『王宮顧問哲学士エリスの詭弁論理的冒険 01-06』 ... ジャンル:ファンタジー 未分類
作者:プリウス                

     あらすじ・作品紹介
エリス=ウェウェコヨトル21歳。(元)王宮顧問哲学士である彼女はとある理由により国家追放の憂き目に遭う。高い政治レベルの対立が原因とされているが、実態は多くの女たちがエリスを恋い慕うようになったため、男たちが慌てて追放したのだと噂される。膨大な知識量を誇る彼女だが生活力はゼロ。論理で飯は食えないのだと思い知りながらも論理を捨てられない彼女の行き着く先は……。

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01

 エリスは論理的に考え、恐るべき結論に達した。それは自分が死んでしまうという結論であった。理由その一、もう三日も飲み食いしていない。エリスはすでに路銀も底を尽き、何も食べない日が続いていた。何かしらの食料、水分を補給することは生命維持には欠かせない動物行動である。エリスは人間であり、動物の一種に含まれる。よってエリスは生命維持のために食料補給という動物的行動を取らねばならない。しかしながらエリスはそうした必要な行動を取れずにいる。すなわちエリスは生命維持活動を行っていない。よってエリスは死んでしまう。理由その二、完全に道に迷っている。エリスは森の中にいた。ここが道なのか道でないのかという判断すら付かぬ鬱蒼と草木の茂る森の奥。旅に慣れた人間であれば、森の中で獲物を狩って食すという手段もあったろう。しかしエリスは元々王宮育ちの貴族のお嬢様であり、森の中で食料を調達するなど不可能であった。そして当然ながら、このような森の奥に他の人間がやってくるという可能性も低い。よってエリスは食料調達の機会を得られない。そしてこれが最も決定的な理由となるであろう、その三。行き倒れてもう動く気力すら存在しないエリスの眼前に一匹の巨大な獣、いや魔物が立ちふさがっているという事実。魔物は巨大な熊のような姿をしていた。目は赤く光り、見るものを恐怖に叩き落す異彩を放っている。口からはみ出た牙はとても鋭利で、エリスのようなか細い腕などひと咬みで切り裂いてしまうように思われた。辺りには魔物の放つ異様な臭気が立ちこみ、幼い少女であればそれだけで失神してしまっただろう。
 そのまましばらく時間が過ぎた。エリスはうつ伏せに倒れたまま、魔物の様子を窺った。不思議なことに魔物は全く動く気配が無かった。こちらを襲おうという様子すら窺えない。ただ魔物はそこにいて、こちらの様子をじっと見ている。幻覚だろうか。エリスはふとそのようなことを考えた。あり得ない話ではない。何故なら自分は三日も飲み食いせず、心地よい部屋で休むこともなく森の中を彷徨い歩いていたのだ。心身ともに衰弱し切っており、とても冷静な判断を下せる状態でもない。そのような自分であれば、魔物が目の前に現れるなどという幻覚を見ても何ら不思議ではない。死に行く存在、現存在としての自覚、即ち恐怖がこのような幻覚を見せているのだろうか。などと考えていると当の魔物が口を開いた。エリスはついに食べられることを覚悟した。だがそれは杞憂であった。それ以上に驚くことが目の前で起こったのだ。
「おい兄ちゃん。そんなとこで転がって、ひょっとして行き倒れってやつかい。見た感じ今にも死にそうって面してるじゃねえか。なんなら俺っちんとこ来るかい。たいしたもんは出せねえが、魚の干したやつと山菜のスープくらいなら用意出来るぜ」
「ふ。魔物が喋るとはな。私ももう駄目らしい。幻覚の次には幻聴まで。しかし、どうせならもっと良い幻覚と幻聴であってほしいものだ。例えばトナティウ国の太陽王と称されるオズワルド様。あの方が私の前に現れ、優しく包み込んでくれる。そういった素敵な幻覚であれば、私はそのまま死にこの身を委ねたとしても悔いは無い。もしくはウェウェテオトル国の王子、リクード様。光の王子と称せられるほどに見目麗しく、武勇に優れ、知性も並外れていると噂されている。まだ私よりも年下のようだが、そういった年下くんを愛でるというのも決して悪くない。強く逞しいオズワルド様、美しくも凛々しいリクード様。ああ、なんという究極の選択であろうか」
 エリスは逞しかった。体力的に瀕死の状態であるにも拘らず、限りなく無限に広がる妄想を逞しくしていた。実際のところ当の魔物は幻覚ではなく、エリスの前に事実として存在していた。そして妄想の中で身悶えるエリスを何か見てはいけないものを見るかのような目で見ていた。しかし魔物は魔物でいちおう良心があり、明らかな行き倒れのエリスを見捨てることは出来ないでいた。変態を前にしても助けてやらねばという魔物は、とても親切な魔物であった。
「なあ兄ちゃん。お前さんあれか? 男なのに男のことを好きになるっていう。いや俺は別に他人の嗜好にあれこれと文句つける気はねえけどさ。あんましそういうのおおっぴらにしねえ方がいいと思うぜ。世の中にはそういうのを嫌悪する輩もいるからな」
「はあ? いったい誰が同性愛者だと。と言うか、いったい誰が男だと?」
 エリスは上半身を少しだけ起こし、魔物の顔をにらみつけた。その表情があまりにも恐ろしかったのだろう、魔物は少しだけ後ろに退いた。そして恐怖を打ち消し、長く鋭い爪をエリスに向けた。向けてしまった。
 エリスは立ち上がった。
「ふざけるな! 貴様の目は節穴か。私のごとき淑女をつかまえて、男だなどと。言語道断ここに極まる! 良いか、聞くがいい。わが名はエリス=ウェウェコヨトル。栄光あるウェウェコヨトル家の長女にして、王宮顧問哲学士。若干十二歳にして国家最高の栄誉であるアポローン勲章を賜り、以来国家のためにこの頭脳を最大限活用してきたのだ。頭脳だけにあらず、わが美貌は国中に知れ渡ることとなり、数多の男どもが私の愛を勝ち得んと競い合ったものだ。そして今年、私は二十一。女が最も美しく、光り輝くとされる年齢に達したのだ。ゆえに私の美貌にひと欠片の疑いもない。あるのはただ私に降り注ぐ羨望と憧れの眼差しだけである!」
