼女を、これでもかというくらいに恨んでみる。私の恋人を水没させた罪は重いぞ。絶対に今晩、彼女の枕元にはタバコの幽霊がでる。というか、でろ。出ちゃえ。
しかし、このショックを受けたおかげでさっきまで分からなかった彼女の印象がようやく掴めた。彼女は世話好きだなというのが推測だったが、あれは外れていなかった。ただ予想外に、彼女は母性本能が強い。それだ。そういえば大学にも私の喫煙をとがめてくる、母性本能の強い友人がいたね。春川とかいう名前の。
「……恨むよ」
「お好きにどうぞ」
まるで相手にされていない。私の方が三つも年上なのに、なんか納得できない。けど彼女が正しいから反論もできない。これは結構、悔しいね。
これで今日はもうタバコを味わえないのか。そう思うと死んでしまいたくなる。
「それで、お話の続きなんですが」
その彼女の声で急にまた部屋の空気が張りつめた。どうやら彼女の話はまだ終わっていなかったらしい。すぐさま気持ちを入れ替えて、なにかなと続きを聞き出す。
「彼が容疑者なのはわかりました。しかしどうして……私まで“cube”だと疑われているんでしょうか」
次の言葉が出なかった。どうして彼女は自分がそうであるということを知ってるんだ……。それを知ってるのは私と警察、そして海野先生と婆さん、有華ちゃんと仁志だけのはずだ。そしてその中の誰かが彼女にそれを言うはずもない。
「違いましたか。蓮見さんは彼に私との関係を訊いたんでしょう。そこから容易に想像がつくと思いますよ。彼が疑われてる背景に私が関与しているということくらい。そして彼が犯人として疑われているなら、私は共犯者か被害者候補だと予想がつきます。今現在のところ、この二つのポジションが一番重要でしょうから。けど共犯者なら、私の名前なんて聞き出すなんてことはしません。後で個々で事情聴取をしていかないといけない。だって、もし共犯者なら裏で口裏をあわされたりしそうですから。そうなると被害者しかありません。被害者なら名前を出しても大丈夫です。彼が犯人なら、被害者の予想を警察がつけていると警戒して襲えませんし」
彼女は淡々とその推論を述べた後、ああ、のどが乾いてしまいましたと喉をさすった。その様子をほぼ呆然としながら眺めた後、乱暴に頭をかきむしる。ここまでよまれるなんて、信じられない。一体どういう思考回路をしてるんだ。あり得ないだろう。
「少し待つといい、やっぱりコーヒーを入れて上げるよ」
「どうもすいません」
立ち上がって彼女の分と、さっき灰皿へ投入されたので無くなってしまった私の分のコーヒーも作る。そうしながら、なんとか心を落ち着かそうとする。私は今、とんでもない子と向き合っている。彼女は容疑者じゃない。被害者の候補だ。だから別に彼女自身がそれを感づくのは別に何に問題でもない。ただ、彼女はただの被害者候補ではなく、容疑者の恋人という位置づけにある人物だ。
そんな彼女にそこまで見破られるのは正直辛い。今後、どういうことになるか想像もできない。
いや違うか、問題はそこじゃない。あの違和感……小野夏希と荻原治が繋がってると判明したとき感じた、できすぎだと思った、あの感覚。あれはただの思い過ごしじゃなかったんじゃないか。仕組まれていた、誰かに。そしてそんな罠を、この少女ならなんとか考えだせそうだ。
いやいや落ち着け、私。彼女が『主』だとしてどうして自分に警察の目が行くような真似をするんだ。全く理屈になってない。これこそ考えすぎだろう。……けど、本当にそうか、本当にただの考え過ぎか。
「お湯、沸いてますよ」
後ろからそう声をかけられ、ガスコンロの上のヤカンが湯気を蒸気機関車のごとく吐いてるのに気がついた。
「ああ、少しぼうっとしていたよ、すまないね」
全く、調子が狂わされる。日頃あれだけ自覚できるくらいに、マイペースに生きているのにそれが出来ない。
彼女の分のコーヒーには砂糖を少量入れて、それを渡した。私が高校生のときにはブラックを飲むのが当たり前だったけど、これを同年代の友人から共感を得たことは少ない。大学生になったらまだ少し分かる友人もでてきたが、高校の時は本当にいなかった。
「ありがとうございます」
彼女は受け取ったコップを両手で持ちながら、一口飲むとおいしいですという感想をくれた。
「ところで、先ほどまた考えていたんですが」
「考えるのが好きなんだね」
嫌味のつもりで言ったのに、彼女にはそうなんですと素直に肯定されてしまった。
「蓮見さんが私を“cube”と思った理由が分かりました。私が昨日、休んだからですか」
もうここまで言われると驚くのも面倒になってきた。
「ですよね。だって蓮見さん、さっき出会うなり昨日休んでた事に触れました。あれは蓮見さんが私のそういうデータを掴んでたから言えたことですよね。ならどうして蓮見さんが私を休んでいたデータなんか持っているか。そこが分かりませんでしたけど、一昨日の放送のことを思いだして分かりました。一昨日の放送は犯人を怖がって、休んだ人間の中に“cube”がいると予想してやったものなんですね。だから私が昨日休んでたことも知ってた。そうですよね」
なんだこのコーヒー、ちっともおいしくないじゃないか。ああ、私の機嫌が悪いだけか。
「……すごい、お見事だよ」
なんとか否定してみようかと思ったけど、ここで即席に作った言い分で騙せそうにもないし、彼女が事実を突きつけている以上、私ががんばって否定したところで本格的な論争になったら勝てはしないだろう。彼女ならわずかな嘘も見逃してくれないと思う。
「よくそこまで考えれるものだね」
「私は行動を辿って、それに自分が納得できる意味をつけてるだけです。私から言わせればこんな作戦をたてれる蓮見さんの方がすごいですよ。当たり前のことですけど、後からああだこうだと言うのは簡単です。それによって事実を言えるのも当然です。けど、結果論がバカにされるのはそれにあるんでしょう。後からどうだって出来るんです」
それは彼女の持論だろうが、大きく頷けた。昔から厄介事を解決した後に野次馬連中から、あんな簡単なこと誰でも分かるとよく言われたものだ。面倒だったから相手にはしなかった。ただ完全否定できるかと質問されたら、どうだろう。
ただ今の彼女の言葉であることを思いだした。それは茜ちゃんの殺された後にかかってきた『主』からの電話。あの会話の中で『主』がこう言っていた。
『犯罪者は芸術家で、探偵は批評家』
あの言葉。確かに起きた事象に関して、結果論でああだこうだというところは探偵は批評家に揶揄されても仕方ない。しかし犯罪者が芸術家というのは、どうしたって納得は出来ないが。
この言葉を彼女との会話で思い出すのも、ただの偶然かな。
「隠し通せそうもないから言うよ。君は確かに“cube”候補だ。君は……」
「いいえ、私は“cube”なんて怪しげなものには属していません」
私が問う前に彼女ははっきりとした口調で否定してきた。ただ経験上、この証言を信じることが出来ないのが悲しい。そう否定して、私が守ってやれなかった男の子がいるものだから。
「……信用してくれてませんね」
「申し訳ないけどね」
「私もはっきりと身の潔白を晴らすことは出来ません。否定することは肯定することより何倍も難しいですから。ただ言わせてもらうなら、どうしてここで嘘を吐くんでしょうか。本当に“cube”なら殺されるかもしれないのに、ここで否定するメリットは何でしょうか」
彼女のぶつけてきた疑問はそれこそ、私や警察がここ最近ずっと悩んでることだった。被害者が“cube”だと公表した以上、まだ殺されていない子が自ら保護を申し出てくれると考えていた。そうすることで『主』の特定には結びつかなくても、最低限次の被害者は出ずにすむと計算していたのに、今のところそういう要請はない。
どうして“cube”の子たちは名乗りでないのか。そこは何度、どれだけ考えても分からない。小林陸はどうして私の質問に嘘をついたのか。確かに“cube”にとって自らが“cube
”だと名乗るのは掟違反ではあるが、生命がかかってるときにそんなことを気にするやつなどいるのか。
小林陸はまだ殺されるという状況を説明されていなかったから、嘘を吐いたというのも納得できる。けど、今は違う。
「……そうですよね。そこが分かっていたら、警察や蓮見さんが苦労するはずもないですよね」
彼女は私の渋い表情から、心情を察してくれたようだ。
「信じたい。君は聡明だ。そして正義感も強そうに見える。こんなところで嘘をつくような子には見えない」
それは紛れもない本心だった。彼女のこの頭の良さからすれば、ここで嘘をつくなんて馬鹿げたことはしそうにはない。
「けど、疑わないといけない。だから聞き流してもいいから、言っておくよ。もし君が本当に“cube”でそれを隠してるんだとしたら、もう告白なんてしなくていいから、家にいなさい。安全な場所に避難してくれ」
これは警告であるのか、あるいは懇願なのか、どちらなのかは正直自分でも分からない。恐らく両方なんだろうとは思う。素直に白状してくれというのが一番の本音だが、それを聞きだすのが無理ならもうとにかく殺されないでくれと頼み、逃げろと忠告するしかない。なにが探偵だかと自嘲したくなる。
彼女はそんな私の言葉を聞いた後、目を瞑ってじっくりと何かを考えていた。口元が小さく動いていて、どうやら考えてる最中に呟くのが癖らしい。ただその声はこれだけ近くにいるのにちっとも聞こえない。
「……心配、ありがとうございます。ただ私は“cube”じゃありませんから、休みません。それに実を言うと私、激怒してるんです」
彼女はそこで立ち上がると壁に貼ってあった写真たちを見渡していく。
「あの中の一枚に彼が写ったものがあります。これらの写真がどういう意味をもつかまでは、正直想像しかねます。ただ予想はつきます。これらの写真は全て、携帯をいじった人間が写されていますから。……いえ、私が言いたいことはそんなことではありません。私は許せないんですよ」
この部屋に入ってきてから、彼女は感情というものを微塵もみせていなかった。なんとか本心を探ってやろうと洞察力を駆使してるが、なんとも出来ていない。ただ今の彼女、立ち上がって語る彼女は妙に語尾に力が入っていた。
「人を三人も殺めてることはまず、私のような無関係の人間でも無条件で腹が立ちます。けど私は何より、治がそんな殺人鬼だと思われるが許せないんです」
「……初めてだね」
「何がですか」
どうやら彼女は自分が感情的になってるのが言葉に表れたのが分からなかったらしい。
「自分の恋人のことをずっと『彼』と呼んでいたのはわざとだろう。今初めて君は、治って親しげに名前を出したよ」
この指摘で気づいたいたようで、顔をしかめた。どうやら一切の感情を出すことなく、この会話を終わらせたかったらしい。その真意がどこにあるのか。ただの見栄か、それとも感情を出すと何か不利なことがあると考えていたのか。
「……とにかく私は怒ってるんです。自分でも珍しいと思うくらい、怒ってます。だから今回の犯人の捕まる姿をみないと気がすまない。そしてこうは言ってはあんですが、蓮見さんや警察の方が治に謝ってくれないと納得できません」
彼女はどうやら彼の無罪を心から信じているようだ。だからえん罪についての謝罪を今のうちから要求している。もちろん言われなくても、彼が『主』じゃないなら謝罪はちゃんとするつもりだ。今はできないけどね。
「いいよ。彼が本当に犯人じゃないならきちんと謝ろう。ただそうするためには彼の協力も不可欠だ。言いたいこと、分かるよね」
彼女が目を閉じて、小さく頷く。
「彼に蓮見さんに協力するよう私から言え。そういうことですか」
理解が早いことは非常に助かる。これが仁志なら少し時間がかかるところだ。
「そういうことだ。よろしくね」
そう言って彼女に握手を求めると、彼女は何の躊躇もなく握りかえしてくれた。少しひんやりとする。
それで会話が終わったので彼女が出て行くことになった。扉まで出送ると、彼女がくるりと振り向いて、またしても無表情で告げてくる。
「先ほどまでの私の推論は誰にも話していません。もちろん治にもです」
それはありがたい話しだった。さっきまでの話しを誰かにされていたら、それだけでこっちには大ダメージだったのだから。ただ彼女はそんなことを気にして、そうしているんじゃないということくらいは分かる。彼女はどこまで荻原治を信じているんだ。だから彼に教えたら有利に働く情報を彼には教えない。
だって、無罪はどうあっても無罪なんだ。彼が何を知らなくても、何もしなくても、彼が捕まることはない。彼女はそう考えている。
「それでは。お時間を取っていただき、ありがとうございました」
最後にもう一度頭を下げて生徒会室から出て行った。丁度彼女が扉を開けた時に、仁志が入って来て危うくぶつかりそうになったが彼女はそれにも動じることなく、仁志に「会長、こんにちは」という挨拶をして、何事もなかったかの様に出て行った。
一方ぶつかりかけた仁志は、驚いた表情のまま、廊下をすたすたと真っ直ぐ歩き去っていく彼女の背中を見ながら固まっていた。
「ずっと見てるとストーカーと思われるよ。それとも一目惚れかい。私という者がありながら」
そのからかいでようやく正気にもどって、私の腕を掴んでくる。
「あ、あれ、小野夏希じゃないのかよ」
「そうだよ。ちょっと、お話をさしてもらった」
どうやら私の表情が芳しくなかったようで、彼の表情も一気に曇る。今の話しがいい結果か悪い結果かと問われるとなんとも言えないが、最初から最後まで会話の主導権を握っていたのは彼女だ。思いっきり、頭の良さをみせられた。それはまるで、お前なんて相手にならないと釘を刺されたみたいに。
「……私たちは、とんでもない子に目をつけたのかもね」
丁度、その時廊下を歩いていた彼女が階段のところで曲がり、姿が見えなくなった。
「ところで、ひぃ君、ものは相談なんだけど――」
どうやら私が何か重大なことでも口にすると思っていたようで、彼はごくっと唾を飲み込んだ。そんな緊張した彼に、答えがわかりきった質問をしてみる。
「タバコ、持ってない?」
4
『その小野って子は信じられるのか』
電話で小野夏希に作戦を見透かされたこと、彼女は侮れないということを父に報告したら、そう確認された。彼女が最後、作戦の概要は荻原治に話していないと約束したことを疑っているらしい。
「信じられるだろうね。彼女なら知りながら、知らないフリをするのなんて簡単だろうけど荻原がそう出来るとは思えない。もし彼がへまをしたら、彼女が不利になる。そんなリスクを背負う性格には見えなかったよ」
それに彼女としてはどうしたって荻原の無実を証明したいはずだ。だからあえて彼が不利な状況を望んだ。彼が不利、つまり私たちが有利。その中で私たちが彼が犯人と証明できなかったら、彼女たちの勝ち。彼女が望んでるのはそのシナリオだろう。
『なんか、よく分からない子だな』
父の感想は全くその通り。小野夏希の立ち位置を定めようとすると、難しくなる。ただの被害者候補。しかし容疑者の恋人。そして恋人の無実を信じる少女。こちらの意図をすべて見抜いた彼女。人としては荻原治より興味深い。ただ、あくまで彼女は被害者候補でもあるから、疑いの眼差しを向けるのもおかしい気がする。
「どのみち被害者として見張るんだろう。それをちゃんとしてくれれば、なんとでもなる。彼女や荻原が『主』としても、今は動けないはずだ。作戦を見抜かれても、私たちが荻原の動きを封じたのには変わりないんだから」
問題なのは私たちがこの二人に目をやりすぎて、別に『主』がいた場合。その隙をついて誰かが犠牲にならないかだ。候補者の中に『主』がいるか、“cube”がいるかなんてわからないんだから。そしてもう一つ、『主』があえて何も行動しないというパターンだ。
前回の放送で『主』は相当警戒心を強めたに違いない。ただ、ここで怖じ気付くような性格でもなさそうだったから、ここで逃げることはないだろうが身代わりを用意する可能性は否定できない。警察や私に荻原治を犯人だと刷り込ませて、ずっと監視をさしておく。そして殺さず、小さな行動だけおこして荻原を犯人に仕立てあげる。
そして私たちが気をゆるめているときに、殺害を再開する。警察や私を騙して、殺すんだから逃げたことにはならず完全勝利となる。これをとられると、一番つらい。
『おまえはどうするんだ』
「私はしょせん素人だからね、全部の“cube”候補、『主』容疑者に目をやることはできないから、とにかく二人に近づいてみる。あとの人間は警察にまかせる」
『小野と荻原。どっちも危ない感じがする。気をつけてくれ』
「お互い様だよ、父上」
通話を終えて、携帯をベッドの上に放り投げた。ふんわりと膨らんでいた布団に、四角いくぼみを作りながら携帯が沈んでいく。
今日は父は帰れないらしい。はっきりとした容疑者もでてきたし、しかも大量の被害者候補がいる。仕事も莫大だろう。私なんかは好き勝手に話して行動して、そこから手がかりを見つけようとするけど父は刑事だからそういうわけにもいかない。
今日は兄も遅くなるという連絡が入っている。食事は二人分、そして一人は遅くなる。なんか小野夏希との接触で疲れたし、今日は手抜きで勘弁してもらおう。どうせ手を抜いたって私の手料理なのだから美味しいにきまっている。いやいや、それほどでもないよ。
机の上のパソコン、そして部屋の隅に置いてあるテレビ。テレビは報道番組でいまも事件のことを、学校の前から中継していて、女性レポーターがいかにも重大そうに事件の概要を説明している。よく思うのだけど「現場からの中継」というものにはどんな価値があるんだろう。現地に言ってわかってることことだけを伝えるなら、スタジオからでもいいじゃないか。
そんなことを考えていたら、笑えてしまった。答えを知っているくせに、自分の中で否定している。メディアの戦略としても、ただの情報をちゃんと信じてもらえるようにしているんだ。だって「さっき仕入れた情報なんですが……」とスタジオで座ったアナウンサーが言うのは、簡単で効率的で経済的だろう。ただ、それには信憑性が生まれてこない。
おまえはスタジオにいてるじゃないか。その情報が本当なのかどうか、わからないだろう。そう言わせないための、現場の中継だ。アナウンサーがスタジオで言うのと、レポーターが現場を背景にして言うのでは、同じ情報でも信憑性が全く違ってくる。それに現場で「さっき仕入れた情報ですが……」というと、本当に仕入れたばかりだと思われる。ふつうに考えれば、電話でもすればスタジオでも変わらない仕入れたばかりの情報がちゃんと届くのに。
私がこういうメディアの戦略が嫌いなのは、“cube”だった頃、それをまねたからだ。ただの情報にいかに信憑性をつけるか。だから噂を発信する場所も相当気をつけた。多くの場合はその噂に関係した場所で話す。教室ではしなかった。だって教室で噂を発信しようとしたって、友人たちが信じてくれるかどうか、本当に分からない。教室には多くの生徒がいて、多くのものがある。私と友人が話していても、友人の意識はほかにいってしまう。
それにごく少数の限られた人間に噂を発信しようとしたら、教室はあまり便利ではない。さっきも言ったように多くの生徒がいる。もし話した友人が、すぐその場で別の友人に話して、その子がその噂を足蹴にしたら生まれたての噂は死んでしまう。だから、教室はではない、もっと別の場所で数名の友人に話していた。そうすると友人たちは別々に、その噂を広めていく。誰かが話した相手が、それを一蹴しても、別の誰かが話した相手が信じれば、あとは勝手に広がっていく。
一人の否定を多くの人間に聞かれるのはまずいが、その否定が一人だけにしか聞かれないのは、問題ない。
だからネットで流れる世論と、テレビで流れる世論は違う。テレビは否定を殺せる。けどネットは誰かが否定すると、それが等しく全員に読まれてしまう。もちろん、ネットが間違ってることだって多々ある。どっちのメディアも信用ならないという点では同じか。
今度はパソコンの方に向き直った。液晶画面に映っているのは、ネットで拾ってきた情報をまとめた独自のファイル。使えるものはなそうだったが、一応保存してある。
ブラウン管や液晶画面から情報を得ようなんて甘い考えか。いやうちのテレビはもうブラウン管ではないか。まあとにかく、やっぱり明日からまた自分で調べるしかない。
マウスの横に積んであるタバコ箱の塔の一番上の、すでに開いている箱を手にして、そこから一本取り出して吸った。こんなに買い込んだのは、あの悔しさが忘れられないからというのと、明日から最低二箱はもって行かないといけないと思ったからだ。
白い煙を吐きながら、手抜き料理のレシピを頭の中で組み立てていた真っ最中、電話が鳴りはじめた。ただ携帯ではなく、家の電話の方で急いで部屋からでて一階へ降りていく。こういうのがイヤだから、子機を二階においてくれと言ってたのに。
「はいもしもし、蓮見です」
よくある話しだけど、電話にでると少し声を変えてしまわないか。
『あらーっ、レイじゃないの。久しぶりねぇ』
思わず耳から受話器を話す。怒鳴っているときの父ほどの声量が、鼓膜を響かしてきた。心構えをしていなかったから、びっくりしてしまったじゃないか。もちろんこっちの様子なんて知らないから、電話の相手は構わず続ける。
『今は一人なの』
「ああ、そうだよ。父上は帰れないし、兄さんは遅くなるそうだ。にしてもこっちに電話をかけてくるなんて珍しいね、母上」
そうなのよーっと答えてくる声はあきらかに呂律が回っていないし、自分で音量のコントロールが出来ていない。つまりは、べロ酔い状態。まあ陽も暮れてるし呑んだんだろう。激しく。
電話の相手は紛れもなく私の産みの、そして同時に育ての親。つまりは実母だった。
『健一郎に電話したら出てくれなくねぇ、愛妻をなんだと思ってるのかしら』
健一郎とは父のファーストネームだ。結婚生活がもう二五年をすぎているのに、両親は未だに名前で呼びあっている。父はあまり乗り気ではないようだが、母に強要されては断れないのがあの人だから。
「私が父上とさっきまで話していたかだろうね」
『あらそうなの。なんてひどい。妻より娘をとるなんて』
酔った勢いでこんなことを言ってるのではなく、母は素面でも真面目な顔をしてこう怒ることがあり、その度に父は頭を抱えていた。多分、母が再度かけなおすだろうから、また頭を抱えることになる。ご愁傷様、父上。
「今はどの辺にいるのかな」
所在地不明の母の居場所を聞きだそうとするが、やっぱり酔っていらっしゃる。
『うぅん。日本よー、お城が見えるもの』
日本でお城が見える場所なんていっぱいあるし、お城なんて日本以外にもたくさんあるのだけど、そんなのお構いなしのようだ。これ以上聞こうとはしない。そんなのは無駄だと経験上知っているから。
『ああそういえば、また変なことに首をつっこんでるんですって。好きねぇ、あんたもそういうの』
母がこの事実を知っているということは父が報告したんだろう。報告というか相談か。しかし父のことだから事件の概要くらいちゃんと説明してただろう。今世間を賑わしている連続殺人であることは母も知ってるはずだ。それを「変なこと」程度で表すのはいかがなものか。
「心配かい」
これが父や兄ならからかいになるのだが、母には通用しない。
『全然よ。あんたも健一郎も一郎も、こっちが心配したってどうかなるわけじゃないもの』
これが強がって言っているわけではなく、本心からの言葉なのだからもう笑うしかない。実際、母は心配してない。一度父が仕事でけがをしたと連絡が入ったときも、パニックになった私と兄の頭を一度叩いて、生きてるに決まってるでしょうと冷静に断言して見せた。事実そうだったのだから恐れ入る。
どんなことがあったって、母はきっとずっと母のままなんだろう。それが良いところなんだから、変わらないことを祈る。祈るまでもないとは思うけどね。
「嘘でもいいから心配だって言えないかな」
『言って欲しくもないでしょ。それにそういうのを言うのは健一郎の仕事だもの』
どうやら私に心配するのは父だけの仕事らしい。仕事が増えて大変だろう。お勤めご苦労様、本当に。
『それに健一郎が心配したって、言うことなんか聞かないでしょう。なら私がするだけ無駄よ』
「まあ、その通りだね。今更引き返すわけにはいかない」
『ほれみなさい。当たり前よ、あんたが親の言うことを素直に聞くわけないし、物事を途中で放り出すわけない。あたしがそういう風に育てたんだから』
後者の教えは母親として素晴らしい教育だったと思うが、前者はいいのだろうか。親の言うことを素直に聞かない子を育てあげるというのは、何か矛盾してる様にも聞こえる。まあ、そんなことを気にする人じゃないか。事実、母は全くその通りの子をこうやって育てあげたんだから。
私が言えるの一言だけ。この人には、母だけには、適わない。
『ああ、酔いがさめてきちゃったわ。呑み直すわ』
「母上、まだ夜も深くないよ。もっとやることをあるだろうに。お風呂とか。お酒を飲みたいのはそりゃ分かるけどね。順番ってやつをだね」
うだうだと言っているのは母の身を案じてるからでも、本当にそうした方がいいと思ったからでもない。母だけが好きなだけお酒を飲めるというのが許せない。そもそも、禁酒している人間に酔って電話をかけてきて、しかも呑み直すと宣言するなんてどういうつもりだ。いくら実の母でも許されないぞ。
『バカねぇ、順番なんてどうでもいいのよ。あんたの名前だってそう決めたんだから』
私の名前はレイ。兄が一郎だから、そう名付けましょうと母が提案したらしい。兄が生まれたときは男だったので命名権は父に任せられた。そこで父は自分の名前から一部取り、一郎とした。ここまでどこにでもあるお話。
ただ二人目、つまり私が生まれたとき同じ条件で、女の子だったから母に命名権がゆだねられた。父は一生懸命かわいらしい名前でも考えるとでも思っていたらしいが、生後一日も経っていない私を見て、そして次に母の見舞いに来ていた兄を見て、瞬時に決めた。
「じゃあ、この子はレイでいいでしょ」
そもそも妊娠中にも名前なんて考えていなかったらしい。生まれてつければいいと思っていたようだが、生まれたら生まれたで、考えるのが面倒になったそうだ。そこで兄の名前に由来だけいただいた次第である。いかにも私の母らしいエピソードだ。
父はもう少し考えるべきだと主張したが、一度決めたことを簡単に翻すなんてこと母がするわけもなく、結局私ははれて「蓮見レイ」となったわけだ。
「もし三人目の子供が生まれたらどうするつもりだったのさ。まあ、男だったら次郎にでもできただろうけど、女の子だったら」
そのエピソードを初めて聞いたとき、母にそう質問したのを覚えている。すると母は迷うことはなく、こう答えた。
「なんでもいいわ。マイナスとかでいいでしょ」
