『ローズボートオールド』 ... ジャンル:リアル・現代 恋愛小説
作者:takeoka                

     あらすじ・作品紹介
卒業式。300人がまとめて区切られる「青春の時間」。それぞれの進路。心残り。思い出にするにはまだ生き生きとした記憶。一人の少年の、少女に対する想いを書いた短編。

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 誰もがもし、何か物と対になっていたとしたら。
 その一人と一個の営みが穢されることのない時間を歩むのだとしたら、彼女のそれはあの古臭い渡し舟のほかに考えられない。
 それを裏付ける、僕にとって決定的なある瞬間は、舟の上に立った彼女の色の薄い瞳が、船尾に付いたオールを捉えてから、川辺にでも潜んでいればその訪れを育んでいく。
 木々の隙間からの視界を落ち着かせ、彼女の樫色の髪の先が音なく揺れたころ、辺りの靄がそこだけまとまりを持つように、彼女の周囲にはドーナツ型の間合が見えてくる。
 僕が高校の三年間で身に付けた一時的で攻撃用のそれとは違い、彼女のそれは他人からすると無害過ぎて退屈な、でも彼女の営みそのものが宿って眠る空間だ。
 彼女の間合を踏んだオールはすぐには掴んでもらえない。樫色の意識に浸されるように、ちょっと辱められるように関心半分そうな彼女に眺められる。
 いつかその平たい棒が彼女なりの理を解されたとき、触れることで繋がったオールを、彼女は小さな肩で押し出すように扱ってみる。でも腰が入っていない。クラスメイトの中にいる彼女を見ると、どこか外に対して心半分なのが、ファインダーを通す気にならないその姿勢から良く分かる。だから彼女の体のラインはいつも凹凸の浅い微曲線だ。
 色っぽくない船主を乗せて、ついに舟は川を漕ぎ出す。
 きーー……こ。
 川の水を押し出そうとオールが軋む音は、同時に彼女を呼んだり唱えたりする声になる。僕は待ち望んだ、決して訪れて欲しくなかった時間に目を瞑る。それはもう一生、これ以上がない一つの調和の瞬間だ。
 きーー……こ。きーー……こ。
 それが例え三途の川でも、彼女と、彼女の時間を経て連帯した小舟はゆっくりと、結果としてあの世に近づいていく。
 開けた川辺に立つみんなは、それを泣いてとめるべきか、手を振って見送るべきか、きっと勝手に作り出した悲哀なんかの感情を持て余すだろう。だって、彼女にあの世は見えていなくて、いつも通りのペースなのだから。
 ファイトー。
 僕だけが思わず声を張り上げるだろう。
 きーー……こ。ふぁいとー。
 きーー……こ。ふぁいとー。
 遠ざかる彼女と小舟を、一枚の絵に残すのでも、一曲捧げるのでもない。僕は大声でその調和の営みに横槍を入れる。舟を漕ぐ彼女が、永遠の思い出か何かに閉じ込められてしまわないように。威勢よく、けばけばしい花を差し出し続けているのだ。
「ねえ」
 そう肩に触れたのは、きこの指先だった。
――戸川賢志。返事をしなさい。
 次に講堂内に響いた声は、遠い天から多い民への曖昧な啓示のようで、僕の両目は彼女の顔に焦点を合わせた。
 心配しているのか眉間には皺が寄っている。愛嬌のある角のない顔と目。色の薄い瞳。
 手を戻したきこは、オールも持たずに僕と一緒の長椅子に隣り合って座っていた。背景には広大なスペースを敷き詰めるように並べられた長椅子と、その九割に収まる生徒と教員たち。ドーム状の天蓋が色のくすんだ世界を覆っていた。
 卒業式の予行練習。僕は慌てて立ち上がった。
