『Live of dolls ―another fate― (完結)』 ... ジャンル:SF 未分類
作者:浅田明守
あらすじ・作品紹介
どんなに楽しくても笑えない。どんなに悲しくても泣けない。人でありながら人が持ちえる感情を失ってしまった青年ギースと、ロボットでありながら意思も感情も持つアンドロイドの少女ミトラ。どちらも等しく『ヒト』であり『ヒト』でない二人の『人形』の生。果たしてどちらがより人間だと言えるのか。一人の少年が語る二人の『人形』のもう一つの物語……
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【注意】
この作品は「Live of dolls」の続編といった形式を取っています。これだけで読んでわからないこともないのですが、おそらくは前作を読んだ方がより一層物語を楽しめるかと思います。
一応、今作が初めてだという方に向けて簡単な人物紹介だけ載せておきます。
≪ギース・ガイスト≫
この物語の主人公の一人。幼いころに両親に捨てられたところを哲学者であり科学者でもあるクライム・ガイストに拾われて養子として育てられる。親に捨てられたというトラウマのせいで泣いたり、怒ったり、笑ったりといった感情表現が出来なくなる。
≪ミトラ≫
この物語のもう一人の主人公にしてクライムによって作り出されたアンドロイド。アンドロイドだが、心臓の音がモーター音に代わっている以外は何一つとして普通の人間と変わりなく、普通に食事もするし睡眠もとる。アンドロイドのくせに機械類の操作に弱く、また極度のドジっ子。
≪クライム・ガイスト≫
ギースの育ての親にして高名な哲学者で科学者。ミトラを創った張本人だが前作冒頭ですでに死んでいるため例によって出番はない。
語ろう。これは真実にして偽りの物語。これから語るは夢の中の現実。一人の少女の物語……
真実の中で嘘が生まれ、嘘の中に真実が隠れる。真実が嘘になり、嘘は真実へと昇華される。
もしこの話を誰かが聞いてくれているのならば、どうかあなたの手で真実を探し出して下さい。
そしてどうか、私の代わりに彼女を救って下さい……
プロローグ 〜再びの始まり〜
おや、君は……どうやらまた会ったようだね。それにしても奇遇だね。初めて君と出会ったこの場所でこうしてまた再開するなんて……
うん、まだ用事が終わっていないんだ。もう少しで終わるんだけどね、たぶん。
そう言えばそちらの彼女は初めまして、だったよね。君の……そうか、恋人か。随分可愛らしい人だね。君にはもったいないくらいだ。
ははは、冗談だよ。そんなに怒らないでくれ。
わかってる。あの話だろ? そんなに焦らないでくれ。
さてと、この間はたしか……そう、男と少女の悲哀の物語だったね。心を持つアンドロイドの少女と心を失くした男の物語。命と引き換えに男を癒そうとする救い手の物語。
でも、前にも言ったけど彼らの物語はもう一つあるんだ。真実として語り継がれてきた表の物語、そして矛盾を孕み裏から裏へと細々と語られてきた裏の物語。今から僕が話すのは事実とされてきたものとは矛盾する、もう一つの物語だ。
いいかい、この話は本来は僕らの家でもごく少数の人間しか知らない話なんだ。だからこれを君に話すのは本当に特別なこと。決してここで聞いたことを誰に話したりしてはいけないよ。
世界に数ある、命に纏わる不思議な物語。例えば死んだはずの誰かが生き返る、例えば命なき者に命が宿る、例えば死に瀕して運命に抗い命を拾う。そうした物語の主人公は何をもって物語の主役となったのか、君は考えたことがあるかい? 運命か、または偶然か。なるほど、模範的な解答だね。
じゃあ逆にあるべきものを失う物語の主人公たちは何をもって物語の主役となったのか。君にはわかるかい? 自らの罪か、あるいはこれも運命や偶然で言い表すことが出来るものなのか。
あの少女はどうだろうか。あるはずのない命を得て、あるはずの命を失った人形の少女は……どんな罪によって物語の主役となったのか。
ははは、そんな難しい顔をしないでくれ。そもそもこんな問いには答えなんてものあって無きがごとしなんだから。
さてと……じゃあ、始めようか。彼と彼女の"もう一つの物語"を。
この物語は以前話したものの途中から始まる。そうだな……だいたい少女と青年が出会ってから数ヶ月が過ぎたあたりからだ……
温かな日差しの中、誰もいないリビングで一人の少女がソファーに横たわって居眠りをしている。おそらく研究所で目を覚ましてから青年と暮らしてきたここ数ヶ月のことを夢に見ているのだろう、少女はいかにも幸せそうな顔で口元に微笑みを浮かべながら夢の世界に没頭している。
一見して少女は普通の人間の子のように見える。いや、腰まで伸びた美しい青色の髪やしなやかに伸びた手足、幼くも冷たい美貌を持つ矛盾した容姿は普通というには余りに現実離れしているが、それでも外見だけを見てこの少女を人間以外の何かと評する人はいないだろう。
しかし彼女は"ヒト"ではなかった。アンドロイド、あえて違う言い方をするなら"限りなくヒトに近い人形"だった。
この家で生まれた人形の少女が共に暮らすのは悲しみも、怒りも、喜びも、そうしたものすべてを表情に出すことが出来ない人形のような青年だった。
少年との暮らしは少女にとって眩しいくらいに幸せなものだった。彼は表情こそ表に出すことは出来ないが、誠実で優しく、面倒見が良かった。それは目覚めたばかりで何もできない少女にとっては何よりもうれしいことだ。しかし同時に、事前に少女を作った博士から聞いていた話しとはまったく異なる青年の姿は彼女を困惑させるのには十分だった。博士から聞いた彼と、今自分が見ている彼、どちらが本当の彼の姿なんだろう。そんなことを考えているうちに少女は次第に青年に惹かれていく。
しかし青年に惹かれながらも少女の胸の内には小さな違和感がわだかまりのように残っていた。その違和感がなんであるか、少女はまだ知らない……
第一部 夢と日常
夢。ここは夢の中の世界。
辺りには白い靄が立ち込めていて、その中には小さな光たちが浮かんでいる。
それ以外は何も見えない、何も感じることが出来ない寂しい世界。
私の身体は靄の中に埋もれていて、どこからどこまでが"わたし"でどこから先がそれ以外なのかもわからなくなっていた。
白い靄と、小さな光と、そしてそこに溶け込むように存在する私。それがこの世界のすべてだった。
そんな寂しい世界の中で、私は光たちの声を聞いていた。
懐かしい誰かの温かな声、身近な誰かの優しい声、慣れ親しんだ誰かの笑い声。それらはすべてよく知っている人たちの声で、同時に全く知らない誰かの声だった。
私を取り囲む光たちから聞こえてくる甘く、切なく、悲しい愛の囁き。私はその一つ一つに応えたいのに、私が彼らに応えることは決してない。どれほど懸命に口を動かしてもそこから音が紡がれることはく、どれほど触れようとしても彼らとの距離が埋まることはない。
酷くもどかしい気持ちを胸に抱えながら、私はただその世界に溶け込み、光たちの声を聞くことしかできなかった。それは私の罪。遙か昔、あるいはつい最近に、私が犯し背負った業。業の鎖に縛られた私が、この無限に続く世界から逃れることは出来ない。
もどかしい思いを抱きながら光を見つめる。その内に夢の終わりが近づいてくる。
夢の終わりはいつも同じだ。一つの小さな光が私に近づいてくる。
それは他の光たちとは違う、とても小さな、吹けば消えてしまいそうな儚い光。悲しい藍に輝く弱々しい光だった。
私は無我夢中でその光に手を伸ばす。少しづつ私と光は近づいていき、そしてついには指先が光に触れる。そうすると触れたところから温かな何かが私の中に流れ込んでくる。
温かな何かに身を委ねながら、何もない世界にうっすらと見慣れた景色が浮かび上がってくるのをぼんやりと眺める。私は赤く色付く水の中。ガラスを隔てて部屋の中を見渡せばそこにあるのは巨大な漆黒の機器。学習装置、疑似精神シュミュレーター、発達演算機、歩行補助プログラム。名前を聞けば何をするものかわかるものから、実際に使っているところを見ても何をする機器なのかわからないものまでそこにはあった。床にはよくわからない文字で書かれた本や、複雑な数式が余白なく書かれている紙が散らばっている。
そこは研究室だ。私を生み出したあの人がいた場所。私が彼と初めて出会った場所。
声が聞こえる。この声は……博士、この世界での私の生みの親、私を創りだしたあの人の声だ。
―――君の名前はミトラだ。そう、遙か古の文明に伝わりし滅びを否定せし、悲しき運命を背負った救い手の名だ。身勝手なことだというのは重々承知している。君に恨まれるのも覚悟の上だ。その上で、君に厚かましいお願いを一つしたい。どうか、古の名において息子を救ってやってくれ……
声が遠のく。同時に浮かび上がった景色が消えて、数瞬後にまた別の景色が浮かび上がってくる。
今度は質素な部屋の中。さっきまで見えていた、物が散乱している研究室とは違いそこにあるのはベッドと小さな机、椅子、そして日記帳が一冊だけ。私はベッドに横たわって天井を見上げている
そんな私を感情を感じさせない顔で彼が見守っている。私の一番大切な人。一番笑って欲しかった人。じっと私を見つめながら話しかけてくる彼に言葉を返したいのに、私は何も喋れない。指先を動かすことすら出来ない。
瞼がだんだんと重くなる。浮かび上がった景色がゆっくりとぼやけていく。彼の顔が、見えなくなっていく。
ぽたり、と頬に冷たい雫が落ちてくる。それは果たして彼が流した涙なのだろうか、あるいは私が流したものなのだろうか。
声が聞こえる。私の名前を呼ぶ声。救い手の名前を呼ぶ声……
「起きてください、ミトラ」
聞きなれた声に身体を揺さぶられて、私はゆっくりと眠りの世界から浮かび上がる。
実のことを言うと私はこの夢から現実へと浮かび上がってくるこの数瞬が結構好きだったりする。身体がふわふわして、どこまでが夢でどこまでが現実なのかがわからなくなる。自分とその他との境界があやふやになって、まるで世界に自分が溶けだしているような感覚。それはどこか懐かしい感覚だった。
「まったく……仕方がありませんね」
そういって彼が私から離れていく。
一体どこに行くのだろうか? いつまで経っても起きない私に愛想が尽きてどこかへ行ってしまったのだろうか。
いなくなってしまった彼を求めて無意識のうちに手が宙をさまよう。しばらくしてその手が何かに触れる。
あぁ、よかった。まだ側にいてくれたんだ。そう思って指先に触れた何かを私が掴むと同時に、
―――べちゃ
「わひゃう?!」
何か冷たいものが私の顔に落ちてきた。
「な、ななななに? なんですか?!」
ばさりと身体を起こすと私の顔に張り付いていた冷たい何かがずるりと私の顔から滑り落ちる。それはたっぷり水気を含んで重くなったハンカチだった。
「なんで私の顔に水浸しのハンカチが張り付いているんですか、ギース?」
「最初はぞうきんにしようとしたのですが、そっちの方が良かったですか?」
私の問いに目の前の彼、ギースが笑いのわの字もない大真面目な顔で答える。いや、そもそもギースはトラウマで笑う、とか泣く、といったことが出来ないらしく、私は彼とこの家で暮らし始めてから今に至るまでの数ヶ月間、一度も彼が笑みを浮かべたところを見たことがないんだけど。
でも、だからと言って彼に感情がないかといえばそうでもなかったりする。たぶんギースは自分じゃ気付いてないだろうけど、顔に出せないだけで彼にはきちんと"心"がある。表に出ないせいで周りも、本人すらも勘違いしているけれど、ギースはちゃんと、自分の"心"の中で泣いたり、笑ったり、怒ったりしている。最近になってようやく、私にも彼の"顔には表れない感情"がわかるようになってきた。
でもって、そのスキルが私に告げるところは……えっと、もしかしなくても怒ってる?
何となく笑えない状況下にあることを理解、それと同時にふわふわとしていた身体も目覚めていく。
まず最初に感じたのはむせるようなものが焦げた臭い。次に気付いたのは天井を漂う白と灰色の中間色ぐらいの色合いの煙。そこから導き出される答えは……
「ギース、お料理焦がしました?」
そう言うのと同時に顔に再び冷たい何かが命中。しかも今度はどこか少し黴臭い。
「って、これ雑巾じゃないですか!?」
「一応綺麗に洗ってあるので大丈夫です。なにも問題ありません」
アンドロイドとはいえ私、女の子なんですけど……なのにギースの口調からは年頃な女の子の顔にぞうきんを投げつけたことに対する罪悪感だとか罪の意識だとかちょっと悪いことしたかな〜とか、そんな感じのものは全く見られない。絶対ギースってば私のことを女の子と思ってないです!
「いや、問題大ありです! 酷いですギース!!」
「酷いのはあなたの頭です」
「うわっ、そういうことを言いますか!? そう言う意地悪なことを言うギースは嫌いですっ!」
「そうやって頬を膨らませて文句を言う暇があるなら胸に手を当てて自分がさっきまで何をやっていたのか、思い出してみることをお勧めします」
顔に張り付いていた雑巾を投げ返しながら文句を言うも即答されてしまう。私がこれだけ怒っているのに、ピクリとも顔色を変えないギースの冷静な物言いに少しだけむっとする。体質のようなものだから仕方がない。仕方がないのだけれども、それとこれとはやっぱり話が別だ。
それでも彼の言葉に従って、胸に手を当てて記憶を探ること十数秒、
「あ〜……そう言えば私、お料理の途中でしたっけ?」
ついさっきまで自分が料理をしていたことを思い出して顔を真っ青にする。
たしか本で読んだ料理を作ってギースを驚かせようと思って、さすがに何ヶ月もやってきたことだからか途中までは上手く作れていて、そしたら材料を入れて沸騰してから弱火で10分と本に書いてあって、でも沸騰するまで少し時間がかかりそうで、それでそれまでどうしようかな〜と思ってソファーに腰掛けたら日差しがあったかくて……
「もしかしてもしかすると〜……お鍋、真っ黒焦げだったりしますか?」
「もしかしなくても真っ黒焦げです」
火事にならなかったから良かったものの、とギース。さすがに今回ばかりは(今回も)本当に危なかったので私は何も言わずに大人しくギースのお小言を聞く。そうした方が結果的に早くお説教が終わるだろうという打算もあったりなかったり。
そう言えば前もこんなことがあったな……どうして私はこうも進歩がないのだろう。ギースのお小言を聞きながらあまりの進歩のなさに少しだけ自己嫌悪をする。
あぁ、そう言えばこの前も買い物帰りにちょっと近道しようとして迷子になったっけ……挙句の果てに石に躓いてせっかく買ってきた野菜とか卵とかを台無しにしちゃうし……。
というより、私ってアンドロイドですよね。なんでこんなに学習能力がないんでしょう。ロボットが迷子なんて、冗談にもなってないですよ。あれですか? 近頃流行りのドジっ子属性とか言うのですか? そんな意味のわからない、実用性皆無な機能はいらないですよ! もしかして博士の趣味なんですか?! 趣味なんですね?! そんなはた迷惑な趣味を私に押し付けないでください!
そういえば昔から博士はそうでした。やたら自分のことを"お父さん"って呼ばせたがっていたし、用意する服はことごとくひらひらしたり布地が少なかったり、なんだかよくわからないオプションが付いていたりで……
「ミトラ、聞いているのですか?」
そうですよ。私のドジは私のせいなんかじゃないんです。それもこれも博士が変な機能を私につけるからいけないんです。それなのにギースったらいつもいつもねちねちねちねちと……
「……どうやら全く人の話を聞いていないようですね」
そりゃあ、私だって悪いとは思いますよ。実際たまたま今回も大事にならなかっただけで、いつかは大事をを起こしてしまうかもしれませんし。今回"も"か……。そうですよね。最近少しぐらいは慣れたと思っていたけれど実際はこうやって失敗してしまったわけだし……
「昔の人は言いました。人の話はちゃんと聞きなさい」
べちゃっ、という音を立てて何か冷たいものが私の顔に押し付けられて私ははっと我に戻る。
まず最初に感じたのは仄かに鼻孔に漂うのは土と埃と黴の香り。次に頬を伝う冷たい水の感触。そして指でつまみ上げるは灰色の布切れを手で縫ったもの。
「って、また雑巾!? しかも今度は洗ってない奴じゃないですか! こんなのどこで見つけてきたんですか!?」
「洗面所に放置してありました。そのた掃除道具と一緒にです」
「あ〜……あははははっ、後で片付けようと思ってすっかり忘れていました」
「あなたという人は……」
片手を腰、もう片手を額に当ててやれやれとばかりに頭を横に振るギース。
マズい。これはお説教が長くなる合図だ。経験上ここで逃げておかないと小一時間はお説教されることになる。ギースには悪いですけど、ここいらで逃げてしまった方がいいですね。
「と、という訳で私はちょっとお台所を片づけてきますっ!」
ギースのお説教から逃れるために台所へと緊急避難。真っ黒焦げな鍋を想像すると少しだけめげそうになるけれど、まあギースのお説教を聞くよりはずっとマシなはずっ!
「ちょっと待ちなさいミトラ」
そんなギースの声を背中に聞きながら私はその場をソクサクと離れていった。
真っ黒になった鍋と格闘することおよそ2時間。どうにかまともに鍋が使えるようになるころにはもう外は夕日で赤く染まり始めていた。
最初はギースのお説教よりずっとマシだと思っていた鍋洗いも、あれだけ頑張って作った料理が鍋にへばりつく頑固な汚れになってしまったという事実、それによってもたらされる落胆を考えると大人しくギースのお説教を聞いてから二人で片付けた方が幾分マシだったかのようにも思えてくる。
洗い終わった鍋をとりあえずその場に伏せてリビングに向かう。今はとにかく休みたかった。なんというか、不貞寝でもしていないとやっていられない気分だ。
そう思ったのだけれども、リビングのソファーには先客がいた。
「もう、ギースったら……また本を読みながら寝ちゃったんですね」
そこにあったのは難しい顔をしながらソファーに深く腰掛けてうつらうつらと眠っているギースの姿。居眠りをしながらもその手に持つ難しそうな分厚い本は決して離そうとはしない。
「ちょっと前にここで寝ていた私にお説教をしようとしていた人がここで居眠りですか。まったく……」
難しい顔で寝ているギースの頬をつんつんと指で突きながら呟く。
勉強熱心なのはいいけど、寝るならきちんとベッドで寝て欲しい。ついさっきもここで居眠りをして、今もここで不貞寝する気満々だった私が言うのもなんだけど。
ただでさえギースは夜も遅くまで勉強していて睡眠時間が足りていないのだから、せめて寝る時ぐらいきちんとベッドで寝ないといつかは体調を壊してしまう。難しい顔をしているのはたぶん、夢の中でも勉強をしているからなのだろう。
「ほんとにもう、仕方がないですね」
でも、ギースのことが心配なのと同じくらい、そんな無茶ばかりする彼を愛おしいとも思った。きっと頑張り過ぎる子供を持ったお母さんはこんな気持ちなんだろうなと、そんなことを考えながら彼が起きないように慎重にギースの身体を倒して頭を私の膝の上に乗せる。つまり、いわゆる膝枕だ。
結構これも恥ずかしいんですからね、と彼が起きないように小声で文句を言いながら彼の頬に優しく手を添える。横になったのに未だにギースは本を離そうとはせず、顔も難しいままだ。いよいよもってお母さんの気持ちになってくる。私はアンドロイドで、私の思考はすべて事前にインプットされたデータをもとに作られている。にもかかわらず、創られた存在である私がこんな感情を持つなんて、なんだか少し不思議な気分だった。
創られた存在、か。だったら私が今感じているこの感情も、彼を愛おしいと思っているのも、全部そうなるべくインプットされたからなのかな……。うん、きっとそう。だって私は、どんなに"ヒト"に近くてもAIから流れてくるプログラムで動いているロボット。ロボットには"自分の心"なんてものはない。
でもそれって……なんかイヤだな。だって、私はここにいる。アンドロイドだけど、ちゃんとここに生きている。私は自分が楽しいから笑うんだし、悲しいから泣いて、怒っているから頬を膨らませる。それは確かにAIから流された電気信号なのかもしれないけれど、それを言うなら人間だって脳から送られてきた電気信号で動いている。
大切なのはきっと、どうやってそれを思うのかじゃなくて自分がどう感じているのか。人間も、ロボットも関係ない。大切なのは自分に心があると自分で思っていること。ただそれだけなんだ。
だから、ギースも……。
意識を再びギースに向ける。相変わらずきつく握りしめて難しい顔をしている。寝言も「かおすろん」がどうとか「がいあろん」がどうのだとか、なんだか難しいことを言っている。本をきつく握っているせいか、指先が圧迫されて白くなっていた。
「ほら、ギース。そんな本なんか持っているからうなされるんですよ」
少し苦笑いをして、本と彼の分離作業に移る。本に掛かった指を一本一本外していく。起きないように慎重にゆっくりと。
ギースが起きないよう細心の注意を払って、どうにか本を分離することに成功。それでもギースの顔は難しい顔のままで、いよいよもって苦笑いが強くなる。
小さくため息を吐くと彼の頭を撫でながら小さな声で歌を奏でる。それはふと頭に浮かんだメロディー。
Ludi vi mo Delus.
