『群神物語U〜玉水の巻〜6前半』 ... ジャンル:リアル・現代 ファンタジー
作者:玉里千尋                

     あらすじ・作品紹介
これは、神と人の世が混じり合う物語……。◎あらすじ◎ 二千年前。神の国、神の宝の伝説を信じて、大陸から、海を越え、オホヤシマに降り立ったニニギ。己が真に求めるものを探し、その魂は、八咫鏡の中へ。そして、周りの人間たちの運命もまた、急速に動いてゆく。……一方、現代日本。上木美子は、母のゆかりの地、京都への修学旅行も終わり、躑躅岡天満宮での日常へと戻ってきた。夏休み、京都で一緒に過ごした初島圭吾と海へ遊びに行った美子は、自殺した女生徒の霊と出会う。

123456789101112131415161718192021222324252627282930313233343536373839404142
◎目次◎
一『夢、一』 二『課題』 三『夢、二』 四『伏流水』 五『水底』 六『玉水』十一月二十日(四)本文★→←★の個所修正。

◎主要登場人物◎
【現代編】(第二章、第四章、第五章、第六章)
★上木美子(かみき みこ)初出第二章:萩英学園高校二年三組在籍。十七歳。O型。宮城県遠田郡涌谷町の自宅がなくなってしまったため、仙台市内の躑躅岡天満宮宿舎に居候中。特技は年齢あてと寝ること。
★ふーちゃん 初出第二章:ケサランパサランから成長した金色の霊孤。現在は小型犬サイズ。美子の心のオアシス。
★土居龍一(つちい りゅういち)初出第二章:土居家第三十九代当主。躑躅岡天満宮宮司、萩英学園高校理事長兼務。二十六歳。A型。一見、物腰は柔らかいが、本心をなかなか明かさない。
★築山四郎(つきやま しろう)初出第二章:躑躅岡天満宮庭師、萩英学園理事長代行。六十一歳。A型。趣味の料理はプロ級。世話好きの子供好き。
★菊水可南子(きくすい かなこ)初出第二章:父は京都雲ヶ畑、眞玉神社宮司の秋男。職業は芸妓。二十三歳。B型。妄想直感型美女。
★菊水秋男(きくすい あきお)初出第四章:可南子の父。眞玉神社宮司。職業は書道家。
★菊水桔梗(きくすい ききょう)初出第五章:可南子の母。土居家先代当主、土居菖之進の妹、勅使河原椿の三女。職業は茶道の師範。
★初島圭吾(はつしま けいご)初出第二章:津軽の守護家、初島家の二男。バイクで日本中を回るのが趣味。退魔の武器は、自作のパチンコ。二十一歳。
★結城アカネ(ゆうき あかね)初出第二章:萩英学園高校二年三組在籍。美子の親友。B型。好奇心旺盛な女の子。
★田中麻里(たなか まり)初出第二章:萩英学園高校二年三組在籍。美子の親友。AB型。将来の夢はバイオリニスト。
★大沼翔太(おおぬま しょうた)初出第二章:萩英学園高校二年一組在籍。スポーツ推薦で入学した野球部のホープ。
★HORA‐VIA(ホラ・ウィア)初出第二章:仙台の学生に絶大な人気を誇る萩英学園軽音部の三年生バンド。タニグチ(谷口。ヴォーカル兼ギター)、ミヤマ(深山。ギター)、フウジン(風神。ドラム)、ヒムラ(火村。ベース)
★平本(ひらもと)、池川(いけかわ)初出第五章:上野署の刑事。
★綾戸(あやと)、濱野(はまの)初出第五章:東京地方検察庁特別捜査部の検事。
★浦山由布子(うらやま ゆうこ)初出第五章:東京世田谷区に住む主婦。五歳の一人息子、明を水難事故で亡くす。菊水桔梗にお茶を習っている。
★浦山和也(うらやま かずや)初出第五章:由布子の夫。

◎キーワード説明◎
★守護主(しゅごぬし)初出第二章:ヒタカミの流れを汲み、今なお東北に強力な結界をはり続ける土居家当主のこと。
★竜泉(りょうせん)初出第二章:土居家が、躑躅岡天満宮本殿にて守り、毎日の霊場視に使っている霊泉。
★東北守護五家(とうほく しゅご ごけ)初出第二章:守護主を支える五つの一族。津軽に初島家、北上に沢見家、出羽に蜂谷家、涌谷に上木家、白河に中ノ目家があり、それぞれの当主を守護者(しゅごしゃ)と呼びならわす。当初は四家のみだったが、四百年前に、土居家から上木家が分家され、五家となった。
★秘文(ひもん)初出第二章:魂の力を引き出すための言葉。唱える者の力量により神に匹敵するほどの力を呼ぶこともできる。「稲荷大神秘文(いなりおおかみのひもん)」により龍一が召喚する雷神が代表的。秘文を声に出さずに唱える方法を、暗言葉(くらことは)という。
★飛月(ひつき)初出第二章:伊達政宗が名匠国包に造らせた稀代の霊刀。三百年間、土居家と三沢初子の霊が護ってきたが、現在は美子が護持者となり保管。
★赤い石 初出第二章:美子の母咲子の形見。

六 『玉水』
(一)
                         ◎◎
 七月十八日、期末試験の最終日、最終時限の最中、美子は萩英学園の中庭の大きな槐(えんじゅ)の木の真下にあるベンチに、一人ぽつんと座っていた。
 日程の関係でほかの生徒たちよりも一時限分早く試験が終わったせいである。このあとのホームルームが済めば、晴れて一ケ月の長い夏休みに突入するのだ。
 美子は五日間に及んだ試験の出来を思い返してみたが、憂鬱になってきたのでやめた。
(だいたい、修学旅行から帰って来て一週間後に試験があるっていうのがおかしいのよ)
                         ◎◎
 美子が雲ヶ畑の菊水家で目を覚ました時、真っ先に目に飛びこんできたのは可南子の顔だった。
『可南子さん?』
 美子はずいぶん長い間寝ていたような気がしていたが、可南子の顔はすぐに分かった。とてもなつかしくて、とても嬉しい気持ちになった。可南子は美子と目が合うと、思わず涙ぐんで美子を抱きしめた。
『美子ちゃん! 目が覚めたんか! ああ、よかった』
 そうして起き直ると、美子の頭をなでたり手をさすったりした。
『どっか、いたないか? 頭は? 具合悪いとこ、ない?』
 美子は、可南子の様子に驚きながら体を起こした。そうして自分がいる部屋をおそるおそる見回した。京都の旅館のとき以上に見覚えがない。
(どうしよう。またここがどこか分からない……)
 しかしそれを素直に口に出していいものかどうか。これ以上に可南子が心配し始めるかも知れなかった。美子の様子を見て可南子が先に口に出した。
『びっくりした? 美子ちゃん。ここは雲ヶ畑の私の実家の中や。あんたは眞玉神社の倉庫の前に倒れとったんよ。うちのお父さんがそれを見つけてここまで運んで来たんや。』
『眞玉神社に?』
 可南子は美子の顔をのぞきこんだ。
『覚えてないん?』
『はあ……』
 そこへ秋男が部屋に入って来て、声を上げた。
『おや、美子さん。目が覚めましたんか』
 そうして秋男は持っていた水の入った木のたらいを床に置きながら、美子の枕もとに座った。
『気分はどうどす? ずいぶん長いこと寝はってましたなあ』
 美子は自分の額に手をやって、初めて濡れた手拭いがぴたりとはりついているのに気がつき、それをはがした。秋男はぬるくなった手拭いを美子から受けとると、新しい水の中で絞り、また美子に渡した。
『熱はないようやったけど、冷たい手拭いは夏に気持ちええもんやろ』
『ありがとうございます』
 美子はひやりとした布で顔をふいたあと、秋男と可南子を交互に見た。
『あの、今、何日の何時ですか?』
 秋男がちょっと笑った。
『ほほほ。何も一年も経ってしもうたわけやない。今日は七月四日金曜、時間は、ええと……、午前七時すぎゆうところやな』
 部屋の掛け時計を見ながら答えた。美子はちょっと慌てて腰を浮かせた。
『えっ。もう四日なんですか! 大変、今日は仙台に帰る日なんです』
 可南子は、立ち上がろうとする美子の肩を軽く押さえて座らせた。
『慌てんでもええんや。電車の時間はお昼やろ。ちゃんと間に合うよう京都駅まで車で送っていってあげるから。学校の先生には昨日、築山さんから連絡してもろうて、もしかするとみんなとは別に仙台に帰るようになるかも知れんとも言ってあるし、な。それよりも、ほんまに悪いとこはないん? 念のためお医者に来てもらおうか?』
 美子は次第に自分のおかれている状況が呑みこめてき始め、呆然とした。
『あたし、具合が悪いところは全然ありません。どうしてこんなに寝ちゃったのか……。あの、あたし、ほんとに眞玉神社にいたんですか? 料理屋さんのところじゃ、ないんですか?』
 可南子と秋男は困ったように目を合わせた。秋男が訊いた。
『ほんなら美子さん。あんたは本当に料理屋から出たときのことを覚えてないんか?』
 美子は首を横に振った。秋男は袂の中で腕を組みながら、うなった。
『ふうん。料理屋の店員さんは、美子さんが自分で店を出て行きはった、ゆうてましたけどな』
 美子はうつむいて手拭いを目に押しあてた。
『ところでもっと不思議なんは、どうやって神社のあの場所にあんたが行ったか、ゆうことなんやけど、あの倉庫のことは圭吾さんから聞きはったんか?』
 美子はぼんやりと顔を上げた。
『倉庫? 倉庫って、なんですか?』
『眞玉神社の上の境内の、泉の流れに沿って森の奥に入ったところに、古い建物があるんや。昔は倉庫として使っていたんやけど、今は何にも使っとらんし、入る道もやぶでおおわれてなくなってしもうてるくらいや。それやのに、その奥にあんさんがいはったんで、私は驚いたんやが……』
 美子はもう一度首を振った。
『そんなところにあたしはいたんですか? 全然覚えていません。神社にそんな倉庫があるなんてことも知らなかったですし』
 可南子が言った。
『もうええやろ、お父さん。美子ちゃんはこうして無事に目が覚めたんやし』
 秋男はうなずいて、帯にはさんでいた扇で自分をあおいだ。
『そうやな。私はもしかすると、美子さんが自分のお母さんの住んではったとこを見たかったんかな、と思うたりもしてたんやけど、あの場所のこと自体を知らんゆうなら、そういうことを思いたちはることもでけへんやろしな』
 美子は驚いて秋男に訊ねた。
『あたしのお母さんの住んでいたところ、ですか?』
 秋男は首をこくりとさせた。
『そうや。あすこはもともと倉庫やったんやけんど、咲子さんが眞玉神社にいはったときは、あのお人はあの場所で寝泊まりしはってたんや。眞玉には社務所なんて気の利いたもんはないさかいな。倉庫の建物は古びてるが大きいし頑丈やし、な。それにしてもガスも電気も通ってないことには違いないが、咲子さんは自分でここがええ言わはって、実際なかなか気持ちよう暮らしはってたようやな。若い女の人には珍しいこっちゃ』
 美子は、こめかみを強く押した。何かを思い出しかけたが何も浮かんでこなかった。
 可南子は立ち上がった。
『ほんなら、ちょっと築山さんに電話してくるわ。あっちでも心配してるやろ』
 美子はどきりとした。
『あの、このことは龍一も知っているんでしょうか?』
 可南子は美子を振り返った。
『うん。私も正直、昨日はどうしていいか分からなくてな、龍ちゃんに相談してみたんや。そうしたら、心配ない、明日の朝には目が覚めるだろうって、やけにはっきり言うもんやから、とりあえず美子ちゃんをそのまま寝かせておいたんよ。一応お医者にも往診してもろうてざっと診てもろうたんやけど、結局医者にしても何が原因かは分からんかったらしく、とりあえず寝かせて様子見しなさいゆうことやってん。まあ今日の昼になっても美子ちゃんが起きへんかったら、やっぱり病院に連れて行こう思うてたけど、ほんま目が覚めてよかったわ』
 そうして可南子はにっこり笑って部屋から出て行った。秋男も扇をぱたぱた動かしながら立ち上がり、
『美子さん。まずよかったなあ。昨日からえらいこっちゃやったけど、ともかく一安心や、やあれ、やあれ』
と言いながら、縁側に出て、そのまま廊下の奥のほうに消えて行った。
 美子はしばらくぼんやりしていたが、やがて立ち上がってみた。手足の各部をゆっくりと動かしたり頭を振ってみるが、体に異常はなさそうだ。制服のスカートがだいぶくしゃくしゃになっているほかは、服が破れているというようなこともない。
(料理屋で寝ている間に夢遊病みたいに歩き回ったのか……)
 美子はうんざりした。自分で自分のことが分からないことくらい嫌なものはない。
 美子が布団をたたみ終わったころ、可南子が部屋に戻って来た。
『美子ちゃん。起き上がっても平気か?』
『はい。ご迷惑をおかけしました』
 可南子は、にこりとして、
『大丈夫や。気にせえへんで、ええんよ』
と言うと、今度は廊下の先に向かって大きな声を出した。
『圭吾、圭吾。ちょいと手伝ってや!』
 すると、すぐに圭吾が現れた。美子は圭吾の顔を見て赤くなった。圭吾は嬉しそうに笑った。
『やあ、美子ちゃん。元気になった? よかったね』
『うん……。ありがとう』
『いや、オレは特に何もしてないから。……なんか、用スか、可南子さん』
『この座卓を真ん中に出したいんや、私がこっちを持つから』
『分かりました』
 隅によせられていた大きくがっしりした座卓が部屋の中央に据え置かれた。可南子は部屋の角に積み上げられていた座布団を座卓の周りに並べると、美子に優しく言った。
『美子ちゃん。ちょっとここに座って待っといてな。今、朝ごはんを出すさかいな。お腹へったやろ』
『あ、じゃあ、あたしも用意を手伝います』
 美子が言うと、可南子は真剣な顔になった。
『美子ちゃん。あんたは、おとなしゅうしててや。頼むわ』
 美子は、赤くなってうなだれた。
『はい……』
 圭吾は、くったくなく笑って美子の肩をぽんぽんと軽く叩いた。
『昨日の夕方にこっちに着いてから、可南子さんは美子ちゃんのそばにずっとつきっきりだったんだよ。まるでほんとのお母さんみたいに心配してたんだ。だから今のうちだけでも、可南子さんのいうことをきいてあげておいたほうがいいよ』
『圭吾。余計なこと言わんでええんや。あんたは、ちょっとこっち来て手伝ってや』
『はい、はい』
 二人がいなくなると、美子はため息をついて座布団の上に座った。ついっと金色のかたまりがよって来て美子の膝の上に乗った。
『ふーちゃん』
 ふーちゃんは美子をその黒い大きな瞳で見上げた。
『ごめんね。ふーちゃんも心配した?』
 ふーちゃんは美子の手をそっと舐めると、くるりと猫みたいに丸まった。美子はその背中をゆっくりと撫でていたが、ふと思い出してスカートのポケットの中から携帯電話をとり出した。開けて確認してみるが何の着歴もない――と思ったら圏外だった。今ごろアカネや麻里はどうしているだろうか。昨日美子が旅館に帰って来なかったので驚いただろう。教師には築山から連絡がされたというが……。ここで美子は先ほどの可南子の言葉を思い出した。
(龍一は、あたしのことを聞いてもあんまり心配しなかったみたい……)
 美子はまたうつむいて、ふーちゃんの背中を撫でつづけた。
 そこへ和服をぴしっと着こなした女性が、お盆を運んで来て美子のそばに座ると、次々と卓上にお椀や皿を並べながら、きびきびとした様子で言った。
『私、可南子の母の菊水桔梗と申します。この度はえらいことでしたねえ。でも治りはったようでようございました。修学旅行の最中やったんですって? まあ、そうでもなかったらもっとゆっくりしてもらうんやったですけど。急なことでたいした用意もできずお恥ずかしいですが、何もないよりはと思いましてお出しするんですよ。今ご飯をお持ちしますのでお待ちくださいね』
 美子が、
『ありがとうございます、すみません』
と頭を下げている間に、桔梗はふたたび部屋を出て行った。
 しばらくすると、圭吾が大きなおひつを抱えて部屋に入って来た。そうしてきょろきょろと辺りを見わたすと小声で美子にささやいた。
『今、桔梗さんが来ただろ?』
『うん』
 圭吾はおひつのふたを開けて美子の茶碗にご飯をよそいながら、言った。
『おっかないんだよなあ、あの人。どこがどうとはいえないけどさ。オレ、あの人の前に行くといっつもわきの下に変な汗かいちゃうんだよ。美子ちゃんは大丈夫だった?』
 しかし美子は今は誰に対しても恐縮していたので、桔梗に対して覚えた緊張がどういう性質のものか分からなかった。
『大丈夫よ。何もお構いできませんでって挨拶されただけよ』
『ふうん。桔梗さんも美子ちゃんには優しいのかな』
 圭吾は自分の分は山盛りにご飯を分けると美子の向かいに座った。今度は可南子がすたすたとやって来て、二人にお茶を淹れて出してくれた。
『二人ともゆっくり食べえや。時間はまだあるからな。美子ちゃんの荷物は先生が運んでくれはるそうやから、直接駅まで行けばええことになっているんや。圭吾の荷物は河原町のマンションに置いといてあるんやろ? 美子ちゃんを送ったあとであんたをそこに連れていってやるからな』
 そう言って自分は一口お茶をすする。圭吾はさっそく箸をとり上げて、
『いただきます』
と食べ始めた。美子は可南子の前にお茶しかないのを見て訊いた。
『あの、可南子さんは食べないんですか?』
『私はいつも朝は食べへんからええんや。そやから気にせんで食べなはれ』
『はい。いただきます』
 可南子がじいっと美子の食欲をチェックするかのように見つめているので、美子は緊張しながら箸をとった。目の前に並んでいるのは、ご飯、アジの干物、味噌汁、つくだ煮、漬物が何点か、であった。味噌汁は白味噌仕立てで緑の葉っぱの形をした生麩が入っている。佃煮はじゃこだったが、美子は一口食べてみて、
(あ!)
