『葛の葉の陰陽師』 ... ジャンル:リアル・現代 ファンタジー
作者:ピンク色伯爵                

     あらすじ・作品紹介
夜になると町は豹変する。生き残るために戦う少年少女。戦いに終わりはあるのか? 出口はあるのか?漆黒の現代ファンタジーが今始まる!!

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『葛の葉の陰陽師』

プロローグ

夜の市街地は外灯の明かりすらなく、相変わらず闇に包まれていた。
「来るわ! クリ―パーよ!」
 エドナ・ダイドウジは黒髪のツインテールを揺らしながら下がった。一見してゴスロリと呼ばれる服を少女は身にまとっているのだが、実はこの服装は魔術師としての戦闘服のようなものなのらしい。それに、整った顔をしている彼女には妙にその姿が似合っていた。
「おいおい、さっき追い払ったばっかりだって言うのによぉ」
 緊張感の足りない――むしろ軽薄とすら言える口調で返したのは赤松トシヤである。雲が切れてその合間から月の光が洩れて出てくる。淡い光はトシヤの金髪と耳のピアスをぼうっと光らせた。ヤンキーのような格好の彼は、しかし目が小動物系のためかどこか愛嬌があった。
「貴方達は下がっていて!」
 エドナはトシヤの後ろに立っている人影に向かって叫んだ。
 田中イクヤは眼鏡を押し上げながら緊張した面持ちで頷いた。
 木村サオリはパーカーに包まれた身を震わせながらイクヤの影に隠れた。
 そして、中野ケイは――手に持ったナイロン袋の中身を確認していた。
「ケイ、聞いているの?」
 エドナがわずかにいらだった声で長身の青年に呼びかけた。
「え? なんですか、エドナさん」
「クリーパーの襲撃よ」
 エドナは端正な顔にあきらめの表情を作りながら繰り返した。
「いいから、どいてろよ。邪魔だ」
 トシヤは乱暴な手つきでケイを後ろに押しのけた。
 闇の中から低いうなり声がいくつも響いてくる。まるで地の底からのようなその叫び声は段々大きくなっていく。そして、ついに闇の中からそれらが姿を現した。
 それらは紛れもなく人だった。スーツを着ている者もいればパジャマ姿の者もいる。しかし、彼らの目は一様に虚ろで、わずかにあいた口からは禍々しい牙が覗いていた。一言で言うならば、彼らは吸血鬼だった。
「へっ。毎度毎度!」
 トシヤは地を蹴ると一気にクリ―パーの集団に突撃した。トシヤが吠える。頭上に輝く月に向かって吠えて――次の瞬間、彼の体は毛むくじゃらの熊のようなフォルムに変化する。クリ―パーたちが次々に弾き飛ばされて宙を舞う。人間を襲うクリ―パーの中にあって、彼は羊の群れの中に入った狼そのものだった。
「――声は はるかに。私の吐息は 大気を 焦がす」
 エドナは静かに、しかしはっきりとそう唱えた。同時にエドナの足元に紫色の魔法陣が出現する。刹那、まばゆいばかりの炎が洪水のように雪崩を打ってクリ―パーの大群に襲いかかる。クリ―パーの大群は一瞬にして炎に呑み込まれた。
「あっぶねーな。俺まで焼くつもりかよ」
 一足先に電柱棒の上へと避難していたトシヤがぼやく。
「あら、どうせ避けるでしょう? というか、今も余裕で見切っているし」
「まあな」
 トシヤはそう答えるとニヤリと笑った。
「これだけやればしばらくは動けないでしょう」
 エドナは火柱の中で悶え苦しむクリ―パーたちを見やりながら言った。
「神社に引き上げましょう。田中君と木村さんを保護できたし、今夜はこれで十分よ」
 クリ―パーたちは服を焼かれ、皮膚を焼かれてもまだ生きてうごめいていた。彼らは吸血鬼なのだ。再生力はすさまじく、伝承の通りほとんど不死身の存在なのだ。
 彼らがうごめく町。そのただなかに五人はいた。







第一章 水底の街T
 
「一体どうなってんだよ? ケイ! そんな説明じゃ納得できないぞ!」
 田中イクヤは中野ケイにどなり散らした。ケイはナイロン袋から目を離した。
「どうって言われても。俺はエドナさんに助けられただけだから……」
 ケイはちらりと神社のさい銭箱の前に腰をおろしているエドナを振り返った。
「この柏市に吸血鬼があふれている。ただそれだけよ」
 エドナは目を閉じて簡潔に答えた。狛犬の横で膝を抱えている木村サオリが嗚咽を漏らす。イクヤはサオリに目をやりながら再び怒鳴った。
「吸血鬼があふれているって……。そんなの納得できるか! 昼間はあんなに普通だったのに!」
「昼間、彼らは本当に人間よ。夜になるとさっきみたいな化け物になるだけ。――感染は二日前から始まった。私は昨日ケイを、今日は貴方達を助けた。ただそれだけよ」
「――っ」
 イクヤは言葉に詰まったのか所在無げに視線をさまよわせ、ケイから離れて行った。
「エドナさん。赤松君はどこに行ったんですか?」
 ケイは神社の境内を見回した。
「トシヤは神社周辺の哨戒に行ったわ」
「その赤松だ!」
 神社の縁側で頭を抱えていたイクヤは図星に声を上げた。
「あいつは人間なのか? あいつは中学から同じ学校だけど、なんか化け物に変身してたよな! というか僕としては魔術がどうのって言われてもしっくり来ないんだよ!」
「彼は吸血鬼よ。だけど意思を持って私を助けてくれているわ。彼は私たちの味方よ」
「どうだか」
「吸血鬼には二種類いて、本能だけのクリ―パーと、意識のある覚醒者がいるのよ。それで」
「あー、もういいよ! ……ったく、僕たちは今年大学受験なんだぞ! これから一年みっちり勉強しようって時に何なんだよ!」
「家に帰りたい……」
 木村サオリはぽつりと呟いた。神社に気まずい沈黙が流れた。ケイはその沈黙に耐えきれず口を開いた。
「エドナさん、助けは確かに来るんですよね?」
「――ええ。私の所属している魔術協会から、必ず」
「本当かよ? 助けに来るって、あとどれくらいで来るんだよ? ていうか、あんた、なに一人で来てんだよ! もっとたくさん人連れてこいよ!」
 イクヤの疑問はもっともだった。事実、それはケイも昨日からずっと抱いていた疑問だ。
「私は先見よ。たくさん連れてきても噛まれたりして敵の戦力が増えてしまう恐れがあるから、これがもっとも効率的なの。――助けに関しては、多分一週間以内にやってくると思うわ」
 エドナは髪を結んでいるリボンの位置を調整しながら言った。
「それで、これからエドナさんはどうするんですか?」
「私が受けた指令は町の探索、原因の究明、非感染者の保護の三つよ。それを忠実にこなすだけ」
「ちっ、やってらんない」
 イクヤは舌打ちすると膝の間に顔をうずめた。
「助かるのなら何だっていいよ」
 サオリが顔をあげて呟いた。
「大丈夫だ。皆は俺が守ってやるから」
 ケイ達が声のした方を振り向くと、トシヤがこちらにゆっくりと歩いてくるところだった。トシヤはニヤつきながら繰り返した。
「俺が手に入れた力で皆を守ってやるから」
「トシヤ。どうだった? この辺りは」
 エドナが立ち上がってスカートに付いたほこりを払いながら尋ねた。
「大丈夫だ。この辺りに奴らはいない。――おい、鉄分」
 おい、鉄分の部分はケイに向けて言ったものだ。
「すまん。トマトジュースは買ったんだけど、干しブドウは指定の奴が無くてさ。別のものにした。――あ、トマトジュースって野菜工場のでよかったか?」
「はぁ?」
 トシヤはケイからナイロン袋を奪い取った。そして彼は中から干しブドウを取り出す。
「ちっ。これ俺が嫌いなメーカーだ。――もっかい買って来てよ」
「分かった」
 ケイは頷いた。トシヤはイクヤとサオリに振り返った。
「田中君と木村さんは何か欲しいものある? こいつが買ってきてくれるよ」
「……僕はいい」
「私も、要らないです」
「エドナは?」
「私はお茶が欲しいかな。買ってきてもらえると助かるわ」
「赤松君は干しブドウ、ベリー工房。エドナさんはお茶だな。行ってくるよ」
 ケイは復唱すると駆け出した。

 少し遠くのコンビニまで走り、なんとか目的のものをナイロン袋に詰め込んだケイはようやく神社に戻って来た。実に往復一時間はかかったが、ナイロン袋の中身は干しブドウのストックまで買ったためいっぱいだ。
 それにしても、トシヤは何故ああもケイに冷たいのだろうか。ケイは石段を駆け上がりながら考えた。そう言えばトシヤは中学の時から同じ学校だったが、ことあるごとにケイに突っかかって来た。最近あのようなチャラい恰好になってあまり顔を合わせなくなったが、それまではトシヤの態度にケイも閉口していた。いや、告白するなら、
――腹が立つ。
 しかし、それでもケイがこのようにパシリまがいのことをしているのは、ひとえにトシヤに守ってもらうためである。事実、昨日も彼が来てくれなかったら――。
――俺的には噛まれちまった感じなんだけど。
 ギリギリクリ―パーに噛まれずに済んだ。
 とにかく、ケイの打算的な部分がトシヤに胡麻すりをするのも止むなしと判断しているのだった。
「よしっと」
 最後の一段を飛び越えると、ケイは駆け足で境内に入っていった。――と。
「……あいつ、ムカつくんだよ」
 不意にトシヤの声が聞こえてきた。ケイは思わず近くの木の陰に身を隠した。
「赤松、だからってケイにあんな言い方は無いだろう」
 イクヤの声だ。ケイがちらりと中を盗み見ると広場の中央でトシヤとイクヤがにらみ合っていて、サオリがイクヤを抑えているという構図だった。エドナは相変わらずさい銭箱の前に座っていた。
「あいつはいつもえらそぶっているし、皆を見下している節がある。自分は何でもできるってことを厭味ったらしく自慢している!」
「ひがみにしか聞こえないな」
「……でも、イクヤ。赤松君の言ってることも一理あるよ。――あの子、人と話している時本当に笑っていないもん」
「サオリまで何言ってんだよ」
「――だって……。皆言っているよ。あの子、本当に友達だって思っている人がいないって」
「僕もあいつとは挨拶するだけの仲だけど、あいつ、いつも何人か囲っているぞ。普通に皆と楽しそうに話しているし」
「計算しているんだよ」
 トシヤが言った。
「あいつはいつもそうだ。あいつほど打算的な奴はいないよ」
「ちょっと待てよ。――確かに、何考えているのかは分からないところはある。けど」
「でしょ? あたし、あの子、嫌い」
「嫌いって……」
「あの子の彼女の内村さんも変な娘よ」
「あの狐みたいな顔の奴だろ」
 トシヤが口をはさんだ。
「狐……? お前はネズミだろ」
 ケイは呟いた。ついでに言うとサオリは馬、イクヤは……何だろう? なすび?
 それにしても、入りにくい雰囲気だ。とりあえずケイはタイミングをはかっているが色々と絶望的だ。
「――そろそろいいかしら?」
 そう割って入ったのはエドナだった。
「今、午前四時よ。もうすぐ夜が明けるけれども」
「そうだ! 学校!」
 イクヤが叫んだ。
 どうやらエドナが話題をそらせてくれたようだった。ケイはここぞとばかりに荒い息をしながら飛び出した。
「おーい、皆、買って来たぞー!」
 ケイが境内の中へと入って行くと、エドナが笑いかけてくれた。
「お疲れ様。えらく早かったわね」
「エドナさんはお茶でしたよね。どうぞ。赤松君、これでいいか?」
 トシヤはケイから干しブドウの袋を受け取ると早速開封して食べ始めた。
「エドナさん、僕、学校に行きたいんだけど」
 イクヤが言う。
「問題ないでしょうね。明るいうちは皆理性があるでしょうし、感染もしないから」
「イクヤ、本当に行くの? 全部解決するまで休もうよ」
「僕は医学部を志望しているんだ。まだ全然成績が足りないから……」
 イクヤはガリ勉の割に成績は良くなかった。ちなみにケイは、そう思いつめて勉強するからできないのだと思っている。イクヤの前では口が裂けても言えないが、勉強とは量より質でイクヤのやり方は実に非効率的なのだ。
「ケイ、お前も行くよな?」
 イクヤが水を向けてくる。ケイとしては行きたくなかったが、ここでイクヤとの仲を深めておけば、彼女のサオリもケイを攻撃できないだろうし、そうすれば、トシヤもケイに対する扱いを変えるかもしれない。
――一週間かそこいらだけど、快適に過ごしたいし。
「ああ。俺たちがこんな状態でも、全国の受験生は待ってくれないだろうしな。確実に助かるんなら、そのあとのことを考えるべきだ」
「決まりだな。エドナさん、僕たちは学校に行くよ」
「イクヤが行くなら、私も行く!」
 サオリが言った。
「俺はパス。学校とかだるいだけだし、勉強なんかできても頭でっかちになるだけだろ」
「お前、そういう言い方は……」
 イクヤが顔に朱を注ぎ始めたのを見て、トシヤは、
「冗談だって。俺は夜に備えて寝とくよ」
 と言った。
「待てよ。冗談ってなぁ! 学校もろくに行っていない奴に言われたくないね」
「ああ? お前だって勉強勉強言ってるくせに成績優秀者に一個も名前載らないらしいじゃんか」
「止めなさい!」
 痺れを切らしたのかエドナが割って入って来た。
「何も学校の勉強で全てが決まるわけじゃないわ。正しく生きていくことができれば立派な人間よ。少なくとも私はそう信じているわ」
 トシヤは鼻を鳴らすと本殿の裏へと消えて行った。イクヤは鼻息荒く石段を下りて行った。サオリがそのあとを小走りで追っていく。
「はぁ……」
 二人の姿が消えると、エドナは深いため息をついた。
「エドナさんはこれから休むんですよね」
 ケイが尋ねる。
「ええ。――日が暮れる前には帰って来るようにね」
「了解です。今日も帰りに弁当か何か買って帰りますよ」
「期待しているわ」
 エドナはにっこりとほほ笑んだ。ケイはエドナに笑いかけると、踵を返した。

   ×          ×          ×           ×

 学校は夜のあり様が嘘のように全くもっていつも通りだった。ケイと話す生徒はいつも通り馬鹿な与太話はするし、教師は倦怠感の漂う授業をする。この日常の中にいると、夜こそが嘘ではないかと思うほどだった。しかし、町中が狂った獣になる夜は確かにそこにあるのだった。
 やがて六時間目の授業も終わり、ケイはいち早く教室を飛び出した。イクヤはちらりとこちらを見たが、サオリが彼に話しかけたので何も言わなかった。ケイはさっさと昇降口で靴を履き替えると外へ出た。美しい桜の花が咲き乱れていたが、今はどうでもよかった。
「ケイ」
 ふと後ろから呼び止められた。ケイが振り向くと、そこには内村ナルミが立っていた。彼女とは今年の二月にチョコレートを貰ってから、一応、公認の仲になっていた。ケイとしては恋愛感情云々の前に、単純に彼女と一緒にいて心地よかった。最初は学年一番の成績の女子となどどう接していけば分からなかったが、今ではもうそんなこともなかった。
――言われてみれば、確かにキツネに似ているな……。
 そんな失礼なことを考えていると、
「何? 私の顔がおかしいって?」
――お前はエスパーか。
「いや、かなり息を切らせているなって」
「当然。だってケイ、授業が終わるや否や飛び出していっちゃうんだもん」
「文脈的に追いかけてきた理由言うところだけど、理由になってないし」
「逃げたら追いかけたくなる心理、みたいな?」
「……お前の先祖ってきっと肉食獣だったんだよ、きっと」
 全く、とため息をついてケイは歩き出した。
「今からどこ行くの?」
「弁当買って帰る」
「今日は横着しようとお弁当で済ませるわけ?」
 ナルミは手を腰に当ててため息をついた。
「そうだ。悪いか」
「体に悪いわ。私がつくりに行ってあげようか?」
「……お前がまともに卵焼作れるようになったら頼むよ」
「失礼な。この前つくってあげたじゃない」
「あれはせんべいであって卵焼じゃないから。ていうか平べったくて食感ガリガリの物体を卵焼とか言っちゃだめだから」
「――ふん、ケイってば天は二物を与えないって言葉を知らないようね」
「二物ねぇ……」
 だいたい、万事何事もうまくいかないものだ。なんというか、こちらが立てばあちらが立たず、といったように。
「そういや、ナルミ、お前今度洋弓部の後輩から花見行こうって誘われただろ?」
「んー。まあねー。ていうか、誘われるも何も毎年恒例の行事だしね」
「まあな。――で、その時の飯って毎年三年が手作りだったろ? 特に女子は勝負時だろ?」
 ナルミは気まずそうにあははーと笑った。
「だね。私は戦力外通告かも……。夜に練習とかしたいんだけど、なんだかんだで朝が来ちゃうのよね」
 ナルミの言葉にケイはわずかに眉根を寄せた。ナルミも夜はクリ―パーなのだろうか? ケイは昨日の夜、エドナに焼き払われるクリ―パーたちを思い出してしまい、あわててその想像を打ち消した。
「ま、なんか一品つくればいいらしいから、いざというときはケイに特訓してもらうわ」
「そっか。いや、頑張れよ。ただ、そう言いたかったんだ」
「うん」
 ナルミは頷くとうつむいた。その両頬はわずかに桜色に染まっていた。
 しばらく二人は街中を無言で歩いた。ケイはこうしてナルミと無言で歩いている時が好きだった。何というか、こうしているといつも満ち足りた気持ちになることができた。
 沈黙とは気まずいものばかりではない、というのは誰の言葉だったか。
 こうしていると、またあの神社に戻るのが苦痛になってくる。ケイははっきり言ってエドナもあまり好きではなかった。何故かはわからないが、漠然と馬が合わないと感じていた。いつもケイをかばってくれているのにこんなことを考えてしまうのは薄情というものだろうが、こればかりはどうしようもなかった。だから、ケイは表面上はエドナに対してできる限りの礼儀を尽くしているのだ。――まあ、これも後になって考えてみれば、当然のことだったのかもしれないが。
 ケイはナルミと一緒に商店街へ入ると、弁当を二つ買った。一つは日が暮れる前にどこか適当な場所で食べるつもりだった。エドナの分はとりあえずナイロン袋の中に入れて、隙を見て渡すことにしよう。エドナの分は中身がぐしゃぐしゃになりにくそうなものを選んでおいた。ナルミはケイが二つも弁当を買うのを見て「朝ごはんも横着する気か」とか言っていた。
 それから、二人は柏市の中央に位置する大きな十字路で別れた。ケイはナルミの姿が東の住宅街の方へ消えて行ったのを確認すると西の端にある神社へと向かった。途中、公園で手早く弁当を食べてしまうと、ケイは一度深呼吸をした。
 今から、色々な意味での戦場に行くのだ。心の準備はしておいて損はないだろう。

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「貴方達はここに残ってもらうわ」
 全員が境内に顔をそろえるや否や、エドナはケイ、イクヤ、サオリの三人にそう宣言した。
「ちょっと待ってくれよ! 僕たちだけでここに残るって? そんなことして、クリ―パーだっけ? そいつらがやってきたらどうすんだよ!」
 イクヤがあわてた様子でそう反論した。
「ここには結界を張っておいたわ」
「結界? どこに?」
「見えない壁が神社を囲っているわ。並みの吸血鬼じゃこれを破れない」
「並み以上だったらどうすんだよ! それに見えない壁とか、精神衛生上良くないだろ」
――こいつ、よく気がまわるな。
 ケイは場違いだとは思いながらイクヤの想像力に感心していた。確かにこちらによだれを垂らしながら、ものすごい形相でクリ―パーたちがここへ大挙してきたら、気持ち悪いどころか、恐怖で気がくるってしまうかもしれない。
――でも、エドナさんも考えあってのことだよな。
「それは……確かにそうね」
――何も考えてなかったのかよ……。
 意外にエドナはあっさりと折れた。トシヤも干しブドウを口に運びながら、「俺と一緒にいた方が安全だろうな」とか言っていた。
「あの、エドナさん? この町に並み以上の吸血鬼はいるんですか?」
 ケイの質問にエドナはしばらく黙って考えているようだった。
「――ごめんなさい。私には探る術がないわ。ただ、覚醒者以上はかなり強力よ。だからその質問はこの町に覚醒者はいるかって質問になるわね」
「へ。つまり俺様のことだよな」
 トシヤは額に人差し指と中指を当ててナイスポーズを作った。
「もしいるとすれば彼らにも協力してもらってはどうですか? 味方は多い方がいいですし」
「――だめね。トシヤみたいにちゃんと意思があって秩序を守ろうとする者は少ないでしょうし、覚醒者は往々にして人間だった頃よりも好戦的で血を見るのが大好きな性格になるものなの」
「は。俺とエドナがいりゃそれでいいんだよ! お前が黙って見てりゃ、俺たちが万事解決してやるっての!」
 トシヤは気の無い声でそう言うと、さっさと石段を下り始めた。
「じゃあ、今日も非感染者を探しに行きます。皆はぐれないようにね」
 まるで遠足みたいだとケイは思った。

 一行の並びは自然に、先頭にトシヤ、その次にイクヤとサオリが横に並んで、そして最後にエドナとケイといったものになっていた。
「エドナさん、その服、高そうですね」
 無言で歩くのに耐えきれなくなり、ケイはそう話しかけた。
「お前、これは遊びじゃねぇんだぞ」
 先頭のトシヤが怒鳴ってきた。
「ケイ、悪いけどトシヤの言う通りよ。たるんでるわ、貴方」
「あ、すみません」
 ケイとしてはその後「今度、プレゼントに買いたいから、どこで買ったか教えてください」と頼むつもりだったのだが、よく考えてみればかなりのKY発言だったのかもしれない。実は言うと、話をすることで不安を紛らわせたかったのだが、仕方がないだろう。
先ほどからケイは言い知れない恐怖を感じていた。時折感じる悪寒。なんとなく、どこかから見られているような、嫌な感覚。この気味の悪い感じをエドナもトシヤも感じていないのだろうか? いや、見たところ二人とも自然体だからきっとケイの不安も杞憂なのだろう。
「なあ、何か寒くないか?」
 不意にイクヤがそう言った。
「夜っつったって今は四月だぞ。風邪でも引いたか?」
 トシヤは何ともなしにそう言って、絶句した。一行の進む街路に不意に凍えるような突風が吹きぬけたのだ。
「イクヤの勘違いなんかじゃないわ!」
 サオリは声を張り上げた。彼女の吐く息はもはや真っ白だった。
「っ、皆下がって! 来るわ!」
 エドナが両腕を広げてケイ、イクヤ、サオリをかばうように立った。同時に暗い街路の彼方から、低いうめき声が響いてきた。うめき声はだんだん大きくなってくる。
「クリ―パーだ!」
 トシヤは三人をかばうエドナをさらにかばうような形で前に進み出た。上空の雲が途切れ、月光が街路を明るく照らす。ケイは目を見開いた。
「なんて数だ……」
 今まで見た中でもかなりの数だった。柏市の中でもこの辺り一帯の人間のほぼすべてが迫って来ていると言っても過言ではなかった。
「まずい……。どういうわけかは分からないけれども、いつの間にか囲まれている……!」
 エドナはギリと歯ぎしりした。
 闇の向こうからくる無数の人影は餌となる肉を求めてこちらへ虚ろな足取りでやってくる。サオリが絶望によわよわしい叫び声をあげ、その場に座り込む。
「ちぃっ! なんとか突破するしかないか!」
 トシヤはどこか楽しげに声を張り上げた。
 クリ―パーの大群はすぐそこにまで迫って来ていた。トシヤは熊のフォルムに変身した。ケイはナイロン袋の中身を確認した。トマトジュースが七本に弁当一つに干しブドウ五袋。これで殴れば主にトマトジュース分はダメージがあるだろう。
「いいえ。離脱よ! トシヤ、あの大群と戦おうなんて思わないで」
「エドナ、そんな甘っちょろい考えでは勝てるものも勝てなくなるぜ」
 と、トシヤがそこまで言った時、正面から迫りくるクリ―パーたちの先頭で長い数珠を振り回している法服の男の姿が五人の視界に入って来た。その人影はクリ―パーの大群から徐々に後退しながら、しきりに「悪霊退散!」と叫んでいた。
「何だ。あのおっさんは!」
 イクヤは声を張り上げた。その声が聞こえたのか、法服の男はこちらを振り向いた。四十代半ばの、眉の濃い坊さんだった。もちろん、髪はない。坊さんはこちらに駆け寄って来た。そして熊の姿をしたトシヤに数珠を振り上げた。
「悪霊退散! 悪霊退散! ほれ! お主ら何をしとる! 早く逃げたまえ!」
 坊さんは必死な声でどなり散らした。
「ちょ、おい。やめろ、おっさん! 俺は敵じゃない!」
 トシヤは声を張り上げたが坊さんは聞く耳を持っていなかった。なおも悪霊退散、と叫び続けている。
「止めろっつうの!」
 トシヤはぽかりと坊さんの頭をたたくと、坊さんは気を失ったのか倒れてしまった。
「お前、殺してないだろうな?」
 イクヤがおそるおそるという感じでトシヤに尋ねた。
「彼は気を失っているだけよ。それより、早く離脱を!」
 エドナが叫ぶ。ケイは無意識のうちにエドナの方へと一歩進み出た。トシヤに抱きかかえられたくはなかった。
「ごめんなさい、ケイ。私の力でも五十二キロ以上のものは一緒に運べないの」
「あ、あたし! 四十五キロ!」
 サオリがすかさず叫んだ。間髪いれずエドナはサオリを抱きかかえると唱えた。
「声は はるかに。私の 足は 風を 越える――!」
 エドナの足元に緑色の魔法陣が出現する。そして、ものすごい音とともに旋風が巻き起こる。
「はっ!」
 エドナはアスファルトを強く蹴った。バーンという大きな音とともにエドナは暗い空に吸い込まれていった。
「あ、赤松。僕たちも早く!」
「ち。わーってるよ」
 トシヤは面倒くさそうにそう言うと、イクヤをひょいと持ち上げた。
「あ」
 赤松君、とケイは叫ぼうとした。その一瞬、ケイとトシヤ、二人の目がぴたりと合った。その一瞬はケイにはとても長く感じた。その長い長い一瞬の中、ケイはトシヤの目が残忍に笑ったのを幻視した。
「え――?」
「悪い。定員オーバーだ」
 トシヤは左手でつかんだ坊さんを見下ろした。毛むくじゃらの顔には一体どんな表情が浮かんでいるのだろうか? それは知る由もない。しかし、
 ケイは戦慄した。
――こいつは、今、ナンテイッタ……?
「なっ! 馬鹿野郎! お前ケイを置いていく気か!」
 イクヤが怒鳴った。
「うるせぇ! なら、てめえが残るか?」
「――っ」
 ケイは体中の血管に冷水が駆け巡っているかのような感覚に陥った。
「そ、そんな! 干しブドウ買ってきてあげたじゃないか! 言うこと聞いて肩もみだってしたのに!」
「はぁ? 何言ってんだ馬鹿。そんなの関係ねぇよ!」
「本当に冗談じゃ済まない! 赤松君、頼むから!」
「お前、全然分かってねぇな」
 トシヤはくっくっくっと笑った。そして、トシヤはギンと目を見開く。
「俺はぁ! お前のことがぁ! 大嫌いなんだよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!」
 トシヤはそれだけ吐き捨てると力強くアスファルトを蹴り、神社の方へと離脱して行った。
「そ、そんな……!」
 ケイはトシヤが消えて行った方を見ながら途方に暮れた。だが、それもつかの間、ケイはクリ―パーたちのうなり声で我に帰った。
――死ぬ。
 絶望感が体を覆う。もう発狂してしまいそうだ。
「でも……!」
 ケイの頭の中にナルミの笑顔が思い浮かぶ。
「死にたくなんかない!」
 ケイはナイロン袋をギュッと握りしめた。クリ―パーの集団の先頭、スーツを着たサラリーマンがケイに掴みかかってくる。ケイはナイロン袋の中からトマトジュースの缶を取り出すと投げつけた。男のクリ―パーがたたらを踏む。ケイはその隙に右隣りの住宅を囲うブロック塀にとりついた。そして、上る。
「UUUUUUU!」
クリ―パーたちが唸る。ケイの体ががくんと重くなる。
「う、うわああああああ!」
 ケイの右足には先ほどの男のクリ―パーの両手がしがみついていた。目が合う。クリ―パーはにたりと笑った。
「は、放せぇぇ!」
 ケイは無我夢中で男の顔を左足で蹴った。しかし、両手の力はお構いもなく、ものすごい力で締め上げてくる。
「く、そぉぉぉぉぉ!」
 ケイはナイロン袋で思いっきりクリ―パーの両腕を殴った。ついに右足の拘束が解かれる。ケイはそのまま住宅の庭へと落下した。受け身をとる前に背中から固い地面に落ちる。肺の空気が強制的にたたきだされる。全身に鈍い衝撃が伝わる。もう立てない。だが、立たないといけない。
 ケイは痛みをこらえながら立ち上がった。一瞬視界がくらりと傾く。
「駄目だ。気を失っちゃ! 逃げて、助けを。エドナさん!」
 もはや何を口走っているのかケイ本人も分かっていない状態だった。と、その時、ケイの肩にポンと手が置かれる。
「エドナさん!」
 ケイは振り返った。
 視界全体に虚ろな目をしたワイシャツ姿の男のクリ―パーの顔が広がる。クリ―パーは大きく口を開けた。その口には禍々しい犬歯が二本――
「うわああああああああ!!!!!!!!」
 ケイは天を突かんばかりの絶叫をした。ブツリと鈍い痛みとともにケイの右肩に牙がつきたてられる。ケイは恐怖で真っ白になりながらも、反射的に右手に持っているナイロン袋を思いっきり振りまわした。
 バキ、というすごい音とともにクリーパーが弾き飛ばされる。クリ―パーは雨戸に背中からぶつかって痙攣を起こしていた。その首はあり得ない角度でぐにゃりと曲がっていた。ケイはうろたえながらも立ち上がり、周りを見回した。
「逃げないと! 逃げないと!」
 ケイの目に物干しざおが飛び込んできた。途端、ケイの頭の中で何かがはじけた。
「これで棒高跳びしながら、離脱するんだ!」
 ケイは物干しざおをひっつかむと再びブロック塀をよじ登った。街路はクリ―パーで満ち満ちていた。
「だああああ!」
 掛け声とともにケイはクリ―パーの海の中に物干しざおを突きたてた。だが、その瞬間にバランスを崩し、ケイはクリ―パーの海の中へ落下してしまった。
――ああ、死んだ。
 ケイは虚ろな思考の中、自分の体がクリ―パーの冷たい手に覆われて行くのを感じた。冷たく無慈悲な手たちはケイの体をまるでボロ雑巾か何かのようにもみくちゃにしてくる。今にも奴らの不揃いな牙がケイの体のいたるところに突きたてられ、血管という血管から血が吸われていくことだろう。ケイの頭の中で、今まで築き上げてきたなけなしの思い出が走馬灯のように駆け巡った。
走馬灯の最後、その連続するフィルムの最後の一コマがフラッシュのように輝く。それはナルミの笑顔だった。
 しかし、予想に反して、クリ―パーたちの乱暴な牙がケイの体に突き刺さることはなかった。
「え……?」
 ケイは恐る恐るという感じで目を開けた。それは、まるで全ての時が停止したかのような光景だった。クリ―パーたちはケイに襲いかかるその瞬間の恰好で固まっていた。前かがみになっている者、大きく口を開けてそのままケイに食らいつこうとしている者、全て例外なくその動きを停止していた。
 そして、彼らの肌は一様に真っ黒に変色していた。
「一体……」
 ケイはそろそろと手近なクリ―パーに手を伸ばすと、その顔を指の先で叩いてみた。クリ―パーの皮膚はカチカチに凍ってしまっていた。触れた爪の部分にも冷たさが伝わってくるほどだ。はっと我に帰ってみれば、ケイはかなりの肌寒さを感じていた。
 ゆっくりと立ち上がる。ケイは周りを見渡した。見える限りのクリ―パーたちは黒く変色していた。
「う、うわあああああ!」
 ケイは訳も分からずに駆け出した。
 どうしよう。どこに行こう。エドナさんのいる神社まで行こうか。いや、あそこまではかなり距離がある。途中クリ―パーに出会ったら今度こそおしまいだ。じゃあ、どうすればいいのか。
――とにかく、近くにある俺の家に帰ろう。それで朝が来るまで待つんだ。
 ケイは最後の理性を振り絞ってそう結論を出した。そう答えを出すや否や、ケイは一目散にその場を駆け抜けた。