私自身、こういうところは母に似ていると自覚することもるが、それと同時に母ほどではないと強く思っている。
『順番なんてどうでもいいの。じゃあ、切るわよ。暖かくして寝なさい』
最後の最後で母親らしいことを言い残して、母は日本のどこか、お城の近くに消えていった。これからまた呑んで、騒いで疲れて寝るのだろう。羨ましい。
受話器を置いて、少し微笑んだ。重たいことばかり起きていたので、母の電話はいい気休めにはなった。無茶苦茶な人だけども、中々的を射たことを言ってくれるし、母との会話は本当に落ち着く。なんだかんだで親子だからね。幸せなことに。
しかし本当に、お城の近くってどこだろう。
5
片手に今朝花屋で買ってきた花をもって、屋上へ向いた。立ち入り禁止の場所だが、父に頼んで私は入れてもらえるようにしている。そこまで行くわけではないけど、最低一度は一人で訪れないといけないと思っていたから。
屋上の閑散の中を歩きながら、小林陸と交わしたいくつかの会話を思い出していた。私が“cube”なのかと彼にここで訊いたとき、彼は違うと否定した。俺はそんなのに興味ないとまで言ってみせて。あれを信じたわけじゃなかった。ただ、信じたいとは思った。
悪い意味で、彼が倒れていた場所は、忘れられない。だからその前で立ち止まり、片膝をついてそこに花を置いた。葬儀にも出席したが、ちゃんとこの場で弔ってやりたい。
仁志が素直に白状すれば、こんなことにはならなかったと嘆いていた。そうかもしれないが、私はそれを自信を持って肯定することは出来ない。相手が相手だから、どんな手段を使っても小林陸を死に追いやっていただろう。
過去のことをうんぬんと後悔するのは、人生の無駄だと聞く。確かにそれはそうだろうが、人格というものはどうあっても過去があって成り立つもので、それを捨てては人なんて生きれない。だからどうあっても振り返るし、それによって後悔するのは仕方ない。
何も落ち込みにきたわけじゃない。落ち込んでる暇なんてない。ただ、彼の死をちゃんと悼みたかった。ここで死んだ、殺された、秘密を抱えた男の子の死を。
花を置いて、彼が倒れていた場所をそっと指で撫でていく。ざらざらとしたコンクリートの感触。冷たくて、長時間座っていたら濡れているみたいなっていただろう。彼はここで放置されていたんだ。それを思うと、また怒りが吹きあがってくる。
目をつむって、そのまま黙祷した。無信教なのでここで何か唱える歌もない。
しばらくして目を開けて立ち上がった。
「君が生きていれば、聞きたいことがあったのに」
どうして“cube”であることを隠したのか。今現在、“cube”という組織はどうなっているのか。『主』と接触したことはあるのか……。そんなのきりがない。今更聞き出すこともできないのに、こんなことを考えてしまう。
あれだけ大々的に狙われているのは“cube”だと発表したのに、未だに自らが“cube”だという者が現れない。どうしてだろう。小林陸とは状況が違う。名乗り出た方がメリットがたくさんあるのに、どうして。
そこまでして守りたいプライドってわけじゃないだろう。命より優先すべきものなんて、この世にないだろう。百歩譲ってあったとしても、少なくともそれはこれじゃない。
「なあ、君なら言ってくれたかい」
もしも私が小林陸に“cube”が殺されていると教えていたら、彼は素直に答えてくれただろうか。……もういいか。考えても仕方のないことだ。
タバコを取り出して、その場から離れてフェンスに体重を任せながらくわえた。彼はタバコは体に悪いと言っていたから、あまり近くで吸ってやるのはかわいそうだ。このおいしさを知らず死んでいたことも、やっぱりかわいそうだ。
昨日の反省をもふまえて、今日は鞄にももう一箱ある。気をつけないといけないのは数があると思って、吸いすぎないことだ。健康のためとかじゃなく、財布のために。最近はスモーカーに対する国からの嫌がらせがひどいから。デモでも起こしてやろうか。
恋人との楽しいひとときを終えて、屋上から退場する。屋上の扉を開けたところで振り返る。そういえば同じ様な場面が少し前にあった。
「前に、君が言ったことだけど」
私は彼とした野球対決を思い出す。彼は勝負の前、こう言っていた。
「恨みっこなしだ」
お互いに言いたいことは山ほどあるだろう。けどもう、そういうのはなしだ。私はもう犠牲者を出さないよう尽力する。だから君は、どうか安らかに眠ってくれ。
屋上からの階段を下っていると、思わぬ人物に出会ってしまった。小野夏希が廊下を一人で歩きながら、何かぶつぶつと呟いていた。彼女のことだから何かを考えているのだろう。何をかまでは予想もつかないが。
彼女は私に気づくと、ウェイトレスのように頭を下げてきた。
「こんにちは」
「ああ、こんにちは」
私から彼女との接触をはかることは契約違反。だけど昨日は彼女から、そして今日はたまたま会ったのだからこれは違反にはならない。もちろん彼がこの場を見たら黙ってはいないだろうけど。
「蓮見さんは彼の監視はしないんですか」
昨日、最後の最後でファーストネームで呼んだのだからもういいと思うのに、やはり彼女は彼と呼ぶ。妙なところでプライドが高いな。
「警察の方々に任せているよ。まあ、彼が学校でなにかするとは思えないしね」
それに、彼よりも君の方が気になる。そう素直に告白したら彼女はどういう反応をするだろう。驚くだろうか。いや、きっとそうですかとすました顔して聞き流すだろう。
「昨日も言いましたが彼も私も事件とは無関係です」
「わかっているよ。だから疑われていると思わず、守ってもらっていると思えばいい。君らが本当に無関係なら、しばらくしたら無関係だという結果を警察が出すさ」
今の台詞はちょっとしたテストだったのだが、彼女は見事にそれに合格してみせた。今の台詞を聞いたら普通なら安心するか、強気に出るかだろうが、彼女は違った。瞬時に表情を曇らす。
「それは望みません」
こういうすぐに言葉の真意を突き止めるのはすごいな。
「やっぱりすごいね。そうだね、それは私も望まない」
そう、それは一番望んじゃいけない未来。彼女らが何もしないで、彼女らの無罪が証明される術は一つしかない。『主』の容疑者である荻原治がなにもしていない間に、“cube”候補者の小野夏希が無事で、第四の犠牲者が出ればいい。そうすれば荻原治の無実が証明され、彼女が“cube”の可能性が薄れる。
しかしそれでは、何の意味もない。
「さっきまで少し考えていたんですが」
あのつぶやきはやはり何かを考えていたんだ。
「警察が私たちの無実を証明するのは、実際問題それしかないでしょう。しかし蓮見さんが私たちの無実を証明することは、できますよね。蓮見さんが私たちを信じてくれればいい。組織では無理ですが、個人の感情なら可能なはずです。そして蓮見さんは警察に何らかの繋がりがありそうです。私たちの無実を確信すれば、警察に進言してくれますよね」
彼女は私の家族構成までは知らない。けれど、今までの私の行動で警察にコネクションがあることは見抜いていたらしい。確かに彼女が言うように私が確信すれば父に証言して、監視を完全にとまではいかないが、ある程度おさえるように進言する。
「そうできれば、してあげたいけど」
私の答えに彼女は満足したように笑った。
「では、ここで提案があります」
彼女は右手を自らの胸に当てて、目を私の顔に向けた。
「私を仲間に入れてください」
えっと声が漏れたのは仕方がないことだと思う。それはあまりに唐突な提案だ。
「私だってこのままはいやですから。何かお手伝いすることがあれば、何でもやります」
もしも彼女がどんな立場にも立っていない子だったら、今の提案を断る理由は何一つない。彼女のこの頭の回転は、是非とも近くにいて欲しい。それに今は人手が必要だ。それは大人の警官ではなく、生徒の味方が。
ただ、彼女を喜んで歓迎することはできない。彼女は候補者で、容疑者の恋人。もちろん、無実の可能性もあるが今現在、それを証明することは出来てない。そんな人物を仲間にするのは、どうなんだろうか。
彼女の目を見つめる。その奥の真意を覗けない。ただこれは無実を証明したい少女のまなざしだろうか、何か仕組んでいる妖女の視線だろうか。瞳の中にあるのは願いだろうか、罠だろうか。
「そんなに見つめられると、さすがに照れてしまうね。君は美人だし、その気になってしまう」
「……お答えは」
予想出来た無視だ。こんな茶化しじゃ、誤魔化せないか。
「考えておくよ」
その言葉に嘘偽りはない。彼女が協力してくれるなら心強い。そうじゃなくて、彼女が何か企んでいるにしても、それはそれでチャンスかもしれない。ただ今早急に答えを出すことはやはりできない。
そんなことさえ彼女は分かっていたらしく、表情に変化はなかった。
「一応、本気です。もし本当にそうしてくださるのであれば、ここに連絡を入れて下さい」
彼女は自分の携帯の電話番号を書いた小さなメモ用紙を渡してきた。それを受け取ると、また頭を下げてそのままどこかへ去っていく。彼女にも監視はついているはずだから、私と接触したことも記録に残る。だからどうしたというわけでもないが。
渡されたメモ用紙の番号をいざという時のために暗記して、そして携帯に登録しておいたが、私から彼女を呼び出すことなんてあるだろうか。いや、接触を禁じられているから、そもそもできない。ああ、今になって思いだした。まあ、もらったのだから仕方ないか。ばれるわけじゃないし。
荻原治の監視などは警察に一任しているので私にやることはない。本当なら接触して何か聞き出すのだろうけど、どうせ昨日の出来事でまだ頭に血が上っているに違いなく、そんなとき会いに行っても無駄だ。だから今日はやることがない。だからこそ、屋上へ足を運んでいたわけだが。
生徒会室へ近づくにつれて、何か鼻に違和感があった。もしかして、花粉症にでもなってしまったのだろうか。これは深刻な問題だ。春先のあの出会いに溢れた季節をマスク着用で過ごすなんて、この乙女にはつらすぎる修行だ。あのね、冗談でもなんでもないよ。
ただその違和感は一回のくしゃみですっ飛んでいった。思わず、辺りを見渡す。くしゃみを恥ずかしいと思うあたり、やはり私は乙女だ。否定は許さない。
悲鳴が聞こえてきたのはまさにその時だった。聞き覚えのある少女の悲鳴が鼓膜を揺るがした。聞こえてきたのは、生徒会室の中からで、声の主はおそらく有華ちゃん。急いで生徒会室のドアノブを握り、一気に開放する。
「うっ……」
そこにはついさっきまでとは全く違う風景があった。私が仁志から奪って愛用していた机の上には猫の頭部が、そして来客用のテーブルの上には胴体が、そして部屋の四隅にバラバラにされた手足が無残に置かれていた。思わず鼻を覆ってしまったのは、小動物とはいえ尋常じゃないほどの血液が部屋に溢れていたからだろう。
部屋に少し入った場所で、尻餅をついて震えている有華ちゃんがいた。彼女は相当ショックだったようで、私が入って来たのに気づいて首を回したものの、それ以外の部分は震えでどうにもならないようだった。
「あ、あの、蓮見さん……」
唇も震えているし、歯も噛み合っていない。
「うん、分かっているから。喋らなくていい。とにかく落ち着きなさい」
彼女のもとに駆け寄って、背中をさすってやる。彼女は呼吸を激しくしながら、涙目になってはいたがなんと平静を取り戻そうと鼻をすすり、何かに必死に耐えていた。
心配があたったか。『主』がやられっぱなしをよしとするはずがなく、いずれ必ず報復があるとは思っていた。それが、あの忌まわしい記憶を蘇らせる方法とは、いかにも『主』らしい。全く恐れ入る。ある程度覚悟をしていたからまだ落ち着いていられるが、これが不意打ちだったら私だって有華ちゃんみたいになっていただろう。
彼女を宥めながら、改めて部屋の惨状を確認する。ソファーはナイフかなにかで切り裂けれ、中の綿が出てしまっている。壁にかけていた写真は全て落とされていて、床へ散らばっていた。表面がガラスで出来ていたテーブルは大きなひびがはいっていて、その中心に血まみれに胴体が置いてある。本気で芸術家のつもりか。
私の机の上も物が散乱していたが、どういうわけかパソコンだけは無事で、なぜか電源がついていた。有華ちゃんから離れて、パソコンの前に立つとワードが開かれていて、大きな赤い文字でメッセージが書かれていた。
『あなたのせい』
あの時とまるで一緒。なるほど、人のトラウマで遊ぶのが趣味らしい。心の底から憎くて仕方がない。危うく机を拳で殴りそうになった衝動を、なんとかかみ殺す。ここは一応、犯行現場だ。むやみに荒らすわけにはいかない。
「有華ちゃん、悪いけど警察官を呼んできてもらえないかな」
彼女はなんとか落ち着いたようで、膝が少し震えていたものの、なんとか立ち上がっていた。ここに長時間いさせるのは得策じゃないだろう。彼女は私の指示に言葉ではなく、うなずきで返して、転ぶんじゃないかという足取りで部屋から出て行った。
彼女が出て行ったあと、現場のものを動かさないように部屋中を見て回る。できることなら、猫の切断された手足など見たくはないが、そこも一応注視しておく。
私がここを出たのは十五分ほど前。犯人はその間を狙い撃ちしたことになる。私の行動をしる人物はない。今日屋上に足を運んだのは予定されたことではなかった。だから、私が部屋をあけるのを見計らっていたんだろう。
一番怪しいのはもちろん荻原治と小野夏希だが、彼らにはアリバイがあるだろう。荻原治は監視されていたはずだし、小野夏希にいたっては私が証人だ。なるほど、二人とも見事にアリバイが成立しているじゃないか。くしくも、さっき小野夏希とかわした会話と同じだ。
二人が見張られているときに、犯行が起きれば二人の無実は証明される。
「……できすぎだろう」
さっきの小野夏希の提案が思い浮かぶ。仲間にしてください、か。この調子じゃ、ちょっとその願いはきけない。君はあまりにできすぎだよ。本当に無実だから必然的にこうなっているのかも知れないけど、私はそうは思えないんだよね。
部屋を見渡しているときに、私はふとあることに気がついた。それはどう考えても、おかしく納得できないもので、明らかに事件と関係しているように思えて仕方がなかった。しばらくの間、その事実に打ちひしがれている。
それから少ししてから制服を着た二人の警官が足音をたてながら部屋に入ってきた。二人とも部屋に入るなり一気に顔を強ばらせる。一人の警官が部屋の状況をじっくり見つめながら、無線で仲間に報告をし出したので、残った一人に私は、何かを訊かれる前に告げる。
「部屋から無くなったものがあります」
それを聞くなり警官は、すぐさま胸元から手帳を取り出して、どうぞと続きを促す。
「荻原治の写真が消えました」
私の足下に散らばった何枚もの写真。ただ、その中に荻原治を収めていたものだけが無くなっていた。
生徒会室は元々仁志が生徒会長という職権を乱用して、独占していたもんだった。それを私がほとんど強奪にちかい形で我がものにしていたのだが、そんな部屋も今も何人もの警察が入っている。ことがことだけに鑑識も派遣されていた。
その様子を扉の外から、彼らの仕事の邪魔にならないように見つめていたら、隣に誰かが立った。私はその人を見向きもしない。誰かは雰囲気でわかったから。
「鴻池君は今別室でほかの刑事が質問している」
父に報告されるまでもなく、彼女の姿が見られなかったからそれくらいは分かっていた。彼女は第一発見者なのだから、質問することがいくつかあるだろう。
「それで父上は、私担当かい」
「お前からは警官がさんざん聞いただろう」
じゃあ、娘の使用していた部屋が荒らされたと報告を聞いて、ただただ駆けつけただけか。私のことになると熱くなるのは、嬉しいけど、やめてほしいね。
「……荻原の写真だけか」
それが部屋からなくなったものが、という文脈の質問であることは分かる。
「確認できたのはね。けど、事件の関係品で消えたのはそれだけだと思うよ。パソコンのデータでさえ生きていたから。資料をまとめたファイルも無傷だ。本当に、あれだけが消えてる」
あとは私の私物と、もともと生徒会室にあったもの。それらは壊されたり、血で汚されたりはしていたものの、なくなってはいなかった。どちらかというその有様を見せて私にダメージを与えようとする意志が伺えた。
「じゃあ、やはり荻原がそうしたのか」
「……父上、本気で言っているのかい」
父は私の少しバカにしたような問いに、むすっとした。
「そう考えるのが一番妥当だろ」
妥当か妥当じゃないかと言われれば、それは妥当なんだろう。しかし、それだけで物事を判断していいわけがない。
「できすぎてるじゃないか。荻原がこんなことしても無意味だ。そもそも、彼にはアリバイがあるんじゃないか」
そこを指摘すると父は顔をあからさまにしかめた。やはり、そうだろう。ここで彼のアリバイがないわけがない。
「言っておくけど、小野夏希にもアリバイはあるよ。私が証人だ」
こうは言っているが私は荻原治ほど小野夏希の無実を信じる気にはなれなかった。私と彼女が話したのは少しの間。あの前に犯行に及んでいた可能性もある。ただ、そうした場合、あんなにのんきに廊下を歩いているだろうか。
「……荻原は食堂で友達と喋っていたそうだ」
それはそれは立派なアリバイだ。友人以外にも、食堂にいた人間の多くが証人になれるだろう。友人だけなら疑いの余地も残るが、第三者の証言は強い。いや、警察がちゃんと監視していたはずだからそんなものさえ不要なはずだ。
「私だけかな。何か、私たちは踊らされてるように思えてならないよ」
これはもう小野夏希と荻原治が怪しいとなってきたときから抱いていた不安だった。できすぎてる。何か、そうやって誰かに誘導されているように思えてならない。そして誘導は、『主』の得意分野。偶然と考えられない。
「お前が言いたいこともわかるが、共犯者がいないとは言えない。怪しいと思われた以上、彼らは徹底的にマークする」
「マークするのはかまわない。それは私だって望んでいる。ただ、彼らにばかり目をやっていると……何か、いけない気がするんだよ」
論理的根拠というものはない。強いて言うなら、荻原治が写真を取る必要がないのに写真が消えたことだ。確かにあれは私が彼を疑うきっかけになったものだが、あれが法的な拘束力はない。証拠能力は皆無だ。なのに、どうしてとる必要がある。そもそもどこかに焼き回しやデータが残ってることくらい、可能性としては普通に考えられるのに。
「警察もバカじゃない。お前の心配だって考慮している。今回の件で、それも強くなるだろう」
「本当かい」
私は父を信用している。それは血のつながりとかではなく、一人の人間として十分に尊敬にたる人物だからだ。ただ警察という組織をそこまで信用していない。あそこの役所仕事は、好きにはなれないから。
父はそんな私の心情を察して、大きく執拗にうなずいた。
「本当だ、約束してやる。父親を信じなさい。嘘だったらなんだってしてやる」
父はもう十分すぎるほどに信じている。けど、いちいちそれを口にするのは野暮ってものだ。ちなみに、私が記憶している限り父が私との約束を破ったことはない。どんなに無理をしても、それを果たしてくれた。だから、これ以上はなにも言わない。
何だってしてくれるというのは、ちょっと面白そうなんだけどね。
ちょうどその時、部屋の検視をしていた警官がよってきた。
「すいません、少し見ていただきたいものがあります」
父と私は言われるままに部屋に入り、警官が指さす場所へ向かった。そこはソファーの下で、私は床に手をついてそこをのぞき込んだ。ほこりがうっすら積もった、薄暗い闇の中に何かがあった。
「……トンカチか」
父のつぶやきでそれが家庭用具用のトンカチであることが分かった。
「そういえばガラスのテーブルが割られていたね。どこまでも挑戦的じゃないか」
うっかり忘れていったというのは、少し考えにくい。というかこの場合、それはのぞくべきだろう。わざわざソファーの下に隠していたのは、警察や私に発見させて手がかりをつかんだ様に思わせるため。うっかり忘れたんなら、こんなところにはない。
ただ、可能性はもう一つあるけど。
「指紋なんて、でないだろうね」
立ち上がりながら予想を垂れると、父も頷いていた。どうせ手袋か何かをしていたに違いない。
「まあ、何かの役にはたつだろう。指紋だけが証拠じゃない」
柄についた手汗などから検出されたDNAも証拠になる。 それくらい相手だって知っているだろう。だから、そうトンカチを慎重に回収するように指示を出す父の表情にもあからさまな苦々しさが浮かび上がっている。
『主』はこう言ってきている。お前等には、DNAをとることもできない、と。
「うわっ……」
その絶句が聞こえた方を見ると、仁志が部屋の中を見渡しながら呆然としていた。
「ああ、ひぃ君。やられちゃったよ」
つとめて明るく教えてあげたのに、仁志はそんなの聞こえなかったのは目の焦点を合わさず口をぱくぱくさせている。
「……まあ、元々は君のお気に入りの部屋だったからね。ショックか」
そういえばここは彼の思い出の場所でもあったりする。そこがこうまで荒らされては、いくらなんでも平然とはしてられない。
「父上、ちょっとひぃ君を慰めてくるから」
ここはもう「現場」になってしまったので、あんまり長居してはいけなかったし、あの状態の仁志を放っておくのは姉貴分としては心が痛む。
「また何かあったら呼び出すから、携帯はいつでも出れるようにしておきなさい」
「分かったよ。あっ、そうそう」
部屋を出る直前で体の向きを百八十度回転させて、父に向き直った。
「写真の件はふせといた方がいいと思うよ。いざというとき、切り札になるかもしれない」
これくらいは勧めることもないと思ったが、一応口を挟んでおいた。父は分かったと答えると、本部の人と連絡をとるためか携帯を取り出す。そんな父の近くでは鑑識の人が、ソファーの下のトンカチを回収していた。
その光景を背中に、固まっている仁志を食堂へ連れ出す。まあ、とにかく何か飲めば少しは落ち着くだろう。
そういえばあの部屋においてあったインスタントコーヒーもひっくり返されていた。喉が渇いたことだし、私も何か飲もう。
6
「婆さんにあんな広い心があったなんて、こりゃ世紀の大発見だよ。私は腰を抜かしそうになった。学会で発表してもいいね」
熱弁する私の隣に座っているのは、あいかわらず無口な海野先生。生徒会室襲撃事件の翌日の今日、警察からあの部屋の使用を控えるように薦められた私は、断られるだろうと思いながらも春日の婆さんに開いている部屋があるなら貸して欲しいと頼みにいった。
「どうせネチネチとへんな理屈を言って断るもんだとばかり思っていたんだけどね。なんか二つ返事だった。ああ、いいわよって。何かな、嵐でも来るのかな。先生、傘を買っといた方がいいよ、とびきり丈夫な奴を」
ついさっきまでの私と婆さんはこの話しを、隣の学園長室でしていた。長くなるかもしれないと思っていたけど、婆さんがすぐに許可を出したのですんなりと終わった。あまりに拍子抜けな展開で、現実かどうか見極めるのに時間がかかった。
そしてその感動を職員室にいた海野先生に聞いてもらっている。聞いてもらっていると言っても、先生は書類と向き合っていて顔もあげず相槌もしない。私が一方的に話しているに過ぎない。けど別にそれはいい。在学中ならこういうことが多々あった。そしてたいていの場合、先生はちゃんと聞いている。
「それで、どこの部屋を使わしてもらえるんだ」
ほら、やっぱりちゃんと聞いていた。
「進路相談室だってさ。まあ、あそこはオープンスクールのときに手伝いの生徒の休憩室に使われるくらいだから、常に空き部屋だったしね」
進路相談室はその名の通り、在学生が進路を相談する部屋だが使われることはない。進路相談なら担任の先生や、仲のいい先生とする生徒が大半で、そうなると相談場所は普通の教室だったり職員室になったりする。人に聞かれたくないという生徒が、たまにあそこで相談してくださいということもあるそうだが、人のいない場所なら他をあってもらおうことになった。
「まあ、生徒会室の方が居心地は良かったんだけどね。贅沢は言えないさ」
生徒会室は備品だけなら安物とはいえ学園長室クラスのものを揃えていたので、あそこが使えなくなったのは少し惜しい。しかも部屋の持ち主が事実上仁志だったので、勝手に入り浸っても占拠しても何の問題も起きなかった。
ただあそこ以外を使うとなると流石に勝手にすることできないので婆さんに許可を求めた次第だけど。
「……以前からそうじゃないかと思っていたんだ」
海野先生が私の顔を見つめて、ため息をついた。
「お前、どうしてこの学校に居座っているのか。小林がああなる前なら警察が介入していなかったら、お前がいたんだろう。けど、それ以後は明らかに違う」
ああ、これは少し怒っていらっしゃる。確かに、この事実は海野先生の性格からして面白い物ではないだろう。
「お前は犯人がいざ襲ってきたとき、その標的を自分だけにしているんだな。だから特定の部屋に居座ろうしている。そうしないと、他の生徒を巻き込みかねないから」
この学校に乗り込むと決めた段階で、私はいずれ『主』に攻撃されると考えていた。それがどういう方法かまでは予想がつかないので、とにかく相手が私を狙いやすいようにしておかないといけないと思った。そうしなければ、ここにいる生徒たちに被害が及んでしまう。それはある意味、私が一番嫌な展開。『主』好みの展開ではあるが。
「仁志や有華ちゃんを仲間に入れるとき、狙われるとしたらまずは私だって言った。あれは嘘でも何でもなく、覚悟だったんだよね」
殺人者に挑むのだから、相当の覚悟がなければいけない。あの時も、そして今も、私はある程度の覚悟をして行動している。小林陸が殺されたことは、屈辱的ではあるが、彼は“cube”だった。狙われて然るべき。けど、他の生徒たちはそういうわけにはいかない。
彼らが殺されるなら、私が殺された方がいい。
「怒ってるね」
「お前が放送室を乗っ取ったときでさえ、こんなには怒っていなかった」
懐かしい学生時代の思い出だ。あの時はそれなりに叱られた記憶がある。なるほど、それ以上か。相当じゃないか。
「言ったはずだ、お前は俺の生徒だ」
以前、食堂でそう言ってくれたのを思い出す。
「俺は、もう二度と生徒を殺されたくはない」
あの時、小林陸の死体を見たときの先生の顔に浮かんだ絶望の色。駆け寄ろうとする先生をとめた私を見たときの怒りの目。私と婆さんの言い争いを終わらせた後にした、あの悲しみの嗚咽。それら全て、私の記憶にちゃんと残っている。できれば先生には二度とあんな表情になってほしくないし、あんな目をしないでほしいし、あんな泣き声を聞かさないで欲しい。
「私だって死にたかないさ。覚悟の問題だよ」
「覚悟というなら死ぬ覚悟じゃなく、生き抜く覚悟をするべきだ」
