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『ギタリスト』 ... ジャンル:リアル・現代 恋愛小説
作者:海里
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「私、ギタリストの指を、舐めるのが好き。」
遼介は一瞬、動きを止めた。
胸のふくらみに押しつけられた遼介の細い髪の毛を弄びながら、ああやっぱり言わなきゃよかったかな、と少し後悔した。
遼介はむっくりと身体を起こすと、私の目をのぞき込んできた。
ベッドのスプリングがきしむ。
ギタリストの指先は、皮膚が硬くなっている。
エレキギターにしてもアコースティックギターにしても、弦を押さえる左手の指が硬化するのだ。
毎日あの針金みたいな弦を押さえつけていたら、皮膚も硬くなるだろう。
例に漏れず、遼介の左手も、人差し指、中指、薬指、小指の先の皮膚ががっちりと層をつくっている。
テーブルをはじくと、乾いた音を立てるほどだった。
私はひろい海にぽっかりと浮かぶくじらの背中を眺めるような気持ちで、遼介の一重まぶたを見つめた。
青白い。
瞬くたびに透けた血管が動いている。
「ぼくは女の子の目玉を舐めるのが好き。」
「目玉?」
思わず聞き返してしまった。
「そう、目玉。どっちかって言うと右目が好きだな。」
「へえ、」
ひとの好みは十人十色、とは言うけれど、眼球が好きな人間なんて初耳だ。
いや、スプラッタホラーの世界にはうじゃうじゃいるのかもしれないが、こんな身近に存在するとは思わなかった。
もっとも、私の趣味も決してひとに言えたものじゃない。
「舐めてもいい?」
遼介が挑戦的に見下ろしてきた。目玉を舐めることで彼が興奮するなら、差し出してみよう。
「うん。いいよ。」
あぐらをかいた遼介のひざの上に乗り、目を見開いた。
「沙希は、コンタクト入れてる?」
「ううん。裸眼。」
「よし。どんな味かな、」
遼介の舌が近付いてくる。視界いっぱいに、生々しい肉のいろが広がる。
「……怖くない?」
舌が、私の右側の眼球から急速に遠ざかる。
締め切ったみどりいろのカーテンの隙間から、これでもかというほど真っ白な陽射しが漏れている。
遼介の髪の毛の輪郭が、逆光を受けて透き徹っていた。
今はいったい何時だろう。
今日は、何曜日だっけ。
「沙希、怖くないの?」
「え、何が、」
「目玉を舐められるのがさ。怖くないの?」
怖い、という感覚はなかった。
遼介は不安と不満を頬に乗せている。
私は幾分、首をかしげて、遼介の一重まぶたを見上げてみた。
「私を、怖がらせたいの?」
「……まあいいや。」
遼介はそうつぶやくと、私のくちびるをぺろりと舐め、まぶたにもキスを落としてきた。
「目、開けてみて。」
「うん、」
そろりそろりと目を開けると、視界はふたたび肉のいろで埋め尽くされた。
遼介の舌だ。
舐められているのか、舐める寸前で焦らされているのか、あるいは舌先が触れているだけなのか、全く触感がない。
左目の視界のなかは、遼介の骨張った肩のカーブとみどりいろのカーテンと白い一筋の光だけだ。
ふっ、と遼介の身体が離れた。
「どう?」
「どう……って言われても。すごく変な感覚よ。舐められてるのか、そうじゃないのか、分からない。」
正直に言ってやると、遼介は声を上げて笑った。
私もくすくすと笑ってみた。
「じゃあ、沙希も舐めてみる?」
「……目玉を、」
「そう。ぼくの目玉を。」
「……うん。」
頷いて、少しひざを立てて遼介のまぶたに舌を這わせた。
舌先に唾液を含ませて、眉毛や鼻筋をたどる。
遼介の肌は息づく陶器のようにしっとりとしていて、舌で触れているだけで気持ちいい。
女の身からしたらうらやましくて仕方ないが、遼介はけらけら笑うだけだろう。
私は力を抜いた舌で頬をなぞり上げてから、もう一度、まぶたを舐めた。
遼介の一重のまぶたがゆっくりと開く。
舌を、遼介の左の眼球に押しつけてみた。
歯が当たらないように気をつける。
眼球は茹ですぎて固くなった卵の表面のような、ポケットのなかで温めたビー玉のような、不思議な感触だった。
涙で潤っているはずなので塩の味を期待したが、これといった味はなかった。
たまに舌先に当たる睫毛の存在が、違和感となって脳に伝達される。
そうやって、遼介の眼球の上で舌を往復させ、身体を離した。
「遼介、本当にこれが好きなの?」
怪訝な表情をした私を見て、遼介はまた大笑いした。
「まさか。冗談だよ。きみが怖がるかと思って試しただけ。」
「……バカ?」
「ははは、」
屈託なく笑い転げる遼介を無視して、私はベッドサイドに目を移した。
