『陽光に啄まれて』 ... ジャンル:ファンタジー 恋愛小説
作者:千川 冬馬
あらすじ・作品紹介
ヴィクトリア朝時代。訳有りな貴族と女中のお話です。
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季節外れの雪が降った。
暖かいこの時期には珍しくて、輝かんばかりの綺麗な雪だった。
◆
(始めに、インクの滲み、損傷により解読不可能な部分がある事をご容赦頂きたい)
一九八二年 三月一八日 イギリス 南シェフィールド
今日は、久しぶりに興味深い話しが聞けた。
話し手は、創業百年以上の宿屋の女主人メアリーさんだ。
酒もそこそこ飲みながら、旅の目的を話した。
パブの時のよう、に笑い飛ばされてしまうのを覚悟していたが、メアリーさんは
「物好きな人もいるのね」
と言葉の割には目を輝かせ、本人曰くとっておきの話をしてくれた。
この宿屋を築いた曾祖母の話だ。
彼女は、救貧院出身で何と八歳から奉公に出て、死にもの狂いで働き、遂に家政婦まで登りつめたそうだ。
しかし幼少期の辛い経験から、蓄えのある悠々自適な生活を夢見て、もっと高収入な仕事を探した。
そこで とても 考
最初
こ 屋敷は
(以下、損傷が激しく解読出来ない)
一
随分と風が強い。暖かいこの時期には珍しい。
興味があったから引き受けたが、最初の一、二年ですぐに飽きてしまった。
同じ事の繰り返しなのだ。
確かに美味い料理、着飾った婦人達、美しい音楽、華麗な踊り。とても魅力的で、夢のような生活だろう。
普通ならば。
いつの頃か、具体的には思い出せないが、以前見た、舞踏会やパーティと大差無いと感じてしまう。
今回の夜会もそうだった。いつの時代もそう変わらないと改めて実感した。
しかし、珍しい品種のバラが手に入ったことは、大収穫だった。
この時ばかりは、生きていて良かったと思う瞬間だ。
長時間馬車に揺られて、空気が籠ってきたが、窓は開ければ強い風によって、折角の見事な花弁が傷んでしまうので、閉めたまま我慢している。
後、どのくらいで屋敷に着くか。窓から見える景色は辺り一面平原なので分からない。
早く、花壇へ移してやりたいものだ。
もう少し飛ばしても、大丈夫だろう。そう思い御者に伝えようと少しだけ窓を開けると、容赦なく冷たい風が顔面に吹き付ける。
御者へ急いで伝え、窓を閉めきる直前、風の中に場違いな匂いが混ざっている事に気が付いた。
風は屋敷の方角から吹いていた。
無事、屋敷に着いたが、その匂いはどうやら屋敷から発しているようだ。
あの時は、偶然同じ方角の風上で誰かに不幸があったせいかと思っていたが、まさか屋敷からだったとは。
「お帰りなさいませ、旦那様」
家令が、いつものように恭しく近づいてきた。
「園丁へ、先月植えたケーネギンの隣に植えるよう」
バラの植木を手渡し、手短に伝える。
門を潜ると、一段と匂いが濃くなった。
「お帰りなさいませ、旦那様」
使用人達は、全員並び、私を出迎えた。いつもと全く変わりがない。
匂い以外は。
ゆっくり歩いて、目だけ動かして使用人達の顔を見渡す。
さて、何処に居る?
しかし、意外とすぐに見つけられた。かなり目立つ外見をしていたからだ。
「二日前に新しく入りました見習いの○○です」
私が聞く前に、家政婦のミセス・トーマスが紹介してくれた。
「○○と申します」
彼女は、柔らかく微笑んだ。
何処にでも居る、朗らかそうな少女であったが、明らかに変わっていた。色が変わっているのだ。
まず、肌が病的に白い。この辺りでは珍しい黒髪が、色白さを一層引き立てていた。
何より目が異様だ。
その身に纏う匂いと同じ、真っ赤な血の色なのだ。
甘味を含んだ鉄の匂い。
それを振りまいて可愛らしく挨拶する姿は、何とも妖艶で非現実的な光景だ。
恐らく生まれつきだろうが、こんなに目立つ外見だとさぞ、仕事がやりにくいのではないだろうか。
しかし、これはまた、随分可愛らしいお嬢さんがやって来たものだ。
私も、礼儀正しく挨拶をしなければ。
二
「貴方でしたか。どうも始めまして」
全く、予想だにしていなかった返事が来た。
目を動かさなくても、ミセス・トーマスや他の使用人達が、わたしを疑わしげに見ているのが気配で分かった。
でも、獲物は全然気にせず、片方だけに付けている小さな金の髪留めを揺らしながら、階段を昇って行ってしまう。
「お知り合いだったのですか?」
姿が見えなくなった途端、早速ミセス・トーマスから怪訝そうに聞かれた。
「い、いいえ! 初めてです」
すぐさま答えたが、よく考えたら向こうも、「始めまして」と言っていた。
初めてだけど、わたしを知っている? ミセス・トーマスは、少し睨むようにわたしをじっと見ていたが
「まあ、いいでしょう。仕事に戻りなさい」
そう言って、開放してくれた。
使用人達の視線が嫌で走り出したかったが、怒られるので、ゆっくり歩いて持ち場へ戻る。
何処から漏れたのだろう。まさか、事前にわたしが来るのを分かっていたのだろうか。
どちらにしても、獲物にばれてしまった。寝込みは襲えない。焦っても仕方が無いが、思わず、舌打ちをしてしまう。
落ち着け、慌てるな。冷静に対処するんだ。
わたしは歩きしながら、太腿に括りつけてあるナイフを、女中服越しに握り締めた。
三
昼食が済み、窓から庭園を眺める。新しいバラは、すでに植えられていた。
ニュイ・ドゥ・ユングという名前だそうで、深い赤色が隣のケーネギンの淡いピンクと上手く調和している。
その赤を見て、少女の目を思い出した。
挨拶をした時、かなり動揺していたが、無理もない。今まで、こんなに早くばれるなんて事、無かっただろう。
ちょっと、呼び出してみようか。そんな悪戯心が湧いて出てきた。
早速、ミセス・トーマスに、少女に午後の茶を運んで来るよう伝える。
殺し屋と知っていながら、わざわざ呼びつける人など早々居ないだろうが、あの朗らかな笑顔の仮面を剥ぎ取ってやりたくなったのだ。
立て続けに起こる、思いもよらない展開に彼女はどんな顔をするだろうか。
数十分後、「失礼いたします」と至って模範的な声とノックの音を立てて、少女は表れた。
茶盆に乗せたティーカップは、全く音を立てずに、早くも遅くも無い歩調かつ、流れるような動きで、こちらに近づいて来る。
私は、愛想よく笑いながら少女を見たが、目を合わせても、彼女は全く微笑を崩さない。そして、優美な手つきで焼き菓子を置き、紅茶を淹れてゆく。
完璧だ。不自然な程に。
少女は、掃除を主な仕事とする家女中なのに、何処からどう見ても、手慣れた客間女中にしか見えない。
ただし、普通の人から見ればでの話だ。
アールグレイの香りがこちらへ届かない程、少女が血の匂いを発している事に気付かなければ。
あどけない顔をして、相当遣り手のようだ。
四
「お郷はどちらで?」
不意に質問された。
「エディンバラの片田舎です」
「エディンバラからですか。今時期は風が冷たくなりますよね」
挨拶の時もそうだったが、随分と馬鹿丁寧な話し方だ。使用人達にも、こういう接し方なのだろうか。
「良ければ一枚いかがです?」
突然そう言うと、獲物は焼き菓子を一枚、わたしへ差し出した。
「えっ! そんな、滅相もございません」
こいつは手強い。毒の仕込みも駄目か。
「そう、遠慮なさらずに」
「いえ……お気持ちだけで十分です!」
しかし、獲物は楽しそうに、笑っている。
まあ、少しずつ与えて弱らせる毒だし、万が一にとティーカップに利き手で持つなら絶対に口をつけない、反対側の飲み口に解毒剤を塗ってある。食べても問題は無い。
だが、獲物は急にすくっと立ち上がった。
「甘いものは苦手でしたか。すみません、無理強いして……」
そう言いながらも、口元だけはそのままに、私を睨みつけてきた。
いや、睨むというより、鼠を見つけた猫の目だった。
瞬きせず、じっと見つめられて体が固まってしまう。
「申し訳ございません。わたしのような者が頂くなんて、恐れ多くて……」
言っている内に、いつの間にか獲物が、わたしのすぐ前に立っていた。
早い。距離を取る暇も無かった。
目の前にいる獲物から、喉奥で笑っている音が聞こえる。
そして、焼き菓子を一枚手に取り
「これって、どうやって作るか知っていますか?」
と笑いながら聞いてきた。
「えっと、作った事は無いですが、確か小麦粉とバターと……」
ぱちん。
「小麦粉と、バターと……それから?」
ぱちん、ぱちんと何かを弾く音が聞こえてきた。
音の出所を探すと、獲物が指を鳴らしている。
そして、顔を近づけてくる。青い目が、瞬きもせずじっと私を見つめている。
何故だか、さっきから頭が上手く回らない。
このままじゃ不味いと分かっているのに、目が離せず、ぱちん、ぱちんと指を鳴らす音で、集中もできない。とにかく離れようとしたが、何かにつっかえた。
背中に手を回されている。
「甘いから、砂糖も入っていますよね。後は……何が入っていますか?」
わたしは口を開いた。
後は……後は……
五
部屋には、私が指を鳴らす音だけが響く。
少女は、大きく見開いているが、焦点が合っていない赤い目で、瞬きもせず私を見つめている。警戒されているので「読めなかった」が、催眠術は簡単に掛かった。
もう、少女は袋の鼠だ。
後数秒で、その口からぽろぽろと正体が出てくるだろう。
そういえば、考えていなかったが化けの皮を剥がされた後、少女はどうするのだろう。
逆上して、なりふり構わず襲ってくるだろうか。もしくは、しおらしく泣き崩れるだろうか。
そう思っていると、少女は右手だけを動かして、太腿を触り始めた。
良く見るとスカートが不自然に膨れている。何か括りつけているようで、恐らくナイフだろう。最後の足掻きで飛び掛ってくるか。
突然、少女は素早くテーブルへ手を伸ばした。
置いてある焼き菓子を口の中に放り込み、ばりばりと音を立てて焼き菓子を頬張った。
そして、ティーカップをひったくり、喉をそらせて豪快に紅茶を飲み干す。
少女は、ふうと息つき、可憐に笑った。
「とっても美味しいです。舌触りも良いので、牛乳も使われているんじゃないですかね。
それでは、失礼致します」
お行儀よく茶盆を持って、入ってくる時と同じ歩調で、颯爽と少女は出て行ってしまった。
信じられない。術が解けたのだ。
六
あれ以降、また呼び出される事は無く、夜を迎えた。
わたしは今、女中達の寝室である地下に居る。
ベットの上で寝たふりをしているが、女中達はお喋りも程々に終え、そろそろ全員眠りにつきそうだ。
危なかった。
何とかぎりぎりの所で、取り繕えた。それにしても、私を殺し屋だと知っていて、わざわざ呼び出すなど思いもよらなかった。
ただのぼんぼんかと思っていたが、とんだ酔狂もいたものだ。
思い出したら、また、胸がどきどきと音を立てたが、何度か深呼吸して抑える。腹の減り具合からして、もう十二時過ぎくらいだろう。
そろそろ、行くか。
音を立てぬよう足に布を巻いて、立ち上がる。真っ暗だが、暗闇に慣れている目なら問題無い。女中達を起さぬように、地下から這い出た。
今日は、応接室と二階を下見する予定だ。
焦っても仕方が無い。
まずは、屋敷の部屋と言う部屋全てを調べ上げ、殺しに適した死角を探そう。
窓から月明かりが差し込む。男の使用人達は屋根裏部屋で寝ているが、まだ起きている可能性もあるので、耳をそば立てて、決して鉢合わせしないよう慎重に歩く。
それにしても、粗野で女好きな貴族だと教えられていたのに、全然違うではないか。
確かに屋敷にいた女中は皆美人ぞろいだったが、獲物自体は粗野という感じは全くしない。
そして、あの異常な鋭さ。本当に貴族なのだろうか。
名前は間違いなく合っているし、まさか屋敷を間違えた何て事はないだろうが、不安になってきた。
ひたひた……なんて、肌が床につく音も完璧に殺して下調べを続ける。
新入りだと掃除でも入れない応接室を、一通り見て廊下に出た時、首筋に小さい針が刺さったような感覚が走った。
誰かに見られている。
少し歩いてみたが、見られている感覚は糸を引くように纏わり付いてくる。どうやら用心棒でも呼んだのか。しかも、素人じゃない。
何処からだ。長い長い廊下を見渡す。
辺りを見渡し、意識を出来るだけ広げる。耳鳴りがする程、辺りは静まり返っているが、わたしを付け回している奴は間違いなく居るのだ。
しかし、なかなか尻尾を掴めない。だんだん疲れてきた。おまけに暗いせいで、余計神経がすり減る。
私は、首から下げている薬瓶を取り出し、一粒飲む。緊張はそのままだが、乱れかけた呼吸が落ち着いた。
これ以上は、危険だ。いっそ外に出て、迎え撃った方が……それとも地下に……
その時、さあっと、背中に風を感じたが、頭で理解したのは、反射的に振り向きざまに投げナイフを放った後だった。
刃物を肉へ突き刺す音がした。
大きくて黒い塊だ。わたしの後ろに立っていたそれは、ナイフを食いこませたまま、後ろへ倒れて、開いている窓から落ちていった。
何だ、あれは。
しかし、窓が開いていた事に全く気付かなかった。張り詰めていた状況だったが、ここまで気付かないとは頓馬も良いところだ。
慎重に窓に近づき、落ちていった黒い塊を見ようと一歩進んだ。
瞬間、それはまるで鳥のように窓に一瞬だけ影を映して上へ飛んで行った。
あっという間だった。
急いで窓から身を乗り出して上を見るが、何も無い。
強風が、周りの木々と草を弄り倒す音しかしない。
そして、いつの間にか、わたしに纏わりついていた気配も消えていた。
◆
には の
イ・ 卿は、そこそこ歴史ある貴族だったが、 色 で に
は で裁判沙汰にまでになる程の放蕩ぶりだったそう には
令一人だけとなってしまうほど、
弟
しか
お気に入りの猟銃を持って、 の途中 数 不明 た。戻ってきた時は、たった一人で御
も全員 という。そして、 卿はこの時からまるで別
庭にはバラを植え始めた。性格も
家令は「旦那様は
兎も角、 で 四十五 は当時 は破格の金額だったので
誰 ただ、好色なのは変わらず、雇
女中さんはか りの別嬪ぞ で
給仕は日替 りで行ってい
寝床も で、か りの好待遇な いなかっ
メアリーさんは
玉の輿 を ね
かし という
正直うらやましいこ 環境下で
でも、 今回
なぜか、 少女のことを 知って なそぶり
少女は、何処か 浮世ば
明書には別段変わったところも無く、なかな
ので、
七
ベットメイクで、かなり時間を取られてしまった。
トコジラミが出たせいだ。
おかげでベットを解体して、全部掃除しなければならなかった。でも、組み立ての時、先輩に「見た目によらず、随分力があるのね」と言われてしまった。
いけない、手際良くやりすぎた。気を付けないと。
正午も過ぎて、昼食を摂ろうと食堂へ向かった時。すでに食事が終わり、お喋りしている女中達の声が聞こえた。
「そういえば、今日のお茶出しは?」
「リザが持って行ったわよ」
「そうなの? あの新入りじゃなくて? やけに時間が長かったから、てっきり……」
どうやら、茶だしの女中は日替わりのようだ。
踵を返して、獲物が居る書斎の隣室へ直行する。
今奴は、女中と楽しくお喋りの最中。この機を逃してはいけない。
隣室は、客人用の寝室で鍵がかかっているが、持ってきた二本の針金で、練習した通り難なく開錠する。
事前に下調べは済んである。獲物のテーブルまで十八歩だ。
壁伝いに歩く。十五、十六、十七……よし、ここだ。
わたしはナイフで親指を切った。そして、手のひらぐらいの大きさで「呪字」を書く。
書き順を間違えるとやり直しになるが、急いで仕上げる。
出来上がった後、あらかじめ血を塗っておいた、スコープと吹き矢をエプロンから取り出した。
スコープをそっと呪字に押し当てると、壁に吸い込まれてゆく。
無事、通り抜けたスコープを覗いて、書斎の中を確認する。
獲物は居た。
声は勿論聞こえないが、女中と楽しそうにお喋りをしていて、夢中になっている。
いくら鋭くても、今わたしに見られているとは気付いていないだろう。吹き矢も呪字に当てて壁に通して、深く静かに息を吸う。
狙いは、首筋。
だが、突然獲物は立ち上がり、女中の方へ近寄った。
女中は壁に、つまり私の目の前で背を向けているので、獲物の首筋が隠れてしまう。
思わず舌打ちしそうになるが我慢した。慌てるな、この体勢が長く続く訳は無いのだから。
集中を切らさず、一瞬のチャンスを伺う。
そしてふらりと動いた。
女中の方だった。
獲物は横に倒れそうな女中の背を、片手でしっかりと支えた。同時にもう片方の手も見えた。
指を鳴らしている。わたしの時と同じく、指を一定の間隔で時計ように弾いている。
ぱちん、ぱちんと、指を弾く音が、聞こえる筈も無いこの部屋にも届いてきそうで、何だか空気が焼けつく感じがしてきた。
不意に、二人の後ろにある窓に目がゆく。女中しか映っていない。
おかしい。何故、獲物は映らない?
そう考えていた次の瞬間、獲物が女中の耳元で何か囁いたと思うや否や、首筋に噛み付いた。
噛まれた女中の首筋から、つうと赤い血が流れた。獲物は、猫がミルクを飲むかのように、それを舌を出しながら舐め始めた。
震えが止まらない。血を、飲んでいる。
吹き矢どころではない、こいつはいかれている。
からんと音がした。
思わず声を上げそうになり、息を呑み込んだ。見ると足に何かが当たっている。
スコープから目を離して下を見ると、吹き矢が転がっていた。
手が滑って、落としていたのだ。それすら気付けなかった。
急いでスコープを拾い、見直す。
青い目が、獣のような飢えた目が、わたしを見据えていた。
『そんな所に居ないで、こちらにいらっしゃったらどうです?』
獲物の、弾いていた指の動きが止まっていた。
口の動きで何を言っているのか分かるが、実際に声が聞こえてきそうだ。
息が出来ない。もう震える事も出来ない。スコープの中の獲物は、目を細めてにやりと笑いながら
『それと、昨日頂いたナイフ、お返ししたいのですが』
と楽しそうに、わたしへ言った。
動けない。目を逸らせられない。
駄目だ、逃げないと。早くここから逃げないと。
震える手を服の下まで、何とか伸ばす。自分の荒くなってゆく呼吸が耳に障った。
わたしは、太腿に括り付けてあるナイフを半分まで引き抜き、刃の部分を思い切り握り締めた。
八
がたんと、乱暴に窓を開ける音が小さく響いた。
この書斎の窓ではなく、隣室からだ。同時に、術に掛かっていたリザが正気に戻ってしまった。
「あれ、私は一体……」
「急にふらつかれましたが、貧血ですか?」
彼女の背に回していた手を離す。ぼんやりしていた彼女は、急に顔を赤くして、
「し、失礼しました! 旦那様!」
と言って足早に、書斎を後にした。
ぱたぱたと鳴る足音が聞こえなくなったのを確認した後、私は、隣室へ向かった。
開錠し、入る前に向こう側を読んでみたが、全く何も読めない。
案の定、扉を開くとと少女は居なかった。窓は開け放されていて、強風により大きな抗議の音を立て続けていた。
窓に近づき、下を覘くと芝生に何か重たい物が落ちたような跡が残っている。どうやら、二階ぐらいの高さは、なんて事無いらしい。
昨晩のお返しにと、少し脅かしただけなのに、随分怖がらせてしまったようだ。
それにしても、少女は自力で術を解く事は出来るが、恐怖に駆られたとはいえ、痕跡を残してしまうこの有様から察するに、まだまだ半人前だ。
先程まで居た、書斎とを隔てている壁を見る。何処にも穴は開いていなかった。
なんて不可思議な。確かに、吹き矢とスコープが壁から突き出していて、私を狙っていた筈なのに。
周囲を見渡して手がかりを探すと、壁際の床と、窓付近に黒い液体が、点々と足跡のようについていた。
ハンカチで拭いてみたが、強く擦っても全く取れない。
しかし、この黒い液体からは、血の匂いがする。
これは彼女の血か?
九
まだ、足首が熱くて痛む。それに腹の底がぞっと冷え切って、心臓の高鳴りが治まらなかった。
いつもなら、こんな高さぐらいじゃしくじらないが、着地に失敗した。
わたしと有ろう者が、何て失態を……
何度も貴族や、成り上がりのジェントリを相手にしてきた。
しかし、牛や鶏の血が、若返りや滋養に良いと聞いた事はあるが、人間の血を飲む貴族など初めてだ。
それに血を飲む奴の目。人間なのかも疑いたくなるような、尋常じゃない目つきだった。
化け物め。思い出しただけで、また身震いしそうになる。
でも、そんなことで尻込みしていたら、あの人に何と言われるか……そっちの方が恐ろしい。
ともかく、昼休みが終わってしまう。早く戻らなければ怪しまれるだろう。
足首の痛みに堪えて、不自然にならぬよう歩いていると、曲がり角で、さっきまで化け物に血を吸われていた女中――リザさんとばったり出くわしてしまった。
リザさんは、私を見た途端、驚いた顔をして下の方を指差した。
「ちょっと! その手とエプロンどうしたのよ」
エプロン? リザさんと同じく下を見る。白かったエプロンの右側は真っ黒に染まっていた。
しまった。奴に見られて動けなくなった時、咄嗟にナイフで手を傷つけ、痛みで緊張を解いたが、エプロンで血を拭いて、そのままにしていた。
良い言い訳を必死に考えようとしたが、リザさんは返事を待たなかった。
「ああもう、お昼終わっちゃう! 着替え取りに行くから、早く洗濯場で洗ってきなさい!」
そう言って、飛ぶように走って行ってしまった。
取り残されてぽかんとしてしまうが、確かに、汚れたエプロンのまま仕事をする訳にもいかない。
気を取り直して、洗濯場へ急いだ。
屋敷の離れにある洗濯場は、もう初日の夜に下調べは済んでいた。
好色な貴族はよく女と一緒に、洗濯場に来るらしい。何でわざわざそこに行くのかは分からないが、隙を狙えるので、優先して下調べをしている。
洗濯場の戸を開くと、むわっとした蒸気と変な匂いがした。
湯気で視界が曇る。アイロンの熱と、お湯と洗剤のせいだった。白くぼやけた部屋の中から、恰幅のいいおばさんがやってきた。
わたしの目の前まで来ると、無理もないが不機嫌な顔をした。
「来て早々真っ黒に汚して! インクかい?」
大声でつっけんどんに言われる。
まさか正直に「血です」と言う訳にもいかず、すまなそうな顔して切り通した。
「はい、インクです。零してしまって……」
「あいわかった。ほら貸しな! 井戸は裏手。手も早く洗わないと落ちなくなるよ!」
おばさんは、わたしから汚れたエプロンを引っ手繰って、湯気で一杯の洗濯桶の方へ行った。
途中、辛そうに絞り機を回している女中に「後、もう半分だからがんばりな!」と大きな声で励ました。
声が大きいのは怒っているんじゃなくて、元からのようだ。
それにしても、女中は大変そうに絞り機を回している。あの調子じゃ間違いなく筋を痛めてしまうだろう。
わたしなら一分と掛からない。家女中よりこっちの方が、あちこち行かずに済んで楽かもしれない。
そんなどうでもいい事をぼんやりと考えたが、おばさんの大声で我に返った。
今は、手を洗う事が先決だ。
駆け足で裏手の井戸へ向かい、桶に水を汲んで右手を突っ込む。すると、手から染み出すように、黒い靄が広がってゆき、水はすぐに黒一色に染まった。
「○○、もう手洗い終わった? エプロン持ってきたわよ」
ほっとして気が抜けていたら、後ろからリザさんの声が聞こえて慌てて振り向く。
「リザさん、すみませんでした」
わたしは言いながら、リザさんから真っ白いエプロンを受け取ったが、リザさんの首筋をちらりと見た。
傷跡が、無い。
確かに噛み付かれ、血が流れたというのに。
「あっ、爪の間もしっかり洗った?」
リザさんは、急に私の手を取ろうとした。
でも、その手の暖かさを指先で感じた瞬間、手を引っ込めてしまった。
リザさんは驚いている。
まずい、怪しまれる。慌てて笑いながら、取り繕う。
「だ、大丈夫です! しっかり洗いましたから」
リザさんは、少し怪訝そうだったが、
「そう? ならいいけど。それじゃ行くからね」
そう言って、持ち場へ走って行った。
ほっと胸を撫でおろす。良かった、怒られるかと思った。
そして、入れ替わりにおばさんがやってきた。
「駄目ね、全然落ちやしない。手の方は落ちたかい?」
エプロンは駄目だったようだ。
「はい、大丈夫です。すみませんでした」
「まあ、お古で結構痛んでいたし、弁償にはならないだろうさ。
ミセス・トーマスには上手く伝えておくから……ほら、そんな顔しないで、さっさと行な!」
おばさんは語調は荒いが、励ますように言うとまた洗い場へ戻った。ミセス・トーマスにもわざわざ事づけてくれるとは。随分、世話焼きな人も居るものだ。
そして、ようやく一人になった。
周りに誰も居ない事を確認した後、なるべく人目につかない所へ桶の中に入っている黒い水をぶちまけた。黒い水は、みるみる芝生に吸い込まれていく。
桶を戻す途中、手のひらを見て傷が消えているのを確認するが、急に居たたまれなくなった。
原因は分からないが、胸も苦しい。
確か、午後は屋敷の見回りだったか。気持ちを切り替えて、走って持ち場に戻る。
あの化け物のことといい、こんなに手間取るなんて初めてだ。
どうすればいい。どうすれば殺せる?
走ると、首から下げている薬瓶が、早く仕留めろと催促するように服の下で大きく揺れる。
それを掴んで抑えた時、風になびく真っ白いエプロンが目に入った。
嫌に眩しくて、無性に腹が立って破り捨てたくなる。
駄目だ。破ったら今度こそ弁償になる。
十
窓を覗くと、丁度少女が馬車馬の速さでこちらに向かって走ってきた。
かなり急いでいるようで悪い気がしたが、窓を開けて口笛を吹いて呼び止める。
少女は、横切る寸前でこちらに気付いたが、私の姿を捉えた途端、嫌悪と憎悪が剥き出しな顔をして身構えた。
あれを目の当たりして当然の反応だが、意外と立ち直りは早いようで、恐怖感は読めなかった。
私は、窓から身を乗り出して上を指差した。
「今晩、屋根の上で待っています」
少女は、目を大きく見開くが、すぐに元の敵意満々の顔に戻る。
気弱な人なら、卒倒してしまいそうな殺気で睨みながら口を開いた。
「化け物は、お前一人だけだな?」
「はい、使用人達は何も知らないただの人ですよ」
少しだけ、からかってみたいとも思ったが、正直に答えた。
流石にこれ以上は意地悪が過ぎるし、使用人達にも危害があれば、たまったものじゃない。
少女は、返事をせずにその場で身構えていたが、やがて私から目を離さないでじりじりと間合いを広げて、走り去った。
『そうか、お前一人だけか。首を洗って待っていろ』
去り際、安堵と歓喜が入り混じり、それでいて陰惨な声で、地の底から響くように聞こえた。
彼女の顔は見えなかったが、確実に、ほくそ笑んでいるだろう。
女中という、邪魔な体面を外して全力で殺しにかかれるのだから。
私も、夜が待ち遠しい。
正体が分かっていながら尚、私を仕留めようとするこの少女に興味が湧いた。
勇敢というよりは糞度胸の部類だが、今時こういう人は中々居ない。
久しぶりの刺激に、今から心躍る気分だが、まだ午後一時を過ぎたばかりだ。
夜までは、お互い煩わしい貴族と女中の皮を被って、半日程過ごさなければならない。
私は窓には映らないが、恐らく今、ほくそ笑んだ顔をしていると思う。
◆
ルーマニアのストリゴイ、ズメウ、モロイ、ノスフェラテュ。
ハンガリーのヴァムピーム、ロシアのイノヴェルチウピル、エレティカ。
吸血鬼や血を啜る異形の多くは、死者が変化した者が大半を占める。
死者が腐りにくい、寒い地域に分布が集中するのは当たり前と言えばそうだが、熱帯インドのマサンやブータ、プレト。中国ではキョンシー。
日本だって、酒呑童子や水虎など血を糧とする妖怪、鬼は数多い。
かと思えば、乾燥したアラビアに伝わるグールや、ガーナのオバイフォ、ラマンガ。果ては、アボリジニに伝わるムラート。
吸血鬼、そしてその親戚は南北に問わず世界中に居る。
実際に存在し、吸血鬼と言われた人物だって、かの有名なドラキュラのモデル、ワラキア大公ヴラド・テェペシュはもとより、調べればうじゃうじゃ出てくる。
乙女の血を求めた、エリザベード・バートリーや、幼い子供たちを虐殺したジル・ド・レ。
十八世紀頃なら、ペーター・プロゴヨヴィッチ事件にアルノウト・パウル事件。
十九世紀は、別名ハノーヴァーの吸血鬼、フリッツ・ハールマン。
切り裂きジャックだって立派な血に飢えた吸血鬼だろう。
今世紀にも、ペーター・キュルケンや「酸の吸血鬼」ジョン・ジョージ・ヘイなど挙げればきりがない。
今では、血液嗜好症、ヘマトディプシアなんかと呼ばれて精神疾患だの、あるいは、カタレプシーによる早すぎた埋葬が原因と、鼻高々にのたまう輩がいるが、十年くらい前にだって、ハイゲート墓地で吸血鬼狩りと称して墓荒らしをし、あれよあれよと熱に浮かされたようなゴシップが飛び交った。
未だに吸血鬼の存在を、心の何処かで信じていなければ、こんな現象は起こらないだろう。
実際に吸血鬼に遭遇した、自称ハンターが言うには、血には魂が溶け込んでいて、厳密にいうと魂を欲しているそうだ。吸血鬼は鏡に映らないのは、魂が無いからと言われている。
魂を欲しているというのならば常に魂が空か、もしくはそれに近い状態なのだろう。
後々調べてみると、これはブラム・ストーカー著の有名な『ドラキュラ』で考案された設定であって、伝承内では記されていない。
ただし、魂亡き死者は映さないという伝承もある。
生ける死者である吸血鬼が、魂の無い実体に乏しい虚ろな存在だとしたら、鏡に映らないというのもあながち、間違いではないかもしれない。
自分は、犯罪者の心理など想像がつかないが、実在した吸血鬼たちも、一度死んで、無くなってしまった魂を求めたのではないだろうか。
ただしその死は伝承に伝わる、肉体的な死という訳では無くもっと大事な何かを。
彼らの、歩んだ経歴を見ているとそんな気がしてならない。
未だに、吸血鬼は絶滅しない。
あと十九年後には到来する二十一世紀にも猟奇殺人事件などと新聞やニュースを伝って、跋扈してゆくに違いない。
そして、精神性より物質的な物を至上とし、人との繋がりが薄れゆく世の流れにより、魂を求める吸血鬼は、さらに伝染病のように増えていくだろう。
あたかも、咬みつかれて血と魂を吸われた者が、新たな吸血鬼となるように。
ポーランド……翼を備えた upierzyc / 翼のある亡霊 upior
リトアニア……飲む wempti
トルコ……魔女 uber
セルビア・クロアチア……吹く・飛ぶ pirati
十一
強風は、昨日からずっと止む気配がなかった。
それに、時折思い出したかのように突風も来るので、吹き飛ばされそうになる。
屋根の上でこうして少女を待っているが、どの位経ったか。
白い満月は真上で輝いていて、使用人達はもう寝ててもいい頃だが、女中達のお喋りが終わらず、抜け出せないのだろうか。
そんな事を考えていると、自分の羽織っているマントがなびく音に混じって、硬い金属音が聞こえた。
音が出た方角を見ると、鉤縄の引っ掛け部分が屋根の端に食い込んでいて、昆虫みたいにぎちぎちと蠢いている。
しばらくすると、屋根から黒い頭がひょっこりと出てきて、その下にある赤い目が小動物みたいに慎重に周りを見渡した。何だか可愛らしい。
そして私を見据えると、少女は素早く這い上がり黒いコートを着た上半身、次いで白い肌がむき出しの下半身が露わになった。
どうやら、私の予想が当たってしまったようだ。
具体的にいつにとは伝えていなかったが、相当急いでいたのだろう。
男物の黒いコートを羽織っただけ。靴も履いていない少女の姿は、ご婦人方が見れば卒倒ものだ。
それに、決して暖かくはない強風の中、むき出しになった色白なふくらはぎは見ているだけで寒くなる。
少女の纏められていない髪は、私と同じく風に弄られ乱れている。
しかし、髪の間から見え隠れする赤い目は、使用人達と仕事をしている時とは別人の、ぎらついた目をしていた。
裸足の少女は、私の方へゆっくりと歩んでくる。
歩きながら、コートの懐に手を入れ、白く光るナイフを取り出した。それを見て、ナイフを返す事を思い出した。
「これ、返しが付いていて中々抜けませ」
鈍い金属音と共に、手に痺れが走る。
前方にいる少女へ差し出したナイフは、後方遥へ弾き飛んでいった。
十二
肩口を狙うつもりだったが、ナイフに当たってしまった。
でも、間抜けにも飛んでいったナイフに気を取られているので、そのまま懐に入ることにした。
狙うは喉笛だが、相手は化け物だ。
まず手足を潰そうと、ナイフを突き出す。すれすれで避けられるが、振り向きざまにナイフを投げつける。
これも黒いマントの端を掠めただけだ。
でもその時、丁度よく吹いた突風でマントが捲れあがり奴の顔を覆った。
チャンスだ。ナイフを構え直し、思いきり突き刺した。
だが、手応えが全く無い。全力で突進したので、マントを刺したままつんのめる。
「その年にしては良い腕ですが、ナイフだけじゃ難しいですよ」
後ろの空気が震えた。
「この!」
ナイフがマントに刺さったままの状態で、後ろへ薙いだが化け物はひらりと避ける。その拍子に裂けて飛ばされそうになったマントを、掴まれた。
もう一度、横に振るう。
すると、化け物は上手い具合にマントでわたしの視界を遮った。死角に回り込んで何度も切りつけるが、虚しく空を切るばかりだ。
「マタドールを知っていますか? 今それになった気分ですよ」
マントを手にした化け物は、にやにや笑っている。
何故だ。何故当たらない?
一筋縄ではいかないことは覚悟していたが、こうも避けられるなんて。
このままだと息が上がってしまう。後ろに飛んで間合いを取る。
化け物は追ってこなかったが、目を細め楽しそうにしている。鼠をなぶり殺しにする猫の目だ。
完全に舐められている。
腹の底から煮え滾り、飛び掛かりたくなったが、思う壺なので無視して更に間合いを取った。
昨日の不意打ちは間違いなく当たっていたのだから、隙をつけば何とかなる筈だ。
隙、心の隙。こいつの弱みは何処にある?
