『“CUBE” [上]』 ... ジャンル:リアル・現代 ミステリ
作者:コーヒーCUP
あらすじ・作品紹介
女子大生の蓮見レイは友人の紹介で、母校の後輩から「部屋から出なくなった友人を助けてほしい」と依頼される。彼女たちの母校では二ヶ月前、殺人事件が起きていて、友人はそれから急に何かに怯えだしたという。乗り気ではなかった蓮見だが、事件の陰にある「組織」が関与していると気がつき、捜査に乗り出す。 そしてその高校で次々に生徒が殺されていって……。
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ねえ知ってる? この学校には不思議な組織があるんだよ。正体不明のその組織で分かってることはすごく少ないの。六人構成で、その全員がすごく優秀な人たちなんだって。三学年だから一学年に二人ずついるの。三年間、その組織の仕事をこなしたら跡継ぎを見つけて引退する。引き継いだ子が、その組織の一員になって次の仕事をこなしていくんだって。
どういう仕事をするかって? それは分からない。誰も知らないの。ううん、その組織の人たちが知られないようにするんだ。知られちゃいけないの。それこそがその人たちの一番大切な仕事らしいよ。
知られちゃったら、その組織から脱会させられちゃうの。それはとってもいけないことなんだって。わかんないけど。
名前? ああ、その組織のね。色々呼び名はあるんだ。けど一番有名なのはやっぱりあれかな。六人構成ってところから、こう呼ばれてるの。
――“cube”って。
第一面[部屋の中の少女]
耳元で怒鳴りつけるかのようになり始めた携帯電話のアラームにたたき起こされたが、こんな乱暴なアラームを設定した覚えはなく、なのにこんな目覚め方をしなければならない自分の不遇をちょっと恨んでみた。
「どう、起きた?」
アラームが鳴りやみ、頭上からした春川の声にようやく事態を飲み込めた。
「君か、こんなひどい起こし方をしてくれたのは」
未だに昨日の後遺症でずきずきと痛む頭をゆっくりとあげると、あきれ顔の春川がセミロングの黒髪をくるくると指に絡ませていた。その手には私の安眠を妨害した犯人がきっちりといる。
「あのね、私昨日の晩にあなたに電話したわよね。今日の朝にここにお客さんを連れてくるからって。あなたは電話口で確かに、わかったってこたえたわ」
「ああ、確かにそうだ。けど一つ付け加えるなら、私は呂律も頭も回ってない状態でわかったって答えたんだよ。つまり分かってなかった」
昨晩、彼女から連絡があったのは覚えている。ただ私はそのとき居酒屋のカウンター席でたまたま隣どうしになった中年のおやじと昔の映画の話で盛り上がって、泥酔状態だった。彼女からの電話も聞き流して、わかったと答えただけだった。とりあえずそうしておけば、電話というのは成立するのだから不思議だ。
「しかしあれだな。君のモーニングコールの乱暴さはギネスものだよ」
昨日のアルコールがまだ漂っている頭で軽い冗談を言ってみるが、彼女は笑いもしない。
「あなたは何歳?」
「口説いているのかい?」
「十九歳よね」
「なんだ調べてまでいるのか。よっぽど気があるんだね。大丈夫、私は同性でも関係なく愛せるから。今晩は暇だよ」
彼女の携帯の角が私の頭に降り落とされた。ただでさえ痛いのに、この衝撃はたまらない。思わず顔がひきつった。
「どう、これでちゃんと起きたかしら」
「そうだな、はっきりと目覚めたよ。君の笑顔がさらに素敵に見える。ただおかしい。私の目の前にいる美女が少し悪魔にも見える。天使のようにかわいいのに不思議だよ」
彼女がまた携帯を降りあげたので、ホールドアップをして降参を表した。いい加減にしないとせっかくおごってもらった日本酒が頭から抜けてしまう。
「で、こんな朝にどうしたんだい。一限目は自主休講かな?」
「ええ。あなたこそまたここで泊まり込んだの?」
ゆっくりと机から起きあがってあくびをしながら体を伸ばすと、体中の骨が目覚めの音をならした。
「家に帰るより近いし、ここはついさっきまで実に静かな場所だったんだよ。君は知らないだろうけどね」
私の嫌味を彼女は片目をつり上げるだけという優しい処遇で許してくれた。もっとも言いたいことがあったのだろうが、彼女がこの部屋の静寂を破ったのは事実。彼女はそういう事実まで言い訳や論理などで誤魔化すような性格じゃない。私が彼女の好きなところの一つだ。
ここは大学のある寂れた棟の一室。室内には机といすが一つ。一応、「写真部」という名目でこの部屋を先代の先輩方が勝ち取ったが、あの人たちもここを自宅代わりに使っていて、唯一の後輩であった私が引き継いだわけだ。
「一体どれくらい飲んだのよ。すごくお酒臭いわ」
「いいことを教えてあげよう。どのくらい飲んだかんなんて覚えていたら、こんなに臭わないし、酒飲みとしては失格だな」
「失格もなにも、あなたにはお酒を飲んでいい資格もないのよ」
彼女は深々とため息をついた。彼女は私と会っていると、絶対に何度かため息をつく。私といると疲れるそうだ。なんとなくだが気持ちはわかる。しかし今更この性格は更正不能だろ。そこらの不良少年よりたちが悪いと自覚している。
「で、よく聞いてなかったけど、お客を連れてくるんじゃなかったのかい?」
「もうすぐ来るわよ。その前にトイレで顔でも洗ってきなさい」
言うことを聞かないとこの母性本能の強い友人はまた携帯を凶器にしてきそうだったので、歩く度にずきずきと痛む頭をなんとか揺らさないように扉の方へ近づいていき、ノブを掴んだ瞬間、自動的に扉が開かれた。もちろん、そんなハイテクな扉につけ変えた記憶はないし、まず大学に予算がないだろう。
扉を開けた見知らぬ少女は私の顔を見て一瞬びくっとしたが、すぐにまだ嗅ぎ慣れていない臭いに反応して素早く自らの鼻をつまんだ。どうやら居酒屋で相談にのれるお客さんではないようだ。
髪の毛を赤いリボンで結い、後ろでまとめている。頬のそばかすがせっかくの素材を邪魔してしまっているが、十分にかわいいと形容できる。白地のプリントTシャツにどういう意味か、“ROCK OUT"”と印刷されていた。恐らく意味はないんだろう。
「春川、可愛い子じゃないか。手を出してもいいかな?」
「そうね。きっと執行猶予と、友人を一人失うことですむと思うわ」
「そうか。ならちょっとホテルに予約を入れておこう」
ものすごい勢いで回転しながら飛んできた携帯電話が、私の後頭部を直撃して、一気に目の前の景色がぐらついた。気づいたときには少女は私を避けていて、私は倒れ込んでしまっていた。
「あの、大丈夫なんですか……酔っぱらってるみたいでしたけど」
お客の少女は春川が隣の部屋から持ってきた椅子に座って、私と向き合っている。彼女の隣には春川が立っていて、私がちゃんと仕事をするか見張っていて、私はというとさっきの攻撃のダメージからようやく回復しつつあるところだった。
「酔いも目も、君の隣に立っている綺麗なお姉さんが見事に覚ましてくれたよ。もっとも、ありがたいことに君のように可愛い子が目の前にいるっていう夢はまだ覚めてない」
春川が鋭い眼光を浴びせてくる。こんな冗談も許してくれないとは、この友人はいつからこんなに堅物になってしまったんだろう。
「冗談言ってないでちゃんと話を聞いてあげてよ」
「これが冗談に聞こえるなら、君はまだまだウブだな」
これ以上ふざけていると後で本気で叱られてしまう。彼女が怒るとそれはそれは厄介だ。私は咳き込んで、わざとこの場の雰囲気を作り替えた。彼女が満足そうに頷いている。
「じゃあ、まずは自己紹介をしてもらっていいかい。君のような子の名前を知れないのは不幸だし、何せ呼べないっていうのは不便だ」
私の冗談を聞き流した後、彼女は一度つばを飲み込んでゆっくりと口を開いた。
「私、鴻池有華(こうのいけゆか)って言います。高校二年です。今日はその、蓮見先輩に相談がありまして……」
「恋の相談なら乗れないよ。ああでも、その相手が私なら別だ」
この減らず口はほとんどもう無意識の産物だ。春川、許してほしい。
「いいえ、あのそんなんじゃないです。実はあの……私の高校、ご存じかも知れませんけど二ヶ月前に人が殺されまして……」
ここで私は舌打ちをして、春川に目を向けた。きっと恨めしそうな目をしていただろう。二ヶ月前に殺人事件があった高校なんて、全国がいかに広くとも一校しかないはずだ。
「春川、いやがらせかい」
「怒らないでよ。あなたなら適任だと思ったの」
はぁとため息を吐く。二ヶ月前に殺人事件があった高校……。どう考えても、私の母校だ。それ以外ない。そんなにたくさんの高校で殺人が起きるはずないし、起きてたとしたら私はパスポート片手に羽田の国際線に駆け込んでいる。
春川がなぜ彼女をここに連れてきたのかよく分かった。
「あの私、蓮見さんはすごく頭が良くて、かっこいい名探偵だって聞いたんです。だからその……」
「もう一度言ってくれ」
「あっ……はい?」
「だからもう一度言ってくれ。私ってところから聞いたんですってとこまで」
「だから、蓮見さんがすごく頭が良くて、かっこいい名探偵だって」
「もう一度」
「あのぉ、やっぱり酔ってますか」
酔っている訳じゃない。なんか相談に乗るのが嫌になってきたから、適当に話題をそらしたかっただけだ。
「で、君は私にその殺人事件を解決しろって頼みにきたのかい」
私は高校時代から趣味で人の相談事にのって、たまに厄介ごとを解決したりもしたが、殺人事件となるとそれは無理難題だ。私は警察ほどの組織力も調査力もない。彼ら以上にあるのは酒への耐性くらいだろ。
「いいえ、違います。その事件で亡くなった子自体は、私は友達でも何でもありませんでしたから。ただ、私の親友がその事件のせいで学校に来なくなったんです」
彼女はそう言うと急に椅子から立ち上がり、その勢いで座っていた椅子を倒したことも気にもせず、私の手を強く握ってきた。
「お願いです! 茜を助けてあげて下さい!」
茜、フルネームは安藤茜です。私とは中学からの付き合いで、唯一無二の親友なんですけど、二ヶ月前の事件が起きてから急におかしくなっちゃったんです。
あの日、私たちはたまたま被害者を見ちゃったんです。いや、もうその時には死んでましたけど、警察が到着するまでの間、死体は生徒に囲まれてましたから、私たちも野次馬になったんです。もちろん見て気持ちのいいものじゃありませんけど、私なんかは特別ショックもなかったんです。
けど茜は違いました。なんか死体を見るなり急に怯えだして、そのまま走って教室まで戻っていちゃったんです。最初は怖かったんだろうなとしか考えませんでしたけど、どうも違うんです。その後もずっと怯えてましたし、たまに自分の周りを警戒心むき出しの目で見るんです。みんなビックリしてました。
茜はいつもはすごく落ち着きのある静かな子なんですけど、その日以来、人が変わったみたいになりました。時々、嫌だとか、怖いとか呟いてたのを覚えてます。誰か知らない人が近づくと、大声で来るなって怒鳴るんです。ここでようやく、みんな茜に何か起こったんだって気がつきました。
私は友達ですから、やっぱりほっとけなかったんです。だから茜と二人きりの時に思いきって訊きました。あの殺人事件と、何か関係あるのって。そしたら彼女目のを色を変えて、こう答えたんです。
「……有華、次は私かも」
最初はなんのこと言ってるのかさえ分からなかったんですけど、それが分かったときは鳥肌が立ちました。だって茜の目は恐怖で震えてて、とても冗談とは思えなかったんです。だから、どうしてって訊いたんですけど、それ以降の質問は全然答えてくれませんでした。
警察の調査が滞って一週間が経つと茜はもう限界だったみたいです。クラスで急に暴れ出して、そのまま走って無断で早退して、それからは学校に来てません。何度も家に行ってるんですけど、部屋に閉じこもって出てきてくれません。出てきてよって声をかけても、扉も開けずに帰ってとだけ返されるんです。ずっとそんな押し問答が続いてます。
それで三日前、私はある提案をしたんです。警察に相談しようって。そうしたらボディガードをつけてくれるかもよって。そしたらドア越しに、すごい声で怒られました。
「勝手なことしないでよっ。迷惑だからっ」
今まで、どんなに怒ってもあんな声は出さなかったのに……。もう私じゃどうしようもないんだって痛感しました。そこでようやく私は春川さんに相談したんです。家が近所で小さい頃からお世話になってましたから。それで今日、ここに来るように言われたんです。
蓮見さん、お願いします! 茜を助けてあげて下さい!
「君が私をあそこまで嫌っているとはショックだよ。寝込んでしまいそうだ」
有華ちゃんは私が、とりあえずなんとかしてみる、なにかあったら連絡するからと言うと安心して涙ぐんだ。そんな彼女のメアドを聞き出して、今日のところは帰した。
彼女はこの部屋から出て行く最後まで、私に頭を下げてお願いしますと繰り返していた。あそこまで深くお願いされたのは初めてで、少々戸惑ってしまったが、なるべくそれを顔に出さないように努めた。
そして今部屋には春川と私が二人たたずんでいる。
「私は君のことが好きだったんだよ。わかるかい。友人と思っていたんだけどな」
「いい加減に拗ねるのはやめてよね。いくらなんでもこんなたちの悪い嫌がらせしないわよ」
「たちが悪いと思っているのに、有華ちゃんを連れてきたのかい」
もちろん嫌がらせじゃないのは分かっている。けど少しは愚痴ってもかまわないだろ。彼女が非常に厄介で、私がいやがる仕事を持ってきたのは事実なんだから。
「私が相談に乗れればよかったのだけど、殺人とかはあなたの方が調査しやすいでしょ。それに有華ちゃんはあなたの後輩だし……」
全く彼女の判断力は見事なもんだ。よく口癖のように適材適所と言っているから、その理念に従い私に相談に乗らせたんだろう。私からすれば勘弁願いたいが、有華ちゃんからすれば最善の選択に違いない。きっと彼女が相談してきた時から、私を引っ張り出すことを考えたはずだ。
恐ろしく賢い。全く素晴らしい。
「まあいい、どうせ暇人だ。人助けだけが趣味みたいなもんだから、ちゃんとするよ」
冗談抜きであんなか弱そうな女の子にあそこまで必死に頼まれたら断るなんてできない。それは私だけじゃなく、この世の人間全員がそうだ。まあ、良心があればだが。
「とりあえずはその茜って子を恐怖から解放すればいいわけだ。運が良ければ楽な仕事になる」
希薄だ。自分で言っていてそう思える。殺人事件の次の被害者になるかもしれないと怯えている人間をそう簡単に外に出せるはずない。犯人が捕まればすぐにでも出てくるだろうが、残念ながら事態というのはいつだって最悪だ。
「とにかく今日はその殺人事件について調べてみるから、その茜って子にあうのは明日だな」
「私も同行しましょうか」
春川がそう言ってくれるのはありがたい。彼女は非常に優秀だし、一緒にいると楽しくこの厄介事と向き合えるだろう。ただ、あまり気が進まない。出来るなら彼女がこのことに介入するのはここまでにしてもらいたい。なんせ事態はいつも最悪だから。
「ありがたいが一人でいいさ。一応有華ちゃんには同行してもらう。君は君の仕事をこなすといい」
彼女は大学自治会に入っていて、二回生ながら幹部だ。こんな生徒数と伝統だけが誇りみたいな大学の自治会というのは非常に仕事が多く、それでも彼女は講義を受け、サークルをしながら、バイトで汗を流しつつ、その仕事をこなしている。要領がよくないとできない所行だ。
「けど、何か責任を感じちゃうわ」
「そうかい、なら今晩私の相手をしてくれないかい。最近夜が充実してなくてね。この間相手をした男なんて最悪だっ……」
ここで言葉を切らないと彼女の頭から角が生えそうだし、その生えた角で刺されそうだ。冗談が通じない友人は中々このユーモアを分かってくれないから困る。
目を尖らせて怒る彼女を冗談だよと宥めるのに少々時間をくった。
「もう、あなたはどうしていつもこう適当なのかしら。頼りがいはあるけど、不安だわ」
「完璧な人間なんていないさ。どこかに欠陥はあるよ。君に冗談が通じないのと同じだ」
また深々とため息をつかれた。ため息をつくと不幸になるという。ならば彼女はこの短時間の間に随分と不幸になってしまったことになる。おお、なんて悲劇だ。嘆かわしい。
「はあ、もういいわ。とにかく頼んだわよ。私はもう次の講義に出なきゃいけないから」
彼女はそのまま鞄を引っさげて部屋を出て行った。全く忙しい女だ。どうして同い年で同じ性別で、同じ大学の生徒なのにこう差が生まれるんだろうか。私は五度生まれ変わっても彼女のように忙しくは生きられない。というか生きたくない。
椅子に座って窓を開け、ポケットからつぶれたタバコ箱を出して、その中から一本取りだすとくわえた。この大学では室内は全面的に禁煙だが、そんなこと守ってやる義理はない。私はニコチンとアルコールが恋人なんだ。二股なのは許してほしい。
ライターで火をつけようとしたとき、ポケットで携帯が震えだした。とりあえず火はつけずに取り出すと、さっき出て行ったばかりの春川からメールが届いていて、何事かと開いてみると、思わず苦笑が漏れてしまった。
『何度も言うけどあなたは未成年よ。あとそこは禁煙。分かったら早く家に帰ってシャワーでも浴びなさい。』
なるほど、先刻お見通しというわけだ。全く適わないな。
けどまあ、一本くらい許してほしい。いかんせん今日は朝から美女に会ったり、嫌な相談を受けたりと頭がいっぱいいっぱいなんだ。少しは頭の中を整理しないといけない。そのためにはニコチンがいるんだよ、君。
『私を気遣ってくれてありがとう。愛しているよ、マイ・ハニー』
そんな返信をした後、さっきのタバコに火をつけた。世間では嫌われ者の有毒物質たちが私の中を気持ちよく満たしていく。ああ、たまらない。いくら世間が嫌っていても私はお前を愛しているよ。
タバコを指ではさんで、口から離し煙を吐いた。
「最高だ、マイ・ハニー」
そして私はまた熱いタバコと熱いキスをする。
なんてね。
2
人は殺されるために生きていると信じている。だって、人間が一人生きてることに、一体どれほどの意味があるっていうんだろう。この世界から誰か一人消えたって、世界は変わらない。当たり前に、冷酷に。
だったらもはや無駄と形容できるその存在に、唯一絶対の価値を見いだすとしたら、それはやっぱり殺すことだと思う。生きていないと殺せない。だから人は生きている。殺されるため、その生を摘み取られるため、今こうしてかりそめの日常という平和の中で暮らしている。
狂ってるとは思わない。自分が他人と違う思想を持っているのは自覚できているが、これが狂ってるとは微塵も思わない。だって当たり前じゃないか。何のために人は動物を育てるのか。今じゃ心の癒しのためのペットが大流行しているが、大昔からそして今現在も人が動物を育てる理由は食べるためだ。殺すために、生かしておいてるんだ。
それは人も同じ。ただ殺されるために生きている。だから彼女を殺したときも、何の罪悪感も抱けなかった。どうしてと、死に際に一瞬訴えかけるように見てきたが、そんなことも分からないのかとほとほと呆れた。あんたの生存価値は、今この瞬間生まれたんだよと、その死に顔につばを吐き捨てるように言ってやったのを覚えてる。
また心の中がざわめき始めた。殺せ殺せと、誰かが胸の中で叫んでいる。分かったから落ち着いてと宥めながら、ついに計画を実行しようとしていた。
一人殺すのも二人殺すのも変わらない。だってそれだけじゃ世界は変わらない。だからいいじゃいか。せめてそんな無意味な存在を、ただこの心の欲を満たすことに利用して何が悪い?
二人目はもう決めてあって、もう計画の段取りもついてある。その後もぬかりなく、人を次々と殺せるはずだ。そう思うと、笑えてきた。法なんて知らない。捕まえれるものなら捕まえてみろ。
「その前にたくさん殺しおいてやるから」
闇の中で、悪魔よりも悪魔的な笑みを浮かべているのが、自分でもよく分かった。
3
午後からの講義の出席点を友人に託して家に帰ると、まるで人が死んだみたいな静けさに襲われたが、ありがたいことに我が家は今のところ一人も死なず、健康状態で日々を過ごしている。母はこの間から叔母たちとオーストラリアにオペラハウスを見に旅行に出かけているので、昼間に家人がいないのは当然。
父も兄もきっと世のため人のために汗水垂らして、まるでお情け程度の給料のために働いている。そのお情けが私の学費となるのだから、私としては感謝しっぱなしなわけだ。
脱衣所で着ていた物を全て脱ぎ捨てて、ぬるま湯のシャワーをまず浴びた。徐々に水温を上げていくのが、私の風呂の楽しみ方。一人だとこれを堪能できるからいい。家族がいると早く出ろと急かされてしまう。
風呂場の鏡に濡れた長い黒髪が肩に張り付いている自分の姿が映っている。自画自賛になるが無駄な贅肉もないし、女性特有のくびれもはっきりとしていて、足も長い。スタイルはいい方だろう。
まったく、医療の知識が皆無の自分が見ても健康体だと思う。なのに忙しい生活を避け続けている。多少の忙しさも耐えられるはずなんだが……。性に合わないんだろう。
風呂からあがると、出かける予定もないのに少しお洒落な服を着た。そろそろ新しい服が欲しい。今持っているのも悪くないが、飽きというものがきてしまっている。
お世辞でも面白いとはいえない昼間のワイドショーを見ながら、冷蔵庫にあった父のチューハイを一本拝借し、昼食のインスタントラーメンを味わっていると、テーブルの近くに置いてあった電話機がなり始めた。
誰からだろうと液晶画面を見ると父だったので、これは丁度いいと思って出た。
「はいもしもし。愛娘だよ、父上」
上機嫌でそう電話に出たのに、聞こえてきたのは舌打ちだった。
『何が愛娘だ、馬鹿娘め。昨日はどこにいたんだ。十九の女が無断外泊とは何事だ』
これは結構怒ってらっしゃるな。けどまあ、いつものことだ。
「怒らないでほしいね。また血圧が上がって医者の世話になるよ。まあ、入院したら私が精一杯看病してあげるから、その辺は安心してくれ」
『誰がお前なんかの世話になるか。いいからどこにいたか答えなさい』
「あんまり覚えてないんだよ。飲んだ量も、飲んだ場所も完全に抜けてしまってるんだ。ただ隣にいた中年の親父さんが映画の話がよく分かる人でね、ヒッチコックの話であんなに盛り上がったのは久々だったよ」
電話口から深い、頭の中に深海魚が浮かび上がるほど深いため息が聞こえた後、すぅっと息を吸い込む音が聞こえたので、瞬時に受話器を耳から離す。
『この馬鹿娘めっ! 何を考えてるんだっ!』
受話器と一定の距離をおいているというのにその怒鳴り声は十分に「怒鳴り声」と認識できるレベルだった。これを受話器に耳を当てながら聞くと、鼓膜に異変をきたす危険がある。
『お前はまだ未成年だろう! しかも知らない親父と飲んだだと、この馬鹿め!』
「なんだ妬いているのかい? 大丈夫さ、幼稚園の頃ちゃんと言ったろ。パパ大好きって。あんなに素直に告白したこと他にないよ。どうかな、娘に愛されているというのは」
今父がどんな表情で携帯電話を握っているのか簡単に想像できてしまう。もしも近くに同僚の人がいるのならきっとびっくりしているだろう。父が迷惑をかけて申し訳ない。
「それに未成年であることは今朝さんざん友人から説教をされてね。もう懲り懲りだ、勘弁願いたい。よく言うだろう、愛があれば年の差なんてって。それさ。十九だろうと未成年だろうと、私はお酒を愛しているんだ」
冗談ではなく本気で言っているのだが、これが通じたことは一度もない。誰も彼も私とアルコールがどれほど愛し合っているかを考えてくれないんだから、時々泣けてくる。悲恋という言葉は私たちのためにある。
『……俺の育て方が悪かったのか』
さっきまでとはうってかわった落ち込み気味の声が聞こえてきた。
「いやいや、父上は立派な父親だったよ。弱きを助け強きをくじく、まさに正義の味方だった。だから兄さんだって迷うことなく警察官になったわけじゃないか。もっと自信を持ちなよ」
『なら自信を持たせてくれ。分かるか、不良娘の親の気持ちが』
「ちょいとませてるだけさ、不良ほどじゃない。大目に見てくれ。……それでお説教はそれで終わりかな? だったら今度は私の話を聞いてほしいんだけども」
そろそろ本件に入ってしまいたい。なぜなら、私の目の前のラーメンがのびかかっているから。
『……なんだ、どうせまた厄介事に首を突っ込んでるんだろ』
「さすがは父上、よく分かってらっしゃる。二ヶ月前、私の母校で起きた事件についての資料がほしいんだ」
電話の向こうで息をのむ音がした。まあ、驚くのも仕方ない。いきなり殺人事件についての資料を見せてくれって言われたら、警察官なら誰だって驚く。それでもまだ父は慣れてる方だ。殺人事件は初めてにしても、私が警察の捜査資料を求めるのはもう何度目かも分からないのだから。
『自分が何の事件のこと言ってるのか、分かってるか』
「安心してくれ、そこまで酔っちゃいない。素面で、真剣に頼んでいるつもりだよ」
また父が黙る。もう警察に勤めて三十年以上が経つ父は、何より正義という物を重んじる人だ。曲がったことが大嫌いで、子供のころからそういう真っ直ぐな父を見つめ育ってきた。だからこそ私も兄も父を尊敬しているし、兄なんて親父のようになると断言して警察官になったんだ。
その真の警官である父は、決して規則が全てだというような正義を振りかざすことはなかった。職場で汚い正義を見てきたと、最近酔いつぶれたときに漏らしていたが、そういうのもあって、規則にとらわれることだけが正義じゃないと理解している。
だからこそ今まで職務違反でも私にこっそり捜査資料を渡したりしてくれた。私を信頼してくれてのことだし、父としては私が動く以上、困っている人がいるということが分かっているので無視できないのだ。
昔、ストーカー被害にあっている女性を父が助けたことがある。身体的な被害が出ていないと動かない警察だが、父はあまりに困っている相談者を無視できず、職務時間外に彼女の家の周りを張り込んで、そのストーカーを逮捕した。
結果父に与えられたのが、職務違反での半年間の減給だ。あの時ほど不条理を感じたことはなかったが、声を荒げて怒りを表す私とは対照的に父は非常に落ち着いていた。そして娘の頭をぽんと優しく叩くと、こう教えてくれた。
「困っている人がいて、俺はそれを助けれた。後のことはどうでもいいんだ」
ずっと幼い頃から、困っている人を無視するなと教えられてきたけど、この時初めて父がどういう覚悟でその言葉を放っていたのかを知った。
それからだろうか、私がこんな探偵みたいなことをやってるのは。
父が今悩んでいるのは捜査資料を見せることじゃない。私を、実の娘を殺人事件に介入させてしまう危険性を考えているのだ。できればそんなことはしたくない。けれど私が動くのは、困っている誰かの願いなん。それも分かっている。
ここで私がもっと押し通せば、きっと簡単に資料を見せてくれるだろうが、そうはせずに父に全てをゆだねた。私自身、この事件に介入するのは気が進まない。だからここで父に甘えた。
『……今晩は八時頃に帰れると思う。ちゃんと家にいろよ』
さんざん迷った父が出した結論は、やはり素晴らしく父らしいものだった。
「ありがとう。恩に着るよ、ダディ」
『ふん。ああ言っておくけどな、説教はまだ終わっちゃいないぞ。家に帰ったら続きをしてやる。覚悟しておけ』
悪役の捨て台詞のようにそれだけ言うと、一気に電話をきってしまった。思わずため息を吐く。父の説教か、一時間で終われば御の字で、一時間半で終われば妥当かな。それ以上も十分に予想できる。
けどまあ、多少足はしびれるだろうが、それくらいは安い物か。不良娘なりに、親の気持ちという奴をちゃんと聞こうじゃないか。昨晩といい、これからといい、父が私の身を案じてくれたりするのは事実なんだから、その代償は受けないといけない。
なんならまた、パパ大好きってまた言ってやろうか。鼻で笑われるのがオチだろうが、照れ隠しの仕方くらい、十九年も娘をやっていたら知ってるからね。
そんなつまらないことを考えていると今度は携帯が鳴った。ありがたいことにどうやら私は大人気のようだ。今度は芸能界デビューでもしてやろうか。
「もしもし」
電話をしてきたのは近所の友人で、近くの服屋がセールをしているから一緒に行こうという誘いだった。迷うことなく了解と返事をして、大急ぎでのびきったラーメンを食べ終えた。
「あっでも、七時までは帰らせてもらうよ」
そう断っておくと電話口で友人が騒ぎだした。
「ええっ、早すぎぃ。もうちょっと遊びましょうよ。あっ、居酒屋も行こう。おいしいとこ見つけたんだ」
私を引き留めるには最高の情報だった。さすがに短い付き合いじゃないなと感心したが、いくら何でも今日はこの欲に負けてはいけない。心の中で友人ではなく、アルコールにごめんなさいと詫びた。
「私だって忙しいときくらいあるんだよ」
そんなことを答えながら、父が好きなシーフードカレーの作り方の手順を必死で思い出していた。
時計の針が丁度十一時をさしたところで私はようやく解放された。九時から始まった説教は二時間という長時間に及び、その間ずっと正座をし続けていた私の足は、しびれて何の感覚もなくなってしまっていた。
そんな頼りない足で何とか自室に戻り、ベッドに身を投じた。右手には父が持って帰ってきてくれた捜査資料がある。すぐにでも中を見たいが、ひとまずは未だに父の大声のせいで違和感の残る耳と、本当に自分のものかどうか怪しく思えてきた足を休ませるため、目を瞑って休憩だ。
十分ほどそうしていたら、遠慮がちなノックの音が聞こえてきた。この家でノックなんてプライベートを重んじる道具を使用するのは、一人しかいない。私はどうぞぉと、その常識人を招き入れた。
「また変なことに手を出してるんだって」
部屋に入ってくるなり兄はそう挨拶をしてきた。
「苦労好きだね、お前は」
兄はそう言いながら私のベッドの上に座って、缶ビールを突き出してきた。私とアルコールの婚姻を認めてくれている数少ない人の一人。ありがたくそれを受け取る。
兄はというと休日の前日にしか飲まないという決まりが己の中にあるらしく、それを忠実に守っている。酔って翌日の仕事に支障を出さないようにしている様だ。飲む量さえ押さえればそんな坊さんみたいな生活はしなくて済むのにと何度言っても聞いてくれない。
しっかりした体つきに、それとは対照的なインテリの風貌。服を着ていればあんまり筋肉が目立たないので、顔だけで判断した不良に絡まれたことが何度もあるそうだ。もちろんその都度、不良たちをすでに中学生の頃にマスターしていた逮捕術で抑えこんで、弱者を獲物にするとは何事だと町中で説教を飛ばしていたらしい。
妹として、その場に居合わせなくて本当によかったと本心から思う。
「苦労好きか、そうなんだろうね。悪癖だよ。無視すればいいのに、そういう生き方が出来ないんだ」
「はは、まあだからこそ、親父も職場でお前のことを自慢してるんだろう。たまに親父の同僚の人に愚痴られるよ。娘の話になるととまらないから、勘弁してくれって」
「嬉しいねぇ。さっきまでその自慢の娘を馬鹿と連呼していたけどね」
ビールを一気に喉の奥へと流し込む。最近の若者はこのビールの苦さが嫌いだそうだ。あれはとらえ方が間違っている。その苦みこそが旨みなんだ。無茶苦茶に甘い抹茶より、ほろ苦さを含んだ抹茶の方が上品でおいしいのと一緒。
「それはお前が未成年なのに飲酒、あげく無断外泊なんてするからだろ」
「けど兄さんは今こうして十九の妹に酒を提供してるわけだ。どうしてそういう柔軟さを父上はもってくれないのかね」
「そんな柔軟さをもってたら、俺は警官にはなってないな」
「なるほど、違いない」
兄が私に酒を渡すのはもはや諦めだろう。つい半年ほど前までは私が飲んでいる姿を見かける度に、飲酒が発育途中の身体にどれほどの悪影響をもたらすかと、保健の先生より長々と語っていたが、それが馬の耳に念仏だと分かるともうそうはしなくなった。
「それで、今回は殺人事件だって。親父が肝を冷やしてたよ」
夜中にわざわざ酒を持ってきて私の気を引いて、中々本題に入らなかったところからみると、肝を冷やしているのは父だけじゃない。こんな私でも我が家ではアイドル扱いだな。
「何も殺人事件を解決しようなんてしてないさ。ちょっと困っている女の子がいてね、その子がどうも殺人事件と関係しているかもしれないんだ。してないかもしれないし、なんとも言えないけどね。それでちょっとだけ事件を知っておこと思っただけだよ」
「自分の母校で起きた事件だろ。新聞とか読んだりしてなかったのか」
「母校が甲子園で優勝したっていう記事なら読むけどね。人が死んだなんて記事は、目に入っても読まないよ」
だけどこの事件が起きたときは高校の友人たちからたくさんの憶測混じりの情報がメールで届けられた。彼らは高校時代から探偵みたいなことをやっている私の意見を聞きたがっていたが、無視し続けているとそのうちメールを送ってこなくなった。
「兄さんは現場で死体を見たのかい」
「馬鹿を言わないでくれ。ああいうのは駆けつけた警官とか、親父みたいな一課の人たちが見ればシートで包まれて、すぐに解剖に回されるんだ。見れるはずない」
兄は父から言わせれば「警官の赤ん坊」だそうだ。だから交番に勤めて、先輩警官の言うことを聞きながら、社会の汚さとか厳しさとか、組織の在り方ってやつを毎日学んでる最中。そんな兄が殺人現場でする仕事というのはとにかく上の指示に従うこと。死体を見るなんてのは含まれてない。
「親父は見たと思うけど、何も言わなかったのか」
「くれぐれも気をつけろ、気を抜くんじゃないぞってさんざん言われたさ。それに父上が何か気づいていたら、犯人の手首にはもう手錠がかけられてるはずだろ」
父親としてだけではなく、父は刑事としても有能だ。父に憧れて警官になったのは兄だけじゃない。昔父に助けられたとか、世話になったって人が多くいて、その中には警官になった人も少なくない。
「高校なんて閉鎖的な場所で起きてるのに捕まらないなんて、犯人はなかなか有能なんだろうな」
兄がどこか遠くを見つめてつぶやく。その有能な奴が誰かを特定するために、兄も父も相当苦労しているはずだ。けどここ二ヶ月、手がかりらしいものは見つかってない。
「人を殺した奴に有能な奴なんていないさ。どうしようもなく無能で愚かだ」
少なくとも私の母校を汚し、父と兄に迷惑をかけている人殺しが有能なはずない。
捜査ファイルを開けると、最初に被害者の個人情報がかかれていた。僅か十七歳で命を落とした可哀想な少女の、その一生がわずか数枚の書類にとても事務的にそつなく書かれている。そしてその書類にクリップで一枚の写真が貼られていた。
それは彼女の死体だった。殺害現場を正面から撮った一枚が丁寧につけてある。廊下でうつ伏せに倒れた彼女の胸にはまるで大きな日の丸のように血が広がっている。白地のカッターのせいで赤いのがよく目立つ。
心臓を一刺し。彼女が抵抗した様子もないから、不意打ちをしたんだろ。しかも迷いなく一気に凶器を刺したに違いない。迷っていたなら、彼女が自分の胸に刺さった異物をとろうとする。すると手が血で汚れるはずだが、彼女の血は綺麗なものだ。おそらくは刺されたのは分かっても、すぐに抜かれたから手を動かす暇もなく、息絶えた。
