『妖怪剣客商売人(仮)』 ... ジャンル:リアル・現代 ファンタジー
作者:のんたん                

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 隣の席のユミちゃんがお姉ちゃんから聞いたと得意げに話していた。
「血がたくさん出ると人は死んじゃうんだって」
 近くの席の友達と、まったく体験することのできないであろう話に、ほんのちょっとの気味の悪さと怖いもの見たさで囃し立てたのはいつ頃だっただろう。


 目をあけると、世界が縦向きになっていた。群がった人も、ビルも、信号も、道路も、血だらけのトラックも。目に見えるものがすごく新鮮だった。

「あなたが横向きになっているだけよ」
 
 幼い声が聞こえた気がした。そうか、私が地面に寝ているだけなのか。でも、こんな景色はなかなか見ることが出来ないと思う。ほら見てよ、信号のところに人が立ってる。まるで壁に立っているみたいだね。

 指をさして笑おうとしたのだけれど体が上手く動かない。
 よく体が鉛で出来てるみたいに動かないってよく聞くセリフだけどあれって結構的を射ている気がする。まるで他人の体のような自分の腕を必死に動かそうとする。やっぱり動かない。首はまだ何とか動くようで首をずらして鉛の体を確認した。

 あは、動かないはずだよ
 
 あるはずの場所にないんだもん。

 急におかしさがこみ上げてきて、思わず笑ってしまう。でも笑おうとしたけれど口の中から血の泡と肉の塊みたいなのがごぼっと出てくるだけだった。
  遠くからサイレンの音が聞こえる。昔この音が怖くてお母さんに泣きついたことがあったなぁ。だんだんと暗くなっていく視界の隅に奇妙なものを見つける。女の子が一人しゃがんで何かを持って遊んでいる。ぼんやりと靄がかかった視界の中でやけにはっきりと見えることに違和感を覚える。するとその子は立ちあがると、こっちへ歩いてきた。つぼみのように小さな口が動いているから何か言っているようだ。

 何言ってるの?

