『二人の天使』 ... ジャンル:リアル・現代 ミステリ
作者:山茶花                

     あらすじ・作品紹介
人は他人を傷つけたことを忘れるけど、傷ついた人は忘れないんですよね。そしてある日突然それを突きつけられる。

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「二人の天使」

 ぼやけていた焦点がひとつに重なると、かかとの磨り減った靴が見えた。右手には無
意識に脱いだ靴下が握られている。どうやらいつもの場所のようだ。
 昨夜も布団に辿りつく前に、身体のエンジンが切れそのまま玄関で寝込んでいた。
 後頭部の辺りに溶け切れない塊が居座っている。口の中が粘っこく乾いていた。未だ
目覚めない筋肉を無理やり動かし、床から剥ぎ取るように立ち上がる。コートも脱がず
に台所に向かった。蛇口に口を当てると血の味が感じられる。乾いた身体は干からびた
大地のよう水を欲していた。
 六畳の台所兼ダイニングに八畳の寝室。1DKのアパートは一人住まいには充分な広
さだ。ダイニングには一応冷蔵庫があるが、中にあるのはビールとチーズくらい。食事
を作ることは殆どなかった。
 滝川は寝室に入ると敷きっぱなしの布団に倒れこんだ。もう一週間も放りっぱなしに
なっていた。湿り気と汗の匂いがする。時間は午前六時。まだ出社までは間がある。もう
一度夢の続きを見よう。あいつの笑い顔は疲労回復に最大の薬になる。横になって目を
閉じると、意識は闇と同化した。
「わあ、酒臭い。滝さん、また夕べ遅くまで飲んだんでしょう。いつも、いつも飲みす
ぎですよ」
 夕子が鼻を摘まんで見せる。
「何を言う。自分の金で酒を飲んでいるんだ、どこが悪い。それに夕子、だいたいお前
が悪いんだぞ。お前がもっと俺に優しくしてくれたら、俺は一人寂しく居酒屋で飲むこ
となんかないんだ」
「あら仰いますけど、わたし充分に優しいつもりです。こうやって毎朝ちゃんとお茶を
入れてあげているし、誰かさんが二日酔いだといえば、胃薬も上げる。いまどきこんな
女性はいないわよ。少しは感謝して欲しいですね」
 夕子は二十七歳。黒縁のトンボのような眼鏡の奥にクルンと円い幼い目がある。黒の
タートルネックに黒のパンツ。小柄な身体ながら見事な胸と腰を見せていた。百七十五
センチの滝川とは首ひとつ違っている。ダイエットにと始めた合気道は五年になる。滝
川も何度か同じ道場で手合わせをしたことがあった。
「そうかい、そうかい。じゃあ優しさついでに、こんど俺とホテルに一緒に行って子守
唄でも歌って寝付かしてくれないか?」
「お生憎さま、わたしにも好き嫌いがあります」
「俺はないんだけどな」
「だったら通りに出て、片っ端から女性に声をかけてみれば」
「うまくいくかな?」
「さあどうでしょう、蓼食う虫も好き好きといいますから。勝手にどうぞ」
 夕子はやっておられないと言った顔で席を離れた。
 滝川は夕子が入れてくれたお茶を手にした。
 程よく熱いお茶が口の中を刺激する。皮膚のひとつひとつが目覚めていくのが分かる。
滝川はこの時間が好きだった。
「滝さん、いいかな」
 編集長の相沢が太った首を伸ばしている。メタボリックシンドロームの標本のような
体つきだ。本人は気にして昼は蕎麦、夜は玄米と粗食に努めているようだが効果は出て
いない。理由は間食。甘いもの大好きの相沢はドーナッツに目が無かった。三時のおやつに
たっぷりとチョコやシロップの掛かったドーナツを口にする。六時を過ぎると、女性社員
を店まで走らせるのはしょっちゅうだった。
 ワイシャツの腹のボタンは今にもちぎれそうだ。身体を揺らすたびに椅子が悲鳴を上
げる。そのくせヘビースモーカーで相沢の周りは紫の煙の塊が浮遊していた。
「なんでしょう?」
「これなんだけど、知っているかな?」
 相沢の机の前に立つと折りたたんだ新聞を寄越した。日付は一ヶ月も前のものだ。小
さな記事が赤鉛筆でマークされていた。

  白昼、堂々と殺人事件
  世田谷区祖師谷に住む五十嵐真治さん二十八歳は昼過ぎアパートから出てきた
  ところをいきなり刃物を持ったパート店員水上瑞枝二十七歳に切り付けられ
  近くの病院に運ばれましたが、大量の出血により亡くなりました。なお犯人
  の水上瑞枝は駆けつけた署員によりその場で逮捕されました。

「ええ、事件だけは」
 似たような事件はいくらでも起きている。新聞を見ていればうんざりする。毎日毎日
殺人だ、死体が見つかったと、凶悪事件のオンパレード。気にするほどの珍しい事件で
もあるまい。そんな気持ちを顔に出した。
「ちょいと掘り下げてくんないか」
 相沢は事件の裏を探って、面白そうであれば記事にしろと言っている。
「これを、ですか?」
「ああ、ちょっと面白い情報を手にしたからな」
 相沢はいったん言葉を切るとタバコに手を出した。
 マイルドセブンライトを吸っている。ニコチンやタールの量が少ないからというのが
理由らしい。それならいっそのこと止めれば良さそうなものだが、その気はなさそうだ。
この一本で間違いなく死にますと言われればやめるだろう。だが今のところそんな医者
は現れていない。出現したときに死に神となるのか天使となるか、相沢次第だろう。
 灰皿から溢れた吸殻が机の上にこぼれていた。
 滝川は相沢が口を開くのを待った。
「殺された五十嵐って男だが、二ヶ月前に刑務所から出てきている。もっとも刑務所と
いっても交通刑務所だけどな」
「それと何か関係があるんですか?」
「犯人の瑞枝は子供を交通事故で亡くしている。息子で当時五歳、その事故を起こした
のが五十嵐。今から二年前だ。五十嵐は飲酒運転をしていたらしい。そのときの事故を
記事にしたのがこれだ」
 相沢は机の上に乗ったコピーを指差した。
「すると、瑞枝は殺された子供の復讐をしたというんですか?」
 相沢は頷いた。
「五十嵐がどんな男で、どういう生活を送っていたのか。事故を起こしたときの状況、
子供を殺された瑞枝の生活や、心情、復讐までの過程を探り出せば、面白い記事になる
と思うんだが」
 交通事故で子供を失った親が復讐のために、事故の加害者を殺した。「現代版あだ討
ち」のタイトルが浮かぶ。
確かに週刊誌の記事としては面白いかも知れない。交通事故などはありふれたものだ。
日常茶飯事に起きている。身近な題材。それだけに読者に訴えるものがあるかも知れない。
学校や幼稚園の子供たち、登下校で事故に遭遇し死んでいく。
 トラックのタイヤに巻き込まれた。
 学童の列に車が突っ込んだ。
 枚挙に暇がない。何の前触れもなく、ある日突然に最愛の娘や息子を奪われる。
不測の事態に親たちは呆然とし、悲しみに涙する。やがて憎しみへと突き進む。だが
彼らの怒りは決して癒されることはない。仏壇に飾られた遺影の笑いが悲しみを深くす
るだけだ。瑞枝もその中の一人だった。
 だが彼らはまだ幸せだ。憎む対象がはっきりしている。怒りをぶつける相手が目の前
にいた。
 加害者がどこの誰かも分からない。ひき逃げされた親は誰に怒りをぶつければいい。
顔の見えない相手に憎しみを募らせるのは天に向かってこぶしを突き出すより頼りない。
 滝川が警察からきかされたこと、若い男女二人乗りのバイク。ナンバーはテープで隠
されていた。
 一人はチャバツでソバージュの女、ゴーグルを掛け、背中にドラゴンの刺繍がされた
ジャンバーを着ていた。運転をしていた男は、フルフェイスのヘルメットを被り、黒の
革ジャン。それだけの情報では警察は見つけ出すことは出来なかった。近くで銀行から
出てきた年寄りがひったくりに会い、その犯人と同一犯ではないかと思われた。
「どう、滝さんやってみるか? いやだったら他の奴にやらせるが」
 相沢は俺に遠慮しているのか。
 いや、そんな気持ちがあるのなら最初から俺に声をかけることなどしない。もう八年
も経っている。会社の連中はとっくに忘れているだろう。
