暮れ六つ｜縦書き表示ビューワ（MSIE、WebKit系ブラウザ用）

『暮れ六つ』 ... ジャンル：リアル・現代未分類 作者：空付: １２３４５６７８９101112131415161718192021222324252627282930313233343536373839404142
「降りなよぉ」
　私は何度目か分からない要求を私と同じくらいの塀の上で平均台をやっている兄に声にかけた。彼は背筋をぴんと伸ばし、両腕を目一杯広げて私の目の前を行っていた。彼は自分の片側で手招きしている崖には目もくれず、私の数歩先を危うい歩みで、だが私を置いてけぼりにして、すたすたと進んでいく。向こう側で日が赤いスポットライトを照らしていた。歪みないその姿は、さながら十字のように見えて、さらに私の不安を煽った。
　そんなすべてをさらりと流し、彼は聞こえないふりを決めこんだ。
「ねぇ、落ちたらどうするの？」
「落ちないよ」
　至極当然そうに彼はいう。
　その自信がどこからやってくるのか私にはこれっぽっちもわからないが、それは彼特有のもので、同時に彼を彼足らしめる所以でもあった。私の兄は、私と違って何でも器用にこなせた。虫取りも、ホットケーキを焼くのも、それこそ子供同士の遊びだって、難なくこなしてきた。私なんかより、他の誰かなんかより、遥かに優秀な彼を信用してないわけではない。むしろ信頼に値する。けれど、これは、不安で不安でならなかった。彼はそんな私を心配性と題した。
「もし、落ちたらだよ」
「…アイツが迎えに来るんじゃない？」
　面倒くさそうな声返ってきた。
　ふわりと風が吹いて、彼の無造作に切られた茶髪がまだ明るい空に靡く。何故バランスを崩さないのか、私は不思議でならなかった。
「アイツって誰？」
　立ち止まってしまって少し遅れた歩調を速足で調節して、彼の背中に問うた。彼を取り巻く風が優しく髪を掬う。彼は思ったより楽しそうな声色で応えた。
「死神」
　私は黄緑色のグラデーションの空の元、とっさに彼のシャツを引いた。
「何？」
　私の引力をものともせず、バランスを崩すことなく立ち止まった彼は、少しばかり不機嫌そうに私を振り返った。
「…なんでもない」
　ゴメン、とゆっくり手を離す。彼は黙って前を向き、再び足を前に出す。
「…降りてよ」
「何で？」
「……何ででも」
　言いようのないこの不安を、この人はひとかけらも感じることはないのだろうか。せめて、私からくみ取ってほしい。この、ぐるぐると渦巻いているものを、一刻も早く取ってほしかった。彼は黙って歩み続ける。
「ねぇってば…」
「空」
　私の言葉を打ち切った彼は、そのままの格好で立ち止まって私のいる方に続いている向こうの空を指差した。
「え？」
　私も立ち止まって同じ方を見る。
　水色に染まった大きなパレットには、まだ日の光の明るさを記憶している鱗雲が淡い橋をかけていた。
「わぁ…」
　ずっと前を見ていたのに、何故彼は気づいたのだろうなんて疑問は、頭から一切抜け落ちて、思わず感嘆の声を漏らした。
　彼は何も言わない。
「凄い凄い｣
　向こうの塀に行きたいという意志も込めて、共感を求め振り返った。
｢ねぇ、綺麗だ…」
　次の瞬間言葉が詰まった。次に何と言えばいいのか、頭が真っ白になって分からなくなってしまった。
「……ね…………」
　ただただ風が、彼の居た場所に漂っていた。; 2010/07/30(Fri)00:55:15 公開 / 空付
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逢魔時をイメージしました。
まだまだ発展途中なのを自覚していての投稿などで、文章の書き方など詳しい指摘をいただけたら嬉しいです。; 作品の感想については、登竜門：通常版（横書き）をご利用ください。