 ごぼり、と口からまた溢れだした。
 女の子は小さく笑うと手に持ったものを私に向かって振っていた。


 それは、私の腕だった。


 それは、驚くほどに白く、そして点々と赤くぬめっていた。
 いたい  いたい  いたい
 でもくちからでるのはあかい、あかい

 ちがたくさんでるとヒトはしんじゃうんだって
 
 いたい いたい        いたい

 あれ、ゆみちゃんはそのまえになんていってたんだっけ
 

 
 赤と黒に染まっていく視界に映る、彼女の振るまだら模様の腕は、まるで血のような夕空を舞う蛾のようだった。



                             *      *      *


 その日は、しとしとと冷たい絹糸を垂らすように雨が降る――そう、梅雨時のそれとはどこか違うそんな六月の静かな雨の日だった。


  ふっとひとつため息をついた。午後の授業というのはどうしてこう無駄な思考を繰り返すことになってしまいがちなのだろうか。さっきからグルグルと同じ思考を繰り返している気がする、とそこでまた一つため息。俺は雨が嫌いだ。一人暮らしの貧乏学生の身の上としては、時折自然の見せる季節の彩りや自然の表情よりもただでさえ日当たりの悪い部屋の洗濯物の乾き具合やら、ボロアパートの雨漏りの方の心配がどうしても先に来てしまう。とはいっても、僕の住んでいるこの部屋の窓から見ることのできる風景は隣に建っている不動産会社のビルのモルタルの壁、なのだけれど。
実家はもっと地方の田舎だったこともあり、自然は多く残っていてその自然に囲まれて暮らすのが普通だと思っていた。しかし高校進学のため、地方から都会に出てきたばかりの頃は見慣れた自然が極端に少ないことに若干の戸惑いはあった。いや、戸惑ったのはむしろ自然が少ないことよりも人やビルが多いことの方に驚いていたような気もする。
 俺が通っている高校は俺のように地方からの受験者も少なくなく、割とみんな似たように他の所から受験してきた人ばかりだったのでうち解けるのにそれほど時間はかからなかった。実家や寮からこの学校に通っている連中からは一人暮らしを羨ましがられたりもするが、やはり自活というのは進んでやりたいものではないというのがやはり自活二年目での現状だ。親の保護下から抜け出せるというのは魅力的ではあるが。しかし天気(というか洗濯物)のことで一喜一憂する高校生活はあまりに彩りの無い青春のような気がする……。はあ、ともう一つついたため息は授業終了のチャイムと教室の喧騒に消えていった。
 HRも終わり、退屈な授業から解放された生徒たちは我先にと教室をかけだしていく。
「みーなせ! お前今日ヒマだろ? どっか遊びに行かねえか? 今日はバイトねーよな?」
 と、隣の席から身を乗り出してそんなことを行ってきたのは小室恭平。このジメジメした季節とは正反対の明るい茶色に染めた短髪に、校則違反のピアスをぶら下げ、ついでに人懐っこい笑顔もぶら下げているこいつとの腐れ縁もこれで二年目になる。
「小室についていくとロクなことがないからヤだ」
 とはっきり拒否する。この間も遊びに行く、という文句で誘われたら半日田村のナンパに付き合わされた揚句、その成果は横断歩道を渡れなかったおばあちゃんと迷子の少女だけだったのは何とも報われない。
「そんなこと言うなよー俺とお前の仲だろ?」
 まだ会って一年と少ししか経ってないけどな。とりあえずしかめっ面を返しておく。
「なあなあ、駅前のカラオケのバイトの子がさ、んもうかわいいのなんのってな! その子のシフトが今日の五時からなんだよ。な、付き合ってくれ! 頼む!」
 この通り! と手を合わせて頭を下げる恭平。というか……
「結局ナンパかよ……。付き合ってられるか」
 シッシッと追い払う。なおも食い下がろうとする恭平の執念には呆れるのを通り越して感心してしまいそうになる。でもナンパは一人で行けないヘタレなのだが。
『そんなことよりお前、時間良いのか?』
 携帯の液晶を恭介に向ける。そこにはデジタル表記の時計が映っており…
「うおっもうあの子入ってんじゃん! こうしちゃいられねえ! 水瀬! 今度は絶対付き合えよなー!」
 恭平はそれだけ言い残し、かばんをひっつかむと脱兎のごとく生徒の群れの中へ消えていった。
「バイト無いんだろ……ね」
 嫌なことを振り払うように僕は軽く頭を振る。 早く片付けて家へ帰ろう。雨がひどく降らないいうちに。

