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『半径1kmのデッドライン』 ... ジャンル:お笑い 恋愛小説
作者:もげきち
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あらすじ・作品紹介
それは偶然に偶然が重なった奇跡。でも、それを望むのも、手放すのも彼と彼女次第なのです。
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序章
――あーあ、今回はぜーんぜん持たなかったなぁ……。
少年は深〜く暗〜い、底の見えない大きな穴の中を、ゆっくりゆっくりと降下しながらやれやれと溜息を吐いていた。
「ったく、この前の反動かなぁ。まさか速攻でこっちに来るとは思わなかったぜ」
ぽりぽりと悔しそうに頭を掻く少年の表情は、はっきりとは分からない。うっすらと光るもやに包まれ彼の輪郭が――いや彼の存在そのものがぼやけているからだ。
ただその仕草や言葉遣いの端々に子供らしさが見え、この存在が少年であろうという認識は容易に可能である。
「にしても、本当あっけなかったなぁ」
少年は呟きながら顔を上げ、落ちる穴の上方を眺めた。全てを覆う真っ暗な闇の中にただ一つ、針金を通すような細い光が差し込んでいるのが微かに確認できる。
その光は少年から遠ざかっているからか、それとも自ずと塞がっているからなのか、少年が見上げている間もみるみる細くなっていく。どうやら完全な闇が少年の存在する空間を支配するのに、そう時間は掛かりそうにも無いようだ。
――ん。まぁ、それは良いとして……
完全な闇が訪れるというのに、少年はその状況に慣れているのだろうか、それを大して気にする様子も無く、ただ落ち着いた様子で消えかけていく光に向かって耳を澄ました。すると遥か彼方、光の先から、ヒステリックに鳴り続けるクラクションの音と救急車のサイレンが聞こえてきたような気がした。
「ああ、やっぱり今回もソレかー」
そして少年は苦笑いを浮かべながら大きく頷いた。
それがあの時少年が聞いた音なのか、それとも今聞こえてきている音なのかの判断は付かなかったが、少年は自分自身に起こった原因を特定出来たようだった。
「えっと、これで交通事故死って僕は何度目だ? もう結構やってるよなー?」
そのまま複数の記憶を掘り起こし、少年が指を折りながら数えていると
「うむ、そうだな。お主の死因の優に70%は交通事故死が占めているぞ。何は無くともオーソドックスで良いではないか」
突然少年の背後から舌ったらずの、しかしどこか偉そうな幼い声が聞こえた。
「お? おー」
声だけで少年はその声の主が分かったようで、にっこりと微笑む。
そのまま慌てた様子も無く、落ち着いて声の主に振り返った。
「おっす! エンマちゃん」
「うむ、おっす!」
そこには清潔な白い巫女服を纏い、何故か背中に赤いランドセルを背負った子供――いや、幼女が、少年の視線の高さまでふわりと浮かび悪戯っぽく微笑んでいた。
不思議な事に、もはやどこからも光が差し込んでいない空間なのに、少年と違い幼女の姿かたちは、はっきりと確認出来る。
白い肌にくりくりの赤い瞳、藍色の髪がキラキラと美しく流れている。何処か高貴で神聖な雰囲気を持つ、そのテの人間ならずとも、つい誘拐してでもお持ち帰りしたくなりそうな、とても愛らしい幼女だ。
「お。今回は本体じゃないんだねー」
「うむ。そろそろお主が来る頃だと思ってな、私から迎えに来てやったぞ。そして本体には儀の前には見送りに来るように言ってある、今回は私がお主の輪廻の儀を取り仕切る事になっておるからの。宜しくなー」
幼女=エンマちゃんは長年付き合いのある友人を見つけたようなくだけた言葉を掛けると微笑み、少年に向かい手招きした。
「ほいほーい。こちらこそ宜しく」
「ま、とは言ったところでまだまだ今回の輪廻の儀までは暫く時間がある。とりあえず、ここにでも座って待つが良い」
言うなりエンマちゃんがぽんぽんと何も無い闇を叩くと、体育館等でよく見かけるパイプ椅子が二つポンと現れた。
「えー、なにこの貧相な椅子。出すならソファーとか、もっと豪華なのにしてよー」
リアルなパイプ椅子を見て、少し不満気に呟く少年。
「贅沢言うな。文句があるなら座らなくとも良いのじゃぞ?」
「あ、いえ。座ります」
少年は笑うと、素直に椅子に腰を下ろした。
「うむうむ、素直で宜しい。それじゃ、私も……よっと」
エンマちゃんも肩からランドセルを下ろし両手で抱えると、ちょこんと少年の隣のパイプ椅子に座った。地面に届かない足をぶらぶらとさせる仕草が可愛らしい。
「さてと、お主のは――これじゃったかな……」
そのままエンマちゃんはランドセルを開けると、ごそごそとWクリップで留められたA4サイズの分厚い資料の束を取り出した。
「ん? それは、もしかして僕の次の転生資料?」
「うむ。というか、詳しく言うと今までのお主の転生履歴も載っておるぞ」
「へー、それは始めて見るかも」
「あ。これ、覗くな。一応これも冥界機密なんじゃぞ」
「えー、じゃあ何で堂々と出してるのさ。いいじゃん、見せてよー」
「こ、こらこら見るなと言うて――ほうほう、そうかーお主は次で23回目の輪廻転生か、17歳の誕生日に必ず死を迎える魂とはいえ、もう400年近くもこの輪廻昇天因果律の環から出れずにおるのだな。長いものじゃのう」
覗こうとする少年から資料を守りながら、エンマちゃんが感心しながら呟くと
「へー、もうそんなになるのかー。長いもんだね」
少年は手をひらひらとさせて、まるで他人事のようにあっけらかんと言った。
「へー、って。やれやれ……慣れたもんじゃのう」
「まーさすがにね。悲観するとかそんなレベルはとっくに卒業しちゃったよ。もう400年近くも17歳で死ぬのを繰り返すだけの人生だもんなー」
ギッとパイプ椅子をきしませ、少年は大きく伸びをして笑った。
「それにしても今回の死因も結局交通事故かー、これで6連続交通事故死じゃね? しかも今回は全然粘れてないっしょ? 情けねぇなぁ」
「うむ。午前8時36分、登校途中に交通事故死となっておるから、前回の午後6時11分に比べると相当早いな。そして連続事故死回数もそうなるかの――ん? いや違うな。途中病死が挟んであるからまだ4連続じゃな」
資料に目を通しながら、律儀に答えていたエンマちゃんが慌てて訂正する。
「あれ? そうだっけ? んー……でも病死もなぁ……毎度毎度思い出す度に平凡な理由ってのはそれはそれで悲しいもんだよ。ねぇ?」
「うん? どうしてじゃ?」
「いやさ、偶には宇宙人に攫われて人体実験で死亡とか、ギャグのようなタライ直撃死とか体験してみてーんだって。そういうのってまだ一度もないよね?」
「おいおい、自分の死因にエンターテイメント性を求めるなっつの」
「えー、でもさーマンネリ化しちゃってつまんないじゃん」
言って口を尖らす少年。
「あのな……」
思わず呆れた表情のエンマちゃん。だったのだが――
「のははー、いいのう。いいのう!」
唐突にエンマちゃんは表情を崩し、少年の言葉に大仰に頷き笑った。
「――へ? どした、エンマちゃん」
そのあまりにもあまりな変化に、思わず少年がうろたえる。
「あ、いやな、お主はそのサバサバとした性格だからこそ、この不条理な呪いを延々と繰り返してもそうして強くおれるんじゃろうなと今ふと思ったのだ。いやー、素晴らしいのう。素敵じゃのう。大したもんじゃのう!」
「い、いや、こんなに続けば普通そうなるっしょ? つかエンマちゃんどうした? 急にそんなに褒められると何かありそうで怖いんだけど……」
――おいおい、なんだこの大袈裟なヨイショ。あからさまに怪しいぞ……。
少年に警戒感がむくむくと湧き上がり、呟く。
「うむ。勿論あるに決まってるではないか」