親類や恋人を盾にするのが定石だが、生憎奴にはそういった者が居ないようだ。
女中達のお喋りも欠かさず聞いていたが、務めている使用人の中で、特別懇ろにしている者も居なかった。
少しずつ、少しずつ間合いを広げるが、そろそろ怪しまれてしまう。
何か、何かあるはずだ。弱み。大事にしている人間が。
その時だった。
昨日からしつこく風が吹いている最中、一段と強い突風がわたしに直撃した。
体が一瞬だけ浮いてよろける。目も開けられない程で、思わず腕で顔を覆う。
次に目を開けると、相変わらず薄ら笑いしている化け物の周りに、小さい紙切れが吹き飛ばされてゆくのが見えた。
でも赤や白、黄の色とりどりな紙切れは、良く見ると……
十三
少女は動かないが、殺気を孕んだ両目は、爛々と赤く輝いている。
私は、近づいたり挑発せずに、しばらく様子を見る事にした。少なくとも、彼女に逃げるという選択肢が、存在していないのは確かだった。
あの変装ぶり、ナイフの技量からみても、若いながら殺し屋として確かな経験と実績があるのだろう。
血の滲むような鍛錬と死線を掻い潜り、初めて私という難関を乗り越えようと、奮闘する少女。
失礼だが、見ていて微笑ましい。
しかし、私もそう簡単にやられるつもりはない。
――頑張り屋さんな、可愛いお嬢さん。心を、思考を「読まれている」事にそろそろ気付かないと、消耗する一方ですよ。
そう心の中で呟いた時だった。
対峙している我々の真横から一際強い風が吹き荒れた。バラ園から花びらが一斉に舞い上がり、流されて行く。
闇夜に浮かぶ、殺気立つ赤目と白皙の殺し屋と、周りに舞い散る艶やかな花びら。
それは、到底ありえない。けれど美しい色の組み合わせで、退廃的な一枚の絵になった。
狂気と幻想を併せ持ったその絵に、惚れ惚れと見入っていると、絵の中の少女が動き出す。
屋根の縁まで走って、何の躊躇もなく飛び立った。
飛び立つ寸前、少女は私をちらりと見た。
焼けつく、獣じみた目では無く、何の感情も無い虚無の目。
突然の変貌。周囲の熱が急激に吸い取られる感覚に、私は凍りついた。
あれが、少女の本性なのか。
しかし、少女と目が合ったのは一瞬だけで、目線が外れた後は嘘のように空気は元に戻った。
ほっとしたのも束の間、急いで少女が飛び降りた地上を見る。
少女はだん、だんと三階、二階の窓の縁に着地しながら衝撃を減らし、最後に綺麗に芝生に降り立つ。
そして、ゆらりと立ち上がると、昼の時以上の早さで駆け出して行った。
逃げ出したかと思ったが、あの目が気になる。
走って行った方向は……
ああ、何てことを。
十四
あれだ、あのバラ園だ。
最初の時、大事そうに土産のバラを植えるよう指図していた。茶を持ってきた時も、窓からバラ園を眺めていた。
家族も、恋人も居ない男が誰の為でも無く、こんな大きなバラ園をこさえるなんて、見栄ではなく余程の思い入れがなければしないだろう。
向こうは、完全にわたしを舐めて掛っている。よもや人質ならぬ花質をとるとは、思ってもいないだろう。
全速力でバラ園に辿り着く。
わたしは、ナイフを握り直し、早速、手身近にあるバラの茂った枝を掴んだ。手袋をはめているから棘など痛くな
「お願いですから、放して頂けますか」
耳元で低く、掠れた声がする。
それを頭で理解した時には、右手首を締めあげられ、もう片方の手で鳩尾を押さえられていた。
一瞬で追いつかれた。
「……はい、そうですかと、離すと思っているのか?」
わたしは、無事な左手で掴んでいる枝を引っ張ろうとしたが、鳩尾に痛みが走った。
下を見て、ぞっと鳥肌が立つ。
化け物も手袋をしていたが、何と指先から有り得ない程大きくて鋭い爪が飛び出していた。
猛獣の爪が私の鳩尾を鷲掴みしている。後もう少し、枝を引っ張れば、すぐさまわたしの腹を搔っ捌くだろう。
厚いコートの上からでもそれが分かった。汗が背中を伝って落ちてゆく。
「花質なんて……バラには何の罪もありませんよ。放してやってください」
恐怖の中、化け物は動けない私に再度囁くが、何かが引っ掛かった。
――花質?
『もしかして、わたしの考えている事が分かるのか?』
喋らず、心の中で呟いてみた。
「はい、ご名答です」
楽しそうに化け物は答えたが、わたしはかっと頭に血が昇った。
今までおちょくられ、おまけに心の内まで読まれていたのだ。爪を立てられ縮み上がった腹の辺りが、吐きそうなくらいむかむかしてきた。
決めた。花質を取るなんてやめだ。わたしは枝を離した。
直接このナイフで、あの取り澄ました顔をメンチになるまで切り刻んでやる。
しかし、化け物はわたしがそんな事を考えているのに
「……良かった」
そう心底ほっとした声で、あっさりと拘束を解いた。
振り向きざまに切りつけるが、あっさりとかわされた。
何が「よかった」だ。わたしを解放した事を後悔させてやる。
まだ、手はある。
十五
少女は、また背を向けて走り出した。
取り残された私は、少女が引っ張ってしまったガリカの枝を手に取って見た。
葉と花弁が、毟られて無残に散らされていた。草木の心も読めたならば、無念と怒りの声が聞こえてくるだろう。
少女が必死なのは解るが、ここまでやるとは思っていなかった。よくぞ私の急所を捕らえたものだ。
「明日、園丁に良くしてもらうよう伝えます」
本当は、今すぐにでも手入れしたいが、鋏一つ無い私では満足いく手入れは無理だろう。せめてと思い、傷ついた痛々しい枝を茂みの中へ入れた。
私は、軽く溜息をついて、少女が走って行った方へゆっくり歩いて行く。
方向からして、あの納屋に行こうとしているのだろう。
もはや使う者は居なくなり、そのまま放置していたが、目ざとく嗅ぎつけ下調べをしていたのか。
確かにあれは、ナイフより威力はある。しかし、少女に使いこなせるだろうか。
先ほど制した時、厚いコート越しに少女の体に触れたが、見た目以上に華奢だった。
あの体では、一発撃っただけで脱臼してしまいそうだ。
十六
駄目だ、どれもこれも錆びついて使えない。
この納屋は、来た初日から把握していた。
鉄格子付きの窓を覗くと、ずらりと猟銃が立てかけてあって、すぐ隣のバラ園と見比べると、なんだか不釣り合いというか、ちぐはぐな感じがした。
銃なんて派手な音の出る物は使えないので、それ以上詮索しないで放置していたが、まさか使う事態になるとは思いもしなかった。
しかし、今実際に手に取ってみると、ずいぶん前から使われていないのは確実で、埃を被り、引き金は錆びついている。幸い弾薬は幾つかは使えそうなので問題無いが、撃つのは危険かもしれない。
故障ならまだしも、暴発する可能性も
「まだ時間かかりますかぁ!」
心臓が跳ね上がった。
「急かすつもりはありませんが、早くしないと朝に」
そんなわたしの様子も知らず、化け物はさらに続ける。
「うるさい! ぶち殺すぞ!」
しまった。余りの能天気な呼び声に、思わずかっとなって叫んでしまった。
しんと静まりかえって、化け物からの返事はない。何だか、怖くなってきた。遂に怒り出したか。
そう思って、はらはらしていると
「そんな風に言い返す女性は、貴方が初めてですよ。
何でしたら、もう心は読みません。正々堂々と戦いましょう」
化け物は、相変わらずの楽しそうな口調で、呼びかけてきた。
少しほっとしかけたが、また腹の底が沸騰し始めた。笑いながら、いけしゃあしゃあと。何が、正々堂々とだ。どうせ嘘に決まっている。
わたしは、太ももに括りつけてあるナイフを引き抜き両手を添え、切っ先を額に当てた。
そして目を閉じて、ゆっくり深呼吸する。
完全に調子を狂わされている。落ち着け、落ち着け、落ち着け……
よく考えれば、有利ではないか。
奴が本気を出したら、わたしはあの鋭い爪で何十回と死んでいただろうが、向こうは、鼻から本気でやりあおうとなんてせず、単におちょくり回したいのだ。
ハンデを負うというのは、本当なのだろう。
こうして今、外でわたしが出てくるのを待っているという事が、何よりの証拠。
癪に障るが、そこに付け込むしかないだろう。
次第に体から、溜まっていた熱が抜けてゆき、本当に落ち着いてきた。
目を開けると、ナイフとそれを握っていた手が血で滴っていた。額を切ってしまったようだ。
コートの袖で血を拭う。コートは黒いから目立たない。
やるしかないのだ。他に選択肢なんて無いんだ。
わたしは、ナイフの刃を握りしめた。
十七
納屋から放たれる烈火のような怒りが、突如冷や水を掛けたかのように消えてしまった。
これだけ離れていると感情くらいしか読めないが、ここまで急に変化するなんて。
「もしかして、降参ですかぁ!」
先程から強風に負けじと大声で呼んでいるが、答えは無い。
埒が明かないので、納屋に突入することにした。
格子付きの窓を覗くが少女は見当たらない。死角に隠れているのか。
戸口に回り、ゆっくりと戸を開けた。長く油を差さなかった為、軋んだ悲鳴を上げる。
言った手前、もう感情を読むのも止めているが、さて、どう出てくるだろう。
しかし、開け放った瞬間、噎せ返ってしまう程の甘味を含んだ鉄の匂いがした。
流れたばかりの血の匂いだ。
まさか、思い余って自害したのではないかと、急いで中に入る。
立てかけていた猟銃がほぼ全て散らばり、引出も開けっ放しと散々な状況だが、肝心の少女が居なかった。
隠れる場所なんて、何処にも無い筈だ。
それにしても、なぜこんなにも鮮血の匂いがするのか、よく嗅いでみると、どうやら奥からだ。
奥へ歩み出た。
瞬間、発砲音と、ガラスが砕け散る嵐の轟音が耳をつんざいた。
咄嗟に後ろに飛び、顔と首元を腕で庇う。飛び散ったガラス片が、無数に腕を切り裂いた。
退く間際、割れた窓を見る。はめられた鉄格子は、暴虐な侵入者を防ぎ切れず破壊された。
その向こう側。屋敷の頂上に月を背にした少女が、猟銃を抱えて座っていた。
白い月よりも、もっと冷寒な目をして私を見つめていている。
思わず笑ってしまう。まんまと出し抜かれたのだ。
笑った拍子に、腕に刺さったガラス片が肉をさらに抉り、激痛が走った。
色々疑問が浮かんでいるが、兎にも角にも、これをどうにかしなければ。刺さったガラス片を、一つ一つ慎重に腕から抜いてゆく。
全て取り除き、腕を曲げたり手を握って開くが、異物感は無いので、破片が中にまで入り込んではいないようだ。傷口を舐めて出血を止める。
それにしても、自分の傷を治すのは何年振りだろうか。
無事、出血も止まるが、どうやって少女がこの密室の納屋から抜け出したか、皆目、見当がつかない。
原因は、奥からする血の匂いだろうか。
また少女に発砲されぬよう、屈んで窓際に沿って奥へ進む。
進むに従って、点々と血痕が増えていき、靴からぬめる感覚が伝わる。そして奥の壁を見上げると、魔法陣と思われる模様が、真っ黒な線で擦りつけるように描かれてあった。
中央に目玉模様があって、ぐにゃぐにゃとした線が、蛇のように取り囲んでいる。
月明かりに照らされたそれは、血糊で描かれていることもあってか、不気味で気がふれた画家が描いたみたいだ。
しかし合点した。少女はこれを使って、昼間私を覗き見したのだ。
十八
形勢逆転だ。
殺気に気取られて、ぎりぎりで避けられてしまったが、一番威力のある熊撃ちの単発弾だ。
掠っただけでも肉を抉り、相当な痛手となる。
距離がかなりあるから、スコープ付きでも上手く狙えるか心配したが、丁度、金の髪留めがきらきら光っていい的になった。
今頃、激痛でのたうち回っているだろう。気分が良い。
猟銃を肩から外して立ち上がるが、体が重たく感じて、両足がふらついた。
まあ、人一人が通り抜けるだけの大きい呪字を書いたのだから仕方が無い。
でも、もう少しだ。もう少しで仕留められる。
そう言えば、お返しがまだだった。わたしもおちょくってやろう。
「どうした! いつまでこそこそ隠れているつもりだ。それとも、くたばったか?
朝になって、起きてきた使用人達がお前の姿を見てどう」
「○○、何てはしたない格好をしているのです!」
家令のヴィンセントさんが、下の階からわたしを見上げていた。
十九
私自身、耳が良いのを差し引いても、少女の声は威勢が良く、ここまで届く程だったが、途中から素っ頓狂な声に変った。
強風の唸り声が邪魔をして、聞き取りずらいが、誰かと話している。
「……んて……しているのです」
「あ……その……ん……」
耳を澄ませてみると、少女は見回りしていたヴィンセントに見つかってしまったようだ。
まあ、真下で発砲音と大声を出せば、ばれない方がおかしいだろう。
もう立て篭もらなくても大丈夫だ。
納屋から出て、粗忽な少女を見ると、まだヴィンセントの問答は続いており、慌てふためいていた。
取り敢えず、このままだと面倒な事になるのは明らかだ。
私は屋敷まで全力で走り、風を切りながら、窓縁目がけてへ跳躍した。次いで、縁を足掛かりにしてヴィンセントがいる窓へ飛び込んだ。
「嫁入り前の娘が足をむき出しにして、夜中出歩くとは……まさか! 花売りを」
「あ、あの、だから違うんです! これには訳が」
二人とも、何処かずれた会話をしているが、跳躍した勢いのままヴィンセントが立っている窓に飛び込む。
いつも冷静なヴィンセントも、主が三階の窓から飛び込んで来て、さすがに驚いたようだ。
わたしは、急いで指を鳴らして術を掛けた。
「しばらく眠っていてください」
本当なら、もう少し時間が掛かるのだが、私に従順なせいかヴィンセントはすぐに眠ってくれ、糸が切れたかのように崩れ落ちた。
頭を打たないよう、抱きかかえて壁を背に座らせる。
精々、一時間程で目覚める筈なので、風邪を引く心配はないだろう。
「おい」
振り向くと、窓の向こうで何かが落下したのが見えた。
がしゃんと壊れる音がして、慎重に窓下を覗くと猟銃が芝生の上に横たわっている。
見上げると、少女は私を見下ろし、睨みつけていたが、すぐに屋根の向こうに引っこんでしまった。
銃は、もう使わないのだろうか。
私は、窓から身を乗り出し垂直に飛んで屋根に降り立った。少女は、かなり離れた所に居た。
どじを踏んだ一部始終を見られてしまったせいだろう。頬を赤くして苦々しげな目をしていたが、投げナイフを構え、声は出さずに口だけ動かした。
『来い、化け物』
失礼ながら、シュールな笑劇のようだ。
彼女は、致命的に抜けていて、どうにも本気でお相手出来ない。いくら常識の範疇を超える標的が相手でも、あそこまで迂闊な行為をしてしまうとは。
予想外な事に弱くて、頭に血が昇りやすいのだろうか。だとしたら、ますます向いていないと思う。
ヴィンセントを起こさない為に、かなり距離を取って声を出さない気遣いさも。
『それでは、行きますよ』
私も口だけ動かして、駈け出した。
少女は、構えている二本のナイフを飛ばすが、避けないで叩き落とす。
もう避けたり、からかう事はしない。この劇に幕を降ろす。
攻撃全てを受け止め、絶対に勝てないと知らしめなければならない。
命ではなく、殺し屋としての誇りのみ奪うつもりだ。
そうでもしなければ、彼女は何処までも私を追い続け、永久に幕が降りることはないだろう。
ナイフを叩き落とされても、少女は全く動じず、その手に狩猟刀を構え切りかかろうとする。
しかし、すでに目と鼻の先まで接近した私は、錆びついて切れ味を無くしたそれを掴み、手刀で、難なくへし折った。
少女は舌打ちし、距離を取ろうと素早く後ずさりするが、逃がすつもりはさらさら無い。
このまま組み伏せる為、追いすがる。少女を捕らえようと、一歩踏みしめた。
その時、片足がまるで底なし沼に突っ込んだかのように吸い込まれ、がくんと大きく体勢を崩した。
両手をつくが、何が起きたか理解出来ない。
さらに追い打ちをかけるかのように、目の前が光一つ無い真っ暗闇になってしまった。
混乱を極めた私の頭の中も、真っ暗になる。
息苦しさから、コートを投げつけられたと把握した時、
「もう、銃は使わないとでも思っていたのか?」
後ろから、撃鉄を起こす冷たい金属音。そして、一欠片の感情も籠っていない少女の冷やかな声がして、私は総毛立った。
もしかして、全て演技だったか。
わざと大声を出してヴィンセントの気を引き、立てこもった私を呼び出したのも、猟銃を放り投げて、殊勝なあの表情と素振りも全部。
私が、攻撃を避けない事も読まれていたとは。
ここまでしてやられるなんて、焼きが回ったものだ。
彼女は殺し屋より、女優の方が向いているだろう。
轟音が高らかに響く。
しかし、一向に後頭部や背中に痛みは無く、意識も依然として明瞭だった。
やがて後ろから、か細い呻き声が聞こえ、不吉な予感がしてコートを剥ぎ取って振り向いた。
「う……あぁ……」
少女が赤黒い血に滴る右手を押さえて、苦悶の表情で蹲っている。
身に纏ったシュミーズも、半分以上が血の色に染まり、足下には銃身が破裂したピストルが、血の池に沈んでいた。
銃が、暴発したのだ。
何て不運なのだろう。少女は最後の最後でツキに見放されてしまった。
押さえ込んでいる右手の出血は未だ止まらず、恐らく指も吹き飛んでいるに違いない。
今までの所業の報いか。もう二度とナイフを持つ事は叶わないだろう。
先程、屋根に吸い込まれた足を見る。ふくらはぎまで屋根を貫通していたが、そこから下の感覚はしっかりとあり、動かせた。
何の音も衝撃も無かった。屋根が部分的に老朽化して踏み外したのではなく、「すり抜けた」としか言いようがない。
もしやと思い、ゆっくり足を上げてみる。
水中から引き抜くような感覚と共に、拍子抜けする程あっさり抜け出せた。抜けた後を見ると、納屋で見つけたあの魔法陣と同じ物が描かれている。
しかし、目前の少女への注意が僅かに逸れてしまう。
不意打ちのチャンスとばかりに、少女は無事な手でナイフを引き抜き、声も上げず飛びかかって来た。
まだ、そんな力が残っていたのか。
奇襲に対応しきれず、喉笛目がけてナイフを突き出してくる左手首をぎりぎりで掴むが、そのまま押し倒される。
ただし、力の差は歴然だった。
彼女は手負いの上、片手だ。私は両手の上、常人より遥かに力がある。
諦めきれない少女は、全体重をかけ渾身の力で突き刺そうと、歯を食いしばり唸り声を上げて躍起になるが、決してナイフが私に届く事はない。
荒い息遣いが届く程に、少女の顔が近づく。
まさしく、獣のそれだ。苦痛に苛みながらも、赤い目は決して諦めない執念の炎に燃えている。
このままだと、埒が明かない。
「もう、止めなさい。どうしたって私は殺せませんよ」
そう伝えた途端、少女は苦々しげに舌打ちをすると、ナイフを引き離し後ずさりしたが、踏んばるだけの体力がもう残っていなかったのか、足がもつれて大きくふらついた。
危ないという言葉が脳裏によぎった時には、すでに少女は、屋根の傾斜に吸いこまれるように頭から転がり落ちていた。
二十
頭が痛い。後ろから金槌で思いきり殴られたようだ。
体も重く、目の前も暗い。確か、打ち所が悪いと目が見えなくなると聞いた事がある。
そう考えて、ふと不思議に思った。
何故、わたしは頭を打ったのだろう。
そして、さっきからぺちゃぺちゃと、何かを嘗めているような音が聞こえる。
何だろう。何が起きている?
少しずつ視界がはっきりしてきて、ぼやけているが白く光る月と星が見えてきた。
目は大丈夫なようで安心したが、あの変な音はまだ聞こえてくる。
よく聞くと右側からだ。頭は相変わらず打ちつけられたかのように痛いが、何とか動かせた。
見ると、化け物が跪いていた。そして、何か赤黒い棒のようなものを咥えて舐めていた。
何やら切羽詰まった様子で、わたしが見ている事に気が付いていない。
棒をよく見ると、舐めている先の部分だけ赤黒くて、下は真っ白で……真っ白なわたしの腕。
「放せ!」
なけなしの力を振り絞りって身を起こし、振り解こうとするが、化け物はわたしの手が余程美味いらしい。右腕をがっちりと掴んで、どんなに引っ張っても放そうとしない。
化け物は、急にわたしを睨みつけ怒鳴った。
「落ち着いて下さい! 傷を塞いでいるだけです。これ以上の出血は命に関わりますよ」
そう言いながら、下を指差す。わたしもつられて見てしまった。
掴まれている右腕の下。赤黒い水溜りがわたしのズロースを汚している。
そして、べたべたしているそれは屋根の傾斜を伝って、淵まで流れていた。
「あの暴発で、指が全て残っていただけでも奇跡ですよ」
溜息交じりで化け物が言う。
暴発。そうだ、化け物の頭を吹き飛ばすつもりが、逆に自分の手を吹き飛ばしてしまった。
そして、この水溜りは、わたしの血だ。
分かった途端、また目の前が暗くなり、体が横に傾く。
力が入らず、受け身も取れないなとぼんやり考えたが、柔らかい壁にぶつかる。
「頭……かなり勢いよくぶつけましたが、瘤になっていますね」
何かが、わたしの頭を撫でている。
何度も、何度もゆっくり撫でる。何故こんな事をするのか、解らない。
頭が上手く回らない。ぼんやりしてしまうが、暖かい。
柔らかい壁から、不思議な音がする。
それは、耳を澄ませないと分からないくらい小さい音だが、規則正しい時計のように鳴っている。
とくん、とくん……とまるで人の胸に耳を当てているようだった。
そうか、わたしは奴の胸に支えられているのだ。ようやく意識がはっきりしてきた。
チャンスだ。もう一度チャンスが来た。
わたしを助けた挙句、抱きよせるとは。とことん馬鹿な奴だ。
ナイフ。早くナイフを
「ナイフは下へ落ちてしまいましたよ」
「えっ」
無い! 一体、何処へ行った。
全力で奴から離れて間合いを取る。辺りを見渡したがナイフは何処にも落ちていなかった。
奴から更に離れつつ、注意深く屋根の下を覗く。ナイフと思しき物が、刃を月明かりで輝かせながら芝生に落ちていた。
何てことだろう。折角のチャンスだったのに。
「まだ、血は止まっていませんよ」
化け物はわたしの注意を逸らして、油断させようとするが、そんなちゃちな嘘に引っかかるものか。
「何、馬鹿な事を言っている? 舐めただけでこの出血が止まる訳が無い」
「昼間の時と違って、貴方の場合は傷が深すぎてね」
そう言われて、血を吸われたリザさんの首筋に、傷跡が残っていなかった謎が解けた。
しかし、このやりとりの中で新しい謎が生まれる。
「余計なお世話だ。それに、なぜわたしを助ける?
大体、ばれた時点でわたしがお前の正体を言いふら……と言うか、使用人達はお前の正体を……」
「ばれたら逃げられますよ。だから血を吸う時は毎回、催眠術を掛けています」
当然のように化け物が答えた。
余裕綽々な言動に苛々するが、感情を顔に出してまたおちょくられるのが嫌なので、すぐ気持ちを切り替える。
こいつは、万が一わたしが屋敷から抜け出して、町中に言いふらすのを少しも予想していないのか。
それとも、たかだか小娘一人がどうこうしようが、誰も信じまいと思っているだろうか。
益々もって、こいつの考えが分からない。
「じゃあ、尚の事……」
言いかけたが、急にがくんと視界が下がり、腰が抜けて無様に膝をついてしまった。
あまり見ないようにしていたが、右手を見てみた。
指は五本とも先の方まで残っていたが、肉が所々焦げて裂けており、白い骨が出ている。
出血自体は奴が言っていたように、それほどの量では無く、ぽたぽたと滴っている程度だ。
感覚が無くなっているのがせめてもの救いだった。
でも、同時に自分の手では無いような気がして、現実味も無い。。
そのせいか、また頭の回転が止まりそうになり、ぼんやりしてきた。
そろそろ、まずいかもしれない。
「私は、最初から貴方をどうこうするつもりはありません。
たとえ、吹聴されても好色男爵の噂に、尾ひれが付く程度でしょう。それに……」
わたしの耳に化け物の声が響き、飛びかけた意識が戻った。
また気が遠くなって、ぼんやりしないよう、わたしも聞き返す。
「それに、なんだ? 物珍しいからこのまま女中として置いて、飼うつもりか」
私は今まで、死体みたいな白い肌や、喉笛を掻っ切った時に噴き出す血のように赤い目した人間を、自分の他に見た事が無かった。
それが却って数寄者にはいい値で売れる――人攫い達が、何度もわたしを捕まえようとしたから、相当珍しいのだろう。こいつも、十中八九そうに違いない。
でも、化け物の反応は違った。にやにやしながら肯定するかと思っていたが、心底がっかりした、それでいて怒っているような顔になった。
「恩着せがましいこそあれ、そのように思われるとは心外です。
私を異類と知りつつ、ハンターでもないのに挑む無謀な勇気を讃えて。ここで、死なせるには惜しいと思いました」
いるい。という言葉が良く分からなかったが、何故か胸の辺りがちくりとした。
でも、それ以上に奴の目つきはわたしの神経を逆撫でした。
化け物の目は、憐みとか同情とか言われる目だ。
あの人拾われる前、見上げれば何度も、色んな人間達がその目でわたしを見ていた。
そして、被っていたフードを外すと途端に驚いて、逃げるか怒った顔をして石を投げつけてくるのだ。
気絶している時に、昔の事も読まれてしまったかもしれない。
奴は同情して、わたしを見逃している。
あの目は、昔を思い出すから大嫌いだ。
二十一
「化け物め。その目を、潰してやる」
凍るような声にも、年端もいかない娘の口からはまず出ないであろう発言にも、そろそろ慣れてきたが、同時に、まるで違う声色が重なって聞こえた。
『そんな目で、見るな』
か細くて、消え入りそうな声にも拘わらず、意識せずとも私の耳朶に響き渡った。
この耳を澄まさなくても聞こえた小さな声は、紛れもない少女の本心だ。
汚れ仕事をしていて、本当に碌な目にあっていないだろうが、ここまで信用しないとは。
一体少女は、どれ程の苦しみを背負って生きてきたのだろう。
そう思った時、とんでもなく筋違いな事に気が付いた。
私を信用しないのは、当たり前だ。人では無いのだから、信じろと言う方が無理な話だ。
あれだけ人外の力を見せておいて、何て馬鹿な事を考えたものだ。久しぶりに本性を現したせいで、少し気が高ぶり過ぎたか。
そう独り決めをしていると、かちゃかちゃとくすぐったい音がした。
見ると膝をついている少女は、無事な左手で何かを掴み執拗に噛んでいる。
その手から紐が見えて、少女が首に掛けていた物だと気付く。
シュミーズの下に隠れていたので何を下げているかは分からなかったが、目を凝らすとそれは小さな瓶だった。
少女は、四苦八苦しながら口で蓋を取ろうとしている。
やがて、蓋を外した少女は、ちらりと私を一瞥してから瓶の中身を飲み干し始めた。
恐らく気つけ薬か、痛み止めだろう。
少女は急いで飲んだせいか噎せているが、手負いの獣の如く、私を睨みつけたままじっと動かなくなった。
どれくらい時間が経ったのか。
少女の目には、未だ戦意の炎は消えてはいなかったが、やはり薬程度では、体勢を立て直すなんて出来ないだろう。
不屈の闘志には感心するが、このままだと夜が明けてしまう。
声を掛けようとしたその時、石のように固まっていた少女がゆらりと立ち上がる。
そして、信じがたいことが起こった。
我が目を疑った。少女はもう動かせないであろう、血まみれの右手に唾を付けて、シュミーズの裾で拭き始めた。勿論、傷も塞がりきっていないどころか、骨まで剥き出しになった右手である。
痛みを感じないのだろうか。
しかし、少女は全く顔色を変えず拭き続け、シュミーズを真っ黒にした後、私に右手を見せつけた。
この闇夜でもはっきり分かる。少女の右手は元通りに、傷跡すら消えていたのだ。
「今日はもう引き上げる。それと、何か勘違いをしているようだが、尾ひれ程度では済まない証拠を、わたしが作り出すとは考えていないんだな。
例えば、使用人の一人か二人血祭りに上げればどうなるか……嫌なら、今夜の事は綺麗さっぱり忘れて、今まで通り貴族の振りをして生活していろ。私が息の根を止めるまでな」
先程まで、ずたぼろだった手を折り曲げ、人差し指で私を指さしながら少女は高らかに言い放つ。
本人は、至極真面目に私を脅している。
しかし、私はその時、少女の頑張りをぶち壊す、余り重要では無い事を思い出した。
「コート、要らないんですか?」
「あっ!」
どすの効いた声から、一変して頓狂な声になる。
すっかり忘れていた。
ぶつけられたコートは手当てをする際に、風に飛ばされぬよう、丸めて手元に置いていたのだ。
「返して欲しいですか?」
少女は、恨めしさと罰悪さが入り混じった表情で、コートをじっと見つめている。
どうやら、必要らしい。
「使用人達は全く無関係です。危害を加えないと約束して頂ければお返しします。それに、さっきも言いましたが、私から貴方をどうこうするつもりはありません。
出来れば、諦めて帰って欲しいですがね」
「……約束を守るとは限らないぞ」
柔らかく釘を刺す程度に警告したが、往生際の悪い少女は吐き捨てるような返事をした。
しかし、こちらもそればかりは許せない。
好きに振舞っても良いと言われたものの、男爵から借り受けている、この名を汚す訳にはいかない からだ。
「黙って見過ごす訳無いでしょう。貴方はただ見逃されているのですよ。この私に」
途端、強気だった少女は叱られた子供の如く竦み上がり、その目に恐怖をありありと映した。
そして、聞き取るのがやっとなくらい小さな声で言葉を紡いだ。
「……分かった。使用人には手を出さない」
「それでは、どうぞ」
ようやく承諾してくれて安心したが、コートを差出して一歩進み出ると少女はびくついて、まるで見えない壁に押されるように、一歩下がってしまった。
身を守る武器が一つもない丸腰の下着姿のせいだろう。構えた状態のまま、私を睨みつけているが、読まずとも、恐怖の感情が滲み出ている。
怒声を上げた訳ではないのだが、私は余程恐ろしい形相をしていたのだろうか。
もう一度、歩み出てみたが結果は同じだった。何か言おうとも思ったが、きっと効果は無いだろう。
仕方が無いので、コートを堅く丸めて少女に向けて投げてやる。
しかし、ナイフやその他諸々の道具が入っているそれは、異様に重たかった。横風に流され無かった代わりに、私と、少女の中間地点で着地してしまう。もう少し力を入れれば良かった。
少女から、非難めいた視線を向けられたが、受け取ってくれないからそうしただけであり、責められるのは理不尽というものだろう。
敢えて無視していると、少女は私とコートを交互に見ながら、一歩ずつ慎重に歩き始めた。
やがて落ちた衝撃で広がり、「中身」が丸見えになっているコートまで辿り着く。
そして、ちゃんとブツが揃っているか捲り上げ確認している最中も、私をちらちらと見て、決して警戒を解かない。
その挙動は、餌をちらつかせても、置いて離れても容易に寄ってこない野良猫だ。
確認が終わったのか、少女は素早くコートを掴むと落したナイフも回収するつもりなのだろう、飛び降りようと脱兎の如く走り出した。
益々、魚を盗み出した直後の猫のようでおかしさを我慢していたが、少女が飛び降りる寸前、遂に吹き出してしまう。
「笑うな!」
私の笑い声を、少女はしっかり聞いていた。白い頬を真っ赤に染めながら怒鳴られる。
しかし、尚も笑いが止まらない私に遂に呆れたらしい少女は、人質ならぬ花質を取ろうとした時と同じく、三階建ての高さをもろともせずにひらりと飛び降りた。
最後まで猫のしなやかさで着地した少女は、暗がりの中で光るナイフを拾い上げ、走り去る。
その後ろ姿は、肩まで伸びた黒い髪が闇に溶けたせいで、首なしの亡霊に見えた。
向かった方角からして洗濯場だろう。流石に、血塗れで寝床へ戻る訳にもいかない。
私は、一人取り残された。
夜更け本来の、耳鳴りがする程のしじまが戻る。
いつの間にか、風も大人しくなっていた。
二十二
確かに、わたしは怖気付いた。腰抜けだと思われても仕方が無い。
でも、だからと言って、あそこまで笑われるのは堪忍ならなかった。
全く。何処までもわたしを馬鹿にしやがって。
だけど、化け物の足腰に響く低い声と獣の爪、それにぎらつく目を思い出して、また震えてしまう。
腹に爪を立てられた時、内臓まで引き裂かれる自分を生々しく想像した。
それに、こんな失態。あの人に知れたらと思うとぞっとして、今日は眠れないかもしれない。
わたしがばしゃばしゃと下着を洗う音だけが、洗濯場に嫌に響いて居心地が悪い。
シュミーズは右半分だけだが、ズロースは尻の部分まで血でべったりだ。
どちらの血の染みも中々取れず、思わず舌打ちする。
昼間のおばさんも、全然落ちないと言っていたが、あれはインクの汚れとしてお湯で洗った為、落ちなかったせいだろう。血の汚れは、お湯で洗うと固まって染みになってしまう。
だから水で、更に石鹸の量を増やせば何とかなると思い、かれこれ三回、水を取り換えながら洗濯を繰り返した。
水の中で、ゆらゆらと海藻みたいに揺れる下着に蝋燭立ての光を当ててみたが、これだけやっても、シュミーズとズロースにはっきりと染みとなり落ちなかった。
石鹸も、これ以上使えば、さすがにばれてしまう。
もう、どうしようもないので処分する事にしたが、その前に絞ったシュミーズで、体にこびりついた血を念入りに拭き取る。
下着に付いたのと違って、あっさり拭き取れた。何故、肌に付いたのはすぐ落ちて、布に付くと落ちなくなるのだろう。不公平だ。
蝋燭立てを持ち、汚れた水を捨てる為、外に出る。
手っ取り早く排水溝に流せば良いのだが、心もとない明かりだけで、使用の痕跡を完璧に消す自信は無い。面倒臭くても昼と同様、外に捨ててしまった方がいい。
目立たない場所かつ、昼間と同じ場所に流すと水溜りになって、怪しまれてしまうのでまんべんなく撒いたが、その時、変な色をした芝生を見つけた。
蝋燭一本の小さな灯りだけだから、見間違いかと思ったが、火をかざして良く見ると茶色で、しかも明らかに萎れていた。
手で摘まんでみると、腐った野菜を触った時の気持ち悪い感触がする。
草むらが部分的に枯れる何てことがあるのだろうか。
「毒でも撒かなきゃ、こんな風には……毒……」
気付けば、一人事を呟いていた。
心臓が静かに、けれど時計の秒針よりずっと早く鳴り始めた。
二十三
どう誤魔化せば、上手く収まるだろう。
少女が落とした猟銃と納屋の魔法陣を放置して置けず、納屋に戻そうとしたが、戻した所でこの惨状を取り繕うのは不可能だった。
鉄格子も窓も完膚無きまでに破壊された上、中はまるで猛獣に蹂躙された有様だ。
「強風で石か何かが飛ばされ、直撃して窓が割れてしまいました。中の猟銃が散らばっているのも強風でなぎ倒されたせいです」なんて言い訳も通用しないだろう。
散弾だったら外壁にも穴が開いていただろう。単発弾にしてくれたのがせめてもの救いだが、やはり朝、使用人達が青ざめる姿が目に浮かぶ。
穏便に修繕する為、またヴィンセントに術を掛けなくてはいけない。
複雑な指示を与えるのは疲れるし、第一、何度も術を掛ける事によって記憶に障害でも出たら大変だ。
気が重くなるが、まずは少女が描いた魔法陣を消してしまうのが先決。悩むのはその後だ。
なぎ倒された猟銃を踏まぬよう慎重に、荒れ放題になっている納屋の奥へ進む。
果たして魔法陣は描かれており、改めて見ると血で描かれた事実を差し引いても、鬼気迫るものがある。
特に、中央にある目玉模様は、蛇や蜥蜴を連想させて禍々しい。
この魔法陣、そして飲んで数分足らずで治癒する薬。
少女が魔術に通じているのは確かだが、ハンターや退魔師では無いだろう。
潜入にしてはお粗末だし、使っていた武器は何の細工も無い「対人間用」だった。
何より、濃い血の匂いと強烈な殺気を纏う者が、平安を守護するという大義を掲げるあの集団に与するとは考えられない。
不可解な少女だが、ひとまず、この置き土産の処理をしなければ夜が明けてしまう。
確か「直接手で触れずに削りとるか、水で洗い流せ」と教わったが、この魔法陣は物質を通過させる代物のようだから、水は駄目だろう。
それにしても、この魔法陣の目は見れば見るほど、今にも瞬きをしそうで、まるで生きているようだ。
気味悪さと、見透かされているような錯覚に襲われ、思わず猟銃の先で目玉を突っついたが、すり抜けずに硬質な音と、確かな手応えが伝わった。
呆気に取られている間に、魔法陣は突いた箇所からじわじわと消え広がって、遂に跡形も無く消えてしまう。
おかしい。少女は猟銃を持ってこの壁をすり抜けた筈だ。何故、猟銃は通り抜けずにぶつかったのだろう。
しかし、この魔法陣の効果が切れていたならば、あんな消え方はしない。
仮に少女のみに反応するなら、私の足をすり抜けさせた屋根の魔法陣は何だろう。
あれこれと思い巡らせていたが、答えが出る前に視界がぐらりと横に傾いた。
そのまま、壁に体をぶつける。
一体何が起きたのか。倒れはしなかったが、体が重く言う事を聞いてくれない。
息苦しく、嘔吐しそうになる。
決して素手で触れていないのに。まさか、失敗して呪いでも受けたのか。
壁を支えに、へばり付きながら歩く。
何とか納屋から出たが、すぐに足がもつれて今度こそ倒れてしまった。
自分の笛を吹くような細い呼吸だけが、静寂の中に嫌に響いた。
二十四
少し早めにベットから出て、持ち場でモップやブラシなどの掃除用具の手入れをする。
起きるのが早過ぎだと叱られてしまうかもしれないが、あの後全く寝付けず、何かしていないと落ち着かなかった。
でも、定時の六時近くになっても誰も来ない。
家女中は、最初にこの部屋に集合して簡単に打ち合わせをしてから、ホールで他の使用人達と一緒に朝礼をすると教えられていたが、今日は例外だったのだろうか。
もう少し待つか、ホールへ行ってみるかと思いあぐねていると、慌ただしい足音が、こちらまで近づいてきて緊張が走る。
「ちょっと、○○居る?」
リザさんが喋りながら、扉から顔を出した。失敗した。やはり今日はホールに集合だったのか。
怒られると覚悟したが、当のリザさんはすごく慌てている様子で、わたしを見るや否や手招きした。
「急いで、ミセス・トーマスが呼んでる!」
まさか、昨晩のあれを見られてしまったのか。
「あの……わたし、何か仕出かしちゃいましたか?」
びくびくと、怯えてた振りをしながらリザさんに聞く。
我ながら白々しいが、昨晩抜け出した所だけを見られたという可能性もある。
それなら、まだ言い訳が出来る。
しかし、リザさんの答えは意外なものだった。
「私も良く分からないけど、旦那様が納屋の傍でお倒れになられてね」
「なっ! そんな……」
馬鹿な。と危うく言いそうになった。
信じられない。奴が倒れるなんて。
ホールには使用人達が集まり、ただならぬ様子であれこれ話し合いをしていたが、わたしがやって来たのを見ると水を打ったかのように静かになった。
何故、皆黙ってわたしを見つめるのか分からない。
使用人達の目は、単に新米が遅れて来たのを非難している訳では無いようだが、居心地が悪く居たたまれない。
ミセス・トーマスが使用人達の中からかき分けるように出てきて、わたしの前に立った。
どうする。ばれたら全てがおじゃんだ。
ここに居る全員を口封じしなくてはいけない。
ざっと二十人くらいか。訳無いが、奴の言葉を思い出して生唾を飲む。
それに……
「○○」
ミセス・トーマスが静かに口を開く。
わたしが、そんな事を考えているなんて欠片も思ってもいないだろう。
「は、はい!」
声が上ずってしまった。
家政婦ミセス・トーマスは、目を凝らすような顔をしながら、わたしをじっと見つめる。
わたしの目について何も聞いてこなかった珍しい人だが、挨拶する時や、ふと目が合った時、必ずあの目つきになる。
ばれてはいないだろうが、探られている気がして正直、苦手だ。
――止めろ。怪しまれるだろ。
気が付けば、太腿に括りつけたナイフをスカート越しに握りしめていた。
頭では解ってはいるのだが、緊張してしまうとどうしても握ってしまう。
「今朝から旦那様は突然の高熱により、病床に臥しております。そして何故か、貴方に御用があるとの事です」
「……は?」
突然の言葉に、頭も体も完全に止まる。
ミセス・トーマスは「早くお行きなさい」と言いながら、水の入った洗面器とタオルを差し出さす。
じっと見つめる目は相変わらずで、その迫力で理由も聞けない。
わたしは、気押されて言われるまま洗面器とタオルを受け取ってしまった。
二十五
目覚めて最初に見えたのは、天井とミセス・トーマスとヴィンセントの安堵した顔だった。
単なる風邪で医者は必要ないと伝えたが、朦朧とした意識の中、彼らにどう伝えたか曖昧で不明瞭だ。
納屋の有様を見たにも拘わらず、全く触れずに身を案じてくれてたのは有り難い。
しかし、二人の青ざめた表情からして、医者を呼んでしまうかもしれない。
私の頭は、熱した鉄塊を詰め込まれたかの如く、熱くて重くなっている。やって来る医者に、術を掛けて追い払えるか、自信が無い。
控えめなノックがして緊張が走る。早い、もう来たのか。
「失礼します」
ミセス・トーマスの低く落ち着いた声では無かったが、この鈴が転がる声には聞き覚えがある。
「……どうぞ」
疑問は後回しにして遅れがちに返事をすると、がちゃりと扉が開かれ声の主が現れた。
洗面器を両手に持ったまま、扉を腕押ししながら入ってきた声の主は、先刻の可愛らしい声とは裏腹に冷たい無表情な顔をしている。
あの少女が、やって来たのだ。
高熱のせいで頭が回らない私は、迂闊にも疑問を少女にぶつけてしまった。
「ミセ……」
少女は、私を鋭く睨み、洗面器を両手に持ったまま、器用に人差し指を作り口元に当てた。
『口だけ動かせ』
心へ直接語りかけてきた。私はやっと少女の意図を理解した。
『何故、貴方が?』
素直に質問した。
この状況で来るとするならば、あの二人か、もしくは医者だろう。
しかし少女はその途端、ぎらりと私を睨みつけ、燃え盛る憤怒の形相になった。
『こっちが聞きたい! 一体何のつもりだ。いきなり呼び出して、お陰で冷汗かいて心臓縮み上がったわ。
使用人共におかしな目で見られるし、お前から危害を加えなければ何もしないと言いだした癖に。
そして本当に病気で、寝込んでいるとはな。夜風に当たり過ぎて風邪でも引いたかってか? ふざけるのも体外にしろ!』
恐ろしく早口で、実際に声に出したら振動で窓も割れるのではというくらいの怒声だった。
少女の激昂ぶりに思考が停止してしまったが、何とか要点をまとめる。
『私が、呼び出した?
