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『ブレイクハート』 ... ジャンル:恋愛小説 リアル・現代
作者:浅田明守
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あらすじ・作品紹介
心筋ジストロフィー、別名心筋萎縮病と呼ばれる奇病に犯された青年と、彼の側にいれば満足だと、彼に寄り添う一人の女性の悲しい愛の物語。
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出会いは偶然。されど出会いがあれば別れがあるのは必然なり。それは光と闇のごとく表裏一体。決して離れることはなく、逃れるすべはない。ならば、出会いに意味はあるのだろうか? いずれかの日に必ず別れるであろう人と出会って、そこに何の意味があるというのだろうか?
静香、僕は君と出会ってから、そして君を失ってからずっとそんなことばかり考えるようになっていたよ。
君と出会ったのは今からちょうど一年前の今日。当時の僕は病気のせいで身体が弱くて、手足は枯れ枝のようで、顔色は酷く青白かったね。もっとも、今だって手足は枯れ枝だし、青白い顔も変わりはないんだけど。
先天性心筋ジストロフィー症、通称心筋萎縮病。それが当時僕が抱えていた病気の名前だ。ごく稀、一億人に一人くらいの割合にしかいない。先天性のくせに潜伏期間が五年から六十年とやけに広くて、発症せずに一生を終えるケースも多々ある奇病中の奇病。心臓の筋肉が年々ごく緩やかに萎縮していき、最終的には心不全を起こして死に至る病気だ。原因も治療法も一切が不明。ただ一つ効果的とされた治療法は心臓移植。しかし患者に対して提供者が圧倒的に少なく、日本では倫理的な問題も多く存在する。おまけに運動規制によって患者の体力が老人並みなケースがほとんどで、手術自体が困難なケースが多い。
唯一の救いが他の心疾患に比べてこの病気の進行が極めて遅いこと。通常の心疾患では患者の七年後の生存率は絶望的と言われているのに対してこの病気は発症後10〜20年程度の猶予がある。事実、僕がこの病気を発症したのは七歳のこと、そして君と出会ったのは十九歳の時だった。
僕と君とはまるっきり正反対だったね。病気のせいでろくに運動も出来ず、自分に自信を持てずにネガティブ思考だった僕と、活発でじっとしていることが何よりも嫌いで物事をなんでもいい方に捉える君。君にとってはどうだったのかは知らないけれど、僕にとっては君との出会いは奇跡と言ってもいいくらいの偶然だった。
あの頃僕は、大学の中庭で空っぽな日々を過ごしていた。病気が発症して十二年、僕の体力はどんどん落ちていき運動はおろか普通に歩くことすら休み休みにしかできない身体になっていた。僕の毎日はもっぱら部屋かこの中庭で空をぼーっと眺めるか、あるいは空を眺めながら眠るかで占められていた。
勉強なんて僕には何の意味もなかった。身体が弱いせいでサークルにも所属していなかった。そもそもいつ死ぬかもわからないこの身体で大学に通う意味すら見いだせていなかった。すべて惰性。流されるままに大学に通い、講義を受けることもなくただこうして中庭に座って空を眺める。そんな毎日を僕は過ごしていた。
あの日も僕は大学の中庭にあるベンチに座って、何をするでもなく空を見上げていた。真っ青な空に一つだけ雲が浮いていた。そんな雲を僕は、ウサギみたいな雲だな、なんて思いながらぼんやりと見上げていた。
「あの雲、ウサギみたいね。そう思わない?」
そんな時だった。後ろから不意に声をかけられたんだ。振り向いて、驚いた。なにせ目と鼻の先、君の目のすぐ横にある小さな小さなほくろすら確かに確認できるほど近くに君の悪戯っぽい笑みがあったんだから。