そして、それは即答で返ってきた。
「ちょ――」
「あ。いや、そう構えるな。難しい事ではないぞ」
「……難しい事ではない? 本当に?」
「う、うむ。多分な」
エンマちゃんが、今まで見た事がないような渋い表情で頷く。
「ちょ。多分な、って?」
「いや、その、なんというかな……お主にちょっとした人助けを頼みたいのじゃ」
「へ? 人助け?」
エンマちゃんからの思わぬ言葉に少年の声がひっくり返る。
「うむ。お主のその逆境に強い心持ちをだな、とある者に是非教えてやって欲しいのだ。ちと別の私が担当する者に困っておってじゃな……。えーい、説明がめんどくさい! ちょっと待っておれ、今繋ぐからの」
「え? 別のエンマちゃん? 繋ぐって――?」
「すぐ分かる。待っておれ」
エンマちゃんは言って、椅子からひょいと降りると指をパチンと一つ鳴らした。
ズオォォオオッ
瞬間、何も無い暗闇の世界が不自然にざわつく。
「うわっ――え?」
そして、それと同時に少年はガタンと椅子から立ち上がり、驚きの声を上げた。
それもその筈。何も無かった筈の少年の目の前に、突如として少年と同じような光のもやに包まれた一人の泣きじゃくる少女と、困った表情でオロオロとしているもう一人のエンマちゃんが現れたのだ。
「な? な? な?」
「おーい。お待たせー、連れてきたぞー」
「おー来てくれたかー。助かる。いやー、本当助かるぞー」
驚く少年の前でのエンマちゃん同士の会話。
同じ顔、同じ声、同じ仕草。少年でなくともこんがらがりそうだ。
「え? あ? エンマちゃんが二人?」
当然少年は唖然とした表情で、エンマちゃん二人の顔を見回してしまう。
『のははー、心配するな。私は私じゃ』
そんな少年に対しエンマちゃん二人がくるりと一緒に顔を向け、同時に口を開ると、一寸たがわず同じ台詞を発した。
「うわ……」
「――が、確かにこれだと少々不便じゃな。一つに纏めるかの? 1224番」
「了解ー。190番」
少年の近くのエンマちゃんが言うなり、頷いたもう一人のエンマちゃんの姿がぼやけた。そのまま片方のエンマちゃんの身体に重なると、一つに纏まった。
「うむ。混乱させてすまなかった。これで落ち着いたか? どちみち情報は共有しておるし、このまま私が二人の輪廻の儀を執り行えば良いだけの話だしな」
一つになったエンマちゃんが、何事も無かったかのように頷き笑う。
「あ、ああ。なるほど……分けてたって事はくっつける事もそりゃ出来るよね」
「うむ。仕事上私は結構分散しておるからのう。また分けるのには本体の許可が必要じゃから面倒なのだが、どうせ奴も見送りに来てくれるしな」
「そ、そうなんだ」
「うむ。と、ま、それよりもだな……説明をかなり飛ばしてしまったが、お主をこうして他者の輪廻空間に繋いだのには理由があってだな――」
「えっと……この子の事、かな?」
少年が顔を向けた先には、今の騒ぎにも全く気がつく事無い様子で、ただただ地面に伏せて泣きじゃくる少女の姿がある。
「う、む」
困った様子でエンマちゃんが頷く。
――うーん、この子は一体何なんだろう? そもそもどうして僕が?
「あの……どうしたの?」
少年は疑問に思ったが、とりあえず困惑しながらも少女に話しかけた。
「…………」
しかし少女は泣きじゃくり、えずいているだけで何も答えない。もしかしたら少年の問いかけ自体が嗚咽で聞こえていなかったのかもしれない。
「あう」
困った少年は、訳が分からないとエンマちゃんに説明を求めた。
「うむ。実はこの娘もだな……お主と同じく輪廻昇天因果律が発動してしまってだな、その因果に囚われ抜け出せずにいる者なのじゃ」
「――え? えええええっ! 僕と同じ呪い?」
少年の驚いた声に、エンマちゃんが神妙に頷く。
「しかも、死亡年齢17歳という処までお主と丸々同じじゃぞ」
「なっ! そ、そうなんだ……僕以外にも居たんだ……全然知らなかった」
――まさか同じ呪い子が居るなんて!
場違いとは思いつつも、思わぬ同類との遭遇に感動で胸が熱くなる。
今まで自分しか居ないと思っていたこの輪廻の呪いを、同じように繰り返している人が居たのだ! それまで少年にとって得体の知れなかった少女に突如として親近感が湧き上がり、見つめる瞳に優しさが灯る。
「ん? ああ、そうじゃな。実際この呪いを持つのは私の知るところではお主とこの娘のみじゃ。だがしかし、この娘はまだ輪廻昇天因果律が発動してから日が浅い。次の転生で4回目なんじゃ……」
「――え? じゃあまだ3回目? それは……」
エンマちゃんの言葉に少年は思わず絶句した。緩んだ表情が一気に硬くなる。
――ああ。なるほど。
そして少年は今目の前にいる少女が、何故ここまで激しく泣きじゃくっているのかの理由もはっきりと分かってしまった。
「僕も……確かそうだったよね?」
同時に昔の、不幸な魂を自覚した時の狼狽し絶望した姿を思い出した。
「うむ。じゃから、同じ境遇のお主にこの娘を励まして貰いたいのじゃ。お主と違いこの娘の魂の脆さは私だけではどうにもならん。このままでは恐らく数回と保たんのだ。もし素となる霊体が精神崩壊を起こし消滅すると、全ての輪廻の環に狂いが生じかねん。私は健全な輪廻の為にはどうしても娘の魂を守らねばならんのじゃ。じゃから同じ境遇のお主の手助けが必要なんじゃ。頼むぞ」
エンマちゃんの苦しい言葉に、全てを察した少年は神妙に頷く。
「そっか……」
そのまま少年は少女に近づくと優しく髪を撫でた。
「君はまだ3回目なんだね。そりゃ苦しいよね……めちゃくちゃ辛いよね。その気持ち僕には分かるよ。ううん、僕だからこそ君の辛さが良くわかる」
「え?」
少女は恐らく先ほどのエンマちゃんと少年の会話を聞いていたのだろう、えずきながらも、初めて涙を止めると、顔を上げて少年の顔をまじまじと見つめた。
「貴方も……私と同じ呪いに?」
「うん。君と違って、もう随分と付き合ってきている身だけど――って、わっ!」
少年が優しく微笑んだ瞬間、少女はぎゅうと少年の身体にしがみつき、その胸に深く顔を埋めた。
「ひゅう! 何とも手が早いなお主は!」
近くで見守るエンマちゃんが何だか嬉しそうに茶化した声を上げる。
「ちょっ、ちがっ!」
否定しながらも、両手をわたわたと振り回す少年はどこか嬉しそうだ。
「……また、お父さんやお母さんを残して先に死んでしまったの。前のお父さんや、お母さんもまだ生きているというのに……また私だけが先に死んでしまったの。迷惑を掛けてしまったの。苦しみを与えてしまったの!」
が、胸の中で泣きじゃくり悲痛な声を上げる少女に、すぐに表情が引き締まる。
「…………」
「ねえ、なんで私は転生してはすぐに死んじゃうの? この事に何の意味があるの? こんなの生きている意味がないじゃない! 苦しいだけじゃない。そして私の大事な皆を苦しめるだけじゃない!」
叫び、漏れる嗚咽が、少女の無念さを物語っていた。
聞いている少年の胸にもその気持ちが悲しいほど伝わってくる。
「……君は優しいなぁ。そっか……そうだよね」
少年は手持ち無沙汰になりかけていた両手を、泣くじゃくる少女の身体にガラス細工を扱うように優しく巻きつけると、ゆっくりと抱きしめながら呟いた。
「すっかり忘れてたよ。僕も死んだ事で、両親や、周りの皆に迷惑を掛けているって事を。最近は死んだら、はい次! って事ばっかりだったよ。慣れ過ぎちゃって、ゲーム感覚だったもんなー」
――今回は何時間長生き出来たか? なんて言ってたくらいだもんなぁ……。
自分の発言を思い出し自己嫌悪に陥りながら、少年は乱暴にくしゃくしゃと頭を掻いた。
「どうしてそんな当たり前の事を忘れていたんだろう、反省だ」
「……慣れるものなの?」
少女がおずおずと顔を上げ尋ねた。
その表情には「信じられない」という気持ちがありありと見て取れる。