最もそれが普通だ。他人の悲しみにいつまでも付き合えない。若い社員などそんな事件が
あったことさえ知らない。と、言って恨み言を言うつもりはない。これは俺だけの問題だ、
そして息子のためにも解決しなくてはならない。
「分かりました、やってみます」
「じゃあ頼むよ」
 滝川は新聞紙とコピーを手にすると相沢の机を離れた。
 何から手をつける。まだ頭の中で整理はついていない。滝川は伸びた髪に手櫛を入れ
ると、もう一度コピーの記事に目を通した。

   飲酒運転で子供死亡
   十二日の午後四時ごろに、世田谷区経堂二丁目の交差点で近くに住む
   水上隆さんの息子大輔君五歳が、自転車に乗って道路を横断しようと
   して、五十嵐真治二十五歳の運転するワゴン車に撥ねられ死亡しまし
   た。道路は見通しのよい直線道路で、五十嵐運転手が制限速度を超え
   たスピードで運転していたものと警察は見ています。なお五十嵐運転
   手からは酒気帯び運転を示すアルコール濃度0.15ミリグラムが
   検知されました。

「あ、この事故私のアパートのそばで起きたんですよ」
 横から夕子の声がした。
 いつの間にか覗き込んでいたようだ。
「なんだ夕子の家は経堂二丁目なのか?」
「ううん住所は一丁目なんですが、場所はすぐそばなんです。でもどうしてこんな昔の
記事を読んでいるんです?」
「ちょいと調べたいことがあってね」
「へえ、そうなんだ。わたしも実は現場を見に行ったんですよ。何となく好奇心という
奴ですかね。会社に入ったばかりで、記者の真似事をしたかったんですけど」
 夕子は入社四年目になっていた。
 快活で怖いもの知らずの夕子はどこか的外れなこともあったが、さっぱりした気性か
ら皆に可愛がられていた。
「何か見つかったかい?」
「いえ、何も。でもひとつだけ気になったんですが、事故のあった場所って、横断用の
信号がついているんですよ。この子信号無視をして横断歩道を渡ったのかなと思って」
「車のほうが信号無視をしたんじゃないのか。酒を飲んでいたらしいし、それにかなり
スピードを出していたようじゃないか」
「そうですね、でもそのこと記事には出ていませんよね。それにスピードは制限速度
だったと後で聞いたような気がするんですが…」
 すると子供が信号無視で道路に飛び出したのか。
 そうなると子供のほうに過失がある。どんなに正常に運転をしていても急に飛び出さ
れたら避けようがない。酒を飲んでいたとはいえ、五十嵐はある意味では被害者と言え
るかも知れない。
 もう少し事故を調べてみようか。その価値があるような気がした。
「出掛けてくる」
「その前に、その無精ひげを剃ったほうがいいんじゃないですか。むさくるしいし、
いい男が台無しですよ」
「あれ、いい男だと思ってくれるんだ。嬉しいね。ひょっとしたら俺に気があるんじゃ
ない、どう今度一緒に二人だけで酒でも飲まないか。いいとこ知っているんだけどな」
「お断りします。下心が見え見え」
 くるっと踵を返すと、夕子は自分の仕事に戻っていった。
 滝川は自分のあごに手を当てた。ずいぶん伸びているな。そういえば昨日、今日と
剃刀を当てていないのを思い出した。
 机の引き出しから電動のシェーバーを取ると、洗面所に向かった。
 鏡の中の顔を見る。疲れた親父がいた。まだ四十三、もう四十三、どちらだろう。
くたびれた服にワイシャツ、手垢で汚れたネクタイがぶら下がっている。他にもネク
タイがないわけではない。だがついこれを絞めてしまう。これはあいつが好きだった
やつだ。
 よれよれのコートを羽織り外に出る。風は冷たいが、日の光のなかに春の色が混じっ
ている。通りの骨ばった木々にも硬い芽が噴いていた。
 滝川は事故の起きた現場を訪ねた。何かを探ろうと思って来たのではない。記事を
書くためには現場を知る必要があった。
 そこは何もなかったかのように日常に埋もれていた。事故直後は多くの花や、お菓
子、人形などが供えられたであろう。五歳という短い命を惜しむ人が涙したかも知れない。
それも今ではその影もなかった。乾いた道路には誰が捨てたのか、ペットボトルと
コーラの空き缶が転がっている。
 夕子が言うように三百メートルほどの直線道路の真ん中あたりに横断歩道が道を横切
る。押しボタン式の信号がついていた。見通しはいい。通りは制限速度五十キロとなっ
ている。これであれば、離れた距離からも横断する人間の姿は見えたはずだ。五十嵐は
酒に酔っていて気付かなかったのだろうか。わき見運転でもしていたのか。
 凄まじいスピードでトラックが通り過ぎる。
 轢かれたのは五歳の男の子。五歳ともなれば信号の意味も分かっているだろう。それ
とも遊びに夢中になって赤信号でもとびだしたのか。
 一人勝手に想像してもしょうがない。会社に戻ると公判の記録を滝川は取り寄せた。
 検察側、弁護側の双方の主張は食い違っている。
 一番の違いは事故の原因が子供の飛び出しによるものだという弁護側の意見。
 それに対し、検察は車の信号無視によるものだと主張していた。
 目撃者はいなかった。
 現場に残された、タイヤ痕の制動距離から、当時車は時速六十キロで走行していたも
のとみなされた。さらに飲酒運転であったことから、懲役三年の実刑が課されていた。
危険運転致死傷罪が法制化される前の事故。過失致死傷罪では、最高五年の刑までで
あった。
 裁判所は子供の急な飛び出しか、車の信号無視かについては言及していない。いずれ
かに確定するだけの証拠がなかったのだろう。
 目撃者がいなければ判断のしようがない。
 本当にいなかったのだろうか。滝川が現場を訪ねたときには、数人の男女が通りを往
来していた。
 商店街ではないが、まるっきり人気のない場所でもなかった。
 事故当時誰かが見ていてもおかしくない。
 目撃者を探してみようか。恐らく警察も同じことをやったはずだ。徒労に終わるかも
しれない。
「どうです、何か面白いのが出ました?」
 お茶を持って現れた夕子の顔に好奇心の色が傍目にもわかる。
「まだ何にも出てないよ。車が信号無視したのか、子供が赤信号で飛び出したのか。
だがいずれにしろ運転手からは子供の姿は見えたはずだが」
 公判記録を机に放った。
 警察の現場検証ではブレーキ痕が横断歩道の数メートル手前からついている。
 つまり、五十嵐は子供の姿を数メートル手前で気付いたことになる。
「この死んだ大輔くんって子、どんな子供だったのだろう」
「どんな子って?」
「うん。日ごろからやんちゃな子で、赤信号でも渡ってしまうような子供だったのか、
それとも慎重に青になって渡る子供だったのか。もう五歳だったのでしょう、赤信号の
ことは理解していたと思うから」
 夕子の目の付け所は面白いと思った。
「なるほどな、確かにそうだ。信号を待つのって性格がでるからな」
「交差点なんかで子供たちが待っているでしょう。見ているとしっかりと親の言いつけ
を守って青になってから渡る子や、車が来ていないと思うと、さっと走って渡る子もい
るじゃない。あれって親のしつけもあるけど、性格がつい出るんですよね」
「言えるな。大きな交差点だったらそんなことはないけど、小さな通りの信号なんか
結構無視して渡ることはあるもんな」
「私はちゃんと待ちますけど」
「ありがとう、夕子リン、助かった。今度飯ご馳走する」
 滝川はコートを掴んでいた。
「あてにしないで待っている、滝ちゃん」
 滝川は後ろ手に手を振った。
 水上瑞枝のアパートは交通の激しい主要道路から百メートルほど入った、住宅街の込
み入った場所にあった。
 アパートといっても三階建てのしゃれたマンション風の景観をみせている。それでも
かなりの年月が経っているのか、壁のあちこちに汚れが目立った。枯れた蔦が壁面にへ
ばりついている。アパートの前には子供たちの遊べる広場があり、アパートの住人と