 エリスは倒れこんだ。その一瞬に残された全ての体力を使い尽くした。客観的に見てまったく愚かな行為だったろう。一時の誇りを守るために生きながらえるための体力を使い果たすなど。しかし時には命よりも大事なものがある。そしてそれを守るためには命をも投げ打つ覚悟が必要であり、エリスにとっては今がその時だったのだ。……などと考えながらエリスは自分を慰めた。ちらりと、ひょっとして自分はとんでもない阿呆なのではないだろうかという考えがよぎったが、無理やりに打ち払った。どうせ死ぬのだ。最期は誇り高い気持ちで死にたい。
 やれやれどうしたもんかな、と魔物はため息をついた。このまま放っておいてもいい気がしたが、何故か強く印象に残る目の前の人間を見捨てることに若干の後ろめたさを感じていた。魔物としては助けることにそれほどの不都合は無い。自分の住処を人間に知られることは避けていたが、行き倒れの人間であれば問題ないような気もする。幸いなことに当の人間は今ので体力を使い果たしたらしく、おとなしくしてくれている。と言うかそろそろ死ぬのではないか。となると結論はひとつ。魔物は人間を担いで自分の住処まで運ぶことに決めた。
「ほんじゃまあ、とっとと運んでってやるとするか」
 魔物は自分の爪を水平にして、エリスの体の下に滑り込ませた。爪でエリスを傷つけてしまわぬよう細心の注意を払いつつ……。ちくり、と自分の右肩に小さな違和感が走った。魔物はエリスの体から離れ、右肩のあたりを探ってみた。するとそこには一本の矢が突き刺さっている。やれやれ、と魔物はため息をつく。
 ここ最近、よくあることだった。魔物はゆっくりと矢が飛んできた方向に顔を向ける。するとそこには一人の少女がいる。何度も見た顔なので魔物はよく覚えていた。そしてこれから始まる冗長な自己紹介も、内容は異なれどもう何度も聞いていた。
「森に住まう悪しき魔物よ。その人から速やかに離れなさい! 我こそはトラロック村きっての女剣士、リィナ=トラロック。そして我が携えるこの剣は、村の名工に作らせしその名もクラウソラス。抜けば勝利の異名を持つこの剣、我に抜かせる前にひれ伏すならば良し。さもなくば貴様を敵とみなし一撃のもとにほふるまで。正義の心に打ち震えし我が魂の叫び、その身に刻み付けてやろうぞ!」
 エリスはぼんやりとした頭でリィナの言葉を分析していた。まず魔物であれば即ち悪であるというのは論理の飛躍である。もしくはトートロジーであると言えるかもしれない。つまり魔物という単語と悪という単語に明確な関連性が無ければ、この言動は完全に飛躍だろう。また魔物という単語に悪という意味が含まれている場合はトートロジーとなる。トートロジーとは例えば、私は私、君は君といった言い回しのことだ。論理的には真と言えるが、実は特に何も語っていないということになる。またクラウソラスという剣のありようには疑問を呈せざるを得ない。抜けば勝利と言うが、もし相手に不敗の盾が存在したらどうだろうか。絶対に勝つ剣と絶対に負けない盾とは両立しえない。まさに矛盾そのものであった。最後に、そもそも正義とは何であるかと考えた。まず大事なこととして、リィナと名乗る少女は明らかに悪の対義語として正義を用いている。つまり正義に反するものが悪である。自分が正義であり、魔物は悪なのだ。しかしそれは論理的に言って正しいだろうか。まず最初に誤解を解いておこう。悪の対義語は正義ではない。悪の対義語は善である。そして何が悪で何が善であるかは一概に決められるものではない。ここから先は議論の大いに盛り上がる部分だが、紙面の都合上、否、エリスの体力上割愛したい。一言だけエリスの考えを沿えるならば、正義の対義語は別の正義であるということだろう。
 などと自分の言動を棚に上げながら他人の言動を分析評価批判するのは王宮顧問哲学士たるエリスの真骨頂であった。人間関係に問題が生じやすいため、普段は黙して語らない。普段は黙して語らないと決めていたにも関わらず、やはりそれが原因となって今のような惨状となったわけだが。
 魔物はもういい加減面倒になって早く帰りたいなあと考えていたが、彼なりに空気を読んでそこにじっとしていた。

02

 よく人を評する際に感情的であるとか論理的であると言われる。感情的という言葉には物事を筋道立てて考えられないバカというニュアンスと共にどこか人情味のある人間というイメージがある。逆に論理的であればそれなりに理知的であっても少し冷たい印象を人に与えるものだろう。実際には感情的で冷酷な人間もいるし、論理的かつ情熱的な人間だっているだろう。つまり論理的であるか否かは決してその人の人間性に対して相関性を持たない。というか全く無関係なのだ。であるにも関わらず大抵の人は論理にどこか軽薄な、近寄りがたい印象を持つことが多い。
 それはさて置きリィナ=トラロックは典型的な感情的かつ情熱的な人種であった。弱きを助け強きをくじく正義感溢れる少女。真・善・美を己の中心に位置づけ、誇り高く生きることを誓った高潔なる精神を持つ乙女。そんな彼女にはいくつかの夢がある。
 普通、乙女の夢と言えば白馬の王子が自分を迎えに現れることだろう。清く正しく生きていればいつか理想の男性が現れて自分を娶ってくれるのではないか。誰よりも自分を一番に想ってくれる王子様。容姿も良く、それなりの経済力を持つ王子様。我がままも許してくれて、自分に全てを捧げてくれる王子様。もはやそれが「王子様」なのか「奴隷」なのか疑問になるが、とにかく自分のことを心から大事にしてくれる人がある日突然現れる。少々誇張気味かもしれないが、このように考える乙女が一般的である。
 リィナは普通ではなかった。彼女は白馬の王子に迎え入れられることを望まず、自らが白馬に跨り愛しの王子を迎え入れることを望んだ。か弱き王子をお助けする勇敢なる乙女たらんと願った。言うなれば少年の心を持つ純情なる乙女といったところか。若干、倒錯している感はあるが、本人はいたって真面目。真剣そのもの。ゆえに今この状況は彼女にとって絶好の機会。千載一遇とはこのことか。賢明なる読者諸君はお気づきだろうが、リィナの大いなる勘違いは今、この瞬間から始まっている。
「魔物さん。あなたと相対するのもこれで何度目になろうかというものね。毎回、すんでのところでするりと逃げ去るあなたの機を見る能力は賞賛に値するわ。けれど、それも今日でおしまい。今日の私は完全に本気モードよ。いくら逃げ足の速いあなたでも、今日ばかりは無理。私の剣から逃げることは出来ない」