「んー、何と言えば良いかな。慣れざるを得なかったんだ。そもそも運命の環の前に僕には選択権なんて何も無かったし。もうかれこれ22回も死んでるからね」
「――え。に、22回……も? そんなに……」
想像を絶する回数に、ごくりと少女が唾を飲み込む音が聞こえた。
少年は頷き、たははと笑った。
「今思ったんだけど、せめて生きている時にこの記憶があれば、生きるのに必死になって長く生きる事を望めたかも? でも実際生前には記憶が無いもんね……。死んでからこの輪廻の呪いを魂の記憶と共に思い出すってのが辛いよね」
少年の言葉にこくりと頷く少女。
「私……今回も、皆にお別れも言えなかったの……」
「うんうん。僕もだよ。僕なんか……もう、ずっと言えてないや」
少年は脳裏に今までの家族、友人達を思い出し、うっすらと涙ぐみながら少女の髪を優しく撫でた。
「んー……じゃが生前に記憶があったら、それはそれで悲劇じゃと思うがの? 逃れられぬ運命は、我々ですら変えられぬ普遍のものなのじゃぞ?」
「あー、確かに。それはそれで絶望感が半端なさそうだよね」
エンマちゃんの言葉に一理あると少年は力なく笑った。
「でも、そっか……そうだよね。誰だって長く生きたいよね。僕も、そうだ」
生きたい。長く、一秒でも長く、一度くらいは生きてみたい。
少年は呟きながら、自分の中でこの言葉を何度も強く繰り返した。
「うん。生きたいの! もう、誰も苦しませたくないの。お父さんやお母さんを辛い目に遭わせたくなんてないの! 死にたくないの、ずっと生きてたいの!」
少女は切実に叫ぶと、再びぎゅうと少年の身体を強く抱きしめた。
「僕に何とか出来れば良いんだけどなぁ……でも、エンマちゃんが言うように運命として設定されてて、どうしようも無いんだよね」
少年は苦渋に満ちた表情で呟いた。近くでエンマちゃんも神妙に頷く。
悔しい。
少女を強く抱きしめ、慰めながら少年は自分の無力を感じていた。
今この状況だって、少女に対してただ気休めを言っているだけなのだ。
――道化だな。結局ただの傷の舐めあいしか出来ないなんて。
再び輪廻の環に入り込めば、17歳で死ぬという運命の歯車を繰り返す事実は覆せないのだ。結局少年は少女がこの死の循環に慣れるのを祈る事しか出来ないのだ。
少女を抱きしめながら、少年の胸に自覚と共に強烈な悔しさが滲む。
「おっ? おおおおお?」
と、唐突に二人を見守っていたエンマちゃんが意外そうな声を上げた。
「ん?」
思わず顔を上げた少年の目に映ったのは、いつ取り出したのだろうか二つの資料を持ち、驚いた表情でそれを交互に見比べているエンマちゃんの姿だった。
「? エンマちゃんどうした?」
「こりゃ驚いたぞ。お主達二人とも次の転生先が日本となっておるのじゃ!」
「おおおっ?」
「しかも驚くなよ? 転生も同時刻となっておるのじゃ! ふむふむ、これは初めてのケースじゃな。同じ呪いを持つ二人が同じ地で、同じ時間に転生するとは!」
「おおお? そうなんだ! 聞いた? 僕達一緒の時期に同じ国に転生だって!」
「――うんっ!」
「こ、これはもしかして僕達は一緒に――」
少年は嬉しそうに声を上げた。少女も少し嬉しそうに顔を上げる。
「ま、とは言え、日本も広い。全く一緒になる可能性はあまり無いのだがな。万に一つくらいかのう。のははー」
が、スグに発せられたエンマちゃんの言葉に、二人してがっくりと肩を落とす。
「ちょ! エンマちゃん。それは、今このタイミングで言う言葉か?」
「――あ。い……いや、すまぬな。職業柄嘘は吐けぬのじゃ……」
自分の言葉が二人にとって如何に重い言葉になったか気付くエンマちゃん。
「が、確かに現世のどこかでお互いが出会うことがあるかもしれんぞ! うむ!」
慌てて慰み程度の希望的観測を口にし、にっこりと二人に向かって微笑んだ。
「だよね!」
少年はエンマちゃんの言葉に必要以上に力強く頷いた。
「僕達会えるってさ!」
激しく落ち込む少女を、少しでも元気付けたかったのだ。
「……本当に貴方に会える……かな?」
少女は恥ずかしそうに顔を上げ、おずおずと少年を見つめた。
「え?」
「生きているときに、貴方と会える……かな? 私は会いたいな。それなら私も頑張って次に転生す、る」
「あ、ああ! 会えるよ。絶対! 僕達は会えるよ。一緒に転生しようよ!」
少女の問いに満面の笑顔で少年は頷き返す。
何故だろう、頷く少年は本当に現世で少女に必ず会える――そんな気がした。
「じゃ、約束」
「うん、分かった。約束」
少女の伸ばした小指に少年も小指を絡ませゆっくりと結び、二人は約束を交わす。
そのままお互い顔を見合わせて微笑んだ。
「絶対に現世で会おうね! 約束だよ!」
1章
1
「だぁ〜〜〜っ。全っ然イメージ通りに描けねぇっ!」
六月十七日。曇り時々雨。
ほんの少し前に中部地方も例年よりもやや遅めの梅雨入りが宣言され、梅雨絶賛稼働中の例に漏れずジメジメと蒸し暑く、肌にまとわりつく不快指数絶好調なこの日の夜、早速誘惑に負けてしまったのだろう、クーラーを効かせ程よく冷やした快適な部屋の中で、頭を抱え机に突っ伏している一人の少年が居た。
服装は部屋着と思われる白い無地のTシャツに黒のジャージ姿。体格も、容姿もごくごく平凡な少年である。強いて特徴を挙げるなら中性的で人の良さそう……いや、どちらかと言えば優柔不断で頼りなさそうな顔立ちと、それには不釣合いながっちりとヘアワックスで固めて立てた、部分的に強がっている髪型くらいだろうか。
だが折角のその強気な髪型も、悩む度に何度も頭を乱暴に掻き毟っていたのだろう、今ではボサボサの酷い状態になって固まってしまっている。
「はぁ……」
少年は、再び顔を上げると机に在る原稿用紙をしげしげと見て深い溜息を吐いた。
そこには少年が描いた、可愛らしい少女のイラストがあった。何度も身体の部分を描き直しているのだろう、消しゴムを重ねた跡が見られる。
「……もう十七日なんだよな。菩提樹(ぼだいじゅ)の原稿もまだ全然やってないってのに、マジやばいよ、一体俺は今まで何やってたんだろ……」
そのまま少年は壁に掛けてあるロシアンブルーの威圧するような表情を大きく載せた――可愛いというよりも寧ろ渋さが見える猫カレンダーにある『締め切り、守ろう、絶対』という当時並々ならぬ決意と共に書いた自分の文字を、虚しい表情で見つめ、ガックリと肩を落とした。
少年の名前は内藤志乙良(ないとうしおら)。十六歳の高校二年生だ。
趣味はゲームと漫画。そして大作や流行の物も勿論好きなのだが、それよりもやや二次元を基としたサブカルチャーに沿う形の映画、音楽鑑賞だ。
今も耳に当てているオーディオテクニカのヘッドホンからは大作RPGのゲームミュージックが漏れ聞こえてくる。テンポ良く、躍動的な音からして今流れているのはバトルミュージックだろう。遅れている作業をアップテンポな音楽で、無理やりテンション上げて一気に取り戻そうという魂胆からの選曲だった。
――だけどまぁ、こういう音楽だと勢いで描けるけど、結局勢いだけだったってのは良くあることだよなー。目論見どおりには行かないもんだ。
志乙良は苦笑いを浮かべると、改めて自分の原稿を見直し、結局気に入らなかったイラストに再び消しゴムを入れていた。作業はちっとも進んでいない。
さて状況を察するに、どうやら志乙良は何かの締め切りに追われているようである。しかも、その進捗状況は志乙良の苦りきった表情やカレンダーからも推察出来るように、かなり厳しいらしい。
「まいったなぁ……妖精さんが夜中に勝手に原稿やってくれるとかねーかな? めっちゃ俺よりも凄い出来栄えでさー」
――ねーよな。
自己即答だった。当たり前である。
同じように、頭で想像した絵や文章がパッと原稿用紙に書き上げられるなどと言う事も妄想である。究極の他力本願、時間の無駄。
――って、だから四の五の言っている場合じゃ無い。本当に時間が無いっつーの!