思われる主婦たちが、子供を遊ばせていた。春の陽だまりがそこここに腰を下ろしている。
 瑞枝の住まいは二階の三号室、夫の隆と、長男治樹の三人暮らしだ。
 滝川は話しに余念のない主婦たちに声をかけた。
「水上さんところの大輔くんですか、あの子、いい子でしたよ。とても素直で。きっと
お父さんに似たんじゃないかしら」
 化粧のきつい女性だった。口紅がやたらと赤い。
 他の二人も頷いた。
「腕白なところはありませんでしたか?」
「そんなのは少しも。どちらかというと大人しいほうだったかしら」
「そうね、大輔君は大人しかったわ。それに無茶を絶対しない慎重なところがあった。
それより腕白っていえば、お兄ちゃんの方が腕白ですよ。結構短気なところがあったか
しら。うちの子が苛められたこともありましたから」
 別の二人が口を揃える。
「お兄ちゃんはお母さんそっくり」
 赤い口紅の女が笑った。
「お兄ちゃんって、治樹君のことですか?」
「ええ、そうよ。でも治樹君とお母さん、本当の親子ではないんですけどね」
 治樹は夫、隆の連れ子であった。
 瑞枝と隆の間に生まれたのが大輔。大輔と治樹は五歳はなれていた。
「お母さんってどんな方なんですか?」
 女の言葉が気になって尋ねてみた。
「どんなって言われてもねえー」
 女たちは顔を見合わせた。薄らと笑いが見えた。
「私たちが喋ると、それを記事になさるんでしょう?」
「記事にしないとは言いませんが、おっしゃったことをストレートに書くようなことは
しません。それに皆さんの名前が出るようなこともありませんので、ご心配はいりません」
 どうすると三人はもう一度顔を見合わせた。
 互いの視線から相手の意思を読み取ったのか、
「約束してくださいね。我々から聞いたとは絶対言わないでください」と赤い口紅の女
は念を押した。
「勿論お約束します」
 だが当てになるものではない。
 赤い口紅の女は話し出した。
 どこからそんな情報を仕入れてくるのだろうか。本当かどうか定かでないが、主婦た
ちの情報収集能力に舌を巻く。それとも単なる彼らの創作話なのか。
 女は瑞枝の過去を教えてくれた。
 女番長、もと暴走族の女リーダー。
 瑞枝の生まれは神奈川県川崎市。高校中退。喧嘩、カツあげ、万引きの常習犯で、少
年院送りも経験していた。そんな悪の瑞枝が変わったのは夫の隆と知り合ってかららし
い。二人の間にどんな経緯が会ったのか、そこまでは女たちは知らなかった。
 今のアパートに隆と引越してきたのが七年前。暫らくの間、昔の仲間が出入りしてい
たようだった。アパートの住人は怖くて一日中鍵をかけて部屋にいたと言った。
 そのときの様子に尾ひれがついているのかも知れない。
「じゃあ、大輔君はスパルタ教育で育てられたほうですね?」
「とんでもない。まるっきり違っていましたよ。まるで猫可愛がりというんですかね。
大事に、大事に、まるでこわれ物を触るみたい。それに旦那さんのほうも同じでした
ね。歳の離れた奥さんを貰うと、あんなになっちゃうのかしら。何でも奥さんの言う
とおりだったから」
 夫、隆と瑞枝は十五歳離れていた。
「そうね、お兄ちゃんの治樹君がちょっと可哀相だったかも」
「ちょっとじゃないわよ。いじけなきゃいいのにと思っていたのよ」
 眼鏡をかけた太目の女性が同情したように言った。
 大輔は無茶をするような子供ではなかった。これが女たちから得た結論だった。
 慎重で大人しい。そんな子供が信号を無視して横断歩道を渡るだろうか。やはり五十
嵐は嘘をついたとしか思えない。少しでも自分の罪を軽くしようと出任せを言った。
だが目撃者がいたら、そんな嘘はすぐにばれただろうに。
 それとも目撃者はいないと知っていたのか。
 無理があるような気がする。五十嵐は現場検証でそのことを言っている。大輔が急に
飛び出したと。
 もしそれが事実だったとしたら。あり得ないことではなかった。
普段は大人しい、慎重な子供でも、何かの拍子に道路へ飛び出すことも考えられる。
例えば道路の反対側から誰かが大輔を呼んだ。思わずそれに答えて道路を横切った。
 いやいや考えすぎだ。止めておこう。それより瑞枝の気持ちを聞かなくては。記事を
書くには彼女を取材しなくてはならない。息子を事故で奪われて、復讐するまでの彼女
の心の動きを細かく知ることが必要だ。復讐に至るまで心の葛藤があったはずだ。息子
を失った悲しみから憎悪への変転、そして殺害までどのように気持ちが変化していった。
滝川は自分が辿った心の動きに照らし合わせていた。
 しかし突然面会を申し込んでも承諾するか疑問であった。
 それに会えたとしても、心を開いてくれるかどうか心もとない。多くの犯罪者に面会
したことはあったが、皆一様に心が硬かった。
 何度も通って時間をかけるしかないのか。他に手立ては。
 考えた末に手紙を書いた。
 同じように味わった苦い過去を、そして苦しい心情を吐露することで、もしかしたら
瑞枝は打ち明けてくれるかも知れない。
 八年前の、大きな虚脱感。息子は生きる支えだった。突然奪われて全てが空しいと思
った。希望が消え、闇だけが周りを覆っていた。心が痛い、胸が裂け、血がほとばしり
そうになる。かけがえのない大事なものが手からこぼれた。いや、無理やり取り上げら
れ消されてしまった。
 がらんどうの埋めようのない心、空虚という言葉がどんなものかを知った。寂しさ、
悲しさ、そして憎しみと怒り。感情の波に溺れ、翻弄され自分の中で何かが壊れていく。
やり場のない憤りと苛立ち。家庭は崩れ去った。
 書き終えたときに、相沢がどうして自分にこの取材を指名したのかが分かったような
気がした。
 手紙を投函し瑞江から返事が来るまで、やることが無かった。
 滝川は再び事故現場に立った。どこかで引っかかっている。
 五十嵐の言葉が本当なのか確かめよう。
 トラックや乗用車が走る。どれも制限速度を守っているようなスピードではない。見
通しのよい道路であれば、スピードが出やすいのは分かる。
 五十メートルほど離れた場所にコンビニがあった。もしかしたら誰かが見ていないだ
ろうか。滝川はコンビニのドアを開けた。
 客が数人、陳列棚を眺めている。レジの中で若い男が時間を持て余していた。
「すみません、二年前にこの先の横断歩道で交通事故があったのを覚えておられますか?」
男は突然の質問に驚いた様子だ。
 滝川は名刺を渡し、説明をした。
「僕まだここで働きだして三ヶ月なんです」
「そうですか、それじゃ分かりませんね…では他にどなたか分かる方はいらっしゃい
ませんか?」
「ちょっと待ってください」
 男は店の奥に入った。
 出てきたのは背の低い中年の男性だった。
「二年前って、もしかすると小さな子供が轢かれた事件?」
「水上大輔君って、五歳の子供なんですが」
「名前は知らないけど、覚えているよ」
「すると、ぶつかった瞬間は見られましたか?」
「そのことね、あの時も警察に聞かれたんだけど、見てないんだよね。店の中にいて
キーって言う急ブレーキの音を聞いて外に出たんだけど、もうそのときは子供は地面に
倒れていたから」
 ここは空振りだった。
 滝川は通りに並んだ家をしらみつぶしに当たった。住宅、商店、会社の事務所。
 誰もが事故の起きた後に現場に駆けつけていた。
 現場で聞き込みを開始して三日目だった。
「滝さん、電話ですよ。女性の方」
 夕子が目配せしてくれる。
「うまいこと言って、その実とんでもないばあさんなんだろう」
「若い女性の声よ、それも素敵な」
 言い方にとげがある。少しだけ女の匂いを感じるときだ、受話器を取った。
「あのう、滝川さんをお願いしたいのですが」
 なるほど若い女性の声だ。それに尾骶骨の辺りをくすぐられるような色っぽい音質が
たまらない。
「私が滝川ですが、何か?」
「私の兄の事故について調べておられるというのを聞きましたので」
「お兄さん…失礼ですが、お名前は?」
「失礼しました。五十嵐純子と申します」