と思った。ぴりっとした山椒の実の香りが口の中に広がる。そしてこれが温かいご飯とまたよく合うのだった。正面の圭吾を見ると圭吾はすでに二杯目のご飯にとりかかっているところだった。
『圭吾君。この佃煮、山椒がきいていて美味しいよね。昨日のあたしのひつまぶしにも、山椒の実の佃煮がついてきたんだよ』
 圭吾は口をもぐもぐさせながら答えた。
『あ、これに入っていたの、山椒だったんだ。道理でぴりっとすると思った。胡椒が入っているのかと思ったよ』
 そうしてアジの干物の残りの身を丁寧にむしって、いとおしそうにご飯と一緒に口の中に放りこんだ。
 漬物は、茄子の浅漬と、胡瓜のしば漬だ。どちらもいい味で、どうしてもご飯がすすんでしまう。そして干物や漬物の合間に味噌汁を飲むと、そのほんのりとした甘さがしょっぱさをちょうどよく緩和してくれるのだった。可南子が美子のご飯茶わんをのぞいた。
『美子ちゃん。お代わりはどうや?』
 美子は、ちょっと赤くなりがら答えた。
『あ、はい。お願いします』
 可南子が、ご飯と味噌汁のお代わりをよそってくれた。
『圭吾も味噌汁いるか?』
 圭吾はすっかりおかずを食べきってしまって、うらめしそうに空のご飯茶碗を見つめていたが、可南子に首を横に振った。
『いえ、結構です。正直、白味噌は苦手なんで……』
 そうして自分の腹を撫でる。
『まあ朝食ですし、腹八分って言葉もありますからね。この辺でやめておきますよ』
『朝から山盛りの三杯飯でようゆうわ。あんたの食べっぷりを見てると、なんや胸やけがしてくんねん』
『一日の計は朝食にあり、というじゃないですか。可南子さんもちゃんと食べないと貧血になっちゃいますよ』
『そんなことわざ、あったかいな』
『いや、これはうちの家訓なんです』
『初島家にそんな家訓があるんか』
『いや、まだないので、これからオレが伝えていこうと思ってるんですがね』
『なんや、あほらしい』
 可南子は笑って、お茶を飲んだ。そうして同じくお茶を飲んでいる美子を振り返った。
『お腹いっぱいになったか、美子ちゃん。おかずもご飯もまだお代わりあるで』
 美子は、慌てて答えた。
『いえ。大丈夫、苦しいくらいです。美味しくて、つい食べすぎちゃいました』
『たまたま冷蔵庫にあったもんを出させてもろうただけやけど、そう言ってもらえると嬉しいな』
『特に漬物が美味しかったです。これは自宅で作っているんですか?』
『いや、いや。みんな店で買うてきたもんばかりや。気に入った?』
『はい。京都の食べ物は、みんなそれぞれ美味しいですけど、中でも漬物が美味しいですね』
 可南子は、にこにこした。
『そうか、そんなに気に入ったんならお土産に少し買うていったらどうや? この漬物の店が上賀茂神社の近くにあるんや。どっちにしても雲ヶ畑から京都駅への通り道にあるから、ちょうどええ。今日仙台に帰るんなら、保冷剤を入れてもらえば悪くもならんやろ』
                         ◎◎
 午前九時すぎ、菊水秋男と菊水桔梗に挨拶をし、美子は、可南子と圭吾と一緒に菊水家をあとにした。可南子は、秋男のワインレッドのミニバンの横に停めてあった真っ青な流線形をしたBMWに二人を乗せた。小型のスポーツタイプでオープンカーにもできる仕様だ。圭吾はひゅうっと口笛を吹いた。
『すげえ車だな。これ、可南子さんのスか?』
 可南子は運転席に乗って、エンジンをかけながら答えた。
『これはうちのお母さんのや。私は昨日はタクシーでここまで来たからな』
『桔梗さんがこれに乗っているんスか!』
 圭吾は美子と並んで後部座席に乗りながら驚いたように声を上げた。可南子はバックで車を車道に出したあと下り坂をぐんぐんと走らせた。
『あの人は車道楽でな。毎年のように車を買い替えんねん。この車もBMWで新しい水素カーを出したゆうのを聞いて、衝動買いで即決しはったんや。前のトヨタは十ヶ月くらいしか乗ってなかったんとちゃうやろか』
 圭吾は黒い革のシートを撫でまわした。
『へえ! これ、水素カーなんスか』
『なんや、エコカーゆうことやけど、水素を入れられるスタンドが京都市内にはまだ一ヶ所しかないから不便やで。ガソリンも使えるんやけどお母さんは意地になって水素しか入れへんゆうてんねん。でもあの人はめんどくさがりの上に飽きっぽいからな、じきにまた買い替えるんとちゃうやろか』
 圭吾はため息をついた。と、可南子が車を停めた。圭吾はきょろきょろした。
『あれっ。もう着いたんスか』
『そんなわけ、ないやろ。美子ちゃん。どうや? あんた、昨日のことを覚えておらへんのやったら、もう一回眞玉神社に上ってみはるか? 倉庫のとこにもう一度行ってみたいんちゃうか、思ってな。でも気が進まんのやったら無理しなくてええんよ』
 美子はずっと倉庫のことを考えていたが言い出せずにいたので、可南子に考えをよまれたように思って驚いた。そして、どもりながら言った。
『あ、いいんですか? はい、見てみたいです、とっても』
 可南子は美子ににこりとすると、圭吾に言った。
『圭吾は悪いけど車に乗っててもらってもええか? 路線バスが来たら少しバックしてよけなあかんと思うねん』
『えっ! そのときはオレが運転してもいいんですか?』
『構わんけど、ぶつけんといてや。なにせうちのお母さんの車やから』
 圭吾はちょっと顔を緊張させた。
『そ、そうっスね。さわらぬ神に祟りなし、っスね』
 美子は可南子と一緒に車を出て、眞玉神社の古ぼけた鳥居の下をくぐり、古ぼけた石段を登った。この石段を上るのは美子が覚えている限りでは二度目だが、本当は三度目なのかも知れない。
 境内の石畳の広場の前に立つ。美子にとって眞玉神社の中でここが一番心踊る場所だ。携帯電話のカメラで一枚写真を撮る。今はもう見ることができない母の写真の代わりだ。空っぽの広場の写真でも、眺めていればきっと母の姿をその中に想像することができるだろう。
 そうして広場の奥に隠された小道を抜け、小さな社のある場所に出る。社の後ろ側の杉の根もとから湧き出る泉。この泉の前に母は突然現れたのだという。そして父と結婚し、自分を生んだあと、またこの泉の前から姿を消した。美子は、父の祥蔵からずっと、母咲子は美子が二歳のときに交通事故で亡くなったと聞かされていた。が、真実は違うものだった。去年可南子が秋男から聞いたこととして教えてくれたところによれば、咲子は怨霊に襲われ連れ去られたという。祥蔵の右腕がなくなったのはその怨霊と戦ったためだ。
 美子は泉をじっと見た。この向こうに咲子はいるのだろうか。そうして、はっとした。
(本当にお母さんは今、どこにいるのだろう……)
 父の言葉が思い出された。
(お父さんは言っていたっけ。お母さんはどこか目に見えない場所にいるって。目に見えないだけで、どこかにいるんだって)
 一瞬、静かな泉の面が驚くほど濃い青さで光った。美子は思わず空を見上げた。湿った朝の空はうす青色だ。もう一度泉に目をやる。水はもう、もとの透明で涼やかな色に戻っていた。可南子の声が左側から聞こえた。
『美子ちゃん。こっちや』
『はい』
 可南子は本当にやぶの中に半分体を踏み入れていた。美子のために笹を踏み折ってくれている。美子は急いで可南子のあとに続いた。
『すぐわきに泉からの流れがあるから気いつけてな』
 確かに笹の茂りがうすくなっている部分に見え隠れするように細い川が通っていた。
 水の流れる音を聴きながら薄暗い森の中を可南子の背を追っていくと、急に光がいっぱいに射しこむ場所に出た。美子は思わずまぶしさに立ちすくんだ。白い光の中の中央に、高床式の古い建物が、まるで神話の中からぬけ出てきたかのように建っている。
 可南子は建物の正面を指さした。
『あすこの階段のとこに美子ちゃんは眠っていはったんやて』
 美子はゆっくりと建物へ歩いていった。そっと階段の最初の段に足を乗せる。みしり、という音が鳴り、木が少したわむのが分かった。
 ゆっくりと踏み進み、扉の前に立つ。ぶ厚い扉を押すと音もなく開いた。中はひんやりと暗く、何年も人が入っていないことをものがたるかのようにほこりが溜まっていた。しかし空気は新鮮だった。内部は太い柱が何本か立っているほかは、がらんとしている。
 美子は建物の中を静かに歩き回った。柱をめぐり、壁を手のひらでなぞる。可南子は入口に立ってそんな美子の様子を眺めていた。美子は奥の壁によりかかり扉のほうを眺めた。可南子の姿が四角い光の中で額に入った絵のように浮かび上がっていた。美子はそれを見て嬉しくなった。この場所は開かれていて、またいつでも来ることができると分かったからだ。それで壁から体を起こすと軽い足どりで可南子のほうへ戻っていった。途中、部屋の真ん中に何かが落ちているのに気づき、拾った。入口にまで行って光のもとで見ると、それは笹の枝だった。
 可南子はそれを見て不思議そうに言った。
『誰が置いたんやろ』
 笹は今折ったばかりのように新鮮で露さえついていた。
『それに、ここの扉はかんぬきをかけておいたはずやのに、いつの間にはずれとったんやろな』
 美子は枝を持ったまま外に出、可南子ににっこりした。
『誰かがいたずらしたのかも知れませんね』
 可南子も美子に微笑み、扉を閉めてかんぬきをかけた。
『そうやな。案外狐かも知れへん。この辺は狐が多いんや』
『じゃあ、あたしも狐に化かされたのかもなあ』
 もと来た道を戻りながら美子は言った。昨日から何回か踏みしめられて少しずつ道ができてきている。可南子も美子のあとから歩いてくる。
『そうや、もうすぐ七夕やから、その笹に願い事つけたらかなうかも知れへんで、美子ちゃん』
 神社の石段を降りていく途中で急に蝉がしゃらしゃらといっせいに鳴き出した。可南子が森を振り仰いだ。
『夏や。夏がきた』
 鳥居をぬけて道路に出ると、圭吾が車のルーフにひじをついて立って待っていた。
『お待たせ、圭吾君』
『おかえり』
 圭吾は二人ににこりとした。そして可南子に向かって言った。
『バスは来ませんでしたよ。どころか、車も人も誰も通りません』
『そうか、そうか。そらよかったやないの』
 そう答えて美子を振り返った。美子は北の空を見ていた。それで可南子もそちらを見た。雲ヶ畑の集落を挟んでいる両わきの二つの山の連なりが、北で合わさるように見える場所、そのちょうどVの字のくぼみと空との間に、ひとすじの白い雲が長く伸びているのだった。
『ああ、竜神さんが帰っていきはる』
 美子はちょっと驚いて可南子を振り返った。可南子が説明した。
『雲ヶ畑の北の山には竜神さんが住んではるといわれとるんや。雨が降る前はあすこから黒くて太い雲が立ち上る。それは竜神さんが雨を降らせに天まで上っていく印や。それから雨が降って晴れたあとはああして白くて細い雲が見える。あれは竜神さんが雨降らせの仕事を終えてねぐらに戻っていく様子や、といわれとるんよ。梅雨のあとにあれが見えたら、季節は本格的に夏になった証拠なんや』
『へえ』
 圭吾は手をかざして北を眺めた。そうしてそのまま手を下ろして自分のTシャツの襟をぱたぱたとさせた。
『確かにまだ午前中だっていうのにやけに暑くなってきましたね。こりゃ急いで京都を出ないと。夏の京都にはあまりいたくありませんからね』
『ははは。ほな、そろそろ出発しようか』
 青いBMWは、昨日の朝来た山道を逆に下っていく。美子は辺りの景色を目に焼きつけようとじっと窓の外を見ていた。
山を下りると静かな住宅街の中の間をぬけ、しばらくして、可南子は角を曲がり駐車場に車を停めた。赤い大きな鳥居が正面に建っており、その向こうに広々とした境内が広がっている。可南子はエンジンをとめた。
『ここが上賀茂神社や。そこにあるんが漬物屋さんや』
 有名な神社なだけあって朝から観光客で周囲はにぎわっており、大きな観光バスも何台か停まっていた。
 鳥居の真正面にある漬物屋はこぎれいで、様々な種類の漬物が美しく並べられている。
 美子はさっそく、わくわくしながら店内を見て回った。
 うす紅色に染まったほっそりとした大根のぬか漬、若竹を思わせる色合いのセロリの浅漬、深いワイン色に輝く柴漬、皮の鮮やかな緑ととろりとした白い実のコントラストが美しい白瓜。それらが一つ一つ丁寧に包装されてショーウインドウに飾られている様はまるで本物の宝石のようだった。美子は漬物を見て宝石を連想したのは初めてだった。
 美子が迷っている横で、可南子はどんどん品物を注文していた。
『ほな、柴漬と、山椒じゃこ、たくわん、瓜、あとやっぱり、すぐき、これももらおうか。四袋ずつで、二つに分けて保冷剤も入れてください』
 そうして代金を払って大きな紙袋を二つ受けとると、一つを美子に渡した。
『はい、美子ちゃん。天満宮のみんなで食べておくれやす』
『えっ、でも』
『ええから、ええから。私から天満宮へのお土産や。圭吾、あんたんとこの家にも、これ、持っていってや』
 そう言って可南子は圭吾にも漬物の袋を渡した。圭吾は目を丸くした。
『いいんスか?』
 可南子はちょっと片目をつむってみせた。
『今回のことでは初島のご当主にも世話になったからな。よろしく言ったといてや』
 そうして三人はまた、きらきら輝く青い車に乗り出発した。
 車はその後行きと同じように鴨川沿いを走りながら、十一時十分ころに京都駅に到着した。美子が乗る新幹線は十二時九分である。京都駅前のロータリーで、美子は、可南子と圭吾と別れた。
『可南子さん。色々どうもありがとうございました』
 可南子はちょっと考えてにっこりした。
『なんかその挨拶、去年別れたときも聞いた気がするなあ』
『あ、そうでしたっけ……』
 美子はぺろりと舌を出した。可南子はくすりとして言った。
『こちらこそありがとう、や。美子ちゃんが京都に来てくれはって私はとっても楽しかった。でも美子ちゃんは大変やったな』
『なんかほんとにご迷惑をかけちゃって……。あの、可南子さんのお父さんとお母さんにもよろしくお伝えください』
 可南子は、顔の前で手を振った。
『ええんや、あの人たちのことは。それに私も特に何をしたわけやない。龍ちゃんが指示してくれなんだら、私も昨日はどうしたらええか分からんかったし』
『龍一が?』
『うん。龍ちゃんは、あんとき仕事で東京にいはったんやけど、その場で美子ちゃんのことを霊視してくれて、大丈夫、明日の朝には目が覚めるからって、言ってくれはったんや。それで私もうちのお父さんもとりあえず安心することができたんや。それにそのとおりに、美子ちゃんはちゃんと朝になって目が覚めたしな』
『龍一があたしを霊視……』
 美子は思わず赤くなった。可南子は突然何かを思い出したように声を上げた。
『あ、そう、そう。一つ美子ちゃんに謝らな、あかんことがあったんや』
『な、なんですか?』
『去年、美子ちゃんにあげた香水のお店に、今回はぜひ連れていってやりたかったんやけどなあ』
 美子は思わず笑った。
『ああ、そのことですか』
 去年、美子は、可南子から、京都のメーカーが作っているという香水をお土産にもらった。可南子はその店で自分のオリジナルの香水を作ってもらっていて、美子にもいつか、懇意の調香師を紹介すると言っていたのである。
『その調香師の子がな、ちょうど今、台湾に出張してもうてるんや』
 可南子は残念そうに言った。美子は可南子が自分との他愛もない約束をきちんと覚えていてくれたことがたまらなく嬉しかった。
『可南子さん。ありがとうございます。でもオリジナルの香水は、あたしがちゃんとした大人になったら作ってもらうことにします。そのときはぜひその方を紹介してくださいね』
 可南子は晴れやかに笑った。美子は可南子のその笑顔が好きだった。
『そやな。美子ちゃんが京都に来るんはこれが最後やゆうわけやないもんな。また近々会おうな、美子ちゃん』
『はい』
 圭吾も後部座席の窓を開けて、美子に笑顔で挨拶した。
『じゃあね、美子ちゃん。オレもいったん津軽に戻るよ。そのあとまた旅に出ると思うけどさ。途中で仙台によれたら会おうよ』
『うん。圭吾君。色々ありがとう。また、いつか』
 美子も笑って二人に手を振り別れた。しかしさすがに、この『いつか』が、ほんのひと月後にやってきて、可南子と圭吾とまた行動を共にすることになるとは思いもしなかったのだったが。
                         ◎◎
(なんにせよ、明日から夏休みだ!)
 期末試験がすべて終わり、学校の中庭で時間を潰していた美子は、試験のことはアカネに倣ってすぐに忘れることと決め、大きく伸びをした。
と、ふいに槐の木漏れ日が陰ったので目を上げると、大沼翔太がそばに来ていた。美子は思わず手を上げたまま、とまってしまったが、慌てて立ち上がろうとすると、翔太が先に美子の座っているベンチを指さして言った。
「ここ、いい?」
 美子はかなり驚いたが、体をわきにずらして答えた。
「いいよ」
「ありがとう」
 翔太はにこりとして、美子の隣に座った。美子は緊張して辺りをそっと見わたした。校内はほとんどが試験の真っ最中でしんと静まり返っている。しかし誰かがこの様子を見かけたらアカネではないが、それこそ学校中の噂になってしまうのではないか。なにせ翔太は高校野球界のスターなのだ。しかし翔太がいつまでも黙っているので、美子はぼそぼそと話しかけた。
「あー、大沼君ももう試験終わったの?」
 翔太がくるりと体ごと振り返ったので、美子は少し姿勢を外へ動かした。
「うん。日本史をとっている人たちはだいたいが早く終わったみたいだよね」
「そっか。先生の都合で三日目にほかの人たちよりも一時限遅い時間帯でテストをしたせいだもんね」
「そうだね」
 ふたたび沈黙が続いた。美子は仕方なくまた口を開いた。
「大沼君も大変だよね。甲子園の試合も学校の試験もやらなきゃいけなくて」
 この期間は夏の甲子園の予選の真っ最中でもあった。萩英学園はエース兼四番打者の翔太の活躍もあり順調に勝ち進んでいた。そういえば明日が三回戦である。
「明日、がんばってね」
「ありがとう」
「去年は残念だったね、甲子園。でも今年はきっと行けるよ」
 去年の萩英は宮城大会の決勝まで勝ち進み、九回表まで一点差で勝ち越していたものの、その裏で抑えのピッチャーがサヨナラツーランの本塁打を打たれてしまい、惜しくも甲子園行きを逃していたのだった。翔太はじっと考えこんでいたが、やがて言った。
「今年は萩英は甲子園に行けるんじゃないかと思う」
「うん、うん」
「でも、それでも僕は行けないんだ」
 美子はきょとんとして翔太を見た。翔太はそんな美子の顔を見て、にっこり笑った。
「実は僕は、来月の初めからアメリカに行くことになっているんだ。アメリカの高校に転校してあっちで野球をやることになっているんだよ。もう監督にも前々から言ってあるし、チームのみんなにも了解をとってある。だから夏の大会は予選だけ参加させてもらって、甲子園には最初から行かないことになっているんだ」
 美子はいったん口を開いて閉じたあと、また口を開いた。
「じゃあ……」
 翔太はうなずいた。
「もうしばらくは日本に戻って来ない。アメリカの高校を卒業したらメジャーに挑戦するつもりなんだ」
 美子はしばらくまじまじと翔太を見つめていたが、ようやく言った。
「そうしたらイチローと同じメジャーリーガーだね」
 翔太の笑顔がぴかりと光った。
「そうだ。イチローと同じ舞台に立つんだ」
「すごいよ、大沼君」
 美子は心からそう言った。翔太は照れたような顔になった。
「まだスタートラインにも立っていないけどね」
「ううん。そうじゃなくて、この年で一人でアメリカに行こうっていう勇気が、すごいよ」
 翔太は自分の手を膝の上で組んだ。美子はそれを見て思いのほか翔太の手が大きいのだと気がついた。真っ黒に日焼けした長い指の先に真っ白な爪がきちんと並んでいる。
「君にお礼を言いたくて、ここに来たんだ」
 翔太が言った。
「お礼?」
「去年、僕がイチローのサイン入りバットを誰かに傷つけられたとき、言ってくれたよね。『バットに傷がついても、野球を好きな気持ちに傷はついていない』って」
「あー……」
(そうだっけ?)