待って下さい。呼んでないし、ふざけてもいないし、本当に参っているんです。
貴方が去った後、納屋の魔法陣を消した直後に、急に目眩がして倒れました』
一刻も早く少女の怒りを鎮めようと、私も自然と早口になってしまったが、伝えている内に少しずつ冷静になってゆき、倒れる直前までの記憶が蘇る。
『消すとこうなる魔術なのですか。それとも別の仕掛けがあったとか?』
猟銃自体に仕掛けがされていたかもしれない。知らぬ間に遅行性の術を掛けられたかもしれない。
兎に角、原因が何処にあるか知りたい。
すると、少女は目を見開いて、ぴたりと固まってしまった。
私は正解だと受け取り、返答しようとしたが
「お労しや、この時期の風邪は拗らせると厄介ですよ。もっと大事にしないと……」
今度は、慈愛溢れる女神の微笑みになった。
少女は、茶を持ってきた時と同様、優雅な足取りで窓際まで歩いていく。
そして、洗面器をテーブルの上に載せ、窓を開けて外をひとしきり覗いた。
ぱたんと静かに閉めながら、心配そうな声で少女は口を開く。
「風は止みましたが、寒くないですか? ……はい、今から火を焚きますね」
少女は、可愛らしく小走りで暖炉に向かう。
勿論、私は何も発言していない。まるで、開演中の舞台に突然放り込まれたようだ。
「石炭、足さなくても大丈夫ねぇ……」
暖炉にしゃがみ込み、マッチを擦りながら独り言まで呟いている。
舞台は勝手に進行してゆく。いくら女性には沢山の顔があると言っても、ここまで瞬時に切り替えられると感心を通り越して、薄ら寒さを覚えた。
『あの……』
火を付け戻ってくる少女に、大きく口を動かして呼びかけたが、彼女は笑みを崩さず、私の目をじいっと見るだけだ。
「もう少ししたら、暖かくなりますよ」
くすりと笑って、洗面器にタオルを入れながら、尚もうそぶく。
タオルを絞る少女の手は、相当力を入れているのか小刻みに震え、今にもタオルは捩じ切れんばかりだ。
そして、顔を上げた少女と目が合った。笑顔のままだが、思わず身震いした。
昨晩見せた周囲の熱を吸い尽くし、凍りつかせるあの目をしていたからだ。
いつだったか、インドで見かけた獣……ああ、そうだ。虎だったか。
あれが笑ったら、こんな感じだろうか。猫のようだと例えたが、何と彼女は虎だったのだ。
少女は今までのお返しも兼ねて、生殺与奪を完全に握るこの状況を楽しんでいる。
私を精神衰弱に追い込み、二人きりになった所で思う存分いたぶり、止めを刺すつもりか。
平素なら、こんな状況を笑って楽しむ余裕もあるが、もう限界だ。
『もういいですよ。今、私が』
駄目で元々。少女にほんの僅かでも良心があることを願い、口を大きく開け気付いてくれるまで、動かし続けた。
しばらくすれば、居なくなってくれると耐え抜いてきた。
しかし、高熱で気が滅入っている中、あの眼差しを受け続けた為、胃がきりきりと、少女に絞られるタオルの様に捩じ切れんばかりだった。
三回程、繰り返した所で、ようやく少女は気付いた様子だが、
「いえ、わたしにお任せ下さい」
そう言うと、絞りに絞り尽くされた哀れなタオルを、丁寧に洗面器の縁に折り掛けた。
この台詞は演技ではなかった。
足音を全く立てず、氷上を滑るように扉へ向かい、一切の躊躇いも無く開放した。
直後、女性達と男性達との悲鳴の大合唱が湧きあがる。
もっと少人数かと思っていたが、この音量から察するに、使用人ほぼ全員が、私達を暖かく見守ってくれていたようだ。
お陰で、少女の腹の底が冷えて胃が痛くなる、鬼気迫る演技を心行くまで堪能出来た。
全快したら、皆に特別手当を出さなければならない。
「そんな所に居ないで、こちらにいらっしゃったらどうです?」
少女はたおやかな声で、何処かで聞いたような台詞を使用人達に語りかける。
ああ、私が昨日彼女へ言った台詞だ。
ベットからだと使用人達の様子を窺い知れないが、賭けてもいい。
彼女は今、虎の笑顔で今の台詞を言っている。使用人達は、きっと私と同じく恐怖に慄いているに違いない。
「○○、これはですね……新入りのお前が……その……」
ミセス・トーマスの声だ。少なからず動揺しているようだ。
「ご安心をミセス・トーマス。これでもわたしは実家にいた時、寝たきりの祖母の世話をしていました。看病はお手の物なんです」
少女は淀み無く答え、ミセス・トーマスは
「そ、それなら安心です」
と辛うじて聞き取れる小さい声で答えていた。
「こ、これ……お水と、タオルの替えを」
「後、旦那様が召し上がれればとお粥……」
「く、薬湯を」
台所女中達の声は、全員声が震えている。
「わざわざ、持ってきて頂いて。ありがとうございます!」
それとは正反対の明朗な少女の声。それと、恐らく飾棚に置いているのであろう、陶器を置く堅い音がした。
「では、後はわたしにお任せ下さい。大丈夫です。旦那様は責任を持って介抱します」
使用達は、もう虎の笑みに耐えられなかったのだろう。
新入り小娘の不敵な言葉に誰一人として反論せず、異様に早い足音を立てながら、退散して行く。
少女は、頭を扉の隙間に挟めたまま、小さくなっていく足音が完全にしなくなるまで、動かなかった。
静まりかえった空気の中、用心深い少女は、ようやく扉をゆっくりと閉める。
遂に、二人きりになってしまった。
振り返った少女は、恐ろしい笑みでは無く最初にここに入ってきた時と同じ、何も読めない無表情だったが、あの笑顔より何倍もましだ。
安堵した私を見て、溜息交じりで少女は口を開く。
「随分、暇な使用人達だな……なんだその顔は、化け物のくせに風邪ごときでそこまで弱気になるとは」
「違います。貴方の笑顔でです……皆も怯えていたじゃないですか」
殺し屋とはいえ、女性に対して失礼な言葉だが、自覚を持って貰いたいので正直に言った。
「笑顔が怖かっただと? お前に茶を出した時と同じ笑顔だぞ」
眉間に皺を寄せ、理解できないものを見る目で少女は答えた。
嘘を付いている素振りは無いが、あの時と同じ笑顔だとは、俄かには信じられない。
立ち振る舞いが完璧過ぎる不自然さは感じていたが、恐怖など全く感じなかった。
少女は、何も言い返さない私を見て溜息交じりに口を開く。
「それと、さっきお前が言っていたあれは……あれにはそんな効果無いし、他に仕掛けも無い。
風邪をあれのせいにするとは、恥ずかしいとは思わないのか」
何の仕掛けもない?
「ちょっと待って下さい。それはあり得ないんです。
私は風邪やその他、病気と呼ばれる類に一切掛かりません。
こんな状態になるとしたら、魔術や呪といったものしか考えられないんです」
「しつこいぞ! 全く、ただでさえ時間が無いのに。
わたしは急いでいるんだ、早く良くなってもらわないと困る」
少女は聞く耳を持ってくれず、激しい剣幕で捲し立てたが、それより、最後の言葉に耳を疑った。
「……何を言っているのですか。貴方は私を殺しに来たのでしょう?」
「治るまで、看病してやると言っているんだ! いいか、絶対に風邪なんかで死んでくれるな。
お前を殺すのは、わたしだからな」
使用人達に言った言葉は、本当だったのか。
「それは、獲物は必ず自分の手で仕留める。殺し屋の美学という物ですか?」
「……まあな」
少女は、当たり前と言わんばかりのつんとした顔をしたが、心の内は読めなかった。
頭に重く圧し掛かる、この高熱が恨めしい。
少女は私から目を逸らし、洗面器を載せたテーブルをベットの近くまで持ってくる。
あの寄木細工のテーブルは小ぶりな割に、重量がかなりあった筈。
しかし、昨晩重たい暗器仕込みのコートを羽織り、猟銃を担いで屋根まで這い上がった少女は汗一つ流さず、息も乱さず、始終余裕の表情でこちらまで運んで来た。
そして遂に、ベットの傍に重量感溢れる鈍い音を立てて到着する。洗面器に入った水が、ほんの少しだけ跳ねて零れた。
運び手の少女は、相変わらず無表情だったが、何処か勝ち誇った顔で私を睨みつけた。
私に拒否権は無かった。もう、腹を括るしかない。
「それじゃあ……お言葉に甘えて……お願いします」
二十六
「どうすれば早く治る? 血が飲みたいなら、わたしはまだ本調子じゃ無いから駄目だが、ホワイトチャペル辺りで生きの良いのを見繕って来るぞ」
「……今、何て……」
化け物は間抜けな顔をしながら、聞き直してきた。どうやら相当熱が上がってきているようだ。
「女の生き血が好物なのだろう? だから、今から……」
化け物は、わたしが言い終わる前に、遮るように片手を前に出した。
「いいです……お気持ちだけで結構です。昨日飲んだばかりだし……お粥……持ってきてくれますか?
せっかく作ってもらったし、冷めないうちに頂きたいです」
律儀な事だが、さっきよりも声も途切れ途切れで、顔色は悪くなっている。
人間とは基準が違うかも知れないが、熱と脈拍だけ確認しておこうと奴の喉に手をやろうとした。
すると、縊られるとでも思ったのか、化け物はびくついて身を引いた。
「脈を計るだけだ」
「……失礼しました。今、殆ど読めない状態なので、突然そうされると」
確かに、弱って碌に身を守れない時に、喉に手をかけられそうになれば、警戒されても当然だ。
「じゃあ、これからは事前に何をするか伝えてから行動する。
粥は消化しやすいが、余りに高熱や吐き気がある状態に食すと却って悪化する場合がある。
一度、熱と脈拍を計らせろ」
「は、はい。どうぞ……」
ちゃんと了解を得たが、奴は喉に手を当てたる寸前、生唾を飲んで喉仏を大きく上下させた。
何だか、癪に障るが脈を計る事に専念する。
手首の脈も測る為に化け物の手袋を外すと、ごく普通の平べったい爪が出てきた。
でも、手袋の指先の部分は、尖った棒を突っ込んで破れてしまったような穴が開いている。
昨晩のぞっとする鋭い爪と、それに腹を突きたてられたのは、幻では無かった。猫と同じく出し入れが出来るのだろうか。
手首に指を当て、脈を測ると早くて不規則だ。
「普段の状態は、人間と同じくらいか?」
言いながら、汗で湿った奴の額に手を当てるとやはり熱い。
「そう変わらないと思いますが……ずいぶん手、冷たいですね。貴方の方こそ大丈夫ですか」
化け物は驚いたようだ。
多分、晩の失血で体温が下がっていると思っているのだろうが、わたしは元から体温が低い。
わたしに触った人間は、ほぼ全員そう言うので予想はしていたが、化け物にまで言われるなんて。
「これは元からだ。呂律も回っているし、問題無いな」
頭に過った事を切り捨てる。
化け物は、熱でわたしの考えが読めないと言ったが、油断してはいけない。
さっさと粥を食わせて、寝かしてしまおう。
「ちょっと! そんな……」
化け物は、わたしが差し出したスプーンを見た途端、裏返った声を出した。
何をそんなに驚くのだろう。
「大丈夫だ。触った時適温になっていたから、ふうふうしなくてもそのまま」
「そうじゃなくて! 自分で食べれま……」
最後まで言葉が続かず、ぜいぜいと息も絶え絶えだ。
「そんな状態で良く言えるな。早く食べろ」
息切れな化け物は、顔の赤みも増して、目も充血して潤んできている。
止めた方が良いかもと悩んだが、観念したのか溜息をついて食べ始めた。
硬い物が当たる感触が、スプーンから伝わる。
噛み癖があるのだろうか。貴族気取りの割に行儀の悪い奴だ。
化け物は始終、俯きながらわたしが差し出すスプーンに食いついた。
その姿は、ちょっと力加減を間違えてスプーンを喉に突っ込んでしまったら死んでしまいそうな、弱ったひな鳥みたいだ。
逆にわたしは、せっせと餌を運ぶ親鳥にでもなった気分だ。
こいつは本当に、昨晩かすり傷一つ付けられなかった、あの憎たらしい化け物なのか。
数回スプーンの出し入れを繰り返していると、化け物の頬がさらに赤くなっていく。
「顔が赤い。熱が上がってきたようだから、無理に食べるな」
「誰のせ……そうですね、もう……いいです」
わたしは、勿体ないので半分以上残った粥を、その場で全部平らげた。
病人食として作られたせいか、味付けが薄い。
汗をかいて塩分が抜けているのだから、もう少し塩を入れた方がいいのに。
「貴方……」
言われて顔を上げると、化け物は目を点にしてわたしを見ていた。
「『もういい』って言ったから……後でまた食べるつもりだったのか? それならそうと言え。
紛らわしい言い方をするな」
でも、そんなに食べたかったのか。何だか、ちょっとだけ悪い事をしてしまった。
溜息をつく化け物の顔は益々悪くなる一方で、良く見ると額から汗をかいている。
汗を拭いてから、寝かした方がいいかもしれない。
「汗を拭くから、脱がすぞ」
「……え? 脱がす、とは」
「まず、汗を拭く。その後首筋、脇の下、太腿の付け根を濡らしたタオルを挟んで冷やして解熱する。
だから、脱がすんだ」
丁寧にゆっくり説明する。これなら熱で参った頭でも分かるだろう。
しかし、化け物はぽかんと口を開けて呆けた後、震えた声で聞き返してきた。
「下……も?」
「当り前だ。脱がさないで、どうやって付け根を冷やすつもりだ?」
想像以上に参っているようだ。
わたしは根気強く丁寧に伝えるが、化け物は頭を抱えながら溜息をついた。
「……仮にも嫁入り前の女性が、はしたないと思わないんですか? 信じられませんよ。
一体どんな育ちをしたんですか」
その言葉で、今まで我慢してきた物が一気に爆発した。
化け物に通用しないかもしれないが、脈数や平熱が人間と変わらないのなら、この解熱法が一番適切な筈。
なのに、一々非難がましい目をして溜め息ばかり。
わたしは怒鳴った。
「さっきから……お前、治す気あるのか!」
すると、化け物ははっとして、次に何かをしくじった時の罰悪そうな顔をして、わたしから目を逸らした。
「……自分でやります。終わるまで、後ろを向いていて下さい」
どうして、後ろを向かなくてはならないのか分からないが、治す気はあるようだ。
後ろを向かなくてはならない理由を聞きたいと、ちょっとだけ思ったが、まだ、腸の煮え返りが治まらない。
もう、これ以上話したくなかった。
洗面器を化け物に渡して、さっさと背を向ける。
「すみません」
服の擦れる音に混じって、奴の声が聞こえた。思わず振り返りそうになるが、踏みとどまる。
「何がだ」
「先程の……言葉です。その……育ち……」
もごもごと聞き取りずらい。もしかして、吐き気も出てきたのだろうか。そうだとしたら処理もやっかいなので、後ろを向いたまま、片手を奴に向けて差し出して、遮った。
「無理して喋ると吐くぞ。病人は黙って看病されていろ。首筋、脇の下、太腿の付け根だぞ。忘れていないよな」
「……はい」
急に素直になったが、いきなりすぎて、それはそれでなんだか調子が狂いそうだ。
殺しに来たわたしをおちょくり、助けて、脅して、謝っている。
どうにも、こいつの考えが分からない。
「阿片チンキは何処にある?」
今更だが、ふと閃いた。苦しいなら、これを使えば早く眠れるだろう。
しかし、化け物は驚いたような声を上げる。
「置いて無いですよ。私は毒でも薬でも大量に飲まない限り、効きません。
と言うか、阿片……使っているのですか?」
「使わない。すぐに傷は治るからな」
とは言っても、太い骨を折る等の怪我は時間が掛かる。
太腿の骨の時なんか、固定して、半日安静にしていなければならなかった。
「そうでしたね……それに、あれはよほどの事がない限りは、使わない方がいいですよ。
前に、使い過ぎて止めれなくなった人を見ましたが、死人同然で酷いものでした」
水が跳ねる音が聞こえる。どうやら、服は全て脱ぎ終わったようだ。
「使い過ぎると体が思うように動かなくなって、とち狂うそうだからな。
大概の人間は痛みや苦しみが続くのを嫌うそうだから、死人同然になる危険があっても使いたいんだろう。子供の小遣いでも買えるくらい安くて手軽だし……お前だって、効くなら使いたいだろう?」
「そりゃあ、効くのであれば……と言っても、毒もほぼ効かないし、貴方程じゃありませんが、外傷もすぐに治るから、ここまで苦しむのも滅多にありませんがね。
ああ……ただ、阿片じゃ取り除けないもっと苦しい目には結構合いますね。そっちの方が辛いです」
意外だ。今、この状況以上に苦しい事があるのか。
「……例えば?」
「友が死んだ時。後、好きだった景色が時を経て、変わってしまった時です。
私は、年老いて朽ち果てる事が出来ません。
ずたずたに切り裂かれたり、頭を潰されれば流石に死ぬとは思いますが。
いつも、取り残されて……分かってはいても、こればかりは、何年生きても慣れません」
良く分からない。
こいつは、見た目は二十歳過ぎぐらいだが、この話が本当だとすると、実際はもっと歳を取っているのだろう。
でも、どんな奴もいつかは死ぬのは当たり前だ。人間に限らず建物は朽ちるし、自然の景色だって徐々に変わる。
何年も生きていて、何度も誰かが死んで行くのを見ていれば、普通は慣れる筈だ。
一々悲しむなんて信じられないが、その声色からは嘘を感じられず、どうやら本気で思っているようだ。
「でも、久しぶりにこうして腹を割って話せる人が出来て、嬉しいです。あの、名前を貸してくれた無頼漢な貴族以来で……」
「名前を貸してくれた? もしかして……」
口と体が同時に動く。裸の上半身を起こして服を畳んでいるの化け物と目が合った。
――しまった。
化け物は、咳払いをして目線を逸らした。
わたしも急いで後ろを向き直す。
「本物の男爵は、旅行先で崖から転落死したんですよ。
その少し前、私に『自分が死んだら名前を貸してやるから貴族をやってみないか?』と言われましてね。
幸いな事に、彼にはすでに子供がいたので後継ぎは大丈夫でした。
細君も他界していたし、好色が災いして子供とも絶縁されて遠くに住んでいるから、気兼ねなく好き勝手楽しみました」
化け物は何事も無かったかのように、すらすらと答えた。
「そうすると、元から居た使用人には、あの指を鳴らして操る術を使って誤魔化しているのか?」
「その通りです。
彼は、お世辞にも人当たりが良いとは言えない人物で、使用人は入ってもすぐに辞めていったそうです。 屋敷に来た当初、仕えていたのは年老いた家令……ヴィンセント一人だけだったので楽でした。
男爵の記憶は、読心でほぼ把握していましたから生活にも困らなかったし……終わりました。もういいですよ」
振り向くと、化け物はシーツを肩まで被って寝ていて、ベットの端に几帳面に畳んだ服が置いてあった。
「好色で、粗野な貴族と聞いていたが、化け物とそんなやり取りをしていたなんて、相当な狂人だな」
「言うに事を欠いてそんな……まあ、確かに彼は破天荒な方でしたよ。
悪い意味でね。
私の正体を知った後、猟銃を突き付けて、『どの位ブチ込めばお前が死ぬか、試してもいいか?』って、笑いながら言うんですよ」
何処か楽しそうにそう語るが、その声は掠れ始めた。
本格的に体調が悪化しているようで、わたしはこれ以上何も聞かない事にした。
近くにあった椅子をベットの傍に置いて、腰かけながらもう一度奴の熱を計る。
「冷たくて、気持ち良いです」
化け物は目を細め、手を伸ばして、額に当てているわたしの手と重ねた。
苦しそうにしていた顔を和らげて、わたしに向かって笑いかけるが、目を合わせられなかった。
「寝つくまで、こうしてやる。早く寝ろ」
催促すると、化け物は黙り静かになる。
その間、わたしはベットシーツと、着ているエプロンの白さを見比べた。
やはり、シーツの方が値段が高いせいか白い。
ずっと静かで、時計の音がうるさく聞こえてきた。
いい加減、もう眠ったのだろうかと、気付かれないようにそっと化け物を見ると、落ち着いた寝息を立てて目を閉じていた。
わたしの手は、奴の熱い額と手に挟まれて、溶けてしまいそうなくらい熱くなっていた。
これ以上、当てていても無駄だろうと思い、額から手を退かしたが、奴は余程私の手を気に入ったのか、握ったまま放さない。
そんなにきつく握られた訳ではなく解くことも出来たが、解いた拍子に起きてしまっては、寝ろと言った手前、気が引ける。
でも奴が起きるまで、この態勢でいるのは辛い訳ではないが、かなり退屈だ。
他にする事も無いし、仕方が無い。
化け物の憎らしいくらいすやすやと寝ている顔を見ながら、暇を潰すとするか。
二十七
最初に見えたのは、満点の星空だった。
次に吐く息の白さと、体に積もり覆う雪で、これが真冬の夜空だと理解する。
ふわふわとした頼りない感覚が体中を包み、頭はぼんやりして、この状況を把握するのに時間が掛かった。
起き上がり、雪を払いながら辺りを見渡す。
四方、見事なまでに何も無く、まるで夢の中のようだ。
そうだ。これは夢だ。
夢とは記憶の断片か、欲求・欲望の表れだと聞いた。
だとすると、自分で言うのも何だが、あまりにも殺風景なこの景色に、後者は当てはまらないだろう。
ただ、この光景はいつ、何処で見たかと言われると、とんと思い出せない。
とりあえず、膝丈まで降り積もったこの雪原を歩いてみれば、何か思い出せるかもしれない。
一歩、二歩、三歩――雪特有のくぐもった音がするが、感触がおかしい。
足元を見るとあろう事か、私は裸足で歩いていた。
何故、今まで気付かなかったのだろう。
どんなに鈍くても、骨まで沁みいる冷たさで気が付く筈なのに。
一体、私の身に何が起きたのか。雪を踏みつける感覚はあるので麻痺した訳ではない。呼吸する度に、澄みきった冷やかな空気が肺を締め付けるのも自覚出来る。
しかし、肌から伝わる冷たさは感じられないのだ。
この症状は、夢の中だけであってもらいたいと願いながら、さらに進む。
すると、柔らかい雪を潰すざくざくという音が、突然ぐちゃりと粘り気のある音に変わった。
何か踏んだかと振り返ると、真っ白な雪原に刻んだ私の足跡――その部分だけ絵具を垂らしたかのように着色されていた。
真っ赤に。
そして今、自分が立っている場所も例外ではなかった。
足を上げると赤い粘性のある液体が、べったりと張り付いている。
間違いなくこれは血だと理解した途端、慣れている私ですら、噎せ返ってしまうくらいの血の匂いが空間を一瞬で支配した。
先程までの冷たくも澄んでいた空気が一変して、周囲が赤味がかって見える程の錯覚に襲われる。
強烈な血の匂いが、充満する。
さすがに耐えられず、口に手を当て何とか吐き気を抑えるが、追い打ちをかけるかの如く風景までも変貌し始める。
私が残した血の足跡がじわりじわりと、清純な雪を食らい尽くすかのように滲み広がり始めた。
遂に一面血の海と化し、何がどうなっているのか、理解出来ずに立ち尽くす。
ごぼり、と鈍い泡立つ音。それを合図に血の海が沸騰する。
ゆっくりと、細い棒状の物が浮かび上がってきた。
棒の先は丸く膨れていて、チューリップの蕾に見える。
次第に血の滴りが無くなると、形がはっきりしきて、それは、毎日必ず目にしている物だった。
握りしめられた、人間の手だ。
強く握りしめているせいか、血の気は失せていて死人のように真っ白だ。
そう認識した途端、血濡れの手が次々と先争うように浮かび上がり、一斉に指を動かした。
握っては開いてを繰り返す。
何かに縋り掴もうとしている意思をありありと体言していて、あれらに捕まったら最後だと頭の片隅で直感した。
しかし、恐怖が全身を駆け巡り、体は硬直し、気が遠くなり思考も停止しそうになる。
何とか気力を振り絞り、前後左右を見渡すが、何処もかしこも手が咲き乱れていて逃げ場は無かった。
頭の中が、絶望で満たされる。
足に水気を含んだ不快な音と感触がして、見下ろすと数本の手が足の甲、足首、ふくらはぎにまで爪を立て絡み付いていた。
もし、手達と意思疎通が出来たなら、「絶対に逃がさない」と言われるだろう。
ぞっと鳥肌が立つ暇も与えられず、私は血の海に引きずりこまれた。
私は足を引こうとしたが、もう片方の足もいつの間にか手達に拘束されていた。
無理に引いた弾みで、全身を血の海に叩きつける。すかさず手達は仰向けに倒れた私を取り囲み、全身をくまなく掴んで沈み始めた。
全力でもがくが、多勢に無勢で手達と血の海が全身を包み込む。
おぞましさと、生暖かく甘い鉄の味が口腔に侵入する。
目の前が真っ赤に染まり、もう耐えきれずに目を閉じた。
すると奇妙な事に、今まで取り巻いていた不快な感覚が、蝋燭の火を吹き消すかのように跡形も無く消去ってしまった。
無数の手に掴まれ、爪を立てられた感触。血の味。全身が沈む圧迫感。
何もかもだ。
唐突な消滅でどうしたものかと、用心してゆっくり目を開ける。
ぼやけた視界が徐々に鮮明になる。灰色の空。石畳の道。左右には建物。目前には行き来する人々。
私は、人で溢れた街の中にいた。
自分の体を見ると、まだ裸足で、やはりそこから冷たさは感じられない。
夢は、まだ続いている。
まずは落ち着いて、ここが何処の街中なのかを把握する為、周りを見渡しなが歩いて行くと、路地はお世辞にも綺麗とは言えなかった。空気は腐臭とアルコール臭が混ざり合って、淀んでいる。
道端には、ボロを着た不具者達が座っていて、その中にはどう見ても息絶えた者も横たわっていた。
上を見上げれば二階から、髪を垂らした娼婦が気だるい表情で道行く人々を眺めている。
もしかすると、イーストエンドの……ホワイトチャペルだろうか。そういえば最近、聞いた気がするが何処でだったか。
思案に暮れていると、突然後ろから腕を掴まれ、肩の関節が外れるかという程、乱暴に捩じ上げられた。 またあの手かと思い体が硬直したが、横から男の声が聞こえた。
「うわっ! 何だこいつの目。気持ち悪ぃな」
男は害虫でも見るような顔で、品の欠片もない大声を私に向かって吐き出すが、私の目は珍しくもない青だ。
お前の目だって同じ色ではないかと口を開こうとした時、
「こんな目の色見たことねぇ、本物か? 見世物小屋から逃げ出したんじゃ……」
「いやあ、かえって物好きには売れるかもかもしれねぇな」
物好き? どうやら男共は人攫いのようだ。それにしても大の男まで攫うとは節操が無い。
大の男……私は男で、背丈は世間一般並みにはある。
どうして、この人攫い共に捩じ上げられ、足がぶらぶらと宙に浮いているのだろう。
「あそこなんてどうだ? 最近、普通の餓鬼はもう飽きたとか言っていたし……」
私を餓鬼扱いするなど……こいつ等は一体幾つなのだろう。そもそも何者だ。
尚も左右から男共の不快な声が続くが、振り解こうにも捩じ上げられた痛みでどうしようもない。
「あそこなら六十シリングはいけるかもな。にしても、冷てえし肌なんか蛆虫みてえに……本当に気味悪ぃな。さっさと今日中にさばいちまおうぜ」
「放せ!」
――わたしは叫ぶ。また真っ暗でがたがた揺れる、怖い箱の中になんて入りたくない。
今まで大人しくしていたから、油断していたのだろう。
突然の抵抗に驚いた男は手を離したが、今度は両腕を掴み上げられた。足も可能な限りばたつかせるが、全く当たらない。
いや待て。私の声はこんなに甲高かっただろうか。
――男はわたしの両腕を掴み上げたまま、歩いて箱のある所まで歩き始める。
気力を振り絞り、足をばたつかせるが、隣にいた男に腹を殴られ苦しくなった。
――せめて片手だけでも使えたら、何とかなるのに。
そうこうしている内に、どんどん怖い箱に近づいてき、遂に扉が開いて私は投げ込まれた。
体が叩きつけられ、激痛が走る。
両腕は自由になったが、まずい。扉が閉まってしまう。
鍵を掛けられるだろうから、二度と脱出は叶わなくなるだろう。
私は転びそうになりながらも、次第に細くなってゆく目前の光の筋へ全力疾走し……
――懐にしまっていたナイフを取り出して、閉まるぎりぎりで外へ飛び出した。
「この糞餓鬼が!」
――伸びてくる手達を切りつけながら、掻い潜る。ここから逃げる。出来るだけ遠くへ。でなきゃ捕まってしまう。
「絶対逃がすな! 顔は殴るなよ」
私は逃げる。出来るだけ遠くへ。でなければ捕まってしまう。
しかし、思っていたより手の数が多い。息も上がる。酸欠のせいか視界も徐々に霞んでくる。
ナイフだけが最後の頼みだが、奴らにとって私は青いバラらしい。
そうそうお目に掛かれない代物のようで、絶対に逃がす気は無いと、血走った目がそれを物語っている。
疲れ果て、捕まるのは時間の問題だ。
何か硬い柱のような物にぶつかり、尻もちをつく。馬の嘶きが鼓膜に響き渡る。
目を開けようとしたが、その前に額に衝撃が走った。
頭が物凄く痛い。
目を開けると真っ暗闇で一辺の光りも無く、目を開けている事が疑わしく思える程だ。
頭を強く打ったせいで失明してしまったかもしれないと考えたが、これは夢だと思いだした。
ただ、もう目が覚めてもいい頃なのに、夢は私を中々解放してはくれない。
それに、先程の夢は一体何なのだ。
背が縮んだり、声が高くなったり、まるで自分が自分で無くなる奇妙な感覚だった。
しっかりするんだ。私は●●……●●だ。他に誰が居るというのだ。
そう必死に念じて、念じ続けていると少しずつ冷静になり、ほっと息をついた。
その時、周りの空気が凍りついた。
寒さは感じない筈なのに、腹に氷を押し付けられたかような悪寒がする。
この夢は、何処までも私を苦しめるつもりのようだ。
誰かが、いや人では無いかもしれない。殺気というより存在自体が冷気を放っている何かが、すぐそばに居る。
しかし、いつまで経っても私の目はちっとも闇に慣れず苛立ちが募ってきた。
正体不明の存在により、私の神経は徐々にすり減ってゆく。
更に、動悸が止まらない。
過呼吸。掠れた耳障りな音だけが聞こえる。
――怖い、怖い。気持ち悪い。また体中が痛くなるし吐きそう。今度こそ、死んじゃうかもしれない。
異常に早い鼓動の音が聞こえてくる。
吐き気がする。胃がせり上がり、口の中が唾液で一杯になる。
遂に意思で制するのが限界になり、吐き出してしまうが、口から出たそれは吐瀉物特有のすえた匂いでは無く、私が日頃、嗅ぎ慣れた匂いがした。
血の匂いだ。
何かの間違いだと考えるが、そんな余裕も無くまた吐き、伴って臓腑が跳ね上がる。
胃や肺が引き裂かれて血を吐いたのだろうか。呻き声も出せず、激痛が全身を襲う。
常人ならすでに発狂しているだろうが、私は狂う事も目覚める事も許されずのたうち回った。
――苦しい。苦しい。死にたくない。
硬質な物を転がす音がした。それが何なのか知る由も無いが、縋る思いで音がした方へ手を伸ばす。
手を這わして、指先に触れた。
無我夢中で体を動かし、やっとの思いで掴むと、その上からひんやりとした何かが、覆いかぶさる。
意識まで暗転してゆく中、冷たい感覚は妙にはっきりと感じ取れた。遂に感覚が元に戻ったのか。
視覚も影響を受けてか、ぼんやりとだが徐々に見えてきた。
吐きだした血だまりに投げ出された、自分の腕。
その先には、何かを掴んだ手がある筈だが、白く細い手がそれを包み込んでいた。
頭をもたげる。
女中服。肩まで伸びた黒髪。白い肌と赤い目。あの少女が跪いて私を見つめていた。
しかし、所々どす黒い染みが付いたエプロンを着ていて、頬も泥でも付けたのか、折角の白皙が汚れてしまっている。
「何故、わたしを助けた?」
責めるような口調で語りかけてくる少女は、敵意溢れる目つきでも、タオルを絞った時の氷の笑みでもない。
泣きながら、私を見据えている。
両目から大粒の涙を流し、堅く結んだ口からは嗚咽が聞こえてくる。
悲しく潤んだ赤い目は、不思議と今までで一番人間らしい目だ。
「助けなければ……お前は、こんな事にならなかったのに」
少女は、もう片方の手を苦痛により浮かされた私の額にそっと当てた。
その手は、汚れた姿とは打って変わって、一点も黒い血や泥が付いていない。
暗闇の中でも輝かんばかりに真っ白な、吸い込まれるような美しい手だ。
「……早く寝ろ」
雪のように冷たい手は、額を苛む過剰な熱を優しく吸い取る。