 五十嵐の妹。どうして自分に電話をかけてきた。いや、それより自分が調べているこ
とをどうして知った。素早く頭を回転させる。答えを出すのに時間は掛からなかった。
現場で聞き込みをやり、あちこちに名刺を配っていた。恐らくそこからの情報だろう。
「五十嵐真治さんの妹さんですか?」
「はい」
「それで私にどんな御用でしょう?」
「兄の事故を調べられている理由をお聞きしたいと思いまして」
 理由を言うのは簡単だった。だがこのまま電話で済ませたくない。絶好のチャンス
だ。一度会って妹から何らかのコメントを引っ張りだしたかった。
 兄が起こした事故で、兄は復讐され殺された。肉親の気持ちを聞いてみたい。妹は
どんな想いでいるのか。兄妹であればやった瑞枝を許せないと思うのではないのか。
理不尽だと考えているかも知れない。ジャーナリストの立場より個人的興味が強かった。
 毎日どこかで交通事故は起こり、そして人が死んでいる。
その都度復讐が行われたら、この世の中殺人事件が横行してしまう。社会の秩序は
壊れ、正義はなくなる。理性のある人間がやることではない。文化人や法律家が言って
いる。
 理屈はまともだが心に届きはしない。しょせん第三者のきれいごとだからだ。
事故で子供を失った親は泣き寝入りしろというのか。過失だったから許せというの
か。己がその立場になったらどうする。勝手なことを言うな。人はそんなに寛容になれ
ない。
「どうです、お会い出来ませんか。そのとき理由はお話します」
 躊躇いを見せるかと思ったが、純子はすぐに承諾した。
 指定した場所は、事故の会った現場から遠くない、駅の近くの喫茶店だった。
「滝さん、五十嵐の妹と会うんですか?」
 夕子は耳をそばだてて純子との話を聞いていたようだ。
「そう。デイト、デイトだよ、若い女性と。今からわくわくするね」
 鼻の下をわざとらしく伸ばす。
「全く、相手が若い女の子だと分かるとでれでれしちゃって、みっともないったら」
「あれ、ひょっとして夕子妬いているんと違う?」
「誰が妬くか」
 喫茶店「椰子の実」は南の島をイメージした小さな店だった。
名前のように椰子の実が置かれ、そこから枝葉が伸びている。さんご礁と青い海の写真
、店内は水色で統一されていた。カウンターとテーブル席が三つ。常連客と思われる男
たちがカウンターの椅子に腰掛け、マスターと談笑していた。
 滝川は通りの見える窓際に腰を下ろした。
 コーヒーの香りを楽しんでいるとき軽やかな客の到来を教えるベルが鳴った。からし
色のコートを着た女性が入ってきた。彼女の視線が滝川の上で止まった。
 躊躇うことなく歩み寄ってくる。
「滝川さんですね?」
 滝川は頷くと、どうぞと向かいの席を指し示した。
 コートを脱いだ純子は、キャメル色のセーターに茶色のタイトスカートを履いている。
切れ長の目は声に合っていると思った。スレンダーな身体の割には胸と腰は充分な肉感
を持ち男の目を引く。滝川は慌てて視線を外した。
「すみませんね、無理を言いまして」
 オーダーを済ますのを待って滝川は再び口を開いた。
「私が、どうしてお兄さんの事故を調べているのか、その理由を知りたいということで
したね」
「ええ」
「知ってどうされようと思われたんですか?」
 卑怯だなと思ったが、滝川は逆に純子に質問した。
「どうかしようなどとは思っていません。ただ兄の事故が記事になるのであれば、事実
を書いて欲しいと思っただけです」
 事実か、それが一番やっかいだ。なにせ目撃者がいない。検察と弁護士、お互いの主
張は食い違っている。
「勿論我々は真実以外を書くことはありません。そのために事故の検証をしているんで
すが、ただ今のところ何が事実なのか証明するものがない。そうすると推測するしか
ないんです」
「滝川さんは兄が信号無視をしたと思いですか?」
 声は柔らかだが芯の強さをうかがわせる言い方だった。
「どうでしょうね、正直言って分かりません。公判記録をよんでも裁判所は何もそれに
触れてはいません。あなたのお兄さんは子供が突然飛び出したとおっしゃった。もしか
したら罪を軽くするための嘘かも知れないし、あるいは本当かも分からない。あなたは
どう思われます?」
「兄は嘘をつけない人です。確かにお酒を飲んで運転していたのは悪いことだと思いま
す。でも、兄の言っていることは本当だと信じています」
「私はあなたのお兄さんを知らない。だから判断のしようがないんです」
 純子は言いかけて口を閉じた。
 マスターがコーヒーを運んでテーブルの上に載せた。去るのを待って口を開いた。
「調査をされて何か分かりましたか?」
「駄目ですね、事故を目撃していた人は誰もいない。みんな事故が起きて激しいブレー
キの音を聞いてから現場に駆けつけています。まるっきり人が通らない道ではないのに
どうしてだか目撃者がいない」
「いるのではないでしょうか」
 小さな声だった。
「え、何ですって?」
 純子はコーヒーカップの中を見つめていた。
「目撃していた人がいるというんですか? あなたはそれを知っている?」
 純子はコーヒーカップを覗いていた視線を滝川の上に移した。
 切れ長の目にかすかに笑みが浮かんだように思えた。彼女は何かを知っている。そう
思わせるものだった。
「何をご存知なんです。教えてくれませんか?」
「調べられれば分かると思います。そして真実を書いてください。そうでなければ兄は
悪人のまま死んでいくことになります」
 五百円玉をテーブルに乗せると純子は立ち上がった。
「待ってください」
 まだ純子の気持ちを聞いていない。
「お兄さんを殺した相手にたいしてどんな気持ちなのか教えてくれませんか?」
 口を開こうとしたが、丁寧にお辞儀をすると背中を見せた。
 何を言いたかったのだろう。考えても彼女の気持ちが分かりはしない。
 ただ目撃者のことについて、純子は調べれば分かると言った。だが今までの調査で何
も分かっていない。どういうことだ。
 調べ方が足りないと言うことか。
 まだ瑞枝から手紙の返事は来ていない。早くても一週間は掛かると見ていた。
 無駄足になるかも知れないが、もう一度現場を当たってみるか。
「どう、デイト楽しかった?」
 社に戻ると、すぐに夕子が訊ねてきた。
「おかげさまで、すごく楽しかったよ。それに五十嵐純子はびっくりするような美人で
ねスタイルも言うことなし。それに夕子と違って色気もあるしね。ああいうのをいい
女っていうんだろうな」
「悪うございましたわね色気がなくて。そりゃそうですよ、私なんかまだ子供ですか
ら。まったく男ってちょっと美人を見ると、鼻の下を伸ばして」
「そんなに怒るなよ。夕子もいい女なんだから」
「遅いわよ、もうお茶を入れてあげない。勝手にじぶんでやって」
 怒らしたかと思ったが放っておいた。時間が経てばすぐに忘れてくれるのが夕子の
いいところだ。
「おーい、滝さん」
 相沢が煙を吹かしながら手を挙げている。
「どう、面白い記事書けそう?」
 滝川は今までの調べた内容と、純子のことを話した。
「五十嵐が言うように、子供が急に飛び出したのであれば、五十嵐は可哀相だね。起こ
さないでいい事故を起こして、挙句の果てに親に恨まれ殺されたんじゃ、浮かばれねえ
わな」
「まだどちらとも言えませんが」
「しかし一人も目撃していなかったというのも不思議だなあ」
「純子の言葉だと目撃者がいるような言い方なんですが…」
 滝川は男心をくすぐるような純子の瞳を思い出した。
「五十嵐の妹ねえ……彼女いくつぐらいなの?」
 言われてすぐには思いつかなかった。いくつだろう。二十四、二十五、もっとか。
 いや、真治が二十八だ。すると二十六ぐらいか。
「二十五、六じゃないですか。良くは分かりませんが」
「純子は何かを知ってるんじゃないか、例えば子供が飛び出したことを。どこから掴ん
だかは分からないが」
 滝川もそんな気がしていた。しかしそうであれば、五十嵐の裁判のときに弁護側の