Zy Delus enmey leen bou Ludi.
Vem Delus dei houst mieum amary Ludi.
Gedy Delus imay bou enousay ievi na gied.
Leen Delus hou inar mieumdia.
Housay,Ludi enny hevira.
Ludi anay fury leen mieum heim.
どうして私がそんな歌を知っているのかもわからない。そもそもこれがどこの言葉なのかもわからない。でも、どうしてかこの歌の意味だけは知っていた。
世界はかつて光だった。この歌はそんな一節から始まる、世界創造の物語だ。
私はこの歌を知っている。遙か昔に、誰かにこの歌を子守歌代わりにして歌った覚えがある。その時の私はそのことに何の違和感も感じていなかった。それは本来とてもおかしなこと。実質活動一年にも満たない私が持っているはずもない過去の記憶。でも、その時の私はそんな記憶がある自分自身になんの疑問を持つことはなかった。
しばらくそうしているうちにギースの顔は次第に穏やかなものに変わっていく。その寝顔はまるで子供のようで、見ていると何となく微笑ましく思ってしまう。普段難しい顔か、もしくは呆れたような顔のどちらかしかしないギースだけど、どうしてか寝ている時だけはちょうど今のような、本当に子供のような無邪気な顔を見せることがある。無邪気で、純粋で、無防備で……そんなギースの顔を見ているとどこからともなく被虐心、というかイタズラ心みたいなものがこう、むくむくと。そう言えばさっきは濡れハンカチや雑巾を顔にぶつけられたっけ……。
そんなことを考えながら何の気なしに、部屋をぐるりと見渡すとちょうど手の届く位置にほどよく湿った雑巾を発見。無意識のうちにそれを掴む。
さてはて、私はこんなものを掴んで何をするつもりだろう。そう思いながらも目は雑巾とギースの顔を行ったり来たり。仕返しなんて、そんなことはするもんじゃない。と心の中で思いながらも雑巾をゆっくりと彼の頭上に持っていこうとする手は止まらない。
心臓があるわけでもないのに、ドキドキと胸が高まる感じがする。荒くなった自分の息が耳について仕方がない。
ゆっくりゆっくりと雑巾を持った手を動かす。目をつむって深呼吸。吸って、吐いて、また吸って……
そしていざ目を開けると、
「…………」
いつの間にか目を覚ましていたギースが怪訝な顔で私を見ていた。
「雑巾なんか持って、何がやりたいんですか」
「えっと、その〜……お、お掃除?」
無言でギースは身体を起こすと深く深くため息を吐く。
「なんと言うか……本当に懲りない人ですね」
「あ、あぅ……い、痛いですギース」
手元に置きっぱなしにしてあった本でギースは私の頭をぺしぺしと叩く。
「折角膝枕をしてあげたのに……酷いですギース。イジワルです」
「さっきの仕返しで雑巾をスタンバイしていた人が言うセリフですか」
「寝ている時は無邪気な顔で可愛かったのに―――って、イタっ! ちょっとギース、角はいくらなんでも痛いですよ!!」
ぼそりと呟いた私に対して、ギースはぼかりと手にした本の角で強く私の頭を一撃、夕食の準備をしてきますと言って台所へ行ってしまう。
せかせかと足を動かす彼の背中をずきずきと痛む頭を押さえながら恨みがましく見ていると、彼の耳が真っ赤になっていることに気がつく。
ギースが……赤くなってる? 今まで一度たりとも表情を崩すことがなかったギースが?
頭が痛いことも忘れて私はにやける口元を押さえるのに必死だった。
ギースが顔を赤らめる。それにさっきのあの態度。あれは明らかに恥ずかしがっている人の態度だった。
それは私にとっての希望。ギースはそのことに気が付いているのだろうか?
あぁ……やっぱり間違っていなかった。ギース、あなたは心を失くしてなんていない。あなたにはちゃんと心がある!
そのことが嬉しくて、ついでに今さらながら膝枕をしたことが恥ずかしくなってきて、私は空いたソファーに顔を埋めて夕食が出来上がるまでの間ひたすら悶え続けたのだった……
夕食を済ませた後、私は自分の部屋にある小さな机に向かっていた。
私の夜は早い。いつも日が沈んでからそう時間が立たないうちに寝てしまう。その主たる理由は二つ。
一つは私の朝が早いこと。今日こそたまたま、そう、本当にたまたま失敗してしまったけれど、ここ数ヶ月で家事にも慣れた私は夜更かしさんで朝が弱いギースに代わって朝の家の仕事を一手に引き受けていた。でも慣れてきたとはいえ、家の仕事を全部一人でやろうとするとどうしても時間がかかってしまう。だから私が起きるのはいつも日が昇るのとほぼ同時、早い日には鶏が声を上げる前に起きる時もある。
もう一つの理由は純粋に金銭面の問題。博士が死んでしまったこの家は基本的に博士が残したお金と、ご近所さんからのお裾分けで成り立っている。ギースも頑張っているけれど、やっぱり収入はスズメの涙ほどしかなくて、基本的にこの家は金欠状態なのだ。そうなると夜の灯り代もバカにならない。どうせ起きていてもやることがないのだからさっさと寝てしまった方が賢いというものだ。だから私が夜、日が落ちてから自室に灯りをつけるのはほんの数分間、日記にその日あったことを書き連ねる時だけだ。
私の唯一の習慣、研究室で初めて目を覚ました時に博士から貰った一冊の日記帳に今日あったことを書き連ねていく。
今日はまた失敗しちゃったな……お料理焦がしちゃって、もったいない。ギースにも怒られちゃったし、なんで寝ちゃったんだろうな。やっぱりこの陽気のせい?
なにか夢を見た気がするんだけど……どうしても思い出せない。とても、大切な夢だった気がしたんだけど……なんだったかな。まあ夢なんてそんなものだよね。
あぁ、でも今日はギースが赤くなっているところも見れたし、その……ひ、膝枕、もしちゃったし。うん、今日はやっぱりいい日だったんだ。そう思うことにしよう。
一頻り書き終えて日記帳を閉じてベッドに入る。
灯りを消して眠りに落ちる瞬間、ふとした疑問が頭に浮かんだ。
そう言えば私、あの時いったい何を作ろうとしたんだっけ……
夢、夢の中で私は考えている。彼のこと、自分のこと、これからのこと。そもそもアンドロイドである私には睡眠は必要がないものだ。私が今こうしているのだって、身体や思考回路に過度な負荷をかけないよう定期的な休息の時間として"睡眠"がプログラムされているからにすぎない。
私が眠くなるのは二種類あって、一つは身体が疲れた時、もう一つは考え過ぎた時。睡眠もそれに合わせて二種類あって、後者の方では普通の人の睡眠とほとんど変わりはないけれど、前者では睡眠、というより身体の機能が一時的にダウン状態になっている、といった方がしっくりくる。この状態では私の意識はわりとはっきりしていて、あえて言うなら、そう、覚醒夢状態にある。
だから私は、身体への負担を軽減する睡眠の時間を普段はなかなか考えられないことやまとめられないことを考える時間に当てている。
そういえば、最近どうにも調子が悪い。自分の身体に異常を感じ始めたのはいつからだろう。今日のように突然眠くなったり、自分が何をしていたのかふと忘れてしまったり、突然眩暈がして転びそうになったり。原因はわからない。もしかしたら自分が思っている以上に疲れているのかもしれない。
身体に不調を感じる日の夜にはなぜか同じ夢を見る。今は意識もはっきりしているけど、もうしばらくすれば本当の意味での眠りに落ちるだろう。そうしたらたぶん、またあの夢を見る。
それは優しい夢。たくさんの思い出に囲まれ、たくさんの囁きに包まれたここではないどこかの夢。でも同時に悲しく寂しい夢。手の届かない虚像の中で動くこともできずにただ虚ろに漂う夢。どれほど手を伸ばしても思い出に手を触れることが出来ない夢。
そしてその夢では最後に決まって彼が出てくる。私を無表情に見下ろす彼。何かを呟いているけれどノイズがかかったようにどうしても聞き取れない。そして私は暗い闇の中に沈んでいくのだ。
次に見るのはまだ小さな、ほんの小さな男の子の夢。その子は私の腕の中ですやすやと眠っている。私はその子の頭を優しく撫でながら遙か昔の伝承を口にする。
―――遙か昔、一人の悲しみに天と地が裂けて混沌が世界に溢れだしそうになった。
―――少年の悲しみは誰にも癒すことが出来なかった。賢い王様も、力強い兵士も、商売上手な商人も、おどけたピエロも、誰一人彼の悲しみを癒すことは出来なかった。
―――少年は悲しみ続けた。一晩中涙を流し続け、最後にはその涙すら流れなくなり、いよいよ天と地は裂けんばかりとなった。
―――その時一人の少女が少年の手を取った。誰も知らない、どこからともなく現れた少女だ。
―――少女は少年の手を握ると小さく微笑んで「私があなたの悲しみを連れていきましょう」と言って少年の額に優しく口付けをした。
―――すると少女はまるで最初からそこにいなかったかのように光の粒子となって空に溶け込んでいった。そして、それと同時に少年の悲しみが嘘のように消え去っていった。
―――しかし少年の悲しみは消えただけ癒えた訳ではなかった。悲しみを失くした少年は、少女がいなくなったことで喜びも失ってしまった。
―――少年はそれから先、ずっと消え去った少女の面影を探して、虚ろな人形のような生を送っていったという……
それはとても悲しく残酷な物語。世界だけが救われて、少年は決して救われることがなかった悲しい結末のお話。
だから私はいつも、心の中でその物語に続きを付け加える。
決して救われない物語を救うその後の少年の物語。
―――少年は少女を求めて毎日毎日街をさまよった。お店の一つ一つ、薄暗い裏路地の一つ一つを足が棒になるまで歩きまわって少女を探した。
―――しかしそれでも少女が見つかることはなかった。しかし少年は決してあきらめなかった。
―――そんなある日、少年は夢を見る。そこは街の近くにある草原であって、そらに無数の光が浮かんでいる、この世界のどこでもない場所。
―――少年はそこで空に浮かぶ光たちが集まって人の形を作るのを見た。人の形を作って、その右手を少年に向けておいでおいでをしているのだ。
―――そこで少年は目を覚ます。目を覚ました少年は矢も盾もたまらず夢で見た草原を目指して夢中で駆けだした。
―――少年が草原で見たのは、草の中で横たわる少女の姿だった。
―――少年が少女に近づくとどこからともなく白い光の玉が空から落ちて、少年と少女の中に入っていく。
―――すると少女はゆっくりと目を覚まし、少年に微笑むと再びその額に口付けをするのだった。今度はもう二度と、離れることがないようにしっかりとその手を握りながら……
それは私の希望。決して叶わぬ私の望み。
今日は、今日こそは……この話をあの子に伝えることが出来るといいな……
そんなことを考えながら、夢の中に落ちてゆく。
閑話休題1
さてと、このあたりは君にも以前に話した内容だったね。
ん? あの歌かい?
あれは遙か昔に失われた言語で作られた歌だよ。彼らが生まれる生まれるよりずっと前の世界。とうに滅びた世界の子守唄。
『かつて世界は光だった
光は集まり、そして世界を創った
次に光は無機質な世界に命を生み出そうとした
しかしどれほど光が有機を創り出してもそれが動くことはなかった
そして光は自ら命の器に入り込んだ
瞬間、世界に変化が現れた
世界には光が満ち、命が芽吹いた』
かつて滅びた世界の、誕生を語る歌だ。
そうそう、君には前にも似たような話しをしたっけね。
おや、そっちの彼女もこの話を知っているのかい? それはまた何とも奇遇だね。この話はごく一部の人しか知らないはずなんだけどな。
あぁ、うん、それじゃあ続きを話そうか。
君は知っているだろう? 少女がおかしくなり始めたのは男と出会って一年が過ぎたあたりからだ。でも実際のところ、少女の異変はずっと前からあったんだ。ただそれが些細過ぎて誰も気がつかなかっただけでね。
そうだね、例えばここによく勘違いをしたり、何もないところで転んだりするAという人物がいたとしよう。Aは君が出会った当初から何もないところでよく転び、毎日何らかの勘違いをしていた。彼はそんな自分をドジだと自嘲していた。でも実は、彼は世にも珍しい奇病にかかっていて、彼が転んだり勘違いをしたりするのは病気の予兆だった。
さてここで質問。君は彼に本格的な症状が出る前に彼が病気だと気がつくことができるか。
そう、きっと出来ないだろうね。だって彼は出会った時からずっとそうで、君はそうでない"正常"な彼を知らないのだから。
彼女に関しても同じことが言える。彼女の異変はあまりに些細過ぎて、誰もそれが異変であることに気がつかなかったんだ。よくよく考えればわかることなのに、彼女があまりにも"ヒト"に近しいせいで誰も気づくことが出来なかった……。
そう言えば以前、君は不思議そうにしていたよね。
なんで少女は動かなくなってしまったのか、彼女の『運命』とは一体何なのか、って。
それじゃあ今からそのあたりのことを少しだけ話そう。
なんで少しだけかって? 前にも確か言ったことだけど、この話は古い古い昔話で何があったのか、どうしてそうなったのかわからないところが多々あるって。
言っておくけど、僕がこうして君に話していることは全部本当のことだし、僕はこの話について知っていることすべてを君に話しているんだ。と言うよりとある事情につき僕はこの件について君たちに嘘を吐くことが出来ないしね。
僕の事情? それは秘密だよ。僕にだってプライベートってもんがあるからね。
まあそれはともかく、そんな訳で僕は嘘を吐くことが出来ないから、僕が話していないこと、それはつまり僕も知らないことってわけだ。
さて、前置きが長くなっちゃったね。それじゃあ始めよう。
君はパソコンを持っているかい? まあ一昔前ならともかく、最近じゃあ一人一台は当たり前か。
それじゃあ一つ質問しよう。君が持っているパソコン、そこにものすごく重たいプログラムをインストールしたとしよう。そうすると君のパソコンはどうなるかな? そう、きっと動作が遅くなるだろうね。
それじゃあ次だ。もしもそのプログラムに致命的なバグがあったら。そのバグはただでさえ重たいプログラムをさらに重たくするものだった。そうすると君のパソコンはどうなるかな?