心地良さの為か、激痛も和らいでゆく。
少女の声に誘われるように瞼が重くなり、私はまどろんだ。
二十八
顔立ち自体は、ごく普通の人間そのものだ。
わたしは、「美人」とか、「不細工」だとかの容姿の善し悪しについては良く分からない。
流行り廃りがあるし、何処を美しいと感じるかは、人それぞれだから勉強しても無意味だとあの人に教わった。
でも、今まで仕留めてきた貴族達と見比べて「こいつも貴族ですよ」と言われたとしても、特に違和感はない。
ただ、立ち振る舞いに関しては、貴族特有の威圧感があんまり無い。三日間しかこいつを観察していないが、他の使用人達に対しても同様だった。
多分、普段から誰に対しても馬鹿丁寧な態度で接しているのだろう。
そうそう。もう一つ気になっていたことがあった。
わたしは、自由な手を使って奴の上唇を持ち上げて歯を見てみた。
犬歯が、獣のそれとほとんど変わらない鋭さと大きさで生えている。
予想はしていたが、人間の口では絶対に有り得ない形を間近に見て、ぞくりとした。
粥を食べていた時、スプーンを噛んでいたのではなく牙が当たっていたのだ。
催眠術に掛かって朦朧としていたとはいえ、リザさんは悲鳴一つ上げなかったが、これほど鋭ければ強く噛まなくても痛みも無く、簡単に首筋に穴を開けられるだろう。
でも、大きく口を開けてしまうと牙が見えてしまいそうだ。口を開けずに、にやにや笑うのはこの為か。 そう納得した時、ぴくりと奴の口が動く。
慌てて手を引いたが、奴は無意識なのか、軽く握っていたわたしの手を、ぎゅっと強く握りしめた。
しまった。
もう、こいつの手から抜け出す事は出来なくなった。やらなきゃよかった。
握りしめられたわたしの手に、潤いが無いがさついた感触が伝わってくる。
手袋を外す時、ゆっくり見れなかったが化け物の手は節くれだっていて、甲も細かい傷だらけだ。
この手だけ見たら、貴族どころか農夫と間違えてしまうだろう。
ふと、疑問に思った。
こいつは人の心を読んだり、操ったり出来るのに何故ぼろぼろな手をしているのだろう。
楽な生活をしている人の手は、力仕事なんてしないから艶々している。指の関節も、こいつみたいにごつごつになることはない。
化け物の口振りから、貴族をやってみたのはこれが初めてのようだ。
謎だ。
人を操って金やらなんやら貢いで貰えれば、食う寝るに困らないし、好物であろう血だって飲み放題な筈だ。
貴族になる前、こいつは何をしていたのだろう。もしかして最初は、この力は無かったのか。
わたしは答えが知りたくて慎重にベットへ身を乗り出し、シーツに覆われた奴のもう片方の手を引っぱり出してしげしげと見た。
こちらの手も大きくてごつごつしていて、手のひらに胼胝が出来ていた。胼胝の付いている箇所にはっと閃く。
「成程。確かにぼろぼろになる訳だ」
化け物に向かって言ったが、目を閉じたまま何の反応もない。
切れたり折れたり、肉が焦げて千切れ飛ぼうと、すぐに傷痕一つ残さず治ってしまうわたしの手を、化け物の手に重ねてみる。
血が全部抜き取られた死体のような手。蛆虫みたいな生白い色をした手。
それとは逆に、傷だらけで節くれ立っていて、血が通っている温かい化け物の手。
――同じ羽の鳥は、群れを成す
けれど、わたしとこいつはまるで違っている。何から何まで、全て違う。
溜息が出た。何だか胸も苦しい。
時計を見ると、こいつが寝てからまだ、一時間も経っていなかった。
この時計、狂っているんじゃないのか。かちこち鳴る音も、遅い感じがするし。
でも、よくよく考えてみたら何時間過ぎようが、こいつが起きない限り自由にはなれない。
「何故、わたしを助けた? お前が倒れたのは……わたしのせいなんだぞ」
化け物は、やっぱり起きない。
わたしを助けた理由が知りたかった。「死なせるには惜しい」と言っていたが、生かして置いても何の得も無い。捕まえて飼うのが目的ではないとしたら、他に何があるのだろう。
分からない。全然分からない。知恵熱なのか、何だか頭が痛くて熱い。
少しでも熱を逃がそうと、ベットに顔を埋めた。
化け物と話をして、疲れた。
演技しないで、あれだけ長く話をしたのは初めてだった。
演技するのも疲れるが、慣れない事をするともっと疲れる。ベットに埋まった頭は重くて、くっついたように剥がせなくなる。
やっぱり、高いシーツは肌触りが良い。頭を埋めているだけで、気持ち良くてすぐ眠れてしまいそうだ。
だんだん、眠くなってきた。
昨晩、十分寝ていなかったのが、ここに来て……無理矢理でも寝ておけば良かった。
駄目だ。寝ちゃ駄目……
二十九
ぐんと、水中から釣り上げられたような感覚と共に、目に映ったのは夕日色に染まった天井だった。
もう、何が起きても私は恐れない。
何の根拠もないが、串刺しにされても轢き潰されようとも、また少女が私を癒しにやってくるだろうという確信があった。
しかし、しばらくたっても何も起きない。身動ぎすると体の感覚が蘇ってきた。
私はベットの中に居て、右手に冷たく柔らかい物を握っているのに気が付く。
起き上がって見てみると、私は白い手を掴んでいた。
死人のそれでは無い。目を凝らしてようやく分かる、薄い紅色の爪。
間違いなく、少女の手だ。
少女は椅子に座ったまま、ベットに頭を埋めて僅かに背中を上下させながら眠っている。
ぼんやりしていた頭が、少しずつこの状況を把握し始めた。
そうだ、私は原因不明の高熱で倒れ、少女が看病してくれたのだ。
雪原、人攫い、暗闇。額に当てられた冷たい手……吐き気がする程の不快と恐怖。
しかし最後に、ほんの少し陶酔を垂らしたような、あの夢を噛み砕いてゆき私は一つの答えにたどり着く。
私は眠る寸前、少女の手に触れていて、目覚めた時も握りしめていた。
恐らく寝ぼけて掴んでしまったのだろうが、少女は振り解かずにそのままにしてくれたようだ。
私の『心読』は、対象から距離が近ければ近い程、感情や思考を明確に読み取れる。
そして今、少女は眠っている。
手を握り、肌と肌を直に触れ合せ、双方が眠りに着いた結果、互いを隔てる壁が限りなく薄くなり、私は、謀らずとも少女の夢を覗いてしまったのだ。
――夢とは過去の記憶の断片か、自分の欲求・欲望の表れ。
花街の人攫いは、幼い頃、実際に遭遇したのだろう。彼女の昨晩見せた、極端な不信感の原因かもしれない。
雪原に湧いて出てきた血と無数の手は、流石に現実で起きたものとは考えがたい。
今までその手に掛けてきた、人々の象徴だろう。
自身が手に掛けてきた亡者達に復讐される恐怖心故か、非人間的な言動や、態度はその裏返しなのかもしれない。
どうも彼女は、私だけではなく殺す事自体に抵抗を抱いているのではないか。
使用人達に手を出したら、ただじゃおかないと釘を刺したが、使用人の数はそう多くは無い。
やろうと思えば、難なく全員を人質として捕え、えげつない方法で私を追い込められるだろう。
しかし、彼女は十分な時間があったにも拘らず、それをしないどころか私を看病し、手を握られ束縛を許し、あまつさえ無防備に眠っている。
私を油断させるつもりなのだろうか。
しかし、そうだとしたら、私が眠っている間に思う存分めった刺しにすればいい。
単に、どうにも敵わない私に対して取り敢えず次の作戦が練り上がるまで、友好的に接する魂胆という見解もあるだろうが、最後の夢も加味すると、その可能性はかなり低くなる。
激痛でのたうち回る私の前に表れた、涙を流す少女。その姿は、目を閉じれば鮮明に浮かび上がった。
しかし件の少女は、そんな夢を見ていたとは、想像が出来ないくらいぐっすりと眠っていて、ベットシーツより白い頬を撫でても、起きる気配がしなかった。
もしかしたら、夢を読んだどころではなく、丸々吸い取ってしまったのかもしれない。
少女を、改めて見てみる。顔立ち自体は、ごく普通の少女だ。
ただし、その顔を彩る色は、ことごとく少女の存在を異質な物にしていた。
肩まで伸びた、東洋人を思わせるしっかりとしたこしがある黒髪と、それとは対極の一度も日を浴びていないような白皙。
そして、私でなくても大多数の人間が血を連想するであろう、真っ赤な目。
この組み合わせにより、少女はいたずらに悪目立ちしてしまっている。
時折、少女の心を掠める「あの人」という存在。姿形は全く読めなかったが、恐らく彼女を拾い、殺しの手解きをした「主」だろう。
疑問に思うは、どうして少女の主は、こんなに目立つ容姿の持ち主を殺し屋に仕立て上げたのだろう。
ごく普通の何処にでも居そうな、印象に残らない外見の方が標的に警戒もされない。仕留めた後も、人ごみの中に紛れるのも容易な筈だ。
この少女でなくてはならない理由が、あるというのか。
そもそも、意図も正体も不鮮明だ。
少女は身のこなしや武器の扱いだけでなく魔術にも通じているが、二つとも才能以前にそう易々と伝授されるものではない。一度その道に入ったら堅気は勿論、他の道に移るのも許されない筈だ。
複数の主から継承したのか、自力で二つとも習得した主から継承したのか。私のように人間ではないのかもしれない。
そして、劇的に治癒する薬。
何故、魔法陣を消す時に、直接素手で触れてはならないのか。
あの血を吐く夢を見て、ようやく思い出した。
本当の所、少女は気付いていたのだ。
私という未だかつてない強敵と戦い、初めて自身の特異さを思い知った。
――何故、わたしを助けた?
少女の悲しげな顔と、言葉を思い出す。
「では何故、貴方は私を助けたのですか?」
元々、私を殺しに来たのに。屠所の羊だった私を、わざわざ助ける理由とは何だろう。
何心無く少女の頭を撫でながら問いかけるが、依然として目覚めない。
しかし、このまま眠っていて貰いたいとも思った。
人殺しとは言え、言われなき迫害と苦痛の日々を過ごし血を吐き続けた少女が、たった数時間安らかに眠っていたとて、誰が責められるだろう。
無心で撫で続けていると、遂に少女は呻いて身じろぎしたが、
『もっと……』
と呟くような声がした。そろそろ起きるのか。
「もっと撫でて欲しいのですか?」
ぽんぽんと、優しく叩いて覚醒を促す。
しかし、少女の目は薄目を開けたまま、それ以上見開かれることはなく、
「うん……暖かい……」
まだ半分寝ているのか、とろんとした甘い呟き声を出した。
思わず笑ってしまう。今の彼女は虎ではなく、人畜無害な子猫である。
だが、それがいけなかった。
私の笑い声で、少女はびくりと体を震わせ見開いた。
かっと開かれた目は、私を即座に捕え、互いの間に流れていた時が完全に止まった。
声にならない悲鳴を上げて、少女は全力で私から遠ざかろうとして、勢い椅子ごと後ろに傾き、引きよせてあったテーブルに頭をぶつけてしまった。
テーブルに置いてあった洗面器も道連れに、盛大な音を立てて倒れこむ。
しかし、少女はすぐに身構えて叫んだ。
「わたしに何をした!」
「『もっと』と言われたから、撫で続けただけですよ」
途端、少女の顔は耳まで真っ赤に染まる。
「な、何をそんなふざけた事、言う訳ないだろう!」
子猫が虎に逆戻りして、飛び掛かる勢いで否定するが、赤くなるのだから心当たりがあるのだろう。
「そうですか。すみません、私が聞き間違えました」
絶対に認めないだろうし、私は敢えてさらりと謝った。
可愛らしい寝顔を見れた代価と思えば、安い物だ。
少女は、私のまさかの返事に呆気にとられたようで、しばらくその場で固まっていたが罰悪そうに咳ばらいをした。
「もう、体の方は大丈夫だな」
そう言いながらベットの隅に寄せていた服を私に手渡して、くるりと背を向けてくれたが、私は、少女にとって最大の禁句を口にした。
「はい、もう大丈夫です。ですが、貴方の方はどうですか?」
「……何の事だ」
後ろを向いた少女は、微動だにしないが、私がこれから話す言葉で十中八九振り向いてしまうだろう。
しかし、どうしても伝えたかった。この期を逃せば、もう伝える機会は二度と来ない気がした。
「昨晩、貴方が飲んだ治癒の薬。幾らなんでも劇的過ぎます。そういう代物は得てして大きい副作用があります。飲んだ後、具合が悪くはなりませんか? 例えば熱が出たり、吐き気がしたり……」
予想通り、少女は大きく目を開いて振り向いたが、その目は私も含め何処にも焦点を合わせていなかった。
同時に緩んでいた空気がざわめき、熱したコップに冷水を流し込んで、ひびが入るように崩壊し始めた。
「薬と言う物は、定期的に飲んでいると、常に薬が血肉に溶けた状態になり、耐性が出来て副作用も軽くなりますが、効果も薄くなってゆきます。なので、効果を引き出す為に、一度に飲む量を増やしていかなければなりません」
説明している間、少女の虚ろな両目は瞬き一つせず、体も時が止まったようにぴくりとも動かなかった。
先程、私が平謝りした時も固まったが、今の彼女は呪詛が込められた彫像の如く、周囲に冷気を放っている。
「貴方が右手を怪我した時、私は止血の為傷口を舐めました。量にして一口ほどですが、大量に摂らないと効かない私が一口でこうなるのです。以前から、常飲していますよね」
加速度的に空気が凍てつき、本能が「もう喋るな」と警告するが私は抗い続けた。
「魔術や呪いでは無いとしたら、他にこれしか考えられないんです。そして、手を繋いで眠った事から偶然にも貴方の夢を見て、確信しました」
彫像の少女は僅かに、眉をひそめた。
「夢? 夢など見ていない。お前自身の夢ではないのか」
本当に何も見ていない素振りで答える。
予想通り、私が夢を吸い取ってしまったからだろう。
「雪原と星空。血の海に、六十シリングで貴方を売り飛ばそうとした人攫い。
そして、血を吐き続け悶え苦しむ中、握りしめた物は瓶のようでしたが、今貴方が首から下げている物と同じくらいの大きさでした」
今は服の下に潜む、少女を苦しめる元凶を指差す。
こぼれ落ちそうな程に、見開かれていた目に光が揺らいだのを私は見逃さなかった。
「悪い事は言いません。これ以上あの薬を飲むのはやめなさい。
相当、体に負担が掛かっている筈です。今はまだ何も無くても……」
「だからどうした?」
これ以上、聞きたくないと言わんばかりの明らかな拒絶を含んだ声で、少女は私の言葉を遮った。
「貴方の身を案じているだけです」
私は、真っ直ぐ見据えて答えた。
しかし、少女は冷淡な目のまま溜息をつき、胸元から手に納まる大きさながらもおぞましい薬瓶を、指先で掬い上げるように取りだした。
「案じているだと? 私が今まで、こんながたいも良くない体で、生き残ってきたのはこれのお陰だ。お前はわたしに死ねと言うのか」
「違います! ですから……」
「『殺しを止めろ』か? そうだ、お前の言っていた通り、人攫いの夢は私が実際にされた事だ。そうだと知って尚言うか。人目が当たらない日陰でしか生きられない……この、わたしに」
少女の声は、怒りすら含んでいない。感情を全てそぎ落とした声で、淡々と語る。
そして、何も映さず熱を奪い取る虚無の目をしながら、魔女裁判の取調官めいた冷酷な口調で私に絡みついた。
「両手の剣胼胝と、指の変形。片手じゃ持てないような剣を、何度も、何度も振り回しただろう。
腕の筋肉とあかぎれ具合、甲の傷からして貴族様のお嗜みではないだろう?」
辛辣な言葉だが、それよりも少女の洞察力に感心した。両手を見ただけでそこまで分かるとは。
「否定しませんが、それは……」
「やった事に変わりはないだろう。今までお前が人の振りして何をしてきたなど興味は無いがな。
花をあれだけ愛でておきながら、剣も振り回すとは……実に多趣味だな」
酷薄な声が部屋中に、そして私の胸に突き刺さる。
両の手の傷痕は、絶対に忘れるなと語りかけてくる焼印。
どんなに毟り取り、焼き払っても、必ず忘却の頃に芽吹く記憶。少女の言葉は紛れもない事実だった。
「何様のつもりだ。笑わせてくれる」
やおら、少女は袖口から投げナイフを取り出すと、人差し指を切っ先に当てた。
白いチョークのような細い指先が破れ、中身の赤い血が溢れる。にも拘らず、彼女の顔は微塵も苦痛に歪まずに、血を灯した指先をナイフの刀身に滑らせる。
そして、赤く塗りあげたナイフを、私を見据えながら隣のテーブルに、叩き割ってしまいそうなくらい深々と突き刺した。
暴虐な音が部屋中に反響し、続けて少女の冷やかな声が流れる。
「これから口にするもの全て、細心の注意を払う事だ。何せ一口でそうなるのだからな」
少女は私から視線を逸らさず、見せびらかすように指先の血を舐めた。
窓から差し込む黄昏の光が、赤い目と混ざり合い、さらに深みと虚無を増す。
――少女は、人間なのか?
まるで、全身を血に染めたように赤一色になり、自身の血を舐める少女。
その姿から、僅かに残されていた人間味が完全に消え失せていた。
甘かった。優しく語りかけ、説得すれば心を開いてくれると。
ある程度の怒りや拒絶は覚悟していたが、少女の闇は想像以上に深かった。
触れようものなら容赦なく突き刺す茨。それは、育てた彼女自身をも覆い隠している。
毟り取ろうと引っ張れば、中にいる彼女を締め上げ、焼き払おうとすればもろとも灰塵に帰すだろう。
どうすれば茨のみ取り除けるか。全快になった筈なのに、何も読めない。
そうこうしている内に、少女は動きだし、扉へ向かおうとした。
駄目だ。このまま行かせては。
「待って下さい!」
少女は、目すら合わせてくれなかったが、扉の手前ぎりぎりで止まった。
しかし、言葉を重ねても茨が増えるだけなのは明らかで、目前のテーブルに墓標のように突き立てられたナイフは、決別という意思をまざまざと提示している。
痛いくらいの静寂。二の句が継げない私の耳に、ふいに水が滴る音が入って来た。
見ると、テーブルから水が滴り落ちていた。
本当に小さな音で、今の今まで気付けなかったが、何故、水が滴っているのか思い出した。
私は、説得云々以前に大切な事を忘れていたのだ。何という無礼を働いていたのだろう。
◆
男爵は上手く隠しているつもりだったろうが、メアリーさんは、仕えて一ヶ月くらいで亡霊だと見破った。
端正な顔立ち、服装も物腰も洗練されて一見何の変哲もない貴族だが、メアリーさんの勘は鋭かった。
男爵に呼ばれてもすぐさま気付けないのは、低く掠れた声のせいだけではない。
纏っている気配が、尋常じゃなかったそうだ。
御者曰く、男爵が馬車に乗ろうとすると、きつい香水を付けている訳でもないのに、馬は暴れだし普通に乗れるまで二週間掛かったそうだ。
従者曰く、男爵はお着せや身支度を全部一人でやってしまう。男爵が言うには古傷を見せたくないそうだが、髪のセットや髭剃りまでやってしまったそうだ。
他の使用人達からも不可思議な話を聞いたメアリーさん。
もしやと思い、手鏡を駆使してこっそり男爵を見てみると、物の見事に何も映ず、この出来事で幽霊だと確信したそうだ。
一番古株の家令にそれとなく聞いてみると、男爵は数年前、旅行先で事故に遭って以来、激しい気性が治って、人当たりが良くなり慈善活動にも積極的になったという。
家令はかなりオブラートに包んだもの言いだが、どうやら事故以前は、相当人格に問題のある人物だったのだろう。
現に屋敷には男爵だけで細君は早世していて、息子とも絶縁状態に近く、従僕に聞くと手紙の一つも来ないし、こちらから送る事も無かったと言う。
死の間際、地獄を垣間見て心を入れ替えたなんて聞くが、男爵の場合は遊び足りないのか、とにかく未練があって天からのお迎えを拒否しているようだった。
ただ、メアリーさんは男爵の正体が分かった時点で、それ以上、詮索も行動も起こさずそのまま仕事に従事していた。
理由は「給金が良かった」からの一言に尽きたからだ。何と肝の据わった人物であろうか。
「男爵が夜な夜な、血を啜っていたり、獣に化けて子供を攫ったりしない、ただの女好きで無害な幽霊なら別にいいじゃないの。他より遥かに好待遇な職を、見す見す手放して何の得があるの?」と語ったそうだ。
極貧生活を味わい、餓えによる死と隣り合わせだった彼女にとって、幽霊なんて屁でも無いのだろう。
そして何より、幽霊男爵の人柄に惚れたのだという。
突然の親の訃報に泣き崩れる女中に、帰郷を許して馬車まで貸し与えたり、雪が降る前に、使用人全員分に新しい毛布を差し入れた。
台所女中がレンジで両腕を大火傷した時は、氷を惜しげもなく使って冷やした後、治るまでの治療費を全額負担したそうだ。
ここまでしてくれる雇い主は、現代でもそうそういないだろう。
メアリーさん以外の使用人も、余りの親切さと好待遇に何か裏があると疑った者もいたが、結局退職する者は一人も居なかった。
いつしか、物憂げな顔をして窓からバラ園を眺める男爵を、早く後妻が見つかればいいと、まるで、母のように暖かく見守るまでに至ったそうだ。
そして、少女がやってきたのだ。
顔立ちはごく普通だが、何度も漂白したような白い肌と赤い目をしていた。
本人自身から生まれつきだと語られたが、それを差し引いても異様な容姿だった。
どの位、仕事がこなせるかテストした時も、きびきびしているのだが、足音は全く立てずに氷上を滑るように歩き、何処かふわふわと捕え所の無い、浮世離れした雰囲気を纏っていたそうだ。
しかしそれでいて、不用意に近づけば切りつけられそうな、刃物めいた目つきを時折していたという。
少々強引な気がしないでもないが、メアリーさんは、少女も幽霊だと見破ったそうだ。
もしかしたら、男爵の事を知り玉の輿を狙ってはるばるやってきたのかもしれない。
しかし、 (以降、損傷が激しく読めない)
三十
歩くのが辛い。苦しい。
かといって立っているのも辛い。でも前に進まなければいけない。
片足で立つのが辛いから、もう片方の足を前に出して、その片足もすぐ辛くなるから、また片足を出す。
真っ直ぐ歩くのが、こんなに大変だったなんて。
頭の中で、化け物の言葉がぐるぐると回っている。
――介抱してくれて、ありがとうございます。
申し訳なさそうに、化け物は言った。
何で、奴は礼なんて言うのだろう。わたしを助けたせいで苦しんだのに。それを知って何で奴は礼なんて言うのだろう。何で……
がくがくと足が震え、よろけて壁に寄り掛かる。とうとう力が抜けてしまい、膝をついてしまう。
何度も深呼吸するが、息を吐く度に力も抜けてゆき、逆効果になった。
分かっていた。両手剣での実戦なんて百年は前に、とっくに終わっている。剣を振り回していたのは、もうずっとずっと昔だ。
私は、これまで数えきれない程、色んな獲物を仕留めてきた。
中には若い頃、戦で手柄を立てて、勲章を持つ獲物もいた。
そいつは隠しているようだったが、目の奥は、いつも腹を空かせた獣みたいにぎらぎらと光っていた。
そして、噴き出す血や断末魔が懐かしいと周りに話す時には、全く隠そうとせず、笑いながら今にも飛び掛かり、喉笛に食らいつきそうな気迫だった。
まだ、殺しを始めたばかりのわたしは、その顔が忘れられず、しばらく眠れなくなってしまった。
あの人が言うには、人間は、個人差はあれど血を見ると興奮し、心の底では求めているそうだ。
だから、いつの世も戦は無くならないし、普段は大人しい市民も公開処刑があったら我先に見たがる。
最近は、ボクシングが流行ってきているそうだが、これもルールで押さえているだけで殺し合いとそう変わらない。
偶に、その刺激が癖になって血に酔ってしまう人間もいる。そうなると、血を見るのが何よりも好きになり、挙動や言動も獣のようになっていくらしい。
あの獲物は酔ってしまった結果、あんな言動を平気でしていたのだ。
けれど、化け物は過去に剣を振り回して、おまけに実際に喉笛に食らいついて血を啜っているにも拘わらず、そんなぎらつきは無かった。
リザさんの血を啜っていた時も、今思えば、わたしが覗いていたのを知っていた上で、おちょくっていただけだ。化け物なのに、人間じゃないのに、奴はずっと人間らしかった。
奴は何で、あんな事を言った後に、「ありがとう」などと礼を言ったのだろう。
解らない。全てが理解出来ない。
いくら考えても、答えは出ないし胸がすごく苦しくて痛い。
化け物に指差された薬瓶。
寝る時も、ずっと首に下げたままで、体の一部みたいだったが、今は首を絞められているようで苦しい。
私は薬瓶を取り出して中を見た。中に、まだ幾らか残っている。
一日一粒が基本だが、昨日みたいな大怪我や、へばった時は飲んでもいいとは言われている。
飲めば、楽になれるのだろうか。
「○○、こんな所で、何をしているのですか」
見上げるとミセス・トーマスが居た。声をかけられるまで全然気付かなかった。
薬瓶は手に握ったまま、エプロンの裾に急いで隠す。
「少し、疲れただけです。旦那様は良くなりましたので、今から仕事に戻ります」
とは言ったものの、しゃがんだ体制のまま、やはり体が動かない。
すると、ミセス・トーマスは、あの探るような目をして、わたしと同じくしゃがんだ。
目線が、がっちりと合う。怖い。
「そうですか。しかし、顔色が優れないようですね。無理はせず、ベットで横になりなさい」
そう言って立ち上がり、私の横を通り過ぎた。
もっと色々、根掘り葉掘り聞かれるかと思っていたが、取り越し苦労のようでほっとした。
まだ、心臓が大きく鳴っている。横になればこの体調は治るだろうか。
そう考えていると不思議と気分が楽になり、呆れるくらいのろのろしたが、ようやく立ち上がれた。
やっと、足をぴんと伸ばした時、後ろからじゃらじゃらと鍵束が鳴る音と一緒に、ミセス・トーマスの声がした。
「旦那様を看てくれて、有難うございます」
また、奴の顔が浮かんで、めまいがした。
だから、何で礼を言われるんだ? ミセス・トーマス。貴方が、やれって言ったじゃないか。
この屋敷の主人も、使用人も、揃いも揃って訳が分からない。
三十一
窓から入ってくる、涼しい夜風が心地いい。
熱とだるさを攫っていくが、一か所だけ痛みが消えない。
胸の奥だけは、膿んで爛れた火傷のように、じくじくといつまでも傷んだ。
引きとめた少女に礼を伝えた時、何と彼女は振り向いたのだ。
私は、馬鹿馬鹿しい事に、何も解決していないのに思わず高揚してしまったが、それは少女の目を見た途端、跡形もなく崩れ去った。
少女の目は、この世に存在するあらゆる悲しみを詰め込んだ「悲痛」という一色に染っていた。
紛う方ない、夢に出てきた憂いの少女のそれだった。
私は、二度も彼女を傷つけたのだ。
どうして、こうも上手くいかない。語りかける度に彼女の傷口を広げてしまう。
複雑な模様が描かれた寄木細工のテーブルの中心には、痛々しい亀裂が入っている。
傷痕を見ていると、少女の顔が鮮明に浮かんで、胸はますます病んでいく。
窓の外に浮かぶ、やすりを掛け過ぎたような少し欠けた満月。
その白い皿に、少女が唯一残した黒い刃のナイフを乗せるように掲げた。
テーブルに突き刺さったナイフは、どんなに洗っても、その刃に塗られた黒い血は落ちなかった。
恐らく血に含まれた、毒のせいだろうが、まるで、少女の念が込められているかのようだった。
削って、磨こうとも考えたが、それこそ彼女の意を否定する事だと思い、止めた。
少女の綺麗な手の白さに到底及ばないが、月とナイフに向って私は誓う。
「もう少女には、一切触れない。決して触れない。もし、触れる事が有るならば、それは少女の命を摘み取
る時だろう」
そして、ゆっくり息を吐くと徐々に気が楽になった。胸の痛みも消える。
破れば少女を手に掛けるなどと、我ながら何てひどい誓いを立てたものだ。
しかし、誓いとは便利なものだ。一度誓ってしまえば、もう何も悩んだり迷わなくて済む。
私は、ナイフを手の上で軽く投げて弄ぶ。
さて、明日からどう狙ってくるのか。料理に直接混ぜるか、食器に薄く塗りつけるという事もあり得る。
しかしそれでは注意深く嗅げば匂いで分かるし、銀製のスプーンやフォークは確か毒物に反応して変色するらしい。
それに、家女中が出来たての料理に接触するのは難しい。寧ろベッド中に血を塗った針でも仕込んだ方が確実だ。
そんな陰惨な想像が、頭の中を暴れ狂う。しかし、そうしていないと、またあれが浮かんできそうだからだ。
あれ……あれとは何だったか。それに、この手の内にあるナイフは何だろうか。
頭が空回り続け、いよいよ意識が霜枯れてきたその時、かさかさと囁くような音がした。
一気に意識が覚醒する。
耳を澄ますと囁きは、誰かが芝生を踏みしめる音で、まるで忍び歩きのようなこっそりとした音だ。
こちらに向かって来るようで、音は少しずつ大きくなっていくが、急にぴたりと止んでしまった。
音の主は、少女に違いない。
寝込みを襲おうとしたら、窓が僅かに開いていて、躊躇しているのか。
それとも何か、殺傷能力のある物を投げ込もうとしているのか。
私は動かず出方を窺うが、しんと静まりかえって、一向に何も起こらない。部屋も窓の外も静寂が包み込む。
もしかして、少女の事を考え過ぎた故の幻聴かもしれない。
自然と笑いがこみ上げてくる。
駄目だ。やはり悩んで、迷っているではないか。
いい加減、考えることに疲れた私は、もう寝てしまおうと窓に近づいたが、ふわりと風が吹き込む。
その風は、芳しいバラ園からの香りと、場違いな甘味を含んだ鉄の匂いを運んだ。
頭より本能で血の匂いだと理解した時には、窓を全開にして身を乗り出していた。
果たして、少女は窓の下でしゃがみ込んでいた。
昨晩と同じ黒いコートを羽織っていたが、今回は下に女中服を着こんでいる。
どうやら、突然私が出て来たので驚かせてしまったようだ。目を大きく見開いて、じっと動かないでいる。
「……今晩……は」
逡巡した結果、口から出たのがこれだった。何が「今晩は」だ。他にもっと気の利いた言葉があるだろうに。何より、絶交を言い渡されてまだ、半日も経っていないではないか。
しかし、少女は無表情で立ち上がり、二歩程後ろに下がった。
そして、何も言わず、薄い唇は固く閉じられたままに私を見返した。
降りて来いと、言いたいのだろうか。
私は、窓縁に足をかけた。少女は身構えたり驚いたりしなかったので、導き出した解釈はどうやら正解だ。
窓から飛び出し落下する、人間であれば骨折は免れないであろう衝撃に耐え、私は少女と同じ目線に降り立った。
私と少女の間は五歩も無い。無防備の少女を、こんなに間近で見るのは初めてだった。
しかし、無防備過ぎる。
俯き気味の少女からは、生気が感じられない。精巧に出来た人形を立たせているかのようだ。
ただでさえ白い顔が、さらに青ざめて見えるのは、月光に照らされているからではないだろう。
明らかに様子がおかしいが、私は少女が語り出すまで待つ。
こちらからは、話しかけない。今、頭上で輝いている物に誓ってしまったから。
「……それ」
少女が目線を落として、私の右手を見ながらぽつりと呟く。
そう言われてから、手の内に硬い感触がした。見ると黒い刃のナイフが握られている。
言われるまで、すっかり忘れていた。さっきまで、投げて弄んでいたのに。
「洗ったんですけど、落ちなくて」
動かない少女は、目だけ細めた。その目には諦めと得心の感情が混じっている。
「そうか。やはりここが、屋根から血が流れ落ちた場所だったんだな。洗濯場を見せる手間が省けた」
そう言いながら、少女はまたしゃがみ、私の足先を指差した。
良く見ると、芝生が部分的に黒く変色している。少女が指でそれを摘まむと泥のように崩れた。
「血が付いた手を洗った時にな、使った水を捨てた芝生の所だけ、こんな風に枯れていた。
それに、わたしの血は流れ出た直後は赤いが、空気に触れると黒くなる。
血中の鉄分が、酸化して黒ずむのは当たり前だが……いくらなんでも黒過ぎるし……洗濯しても、全然落ちない……普通……こうは、ならないよな?」
少女は、黒く汚れた指を眺めながら、呟くように私に聞いてきた。