  ×           ×           ×           ×

 差し込んでくる光にうっすらと目を開けると、もう日は高く上っていた。ケイはカーテンの隙間から見える太陽から目をそらせながら身を起こした。
 そこには見慣れた自分の部屋が広がっていた。ケイはもう一度瞬きをすると昨日の出来事を思い返した。
自分はトシヤから見捨てられ、自分の家までほうほうの体で逃げ帰って来た。
「というか、これ、アウトだよな……」
 ケイは自分の首筋に手を当てた。手に触れるのはガーゼの滑らかな感触。そう、昨日、ケイはまごうことなくクリ―パーに牙をたてられていた。エドナが言うには吸血鬼は人間を噛むことでその人間も吸血鬼にしてしまうらしい。というかエドナに聞かされるまでもなく、このような吸血鬼の特性に関する伝承はケイも知っていた。
「どうしよう。俺、クリ―パーになっちゃうのかな……?」
 はっきり言ってそんなのはごめんだ。まだやりたいことはたくさんあるし、やり残したこともごまんと残っている。
「エドナさんに頼んでなんとかしてもらおう」
 ケイはそう決心すると、立ち上がった。とりあえず学校へ行って、イクヤとサオリに接触、それから自分が無事だったことを伝える。その後に神社へ行き、イクヤとともにトシヤの不当な行為に対して検挙する。
 検挙したからといって、ケイとトシヤの関係がどうかなるわけではないだろうが、ここはきちんと謝罪してもらわないとケイの気持ちがおさまらなかった。

 しかし、状況はケイの思わぬ方向へと進展していた。
学校でイクヤとサオリにケイは話しかけたのだが、二人はケイの姿を見るや否や顔を寄せあって何やら話した後、踵を返して向こうへ行ってしまった。ケイは訝しく思い、その後も何度も彼らに声をかけたのだが、全て無視されてしまった。
ケイは腹の底に何か冷たいものが少しずつたまっていくように感じた。何かがおかしい。きっと何か起こっているに違いない。――たとえばケイの外見が変わってしまっているとか。ケイはすぐにトイレに駆け込み、鏡に映った自分の姿を見た。首筋にガーゼをしている他はいつもと全く変わりない自分が立っていた。
「……いや、このガーゼが問題なんだ」
 考えてもみれば首筋にガーゼなんてクリ―パーに噛まれましたと言っているようなものだ。実際噛まれたのだが、まだ自分が自由な意識があるということをケイは二人に伝えなければならないのだ。しかし、ガーゼを当てた状態で二人に声をかけてしまった以上はこれ以上何を行っても無駄だろう。まあ、もとからエドナとさえ話ができればそれで良かったのだ。エドナにきちんと説明さえすれば万事解決するのだ。

 夕方になり、全ての授業が終了すると、ケイは今日もすぐに教室から飛び出した。とにかく早く神社に行って状況の説明をしなければ大変なことになってしまう。イクヤとサオリが学校にクリ―パーに噛まれたっぽいケイがいたとかエドナとトシヤに伝えた日にはケイはトシヤに八つ裂きにされてしまうだろう。
 ケイは昇降口を出ると駆け出した。
「ケイ」
 ふと、後ろから声がした。振り返るとそこにはナルミが立っていた。ナルミはまたもや走って来たのか肩で息をしていた。
「すまん、ナルミ。今日はちょっと急いでいるんだ」
「そうなの? ならいいけど……。今日、ケイの誕生日だったから」
「あ……」
「じゃあ、プレセントだけ先に渡しておくね」
 ナルミはそういうと、綺麗に包装された小ぶりの箱をケイに差し出してきた。
「ありがとう。――ナルミ」
「うん」
 ケイは踵を返した。
「無理しないでね」
「ああ、じゃ、また明日」
 ケイはそれだけ言うと再び駆け出した。
 時間を確認すると、まだ四時半ごろだった。この様子だと、日が暮れる前までには神社に着くことができるだろう。町中が狂いだすのは十時頃だから十分に時間はあるだろう。ケイは中央交差点まで一気に駆け抜けると、スピードを緩めた。そして、ナルミから貰ったプレゼントを開けてみた。
「うわ、クッキーだ……」
 それにしても、クッキーと呼ぶにはあまりにもお粗末な一品だった。形はへしゃげていて大きさもバラバラ。苦心してチョコチップを埋め込もうとしたのは分かるのだが、埋め込んだあたりからクッキー生地がぼろぼろに崩れてしまっていた。しかし、良く言えば手作りらしい一品と言えた。
ケイは口元が自然にほころぶのが分かった。
「あいつ、頑張ってんじゃん」
 ケイはクッキーを一つつまむと口に運んだ。
「――っ! 辛あああああああああああ!」
 何というか、あまりにもお約束のパターンだった。砂糖と塩を間違えるなんてまるで一昔前の漫画だ。というか、ふつうこんな間違いしない。ところで、このピリッとした舌触りは何だろう? わさびだろうか?
――駄目だ……! 飲み下せない……ッ!
 ケイは心の中でナルミに謝りながらも近くの公園に駆け込んだ。そして、草むらに思いっきり吐き捨てる。ついでに他の手をつけていないクッキーも適当な木の横に埋めた。
――今度、ナルミには根本の部分から料理が何たるものかを教えてやらないといけないみたいだ。
 ケイはため息をついた。と、その時だった。不意にケイは視界がくらりと歪むのを感じた。
――な……んだ?
 くらりくらり。視界がまわっていく。ケイは近くの木の幹に手を突いた。そして、自分の手を見て驚愕する。
 太くて黒々とした毛がびっしりと生えていた。これはケイにも見おぼえがあった。紛れもなく覚醒したトシヤに生えていたもの。あの熊のようなフォルムになる時、トシヤの全身を覆う獣のもののように強靭な剛毛だ。
 それを見た瞬間、ケイが最初に抱いた感情は喜びだった。これでトシヤから虐げられることもなくなる。これで、町のみんなを、ナルミを救う助けになれる。しかし、続いて冷静な自分が口をはさんだ。
――でも、それって、化け物になる、ということだよな。
 そうだ。化け物になると、永遠に普通の生活からはおさらばだ。化け物になって、町の皆を救って、それでどうするというのだろう? 自分の体液は人には猛毒なのだ。ケイも、トシヤの未来というものを何度か想像したが、あながち外れではないだろう。すなわち、こうした事態が起こっているところに派遣されては生物兵器として戦い、ふつうの人間とは隔離されて飼殺しにされる。
 そんな不自由、そんな孤独、人が持つべきものとして間違っている。
――嫌だ……!
 化け物になるのは嫌だ。意識が遠のいていく。意識がなくなる? ああ、そうかたいていの覚醒者は残忍な性格になるってこういうことか。自分のアイデンティティが無くなるということだ。つまりそれは死ぬということも同然ではないか! 嫌だ! 死ぬのは嫌だ! 暗い所で一人きりなんてのは嫌だ!
「いやだぁぁぁぁっぁぁぁあ!」
 ケイは叫んだ。瞬間、ケイの体を侵食しつつあった毛はその進行を止めた。そして、逆に毛がビデオテープで巻き戻しでもしているかのようにどんどん引っ込んでいく。やがて、ケイの体を覆っていた黒毛は跡形もなく消えてしまった。
「――助かった、のか……」
 ケイは朦朧とした意識の中そう呟いた。そして、その場にばたりと倒れ伏す。
 そのままケイは気を失ってしまった。

    ×          ×         ×          ×

 目を開けると目の前は真っ暗だった。おまけに虫の声が聞こえた。
「ん……」
 ケイはゆっくりと身を起こした。最初に考えたのは自分は死んでしまったのか、ということだった。しかし、虫の声を聞いて、ここが死んだ後の世界ではないと思いなおした。
 率直に言うと、ケイは倒れた時と同じ公園の草むらに横たわっていた。ケイが携帯を取り出す。画面端に圏外と表示されている横に九時五十分とあった。どうやら、状況は町が不自然な眠りに落ちたところらしかった。もうすぐ感染者たちが起きだして、町を徘徊し始めることだろう。
「――そうだ。早く神社に行かないと」
 ケイは呟いた。まだ、町の住民が起きだすには幾ばくかの猶予がある。今のうちに神社まで駆け抜ければクリ―パーに出くわすこともないだろう。ケイは立ち上がった。
「――毛、全然生えてないよな……」
 不思議なことに毛が生えることもなく、いつもと違った様子もなかった。果たして自分は覚醒者になってしまっているのだろうか? 確かに覚えている記憶には毛がいったん生えて、それが引っ込んでいる。別に身体能力が上がった風なところもなかった。試しにガーゼを外して昨日噛まれた傷口を触ってみる。……治っていない。
――どうやら、俺は吸血鬼じゃないみたいだ。……確証はないけど。
ケイは立ち上がった。どういうわけか分からないが自分は助かったようだ。
ケイは草むらから飛び出すと、神社へ向かって駆け出した。

 ようやく神社までの道のりの半分くらいの地点に着いた時、ケイは神社横の電柱棒についている蛍光灯の明かりのもとで地図らしきものを確認しているエドナとトシヤの姿を見つけた。エドナがツインテールを揺らしながら南の方角を指しながら何やらしゃべっている。
「おーい! エドナさん!」
 ケイはそう叫びながら、二人に駈け寄っていった。
 二人の反応は劇的と言ってもよかった。
 トシヤはあのそびえたつような熊の姿に変身した。エドナは敵でも対するかのような鋭い視線を送って来た。
「お前、何の用だ?」
 トシヤが唸った。
「何って、お前のせいで俺は死ぬかと思ったんだぞ。謝るくらいはしろよ」
「ケイ、何のつもりかは知らないけど、不意打ちは通用しないわよ」
「何言っているんですか、エドナさん。俺のどこがクリ―パーだって言うんですか」
「確かに知性はあるようね。――だったら覚醒者かしら」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
 ケイはあわてて言った。
「昨日確かに俺はクリ―パーに噛まれました。でも吸血鬼にはならなかったんです。毛が生えてきたけど、縮んで無くなったんです」
「はぁ? 何言ってんの、お前」
 トシヤが大きな声で遮った。
「噛まれたけど吸血鬼じゃない? 笑わせるなよ。俺たちがそんな嘘を信じるとでも思っているのかよ?」
「嘘じゃない!」
「ケイ、私たちはイクヤとサオリも含めて全員貴方の断末魔の叫び声を聞いているの。貴方がクリ―パーに噛まれたことは分かっている。そしてクリ―パーに噛まれたものは例外なく吸血鬼になるのよ。――それとも、貴方は私たちの味方をしてくれるというの? 吸血鬼なのに」
「待ってください! 俺は普通の人間ですってば! ここへ来るまで走ってきましたけど、ふつうに息切れしましたし、走るスピードだって全然変わっていませんでした」
「――」
 エドナはついに黙ってしまった。代わりにトシヤが口を開く。
「お前の言うことは、俺たちの味方をするってことに聞こえないんだが」
「いや、だから俺は味方だよ。ただ、俺は吸血鬼じゃない。助かったんだ」
「信じられるか、バーカ!」
「そんな……!」
 その時、ケイの背後の路地から低いうなり声が響いてきた。振り返ると、闇の中から何人かのクリ―パーがこちらへ向かって来ていた。
「ち、やっぱり仲間を連れてやがったか!」
 トシヤが構えた。彼の黒々とした太い爪が禍々しく光る。
「え……? ちょ、おい! 何するつもりだよ! 俺は仲間だって!」
「トシヤ、ケイは覚醒者かもしれないわ。ここは神社の結界内に戻って一旦状態を整えましょう」
「へ、こんな奴、屁でもねぇわ」
 トシヤが口元を残忍に歪ませた時、不意にエドナの通信機が鳴る音がした。
「私よ。イクヤ? ――え? 神社の裏山からクリ―パーたちが押し寄せてきている? 分かった。すぐ戻るわ!」
 エドナは通信機をしまった。
「しまったわ。奇襲をかけられたみたい」
「こいつが仕組んだのかもしれないぜ」
「どの道退却よ! さあ!」
 ケイはあわてた。
「ちょっと待ってくださいよ! 二人とも勘違いしているんですってば!」
 トシヤは聞く耳持たず、といった感じだった。
「エドナさん!」
 ケイはすがるようにエドナを見た。
「ケイ、その手には乗らないわ」
 エドナは冷たくそう言うと、トシヤの腕につかまった。トシヤはそのまま地を蹴ると神社の方へと消えていった。
「そんな……」
 ケイは二人が消えていった方角を茫然として見た。
 低い、何十もの低いうなり声が響く。ケイは全身をどうしようもなく震わせながら後ろを振り返った。一度認識した事実が思い違いだということはよくあることだが、今回ばかりはそれも適用のしようがなかった。おまけに、前方、つまり神社方向からもクリ―パーの大群が暗がりから姿を現してきた。率直に言うと、ケイは挟み撃ちにされていた。
 逃げ道はただ一つ、ケイの左手に南の都心に続く細い道だけだった。ケイはわずかに躊躇した。というのも、その細い道は月の出ている夜にもかかわらず暗く、闇に沈んでいたからだ。あの先にはクリ―パーよりもっと恐ろしいものが潜んでいるような嫌な予感がした。
 ケイは再び神社の方へ目を戻した。前方のクリ―パーたちを突破できれば神社にたどりつくことができる。そうしてエドナにもう一度説明して分かってもらう。そうした方が良いのではないだろうか? しかし、分かってもらえなかったら、トシヤに殺されてしまうかもしれない。
「どっちも変わらない。どうせ助けはすぐ来るんだ。――俺は、あいつらと一緒にいたくない」
――なら!
 ケイは体の向きを変えた。目の前には気味の悪い暗闇が大口を開けて待っていた。ケイは大きく息を吸うと、その闇に飛び込んだ。

    ×          ×           ×           ×

「ハァ、ハァ、ハァ」
 息を切らして、路地を駆け抜ける。暗い中、何度も足を縺れさせながらも、なんとか駆け抜ける。いつしか、ケイは南都心に入っていた。都心のオフィス街の中を駆け抜ける。オフィス街は異常な冷気に包まれていた。ところどころ大きな氷の塊が地面から突き出ている。それはまるで氷に閉ざされた王国だった。ケイはひしひしと胸に迫る絶望感に気が狂いそうだった。
――駄目だ。市の北西はこの前から感じている冷気が一段と強い。
 ケイは方向を北東へと変えた。北東方面には隣町に通じる大きな高速道路が通じていた。この狂った夜の現象の影響がどこまで出ているのかは分からないが、隣の町に行ってみるのも悪くない考えだった。
 北東のオフィス街に入る。はるか向こうに高速道路の外灯の光が見える。
「よし、なんとかっ! 逃げ切れたか」
 ケイが後ろを振り返る。オフィス街には誰もいない。
「このまま、町を出よう。それから、消防署に駆け込むんだ! そして、自衛隊に報告する。俺のおかげでこの事件は解決するんだ! ははは、ははっははははは!」
 ケイは息を切らしながら大声で笑い続けた。
「は?」
 前方のオフィス街からいくつかの人影が出てくる。ケイは笑いながらも腋の下から気味の悪い汗が滝のように流れ出すのを感じた。あれは、イッタイナンダロウ?
 クリ―パーたちの低いうなり声がビル風に乗ってケイの耳に届いてくる。ケイは踵を返した。
「っ! そんなっ……! ウソだろ……!」
 ケイの背後からも大量のクリ―パーが押し寄せてきていた。ケイは膝の力が抜けて行くのを感じた。
――もう駄目だ……!
 西区からずっと走りつめだったケイの足はこれ以上の負荷に耐えてくれそうになかった。
「そうだ! 俺は噛まれても大丈夫だったんだ!」
 希望の星が見えたのもつかの間、ケイは新たな新事実に気がついた。彼らは吸血鬼なのだ。つまり、獲物の体液をすうわけであり、ケイは血を吸われたら、もちろんミイラのように干からびて息絶えることになるのだ。
「駄目だ!!」
 ケイは頭を抱えた。奇跡よ、起これ。ケイはそう願う。昨日のようにクリ―パーたちの動きが急にとまるとか、何でもいい。とにかく、家に帰れば一週間くらい耐えて見せるから、この場は見逃して欲しい。
 しかし、昨日のように、クリ―パーが凍るどころか、冷気が吹くこともなかった。そして、無情にも、クリ―パーたちはケイに刻々と詰め寄ってくる。
 ケイは頭を抱えて、その場にうずくまった。
「誰か助けてくれ! エドナさん! 誰でもいい! トシヤ―!!!!」
 クリ―パーたちがその冷たい手でケイの体のあちこちを掴んでくる。ケイは抵抗する間もなくアスファルトに抑えつけられた。ケイはただ茫然と大きく開かれた口ぐちの中に鈍く光る牙を見つめた。そして、はっと我に帰った。
「やめろぉぉぉぉぉ!」
ケイが右手のナイロン袋をふるう。ナイロン袋からトマトの缶ジュースが転がり出る。クリ―パーたちはバランスを崩した。ケイははじかれるように立ち上がった。
その時、オオカミの吠え声がした。ケイは反射的にそちらに振り向いた。
……オオカミの形をした人間、オオカミ人間がそこに仁王立ちしていた。
なんとなくケイは、全ての論理を超越して結論に達した。つまり、あのオオカミ人間は覚醒者で、この群れの指導者。そして、今、中野ケイという活きの良い獲物を見て舌なめずりしている。クリ―パーたちがザーと引いていく。代わって、オオカミ人間が一足でケイの真正面に迫って来た。
「あ……」
 ケイは天を突かんばかりの大きな野獣の姿を見上げた。
「GRRRRRR」
 どうやら、言葉がしゃべれないようだった。しかし、ケイにとっては大した障害ではなかった。つまるところ、お前は俺様直々に食ってやると、そういうことなんだろう。
「あ……」
 ケイは後ずさった。
「GAAAAAA!」
 獣が咆哮を上げる。そして、その黒く禍々しい爪を振り上げた。
「っ!」
 ケイは両腕で頭をかばってうずくまった。
 しかし、予想に反して衝撃はやってこなかった。代わりに、ギィン、と金属と金属がぶつかるような音がした。そして、ケイのすぐ隣に何かがガンと突き刺さる。ケイは恐る恐る目を開けた。
 はじめに見たものは何か大きな力によってオオカミ人間が弾き飛ばされ、向こうのビルの外装のガラスに衝突する様だった。
 そして、ケイをかばう形で立つ少女が、ケイの視界に飛び込んできた。
 スエード調の黒スカートに黒いタイツ。ピンクと黒のチュニックを着て、銀髪をしていた。頭の右側面に黒いリボンを結んでいる。ケイに背を向けていたので特徴と言えばこれくらいしか分からなかったが、紛れもなくその少女はケイの救い主だった。
少女は風を切るかのように右手を横に一閃した。すると青い炎が音もなく周囲に広がった。それは覚醒者ともどもクリ―パーを呑み込み、あれほどエドナが必死になって殺そうとして殺せなかったクリ―パーが黒こげの炭になって果ててゆく。ケイは唖然とした。
――すごい。
 突如として獣の咆哮が燃える空を貫いた。オオカミ人間が上空に跳躍していた。オオカミ人間は体のあちこちを炎で焦がしながらも中空から銀髪の少女に向かって急降下する。まるでミサイルのようなそれを茫然として見ているのもつかの間、ケイは少女に襟首を掴まれ、ゴミでも捨てるかのような要領で後方に投げ飛ばされた。
 ケイはアスファルトに背中から衝突し、一瞬気が遠くなった。せき込みながら身を起したとき、獣は苦痛に吠えていた。見ればオオカミ人間の体を再び青い炎が包んでいた。
 少女は折れた日本刀を持っていた。彼女の後ろに折れた日本刀の刀身半分がアスファルトに突き立っていた。
――そうか、俺を助けたせいで、武器が壊れちまったのか。
 ケイは周りを見回した。そして、道の端に角材が転がっているのを見つける。ケイはそれを拾った。
「来るな!」
 凛、と。
そんな擬態語を体現したような声が響く。
ケイは思わずその場に固まってしまった。少女は素早く後ろにささっている日本刀をアスファストから引き抜くと一挙動でそれを投げ放った。それはオオカミ人間の右目に突き立った。獣が苦痛に爪で顔をかきむしる。刹那、少女は折れた日本刀を構え、目の前の怪物に突進した。
 この場合、突進という表現は適切でなかったかもしれない。正しくは、音もなく、残像すら残しながら、疾風のように瞬時に間合いを詰めていた、だ。そして、ケイが気付いた時にはもう彼女は獣から距離をとっていた。獣の右目には柄付きの日本刀が突き立っていた。獣は断末魔の叫び声をあげてその場に崩れ落ちた。青い炎が獣の遺体を包みこむ。やがて、オオカミ人間の覚醒者はただの炭になり果てた。
「怪我はないか?」
 銀髪の少女はケイに向き直った。ケイは言葉が出てこず、ただ壊れた人形のようにカクカクと首を振ることしかできなかった。
 銀髪の少女は氷を思わせる美少女だった。年はケイと同じくらいだろうか。背丈は結構あるようだ。百六十五から百七十に届かないくらいくらいだろうか。大柄だが、モデル体型のためか、ごついイメージはなかった。髪は白銀、肌の色は白、瞳の色はワインレッド。しかし、日本人的な線の細い顔立ちだった。
 ケイは自然と顔が赤らむのを感じた。
「そうか。他に生存者はいないか?」
「か、柏神社に、五人くらい」
 少女はそうか、と呟いた。
「挨拶が遅れた。私の名前はハク。名字は無い」
 ケイは尻もちを突いたままハクの次の言葉を待った。しかし、ハクはそのままケイから興味を失ったのか、黒こげになっている覚醒者やクリ―パーの死体の方へと歩いて行った。そして、ポケットから瓶を取り出し、かがんで何やらし始める。
「……何、してるんですか?」
「このクリーチャーの体毛の採取だ。――ち、グラフトは採取できないか」
 ケイはただ、黙々と作業をするハクの後ろ姿を見つめていることしかできなかった。やがてハクは気が済んだのか、瓶をポケットにしまいながら立ち上がった。ちなみに、瓶を入れたはずのポケットにはまるで瓶の質感というものがないように見えた。ケイは眉をひそめた。
「魔術師……」
「正確には陰陽師に分類されるのだが、そう理解してもらっても構わない。――貴方の名前は? 見たところ一般人のようだが、魔術師を知っているのは何故だ?」
「お、俺は中野ケイ、です。魔術師を知っているのは、少し前まで魔術師と一緒にいたから」
「その魔術師はどうしている?」
「それが……、はぐれちゃって」
 ケイは、これまでの経緯を話そうにも、この女はケイが吸血鬼に噛まれたと知るや否や、ケイを殺そうとする恐れがあったのでそのことについては黙っておくことにした。
「そのガーゼ、貴方は噛まれたのか?」
「え?」
――しまった。
 ケイはわずかに身構えた。しかし、ハクはケイの緊張した面持ちもどこ吹く風で先を続けた。
「ああ、大丈夫だ。噛まれた程度では吸血鬼にはならないから」
「へ?」
「吸血鬼というものは一度死なないとなれないんだ。さらに言えば、死んで吸血鬼の血を入れられてその中からごくわずかな確率で吸血鬼が発生するんだ」
「そんな! でもエドナさんは噛まれたら絶対感染するって言ってたました! 第一、低確率って言っても、この町の人ほとんどがクリ―パーになっちゃってるんですよ!」
 まるで的を得ないハクの言葉にケイは動揺半分、いらだち半分だった。
「クリ―パー?」
 ハクは訝しげに訊き返してきた。
「意識の無い吸血鬼のことでしょ。吸血鬼には二種類いて、自我のある覚醒者と自我の無いクリ―パーになるって……」
「初めて聞く話だな。そのエドナというのが貴方の知り合いの魔術師なのか?」
「そうです」
「ふむ。――もう一ついいか? 先ほど、『噛まれたら感染する』と君は言っていたが、それはつまり、吸血鬼は病原菌で移る病例と君はとらえているわけだな?」
「そうじゃないんですか?」
「違う。吸血鬼というモノはそういうものではない」
「そんな……」
「とりあえず、ここは危険だ。私のチームの拠点はこの近くだ。案内しよう」
 ハクはそう言うと、ケイの横を通り過ぎ、北東方向に歩き始めた。ケイもあわててその後に続く。
「あの、チームって、魔術協会からの……」
「私たちは魔術協会とは全く関係がない。私は国家秘密機関、封聖庁というところから派遣されたエージェントだ」
「ふう、せいちょう?」
 ハクは頷く。
「聞こえは良いが、何をしているかを簡単に説明すると、死体の売買をしている」
「え……」
「近年、死体市場に国家が乗り出したんだ。財政再建のために、極秘で。死体は高く売れる……。たとえば特異な遺伝子病で死に至った者の死体やある特定のヴィルスに対して抗体のある人間のDNAだ。後者は相手が死体ではない時も往々にしてあるが」
「そんな! 国がそんなことをしているなんて! 倫理的に許されることじゃない!」
「死体は国家のものだ。脳死の患者も含めて、全てが。封聖庁のイデオロギーだ。だが――私も君と同じ考えだ。私たちのしていることは倫理的に許されることではないだろう」
 ハクは息をついた。
「しかし、これは私の仕事だ。私のような者にもできる、唯一の。――まあいい。それよりも問題なのはこの町だ。知っていることを、順を追って話してくれるかな?」
 ケイは三日前の夜にエドナとトシヤに助けられたところから話し始めた。トシヤに見捨てられた一件はケイも気が動転していたのであまり覚えていなかったが、それでも事実をつなぎ合わせて話をした。果たしてきちんと伝わったのかどうかは疑問だが。
 ケイの話を聞き終わったハクはフム、と一つ頷いた。
「確認するが、町の住人はほとんど皆クリ―パーになっていると。君は噛まれたが、発症はしていないと」
「そ、そうです」
「ヴィルスが潜伏しているのか、それとも君が抗体を持っているのか……。まあ、あくまでヴィルス性疾患と考えた場合だが」
「お、俺は助かるんですか?」
「分からない」
 ハクは冷たく言い放った。
「そんな」
「ほら、着いたぞ。ここが私たちのベースキャンプだ」
 ハクが指差したのは高速道路のインターチェンジだった。出口付近には確かにテントがいくつか設営されている。その一つから二人の男が出てきた。一人は四十台前半くらいのスキンヘッド、もう一人は二十代くらいの金髪ロングにサングラス、いずれも筋骨隆々の人だった。
「ただいま帰還しました、隊長」
 ハクがスキンヘッドの方にそう言った。
「ただいま帰還しました、だあ? 単独行動していてよくもぬけぬけと」
 金髪ロングが青筋を立てながら唸った。
「よせ、キリト」
 隊長と呼ばれたスキンヘッドが金髪を制した。キリトと呼ばれた金髪は舌打ちしてそっぽを向いた。
「ハク、町の状況はどうだった? サンプルは採れたか?」
「クリ―パーというゾンビと、覚醒者というオオカミ人間が跋扈しています。生存者は市西部の神社に立てこもっているそうです。――こちらは生存者の中野ケイです」
 スキンヘッドはケイに向き直った。
「そうか。怖い思いをしたな。君はわしらが責任を持って保護する。安心したまえ」
「隊長、彼についてなのですが」
 ハクが先ほどケイが話したことを簡潔にまとめてスキンヘッドに話した。
「ふん、そいつが発症しても、しなくても貴重なサンプルってわけか」
 キリトが鼻を鳴らした。
「キリト」
「ラッセル隊長、お言葉ですが、俺らのやっていることは明らかに越権行為です。だいたいこいつが――」
 キリトがハクを親指で指した。隊長の名前はどうやらラッセルというらしい。
「上の命令を無視してここまで来たから俺たちも巻き込まれたんです。もういいでしょう、ここらで帰りましょう」
「お前はわしに隊員を見捨てろと言うのか?」
「そうは言っていませんが、このような我儘に付き合っているといつかは懲戒処分を受けることになってしまいます。おい、ハク、てめぇも気が済んだらインターチェンジに張ってある結界壊しやがれ。とっととずらかるんだよ」
「無理だ」
「ああ?」
「彼を助ける際に刀が折れてしまった。あのレベルの結界は刀がないと壊せない」
 ハクの言葉に、キリトどころかラッセルまでもが瞠目した。
「ハク、お前は何を考えとる」
「すみません」
「すみません、じゃねえ! てめ、ハク! お前実は何も考えてねぇだろ!」
「許して欲しい」
「許せるか、アホ! それじゃあ、俺達この町から出られねぇだろが!」
 ラッセルは深く息をついた。
「――仕方がない、とりあえず外から援軍が来るまで待機するしかないだろう。今回の件はわしが全ての責任を負うのであり――」
「隊長」
「まだ何かあるのかね?」
「もうすぐ日が昇りますので私は失礼させていただきます」
 ハクはそれだけ言うとすたすたとテントの方へ歩いて行ってしまった。
「ちっ。あいつ、マジで何考えてんだよ! この前入ったばっかのくせしやがって」
「まぁ、そういうな。わしらの隊では彼女は主戦力だ」
「隊長!」
 ラッセルはようやくケイに向き直った。
「見苦しいところを見せてしまったな」
「あ、いえ……」
「坊主、わしは封聖庁執行機関二番隊隊長のジョージ・ラッセルだ。で、こっちの柄が悪いのがキリトだ」
 キリトが面倒くさそうにひらひらと手を振る。
「えっと、中野、ケイです」
「早速だが、採血させてもらっていいかな? まずは君が『感染』しているかどうかを確かめたい」
 ラッセルはそう言うと、ケイを奥のテントへ案内した。空には淡い桃色の光。長かった夜が明けようとしていた。