 最初からこのような勝利宣言をするのはいつものことなので魔物は特に驚かなかった。むしろこの純粋無垢な少女の心を傷つけずにどうやって退散すれば良いか、悩ましい問題であった。
 そう、魔物は何度も少女の襲撃に遭い、それを軽くかわしながら退散してきたのだった。何度も何度も、魔物は少女を傷つけぬよう細心の注意を払いつつ逃げ回ってきた。そんなに毎回逃げ回っていて、じゃあ魔物は少女を恐れているのかと言えばもちろんそんなことはない。矢が刺さっても痛くも痒くもない魔物である。どれほど切れ味の良い剣で少女が立ち向かってきたとしても、何の脅威にもならないはずだ。ではどうして魔物が少女から逃げるのか。それは単に面倒なだけというのと、もう少し先を見据えての判断だった。
 もし魔物が目の前の少女をうっかり殺してしまったらどうか。それはたちまちに村人の怒りを買い、下手をすれば村人総出で退治されるかもしれない。一対一では何も怖れぬ魔物であったが、さすがに多勢に攻め込まれれば辛い。それでも村の一つや二つくらいなら滅ぼす自信はあった。けれど戦いは際限が無い。もしうっかり村を滅ぼしてしまったら、今度は国王の軍隊が攻めてくるかもしれない。とにかく魔物は不要な争いを避けるため、少女の度重なる挑発も意に介すことなくのらりくらりと逃げ回ってきたのだった。
 しかし今回ばかりは魔物も逃げるに逃げられない。それは魔物の前ですでに意識を失っているらしいエリスの存在だった。一刻も早く彼女に温かいスープなりを飲ませてやらないとと魔物は考えていたので、リィナの前から立ち去るに立ち去れないのだ。エリスの倒れているこの場所はトラロック村からは少々離れている。普通の健康な人間が歩いても、陽の沈む前に着くかどうかといった距離だった。一瞬、リィナにエリスを任せてしまってはとも考えたが、それはすぐに諦めた。リィナはまだうら若き乙女であり、彼女の腕力でエリスを担いで日の入りまでに帰ることは不可能と思われた。
 魔物は内心で少しため息をつき、心を決めた。自分がどうしてこんな面倒な目に遭っているのかと理不尽な思いをしつつも、性分ゆえと色んなことを諦めた。人生は諦めが肝心だとどこかの偉い先生も言っている、と思う。
「何を余所見しているの。覚悟しなさい!」
 リィナが剣を上段に構えて魔物に切りかかった。そして剣の切っ先が魔物に触れるか触れないかという瞬間に世界が崩壊した、ようにリィナは感じた。
「あ、あれ?」
 気付くと空を見ていた。身体のあちこちが痛んだが、それを感じることも出来ないくらいに彼女は混乱していた。自分の身に何が起きたのか、何一つ分からない。
「おう嬢ちゃん。どっか痛ぇとこねえかい」
 頭上から声が聞こえたので慌てて起き上がるとそこには魔物がいて、リィナは乙女のように悲鳴を上げてしまった。乙女が乙女のように悲鳴を上げることに何の問題もない。意表を突かれたのだ仕方ないではないか。
「い、今のあなたなの。て言うか、あなた人の言葉が理解できるってわけ」
「はぁ。何を今さら言ってんだい。今まで散々俺っちに向かってああでもないこうでもないと喋りかけてたじゃねえか。あんたまさか、俺っちが言葉を理解できない前提であれこれと喋ってたってわけかい」
 魔物がさも疲れたという雰囲気で話すので、リィナは完全に面食らってしまった。彼女にすれば魔物と対峙した時の言葉は全て自分を奮い立たせるためのものだったのだ。魔物に話しかけていたのではなく、自分に語りかけていたというわけなのだ。今回も威風堂々と現れてはみたものの、決して余裕を持っているわけではなかった。内心は死の恐怖でいっぱいで、それをなんとか抑え付け勇気を振り絞って参上したのだ。それが全くの拍子抜け。こうも気安く話しかけられるなど思ってもみなかった。
 いや、とリィナは自分を律した。気安く話しかけられたところで相手は魔物。決して油断の出来る相手ではない。油断させて自分をとって食おうとしているに違いない、と思った。もしここでエリスに意識があれば、リィナの心の声に対してこう突っ込みを入れただろう。既に優劣の決した状態で相手を油断させることに何のメリットがあるか。全くもって非論理的である、と。
「やれやれ、その様子じゃまだ俺っちの話を聞こうって感じじゃねえな。目がぎらついてるぜ。そのまま倒れて邪魔しないでくれればいいんだけどな」
「邪魔って、何の邪魔よ」
「いや何、この兄ちゃんを俺っちんとこに運んでやりたいんだがよ」
「あなたの巣に運ぶですって!? そんなこと、私が絶対に許さないわ!」
 リィナは立ち上がり、魔物との間合いを取った。直後に体中に痛みが走った。意識がはっきりするにつれ、身体が痛みを思い出し始めていた。間合いを取った直後に地面に崩れ落ちそうになるが、なんとか踏ん張って耐えた。踏ん張って耐えたところで自分の剣が魔物の手中にあることに気付いた。
「ちょっと、それ私の剣じゃない。返しなさいよ!」
「え、やだよ。返したらまた斬りかかってくんだろ」
「いいえ、そんなことしないわ」
「嬢ちゃん、あんた俺っちのことバカだと思ってんだろ……。つか面倒だけど、説明してやるよ。いいかい。こっちで転がってる兄ちゃんはもう今にも死にそうなんだよ。早いとこ何か美味いもんでも食わせてやらにゃいかんだろうが。そんでうちに連れて帰るってだけだ。頼むから理解してくれ、な?」
「そんなこと言って、その人を食べるつもりなのでしょう」
 リィナが地面に落ちていた枯れ枝を手に、魔物との間合いを詰め始める。武器を失っても闘う意志を失わない。男の中の男であり、正真正銘の乙女である。
「いや食わねえよ」
「信用できないわ。あなたは絶対にその人を食べる」
「なんでそんなことが言えるんだ」
「それはあなたが魔物だからよ」
「いやいや。俺っちが魔物とか魔物じゃないとか関係ないでしょ。そもそも俺っちのことを魔物って呼んでるのは嬢ちゃん含む人間の勝手なんだが、どうして魔物とか呼ばれなくちゃならないんだい。そもそも魔物ってのはどういう風に定義されてんだい」
「愚問ね。魔物とは人間を襲い、人間を食す存在のことよ。私たち人類の敵ね」
「でもさあ。俺っち、ベジタリアンなんだよね」
 一瞬の静寂の後、リィナは不敵な笑みを浮かべて切り返した。