少女の存在はまさにその"すごく重たいプログラム"そのものだ。0と1の集合で"ヒト"を作ろうとしているのだから当然と言えば当然だ。
プログラムの規模が大きければ大きいほど、その内にあるバグは計り知れないものとなる。たった一つの計算ミスでプログラムのすべてが崩壊する可能性もある。そういう意味では、彼女が今まで普通に生きていたこと自体が奇跡に等しいことだったんだ。
彼女の身体の内にある、たった一つのミス。それは彼女を"ヒト"と等しい存在としてしまったことだ。
知っているかい? 人と動物の決定的な違い。それは泣くことが出来るか出来ないかじゃない。嫉妬することが出来るかどうかだ。嫉妬という理不尽で不可解な感情はね、人以外の脳で構成するには余りにも要領が大きいものなんだよ……
少女は毎晩のように夢を見るようになる。本来、人で言う脳に値する機能が一定の負荷値を超えた時だけに見る夢を毎晩のように、だ。
彼女は毎晩夢を見て、朝になるころにはそれを忘れてしまう。
夢の中の少女はすべてを知っていて、そして夢から覚めた少女はすべてを忘れる。
だからこそ彼女は残酷な運命の中を穏やかに暮らしていけたんだ。
でも、そんな穏やかな時の流れが狂い始める。
それは、少女に芽生えた一つの感情。本来持ちえるはずのないそれによって、彼女の穏やかな時間は確実に崩壊へと傾いていった……
第二部 覚醒 Sideミトラ
最近よく夢を見るようになった。悲しい夢、楽しい夢、恐ろしい夢、辛い夢、切ない夢、そして温かい夢。
それはいつも全く違う時代、違う世界、違う人物の夢。それなのにいつも同じ夢。いつも違う始まり方をして、いつも同じ終わりを迎える夢。この夢が何を意味するのか私にはわからない。
でも、漠然とわかることがある。矛盾しているとは思う。矛盾しているけれども、それはとても確かなこと。
夢は始まり。0と1の集合でしかないはずの私の心に生じた小さなバグ。ギースを見ていると胸のどこからか湧き上がってくる愛情にも、憎しみにも似たもやもやとした気持ち。本来なら私が持ちえるはずのない感情。それが私の心を、身体を、少しずつ、少しずつ、蝕んでいく。でも、それを知っても私にはどうすることも出来ない。"ミトラ"は自分の運命からは決して逃れることは出来ない。そう、決して……
目覚めたばかりの頃は毎日が新しいことばかりで、チャレンジと失敗を繰り返すとても慌ただしい日々だった。少しこの生活にも慣れ始めた頃には、私の目はいつもギースの姿を追っていて、彼に何かしてやれないだろうか、どんなことをしたら彼は喜んでくれるのだろうか、そんなことばかりを考えていて、やっぱり慌ただしく日々を過ごしていた。
ここで目覚めてもうすぐ一年が経とうとするころ、最近になってようやく、ときどきではあるけれどもとても静かで穏やかな時間が流れるようになった。それは例えば陽射しが暖かい日の午後、私が一頻り家の中の仕事を終えて、彼も書いている論文に一区切りをつけて、二人で何をするわけでもなく居間にあるソファーに座ってコーヒーなんて飲みながらぼんやりとする。あるいは二人揃っていつもより少しだけ早く起きてしまった明け方、示し合わせた訳でもないのに洗面所で鉢合わせて、それが何だか面白くてお互いの顔をぼーっと見ながら時が過ぎるのを感じる。そんな時、いつも時間の流れが酷くゆっくりで、何があるわけでもないのにとても幸せで、なんだか胸のあたりがほんわりと温かくなる。
私はあのゆったりとした時間が結構好きだったりする。ゆったりまったりしていて、温かくて穏やかな時間。機敏だとかテキパキだとかいう言葉とはもともと縁遠い私にはこうした時間の方が肌に合っている気がする。もっとも、こんなことを言ったらギースに「その割にはいつもあなたはあたふたしてますけどね」なんて笑われてしまいそうですが。
逆に最近になって嫌いな時間も出来た。それは今みたいにギースが論文を書くために自分の部屋に引きこもっていて、そして私は何もやることがなくなってしまった一人ぼっちな時間。何もすることがなく、見つめる相手もいない時間。昔は何でもなかったのに、最近だとこんな時間が出来るとついつい色々と考えてしまう。
例えばお金のこと。今はこうして博士が残した遺産や近所の人からのお裾分けで不自由なく暮らしているけど、いつまでもそれに頼るわけにはいかない。ギースも何とかお金を稼ごうと論文作成の合間に色々とやってはいるものの、それで得られる賃金は文字通りスズメの涙程度。それでもきっと、彼一人ならどうにかなったのだろう。
でも……私はアンドロイドなのに活動維持のために人と同じくらい食べなければいけない。定期的にお風呂に入らなければ身体に着いた塵や埃、こびりついた汚れが原因で、システム自体に問題が起きて活動に支障をきたす恐れがある。つまり、私はアンドロイドの癖に、その活動を維持するために人一人を養うのと同じだけの費用がかかってしまうわけだ。彼一人の稼ぎで二人の人を養うことは到底不可能だった。私の存在が彼への負担になってしまう。そのことがとても辛く、悲しい。
心配事はそれだけじゃない。私が抱える心配事の、そのもっとも大きくて重たいもの。それは自身の身体のこと。
とくに最近になって、私の身体はしばしば不調をきたすようになってきた。その一つ一つはとても些細なこと、今までだってよくやってきたドジに過ぎない。例えばふとした瞬間に何をやろうとしていたのか忘れてしまったり、よく似た色の調味料を入れ間違えてしまったり、何もないところで転びそうになったり、そんな些細なこと。でも、それは今までやってきたドジとはほんの少し違うもの。不慣れからくるものじゃなくて、もっと根本的な、私の内からくる間違え。もし万が一、私の機能の一つでも壊れてしまったら、それを直せる人はもうこの世のどこにもいない。壊れてしまったら、私はもう二度と動くことは出来ない。
例えこの不調がなかったとしても、いつかは私は壊れて動かなくなってしまう。どれほど人に似せて作られていても所詮はアンドロイド。私が動かなくなってしまうのはギースが死ぬよりずっとずっと早いだろう。いつの時代でも、人の手で作られたものは基本的に、人よりずっと短命なのだ。
もし私が動かなくなってしまったら、ギースはどうなってしまうのだろう。両親に捨てられて、博士を亡くして、その上私すらいなくなってしまったら、彼はどうなってしまうのだろう。それを考えると、とても恐ろしい。
他に考えることはいくらでもあるだろうに、一人ぼっちな時間の私はいつもいつも暗いことばかりを考えてしまう。
―――ピンポーン
だから、突然なったその呼び鈴の音は私にとってはまさに救いの音色だった。
また御隣のおばさまが何か持ってきてくれたのだろうか。いつも貰ってばかりで少しだけ胸が痛む。それとも近所に住んでいる子供たちが遊びに来たのだろうか? 前はアンドロイドである私を遠巻きに見るだけだった子供たちもここ最近ようやく私に慣れてきたのか、これぐらいの時間になると私が暇になると知っているのか、よく私を連れ出しに家に来るようになっていた。あるいはセールスマンでも迷い込んできたのだろうか。この辺はそういった類が入ってこない場所だけど、それでも全く来ないと言う訳ではない。今までも2回だけふらふらと迷い込んできたセールスマンがいた。
そんなことを考えながらも、誰であろうとお喋りの相手が出来たとうきうきした気持ちで玄関へと向かう。
「は〜い、今出ますね」
しかし玄関を開けた先にいたのは御隣のおばさまではなく、近所に住む坊やでも迷い込んできたセールスマンでもなかった。
「あ〜っと……ここはギース、ガイストさんのお宅よね?」
そこにいたのは背の高い女性だった。歳はギースと同じくらいだろうか。綺麗な女性ではあったけれど、化粧っ気はないに等しく、目の下には隈が浮かび、髪はぼさぼさだ。それなのに人を惹きつけて止まない。そんな不思議な魅力を持った女性だ。
初めて見るタイプの訪問者に、私は思わず対応を忘れて彼女に見入ってしまった。彼女はギースのことを知っているようだった。ということは彼の知り合いだろうか?あるいはもしかしてもしかすると……恋人? でも私はギースからそんな話は聞かされたことがない。でも彼女はギースととても親しそうだったし……
「えっと……あなた、大丈夫?」
「ふえ? あっ! だ、大丈夫です!」
彼女に声をかけられてはっと我に帰る。そうだ、ギースを呼ばないと。
「少し待っていてくださいね。今ギースを呼んできますから」
そう言って私が彼女に背を向けるのとほぼ同時に、ギースが部屋から出てくる。論文に一区切りがついたのだろうか、その顔からはピリピリとした様子は見られず、呑気に欠伸なんかしている。
「ギース! お客様がいらしていますよ!」
玄関に立つ私たちに気付かずにリビングへ向かおうとするギースを呼びとめる。
「ミランダ? どうしてこんな所に」
私の声でようやく来客に気が付いたギースは、玄関に立つ彼女を見ると珍しく少しだけ慌てたように(といっても顔は無表情だけど)速足で玄関に向かってくる。
「あら珍しい、冷徹ロボットことギース・ガイストが慌てるなんて。そんなにそこの可愛らしいお嬢さんに私のことを知られたくなかったの?」
そう言ってクスクスと笑うミランダと呼ばれた女性に少しだけ驚く。私や博士以外にギースの心の中の表情を読むことが出来る人がいるだなんて思ってもみなかったから。私はそれを、ギースと親しい者の特権のように思っていたので余計にだ。
胸の奥底がもやもやする。それはここ数ヶ月ずっと感じてきた彼への愛おしさに似ていて、それでいて少し違う感情。私が知らないはずの心。
「ギース、この人はお知り合いですか?」
そのつもりはなかったのに気づけばギースを咎めるような口調になっていた。そりゃあ、ギースにだって人付き合いはあるだろうし、いちいち私にそれを報告する義務なんてない。私と暮らし始めてまだ一年も経っていないんだし、私より親しい人が外にいたとしても何ら不思議じゃない。
でも一応一緒に暮らしているわけだしそういう関係の人がいるならそうと早めに言ってくれないと困ってしまう。何が困るのかはわからないけど、とにかく困る。
ずいっと一歩詰め寄ると、ギースは片手で顔を覆うようにして目をそらし、私の問いに応えようとしない。そんな彼の様子を見て、私の中にあったもやもやが強くなる。
「どうなんですかギース。答えてください!」
ギースが私の問いかけに答えず、それどころか悪いことが見つかった時の子供のようにあからさまな態度で目をそらしたもんだから必然、私の語感は強くなっていく。
一歩彼に近づくと、彼は目を泳がせながら一歩引き下がる。また一歩近づくと彼はまた一歩下がる。
そんな私たちのやり取りを女性はさも楽しそうに見ながら片手の小指を一本だけ立てながら、
「なによギース。もしかしてそこの可愛らしいお嬢ちゃんはあなたのこれ?」
と小指を立てた指を軽く振る。そんな彼女の仕草にギースはため息をつく。
「な・る・ほ・ど〜♪ さてはそこの彼女さんに嫌な顔をされるのが嫌で、私のことをずっと隠していたのね」
「彼女に君の話をするとややこしそうだし、君に彼女のことを言えば面倒なことになるのがわかっていたから言ってなかったんですよ」
それに君のことをわざわざ話すような機会もなかったですしね、と言いながらギースが私と彼女の間に割って入る。
「あら、寂しいことを言うわね。私とあなたの仲じゃない」
「仲、と言ってもただの学友じゃないですか。まったく、あなたは全然変わっていませんね。すぐにおもしろそうな方、おもしろそうな方へと話しを持っていこうとするところなんて、学生時代からの悪い癖ですよ」
「あなたのその堅苦しい喋り方も変わってないわね。女の子と暮らして少しは変わっているかとさっきは思ったのだけど、そうでもなかったみたいね」
どことなく楽しげに会話を交わす二人。
それを彼らから一歩離れたところで見つめる自分。
胸の中にあるもやもやがどんどん強くなっていく。二人が話しているのを見ているのが辛くて仕方がない。
もし、もしもここで、ギースが笑ったら……それはきっと嬉しいことのはずなのに、感情を表すことが出来なかったギースが初めて感情を表す相手、それが自分でなかったとしたら……きっと、私は耐えられない。
「とりあえず仲に入って下さい。誤解を解くためにも一応、彼女に君のことを紹介したいですし。君に彼女を紹介したくはないのですが」
「そうね、なんか言葉に棘を感じないでもないけど、まあ積もる話もあるし、そうさせてもらうわ」
二人は一歩下がって立ち尽くす私に気付くことなく、居間へと向かう。
ギースが私を置いて遠くへ行ってしまう。そんな妄想に取りつかれる。そんなはずがないのに、今だってあの女性に私のことを紹介したいと彼は言っていたのに、なぜか彼の心の中から私が消えて行くような、彼の心が私から離れて行くような、そんな恐ろしい考えが頭から離れなくなる。
気づけば大股歩きで家の中、自分の部屋へと戻り、ベッドの上に置いてあった買い物袋を片手に玄関に向かっていた。
それに気が付いたギースが慌てて私を追ってくるが、私は振り向くことなく、「買い物に行ってきます」と言って彼の制止の言葉を聞くことなく家を出た。
今は一秒だってあの家にいたくなかった。少しでもあそこから遠ざかりたかった。あそこは寂しい。誰も私のことを見てくれない。ギースの心が……私に向いていない。
足早に街を歩いていく。途中なんどか声をかけられたような気がしないでもないけれど、自分のことで精一杯でそれに応じるだけの余裕はなかった。
私を見てくれないギースを見るのは初めてだった。そして出来ればそんなものは見たくなかった。
ギースが彼女に向けて一言喋る度に胸が苦しくなる、彼女が一言発する度に心が暗く淀む、二人が一緒にいるところを見るだけでもやもやが大きくなる。
胸の中で膨らんでいくもやもやをどうにかするように、そして自分の中から新たに湧き出てきた澱んだ何かを追い払うように、足早で通いなれた商店街へと続く道を歩いていく。
買い物は好きだった。今日は何を作ろうか、ギースはどんなものだとよろこんでくれるかな、そんなことを考えながらの買い物はとても楽しい時間のはずだった。でも今日はちっとも楽しくない。大好きなはずの買い物をしていても頭から二人が親しげに話している光景が離れてくれない。
むきになって買い物を続ければ続けるほど胸の中にあるもやもやが大きくなっていく。さっきは一秒でも早く離れたかったのに、今度は一秒でも早く家に戻って彼女から彼を取り戻したい気持ちに駆られる。
それでも必死になって買い物を続ける。意地もあるけど、それ以上に怖かった。あの場所に戻って、自分の孤独を再認することが。ギースにとって私はただの同居人でしかなくて、彼が一向に笑わないのは彼が私に心を許していないせいだと、そう思い知らされてしまいそうな気がして、私は家に戻りたくても戻れなくなっていた。
「……あれ? ここは、どこ?」
そうして必死になって買い物を続けているうちに、私はいつの間にか見知らぬ路地に入りこんでいた。
そこは、はたしてどこなのか。どこまでも続く真っ直ぐな石の歩道に一定間隔で並ぶ同じような外装の家々。住宅が密集しているせいか日の光は遮られてどこまでも薄暗い道が続く。
同じような風景がずっと先まで続いているせいか、はたまた人っ子一人いないせいか、そこはいつも使っている商店街からそう大して離れていないはずなのに、全く別世界に迷い込んだような、そんな不思議な感じがした。例えるならそう、二枚の鏡を合わせて作った鏡の無限回廊の世界。
初めて来た見知らぬ場所。たまたま、偶然迷い込んだ迷い道。なのに、どうしてだか私はこの道を懐かしいと感じている。初めてのはずなのに、確かに私はここを歩いたことがある。
矛盾していると思う。でも確かに"私"がここに来たのは初めてで、"わたし"は以前、ここに来たことがある。この道に迷い込んで、そして声を聞く。老人のようなしわがれた声の男性の声、少しヒステリックな甲高い女性の声、舌足らずな幼い子供の声、力強くて少し野暮ったい感じがする野太い声。
様々な声が口々に私を責め立てる。お前はどうしてこんなところにいるのか、どうしてお前は逃げ続けるのか。
バカバカしい。自分で自分の頬を叩いて浮かんでは消えていく嫌な妄想を頭の中から追い払う。迷子になって、こんな変な道に入ってしまったからこんな変な妄想をしてしまうんだ。とにかく道を戻って大通りに出よう。家から大した距離を歩いた訳でもないし、大通りまで出れば帰り道もわかるだろう。そう考えて道を返そうとしたその時、私はあの声を聞いてしまった。
「あぁ、やはりあなたはここに来てしまったのですね」
それは老人のようなしわがれた声。妄想の中で私を責め詰っていた声の一つ。
「だれ?! どこにいるのっ!」
違う、これは現実だ。私の妄想とは違う。頭の中ではそう考えながらも私の声は恐怖と混乱に震えて、足は地面に張り付いたように動かなくなっていた。
「あなたはそうやって現実から目を逸らすのですね」
今度聞こえてきたのは若い女性の声。辺りを見渡しても若い女性の姿は見受けられない。それどころか路地はがらんとしていて、生ける者の気配が全く見受けられない。当然、人が隠れられるような場所はなかった。
「あなたに与えられている選択肢はたった二つ。どちらもとっても簡単なこと」
「なのにお姉ちゃんはどちらも選ばない。どっちも選ばずに、どっちも失っちゃう」
声が私を責め立てる。
幼い少女の声が、野太い男性の声が、枯れるような小さな声が、怒りに満ちた大きな声が、耳が痛くなりそうな甲高い声が、地の底から聞こえてくるような低い声が、私を詰り、嬲り、責め立てる。
「いつになったら動くの?」
「いつまで逃げるつもりだ?」
「その先に光がないと知りつつ」
「どうしてあなたはそこから目をそらし続ける」
「答えはこんなにも簡単なのに」
「どうしてそんな簡単な二択が選べない?」
誰もいないはずの路地で、多くの声に詰られる。
気が狂いそうだった。いっそ狂ってしまった方が楽だったかもしれない。でも、私の心はそう簡単には狂えない。だって私は……
「じゃあ、また彼を殺す?」
その声にハッと頭を上げる。
誰もいないはずのそこにあったのは、見知った幼い少女の姿。真っ赤なパーティードレスを着て、右手にはケーキカット用の大きなナイフを持ち、着こんだドレスよりも紅い赤でその手を染めた少女。
「それはとっても簡単なこと。答えを選ぶよりずっと簡単。こうやって刺してしまえば答える必要なんてない」
そう言って少女はゆっくりと手に持つナイフを自分の胸の前に持ってきて、
「や、めて……」
私の口から懇願の声がこぼれ落ちる。もう許して下さい、何で私がこんな目に、もう嫌だ、何も見たくない、何も知りたくない……
「そうやっていつまでも逃げ続けるといいよ、お姉ちゃん」
少女はためらうことなく、そのナイフを深々と胸に突き刺した。
瞬間、少女の輪郭がどろりと解けて、代わりに胸からナイフを生やした見知った男性の姿が出来上がる。
男性は一瞬だけ驚いたような顔をして、その後すぐに優しげな笑みを浮かべて私に手を伸す。まるで、心配しなくていい、そう言うかのように……
怖い。その姿が、その微笑みが、その言葉が、私の奥底に眠る恐怖を刺激する。
逃げたい。今すぐここから、逃げなきゃいけない。でも足は震えて動かない。恐怖で体中が硬直して男から視線をそらすことすらできない。
ゆっくりと男と私の距離が縮まっていく。じりじりと緩慢に、それでも確実に。
そしてついに男の手が私に―――
「いやぁあぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
「ちょっとあんた、大丈夫かい?」
誰かに身体を揺さぶられてはっと我に帰る。何が起きたのかはわからない。そこは見慣れた商店街、目の前にいるのは肉屋のおばさん、そして私の右手には買い物袋。
おばちゃんが酷く心配そうな目で私を見ている。それ以外の人は私を好奇の視線で見るか、あるいはあからさまに目をそらしている。
「いきなり叫んじゃって……気は確かかい?」
「い、いえっ、何でもないです。だ、大丈夫。ちょっと寝不足で、それでうつらうつらとしてたら変な夢を見ちゃって」
「うつらうつらって……あんた、立ったまま寝てたのかい。また随分器用なことを……」
とっさの返事におばちゃんは呆れたような顔をする。そりゃそうだ。逆の立場だったら私だって同じ反応をするだろう。
納得したような、いまいち納得できないような、そんな微妙な顔をしながらお肉の塊と小さめのコロッケがいくつか入った紙袋を出してくる。
「こっちのコロッケはおまけ。まったく、ちゃんと若いからって夜更かしなんてしちゃダメよ。寝不足はお肌の大敵なんだから」
「あははは、心に止めておきます。いつもおまけありがとうございますね」
代金と引き換えにお肉とコロッケが入った袋を受け取り店を離れる。
さて、私はいったいどうしたのだろうか? なんだかよくわからないけど、記憶が酷くあやふやになっている。
ギースにお客さんが来て、胸がもやもやして、買い物袋を片手に家を飛び出したところまでは覚えている。でもそこから先の記憶が霧がかったようになっていてどうしても思い出せない。
家を出た時にはまだ空高くにあった太陽がいつの間にか随分低い位置にある。それほどの長い時間を、いったい私はどこで何をして過ごしていたのだろうか?
胸のもやもやはいつの間にかなくなっていたけれど、その代りに身体が酷く重い。すれ違う人もなぜか私を酷く心配そうな目で見てくる。それほど酷い顔をしているのだろうか?