    ×          ×          ×           ×

 ケイが目を覚ますと辺りは再び真っ暗になっていた。
「起きたか、坊主」
 隣から野太い声が聞こえてきた。ケイが横を見ると、ラッセルがお茶をすすっていた。
「……今何時ですか?」
「午後五時を少しまわったくらいだ」
 ケイは身を起こした。ここは設営されたテントの一つでケイに与えられた寝床だ。ケイは採血が済んだ後、昨夜の疲れもあって死んだように眠ってしまったのだ。
「あの、」
「お前さんもわしらと一緒にこの辺りの偵察に付き合ってもらう」
「え?」
「このベースキャンプにはわしら三人のほかには誰もおらん。ハクが結界を張ってくれておるが、この町にはどうやら強力な魔力を持った何かが潜んでおるようだから、ここも完ぺきに安全というわけではない。――わしらと来てもらえるかな?」
「それは――もちろんです!」
「ほう……」
 ケイの返答に物珍しそうにラッセルが顎を撫でた。
「俺にもできることをしたいんです」
 ケイは言い張った。
 ケイは出発が九時半だと聞くと、テントの外へ出た。
「うわ……」
 テントの外は何ともシュールなことに、高速道路の登坂車線が広がっていた。不思議なことに通る車は一台もないが、これが話に聞いた町の外と内とを隔てる『結界』なのだろう。ケイは駆け出した。近くのコンビニまで、なにか飲み物や食べ物を買いに行くつもりだった。
「どこへ行く」
 不意に後ろから声をかけられる。この声はハクだろう。振り返ると、やはりハクがそこに立っていた。
「近くのコンビニへ買い物に行くんです」
「なら、私も同行しよう。今夜は私が買いだしする日だから」
 そう言うと、ハクはすたすたとケイを追い抜いた。ケイがあわててその後を追う。
「あの、ハクさんは日本人なんですか?」
 会話が欲しくてケイはそう尋ねた。
「――」
 ハクは答えない。機嫌が悪いのだろうか。
「あ、くだらない質問でしたね……」
「――」
 ハクは無言のままだ。
重苦しい沈黙の中、やがて二人は国道に出た。
「敬語」
「え?」
 不意にハクが口を開いたのでケイはびくりとした。
「敬語は止めてほしい」
「あ、はい……」
「――」
「えっと、ハクさんはコンビニの位置知っているん、……のか?」
「――間違っているか?」
「え?」
「道」
「いや、あってるけど……」
「なら、いいだろう」
 ハクはそう言うと足を速めた。
 ポツリポツリと人影が行きかい始めた。ハクはすれ違う人々をさりげなく、しかしじっくりと観察しながら道を急いだ。
――なんだか、機械みたいな奴だな。
 ケイはハクの後ろ姿を眺めながらそう思った。
「中野ケイ」
 と、急にハクはケイに振り返った。ケイはハクと目があってしまい、反射的に目をそらしてしまった。
「な、何?」
「遅れている」
「あ、ご、ごめんなさい」
 ケイがあわてて謝ると、ハクはため息をついた。
「――いや、また私の悪い癖が出てしまったようだ。……すまない。少しカリカリしていた」
「は、はあ……」
 頷きながらもケイは体全体が委縮しているように感じていた。何というか、ハクは滅茶苦茶威圧感がある。詰まるところ一緒にいて滅茶苦茶疲れる。もう何をしゃべっても裏目に出そうな予感があったので、ケイは黙って歩くことにした。
 やがて、目的のコンビニに着き、それぞれ買う物を買うと、二人は再びごった返す雑踏の中に出た。と、
「ケイ?」
 聞きなれた声に呼び止められた。
「ナルミ」
 ケイは目を丸くした。ちらりとハクの姿を目で追うが、ハクは瞬く間に雑踏の中に消えて行ってしまった。
「どうしたの? こんなところで。家、反対方向だよね?」
「ああ、ちょっとこっちに用があってな。おまえこそ、こんなところで何してんだよ」
「私はこれから塾なの」
「そっか」
「ねぇ、今日学校休んでいたけど、どうかしたの? 先生は家に電話しても中野が出ないって困ってたよ」
「ああ、えっと――大事な用事があったんだ」
「ふうん」
 ナルミは見るからに全く信じていない様子だった。
「えっと、俺、急いでるから、これで」
「何をしている。――知り合いか?」
 カツカツとブーツを鳴らしながらハクが戻って来た。
 最悪のタイミングとは今のようなのを言うのだろう。ナルミの顔からサッと色が引いていく。
「えっと、ケイ、その人、誰?」
「え、この人は昨日知り合った――」
「昨日? もしかしてお弁当を二つ買ったのもこの人のため?」
 当たらずとも遠からず! しかしそれは誤解だ!
「ハクという。よろしく」
「あ、どうも。内村ナルミです」
 ハクがぺこりと頭を下げたのでナルミも頭を下げる。
「……まぁ、私も多少の浮気は我慢するけど」
「待て、ナルミ、お前は誤解している。この人と俺は知り合いであってそれ以上の関係じゃない」
「中野ケイ、夕食の時間に間に合わない。急いでホームに戻ろう」
「家(ホーム)!」
 ナルミが絶句した。
「違うって、ナルミ! この人が言ってるのは、ベースキャンプのことで……」
「どっちでも同じじゃー!! ケイ、一体どうしちゃったのよ。こんな外国の女連れまわして。学校にも来なかったのはこの人が理由?」
「いや、俺、昨日の夜はハードだったから、疲れて朝からさっきまで寝てたんだよ。それだけ……」
 ケイはそう言ってから、しまったと思った。何だか先ほどから自分が言っていることは第三者が聞けばものすごい内容になっているのではないだろうか?
「ふ、ふ、ふ、二人でナニしてたのよー! ……信じられない。ケイに限ってそんなことありえないって思ってたけど、まさかそんな……ッ!」
 案の上ナルミの怒りが爆発した。ナルミはわなわなと体を震わせている。
「違うって、これはだな……」
「……何が違うのよ。あのね、ケイ。私はケイが浮気したこともそうだけど、この受験という大切な時期に浮かれて、しかも、それを他ならぬ私に隠そうとしているのが問題だと、そう言いたいの」
 ケイはナルミの話しどころではなくなっていた。繁華街を行きかう人達の目が集まりだしている。何人かは「痴話げんか? 修羅場?」とか言いながら目を輝かせてこちらを見ていた。つまるところ、三人はヤジ馬に囲まれつつあった。
――うわー。めんどくせー。
 ナルミはわずかに涙を浮かべながらこちらを睨んでいた。
「うわー、あの子、かわいそー。彼氏の浮気相手があんな美人だったなんてなー」
 カクテルパーティー効果というのだろうか。とどめとばかりに一番聞こえてはいけないセリフがケイとナルミの耳に飛び込んでくる。
「――もういいよ……」
 ナルミはぶっきら棒にそう言うと野次馬を押しのけながら走り去ってしまった。
「あ、おい、ナルミ――ったく、女って奴は」
「いいのか? 追いかけなくて」
「そうしたいのは山々だけど、こちとら時間制限があるんだ。九時過ぎてベースキャンプに戻れなかったら、今度こそ、殺される」
 ましてや目の前でナルミがクリ―パーになったら、ケイは抵抗すら出来ずに殺されてしまうだろう。
「そうか? 彼女、貴方が追いかけてきてくれるのを待っているんじゃないか?」
「まさか。一昔前のラブコメでもあるまいし。――今度、また出会ったときにお詫びしとくよ。あいつは賢い奴だから、きちんと説明して謝ったら許してくれるさ」
「ならいいが」
 ハクはそう言いながらも、ナルミが消えて行った方をじっと眺めていた。

   ×          ×           ×           ×

 夕食にケイにあてがわれたのはカニ玉丼だった。ちなみにラッセルは山菜弁当、キリトはうどん、ハクは焼き肉デラックス弁当だった。近年草食系男子とかが問題になっていたけれども、ラッセルとキリトは文字通り草食だった。少し意味が違うか。
 ハクは焼き肉デラックス弁当を三人分食べるという離れ業をやってのけた。ちなみに四人の中で食べ終わるのも一番早かった。だというのに食べ方に気品が一番あふれているのも彼女だというのはどういうからくりなのだろうか。
「ラッセルさんとキリトさんは料理をするんですか?」
 異様な沈黙の中食べ続ける三人にケイはなんとか会話をしようとそう聞いた。
「さんづけすんな。キリトでいい。あと俺に対して敬語使うな」
「あ、ごめんなさい」
 キリトの返事はこれだけだった。というか返事になっていない。
「軍隊では基本だからな」
 ラッセルは口の中のものを咀嚼しながら答えた。
「ラッセルさんたちは軍人なんですか?」
「正確に言うと、退役軍人だ」
「へえ」
 それはあまり意外ではない事実だった。二人ともなんとなくそんな雰囲気を醸し出していたのだ。言われて納得した、といったところだろうか。
「ハクさんも軍人なのか?」
「私は違う」
 ハクは簡潔に答えた。それから、ごちそうさま、と言うと、向こうへ行ってしまった。
「ごっそさん」
 キリトも箸を置く。ケイは自分の弁当を見下ろした。まだ半分以上残っている。ケイが急いで残りをかき込んでいると、
「そんなにあわてんでも、ゆっくり食えばいい」
 とラッセルが言った。見ればラッセルの弁当も半分以上残っていた。
「皆、いつもあんなに早く食べるんですか?」
「ああ。もちっとよく噛んで食わんと、胃に悪いといつも言っとるんだがな。もっとも、ハクは最近入って来たばかりでまだ注意してやってないが」
「ハクさんってすごく強いですね。俺を助けてくれた時なんか、覚醒者を一瞬で倒していましたし」
「まあ、強いわな」
 ラッセルはてんぷらを口に入れた。しっぽまでぼりぼりと食べている。
「あいつは業界では有名な魔術師だからな。深い魔術への造詣のみならず、魔術師に不足しがちな現代科学の知識と身体能力をも持っている。現代で最も優れた魔術師の一人であり、七つの魔術称号のうち『葛の葉』を冠する天才よ」
「そんなすごい人なんだ……」
「わしのチームにあんな大物が加わるなんぞ予想もしておらんかった」
 ラッセルは感慨深げにそう言った。
「国家がお金で引き抜いたとか?」
 ケイが考えを述べると、ラッセルは苦笑した。
「お前さんはよくしゃべるなぁ。まあ、わしとしては辛気臭くなくていいが」
「あ、す、すみません」
「そうさなぁ。わしにも分からんよ。ただ、そんなことはハクには決して言わんようにな。斬られるかもしれんぞ」
「そりゃ、そんな失礼なこと、言いませんよ」
「まあ、わしとしては結果を出してくれればそれでいい。今回の行動はちょっと困りものだが、『葛の葉』には何か考えがあるのやもしれん」
「考え?」
「お前さんにはまだ話してなかったが、魔術協会と封聖庁、そしてヴァチカン教会はこの柏市には介入するなと命令をしている。とりあえず様子を見る、とな」
「じゃあ、エドナさんが言ってた援軍は……」
「来ないだろうな。わしらとて上には秘密で来ているんだ。名目上ヴァカンスということにしているが、ばれたらまずいだろうな。というか、ここから出られない以上、おそらくばれる」
「そんな」
「そんな中で、彼女はここへ無断で飛び込んだ。よほど並々ならん訳でもあるんだろうよ。――ハクが出て行ったことを聞いた時は胃痛を起こしたさ。はっきり言ってハクがここへ入った事がばれれば彼女のみならず、わしの隊皆が厳罰を受ける。そういうわけでわしもハクを追って来たのだが、キリトに後をつけられていた。そして今に至るわけだ」
「そうなんですか……」
 ケイは最後の一口を口に入れた。ラッセルはもう箸をおいて、ペットボトルのお茶を啜っていた。
「さて、坊主。九時には出発だぞ。ちゃんと小便行っとけよ」
 ラッセルはそれだけ言うと膝を叩いて立ち上がり、自分のテントへ入っていった。

 時計の針はすぐに動いた。まるで瞬間移動したのかと思うほど、九時になるのは早かった。
「さて、出発するが、皆準備は良いか?」
 全員集合すると、ラッセルが皆の顔を順に見回しながらそう訊いた。
「いつでもOKっすよ、隊長」
 三人を代表してキリトが答える。
「よーし。それじゃあ、今日はまず柏市の西にある神社で助けを待っているという五人の救出に向かう。いいな? で、ルートだが」
 ラッセルは地図を取り出すと、懐中電灯で照らしながら続けた。
「中央交差点を経由してからのコースと、ここからほぼ最短距離で突っ込むコースの二つがある。だが、ハクの話では北西エリアには強力な魔力を持った何かが潜んでいるとのことだ。非常に危険なルートであるため、ここは避けたいわけだ。よって、最短距離を使ってのコースは今回はとらないことにする。それで移動手段だが、車を使ってもいいのだが……」
「いいですか、隊長」
 ハクが口をはさむ。
「何だね?」
「私はその最短距離のコースをとりたいのですが」
「てめぇ、俺らは冒険しに来たんじゃねぇんだぞ。その、危険な奴の討伐は魔術協会なり、ヴァチカンなりがやってくれる。俺たちのやることはあくまで、救出アンドサンプルの採取だ」
「しかし、話に聞けば、かの五人は自分たちで状況を打開しようと考えているとのこと。では、北西エリアに調査に乗り出す可能性は十分にあるかと」
「一人でやってろ」
 キリトは肩をすくめた。
「だから、私は一人でそちらからまわろうと思います。隊長たちは中央交差点のルートで」
「いいだろう」
 ラッセルは頷いた。
「だが、危なくなったらすぐに退くんだぞ。今のお前は武装が消耗しとるんだ。それを絶対に忘れんようにな」
「分かっています。では」
 ハクは一礼すると先行して走りだした。
「いいんですか、隊長」
 キリトが尋ねる。
「良いも何も、彼女は一度決めたら意見を変えんだろが」
「隊長はハクを甘やかしすぎです。いくら能力が高かろうがあれではいつか、隊全体に危機をもたらします」
「とはいえ、彼女は優秀ゆえ……」
「隊長!」
「ええい、もう良い! キリト、出発だ。ここで言い争いをしていたら、ハクに遅れてしまう」
 ラッセルが半ば強引に話しの腰を折った。キリトはまだ何か言いたそうな顔をしていたが、結局何も言わずに終わった。
 かくして一行は徒歩で出発した。車を使わなかったのは、過去に車ごと爆破されて壊滅したチームがいたらしいからだ。
「昨日ハクがこの辺りを制圧してくれたおかげでサクサク進めるな」
 ラッセルが言った。キリトはおもしろくなさそうに鼻を鳴らした。ケイは二人の走るペースに合わせるのに精いっぱいだったので、適当に頷くことしかできなかった。
 三十分は走っただろうか、ようやく三人は中央交差点にまでやって来た。
「よし、ここからは慎重に行こう」
 ラッセルはそう言うと、走るのを止め歩き出した。ケイにとっては僥倖だった。はっきり言って先ほどから心臓が過負荷に悲鳴を上げていたのだ。
「ハクさんは――もう……着いて……いるんでしょうか?」
 ケイはとぎれとぎれにそう訊いた。ラッセルが渋い顔をする。
「普通に走るだけなら、ハクのほうが圧倒的に早いだろうな。だが、まだ連絡が入っていない」
 キリトが舌打ちした。
「あいつ、何かどんぱちやってんじゃねぇのか」
「――神に祈るのみだな」
 ラッセルがため息をついた。
「てか、お前、そのナイロン袋の中、何が入ってんだよ?」
「これ? えっと、包帯とか消毒液とか、リンゴジュース、お茶、バナナ」
「何入れてるんだよ……」
「いや……、何か俺にもできることないかなって」
「……なんだかな」
「あ、りんごジュース飲みます?」
「敬語止めろ! でもジュースは貰う」
 ケイはキリトにリンゴジュースのスチール缶を渡した。
「サンキュ」
 キリトは缶を受け取り、蓋を開けると、二口で飲み干してしまった。
「というか、ここまできて一匹もそのクリ―パーとやらに出会わんとはな」
 ラッセルは辺りを見回しながら言った。
「そうですね」
 キリトはスチール缶を踏み潰しながら相づちを打った。ケイはひそかにナイロン袋の中のリンゴジュースをうかがった。どう見ても缶はアルミ製ではなかった。
「しかし、気は抜けん。爆弾は爆発する前に一瞬静かになるという。油断は禁物だ」
「はっ」
 キリトはびしっと姿勢をただした。
 一行はそれから周囲に気を配りながら進んだ。先頭にキリト、真中にケイ、しんがりをラッセルという並びだ。ケイはいつになく緊張していた。右手に力を込める。今日のは前のトマトジュースよりダメージが望めるはずだ。
「あれは……」
 ふと、キリトが声を上げた。同時にラッセルはケイを守るように前に出る。ケイはラッセルの筋骨隆々の体から顔だけを出して前の様子をうかがった。
 その人影は正面からしずしずと歩いてきた。
「ケイ、お前は離れてろ」
 キリトは肩にかけていたライフルを構えた。ケイはナイロン袋を握りしめて一歩下がった。
「坊主、護身用だ」
 ラッセルは無駄のない動作でケイに銃を渡した。ケイは銃を検めた。
「坊主、銃撃ったことあるか?」
「えっと、親父に連れられて、ハワイで一度……」
「じゃあ、分かるな?」
「多分……」
 とは言ったものの、ケイには全くと言っていいほど自信がなかった。だが、泣き言を言ってもいられない。ケイはおたおたと銃の安全装置を外した。
 やがて、黒い人影が外灯の下へと進み出た。
「エドナ、さん……?」
 ケイは茫然と呟いた。ツインテールにゴシック調の衣装、まさしくエドナだった。対するエドナも少なからず驚いていた。
「ケイ……!」
「エドナって、お前の知り合いの魔術師のか?」
「ええ。――エドナさん、もう大丈夫です。助けが来たんです」
「信じられないわね」
 エドナは用心深くそう言った。
「お前さんこそ本当に魔術協会から派遣されたとかいう魔術師か?」
 ラッセルがズイと前に出た。
「どういう意味かしら?」
「この坊主の話では、お前さんは魔術協会本隊の先見としてここへ潜入したそうじゃないか。しかし、今、魔術協会はこのエリアを不可侵領域としている。それもヴァチカンとわしら封聖庁と協定を結んでまでだ。お前さんがいることは重大な規約違反ではないかな?」
「あら、それは貴方がたにも言えることでしょう? 聞けば貴方がたは封聖庁のミイラ取り。ここにいることは重大な規約違反ではなくて? あるいは状況が変わったとか? それとも……欲に目が眩んだのかしら?」
「エドナさん?」
 ケイは思わず口を挟んでしまった。それをラッセルが制す。ラッセルは続けた。
「わしらはすぐにここから出る。ただ人道支援のために来ただけだ。現にお前さんたちは孤立無援の状態だ。わしらとともに来るよりほかないと思うが」
「お断りよ」
「ほう、どうしてかな?」
「貴方達は信用できない。貴方達三人が吸血鬼で、私をはめようとしているのかもしれない」
「お前、いい加減にしやがれよ! 俺らの着ている制服は封聖庁の物だろが! お前の目は節穴か!」
 痺れを切らしたキリトが怒鳴った。エドナはキリトのどら声にびくりと身を震わせた。
「ミス・ダイドウジ。信用できないのはわしらよ。魔術協会の先見なら相当の手練のはず。そうでないと、生還して本隊に情報を伝えることができんからな。だというのに君は隙だらけだ」
エドナは憤りを感じたのか頬を紅潮させた。
「何ですって……! 魔術師でもない貴方達が私を下に見るって言うの?」
「えっ! 魔術師じゃなかったんですか?」
 ケイは思わずラッセルに尋ねてしまった。
「おう、違うぞ、坊主。言っただろ、わしらは退役軍人だとな」
「だが、魔術師より弱いってわけにはならねぇ」
 キリトが獰猛に口の端をゆがめた。
「ちょっと待ってください! 喧嘩は止めてください! エドナさんも信じてくださいってば!」
「坊主、まだ分からんのか」
 ラッセルは静かに言った。
「この女はこの町で何が起こっているのか知っている。覚醒者とかクリ―パーとかそんな単語をしっているのだからな。だからと言って魔術協会と関連性も薄いだろう。お前さんに覚醒者やクリ―パー云々の話を嬉しそうに全部しゃべってしまうような浅はかさ。隙だらけの立ち姿。このような者をあれだけ優秀な人材を多く持っている魔術協会がここへ送るメリットがないんだ。だいたいいくらなんでもこんな危険なところにたった一人でエージェントを送りこむような馬鹿を魔術協会はせん。その時点でこの女は疑わしいんだ」
「俺とラッセルさんはお前の話を聞いた後、お互いに考えを確認しあったんだよ。ほとんど百パーセント、そのエドナという魔術師がこの町の異常に関する情報を何か握っていること。そして、十中八九、そいつは胡散臭いペテン師だってことをな」
「そんな……。エドナさん!」
 もうケイには彼女の名前を叫ぶことしかできなかった。
「うるさい!」
 エドナは怒鳴った。
「みんな、みんな、みんなみんなみんなみんなみんな! 私を馬鹿にして! 私が馬鹿? 私には魔術の才能がない? どうして、どうして私を理解してくれないのよ!」
「エドナさん……?」
「あははははははははははははははははは!!!!! ざーんねんでーしたー! 私はこれでも魔術協会の一員よ!」
「つっても、末端の末端なんじゃねぇか? エドナ・ダイドウジなんて聞いたことねぇし、あんたの顔も見たことないぜ」
 キリトが言う。ハクみたいなモノ好きが二人といるわけないしな、と付け加える。
「末端って言うな! ――いいわ! そんなにいうなら私を倒せるんでしょうね? 確かにその制服は封聖庁のものに似ているけれども、これでどちらがペテンか分かるでしょう?」
「へえ。おもしろい。いいぜ」
「キリト君!」
 ケイはあわてた。
「ち、今度は君付けか。呼び捨てにしろ、きもいから」
「そうじゃなくて!」
「キリト、援護するか?」
 ラッセルが尋ねる。
「あら、女性に対して大の大人が二人がかり?」
「ですって」
 キリトが茶化してそう言った。そして、キリトはこきこきと首を鳴らしながら前へ進み出た。
「よう、お嬢さん。ゴングはどうする?」
「二人とも止めてください!」
「声は はるかに。私の 吐息は 大気を 焦がす!」
 待ったなしだった。エドナはキリトが構えもしていない間にそう唱えてキリトを指差した。
 赤い炎がキリトを呑み込む。エドナは哄笑した。
「あははははは! 油断したわね。そこで七面鳥みたいに丸焼きになるがいいわ!」
「――色や音はスゲーけど、中身は全然ねぇな」
 燃え盛る炎の中心から当然のようにキリトが進み出てくる。
「な……耐熱スーツ……!」
 エドナはキリトを見て目を見開く。キリトはにやりと口の端をゆがめた。
「こ、声は はるかに」
「遅い!」
 キリトはもう既に踏み込んでいた。滑るように一瞬でエドナに間合いを詰める。そして、そのままキリトはエドナの鳩尾に掌の一撃をたたきこんだ。メキリと嫌な音が響く。炎が強風に煽られたかのようにかき消える。エドナは悶絶して、その場に転がった。
「ち、服の下に鉄板仕込んでやがったか。隊長、終わりました。とりあえず、このお嬢さんを回収しましょう」
「おう、御苦労だった」
 ラッセルは頷いた。キリトはかがみこむと、エドナの体を持ち上げようとした。
 と、その時だった。
 キリトが上空を見上げたかと思うと、間髪いれずに後方へ飛び退いた。それにわずかに遅れる形で黒い疾風が飛来してきた。――あの服は、トシヤだ。
「エドナ!」
 トシヤはオオカミ人間の姿だった。エドナを揺り動かす。
「ちぃっ! 何だ、あのオオカミ人間は! 熊みたいにでっかいぞ!」
 トシヤの服はいわゆるB系と呼ばれる中でもかなり大きい方だったが、それも今はタイトな感じになっている。
「坊主、あれが覚醒者か?」
「そうです。彼が赤松トシヤ君です!」
 ケイの声に反応したのか、トシヤがぎろりとこちらを睨んできた。
「ケイ、てめぇ! 俺たちがせっかく助けてやったのに、エドナに何しやがった!」
「その魔術師に君は騙されている。わしらは君らを保護しに来たんだ」
 ラッセルが前に進み出る。
「ああ? そんなの信じられるか! おっさんらは一体何様のつもりで――」
「わしらは国家機密機関封聖庁の執行官だ。君たちを助けに来た」
 ラッセルはゆっくりと、静かにそう言った。
「何だそれ? そんな難しいこと言ったって俺は騙されないからな! だいたい、クリ―パーになったはずのそいつがお前らと一緒にいる時点でお前らは信用できないんだよ!」
「赤松君、この人たちは本当に僕たちを助けに来てくれたんだ!」
「黙れ! 俺はッ! エドナを傷つける奴を、絶ッッッッ対許さない!」
 トシヤは重心を低く保った。
「トシヤ、逃げて……。私は、いいから……」
 エドナは言うことを聞かない体を起こし、震える声でそう言った。
「黙ってろ! お前は、こういう時くらい黙って俺に頼ればいいんだよ!」
 トシヤはエドナに顔だけ向き直った。
「お前は、俺が守る……!」
「何だ、あの中二野郎は!」
 キリトが叫ぶ。ラッセルは再び口を開いた。
「赤松トシヤ君! わしらは君らを保護しに来たと言っているんだ!」
「――」
 言葉は不要、と言わんばかりにトシヤの体に殺気がこもっていく。ラッセルは息を吐いた。
「――駄目か。良いわ。聞き分けのないガキには、仕置きが必要だな」
 ラッセルはキリトの横に並んだ。
「駄目です! 覚醒者と戦うなんて!」
 ケイは悲痛な声を上げた。ケイは今までトシヤの力をしっかりと見てきている。はっきり言ってケイ達が持ちこたえられていたのも結局のところトシヤのおかげなのだ。そんな強大な力を持つトシヤに、ただの人間が太刀打ちできるはずがない。
 ラッセルは背中に引っ提げていた大仰な銃を構えた。
「な、お前ら、銃を使うなんて反則だぞ!」
 トシヤが焦った声を出す。
「キリト、あれはかなり危険だ。援護しろ。――できるだけ急所は避けるべきだが、少々は構わん」
「はっ」
 言うが早いか、キリトはライフルを連射した。トシヤの悲鳴がこだまする。トシヤが膝をついてうずくまる。間髪いれずラッセルが銃の引き金を引く。ゴオと青い炎が銃口から噴き出す。火炎放射機だ。
「ぎゃあああああ!」
 体を焼かれ、再生してはまた焼かれと、トシヤは繰り返される苦痛に絶叫した。
「もう止めて!」
 エドナが悲痛な声で叫んだ。
「やめい!」
 ラッセルが号令する。キリトは銃撃を止めた。
「キリト、とっととこの女とデカブツを拘束するぞ」
「はっ」
ラッセルとキリトは拘束具を取り出しながら二人に近寄っていった。
と、その時、うずくまっていたトシヤの目が腕の間からきらりと光った。それを偶然目にしたケイは反射的に、
「危ない!」
 と叫んだ。
 ケイの声に反応したのか、ラッセルとキリトがあわてて後ろに飛んだ。その刹那にトシヤの黒々とした太い爪が空間を薙いでいく。爪は幸いにも二人には当たらず、二人の銃を結び付けている肩のベルトを絶ち切っていった。銃がガシャリと地面に落ちる。
「これで形勢逆転だなぁ!」
 トシヤが勝ち誇ったように笑った。ラッセルとキリトがじりじりと後退してくる。
「ど、どうするんですか?」
 ケイが尋ねる。ラッセルとキリトはそれには答えず、代わりにかなり重そうな手甲を無駄のない動きで手に装着していた。月の光を反射して二人の手甲の鋼が鈍く輝く。
ラッセルがにんまりと笑った。
「目覚めろ! 野生!」
 大音量でラッセルはがなるとそのままトシヤに突っ込んだ。キリトも砲弾のようにその後に続く。
「馬鹿が!」
 トシヤが黒々とした目に残忍な光をともしながら右手を振りおろした。それを――
 ラッセルとキリトは当然のようにかわし、トシヤの腹部に拳をたたき込む。
「がっ! ……そんな……!」
 トシヤはたじたじと後ずさった。そのトシヤに間髪いれずに二人は襲いかかる。
考えてみれば自然なことだ。いくら身体能力が高くても、それを扱いきれる戦術がなければ全てが無駄になってしまう。陸上競技の世界チャンピオンが一応訓練を積んだ格闘家と戦っても勝てないのと同じだ。
 その点、獣は優れている。戦術や理論など理解していないが、本能で最適な戦い方を行える。今のトシヤの状況を表現するのなら、人の感覚のまま獣の力を手に入れてしまったといったところか。
 トシヤの爪がまたもや空振りする。その隙にラッセルとキリトがざっくりとジャックナイフでトシヤの体を刻んでいく。トシヤの戦意を奪うかのようにじわじわと執拗に攻撃を繰り返す。トシヤの大ぶりの攻撃がより分かりやすくなってくる。
トシヤは大分消耗してきていた。あちこちの腱を切られ、傷の治りも遅くなり、もはや二人の攻撃から頭を守るように腕をまわしているだけだった。そして、とどめとばかりに二人の回し蹴りがトシヤの胸部に鉄槌のようにたたきこまれる。十分に体重を乗せた二人の攻撃に、トシヤの体は宙に浮いた。そして、背中からアスファルトに落ち、ずざざざざーと地面を滑り、エドナの前で止まった。
「トシヤ!」
 エドナはトシヤを揺り動かした。
「大人しくしろ。保護してやると言っているんだ」
 キリトが面倒くさそうにそう言った。
「まだだッ!」
 トシヤがゆらりと立ち上がる。ふらつきながらも、こちらを睨みつけてくる。
「俺はッ! エドナをッ! 守るんだッ!」
 トシヤが一言一言かみしめるように言った。そして、
「うおおおおおおおおおおお!!!」
 月に向かって吠えた。
「ちっ、付き合ってらんねぇな。もう寝てな」
 キリトは呆れた声でそう言うと、トシヤの懐に入り、拳を叩きこんだ。
「え?」
 それはどちらの驚きの声だったのだろうか。おそらく両方だろう。トシヤとキリトは、双方とも目の前の出来事に目を見開いた。
 キリトの拳はトシヤの体の手前で、見えない壁にでも阻まれているかのように停止していた。
「こ、の……!」
 キリトが続けて、右足をたたき込む。しかし、それも壁に阻まれる。ケイにはそれが異様な光景に見えていた。キリトの右足を阻む空間は陽炎のように揺れていたのだ。
「何だ、あれは……?」
 ラッセルも眉を細めて目の前で起こっている現象に見入っていた。誰ひとり状況が分からない中で、トシヤはにんまりと顔をゆがめた。
「そうか……! これが俺の力か!」
 キリトがたじたじとラッセルの隣まで退却してくる。それをしり目にトシヤはぶつぶつ呟いていた。
「風に、命を刻む感覚……! これだぁ! 分かったぜ!」
 トシヤの掲げた右手の上の空間がぐらりと歪む。
「何を」
 するつもりだ、と。キリトは呟いた。トシヤがボールでも投げるかのような要領で右腕をふるった。
 ブン、と。キリトとラッセルの間を見えない何かが通り過ぎてゆく。
「な……!」
 キリトの頬がピッと裂け、血がにじみ出た。キリトはそれを手で触り、
「切られた、だと……?」
 と、驚愕した。
「へへ。もう一発行くぜぇ!」
 再びトシヤの右手の辺りが歪み始める。
「キリト、あれは大気操作系の超能力だ! おそらくは大気の圧縮か!」
「馬鹿な! オオカミ人間に使えるわけがない! 超能力なんて、まるで吸血鬼じゃないですか!」
 トシヤの目がギラリと光りを灯す。
「おらあ!」
 空気の槍が再び風を切ってこちらへ飛んでくる。ラッセルはケイの襟首をひっつかむと、そのまま地に伏した。その上を凶刃が唸りを上げて飛んでいく。
 キリトは舌打ちすると再びトシヤに間合いを詰めた。しかし、キリトの放つ拳や蹴りはトシヤの体に届くことなく虚しくも大気の壁に阻まれる。
「効かねぇ、よ!」
 トシヤは左手を一閃した。キリトはそれを両腕の手甲でガードしたが、トシヤの腕力に耐えきれずに、文字通り後ろに吹き飛んだ。今度はキリトが背中からアスファルトに叩きつけられる番だった。キリトはうめき声をあげた。
「キリト!」
 ラッセルが叫ぶ。
「終わりだぁ!」
 トシヤは右手を挙げた。
 キリトはまだ背中からアスファルトに衝突した衝撃からまだ立ち直れていない。ラッセルはケイをかばっているため動けない。
――キリト君が、死ぬ……?
「やめろぉー!」
 ケイはラッセルの腕の間から絶叫した。トシヤの口が耳まで裂ける。
 