志乙良は甘い妄想だけの考えを頭を振って消し去ると、再びシャーペンを握り締め、表情を引き締めると原稿用紙に向かった。
「お〜っす! しっ、おっ、らっちゃ〜ん!」
と、階段を勢い良く駆け上ってくる音が聞こえたかと思うと、バタン! と突然志乙良の部屋の扉が開かれ、一人の少女が元気良く飛び込んできた。
「――あん?」
ノーテンキで明るいその声の正体が誰かは見なくても分かったのだろう、志乙良は露骨に面倒臭そうな表情を浮かべると、ゆっくりと後ろを振り返った。
「にししししし」
そこには長く癖の無い亜麻色の髪を一つに縛り上げ、可愛らしい豚のイラストがプリントされた赤いTシャツに青いキュロットを穿いた――良く言えば健康的、悪く言えば色気のいの字も無いスッキリとした格好の少女が、にこにこと無邪気な笑みを浮かべて立っていた。
「いっえーい! 地子が遊びにきてやったぜ〜!」
そのまま少女は志乙良が振り返ったのを確認すると、意味不明なガッツポーズを浮かべ、テンション高く声を上げる。クーラーから運ばれる風が、そんな元気な少女のポニーテールを楽しそうにふさふさと左右に揺らしていた。
この少女は志乙良の近所に住む、幼馴染の樹地子(いつきちこ)だ。志乙良と二歳離れた中学三年生である。
小柄な体系とあいまった、二次成長のあまり見られない身体と、くりくりと黒く大きな瞳。口をあけて笑うとちょんと可愛らしい八重歯が見えるのが特徴的な、全体的にあどけなく、子供っぽさが抜けていないのが玉に瑕だが、中々の美少女だ。
「で、あのさ、早速だけど一緒に本屋行こうよ、本屋! 欲しい本がさ、この前発売日だったんだって! さっきチェックしてたらそれに気がついちゃってさ! 居ても立ってもいられなくってね。ね〜、行こ〜よ〜」
「んだよ、地子。うっせーな。本屋くらいお前一人で行けよ!」
志乙良は益々眉間に皺を寄せると、一方的にまくし立てTシャツの袖をくいくいと引っ張る地子に怒鳴り返す。
「やーだよ。もう外暗いもん。そもそもこんないたいけな女子中学生が一人ベルタウンまで出かけるなんて危なっかしいじゃないか。世の中は物騒な事件で溢れかえってんだぜ。そんな事も分からないのかい? ボウズ」
だが地子は、怒鳴られた事を気にする様子も無くケロリと言うと、そのまま人差し指を立ててチチチと舌を打って片目を瞑った。
「あ? どこの、誰が、いたいけな女子中学生だよ」
「おいおい。志乙良ちゃんの目は節穴か? もちろん地子の事だぜ」
グっと親指を自身に向け、自信満々に答える地子。
「…………」
呆れる志乙良。
だがそれはいつもの事なのだろう。地子に対しそれ以上突っ込む気は無いようで
「おい、地子。あのな……」
ゆっくりと腕を組み、溜息交じりの声で呟いた。
「おう? 何だね?」
不思議な顔をする地子に、志乙良は身体をずらし勉強机の上にある同人誌用原稿用紙や、ゲームセンター情報誌のゲムカディア等の資料をちらりと覗かせる。
「な? ほら、これ見りゃ俺の言いたい事は大体わかるだろ?」
どうやら現状をさりげなくアピールし「俺は忙しいの」と訴える作戦のようだ。
「ん? え? あ――」
「うんうん。分かってくれたか?」
地子の絶句に「想定どおり」とにんまり微笑む志乙良。このまま諦めて大人しく帰ってもらえれば問題無しである。
「も、もしかして……それは、志乙良ちゃん、奇跡の……べ、勉強?」
――しかし地子は震える声で、全く見当違いの言葉を発した。
「ちょ!」
志乙良は思わず声を上げ、椅子から大袈裟に仰け反ってしまう。
「ちっげーよ! 俺が勉強なんかやるわけねーだろ! 原稿やってんの! 原稿。締め切り近くてチョー忙しいって言ってんの! お前、ちったー空気読め!」
「――はぁ?」
親が聞いたら嘆き悲しむような力説に対し、地子は肩を竦め悪戯っぽく笑った。
「な、なんだよ」
「原稿が忙しい? 締め切り前? な〜にプロっぽく言ってんでい。所詮まだお遊戯じゃん。仕事じゃないんだから偉そうに言ったって何も説得力ないんだぜー」
ぐさり。
まさにその通りである。言い返す言葉も無い。
「う、うっさい! でも、忙しいのは変わらねーだろ! 分かれよ。いや、分かってくれよ。素人でも締め切りは待ってくれないんだからさ」
が、何とか必死で哀願する志乙良の声に
「えー分かって下さいじゃないのかね? それが人に物を頼む態度かなぁ?」
フフフンと、上から目線の地子。なんだか楽しそうだ。
「ああん?」
――どーして、俺の部屋で俺が忙しいってのに勝手に遊びに来ただけの地子にお願いしなきゃいけねーんだよ!
そんな地子の態度に内心イライラとした気持ちが大きく膨れ上がる志乙良。
思わず地子を厳しい視線で一瞬睨みつけてしまった。
「にゅお? そ、そんな目したって地子は屈しないんだぞ」
構える地子。
確かに地子をさっさと追い出して作業に没頭した方が良いのだろう。遊んでいる場合では無いのだ。
しかし
――でも地子に後でいじけられる方が面倒臭いしな。あいつだって悪気があって来た訳でもないし。出てけとか言ったら可哀相だよな。
と、地子の気持ちを考えてしまい、それが実行出来ないお人好しが志乙良だ。
――ま、しゃーないか。
「……はいはい。分かって下さい」
結局妥協することを決めると、地子に頭を下げてお願いした。
「えー、どーしよっかなー。やっぱ本早く読みたいしなー。さっき睨まれたし〜」
「悪かったって。それに本屋は明日の放課後付き合ってやるからさ、今日も今日で別に居ても良いから適当に漫画とか読んで大人しくしててくれ。な? 一日くらい我慢してくれよ」
「んー……」
顎に手をやり考え込む様子の地子。
そのまま志乙良の姿をちらりと一瞥し
「――ま、仕方あんめえ。本屋は諦めてやるかー。地子も鬼じゃないからな」
志乙良に出かける意思が全く無いと判断したのだろう、やれやれと頷いた。
「ああ、助かるぜ」
「おう、大いに感謝するんだな! その気持ちを形として見せて貰いたいぜ」
「あー、んじゃ、しゃーないから明日ジュースでも奢ってやるよ。確かにお前がこんなに早く引き下がってくれるなんて珍しいもんな」
「おおっマジで! 言ってみるもんだねぇ。そう言われたら大人しくせざるを得ねぇな!」
思わぬ報酬の約束に会心の笑みを湛えた地子は、「よっ」と志乙良のベッドに倒れこんだ。
「んじゃ奢ってもらうのはブーブーホワイトね。地子のマイブームなのだ」
そのままベッドからむくりと顔を上げると志乙良を見、嬉しそうに笑う。
「あいあい。ブーブーだかモーモーだか知らんが買ってやるって」
「ん〜、それにしても流石志乙良ちゃんのママさん、お布団ちゃんと干してあるね。今日珍しく良い天気だったしね〜、ふわふわ〜むにむに〜。涼しいと快適だ〜」
地子はベッドにうつ伏せに寝転がり、枕に顔を埋めながら幸せそうに呟いた。もぞもぞと動くたびにお日様の匂いがふかふかの布団からふわりと漂う。
「あ、お前な〜、俺より先に俺様のふかふか布団に潜り込むとは良い度胸してんじゃねーか。使用料十分300円だぞ」
提案した料金が何だか妙に具体的な数字であるのは気のせいか。
「――あ。んで、それは何の原稿描いてるの?」
地子はむくりと起き上がると何気ない表情で尋ねた。勿論志乙良の話は聞こえてないフリである。
「おいこら、人の話無視すんなって!」
「別にいいじゃん。で、どっち? 中段マニア? 菩提樹?」
地子は起き上がるとニコニコと志乙良が居る机に擦り寄っていく。
「ちょ、おまっ。描きかけは見るんじゃねーって前から言ってるだろ!」
「うひひ。良いでは無いか、良いでは無いか。減るもんじゃないじゃろう?」