とうに目覚ましの時間を告げ終え、静かに点滅しているデジタル時計。
今からでも大学に行かなくちゃ、今日はどの教室で何の授業だっけ、ああその前にシャワーも浴びたい、などとぼんやり考えながら、無機質な時刻表示画面をのぞき込む。
すでに、午前11時だった。
「あーあ、だるいな。ぼくは休むことにしよう。」
私のはだかのままの腰に手を回しながら、遼介がつぶやいた。
「勝手にすれば。」
「きみは冷たいなぁ、」
ことばとは裏腹に、私は遼介のくちびるにキスをした。
まだ、まだ抱き合っていたい。
「きみは正直だなぁ。」
のんきなふりをして、遼介のくちびるが応える。
唾液がしたたるのも気にせずに接吻を続ける。
互いに舌を絡め取り、舐め合い、吸い上げる。どちらのものともつかない吐息が漏れる。
みどりいろのカーテンの向こうは、とうに真昼の光にあふれていた。
* * *
結局、夕方になってから遼介のアパートを出た。
スーパーに寄って、ひとり分の食材を買う。
途中で胡椒を買い忘れたことに気付いたが、引き返すのも億劫だったのでそのまま自宅へ帰った。
午后2時過ぎにようやくシャワーを浴び、だらだらと続くテレビのワイドショーを見ながら、遼介が作ってくれた茶漬けを食べた。
白飯の上に鮭をほぐし、もみ海苔と塩、そして胡麻を擂ってふりかけて、煮出した烏龍茶をなみなみと注ぐ。
市販されている茶漬けの素を使わない茶漬け――しかもお湯ではなくきちんとお茶を注ぐ――を初めて食べたのは、遼介とふたりで食事する関係になってからだった。
遼介はかなりの料理好きだ。
私が手伝おうとしても、うるさそうにキッチンを追い出されてしまう。
ある朝にはレモン風味の海鮮炒めと味噌汁、ある昼にはスープとサラダ付きのオムライス、ある夜にはボロネーゼスパゲティ。
自炊をまったくしていなかった私にとって、衝撃的な料理ばかりだった。
遼介と躰を重ねるようになってから、私は料理を始めた。
外食ばかりだった私のアパートにはまな板と包丁すら無かった。
半年ほど前に、遼介に頼んでホームセンターに付き合ってもらった。
初心者にはこれぐらいがちょうどいいよ、と選んでくれた包丁と、必要な食器を買って、アパートに帰った。
遼介に促されてキャベツの千切りをして、玉葱をみじん切りにして、泣きながらハンバーグを捏ねた。
ぼろぼろに崩れてしまった焦げ臭いハンバーグを、遼介は完食してくれた。
「おいしかったよ、ごちそうさま。」
遼介はそう言い残して、私のアパートを後にした。
彼は、自宅以外では決してセックスしない人間だった。理由は分からない。
そんなことを思い返しながら、私は買ってきたばかりのナスと豚肉を炒め、塩と醤油で味付けた。
やはり胡椒を買ってくれば良かった、と後悔した。
炊いたご飯を盛り、豆腐とネギの味噌汁をテーブルに運んで、口に流し込む。
あのときのハンバーグに比べれば、かなり上達したと思う。
「ねえ、そろそろ、……雪奈が来るんだ。」
夕方、遠慮がちに切り出した遼介のはにかんだ笑顔が、頭から離れない。
「じゃあ、私は帰るから。彼女と楽しみなさいよ。」
なんて虚勢を張ってみるのも、いつものことだ。
遼介と買った食器を流しに運んで、スポンジに泡を立てて丁寧に洗う。
遼介は今ごろ、かわいい彼女と夕食を作っているんだろう。
狭いキッチンに並んで立って、ふたり分の夕食を盛りつけているんだろう。
当然だ。
彼女は、遼介の彼女なんだから。
食器を洗い終えて、煙草に火を付ける。
フィリップモリスのメンソールは、遼介の好きなミュージシャンが吸う銘柄である。
……遼介、遼介。
私の生活は、一方的に遼介だらけだな。
煙草のけむりと一緒に自嘲してみる。
テレビを付けてみても、下らないバラエティ番組しか流れていない。
私はコンポの電源を付け、ジュエルのCDをかけた。
つま弾かれるアコースティックギターの音と、ジュエルのやわらかで力強い歌声を聞きながら、私は少しだけ、泣いた。
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2010/07/14(Wed)19:53:27 公開 / 海里
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■作者からのメッセージ
初投稿です。お読み下さりありがとうございます。
大学生の恋とセックス、をテーマにしてみました。
実は私自身もリアルタイムで恋をしています。
感想、評価などして下さると嬉しいです。びしばしと、よろしくお願いします。
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