冷たい犯人だ。
「……うん?」
彼女の胸ばかり見ていたが、少し視線を移すと何かが見えた。彼女の手だ。何かを握ってるように見える。ファイルをめくっていき、手の部分の拡大写真を探すと、すぐにそれは見つかった。拡大写真とほか数枚、そして一枚の書類。
写真を見て分かったのは彼女が手に握っていたのはガラス製の四角い箱。とても小さめのストラップのような大きさ。その箱を様々な角度から撮った写真もある。
なんてことだ。これは、これは……。
「レイ、どうしたんだ。顔色が悪いぞ」
兄が私の異変に気がついて顔をのぞき込んでくる。
「何でもないさ。死体の写真を見たら少し気分が沈んだだけだ。私だって十九の女だからね、こういうものを見ると平然ではいれないよ」
私の言葉に兄は何か疑問を持ったようだ。さすが兄さん、妹がそんな柔な神経をしていないことを知っている。一瞬でも嘘が通じると思った私が間違ってたか。
兄が何か言おうとする前に、私は大急ぎで捜査ファイルを閉じた。
「兄さんのおかげでいい具合にアルコールが回ってきて、眠くなって来たよ。兄さん、私と同じベッドで寝る気があるなら別にかまわないが、そうじゃないなら出てくれるかい?」
私がこういう冗談を言うのはもう何百回にもなるのに、兄は未だにこれに本気で照れる。見ている方はおもしろい。バカを言うな、年頃の女がそんなことを言っていいと思ってるのか。顔を真っ赤にしながら叱ってくる。
案の定、今日も照れながら怒った後、部屋を出ていった。兄が自室に入ったのをドアに張り付けた耳で確認した後、ファイルを再び開ける。またあの箱の写真が目にはいる。
「『証の箱』……」
それがこのガラスの箱の名前だった。けど警察はまだこの事実を掴んでないようだ。被害者が握りしめていることから、何か事件に重要なことだとは分かっているみたいだけど、一体この箱がなんなのか、どういう意味を持つのか、などは検討もついていないようだ
無理もない。この名前を知っている奴らは、それを知っているとはいえない立場にいるのだから。言えば奴らは『彼ら』でなくなる。
関係しているかもしれないとは思っていたが、ここまでストレートに関わってくるとは考えもしていなかった。この箱を持っているということは、殺された子は間違いなく『彼ら』の一人だったんだろう。あんまりおもしろくない記憶が蘇る。
「……“cube”」
懐かしいその名前を口にすると、ニコチンより有毒なものを吐き出した気分になった。
4
翌日の朝、早速有華ちゃんへ電話をかけた。部屋にひきこもっているという茜ちゃんの住所を聞き出すためだ。彼女は自分も一緒に行きたいと言っていたが、今日はひとまず私一人で行くからと諦めさせた。本来ならば彼女にも来てほしかったのだけど、『証の箱』の写真を見たからには予定を狂わす必要があった。
高校の時の知り合いから通常よりもスピードが出るように改造してもらった原付にまたがって、教えてもらった住所へと向かう。別に急いではないので、法定速度で走っているが非常時はそこらののろのろと走っている乗用車くらい普通に追い越せるようにしている。
茜ちゃんの家は白くて清潔感溢れる外装のマンションの一室だった。さすがは最近のマンション、そう易々と入れない。それを知っていた有華ちゃんが先に茜ちゃんの家に知り合いが行くと伝えておいてくれたおかげで、一階の玄関口で茜ちゃんの知り合いですが告げると、頑丈なガラス張りの扉が静かな音を立てて開いた。
エレベーターで五階まで上がりながら、禁煙という張り紙を無視して一服した。さすがに他人の家で吸うのは気が引ける。今のうちにニコチンを取り入れておかないと働く頭も働かない。
エレベーターを降り、彼女の部屋の前で携帯灰皿にまだ長めのタバコを押し入れてからインターホンを押すと、はぁいという女性の声がした後、すぐさまドアのロックが解除される音がして開いた。
「玄関口でも言いましたけど、有華ちゃんと茜ちゃんの先輩です。去年、卒業しましたけど」
ドアを開けたのはまだ四十代にならないであろう小柄な女性だった。ピンクのエプロン姿がよく似合っているが、少し目のクマが目立ってしまっている。娘が心配で眠れない。全く親というのはどこも同じようなものだなと、今朝あくびを連発しながら出勤していった父を思いだした。
「ええ、ちゃんと聞いてますよ」
いきなり第三者が部屋に押しかけるというのも不自然なので有華ちゃんには私が二人の先輩であるということにしてもらっておいた。茜ちゃんと面識がないにしても、私があの二人の先輩であることは嘘じゃない。
「どうぞ。あんまり綺麗じゃないですけど」
「構いませんよ。それに十分綺麗ですよ、部屋も奥さんも」
いつもの減らず口がこんなところまで出てしまう。運良く奥さんは、あら嬉しいと目を細めてくれたから良かったものの、これが春川の様な人物だったらすぐにたたき出されたかも知れない。
茜ちゃんの部屋の周囲は物静かで、とても室内に人がいるとは思えなかった。
「つかぬ事をお伺いしますが、本当に一切部屋から出ないんですか。食事とかはどうやって」
「食事は扉の前に置いておくようにって。お盆にご飯をのせて、そうしておいたら知らない間にお盆だけになってます。お風呂は深夜に入ってるみたいですけど、変にその時に声をかけたりしたら、それさえやめてそうで怖いんです」
賢明な判断だ。ひきこもりという奴はとにかく、他者と接したくない。機会があってもそれを使わない方がいい。奥さんの言うとおり、部屋から出る唯一の機会さえ自分からなくしてしまうかもしれない。厄介なことこの上ない。
「元々遅くにお風呂には入る子でした。特についこの間から夜遅くまで友達と電話で話して、深夜に入るのが当たり前に」
私も友人と電話はするがそんな何時間もしない。長々と話していても、どういうわけか分からないが、相手が怒ってしまうのだ。なぜだろう。私は普通に話してるつもりなのに。
「部屋には最後にいつ入りました?」
「さぁ。高校に入ってからは部屋に入らせてくれませんでしたから、もう随分前です」
ああ、分かる。私の場合は中学生のときだったが、とにかく誰かが自分の部屋に入ってくるのが嫌で仕方なかった。それが例え両親や兄でも。だからその当時はよく両親と喧嘩したものだ。
「そうですか。つまらないことを聞きました。つい気になってしまったもので」
「いいえ、構いませんよ。有華ちゃんから変わった人だけど、いい人だから安心して下さいって言われてますから」
そこまで言うように指示を出した覚えはない。全く、彼女は一度しか顔を合わせていないのに早速私に『変わった人』という烙印を押したわけだ。慣れっこだが、やるせんねぇ。
「じゃあ、ちょっと茜ちゃんと二人で話したいのですが……」
さすがに家の人に邪魔ですとは言いづらいので言葉を濁したが、彼女は頷いただけですぐさま、少し離れた台所へと戻っていった。物わかりのよい人で助かった。
「さて、と。聞こえてるかい、安藤茜ちゃん。私は有華ちゃんの使いの者だ。名前は蓮見レイ。色々とまだまだこれからの十九の女だ」
扉越しに軽い自己紹介をしたのだけど、恐ろしいほどに無反応。本当に部屋の中に誰かいるのかと疑わしくなる。
「少し君と話がしたいんだよ。どうだい、これから近所のファミレスでも行かないか」
こういうのはまじめに呼びかけてもスルーされてしまう。どうしたって反応がほしいんだったら、相手の理性じゃなく感情に呼びかける方が手っとり早くていい。引きこもりを部屋から引きずり出す仕事は、もう何度かしているので慣れたものだ。
「外から部屋を見たが、カーテンまで閉めているね。陽の光くらい浴びないと健康に良くないな。まあ君くらいの年だとニキビやら、将来のシミ対策やらで太陽を敵にみなすのも無理はないが、あいつも案外いいやつでね、ひなたぼっこなんてしてると本当に落ち着く。どうだい、一緒に陽の光を堪能するのも悪くないと思うがね」
ここで数回ノックをしてみる。そして長々と独り言をしゃべっていた甲斐あって、ようやく向こう側から返答があった。
「……帰ってください」
ほかには何の音もせず、少女の枯れた声が静かにした。余りに静かなので、部屋の中にいるは少女ではなくカセットテープじゃないかと疑いたくなる。
「帰れないよ。有華ちゃんから依頼を受けた身としては、はいそうですかというわけにはいかない。できれば君を、その得体の知れない恐怖から解放させてあげたいわけだ。私は可愛い子には目がなくてね、有華ちゃんの依頼はそう簡単には断れない。ああでも、君が彼女より綺麗で、そんなのはいらないお世話だというなら、依頼はやめるよ。けどそうしてもらうにはまず君の顔を見せてもらわないと。出てきてくれないかい」
まあなんとも節操も礼儀もない言葉をこうもするすると言えるものだ。自分自身ながら呆れてしまう。
「いいから帰ってください。私はなにがあっても当分の間は誰とも会いませんし、ここから出ることもありません」
素晴らしい決意の固さ。なるほど、これはもう早速本題に入った方がよさそうだな。
念のために誰もいないかを周りを見渡して確認した後、ドアの隙間に口元を近づけて、部屋の中の少女にだけ聞こえるような、ものすごく小さな声で私はその名前を口にした。
「『証の箱』」
ここで初めて部屋の中で何かが動く音がした。どうやら中にいるのは紛れもなく人間で、カセットテープじゃないらしい。少し安心できた。
「君は現場であの箱を見た。だから今もこうして恐れている。つまり、君も『彼ら』なわけだ。違うかい?」
さっきまでとは声のトーンさえ変えてある。私が真剣であるということをしっかりと相手に伝えなければいけない。相手はなにせ『彼ら』の一員だ。そう簡単に認めてくれないだろう。
「殺された子も『彼ら』だった。そして君は震え上がったわけだ。次は私かもしれないとね。さっさと警察が犯人を捕まえれば心も休まったんだろうが、残念なことに今も犯人はのうのうと暮らしている。君はそれが怖くて仕方ない。いつ、その人殺しが自分に刃を向けるか分からないからね」
「……どうしてあなたが『証の箱』を知ってるんですか」
やっぱり、そう訊いてくると思った。彼女の疑問は当然。『彼ら』の存在はもはや全校生徒が知っているが、『証の箱』はまだその存在を知られていない。なにせそれは『彼ら』が『彼ら』である証なんだ。そう簡単にばれてはいけない。
「君も『彼ら』の一員なら、簡単に想像がつくだろ?」
少し間を置いて私は答えた。
「私も“cube”だったからさ」
彼女の返答がないのは信じてないからではなく、単純に驚いているからだろう。箱の名前を知っている私が、『彼ら』でないはずがない。
「別に珍しくないだろ。学年に二人はいるんだから」
私が“cube”を引き継いだ時、素直にそう思った。自慢じゃないが、当時から探偵みたいなことをして、成果をあげて名を馳せていた私を選ぶのは自然なことだと思う。
「ついでに言うなら、『主』の存在も知っている。どうかな、信じてもらえたかな?」
ドアの向こうで彼女がもたれかかる音が聞こえた。
「……そこにはあなた一人ですよね?」
声が震えている。一応の確認ということだろうが、それさえも怖いらしい。
「こんな話をするのに、誰かを連れてくるなんて愚は犯さないよ。安心したまえ」
「ですよね。……ええ、あなたの言うとおり、私は“cube”の一人です」
予想していたこととはいえ、何も感じないわけではない。少し考えられない出来事に、今自分が立ち会っているというのは何か感慨深いものだ。そう、これはありえない。例え片方が引退してるとはいえ“cube”同士が話している。 ビックリだな。
「『証の箱』に『主』まで知ってるんだったら、詳しい説明はいらないでしょう。殺された子は“cube”で、あれを握りしめて死んでいたと言うことは……」
「うん、君の推理通りだろうね。彼女は“cube”として殺されたんだ。そしてそんなことが出来るのは、一人しかいない。犯人は……『主』だ」
自分で言っていておきながらも、本当に現実味がない。 私は今警察が尻尾も掴んでいない殺人犯を指名したんだ。まるで本当に推理小説に出てくる名探偵みたいじゃないか。
「なら、私は放っておいて下さい。分かりますよね、下手をすれば殺されるんです」
「いや、それはおかしい。なんで『主』は理由もなく、殺したんだ。それが全く分からない」
「そんなのどうでもいいんです。頭がおかしいんですよ、今の『主』は。きっと快楽殺人者かなにかです。自分の立場を利用して、私たちを殺そうとしてるんです。そうです、そうしか考えられない」
理性ではこの話は例え家の中とはいえ静かにしないといけないと分かっていても、彼女の中でとうに限界を超えていた精神的不安が、彼女の舌をまくし立てて、最後の方は大声にまではなっていなかったけど、静かな叫びとなっていた。
「つまり、しばらく学校には来ないんだな?」
「当たり前です。もうこのまま退学になってもいいですから、私はもうあの学校には、あの組織には関わりたくない……」
十七の少女の人生をかけた大きな決断だ。高校中退というのが後の彼女の人生にどういうふうに影響するか、ちゃんと分かったうえで言っているんだろう。彼女は何においても命を優先している。賢い。
「うん、その答えを聞いて安心したよ。けど今すぐ辞めなくてもいい。しばらくしたら、犯人は捕まるかもしれない。君が依頼すれば、もっと確率は高まるねぇ」
とても正気の沙汰とは思えない。私は一体、何を言っているんだろうか。一時の感情で、とんでもないことを言っている。しかも最悪なことに、それを自覚してるくせに直そうとしてない。正真正銘の愚か者だ。
「あなたが、犯人を、『主』を捕まえるっていうんですか」
声だけで信じていないというのがよく分かった。無理もないか。
「私はこう見えても、いや見えてないか。とにかく、結構有能なつもりだよ。すくなくとも、“cube”になれるくらいは」
実は色々と付け足さないといけない説明があるのだけれど、話が面倒になるので嘘にならない程度に誤魔化した。彼女は何も言わず、ドアの向こうに呼吸の音だけさせている。 死ぬって言うのは、呼吸がやむってこと。ただそれだけ。ただそれだけが、見たこともない化け物みたいに恐ろしい。
「依頼料は、いりませんよね」
「高校生から金をとる趣味はない。ただ、依頼してくれ。私は正当に、『主』と向き合う理由がほしいだけだ」
色々と『主』には貸しがある。私の高校時代の面白くない思い出の多くの側面を、あいつが持っている。例え、引き継がれていたとしてもその恨みが消えたりしない。けど感情で動くのは嫌だ。私は父の教えの通り、困っている人を助けたい。
「……じゃあ、お願いします。殺された子と私と『主』を除いても、あそこにはまだ三人の“cube”がいるはずです。仲間意識ってわけじゃありませんけど、お願いです。彼らを助けてあげて下さいっ」
ドア越しの彼女の声は今までの怯えじゃなくて、苦痛で揺れていたように思えた。彼女自身が何もできないという、自分がどうしようもなく惨めに思える、あの無力感。それに苛まれていた。
「よし、契約成立だ」
肺の中に新しい空気をたらふく吸い込んだ。
「まかせておけ」
何かをこなせる自信も、『主』を突き止められる確信もないのに無責任にそう安心させた。
「じゃあこれで失礼するよ。一応連絡先を残していく。何かあったら連絡してくれ」
最初から用意しておいた自分のメールアドレスと携帯番号を書いた紙を小さく折り畳んで、ドアの隙間に入れた。部屋の中でも携帯くらいあるだろう。何かったらすぐに連絡してくれればいいが。
奥さんにまた来ますと別れを告げて、部屋をでるとさっそくタバコをくわえて火をつける。ニコチンがいい具合に頭の中を刺激して、思考に落ち着きをもたらしてくれた。昨日の夜に考えついた推理は、どうやら当たってしまっているらしい。
あの学校で「彼ら」――“cube”が殺された。まだ一人だが、増える可能性がある。ほらみろ、事態はいつだって最悪じゃないか。連続殺人の可能性なんて出てきて欲しくなかった。そんなのは映画とかだけにしてほしい。
「現実味がないよ、全くさ」
煙を吐き出すと同時に、そんな愚痴をこぼしてみた。
後でイヤと言うほどの現実味を突きつけられるなんて覚悟していなかったくせに。
とにかくこのことを父に報告すべきだと考えた私は、家に帰るとすぐさまに父に電話をしたのだけど、仕事中で忙しいのか出てくれなかった。着信が残るので、時間があったら向こうから連絡しかえしてくれるだろうと考えて、今度は春川に連絡をいれた。
「ハロォ、ハニー、お元気かな」
「あなたのせいで少し元気じゃなくなったわ」
どうして私がこう元気よく電話をしているのに相手はのってくれないんだろう。呪いかもしれない。一度祓いにでもいくか。
「冷たいことは言うもんじゃないよ。まあ綺麗な花にはトゲがあるらしいから、それなんだろうね」
「……切っていいのかしら」
どうやら彼女は電話口でも冗談を許してくれないらしい。少しだけ彼女の将来が不安になった。もっと柔軟に生きないといけない。
「分かった分かった、怒らないでほしいね。ちょっとお願い事があったのさ。君にしか頼めないんだよ、ハニー」
「とにかくその呼び方をやめて」
「マイ・スイート・ハニー」
電話が切られてしまった。おふざけが過ぎたようだ。けれど、呼び方を変えろと言ったから要望通り単語を二つも付け足したのに、この冷たさはちょっとばかりひどいんじゃないかな。
再度電話をかけると怒っていたのか、なんと三十秒以上コールを聞かされることになった。
「反省した?」
彼女は実は結構なサドなんじゃないだろうか。
「しましたよ。いい加減ちゃんと話そう」
「分かったわ。で、お願いって言うのは茜ちゃんの監視かしら」
さすがは春川、本題に入る前にそういうことが予想出来るのだからすばらしい。
彼女は有華ちゃんと近所だと言っていた。だとすると有華ちゃんと同じ中学の茜ちゃんも近所だろう。私が、君にしか頼めないって言った時点で頼み事を推測したんだ。
「正解だよ。監視というか、護衛だね」
「彼女を見守ってろってこと?」
「ああ。身に危険が迫っているんだ。そうは言っても彼女は室内。一応安全だ。君には彼女のマンションの近くに不審者がいないかどうか、そういうのを調べておいてほしい。出来るときでいいさ。忙しいのは分かっているからね。悪いけど有華ちゃんには余計な心配はかけさせたくないからできない。私も極力協力するが、少し家が離れてるからね」
今私が出来る対策というは非常に少ない。明日になれば行動を起こすつもりだが、今はとりあえず茜ちゃんの安全確保だ。もっと彼女の身辺を固めてやりたいが、私の力じゃ限度ってものがある。父に事情を話せば何とかなるかもしれないが、それも未だに不明だ。父が納得しても、警察が納得するとは限らない。
「責任重大ね。けど任せてちょうだい」
心強い言葉だ。彼女が任せろと言ったからには、完璧に仕事をこなすに違いない。
「頼もしいよ。ありがとう、マイ・ラヴァー」
ご要望通り呼び方を変えたのに、乱暴に電話をきられた。あれで案外わがままなんだから。もしかしたら将来クレーマーという奴になるじゃないだろうか。それはいけない。今度注意してやらないと。
父からの連絡を待つ間、無駄に過ごすわけにはいかない。さっそく自室に戻って、机の上に置いてあった捜査ファイルを開いて、昨晩大雑把に目を通したのを、もっと細かく読んでいく。自分でもすごいと思うのだけど、私はこういう時の集中力は半端じゃない。おそらく隕石が隣に落ちたって気がつかない。
ああ、でも美女や美男子が隣にいたら話は別だ。付け加えておくよ。
二ヶ月前、我が母校、赤山学院高校で起きた殺人事件の被害者は三年生の女子、黒沢明子だった。彼女が発見されたのは昼休みで、遺体は渡り廊下に倒れていた。第一発見者の生徒はすぐさま職員室へ行き、教師たちに事情を説明。教師たちは生徒の様子から嘘じゃないと断定し、その場に駆けつける者、警察などに連絡をいれる者というふうに瞬時に班分けした。
教師たちがその場に駆けつけたときはすでに多くの生徒が彼女を囲っていたが、常識として彼女からは一定の距離は保っていた。胸に突き刺さったナイフ、白目をむいた目などからすでに死亡しているであろうと分かっていたが、一応脈を取って死亡を確認した。
それから警察が駆けつけるまでの間、教師たちはすぐに生徒に自分の教室へ帰るよう指示したが言うことを聞く生徒は少なかった。警察が現場に到着して、ようやく事態の深刻さに気がついた生徒たちが教室へ戻った。
死体はすぐに検分が行われ、そこで何かを握っていることが判明した。警察はこれを重要な証拠になりうるとして厳重に管理。
それ以外では特徴や異常はなかったため、すぐに解剖に回れた。
当初、警察としては犯人は簡単に捕まるだろうと、たかをくくっていた。警察という組織から言わせれば、高校という封鎖空間での殺人は最初から容疑者が絞られている有利な場所。被害者の身元もすぐに分かる。こういう事件の全てを担う、初動捜査は順良に滑り出すように思われた。
しかし、私の口癖であるが、事態はいつだって最悪。なんと予想に反して捜査は進まなかった。彼女の身近な人物のアリバイは、見事なまでにとれていた。というのも彼女が死んだのは、四限目の最中。彼女は体調不良で保健室へ行き、少し休んでから遅刻でも良いから授業に出ようと教室に戻っていたところを襲われたのだ。もちろん、生徒の大多数はアリバイが取れてしまう。
ならば授業をさぼっていた連中に犯人がいるのかというと、それはまた違う。授業をさぼっていた連中も数名いたが、全員がグラウンドにいた。そしてそいつらは体育の授業を受けていた生徒から目撃されている。
まさか雲行きが怪しくなるなんて思ってもいなかったが、警察の捜査はそこで止まってしまい、現在にいたる。教師たちにアリバイは確認したが、授業をしていた教師は生徒が、職員室にいた教師は他の教師がアリバイを証言している。
次に黒沢明子の個人情報。三年生で、成績は良好。国立大を目指し勉強をしていたらしいが、今年の春までは書道部にいて全国大会で最優秀賞を獲っているし、生活面では風紀委員に属していて教師たちの評判もすこぶるいい。模範的な生徒だったと、口をそろえているらしい。
友人たちからの評判も悪くない。テスト前になると勉強のわからない子を相手に個人レッスンをしたり、ノートを写させてあげたりするだけでなく、女子高生という恋に悩める乙女たちの相談にもいつも親身になってくれていたそうだ。
ただ怒ると少しヒステリー気味になるらしく、去年一人の友人と喧嘩になり、教室で一騒動起こして最終的には窓ガラスを二枚割るという結果を招いていた。
恋人と呼ばれる人の影が事件後、数名にいたことが発覚。ただ黒沢自身は告白などしていなくて、相手の男たちが一方的に彼女に近づいていたらしい。彼女としては誰も恋人として認めてなくて、事実彼らの告白はすべて断っていた。ただ自分に好意をよせる男がいる方がいいと考えたのか、冷たく突き放すのでなく、なんとも曖昧な、友人か恋人か微妙な線で付き合いを続けていた。
家族関係は両親とともに学校から少し離れた場所に住んでいた。兄弟はなくて一人っ子。両親はよく娘の自慢を近隣住民にしていたし、娘の方も友人たちに両親の愚痴をこぼすことは少なく、仲良し家族だった様だ。
警察は恋人未満の男たちの調査はもう済ませていた。七名の男たちは全員が高校生で、四名が同じ学校の生徒。アリバイは簡単に取れてしまった。他校の生徒もまた同じ。
色々な線で捜査を進めているらしいが、核心には近づけていない。無理もない。『証の箱』の名前さえ分かっていないのに、この事件を解決しようとするのは難しすぎる。もちろんこの情報だけで捜査が一気に進むわけはないだろうが、方向性くらいは示せるはずだ。
ファイルを一旦閉じて、すぐさまタバコをくわえた。窓の外を見てみると、もう暗くなってしまっている。やっぱり私の集中力はすごい。一体どれくらいこのファイルと見つめあっていたのか。これが美女かイケメンだったら、どれだけいいだろう。
くわえタバコで部屋から出る。夕飯の支度をしないといけない。今日はなにがいいだろう。ここ数日夕飯を作っているだけでメニューに迷ってしまうのに、母はこんな生活を二十年以上続けている。偉大だ。
冷蔵庫からまず最初に缶ビールを取り出した。ぷしゅっという実に爽快な音をたてながらあけて、ごくりと一口飲んだ。飲みながら調理をするのがマイスタイルだ。
とにかくサラダは作らないといけない。健康維持に野菜は必要不可欠。無駄なカロリーも撮らずに済むので私は重宝している。野菜室から使えそうなものを取り出して水で満たしたボールに突っ込んだ。
タバコの灰が野菜に落ちてはいけないので、灰皿に捨てたとき、ポケットの中で携帯が震えだした。父かなと思ったが、液晶には春川の名前が映されていた。
「どうしたんだい」
最初に電話口から聞こえてきたのは、春川の声ではなかった。周りの騒音。何かが起きたのだろか、非常に騒がしく慌ただしい声が飛び交っていて、それがこっちまで届いた。
「ごめんなさいっ」
聞こえてきた彼女の声にはいつもの落ち着きはなく、かなり切羽詰まっていた。
「どうしたんだい、何があったんだ」
この瞬間、一気に鼓動が早くなり、胸騒ぎがし始めた。嫌な予感がする。想定をしていない、想像もしたくない事態が電話の向こうで起きている。それだけが電話口の雰囲気で伝わってきていた。
「燃えてるのよっ」
一瞬、全ての思考が止まって頭が真っ白になった。外で風に吹き付けられて揺れていた網戸の音や、水道水が野菜に当たる音、付けっぱなしにしていたテレビの音が瞬時に聞こえなくなり、嫌な無音の世界に引き込まれた。
「聞こえてるの、レイ。燃えてるのよ、茜ちゃんの家が。あの部屋が、すごい勢いで燃えてるのっ!」
ようやく何かの音が聞こえた。鈍った、それでいて速い、小さくも大きくもない音。それが自分の手から滑り落ちた携帯が、無駄に綺麗に掃除された床に落ちた音だと気がついた時には、素早くそれを拾い上げ玄関へ向かって駆けだしていた。
最悪とか、そんな次元の話じゃなくなってしまった。
こういう時のために改造しておいた原付で、どう考えても交通違反のスピードを出しながら茜ちゃんのマンションに向かった。前方にあった車のほとんどを追い越し、信号も無視して、ただひたすら原付を飛ばして現場に向かいながらも、頭の中ではずっと後悔の言葉が浮べていた。
どうしてこんなことも考えられなかった。危ないと分かっていたのに、どうしてもっとちゃんとした対策を練らなかった。相手がまともじゃないことくらい、分かっていたのに……。事態はいつも最悪だって、自分で言っておいてどうしてこんなことにしてしまっているんだ……。
何度もクラクションを鳴らされながら、ようやくマンションに着いたとき、私はその場に膝をつきそうになった。今朝訪ねた部屋が、赤く激しい炎とどす黒い煙に覆われていて、辺りには消防車やパトカーなどが止まっていて、近隣やマンションの住民が灼熱のその部屋を見上げて息を飲んでいた。
原付をその場に停め、人だかりの中を進んでマンショの入り口を目指していると、その場に座り込んでいる有華ちゃんと、彼女を優しく抱いている春川を見つけた。
「春川……」
私が声をかけると彼女は緊張して堅くなった顔を向けたが、私だと分かると少し安心したのか、ほっとした表情になる。
「来てくれたのね」
「そりゃ来る、当然だ。それで状況は?」
質問に春川は首を小さく横に振った。
「分からないわ。私が来たときにはもうこんな状況で、有華ちゃんは私より遅れてきたから……」
その有華ちゃんはその場に崩れおちていて、肩を揺らしていた。親友の家が目の前で炎に包まれているんじゃ仕方ない。ここは春川に任せた方が良い。
「情報を集めてくる」
春川は私の言葉に頷き返すと、有華ちゃんの背中をさすりながら宥めだした。その姿を横目にしながら、マンションの玄関口へと向かう。徐々に人が多くなっていき、かき分けるのに疲れてきた頃、ようやくガラスの扉の玄関へとたどり着いた。
「レイ、お前どうしてここにいるんだ」
玄関口には警察の制服を着た兄が押し寄せる人々を“KEEP OUT”と書かれた黄色いテープと共に足止めしていた。予想外の事に驚きを隠せなかったが、驚いてる暇はなかった。
「兄さんか。ちょうどいい。どうなってるんだ。今、あそこはどうなってるんだ」
兄に詰め寄りながら訊くと兄は首を振った。
「まだ状況があんまり分かってない。ただ、あそこには一人女の子がいるらしい。母親は買い物に出かけていて、帰ってきたら家が燃えてたそうだ。今消防が中に入って……」
兄が言葉を続けようとしたときに、急に辺りが騒がしくなり、ついには悲鳴まで聞こえだしたので訳が分からないと思いながらも、あの部屋を見上げるとそこに、火だるまの人間が部屋の前に立っていた。
炎に包まれて熱くて苦しんでいる。頭を抱えて、何かを必死に叫んでいるように見えたる。正視し続けていたが、思わず目を背けたくなる。あれが人間か。あの赤い炎に包まれた、黒い影が本当に人なのか。
「茜っ」
遠くから有華ちゃんの声が聞こえた。あれはやはり茜ちゃんなのか。なんとかして助け出さないといけないと駆け出そうとしたとき、今度は彼女の絶叫が耳をつんざいた。
火だるまの人間が自分の体にまとわりついた炎を払いのけようと暴れているうちに、力尽きたのか単にバランスを失ったのか分からないが、そのまま手すりを超えて頭を地表に向けて真っ逆さまに落ちていった。
何かが潰れる鈍く、重い音。続けて今まで聞いたこともないような茜ちゃんの絶叫。
「茜っ、茜っ」
地に落ちたそれに駆け寄ろうとする有華ちゃんを春川や、周りの人間が止めにかかる。彼女は彼らの手を何とか振りほどこうとするが、そのか弱いうえに震えた手では、どうすることもできなくてただ親友の名前を呼び続けることしかできなくなった。
警官や消防士たちが急いで未だに燃えるあの影に駆け寄って、すばやく消化器をかけていく。兄は一瞬、絶望に打ちひしがれている妹に付き添うべきか、同僚や先輩たちに従うべきかを迷っていたが、私が首を左右に振ると影の元へ走っていった。
そこでようやく情けなく、膝を地面につけた。全身に力が入らないうえ、訳の分からない手の震えが止まらない。さすがにここまでアル中になった覚えはないのに、震えはやまずそれどこか大きくなっているように思えた。それだけじゃなくて呼吸が明らかに激しくなってきている。
落ち着けと自分に言い聞かせていると、逆に何か落ち着かなくなる。胸の内、何かがこみ上げてきたとき、ポケットの中で携帯が震えだした。こんな時に誰だと、思って見ると、液晶には非通知表示がされている。
「……もしもし」
なんとか絞り出した声でそう出ると、ふふという笑い声が最初に聞こえた。
『ザーンネーン。間に合わなかったねぇ』
馬鹿みたいに明るい声で、心底楽しそう。そんな陽気な空気が電話口から伝わってきた。けどその声は機械か何かでぼかされていて、はっきりとはしてない。ビデオを早送りにしたときみたいな、異様に滑りのいい声。そして時々テレビの砂嵐みたいな音も聞こえてくる。
『犯罪者は芸術家で、探偵は批評家。誰の台詞か知らないけど、よく言えてると思うよ。けど惜しいなぁ、あなたは批評家にもなれてない』
携帯を握る手に自然と力が入っていく。震えは止まっていないが、震えてる理由が明らかに変わっていた。今、これ以上はないと言うほど明確に私を支配している感情は怒り。それが手だけじゃなく心とか、そういうものまで震え上がらせている。
「……誰だ、お前は」
素直に答えるわけもないのに、そう訊くと相手は甲高い笑い声をあげた。
『もう、なに言ってんのかな。名前は教えないけど、私が誰かは知ってるでしょ』
奥歯を強く、強くかみしめる。
「お前が『主』かっ」
『さて、どうだろうね。というかさ、それを特定するのがあなたの仕事でしょ、メェータンテェー』
ぶつりと無愛想に電話が切れると同時に、携帯電話を地面にたたきつけた。
顔を空に向けて、口を思いっきり開いて叫んだ。何を叫んだのかは自分でも分からない。ただこの胸の中に広がって、充満して、溢れかえった感情を咆哮することではき出そうとした。けど、ちっとも気分は変わらない。
ぽつりと、一滴の雨が落ちてきた。
第二面[探偵の凱旋]
相変わらずぱっとしない校舎だと思いながらも、ぱっとする校舎というのもどうかと思うなと考えていた。不機嫌なエンジン音をたてながら、原付は徐々に母校へと近づいていく。だんだんと校舎が大きく見えてきた。
青春とか、思春期とかそういうものをひっくるめてあそこに置いてきてからもう一年以上が経ったのかと思うと、嘘みたいで少し疑わしくなる。卒業式が昨日のこと様だというとさすがに嘘になるけど。
校門の前には見るからに優しそうな老人が警備服を着て立っている。卒業生で中に入れて欲しいというと、本当にこれで防犯対策になるのかと問いたくなるような手続き、つまり書類に住所と名前の記載をして、門を開けてもらった。
「ところで何の用事があるんですか」
こんな若い娘にまで敬語で接することはないだろう。
「会いに来たのさ。会ったこともない恋人にね」
遠回しに答えると首を傾げられたのでここで終わりにした。頭を下げて、来客用の駐輪場に原付を乱暴に突っ込んで、職員用の玄関から校舎に入った。
こういう心情でなければ、母校へ久々に来たというのだからもっと何か感じることがあるんだろうが、生憎そういう気分じゃない。その証拠にただここにいるだけで落ち着かない。
在校中はノックせず開けていた職員室の扉をノックをしてから、丁寧に開ける。いくつかの顔が誰が入ってきた確認しようとして私を見る。そして来訪者が私だと知ると、おおいに顔をしかめて見せた。
「なんだい、それが美女に見せる反応かい。ちょっとどうかと思うよ」
在校中と変わらない減らず口を叩いてやると、久しぶりに彼らのため息が聞けた。名前を覚えている教師、そうでない教師といるが、ようやく母校へ帰ってきたんだと思えた。
ざわついている職員室を見渡すと少し遠くから、私のことをまっすぐ見てる茶色いスーツの四十代くらいのおじさんを発見。手を振ってみるが無反応。お変わり無いようで安心した。
「久しぶりだね、ティーチャー。蓮見だよ」
彼の前に行って必要もないだろうが挨拶すると、顔を崩しもしない返事をされた。
「ああ、久しぶりだな。遅かったじゃないか」
この海野先生はまだ四十代なのにそのしわがれた声のせいで声だけはうんと年をとってしまっている。どういう運命が働いたか分からないが、この先生は三年間ずっと私の担任という重荷を背負った。本人が重いと感じていたかは知らないが。
「さすがに手厳しいね。その通りなんだよ」
そう先生の言うと通り。遅すぎた。そのせいで既に一人犠牲になってしまっている。
「昨日はお前のお父さんが来た」
「聞いているよ。無駄骨だったようだけどね」
父が昨日ここに足を運んだのはちゃんと聞いている。安藤茜についての調査と、学校側にある要求をしに行ったのだけれど要求は受け入れられなかったそうだ。そのことで随分と怒っていた。
「お前が来たってことはただ事じゃないんだな」
「人が死んでいるんだ。ただ事じゃないのは確かだね」