なにやらものすごく哲学的な会話になってないか。いや、先生が言いたいことはちゃんと分かってる。
「簡単には死んでやらないさ、安心してよ」
死ぬ覚悟でいるというだけで、死ぬつもりではない。こうみえてもまだ十九の女。やりたいこともまだまだたくさんある。それに、死ぬなと言う命令なら、もうすでに友人からうけている。彼女言葉に背くことは出来ないだろう。彼女を怒らすと色々と怖いから。
「なら、いい」
今の答えだけで満足したわけではないだろうが、先生はそれで黙った。恐らく、これ以上私に生きろというのは重荷でしかないと察したのだろう。この人のために、やすやすと殺されるわけにはいかない。
「まあ、部屋を貸してもらうのはそういう狙いもあるけど、一番は落ち着ける場所が欲しいんだよ。だから、婆さんが許可してくれて本当に助かったさ」
「あの人も今は必死だからな」
「そうだね。昔のあの人なら私に力を貸すなんてありえないことだよ。やっぱり責任者としての選択をしているんだろうね」
そうじゃないとあの人が好きこのんで私に協力するはずない。そう思って私が同意したのに、先生は違うと首を左右に振った。
「それ以前に、この学校で死人が出るのが嫌なんだろう。ここはあの人の母校でもあるし」
思わず動きをとめてしまった。それは初めて聞く事実だ。
「あの婆さん、ここの卒業生なのか」
「ああ、学校関係者じゃただ一人、ここの卒業生だ。だから今だって、誰よりも必死だよ。以前から運営にも人一倍力をいれていた」
なるほどなるほど、ここはあの人にとっても思い出の地、青春の場所だったのか。しかし、これは驚かざるをえない。あの人、今まで微塵もそんなことは言わなかった。私はてっきり、ただ責任者として事務的に仕事をしているだけかと思っていたんだが、どうやら違うようだ。
私と婆さんが先輩後輩関係にあたるなんてね。
「だから、今回の事件には人一番傷ついているし、責任を感じているはずだ」
小林陸の死体を見たとき、婆さんは完全に平静を失っていた。それほどまでに、彼女にとってこの場所で悲劇が起こるということは、嫌だったんだろう。そんな彼女を責め立てたのかと思い出すと、少し苦々しい。
だから、使えるかどうかも分からない私まで頼って、事件解決を願っているのか。
「……嫌な話を聞いたよ」
それは本当に嫌な話しだ。あの婆さんを先輩だと思うのも嫌だし、何かこっちまでよくわからない重荷を背負わされた気分になってしまった。
「嫌な話か」
「ああ、嫌な話だね。もっとがんばらないと、だめな気になった」
椅子から立ち上がって職員室を出ていく。背中に海野先生の、お前らしいなという否定したくてもできない言葉を受けながら。
丁度、そのときに昼休みの始まりを告げるチャイムが鳴り、教室から次々と生徒たちが出てくる。私を見て挨拶をする子もいるが、あからさまに嫌悪を表す生徒もいる。
いい加減に部外者は出ていくべきだろうとは思う。いくら卒業生でも、ここに長居しすぎだ。長居して何か結果を残しているならともかく、一人死なせてしまっているという結果しか残せていないのだから、嫌われても文句は言えない。
私もお腹が空いたので、食堂に向かった。そしてたまたま仁志と遭遇した。彼は昼食の菓子パンを二個と紙パックの牛乳を抱えて、階段を上ってきた。
「おや、ひぃ君、どこかにピクニックでも行くのかい。今日は天気もいいしね、確かに外で食べたら気持ちいいだろうね。私も行きたい」
「あんたにピクニックなんて似合わねぇよ、この呑んだくれ」
これでも今は禁酒しているというのに、そんなことを言われるなんて。
「ひどいことを言うね。けど教えてあげおう。呑んだくれっていうのは誉め言葉だよ」
あとついでにいうなら愛煙家、ヘビースモーカー、アルコール中毒などもすべて私にいわせれば誉め言葉だ。恋人であるニコチンとアルコールをそこまで愛せるなんて、誇らしいじゃないか。そこらのロマンス映画に出てくるカップルよりも深く愛し合っている私たちには似つかわしい。
仁志はそれを全く理解せず、バカと罵ってきた。何を言うか。
「俺は今から二年の女子たちと食事だよ。小野夏希について情報収集したときに教えてくれた子たちでさ、一緒に食事するって約束なんだよ」
「あらモテモテじゃないか。私という存在を忘れずにね」
仁志は普通にしていたらモテるとは思う。小学生の頃の彼じゃ考えられないことだが、今は普通に女の子とも話せる。ルックスも悪くないし、生徒会長としてもがんばっている。彼女がいないのが、周りからしたら不思議だろう。
「ふざけんなよ。話すだけだ」
仁志は誰にも話してないが、すでに恋人はいる。それを彼は必死で隠している。残念なことに私ではない。時々、私もその彼女と会って食事をする。この事件が起きるまで仁志の近況報告は全て彼女から聞いていた。近所に住んでいるのに、彼は私を避けているから会えない場合が多いからね。
「そうかい。安心しなよ、浮気は黙っておいてあげるから」
あっかんべえをしてくる仁志に手を振って別れて、食堂へ向かった。込み合っている売店からサンドウィッチとゼリーを二つ買って、食堂の外にあった自販機で缶コーヒーを買い、気分が向いたので中庭に向かった。
この学校の中庭は植物園みたいな状態になっている。なんでも創設者が緑が好きで、中庭をとにかく豪華に作ったらしい。嘘か本当か分からないが、少なくとも今もその緑を維持するために結構な維持費を毎年払っているそうだ。
ただそんな緑の中で食事をとったり、遊んだりおしゃべりをする生徒は少ない。どうしてか。ここはいわゆるデートスポットだからだ。ここに居座るのはたいていカップルだ。一組のカップルがいたら、もう入れない。
そして今日もその緑の中にある三つ並んだ白いベンチの真ん中に一組のカップルが座っていた。これは予想外の収穫だ。ある意味運命かもしれない。
「あら、お客さんですね」
そう声をあげたのは彼女、小野夏希の方だった。私の方を見て、こんにちはと頭を下げる。そして彼女の言葉で初めて私の存在に気がついた彼氏、荻原治が不快感たっぷりの視線を送ってくる。
「お邪魔するよ、お二人さん」
彼らの右側のベンチに腰を下ろした。丁度いい、ちょっと話を聞かせてもらおう。
もちろん、素直に答えてくれるなら。
「約束が違うじゃねぇかよ」
私の来訪、つまりはデートの妨害に荻原治は当たり前だが猛抗議をしだした。ベンチから立ち上がって、声をあらげる。
「あんたは夏希さんには近づかないって言っただろうがっ」
ただこの抗議は彼が正しい。確かに私は彼とそう約束したのだから。
「私はここに食事をしにきただけさ。ほら、天気がいいからね」
事実、今日は暑くもなく寒くもないくせに、太陽はさんさんと輝いていて、こんな日にひなたぼっこをしたら最高だろう。ただそれを彼は分からないようだ。
「そんなことどうだっていいだよ。約束はどうしたって言ってんだ」
素直に破りましたと答えたら、もっと怒るだろうな。でもここで会ったのは偶然なので、どう言っていいものか。たまたま会いましたって言えば信じてもらえると思えない。
「治、その話なんですけど」
小野夏希は彼が怒ってることなど気に介さず、落ち着いた声を放った。
「実はあの約束は無意味なんです」
彼女の言葉で止まった荻原治を端に、小野夏希は淡々とあの約束がどういうふうに無意味なのか、ゆっくりと説明していった。そしてそれが終わると、一息吐いて彼を見る。
「分かりましたか」
なんか先生と生徒みたいだな。
「じゃあ何だよ。こいつはそれを分かってって俺とあの約束をしたのかよ」
「そうです。まさか本当に何もしないと思ったんですか」
思ったんだろうね。いや、むしろ思ってもらわないと困ったことになってた。
「一応言っておくけどね、約束は守るつもりでいたよ。今日は本当にたまたまなんだから。あれだよ、よく言うだろう、運命の赤い糸ってやつだね」
有華ちゃんでもいたら笑ってくれただろうに、この二人はくすりともしない。人がせっかくロマンチックなことを言ってるわけだから、もうちょっと何かリアクションというものをしてみせてほしい。
「ふざけんなよ。じゃあ帰れよ」
「帰るもなにも、私は今から食事さ」
そう言って手に持っていたサンドウィッチを掲げて見せた。
「別の場所で食えって言ってんだよ」
「嫌だね。今日はここで食べたい気分なんだよ。分かるかな」
分かってもらう必要はない。だって、何があろうとここで食べるから。
荻原治はどうあっても私が動かないことを察したのか、座っていた小野夏希の腕をつかんで、立つように勧めた。
「別のとこ行こうぜ」
相手が動かないなら、こっちが動くまでだというわけか。なるほど、正しい判断。
ただ、彼氏の方とは対照的で小野夏希はいたって落ち着いていて、ベンチから立つ気配はない。どうやら彼女は私がここにいることを承認してくれるらしい。ありがたいかぎりだね。
「蓮見さん、何かお話があるんですよね」
「うぅん、どうだろうか。何度も言うようだけど今日は本当に偶然だから。何かお話があるかと言われれば、ないね。ただ君らから聞きたい話しならいくつかある」
私の返答に小野夏希はこくんと小さく頷いた。そして自身の腕をつかんでいた荻原治の手をそっと引き離す。驚くほど力を入れてないように見えた。
「いいじゃないですか。話しをしましょう」
私の提案をのんだ彼女を、荻原治は不満げに見つめる。しかし、その視線に返ってくるのは、ただただ穏やかでどこか優しげな彼女のほほえみだった。
「私たちの無罪を証明するチャンスですよ」
完全に納得してはいないようだったが、彼は腕を組んでベンチに座りなおした。どうやら彼女にはあまり逆らえないそうだ。なるほど、飼い慣らしてるって噂は過激表現ではなかったわけだ。
「お話を始める前に状況をまとめます。蓮見さんは現在、この学校で起きている連続殺人の犯人を追っている。そしてその犯人は“cube”をねらっていて、治はその犯人の容疑が、私には“cube”の疑いがかけられている。これでいいですか」
彼女のまとめに私が頷くと、さっそく荻原治が舌打ちとともに反論を始める。
「ありえねぇだろ。なんで俺が誰かもしらねぇ奴らを殺さないといけないんだよ。ふざけんな」
ふざけてるわけがない。みんなして大まじめだ。
「今現在、犯人は快楽殺人者じゃないかとみられてるんだ。だから、動機はあまり重要視されていない」
もちろん、これには疑いが残る。しかし現段階でこれ以上の推理の発展はできない。動機を聞いた二人は、やはり釈然としていなかった。これで納得なんてできるわけないか。
「それは、少しおかしくないですか。快楽殺人者なら、そんな容疑者がしぼられる人間ばかり殺すとは思えません」
小野夏希の指摘は私がずっと不思議に思っていることだった。
「それは分かっている。だからこそみんな頭を抱えているわけだよ」
サンドウィッチを頬張る。ここの食堂のサンドウィッチの卵サンドにはホテルのシェフもびっくりするだろうくらいにおいしい。私も何度か家で同じ味を作ろうかと思って挑戦してみたが、未だにできない。
「じゃあ、何だよ。何の根拠もないのに疑っているのかよ」
荻原治がバカにしたように鼻で笑ってくる。
「君らを疑う根拠はある。どういう理由かは私からは説明できないが、小野君は分かってるよね」
彼女は私とのファーストコンタクトの時、自分がどうして疑われているのかを推理してみせた。そして今はなくなった荻原治の写真も見てるので、彼が疑われてる理由も予想はついているだろう。
彼女ははいと返事をして、荻原治を見た。
「無根拠というわけじゃない。それは私が保証します」
彼女の言葉は絶対のようで、荻原はそれで黙った。すごい。
「君らが犯人じゃない、“cube”じゃないという主張はちゃんと聞いてる。別に君らだけを疑ってるわけじゃない。可能性の一つで、君らはその数字が少し大きい」
警察が他の生徒も“cube”じゃないかとマークしてるのは分かってる。現在、有力な『主』候補は荻原治以外いないのであまりそっちには力は入れれていないだろうが。
「つまりは、警察は私たち以外もちゃんと調査している。私たちは可能性の一つに過ぎない。ただ、蓮見さんから見れば私たちは無視できないほど、大きな可能性なんですね」
「私という人間は一人だ。そりゃ頼もしい協力者もいるけど、それでもできることなんて限られてる。だから、私としてターゲットを君らに絞ってる。ただそれだけだよ。それこそ“cube”みたいに組織だったらよかったのにね」
“cube”みたいに組織だったら、そりゃあ楽だったろうな。私たちは今、三人調査している。それが倍になるわけだから、考えただけでうらやましい。ただ、“cube”みたいな組織は嫌だ。いやそもそもあの組織は組織力はないから、調査向きではないか。
「君らが無実だって証拠が出れば、私だって約束通り謝って、すぐ消えるさ。ただ今、それは出来ない」
「なんでだよ。ちゃんと聞いてるぞ。昨日、あんたの部屋、襲われたらしいじゃねぇかよ。俺も夏希さんもアリバイがある。これで無実だろうが」
荻原治の主張はもちろん、警察や私だって考慮した。そういえばあのトンカチからは意外なことに拭き取った後が検出されたらしい。なんとかDNAも取れるかもしれないと父が言っていた。後は科捜研の仕事だそうだ。検討を祈る。
しかし、手袋痕ではなく拭き取った痕跡が残っていたということは、素手で持っていたということだ。全く、どこまで挑発出来だな。そこまで余裕をかまされると、鼻っ柱をへし折りたくなる。
「荻原君、君、今この場で共犯者がいないと証明できるかい」
共犯者の可能性を示唆したのは父で、私はそれに否定的だ。彼は私の質問にぽかんとした後、すぐさま顔を紅潮させて怒りを露わにする。
「そんなんじゃ、ずっと無実なんて証明できねぇよっ。あんたはどうしたって俺を犯人にしたいだけじゃねぇか」
最後に拳でベンチを殴りつける。木製のこれを素手で殴るのは痛いはずだが、そんな表情はしない。強がっているんじゃなく、痛みなんて感じる暇はないようだ。
彼の主張は全面的に正しい。こんなことを言い始めたら堂々巡りになるのは目に見えていて、この議論に意味はない。だから私は共犯者なんて可能性は考えていない。ただ、だからと言って彼らの無実をすぐさま認められない。
「蓮見さん、それは暴論ですよ。さっきは快楽殺人者といいながら、今度は共犯者。これではどんな事件も動機もトリックもいらなくなります。殺したのは、殺したかったから。方法は、協力者がいたからできた。こんなの無茶苦茶でしょう」
小野夏希の主張は冷静で、異を唱えられない。確かに私の言葉をそのままにすると、世の推理小説なんてどれもそれで片付けられてしまう。もちろんこれは推理小説ではないが、無茶苦茶なのは変わりない。
「……ならはっきり言おうか。私は共犯者なんて考えてないよ。そもそも数名を殺すリスクを共に背負うなんて、現実的じゃないよ。もちろん、それがないとは言わない。けど君らの言うとおりだ。だけど、君らは、だからこそ、疑わしい」
荻原治の方は私の持論を理解し難いという顔つきだったが、さすがに小野夏希の方は違った。すぐさま理解して、さっきまで醸し出していた不信感を、すっと引っ込める。
「なるほど。確かに、できすぎていますね」
未だに状況を把握しきれていない彼氏の方に恋人が説明を始める。
「私たちが犯人じゃないか、“cube”じゃないかと疑われた翌日に蓮見さんの部屋が襲われた。それも私たちがアリバイのある時間に。私たちからすれば当たり前ですけど、第三者から見れば、できすぎているとも思われる」
できすぎてる。それは小野夏希と荻原治が容疑者リストにあがったときから、感じている。どうして恋人同士がそんな被害者候補と加害者候補に名を連ねるのか。まるで「無視できないでだろ」と、誰かが仕組んでいるようにも見える。そういう意味でできすぎ。
ただ、もし二人が本当に『主』か“cube”だったら、これもこれでかなり疑わしい。彼女の言うとおり、まるで「無実でしょう」と脅された気分になる。これはこれでできすぎ。
どのみち操られてる感じがしてならない。
「それじゃあ、俺たちの無実はどうやったら証明されるんだよ」
彼氏の方の疑問に彼女は複雑な表情をする。それをどういうことを意味するか分かっているから。
「……それは次の被害者が出たら、必ず」
初めて彼女の言葉が濁り、言いよどむ。
「バカを言わないでくれ。そんなことなってたまるか。そのために誰も彼も血眼になっているんだ」
彼女がまだ言葉を続けようとしていたが、そこで割り込んだ。それだけは絶対にあっちゃいけない。脳裏に屋上で血まみれで倒れていた小林陸の姿と、炎に包まれた茜ちゃんの姿がよぎった。
「では、蓮見さんは何か秘策があるんですか」
「……今分かっていることだけで、次の被害者が出るまでに犯人を特定する」
小野夏希の表情に失望が浮かぶ。そんなことは、ずっとやっていることじゃないんですか。口にはしないがそう目で責めてくる。
「なんなんだよ、結局何にも分かって無くて、しょうがないから俺等に張り付いてるだけじゃねぇか。そんなので犯人なんて分かるかよ。どうせ次も殺されるぞ。あんたらのせいでな」
「治っ!」
荻原治の罵倒にはどこも間違ってるところはなく、その予言は当たってしまうかもしれない。悔しいが反論できない。奥歯を噛み締めて、何とか怒りを耐えてみる。怒りの矛先は彼ではない。『主』であり、私自身だ。
まだ言葉を続けようとする荻原治を抑えたのは、小野夏希の似つかわしくない大声だった。恐らく、彼も聞いたこともないくらい大きさだったのだろう目を見開いて驚いた後、また舌打ちをして彼女から目をそらした。
「すいません。苛立っているんです。ただ……」
「分かっている。こっちにだって非はあるんだから、謝ることじゃない」
彼が苛立つ理由は充分に分かっている。疑われている理由ははっきりさせないくせに、調査はろくに進んでいなくて、あげく無実を証明する方法はほとんど無いと聞かされては汚い言葉も使いたくなる。
「蓮見さん、事件の話しはもういいでしょう。質問にうつってください。さっきのお詫びで答えられるなら、全て素直に答えます」
「ありがたいね。じゃあ、早速……小野君、君は“cube”についてどう思う?」
小野夏希が質問に眉を寄せる。何が言いたいのか分からないと言いたげだ。
「話しによると君はあの組織を無意味だって評したらしいね。その真意が知りたいんだ」
「……ああ、あの話しですか。よくそこまで調べていますね。はい、私はあの組織は無意味だと思います。どういう仕事をしているのかも、メンバーが誰なのかも分からない組織なんて、第三者からすればあるのかないのかもはっきりしないものです。はっきりしたところで、存在価値があるのか、ないのか」
彼女は第三者という言葉だけ妙に強調していた。無意識ってわけじゃないだろ。
私は在学中、二年間だけだけど“cube”だったからそんなことは思わなかった。ただ、“cube”ではないと自称している小野夏希からすれば、“cube”というのはその程度の組織だったのかもしれない。冷静な彼女だからこそ、そう見えるのだろう。他の生徒たちはあの組織のミステリアスさから噂を無条件で信じているから。
「それに一番納得できないのは、あんなのは秘密結社でもなんでもないということです」
「ほう。それはどういうことかな」
それは噂では聞けなかった意見だったので、突っ込んで聞いてみたいと思い質問してみると彼女は微笑んで、逆質問をしてきた。
「蓮見さん、完全犯罪の意味をご存じですか」
危険な単語が飛び出してきたが、それで彼女が言いたいことは分かった。
「なるほどね。知っているよ。よくドラマや漫画では、事件が解決しないことが完全犯罪みたいに描かれているけど、あれは間違いだよね。本来、完全犯罪っていうのはその罪が行われたことすら知られないこと、だろう」
だからひとたび事件が発覚すればそれが解決されまいと、それは完全犯罪じゃなくなる。ただの未解決事件。コールドケースとも言うらしい。少なくとも、パーフェクトクライムじゃない。
つまり『完全犯罪』とはどこまでも『完全』ではじめて、それとなる。おそらく彼女が言いたいのは“cube”が抱える矛盾だ。言われて初めて、私も気づいた。
「はい。私はつまり、秘密結社といいながら、その存在がもう全校生徒に知れている時点で、秘密結社ではないと思うんです。どこが秘密なのか、私にはさっぱりです」
やはり彼女に話しを聞いたのは正解だった。こういう意見は誰からでも聞けるわけじゃない。なるほど、確かにそんなものは『秘密』ではない。よくテレビ番組などでフリーメイソンが世界を代表する秘密結社として扱われるが、世界を代表する秘密結社がテレビ番組ごときに特集を組まれるわけもなく、あれは嘘っぱちだと踏んでいる。実際、ただの社交クラブだと聞くしね。彼女が言っているのはそれと同じ理屈だ。
彼女は持っていたペットボトルのお茶を一口飲むと、それをベンチに置いて再度私に目を向ける。
「そうだとは思いませんか」
「君に言われるまでそうは考えていなかったよ。確かにそれはそうだね」
思わず唇が綻んでしまう。本当に面白い意見だ。素直に彼女の持論を堪能し、驚いていたのにそれに水を差す者がいた。もちろん、この場には三人しかいなくてその人物が誰であるかは説明する必要もない。
「なんだよ、ちゃんと噂、聞いてないのかよ」
さっきまでずっと目をそらして私も彼女も見ようとしなかった荻原治が、笑いながら私の方を見てくる。完全に人を小馬鹿にした目つきだ。
「それでも探偵かよ。いいか、“cube”ってのは昔は完全に秘密だったんだよ。その存在自体、誰にも知られることなく、ただ水面下でその仕事をこなしていたんだ」
彼が楽しそうに語っている内容を私は興味深く聞いていたが、この時同時にある確信が生まれた。ただそれを今は口に出さない。話しを聞けなくなるのは非常に惜しい。
「一人の“cube”が仕事に失敗して、数人の生徒に仕事がばれた。失敗した“cube”も口を堅くすりゃよかったのに、簡単に“cube”の存在をばらしちまった。そこから爆発的に“cube”の存在は有名になって今にいたるってわけだ」
話し終えた彼は自慢げに鼻を伸ばして、偉そうに腕を組んだ。そんな様子の彼を小野夏希が目を大きくして驚いて見ている。
「よく知っていますね」
どうしてこのカップルは先輩後輩関係なのに、彼女の方が一方的に敬語を使っているんだろうか。彼女の口癖というのもあるんだろうが、恋人にくらいそれはよした方がいいと思う。すごく距離を感じてしまう。
「俺から言わせば常識だぜ」
それが常識とは驚きだ。なんせこれだけ調査しても知らなかった事実だし、元“cube”でもそんなことは耳にしたこと無かった。
「だから“cube”の言い伝えにあるだろ。脱会させられることは、とてもよくないことだって。あれは“cube”をばらした奴のことさ。結局、脱会させられたんだよ」
思わず背筋が凍った。そういうことか。私は確かに脱会させられたが、特別何かされたわけではない。私が『箱』を返さなかったからという理由で攻撃は受けたものの、脱会させられたことでの攻撃はない。何がいけないことだったんだろうと思ったことはあったが、そういうことか。
今はもう無いが、確かに何か罰があったんだ。そしてそれだけが言い伝えに残っている。
「どうだ、探偵さんよ、参考になるかよ」
「ああ、それは重要な証言だよ。ねえ、それ以外に何か“cube”について知っていることはないかい」
「他っていわれてもな。ああ、資格の強奪とかはどうだ」
首を横に振って、それは知っているよと答える。ただ、この噂は小林陸から初めて聞けた証言で、彼以外から聞くのは初めてになる。荻原治、中々の情報通なのかな。
その後も“cube”についての情報を色々と彼は話してくれた。どうやら私も小野夏希も知らないことを知っていたことで気分を良くしたようで、さっきまでの無口が冗談のように饒舌になっていたが聞けた情報のほとんどは知っているもで、参考にはならなかった。
口をなめらかに動かす彼を、小野夏希が悲しそうな目つきで見ていた。どうやら彼女もここに来て、ようやく私と同じ推論に達したらしい。私と目を合わすと悔しそうに俯いた。
一通り話しを聞き終えた私は、立ち上がって二人の前に立つとさっき買ったゼリーを二人に一つずつ渡した。私が二つともいただくつもりだったけど、面白い話しが聞けたお礼をしなければいけないだろう。
「いいんですか」
「デートの邪魔をしてしまったお詫びも兼ねてる。受け取ってくれ」
遠慮する彼女とは対照的に、彼氏の方はそれが当然だと言わんばかりに乱暴に私の手からゼリーを強奪していった。もちろんお礼もない。そんな彼の分のお礼も彼女がしてくれたので別に構わないが。
「ちゃんとお礼をしないとダメですよ」
そうたしなめられても、彼は意にかえさない。
ふと顔を上げると、そこには少し汚れてしまってはいるが白い外壁の五階建ての校舎がそびえ立っている。数名の生徒がこちらを見ていたが、私と視線がぶつかるとそそくさと隠れてしまう生徒が大半。数名の生徒は手を振ってくれる。
「そういえば、何も分かってないのかと言っていたけど、それは違うよ」
手を振っていた子たちも廊下を走ってどこかへ行ってしまい、ここから見える生徒はいなくなってしまった。こう見ると、この校舎というのは大きい。そして生徒が見えないとそれはどこか不気味にうつる。
「何か、分かっているんですか」
小野夏希がゼリーを開封しながら訊いてくるので、目の前の校舎を指さす。
「この学校――」
私の指を追って二人して校舎を見上げる。そして私もそれを見つめたまま、ただ分かってることを告げた。
「この学校には、邪悪がいる」
7
その写真には二人の女性が写っていた。一人はここ最近ずっと、自分を追っている十九歳の女。タバコと酒が好きな、お喋りな彼女。彼女という存在は卒業しても大きかったらしく、彼女が三年生の頃に一年生だった、今は三年生の女子生徒たちから高い人気を博している。
だから、少しそんな彼女の退場を願うのは心苦しく残念に思う。それにこれ以上ゲームが楽しめないのかと思うと、それはそれは悲しくて仕方ない。ただこれ以上、彼女の介入を許すわけにはいかない。なにせ、彼女の役割はもうずっと前に終わっているのだから。それに当人が気づいている様子はない。
「お別れだよ」
彼女は少し甘かった。こっちを追い詰めることだけを考えて、追い詰められることなんて考えていなかったんだろう。だから、写真に収めることは考えても、写真に収められることなんて考えなかった。
この写真が意味をなすことはない。これはただの記念。せっかくだから撮っておいただけ。
写真に写った彼女は一人の少女にゼリーを渡していた。受け取っているのが、もう一人の女性となる。ほほえましい写真だ。優しい先輩の餞別、それを受け取る後輩。見てるだけで面白い。この光景があと少しで壊れてしまうのだから。この手で、壊すのだから。