柄にもなく僕は大声を上げてのけ反り、そして結果的にそれまで座っていたベンチから転げ落ちた。だって、誰だって驚くだろう? 声をかけられて振り向いたら目と鼻の先に誰かがいるんだ。しかもそこにいたのはちょこんと上を向いた小さなそばかすだらけの鼻が印象的な可愛らしい女性だったんだから、これで驚かないのはよっぽどの鈍感人間だけだ。
君はベンチから転がり落ちた僕を見てくすくすと笑いながら僕に手を指し出した。
「ごめんごめん、君があんまりぼーっとしてるからついからかいたくなっちゃったよ」
「えっと……あなたは」
「あぁ、自己紹介がまだだったね。私は冬月静香、理工学部機械科の2年。一応君の先輩ってことになるかな」
風が吹き君の腰まで届く長い髪がふわりと舞い上がる。すると金木犀に似た甘い香りが風に乗って香ってきた。前に言ったよね、僕はこの香りが大好きだった。
「それで、その冬月先輩が僕に何の用ですか?」
「うん、今日はね……」
君はいつも唐突で、思ったことはすぐに行動に移していた。この時もそうだったね。今でもよく覚えている。それだけインパクトがある言葉だったんだから。
「君をもらいに来たの」
「……はい?」
「だから、一目ぼれ? ってやつ。君さえよければ、だけど……私と付き合わない?」
そう言って照れくさそうに笑う君の笑顔に僕は不覚にもドキリとして、無意識のうちに首を縦に振りそうになった。それでもすんでのところで僅かに疑惑と例のネガティブ嗜好が勝って、僕は君を胡散臭い人物だ、なんて思いながら何も言わずに見返した。すると君は「ダメだったか」なんて言って小さく舌打ちをすると、困惑する僕を放ってうんうんとうなり始めた。
「ん〜……じゃあこうしよう。コイントスをして、表が出たら私と付き合う、裏が出たら今日のところは保留にする。それでどう?」
やがて君は何かを思いついたようで、財布から十円玉を出しながらそう言った。あの時は酷く困惑していたし、庄司気君に気押されていたから思わず反射的に頷いてしまったけど、今にして思えばあれはズルイよね。だって君、表が出るまで何日だって僕に会いに来るつもりだったろ。
コイントスの結果、出たのは表。あの時の君の本当に嬉しそうな君の笑顔を僕は生涯忘れることはないだろう。そしてその後に君が言った言葉もよく覚えている。
「それじゃあまずは……そうね。君の名前を教えてくれない?」
「名前って……もしかして先輩、名前も知らない相手に告白なんてしたんですか?」
「あら、一目惚れに名前なんてものは不必要よ。それに、思い立ったら即行動。それが人生面白楽しく過ごすコツよ」
悪びれる様子もなく、むしろ楽しそうに笑う静香。そんな時の君はとても魅力的だった。
「庄司です、先輩。西倉庄司」
「西倉庄司……そっか、じゃあショウ君だね。よろしくね、ショウ君。私のことは静香って呼んで」
「わかりました、静香先輩」
そう僕が言うと君は少し不機嫌そうな顔でずいっと僕の方に身を乗り出した。
「先輩は余計よ。そもそも大学に来ても講義も受けない、サークルにも入らない誰かさんには先輩も何もないじゃない。さん、もダメ。ちゃんは……ちょっと恥ずかしいけど君がそう呼びたいならそれでもいいわ。あっ、もちろん敬語もなしね」
「名前は知らなかったのに、そう言うことは知ってるんですね」
「男ならそういう細かいことは気にしちゃダメよ」
「……了解、わかったよ静香」
「ん、合格♪」
間近に見る満足そうな君の笑顔に少し呆れながら、僕は立ち上がるために彼女の手を取ったのだった……
君と出会って一ヶ月が経ち、僕の日常は大きく変化した……ように見えて実はそうでもなかった。僕は相変わらず家か学校の中庭で空をぼーっと見上げているだけで、授業に出ることも、サークルに入ることも、静香とデートすることもなかった。ただ一つだけ変化があったとしたら、ときどき中庭のベンチに座る人影が一人から二人になることだった。僕らはデートで街中を歩く代わりに同じ場所で同じ空を見上げ、恋人同士の語らいの代わりに黙ってお互いの手を繋いだ。恋人らしいことは何一つやらなかった。それどころか丸一日、一言も話さない日も多々あった。