「水瀬君、ちょっと待ちなさい」
 帰り支度を始めていた俺は呼ばれた声に顔を上げる。そこには学級日誌と描かれた黒いリングファイルを手に眉間にしわを寄せた同じクラスの委員長、一条さんが立っていた。藍色がかった長い黒髪、細身だが女子の中では身長はそれほど低くない腰に手を当て、小さく整った顔立ちの真ん中には少しきつめの瞳がこちらを睨んでいた。
「な、何か用? 一条さん」
「背面黒板の所に書いてあること読める? それともあんたはそれもできないような愚図なの?水瀬綾彦君。いや、グズ彦君かしら」
 俺はまた一つため息をつく。
 彼女と初めて会ったのは一年前の入学式の日だった。式前の新入生はあらかじめ決められた自分のクラスの教室で待機することになっていて、俺の隣の席に座っていたのが一条ゆずかだった。『新入生代表挨拶』と書かれた紙を黙々と読んでいた。椅子を引く音で集中をみだされたのが気に食わなかったのか、代表挨拶に緊張していたのか、とにかく不機嫌な顔をこちらに向けて開口一番にこう言った。
「襟元が乱れているわよ。さっさと直しなさい、不愉快だわ」
不幸というのはどうやら唐突に訪れるようで、その時彼女の目に運悪く緩めたネクタイが見つかってしまい、先生でもない初対面の女生徒に入学早々説教をもらったのだった。そしてそれが後に続く一番最初の説教だった。
 彼女はさる旧家のご令嬢で、その肩書に引けを取らない容姿、知性、才能を持っているまさに一条の家に生まれるために生まれたような人だった。教師、生徒からの人望も厚く、成績は常にトップ、スポーツ万能、ピアノから日本舞踊までなんでもござれの完璧人で、少しきつめな性格も容姿と相まって男子女子問わず羨望の目を向けるものは少なくないとか。どこまでが都市伝説か、と言いたくなるが一年同じクラスで嫌でも彼女の姿を見つづけていると、どうやらそれが都市伝説ではないことを認めざるを得ないようだった。
 そんな彼女の機嫌を損ねる前に、俺は言われたとおりに背面黒板を見た。そこには日直当番:水瀬綾彦、一条ゆずかと白いチョークで書き並べてあった。しかし男女の出席番号で回っている日直で僕と一条さんが一緒になるはずがないのだけれど……。
 僕の表情で察したのか面倒くさそうに一条は口を開いた。
「もう一人の日直の子が今日休みだったから代わりに私の日直の日と入れ替えただけよ。何か問題?」
「そ、そうだったんだ……」
 ふんと小さな鼻を鳴らして一条は隣の恭介の席に座って日誌を広げ書き始める。いかにも質の良さそうな万年筆のペン先が、白紙のページの上をさらさらと滑らかに滑っていく。
 日直の仕事は日誌の記入とゴミ捨て、そして教室の戸締り。
(これは俺がゴミ捨てに行けって事なんだろうな……)
 窓の外をうかがうとまだ鉛色の雲は重苦しく空を覆っていた。まだ降り続いている雨にため息をもらしつつ教室の隅に設置してあるゴミ箱を手に取る。
「それじゃあ俺ゴミ捨てに行ってくるから」
 教室の傘立てから自分の傘を取って、昇降口付近のゴミ捨て場に向かおうとした時、
「水瀬君」
 日誌から顔を上げずに一条は俺を呼んだ。視線を日記に落としたまま、書く手を止めない一条の整った横顔にはかすかに戸惑いが浮かんでいるように思えたのは僕の勘違いなのだろうか。いつもの調子が彼女から伺えないことに俺は眉をひそめた。一条はゆっくりと顔をあげてもう一度僕の名を呼んだ。いつもより覇気のない、まるで普通の女の子のような声で。
「水瀬君、こっちに来なさい」
 言われるがまま教室へ入ろうとしたが、手に持っているものを思い出す。ゴミ捨ての途中だった。
「ごめん、俺ゴミ捨てに――」
「九鬼御流免許皆伝、水瀬総本家次期頭首水瀬綾彦」
 静かに、呟くように、しかしはっきりした声で彼女は俺の名を呼んだ。眠たげな午後の空想から急速に現実に引き戻される感覚。日常と非日常の境界が静かに解けて無くなっていく、そんな感覚。

 バイト≠フ時間だ。

 いつしか外の雨は、雷雨に変わろうとしていた。



                             *      *      *

 先週の末の話だ。

 また、あの交差点で事故があったそうですよ。
 これでもう五件目ですねぇ、何かあるのかしら。
 気をつけないとねぇ。村瀬さんとこのお子さん小学生でしょう?
 あら本当? 心配でしょうねぇ。

 一条はその週末、一週間ほど入院していた祖父、つまり現頭首が退院するという連絡を受け実家の一条本家に里帰りをしていた。
 その日は頭首の退院記念パーティーの準備に親戚や客人の泊まる部屋の準備でいつになく家の中が慌ただしかった。その合間、一条は久しぶりにお手伝いさんたちにあいさつに行こうとした時、炊事場のドアの前で偶然聞いたのだった。挨拶をすませた後、詳しくその話を聞こうとしたのだが、お嬢様にするようなお話ではありませんので……と断られた。ここで無理に聞くのは彼女たちにとっても気分のいいものではなさそうだったので追求するのは避けておいた。