「はい」
 ただの教頭だったマイクの主を捉えて、僕は授与の礼をした。辺り一面ブレザーと頭部の波間から卒業生百人分くらいの目が僕に視線を集め、僕は憮然とした顔で腰を下ろした。阿呆らしい、という気持ちはそのまま口から零れてしまった。
 その愚痴に続く解説を待つように、彼女が僕を眺めていた。見返す僕の視線自体には興味半分そうだった。
「だってさ」僕は両膝に手を置いた。「返事をする練習なんて」
 なぁ、と僕は彼女に言った。
 僕の言葉を波に漂わせるように、きこはゆっくりと二回顎を上下させた。そして右手を左の二の腕に当てたまま、前の座席の背もたれと壇上の間辺りの中空を眺めていた。「名前を、三百個」
 僕は視線を重ねるようにマイクスタンド辺りを眺めた。
 始めは、名前が三百個。うん、悪くない。
 僕らが互いに手繰る沈黙に、学校の声がこだました。
――中村きこ。
 三百人分の閉口をドーム型の木造に圧しかからせてから、彼女は意外にも、毅然と立ち上がった。「はい」
 僕は束の間の小休止のつもりで視界半分に彼女を眺めていた。彼女は目に掛かる前髪もそのままに頭を下げると、自分の座っていたスペースに片手を置いてから、ストンと腰を下ろした。
 続く解説を待つ僕の顔に気付くと、彼女は小さく肩をすくめた。
「まあ、しょうがないよね」
 僕の眉間に力が結集した。仕様がない。名前が三百個。
 思考の舟がその二つの杭を八の字操行で彷徨った。途方に暮れて川辺を振り返ると、そもそもの自分の発した言葉に、小さな灯台を見た。
「たかが返事の練習も、仕様がない?」
 彼女は僕に向いて、にっと笑った。「しょうがない」
 そうか? 僕は前屈気味になった彼女を眺めた。
 始めを捨てた背中を肩甲骨まで後ろ髪が流れていた。
 僕はその流れに既視感にも似た小さな寒気を得て、真上を見上げた。
 一定に生徒の名前を唱え続ける教頭の声は、弧を描く大木が結集して支える天蓋が響かせて格上げしている。教頭は指人形で実は講堂が本当の主のようにも思えた。ドームの一番天辺には小さな円窓が構えていて曇り空が窺えた。
――泥さえ付いた十円玉を、戦後から悠久もの時をかけて積み続け、雄雄高く築き上げたのだ。
 一つとると、例えばそんな話を耳に囁いてきて、僕は視線を卒業生たちの背中に移した。
 近々僕らの今日であり明日であった生活は、校外の外からの力によって思い出と区切られる。今回は封鎖シャッターのような形かもしれないけれど、既に僕の昨日たちを過去に遠ざけてみせた外の力は、いまこうして彼女の後ろ髪の尾に形を残している。
 きこと二・三年次のクラスメイトになって、当時は席を外して欲しかった、今では馴染みの友達と私服で待ち合わせをしたころ、彼女の髪は肩にかかるくらいだった。グループと言うには、どこか頼りなく、味を期待しないコーヒーや後ろめたさを味わうアルコールを真ん中に置くことで、僕らは何とか輪を形作っていた。その繰り返しの中で、きこの瞳を直に見れなくなっていった僕の目に焼きついたのは、ぴょーん、と外に跳ねた横髪と、彼女のマイペースを弁解するような、毛先に統率が取れていない後ろ髪。
 もちろん、あの頃のきこだって十七歳の女子高生だったわけで、鏡があれば綺麗なブラシで髪に落ち着きを与えてみようともするだろうし、同じ高校生を二年もやっている内に、もう一段階上の大人の女性らしさに髪を伸ばしてみることだってありうる。その間に彼氏が一人できることなんて、もう自然の摂理とさえ言えるかもしれない。ただ彼女の場合は、初恋と髪型が平行しただけだ。大学生の男と付き合って、横が平らに。その人が彼女を振って、全体がロングに。そんな少しの関連性でいまの髪を呪いのように見るなんて支離滅裂だ。