ペタペタと自分の顔を触ってみたけれどもよくわからない。
やっぱり疲れているのだろうか? とにかく早く家に帰ろう。もしかしたらギースが帰りの遅い私をギースが心配しているかもしれない。
そんなことを考えながら、私は急ぎ足で帰り道を歩いていった。
第三話 ミトラと子犬 Sideギース
「ミトラ? どこに行くのですか!」
「……買い物に行ってきます」
「買い物って……あっ! ミトラっ!」
その場から逃げ出すように家を飛び出して行ったミトラを、私は茫然と見ることしかできなかった。
唐突過ぎて正常な判断能力が働かない。追いかけるべきか? しかし買い物に行くって……でも明らかに様子がおかしかったし。いや、だがミランダを一人家に置いておく訳には……
回らない頭の中で同じ言葉がぐるぐると廻る。決して答えが出ない、問いかけばかりの無意味な思考。止まらない、わからない、私は何をすべきなのか、追いかける、追いかけない、なにか酷く嫌な予感がする……
「あらあら、彼女ったらどうしちゃったのかしら」
「…………ミランダ」
そんな声にようやく我に帰る。振り返った先にはにやにやとした嫌な笑みを浮かべたミランダがいた。
「残念ね、彼女とはもう少しちゃんとお話ししたかったのに。なにか急用でもあったのかしら」
「なんでもありません。ちょっと買い物を頼んでいたもので」
「そう、本当に残念」
そう言うとくるりと身体を反転させてミランダは一人でリビングの方へと歩いていく。
それでも私はしばらくの間そこから動けなかった。とてつもなく嫌な予感、今ここでミトラを追いかけないと取り返しのつかないことになりそうな、そんな予感に縛られていた。
やがてリビングの方から食器をカチャカチャさせる音が聞こえてくる。おそらくミランダによるものだ。私と同じく学生時代は先生の下で学んでいた彼女は以前に何度となくこの家に来ている。大方お茶でも入れているのだろう。
「ギース、お茶が入ったわよ。そんなところに突っ立ってないでこっちに来てお茶にしましょうよ」
「あぁ、すぐに行きます」
そう答えてリビングへと向かう途中でさえ、私はまだ外に飛び出ていったミトラを追うべきかどうか迷っていた。
リビングに入ると紅茶の甘い香りが漂ってくる。ダージリン、学生時代のころから彼女が好んで飲んでいた紅茶だ。昔、先生がまだ生きていた時のことを思い出して少しだけ懐かしく感じる。あのころは彼女が来るたびに先生がどこからともなくお茶菓子を出してきて、彼女が入れた紅茶と先生の用意したお茶菓子でお茶会のまねごとをしたものだ。
「ん〜、いい香り。今日はなかなかにいい紅茶が手に入ったのよね〜」
自分で入れた紅茶の香りを嗅ぎながら満足そうにミランダが笑う。
「ほら、今日はお茶菓子もちゃんと持ってきたのよ。学校の近くにあるおいしいって評判のケーキ屋さんのクッキー。あっ、あなたの可愛い恋人の分もちゃんとあるから安心してね」
「恋人ではないですよ」
「あら、照れなくてもいいのに」
昔から変わらないやり取りをしているうちに私はそれまで感じていた嫌な予感のことをすっかりと忘れていた。
彼女は私にとって数少ない理解者であり友人だった。彼女も今はどこかの研究室に勤めている。決して暇ではないはずだ。そんな中を、何かと茶化してはいるが、何だかんだで私を心配してわざわざ様子を見にここまで訪ねに来たのだろう。先生が死んで一年近く経ってから様子を見に来る辺り、彼女らしい気遣いだ。たぶん先生が死んですぐだったら、私は誰とも話そうとしなかっただろうから。
昔から何かと彼女には世話になっている。ある意味では先生以上に感謝をしなければいけない相手なのだろう。もっとも、感謝の言葉なんて言った日には何を言い出すのか見当もつかないので絶対にそれを口にすることはないのだけれども。
「うん、思ったより元気そうで安心したわ。と言うより思った以上に元気になっていたからびっくりしたと言うべきかしら」
「今日はわざわざそのために来たのですか? あなたも随分と暇なのですね」
「うっわ、忙しい中わざわざ訪ねに来た友人に対する言葉がそれ? ちょっと人間性を疑うわ〜」
そんなことをいいながら彼女は楽しげに笑った。
「私は『冷徹ロボット』なんでしょう?」
「うわ、さりげなくその言葉、根に持ってたんだ。そんなんだから根暗だの根性がひん曲がっているだの言われるのよ」
「主にそれを言っていたのはあなたですけどね」
なんてことはない言葉の応酬。かつてはいつも側にあったもの。当時はそれが当たり前で、時にはそれを煩わしくすら思っていたこともあった。
でも、今はこの気安い会話を楽しむだけの心の余裕があった。
「少し見ないうちに随分と心に余裕が出来たのね。それも"彼女"のおかげかしら」
「あのですね、さっきから恋人ではないと―――」
からかうような口調に言葉を返そうとするが、見上げたミランダの顔が言葉とは異なり真剣そのものでそれより先のに言葉を続けることが出来なかった。
「クライム先生が言っていた……息子への最後のプレゼントって、彼女のことだったのね」
少しだけ言葉を詰まらせながら、彼女は私を真っ直ぐに見詰める。
「先生の専門は『人の定義』について。その延長線上として先生は人が創り出した人工生命、つまりホムンクルスやアンドロイドは"ヒト"と呼ぶことが出来るのか、それについてかなりの関心を持っていた」
「……知っていたのですか?」
そう言いながらも、私は彼女なら知っていてもおかしくないかもしれないと、そう思っていた。
彼女は先生から学んでいた学生の中でも特に先生をよく慕い、先生も彼女を信頼していた。彼女なら先生から何か聞かされていても不思議ではない。
「直接聞いた訳じゃないんだけどね。お酒の席で酔った先生が漏らしていたのよ。『アンドロイドは、限りなく人に近い彼女は"ヒト"と呼べるのだろうか』って。それに……先生はいつもあなたのことを心配していたから」
ミランダが少しだけ昔を懐かしむような表情を浮かべる。その瞳には微かに光るものが浮かんでいた。
「先生が死んで、もう一年になるのよね。未だになんだか信じられないけど、本当に今にも研究室からひょっこり顔を出してきそうで、もういい加減に認めなきゃいけないのに……」
ミランダの言葉は涙で最後まで続かなかった。そういえば、彼女もあの葬式で泣いていなかった。私と違って流す涙を持っているのに、私に気を使ってただ一人泣かなかった。
その彼女が泣いた。それは果たして何を意味しているのだろうか。
「ごめん……泣く、つもりじゃなかったんだけど。なんか、我慢できなくなっちゃって……」
「いえ、構いません。落ち着くまでちゃんと待っていますから」
そう言って両手で顔を覆い泣き伏せる彼女に背を向けて目を閉じる。後ろから声を殺してすすり泣く声が聞こえてくる。先生が死んで一年が経ち、それまで溜めこんだ分を一気に消化するかのように、長い時間彼女のすすり泣きは続いた。
「……ん、落ち着いた」
どれほどの時間が経っただろうか、鼻をすすりながら彼女は顔を上げた。
「ごめんね、ほんと。時間取らせちゃった。こんなことをしに来たわけじゃないのにね」
「いいえ、いいんです。あなたが今まで泣けなかったのは私のせいでもあるのですから」
そう言うと彼女は驚いたような顔をして、それから泣きながらにしてとても嬉しそうに、そしてほんの少し悲しそうに微笑んだ。
「やっぱり、変わったのねギース。前はそんなに優しそうな目はしてなかった」
「そうですか? 自分ではわかりませんが」
「ふふふ、そういうところは変わらないのね」
泣きながらにしてクスクスと楽しそうに笑う。コロコロと表情を変えるミトラといい、彼女といい、女性と言うものは本当に器用なことをする。あるいは彼女ら二人が特例なのか。そんな場違いな考えが頭に浮かぶ。
「本当に、いろんな意味で安心したわ。先生もこれで安心して天国での安穏とした暮らしを満喫できそうね」
「そう、ですね。いつまでも先生に心配をかけていられませんからね」
彼女は安心したような顔で窓の外を見上げる。雲一つない快晴だった。
先生も、あの空のどこかから私たちを見ているかもしれない。そんなことを考える。
「もう、いいのかもしれないわね。もうこれ以上、頑張らなくてもあなたたちならきっとやっていける」
そんな時、彼女がポツリとそう漏らした。
窓のそとを見ていたはずの彼女はいつの間にか視線をこちらに向けている。その瞳に映るのは先ほどとは違う種類の悲しみ。
「ねえギース、一つだけ約束をしてくれる?」
「……何を言っているのですか? 突然過ぎて意味がわかりません」
「いいから、お願いだから聞いて」
彼女の目は真剣そのものだった。鬼気迫る、と言ってもいいかもしれない。何かを決意した人間の目。その目を前にして、私が発することが出来る言葉は何一つとしてなかった。
「これからあなたに、いえ、あなたたちに悲しいことが起きるわ。それがなんなのか私にはわからないけれど、でも起こることは確か。それは決定された事実なの」
大真面目な顔でそんなことを言う。普段だったら何をふざけたことを、と一蹴してしまいそうな内容だ。
「それに対してあなたが出来ることはたったの二つ。事実を受け入れるか、受け入れないか」
でも、こんな顔をした人間が果たして嘘を吐くだろうか?
「そのどちらを取るのかはあなたの自由よ。でも、夢は所詮は幻でしかないの。それを忘れないで」
これが冗談を言っている人間がする顔だろうか?
「約束、どうか正しい答えを導いて。そしてこの悪循環を終わらせるの。こんな世界、誰も望んでいない。こんな悲しみしか生まない世界は誰も望んでいない。そうでしょ、ギース」
私は何も答えられなかった。
彼女の言葉が頭の中をぐるぐると駆け巡っていく。
「ごめんなさい。こんなこと、あなたに言ってもあなたを混乱させるだけなのに」
そう言うとミランダはカップに残った紅茶を一口で飲み干し玄関へと向かう。半ば反射的に私もその後を追う。
「ねえ……」
玄関扉に手をかけながら彼女がポツリと漏らす。それは注意していなければきっと聞き洩らしていたであろう酷く小さなものだった。
「いつまで、そうしているつもり?」
「何のことですか?」
「あなたのことよ。いつまでそうやっているつもりかって聞いたの」
彼女が何を言いたいのか、さっぱりわからなかった。
そうやっているつもりか、いったい何を指して彼女はそう言っているんだ?
「あなたは……いつまで心を失くしたフリを続けるの?」
「……は?」
「あなたは心を失くしてなんかいない。ただ、向き合うことから逃げているだけよ。そうしていないと本当に心が壊れてしまいそうだから、作り物のトラウマにしがみついて冷徹な機械のまねごとをしているにすぎない。お願いだからそのことに気づいて。そうすればきっと……」
それだけ言うと彼女は扉を開けて外へと出ていってしまう。
今し方自分が何を言われたのか、彼女は一体何を言いたかったのか、何もわからなくて少しの間その場に棒立ちになる。我に返って彼女の後を追って家を出てみるがもうそこには彼女の姿はなかった。
果たして自分はどれほどの時間、玄関で棒立ちになっていたのだろうか。太陽は随分低い位置まで来ていてもう間もなくして空を赤く染めようとしていた。
ため息を一つ吐いて家に入ろうとする。と、そこでミトラがまだ帰ってきていないことに気が付く。
また迷子になっているのかもしれない。もしかしたら彼女が家を飛び出す前に感じていた嫌な予感と言うのはこれのことなのだろうか。
ため息をさらにもう一つ吐いて家の中へと向かっていた身体をもう一度通りに向けようとしたその時、
「ギース……子猫が……」
聞きなれた声が後ろから聞こえてきた。それもなぜか今にも泣きそうな感じがする弱々しい声。
「子猫が死んじゃいそうなんです……」
振り返ったその先にいたのは血と泥にまみれ薄汚れた子猫を抱え、両目に涙をためたミトラだった。
子猫は思った以上に弱っていた。おそらく事故にでも遭ったのだろう、片方の後ろ脚が潰れていてまともに機能していない。背中には鋭利なもので切りつけられたような痕。町の子供たちにでもやられたのか、あるいは他の野良猫や野良犬にやられたのか。まともなものをほとんど食べていないのだろう、身体は骨と皮ばかりで所々気が抜け落ちて禿げになっている。
これは……明日までもたないかもしれない。そう思いながらも私はそのことを口に出来ないでいた。
「ギース……この子は……」
「なんとも言えません。今夜を乗り切ればあるいは、といった感じです」
嘘は言っていない。あんな真剣な顔をしたミトラに嘘が言えるはずもなかった。
「この子の面倒は私が看ます。ミトラは休んで下さい」
「……嫌です。私もここで、あの子を看ています」
「あなたまで倒れたら手に負えません」
「嫌なものは嫌です。それにそう簡単に倒れるようなやわな造りはしていません」
何を言ってもミトラは頑として動こうとしなかった。こうなったら最後、彼女は梃子でも動かない。
ため息を一つ吐いて部屋の片隅に置いてある毛布を取ってくる。
「わかりました。ならせめて温かい恰好をしてて下さい」
持ってきた毛布を肩にかけるとミトラは毛布の端をきつく掴んで身体を丸めるように縮こまらせた。身体が震えているのは寒さのため、と言う訳ではないのだろう。
「ねえギース……この子は、何のために生まれてきたんでしょうか」
ポツリとミトラが漏らす。
「家の近くの路地裏で、ぐったりとしているこの子を見つけたんです。近くにお母さん猫の姿はありませんでした。はぐれたのか、あるいは捨てられたのか……」
耳を澄まさないと聞こえないような囁きをただ黙って聞く。
「きっと動かない足を引きずって、泥水をすすって、それでも懸命に生きてきたんだと思います。こんな小さな体で、懸命に生きてきたんです」
ミトラが壊れものを扱うような手つきでそっと子猫の身体を撫でる。彼女の瞳には涙が今にもこぼれんばかりに溜まっていた。
「なのに、こんな酷い目に遭って、こんなに苦しんで……。この子は何のために、こんな苦しい思いをしなければいけないのでしょうか……」
ついに我慢できなくなったのか、ミトラの瞳から大粒の涙が次から次へと子猫の上に落ちる。彼女を慰めようとしているのか、あるいは単に傷口に涙が沁みるのか、子猫が弱々しい声で『みー』と鳴く。
私には彼女の涙を止めるすべがなかった。命が何のために生まれるのか、その問いに私が答えられるはずがない。わかるはずもない。
「……命が生まれる理由なんて、誰にもわかりません。でも、誰かにそう望まれたから命は生まれる。それはきっと確かなことだと思います」
そんなものは詭弁だ。知りながらもそう言うしかなかった。
私にはわからない。心を失くした私には、彼女の悲しみも、不安も、苦しみも、何もわからない。今にも死にそうな子猫を見ても私の心は静まり返っていて、涙の一つ溢すことが出来ない。
ただ、涙を流している彼女を見ると胸が痛くなる。
それがなんなのか、わからない。もしかしたらこれが悲しみなのかもしれない。あるいは苦しみなのかもしれない。でも、そのどちらも言葉としてしか知らない私には判別のしようがなく、結局は何もわからない。
「じゃあギース……」
いつの間にかミトラが顔を上げて私をまっすぐに見つめていた。
涙にぬれるその瞳は不安に揺れているように見えた。
「私は…………誰に望まれて生まれたのですか」
「…………」
「私は、何のためにここにいるのでしょうか……」
「…………」
「ギース、私は…………あなたのなんですか?」
私は彼女の問いに何一つとして答えることが出来なかった。
同居人、友人、家族、大切なもの。でも、それだけじゃ足りない。私自身、彼女が自分にとってなんなのかを測りかねていた。
答えない私に失望したのか、あるいはもともと答えを聞くつもりはなかったのか、彼女は再び視線を子猫に戻していた。
子猫は小さな身体を震わせ、ときどき苦しそうに小さな声で鳴く。ミトラはそんな子猫をそっと撫で続ける。
彼女の目にはもう涙は浮かんでいなかった。その代りそこにあったのは何の感情も見取ることが出来ない空っぽな瞳。今まで彼女が見せたことのない、背筋が寒くなりそうな冷たい瞳だった。
誰も、何も話さない。聞こえるのは針が時を刻む音と、子猫の弱々しい鳴き声だけ。息苦しい沈黙に包まれた、長い長い夜が始まった……
夢を見る。
そこは暗く、温かだった。
何も見えない。ただ音だけが聞こえる。
体の感覚がおかしい。ふわふわして、まるで誰かにおぶさっているかのようだ。
聞こえてくるのはしとしとと降る雨の音、心臓の鼓動、そして、聞き親しんだ誰かの優しい声……。
「ごめんね……」
その人は苦しそうな息をしながらずっと私に謝り続けていた。
「本当に……ごほっ……ごめんね…………」
私はその人を……知っている。
私はその人を知っている。
そして、この夢が何を意味するのかも……
「はぁ……はぁ……」
その人は時折、嫌な咳をした。その足取りはフラフラとおぼつかない。
「あなただけは……どうか、私たちの分も……」
ふわりとした浮遊感。冷たく硬い場所に寝かされる。
「ごほっ! ぐ……う……」
苦しそうな声。
顔に生暖かい何かがかかる。
鉄錆のような臭い。
―――命が削られていく臭い。
温もりが離れていく。雨風に曝されて残った温もりさえもあっという間に消え去ってしまう。
―――死に至る病の臭い。
遠くで何かが倒れる音がして、夢の中の私は目を覚ました。
その時にはもう……私は一人だった…………
辺りは暗かったが、それでもまったく何も見えないというわけではなかった。
目を覚ました私が最初に目にしたのは……
―――裏路地の暗がりに血を吐いて倒れている母の姿だった。
そして、私は目を閉じ現実から逃避した。
次に目を開けた時、私の視野には倒れた母の姿はなかった。
服がべったりと体に張り付いて気持ちが悪かった。
そこは死の匂いが充満していた。暗い路地の奥から死が溢れ返っていた……
やがて、傘を差したクライム先生がやってくる。
先生は暗い路地の奥を見ると一つ頷いて、
「もし、君さえよければ、私についてきなさい」
そう言った。
カーテンの隙間から洩れる朝日に差され目を覚ます。
子猫を見ているうちにいつの間にか寝ていたようだ。
「ん……んん……」
すぐそばから声が聞こえる。よくよく見るとミトラが私に寄り添うようにして眠っていた。と同時に自分の肩に毛布がかけられていることに気が付く。
「む〜……もう、食べられません……」
こんな時でも彼女の寝言はテンプレートなものだった。
ミトラから目を離して子猫の方を見る。まだ確かに生きていた。夢の中で何かを追いかけているのか、前足を弱々しいながらも懸命に動かしていた。そのことに少しだけ胸を撫で下ろす。どうやら峠は越えてくれたようだ。まだ安心できる段階ではないが、それでもすぐに死ぬ、ということはなくなった。
「にゅう……んん? ギース……?」
そうしているうちに彼女も目を覚ましたのか、眠そうな目を擦りながら欠伸交じりの声を出す。
「おはようございますミトラ。子猫はどうやら峠を越してくれたようですよ」
まだ少し寝ぼけている彼女にそう囁く。すると彼女は一気に覚醒したのか、目を大きく見開いて「本当ですか!?」と私に詰め寄ってくる。
「まだ安心は出来ませんけど、ほら」
子猫が寝ている方を指さす。子猫はまだ前足をよろよろと動かしていた。
「あ……本当です。よかった。本当に、よかった……」
それを見てミトラは心底ほっとしたような顔をした。
そっと子猫に近づいて、起こさないようにその身体をゆっくりと撫でる。
「よく頑張ったね……本当に、よかった」
そう言う彼女の目からは大粒の涙がこぼれ落ちていた。しかしそれは昨日の悲しみに満ちたものではなかった。
「ありがとうございますギース」
子猫に目を向けたまま彼女が言う。
「いえ、私は大したことはしていませんよ」
「でも、もしギースがいなかったら私はきっと何もできずにこの子を殺してしまった。だからありがとうです、ギース」
そう言って振り返る彼女は涙を流しながら満面の笑みを浮かべていた。
そんな彼女を見て、子猫が死なないで本当によかったと思えた。少し利己的かもしれないけれど、もしもこの子猫が死んでいたら、彼女のこんな顔を見ることは出来なかったのだから。
「むぅ? どうしたんですかギース」
真っ直ぐに私の目を見たミトラがそんなことを言う。
「いえ……。本当によかったと、そう思っていただけです」
しかし彼女は私の言葉に怪訝そうに眉をひそめて首を傾げる。
「でもじゃあ、なんでギースはそんな泣きそうな顔をしているのですか?」
彼女の言葉に今度は私が首を傾げる。
泣きそうな顔? 私が? そんなはずがない。事実今は悲しいことなんて何一つない。第一、心を失くした私がそんな顔を出来るはずがない。
「どうしたんですかギース。怖い夢でも見たのですか?」
心配そうな目でミトラが私を見つめてくる。
わからない。なんで、悲しそうな、ありえない、夢……夢?