「ねえ、静香。退屈じゃない?」
「ん〜……退屈と言えば退屈だし、そうじゃないと言えば違うかな」
「なんだよそれ」
僕がそう言うと君は空に向いていた顔をゆっくりと僕に向けると悪戯小僧のような笑みを浮かべた。
「だって、ショウ君がいるもん」
短い一言。でもそれがどれほど嬉しかったか、君にはきっとわからなかっただろうな。
「あっ、ショウ君ったら赤くなってる」
「きっと夕日のせいだ」
「まだお昼なんだけど?」
「じゃあ目の錯覚だよ」
そんなくだらない会話が楽しかった。ただ君のとなりに座って、のんびり空を見上げて、時折こうしてくだならいお喋りをして、それだけで僕は幸せだった。
でも、同時に少しだけ不安にも感じていた。君は僕に何も聞かなかった。なぜ講義に出ようとしないのか、なぜいつもここにいるのか、どうしてどこにも連れていってくれないのか。君は僕に何一つ聞こうとせずに、なのに何の不満も言おうとしなかった。
幾度、僕は君に病気のことを話そうとしたかわからない。でもその度に、この幸せな毎日が壊れてしまいそうで言えなかった。それがどれほど自分勝手なのかは理解していたけれど、後に回せば回すほど君を悲しませるだろうということはわかっていたけれども、それでもどうしても話せなかった。
「どうして……静香は何も聞かないの」
一度だけ、我慢できずにそう聞いたことがあった。あれは重たい雲が空一面に掛かった、今にも雨が降り出しそうな日だった。僕と君はいつものように中庭のベンチに座っていて、確か空から降ってくるのが雨じゃなくて飴だったらどうするか、なんてくだらない話をしていた時だ。
そのころ君は、一日のほとんどの講義をサボって僕と一緒にいるようになっていた。僕がベンチにぼーっと座っているといつの間にか君が隣に座っている。僕が君に気がついたことに気付くとただ一言「おはよう」とだけ言ってにっこりとほほ笑むとそれ以外に何も言わずに再び空を見上げていた。そうするのが当たり前かのように、そこにいるのが当たり前かのように、だから僕は不思議に思ったんだ。なぜ君が何も聞かないのか、なぜ何も聞かずにそうしていられるのかわからなかった。
「聞かないって、何を?」
「僕のことさ。静香はいつだって黙って僕の隣にいる。どこにも連れていってあげられないのに、一言も文句を言わない。それは何で?」
「なんでって……ショウ君と一緒にいると楽しいから、ってのじゃダメ?」
「ダメじゃないけど、納得は出来ない」
そう答えると君は、そっかと少し困ったような顔で考え始める。そして結局困った顔のまま誤魔化すように笑った。
「えへへ、よくわかんないや」
「よくわからないって……」
「じゃあ逆に、ショウ君は聞いて欲しいの?」
空を見上げたままの君の言葉に僕は答えることが出来なかった。果たして僕は聞いて欲しかったのか、それとも聞かないで欲しかったのか。
「ショウ君が聞いて欲しいのなら、私はいつだって聞いてあげる。でも、聞いて欲しくないことなら私は無理に聞こうとは思わない。だって、私はどっちでもいいもの。聞いても、聞かなくても、私がショウ君を好きだということに変わりはないんだから」
それはとても優しくて、とても厳しい言葉だった。無理に聞きださない、喋りたければ勝手に喋ってくれ。それが示すのは甘やかしでも、ましてや僕への無関心でもなく、覚悟への責任を持てというものだった。話せば関係が変わってしまうかもしれない、それを話す覚悟が出来たらいつでも話せ。ただし話すのは僕で、覚悟を決めるのも僕で、その責任を持つのも僕。誰かに責任を押し付けることは許さない。