「お前っ、それどこの殿様だよっ! つか、手つきがいやらしいわっ!」
慌てて志乙良が原稿用紙を裏返すも、時既に遅し。
地子は志乙良が慌てて裏返した原稿用紙をひょいと持ち上げ――志乙良の描いた幼い容姿の少女のイラストを見つけ、うにゃんと嬉しそうに口の端を緩めた。
「んふふー、なるほどなるほど。マーナって事は中段マニア用だね」
「う、五月蝿せーなー、見るなってんだろ!」
「はいはい」
慌てて原稿を奪い返す志乙良に、大して気にする素振も見せず、返事を返す地子。
「で、今回はどんな話? さっきの原稿コマ割りしてあったし、漫画だよね?」
そのまま再びベッドに戻るとちょんと座り、好奇心いっぱいの目を輝かせ尋ねた。
「あ? ああ、今回のコミックループには15禁程度のお色気漫画で行こうって久世と話して決めたんだわ」
「おおー! それはすっごい楽しみ〜。地子はお色気、嫌いじゃないんだぜ」
「おう、任せとけ!」
「あ! ねぇねぇ、じゃあさ描いてある分だけでも地子に見せてよ〜。描き終わってるのはいつも見せてくれるじゃん」
「あん? ああそっか、お前が来たのは確かに丁度良いな」
志乙良は椅子をくるりと廻し、地子の方を向くと、手に持った原稿の束を渡した。
「ほらよ、とりあえずここまで下書きが終わってる中段マニアの原稿。ザッと見て感想宜しく」
「おっけ〜。感想なら地子にドーンと任せとけ!」
受け取った原稿をチラリと覗き、地子が嬉しそうに微笑む。
「おー、やっぱし今回もブレブレハートだったかぁ」
「おうよ。まだまだ俺の妄想が止まらないぜ!」
「そうそう、妄想大事! いやー久々にロングヒットだよね。キャラもいいし。新しく解禁されたテネトラとか、純血の狐っ娘とかおっぱいでかくて可愛いし、地子も大好きだぜ」
「ま、俺はそんなミーハーなお前らと違ってマーナ一筋だけどな」
「はいはい。そりゃ十分分かってますってば」
得意気に言う志乙良に、にやにやと地子も笑みを返す。
「よしっ! んじゃ、早速読ませてもらうぜい」
「ああ、よろしく頼むわ。俺はまた続きやってるから読み終わったら呼んでくれ」
「あいあーい」
二人が話す「ブレブレハート」とは、勇気と破壊の心を宿す14人の妖狐の血を継ぐ乙女達が古の巫女の呼びかけに応じ、現世に復活した破滅と狂気の九尾の妖狐タマモを封印する為に各地を旅し、己の内に中に眠る破壊の衝動と葛藤しながら戦う少女達の物語である。3Dゲームが流行る昨今、2Dゲームでグラフィック勝負を賭け、その圧倒的に美麗な画面が若い世代から大きいお友達にまで支持される大ヒット中の超人気アーケード格闘ゲームだ。
勿論、志乙良達も先述の通り大ハマリである。
その情熱たるやイベント企画会社スタジオMEが名古屋で月一回行う同人誌即売会イベント「コミックループ」に、この作品の同人誌を出版し販売している事からも伺える。しかも、それまでは志乙良のサークルは大作RPGや、アクションゲーム等月替わりに出すジャンルが変わっていたのだが、ブレブレハートが出てからここ6ヶ月ずっとこのゲームに固定されるくらい愛されているのだ。しかも、当のゲームも先日いよいよ話題になっていた最後の隠しキャラが解禁されたばかりと、まだまだ勢いは衰えそうに無い。
「――うっし。志乙良ちゃん。渡してもらった分、読み終わったぜー」
暫くすると「よいしょ」とベッドの上で胡坐をかいた地子が、原稿用紙をひらひらと志乙良に見せた。
「お? おう。どうだ? 実はさ、絵も話も自分でも納得いってないとこ多くてさ」
志乙良は振り返ると、ソワソワとした表情を浮かべていた。期待と不安が半々という感じだ。
「んー、えっとさ、地子としては、絵はそうでも無いけど、話の展開がさ――」
尋ねられた地子は、渋い表情を浮かべた。
「あ、うん」
地子の口調とい表情からして、酷評が来るのを察知し志乙良は覚悟を決める。
「何と言うかまどろっこしい。後ページ無駄に使いすぎ。だるい。いつ終わるの?」
「――やっぱかー。お前が言うなら間違いないな」
志乙良は苦笑いを浮かべ、素直に頷いた。自覚していた分、ぐぅの音も出ない。
作品のダメ出しに対し志乙良の腹が立たないのは、今までも志乙良の作品に何かにつけては歯に衣着せぬ指摘で火花を散らしてきた地子だからこそだろう。
「うん。今回は志乙良ちゃん自覚してるみたいだし、ばっさり言うね。ハッキリとつまんない。もっと直接的な行動で一気に攻めた方が良いって思うんだぜ」
黙って話を聞く志乙良を見つめ、地子は話を続けた。
「そもそもこんなに寸止めばっかりで焦らされるとさー、地子的には女の子は逆に冷めちゃうと思うんだ。流石にマーナが受身にしても限度があると思うんだぜ」
「え……まじ? これくらいで焦れちゃうのか?」
「おう、まじ。というか、これくらいと言うけど異常な長さだぜ。確かに志乙良ちゃんが情緒的な雰囲気を見せたいってのは分かるけどさ、もうここまでいってるならガバってさっさと押し倒せ! って地子は思うんだ。というかそもそも、受身だけど芯が強いのがマーナの売りでしょ? これだったらマーナの方が我慢出来なくなって押し倒してきそう。この主人公情けなすぎるぜ」
言うことが一々過激である。
「うは、それは思い付かなかったわ。でも、それはちょっと俺のオリジナルキャラがへたれすぎちゃうから出来ない展開だなー」
「にょはは。だよねー、オリジナルキャラにシーラなんてつけて、自分に似せて描いてるくらいだもんな。へたれじゃ嫌だよねー。うんうん♪ それにしても本当自分の欲望に正直で清々しく痛々しいぜ志乙良ちゃんは」
確かに、それは痛々しい。
悪戯っぽく志乙良を見つめ、カラカラと笑う地子。
「う、うるへー! 仕方ないだろ。好きなものは好きなんだからさっ!」
そして志乙良は、自覚しているとはいえ、妄想力全開の源を指摘されると流石に恥ずかしさが前面に出てしまったようだった。にやにやと微笑む地子を前に、ゴホゴホとワザとらしい咳払いで誤魔化す。
「でも、まぁ……」
「にゅお?」
志乙良は地子から原稿を奪い取ると、ひらひらと翳して笑った。
「酷評サンキューな。やっぱ自分でダメだって思ってるのが面白い訳が無いって分かったわ。んじゃ時間無いけど思い切って全部変えてみるぜ。色々と目、覚めた。やっぱこういう事には頼りになるな、地子は」
そのまま地子の頭をぐりぐりと撫でる。
「おうよ! 地子は、志乙良ちゃんにもっと上手くなって欲しいから厳しい事を言うんだぜ。馴れ合いなんて絶対やってやんねーからな。頑張ってくれたまへ! そしてもっと、もっと面白いものを地子に読ませるのだ!」
へへんと得意気に胸を張り、嬉しそうに言う地子。
「あいあい。まー俺もその方が助かるしな! ありがたいぜ。それにしてもなーに偉そうに胸張ってんだ。相変わらずなんも無いくせに!」
志乙良がここぞとばかりに茶化して言った。
「あ、ちょっ! 言ったなーっ! 地子の今年の目標は「胸を増やす」なんだぞ!」
反らした胸を慌てて戻し、地子が口を尖らせて言った。
「は? 無理無理無理。今までずっと増えてねーのにそんな一年やそこらで急に胸が増えるかっつの。お前はずっとそのままだよ」
「ふ、ふーんだ! 五月蝿いなー。そのままだったらそのままで、垂れてこないからいいもんねー! 貧乳はステータスだってどっかの偉い人が言ってたもん!」
「はいはい、そうだね、良かったね。二次元だったら大歓迎だぜ」
志乙良。徹底した発言である。
「むきゃー! 三次でもステータスなんだってば!」
先程までのお返しとばかりに冷たく接する志乙良に対し、地子のムキになった声が暫く響いた。