「夢……あぁ、そうか。そうだったのですね」
思い出す。昨日見た夢。確かに合った私の過去。目を逸らし続けた現実。
『向き合うことから逃げている』
ミランダの言葉が思い出される。まったくもって彼女の言うとおりだった。そのことにようやく気が付いた。
「ギース?」
心配と混乱とが混じり合った視線を感じる。そうだ、彼女にもきっと話した方がいい。
「夢を……見たんです」
「夢、ですか?」
「ええ、夢です。そこには幼い私がいて、優しい両親がいて、温かい家がありました。両親は遺跡発掘なんて仕事をしているせいか、家に帰ってくるのはいつも夜遅くでしたが、確かに幸せな毎日がそこにはありました」
すべて思い出した。あの頃、幸せだった日々、優しかった両親。
「でも、幸せは長く続かなかった。両親は、発掘していた先の遺跡でレトロウィルスに感染してしまったんです。それも確実に人を死に至らしめる凶悪なものに」
醜悪なスプリンクラーのように喉を掻き毟りながら血を吐きだし続ける父親。部屋はまたたく間に父の吐いた血で真っ赤に染まった。
誰かに私を託そうと家を出た母は薄暗い裏路地で血を吐いて私の目の前で息絶えた。
「幸い、空気感染するようなものではなく、私にそれが移ることはありませんでした。でも、両親の死を目の当たりにした私はそれを受け止めきれなくて心を閉ざしてしまった」
認めたくなくて、認めてしまえば心が壊れてしまいそうで、だから両親の死から目を逸らした。
「怖かったんです。大切な人を失うことが。だから両親の死から目を逸らして、心を凍らせて人を拒絶して……そうすればもう誰も失わなくて済むから」
誰も近づけなければ、誰も自分から離れていかないから。誰も好きにならなければ、大切な人を失わなくて済むから。
「そうしているうちに、自分で心を閉ざしていることも忘れて、本当に心を失くして……」
「ギース……」
それまで何も言わずに私の話を聞いていたミトラが手を伸ばして私の頬に触れる。
「今まで、苦しかったんですね。ずっと、ずっと……一人で何もかも背負いこんで」
そっと呟く。その言葉はゆっくりと私に沁み込んでいく。
「もう、いいんです。もう苦しまなくてもいいんですよ……もう、我慢しなくてもいいんです」
その声が優しかった。
その手が温かかった。
ゆっくりと固まっていた何かが溶かされていくのを感じる。
「私はどこにも行きません。ずっと、ギースの側にいます。だからもう、泣いたっていいんです」
「私は……」
心の奥底で何かが外れる音がした。それまでは決して外れることがなかった何かが。
「う……うぅ……」
目からは大粒の涙が溢れ出していた。次から次へと、止めどなく溢れてくる。
「もう、本当にいいんでしょうか。私はもう、失うことを恐れなくてもいいんでしょうか」
「いいんです、もう怖がらなくても。ずっと、ずっと私が一緒にいますから」
優しい瞳が私をまっすぐに見つめていた。吸い込まれそうに澄んだガラスの瞳。
私と彼女との距離が少しずつ近づいていく。ゆっくり、ゆっくりと、互いの距離を零にするように。
視界が彼女の顔で一杯になる。彼女の息遣いまではっきりとわかる距離。お互いの唇が触れるまで、後数センチ……
―――に〜
そんな時、どこからともなく子猫の鳴く声が聞こえてきてはっと我に帰る。
お互いに顔を真っ赤にして慌てて背を向ける。
―――に〜に〜
声のした方を向くと、いつの間に起きたのか子猫が私たちの方を興味深そうに見ていた。まだ声や動作はどこか弱々しかったが、とても昨日死にかけていた子猫とは思えないほど回復しているようだ。
「こ、子猫が目を覚ましたみたいですね」
「ほ、ホントですね。よかった、かなり元気になってるみたいです」
お互いに声が引っくり返っていた。
「ち、朝食にしましょう。すぐに作ってくるので待っていてください」
そう言ってその場から逃げ出すようにキッチンへと向かう。自分でもわかるくらい動きが酷くギクシャクしていた。急に感情を取り戻した影響だろうか。
ギクシャクしながら子猫と自分たちの分の朝ごはんを用意していると、リビングからミトラの楽しそうな声が聞こえてきた。どうやら子猫が彼女の手にジャレついているらしい。その光景を見て思わず頬を緩ませる。そうすることが出来たことに対してさらにもう少し緩ませる。
どうやらもう峠は完全に越したようだ。きっとあの子は助かる。
それにしてもたった一晩で随分回復したようだ。野良は半分野生みたいなものだとは聞いていたが、それにしても凄い回復力だ。
そんなことを考えながら簡単な朝食と子猫ように温めたミルクをリビングに運ぶ。
その日、子猫は昨日まで死にそうだったとは思えないほど元気にミトラや私にジャレついてきた。どこに行くにもよたよたと後をつけてきた。まだろくに身体も動かないであろうに、使えない足を引きずりながらも決して私たちから離れようとしなかった。
ミトラもそれにご満悦で、終始笑顔で子猫と遊び、そして日が沈むころになると疲れ切ったのか夕食も食べずに子猫と一緒にリビングで眠ってしまった。私は苦笑しながらも彼女をベッドまで運びながら再び手に入れた幸せを噛みしめていた。
今にして思えば、死にそうな子猫が一日であんなに回復するはずがなかったのだ。
忘れていたのだ。世界はいつも残酷で、幸せなんてものがいつまでも続くものではないと言うことを。
そのことに気が付いたのは次の日の朝だった。
「……な、んで」
朝起きて、リビングに行くと昨日はあんなに元気だった子猫が寝床がわりに使っていたクッションの上で冷たくなっていた。
猫は自分の死期を悟る。そんな話を思い出した。
この子猫は自分がもう長くないことを知っていたのだろうか。だから昨日は、あんなに必死になって遊ぼうとしたのか。自分を助けようとしたミトラに少しでも恩を返そうと、あんなに必死に……
「ギース? 起きたんですか?」
リビングで朝食を作っていたミトラが私に気が付いたのか、リビングに顔を出す。
まだ彼女は子猫が死んでいることに気が付いていないようだ。
「ギース?」
どうこのことを伝えるかを迷っているうちにミトラの視線が私が抱いている子猫に向けられる。
そして、
「あれ、どうしたんですかその子?」
ミトラの口から信じられない言葉が紡がれた。
「子猫、ですね。でも……死んでる。可哀想に、まだこんなに小さいのに」
その口ぶりはまるで、子猫のことなんてまるで知らないかのようだった。
「その子、どうしたんですか?」
それは始まりだった。すべてが壊れる、始まりの合図……
閑話休題2
おや、どうしたんだい? 随分と顔色が悪いようだけど。
あぁ、もうこんな時間になってたんだね。気が付かないうちに随分と話し込んでいたみたいだ。少し疲れちゃったのかな。
さて、どうしようか。今日はもう止めにして続きはまた今度にするかい? うん、僕はもう少しだけこの町に残っているからさ、たぶんその気になれば会えるだろうよ。
そう……無理はしない方がいいと思うんだけどな。まあいいか、それを選んだのは君なのだから。でもいいのかい? これから先はきっとノンストップだ。一度始まればもう最後まで止まることはない。君はそれを聞いて本当に後悔しないかい?
ははは、なに、こっちの話だよ。ちょっとした気まぐれってやつだよ。
それじゃあここから先は少しだけ長くなるから何か飲み物でも頼もうか。なに、今回は僕の奢りでいいよ。前の時は君に奢らせたからね。
うん、飲み物が来るまで別の話でもしようか。そうだな……ん? 僕自身の話が聞きたいって? 君も物好きだね、僕の話なんておもしろくもなんともないのに。
う〜ん……何について話そうかな。僕の仕事について? なんだい君は、そんなことが聞きたいのかい? まったく、つくづく物好きだね。
うん、別にそれは構わないんだけどね。じゃあ……僕の仕事について。
まあ何となく察してはいるだろうけど、僕はちょっとした事情で世界を廻りながらその先々で仕事をしているんだ。もっとも、仕事って言っても半分くらい趣味みたいなものなんだけどね。
僕はね、世界を巡って物語を集めているんだ。そして集めた物語を商品として誰かに売り渡す。別に執筆をする訳じゃないから物書きってわけでもないけど、まあやっていることは似たようなものかな。強いて言えば語り部、ってとこだろうね。
物語を必要としている人は世界中に存在する。世界から世界へ、人から人へ、預かった物語を伝えるのが僕の仕事なんだよ。
ん? 君たちに話している話かい? さぁ、どうだろうね。仕事かもしれないし、ただの趣味かもしれない。いずれにしても僕にとってはあまり変わりのないことだ。言ったろ? 僕にとってこの仕事は半分趣味のようなものだって。
ロマンチック、か。そうだね、話を聞くだけならこれほどロマンチックな仕事はないだろうね。世界中を旅して物語を繋ぐ。うん、確かにロマンチックだ。
でもね、この仕事は決してそんないいものじゃないんだ。もちろんいいことがまったくないって訳じゃないけどね。でも実際のところは悪いことの方がずっと沢山ある。
この仕事に従事する人間にはある条件が課せられるんだ。それが何だかわかるかい?
それはね、世界においてすべての絆を断ち切っていること。つまり誰とも個人的な繋がりを持たず、仮にどこかで死んだとしても誰にも泣いてもらえず、無縁仏として共同墓地に埋葬されるような人間じゃないとこの仕事に就くことは出来ないんだ。語り部は個であってはならない。物語を語る者は世界において無でなければならないってね。
だから僕らに個としての名前はない。本名はこの仕事に就いた時に捨てるんだ。そして個としての名を捨てた僕らは、遙か昔に失われた言葉で綴られている名を分類記号として貰うんだ。僕の"アイン"もそういった記号でしかない。
おっと、飲み物が来たようだね。うん、やっぱりここのグレープフルーツジュースはおいしいね。
さてと、それじゃあ物語の続きを語ろうか。準備はいいかい? ここから先はもう後戻りは出来ない。語り始めたらもう元の時間に戻ることは出来ない。その心構えは出来ているかい?
ははは、ちょっとした冗談さ。そんなに怖い顔をしないでもいいよ。まあ、話が長くなるのは本当だけどね。
それじゃあ始めようか。
少女は突然記憶を失った。それは子猫が死んでしまったショックによるものなのか、あるいは別の何かなのか。
男はそんな少女を見て底知れぬ不安を覚えていた。以前から表に出ることこそなかったが、いつも心の奥底にあった恐怖。少女が人ではなくアンドロイドであるが故の不安。
そこに在るものはそれが何であれいつかは壊れる。生命も無機物もその摂理からは決して逃れることは出来ない。
そうであればアンドロイドである彼女もいつかは壊れる。人であるならばまだ手の施しようがある。仮に助けることは出来なくても、少なくとも助けようと手を尽くすことは出来る。しかし、アンドロイドである彼女が壊れてしまった時、男は彼女に何をしてやることが出来るであろうか。
男の不安は現実のものとなる。掬った水が手のひらから零れるように、少しずつ、確実に、少女の記憶は失われていった。自分でもそれがわかるのか、不安そうな顔をする少女に対して男はただ黙って抱きしめることしかできなかった……
第四話 Another Fate
夢を見る。私が生まれる前の物語。私が"ミトラ"として作られる前の記憶。
小さな男の子の手を引き、細い路地を歩く私。遙か昔に語り継がれていた物語を語る私。寝入ってしまった男の子の頭を愛おしげに撫でる私。
ギースにすべてを教えてもらった今ならわかる。
これはきっとギースのお母さんの記憶だ。そういえば以前に一度だけ、博士から聞いたことがある。私を形成するデータの基になった人の話。博士の年の離れた従妹、考古学を学び遺跡発掘と古代文字の解読を生業としている女性の話。どうしてそんな大切なことを忘れてしまっていたのだろう。もっと早くに思いだしていれば、そうしたらもっと早くギースの鎖を解き放って上げられたかもしれないのに。しかも、それを記憶を失いつつある今になって思いだすなんて、なんて皮肉なんだろうか。
夢を見る。ここにほど近くて、どこよりも遠い世界の夢。決して交わることのないはずの記憶。
部屋中を泡だらけにしてギースに怒られている私。街で道に迷って途方に暮れている私。ギースから貰った深紅のドレスを胸に抱きしめて恥ずかしそうに、でもとても嬉しそうに笑っている私。
どの私も"わたし"であって私ではない。それが何を意味するのか、今の私にはわからない。ただ一つわかることは、今の私は細部こそ違えども彼女たちと同じ運命を辿っているということ。
今の私が記憶を一つ失うごとに、夢の中では別の"わたし"の記憶が増えていく。少しずつ、少しずつ、私が私ではなく"わたし"になっていく。
怖くはない。なぜだかはわからないけれど、それは私にとって当然のことのように思えたから。ただ、少しだけ悲しい。私が"わたし"になってしまえばギースと一緒にいることが出来なくなってしまうから……
目を覚ましてすぐに自分とギースの名前を思い出すことが最近の日課になっていた。
昨日出来たことが今日出来なくなっている、昨日まで覚えていたことを今日には忘れている。もうどれほどのことを私は忘れているのだろう。どれほどのことを私は覚えているのだろうか。すべてを忘れてしまったら私はどうなってしまうのだろうか。
怖かった。それを認めてしまえばもう立ち上がることすら出来なくなってしまうような気がして、必死になって平気なふりをして、でもやっぱり怖くて。夜が怖かった。眠るのが怖かった。次に目を覚ました時にはすべてを忘れてしまっているような気がして。
ずっと付けていた日記をぱらぱらとめくって眺める。もっとも、ただ眺めているだけでそこに何が書いてあるのかは全く分からない。私はもう、文字の読み書きを半分以上忘れてしまっている。だから日記の最後の方のページは平仮名ばかりだし、ここ数日はその平仮名ばかりの日記すら書かなくなっていた。ちがう、書けなくなっていた。
「朝ごはん、作らなきゃ……」
ずっとそうしているわけにもいかない。たまに早く起きてくることもあるけれども、基本的にギースは朝寝坊"らしい"。朝ごはんを作って、ギースを起こして、それから洗濯ものをして。それらはすべて私の仕事だ。
「大丈夫、まだ私は大丈夫」
自分に言い聞かせるように呟いて日記を閉じる。早く朝ごはんを作らないと洗濯物を干すのが遅くなってしまう。今日は少し雲が出ていて、洗濯物の乾きもよさそうじゃないから、早めに洗ってほしておかないと夕方までに乾いてくれないかもしれない。
よいしょ、とベッドから立ち上がって台所へと向かう。
今日の朝ごはんは何にしようか。まだ記憶に残っている料理のレシピから朝食の献立を考える。そうだな……今日はシンプルに豆腐の味噌汁と出汁巻き卵、あとはご飯と納豆にしよう。ギースは納豆の臭いが嫌いなのか、いつも納豆を出すと嫌な顔をするけれども、私は意外とあの何とも言えない臭いとねばねばが気に入っていた。
台所で冷蔵庫を漁って材料を取り出す。出汁巻き卵はすぐにできるから後回し。まずはみそ汁の準備をしよう。お鍋を取り出し、そこに水を張って、コンロにかけて、
「えっと……」
そこで私は固まってしまった。
出汁の取り方をどうしても思い出せない。その部分の記憶がすっぽりと頭の中から抜けてしまっている。
「…………」
何もできずに、ただ茫然とその場に立ち尽くした。情けない。何もできない自分が。悔しい。昨日出来たことが出来なくなっていく自分が。恐ろしい。毎日少しずつ記憶を失くしていく自分が。
しばらくしてギースが目を覚まして台所に立ち尽くす私を見ると、ギースは何も言わずに私に代わって朝食を作り始めた。
何も言わなかったのはおそらく彼の優しさだろう。でもそのことが逆に私を空しくして、私はその場で声も出さずに涙を流した。
朝ごはんを終え、一頻りの家事を澄ませる。洗濯機や掃除機の使い方はまだ覚えていた。そのことに少しだけ胸を撫で下ろす。
家事を終えると私は途端に暇になる。以前はそんな時間を利用して、ギースを真似て本を読んでいたこともあったけど、文字を忘れてしまった今ではそれも出来なくなっていた。
何もすることがなく、ただリビングでぼーっとしていると、ギースがひょっこりと部屋から顔を出して「一緒に散歩をしないか」と言ってくる。何もすることがない私は彼の言葉に素直にうなずいて冬の街を歩くことにした。
「こうして二人で街を歩くのも久しぶりですね」
「そうですね。私が迷子にならなくなってからは買い物はもっぱら私が一人でしていましたから」
「今はもう、私一人で街に行けば迷子になあるでしょうが」そう言うと彼は酷く悲しそうな顔をして小さく「そんなことを言わないでくれ」と言った。
「ごめんなさい。今のはちょっと冗談になってないですね」
彼の手をしっかり握って自嘲気味に笑う。彼は空いている方の手を私の手に重ねて小さく「大丈夫」と呟いた。
見慣れているはずの街。何度も通った道。でも街に関する記憶のほとんどすべてを失っている今の私にとっては全く知らない街を歩いているも同然だった。きっと握ったこの手を離してしまえば立ちどころに道に迷ってしまうだろう。
「散歩ついでに食材の買い出しもやっておきましょうか。ミトラはお昼に何を食べたいですか?」
「……そうですね。今日は寒いですから、身体が温まるものがいいです」
「温まるものですか。それなら冬の定番、肉まんでも買っていきましょうか」
歩きながらギースが頻りに話しかけてくる。たぶん彼は気付いているんだろう。私がもう、この町に関する記憶のほとんどを失っていると言うことに。だからああやって頻りに話しかけて、私にそのことを意識させないようにしている。本人はばれていないつもりだろうけど、慣れないことをしているせいかどことなく視線が定まっていなくて挙動不審だ。
「さてと、それじゃあ行きましょうか。今日は天気もいいですし、川沿いでも歩いていきましょうか」
私の手を引いてギースが大通りを外れていく。彼の言葉が本当ならたぶん川の方へ歩いているのだろう。
私は今日この光景を一体いつまで覚えていられるのだろうか。それを考えると怖くて仕方がない。覚えていられない思い出に何の意味があるのだろう。忘れてしまう記憶に何の意味が。最初から失うことがわかっているものなんて……
夜が来た。
もう随分と遅い時間だ。夜更かしさんのギースですらもう寝ている時間だ。
私は明かりもつけず、自分の部屋でひたすら睡眠のプログラムを拒否し続けていた。
眠るのが怖い。眠れば大切なものを失ってしまう。何もかも忘れてしまう。
どうして私がこんな思いを、なんで私だけがこんなに苦しい思いをしなければならないのだろう。
怖い、怖い、怖い、怖い、怖い……失うことが、忘れてしまうことが、怖い。そして……いっそ何もかもを忘れてしまったら楽になるかもしれない。一瞬でもそう考えてしまう自分が何よりも怖い。
拒否する。睡眠を、身体機能の休止はいい。でも思考回路の停止は絶対に許してはならない。一度思考回路が停止してしまえばまた一つ記憶を失ってしまう。これ以上記憶を失えば、私は私でなくなってしまう。
プログラムを拒否する。精神負荷が増大、内部エラー多数発生。エラーを潰す。無数に発生するエラーを片っ端から潰して回る。潰せば潰すほど精神負荷が増大する。潰しても潰してもエラーは増加していく。
本当はわかっている。こんなことをしても無駄だということ。どうしようもないからこそこんなことになっているんだ。
でも、だからと言って諦めたくはなかった。諦めてしまえばすべてが終わりになってしまうから。
次第にエラー処理が追いつかなくなっていく。負担が危険値にまで達する。頭の中で警告音が鳴り響く。視界が急速に黒く染まっていく。
「い……や。だすけて、ギース……」
目を覚ます。
まず最初にすることは自分の名前を思い出すこと。名前……私の名前はミトラだ。まだ大丈夫。ちゃんと思い出せている。
でも……
「ここは……」
自分が今いる場所がわからない。
「いや……」
助けを求めるように手を伸ばす。何に? わからない。
「いや……ギース」
心に残っている彼の名前を口にする。その名前を口にすると少しだけ心が安らぐ。
まだ大丈夫、大丈夫だ。この名前を覚えている限り、私は大丈夫。だい、じょうぶ……
「ギース……たす、けて……」
怖い。嫌だ。忘れたくない。失いたくない。助けて、誰か。助けて……
エラー。エラー。エラー。エラー。エラーエラーエラーエラーエラーエラーエラーエラーエラーエラーエラーエラーエラーエラーエラーエラーエラーエラーエラーエラーエラーエラーエラーエラーエラーエラーエラーエラーエラーエラーエラーエラーエラーエラーエラー……
警告。感情制御機能が暴走しています。感情の制御が出来ません。
警告。外部情報処理システムに重大なエラーが発生。
警告。精神に過度な負荷を感知。
これより強制スリープモードに移行します。
「たす、けて……」
再び目を覚ます。
ここはどこだろう。頭が痛い。それになぜだか酷く空虚だ。大切な何かがすっぽりと抜け落ちたかのような、そんな感じ。
近くに人の気配がする。ゆっくりと視線を気配がする方に動かす。
「おはようございます、ミトラ。今日は随分と朝寝坊なのですね」
「あっ……ギース」
「ずっと眠っていたので体調でも悪いのかと心配しましたが……その様子なら大丈夫でしょうね」
少し安心したような顔をしてギースが私の頭を撫でる。
ギース……そう、彼はギース。私の大切な人。まだ覚えている。まだ……だから大丈夫。
「今、何時ですか?」
「ちょうど11時を回ったところです。一応朝食は持ってきましたが、食べますか?」
「11時!?」
彼の言葉を聞いて慌てて起き上がろうとする。11時って、もう朝と言うよりはお昼の時間じゃない。そうか、あの時強制スリープモードに入って……
「……って、あれ?」
違和感。
なんだろう。身体が動かない? いや、少し違う。身体は動く。感覚が無くなった訳でもないし、手だってちゃんと動かせる。ただ……
「ミトラ……」
「ごめんなさい、ギース。もう私は……起き上がることすら忘れてしまったようです」
どこをどう動かせば身体を起こせるのかがわからない。どうすれば姿勢を維持できるのか思い出せない。手も足も首も、全部思った通りに動かせるにもかかわらずただ唯一『身体を起こす』という行為に必要な動作を忘れてしまっている。
「ははは……冗談にもなりませんね。自分の身体の動かし方すら忘れてしまうなんて」
自分の口から乾いた笑いが漏れる。
ギースはそんな私を酷く辛そうに見つめていた。
「ねえ、ギース。私はどうなってしまうのでしょうね。このまま身体の動かし方を忘れていって、指先一つ動かせなくなって、そしてついには何も出来なくなって死んで……いえ、壊れてしまうのでしょうか」
「ミトラ」
「それとも記憶をすべて失う方が先でしょうか。全部忘れて、自分がなんなのかすら忘れて、そうして壊れていくのでしょうか」
「ミトラ、止めてください」
「それともそれとも、ぷっつりと糸が切れるように、ある日突然動かなくなるのでしょうか。眠っているうちに壊れ切ってしまうんでしょうか」
「ミトラ、いい加減にしなさい」
「あぁ、それはいいかもしれませんね。それならあまり苦しまずにすみそうです。いっそギースがこの場で私を壊してくれたら―――」
「ミトラ!!」
それは今まで聞いたことがないようなギースの大声。その声に私は我に帰る。
あのギースが、怒っている。感情を失くしているはずのギースが。あれ? 取り戻したんだっけ? あぁ、そんなことすら私は思い出せない。
でも唯一わかること。ギースがこんな大声を出すのはこれが初めてだということ。
「私が、どうにかします。絶対にあなたを死なせたりしません。えぇ、"死なせたり"しませんから」
「ギース……」
「私はあなたのおかげで心を思い出せました。あなたがいてくれたから、クライム先生がいない日常にも耐えてこれました。そして私はあなたのことを家族のように、大切な"ヒト"だと思っています。だから、絶対に死なせません。あなたが殺してくれと言っても、絶対に死なせたりなんてしませんから」
私の頭を撫でながら、ギースは執拗に"壊れる"ではなく"死ぬ"という言葉を使った。私はアンドロイドで、だから壊れるでけで死ぬことなんてないのに、それなのに彼はあくまでも私を"ヒト"と扱って、絶対に死なせたりしないなんて……
ギース、いつの間にこんな器用なことが出来るようになったのだろう。顔は怒っていて、声は今にも泣きそうで、それでいて私の頭を撫でる手はとても優しかった。何もかも、自分が記憶を失いつつあると言うことも忘れてすべてを彼に任せたくなる。彼の言葉を信じたくなる。
でも、私は知っていた。もうどうしようもないということを。もう自分はこの運命から逃れることは出来ない。でも……
「だから……もう、そんなことを言わないでください」
今は、今だけは、
「ぎー、す…………」
泣きそうな声を出しながら私を撫でる彼の優しさに甘えたい。それくらいのことは、きっと神様だって許してくれるだろう……
怒ったままの彼の顔をじっと見つめる。彼も真っ直ぐに私を見つめる。
そしてどちらともなくその距離を縮めて、私たちはただ一度の口付けを交わした。
それはただ触れるだけの口付け。二人ともが初めての幼稚なキス。
でもそれは何よりも尊くて、何よりも温かくて、何よりも素敵なものだ。少なくとも私はそう思う。
私はこのことをいつまで覚えていられるだろうか。一ヶ月先だろうか? 一週間だろうか? それとも今日の内に忘れてしまうのだろうか?