今にして思えば、君はその言葉の厳しさを知っていて、それでもなお僕にその言葉をかけたんだろう。それに気が付いていれば、あるいは違った未来があったのかもしれない。あるいはその言葉の厳しさにすら気が付かず、君に甘え続けていれば違う結末を迎えていたかもしれない。
どちらにしても今さら何を言っても変わらないことだ。僕は君の言葉の厳しさに気が付きながらもその優しさに甘えて、そして僕らの一年の内もっとも穏やかだった最初の三ヶ月を過ごしてしまったのだから。
大学の夏季休暇というものは僕らにとって何の意味も持たないものだった。そもそも僕は大学の成績や講義に興味はなかったし、君もそんな僕に付き合って前期の講義のほとんどを欠席して僕と二人で中庭に座っていたんだから。大学が休みだろうとなんだろうと、僕らがやることに何ら変わりはなかった。少なくとも、僕はそう思っていたし君もそう考えていただろう。だからこそ、示し合わせた訳でもないのに学校がある日は毎日のようにあの中庭のベンチで二人して空を見上げていたんだろう。
でも、陳腐な言葉だけど"運命"なんてものはいつも残酷で、最悪のタイミングで最悪のことが起きるように設定されているものだ。
日差しが強い夏のある日、大学へと向かう途中で僕は突然倒れ、病院へと運ばれた。原因は夏風邪、というと冗談のように聞こえるが、僕のような心臓に欠陥がある人間はただの風邪が文字通り命取りになるんだ。風邪に限らず何かの病にかかるということは身体に普段以上の負担をかけるということだ。つまりそれはただでさえ弱っている心臓への負担が増えるということに他ならない。そうでなくても日頃の運動不足のせいで僕の体力はそこいらを歩いている老人にすら劣っている。そんな人間が風邪を引けばそれこそ即座に肺炎を起こして死んでも何もおかしいことはない。夏風邪で倒れて、それから三日もの間、僕は病院のベッドで意識不明状態だったらしい。
前々から嫌な予感はしていた。いつかは来ると思っていた。僕の心筋萎縮病が発症したのは十二年前のこと。とうにいつ死んでもおかしい身体ではなかった。
目が覚めて真っ先に思ったのは僕が病院にいることを君に知らせるかどうか、ということだ。一度入院してしまえば、病気の性質上退院する可能性はゼロに等しい。もうあの中庭に行くことは出来ないだろう。
このまま君に何も知らせずに、君の前から消えてしまった方がいいのではないか。どうせそう長くない命だ。遠くない未来に嫌でも別れは来る。だったらそれは、早い方がいいに決まっている。もう学校には退学届を出した。僕がこの場所を君に教えなければ、もう会うこともない。一年もすれば君は僕のことを忘れて、自分の人生をまっとうに生きることが出来る。そんなことを考えていた。
でも実際、怒った女性の力というのは男が想像するより遙かに強く、執念深いものだった。よく聞く女の執念は恐ろしい、と言ったやつだ。何をどうやって調べたのか、入院して二週間が過ぎたある朝、君は般若のような顔で僕の前に仁王立ちしていた。
「なんで私が怒っているのかわかる?」
「え〜っと……僕が病気のことを隠していたから、かな」
僕がそう言うと君は最初より一層不機嫌そうな顔で僕を睨みつけた。
「前々から思っていたけど、ショウ君ってホント、何にもわかってない。何で私が怒っているのか、ぜんぜんわかってない」
ベッドに片手を付いて身を乗り出すように君は僕に顔を近付けてくる。
「もう一度聞くわ。どうして私が怒っているのか、わかっているわよね」
「……何も言わずに、君の前から消えようとしたから」
「よろしい」
勘弁した、と両手を上げるふりをすると君は少し怒りが収まったのか、腕組みをしたままではあったが身体をゆっくりと起こして僕を見降ろした。
「どうして、なんて聞かない。でもだからと言ってこのまま大人しく退くなんて思ってないわよね」
「女の執念は怖いってことをたった今思い知ったところだよ」