「私がそんな嘘に騙されると思うの?」
 リィナはぐっと間合いを詰める。すでに魔物は彼女の射程圏内にあった。リィナは魔物が自分を騙すつもりだと考えた。なぜなら魔物は魔物なのだから。

03

 気付くとリィナは薄暗い闇の中にいた。身体を何か生臭い布のようなものに覆われている。少し身体を動かすとガサガサという音がした。思考は朦朧とし、視界は模糊。リィナはしばらくの間ぼんやりと空を眺めていた。
「ああ、気がついたみたいだね。良かった」
 声のする方を振り向くと誰かがそこにいるように見えた。まだ暗闇に目が慣れていないためよくは見えないが、声からして自分と同世代かそれ以上の人なのだろうと思った。
 少しずつリィナは自分の記憶を辿る。どうして自分はこんなところにいるのか。その前はどこにいたのか。そして彼女は自分が巨大な魔物に立ち向かってあっけなく返り討ちになったことを思い出した。どうやって自分が返り討ちとなったのかは思い出せない。気付いたら倒れていた。あれは何かの魔術だったのではないだろうかと思う。相手は魔物なのだから、魔術くらい使えても何の不思議もない。
「大丈夫? どこか痛んだりしてないかい」
 徐々に目が闇に慣れてきたところでリィナは右隣にいる人物が誰であるか思い当たった。そこに居たのはつい先ほど、自分が魔物から救い出そうとした青年であった。
 そしてリィナは青年の姿をまじまじと見つめた。暗闇の中でも分かる。青年の衣装は貴族の着るそれであった。白を基調とし、随所に金色の糸で刺繍がほどこされている。ところどころ汚れが目立ったが、意匠の美しさは見紛うはずもない。そして視線をその顔へと移した瞬間、彼女の心が一気にざわめきたった。どこが、とは言えない。暗闇のせいではっきりと判別できていないかもしれない。それでもリィナは確信した。この“青年”は美しい、と。そして“彼”こそが自分の求めて止まない「囚われの王子様」であると。
「ええ、大丈夫。どこも痛くないわ。あなたこそ、平気なの? あの魔物に襲われていたんでしょう。それにしてもどうして私たち助かったのかしら」
「うむ。それがどうも驚いたことに私たちは魔物に助けられたようだ。ここは彼が暮らす洞窟らしい。少し待っていてくれるかな。今、火をおこそう」
 そう言って青年は何か小さくつぶやき、枯れ木の束に火を生み出した。洞窟内がにわかに明るくなる。その光景をリィナはぽかんと口を開けて見ていた。リィナの驚いた表情に青年がにこりと笑って言う。
「見るのは初めてかい? これは最近王都で研究が進んでいるものでね。正式にはマギス・アルゴリズムと言うのだけれど私たちはもっとシンプルに魔法と呼んでいるよ。実際のところ知らない人から見れば魔法みたいなものだからね。でももちろん本当の魔法じゃない。魔法なんてものが実在するとして、だけどね。私がやったのはもっと科学的なことなんだ。対象に働きかける論理式をまず生成して、さらにこのリングを媒介にして実際空間における分子にアクセスし、一定の活動パターンを……、とごめんごめん。つい語りすぎてしまったね。知らない人にとっては本当に魔法みたいなもんだから、単純にちょっとした手品だと思ってくれて構わない」
 リィナの脳内は完全に思考するのをやめていたので、言われるまでもなく目の前の出来事を手品の一種で片付けていた。そしてそれよりも明かりの中で見る青年の姿に心ときめかせることで忙しく、魔法どころではないのだった。暗闇で見た以上にその姿には気品があり、顔立ちは凛々しく、瞳には深い知性を漂わせている。
「えっと、そうだ。自己紹介がまだだったわね。私はリィナ。リィナ=トラロックよ。それで、その、あなたのお名前を伺ってもよろしいかしら」
「エリスだ。エリス=ウェウェコヨトル。以前は宮勤めをしていたが、故あってこの身このありさまさ」
 少しばかり自虐的な発言であったにも関わらず、エリスは全く意に介していない。そんな風にリィナには思われた。女性のような名前だけれど、中性的な風貌もあって全く不自然ではないなと彼女は思った。そう感じる自分に疑問は無かった。
 それにしても「故」とはいったい何だろう。それは聞いても構わないことなのだろうか。エリスの口ぶりから特に問題ないように思われたが、リィナはなかなか切り出せないでいた。そうこうしているうちにエリスが先に尋ねてきた。
「ところで君はトラロックということは、トラロック村の出身なのだろう。どうしてあのようなところにいたんだい。道に迷った身で言うのも何だが、トラロック村はもっと離れた場所にあったと思うのだが」
 エリスの質問にリィナは少しだけ詰まる。思い出したくないことでもあったのだ。どうして村から遠く離れたところにいたか。
「実は私、その、なんと言うか……、家を飛び出してきたの」
「家出? まあ多感な時期でもあるしね。しかしいったいどうして」
「多感とかそんなんじゃないの。あ、いえごめんなさい。別にあなたの言い分に不満を持ったわけでもないから、気にしないで。見ず知らずの他人にこんなこと話すのはなんだか申し訳ないのだけれど、聞いてもらってもいいのかしら」
 エリスは若干、まどろっこしいと感じていたがそうした素振りは一切見せずにリィナに続けるよう促した。
「そう。ありがとう。実は私、親が決めた結婚話が嫌で飛び出してきたの。うん、そんなのよくある話だって分かってる。それに相手の人はある商家のご子息で、莫大な資産を持っているそう。まだ会ったことはないけれど、若くてなかなかの美男子だと評判らしいわ。本当ならこんないい話ないって分かってる。友達もみんな、受け入れるべきだって言うわ。でも私には夢があって、それを諦めたくないの」
「それはいったい、どんな……」
「王室近衛騎士団に入団することよ」
 そう告げたリィナの瞳に熱い炎のような煌きが映るのをエリスは見た。
「騎士団に入って、正義を打ち立てること。それこそが私の夢なの。でも両親はやっぱり反対みたい。女が騎士団だなんて、バカも休み休み言えとまで言われたわ。隠れて剣の練習もしたけど、それも気付かれてたみたいで。あ、それはお咎め無しだったんだけど、あんまりいいこととも思ってなかったみたい」