それでも、それでいい。そう思う。だって、たとえこのことを忘れてしまったとしても、きっとこの時の気持ちは忘れない。私が忘れてしまっても、この時の、この大切な時間がなくなることはない。だから、きっと私は大丈夫だ。
その口付けは一瞬だっただろうか、あるいは永遠だったのだろうか、
「なんとなく今更感があるのですが……ミトラ、私はあなたを愛しています」
「はい……私も、ギースのことが大好きです」
顔を離し、お互いに愛の言葉を囁いて、そして二人で照れくさく笑いあった。
その日から、私の日記は再スタートした。
もちろん、私はもう文字を書けないから私が話すことをギースに書いてもらっている。そして次の日の朝、彼に書いた日記を読んでもらうのだ。
最初は日記の内容をギースに見られると言うのはものすごく恥ずかしかったけど、次第にそのことにも慣れてきた。今ではわざと恥ずかしいことを書いてもらい、翌日にギースがそれを赤面しながら読み上げるのを楽しむくらいの余裕が出てきた。
記憶の消失は緩やかに進んで行った。
少しづつ大切な記憶が消えていき、日に日に出来ることが少なくなっていった。それはどれだけ体験しても決して慣れるなんてことはない。朝起きて、自分が何かを失ったことに気づく度に私は悲しくなる。
でも……悲しくはあったがもう怖くはなかった。あの日、たとえ記憶を失ってもそのことがなくなるわけではないと知ったから、何よりも今は一人ではないから、悲しくはあっても怖くはなかった。
いつか私はすべてを失って、そして"死んで"しまうだろう。
でも、それは今まで過ごしてきた大切な時間がなくなってしまう訳じゃない。私の、私たちの今まではずっと残っている。それならば私は、そう遠くないうちに来るであろう"いつか"を怖がって生きるよりも、"今"をギースと一緒に生きたい。そう思うようになっていた。
ある日、私は目を覚ますと自分の名前を除き、すべてを忘れてしまっていた。
昨日あったであろうことも思い出せない。もちろん、ここがどこなのか、自分がなんなのかもわからない。
ただ、不思議と怖くはなかった。不安はなく、私は動かない身体を少しだけ不自由に思いながらただ天井を眺めて誰かを待っていた。
誰を? わからない。でも、誰だかわからない"誰か"のことを考えると不思議と心が温かくなった。
やがてドアがノックされ、長身の男性が部屋の中に入ってくる。
「おはようございます、ミトラ。調子はどうですか?」
「……身体が動かないことと自分の名前以外何も思い出せないことを除けばおおむね健康です。あなたは……誰ですか?」
「そう……ですか」
私の言葉に男性は少しだけ辛そうな顔をしたが、すぐに優しく微笑みかけてくる。その笑顔にまた私の胸が温かくなる。
「私はギース。あなたの……家族です」
そう言って私の頭を優しく撫でる。
なぜだろう。彼にそうされると安心する。
「昨日のあなたからメッセージを預かっています。聞きますか?」
「昨日の私から?」
「はい。昨日のあなたからです」
彼は使い古された一冊のノートを取り出して言った。
メッセージ……昨日の私から。なんだろう? でも、それまでの私もきっと朝に昨日の自分からのメッセージを受け取り、そして一日の終わりに明日の自分へのメッセージを残していったんだろう。なぜかそう思った。
「昨日の私は、なんて言ってましたか?」
私の言葉に彼は優しく微笑み、ノートの一ページを開く。
『明日の私へ
今あたなはどれほどのことを覚えていますか?
今あなたは何を思っていますか?
私は今日、あなたからすれば昨日、目を覚ますと自分の名前と自分が記憶を失い続けているということ以外なにも覚えていませんでした。
でも怖くはなかった。それはきっとあなたも同じでしょう。
私は今日、一日中そこにいる彼、ギースとお喋りをして過ごしました。
他愛もないことから、私たちの記憶のことまで、色々なことを。
とても楽しい一日でした。たとえ明日にはこのことを忘れてしまっていたとしても、私は満足です。
私があなたに残したいことはただ一つです。
どうか、今日という日をあなたのために過ごして下さい。
あなたがしたいことをして、知りたいことを知って、そしてどうか次のあなたへ伝えてあげて下さい。
私は後悔のない一日を過ごせました、と。
たとえ記憶がなくなったとしても、今日という日がなかったことになる訳ではありません。
どうか、悔いのない一日を……』
そこに書いてあることを読み終えると彼は私の目をじっと見つめ、問いかけてくる。
「今日、あなたは何をして過ごしたいですか?」
少しだけ、考える。ほんの一瞬だけ、でもやっぱり私のやりたいことはこれ一つしかないようだ。
「聞きたいです。私と、ギースの昔話を」
そう私が言うとギースは一瞬目を閉じて、そして少しだけ寂しそうな、それでいて嬉しそうな笑みを浮かべた。
「そう……ですね。何から話しましょうか」
そんな一言から始まった私と彼の物語。
二人が出会い、共に暮らし、思い出を共有していた穏やかな日々。私が徐々に記憶を失い、少しずつ心を削っていった辛く悲しい日々。そして彼の名前すら思い出せなくなってからの悲しくも優しい日々。
そのどれも私の記憶にはなかったけれど、聞いていると胸が温かくなった。
昨日の私が言っていたこと。私に託した言葉。『たとえ記憶がなくなったとしても、今日と言う日がなかったことになる訳ではない』ということ。
あれはこういうことだったのかもしれない。記憶がなくなっても、私は確かに忘れてしまった"今日"を覚えている。だからこんなにも胸が温かくなるんだ。
終わりが近づいてきた。ついさっきまで朝だと思っていたのに、窓からはもう赤い夕陽が差していた。
「ギース、私は……何のために生まれてきたんでしょうね」
「わかりません。でも、少なくとも私は……あなたと出会えて幸せでした」
「……はい。私も、ギースに出会えてよかった」
瞼が次第に重くなる。なんとなくわかる。一度閉じればもう二度と私の瞼は開かないだろうということが。
「……もう、お別れですか、ミトラ」
「はい……どうやら、そうみたいです」
時は止まらない。遡らない。壊れた人形は、いずれ動かなくなる。それこそ、奇跡でも起きない限り、それはとても自然なことだ。
「ギース……今まで、本当に……ありがとう、ございました…………」
「いい、え……私も、楽しかったですよ」
温かい雫が私の頬を流れる。それは果たしてギースが流したものだろうか、それとも私の涙なのだろうか。
「本当は……もう少しだけ、一緒に……」
「ミトラ、そんなわがままを言うと……向こうでクライム先生に叱られてしまいますよ」
「そう、ですね……そうかも知れません」
でも、もし……あと一つだけわがままが通るなら、あと一言だけ……
「ギース……大好きです。昔も、今も……そしてこれからも。ずっと、ずっと……」
瞼が閉じる。もう私に瞼を持ち上げるだけの力はない。
「私も……愛していますよ。ずっと、ずっと……」
闇に沈んでいく中、最後に彼の言葉を聞く。不思議だ。これから死んでしまうのに、私は今こんなにも、幸せなのだから…………
なにもない、白い世界。
靄と、形のない私と、光たちの世界。
最初、そこには何もなかった。そこに悲しい光が一つ生まれた。
光は光を呼び、一つ、また一つと、世界に光が満ち始めた。
やがて悲しい光たちは一つの想いを抱くようになった。自分たちは無理だったけれども、せめて自分ではない別の"わたし"に一欠片の奇跡を、と。
―――あなたは、もう十分頑張ったわ。もう、休んでいいの。
どこからか声が聞こえてくる。
よく知った、"わたし"の声。
―――後悔している? 生まれてきたこと、彼と出会ったこと……
後悔……しているはずがない。
私は彼と出会えたから、"わたし"でも"ミトラ"でもなく、私になれた。
だから、後悔なんてするはずがなかった。
―――でも、彼と出会わなければこんな辛い思いをすることはなかった。
それでも、たとえ悲しい別れをしたとしても、楽しかった記憶が、大切な思い出がなくなる訳じゃない。
私たちの時間がなかったことになる訳じゃない。
だから……
―――そう……強く、なったのね。
そうかもしれない。
だって、私は一人じゃなかったのだから。
―――なら、もう心配することはないわ。安心して、もう何もかも上手くいくはずだから。悲しいことは、これで終わり。
光が近づいてくる。力強くて優しい光を放つものが。
―――手を伸ばして。今のあなたなら届くはず。ずっと届かなかった、その希望に……
言われるがままに手を伸ばす。
呆気ないほどに光に手が届く。そして光は私の手からゆっくりと吸い込まれていく。
その瞬間、世界が豹変する。白い靄が徐々に薄れ、何もない無へと変わっていく。
そうか……これはこの世界の希望なんだ。希望がなくなったから、この世界は形を維持できなくなった。つまりはそういうこと。
―――さようなら、わたし。どうか"わたしたち"の願いを……
声が聞こえなくなる。"わたし"がこの世界から消えていく。もうここには何もない。あるのは"無"と"私"と"希望"だけ。
ならば祈ろう。この胸に在る希望に。
どうか、わたしたちに優しい奇跡を…………
頬に何かが降ってくる。温かい何かが。
次に声が聞こえてくる。私を呼ぶ声。
最後に感じる。親を亡くし、大切な人を亡くし、世界を拒絶したくなるほどの絶望を味わい泣いている大きな大きな子供の気配を。
まったく、本当に仕方のない人。いつも私に呆れたりお小言を言ってばかりなのに、何だかんだで私がいないとダメなんだ。
だから……行かないと。瞼を開けて、彼の手に自分の手を重ねて、「ただいま」と言ってあげないと。
「ギースは……泣き虫さんですね」
ゆっくりと瞼を開ける。
真っ先に涙を流しながら呆けた顔をしている彼が眼に映る。
「な、んで……」
「さあ、わかりません。……奇跡、でも起きたのでしょう」
耳を澄ませると身体の中で脈打つ"奇跡"の鼓動が聞こえてくる。モーターの回転音でも頭に鳴り響く警告音でもない、確かな"心臓"の鼓動。私が機械ではなくなった確かな証し。
「夢を、見たんです。白い靄の世界の夢を……」
私の声は震えていた。必死になって、涙を流すまいと震えていた。
彼も同じだ。身体を震わせて、必死に涙をこらえていた。
「夢の中で、見たんです。世界を作った光を……たった一つの、希望の光を」
もう我慢することは出来なかった。
私の目からは止めどなく涙が流れ、言葉はもう何を言っているのかわからないほどに震えていた。
それでも我慢する。本当に泣くのは、この一言を言ってからだ。
『世界はかつて光だった。
光は集まり世界を作った。
次に光は水や大気や森を作り、最後に生き物を生み出そうとした。
しかし光が生み出す生き物には命が宿らなかった。
光は嘆き、命なき生命にその身を投げた。
すると世界が瞬き奇跡が生まれた。
光は自らの身を犠牲に、世界に命を生み出したのだ。
それゆえに命は光で出来ている。
その命が尽きる時、身体から光の欠片が空に舞い上がる。
その光を見た者には奇跡が訪れると言う。
悲しい光たちの優しい奇跡が……』
「おかえりなさい、ミトラ」
「ただいまです、ギース……」
第零話 始まりのエピローグ
「さてと、これで僕の話は終わりだ。どうだい? 楽しんでもらえたかな?」
しわがれた老人の声が私に語りかけてくる。
目の前にいるのは小柄で童顔な、少年のような男性。それなのに声だけはまるで老人のよう。つくづく外見にも口調にもまったく合っていない声だ。
「随分気分が悪そうだ。だから無理をするなと言ったのに」
口調とは裏腹にその声からは私を心配するような色は見られない。それどころか逆に私が苦しんでいるのを喜んでいるかのようだ。
あぁ……頭が酷く痛い。気分も悪くなってきた。あんな話を聞いたせいだ。
「ところで知っているかい? 一般的に『ミトラ』は『救い手』あるいは『救い手の少女』と訳されているんだけど、あれは救い手の伝承のイメージが強すぎたせいで出回った誤った訳なんだ」
なんだろう。あの男性は一体何が言いたいんだろうか。
わからない。とにかく頭が痛い。吐き気がする。一刻も早くこの場から、この人の前から逃げ去りたい。
「ミトラの本当の役はね……『一のための千の生贄』なんだよ」
やめて……もう、それ以上は……
「彼女たちは、彼女たちの魂は呪縛されている。人を救う代わりに決して自分が救われることがなく、悲劇の中に死ぬという呪いだ」
やめて、嫌だ、聞きたくない……
「彼女たちを救うには光の奇跡を望むほかなかった。でも彼女らの呪いは根深くて、一人や二人の光の欠片では呪縛を打ち壊すだけの奇跡を起こせなかった」
これ以上、聞きたくない。聞けば……嫌なことまで知ってしまう。
「これ以上は……言わなくても君ならわかるよね?」
やめて! 思い出したくない。そんなこと知りたくない!!
「だって……」
嫌だ、嫌だ、嫌だイヤだ嫌だいやだ嫌だイヤだ嫌だいやだ厭だイヤダ嫌だ嫌だ厭だイヤだ……!!