その声は、僅かにだが明らかに震えていた。
「そうですね。私は長く生きてきましたが、そのような血を持つ人間は、あなたが初めてです」
「人間、以外でも?」
少女は顔を上げ、私を見つめた。
瞬き一つしない両目は、闇夜でもその鮮やかな赤がはっきりと分かるくらい炯々としている。
吸いこまれそうな錯覚がして息を飲んだが、私は口を開いた。
「はい。人間以外でも、見た事も聞いた事もありません」
「……そう、か」
少女は、消え入りそうな声で答えた。
そして、腐った芝生の草を五本全ての指を汚しながら、執拗に握り潰した。
その様子は、鬼気迫る物があり、鳩尾辺りが底冷えしたが、少女は必死に事実を受け入れ、堪えているのだろう。
真実を伝えるのがこんなにも辛いとは。今の私は、さながら死刑執行人だ。
「拾われて、あの薬を飲むようになってから……なんだかおかしいと感じていたが、でも……どうする事も出来なくて、気付いたらこんな……毒になっていたなんて。お前のお陰で……はっきりと解った」
少女は、尚も憑かれたように手を動かし続ける。遂には、地面まで引っ掻いて掘り起こし始めた。
「わたしの方こそ、化け物だな」
もはや草と土の見分けがつかないヘドロと、小さな盆地が出来上がる。
しかし、それでもまだ足りないのか、少女の手は更に深く掘り進もうとしていた。
土をかき出す音の中に、何か堅い物が割れた音が混じった。
泥にまみれた少女の手。見ると人差し指の爪が折れて剥がれていた。
「止めなさい」
見るに堪え無くなり、私は跪いて傷ついた少女の手を取り上げた。
もう片方の手で少女の顔を持ち上げると、目は焦点が合わず霧がかり、顔は一段と青ざめて亡霊のそれだった。
身に起きた、惨い真実を受け止めた結果だ。
今、こうして私が手首を掴んでいてもぴくりとも動かず、何をされているのかまるで理解していない有様だった。
命知らずな蛮勇さで、私に立ち向かった姿とはかけ離れて、まるで別人だ。
少女は、こんなにも脆かったのか。
『何様だとか趣味とか、言って……わたしこそ……』
握り締めた少女の手から、暗澹とした声が頭の中に滲み込んでゆく。
私は、乖離しかけた魂を呼び戻す為に語りかける。
「気にしていませんよ。そんな事」
「なっ!」
体や、ましてや心に触れられるのを人一倍嫌う少女は、この不意打ちにより正気を取り戻してくれた。
しかし、心の声と同じ暗い声色で、絞り出すように私に問いかけた。
「一番最初に食らわした肩の傷痕は消えていた。
けれど、手の傷は……昔、色々あったから残しているんだろう?」
悲しみを湛えながらも、澄んだ目で私を見つめる。この娘は本当に鋭い。
鋭すぎて、知らなくてもいい所まで知って、自身を傷つける程に。
「知ってて……言ったんだぞ。知っていて、ああ言ったんだぞ!」
『怖かった。なんで殺しにやって来たわたしを助けて心配するのか。
嘘を言っているようには思え無くて……けれど、理由がさっぱり分からなくて……すごく怖くて。
わたしは、何てことを……』
痛々しい程の拒絶と悔恨の声は二重奏となり、悲しく溶け合わさって私に伝わる。
「怖がらせてしまったようですが、そんな苦しそうな顔している人を見たら、誰だって心配しますし、助けたくなりますよ」
勿論、そんな慈愛に満ちた人ばかりではない。
いつの時代も、人というのは理解や把握出来ない事象、人物に対して恐怖を抱く。時には、直接手を汚してまでも排除しようとする。
少女は、今までそのような人達としか接してこなかったのだろう。
私の行為の意図を理解出来ず恐怖しただけだ。無理もない、心配されたり、助けられた経験が無いのだから。
「……そう、なのか?」
目を大きく見開いた少女は、泡が弾けるより小さな声でぽつりと呟いた。
私は、はっきりと頷いた。
確かに少女は、人を殺め続けた許されざる罪を犯した。しかし、犯した理由を咎める事は、誰にも出来やしない。
少なくとも、私は少女を助けたい。
「少しだけ、お時間もらえませんか」
「時間?」
「ええ。付いて来てください」
私は、バラ園へ向けて歩き出した。後ろから、少女が声を上げる。
「そんな無防備に背を向けて、わたしが襲ってくるとは考えないのか!」
「刺したくなったら、いつでもそうして下さい。
ただ、これでも私は、貴方に負けず劣らず結構な修羅場を潜っているんですよ。
その気になれば、目を瞑ったままでも避けれます」
「嘘をつけ! 返しが抜けなくなる程、刺さったと言っていただろう」
「あれは、ノーカウントです。パブで飲んでいた帰りで調子が狂ったんです」
「わざわざパブで? 仮にも貴族なんだから、クラブの方が、いい酒が出るだろう」
少し驚いた。少女はクラブにも出向いた事があるとは。恐らく、そのクラブは血の海になっただろうが。
「男爵は、あちらこちらで、手当たり次第女性に手をつけていた為、社交界のブラックリスト入りだったんです。実際、門前払いされてしまいますし、一々会う人全てに術をかけるのも面倒くさいのでね」
「そう言えば、そうだったな。しかし、薬は効かないのに、酒には酔うのか?」
「まあ、人並みには。何故です?」
「酒は薬の一つだぞ。エタノールは毒と見なさないのか……単に代謝がいいのか、それとも酵素の活性か……二日酔いはしないだろう?」
振り向くと後ろに居た少女は、真剣な眼差しで私を見つめていた。
「そうですね。結構飲んでもなりません。ですが『こうそ』とは?」
「知らないのか? ええと……酵素と言っても、アルコールデヒドロゲナーゼと、アルデヒドヒドロゲナーゼの事だがな。前者が、アルコールをアセドアルデヒドに分解。後者がそれを酢酸にして、アデノシン三リン酸が……」
少女は今「こうそ」について説明してくれているのだろうが、魔物か何かを呼び出す呪文に聞こえる。
私はさっぱり理解出来ず、頭が痛くなってきた。
ふと、ご無沙汰している姉を思い出す。
姉は、不用意に疑問を投げかけると、少女と同じく理解不能な単語を織り交ぜた講釈を延々と続ける。
自他共に認める、魔女だった。
三十二
「……で、ニコチンアミドアデニンジヌクレオチドリン酸を消費して、脂肪酸合成が亢進するんだが、見たところ腹に脂肪がついていないしな……やはり素通りではなく、解毒代謝が……」
私が説明していると、奴がくつくつと笑いだした。説明の仕方が悪かったのだろうか。
でも、だからって笑う事はないだろう。
「すみません、姉を思い出して」
「姉がいるのか?」
「ええ、貴方みたいに、難しい事ばかり言うんですよ。
でも、私も体質については良くは分かりません。血肉が、体そのものが作り替わってしまうようですが」
「作り替わる? 替わるって……」
奴は急に立ち止まり、私と向き合った。
「場所によっては、クドラク、ストリゴイとも言われますが、この辺りでは吸血鬼と良く言われていますね」
白い月を背にした奴の顔は、逆光で影になって見えず、髪留めだけが金色に光っている。
「私は、吸血鬼と呼ばれる異類の一つです」
「ヴァンパイア? いるい?」
「異類とは、人ならざる者達をまとめて指す言葉です。人狼や人魚とかもね……吸血鬼とは、人の血を糧とし、年を取らずに永遠に生き続けます。
また、人がその血を飲むと自身も吸血鬼になります」
低く掠れる声は、落ち着き払って芝居がかっているようにも聞こえたが、そこには自慢も、自分に酔っている感じは無い。淡々と他人事みたいに、奴は語った。
成程、好きで飲んでいたかと思っていたが、奴にとっては食事と同じか。
つまり、奴は元人間で、吸血鬼の血を飲んで吸血鬼になった。
でも、どうして吸血鬼になったのだろう。
「なるつもりは全く無かったのですが、色々あって、今に至ります」
奴は、もう何度も見たにやにや笑いでそう答えるが、目だけは笑っていない。
心を読まれることにはいい加減慣れたが、ここじゃ無い何処か遠くを見ているようで、また胸が苦しくなる。
ああ、違う。そうじゃない。
私が気付かなかっただけだ。奴は、最初からこんな風に笑っていた。
「あっ! そう言えば、納屋の呪字は消したんだよな。屋根に書いた方はどうした?」
多分、今考えていた事も読まれたかもしれない。
でも、またあの笑顔を見るのが嫌で、苦しくなるから何か言われる前に質問をぶつけた。
「屋根の……ああ、忘れていました。あれって『じゅじ』と言うんですか。貴方しか通さないようですが、何故、屋根の呪字は私の足を通したんでしょうか?」
「通り抜けることが出来るのは、書いたわたしと、それかわたしの血……髪とか体の一部を先に触れさせている状態なら誰でも通り抜けられる。お前、私の血を靴に付けたままだったろう?」
奴はこめかみに指を当てて、顔をしかめた。
「成程、その状態で踏んだせいか……でも私が、納屋の呪字を見る事まで予想していて? もし、そうしていなかったらどうしていたんですか?」
「その時は、その時だ。第一、暗殺は不意打ちだからな。普通はあんな接近戦はしない。
毒とか狙撃が主で、基本はどうやって獲物に近付き、油断させるかを考える。
接近戦になる場合も無くはないが、力の無いわたしは正攻法では敵わないから、獲物の弱点とか弱みを探って仕留める。後は、勘で動く」
「勘……ですか」
「ライフルを捨てたのは、二発目の火薬は湿気っていて撃っても不発だと思ったからだ。
盾にしたり振り回して牽制するよりは、お前に「もう猟銃は使わない」と思いこませた方が、油断させられると考えただけで……まあ、最後の最後でしくじったがな」
女中服とコートに覆われた太腿に触れる。
原因は、わたしだ。
普段使わない、その上試射も、手入れもしていないピストルの方が確実だと選んで、今までずっと助けてくれたこれを信じなかったからだ。
「太腿のナイフ、夢にも出てきましたが、それを使わなかったお陰で、私は生き延びました。
何だか不思議な巡り合わせですね」
確かにそうだ。
このナイフを使って殺していたら、あの薬の事にも気が付いていなかっただろう。
でも、不思議な巡り合わせと言うと、もう一つある。
「ピストルが暴発したのも、男爵がお前を助けたかったからなのかもしれない」
「……男爵が、私を?」
奴は驚いたようで、目が点になった。
「あれは、男爵のピストルだったのだろう? 物は、日頃使っている人間の魂が移りやすい。
きっと、お前を死なせたくなかったんじゃないかと、そう思って……」
言う終わらず、急に奴は屈みこんだ。どうしたかと良く見たら腹を抱えて笑いだした。
しかも口を開けて、牙が丸見えだ。わたしが呆気に取られていると笑いながら、苦しそうに喋り出した。
「男爵が! あれが……私を!」
確かに、いつ暴発してもおかしくないピストルだったし、単なる偶然かもしれない。
でも、そんな大笑いして。
何だか、無性に鞘付きのナイフを投げつけて、瘤の一つでも付けたくなった。
鞘付きと言えど結構痛い筈だ。
「すみません、その発想は考えもしませんでした」
わたしが懐に手を突っ込み、後三秒程で奴の眉間を的にしようとした所で、やっと奴は、笑うのを止めたが、まだにやついている。
「そうかもしれません。普通、銃は自分の手元に置きますが、男爵は、細君が銃嫌いだったら、離れた納屋に置いていたそうです。女癖は悪いですが、彼なりに優しい所もあったのでしょう。
取り壊さないでそのままにして置いて、良かったです」
そう言うと、わたしが身構えているのに、背中を向けてまた歩きだした。
奴の背中を追いかける。
そう言えば、笑ってにやついていたが、さっきの胸の苦しさは無かった。
「その『魂が移りやすい』って言うのは、呪字の教えか何かですか?」
「違う。東洋の思想だ。さらに心が籠ってくると、勝手に喋ったり、動き出したりするそうだ」
そう説明すると、また奴は噴き出した。
「心を籠めた人が人なだけに動き出したら、碌な事にならないでしょうがね」
確かに。でも、それはそれで、ちょっと見てみたいと思った。
三十三
冴え冴えとした月明かりの下。
バラ園の芝生を踏みしめる乾いた音が、細波のように鳴る。
私と、それより少し遅れ気味な少女の足音だ。
殺し屋としての習慣なのか、幽霊と例えられてもおかしくないくらい、彼女は足音を立てずに歩く。窓下まで来た時も、やっと聞き取れる程のかすかな音だった。
しかし、今はささやかな音を立てながら、十歩程の距離を取って、それ以上離れないで付いて来てくれている。
忘れかけていた感覚が蘇る。気心知れた者と一緒に出歩く、穏やかで安らぐ感覚だ。
気心だなんて押しつけがましいとは重々承知だが、少しでも彼女の足音を聞いていたいと考えてしまい、自然と足取りが重くなってしまう。
それに伴って、少女の足取りも遅くなり、細波はゆっくりと、ゆっくりと引いてゆく。
気付いた私は、慌てて元の歩調に戻した。
正体をばらしてからというもの、少女の心はどんなに集中しても読めなくなった。
酒について私と受け答えした時の少女は、土を掘り返した時の、生気を無くした顔とは打って変わり、爛々と瞳を輝かせていた。専門的な知識からして、探究心が旺盛なのが窺えた。
しかし、以降は言動・挙動から、これ以上踏み込まないという気遣いが、読めずとも見て取れた。
恐らく、もっと吸血鬼や姉の事を知りたいが、私に気取られ無いように心を閉ざしている。
出来るだけ、明るく振舞って伝えたつもりだったが、あっさりと見破られてしまった。
誓いを破った結果、今度は少女が私に触れなくなった。まさか彼女に肩代わりをさせてしまうとは、なんて皮肉だろう。
だが、もう時期それも終わる。
「着きました」
バラ園の中心に到着し、私は振り返って少女を見据える。
「正攻法じゃあ勝負にならないのなら、賭けで決着をつけませんか」
少女は唖然としたが、すぐに気丈な目で見返した。
「賭けだと?」
「このバラ園にある、全ての蕾が対象です。明日の今頃までに咲く蕾を当てれれば貴方の勝ちです。私の命を差し上げましょう」
「な……」
少女は、絶句して声を詰まらせたが、短い溜息でそれを吐き出しながら、呆れと不信感を露わにした。
「正気か。何故、わざわざわたしに勝算を与える?」
私は夕方、彼女が残した置き土産を取り出した。
「勿論、私が勝ったら要求を飲んでもらいますよ。これを刺して穴が開いたテーブルの弁償です。
かなり強い衝撃を与えたせいか、大きい亀裂が入ってしまってね。修繕はもう無理なので買い換えたいんです。つまり、ここで働いて返して下さい」
私は、笑いながら「これ」と名指しした黒い刃のナイフを片手でくるくる回した。
そんな私を見て、少女は明らかに動揺した顔をして唸った。
「ふざけた事を言うな! わたしを雇うのか。家女中として」
「給金は、茶と砂糖の支給付きで十四ポンド。要らないなら、手当てという形で上乗せして十六ポンドでどうですか。
あれは結構値が張る物でしたが、大体二年くらい働けば十分です。休日は、他の使用人達と同じく日曜、週一の半休と、二週に一度の全休、それと長期休暇は……」
「話を勝手に進めるな! そんな……いきなり出来る訳が無いだろう」
「いきなり何でもこなせる人はいません。でもここにいる使用人達は皆、良心的でやり方が分からなくても聞けば親切に答えてくれる筈です。全員、私が直々に面接したから間違いありませんよ」
言った後、はたと思った。
もし街まで出かけていなかったら、ミセス・トーマスではなく、間違いなく私が少女の面接をしていただろう。
そうであったら、果たして私は、少女を雇っていただろうか。
「違う、仕事がちゃんと出来るかどうかという意味じゃない! 確かに皆いい人だが……いや、そうじゃなくて、わたしは人殺しなんだぞ。ばれたらどうする! 二年も隠し通すなんて、無理に決まっている」
「上手く立ち回っているじゃないですか。手際も良くて訛りもありません。寧ろ完璧過ぎるくらいです。
私のように鼻の利く者でなければ、まずばれやしませんよ」
「そんな。勝手……出来ない……」
最初は声高だった少女が、徐々に吃り始めた。
「何故です?」
我ながら、意地の悪い問いかけだ。
遂に、少女は黙り込んだ。
縮こまり、腰が引けていて今にも逃げ出しそうな勢いだが、私は畳みかける。
あと少しだ。
「私は文字通り命を賭けます。貴方にもそうしろ、とは言いませんが相応の物を賭けて欲しいのです」
つまり、殺し屋としての人生、命を賭けて欲しいのだ。
私は少女を見つめて、返答を待つ。
少女は気圧されたのか目を伏せるが、何時間でも待つつもりだ。
どの位経ったのか、やがて、消え入りそうな声で、噛みしめながら、少女はぽつりぽつりと語り出す。
「……お前の言いたい事は分かっている。
賭けられるのならそうしたい。だが、わたしの命は……わたしの物ではないんだ。
あの人……その……育ての親の物だ。だから、出来ない……出来ないんだ」
酷な仕打ちをしてしまった。
しかし、紛う方なし本心を聞けて、ようやく少女の心を縛り付ける存在が見えてきた。
「貴方が全て背負い込む必要はありません。責任は、私が取りますよ」
私は、手袋を外して指先に神経を集中させた。
平らだった爪が禍々しく、しかし幾度となく私の危機を救ってきた猛獣の鍵爪に見る間に変化した。
それを、ダンスのお誘いよろしく少女に差し出す。
察しの良い少女は、はっとして小さく叫んだ。
「まさか……お前……」
「貴方の主に、直接掛け合って身請けします。出来れば、穏便にね」
穏便に。それがほぼ不可能なのは承知している。
ただの殺し屋なら、金を積んでこの手をちらつかせれば、すぐに少女を解放してくれるだろうが、魔術に通じている者には、私が例え異類とあれど通用しない。
おまけに、私は魔術については門外漢だ。
姉のように魔術を操る素養は受け継がなかった。少女の主がどれ程の腕前か知る由もないが、五体満足で勝利出来ないかもしれない。
しかし、こちらも年季が入っているのだ。負けるつもりはさらさら無い。
少女は、唇を噛みしめて沈黙する。そして、目は細められ、荒んだ口調で吐き捨てた。
「今更だが、とことん酔狂な奴だな。
だがな、勘違いをしているみたいだから言っておくぞ。
わたしは拾われて以来、言われるがままに進んで殺してきた。そうしていれば、飢えたり、石が飛んできたり、殴られる事も無いからな。
自分が生きる為だけに平気で人を殺し続けて、おまけに血は猛毒の人でなしの化け物だ。
それを雇うんだぞ?」
赤い両目は、一分の隙も無く私を見据えている。
少女の言葉は半分本心で、半分偽りだ。確かに、安穏の為に人を殺めてきたのは紛れもない事実だろう。
しかし、平気であるならば、あの夢で獲物である私に手を差し伸べて、言い放った言葉は何なのか。
言うのなら、もっとましな誤魔化しをして欲しい。思い出してまた胸が焼けつく。
「ここで働けば、貴方に危害を加える者は一人も居ないから、殺す必要は無くなりますし、血も薬を止めれば元に戻る筈です。真人間になれますよ。
でも、最終的に受けるか否かを決めるのは、貴方です」
私は黒いナイフの刃を持って、柄の部分を少女へ差し出した。
「真人間か……」
自嘲ぎみに少女は呟くと、私とは目を合わせず俯きながら近づいてきた。
見ると少し頬が赤く色付いていて、私の持っているナイフの柄におずおずと手を伸ばす。
その指先は、先程土を掘り出したせいで、黒ずんで見え辛かったが、剥がれた爪はもう生え揃っていた。
「それにしても、支給付きで十四ポンドって……新入り女中の給金じゃないぞ。随分と気前がいいな」
間を繋ぐように話しながら、躊躇いがちに、しかし昨晩みたいに撃ち返されず、ちゃんとナイフを受け取ってくれた。
しかし、この額で気前が良いと言われるとは意外だ。
私が初めてこの屋敷に来た時、年老いた家令のヴィンセントが一人だけで、まず最初に男爵として行ったのは、色恋に耽ったり社交に出る事ではなく、使用人の急募だった。
「やっぱり、高いですか? でも、別に貴方だけ特別扱いしている訳ではありませんよ。
これくらい無いと、家族へ仕送りや、老後の蓄えもまともに出来ないでしょう?」
男爵の悪評もあり、普通に募っても中々来ないのは目に見えていた。特に女性受けは最悪だ。
そこで、給金を相場の倍程度に提示すれば、怪しまれるだろうが、早く集まってくるだろうと考えた。
しかし調べてみると、いつの世も弱者には厳しかった。
家令や家政婦等の上級使用人はまだいい。
しかし下級使用人の給金は、仕送りや家族の扶養を考慮すれば、何かの拍子で怪我や病気をした時に、医者にかかる事も出来やしない額だったのだ。
私自身、人間の振りをして生活をしていた時もある。
庶民の金銭感覚は持ち合せていたつもりだが、景気の善し悪しも絡んでくるとはいえ、ここまで低い額だとは思ってもみなかった。
そして、私が十分だと想定していた給金の額は、相場の三倍以上になってしまった。
結局、当初の通り倍の額にして、普通に買うと高くつく茶や砂糖といった嗜好品を支給する事で補填したのだ。
「道理で使用人達が、愚痴を言わない訳だ」
目を合わせてくれない少女は、受け取ったナイフを片手で器用に回しながら言う。
「何度か、使用人として屋敷に潜り込んだが、何処も雇い主への不満だらけだったぞ。まあ、夜まで働か
されて、薄給で、遊び呆けて何もしない雇い主を見ていれば、文句も言いたくはなるが……」
過去を振り返る人特有の、遠い目をして語った少女は、途中でぱっと何かに気付き、上目使いでちらりと私を見た。
「あ……べ、別にお前はちゃんと給金払っているし……悪く言っているんじゃないぞ! 例え成り済ましで、人間じゃなくても、お前みたいな貴族が居るんだなって感心しただけだ。
性格の良い使用人を選んだと言ったが、そればっかりじゃなくて……その……」
彼女なりに、褒めているつもりなのだろうか。
片手のナイフは、大道芸人も真っ青な回転速度になり、俯く少女の頬も更に赤くなる。ナイフは、今の彼女の心を素直に表していた。
「何だその笑いは! ……時間が惜しい。蕾を探すからな」
指摘を受けてから、自分が笑っているのに気付く。
少女は、膨れ面をしながら回していたナイフをコートの中に手早く仕舞って、私にぷいと背を向け駈け出した。
結構、可愛らしい所もあるではないか。
三十四
走って走って、頬の火照りを風で打ち消そうとするが、中々消えてくれない。
全く、そんなにわたしの言うことがおかしいのか。付き合いきれない。
あの後から、ずっとこうだ。
体中が熱いし、心臓も大きく音を立てていて、耳の奥も地鳴りのような低い音がする。
正直、蕾を探すどころではない。奴と、出来るだけ距離を取りたかった。
顔を見れば、今以上に、この症状が悪化するだろう。
一体、わたしの身に何が起きているのだろう。落ち着け、落ち着け、落ち着
「わあっ!」
五体が全て一瞬だけ地面に触れず、空中に浮かんだ。
目の前が、花壇の土一色になる。
体は勝手に動いて受け身を取るが、勢いは殺せず花壇の上を転がって、ようやく落ち着いた。
くらくらする頭を押さえて、痺れて痛む右の足先を見た。
なんて馬鹿なんだろう。わたしは花壇の石垣に躓いて転んだのだ。
土まみれな姿を見られる前に、早く体中の土を払わないと。頭に被った土も、忘れずに払い落そうと立ち上がったが、ふわりと何かが頭に触れた。
驚いて見上げると、しな垂れた枝がわたしの頭を撫でるように覆いかぶさっていた。
振り返れば、わたしの後ろには沢山咲いているバラの中でも、一際大きく茂っているバラが居座っていた。
ただ、余りバラらしくない。
ピンク色をした小さい五枚の花弁の花が、ちらほらと咲いている。
バラというと、色鮮やかで、花弁がふさふさと沢山ある花だと思っていたが、こういうものもあるのか。
「それも由緒正しい、立派なバラですよ」
後ろから、奴の声がして心臓が跳ね上がる。もう見つかってしまった。
「派手に転びましたね」
わたしが振り返え切る前。暗い影が見えた瞬間、右手が影を払い落す。
軽い衝撃と音がした。
見開かれた青い目を見た時、初めて自分が、頭に付いた土ぼこりを取ろうとした奴の手を打ち払った事に気付いた。
「じ、自分で出来る! それぐらい……」
そして、口まで勝手に動く。わたしは今さっき転げ回った地面を見た。
また、やってしまった。
奴の顔が見れない。いっそ消えてしまいたい。この場から。
でも、奴は「すみません」と言って笑った。
「カニーナと言って、かなり昔からある野生種です。取れる実はかなり酸味がありますが、体に良いそうですよ」
奴は言いながら、わたしの脇を通り抜けて、カニーナというバラの元に近づいた。
「結構、蕾も付いていますね。カニーナにしますか?」
「それでいい」
早く決めてしまいたい。
賭けなど、勝とうが負けようがどうでも良くなってきた。さっさと決めて、奴の目の前から消えてしまいたい。
寧ろ、叶うなら誰も何も居ない所に行きたい。土台無理なのは分かっているが。
「適当はいけませんよ。
花は自ら芽吹く場所を選べませんが、いつ咲くかは花自身が選んで決めています。
ちゃんと見てあげないと分からないですよ」
意外な言葉が返ってきた。
「花が? 本当にそうなのか」
「はい。私に花の育て方を教えてくれた人の受け売りです。いつ咲こうか、どのように咲こうか日頃から悩んでいるそうです。異類の私が言うのも何ですが、人と同じですねぇ」
確かに人間はいつも何をするか決めて、あれこれ考えて、実行している。
それに比べて、わたしは何だろう。
「花も、人と同じか」
「そうです。花はその数だけ、個性があるんですよ。
例えば、日光を沢山浴びるのが好きな花を日陰に植えてしまうと、拗ねてしまって、中々咲こうとはしません。逆も同じです。誇り高い花なら、咲かずに枯れてしまうことだってあります。
そんな場所でも、咲こうとする健気な花も中にはいますが……」
「その教えてくれた人って、人間じゃないよな?」
奴の目は、ほんの少し大きくなる。
「鋭いですね。当たりです」
「そうやって、まるで花が生きているように言う人間なんて、聞いた事も無いからな」
どんな姿をしているのだろうか。こいつと同じ吸血鬼だろうか。
「でも本当ですよ。花にも魂がありますよ。私達みたいに話せないだけです」
「ああ、信じる。草や木、花にもあるだろうな……」
魂か。わたしには無い。
自分では何も決められないし、考えようともしない。言われた事をただやり続けるだけだ。
でも、ならば何故わたしは、こうして動いていられるのだろう。
言い終わった後、奴は何も返事をしてくれず静かになってしまう。
耳鳴りが聞こえそうなくらいの静けさで、周りが夜の空気に包まれて、風の音すらない。
静かすぎて、居たたまれない。
解決策は分かっている。早く蕾を選べばいい。
しかし傍には奴がいる。奴に近づきたくない。これ以上読まれたくはない。
「ただ、日当たりを整えたからと言っても、必ず咲く訳でもないんですよね。
肥料や水はけに問題があったりして、それでも駄目な時は、苗や種自体が弱っている場合が多いです」
急に話しかけられて、奴の言っている事が分からず、頭が固まる。
「あ……ああ……そうか」
生返事をするが、奴は間髪入れずに言葉を続ける。
「そういう健康状態をちゃんと診てあげるのが、庭士にとって腕の見せ所ですね。
バラに関しては他の花よりも繊細で、か弱いのが多いし虫が付きやすいとも言われていますが、他の花に比べれ格段に弱かったり付きやすいという訳でもありません。
うどんこ病や黒点病が大敵で、処置が遅れるとあっという間に全滅してしまうから、扱い辛いという印象がついてしまったかもしれませんね」
「へえ……」
何の脈絡も無しにバラの話をし始めた。
急にどうしたのだろう。奴はわたしから背を向けてあの地味なバラをいじっている。
「しかし、虫も病気も毎日手入れを怠らなければ、例えなったとしても大事に至らず育ってくれます。
誘引して外壁やアーチをあれだけ美しく飾れるのは、バラしかありませんよ」
長くなりそうだ。
奴は立ったりしゃがんだりして、バラの枯れた葉を探してぷちぷち取って手入れしている。
「確かに慣れない内は、良い芽を剪定してしまったり、見た目を気にしすぎて古枝を切り過ぎてしまう失敗が多いですけど。素人が芽つぎする時に台木で……」
わたしは、園芸についてはからっきしだ。
芽つぎとか、台木とか何の事だか分からない。かといって、矢次に喋りまくる奴に話しかけるのも何だか気が引ける。
このまま適当に流した方がよさそうだ。
「よくご婦人方から、どうせ貰うならドライフラワーにして欲しいと言われますが、あれって邪道だと思いませんか? 他の花はどうだか知りませんが、鮮やかで繊細な色の多いバラには絶対向きませんよ。
長持ちさせたいのは分かりますが、だからと言って……」
それにしても、この花壇の土は随分柔らかい。両足を使って足踏みをしてみると靴がずぶりと埋まる。
さっき転んだ時も、ベットに飛び込んだような、ふわふわとした柔らかい感覚だった。
これほど柔らかいなら、結構な高さから落ちても平気かも知れない。
「あんな辛気臭い、くすんだ色の何が良いんでしょうね。言ってしまえばミイラですよ。
からっからに乾いたミイラなんて……やはり、生花の瑞々しい……聞いています?」
「あっ、ち、ちゃんと聞いていたぞ。じゃあ、今からカローラの蕾を」
「カニーナです」
ぴしゃりと言い直された。しまった。カニーナだった。
「あ、ああ、そうそう……」
でも、どんなに物覚えが良くてもこれだけ一気に捲し立てられれば、ちょっとばかり、忘れてしまうのなんて当たり前だと思う。
なのに奴は、不機嫌そうに溜息をつく。
「すいませんねぇ、つい夢中になってしまいましてね……」
「……本当の事を思って何が悪い」
勝手に喋りまくっておいて、その態度は無いだろう。
わたしでなくても、大抵の人間はいい気分はしないと思う。
「別に、怒ってなどいません。バラより柔らかい土の方に興味があるのなら、幾らでも差し上げますよ。
好きなだけ、寝っ転がっていればいいじゃないですか」
体中の血が、沸騰するんじゃかいと思う程に、一気に熱くなった。
「言わせておけば……お前こそすぐそうやって……餓鬼じゃあるまいし。
何年も生きているとか本当は嘘じゃないのか! コートの時だってな……」
わたしの怒鳴り声に混じって、くつくつと笑う声がした。
「やっと、元の調子に戻りましたね。ずっとしょんぼりしていたから、心配しました」
奴は振り返って、してやったりと言わんばかりの顔でにんまりと笑った。
嵌められたのだ。開いた口が塞がらない。
三十五
口を開けたまま呆けた少女は、私が声を出して笑った所でようやくはっとして、ばつ悪そうな恨めしそうな目をして私を睨んだ。
殺意こそ感じられなかったが、非難の声は鳴りっぱなしだった。
『だったら、「どうしたんですか?」とか言って、普通に指摘すればいいじゃないか! わたしを怒らせて楽しいか!』
少女の非難は最もだが、単純に指摘したところで、素直に自身の精神衰弱を認めるとは思えなかった。
あえて挑発して感情を無理矢理引き出したが、正解だったようだ。
少女は激しやすいと思えば、寒気がするくらい残酷な面もある。
また、妖艶ささえ漂う演技で周囲を欺くが、正反対に頭を撫でた時見せた、壊れ物のような無垢さも兼ね備えている。
赤子と、妖婦が溶け合わさった少女の心の内は中々読めない。
日常的に心を閉ざして生活しているのか、私が理解出来ない程、複雑なのか。
「馬鹿馬鹿しい。蕾を選ぶから、とっととそこを退け!」
噛みつかんばかりに、少女は私を押しのけカニーナの周りを調べ始めた。
表情や挙動をもっと良く見たいが、本当に噛みつかれそうなので大人しく後ろに下がり見守る。
少女は、時々夜空を見上げ、恐らく太陽が上る位置を確認しているのだろう。前後左右をきょろきょろと見渡している。
もしかしたら、少女も自身の心境を把握出来ていないのではないだろうか。