「依頼主が誰かは知らないが、協力できることはする。遠慮なく言いなさい」
思わず小さく笑いが漏れてしまった。この言葉、在学中に何度も聞かされた。海野先生は私の探偵の真似事を注意するどころか、積極的に協力してくれた人で、かなり恩義に感じている。ほとんどの教師が私と関わるのを疎ましく思っていたのに、先生だけはごく普通に接せしてもくれた。
今だってこんな非常識な状況なのにそれを嘆くこともなく、相変わらずの冷静さで対処している。先生じゃなきゃ三年なんて長い年月、私とはつき合えなかっただろう。
「頼もしいよ。ありがたく、そうさせてもらう。ところで春日の婆さんはいるかな」
私の質問に小さく一度だけうなずく。
「ああ、学園長なら奥の部屋にいる。会うのか」
「会いたか無いけどね。一応挨拶しとくだけさ」
この時ばかりはさすがの先生も少し不安げな顔をしたが、どうせ私になにを言っても聞かないというのを知っているので何も言わずに仕事へ戻った。
職員室の奥にその扉はある。木製で見るからに高級そうな作り。なんとノブは金色。学園長室だかなんだか知らないが、どうしてこんなところに学生の親が払ったお金が使われないといけないのか。
乱暴なノックを二回して、返事も待たずノブに手をかけてぐるりと回した。いかにも最高責任者にふさわしい部屋だ。書類がきれいに積まれた机に、その前には黒い、これまた高そうなソファーに挟まれたガラスのテーブル。来客っていうのはここまでしてもてなさないといけないのか。
突然で失礼な客の襲来に、机で書類を読んでいた彼女は顔を上げた。
「久しぶりだね、婆さん」
勧められもしてないのに堂々とソファーに腰を下ろした。座り心地は最高。ここで寝たらさぞ気持ちいいだろう。婆さんがいなかったらの話だけど。
「……来るんじゃないかと思ってたわ。ええ、久しぶりね」
マッシュルームカットの髪で赤いフレームの老眼鏡をかけ、化粧品では隠せないしわを口元によせた老女。在学中から変わらない黒色の、まるで喪服みたいなスーツを着こなした彼女は私をまっすぐ見て、口元を緩めた。私も同じ仕草をしてみせる。
そして異口同音で素直になった。
「二度と会いたくなかった」
同じタイミングで同じ台詞。やはりお互いにお互いが嫌いだということだけは気が合うようだ。
「昨日はお父様がいらしたわ」
「随分とご立腹だったよ。あの人は怒ると面倒なんだからやめてほしいね」
「それは無理ね。無茶な要求をしてきたのはあちらだから」
無茶な要求。彼女から言わせればそうなのだろうが、私や父から言わせればやらなきゃならないことだ。
「この学校を無期限で休校させる。ただそれだけだろ」
それが昨日父がこの婆さんにした要求。生徒が二人続けて殺された学校だ。そういうこともしなきゃいけないだろう。
「それだけって簡単に言ってくれるわ。たとえば一日、台風とかで臨時休校になるだけでどれだけ業務に差し障りが生まれると思ってるの」
「知ったこっちゃないね。婆さん、人が二人殺されてるんだ。わかってるのか。業務なんか二の次のはずだ。優先すべきは生徒の命。違うかい」
熱弁する私を婆さんは唇を尖らせて笑った。
「あなたこそ分かってるの。安藤茜は自殺よ」
彼女の発言に思わず立ち上がってしまった。そんな私の反応がおもしろかったらしく、さらに唇を曲げる。
「違う。あれは自殺じゃない。あれは殺人だ」
安藤茜は自殺した。その仮説を警察が打ち出したとき、私は思わず何を考えてるんだと何の罪もない父に怒鳴り、怒りをぶちまけた。
殺人じゃないかという見方もある。しかし、マンションの出入り口に設けられていた監視カメラが実に鬱陶しい状況を語ってくれている。あの日、私がマンションを出た後、住民以外にマンション内に入ったものはいなかった。
茜ちゃんの母親が買い物に出かけた直後、部屋は燃え始めている。タイミングが良すぎる。母親はマンションの廊下などでは誰かとすれ違うことおもなかったそうだ。だから、母親が部屋にいないと確認できたのは茜ちゃんだけ。
あの部屋の火事の火元は茜ちゃんの部屋だと判明している。丁寧にガソリンなども使用された形跡があったそうだ。
マンション内に何者か潜んでる可能性はない。もしマンションの住民に犯人がいたとしても、どうやって引きこもりの茜ちゃんしかいないあの部屋に入ったのか。入れたところでその直後に火を放つ理由が検討もつかない。
こういう話になってくると、自殺の可能性が浮上するのは自然なことだった。
「殺人だって証拠は出てないって聞いてるわ」
「じゃあ聞くが、たまたま二ヶ月前に殺人のあった高校の生徒が、たまたま不審な火事で死んだ。そしてこの二つの事件は無関係。あんたはそう言うのか」
そんな意味不明で奇跡的な運命があるとしたら、私は神様をこれ以上はないと言うほど嫌いになってやろう。あるはずないじゃないか。そんなことがあるはずない。
「あんたは知らないだろうが、茜ちゃんは自分は殺されるかもしれないと怯えていたんだ」「よく若い子にあるパターンね。被害妄想よ」
あまりに無茶苦茶だ。我慢しようと思っていたがこれ以上はまともに聞いていられない。タバコを取りだして、くわえて火をつけると頭に上っていた血が少し落ち着いた。
この婆さんと話が合わないのは初めて会ったときからだ。そして今現在も少しも分かち合えない。
「……つまりどうしたって、休校にする気はないってことかい」
最終確認だった。確認するほどのことじゃないとは分かっていたが。
「ええ、私は警察のエゴにも、あなたの探偵ごっこにも付き合う気も無いわ」
座り心地のよかったソファーから立ち上がった。もうここにいる用もない。交渉は決裂。もとより私も彼女もお互いに話す気なんてなかった。自分の言い分を通したかっただけだ。そしてこの場では私に勝ち目はない。
「あんたの頭の固さはギネスものだ。年は取りたくないよ」
天井に向かって煙を吐き出すついで嫌みを言ってやった。
「ここまで生徒のことを分かっていない人だとは思ってなかったよ」
在学中から私のしてることに理解しようとせず、ひどいときは妨害さえしてきた。どれだけ分かってくれと懇願しても、あなたの行為は生意気だとか、警察官の子だからって調子にのるなとか罵られ、ちっとも分かり合えなかった。
「生徒のことを考えてのことよ。休校にすると一番困るのは生徒なの。受験で忙しい三年生の子たちだっているの」
「死んだら受験も何もない。受験に命をかけるって奴らはいるだろうが、本当の命をかけてどうする」
この忌まわしい空間からとっとと出ていこう。別れの挨拶もしないまま嫌みなドアへ近づきノブを握り、それを回して、少しだけドアが開いたところで私は振り返った。
「言っといてやる、婆さん。下手をするとあと三人死ぬ」
婆さんは再び書類と向き合っていて、私の方を見向きもしない。そんなに書類が好きなら仕事と熟年結婚でもするといい。
「これは警告だよ。覚えておいてくれ」
最低限、これだけは言っておこうと思った。相手は聞く気もないのだろうが、後で文句を言われるのも面倒だし、それが唯一できることだった。
学園長室から出てきた私を教師たちがまじまじと見てくるので、ついで宣言しておいた。
「ああ、しばらく校内をうろつくけど邪魔にならないようにするから我慢してくれ」
誰の許可も得ていないが既に私の中では決定事項。教師たちはあからさまに顔をしかめたが、事情を察しているので文句を言ってくる人はいない。理解のある人たちで助かった。
職員室から出ると見知った顔を見つけた。この学校の制服を身につけた有華ちゃんが私を見ると、目を輝かせてくれたのでつい微笑んでしまう。
「本当に来てくれたんですね。母校は懐かしいですか」
「茜ちゃんとの約束だし、君への償いがあるからね。まあ、母校の懐かしさなんて君のかわいさに比べたらなんてことはない」
この事件の犯人を捕まえる。あの日、私は茜ちゃんにそう依頼させた。とうの彼女を犠牲にしてしまったものの、それがなくなったわけじゃない。それどころか彼女のためにもなんとしてでも、『主』を突き止めないと。
そして私が何より負い目に感じているのは、今目の前にいる少女の依頼を失敗に終わらせてしまったこと。それどころか、彼女には親友が焼け死ぬ姿を見せてしまった。彼女から何度も蓮見さんのせいじゃないと言われたが、責任を感じないわけにはいかない。
「またそれですか。私なんかもういいじゃないですか。大切なのは犯人を捕まえることでしょう」
有華ちゃんの復活は素晴らしい。あの時、泣き叫んで親友の悲劇を見ていたかと思うと、葬儀では友人代表として涙で声を震わせながらも式辞を読み上げた。そして一週間経った今日、胸の内に親友の仇を取ると心に決めて私に協力してくれている。
「そうだね。とにかく、生徒会室へ行こうか。君にも話しておかないといけないことがあるんだよ。ちょっと長くなるけど、我慢してくれカワイ子チャン」
こういう私の減らず口に慣れた彼女はくすっと小さく笑った後、はいはいと聞き流した。こういう反応だと冗談も言い甲斐がある。
吹奏楽部の練習がBGMになったみたいに、階段をのしのしとのあがっていく。私服姿の私を何人もの生徒が怪訝そうに見てきたが、結局何も訊かずに通り過ぎていく。よく考えたらタバコをくわえたままだった。これじゃちょっと関わりたくないか。
生徒会室は私が在学中から思っていたのだけど、随分と待遇がよすぎると思う。扉の作りがまず学園長室に似ているうえ、実は中身も似ている。一部学生が不平を言うのは無理はない。けれどこれを手にするためにかつての生徒会役員がどれほど奮闘したかは、一本の映画ができるほどのものだったらしい。
「さて有華ちゃん、ちょっと静かにしてくれよ」
人差し指を唇に当ててそう促すと、彼女は不思議そうにしたものの、黙って頷いてくれた。それを確認してから小さく息を吸って、喉の調子を整える。
「会長、いますかぁ」
有華ちゃんが目をひんむいて驚いている。いきなり横にいる人が日頃からは想像もできないような猫撫で声を出したのだから当然。私としては声の調子を変えるくらいお茶の子さいさいなわけだけど。
「今忙しいからまた今度にしてくれ」
扉の向こうから聞こえてきた、偉そうだけど威厳のない声は聞き覚えのある男の子のものだった。全く、少し目を離すとこうやって調子に乗るんだから。
早速声を元に戻してみた。
「へぇ、随分と言うようになったじゃないか、ひぃ君」
その瞬間、扉の向こうでどたばたとやかましい音が立てられた。落ち着きがないのも相変わらず。成長なしとは情けない。
映画になりうる努力で手にした扉が恐る恐る、というか面倒になるくらいゆっくりと開いていく。待つのはいやだったの、ある程度開いたところで一気に全開にしてやったら、部屋の中にいた青年が扉に連れられ姿をみせた。
茶髪にワックスでかためたトゲトゲした髪型で、制服もかなり乱して着ている。片耳にだけにはめたイヤホン。もう片方は、情けなく垂れ下がっていて、今も彼の胸元あたりで振り子みたいに揺れている。
「久しぶりだね、ひぃ君。元気だったかい」
とても元気そうには見えない。私の登場によって、顔の血の気が失われていて、一見すると不健康そのものだ。
「……あんたは卒業したはずだろ」
もうそれしか言うことができない様子だ。そこまで嫌わなくてもいいだろうに。
「もちろん卒業したよ。卒業式の日に泣いて悲しんでくれた後輩がいたことだってちゃんと覚えているさ」
「泣いて喜んだんだっ。分かってるだろう」
二年前の卒業式、彼がまだ一年生のときの話だ。彼は確かに卒業する私の側で、周りにいた女子の卒業生よりも泣いていた。なかなか面白い光景だったので今も私の携帯のデータの中に、一分程度の動画として残してある。
「けどまあ、来るとは思っていただろ」
「最悪、本当に最悪来るなとは思ってたけど、連絡くらいしてくれよ」
「サプライズだ。嬉しいかい」
「死んでくれ。頼むから」
この生意気な態度を見るのも久々で懐かしい。というか、来る前に本当に
「あの、えぇと、蓮見さん……」
取り残された有華ちゃんが袖を引っ張ってくる。置いていかないでくださいと目で訴えかけてきた。そういえば彼女に紹介していなかったと思い出す。
「ああ、すまないね。彼は桜井仁志で、知っているかどうかは知らないけど、今はこの学校の生徒会長だ。まあ、ただの不良かぶれだ」
お粗末な紹介をした後、私は仁志を押し退けて無駄に金をかけた部屋へ入っていった。有華ちゃんにも手招きをする。彼女は戸惑っていたようだけど、仁志が憮然としながらもいいと答えたので遠慮がちに入ってきた。
これが生徒の使う部屋か。あんまり学園長室と変わらない。作りはほとんど一緒だ。置かれているものが安物になってるだけ。全く、大した仕事もしないくせに。
「さて、ひぃ君、もう少ししたら客人がくるから扉は開けて置いてほしいね。あの人は方向音痴なところがあるから」
「この部屋の責任者は俺だぞ。勝手に予定を作るなよ」
「真剣な話し合いのためだよ。我慢してくれ。あとでキスしてあげるから」
彼が舌を出して、あっかんべぇとしながら中指を突き立ててくる。あの仕草は小学生の頃から変わらない。私と仁志が初めて会ったのは彼が小学五年、私が中学一年の時だ。家がそこそこ近かった私たちは何度か顔を見たことはあったが話したことはなかった。
あの年の冬、私はすでにタバコに手を出していた。ただ人前で堂々と吸うわけにはいかなかったので、人があまりにいない近所の公園に足を運んだら泣いている彼を見つけた。当時、いじめにあっていた彼はそこで誰にも見られないように体を丸めていたんだ。
紆余曲折あったが私の助言でいじめを克服した彼は、最初は私に懐いていたもののどういうわけかいつの間に嫌われてしまっていた。
まあ、私が彼の弱みを知りすぎたのが理由だろう。
「ひぃ君、彼女は鴻池有華ちゃんだ。君の一つ後輩にあたる。今回君と同じでサポートに回ってもらう」
手短に有華ちゃんの紹介を済ますと、彼は目をつり上げた。
「なんで俺がサポートするって決まってんだ」
「口答えしないの。あのこともあのことも全部言ってやろうか」
不適な笑みを浮かべてやると目で分かるくらい震え上がった。この脅しは効果てきめんなのだけど、私がこの脅しを実行したことは一度もない。いい加減嘘だと気がつけばいいのに。可愛い奴だ。
ここでようやくこつこつという足音が聞こえてきた。さて、すぐ来るな。
「客人ももうじき来る。二人とも腰掛けるといい」
有華ちゃんはあまりにも他の教室と扱いが違うこの部屋を見渡しながら、静かにソファーに座り込んだ。仁志はここは俺の部屋だぞとまだ文句をつけながらも有華ちゃんと少し離れて座った。
私は窓際によって外を眺める。運動場でがんばる生徒たちがほほえましい。
「レイ、来たぞ」
ぶかぶかのトレンチコートを着た、オールバックの厳つい顔の男が急に部屋に入ってきたので有華ちゃんは驚いていたが、私と仁志は落ち着いていた。
「さすが。時間通りだよ、父上。まあ座ってくれ。立ってるのはしんどいだろ」
「人を年寄りみたいに言うな」
「自分が若いと思ってるなら、考え直した方がいいと思うよ。この間演歌のCDを買ってきていたのを娘が知らないと思ったら大間違いだ」
演歌は年寄りが聞くものとは私は思わない。演歌歌手の追っかけをしている友人だっている。ただ、演歌にはまるのは年寄りだと言っていたのは紛れもなく父だったりする。
色々と何か言いたげだった父だが口で私に勝てないことはもう思い知っているので、ふんと鼻息だけたてて二人と向き合うようにソファーに座った。
うん、これで役者がそろったわけだ。
「じゃあ、話を始めようか。議題は――」
私は座った三人を見渡した後、胸元から『証の箱』の写真を取りだした。
「“cube”についてだ」
2
その名前を聞いた瞬間、後輩二人の顔が強ばった。対して父はもともと強ばったような顔なのであんまり変化が見られない。
「一応確認だが、有華ちゃんとひぃ君は知ってるよね」
聞くまでもないと思うが念のためだ。この学校の生徒ならば知ってるはずだけど。
「知らないわけないだろ」
「ええ、私も知ってます。名前だけですけど」
名前以外に知ってたらそれはそれで問題になっちゃうから、それでいい。
「父上は知ってるかい」
「聞いたこともない。何だその、きゅーぶってのは」
なるほど。捜査資料に載ってなかったから予想はしていたけど、どうやら警察はまだあの組織の存在すらつかんでいないらしい。ここの生徒も秘密にするようなことか。訊かれなかったから答えなかったってところだろうが、誰か一人くらい口を滑らせてもいいだろう。
「“cube”。この学校の七不思議みたいなものだよ。強いて言うなら、秘密結社ってところだね」
持っていた写真をテーブルの上に置いて、写っていた『証の箱』を指さす。
「そして、これがその秘密結社の会員の証。通称、『証の箱』ってやつだ」
三人が写真をのぞき込む。ガラス製の小さな箱を、まじまじと見ていた。
「この箱にそんな意味があったのか」
「意味っていうか、忌みだね。私か言わせれば」
父の呟きにそう返すと、ここにきてようやく仁志が不思議そうに首をかしげた。
「ちょっと待ってくれ。俺も鴻池さんも“cube”は知ってるけど、こんな箱は知らない。けどあんたは随分と詳しいじゃないか」
「君は中途半端に頭がいいね。そこまで分かれば察しなさい。私も“cube”だったんだよ」
この発言に在校生二人はずいぶんと驚いたようで、有華ちゃんなんて口を大きくあげたまま閉じないでいる。好きな男の子には見せられない姿に違いない。
そんな彼らの反応を父は不思議がっている。
「どうしてそんなに驚いているんだ?」
「あなたの娘さんがいとも簡単に自分が“cube”だって名乗ったからですよ」
仁志がそう説明するも父はまだ納得していないようなので細かい説明をすることにした。
「父上、さっきも言ったとおり“cube”は秘密結社。誰が組織の一員なのか、本来なら黙っておかないといけないんだ。けど私はもう縁が切れた組織だから、そんな制約は知らない」
そもそも在学中にだって何度も制約なんか破ってやろうとしたのを、『主』が食い止めてきたんだ。奴さえいなかったら私は堂々とあの組織を糾弾していた。
「それでどうして、その秘密結社の証を、被害者が握ってたんだ?」
「想像できることは限られているさ。被害者は“cube”の一員だった。それしかない」
『証の箱』はそう簡単に手にすることは出来ない物だ。それを握っていたなら、もう十中八九そういうことだ。
この言葉の真意を一番初めに掴んだのは有華ちゃんで、私の言葉を聞き終えるなり、信じられないという様な表情を向けてきたのでその様子を見て、男二人がようやく事態を察したのか、表情を凍らせた。
「そう。茜ちゃんも“cube”だった。これはもう本人の口から確認しているんだ」
私がすでに確認しているということに、有華ちゃんは一瞬表情を暗くしたがすぐさま私が何のためにこの話し合いをしているのかを見抜いて、言葉を発しようとした。
「じゃあ、蓮見さん……まさか」
「そう、そのまさかだ。今、私たちの直面している現実は紛れもなく連続殺人。そしてそのターゲットが、“cube”だ」
そう断言すると部屋の中が一気に静まりかえった。父は写真を見つめたまま眉間にしわを寄せて何かを考えていて、有華ちゃんは親友が組織の一員だったという現実にまだ驚いていて、仁志は急に参加させられた話し合いが現実離れしたものなので、戸惑ってどうしていいかも分からず指先を遊ばせていた。
「……いや待て、レイ。茜ちゃんが“cube”だったという確認はしてると言ったが、じゃあ何で彼女の部屋からこの『証の箱』は出てないんだ?」
「多分だけど茜ちゃんの『証の箱』はまだ校内にあるね。彼女は相当『主』に怯えていたから、箱を持っているのも嫌だっただろう」
つい口走ってしまったが、急に出てきた『主』という単語に三人が怪訝そうな顔をした。そうか、まだ説明していなかったか。
「“cube”は六人構成の秘密結社。一学年に二人ずついる。基本的に優秀じゃなきゃなれないらしい」
「おい待て、なら後四人もターゲットになってる生徒がいるってことか」
父が腰を浮かせて驚いたせいで、その勢いに目の前の二人が気圧されてしまった。
「違う。いやそんなに違わないけど、四人じゃない。あと三人だ」
単純な算数の問題なら、六から二を引けば四だけどこれは算数じゃない。数学でもない。現実だ。
「さっきの『証の箱』がそうだな。“cube”の存在自体は恐らく全校生徒が知っているけど、一員にならないと知れない秘密ってのがある。それが組織の仕事内容と、箱と、『主』の存在だ」
私としても箱のことも、『主』のことも会員になって初めて知った。それまで探偵のまねごとで校内の裏事情まで調べていたのに、“cube”の秘密は本当に強固だった。なって初めてそれを痛感して、その裏にいる『主』に興味を持った。思えばあれが間違いだったのかも知れない。
「ひぃ君、“cube”がどういう組織なのかは知っているかい」
突然の問いかけに仁志は一瞬驚いたようだが、すぐに答えてくれた。
「完全秘密主義。例え“cube”でも、他の“cube”が誰かは知らない。秘密結社ってのは名ばかりでほとんどは個人行動、だろ」
「はい正解。よく勉強できてる。ご褒美に愛をあげよう」
軽口を叩くと三人に睨まれた。私としてはこの重い空気を払拭しようとしたわけだが、どうやら逆効果だったようだ。春川といい、もうちょっと柔軟になれないか、皆さん。
「さっきのひぃ君の説明通り、“cube”でも他の“cube”が誰かは知らない。けど、組織の中にはその例外がいる。それが『主』だ。組織の要っていうか、ボスっていうか、柱だね。その『主』なら、何年何組の誰が“cube”だって知っている。ついでに言うなら、組織の仕事を指示するのも『主』だ」
そして誰を“cube”にするかを決める指名権を持っているのも『主』。彼、あるいは彼女に目を付けられた生徒が『証の箱』を受諾させられ、“cube”となる。五人の平社員と、一人の社長。それがこの学校の秘密結社の実態。なんというか、夢のない表現だけどね。
「そして……これはかなり特例的な話だが、“cube”が『主』と接触することがあるらしい。そして『主』と会うには、『証の箱』を見せないといけないというのが掟なんだ。ここまで言えば、父上なら私が何を言いたいのか、分かるよね」
「つまり、黒沢さんと安藤さんを殺したのは……その『主』ってことか」
「正解だよ、ダディ。そしてつまりこういうことだ」
影を落としている三人の表情に私は紛れもない現実を突きつける。
「私たちは被害者が出ることも、犯人がどういう人物であるかも分かってる。けど、それが誰なのかは、一切つかめていない」
更に要約してみると、これがいかに絶望的か分かる。
「私たちは、何もできない」
部屋の空気が一気に沈んでしまい誰も口をきかなくなった。少しは反論してほしいのだけど、自分で言っておきながら、間違ってないと思う。ただ間違ってないだけで、正しくはない。
「さて、けどここで諦める私じゃない」
ずっと立っていてるのにも疲れたので父の横に腰を下ろした。
「確かに私たちはなにもできないが、なにかしようとすることはできる。そのための話し合いさ」
有華ちゃんが俯けていた顔を上げて、目を輝かす。素直に可愛いと思ってしまった。ああ、けど一応言っておくけど私は女だ。まあ、愛があれば性別なんて……まあ、今はいい。
「なにか秘策があるんですね」
「いや秘策ってものじゃない。地道な努力さ」
私たちに残された手なんて限られている。そして最悪なことに、その中に事態を一気に打開するような必殺技めいた物はない。
「誰が“cube”なのか、誰が『主』なのかを特定する。これしかない」
バカみたいに当たり前のことだ。何かを期待をしていた三人の顔がしぼんでいくのがよく分かった。
「それができないから、困ってんじゃないのかよ」
仁志がそう嘆いて二人が同調いて頷く。やっぱり中途半端だ。もうちょっと考えないといけない。
「なんのためにここに君と有華ちゃんがいると思っているんだ」
この言葉に当の二人は何を言われているか分からない様子だったが、父が大きく目を開けて、バカを言えっと大声を出した。耳元でそんな声を出されると鼓膜がおかしくなってしまう。
「お前は自分が何を言ってるのか、分かってるのか」
「今日は飲んでない。頭もさえている。その状態で言っている。そんなに大きな声を出さないでほしいね。乙女の繊細な耳を何だと思っているんだい」
この親子の口げんかを見て仁志がやっと私が彼をこの話し合いに参加させた理由を察したようで、盛大にため息を吐いた。オーバーリアクションだな、全く。
「つまりあんたは俺らに、生徒の中で誰が“cube”なのかを調べる、いわばスパイをしろって言いたいんだな」
「ビンゴ。大正解だよ、ひぃ君」
秘密結社である“cube”。分かっていることは少ないが、ある決定的な情報が漏洩してしまっている。それは会員が全員、生徒であるということ。そしてこのせいで私が在学していた頃から、あいつが“cube”なんじゃないかという根も葉もない噂がたくさんあった。
そして驚くようなことでもないが、私が疑われたこともあった。もちろん、うまいこと言い逃れて無実だと納得させた。おそらく、多くの“cube”が同様の経験をしてるはずだ。けど言い逃れても、一度噂が流れるということは、なんらかの根拠があったりする。根拠がなくても噂になり得るほどの説得力があるはずだ。
そしてできるなら私はこういう噂のたぐいを、仁志と有華ちゃんにもってきてほしい。仁志はこれで生徒会長という身分なので情報はつかみやすいだろうし、有華ちゃんは女子。こういう噂の多くは女子が発信源だから、比較的小さな噂でも入ってくるだろう。
こればかりは生徒じゃないとできない技だ。
「スパイっていうのは大げさだね。ようは噂に敏感になって、重要そうなのを私に教えてくれればいい」
あとは私の仕事だ。噂になった人物を調査や接触したりして、“cube”かどうか確かめてから更には『主』かどうかを調べる。これが功をなす可能性は少ないが、こういう手しかもう残っていない。
もちろん、父が声を荒げるのも分かる。これは下手をすると二人が『主』に目を付けられる可能性がある。
「もちろん嫌なら断ってくれ。ただ、私としても困り果てているんだよ」
返答するのに時間がかかるだろうと思っていたのに、やりますという決意に満ちた声がすぐさま返ってきたので、ちょっと驚いてしまった。声の主は有華ちゃんだ。
彼女は両の拳を強く握りしめ、それを膝の上で震えさせていた。
「私はやります。それが役に立つなら、やりとげます」
その声には、もはや誰も邪魔することができない意志の固さを含まれていて、彼女に何か言おうとした父もそれを感じ取り、一度開けた口を閉じた。父を黙らすとは、すごい。拍手ものだ。
彼女としてはなんとしても茜ちゃんの仇を取りたいわけだ。そのためならある程度の危険は何てことないんだろう。それを利用するというのは、何か忍びないがここは遠慮していられない。
「……なら俺だってやるしかないな。後輩の女の子一人に任すわけにもいかない」
頭をかきむしりながら、本当に面倒そうに仁志が受け入れてくれた。何だかんだ言って彼が私の言うことを無視したことはないし、ましてや後輩を放っておけないんだろう。変に優しいところがあるから。
後輩二人が受け入れてくれたので、私としては大満足なわけだが納得できない人もいるだろう。
「さて父上、色々と言いたいこともあるだろう」
「当たり前だろ、馬鹿娘」
「じゃあ、父上にも協力してもらうよ。警官を数名、しばらくこの学校に派遣してくれ」
私の要請に父はまた驚いたようだけど、私がなにをしたいのかをすぐに察した。
「制服警官が校内、あるいは学校の近くにいるなら『主』は大層動きにくい。しかも同時並行的に校内で“cube”探しが進められる。もしかしたらなんらかの反応を見せてくれるかもしれない」
どういう反応かは正直想像もつかない。下手をすると最悪の反応をしてくるかもしれない。ただ、『主』みたいな影も形も分からない奴をあぶり出すのにはもうこういう手段しかない。
「なぁに、心配することじゃない。この後輩二人は私が護ってあげれるんだ。これからしばらく私はこの学校に居座る。朝から放課後までだ。もし『主』が身に危険を感じたら、二人より私の方に刃を向けるはずさ」
私としてはこれ一番ありがたい反応だ。正直、この計画で危険な目にあうのは私だけにしたいし、もし『主』が私を狙ってくるのなら接触するチャンスが生まれるかもしれない。もちろん、かなり危険な賭ではあるけど、こういうのは嫌いじゃない。
来るなら来ると良い。受けて立つさ。
「お前なぁ」
父が情けない声をあげる。本当に親ばかだな。
「大丈夫だよ、そんなに心配しないでくれ。それに心配なら、早いとこ警官を派遣してほしいね」
この要請に応えるのは父じゃなく警察だ。だからこそ、父は不安がっている。
「警察じゃ、安藤茜は自殺だって流れだからな……」
そう。さっき春日の婆さんが言っていたとおり、自殺説が主流になってしまっている。そしてその状況じゃ、警官を派遣は出来ない。父がいくらがんばっても出来ない物は出来ない。だからこそ……。
「『証の箱』を一刻も早く見つけてくれ。それでどうにかなる」
茜ちゃんの箱さえ見つかれば、連続殺人説に軌道修正ができる。そうなれば学校に警官を派遣するなんてわけないだろう。
「とにかく、もうこれしかない。父上、警官がいない間は私が警官の役割も果たすよ。だからどうか早いとこ、上層部を説得してくれ」
父は、こう言ってはなんだが一人の刑事でしかない。警察の捜査の指揮権は担っていない。そういうのを掌中にしているのは警察の上層部。父ならある程度顔はきくらしいが、さすがに数名の警官を動かすとなると簡単にはいかないだろう。今でも父は私の言葉を信じ、自殺説を否定してくれているが流れは変わらない。
「さて、と。今日の話はこれでお仕舞いだよ。何か質問はあるかな」
三人の顔を見ていくと誰も何も言わない。じゃあ、解散にしようかと提案しようとしたとき、有華ちゃんは遠慮がちに手を挙げて質問してきた。
「この作戦には関係ないことですけど、“cube”って何をする組織なんですか」
この質問をした直後、茜ちゃんと仁志の表情が曇った。というのも、私が顔をしかめたのが見えたからだ。できるならこの質問をされずに終わりたかった……。
「ああ、いいです。答えたくないなら別に」
茜ちゃんが大急ぎで質問を撤回する。なら、お言葉に甘えさせてもらおう。
「まあ、おいおい話すよ。今日はとりあえずここまでにしとこう」
別に隠すようなことじゃない。犯罪が関わっているわけでも、巨大な秘密を抱えてるわけでもない。ただ私個人があの組織の仕事が嫌いで、一部携わってしまったことに後悔していて、それを未だに引きずっているだけだ。ここで大げさに隠す様なことでもない。
変な締めくくり方をしてしまったせいで、部屋に妙な沈黙が降りてしまった。
「じゃあとりあえず、明日から頼むよ、ひぃ君に茜ちゃん」
ソファーから立ち上がって二人にウィンクする。その仕草に二人が唇を綻ばせてくれた。
「任せて下さい」
「まあ、任せとけよ」
頼もしい後輩たちだ。今度は父の方に目を向ける。
「父上も頼んだよ。とにかく箱だ、分かったね」
しつこい私の念押しに父は一度だけ強く頷くと、立ち上がって携帯を取り出すと電話をかけ出した。そして手を振って別れを告げると、そのまま誰かと話しながら出て行ってしまった。多分、今の情報を仲間に報告してるんだろう。
しかし、箱だとは言ったものの正直それに期待していなかった。もし茜ちゃんが学校に箱を置いていたんだとしたら、もう先を越されてしまっている算段が高い。ネガティブシンキングになるけど、そこまで生ぬるい相手じゃないだろう。
これからどうなるか、正直予想も出来ない。そんな重たい不安を抱えながら、立ち上がる。
「さて、私も帰るか」
「あっ、じゃあ私も」
茜ちゃんは徒歩で下校だから、校門までだが一緒に帰ることにした。帰り際、仁志に感謝の気持ちを込めて投げキッスをしてやったら、またしてもあっかんべぇをされた。報復に恥ずかしい過去を、有華ちゃんに気づかれない程度の遠回しさで暴露してやった。
廊下で事件とは関係ない、たわいもない会話をしていたときだった。急に、何かを刺すようなするどい気配を感じ取れたので、その気配があった方に目を向ける。窓ガラスの向こう側にそびえ立つ、校舎の屋上から私はその痛いほどの視線を感じた。
「蓮見さん?」
有華ちゃんが声をかけてきても、私はしばらくそこから目を離さなかった。
3
彼女がこちらに振り向くと同時に瞬時に身をかがめる。危うく、姿を見られてしまうところだった。そうなると折角計画している殺人が出来なくなる。そんな退屈で無意味なことは許されない。殺されるために生きてる奴らを、殺さないといけない。
しかし、少し侮っていた。まさか視線だけであそこまで過敏に反応できるなんて並大抵じゃない。これからはもっと慎重に動かないと、足下をすくわれてしまうかもしれない。
鴻池有華、生徒会長、そして自分の父親を味方につけたようだ。この面子からして、仕掛けてくる作戦は限られている。思わず、笑いが漏れそうになる。そんな中途半端な作戦で、私が止められるはずがない。
やっぱり批評家が精一杯かな、名探偵。
「少しは楽しませてほしいな」
それに彼女の作戦が本格的に施行されるまでにはまだしばらくかかる。彼女のことだから箱を探し出すだろうけど、もう遅い。
彼女がこれから探すであろう『証の箱』を手のひらで転がしながら、ほくそ笑む。
先手必勝。誰が作った言葉かは知らないけど、全くその通り。これで警察の介入は少し遅れる。けど、彼女ならそれくらい予想しているはず。しばらくは自分で動き回るだろう。けど心配することない。一人でできることなんて限られてる。大した恐怖にはなれない。
けど、こちらとしては望まないことだけど、彼女にとっては好都合なことに、警察はすぐに介入してくる。しかし、それは彼女が望まない形で、こちらが思い描くままに。
「三人目は、偶然ってことにはされないだろうかね」
できるだけ早く実現したい。今度はどう殺すかも決まってる。
ああ、血がほしい。叫びがほしい。命がほしい。この世から生がなくなるその瞬間をこの目に焼き付けたい。誰かの泣き叫ぶ声を耳に貼り付けたい。
――ああ、殺したい。ころしたい。コロシタイ。
唾液でねっとりさせた舌で、唇をゆっくりと円を描くように濡らした。
第三面[四番のエース]
ソフトボールにサッカーボール、バスケットボールやラグビーボール。世の中にボールと呼ばれるものはごまんとあるが、私は硬式野球ボールにしかできないことがあると思っている。それがあの音だ。
キャッチャーミットに収まる瞬間にたてるあの爆音。その投球がいかにすごかったかを物語る物。幼い頃、甲子園を見るのはそれを聞くためだった。軟式野球では聞くことができない、一種のロマン。
その音が今、女房役であるキャッチャーを置き去りした状態でだけど、響いている。少し寂しいが、それでも十分な迫力がある。
屋上の壁に叩きつけられたボールは、小さなバウンドを繰り返しながら投手の元へ律儀に帰っていく。
「君の最速は何キロだったかな」