   ×         ×         ×           ×
 
ケイが目をつぶった。ラッセルが何か叫んだ。キリトの顔が何かを諦めるかのように緩んだ。

刹那、白銀の何かが弾丸のように飛んできてトシヤの体を弾き飛ばした。
「ハクさん!」
 ハクは空中で一回転すると、トンと軽い音とともにキリトの前に着地した。
「キリト、立てるか?」
「………………………………………………フン。――一応礼は言ってやる。助かったぜ」
 ハクはラッセルに向き直った。
「申し訳ありません、隊長。途中何者かと交戦したため、到着が遅れました」
「いや、よく来てくれた!」
 ラッセルは上ずった声で言った。
「それで、あの覚醒者を倒せばよいのですね?」
「いや、あの二人は保護対象の赤松トシヤとエドナ・ダイドウジだ。なんとか無力化してくれ!」
 瞬間、ハクの頭上からアスファルトの塊が落下してきた。ハクはそれを後ろに飛び退って避けると油断なく土埃の向こうを見据えた。
 トシヤは空気の槍を右手に持ってハクを睨んでいた。
「野郎! よくもやってくれたな!」
「止めなさい。私たちは貴方達を保護しに来ただけだ」
「うるせぇ!」
 トシヤは空気の槍をハクめがけて投擲した。ハクは右手を真横に一閃した。カメレオンの擬態のように、しかしそれとは比べ物にならないくらいの速さでハクに直進してくる槍は、空中で分解されたのか、風にさらわれるようにかき消える。
「マジックキャンセル! そんな! 詠唱もなしに……!」
 エドナが驚愕の声を上げる。
「く、くっそぉぉぉぉぉ!」
 トシヤは次々に風の槍を作り投げ放つ。しかし、それらは一つ残らずハクの目の前で見えない壁にはじかれていく。
「絶対領域フェアリーサークル……! こんな高等魔法を……」
 エドナは信じられないというふうにハクを見つめた。
「私は西洋の魔術は苦手なんだが、この程度でお褒めにあずかるとはな」
 ハクは無感情な声でそう言うと、手を差し伸べた。
「さあ、遊びはここまでだ。おとなしく私たちについてきなさい」
「そうか……! どこかで見たことがあると思った」
 エドナがふらふらと立ち上がりながら呟いた。
「貴方は、現代最強の魔術師の一人、『葛の葉』の陰陽師……」
「何だと……!」
 トシヤはエドナを振り返った。
「最強って、こいつが一番つええのか?」
 エドナはゆっくりと頷いた。
「トシヤ、もういいわ。あんな化け物と戦っても絶対に勝てない。それよりも」
「――……。あー、わーった、わーった。俺らの負けですよ」
 トシヤはぼりぼりと頭をかきながらハクに近寄った。ハクはフッと表情を崩した。
「分かってくれて嬉しい。さ、とにかく貴方達は私たちのホームへ――」
「なんて、な!」
 トシヤが怒鳴った。握手に応じるかと見えたトシヤの右腕はそのままハクを殴り飛ばした。ハクも全く予想していなかったのか、無抵抗のまま、紙人形のように宙を舞い、ケイとラッセルの脇の道路に全身を打ちつけ、それでも勢いは止まらず、後方の電柱棒に背中からぶち当たってようやく止まった。
「トシヤ!」
 誰もが言葉を失った。さすがのエドナも仰天の声を上げる。
「エドナ、今日は俺も大分やられちまった。いったん退却だ」
「……!」
「大丈夫、あの女は死んだ。回復さえすればこんなやつら俺がぶち殺してやる」
「ちょ、トシ……!」
 トシヤはエドナを抱えると、そのまま神社方面に飛んで行ってしまった。
「この野郎……ッ! 待ちやがれ!」
 キリトは星空に向かって怒鳴り散らした。
「ハクさん」
ケイはラッセルの腕をすり抜けると、ハクに駆け寄った。
「――大丈夫だ」
 ハクは少しふらつきながらも立ち上がった。
「あれで大丈夫なわけないでしょう!」
「いいから。それと敬語は使うな」
「だってものすごい音してましたよ!」
 ケイは有無を言わさずハクの背中や後頭部を検めた。ハクの着ている服はぼろぼろになっていたが、驚くべきことにその下の玉のような肌には傷一つなかった。ケイが絶句していると、ハクはケイから素肌を隠すようにして離れた。
「魔術で体を保護していたんだ。このくらい、問題ない」
「――」
 ケイは何も言う言葉が出てこなかった。
「隊長、どうしますか? 私は作戦続行可能です。今すぐにでも彼らの後を追い、確保を」
「……いや、今日のところはこれで退却しよう」
 ラッセルは首を振りながらそう言った。
「あの様子では、彼らはわしらの保護を受ける気はなさそうだ。それにあの覚醒者――赤松トシヤがいれば、まあ彼らの安全は脅かされることはないだろう」
「にしても信じられねぇくそがきだな」
 キリトが悪態をついた。
「さっきのはハクじゃなかったら死んでたぞ」
「キリト、わしらもこの状況下では十分に怪しいんだ。仕方なかろう。――それより、ホームに戻ろうじゃないか。そろそろ坊主の血液検査の結果が出ているころだ」
 ケイは静かにラッセルとキリトのやり取りを聞いているハクの横顔を見ていた。色の無い無表情な顔だ。ハクの歳はケイと同じくらいだろう。だというのに、彼女はどうしてこうまで機械のような存在なのだろうか。
 どうして、笑わないのだろうか。
 単純に興味がわいた。
「あ――」
 ふと、ハクが声を上げた。小さなつぶやきだったのだが、考え事をしていたケイも、話をしていたラッセルとキリトもハクの方を見た。
「リボン……」
 そういえば、ハクが先ほどまで髪につけていたリボンが消えていた。ケイはふとハクが衝突した電柱棒の辺りに目をやった。
電柱棒の横の下水道の端に黒いリボンの一端が見えた。

    ×          ×           ×            ×

 ホームに戻ってから、ケイは疲れのあまり眠ってしまったのだが、ケイが眠っている間もずっとラッセルとキリトはケイの血液検査の結果を分析していたようだった。
 断続的な雨音で目を覚ましたケイが見たのは、レポートをまとめている二人だった。
「おう、ケイ。うるさかったか?」
 ケイが目を覚ましたことに気がついたのか、キリトがそんな言葉をかけてきた。軽いノリの言葉とは裏腹に、サングラスをとった彼の目は真剣そのものだった。
「すまんな。お前さんの寝床は仕事部屋用なんだ」
 ラッセルは、何やら書類にサインを書き込んでいるようだった。
「ケイ。お前の血液検査の結果が出た」
 キリトはパラパラと紙をめくりながら言った。
「っ! どうだったんですか?」
 ケイがせき込んで訊く。
「わかんねぇみたいだ」
「え?」
「あくまでウィルス性疾患と考えた場合は、お前には抗体があるということなんだろうな」
「結論から言うと、わしではお前さんの血液に何も異常を見いだせなかった。それだけだ」
「あ……そうですか……」
「とはいえ、当面は大丈夫だろう。科学班がこの町へやってきたら、より正式な検査を受けてもらうがな」
 ラッセルはポーンと紙の束を向こうへ放り投げた。そして大きなあくびをする。
「わしは寝てくる」
 言うが早いか、ラッセルは立ち上がるとテントから出て行った。キリトもペンを置くと立ち上がった。
「俺も寝てくる」
 キリトはそう言うとラッセルと同じくテントを出て行った。一人残されたケイは所在無げにテントの中を見回した。とりあえず今何時なのか知りたかった。ケイの携帯はとっくの昔に電池が切れていた。実に数日前から充電していなかったので当り前ではあるが。
 外はポツリポツリと雨が降っているも、そう暗くはなかった。とりあえず、外に出てみることにした。
「中野ケイ」
 テントの外へ出るや否やケイはハクに声をかけられた。ハクは服を着替えたのか、白のタートルネックに黒のスカートとタイツという出で立ちになっていた。
「はい、何ですか?」
「私に対して敬語を使うな」
「あ、えっと。何? ハクさん」
「そのハクさんというのも止めてほしい。気持ち悪い」
――気持ち悪いって……。
 なかなかにショックを受けながらケイは先を促した。
「新しいリボンを買いたい。案内してもらえないだろうか?」
「案内って……。俺はリボンなんてどこに売ってあるのか分かんないぞ」
「百均の場所を知っているか?」
「あ、百均で買うんだ……」
 どこかお嬢様然としたところがあるハクだが、意外に庶民的な部分もあるようだ。
「ネットが使えれば日本刀も合わせて買うのだがな……。すまない、迷惑をかける」
「あ、いや。俺も暇だったし。――ところで今何時何分か分かるか?」
「三時三十分まであと七分だ」
 何だか妙な言い方だ。普通に三時二十三分とは言えないんだろうか?
 二人は歩き出した。
「あの、さ。昨日買った飴があるんだけど、いる?」
 ケイはナイロン袋の中から黒飴のパッケージを取り出しながら言った。
「――ありがとう」
 一瞬間が空いたので、昨日のように無視されるかとケイは思ったが、今日は、そうはならなかった。
「ハクは何歳なの?」
ここぞとばかりに重ねて質問する。
「十八」
「俺とタメじゃん。どっかの高校生?」
「高校はもう卒業した」
「へ?」
「大学も卒業している。それでこうして働いてるんだ」
「えっと、日本の大学に飛び級なんてあったか?」
「あるにはある。――しかし、貴方が知りたいのはそういうことではないのだろう? 私はドイツで教育を受けたのだ」
「へえ。じゃあ、滅茶苦茶勉強してたんだな」
「――」
 ハクは無表情のまま黙った。ケイとしては非常に困る反応だったのだが。
「仕事は楽しい?」
「貴方はよくしゃべるな」
「あ、ごめん」
「いや、別に不快だとは言っていない。ただ――私のような者の素性を知ったところで得することもないだろうに」
「人と話をするときの公式っていうか、お互いをよく知らないときの話題は身の上話だってな」
「そうなのか?」
「いや、そんなもんじゃない? 俺の一意見にすぎないけど」
「私は仕事が楽しいとかそういう基準で物事を考えていない。私はただ、やるべきことを見つけて、それをこなしていく。それだけだ」
「へえ、やるべきことを見つけて、ね」
「何かおかしいか?」
「いや。俺が気になったのはほんと些細なことだよ。普通は『やるべきことをやるだけ』って言うのに、ハクは『やるべきことを見つける』んだなってさ」
「――」
「俺は今年受験なんだけど、一体大学受かった後に何をすればいいのやらさっぱり分かんないんだよな」
「自分の天職などというものを始めから知っている人間は少ないものだ。今は成り行きに任せればそれで問題ないだろう」
「ま、そりゃそうだよな。俺程度の見識でそういう物事を考えるのは浅はかなことだったな。――ハクは、今の仕事がしたくて大学を選んだのか?」
 ハクは一瞬複雑な顔になった。だが、すぐに元の無表情に戻る。
「さあ」
 それだけ言って、彼女は黙ってしまった。
 二人はそれから国道を経由して繁華街に入った。ケイは雑踏の中から百円ショップを指差した。
「ほら、あれがそうだよ」
「なるほど、ありがとう」
 二人は店内へ入って行った。ハクの買い物は一瞬だった。ハクはヘアピンがいくつか売ってあるところを見つけると、ノータイムでヘアピンの海から一つをつまみだした。スミレ色のリボンだった。
――百均に髪留めなんて売ってたんだ。
 ケイは感心しながら、ハクがお金を払うのを見ていた。少し気になったのはハクが妙にかわいらしい財布を使っていたことくらいか。ピンクにキツネの刺繍とか、よく小学生が使っているシロモノだ。てっきり、黒に金色の鎖とかいろいろ付いているゴージャスなものを予想していたのだが、意外にハクは子供っぽい趣味なのかもしれない。
「いいのが見つかってよかったな」
 ケイはそう言いながらハクに近づいていった。
 と、そのとき、ハクの向こうに広がっている商店街にナルミの姿があることに、ケイは気づいた。ケイは体に冷水を浴びせられたかのように背筋が寒くなって行くのを感じた。ナルミは立ち止まってじっとこちらを見ていた。そして、人込みをかき分けながら駆け出した。
「いいのか、追いかけなくて」
 ハクの声にハッと我に帰る。
「っ。すまん! ちょっと行ってくる!」
 ケイはハクにそう言い残すと、ナルミの後を追いかけた。

   ×          ×            ×            ×

「ナルミ、待てよ!」
 ケイは叫んだ。商店街の外れまで二人は走って来ていた。
「――」
 すると、ナルミは意外にあっさりと立ち止まった。
「ナルミ、これは誤解なんだ」
「誤解? どこが?」
「ハクと俺は付き合っているわけじゃない」
「だから?」
「だから、誤解なんだ。俺は別にお前を裏切ったわけじゃない」
「違うよ」
 ナルミはケイに向き直った。
「裏切るとか、裏切らないとか、そんなんじゃない」
「何が言いたいんだよ」
「ただ、負けたなって、そう思ったの」
「?」
 ナルミはくるりと後ろを振り返った。
「私ね、入学式の時からケイのことが好きだった。俗にいう一目ぼれってやつかな。それでね、それからずっとケイのこと見てた。授業中に必死にノート取ってるとことか、弓道部で一番下手だったくせに毎日遅くまで自習連して帰ったりとか、いつも男子達を囲って楽しそうに話ししているとことか。……でも、そうやって見て行くうちに、こいつは腹の中で何考えてんのか分かんない奴だって思うようになった」
「腹の中?」
 ナルミは頷いた。
「だって、ケイ。貴方、今までホントに笑ったことないでしょ?」
「なっ」
「いつだってそうだよね? 人の顔色ばかりうかがって、嫌われないようにうまく立ち回って」
「何だと……?」
「そうじゃないの? 人間って本当のことを言われたら、喜ぶか怒るかの二択でしょ? ケイ、今ちょっといらっときたよね?」
「ナルミ、お前は気が動転してんだよ。本当に俺とハクは――」
「何でもなかった? 別にそうであっても、変わらないわ」
「お前! 一体何が言いたいんだよ?」
「ケイは誰にでも優しい。それは皆から嫌われないようにしているからだよね? でも、その根本にあるのは究極の拒絶じゃない? 誰も自分を傷つけないでほしいって。ほっといてくれって」
「お前――!」
「ケイは、人間が嫌いなんでしょ?」
 ナルミの一言に、ケイは頭のどこかがプツリと切れたような幻聴を聞いた。
「お前……ッ! お前、ホントめんどうくさい奴だな。――何だよ。ちょっと他の女といたくらいでお冠か? 俺はな、お前みたいな面倒な女は大っきらいなんだよ!」
「私はケイが大好きッ!」
 ナルミは叫んだ。
「だって、ケイは私と同じだもん。私だって人が嫌い。人と接していたら滅茶苦茶疲れるもん。そんな中、私に干渉してこない人を見つけた。それが貴方よ、ケイ」
「――ッ。止めろよ! お前はどうか知らないけど、俺はまっとうな人間だ!」
「ええ、ある意味まっとうよ。人間らしすぎるとも言える。だから貴方は壊れている。だから誰も自分の近くに寄せ付けない貴方の、特別になれたらって、私は思うようになった。でも――先を越された。貴方はあの女と話している時、本当に楽しそうだった。人には興味がないはずの貴方が」
 ナルミはそれだけ言うとケイに背を向けて走り去って行ってしまった。ケイも、これ以上ナルミを追いかける気にはなれなかった。
「……馬鹿野郎」
 ケイは唇を噛みしめた。
 いつしか、雨は強まってきていた。







第二章 水底の街U

「その向こうには海があるの」
ムウアはそう言った。

「海? 生き物の母である海はそんなにも近くにあるものなのか?」
 私は別に海が何たるかを知らなかったのではない。ただ、肉眼で見たことがなかったのだ。今まで、ただの一度も。
だから私は、漢詩に出てくる長江の描写から海を想像したりしていた。そうして初めて、図鑑などで見た『海』がリアルな実感を伴って私の胸に迫ってくるのであった。
「とってもきれいだった。どこまでが海でどこからがお空なのか全然分からなかったもの」
「ふうん。そんなに美しいものなのか」
「クレア姉さまも行ってみたらわかるよ」
 そう言われて私はいつも黙るのだ。
 私は外へは出ていけない。私は次期三好家の頭首になるべき存在。全てが完成するまで外へは出してもらえない。私は十分に一人前になって初めて家の外の世界へと出ていけるのだ。
 だから、私は彼女が見た外の世界のことを知りたがった。外には何があったのか。それは何色だったのか。それは、どんな臭いがしたのか。
 私の世界とは所詮その程度のものだった。
「外へ出たい」
 と、私は翁に訴えた。
「外はお前が思っているほど美しくはない。皆が自分のことだけを勘定し、行動する。そこへ出て行くにはそれ相応の強さが必要なのだ」
 そうして翁は残酷な笑みを浮かべて私の頭をいとおしげに撫でるのだった。
「ムウアは外に出て行っている」
 私は主張する。
「月亜(ムウア)は、強い」
「でも、私は今までムウアに負けたことがない!」
「お前は負けを知らん。だから、お前は弱い。だから、完成を待つのだ」
 翁の言っていることが、私には理解できなかった。私はそれからも何度か反朴するも、全て徒労に終わった。
 私は次第に翁を憎むようになった。
 胸を焦がすような切なさを以て毎日窓の外を眺める私に、彼が声をかけてきたのは、そんな時だった。
 男の名前はハクア。私の兄だという。
「――その向こうには海があるらしい」
 私の間違いは、ここから始まったのかもしれなかった。男の私を見る目はいつも危険な輝きを持っていた。しかし、私は男のする外の世界の話が気になって仕方がなかった。
「春の海は臭いをかぐと本当に気持ちが良いとムウアは言っていた。貴方の話しを聞いていると、なるほどそうらしい。私も、外へ出られれば一目見てやるのに」

「外に、出たいのかい?」

「出られるのか! この、鳥籠から」
 知恵の木の実を食べた人間は楽園から追放されると、聖書は言っていた。
「お望みとあらば」
 男は優雅に一礼した。私の手を取ってそこに口づけをする。
「お望みとあらば、お前を地の果ての、そのまた彼方までもお連れしよう。その代わり――」
ああ、これが知恵の木の実だったのだ。
私はそうと知りながら手を出してしまう。
なんて――愚かしいことを……。
「その代わり、お前は私に■を捧げなさい」

     ×         ×          ×           ×

昼間から断続的に続いていた小雨は夕方にはすっかりやんでしまった。相変わらず空は曇天だったが、雨さえ降らなければ余計な体力を使わずに済むだろう。
「神社に立てこもっている五人はとりあえず置いておこう」
 ラッセルはそう言った。
「じゃあ、今日巡回する目的は何なんですか?」
 キリトが尋ねる。
「ウィルスの確保だ」
「つまり、クリ―パーって奴をとっ捕まえろということですか?」
「非常に危険なことだが、いつかはやらねならんことだ」
 ハクはラッセルの言葉に頷いた。
「分かりました。拘束は私が」
「問題はどこで捕まえるか、だ。昨日もそうだったが、クリ―パーの姿がどういうわけか見つからん。敵の魔術師がわしらに対して先手を打っているのか分からんが、とにかくサンプルになるクリ―パーがおらんのだ」
「しかし、北西エリアにはいるんじゃないですか。昨夜ハクが交戦したときも現れたらしいから」
 キリトが意見する。
「しかし、北西エリアには魔物がいる」
 ハクが口をはさんだ。
「昨夜は終始姿を見せなかったが、氷を操る強力な個体だった。赤松トシヤとは比較にならないほどにな。遠隔操作で氷を飛ばしてきたり、空間丸ごと氷漬けにしたりする」
「――そ、そんなの無茶苦茶じゃないか!」
 そこへきてケイは初めて声を上げた。ケイはラッセルから渡された防護服を苦労しながら着ていたのだ。
「だから、我々はこのように防寒、耐熱、防弾全て完ぺきな特殊スーツに身を包んでいるんだ、坊主。大丈夫だ。お前さんはわしらがきっちり守るから」
「あ、いや、別に怖いわけじゃないです! 俺は――」
「そういやハクはその格好で本当にいいのか?」
 キリトがハクをじろりとにらんだ。昨日の夜以来、キリトのハクに対する態度は多少やわらかなものになっていた。
「私はこれでいい」
 ハクは昼間の白のタートルネックに黒スカート黒タイツという軽装だった。
「私は貴方がたとは違い、魔術で身体能力その他を向上させている」
――だから細い体でも、あんな無茶苦茶な動きができるのか。
 はっきり言って昨日のハクの動きはオリンピック選手でも不可能っぽいものだった。
「へいへい、そうでしたね。――おいケイ、ボケっとハクに見とれてんじゃねぇぞ。安全装置外したか?」
「あ、は、はい! 今はずしているよ」
「ちっ。おせぇよ。ほら、貸してみ」
 キリトが安全装置を外してくれる。
「しかし、隊長。そんな危険なクリーチャーがいるところにわざわざ出向くこともないでしょう」
 キリトが言った。
「危なくなる前に引けばよい」
 ラッセルはそれだけ言うと、火炎放射機を担いだ。
「出発するぞ」

 一行は市の北西部に入った。オフィス街へ入ると、ケイは何度か感じたあの冷気を再び感じ始めた。
先頭のハクは黙々と、しかし油断なく歩いている。ラッセルとキリトも周囲に気を配っている。
何かが、今にも起こりそうな気配だった。
「……皆、ここまでだ。撤退する」
 唐突にラッセルが声を上げた。
「撤退? 隊長、まだ一匹もクリ―パーを捕まえていませんよ」
 キリトが言う。
「ああ。しかし、深入りは禁物だ。これ以上先へ進むと、建物の位置的に囲まれても気がつかん。ここまででクリ―パーと遭遇できたらと思っていたのだが、これは別の方法を考えるしかないようだ」
「確かに。私も隊長に賛成です」
 ハクもそう言う。
「へえ。ハク、てめ、今日はやけに消極的じゃねぇか。――おっと別に他意はねぇんだぜ? そう怖い顔すんなよ」
「猪突猛進と積極的とは違う。私は別にこのエリアの調査に消極的だというわけではない。だが、そう言われては――」
「よせ、ハク。わしらは今坊主を連れている。敵との接触は慎重になるべきなんだ」
「でしたら、ここから先は私一人で探索します。隊長とキリトは中野ケイとともにホームで待っていてください」
 ラッセルは厳しい目でハクを見据えた。ハクも引く気はないようで、じっとラッセルを見返していた。ケイはこれまでラッセルがハクに対してこういった表情はしないものだと思っていたが、今や二人は目線に火花を散らしていた。
「ハク――」
 ラッセルが口を開く。ラッセルの濃い眉毛はこれ以上あがらないだろうと思われるくらいまで吊り上っていた。
 その時、辺りに轟音が響き渡った。同時に聞き覚えのある声が大気をつんざく。
 声は赤松トシヤのものだった。ビル風にのって聞こえてくる。
「赤松君!」
 ラッセルやキリト、ハクまでもがその場から動こうとしない中、ケイはひとり駆け出した。
『ケイは人間が嫌いなんでしょ?』
――違う。俺は! 俺は、そんなんじゃない!
 後ろでラッセルとキリトが何やら叫んでいるのが聞こえてくる。だが、そんなものは、とうの昔に風の彼方だ。オフィス街を駆け抜ける。
 凍てつくビル風をかき分けるようにして進み、ケイは路地から大通りに飛び出した。
 目の前に広がっていたのは異様な光景だった。
 まるで極寒の寒さを思わせる大気の中、大通りのあちこちから巨大な氷の結晶が突き出ている。その中央に腕を抑えてうずくまる熊のようなフォルムの、
「赤松君!」
 ケイは叫んだ。トシヤがその声に振り向く。
 ケイはトシヤの右半身が氷漬けになっていることに気がついた。トシヤのケイを見る目に憎しみに似た光が灯る。
「――チィッ!」
 トシヤは腕を抑えたまま地を蹴ると、オフィス街の闇の中へ溶けるように消えていった。
「赤松君!」
 ケイはトシヤの消えた方に向かって叫んだ。後ろからハク、ラッセル、キリトが追い付いてくる。
「ラッセルさん、赤松君が怪我をしているんです! 向こうへ走って行きました。早く追わないと」
「あら、ケイ。赤松を心配するのはいいけど、私のことは無視?」
 不意にケイの背後からどこかで聞いたような声が響いた。ハクも、ラッセルも、キリトも、今やケイではなくその向こうの脅威に対して緊張したまなざしを向けていた。
 ケイはゆっくりと背後を振り返った。
「ケイ、夜に貴方に出会えて、嬉しいわ」
 そこには誰であろう、ナルミが立っていた。しかし、あれは本当にナルミなのだろうか? 黒い二ボトムのマニッシュスーツという大人じみたいで立ちで、――そして、心なしか、姿が変わっていた。
 百五十センチ少しくらしかなかった身長は百六十オーバーくらいに、そして、キツネのように細かった目はきりりと吊り上って、外国の女優のように美しく変貌していた。それでもしかし、あれは間違いなくナルミだった。立っている姿も、声も、そのイントネーションも。
 一言でいうのなら彼女は美しく成長していた。
「ナルミ、だよな?」
 脳内がマヒしているみたいで、気のきいた言葉が口から出てこなかった。
「当り前じゃない、ケイ。――ケイこそ、今日は珍しく友達を連れているの?」
「ナルミ、俺」
 ナルミの赤く光る瞳に吸い込まれそうになりながらケイは言葉を絞り出す。
「中野ケイ、下がれ!」
 そこでハクが割り込んできた。ケイは急に胸のつっかえが取れたように感じた。
「あら、貴方はケイの女じゃない」
「違う。私はこの男とは何の関係もない」
 ハクが否定する。ラッセルとキリトがケイをかばうように前に進み出てくる。
「ハク、この女……」
「吸血鬼です。本物の」
 ハクは唇をかみしめた。
「迂闊でした。二度も会っておきながら、全く気付きませんでした」
「嘘だ!」
 不意にそう叫んだケイに視線が集中する。ケイはすがるようなまなざしでナルミを見た。
「ナルミは、ナルミは……ッ!」
「貴方の大切な彼女さんは、貴方と知り合ってすぐ死んでいるわ。今まではずっとあの子の人格を再現していただけ」
 ナルミは舐めるようにケイの姿を見ながらそう言った。
「おい、吸血鬼。お前がこの町の異常の原因か?」
 キリトが厳しい声で詰問する。
「どの道私に向かってくるんでしょう?」
「違いねぇ」
 キリトは銃を構えた。そして間髪いれずに発砲する。放たれた銃弾は周りの氷を粉々にし――
 刹那、吸血鬼の姿がかき消える。
「上だッ!」
 ハクの声にキリトが反応する。しかし遅い。上空から急襲してきた吸血鬼の一撃にキリトは吹き飛ばされた。ハクとラッセルが飛び退くように吸血鬼から距離を離した。ケイはただ茫然と立ち尽くしていた。吸血鬼がケイの頬を撫でる。
「ナルミ……」
「デイアネイラ」
 吸血鬼は指を振りながら片目をつぶった。
「氷の女王、デイアネイラ……」
 ラッセルが呟く。
「いかにも」
 デイアネイラという吸血鬼は頷いた。
「さて、貴方達に用はないわ。そこで寝ている仲間背負ってとっとと帰りなさい」
「ふざけるなッ!」
 叫んだのはハクだった。
「その男から離れろ! 今すぐにだ」
「貴方達はケイの体からつくれるワクチンにのみ興味があるんでしょう? あさましいこと」
「え?」
 ケイは訊き返した。
「ケイ、こいつらがここへクリ―パーをとらえに出てきたのは貴方からつくるお薬のためなのよ。多分聞かされていないだろうけれども」
「貴様、私たちを監視していたのか!」
「ケイ」
 デイアネイラはケイに向き直った。
「いくらあの女が魅力的でも、止めておきなさい。実験動物みたいに扱われて殺されるわよ」
「それは違う」
 ラッセルが静かに言った。
「確かに抗体を持つ本人に情報を話していなかったのは謝ろう。わしとハクとで君には知らせんでおこうと決めたんだ。しかし、わしらは君を実験動物として扱ったり、ましてや殺すなどということは絶対にせん。――むしろ解ぜんのは貴様の方だ、デイアネイラ。聞けば人の皮をかぶって坊主に近づいたようだが、一体何が目的だ?」
「目的? そんな理性的なものじゃないわ。ただ私は、この男が、欲しい」
 その瞬間、ケイの体がふわりと浮いた。今まで経験したことのない速さで体が宙を泳ぐ。遠くに銃声を聞きながら、ケイはアスファルトにやわらかに着地した。
 位置は大して変っていない。しかし、一瞬前までデイアネイラが立っていたところは銃弾でアスファルトに穴が開いていた。
「ケイに当たったらどうするつもりだったの?」
 ケイの隣に立つデイアネイラが土埃の向こうを悠然と見据える。見れば、キリトが頭から血を流しながらも立ち上がっていた。手には銃を握っている。
「……ち、外したか」
 デイアネイラはのどから獣の唸り声を出した。血の凍るようなそれは血の色をした瞳もあいまって、キリトを威嚇する。
「キリト、さがれ。隊長も下がってください」
 ひるむキリトとラッセルを守るようにハクが前に出る。
「――ふうん。このまま見逃してあげようというのに、やる気なんだ? 『葛の葉』」
「その男を放せ、デイアネイラ」
「イ・ヤ」
 ハクは銀色の突風のように駆け出した。風に流れる髪に反射する月光すらも置き去りにしながら一気にデイアネイラに肉薄する! 
 デイアネイラは腰を低く構えると獣のように唸った。瞳が紅に輝く。デイアネイラは右手を振り上げ、弾丸のように飛び込んでくるハクをはじき返した。ハクは宙で態勢を立て直すと着地する。一秒にも満たない時間ののち、両者は再び初期位置に立った。
 ハクの頬がピッと切れて、血が滴る。
 デイアネイラは右手を前に出した。
 かかってこい、と。
 指で挑発する。
「――ッ」
 ハクは右手を一閃する。瞬間、青い炎がデイアネイラを包み込む。同時にハクは再びデイアネイラに突進する。
 デイアネイラはフッと笑った。クリ―パーたちを一瞬で燃やしつくした青い火炎はあえなくかき消えた。
 ハクの足元から巨大な氷の槍が幾本も突きだす。ハクは舌打ちすると、再び大きく間合いを取った。
 ハクはスカートのポケットから札を五枚ぬき放つとそのままデイアネイラめがけて投げ放った。デイアネイラはフンと嘲るように笑うと右手を一閃した。札はデイアネイラに切り裂かれるかと思いきや、彼女の指に巻きついた。
 何、と。
 女吸血鬼の顔が驚愕に歪む。
「――爆ぜろ」
 光がさく裂すると同時に、すさまじい衝撃がケイを襲った。肉を焦がすすさまじい熱量がケイの体を襲う。ケイは反射的に地面に伏せて、頭をかばった。
「チッ」
 デイアネイラはアスファルトを左手と両足の三点で抑えながら、土埃の中からずざざざざと滑り出てきた。右手は肩から下が無くなってしまっていた。
 土埃の中からハクが砲弾のように飛び出してくる。
「GAAAAAAA!!!!」
 デイアネイラは吠えた。左手の爪が鈎爪のように変化する。ハクの空中からの強襲に合わせるように爪を振りおろす。
「ッ!」
ハクは宙で身をひねり、デイアネイラの鈎爪を紙一重でかわした。デイアネイラの爪は空を切り、アスファルトの地面を破砕する。ハクはそのままアスファルトに両手をつくと反動でデイアネイラの肩をえぐりこむように蹴り込んだ。
 だが、同時にデイアネイラの左足はハクの腹をとらえていた。ハクの体は文字通り真横にはじきとんだ。そしてカフェテリアのガラスを突き破って行き、姿が見えなくなった。
「フン、刀も使わずに私に挑もうなど、百年早いわ」
 デイアネイラはそう吐き捨てると、ケイの体を抱き上げた。あまりにも唐突だったので、ケイは抵抗するのを忘れてしまっていた。なんとか抗おうとしたときにはもう視界には夜空しか映っていなかった。
――地面と空とが反転している……!
 否、ケイはデイアネイラの肩に担がれて、十数メートルを跳躍していたのだった。