「ね」
 両手を前の長椅子の背もたれに預けたまま、彼女が僕に向いた。
「ん?」聞き返すと、その木の手触りから手を離して言った。「式の当日って、部活の打ち上げとかあるの?」
 中空から、ふん、とでも気合が聞こえてきそうな感じで、彼女は両手で襟を締め上げる格好をした。
 彼女は「柔道」と言う代わりにその仕草をする。「挨拶とかは部活の最終日にしたけど」地区予選の準決勝という引退試合で、僕が相手から締め技をくらってからだ。
「あとは胴上げくらいかな」場外にきこがいる始めての試合で、僕は膝が崩れても床を二回叩かず、気を失った。
 その悶絶か胴上げの風景を想像したのか彼女は笑った。
「じゃあ、みんなで集まれるかもね」
「そうだな」僕が頷き、彼女も前に目を遣った。
 僕らの視線の先には、壇上の前に設置された幾つかのパイプ椅子に数人の生徒たちが並んで座っていた。
 たぶん右端の二つの後頭部を眺めて彼女は呟いた。「凄いよね」
 僕は、その彼と彼女の後姿に頷き返した。「うん」
美大と音大。そこに進学するために越えなければならないハードルの具体的な基準や、それぞれの優秀な点が二人のどこにあるのかは良く分からないけれど。コンクールで賞を受賞して浪人をすることなく入学を決めたそれぞれの実力には、こうやって特等席が用意されている。
「なんか」彼女が声を漏らした。「わたしの鼻も高くなっちゃいそう」
「うん」僕は二度頷いた。
 何より僕は津川が画を語ったり、夏子さんが小さな電子鍵盤を手暇に弾いてくれる時間が好きだった。式で賞が送られるのは、僕らが一緒に過ごした時間が一部でも評価されたようで、嬉しくもなる。そして当たり前の日々に存在したその些細な時間に対する気持ちを先に言葉にできていたきこも僕は尊敬した。肩を張らない時間は、終わることを知ってこそ、慈しむことができる。
「あのさ」彼女が声を出した。
「なに?」津川の後頭部を見たまま、僕は答えた。
 んんー、と彼女は言い方を考えるように唸った。
 津川の後ろ頭の位置が、他の何人かよりも低かった。腰がずるずると椅子のシートからはみ出しているのかもしれない。
 居眠りか怠惰か反抗か。
「わたしがいまの仇名で呼ばれるようになったきっかけ」
 たぶん怠惰から居眠り。結果的に反抗だ。「ん?」僕は彼女と目を合わせた。
「憶えてる?」
「うん?」僕は頷いて、先を待った。
「わたし、この高校に入ったころは特に、反応が鈍かったみたいだね」
 きこ。ねぇ、きこってば。
 俯きながらそう口真似をした彼女の目は軽く閉じられていた。
「友達が呼びかけてくれても、わたしは中々振向かなくて」
「きーこぉ」
 きこがゆっくりと顔をあげて、僕を見た。
「そう呼んでくれたの、始めてだ」
「その呼び方は」僕は頷きながら言った。「残念ながら、そいつの口に馴染んでしまった」
 彼女は失笑して頷いた。「みんなそう呼ぶってことは、その仇名はわたしの顔によっぽど上手く貼りつくんだね」
「そう」僕もつい口を緩ませた。「神話ができるくらい」
 彼女は微笑みながら首を傾げた。
「それで?」と僕が聞くと、彼女は笑んだまま膝辺りに視線を戻した。
「それって、わたしの、のんびりさだったと思うんだけど」
 うー、ん。と僕の顎は下がりっぱなしになった。他人からすれば、そうかもしれない。
「でも、たまには走らなきゃ駄目なんだよね」
 今度は僕が首を傾げた。「ん?」どこへ?