2
三重県は松阪市。そう、ここはあの松阪牛や本居宣長の生誕地として誇り高い松阪市であり、交通死亡事故率では常に上位に食い込む不名誉な一面も持つ松阪市である。
その松阪市は窪町に私立梅園学園三栄高等学校はあった。全校生徒数千五百人を優に越える男女共学の県下有数のマンモス高校だ。
『学問と運動の真剣味の殿堂たれ』
を校風とし、高校野球での甲子園常連校というだけでなく、他にもアーチェリー、ブラスバンド等も盛んであり、且つ有名大学への進学率も高い。文武共に秀でた人材を育成する輝かしい実績を持つ高校である。
勿論その文武両道システムには秘密があり、何棟にも群がる巨大な校舎には音楽科、普通科(Aコース)、進学科(Bコース)、特別進学科(Cコース)と分別化が図られ、それぞれが此処にカリキュラムを組み、そのコースに合った授業を日々進めているのである。つまり、運動は運動の人材、勉強は勉強の人材と分け、それぞれが実績を切り開いているのだ。なので本来の意味での文武両道とはちょっと違うかもしれないが、それでも実績を上げている事には間違いは無い。
そしてこの中のCコース。有名大学受験を目的として教育を受ける中高一貫教育六年制の一人として志乙良が、そして中等部に地子が在籍しているのである。
――六月十八日。珍しく晴れ。
キーンコーンカーンコーン
午後四時、Cコース独特の地獄の7時間目の終了を告げるチャイムが鳴り、待ちに待っていた放課後が訪れると、志乙良はクラスメートで受験戦争の小学校時代に知り合ってからの親友である久世康則と一緒に本館玄関前にある高等部図書館にいつものように足を運び、冷房の効く室内で図書館業務に勤しんでいた。
そう志乙良は図書部員であった。二次創作の同人活動をやっていたりするのに漫画研究会では無いのである。
図書部とは、文字通り図書館業務を基とした文化系のクラブ活動である。
現在部員数は14人。マンモス高校の部活動の中では弱小と言えそうだが、活動内容的に部員数が増えてもアレなのでむしろ適性とも言えるだろう。男女比は若干女子の方が多いくらいだろうか。
主な活動は、貸し出し返却の手続き業務に書庫整理、月に入荷する本の選別。そして季節ごとに発行する情報誌「菩提樹」の作成だ。勿論図書部だけに本を読むことも大事な仕事である。まぁそうは言っても、普段は本を読む以外にはノートに絵を描いたり、粘土をこねたり――と、各々気楽に過ごしているようである。冷暖房完備の空間の中に於いて、ある程度自由気ままに居る事が出来ると言う時点で居心地の良さは格別だ。
また情報誌として発行される図書部の「菩提樹」は、本来のオススメの書籍を紹介する情報誌としての枠を今では大きく逸脱し、ある者は漫画を、ある者は小説、コラムを書いたりと色々な意味で自由な記述で部員達全員が楽しんで書いている半同人誌化した――ある意味夢の詰まった形となっていて、特にオタク層に人気である。志乙良以外にもかなりレベルの高いイラスト描きが多い分、漫研以上の出来栄えというのはもっぱらの噂だ。特に久世のイラストはその中でも群を抜いた上手さで、ファンも大勢いるらしい。
因みにコミックループと同じく志乙良が頭を悩ませていたのはこの情報誌の事だ。
志乙良は校則の厳しい三栄高校において、これ程までに自由でまったりとした空間を感じる図書部の事をとても気に入っていた。病気をこじらせて学校を欠席した日以外は欠かさず部活に顔を出している。そもそも志乙良は昔から古本屋や図書館といった空間が大好きなのだ。本に囲まれ、その独特の香りに包まれているとなんとも落ち着いた気分になるのである。
それに――
と、志乙良はぐるりと図書館の中を見回し満足気な表情を浮かべた。
書架に並んだ本は、それぞれが用途、種類に応じてあるべきところに配置されてある。何の本がどこの棚にあるのかは志乙良にとって一目瞭然だ。図書部員として尋ねられれば即座に答える事が出来るだろう。それは仕事をするという責任感と共に、勉強に関しては辛く感じるこの学校での楽しさ、やりがいとなって志乙良の中にあるようだ。
「さ、今日もぼちぼち頑張りますかー」
言うなり志乙良は椅子から立つと、返却棚に溜まっている本を数冊手に取った。そのまま近くに居た一年生部員に声を掛けると、一緒に棚に戻す作業を率先して始めたのだった。
「おっと、今日も天才文学少女が我が図書館にお越しのようだね」
午後4時半を過ぎた辺り、図書室に入って来ようとしている一人の少女を、痩身で眼鏡の男子学生、図書部部長の長谷川が発見し、読みかけの小説にしおりを挟んで閉じると、そっと呟いた。
「え? あ、本当だ。じゃ、部長。今日もいつも通りに――ですね」
その声と共に、図書部員達の普段どおりの和やかな空気が急に引き締まる。
「うん。宜しく〜。僕は山本先生に伝えてくるよ」
志乙良が長谷川や他の部員達の会話にふと顔を上げると、扉を開けて一人の少女が入って来るのが見えた。
――っ!
同時に不意にドキリと胸が高まるのを感じ、志乙良は胸をぎゅっと押さえこむ。
志乙良の視線の先には学校指定の白いブラウスと首元にはワンポイントのリボンが結ばれ、紺色のスカートとソックスがストレートな黒髪と相まって、清楚な雰囲気を引き立てている美少女が居た。化粧っ気の無い今の状態ですら美少女の上に「とびきりの」をつけても大袈裟では無いだろうとても綺麗な少女だ。
少女の名前は森山歌世(もりやまかよ)。高校二年生。
今、三栄高校で一番有名な人物を挙げろと言えば、十人中九人は彼女の名前を上げるだろう人物である。
文学賞として非常に栄誉ある熊楠(くまぐす)文学賞に当時ただの高校一年生だった彼女の処女作「森の中、やさしい夢、壊れた少女」がその透明感溢れる世界観を絶賛され、受賞の栄誉を冠し、話題になったのは記憶に新しい。そして、その後歌世自身の美貌も相まって、テレビや雑誌に頻繁に登場。見た目から想像も出来ない明るくワガママなキャラクターが益々の人気を博し、一躍時の人となった超に超が付く程の有名人、その人なのだ。
だがその後、詳しい理由は分からないが埼玉の名門女子高「埼玉県立唯一女子高等学校」を突然退学。母方の実家である松阪市に3月末に引っ越し、三栄高校Cコースの編入試験を受け合格。2年の新学期から通っているのである。
無論世間がこの事態に騒がないわけが無かった。
歌世の転校が知れ渡ると、新聞部が大はしゃぎしただけではなく、三重県内の新聞社、雑誌社がこぞって集まりぐるりと学校を囲み取材攻勢を掛けてきたのだ。当時待ち伏せする記者達のどうでもいい質問に巻き込まれ多くの生徒が辟易した。
だが、歌世自身はこうして集まったマスコミの取材に一切応じる事無く、ただ静かに学校生活を送りたいと各社に書面で伝えただけで表に姿を出さなかった。三栄高校もそんな歌世を全面的にバックアップすることを高らかに宣言し取材陣をシャットアウトした。お陰で今ではその大騒動もすっかり治まり、落ち着きを取り戻してきているのであった。
そんな歌世だが、志乙良と同じCコース且つ、同学年ではあるが、六年制と三年制ではカリキュラムがこれまた完全に分かれており、教室こそ近いもののほぼ接点の無い無縁の存在であった。そして、そもそも二次元大好きな志乙良にとっては、歌世が転向してきたと言っても「へー有名人が近くに来たんだ」程度の認識で、興味が全く無かったのも間違いなかった――のだが、五月の頭、歌世が図書館に顔を出すようになってから、志乙良は今までに感じた事も無い不可思議な現象に襲われ、歌世を意識するようになっていた。
――また今日も、か……なんで、だ?