「ゆずかぁー! ゆずかはどこぞー!」
 野太いハスキーボイスで一条の名前を呼ぶのは一条の祖父にして一条財閥の現頭首、一条源十郎だ。彼は政界、財閥、企業あらゆる方面に顔と筋を持っていて、その力は強かった。実家にいた頃はテレビで良く見かける政治家を怒鳴りつけていたのをたまに見かけることがあったほどだ。それに強いのは人脈だけではなかった。彼は古武術の達人で、一条も昔から手ほどきを受けている。が、やはり古武術の達人といえど病気には勝てなかったのだろう。
「ここですよ、おじい様」
 玄関で息を切らしていた祖父は。私を見つけるなり、脱兎のごとく飛び込んできてその厚い胸板に私の顔を押し付け、丸太のように太い腕でガッチリホールドする。毎度なかなか苦しい。本人は抱きしめているつもりなのだそうだ。
 腕を三回叩くと、祖父はすまんすまんと腕を解いた。
「相変わらずお元気そうですねおじい様。とても病人には見えません」
 本当に、ほんのさっきまで入院してたとは思えないほどに。
「がははは、ゆずかにも心配をかけてしまったようじゃのう」
 帽子と上着をお手伝いさんに預け、親戚がそろっている客間へ移動する。どうやら祖父の病気というのは酒とタバコが原因らしい。ヘビースモーカーで酒好きの祖父はたびたびそれで健康診断に引っかかっていることを一条は知っていた。今回はその検査入院だったのだそうだ。日ごろから祖母や母にさんざん言われているのに一向に減らない様子を見ると祖父と病院は末永くお付き合いすることになりそうだ。一条は豪快に笑う祖父の顔を想像し、頭を抱えながら一つため息をついた。
 親戚や客が集まり始め、騒がしくなった客間を静かに出て、渡り廊下から中庭を見た。空は五日ぶりの晴天だった、最近雨が続いていて、今週末は持ち直すと天気予報では言っていたがまた来週も雨が続くそうだ。明け方まで雨が降っていたのか、中庭の松の幹はしっとりと水気を含んでいて、針のような葉には水滴が陽光をたたえていた。昔からこの場所は一条のお気に入りだ。この場所だけ時間の流れがゆっくりしているようで……。
「気持ち良い」
「まったく。良い庭ですな」
 突然話しかけられて飛びあがりそうになりながら後ろを振り向く。そこには祖父と同じくらいの年恰好の老爺が立っていた。
(全然気付かなかった……)
 親戚だろうかと記憶をめぐらしたが、見覚えのない老爺だった。今日のパーティには祖父の知り合いも多数訪れると話していたので知り合いの方なのだろうか。
「昔から全然変わっておらん」
 老爺は懐かしそうに目を細めた。とても優しそうな表情だった。しばらく庭を眺めた後老爺は客間の方へ歩いて行こうとした。
「あの、失礼ですがお名前を伺ってもよろしいでしょうか」
 老爺はゆっくり振り返り、またゆっくりとほほ笑んで
「水瀬ですよ。以後お見知りおきを、一条ゆずかちゃん」