「わかればよろしい」
僕の言葉に君は満足そうに笑って、それ以上は何も聞こうとしなかった。この期に及んでなお、君は僕の病気について何も聞こうとはしなかった。でも、もう話さないという訳にはいかなかった。どうせすぐにわかってしまうことだ。
「もしかしたら、もう知っているかもしれないけど……僕は心臓に大きな欠陥を持っている」
もう知っていたのか、それとも表に出していないだけなのか、君は静かに僕の話を聞いていた。そんな気味を見ながら僕は大きく深呼吸をする。少しでも君に伝えることを先延ばしにするように、この話題から目をそらすように。君はそんな僕を見て優しく微笑んだ。すべてを包み込むような、そんな笑みだ。君だって怖かっただろうに、聞きたくなかっただろうに、君は僕を促すように微笑んだ。それはどれほど勇気のいる行動だっただろうか。
「先天性心筋ジストロフィー症。一億人に一人いるかいないかの奇病中の奇病。ゆっくりと、着実に心臓の筋肉が弱くなって、いつか心不全を起こして死に至る。原因も、治療法も一切不明の不治の病。それが僕が今まで隠していた、僕を蝕んでいる病気だ」
語っていると不思議と僕の心は冷たく澄んできた。秘密にしていたことを明かして安心したとか、自暴自棄になったとか、そういうのではなくて、自分のことなのにまるで他人事のような感覚。君に真実を告げている自分を少し上から見ているような、そんな不思議な感覚だった。
「この病気が発症したのは十二年前。僕の心臓はたぶん、君が思っている以上に弱っている。この病室からトイレまで、自力で歩けるかどうかも怪しいくらいだ。そのうちに話すことも途切れ途切れにしか出来なくなる。そんな人と付き合っていても、きっとつまらないよね」
悲しくはなかった。辛くもなかった。ただ、心が酷く冷めていた。声が酷く平坦になっているのが自分でもわかる。感情を閉ざし、心を凍結させて、僕はこの残酷な現実から逃避しようとしていた。
「だから静香。もう無理をしなくてもいいんだ。僕のことなんて忘れて、自分がしたいことをして、自分のことを大切にしてくれる人を探してくれ。僕みたいに君をどこへも連れて行けないような欠陥品じゃなくて、君が望む場所へならどこへでも連れて行けるような人を探してくれ」
何も感じていないはずだった。心はとうに冷え固まったはずだった。なのに僕の目からは止めどなく涙がこぼれ落ちていた。身体と心は別のもので、きっと涙というのは身体が流すものなんだと、その時初めて知った。
君はそんな僕を見て、まさに鬼のような顔で僕の頬を強く叩くとそのまま何も言わずに病室から出て行ってしまった。
ひりひりと熱を持った頬を押さえながら君が出ていったドアを見る僕の目は、きっと酷く虚ろなものだっただろう。この時僕は、自分が持っていた何もかもを失ったと思っていたのだから。
でもそれが間違えだと知ったのはそれから一時間後のことだ。
突然病室のドアが乱暴に開いた。その音に驚いてドアの方を見ると、そこには大きな荷物を持って、最初にここに来た時よりも三割増しくらいに怒気を上げた君が立っていた。
「やっぱりショウ君は何にもわかってない。ホントに何もわかってない」
わかっていない、と何度も捲し立てるように言いながら君はずんずんとベッドで横になっている僕に近付いてきた。
「私がどんな気持ちで君を探したのかも、なんで私が怒っているのかも、何にもわかってない!」
やがて君はベッドに手を付いて、身を乗り出して、終いには僕を押し倒すような形になる。目と鼻の先に君の顔があって、怒られているというのに僕は何だかドキドキとした気分になっていた。
「いい、君がどんな病気だろうと関係ない。奇病が何よ、不治の病がなによ! そんなんで私の気持ちが変わると思ったの?!」
怒りながら涙を流す君に僕は何も言えなかった。何も、言えるはずがなかった。