胸の高鳴りがやまない。心の中で本心が叫んでいる。早く殺せ、と。それをなんとか押さえ込む。そう急いではいけない。もう仕事もあと少なくなってきてしまった。残り少ないお楽しみは、じっくりゆっくり楽しむべきだ。
唇から抑えようのない笑い声が漏れる。楽しみで仕方ない。ああ、早く殺したい。彼女に絶望を見せてやりたい。自分がどれほど無力か思い知らせてやりたい。あの放送の反撃、あれはかなり屈辱的で忘れがたい……。
写真をそっと顔の前に持っていき、そこに写った彼女にキスをした。
「――仕返しの始まりだ、探偵さん」
第六面[芸術家の襲撃]
陽が昇って薄暗い闇が引き裂かれた朝。まぶしい太陽が徐々に町の気温を上げていく。犬を連れて散歩する老人、足早に駅へ向かうビジネススーツの男性、店を開け始める店員さんたち。そんな風景の道を、何人もの学生たちが、まださめない眠気とともに登校していく。
そんな彼らの中に、彼はいた。学生鞄を肩に下げて、両手をポケットにつっこみ耳にはイヤホンが差し込まれていた。その彼の後ろ姿を確認した私は乗っていた原付から降りて、それを押しながら彼へと歩み寄る。
「おはよう、いい朝だね」
音楽を聴いているせいで感覚が鈍っていたのだろう、そう声をかけられて初めて彼は私の存在に気がついた。
「朝から美女に会えて幸せかい。気持ちは分かるが君には恋人がいるんだから、変な気をおこしちゃいけないよ」
荻原治はそんなふざけた挨拶を、うっせえと口汚く片づけた。そしてイヤホンをはずさないまま、そのまま歩き続ける。
「少し話したいことがあってね、こうやって朝から会いに来たわけだ」
さすがに四つ年下とはいえ男の子だ。歩くスピードはそこそこ早い。こっちは改造して通常より重くなってしまっている原付を押しているのだから遠慮してくれてもいいと思う。
「話しなら昨日しただろうが。もう話すことなんかなねぇよ」
こっちを見ることもしないで歩みを続ける。どうやら相手をしてくれる気はないみたいだ。なら、こっちが一方的に喋るだけだけど。
「そうかい。ならイヤホン越しでもいいから私の話しを聞いてほしいね。それこそ昨日の話しで気づいたことなんだ」
事件を追っている私と容疑者であると知られている荻原治が一緒に歩いているからか、私たちの周りにほかの生徒の姿はない。小さく振り向くと数名の生徒が小さな歩幅で、私たちと距離を縮めないように歩いていた。触らぬ神になんとやら、か。
あまり聞かれたくない話しだから都合がいい。
「初めて私が君に会ったとき、つまりは三日前だけど、私は君にこう質問した。君は黒沢明子と知り合いかと。そして君は違うと否定した。どうだろう、何か間違いはあるかな」
彼に視線を向けても彼はノーリアクション。ただ歩きながら、前方を見ていた。ただちゃんと聞いてるだろう。聞こえてないなら、わざわざ私と歩幅をあわすようなまねはしない。
「否定しないね。ならこれでいいわけだ。じゃあ私の意見を言わせてもらう。君は嘘つきだ」
彼が小さく首を回して、私を見てくる。その視線には驚きと戸惑いがあったが、一番大きかったのはそれを隠そうとする怒り。
「ふざけんなよ。俺はそんな先輩知らないって言ってんだろ。証拠あんのかよ」
「証拠か。物証はない。ただ確証はあるよ。それこそ昨日の君が教えてくれたじゃないか」
彼は本当に無意識だったのだろう、未だにわけがわからないという表情をしている。ただ昨日の段階で私も、そして彼の恋人も分かってしまったことがある。
「君は随分と“cube”について詳しいね。あんな噂は初めて聞いた。よかったら、誰から聞いたのか教えてくれないかな」
ここまで突きつけて、彼はようや自分が犯した失敗に気がついた。思わずあっと声が漏れたが、それをなかったかのように振る舞う。分かりやすい子が相手でよかった。
「……友達だよ」
「だからその友達の名前を聞いているんだ。教えてくれ」
「忘れたよ、そんなこと」
彼が一気に歩くスピードをあげはじめた。そんなことで逃がすわけがない。私もスピードを上げて、なんとか彼の横に立つ。
「なら君の友達をとりあえず全部教えてくれ。君は他校にも交友があるそうだが、“cube”の噂をするのはここの生徒だけだろう。この学校にいる君の友達、全員教えてほしい」
「ダチをうれって言うのかよ」
「未だに分かってないなら再確認させてあげよう。もう三人殺されてしまっている。警察も私もどんな小さな手がかりでもいいから求めている。君の友達に本当に“cube”に詳しい子がいるなら、その子からもっと詳しい情報も知れる。それが事件解決につながるかもしれない」
私のまくし立てに、彼は何も答えない。答えられないというのが正確か。
「なんなら今から警察に頼んで全校生徒を調べて見るかい。君が昨日言っていた噂を知っている生徒がいるかどうか。でももし出てこなかったら、さて君は誰に聞いたんだろうね」
「知るかよっ!」
「知ってるんだよっ!」
思わず彼の大声にかぶせるように、それを上回る大声を張り出してしまった。予期していなかったことに驚いた彼はスピードをあげていた足を、そこで止めてしまう。それを見逃さず、彼へと詰め寄る。
「君は誰から聞いたんだ。本当に警察に調べさせようか。彼らは苦もなくやってのけるぞ。君への疑いが濃くなると、ほかにも疑われる人も出てくる」
これは明確な脅しだった。彼にとって彼女はかなり大切な存在だ。だから初めて会ったとき、彼女の名前を出しただけであれだけ激昂できたんだ。
「君は確かにあの情報を聞いたんだ。誰からか。もちろん“cube”に詳しい人物だよ。いや詳しいなんてレベルじゃないな。“cube”そのものから聞いた。違うかい」
もちろん、聞いたときは彼女が“cube”だなんて知らなかっただろう。ただ彼はちゃんと聞いた。いや聞けた。それほどまでに彼女と親しい関係にあった。
「君は黒沢明子と知り合いだった。そうだね」
私の問いかけに彼は俯いて答えない。それこそが答えだった。
「……勝手にしろよ。俺はしらねぇ」
まだ否定するのか、往生際が悪い。しかもこれは否定もできていない。自覚があるのかないのか。もう逃げられないことくらいは分かっているだろう。
再び歩き始めた彼を追わずに、背中を見つめる。そして切り札を出した。
「小野君は知っているよ」
彼の足がまた止まって、素早くこっちを振り向く。
「彼女の聡明さは君だって知っているだろう。彼女も昨日の君を見て、私と同じ結論に至っていたよ」
情けなく開けられた口に、動揺して揺れている瞳。そして額に手をあてて、深いため息をついてその場にしゃがみこんでしまった。そんな彼に原付を押しながら、そっと近づく。
「君が私を振り払うことはかまわない。けど、小野君までそうやってごまかせるかい」
嘘だろうという彼の落胆が聞こえてくる。
「だから、もう嘘はよしなさい。これ以上隠し通すのは、無意味だから。もしこれ以上隠し通そうとするのなら君はもう、自白しているようなものなんだよ。だから答えてくれ。君は黒沢明子と付き合っていたんだろう?」
もはや私の中では荻原治は『主』ではなかった。白か黒かと問われれば、白と断言している。それは彼がこんな失敗をしたから。自分の発言で墓穴を掘るような真似を、あの『主』がするとは考えにくい。もちろん人間だから失敗はあるだろう。けど、その失敗に言われるまで気づかないほど鈍感じゃない。
しゃがみ込んでいた彼が、納得いかないと言わんばかりに首を振りながらゆっくりと立ち上がる。そして、深いため息をついてようやく答えた。
「付き合っちゃいねぇよ。あんなヒステリー女」
それが彼の自白の第一声。私は黙って、続きを促す。
「確かにそれっぽい関係にはあったけど、そうじゃなかった。あんた調査してんなら知ってるだろ、あの人、恋人っぽい奴はいっぱいいたんだよ。俺はその一人だったんだよ」
確かに黒沢明子は多くの男子生徒と交友関係を持っていた。それは警察も捜査済み。そしてその生徒たち全員が一応はアリバイがあり、もう捜査線上にはいない。ただ彼女が彼ら以外にも関係を持っていた可能性は十分になった。
「君はその当時既に小野夏希と交際関係にあったから、黒沢明子との関係はなるべく隠していた。そうだね」
「そうだよ。だからあの人の携帯にだって俺の情報なかっただろう。そういうやりとりはしなくて、会って話すのが大半だったから」
それは彼女が提案したことだろうか、彼が提案したことだろうか。携帯電話に履歴を残すとそれをチェックされる可能性は皆無じゃない。そういう細かい心配が出来たのは、どちらだろう。恐らく、黒沢明子の方だったろうな。これはつまり女の勘という、非科学的だが非常に恐ろしいものを理解してないと出来ない諸行。
「付き合ってたわけじゃなかった。けど仲はよかったんだろう」
「向こうが寄ってきたんだよ。それで、まだ夏希さんとは付き合いが浅かったから、まあいいかなって思ったんだ」
そういえば今は小野夏希で落ち着いているが、この少年も手広く女子生徒と関係を持っていたという噂だったな。なるほど、まだ彼女が彼を飼い慣らしてない頃の話しか。
「それで、すぐに関係は終わった?」
「嫌になったんだよ。言ったろ、ヒステリーだって」
あまり故人に対してそういう言い方はよろしくないと思うが、ここで話しの腰を折るのもどうかと思うので何も言わない。
「話してても面白くないんだよ。自慢話が多くてさ、自分がいかにすごいかってことばっかり。正直うざかった。自分よりすごいって思えちゃう奴らは、何かとケチつけて否定してた」
人間が自分を表すとき、大きく分けて二つの方法がある。ひたすら自己アピールをするか、周りを否定して自分という形を浮き彫りにさすか。私なんかは前者をとる。そうした方が私としてはやりやすい。というのも、私は自分という人間にかなりの自信をもっているから。自分で自分を過大評価している。
そして後者をとる人間は、それができない。自分に自信が持てない。あるいは、持ちすぎている。だから周りより自分がいかに優れているかを計ろうとして、常に周りの欠点だけを探す。良い点は、それくらい私にだってできるという根拠のない自信で片付ける。 黒沢明子はどうやら後者だったようだ。
「彼女は“cube”に詳しかったんだね」
「詳しかったな。けど、あの人はどこか“cube”に批判的だったぜ。夏希さんみたいに論理をもって無意味だって言うわけじゃなくて、あんなのより私がすごいってとにかくそれだけだったけど」
「なるほどね。かなりの自信家だったわけだ。プライドも相当高かったみたいだね。君は、そういうのが嫌だったんだね」
ここで彼が目を尖らせて、私を睨んでくる。何か今の発言に不適切なところはあっただろうか。
「あんたさ、恋人はいるのかよ」
「胸ポケットにいつもいるよ。もう一人は冷蔵庫にいるね、キンキンに冷えて」
私にとって恋人はニコチンとアルコール。彼はそれを分かってくれないらしく、話しにならねぇと言ってきた。人の純愛を何だと思っているのか。
「もういい。あの人さ、夏希さんについてもコメントしたんだよ。ひどかった。性格が悪いとか、成績がいいのはカンニングしてるからだとか。それを聞かせて俺に愛想をつかそうとしたんだろうけど。そんなこと言われたら、あんたならどう思うよ」
愚問だ。確実に発言した人物を毛嫌いする。
「そういうこともあってすぐ別れたんだよ。それで……」
その先は言わなくても分かっていた。その後に事件が起きたが、彼女の知り合いだと名乗り出ることはできなかった。そうしてしまうと小野夏希に浮気がばれてしまうから。彼がずっと彼女との関係を否定していたのは、ただ恋人に嫌われたくなかっただけ。
「なるほどね。ありがとう、参考になったよ」
多分、これ以上聞けることはないだろう。そして今の供述に嘘はない。彼は全て諦めて話してくれた。
「……あんたのせいで無茶苦茶だよ」
恨みがましい声を絞り出してくるので、嫌味っぽく薄く笑ってやる。
「浮気をした君が悪いと思うけど」
世の中には男性諸君に振り回されている女性が多くいる。そういう彼女たちの代わりに答えてやった。ただ私は父や兄や仁志といった男性を振り回している部類なので、あまり偉そうには言えない。
「夏希さん昨日の帰り道、口数少なかったんだよ」
彼女は元々口数が多い方ではないと聞いている。そんな彼女の口数が減るっていうのは、ほとんど会話がなかったんじゃないか。それとも恋人の前では饒舌になるのかな。いや、変な詮索は失礼だからやめよう。
「ああいうタイプは怒らすと根に持つよ。覚悟した方がいいね」
自分でもよくないなと思うが自然と笑ってしまう。あの感情を出さないタイプの彼女が、怒るときはどう怒るのだろうか。恋人の前だけ頬を膨らませたりするんだろうか。その姿は想像するだけでかわいらしく、微笑ましい。
「笑うなよ。こっちはふられるかもしれないんだぞ」
「自業自得さ。そうやって不安がるといい」
彼は振られるかもと恐れているが、多分それはないと思う。もしそういう処分を彼女が下すなら、昨日のうちに怒りにまかせてやっているはずだ。そうしなかったのは、また彼女の聡明さの表れ。私がこうやって彼を追い詰めると分かっていたんだろう。そしてそれによって浮気が発覚していることに彼が気づくことも。
そうなったら、彼が今みたいになるのは予想出来たはずだ。彼女が与えた罰はこれだ。今彼が陥っている不安こそ、彼女からの罰。存分に苦しむといい。女性を怒らすと怖いんだということを、身にしみなさい。
「まあ、お叱りは後で受けといてくれ。言っておくけど恨まないでくれよ」
原付にまたがって、エンジンをかけ始めると異様に大きな音をたてた。このポンコツはこうしてようやく始動できる。買い換えを真剣に考えないといけないが、財政難という問題が目の前にあるのでどうしようもない。政治家たちがいかに苦しいか私には分かる。
「それじゃあ、先に行かせてもらうよ。朝から悪かったね」
彼が今日という日をどれだけ重く過ごすかは知らないが、とりあえずがんばりなさい。
「おい、ちょっとあんた」
発進しようとする私に声をかけて止まらせる。スタートダッシュを決められなかったので、ちょっともどかしい。
「何かな」
「ヘルメットしろよ。原付でもこけたらえらいことになるぜ」
確かに私はヘルメットをしていない。それは父をはじめ、色んな方から注意を受けている。しない理由は頭が妙に重くなるが嫌だから。そしてもう一つ、これは完全に私の趣向の問題だが、私はスピードを出しているとき髪がなびく感覚が好きであれがなくなるのが、非常に怖い。完全に交通違反なのは分かっているが、どうもやめられない。
しかし、そんなことはどうでもよくてまさかそういう注意を彼から受けるとは思わなかった。私が意外そうな視線を送っていたのが照れくさかったのか、彼は視線をそらして注意をした理由を説明してくる。
「知り合いがこの前、ノーヘルで事故ったんだよ。助かったけど、なんか後遺症とかで大変らしいんだ。医者の話だとヘルメットをしてたら、なんとかなったかもしれないんだってよ」
ヘルメットをするだけで事故での死亡率は大きく変わってくる。仮に生き残れても彼の知り合いのように後遺症で苦しむ。脳へのダメージなので、過半死不随や植物状態になることも少なくない。今までそんなの意識したことなかったが、急に全身に悪寒がはしった。
「……それはいけないね」
「だから、あんたもしとけよ。事故ったら大変だぞ」
「そうだね。今日にでも買いに行くよ」
エンジンをかけ直すと、またしても歪な音が響く。そんな雑音の中。私は彼にウィンクをした。
「ありがとう」
彼はそれに返事はしなかったが、ちゃんと聞いていてくれたんだろう。手首を払う様に振って、さっさと行けと急かしてくるのでそれに従って、前に向き直った。
アクセルを回してスピードをあげていく。空を裂く感じが心地よく、暴走族の気持ちが理解できてしまう。髪が風に煽られて、大げさになびく。この感覚ともお別れと思うと少し寂しかったが、頭の中ではどんなヘルメットを買おうかと迷ってる自分がいた。
2
昼休みにお客さんが来た。進路相談室へ部屋を移動してからは初めての客人で、ノックをされただけだったので誰かは分かった。どうぞと入室の許可を出すと、静かにドアが開き小野夏希が顔を出した。彼女は部屋に入ると、いつもおり頭を下げた。
「お邪魔じゃありませんか」
「安心してよ。君の様な可愛い子がきたら、忙しくてもなんとかするさ」
もう食事もとり終わって、今は椅子に座って考え事にふけっていただけだったので、彼女の来訪は丁度良かった。話し相手が欲しかったし、それが彼女なら文句なんか出そうと思っても出せない。
進路相談室には部屋の奥に職員と同じ机が左右二つ並んであり、私はそれの一つに腰掛けていた。そして室内には生徒との同じ机が四つある。彼女はその中の一つから一脚のイスを拝借して、私と向き合うように座った。
「彼が白状したようですね」
余計な会話は一切せず、早速本題に斬りかかってきた。
「ようやくね。けどおかげで良い情報を仕入れた。君としては、あまり面白くない真相だったろう」
「ええ。私が気づいていることに知って、急いで謝りにきました。全く……」
彼女はため息を吐いたが、それはどこか幸せそうな吐息だった。
「怒ってるよね、当然」
「怒らないとお思いですか。しばらく口をきいてやりません」
これは中々厳しい罰だ。彼は昨日口数が減ったというだけであれだけへこんでいたから、これは相当堪えるだろうな。元々口数が少ない彼女に話しかけてもらえないのは、恋人としては寂しいだろう。
「けど、安心しました。蓮見さん、これで彼の疑いは減ったんじゃないですか」
「警察はまだマークを続けるよ。ただ私個人としては、彼はもう白だ」
朝、学校に着いてから父に報告したらマークをゆるめないと宣言された。ここばかりは私の感覚だけで判断したに過ぎないので、特に何も言わず。
「それならいいです。それは、素直に嬉しいです」
彼女の表情には安堵の色が伺えた。恋人が殺人者かもしれないという不安は、それはそれは大きかっただろう。いくら彼女が賢くて、落ち着いていてもやはりまだ高校二年生の女の子でその不安は彼女には相当な負担だったはずだ。それに解放されたのは、本当によかった。
ただ、本題はこれで解決したわけじゃない。
「じゃあ、残る問題は一つだね」
「ええ、そうですね」
ここで私と彼女は視線を合わせて、しばらく止まった。そして彼女の方先に口を開いた。
「私が“cube”かどうか。これですね」
頷いて同意する。ただ、この問題には少し変化が生じている。
「私はもう荻原君を疑っていない。君を疑っているのも、彼が容疑者だったからだ。彼が白なら、君も白へ近づく」
今朝、彼が無実であると確信したと同時に彼女の顔も思い浮かんだ。そして白ではないかと考えたが、どうしても自分を納得させることが出来なかった。それはやはり彼女の聡明さが気になっているからだろう。
「けど、問題はそう簡単じゃありませんね。片方が白だから、もう片方もというわけにはいきませんよね」
「すまないけど、そういうことになる」
「構いません。何度も言うようですが私は“cube”ではありません。だから疑われても何も害はありませんから」
確かに彼女にかかっている疑いは“cube”ではないかということで、それはつまり被害者になる可能性をひめているだけだ。荻原治の様に殺人鬼じゃないかと思われるわけじゃない。別に疑われることによって被害は出ていないだろう。
「やはり私自身で無実を証明するのは無理なので、蓮見さんにお任せします。今日はそれを伝えにきたんです」
「わざわざそんなことをしなくても、申し訳ないけど勝手にそうするよ」
「蓮見さん、私は感情表現が乏しいとよく言われます。私も自分でそう思います。だから分かりづらいかもしれませんが、今私は蓮見さんに感謝しているんですよ。彼の無実を信じてくれて、本当にありがたいと思ってます。もちろん、真犯人が分かったから約束通り謝ってもらいますが、今はただ感謝してます」
彼女はまた頭を下げる。綺麗な髪が重力に逆らうことなく、流れて下に向かう。
「蓮見さんなら私の無実も証明してくれるはずです。今ならそう信じれます」
どうやら私の想像以上に小野夏希と荻原治というカップルはアツアツらしい。彼は彼女に嫌われるかもしれないと考えただけであれだけ落ち込んで、彼女は彼の無実を信じながらそれを証明した人間に感謝している。お互いを想っているからこそ、こういう行動が出来る。
「頭を上げてくれ。そんなことをされると、本当にどうしたらいいか分からない」
彼女は素直に頭をあげてくれた。その表情は晴れやかで、曇りがない。
「そうですね。こういうことは真犯人が捕まってからするものですね。順番が狂ってしまいました」
真犯人が捕まったとしても彼女が頭を下げる問題ではないけど、まあいいか。
彼女のその『順番』という言葉でついこの間の母と電話した会話を思いだしてしまい、吹き出してしまった。小野夏希が訝しげに見てくるので、その会話がどういうものか説明した。母が私の名前を深く考えてなかったことなど。聞き終えた彼女も、また笑った。
「蓮見さんのお母さんらしいですね」
「よく言われるよ。けど私自身、母上には敵わないと思うね。あの人は特別だ。なにせ、娘の名前をろくに考えず、順番なんてどうでもいいと言ってしまえる人だからね」
二人で笑っていたが、頭の中に急に衝撃が走って息が止まった。そんな私の豹変に小野夏希が首をかしげて、どうしましたかと訊いてくるが、それに答える余裕は無い。今、とんでもない予想が頭を支配している。
「そ、そんな……けど、そうかそういうことか」
イスを倒しそうな勢いで立ち上がる。目の前の少女が思わぬことに小さく震えた。
「小野君、ごめん、話しはまた今度だ」
ろくな挨拶もせず私は駆け出して部屋を飛び出して、廊下をダッシュしながら自分の考えを頭の中で整理していく。できる、確かにこの方法なら黒沢明子も、小林陸も殺害出来る……。どうしてこんなことに気がつかなかった。
何名かの生徒とぶつかりそうになりながらたどり着いたのは職員室だった。ノックもせずに入ると何名かの先生がこっちに視線を送ってくる。室内を見渡しても、海野先生の姿がない。
「海野先生なら、学園長室だよ」
近くの机で試験の採点をしていた荻原治の担任の田所先生が声をかけてきた。ろくにお礼も言わず、学園長室へと繋がる扉へ向かう。そしてまたノックもせずに、そこへ入ると何かを話し込んでいる海野先生と婆さんがいた。
「どうした、血相を変えて」
海野先生が私の様子を見て、少し驚いている。しかしそんなことはどうでもいい。
「先生、やめた生徒だ」
首をかしげる先生の影に隠れていた婆さんが、その言葉で立ち上がる。
「まさか、あなた」
「そうだよ、婆さん。とんでもない見落としだ。なんでこんなことに気がつけなかったのか。『主』はやめた生徒の中にいる可能性がある。今年に入ってやめた生徒の全名簿が欲しい」
二人の表情が衝撃で揺れる。婆さんはすぐさま、目の前にあったデスクトップのパソコンの電源をいれはじめ、海野先生は学園長室から出ていき、職員室へ戻っていく。その間、私は父に電話をかけることにした。
「父上、警察は学校をやめていった生徒に目をつけてはいないよね」
父が電話にでるなりそう問いただすと、父はああと肯定した。
『だって、『主』は在校生だろう』
「違うんだよ。私たちは思考の順番を間違えた。“cube”は在校生だから、『主』もそうだと思いこんだ。けどもしも、『主』が今回の計画のために事前に学校をやめていたらどうかな」
もしも『主』が学校をやめていたら、今まで不可解だったことが全て明らかになる。黒沢明子殺害時、多くの生徒にはアリバイがあった。しかしもし学校をやめていたら、そんなの関係なくなる。制服を着て学校に忍び込み、そのまま身を潜める。そして多くの生徒に紛れて帰ればいい。
小林陸のときも同様のことがいえる。彼の場合、彼が一人のところをピンポイントでねらわないといけない。けど『主』が生徒じゃなかったら、彼を一日中監視できた。そして私のことも。あのときはまだ警察が介入していなかったら、私さえ抑えれたら犯行は十分に可能だった。
「生徒たちはやめた生徒をいちいち全員は覚えていないだろう。こっそり紛れ込んでもばれる可能性は少ない。そして事件後、生徒ではないから容疑者からはずれる」
『そんなことが……』
電話口で父が絶句している最中、婆さんの作業が終わった。液晶画面をのぞき込むと、一七名の生徒の名前があがっていた。一応、三年生の名前も含めて全員、父に伝えた。念のため一人一人もう一度繰り返しておく。
『安否の確認をお願いするよ』
返事もせずに父は通話を終えた。携帯をポケットにしまうと、それと同時に何枚かの書類を持って海野先生が入ってきた。そして書類をパソコンの横に広げる。
「やめた生徒の願書だ。顔写真もついてある」
「ありがとう、さすがに仕事が早いね」
机に広げられた願書を一つ一つ見ていく。女子生徒と男子生徒、丁度半々くらいだろう。まだあどけない少年少女たちの緊張した真顔の顔写真が貼られている。
「やめた理由はわかるかい」
「ほとんどは出席日数だ。足りなくなったから、単位制のこところへ転入した」
「それは三年や二年だよね。ここに一年生の子もいるけど……」
一年生でやめた子は二人いた。男女が一人ずつ。その二人の願書を手に取ったとき。底知れぬ恐怖が身を包んできた。一気に身震いするかのような寒さが襲ってくる。
「ああ、男子生徒はもともと通う気はなかったみたいだ。女子生徒のほう確か……蓮見、どうした」
海野先生の声がどこか遠い。一枚の願書を手に、私は固まっていた。そこに貼られた顔写真を見つめたまま、動けなってしまった。彼女の静かな視線が、今も私を射ぬいている。その目は何かを訴えかけてきているみたいだ。
「嘘だろ……」
ポケットの携帯が震えだしたことで、呪縛がとかれて我に返った。取り出して通話ボタンを押す。
『レイ、早速ヒットした。一人、捜索願が出ていた』
「……今里麻由美かい」
父が名前を告げる前に、確かな自信をもって先を越した。その名前は手にした願書に記されたもの。父は私のそういう反応を予想していたみたいで、驚きはない。
『ああ、彼女だ。分かってるみたいだな』
「忘れるわけがないよ。お姉さんによく顔が似てる。名字が変わっているのは、両親が離婚でもしたのかな」
彼女の顔つきは本当にお姉さんに似ていた。だからこそ、たった二度しか顔を合わせていないのに写真を見ただけで彼女だと確信できて、こうやって私は震えている。
『ああ、今里は母方の旧姓だ。元の名前は、香月麻由美――』
その名前の響きが自然と、彼女の名前を彷彿させた。父が一度唾を飲んで、私が認めたくない事実を突きつけてきた。
『香月亜由美の妹だ』
3