と美子は思ったが口には出さなかった。翔太は話し続けた。
「そのとき、僕はほんとに嬉しかったんだ。その言葉が一番大事なことを思い出させてくれたから」
「大事なこと?」
「うん。なんで自分が野球をやっているのかってことさ。それは親のためでもチームのためでもなくて、ただ自分が好きだからやっているんだ。僕が一番自分らしく楽しめる場所が、野球のグラウンドなんだ。練習はきついときもあるけど、でもそれは全部自分が望んでやっていることだからね。
 僕がイチローを尊敬しているのは、成績がすごいからだけじゃなくて、彼が自分のやっていることをきちんと分かっているからだよ。イチローは周りに自分を分かってもらおうなんて思ってないんだ。結果を出すまで人は評価なんかしてくれない。それがスポーツというものだし、プロの世界なんだ。それでもがんばり続けられるのは、やっぱりイチローも心の真ん中に、野球が大好きだっていう気持ちがあるからなんだと思う。
 だから僕も、大好きな野球をどこまで自分がやれるか、とことんまで試してみたい、そうあらためて考えるようになったんだ。それで去年からずっとアメリカ行きのことを考えて、決心して、準備をしてきた。今年の春に受け入れてくれる学校が決まって、この間のゴールデンウィークに向こうに渡って手続きもだいたいしてきた。あちらの学校の新学期は九月からだけど、色々準備があるから八月初めには渡米することにしたんだ」
 美子はなんと言っていいか分からなかったが、ともかく素晴らしいことだとは思ったので、こう言った。
「本当におめでとう。色々大変だろうけど、がんばってきてね。でもさ、しんどくなったら、骨休みにちょっと帰って来るといいよ」
 翔太は美子を真っ直ぐに見て、
「うん、ありがとう。そのときは一緒に遊ぼうよ」
と言ったので、美子はどぎまぎした。
「そ、そうだね」
「ところで、君はどこら辺に住んでいるの?」
 聞かれて美子は迷ったが、正直に答えることにした。
「あの、躑躅岡公園の近くにある躑躅岡天満宮って知っている?」
「もちろん。若い宮司さんがいる神社だよね」
 美子は、自分の顔が熱くなるのを感じた。
「知ってるの?」
「偶然ね。今回の留学先が志望のところに決まるようにあそこの神社に願をかけに行ったら、宮司さんが通りかかってね。僕がアメリカに留学するつもりだって言ったら、絵馬に文を書いて僕にくれたんだ。ほら」
 翔太はかばんの中から割に大きな絵馬をとり出した。そこには筆でこう書かかれてあった。
『男兒立志出郷關 學若無成不復還 埋骨何期墳墓地 人間到處有山』
 美子は思わずじっと絵馬を見つめた。確かに龍一の字だ。翔太が一緒にのぞきこんだ。
「ね、これ、どういう意味か、分かる?」
 美子は、はっとして顔を上げて危なく翔太と額がぶつかるところだった。
「あ、ごめん。……意味? うーん」
 正直字の形ばかりを見て文字の意味など考えていなかった。翔太が嬉しそうに説明した。
「僕もこれをもらったときに、その宮司さんに少し教えてもらったきりなんだけど、でも漢字を見ていればだいたいの意味は分かるよね。つまり、男がいったん志を立てて故郷を出たら目指す学問が成就するまで帰らない。どこに骨を埋めたって同じだ。人間(じんかん)至る所に青山(せいざん)あり」
「その最後の文句は、どこかで聞いたことあるね」
「うん。でも僕は、青山って自然の山のことだと思っていたけど、ほんとはお墓のことだったんだね」
「あ、そうなんだ」
「それでさ、こっちが表で、この詩の題名と作者名が書いてあるんだ」
 翔太は絵馬をひっくり返した。
『將東遊題壁 釋月性』
「この詩は、日本の釋月性(しゃくげっしょう)っていうお坊さんが書いたんだって。題名の意味は『これからまさに東に旅立とうとするときに壁に書いた』ってことらしい。アメリカも日本から見れば太平洋をはさんで東だからね。だからあの宮司さんはこの詩を僕に贈ってくれたのかもなあ」
「なるほどねえ」
 翔太は大事そうに絵馬をまたしまった。それを見て美子は嬉しかった。
「これもアメリカに一緒に持っていくつもりなんだ。僕だってメジャーリーグに入るまであっちでがんばるっていう決意だからね。あ、でも、休みのときくらいは帰って来るかも知れないから、そのときは……、会えるかもね?」
 美子は恥ずかしくなって翔太から視線をそらしながら、答えた。
「そうだね」
「じゃあ、君はあの神社の近くに住んでいるんだ」
「まあ……」
 躑躅岡天満宮の中に¥Zんでいることを結局言いそびれた。翔太は自分の携帯電話をそうっととり出した。
「君の、ケータイか、パソコンのアドレスを教えてもらってもいい? あの……、あっちでイチローの試合の写真とか撮ったら送るよ」
 そう言う翔太の顔は、日に焼けているにもかかわらずうっすらと赤くなっていた。二人は赤外線通信で互いのアドレスを交換した。
 その直後、試験終了のチャイムが鳴ったので、美子と翔太は、はじかれたように同時に立ち上がった。それから翔太は照れたように、しかししっかりとした口調で美子に言った。
「じゃあね」
 それは夏休みの間だけの別れの挨拶ではないことは、美子にも分かった。美子も翔太を見て言った。
「うん。気をつけて」
 翔太はそのままくるりと背を向けて校舎の中に入っていった。
 その後ろ姿が消えるまで見送ったあと、美子は自分も校舎の中にゆっくりと入っていった。廊下は試験が終わって移動する生徒たちでごった返していた。その人波の中にはもう翔太の姿は見えない。
 今の翔太との会話を思い返しながらクラスの教室に向かう。夢に向かって一心に進もうとする翔太は、確かにきらきらと輝いてみえた。

(二)
                         ◎◎
 夏休みに入って十日余りが経った。美子はもうすでに日にちの感覚がなくなっていたが、パソコンの表示を見ると、七月三〇日だった。今朝早くパソコンに、アカネからメールが入っていた。
 『緊急速報!』との件名で、『先日二十七日に甲子園出場を決めたばかりの萩英学園高校のエースピッチャーであり四番打者で、全国的にもその実力が高くされていた大沼翔太君が、甲子園に出場しないことが、このほど当記者の取材で明らかになった。大沼君は、なんと、アメリカに野球留学するため、八月から渡米するとのこと。チームの監督やメンバーもこのことは知っていたが、混乱を避けるため、あえて公表しなかったという。……ちょっと、美子! 新学期にはもう翔太はいないんだよ! どうする?』
と、最初は記事風に、最後のほうは感嘆符多用でしめくくられていた。美子は、
『それは、びっくりだね! 萩英にとっては痛いけど、大沼君にとってはむしろ喜ばしいことじゃない? 将来メジャーリーガーが同級生になるかもね』
と返信した。アカネからすぐにまた返信が来た。
『なんか、ずいぶんあっさりしてるねー。あたしはがっかり。甲子園に応援に行くのもやめようかな。翔太がいなくちゃ一回戦敗退も目に見えてるよ』
 宮城大会の準決勝、決勝とも、美子はアカネと応援しに行った。翔太の活躍は素晴らしかった。この地方予選中に、ホームランを九本打ち、打率は六割を超え、盗塁も毎試合のように決めていた。だからこそアカネの失望は大きいようだった。
『優勝旗の陸地からの白河越えは、まだ先みたいだね』
と書いてあるのは、東北内の高校がまだ甲子園で優勝していないことをいっているのだろう。優勝旗は、何年か前、ついに東北を通り越して津軽海峡を渡り北海道へ行ってしまった。
 東北といえども夏は暑い。美子は、朝の日課としている飛月との秘文の練習のあとは、午前中はたいがい築山の庭掃除などの手伝いをし、午後の暑い間は、図書館に行ったり、アカネや麻里たちと遊んだりして、家で勉強するのは夕方の涼しくなってから、と決めていた。
 朝にアカネから翔太についてのメールをもらったその日、美子は外出から帰って来て、汗ばんだ体をシャワーで流したあと、ノートパソコンや本を持って、天満宮の上社境内の桜の木の下にある石造りのテーブルの前のベンチに座った。
 最近は日が傾いてくる夕方五時すぎになると、宿題をもってこの場所に座ることが多い。上社の西側には竹林が生い茂っていて西日を遮ってくれるし、風にからからと鳴る竹の音を聞くのも涼しげだ。テーブルの下にすえられている石製の炭入れは、寒いときには暖をとるためのものだが、今は陶器の香立てが入っており、築山が美子のために焚いてくれている蚊遣りの線香が入っている。沖縄原産の月桃(げっとう)という植物の葉で作られた線香で、普通の蚊とり線香とは違って虫を殺す作用はないが、その独特の香りが虫を追い払ってくれるのだそうだ。生姜のようなスパイシーな香りで、火照りと涼が入れ替わる夏の夕暮れにぴったりのそのお香を、今では美子もすっかり気に入っていた。
 白い玉砂利が敷かれている上社の境内の中でも、その白いテーブルがある付近を、天満宮では『外庭』と呼んでいた。美子は、外庭の桜の木の下で、月桃の香りに包まれながら、宿題をしたり、パソコンでネットやテレビ放送を見たり、うす桃色に暮れていく夏の空を眺めたり、そういう時間をこよなく愛していた。そして、美子がその時間の、その場所を気に入っているひそかな理由が、もう一つ、ある。
 そうして外庭にいると、三日にいっぺんくらいは龍一に会えるのだ。龍一は午後一番に起きるようだが、偶数日に宮司舎から出てくることはほとんどない。午後いっぱいは色々な書物を読んだり書きものをしているようで、夕方からはたいてい霊視の来客がある。来客が終わったあとは築山の運ぶ夕食を宮司舎で食べ、夜が更けると本殿へ行き、そのまま明け方まで籠もりきりになってしまう。反対に、奇数日は、外へ出かけることが多いようだった。そして日没ころに戻って来る。装束姿のときもあるし、スーツ姿のときもある。上社に帰って来たとき、外庭に美子がいるのを見ると、龍一は立ちどまって話しかけてくれるのだ。美子は、それを待っているのを気どられぬよう、毎日の日課のように外庭にいるのだった。
 今日は偶数日で、来客の日だ。先ほど築山がいつものように境内下の朱の扉を開けにいき、石段を上って霊視客を宮司舎に案内するのを見た。たぶん今日は龍一に会えないだろう。しかし美子はそれに関係ないというふりをして、やっぱり夕方から外に出ている。近ごろでは築山も心得て、美子がベンチに座る前に月桃を焚いてくれているのだった。
 美子はテーブルに積み上げた本を睨み、おもむろに一番上の本を開いて読み始めた。『大日本帝国陸軍第二師団』という、いかめしい名前の本である。
 美子が今からとりかかろうとしているのは日本史の宿題で、基本テーマを『二〇世紀の日本における戦争の意味』とした八千字程度の論文を書かなくてはいけないことになっている。
 大日本帝国陸軍第二師団は太平洋戦争終結時まで、ここ仙台を拠点に置かれていた。一般に仙台は『杜の都』と言われているが、戦前は『軍都・仙台』でもあったのである。すぐ近くの躑躅岡公園が実は、大日本帝国陸軍第二師団歩兵第四連隊の駐屯地だった、ということを知って、美子は日本史の論文テーマを『軍都・仙台』にすることに決め、市民図書館からこれに関する資料を借りてきたのだった。
 『大日本帝国陸軍第二師団』は、年表がほぼ半分を占める無味乾燥な本であったが、美子は強いて目を通し、パソコン上でメモをとった。それでも一時間もすると頭痛がしてきた。
 顔を上げると、ちぎった綿菓子のような雲と、はかなげな三日月が、うす紫の夕空を透かして浮かんでいる。風が出てきて西の竹林がざわざわと鳴り、一瞬、雨が降ってきたかと思うような音をたてた。目の前の桜の黒い木の枝には、ふーちゃんが寝そべって金色の太い尻尾をゆらゆらと揺らしているので、まるでそれが空に何かを描こうとしている筆のようにみえた。
 美子は、ぱたんと本を閉じた。こんな美しい夏の夕暮れに、大日本帝国陸軍第二師団所属歩兵第四連隊の戦前戦中に関する年表整理などできるだろうか? 美子は二十行ほど書いた自分のメモをパソコン上で確認すると、
(とりあえず、今日はここまでやったわ……)
と自分で自分を納得させて、その画面を閉じた。あとにはスクリーンセーバーとして使っている風景が画面全体に広がる。今使っているのは中国風の庭園風景で、池の上には満開の蓮の花と緑の葉がいっぱいに生い茂り、大きな月が空に浮かんで辺りに煌煌と白い光を放っているというものだ。ときおり風が吹いて蓮や池の水を揺らす。暦と連動しているので今はちゃんと本物の月と同じ三日月の形をしている。ただし現実と違って空はいつも夜空だし月の位置も変わらない。このスクリーンセーバーにしてから美子は、今日の月の形は何だろう、と気にするようになった。現実の月はパソコンのものよりもずっと小さく、控え目だ。しかしやはり本物のほうがきれいだ、と美子は思った。
 宮司舎の玄関が開いて年配の男性客が出てきた。今日の客はどこかの神社の神主のようで、龍一が着ているのと同じような装束姿である。簡単な白衣の下に茶色っぽい袴をつけている。神主が出てきたのに気づいて築山が案内のため庭師小屋から姿を現し、声をかけた。
「桧田(ひわだ)様。ご苦労さまでございます。下までご案内いたします」
 桧田は、どうみても『びっくり仰天』といった表情のまま、築山にうなずいた。手には和紙をしっかりと握りしめている。美子のそばを通りすぎる時、桧田の、
「やれやれ。聞きしに勝る……。まったく驚きもうした。やれやれ」
という独り言が聞こえて、それがその表情とあまりに一致しているので、美子は危うく噴き出すところであった。
 築山が桧田を下まで送って帰って来ると、意外にも宮司舎の東側の縁側の簾の間から、龍一が出てきた。龍一も装束姿だったが、こちらは白衣に桔梗色の袴である。
 美子はびっくりして龍一を見た。龍一は、美子にちょっと微笑んでみせたあと縁側を下り、築山を手招きして、境内のずっと北東のはずれ、本殿のわき辺りにまで連れていって、小さな声で話をし始めた。どうも話の内容を美子に聞かせたくないようである。美子はちょっとむっとした。
 桜の木の上にいたふーちゃんがテーブルの上に飛び降りて大きな耳をぴんと立てた。すると不思議なことに、龍一と築山の話し声が美子の耳にも切れ切れだが届くようになった。
 築山の声が漂ってくる。
「……沢見様はどのようなご用事で……」
 龍一が答える。
「……直接的には出羽の報告だ……淵(ふち)の件も若干気になるところがあるらしい……」
「……いつころでしょうか。今宵は三日月ですが……」
 龍一が軽く笑った。
「お前がそんなことを気にする必要はない……しかし着くのは真夜中すぎになるだろう。出羽から回ってくるらしいから……」
「では、お食事の用意はいつもどおりにいたします……それから今夜は私がこのまま泊りますので……」
「いや、その必要はない、お前は秋田に帰るんだろう? 大丈夫だ、狐を呼んである。美子には私から言おう」
 最後の言葉は、美子にとって聞き捨てならないものだった。近ごろ龍一は泊まりで外出することも多いのだが、夜中に美子だけが天満宮にいることを避けるためか、築山がいないときは必ず孝勝寺内の稲荷神社の使い狐を留守番役として呼ぶのである。
 龍一は、築山との話を終えて宮司舎のほうへゆっくりと戻って来ると、美子が座っているところで立ちどまった。
「やあ、美子。宿題かい? 大変だね」
 五、六冊の本が積み上げられているのに目をやって、龍一は機嫌よさげに言った。美子はふくれっつらをしながら答えた。
「龍一。また狐を呼んだの?」
 龍一は驚いたように美子を見た。
「私の声が聞こえたのか? ……ずいぶん地獄耳だね」
 そう言いながら、するどくふーちゃんのほうを見やった。ふーちゃんは、また桜の木の枝の上に戻って月を見上げているようなポーズをとっていた。しかし龍一はすぐに笑って、美子の向かいのベンチに腰をかけた。
「実は夜中に急に出かけることになってね。美子も一人でここにいるよりは、狐でもいたほうが安心だろう?」
「だって天満宮は龍一がつくった結界でちゃんと護られているんでしょう? それは龍一がここにいなくったって間違いないものだから、泥棒だって誰だって入りこむことはできないって言っていたじゃない」
 龍一は、なだめるような口調になって言った。
「もちろん結界は私がいなくても機能するけれどね。しかし万が一ということもある。私は君のお父さんから君のことを頼まれたんだから、やはり夜に一人きりにしておくことはできないよ。私がここいれば何かあったときでもすぐに対処できるのだが。だから狐に見はりを頼んでいくんだよ。美子も狐とは仲がいいじゃないか」
 美子は、つんとして横を向いた。
「狐と仲がいいことなんて、ないわ」
 龍一は、いつものおかしそうな笑みを浮かべながら、
「おや、そうかい」
とだけ言った。そこに築山が、グラスに赤い飲み物を持ってきて、龍一と美子の前に置いた。龍一がグラスをのぞきこんだ。
「なんだい、これは?」
 築山は、にこにこして答えた。
「赤シソ茶です。新陳代謝をうながす暑気払いにぴったりの飲み物ですよ」
 美子が飲んでみると、少し酸味のあるさわやかな味で、飲みやすかった。龍一は、からからとグラスを回して氷を鳴らしたあと、赤いそのお茶を一口飲んだ。築山が訊ねる。
「いかがですか?」
「うん。美味しいよ」
「さようですか。ようございました。それには食欲を増進する作用もありますから、今夜はよくお食べになれるでしょう」
 そう言って築山は夕食の準備の続きにとりかかるため庭師小屋へ戻っていった。
 龍一は、
「やれやれ」
とつぶやくと、桜の木の向こうの竹林がざわめく様を眺めた。龍一がすぐに宮司舎に入らないのを見こんで、美子は話しかけてみた。
「……沢見さんって、北上の守護家の人でしょ? その人が、今夜ここに来るの?」
 龍一は、ゆっくりと美子を振り返った。
「沢見だって……? そんなところまで聞いていたのか。……まあ、そうだよ。沢見の当主が今夜来ることになっている。私はその沢見と一緒に北上へ発つことになっているんだ。明日の夕方までには戻るよ」
「沢見さんは出羽からいらっしゃるって? 出羽の守護者は蜂谷さんっていう人でしょ? その人も一緒に来るの? あたしも会ってお二人に挨拶してもいい?」
 龍一はそれを聞いて、明らかに困惑したような表情になった。そして横を向くと、ちょっとそっけなく答えた。
「蜂谷は来ないよ。沢見も何時に来るか分からない。おそらく相当遅くなるだろう。沢見が着いたら、すぐに出発するからね」
 暗に、美子は沢見に会う必要はない、と言っているのだ。美子はうなだれてパソコンのスクリーンセーバーの揺れる蓮の花を見つめた。龍一は眉をひそめて美子を見やると、指でまぶたの上から自分の目を強く押したあと、シソ茶をもう一口飲んで、美子にふたたび話しかけた。
「昨日の晩に出た佃煮は、美子が京都の土産に買ってきてくれたものだったんだって? 山椒がきいていて美味しかったよ」
 美子は少し顔を上げた。
「そう? でもあれは可南子さんが買ってくれたものなのよ」
「そうか。でも、きっと美子が気に入った様子だったから、買ってくれたんじゃないのか」
「うん。そうね……」
 ここで美子は、くすっと思い出し笑いをした。龍一も、ちょっと笑って訊いた。
「どうした?」
 美子は笑いながら、龍一の顔を見て言った。
「あのね、あの山椒が入った佃煮を食べて、圭吾君は、『胡椒が入っているのかと思った』って言ったのよ」
「ははは。そうか。圭吾の口には京料理はあんまり合わなかったかな」
「そうねえ。白味噌仕立ての味噌汁も、気に入ってなかったみたい」
「うん。あれは、こちらで考えるところの味噌とはまったくの別ものだからね。まあ、一種のスープだと思ったほうがいいかもな」
「でも、あたしは美味しいと思ったわ」
「よかったな。京都は楽しめたようだね」
「うん。大人になったら、また京都に行くって、可南子さんと約束したの。香水をつくりにいくのよ」
 龍一は眉を上げた。
「香水だって?」