「どこにも連れて行けない? なによそれ。私が今まで一度でもどこかへ行きたいなんて言った? 喋れなくなるかもしれない? 今さらじゃない。一日中空を見上げて一言も言葉を交わさなかった日が何回あると思ってるの! そんなんで、そんなんで!」
涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、それでも君は叫んだ。自分の想いを、覚悟を、僕に真っ直ぐにぶつけてきた。涙声で何を言っているのかもわからなくなって、それでもなお君は叫び続けた。何度も、何度も、叫び続けた。そして言葉に詰まって、何も言えなくなると怒った顔のまま君は鼻と鼻がくっつきそうなくらい近くにあった顔を少しだけ動かして、自分の唇と僕の唇を優しく合わせた。
それは本当に唇と唇を合わせるだけの優しいキス。ほんの数瞬だけ、互いの唇を合わせるだけの拙い求愛行動。でもそれは他のどんな行為よりも深く、そして強く、僕らを繋ぎ合わせた。他のいかなる行為より尊くて、力強いものに思えた。
僕は涙で震える声で小さくごめんなさいと言って、一つだけ彼女と約束を交わした。もう二度と、勝手にいなくなったりしないと。仮に死ぬとしても、一人で死のうとはしないと。
君は僕の約束に大きく頷いて、私も最後までずっと一緒にいるからと僕の耳元で囁くように言った。
僕はそんな君に「ありがとう」と囁き返して、もう一度だけ触れるだけの優しい口付けを交わした……
それからの数ヶ月は、僕らにとって一番楽しかった時期になった。
女性の執念はさすがと言うべきか、どう交渉したのかは知らないけど、君は週に何度か僕の病室に泊まり込むようになった。もちろん、泊まると言っても別段何をするわけでもないけど、というか僕の心臓で男女の営みなんかしたらそれこそ昇天ものだしね。ただ手を繋ぎながら病室の窓を通して空を見上げ、気の向いたときに他愛のないお喋りをして、そして時々唇を合わせるだけのキスをする。それだけの日々だけど、それだけのことが嬉しかった。
検査の結果、僕に知らされた命の猶予はあと半年、どんなに長く持ったとしても一年は生きられないというものだったけど、僕はそれでもいいと思った。死ぬまでの残り少ない時間を、君とこうして過ごせるならそれで満足だと、そう思っていた。君の隣で息を引き取るのなら、それで本望だと思った。
でも、運命と言うのはやはり自分が思っていた方向には決して進んでくれないものだった。
その知らせが僕の下に届いたのは、入院して間もなく四ヶ月が経とうとしていたある日だった。
心臓の提供者が現れた。検査の結果、適合も特に問題はない。決断さえすればいつでも移植手術に移せる。
その知らせを聞いた時は思わず耳を疑った。死を覚悟して、ようやく受け入れた途端の知らせだ。驚くなと言う方が無理がある。
君は飛び上がるくらい(事実部屋中を跳ねまわっていた)喜んでいたけれど、僕は正直迷っていた。最近は移植手術の成功率が上がっているとはいえ、それでもまだ心臓移植が難しいということに変わりはない。このままでいれば少なくともあと二ヶ月くらいは君と一緒にいられるが、万が一手術に失敗したら場所が場所だけに死に繋がる可能性も否定できない。第一、仮に成功したとしても十年後の生存率は50%を割ってしまう。そのことを考えると問題を先延ばしにしているだけのような気がして仕方がなかった。それならいっそ、このままゆっくりと死を待っていた方がいい気もした。
少し考えさせて下さいとだけ返事をして、少し不満そうな君を病室の外に出して一人で悩み考えた。受けるべきか、受けないべきか。
そして僕が出した結論は、手術を受けるというものだった。それがまさか最悪の結果になるなんて、その時はこれっぽっちも思わずに……
手術は僕の決心から一週間後に行われた。手術中の詳しいことはわからない。覚えているのは麻酔で眠りに落ちる寸前まで君が手を握っていたこと、そして麻酔から目を覚ました時もやはり、君が僕の手を握っていたことくらいだ。