香月亜由美に妹がいることは知っていた。名前も知っていて、私が彼女、麻由美君を初めて見たのは病院で、病室で彼女は死に瀕していた姉の手を握りながら呆然としていたことを覚えている。
香月君が事故にあったと聞いたのは三年になって少ししてからで、私がもう“cube”ではなくなっていた時。そしてもう“cube”のことは忘れてしまおうと努力していた頃。もう香月君は二年生の冬に学校をやめていたので、彼女の噂をきけたのは本当に偶然だった。
事故にあっても彼女は即死はせず、しばらくの間は息を続けていた。ただ長くはないと聞いたので、急いで病院へ駆けつけた次第だった。
「お友達ですか」
病室の前に立っていた女性、香月君の母親にそう訊かれた時、私はどう答えていいものか分からなかった。そもそも在学中、私と彼女は接点が一つもなかったのだから。
「ええ、まあ」
そう答えを濁したにもかかわらず、彼女は病室へ入れてくれた。病室では麻由美君が一人、姉の眠るベッドの脇で丸イスに座りながら何もせず、ただ姉の手を握って、上の空でいた。
「……もう長くないらしいので」
香月君の母親はそう告げると病室から出た。長くないなら一緒にいるべきは私ではなく、あなたではないんですかとは言えなかった。彼女の心中を察すると、そんなことは口が裂けても言えない。
香月君は赤信号を無視して歩いてわたり、軽乗用車にはねられたらしい。運転手によるとどこをまるで何も見えないように、ふらっと飛び出してきたらしい。
警察は事故だと片づけていた。私もそれに異議を唱えようとは思わない。あれからもう半年近く経っていて、あれが直接の原因で自殺したとは思えなかった。いや、思いたくなかったというのが正しい。
色々な点滴などを処方されていた彼女は、医療関係の名前も分からない管だらけで生きてるというより、生かされていると表現できた。
「……姉の、お知り合いですか」
ずっと香月君の手を握っていた麻由美君が掠れた声で訊いてきた。
「うん。あまり、親しくはなかったけどね」
いつもならここで軽口の一つでもたたけるのに、そんなことをしようとも思えなかった。
「そうですか……。姉は、よく高校の話しをしてくれました。楽しいって。あんたも早く成長しなさいって……。そんななろうと思って、すぐなれるわけじゃないのに」
最初は少し笑っていた声が、言葉が増えるごとに震えだし、最後の方はもう涙声へと変わっていっていた。
「なのに、急に……」
それ以上、聞きたくない。耳をふさいで大声で何かを叫んで、誰の声も耳に入れないようにしたい。本気でそう願った。
彼女はそのまま泣き出して、その涙がスカートに覆われた彼女の膝をぬらしていた。滴は一滴、一滴と素早い速度で落下していく。彼女が姉の手を放して目元を覆う。今度は抑えようない嗚咽が、口から漏れだした。
彼女が何も見えていない間、私は香月君の横に立って彼女の顔をのぞき込んだ後、申し訳ないと謝って頭を下げた。それで許されるわけがないとはもちろんわかっていたが、それ以外できることなんてなかった。
もう何もすべきことがなくなってしまったし、これ以上この場にいては身が持たなくなってしまうと考えた私は、麻由美君に別れの言葉もかけずに病室からでようとした。
ドアのフックを掴んだ時、泣き声に混じった単語が聞き取れた。
「……お姉ちゃん」
そのまま病室から出て外で待機していた彼女の母親に頭を下げて、そそくさと逃げるように病院から出た。そしてその場でしゃがみ込んでしまう。何か吐き出したい。それは言葉なのか、言葉にならない感情なのか、わからない。
ただ私には、慟哭する資格などなかった。
結局、それから一週間もしない内に香月君は亡くなってしまった。葬儀には出たがその時は麻由美君の姿は見えなかった。ショックで寝込んでしまっているんだろうかと考えて、その時は深く考慮しなかったが斎場の外に出てそれが思い違いだと確信した。
彼女はいた。斎場の外、誰かから隠れるように一台の車の中に。そしてその窓を開けて、斎場から出てくる人間の一人一人を睨みつけて。私と目が合うと気まずそうに車から出てきて、頭を一度下げて斎場の中へと戻っていった。
どうしてあの目を今まで忘れてしまっていたんだろう。剥き出しになっていたあの感情をそうして今まで思い返さなかったんだろう。あれは間違いなく憎しみだった。慕っていた姉を奪われた妹の絶望から生まれた憎悪だった。
どうしてかなんて決まっている。思い出したくなかったから。ただ、それだけ。
「レイ。おい、レイ」
兄の声で自分がぼんやりしていたことに気がついた。はっきりとした視界に写っていたのは焦げた野菜が乗ったフライパン。そして兄が急いで火をとめていた。焦げた臭いが鼻に入ってくる。
「ああ、すまない……」
自分が夕食の支度をしていたことさえ忘れていた。
「ごめんごめん。今、作り直すから」
フライパンを持ち上げて焦げた野菜をゴミ箱へ投入しようとすると、その手を兄に掴まれた。
「もういい。今日は俺がやるからお前はじっとしていろ」
兄はそのままフライパンを奪い取ると、私の背中を押して台所から出した。
「兄さん、仕事で疲れているだろ。家事は私がやるさ。なに、ちょっとぼうっとしてただけで……」
「じっとしてろっ」
久々に聞く兄の怒声に思わず身をすくめてしまった。兄は自分でもそんなに大声を出すつもりはなかったのだろう、自身でも少し驚いていたが、すぐに言葉を続ける。
「今日のお前じゃ無理だ。今は落ち着け」
そう、実を言うとさっき無駄にしてしまった野菜を切っている最中にも、私は包丁で指先を傷つけてしまっていた。兄が無理だと判断するのも仕方ない。少なくともいつもの私ならこんなミスはしないし、したとしても連発なんてことはない。
兄はもう冷蔵庫を開けて準備に入っていたので、私は情けない気持ちを胸に満帆にしてリビングへ引っ込んだ。確かに今日は私は使いものにならない。それは否定できない。
「……親父から事情は聞いてるよ。こんな日に食事を作ってもらおうなんて思った俺が間違ってた」
冷蔵庫から取り出した卵を割って、ボールへ入れながら兄が謝ってくる。
「いい。できると思ったのは私だ。まさか、ここまで動揺しているとは思ってなかった」
結局、あの後警察の方で早急に捜査が進み麻由美君が行方不明になった日が、黒沢明子の殺害と同じ日だったことが判明した。そして彼女が学校をやめた理由は姉の噂が広がってのことだったらしい。そういう経緯もあり、警察はとうとう標準を絞った。
今も多くの捜査員がどこかに身を潜めているはずの麻由美君を探し回っている。一六歳の女の子が三ヶ月近くも身を潜めていられる場所とはどこだろうか。
「兄さん、少し質問していいかな」
「なんだよ」
ボールにいれた生卵をかき混ぜながら兄に私は、いやな問いを突きつけた。
「私が殺されたら、間接的であれ殺した人間を殺そうと思うかい」
兄の手が止まる。静寂が家を包んでしまった。兄は私をまっすぐ見て逃がさない。その視線に怒りがこめられていたことは、わかっていた。
「そういうことは言うもんじゃない」
正義感が強く、誠実な兄らしい台詞だった。けど今の私はそれじゃ満足できない。
「答えてほしい。知りたいんだよ。どうしてこんなことになっちゃってるのか」
「香月麻由美が犯人と決まったわけじゃない」
「犯人なんだよっ。私は見たんだよ、彼女の憎しみをね。彼女がどれだけ姉を慕っていたかもねっ。ねえ、兄さん、どうだい」
兄は答えない。責めるような視線をただ送り続けるだけ。それが私の中の苛立ちを増幅させていく。
「答えてくれよ。ああ、言っておくけど私は兄さんが殺されたら――」
「レイっ!」
迷わず犯人を殺してやるという言葉は続けなかった。兄の叱責がそれを止めてくれた。気がつけば、興奮して呼吸が荒くなっている。私はなにを言っているんだか。落ち着け。
「……すまない。やっぱり今日はおかしい」
情けない。心中が乱れているから家族にあたるなんて、まるで子供じゃないか。反省しながらソファーに座ると、兄が答えた。
「殺すだろうな」
短い、たった一言。ただ兄がこんな過激な言葉を使うのは初めて聞いた。だからこそ、その発言が本気だということが伝わってくる。
「……言わせておいてなんだけど、兄さんには似合わない」
兄がふふっと小さく笑った。
「俺もそう思うよ」
そもそも、私たち兄妹は父から「死ね」や「殺す」なんて軽々しく口にするなという教えを受けて育ったわけで、家の中でこんな言葉を使うのは御法度だ。今日は父がいなくて助かった。いたら大変なことになっていただろう。
私と兄が特別に仲がいいのかどうかは分からない。こうみえて、子供の頃はしょっちゅう喧嘩していたし、私が中学の時は口をきくのも煩わしいと感じたときさえあった。そういうのだと多分、どこの兄妹と変わりはないと思う。それだからこそ、私は殺せると思う。
私には多くの友人がいる。それは春川みたいに大学の同期であったり、仁志みたいに近所の知り合いであったりするわけだが、彼らと私がいつまで「友達」でいれるかは分からない。ずっとそういう関係ではありたいけど、友人というのは知らない間に疎遠になって、いつの間に縁が切れていたりする。
けど、血の繋がった兄弟は違う。どれだけ拒絶しても、その関係に変化は訪れない。幼少時代、誰より多くの時間を過ごすのは兄弟だ。
そこまで考えていた家のインターホンが鳴った。兄が調理中なので、当然私が出ることになる。ドアスコープを覗くと、そこには意外なお客さんがいた。
ドアを開けると、彼がさっそく手に持っていたビニール袋を差し出してくる。その中には綺麗な紅色の、まるで水晶玉のように形の整ったリンゴが数個入っていた。
「おふくろが商店街のくじ引きで当てた。あんたにもあげなさいだってさ」
仁志から差し出されたビニール袋をありがたく受け取る。
「ありがたいね。おば様、私がりんご好きなの覚えていてくれたんだ」
「あんたのこと大好きだからな」
せっかくだから君も食べなさいと、彼に薦めたが彼はいいと拒否しようとした。襟首を掴んで強制的に招き入れる。文句をぶつぶつと言ってくる彼を適当にあしらいながら、そういえば私には弟もいたなということを思いだした。
思えば小林陸が殺されたとき、仁志と有華ちゃんの捜査からの離脱を勧告したのは彼らがどうしようもない程大切で護りたいと思ったから。特に仁志は長い付き合いだったので、彼をもし失ったら私自身どうしようもないくらい傷ついただろう。
それこそ、復讐に走るほどに。
どこにいるかも、何をしているかも分からない少女に思いをはせる。君は、今どこにいる。そして何をしている。そして何を思い、何を望む。今の状況を今後どうしたい。誰を支えに生きている。誰のために行動している。
したいのは、ただひたすら復讐か。
それに価値があると思うのか。
4
自分の行動に疑問を持ったことは一度もない。一連の殺人を思い描いたとき、最初に感じたのはようやく殺せるんだという、どこか安心感に似たものだった。自分が今まで抑えていたものを、もう抑えなくていいんだという開放感。それはただただ殺すことだけ望んで生きていた者にとって、言い表しようのない至福だった。
これは復讐劇でもなんでもない。ただ、本能を満たすための行動。それ以上の意味なんて無い。だから何も思わない。誰も必要としない。ただ望んでいるから、行動する。
真夜中の駅のトイレの洗面所。薄汚く、異臭がする。そんな中、少しひびわれた鏡を見ると自分でも自覚できるほどの、あどけなさを持った少女がいた。白い肌に、黒い髪の毛。そしてあの高校の制服。学校に行かなくなるまでは、毎日ただ学校を通うために着ていたが、今は現場へ潜り込むための言わば迷彩服と化している。
今日になって警官が一気に増えて、誰かを捜してるようだったので何とか逃げ出して、ここへたどり着いた。町にも警官はいたが彼らの目は誤魔化せた。近づかなければ、顔を確認できないのだから怪しまれることはないだろう。
ただ、あの物々しい雰囲気からして、どうやら警察がたどり着いた可能性がある。後で確認はするが、多分そうだろう。さて、計画も最終段階に入ってきたのにこのタイミングでばれてしまうとは、非常に厄介だ。
ところで、突き止めたのは警察だろうか。多分、違うだろうな。そういえば今日、学校で何か彼女が浮かない顔をしていた。真相にたどり着いたのは彼女だろう。だからこそ、あんなに絶望していた。
「……遅いよ」
そんなこと呟く。あなたなら、もっと早く気づくべきじゃないか。
鏡に映る少女の頬をゆっくりと撫でる。今の鏡と、自分自身、温かいのはどちらだろう。確かに頬は白く、少し薄ピンクだがこれはただの生物としての体温であって、温かみとはまた別のもの。
少女を撫でる手はたくさんの血を浴びてきた。よく血を生暖かいと表現されるのを聞くが、あれには同調できない。血は熱い。熱湯みたいに触れてしまうと、思わず手を引っ込めてしまうほどに。ただ分かってる、あれは血が熱いんじゃない。
「私が冷たいんだ……」
そしてその冷たさは全てのものを凍てつかせてしまう。それを緩和する方法は一つある。誰かの体温を奪えばいい。血を、熱湯を、浴びればいい。熱を帯びればいい。
それは地獄の業火さえ、愛おしく想える少女だからこその感情だった。
5
「君の容疑は晴れた。疑いをかけて、すまなかった」
椅子に座ったままだが、私は深々と精一杯の気持ちを込めて頭を下げた。目の前には立ったままの小野夏希と荻原治のカップルが、どこか気まずそうな表情をしている。昼休み、わざわざ進路相談室まで来てもらった。
「蓮見さん、もう結構です」
許しを出してくれたのは小野夏希の方だったが、私は頭を上げた。
「約束だからね。荻原君、許してくれたかい」
「約束もなにもそれはあんたと夏希さんの間のものだろ。俺は疑いが晴れりゃ、謝ってもらわなくてもよかったんだよ」
彼はどこか困り果てていた。あまり謝られるというシチュエーションに慣れていないんだろう。
「そうか。それは助かる」
三人殺した殺人鬼だと思われたのだから、もっと怒ってもいいと思うが彼はそういうことは気にしてないらしい。目立たないだろうが、彼の長所を見つけた。
「ところで蓮見さん、治の疑いが晴れたということは、やっぱり」
彼女のこういう機知頓才のところはやっぱりすばらしい。
「ああ、別の容疑者が昨日になって出てきた。そして、ほぼ間違いなくその人物が犯人だろうと警察も決めた」
「警察もということは、蓮見さんも」
「私が一番強く確信している」
わざと麻由美ちゃんの名前は出さなかった。警察は今、全力をあげて彼女を捜しているらしい。ただ彼女はまだ一六歳。うかつに聞いて回ることもできない。もちろん、指名手配なんてできるはずもない。
私があまり多くを語らないことから、彼女はそれ以上の深入りはしてこなかった。彼女にならい、彼も知りたそうな表情をしていたが、口は閉ざしたままにしてくれた。
「あのね、今日君らを呼んだのは他でもない、頼みごとがあるからなんだ」
もちろん謝罪という目的が一番だったが、ある意味今後それ以上に重要になってくる時案がある。
「容疑者は特定できた。しかし、見つかってないところをみると逃げまわっているんだろう。警察が自分の正体をつきとめたことも感づいているはずだ。そうなると、今後の行動が読めない。もしかしたら正気を失って暴走するかもしれない。そうなると生き残った“cube”の安全はどこにもない。小野君、なにが言いたいかわかるよね」
私の長々とした説明を彼女はじっと少しも動かず聞いていた。その目はまっすぐ私とぶつかる。お互いの瞳の奥にある真意を探ろうとするが、少なくとも私の方は彼女の心の内はわからない。
「私が“cube”なら、早く白状しろと言いたいんですね」
「ああ。もうゆっくりなんてしていられない」
今までだってゆっくりなんてしているつもりはなかった。ただ、今までは『主』も警察や私に正体を知られることをおそれて大胆な行動は控えるだろうと考えていたから、小野夏希の監視という保護方法ですましていた。警察が近くにいると、殺されないだろうとふんでいた。
けど正体が知られたなら、もう失うものがない麻由美ちゃんがどう行動するかはよめなくなる。事態はいつも最悪だ。下手をすると見たこともない最悪が起こるかもしれない。
だからここで白状してくれると助かったが、彼女はやはり首を横に振る。
「申し訳ございませんけど、うなずけません。私は“cube”じゃありません。その心配は今も身を潜めている本物の“cube”にしてあげてください」
ここに嘘発見機があればどれだけ楽だろう。あれには法的証拠にはならないらしいが、とにかく今は彼女の言葉の真偽だけが知りたい。それだけでいい。
ただ彼女の目を見ていると自分の抱いている疑いを、疑ってしまう。私が彼女を最初疑ったのは彼女が荻原治の恋人だったから。そして次はこの頭の良さなら十分に“cube”になりえる、いや下手をすると『主』である可能性さえあったから。
けど今は違う。ここまでして否定する彼女を信じたくなってきた。それは小林陸のときと同じ感情。彼も嘘をついているとは思いたくなかった。けど、結果はあれだから何とも言えない。
「これは水掛け論だね。だからこそ、荻原君に頼みたい」
「はっ?」
急に声をかけたれた荻原治が素っ頓狂な声を出す。鳩が豆鉄砲でもくらったかのような顔をしていた。
「彼女を信じたい。ただ可能性としてある以上、無視もできないんだ。だから彼女のことを守ってやってほしい。できる限り、彼女のそばを離れないでほしい」
本来、これは警察がやることで高校生の彼に頼むことではない。それでもこうするのは警察が犯人を見つけたことにより、保護にあたっていた人員がさかれたことにある。手薄になってしまった。警察としては保護を続けるより、犯行を重ねる人間を止めた方がいいと決断したんだろう。
だからといって襲われる可能性のある小野夏希の警備を無くすか。荻原治の容疑が晴れた途端に。ちょっとは最悪も想定すべきだ。
「私もする。協力者もそうしてくれると約束してくれた。ただどうなるかはわからない。荻原君、君が頼りだ」
「あのなぁ」
彼はそこで言葉を切ると、一歩踏み出して顔を一気に近づけてきた。威嚇するかのような表情をしている。
「言われなくても自分でやる。頼まれるまでもねぇっての」
ついほほえんでしまいそうになるのを何とか堪えてみせる。私が一番ほしい答えがすぐにでてくれて、それを聞けて安心した。
「余計なお世話だったら謝るよ。じゃあ、握手でもしよう。協定の証だ」
右手をすっと差し出すと彼は許可を求めるように隣の少女へ視線を向けた。彼女は好きしなさいと言わんばかりに、なにもしないで目をそらした。彼はその反応をOKと受け取ったらしく、右手を握ってくる。
「お互い、がんばろう」
「裏切るなよ。俺もだけど。失敗したらぶっ殺すぞ」
「それはイヤだね。最愛の人から死ぬなって命令を、もう受けているんだ」
そんな乱暴な挨拶で小野夏希防衛網協定が制定された。とうの本人はもう何も言わず、私たちの握手の様子をどこか遠い目で見ていた。あまり長く握手をしていると彼女が妬くかもしれないので、早々に放す。
「さて、お話は以上だよ。時間をとらせて悪かったね」
お昼休みの大半を奪ってしまったのに、彼らは気にもしてないようだった。荻原治はすぐに部屋から出ていき、その後ろに小野夏希がひっついていく。彼が何もせず部屋をでたのと対照的に、彼女の方は失礼しますと頭をさげた。
「小野君、私は君を疑っている。けど同時に信用したいとも思っている」
彼女は背を向けたままこちらを見ない。かまわず続ける。
「少し残念に思うことがあってね。君がもう一年早く生まれてきてくれていればよかったのにって」
「それはなぜですか」
「私は在学中、色々と頼みごとが多くて忙しい日々を送っていたんだよ。その間、可愛らしい助手はできたけども後継者はできなかった。それが惜しいなって思っていたんだ。君が一年早く生まれていれば、私の在学中に会えた。君なら申し分ない」
高校生の悩み事なんてたかがしれていると思われたら嫌だ。私の在学中、確かに多くの依頼はどうでもいいものだったが、それは私からすればどうでもいいものであって相談しにくる彼らにとっては、とんでもなく重大な事案だった。それだけではなく、私からしてもとんでもないことだって思えることもあった。
私の卒業後、この学校には同じような悩みを抱えた一年生が入れ違いで入学した。彼らの悩みを解消する存在を残してやれればなとは、在学中から考えていた。
「……私には荷が重いです。蓮見さんだからこそできたことでしょう」
「そうでもないよ。君は世話好きみたいだし、向いている。私も困っている人を無視できないように教育されてね。そういう性格なら誰だってできたと思うんだ」
実際、私は確かに知恵が回った方かもしれないがそれは色々と経験したことでついたスキルであって、最初から備わっていた才能ではない。それに比べて彼女は明らかにそういう才能を持っているように見えた。ならば私より彼女の方が向いている。
ようやく彼女が振り向く。
「どうしてまた、そんなことを言い出すんですか」
「最近知ったことだけどこの高校に一人、心に傷を負った子が入学していた。そしてその子はその傷を抱えたまま、今もどこかを彷徨っている。彼女自身、彷徨っているつもりなんかないんだろうね。ちゃんと自分の決めた道を進んだつもりなんだと思う」
ただその道には終わりがない。そして平坦でもない。曲がりくねって、デコボコがある。そして道中、いくつもの障壁が存在していてそれを乗り越えるたび、彼女は自らの手を汚していく。彼女自身、自分の道を進んでいるつもり。けどそれは道じゃない。どこにも出口のない迷路。終わりも価値もない、単なる自己満足。
足下に残るのは多くの屍だけ。
「そういう子がさ、相談できる人が学校には一人くらいいてもいいと思うんだ」
請け負った相談の中にはそういう傷を負った子が持ち込んだものもあった。全て丸く解決できたわけじゃなかったけど、彼らの中にはその傷が軽減されたと言ってくれた子もいた。
「海野先生とかならもっと適任なんだろうね。あの人は全てを生徒に捧げている。けど、生徒が教師に相談するって中々出来ないだろう。やっぱり年代が同じ者同士でしか通じ合えないものってあるじゃないか」
別に本当に在学中、後継者が欲しいと願ったわけじゃない。ただこんなことになるなら、いてくれた方がよかったと後悔している。今更というのは重々承知しているが、それでもこうしてこんなことを語ってしまう。
彼女はしばらく扉の前で立ちすくみ、天上の方を見上げて何かを黙って考えていた。思考する時の癖で、やはり口元が小さく動いている。そんな彼女の名前が廊下の方から呼ばれる。夏希さん、何してんだよ、と。そういえば彼は待ちぼうけだった。
「引き留めて悪かったね。気にしないで行ってくれ」
「……もし、この事件が無事に解決したら」
手を振って見送ろうとしたのに彼女の言葉で動作を止めてしまう。彼女は天上を見つめていた視線をゆっくりと下ろしていき、私に焦点が合うと口元を緩ませ、微笑して見せた。
「色々と教えて下さいね」
それ以上は何も言わず、廊下へ出て去っていった。想定外の返事に呆気にとられていたが、しばらくすると自然と口元からはははという笑い声が漏れていた。そうか、それはいい。本当にそうしてくれるんなら、最高じゃないか。
何か急によく分からないやる気が出てきた。沈んでいた気持ちが、浮上していく。その証に自然とタバコに手が伸びていて、一本くわえた。それに火を点けようとライターを取り出そうとポケットに手を突っ込んだところ、さっき小野夏希が静かに出ていったドアから駆け込んでくる人影が現れた。
「どうしんだい、ひぃ君。そんなに慌てて」
入って来た仁志はいつも着崩している制服がさらに崩れていた。多分、走ったせいで乱れたのにそれを一切直さずに走り続けたんだろう。服装にはもうちょっと気をつけるべきだと思うのだけど。
「さっきまで女子と昼飯食ってたんだ……」
そういえば仁志は今日も二年生の女の子と食事をすると言っていた。
「小野夏希の話でも聞こうかと思ったんだよ。けど、変な噂を耳にした」
「変な噂?」
オウム返しする私にこくんと頷くと、彼は意を決したように口を開く。
「“cube”じゃないかって噂の女子が一人いる」
仁志や有華ちゃんにはその件でもまだ調査してもらっていた。私が小野夏希に張り付いている間、彼らには彼女が本当にそうじゃなかった場合のことを想定してもらっておいたんだ。
「……誰だい」
「鴻池だ」
一瞬、仁志が誰のことを言っているのか分からなかった。ただそれは聞き覚えのある名字で、一体どこで聞いたんだろうなんて考えた瞬間に、ある少女の顔が浮かんだ。それはここ最近、誰よりも身近な少女の顔。
衝撃を受ける私に仁志がフルネームで再度告げる。
「鴻池有華が“cube”じゃないかって噂がある」
口元に力が入らなくなったせいで、タバコが落ちてしまうと、質量の少ないそれはまるで存在しませんでしたというように、音も立てず床につき転がった。
放課後の屋上はまるで離れ小島だった。ただその小島には、近くに大きく発展したにぎやかな大島がある。離れ小島の住人である私は、大島からの聞こえてくる活気の音や、人々の声を目をつむって耳へ取り入れる。ここから聞こえている音は近くを走る道路の車の排気音、そして少数の生徒の声。部活動が中止されているので、生徒の声は通常より圧倒的にわびしくなってしまっている。
ここで小林陸に初めて接触し、ここで小林陸と別れ、ここで彼は殺された。忌まわしい場所だ。以前私が供えた花とは別のものが、今日はおかれていた。彼の友人か、海野先生か。どちらにしても彼の死がどれだけ後を引きずっているかがわかる。
別にここへこなくても良かった。ただ、人に聞かれたくはない会話だったし、ここなら有華ちゃんもうそはつけないだろうと考えた結果だった。
フェンスにもたれ掛かって何気なく携帯を確認すると、春川からメールがきていた。最近、彼女からのメールはよく届く。私の身を案じているみたいだ。ただ返信がいつもふざけているので彼女はよく怒っている。それでも安心してくれる。優しいよ、本当に。
今回のメールもそうであった。さて今度はどんな愛の言葉を添えて返信してやろうかと考えていたら、屋上の扉が開いた。携帯を素早く操作してから、ポケットにしまう。
「蓮見さん、呼びましたか」
有華ちゃんは片手に学生鞄を持って登場した。私を見つけるとゆっくりと近づいてくる。
「うん、ちょっとお話があるんだ」
彼女は私の前で立ち止まる。長くなるから、君ももたれかかったらいいと勧めたが彼女は制服が汚れるからという理由で拒んだ。それならそれでいい。表情を確認しやすくて、こっちとしては好都合だ。
「君には今も“cube”についての情報を集めてもらっているよね。特に女の子の噂を中心に」