「そう。可南子さんがいつもつけている香水は、京都のお店で特別に作ってもらっているオリジナルなんだって。その店に可南子さんの知り合いの調香師、つまり香水をつくる人がいて、その人を紹介してもらうことになっているの。でもオリジナルの香水を作ってもらうには、必ずその人と直接会わないといけないの。だから京都に行かないと、作ってもらえないのよ。あたしは、去年可南子さんからその店の香水をもらって、すごく気に入ってるし、可南子さんがつけている香水も、とっても素敵だから、オリジナルを作ってもらうのを楽しみにしてるのよ」
「ああ、可南子がつけているやつか……」
 龍一は、ちらっと宙に目を上げて可南子の香水の匂いを思い出しているふうだったが、すぐに美子に向き直って、
「美子もたまに香水をつけているね。あの匂いは私も好きだよ」
と言った。美子は嬉しくて顔を赤らめた。
「二つ違うものを交互につけているようだけど、少し甘いような香りのほうは、なんていう名前なんだ?」
 美子は驚きながら答えた。
「それは『青竜』だと思うわ。もう一つは『玄武』っていうの」
「ああ、四神の名をつけたのか。じゃあ、あと二つあるんだね」
「『朱雀』と『白虎』ももらったけど、それは友達にあげたの」
「そうか」
 龍一は、にこりとした。龍一が目を細めたとき、夏の日がその面にさあっと最後の光を投げかけて、まつ毛の影を長くつくった。美子は胸がずきりとするのを感じた。何故この人の笑顔を見ると、こんなにも息がつまるように苦しくなるのだろう、と思った。それで、龍一から視線をそらすように桜の木の上にいるふーちゃんに目をやったあと、鳥居の向こう側の石段の下に広がる躑躅岡の景色を眺めた。龍一は、また竹林が鳴る音にじっと耳を澄ませているようだった。
 美子は、眼下の天満宮下社の様子にぼんやりと視線を這わせていたが、ふと気づいて、龍一のほうを見た。
「そういえば龍一に訊きたいことがあるの」
 龍一は、すぐに振り返った。
「なんだい?」
「京都の清水寺の入口にも、うちと同じような狛犬が二匹いたんだけど、どっちも大きく口を開いていたの。狛犬は、片方が阿像で口を開いていて、もう片方は吽像で口を閉じているのが正しいんじゃないの? だから本当は向かって右側の狛犬は、口を閉じていなきゃいけないんじゃないかしら?」
 それを聞いて、龍一は嬉しそうに笑った。
「それに美子が気づいたとは、たいしたもんだ」
「じゃあ、やっぱり清水寺のは間違い?」
「いや、間違いなんかじゃない。あれはあれでいいんだよ。何故なら清水寺の入り口にいるのはどちらも獅子だからね」
 美子は、きょとんとした。
「獅子?」
「日本の狛犬というのは、もともとは中国の獅子像が起源なんだ。獅子の特徴としてはまず、頭髪がくるくるとカールし、わきから炎が出ていることだね」
「髪の毛がカールしているの?」
 美子は、ちょっと笑った。龍一もくすりと笑った。
「そう。この巻き毛があるというのが神獣には結構多いんだよ。獅子の足のつけ根にある炎も渦を巻いたように表現されることが多いから、巻き毛の一種とも考えられる。東洋人の髪は直毛だし、自然界の動物にも巻き毛というのは少ないから、希少価値への憧れという意味合いで巻き毛が尊ばれたのかも知れないな。
そして獅子像が作られる場合は『獅子吼』という言葉もあるように、もともとは口を大きく開けて咆哮している姿をしていて、左右で口の形が異なるということはなかった。阿吽像は日本で多く見られる特徴なんだ。
 今、日本では左右の像をまとめて『狛犬』と呼んでしまっているけれど、それは間違いで、本来は二つは別ものなんだよ。たいがいは阿像が獅子で吽像が狛犬ということになっている」
「あ、そうだったの」
 美子は目を丸くした。龍一はにっこり笑ってうなずいた。そこへ築山が庭師小屋から出て来て、龍一に訊ねた。
「龍一様。ご夕食の準備ができましたが、もう宮司舎にお持ちしますか」
 龍一は、ちょっと美子のほうを見てから言った。
「……そうだな。久しぶりに外で食べようか。美子はどうする? 一緒にここで食べるかい?」
 美子はあまり自分の表情が変わらないように気をつけながら、短く答えた。
「うん、いいよ」
「築山。美子の分もここに持ってきてくれ」
 築山は、ちょっと目をはったが、すぐに、
「かしこまりました」
と言って小屋に戻ると、すぐに二人分の食事を運んできた。戻ったときには、いつもの笑顔になっていた。
「さあお二人とも。今日は広東風の中華料理にいたしました。たくさん食べて、精をつけてください」
 龍一と美子の前にスープがなみなみと入った碗が一つずつ、そのほかに大きな皿に盛られた海老チリソース煮、フカヒレの姿煮こみ、レタス入りチャーハンが並び、その横にとり皿が何枚か積み上げられた。
 龍一が疑わしそうに濃い茶色のスープを見つめている間に、築山は料理をどんどん皿に分けて、二人の前に置くと、宣言するように言った。
「さ、とり分けられた分は最低限、必ず食べていただきます」
 この言葉は主に龍一に向けられていた。そうして美子のほうを見てつけ加える。
「お代わりはまだありますからね」
「いただきます!」
 美子はさっそく海老チリやチャーハンにとりかかった。龍一も別段異議をはさむわけでもなくレンゲでスープをすくって飲む。雲呑(わんたん)入りの数種のキノコのスープだった。築山は冷たいジャスミンティーを二人に注いで渡しながら、心配そうに龍一に訊いた。
「お味はどうでしょうか? うす味にいたしましたが」
 龍一は、にこりとして築山に答えた。
「とても美味しいよ。ありがとう」
 築山はほっとしたように息をつき、
「それではごゆっくり」
と言って庭師小屋に戻っていった。
 美子は行儀が悪いと思ったが、食べながら龍一に話しかけた。これまでの経験から、龍一がいつ宮司舎にふっと戻るか分からないと思ったからである。龍一は築山が去ったあと、陶器の小さな茶杯でジャスミンティーを飲みながら、思いついたように皿のものをつまんでいた。じっと西の空に浮かぶ月を眺めているようだったが、実のところそれは、ふーちゃんの背中を見ていたのかも知れない。
「それじゃあ清水寺の狛犬は、どちらも狛犬じゃなくて、二匹とも獅子なのね」
 龍一は、気がついたように美子の顔を見た。
「うん? ああ、そうだ。清水寺の獅子像というのは、奈良の東大寺の南大門に置かれているものを模したものだそうだ。東大寺というのは、美子も聞いたことがあるだろう? 『奈良の大仏』があるお寺だよ。東大寺の獅子像は、鎌倉時代に中国の石工が、中国から石材を持ちこんで造ったもので、これは完全に中国式の獅子だ。だから、これを模した清水寺のものも、やはり中国式に阿阿の獅子像になっているんだろうね。中国獅子は仏教とのつながりが深いので寺にあることが多いんだ。
 ところで美子。狛犬と獅子の違いは、何か分かるかい?」
 龍一は、いたずらっぽい表情になって美子に訊いた。美子は雲呑をつるりと飲みこんだ。濃厚なスープを吸った生地が美味しくて何個でも食べられそうだ。
「違いって……、だから口を開けているほうが獅子で、閉じているほうが狛犬なんでしょ?」
「実はそうでもないんだ。細かい違いはいくつも上げられるけれど、一番大きな違いは、狛犬には角が一本生えているということなんだよ」
「角が?」
 美子は、フカヒレのお代わりをしようと伸ばした手を思わずとめて、頭の中で躑躅岡天満宮の狛犬の姿を思い浮かべようとした。天満宮には二ヶ所に狛犬がいる。一ヶ所は、天満宮に入る一番初めの石段の下にある大きくて白い狛犬。もう一ヶ所は、下社の拝殿の四足門前にある小さくて黒っぽい狛犬だ。
「あ、そう言えば、下社の門の前にある狛犬には角があるね!」
 美子は大声を上げた。
「そのとおり。つまり下社の拝殿前にあるものは二つとも狛犬だ。一方、石段下のものは実はどちらも獅子なんだ。どちらも阿吽像に分かれているけれどね。だから口を開いていれば獅子で口を閉じていれば狛犬というわけでもないんだ」
「そうなんだ」
「ところでこの狛犬だが、角まで生えているのに犬というのも、そもそも変な話じゃないかい?」
「うん」
「狛犬というのは、いわゆる『犬』とはまったく別なもので、しかも『獅子』とも違う。その起源はインドにいるといわれた一角獣で、その動物が中国に伝わって『兕、(じ)』や『澥豸(かいち)』という神獣になったんだ。澥豸は人の曲直正邪を知り、公明正大な世に現れるとされている。これが日本に伝わり狛犬と呼ばれるようになったのさ。
 日本では当初、獅子と狛犬は、天皇や皇后の御帳台の前に据えられていた。つまり彼らは、王の居場所を示すと同時に、玉座を護る役目をもつ守護獣なんだ。それが、だんだんと神社にも置かれるようになったんだよ」
 美子は、おさらいのつもりで言った。
「つまり、王様や神様がここにいるっていう証が、獅子と狛犬なのね。そして普通、日本では向かって左側には口を開けた阿像を、右側には口を閉じた吽像をおく。でも清水寺のは、中国式だから阿阿像になっていて、これには角がないから、獅子だと分かるってわけね」
 ところが龍一は、人差し指でとんとんと唇を叩きながら、
「うーん」
とうなった。
「なあに? 何かあたし間違っていた?」
「間違ってはいないんだが……。美子は、うちのと清水寺以外の狛犬や獅子を見たことがあるのかい?」
「え? どうかしら。あんまりよく覚えていないわ。眞玉神社にはいなかったようだし……。どうして?」
「今、美子は、向かって左側に阿像、右側に吽像と言ったが、それは、うちのものを見て、言っているんだろう」
「そうだけど、どこでもそれは同じじゃないの?」
 龍一は、面白そうに笑みを浮かべた。
「ところが、たいていの神社では、向かって右側に阿像、左側に吽像を置いているんだ。つまりは、うちと逆だね」
「えっ。そうなの。どうして?」
「陰陽五行説によれば、阿は陽に属し方向でいうと右手、吽は陰であり左となる。だから、右に阿像を置き、左に吽像を置くべきなんだ」
「じゃあ、うちのはどうして反対になっているの?」
「右、左というのは、相対的な観念じゃないかい? たとえば、私の右手は、美子の左手だ」
 そう言って龍一は、自分の箸をひょいと美子に向けた。美子は、はっとした。
「そうすると、躑躅岡天満宮では、内側から見て、右に阿像を、左に吽像を置いているっていうわけなの!」
 龍一は、にこっとした。
「そのとおり。右、左という方向を、誰の目からみるか、という違いさ。天満宮ではそれを、本殿からみるものとしているだけなんだ」
 美子は、ちょっと興奮して言った。
「じゃあ、京都の町の、西側が右京で、東側が左京というのと、同じことなのね。京都は、天皇の御所から見て、右、左を考えたっていうのと」
「そうだ。よく知っているね」
「まあね……」
 美子は、心の中でアカネに感謝した。
「ところで美子は、雛人形というのは、飾ったことがあるかな?」
 龍一が突然こんなことを訊いてきたので、美子はきょとんとした。
「雛人形? うーん。一応、上木家に代々伝わるという古いものが、涌谷の家にはあったの。でもそれをちゃんと出していたのは幼稚園くらいまでで、あとはお父さんも面倒がって倉にしまいっぱなしだったわ。だって、すごく大きいんだもの。小学生からは、デパートで買ってきた男雛と女雛だけの簡単なものを飾っていたわね」
「じゃあ、その男雛と女雛は、それぞれ右と左のどちらに置いていた?」
 美子はこのときばかりは即答した。
「向かって右に男雛で、左に女雛よ。お父さんがそう、教えてくれたの」
 龍一は、目を細めた。
「なるほど。それでは上木家では京都式だったんだね」
「違う置き方もあるの?」
「内裏雛というのは、もちろん、本物の天皇と皇后の内裏での並び方を模しているんだ。中国や日本では古くから、左のほうが右よりも上座とされてきた。だから、天皇は左側に、皇后はその右側にいるというのが本来だったんだよ。しかし、明治維新後の西洋化に伴って、天皇もヨーロッパ式に右を上座とするようになったんだ。だから近年では向かって左に男雛、右に女雛という並びになっている。しかし、京都を含む近畿地方では古式にのっとって、今でも昔ながらの置き方をしているところが多いんだ。……とはいえ、もし今後、皇室典範が改正されて、女性の天皇も誕生するようになったら、どうなるかな? その時々の天皇の性別によって、置き方を変えなければならなくなるかもね」
 そう、龍一は面白そうに笑ったあとで続けた。
「まあともかく、雛人形を全部飾ってみると、右、左の本来の考え方が分かるんだ。左大臣は向かって右側に置き、右大臣は向かって左側に置く。桜は向かって右に、橘は向かって左に置くのは、今でも京都御所にある『左近の桜』、『右近の橘』が実際にそう植えられているからだよ」
「へえ……」
 美子はすっかり感心してため息をついた。
「何にでも、ちゃんとした理由ってあるのねえ」
「そうだね。家の中だけで飾るのだから、どうでもいいといえばそれまでだけれど、そのどうでもいいようなところを省いたり無視してしまうと、面白くなくなってしまうからね。生存には不必要と思われる無駄なところにこだわるというのが、文化ってものだろう」
「ほんとね。それに、そうした理由を知ると、雛人形を飾るのも面倒じゃなくなるかもね」
 龍一はそれを聞いて、うつむき自分の握った手を見た。美子はそれに気づかず、なんとなしに京都旅行のことを思い出していた。
 井戸、伏流水、可南子、そして母のゆかりの地である雲ケ畑。
(まあ、後半はちょっと大変だったけど……)
 そこでちらりと向かいを見やったが、龍一はぼんやりとすっかりぬるくなって三分の一ほどになった赤シソ茶のグラスをながめているようだった。
「でも、やっぱり楽しかったなあ」
 はっとしたように上げた龍一の顔がひどくこわばっていたので、逆に美子のほうが驚いた。
「あ、ごめんなさい。京都の修学旅行のことよ」
「京都……? そうか」
 龍一はすぐにいつもの笑顔になった。グラスをテーブルのはしに追いやり、ジャスミンティーの茶杯を手にとる。
「京都では、圭吾とも遊んで面白かっただろう? 待ち合わせは、『ナインスターズ』と聞いたけれど、あそこの場所はすぐに分かったかい?」
 美子は、えへへと笑った。
「ところが、全然分からなくて、結局、圭吾君に迎えに来てもらったの」
 龍一も、にっこりした。
「やはり、な」
「龍一も、あそこに行ったことがあるんでしょ?」
「ああ。可南子と待ち合わせをするのに、何回か行ったことがあるよ」
「やっぱり最初は迷った?」
「いや。最初は『花泉』という店に行ったら、可南子はもうすぐ来るだろうから、近くの『ナインスターズ』という喫茶店で待っているといいと教えられてね。可南子の妹分という舞妓の女の子に連れて行ってもらったんだよ。だから、迷うということはなかったな」
 美子は思わず身をのり出した。
「その舞妓さんって、こと乃さんっていう人?」
 龍一は、ちょっと驚いたように美子を見た。
「こと乃? ああ、そういえば、そんな妓名だった気がするね。知っているのかい?」
 美子はむっつりとうなずいた。
「ナインスターズの待ち合わせに可南子さんと一緒に来たの。アカネの……学校の友達の課題を、こと乃さんに手伝ってもらったのよ」
 龍一は、ぱっと顔を明るませた。
「そうだったのか。じゃあ、ずいぶん世話になったんだな。今度会ったら私からもお礼を言っておこう」
 美子は上目づかいで龍一を見た。
「今度って……、また、京都に行くの? いつ?」
「いや、今のところ特に行く予定はないけれどね」
 龍一は美子の不機嫌な口調を感じとっていぶかしげな表情になった。そこへ築山が果物を運んできた。
「さあ、デザートはいかがですか」
 美子は思わず目を引きつけられて前に置かれた皿をのぞきこんだ。まったく見たこともない果物だった。輪切りにされたそれは、真っ赤な果肉にたくさんの小さい黒い種が入っていて、ピンクと緑色をした皮の部分には、鳥の羽みたいなひらひらした飾りがついている。築山はびっくりしたような様子の美子を見て楽しげに説明した。
「これは、ドラゴンフルーツという果物ですよ、美子様は初めてご覧になりますか?」
「はい」
「種も食べられます。スプーンですくってどうぞ。甘くて美味しいですよ」
 そう言って築山は赤シソ茶のグラスや食べ終わった皿を片づけ、二人にジャスミンティーを注ぎ足して行こうとしたが、ちょっと立ちどまって美子にこうつけ加えてから去っていった。
「あ、そうそう、美子様。狐用の揚げは、宿舎の冷蔵庫に入れておきましたから」
 美子は、今夜狐がやってくることを思い出してため息をついたが、気をとり直して一口ドラゴンフルーツをすくって食べ、思わず声を上げた。
「ほんとだ、甘酸っぱくて美味しい!」
 龍一は、それを見て嬉しそうだった。
「女の子って本当に甘いものが好きなんだな。そういえば、こと乃って子もナインスターズで甘いものが食べたいと言って頼んでいたな」
 美子の手がとまった。
「ナインスターズで、こと乃さんと、何か食べたの?」
「私はお茶だけをもらったけれど、彼女は何か注文していたようだったね。アイスクリームか何かじゃなかったかな」
「そこで恋愛占いもしたの?」
 そう言うと、龍一は驚いたように目をみはったが、やがて楽しそうに笑った。
「よく知っているね。可南子に聞いたのか? 可南子を待っている間に、その、こと乃という子が退屈そうにしていたので、ちょっとみてあげたんだ。というのは、その子が祇園の決まりや何かについて色々教えてくれたのでね。今度来たときには屋形の『おかあさん』という人にきちんと挨拶したほうが可南子のためになるとか、花街が忙しい時期などについてだよ。確か美子と同じような年だったけれど、やっぱりずいぶんしっかりしているね。みてあげたというのはね、実は占いなんてものじゃないんだ。その子の心をちょっとのぞいて、もっている希望や願いなんかを少し言ってみただけなんだよ」
 美子は息を呑んだ。
「心を? 龍一は、人の心の中が分かるの?」
 龍一は、いたずらっぽく片目をつむった。
「こうして普通に向かい合っているだけでは、さすがに無理だけれど、たとえば竜泉をとおしたり、あるいは相手の体のどこかに手をふれて集中すれば、何となくは分かるよ。京都では竜泉はないから、相手の手にふれさせてもらって、みたんだ」
「手を?」
「ああ。まあ、みたといってもごく表面的なものだけだよ。でもずいぶん喜んでいたね。女の子っていうのはそんなちょっと不思議なことや変わったことがとても好きみたいだからね。しかしそうしたらそのあと、私が占いをやるということが祇園中に広まってしまって閉口したが……」
 龍一はそう説明したが、美子がうつむいて黙々と果物を口に運んでいる様子を見て、ちょっと首をかしげた。それで、言った。
「美子も興味があるならやってあげようか? 私は身近な者はみないことにしているのだけれど、どうしてもというなら……」
 すると美子は、突然、勢いよく立ち上がった。
「あたしは、そんなの、やってほしくなんか、ないわ、ぜったいに!」
 そうして、唖然として美子を見上げている龍一を尻目に、自分のパソコンやら本やらをまとめてわきに抱えると、
「ごちそうさま!」
言い捨ててどんどんと大股で歩き、宿舎のガラス戸をがらがらと音をたてて開け、ふーちゃんがぴょんと飛び上がって入ったのと同時にぴしゃんと閉めた。そしてすぐに、さっと障子までもが閉められた。
 龍一は、しばらく宿舎のほうを見やっていたが、やがて首を横に振った。
「分からないな……」
 空を見上げると、すっかり日が落ちて細い月だけがぽつんとあった。思わずため息がもれる。
「祥蔵。なかなか大変だよ」
 そして立ち上がり、ゆっくりと宮司舎へと戻った。
                         ◎◎
 宿舎のリビングの椅子に座って、美子は今まさに自己嫌悪の嵐のただ中にいた。
(どうして、せっかくの龍一との時間を自分からぶち壊しにするようなことをしたの?)
 もう一人の美子が答えた。
(だって、龍一が、こと乃さんとのことを嬉しそうに話をするからよ)
(それがなんだっていうのよ? 龍一はあたしに訊かれたことに答えただけじゃない)
(違うわ、あの占いのことよ)
(占い?)
(そうよ。龍一が、こと乃さんの手をとって、彼女の心をよんだって言ったことよ。きっとそのとき龍一は、こと乃さんの手を強く握りながら、じっと目を見て、そうして深い静かな声で語りかけるようにして……)
(やめてよ!)