証人として出しても良かったろう。
「もう一度洗いなおしてみます」
「そうだな。それと水上瑞枝の方は会えそうなの?」
「多分大丈夫だと思いますが」
 どう転ぶか分からない。だがあの手紙を読んで何らかの返事は寄越してくれそうな気
がする。
 母であれば、子供を思う気持ちがあれば、きっと分かってくれる。そう無理やり思い
込むしかなかった。
 通りを歩いた。あの日死んだ大輔が自転車で走った道を辿る。車が横を走りすぎる。
多くは走っていない。道行く人もまばらだった。あの日もこんなものだったのだろう。
 滝川は通行人を捕まえて訊ねたい衝動にかられた。あなたはあの日少年をみませんで
したか。自転車に乗った子供が車に撥ねられるのを目撃しませんでしたか。
 滝川は神社の前を通りかかった。小さな社だ。
 暖かな春の日が差している。真昼に近かった。社に上がる階段の横で黒いものが動いた。
目を凝らす。人であった。
 ここをねぐらにしているホームレスだ。以前来たときには気がつかなかった。
 もしかしたら、ふとした思い付きだった。
「小父さん、いいかな」 
 近づくと饐えた匂いが鼻をつく。縮れた髪の毛に伸び放題の髭、茶色の肌、年齢不詳だ。
 男は警戒したような目を向けた。
「ふるい話で申し訳ないが、二年前この先の横断歩道で子供が車に轢かれたのを知って
いるかな?」
 男は答えない。警戒心は解いていなかった。
「あんた、警察か?」
「いや、違う。週刊誌の記者だよ」
 滝川は名刺を見せた。厳しかった目の光が失せた。
「二年前の事故だけと、どう、知っている?」
「タバコ吸いたいな、あんた持っているか?」
 滝川はタバコを吸わない。どうしようかと思ったが、すぐ近くに自動販売機があった
のを思い出した。
「買ってきてやるよ。何がいい?」
「マイルドセブンライト。あれはニコチンが少なくて体にいい」
 相沢と同じか。笑いが出そうになる。
 タバコを渡すと、うまそうに煙を何度も空に向かって吹きつけた。
「それで事故の何を知りたい?」
 散々焦らしてやっと男は本題に入った。
「事故の状況を知りたいんだ。子供が信号を無視して飛び出したのか、それとも車が信
号無視をしたのかを」
「それは知らん」
「知らないって……じゃあ何を知っている?」
 タバコは無駄だったか。胸の中で舌打ちをした。
「子供たちを見た。二人でここで遊んでいた。それから通りに出て行って信号のところ
で止まった。俺が横になって眠ろうとしたときにブレーキの音が聞こえた。行ってみる
と子供が道路に投げ出されていた」
「二人で……それ確かか?」
「ああ、あれは兄弟だったな」
「どうして兄弟だと分かった?」
「小さいほうの子供が相手を兄ちゃんと呼んでいたし、大きいほうは小さい方の名前を
呼んでいた。小さいのは五、六歳で大きいのは小学三、四年生くらいじゃなかったかな」
 間違いない、大輔と治樹だ。二人は五歳の歳の差。
 滝川は興奮していた。大輔と治樹の二人が表の通りに出て行って、そこで事故に会っ
ている。すると一緒にいた治樹は大輔の事故の瞬間を見ているはずだ。
 警察は治樹に事情聴取をしたのだろうか。もし聞いて五十嵐の信号無視を主張してい
るならば、何らかの形で治樹の名前が調書に出てきてもおかしくない。
 だが、それらしい文面は一言もない。裁判にも証人として呼ばれていない。
 幼いから証拠能力なしとしたのか。そんなことがあるのだろうか。
 治樹に会わねば。滝川はアパートに向かった。歩いてすぐのところだ。もっともこの
時間に部屋にいるかどうか分からない。今日は木曜日だが学校は春休みであった。
 二〇三号室の前に立った。玄関の横につけられたチャイムを押した。暫らく待ったが
応答はない。しつこく押してみる。それでも誰も出てくる気配はなかった。
「水上さん、まだ戻ってないでしょう」
 隣の住人であった。ふっくらと太った人の良さそうな主婦だ。買い物帰りなのか、
手にはスーパーの袋をぶら下げている。
「ご主人、お仕事ですかね?」
「お帰りはいつも八時ごろですよ」
「息子さんがいらっしゃいますよね。彼に会いたいのですが」
「ああ、治樹君ね。でも会うの難しいんじゃないかしら。いつ帰ってくるか分からない
から」
 女の言った言葉が分からなかった。滝川の顔の意味を悟ったのか、
「あの子悪い友達と付き合っているのよ。家に殆ど寄り付かなくなったみたい。昔は
ああではなかったんだけどねえ」
 と、大きくため息をついた。
 治樹は十三歳のはずだ。中学一年生で不良グループの仲間か。家に帰らないというの
は友達のところを渡り歩いているのだろう。探し出すのは厄介になりそうだな。
 滝川は女に礼を言うと、アパートを引き上げた。八時になったらもう一度この部屋を
訪ねてみよう。隆に訊けば治樹の居場所は分かるかも知れない。
「夕子飯食いに行こうか。おごってやる。約束だもんな」
「え、本当? 無理しなくていいんですよ」
 不機嫌だった顔がどこかに飛んだ。
「何だ、お前行きたくないのか。それならそれでもいいんだけど。俺は助かる」
「いや、いや、行きます。喜んでお伴させて頂きます。それで何をご馳走してくれるん
ですか?」
「中華料理だ」
「うわあ、わたし一度でいいから、ふかひれのスープ飲みたかったんですよ。そこ北京
ダックもあるんですか?」
 何を寝ぼけたことを言っている。呆れて言葉が出ない。
「まあ、着いてからのお楽しみだ」
 六時になって会社を出た。夕子は喜色満面の顔をしている。だがその顔も長くは続か
なかった。ここだと滝川が指し示した店は、ラーメン店に毛が生えたような、せいぜい
酢豚か麻婆豆腐ぐらいは注文できそうな店だ。
「ここですか……」
「なんだか不服そうだな。嫌なら止めとけ」
「いいえ、頂きます」
 腹いせのつもりなのか、夕子はメニューから高そうな料理を頼んでいく。それでも金
額は知れていた。
 ふくれっつらは料理が来るまでであった。箸をつけると思ったよりうまかったのだろう、
機嫌はよくなっていた。
「ねえ、私もお酒もらっていい?」
「何だ、酔っ払って俺に介抱してもらいたいのか。いいとも、それなら遠慮せずに、ど
んどん飲め」
「冗談でしょう、誰かさんと違うわ」
 滝川はグラスに紹興酒を注いであげた。二人で持ち上げて乾杯の真似事をする。夕子
はいける口であった。何度か社の連中と一緒に飲んでいる。だが酒に強いのか、用心し
ているのか、決して乱れる姿は見せない。
「取材はどうです、進んでいるの?」
「まあな、すこし面白くなりそうだ……それより、夕子、お前は恋人いるのか。仕事
ばっかりして、いつまでもふらふらしていると行かず後家になってしまうぞ。女三十
過ぎれば価値が半減する」
「ご心配なく。私だって好きな人はいます」
「そうか、そりゃあ余計だったな」
 滝川は冷たい水の入ったグラスに手を出した。この後隆を訪ねていかなければならな
い。酔うわけには行かなかった。
「それより滝川さんはどうなんです、いつまでも独身っていうわけには行かないんで
しょう。誰か好きな人はいないんですか?」
「俺か、俺は一人のほうが気楽でいい」
 切り捨てるように言った。
「そうかも知れないけど、一人じゃ寂しいでしょう。それに身の回りを世話してくれる
人がいると滝川さん、もっとすっきりとして素敵だと思いますよ」
「そうか、じゃあ、夕子、お前が世話をしてくれるか」
「え、私が、ですか?」
 大げさに驚いてみせる。普通なら、冗談じゃないと憎らしい言葉のひとつも飛び出す
ところだがそんな素振りは少しも見せない。珍しいこともあるものだと優子の顔を眺め
ると、
「え、何か顔についていますか?」
 と照れたような顔をしている。いつもの生意気な夕子はどこかへ行ってしまった。
 時計は八時を指そうとしていた。うっかりと時間をすごしてしまったようだ。
「じゃあ、そろそろ上がるとするか」
 何か言いたそうにしていたが、滝川が立ち上がると、夕子もそれに倣った。支払いを