「ええ。最初は二年だけでしたけど、今は特に一年を調べてます。三年生はもういないので、この二学年だけを」
それに三年生は仁志が男女の垣根を越えて捜査している。彼女が手を出す必要はない。
「それで、どうしたんですか」
彼女は何を今更そんなことをと言わんばかりの顔をして、首を傾げた。
「最近ひぃ君がモテモテでね。よく二年生の女の子と食事をしている。妬けてくるね、全く。いやいやそんなんじゃなく、そこで彼は変な噂を耳にした」
私はフェンスとひっついていた背中を離して、自分よりも低身な彼女と目を合わすために少し膝を折って彼女と向かい合った。そういえば、ここ最近ずっと行動していたのに彼女の瞳をこうもまじまじと見るのは初めてだったことに驚かされる。
「有華ちゃん、君が“cube”じゃないかって噂だ」
その時、彼女の瞳は確かに揺れた。ただそれが純粋な驚きなのか、やましさの裏返しの動揺なのかまでは判断できない。ただ間違いなく彼女は、まずいと感じたのだろう。すぐさま私から目をそらす。
そうはさせまいと彼女の頬に手を伸ばして、また目を合わさせた。
「逃げない。そんなことは許さないよ」
彼女はどうしていいかも分からない様子で、ただ何とか感情を殺そうと苦心していた。
「仁志が二年の女子と親しくなったのは、私が小野夏希についての調査を彼にしてからだ。君には荻原君の調査があったからね。そしてそれから数日で彼はこの噂を耳にした。二年の間ではメジャーな話題だったんだろうね。……じゃあどうして、君はそれを知らないのかな」
彼女が小さく一歩だけ後ずさる。私はそれより大きく一歩進み、彼女との間合いを詰めた。
「知らなかったんだよね。知っていたら報告してくれるよね。それとも知っていたのかな。知っていて、報告しなかったのかな。じゃあ、それはどうしてだろう。情報を共有しないと、私たちが組んでいる意味はなくなってしまうのに。ねえ、どっちだい」
最近、荻原治を自白させたときも追いつめてはいったが、あの時はまた違う。私は荒々しい声もかけてないし、相手を逆なでするようなこともしないない。私は饒舌で変な口調の、いつも通りの私でいた。
それが一番怖いだろうと、知っていながら。
「君は熱心に調査してくれた。小林陸が怪しいと進言して、彼が“cube”の仕事をしているんじゃないかって噂を掴んできてくれた。結果、彼は“cube”だったわけだ。君のおかげで特定できていた」
ただそれをいかせなかったのは何よりの汚点ではある。それは私の、だ。
「荻原君と黒沢明子の情報を掴んだのも君だ。君の働きのおかげで、物事は順調に進んでいる」
ただ荻原治の無実は香月麻由美の存在ですでに証明済みだ。
「そんな君がこんなメジャーな噂を聞き逃していたとは考えにくいね。じゃあ、君は私に隠していたわけだ。これはひどい。裏切られた気分だよ。それとも本当に裏切っていたのかな」
「ち、違い……」
彼女が何か言葉をつぐもうとするが、うまく発言出来ない。そんな彼女の追い打ちをかけていく。
「違うのかな。ほうほう、どこが違うんだい。ああ、ひぃ君が間違っているのか。まあ彼は確かに変なところでミスをするからね。否定はしない。けど残念、念のためにさっき噂を教えてくれた女の子に、私が直接会いに行ったから」
みるみる内に彼女の表情が暗くなっていき、そこに絶望の色が浮かんできた。唇だけが動き、空気を振動させてはいない。
「君は私を、騙したね」
それが結論だった。他の言葉はいらない。ただそれこそが、彼女に伝えるべき、突きつけるべき言葉だった。彼女はそれを真正面から受け止めることになった。
「言い訳があるなら聞くよ。ただ無いんだったら、君を警察に引き渡す」
彼女が大きく一度震えて、怯えた目つきで私を捕らえてくる。その瞳はもはや隠し切れなくなった巨大な動揺と、新たに生まれた真剣な恐怖がいびつに共生していた。
「そうしないといけないだろ。君が私に“cube”の可能性があることを隠したのは、君が『主』だからと考えるのが一番説得力がある」
彼女はぶんぶんと大きく首を左右に振り、何とか否定しようとする。
「じゃあ、どうして隠したの。私を騙して、何がしたかったんだい」
その時、彼女が自分の頬を捕らえていた私の手を掴んできた。そしてそれを握って、悲鳴に近い声を上げた。
「じゃあ、じゃあ信じてくれたんですかっ!」
離れ小島に絶叫が響きわたる。それはきっと、大島にも届く程の大きさで。
「まだ出会って間もないときに、“cube”だって噂のある私を側に置いてくれたんですかっ、茜と知り合いで“cube”の噂のある人間を信用してくれたんですかっ!」
有華ちゃんの叫びは、あの時、茜ちゃんが殺されたときのものを彷彿させた。燃え上がる人影を見て、ひたすら親友の名前を呼び続けて泣き叫んでいた、あの時の。
信じられたかと問われれば、信じられなかった。当たり前だ。信じられるはずがない。答えない私を責め立てるように、彼女が私の手をさらに強く握る。
「やっぱりじゃないですかっ、そんなことくらい分かってましたよっ! けど私は蓮見さんの側にいたかった……。だって、だって……」
彼女はそこで私の手を放して、倒れるように膝をついた。掴まれていた私の手は、彼女の手の形がくっきりと残る形で赤くなってしまっている。それがこの少女の必死さを物語っていた。
「だって……茜の仇は、私が……」
膝をついて両手で顔を覆い、彼女はただ感情にまかせて口を動かす。
「殺してやりたいんですよ、本当は。その『主』を。けど、できません。……だからせめて叩きたい。思いっきり、ひっぱたいてやりたいんですよ……」
親友が死んだ後、彼女は絶望に染まった。けれど彼女は思いの外、早く立ち直って一週間後には私とともに捜査を開始しておたが、あの時から今の今まで、親友を失った一七歳の少女を支えていたのは、恐らく他でもなくその友人の死によって生まれた憎しみだ。
それは強靱でちょっとのことではびくともしない。ただそれで支えられた意志は確かに強いが、それを失ったときの崩壊は尋常なものではない。だって人間は複数の感情で動き、生きている。けど復讐心はそれらをむしばみ、ただ「復讐」だけがいきる目的とする。
「知ってましたよっ、そんな噂っ、けど、だって……」
震えた声で何度も何度も、嫌だったと繰り返す。そんな彼女と同じように膝をついて、顔をのぞき込もうとする。彼女は覆っていた両手を少しのけて、表情を見せてくれた。赤くなった目に、涙で塗れたまつげ、涙の後が残る頬。
「……君は“cube”じゃないんだね」
彼女の両手を顔からのけて、また見つめて問いかけた。
「わ、私が“cube”なはずないじゃないですか……。私が“cube”ならすぐに助けを求めますよ。そ、それに私は『主』に選ばれるほど優秀なんかじゃ、ないですよ。あと、絶対に」
動揺の震えも絶望の色も一瞬で彼女の瞳から消えていき、一つの感情が彼女の瞳を統一して、目を鋭くさせた。
「私は茜を殺してないっ、絶対にっ!」
そこだけは何があっても譲れないと、剥き出しの激情が訴えかけてきた。
私はそれで確信して膝の汚れを手で払いながら、ゆっくりと立ち上がってさっきまでお世話になっていたフェンスの元へ戻り、またそこに背中を預けて全体中をそこに押しつけた。古い金属が軋む耳障りな音がすぐ側で聞こえる。
そんな私の様子を有華ちゃんはさっきと変わらぬ目つきで捕らえて離さない。そしてそんな彼女に、私はほほえんで見せた。
「良かった、本当に良かった」
足の方から力が抜けていき、立っていられなくなりその場に尻をついて、頭を抑えて深々と息を吐いた。
「もうどうしようかと思ったよ。いやぁ、良かった」
「は、蓮見さん……」
安心している私の姿を見た有華ちゃんが、どういうことか問うような目つきで見る。
「安心してほしい。君を信じる。君がそうまで否定するんなら、そうなんだろう」
彼女にまたほほえみかける。彼女の瞳に徐々に希望が生まれていった。
「信じて、くれるんですか」
まさかすぐに信じてくれるとは思っていなかっただろう、有華ちゃんが言葉に詰まっている。
「うん。だって、おかしいじゃないか。君が“cube”なら今現在、隠す理由はない。隠したら殺される、あるいは私に警察に渡される。なら『主』なのかと言われれば、じゃあどうして私を殺さないのかという話しになる。ここなら私を殺すのに申し分ない。目撃者もいないし、うまくいけば自殺で処理できるかもね」
ここは屋上。確かにここで小林陸は殺された。撲殺で見るかに他殺だったが今になって思うと何で犯人はここで転落死させなかったんだろうか。それなら運が良ければ自殺で片付けられたかも知れない。それはないと否定は出来ないだろう。そしてそれ位は頭が回っていたはずだ。
なのに『主』はここで彼を殺し、証拠に『箱』を置いていった。まるでそうしないといけないと言うように。
「……そんな、私が殺すかもしれないと思って、ここで話しを?」
「君が襲ってきたくらいじゃ、殺されないよ。こう見えても護身術や逮捕術は身につけているんだ。それにそれだけじゃなく、ここなら“cube”の末路がどういうものか身にしみて嘘なんて吐けないだろうと思った」
死者への冒瀆になるのなら私にはきっと天罰が下るだろう。ここで小林陸の死を利用したんだから、文句など言えない。けどそうでもしないといけないと思った。
「それにドラマチックだろ」
ウィンクして同調を求めたのに、彼女は首を小さく左右に振った。
「ベタ過ぎますね」
泣きはらした目を細めてそう笑う。分かってない、それがいいんじゃないか。シンプル・イズ・ベストだよ。
しばらく二人して笑った。何がそんなにおかしかったか分からなかったけど、無性に笑いたくなってしまい、堪えるのもバカらしいので私は声をあげて、有華ちゃんは口元を抑えて乙女らしく。多分、あの真剣な空気がぶち壊しになったから。
笑いが収まると有華ちゃんがあることに疑念を抱き始めた。
「それにしても……どうしてそんな噂が今更流れているんでしょうか。それって結構前のですよ」
「ひぃ君が詳しく調べたからというのもあるんだろうけど……やっぱり、きたね」
「えっ」
「もしも『主』が麻由美君ならこの状況でも復讐を果たす。そのためにはもう一気に二人殺す方が良い。けどそれをするには警察に私という存在が目障りだ。今までみたいにいかないかもしれないからね。警察の動きを封じることは出来ないから、私を封じようとする。さて問題です、君ならどうする?」
有華ちゃんはそんなの分かりませんよと嘆きながらも、頭を回転させ始める。答えは実は今のこの状況。そして彼女はすぐにそれに思い当たり、ああと短い息を吐いた。
「仲間割れ、ですか」
「ザッツライトってやつだね」
英語の発音に関してはやろうと思えば出来る、やろうと思えば、だ。私は思わない。
「ここで私たちが内部分裂してくれてる間に犯行に及びたいんだろうね。だから、昔の噂なんて蒸し返していった。多分、彼女はまだこの近くにいるね。そうじゃないとこんな芸当は出来ないから」
「じゃあ……」
「うん。――もう、終わりは近いよ」
それはハッピーエンドなのか、バッドエンドなのか、はたまたトゥルーエンドなのか。それは分からない。ただ事態はいつも最悪なので、バッドエンドなんだろう。そもそもこれだけ死者や傷ついている人間が出ている状況でハッピーエンドなんてなりえない。
「さてそろそろ、帰ろうか」
立ち上がって有華ちゃんの手を取って、引っ張って立たせた。その後、二人で帰路につくことになり彼女は生徒用の下駄箱へ、私は来客用の下駄箱へ向かった。方向が逆だったので校門前で待ち合わせをして。
有華ちゃんと分かれてから、ポケットに入れていた携帯を取り出して、そして覚えていた番号を押していく。しばらくコール音を聞いた後、彼女は電話に出てくれた。
「ハロー、ハニー」
そんな陽気な挨拶に対して返ってきたのは、寂しくなるほどの冷たい声だった。
「どうなってんだよっ!」
日頃から言葉遣いは乱暴な仁志だが、彼が声を荒らげて感情をむき出しにするのは実を言うと珍しい。昔は泣き出すことで怒りを表すことが多かったが、今日は生徒指導室の机を力一杯蹴飛ばして、それをひっくり返した。
机が倒れる音が響く中、仁志の激怒の様子を耳をふさいで見ている私と、教室の隅の方でふるえながら目を閉じて耳をふさいだ有華ちゃんが、彼の怒りが収まるのを待つ。
「いい加減、落ち着きなさい。乱暴は良くないって昔教えたろう、ひぃ君」
蹴飛ばした机をさらに踏みつけて、未だに収まらない怒りを持て余している仁志を納めようと試みる。
「机には罪はない。それが犯人だと思うなら、そうし続けてくれてもいいけどね」
そう諭す私に仁志はにらみをきかせた。
「あんたは悔しくないのかよっ、あんたのことじゃねぇかっ!」
「いい加減、あんたと呼ぶのはやめてほしいね。お姉ちゃんって呼んでくれ」
馬鹿馬鹿しい対応に仁志がまた怒って、机をさらに蹴飛ばす。天板を床につけて逆さまになった机が、擦れる音を立てながら壁にぶつかって、多分隣の教室まで響くような大きな音をたてた。それに有華ちゃんが小さく悲鳴を上げる。
はあと深くため息を吐く。全く、ちょっとは落ち着かないといけない。ここで感情を爆発させて得する人がいるのか。ああ、一人いた。けど彼女を喜ばせたらだめだろう。
そもそも仁志がどうしてこんな激怒しているのかというと、ある噂が今日になって彼や有華ちゃんのもとに届いたからだ。一体どんな噂だろうかと聞いてみると、何でも事件の真犯人についてのことだった。麻由美君の情報が漏れたのかと思っていると、なんと噂では別の人間が真犯人に指名されていた。
その人物というのが……私だった。
「まあ、案外スジは通った話しなんだよね」
困ったことにと付け加える。けど考えてみてほしい。小林陸が殺されたとき、確かに休み時間を挟んでいたとはいえ、生徒たちには授業というアリバイがある。もちろんその裏をかいたのが麻由美ちゃんであるが、私に至っても実を言うとアリバイはない。だって、あの時私は生徒会室で仕事をしていて、その後は眠ってしまっていた。一人でだ。
これは確かに疑われる。
「犯人だから別の人間を犯人に仕立てようとしているというのは、なかなか面白い推理だよ」
「誉めてる場合かよっ」
いやけど、説得力がある話しじゃないか。少し前に読んだ推理小説では本当にそれが真相だった。
「言っちゃ悪いが端から見たら確かに私は怪しいだろう。特に理由もなくここに入り込んで、警察の内部事情に通じている。それでいて犯人に喧嘩をふっかけたりしているけど、殺されはしていない。そのくせ被害者は出てる。私が犯人だからと言う結論は、これらの問題をすべて解決さすよ」
殺人鬼がいるかもしれない高校へ恐れを知らず入り込んでいるのは殺されないと知っているから。警察が未だに犯人を捕まえられてないのは、内部の事情が漏れているから。恨まれているはずの私が生きてるのは、犯人は恨んでいないから。私がいるのに小林陸が殺されたのは、私がいたから殺されたと考えてみる。
導かれる回答は真犯人イコール蓮見レイというものだ。
「ああっ、だからそれはおかしいだろっ! あんたが犯人なら逆にそんな目立つことばっかりするかよっ」
ここら辺を分かってくれるのはありがたい。
「だよね。私ならもっと静かにやるね。こんな騒ぎにしない」
「あんたが人殺しなんかするかよっ!」
怒りをぶつけるものが無くなったので、彼はその場で思いっきり足をあげて、力一杯踏みおろした。地団駄を踏むという慣用句の実写版だ。
けどここまで必死に否定してくれるのも、私が真犯人だと疑われてここまで怒ってくれるのは嬉しい。やはり人付き合いというのは大切だね。特に私にとって仁志との関係は、ちょっと特別だ。彼以上にかわいい後輩はいない。
「まあ、有華ちゃんはこれがどういうことか分かるよね」
教室の隅で怯えて小さくなってしまっている有華ちゃんに問いかけると、彼女は三日前の屋上での会話をちゃんと覚えていてこくんと頷いて答えてくれた。
「やっぱり、内部分裂ですか」
「だろうね。でもってこれは直接私への挑戦であり、捜査妨害さ」
これでこの学校で私は監視対象になる。私が荻原治をそうしたのと同じ手段で、私の動きを封じてきた。
「参ったね」
両手をあげて降参してみせると、そんな私の様子が気に食わなかったのか仁志がまた声をあげた。
「悔しくないのかよっ! あんたが犯人だって――」
仁志がそれ以上言葉を続けられなかったのは、私の目を見てしまったから。今まで、もうかれこれ七年以上の長い付き合いになるのに、恐らく彼は私が怖かったんだと思う。生まれて以来これほど目を鋭くしたことはなかったことはなかった。私が怒りで尖らせた目を見つめた彼は、それ以上の言葉は出さなかった。
「落ち着きなさい。ここでもめるのは得策じゃないんだよ。分かるかい」
「……分かった」
叱られた子供みたいにしょぼくれてしまった。どんな形であれ怒りを収めてくれて良かったと思う。
「まあ、流れてしまった噂はどうすることも出来ない。とにかく今は“cube”の特定と、保護だね。私は小野君にでも会ってくるよ。まだいるのかな」
今は放課後でもしかすると小野夏希はもう恋人と帰ってしまったかもしれない。そう危惧したけど、有華ちゃんが首を左右に振った。
「さっき見ましたけど。清掃道具持って、校門前にいました」
美化委員のお手伝いかと考えたけど、よく考えれば今は部活動だけじゃなく委員会活動も中止されているはずだ。
「荻原君はいたかい」
「えっ。いや、見てませんけど」
何か嫌な予感がする。というか、荻原治、協定はどうしたんだ。
「様子を見てこよう。二人とも、出来るならでいいから私の噂の発信源を特定してくれ。もしかしたらの可能性もある」
私の指令に二人は頷いてくれた。小野夏希が一人でいるというのが怖いので小走りで部屋を出ようとしたが、扉の前で立ち止まって振り返り、仁志の名前を呼んで彼の顔を指さし、お姉さん口調で言う。
「部屋の片づけをしておきなさい」
美化委員が学校の周りの清掃をしていることは知っていた。やはり学校があるというだけで地域住民からすれば迷惑が多いわけで、そういう方々にいい生徒もいるんですよとアピールするため、学校が考案したものだ。結構歴史があるらしい。
なんかちょっと言い方の悪い紹介をしたけども、やっている生徒たちは案外真剣だ。好んで美化委員に入る生徒は少ないが、入れさせられた生徒も最初は嫌々やっているのにしばらくしたら、充実感が生まれてくるらしく、一年生から三年生まで美化委員をやる子は多い。
私は一度も委員にはならなかったが、この校外清掃は参加したことがある。手伝って頼まれたことがあったし、在学中に美化委員会でちょっとトラブルがあったのでその捜査の一環で、こちらは頼まれてもいないのに参加した。
だから小野夏希がどこにいるかは分かっていた。そしてありがたいことに彼女はすぐに見つかった。
「精がでるね」
この学校の近くには大きめの川があり、彼女はその土手で軍手をして、左手に大きな白いゴミ袋を持って右手で大きな銀色のゴミハサミを操っていた。私の声で集中からとき放たれて、存在に気づく。
「こんにちは」
最初に挨拶を欠かさないのは彼女らしい。
「ああ、こんにちは。今、委員会は中止してるけど」
「はい。けどだからと言って掃除をさぼるのは、私は嫌なんです。それに委員会は中止なだけで、私は美化委員でも何でもりませんから問題ないはずです」
なるほど、確かにその理屈なら警察にも学校にも私にも止める権利なんてない。それを分かっていたわけだ。
「ゴミはたまっていきます。放ってはおけません」
よく町中で平然とたばこを捨てる中年の男性がいる。同じ喫煙者として恥ずかしくて仕方ないし、ああいうのが喫煙者の肩身を狭くしているんだと考えると腹が立つことさえある。そういったマナーを守れない大人たちに、今の彼女の台詞を聞かせてやりたい。その後復唱させてやりたい。
「全く……。それで愛しの彼はどこかな」
「それが何か呼び出されたとか言って、いなくなっちゃって」
「呼び出されたって誰に?」
「分かりません。訊く前にいなくっちゃいましたから」
おいおいと突っ込みたくなる。彼氏は協定を無視するし、彼女はそんなことは気にせず一人で掃除するし、やりたい放題じゃないか。まあ彼女としては安全だと思っているからいいんだろうけど。こっちの身にもなってほしい。
「一人じゃきついだろ。私も手伝う」
「いえ、それに蓮見さんにはお仕事もあるでしょう」
「あのね君、これが立派なお仕事なんだよ」
小野夏希はあとで合流するだろうと考えていた荻原治の軍手とハサミを貸してくれた。そうか、彼も委員ではないからここで清掃活動ができるわけだ。彼としては彼女に言われたから仕方なくと言ったところだろうけど。
「後輩の委員会の子が気にしていたんです。ここは日頃からゴミの多い場所ですから」
危険なのにこんなことを一人でやる理由は、後輩の頼みだったらしい。世話好きなのも限度ってものを知らないといけない。まあ、彼女なら大丈夫か。細心の注意は払えるだろうし、心配はない。
「蓮見さん、そういえばお聞きしたいことがあるんです」
黙って作業するのも寂しいから、何でも答えるよと返す。
「蓮見さんはどうして高校の時、探偵みたいなことをしてたんですか」
「ああ、父の影響さ。兄の影響もあるだろうね。我が家の男性は正義感が強い。あの人たちに何らかの形で近づきたかったんだろうね。分かりやすい性格だよ、可愛らしい」
どうして土手の草むらに車のラジエーターなんてものが捨ててあるんだか。これは一体どうすべきだろうか。そもそも、これって何ゴミなんだ。燃えるのか、いや燃やしちゃダメな気がする。
「なるほど。蓮見家の血ですか。では、蓮見さんも将来警察に入るんですか」
「いや無理だろうね。私自身、ああいった組織には向かない人間だよ。それに私は父や兄は尊敬しているけど、警察はそこまで好きじゃない。それに二人が反対するに決まっているさ」
私が警察になることなど兄と父は望んでいない。父なんて烈火のごとく反対するだろう。だから私も諦めている。そもそもあの組織にそこまで魅力は感じない。私は今回の件までは、小さな個人レベルのトラブルを解決していただけで、組織力なんていらなかった。
今回の事件も終われば、また個人レベルに落ち着こうと決めている。
「まあミニスカポリスをはいて街を歩きたいけどね。きっとファンが増えすぎておっつかなくなるからやめておこう」
ここで高校時代にコスプレマニアの知り合いから借りたミニスカポリスの格好をして、仕事帰りの父を出迎えたことがあるという笑い話をした。父は玄関で卒倒しそうになって、それを見て母とともに大笑いしたものだ。その後、私史上最長の説教を受けたわけだけど。
そんな私の話を小野夏希は笑って聞いていた。茶色く汚れた軍手をしているで、口元を押さえることもできないので口を開けて、肩を揺らして。
その後、しばらくは彼女と私、交互に面白話をしていった。単純作業をしている間は、やはりこういうのをしておかないとつまらない。そして一通り話し終えた後、彼女の方が急に切り出してきた。
「私は信じてませんよ」
それが何のことなのかはすぐ察した。彼女はあの噂のことを言っている。私が真犯人であるという、あの噂の。
「そもそも私は噂なんて物を信じるのは嫌いなんです」
「けど、あの噂はスジが通っているとは思わないかい」
「通っていません。蓮見さんが犯人なら、あることが欠落しています。それは蓮見さんの事件の介入方法です。あなたは確か鴻池さんの紹介で、安藤さんに会いに行きそこで事件を確信した。もしあなたが犯人だとすると、鴻池さんは犯人に相談しに行ったことになります。おわかりでしょう、そんな偶然がありえるんですか」
お見事、流石ですと拍手したくなったので、実際にやってみたが軍手をしていたので鈍った音しかでなくて、仕方ないので、パチパチという効果音を口で補っておいた。
「そういうことだよ。私は犯人じゃない。信じてくれるならありがたいかぎりだよ」
「落ち着いていますね。さては、予想していましたか」
そこまで当てられると拍手したくなくなる。
「私が喧嘩を売ったからね。何らかの形で仕返しがくるのは予想していたさ」
それが猫のバラバラ死体だったり、内部分裂を狙った噂だったとかは予想していなかったが私に何らかの形で害があるものだというだけは分かっていた。
ここで私のイタズラ心に火がついた。これは少し遊んでみようか。
「けど小野君、その偶然を否定することはできないんじゃないかな」
彼女はそれでもまた首を振る。
「それは否定できないかもしれません。けど、他にもおかしなところがあります。小林先輩の事件の時、蓮見さんにはアリバイがありません。確かにそれは怪しい。けど、本来なら真っ先に疑われるはずの人間が、ましてやそれを予想できたはずの蓮見さんが、何の対策もとっていなかったというのもおかしいです」
だんだんと面白くなってきた。やっぱり彼女はすばらしい。
「本当に殺したから、対策もできなかったというのはどうかな」
「じゃあどうして、蓮見さんは治を無実だと断言したんですか。犯人ならそんなことはしないはずです」
「濡れ衣を着せようとしたけど失敗してしまった、とかは」
「ないですね。治の無実を証明したのは蓮見さんです。彼を追いつめたのはあなたです。もし濡れ衣を着せたいならそんなことをする必要はありません。それどころかそれを警察に言って、疑いを深めるようにできたはずです」
「他に疑いをかけられる人物ができたとかはどうかな」
「そんな計画性のない人が警察を騙し通せるとは思いません。それと他に疑いをかける人物ができたとしても、それだからといって治の無実には結びつきません。彼を第一の容疑者、そして彼がダメなら次の人物としていけばいいだけです」
ここで彼女はほっと一息を吐いた後、結構険しい目つきで私を捕らえてきた。ちょっとからかい過ぎたかもしれない。
「遊んでいますか」
彼女が将来母親になったら、きっと叱るとき怒鳴りちらすタイプにはならないだろう。静かに諭す様に、それでいて絶対に逃がしてはくれない空気を醸し出してくる。
「君と話していると楽しいからね。すばらしかったよ」
仁志の様に感情にまかせて否定するんじゃなくて、情報を整理しておかしい部分を指摘していく。これが出来る人が意外と少ない。ただ彼女はそれを苦もなくやってのけた。私が彼女と同じ年齢だったころ、こんな落ち着いたことができてただろうか。
「無実の人を無実だと証明するのはさほど難しくありません。逆は違いますけど」
そんなことはない。両方とも難しい。
その後、私たちは事件について話しをしながら、掃除をした。彼女はよほど綺麗好きなのか、なかなか切り上げようとしない。こんな土手の清掃、終わりがないから早くやめないかと促しても、後少しと言ってきかない。
ようやく彼女が満足した頃には、夕日がもう四分の三を地平線に隠していた。
「ご協力感謝します。おかげで早めに終わることができました」