 祖父の退院パーティが終わっても空模様が崩れることはなかった。その日の夜は月が出ていた。まばゆく光る月を一条は部屋から眺めていた。かすかに笑い声が聞こえて中庭が見える一階の縁側に視線を落とした・
 そこには二人の老人が月の光を浴びながら酒を酌み交わしている姿があった。
「おじい様と、水瀬さん?」
 打ち解けている様子を見ると、どうやら二人は旧知の仲だったようだ。がははと祖父が笑い、静かに水瀬さんがほほ笑んでいる。仕事の付き合い、というよりもやはりその姿は友達同士のそれだった。かすかに聞こえてくる昔話に私はなんとなく耳を傾けることにした。
「水瀬よ、お前のところの餓鬼は今いくつになるんだったかよ?」
「あやつは今年で十七になるか。ゆずかちゃんと同い年だろう?」
「がっはっは、そうだった、そうだったなあ。ゆずかもう十七か。わしも年をとるわけだ」
「俊介と綾祢が死んでからもう十五年も経つのだな……」
 源十郎が酒をあおり、水瀬も杯を少しばかり舐める。月の光に濡れた庭を眺めながら、ふたりはしばらく物思いに耽っているようだった。
「あれから十五年、そろそろか?」
 源十郎が口を開く。
「そうだな、もう一年と持たず二人が繋いだ結界も解けるだろう」
「坊主と嬢ちゃんが命をかけて紡いだ結界が時間稼ぎにしかならねぇとは……」
 苦い物を舐めたように源十郎の眉間が歪む。
「二人の遺志は、あやつが。綾彦が継いでくれよう。『禍ツ夜』はわしが何としても止める。あやつはまだ未熟だがな、二人の才能を立派に受け継いでくれた」
(綾彦……ということはやっぱりあのおじいさんは……。そして俊介さんと綾祢さんは水瀬君の両親?)
 水瀬は静かにほほ笑んだ。源十郎も目を細めて笑っている。
「お前ンとこに男がいりゃあうちの娘を喜んで嫁に出してたんだがなぁ」
「ふふ、そんなことを言って。お前婿殿を殺しかけたそうじゃないか」
 がっはっはと源十郎は笑い、また酒を煽る。
「じゃあ綾彦にゆずかをやろう。ゆずかは良い娘に育ってくれた」
(…………)
「あやつが相手ではゆずかちゃんに申し訳が立たんて」
 がっはっは、ふふと二人が笑う。
「それにしても、俊介も餓鬼だ餓鬼だと思っていたら立派に子供作って俺らより先にお天道様んとこに行っちまうとはなぁ」
「……そうだな」
「おまえも鼻が高かろうよ」
「綾彦には寂しい思いをさせてしまったがな。今は一人で都会の学校に行きながら本家の依頼をこなしているが、やはり……な」
 水瀬は月を仰いで目を細めた。
 源十郎は思い出したように杯を置いて、こう切り出した。
「そういえば、こんな話を耳にしたんだがな」
 そう言って、今日お手伝いさんが言っていた話を水瀬にし始めた。
 話の内容を説明するとこんな感じだ。
 六月に入ってから、ある交差点での交通事故が多発している。そしてその被害者は小学三年生から五年生くらいの女の子で、加害者のドライバーは全員居眠り運転をしていた。
 しかし、奇妙なことにその運転手たちは皆口をそろえてその交差点に差し掛かったあたりで急に眠気が襲ってきたと言っていたらしい。
「不注意と言ったらそれまでだが、確かに少し気になるな。被害者も限定されてきているようだしな」
「うむ、うちで雇っている家政婦たちも心配だろう。そこで一条家から水瀬家への正式な依頼をしたい」
 水瀬は盃を置いて頷いた。
「それでは私が後でその依頼を――」
「いや、この依頼は九鬼御流免許皆伝、水瀬総本家次期頭首水瀬綾彦殿個人にご依頼したい」
 源十郎はそう言ってまたガハハと笑った。