「君の手はそんなにも血塗られているんだから」
その言葉に、私は思わず自分の手を見た。見てしまった。
赤い。両手で固く握りしめた包丁は赤い液体に塗れ、刃から柄を伝って生温かい赤が私の手を濡らしていた。
一緒にいたはずの“彼”を振り返る。
でもそこには“彼”の笑顔はない。あったのはお腹の辺りから生々しい赤を吹き出し、信じられないといった顔で身体をピクピクと痙攣させている、かつてはギースという名前と意思を持っていた肉の塊。
手には肉を切り裂く感触が、内臓をかき混ぜる感触が、人を蹂躙する生々しい感覚がまだ残っている。
「さて、僕の話は終わりだ。次は君の物語を終わらせる番だよ、千の生贄のミトラ」
第五話「人形とヒトの生 sideミトラ」
数ある世界に生まれてきた"ミトラ"という少女。私もその中の一人。でも、数多くいる"わたしたち"の中でも私は少しだけ特別だった。いや、あるいはこう言うべきかもしれない。私は他の"わたしたち"とは少しだけ違ってしまった、と。
私は他の"わたしたち"が忘れてしまった記憶を、"ミトラ"としての記憶を持ったまま覚醒した。それはつまり、これまでの"わたしたち"の記憶、その断片を持っていたということだ。
そう、私はすべて知っていた。彼のことも、自分の身に起きることも、何もかもを。だから私はあの時、あの知らない路地で"声"を聞いた時、自分の死を知り、そしてそのことに彼が深く悲しむことを知っていた私は……彼を殺すことを選択してしまった。あんな風に悲しむ彼を見たくない。そんな一時の感情で、このまま生き続けるより私が彼を殺してあげた方が、その方が彼にとってはずっと幸せなんじゃないか、一瞬でもそう思ってしまった。
それが、すべての始まり。たぶん私がそれを選択した地点で、世界がそうなるように変革したのだ。それまでの"わたしたち"が通っていった運命ではなく、私が、私の手で、私の意思で、彼を殺すように。
それからしばらくは何もない平和な日々が過ぎていった。ギースの心が取り戻されることはなかったけれど、その代りに私たちの関係に変化が生じるようなこともない、ぬるま湯のような日々が過ぎていった。世界が変革したためか、他の"わたしたち"が記憶を失くし始めた時期になっても私の記憶が失われることはなかった。多少身体が重くなって、動きが鈍くなりはしたけれど、他の"わたしたち"のように歩くことすら出来なくなる、なんてことはなかった。その時は、もしかしたらこのまま何事もなく暮らしていけるんじゃないか、そう思っていた。
でも、違った。私が単に気が付いていないだけで、私の中では確かに幾重にもバグが生じて、知らず知らずのうちに私は完全に"壊れて"いたのだ。そして私の中に溜まっていったバグはある日どうしようもなく深刻なエラーを生み出した。そして私がそれに気が付いた時にはすでに取り返しのつかないところまで来ていた。
その衝動はある日突然私を襲った。
―――殺せ
その声はどこからともなく聞こえてきた。
―――殺せ。ギース・ガイストを殺せ
ギースを殺せ。そんな声が幾重にも重なって私の頭の中に鳴り響いた。
―――殺せ、殺せ、殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺セ殺セころセコろセこロせコろセコロセコロセコロせコロセコロセ
「いや……いやあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
十秒にも満たない時間だっただろうか。私の絶叫を聞いたギースが私の様子を見に来た時にはすでに声は聞こえなくなっていた。
たった数秒、そのわずかな時間で私の心はズタボロになっていた。頭の中に自分がギースを刺し殺すイメージが鮮明に浮かび上がって、自分の手が彼の血で赤く染まる様を幻視してしまい、思わず吐きそうになる。少し慌てた様子で私を心配しているギースの顔を真っ直ぐに見ることが出来なかった。
きっと疲れていたんだ。だからそんな幻聴が聞こえたんだ。必死になってそう思いこもうとしていた。でも、声が聞こえたのはその日だけではなかった。それどころか日に日に声は強く、大きくなり、より長い時間私に「ギースを殺せ」と囁いてくる。
怖かった。その声にズタボロにされる私の心が。そして何より、その声を聞いていたらいつか本当に自分はいつか見たあの強烈なイメージのようにギースを殺してしまうのではないか。
そして、ついに恐れていた"いつか"が現実のものとなった。なってしまった。
その日、私は台所に立って昼食を作っていた。作っていたのはかぼちゃサラダ、ギースの好物だった。前日に包丁の刃がかけてしまって、包丁の代わりに刃渡り20センチ程度のナイフを使って調理していたのでかぼちゃを切るのに酷く苦労していた。
―――殺せ
そんな時、またあの声が聞こえた。
―――殺せ、殺せ、殺せ
しかもそれまでにないほどの強さ、それまでにない大きさで。その声は私の心を削り取っていった。
―――殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ
頭の中が声で満たされていく。思考がすべて"殺せ"という言葉にすり替えられていく。声が私を侵略していく。
「いや、止めて、私の中に、入ってこないで……」
―――殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ殺セころせころせころセころセこロせコロせこロセころセコろせコロせころセコロせコろせこロせコろせこロせコろせこコセころセコろせこロせコろせころセこロせコろせコろせこロせころセこロせコろセころセこロせコろセこロせコロせコろせコろせコロせこロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセ
「い、や……ころし、たく……ころ、したく、ころ……」
そして、私の意識は声に浸食され、闇の中に沈み込んでいった。
闇の中で私は最後の夢を見た。それまでに見てきたものとは違う夢。一人の暗闇の中、一人ぼっちの少女が蹲って泣いている夢。弱々しくて、寂しがりやで、救いを求める数多の人を救いながら本当は誰よりも救いを求めている少女の夢。
あれは……私? あれが、ミトラなの……?
私はただ闇の中をたゆたい、少女を見ていることしかできなかった。ひたすらにもどかしい夢。
しばらくして闇しかなかった世界に小さな光が降ってきた。小さくて不安定で、吹けば消えてしまいそうな光。その光が少女に触れた瞬間、世界が反転した。
気が付けば私は見知った酒場にいた。ツヴィーライフェ、二つ目の生という意味を持つ名を付けられた町に一軒だけある酒場だ。
そこで私はギースと一緒に『アイン』と名乗る小柄で子供のような幼い顔つきをした男の話を聞いていた。
アインが語る物語。それはまるっきり私が知っている、私とギースの物語だった。感情を失くした男と感情を持つアンドロイドの物語。二人は平和に暮らしていたが、アンドロイドの少女は次第に記憶を失くしていき、身体も動かなくなっていった。
彼が語る物語と私が知る物語、唯一違う点があるとすれば物語の最後。私が知っている"ミトラとギースの物語"はすべて悲しい終わりを迎えていた。少女はついに壊れてしまい、男はその悲しみに暮れて気を病んでしまう。そう言う終わり方だ。
しかしアインが語る物語は違った。死んだ少女が光の奇跡によって人間に生まれ変わって、そして末永く男と一緒に幸せに暮らすのだそうだ。
あぁ、それはなんて突拍子もなく、なんて幸せな話なんだろうか。もし事実もそうであったのなら、どれほど良かっただろうか。
でも現実は変わらない。奇跡は起きないから奇跡なのであって、夢はいつか終わりを迎えるから夢と言うのだ。
肉をえぐる嫌な感触を手に感じて、手にかかる血の生温かさを感じて、私は夢から目を覚ました。
目を覚ましたそこは、何もない世界でも、町に一つしかない酒場でもなく、見慣れたリビング。そこにあるのは弱々しい光でもグレープジュースでもなくじわじわと絨毯に染み込んでいく血だまり。そこにいるのは私と、かつてギースだった、今はもう動くことのない肉の塊、ただそれだけだった。
「そう……これが、現実。なんて、残酷で……くだらない世界」
そう呟き、ナイフと共に血にまみれた自分の両手を見て、私は床に座り込んだ。服に床の血だまりが染み込んできて気持ちが悪かったが、立ち上がる気力もなかった。
よほど強い力でナイフを握っていたのか、手にナイフの柄が喰い込んで痛かった。だからどうにか外そうと指を動かそうとしたが、緊張して筋肉が硬直しているのか、動かし方を忘れてしまったかのように私の指はピクリともしてくれなかった。
「は……はははは……」
口から乾いた笑いが漏れる。それはなんに対する笑いなんだろうか。こんな状況でなぜか酷く冷静な自分に対する笑いなのか、あるいは残酷すぎるこの世界を笑っているのか、ただ単に精神が壊れてしまっただけなのか。
「もう、嫌だ……こんな世界。こんな現実……」
あぁ、もう嫌だ。どうすれば世界は私を解放してくれるのだろうか? どうすれば私は幸せになれるのだろうか?
ぼんやりとした視界の端に床に倒れているギースを捉える。胸からお腹にかけて無残にも無数の穴が開いていた。最初は壊れたスプリンクラーのように血を撒き散らしていたけれど、今はもうどの穴からもじわじわと沁み出る程度しか血は流れ出てこない。
彼は死んだ。私が殺した。何度も、何度も、執拗にナイフで刺して、抉って、切り刻んで殺してしまった。
もう彼が目を覚ますことはない。私の名前を呼ぶことも、不器用な手つきで頭を撫でてくれることも、迷子になった私を迎えに来てくれることもない。
本当に……どうすればよかったんだろう。どうすれば私は幸せになれたのだろうか? 私はどこで間違えてしまったのだろうか?
私は多くを望まなかった。ただ、彼と一緒になんでもない日常を過ごせていたら、それで幸せだったのだ。なのに、どうして私は幸せになれないのだろうか? 私はもう、幸せになることは出来ないんだろうか?
答えが欲しかった。私はどうすればよかったのか、これからどうすればいいのか。
「あぁ……そうか」
そんな時、私の目に入ってきたのは一本のナイフ。彼の身を切り裂き、血に染まった凶刃。それが私に教えてくれる。これから私はどうすればいいのかを。
「償い……ギースを殺してしまった償いをしなきゃいけないんだ……」
ゆっくりと腕を持ち上げて、ナイフの刃を私の胸に向ける。慎重に、一度ですべてを終わらせられるように。
「ギース……今、そちらに逝きますから」
そして一息にナイフを自分の胸に沈みこませる。痛みはない。下からそこに収まるべきものであったかのようにナイフはするりと私の胸の中に収まった。
パキン、と自分の中で何か硬いものが割れる音がして、私の意識は深い闇の中に再び落ちていった。今度はもう二度と浮き上がってこれない闇の深淵へと……
沈む。それとも浮かび上がっているのだろうか。わからない。
そこは"ミトラ"の世界に似ていた。ひらすらに"無"が広がっていて、それ以外は何もない。確かに私は存在するのに、どこからどこまでが私で、どこから先がそうでないのかがわからない。まるで世界に自分が溶け込んで行っているかのような感覚。
でも、一つだけ違うところがある。それは"ミトラ"の世界には無数に"無"の中を漂っていた光たちがここにはないということ。つまり、誰も、何も、私に寄り添ってくれるものはないということ。
そこは暗くて、冷たくて、ひたすらに孤独だ。これが……死ぬということなのだろうか? こんな寂しい世界が死後の世界なのだろうか? それとも……これが私の罪なのだろうか。
「でも……これでよかったんだ。これで……」
『本当にそう思うの?』
どこからか声が聞こえてきた。それは私にとって何よりも聞き慣れた声。
『自分を殺して、贖罪という名目で世界から逃げて……本当にそれでよかったの?』
声が私に問いかけてくる。そんなわかりきっているようなことを。何を言おうと私たちは所詮は人形。運命という名の糸に操られているだけ、そこに私たちの自由意思なんかない。
ああするしかなかった。運命がそれを望んでいたから。私はそれに抗う術を知らなかったから。だからああした。それに良かったも悪かったもない。
『本当にそうなの? 本当にそれしかなかった?』
なにが言いたい。どうしたら良かったのか、そんなの私が知りたいくらいだ。あなたは、あなた達ならその答えを知ってると言うの?
『わからない。だから私も知りたい。どうすればよかったのか、そうするべきだったのか』
でも、少なくともこれで、私と"私たち"がここにいる限りは、もう"ミトラ"の魂が生まれることはない。もう、ギースが私のせいで苦しむことはない。
『じゃあ……これで、よかったのかな? もう、苦しまなくていいのかな?』
そう、これで……
『これで、良かったんだよね?』
これで……
「いいはずがない……いいはずがないじゃないっ!」
力の限り叫ぶ。どうしようもない現実に抗うように。
「こんなの、誰も望んでない! 誰も幸せになってない!」
そんな終わり方でいいはずがない。だって、だって私は、
「私の名前は"ミトラ"よ。希望の運び手、奇跡の巫女、救いの少女。その私が、こんな終わりを認めていいはずがない!」
さっきまでどこにあるのかもわからなかった身体に力が湧いてくる。叫べば叫ぶほど、信じれば信じるほど、私がしっかりと顕在していく。
『でも、もう終わってしまった。彼は死んで、あなたも死んで……何もかもが終わってしまった。それでもあなたは奇跡を起こすと言うの?』
「えぇ、起こします。何度だって起してみせます」
『"ミトラ"はもう救われてしまった。あなたはそのために存在していたただの生贄でしかないのに、それでもあなたは奇跡を起こすと言うの?』
少しだけ言葉を詰まらせる。夢の中でアインが言った言葉が耳に蘇る。
それでもすぐにその言葉を頭から振り払い、目の前に広がる闇を、その中に無数に蠢く千の"わたしたち"を見つめる。
「それは違います。もしも私が本当に"ミトラ"であるなら、少なくとも、"ミトラ"はまだ救われていないはずです。だって、もし救われていたのなら、私が存在するはずがないのですから」
アインは言った。一のための千の生贄、と。それはつまり、一人のミトラを救うためには千のミトラ達が必要だと言うこと。もし私がその千の中の一人であるならば、一のミトラが救われているはずがない。
確信はない。もしかしたら間違っているかもしれない。仮に私の考えがあっていたとしても、私が彼の言うところの"一"であるかはわからない。それでも私は、自分の見つけた答えを信じる。そう思うだけの理由が私にはある。
『どうしてあなたはそう言い切れるの? どうして自分が生贄ではないと、そう信じることが出来るの?』
「だって……アイン(始まり)に会ったのは私ですから。始めるのは私の役目です」
闇が、"わたしたち"が微笑んだ気がした。だから私も微笑み返す。もう大丈夫だ、もう迷わない、そう示すように強く、強く。
『ならばミトラ、あなたに優しい奇跡を』
闇しかなかった世界に光が生まれた。一つ、また一つ。次々に光が生まれていき、そしてそれぞれが強く光り、混じり合い、闇を照らし出す。千の光からなるそれは、まるで光の洪水だった。
そして私は光の波に飲み込まれ、ゆっくりと闇から浮上していく。どうしようもない世界に真っ向から抗うために。
目を覚ます。
最悪の気分だ。頭は痛いし手足は自由に動かない。どこかのシステムに負担がかっているのか、気分も悪くて今にも吐きそうだ。それに声もまだ聞こえてくる。ギースを殺せ、殺せって。それでも、
「あああぁぁぁぁぁぁっ!!!」
気合で自分の手を動かす。それはもともと動いていた軌道をほんの少しずらしただけ。でもそれで十分だった。
「み、とら……?」
目の前には状況が飲み込めていない表情のギースがいる。私の右手は彼の脇の間を通って壁の近くで制止している。その手に握るのは一本のナイフ。
「ギース……に、げてください」
声を出すのが辛い。口を開ければ吐き気がするし、胸がつっかえるようで上手く息もできない。それでも必死に、絞り出すように声を出す。
「なにが、あったんですか」
異常を察知したギースがすぐさま私から離れて冷静に聞いてくる。今回ばかりはギースの心が失われていることに感謝しなければいけないかもしれない。普通の人だったら混乱して立ち尽くしていたかもしれないから。
「わからない、です。おそらく、なんらかのエラー。身体が、言う……ことを、聞いてくれないん、です。声が……殺せ、殺せって……」
途切れ途切れになりながらも自分の現状をギースに伝える。聞こえてくる声のこと、夢のこと、すべてを包み隠すことなく。
正直自分の身体をコントロールすることにここまで苦労するとは思わなかった。向こうにいる時は身体を押さえながら何か対策を考えて、なんて考えていたけれど、とてもじゃないがそんなことは出来そうにもない。
「バグ……ですか。マズいことになりましたね。まだ解析しきれていないのに……」
顔はいつもと全く変わらないギース。でもその声には少しだけ焦りの色が見えた。
「か、かいせきって……なんの、ことです?」
「以前、あなたが先生の部屋でコードと遊んでいた時にたまたまあなたの設計図と思われる図面を発見したんです。いつかこんな日が来るかもしれない、その時に何か役に立つかもしれないと、地道に解析をしてきたんです」
「あ、遊んでなんていませんっ! あれはお掃除をしようとしたらコードが絡まってきちゃって―――」
「それだけ元気ならまだ少しは持ちそうですね。何とかして解決策を考えてみます」
それだけ言うとギースは自分の部屋へと向かっていった。
視界からギースが消える。同時に聞こえてくる声も大きく強いものになる。
「くぅっ!?」
ダメだ……抑え切れない。また、支配されてしまう……声に、意識を塗りつぶされて、身体が……
意識が点滅する。身体を抑え込もうとすると声に意識を持っていかれそうになって、声から意識を取り戻そうとすると身体が勝手に動きそうになる。せめて身体だけでも動けないようにすれば……
「だ、誰か……私を、おさえ、て。おねが、い……」
「はいよ、こうすればいいのかい?」
無意識に出した声。それに答える声があった。
温かくて、ぽちゃぽちゃしている手が私の腕を掴んで抑え込む。
「これも危ないね。私が預かっておこう」
今度は別の声。少し骨ばった手が私の手を覆うように握り込んで、いつの間にかナイフを奪い去っていた。
「良くわかんないけど、姉ちゃん頑張れ! 良くわかんないけどっ!」
子供特有の高い声が聞こえ、小さな手が、身体が、私の足に纏わりついてくる。
「儂らにもなにか手伝えることがあるかな」
年老いた声。しわがれた手が私の頭をぽんぽんと優しく叩く。
「えっ……な、んで?」
そこには見知った人たちがいた。商店街の肉屋のおばちゃん、服屋のおじさん、近所の子供たち、道端で知り合ったおじいさんたち、その他にもたくさん。
いつの間にかそこには、私がこの町で知り合ったたくさんの人たちが、私を取り囲むようにしていた。
「夢を、見たんだよ。ミトラちゃんが出てくる夢でさ」
「姉ちゃんが助けてって、そう言ってたんだ」
「それで何となく、気になってしまったんですよ」
「来てみたらお穣ちゃんが何やら困っておるようでのぅ。助けぬわけにはいかんじゃろ」
口々に町の人たちが答える。夢で私が助けを求めていた、だから助けに来た、と……
「そ、んな夢で……わざわざ、来てくれたんですか?」
そう言う私にみんなは不思議そうな顔をする。どうしてそんなことを聞いてくるのかわからないと言った感じだ。
「隣に住まうものが助けを求めるのなら、たとえ微力であろうとも力になろうとする。それが人間と言うものじゃ」
「姉ちゃんが助けてって言ったんだもん。こない訳ないじゃん」
「ふふふっ、それに店番を旦那に押し付けるいい口実になったよ」
「私も、どうにもこの時間帯は店にいても暇でねぇ」
口々にそう答える。さも当然と言うかのように。
『それに、ミトラちゃんは私たちの大切なヒト、だからね。助けに来るさ、呼ばれたら、何度でも』
理解は出来ない。合理的な判断ではない。でも感じる。これが、ヒトなんだ……
答えがわかった気がする。ずっと考えていたこと。ずっとギースが悩んでいたこと。そしてたぶん、クライム博士が最後に残してくれた大きな問い。
"ヒト"とはなにか。
心の有無ではない。肉体的な区分でもない。ただ、そう……理屈じゃなく動いてくれる、そんなヒトとヒトとの繋がりが人間を"ヒト"足らしめているんだ。
「みなさん……ありがとう、ございます」
自然と涙が出てきた。みんなの気持ちが優しくて、温かくて、涙を流した。
不思議と心がすっと軽くなる。まだ"声は"私の意識を乗っ取ろうと叫び続けている。でもその力はずっと弱々しいものになっていた。そのおかげで、少しだけ考えることに意識を回すことが出来る。まだなにも終わっていない。今は身体を押さえてもらっているけれど、いつまでもそうしてもらう訳にもいかない。考える。どうすればいいか、どうすればこの状況を打開できるのか。
そして、私は一つの答えにたどり着いた。
どうすればいいのか。どうすればこの声を止めることが出来るのか。その答えはもうずっと前、私の運命が別れた時から知っていたんだ。ただ、忘れていただけ。
これまで"わたしたち"に起きてきたエラー。それは全部私の心が成長して、新しい感情を得たことによるもの。つまりは容量オーバー。パソコンがフリーズしたりするのと同じだ。それは根本的なところでは私の身に起きているエラーも変わりはないはずだ。ならば、それを解消するにはどうすればいいのか。答えは非常に簡単だ。私の記憶と心を、壊してしまえばいい。
でもそれは今の私が死ぬということ。それしかない。でもそれじゃあ他の"わたしたち"の辿った運命と変わらない。ううん、自分で決めて自分で殺さなければいけない以上他の"わたし"よりもっと酷い悲しみをギースに背負わせるかもしれない。