    ×          ×           ×           ×

 そして気がつけば、ケイはどこかのビルの一フロアに立っていた。フロアの電気はついておらず、周りには机などの雑貨も見当たらなかった。
 フロアの外側の壁は強化ガラスで、その下には光を失った町が広がっていた。
「ごめんなさいね、暴れると面倒だから、少しの間だけお人形さんになって貰っていたの」
「――ッ」
 ケイは後ろを振り返った。デイアネイラが壁に寄りかかってこちらを見ていた。無くなっていたはずのデイアネイラの腕は元に戻っていた。
「あ、あんた、何が目的だ? お、俺をどうする気だ?」
「――」
 デイアネイラは黙してそのワインレッドの瞳でこちらをじっと見ていた。
「――言っておくけれども、貴方が今まで付き合ってきたのは内村ナルミではなくて私よ」
「だ、だったら、何だって言うんだ!」
「私と一緒に生きてみない?」
「何だと?」
「別に吸血鬼になれってわけじゃないわ。――ただ、違う町で、貴方が普通の高校生をして、私も貴方と一緒にいる。そういうこと、してみない?」
「は……?」
「どう? 悪い話じゃないはずよ」
「何を訳の分からない――」
「私は本気よ」
 そう言う彼女の眼は真剣だった。
「あんたは――人間を殺している」
「お望みとあらば、これ以上人は襲わない。鹿の血で我慢するわ」
 デイアネイラはじっとりとした目でケイの全身を舐めまわしながらそう言った。
「あんたは――」
「ケイ、誰よりも人を嫌っている貴方は、私を仲間にすることで人とは違ったルールの中で生きていけるのよ? 私の力は貴方のもの。私は絶対服従」
「俺は、別に人が怖いんじゃない!」
「それが本音? 貴方は人が『嫌い』なんじゃなくて、『怖い』のね?」
「っ!」
「なら、もう恐れることはないわ。私といる限り、貴方は恐れる必要がなくなるのだから」
「違う!」
「――ケイ」
 デイアネイラはため息をついた。そしてこちらに近づいてくる。
「いい加減気付きなさいよ。私はね、貴方が一人になりたくない、でも、だからこそ人が怖いという感情を持っていたから魅かれたのよ。類は友を呼ぶってね。私たち吸血鬼は同じような波長を持つ生命体と共感できる。つまり、私がここにいるということ自体が、貴方が望んでいることなの」
 その言葉に、ケイはピクリと反応した。
「ずいぶんと傲慢な言い分だな」
 ケイは恐怖も忘れてそう言い返した。
「これくらいの傲慢は当然だわ」
「俺は別に、あんたと一緒にいる気はない」
「何故? 前は私と楽しそうにしゃべってたじゃない」
「あんたは、ナルミじゃない。――ナルミは、あんたみたいに冷たい感じはしない!」
 デイアネイラははじけるように笑いだした。
「何を言い出すかと思ったら! あれは貴方の望むとおりに私が再現した偽物よ。さっきも言ったでしょう?」
「――それでも、俺はあいつと一緒にいて、楽しかったんだ!」
「幻想と戯れて楽しいって? ケイ、貴方って、とてもかわいそう」
「あいつを幻想にしたのはお前だ。あいつは幻なんかじゃない! 俺が、やっと出会えた友達だったんだ!」
「なら、私がその代わりになってあげる。問題ないでしょう? 完璧に演じきってみせるわ」
「――お前は、歪んでいる!」
「愛ゆえに。ケイ、貴方は私がやっと見つけたパートナーよ。この永遠にも等しい私の時間の中で、孤独を打ち払ってくれる、唯一の」
「俺は、あんたが嫌いだ!」
 次の瞬間デイアネイラの姿が消えていた。変わって首筋に吐息が吹きかけられる。
 デイアネイラはケイの背後に立っていた。
「もう……面倒くさいな。貴方に拒否権はないのよ?」
「な、にをする気だ……?」
「そうね。とりあえず貴方も私と同じ吸血鬼にしちゃいましょうか。そうすれば、貴方は私といる他無くなるものね。何だ、最初からこうしておくんだった」
「なっ! や、やめろ!」
「知っている? 冬のさなかに春を見つけた旅人は、春に恋するって」
 デイアネイラはそう言うとカッと口を開いた。ケイは目を固く閉じた。
 しかし、あろうことか、首筋に痛みは走らなかった。代わりにケイはデイアネイラにゴミのように脇へ投げ捨てられていた。
「……驚いた。この私が全く気配を感じないなんて」
 そう言うデイアネイラの視線はフロアの非常口に注がれていた。ケイもそちらに目を向ける。
「ハク!」
 階段の暗がりの中からゆっくりとハクが姿を現す。その手には剣呑に光るガラスの破片を握っていた。細長い強化ガラスの破片はまさに鋭利な刃物そのものだった。
「へえ。まだやる気なの? 大人しくしっぽを巻いて逃げていればいいものを」
 ハクはふっとその場に浮いたかと思うと、そのまま空中を滑るようにデイアネイラに接近した。
「引導を渡してあげるわ!」
 デイアネイラはジャキリとその禍々しい爪を顕現させた。
 その爪が、
 ハクの腹部を、
 ザクリと貫通する。
「嘘だあ!」
 ケイは叫んだ。
「な!」
 デイアネイラは驚愕した。貫いたハクの体は陽炎のように揺らめき、白い紙人形へと変化を解いた。
 刹那、町を一望するフロアの強化窓ガラスが轟音をまき散らした。ダイヤモンドダストのように砕け散り風に舞うガラスの中、強風とともにハクが踊りこんできた。
 ハクの手に持つガラスの破片がきらめく。そのままハクは、デイアネイラの心臓にガラスのナイフを突き立てた。
「ガッ……」
 デイアネイラが吐血する。それでも、デイアネイラは右の爪でハクを狙う。だが、ハクもそれを紙一重でかわすと、デイアネイラの手を掴んだ。
 瞬間、デイアネイラの右腕が炎上する。
 デイアネイラは苦痛の声を上げるとハクを振り飛ばした。
 デイアネイラはケイの襟首をつかむとそのまま非常口へ突進した。そして、屋上へと階段を駆け上がる。
「チッ!」
 ハクは舌打ちすると、われた強化ガラスの中で適当に細長いものを掴むと、吸血鬼の後を追った。

 デイアネイラは屋上に出るや否やケイをアスファルトに投げ捨てた。冷たい雨水がケイの頬を濡らした。
「……これが最後よ。ケイ、私と一緒に来なさい!」
 デイアネイラは荒い息でそう言った。降りしきる冷たい雨が鋭利なナイフのようだった。
「行かない……! 行きたくない!」
 そこでハクが屋上のドアを蹴破って出てきた。
 デイアネイラが大きく後退する。
「……いいわ。それならまた別のを探せばいいこと。ケイ、ここで『葛の葉』ともども葬り去ってくれるわ!」
 デイアネイラの赤い瞳が危険な色に輝き始めた。
「ああ、あああああああ! あああAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!!!!!!!!!!!!!」
 デイアネイラの咆哮は大気中の氷を生成し始めた。幾千本ものそれは空中に停止し、全てハクとケイに照準を向ける。
 ハクはケイに駆け寄った。
「私の横から離れるな」
 ハクはそう言うと、手に持つガラスの破片を構えた。
それは傍から見ていても変わった構えだった。正眼から、右足を引き、両手で得物を構えたまま左の拳が右の腹に付くような姿。いわゆる脇構えという構えだ。
デイアネイラの氷は次第に大きく、殺傷力の高いものになっていく。
「あきらめなさい、『葛の葉』!」
 デイアネイラは背中から黒色の翼をはやすと、中空に飛び上がった。
「貴女の剣が届く前に、千の氷(やいば)は貴女を食い殺す!」
 あれだけの数の氷の矢は、いくら超人的な力を持つハクでも全て撃ち落とすのは難しいだろう。ハクだけならばビルの内部に再び飛び込めばやり過ごせるかもしれないが、今はハクの隣には足手まといのケイがいる。
 しかし、ハクなら、あるいはケイを抱えてビルの中へ退避できるかもしれない。
 ケイはそこまで考えてハクの方をちらりと見た。だが、
「……上等だ」
 ハクはにっと笑い、
「瞬炎――」
 囁くように、『葛の葉』の陰陽師はガラスの切っ先に息を吹きかけた。
 その囁きは小さなもので、おそらくデイアネイラには聞こえてはいなかっただろう。しかし、デイアネイラは目を見開いた。
 標的の魔力が段違いに跳ねあがっていく。荒波のような魔力の奔流。今にも爆発しそうなそれは青い光となってハクの体から放出される。彼女の握るガラスの剣に紫電が散る。
「――っ! 葛の葉ああああああぁぁぁぁぁぁぁっぁぁぁ!!!!!」
 デイアネイラが吠える。主の命に従って無数の氷の槍が走る。
 ハクの目がギンと開かれる。
 
 ケイには、一瞬、ハクのガラスのナイフが巨大化したかのように見えた。暗い夜空に閃光が走る。発動は、それこそ一瞬だった。
 気合いとともに振るわれた一閃は迫り来る氷の茨を蒸発させながら闇を切り裂く。巨大化した幻想の剣が、上空に浮かぶ氷の女王を空間ごと両断する――!
 飛来する氷の弾丸は突如として二人の目の前で停止した。そして形を失い水となって二人の頭上に降り注いだ。
「ア……、ガ……!」
 上空には肩口から袈裟に切られて粉のような血を噴き出している女吸血鬼。ハクは彼女に向けて口を開く。
「どうやら、私の方が早かったようだな」
「――ア……」
 私は、と。そこでデイアネイラの言葉は途切れた。デイアネイラは氷の彫刻のように透明になり、虚空に霧散した。
ダイヤモンドダストのように煌めく氷の破片は、どこか哀しくもあった。

   ×          ×          ×          ×

「――怪我はないか?」
 ガラスの破片が粉々になって手の平からこぼれ落ちて行く様を見ながら、ハクは尋ねた。
「あ、う、うん。大丈夫だ。助けてくれて、ありがとう」
 ケイはふらふらと立ち上がりながらそう答えた。
「あの、そういうハクは大丈夫か? 何だか、顔が真っ青だけど」
「――ち。奴(デイアネイラ)を倒したせいで、雨雲が、」
「あの、ハク?」
「私は、だいじょ――」
 ハクはがくりと膝をついた。
「! ハクッ!」
 あわてて駆け寄るケイをハクは右手で制した。
「――大丈夫だ。だから、」
 ハクはなんとか立ち上がろうとする。しかし、先ほどと同じように崩れ落ちてしまった。
「大丈夫って……。でも……」
「いいから、私に触るな!」
 ハクがケイに向けてきたのはもはや殺意に似た感情だった。
「っ」
 ハクは濡れたアスファルトの上をずりずりと身を引きずって移動し始めた。
「ちょ、おい!」
「――貴方は先にホームに帰っていて欲しい。私は、少し休んだ後に」
「休んだ後にって、そんなの、人が来ちまうよ! 通報されるぞ」
「いいから、私に構わず……」
「あんたは命の恩人だ。構わずにはいられない! ほら、もう日が昇る」
 ケイは東の方角を指した。暗い雲をかき分けるようにして薄桃色の陽光が漏れ出ている。
 そのとき、
「あ――」
 じゅー、と氷が急激に溶けていく時のような音がした。
「え?」
 見れば、ハクの体から煙みたいなものが立ち昇っていた。
「ア――ぐぅ――」
 ハクが喘ぐ。ケイはどうしようもなくおかしなハクを見下ろしていることしかできなかった。そうしているうちにハクの体からの立ち昇る蒸気は濃く、多大な量になっていく。
――どうなってんだよ……。
 ハクの皮膚が赤く爛れだす。ケイはハクがよろよろとたよりなげな手を伸ばす先を見た。
 ビル内へと続く、暗い階段。
 そこで、唐突にケイはひらめいた。
「ハク、ごめん。悪いけど俺、おまえのこと、ほっとけない」
 ケイはそう宣言すると、
「なっ!」
 ハクのよわよわしい抵抗をよそに、彼女を担ぎあげた。
 一瞬。
彼女の肌に触れた、その一瞬。
その冷たさに、ケイは胃を締め付けられた。

    ×         ×           ×           ×

 どうにも仕方がないので、ケイはとりあえずビルの外へ出た。このまま居座っていれば、色々壊してしまっているビルの弁償をさせられてしまうかもしれなかったからだ。昼の間は一応、町の人々は正常な人間なのだから、見つかればそういうことも含めて、色々面倒になってしまう。
 ビルを出た時、再び陽光が二人を照らした。ケイの背中でぐったりとしているハクが苦痛の声をあげた。
――こいつ、やっぱり日の光に反応している。
 ケイは日光を避けるように路地裏へと入った。それから、とりあえず比較的汚くなさそうなところにハクをそっとおろした。それからケイは着ていた装備を脱ぎ捨てると、改めてハクの様子を見た。
 ハクはボロボロだった。服はところどころ血で汚れ、泥水で湿っていた。手や首の一部は肌の弱い人が日焼けでもしたかのように赤くなり、酷いところは皮が破れて血がにじんでいた。
「あの、手当――」
「必要ない。魔力の回復と同時に傷もすぐ治る」
「でも、化膿したら……」
「必要ない」
 ハクは静かにそう繰り返した。ケイは心の中でため息をついた。
――それにしても、こいつ軽かったな。
 こんなか細い体で戦っていたのかと、いまさらながら驚いた。
「――」
 ハクはしゃべらない。ケイとの会話を拒絶するかのようにそっぽを向いている。
「何か欲しいものとかある? 買ってくるよ」
「――」
「えっと」
「……中野ケイ。私が、怖くないのか?」
「え?」
 それは唐突な質問だった。ハクは、膝を抱えて体を丸めた。
「えっと、怖いって、何が? 話してて、すごく威圧感あるとか、そういうのか?」
「とぼけなくてもいい。貴方は先ほど私の醜態を見たはずだ」
「醜態って」
「日の光を何のフィルターもなしに浴びた、私の無様な姿を」
 ハクは自嘲気味にそう言った。
「――」
「私の素肌にも触れただろう? およそ体温というものが感じられない、泥人形のように冷たい肌を。――こう思っているだろう? 目の前の女は、吸血鬼ではないかと」
 常時、はっきりと憚りなく物を言うハクにしては珍しく粛々とした口調だった。
「別に、そうは思わなかったぞ」
 ケイは言った。
「確かに、普通じゃないなって思った。でも、そんなの気にしている暇なかった。――その、悪かった。俺のせいで、こんなボロボロになっちまって」
 言って、顔を伏せる。
「そんなことはどうでもいい!」
 さりげなく話題を変えようとしたケイだったが、どうやらそれは難しいらしい。
「ハクが何だろうが、関係ないよ。俺は、助けてくれたハクに滅茶苦茶感謝してる。――ありがとう」
「私は、――人ではない」
 ハクは尻すぼみにそう言った。
「でも、今は人間の姿してるし、ちゃんと飯も食うじゃんか」
「――」
 ハクはうつむいてしまった。どうやら、ハクは自分の体のことを真剣に思い悩んでいるらしい。そんなこと、彼女ならとっくの昔に折り合いをつけていそうなのに。だいたい「確かに私は人とは違う。何か不都合でもあるか?」とか逆に素の顔で返してくるくらいでも、彼女に限ってはおかしくないだろう。
 だというのに、目の前のハクは。
――って、そう言えば俺とタメなんだっけか。
 唐突に思い出した彼女のステータスにケイは心の中でため息をついた。
「そう言えば、ラッセルさんとキリトは?」
 ふと思い出して尋ねる。
「……キリトは重傷だが命に別状はない。二人とも今はホームで待機している」
「もしかして、ハクからの連絡待ってるんじゃないのか?」
「ああ、そうだったな」
――大丈夫かな。

   ×          ×           ×           ×

 ハクは日光に弱い。吸血鬼ではないけれども、とにかくそうらしい。通常は魔術で体の表面にフィルターを作っているらしいので、夜、雨の日や曇りの日でも外を出歩けるらしい。ただ、日が出ている間はフィルターがあっても少し厳しいらしいが。
 そして今の彼女はそのフィルターを作れないほどに衰弱していた。
「私はこのような自分を恥じている」
 ケイの上着を頭からかぶりながらハクはぽつりと言った。通常、吸血鬼は身体能力が格段に高いので日光に当たっても、死にはしないらしい。だが、ハクは吸血鬼の弱点のみを受け継いでいるため、日光を浴びると、皮膚が赤く腫れ、焼け爛れ、見るも無残な状態で死んでしまうという。
「いっそ、本物の吸血鬼になっていれば、こんなことにはならなかっただろうに」
 ハクは自嘲気味にビルとビルの合間から見える青空を見上げた。
「どうして誰かに相談とかしなかったんだ。いや、俺が言うのもなんだけどさ、魔術師の医者みたいな奴いなかったのかよ?」
「私のような者は、通常こちらの世界では嫌煙されるんだ。分かるだろう? いつ吸血衝動が起こるともしれない上、日の光に当たれば見苦しく変貌して、みっともなくも苦痛の声を上げて死んでいくような輩とどうして普通に付き合える?」
「その吸血衝動ってどのくらい抑えられるんだ?」
「……薬で、ある程度は」
「ならそれでいいだろ。実際にハクはラッセルさんやキリトと何の遜色もなく働いているじゃないか。俺、お前のこと何にも知らないけど、そうやって働いていることはすごいと思う」
 一瞬、ハクの表情が歪んだ。ケイはその表情にゾクリとした。しかし、彼女はすぐにほほ笑みを浮かべる。
「ありがとう」
 ケイは時計を見た。
「もう九時か。何か買ってくるよ。あ、単に俺が腹減ったからだけなんだけどさ。その、ハクも何か食う?」
「ありがとう。では、飲み物とサンドイッチをお願いする」
 そうして、二人は暗い路地裏で朝食をとった。二人は食事の間終始無言だった。ケイは下を向いて黙々とおにぎりを口に運んだ。
 ケイは時折ちらちらとハクの姿を盗み見た。ハクは段ボールに腰掛けて、上品にサンドイッチを咀嚼している。
――なんていうか、かわいいな。
 不謹慎なことだとは思いつつもついついそう思わずにはいられなかった。それと同時に、どうしてこんなにも綺麗な少女がこのような不遇な思いをしているのかとケイは憤りを感じた。
 ケイはサンドイッチを頬張るハクの横顔を見た。物語に出てくる貴族のお嬢様もかくやという美貌だった。
――というか、こいつめちゃめちゃいい足してんな。
 段ボールの高さが足りないからか、それともハクの足が長いのか、ほとんど体育座りのような格好になっている。黒のタイツに包まれた細い脚は膝の部分がぴったりとくっついている。加えて左腕で両太ももを抱えているような状態で、いわゆる内股みたいな感じになっている。
「何だ?」
 ふとこちらに顔を向けてきたハクと目が合う。ケイはあわてて目を伏せた。
「あ、いや。な、なんでもないッ!」
「不思議な奴だな。私の死人のように白い肌など、見苦しいだけだというのに」
――ばれてた!
「ぜ、全然見苦しくなんかないッ!」
 言ってからケイは顔が火のように熱くなるのを感じた。
「――はあ。そうか? 貴方もモノ好きだな」
 そう言いながらハクはケイから身を引いた。
――やばい。変態扱いされている。
「別に軽蔑はしていない。しかし、私の足を見るのは趣味が悪いとしか言いようがないな」
「あれ、考えてること読まれた! ……じゃなくて、お、おおおお、俺は本当に変態じゃないですッ! ほんの出来心だったんです!」
「だから、私の足など――」
「ガン見してもいいんですか!」
「――気持ち悪いから見ないでほしい」
「ごめんなさい! ノリで言ったんです!」
「冗談だ。別に貴方は気持ち悪くない、と思う。私もノリで言ったんだ」
 ハクはそう言うとくつくつと笑った。ハクが笑ったのを見てケイはようやく安堵のため息をついた。もちろん、心の中でだが。
 自分では人間ではないとか言っているが、ハクは立派に人間だ。とケイは思う。ベタな話ではではあるが、笑うという行為は人間の特権のようなものなのだ。
 そして今彼女はこうして笑っている。それは彼女が人間である証拠であり、彼女が自我を持ってここにあるというあかしなのだ。
「ハクはやっぱり人間だ」
「それは――」
「ハクは、人間だ」
 ケイは繰り返した。

   ×        ×         ×         ×

 それから三時間後、ようやくハクの魔力はある程度まで回復し、傷も嘘のように消えていった。幸運なことに空も曇り空になって来た。ケイは近くのショッピングモールでハクの代えの服を買ってきた。
 ケイが買ってきたのは赤紫色の透かしニットワンピースにダークグレイのニットジャケットという安物だったが、ハクがそれを身につけると実に様になっていた。どんな服でも、着る人が着れば見栄えは良いものなのだ。
「ありがとう。昼食代も含めてこれくらいでいいか?」
 ハクはそう言って二万円を財布から取り出すとケイに差し出した。
「あ、いいよ、そんなの。ハクは俺の命の恩人なんだから」
 というか、こういうシチュエーションで女の子にお金を支払わせるのはケイのポリシーに反するものだった。もっと言えば合計五千円弱のところを二万円と勘違いされているのは非常に心苦しかった。正直に金額のことを話そうにも、心の中で、「これ、五千円なのか……」とか複雑な気持ちになられても申し訳ない感じがする。
「しかし、それでは貴方に悪い」
「いいって。俺はハク達と一緒に戦うこともできないし、町の皆を救うこともできないけど、一生懸命戦ってくれているハクのサポートくらいはできる。こういう雑用なら無償でやるから」
「しかし、貴方はまだお父様やお母様の援助を受けている身だろう?」
「親父は関係ない。それにそれは俺がバイトして稼いだ金だよ。高校だって奨学金で通っているんだ。もちろん、それだけじゃ足りない時もあるし、家とかも親父のものだけど」
 ケイの言葉を聞いてハクは目を丸くした。
「君はお父様やお母様の援助を受けていないのか」
「そりゃ、ある程度は受けているよ。……まあ、親父は外国に単身赴任していて毎月俺の口座に馬鹿みたいにたくさん振り込んでいるんだけどな。別に自分がかわいそうとか、親父が駄目な奴だって思ったことはないけどさ。簡単にいうと、愛情の代わりに俺はたくさんお金を与えられてるんだ。休みの日とかゲーセン行き放題なんだぜ」
「君は自由なのだな」
「そうかな」
「私が特殊過ぎるのかもしれないが、私は小さいころからずっと屋敷の中に閉じこもっていたからな。ああ、私はこれでもいわゆる『いいとこのお嬢様』なんだ」
「誰が見てもハクはどっかのお嬢様だよ」
「そうか?」
「そうだよ。というか、そんなに家に引きこもっていてどうしてあんなに運動神経がいいんだよ?」
「――私の運動能力は魔術である程度強化しているからな。だから、筋力や持久力そのものは常人と変わらない」
 ハクは目を閉じてそう言った。
「そっか。……俺も、日頃から鍛えていれば何かハク達の役に立ったかもしれないんだけどな」
「貴方には抗体がある。――それは私たちにとって非常に助けになることだ」
「――うん」
 ケイは頷いた。

      ×         ×          ×           ×

 ベースキャンプに戻ったケイとハクはラッセルとキリトの歓声で迎えられた。
「お前、やっぱ滅茶苦茶強いな! 感心したぜ、ハク。ケイも、無事でよかったぜ!」
 包帯で顔以外の全身をぐるぐる巻きにしたキリトが掛け値なしに二人に笑いかける。
「うむ。さすが、ハクだ。これでこの町の脅威は去ったと考えていいだろう」
 ラッセルも腕を組んでしきりに頷いていた。この仕草がラッセルの人を誉めるときのポーズなのだろう。
「私が勝てたのは偶然でしかありません。彼女の知覚精度が低下していただけです」
 ハクは謙虚にそう言った。ハクは既にいつものクールな彼女に戻っていた。
「偶然でも奴を倒したことには変わりないだろ。素直に喜べよ」
「昨日サンプルを手に入れたしな」
 ラッセルがテントを指差す。
 ケイが後で聞いた話なのだが、ケイがデイアネイラに連れ去られたあと、三人はクリ―パーに包囲されたという。そこでハクは単独でケイを救いに、ラッセルとキリトはクリ―パーの包囲から突破し、ついでに適当なクリ―パーから右腕を奪ってきたらしい。結果、腕は朝には灰になってしまったが、その前にウィルスを検出することに成功したらしい。
「皆、ごめんなさい。俺がぼーっとしてたから皆危険な目に逢っちゃって」
「気にするでない。お前さんこそ、本当に無事でよかった」
 ラッセルは笑いながらケイの肩を叩いた。
「何にせよ、これで一件落着だ。これだけの功績をあげていれば、むしろ表彰ものだ」
 
それからキリトはベッドへ、ラッセルはキリトを看病するためにそれに従った。ハクは寝室へ、ケイも自分のベッドで少しの間眠ることにした。

     ×         ×           ×          ×

 ケイは誰かに揺り動かされて目が覚めた。
 暗闇の中、うっすらと目を開けると、ハクの白い顔が間近に迫っていた。
「っ! ハ、ハク……!」
「すまない、突然起こしてしまって」
 ケイはハクから顔を離すと「ぜ、全然いいよ?」とどぎまぎしながら言った。
「い、一体どうしたの?」
 ケイがそう尋ねると、ハクは一瞬言い淀んだがすぐに口を開いた。
「……実は、先ほど吸血衝動を抑える薬の材料が切れてしまったんだ」
「ええーー!!!!」
「静かにしてほしい」
「あ、ご、ごめん。でも、ヤバイじゃないか。どうしてここへ来る前にたくさん持って来なかったんだよ?」
 ケイがそう尋ねると、ハクは悔しそうに歯ぎしりした。
「実は先ほど薬を調合している時に地震があって、その拍子に桜の皮の小瓶が鍋の中に落ちてしまったんだ。それで瓶ごと全部溶けてしまって」
「さっき地震があったのか? 全然気がつかなかったけど」
「なかなか大きな地震だったが、まあ、疲れていたんだろう。仕方がない」
「そっか、俺、そんなに疲れてたのか……。って、それよりもどうするんだ、薬」
「ヤマザクラが生えているところを知らないか?」
「分からないよ、そんなの。でも多分この辺には無いぞ。ソメイヨシノばかりだと思うけど」
「……貴方でも分からないか」
「ちょっと待ってくれ。もしかしたら柏寺付近の林にならあるかもしれない」
「本当か?」
「いや、分かんないけど、この町でヤマザクラなんてものが生えてそうなとこなんてそれ以外に無いし……」
「いや、そもそもは私が大ポカをやらかしたのがいけないんだ。それだけ教えてくれれば十分だ。すぐにでも探しに行ってくる。ありがとう」
「ちょ、ちょっと待てよ!」
 ケイはハクを呼びとめた。
「俺も一緒に探すよ」
 ケイにも何故自分がそんなことを言い出したのか理解できなかった。
――情報提供者としての責任……とか?
 だいたい町はまだ危険だというのに。
「……本当か?」
「え……? 一緒に探してもいいのか?」
「実はその柏寺というのがどこにあるか分からないんだ。あの西の神社ではないんだろう?」
「あ、違う違う。あそこは基本ソメイヨシノオンリーだ。そうじゃなくて、柏寺の西に隣町につながる峠道があるんだけど、確かその辺にサクラにしてはやけに地味な奴があったような。あ、サクラってそっちがオリジナルだっけか?」
「すまない。とにかくよろしく頼む」
「でも、ラッセルさんたちにはどう説明するんだ?」
「ああ、それはもう許可を取ってある」
「よく許可取れたな。夜の街に出て行くなんて」
「まだ知らされていないのか? と。そうか、貴方は今まで眠っていたのだったな」
 ハクは続けた。
「簡単に説明すると、あのウィルスを簡易分析した結果、日の光に非常に弱いことが分かったんだ。普段は人の体に潜伏していたとしても、日の光のため少しずつ死滅していく。もちろん感染している細胞とともにな。そのスピードにウィルスの増殖が追い付かなくなっているんだ。それで今は一時的に感染した人間がショック状態になっているんだと思う」
「よく分かんないけど、日の光浴びてたら弱っちゃって、それで動けなくなってるってことか?」
「そうだ。ただクリ―パーたちがどうしてあのような行動に出たのかは分からない。ウィルスにこんな知性があるとは考えられないから、母体の人間が本能でやっているのかもしれない。しかしそれなら昼間日の光を直接浴びるような真似を避けるだろうし。――とにかく、このウィルスは色々と不完全なんだ」
「なるほど、とにかく、今は特に町は危険じゃないってことなんだな」
「ああ。そういうことだ」
 ハクはそう言うとベッドから下りた。
「そっか。靴履くから、そこの豆球の電気つけてくれないか?」
 ハクが豆球のスイッチに手を伸ばす。ケイはベッドから身を起こし、膝立ちになった。
 そして、ケイは、
「うわあ!」
 あろうことかバランスを崩して頭から地面に突っ込んでしまった。同時に豆球の電気がつく。
「いてててて……」
 ケイが顔を上げると、そこにはパラダイスが広がっていた。
 ハクはケイが買った服のままだった。もちろんケイはタイツなど買っていないわけであり、ハクの白い滑らかな生足が、豆球のやわらかな光の効果もあってやけになまめかしく見えた。ケイはハクの膝までのブーツから目線を徐々に上げていく。今朝見た細くもむっちりしているという矛盾だらけのハクの太もも。その付け根辺りをケイはガン見してしまった。
 キツネの、キャラパン。
――俺は、キツネに弱いみたいだ……。
「ケイ、大丈夫……ッ……ヒャン!」
 ハクはケイの視線に気がついたのか、両手でスカートを押さえて後ずさった。
「ハク、何、さっきの?」
「キ、キツネのパンツのどこが悪いと言うんだ!」
「いや、それもあるけど、さ。ヒャンて」
「あ、貴方がいやらしい目つきで私の、を見るからだ!」
「ハク、俺はこれでも高校三年生だ。今さら女の子のパンツ程度でドキドキしない」
「では下から私の足を観察するな!」
「すまん」
 ケイは態勢を立て直しながらそう言った。
「しかし、あれだな。今七時か。一応、十時までにはここへ戻って来られるようにするべきだな」
「――そうだな。私は今すぐにでも出発できるが、貴方は?」
「俺も行ける」
 ケイは靴を履き、ジュースが入ったナイロン袋を手にすると、ハクと一緒にテントの外へ出た。
 と、ケイは不意にくらりとよろめいた。
「どうした?」
 ハクが尋ねてくる。
「い、いや。何でもない」
 何だかとても、嫌な予感がした。