少し離れた場所でくわえタバコをしていた私を一瞥した小林陸は、坊主頭を一度ハンカチで撫でた後、少し微笑んだ。
「何度も言わさないでくれよ。135キロだ」
「何度聞いたって疑わしい。私は150だと言われても騙される」
「大げさ過ぎだっての」
彼がそう謙遜するが私は素直な感想を言っている。そもそも素人にそんな差が分かるはずない。分かるのは、すごく速い球だというごく当たり前のものだけ。
地面に転がっているボールを拾うと、また目をつむって投球体勢へと入る。ボールを両手で包み、片足をゆっくりと上げていき、胸元から頭上へと掲げていったボールを力任せに思い切り、前方へ投げる。
また爆音が屋上にこだました。
「痺れるね。甲子園で聞きたい音だ」
「だから大げさだっての」
照れ隠しか、顔の前で手首を振った。
「謙遜することはない。自信を持っていい。野球部のエースだろう、胸を張りなよ」
彼、小林陸は三年生で今現在、野球部の部長を務めている。春の県大会で部を準決勝まで導いた立役者。投げればこの豪速球で、打てばホームランを量産。四番でエースの頼れる男、というわけだ。
それを聞いたとき、どんな偉そうな天狗になった男だろうかと心配したが、実際に会ってみると拍子抜け。控えめで謙虚。とてもスポーツに燃える高校男児とは思えない。
「傲慢は人を堕落させるって、祖父ちゃんが言ってたよ」
「なるほど。なら私はいつ傲慢になったんだろう。覚えがない」
「蓮見さんの堕落はうまれつきっぽい」
「奇遇だね。私もそう思う」
こんなやりとりを彼は気持ちよさそうな笑顔でする。裏表のない表情で、すてきだと素直に思うのだけど、どうしても疑いのまなざしを向けてしまうのは仕事だからとは言え、嫌なものだ。
小林陸が“cube”候補だと聞いたとき、私としてはやっぱりかと思った。最初に情報を持ってきたのは仁志で、その翌日には茜ちゃんが同じ情報を提供してくれた。二人が同じ人物の名前を言ったのは、調査を始めてから一週間経って初めのこと。
私も彼の名前は新聞で知っていたし、一週間も校内をうろつけば嫌でも耳に入った。野球部の四番でエースの部長。これを優秀と定義するのは当然だ。
「それによく授業に出ないんです。屋上にいるらしいですけど、その時に“cube”の仕事をしてるんじゃないかって噂です」
有華ちゃんの情報にはそんな詳細までついていた。そんな噂がたつのは仕方ない。彼が今みたいに授業をさぼってここで野球の練習をしているのは事実だから。あんな性格なのに野球だけはどんなものにも引き替えにしない。
けど彼と接触を試みてからこの三日、授業を抜け出してもすべて練習にあてている。もちろんずっと見ているわけじゃないけど、誰かと接触したりしてる様子はない。
もちろん、それだけで疑いを晴らすわけにもいかない。
「さて、そろそろ昼休みだ。練習もいいが、休息も大事だよ。程々にね」
私がそう忠告すると同時にチャイムが鳴り響いた。彼はもう少し練習するからと、またボールを掴んだ。私は昼休みは校内をくまなくうろつきたいので屋上から退散する。
階段を下りていると、嫌なのと出会った。
「まだいたの」
目の前のこの学校の最高権力者は、ため息混じりにそう言ってきた。どうやら今日は大好きな書類と見つめ合ってはいないらしい。そうしてくれていた方が楽で良いのに、残念。
「いるよ。休校になれば、話は別だけどね」
「あなたもしつこいわね」
「命が関わってるんでね。しつこくなる。ならないのがおかしい」
ここで私たちはしばらくにらみ合うことになったが、先に矛をしまったのは婆さんの方で、なにも言わず私の横を通り過ぎていった。私も立ち去ろうとしたが、後ろから声を刺された。
「タバコは捨てなさい。生徒に害だから」
変なところで正論を説いてくる。反論も無駄口もせず、黙って携帯灰皿に押し込んだ。
昼休みの校内は騒がしい。購買部でパンを勝ち取ろうとする者、食堂で長蛇の列にわりこむ者、空き教室で友達と遊びながら弁当をとる者……。校内放送のロックミュージックはここでは誰の耳元にも届いてはないと思う。痛快なエレキギターがかわいそうだ。
私が高校生のときは昼食は四限目にとるのが主流だった。昼休みは教室で椅子を連ねて、そこで仮眠をとって、五限目に先生から起こされるというのが通例だった。
「あっ、ハスミーン」
古い呼び名が後ろから聞こえた。振り返ると私が三年の時、一年だった今の三年の生徒が手を振って駆け寄ってくる。明るく元気な、典型的な女子高生。生徒指導の先生に見つからない程度に染めた茶髪のロングヘアーが、波打っている。
「今日も探偵してるの」
「今日は若くて元気なぴちぴちの女子高生を捜してるんだ。紹介してくれ」
そんな冗談を交わしながら彼女や、その友達数名と会話を少しした。こういうどうでもいい会話が何かのヒントになるかもしれないし、彼女たちがもたらす情報は貴重だった。何年の誰が何かした、というのは重要な情報になりうる。
「海野先生が心配してたよ。あいつ大学は大丈夫なのかって」
「頼れる親友がいるんだって伝えといてくれ。彼女に任しとけば問題ない」
今現在、大学の方では春川が私の出ている授業の出席点とノートを取ってくれている。彼女が授業に出れないときは、彼女の友人が何とかしてくれてるらしい。探偵業をやっていると、案外私に恩を感じてる人も多いらしく、協力的な人が多いそうだ。ありがいた限りだね。
「なんか小林君にナンパしてるって聞いたけど本当にぃ」
「仲良くはしてるけど、私好みのイケメンじゃない。君の方がよっぽど好みさ」
彼女の顎を指で持ち上げてみせる。彼女は慣れたものだから、ははと笑った。
「そういうセクハラは治ってないねぇ」
「セクハラか愛情かは微妙なところだと思うけどね」
彼女はそういう冗談でまた笑い、友人たちと食事を取るからと走り去っていった。高校生というのはいつだって走る。あんなに元気で生きれるなんてすばらしいけど、憧れることはできない。もっとゆっくり生きることをお勧めする。
校内の見回りをやり続けて一週間。特にこれといった感想はないが、強いて言うならとても生徒二人が死んだ学校とは思えない。いや、総生徒数が千を超える学校だ。二人だけじゃ変わるはずもない。それに一人は学校の外で死んでるうえ、自殺という見方が高いうえ、もう一人の事件からはもう二ヶ月経っている。
生徒の顔にそういう沈痛を見いだすことができないのは当然かも知れない。
昼休みの一時間の見回りは何事もなく終わった。有華ちゃんと仁志にも出来る限り周りの様子を注意してほしいと頼んでいるが、彼らには情報集めという仕事がある。昼休みはそれに大切な時間だ。あんまり手間をかけさせるわけにもいかない。
生徒が腹を満たした後の眠気と戦いながら五限目を受けている最中、食堂でラーメン定食を食べた。昼間からカロリーの取りすぎだと思うが、在学中は金欠のためラーメン定食ではなくラーメンしか食べれなかったという悔しい思い出が反動となってる。
チャーハンの香ばしさを舌の上で楽しんでいたら、目の前に席に見覚えのある人が座った。
「心配してくれてるんだってね。感謝するよ、ティーチャー」
海野先生はとても大の男の昼食とは思えない程の小さなサンドイッチとペットボトルの紅茶をテーブルに置いた。これじゃ私の方がよっぽど男らしい食事だ。
「小林を調べてるって聞いた」
相変わらず最低限のことしか口にしない人だ。だからこそ、仲良く、そして程よく三年間つきあえたわけだけど。
「そうだよ。興味深い子だ。ちょっと親しくなりたくてね」
「容疑者なのか」
真っ直ぐこちらを見て、その視線を一切そらすことはない。刑事の父とはまた違う迫力を持っている。相手を怖がらす力じゃない。誰かを護ろうとする力、とでもいうべきか。
私は箸を置いて、水を一口飲んだ。
「微妙だね。そうだとも言えるし、そうじゃないとも言える。けど今の段階じゃ、何も言えない」
彼が本当に“cube”なのかどうかも判明していない。仮そうだったとしても、ただの“cube”か『主』かは分からない。容疑者候補であり、被害者候補。それが今現在の小林陸の立ち位置だ。
「この一週間、お前は何を調べてるんだ」
「何を、か。分からないね。強いて言うなら、私は箱のふたを開けたいだけさ」
遠回しなその一言で海野先生は、私が何を調べているのかを分かったようだ。
「あんな七不思議みたいなものを調べているのか」
「その七不思議みたいなのに属してたんだよ、私は」
サンドイッチを囓っていた口を止めて、私を見てくる。信じられないという顔をしているが、私が冗談を言っているのではないと察したようで、伏し目になった。コメントしづらいことだから。
「……小林は俺の生徒だ」
急にそう切り出してきた。そういえば彼は海野先生が担任のクラスだった。だからこそ平然と授業をさぼれている。先生はちゃんとした理由があればそんなことは咎めない。そしてそのちゃんとした理由っていうのは、先生が納得できれば何でも良い。私もよく調べ物があると言ってはさぼり、その授業の先生に怒られて、海野先生にかばってもらった。
「そしてお前も俺の生徒だ」
思わず照れてしまいそうな発言だ。私が卒業してもう一年以上経っているのに、まだ海野先生にとっては自分の生徒らしい。
「だから、両方とも信頼してる」
「ありがたい限りだよ。なんせ、お前は信じられないってよく言われるから」
「それは分かる」
「うん。私も分かる」
ここで会話が途切れてしまったかと思うと、先生は何も言わずそのまま立ち去っていってしまった。何が言いたいのかはよく分かった。信頼してくれているんだ。そして、だからこそ小林陸が心配なわけだ。
またチャーハンを口に運び始める。うん、紅ショウガがほしいね。
食事を終えた後、生徒会室へ戻った。ここが一応、今現在の私の基地だ。仁志には悪いがかなり私物化させてもらっている。灰皿、ノートパソコン、扇風機。おうよそ高校とは思えない代物を置かせてもらっているので、彼は俺の部屋だぞと毎日のように怒っているわけだが、少し脅せばすぐ黙ってくれる。
携帯で父に電話をするとすぐに繋がった。
「そっちはどうなっているんだい」
昼の挨拶もすっ飛ばして、早速質問をぶつけてみると不機嫌この上ない父の声が聞こえてきた。
『相変わらず、自殺の裏付け調査だ』
警察はもう茜ちゃんの事件を殺人とは見ていない。最近は彼女がどうして自殺したかを調べているらしい。当然、そういうわけだからこっち警官が来ることもない。
『それで、箱は見つかったのか』
「もう無理だね。やっぱり先を越されたんだよ」
この一週間、校内を見回りながらも茜ちゃんの『証の箱』を探していたが、やはりどこにもない。予想通り、『主』が先に見つけ出してしまったようだ。こうなると茜ちゃんの事件と、黒沢明子の事件を結びつけるのは難しく、警官が来ることもない。
「それで、頼んでいたことだけど、どうかな」
『小林陸についてだな。別に、何か特別怪しいってことはない』
「だろうね。そうだと思っていたよ」
父に小林陸について調べられるだけ調べてくれとは頼んだものの、前科でもない限り父が彼について調べれることなんて限られてる。駄目もとという奴だった。
「とにかくこっちはこっちで動いとく。父上は茜ちゃんの自殺を否定できる材料を探してくれ」
『ああ、分かった。なんとかそっちに応援を出せるようにしよう』
そこで電話がきれた。ふぅと息を吐きながら、それはそれで困るなという感想を心の中でもらしてしまう。今ここで警察が介入するということは、最悪を意味する。茜ちゃんと、黒沢明子を繋げるには、『証の箱』なんかよりもっと確かなものがあればいい。
そう、もう偶然じゃ片付けられないような、事件が起きれば……。
頭からその考えを排除する。それを起こさせないのが、私の仕事じゃないか。
「……ウォッカがほしい」
最近は酒を飲むなと兄から言われている。一応私だってどうしてそんなことを兄が言うのかは分かっているから我慢しているが……。
恋人と会えないってのは、中々辛いものがあるよ、ブラザー。
「“cube”について調べてるけど、候補者が多いぜ」
放課後、仁志が部屋に入ってくるなり愚痴った。
「そもそもあの組織は定義が曖昧なんだ。優秀なら選ばれるって……。優秀なんて、色々あるだろ」
彼が嘆きたくなる気持ちも分かる。そもそも誰が“cube”なのかという話題は、彼らが起こさなくても元々あっただろう。そして、誰が会員らしいとか、いや違う本当はあいつらしいとかいう噂がずっとあったに違いなく、そうなると“cube”じゃないかと噂された生徒の数は本当にたくさんだ。
そして彼の言うとおり、『優秀』という言葉が曖昧でもある。私見で申し訳ないが、優秀じゃない人間なんていないんだ。
「だから、可能性が高い奴だけでいいって言ったろう」
「それがまた難しいんだよっ」
仁志は鞄をソファーに投げるように置いて、その隣に腰を下ろした。
「小林みたいな奴は今のところ出てないんだ」
この調査をして一週間、単純に噂になった者だけでいうならもう数十人にはいる。それじゃあきりがないからと思い、可能性が高い奴だけと接触するという作戦をとっているが、そうするとそれはそれでかなり数が少なくってしまう。
今のところ、仁志は男子を、有華ちゃんは女子を調べている。まず男女ともに噂になってること。次にその噂に信頼性のある裏付けがあること。私たちが決めた、可能性の高い候補者の条件だ。
そして今のところ、この条件でヒットしたのは小林陸だけ。
「けどまあ、ひぃ君、それはそれで望ましいんじゃないかい」
「何言ってんだ、『主』を含めて後四人、この学校から“cube”を調べなきゃいけないんだろ。一人じゃまだまだ……」
「分かってないなぁ、君は」
タバコをくわえて彼にも勧めるが、彼は断るどころか無視をしてきた。冷たい後輩だ。
「数が少ないってのは、それだけ彼である可能性が高いってことじゃないか」
そもそも候補者を絞るための作戦だ。こうなることは当たり前。
「だからってなぁ」
「ああ、うるさい奴だなぁ。候補者が多いと嘆き、少ないと文句を言うんじゃ、一体どうなってほしいだか分からないよ」
頭をかきながら扉へと向かう私を見て、仁志が軽く腰を浮かせた。
「どこか行くのか」
「その数限られた候補者の偵察さ。今の時間だと丁度部活の真っ最中だろ。何か発見があるかもしれないからね」
小林陸の観察だけじゃなく、そのほかの運動場で部活をしている生徒の監視もしたい。犯人が動き回るなら、やはり放課後が一番だろ。そもそも私から言わせれば、何で最初の犯行を昼休みになんかやったのか、それがさっぱり理解できない。放課後なら生徒は自由に行動できるのに。
もちろん、『主』がそれを理解してないとは思わない。黒沢明子が一人でいたから、丁度いいと思って殺しただけなのかもしれない。
「あっ、じゃあ俺もついてく」
「私と一緒にいたいのかい」
「うるさい、黙れ」
そんな事を言ってくる口の悪い後輩とともに部屋から出て、廊下を歩いていく。数名の生徒がようやく風景としてなじんできた、タバコを吸って堂々と校内を歩く私の姿に苦笑混じりで目配せをしてくるのにウィンクで返す。中には私が在学中から知ってる子もいて、高校生に戻った気分になる。
廊下の片隅で談笑に花を咲かせている女子の集団を見ながら、有華ちゃんのことを思う。彼女は女子の噂話が最も多いこの放課後、色んなところへ足を運んでいるらしい。仕事熱心で感謝しているが、あまり行動しすぎると目立つことになるから心配でもあった。
女子の一団が私に気がついて、少し鬱陶しそうな目を向けてきた。堂々と何かを調べてると公言して校内を遠慮せず徘徊してるんだ、嫌われるのも無理ない。彼女たちから言わせればプライベート空間に足を踏み入れられた様なものだ。彼女たちはそそくさと立ち去っていった。
何かを調べていると公言するってことで間接的に『主』に、私はお前を捜してるって伝えている。そして同時に校内を見回って、『主』そのものを探しながら、奴が自由に行動できないための抑止力となっているつもりだ。誰が奴かは分からないが、こうすることで監視できているはずだ。
ただ、私が『主』を監視出来るということは、あまり面白くない事実を生み出す。
私も『主』に監視されるという、嫌な事実を。
2
放課後、野球部のグラウンドは最盛期を迎える。かけ声をあげながらひたすら走る奴ら、ノックをして泥まみれなる奴、キャッチーボールをする者、投球練習をする者。全員がユニフォームを着て、フェンスにかかってある垂れ幕に書かれた『目指せ甲子園』という目標を実現させようと汗まみれになっている。
「情けないな」
少し離れた場所でそういう生徒たちを観察しながら、横で腕を組んでいた仁志に声をかけた。
「何がだよ」
「同じ男子高校生でもこういう風に体を動かす健全な者もいれば、生徒会室でゆっくり過ごす不良かぶれもいる。全く、私はどこで教育を間違えたのか」
「あんたに育てられた覚えはねぇ。大体、人のこと言えるのかよ」
それを言われると返せない。怠惰という言葉が結構似合う女だから。
ターゲットである小林陸は今は女房役のキャッチャーと共に投球練習をしている。昼間に聞いた爆音よりもはるかに迫力がある音が、離れていてもしっかり聞こえてきた。こんな調査でなく、もっと別の方法で彼を知っていたらファンになってたかもしれないな。
しばらく彼を眺めていたら、向こうがこちらに気がついた。気さくにも手を振ってきてくれる。彼も私が何をしにこの高校に来てるからさすがに校内の噂で知っているだろう。それでも彼が私に何か文句を言ったことはないし、今みたいに親しくしてくれている。
容疑者というレッテルをはがしてやりたい。彼は秘密結社の会員向けの人格ではない。
「モテモテだろ」
「手を振られただけで、もててるってのはどんな考え方だよ」
「思考が柔軟なんだ」
「ちっとは身を引き締めることをお勧めしてやる」
私たちがこんなに中身の籠もっていない話をしている最中でも周りの熱気が落ちることはない。在学中に野球部のグラウンドに長居したことは一度しかない。その時は野球部自体が意気消沈していたので、こんなに熱くはなかった。なんとか私が依頼をこなしたから、しばらくしてから熱気は戻っていたが私はその時には既に別の仕事を受けていて、遠巻きで彼らを見るしかなかったので、今初めて高校球児という生き物の生き様を、熱気を感じ取っている。
「……なあ、あんた」
仁志が野球部の方ではなくて、別の場所で同じく燃えているサッカー部の方を見ながら話しかけてくる。
「私の名前は蓮見レイっていうんだけどね。覚えててくれないかい」
「今更そんなこと言い出してんじゃねぇよ」
「昔はレイ姉ちゃんと言ってくれていたのに残念でならないね」
「……人の恥ずかしい過去をさらっと言ってんじゃねぇよ。一つ訊きたいんだけどさ、あんたの性格はよく知ってる。困ってる人を放っておけないってのは分かってる。けど、訊かせてくれ。あんた、昔『主』と何があったんだ?」
硬式ボールを金属バットが打つ快音が響く中、仁志の腕を組んだままこっちを見ずにそう訊いてくる。私も似たような体勢をとりながら、視線だけでは小林陸に向けていた。
「これは人命に関わる事件だろ。あんたなら捨て身の作戦なんて苦もなくやるだろうさ。けど、あんたは俺や鴻池まで巻き込んだ。危険が及ぶのにだ。高校時代、あんたはそんなことしなかった。いつも俺を巻き込んできたけど、危険になるとすぐに退かせた」
ノックの練習で誰かが打ち上げてしまったフライを他の子がうまく捕る。それを見ていた小林陸が、何か呟いた。口の形では、ナイスと言ったように見えた。自分の練習に集中することをお勧めするよ、野球少年。
さて、仁志の質問に素直に答えるべきかどうか。難しい話しだ。けど、仁志、少し会わないうちに頭の使い方を学んだみたいだ。いや、別に頭が悪かったわけじゃない。ただどうも柔軟な思考ができない奴で、そもそも小学校のときにいじめにあっていたのもそういう背景がある。
「……私は危険があったら退かせるような先輩だったかい」
「そうだったじゃないか。ストーカー被害にあってる子を助けた時だったか。彼女の囮になる捜査をしたとき、あんたは自分が囮になってるくせに俺には事件に関わるなって言ってきたぞ」
高校時代、私の探偵業は結構忙しいものだった。まあ、たいていの依頼はどこにでもあるような事件で、それは解決しないといけないのかと思うようなものもいくつかあったが、基本的に頼まれたらやっていたので猫の手が欲しいときが多々あった。それで三年の時は丁度一年生の仁志が暇そうだったので、手を借りたわけだ。
「どう考えても今回の作戦はあんたらしくない。あんたを感情的にさせてる何かが絡んでる」
かわいがっていた弟分の成長を素直に喜びたい。もう少し、そういう発想を別のところで発揮しないと意味がないけどね。
「そうだねぇ。ちょっと、ムキになってる。らしくもないとは思っているけど、それは茜ちゃんの一件のせいさ。依頼主が殺されるなんて、正直悔しくてたまらなかったよ」
ぐっと拳に力を入れる。あの惨劇のことを思い出すと、正直どう形容していいかも分からないほどの悔しさが全身を支配してしまう。
「それだけじゃないだろ」
仁志がそう迫ってきたときだった。丁度、遠くから私を呼ぶ声をしたので、返事をすると呼び声の主である小林陸が駆け足で近寄ってくる。
「蓮見さん、暇ならちょっと勝負でもしない?」
額に汗を浮かべていた彼はユニフォームでそれを拭うと、後ろにあったバッターボックスを親指で指しながら、不敵に微笑んで見せた。
「勝負というと」
「まあ、蓮見さんがヒットを打ったら蓮見さんの勝ち。俺が抑えられたら俺の勝ち。簡単な勝負だよ」
そういえば中学生の時読んだスポ根漫画にそんなシーンがあった。懐かしい。
「超高校級の名ピッチャーがなんでまたそんなことを言い出すんだい」
「蓮見さんとは何でもいいから勝負してみたいんだよ。それに、俺になんか訊きたいことあるんだろ。勝負に勝ったら、質問何でも素直に答えるよ」
その言葉につい反応して、背筋をぴんと張らせてしまった。仁志なんかは、彼の意図が読めたのかすごく鋭い目つきで彼を見ている。その当の本人は高校球児らしいさわやかで屈託のない笑顔を浮かべていた。
素直に答える。自分が何かに疑われてるという自覚はあるらしい。けど、素直に答えるっていうのは非常に曖昧な言葉だ。本当に素直かどうか、確かめる手段なんかないんだから。
「なら、私が負けたらどうすればいいのかな」
「なんでもいいから奢ってくれよ。それでいい」
予想に反した答えがすぐに、しかも何の含みもなく返ってきたので思わず、ずっこけそうになった。てっきり、もう近寄るなとか、そういう拒否的な要求をされるのかと思って身構えていたので。
「で、どうする?」
彼がボールを一回軽く上へ投げて、掌でキャッチして、少し挑発的な笑みを浮かべてくる。もちろん、私も最上級の笑顔でそれに答えた。
「私の恋人は酒とタバコだ。二股なんだよ。けどね、強いて言うなら賭博も大好きさ」
「流石。じゃあ、男に二言はないね」
「言い忘れていた。私はピチピチの女子大生だよ」
私の結構重要な主張を聞かないで小林陸は、マウンドで練習している生徒にしばらく場を貸してくれと頼みにいった。練習中の部員は少し不機嫌そうだったけど、小林陸が面白いのが見れるぞと言うと、すぐにマウンドからおりていった。物わかりがよすぎやしないか。
「ハンデをつけた方がいいかな。どう?」
質問してくれるのはいいが、彼はすでにロジンバックを手の上で転がして、やる気が十分すぎるくらい伝わってきて、本当にハンデをつけてくれるのが疑問に感じる。
「優しいね。女性に優しくするその精神は誉めてあげよう。ただね……」
私はそこで言葉を区切った。いいところで、さっきまでマウンドにいた子がバットとヘルメットをもって駆け寄ってきたので、お礼をして受け取ってから、バッターボックスに入り、バットで彼を指してやる。
「女性を甘くみると、痛い目にあう。今日はそれを、お姉さんが教えてあげよう」
ヘルメットをかぶりながら、可愛くウィンクをしてやると彼は困ったような顔をした。
「じゃあ、俺も男の意地を見せるよ」
そこでお互いに微笑んだ。一つ、分かったことがある。彼は、私と同じくらい意地っ張りだ。
小林陸の女房役の子が、キャッチャーをつとめることになった。勝負を公平にするために、顧問の先生に努めてもらうことにした。私に練習を邪魔されたことが気にくわないのか、少し不機嫌。
仁志や他の部員たちが見守る中、やっと勝負が始まった。
「真剣勝負。恨みっこなしだよ」
「デッドボールは、さすがに恨む。気をつけてくれ」
私のやすい挑発で一気にやる気になったのか、それとも勝負になるとスイッチがすぐに切り替えられるのか分からないが、この瞬間、彼の眼の色が変わった。
これは気を抜いたら惨敗する。バッティングセンターには時々いくが、その気分では無理か。
バットを構えて彼を見つめる。彼の第一球はど真ん中のストレート。私はそう読んでいた。そのために私はデッドボールと口にした。彼が自分のコントロールを見せてくるように。
彼がいつも屋上で見せる構えをとったので、グリップを握る力を強める。
爆音がなった。首を後ろに回せば、キャッチャーミットにボールが収まっている。審判がストライクをコールすると同時に、私は自分がバットを振っていたことに気づいた。
私の読みが間違っていなかった。ボールは間違いなく真ん中へきた。それを確認いて振ったけど、どうやら彼のスピードにあっていなかったゆだ。
「初球から力をこめてるね。やってくれるじゃないか」
体勢を立て直しながら愚痴ってみると、彼は意地悪な笑みを返してきた。
「痛い目をみたくないからね」
言い終えるとすぐさま戦闘態勢になり、目を閉じて精神統一をして、投球体勢にはいった。目を細め、彼とボール以外の物を視界から排除する。
今度は高めに飛んできた。それをさっきの反省をふまえて、少しバットを早く振るとなんとか当たりはしたものの、ボールは後方へと飛んでいき、ファールになった。
ただ、マウンドの高校球児は少し驚いていた。
「蓮見さん、野球やったことあるの?」
「バッティングセンターにたまに行くくらいだよ。スポーツは全般的に得意だけど、特定の運動部に入ったことはないね。いや正確に言うと入っても、すぐ退部になった。なんでも生活態度に問題があったらしいんだ。不思議だね」
後半部分は実話で私としては笑ってほしかったのだけど、彼は聞いてもいない様だった。
「素人で俺の球、二球目で打った人は初めてだよ」
「光栄だね」
短い会話だったけど彼がこういう勝負をもちかけるのは私が初めてじゃないということが分かった。彼が驚いたところからみると、今まで全勝してきたのかもしれない。なら、ここで一つ歴史を変えてみてやろうか。
三球目は低めにきて、ワンバウンドしてボールになった。どうやら少し焦ってくれたらしい。けどこれでもツーストライク、ワンボール。不利なのに変わりはない。
別に負けても良い。何かおごってやるくらい、後輩なのだからしたってかまわない。そこまでケチじゃない。ただ、何でも素直に答えてくれるというなら、どうしたって勝ちたい。負けたくないんじゃなく、勝ちたい。小さいようで、これは実はとんでもなく大きな違いだ。
彼がまた投球フォームになったので、雑念を振り払う。今度はかなり高めに飛んできたので見逃そうと判断した直後だった。そのボールが急に落ちた。
ただ、やはり高かった。判定はボール。
「変化球まで使ってくれるとは、嬉しいね」
私のひきつった歓喜を、彼は笑顔で返答する。
「嬉しいなら振ってよ。ふつう、振るよ」
「生憎、あんまり普通扱いされたことがないんでね」
なんて冗談を言ってやったが実を言うと反応できなかっただけ。フォークボールだと気づいたときは、すでにボールはミットの中へ帰っていた。あれがもう少し低ければ、負けていた。
これでツーストライク、ツーボール。彼としては次で勝負を決めるつもりだろう。スリーボールになったら、投球にかなり制約がつく。
だから、たぶん私の勝ちだ。彼が投げるボールは完全に読めている。
マウンド上の彼と目があった。自然と笑みがこぼれる。こいつは楽しい。なんで女に生まれてしまったのか。男として生まれて、もっと真剣にこの勝負を楽しみたかった。
彼がまた投球フォームをとった。目を細めて、握る力を強くする。これがラスト。今度の球は少し低め。腰に力を入れながら、バットを振る。球は私の少し前で外角へ曲がった。さっきとは違う変化球。
予想通り。
テレビの野球中継で聞くような綺麗な音ではなかったが、それに近い音をバットがたてた。打球はマウンドの小林陸の上を通り抜けて、センター前ヒット……になると確信したが、そうはならなかった。
マウンドの上で彼が飛んだ。グローブを掲げたまま。そして、打球はそこへ吸収された。
唖然とする私をよそに、彼がそのまま綺麗に着地する。同時に審判がアウト! と大声で告げるといつの間にか自分たちの練習をほったらかして私たちの勝負を観戦していた部員たちが歓声をあげた。
彼がキャップをとって、その歓声に答えている間、私はバッターボックスでバットを持ったまま立っているしかできなかった。
「残念」
周りのハイテンションとは相対するようなテンションの仁志が近づいてきた。
「君の用意した資料に、守備がうまいなんてなかったよ」
「知るかよ」
これは助手としてどうかと思う。けど、彼の責任でないことははっきりしているので責められない。……悔しさが残る。
部員たちの歓声に答えおえた彼が駆け寄ってくる。
「一応、俺の勝ちだよね」
「一応じゃなく完璧にだよ。完敗だ」
ポケットから財布を出して、そこから五百円玉を取り出して彼に渡した。彼はやったと喜びながら、それを後ろポケットにしまった。練習中に落としちゃだめだよ。
「悔しいけど、楽しませてもらったよ。ありがとう」
「蓮見さんも悔しいかもしれないけど、俺も相当悔しいよ。最後の球。どうして打てたんだよ」
どうやら彼としてはあの球を打たれたことがかなり悔しいらしい。納得できないと顔に書いてある。ただ、甘い。あれは簡単なことだった。
「二球目のファールで君は私がストレートのスピードについていけると分かった。なのに、四球目で高めの変化球をボールにした。ミスかなと思ったけど、君が私の言葉に笑顔を返したので分かったよ。ああ、これはひっかけだなってね」
あそこまで来たら、もうフォークでストライクを取りに行った方がいい。あれが少し低めに投げられていたら、完全に私はやられていた。そうしなかったのは、次に投げる別のボールで絶対にストライクをとる自信があったからだ。
ただストレートとフォークを知った私に、絶対に打たれない球とは何か。それ以外の変化球しかない。そう考えた。もちろん四球目がただのミスだったかもしれない。けれど彼の笑顔が、その余裕がこの結論への自信になった。
そこまで説明すると仁志も小林陸もぽかんと情けない顔をした。
「あの短時間でそこまで考えてたのかよ……」
「落ち込んでるね。けど私だってくやしい。正直勝ったと思ったからね」
読みが当たったと確信したとき、この勝負はいただいたと思った。まさかあんなファインプレーを見せられるとは思わなかった。かなり悔しい。
「あれはとっさの判断だったよ。体が勝手に反応したんだ。運が良かった」
そんな雑談をしていたら、顧問がそろそろ練習を再開したいという旨のことを言ってきたので、私と庇仁志はここで退散することになった。どういうわけか野球部員たちから拍手で送り出されたが、悪い気はしなかった。
のどが渇いたのでそのまま食堂でコーヒーを買った。
「ワンカップはないね、相変わらず」
百円で無愛想にアイス缶コーヒーを吐き出してくる、少し羽虫のついた自動販売機に、学生時代と変わらない感想を漏らす。
「あるわけねぇだろ。ていうか、アルコールは控えてるんじゃないのかよ」
「あれだけがんばったんだから、自分にご褒美をあげたい気分なんだけどね。いやそもそも、そろそろ限界なんだよ。初めて知ったけど、アル中らしい」
大げさにふるえさせた手のひらを仁志に見せたが、冷たい視線が帰ってきた。
「俺はずっと昔から知ってたぜ。で、あんな遊びで時間つぶして良かったのかよ」
「あれは遊びじゃないよ、君。見事な調査だったじゃないか」
仁志は分かっていないようだったが、大切な情報が一つ得れた。それは小林陸が、自分がマークされてると自覚しながら、私に勝負を挑んでくる勇気というか根性を持っているということ。
缶をあけて、よく冷えた苦いコーヒーで舌をぬらす。体が少し震えたのは、武者震いだったのかもしれない。
あの威勢の良さは、『主』の電話を想起させた。
3
まどろみに落ちると、時々いやなことを思い出す。自分の持ってる記憶に関しては多くのことを美化しているし、そもそもいやなことを避けて好き勝手に生きてきたから、そんなにいやなことというのは記憶にない。
だから、思い出すことはいつもあの組織のことだ。いつの間にか私はそこに属していて、いつの間にかそれに毒された。私の人生経験上、これ以上の後悔はない。
『あなたは選ばれました』
そんなメールが届いたのは高校に入学して一ヶ月ほどしてからだった。見覚えのないアドレスからだったし、自動削除機能がついていたので、そのメールそのものはすぐ消えてしまった。
何かのイタズラだと思ったから当初は気にもしなかったのだが、そんな時、ある一人のクラスメイトに話しかけられた。
『ねぇ知ってる? この学校には不思議な組織があるんだよ』
日頃からハイテンションの子だったが、その日は特に興奮していたのを覚えている。
『へぇ、それは興味深いね。どんなのだい?』
私が話題にのると目を輝かせて、嬉しそうに語りだした。どうやら仕入れてきたばかりのネタで、誰かに言いたくて仕方なかったらしい。
『正体不明のその組織で分かってることはすごく少ないの。六人構成で、その全員がすごく優秀な人たちなんだって。三学年だから一学年に二人ずついるの。三年間、その組織の仕事をこなして跡継ぎを見つけて引退するの。引き継いだ子が、その組織の一員になって次の仕事をこなしていくんだって』
一ヶ月、高校のことにはあまり耳にしていなかった。高校というより、各生徒一人ずつの情報の方がよく聞こえたから、自然とそうなっていた。
『初耳だね。それで組織のその仕事というのは何なんだい?』
さっきから仕事仕事と連呼しているのでちゃんと知ってると思っていたのに、彼女はここで急に歯切れが悪くなった。
『どういう仕事をするかって? それは分からない。誰も知らないの。ううん、その組織の人たちが知られないようにするんだ。知られちゃったらいけないの。それこそがその人たちの一番大切な仕事らしいよ。知られちゃったら、その組織から脱会させられちゃうんの。それはとってもいけにことなんだって。わかんないけど』
一番知りたい部分の情報がぽっかりと抜けていて、拍子抜けもいいところだった。ただ彼女もそこが一番気になるらしく、気になるよねぇと同意を求めてくる。うん、大いに気になる。
『そういえば、名前はなんていうだい?』
『名前? ああ、その組織のね。色々呼び名はあるんだ。けど一番有名なのはやっぱりあれかな。六人構成ってところから、こう呼ばれてるの』
彼女はそこで言葉を区切って、適度な間を置いてから少し冷えた声でその名前を教えてくれた。