過酷な環境を生き抜いてきた強さ。
しかし、安らぎや寄る辺を知らない少女は、迫害された怒りと絶望的な孤独が、か細い体の中で痛々しいくらい渦巻いている。自身の心情を把握する余裕すらないのだろう。
深読みのしすぎなのかもしれない。しかし、今まで出会った人達の中で、ここまでどう接してよいか分からず、同時に強く興味を持った人は他に居なかった。
花に惹かれる蝶の如く、目が離せない程に。
「……おい。聞いているのか?」
我に返ると、少女が目前で私を見上げていた。余りの近さに面食らってしまう。
「えっ? ああ、何ですか」
平静に答えたつもりだが、少女は言葉に出さずとも「変な奴」と意志表示する顔をした。
「咲かない方に賭けたいんだが」
「咲かない方に?」
太陽の昇る位置まで確認しておいて、何故咲かない方に賭けたいのだろう。
「構いませんが、どうしてです?」
「別に負けるつもりはない。あっちに雲が見えるだろう。
風向きからしてここを通る可能性が高い。あれが雨雲だったら、明日の朝方頃に雨が降るかもしれない」
少女が、指差した遥か向こうの空の果て。
夜空より黒い雲が這い出て来て、周りの星を呑み込んでいる。
確かに雨が降るのならば、咲く方に賭けるのは分が悪い。
しかし、少女の言い分は何だか不自然だ。その不自然さが具体的に何なのかは、霞みのように掴めず私は返答に逡巡する。
「貴方は……」
言葉を紡ごうとしたが、少女に遮られた。
「咲かない方がいいんだ……駄目か?」
目が合った瞬間、喉元に刃物をぴったりと突き立てられる錯覚に襲われた。
昨晩の一戦。夕方の決別。時折見せた周りの温度を奪いつくすあの目だ。
少女との距離が間近な分、瞬きも出来ずに慄然とする。
睨んでもいないし、口調は穏やかだ。
しかし、鮮血を凍らせたような赤い目からは、有無を言わせぬ圧力を感じる。
ごくりと、自然と生唾を飲んだ。
「……分かりました。では、咲けば私の勝ち。咲けなければ貴方の勝ちとしましょう」
聞いた少女は、無表情に毛が生えた程度の僅かな変化だが、ほっと安堵の顔をした。
「決まりだな」
途端、空気も嘘のように緩んで、心底安堵する。
それは、窒息ぎりぎりまで首を絞められて、ぱっと離された解放感に似ていた。
まだ、くらくらする頭で何故、咲かない方が良いのか聞こうとしたが、少女はくるりと背を向けて再びカニーナの元へ走って行ってしまう。
「よし、これにする」
さほど時間は掛からず、かといって適当という感じもせずに、少女は蕾を定めた。
『おっと、忘れるところだった』
少女は慌て気味に、自前の黒い手袋を取り出した。
文字通りの白雪の手が、夜より黒い手袋が覆い尽くしていく。
手袋は、棘で手を傷つけて血がカニーナに触れるのを防ぐ為だろう。少女の気遣いは、嬉しい限りだが、複雑な心境になる。
熱に浮かされ、少女の冷たい手を握りしめた時、か細い指と甲には傷一つ無かった。
昨晩、ナイフを振り回した挙句、ピストルが暴発し肉が削げ落ちたとは、とてもじゃないが信じがたい。
ましてや、命を奪う黒い毒血が流れているだなんて。
黒い手袋を嵌めている少女は、まるで両手をその血で染めているようだ。
少女はそっと、蕾を手にとって私に見せた。
丁度、少女の頭の高さに、しな垂れた枝に付いたその蕾は、明日にでも咲きそうな膨らみを見せていた。
私は頷き、ハンカチを取り出して、端を破る。包帯のように細長になったそれを、蕾の付いた枝に結び付けた。
「それでは、改めて」
私は手袋を外し、右手を差し出す。
「我が名、クロウの魂と血をもってここに……」
「えっ? 何だそれ」
少女は、疑わしげに私の手を見つめる。
「何って、賭けの時はお互いの本名を明かし合って、握手してからしますよね?」
「いや、賭けは初めてだし、今知った」
私が教わった時には、「一方的な不履行や破棄をされぬよう互いの本名を交わし合う」だった。
名前とは、他者と共に生きてゆく際、互いに呼び合い区別するのに必要となるばかりではなく、確固とした自己を支え、保つ為にも必要不可欠だ。
同時に、ある種の魔力がある。
例えば、後ろから名前で呼ばれれば、ほんの一瞬だけだが頭の中がその声に縛られ、思わず振り向いてしまう。実際、術師が呪いを掛ける時は、対象の姿と名前を明確に把握しなければならないという。
名前を教える行為は、首に縄を括って、その端を相手に手渡すに等しい。
姉からも、『そいつに殺されても本望だと、思うくらいでなければ教えちゃいけない』と教わった。
この仕来たりは、実に理に叶っている。握手にしても、儀礼的で美しい。
男の私から、少女へ握手を求めるのはマナー違反だが、お互い命運を賭している。間違いではないだろう。
しかし、知らないとは……もう廃れてしまったのだろうか。
「と言うか、名前……クロウって鳥の?」
ああ、やはり聞かれた。
今まで本名を明かした事はそう多くはないが、九割方聞き返される。
言い直すのも、正直げんなりするが仕方が無い。
「そうです。おかしな名前でしょう?」
「そんな事ない。昨日マント羽織っていただろう? あれが風になびいているのを、遠くで見たら烏に見えるから、ぴったりだ」
ばっさりと少女に言い切られ、予想外の返答に何も言えなくなる。
言葉を選んでいる素振りも無く、思いをそのまま口にしたようだ。
言われてみれば、マントを羽織った状態をはるか遠くからならば、見えなくもない。
しかし、何だかこそばゆい感じがして、真率をそのまま映した彼女の眼差しから、目を逸らしてしまった。
「私は……自分の姿を直接見る事が出来ませんが、そう見えたのならぴったりかもしれませんね。
そうだ。貴方の本名も教えて下さいませんか。○○は本名じゃないんでしょう?」
話題を変えるため、無粋だが私の方から聞いてみた。
「わたしの名前か? 無い」
「え……『ナイ』と、いうのですか?」
少女は、首を振る。
「違う。名無しだ」
当然の如く告げられた。
同時に、私の中の歯車か何かが音を立てて外れた。思考が、停止する。
「もしかしたら、拾われる前に名前を貰っていたかもしれないが、覚えもない。
今回みたいに潜入する度に、使い捨ての仮の名を貰っている。
名前を付けるとばれた時、呪いを掛けられたりするから都合が悪いからって……」
「……都合って!」
思わず知らず、声を荒げてしまった。
少女はびくつき、私から一歩遠ざかった。目には戦慄の色が浮かんでいる。
「何故、怒る?」
少女は、両腕を前に構えて縮こまり、上目使いでおずおずと小さく私に尋ねた。
無論、この怒りは少女に向けたものではない。
少女の主は魔術に通じている。名前の持つ力について知っている筈だろう。
なのに、そんな手前勝手な都合で授けないとは。
少女は、弟子や手下ではなく、人以下の道具扱いされている。否、道具にだって名前があるのだ。
どう言った経歴で魔術を会得し、何の目的で少女に手解きしたのか。男か女かも知る由もないが、その必要も無い。
血の通っていない冷酷な、けだものなど知って何になる。
「不便だとは思いませんか?」
一旦、深呼吸して少女の主を八つ裂きにする想見を滅却し、訪ねた。
少女は、幾分恐怖が薄れたらしい。構えを解いて代わりに片手をあごに当てて、首を傾げ細く唸った。
「仕事の度に名前が変わるから、呼ばれてもすぐに反応出来ない時があるな。
名前を呼ばれても、それは別の誰かを呼んでいて、自分じゃないような……そんな感じだ」
自分じゃない――この言葉で合点した。
少女の浮世離れした雰囲気は、外見だけに起因していない。
自身の存在を、固めて保つ名前が無いからだ。
故に、純朴な女中見習いにも、冷徹な殺し屋にも何にでもなれる。
しかし、名前の魔力を与えられなかった少女は、代償に掴み所が無い、霞みのような存在となった。
情緒が不安定になってしまうのも無理も無い。ただでさえ迫害を受けて傷ついている上に、ころころと名前を変えられたのだ。
生まれてからずっと名前を授からないと、こんな風になってしまうのか。
「……でも」
私の思案は、少女の声で打ち切られた。
「言われてみれば、不便だな。無いより、あった方がいいかもしれない」
「当たり前ですよ……」
「そうか」
物言わぬバラですら、与えられている名前。
それすら与えられなかった少女は、僅かに目を伏せて頷いた。
三十六
「そうか、じゃないですよ。全く……どうして、こんな……」
最後まで聞き取れなかった。
奴……もとい、クロウは、片手で髪を握り潰すように掴み、歯を食いしばったからだ。
光る金の髪留めが手の内に隠れる。ふっと、周りの暗さが増した気がして何だか怖くなった。
ちらりと見えた獣の牙と、ぎらつく険しい目。
息を飲む程にぞっとする。今は目を合わせていないが、もし少しでも合わせてしまえば、一瞬で引き裂かれてしまうかもしれないと、本気で思うくらいだ。
わたしが、気に障る態度を取ってしまったかもしれないが、クロウの前では、思った事をそのまま表に出そうと決めていた。
誤魔化したり隠したりしても、すぐにばれてしまうだろうし、そもそもしたくないからだ。
クロウと話していると、今まで気が付かなかった所がどんどん出てくる。
雪で覆われていた地面が、太陽の光で溶かされて地肌を露わになっていくみたいに。
名前。
自分には無いのが当たり前だと思っていた。
「名前を……」
食いしばっていたクロウの口から、絞り出すように聞こえてきた。
「正直、使い捨ての○○と呼ぶのは嫌です。
かといって、『貴方』なんて他人行儀に呼び続けるのはもっと嫌です」
「嫌と言われてもな。無い物は無いんだ。しょうがないだろう」
わたしが言い終わると、クロウは顔を上げた。
一対の青い目が、私をぴたりと見据える。
思わず身構えそうになってしまったが、クロウはもう怒ってはいないようで、殺気は嘘みたいに綺麗に消えていた。
ただ、代わりに糸をぎりぎりと引っ張って、今にも千切れそうな緊張感が漂ってきて、少し怖い。
何だろう。何が言いたいんだろう。
「だから……私が……貴方の名前を考えても良いですか?」
「……え?」
名前を。それは、つまり
「名前を付けてくれるのか!」
「わっ……ちょっと待ってください!」
クロウの目が大きく見開かれる。気付けば、わたしは詰め寄っていた。
危ない。あと一歩でクロウの足を踏んづけてしまうところだった。
「ご、ごめん。……名前ってわたしに……か? 本当、に」
「勿論、二人っきりの時だけ、私が勝手に呼ぶだけですが」
「いい! それでいい!」
名前。わたしにも名前が貰えるなんて。
両手を強く強く握りしめると、爪が食い込んで少し痛い。
信じられないが、夢じゃないんだ。
しかし、一つだけ不思議な事がある。
「クロウ?」
クロウは、ぼうっとしてわたしを見つめている。
名前をくれると言ってからこの状態だ。頬も赤くなっている。もしかして、熱がぶり返したのだろうか。
わたしは、クロウに近づいて額に触れた。
クロウはわたしより頭一つ背が高いから、爪先立ちになる。
少し熱がある。忌々しい。まだ体に毒が残っているのか。
「まだ、全快とは言えない。もう休んだ方がいい」
「いえ……そんなに喜んでくれるとは思わなかったので……」
答えになっていない。目も虚ろなままだ。
「まさか……頭まで、やられてしまったか」
すると、クロウは突然、引いた弓みたいに体をのけ反らせた。
同時に熱い額に当てていた、わたしの手が離れる。
「……だ、大丈夫です! ちょっとぼんやりしてたというか……いえ! 驚いたというか。
兎に角、問題ありません。元気そのものです! 大丈夫ですから!」
支離滅裂で、全然大丈夫じゃない。どうしよう。治るだろうか。
「もう、治っていますよ。ええっと、名前……どんな風とか、長い名前、短い名前……色々ありますけど、
要望はありますか?」
クロウは、軽く咳払いしてからそう切り出した。
見ると表情はいつもと同じだ。
まだ、薄らと耳と頬が赤いが、指摘してもきっと否定するだろう。
無理はしないで欲しい。
そもそも、原因は他でも無いわたしなのに。
「えっと……余り長かったり、発音し辛いのはちょっとな」
今まで、両の手じゃ足りないくらい、沢山の名前を取っ替え引っ替え付けてきた。
呼ばれても反応が遅れるとは言ったが、反対に、長い間付けられていた名前を聞くと思わず振り返ってしまう事がある。
頭の中は、使われないのにいつまでも居座る、がらくたな名前で一杯だ。
言いやすい名前でなければ、頭にすんなり入ってこないと我ながら思う。
「短めで、発音しやすい名前、ですね」
「ああ、それでいい」
実を言うと、クロウが付けてくれる名前だったら、何でも良かった。
でも、難しい注文だったろうか。
「それぐらい難しくありませんよ。では、明日この時間……十二時頃ですかね。
ここで落合いましょう。『バラの下』にね」
クロウは、何でも無いような顔で、やんわりと笑いながら言う。
「『バラの下』?」
「くれぐれも内密にって事ですよ」
「あ……ああ。当たり前だ! 誰にも言わない」
内密に。
わたしとクロウだけの秘密。絶対、誰にも言うものか。
何故だか分からないが、顔全体が熱くなってきた。クロウにそれを見られたくなくて、さっきとは少し違う感じだが、消えてしまいたくなった。
「分かった。じゃあ、もう遅いし……休む。クロウも早く寝た方がいいぞ」
手早くそう言い、クロウの返事も待たずに背を向けて、不自然にならない程度の早歩きで屋敷へ直行した。
一秒ごとに後ろにいるであろう、クロウとの距離が離れていく。
緊張が解けていく代わりに、胸倉に穴が開いて、風が通り抜けていくような感じもした。
そうしている内にも、足は前後し続け、距離はどんどんと広がってゆく。
「少なくても私は、この賭けがどうなろうと、貴方に会えて良かったという気持ちは変わりません」
振り向くと、かなり離れた所に、人差し指くらいの大きさになったクロウがいた。
「何を……」
言っている意味が分からず、頭の中が真っ白になる。
クロウは小さい上、月明かりだけが頼りの中、表情はぼんやりとしか見えないが、声の調子は、軽くて歌っているようだ。
「ですから……例え、私が賭けで負けて貴方に殺されようと、こうして話が出来て良かったと思います。
だから、貴方が色々と気に病む必要はありませんよ」
気に病む? さっきわたしが、考えていた事を読んだのか。
だが、何か。何か引っかかるというか、おかしくはないか。
「それでは、お休みなさい」
「待て! どうしてだ。お前は」
こんなに叫んで引き留めているのに、言うだけ言ってクロウはくるりと背を向けて、バラ園の奥へ行ってしまった。
逃げられた。
何だか、悔しくなって追いかけようとしたが、沢山のバラがクロウを覆い隠してしまう。
まさか、本当にバラが動いた訳ではなく目の錯覚だろうが、花にも魂があるという言葉を思い出した。
クロウはバラをとても大切にしている。ここに咲いているバラ達はきっとクロウの味方だろう。
追いかけるなと、バラ達に言われているようで足がすくむ。
「後悔しないって。死んでも後悔しないだなんて」
口では大丈夫だとは言っていたが、やはり頭がいかれてしまったのだろうか。
でも、これが本音なら賭けを仕掛けてきた理由が見えてくる。
クロウは、死にたがっている。
熱に浮かされながら、「置いていかれる」と言ったクロウを思い出した。
わたしは、置いていかれた事が無いから、クロウがどんな思いをしたのかは分からない。
いや、置いて行かれた事が無いんじゃなくて、そもそも「誰かと一緒だった」事が無いのだ。
あの人とは、一緒にいると言えば、確かにそうだが何となく違う気がする。
ふと、思い出して体中が、焚きつけられたみたいに熱くなった。
わたしを拾い、養ってくれたのは感謝している。
でも血を吐き、のたうち回った結果、触れたものを全てを枯れ腐らせる毒血が詰まった体にされた。
皆から、散々言われてきた「化け物」に本当になってしまったのだ。
絶対に許せない。
恩知らずと言われようが関係ない。叶うならこの手で、ずたずたに引き裂いてやりたい。
そして、言いなりになっていたわたしも。
ほんの少し強い風が、わたしに向かって吹いてきて、体に溜まった熱を掻っ攫ってゆく。
夜の湿った涼しい空気と、バラの匂いがする。嗅いでいると少しずつ落ち着いてきた。
次第に風は止んでゆき、草木が揺さぶられる音も消える。
今ここで、クロウの本心を考えても、あの人への怒りを爆発させても始まらない。
早く寝てしまおう。
踵を返して、一瞬だけ全体重が片足に掛かけたその時、がくんと膝が折れる。
視界も斜め下、そして地面まで落ちた。
全身を打ち付けた痛みより、何故、地面がこんなに近くにあるのかと驚いたが、立ち上がる事に専念する。
まずは、体を動かしてみたが手先、足先が痺れた感じがして、おまけに小刻みに震えている。痙攣というやつだろうか。
普段なら、こんな無防備極まりない状態など、急いで立て直そうとするが、不思議と焦りはしなかった。
呼ぶつもりは無いが、クロウもまだこの広いバラ園から出ていないだろう。
クロウ以外誰も居ない。敵は居ないのだ。落ち着いて、立ち上がればいい。
自分のひゅうひゅうと鳴る耳障りな呼吸を聞きながら、そう考えていると、少しずつだが手足の感覚が戻り始めた。
両手に力を込めて、地面を押して上半身だけでも浮かせようとするが、すぐに力が抜けてしまって中々出来ない。自分の体だというのにもどかしい。
どのくらい時間が経ったのだろう。
ようやく立ち上がれたが、歩く度に体が振り子みたいに左右に揺れて、気持ちが悪い。
もしかしたら、慣れない長話で緊張してしまった反動かもしれない。
本当に早く、寝た方が良いみたいだ。
明日も早いんだし、夜には賭けの結果だって待っているのだから。
◆
カラスほど、人から崇められ、忌み嫌われている両極端な鳥はいない。
中国では太陽を運ぶ三本足のカラスが登場し、日本でも神武天皇を導いたカラスはヤタガラスと言われ太陽神天照の使いである。また、「金烏」「陽烏」は太陽の別称でもある。
そこからかなり離れたギリシャでも、太陽神アポロンの使いであったり、アラスカのクリンギット族の神話では、暗闇の中何も持たずに生活をしている不憫な人々の為に、大ガラスが二枚貝の暗闇から太陽を誘い出す。
アイヌでも魔物が太陽を呑み込もうとしたが、カラスがそれを救う話がある。
旧約聖書のノアの方舟では、ハトを飛ばす前に、カラスを飛ばしたが、カラスは太陽を目指して何処までも飛んで行ったとされている。
古今東西、カラスと太陽は結びつけられる事が多い。
しかし、同時にケルトの戦女神の化身でもある。また、北欧の軍神オーディンの斥候として世界中を飛び回り、起きた出来事を伝えている。
因みに北欧では、何でも知っている事を「大ガラスの知恵」と言う。
確かに、カラスは鳥類の中で最も知能が高いと言われる。
大柄で、嘴の下に長い羽毛が生えているワタリガラスを見ていると、知性を蓄えた老僧や魔術師の髭を連想するのは私だけでは無い筈だ。
神話・伝承とは関係が無いが、ポーの有名な「大鴉」も正に死そのものであろう。
ポーは、「カラスは死者を悼む、終わりなき追憶」の象徴としている。
活力や生命の象徴である太陽。それと相反する死や戦の象徴でもあるのは興味深い。
しかし、死肉を食らい、お世辞にも美しいとは言えない鳴き声から、死や戦の象徴とされるのは分かるが、太陽に関しては、黒点説だけでは弱いと思う。
確かに、カラスは朝早く起きる鳥であるが、それならニワトリでも良いではないか。
そういえば、カラスは光り輝く物が大好きで、私も車のキーを盗られた事がある。
別に捕食に使う訳でも、求愛に使う訳でもないのに何故欲しがるのかは、解明されていないそうだ。
大昔から光ものが好きだったかは、知る由もないが、輝く太陽の化身だった名残だろうか、今でもカラスは光り輝く物を求めて、飛び続けているのかもしれない。
そして、今でもカラスは我々の精神に息づいている。
イギリスでは「ロンドン塔からワタリガラスがいなくなるとイギリスは滅びる」というジンクスがある。
チャールズ二世の勅令で、最低六羽のワタリガラスがロンドン塔で飼育されている。衛兵の中には、ワタリガラスの世話をする「レイヴンマスター」という役職がある。
日本でも、ヤタガラスは日本サッカー協会のシンボルマークとなっている。
しかし、最近都市部のマナーを守らないゴミ捨てが増えているそうだ。
近郊に住む友人は、そのゴミをカラス達が突き出してめちゃくちゃにするので、掃除が大変だとぼやいていた。頑丈なゴミ入れを設置すれば良い話だが、そんな経費の掛かる事は実行されないだろう。
そう遠くない十年か、二十年後くらいに、カラスは大量発生するに違いない。
そして、大量発生し、害を与えると判断された生き物の末路は、駆除という名の虐殺しかない。
その頃、カラスがあの天照大神の使いであると知る日本人は、どれぐらい居るだろうか。
汚らわしいカラスが減ってすっきりした。
なんて、恥知らずな事を平気で言いあうのかもしれない。
三十七
他の人間達が震えながら「寒い、寒い」と言っている気温は、実はわたしにとって一番過ごし易い。
わたしは、「熱い」というのは分かるが、「寒い」とか「冷たい」という感覚は肌からは感じられない。
舌や鼻はまともらしく、氷を食べたり、空気を吸えば、冷たいとようやく感じられるのだ。
人間が近くに居て水を汲んだり、皿洗いする時は、水を口に含んで「冷たい」かどうか確認する。
もし冷たかったら、夏はともかく冬は、そういう素振りをしないと怪しまれるからだ。
元々そうだったのか、それとも何か原因があったのかは分からないが、気付いた時にはそうだった。
雪が降る夜の裏路地で、震えている子供達を見かけて、同じ薄着なのに、何故自分は震えていないんだろうと不思議に思った。
ずっと後で分かったが、普通の人間は低温の場所に長時間居ると、低体温症を起こして死んでしまうそうだ。
ある意味、「冷たさ」を感じなかったお陰で生き延びられたが、死ななかったわたしは、何なのだろう。
ところで今、わたしが立っている所は、とても快適で居心地が良い。
きっと、普通の人間は寒いと震えるだろうが、誰も居ないようなので問題無いだろう。
そして、薄暗いのも良い。辛うじてこの空間に奥行きがあると分かるくらいの暗さだ。
もし目の前に誰か居たとしても、どんな顔か分からずただの人影に見えるだろう。向こうも、わたしの目や肌の色は分からないだろう。
しかし、どうしてこの空間にいるのか思い出せない。
何処かの一室かもしれないが、締め切られた部屋特有の滞った空気は感じられない。
ますます、分からない。ここは何処だろう。
「他力本願を絵に描いたようだな」
ぞわりと、全身の鳥肌が立った。
今までずっとここに居られればいいのにとさえ思った空間が、一秒でも早く逃げたしたくなる空間に変わった。
「その時が、来たらお前はどうする。クロウと一緒に戦うのか? それとも、こそこそと隠れているか?」
後ろからだ。
後ろからもう一度声が響いた。聞き慣れたあの人の声だ。
「……決まっているでしょう! 貴方が死ぬのを見届けない限り、わたしは解放されたと感じられませんから」
わたしは叫んだが、震えて小さな声になってしまった。
何を震えている! さっきまで引き裂いてやりたいとあれだけ願っていたではないか……さっきまで?
わたしは、さっきまで何処に居た?
「そうか、そうか。ただ突っ立って、見ているだけか。自分がまいた種なのに刈り取りは人任せ。
本当に他力本願だな」
思い出そうとしていた端から、声を浴びせかけられた。
「違う! わたしも戦う。息の根はわたしが止めてやる」
「本当に? だとしたら他力本願な上、恩知らず甚だしい。今まで世話になったろうに……」
そうだ。世話になったのだ。たっぷり礼をしなくてはいけない。
殺そう。今、ここで。
暗がりだが、悟られないようにゆっくりと右手を曲げて、コートの袖下のボタンを外す。
持ち慣れた重さと、触り心地。温度を持った投げナイフが、わたしの手の中に滑り落ちて納まる。
投げナイフを握りしめると、あっという間に鳥肌や動悸が納まり、自分でも怖いくらい神経が研ぎ澄まされてゆく。
最後に、わたしは口を開いた。
「……恩知らずだと? わたしをこんな体にして置いて、何を言」
「死にかけていた所を助けて貰って置いて、何を言っている?」
言い直すかのように、後ろから、あの人とは違う声がした。
「だ……」
誰だと言う前に、背中に何かが乱暴に圧し掛かってきて、前のめりになる。
倒れないよう踏んばるが、とても重くて無様に跪いてしまった。
熱くも冷たくも無い弾力のある何かが、わたしに負ぶさっている。
前を向くと、丁度両耳の高さから二本の白い棒が生えている。
それは何処かで
「見た事があるも何も、こんな白くて血生臭い手、お前の手しか無いだろう?」
耳元の空気が低く震えた。
声も出せず負ぶさっている物を振り払うが、勢い尻もちをついてしまう。
暗闇の中、見上げるとぼんやり白い顔が浮かんでいる。
白い。血を全て抜き取ったような白い顔。
逆に目は、喉笛を切り裂いて噴き出したばかりの真っ赤な血の色。
わたしだ。わたしが目の前に居る。
しかも、とても気味悪く笑っていて、わたしの皮を被った何かが無理に笑っているみたいだ。
「気味が悪いだなんて、鏡を見てから言え。お前が、人の皮を被っている時と同じ笑顔だぞ」
わたしの姿をしたそれが、口元を細い三日月にして自慢げに言い、やおら立ち上がると、くるりくるりと気が触れたみたいに踊り回った。
回る度に足元辺りがひらひらと蝶のように揺れ動いた。暗闇で溶けてこんでいるが黒い服を着ているらしいが、生首だけが浮いているように見えて不気味だ。
しかも、あれは喪服だ。
人殺しが喪服を着るなど、なんてふざけた格好をしているのだろう。
「まあ……クロウは、縛り付けるのでは無く、純粋な善意から名を与えようとしているのは、『わたし』も十分理解している。
どんな名を貰えるか、楽しみだなあ」
踊りながら、聞いてもいないのに勝手に喋り始めた。
わたしは、腰は抜けたままだ。
立ち上がれないし、足先までも言うことを聞いてくれないので、後ずさりさえ叶わない。
「お前も内心、柄にも無く、わくわくしているだろう? だがな、だけどな……」
それはぴたりと動きを止めた。張り付いた笑顔のまま、音も無くわたしに近づいて来る。
わたしの投げ出された役立たずな下肢を跨いて、両足で挟みこんだ。
そしてスカートが揺れて太腿に触れたかと思うと、動けないわたしの腹にふわりと、腰を降ろした。
馬乗りされた。もう、逃げられない。
「名を与えられただけで、仕出かしてきた罪が帳消しにされて、人になれる訳がないだろう?」
頭の中が、言い放たれた言葉で一杯になる。
人差し指が、わたしの顎をついと掬い上げて、否応にもやや上にある、わたしに良く似た気味悪い顔を見なくてはならなくなった。
大きな血色の目が、わたしを舐めるように見つめている。
皆が、わたしの目を気味悪がるのも分かる気がした。
「違う……わたしは」
「あんなにはしゃいでおいて、心を偽るな」
気色悪い白い手が、もう一本伸びてきて、乳母が子をあやす手つきでわたしの頭を撫で始めた。
一撫でされる度に、うなじ辺りがぞくりとして、余りの気持ち悪さに振り解きたくなるが、同時に力が吸い取られているのか、全く体を動かせずにされるがままだ。
「それにしても、奴は……クロウはどうして、名前を付けてくれるなんて言ったのだろう?
殺されるのを望んでいるのならば、付けなくてもいいのに。
短なる同情じゃないのは分かるのだが、わたしにも皆目見当がつかなくてな」
言いながら、顎を掬っていた指が離れたと思うと、急に五本の指全てが首を掴みあげた。
「どう思う? 外面も中身も醜く卑しい化け物よ」
手の力はどんどん強くなり、万力みたいに締めあげられる。
更に押し倒され、頭を打ち付けたが、痛みを受けたせいか体が言う事を聞き始めた。
両手を使い、笑いながらわたしの首を締め上げる元凶を、全力で引き剥がす。
「どうした? 化け物のおつむじゃあ、難しすぎて解らないのか」
中々引き剥がせない。目の前で笑っているわたしの顔が霞んでいくが、ここで死ぬ訳にはいかない。
忌々しく締め上げる白い手に、ありったけの力で爪を立てるが、ちっとも力は弱まらない。
それは、張り付いた笑顔のまま、ゆっくりと顔を近づけて来きて、
「ああ、そうか。お前は、沈みたかったんだよな」
首の後ろが生温かくなる。それは、じわじわと後頭部まで広がってゆき、血の匂いがした。
血だ。血の海になった。
血の海は広がり続け、背中に届いた。更に少しずつ深さが増してくる。
このままだと、溺れてしまうかもしれない。
そして、血に浸ったわたしの耳元でそれは囁いた。
「このまま沈んでしまえ。咲かない方を選んだのも、本当は沈みたいからだろう?
目も耳も唇も肌も髪も血も全部沈めば、もう痛くも辛くも無いしな」
首筋が、氷を押し当てられたように鳥肌が立った途端、目の前が赤く染まった。
わたしの目と同じ、真っ赤な血の色に。
遂に沈んだ。
口を開けたら血の味で一杯になり、息が出来ない。
わたしは、血の海から這い上がろうと、がむしゃらに手を伸ばした。
――手を伸ばすだって? 誰もお前の汚れた手なんて、掴む訳が無いだろう。
三十八
闇が徐々に薄くなってゆく。
私は、早朝が好きだ。
澄んだ空気を吸うと、全身が浄化された気分になる。
今日は生憎の曇り空だが、朝霧を徐々に溶かしてゆく、眩い太陽の光も好きだ。
未だにハンターの中でも勘違いをしていて、太陽が弱点だと思っている者もいるようだが、別にそんな事は無い。
ついでに言うと、ニンニクも十字架も聖水も効かない。
効果があるのは、魔力が込められた武器や道具くらいだ。後は、少女の血みたいに毒性の強い物か。
あれから、夜が明けるまでバラ園を散策しながら、少女に相応しい名を考えていた。
短く、呼びやすい名前。
問題無いと軽く少女に言ったが、考えれば考えるほど、良い名前が思いつかないのだ。
朝を迎えた今現在、候補の一つも上がらない。
思えば、当然だった。
少女の不安定で、掴み所の無さは重々承知していた。
しかし、これ程までに難しいとは。悲しい事に少女は、長い間付けられていた幾つかの名前に、未だに縛られているようだ。
具体的な名前までは読めなかったが、ありふれた名前は、昔の名前と同じ可能性が高い。
呼ばれる度に、殺し屋としての過去を思い出してしまうかもしれないから、止めた方が良いだろう。
今一度、少女を思い浮かべていると、静けさの中にひょっと人の気配が混じった。
後ろを向くと、遠くから恰幅の良い園丁の姿が見えた。庭師の朝は早い。
園丁も雇い主である私に気が付いたらしく、のしのしとこちらまで走ってきた。
「お早うございます旦那。珍しいですね。こんな朝っぱらから散歩ですかい?」
「ええ、偶には良いかと思って」
園丁は目を大きくして驚いているようだ。
確かに、園丁よりも早く散歩に出るなんて、今まで無かったが、そこまで驚く事だろうか。
「父ちゃん!」
甲高い少年の声が、遥前方より響いた。見ると枝切りバサミを持った少年が、園長とは打って変わって、軽快にこちらまで走ってくる。
園長の息子だ。見た目はまだ十歳にも満たなそうだが、日焼けした肌と、活力に満ちた目をしている。
「こら! 旦那様の前だぞ!」
少年の立ち位置からでは、私は大柄な園長に隠れてしまって見えていなかったのだろう。
園長に手荒に叱られた少年は、私の姿を初めて視認して、しまったという顔をした。
私は、笑って尋ねる。
「何かあったのですか?」
「あ……えっと、カニーナの枝に、何か布みたいな物が結んでありました」
カニーナ……しまった!