    ×           ×           ×           ×

「お、お前、何言ってるんだ」
「あたし達に、何する気!」
「う、うるせぇ。こ、こうすれば、もう、何も怖いものなんて、な、なくなるだろ? な? な?」
「や、やめろ、馬鹿!」
「きゃぁぁぁぁっぁぁぁぁぁぁ!!!」

「っ!」
 エドナ・ダイドウジは真っ暗やみの中目覚めた。混乱する頭で、何とか今までの記憶を整理する。自分の着ている自慢のゴスロリファッションもあちこちが破けて見るも無残な有様を呈している。
「そっか」
 二日前、彼女は敗れ、トシヤに救い出されたのだ。
「痛」
 エドナは左胸を押さえた。金髪ロングヘアの男に殴られたところだ。あのときは服の下に鉄板を仕込んでいたから幸い骨にひびが入った程度で済んだが、そうでなければ二、三本は持っていかれていただろう。
 ダメージの回復に魔力を当てているのだが、エドナの魔力量では未だに全回復には程遠い状態だった。しかし、
「私はできそこないの魔術師なんかじゃない」
 彼女は自分に言い聞かせるようにそう呟いた。そして身を起こす。
 エドナが横になっていたのは神社の本殿の中だった。エドナはおぼつかない足取りで扉まで近づくと、扉を開けた。
 外には誰もいなかった。
「トシヤ? ……イクヤ、サオリ? お坊さま?」
 月明かりを頼りに周囲に目を配る。
「皆どこへ行ったのかしら?」
「三人は石段を降りていったよ」
 エドナは背後からの声に振り返った。そこには法服を着た坊主、ゼンジョウが立っていた。
「石段を? それって、私の結界の外じゃない!」
 エドナはあわてて石段の方へかけて行こうとした。
「まあ、待ちたまえ」
 ゼンジョウの声はいつもとは違って、どこか抗いがたい力を秘めていた。エドナは思わず立ち止まってしまった。それから我に帰ると、
「ごめんなさい。あの子たちが危険な目に会っているかもしれないのよ。貴方の話はまた今度聞いてあげるわ」
「君が行ったとしてもどうこうできるものじゃないだろう。それよりは私の話しを聞くべきだと思うがね」
「何を――」
 言っているの? と彼女は言おうとゼンジョウに振り返り、絶句した。
 ゼンジョウの顔はぱっくりと真っ二つに割れ、そこから何かがものすごい勢いで飛び出してきた。ドチャリとソレが地面に着地する。
 新たに彼女の目の前に立っていたのは、病的なまでに白い肌に、赤い目をした裸の男だった。男の体から、ゼンジョウの血や肉片が不自然な勢いで落ちてゆく。男の長い銀髪はやがて洗いたてのように夜の微風になびき始めた。
その男にエドナは見おぼえがあった。
「ハクア、様……」
「久しぶり、エドナ・ダイドウジ。実験に付き合ってくれてありがとうね」
 ハクアはその完ぺきな肉体美をエドナに見せつけるように彼女に近づいた。エドナはそんなハクアから目をそらせながら言った。
「あ、あの、私、ハクア様が近くで私のことを見ていらしたとはつゆほども知らず、その、も、申し訳ありませんでした」
「こっちを見たまえ、エドナ君」
「えっ……」
 エドナは体をびくりと震わせた。それから恐る恐るという感じでハクアに視線を戻した。目の前には一糸まとわぬ男の姿。エドナは思わず顔を赤らめてしまった。ハクアはエドナのその反応にその端正な表情を歪ませた。
「エドナ君、君はよくやってくれたよ。おかげでヴィルスの調査もあらかた済んだよ」
「そ、それじゃあ、私にA級魔術師の爵位をくださるのですね!」
「しかし、今回のヴィルスも失敗だ。日光に当たるたびに弱体化していくなど、二流どころか三流品だ……」
「あ、あの」
「何がいけなかったのか……。まあ、一つだけ良いサンプルがあったのは認めよう」
「え、えっと、何ですか、それは?」
「赤松トシヤ君だよ。彼だけは私の体細胞をもとにつくったヴィルスだったのだがね。あの性能はすばらしい。ソルジャーとしては十分だ」
「――」
「今後の方針は決まった。よかった、よかった」
「あの!」
 エドナはハクアの言葉を大声で遮った。ハクアはぎろりとエドナを睨んだ。
「あ……あの。彼を、殺すんですか?」
「いや……、私の実験に進んで参加してくれるなら命まで取ろうとは思わないよ」
「じゃあ――」
「でも、彼がオーケーしてくれるかな……。私はそれが心配なんだよ」
「わ、私が説得します!」
「そう? 悪いねぇ……。でも大丈夫?」
「だ、大丈夫です! 必ず説得して見せます!」
「そう?」
「あ、あの、じゃあ、私に爵位を……」
「爵位?」
「そんな! お忘れになったのですか? 実験に成功したら、私に一流の証を与えて下さると!」
「ああ――そんな話もあったかな? ああ、いいよ。但し、私には爵位を君に与える権限がないから、」
「そんな」
「代わりに力を与えよう。その後爵位でも何でも手にするがいいさ」
「力……?」
「ああ、強大な力さ。一流の魔術師をしのぐほどの、ね」
「あ、ありがとうございます。ハクア様! とてもうれしいです!」
「ああ、それと――」
 ハクアは目を細めてエドナを見下ろした。
「一つ聞いてもいいかな?」
 ハクアはポケットから一つ錠剤を取り出した。
「何ですか?」
 祈るように目を閉じていたエドナはハクアに尋ねた。
 ハクアの顔が歪む。
「君――経験、あるかい?」
 どこかで梟が一声鳴いた。
「え――?」

      ×          ×           ×          ×

 ケイとハクはまだ人の行きかうオフィス街を抜け、町の中央交差点のところまでやって来た。
 ケイはちらりと横を歩くハクの顔を盗み見た。彼女は、とても穏やかな顔をしていた。いや、ケイにそう見えるだけなのかもしれない。何せ、デイアネイラを倒したことで事件はひと段落したものの、クリ―パーたちが完全に姿を消したわけではないのだ。ここはむしろ気を引き締めるくらいの気持ちで行かなければならないところだろう。
だというのに、やはりハクは表情を緩めていた。
「ハク、何かいいことがあったのか?」
「? いや? むしろ薬の材料を台無しにしてしまって最悪の気分だが」
「あれ、そうなの?」
「ム……。もしかして私は気の抜けた顔をしていたのか?」
「いや、そうじゃなくて。なんて言うか、表情が柔らかだった」
「それをたるんでいると言うんだ。私としたことが、すまない」
「で、でも! 俺は、その方がいい」
「は?」
 ケイは顔を赤くした。
「うまく言えないんだけどさ、ハクって、いつもしかめっ面してるじゃん? そんなことしてたらしわが増える。うん」
「私はいつもしかめ面をしているのか?」
「自覚なかったのか?」
 驚いて尋ねると、ハクはうつむいた。
「私は人一倍感情の乏しい人間だとは理解していた。しかし自分がいつも機嫌が悪いかのような顔をしているとは夢にも思わなかった。――そうか、私はいつも不機嫌な顔をしていたのだな」
「いや、まあ、でもあれだよ。話してみるとハクって結構普通じゃないか。優しいし。人間、外面が全てじゃないと思う、多分」
 ハクは申し訳なさそうな表情になった。
「しかし、私は今まで見ず知らずの他人に対して威圧感を振りまいていたのだろう? 隊長やキリト達にも悪いことをしていた」
「ラッセルさんやキリトは見ず知らずじゃないだろう? あの人たちはハクのことを分かってくれてるよ」
「そうだろうか?」
 ハクはすがるような目つきでケイを見てきた。
「そうだよ」
 ケイはハクの仕草に思わず笑ってしまった。
「……何だ、その妙な表情は?」
「いや、ハクって、ものすごく強くて一匹狼なイメージがあったんだけどさ。そんな小さいことでウジウジするんだな、と。あ、俺と等身大に感じたってことを伝えたかっただけなんだ。気を悪くしたなら謝る」
「――」
 ハクは無言で足を速めた。ケイはあわててハクに追いつこうとする。
――怒らせちゃったかな。
「――私は、」
 ハクはそれだけ言って黙ってしまった。
「えっと、でもハクは偉いと思う。その年でもう大学卒業して働いてるんだもん」
「私は別に偉くなどない。私はそういう風につくられていただけの話しだ」
「そう言う風につくられていた?」
「私の角膜は先祖代々魔術的な移植手術をもって伝えられてきたもので、この中に知識や経験などの情報が詰まっているから、私は何かと人よりできることが多いににすぎない。本物の私は、きっと誰よりも無力だ」
「へ?」
「理解できなかったらそれでいい。要は私の知識は先祖から与えられたもので、自分の力で手にしたものではないということだ」
「そ、そうなの?」
「そうだ。私の家系はそうやって代々能力を受け継いで、自分の代で少し知識を増やし、次へ伝えていく。受け継いだ知識は視覚的な刺激をもって脳に送られ、あたかも自分が経験したことのように知識や経験を引き出し、使うことができるのだ。……戦闘に関してもそうだ。私は生まれながらにして持った魔力を、受け継いだ知識に従って行使しているにすぎない。そこに、私自身の努力など存在しない」
 そこまで言ってハクは、ハッと我に帰ったようだった。
「すまない。貴方には何の関係も無い話だったな」
「ああ、えっと、そうだな」
 ハクは静まり返っている住宅街を見渡した。
「何か、こういう時はもっと建設的な話をするべきだな。どんなことを話せばいい?」
 およそ会話という物をしない彼女が自分からそのようなことを言い出したのは果たしてどのような心境からだろうか。
『どんなことを話せばいい?』
 それはハクが何とかケイと会話しようという意思の表れであり、同時に言葉を覚えただけの赤ん坊が口にするような無邪気で、しかし不安な心の表れでもあった。
「どうだろう。自分のことを話すとか」
「自分の、こと……」
 ハクは星空を見上げながら呟いた。
「私は、他人に誇れるようなことは、何一つしていない。幼いころより与えられた力の使い方だけを教わってきた。外界とは全く触れあわない日々。私にとって、私の屋敷だけが世界の全てだった」
 ハクの話しは続く。
 ハクにはとても優しいお爺さんがいたこと。大好きな妹がいたこと。屋敷は日本にあったが、しばらくして自分はデュッセルドルフの別荘に移されたこと。
 こうして聞いていると、ハクはまるで鳥籠にとらわれたひな鳥のような存在だったのかもしれないと思えてきた。飛べるはずもないのに、外に出たがって、いつもいつも外のことをこがれるように夢見ている。鳥籠の中で全てを与えられ、無償の愛によって全てを肯定されて育った小鳥。
 目の前に広がるのは窓ガラスの向こうに広がるどこまでも青い空。白い雲。
 だから、彼女は、悪意という物を知らない。鳥籠の中では存在しないものだったからだ。それでは一人で歩いてはいけない。悪意を知らなければ、善意も知らない。つまり、何も、知らない。
「だから、最後には自らを兄だと騙る食わせものに騙されて、私は鳥籠という楽園から追放された」
 そう独白する彼女の声はわずかに震えていた。それは怒りか、悲しみか。
「そんなことまで、俺に話す必要無かったのに……」
「――やり場のない感情なのだ。ため込むより貴方に話した方がすっきりする」
――随分と信用されているなあ。
「私は、いつだって一人だ」
 二人はいつしか柏寺に続く坂道を上っていた。
「どうして?」
「何故と、貴方が聞くのか? まあ、貴方は人付き合いがうまいがゆえに分からないのかもな」
「分かるさ。俺だって」
 ケイは目を閉じた。
「ハクは、愛されていた。まあ、家を追い出されたんだから、本当に愛されてたかどうかは分からない。けど、そうやって、偽りでも、愛された人間は、愛することを知っているんだって。有名な人類学者も言っているよ。無償の愛を受けて育った人間は、他人に対して無償の愛を与えられるって。そりゃ、ハクははっきり言って協調性が無いと思うよ。でもそれって、他のことに一生懸命なんだよな? 他人のことを考えて、そうしている」
「それは違う。――私は、実は自分のことしか考えていない。隊長達に迷惑をかけると分かっていながらこの町へやって来たのは、私の目的を達成するためだ。おまけにいつも隊長達のことを足手まといだと思っている。私は、一人の方が良いと思っている」
「でも、それでも足手まといの俺を助けてくれた。ナルミに俺がさらわれたときだって、ラッセルさんたちはほとんどノータイムで俺のことを見捨てようとしたんじゃないのか? 自分で言うのもなんだけど、俺、昔から人の顔色とか見ながら育ってきたから、この年でなんとなくこういうこと分かるんだよね。――でも、ハクは俺を助けに戻って来てくれたんじゃないか?」
「――」
 その沈黙は肯定か。ケイは内心ラッセルとキリトに落胆しながらも続けた。
「ハクは、優しい、どこにでもいる女の子だよ」
「私はッ! ……私は、人ではない。私は目的を前にすれば性格が豹変する。私は――」
「さっきから言っている『目的』って何だ? ああ、答えたくなかったら別に答えなくてもいいけど」
「別に人に黙っているようなことでもない。私が、屋敷から追放されるのみならず、こんな体になってしまった原因である男を殺すこと。それが私の目的だ」
 ハクの言葉に殺気がこもる。
「そりゃまた、物騒だな。じゃあ、ここにも、その男を追って来たのか?」
「そうだ。男の名前はハクア。これまで十二度私は奴の気配を察知し、奴を追い求めてきた。だが、結果は全て失敗。私はハクアにまみえることすらできずにいる。――今回もまた、そうなったみたいだ。事件の元凶はハクアですら無かった」
「よく分かんないけど、その男のことが、そんなに憎いのか?」
「憎いさ! 私は、こんな結末など望んでいなかった。私は、何物にも縛られない、自由な鳥となって飛び立つはずだった! だと言うのに――」
「でも、人殺しはいけないことだぞ」
「貴方には関係の無いことだ」
「いけないことだけど、それ以上の理由があるなら仕方がないと思う。法律家を目指す俺がこんなこと言っちまっていいのか分かんないけど」
「奴は殺されてしかるべき人間だ」
 憎しみに歪むハクの顔。ケイはそれを見ながら、眉根を寄せた。
――そうだ。
「ハク、吸血衝動って今、どれくらいのヤバさ?」
「? まだ衝動自体感じない程度だが」
「じゃあさ、少し寄り道して行こうぜ」
 そう言って、ケイはハクの手を取った。死人のように冷たい肌にわずかにどきりとする。
「少し、だけだからさ」
「あ、こ、こら、ケイ!」
 ケイは有無を言わさずハクを引っ張って行く。ハクも最初はおたおたとケイに引っ張られているだけだったが、次第にケイと並んで歩くようになった。
「その、手を離してくれないか」
「あ、ご、ごめん! ……でも、ほら、着いた!」
「……これは――」
 眼下に広がるのは柏市の町の光だった。まだ町が不自然な眠りに落ちる前。そこには人々の営みがあった。
「これは――美しい」
 吹き上がってくる夜風。白、赤、橙、黄色、さまざまな光。光はずっと向こうまで続いていて、橙色で染められた、灰色の空と地平線で一体化していた。それは良くできた一枚の絵のようだった。
「ここは穴場なんだ。昔、俺、親父と喧嘩して、家出てった時に見つけたんだ。何て言うかさ、俺、この風景見てたら何て自分てちっぽけなんだと思った。町の光が遠くに見えて、俺はここから皆を俯瞰している。まるで自分だけ箱庭から抜け出してきたみたいだって思った」
「箱庭?」
 ケイは頷いた。
「そう」
「そうか。貴方は、一人ではなかったのか」
「分からない」
 ケイは考え込むように顎に手を当てた。いつものケイの癖だ。
「――デイアネイラに俺は、人を怖がっていると言われた。――あのときは認めたくない一心で否定したけど、こうしてこの風景を見ていると確かにそうかもしれない……。俺は、どうしようもなく、一人だ。それが、怖いとも思っている」
 ケイは町の光で明るくライトアップされた夜空を見上げた。
「誰かと一緒にいるのも怖い。何故なら、その人のことが分からないから。自分はその人と付き合って傷ついたりしないか、確証がないから」
「貴方は強いな。そうやって、自分で答えを出せるのだから」
「上っ面だけだよ。ホントのとこは分かんない」
 ケイは肩をすくめた。
「寄り道終わり。とっととヤマザクラ見つけて帰ろう」
「そうだな」
 ハクは穏やかな表情でそう言った。

      ×          ×           ×           ×

 ヤマザクラは、幸運にもすぐに見つかった。峠道の入り口に入った瞬間に崖の側面に生えているのをハクが見つけたのだ。
 二人の冒険は拍子抜けするほどに、すぐに終わってしまった。
「意外にあっけないものだ。あれだけ焦っていた自分が馬鹿みたいに思えてきた」
 ハクはそう言うと小瓶をポケットにしまった。
「しかし、あの風景は素晴らしかった」
――町の光を受けながら、下からの風に銀色の髪をなびかせるハクは、もっと素晴らしかった。
「忘れないように、心に焼き付けておかなければ」
 ハクはそう言って、初めて笑った。
――こんな些細なことで笑ってくれる。
「良い体験ができた」
――ああ。そうか……。俺は、もうどうしようもない。
「帰ろう。隊長達が待っている」
――だって、君の笑顔を守るためなら、何だってできそうなんだから。

   ×         ×          ×           ×

 帰り道、二人は無言で坂を下っていった。
――この時間が、ずっと続いてはくれないだろうか。
 歩いている間、ずっとケイはそんなことを考えていた。
「なあ、ハク。お前、この事件が解決したら、どうするんだ?」
「どうするとは、どういう意味だ? 私はまた封聖庁に戻り、やがて次の仕事を任せられる。ただ、それだけのことだ」
「じゃあさ。俺、封聖庁だっけ? そこで働けたらって思うんだけど」
「貴方は法律家になるのだろう? 封聖庁など、好んで行くものではない。死体の回収や、汚い汚物の採取が日常の仕事であるようなところだぞ」
「それは――」
 お前が、とケイは言いかけた。
 その時、ハクがキッと表情を引き締めた。そしてばっと、西の方角を睨む。
「そんな……! まさか」
「ハク? どうしたんだ?」
「見つけた! 見つけたぞ!!」
 そう言うハクの唇は歓喜に震えていた。
「見つけたって、何を?」
 ハクはケイの言葉など聞いてもいなかった。すぐさま跳躍の態勢に入った。ハクの足元に青色の魔法陣が浮き出る。
「ハ、ハク!」
 ケイが強くそう呼ぶと、ハクはハッと我に帰った。
 それからハクは西の方角とケイとを数回見比べた。
「――っ。ケイ、まず、貴方をホームまで送り届ける」
「え? お、おい」
「失礼する!」
 ハクはそれだけ言うと、問答無用でケイを抱き上げた。まるでデイアネイラに抱きあげられた時のようだった。ケイの体は難なく持ち上げられ、次の瞬間、今まで目にしていた風景を置き去りにするかのように、視界が流れた。
「ちょ、お、い」
「黙って。舌を噛むぞ」
 そして、ハクはあっという間に中央交差点を駆け抜け、オフィス街を抜け、インターチェンジ付近まで戻って来た。
 ケイにとって、女の子にお姫様だっこされるのは初めての経験だった。ハクの付けている香水のにおいか、ものすごく良い香りがする。ハクがスピードを緩めたところで抗議しようと思ったのだが、目の前の光景に全てを忘れてしまった。
 ラッセルとキリトのテントが無くなっていた。
「こっちだな」
 ハクはそう言うと静まり返った高速道路に跳躍した。高速道路を超えるともうそこは浜辺で、もちろんその向こうには海が広がっていた。
 果たしてラッセルとキリトは浜辺にいた。しかし、そこにたたずむ人影は二人だけではなかった。
ハクはトン、とやわらかに砂地に着地するとケイをおろした。ハクはラッセルに向き直る。
「隊長、ただいま戻りました」
 ハクはちらりとラッセルとキリトの後ろにたたずむ五、六人の男を見やりながらそう言った。
「うむ。よしよし。二人とも無事で何よりだ」
「それで、隊長、この方々は?」
 ハクの質問に答えたのはラッセルと同じ制服に身を包んだ若い男だった。
「自分たちは封聖省の一番隊であります。貴方がたを迎えに参りました。グランセル閣下は今回の貴方がたの独断行動は、吸血鬼デイアネイラの討伐と貴重なサンプルの納品の功績で帳消しにするとのことです。伝言は、ただちに帰還せよとのことです」
「そう言うわけだ。俺達おとがめ無しだってよ」
 キリトが嬉しそうにそう言った。
「もちろん、坊主にも来てもらう。君とてこのような場所に置き去りは嫌だろう? この事件が終わるまではわしらが責任をもって面倒をみる。安心しなさい」
 ラッセルはケイを見ながらそう言った。
「そう言うわけで、ほら、ダイビングスーツだ」
 キリトはそう言うとダイビングセットを二組、ケイとハクに投げてよこした。
「……どういうことだ?」
 ハクが静かにそう訊いた。
「ああん?」
 キリトは酸素ボンベを二人分引きずりながら訊き返した。
「どういうことって、どういうことだ?」
「だから、――どうして、ここで退却なのだ!」
「ああ、何故か知らんがそこの海に結界が無いところが存在してんだとよ。こいつら一番隊の奴らもそこを通ってやって来たらしい」
「そんなことを訊いているのではない!」
 ハクは怒鳴った。
「無関係の人間がゾンビ化するヴィルスに感染させられているのだぞ! それを放って退却か!」
「ハク」
 ラッセルは呆れかえったようだった。
「わしらの仕事は正義の味方ではない。わしらはもう十分に領分という物をわきまえておらん行動をとっておるのだ。このへんであきらめんか」
「何をおっしゃるのです!」
 ついにハクとラッセルは口論を始めた。まあ、ほとんどハクが突っかかっていって、ラッセルが何とかそれをいさめようとしているという状態ではあったが。
 やがて、ハクは、ぴたりと怒鳴るのを止めた。
 周りのケイ達は今までのハクの剣幕に引き気味だったため、固唾をのんでハクの次の行動を見守るしかなかった。
「もういい。――私一人で十分だ!」
 ハクはそれだけ言うと駆け出した。
「ハク!」
 ケイは自然に体が流れるままハクの後を追った。右手に持ったリンゴジュース入りのナイロン袋が太ももに当たる。
 後ろでラッセルとキリトが何事か叫んでいるのが聞こえたが、ケイにとって今は走り去って行くハクの方が大事だった。
 ここでもしケイがハクの後を追わなければ、もう永遠にハクに会えないような、そんな気がした。