『――“cube”って』
そんな会話をしてしばらくしたら、またメールが届いた
『あなたに『証の箱』を差し上げます。受け取って下さい』
最初はこのメールと最初のメールが関わりがあるとは気づかなかった。最初と送り主も違っていたし、今度は自動削除もなかったので、ただよく分からないメールということだった。
『証の箱』を差し上げると言っておきなが、私に何か届く気配は何もなかった。ただ、数日後、家のポストに差出人の名前が書かれていない私宛の封筒が届き、その中に箱があって、またメッセージがあった。
『あなたを“cube”として認定します。以後、指示に従って下さい。尚、この秘密を漏洩させた場合、適切な処置を執らせていただきます。主より』
この手紙で初めて最初のメールと次のメールのつながりを察して、自分が“cube”に選ばれたんだと気づいた。そして同時にいやな恐怖を感じた。二通目のメール、私は削除した覚えがないのにいつの間にか携帯のデータからは消えていた。誰かが私の携帯を盗んで、消したのだ。私は携帯を盗まれたことさえ気づかなかった。
そしてその誰かさんは私の住所まで知っている。
ただ、私がそのとき感じたのは恐怖と、そしてもう一つ……。
「レイ」
聞きなれたファーストネームを呼ばれ、ゆっくりと瞼をあけていく。私を下の名前で呼ぶ男性はそう多くない。仁志なんかずっと『あんた』だ。もう少し愛想良くしてもいいと思う。
「レイ、大丈夫か」
ぼやけていた視界がはっきりしていくと、兄が私の顔をのぞき込んでいた。
「……やあ兄さん。私の顔をのぞき込んでどうしたんだい。いくら可愛くても妹を襲っちゃダメだよ。まあ兄さんなら別にいいけどね」
早速先制パンチとしてからかってやると、兄はすぐさま顔を赤くして、何か言おうとしたが言葉にならないで、結局デコピンをしてきた。
「ふざけてるんじゃない。何か、うなされてたぞ」
うなされていたと指摘されたのは、生まれて初めてだ。中々新鮮な経験だね。
「まあ、いやなことを思い出してたからね。ところで今は何時かな」
どうやら私はリビングのソファーで寝ていたらしい。壁掛け時計は午後十時をさしていた。そういえば高校から帰ってきて、洗濯物を取り入れて畳み、お風呂をわかして父と兄と自分の夕食を作って一人で先に食べて食後にリビングでテレビを見ていた。そこでどうやら眠っていまったらしい。
小林陸が妙な運動をさせるから疲れたのかもしれない。
「慣れないことをするもんじゃないね。兄さんも気をつけた方が良い」
兄は私が何を言ってるのか当然理解出来なかった。
「慣れないことってなんだよ」
「運動とかだよ。適度な運動は大切だけど、身体を急に使うものじゃないってこと」
「俺は日頃からトレーニングしてるから大丈夫だ」
兄の顔をまじまじとみる。一見ひ弱そうで、女の私でも何とか勝てそうな気さえわいてくるが、この人はいわゆる『私、脱いだらすごいんです』というタイプ。腹筋も胸板もすごいことになっている。
「お前は運動しなきゃダメだよ。タバコも酒もしてるんだ、早死にするぞ」
「恋人に殺されるなんて最高にロマンチックだね」
本心からの言葉。タバコを一本すうごとに何分か寿命が縮まるとかいうのをよく耳にするが、そんなの当然である。あれだけの美味を金銭だけの等価交換で得られると思う方がおかしい。そんなにタバコというものは安くない。
私がこれを説明しようとした矢先、兄のお腹が小さく鳴って話す気が失せてしまった。
「兄さん、冷蔵庫の中にトンカツがあるからそれを食べといてくれ」
眠る前の私の最高傑作のありかを教え、そこで大きくあくびをして体を伸ばした。
「私は疲れたからもう寝かせてもらうよ」
タバコ論はまた今度にしようと思い、そのまま自室に向かおうとすると呼び止められた。
「本当に大丈夫か。おまえがうなされるなんてタダごとじゃない。最近無理しすぎだろう」
兄は昔から心配性だった。特に妹の私に関してはいらない気まで回してくる。将来的に兄がお見合いなどをすすめてきそうで怖いというのが最近の悩みの一つだ。
けど兄が心配性になるのは仕方ない。昔から私は危ない橋を好んでわたっていたから、それを端から見てる方からすれば心配で仕方ないだろう。元々心配性の兄にすれば、妹が人殺しを探し回っているとなると心中穏やかではいられないのも当然だ。
「……兄さん、高校一年生の頃の私はどんな奴だった?」
兄の言葉をスルーして私が質問をしてきたので兄としては納得できない様子だった。
「高一の頃のお前……と言っても、あんまり昔から性格は変わってないだろう」
「そうだねぇ。成長なしっていうのは、情けない話だけどね」
「する必要がないんだろ。けど年相応なとこもあったじゃないか。妙に化粧したりして」
中学を卒業したら急に周りの友人たちがお洒落などに気を使い始めた。いや元々ある程度は気にしていたのだけど、それが急に跳ね上がったから、私もそれにのっかった。
「まあ、そんなものかな。けど年相応なら兄さんもだね。学生の頃大切にしてたベッドの下にいた友達とかね」
再び兄の顔が赤くなって、何もいえなくなるのを確認した後、逃げるように自室に戻った。ああでも言わないと、兄がまた呼び止めてきそうだったので動きを止めさせてもらった。すまないね、兄さん。心配してくれてありがとう。気持ちだけはちゃんと受け取っておくよ。
机の上に置いてあったタバコの箱をとって、窓を開け、寝る前の一本をくわえた。蛍族と呼ばれる方々になった気分だ。
「年相応か。なるほど、さすがだね、兄さん」
自覚はしてないだろうけど兄はちゃんと人のことを見ている。年相応という言葉は見事だ。そう、あの頃の私は本当にそうだった。
本当に、子供だった。
4
その翌日、いつも通り校内パトロールをしているとメールが届いた。送り主は仁志。今は三時限目の授業中だから、きっと机の下に携帯を隠しながら送ってくれたんだろう。大方、読まなくても内容は予想がついた。
『小林が授業にでてない』
メールにはその一文だけだった。仁志は小林陸のクラスメイトを一人、情報提供者にしている。彼が授業にでていなかったり、不審な行動をとったりしたら、その情報提供者から仁志に連絡がいって、そして私へくる。
いつも通り屋上だろう。今日授業をさぼってくれたのはありがたい。丁度二人きりで、誰にも邪魔されずに話がしたいと考えていたところだ。
屋上に行くとやはり彼はそこにいて、今日は素振りの練習に勤しんでいた。バットが空気を裂く音が階段から聞こえていたので、そのバットを振る力はすごいものだ。
「相変わらず努力家だね」
そう声をかけて初めて存在に気づいてもらえたらしい。
「練習はどれだけしたって、したりないよ」
「偉大な言葉だね。尊敬するよ。本を出すかい?」
タバコをくわえてフェンスに背中を預けた。金属のきしむ音がする。
「昨日は良い経験をさせてもらったよ」
おかげさまで昨日はぐっすりと眠れた。まあ、そのせいであの夢を見たから一概に良かったとは言えないが、それは彼に言うことじゃない。
「俺も楽しかったよ。蓮見さんってすごいね。頭も良いみたいだし、運動神経も相当あるよね。正直あんなに苦戦するなんて思わなかったんだ」
彼としては素人の私くらい三球三振で抑えたかっただろう。けど私としては勝ちたかった。
「悪いね。けどあの勝負を通して、私たち二人はさらに親密になっただろう」
「変な言い方するね」
「お望みならそういう関係になってもいいよ」
「いい。蓮見さんと毎日会うとなると、なんかしんどそう」
彼の予想はすばらしく当たっている。それは最近の父の白髪の増え方でよく分かる。それに仁志が毎日のようにため息をついているし、兄も無駄に心配している。私の周りの男性はかなり苦労している。
そういえば春川にも相当迷惑をかけている。うん、反省しないといけないね。以後、気をつけよう。覚えていたら。
「けど、親密になったのは本当だろう?」
なんとか彼を頷かせたいのだけど、こう質問し続けると相手も流石に不審がる。彼はバットを止めて、私に視線を合わせた。
「何か言いたそうだね」
「そうだね。言いたいことはいくらでもあるさ。けどそれを全部言うほど私は野暮ったくはないから安心しなよ」
煙を吐き出して彼と見つめ合う。いい加減、こうやって観察したり仲良くお喋りしたりするのにも終わりにしないといけない。昨日の勝負、あれはいい踏ん切りだった。私と彼はそこそこ近づけた。その事実だけあればいい。
「君、友達の定義は何かある?」
最近気づいたのだけど、私には前後の脈絡を無視して会話を進める悪癖がある。そして驚いたことにそれを悪いと分かっていても、直そうと思っていない。これは重症だ。けど繰り返すようだけど、直す気はない。
そんな悪癖を彼はそこまで気にしないでくれた
。
「急に会話が飛ぶね。友達の定義か……。考えたこともないや。けど人によって違うだろうけど、俺の場合は友達はって訊かれた時に、頭に思い浮かぶ奴らかな」
直感的でそこはスポーツ少年らしい。けど彼の定義はシンプル・イズ・ベストというやつだ。小難しく『友達』や『知人』や『顔見知り』などと区切る必要なんてない。頭に自然に浮かんだ奴ら。それでいい。
「いい思考だね。ちなみに私の場合は一度腹を割って話した奴っていうのなんだ」
こうは言うものの、正直定義など決めていない。今も昔も顔を知っていたら、普通になれなれしく話しかけるし、知らない人にでも緊張感を持たずに接しあえる。少し話してしまえば、おおかた友達だ。ただ親友の定義なら、定めていた。それが今言ったもの。
ちなみに今まで仁志や春川などがそういう経験を経て得た親友だ。
「ということで小林君、私と友達にならないか」
少し嘘をついているけどその辺は許して欲しい。
「……何が言いたいのさ。言い方が遠回しすぎ」
彼の身体から少し警戒心が見えた。どうやらこれがいつものお喋りじゃないことを察したらしい。
「そうだね。話しは手短にした方が効率が良い。私は、君に一つ質問したいんだ」
私のお願いを彼は鼻で笑った。別にバカにしたわけではなく、少し呆れたという感じだ。
「昨日の勝負は僕が勝ったよ。だから、素直に答えるかどうか分からないよ」
「ああ、そうだ。この状況を想定してたから勝ちたかったんだけどね。だから、言ってるだろ。友達になろうって」
にこりと笑ってみせる。彼はスマイルのサービスをあまり気にいってくれていないらしい。その剥き出しの警戒心がさらに姿を露わにしなっている。
「……質問したきゃ、すればいいよ。素直に答えるかどうかなんて、蓮見さんに関係ないんでしょ。やめてって言ったってどうせするんでしょ」
そう。申し訳ないけど私はきっと彼が質問するなと怒鳴り散らしても、泣きだしても質問する。それが私の仕事だし、すでに始まっている悲劇の連鎖を止めるために必要なことだ。
気まずい雰囲気が流れたので、誤魔化すために一本タバコを差し出すが彼は受け取らない。
「……タバコはやらない。体力に響くからね」
「そうだね。賢明だ。けど私みたいにこいつなしで生きられないなんて人生も中々味があっていいんだけどね」
おそらく全国のヘビースモーカーたちの支持を得られるであろう自画自賛をした後、携帯灰皿を取り出してそこに吸い殻を捨てた。そして差し出していたタバコを自分が吸う。
「もう単刀直入に訊くよ」
そう切り出しながらライターで火をつけ、点火を確認してライターをしまうと同時に、確信を突くことにした。
「――君は“cube”か?」
その一言が私と小林陸しかいない屋上という空間を支配した。
長い間沈黙が続くかと思ったが、そうはならなかった。私の質問に、彼はすぐに答えてくれたのだ。ただそれはちゃんとした言葉ではなく、軽快な笑い声だったが。
日頃は笑ってもはにかむ程度の彼が、両手で今はおなかを抑えて大笑いしている。かなり新鮮な姿だったが、当然良い気はしない。
「私の質問はそんなに面白かったかい」
笑い続けて答えない彼にそう言うと、両手をあわせてごめんごめんと謝られた。
「い、いや違うんだ。少しおかしくてさ……そうかぁ、俺がねぇ。ははは」
結局彼の笑いが収まるまでじっと待つことにした。気が済んだ彼は、またごめんごめんと謝る。
「そうか。蓮見さんがずっと疑ってたのは、そういうことだったんだ。どうりで最近、“cube”についてよく噂を聞くなって思ってたんだよ。蓮見さんが調べ回ってたんだ」
細かく言うと噂については私ではなく、仁志と有華ちゃんなのだけどそこは言う気はない。あの二人の存在を、向こう側に知られてないというのはこの調査において一番重要なことだ。
「まあ、そうだね」
「どうしてあんななぞめいた組織を調べてるのさ?」
「どうしてだろうね。君が答えてくれたら、答えるかもしれない」
「そう。なら答えるよ。俺は“cube”じゃない、絶対に」
語尾に絶対とまでつけてきたが、残念ながら彼にはそれを証明することはできない。もちろん私も彼を“cube”だと証明することはできないので人のことは言えないのだが、私の場合は運が良ければ荷物検査でもすれば片が付く。
もちろん、そんなことはしない。相手がさせてくれないだろうし、必ず箱を持ってるなんて保証もないから。
「疑ってるね」
「それが仕事みたいなものだからね。良心が痛むが仕方ないんだ。許してほしい」
おどけて見せる私に彼の方が疑いのまなざしを向けてきた。
「本当に真意が読めないよね。けど俺は答えたんだから、蓮見さんも答えてよ。どうして調べるの」
私が何かを調べるときは大抵、依頼を受けたからだ。もちろん私が直感的に気になったから調べるというケースもある。今回の場合においてはその両方。だが、依頼人のことは口にできない。守秘義務じゃない。依頼人がすでにいないからだ。
「謎めいているから調べてるんだよ」
「……ずるいね」
「私だって素直に答えるかどうかを決める権利はあるだろう」
微笑を浮かべてやると、今度は小さく笑われた。
「友達になろうって言ったのは、そっちのくせに」
そういえばそうだった。これは一本とられたな。
「まだ友達になるまでには色々と至難がありそうだね」
「蓮見さんが信じてくれれば、問題は解決するよ。けど俺としても“cube”じゃないとは証明できないから、面白い噂を教えてあげるよ。それで腹を割ったことにしてほしい」
彼はそういうとバットを置いて、私のそばまで寄ってきた。ただタバコのにおいが嫌だったのか顔をしかめる。仕方なく、また携帯灰皿にまだ少し長いタバコを入れた。すまない、マイ・ハニー。
彼は私の横でフェンスにもたれ掛かり座った。
「蓮見さんなら知ってるかもしれないけど、ここ最近、いや一年くらい前かな、“cube”の資格を奪えうるかもしれないって噂を聞いたんだ」
思わず体を硬直させてしまった。自分でも表情が凍っているのが分かる。私を見上げていた小林陸が、想像以上のリアクションに息を詰まらせた。
“cube”の資格を奪う……。そんなことが。
「ビックリするなぁ。そんなに驚くは思ってなかったよ」
「……いやすまない。続きをききかせてくれないか」
心の中で何度も何度も自分に落ち着けと言い聞かす。ここでうろたえていたら、彼が話しにくくなる。ちゃんと頭を働かせて、いつも通り落ち着いて聞け。自分に余裕を持て。確かに初めて耳にする噂だがそこまで焦る事じゃないだろう。
「何か聞くところによると、“cube”っていうのは選ばれたらそれの証明として何かもらえるんだって。ようはそれが資格って呼ばれてるんだけど、それさえ手に入れれば誰だって“cube”になれる。噂はこういうやつだったよ」
思わず舌打ちをしたくなるのをぐっと堪える。資格というのはつまり『証の箱』のことだ。私の在校中には噂になんてなっていなかった。あれは“cube”と『主』だけが知っているいわばトップシークレットで、あれだけが『主』とのつながりみたいなものだった。
全く、こうして調査をしていて何でそんな重要な噂を掴めていなかったんだ。仁志も有華ちゃんも……。いや違うな、あの二人は悪くない。本来なら私が真っ先に知っておかないといけないんだ。
怒りで責任転嫁をしようとしている自分が情けない。
「へぇ。そんな噂がねぇ。しかし“cube”になるには優秀じゃないといけないって話なのに、奪えばなれるってのは少し強引だね」
「けど優秀な奴が隠してる秘密を暴き出すんだよ。そういう意味では優秀なんじゃないかな。ああ、それに他にも聞くのが資格の奪い方だね。ただ盗めばいいってものじゃないんだって。元々の“cube”にお前が“cube”だって証拠を突きつけて、相手がそれを認めて権利を委譲して初めて、奪えたってことらしい。ずいぶんと細かいよね」
これもまた新情報。たださっきの情報もそうだが、“cube”については憶測が噂になるケースが多い。鵜呑みするのは危険だ。ただ……彼の言うとおりだ。ずいぶん細かい。憶測がそこまで細かくて、そしてそれがそのまま噂になるのか。
「しかし資格の強奪か。みんなそこまでして“cube”になりたいのかね。私には分からんよ」
「蓮見さんはそういうものには興味なさそうだもんね。俺もそうだね。“cube”なんて興味ないや。なにするかまでは知らないけど、野球で忙しい」
丁度そこで三時限目の終わりを告げるチャイムが校内に響いた。休憩時間は基本的に校内パトロールにあてているので、そこでフェンスから体を離した。
「興味深い話だったよ。また何かあったら聞かせてほしい」
「いいよ。役に立てるなら喜んでやるさ。けど今の話だって少し前に食堂で女の子たちが話してるのを聞いただけだから、期待はしないでね」
なるほど情報源はあいまいなのか。けど噂なんてそういうものだ。そういうものが重要になってくる。それは経験上、いやというほど身にしみてしまっているんだ。探偵としても、“cube”としても……。
屋上の扉の前まで来たところでくるりと身を翻して未だにフェンスに身を預けている彼をみた。
「そういえば腹を割って話してくれたんだ。こっちもそうしないとダメだね。私が“cube”を調べてる理由はね……」
嘘はつかない。私はそこで本心の一部を吐露した。
「君を疑いたくないから。君を信じたいからさ」
どうやらこの回答は予想していなかったらしく、彼はかわいらしくきょとんとしていた。
「まあ、そういうことだ。四時限目は出なよ、野球少年。友達からのアドバイスだ」
背中を向けたまま手を振って別れを告げ、屋上の階段を素早く下りていく。校内はすでに授業から解放された多くの生徒たちの声で騒がしくなっていた。
一度足を止めて、もう閉じてしまった屋上の扉を振り返る。
「……興味のないわりに、ずいぶんと詳しいね」
話を聞き終えてこういう感想を真っ先に浮かべてしまうのは、少しゆがんでいるだろうか。
「資格の強奪……」
昼休みに有華ちゃんと仁志を生徒会室に呼びつけた。仁志は大きなレーズンパンを丸かじりし、有華ちゃんはいかにも女の子らしい小さめのお弁当をゆっくりと食べている。
忙しい二人を呼びつけたのはもちろん、あの噂を伝えるためだ。メールで知らせても良かったが、こういうことは直接口で言った方が重大性がよく伝わるし、メールは携帯に履歴やデータが残る。過去の経験上、過信できない。
「酔狂な奴らもいるんだな」
話を聞き終えた二人の反応は真逆だった。有華ちゃんは息を吸い込んで絶句し、仁志はバカにしているというより、呆れた様だった。
「そうだね。理解出来ない話だ。けど、私が言いたいのはそんなことじゃない」
さっき仁志に買ってきてもらったグレープ味のゼリーをスプーンで少しだけ口に運ぶ。つるんとした食感が心地よく、かまずに飲み込んだ。
「……そんな噂、俺は全く知らなかった」
「私もです。女の子たちがそんな会話してるの聞いたことありません」
やっぱりそうなるとは思ってた。こんな噂、知ってたらすぐ報告してくれるはずだ。
「ただ私たちが掴めていなかっただけかな。まあ、噂だ。デマって考え方もできるんだよ。ただ、ちゃんとこの情報を胸に刻みつけといてくれ」
私が二人にこの情報をちゃんと伝えたかったのにはある理由がある。二人はあまりそれを分かっていないようだったが、とにかく首を縦に振ってくれたので、それでよしとしとく。
「それであんたは小林をどうするんだよ?」
紙パックの牛乳をストローで飲みながら仁志が訊いてくる。レーズンパンと牛乳。まるで給食みたいな昼食だ。
「監視は続ける。彼の立ち位置は今までと変わりない」
あの話し合いだけで彼が白か黒かなんて判断できるはずがない。信じたいし、疑いたくないのは本心だがそうするにはそれだけの根拠がほしい。せめて私だけでも納得できる根拠が。
「そうか。けど、俺個人的な意見を言っていいか」
仁志が言いたいことはだいたい分かっているので、あまり聞きたくない。発言権を迫る仁志と、それを拒みはしないが許可しない私を有華ちゃんが不思議そうに眺めている。
「……君が話す必要はない。小林陸は黒に近づいた。そう言いたいんだろ?」
「ああ。だってそんな聞いたこともない噂をそのまま真に受けるわけにはいかないだろう。小林が捜査の攪乱を狙ってるのかもしれない。それだけじゃない。そんな噂、俺も鴻池さんも聞いてない。ここ最近ずっと“cube”をかぎ回ってる俺たちがだぞ。不自然じゃないか」
「そんなことは言われなくても分かってるさ。だから、これからは個人的に彼の監視を強化する」
そう宣言するとさっきまで威勢の良かった仁志が急に言葉を止めた。そしてそのまま顔を引きつらせる。
「あ、あのぉ、監視の強化っていうのは一体?」
事情を知らない有華ちゃんが律儀に手を挙げながら質問する。仁志の場合は、私のやり方を知っているので驚きはしない。もちろん、賛同もしてくれないけど。そんなのは求めてないので構わない。
「ストーキングだよ。所謂ストーカーって奴だね。私は尾行って呼んで欲しいけど」
「す、ストーカーっ!」
呼んで欲しいと言っている矢先からストーカー呼ばわりされた。心外だ。
「ダメですよ蓮見さん。犯罪ですよ」
「大丈夫さ。私が何もしない限り、警察は動かない」
仁志や有華ちゃんのような普通の人からすれば、驚いたり引いたりするのが当たり前の行為だけど私はそこまで抵抗はない。人を傷つける目的なら絶対にダメだが、護るためならそれくらいは当然だ。護衛やSPっていうのは見方によってはストーカーじゃないか。
それに言った通り、ストーカーじゃ警察は動かない。昔の父の重々しい記憶が蘇ってきて気分が悪くなった。ストーカー被害を止めたのに、減給になった父の姿がまだ私の脳裏にはちゃんと残っている。
「警察っていうのはそういう組織さ。心配することじゃないんだよ、今回が初めてじゃないし」
尾行はもう何度もやっている。高校時代も、大学生になった今でも。もちろん依頼主のためだ。誰をずっと見続けるなんて好きこのんではできない。誰を一人を見続けるくらいなら、美人をたくさん見たい。
「……人殺しかもしれねぇ奴をつけ回すんだぞ。いやもしかしたらもう『主』が目をつけてあんたより先に尾行してるかもしれない。本気で危ないぞ」
「おかしなことを言うね、ひぃ君。ずっと前からもう危ないんだ」
ここで彼とにらみ合うことになった。彼が私の身を案じてくれているのは分かってる。けどここで、ああそうだねと言って彼に甘えるわけにもいかない。私にだって意地やプライドがある。そしてなにより、そんなことは承知の上でそれでも護りたいと思えている。
少ししてから、どうせ私が退くわけないと長年の付き合いで分かった仁志が鞘を収めてくれた。
「気をつけてくれよ、本当に。親父さんや一郎さんから頼むって言われてる身になってくれ」
一郎とは兄の名前だ。兄が一郎だから、私はレイ。父としては長女らしい名前をつけたかったらしいが、母がこの名前を譲らなかった。もう十九年も前から父は母に頭が上がらなかったようだ。
なるほど。父や兄は仁志にそんな頼み事をしていたのか。親バカとシスコン。全く、笑える家族構成じゃないか。幸せすぎて涙が出てくる。
「分かってる。けど気をつけるのは君たちもだよ。さっきの噂を忘れず、細心の注意を払ってくれ」
これだけはしつこいと言われようと念を押しておかないといけない。最悪、これからの展開次第では二人を捜査から外すことも考えておかないといけないかもしれないが、それはまた考えるとしよう。
有華ちゃんがお弁当を食べ終えて、丁寧に手を合わせている。本当に律儀な子だ。
「これからの捜査は基本的にはなにも変わらない。ただ、ひぃ君、小林陸の監視を強化する。彼の行動をさらに細かく知らせてくれ」
仁志は決意のこもった目でそれを承諾した。
「それと彼、あの情報提供者にも気をつける様言っといてくれ。なにがあるか分からないからね」
小林陸の情報をくれている生徒には一度会っている。協力してくれると心強いことを言っていたが、どちらかというと単純に非日常を楽しんでいるようだったが、協力者に変わりない。大切に扱わないと。
「有華ちゃん、小林陸はその噂を女子生徒から聞いたそうだ。もしかしたらもっと詳しい情報を知ってる奴がいるかもしれない。今度からはその噂も絡めて捜査してくれ」
「はい」
実に気持ちのいい返事をしてくれる。
その後、二人はそれぞれの教室に帰っていった。教室に帰る前、仁志はどうやら情報提供者に会って、監視強化の旨を伝えいったようだ。
二人が帰った後、携帯を取り出して父にも同様に報告した。
『……どう思う?』
電話口で感想を求められ、素直に答えた。
「考えてることは父上と同じさ。事件の輪郭が見えてきたんじゃないかな」
“cube”の資格を奪える。もし噂が本当だったとするならば好き好んで“cube”に入りたい奴は、“cube”を探しだそうとする。そして本当に“cube”を見つける。そしてそこで……。
『いざこざが起こり、結果、殺人事件にまで発展している』
さすがは長年刑事をやっているだけのことはある。噂を聞いただけで、そこまで推理してくれた。仁志と有華ちゃんはそこまでは分からなかった。だからあんなに念を押しておいたのだ。
“cube”を調べているのは、“cube”になりたいからじゃないかと犯人に思われたら一巻の終わりになる。
『噂を鵜呑みにするわけにもいかないから可能性として考慮しておくし、上司にも伝えよう』
「うん。頼むよ」
正直、昨日までは警察の介入は望ましくないと思っていた。それはつまり新しい被害者がでることを意味していたから。けど、今は何か違う。少し焦っている。嫌な予感がしてならない。
仁志と有華ちゃんをこれ以上、踏み込ませたくないという気持ちがちょっと強まっている。
会話を終えて、携帯をじっと見つめる。最初は明るかったディスプレイが、すぐに真っ暗になって画面に私の顔が映った。
『主』からの連絡はあれ以来ない。けど、確実にあれが最後ではないだろう。そんな予感が強く胸のうちにあった。
5
堪えるつもりだったのに、大きく口をあけて欠伸をしてしまった。おまけに涙まででてくる。眠気が体を支配しそうなのがよく分かる。首を大きく左右に振って、目を覚まそうと頑張るが、努力だけではどうしようもないので、眠気覚ましのガムを取り出して、口に放った。
目をこすって再びパソコンの画面と向き合う。世にいうオタクといわれる方々は毎日これとにらめっこをしているらしいが、信じられない。私はもう目が疲れてしかたない。よくこれをずっと見られるものだ、尊敬に値すると思う。
こういう作業にはなれていない。今、目の前の画面にはこの高校の全校生徒の詳細な情報が載っているファイルが開けられている。それを昨日の晩から、一人一人細かくチェックしている。目的は『優秀な生徒』探しだ。優秀なんて定義はなんにだって当てはまるが、それだからと言ってなにもしないわけにはいかないので、最低限経歴だけでも優秀な生徒をリストアップして、それらをのせたリストを作っている。
顔写真、出身小中学校、所属部など一人一人載ってある。なにか特別なことがある生徒はそのことも書かれている。こんなファイルを海野先生は一週間ほどで作ってくれた。もちろん一人だけではなく、他の先生方にも協力してもらったそうだ。先生方の中にも協力的な人が多い。やはり、二人の死を偶然とは思えないのだろう。
そう考えると、あの婆さんがどれだけ鈍感かが分かる。
とりあえず、昨日もらったそのファイルを昨晩からほぼ徹夜でチェックしている。ただ千人を越える生徒を全てチェックするのは、かなり時間がかかる。今はもう四時限目を過ぎているが、まだ二百名ほど残っていた。
昨日は結局、放課後ずっと見回りをしたり、居残りをしている生徒たちに勉強を教えながら色々と探ってみたりし、その後は小林陸をつけた。ただ収穫は予想通りゼロ。彼は友達と喋りながら帰宅して、その後しばらくは家を出なかったので私も帰宅した。
その後。いつも通り食事を作って、軽い家事をした後からずっとこの作業をしている。もういい加減嫌気がさしてきたが根をあげるわけにはいかない。
今日は仁志から連絡はないので、小林陸はおとなしくしている様だ。
ああ、ダメだ。また眠くなってきた。そういえば三時限目の報告をしにきた有華ちゃんに顔色が悪いとまで言われたのを思い出した。ガムはその時、眠いんだったらと言われてもらった物だ。ありがたいと思ったものの、残念ながらあんまり効果はない。
イスの背もたれに全体重を預ける。指で目を押さえる。ああ、昼休みになればどうせ騒がしくなるし、チャイムもなる。自然と目が覚めるだろう。少しだけ眠らせてもらおう……。
イスから立ち上がり、ソファーに寝ころんだ。私が記憶しているのは、ここまでだ。
扉が開かれる激しい音がなって、それで一気に目が覚めた。むくっと体を起こすと、扉の前には息を切らせた顔色の悪い仁志がいて、心臓が一気に脈をうった。
「どうした」
自分の声が鋭くなってるのは自覚できたが、自然と出た物がそれだった。
「ご、ごめん……小林が三時限目から授業に出てないらしいんだ」
ソファーから起きあがって壁掛け時計に目をやると、丁度昼休みの途中だった。ということは、小林陸は二時限休んで、今も教室に戻ってないということだ。昼休みを屋上で過ごすことは珍しくないが、そんな長時間は初めてだ。
「くそっ」
女らしさの欠片もない悪態をついた後、一気にかけだした。私の後ろを仁志がついてくる。廊下にいる生徒たちの間をすり抜けたり、時には押し退けたりして最速で屋上へ向かう。文句を言ってくる生徒もいたが、こっちはそれどころじゃない。
屋上の扉を一気に開ける。風がふわっと私の全身にあたり、服と髪がなびいた。そんな私の目の前には、予想していた、想定できていた、だけど想像したくもなかった現実が横たわっていた。
屋上の真ん中あたりに男子生徒が倒れていた。半ばパニック状態で彼に駆け寄ると、やはり小林陸だった。仰向けになって倒れていて、頭の周りには赤い海が広がっていた。そして少し離れたところにバットが転がっている。
かすかな希望を持ちながら脈を計ったが、無駄だった。思わず堅い屋上のざらついたコンクリートを殴りつけてしまう。痛いけど、そんなものよりひどい感情が体を巡り回っていた。
「おい……」
ようやく追いついた仁志が扉付近で絶句していた。まずいな。
「ひぃ君、見るんじゃないよ。目をそらして」
私の咄嗟の指示に従い仁志は背中を向けた。死体なんて見る必要はない。気が滅入るだけだし、下手をすると一生残る傷になる。彼にはそんなことがないようにしたい。
「ひぃ君、いいかい、よく聞くんだ。職員室へ行って、海野先生たちに報告してくれ。他の生徒には気づかれないようにね」
仁志はその後すぐに走り出した。
小林陸の死体はもうすでに体温が下がっていて、通常よりも冷たくなっていたが、これだけではなにも分からない。死亡推定時刻は警察がちゃんと割り出してくれるだろう。ただ、空白の時間が二時間以上あるのは、犯人には有利だ。
彼の死体にはなるべく触れないように、現場も荒らさないよう、私は探しうる範囲で探すと、それはすぐに見つかった。
バットの陰に隠れるように『証の箱』が落ちてあった。
「腹をわってくれてなかったじゃないか」
自分の想像をこえた落胆の色が、私の声には含まれていた。
「……まあ、それは私もか」
どうして“cube”がねらわれてると彼に言ってやれなかったんだろう。言ったら、彼が『主』だった場合、私以外の人間にも危害がでる可能性があったから控えたが、ちゃんと警告してやるべきだった。
奥歯を強く噛んで、拳をぎゅっと握りしめた。結局、茜ちゃんと同じ結末だ。ツメが甘くて、『主』に先を越された。私はなにもできなかったんだ。
彼の死体を見下ろして、頭を下げた。
「すまない」
髪の毛が地面に向かって流れた。それを見てすぐ頭をあげる。現場に髪の毛を残したりするのは、父たちの邪魔にしかならない。
「はは」
思わず笑ってしまった。私はこんなに冷静でいる。一昨日、友人だといった男の子の死体を目の前にしてだ。冷徹なんて言葉が、自然と頭に浮かんだ。
ポケットから携帯を取り出して急いで父にコールをした。仕事中なら出られないかもしれないが、幸いにも昼休みだったのか、すぐに電話にでた。
「父上、すまない」
私がそう切り出すと父はそれだけ状況が分かったらしい。苦々しく訊いてくる。
『三人目がでたのか』
「ああ、前に調査を依頼した子だ。名前は小林陸、三年生の男子。現場を見て分かることは、殺されてからそんなに経ってない。一時間くらいだと思う。ついでに言うなら、『箱』もある。殺害方法は金属バットで撲殺だよ」
まくし立てるように報告するのは、どこかで言葉が詰まらないように。急いで父に来てほしい。早く彼をこんな場所から出してやりたい。いつまでもここで寝そべっているのはかわいそうだ。
『分かった。すぐに行く』
仁志は先生にちゃんと警察に通報する必要はないと伝えただろうか。通報なんかするより、こっちの方が迅速だと彼ならちゃんと分かってるはずだけど、混乱してたから。
「頼むよ。早く来てくれ」
電話を切ろうと耳から携帯を離す直前、名前を呼ばれた。
「なにかな」
『お前のせいじゃない。気にするな』
父はそれだけ言い切ると一方的に電話をきった。今のは紛れもなく「父親」としての言葉だった。刑事が使う機械的な言葉じゃない。蓮見レイの父親として、あれだけは言っておかないといけないと思ったんだろう。
また今度、何かご馳走を作ってやろう。
乱れている気持ちを落ち着かすために、胸に手をあてて、小さく深呼吸をする。そうしながら、今度は「刑事」としての父を待つことにした。
海野先生は寡黙で、落ち着いた先生だ。どんなことが起きても声を荒らげることはなく、だからと言って生徒に冷たいわけでも、なめられているわけでもない。多くの生徒はその寡黙さに頼もしさを感じているし、その冷静さを尊敬している。
私も先生とは三年間つき合って、それは身にしみている。下手をすると退学になりそうなことをしでかしたときも、落ち着いて対処して私を守ってくれた後、もう二度としないようにと叱ってくれた。今まで出会った教師という人間の中で、海野先生ほど尊敬できる人も頼りにできる人もいない。
その先生が屋上に入ってくるなり、目の前の惨状を見て膝をついた。視線は確かに彼の死体に向けられているが、それをちゃんと見れているのか、それは分からなかった。しばらくの間そうした後、なにか声にならない小さな声をあげながら、彼に駆け寄ろうとするので肩をつかんでそれを制止した。