「何だって? どうしてそんな物が」
まずい。外されてしまう。
「待ってください! 明日まで外さないでください」
しん、と静まりかえった。
親子二人が顔を合わせ、次に私を見る。
「……カニーナは、今日は何もしないで頂けますか?」
二人の沈黙の眼差しに耐えられなくなり、もう一度言う。
一応、私は雇い主だ。出来れば、何も聞かないで承諾してほしい。
「どうしてですか?」
危惧していた言葉をあっさりと少年は言い、園長はすぐさま彼の脳天に拳骨を浴びせた。
ああ、良かった。私の人選は間違ってはいなかった。
面倒だと思ったが、一人一人ちゃんと自分で面接していて良かった。
「分かりやした! カニーナはそのままにして置きます」
園丁は満面の笑みでそう言うと、悶絶している息子を引きずりながら向こうへ行ってしまう。
しかし、私は園丁の笑みに何か裏があると気になってしまい、少しだけ読んでみた。
『ははあ、道理で……逢引かあ。あんなに、靴泥んこにして。ありゃべた惚れだな』
はたと自分の靴を見ると、裾まで泥まみれになっていた。成程、園丁が最初驚いていたのはこの為か。
考えに夢中になり過ぎて、花壇を踏み越えていたなんて、いい年して情けない。
まさかバラまで踏みつけたなど、そこまで呆けてはいないと思うが、私の無数の足跡が花壇に残されている事実を想像すると自己嫌悪に陥る。
それにしても、「べた惚れ」とは。
カニーナに結ばれたリボン。泥だらけの靴。確かに二つの情報で「逢引」という答えを出すのは、そう難しくはない。しかし、「べた惚れ」だなんて今の私は傍からはそう見えるのか。
少女の言葉を思い出す。
憂いを帯びた顔。私の額に当てられた冷たい雪の手。
近づかれた時、一層増した陰惨な血の匂いなど、どうでも良くなり寧ろ愛おしいとさえ思った。
先程まで、痛々しいくらい虚ろに沈んでいた目が、たった一言「名前を付ける」と言っただけで、満開のバラの如く輝いたのだ。
不意打ち過ぎる。あれを見れば、誰だって見惚れてしまう。
昨日からの風は、ぱったりと止んでしまったらしく、私の身に籠った熱を攫ってはくれない。
自分の額に手を当てる。手袋を嵌めているから、無機質で無愛想な布の感触しか伝わってこない。
少女の手が、冷たさが恋しい。あの静かで儚げな声が、今も耳奥で響いている。
そうか。園丁の言葉でようやく理解した。
私は、少女に恋をしたのだ。
最初は、興味と同情だった。私に果敢に挑む薄幸な少女。
苦しみから抜け出したくても、叶わずに苦悩している姿を見て、自分に何か出来る事があればと思って「名前を付ける」と言っただけなのだ。
しかし、今の焼け焦げるくらい胸が熱くなる理由にはならなかった。あの、輝かんばかりの赤い目と、白雪の手に私は惚れたのだ。
何故、気が付かなかったのだろう。長い間、そんな思いを抱けなかったからか。
清浄な早朝の空気を限界まで吸い、ゆっくりと吐き出す。
何度か繰り返して、身の内の熱を少しずつ冷ましてゆく。
きっとすぐにぶり返すだろうが、まずは、落ち着きたい。
気を紛らわせる為、私の四方八方を取り囲むバラ達をぐるりと見渡す。
男爵の遺言に遠慮なく甘えて、破産しない程度に広げたこのバラ園は、私にとって小さな楽園であり慰めだった。
バラは素晴らしい。
鮮やかで、棘という容易に触れさせない気高さと、惹きつけてやまない芳しさを兼ね備えている。
そして、何も語らないが人のように同類同士で馬鹿な争いをして死んだりしない。
私を、置いて行ったりしない。
その時、脳裏に焼きつく少女の姿が煌めく。
絵になると惚れ惚れした、身構える少女と、吹雪の如く周りを飛び流れる花びら。
体の中で浮遊していた悩みが、すとんと落ちた。
バラの如く。曇りひとつない白皙、鮮やかな赤い目。
触れる者は棘で傷つけ、かと思えば、花弁は壊れ物のように脆い。
愛の花。
これだ。これに決めた。他に候補など考える必要は無い。これ以外考えられない。
「希望にも沿っているし、気に入って貰えればいいが……」
そう、独り言つをしてほっと一息ついた所に、今さら一陣の風が乱暴に吹き荒れた。
私の髪とバラ達の花弁を理不尽に弄り、急に薄暗くなったかと天を仰ぐと、陰鬱を絵に描いたような黒い雲が屋敷を覆い始めた。
全く恐れ入る。少女の予言は、当たったのだ。
三十九
御者さんは、「何時頃に迎えに来ればいいか?」とまで聞いてくれたが、「何時になるかは分からない。自分で馬車を捕まえます」と答えた。
これで二度目。
ミセス・トーマスにも嘘をついた。鋭いから、もしかしたらばれたかもしれない。
顔色が悪いと言われたが、「慣れない馬車で少し酔った」との言い訳は利いたみたいだった。
でも、嘘を嘘で塗りつぶす。
今まで、何度も何度も繰り返してきたのに、何故、今さら胸が苦しくなるんだろう。
馬車に乗る寸前まで、馬達は明らかに怯えていた。
どう考えても、血の匂いを撒き散らしているわたしのせいだったが、御者さんは特に何も疑いを持たずに、
「ここだけの話だけどな、最初、旦那を乗せる時もこんな感じだったなあ。
しかし、なんで嬢ちゃんにまで怯えてんだ。この腰抜けめ」
そう笑って馬の尻をぺしぺし叩きながら、わたしをあっさり乗せてくれた。
思い出して、また苦しくなる。遂に吐き気までしてきて、視界が左右に揺らぎ、被っている帽子が落ちそうになった。
もう我慢出来なくなって、壁に手をつきながら裏路地まで行き、胃の中に溜まった物を吐き出した。
吐き出す自分の声と、ばちゃばちゃとだだ漏れする不快な音で、さらに吐き気がこみ上げてきて、いっそ、胃袋なんて無くなってしまえばいいとさえ思った。
ひとしきり、空になったと思うまで吐き終え、呼吸を整える。喉が焼けるように熱くて、目が痛い。
ここイーストエンドの空気はお世辞にも綺麗とは言えないが、深呼吸すると少しだけ気分が良くなった。
落ち着いたところで、地面にぶちまけた物を見ると、屋敷から出る前に、一度出した物とは明らかに違っていた。
真っ赤な、血だ。
呼吸する度、胃が針を沢山詰めたように痛むから、内臓がやられたのだろうか。
わたしに似たあれに首を絞められ、沈んだ後に飛び起きてからというもの、体調の悪化は止まらなかった。
最初は、息切れとだるさ。次に目眩と吐き気。
吐き終わって、今度は足が震え始める。
取り敢えず、裏路地から出て目的地まで一歩一歩、よろけながらも何とか歩く。
最低限の暗器だけを持ってきたのは、正解だった。
全部持ち歩いたら、たちまちわたしの体は、外套に潰されてしまうだろう。
夢に出てきた喪服のわたし。それに聞かれた、クロウがわたしに名前をくれる理由。
馬車に揺られている最中、考えに考え抜いたが結局分からなかった。
クロウは過去に、人間だった頃かもしれないが、誰かに置いて行かれた。
病気か、事故か、それとも殺されたのか。単に老衰だったかもしれないが、長く生きているのであれば、一人や二人どころではなく、もっと沢山の人間や、人間で無い者達からも置いて行かれたのだろう。
ここでは無い、何処か遠くを見る目は、行ってしまった者達の後を追い駆けたいからかもしれない。
しかし、これとわたしの名前は結び付かない。
クロウはわたしに何をしたいのか、やはり見当がつかなかった。
ホワイトチャペルまでたどり着いた頃には、足は震えるどころか、引きずる程に動かなくなっていたが、あともう一息だ。
相変わらず、ここはいつでも男共の気分の悪くなる声がする。
正直、嫌な思い出しかないが、避けて通れない以上、我慢するしかない。
しっかりするんだ。もう少しだ。
ぜいぜいと、息切れになりながら歩いていると、揺れて霞む景色の中に、荷馬車が止めてあった。
立ち止まって見てみると、それは娼館の前に止まっている。男がまだ十歳くらいの少女の首根っこを掴んで、中年女と話をしていた。
少女は、恐らく攫われてきたのだろう。わたしの両足程じゃないが、彼女も震えている。
ふと、呼びかけてもいないのに、少女は振り返ってわたしを見た。
そして、あり得ないものを見たような驚きの表情になる。彼女は、中々目が良いようだ。
この離れた距離で、帽子で隠しているわたしの目が分かっていないと、あんな顔はしないだろう。
突然、肩に何かが乱暴にぶつかる。
わたしは弾き飛ばされて、転んでしまった。
幸い、両手で帽子を押さえていたので、頭が丸出しになる事は無かったが、
「何処見て歩いてやがる!」
そう怒鳴られ、背中を蹴られた。
何度かせき込み見上げると、汚い身なりの太った男が鼻息荒くして、わたしを見下ろしていた。
酒が入っているらしい。
顔は赤く酒臭いその男は、帽子から覗くわたしの異常な目に気が付いたのか一瞬たじろぐ。
でも、何も言わない態度が気に入らないのか、それとも引っ込みが利かなくなったのか、ふらふらと近づいてきて、わたしの胸倉を掴み持ち上げた。
「この売女が。詫び一つ無しか。お仕置きが必要みたいだなあ」
気持ち悪いにやりとた顔と酒の匂いで、空っぽに近い筈の胃がまたむかむかしてきた。
男は、酒だけじゃなく血にも酔っているらしい。
わたしは少なくても十秒以上、立ち止まっていた。人はまばらで、わたしを避けようと思えば難なく避けられるだろう。
非は、まともに歩けない程、前後不覚になるまで酔っ払っているこの男の方だ。
しかし、どうにも力が入らず、体も言う事を聞いてくれず、足は宙にぶらぶら浮いていて男のなされるがままだ。後、三つ数え終わる前に、男の気が納まるまで、わたしは殴られるだろう。
その時、場違いにもわたしが見た夢の内容を、クロウが言っていたのを思い出した。
乱暴に掴まれ、痛んだ腕。暴れて泣き叫んでも全く聞いてくれず、真っ暗な馬車の中に投げ込まれた時の怒り。
逃げ回って、馬に蹴り飛ばされた時の恐ろしさが、頭の中を駆け巡り、溢れた。
後は、もう何も考えず体が動くままに、行動に移した。
わたしの胸倉を掴む男の手を、ナイフで突き刺す。
男は、豚の断末魔みたいな声を上げて、わたしの前に跪いた。
気持ち悪い鳴き声で唸っている豚を、少女を売り飛ばそうとしている男の前へと、渾身の力で蹴り上げた。
豚は二回跳ねて、ごろごろと樽のように転がる。
少し目測を誤って、荷馬車の後輪に派手な音を立てて激突したが、目的通り、男と、女の注意を逸らす事に成功した。
道行く人間達のちょっとした悲鳴と、どよめき声が周りを囲み始める。わたしは少女の目を見て、心の底から叫んだ。
――逃げろ。出来るだけ遠くへ!
蹴り上げた行動は、思っていたより消耗が激しく、喉は呼吸をするので精一杯で、喋る気力が出なかった。
少女は分かってくれたのか、それとも、次はお前を蹴り上げるぞと伝わったのかは分からないが、驚いて拘束を緩めた男から、弾けるように抜けだした。気付いた中年女の手からも何とか掻い潜って、その場から走り去る。
少女が、裏路地へ滑り込むように入って行くのを見届けて、周りは騒然としたままだが、わたしはまた歩き出した。
さっきまで結構な力を発揮した足は、また震え始めたが、不思議と体自体は少しだけ軽くなった気がした。
何かが抜けだした感じがする。それが何なのかは分からない。
時間があれば、ゆっくり考えたいが……クロウに聞いてみたい。どう答えるのだろう。
わたしと目が合った人間達は皆、身を引いて近寄ってこない。前方に、潮が引くように道が出来る。
歩くのに不自由している今、とても通りやすくて助かった。
「化け物が」
と、後ろの方で声が聞こえたが、事実、そうなのだから気にならなかった。
あの少女は、これからどうなるのだろう。帰る家があれば無事に辿り着いて欲しい。
もし無ければ、せめてわたしのようにはならないで欲しい。
感覚すら無くなってきた足を引きずりながら、そんな事を考えた。
四十
雨が降るぎりぎりで、屋敷に避難出来た私は、使用人達から驚かれ、そして足下を見て微妙に嫌な顔をされた。
仕方が無いだろう。まさかここで着換える訳にもいかない。かと言って、靴の泥を取るよう命ずるのも何だか気が引けた。
ふいに、表情を一切替えずに、私の服を脱がそうとした少女を思い出して自然とにやけてしまう。
使用人達に、ますます不信がられたので、早歩きで自室に向かう。
急ぐ余り少々乱暴な音を立ててドアを閉めてしまうが、完全に外界と遮断された一人きりの空気の中、安堵していると、外からせせらぎが聞こえ始めた。
溶けるように濡れ始めた窓を見ると、戸の間に何かが挟まっている。
近づいて見てみると、二つに折られた紙きれが挟まれていた。
濡れない内に取り出して開くと、お手本のような綺麗な字が並んでいる。
〈突然で申し訳ないが、急用が出来た。約束通り、必ず晩には戻る。
ミセス・トーマスには「旦那様直々にお使いを頼まれた」と言っている。上手く口裏を合わせて欲しい〉
宛名も、署名も無いが、こんな内容を書く人物は一人しかいなかった。
それにしても、改めて少女の教養の深さと徹底ぶりを思い知った。
最近、ようやく労働階級の子供達にも、読み書きを教える学校が出来たばかりだ。
しかし、親の手伝いやら、どうせ結婚するから不要だろうという理由で女子の教育は中々進んでいない。にも拘わらず、ここまで読み書き出来るとは。
しかも、貴族の令嬢が書いたと言われれば、誰もが信じてしまいそうなくらい綺麗な字と、完璧な文法で書かれた手紙だ。
平気で人が口をつけたスプーンで食事したり、真顔で男の服を脱がそうとする娘とは思わないだろう。
しかし、急用とはなんだ。
いや、予想はついている。当たって欲しくは無いが、十中八九、少女は主の許へ向かった。
一体、何の為に? まさか私を裏切るつもりか。そんな、馬鹿な。
確かに、少女の心を完全に読んだ訳ではないが、裏切るなんて素振りも、感情の陰りも全く無かった。
もしかして、あれすらも私を欺く演技だったのか。
「旦那様、失礼いたします」
空回りする思考が、乾いたノックと声で打ち切られる。
返事をすると、ミセス・トーマスが入ってきたが、私の両足を見て顔をしかめた。
「ご朝食が出来上がっておりますが」
使用人に有るまじき、かなり乱暴な口調で言われた。
「……着替えてから、すぐに行きます」
本来なら家令のヴィンセントか、従者のジョーンズが支度が出来たと伝えるべき事だ。
しかし、彼女は気が利き過ぎるというか、片手間にこうして、本来、家政婦の役目で無い、雇い主への呼び出しまでしてしまう。
つまり、仕切りたがりというか、お節介屋さんなのだ。それが長所でもあり、短所でもあるのだが。
『こっちが聞きたい! 一体何のつもりだ。いきなり呼び出して、お陰で冷汗かいて心臓縮み上がったわ。
使用人共におかしな眼で見られるし……』
少女の言葉を思い出した。
あの時は、頭が殆ど回らず、おまけに激昂した少女に驚いて素通りしてしまったが、良く良く考えると、少女を呼び出したのは他でもないミセス・トーマスではないだろうか。
記憶を掘り起こしてみる。
最初に倒れた私を見つけたのは庭士達で、その後、ベットまで運んでくれたのはジョーンズだったか。
連れ添ったのは、ヴィンセントとミセス。
そして、最後に少女がやってきた。
ヴィンセントは、私と少女を覗いていた使用人達の中には居なかった。
当然だ。仮に居たとしたら、規則や模範に厳しい彼は全員を叱りつけていただろう。
何故、新入りの少女に看病を任せたのか。
「ミセス……もしかして、分かっていました?」
出て行こうと後ろを向いたミセス・トーマスに、声をかけた。
彼女も、少女に負けず劣らず、中々隙を見せない性分だ。
かなり集中しないと読めない。ミセス・トーマスは、ゆっくりと振り向いた。
「さて、何の事でしょうか?」
『旦那様ご自身の事? それとも、あの子の事? 主語が抜けているから答えようがないじゃない』
素っ気なく、言い返されたが、ああ、やはりばれていたのか。
少女が、殺し屋だというのは知らないだろうが、具体的に何処まで知られたのかは、これ以上は読めない。
しかし、そこまで分かれば十分だ。それより、もっと言うべき言葉がある。
「そうですね。何の事でしょうかね……ただ、有難うございます」
私と少女を引き合わせてくれた。彼女の計らいなくして、少女の心を知る機会は無かっただろう。
そうだ。
私は少女に惚れたのだ。疑うなど愚の骨頂だ。
ミセスは、少しだけ驚いた素振りを見せたが、すぐに普段の堅い表情に戻った。
「旦那様は、私達使用人との距離が近過ぎます。もう少し立場を弁えてください」
「そうですね。気を付けます」
『嘘おっしゃいな』
ミセスは、最後に呆れた声でそう言って、出て行ったが、背を向ける瞬間、ほんの少しだけ、堅かった表情に笑みが浮かんだように見えた。
距離が近過ぎる。
何度も言われた言葉だ。姉からも、人からも、同類の友人問わずに。
時に、悪い方に傾いてしまい、裏切られ、死ぬ寸前まで追い詰められた事もあった。
『人の生き血を糧とする以上、ある程度は関わらないといけないけどね、自分がもう人じゃないって事、頭の片隅に置いておきなよ』
姉の戒めは、今でもしっかり頭の片隅には置いてはいるが、人との付き合い方は改められなかった。
元より、こういう性分なのだ。死ぬまで、治らないだろう。
今回も、また私は少女に近づき過ぎてしまったが、後悔は全くしていない。
これでも、妥協した方だ。
本当だったら、外道な主を屠りに、無理矢理にでも少女に道案内をして貰うところだ。
しかし、最後まで私に助けを求めなかった少女には、『生きる為に殺し続ける』道がもう出来上がっていた。そこに道徳の是非を問うのは愚問だった。
少女には、譲れないものがある。同時に、私にも譲れないものがある。
だから、お互いの希望を半分ずつにした。
少女へ伝えたあの言葉は、嘘ではない。賭けに勝つのが一番いいが、負けて命を差し出しても構わない。
元より、生きている事に飽きかけていたのだから。
多分、少女は気付いているのだろう。
本当に気に病まないで欲しい。これは私の手前勝手なのだから。
ミセスが去り、再び一人となった私は、中断された問題に取り掛かった。
もう迷いはしないが、どうする。今から少女を追いかけて探すか。
少女はかなり目立つし、私の力を使えば人ごみ激しい街中でも難しくは無いが、「必ず晩には戻る」という、手紙の文字から目が離せずに逡巡する。
少女は、どんな思いで手紙を書き、私の部屋まで届けたのだろう。
「……分かりました。貴方を、待ちます」
低く、不吉な轟きと、泣き叫ぶ風の声が聞こえ始め尚一層、不安を掻き立てる。
あの蕾は大丈夫だろうか。窓を見ると、外は夜のように暗くなっていた。
カニーナは、ここからかなり遠くに座しているが、私の目なら容易く蕾を見つけられる。
四十一
そろそろ起きないと、まずい。
あの後、また吐き気がこみ上げてきた。これで三度目。また人気の無い路地裏の隅で吐き出した。
吐いても、吐いても、まだ胃の中に残っている感じがする。吐いた先から、穴の空いた胃に血が流れ込んでいるのだろう。
このままだと、体中の血が全部抜けだしてしまうかもしれない。
吐いた事で消耗した体を休める為、物乞い達に混じって道端で座り込んだが、一呼吸する度に瞼が重くなり、我慢していると目の前が妙に明るくなったり、暗くなったりし始めた。
夢の中で言われた「沈んでしまえ」という言葉が、ぐるぐると頭の中で回る。
そして、「沈む」というのは「死ぬ」という事だと思い当たった。
これまで生きてきて、何度も死にかけた。
殺し屋になる前の、物心が付く頃からずっと殺されそうになったり、腹が減りすぎて死にそうになったりしたが、わたしにとってはそれは当たり前だった。
街中で見かけるような、普通に話をしたり、頭を撫でられたりするのは、全く違う世界の出来事だと思っていた。
まさか、自分にもそれが起きたなんて、今でも信じられないくらいだ。
帽子の中に手を突っ込んで、頭を撫でてみる。
あの時、どんな感じだったか思い出してみる。確か、クロウは温かい手でゆっくり撫でていたが、わたしの手には温かさは全く無い。
頭に当てていた手の甲に、小さな感触が当たった。感触はぽつぽつと広がってゆく。
雨が降り始めたのだ。わたしの予想は当たった。
壁に手を付いて、踏ん張って立ち上がる。
もう休めない。
次に休んだら、本当に立てなくなる。沈んでしまうだろう。
雨足が、少しずつ強くなってゆく。
道行く人間達は、近くの娼館や酒場へ入っていく。わたしはまた裏路地に入る。
狭くて暗い洞窟みたいな裏路地を抜けると、開けた空き地が見えてきた。
使われなくなったがらくたや、ゴミが積み上げられているが、根城はここにある。
この空き地の下。地下にあるのだ。
壊れた荷馬車を退かして、下に埋まっているレンガに鍵となる呪字を書かないと、根城へ扉は表れないのだ。
親指を噛むが、普段より血の出が悪い。
思っていたより、相当血が足りなくなっているようだ。
仕方が無いのでナイフで手のひらを真横に切る。
血はようやく出てきたが、雨のせいで薄れてしまうし、手が馬鹿みたいに震えて中々書けない。
傘がわりに帽子を手元に置いて、ようやく煉瓦に書き終わりそうになった時。
「書き順が違うぞ」
夢で聞こえた声よりもっと、もっと恐ろしい声が、後ろの真上から雨と一緒に降り注いだ。
遂に、来た。
「獲物ですが、人間では無く吸血鬼という化け物でした」
振り向かずに答える。
「吸血鬼か。今日日、珍しい。もう少し調べてから、送り込むべきだったな。
お前じゃあ、荷が重かっただろう」
「はい、歯が立ちませんでした」
わたしは、一呼吸置いて、立ち上がった。
そして、ゆっくりとあの人へ言い放った。
「だから……貴方を殺します」
すぐに攻撃に移らず、まずは間合いを取る。
でも、がらくたに躓き転んでしまう。急いで立ち上がり構えるが、あの人は一歩も動かない。
わたしが構えたナイフの白い刃の先に、あの人は立っている。
待ちに待ったこの瞬間。
自分で望んだ事だが、現実味が湧かない。
「お前が刃を向けるなど、これが初めてだな」
恩知らずとか、裏切り者とか言われると思っていたが、意外にも言われなかった。
低く平坦で、腹の底を掴まれるような声。その癖、雨が降っているのに嫌に響いた。
「薬はどうした? 飲めば元通りに動けるぞ」
「捨てましたよ。
それに、この症状は副作用でしょう? わたしが逃げ出せないよう、依存の強い麻薬でも入れたのですか」
そうだ。この痛みと苦しみが消えればいいと、ここに来るまでに何度も思った。
クロウと、阿片について少しだけ話をしたのを思い出す。
まさか、自分が薬漬けとなっていたとは。洒落にもならない間抜けな話だ。
体が、「早く飲め」と怒鳴り散らしたが、絶対に従わなかった。
初めて、ここまで何かに抵抗した。まだ数粒入っていた薬瓶は街に入ってすぐ、雑踏の中に放り込んだ。
恐らくもう、馬車か何かで轢かれて粉々になっているだろう。
「少し違うな。あの薬は、脳に働きかけて、通常以上の力と自己治癒力を引き出す。
しかし、一時だけならまだしも、四六時中その状態を維持していれば、体にガタが来るのは当然だ。
ツケが、薬の支えが無くなった今、返ってきた。それだけだ」
わたしは今、残っている最後の気力を全て殺気に変えて、瞬きもせずに睨みつけているのに、あの人は淡々と、いつもと変わらない口調で説明をした。
あの人は、ちゃんと目が見えているのだろうか。
雨は降っているし、離れてはいるが、わたしの睨みはクロウだって竦み上がらせたのだ。
なのに、何故平然としていられる?
わたしの殺気では、あの人を動かす事も出来ないのか。
「吸血鬼が、そこまで大事か?」
返事の代わりに、力一杯ナイフを投げつける。
クロウから返された、刃が黒くなったあのナイフだ。
出血せいで、霞んでぶれる景色は相変わらずだが、狙いは外さず、あの人の喉より少し下。
ナイフは、心臓へ向かった。
でも、あの人はぴくりとも動かず、突っ立ったまま片手だけ動かしてナイフを受け止めた。
ただでさえ、黒いあの人は大雨の中で、浮かび上がった影に見える。
駄目だ。駄目なんだ。
わたしが何をしようが、あの人は影のままなんだ。
何で、何で……
目頭がすごく熱くなってきた。目が痛い。胸が苦しくて、張り裂けそうだ。何でだろう。
気が付けば、わたしは叫びながら走りだしていた。
自分でも、まだこんな力が残っていたのか驚く。そして、もう自力で止められそうになかった。
頭は、半分以上ぼんやりとしている。手の中に、長年一緒だったナイフが白く輝いたのも他人事のように見える。
有りっ丈の力で、全体重をかけて影へ突き立てた。
「異類に魅入られたか」
降りかかる言葉で、急に意識がはっきりしてきた。
目の前も少しずつ見えてきた。
そこにあったのは、ナイフがあの人の手で、がっちりと握りしめられていて
「何で……黒いんだ」
あの人の手から、赤くないどろどろした物が、煩く降り続ける雨に混じって滴っている。
「同じ薬を使っているからに決まっているだろう」
黒い血を流した手は、ナイフから離れて、代わりに私の腕を掴んだ。
ぐるんと視界が一回転する。
わたしは水の音と一緒に、全身を強く打ちつけられた。
「ただ、お前の場合は体が完全に出来上がっていない餓鬼の頃から飲み続けたからな。その分早くガタが来たのだ」
組伏せられたわたしの頭に、あの人が手を当てた。
物凄く嫌な感じがして、ざわりと体中の毛が逆立つ。あの人の手から逃れようと、唸りながら頭を振りまわした。
すると諦めたのか、ぱっと手が離れる。
「『バラの下』か。意地でも読ませないつもりか。名が分からなければ、呪殺が出来ないではないか」
良かった。少しだけ読まれてしまったが、名前だけは、クロウの名前だけは守り切れた。
それにしても、この人も心を読めたのか。
何もかも見透かすような目で私を見たり、考えていた事を先回りされたりしたが、ずっと、心の内を読まれていたのだ。
何で、早く気付かなかったのだろう。
「しかし、私が出た所でお前の心が戻る訳でもない。結局、お前自身でそいつとの縁を絶つしかないな」
真っ暗な目とかち合った。
久しぶりに間近で見た洞みたいなそれは、相変わらず、わたしどころか何も映していない。
目を逸らせられない。
また、目が霞み始め、全身から力が抜けていく。握っていたナイフが、手から滑り抜けて音を立てた。
黒い血が流れている手が伸びてくる。
わたしの首に触れた瞬間、そこが焼けつくように熱くなった。
四十二
エレン・ウィルブレット
台所女中。当初から経験を積んでおり、使用人のまかない料理までこなす。
頑健で、他の使用人達との関係も良好。
雇用期間は……
「一昨年の四月か五月……だったと思うんですけど、分かります?」
「旦那様。彼女が何か……」
目の前に居る家令のヴィンセントが静かに聞き返してきた。
「別に彼女が何かしたって訳ではありませんよ。次の屋敷でもすぐに雇ってもらえるように書きたいんですが……中々、難しいですね。書き過ぎると、却って変ですかね?」
「何のおつもりですか?」
彼の声は、冷静さに若干の動揺が混ざっている。無理もない。
「全員の紹介状を書こうと思っています。それと、今日中に終わらせたいので、夕食は結構と料理長に伝えて貰えますか」
「一体、何故です?」
ご尤もな質問。
私は、机上の書きかけの羊皮紙に視線を落として、何度も練習した返答をもう一度確認した。
耳に入ってくる雨音が、少々うるさく感じる。
心の中で一呼吸して、出来るだけ笑いながらヴィンセントを見つめた。
「終わりにしようと思って」
「……終わり、とは?」
私は、手を目の前まで掲げた。
ぱちん。ヴィンセントが訝しげな顔をしたのを合図に、指を鳴らした。
「覚えていますか? 旅行の時、馬車が崖から落ちたと言って、私一人が帰ってきて……肖像画を、全部処分しましたよね」
ぱちん。椅子から立ち上がる。
「今まで付き合ってきた、柄の悪い連中とも急に会わなくなりましたよね」
ぱちん。一歩ずつ、ゆっくりとヴィンセントに近づく。
「他にも、沢山ありますよね。まるで、別人のように……」
ぱちん。ヴィンセントの表情は、疑惑から、恐怖のそれに変化していく。
例えるなら、今まで大切にしていた羊が、突然羊毛を脱いで狼に変貌したのを目の当たりにした人みたいに。
「ヴィンセントさん。今の私は、どんな風に見えていますか?」
「あ……ああ……」
空いている手で、呻くヴィンセントの眉間を指差した。それを瞬きもせずに凝視したのを見定めて
「次に、目が覚めた時には、本当に夢は終わっていますよ」
一際、強く指を弾いた。
ヴィンセントの膝が砕けるが、難なく受け止める。
低く長い寝息を立てて眠っているヴィンセントの心を読む。はしゃぎ回る幼き日の男爵の声と、それをたしなめる彼の声が聞こえてきた。
男爵は、好きに遊んでもいいと言ってくれはしたが、本当は、老いたヴィンセントの事を思っていたのではないだろうか。
せめて、老衰するまでは一緒に居てやりたかったのかもしれない。
そうだとすると、何だか男爵にしてやられた気分にもなるが、
「ほんの短い……いえ、長いと言えばそうかもしれませんが、楽しかったですよ」
私にとっては、本当に短い間だったが、彼にとっては、どの位長く感じたのだろう。
四十三
嘘みたいに体が軽い。
軽過ぎて空でも飛べそうなくらいだ。その代わり、体の感覚がまるで無い。
吹きすさぶ雨風は、確かにわたしの体を弄っている。
でも、痛くも痒くも無いどころか、当たっているという感じもしない。
足も、靴が脱げ、靴下も裂けて何回も砂利を踏んづけているだろうに、全くそんな感じがしない。
間違いなく、あれのせいだ。
十錠……いや、それ以上は飲まされた。
「ク……」
声を出そうとしたが、吐き気がこみ上げる。
口から熱い物が出てくる。口元もそれで汚れてしまうが、雨の中ですぐに洗い流された。
首周りが、焼け焦げるんじゃないかという程に熱くなった。
どうやら、喋ろうとすると、声ではなく血を吐く呪字を首に書かれたようだ。
手首も足首も熱いから、呪字を書かれたに違いない。現に両脚は勝手に動いて、いくら止めろと念じても屋敷の方角へ進んでいく。
目の前が更に暗くなってきた。だんだん意識が沈んでゆく。
だけど、その前に言わないと。言っておかないと……
「クロウ……もう」
目ざとく呪字が反応して、また血を吐くが、寧ろ願ったりだ。
こんな汚らわしい毒の血なんて、あの人と同じ黒い血なんて、無くなってしまえばいい。
「もう、お前の命なんて……要らない」
体が左に傾く。風が強くなってきた。
「嫌だ。嫌だ、嫌だ……殺したくない。殺したくないん……」
今度はそんなには出なかったが、横隔膜が痙攣して凄く痛い。
せめて、最後まで言わせろ。
自分でケリをつけなくちゃいけない。そう思ってあの人に挑んだ。
だけど、結果はあの様だ。
薬を飲まされた時、指一本動かせず、結局、最後までクロウに迷惑をかける事になってしまった。
「ナイフを受け取った時、言えば良かった。命なんかより、わたしは……」
わたし自身の声が小さいせいでもあるが、雨の音で最後まで言えたかどうか聞き取れなかった。
目の前が、暗い。
ごめん。ごめん、クロウ。
でも、きっとクロウはわたしを殺してくれるだろう。
今から、お前の大切なものを傷つけに行くから。
四十四
慣れない作業に四苦八苦しながらも、どうにか全員の紹介状を書き終えた。
時計に目をやると、時刻は十一時を少し過ぎていた。
相変わらず外は大雨が続いているが、そろそろ、待ち合わせの場所に行かなければならない。
ミセスが去った後、窓からカニーナの様子を見てみた。
そこには、柔らかな土の上、無残に散らばった花びらの中に、白い布で結ばれた蕾が混じっていた。
私は、負けたのだ。
腹の底から、ひんやりとしていて、しかし、凪いだ海みたいに落ち着いている。
断頭台に上がる気分とはこういうものか。全く同じ量の、名残惜しさと安堵が詰まったこの気分は、不快ではなかった。
ただ、忘れてはいけない。
少女に、止めを刺した後は跡形もなく燃やすか、人気の無い所にばらばらにして埋めて欲しいと伝えなければ。
がたがたと、催促しているかの如く窓が鳴る。
私は、それに応え、マントを羽織り、用意していた二本の傘を持って部屋を出た。
もう、この部屋には、二度と戻らないだろう。
嵐に近い大雨で、周りのバラ達は弄られ、花びらは痛々しく散りに散っている。
正直憎らしい。恵みの雨と言えど、こうも激しく降る必要は全く無いだろう。
差している傘が暴風で軋み、真っ直ぐ歩けない。
やはり、少女を探しに行った方が良かったかもしれない。
吹き飛ばされそうになりながら、私はようやく待ち合わせ場所のカニーナまで辿り着き、泥に塗れて黒く汚れてしまったリボンと、それが結ばれた蕾を見つけた。
そっと拾い上げ、手のひらに乗せて降り続ける雨を使い、泥を落してゆく。
その最中、咲かない方が良いんだと言った少女の目を思い出した。
冷気を放ち、しかし底無しの孤独を孕んだ目。
あの時、気押されてしまったが、何が何でも咲く方を選ばせれば良かった。
ばちゃばちゃと、水が跳ね返る音が背後からしたが、違和感を覚えた。
ぬかるんでいるとは言え、足音を立てず、例え出したとしてもほんの微かな音しか出さない少女にしては、何だかがさつな足音だ。
「なっ……」
振り返って愕然とした。
そこには、紛うことなく少女が立っていたが、何度も転んだのか、女中服はぼろぼろに擦り切れ、泥だらけになっている。
しかも、裸足で甲の部分から血が滲んでいた。
「どうして……こんな!」
雨風から守ろうと、もう一つの傘を広げて近づくが、少女は俯いたままで相当消耗しているようだ。
賭けの結果を伝えるより、まずは暖かい所へ連れて行き、足の手当てをしよう。
「話は後で聞きますよ。歩け……」
広げた傘を少女の頭上にかざした瞬間、金属がひしゃげる嫌な音がして、傘が手から吹き飛んだ。
寸前、殺気を感じ取って、傘から手を離しかけたのが功を奏する。
握ったままだったら、手までひしゃげていただろう。
素手で傘の中棒をへし折った、少女が顔を上げた。
凍りつくを通り越して、魂すら吸いこんでしまいそうな、一点の光も無い赤い目とかち合った。
心臓を鷲掴みされる恐怖に、全身が緊張する。
違う。彼女の目はそんな色では無かった。彼女の主が、何か碌でもない事をしたに違いない。
少女の手から、禍々しい光が見えた。
それが届く直前にようやく体が動いたが、完全に避け切れずに脇を掠めて、その部分が少し熱くなる。
少女は勢いのまま、さらに私に向かって斬撃を繰り返してきた。
一昨日の彼女は、目をぎらつかせて獣の如く唸り、私に切りかかってきたが、今は淡々と的確に心臓か、喉笛。つまり急所に向けて振っている。
間違いない。
少女は、操られている。それも、私が使える暗示や催眠術より遥に強力なようだ。
ナイフを振い続ける少女を、ぎりぎりでかわしながら神経を集中させて読んでみたが、雨音と、足音と、ナイフが空気を切り裂く音以外、何も聞こえない。
少女は、心まで奪われたのか。一体、何処まで彼女を苦しめれば気が済むんだ。
急に少女が、ぴたりと動きを止めた。
しかし、依然として殺気は放たれたままだ。
少女は、おもむろに投げナイフを取り出し、その刃を躊躇なく握りしめた。
呆然と見ている私に、少女が見せびらかすかのように、血塗られた刃を目の前に掲げた。
直後、暴風に耐えている隣のバラの枝をばっさりと薙ぎ払った。
驚きや、怒りよりも、冷静に納得している自分が居た。
あからさまな挑発。
少女の主は、私を知っていて、操るだけではなく、この状況を少女を通して見ているのだ。
操り人形の少女は、まるで剣舞を披露するかように、周りの枝も次々と切り落としてゆく。
私を激昂させるつもりだろうが、何年生きていると思っているんだ。そんなちゃちな手には乗らない。
しかし、状況は把握したが、問題はどうやって少女を正気に戻させ、呪縛から開放するかだ。
情けないが、今の少女の目をまともに見たら、体は金縛りにあって碌に動かせなくなる。
ほんの数秒でいい。
彼女の動きを止められれば、私の術で相殺出来るかもしれない。
そんな策略を察したのか、少女は攻撃対象を私に切り替え直し、黒染めのナイフを再び私に向けて、突進してきた。
ただのナイフなら、片手一本ぐらい犠牲にして少女を取り押さえられるが、彼女の血で染まったナイフが厄介だ。
一口飲んだだけで、ああなってしまう毒血を直接体に入れられたら、助けられるものも助けられなくなる。
鋭い一閃を避けるが、少女はそのまま振り返りもせず突っ走ってゆく。
「まさか……!」
少女は、私の後ろで鎮座している、カニーナの枝を引き千切れんばかりに掴む。
そして、しな垂れた枝にナイフを付きつけて、作り物めいた目で私を見た。
余りの事に目を覆いたくなるが、仕方が無い。
私は、決心した。
「調子に乗るな……小娘が!」
全速力で、間合いを詰める。
少女は、カニーナをさらに引っ張り盾にした。
私は、鋭さを増した両手の爪で、魂が張り裂けそうな思いをしながら、カニーナの枝を両断した。
そして、盾が無くなった少女に追い打ちをかける。
ぎりぎりで避けた少女の白い頬に赤い線が入ったが、瞬時に雨で洗い流された。
少し距離を取った私は、前かがみになり、丁度、獣が獲物に飛びかかる寸前のように両手も地に置く。
もう、恐れるものか。
神経を研ぎ澄ませて、視線を少女のみに当てる。
低く唸る私を見て、少女もとい主の方も察したのか、ゆらりと構えた。
私は、一直線に少女に攻撃を仕掛けた。
最初は、右足。次に脇腹。
私の爪が雨で濡れた空気と、避け続ける少女の体をほんの僅かに抉ってゆく。
こめかみを狙うが、既の所でかわされ、揺れた黒い髪が、身代りに数本散った。
徐々に少女はバラ園から追い出され、屋敷の方へと追いつめられてゆく。
無論、屋敷の中へと逃がす訳ではない。
ここで、少女が反撃に出たが、その鋭い突きは余裕でかわし、伸びきった彼女の手首を掴む。
そのまま力の限り、天より落ちてくる水滴とは、正反対の方向に少女を投げ飛ばした。
途中、何かが外れる音をがした。恐らく脱臼したのだろう。
投げ飛ばされた少女は、悲鳴も上げずに屋敷の屋根の向こうへ飛んで行った。
私も急いで跳躍して、後を追う。
屋根に着地して、急いで少女を探すが思っていたより早く発見出来た。
少女はやはり肩を脱臼していて、無事な方の手で嵌め直している。
隙は与えず、追い打ちをかける。少女は気付いたのか片手だけで応戦する。
――確か、この辺りにあった筈だ。
少女の肩は嵌め直したばかり。殆ど動かせないので、今までより更に攻撃を避けられるし、逆に私の攻撃は当たり易い。
執拗に、少女の負傷した肩へ攻撃を続ける。
――早く、早く! 何処だ。何処にある?