   ×         ×           ×           ×

 ケイは中央交差点までノンストップで駆け抜けた。もちろん、ハクの方が圧倒的に速いので、ハクの後ろ姿などとうの昔に見失ってしまっていた。
「もう……走れ、ない……! くそ!」
 日ごろの運動不足が祟ったのか、心臓がもうバクバク言っている。弓道部を止めて走り込みも止めてしまった自分が今さらながら恨めしかった。
「くそ……! ハク! ハク! どこにいるんだ! おーい!」
 ケイは、今度は声の限りハクを呼んでみることにした。
「おーーーーい!!!!!!」
 ケイはもう一度大きく息を吸った。
 と、後ろから口を押さえられた。とてつもなく冷たい手に一瞬心臓が止まりかける。
「何故貴方は追ってくるんだ!」
 ケイは後ろを振り返った。紛れもなくハクがそこに立っていた。腕を組んで、半分あきらめの表情を作っている。
 というか、ハクの手はものすごく良い香りがした。何というか、女の子のにおい、みたいな。
――って、感傷に浸っている場合じゃない。
「一体、どうしたって言うんだ?」
「……」
 しばらくハクは黙っていたが、やがてため息をついた。
「奴が、ハクアが、いる」
「ハクアって、お前が殺そうとしている奴か?」
「そうだ」
「ここにはいないって言ってたじゃないか」
「先ほどから明確に気配を感じている。奴は隠れていたんだ。そしてどういうわけか今は隠そうともしていない」
「それで、ハクは今から……?」
「もちろんだ。――もうこれ以上は時間を食っていられない。それに貴方をここへ置いていくわけにもいかない。まだ動けるクリ―パーがいたら貴方が襲われてしまうかもしれないからな。行けばおそらく戦闘になるが、貴方は私のそばから離れないようにしろ」
「わ、分かった」
 ケイがそう頷くや否や、ハクはケイを抱えると風のように疾走し始めた。ハクの走る方角は西だった。途中公園を通り過ぎ、南へ通じる脇道も通り越す。
――神社に向かっているのか。
 ケイは流れて行く風景に目を凝らした。
 そして、ハクの疾走は唐突に終わった。ケイはハクの腕から下りた。神社への石段の上り口だった。ハクは厳しい目で前方を睨んでいた。
「……何をしている?」
 ケイはハクの視線をたどった。
 そこにはアスファルトにうずくまるトシヤの姿があった。変身はしておらず、頭をかかえて、全身を震わせていた。そして、その先には、
「田中君……! 木村さん……!」
 二人は電柱棒にくくりつけられていた。二人の肩口は血で染まっている。
 そして、二人は涎をまき散らしながら自分の体が傷つくのもいとわず唸り声をあげながら縄の拘束を解こうとしていた。
 その目は狂気に侵され、既に焦点が合っていなかった。
 ケイには何が起きたかすぐに分かった。
「赤松君、君。二人を、噛んだのか……!」
「仕方がなかったんだ!」
 トシヤは身を起して泣き叫んだ。
「エドナもボロボロで、俺も、全然力が回復しなくて……それで、次襲われたらおしまいだって思って」
「なんて、こと」
 ハクは呟いた。
「二人を覚醒者にしてしまえば、何とかなるって思ったんだ。けど、二人とも、クリ―パーに……!」
「救いようのない馬鹿だな……」
 ハクは眉根を寄せて呟いた。ケイも弁護する気が起らなかった。
「馬鹿だと!」
 トシヤは瞳に憎しみの色を浮かべながら立ち上がった。
「ふざけんなよ。俺はこの世界のヒーローなんだ! 俺が敵を全部ぶっ潰して、エドナを助けるんだ! 皆で覚醒者軍団つくって、俺がリーダー! 俺が! ヒーロー!」
「赤松君! 君、こんなことして……! 彼らをどうするつもりなんだ!」
「うるせぇ! お前のせいだ! お前が何でも俺よりできるからいけないんだ! 昔からそうだった。お前は、いつも上から目線で、俺を見下していた」
「赤松君……」
「お前さえ、お前さえいなければ……!」
「愚か者!」
 凛と、喝破したのはハクだった。
「君がこの子たちを噛んだことと、ケイは何も関係ない! 自分の罪を他人になすりつけようとするな!」
 トシヤはハクの言葉にびくりと体を震わせた。
「赤松トシヤ、この子たちにこんなことをした責任を、どうとるつもりだ!」
 トシヤはボロボロと涙をこぼしながら言う。
「お、俺が、せめて痛みも感じないように、い、一瞬で、こ、ころ――」
「馬鹿もの!」
 ハクが怒鳴った。
「軽薄にそんなことを言うんじゃない! 彼らは大丈夫だ。ケイは抗体を持っている。すぐにワクチンができる。そうすればこの子たちも元通りだ」
「た、助かるの、か?」
 すがるような目つきでトシヤはハクを見た。
「ああ、それよりも問題なのは貴方のその曲がった根性だ! 貴方は――」
 その時、神社の石段をブーツが叩く音が聞こえてきた。トシヤはハッと顔を上げた。
「エ、エドナ!」
 現れたエドナは相変わらずのゴスロリファッションだったが、そのところどころが無残に破けていた。彼女の顔の表情は辺りが暗いせいでよく見えないが、その足取りは酷く虚ろだと言うことは見てとれた。
「エドナ、お、俺……」
 トシヤはエドナにすがりつくようにおたおたと歩み寄った。
「ト、シや……」
「エドナ!」
「エドナさん!」
 今にも崩れ落ちそうなエドナの姿に、ケイは駆け出そうとした。が、ハクに片手で制せられた。
「でも、エドナさん、ふらふらしてて、死人みたいに疲れた目を」
 そこまで言って、ケイはエドナの濁った赤い目がこの暗闇にも関わらず、ぼうっと発光していることに気がついた。
 ハクは緊張した瞳でエドナを観察する。
「彼女は、どこかがおかしい」
 トシヤはエドナの異変には気がつかず無造作に、無防備に近づいていく。
「お、俺、やっちゃった! やっちゃったよ! ど、どうしよう!」
「と、シヤ、」
「エドナ」
「とし、や、ヤヤヤヤヤヤヤヤヤヤヤヤヤヤヤヤヤヤヤヤヤヤヤヤ」
「どうしたんだ? エドナ、なんか顔色、悪いぞ」
 トシヤがエドナに手を伸ばす。
 次の瞬間、トシヤの伸ばした手は肩口から消えてなくなった。代わって、ケイの足元にナニかが飛んできて転がった。
「――ア」
 ずぶ。
 そんな嫌な音がした。
「え……?」
 トシヤは自分の胸を見下ろした。
「あれ? はは、俺の心臓のところ、穴があいてる。はは。られ? エドナ、の右手が、生えて」
 トシヤはゲフリと鮮血を吹きだした。血は、トシヤの口から氾濫し、顎からぼたぼたと地面に落ちる。
「あはぁ! 合体ィィィィィィッ!」
 トシヤは血をまき散らしながら叫んだ。
 次の瞬間、エドナが左手を一閃する。トシヤの首は高々と宙を舞った。
「あは、あはははは、としや、としや」
 エドナは壊れたテープのように目の前に崩れ落ちている男の名前を呼び続けた。
「な、んだ……」
 ケイはあまりのことにくらりとよろめいた。それから、思いっきり胃の中のものを逆流させた。
「エドナさん、何を……!」
エドナはその場に座り込んで、ケタケタと笑いだした。
「よくやったエドナ君」
 不意に石段から新たな声が響いた。ケイは石段の方を見た。
「それから、久しぶりだな。クレア」
――クレア?
 現れたのは銀髪に色白の端正な男だった。白いファーをあしらったダウンジャケットを肌の上から直接羽織り、ズボンもまた白色だった。さらさらとした長いその髪は男が石段を一段降りるに従ってシャラシャラと揺れた。そして、男の瞳はハクと同じワインレッドだった。
「ハクア」
 ハクは殺気を交えてそう呟いた。
――ハクアって。
「こいつが、お前の仇……」
 ハクアは座り込んで呆けているエドナの横を悠然と通り過ぎるとハクと対峙した。
「――この茶番はお前が仕組んだのか?」
 ハクは押し殺した声でそう訊いた。
「どの茶番だ? この馬鹿なメス犬とサンプルAZのことか?」
「この町のこともだ! お前がそこのエドナ・ダイドウジと関係しているということは、お前が元凶なんだな?」
「まあ、そうだが」
 ハクアという男は全く悪びれることもなくさらりとそう言った。
「え、こいつが、元凶……?」
 ハクは頷いた。
「デイアネイラはおそらく何の関係もなかったのだ。そこのエドナ・ダイドウジをゾンビもどきにしたのは状況的にこの男。そして先ほど自ら認めたが、この町の異常もこいつのせいだ。……何を隠そうこいつの二つ名はデュッセルドルフの吸血鬼、狂った科学者だ」
「狂っているとは心外だな。私はただ常人と感覚がずれているだけなのだ」
 ハクアはハクの全身を舐めるように見回しながらそう言った。
「ハクア、何のつもりかは知らないが、それでのこのこと私の目の前に姿をさらすなど、いい度胸だな?」
「お前のストーカー行為にはいい加減こちらも我慢できなくなってね。かと言ってお前を殺せばせっかくなすりつけた吸血鬼の弱点が私に再度帰って来てしまう。そういうわけで、お前を監禁して飼育してやることにした。面倒だがね、フフフ」
「ケイ、下がっていろ」
 ハクは小声でケイに指示した。そう言うハクの顔はデイアネイラと対峙した時よりも緊張しているように見えた。
「フフフ。逃げないのか? そうすれば当座はしのげるというのに」
「――」
 ハクは無言で近くに落ちていた小枝を拾い上げた。小枝はハクの手に触れるや否や、青く透明なガラスのような物質に変化した。形も変形し、刀のような形状をとる。
 ハクアは右手を前に出した。ジャキリとその指が細く、鋭くとがる。
「クレア、お前は、私には、勝てない」
「黙れ!」
 ハクは地を蹴った。
 ハクのふるう太刀は神速だった。傍から見ているケイにはそれこそ青い閃光となってちらつく曲線にしか見えないほどに。実際、明らかにハクアはハクの攻撃に必要最小限の動きでもって、なんとかついていっている様子だった。
『お前は、私には、勝てない』
 そんなはずはない。戦闘能力は圧倒的にハクの方が上だ。
 だと言うのに、
「ぐぅッ!」
 ハクの斬撃は唐突に途切れた。ハクは大きく後ろに跳躍して間合いを取った。そして、彼女はそのまま膝をついてしまった。
「ハク!」
 ケイがハクに駆け寄る。ハクは荒い息を繰り返していた。
「クレア、お前は、俺に、勝てない」
「アッ、ク――」
 ハクはまるで巨大な力に押さえつけられるようにアスファルトにつぶれるように倒れ伏した。
「何で……? どうして!」
「ははは」
 ハクアは悠然と二人に歩み寄った。そして、
「そう言えば、先ほどからいたな、人間」
 ケイに目を向けた。ケイはハクを背中にかばいながらハクアを睨んだ。
「止めろ! ハクに手を出すな!」
「ほう、今はハクというのか、クレアは」
「クレア?」
「さあ、どけ。お前は後からゆっくり食ってやる」
 じゃり、と。後ろでハクが身じろぎした。
「この男に――手を、出すな!」
ハクはのどの奥から絞り出すようにそう言った。そして、呪符をハクアめがけて投げ放つ。ハクアはひらりと右後ろに飛んでそれらを避けた。
「お前の、相手は、私だッ!」
 ハクは手に持つ獲物を支えに立ち上がる。ハクアは嘲笑した。
「まだ分からんのか。私はお前の吸血鬼としての親であり、加えてお前の名前を縛っている。お前に勝てる道理はない」
 ケイはハクを見た。ハクは今や玉のような汗をかいていた。
「ふん、まだやる気か? いいだろう、少し調教してやる。――クレア、地べたに這いつくばれ!」
「あぐッ!」
 ハクは再度アスファルトに倒れ込んだ。
「クレア、立て!」
 ハクがよろよろと立ち上がる。
「クレア、這いつくばれ!」
「はうッ!」
 ハクは頭からアスファルトに身を投げ出した。彼女の手から青い刀が離れる。傍から見ていれば滑稽な姿だったが、ケイにとっては笑えるものではなかった。
「やめろ!」
 ケイはハクをかばってハクアの前に立ちふさがった。
「どけ、人間」
 ハクアの眼が赤く光る。風が唸り声を上げる。ケイは不自然な力に後ろに吹き飛ばされた。
「ケイ!」
 ハクが叫ぶ。
「大、丈夫……」
 ケイはしびれる全身に鞭打ち、上半身を起こして笑って見せた。
「ハクアァ!」
 そう叫ぶハクはいつの間にか右手にサバイバルナイフを握っていた。あのナイフはラッセルやキリトが使っていたものだった。
「瞬炎ッ!」
 ハクが片膝を立て、居合い切りをするかのようにナイフを構えた。
 ハクアもハクの反撃は完全に予想外だったようだ。ハクアの目が驚きに見開かれる。
 ハクの持つナイフがギラリと危険な光を灯す。
「だぁ!」
 ハクは気合いとともにナイフを振り切った。ナイフの描く軌道がハクアをとらえるその一瞬、ナイフの刃はレーザーのようになってハクアを逆袈裟に切り裂いた。
――やった!
 ケイは体から力が抜ける思いだった。
しかし、
「ふん、この程度か」
 ハクアはにやりと口元をゆがめる。
「そのような貧弱な武器を使う時点で、底が知れるな、クレア」
「大気操作系の能力……」
 ハクは歯噛みしながら呟いた。ハクの手に握られていたサバイバルナイフが粉状になって風にさらわれていく。
一方、ハクアの周囲には風の防護膜が蜃気楼のように揺らめいていた。ハクアは全くの無傷だった。
「赤松君と、同じ能力……」
 ケイは呟いた。
「いかにも。まぁ、もともとサンプルAZには私の体細胞から作りだしたヴィルスを使ってやっていたからね。天才である私の細胞を受け入れられたのは今のところ彼一人だが、そのうち私はもっと多くの人間に私の天才具合を受け入れさせてあげるつもりだよ。ああ想像しただけで興奮してしまう!」
 ハクアは局部に手を当てた。
「っ!」
 ハクは素早く小枝を拾うと青い刀をつくりだした。
「瞬、」
 ハクが構えに入る。だが、その刹那、ハクアはハクの眼前に迫っていた。
「遅い」
 ハクが後方に弾き飛ばされる。ハクの体は七転八倒して電柱棒に激突した。
「ハクッ! ッ! この野郎ッ!」
 ケイは拳を固めると、ハクアに突進した。
「馬鹿な! 止めなさい!」
 ハクが叫ぶ。
「うおおおおおおおおお!」
 ケイは大きく振りかぶった拳をハクアに向かって思いっきり放った。しかし、拳は空を切った。ハクアの姿も消えていた。
「勇敢な小僧だ」
 耳に息を吹きかけられる。
「う、うわああ!」
 ケイは間髪いれず左手に握っていたナイロン袋を振り回した。
「ふん、なかなか威勢が良い」
 ケイの攻撃をふらりとかわしながらハクアはにたついた。
「ハクア、お前の狙いは私だろう! 彼に手を出すな!」
「クレア、私も人間は踊り食い派なんだ。そら」
 なおも向かっていくケイに、ハクアは無造作に右手の爪をふるった。爪はケイの脇腹を貫通した。ケイはもんどりうってその場に倒れた。
「ケイ! ハクア、貴様!」
「殺してはいない。が、……クレア、この男をやけに大切に思っているじゃないか。他人には興味の無いお前には珍しい」
「知った風な口を聞くな!」
 ハクはふらふらと立ち上がる。そして目の前の敵をまっすぐに見据えた。ハクアの足元でケイがゲフリとせき込んだ。
「ほう? よく見ればこの男、綺麗な血の色をしている」
 ハクアの眼が赤く発光した。ハクアの手元で風が渦巻く。圧縮された空気は細長い棒状となり、風景をゆがませる。
 大気を圧縮させて作られた半透明な槍はぴたりとケイの首筋に狙いをつけられた。
「やめろと言っているだろう!」
「なら私に降れ」
「ッ!」
「なに、もとのお前に戻るだけだ。そう悩むことはないだろう? お前が本来あるべき処遇に戻してやるだけなのだから」
 厳しい顔でなおもハクアに対峙するハクに、ハクアは両手を広げてそう言った。
「本来の、私、だと?」
「そうだ。お前と初めて出会った、あのデュッセルドルフの冬の日に戻してやると、そう言っているんだ」
 ハクアは続けた。
「幽閉するといっても、私の私邸は多くの蔵書もあるし、自然豊かな森だってある。食べ物も毎日好きなものを与えてやる。お前がかつて追い出された鳥籠よりもはるかに良い環境を提供してやる」
「文字通り飼殺しだな。誰がそのような条件をのむと思っている!」
「クレア」
 ハクアは駄々っ子をあやすような口調になって言う。
「お前は外の世界に出たいと言った。こんな鳥籠の中は嫌だと。本物の海を見てみたいと。しかし実際に出てみてどうだ? お前は結局一人だった。お前のような周りが見えていない、我儘で協調性のないトラブルメーカーはどこへ行ってもお払い箱だったろう?」
「それは……」
「それは確かにある程度は私がお前をできそこないの吸血鬼にしたせいかもしれない。しかし、それを割り引いたとしても、お前は、周囲と摩擦を起こし続けていたのではないか?」
「……」
「そこにいても周囲と衝突するしかないお前は周りからすれば厄介者でしかない。そんな世界はさぞ苦しいだろう。それこそ、同じ孤独でも、まだ自身を肯定される鳥籠の中の方がよいのではないか?」
「……しかし、私は、貴様に魂まで売るつもりはない」
「無論、その必要はないさ。私がお前を幽閉するのは、お前が私の邪魔をするからであり、お前が万が一、命を落とした場合、私は吸血鬼としての弱点を再び内包することになってしまうからだ。私は目的を達成すればお前を解放しよう。同時に一生不自由なく暮らせる富も譲り渡そう」
「お前の目的だと?」
「私の目的はお前のかつての故郷、三好の家を潰すことだ」
「な、に……?」
「別に驚くことではあるまい。私がお前と出会った時はもうそうではなくなっていたが、私も三好の跡継ぎの一人だったのだよ」
「なんだと!」
「私は昔からおかしな性癖があってね。それを理由に家を追い出されたのだよ。私は長男ではあったが、お前のように特殊な眼は受け継いでいなかったし、三好の家にとっては邪魔でしかなかったのだろうな。――しかし、捨てられた私はたまったものではなかった。私は下賤な人間の家に預けられ、下賤な人間の手で育てられることになった。私は絶望した。故に……!」
 ハクアの眼が赤く光った。
「クレア。お前は自身を追放した家を憎まなかったのか? 確かに追い出された原因は、私にある。しかし、その程度のことで三好はお前を凍えるような冬の夜に放り出した。お前はそうされて、それまで自身は本当に愛されていたと思っているのか? そうではないだろう? 三好はお前をただの歯車の一つとしてしか見ていなかったんだよ」
「爺様は、優しい人だった」
 そう言うハクの言葉には力がなかった。
「あれは悪魔だ。お前はかつて抱いた幻想にすがろうとしているだけにすぎない」
「それでも。私は――」
 ハクはうつむいた。
「私の目的は早ければあと二年後には達成される。これからが一番忙しい時期なのだ。お前はその間大人しくしていればそれでいい。――さあ、クレア、選ぶのはお前だ」
ハクアは眼を細めた。その目が、あやしく光る。
「私は――」
「選ぶな!」
 そう叫んだのはアスファルトに倒れ伏していたケイだった。ケイはなんとか立ち上がろうと、四つん這になりながら声を絞り出した。
「選んじゃ、駄目だ!」
「ち、部外者は黙っていろ。殺すぞ」
 ハクアの瞳に殺意が灯る。
 その刹那、ハクアは大きく後ろに飛び退った。同時にハクアが一瞬前まで立っていたところをハクの呪符が薙いでいく。
「ケイに手を出すな!」
 ハクはケイに駆け寄った。
「ケイ、大丈夫か?」
「あ、ああ」
 ケイは弱弱しく微笑んで見せた。
「ふん、言霊で縛っていても、まだこれだけ動けるとはな」
 ハクアは舌打ち交じりに言う。
「やはり、お前ではなく、妹の方を選ぶべきだったか。面倒なことこの上ないな」
「ハクア、貴様の本当の目的は何だ?」
 ハクはケイをかばうように立ちながら尋ねた。
「真の目的? ハッ! 先ほども言ったろう。私の目的は三好という癌をこの世から排除することだ」
「本気で言っているのか?」
「なんだ? 貴様には到底理解できないか? それはおかしなことだ。あの三好のくそ爺はこの私を見捨てた! ならば復讐するのは道理だろう? ある日突然、訳も分からず家から放り出され、凍えるような吹雪の中、助けを求め、許しを請うてさまよい歩いた。しかし屋敷を守る森は、それでも相変わらず私の侵入を許そうとはしなかった! ……奴は私が必要なくなったから捨てた! 私は所詮、三好の爺にとってはその程度のモノでしかなかった! ならば追い出された飼い犬がその憎い主人の喉笛を噛みちぎっても、それは仕方のないことだろう?」
「どうして、この町にウィルスをまき散らしたんだ!」
 ケイは荒い息をしながら尋ねた。
「強力な軍隊が欲しかった。三好の家は強力な魔術師を多く抱えている。私一人ではいささか不十分だからな」
「お前、自分の事情に町の人たちを巻き込んだって言うのか!」
「この町の衆愚など私の勘定に入らない」
「なんだと?」
「まあ、後始末はするさ」
「後始末?」
 ハクが訝しげに尋ねた。
 ハクアは再び大気を圧縮して半透明の剣をつくりだした。
「ああ、この町の浄化作業を行う。明日にでもな」
「浄化、だと?」
「そこの海にはちょっとした活断層があってね。湾の形もV字型。ちょっと揺らしてやれば、ザバーン!」
 ハクアはクククと笑った。
「町一つ沈めると言うのか、この外道!」
「まあ、お前には関係の無いことだ」
 ハクアはゆっくりと歩き出した。
「……ハク、やはりお前は優秀すぎた。計画が遅れることになるが、ここで死んでもらおうか。弱点をなすりつけるにあたって適正者はそうそう見つからないのだが……まあ、次はお前より弱くて、お前より馬鹿な奴であることを願わんばかりだよ。おっと、お前より愚かな人間など、存在しないか。ククククク」
「ハク」
ケイは緊迫した面持ちでハクを見た。ハクは厳しい目でハクアを睨んでいた。
「ケイ、こんな私だが、これでもしばらくはもつはずだ。その間に隊長達のもとへ逃げるんだ」
「そんなことできるか!」
 ハクアは半透明の剣を構えた。
「息をするな、クレ」
 その瞬間だった。ぞぶ、と、不意に濡れた音が響いた。
「な」
 ケイが目を見開く。
「なん、だとぉぉぉ!」
 しかし、それ以上にハクアは驚愕していた。
 ハクアの胸元から、血に染まった腕が一本生えていた。
「トシヤ、死んじゃった。トシヤ、死んじゃった!」
 そこには鬼女が立っていた。
 エドナは端正な顔を憎しみにゆがめながら絶叫した。
「としや、としや! ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
「ちぃっ! 放せ! このグズ野郎が!」
 ハクアが振り向きざまに左腕をふるった。エドナの肩から血が噴き出す。
「お前のせいだぁぁっぁぁぁぁ!」
「私の言うことが聞けないのか、この!」
 エドナは肩口から袈裟に割かれながらも、なおもハクアに絡みついて離れない。ハクアはゲフリと吐血した。
「ケイ、しっかりつかまっていろ!」
 ハクはケイの肩を支えた。そのままケイを抱きかかえようとするつもりらしい。
「逃がすか!」
 ハクアは右手に握った半透明の剣を投げ放った。ハクは態勢が態勢なだけにわずかに反応が遅れてしまった。
「しまっ……!」
「危ない!」
 ドンと、ケイがハクに体当たりした。瞬間、ケイの腹に半透明の剣が貫通した。
「ケイ!」
「ちッ!」
 ハクアは舌打ちした。
「まあいい! ハク、貴様は絶対に逃さない。すぐに追いついて殺してやるからな!」
 ハクアはしがみつくエドナの頭を吹き飛ばしながら叫んだ。エドナの体は頭を吹き飛ばされてもなおハクアの体を両手の爪で掻きむしり、貫いていた。ハクアはエドナの肩を吹き飛ばす。しかしそのころにはエドナの首から上はすでに回復していた。エドナがハクアに噛みつく。
「くそ、これほどの再生力とは!」
 ハクアはエドナと文字通り血みどろの争いを続けている。
 それをしり目にハクはケイを抱えて駆け出した。

    ×         ×           ×           ×

「……もういい」
 ケイはハクに抱えられ、呟くようにそう言った。
「もう、いい」
 言って、ケイは自らハクの腕から転げ落ちた。
「ッ! ケイ!」
 ハクがケイにかがみこむ。ケイはぼんやりと自分の腹を見下ろした。
「寒いんだ」
 ケイの出血量を見てか、ハクの顔色が変わる。
「ケイ、私が何とかする。必ず助ける!」
 ハクは肩口から服を割くとケイの傷口にきつく押し当てた。
「……大丈夫、絶対……!」
 そう言うハクの顔は必死だった。
「ハク……」
ケイは震える手を伸ばしてハクの頬を撫でた。
ハクは絶望した。出血が止まらない。
「いや。いやだ。 死んじゃ、いやだ」
 ハクは青ざめた顔でそう呟いた。
「どうして。どうして私などをかばったんだ? 私なら、死ぬことはなかったはずなのに……!」
「そんなことない。ハクは、普通の、女の子だ」
 ケイのその言葉にハクはハッと目を見開いた。それから、くしゃりとハクの表情が歪む。
「ケイ、貴方を失いたくはない」
 ハクはそう言ってケイに唇を近づけた。
 ケイの意識はそこで途切れた。

「ケイ! ケイ!」
 誰かに揺り動かされる。ケイはうっすらと目を開けた。目の前にはケイの顔を泣きそうな顔で覗き込むハクの姿があった。
「ここは……?」
 ケイは虚ろな思考の中茫然と尋ねた。
「ケイ、ごめん、なさい……!」
 ケイの質問には答えず、ハクはうなだれた。
「え……? ごめんなさいって、何、が……」
 ケイはそう言いながら自分の体を見下ろした。
「あれ? 血が止まってる……」
「ごめんなさい。でも、貴方を助けるには、これしかなかった」
「え……?」
 そこで唐突に思い出した。
「俺、何で生きてるんだ?」
「……貴方に、血分けを行った」
「チワケ?」
 ケイは眉根を寄せた。と、
「ハク、お前、血だらけじゃないか!」
「――」
「ハク?」
 ハクが目を伏せる。
「済まない。……私は、貴方を吸血鬼にした」
「え……」
 それを聞いた瞬間、ケイは妙な気分になった。人ではなくなった――その最初に感じた感情は、言い知れない悲しさだった。
 だが、同時にケイが感じたのは、ハクの血が自分の体にも流れていると言う、喜びだった。この場合、俗に言う変態が何かしらの欲求を解消した時に得られる背徳的な陶酔だった。
「血が、止まらなくて。もう、手遅れだったんだ。貴方の心臓が止まってしまって、私は、」
 ハクは大きく息を吸った。
「私は、貴方をそのままにしておくことなどできなかった。私は、私の血を貴方の体に入れた。貴方は、もう吸血鬼なんだ。すまない」
「そんな! なんで謝るんだよ! なんか知らないけど、俺、助かったんだろ? じゃあ、ありがとうだ、ハク」
「しかし、貴方はもう人ではなくなっている」
「だから何だよ。俺はお前にすごく感謝してる」
「ケイ!」
 ハクはケイを見上げた。
「生き返ってくれて、良かった」
「えっと、うん……。それより、ハクこそ大丈夫か?」
「私は大丈夫だ」
 ハクは言った。言ってからへにゃりとその場で手をついた。
「ハク!」
「……少し、血を流しすぎたみたいだ」
「おぶってくよ。とにかく、ラッセルさん達と合流しないと」
 ケイはそう言って立ち上がった。が、くらりとその場でよろめいて、崩れ落ちてしまった。
「あ……」
「私の血が完全になじみ切っていないんだ」
ハクが言う。
「でも、あいつが、ハクアに追いつかれちまう!」
「私はここで血分けの儀式を一時間はやっていたんだ。あいつが追って来ているならもうとっくの昔に追いつかれているよ。――ハクアは何故か私たちを追っては来ていない。エドナ・ダイドウジに殺されたのか。深手を負って回復しているのか。まあ、一番可能性が高いのは、傷を負っているに加えて、別に私たちを追いかける必要性もないからというものだろうな」
「俺たちを、追う必要がない?」
 ハクは頷いた。
「あいつの目的は私をこの町から逃がさないことだ。――私は、とうの昔に檻の中なんだ」
「でも、結界には穴があるって。そこから抜け出せば」
「貴方はともかく、私には無理だ。私は海水に飛び込めば氷みたく溶けてしまう」
「あ……」
 それはあまりに有名な吸血鬼の伝承だった。
「吸血鬼は流水を渡れない」
 ハクは頷いた。
「渡れない、というのは少し語弊がある。渡ろうとすると――そうだな、簡単に言うと邪気が水に流されてしまうんだ。したがって私たちの体は分解されてしまう。川くらいならフィルターで何とかなるんだが海は私の身体能力では無理だ。――だが、貴方なら多分いける」
「そんな。お前だけ置いていけってのか?」
「何か、潜水艦でもあればいいが、そんな都合のよいことはないだろう」
「じゃ、じゃあ、ラッセルさん達に頼んで潜水艦を用意してもらうとか」
「ケイ。六時間前の地震といい、ハクアの話しといい、明日の夜にでもハクアが地震を起こすつもりなのは間違いないだろう。きっと間に合わない。だいたい、その結界の空白部分自体もその過程でできた産物なんだ」
「ど、どういうことだよ?」
「おそらく、その空白部分の近くにハクアの活断層を動かす術式――魔法陣が眠っているんだ。魔法陣が強力すぎて、結界の魔法が削られている。これがその空白地帯の正体だろう。空白は術式が起動していくにつれて大きくなっていく」
「あ、じゃあ空白が海面以上の高さになったら船でも脱出可能だ!」
「賢いハクアのことだ。結界が削れて行くのを黙認しているのは何か訳があってのことだろう。この場合、理由は津波だろうな。津波を湾内に導くために結界を一部破壊しているのだ。――つまり、私が言いたいのは、津波が来る前に貴方達は逃げろということだ」
「そんな! 俺達だけ逃げるなんてできないよ。第一、この町の人達はどうなるんだよ」
「ヴィルスが流水に弱いのなら、溶けて完全消滅だろうな。うまく考えたものだ。夜ならば建物内で休眠中のクリ―パーたちを一掃できるのだからな。万に一つも討ち漏らしが無い」
「ッ」
 ケイは立ち上がった。くらりとよろめいたが、今度は何とか耐えた。
「ケイ?」
「急ごう。とにかく、こうしてへばってる場合じゃない。ラッセルさんたちに話して、何か善後策を考えないと」
「分かった」
 ハクもわずかにふらつきながらも立ち上がった。
 二人はおぼつかない足取りでインターチェンジを目指した。

    ×          ×           ×           ×

 浜辺には誰もいなかった。
代わりにダイビングセットが二セット岩陰に隠してあるのをハクが見つけた。
「そんな……」
 ケイは茫然と立ち尽くした。
「隊長達は先に離脱してしまったようだな。私たちが戻ってくることを信じてダイビングスーツを残しておいてくれたようだが」
 ハクは淡々と言った。
「落ち着いている場合じゃない! なんとか、この町から抜け出さないと」
「貴方は逃げるんだ。私はここに残る」
「残るって、そんなことしたらハクが殺されちまう」
「何とかなる」
「いや、ならないだろ! さっきのハクアと戦ってた時だってそうだ。お前、あいつに勝てなかっただろうが」
 ケイがそう言うと、ハクは決まりが悪そうに視線をそらせた。
「あれは、私が言霊で縛られているからだ」
「コトダマで縛られている?」
「名前を聞かれる、相手がそれにこたえて名前を言う。これでしかるべき呪法を用いれば相手を思い通りに動かせるんだ。私は迂闊にもハクアに名前を奪われてしまったんだ。魔術師は通常自分から名を名乗る。もしくは名を聞かれても決して答えない……のだが、私はあいつの持ってくるもの珍しい土産話に油断してしまっていたのだ」
「ハクって意外にどこか抜けてるよな」
「ム……」
 ハクは手を腰にあてた。
「どういう意味だ」
「や、そのまんまの意味だけど」
「言っておくが、私は言霊を縛られていても戦える。やすやすと彼に敗北したりはしない」
「でも、勝てないんじゃないか?」
 ケイがそう尋ねると、ハクは言葉に詰まった。
「じゃあ、やっぱりここに一人残るなんてのは駄目だ」
「しかし! ここから出る方法など他にない! ハクアの張った結界は強力だ。私では刀が無いと破れない。――ここに二人で残れば、次の夜には二人とも殺されている。それにハクアから万が一逃げ切れたとしても、津波に呑み込まれては私も、そして貴方とて粉々に分解されてしまうぞ」
「でも、俺はハクを置いて逃げるなんてことはできない! 俺が吸血鬼になったんなら少しくらいは役に立つかもしれないし」
「立つわけないだろう! 何の戦闘訓練も積んでいない者にどうして戦えるんだ! 貴方は邪魔なだけだ!」
「弓矢か何か作ってくれよ。そしたら俺、援護できるから。これでも俺、全国大会行ったことあるんだぞ」
「弓矢でどうやって戦うのだ! 相手は銃弾を見てから避けるような飛ばし屋なんだぞ!」
「でも、俺は!」
「なんだ?」
「俺は、お前と残りたい!」
「どうしてだ! ここにいては貴方も殺される!」
「お前のことが、好きだからだよ!」
 ついに言った。というか、言ってしまった。しょうがないのでケイはいじけたようにそっぽを向くことにした。
「な、なななななな、な、にを!」
「言ったまんまの意味だよ。俺は、お前のことが好きなんだよ、多分。出会った時から、ずっと。多分、一目ぼれ」
「――」
「だからハクと一緒にいたいんだ。というか、ハクを置いて逃げるなんて、死んでもいやだ」
「――あ、貴方は、間違っている」
「じゃあ、ハクは俺のことどう思っているんだ?」
「……分からない」
「じゃあ、俺のことをもっと知ってほしい。そのためにも、こんなところで君を死なせるわけにはいかない」
「しかし!」
 ハクは叫んだ。答えを求めるように、ケイの目をまっすぐに見る。
「しかし、それは絶対にいけない! ここに残れば、貴方は殺される! 私とて貴方を守りきれない!」
「じゃあ、ハク一人なら勝てるのかよ?」
 ハクは目を伏せた。
「……勝てない」
「なら」
「勝てない。が、少なくともハクアは倒せるかもしれない。津波が町に押し寄せてくる瞬間、何とか隙をついて、ハクアの体に傷をつけ、ハクアとともに私は海水に身を投げる。そうすれば私が死ぬと同時にハクアに弱点が戻り、傷から入った海水の毒で運が良ければハクアを滅ぼせる。これは、貴方を守りながらできることでは――」
「そんなの絶対に駄目だ!!!!」
 ケイはがなった。
「そんなの、自殺するも同然じゃないか。そんな、そんな馬鹿なこと絶対に止めてくれ!」
「しかし、それがもっとも合理的だ。私は周囲と摩擦ばかり起こすし、せめてこうして吸血鬼を一匹倒してから死ぬのならそれでいい」
「いいわけあるか! 死んだらそれで終わりだろうが!」
「私は本気だ」
「そりゃ本気だろうな! ハクは自分の身は二の次のどうしようもない奴だからな! でも、俺はお前に生きていてほしいんだ!」
「ケイ……」
 ハクは複雑な顔になった。じっとケイを見つめて来る。それに負けないようにケイはハクの眼をまっすぐに見返した。
「ケイ、分かってほしい」
「分からないさ! お前の考えてることなんて分からない! でもそんなの絶対に間違ってる!」
「……そうか」
 ハクは目を閉じて静かにそう言った。ケイはほっと胸をなでおろした。
「ハク、分かってくれたんだな」
「かくなる上は――」
 ハクは低く、何事か呟いた。
 途端、ケイは見えない縄で体をきつく縛られたように直立不動の姿勢になった。
「なっ!」
 ケイが目を見開く。体が、自由に動かない。そのままバランスを崩し、その場に倒れてしまう。
「ハク、何をするんだ」
「貴方を強制的に結界の外に送り出す。傷口はもうふさがっているな? なら、少ししみるくらいだろう」
「止めろ! ハク!」
 ハクは構わず詠唱を開始した。普段は詠唱を必要としないハクだが、今はそうしないとケイに術をかけられないのだろう。
 ハクの詠唱はケイには聞き取れない。しかしそれは歌うように清らかなイントネーションだった。
「や、め、ろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」
 ギギギギギ、とケイはカチカチに固まって動かない両腕に力を込めた。すると少しずつではあるが、両腕が体の側面から離れだす。
「あああああ!」
 ケイは吠えた。
「な、馬鹿な! 私の魔術に抵抗していると言うのか!」
 ハクの眼が驚愕に見開かれる。
「ハク! 止めるんだ!」
 ケイは必死の形相でハクを見上げた。ハクは息をのんだ。
「かくなる上は、言霊を使う」
 ハクは言った。ケイは目を見開いた。
 これ以上の負荷がかかるなら、それはもう抵抗のしようがなかった。
 ハクの眼が赤く、燃えるように揺らめく。
「中野ケイ!」
「っ! やめろぉぉぉぉぉぉぉぉっぉぉぉぉ!!!!!!!」
「退去せよ!!」
 それはどうしようもない暴力の渦だった。ケイの抵抗をよそにその巨大な力はケイの意思の力を捻じ曲げ、塗りつぶした。体が引きずられるように海へと向かっていく。ケイは何かにすがろうとして砂をその手につかむ。
「ハク!!!!」
 ケイは見上げた。
「ケイ……」
 ケイが最後に見たのは、
「さようなら――」
 今にも泣き出しそうな、ハクの顔だった。