 そう言うリィナを見て、エリスは昔の自分を思い出していた。女であるということだけを理由に自分の能力が否定される、という経験をエリスも何度も経験してきたのだ。彼女が哲学士を目指した時、彼女を応援する声は皆無だった。そのほとんどが否定的な意見で、理由はやはり「女だから」というものだった。女には哲学は無理だ、というのが社会一般の常識であり、その認識は今でもさほど変わっていない。エリスという存在が小さな風穴を開けはしたものの、その穴はまだ広がりを見せていない。拡げる役目をまっとうできないまま、彼女は王宮を追われたのだ。
 だからだろうか。徐々にうつむき気味に「やっぱり、女に騎士なんか無理だよね」とつぶやくリィナの両手を握り締め、エリスは言った。
「無理なものか。それは確かに困難なことかもしれない。だが、決して無理などではない。もし女が騎士など聞いたことが無いと言う奴がいれば聞かせてやれ。君が最初の女性騎士になるのだと。そもそもどうして奴らは女に騎士が無理だなどと言えるのか。実際、今まで一度も女性の騎士など居なかった。だがその事実からは誰も“だから”などと言えはしない。過去そうでなかったという理由で未来もそうでないなどとは言えないということは、論理的に言って明らかなのだ」
「で、でも。女は家にいて家を守るべきだって。子供を生んで、立派に育てることこそが女の役割だって、みんな言ってるわ」
「子供を生み、育てること。それらは尊い仕事だろう。だがそのことがいったいどうして君の夢を妨げられるだろうか。人の営みとは複雑なもので、決して一つだけの仕事をこなしているわけではない。そのことに男や女といったことは関係しないのだよ。例えば農民はただ畑を耕すだけが仕事ではない。畑を耕し、河川を管理し、場合によっては家屋の組み立てや修築も行う。冬を凌ぐため保存食の準備もするだろう。祭のために酒を醸すこともあるだろう。作った作物を商いもするだろう。様々な仕事をこなしながら生きている。だから単一の仕事を押し付け、それ以外すべきでないというのは人間の営みからすれれば全く不自然なことと言えるのだ」
「でも、でも……」
 リィナの胸に熱いものが込み上げていた。エリスが自分の言いたかったことを全て代弁してくれている。エリスのように明確に意見できたわけではないが、これこそが自分が言いたかった言葉なのだという気がしていた。
 今、リィナが抱える問題が何か解決したというわけではない。両親はリィナの夢に反対しているし、結婚話まで持ち上がっている。なのに不思議と、それらの問題はとっくに無くなってしまったかのような錯覚をリィナは持った。
 リィナはエリスの顔を見た。自分の中で濁っていた何かを洗い流してくれたその顔を眺めて、改めて彼女は思った。“彼”こそは自分の運命の人なのだと。エリスは自分を真っ直ぐ見つめるリィナを見て、夢に真っ直ぐな少女なのだと理解した。

04

 そういえば何か大事なことを忘れている。そんな気がしてリィナは周囲を見回し、はたと気付いた。
「そうだ。あの魔物は」
「ああ、彼なら私たちのために狩りに出かけているところだ。彼自身は食べないらしいが、ウサギを捕えてくると言っていたな。鍋の具材にするのだとか」
「な、何それ!? 魔物が私たちにご馳走してくれるってわけ? そんなの何か裏があるに決まってるじゃない。そうよ、きっと料理に毒でも入れるに違いないわ」
「いやそれはないだろう。殺されるというのであればとっくに殺されているはずだ。こうやって生かしておく意味がない。かく言う私も彼がいなければのたれ死んでいたところだ。感謝しこそすれ、そのように疑うことはしたくない。それに話してみると存外にいい奴でな。人は見た目で判断してはいかんのだということを改めて感じたよ」
 いや人じゃないし。などという突っ込みが野暮であることくらいリィナにも分かっていた。しかし彼女はそういう事実を容易に受け入れられなかった。魔物は邪悪な存在で、人々に災いをもたらす。人を襲い、人を食う。そういう風に教えられてきた。それが実は全くの間違いでしたなどと言われても簡単に信じられるものではない。
 だが彼女は同時に思い知らされてもいた。邪悪な存在と信じていた魔物に命を救われたという事実を突きつけられることによって。むしろ一方的な攻撃を仕掛けていたのは自分だったのだ。もし魔物が思っていたような存在ではなかったという事実を受け入れれば、即ち自分自身の愚かさをも受け入れることになる。
「ちなみに彼の名前はトニーというらしい。なんでも本当はもっと古い名前があるが、どうにも偉そうな響きが苦手なので自分でトニーを名乗ることにしたそうだ。と言っても別段名乗る相手もいないのだろうが。なかなかに可愛らしいではないか」
 かっかとエリスが豪快に笑った。ほんの少し前まで死にかけていた人間とは思えない振る舞いだとリィナは思った。
「でも、今でも信じられない。魔物が人を助けるだなんて」
「現に助けられている。信じざるを得まいよ」
「エリスさんって、とても柔軟な思考をする方なのね。さっきの私の話も、すんなり受け入れてくれたし。正直、とても驚いてるの。今まで私の話を受け入れるどころかまともに聞いてくれる人すらいなかった」
 リィナは自分で語りながら気付いていた。頭の固い周囲に反発しながらその実、自分自身の思考が全く柔軟性を欠いていたのだということに。
 リィナは真・善・美の三つを己の生きる指針としている。真実を追い求めること。そのためには清廉潔白かつ公平な目を持つことが大事だ。善行を尊ぶこと。そのためには物事の善悪を見抜く目が必要だ。そして美を愛すること。そのためには対象から美醜の本質を見極める目が不可欠だ。そのような目を今の自分は持っているだろうか。自省した。
 膝を抱えてうつむくリィナの頭をエリスはそっとなでた。その唐突な行為にリィナは赤面し、思わず身を固くしたが、エリスは構わずに頭を撫で続けた。
「君の考えていること、分かるよ」
「えっ」
「どうして分かるのかって不思議そうな顔をしているね。でも、それは私も通ってきた道だから。つまり自分に自信を失う時期というやつだね。私は君より五年も長く生きているのだから、君の持つ悩みに多少の察しはつくというものさ。だが君の持つ悩みは決して無意味なものじゃない。むしろ悩むことにこそ意味がある。とても大事なことなんだよ」