(あんたは、こと乃さんに嫉妬しているのよ。それで龍一にも八つあたりしているだけなんじゃない)
「うるさいわね!」
「なんですか、美子様。私らはまだ一言も話しかけていやしませんよ」
 背後から声が聞こえて、美子は飛び上がるようにして振り返った。孝勝寺の狐が四匹、にんまりと笑いかけていた。美子は、がっくりした。
「なんだ、あんたたち。もう来たの……」
 大きな二匹の白狐のうち、リーダー格の一匹が、ひょいと椅子の上に座った。
「もう、ってことはないじゃないですか。私らはここのご当主様から、直々にご依頼を受けて、美子様のおもり……、いや違った、護りとして参っているのですからね」
 美子は、ため息をついて、またくるりと後ろを向いた。
「分かった、分かった。いっつも、ご苦労さん」
 そうして築山の言葉を思い出し台所を指さす。
「あんたたちの油揚げは、冷蔵庫の中よ」
 小さい二匹の白狐が、嬉しげな叫び声を上げて台所の中へ一目散に駆けていった。リーダー狐が威厳を保つように、その後ろから声をかけた。
「こら、お前たち。慌ててがっつくんじゃない」
 すると、もう一匹の大白狐がくるりと宙返りをして、人間の姿に化けた。この白狐は化けるのが得意のようで、美子のところに来るときは、いつも色々な姿に化けてみせるのだった。今夜は、紫と黄の派手な着物をまとった、おかっぱの童子姿だった。
 童子狐は澄ましてとことこと部屋を横ぎり、冷蔵庫の前に群がっている小白狐を蹴散らしながら台所の戸棚をがたぴしゃさせた。そうして皿をつかみ出すと、冷蔵庫の扉を開け、中から四枚の大きな三角形の油揚げをとり出し、二枚を指でつまんで皿にのせ床に置く。二匹の小白狐がすぐに寄ってきて、喉を鳴らして食べ始めた。
 童子狐は残りの油揚げを皿に乗せてリビングに戻ると、椅子に上り素手で油揚げにかぶりついた。それを見届るとリーダー狐は、自分の皿に向けてあんぐりと大きく口を開け、ぱくりと一口で揚げを飲みこんだ。そしてぺろりと真っ赤な舌で口の周りを舐め満足げなため息をついた。
「やはり定義山(じょうぎさん)のお揚げは美味しいですねえ。ただ欲をいえば、食べる前にちょっと軽く揚げ直していただくとなおよろしいのですが……」
 そう言って、ちらりと美子のほうを見たが、美子はそれを無視した。部屋の隅に寝そべっていた、ふーちゃんがあくびをした。リーダー狐は言った。
「あの霊孤様は、ほんとに何もお食べにならないのですか? 油揚げすらも?」
 美子は、狐に背を向けテーブルに頬杖を突いたままの姿勢で答えた。
「そうよ。なんにも。あんたたちみたいに、がつがつしていないの」
 狐は美子の言い方に特に腹をたてる様子もなく、あくまで上機嫌な口調だった。
「そりゃ、お気の毒に。こんなに美味しいものを知らずにおられるなんてねえ」
 美子は思いついて狐のほうを振り返った。
「ね、あんたたちと、ふーちゃんは、種類が違うの?」
 白狐は、ぴくぴくと針金のような真っ直ぐなひげを震わせた。
「種類と言われましてもね。私どもは、何々目、何々科、なんて分類されているわけじゃ、ございませんからね。たとえば、龍一様と美子様は、種類が違うんでしょうか?」
 逆に訊かれて、美子は目をぱちぱちさせた。
「種類? さあ……」
 狐はますます、ふんぞり返った。
「そら、お答えになれないじゃありませんか。違うといえば違う、違わないといえば違わないということですよ。龍一様はあんまりお食べにならない、美子様は牛のようにお食べになる……」
 美子は抗議した。
「牛ってひどいじゃない。それほどじゃないわ」
 狐はにやりと笑った。真っ赤な口の中が深々とあらわになった。
「そうですかねえ。さっきだってあんなにつんけんしながらも、すごい食べっぷり」
「あんたたち、見てたの?」
 美子は、ぎょっとした。リーダー狐は向かいの童子狐と顔を見合わせ、こっくりとした。
「一から十まで拝見しておりましたよ。お二人の邪魔をしちゃ申しわけないと思いましたのでね。……しかし、龍一様もおかわいそうに。美子様のご機嫌を必死におとりになって。土居家のご当主様ともあろうお方がねえ」
 美子はぐっと言葉につまった。
「なあ、お前も見ていたよな」
 白狐の問いに、童子狐はうなずきごくりと油揚げを呑みこむと、甲高い子供の声で答えた。
「見た、見た。龍一様は、ご自分の貴重な時間を割いて美子様のお相手をしていたのに、結局その努力も水の泡。がっかりしてお部屋に帰っていかれたよ」
 美子は力なくうなだれた。リーダー狐は慰めるつもりなのか白く太い尻尾でぽんぽんと美子の背中を叩いた。
「まあ、美子様のお気持ちも分からないじゃありません。手の届かないものに憧れるのはおつらいでしょう」
 美子は口をパクパクして狐を見たが、言葉が出てこなかった。童子狐が椅子の上でぴょんぴょんと飛び跳ねながら歌うように言った。
「美子様、元気を出して! おいらたちがいるじゃないか。たとえ今夜が三日月だったとしても!」
 美子は聞きとがめた。
「三日月? 今夜が三日月だったらどうだっていうの」
 童子はきょとんとして棒立ちになった。向かいの白狐が落ち着いた声で言った。
「三日月? 私らは三日月のことなんて、少しも言っちゃ、いませんよ。あなたの聞き違いじゃ、ありませんか」
 美子はむっとして童子を指さしながら、狐に言い返した。
「違うわ。確かに今、三日月って言ったわよ」
 白狐は、大きく口を開け閉めしてかちかちと歯を鳴らした。
「言ってません! 美子様。あなたは、ちょっといらいらなさっておいでですね。私どもが言っているのはこうです。あなたは、月みたいに、遠くの、手の届かないものを、欲しがっておられる。幼いころならそれもいいでしょう。童子が大人に、あの月をとってきてと、ねだるみたいね。しかしいつまでもそうであるのは、いかがなものでしょうか? 周りの者も困るし、あなたご自身もつらい思いばかりされる」
 美子は下を向き、小さな声で言った。
「あたしが龍一を好きなのは、月を欲しがるみたいなものだというの?」
 狐はきっぱりと言った。
「はっきりいえばそのとおりです。考えてもごらんなさい。あちらは守護主、あなたは守護家。一文字違いですが、その差は天と地ほどもあるのですよ。それにそうでないとしても、こういっちゃなんですが、あなた様と龍一様ではつり合いが全然とれないじゃ、ありませんか」
 狐は、ずけずけと言ったが、美子は何も反論できなかった。自分でも心の中でそのとおりだと思っていたからである。白狐はくるくると自分の尻尾を振り回した。
「美子様。悪いことは申しません。龍一様のことは早くおあきらめになることです。あの方は、けして、誰のものにもなりませんよ。ご自分でそうお決めになっているのです」
 美子は顔を上げた。
「誰のものにも?」
 童子狐が嬉しそうに手を叩いた。
「分かった! おいら、分かっちゃった。美子様にぴったりな人を。圭吾様がいいよ!」
 美子は唖然とした。
「圭吾君?」
 白狐も手を打った。
「ああ、そりゃ、いいや」
 童子は、くるりと輪を描きながら、床に飛び降りると、たちまち圭吾の姿になったので、美子はどきりとした。圭吾狐はにっこり笑いながら、美子の手をとった。
「美子ちゃん。オレが君を守ってあげるよ。オレには龍一様のような力はないけれど、自分で作ったパチンコがある」
 そう言って、さっとジーンズのポケットからとり出したのは、パチンコではなく、油揚げの食べ残しだった。小さな二匹の白狐がおかしそうにきゃっきゃっと床の上で笑い転げた。
 美子は怒ったように圭吾狐の手を振り払ったが、しまいには噴き出してしまった。圭吾狐はまた童子に戻ると、油揚げの残りをいとおしそうに口に入れ、ついでに手をぺろぺろとなめた。そうして小狐たちと一緒に部屋の中を駆け回りながらはやしたてた。
「わーらった、わーらった。美子様が、ようやっと、笑ったぞ! やーい、やーい」
 美子は笑いながら、狐たちに言った。
「あんたたち、うるさいわよ。さ、これでも観ておとなしくしてなさい」
 そうして立ち上がって、リビングボードの扉の中から一枚のDVDをとり出し機械にセットした。するとたちまち童子と小白狐は静かになってテレビの前に座った。美子がテーブルの席からリモコンのスイッチを押すと映画が始まった。
 それは狸が主人公のアニメで、狸が色々なものに化けて山を破壊する人間たちと戦うというストーリのものだった。化け狐も出てくるがわき役にすぎない。しかし狐たちはこのアニメが大好きで、何回も観ているのだった。どうも映画を観ながら狸たちに文句を言うのが楽しいらしい。リーダー狐もテーブルの上から身をのり出しアニメを食い入るように観ながらぶつぶつ言った。
「まったく、あの化け方ときたらひどいもんだ。品性のかけらもない。やっぱり狸は狸だ。大年寺の狸どもとおんなじだ」
 大年寺山は仙台における狸の拠点となっていて、狐たちと反目し合っているらしい。美子は大年寺狸の悪口を狐から何度も聞かされていた。
「あいつらは貪欲で、平気で人間の残飯を食い荒らすし、そもそも霊獣としての資格もない奴らなんですよ」
「あんたたちだって油揚げを美味しそうに食べているじゃない」
 狐はふんと鼻を鳴らした。
「私たちは人間が供物≠ニしてわざわざ持ってきたものを受けとっているだけですよ。我々は神使いですからね。ええ、神様の代理としてこの世に姿を現しているのです。誇り高き種族なのですよ。狸なぞと一緒にしないでください」
 テレビの前では、アニメの狸たちの化けっぷりと対抗する気か、化け狐が目まぐるしくくるくると回って次々と姿を変えていた。童子から白い着物を着た若い女性に、女性から小さな黒い牛に、牛から最後には美子に変わった。小狐たちがやんややんやと喝采を送った。化け狐はまた童子に戻り、得意そうににやりと美子に笑ってみせた。美子も仕方なく拍手をしたが、内心、牛の次に自分の姿に化けたことに不満だった。どうも狐の頭の中では、美子と牛とがまだつながっているらしい。
 リーダー狐が講釈を続ける。
「この映画を作った人間は、ずいぶん狸びいきみたいですね。いやもしかすると、人間じゃなくて狸かも知れない」
と言うので、美子は思わず笑い出した。
「まさか!」
 すると狐は真面目な顔をして、
「まさかとお思いになりますか? 狸のやつはずうずうしいですからね。ひそかに人間の間に入りこんで平然と生活を送っているやつらもいるんですよ。たとえば、江戸幕府を開いた徳川家康なぞ、あれはおそらく本物は早い段階で狸に食われて、化け狸と入れ替わっていたと思われます」
などと言うので、美子は呆れた。
「それは単に、家康のあだ名が『狸親爺』だったっていうだけにすぎないでしょ」
「あだ名でも陰でそう言われていたということは、狸との何らかの関係性が当時から噂されていたということじゃ、ありませんか。それから最近で申しますと、あの『田中某』という大物政治家、あれは完全に狸です。我々は『たぬき某』と呼んでおります」
 美子は、まともに狐に反論するのも馬鹿馬鹿しいと思ったが、こう訊いてみた。
「それにしても狸が化けた人間って、善い悪いは別にして大物ばかりみたいじゃない。それだけ狸が人間社会で活躍する能力に長けているともいえるわよ。狐でそういう例はないの?」
 狐は苦虫をかみつぶしたような顔になった。
「周りを欺いて人間たちの中で好き放題やることが、霊獣の品性に叶うことだとは、我々は考えておりませんのでねえ。まあたとえば、陰陽師、安倍清明の実母は『葛の葉(くずのは)』という我々と同じ神使いの白狐でした。狐が化けた女性と人間の男性が相通じ、子をなすというのは、ままある例です。あるいは鳥羽上皇に仕えた才色兼備の女官『玉藻前(たまものまえ)』は、白面金毛九尾(はくめんこんもうきゅうび)の狐が化けたものでした。しかしこいつは狸よりも貪欲な上に、ひどく残忍な心をもつ悪狐でしてね。この世でさんざん悪行を尽くした揚句、殺されてしまいました」
「ふーん」
 狐は自分の尾でぱたぱたとテーブルを叩きながら、演説口調で話し続ける。
「ともかく、人間たちの中で功なり名を遂げようだとか、自分の欲望を満たそうだとか、ましてや権力を握ろうだとか、そう考えること自体が下劣なのです。我々の世界と人間の世界はこうして相交じり合ってはおりますが、これら二つは厳として異なる秩序と時空の中にあります。互いの一線を越え、二つの世界を混濁させようとすれば、必ずバランスが崩れ、両者に悪い影響を及ぼし、人間も狐も不幸になってしまうのです。ですから、人間と狐は、紳士的な友好の雰囲気の中にありつつも、互いに節度をわきまえ、たまに油揚げをやりとりするくらいの関係が、ちょうどよいのです」
(油揚げのやりとりって、あたしは狐から油揚げをもらったことなんてないけど……)
 しかし美子は、嬉しそうにアニメを観ている狐たちを眺めて思い直した。狐が言う『油揚げ』とは、象徴的な言葉なのだ。美子はなんだかんだいっても、孝勝寺の狐たちとすごす時間を楽しんでいる。無遠慮だが威厳たっぷりのリーダー狐、様々な姿で楽しませてくれる化け狐、そしてかわいい二匹の小白狐たち。油揚げ四枚なぞ、狐が与えてくれる時間に比べればどうということもない。しかし狐の側もそう思っているのかも知れなかった。そうだ。美子と狐は、互いに紳士的な油揚げの交換をおこなっているのだ。
 ここで美子は、テレビからちょっと視線をずらして、ふーちゃんの金色に輝く姿に目をとめた。そうして少し考えこんだ。
(あたしと、ふーちゃんは、何のやりとりをしているんだろう)
 美子自身は、ふーちゃんに多くのものをもらっていると思っていた。見るだけで癒される愛らしさ、美しい黒い瞳から発せられる愛情、なぐさめ。しかし美子は、ふーちゃんに何を与えているだろう。それこそ油揚げの一枚もあげていない。ふーちゃんは美子に何も要求しない。何も欲しがっていないのだ。しかし本当にそうだろうか? 美子が単にその求めに気づいていないだけではないのか? ふーちゃんは何かを伝えたがっているのに、美子がそれに応えていないだけではないのか? 与え続けるだけの関係にやがてふーちゃんは失望し、美子のもとから去っていってしまうのではないか?
(いやよ、絶対にそれだけは)
 ふーちゃんは美子の視線に気づいて体を起こし、風のような軽い身のこなしで部屋を横ぎると美子の膝の上に乗った。美子はふーちゃんを抱きしめた。ふーちゃんはいつでも、美子の必要なときにそばにいてくれるのだった。美子はふーちゃんの温かい体に顔をすりよせながら心の中で語りかけた。
(ふーちゃんが望むものなら、あたしはどんなものでもあげるわ。だからずっとそばにいてね)
 ふーちゃんは美子の頬をそっと舐めた。美子はそれを約束のように感じた。白狐がその様子を横目で眺めていた。
 アニメが終わって、テレビの前の狐たちは残念そうなあくびを次々にした。小狐は互いにじゃれ合い始め、童子狐は所在なさげに部屋の中を家具を蹴飛ばしながらうろうろしていたが、やがてリビングボードの上のほうに目をとめると訊いた。
「美子様。あれ、なあに?」
 童子狐が指をさしているのは、花瓶に入れている一本の笹の枝だった。眞玉神社の倉庫の中で見つけて、そのまま仙台に持ち帰ってきたものである。その隣には同じく眞玉神社の石畳の広場の写真を飾ってあった。
「それは京都の眞玉神社で見つけてきたものよ。眞玉神社って知ってるでしょ。可南子さんの実家よ」
 童子狐はボードによじ登って笹の枝をつかみ、そのままぴょんと床に着地した。小狐たちがたちまち周りに集まって笹を自分たちも欲しがったが、童子狐は得意げに枝を上にかかげて勝利品のように振り回しながら練り歩いた。小狐たちはそのあとをうらやましげについて回った。
 美子はその様子を笑って見ながら、隣の白狐に話しかけた。
「可南子さんはあれを狐がいたずらで置いていったものじゃないかって言っていたけど、あんたはどう思う?」
 リーダー狐は笹の枝に目を凝らしていたが、やがて首を横に振った。
「狐の霊波は感じられません。狐があれに関係しているとは思えませんね。しかし普通の笹とも思えませんな。美子様が京都に行かれたというのは、一ヶ月も前でしょう。それなのにあの枝は今とってきたばかりのように生き生きとしています。なにものかの強いエネルギーの残像が、あれをそうさせているのではないでしょうか」
 美子はうなずいた。笹をさしている花瓶には水は入っていない。それなのに笹はしおれも色あせもせずに、美子が拾ってきたままのみずみずしい姿を保っているのだった。美子はひそかに、あれは母からの贈りものなのではないかと思っていた。
 美子は、首から下げている赤い石をちょっと握った。
(お母さん。あれはお母さんがくれたの?)
 むろん、石も、笹も何も答えない。世の中には答えのないことが多すぎる、と美子は思った。

(三)
                         ◎◎
 八月五日の朝、美子はいつになくぱっちりと目が覚めた。時計を見ると七時五分前。目覚ましが鳴る前に起きることができた。上々の気分で勢いよく立ち上がると、まだ寝ていたふーちゃんにてきぱきと声をかけながら布団をたたみ始めた。
「さ、ふーちゃん。朝よ。起きて、起きて」
 ふーちゃんは迷惑そうに布団からよけた。あくびをしながら座りこんで美子を見上げる。なにをそんなに急いでいるのだと言いたげだ。
 美子はふーちゃんを抱えて廊下を歩きながら話した。
「ふーちゃんもこの間の電話を聞いていたでしょ。今日九時に圭吾君が来るのよ。旅の途中に仙台によるんですって。それで今日は一緒に海に遊びに行くことになっているの。その準備があるから、それで早起きしたのよ」
 しかしふーちゃんは、そんなことは自分に関係ないというようにリビングに着くと美子の腕の中から飛び降り、いつもの部屋の隅で丸くなった。
 美子は顔を洗ったあと、リビングに戻り、少し心を落ち着けるように息を整えながら飛月の前に立った。飛月を使った秘文の練習は一日も欠かすことのない美子の日課だ。心の中で飛月に語りかける。
(おはよう、飛月。今日の調子はどう?)
 黒い鞘に入ったままの飛月はむろん何も話さないが、美子はにっこりうなずいた。
(オーケー。機嫌がいいみたいね)
 そうして、そっと左手で鞘をつかみ、右手で柄を握るとさっと引き抜いた。銀色の刀身の輝きが美子を包むように広がる。その光は、日によって美子に違う印象を与えるのだが、今日の飛月の光は露に宿るひんやりとした夏の朝日のように真新しく清々しかった。美子はその光で身も心も洗うかのように、しばらく両手で柄を握ったままじっとしていた。
 最初は、飛月は美子から秘文の力を受けとるだけだった。しかししばらくすると飛月のほうも少しずつではあるが積極的に力を出すようになってきた、と美子は感じていた。飛月の強い力に惑乱されて、伊達家代々の仙台藩主が翻弄され、死者も出るようなお家騒動が起こったと聞かされていたので、初めは美子も飛月が少し怖かった。逆に飛月のほうも、美子に対して懐疑的のようだった。美子と飛月は、互いに互いの様子をみていたのだ。しかし龍一に飛月を使った秘文の唱え方を教わり、そして、瑞鳳殿で伊達宗勝の怨霊を一緒に封じたことで、お互いの信頼関係はずっと高まった。美子と飛月は戦友になったのだ。美子が飛月を怖がったように、飛月もまた美子に恐れを感じていたのだと、分かった。と同時に、飛月は自分の力も恐れていた。今でも美子にみせる力は、飛月のもつほんの何分の一かにすぎないようだった。飛月は、美子を傷つけない程度の力を慎重に測りながら、そのほんの少しだけをみせている、というふうに思えた。しかし、飛月がそう考えているなどというのは、美子の妄想かも知れない。龍一は『物に意志はない』と断言していた。『もしそのようにみえたなら、それはその物に思いをよせた人間の意志が反映されているのだ』と。
(飛月が思っていると思っていることは、ほんとはあたしが思っていることなのかな)
 美子には分からなかった。飛月はふーちゃんよりも静かだった。だから美子は、飛月のことを理解するために、もっと自分を開く必要があった。
 初子は『飛月には色が必要だ』と言った。色というのは、魂の個性のことだ。それこそが飛月が求めているもので、そのために初子は美子に飛月を託したのだ。美子には龍一のような強い力はない。しかし魂ならもっていた。
(飛月。さあ、怖くないよ。あたしの魂をみてごらん。あんたを傷つけるようなことはしない。だからあんたも自分の力を怖がらないで。一緒に力の使い方をみつけていこうよ)
 美子はいつも飛月にこう語りかけるのだった。飛月は傷ついた獣だった。長年人間に利用され、奪われ続けてきたのだ。飛月はふーちゃんのように真っ直ぐで温かい魂ではなく、常におどおどし周りをうかがうような心をもっているように美子には感じられた。それが自分の考えすぎでも別に構わない、と美子は思った。そう考えることが飛月という存在を理解する一番の方法だと思うからだった。
「吐普加美依身多女(とふかみえみため)、寒言神尊利根陀見(かんごんしんそんりこんだけん)、波羅伊玉意喜餘目出玉(はらいたまひきよめいたまう)」
 美子は今日の秘文として選んだ『三種大祓(みくさおおはらい)』を、ゆっくりと唱えた。短い秘文だが、天、地、魂、世界を構成するすべてのものを清く本来の力強い姿に再生していこうとする祈りが、この中にこめられている。飛月のために、自分のために、みんなのために、美子は秘文を唱えた。ふーちゃんも起き上がり、耳をぴんと立てながら、秘文を聞いていた。
 ふっさりとした紫の房がついた鞘をもう一度とり上げ、飛月をその中に収めてボードの上に戻すと、美子は少しの間ぼんやりした。秘文の集中から日常に帰ってくるためである。そうして目の焦点がボードの、テレビをはさんで向こう側の、からの花瓶に挿した笹の枝のところでぱちっと合うと、首を振った。そうして、はっとしたようにその隣の置時計を見る。八時だった。
「さあ、大変だ。水着の準備をしなくちゃ。朝ごはんもまだだし」
 美子は慌ただしく動き始めた。
                         ◎◎
 九時十五分ころ、宿舎のリビングのガラス戸を叩く音がした。美子が開けると、圭吾が立っていた。
「おはよう」
 そうして、中をのぞくのを遠慮するようにすぐにわきに体をずらした。
「さっき、ちょうど築山さんと下で会ってね。中に入れてもらったんだ。今、庭師小屋に荷物を置かせてもらったところだよ。オレ、そこの石のテーブルの辺りにでもいるから、用意ができたら、出てきてもらえればと思ってさ」
「ありがとう。もう用意はできているの。すぐに出て行くわ」
 圭吾はにっこりした。
「オーケー」
 そうして、ちょっと小声になって美子に訊いた。
「龍一様にご挨拶をしていかなくていいかな」
 美子は、宮司舎のほうを見た。
「龍一はまだ寝てると思うよ。雨戸も閉まっているもの」
 圭吾は慌てたように後ろを振り返った。
「あ、そうなの。オレ、うるさくなかったな。バイクを下の駐車場に停めさせてもらったんだけど」
 美子は圭吾を安心させるように言った。
「大丈夫よ。あたしだって、圭吾君が来たことを気づかなかったくらいだから」
 圭吾はそれで一応、ほっとしたようだった。そうして、
「じゃあ、外で待っているから」
と外庭のほうへ歩き出したが、足もとで玉砂利が思いのほか、じゃらじゃら鳴るのに驚いたかのように、いったんとまったあと、またおそるおそる歩を進めた。美子は、圭吾のへっぴり腰を後ろから眺めて、くすりと笑ったあと、すぐに部屋の中に戻った。肩かけタイプの大きめのバッグの中身をもう一度点検する。タオル、着替え、財布、携帯電話などなど。
「えーと、忘れものはないかな」
 すると、ふーちゃんがバッグの中にぴょんと飛びこんだ。美子は驚いてふーちゃんを見下ろした。
「ふーちゃん。中に入って行くの?」
 ふーちゃんは美子を見上げたあと、バッグの中でくるりと丸まった。よく考えれば、バイクで行くので確かにふーちゃんの乗る席はない。
「大丈夫かな」
 美子は心配になったが、仕方がない。そうっとバッグを持ち上げながら、部屋を出た。外に出て圭吾と合流する。鳥居の下をくぐるとき、ちょっと上社を振り返った。
「忘れもの?」
 圭吾が訊いた。美子は笑って首を横に振った。
「ううん。くせなの。さ、行こ」
 下社境内では築山が箒で掃除をしていた。二人の姿を見て微笑んだ。
「お出かけですか」
「はい。深沼海岸に行ってくる予定なんです」
 美子が答えた。
 築山は、ちょっと空を見上げた。
「夕立がくるかも知れませんね。しかし、午後いっぱいはもつと思いますが」
「マジすか」
 圭吾は驚いたように空を見上げた。美子も目を上にあげた。空はまるで夏のお手本のように晴れわたり、羊みたいな雲がところどころにのんびりと浮かんでいるだけだ。しかし美子は圭吾に言った。
「築山さんの予報が外れたことはないの。早めに帰ったほうがいいかもね」
 圭吾もうなずいた。
「そうだな。バイクで夕立に会っちゃかなわないからな」
 築山はにっこりした。
「夕食は何か美味しいものを作っておきますよ。楽しみにしていてください」
「やった」
 圭吾は、嬉しそうにぱちんと指を鳴らした。
 築山に別れを告げ、朱の扉の向こうの駐車場に入ると、龍一のBMW、築山のジープの次に、圭吾のオフロードタイプのバイクが停まっていた。圭吾は、白地に緑色の配色がされたその車体をぽんぽんと叩いた。
「これがオレの愛車さ」
 美子は、じっとバイクを見た。
「これで本当に日本中を回っているの?」
「そのとおり。驚いた?」
「うん、まあね」
 美子は照れたように笑った。
「荷物はどうしているの?」
「一つにまとめて後ろにくくりつけているんだ。今は庭師小屋に置かせてもらっているけど」
 バイクのシートの後ろに小さい荷台のような部分があるが、確かに今は、そこに何も載っていなかった。
「今日の荷物は? 海に手ぶらで行くの?」
 圭吾は笑った。
「海パンはもう服の中に着ているし、タオルや着替えは、このバッグの中に入っているよ」
と指さしたのは、ハンドルとシートの間につけられた小型のバッグだった。
「これ、意外に容量が大きくて使えるんだよ。美子ちゃんのバッグはどうする? リアキャリアにひもでくくりつけてあげようか」
「ううん。大丈夫。ななめがけにして背中に回すから」
「そうか。……ところで、ふーはどうしたの? 置いていくの?」
「ふーちゃんを置いていくなんてことはないわ。ちゃんとバッグの中にいるよ」
「バッグの中?」
 美子はバッグをちょっと開けてみせた。圭吾がのぞきこむと、小さく丸くなったふーちゃんが見えた。圭吾は笑った。
「なるほどね。まあ、ふーは生きものとも違うだろうから、窒息して死んじゃうってこともないだろうしな。じゃあ、美子ちゃん。このヘルメットを使って」
 圭吾は美子に、オープンフェイスのヘルメットを渡した。
「ありがとう」
 美子はヘルメットをかぶったが、あご紐のつけ方が分からずもたもたした。
「バイクに乗るのは、初めて?」
 圭吾は美子のヘルメットの紐をしめてやりながら訊いた。美子はうなずいた。
「よし。じゃあシートの後ろに座ってもらうんだけど、マフラーは熱いからさわらないように気をつけて。走行中は結構揺れるから、俺の腰にしっかりと腕を回してつかまっていてよ」
(腰に、腕を?)