「先生、ダメだ。警察がもうすぐ来るから、触っちゃダメだ」
先生が私の方をみた。この視線を一生忘れることはない。三年間つき合ったが、先生のこんなに怒りに満ちた顔つきはみたことがないし、あんなに悲しみを含んだ目も見たことがなかった。一瞬にして目をそらして、肩から手を離したくなったがそこだけは踏ん張った。
「ダメだよ。ごめんだけど、ダメなんだよ」
そう何とか訴えると先生は止まってくれた。死体まで後少しのところで、なんとか自制を働かせてくれたらしい。
海野先生に続いてぞくぞくと先生たちが屋上に到着する。こんなに来たら、生徒が不審がってしまうとは思うが、先生たちだって生徒が一人死んでいる聞けば職員室でじっとしてるわけにもいかないんだろう。
一部の先生たちが海野先生に駆け寄って、何か言葉をかけている。こういう時、一体どういう言葉をかけたらいいんだろうか。
そんな沈んだ気持ちでいると、ようやくあの人が屋上にきた。
「なんてこと……」
この高校の最高権力者は屋上の様子を見て、そう息をのんだ。
「どうして、どうして」
その後はそれを繰り返すばかりで最高権力者とは名ばかりの、情けない有様になったが、私としてはそれが許せなかった。堪えればよかったのに、いろんな物に対してもっていた怒りが、そこで沸点を迎えてしまった。
「どうしてじゃなだろうっ!」
私の近くにいた先生が体を小さく揺らして驚くほどの声だった。
「言ったろうが、下手をするとあと三人死ぬって! だから休校にしろって! どうしてそれを無視してくれたっ!」
何人かの教師が私を止めようとしてきたが、それを振り払って春日の婆さんの前に行き、一気に胸ぐらをつかんだ。
「おかげで死ぬ必要のない子が死んだ!」
いや違う、生きなければいけない一八歳の男の子が死んだ。その現実に一番腹が立っていた。婆さんを責めるのは少しずれていると自分でも分かっていたが、買い手のない怒りが増幅していたのでそれが暴発している。
「……仕方ないじゃない」
返ってきた答えがあまりに無責任だった。思わず、胸ぐらをつかむ手に力が入る。
「なにが仕方ないんだよ! 言ってみろ! 私が納得できるように、ちゃんと説明できるもんならやってみろっ!」
「私は学園長としての責務があるのよ。それを無視はできなかったわ」
胸ぐらを掴む力をまた一気に強める。
「はは、信じられないね、婆さん。開き直りかい。ボケて分かってないなら教えてやる、おかげで一人死んでるんだよっ!」
「結果論で言わないで」
私が怒りで冷静を失いつつあるのに、婆さんの方は徐々に落ち着きを戻していっている。それがまた気に食わない。大人の余裕という奴かなにか知らないが、こういうときにそういう態度でいられるのは嫌だ。
「あんたのせいで一人死んだんだぞ」
口走った後、言ってはいけないことを言ったと思ったがもう遅かった。婆さんはきつい目をこちらに向けて、反論してくる。
「あなたのせいでもあるんじゃない?」
心にまっすぐに、ぐさっと何かが刺さった。私のせい。父は違うと言っていたが、否定できるはずもない。
「そんなの……」
分かってると言おうとしたが言葉にならなかった。苦々しい思いが胸一杯に広がっていく。
「もうやめろ」
後ろからそんな声がした。振り向くと死体を見つめたままの海野先生が、こちらに背を向けて立っていた。
「もうやめてくれ。誰のせいでもないだろう」
その意見にはいくらでも反論できただろう。けど、その声には誰も反抗しようなんて思えなかったはずだ。それほど先生の声は悲しみでにじんで聞こえた。
手を離して婆さんを解放する。
「すまない。……気がたってたんだ」
「……いえ、こちらこそごめんなさい」
和解ともいえない終わりをみせた喧嘩に、屋上の張りつめた空気が消えたが、ただその後に残ったのは、海野先生の小さな嗚咽だった。
屋上は大人たちに任せて、階段を下りると生徒たちが群がっていた。二人の先生が教室へ返るように指示しているのに、生徒たちは屋上の様子を見たくてしょうがない様子だった。
その中には心配そうに私を見る仁志と有華ちゃんの姿もあった。二人に手招きをして、その後生徒会室に戻った。
「有華ちゃん、仁志から聞いてるとは思うけど小林陸が殺された」
まず最低限の情報を提示すると、彼女は知ってますと頷いた。
「うん。そして現場には箱も落ちてあった」
その情報に二人の表情は別々だった。有華ちゃんは眉を下げて、仁志は口の端をとがらせた。
「素直に白状すりゃ、こんなことにはならなかったんだよ」
そういう悪口を言うものじゃないが、彼がそう言いたくなるのも分かる。確かに彼が素直になっていたなら、対処はいくらでもできたが、今はそれを嘆く時間じゃない。
「信頼が勝ち取れなかった私のミスだよ。彼を悪く言うのはよしなさい」
そうたしなめると納得いかない顔をしたが、彼としても死人にそこまできつく当たることに抵抗があるんだろう、何も言わなかった。
「それでどうするんですか?」
有華ちゃんの質問に素直に両手を挙げて降参して見せた。
「あとは警察に任せるしかないよ。情報を横流ししてもらうけど、私たちが直接介入するのは邪魔にしかならないさ」
正直な話をすると父が情報を横流ししてくれるかどうかも不明だ。きっとしてくれるだろうが、心配性の兄が何か父に言うかもしれない。レイを危険にさらすのはどうか、とか。そうならないことを祈る。
「結果はこうなったけど、小林陸は“cube”だった。私たちの捜査はあながち間違いじゃなかったんだ。だから、君たちに言っておきたい」
私は二人をまっすぐ見据えた。目をそらすことなく、二人をとらえた。
「捜査から手を引くのをお勧めする」
二人の表情が固まった。捜査が間違っていなかったと言った後に、そんなことを言われるなんて予想していなかったみたいだ。
「どうしてですか」
「どうしてかなんて分かりきってる。危険すぎるからだよ」
小林陸の死体を見つめていたとき、私の頭の中には嫌な連想がうかんだ。これが仁志や、有華ちゃんだったら……。すぐに振り払った思考だが、もしそうなったら私はもう私という人間を保っていられなくなるし、責任なんかとうてい負いきれない。
そもそも二人がここまで危険な目にあう危険性にさらすことはないんだ。
「絶対に嫌だ。断る」
はっきりそう宣言したのはそもそも一番無関係だった仁志だった。
「ここまできて何言ってんだ」
「ひぃ君、けどね……」
「弱気になるなよ。あんたたらしくもない。言っとくけどな俺はあんたがやめろって言ったって続けるぞ。あんたが何をどう脅したって勝手にやってやる。ここは俺たちの学校だ。『主』のものじゃない。ここのリーダーは――」
彼はそこで言葉を句切って、右手の親指で自らを指さした。
「俺だ」
彼がここの生徒会長になったのは、ちょっとしたエピソードがある。それは彼の初恋の話しであり、おそらく一つのトラウマになってるものだ。今でも彼女のことを時々思いだしては、こんな不良少年らしくもなく校内のどこかを箒ではいたりしている。彼にとってここの生徒会長でいることは自分を保つためにも必要なことにのようで、それは単純にその地位についていればいいというものじゃないらしい。
そんなことは知っていた。だから、彼に協力をもとめた。この学校で問題が起こってると知っていて、それに私がとりかかると分かれば否応なしに参加させられると分かっていただろうし、きっと何より彼自身がそれを望んでいた。
バカらしい。結局、私の見ない間に仁志はずっと成長していたんだ。簡単に逃げ出すような、誰かに言われたからってすぐに手を引っ込めるような奴じゃなくなったんだ。
「蓮見さん。私だってやります。茜もやられたんです、許さない。絶対に犯人を引っぱたいてやりたいんです」
聞き分けのない後輩たちを持ち、私はちょっぴり不幸な気分になった。
「何度も言うようだけど、相手は殺人犯で……」
何とかして二人の説得を試みようとしていたその時、ポケットの中の携帯が震えだした。父かと思って取り出してみたが、電話ではなくメールで、しかも見たことのないアドレスからだった。一瞬で寒気が前進を覆う。ついに、きたか。
メールボックスを開くと、初めて“cube”に選ばれたというメールが送られてきたこと思いだした。すばやくその宛先人不明のメールを開ける。
『がんばった方だよ。よく“cube”を特定できたね、褒めてあげる』
嫌みったらしくハートマークがついてあった。問題はその後。
『あなたじゃ何もできない。止められない。だから放っておいてあげる。あなたのかわいがってる後輩も』
そして最後はこう締めくくっていた。
『(笑)』
怒りで表情が歪んでいるのが自覚できた。私の異変に二人が携帯をのぞき込んで、メールを読む。二人とも最初は何も言わなかったが、なんとあろうことか有華ちゃんが小さく笑い声をあげた。
「残念でしたね、蓮見さん。私たち、もうばれちゃってます」
嬉しそうに、それに仁志が続いていく。
「そうだな。どこで気づかれたかは知らないけど、もうばれてる」
二人が何を言わんとしているのかは分かる。もうばれているなら、遠慮なく捜査を続けよう。しかも『主』はほおっておくとも言ってる。それが事実だとするなら、二人の心配はしないで済む。いやそもそも、もうこなってしまったらこの後輩たちは勝手に行動する。
そもそも警察だってこうなったら介入してくる。『主』としては高いリスクを払ってまで私たちに手を出しては来ないだろう。そんなことをする暇があるなら、素早く次のターゲットを攻撃するはずだ。
確信はもてないが、安心はしてもいいだろう。
「……これは先輩命令だよ。いいかい、細心の注意を払ってくれ。何かあったらすぐ報告してくれ」
私が折れたことに満足したのか、二人は大きく頷いた。
「それで仁志、このメールなんだが……アドレスを見てくれ」
私はそういいながら送り主のアドレスを画面に表示して仁志に見せた。
「……間違いない。合田のだよ」
合田というのは小林陸の監視役をしてくれていた子の名前だ。
「合田君は小林陸が三時間目に授業から抜け出したことを報告しようとしたけど、携帯が盗まれてできなかった。そうだろ?」
私のところに小林陸の情報が回ってこなかったのは多分こういうことだろう。さっき即席でした予測だが、合っていたようだ。
「それだけじゃねぇ。三時間目が終わって合田が俺のところに直接報告しにいこうとしたら、先生に止められたんだ。なんか別のクラスで生徒の財布がぱくられたらしいんだけど、それの犯人扱いされて四時間目の間もずっと問い詰められてたらしいんだ」
最悪すぎる。犯人はかなり用意周到だ。今日、このタイミングで行動することをちゃんと用意していた。そしてそのために私の協力者、その情報提供者まで調べ上げている。完全に手の内が読まれていたんだ。
情報提供者の必須である携帯を奪い、その後行動を封殺した。これで私へ情報の流れを止めて、邪魔されず小林陸を殴り殺したんだ。
ここまでは完敗。
「もうちまちまとやってる暇は無いようだね」
携帯を閉じて、目を瞑った。
「……こっちから仕掛けようか」
そう宣言して、一気に目を開ける。
第四面[批評家の反撃]
さすがに二ヶ月前に殺人事件のあった高校で再び事件が起こると、マスコミが黙っていなかった。しかもその間に一人の女子生徒が不審な死をとげているとなると、その報道の過熱さは例年ではみないものになっていた。ニュースを見るといつも我が母校が映っているし、学校関係者が盛大なバッシングをうけていた。
タレントとか評論家、キャスターのみなさんが好き勝手に言って推論をたれていたが的外れな物が大半。犯人は心がやんでいるとか、これが無差別殺人であるとか。犯人がどうかしているのも事件が起きてる時点で分かるだろう。それにこれは無差別じゃない。
別にそれを聞いただけいらだつわけじゃなく、気楽なものだと羨ましい。
なによりバッシングがひどいのが警察の対応。父が参っていた。二人目が出た段階でもっと真剣に捜査をするべきだったとか、あれを自殺と判断するなんて信じられないとか。そりゃ言いたくなる気持ちも分からないでもないが、そんなことを今責めても捜査の邪魔なだけだろう。それにそう批判する人の中には警察にも父みたいな人がいたんだと説明してやりたい。
マスコミが騒ぎ立てるので学校は対応に困っていた。無関係の生徒にしつこくコメントをもとめたり、許可もとってないのに校内に入ってきたりとやりたい放題らしく、仁志がかなりいらだっていたし、海野先生が忙しなそうだった。
こんなわけで小林陸の死で状況は大きく変わったわけだ。警察もようやく“cube”の存在を認めて、今現在、世間には公表してないが“cube”探しをしている。
ただやはり見つからない。それどころか、こういう事件に立ち会ったという奇異な喜びを味わう生徒が多いため、容疑者が異様に増えているらしい。あの子もそうだ、この子もそうだと言われたら警察としてはどうしようもない。
結局、捜査に置いては特に進展という進展はない。
ただ一つ変わったといえば校内に警官がうろつくようになったので校内に緊張感がある。そして私の見回りの仕事がなくなった。あんまりうろちょろしても迷惑だ。なんだかんだで私は無関係なのだから。
だから、最近の仕事は限られている。生徒会室にこもって状況から何か推理できないかを必死で脳内でやっているが思うよう成果はでていない。あとはパソコンを使って候補者リストの作成。さらには警察官のちょっとしたお手伝い。父以外にも警察で私を信頼してくれてる人もいるので、そういう方々は生徒会室に顔を出してくれる。そこで色々と話しを聞いたり、おつとめご苦労さまという意味でタバコとかお茶を出している。
こう考えると仁志や有華ちゃんの方がよく仕事をしている。ただ彼らの方でも仕事がしにくくなっている。あまりに噂が流れすぎて、情報が乱雑になってしまったようだ。いくら警察が公にはしていなくても、捜査している警官が「ところで“cube”についてだけど」と言えば、無関係と思わない方がおかしい。それによって今現在、校内で“cube”の情報は非常にあやふやで信憑性に欠いてしまっている。
もちろん警察としても質問したことは内密にしてもらうけど、誰か口の軽いバカがいたに違いない。
よって、私は非常に困っていた。困っていたところに、嫌な客がきたからよけいにテンションが下がるし、気が滅入る。
「あなたとお話することなんてないよ」
ソファーに座った春日の婆さんに冷たく放つ。彼女はそれでもしれっとしている。この人も実はかなり大変だった。こういう事件で責任者が追求されるのは当たり前だから同情はしないが、マスコミ、警察、保護者、PTAとありとあらゆるところに説明したらしい。
それでもこの学校を休校にしなかったのは許せない。そして今現在もこの高校が通常通り、もちろんいろいろと警察が介入しているところはあるが、運営されているのはおかしい。三人死んでいて、そしてまだ続くかもしれないのにだ。
この件については私は父にも、そしてこの人にも異議を申し立てたが却下された。たとえ学校が休みになっても犯人がその外で犯行に及べば無意味だ。けど校内にいる間、警官が見守れる。だからこうした方が安全に違いない。
父はそう言っていた。いや言われたんだ。それが警察上層部の意見であり、学校の願いだった。
見張りが役立つなんて保証はない。現にここにターゲットにしていた一人の男子生徒を守れなかった無能がいる。それが分からないのか。ただ警察の説明にも説得力はあった。なにせ二人目の被害者の茜ちゃんは家で殺されている。
「私が話したいことがあるのよ」
さっきそういきなり部屋に入ってきた。こっちの気持ちなどお構いなしなようで、そんなことを言われても困る。
「……私はあんたが嫌いだ。話したくない」
まるで小学生みたいなことを言ってるとは自覚できるが、感情っていうのはあんがい重要だ。感情をかみ殺すのが大人という人がいるがそうじゃなくて、感情をストレートに相手にぶつけれるのが大人で、何より人間らしい。
「あなたが私を嫌ってるのは知ってるわ。私だって好きじゃない。それはもうずっと前から確認しあってるでしょう」
高校時代、私は一人の先生からある依頼をうけた。それは自分が担任のクラスで最近物がよく盗まれるというもので、私は変ないざこざが起きる前に解決しようと意気込んだのに、それを邪魔したのが婆さんだった。
人のクラスの問題に口を出すな。授業に出ろとしつこく私に注意したり、親を呼びだしてきたりした。ちなみに呼び出された母は、娘が良心にしたがってるやってるのなら私は関与しませんと宣言したらしい。
しかしもろもろの妨害があり事件は解決されないまま、犯人じゃないかとされた一人の生徒がクラスにいずらくなって退学した。
「あの件はちゃんと調べるべきだった」
「辞めていった生徒が犯人だって証拠はそろってたわよ。あなたは自分で捜査できなくてすねてただけじゃない」
言葉につまったのはそれがまったくの事実だから。あとで依頼してきた先生からも証拠とされたものを見せられて、それは実に納得できるものだった。だから私がすねてるという見解は正しい。
それを自分でも分かってるから、こんな感情になってる。
「もう何でもいいよ。何度も言うようだけど、話すことなんてない。早く出て行ってくれ」
あの日屋上で爆発してしまった感情は、海野先生がいたからなんとか収められたけど、今度同じ事ができるかと問われれば頷くことは出来ない。誰かのせいにしたって仕方ないが、この人の責任はあるだろう。
複数名の生徒の命より、訳の分からない業務か何かを優先したんだ。
「……あなた、私を冷酷だと思ってない?」
そう質問されて思わず失笑してしまった。この人は心の中でも読めるのか。
「思われてないとお思いかい。休校にせず一人死ぬんだっていうのに、まだこの高校は休みになってない。次の被害者がでる可能性が高いのに、だ」
これで温厚なんて評価ができるわけない。冷酷か、バカだとしか思えない。そして私はこの婆さんは両方だろうと、何の疑いの余地を持つこともなくそう思っている。
「……これを見なさい」
婆さんが一枚の便せんを取り出した。それを目の前のテーブルにおく。うざったいと思いながらも、早く出ていってもらいたいので手にとってそれが何かを確かめた。
思わず、息が止まった。
『これは警告です。もしも休校になるようなことが起これば、被害者はさらに増えます。それでいいなら処置をとってください』
四つ折りにされたA4サイズの紙を開けると、パソコンでそう書かれた赤い文字が出てきて、それが不気味さを漂わせていた。子供じみた感じがするが、あの『主』のしそうなことではある。
「これは一体……」
「安藤茜が殺される日の朝に家のポストに入ってたわ」
背筋が凍った。あの日の、朝。私が有華ちゃんから茜ちゃんの住所を尋ねていたときに、この手紙が婆さんのところへ届いていた。
「最初は何か分からなかったわ」
それはそうだろう。こんなの届いたとしてよく分からない思う。だからだ。だから朝に届けたんだ。事件が起こる前は意味不明でも、起きた後でいやというほどこの手紙の意味を思い知る。逆に後に届いたなら、いたずらかなにかだと思われる。けど朝に届いていたなら、この手紙を届けた人物が間違いなく茜ちゃんの殺人犯だとどんな奴でも分かる。
「これで私が休校にしない理由、分かってくれた?」
言われなくともそんなことは分かる。ようは『主』はどこまで用意周到だった。警察が休校を薦めることさえ予想して、先にこの最高権力者を封じていたんだ。
「分かったさ。けど婆さん、これ、警察に見せたかい?」
彼女は首を横に振った。まあ、そうだろう。これを警察に通報したら被害者が“cube”から一般の生徒まで拡大する可能性がある。下手に行動すると何をしでかすか分からない奴だ。
「だから今のところ、休校にしないのは私の意志ってことになってるわ。警察にもまだ言ってない」
「ならどうしてそんなことを私に言ってくるんだい? 言っちゃ悪いが、私は警察にこの件を報告させてもらうよ。この手紙は貴重な手がかりなんだから」
婆さんの心配は分かるが、もうこれだけ大々的に警察が学校を調べてるなら、この手紙の存在が露見することは『主』の予想がついているだろう。ようはこうなるまでは、つまりは小林陸を殺すまで自由に動き回れたら良かっただけなんだから。
「それが望みよ。私だって、そのわけのわからない『主』とかいう犯人を止めたいのよ」
彼女は声のトーンはいつも変わらなかったが、初めて彼女の言葉から何か強い感情を感じた。それは怒りとかではなく、おそらくは責任。この高校の全生徒の命を預かっているという、私には想像もできない重荷。
「……何度の言うようだけど、私はあんたが嫌いだ。そしてそれはあんたもだろう。ただ、あんたが私に歩み寄ってくれるなら私だってそうする。目的は一緒だ。なら、つまらない意地をぶつけあってる暇じゃない」
婆さんがこの手紙を私に見せてきたのは、一種の信頼の表れだと感じ取った。“SOS”に近いもの。この厄介な性格上、困ってる人を無視は出来ない。それが幸か不幸かは、考えるまでもないけれど。
「そうね。私もあなたも、お互いに必要にしてるわ」
婆さんが私の能力を信用してるとはとうてい思えない。それでも彼女を私は信頼する。それほど今現在、彼女は困窮していて、頼れる者には全て頼ろうとしているんだ。それ位、生徒を護りたいに違いない。初めて見る、この人の底知れぬ教育者としての決意を覗いてしまった。学生時代にこれを見れれば、少しは仲良くやれたかも知れない。
そんな悲劇的な想像は放っておいて、いい方向に話しがまとまった。実を言うとかなり好都合だ。これで計画をスムーズに進めれる。
「なら婆さん、信頼の証としてちょっと協力してもらおうか」
ここでにやりと笑ってやった。
――お待たせしたね、『主』。
2
高校二年生の時、放送室をジャックしたことがある。もちろん悪意のある目的があったわけじゃない。どうしても校内全体に私の声を届ける必要があったから、仕方なくそうした。当時の放送部の部長が快く協力してくれたらあんな強硬手段にはでなかったと言い訳しておく。しかしおかげで私は放送部員から以後目の敵にされたし、海野先生にきっちりしぼられてしまった。
そんな思い出深い放送室で、機材の点検をしていた。素人の私に出来ることなど限られているけど、最低限はやっておきたい。一応、さっきまで先生が準備して大丈夫だとは言っていたが、自分でもしとかないと安心できないから。
「しかし、警察も学園長もよく許可したもんだな」
同じく機材の点検をしている仁志が半ばあきれていた。ちなみに彼は生徒会の仕事で放送室を何度か使ったことがあるらしく、中々頼りになってくれている。そんな彼の不安はかなり大きいようだ。
「こんな作戦、無茶すぎるだろう」
「まあ、ふつうに考えればそうだね。危険が大きい。ただ警察としてもこの事件は汚点になってるから早く解決したい。けど特に捜査が進展することもないから私のあの案にのっただけだよ。それに警察としてもそろそろ公表すべきだと思ってたみたいだよ」
作戦の概要は父を通して警察に報告してある。どうしても警察の許可が必要だった。素人の私が口を出したことに一部関係者は不快感を表したようだが、小林陸に目をつけていた点と、私が犯人に注目されているという点で、作戦に協力してくれることになった。
婆さんの協力も不可欠だった。いや正確には婆さんをはじめとする、学校側だ。これも昨日味方につけたので問題ない。あの話し合いがなければ、一部の先生方だけと結託してまたジャックするつもりだったが、そうせずに済んだ。おかげでこんなにスムーズに作戦にうつせている。
「成功すんのか」
端的な質問に思わずため息が漏れる。さっきからもうずっとこれを訊いてくるし、同じように答えている。
「だから、この作戦に成功も失敗もない。私がほしいのちょっとしたデータさ」
作戦自体は小難しいものじゃない。全校生徒に呼びかけて、その中に含まれる『主』にメッセージを送るだけだ。あとはそのメッセージに『主』がどう反応するか。私がほしいのは反応だけ。あとはどうだっていい。
あとかなり上手くいけばかなりの手がかりは得られるはずだ。運が良ければ個人の単位で『主』が特定できるかもしれない。もちろん希薄だが、零でもない。
「けどかなり危険だろう。下手したらほかの生徒まで危ない」
今回の作戦にこの心配はつきもので、仁志はかなりこれを懸念していた。もちろん私だってそうではあるが、ここの生徒が危険なのはもうずっと前からで、それを不安材料にして行動しないなんてことになれば、それはそれで『主』の思うつぼだったりする。
「何度も言うけど、いざとなれば何とかなる。そういう反応を出すはずだ」
機材の点検がすべて終わった段階でいすに座って、携帯を取り出して有華ちゃんを呼び出した。仁志がここでサポート役に徹している間、彼女には外の様子を見てもらうことになっていた。
『もしもし』
声を押し殺した有華ちゃんが電話に出てくれた。
「外の様子に変化はないかい」
『ないですよ。いつも通りです。みんな、昼の校内放送がないことも気づいてないみたいです』
現在は昼休み。いつもならこの時間は放送部員が完全に趣味で選んだ曲が流れているが、今は止めている。そもそもあの放送を聞いてる生徒なんてごく少数。その少数ならいつもと違うとは思っているだろうが、別に苦情を出してきたりしないだろう。放送部員たちには顧問から今日は機材点検でないといってもらっているし。
「それで君は今どこにいるのかな」
『蓮見さんの指示通り、屋上ですよ』
この作戦をするにあたってできる限り有華ちゃんには生徒が見やすい場所、かつ彼女が隠れれる場所にいてもることになっていた。そうなると屋上がベストポジション。あそこなら教室の中までは無理だが、校内をおおかた見渡せる。
そして彼女が隠れやすい。見つかっても今現在、屋上は基本的に立ち入り禁止。そこを父に無理を言って有華ちゃんだけ入れてもらっている。父は最後までふつうの警官をそこにつけたらいいと推してきたが、それではだめだった。
普通の警官は確かに頼もしいが、「いつも」の校内の雰囲気を知らない。だから「異常」にも気づきにくい。明らかな異常にはすぐ気づくだろうがただ「いつも」と少し違う、というわずかな「異常」には気づかない。だから有華ちゃんに頼っている。
もちろん、警官も屋上にはいる。今回、有華ちゃんの身が危なくなる可能性もあるのでボディガードだ。
「それでいい。君はただ校内の様子、特に携帯をいじっている生徒を見ててほしい。携帯のカメラで撮れるだけでも撮っといてね」
『それは分かりましたけど、一体、なにするつもりなんですか』
今回の作戦の内容は警察関係者には話しているが、ほかの人には多くを説明していない。校内放送で『主』に呼びかけるというのだけだ。言いたいだが、情報漏洩を考えると、あまり言い触らすこともできない。信頼していないわけではないが、最悪のことを考えると抗すほか無い。
仁志にだけは今さっき説明しておいた。あまりにしつこく聞いてくるので。
「なに。ちょっとした交信さ。とにかく頼んだよ」
また質問される前に、そう濁しておいて素早く電話を切った。
「さて、ひぃ君、そろそろミュージックスタートといこうか」
マイク付きのヘッドフォンを装着しながら、私が呼びかけると彼は息を飲んだ。こっちが無理矢理明るく振る舞っているのだから、それに答えてほしい。心配なのは分かるけどさ。ここまできたら心配なんてするだけ無駄なのに。
「……心配しないの。大丈夫だから」
不安でいっぱいの彼の頭をなでながらそう落ち着かしてやる。そもそも今日の作戦はそこまで深刻になるようにはならない。本当にただの交信だ。ようはこっちから初めて『主』に話しかけるだけだ。相手がそれに答えてくれるかどうかは賭だけど、おそらくは答えるだろう。
中々強めの力ですぐに腕を払われてしまった。
「……お姉さんぶんな」
それは困る。私は仁志の姉貴分であることがちょっと嬉しいのだから。まあ、けど彼のプライドも尊重してあげないといけない。
「そうだよ。その調子で頼む。じゃあ、やろうか。いや、やってやろうか」
喧嘩を仕掛けるときに使うような言葉に訂正したのは、今からまさに大げさに言えば戦争を始めるからだ。仁志が頷いて機材の電源をいれ始め、さっきまで静かだった放送室に機材の稼働音が小さく響き、電源が入った合図のランプが点灯した。それを確認してから、喉の調子を整えて一気に宣戦布告をマイクに吹きかける。
「全校生徒、及び“cube”に告ぐ」
そして誰より、この放送を今もこの学校のどこかで暢気に聞いているであろう『主』に、犯人に告ぐ。
3
『全校生徒、及び“cube”に告ぐ』
蓮見レイの声が頭の上から突然降ってきた。スピーカーを見上げて、それを凝視する。一体なにをする気か分からないが、“cube”という言葉を使ってきたので明らかに事件に関係することだろう。ここに来て、ようやく向こう側から何かを仕掛けてくるらしい。いい度胸。買ってやる。
焦燥を一瞬で消し去って耳を研ぎすます。
『ただいまから緊急校内放送を開始する。忙しいところ申し訳ないが、耳と意識を貸してほしい』
丁寧な言葉を使っているがどう考えてもこれは強制している。誰か無視するといけないから最初から“cube”なんて言葉を発したに決まっている。事件の話だと最初に宣言して生徒たちの興味を一気に引きつけた。そしておそらくは、これは呼びかけでもある。思わず唇がゆがむ。こっちからら一方的にコンタクトをとっていたのを不満に思ったらしい。
ならちゃんと耳を貸すよ、批評家さん。
『ご存じの通り、今現在、この学校では普通じゃ考えられない事態が起こっている。君らが不安がっているのもちゃんと理解している』
くだらないおしゃべりはやめて早く本題に入れ。生徒たちが不安がっている? 確かに怖がっている生徒もいるが、本当に賢い連中は休んでいるし、登校しているほとんどの連中は自分は関係ないと決めてかかってるバカどもじゃないか。殺されたって文句なんか言わさない。まあ、死人に口なし。文句なんて言えるはずもないのだけど。
『そこでそんな不安をなぎ払ってみたいと思う。安心してほしい。今回の事件は実は無差別犯罪じゃなく、ちゃんとしたターゲットがいる。そう、被害者は全員特定の人物だ。分かりやすく言うと、“cube”だ』
校内のざわつきが一気に増した。バカどもが騒ぎだす。
思わず笑いたくなった。批評家、いや探偵さん、おもしろいことをしてくる。今現在、“cube”がなんらかの形で事件に関わっているというのは校内では常識だが、被害者になっているとは公にされていなかった。当たり前だ。警察はそもそも“cube”の存在さえ世間には公表していない。
なのにここで一気に発表し、あまつさえそれが被害者になってるとまでいってのけた。
多くの生徒は“cube”が被害者ではなく、加害者になってると噂していたのをひっくり返した。これはおもしろい。なるほど、だから校内放送なんて使用したのか。誰の耳にも聞き漏らしがないように。
『ああ、落ち着いてほしい。というか、黙りなさい。いいかい。だからこれは呼びかけだよ。殺された三名は全員“cube”だ。だからもし今、この放送を聞いている“cube”がいるなら名乗り出てほしい。なにもしない。ただ保護したいんだ。これ以上、死人を出したくない』
優しい探偵さんだ。最後の言葉だけ妙に感情がこもっていた。しかし、これは厄介なことになる。いやそれが目的か。保護したいという本音と、こっちを困らせるという目的。両方兼ね備えた呼びかけ。
ちょっとは楽しませてくれるらしいが、あまり調子に乗られても困る。携帯電話を取り出して、彼女宛にメールを書いた。
『放送を中止しろ』
その一文だけの素っ気ないメールを送ってやった。
『何度も言うようだけど、名乗り出てくれ。おっ』
そこで彼女の声が止まった。どうやらメールが届いたらしい。これでこの愉快な昼間のミュージックも終わりだ。少し残念。いつものくだらない曲よりは楽しませてもらった。ただこれ以上囀られると楽しすぎて少々不愉快になり、それはお互いにあまりよろしくないだろう。
生徒たちが長い間に疑問を持ち始める。さて、そろそろ音楽を流して欲しい。昼間の音楽はバカ共の喧噪を紛らわすのに丁度いいのだから。
『ああ、すまない。ちょっと止まってしまたね。それじゃあ、続けよう』
予想に反して彼女が続けてきたので、思わず舌打ちがでた。それも大きめの。どう考えたってメールは届いてるはずだ。だから声をいったん止めた。なのに続けるだと。しかもまるで動揺していない。
最初からこっちから連絡があると分かっていて、そしてそれを無視すると決めていたんだ。そして無視してると伝えるために、間をおいた。
かなり屈辱的。
『それはさておき、実はこの次の五時限目、あることを警察が実施するらしい』
いやな予感がした。また携帯でメールを打つ。『やめろ。殺すぞ』。それだけをまた送ると、また放送が聞こえなくなった。今度は間が長い。さすがに殺すと言われたら、黙るだろう。
一秒、二秒と長くなる間。どうやら怖じ気ついて命令に従うらしいと安心して携帯をしまおうとした矢先、また彼女の声が降ってきた。
『ああ、今情報が届いた。どうやら一斉に持ち物検査をするらしい。ご協力お願いしますだってさ』
最後にクスッと笑いやがった。なんてこと……止まらない。止まる気なんてない様だ。これは完全に喧嘩を売られている。しかも持ち物検査だと。
『不審物を持ち歩いてる生徒がいたら怖いだろう。それを防ぐ為さ』
違う、不審物なんて求めてるんじゃない。どう考えても彼女の望みは『箱』だ。あれを持ってる生徒をローラー作戦で一気に見つけだす気だ。荒っぽいが確実な作戦ではある。今まで小林陸に張り付いて失敗したので、一気に大胆な作戦にでてきたみたい。これは……。
まずい。まずい。まずい――。
『もちろん、強制じゃないよ。任意ってやつだ。拒否したい子はしてくれていい』
ふざけるな。こんな身分が丸わかりの場所で、任意を拒否なんてしたら目を付けられるに決まっている。拒否権なんてあるようでないと同じだ。それくらい、どんなバカでも分かる。
くそっ。どうする。どうすべきだ。
『じゃあ、きょうの放送はここまで質問等がある人は直接私に言いに来るように。じゃあ、食事中悪かったね。アディオス』
彼女の声が聞こえなくなると同時に、軽快なポップスが流れ始めた。最近の流行歌。明るいメロディに、バカみたいな歌詞。売れ筋のアイドルグループが歌っていたのを覚えている。それが完全に挑発であることは当然分かっている。
校内は放送が終わって一気に騒がしくなる。放送中殺していた息をよみがえらせた生徒たちがそこら中を歩き回った。誰かが小さな輪を創ると、それは徐々に肥大化していく。ただ無能がどれだけ集まったって無能なのに変わりはない。ゼロはいくら集まろうとゼロ。そんな無能たちの話題は当然、“cube”と持ち物検査について。
持ち物検査なんてイヤだと喚いてる奴もいる。そんな奴を友達が警告していた。警察に目をつけられるぞ、と。できればそうしてほしい。今現在、向こう側がこっちを追い詰めようとしているのは当然理解している。それでも電話をかけたり、犯行を重ねたりして余裕をかましているのは事実だが、決してこっちが圧倒的に有利な立場にいるわけじゃない。誰かがえん罪で捕まってくれた方がいい。身代わりを創る算段を、今からでもいいから考えるべきかも知れない。