彼女がそう感謝してくれたのは素直に嬉しいが、私が手伝わなかったらもっと暗くなるまで続けていたのかと思うと、あきれて物が言えない。彼女は自分が一七歳の女の子だという自覚が薄いんじゃないか。そんな暗くなるまで一人でいたら、事件なんて無関係に危険だ。世の中、物騒なことが多いし。
「まあ、とにかく学校に帰ろう」
たんまりと膨らんだ二つのゴミ袋を私が、使っていたゴミハサミを彼女が持って校門をくぐった。大半の生徒が帰ってしまっていて、構内は静けさしかなかったが、未だに残っている警官や教師が忙しそうにしていた。
仁志や有華ちゃんはどうしているだろうか。もう残っている生徒も少ないから、帰ったかもしれない。まあそれはそれでいい。何かあったら携帯に連絡を入れてきているはずだろう。
「ああ、じゃあ私ゴミを捨ててきますね」
この学校ではゴミは焼却炉で焼くことにしているが、生徒が勝手に燃やすことは出来ない。なので焼却炉の近くに大きなゴミ置き場をもうけていて、そこに分別されたゴミをおいておくと、先生とか業者の方があとはやってくれる。
「うん。私はちょっと手を洗ってくる」
焼却炉は校門から少し離れた西門の近くにあった。彼女は重そうに二つの袋を両手に下げて持っていく。私は校内にある職員用のトイレで手を洗おうと、来客や先生たちが使う正面玄関から校内に入った。
靴を脱ごうと少しかがんだ時だった。耳をつんざく様な、心の落ち着きを吹っ飛ばす様な、その場にあった空気を一変させる様な音が響いた。思わず体を起こして、そのまま正面玄関からでた。
警報音だった。ただ校内で流しているわけではない。それほど大きくは無く、けれどそれは確かに私の耳に届いていた。そしてようやく、これが防犯ベルの音だと分かった。
もう何も考えず駆け出していた。焼却炉へ向かって。多分、今までの人生で最速の速度を出して。
そして彼女を見つけた。焼却炉へ向かう途中の西門の近くで、彼女は倒れていて、そしてすぐ側では明らかに動揺した様子の黒いレインコートに彼女の返り血を浴びた人物が門を飛び越えようと悪戦苦闘していた。
「麻由美君っ!」
私の怒鳴り声にその人物はとっさにこちらに振り向いた。フードをしていて、その下にはマスクまでしていたので顔までは分からなかった。
彼女は私が一気に近づこうとまた駆け出すと、血塗れにナイフを私めがけて投げてきた。反応して避けたのは良かったが、そこで足を乱してしまいこけてしまう。
彼女はその隙を逃すことなく、素早く門を越えていくとそのまま激走して視界から消えた。私は何か叫んでいたが、それがどんな言葉だったかは自分でも分からない。ただ、叫んでいた。
すぐに起きあがって倒れている小野夏希に近づく。防犯ブザーは彼女の手の中にあって、未だに鳴り響いている。よく見るとそのすぐ近くに『証の箱』もあった。やはり、彼女もだったか。
「小野君っ、しっかりしなさいっ!」
彼女の制服は左胸のところが血まみれだった。制服のボタンをはずして開けて、シャツの上から傷口を手で押さえる。止めどなく血が流れていく。手に血の生暖かさが伝わってきた。
「死んだら許さないからねっ、君!」
左胸の下の方を刺されていた。早く救急車を呼ばないといけないと考えていた矢先、視界に見覚えのない警官が飛び込んできた。彼は私たちの状況を見てパニックになり、どうしていいかも分からない様子だった。
「電話を、救急車をっ!」
呼んでくださいというところは声になっていなかった。ただそれだけで彼に伝わって、彼はすぐに電話をかけだした。いつの間にか音に気づいた校内に残っていた者がぞくぞくと集まり始めていた。
その中には有華ちゃんや仁志もいて、倒れた血塗れの小野夏希と、彼女を抱き抱えて傷口を押さえながら叫ぶ私の姿を見て、仁志は悔しさのあまり膝をついて堅い地面を拳で殴りつけて、有華ちゃんは受け入れ難い現実に首を小刻みにふるわせて、顔を両手に埋めた。
「小野君っ!」
傷口を押さえていたから分かった。まだ鼓動が微弱ながら感じられた。彼女はまだ生きている。
彼女は反応しようとしたんだと思う。唇が小さく開いて、あまりにも小さい、もはや声になっていない声を出していた。それはただの呼吸だったかもしれない。その二つの判別がつかないほど、彼女の口から漏れた空気は微弱なものだった。
辺りが騒然している。誰かが喋っていて、誰かが叫んでいた。そのせいで彼女の声が聞き取れない。私は呼びかけながら、彼女の口元に耳を持っていく。
「どうしたの、何が言いたいんだい」
強く押さえているはずなのに、私の指の間から赤い現実が漏れだしてきている。
「……あ、……あぁ」
蚊が鳴く様な声で、彼女はそう漏らしていた。言葉にしたいことがあるのに、そうでは出来てない。
「もういいっ、喋らなくていいっ!」
ここで喋ってももう何にもならない。ならもう、無駄な体力は使わないでほしい。
彼女はそれでも、何が何でも伝えたかったことがあったのか。もはやどこにも残っていなかったはずの体力の振り絞り、ゆっくりと、スローモーションみたいな動きで垂れ下がっていた右手をあげてきた。
そしてそれは顔の前で止まった。
「えっ――」
それは誰の声だったろう。私だったろうか、警官だっただろうか、仁志だっただろうか、有華ちゃんだっただろうか、それともその場に集まった誰かだろうか。いやあるいは、それら全員だろうか。
彼女はゆっくりと指を動かして、その形を作った。ピースの様な形。薬指、小指、親指は折っていて中指を中途半端にうかしている。ただそれあの指とは違い、人差し指だけが立っていた。そしてそれは間違いなく私を指していた。
そして彼女の首から力が抜けて、私の腕にかかっていた体重がどっと増す。また何か叫んだ。悲鳴だった。それはこっちに向かっていた救急車のサイレンさえかき消すほどの。
救急車には私と有華ちゃんが乗り込んだ。仁志はすぐ病院に向かうからと言って乗らなかった。それは車内で繰り広げられる処置を想像して、彼なりに配慮した結果だったんだろう。彼の想像通り、確かに車内では上半身を裸にされた小野夏希の救命処置が繰り広げられた。
病院に着くと、担架に乗せられた小野夏希は看護師や医者たちの手によってとんでもないスピードで手術室へ入れられた。手術室へ入る直前、一人の医者がマスク越しに言った。
「全力は尽くします。ただ、覚悟はしておいてください」
医者はそれだけ言うと自動扉をくぐり抜けて、生死の境目を漂う彼女をこちら側に引き戻すための作業をするため消えていった。
その覚悟とはどれくらいのものなのか。見知った少女の死を耐えられるほどの覚悟など、一人の人間の体に収まるものなのか。そもそもそんなものを、この状況でどこから絞り出せというのだろう。
くだらない。こんなことを考えてもどうしようもないのに、そんなことに考えを巡らすのは今の現実を直視したくないからだ。
ドラマでよく見る様な手術室の前。「手術中」と赤いランプで照らされたプレートをぼうと見ながら、冷たい脚いすに腰掛けていた。隣では俯いた有華ちゃんが鼻をすすっている。
そんな時、仁志が到着した。どこの病院かは無意識のうちに彼にメールしておいた。自転車を全力でこいで来たのか、息が荒いし髪の毛も乱れていた。額にはいくつもの汗が浮かんでいて、それをふき取ってもすぐまた同じことになる。
「しっかりしてくれよ、あんたが死にそうだ」
そうかけてくる声も、それを言うのが精一杯というものだった。
「すまないね……さすがにきつい」
今、私の心を浸食している魔物が二匹いる。一匹は不安という魔物だった。このまま小野夏希が死んだら、私は彼女の最後の声を聞いた者になり、最後に彼女の笑顔を見た人間になる。それはずっと私の人生に残っていくことになるだろう。それはただの少女の声や笑顔ではなく、私が救えなかった子の最後の肖像として。それはきっと、いつか私を壊していく。別にそれはいい。私がどうなろうが、それはどうでもいい。ただ、最後の目撃者というのはあまりに重荷だ。
そしてもう一匹は後悔というものだ。どうして一瞬でも彼女から目を離してしまったのか。そもそも彼女が一人でいるのが危ないからと思い、駆けつけたのに少しの慢心で警備を怠り、結果として彼女は心臓を刺された。私が目を離さなければ、私がちゃんと側にいれば、私がちゃんとしていれば彼女は今も元気でいれたはずだ。
その二匹が徐々に心を蝕んでいき、それを止める手だてを今の私は思いつけないでいた。
それに裏切られたというショックも引きずっている。小野君のすぐ側にあった『箱』は血でぬれてしまっていたが、あれは間違いなく彼女のものだろう。それに防犯ベルなんて物を持っていたということは、自分の身に危険が迫っているのを分かっていたからだろう。そしてそれが、彼女が“cube”だったという確信へと繋がる。
「わかるけどさ……」
この付き合いの長い仁志にしてもどう言葉をかけていいものか分からない様だ。
「……顔、洗いに行けよ」
言われて初めて自分の姿を見つめた。両手は乾いた血で真っ赤になっていて、服に付いた血も赤黒く、そしてまるで大陸の形が整っていない世界地図のような模様になっていた。顔は見られないが、仁志がこう言っているのだからそれなりの量の血液が、顔にもついているんだろう。
「人間は血液の三分の一を無くしたら死ぬらしいね」
「演技でもねぇこと言ってんじゃねぇよ」
「だね」
そこで会話が途切れてしまう。いつもならもっと喋れるのに、今はからかう元気どころか、単純に話すということだけでも体力がいる。
隣で鼻をすすっている有華ちゃん。赤く染まった右手でそっと彼女を抱き寄せる。彼女の方も寄ってきて、私の胸に抱きついてきた。そしてそのまま声を上げず泣き始めた。
「まだ決まったわけじゃないよ。彼女はしぶとい」
そんな言葉を有華ちゃんというより自分に言い聞かせていた。
しばらくして二人の走ってくる足音が聞こえてきた。まだ四十代半ばくらいの男女で、母親の顔つきが小野夏希に似ていたとこから彼女の両親だと分かった。二人は血まみれの私を見て一瞬、目を見開いた。ただ制服を着た仁志と有華ちゃんが側にいたので、犯人とは思われなかったみたいだ。
立ち上がって、頭を下げるとすかさず頭を下げかえしてきた。流石は彼女の両親だなんて、感心してしまう。
「小野君の知り合いの者です」
細かい説明は省き、そうとだけ自己紹介しておく。相手も私の素性などどうでもいいらしく、娘はと震えた声で尋ねてきた。
「左胸を刺されていました。病院まではなんとかもちましたが……どうなるか私にはちょっと……」
そしてさっき医者に告げられた言葉を、今度は私が使った。
「ただ、覚悟はしておいた方が良いと」
その覚悟という言葉を聞いた途端、母親の方が父親に倒れ込んだ。父親の方も相当ショックを受けていたのに、それを何とか支えてイスに妻をそっと座らせる。二人とも顔が蒼白になってしまっていて、血の気が伺えない。
娘を亡くす覚悟なんて、どこからも生まれはしないだろう。それでも彼らはそうしないといけない。それは生き地獄と比喩できる。
私はまだ泣いている有華ちゃんの手を引っ張って、彼らから距離をとった。絶望や悲しみを他者と比較するなんてことはしたくないけど、失うものの差があまりに歴然で、彼らの側にいることが何か申し訳ない様な気がしてならなかった。
それに聞かれたく話しがあった。
「二人とも、よく聞くんだ」
何とか平常心を取り戻そうと半ば躍起になりながら、私は二人を自分の前に立たせた。
「あんまり時間がないと思う」
「意味がわかんねぇ。時間がないってどういうことだよ」
「いいから黙って聞きなさい。すぐに分かるから」
救急車で小野夏希が処置される姿を見ながら、私はあるシナリオに気づいた。もっと前に気づけばそれを書き換えることもできただろうが、もう私にはどうしようもないところまでそれは進んでいた。だから、私にはあまり時間がない。
やっぱり、事態はいつだって最悪だ。
「小野君が助かろうがどうだろうが、ターゲットはあと一人いる。けどいいかい、よく心に刻んでくれ。君らは明日から何もするな」
泣いていた有華ちゃんの涙がとまり、仁志の拳がぎゅっと強く握られた。二人が納得してないことはよく分かるし、そんなの想像できた。けど言っておかないといけない。
「なんでだよ。被害者がまたすぐ出るかもしれねぇんだぞ」
「そうですよ」
二人の反論はもっともだったが、私にはまだ見ぬ被害者より大事な者がいた。
「君らが危ない。これ以上は危険すぎる。それに……私は盾になれない」
「は、蓮見さん、それってどういう……」
有華ちゃんの言葉が途中で切れた。そして同時に、複数名の足音が聞こえてくる。少し早歩きで、その力強さからみて恐らくは全員男性だ。だんだんとこっちに向かってきた。やっぱり、こういうことになったか。
すぐに目の前に男性五名が現れた。真ん中に立つのはスーツを着込んで、メガネをかけてオールバックの若い男。そしてその周りに同じような服装の四十代から五十代のひげを生やした、いかにも刑事ですという風貌の男たちが立っている。その内の一人は、父だった。
父は私と目を合わすとどこか悲しげな目をして、申し訳なさそうに目を伏せた。それは父が生まれて初めて娘の私から逃げた瞬間だった。ただ責めるつもりはない。悪いのは私なんだから。
前に立たせていた二人をどかせて、そのスーツの男と向き合う。
「蓮見レイ君だね」
いかにも日頃から他人を見下して生きていますと言わんばかりの高圧的な態度だった。
「ああ、そうだよ」
「私は須藤という者だ。この一連の事件の捜査指揮を任されている」
その名前は父から聞いたことがあった。今、捜査を指揮しているのは若手のエリートの須藤という奴だと。思わず怒鳴りたくなった、お前が警備の数を減らすなんてことをしたからこんなことになった、と。ただそれを口にも顔にも出さない。
「それはそれは。父が日頃からお世話になっているね」
私の軽口が気にくわないのか、須藤はレンズ越しの目を細めて不快感を露わにする。
「分かっているとは思うけど君の父親より階級は上だ」
「そうかい。それでそのお偉いさんがわざわざどういうご用件かな。こんなに部下の方を引き連れているんだ。被害者のお見舞いってわけじゃないよね」
彼らの目的なんて分かっているのに、そんな無駄口を叩く。そして少し挑発的な視線を送ってやると、彼は私がこれから起こることに予想がついていることに気づくと、唇をゆがめた。
「覚悟は出来ているみたいだな」
口調が一変し、覚悟という言葉が出ると仁志と有華ちゃんが直感的に何か良くないことが起こると察したのだろう、私の横について心配そうに見つめてくる。私はそんな二人を引き離して、また一歩前に出る。
「蓮見レイ――」
須藤もまた一歩前に出て、顔と顔とを近づけてくる。私たちの間には数センチしかなく、もし後ろから押されたりしたらキスをしてしまいそうな程だ。その距離で睨まれると、流石にインテリでも迫力はあった。
「君に任意同行を求める」
やはり、こうなったか。予想通り過ぎて、泣きたくなる。
「ふ、ふざけんじゃねぇよっ!」
隣で仁志が怒鳴って、須藤に一気に歩み寄ろうとするのを手で制した。
「君が公務執行妨害になるよ。つまらない前科を作るもんじゃない」
「あんたを捕まえるって言ってるんだぞ、こいつらはっ」
「そうですよっ!」
後ろから有華ちゃんが服を引っ張ってくる。行かないで下さいってことかな。
「何でこの人たちはいきなりそんなこと言い出すんですか」
「……状況証拠が私だと言っているんだよ」
認めたくはないけど、そうだった。そしてそれこそが私が救急車の中で気づいた最悪のシナリオ。麻由美ちゃんが描いていた、私を封じ込める作戦。
まずは私が真犯人じゃないかという噂を流布させる。そしてそれが浸透した頃を見計らって、小野夏希を一人にすることにした。多分、荻原治を呼び出したのは麻由美ちゃんだろう。そして呼び出した荻原治を何らかの方法で静かにさせて、時が来るのを待つ。私と小野夏希が二人でいるシチュエーションを待った。そしてそれが実現したのを確認すると、私たちを見張り今度は小野夏希が一人になるところを狙う。
そして小野夏希を殺害して、最後に一緒に行動していた私に疑いの目が向くようにした。私は確かに小野夏希を刺した人物を見たが、これは私が見ただけ。狂言の可能性もある。
これで私は警察という抗い難い組織に押さえ込まれる。そして警察は私という容疑者に人員や時間を割く。その間に次の被害者を狙うなり、逃亡するなりするつもりだろう。
それらを二人に説明すると、須藤が口を挟んできた。
「それだけじゃない。小野夏希は死ぬ前――」
「小野君は死んでない」
「おっと失礼した。とにかく彼女は君を指さしたんだろう。それはつまり、死んではいないが、タイイングメッセージということになる」
そう、それが何よりの決め手だろう。私は彼女に指さされた。ピースにも見えたが、確かに彼女の人差し指の先には私がいた。それは多くの人間が目撃している。あれが証拠だと言われると辛い。
あれがどういう意味だったのかは分からないが、少なくとも第三者からすれば、被害者による犯人の告発に見えただろう。そして現状、私には否定する術はない。
「それに今までの君の行動。今思えば不自然だ。ただ刑事の娘だからということだけで捜査に口出しをして……」
それはもはや単なる私怨からなる言葉だ。嫌われるのは当たり前か。若いエリートがせっかく任された大事件の指揮を執るはずだったのに、二十歳のもなっていない小娘から外野からやいやいと言われるのは屈辱だっただろう。
「君のおかげで捜査は進展せず、こんなことにまでなった」
「おいふざけんなよ。この人がいたから警察は事件に気づけたんだろうがっ。何もしてなかったのになめた口きいてんじゃねぇぞっ!」
須藤の眼光が鋭くなって、ありのままの感情をはき出したばかりの仁志に向く。そのまま彼に手を伸ばそうとしたので、咄嗟に間に入ってその手を払いのけた。
「子供が言うことに一々腹を立てるなんて大人気ないよ、須藤さん」
私は仁志を背中で隠して、彼にも小声で落ち着きなさいと諭した。
「……任意同行だったね。つまり、拒否できるわけだ」
法的には何の問題もないはずだ。ただ、須藤は嫌らしい笑みを浮かべる。
「ああ、構わない。ただ君は少し父親の立場を考えるべきだ」
なるほど。ここへ父を連れてきたのはそのためか。父はきっと、今回の任意同行に反対しただろう。ただ身内の訴えなど反映されるわけがない。だから父は私と目を合わせてくれないんだ。もしここで私が拒否すれば、父は警察に居場所が無くなる。父をどうにかする方法は一つ。
任意同行に応じて警察で調べを受けて、無実を証明する。それだけだ。
別に汚いとかは思わない。私だって荻原治を調べているときに、散々小野夏希の名前をちらつかせて彼の感情を煽った。ようは立場が逆転しただけだ。
「……任意同行には応じる。ただ、待って欲しい」
私は手術室を指さした。連れて行かれるのは構わない。だけどせめて小野夏希の生死だけでも知っておきたかった。ただ、返ってきたのは再び薄ら笑いで、須藤は諦めろよと切り出してきた。
「時間の無駄だからさ」
その時、私は自分がどういう動作をしたのかまでは覚えていない。ただ、気づいたときには間合いがほとんど無かったはずの私と須藤の間に父が入っていて、振り上げられた私の右手を掴んでいたし、仁志と有華ちゃんが二人で私の服を引っ張って動きを止めようとしていた。
須藤は父の影に隠れて見えなかったが、その場から数歩後ずさったのだろう、私から距離をおいた所にいた。
「……暴行で捕まるぞ」
やっと目を合わせてくれた父がそう忠告してくる。
「……殺人よりはマシさ」
痛烈な皮肉を返した後、掴まれていた手をほどいて、後ろの二人にも服を放してもらう。
「いいかい二人とも、さっきの指示を守っといてくれ。私がいない間は静かにしておくんだ」
「あんたがいない間ってどのくらいだよ」
「あっという間さ」
仁志はそれをただの励ましか、慰めに聞こえたのか納得していなかった。ただ仁志は受け取り方を間違えている。私には自信があった。本当にあっという間だという。ただそれをここで口にするわけにもいかない。
手術室の前では小野夏希の両親がこちらをじっと見ていた。彼らには今どうなっているか、さっぱり分からないだろう。その彼らの後ろの手術室の扉、その向こうで繰り広げられている激戦が、朗報をもたらしてくれることを祈る。
「父上、結果が分かり次第教えてくれ」
父は一度だけ頷いた。私はその返答に満足して、離れていた須藤に歩み寄っていく。
「じゃあ、行こうか」
須藤は私がまた何かしてくるんじゃないかと怯えていたが、私が素直に病院の出口の方を向かって歩き出すと部下を引き連れて、私の横についた。任意なので腕を掴まれるという、強制的なことはない。されたら事件後、女という立場を最大限に利用して法廷で争ってやるつもりだった。
背中に仁志と有華ちゃんの私を呼ぶ声が突き刺さる。小さく振り向くと、父が二人を宥めていた。二人に小さく手を振って別れを告げる。後ろ髪を引かれる思いだったが、なに大丈夫、すぐに戻ってこられると心の中で反芻した。
病院の前には黒塗りの車が一台止められていて、それの後部座席に乗るよう指示された。それに乗り込んで一息ついたとき、ルームミラーに一人の少年が映っているのが見えた。左右に座った刑事たちが邪魔だったが何とか後ろを振り返ると制服を乱した荻原治が、信じられないという顔つきで私を見ていた。
言葉をかけたかった。状況を説明してやりたかった。ただ、助手席で腕組みをして偉そうに指示をだした須藤のせいで、車は無常に発進して私と彼を引き離していく。小さくなっていく彼を見ながら、私は今度彼に会ったとき、どういう顔つきをすべきなのかを考えていた。
警察には父が勤めているし、今まで色んな捜査資料を見せてもらったということもあって、お世話にはなっていたがこういう意味でお世話になったのは初めてだった。出来ることなら、今後は二度と無いように願いたい。
取調室でパイプイスに座らされた私は、刑事たちが矢次にしてくる質問にただ機械的に答えていった。最初の刑事は父にお世話になった人で、私に強く質問できないでいたが、それを見かねた須藤が別の人間を送り込んできたので、私はしばらくの間、質問なのか罵声なのか判断しがたい野太い声を耳に詰め込まされた。
仁志にああ答えたとおり、私はさほど心配していなかった。そもそも任意同行ということからみて、警察が今どれだけ手詰まりしているのかよく分かる。強制するほどの証拠はない。だから状況証拠だけいっぱい集めて、父の立場を利用してここに閉じこめた。
あとは脅しでもきかせれば何とかなると思ったのかしれないが、私はそう簡単に折れてやるつもりは一切無かった。どんなきつい言葉もただただ聞き流した。私の無実を証明するために必要な質問には、間違いがないように丁寧に答えたがあとの質問はすべて適当だった。
取り調べをする刑事が次々と変わっていき、同じことを何度も質問された。時間の無駄だと思ったが、それでもちゃんと答えた。こんなことをしているからこの組織は大切なときにしくじるんだ。
夜中の十二時まで取り調べは続いた。流石に疲労がでてきた頃、父が取調室に入ってきた。
「小野夏希は一命を取り留めた」
それは数時間ぶりに聞く、人間味のある声だった。そして私が何より望んでいた朗報。
「ただ、いつどうなってもおかしくはない」
「そうかい。けど、まだ命があるならいい」
こんなことにはなってしまったが、初めて私は『主』の殺人をくい止めることができた。もちろん、後は小野夏希の身体の問題。もしかしたら私がまた負けるかもしれない。ただそんなことは想像したくなかった。
「これは任意の取り調べだ。帰ろうと思えば、すぐ帰れる」
「そうなると父上はどうなるさ」
「俺のことはどうでもいい」
「なら私のことも放っておいてほしいね。私はあの須藤とかいう奴が気に食わない。ここを出るときは、あいつが私の無実を証明してからだ」
あの偉そうなエリートにはそれが一番屈辱的だろう。自分が連れてきた重要参考人が目の前で、しかも自らの手によって釈放するのだから。
父も兄も私に対して心配性過ぎる。だから今も不安を隠そうともしない父に対して、笑ってみせてやった。安心するといいという意味を込めて。
「私には女神様が味方してくれてるんでね」
父はその意味が分からず、それでも私が言うことをきかないことと分かると取調室から出た。どうやらあまり長い面会は許可されていないみたいだ。
結局、私は署内で一夜を明かした。あの後も取り調べは続いたが、そもそも任意同行で証拠が揃っていない人間にそんな暴力的な取り調べをすると後が怖かったのだろう、案外すぐに毛布が与えられた。
そして父が買ってきてくれた朝食を食べて、取り調べが再開。ただ刑事たちからは昨日のような高圧的な態度は伺えない。誰も彼も腑に落ちない様子で明らかに昨日より弱腰の取り調べだった。
どうやら一夜のうちに状況が変わってくれたらしい。それでも須藤の悪あがきだったのか、昼前までは拘束され続けた。ただそろそろ昼食が欲しいなと思っていた頃、須藤が取調室に入ってきて、苦虫を噛みつぶした様な顔つきで言った。
「出ろ」
座りっぱなしだったパイプイスから立ち上がり、彼の目の前に立つ。
「どうやら立証は出来なかったみたいだね。一応、謝罪をしてもらおうか」
彼は拳を握りしめて何かに必死に耐えていた。私としては拘束されたことや犯人扱いされたことにはそこまで腹が立っていなかった。それは犯人が仕組んだことで、引っかかった私の責任でもあったから。
ただ小野夏希の手術を待つのを時間の無駄と言ったのは許す気はなかった。
「……申し訳なかった」
それで頭を下げたつもりかよと憤りたくなるほど小さく頭を下げた。まあ、彼のプライドがずたずたにされたことは間違いないので、それで満足しておこう。
彼の肩をぱんぱんと二度叩いた後、私は二度と入りたくない取調室を出た。そして署の出口の方へ向かっていると、いきなり腕を捕まれてわき道に連れ込まれた。
「何だい、父上」
私の手を掴んで離さない父は、どこか怒っている。
「お前は一体何を考えているんだ」
なるほど、やはり父は誤魔化せないか。けどここは白を切るしかない。
「私は自分の無実を証明するために質問に答えただけだよ。それを裏付けてくれたのは父上たちだろ」
「ああ、そうだ。元々証拠不十分のお前を拘束していること自体、ぎりぎりの行為だったのにお前にアリバイまで出てくると、もうどうしようもない」
「娘の無実が証明されたんだから喜びなよ」
「バカ野郎め。あんな不自然なアリバイがあるか」
私のアリバイというのは安藤茜、小林陸、そして小野夏希の事件の時にはない。私はその時は常に一人だった。だから私が証明できたアリバイは黒沢明子殺害時のアリバイ。約三ヶ月前の事だ。
私は友人たち複数名で出かけたと証言している。