 美子はちょっとショックを受けた。圭吾と電話で海に行く計画を立てたとき『バイクで行くから、スカートじゃないほうがいいよ』と言われたので、ジーンズをはいてきたのだが、バイクへの乗り方までは想像していなかった。だが当然、バイクに二人乗りをするということはこういうことなのだ。圭吾は自分のフルフェイスヘルメットをかぶり、さっさとシートにまたがった。そうして美子を振り返ったので、美子は平気な顔をして後ろ側に座った。そして、目の奥が赤くなるような気持ちがしつつ、圭吾の腰に腕を回した。エンジンがかけられた。バイクはぶるんと大きく震えて目を覚まし、そのあと、どっ、どっ、どっと、規則正しく回転し続けた。美子は大きな心臓の上に乗っている心地がして緊張した。
「出発するよ」
 圭吾のくぐもった声が聞こえ、美子が耳を澄まそうとした瞬間、突然、バイクが動き出した。すぐに駐車場を抜けて、天満宮わきの急な坂を下る。美子が思うよりもずっと速かった。坂の下で圭吾は一時停止をして、左右を確認したあと、左に曲がった。公道に出ると、バイクはどんどんスピードを上げた。美子は置いていかれないように夢中で圭吾の体につかまった。気恥ずかしいなどと考えている余裕はなかった。バイクに乗るのは、車に乗るのとはまったく異なるものなのだということを、美子は知った。当然ながら圭吾は、前を向いたまま何も話さず、黙々とバイクを操っている。
 深沼海岸へ行く道は単純だ。躑躅岡から新寺通に入り、まっすぐに東へ抜ける。ひたすら走ると海岸線沿いの通りにぶつかるので、そこを南に折れて、さらに走ると海水浴場の入口に着くのだ。
 しばらくすると美子もバイクの乗り方が分かってきて、周りの景色を眺める余裕も若干できてきた。新寺を抜けて国道四号線との交差点を越してゆくと、辺りは田んぼが広がるのどかな景色となる。色づく前の青々とした稲の穂が、まばゆい夏の太陽の光を受けながら、ときおり、さっ、さっと風にいっせいにそよぐ様は、まるで緑の波のようだった。田の中に、ぽつんぽつんと農家が浮かぶように建てられている。家の周りは濃い緑の屋敷林が守っている。空の青と、稲の青と、樹木の青と、夏はたくさんの青があるのだった。美子は、ぱたぱたと自分の頬の横で圭吾のTシャツがはためくのを感じながら、静かに息を吸ったり、吐いたりした。田んぼの土の匂いと、圭吾の匂いと、そしてかすかに海の香りがした。
 深沼海水浴場という小さな立て看板に従い左に曲がる。伊達政宗の計画によって作られたという日本最長の運河、貞山掘(ていざんぼり)を渡るとその先に海水浴場用の駐車場があった。
 圭吾は料金を払って海側の出口付近にバイクを停めた。ヘルメットを脱いで、エンジンをとめる。美子もバイクから降りて、ヘルメットをとった。とたんに涼しい海風が髪の間を勢いよく通りすぎた。美子は、空気を肺いっぱいに吸った。暖かく、塩辛い、濃厚な海の匂いが、体の奥へと染み透ってゆく。高さを増した太陽は惜しみなく熱を発して、何もかもを自分のものにしようとしていた。美子は、早く海を見たくてわくわくした。圭吾も同じだ。
 二人は早足で駐車場を出て、海のほうへ向かった。すでに道は舗装ではなく、浜と同じ白い砂でおおわれていて、靴で踏むのが惜しいほどだ。防風のための広い松林の間を抜け、ちょっとした上り坂を上りきると、もうその目の前は、太平洋だった。夏休みで、天気もいいので、すでにたくさんの人が集まってきている。しかし、ぎゅうぎゅうづめということはない。宮城県の太平洋側は、北半分はリアス式の複雑な海岸線だが、仙台港を境に、南半分は真っ直ぐな砂浜がどこまでも続いている。ただし、どこからも遮られずに太平洋からの波がよせてくるので、消波ブロックがない場所は遊泳禁止になっている。全般的に波が高いので、サーファーが喜ぶようなポイントが多いのも宮城の海の特徴だった。
 美子と圭吾は、防風林の近くにシートを敷き、そこに荷物や靴を置いた。美子も服の中に水着を着てきたので、Tシャツとジーンズを脱ぐだけでいい。圭吾は浮き輪屋で、乗って遊べるタイプのフロートを借りてきた。美子にはピンクのペンギン。圭吾のは大きな黒い一本角と黄色の背をもつ、カブトムシだった。
「これ、ヘラクレスオオカブトだよ。世界最大のカブトムシなんだ。いやあ、こんなフロートがあるなんて知らなかったなあ」
 圭吾は嬉しそうに笑った。
 美子と圭吾は、それから三時間、ペンギンやカブトムシにまたがって波乗りをしたり、ビーチバレーをしたりして、海遊びを満喫した。そうして午後一時すぎ、海の家のざらざらしたござの上で、カレーライスを食べた。圭吾いわく、
「海の家に来たら、ぜったいカレーライスだよ」
とのことだった。美子は、焼きそばやラーメン、たこ焼きなども迷ったのだが、圭吾があまりに自信たっぷりに断言するので、自分もカレーライスにした。カレーは美味しかった。しかしこれは、たっぷりと海の風を吸って、思いきり遊んだせいだろう。しかし圭吾は小声で言った。
「ラーメンなんかの麺類はあたり外れが大きいし、たこ焼きは技術がいるからね。カレーならルーとご飯さえあれば誰でも作れる。海の家に手間がかかるものを求めちゃだめさ。その点カレーなら、作り置きもきくし、味も市販のルーだから安定しているしね」
 美子は、うなずいたが、ちょっとおかしくなった。
「でも圭吾君、京都の『ナインスターズ』でもカレーを頼んでいたじゃない。実は単にカレーが好きなだけなんじゃないの?」
 圭吾はにやにやした。
「まあ、カレー好きなのは否定しないけどね。旅行中に野宿するときなんかは、どうかすると三食のうち朝と夜の二食はレトルトのカレー、おまけに昼はカレーパンだったりして、三食カレーってことも珍しくないからね」
 美子は吹き出した。
「インド人もびっくりね」
「インドふうのさらっとしたカレーも、オレは好きなんだ。スパイスが体にあっているんだな。日本をだいたい周り終えたら、今度は、インドや中国を旅して周りたいと思っているんだ」
「インドや中国? 危険じゃない?」
「まあ、日本よりは危険なところは多いだろうけど、そこにだって人が住んでいるわけだからね。もちろん、自分で自分の身を守るという緊張感は常に必要だろうね。でもそれは、ほんとは日本でだって同じことなんだ。はっきりいってオレは、『人を見たら泥棒と思え』って、いつも思っているよ」
「えー、そうなの」
「そりゃ、そうさ。そう思わなけりゃ、一人旅なんてできないよ」
「ふーん」
 美子は、圭吾がしている旅のことを想像した。最小限の荷物をバイクに乗せ、ときには山や森で野宿をするような旅のことだ。行く先行く先、すべてが知らない土地で、知らない人間ばかりだろう。
「怖くないの?」
 圭吾は、にっこりした。
「怖いよ。でもそれ以上に面白い。本当の面白さっていうのは、怖さが裏返しにあるんじゃないかな。ジェットコースターなんて、あれは怖ければ怖いほど、面白いわけだろう。でもしょせんは、他人が作ったレールの上を、安全ベルトに守られて機械に乗っているだけさ。その点、旅は、先に何が起こるか分からないという面白さがある。そして、どんな場所だって、ほかの場所にはない特徴があって、飽きるってことがない。だからオレは、旅をやめられないんだ」
「このあとは、どこに行くつもりなの?」
 二人はカレーを食べ終わって、今度はかき氷を注文していた。美子はいちごミルクを選び、圭吾はブルーハワイで舌を真っ青にさせながら、その合間に、説明した。
「本州の東半分はたいがいのところは周ったんだ。本当はこの夏、北海道に行きたかったんだけれど、京都行きなんかがあって、もう秋になっちゃうからね。来年にするよ。これからは仙台港から太平洋フェリーで名古屋まで行って、そこから南下しようと思っているんだ。中国地方、四国、九州、そして冬は沖縄でサーフィンでもしながら越そうかと計画しているんだ」
「沖縄で冬を越すの? 素敵ねえ」
「ははは。うらやましいだろ?」
 圭吾は楽しそうに笑った。かき氷を食べたあと、二人はまたフロートに乗ったりして一時間ほど遊んだ。砂浜に戻ったあと、圭吾は手をかざして、西のほうの空を眺めた。
「ちょっと雲の形が変わってきたな。確かに築山さんの言うとおり、夕立がくるかも知れない」
 美子も空の向こうを見たが、雲の違いは分からなかった。それでも少し風が出てきて、空気も湿っぽくなってきた気がする。
「どうする? もう帰る?」
 美子が訊くと、圭吾はちらりと自分のダイバーズウォッチに目をやった。
「今、二時すぎだ。三時ごろにここを出れば大丈夫だと思うけど……、あのさあ、美子ちゃん。君、サーフィンってやらないよね」
「うん。やったことないよ」
 圭吾はそわそわしたように後ろを振り返った。
「あそこに、サーフボードを貸している店があるんだ。一時間だけ波乗りしてきてもいいかなあ? ちょうどいい波が向こうに立ってきたんだよ」
 美子は、笑って承知した。
「いいよ。あたしもちょうど少し休みたいと思っていたところだから、好きなだけ、どうぞ」
「いや、ほんとにかっきり一時間で戻るからさ」
 圭吾はそう言うと、自分のヘラクレスオオカブトとビーチボールをわきに抱えたまま、ボード屋のほうへ全速力で走っていった。美子はそれを見送ったあと、ピンクのペンギンをぶらぶらさせながら、自分たちの荷物が置いてある松林のほうへと向かった。シートの場所に着き、置いておいたバッグを開ける。ふーちゃんが、来たときと変わらず、その中で丸くなっていた。
「お待たせ、ふーちゃん。あと一時間したら帰るからね」
 ふーちゃんは大きく伸びをすると同時に、バッグの中からぴょんと飛び出た。美子はバッグを抱えると、ふーちゃんに言った。
「あたし、シャワーを浴びて着替えてくるから、ここでペンギンと一緒に待っててね」
 そう言って、ピンクのペンギンをふーちゃんの前にぽんと置いた。ふーちゃんは尻尾をぴんと立て、しかめっつらをして、ペンギンとにらみ合った。美子はくすくす笑いながら、その場を離れた。
                         ◎◎
 シャワーを浴び、着替えを済ませて美子が戻って来ると、そこにふーちゃんの姿はなかった。ペンギンだけが、もとのまま、ぽつんとシートの上に置かれている。
「ふーちゃん?」
 美子は、きょろきょろとあたりを見わたした。
「ふーちゃん。どこにいるの?」
 いつもは呼ぶとすぐに美子のもとに飛んでくるのに、ふーちゃんは現れなかった。美子は、砂浜や波うち際に一生懸命に目を凝らした。まばゆい光の中、様々な色や形があふれていたが、金色の霊孤の姿はどこにもなかった。
「ふーちゃん!」
 美子はビーチサンダルをひっかけて、海水浴場を端から端まで探した。圭吾の姿もどこにも見えない。波が高い場所まで行っているのだろう。もう一度、シートの場所まで帰ってきたが、やはりふーちゃんは戻って来ていなかった。美子は途方にくれて立ちつくした。
 日が傾き始めていて、松林の影がシートの上にもかかってきていた。その黒い影を追うように林の中に目をやった。ふーちゃんは潮風を嫌って、林の中に隠れているのかも知れない。美子はそう思って、松の木々の間に足を踏み入れた。
 林の中に入ると、気温が二、三度違うようにひやりとした。明るい日の下に慣れた目をきり替えるため、美子はしばらくたたずんだあと、歩き出した。林はどこまでも続いているかのように、延々と奥に広がっていた。美子は、ふーちゃんの名前を呼びながら、暗い林の中をさまよった。地面は松の根があらゆる方面に伸びていて、ごつごつしていた。おまけにビニールや空き缶など、様々なごみが散乱していて、歩きにくかった。中には、服や靴なども落ちていた。どんな人がこんな場所に、靴を脱ぎ捨てていったのだろうと思って、美子は嫌な気持ちになった。
 美子はふと、立ちどまった。
(あたし、どっちから来たんだっけ……)
 いったん戻って、圭吾に手伝ってもらったほうがいいかも知れない。美子はくるりと回れ右をして、海岸へ戻ろうとした。しかし、それからずいぶん歩いても、砂浜に出ることができなかった。
(おかしいな。反対だったかな)
 それで、向きを変えて、また歩き出した。松の木は、それぞれ好き勝手な方向に曲がりくねって、ばらばらの格好をしていた。にもかかわらず、全体として、いつまでも変わりばえのしない林の風景が果てしなく続いているように思えた。
(また、この場所だわ)
 美子は、さっきも見覚えのある靴を、情けなく見下ろした。どうも、完全に道も方向もみ失ってしまったようだった。携帯電話をもってくればよかったと後悔した。そうしてもう一度、
「ふーちゃん!」
と大きな声で呼んだ。美子の声は林の奥深くにまで響いていったが、そのまま吸いこまれるように消えてしまった。美子は疲れて思わずそばの松の木の下に座りこんだ。そして、捨てられた靴を眺めた。茶色い革靴だった。形が、美子の通学用のものと似ていた。女子学生のものかも知れない。相当年月が経っていて、潮風や雨にさらされ、すっかり色あせていたが、まだ形は保っている。しかし新品ではない。しばらく履いて、その足の形を写している。ずいぶん横に広がっている。足の幅がある人だったのだろう。それが、片方だけ、半分砂をかぶって落ちているのだった。美子はため息をついた。
「ふーちゃん。助けて……」
 すると、手の甲がふわっと温かくなった。見下ろすと、ふーちゃんが、美子の手を舐めていた。
「ふーちゃん!」
 美子は、泣きそうになりながら、ふーちゃんを抱きしめた。
「心配したんだよ。どこ行っていたの?」
 安心感がどっと押しよせてきた。
「もう、会えないかと思った。……さあ、おうちに帰ろう」
 美子がふーちゃんを抱えたまま立ち上がった瞬間、
「あんた、もう、帰っちゃうの?」
としわがれた聞き慣れない声が近くから聞こえて、美子はぎょっととして振り返った。一つ奥の松の木の幹に、体を半分隠すようにして、人影が立っていた。よく見ると、美子と同じくらいの年代の制服姿の女の子だった。しかし、見えている部分も向こうの闇をうっすらと映していて、どう考えても生きている人間ではなかった。
(霊だわ……)
 美子は、鼻で深呼吸をして、自分を落ち着かせようとした。そしてひそかにふーちゃんを抱く腕に強く力を入れながら、なるべくゆっくりと言った。
「ええ。もうそろそろ帰ろうかと思って。日も暮れるし、探していた子も見つかったから」
「あんたの探しものって、そのキツネのこと?」
「そうよ」
 霊は、松の影から一歩出てきた。体の左半分は、右半分よりも、もっとなかった。霊は右側だけで動いていた。美子はその足もとを見た。靴を履いていなく、ソックスだけだ。そうして、先ほどの革靴を見る。右足用の靴だった。
「この靴は、あなたの靴ね」
 霊は、ちらりと靴をみた。
「そう、かもね」
「何故、靴を履かないの?」
「その靴は、あたしの足に合わないんだもの」
「そうなの?」
 美子はまた、松の木の根もとに座りこんだ。すると霊も、靴をはさんで美子の正面にうずくまるようにして座った。美子も、霊も、しばらく黙りこくっていた。強い海風が、松林の上を通りすぎ、ざっ、ざっ、という大きな箒で空を掃くような音がした。
 霊が、言った。
「そのキツネ、林の中で迷っていたようだったから、あたしがあんたのとこに連れてきてあげたんだよ」
 美子は驚いて霊の半分になった顔を見た。
「あ、そうなの?」
「うん」
 美子はにっこりした。
「ありがとう。ふーちゃんは、本当にあたしの大事な子なの。あなたのおかげで、また会えたわ。ほんとに、ありがとう」
 霊はうたぐり深そうに、美子とふーちゃんを交互にみた。
「あんたたち、いったい、なんなの?」
 美子は、ふーちゃんをちょっと前に出すようにして見せた。
「この子は、ふーちゃんっていうの。狐の形をした精霊なの。普通の人には見えないんだけど、あなたにはみえるのね」
 霊は右の口端を曲げた。
「あたしも、霊≠セからね」
「そうね……。あたしは、まあ、ただの人間よ。友達と海に遊びに来て、この林の中でふーちゃんを探しているうちに迷っちゃったの」
 霊は、にやりとした。
「この中で迷ったら、もう外には戻れないのよ」
 美子は、驚いて霊を見た。
「ほんと?」
「そう。あたしが生きているときから、そういう噂があったの。抜けようとしても、ぐるぐると同じところを周って、死ぬまで出られないって」
 美子は林の中を見わたした。広々と暗いが、向こうには明るい木漏れ日もある。
「うっそー」
「うそじゃないよ。だってあたしも、もう何年も出られないでいるんだから」
 美子は、まじまじと霊を眺めた。
「あなた、どのくらいここにいるの?」
 霊は肩をすくめた。
「さあね。覚えてないわ。もう、ずっと、ずっとよ。死んでから、ずうっと」
「ここで死んだの?」
 霊は美子の目に暗い視線をひたとあてた。
「そう。この場所で。首をつって死んだの。ほら、その、あんたがよりかかっている木の枝に、ぶらさがったんだよ」
 美子は思わず上を見上げた。霊は楽しそうに自分の首を指してみせた。
「これが、ロープの痕」
 美子が目を凝らすと、うっすらと霊の首に細長い線が見えた。
「なんで死にたかったの?」
 霊は怒ったように声を荒げた。
「あたしは死にたくなんて、なかった! 死にたくなんて、なかったのよ! ただ、おとなしく、かたすみで生きていただけなのに、あいつらが、あたしを小突きまわして、さんざんいじめたあげくに、ここに放りこんだんだ。あたしが泣いて頼んでも、許してくれなかった。夜中にここに連れてきて、あたしを置いてけぼりにしたんだよ」
「あいつらって、だれ?」
「学校のクラスのグループだよ。入学してから、ずっとあたしをいじめてた。クラスが変わってもあいつらはいつも、遊んでやるって言って、あたしを連れ出すんだ。ゲームをしようってね。それで物をぶつけたり、水をかけたり、服を破ったりした。それでも、あいつらにとっちゃ、それはただの『ゲーム』なんだよ」
「……ひどいね」
「あいつらは毎回賭けをしてた。あたしがどのくらいで泣き出すかをね。勝ったやつはお金をもらえる。……あたしの財布からね」
「…………」
「それからあいつらは、こういう賭けをした。夜中にこの林の中にあたしを一人で置いて、どのくらい我慢できるかっていう賭けだよ。二十分とか、三十分とか、一時間とか、みんなは言った。最後に、グループのリーダーが三時間って言った。そしてあたしに『ぜったいに三時間いるんだぞ。林の出口でちゃんと見はっているからな。でないとお前をもっとひどい目に合わせてやる』って脅した。そうして、あたしは一人きりになった。あたしは恐ろしくてぶるぶる震えていた。今よりも、もっともっと、辺りは暗かった。ほんのちょっとだけ、月の明かりが射していた。それが木の影を変なふうに曲げて、よけいに怖いんだ。あたしは林の中も怖かったけど、林の外も怖かった。三十分だろうが、三時間だろうが、出て行ったら、またいじめられるのは分かりきっていた。そのとき、地面にロープが落ちているのが見えた。あたしは考えた。(もし、あたしが、ずっとこの中から出ていかなかったら? そうしたら、あいつらは、ずっと待ちぼうけで、あたしは二度とあいつらと会わなくて済む。おまけに、あいつらは誰も賭けに勝つことはないんだ)って。だから、死んだんだよ」
 美子は、霊に何も言えなかったので、その顔を見つめたまま、黙っていた。霊は、ぽつりと言った。
「それ以来、あたしはここにいる」
「出られないから?」
 霊は、ゆっくりと首を回して林の上のほうをみ渡した。
「そう、出られないの。出ようと思って、ここを出発するんだけど、いつの間にかまた、ここに戻ってきてしまうんだ。どうしてだろう」
「不思議だね」
 霊はまた、美子をみつめた。
「もしかしたら、あたし自身が、まだ、ここから出たくないって思っているせいかもね」
「そうなの?」
 霊は、視線を美子に、ふーちゃんに、靴に、林にと、さまよわせた。
「だって、ここを出て、いったい、どこに行けばいいっていうの。学校だって、家だって、とっくにあたしの居場所はなくなっている。そもそも生きているうちから居場所なんてないんだから、死んでからなんて、誰があたしを受け入れてくれるっていうのさ?」
「あなた自身が行きたい場所というのは、ないの?」
「あたし自身が?」
 霊は、ちょっと驚いたように、目をみはった。