 リィナにはエリスの言っている意味がよく分からなかった。どこか見透かしているような響きさえ含まれる言葉に、やはり何か真実があるようにも思える。しかしその真実がいったい何なのか、うまく言い表せないのだ。
「よく、分からないわ。あなたに色んなことを教えてもらったけど、それでいっそう混乱した気がする。ううん、認める。私は何も知らなかったんだってこと。そして魔物を、いえトニーを一方的に傷つけてきたんだわ。こんなどうしようもない自分に、ちょっと失望しちゃってる。おかしいよね、自分で自分に失望する、なんて。自分でも何言ってるのかよく分かんないの」
 エリスはリィナの頭を撫でながらゆっくりと語り始めた。
「昔、ずっと昔のことなんだが、一人の偉大な哲学者がいたんだ。世界に並ぶものの居ないほどの賢者だと言われていた。だが彼自身は全くそんな風に思っていなかった。彼はこう考えていた。自分は何も知らない人間なのだ、と。それは単なる謙遜とは違って、個別具体的なものだった。例えば彼は芸術の技法を知らない。彼は美味しい料理法を知らない。造船や建築の技術も持ち合わせていない。そうしたことを色々と挙げ連ね、自分には知らないことが山のようにあるのだと主張していた。そんな彼が追い求めていたもの、それはこの世の真理だった。真理とはそれ自体が疑いようのない、この世界を確固としたものにする揺ぎ無い何かのこと。その哲学者はそうした真理を追い続けていた。そして世界には自分の知らないことが山のようにあり、自分よりもそれらに詳しい人が数多くいる。真っ先に彼が思ったことは、自分よりも優れて賢い人間に聞けば、真理などはあっさり見つけられるのではないかということだった。そんな風に考えて彼は神託を授かるべく、巫女のいる神殿へと向かった。この世界で最も賢い人間が誰かを知ろうとしたんだ。しばらくして巫女がその答えを彼に告げた。その結果は、彼こそが最も賢い人間であるというものだった」
 そこまで語り、エリスは呼吸を整えた。身体の疲労も回復し切っておらず、いささか喋りつかれたのだ。
「どうして、その哲学者が最も賢いだなんて神様は言えたの? だって彼には知らないことが沢山あったわけでしょ。それは彼自身が誰よりも強く感じていて、だからもっと賢い人を探すために神託まで受けに行ったじゃない。なのに自分が一番賢いだなんて言われて。そりゃあちょっとは嬉しいかもしれないけど、なんだか拍子抜けしちゃいそう」
 そういうリィナにエリスはくすりと笑顔を見せた。その笑顔があまりにも眩しくて、リィナはほんの少し我を失った。乙女ちっくな反応をしてしまった。
「そうだね。この話はそもそも賢いってどういうことなのかってことを語っているのさ。単に沢山のことを知っているってだけでは賢いとは言われないということ。大事なことは、持っている知識をどう使うかってことなんだよ。今、私が話した逸話は『無知の知』と呼ばれているんだ。その解釈は色々あるけれど、賢者であるために知識だけではいけないという認識では一致してる。もちろん、知識が必要ないということではない。この物語でも全体を通して知識の追求が語られている。そう、ここで大事なことは知識を求めるということなんだ。このへんは私の個人的解釈も含まれるけど、知識を求めるに際しては自分が何を知らないかを知っておくべきだと思う。ただ闇雲に知識を追い求めても、全然違う方向に進んでしまう可能性だってある」
「それが『無知の知』ってこと? つまり、無知であることを知ることが知識への第一歩なんだっていう」
「その通り。それも単純に物を知らないってことじゃない。自分が知っていると思い込んでることについて無知だと気付くことこそ重要なんだ。実際のところ私たちは本当は何も知らないのに、何故だかそれについて知っているように思い込むことが多々ある。そういったことは普段意識されないから、無知を自覚するのは本当に難しいことなんだ。それに人間は過去の記憶を守りたいという欲求があって、事実を前にしてもそれを受け入れにくいというところがある」
 エリスの言葉がリィナの胸にぐさりと突き刺さる。エリスの言葉はまさにリィナが直面した心の葛藤そのものだったから。それにしても、と彼女は思った。会って間もないのに、どうしてこうも自分の心を言い当てるのだろうか。全てお見通し、とでも言わんばかりに。
 エリスにしてみればそれは一般論を多少深めた程度の言葉だった。だがリィナにとってそれはまさに天啓。彼女にとって最も響く言葉であり、心の代弁となっていた。
「結局、人が弱いからでしょ。弱さのせいで、賢くもなれないのね」
「そうだね。君の言う通りだ。人は己の弱さを直視出来ず、間違いを正す勇気を持てない。この場合の間違いとは、自分の歩んできた思考や思想のこと。過去の自分が誤った判断を下したということを受け入れるのはそれほど簡単なことじゃない。だからこそ私は君を評価したいんだ」
「そんな、どうして……」
 リィナは素直に驚いた。自分はエリスの言ったままの弱い人間なのだ。矛盾する自分の思考に引き裂かれて、葛藤に苦しんでいる。賢い人間には程遠いと言うのに。
「どうしてかって、それは君が悩んでいるからさ」
 エリスがリィナの頭から頬に右手を移動させ、優しく撫でる。
「悩むことこそ弱い自分と対峙する第一歩だよ。その第一歩を踏み出すことできっと君は新しい自分を見つけられる」
 魔物はまたも空気を読み、読み過ぎたために戻るタイミングを完全に逸していた。

05

「本当に、ごめんなさいでした!」
 魔物がエリスたちの許に戻るなりすぐさまリィナは頭を下げた。その様子に魔物はむしろうろたえ、いえいえこちらこそとよく分からない応答をした。
「私って自分で言うのもあれなんだけど、すっごく思い込みが激しいの。さらに直情型でもあるわね。よくないって思うんだけど、なかなか直らなくって。魔物さん、えっとトニーさんでしたっけ。トニーさんも見た目だけで判断しちゃって。こんなに凶悪な面構えをしてる生き物は悪い奴に違いないって思ったの。あ、ごめんなさい。そんな悲しそうな顔をしないで。私ったらつい思ったことをそのまま伝えちゃって、これも良くないわよね。本当、誤解しないでね。今は全然、トニーさんのこと凶悪だって思ってないから。いやほんとはまだちょっと半信半疑なんだけど……。あ、ううん違うの違うの。ああ私ったら何を言っちゃってるんだろう」