その変化――先ほどから止まらない胸の動悸を抑え、志乙良は思った。
そう。何故か志乙良は、歌世を初めて見た時から自分でも不自然極まりないほど胸が高まり、油断するとその心臓の動機に呑み込まれそうになるのである。それは6月も半ばを迎えた今も一向に治まる気配を見せない。志乙良自身にも、全く分からない事であった。ただただ首を傾げるばかりである。
『お、遂に志乙良も現実に目覚めたか? これってお前の初恋なんじゃねーの? でも相手があの森山さんって、相手が悪いよなー』
この事を相談した親友の久世が、その文化系には似合わないがっしりとした体躯を揺らし茶化して言った言葉も、志乙良には全くピンと来なかった。
そもそも高校一年の時に、奇特にも告白してきたクラスメートに対し志乙良は
『ごめん、俺は心に決めた二次元の大切な人がいるから無理なんだ』
と言って断ったエピソードが痛々しい実話として存在しているのだ。しかも、これはその女子生徒と付き合いたくないからと、適当な理由として言った訳ではなく、当の本人は本気も本気、大真面目な理由としての答えである。そのお陰で今でも「二次元しか愛せない男、内藤志乙良」として生きる伝説となっている。
――まぁ、正直二次、三次は関係無いんだけどなぁ。たまたま二次が多いだけで。
志乙良は好きなものが出来たら、他の何かに惚れる事など自分にあるわけが無いと確信していた。確かに性格はお人好しかもしれないが自分の大事な気持ちに筋は必ず通す。裏切らない。これは天地神明に誓って言えるし、貫き通す責任があると思っているからだ。
――そして実際今の俺はマーナ一筋だからな!
マーナのイラストを思い出し、自分の中に溢れる暖かな感情に自信を持って強く頷く。そう、他の何にも浮気などする筈がないのだ!
それに、そもそも歌世を見て感じるこの胸の高まりは、マーナに感じる暖かな感情とは全く異質な……まるでそう――自分では無い何かの記憶が何処かで打ち震えているような、得体の知れない不可思議な感覚なのである。だから恋愛感情では無いとだけは志乙良は断言出来るのだし、それだからこそ自分の心に戸惑うのである。
『はいはい。前世が悲劇の運命でバラバラになった恋人同士だったとか、そんな設定か? お前そういうの好きだもんな』
――だから違うっつーの! そんなんじゃねーんだって。
「あー、もう」
相談した時の久世の冷やかしの言葉を思い出し、心の中で突っ込む志乙良。
そのままもっと上手く伝えられるような言葉は無いかを探すも、自分でも未だにこの事象の原因が良く分からないのだから、出てくる訳も無く――がくり、と結局うな垂れてしまうのであった。
「あの……これ、返却でお願いします」
と、そんな志乙良に向かい涼やかな鈴の音のような透き通る声が聞こえた。
ぎょっとした志乙良が慌てて声の方を向くと、歌世がカウンター前で「ビリー・ミリガンと23の棺」を手に持ち、きょとんとした表情を志乙良に向けていた。
「あ、はい。すみません」
――おっと、いかん、いかん。仕事しろっつーの俺。
引きつった笑顔で志乙良は歌世から本を受けとると、本の裏に貼ってあるバーコードを通した。ピッという電子音と共にモニターに貸し出し情報が表示される。志乙良は返却期限が守られている事を確認すると、今度は動揺を包み隠し、営業的な笑みを歌世に向け頭を下げた。
「はい、大丈夫です。ありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ毎日お世話になってすみません」
そして歌世もテレビで見せていたワガママなキャラクターなど微塵も感じさせない柔らかい笑みで会釈を返す。そのまま重たそうに鞄を担ぎ、カウンターを離れていった。
――うし、異常なし。
たった一瞬の接点。志乙良はその作業を今日も問題なくこなすと、歌世の背中を見送りながらほっと一息吐いた。
「森山さーん、いらっしゃい。今日も来てくれたんだ〜。ありがとねー」
と、そのままテーブルに向かい歩き出した歌世を追いかけるように、司書室から若い女性がにこやかに微笑みながら出てきた。図書部顧問の古文教師、山本初美である。
「あ、山本先生」
その声にくるりと振り返った歌世が頭を下げた。
「今日も部員がしっかり見張ってくれるから閉館時間まで気楽にしていってね」
山本は言って念を押すようにぐるりとカウンターを見渡すと、志乙良を含む図書部員達が皆表情を固くし、しっかりと頷いた。
そう――歌世の来訪で部員の雰囲気が引き締まったのはこれが理由である。
森山歌世を護衛せよ。
閨秀作家である歌世が校内で執筆、読書をしている場合、これを邪魔してはいけない――と学校から私立ならではの特例の伝達が全校生徒に出ているのだ。
だが、それでも興味本位で歌世に近づき、ちょっかいを掛ける困った生徒が後を絶たない為、それらを見かけたら注意する義務を、歌世が図書館を利用している時には図書部員達が請け負う事になっているのである。
とは言え、始めの頃はマンモス校の悲哀か、普段図書館など利用しそうもない類の生徒達が複数人で群れて現れ、しつこくナンパ的な行動で歌世に付き纏い、そのあまりのマナーの悪さに図書部や顧問だけでは手に負えない事態が頻発した。
同じ制服を着ては居るものの、声を大きく張り上げれば何でもいう事聞くと勘違いしている低脳連中のあまりの無法に、文化系で気の弱い図書部の面々は大変怯え、対応しきれずに生徒指導が乗り込む事態に何度もなったのも記憶に新しい。あの時はこの場所が本当に図書館なのか? と思うような雑音に塗れていた。
それから暫くの間は、事態を重く見た学校が生徒指導を派遣し、常に迷惑行為の無いように図書館で目を光らせていた。結局その間も、本来の緩やかで過ごしやすい空間はなりを潜め、ピリピリとした空気に包まれてしまったのも言うまでも無い。
しかし生徒指導が目を光らせているという事が、そういった人種に知れ渡り、それ以降迷惑行為は急激に減ったのである。それが5月も中旬の事である。
そして6月になってやっとその生徒指導も問題なしと判断し図書館から撤退。
今ではほぼ問題は起きる事も無く、緩やかに時は流れ、もし騒動があったとしても図書部と顧問のみで対処出来るようになってきているようであった。
とは言え図書部員にとっては精神的に負担が大きいのは間違い無い。本来一個人の問題で、このような気苦労を背負わされるのはそれこそ貧乏くじ以外の何物でもなく、面白いものでは決して無い。学校命令で仕方が無い事とはいえ、出来れば何事も無く済んで欲しいと思うのは当然であろう。
「はい、図書部の皆様ありがとうございます。助かります」
そんな部員達の気持ちを知ってか知らずか、歌世はいつもそうするように、くるりと図書部員達に向かい深々と頭を下げた。図書部員達の大半は歌世に向かって曖昧な笑顔を浮かべ、頷いていた。
「で、今日は何読む? チューホフの続きとか? あ、それともやっと落ち着いてきたし、いよいよ書き物かしら? ごめんね、本当いつもいつも騒がしくて」
山本は嬉しそうにカウンターから外に出ると歌世の横に並び楽しそうに話しかけた。そのまま二人は仲の良い姉妹のように一緒に奥の座席に向かい歩き出す。
「あ、チューホフなんですけど……まだまだ私には難しすぎました。全然理解出来なくて。寧ろ先生にオススメしてもらったモリエールの「才女気取り」が凄く面白くて、今日は作品集自体を読んでみようかなって思ってます。評論書くならこっちかなーって」
「うんうん、シェイクスピアを代表するように悲劇が日本では注目される事が多いけど喜劇も面白いでしょ? あの鋭い観察眼は現代でも通じるものがあるしね! 評論書くなら絶対読ませて欲しいわ〜。でも、一番読みたいのは森山さんの次作なんだけどね。楽しみにしてるわ」
「あははは、はい。期待せずに待ってて下さい」
山本の話に愛想笑いを浮かべた歌世は座席を確保すると荷物を置き、そのまま山本と一緒に中世ヨーロッパの書棚に向かい歩いていく。
――へー、モリエールっていう喜劇作家の作品が面白いのか。どんなのだろ? 最近読んでるのラノベばっかりだもんなー……俺も文学部目指すならそれなりのものそろそろ読まないといけないし、喜劇なら楽しそうだし、ちと後で調べてみよう。
聞いた事も無い文学の話で盛り上がっているそんな二人の姿を、志乙良はカウンターからぼんやりと見つめながら、考えてていると
「し、お、ら」