「うん。だって、体がなくなったら、もっと自由に、色々なところに行けるんじゃないかと、あたしは想像していたの。風みたいに、ひとっ飛びにどこまでも、一瞬で行けそうじゃない? それに、普通は入れないところや見えない場所のことも、望めばどこでもみたり聞いたりできるんじゃないかと思っていたの。それにもしかしたら……、もう亡くなった人とも、また会えるんじゃないかって」
 霊は、その考え方をじっくり検討しているようだった。そして、美子に訊いた。
「あんたは、体がなかったら、どこか行きたいところや会いたい人がいるの?」
 美子は、こっくりとうなずいた。
「あたしのお父さんとお母さん。二人とも亡くなっちゃって、もうあたしには見えない場所にいるの」
「見えない場所って、どこよ」
 美子はうっすらと笑った。
「それが今のところどこだか分からないんだけどね。でもあなたみたいに、死んでからもちゃんと存在って、あるわけでしょ。そうしたら、あたしのお父さんとお母さんもどこかにいるってことじゃない?」
「そうかもねえ」
「そうじゃないの?」
 霊は首をひねった。
「あたしは死んでからほかの霊に会ったことはないし、ここよりほかの場所をみたこともないよ。だから本当は死んでからどうなるのか、なんてことは、よく分からないんだ」
「でもそれなら、あなたの左半分はどこにいったの?」
 霊は、はっとして自分の左側を見下ろした。
「……そういえば、そうだね。気づかなかった」
 美子は、霊の見えない左半分を頬杖をついて眺めていた。霊も、自分の半分のことを考えているようだった。それから霊はぽつりと言った。
「あんたって、面白いやつだね」
 美子は驚いた。
「どうして?」
「だって、幽霊のあたしのことを見ても、あんまり怖がらないし、そんな変な動物を連れているしさ」
 美子は微笑んだ。
「幽霊には何回か会ったことがあるの。正直、ぜんぶあなたよりもずっと怖い霊よ。だからあたしのほうこそ驚いちゃった。霊の中にも、あなたみたいに……、何ていうか、普通に話ができる人がいるなんてね」
「へえ。ほんとに、あんたは変わっているんだね」
 美子は、ふーちゃんを見ながら言った。
「そうかな……。そうかもね」
 そうして、霊に目を戻した。
「でも、たぶん、変わっている人って、案外たくさんいるんじゃない? あんまり人には言わないだけで。あたしだって、霊に会ったことや、ふーちゃんのことは、学校の人たちには言わないよ。分かってくれる人だけにしか言わないの。それに、誰にも言わないことだって、たくさんあるしね」
 霊は、うなずいた。
「そうだよね。誰にも言わないことって、たくさんあるよね……」
 そのとき後ろから、圭吾の鋭い声がした。
「美子ちゃん、そいつから離れるんだ!」
 美子が振り向くと、圭吾がパチンコを構えた姿勢で立っていた。
「圭吾君」
 そうしてまた、霊のほうに向き直った。霊は立ち上がって平然と圭吾を見ていた。圭吾はパチンコで弾の照準を霊にぴたりとあてたまま言った。
「こいつはお前より強い霊力を秘めた弾だ。これを撃ちこめば、お前のこの世でのエネルギーは失われ、姿をとどめていられなくなる。お前が本当にいるべき世界へ戻してやるぞ」
 美子は、ふーちゃんを抱えたまま立ち上がり、圭吾と霊との間に入った。
「美子ちゃん。そこをよけてくれ」
「大丈夫よ、圭吾君。この人は、きっと自分で自分の道をみつけられるわ」
「なんだって?」
 圭吾は、霊をにらみながら、訊き返した。
「道が大事なんじゃないわ。道をみつける途中が大事なのよ」
「ばいばい」
 美子が振り返ると、霊はもと出てきた木の陰に、すっと消えていった。
「さようなら」
 美子も挨拶をした。圭吾は、大きく息を吐き、ゆっくりと腕を下ろした。そうして美子をじっと見下ろした。
「なにやっているんだ、美子ちゃん。こんなところに一人でいて、霊と向き合っているなんて。あいつはそんなに強い霊力のもち主じゃなかったけれど、前にも言っただろう? 退魔っていうのは、いつどんなふうにとりつかれるか分からないから、よっぽど気をつけなきゃいけないんだって。ここはあいつのテリトリーだし、君は丸腰だ。危険だと思わなかったのか?」
「ごめんなさい。ふーちゃんを探しているうちに、道に迷っちゃって、あの人に会ったの。でもあたしは退魔をしようと思っていたわけじゃないのよ。ただ、話をしていただけなの。あの人のことや、あたしのことを」
 圭吾が、ため息をついて、
「だから、それがさ……」
と言いかけたとき、美子の腕の中からふーちゃんが飛び降りて、地面の上をぐるぐると回りながら匂いをかぎ始めた。それを見て圭吾は、またパチンコを構えた。
「今度は邪魔をするなよ、美子ちゃん」
「どうしたの?」
 圭吾は黙って、ゴムひもを強く引っぱった。美子は、はっとした。
「やめて! ふーちゃんにあたっちゃう!」
 次の瞬間、ひょうっとゴムが鳴って、磨きぬかれた石の弾が空気を裂いて飛んだ。美子は小さく悲鳴を上げた。弾はふーちゃんの鼻先をかすめ、そばに落ちていた茶色の革靴にあたった。ぱあんっという音がして、弾が細かくはじけると同時に、古ぼけた靴も一緒に霧のようになって、宙に溶けるように消えていった。圭吾は、靴があった場所にかがみこんで手をかざすと、うなずいて体を起こした。
「これが、あの霊の、この世への入り口になっていたんだ。これでもうあいつはここには現れないだろう」
「そう」
 美子はじっと考えこんだ。圭吾はジーンズの後ろポケットにパチンコをしまいながら、美子に訊ねた。
「どうかした?」
 美子は首を振った。
「ううん。ただ、あの人はちゃんと自分の半分と一緒になれたかなって、思って」
 圭吾は、呆れたように美子を見た。
(そんなふうに霊に同情していたら、いつかきっと、その弱気につけこまれて、とりつかれるぞ)
と言おうとしたが、美子の腕の中に戻った霊孤と目が合って、思い直した。
(確かにあの霊は、たちのよくないやつだった。あの靴からは、ほかのものに対する恨みと怒りの念が黒い煙のようにたち昇っていて、どうかすると自分のほうへほかの人間を引きこもうとする企みが感じとれた。しかし霊本体のほうは、オレが来たときにはすでにかなり浄化されていたみたいだ。これはどういうことなのかな。美子ちゃんは、退魔なんかしていないって言うが、自分でも知らぬうちに退魔と同じことをしていたみたいだ。でも、秘文も霊具もなしで、霊と話をするだけで退魔をすることなんてできるんだろうか。それにしたって、あんまり無防備すぎるが……)
 しかし一人うなずいた。
(そうか。この霊孤だ。ふーが、美子ちゃんを護っているんだ。こいつは美子ちゃんの守護獣なんだ。常にこの子のそばにいて、強力な結界をはりめぐらせている。はっきりとは分からないが、それにしても、ふーの霊力はオレのパチンコ弾なんかよりもずっと強力だということだけは確かだ。その力を、こいつは美子ちゃんを護ることだけに使っているんだ。ふーは、祥蔵さんがいなくなるのと前後するようにして現れたというけど、すると、ふーは彼女の父親の代わりなのかな。祥蔵さんが、この霊孤を、美子ちゃんのもとによこしたのかも知れないな……)
 圭吾が黙りこくって自分やふーちゃんをじろじろと見ているので、美子は途方に暮れた。
「圭吾君。怒ってる?」
 圭吾は、気がついて自分の考えから戻った。
「いや。そんなことないよ。でも心配したよ。海から上がってどこにも君たちの姿が見えないからさ。さんざん探したんだぜ」
「ごめんね」
「まあでも、こうしてみんな無事だったわけだから、よしとしよう。予定外だったけど、退魔も一つ終えたし、もう戻ろうよ」
 圭吾は腕時計を確認した。
「そろそろ四時になる。築山さんの予報が正しければ、ひと雨くるだろうから、その前に天満宮に帰りたいもんな」
「うん」
 美子は果たしてこの林を抜けられるのか心配だったが、圭吾のあとをついて歩いていくと、五分もしないうちにもとの砂浜に出ることができたので、拍子ぬけしてしまった。シートの上の荷物も、ペンギンも、そのままだった。しかし、すっかり砂をかぶっていた。風がだいぶ強くなってきている。空も少し曇ってきて、日が陰ってきている。美子と圭吾は、シートを片づけ、ペンギンを浮き輪屋に返すと、駐車場へ向かって歩いた。
 行きと同じようにヘルメットをかぶり、圭吾の後ろにつかまって、バイクで出発した。しかしその間中、圭吾は言葉少なだった。美子は、やはり圭吾が自分に呆れているのだと思った。とはいえ、自分の行動を思い返してみても、やはりあれでよかったのだと思っていた。龍一は言っていたではないか? 霊も、生きている人間と同じ魂のもち主。祓いとは、霊の魂の中にある、清く強い力を引き出してやることなのだ、と。そして美子は、それを瑞鳳殿での宗勝との戦いで、実感したのだ。宗勝は何百年もの間中、強い恨みで凝り固まってきた紛れもない悪霊だった。そうして、飛月を手に入れるために、美子の父親の命すら一顧だにしなかった。それでも、美子は宗勝が消滅する直前の目が忘れられなかった。最後の最後、宗勝の目は穏やかで澄んでいた。それで美子は変な気持ちになった。龍一は、『魂の力を信じろ』と言ったが、そうだ、美子は確かに宗勝の中に信じることができるものをみた気がしたのだ。相手を信じるには、相手のことを知らなければならない。知るためには、話をしなければ、分からない。そう、美子は思っていた。
 美子は、うなる風の中で圭吾の背中をそっと見上げた。圭吾は怒っているだろうか? 美子が無謀なことをしたと思って。確かに軽率だったかも知れない。あの女生徒の霊が、美子を林の中に引きとめようとしていたことは明らかだった。しかし、むしろそれを感じとったからこそ、美子は霊に背を向けるのをやめたのだ。霊に背をみせることが、どんなに危険なことかくらいは知っていたからだ。むろん、飛月もなく、龍一もそばにいない状態で、霊と相対したのは、これが初めてだった。もし圭吾が見つけてくれなかったら、今でも美子はあの林の中で出られないままにいたかも知れない。美子は自分が今まで、どんなに護られてきたかを、あらためて感じた。天満宮に、飛月に、そして龍一に。
 龍一を愛することをやめることは、けしてできないだろうという気が、美子にはした。たとえそれが、月に憧れるのと同じだとしても。月を手に入れることはできないが、月を愛することは、できるのだ。
 圭吾の運転するバイクは、雨が降り出す前に、躑躅岡天満宮に到着した。

(四)
                         ◎◎
「ただいま戻りました」
 そう言って美子と圭吾は上社の庭師小屋をのぞいたが、築山はいなかった。
「あれ、築山さん、いないのかな」
「下にもいなかったわよ」
 二人が話していると、ちょうど築山が宮司舎の玄関から出てきた。
「おや、おかえりなさいませ」
 築山は言ったが、心なしかそわそわした様子だった。圭吾が訊ねた。
「龍一様はもうお目覚めになられましたか? 今朝来たとき挨拶がまだだったもので、よければ少しだけお目にかかりたいのですが」
「ご挨拶ですか? ええと……、どうでしょう? ただいま来客中ですので、今の今は無理かと存じますが」
 美子は訊いた。
「お客様が来ているんですか? 今日の予定はなかったと思いますが」
「ええ、急にお越しになりまして……」
「やはり霊視のお客ですか?」
「たぶん、そうだとは思いますが、なにぶん、龍一様が直接可南子様とお話しになって決められたもので、私も詳しいことは存じ上げませんのです」
 美子と圭吾はびっくりした。
「可南子さん?」
 築山は気がついたように顔を上げた。
「ああ、失礼しました。申し上げるのが前後してしまいましたね。そうです。今朝、お二人がここを出発してからすぐあとに、可南子様から龍一様にお電話があったのです。龍一様は、はっきりとはご説明されませんでしたが、可南子様から、どうしても緊急に会っていただきたい方がおられる、とのご依頼があったようです。龍一様はご承諾なさったようで、つい先ほど、可南子様と、そのご紹介の方がお着きになりまして、宮司舎へご案内したところです」
 美子は、つい大声を上げた。
「可南子さんが、ここに来てるの?」
「美子ちゃん。圭吾。お久しぶり……、でもないか。ひと月ぶりくらいやね」
 美子と圭吾が振り向くと、宮司舎の東縁側に、可南子が立っていた。
「可南子さん!」
 美子は、可南子のもとに駆けよった。
「どうしたんスか」
 圭吾もやって来て可南子を見上げた。可南子はうすピンクのフレアスカートをひらひらさせながら、靴脱石の上にいつも置いてある龍一の草履に足を通して下に降りた。そうして、ぱたぱたと若干大きいその草履の音をたてつつ、二人の肩に手をやって、うながすように歩かせた。
「ま、ま。向こうにはお客さんもいてはることやし、美子ちゃんの家にお邪魔させてもろうて、三人でお茶でも飲もうや」
 美子と圭吾は不審そうに互いの顔を見合わせたが、黙って可南子のあとをついて行った。可南子は通りすがりに築山に声をかけた。
「築山さん。私ら三人のことは気にせんでええですから。勝手にやらせてもらいます。龍ちゃんのほうは、たぶん、だいぶ時間がかかりそうやよって、これも呼ばれるまでほっといてもろてええと思いますよ」
 築山は二、三回まばたきをしたあと、ようやくうなずいた。
「わかりました、可南子様。私は夜まで庭師小屋におりますので、御用がありましたらいつでもお呼び下さい」
「おおきに」
 そう言って可南子は、美子と圭吾を押すように宿舎の西のガラス戸から家の中に入れると、自分も草履を脱いで中に入った。
                         ◎◎
 龍一は、宮司舎の客間で、ひと月前に上野警察署で会った浦山和也と向かい合って座っていた。和也はひと月前とはまったく別人のようになっていた。きちんと刈りこまれていた黒髪は、伸び放題の上に半分以上白くなっていた。頬はこけ、目の下には生まれてきてからずっとあるかのように黒々としたくまがはりついている。
(手に余るほどの大きな心労と悲しみが、一人の男をここまで変えてしまったのだ)
 龍一は思った。しかし、ただこう静かに言って頭を下げた。
「お子様の件は大変残念でございました。その節はお役にたてず申しわけございません」
 和也はそれを聞くと、ぼんやりと顔を上げ淡々と答えた。
「明のことは不慮の事故で、誰がどうすることもできないものでした。先生が謝られる必要はないのです。こちらこそ、あのとき妻の由布子が無理難題を申し上げご迷惑をおかけして、申しわけないと思っております」
 そうしてじっと机の上を見つめた。机の上に築山が置いていった、茶の入った湯呑茶碗と、茶菓子を盛った菓子皿がある。和也はそれらの中になにかが見えるかのように凝視していた。龍一はその様子を黙って見つめていた。しばらくすると、和也は自分を引き戻すことに成功したようにふたたび口を開いた。
「明のことは大変つらいことでしたが、誰のせいでもありません。あれが明の運命だったのだと、私もしいて考えるようにしていました。しかし由布子は、そうは思えなかったようです。明の事故を防げなかったことで、ひどく自分を責めましてね。心身ともにくたくたになって、ついには入院してしまいました。病院に入っても、ほとんど何も食べず眠りもしない日々が続いたのです。それで医者に点滴やら睡眠薬やらを処方してもらったりしていたのです。ところがいっこうによくならず、ある日自分で手首を切って自殺をはかりました」
 ここで和也はお茶を一口飲んだ。そしてまた話し始めたが、それは龍一にというよりも、茶碗に向かって語りかけているようだった。
「幸い場所が病院でしたから発見が早く治療も迅速におこなわれましたので、命に別条はありませんでした。しかしそのあとも由布子の精神は深い闇の中に沈んだまま、なかなか浮き上がってきませんでした。そしておとといの夜、由布子は病院をぬけ出し失踪してしまいました。警察にも一生懸命に捜索してもらっていますが今も行方は分かりません」
 和也の肩が震え、大粒の涙がぽたぽたと音をたてて膝の上で握った手の甲に落ちた。
「上野署の方がそっと教えてくれました。土居先生は人探しがお得意だと。しかし大変お忙しい方だから時間を空けていただくのはなかなか難しいだろうとも、おっしゃいました。それに、警察が民間人に特定の宗教関係者を紹介するというのは、さし障りがあるようですね。それで、由布子が京都のお茶のお師匠さんに先生のことを教えておただいたと言っていたのを思い出しまして、ぶしつけとは思いましたが紹介をお願いしたのです。茶道の先生は菊水桔梗先生とおっしゃる方でしたが、その娘さんの可南子さんも由布子のことをよく知っていらっしゃったようで、私の話を聞くと大変心配していただきまして、土居先生への橋渡しだけでなく一緒に仙台まで行ってくださるということでした。私も頭が混乱しておりまして、どうもちゃんとこの場所にたどり着けるかも不安だったものですから、可南子さんのご厚意に甘えて一緒に来ていただいたというわけです。……どうか、先生。由布子が今、どこにいるのか教えていただきたいのです。ちょっとしたヒントでも結構です。明に引き続いて由布子まで失ったら私は……」
「警察はどんな場所を探しているのですか」
 龍一の問いに、和也はびくりと大きく体を動かした。
「可南子の実家や、友人、知人宅には、一番に連絡しました。京都へは茶道の会合でしょっちゅう行っておりましたので、京都の警察にも協力をお願いしております。東京の警察では今……、不忍池をさらっているようです」
「つまりは由布子さんがもう亡くなっているのではないか、ということですか」
 和也はがっくりと肩を落とした。
「一度自殺未遂をしておりますし、警察ではその可能性も高いとみているようです。特に不忍池は明が亡くなった場所ですから……」
 そして和也は、上着の内ポケットから一枚の紙をとり出した。
「実は失踪の際、これを由布子が書き残していきまして、そのために警察は自殺の線も考えられるとしているのです」
 龍一は和也から紙を受けとって、みた。うすい便せんに黒のボールペンで、ひどく乱れた字でこう書いてあった。
『私が流す赤い血は 失われた命そのものです 私の涙は罪びとの涙 涙で罪は消えません 血は命 命は水』
 和也はすがるように龍一を仰いだ。
「先生。生きているにしろ死んでいるにしろ、早く由布子を探してやりたいんです。どうかお願いします。もう私には、どうしたらいいのか……」
 龍一はきっぱりと答えた。
「分かりました。全身全霊をかけて由布子さんの居場所を探しましょう」
「ありがとうございます」
 和也は深く礼をした。龍一は和也のそばににじりよると、静かに言った。
「和也さん。あなたは疲れきっています。あとは私に任せて、少しお休みなさい」
 そうして和也の額にそっと手をあてると、たちまち和也は崩れるようにその場に横になった。龍一は和也が深い眠りについたのを確認すると、壁際の衣桁から自分の羽織をとってその上からかけ、由布子の書置きを手に持ったまま、客間を出た。
 由布子の居場所は竜泉で直接みなければ知ることはできないと、龍一はすぐに感じとっていた。それでまっすぐに本殿への渡り廊下に直接面している控えの間に行った。竜泉で霊場視をするときは必ず白い麻の着物を身につけることとなっているのでそれに着替えるためである。今まで来ていた装束を脱ぎすばやく麻の着物になると、肌身離さず持ち歩いている小さな護り刀を帯にさし、足早に本殿へと廊下を渡った。折から吹いている南西からの強い風が、龍一の髪や、着物の裾や、手の中の由布子の文字が書かれた紙を、ひどくあおったが、龍一は意に介さずそのまま本殿へ通ずる厚い扉を押して中に入った。本殿の扉はその瑞垣と同様三重になっている。龍一は一つ、また一つと扉を開けていった。
 三つ目の扉をぴたりと閉めると、いつものように外界とのつながりがいっさい途ぎれた。龍一は空を見上げた。本殿には屋根がないので空がそのまま天井となっている。しかし風のうなりははるか遠くに聞こえ、空の色は借りもののように色あせている。この場で真に外と内とを結ぶのは、ただ竜泉のみであるのだ。
 素足で滑るように本殿の中に敷いてある白い平石の上を移動する。そうして背の低い木の台に由布子の書置きを載せ、その上に護り刀を重しとすると、北向きに胡坐をかいて座った。
 竜泉は正確にいうと二つの泉からなっている。北よりにある水の湧き出る泉と、その泉の水が本殿の中を流れたあとまた地面の奥へ帰ってゆく南側の泉、この双方を称して『竜泉』と呼んでいるのだ。