   ×           ×           ×            ×

「ハク!」
 ケイは掛け布団を跳ねのけ勢いよく身を起こした。
「って、ここは……?」
 ケイは見慣れない白い部屋を見回した。窓の無い密室だった。ケイはベッドで眠っていて、隣には、
「よう、目が覚めたか」
 いつもの封聖庁の制服を着た、ラッセルとキリトが立っていた。二人とも銃を背負っていたり、ナイフを腰に下げていたりと完全武装だった。
「ラッセルさん、キリト……!」
 言ってから、ケイはハッとなった。
「ハクが、ハクが危ないんです! 早く助けに行かなきゃ! 俺だけ、助かるなんて、こんなッ!」
 一気にまくしたてるケイにラッセルは両手を前に出した。
「分かった。分かったから、落ち着いて話をしなさい。わしらはまだ何一つ状況が分かっとらん」
「あ……」
 腕を組んでいたキリトがため息をつく。
「とりあえず、その体、どうしたんだってことから聞きたい。服には大量の血がついてた。普通なら生きてられる量じゃない。ハクが治療したのか?」
「それは……」
「それで、どうして、お前の体は、氷みたいに冷たいんだ?」
「――それは、実は……」
 ケイが吸血鬼になった事を話せばハクのことも話さなければならなくなる。だが、はっきり言って正直に話すよりほか、ケイには方法が思いつかなかった。ケイは目を伏せると、とりあえず、ハクと中央交差点で合流したところから、ポツリポツリと話し始めた。
 そうして、ケイのまとまりのない話を全て聞き終わった二人は、大きくため息をついた。
「あの、ハクは……」
「ハクができそこないの吸血鬼だってことには驚いた。だが、俺たちは別にそうだからと言ってハクを蔑んだりしない」
 ラッセルも頷いた。
「彼女は優秀なエージェントだ。そのようなことは些細なことだ。それより、お前さんだ。お前さん、吸血鬼になったって言ったな。ならこれから普通の生活は望めんぞ。おそらく、私生活において監視がつくことに――」
「そんなことはどうでもいいんです!」
 ケイはせき込んで言った。
「それより今何時ですか?」
「今午後十時だ。ケイ、お前は昼間ずっと寝てたんだよ」
「じゃ、じゃあ、まだ津波は起こっていないんですね!」
「ああ、起こっとらん。――しかし先ほどから小さな揺れが断続的に起こっとる」
「ここはどこですか? すぐにでもハクを助けに行かないと!」
「落ち着け坊主。ここは湾の外、封聖庁二番隊の偵察艇の中だ。もちろん潜水艦などないから現在湾内には泳いで行くしかない状況だ」
「じゃあ、泳ぎます!」
「アホ。津波来たらどうするつもりだ! いくら吸血鬼でもただじゃ済まないぞ。仮に津波が来る前に上陸できたとしても、その後どうするんだ? 改めて津波の餌食になるつもりか?」
「でも!」
 その時、ドォン、と船が震えた。
「チ、この船もヤバいな。そろそろ離脱しないとまずいです、隊長」
「だな。――一応ヘリコプターも用意だ」
 ラッセルは通信機に向かって指示する。
「ちょ、ここから離脱って! ハクを置いて逃げるんですか!」
「この状況で俺らに何ができる? 俺らまであいつと一緒に海のも屑になれってのか?」
 キリトが言う。
「でも!」
 ケイは掛け布団を跳ねのけ、ベッドから下りた。
「おい、坊主、どこへ行くつもりだ?」
 ラッセルがあわててケイの後を追う。
 ケイは部屋を飛び出し、長い、赤いじゅうたんのひかれた廊下を突っ走った。いつもの自分よりもはるかに速く、風のように駆け抜ける自分に、ケイはいささかの哀しさを覚えながらも廊下を突っ切って、階段を上った。
 ドアを開けるとそこには暗い海が広がっていた。
「あれは……!」
 ケイは目の前の光景に目を見開いた。目の前には濃いピンク色のオーロラのようなものが湾内と湾外を隔てていた。
――そうか、あれがハクアの結界か!
 結界が見えるのも、おそらくケイが吸血鬼になったからだろう。
「坊主!」
 ドアをバァンと開けてラッセルとキリトが飛び出してくる。
「ここから泳いで行くなんて不可能だ」
「――そんなことしませんよ」
 ケイはそう言いながら、目を凝らしてカーテンのように揺れる結界を見た。何か、どこかに穴がないかと、必死に探した。
「坊主」
 ラッセルはポンとケイの肩に手を置いた。ケイはラッセルを見上げた。
「お願いします、ラッセルさん、何とかして下さい」
「坊主、ハクを見捨てるのは我々とて心苦しい。しかしだな、彼女を救おうとしてもそれは到底不可能なことだ。皆を巻き込んでしまう。おまけにそれだけリスクを冒して、仮に湾内に入れたとしよう。それでもそこまでだ。ハクと一緒にハクアの餌食になるだけだ」
「でも、何もせずにここで逃げるなんて、そんなことできない! ラッセルさん、お願いです! そうだ、どうかあの結界のところまで俺を連れてって下さい。後は何とかします」
「お前なぁ、ハクと一緒に死ぬつもりか」
 キリトがあきれ顔でそう言った。
「それでも――俺はハクのことをほっとけないんです!」
 そのキリトにケイは真正面から、はっきりとそう言った。
 キリトが口笛を鳴らす。
「だが、坊主、ここまでだ。これより我々は離脱する。ほれ、一番隊の連中も」
 ラッセルは指差した。大きな船が進路を変えて、引き返していくところだった。
「でも、俺はハクを死なせるなんてできない! こんなこと言うのはなんですけど、このままハクを見殺しにしてしまっていいと思っているんですか! こんなこと、――こんなことなんて、ありませんよ!」
ラッセルの顔がわずかに曇った。
「ケイ、お前なあ、女なら他にたくさんいるだろうが。確かにハクはいい体してるけどな、そんなのもっと探せば――」
「お前はだまっとれ」
 ラッセルはぴしゃりとそう言った。
「坊主、あのな――」
 その時、再び大きな波が船に押し寄せた。また地震が起きたのだ。ケイは揺れに耐えながら湾の方を見やった。
その時、奇跡とも言えることが起こった。
「壁が、崩れてる……!」
「何だって?」
 キリトが大声で聞き返す。
「結界の一部分が崩れている」
「本当か?」
 ラッセルは腰にぶら下げていた双眼鏡のような機械を取り上げた。
「……本当だ……!」
「隊長、しかし、今からそこへ飛び込むなど無謀です!」
「……いや、一度あそこに飛び込みさえすれば、あの結界の天井にいれば波にはのまれん。その後、敗れた結界から脱出すれば問題ない。救出は、可能だ」
「しかし、あの結界内にはハクアがいるんでしょう? 撃墜されてそれで終わりです」
「でも、もし、もし、ハクがハクアに勝っていたらどうするんですか! ハクは戦いには勝ったのに、そのあと助けが来ないから死ぬことになってしまう!」
 ケイは必死にラッセルに訴えた。
「ケイ! もうあきらめろ!」
 キリトは半ば面倒くさそうに言った。
「だいたいな――」
「よし、ではハクの救出作戦を行う!」
「そうそう、隊長の言うとお……た、隊長! 何言ってんすか!」
「わしは、ハクが負けるなど想像がつかん」
「ケイの話ではハクアとの相性は最悪です! ハクは勝てない!」
「ならば援護するまで! キリト、お前はハクに命を助けられているだろう? 恩は返すのが筋だろう?」
「そうですけど!」
「死ぬのが怖いのならお前は科学班とともにこの船で速やかに離脱せよ」
「隊長、勇気と猪突猛進とは違います!」
「わしは隊長として、部下を助けに行く!」
「でも、もしハクが死んでいたらどうするんですか!」
「ハクが死ぬなど、考えられん」
「そんな無茶苦茶な! 仮に死んでいなくても、ハクアに負けていたらどうなるんですか! 援護と言っても吸血鬼には備え付けの装備程度では役に立ちません!」
「それに関しては大丈夫だと思う」
 ケイが口をはさんだ。
「なんだかんだいって、ハクはハクアに攻撃出来ていた。多分、足りないのは威力なんだ。それで威力が足りないのは武器が悪いからなんだ。そう、日本刀なら、多分」
「つっても、日本刀なんてないぞ」
「そうですか……」
「当り前だ! 日本刀なんか普通備え付けてあるか」
「いや、わしはかつてハクに聞いたことがあるぞ。確か、幻想剣を使うには魔力をためて収斂できる構造を持っていればそれで良いと。それにたまたま日本刀があっていただけだとな」
「そうか!」
 ケイは言った。
「とにかく、構造的にそれっぽいものを積んで行けば」
「行けるはずだ」
 ラッセルは頷いた。

   ×         ×          ×          ×

 星空一つ見えない暗闇の中、ヘリコプターは空に飛び立った。暗い空に溶け込むような迷彩色のそれは一直線に湾内を目指す。
「キリト、ギリギリまで高度下げろ」
 ラッセルはキリトに向かって指示した。
「了解です」
 キリトは半ばあきらめかけの声でそう言った。
「なんだ、キリト、元気ないじゃないか」
「そりゃ、今から死にに行くようなもんですからね」
 その割にはヘリコプターを操縦する仕草は気合いが入ってる。
「ハクは、大丈夫でしょうか?」
 ケイは手に持つ木刀を握りしめた。
 はっきり言って、所定の条件を満たすものはこれくらいしかなかったのだ。木刀は人を切るという構造はしていないが、魔力をためることができるならと、最終的に候補になったのだ。他にもパイプや、チェーンソーなどがある。
「とりあえずその時になればこいつらを持って行きます」
「そろそろ結界通過です」
 キリトが知らせる。
「問題は、どうやってハクに武器を届けるかだな。あまり近寄ると、ハクアの攻撃を受けた場合、こちらが撃墜されてしまう。それでは全く意味がない」
 ラッセルが眉根を寄せて言う。
「俺が、届けます」
 ケイが声を上げる。
「俺が、もしもの時は、こいつら持って飛びおります」
「結界通過しました」
 キリトが操縦席から叫ぶ。
「とにかく、ハクの姿を探すんだ」
 ケイとラッセルはそれぞれ左右のガラスから眼下に広がる風景を俯瞰した。
「この高さではさすがに分からんか」
 ラッセルが舌打ち交じりに言う。
 ケイは眼に力を集中させた。吸血鬼の視力で、闇を、距離をも無視して足元に広がる風景にハクの姿を探す。
 そしてついにケイの眼は、オフィス街の一角、デイアネイラと決着をつけたあの柏市一の高さを持つセンタービルをとらえる。
「いました! あそこのビルです!」
「どこって?」
 キリトが怒鳴る。
「あそこ! あの青い光がハクの剣だ!ヘリポートがある! 煙が上がってる!」
 言ってからケイは目を細めた。
 ハクがハクアと戦っている。ハクアは体の数か所に刀傷を負っているのか、服が破れ、出血している。対するハクは、コンクリートに膝をつき、青い剣を支えに荒い息をしていた。
「どうなっている?」
 ラッセルがケイに尋ねてくる。
「ハクが負けています」
 ケイは唇をかみしめる。
「でも生きてんだな?」
 キリトが大声で訊いてくる。
「生きてる」
「よし! どこから降りる? こちとらギリギリまで落とせるぜ?」
「ここから行ける……!」
 ケイは血管という血管が倍に膨張したかのように感じた。
「え? なんつった?」
 ケイはドアに手をかけた。
「ここから、行けるよ! 今なら、何だってできそうなんです!」
 ケイはそう言うと、ガラリとヘリコプターの乗車口を開けた。
 眼下に広がるのは漆黒の街。
 その静寂の闇に、ケイは身を乗り出した。
「坊主!」
 ケイが振り向く。ラッセルはニッと笑った。
「後のことなど考えるな。気張って行けよ!」
「はい!」
 ケイは頷くと、一気にその闇に身を投げ出した。

    ×          ×           ×           ×

 風を切り裂いて降下する。
 ケイは摩擦する空気を無視して叫んだ。
「――――――!!!!!」
 ハクとハクアがはっと上空を見上げる。
「小癪なぁぁぁぁ!!!」
 ハクアは歯をむいた。ハクアの手に半透明の揺らぎが生じる。
 そのままハクアは一挙動で空気の槍を投げ放った。
 空気の槍は正確にケイに向かって飛んで行く。
「ガッ」
 槍はケイの抱える武器を粉砕し、ケイの右肩に突き刺さった。ケイはそのままヘリポートに激突した。体に想像を絶した痛みが走る。いや、もう痛みとすら感じられない。ただの不快な脳への信号だ。
 しかし、ケイは生きていた。吸血鬼の体とはそれほど優れているというのか。
「ケイ!」
 ハクの呼び声が聞こえる。その答えに答えるように、ケイは立ち上がった。高々百メートル程度の降下など些細なことだ。しかし、
――くそ、武器が壊れちまった……!
「死ねぇぇぇ!!!」
 ハクアが突進してくる。その両手には半透明の剣が握られている。風の剣が、唸り声を上げる。
 駄目だ。まだ飛び降りたダメージから完全に回復していない。奴の攻撃を視認できてもかわせない――!
 ギィン、と。甲高い音が響いた。一足のうちにケイのカバーに入ったハクがハクアの斬撃をはじき返していた。
「ぐぅッ!」
 しかし、ハクはそれまでだった。彼女はその場で膝をついてしまった。
 どうやら彼女は言霊に抵抗するだけで精いっぱいのようだった。その場で、頭を下げ、必死に荒い息をしている。
――駄目だ。今のハクには戦えない。なんとかハクアの意識を……!
 ケイはハクアに突進した。
「クズめ!」
 ハクアはその目にケイに対する殺気をあふれんばかりにはらませていた。
――人のまま戦ってはいけない。
 大切なことは、獣の力を制御しきること。
 ならば、この場限り、人を捨て、獣となる!
「AAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
 ケイは吠えた。両手の爪が白銀の剣のように変化する。
 剣の使い方なんて分からない。
 しかし、そんなこと関係ない。なぜなら、ケイの本能は肉を引き裂く獣の爪の使い方を知っているのだから。
「ちぃぃぃぃッ! おのれぇ!」
 ハクアの斬撃は暴風雨のようだ。
 一撃ごとに重くなるそれは、しかし、単純な動きをしている。足首を払う一撃と心臓をえぐり出す一撃をまとめてさばく。
 しかし、それまでだ。
 ハクアとケイとではあまりにも基本能力が違いすぎる。炎を纏った刺突にケイははじかれる。
 同時にはるか彼方より、波の押し寄せる音が聞こえた。
「墜ちろ!」
 ハクアはギンと目を見開いた。
 ハクアの炎を纏った剣がケイの胸を貫く。
「ガッ」
 ケイは後ろに弾き飛ばされ、ビルの屋上から投げ出された。
 虚空に体が泳ぐ。ケイは血を吐いた。
「ああ」
 死んだ。
 落ちて行く幻想の中、ケイはまだ見果てぬ屋上を見上げた。
 絶叫が闇の空を貫く。ハクの絶叫だった。
 そして、
「飛べ!!! 中野、ケイ!!!!!!」
 その一言に、
「あ――」
 全てが覚醒した。

 ゼロの刹那、ケイの体は突風にさらわれた。落ちて行く力は緩くなり、代わって上昇する力がケイの全身に纏いつく。
 地面が揺れている。津波が押し寄せてくる。
 ケイは再びビルの屋上に迫り、さらにその上にまで飛翔した。
「馬鹿な!」
 ハクアの眼が驚愕に歪む。
「私よりも、強力な能力だと……!!!」
 ケイは信じられないという気持で自分の全身を見回した。
 吸血鬼の特殊能力。
 大気制御系。
 それが、ケイの力だった。風がケイに語りかけてくる。
 使い方が、分かる。
「風に――命を刻む、感覚……!」
 大気が唸りを上げる。集束していく。大気が、凝縮され、弓と、槍の形をなしていく。
「ハクアァァァァァァァァァァ!!!!!!」
 ケイは叫んだ。つがえた矢はハクアに照準を。目標に接触する瞬間、七つに分かれ、包み込むように、確実に串刺しにする魔弾に。
 ケイはハクアめがけて渾身の一撃を叩きこんだ。
「この程度ッ!!」
 ハクアの目前で槍が七つに分かれる。しかし決して威力は落ちない。むしろ周りの大気すらのみ込んでより巨大化していく。
「GAAAAAAAA!」
 ハクアが吠える。右の炎の剣を振りぬくと同時に左の風の剣をケイめがけて投げ放つ。
 炎の剣はケイの矢を薙ぎ払い。
 風の剣はケイの胸を貫いた。
 ケイはのどの奥から鉄の味がこみ上げてくるのを感じた。しかし、
――まだ!
 ケイの矢の一本が激しく回転しながらハクの目の前にガンと突き刺さる。
 ハクがハッと顔を上げる。ケイはその矢に再び命を注ぎこむ。
「立て! 抜けぇ! ハクゥゥゥゥゥゥゥゥ!!!!!!!」
「なにぃッ!」
 ハクアが振り向く。
 その時ハクは既に風の剣を抜き放っていた。
 風が唸る。
 ハクは血を吐くように叫んだ。
「瞬炎ッ――――」
「おのれぇぇぇぇっぇぇぇぇぇ!!!!!!」
 ハクアが風の盾を生成する。
 ハクの魔力の奔流とともに風の剣が巨大化する。込められた魔力量は、今までとはケタ違いだ。
「だあああああ!」
 ハクは全てを切り裂く幻想の剣を振り切った。
「ぐわあああああああ!!」
 ハクアが苦痛に絶叫する。
 傷口は浅い。しかし、刹那のうちにハクアの全身は青い炎に包まれた。
 瞬炎、それは本来切った対象を焼きつくす、凶悪な魔法だったのである。
ハクアの体はやがて完全にこの世から消滅した。
「やっ……た……」
 ケイはそう呟く。同時にケイの体にまとわりついていた風が役目を果たしたとばかりにケイから離れて行く。ケイの体は落下し始めた。
「ケイ!」
 ハクは急いでケイの落下地点までかけて行き、ケイを受け止めた。
「ケイ、しっかりしなさい!」
「……ハク」
 ケイはうっすらと目を開けるとハクを見上げた。
「胸にハクアの剣が刺さったのか! 大丈夫だ。きっと助かるから!」
「ハク……無事で、良かった」
 ケイは震える声でそう言った。
 それから、ケイの視界は薄もやがかかり、ハクの顔もゆっくりとかすれていった。ケイはただ、遠くに波の音を感じるだけだった。






エピローグ

 目が覚めると、自分が清潔な白いベッドに寝かされていることに気がついた。
 ケイは掛け布団を押しのけると身を起こした。ケイは病院の一室と思われる白い部屋に寝かされていた。窓は開いていて、白いカーテンをなびかせて春風が部屋に吹き込んでいる。ベッドの横には点滴スタンドが立っている。
「お、目が覚めたか?」
 聞きなれた声に振り向くと、ドアの横の壁にキリトが寄りかかっていた。その表情は心なしか沈んでいるように思えた。キリトは全く似合っていないダーク―スーツを着ていた。
「キリト……」
「おう、ちょっと待ってな。医者呼んでくるから」
 キリトはひらひらと手を振ると病室から出て行った。

「それでッ! あの、どうなって……?」
 リンゴの皮を器用にむくキリトにケイは尋ねた。
「どうなるもこうなるも、お前は見事ハクを救い出し、無事帰還した。んで怪我の酷いお前は封聖庁専属の病院に約三日間も入院しているってわけだ。まあ心臓貫かれていたし、吸血鬼といえども生きているなんてびっくりだ。――本当は真っ暗な部屋で寝てた方がお前の回復も早いし、体にもいいんだが、目覚めたとき、それはさすがにいやだろう?」
「じゃ、じゃあ、ハクとラッセルさんは……? あと、柏市はどうなったんですか?」
 キリトはリンゴをむく手を止めた。
「柏市は、壊滅した。津波が押し寄せてきて、町一つを丸々のみ込んだんだ。今は水も引いているが、人の住めるような環境じゃない」
「じゃあ、町の人たちは……?」
「――」
 キリトは無言で首を振った。
「――そっか」
 妙な気分だった。町の人たちが死んでしまった。たくさんの人が死んでしまったことは悔やむべきことなのだろうが、ケイはそれが人ごとのように思えていた。色々と思い入れとかがあってもよさそうなのに、これではあんまりなのではないだろうか。
 何というか、感覚的には外国で起こった大地震という感じだった。
「ラッセル隊長は亡くなられた」
「何だって!!」
 図星に言ったキリトの言葉に、ケイは瞠目した。
「一体、俺が気を失っている間に何が起きたんですか!」
 キリトはため息をついた。
「隊長は自殺したんだ」
「え?」
「やっとつながった。柏市に来てから隊長はどこかおかしかった。それこそ、自分の命が勘定に入っていないかのように。それもそうだ。柏市に潜入するその前の日、隊長の奥さんが自殺していたんだ。で、隊長も後を追おうとしたみたいなんだ。遺書が残っててな。全く、死ぬ前に遺書くらいもう一度書きなおせばいいのに、隊長らしい」
「そんな……いきなりで、意味が分からない!」
「だろうな。この町に潜入しようと考えたこと。水没する直前だって言うのに柏市にヘリで駆けつけることを決めたとき。――なるほど隊長は、死にたがっていたんだろうな。んで、結局死に損ねた隊長は昨日睡眠薬飲んで死んじまった。奥さんが柱からぶら下がっている目の前で、眠るようにご臨終だ」
「ラッセルさん……」
「ウサギは寂しいかったら死ぬって言うけど、隊長も、寂しかったんだろうな」
「――」
 言葉が見つからなかった、ケイはただ、リンゴの皮をむいていくキリトの指を見つめるだけだった。
 やがてリンゴの皮をむき終わったキリトはケイにリンゴを差し出した。
「ほい」
「あ、どうも……」
 とりあえずリンゴの皿を受け取る。キリトは立ち上がった。
「もうすぐお通夜の時間なんだ。わりいな。また明日にでも来るから、その時これからのことを話すよ」
「これからの、こと」
 ケイは呟いた。
――そうか、俺、吸血鬼になったんだった。
「暇だからってここの看護師さん口説くんじゃないぞ。俺が全部マークしてんだからな」
「しませんよ、そんなこと!」
「ははははは。じゃあな、ケイ」
 キリトはひらひらと手を振るとケイに背を向けた。
「あの!」
 ケイはキリトを呼びとめた。
「――心配しなくても、ハクはぴんぴんしてるよ」
「そう、ですか」
 キリトはにっと笑った。
「んじゃな。お大事に」
 そう言うと、キリトは今度こそドアから出て行ってしまった。
 ケイはキリトの足音が徐々に小さくなっていくのを聞きながら、ぐるりと病室を見回した。それから窓の外に目を移した。窓からは青空が見えていた。どこかウサギに似ている白い雲がゆっくりと流れている。ケイは再び体を倒した。
 なんだか、遠い国の夢を見てきたような気分だった。まるで現実感がない今に、ケイはただ茫然と、不思議な余韻に浸っていた。
 不意に、トシヤが死んだ時の、あの凄惨な光景が脳裡に蘇ってきた。
「っ」
 思わず掛け布団を握る手に力を込めてしまう。しかし逆に言うと、それを思い出してもその程度しか思うところがなかった。吸血鬼になったから心も強くなったというのだろうか?
「みんな、死んじゃったのか……」
 ケイは何ともなしに呟いた。それからゆっくりと目を閉じた。

 ハッと目を覚ますと、ベッドの横にはハクが立っていた。病室は夕日の赤い光に包まれていた。ケイは身を起こした。
「起こしてしまったか」
 ハクは白いブラウスにスカートに黒タイツという出で立ちだった。
「いや、全然気にしないでいいよ。その、俺、ハクに会いたかったから」
「そうか。――ケイ、無事でよかった」
「ハクも」
 それから二人はしばらくの間お互いを見つめあった。
「少し、外を歩かないか?」
 ハクは少し急きこんでそう提案した。無論、ケイに断る理由など無かった。
 ケイは手早く着替えを済ませてしまうと、窓をまたいだ。ハクもその後に続く。病院の面会時間は終わってしまっていたので、このような方法をとるよりほかなかったのだ。ベッドにはハクが身代わり人形を寝かせておいてくれた。
 病院はものすごい田舎に建てられているようだった。病院を囲む林を抜けると、辺りは田園風景が広がっていた。
「本当は仕事中なんだ」
 後ろに手を組んで前を歩くハクはそう言った。
「キリトから貴方が目覚めたと聞いて少し抜け出してきた」
「仕事?」
「ああ、柏市の一件の隠ぺい工作という仕事だよ」
「――そっか」
 ハクはケイを振り返った。それからケイの表情が沈んでいるのを見て、
「気に病むことはない――と言いたいのだけど、無理だろうな。しかし、ケイ。少なくとも私は貴方に救われた。私はあそこで、貴方が助けに来てくれて、本当にうれしかった」
「ありがとう」
 ケイは短くそう答えると、ほほ笑んだ。
「何だか、柏市での出来事が夢みたいでさ。実感がなかったんだけど、こうしてハクと話せて、何かようやく落ち着けた」
「それは良かった」
 ハクはぎこちなく微笑んだ。
――笑う時はもっとリラックスするものなのに。
 ケイは心の中で苦笑しながら、
「ハクは、これからどうするの?」
 と尋ねた。
「私はまた雑務に戻る」
「その後だよ。これからも仕事を続けて行くのか?」
「そうだな。それよりほかにやることもないし」
「じゃあさ!」
 ケイは急きこんで言った。
「じゃあ、連絡先とか教えてくれないか? 俺、これからもハクと話がしたい。もちろん、ハクの邪魔はしない。気が向いたら俺にメールなり電話なりしてくれれば、俺はそれでいい」
 ハクは困った顔になってうつむいた。
「貴方には、できればこれからも普通の人として生活をして欲しい。私などとかかわっていればいつ厄介事に巻き込まれるか分かったものではない」
「構わない。それに、俺は吸血鬼だ。もう普通の生活なんか望めない」
「それは大丈夫だ。貴方の分の仕事は私が受注する。これは貴方を吸血鬼にした私の責任だから」
「そんなの、ハクが大変だ。俺の仕事は俺がやる」
 ハクはゆっくりと首を振った。
「貴方は、できる限り普通の生活をしていてほしいんだ。上にも話を通してある。貴方は何も気に病む必要はない」
「でも、そんなふうにされて、俺が今までどおりの生活ができるわけがないだろ。きっといつだってハクのこと思い出して、申し訳ない気持ちになっちまうよ!」
「それは――」
 ハクは目を伏せたまま、言葉を探すように口ごもった。
「分かった。じゃあ、俺、普通の生活もやるし、仕事だってやるよ。それで文句は無いだろ?」
「しかし!」
「俺は、ハクと一緒にいたいだけなんだ」
 ケイはまっすぐにハクを見つめながらそう言った。
「っ。そんな風に見つめるのはやめてほしい!」
 ハクはケイから顔をそむけた。
「あ、我ながらちょっと臭いセリフだったかな」
「そうだな。貴方には全く似合わない」
「ひどいな……。言っとくけど、俺中学時代は演劇部入っていたから、こういう台詞には自信があったんだけど」
「嘘だな」
「あ、ばれた?」
「貴方は一体何が言いたいんだ……。全く、議論する気も失せた」
 ハクはため息をついた。
「だが、やはり仕事は当面の間は私がやろう。貴方はせめて大学を卒業するまでは学業にいそしんでくれ。――亡きラッセル隊長も亡くなる前には色々と上にかけあってくれたのだ。それを無駄にするのはよくない」
 ケイは顔を曇らせた。
「そっか。なら、しょうがないな」
「――」
「ラッセルさん、何で死んじゃったんだろう? やっぱり寂しかったんだろうか?」
「そうかもしれないな」
「キリトが言うには、ラッセルさんは柏市の事件で死ぬつもりだったんだって」
「それは、どうだろうか」
「え?」
 ハクは足をとめた。ケイを振り返る。
「隊長は、死に場所を求めて柏市へ来たと、キリトや貴方は考えているのだろう? しかし、私はそうは思わない。隊長は誰よりも人を思いやることができる人だった。だから、彼はきっと本気でどうしようもなく馬鹿な私や、不幸にも事件に巻き込まれてしまった貴方を全力で助けようとしたにちがいない。彼は決して死ぬために戦っていたのではないと思う。……人とは生来そのような生き物だと――私はそう信じたい」
「そっか」
 ケイは夕焼けに赤く染まる空を見上げた。
 それから二人は無言で黙々と歩き続けた。そしてふと気がつくと、日が沈んで辺りは薄暗くなっていた。
「引き返そうか」
 ハクはそう言った。ケイが頷く。
「今日は、貴方と話せてよかった」
「ああ、俺としてはこれからもこうしてハクと散歩したいところなんだけど」
「そ、そうか」
 ハクは顔を赤らめた。
「そう言えば、俺、何であのとき急に力を使えたんだろう」
「何のことだ?」
「いや、ハクアとの戦いのとき、俺、赤松君と同じ能力を使うことができたんだ。多分、今もできるよ」
 そう言って、ケイは右手を前に出して強く念じた。しかし、予想に反して何も起こらなかった。
「あれ、おかしいな。できない」
「それは私が言霊を使ったからだ。あの時ビルから落ちて行く貴方の姿を見て、無我夢中で叫んでいたよ。私に必要以上の力で飛ぶことを強制された貴方は結果としてそのような能力を覚醒させたというわけだ。だから、もちろん、今の貴方では逆立ちしてもあの時のように風を操ることはできないだろう」
「マジか? ちょっとがっかりだ。風使いとか滅茶苦茶かっこいいと思うんだけどな。うーん」
 ケイはなおも風を起こそうと右手を見つめて念じた。
「フフ、ケイ、貴方はそんなもの使えなくても十分魅力的だ。少なくとも――」
「あ、できた」
 突如としてケイの右手から風が吹いた。風と言ってもそよ風のようなかすかなものだったのだが、それはケイの隣に立っていたハクのスカートをふわりとめくりあげた。
 ハクの表情が笑顔のまま固まる。
「あ――」
 ケイは背筋に冷や汗が流れるのを感じた。
「あ、えっと、み、みみみみみ見えてないよ! 確かに吸血鬼って夜でも普通に色々見えちゃうけど、とりあえず俺は見てないよ、うん! でもキツネのキャラパンは良くないと思うんだよね」
「ケイ」
 ハクはゆらりとケイの懐に入ってくる。
 そして、
「ケイの、えっち」
 そう一言だけ、甘く囁くように言った。それからハクはくるりと踵を返すと軽い足取りで元来た道を歩き出す。
――全く。
「えっちはないだろ……」
 ケイは星空を見上げて呟いた。



                                         [終]

2010/06/26(Sat)13:37:42 公開 / ピンク色伯爵
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■作者からのメッセージ
初めましてピンク色伯爵と申します。
小説はあまり書かないのですが、この前読んだ作品が面白かったので、それに刺激されて今に至ります。
この作品は一応完結しています。できれば、感想等、簡単な評価を頂けると嬉しいです。

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等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
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