「ゆずかーゆずかー」
 ふぁーっと伸びをして起きたのは午前八時。天気予報通り、日曜日も太陽は青空のもと夏の到来を待っていた。昨日は二人の話を聞いてたらいつの間にか寝てしまったようだ。
(ベッドが窓のそばにあってよかった。床で寝るなんてことにならなくて)
普段は腰まで垂らしている長い黒髪をくくり、寝ぐせをごまかす。手入れをしていないと母様にしかられてしまう。寝ぐせなんてついていた日には……
「ゆずかーゆずぐふっ!?」
「あらおじい様こんなところにいらしたのですか。全く気付きませんでしたわうふふ」
 さっきから私の名を呼んでいたのはおそらく昨日縁側でつぶれたのだろう祖父、源十郎だった。昨日空けてしまった酒瓶が廊下の隅に固めておいてある。
「これは。何かしら」
 酒瓶を重しにメモがはさんであるのを見つけた。そこには、
〈源十郎は潰れて寝てしまったようですので、私はこれにて失礼します。酒瓶をそのまま失礼するのは心苦しいですが、どうかご容赦を。 水瀬一斉〉
 と、達筆な文字で記してあった。
「んむゥ……ゆずかか?」
「あら、おはようございますおじい様」
 さっき踏んずけた場所が悪かったのか、源十郎は蒼白な顔で口に手を当てている。先ほどのメモを彼に渡す。するといくらか顔色も戻ったようで
「あいつ帰っちまいやがったのか。昔っから忙しないやつだな」
 源十郎は懐かしい物を見ているような柔らかい表情をしていた。そっとメモを懐にしまうと、私に向きなおって、ゆるんだ表情を引き締めた。
「ゆずかよ、久しぶりに帰ってきたのだ。どれほど腕を上げたのかわしに見せてみろ」
 

 一条は小さいころから、源十郎に古武術を教わってきた。一条の母も源十郎も代々教わってきたものだという。明確な流派はわからないが、小さいころから習い事の合間にやっていた修行が唯一の楽しみということもあってあまり気にならなくなっていたのも事実だ。
 久しぶりに道着に袖を通し、祖父、いや師を待つ。実家にいない間も手入れしてあったのか、日ごろ使っていた時と全く変わらない様子で箪笥の中に入っていた。やはり道着に袖を通すと気持ちも引き締まる気がする。
実家にある道場はかなり広い道場だが、今まで一条と師以外の人がここで修行をしたことは一度しか見たことがない。そう、あの時はいつだっただろう。
小さな男の子とここで組み手をした記憶が――。
 スパン! と小気味の良い音が響いて道場の引き戸が開かれる。曇り一つない道場は時がとまったように昔から何一つ変わってはいなかった。ゆっくりと道場の隅へ足を進める。丸太に荒縄を巻いただけの簡素な私の練習相手がいた。
「ただいま。久しぶり」
 そっと荒い縄をなでる。練習始めたばかりのときは足も手もこの縄ですりむいて、湯船につかるのが辛かった時期もあった。
 一度礼をして、ゆっくりと構える。
 突き、手刀、背刀、裏打ち、貫手、前蹴り、足刀、回し蹴り。
 パアン、パアン、と気持ちの良い音が、静寂の降りた道場の空気を揺らす。
 一条は一つ一つ確かめるように打つ。寮に入ってからも練習だけは一日も怠らなかった。額の汗を拭き、最後にもう一度礼をする。
「今日こそ――勝って見せる」