押されている少女が、がくんと沈んだ。
何故、沈んだのか。答えは、少女の右足だ。
予想通り、雨ざらしになっても、血で描かれた呪字は消えていなかった。裸足の少女は、自身が作った落とし穴に嵌ったのだ。
ようやく、私は下手な芝居を止め、体勢を崩した少女の頭をむんずと掴み押し倒す。
ついでに振り回している危険なナイフも取り上げ、明後日の方角へ投げ捨てた。
仰向けになった少女は、さながらクモの巣に掛かった蝶のようにもがく。
しかし、足を封じられ肩もやられている彼女は、丸腰の赤子同然だった。
指を鳴らして催眠術を掛ける。先に掛けられた術との相殺など初めてだが、やるしかない。
「どうか、正気に戻ってください!」
ぱちん、ぱちん、ぱちん……
祈るように指を鳴らし、叫んだ。
雨の音が邪魔をする。
それとも、先に掛けられた術の方が強いのか、中々、少女に変化が起こらない。
「起きてください!」
四十五
真っ暗闇の中。目の前できらきらと何かが光っている。
でも、星にしては大きい。
手を伸ばして触ってみたいけど、両腕は自分の物で無い感じがして、上手く動かせない。
それに、変な音もする。何かを弾く乾いた音。
ぱちん、ぱちん……うるさい……ぱちん、ぱちん
「起きてください!」
耳をつんざく怒鳴り声。真っ暗闇よりはましという程度だが、視界が晴れてきた。
雨の匂いと、音がする。他の感覚も戻って来る。
目の前には、クロウが居た。
びしょ濡れになっていて、重くなっている髪にしがみつくように、金の髪留めがゆらゆら揺れている。
さっきの星だと思っていた物は、これだったのか。
それにしても、何故クロウは怒鳴っているのだろう。
怒らせるような事は散々しているが。
散々?
「クロ……」
喉が引きつり、呼吸が止まる。ああ、思い出してきた。
「しっかり! ……これは……」
クロウも、首の呪字に気付いたようだ。
『触るな! 呪殺されるぞ』
少しずつ、喉の引きつりが治まってきた所で、言葉を念じてクロウに伝えた。
意識は戻ったが、手足は動かない。
まずい。時間が経てばまた、体を操られてしまう。
『クロウ。右腕を口元まで持ってきてくれ』
「何を……」
『急いでくれ。時間が無い!』
クロウは呆然としながらも、わたしの言う通り、右腕を持ち上げて口元まで寄せてくれた。
袖口を噛んで引きあげ、手首をむき出しにする。
そして、思い切り噛みついた。口の中が血で一杯になり、夢の事を思い出した。
――わたしは、まだ沈まない。沈んでなるものか!
「何しているんです! そんな事したら……」
クロウが叫びながら、わたしから右腕を取り上げようとするが、まだ十分に傷が入っていない。
もっと、強く噛まないと。
ごりっと骨が軋む音がした時、遂にクロウが無理矢理わたしの口から腕を引きはがして、視界から消えてしまう。
頭も動かせないから、腕を探せない。
『呪字……消えたか?』
別に自棄になった訳じゃない。
呪字を消すには洗い流すか、削り取る。
削る場合は、ほんの一部分だけで良いが、生身に書かれてしまった物は、こうでもしない限り消えない。
意図を察してくれたクロウが、わたしの手首を見る。
「……消えている」
良かった、と思った次の瞬間、自由になった筈の右腕がまた熱くなり始めた。
手首に、虫が這いずる感覚も一緒に。
『駄目か』
「くっ……どうすれば」
もしかして、首と両手足に書かれた五つの呪字は連結していて、一気に全て消さないと駄目なのか。
いや待て。呪字は、突き詰めれば文字とそう変わらないと教わった。
この呪字を書かれた時、最初は首。次に書いた指を離さずに右手に呪字を。その後も……続け字で書いていた。続け字で繋がっているのなら、文章みたいなものだろうか。
一番重要な文字を消して、文章として意味を為さないようにすれば、完全に消えるかもしれない。
だとしたら……
『クロウ。賭けの蕾は、咲いたのか?』
クロウは、わたしから目線を外して、懐に手を突っ込んだ。
その手は震えている。雨に打たれ過ぎて寒いのだろうか。
「……いえ。咲きませんでした。貴方の勝ちです」
ゆっくりと、ハンカチの切れ端を結び付けたカニーナの蕾を取りだした。
予想はしていたが、やはり駄目だったのか。
『なら、お前の命は要らないから、わたしを殺して欲しい』
「……何を、言っているんですか」
『お前を殺したくない。けど、このままだと、また操られてしまう。
何が何でも、お前の命を狙い続けるだろう。
お前の爪なら心臓を抉りだすぐらい訳ないだろう? すぐ傷が治るわたしも、流石に死ぬと思う』
要になっているのは、最初に書かれた一番熱くなっている首の呪字だろう。
でも、今の体が不自由なわたしには消せない。
なら、答えは決まっている。
「勝手に変更しないで下さい……まだ、まだ何か手がある筈です!」
絶対に言えない。言えば、きっとクロウは平気で首の呪字に触れるだろう。
『早くしないと、殺してしまうぞ。バラだけじゃなく、使用人達も、殺してしまうかもしれない。
良いのか? それで……』
言い終わらない内に、体が上へ引っ張られた。
クロウがやったんじゃない。
見えない糸が、両手首に巻きついていて、ぐいぐいと引っ張られている感じがする。
まだ、噛んだ右腕は少しだけ抵抗出来るが、左はそうはいかずにスカートの中に入っていく。
止めろ。止めてくれ。それだけは。
『離れろ!』
言うのと同時に、左手に握られたナイフが、クロウの顔へ吸い込まれるように伸びる。
クロウはぎりぎりで避けてくれたが、こめかみを少し掠めて、髪が何本かぱらりと落ちた。
もう少し深く切っていたら、髪留めまで落ちてしまっていただろう。
両足も勝手に動き始めた。穴に嵌った足は無理に抜け出そうとし、甲の部分が引っかかる。
それでもお構いなしに抜けだそうとした結果、嫌な音を立てて抜けたが、完全に歩けるようになった。
一旦、後ろに飛んで後退する。
次に、限界までゴム紐を引っ張り上げて離したスリングショットみたいに、元居た場所まで突進する。
屋根の傾斜が、わたしの走りを加速させる。
でも、クロウは全く避けようとせず、迎え撃つ事もしなかった。
何で、避けない? 何で、殺さない?
何で、笑っているんだ。
「もっと、簡単な方法がありますよ」
その言葉は、わたしがクロウの鳩尾にナイフを突き刺すのより、少しだけ早く掠れた声で聞こえた。
何度も見てきた、あの笑顔と目と一緒に。
クロウの目には、獣が映っていた。ぼろぼろな服を着た泥だらけのわたしだ。
――クロウ。そんな目で、見ないでくれ。お前はまるで太陽だ。眩し過ぎるんだ。目が潰れてしまいそうなんだ。
ナイフが、一閃する。
自分でも、目で追えない早さの突き。
そう分かったのは、クロウがわたしの伸びきった腕を掴んで走りだした後だった。
わたし自身も、立ち止まるなんて無理な程に突進していたので、勢いを殺せず一緒に走っている。
早い。とても早い。風みたいに早い。片足の痛みもそれどころじゃないくらい早い。
でも、このままじゃ
『お……お、落ちるぞ!』
背中しか見えないクロウは、返事もしないし振り返りもしない。
でも、物凄く早く走っているのに、不思議と、安心出来た。
掴まれたわたしの腕から、クロウの温かい体温が伝わってくるからだ。
そして、屋根が終わりの所まで差し迫ってくる。
急にわたしは、クロウに掴まれていた腕を引っ張られ前に突き出され、抱きかかえられる。
何のつもりだと、言いかけた瞬間、クロウは屋根を蹴って大きく飛んだ。
雨粒が容赦なく顔に直撃してくるから、目を開けずらい。薄目で下を見ると、暗い雨の中に赤、白、ピンク、黄色。沢山の色があった。
バラ園だ。
わたしは、空を飛んでいる。
全身がびっくりしたせいか、痛みやら、操られている感じも全くしなかった。
お前は空を飛べるのか。そういえば烏だもんな。当たり前か。
クロウと一緒なら、何処だって行けそうな気がしてきた。
四十六
傍から見れば、今の私は綺麗な弧を描いて滑空している。
しかし、徐々に高度が下がってきた。
抱きかかえた少女を見ると、目を細めてじっと地上のバラ園を凝視していて、全く驚いていない。
後、三秒程。
少女が傷つかないよう身を丸めて包む込む。そして、可能な限り受け身の態勢を取った。
『何をする! 下が見えないじゃないか』
少女のようやく話しかけてきた内容に、色々と言いたくなったが、答えるだけの時間も無く、遂に着地した。
くぐもった音を立てて、ごろごろと全身を満遍なくぶつけながら、転がった。
途中、少女が私の体から離れる。
そして、ようやく止まる。目の前は真っ暗で、土の匂いがした。
重たい頭を上げ、冷たく湿った土を払い落す。
「貴方の言っていた通り、相当、柔らかいですね」
私一人だけならともかく、少女を抱えてあの高さからの跳躍だ。
堅い地面へ着地をしたら、流石に両足にひびでも入ってしまうだろう。
その時ふと、カニーナが根を降ろしている、柔らかい土に感心する少女を思い出したのだ。
お陰で体中痛むが、どちらも、無事に着地出来た。
半分花壇の土に埋もれた上半身を起こし、少女が起き上がるのを待つ。
「呪縛を解く方法……私を殺せばいいだけの事です」
少し離れた場所で、少女も私と同様に半分土に埋もれていたが、私の声を聞き届けたのか、やおら立ち上がり、ナイフを振りかざしてこちらに向かって来た。
片足を引きずっている。
穴から抜け出す時に痛めてしまったようで、腫れあがり白い肌が痛々しい紫色に変色していた。
早く抱きかかえてやれば良かったなと思っていると、少女は目前まで迫ってきた。
押し倒されて、私は再び全身を土に埋める。
両腕は、丁度少女の両膝で押さえこれた。まだ、回復しきっていない体では押し返せない。
いや、押し返す必要は無かった。
完全に無防備な馬乗りの状態になる。
少女は高々と、ナイフを振り上げた。その動作は、妙にゆっくりとしている。
そして、いつの間にか雨が止んでいたらしく、とても静かになっていた。
終わりだ。遂に終わりが来たのだ。
長かった。
私は、目を閉じた。
カニーナに始まり、カニーナで終わる。
良かったではないか。
こういう終わり方も。
肉を抉る音。
胸元辺りに温かい物が落ちた。
しかし、痛みは無い。
何故か。
その答えを知る為、再び目を開けた。
確かに、少女はナイフを突き立てていた。
自身の右手のひらを、ざっくりと突き刺して。
『何で、抵抗しないんだ!』
目前の出来事で思考が停止した私に向かって、右手を生贄にした少女が壮絶に睨みながら、叫ぶ。
震える右手は、甲から刃が突き出していながらも、ナイフを握りしめる操られた片割れを押さえこんでいた。
血で溢れ、尚一層、私の胸元に流れ落ちる。
少女は、肌は冷たいのに、その身に流れる血はとても温かい。
『お前は、ここでわたしに殺されちゃ駄目なんだ! あれだけ……あれだけ使用人達に慕われているんだぞ。お前こそ、皆を置いて行くのか!』
置いて行く――その言葉に、胸を抉られる。
確かにそうだ。違いない。使用人達の顔が脳裏によぎる。
しかし、こればかりは仕方が無いのだ。
「私は、人に近づき過ぎました。これは異類にとって、やってはいけない事です。
人を惹きこんでしまうからです。人としての運命を捻じ曲げてしまいます。
ミセスにも、距離が近いと言われてしまいました」
異類が、人に近づき過ぎてはいけない。
関わるだけで、その人の世界を変質させてしまうからだ。
当たり前が有り得ない事に、有り得ない事を当たり前な世界へと逆転させ、いずれそれが、今までの常識と取って代わってしまう。
それだけの影響力を異類は持っているのだ。
そして、元居た世界の住人達は、逸脱してしまったその人をどう見るかは、火を見るより明らかだ。
下手をすれば、異類と同じ扱いを受けてしまう。
『まさか。ミセスは、お前の正体を分かっていたのか?』
だからこそ、この機会が丁度良かった。
先延ばしにすればするほど、決心が鈍ってしまうだろう。
少女がここに来たのも、運命だったのかもしれない。
「恐らくは。もしかしたら、他にも気が付いていた人も居るかもしれません。
しかし、いずれにしても……私の体は歳を重ねませんから、遅かれ早かれ、皆の前から消えなければなりません。
言ったでしょう? 気に病まないで下さい」
結局、何故少女が主の許へ戻ったかは、聞けなかった。
私を殺したくないようだから、主に掛け合ったのだろうか。
しかし、聞いた所で少女の呪縛が解ける訳でもない。
私は、負けたのだ。ただ単純に、無力という原因で。
『……嫌だ』
少女は目を細めて、歯を食いしばる。
『嫌だ……嫌だ! わたしが嫌なんだよ! 殺したくないんだ! 惹きこまれようが、魅入られようが関係ない。他の誰でもない。わたしは、自分の意思で殺したくないと決めたんだ!』
少女は、いやいやと頭を振り、全身で拒絶の感情を露わにした。
まるで、駄々っ子じゃないか。
『頼む……生きてくれ。生きる、と言ってくれ……クロウ』
雨が、また降り始めた。
ただし、随分と局地的な雨で、私の顔面のみに降り注ぐ。
それは、胸元に滴った血と同じで、とても熱い。
『異類に魅入られたか』
一欠片の感情も籠っていない、少女の物ではない冷たい声が、雨と一緒に聞こえてきた。
少女の主の声に違いない。しかし、憎らしいが、その言葉は正しかった。
まさか正体を明かしてから、僅か三日で少女の心を捕えてしまうなんて。
信じられないが、少女の涙は明らかに私のせいで惹きこんでしまった事を物語っている。
後悔しても、もう遅い。
しかし、最後に一つだけ少女に伝えなくては。
「生きる……ですか。そう言ってくれて嬉しいです。ロゼ」
『ロゼ?』
ようやく、体が動くようになってきた。
私は、少女の両膝により下敷きになっていた腕を動かして脱出させた。
自由になった腕を懐まで伸ばす。奇跡的に蕾は潰れずにいた。
取り出したそれを少女の目の前に捧げる。彼女は、瞬きもせずに見つめた。
「名前。薔薇のフランス読みです。ロゼの方が呼びやすいでしょう?」
少女のこぼれ落ちそうな程、大きく見開かれた目から緊張が薄る。そして、ゆっくりと目を閉じた。
同時に、そこから降っていた雨もぴたりと、止む。
『そうだな。短いし呼びやすい』
「でしょう?」
私は笑った。全身全霊をかけて笑った。
私の意図を汲んで貰えたようで、少女はこくりと頷く。
少女の心は、すっかり雨が上がったこの暗い空みたいに、何処までも静まり返っていた。
気に入ってくれたようで嬉しい。私は、両手を地に横たえた。
『有り難く、頂くぞ』
少女は、否、ロゼは閉じていた目をゆっくりと開けた。
右手に刺さったナイフを引き抜いて、両手で握り直して振り上げた。
何かに似ている。
そうだ、祈りだ。
まるで祈っているようだ。
その姿は、ぼろぼろの身なりながら清廉で美しかった。
今度は目を閉じずに、少女を見つめた。
ナイフが空気を引き裂き、小さな風が生まれる。
刹那、右手が離れ左の手首を掴む。
切っ先がこれから貫かれるであろう目標から、逆の方向に向きを変える。
ナイフは恐ろしい速さで動き、主人であるロゼの喉に食い込んだ。
肉に刃物を突き刺す音が、静寂を破った。
「……どう、して」
言うのと同時に、ロゼは更に両手に力を入る。
遂に食い込んだナイフは喉を抉り、切り裂いた。
ナイフが抜けた傷口から、ひゅうと口笛を吹くような音と血飛沫を上げ、ロゼは真後ろにどうと倒れ伏した。
「あ……ああ」
言葉が出ない。
赤く溢れ出る血。
ロゼの白い喉を、赤く染めながら周りにも流れ広がっていく。
目や、纏う匂いは、血の色なのに。
今、その海に沈んでいる彼女の姿は、余りにも現実味が無い。
目眩がする。
そんな私の朦朧とした意識を、ロゼの苦しげな呻き声が打ち壊す。
止血をする為、痙攣するロゼの切り裂かれた喉を押さえたが、何と傷口が塞がりかけていた。
そして、彼女の首に輪をかけるようにどす黒く書かれていた呪字が、跡形も無く消えている。
ロゼは、自身の力で呪縛を解いたのだ。
「これで……これで、貴方は自由に!」
しかし、ロゼの苦悶の表情は変わらず、閉じていた目を薄ら開けた。
悲しくなる程に、全てに疲れ、枯れ果てた目がそこにあった。
『いや……確かに、呪字は完全に解けたが駄目なんだ。体の方がな……お前の言っていた通りだ』
「……まさか」
『一日飲まなかっただけで、ひどい事になった。それに、脳に直接作用するらしいから、近い内に……頭の方も駄目になるだろう』
「それは……」
また、目眩がしてきた。
ロゼの言っている事が分からない。
否、分かりたくない。
『廃人同然になる。喋ったり、こうやって念じて会話するのも無理になるな。とは言っても、すぐに心臓や肺も駄目になるから、精々、二、三日の内だけだろう』
ロゼは、至極淡々とした口調で、私に絶望を浴びせかけた。
そして、私から目線を外して、雨が上がった暗い虚空を見つめて呟いた。
『だけど、何だかとてもすっきりした。凄く、体が軽い。
あの人も、まさかわたしが自分の首を切るだなんて思ってもみなかっただろうな。ざまあ……みろ』
乱暴な物言いに反して、両目からは涙を浮かべている。
何故だ。
何故、ロゼばかりこんな目に合わなければならない。
ただ排斥を逃れ、生きる為に犯した罪はそれほど重い物なのか。
ふざけるな。
こんな理不尽あってなるものか。
「私を刺せば、呪縛は解けるのに……」
苦しげな表情をしていたロゼは、きょとんとしてわたしを見つめる。
何を言っているのか分からないという目でしばらく、私の顔を見た。
そして、何かを得心した顔に変わる。
『わたしは、使用人になって、ここで働いて、真人間になれるというのなら……なりたいと、寧ろ、負けてもいいかなとも思った。けれど、体はもう使い物にならない。
それに、クロウを殺したくない。殺すぐらいなら、死んだ方がましだ。
昨日言っていたな……花は自ら芽吹く場所を選べないが、いつ咲くかは花が選んで決めている。誇り高い花なら、時には咲かずに枯れてしまう事もあると……わたしは、誇り高くなんかない。
でもクロウが、わたしにロゼの名前をくれた……だから、最後くらいロゼになりたかった』
数分前の自分の喉を切り裂きたくなった。
私は、取り返しのつかない事をしたのだ。
『ごめん、せっかく名前を貰ったのに。
だが、安心しろ。クロウの名前は隠し通せたから、呪をかけられる事はない。早めに身を隠せば問題無いだろう』
ロゼは、安心させるつもりで言ったのだろうが、却って必死に抑えていた怒りを増長させた。
何に怒っているか。
他でもない。無駄に年ばかり重ねた無力で愚かな自分自身にだ。
まただ。
また、私はこの苦しみを味わう破目になった。
『……お前、また熱がぶり返したのか? 目が充血している』
勘違いをしたロゼが、心配そうな顔で私を見つめている。
黒く変色し始めた血の海に浸っていた右手が、震えながら僅かに浮く。
しかし、それはほんの数秒だけで、すぐに小さな水音を立てて、また沈んだ。
尚もロゼは、私の額へ手を伸ばそうとする。
何度も、何度も、何度も……
辺りに、水の跳ねる音が流れ続けた。
何処かで見た事がある。
そうだ。夢で見た、血の海から表れたあの手達だ。
必死に掴もうと縋りつくように、指を動かしていたあの白い手。
気が付けば、私はロゼをかき抱いていた。
ロゼの背中は黒い血でぐっしょり濡れているが、とても軽い。
こんなに軽かっただろうか。先刻抱き上げた時には、もっと重みがあった筈なのに。
『何をしている? 毒だと言った筈だ。手が爛れるかも知れないのに』
構わない、毒が何だというのだ。
それよりも、こんなに体が触れ合っていれば、もっと声が大きく鮮明に響く筈なのに、徐々にロゼの声が聞こえなくなってきている事に鳥肌が立った。
「ロゼ……ロゼ!」
風が吹いたら飛んでしまいそうなロゼの軽い体を、強く抱きしめながら私は叫んだ。
あの時、もっと早くに気付いていれば、引き止めていれば運命は変わっていた。
何故、気付かなかった?
何故、理解出来なかった?
自分が、ロゼに恋をした事実に。
今思うと、恐れていたのかも知れない。また、誰かを愛する事を。
「行かないで下さい。ロゼ!」
名を叫ぶ。離れていく魂を繋ぎとめる為に、私は叫んだ。
四十七
何やら柔らかい壁から不思議な音がする。
結構大きな低い音で、規則正しい時計のように鳴っている。
どくん、どくん……
心臓だ。心臓の鼓動だ。
でも、怒られている感じがする。
いつだったか思い出せないが、前にもこんな事があった気がする。
「ロゼ……ロゼ!」
大丈夫だ。
そんなに大声で叫ばなくても、聞こえている。聞こえているぞクロウ。
ロゼ。
短くて呼びやすい名前だ。もっと呼ばれたかった。
でも、何もかも手遅れだ。
「行かないで下さい。ロゼ!」
クロウの声が遠くなる。
心臓が鳴る音も、遠くなってきた。
本当にごめん。無理なんだ。諦めてくれ、クロウ。
もう少し早く、お前と出会っていれば、違っていたのかもしれない。
全て自分が招いて、はね返ってきただけの事だが、凄く後悔した。
初めて、こんなにも叫んで、引きとめてくれる人に会えたのに……
「私には生きろと言っておいて、卑怯ですよ……」
どの位、時間が経ったのだろう。
クロウの声が聞こえなくなってきた。
ようやく、諦めてくれたのか。
ほっと息を吐くと、気が緩んだせいか体中が、思い出したかのように痛みだした。
まだ胃袋に溜まっていた物も、我慢したがすぐに吐いてしまう。
暗くて見えないが、クロウの着ているマントを汚してしまったようだ。
ごめん。結局、最後の最後まで迷惑を掛けてしまった。
ここ数日の出来事が、矢次に頭の中を過っていく。
茶出しの時、術に掛けられそうになった。
吹き矢で喉元を狙おうとしたら、最初から気付かれていて脅かされた。怖かった。
バラを盾にしようとして、獣のような手で腹を押さえつられ、かと思えば、ピストルが暴発して、助けられた。
獣の目。腐って枯れた芝生。頭を撫でられた。テーブルに突き刺したナイフ。クロウの遠くを見る目。賭け。売られそうになった少女。大雨。敵わなかったあの人。何度も吐いた黒い血。咲かなかった蕾。上空から見たバラ園。ロゼという名前。
温かい手。
クロウの温かい手。
「あの時、言ってくれればいくらでも……」
耳元で熱い風が吹いて、空気が震えた。
何の事だと驚いていると、ふわりと温かい物に頭を撫でられた。
「いくらでも……撫でてやれたのに」
無茶を言うな。
あの状況でそんな事、言える訳が無いだろう。
でも、温かい。
外じゃなくて体の内側から温かい。
ずっと、こうしてもらっていたい。
「寝付くまで……いえ、寝付いてからも、ずっとこうしていますよ。だから……だから、もう……」
体中の痛みが抜けていく。感覚も抜けていく。
凄く眠くなってきた。
クロウの声が聞き取りずらい。
掠れて聞こえない。
喉の調子が悪いのか、物を詰まらせたみたいに、嘔吐いている。
声を掛けたいが、集中が途切れてしまう。
眠くて眠くて、念じる事が出来ない。
気が遠くなっていく。
体が更に軽く感じる。
だけど、頭を撫でられている事だけは、はっきりと分かる。
温かくて、気持ちいい。
でも、駄目だ。
寝たら駄目だ。
沈んでは駄目だ。
二度とクロウに声を掛けられなくなる。
「……有り得ない。奇跡だ」
何が……
四十八
誰かに呼ばれた気がした。
聞きなれた旧友のような、耳にすうと染み入る声だ。
反射的に振り向く。
「……有り得ない。奇跡だ」
目の先に映った物は、現実を受け入れられない私の思いが生み出した幻覚だと疑った。
奇跡なんて、そうそう起きない。長く生きた私でも、経験した事は数える程しか無い。
しかし、今確かにそれが起きたのだ。
今し方、内臓の欠片を吐きだし、息も絶え絶えのロゼを抱きかかえたまま、一度手から零れ落ちたカニーナを手に取る。
五枚の花弁として柔らかく開かれていた。
咲いたのだ。嵐で地に落ちた筈なのに。
それに、たった今花開くなんて到底有り得ない。
奇跡としか言いようが無かった。
「ロゼ! 起きてください」
はやる気持ちを抑えて、ロゼを揺さぶり起こす。閉じかけた瞼が僅かに開いた。
「カニーナの蕾が咲きました」
『蕾が……そうなのか? 悪いが暗くて見えない……』
盲しいたロゼの手にそっとカニーナを乗せて、包むように指先を曲げさせる。
「分かりますか?」
恐らく、手の感覚も失ってしまっているだろうが、他にいい方法が思いつかなかった。
ロゼは、焦点の合っていない目で、その手を見つめる。
『カニーナは、何が何でも、お前を勝たせたかったんだろう。大事に育てた甲斐があったな』
「……私の逆転勝ちです」
『だが、わたしはこの様だ。何も出来ないぞ』
ロゼは申し訳なさそうに、目を伏せた。
悔恨の感情が痛い程伝わってくるが、逆に私の心は、自分でも恐ろしいくらいに落ち着いていた。
氷のように冷え切っているが、外側からじりじりと火炙りにされているような不思議な気分だ。
「貴方は先刻、私に『生きてくれ』と言ってくれた。その言葉に変わりはありませんか?」
『変わる訳、無いだろう』
ロゼは答え、すぐさま私は自分の手首に噛みついた。
口の中が、甘味を含んだ鉄の味で一杯になる。
「確かに、聞き届けましたよ」
ロゼの目が見えなくなっていて良かった。
今の私は、きっと獣のそれだろうから。
ロゼが沈んでいる黒い血溜りの中へ、私の手首から流れた赤い血が、滴り落ちる。
赤と黒が、混ざり合った。
『ああ……そうか。その手があったか』
五感が死にかけているにも拘わらず、何も語らずともロゼは悟ったようだ。
『分かった。だが、その前に……改めて……我が名、ロゼの魂と血をもってここに……』
ロゼが僅かに右手を動かした。
律儀さに思わず笑ってしまい、彼女は少しむっとした顔になる。
『折角、貰った名前を、早速使いたかっただけなのに……』
「すみません……では、我が名、クロウの魂と血をもってここに」
私は、自分の手をロゼの白く冷たい手に絡め、握りしめた。
ロゼは静かに目を閉じると、両目から一筋の涙を流した。
『温かい……掴んでくれた……握ってくれた……』
その言葉に胸が締め付けられ、握る手に更に力が入った。
異類が、人を惹きこむのなら、後戻りすら叶わない所まで惹きこんでやる。
もう、ロゼが誰にも脅かされない所まで。
連れていく。
「生きましょう。私と一緒に」
二度と、その手を離しはしないと誓った。
月も星も雲に覆い隠された、何処までも暗い空の下で。
◆
嵐が去った翌朝。
忽然と、男爵と新入りの女中は姿を消した。同時に、バラ園も跡形も無くなっていたそうだ。
家令は、何も言わず使用人達に退職金と紹介状を手渡していった。
皆は突然の解雇よりも、男爵の行方について家令に詰め寄ったが、頑として彼は口を割らなかった。
しかし、メアリーさんは「きっと今頃、新婚旅行でも行っているのだろう」と悟ったそうだ。
二人とも幽霊だと分かっていて、手引きするあたりこの人は只者ではない。
存命なら、直に話がしたかった。
しかし、もし男爵が一方的に皆を解雇していなければ、どうなっていただろうか。
民俗学的に言えば、あそこは言わば現実世界と隔絶された「異界」だったのではないかと思う。
快適で居心地の良い場所に居続ければ、そこから出たく無くなるのが人間の性だ。
浦島太郎よろしく、いずれ現実との落差に耐えきれなくなり、爺さんにならずとも他の屋敷で働く気が失せてしまっていただろう。
そして、そこにある異常にも気付けなくなる。
誰も、新入り女中の奇異な容姿について疑問を抱かなかった所が最もたる事だ。
メアリーさんは少女を幽霊だと決め掛かっていたが、これが男爵の屋敷以外で起こったならば、例え肝っ玉が据わっていたとしても、その異形の姿を恐れていたに違いない。
メアリーさんは雇われて二年程だったと言うが、早めに竜宮城から脱出できて幸いだったろう。
たっぷり退職金を頂いたメアリーさんは、それを元手に宿屋の経営に着手した。
一人で生き抜いてきたメアリーさんは、適齢期を過ぎていたのもあってか、独身を貫こうとしていたが、経営から一年足らずで、そこで知り合った男性とめでたく結婚。
家政婦の時と同じく「ミセス」と呼ばれるようになったのである。
世の中、何が起こるか分からない。
曾祖母の名前を授けられた、メアリーさんは最後にこう語った。
「二人はきっと、まだ天に召されずにこの世に居るんじゃないかしら。そんな気がするの」
三杯目のビールを飲みながら、悪戯っぽく笑った。
彼らが、この世に居るか否かは知る由もないが、一つだけ気がかりな点がある。
新入り女中の容姿についてだ。色白で赤い目という特異な容姿は
(以下、ページが破り取られている)
了
2010/07/29(Thu)22:01:38 公開 /
千川 冬馬
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■作者からのメッセージ
始めまして。千川と申します。
全4話を予定。
感想・批評お待ちしています。
7/21 26〜31章追記
上野文さま、追記方法についてご指摘いただき有難うございました。
良く理解もせずに、新規として投稿してしまいました。これから気をつけます。
7/24 32〜40章追記
7/29 41〜最後まで追記
これにて完結となります。最後までお読み頂き有難うございました。
作品の感想については、
登竜門:通常版(横書き)
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等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で
42文字折り返し
の『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。