 彼女は津川と夏子さんを見た。「あの二人は凄いよね。ちゃんと卒業前に丁度一段上に来年の場所が用意されている。賢志くんだって勉強で大学に推薦入学が決まってる。わたしは土壇場の専門進学」
「卒業なんて」僕は口を挟んだ。「悪く言えば大勢を追い出すための綺麗な口実で、実際の僕らにとっては一つのきっかけに過ぎない」担任の愚痴も拝借した。「例えば大学の卒業なんて、未熟な人間が社会に雇ってもらうための免罪符に過ぎない。それ以上でもそれ以下でもない。生活の場だってきっかけの一つに過ぎない。あの二人が芸大と関係のない高校で次の一段を踏み出したように、きこは次の二年間で、まず足元の一段目をきこなりに探してみればいい。学校の期間に縛られることはない」
 だろう? と僕が言う前に「そだね」ときこが引き継いだ。「だから早く社会人として働けるように頑張らなきゃね」
 僕が言いたかったのはそういうことではなかった。でもきこは相談を持ち掛けたのではなく、決意を口にしたかっただけのようだ。「無理はよくない」僕が言えたのは未来のまだ見知らぬ彼女への励ましだけだった。
「うん」ありがと、そう呟いた彼女の横顔を僕は眺めた。
 初めての付き合いがあれば、初めてのお別れもある。それを必然と悟ることはできるかもしれないけれど、誰も傷つくために心を尽くすわけはない。だから相手が就職間近の大学生だったなら、受け皿を失った鮮やかな自分の感情と彼への弁明として、彼女がいちいち社会的な立場に身を置くことだって、誰にも責められない。僕なんて、胸の激情を違う場所に追い遣った。
 二年次の五月の夜、自分より四歳も年上の男の欲望が彼女の中に入り込む想像や実感を、掻き消す理由や必然とか言い訳を十七歳の僕は見つけられなかった。許容なんて言葉も浮かばず、僕は一年の体育で体験した感覚を求めて、柔道部に入部した。同輩になった一年生に混ざって、焦ったように望んで畳に体を投げつけられた。体の痛みが勝るように。帰宅部同士で一年から仲の良かった津川とは、部活のある日は一緒に帰れなくなった。もちろん、みんなで遊べる機会も減っていったけれど、僕はより柔道に没頭していた。部活は丁度、新しい部長と副部長を選任する時期で、新米のくせいにポストを意識しているよ、なんて同級の嫌味も聞こえたが、そんなことは一番どうでもよく、今度は立ち向かう壁を欲しがっていた。少し忙しく動くようになったきこの熱っぽさや、その矛先にいる大学生の男が見えなくなるように。きこと仲の良い夏子さんとも学校で二三言挨拶を交わす程度になった。
 僕は部活。きこは初恋。津川は画。夏子さんはピアノ。それぞれに、放課後の使い方は異なっていき、いつのまにか、冬が終わった。
 偶然や先輩の思惑の結果、僕は副部長になっていた。黒帯は目に馴染み、肩書きの職責に億劫さを感じるくらいにはなっていた。津川は作品として自分の画を意識し始めていた。夏子さんは演奏に表現力を持たせようと技術の理論に熱をあげていた。そしてきこは、保健室の常連になっていた。その目の下の黒いくぼみや丸みの消えた頬のこけ加減を見れば、その恋の顛末を図ることくらいはできた。
 そのときの僕が得たのは、安心感ではなくて無力感だった。
 だからいまこうして、きこが僕を打ち上げに誘ってくれたり、話をしてくれるようになったのなら、その事実と、きこの気分転換に貢献した髪型を喜ぶのが、僕の最低限の成長だと思う。
 ただ、不言実行なんて社会的な長所が残って、その根底であったはずの、彼女なりの彼女らしさを、非生産的なんて切り捨てて欲しくはなかった。
 でもそれは、僕が個人的に好きな彼女の部分に対するひいきやエゴかもしれなかった。なによりそれは正しいのだ。余りに、正しすぎる。
「なあ」
 僕は、前を見たままそう言った。
「んー」
「僕と、きこが始めて会ったのって、いつだか憶えてる?」
「二年のクラス替えでしょう?」
「違う」僕は首を振った。「一年の一学期、体育の柔道」
 そう言ってから僕は横目で彼女に言った。
「少しだけ、思い出しながら聞いて」
 微笑んでいたと思う僕の表情を眺めて、彼女は小さく顎を上下させた。「うん」
 僕は両膝に膝を乗っけて、自分の足元に話を始めた。「体育は、男女別だから二クラス合同だろ? そのときは梅雨で、きこは二人の友達と男子の柔道を見学に来たんだ」僕は大切にしてきた記憶を出来るだけ鮮明に手繰り寄せようとした。「部員とは言ってもまだ一年生なのに、僕はそいつの柔道技に見惚れたんだ」僕は片手を回して円を表現した。「背負い投げだったんだけど、とにかく、それをくらったときも敗北感じゃなくて、爽快だったんだ。自分が宙を舞って、仰向けに、何だか寝るべき場所に戻されたって心地だった。俺はそいつに付きっ切りになって、乱取りの相手ばかりしてもらってた。クラスメイトにもそいつにもお構いなしで」