手術が終わってしばらくの間、僕らは必要以上にはしゃいでいた。と言っても飛んだり跳ねたり大声で話したりした訳ではなくて、何となく雰囲気的にそんな感じだったというだけでやっていることはいつもと同じで手を繋ぎながら空を見上げているだけだったけど。でも確かに僕らの心はふわふわと浮かび上がっていた。僕も君も、幸せな未来を心の中で描いてはお互いに微笑み合っていた。
でも、そんな未来が訪れることはなかった。
最初の拒絶反応が起きたのは移植手術から一週間が経ったある日の夜だった。
夜中に妙な息苦しさを感じて目を覚ますと、身体がやけに重かった。全身から滝のように汗が噴き出ていて、視界が朦朧とした。熱を測ると38度を大きく超えていた。ナースコールで駆けつけてきた看護師さんは大慌てで病院の先生を呼びに行き、病室は途端に慌ただしい、緊迫した空気に包まれた。
次の日から食事の度に飲む薬が倍の量になった。また一日に何度も点滴をするようになった。先生の話しでは、移植手術に拒絶反応は付き物で、適切な処置さえすれば怖いものではないとのことだった。
でも、先生や看護師さんらの懸命な処置にも関わらず、僕の容体はなかなか快調の兆しを見せなかった。微熱が続き、身体の倦怠感は増す一方。日に日に病院の先生の顔にも焦りの色が見え始めていた。
二度目の強い拒絶反応が起きたのは、それから三日後のことだ。熱はついに39度を超え、僕の意識は霞の中に沈んで行った。
霞がかった意識の中、外の会話が断片的に聞こえてくる。合併症が、このままでは心不全の恐れが、すぐに次のドナーを見つけないと命が。聞こえてきた言葉はどれも絶望的なものばかりだった。
このまま僕は死ぬのか。そんなことを考えながら僕は自分の意識を手放した。暗闇の中に沈む最中、最後に聞こえてきたのは誰かの「ごめんね」という悲しげな、それでいて決意に満ちた言葉だった。
僕がその言葉を発した人が誰なのか、どういう意味なのか、それを知ったのは一ヶ月近く先のことだった。
目覚めてまず最初に思ったのは、なぜ生きているのだろうか、だ。あの時断片的に聞こえてきた会話は自分の死を意味していた。あんな短時間で次のドナーが見つかるはずがない。なのに僕は生きている。そのことが不思議で仕方がなかった。
病室を見渡して君の姿を探したけれど、君はどこにもいなかった。今日は家に帰る日だったのか、あるいはたまたま席を外しているだけなのか。その時は君がいないことに対してその程度にしか思わなかった。
仕方がないのでナースコールを押すと若い看護師さんが信じられないような顔で病室のドアを開け、そして大慌てで先生を呼びに走っていった。
そして僕は意識を失ってからのことをすべて先生から聞かされた。あの時僕は本当に死にかけていたこと。君が何か決心したような顔で病室を出て行ったこと。間もなくして道路に飛び出して車にはねられた若い女性が、救急車で運ばれてきたこと。その人が持っていた遺書に、心臓を僕に移植するようにと書いてあったこと。
最後に先生は一枚の手紙を渡してきた。
それはこんな一文から始まる、僕のよく見知った人の遺書だった。
『拝啓、私に関わるすべての人へ
この手紙が読まれているということは、おそらく私の目論見が半分まで成功したということでしょう。
きっと突然過ぎて驚かれる方も大勢いると思います。怒られて当然とわかっています。
でも私は耐えられなかったのです。大切な人が目の前で死んでいくのに。何よりもそんな時に何もできない自分自身に。
例え可能性が限りなくゼロに等しくても、それでも万に一つ彼を助けることが出来るのならば、この命も惜しくはありません。
第一彼がいない世界なんて、私には考えられないのですから。