済ませて表へ出る。
「もう一軒行きたいところだが、ちょっと仕事がある。ここで別れよう」
「今日はご馳走さま。すごく美味しかったわ」
「安い料理で申し訳なかったな」
「いいえ、今度私がご馳走します」
「当てにしないで待っているよ」
 滝川は夕子に背を向けると、タクシーの流れる通りへと向かった。
 二〇三号室の窓から明かりが漏れていた。階段を駆け上がる。ドアの前に立つとチャイム
を鳴らした。
 隆はほっそりとした真面目そうな男だった。年齢は四十二か四十三のはずだが、ずい
ぶんとくたびれた顔をしている。目はくぼみ、頬はやつれていた。仕事に疲れているの
だろうか。それだけではないような気がする。三年前に子供を亡くし、今度は妻が殺人
を犯した。恐らく職場では肩身の狭い思いをしているのだろう。確か隆は普通のサラ
リーマンだったはずだ。噂が出ないはずはない。針の筵に座っている気分なのだろう。
 滝川は治樹に会いたいと申し出た。
「息子は居ませんけど」
「お戻りは何時ごろになりますか?」
「あのう、息子に何の用でしょうか?」
 不安が顔に渦巻いている。
「ある事件のことで、お聞きしたいことがあるんですが」
 事件という言葉に隆はかすかに顔を歪めた。
「息子が……何かご迷惑をかけるようなことをしたのでしょうか?」
「いや、そうじゃありません。もしかしたらあることを目撃されたかも知れませんの
で、それを確認したかったのです」
 隆はほっとしたようだった。それでも完全に不安がはげ落ちてはいない。
 その様子から、隆が息子に振り回されているのがよく分かる。強く出られないタイプ
かもしれない。細い身体を見つめた。もしあいつが生きていたら俺も同じように振り回
されていただろうか。いや少なくとも不良グループと付き合うような子供になっては居
ないだろう。
 それとも勝手な思い込みか。
「多分、今日は帰ってこないと思いますが」
「どちらへ行ったら、会えますか?」
「私もよくは分からないのですが……でも夜中二、三度駅の前のロータリーで仲間たち
とふざけているのを目にしたことはありますけど。あとは友達の家じゃないかと思います」
「お友達はどちらに?」
困ったような顔をしている。お前は親だろうと言いたいが、目の前の隆を見ていたら気
分がそがれる。聞くのが野暮だったか。友達といっても不良仲間。街の中で気が合いつ
るんでいる奴らだ。どこの誰だか本人たちでも知っているかどうか怪しい。
 これ以上訊いても何も出ないだろう。駅前に行って探してみるしかない。滝川は礼を
言うと、駅へと足を運んだ。
 小さな私鉄の駅前はバスのロータリーになっている。それを囲むようにファーストフ
ード店、花や、書店、食堂が並んでいる。
 ロータリーを見回したが、それらしい若者たちは見えなかった。
 時間は九時を指していた。電車が着くと大勢の人々が改札口から溢れてきた。暫らく
の間活気を見せるが、すぐに閑散とする。
 まだ早いのだろうか。夜の風はだいぶ暖かくなっていた。春分を過ぎてこのところ
ぐっと気温が上がっている。
 どうする、帰って寝るか。このところのんびりとお湯にも浸かっていない。コートの
ポケットに手を突っ込み考えているときだった。
 ファーストフードの店のドアから三人の少年たちが現れた。だぼだぼのパンツやくた
びれたジーンズに上はフリーズ地のジャンパーを着ている。チャバツに耳にはピアス、
どこにでも見かける若者だった。
 粋がってはいるが、幼さは抜けきれていない。
 滝川は若者たちが近づいてくるのを待った。彼らの中に治樹がいるかも知れない。
「やあ、君たち。ちょっといいかな」
 若者たちは危険をはらんだ目を見せた。精一杯突っ張ってみせる。
「なんだよ、おっさん」
 百七十五センチはあると思われた。滝川とあまり変わらない。がっしりした肩幅を
持っていた。
 多分リーダー格なんだろう。十七か十八くらい、いずれにしろ二十歳前と思える。
「水上治樹君って知っているかな?」
 二人の視線が一人の少年に集まった。少年は驚いたような顔をしている。
「治樹に何のようだ?」
「君が治樹くんか。ちょっと話を聞かせて欲しいんだけど、付き合ってくれるか」
 リーダーの男を無視した。
「待てよ、このやろう」
「君は黙っててくれないか」
「やろう、ふざけやがって」
 男は滝川の右腕を掴んで殴りかかろうとしてきた。滝川の動きは滑らかだった。その
手を滝川の左手が押さえ、反転させると相手の腕を下からくぐり抜けた。次の瞬間男は
地面に叩きつけられていた。
 小学校時代から習った合気道が役に立った。
「行こうか」 
 何事もなかったかのように滝川は治樹を誘った。治樹はあんぐりと口を開けている。
意外な結末に声がでないようだ。
 滝川は治樹を促して、ファーストフードの店に入った。店内は半分ほどの席が埋まっ
ている。殆どが若いカップルで占められていた。静かな場所を探して腰を下ろした。
「君の家に行ってきたよ。あまり家に帰らないんだって?」
 治樹は黙って俯いている。
「余計なことかもしれないが、親に心配かけるのはあまり感心しないな。それに友達を
選ぶのは慎重にしたほうがいい。友達は一生続くんだから」
 滝川はコーヒーを口にした。
 見かけだけは反抗心を剥き出しにしているが、顔つきはまだ子供だ。滝川はじっと治
樹を眺めた。
「教えて欲しいことがあるんだけど。君にとっては辛いことかも知れない。だけどとて
も重要なことなので思い出して欲しい。二年前に君の弟の大輔君が交通事故で亡くなっ
たよね。そのときのことなんだけど、知っていることを教えてくれないか」
 治樹はびくっと肩を震わせると、顔を上げた。
「俺は何も知らねえよ」
「そう、じゃあ事故のとき、君はどこに居たの?」
「…あの時、俺は…コンビニにいた」
「そう。コンビにね」
 明らかに嘘だと分かった。
「でもそれは違うな、君はあのとき大輔君と一緒に遊んでいただろう。それを見ていた
人がいるんだよ。君たちは神社の境内で自転車で遊んでいた。それから二人で通りにで
て横断歩道のある方へと向かった。そしてそのあと大輔君が事故にあった。君はずっと
大輔君と一緒だった。だから大輔君が事故に会うのを一部始終見ていた」
「俺は何も見てない」
「でも君はすぐそばにいたんだろう?」
 治樹はまた黙った。目に落ち着きがない。何かを隠していると思わせる視線の動きだ。
「車を運転していた運転手は君の弟さんが急に道に飛び出したと言った。本当にそうな
のかな。弟さんは慎重で、信号を無視して横断歩道を渡るような子供ではなかったと思
うんだが」
「あいつが勝手に飛び出したんだ」
 横を向いてぼそりと言った。
「本当にそうなのかい? 大輔君が信号を無視して飛び出した?」
「ああそうだよ」
「じゃあ、どうして事故のときに警察の人に言わなかったんだい?」
「それは……」
 どうして嘘をつかなければならない。何を隠している。
「それは?」
 可哀相だが問い詰めるしかない。
「あいつが勝手に飛び出したと言ったら、こっちが悪いことになる。だから黙っていた」
「違うな、それは。君は何かを隠している」
「隠してなんかいねえよ」
「じゃあもう一度訊くが、神社を出た後、君たちは通りに出てそのまま横断歩道を渡っ
たのかい?」
「ああ、そうだ」
「信号のところで立ち止まらなかった、間違いない?」
「間違いねえよ」
 ふてくされたように横を向いた。
「嘘だな。君たちを見ていた人は、君たちが信号のところで立ち止まったと証言している。
さあ本当のことを話してくれないか。何があったのだろう。あのとき君たちの間で何か
があったはずだ。大輔君が飛び出さなければならない理由が」
 半分はあてずっぽうであった。
 治樹は面を伏せた。テーブルの上で組んだ指がかすかに震えている。まるで何かに怯
えているようだ。どうして怯えなくてはならない。俺の吐いた言葉が治樹の隠している
何かに触れたのか?