 彼女は合わせた膝に両手を置いて黙って聞いていた。
「きこが数人のグループにいたのは憶えていたんだけど、とにかく、気付くと、畳の枠外にきこは一人でぽつんと座っていて、たぶん僕のほうを見てたんだよ。興味半分そうだったけど。最初は部のやつ目当てかと思ったけど、僕が投げられて、立ち上がろうとすると、きこの視線も僕に向かって低くなってるんだよな」
 ふん、ふん。と彼女は頷いた。
 僕はそれを見て頷き、続けた。「勝手知ったる我が部室だよな。そいつは、帯を直してくるとか言って、近くの部屋に引っ込んじゃってさ。僕はきこに近づいて聞いたんだ。投げられている人の方を見てて、面白いのか? って」
「だって」いまのきこが言った。「立ち上がって投げられて、またすぐ立ち上がって投げられて。何でそんなに忙しそうに動くんだろうな。って」
 フラッシュバックに僕の目が開き、頬が緩んだ。「それで僕は思わず笑っちゃったんだよな。丁度、その前の柔道の授業のときに、たまたま来ていた柔道部の顧問の先生にこう言われてたからさ。若者、この狭い日本、そんなに急いでどこへ行く。って。それなりに威厳のある爺さんだったから何だか耳に残っててね」そう実績のある先生でもなかったが、一回だけした乱取りでは、柔道なのに、僕は映画で見た合気の達人の相手役をしたような手応えの無さと負けっぷりを味わった。
 僕は話を元に戻した。「それを話すと、きこはこう言ったんだ。
それで、どこへ行くの? って」僕は思い出し笑いを堪えた。「たぶん、そのときの僕の眉間には、とんでもなく皺が寄ってただろうな。なんだこいつ、って思ったよ」
「でも」きこも笑いを堪えているようだった。「賢志くんも、なあにこの人、って感じだったよ」きこは右手で口を押さえた。「頭をぽりぽり掻いてから
 じゃあ、トイレにでも。だって」声を低くしたのは声真似だろうか。「仕上げにトイレの方を指差すんだもん。わたしの口は開きっぱなしだったよ」
 僕は一応解説した。「なんか答えなきゃ。と、トイレに行きたい。が合体しちゃったんだよ」我慢しなくてはならない状況のせいもあるのか、照れながらも可笑しくて仕方が無かった。
 僕らの含み笑いが収まり始め、彼女が呟いた。
「懐かしいね」
「うん」僕は答えた。「懐かしい」
「それで」彼女が僕を見た。「何が言いたかったのかな?」
「んん?」僕は下を向いた。「何が言いたかったんだっけか」
「なにそれ」彼女が少し笑った。
「きこ」
「なに?」
 僕は前に向かって目を薄めたきこに聞いた。
「寂しくはない?」
「いま? 別に」きこは少し窺うように僕に目を向けた。
「そっか」とだけ僕は答えた。
「変なの」きこは首を傾げた。
「じゃあ、チューリップとバラ、どっちが好き?」
 質問を飲み込めなかったのか、きこは顔を僕に向けた。「なあに?」
 僕は彼女に向かず繰り返した。「どっち?」
「じゃあ」反対側を見た。「チューリップ」
 そっか、という僕の声は教頭の声に覆い隠された。
――校歌を一番のみ、斉唱。一同、起立。
 僕は無感情に立ち上がった。でも聞き慣れているせいで、喉は反射的に緊張した。
 前奏の終わったメロディに添えられているのも、やっぱり外が主旨の例え話だろう。
 隣に立つ彼女は黙っていた。
 僕は柔道部で培ったドスの効いた声で、下のパートを語った。
「ねえ」
 三百人の合唱を背景に、きこが呟いた。
 僕は口を閉じ、彼女側の耳が少し彼女に傾いた。
「わたし、保健室にいく」
 僕は彼女を向いた。「何だって?」
「だいじょうぶ」彼女は無表情に前を、心持ち顎を上げて続けた。「前原先生は断らないよ」
 それは担任の名前だった。たしかに、一時は公にカウンセラーの常駐室でもある保健室に通うのが日課になっていた彼女のその台詞を断ることはできないだろう。でも、僕は別にそんなことを聞いたわけではなかった。
 彼女の言葉をゆっくり頭で転がしてから、いま? とまず聞こうとした。
 顔を向けると、彼女は背を向けていて、もう前原先生に手を挙げていた。
「よかったら」前原先生が訝しげにこっちに向かってくる姿を背景に、彼女は僕に向いた。「賢志くんも来て。わたしは保健室の前で待ってる」
 僕が何か言い返す前に、「ちょっとごめん」と彼女は長椅子に並ぶクラスメイトの体を押し退けながら、担任の元に向かって行ったしまった。
 どうやって?