そんな思考を置いといて、さっきまで校内に彼女の声を響かせていたスピーカーをにらみつける。そしてまた携帯を手に取った。今度はメールでは無意味なようなので、電話をかけることにした。彼女に電話をかけるのはあの時以来。もう半月も経ってしまっている。できればしたくない。逆探知なんてものも考えられる。もちろん、それをされても微塵も困らないようにしてはいるが。
ボタンを素早く押しているとき、これが彼女の望みだと、そのとき初めて気づいた。
4
ヘッドフォンを頭からはずして、深々と息を吐く。校内放送は久々で、つい在校中を思い出しそうになったがそれをさせてくれなかったのがメールだ。二通、あの短時間で届いた。予想していた、期待していたこととはいえポーカーフェイス、いやポーカーヴォイスでいるのは中々大変だった。
「大丈夫だったのかよ」
仁志が開けたままの私の携帯を不安げに手に取っていた。
「言ったろう。相手の反応が見たいだけだって。あそこで脅しにおれてたら、二通目のメールは見れなかった」
イスから立ち上がって、彼の手から携帯を取る。二通目の「殺す」にはさすがに血の気が引いた。あれほど説得力のある「殺す」は滅多と無い。そして今後ともないようにお願いしたい。
「無視するし、喧嘩売るし……怒らせただけだろ」
「大丈夫。本番はこれからだよ。たぶんね」
仁志が首を傾げると同時に私の手の上で携帯がふるえだして、彼がびくんっと反応する。今度はメールじゃなく、直接電話だ。期待通りの結果じゃないか。
非通知発信。さっきのメールもそうだが、どうせ盗んだ携帯からかけているに決まっている。逆探知なんてたいそうな物は用意していない。父はそうしたほうがいいと力説したが、盗んだ携帯を逆探知しても無意味だし、発信地点もどうせ校内だということを説明すると反論できず消沈した。それくらい『主』は分かっている。だからこそ、メールも電話もしてくれるんだ。自ら足跡を残すような間抜けな奴なら、誰も彼もこんなに苦労させられていないだろう。
仁志に静かにしておくようにと、唇に人差し指をあてて黙らせ、電話にでる。少し心臓の鼓動が激しくなっている自覚はあった。
「もしもし」
『殺されたいの』
こっちの呼応にかぶせるように素早く、恐ろしい単語が飛んできた。
この声を聞くのは茜ちゃんが死んだとき以来だというのに、ずいぶんと懐かしい気持ちになった。ただ同時にあのときの怒りなどもふきあがってくる。それら全てを今はこらえないといけない。
「いや、まだ死にたくないよ。せめて還暦は迎えたい。それまで待ってくれるかい」
『ふざけるな。なら、あなたは殺さない。殺すのはあなたの後輩たちだ。隣でおびえてるあなたの弟分や、最近やけに動いてる鴻池も含んでる。言っておいてやる。こっちは誰だって殺せるんだ』
怒気や殺気というものがストレートに伝わってくる。そしてそれらには嘘はない。電話の向こうの『主』は、本当に誰だって殺せるんだろう。それは身体的とか、技術的にとかじゃなく、精神的にそんなことをしても平然としていられるという意味において。
「怒ってるのかい」
『怒ってる? 怒ってたら今頃人が死んでる。だからまだ謝れば許してやる。いいか、すぐに荷物検査を中止しろ』
「あれは警察の決定だよ」
『警察が荷物検査なんてするなら事件当日にしてる。今するということは、誰かが警察をそそのかしたからだ。そして荷物検査の目的は『箱』。そそのかした奴はその存在を知ってる奴。……甘く見るな』
何でもかんでもお見通しすぎる。スパイでもいるんじゃないかと怖くなるが、どうやら『主』が自身で出した推論みたいだ。甘くなんてみれるはずない。そんなことをしたらあっという間に裏をかかれて、首を切られる。もともと私がここまで無防備に動き回ってること自体、危険極まりない賭なのだから。
ここまで嫌なものか。どうせならあの子供っぽい、幼稚な口調の方がまだ話しやすいな。そうしないのは焦ってる証拠だから、こっちとしてはいいのだけど。そのままの勢いで何かへまをしてくれないかな。
『学園長にも言っておいたはずだ。いざとなれば被害者を拡大さす。あんたの言った通り、こっちの目的は“cube”だ。けどそれを邪魔するなら、それ以外も殺す。いいのか』
いいわけない。なんて選択肢のない質問だろう。いいわけないのだが、だからと言って“cube”が殺されていく現状がいいわけもない。だからこそ今だって、殺人鬼とこうやって話してる。だれが好き好んでこんなことするものか。
「わからないね。なんで“cube”を殺してるんだい」
会話の主導権をもっていかれそうだったので、質問によって奪い返そうとした。もちろん素直に答えないのは百も承知。ただ一方的に喋られてはたまらない。今回の目的は『主』との会話にある。ただ喋られるだけでは、目的は達成できない。
ここで急に相手の声の調子が変わった。前回話していたときのような、おどけた、というかふざけた口調になる。
『不思議なことを訊くね、探偵さん。あんたならわかるんじゃないか。知ってるだろう? “cube”は醜悪な組織。つぶした方がいいんだ。なにより、それを真っ先にしようとしたのは他でもないあなたじゃないか、蓮見レイ』
隣で電話の漏れていた声を聞いていた仁志が驚いて私をみた。私はなるべく表情を崩さないように心がけていたが、不機嫌さがにじみ出てしまっているかもしれない。どうしてこの『主』はそこまで知ってる。
ふと、あの記憶が蘇る。私の人生経験上、最も悔しかった出来事。そして同時に最も惨めな出来事。
『あなたと私は同じさ。悪をつぶす正義のヒーロー、そうだろう?』
「違う。一緒にするな。私はおまえみたいに人を殺さない。私は悪をつぶすために悪になったりはしない」
つい口が悪くなってしまったが抑えられなかった。私がこんな殺人鬼と一緒? ふざけないでほしい。私は正義のヒーローになろうとは思ったことがないが、悪にだけはならないよう心がけている。
電話の向こうで高笑いが聞こえてくる。完全に人を見下し、バカにした笑い声。
『あの組織にのまれた人間が、今頃そんなことを言っても無意味に等しいね。あなただって仕事をしたはずだ。したよね? したんでしょ? 絶対したじゃん』
「うるさい」
『うるさい? さっきまで放送でわめいてたのは誰? ねえ、誰? 今更あんなことしてなにになるんだか。わかってるとは思うけど、もう三人死んでる。一人はあなたの目の前で。一人はあなたのお休み中に。もうあなたじゃ止められない。どうせまた死ぬ。ていうか、殺す。あはは、楽しいねぇー』
殺してやりたい。たとえ法や正義が全力で止めてきても、電話の相手を切り刻んで、再起不能にしてやりたい。感情の赴くまま、鋭利なナイフを突き立ててそれを振り落としたやりたい。
そんなどす黒い感情が心や頭だけじゃなく、体まで支配していってる感覚に見回れた。あまりの感情の激しさになにもいえないで、ただただ目を鋭くする。そんな私を無視して、笑い声を含んだ声がまた聞こえてきた。
『ああ、そろそろ本題に戻りましょうよ。あなたと私が同じなのは変わらないんだから。いいかな、荷物検査は中止してよ。じゃないと、本当に知らない』
会話のリズムを完全に狂わされている。落ち着いて対処しないといけないのに、腹の底から沸き上がる怒りとか、『主』の言うことを完全否定できない自己嫌悪とかが頭を侵略してきていつもの理性をたもてないでいる。
携帯を持っていない方の手が急に温もりに包まれた。はっとして手を見ると、仁志が優しく両手で包んでいた。そして顔をこっちに向けて、口だけ動かす。唇の動きでなにを言ってるのかわかった。おちつけ、だ。
頷いて、少し間を置いて会話を続ける。
「……分かった。荷物検査はなら中止するようにする。ただこちらとしたって言いたいことはある。これ以上人を殺すな」
そんなことを素直にきく奴じゃないと分かっているのに言葉にするのは、それくらいしかできないから。
また笑い飛ばされるのかと思ったけど、そうはならず、電話の向こうから叫びに近い拒絶が聞こえてきた。
『わかってないわかってないわかってないっ! いい? そっちに命令する権利なんてない! 殺されたくなかったら――』
そこで一瞬の空白が生まれた。ただそれすぐに死んでしまう。
『……捕まえてみなよ、探偵さん』
それがラストメッセージだった。電話がきれて、ツーッツーッという機械音が聞こえてくる。これ以上話すこともないらしい。ただ、今回のことでだいぶ状況が変わる可能性がある。『主』もそれを理解して焦っている。
あとは『主』の言葉に従うだけ。望み通り、荷物検査は中止させないといけない。もともと電話をさせるための餌だ。惜しいとは思うが、期待はしていなかった。
そしてあと一つ。
捕まえてやるさ、絶対。
「――調子に乗るな」
絞り出した声に、どのくらいの憎悪が含まれていたか自分でもわからなかった。
5
なかなか面白い顔が揃っているとは思う。私からすれば毎日見ている人たちなのだが、この三人が同じテーブルについているのは初めて見た。今後もたぶんないだろう。
「三人揃って仏頂面なんかしないでくれるかい。せっかくこっちが腕をふるって作った料理が目の前にあるんだ。少しは笑顔を見せてくれてもいいと思うね」
ここは我が家。そしていつものリビング。テーブルについているのは、私と父と兄、そして本日のゲストである仁志。そして全員の前に私の手作りのミートスパゲッティとサラダ、そして野菜スープがある。
「理不尽だ。なんであんたの料理がこんなに美味いんだよ」
仁志が喜んでいいのか、はてまたテーブルの下でスネを蹴ってやるべきか迷ってしまうコメントをしてくれる。
今日、仁志のご両親が遠方に知人の結婚式で家を空けているらしい。最初はそれを知らなかったが家に帰る前に近所の話好きの奥さんに捕まって、長々としたマシンガントークのついで教えてもらった。
仁志はすでに私の協力者として目をつけられているので、できれば家で一人にさしたくはない。なので彼の家に行き、今晩はこっちで過ごす様に進めたわけだ。もちろん彼の性格からして素直に言うことを聞くとは思えなかったので、多少強引な手段にでた。どういう手段かは彼のために黙っておくけどね。
「料理は得意なんだよ。いつかこれを使って美女を落とすんだ」
ちなみに仁志が私の手料理を食べるのは初めて。きっとまずいに決まっていると決めかかっていたのに、一口食べると黙ってしまった。というか、私の料理が黙らせた。自画自賛する。さすがだ。
「レイは母さん似だからね。何でもできる」
兄のほめ言葉は的を射ている。母は料理はもちろん、多くのことをなんでもできた。特に練習もしないのにこなしてしまうという恐ろしい人物である。そして料理に関しては確かに私は母に似ているんだろう。母から教わったとか、家庭科の授業が好きだったとかではなく、やってやろうと意気込んで始めたら、出来たという経緯だから。
ちなみにそんな母はこの間、家族が全員留守にしている時にオーストラリア旅行から帰ってきていたらしい。いつ帰るとかという連絡がまるで分からなかったのだが、家に帰ったらお土産と『帰って来たわよー』というメモだけ残されていた。そして今はまたおばさんたちと電車を乗り継いで国内をフラフラと旅行しているらしい。
じっとしているのが嫌いで、常に動いていたいらしい。最近では私という主婦代わりの存在が出来たからそれがひどくなっている。自由なのは母らしく、見ているこっちも幸せなのだが一体どこにいるのか皆目検討もつかないというのは不安でもあった。
父だけにはラブメールを毎日送っているらしく、それが母との数少ない連絡回線だ。
ちなみに、オーストラリア土産は私にはコアラとカンガルーのぬいぐるみ。二匹仲良く私の部屋で転がっている。
「まるで俺が不器用みたいな言い方じゃないか」
父が抗議をするが誰もなにもいわない。そりゃあ、器用じゃないだろう。そんなお堅い性格じゃ。言っておくけどね、ほめ言葉だよ。
フォークをくるくると回しながらスパゲッティを巻いていると、ごんっという大きな音がなった。なんとなく分かっていたけど、それは父がコップをテーブルに置いた音で、わかりやすい感情表現だったりする。
「食器は大切に扱ってほしいね。割れたら危ないよ」
これは中々無視されては困る主張。
「レイ。今日の作戦はどういうつもりだったんだ」
それを無視して険しい顔つきの父が有無をいわさぬ態度にでてきた。これはおふざけが通用する雰囲気じゃないみたいだ。
「話した通り。『主』と話したかった。それだけだよ」
テレビから聞こえてくるコメディアンたちのそこそこ笑えるトーク。いつもなら喜んでみるのだが、今日はそんなことはさせてもらえそうにない。
「かなり『主』と電話でやり合ったって聞いたぞ。それに聞くところによると、お前、“cube”をつぶそうとしたことがあるそうじゃないか」
大雑把な電話の内容は話したものの、その件については話していない。なのに父がここまで知ってるのはもちろん、誰かが報告したから。私がその誰かさんをにらむと、舌を出されてそっぽをむかれた。全く、かわいくない奴だ。
「今日はいい機会だ。いい加減、お前と“cube”の関係について聞かせなさい」
サラダを一口頬張った。なんとドレッシングまで手作りの力作。もちろん、おいしいに決まっている。ただ今日は“cube”の話をしないといけないみただ。せっかくのおいしい料理も、おいしくなくなってしまう。けどまあ、仕方ないか。隠し通せるものでもないし、隠し通すつもりはなかった。
フォークを音を立てないようゆっくりと置いた。テーブルマナーってやつだね。
「そうだね。ちょっとだけ話してみようか」
コップの水を飲んで、心を落ち着かせると同時に、兄がリモコンでテレビを消したので、ちょっとした静寂がリビングに落ちた。
「そもそも“cube”っていうのは前にも話したとおり、誰が“cube”なのかは“cube”も知らない。知ってるのは『主』だけ」
「そこ、そこなんだけどさ」
仁志が急に声を上げて会話に参入してきた。
「“cube”の噂では、引退した“cube”が次の“cube”を選ぶって話なんだ。だったら前の“cube”は今誰が“cube”なのか知ってるんじゃないのか。そうだったとしたら、一気に解決できる」
仁志が言ってることは正しい。もし本当にそうだったとしたら、解決への手がかりがいくつもでてくる。ただそうはならないから私は今も『主』に遊ばれていて、警察も手をこまねいていて、『主』も自由気ままに行動しているんだけど。
「あの言い伝えには語弊があるんだ。いや、たぶん意図的な間違いだけどね」
たぶんというか絶対だろうな。あの言い伝えはすごく調子がいい。だって、あれだけの情報がありながら『主』の陰すら見えないようになっているんだから。そんな都合がいいことがたまたま起こったなんていうのは考えにくい。
「普通の“cube”には後継者選択の権利はない。“cube”指名権があるのは『主』だけ。私もある日突然、『主』に“cube”に指名された。驚いたことに拒否権はないんだよ、あれ」
飲み干し忘れていた野菜スープを一口飲んだ。この絶妙な味付け。言い出したら止まらなくなる自画自賛をしたくなったのだが、冷めてしまう前にとりえず飲み干す。
「じゃあ、誰が“cube”になったのかは本当に『主』しか知らないのかよ」
絶望感に染まった仁志の顔を見つめながら、非情にも静かに頷いた。彼には悪いがあの言い伝えで探っていけるほど、甘い事件じゃない。
「だから歴代の、たとえば去年卒業した“cube”を見つけても仕方ないよ。無意味だね。けど、前代の『主』を見つけたら今の『主』も知ってるだろうね。だけど今の『主』を見つけ出せない現状で、過去の『主』なんて特定できるとは思えない」
ここでちらりと父をみると、最初は表情を変えなかった。そしてそれを維持するのをかなり努力していたのだが、私が見抜いていることを伝えるためにずっと見続けていたいら、腕を組んだまま仏頂面でため息をついた。
「その捜査をしていることは黙っていたはずだがな」
「私ならそうすると思ったことを口にしただけさ。やめろとはいわないけど、期待しない方がいいと思うよ」
警察ならそういう捜査をしていることは予想がついていた。父が私に黙っていたのは、私が歴代“cube”の一人だから。つまりは私も容疑者の一人というわけだ。特に驚く必要もない。警察という組織がちゃんと捜査をしているということだ。
私としては『主』じゃないからいくら調べられても別にかまわない。無罪はどうあっても無罪だ。それは有罪がどういう理由であれ有罪であるように。
「……“cube”のことではなせることは実を言うと、そんなに多くはないんだよ」
そう切り出すと三人が同時に首を傾げてみせた。親子みたいだ。いや実際に二人は親子なんだけどさ。
「なんでだよ、三年間もあれに属してたんだろ」
「ひぃ君、言い伝えを思い出してごらん」
またしても悪癖の前後の会話をすっとばす提案をしてしまったが、仁志は慣れたように従ってくれた。もちろん、いい顔はしていない。ただそれでも素直に小声で伝えられていることをつぶやいている。
そしてしばらくして固まった。そのまま私を凝視する。
「そう、その通りなんだよね」
困ったように笑ってやった。兄と父がなにがなんだかわからない様子だったので、端的に説明した。
「私は一年生の初めに“cube”に指名された。そして――」
あのときのことを思い出してしまい、毒を吐くつもりで告白する。
「二年の秋、裏切り者として“cube”の資格を剥奪された」
脱会させられる、それはとてもいけないことなの。初めて“cube”の話を聞いたときからそれは知っていた。けどまさか自分がそうなるとはみじんも思っていなかったわけだ。しかし、全く後悔はしてない。いやあの組織の実態を知ったときから、抜けたいとは思っていた。
“cube”の仕事に何か激しい動作をすることはない。なんと驚くことに、あの組織の仕事のメインは喋ることにある。口を動かすのがメイン。一体、どういうことなのかとおもうだろうけど本当にそれが大きな仕事なんだ。だから今まで誰かが“cube”なんていうのはめったにばれることはなかった。だって話してる人間はそこら中にいるんだから。
“cube”のメインの仕事は、情報操作にある。
何度も言うようだけど高校というのは非常に閉ざされた世界。よく推理小説なんかを読むと密室なんてものがでてくる。鍵のかかった開かない部屋。あるいは最初から鍵なんてないけど、物理的に開くことのできない部屋。高校を舞台にした推理ものでも教室が密室になることが多々ある。
けど、私たちは高校なんてところにいる時点ですでに密室の住人だ。だって、あそこから抜け出すことは容易じゃない。塀をよじ登る? 先生を無視して帰る? けどそうやって抜け出すことで物理的には外へ出れても、心理的にはできない。
学生なんて者のうちは学校が全てと言っていい。もちろん他の世界も存在するけど、おそらくあそこ以上のものはなく、誰もがあそこに神経を集中させているだろう。
そこに目をつけたのが、どこの誰かも知らないが、初代『主』であり、それに付き従った“cube”の面々。“cube”の資格である「優秀」という定義。これもまた何度もいうけど、非常に曖昧。だって優秀か否かなんてとらえ方次第。
ただ私が小林陸に目をつけたのは彼が噂されていた、そして怪しい一面を持っていたからというだけではない。彼が野球部のエースで四番で、何より部長というポジションにいたからだ。
情報操作。単純に噂を流すだけということなんだけど、それには絶対に発言力や、周りからの信頼というものが欠かせなくなる。そして私にもそれはあったし、小林陸にもあった。もちろん一年生の最初の頃からそういうものがあったんじゃない。
そういう人物になり得ると、『主』が判断したに違いない。そういう意味では『主』という存在は他の“cube”より圧倒的に優れた存在。
嘘みたいな本当の話。いや、私が指名されたのが入学して一ヶ月。その間、私は相当動いていてそれは目立っていたから、さほど難しい作業でなかったかもしれない。一ヶ月あれば誰がどういう人間かという輪郭ははっきりする。相当な人間観察能力に長けていれば、赤子の手をひねるようなものかもしれない。
「情報操作が“cube”の仕事?」
仁志はいまいちピンとこないようで頭を抱えている。それは父も兄も同じ様だ。
「もちろんそれだけじゃない。いろいろと行動を起こすこともあるけど、その流した噂に現実味をつけるためのものだ。変な噂がながれ、それに根拠づけるようなことが起これば、噂っていうのはすごく力を持つからね」
最初はおだやかな川だ。耳をすませば、流れる水の音や魚のはねる音などが聞こえるだけ。ただそこに雨をふらしてやると、風景は一変する。水は濁り、水流は激しくなってしまう。そしてそれは誰にも止められない。雨をふらした者さえも、あとは眺めることしかできない。
下手をするとその流れに足下をとられ、流されてしまいそうになる。
「それはいいとして、どうしてそんなことをする必要があるんだい?」
兄がしごく真っ当な問いをしてくる。全くその通り。私も最初にそれを思った。
「最初はわからなかったんだ。けど組織自体どういう活動をしているかわかっていなかったものだから、もしかして“cube”っていう組織は誰かが暇つぶしでたてた、一種のレクリエーションじゃないかって考えたんだ」
父にはレクリエーションという単語が訊き慣れないものらしく、なんだそれと訊かれてしまった。
「お楽しみってことさ。学校にいると、どうしたって閉塞感がしちゃうんだ。けどそこから抜け出せない。だからそこにあるものだけで満足して楽しまないといけない。“cube”って組織は、生徒の暇つぶしのためにある。本当に、そう考えていたんだよ……」
嘘でも何でもない。本当にそう思っていた。学校が退屈だっていうのは誰だって感じる。それを打破するのが“cube”なんだと、世迷いごとに聞こえるかもしれないけど、本気で信じていたんだ。だからこそ特に利益もないのに、毎回毎回無愛想に手紙で指示をしてくる『主』に従った。『主』はプランナーだと、そのときはすごいと関心さえしていたんだから笑えるどこか、笑えない。
「けど、それは違っていた。それに気づいたのが二年生の秋だ。私が“cube”を努めて一年半が経っていた。妙な噂を耳にした」
忘れもしない、あの朝を。いつも通り登校して、いつもげた箱に手紙を入れてくる『主』の手紙がないかを確認した後、廊下を歩いていたら妙に学校全体が騒がしいことに気がついた。それはいつもの喧騒とは違う、どこか影のあるうるささだった。
何事かなと思案をめぐらしていたら、後ろから誰かに突かれた。こけそうになったのをなんとか留まって、後ろを振り向くと、私に“cube”の存在を教えてくれた女の子が息をきらしながら興奮気味で立っていた。
「ハスミンハスミン、聞いた聞いた?」
「なにも聞いてないが、とにかくそさっきの強烈な挨拶に対するおかえしは、ビンタでいいかな」
彼女の頬をぐいっとつねって、そのまま持ち上げてやる。実は結構痛かったので、ちょっと怒っていた。かといって乙女の顔に本当にビンタをくらわすわけにもいかないので、この程度のお仕置きですませておく。
「いふぁい、いふぁい」
口をうまく開くことができず、酔っぱらいみたいな口調になった彼女が手をあわせて、ごめんなさいと発音できてはいなかったが、たぶんそう謝ったので解放してやった。
「うぅー、ひどいなぁ、もう。まあいいや。それより聞いてないんだ。香月さんが昨日、家で手首を切ったんだって」
時間がとまった様な感覚に陥った。目に映っていたすべての景色が一時停止して、聞こえていた音がすべておさまり、心の中は一瞬で真っ白になる。香月亜由美が自殺を図った……そんな、ばかな。
「ハスミン? いや死んではないらしいよ。手首じゃあ死ぬの難しいしね。ただ、もう学校にはこないんじゃないかって」
その一ヶ月ほど前、私は『主』から指示をうけていた。いつもと変わらない指示の出し方。げた箱に入れられた手紙には「川田教諭とある生徒が卑猥な関係を持っている」とのこと。思わず笑い転げてしまいそうになった。なにせ川田という先生はもう定年間近のおじいちゃんだったのだから。
それでも私はしょせんはお遊びだと思い、笑い話程度にその話を広めた。もちろん、誹謗中傷めいた噂は好きではないがこれを真にうける生徒なんていないと考えていたし、川田先生は明るい人柄でもしそんな噂がたってもおそらくはなにもなびくことはないと考えていた。
しかし、噂が思わぬ方向に流れ始めたのはそれから一週間もしない間で、今度は私が噂を耳にすることになった。
「あの噂さ、相手の生徒は香月さんらしいよ」
聞いたときはバカバカしいと笑い飛ばしたが、どうも雲行きがおかしかった。いつの間にか相手は川田先生ではなくなり、若い男性教師になっていたし、いつどこでデートをしているのを目撃したとかいう噂まで流れていた。
多くの場合、私は噂を流すだけであとは関与しなかった。自分のところにくる相談が多かったというのもあるし、周りは噂で楽しんでても私個人としてはあまりそういうのは興味なかったから。無責任だったかもしれないがそもそも噂というものにそこまで気を使うのは珍しいだろう。
だから、その香月さんの件で初めて自分が流した噂の「流れ」を知ることになった。噂は日々過激になっていき、しまいには彼女に対する公のバッシングさえ行われるようになった。
「それってつまり……」
状況を完全に読みきれていない仁志が必死に頭を回している。ただ父の方はそれがどういうことか、わかってくれたみたいだ。
「なるほど。“cube”っていうのは、個々がバラバラでも仕事は同じってことか」
「そういうことだね」
納得している父と私に物欲しそうな目を仁志が向けてくる。そこで兄が優しく解説に入ってくれた。
「つまり、レイは噂を流す係。そしてその噂をドンドンと過激にしていくのが、ほかの“cube”の仕事。レイの流した噂に、また別の“cube”が脚色していく、そしてそれはおそらく……」
兄がまなざしを向けてくるので、頷いて見せた。
「もちろんそうさ。『主』の指示通り、ね」
結局、噂は流れを止めずいつの間にか香月さんへの誹謗や中傷へと姿を変えていった。私は“cube”で身につけた噂を流す技術でなんとか彼女を庇おうとしたが、一度流れたものをとめることはできず、そして人はいい噂より悪い噂の方を信じたがるという強い傾向に押された形で、何もできないでいた。恐らくだが、他の“cube”が私の妨害を軽快に交わしていたのだと思う。
そして香月亜由美は自殺を図った。
初めて“cube”という組織に疑問を持った私はどうしても『主』を問い詰めたかったが、奴は命令を出してくるだけでこっちから連絡する方法はなかった。だから、いつも指令の手紙が入っている自分の下駄箱に『主』に宛てた手紙を置いておくことにした。そして連絡を待つ間、また自分の持てる技術を持って、過去に私が流した噂の行方を調査するこにした。
結果は、多くの場合はなにもなかった。ただ確認できただけで五人もの生徒が、噂の影響のせいで不登校になったり、問題を起こしたりして学校を去っていることがあきらかになった。
ようやくあの組織の実態が掴めた。そしてやっと『主』と連絡がとれることになった。手紙が届き、近日中に連絡するということだった。連絡の方法も書かれていなかったが、向こうがそうすると言っているのだから嘘ではないだろう。
そして、ある時、携帯電話に連絡がきた。電話だった。
おそらく、コンピューターで作った合成音声でいきなり、「『主』です」と告げられた。
『連絡をいたしました。お話とは、やはり香月亜由美のことでしょうか』
さすがは機械音声、当たり前だけど微塵も感情を、人間味を感じさせない。
「当たり前だ。あんたは一体、私になにをやらせていた? どうして影であれだけの生徒が学校をやめてる」
『たまたまですと言っても信じてもらえませんか』
「冗談なら好きだけど、今は聞きたくない」
いいわけなどするつもりもないらしく、次の瞬間にはなめらかに答えてきた。
『多少問題のある生徒でしたし、学校ではある程度のイベントが必要です。彼らはしかるべく役割を演じた後、舞台から降りたのです』
しかるべく役割。調べてわかったが、やめていった生徒は何か問題を起こしてからやめている。それはかなり大げさな喧嘩であったり、職員室で暴れたり、警察沙汰になったりしていた。
「あれを起こしたのも“cube”か」
『いいえ。そういう風にし向けましたが、行動を起こしたのは彼ら自身です。我々は直接は関与していません』
声音はわからないが、言葉でわかることもちゃんとある。
「罪悪感はないみたいだな」
『お忘れですか。私はあなた方に手紙を出しただけです』
思わず携帯を握る手に力がこもった。なにが言いたいのかくらいわかる。『主』は自分ではなにもしてない。それはおそらく本当だろう。こいつは手紙を出しただけだ。そしてその手紙に従って動いたのは、紛れもなく私だ。
あなたのせいだと訴えてきている。
「組織の改善を提言する。こんな行為は無意味だ」
『……これは学校の伝統です。“cube”はずっと以前から存在し、こういう行動をとってきました。今更変えれません』
伝統だから変えられないなんて、政治家の言葉だ。私が期待しているのはそんな返答じゃない。
「いいか香月君が自殺までしそうになったんだ。もう遊びじゃすまされない」
ずっと、ただの遊びだと思っていた。できることなら一年前、あの『箱』を渡されたときに戻って過去の自分を止めてやりたい。やめておけ、これには関わっちゃいけないと。
誰かが私のせいで死ぬなんて、悪夢以外なにものでもない。そんなことにはなってほしくない。それは単純なおびえであり、今までの反省でもあった。
間をおいて、『主』は自分の意見だけを突きつけてきた。そしてそれは私の予想をこえるものだった。
『……お話は無駄な様です。蓮見レイ、あなたを“cube”から脱会させます。あなたに拒否権はありません。明日、『箱』をげた箱に入れて置いてください』
それが『主』の答え。分かちあえないなら、そうする必要はないと言っている。お前は必要ない、代わりをたてる。『主』ならそうすることもできるだろう。そして私も今更この組織に未練はない。だからやめろというなら喜んでやめてやる。けど、ただではやめない。
「結構だ。ただ覚えておくといい、『主』。私はすべてのプライドをかけてお前を見つけだす。そして“cube”なんてものは壊す」
『……どうぞご自由に。ただし、こちらとしても厳正な対処を下します』
それで通話は終わった。記念すべき、私と『主』のファーストコンタクトの終了。
「そんなわけで私は“cube”じゃなくなった。『主』が今日言っていた、最初に壊そうとしたのは私というのは、こういう事情があったからだ。ただ、いちいち説明するのも腹が立つけど、私にはそれはできなかった」
あの後、私は『箱』を素直に返却することなく『主』にあらがってみせたがそれはしょせん無駄な抵抗に終わった。こっちがちまちまと調査をすすめてる間に『主』はこっちの予想をおおきく上回る嫌がらせをしかけてきた。
結果、私はそれに屈した。生まれて初めて味わった、完全敗北。
「……ちっともわからないことがある」
話の間、始終沈黙を守っていた父が渋い顔をしていた。
「なにかな」
「どうしてお前は『主』に従った? つまり、どうして無条件で“cube”になったんだ?」
どうやら兄と仁志も同じことを疑問に思っていたらしく、うんうんと仲良く頷いている。そこはあえて説明しなかった場所だ。あまり口に出したくなったが、誤魔化せるほど甘くもないらしい。
「うまく説明できる自信はそんなにないんだ。ただ、兄さん、この間私のことを年相応だったって言ってくれたよね」
兄はちゃんと覚えていたらようで、すぐさまああと答えてくれた。
「“cube”に選ばれた当時の私は一五歳の女の子。中学をでたばかりの子供さ。父上、想像してほしい。そんな子供がこう言われたらどう思うかな。――お前は、特別な存在だ」
あの当時、私をつき動かしていたのはその一つのセンテンス。この一言が、私を惑わせた。
「……少々天狗にはなるな」
「そう。私もそれだ。中学生の時の私なんて、どこにでもいる奴だったろう。妙に周りに同調して、そのくせ内心じゃいつも誰かをバカにしていた。偉そうに世の中はバカばかりだと憂いたときさえあった」
思い出すだけで恥ずかしいエピソードばかりだ。ランドセルから卒業して少ししか経っていない子供が、大人になったと勘違いして、ひたすら周りを見下し、自分は特別な存在だと本気で思っていたんだから。
「そしてそんなときに、選ばれましたの一言。正直、うれしかったよ。ああ、やっぱり私はそうなんだなんて考えた」
もはや病気だったと思いたい。そこまで恥ずかしいエピソードだ。
「じゃあ、“cube”っていうのは報酬もなにもないのか」
そういうものがあって、それで『主』がほかの“cube”を動かしていたと思っていたのか、仁志が心底驚いたような声を出すので、ああと頷く。報酬なんてなにもない。“cube”になって得することなんてなにもない。
ただ、得られるものはある。
「“cube”を動かしているのは」
そこで一端言葉を区切ったのは、自分がそれに毒された過去があるから。それをイヤと言うほど思い知らされるから。
「馬鹿げた特権意識と、子供じみた優越感だ」
言ってみて改めてわかった。私はバカだった。そしてそれを利用するバカがいる。
まだ見ぬ『主』に思いを巡らす。案外、似たもの同士かもしれない。虫ずが走るほどイヤだが。
いまだ“cube”の真相を信じられない三人は、どうコメントしていいかわからない様子だった。当たり前だ。ようは大層に秘密結社なんて言っておいて、その実体はただの陰気な奴らに集まりでしかもただの世間知らずの子供ばっかりだったのだから。なにが「優秀」だ。
けど、だからこそ私は救いたいと考えている。そんな子供を。自分と同じ過ちを繰り返しているバカな奴らを。そしてどうしてもそれを利用して他人をおとしめている、あげくの果てにわけもわからずそのバカな奴らを殺している『主』を捕まえてやりたい。
ただどれだけ格好をつけても、私が動いているのは優しさや正義感じゃない。ようはあの敗北のリベンジをしようとしていうるだけだ。
『これ以上、我々に立ち入ることは許しません』
そのメールが届いたのは私と『主』が決別してから一週間経ったころだった。そのころ私は必死に“cube”についての情報収集をかなり大々的に行っていて、非常にに忙しいかったのを記憶している。
結局、指示に従わず『箱』は返さず完全に対決姿勢を表していた。おそらく『主』としては初めての内部反乱だっただろう。だから、なにもしてこないのは打つ手がないからだと考えていた。そしてその隙に一気に相手に近づいてやろうと目論んでいたのに、そうはいかなかった。
最初は私の友人だった。体育の時間、更衣室に置いておいたはずの着替えや財布が消えた。最初は男子か誰かの仕業と考えられていたが、翌日、それらは切り刻んだ状態でその子のもとに返えされた。裂かれた服は彼女が尊敬する先輩から譲ってもらったもので、財布の中にはいっていた恋人との写真などは全て切られていた。