 治樹は大輔が飛び出したのを認めた。だがあのホームレスの言葉は治樹と大輔の二人
は信号のところで立ち止まったと言っている。つまり信号が変わるのを待っていた。
もし信号が変わって大輔君が道路を渡ったとすると、彼だけが車に轢かれたことに疑問
が生じる。
 二人の間で何かがあった。大輔君だけが飛び出す理由が。そのとき同じアパートに住
む主婦たちの言葉が甦った。「大輔君ばかりを可愛がって、治樹君は可愛そう」「あれで
はぐれてしまう」
 まさか、ふっと湧き出した考えだった。そんなことが。だが考えれば考えるほどその
結論に至る。
「君が…やったのか」
「違う、俺じゃない」
 治樹の言葉は弱かった。
「どうしてそんな事を。君の弟じゃないか」
「違うと言っているだろう」
「君は弟が可愛くなかったのか?」
 可愛いという言葉に治樹は激しく反応した。
「可愛い? ふざけんな、何が可愛いんだよ。あんたに何が分かる。いいかあいつばか
り大事にされて、俺は見向きもされなかった。俺は悪くない、あいつらが悪いんだ。親
父とお袋は大輔ばかりを可愛がりやがって、俺のことはこれっぽっちも構わないで……」
「だからといって」
「しょうがなかったんだよ、俺はあいつが憎かった。殺してやりたいほど憎かった。あ
いつは欲しいものは何でも買ってもらった。俺が欲しいと言うと兄だから我慢しろとい
われた。あいつさえ居なければ、あいつが死んでしまえば、だから…」
 治樹はテーブルに泣き伏した。どんなに突っ張ってみても中学生だな。チャバツの頭
を眺めた。
 滝川は気が重かった。余計なことを知ってしまったと思った。
 警察に報せるべきだろうか。だが言ったところでどうなる。何も変わるものではなか
った。
 大輔も五十嵐真治もすでに死んでしまった。
 ただ五十嵐の妹、純子は真実を書いてくれといった。記事にする以上、事実は曲げら
れない。避けては通れないことだ。少なくともそれがジャーナリストとしての使命だと
思っている。
 瑞枝はどう思うだろうか。彼女は五十嵐が自分の息子を殺したと思っている。だから
こそ二年の間憎しみを蓄え、五十嵐の出所を待って復讐を果たした。恐ろしいまでの執
念だ。
 だが息子の命を奪った直接の原因をつくったのは長男の治樹であった。そしてその元
となったのが、瑞枝と隆の大輔への偏愛であった。
 自分たちの間違った愛がわが息子を殺すことになった。恐らくそんなことに、これっ
ぽっちも気付いていないだろう。ただ、五十嵐がわが子を殺した。憎い、悔しい。それ
だけが瑞枝の意識を占めていた。
 その事実に気付いたときに耐えられるだろうか。
 翌日封筒が届いた。裏を返して差出人を見た。水上瑞枝の名前が書かれていた。
せっつかれるように封を切り中身を取り出した。便箋一枚に簡単な文面がしたためら
れている。承諾の内容だった。
 滝川は瑞枝に会うために拘置所へ足を運んだ。事実を話すべきかどうかまだ心は迷っ
ている。
 現れた瑞枝は血色の良い顔色をしていた。長い髪を後ろにまとめている。一重の大き
な目。通った鼻筋。ゆるぎない意思の強さを表している。その顔には後悔の色は見られ
なかった。むしろ思いを果たしたと晴れ晴れしい顔をしている。
 滝川は治樹の件は話さないことに決めた。
「あんたね、私に会いたいと手紙をよこしたのは」
「ええ。あなたに会っていろいろとお聞きしたことがありました」
「手紙では、あんたも子供を交通事故で亡くしたと書いてあったけれど、あたいに会い
たいのはそれだけが理由じゃないでしょう?」
 滝川は自分の職業を言った。そして子供の事故から瑞枝の犯した罪までの全貌を記事
にしたいとも伝えた。
 ただし、興味本位ではなく、子供を事故で奪われた親の悲しみと、絶望感を世間に訴
えたいのだと熱っぽく語った。
「事故の報せを受けたのは誰からでしたか?」
「警察から電話があった。あの子の乗っている自転車に住所と名前が書いてあったから
、そこから電話を調べたと言ってた」
「それからすぐ病院へ?」
「ええ。すぐに飛んで行った。どうぞ無事でいますようにって、何度も何度も願いなが
ら。でも、病室に着いたとき分かったの、全てが終わったのだって。皆が暗い顔をして
黙っていた。怖かった、知るのが怖かった。大輔が死んだのだと知るのがとても怖かっ
た。白いシーツにくるまれた大輔が眠っていた。あたいは叫んだわあの子の名前を。
何度も何度も叫んで。大声を出してあの子を揺り動かした。目を開けて、お願いだから
目を開けてって。この手でなんども揺さぶった」
 瑞枝は目を閉じた。
 滝川は無言でいた。手元にはレコーダーが置いてある。
「まだあの子の肌は暖かった。まるで生きているようだった。死んだのは嘘だと思っ
た。そのうちに目を覚まし、お腹が空いたとおやつをねだるのではないかと思った。
あたいは待った、あの子が目を開けるのを。ずっと、ずっと。誰かがあたいのそばに
やってきて何かを言った。何を言ったのか覚えていない。そしてあたいを大輔から
離そうとした。いやだとあたいは大輔にしがみついた。あの子をこんなところに一人
にして残せない。寂しがりやだから。可哀相過ぎる」
「犯人の五十嵐を知ったのはいつですか?」
「いつだったか覚えていない。でも警察の方が教えてくれた、息子を轢いたのは五十嵐
という男だって。そして言ったわ、息子が急に道に飛び出したから避けることが出来な
かったらしいって」
 そこで瑞枝はいったん言葉を切った。
「あたいには分かったよ。五十嵐は嘘をついている。自分を正当化するために大輔が飛
び出したと言っていると。あの子はそんな事をする子じゃない。信号を無視するなんて
あり得ない。あの子のことは誰よりもあたいが知っている」
 そうあなたのお子さんは信号を守って青になるのを待っていた。だがとんでもない事
が起きてしまった。
 治樹君が大輔君の自転車を後ろから押してしまった。そこへ車が突っ込んだ。
 治樹君ははっきりと殺意を持っていた。滝川は咽喉まで出かかった言葉を何とか飲み
込んだ。
「あなたは大輔君を殺した五十嵐を許せなかった。だから彼が刑務所を出るのを待って復
讐をしたんですね」
「そうよ、あたいは許せなかった。まだ天使のような五歳の大輔を殺した五十嵐を。酒
を飲んで信号無視をして、人を轢き殺しておいて、たった二年の刑務所生活。それが過
ぎれば後は普通の生活が待っている。でも大輔は返ってこない。人を殺しておいて、そ
の家族の生活をめちゃめちゃにしておいて、大手を振って街を歩ける。こんな理不尽な
ことってある。丸っきりの殺され損だわ」
 瑞枝の気持ちが痛いほど分かった。
 俺だってと滝川も思う。もし息子の聡を殺した奴が分かっていれば、瑞枝と同じ気持
ちになっただろう。憎い、殺したいほど憎い。八つ裂きにしても飽き足らないほどに。
しかし実際に手を下すかと訊かれれば、答えが鈍る。おそらく実行に移すことは無いだ
ろう。それは理性がそうさせるのか、それとも罪を犯すことで社会的に己が抹殺される
ことを恐れているのか分からない。
「では、あなたは五十嵐を殺したことを後悔していない?」
「していないわ。あの子もきっと喜んでいると思う」
「あなたのご主人や、治樹君はどうでしょう。彼らに済まないとは思いませんか?」
 瑞枝は一瞬顔を曇らせた。
 懸命に言葉を探している。