いずれにしても、これは私一人で決められる問題じゃない……
「すみません、誰か……ギースを呼んできてもらえませんか?」
第五話「人形とヒトの生 sideギース」
ミトラに、一つだけ嘘をついた。
先生の部屋で彼女の設計図のようなものを見つけたのは事実だ。でも、私はその解析なんて一度もやったことはなかった。やれるとも思っていないし、やろうとも思わない。それをするということは、彼女が自分たちとは違う存在であると認めてしまうことになるから。最初からわかっていることではあるけれど、私はなぜかそれを認めたくなかった。あのよく笑い、よく泣き、よく怒る少女が、0と1で基本パターンが構成されたアンドロイドであるということを。
私は自分の部屋ではなく、先生の研究室であるものを探していた。
私がこの部屋に入るのはこれで四度目になる。
初めて入ったのは先生の葬式があった翌日。私に残された一枚の手紙。それに同封されていた手書きの地図に従ってこの場所を訪れ、そして私はここでミトラと出会った。
次にこの部屋に入ったのはミトラと暮らし始めて一年が過ぎようとしていた時。彼女がここを掃除しようとして、逆に散らかしてしまって。その時たまたま目に留まったファイル。表紙に『Live of doll』、人形の生と流れるような筆記体で書かれたそのファイルを私は何気なく持ちだした。人形の生、それが自分のことを指しているような気がしたからだろうか、あるいは彼女のことを言っている気がしたからだろうか。
結論として、そこに書かれていたのは"ミトラ"という伝説の少女にまつわる伝説とその考察だった。
ミトラ、救いの少女、希望の運び手、奇跡の巫女。無数の名で呼ばれ、遙か昔から語り継がれ、多くの人に崇められる少女。しかしその本質は生贄でしかなかった。
『世界に孤独が満ちる時、彼の少女は現れる。そして孤独の象徴たる男をその身をもって癒し、世界を孤独と言う緩慢な死から救うであろう』
そんなものは結局のところ、世界を救うために死ねと言っているに過ぎなかった。つまるところ、世界を救うためにその身を犠牲にしろ。そう言っているのだから。
先生はそれについて「ならば彼女達は何のために生まれるのか」と書いていた。すべての人にその死を希望され生まれてきた少女。最初から死が決定づけられていた生。その魂は何を慰めとしているのか。
そしてそのレポートはこう絞められていた。
『それはもはや、人の生ではない。人の形こそもってはいるが、そこに人たる意思はない。まるで操り人形のような生である。人形の生、それはいかなるものか。常人でしかない私には想像も出来ないが、それはおそらく相当の苦痛を強いるものであろう。そして当の本人はそれが苦痛であることも理解していない。これほど悲しいことがあるだろうか。私はそのような悲しみから彼女を救ってあげたい。そう思うのは人の傲慢であるかもしれないが、少なくとも彼女には救われる権利がある。その救いの切っ掛けを私が与えることが出来れば、私の人生にこれ以上の喜びはないだろう』
レポートと共にファイルには"Project MITORA"と書かれた便箋が挿まれていた。そこに書かれていたのは雑に書きこまれたミトラの設計図と、そして両親を殺し、心を閉ざした孤独な少年を創り出すことにより"ミトラ"の魂を呼びだすという非人道的な外法の術式。
それを見た瞬間、強烈な吐き気が私を襲った。頭の中で大量の血を吐いて倒れる男性の姿がフラッシュバックのように映し出される。幼い子供を残し、薄暗い裏路地で息絶える女性の姿が目まぐるしく駆け巡る。
それは、忘れたと思っていた自分の両親の姿。自分を捨てて、どこかへと消えてしまったはずの人達の真実。私が、心を閉ざした直接の原因だった。
三度目に部屋を訪れたのはそれからすぐ後。その理由は信じたくなかったから。私は親に捨てられたのではなく親を失くしたということ、しかもその死に自分が尊敬していた先生が関わっていたかもしれないということ。それが信じられなくて、否定したくて、私はミトラが寝静まってから一人でこっそりと先生の研究室に入ってその証拠を探した。これから先、先生を信じることが出来る確たる証拠を。
そして見つけたのが一冊の日記帳だった。ミトラが持っているのに似ている、しかしそれよりもずっと古い日記帳。私は震える指でその日記帳を開いた。
『6月12日 天気:雨
裏路地で子供を拾う。近くで血を吐いて倒れている母親らしき女性がいたのでおそらくは孤児だと思われる。すぐ近くにある母親の死体に気が付いていないようなので目が悪いのかとも思ったがそうでもないようだ。
酷く嫌な予感がした。この間送られてきた手紙。そこに記載されていた外法の術式。
まさかとは思うが、あの子の親は……いや、判断材料もないうちに余計な勘ぐりは止めておいた方がいいかもしれない。とにかく、明日になったら色々と調べてみよう』
『6月13日 天気:曇り
緊張しているのか、あの子は今日も笑わなかった。それどころか親が亡くなったというのに酷く冷静で、見ているこちらが君が悪くなるほどだ。感情を閉ざしてしまっているのかもしれない。
あの子の親についての報道はなかった。知り合いを通じて警察の方にも探りを入れてみたが、それらしい情報が入ってこない。
いよいよきな臭くなってきた。もしかしたらこの子は私が書いたレポートの犠牲者なのかもしれない』
『6月17日 天気;雨
家に一通の手紙が舞い込んできた。差出人は不明。ただ、筆跡から外法を記した"あの手紙"を送りつけてきたのと同人物と思われる。
そこにはただ一言、「ミトラの魂を捕獲した」とだけ書かれていた。
疑いがいよいよ確信へと変わっていった。あの子は私が書いたレポートの犠牲者だ。おそらく彼の両親は自然死したのではなく、何らかの方法で殺されたのだ。おそらく、あの子をああいう状態にするために。
あの子は今日も笑わなかった。泣くことも、怒ることもしない。ただ虚ろな目で中空を眺めるばかりだ。まるで心が凍りついているかのようだ。
私は一つの決心をした。あの子を私の手で育て、なんとしてもあの子の心を取り戻す。たとえその過程に、どのような外法を用いようとも』
そこに記してあったのは、私がずっと知りたいと思っていた真実だった。
なぜ先生は私を拾い、育ててくれたのか。なぜミトラを私に残したのか。その事実がすべて、その日記には記してあった。
そして最後のページ。そこに"親愛なる我が子、我が弟子へ"と書かれた一通の手紙が挿んであった。
『親愛なる我が息子へ
この手紙を見ているということはもうすでに"真実"を知ってしまった後ということでしょう。
真実を知って何をするのかはお前の自由です。私を軽蔑するもよし、この家を離れるもよし、両親を殺した者を探すのも……育ての親としては若干反対なところもありますが、まあその時はすでに私も死んでることでしょうし、止めようもないですからね。
もうわかっているでしょうが、ミトラは文字通り、救いの少女の魂を宿したアンドロイドです。きっとあなたを救ってくれることでしょう。
しかし、同時に大きな問題を抱えているのも事実です。私は彼女の身体を作る時にどうしてもある一点だけ克服できずに終わってしまいました。それは即ち心です。
人の心は多彩で、それを0と1で再現しようとすればどうしてもシステムの容量が足りなくなってしまう。私は出来るだけ多くの感情を彼女に組み込みましたが、それでも人が持つすべての感情を入れることは出来ませんでした。
もしも仮に、彼女が自力で私が入れることのできなかった感情を学んでいったとしたら、その時どのようなエラーが生じるか、見当もつかない。
そのために、ここに最終手段を私の机、一番下の引き出しに残しておきます。もしも、どうしようもない状況に陥ったならこれを使いなさい。
お前が自らの束縛から解放され、自由に生きることを願って。
クライム・ガイスト』
その手紙に記された場所。そこに私が探していたものがある。
「これは……?」
そこにあったのは注射器と薄緑色の液体で満たされた一本のアンプル。
「これが……最終手段?」
ワクチンのようなものだろうか。いや、それだったら最終手段なんて言い方を先生がするはずがない。ならばこれはいったい何だ。もし先生の予測が正しいのなら、彼女の身に発生している異常行動はシステム容量不足によるメインシステムへの過度な負担によるもの。それを直すためには彼女が持つ容量を増やすか、負担の原因となっている不要なプログラム、おそらく彼女が学習したなんらかの感情を強制終了させるか、だ。
しかしそのどちらも出来ないとしたら。彼女を止める方法は何が残る……?
少し考え、そして一つの答えに至る。出来れば想像もしたくない、残酷なその答えに。
同時に部屋の外から私を探す声が聞こえてくる。ミトラの、ではなく、どこかで聞いたような、たぶんこの辺りに住んでいる子供の声だ。
嫌な予感。私がこの考えに至ったということは、彼女もまたこの考えに至った可能性がある。いや、仮にそうでなかったとしても、私を傷つけるくらいならと自殺を図る可能性もある。
私は慌てて部屋を出て、彼女がいるはずのリビングへと足を急がせた。そして、そこで私が見た光景は……
「…………あなたは、一体何をやっているんですか」
近所や商店街で見慣れた人々に手足を取り押さえられているミトラの姿だった。
本人はいたって真面目なんだろうが、腕を押さえているのはふくよかな肉屋の女性で、足を押さえて、というよりも纏わりついているのは近所の子供たちで、服屋の店主がミトラが持っていたナイフを手で弄んでいたり老人が孫をあやすようにミトラの頭を撫でていたりしていて……正直傍から見ていると酷く気の抜ける、間抜けな光景だった。
「えっ……い、いや、これはですねギース。決してふざけているとかそういう訳じゃなくて、なんと言うかこうでもしてもらわないと身体が勝手に動いてしまうと言いますか―――」
「いえ、わかっています。わかっていますから」
彼女がこうしなければいけないということは理解している。が、それでも気が抜ける。さっきまで感じていたシリアスさがいっぺんに吹き飛んでしまった。まあ冷静に話すことが出来るという点ではいいことなのかもしれませんが……
「えっとですね、実はギースに相談したいことがあるんです」
その言葉に、私は確信する。おそらくミトラは私と同じ考えに至ったのだということを。そして彼女の目の真剣さに、もうそれ以外に方法がないことも。
「奇遇ですね。私も、あなたに話があったんです」
注射器とアンプルを取り出しながら、出来るだけ重くならないように、出来るだけ軽く、何でもない話をするかのように切りだした。そうしないとあまりに悲しすぎたから。
もしも、私にもっと力があれば、もしも、私にもっと知識があれば、こんなものに頼らなくてもよかったかもしれない。もっと別の終わりが迎えられたかもしれない。
でも……私には力も知識もなくて、こうするしかない。私を救おうとしてくれた少女を、壊すことでしか助けてあげられない。そんな自分が不甲斐なかった。
ミトラは私の手の中にあるものを見て一瞬だけ驚いた顔をして、すぐに呆れたように微笑んだ。
「それは……もしかすると博士からの贈り物ですか?」
「はい、その通りです。そしてたぶん、これの効果もあなたが思っている通りのものだと思います」
「ふふふ、さすがクライム博士。なんでもお見通しですね」
そういうミトラは本当に楽しそうに笑った。これの意味を理解していないのではないかと疑ってしまいそうなくらいに。
「それじゃあ、ギースもこのエラーの原因に見当がついていたんですね」
「手紙が残されていましたから」
「そうですか……残念。ギースを少し驚かせようと思ったんですけど」
多くの人に手足を押さえられながら、顔を苦痛で歪めながら、それでも楽しそうに笑う。その姿はどこか奇妙で、間抜けで、でもそれがとても彼女らしいと思えた。
「ねえ、ギース。"ミトラ"の伝承を知っていますか?」
不意に彼女が語り始める。
「救いの少女、奇跡の巫女、希望の運び手、様々な名前で呼ばれてきた少女の物語です。その子はね、ギース。生まれたその時から誰かのために死ぬことを運命づけられているんです」
それは決して救われることのない、救いの少女の物語。
「でもね、ギース。少女は決して不幸なんかじゃなかったんです」
「でも、彼女達はみんな、自分を犠牲にしてきた。誰かを救うために、自分の命を捨ててきた。私にはそれが幸福だとは思えない」
「そうでもないですよ。少なくとも、私は幸せでした。ここで生まれて、あなたと出会って、同じ時間を過ごして、とても幸せでした。だから、もしここで死んだとしても後悔はしません」
優しく微笑みながらそう言う。
理解できない。彼女はもうすぐ記憶も心も失くしてしまうかもしれないというのに、もしかしたらそれが原因で完全に壊れて、死んでしまうかもしれないのに、どうして彼女は笑っていられるのか。どうしてそんなに力強くいられるのか。
「私は……あなたのように強くは生きられません。きっと、私は後悔してしまう。どうして助けられなかったのか、他に方法はなかったのか。いつまでも、そうやってくよくよとし続けてしまう。私はそれがとても恐ろしい」
そして何よりも、なぜミトラと出会ってしまったのか。出会わなければこんな思いをすることはなかったのに。そう思ってしまうのが一番怖い。
「だったらですね、ギース」
でも、それでも彼女は力強く、真っ直ぐに私の目を見る。その瞳は決して揺るがない。
「笑って下さい。ぎこちなくてもいい、不器用でもいい。笑って、泣いて、怒って……」
でも、だんだんと声は震えていく。目は真っ直ぐに私を見つめたまま、だんだんと涙で潤み始める。
「私はギースのことが大好きです。私に呆れているギースが、真剣な顔で論文を書いているギースが、迷子になった私を探しに来てくれたギースが、おいしくない料理をおいしいって言って食べてくれるギースが、私は大好きです。だから……今度は怒ったギースや泣いたギース、そして笑ったギースも、私の大好きなギースにさせてください」
彼女の目から一粒、涙がこぼれ落ちる。声は震えて、何を言っているのかほとんどわからない。でも、気持ちは痛いほど伝わった。
「ギース……最後に一つだけ、我がままを言っていいですか?」
「……ええ、一つでも、二つでも」
「じゃあ……キス、してください。まだ私が私でいられるうちに」
そう言って、彼女は唇を前に出して瞳を閉じた。一歩一歩、ゆっくりと歩み寄って、私はその唇に自分の唇を重ねる。
多くの人に見守られ、その上彼女はその人たちに手足を押さえられながらのキス。なんて奇妙な、それでいてなんと私たちらしい口づけだろうか。
ただ唇を重ねるだけの拙いキス。でもそれは私にとって、そしてたぶん彼女にとっても、神聖な儀式のようなとても大切なことのように思えた。
「えへへ……キス、してもらっちゃいました」
そう言って恥ずかしそうに微笑む彼女をとても愛おしいと感じる。それは私にとっては今まで感じたことのない、初めての感情。でも嫌ではない。むしろそう感じる自分を誇らしくさえ思った。
ただ少しばかり……周囲からの生温かい冷やかしの視線が恥ずかしくはあったけれど。
「じゃあギース、やっちゃってください」
「……わかりました」
アンプルから溶液を注射器で吸い出してそっとミトラの腕に押し当てる。その時、
「……雪? 違う、なんだ……?」
部屋の中、天井の近くから小さな光が舞い降りてくるのが見えた。それは小さくておぼろげで、吹いたら消えてしまいそうな、それなのにとても力強くて温かな光。人工的な光とは明らかに違う、この世界には存在しないはずの光。それなのに、誰もその光には気が付いていない。まるで時が止まったかのように、誰もが身動き一つせずにいる。
不思議と、その光に触れればすべてが上手く解決するように思えた。こんな方法を使わなくてもいい未来が作り出せるような気がした。
でも、ミトラはゆっくりと手を動かしてやんわりとその光を追い返した。
「どうして……」
「私はね、ギース。ずっと人間になりたかったんです。形ばかりの人形ではなく、あなたと同じように命のある人間に」
ゆっくりと、再び舞い上がっていく光を見つめながら呟く。
「でもね……そんな必要はないってわかったから。たとえこの身体が機械でも、"ヒト"になることは出来る。それがわかったから、もういいんです。だから……あなた達は別の誰かに、少しでも多くの人に、小さな奇跡を」
最後の一言は私に向け出ではなく舞い上がっていく光に向けて。
「それにね、ギース。私、何となく思うんですよ。これはきっと今生の別れじゃない。きっといつかまた会える。そんな気がするんです」
「それは……いえ、そうかもしれませんね。きっと、私がそうして見せます」
「頼りにしてます」
ゆっくりと、注射器を持つ手に力を入れていく。ピストンを押して、彼女の身体にウィルスを送り込む。
「それじゃあ……一度、おわかれですね」
「ミトラ……私は今、上手く笑えているでしょうか……?」
「はい。やっぱり、笑ったギースも大好きでした」
「それじゃあ……次に会う時までにはもう少し笑えるように練習しておきます」
「期待、してます……それじゃあ、さようなら、じゃなくて……また、です」
「ええ……おやすみなさい、ミトラ」
そして、彼女は多くの人に支えられながら、ゆっくりと目を閉じた。幸せそうに、微笑みながら……
ぽんっ、と後ろから頭を優しく叩かれる。
「泣くとええ。今は、泣いてもいい時じゃ」
振り返るとそこにはミトラの茶飲み友達だった老人がいた。
あぁ……そう言えばこの人たちもいたんだっけ。完全に忘れていた。
「我慢なんてせんでええ。男も、女も、泣ける時に泣くのが一番ええんじゃ」
見ればミトラの足にまとわりついていた子供達も声を殺して泣いていた。きっと何があったかもわからないだろうに、それでも泣いていた。肉屋のおばさんも、涙こそ見せなかったけれど、目を潤ませていた。服屋の店主はなぜか窓に寄りかかってナイフと布きりばさみを交互に弄りながらニヒルに笑っている。なんなんだろう、あの人は……
「なんだったらおばさんの胸を貸してあげるよ。どーんと来なさい!」
声を震わせながら、肉屋のおばさんが言ってくれる。だから私は……
「いえ、それは遠慮しておきます」
老人にあやされ、子供たちの泣き声に囲まれ、おばさんや多くの人たちに見守られ、笑いながら十何年ぶりかの涙を流した。一粒流しては後悔を捨て去り、そして決意を強くしていく。
いつの日かきっと、彼女の心を取り戻して見せると……
あの日から、長い月日が経った。
あれからミトラは一度も目を覚まさなかった。現在、彼女は私が彼女と最初に出会った時のように、溶液で満たされたガラスケースの中で眠っている。
そもそも私たちが勝手にあの溶液を『記憶と心を壊すウィルス』と思いこんでいただけで本当にそうであったのかはわからないのだから。もしかしたら単にミトラの機能を停止させるウィルスだったのかもしれない。そうであるならばもう二度と彼女は目を覚まさないかもしれない。
でも、私は信じている。心さえ取り戻すことが出来れば、きっと彼女は帰ってくると。
合理的でないのは百も承知だ。そもそももし仮にあの溶液が私たちが思っていた通りのものだったとしても、心を再インストールすれば彼女が戻ってくるという確証はない。むしろ論理的に考えれば彼女の記憶は完全に失われている可能性の方がずっと高いだろう。
それでも、私は信じていた。彼女はお別れではないと言ったから。その言葉を信じたかった。
「準備完了。それじゃあ……頼むよ」
プログラムを起動させる。祈るように私は彼女を見つめる。
しばらくして、ピクリと彼女の瞼が動き、ゆっくりと持ちあがった。
「おはよう、ミトラ。気分はどうだい?」
「そうですね……目の前にいる、私が覚えているよりずっと老けておじいちゃんになってしまったギースが笑ってくれたら、きっと気分は最高です」
そう言って彼女は満面の笑みを浮かべた。
「ただいまです、ギース」
エピローグ
さて、これでようやく長々と続いた僕の話も終わりだ。
おや、どうしたんだい不思議そうな顔をして。ん? 僕かい?
なんだい、ちゃんと名乗ったじゃないか。もう忘れたのかい?
僕の名前はアイン。物語を集めるために世界を旅する旅人。終わりと始まりを司る語り部。
さてと、この町での仕事も終わったし、僕は次の世界へと旅立つことにするよ。もしどこかで僕と君との運命が重なったら、また会おう。
それじゃあ、良い物語を……
2011/01/10(Mon)23:30:06 公開 /
浅田明守
http://www.justmystage.com/home/akimori/
■この作品の著作権は
浅田明守さん
にあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
お前は一体何なんだよ……
冒頭からいきなり暴走して申し訳ない。テンプレ物書きこと浅田です。
えっと、冒頭の一文ですが、ぶっちゃけ服屋の店主のことです。あの人は最後の最後までキャラ付けが不安定で……あの最後の最後、真面目なシーンだったのになぜかあの人は私の頭の中でハサミを弄りながらニヒルに笑っていました。いやホント、なんなんだろうあの人は……
これで『Live of dolls』はちょこちょこと修正が入るかもしれませんが、一応これで終わりです。まさか年を越すハメになるとは思ってもみませんでした。
長い間お付き合い頂いた方々、本当にありがとうございます。この無意味に長くなった駄文を一気に読んで下さった方、お疲れ様です。
ご意見、感想などがありましたら是非にお願いいたします。ただし服屋の店主に関してはどうしようもないので悪しからずww
作品の感想については、
登竜門:通常版(横書き)
をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で
42文字折り返し
の『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。