「俺たちだってバカじゃない。お前の友達は確かにその日、お前と遊んでいた証言した。けどおかしい。一人しか思い出す素振りを見せなかった。もう三ヶ月も前なのにだ」
やっぱり父は優秀な刑事だ。娘として誇りに思うよ。そうか、もうちょっと演技力が必要だったか。けど仕方ない、きっと彼らも私のために頑張ってくれたんだろう。証言してくれただけでありがたい。
多分その一人というのは彼女だろうけど。
「けど、それで私のアリバイは成立した。一人や二人だけじゃないんだろ、証言が取れたのは」
父はその言葉に舌打ちをする。
「ああ、十数名とれたよ」
「やっぱり持つべきものは友だね。日頃の行いかな」
「お前なぁ」
「時間がもったいないからもう行くよ、刑事さん」
私は父にウィンクをして、そのまままた署の出口へ向かう。きっと父なら私のした細工くらい、一日もせずに崩せる。時間がなかったから、人頼りで作ったアリバイだ。ましてや、やったのは普通の大学生。父が崩せないわけない。そうしないのは、どこまでも娘に甘いからだ。そして娘は、それを信用と受け止めている。
自動ドアから署の外に出ると、一人の女性が立っていた。彼女は女神の様に委付堂々としていて、対して聖母の様に微笑みながら、女王の様な気品を携えていた。その姿が今はまぶしく見える。私は手を振りながら彼女の方へ寄っていく。
思い出す素振りまでしたのは彼女だろう。
「お迎えにまで来てくれるとはね」
「須藤って人に呼ばれたのよ。ちゃんと俺の目の前で証言しろって言うから。偉そうだったわ」
春川はそう愚痴ってから、肩をすくめた。
『アリバイを作っていて欲しいですって』
放送室での春川との会話。私が本題を説明すると、電話の向こうで彼女は驚いていた。
「まあ、端的に言うとね。ようはアリバイ工作さ」
『どうしてあなたにアリバイなんてものがいるのよ』
いくら春川とはいえ流石にこの要求の意味までは分からなかったみたいだった。いやむしろ、これを分かる方がどうかしている。こんなの私の被害妄想以外何ものでもないと言われたって、そうですねとしか返しようがない。
「まあ杞憂になればいいんだけど……私は犯人に喧嘩を売った。これは説明したよね」
『ええ、あなたらしい大胆なものでしょう』
春川から見て私は大胆らしい。これは衝撃の新事実。こんな控えめの乙女なのに。
「まあいいか。それでね、私が思うに犯人は私に対して仕返しをしてくるはずなんだ。それがどういうものかは想像もつかない。けどこの犯人は狡猾だ。もしかしたら自分の身代わりになる者を用意しようとするかもしれない」
『それがつまり、あなたになるっていうの』
「想像だよ。私を殺そうとするかもしれないし、それはどうなるか分からない。けどこの作戦はなかなか良い。私という妨害を排除できるし、しばらく警察の目も私に向く。私なら疑う余地は結構あるんだよね。そして一度私が疑われれば、警察は私の言うことなんか聞きはしない」
この作戦をとられると私としては八方ふさがりになって、身動きが取れなくなる。これは『主』にしてみれば、最高の仕返しになるだろう。
「そこでアリバイだよ。警察との信頼関係が終わるのは、まあいい。痛いけど元々素人が口を出していただけだしね。問題は拘束時間だよ。出来ればとっとと開放されたい。私がいない間に『主』が何かしようって思っているなら、私が早く自由になることは奴にとっては嫌な事になるだろうからね」
『なるほど、よく考えているわね。……けどこれって犯罪よ』
「そうだよ。だから、だからこそ、君に頼っている」
こんなことを誰にでも頼れるほど、私の周りの人たちは根性が座っていない。彼女の言うとおり、これは立派な犯罪で下手をすれば手首に銀の輪がついてしまう。ましてやアリバイ工作っていうのは、言うほど簡単じゃない。
だから春川に頼ったわけだ。彼女なら出来るだろうし、する根性も持っている。私の知り合いの中では最も信用に足る人物だ。もちろん彼女が今回の件を引け目に感じていて、断りづらいだろうというのも予想して頼んでいる。少し姑息なのは状況が状況なので大目に見て欲しい。
しばらく沈黙があり、耳元でため息が漏れてきた。
『それが最善ならやるわ。ええそうね、任せておいて。完璧にこなしてあげる』
彼女の言葉は心強いなんてものじゃないな。
「それを聞いて安心したよ、ハニー」
『いい加減にその呼び方をやめないと、殴るわよ』
この脅し文句は怖いなんてものじゃないな。
「まさか本当に必要になるとは思わなかったわ」
署から駅に向かうまで二人で並んで歩いていた。私の手には春川が買ってきてくれた缶コーヒーがある。
「それは私だって同じだよ」
そういえば春川とこうやって会って話すのは、かなり久しぶりだった。思い返してみると安藤茜の葬式以来だ。ずいぶんと昔のことにように思える。
「……大丈夫だったの」
「心配してくれてありがたいね。大丈夫じゃなかったから、抱きしめてくれるかい」
そんなに怖い目で睨み付けることはないと思うよ、親友。
「ごめんごめん。まあ少々傷ついたけど、良い経験が出来たさ。取り調べの可視化には賛成できそうだ」
「そう思うなら少なくともそんなに軽い口調で言うべきじゃないわね」
取り調べという言葉に反応したのか、通りすがりのサラリーマンに不審な目で見られてしまった。
結局、春川が構築したアリバイは複数名の目撃証言だった。黒沢明子が殺された日、私にはアリバイがあるかないか私自身分からない。そんな前のことを覚えているはずもない。だからといって、覚えてないと証言すると、何やかんや時間がかかる。それが嫌だったから、こうして春川に手を染めてもらった。
一人や二人の証言だったら信用性はかけるが、まさか十人以上の証言となると無視できない。そう考えたらしい。事実、警察としてもそうなると認めざるを得なかった。
「あなたに感謝している子は多いし、私の人脈もバカにならないわ。共犯者を集めるのは簡単だった。あなたと私、あと数人で遊んだことにしといた。その遊び先で偶然、私の高校時代の後輩と会ったという設定まで作ったわ」
そう誇らしげに語る春川には、何か表現できない怖さがあった。そこまで考えていたのかと驚くし、よくそこまで考えつくものだと感心する。大学の友人たちと遊んだというとまだ嘘だろうと疑われるが、その後輩と私には直接的な関係はないわけだから、その証言の信憑性は高くなる。
どうやらその子の証言がとどめになったようだ。
「その子に感謝しないといけないね」
「お礼の電話はしておいたわ。別にあなたのためじゃありませんですって。相変わらずだったわね」
さっきまでの表情とは一転し、春川が優しい笑みを浮かべていた。どうやらその後輩は彼女にとってお気に入りらしい。
「それであなたはどうするの」
「実を言うとどうしようもない。父上から情報が欲しかったけど、あの様子じゃもう教えてくれないだろうね」
そもそもちゃんとした情報を父が警察の中で教えてもらえる立場にいるのかどうかさえ分からない。私のしでかしてしまったことは、それ位影響力を持ってしまっている。
「手がないってわけじゃないでしょ。あなたなら何か考えているわよね」
ここで諦めましたなんて匙を投げたら、私は色んな大切なものを一気に失ってしまうだろう。もちろん、その中にはこの親友も含まれている。
「癪だけど、一人頼れそうな人がいる。その人なら警察からもある程度の情報を受けているだろう。そして一応は私を協力者と見なしてくれている。今はどうか分からないけどね」
わがままは言っていられないが、あの人を頼るのは嫌だ。それは私にちっぽけなプライドで、出来るなら守り通したかった。あの婆さんの顔が頭に浮かぶ。自然とため息が出てしまった。
「まあとにかく学校だね。その前に病院に行く」
小野夏希がどうなっているのか、それが気になって仕方なかった。
そのまま近くの駅まで一緒に歩いた。その間、私たちはいかにも女子大生がしそうな会話を繰り広げていた。最近のテレビ、モデル、ファッションについて等々。久しくそういう会話をしていなかったので、なんだか急に自分が女子大生だったんだということを思い知らされることになったが、それはひどく心地いいものだった。
駅でそれぞれ切符を買った。春川は私に付き添うと言ってくれたが、それは断った。
「君にこれ以上迷惑をかけたくはない」
そもそもアリバイ工作なんて無理難題を頼んだ時点でこんなことを言える立場ではないわけだが、そう言わないではいられなかった。
「やっぱり私は参戦不可なの」
「君みたいに可愛い乙女をこんな野蛮なことに巻き込みたくはないね。まあ、それを言ったら私もなんだけど」
春川はまだ反論しようとしたが、こんな真面目なときでさえ軽口を叩く私を目の当たりにして、何を言っても変わらないと分かったのだろう、そうと頷いた。
切符を買って改札を通り抜ける。そこには二つ階段がある。お互いにホームが違うのでここで分かれることになった。別れ間際、彼女はいつになく真剣な顔つきで私の手を握ってきた。
「気をつけてね。もう心配さすのはよしてよ。私、こう見えて結構焦ったんだから」
彼女を焦らすなんて、私はえらく大層なことをしでかしてしまった。
「うん。もう君には心配させないよ。安心してくれ、親友」
ここでいつもと違って親友と使ったのはこの距離なら殴れるから。有言実行が出来る彼女なら、ここで私に右ストレートを食らわすにはわけないはずだ。それとこれが何より重要だけど、本当に信じて欲しかったから。
彼女は私の珍しい真面目な回答に笑みを返してくれた。
「じゃあね。また」
彼女と別れて電車ですぐに病院へ向かった。その間に父から連絡を受けた仁志が、連絡をしてきてくれて、彼のおかげで小野夏希の病室が分かった。ただ今日も午前中、病院に行ったそうだが意識が目覚める気配は一切無いようだ。
電車の中ではメールでやりとりしていたが、出てからは電話をした。
『あんたはどうするんだよ』
「病院に行ってから学校だよ。情報がなさ過ぎる」
『なら俺も行くからな』
「来たってしょうがないよ。今日は情報集めで一日潰れそうなんだから」
『うるせぇ』
そんな短い会話で通話は終わった。彼としてはどうしたって私に会いたいらしい。嬉しいけど今日は本当に会ってもどうしようもない。情報を集めてそれから今後の行動を決める。そもそも私は自由に動いて良いのかどうかも分からない。
病院の受付で病室のある棟を聞き、そこへ向かった。予想通り、特別棟のICUの一室に彼女はいるらしい。その病室の前では昨日見た小野夏希の母親が、生気のない顔で立っていた。
声をかけると昨日血まみれだった服を着ていた人間だと思いだしたのだろう、急に背筋を伸ばした。
「入っても良いですか」
「……ええ」
このやりとりは香月亜由美の母親とのやりとりを思い出させた。
病室に入るとベッドに寝かされた小野夏希は、半透明の人工呼吸をつけられて目を閉じている。動かない彼女の代わりに周りにあるたくさんの医療機材が静かに動いていて、それが今彼女を生かしていると言われても信じがたいものがあった。
「……小野君」
無駄と分かっていながら彼女の耳元で呼びかけた。もちろん応答はない。
すぐに諦めてかがめていた体を起こした。どうして、こうも事態は最悪なんだろう。昨日の今頃、彼女はまだ生きていたのに、どうして今日は生死の境界線で眠り続けているんだろう。
喉が、胸の奥が、目頭が熱くなってきた。それを何とか奥歯を噛み締めて、拳を握りしめて、目を力一杯閉じて耐えてみせる。何も解決して無いどころか、これからまた何が起こるかも分からない今の状況で、弱さなんて晒している場合じゃないだろう。自分にそう鞭打った。
その時、病室の扉が開いて彼女の母親が入ってくる。
「蓮見さん、でよろしかったでしょうか」
とても丁寧な言葉遣い。なるほど、親子だ。
「はい」
「昨日、この子と最後に行動していたのはあなただと聞きました。それで聞きたいのですが……この子は最後、どんなことを言っていたのでしょうか」
母親の目には私には分からない強さがあった。それは昨日医者が言っていた「覚悟」というものだろうか。少なくとも彼女は、今後どんな最悪の結末も受け止めてみせると心に決めているらしい。それはまだ私のような小娘には出来ない決断なんだろう。
私は出来るだけ細かく、昨日の彼女との会話を話した。もちろん、事件の部分は省いて。彼女は何を言って、その時どんな表情をしていたか。覚えてる限り、全てぶちまけた。彼女はそれを幾度も頷きながら、決して聞き漏らしの無い様に目を瞑り、集中していた。
話し終えると、彼女はありがとうございますと頭を下げた。
「それじゃあ……私はここで」
最後に眠りについている聡明な少女の髪を一度撫でた。大丈夫、まだ温かい。
病室を出る間際、私は振り返りもせずにこれだけは主張しておきたいと思ったので、立ち止まった。そして彼女がそれを聞いているかどうかも分からないのに、ただ思いだけは伝えておく。
「私は、今話したことが彼女の最後の言葉だとは思っていませんから」
それは決意を固めた人間にとっては心を揺らす言葉だったはずだ。それくらい分かっていた。分かっていても、分かって欲しかった。
病院から出ると大急ぎでまた駅に戻り、今度は学校へ向かった。学校の最寄り駅からタクシーを使い、歩けば十分以上かかるところを三分程度で済ませた。
校門の所にはすでに仁志がいた。
「言っただろう、あっという間だって。お姉さんがいなくて寂しかったかい」
「けっ、もう少し牢獄にいりゃ良かったんだ」
可愛げのない返事だけど、長年の付き合いで彼が安心しているのは分かる。そして多分同じ原理で、こんなふさげたことを言いながらも私が心配をかけて悪かったと思っているのも、彼は分かってくれているだろう。だからこれ以上、言葉は不要だった。
「さてと、婆さんのところへ乗り込もう」
校門から学校へ入る。
「今日からもう臨時休校になった。学園長が決めたらしい」
「あの脅迫状はどうなるのさ」
「知るかよ。けど、もうどうなったって変わらないんじゃないか」
なるほど、そういうことか。もはや生徒の守りようがない。確かにそう結論づけるのも無理はない。警察が目をつけていた高校で、こうも堂々と犯行が行われては今後どうしようもないだろう。
「これが英断になるといいんだけどね」
希薄なことを口にしながら職員室へ入ると、何人もの教師が驚いた目で私を見てきた。どうやら私が容疑者になったことは周知の事実らしい。ただ一人、その中で表情一つ変えず私の方へ向かってくる人がいた。彼は私の前で立ち止まると、その長身を利用して見下ろしてくる。
「……怒ってるよね、ティーチャー」
海野先生が怒っていることは予想がついていた。先生の性格からして、私のことを心配してくれてたろう。そのくせ私はこういうことになるのを読んでいたんだから。自分のことを大切にしろと言っていた先生が、怒らないはずがない。
「本当なら頬を引っぱたいてるところだ」
体罰体罰と世間がうるさいこの当世、そんなことが出来るのかな。いや出来るね、先生なら。それが生徒のためだと思うなら。
「素直に謝るよ。ごめんなさい」
「……言いたいことは色々あるが、まあいい。学園長が待っている」
どうやら向こう側もこちらが来るのは分かっていたらしい。それなら話しは早い。学園長室で今まで私が見てきた婆さんの中でも、一番老け込んだ婆さんが黒の革イスに座って射ていた。両肘を珍しく資料の置いていない机の上にのせて、合わせた手の甲に鼻を乗せて口元が見えない姿勢になっていた。
「情報が欲しい」
「警察は容疑者を今里麻由美から、荻原治に変えたわ」
ろくな挨拶もせず質問だけぶつけると、答えだけ返ってきた。
「な、何を言ってるんだっ。荻原君は――」
「あなたが無実だと確信しただけで、無実だという証拠はなかった。そうでしょう。彼には昨日のアリバイが無い。それだけじゃない。彼は今、消息が掴めてない。警察は逃亡したと考えているわ」
「待ってくれ。私は昨日彼を見たぞ。そうだ、ひぃ君、君だって見ただろう。彼は私が連れて行かれた後、病院に来たはずだ」
あの絶望に染まった顔を思い出しながら仁志に同意を求める。彼は確かに頷いたが、それでも返事は濁っていた。
「見たよ。話しもした。けどあいつまだ手術中だって聞くだけ聞いて、どっか行っちまったんだよ。何か、それこそ人でも殺すんじゃないじゃって雰囲気出してたぜ……」
そんなバカな話しがあるか。あれだけ小野夏希に惚れていた荻原治が、その彼女が死にかけているのにどこかへ行っただと。あり得ないだろう。けど、あり得ているのか。どうしてだ。彼はどこにいる。
「それでまだ見つかってないんだね。警察は犯人として探している。ああ、これはやっぱり最悪じゃないか。どんな手を使ったかは知らないが、犯人は荻原治を犯人に仕立て上げるつもりだ」
「その犯人っていうのは……」
「麻由美ちゃんだろうね。私は一度会っているし、彼女だ。とにかく警察はもう私の言うことを信じない。なら、こっちで勝手にやるしかないね」
私は情報提供者にお礼もせず学園長室から出た。早歩きをしながら後ろにくっついてくる仁志に命令をした。
「仁志、君の知り合い総出で荻原治を捜すんだ。もしかしたら誰か友達の家にいるのかもしれない。そういうことなら君ら生徒たちの方がみつけやすいだろう」
「あんたはどうすんだ」
「私は原付でそこら中を走り回る。悔しいけど、それしか手がない」
彼を見つけ出してどうするかまでは考えていなかった。ただ、警察が彼を疑っているという現状だけで、それは十分に危険だ。もし麻由美ちゃんが本当に彼を犯人に仕立て上げようとするなら、最後に仕上げをするはずだ。それはもう、最悪なんてものじゃない。
けど、どうしてだろう。どう考えてもおかしい。ターゲットになり得る人物は後一人いるはずだ。ここで犯人に仕立て上げても、じゃあ後一人をどこでどうするんだ。また殺したらすぐに彼の無実が証明されて、警察はまた調査に乗り出す。それだと身代わりを作る意味がない。
どうして今このタイミングでこんなことになっているだ。単に捜査の目をそらして、その間に殺すつもりか。いやでも、それなら昨日の晩に出来た。私という身代わりがいたのだから。
訳が分からない。
「意味不明だよ。そもそもどうして警察はあんたを疑って、今度は荻原なんだよ。いや荻原は可能性あるけど、あんたは『主』の可能性なんかねぇじゃねぇか。ここの生徒じゃないんだから」
「それは簡単だ。多分、警察は『主』なんか信じちゃいないんだよ。それは私が捜査を攪乱するための嘘だったと思ったわけさ。過去の“cub”だって『主』の証言はしてるはずだけど無視してるのかもね」
仁志にそう説明して、そこで初めて自分でも気づいた。そうか逆だ。警察は『主』を信じている。だからこそ、今荻原治を捜しているんだ。彼らは、香月麻由美まで“cube”だったと考えているんだ。彼女は既に殺されていて、それで被害者がプラス一になる。現在、確認されている被害者は黒沢明子、安藤茜、小林陸、そして小野夏希の四名。それに一を足せば五。そして『主』を含めれば、“cube”の完成だ。
バカな発想だ。麻由美君が“cube”だって。そんな発想が出来るのがすごい。彼女は姉を“cube”によって殺されているんだ。そんなものに参戦させられるわけがない。けど、これで計算は合うのか。各学年に二人ずつ、“cube”がいることになる。
「ああっ、くそっ!」
思わず悪態をついてしまう。どこまで、一体どこまでこの事件は計画されていたんだよ。麻由美ちゃんは自分を被疑者から、被害者に変えたんだ。でもどうやって……。警察がどうやってそんな考えをするんだ。
「……私か」
そうか。私は被疑者になった。それを計画していたのなら……。無実が証明されたとはいえ、私が疑わしいことには変わりはない。ならその私が無実だと言った荻原治と、犯人だと指摘した香月麻由美。疑われるのはどっちになるのか。それは想像に易い。
もちろん、その事実も色々と考慮してのことだろう。警察は香月麻由美を完全にマークしていた。その中で学校の中で堂々と犯行が行われれば、警察としては捜査にミスがあったと考えるより先に、彼女は最初からいなかったと結論づけるだろう。そしたら疑われるのは限られてくる。小野夏希の恋人という存在は、あまりに大きい。
私は私が身代わりにされることを予想していた。そのために予防線を張った。けど相手は、それを見抜いてその線を絡ませて複雑にしていき、多くの人間を彼女の仕組んだ思考の中で雁字搦めにして、最後にはその線を使って誰かを絞め殺すつもりだ。
これは……。こんなの……。
「人間が出来ることじゃない」
警察がこんなことをしている間にも、最後の“cube”は……。最後の、一人は……。
「仁志っ、有華ちゃんはどうしたっ」
その場で足を止めて急いで振り返る。早すぎる私の動きに仁志が目を丸くしていた。
「鴻池か。あいつも午前中は一緒に病院に行った。ただ、その後は知らねぇよ」
どうして今になってこんな重要なことを忘れていたんだ。自分で自分を殴りたくなる。ポケットから携帯を取り出して彼女に呼びかけるが、何度コールしても一向に出ない。電波の届かないところっていうのは、一体全体どこなんだっ。
進路相談室へ入り、置きっぱなしだったヘルメットを持って、すぐに出て行く。
「そういえば、あんたの原付を誰かがいじってたぜ。おいって怒鳴ったら、どっかに逃げたけど」
「高校生は原付に憧れるものさ。私も十六になって、すぐに免許を取ったもの」
そんなくだらないエピソードはどうでもいい。校門の近くまで来て、仁志に向き直る。
「じゃあ、ここから別行動だ。君は友人たちに頼んで荻原君を捜してくれ。私は彼を捜しながら、同時に有華ちゃんも見つけるから」
「なあ、鴻池ってやっぱり――」
「頼んだよっ」
仁志の質問を蹴散らして、私はすぐ側に駐めてあった原付にまたがり鍵を差し込んで、エンジンをかけながらヘルメットをかぶり終えると、アクセルを回して乱暴に一気に発進する。
猛スピードを出しながら、ひとまず有華ちゃんの自宅に向かっていた。彼女とどうしての連絡を取り合わないといけない。その思いだけが先走って、ただただスピードを出していったが、鉄橋のある交差点の眼前で赤信号になってしまったので、舌打ちをしながらブレーキをかけた。いや、かけようとした。
「えっ……」
いくらかけてもブレーキがきかない。だからスピードも落ちることなく、交差点にさしかかろうとしていた。頭の中がパニックになり、何度も何度もブレーキをかけようとするが、止まる気配は一切無かった。
ふと、一瞬だけ視界に何かが入った。それは鉄橋の上、誰かが立っていた。そしてこちらをじっと見下ろしている。顔までは見られないが、それが昨日会った人物であることは分かった。
その人物に向かって何か叫ぼうとしたとき、鼓膜が破けるんじゃないかという様なクラクションが聞こえてきた。驚いてその方向を見た瞬間、横からとんでもない衝撃が私にぶつかってきてそのまま吹き飛んだ。ふわりと体が浮くとまるでスローモーションみたいに景色が映ったが、すぐに重力に従って元のスピードでアスファルトの地面に叩きつけられ、そのまま転がった。
全身が痛いはずなのに、痛みすら感じられなかった。朦朧とする意識の中、最後に見たのはアスファルトの地面に叩きつけられた自分の体から流れ出す、バカみたいに綺麗な緋色。それを見ながら、やっぱりなと確信した。
……事態はいつだって最悪だ――。
7
鉄橋の下では大騒ぎになっていた。何人もの大人たちが車をその場に止めて、倒れている彼女に駆け寄って彼女の体を乱暴に揺らすが、まるで応答がない。事故を起こしたドライバーに至っては放心状態で、その場に立ちすくんで邪魔でしかなかった。彼の人生が狂ってしまったのは、まあ仕方ない。
これでとりあえず目障りな障害が一つ減った。まさかここまで上手くいくとは思ってなかったが、これでいい。文句はない。最高の形だ。いや、最高ではないか……。できればこの手で彼女を殺めたかった。それが叶わなかったのは非常に残念。ただあまり彼女に近づき過ぎると足下をすくわれそうで怖かった。
まあ、結果として彼女の排除に成功したことだけでも満足すべきか。
「残念だったね、探偵さん」
鉄橋の手すりに両腕を乗せて、そこに自分の顎を乗せていた。そのまま下の様子を伺う。誰か一人の四十代くらいの男が、携帯に向かって叫んでいた。
こんなことにはなっているが、彼女には感謝して欲しい。そもそもここまで生かしてあげたこと自体、優しさじゃないか。本当ならもっと先に殺してやってもよかった。ただそうしなかったのは個人的に彼女が好きだったから。そして、面白そうだったから。
ただもういらない。もう彼女の役目は終わった。後は静かに眠りにつけばいい。そして、二度と目覚めなければいい。それでハッピーエンドだ。もう彼女は何にも悩まなくていい。誰かを守る必要もない。誰かに疑われることもない。今回の事件、彼女は疲れたはずだ。
「ゆっくり休むといいよ、永遠にね」
そう、もう二度と目覚める必要なんてない。少々痛いだろうけど、それを我慢してくれればあとは楽に向こうの世界へ行けるよ。そこには小林陸も黒沢明子もいる。事件のことがまだ調べたいんだったら、そいつらからまた調査すればいい。
もちろん、真実が明るみにでることはない。
クスクスと気持ちよく笑っていると、誰かが鉄橋を登ってきた。見覚えのある顔。真っ直ぐこっちを向いている。ささと行きましょうと急かしているのが、言葉にしなくても分かった。
「見なよ、人の死に様なんて中々見られるものじゃないから」
その人物に声をかけても返答はない。つまらない奴。大対、こんな所に現れなくてもいいのに。人が折角人の死を楽しんでいるときに……邪魔だろう。殺してやろうか。こいつを殺すなら……そうだな、絞め殺す。絞殺ができなかったのがちょっと惜しいところだから。
その時、サイレンが聞こえてきた。救急車とパトカーだ。体を起こして、鉄橋から離れる。さて逃げないといけない。探偵の死を見届けられないのは残念だけど、まあいい。死ならどうせこの後すぐ、また見られる。
立ち去ろうと一歩踏み出す前、やはり彼女のことが気になって鉄橋から身を乗り出して下を見た。倒れた彼女の体から、血が流れていてアスファルトを赤く染めていた。最後に勇姿だ。あまりにあっけないが、それでもいい。
くすっと笑った後、この時のためにさっき道ばたで摘んでおいた名前も知らない花を、鉄橋の下に向かって放り投げた。
「バイバイ、名探偵」
2011/03/01(Tue)23:12:59 公開 /
コーヒーCUP
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2011/03/01 一部修正&改稿。
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