「あの人には申し訳ないと思う。そして治樹にも。でもあたいはこれしか選ぶ道がなか
った。あの子の恨みを晴らさないと、死んでも死に切れない。罪を犯すまえにあの人と
は縁を切った。だからあたいのやったことがあの人や治樹に害が及ぶことはないと思う」
 そこまで覚悟してやったということか。
 ある意味では純粋なのかも知れない。己の気持ちの動くところに素直に従っている。
それが正しいとか、間違っているだとか、そんな理屈はどうでもよかった。ただ、そん
なことが出来る彼女が羨ましかった。
 滝川は次の質問を探していた。
「あんたはどうなの。自分の子供を殺したやつを殺したいと思ったことない?」
 予測しない質問をぶつけられた。
 瑞枝は滝川の息子を殺した相手が憎くないかと訊いた。
「それは……」
「相手を見て、殺したいと思ったでしょう?」
「いや、相手は分かっていない。ひき逃げだった」
「そうだったの……それで犯人は捕まっていないんだ。誰か見ていた人はいないの?」
 滝川は十年前の話をした。
 事故は川崎市の住宅街で起きた。息子の聡は友達と公園で遊んでの帰りだった。通り
に出たときに、猛烈なスピードで二人乗りのバイクが突っ込んできた。引ったくりをし
て逃げる途中だった。五歳の身体は吹き飛ばされコンクリートの壁にぶつかった。
 激しい音に公園で子供たちに付き添っていた親たちが道に飛び出した。
 バイクは凄まじい音を立てて逃げ去った。
 聡は病院に運ばれたが、滝川と妻の茜がつく前に息を引き取っていた。
「若い男女の二人乗りだったそうだ。後姿しか判っていない。女はチャバツでソバー
ジュの髪にドラゴンの刺繍をしたジャンパーを着ていたそうだ。男はフルフェイスの
ヘルメットに革ジャン」
「そう」
 それっきり瑞枝は黙った。
 滝川も黙った。喋ってしまったことを後悔していた。余計なことだった。つい同じ境
遇だと思い、気を許していた。
 時間が来た。滝川は立ち上がった。瑞枝は最後に妙なことをつぶやいた。「あたいも罰
を受けたんだね」と。
 どういうことだと聞こうとしたが、もう瑞枝は背中を見せていた。
「それで、滝さんはどうするつもりなんだ?」
 相沢は煙の中で尋ねた。食事の量を減らしているだけに、ストレスが溜まっているの
だろう。いぜんよりタバコが増えている。却って不健康な気がするが。
「どうするって?」
「治樹のことだよ。大輔君が死んだのは治樹のせいだろう。それを瑞枝には話さなかっ
た。記事はどうするつもりなんだ?」
「迷っています。今更暴いたところで誰も喜ばないでしょうし。死んだものは生き返
ってこない」
「喜ぶ奴もいるよ。五十嵐純子とその家族だ」
 そうだった。純子は子供が死んだのは兄のせいではないと信じている。ほっとする
かも知れない。
「後はジャーナリストとしての判断やな」
「キャップだったらどうされます?」
「難しいな。しかしわしやったら事実を書くだろう。それが使命やし。それに実名を公
表するわけでもないしな」
 相沢だったらそうするだろ。彼の中には一本の芯がある。どんなときにも揺るぐこと
がない。そんな相沢を尊敬し、憧れもした。
 だが滝川にはすっきりと割り切れない弱さがある。その脆さが、時として足を引っ張
る。茜と別れることになったのもそうであった。
「まあ、滝さんに任せるよ」
 コンピューターの画面の前に腰を下ろしたが、滝川はまだ決めかねていた。
 一日が経ち、二日が経っても、画面には一文字も打たれていない。治樹のことが片付
かないと記事は書けない。
 三日目に瑞枝から手紙が届いた。相変わらず目の前の画面は真っ白だった。
 どうしたのだと封を切った。拙い字で書かれていた。

   どうしようかと、書いては破りを何度も繰り返し、こうして出す
   ことを決意しました。そうしないと死んだ息子が許してくれない
   と思ったから。
   あたいはあんたに謝らなければならない。被害者面して息子を殺
   した奴に復讐をしたんだから。でもあたいは交通事故の加害者
   だった。あんたに言われるまで忘れていた。もうずっと昔のこと
   だもんね。
   あの日は博之と獲物を狙ってバイクで街を流していた。すると
   銀行から年寄りが出てくるのを見つけた。あたいたちはその後を
   つけてバッグをひったくった。そして全速力で住宅街を逃げた。
   後はあんたの知っている通り。
   でもやったことはいつか自分に返ってくるんだね。あんたには
   申し訳ないことをしたと思っている。自分の身に降りかかって
   どれだけ辛いかよく分かった…

 途中で文章は見えなくなっていた。
 ついに見つけ出した。八年という年月、憎むべき対象が今はっきりと像を結んだ。
 喜びの涙なのか、犯人を探し当てたことへのうれし涙なのか。
 あの別れ際に言った瑞枝の言葉、
「あたいも罰を受けたんだね」
 その謎が解けた。
 顔の見えなかった轢き逃げ犯。やっと憎むべき相手の正体が分かった。どれだけこの
日を待ち望んだか。瑞江と博之、この二人が聡を殺した。八つ裂きに出来るのなら、悪
魔に心を売ってもいいとさえ思った犯人が。
 だが不思議だった。憎しみが湧かない。白い病室のベッドに横たわる息子を見て、慟
哭し、遺影の笑顔に復讐を誓った。絶対に犯人を突き止めてやると。俺たちの味わった
この苦しみを、犯人にも味合わせてやると。あの時の激しい感情は見つからない。
 憎むことが義務であり責任だった日々。
 疲れて切れそうになる復讐心を何度も奮い起こし、時には感情につぶされそうになった。
それでも犯人が捕まるのを夢見て、それだけが生きる目的だと信じていた。
 だが現実はちがっている。
 己の心の変化に戸惑いを覚えた。何故だ、息子を殺されたのだぞ、憎くはないのか。
犯人を八つ裂きにすると誓ったのではないのか。
 己の胸の内を知ったときに愕然となった。俺は解放されたことを喜んでいる。長く抱え
ていた憎悪と恨みが薄れている。いや、安堵感さえ覚えている、そんな自分にどう折り合
いをつければいいのか分からない。
 茜に言うべきだろうか、聡を殺したやつが見つかったと。茜だって、この日が来るの
を待っていたはずだ。言えば喜んでくれるのではないのか。
 そうだろうか、本当にあいつは喜ぶだろうか。
 滝川は携帯電話を握り締めた。番号は分かっている。聡を失ったときの茜の深い悲しみと
悲痛な叫び声が目の前にちらついた。もう一度、あの苦しみを味わえと言うのか。踏み切れ
ないまま電話を閉じた。いまさら古傷を掘り返してどうなる、苦しむだけだ。
 八年と言う年月は、治癒されることのないと思った深い傷さえも、かさぶたで覆い隠して
いた。木々の葉が落ちて朽ち、いつか地表を形成するように。
「聡、ごめんよ。父さんやっぱり弱い男だ」
「ううん、父さん、もう終わったんだよ」
聡が笑ったような気がした。
 書こう、全てを。知りえた事実を書くのだ。それだけが俺の出来ること、聡の死を無駄に
しないことだ。滝川は吹っ切れたようにコンピューターに向かって指を動かした。
 了

2010/11/03(Wed)21:46:20 公開 / 山茶花
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CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。