 北の泉は岩に囲まれ、正面に古い柳の木が生えている。泉自体は地中から直接湧き出ていて、水中でぽこぽこと小さな水泡がひっきりなしに浮き上がってきていることでもそれが分かる。水は地から生まれ出て右回りの渦を巻きながら泉の縁をなぞり、そこからゆるく半らせん状に流れ出て、南のたまりに入る。南の泉には岩も木もない。ただ真っ白な石にとり囲まれているだけである。泉の大きさは北のものとまったく同じだが、渦は逆の左回りとなっている。水は吸いこまれるように地中へとかえってゆく。北の泉は陽の性質をもち、南の泉は陰の性質をもつといわれている。本殿の中にはそのほか、泉から少し離れた場所に、西に口を開けた小さな獅子像、反対側の東に口を閉じた狛犬像がある。獅子はとろりとした黄色っぽい石でできており、空気中の水分をその体に露のように浮かせている。狛犬は若干黒みがかっていて、泉からたち昇る水蒸気を吸ってしっとりと濃い色に沈んでいる。
 龍一は、じっと北の泉を見つめたあと、台の上の榊の枝をとり竜泉にひたして、左、右としずくを払った。そうして、ゆっくりと秘文を唱える。
「吐普加美依身多女(とふかみえみため)、寒言神尊利根陀見(かんごんしんそんりこんだけん)、波羅伊玉意喜餘目出玉(はらいたまひきよめいたまう)」
 これを三回繰り返した。
 枝に乱された水面は、すぐに何事もなかったようにもとに戻る。そしてそのあと、いつものように龍一は竜泉の流れがそのまま自分の流れと一体となるような感覚を感じる。圧倒的に巨大な竜泉の渦の中に自分が放りこまれる。しかしそれは心地よいものだ。何故ならそれは龍一の力でもあるのだ。本来の自分をとり戻したような爽快さに体の一つ一つの細胞が喜びの声をあげる。限られた形から解放されたがっているのだ。しかしこの衝動に身を任せてはいけない。龍一は強いて自身の意識を奮いたたせた。まだこちら側にい続けることが必要なのだ。
「森羅万象、現世(うつしよ)、幽世(かくりよ)、去(い)ぬ時、往(ゆ)く時、陽の気、陰の気、まったき輪と欠けた穴、むすびとほどけ、百八十(ももやそ)の天と地と神と霊(たま)、いまは仮とて実は中にありと知る、知ればかたちもあらわるる、りゅうはながれ、ながれはいのち、いのちはひかり、ひかりはかがみ、さればその面(おもて)にぞ、浦山由布子の魂の在りかを、浮かべ給へ みせ給へ」
 龍一は、長い間ぴくりともせずに泉の中をのぞき続けた。その間、天空には雲が急速に集まり、辺りが夜のように暗くなったあと、二、三度強い雷光が走り、そして非常に強い雨が突然に降り出した。本殿の中にも雨は容赦なく落ち、龍一も、竜泉も、由布子の書き置きも、何もかもを洗い流すかのように襲ったが、龍一はそれに気づかぬようにただ竜泉をみ続けていた。
 しかし由布子はみつからなかった。龍一は眉をひそめた。この世だろうがあの世だろうが、竜泉でみえないものはないはずだ。龍一は目にかかった髪を無造作に払うと、くるりと後ろを向き、今度は南の泉の中をのぞいた。陰の泉は陽の泉でもみえない隠れた姿をみせてくれるはずだ。空では、激しい雷の音と光が交互に訪れ空気をかき乱していた。雷は龍一に力を与えてくれる天の配剤である。龍一はさらに目を凝らした。視界が泉の水と一体になったかのように強く透き通っていく。
(非常に深い場所だ……、水の底……、流れはない……、だれかの導きによる道、さかのぼって、たどり着く……、どこだ、それは? ……ああ、分からない)
 龍一は大きく息をついて天を仰いだ。こんなにもみえなかったことは未だかつてなかった。結界の中に隠された飛月を探していたときも、おおよその場所はみえていたのだ。
(誰かの強い力と意志が働いているのだ。しかしそれが誰かすらも隠されている)
 龍一は目を大きくみひらいたまま上を見続けた。大きな雨粒が無数に落ちてくるのを余すところなくすべて見た。震える水滴に、閃光や、暗い雲や、自分の影が、めまぐるしく映り、ゆがみ、そして消えてゆく。それから由布子の書き残した言葉を思い出した。
(水は命、命は血……)
 龍一は姿勢をもとに戻すと、かたわらの台から護り刀をとって鞘から抜き、刃を自分の左の手のひらの真ん中あたりに思いきり突き刺した。ぷつりと皮膚が裂け、中から真っ赤な血が噴き出した。その手を泉の中にさし入れる。血はすぐに泉の中で水とともに線となって渦を描き、そしてそのまま地中深くへ沈んでいった。
(さあ、我が血よ、彼女の血の痕、命の痕、魂の痕を追え。それがどこであっても必ず突き止めてやる)
 龍一の血は流れ続け、地の底で拡散し、限りなく長く伸びて猟犬のように由布子の軌跡を追った。ひと月前の上野の不忍池で浦山明が蓮の花の下で溺れている様子、泥まみれになって息子を抱き泣き叫ぶ母親の姿、白い病院、告げられる死、龍一のもとにすがりつく由布子、そして、夢、夢、夢、そのあとに流れる血、赤く大きなトサカをもった雄鶏が時を告げたあと、現れる白い影、示される道、由布子が中に入る、長い時のトンネル、その先にたどり着く場所、そこは女の故郷だ、女とは誰だ? そうだ、その名は、サクヤヒメだ、美子の母親だ、故郷とはどこだ? あそこだろうか? なぜ、サクヤヒメなのか、いや、そんなことを考える必要はない、大事なことは、時と場所、この二つだけだ、月満ち水が満ちる時と場所、これだけが求めるべきものなのだ。
 あと少しですべてがみえるという瞬間、大きな太刀で断ち切られるように大きな闇の幕が龍一の前をおおった。龍一は、はっとした。
 そのあとで、いくら泉の中を探ってももう何もみることができなかった。龍一はなおもしばらくあがいていたが、ついにあきらめて泉の中から手を引き出した。ぽたりぽたりと赤いしずくが規則正しい間隔で落ちていくのを眺める。血は天の雨と混じりあい、泉の水と同化していく。龍一はそれにしばらく見とれた。そして自分の中から出たものが、このように熱く、こんなにも赤いことを不思議に思った。どれほどの量、これが我が身に入っているものなのか見届けたい気になったがそうもいかない。仕方なく龍一は着物の左袖を破りとり手のひらに巻いた。それから、護り刀、すっかり水に浸っている由布子の書置きとをとり上げ、立ち上がった。
                         ◎◎
 外は夕立というには、激しすぎる嵐が続いていたが、ようやく弱まってきた気配になってきていた。
 美子と圭吾と可南子は、宿舎のリビングで紅茶を飲みながら話をしていた。圭吾は、お茶うけに出されたビスケットをぽりぽりとかじりながら言った。
「ふーん。そうすると、その浦山和也さんっていう人は失踪した奥さんの居場所を龍一様に探してもらうために、東京からやって来たってことですね」
 可南子は、暗い顔で答えた。
「そうなんや。そもそも浦山由布子さんというのが、うちのお母さんの東京での茶道のお弟子さんでな。京都にも何度も来はってる。その縁で私も二、三度由布子さんには会うたことがあるんよ。きれいでおとなしい人やったな。★→明君も、素直なええ子で……。私もあの事故の報せを聞いたときは、悲しくて悲しくて仕方がなかった」
 ため息をついて紅茶を一口飲んだ。
「そして今度は由布子さんが行方不明やろ。今朝、その話をした和也さん自身も相当弱っていた様子やったから、これは私も来なあかんと思ったんや。龍ちゃんに紹介する責任もあるしな」
「しかし、今朝の今朝という急な依頼で、よく龍一様が引き受けてくださいましたねえ。やっぱり可南子さんの紹介だからですね」
「そら違うやろ」
 可南子はあっさりと言った。
「今までに何度か龍ちゃんに霊視客を紹介したことはあったけど、いつでも順番を守らせられたからな。あの子は、そういうことはやけに融通きかんのや。たぶん今回は……龍ちゃんの個人的な理由からと思うわ」
「個人的な理由ってなんですか」
 美子が訊いた。
 可南子はテーブルの上で丸くなっていたふーちゃんの背中をちょっと撫でた。
「……明君を助けられなかったこと。そのことに妙な責任を感じとるんちゃうんかな」
「でも、龍一様が聞いた時には、明君はすでに亡くなっていたんでしょう」
 圭吾がさっき可南子から聞いたいきさつを思い出して言った。
 可南子はうなずいた。
「この世の誰にだって、死んだもんを生き返らせることなんてできん。でも、龍ちゃんはそういうやつなんや。できるできないではなく、自分が救えなかったことを気にしてしまうんや。いやおそらく、由布子さんを……なんやろうな」
「そんな……」
 声を上げた美子に、可南子はきっぱりと言い放った。
「そうや。だから、あの子は、あほやっちゅうんや」
 圭吾が慌てたように口をはさむ。
「可南子さん、それは言いすぎですよ。龍一様は人一倍責任感が強くて……」
 可南子は、かちゃりとからになったティーカップを置いて、ふんと鼻を鳴らした。
「できなかったことをいつまでも、うじうじ気にするんは、あほや。ところが問題は、龍ちゃんが人一倍できることが多いっちゅうことなんやけどな。
 ところで圭吾。あんたがここにいるなんて意外やったわ。←★確か沖縄に行くとか言ってなかった?」
「これから行く予定なんスよ。フェリーで仙台港から名古屋まで行って、あとはバイクで南下するつもりなんです。それでその前にこちらによって龍一様にご挨拶をしていこうと……」
「それでその前に、美子ちゃんと海で遊んできた、ゆうわけやな」
 可南子のにやにや笑いで、圭吾の顔に血が上った。
「ですからそれは、ここに着いたときには龍一様がまだお休みになっていたのでご挨拶が遅れてしまっているだけですよ。海から戻ってきたら今度はお客様がいらっしゃっているということでしたし。こっちも、まさかそのお客のうちの一人が可南子さんだなんて、思ってもみなかったスけどね」
「はは、ま、そうやろな。ひと月前に三人で京都で会うたばかりやったしな。美子ちゃん。海は楽しかったか?」
 美子は、ちらりと圭吾のほうを見てから答えた。
「えっ……、ええ、まあ。最後のほうは、ちょっと雲行きが怪しくなってきましたけど」
 可南子はガラス戸の向こうへ目をやり、
「そうやな。ほんまに、ずいぶんひどい嵐になったもんや」
と気がかりそうに眉をひそめた。圭吾が腕時計を確認した。
「七時か。あれから二時間近く経つけど、龍一様の霊視はまだ終わっていないのかな」
 可南子は、なおも天気を気にしながら答えた。
「うーん。どうやろか。もう終わってもええころやけどな」
「やっぱり一般の方のための霊視も龍一様は竜泉でされているんスか?」
「場合によりけりやろな。この間の東京のときみたいに出張する場合は、むろん竜泉なしでやっているんやろうし」
「あのう、あたし、ちょっと様子をみてきます」
 可南子は、ちょっと迷うように美子を見た。しかし美子はすでに立ち上がっていた。
「もしかしたら築山さんが龍一から何か聞いているかも知れませんし」
 そして、ちょっと笑って圭吾を見た。
「圭吾君も、そろそろお腹減ったでしょ」
 圭吾は、くったくなく笑った。
「あ、ばれた? 実はさっきから、腹が鳴っていたんだよね」
 可南子は顔をしかめた。
「そうか。なんやさっきから、けったいな音がしているんで、ふーちゃんが喉でも鳴らしとるんかと思ったら、圭吾の腹の虫かいな」
 するとふーちゃんは、ぴんと耳を立てながら体を起こしたかと思うと、テーブルから飛び降りて、さっさと美子のあとをついて部屋を出て行ってしまった。
 可南子は、さもおかしそうに口をゆがめた。
「ふーちゃんには悪いことしたなあ。今、明らかに圭吾の腹の虫と勘違いされて怒っとったで」
 圭吾は、ふたりの後ろ姿を見送ったあと、ぼやくようにつぶやいた。
「オレ、どうもふーに嫌われているような気がするんスよね。別に、あいつへ何の悪いことをした覚えもないんだけどなあ」
「生理的にあんたの顔が受けつけないだけやないの?」
「ちょっと可南子さん。それ、ひどくないですか?」
「ははは。ごめん、ごめん。かんにんな。でも、あんたを見ると、ついからかいたくなってしまうんよ。これも生理的なもんかな」
「もう、勘弁してくださいよ……」
 圭吾はため息をついた。可南子はまだくすくす笑っていた。
                         ◎◎
「いえ。龍一様からはまだ何のお話もございません。浦山様もまだお帰りではないようですよ」
 美子は北の玄関から傘をさして外に出、宿舎の隣の庭師小屋に行って訊ねてみたが、築山の返事はこうだった。
「そうですか」
 築山は、にっこりした。
「そろそろみなさん、お腹がすいてこられたんじゃないですか。夕食の準備は済んでおります。宿舎にお運びしましょうか」
「そうですね……。でも和也さんは可南子さんが連れて来た方でもあるし、どうせならお誘いしたほうがいいとは思うんですが」
「それは確かにそうですね」
 築山も思案顔になった。それで美子は、
「ちょっと宮司舎をのぞいて、あとどれくらいかかりそうか、訊ければ訊いてきます」
と、庭師小屋をあとにした。宮司舎に向かう途中、ふと、本殿の背の高い瑞垣の前で立ちどまった。
(こんなに時間がかかっているっていうことは、やっぱり龍一は竜泉で霊視をしているのかな)
 可南子の先ほどの話を思い出した。美子はまだ本殿の中に入ったことがないので、竜泉がどのようなものかを知らない。
(眞玉の泉は森の中にあったけど、竜泉は建物の中にあるんだよね……)
 美子は何度も本殿の周りを回ったことがあるが、どこからも水が流れてきておらず、またどこへも水が流れ出ている様子がないのだ。瑞垣は二重三重になっているようで中の様子をうかがい知ることはまったくできない。外との出入り口はただ宮司舎から長く伸びている西の渡り廊下との間にある頑丈そうな扉だけである。美子は足もとの玉砂利があまり音をたてないよう気をつけながら、本殿の扉近くまで行ってみた。すると突然、その扉が開いて龍一が姿を現したので、美子は心臓がとまりそうになった。
 龍一は扉を閉めながら、ちょっと驚いたように美子を見下ろした。
「美子?」
「うん」
 美子は、ようやく、返事をした。それから、龍一を見上げて唖然とした。
「ずぶぬれじゃない! どうしたの?」
 龍一は少し笑って濡れた髪をかき上げた。
「本殿には屋根がないからね」
「屋根がないの? それで、雨の日や雪の日でも、そのままなの?」
「そうだよ」
 美子は会話をしつつ龍一の着物の片袖がないことにも驚いたが、そのまま目を下におろして思わず大きく息を呑んだ。
「龍一、そ、それ! ……血、じゃない!」
 龍一は自分の左手を見下ろした。布が巻かれているが今にもしずくが垂れそうなほどにじっとりと赤く染まっている。美子は無意識に傘をぎゅっと両手で握りしめた。龍一は淡々と答えた。
「ああ、これか。ちょっと切ったんだ。大したことはないよ」
「でも、でも」
 龍一は、廊下の太い柱に右腕を預けながら、持っているひどく湿った一枚の紙と、美子とを、何かとても不思議なものであるかのように交互に見比べていた。美子は、龍一の赤く染まった左手から目が離せなかった。
「龍一。怪我の手あてをしなくちゃ」
「手あて?」
「そうよ。そんなに出血しているなら、お医者さんに行ったほうがいいかも知れないわ」
「大げさだよ」
 そして龍一は、自分の濡れた着物を見、それから左手を眺めた。
「……確かに、これでは着替えするのにも困るな」
 そうして、歩き出しながら、美子に、
「では悪いが築山を呼んでくれ」
と言い残して宮司舎のほうへ消えていった。
                         ◎◎
 美子が築山に、龍一が手に怪我をしていることを伝えると、築山はすぐに大きな救急箱を手に持って宮司舎に向かった。美子は築山の後ろ姿を見送ったあと庭師小屋と宿舎との間の狭いすき間にしばらくたたずんでいた。
 ひどく悲しくなってしまったのだ。涙さえ出た。最初は何故かも分からなかったが、それは、龍一が自分の怪我をまったくたいしたことではないように話していたせいだと、ようやく気づいた。龍一にはもっと自分を大事にしてほしかった。龍一は強くて、美子や、天満宮や、土居家や、ほかの守護家や、東北の霊場や、色んなものを護っているのだ。しかしそれなら、龍一のことはいったい誰が守るのか? 白河のときは、祥蔵が龍一を護ってくれた。文字どおり、命と魂をかけて。しかも祥蔵は守護者としての掟を破ってまで龍一を護ったのだ。その祥蔵も今はもういない。次は誰が龍一を守ってくれるだろう? 肝心の龍一自身に自分を守る気持ちが希薄のようにみえるのが、美子には恐ろしかった。何の未練も残さずに、ある日龍一がふいと消えてしまいそうな、そんな気がしてならなかった。
                         ◎◎
 龍一の左手に巻いた布をほどいてその傷を見ると、築山は顔をしかめた。
「龍一様。これは縫わないと駄目ですよ」
「冗談だろ」
 龍一は、控えの間に立ち、板ばりの床の上にしずくをたらしながら朗らかに言った。
 築山は難しい表情のまま、じっくりと品定めするように傷口を点検していた。
「残念ながら冗談ではありません。その護り刀で切りましたね。それはけっこう刃の厚みがありますからね。すぐに傷口を押さえればふさがりも早かったかも知れませんがね。しばらくほうっておかれたせいで傷がすっかり広がってしまっています。……五針ほど縫わなきゃなりません」
 龍一は、
(そういえば、ずいぶん長いこと水につけていたからな)
と思って自分でおかしくなったが、築山の目と合って顔をもとに戻した。
「そうか。なら、仕方がない。やってくれ」
 築山に手伝ってもらいながら別な着物に着替えたあと、龍一は私室に移動した。机の前に座り、そして、
(あとで刃を手入れしなければいけないな)
と思いながら、わきに護り刀を置く。
 築山は救急箱から手術用の針と糸を取り出し、机に何枚かのさらしを厚く敷いて、その上に並べた。そして龍一には酒の入った徳利と杯をその前に出した。
「なんだ、これは? 酒を飲めっていうのか?」
 築山は、消毒用アルコールで自分の手と龍一の傷口をたんねんに洗いながら、言った。
「麻酔の代わりですよ」
「ふうん」
 龍一は持っていた便箋を片手で丁寧に広げ、火の入っていない火鉢の五徳の上にそっと載せた。ペンの字はだいぶ滲んでいたが読めないほどではない。それから右手で盃に酒を汲んで飲みながら、左手を机の上に伸ばし、築山が傷口を縫っていくのを黙って眺めていた。血はだいぶとまってきたが、まだ少しずつ流れ出てきて、さらしを赤く染めていっていた。
「痛いですか?」
 築山が訊いた。
「まあ、まあ、だな」
 築山は縫い終わると、大きく息をつき、自分の手を洗ったあと傷口をアルコールでもう一度丹念にふいて最後に真新しい包帯を強く巻いた。
「これでいいでしょう。しかし傷痕は残るかも知れませんよ」
「傷が残るくらい、どうってことはないよ。ありがとう」
 築山は、ちらりと龍一の顔を見た。
「もう、こんなことはおやめになってくださいよ」
 それで龍一は苦笑いした。
(確かに何度も使える手ではないな)
 それから、こう言った。
「可南子をこちらに呼んでくれ。それから、そうだな。圭吾と美子もだ」
 築山の顔は、驚いたようなものになった。
「圭吾様と美子様も、ですか?」
「ああ。三人とも客間によこしてくれ」
「かしこまりました」

 つづく

2012/03/04(Sun)09:37:05 公開 / 玉里千尋
■この作品の著作権は玉里千尋さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 明鏡の巻に続く第二巻目となりますが、一巻目を読まない方でも大丈夫なように(一応)したいと思っております。
 二重カッコが気になると思いますが、今巻は現在と過去が入り交じる構成になっているため、区別の意味で、過去の部分は、全部二重カッコを使わせて頂いておりますので、ご了承ください。
 超長編になる予定ですが、多角立方体のように、世界は、見る角度で様々な姿をもっていると思っているので、一つ一つのエピソードが互いにつながりながらも、やっぱりそこに固有の物語がある、というふうに書いていけたら、と思っております。
 つたなく読みづらい点が多々あるかと思いますが、よろしければ目をとおしていただき、ご感想・ご批評などいただけると、大変嬉しいです。
 よろしくお願いいたします。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。