 こんな感じでリィナの弁明がしばらく続いた。彼女はこれまでに何度もトニー(以降は魔物のことをトニーと表記する)を見かけるとすぐに攻撃を仕掛けてきた。彼女の偉いところは常に正々堂々としていたところだろう。決して奇襲を仕掛けるような真似はしなかった。彼女の理想は騎士である。だからその理想に背くような真似は断固として受け入れられない、そもそも思いつきもしなかったのだ。このあたりが彼女の美徳であり、同時に実戦経験のないお嬢様的なところでもある。
 一方のトニーは終始困り顔であった。彼は食事の用意をしながらリィナの弁明にうんうんと相槌を打って応えた。無視をすれば彼女が傷つくだろうという配慮のなせるわざで、さすがの人生(?)経験と言える。
「リィナ、もうそのくらいでいいんじゃないか。トニーもとっくに許しているだろうよ」
 見かねてエリスが口を挟む。彼女は論理の信奉者であり、論理的であることがこの世の何よりも優先されると信じていた。その彼女にしてみればリィナの弁明はあまりにも冗長で聞き続けるのにかなりの忍耐力を要したのだ。要するにリィナの言っていることを自分の頭で整理するのに疲れてしまったわけだ。
「でも、これだと全然謝り足りないわ。だって私、剣や弓で何度もトニーさんを攻撃したのよ。相手が人間だったら大変なことだわ」
「俺っちは人間よりか頑丈だからねえ。そんな心配するこっちゃない。俺っちからしてみれば矢が飛んできても小石を投げつけられたのとたいした違いはないさ。剣で斬られてもちょっと草で肌が切れるのと大差ないね。嬢ちゃんが心配すんのも分からんでもないが、そう落ち込むこたないよ」
 そう言ってトニーは木の器に出来たてのスープをよそった。山菜やきのこがふんだんに入れられた具沢山のスープで、エリスとリィナの食欲をそそった。エリスとリィナは急に空腹を思い出した様子で、黙って器を受け取った。
「悪いがスプーンなんて上等なもんは無い。だから食べる時はこいつでも使ってくれ」
 トニーは平たく、手ごろな長さの木の枝を二人に手渡した。
「かたじけない。それにしても、期待した以上に食欲をそそる匂いだな」
 エリスは器に口を付け、スープをすすった。そしてその味に驚いた。
「美味しい。ほどよく塩味がきいていて。この味なら王都でも通用するのではないか」
「そんな褒めたって何も出ねえよ。スープのおかわりならあるけどな。足りなければ言ってくれ。どうせあんた、腹ん中は空っぽなんだろう」
 トニーに言われるまでもなくエリスの頭の中はすでに二杯目、三杯目のことが大半を占めていた。食べ始めたら止まらず、エリスは思考停止状態でスープを胃の中に流し込んだ。本能的に食欲が加速していた。
「ほんと、とても美味しいわ。申し訳ないんだけどかなり意外。だってこんな山奥で作れるものなんて、たかが知れてるじゃない。だから単に山菜とかをお湯で茹でたくらいのものが出てくるんじゃないかって思ってたの。ところがなんと塩なんて調味料まで使うだなんて。塩はどうやって? このあたりに岩塩があったかしら」
「塩は昔からの友人が届けてくれんだよ。岩塩じゃなくって海から採れる塩らしい」
 トニーの言葉にリィナは感心した様子だった。
「へえ、塩って海からも採れるんだ。聞いたことなかった。そもそも海を見たこともないんだけどね」
 実際にリィナの暮らす村は山に囲まれていて、海からはそれなりの距離があった。だいたい一週間くらいはかけて行くようなところである。
「あと今さらなんだけど、トニーさんが人間の言葉を話せるってのも意外だったわ。もしトニーさんが人間の言葉を話せなかったら、私たちいつまでもいがみ合うしかなかったでしょうね」
「いや、いがみ合いはねえよ。嬢ちゃんが一方的にいがんでくるだけさ」
「あっはは。かもね。言えてるわ」
 ついさっきまでトニーに平謝りしていたことを完全に忘れてしまったようにリィナは笑った。この切り替えの速さは彼女の長所である。時と場合によっては重大な短所ともなるだろう。
「あとそれから、そんな気にしてるわけじゃねえが、俺っちが話してるのは“人間の”言葉ってわけじゃねえぜ。俺っちが話してるのはあくまでただの言葉だ。そりゃあこのへんの言葉だから、どっか遠くに行ったら通じねえかもしれねえけど。だからって俺っちは言葉を人間から習ったわけじゃねえ。俺っちに言葉を教えてくれた奴も人間から教わったわけじゃねえ。俺たちは俺たちで言葉を受け継いできただけさ」
 リィナはぽかんとした顔でトニーの話を聞いた。魔物という自分たちとは異なる存在が自分たちと同じ言葉で喋ったという事実から、完全に言葉は人間から魔物へと伝わったものと思い込んでいたのだから。
「つっても、じゃあ俺たちが話してる言葉がどこから伝わったのかはよく分からんけどな。ひょっとしたら何世代も前のご先祖様が人間から教わったのかもしれねえ。でもそれって逆の可能性もあるわな。俺っちのご先祖様が人間に言葉を教えたのかもしれん。どっちが正しいかなんか分からんし、どっちでもいいけどな」
 今の今まで食事に集中していたエリスが口を開いた。ちなみに彼女はすでに五杯目に突入している。
「うむ。なかなかに興味深い話だな。昨今、そのような議論が盛んでな。これはあくまで人間同士の話だが、言葉の由来についてのものだ。言語学の研究はわが国でも盛んだが、隣国が近頃勝手気ままなことを言うので困っているのだよ。隣国の学者連中が言うのだが、どうも彼らは彼らの言葉が先に存在し、それを我々が模倣しているのだと主張したいらしい。それも何かそうした主張を裏付けるような資料でもあれば議論になるのだが、それが全くない。ただただ語感が似ているというだけで自分たちの言葉が起源だか由来だかと騒ぎたてよるのだよ」
「はあ。なんだか知らねえけど、色々と苦労してんだねえ人間の世界ってやつは」
「全くだ。ああいう一方的な物言いの出来る神経というのは、本当に図太く出来ているのだろう。しかしそもそも自分たちの言葉が源流で、他の言葉はそれの模倣などと、そうそう言えるものではない。事実は全くの逆で、我々の言葉が起源となり彼らに伝わったという可能性もあるのだ。資料の存在する数百年以内の言葉であればそうした事例がいくつも見つかっている。もちろん向こうからこちらに来ているものもある。言葉というのは一方的ではなく、相互交流的なものだという証拠があちこちに存在している。だから我々は資料の無いもので自分たちが起源だなどと絶対に主張したりしない。隣国の連中は主張に加えてこちらに承認を迫ってくるのでな。研究と願望をいっしょくたにされるのは不愉快なものだよ」