次はただクラスメイトだった男子。彼は部活でいつも帰りが遅かった。しかも家が学校から遠方だったために一人で帰ることが多く、そしてその帰り道、何者かに襲われた。犯人の姿は見えなかったらしい。暗い夜道で急に後ろから木刀か何かで殴られたそうだ。怪我が原因で、部活をしばらく休むことになりレギュラーをとれなくなってしまった。
そして当時、私が仲良くしていた先輩。受験を控えて必死に勉強していた彼女。推薦入試をねらっていたのだが、そんな彼女が売春をしているという噂が急に校内をかけ巡った。当然嘘に決まっていたのに、どういうわけか彼女が年輩の男性と街を歩いている姿をおさめた写真までが横行しだした。結局、彼女はたくさんのものを失い、その年の受験も失敗に終わらせれた。あとから分かったことだが、写真はどうやら合成だったようだ。
それらすべてが『主』の仕業だった。どうしてそういうのがわかるかというと、必ずこれらの事件が起きる前に私に連絡が入っていた、『今から何かが起きます』というメッセージが。しかもどこで誰が被害者になるということまで書かれて。
そして事後、また送ってくる。
『あなたのせい』
その一言だけを。
やはりここでも私は甘かった。今まで自分ではなにもしてきていなかった『主』がこうまで堂々と動いてくるとは思っていなかったし、動いてきても私に直接してくると考えていた上、それは暴力的なものではないと予想していた。しかし、それらはすべて的外れ。
あまりのことに呆然とする私にとどめをさしたのは、一匹の猫。ある日、げた箱を開けるとそこには猫の切断された手足が生々しい血液や鼻をつんざく腐臭とともにいれられていた。これだけでも十分なダメージだったのに、『主』はまだ手を抜かない。
その猫の切断した頭部を、今度は自宅の前においていた。ちょうど私が一番早く家に帰ったので家族に知られることはなくすんだがしかし、『主』がなにを言いたいのかはもうこれで完全理解できた。
猫の頭部を少し離れた人気のない場所で埋葬した帰り道、また電話がかかってきた。
『まだ抵抗しますか』
あいかわらずの合成音声。愛想もなにもない。
『私はあまり活発に動くことは好みません。できれば、もはや会員でなくなったとはいえ、“cube”の仕事をこなしてくれたあなたには穏やかに暮らしてほしいと願います。ただ我々に刃向かうなら、今まで以上の行為に及びます』
その冷静で事務的な対処の仕方が、私の中のたまっていたものを爆発させた。
「やりすぎだろうっ。友達にクラスメイトに先輩に猫、どれも無関係の存在だ! どうして私じゃなく、そっちを攻撃する!」
日に日にエスカレートする嫌がらせに参っていたうえ、そこに猫の死体やそれの処理までさせられて正直かなり精神的にやられていた。だから怒りを抑えるなんて上品なことは思いつきもしなかった。
「いい加減にしてくれ! “cube”に刃向かってるのは私だ!」
一番腹が立ったのはそこだった。攻撃の対象がすべて私ではなく、私と関係している人々。そこだけがどうしたって許せない。
『……あなたにはそれが一番効果的だと考えました。致し方ありません』
確かにそれが一番効果的であった。もし攻撃がすべて私に向けられていたら、私はさらに態度を硬直化して、もっと強く抵抗しようとしたに違いない。『主』はそうなることがわかっていたんだ。だから私じゃなく、その他を攻撃した。
『もう一度、申し上げます』
その後に続く言葉は容易に想像でいた。
『速やかに『箱』を返却してください。そして以後、二度と我々に干渉しない、刃向かわないと誓ってください。そうすればあなたにも、お友達にも家族にも、もうなにもいたしません』
猫の死体を自宅に置いたのは、いざとなれば家族にも手を出すというメッセージ。そしてその前に友人や先輩を襲ったのは、『主』としては暴力的にも精神的にもどちらでも攻撃できるという言い回し。そして今このタイミングで電話をしてきたのは、監視もできるということだ。
「……本当にだれも傷つけないのか」
『少なくともあなたの周りの安全は保障いたします。どうでしょうか。拒否されてもかまいません。ただその場合、こちらとしても全力でとめにかかります』
その言い方はまるでまだ全力ではないと示しているみたいだ。
「……わかった。明日、げた箱に『箱』を入れておく。二度とあんたらには干渉しない。これでいいか」
心の中で白旗を掲げる。もちろん良心との葛藤もあったが、これ以上の抵抗は私の周りに迷惑がかかりすぎる。そして必ず『主』などが特定できるのかというとそれも疑わしい。これ以上の抗戦はあまりにリスクが高すぎる。
損得勘定で動きたくはないが、これ以上誰も傷つけたくはない。
『ありがとうございます。では、こちらも攻撃をやめます。では。私たちの運命が二度と交わらぬことを祈っています』
それだけ言うと電話はきれた。それと同時に思わず携帯電話を地面にたたきつけて、抑えようもない怒りや悔しさを表したが、あとに残ったのは壊れた携帯電話とずたずたにされたプライドだった。
そして私は本当に『箱』を返し、以降彼らに干渉はしなかった。そのスタイルを卒業まで貫いた。もちろん後悔はかなりある。だからこそ今、あの時の約束を破り、また干渉している。ただあのときと今とは決定的に違うことがある。
今度は負けない。それだけだけど。
「お前は“cube”の会員だったが、やめさせられた。だから卒業した“cube”や“cube”が最終的にどういう行動をするのかまでは知らない」
「まあ、つまりはそういうことだね」
父の手短な要約は間違っているところはなく要領をえていた。cubeの実体についてはまだ半信半疑なようで、まだなんともいえない表情をしていた。
「今日の放送で“cube”の存在は学校中にしれて、明日にでも警察が世間に発表するだろう。そうすると歴代の“cube”が名乗り出てくるんじゃないかな」
普通の“cube”ならでてくるだろう。特に犯罪行為に及んでいるわけでもない。ただ『主』のほうはさっきも言ったように微妙なところだ。期待はしないほうがいいと父に忠告はしたものの、一番期待してるのは私だったりする。
話しながら食べていたら、もうすべて平らげてしまった。デザートにヨーグルトがあるが、それはお風呂上がりにでも食べよう。
「さて、明日から忙しくなるんだ。今日はもう片づけるよ」
さすがは三人とも男性だけあって、私より早くお皿をきれいにしていた。それらを重ねて台所へ運ぼうとしたら、やけに深刻な声でおそるおそる仁志がかけてきた。
「なあ、その香月って人はどうなったんだよ」
口に出したくはなかったがごまかすのも無理だろうし、調べたらすぐわかるから、お皿を重ねながら嘘偽りなく答えた。
「今も事故か自殺かはわからないんだよ」
5
三年生では一二人、二年生では二七人、一年生は三五人。小林陸の殺害後、学校を休んでいる生徒の数だ。毎日少しずつ変化はしているものの、平均値としてその数が出た。学校側が休校措置をとれないので安全を確保するには自ら休むのがベスト。この生徒たちは正しい。
三年生が少ないのはもうすでに三年生の“cube”は二人とも殺されているからだ。もうすでに三年生はある意味では安全と考えられている。もちろんもう三人殺している殺人鬼がどう行動するかなんてわからないが、狙いが“cube”なのは間違いないから大丈夫だろう。
そう考えていると一番危険な一年生が多く休んでいるのも自然なことだ。二人しかいない“cube”だが、もし『主』が勘違いしても困る。
いやそもそも“cube”がねらわれていると昨日わかったところ。一年生が一番多いのはおそらくは単純に怖いからだ。
職員室の机を一つ借りて、そこでノートパソコンを開ける。隣では海野先生が画面をのぞき込んでいる。そして逆の隣には婆さんが腕組みをしていた。
液晶画面には小林陸が殺される直前まで作っていたリストが表示されている。経歴だけでも「優秀な生徒」たちのリスト。結局、あの後色々あったが完成させた。
「個人情報って言葉を知らないのかしら」
堅物のばあさんに思わずあきれられてしまった。
「融通がきかないね、相変わらず。それに悪用なんてしないから安心しなよ。それより名簿だ」
納得はしていないが婆さんも状況が状況なので渋々目をつむってくれた。そしてさっき刷られたばかりのある名簿を渡してくれる。
「三年生は減って、二年生と一年生は増えたわ」
「予想通りだね」
この名簿は今日になって休んだ生徒の数。さっきの数字が変わっていく。三年生は七人減って、二年生は十人、一年生は一七名増えていた。そしてその計二四名の名前が名簿には連ねられている。
昨日の放送でねらわれているのは“cube”だと公言した。あれは『主』をおびき寄せる餌でもあったが、そして同時にこのリアクションを期待していた。“cube”がねらわれていると知って、休む生徒というのはきわめて怪しい。
「三年生はいらないんじゃないのか。もう“cube”はいないんだろう」
海野先生の指摘はまったくその通りだけど少し甘い。一学年に二人ずついる“cube”。そして三年生は一人目の黒沢明子、そして三人目の小林陸が殺されている。だからもう情報が必要ない。
「一応だね。いやとういうか気にならないかい。どうして安全とわかっているのに、休むんだろう」
私からいわせれば理解できない。だから一応、情報だけでも仕入れといた。何かの時に役立つかもしれないしね。それでも海野先生はあまり納得はしていなみたいだ。こればかりは直感めいたものだから理解してもらうのは難しいか。
それでも海野先生はそれ以上追求せずに、質問を変えてきた。
「しかし、これで“cube”が特定できるのか」
「さあね。なんせ秘密結社だ。簡単には特定できないだろうさ。アテも外れたみたいだし」
昨日の放送、あれで“cube”に呼びかけた。実際に三人殺している奴にねらわれていると知ればすぐさま名乗り出るんじゃないかと考えていたが、今はもう十時を過ぎているが、そういう告白は警察にも学校にも私にもない。今後あるかもしれないが、望み薄だ。
画面をスクロールさせながら休んだ生徒と、以前リストアップされた生徒で二つ重なってる人物がいないかをチェックしていく。その間、海野先生にある数枚の写真を渡した。
「なんだ、これ」
受け取った先生が疑問の声を上げる。渡した写真に写されていたのは携帯電話をいじる生徒の姿だった。
「昨日の放送の間に携帯電話をいじっていた生徒の写真。有華ちゃんや警察の人がこっそり撮ってくれた。ああ内密にね」
許可もなくこっそりと写真に収めるのだから、これはつまり盗撮という奴に値する。
「お前なぁ」
「あきれないでほしいね。いやあきれても惚れてもいいから、その写真に写っている生徒。全員の名前が知りたいんだ。先生たちならわかるよね」
海野先生は多く生徒を知っているし、知らない生徒もほかの先生たちに聞いて回ればすぐに特定できるだろう。『主』がここに必ず写っているわけではないが、これら写真は貴重な情報だ。
海野先生は早速写真に名前を書いたポストイットを張り付けていく。少し写りが悪かったり、顔が見れない生徒はほかの先生たちに誰かわかるかと訊いて見事に全員の名前が判明した。
「あってるという証拠はないが、これでも教師だ。生徒を見間違えることはそんなにないはずだ」
証拠はないけど確証はあるみたいだ。私も疑うことなんてしない。先生たちのプライドを信じてみる。
「ありがとう。だいぶ助かるよ」
これで千人を越える生徒を全員疑う必要はなくなった。もちろん気は抜けないが、とにかく今はこの特定できた生徒たちに目を向けるのが得策だろう。ほかの生徒は人員が多い警察にまかしてしまえばいいんだから。
「さて、こっちもそろそろ作業終了だ」
言葉通り作業を完了させた。そして画面には数名の生徒がリストアップしてみる。彼らの顔写真を拡大して影響に写して、顔と名前を一致するように覚えることにした。
「小山学……。小野夏希……。中山大介……」
それがリストアップされた三名だった。“cube”の容疑者でありながら、“cube”がねらわれていると知った翌日に休み始めた生徒。色はグレー。これがこれから白になるのか、黒になるのかは不明。ただ一つ、赤に染めることだけはしてはいけない。
でも本当に、と考える。本当にこれで正しいのか。捜査方向はあっているのか。いやな胸騒ぎがして何か落ち着かない、どこかで何か、重大な見落としてるような気がしてならない。
画面を凝視する。本当に、この中にいるのか。
「小山学ってのは知ってるぞ。何度か話したことがある」
二時限目の終わりの昼休み早く情報がほしかった仁志が生徒会室に駆け込んできたので、あの三名の資料を見せた。そして予想通り、仁志が知っていたのは小山学だった。予想できていたのは、資料にちゃんと「生徒会役員」と書かれていたからだ。
「今日は体調不良で休んでるそうだ。長引くかもしれないけどね」
あの三名の欠席の理由はすべて体調不良だという。どういう体調不良かまでも一応聞いてもらっているが、嘘か本当かわからないうえ、休みが長引けば疑うだけなのでそこまで興味はなかった。
「あいつが“cube”ねぇ。なんか信じられねぇな」
「信じられないっていうのは、どういうことかな」
偉そうにソファーに腰を下ろした仁志は、頭をかきながら小山学を紹介してくれた。
「遊び人だぞ。学校をさぼることだってたまにあるし、生徒会の仕事も適当にしやがる。あんまり評判がいいやつじゃねぇよ」
高校一年生の男子が遊び人か。若くて元気なのはいいことだと思うが、仁志がこんな評し方をするようでは好感がもてる元気ではないようだ。
「まあ、疑わしいってだけだよ」
その話を聞くと少し疑わしくなる。“cube”には周りからの信頼を得ていないと出来ない仕事がある。『主』がそんな人物を選定するとは思えない。
「ところであんた、なにしてんだ?」
仁志が私に訊いてくる。不思議がられるのも仕方ない。私はあの写真たちを生徒会室の壁に貼り付けていたんだから。さっきの先生がつけてくれたポストイットをつけたまま。もちろん、写真はほかにもあるし名前もちゃんと覚えた。
「君と有華ちゃんにもちゃんと覚えてほしいんでね。さっきの三人はいわば“cube”の候補者。そして今、この写真におさめられた十人の生徒は『主』の容疑者だ」
昨日のあの時間、携帯をいじっていた生徒。単純な罠だったけど、それにかかってくれているのかもしれない。現段階ではもっとも『主』に一番近い位置にいるのが彼らだ。
仁志が立ち上がって一枚一枚写真を見て回る。
「昨日のあの時間だけでだいぶ手がかりに繋げたんだな」
「手がかりになってるのかはまだわからないよ。この生徒たちは携帯をいじっていたことはわかってるけど、電話していたかというと確認はとれてない」
本来、それが一番重要なところなのだけど流石にその場面を人に見られるようなヘマはしていないようだ。もしこれらすべて価値ある手がかりであったとしたら、事件の早期解決も夢じゃない。いや早期というにはもう遅すぎるか。とにかく、一秒でも早く『主』を止めれる可能性がある。ただすべて無駄でしたといわれても驚くことは出来ない。それくらい浅い根拠に基づいている。
それに、昨日はあれで結構派手にやらかした。それの収穫がこれらだが、不安でならない。やらっれぱなしでは『主』は終わらないだろう。
今度はこっちが守りに入らないといけないかもしれない。
「ところで『主』が休んでる可能性はゼロなのか。さっきの話だとまるで欠席者に『主』はいないって聞こえたけど」
「ないね。今ここで休むのは疑われる。それがわからないわけじゃないだろう。それに『主』としては私や警察の動きが知りたいから情報収集のためにも登校してるはずさ」
それにあの性格からみてここで一歩引くような真似はおそらく奴のプライドにかけてしないだろう。今はへんな行動をとるより、平常通り過ごすのが得策だ。だから『主』は今日もいつもと変わらぬよう暮らしてるに違いない。三人を殺した手で。
「……あと二人か」
仁志が何気なくそうつぶやく。そう、あと二人殺されるかもしれない。
「頑張ろう。ゼロにするために、ね」
6
“cube”候補者、そして『主』の容疑者の情報は父を通して警察に渡した。あの組織がどこまでそれを利用するのかしらないが、不自然に欠席している生徒は目を付けてくれるらしい。捜査本部は近年の事件では最大規模のものになっているから人員には事足らないらしい。
そして報道機関を介し、この事件が世間に知られるようになりようやくここにきて過去の“cube”たちが警察に申し出てきた。そこからどういう組織だったのかを警察もだいぶ把握してきたようだ。ただどういうわけか、現役の“cube”、そして過去の『主』は一人も名乗りでてきてはいない。一番肝心な部分がぬけているので、警察は頭を抱えている。
『大学でもその事件の話題で持ちきりよ』
久々に聞く春川の声が電話という機械を間に挟んでいるので少し寂しい。
「まあ、大事件だからね。連続殺人だよ、しかも三人。シリアルキラーなんて日本じゃなかなかでてこないからね」
昔読んだ本でシリアルキラーの八割はアメリカで生まれているとデータをみた。どこまで信用できるかわからないが、あの国では確かに数十名が一人に殺されることもあるので不思議じゃない。対して日本は連続殺人なんてそうそう起きない。
『テレビであなたを見たっていう子もいるわ』
「あまりに映りたくはないんだけどね、学校でうろついているもんだから勝手に撮られたみたいだ。大変だ、またファンが増えてしまうよ。ただ安心してほしい、私は君一筋さ」
ため息が聞こえた。電話口でもちゃんとため息とわかるくらいのだから、それなりに大きいものだ。そこまで呆れなくてもいいじゃないか。私の恋心を。
『変わってないわね、本当に。殺人犯と向き合ってるとは思えない』
どこか安心感が伝わってきた。どうやら私が変わってしまったんじゃないかと心配だったみたいだ。
『私のせいで事件に巻き込んじゃったから、これでも責任を感じてるわ。しかも二人も死んじゃってる。ねぇ、本当に大丈夫?』
それは困る質問だ。大丈夫なわけはないのだけど、大丈夫としかいいようがないし、大丈夫じゃないと素直に答えても大丈夫なように振る舞うしかない。彼女ならそれくらいわかってる。答えようがない質問だということを。それでもそう訊くのはそれほど心配してくれるんだろう。
「まあ、なんとかするよ。それに君が責任を感じることじゃない。いつか、決着をつけなくちゃいけなかったんだ」
それが今になっただけだ。春川は何一つ悪くない。それどころか彼女のおかげで連続殺人にいち早く気づけた。感謝している。
『気をつけてね。本当に。死んだりしたら、怒るからね』
「それはイヤだ。死ぬのもいやだし、君が怒ると怖いし、嫌われたくないね。なに、君を一人にはしないさ」
そこでお互いに笑った。おかしかったんじゃない。そうした方が明るいからだ。話題があまりに暗いし重いので、笑いでごまかそうとした。
『ねえ、私にも手伝うことはない? 必要ならそっちにもいくわよ』
それは困る。彼女は非常に聡明で魅力的だけど、今この場にきても危ないだけだ。人員は多い方がいいが警察がいる以上、これ以上の部外者の介入は人質を増やすだけだ。彼女には申しわけないが。
「すまない。その気持ちだけ受け取っておくよ」
春川もある程度その答えを予期していたのだろう、そうとしか返してこなかった。
『そうよね。それに私はどちらかというと探偵より犯人に向いてると思うわ』
彼女がそう自虐的に笑うのは、私たちの出会いに少しおもしろいエピソードがあるからだろう。けど、それだけじゃなく彼女は確かに物語に出てくるなら名探偵というより知能犯として出てきそうだ。以前、彼女がいっていたことだが、彼女のポリシーはそれが最善と思うならどんな手段も辞さないというものらしい。
事実、彼女がこの事件に私を巻き込んだのも私がこの学校の卒業生で、頼みごとは断れない性格だというこを知っていて、それでいて私が調べごとに長けていると考えたからだ。彼女からすれば最善の人材。だから断れないよう、困り果てた有華ちゃんと会わせた。
それがこんな大事件につながるとは予想していなかっただろうが、こうなったのだからやはり彼女は正しかった。私が“cube”だったから、事件が発覚したのだから。
事態はいつだって最悪というのが私の口癖。今はまさにそういう状況だが、彼女の選択だけは最善だった。
そこまで考えていて、大切なことを思い出した。彼女と楽しく話していたせいでどうして彼女に電話をかけたのかという本題を忘れてしまっていた。
「そうだ君、ここには来なくていいけど、少し協力してほしいことがあるんだ」
最後に私はこう添える。
「犯人に向いてる君にちなんでの頼みごとさ」
春川との通話を終えて電話を切った。これで一応、予防線は用意できたからいい。彼女ならあの頼みごとを見事にこなしてくれるだろう。もちろん、彼女が動かなくて済むのが私としても最善なのだけど、相手がどうでてくるかわからない以上、こういう事も必要になる。杞憂だとありがいたんだけど。
周りを見渡す。ここは放送室。この会話は誰にも聞かれたくなかったので、職員室からこっそり鍵を拝借してきた。それでも警戒は劣らない方がいいだろう。
最近、生徒会室も危ないような気がしてならない。あそこは基本的に盗み聞きでもなんでもできる。もちろんそれにはかなり危険が伴うわけだけど、『主』がそれをおそれるとも思えない。ここなら防音設備があるので電話を安心して出来る。特に今の会話は絶対に誰にも聞かれてはだめだ。
タバコを取り出して一本吸う。最近、吸う本数が多くなってきた。やはり精神的にかなり参ってるようだ。別に体のことなど考えてはいけないが、増税が気がかりでしかたない。女子大生のささやかな財産を国はどれだけ持っていくつもりか。
白い煙を吐き出すと当たりがタバコくさくなった。ああ、消臭剤を生徒会室から持ってくるのを忘れた。
あまり長く滞在してはいけないと思い、放送室から出て生徒会室へ帰った。
帰り道の渡り廊下で急に手を捕まれた。何事かと振り向くと、息をきらして俯いている有華ちゃんがいた。
「廊下は走っちゃダメだよ」
つい先日、廊下を猛ダッシュした記憶がはっきりと残っているのにそう注意してやる。
「せ、生徒会室の……しゃ、写真ですけど」
ふざけた注意を無視して彼女が息を詰まらせながらなんとか喋る。
「まあ、ひとまず落ち着きなさい」
彼女は何度か頷いて喋るのをやめ、息を整えだした。そんな彼女の手をつかんで、そのまま生徒会室まで引っ張っていく。その間、誰かに注視されてないかを確認しておいた。どこに潜んでるかわからないから手の抜きようがない。
有華ちゃんがこれだけ焦っているということは、それなりの情報だろう。それを渡り廊下なんて場所で話してもらっては困る。
生徒会室の扉と鍵を閉めて、彼女をソファーに座らせた。
「で、落ち着いたかい」
「はい。すいません、焦っちゃって。だって蓮見さんに電話かけても話し中だし、ここにもいないし。どうしちゃったんだろうって」
そうか、確かにそれは焦るかもしれない。有華ちゃんや仁志もそうだけど、間違いなく私も狙われている身だった。しかも目の付けられ方ではダントツだろう。そんな奴がいきなりいなくなったら、心配してしまうのも無理は仕方ない。
「すまないね、心配させて。ちょっと恋人と愛の確認をしてたんだ」
この冗談を春川が聞いたら、間違いなく何か暴力措置をとってくるだろう。
「はぁ、まあいいです。それより、すごいことが分かりました」
彼女は立ち上がって壁中に張り付けてあった『主』容疑者の写真の中から一枚はがして、それを渡してきた。廊下を歩きながら携帯をいじっている男子生徒がおさめられた写真。ポストイットには「荻原 治」という名前が書かれていた。
「彼、一年生なんですけど黒沢先輩の知り合いらしいんです!」
黒沢先輩というのは、二ヶ月前にここで殺された一人目の被害者の黒沢明子のことに違いない。その彼女と知り合い……。
「どういう知り合いかまで分かるかな」
「いや、分からないんです。どういう関係だったのか分からないんです。ただ時々一緒に話してるのを見たって」
なるほど。どういう知り合いかは分からないが、少なくとも“cube”の一人と、『主』容疑者の一人が一緒に行動していたことがあるわけだ。偶然とみるか、必然だったとみるか。どちらにしても無視は出来ない。
「どうしますか?」
どうするかなんて野暮な質問だと思う。
「ひとまず情報収集だね」
そのままきびすを返して生徒会室を出て、職員室へ向かう。私の後ろに有華ちゃんがついてくる。職員室にはちょうど、海野先生がなにやら仕事をしていた。お仕事中申し訳ないけど、遠慮なく話しかけさせてもらった。
「荻原治って生徒について知りたいんだ」
振り向いた先生はよけいなことはなにもいわず、ただ一つ訊いてきた。
「怪しいのか」
「怪しいか怪しくないかと訊かれると、怪しいと答えるよ」
まだはっきりとした情報もないのに、怪しいと断言するのは軽率だが仕方がない。なにせ本当に怪しいのだから。被害者と知り合い。疑うには十分じゃないか。
海野先生はその返答に満足したのか、離れた場所で仕事をしていたメガネをかけた若い男性教師を呼んでくれた。在校中お世話にならなかった先生だったので名前を知らなかったが、田所先生というらしい。
「荻原について、ですか」
荻原治について教えてほしいと単刀直入に頼むと、さっそくそう言い淀まれた。それだけでどういう生徒かはおおかた予想がついた。教師が生徒を評するとき、良い生徒なら言葉に困ることはない。けど逆だと非常に困る。立場上、悪い奴ですとはいえないから。
「何でもかまわない。こいつは口が堅いので素直に答えてやってほしい」
海野先生がどそううアシストしてくれる。ありがたかぎりだ。ただ口が堅いかどうかは私自身どうかと思うけどね。まあいいか。
「ええ、じゃあ……」
ようやく田所先生が素直な印象を答えてくれた。
「いろいろと問題な奴ではあります。大きな問題はいまのことろ起こしてませんけど悪い噂は私のところまできます。特に女子生徒との問題を起こしてるみたいです」
ここでも女性関係が出てくるのか。最近の男子高校生というのはかなり盛んらしい。まあその積極性は昔の仁志が見習うべきところかもしれない。いや、違うな。これがたまたまととらえるのは間違いなのか。女子生徒ととの問題があるというのは、もしかして必然なのかもしれない。
「有華ちゃん、女子生徒の間で荻原が話題になったことはあるかい」
「名前は聞いたことありますよ。けど詳しくは聞いたことありません。ああでも、友達なら知ってるかもしれません。確かめてきましょうか」
頼むよと頷くと彼女はわかりましたと返事をして、すぐに職員室へを出ていった。さっきは注意してしまったけど、前言撤回するよ。全力疾走してくれ。ああ、ただ滑って転ばないように。せっかくの顔に傷でもついたら大変だから。
「ほかには何かありません?」
できればもっともっと情報がほしい。田所先生はうーんとうなった後、何かを思い出したようだ。
「今は恋人がちゃんといるって。確かに二年の小野夏希って生徒だったはずです」
ここで私と海野先生は驚きのあまりお互いに顔をあわせた。先生の目はかっと開いて、一見すると怖い。けどたぶん、私も人のことをいえる状態ではないはずだ。
小野夏希。あの三人、“cube”候補者の一人じゃないか。ここで名前が出てくるのは必然と考えるべきか。それとも出来すぎた偶然と見るべきか。それとも……。
その後、田所先生には出来る限り荻原の細かい話を聞いた。今まで起こした問題、生活態度や交友関係など。ただ小野夏希ほどの有力な情報にはなりえそうになかった。もちろん、どうなるか分からないからちゃんとメモをとって記憶したが。
「どうするんだ」
田所先生が自分の机に戻った後、海野先生が質問してくる。
「どうしようか。とにかくこの荻原って生徒は今のことろ重要参考人レベルだよ」
重要参考人と容疑者では大きな隔たりがある。ただ、共通していることがり、それは非常に疑わしいということだ。荻原治はもうすでに今この段階でこのレベルに至っている。もちろん、疑わしいだけで証拠もなにもないから犯人扱いは出来ない。
「ひとまず行動を起こすとすれば明日からだよ。今日は有華ちゃんの情報がほしいからね」
それにどうやって彼と接触するか、接触した後どう行動するかなどを細かく決めておきたい。前回のように会って、喋ってだけじゃダメだろう。同じ轍は二度踏まない。
「けど荻原は一年生だろう。その『主』とかいうのを、引き継いだばかりじゃないのか」
「彼が“cube”でしかも『主』ならそういうことになるね。けど引き継いだばかりだから犯人じゃないとは言えないだろう。いやそもそも、今回の一連の事件はもうどんな理由で殺してるか理解不能なんだ。確か電話で『主』は“cube”は醜悪な組織だからと言った。けどそれだけで数名殺すかい?」
海野先生はそんなバカなと言いながら首を左右に振った。これが当たり前の反応だ。醜悪な組織でつぶさなければならないと考えたとしても、方法はほかにいくらでもある。なのにあえて『主』は殺人という重罪を犯し、リスクを背負いまくっている。それが分からない。
「実は茜ちゃん、二人目の被害者が言っていたんだ。今回の『主』は頭がおかしいやつで、快楽殺人者なんだって。で、軽々しく判断するのもどうかとは思うんだけど、私もそう思う」
理屈はいくらかある。電話やメールの空気で伝わってくるものがあって、それは『主』は今現在の状況を非常に楽しんでいるというものだ。普通、人を殺してしまった人間ならあんな空気は出せない。焦って取り乱す。わざわざ誰かに挑発の電話をかけたりしない。
けどそうしてるのは、この状況が楽しいから。なぜ楽しめているのか。警察が動くのも私が動くのも予想していて、それをかわせると信じているからだ。それだけの準備をしていた。それだけこの状況を作り出すことを待ち望んでいた。そう考えれる。
あと、殺害方法。一人目は刺殺、次は焼殺、そして三件目は撲殺。殺し方を毎回変えてきている。茜ちゃんは家の中にいたからそういう殺害方法にしぼられたとも考えられるが、そうだとしてもほかに方法があるようにも思える。ほかの二件なんてまさにそれだ。どうして統一してないのか。まるで統一しては、つまらないと言いたげだ。
けど快楽殺人者なら快楽殺人者で納得できない。どうしてその快楽殺人者の『主』は犯人が特定できる“cube”を被害者にしているのか。さっきも言ったけど確かに『主』は現状を楽しんでる。けど本当に快楽殺人者なら殺し続けることを望まないか。だったら警察が動かないにこしたことはない。だって今後とも罪を重ねるのに、それは非常に邪魔だ。なのに、まるで“cube”を殺し続ける理由があるみたいに殺してる。とんでもないリスクを犯して。
どうも分からない。考えれば考えるほど『主』がなにがしたいのかが分からなくなる。殺したいだけか? それとも誰かと、つまり私や警察とかと知恵比べがしたいのか? それとももっとほかに何か目的があるのか? あるとしたら、それは何だ。
数人殺して、捕まるかもしれないほどのリスクを負う、理由はなんだ。
「とにかくさっそく父上やひぃ君に連絡を入れてくるよ」
職員室を出て仁志のクラスまで足を運んで、彼に荻原治のことを教えた。彼としてはそれで決まりじゃないかという意見らしかったが、決め付けはよろしくない。気持ちは分からないでもないが。
「いやそれでね、君は小野夏希についての情報を集めてほしいんだ。二年生だから知り合いは少ないかもしれないけど、頑張ってくれ」
「分かったけど、なんか急に動き出したな。やっぱりあの放送の効果だな」
確かにここにきて捜査が一気に進み始めた。この間までなら小林陸一人に張り付くしかできなかったのに、それが嘘みたいに新しい情報がどんどんと入ってくる。
「そうなのかな。とにかく頼んだよ」
仁志とはそれだけの会話で別れて、生徒会室へ戻った。すぐさま父に電話を入れて、とにかく仕入れた情報をすべて教えた。かなり有力な手がかりに電話越しの父は大興奮で、声が大きくなったので電話を少し耳から離しながら会話することになった。
『すごいなぁ! これはすごい!』
父はそう叫びながら電話をきった。これから今の情報が警察にわたり、荻原治や小野夏希といった生徒が調べられることだろう。ひとまず有華ちゃんに頼んでる女子生徒の荻原の情報、それから仁志の小野夏希の情報を待ちながら明日から身の振り方を考える。
タバコをくわえて火をつけようとしたが、ライターがうまくつかず、何度も不発に終わった。今時、ワンタッチじゃないライターなんて使うからこんな目に会う。けど、これから学べることもあって、それはうまくいかないこともあるということ。いや、そういうことの方が世の中多い気がする。
ようやく火のついたタバコとキスをしながら、窓の外を見る。そこには納得がいっていない顔つきで頭をかいている自分が映っていた。そして一言、その納得のいかない理由を素直に単純につぶやいた。
「……できすぎだ」
7
蓮見レイという女がどれほどの人間なのかを品定めするのは少々困難を極めている。あの放送のせいで大きく状況が変わってしまったのは、こっちとしては大変都合が悪い。それはつまり相手にとっては好都合と言うことになる。
もちろん、あれだけで状況のすべてがすべて好転するわけがない。それはおそらく相手も分かっている。けど状況変化に相当大きな期待はよせているだろう。下手をすると、何かとんでもない手がかりを掴むかもしれない。「
だからこっちとしても彼女をしとめるためにいくつかトラップのようなものを考案しておいた。念のために彼女が事件に関与した時点で考えていた物だ。今日になって下準備も進めている。
ただ、それだけで彼女がひるむかというと、頷けない。批評家だとバカにしていたが、その潜在能力はなかなか侮れない。あの反撃がそれを物語っている。もしかしたら、かなり厄介な奴を敵にまわしてるんじゃないかとここにきて、初めて事件を起こしたことに不安を感じた。けど、それと同時に笑顔がこぼれた。
最高だ。こんなにゾクゾクするのは生まれて初めてで、興奮が収まらない。彼女と自分、どっちが優れているのか。それはしばらくすると自ずとでる結果だが、楽しみで仕方ない。さて、これからどうなるんだろう。彼女はどうでてくるのか。だまされてくれるのか、だましてくるのか。
けどそろそろ、状況を楽しむのもやめにした方がいいのかもしれない。足下をすくわれるなんてカッコ悪いことは嫌だし、計画を途中でやめなければいけなくなるのは死んでも嫌だ。殺さないと、この昂ぶった気持ちを抑えることは出来ない。
いい加減、あの探偵さんにはいっそ舞台から退場してもらおうか。
窓から外を見ると窓にうつった悪魔がそこにいて、自分に笑いかけていた。
2011/03/01(Tue)23:12:35 公開 /
コーヒーCUP
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2011/03/01 一部修正&改稿。
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