楽しそうな呼び声と共に、ぐいぐいと背後から肩を揉まれた。
「ん?」
慌てて振り返ると、久世が、にやにやと楽しそうな笑みを浮かべて立っていた。
「なんだよ? 久世」
「こらこら、そんな物思いに耽る視線で、森山さんを追いかけてたらお前の気持ちが学校内に知れ渡っちゃうぜ〜。違うって言うならもうちょっと控えないとー」
「は? な? ちょ! ちが――」
冷やかしに思わずガタンと椅子から立ち上がる。
そのまま慌てて否定しようと口を開いた志乙良に
「ほほう、N氏の最近の森山さんを見守る視線が、ただの護衛とは思えない熱を帯びているとは思っていたけど、なるほどそういう意味か〜。これはいよいよN氏も二次特化から卒業なのかな?」
司書室からいつの間にか戻っていた長谷川が話を聞いていたらしく、面白そうに目を細め呟いた。
「――なっ! ぶ、部長〜聞いてたんですかぁっ?」
思わぬ傍聴者の存在にサーっと青褪める志乙良。声が聞こえるまで、近くに長谷川が存在している事に全く気が付いていなかったのだ。
「うん、ぐーぜん聞いちゃった。ごめんね〜」
「くそ、久世! てめぇ、こら!」
「わ、わりぃわりぃ。部長! これは秘密でお願いします。相手が相手だけに、あんまり話題的に歓迎されない恐れもありますし……」
「うんうん。言われなくても分かってるよー、森山さんに関しては女子が怖いからねー。そしてN氏。いや〜本当に偶然だから。気にしない、気にしない」
「ぶ、部長〜本当ですかぁ?」
情けない声を上げる志乙良。
「まぁまぁまぁ」
口では偶然と言いながらも、長谷川は意味深な笑みを浮かべていた。確かに怪しい。
「へー、久世っちから電話で聞いてはいたけど、本当にそうなんだー、意外だぜ」
「――へ?」
その長谷川の隣から、今度は馴染みのある声が聞こえ志乙良は動きを止めた。
「にしししし」
その悪戯っぽく笑う声に志乙良が顔を向けると、そこには地子が居た。
清楚なブラウスにネクタイ、チェック柄の落ち着いた雰囲気のスカート姿という、高等部の女子達が「あっちのが可愛かった!」と羨ましがる中等部の制服姿でちょこんといつの間にか座っている。来賓用のスリッパをパタパタとさせ三人のやり取りを見つめる姿はとても楽しそうだ。
「な、ち、地子! いつの間に?」
「ん? 今来たとこだよ?」
とぼけた表情でしれっと言う地子。
そのまま歌世を覗き、志乙良に顔を戻すと、にんまりと笑って言葉を続けた。
「にしても相手がアレちゃんとは、何ともまぁ、どうしてこう志乙良ちゃんは高望みするかなー。無謀過ぎて地子的に激しく同情しちゃうぜ。よりによって元ゲーノージンに恋しちゃうなんてな! 山で言うと堀坂山と富士山くらいの景観差だぜ!」
堀坂山とは松阪にある伊勢三山と呼ばれる山の一つで「伊勢富士」と呼ばれ標高はそれ程高くは無いものの美しい山容を見せる、三栄中学の校歌の中にも登場する三重の誇る山の一つである。それでも富士山と比べれば、その景観の差は歴然だ。
「ち、ちっげーよ! つか、その比べ方意味わかんねーし! 景観差だったら、見た目比べじゃねーかよ! 男と女で比べんなっつの」
「こまけぇ事は良いんだよ!」
「良くねーよ! ってか、そもそも何でお前が此処にいるんだよ! 部活はどうしたんだよ! 大会前じゃねーのか? 今日晴れてるぞ?」
的確なツッコミを見せる志乙良の言う通り、地子は陸上部であった。
しかも軟弱、ガリ勉の集まりと言われる三栄中学の中であって、女子走り幅跳びで三重県四位の記録を出し、8月の全日本中学大会に出られるかも知れないと注目されている期待の選手なのだ。追い込みの時期なのは間違いない。
「ん? 何故此処にと聞いてきますか。にゅふふ。よもや昨日の約束忘れたとは言わせね〜ぜ」
しかし地子は澄まし顔で人差し指を立てると、ニパッと得意気に笑った。
「あん? 何をだよ」
「本屋行くって約束とブーブーホワイト実行委員会! だぜ! んで、その催促の為にゃー地子の部活の事なんてどうでもいいのだ! 分かったかね君達?」
「いや、ダメだろ」
拳をぐっと握り締め言い切る地子に向かい、志乙良がきっぱりと言った。久世と長谷川もうんうんと頷く。いや、本当にダメでしょう。
地子、分が悪い。
ぐぬぬぬぬ――と空気を察した地子は、頬をぷくりと膨らませる。
「って、地子の事はどうでもいいのだ!」
「いや、良くは無いだ――」
「ででで! 実際のところどうなんだね? チミィ。もしかしてマーナちゃんはポイと捨てちゃうのかい?」
地子は志乙良のツッコミを強引に遮ると、再び悪戯っぽく笑い、長谷川と久世に目配せをした。
「うんうん、それは僕も気になるな〜。いよいよ脱皮するの? 出来るの?」
「いやー部長や地子ちゃんはそう言うけどさ、俺は初めから自覚の無い初恋と踏んでるんですけどね。でもこいつが頑なでさー。なぁ?」
その流れにちゃっかり乗っかり、にやりと微笑む二人。どうやら、二人は地子を弄るより志乙良を弄るほうが楽しいと判断したようだ。
「……いや、あのね?」
――なぁ。じゃねーよ、なぁ。じゃ! あー、もう面倒くせぇ!
そして再び窮地に陥る志乙良。困った様子で頭をくしゃくしゃと掻き毟る。
「まぁとにかく、告白から失恋までの過程を、N氏はこれから身をもって知れるわけだねー。羨ましいなー、僕はまだ未経験だからねぇ」
「だね! これで志乙良ちゃんの作風の幅が広がるのは間違いない! 地子はどんなにこっぴどくフられたとしても応援するぞ! そりゃとても残念だったけど、その悲しみの感情が次に生きるのだ!」
「だな、痛みを知って人はまた成長する。志乙良……これで終わりじゃ無いんだ。頑張れよ!」
三者三様の楽しげな慰めの言葉が飛ぶ。
……志乙良が歌世に失恋する事はもう確定条項らしい。
「だ〜か〜ら〜、違うっつのっ! 有り得ないって言ってんの!」
そして結局志乙良は三人の弄りに耐え切れず、一段と声を張り上げてしまった。
「こら! 図書部員うるさい。ここは図書館です。しっかり規則守りなさい! 部員が喧しいなんて恥ずかしいと思わないの?」
途端に歌世と話していた山本に、物凄い剣幕でヒステリックに怒鳴られてしまう。
沈黙。
「あーあ志乙良ちゃん、やっちゃった……」
山本の怒声に身体を竦めた地子が、小声でなじる。
「あう」
恐る恐る志乙良が顔を向けると、鬼の形相の山本の隣で、歌世も迷惑そうに志乙良達を見つめ、そのまま呆れた様子で溜息を吐いていた。
――うわー……やっちゃったー……。
いや山本と歌世だけではなかった。
図書館利用者の多くの迷惑そうな視線が集まっている事に気がついた志乙良は、しまったと口を押さえると恥ずかしそうに俯き黙る。
「次五月蝿かったら出て行ってもらうからね! わかった? 特に内藤君。図書館は声を張り上げる場所じゃありません!」
「は、はい。すみません……」
勝手な恋の話で餌にされる状況は山本の怒りで逃れる事が出来たのだが、名指しで厳しく注意され、別の意味で窮地に立った志乙良であった。
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2010/07/24(Sat)23:22:41 公開 / もげきち
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■作者からのメッセージ
こんばんはー、お久しぶりです。次元界に飛ばされ、自分自身が何なのかすら忘れ彷徨い歩いていたジュブナイル、ラノベ目指しのもげきちです。はじめましての方は握手! ちなみに、僕――毒です。毒手!
角之真の続き〜よりも、気分一新書く楽しさを満喫しながら構想だけはあった作品に挑んでみようとはじめました。今回は良くある学園ラブコメって感じに挑戦でっす。でも、どうなるか分かりません(笑) バトルとか、アクションとか無し? で、まったりゆったりと書いていければいいな〜 っと思ってますのでこれからお付き合い頂けたら幸いです。
1-2をupさせて頂きました。一応目標の継続力はまだ続いてます模様。よっつぁん、モチベ見せてますだよ! 今回でやっとこヒロイン登場でありますが、やはり日常生活(汗)だるい等ありましたらアドバイスご遠慮なくお願いします。今回も読んでくださりありがとうございましたー
7/11 序章up
7/17 1-1up
7/24 1-2up
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。