 その言葉が平べったく僕の頭の中で伸びていった。彼女の姿が講堂から消え、少ししてから僕はその言葉を飲み込み、腹の中で押し砕いた。
「先生」
 みんなが僕を見て、前原先生はさらに目を困ったようにしてから、近づいてきた。
 なんだ?
 長椅子の端で先生はそう口を動かした。
「トイレに行かせてください」
 僕は即興で用意した言葉を腹から押し出した。
 先生の眉間の皺が亀裂にまで育った。次にへの字になった口が動いた。
「わかった」
 脈絡のない成功を訝しげに思いながら、僕は頭を下げた。「すいません」いそいそと長椅子から抜け出した。
「ほら、さっさと行けよ」
 先生が僕の後ろから急かした。振向くと先生が溜息混じりに呟いた。「お前、すごい顔してるぞ」
 意識していなかった顔の緊張が解けそうになり、僕は眉間に力を戻して会釈した。
 そして長椅子と壁の間の通路を進んだ。生徒たちの訝しげな視線と、先生たちの大体迷惑そうな視線を浴びながら、足早に、次第に胸を張るように出口に向かった。
 だって、この先で、きこが待っている。
 扉が見えてくると、僕は上を見上げた。
 視界に広がる手間の掛かった天蓋の光景を、僕は鼻息で済ませた。
 そもそも、僕は段階なしで彼女との距離感を真隣に設定した学校意思に腹を立てていた。老師面する講堂も込みだ。
 講堂を抜けて、歩き慣れた白い廊下を駆け出した。
 誘ってくれたその理由は、さっきの表情や声の調子を反芻してみると、突然口が達者に、突拍子もないことを言い出した僕を心配したのかもしれない。
 でも口実なんてもうどうでも良かった。
 ごめん、きこ。やっぱりバラだ。バラが一輪なんて気取り過ぎだから、対極に思えるチューリップを言い添えてみたんだ。果たして君はオールド・ローズを知っているだろうか。イギリスの品位の高いバラで、普通のバラよりも大きくて、どこかのんびりとしているんだ。当日は、鮮やかな一色に統一されたその花を、舟の形をした手の平サイズの花瓶に挿して、裏ポケットに忍ばせておく。津川が、そんなもの作ればいいんだよ、って材料とか教えてくれたんだ。そして夏子さんからは君を拝借して、花を差し出す。そこまで進めばいくら僕だって告白できるだろう。もちろん、その舟に添えた一輪が君の瞳に捉えられて、君なりに受け止めきられるまで僕は動かない。
 その結果は置いておいて、終わったらみんなで飲みに行こう。気まずくなんかはならない。三年生になってからも僕らの間に挟まれたコーヒーやアルコールの缶の集積が、僕らが互いに歩み寄った何よりの証明になると君は思わないか。
 そのあと、一人で大学に移ってからも、僕は舟と君の神話を持ったまま強くなろうとするだろう。単なる力が上手く使えるように。僕らの再会を守れるように。
 そして、ふとした時には、川とオールの音に、祈ると思うんだ。

2010/08/17(Tue)15:15:24 公開 / takeoka
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■作者からのメッセージ
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