どうか、どうか私を生かさないでください。そして私の心臓を彼に、西倉庄司に移植してください。
勝手を言っていることは重々承知です。でも、それで彼が助かるなら、私は彼の胸の中で生き続けたいと思うのです。
お父さん、お母さん、勝手な娘で申し訳ありません。
私は彼を助けるために命を捨てます。
追伸. 約束を守れなくてごめんなさい』
それは確かに、間違いなく君の字だった。
あの時、最後に聞こえた言葉は、これから死にに行く君の謝罪の言葉だった。
先生の話によると、君と僕との適合率は99%、ほとんど奇跡的な数値だったらしい。拒絶反応もまず見られないだろうと。
でもその言葉を聞いても僕は何一つ喜べなかった。君がそうであったように、僕も君がいない世界に価値なんて見つけることが出来なかったんだから。
それから一ヶ月と少し、ようやく少しは立って歩けるようになった僕は少しだけ無理をして(看護師さんや先生にばれないよう)病院の屋上に来ていた。これから先のことを決める前に、どうしてももう一度だけ窓を通さずに拾い空を見上げたかったのだ。
空を見上げながら胸に手を当てる。手術の傷跡が少しいたんだけど、確かに手を通じて君の心臓が僕の中で動いているのがわかった。
手に心臓の鼓動を感じつつ、空を見上げたまましばらくぼーっと考える。僕が考えていることはただ一つ。無価値になってしまった世界を早々に見限るか、もう少しだけ頑張ってみるかの二択だ。屋上に来たのはそのためでもある。この高さがあれば、まず確実に死ねる。
これからどうするか、それを決める方法はもう決まっている。コインを投げて表が出たら頑張る、裏が出たら君の後を追う、だ。
ポケットから十円玉を取り出して胸元まで持っていく。心臓がトクンと不自然に大きく鼓動したように感じた。
僕は胸に手を当てながら少しだけ苦笑いして十円玉を思いっきり宙に投げ上げる。少しの後に十円玉がコンクリートとぶつかってチャリンと音を鳴らした。
僕はその結果を見ることなく屋上を後にする。見なくても結果はわかりきっている。君があと何年動き続けるか知らないけれど、それまで僕は頑張らないといけないらしい。
だってそうだろ? 君が自殺なんてこと、許すわけがないんだから。
僕はどこか満足そうな心臓の鼓動を感じながらゆっくりと階段を下りて行ったのだった。
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2010/09/05(Sun)17:57:28 公開 / 浅田明守
■この作品の著作権は浅田明守さんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
はじめまして、あるいはこんにちは。自称テンプレ物書きの浅田明守と申します。
ええ、はい。やってしまいました。所用につきしばらく家を空けていて、パソコンを一週間ほど触らずに放置していた時期があったのです。それでその間に溜まった鬱憤と言うか物書き欲というか、そんな感じなものを暴走させて書き上げたのがこの作品です。ブロットとかも一切なし、完璧に本能の赴くままに書いてみました。
そしたらなんというか……趣味全開な上に、よくよく読み返してみると設定とか終わり方とか、若干の違いはあれども最近ドラマ化した某作家さんのパクリっぽいような……(汗
いえいえ、もちろん故意ではありませんよ。というか私が恋愛もの(≠ラブコメ)を書くとだいたいその人の作品の面影があるんですよね……
一応色々と調べはしたのですが、なにぶん医学系の知識は皆無で、どこかおかしなところがあれば是非とも教えてください。
最後になりましたが、ここまで読んで下さった方に感謝の辞を。酷評バッチコイな感じなので、ご意見、ご感想などがあればぜひお願いいたします。
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。