「おうゆずか、もう準備はできておるようだな」
 一条は坐したまま源十郎が対面に来るのを待つ。源十郎は軽い足音を立てながら道場を横切り、一条の前に座り、しばらく黙想をする。今日のイメージ。足運び、呼吸、師の動き。静かに目を開く。そこにはいつものあっけらかんとして良くも悪くもあけっぴろげで粗野な祖父はいなかった。ピリピリと道場の空気が張り詰める。そこにいるのは一人の達人。高みを目指し、そして辿り着いた到達者がいた。風通しがよく、心地よい風が吹いてくるはずなのに、一条の背中はすでに汗で道着が貼りついてる。やはり、源十郎は強い。
「それでは、参ろうか」
 右足を立て、ゆっくりと立ち上がる。昔、どうしても彼に勝ちたくて立ちあがるときを見計らって奇襲をかけたこともあったが、軽くいなされ投げ飛ばされ、目が覚めたのは家族が夕飯をすませた後だったこともあった。
(そのあとずるいことしてごめんなさいって泣きながらおじい様に謝ったな。でもおじい様はずっとやさしい笑顔で泣きやむまで頭をなでてくれてたっけ)
 一条もゆっくりと足場を確かめるように立ち上がる。冷やりとした床が集中力を高めてくれる気がする。
(いつも通りだ)
 ゆっくりと左足を後ろに回し、半身で構えをとる。踵を浮かせ、攻撃と防御へいつでも移行できる形を保つ。
 深呼吸……。
「せっ!」
 掛け声とともに左上段蹴りを放つ。大ぶりな攻撃はやはり師には通らない。頭を後ろにそらせてその蹴りを避ける。そして避けざまの右下段蹴りで軸足を崩しにくる。
「させないっ!」
 振り上げた左足を振りおろし、蹴りを止めようとする。しかし、彼の右足から蹴りは繰り出されなかった。
(フェインッ……!)
 源十郎はそのまま距離を寄せる。そのまま右中段に掌底を叩きこむ。
「ぐふっ」
肺を強打され、衝撃で息をすべて吐き出させられる。だめだ、追撃は避けないと! 章底の衝撃をそのまま利用して左の鋭い裏拳。だが源十郎はその程度で攻め手を止める事はなかった。左手の裏拳を弾き、流れるような動きでそのまま体を寄せ、左手で襟をつかまれ、投げられ、冷たい床にたたきつけられる。回復しきっていない内臓にさらなる衝撃が加わり、呼吸が上手く出来ない。
(ダメだ、動きを止めては!)
 左手をつき、上体を起こす。数瞬前頭があった所に師の右拳が突き刺さっていた。右足に力を入れ、軸を作ろうとするが、
(力が入らないっ)
 上半身の重心が揺らぎ、源十郎が視界から一瞬外れてしまう。師はこの期を逃さず追い打ちの左を容赦なくアゴに向けてうちぬいた。
カクン、と一条は自分の体に力が入らなくなり、視界が黒に染まっていくのを感じた。


 ペチペチと頬をはたかれる感覚で目が覚める。
「おじい……様?」
 そこには見慣れた祖父の顔があった。道場にかけられている時計を見ると、先ほどダウンしておよそ五分後と言ったところか。負けたことを再確認し、唇を噛む。悔しさが鉄の味になって口の中に広がる。
「受け身をちゃんと取らないから呼吸が乱れる」
 一条の正面に座った師が口を開く。
「しかし……、素直なまっすぐな子になったな。ゆずか」
源十郎が白い歯を見せて少年のように笑う。一条の頭の中は疑問符でいっぱいだ。
「最初の上段の事でしょうか」
「ガッハッハ、あれはちと素直すぎたな。よい蹴りではあったのだがそれゆえに読みやすい」
「…………」
「お前は変わり者だった。お前の母親が泣いて嫌ったこの修行をお前は目を輝かせてやりおった。毎日一日もかかさず」
 『師』の眼はいつの間にか『祖父』の眼に戻っていた。優しい、祖父の眼に。
「打たれても、蹴られても、投げられても、涙をためて歯をむき出しにしてわしに向かってきたころのお前とは違う。しかしな? まっすぐさは、お前のまっすぐさだけはまったく変わっとらん。ゆずかよ、本当に良い顔をするようになったなァ」
 ニカっとあの顔で笑う源十郎。つられて一条も笑ってしまう。
「続き、まだ、やれます」
 やっと機能を取り戻してきた肺の調子を確認して、私は立ち上がる。私はまだ、こんなもんじゃない。まだやれる。まだ、やれる。


続く

2010/08/23(Mon)22:14:42 公開 / のんたん
■この作品の著作権はのんたんさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
初投稿です。未熟な部分もあると思いますが、ご指導いただければ幸いです。
8/23 内容追加。冒頭に未追加の部分がありましたので、その部分も付けたしました。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
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2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。