 エリスはため息をついた。腹も満たされて調子が出てきた。
「うーん、そっかなるほどねー。私ってばまた思い込みで突っ走っちゃってたわけか。ごめんなさいトニーさん」
 リィナがスプーン代わりの木の枝を口にくわえてしょげる。しょんぼり。その様子がちょっと可愛いと思ったのか、トニーは少し慌てた。
「おいおい、んなこと全然気にすんなって。俺っちは別にどっちでもいいんだからよ。まあ、せっかくの機会だし俺っちのことをちょっと知ってもらおうと思っただけで。そんな別に怒ったりしてるわけじゃねえんだ」
 その様子を見てエリスも少し喋りすぎたことを後悔し、フォローに回る。
「トニーの言うとおりだな。私が語ったようなことはそもそも問題にすらならないような問題だ。人間というのは意識せずに多くの思い込みや矛盾を抱えて生きている。そのひとつひとつを気にしだしたら、普通の生活に支障をきたすくらいにだ。かく言う私も偏見を持って生きていると自認しているぞ。例えば巨乳の女は頭が悪いとか、巨乳の女はバカだとか、巨乳の女はもうどうしようもないとか」
 とりあえずエリスが巨乳嫌いであることを知り、リィナは心の中でガッツポーズを作った。お母さんも大きくないし、きっとこのままよね、とか思ったかもしれない。

06


 温かいお湯で身体を洗うのは本当に久しぶりのことだった。トラロック村に案内され、エリスはようやく一息つく。旅の途中で野垂れ死に、魔物に食われるかというところまで追い詰められた上での生還である。さすがのエリスも気が抜けた。今は思考も鈍り、ぼんやりと村を眺めていた。
 冷たいぶどう酒を喉に流し込み至福の瞬間を味わう。こんな美味いぶどう酒は初めて飲んだ。そんな気分に包まれていた。王宮でももちろん酒を飲むことはあった。そこで振舞われる酒はおそらく、このように小さな村で飲むものよりも上等なのであろう。しかしエリスはそれらの酒をさほど美味しいと思ったことがない。王宮では一度も酔ったことがなかった。常に意識を張り詰めていなければ、いつ足元を掬われるか分からなかったからだ。他の人間もそうだったのだろう。みんなつとめて笑顔で、足元をふらつかせる人間など一人もいなかった。
「エリスさん、お隣いいですか」
 髪をしめらせたリィナが現れて言った。右手には大きな木のカップを握っている。
「君もこれかい」
 そう言ってエリスは酒の入った自分のカップを持ち上げる。
「いえ、これはただのミルクです。ごめんなさい、お酒って苦手なの」
「謝ることはない。自分が酒を飲むからと言って他人にそれを強いるのは悪しき習慣だ。法律で禁止し、そのような行為には厳罰を処すべきだろう」
「厳罰だなんて、何もそこまで……」
「いや、冗談だ」
 エリスはぶどう酒を飲み、くすりと笑った。リィナは少しだけ驚いた。
「エリスさんが冗談を言うだなんて。私、思ってもみなかったわ」
「この世は冗談で出来ている。あらゆる現象における要素は冗談だ。だから私が冗談を言うことに何の疑問も間違いもない。私という存在そのものも冗談である」
「えっと、それも冗談なのかしら」
「冗談で冗談を論ずることは出来ない。それでは論点先取になってしまう」
 リィナは苦笑いしつつエリスの隣に座った。エリスが何を言っているのかさっぱり分からなかったが、上機嫌であることは確からしい。
「ところでセルビア殿はどうされた。母として子を気遣う気持ちはそれほど理解が難しいわけではない。リィナに話したいことも山ほどあるだろう」
「うん、まあね。でも今日のところは、ちゃんとお客さんをおもてなししなさいってことで許してもらってる」
「近衛騎士団への入団はまだ諦めていないのだな」
「ええ、もちろん。私が幼い頃から抱いてた夢だもの。そう簡単に諦められるわけないじゃない」
「夢、か……」
 エリスはかつて夢を見て、達成した。全てが順風満帆かに思えた。しかし夢は達成した途端、過酷な現実へと変わった。いや、ある意味でエリスは夢を達成出来なかったのかもしれない。彼女の夢は王宮顧問哲学士となることだった。だが何故そうなりたかったかと言えば、純粋な学問の領域で世の中の役に立ちたかったからだ。しかし実際に彼女を待ち受けていたのは王宮内の政治抗争。彼女の弁舌の才能に目をつけた有象無象がよってたかってエリスを利用しようとした。まだ無垢で世間知らずだったエリスはまんまと利用された。それが世の中のためになっていると信じて、彼女は力の限りを尽くした。結果はご覧の有様だ。
 だからエリスは思う。リィナを引き留めるべきではないか、と。あの薄汚れた世界に入ることは決して彼女の理想ではないはずだ。だがエリスにそれは出来ない。エリスもまた、夢を捨てきれないでいるのだから。
「ねえねえ、ところで王宮ってどんなところなんですか?」
 そんなエリスの胸のうちを知らずに、リィナは夢見る乙女の輝きを瞳に宿らせエリスに尋ねる。
「ふむ、どんなところ、か。まず政治形態は王室を頂点とし、具体的には議会を通して……」
「そんなんじゃなくって! もっと雰囲気とか、どんな人たちがいるのかみたいな。分かりやすい話をしてくださいよぅ」
 リィナが少しすねた顔をしてエリスを見る。エリスはくすっと笑う。
「これも冗談さ。いいよ。ちゃんと話してあげよう。王宮はとても美しいところだ。最新技術を用いた彫刻や、流行の家具食器類が王宮を飾り立てている。そこに暮らす人々もまた優雅なものだ」
「人々って、やっぱり貴族とか?」
「貴族もいる。だが彼ら以上に私は、そこで働く人々を美しいと感じたよ。執事は決められた仕事を無駄なくこなし、その正確さには惚れ惚れする。庭師の仕事はまさに一級品で、彼らの手入れした庭園は一日中いても飽きないほどに美しい。メイドたちは歩き方、話し方、全てが質素に控えめで、接する者に一切不快な印象を与えない。貴族というのは彼らのような仕事人に支えられることでその威容を保っている」
「王族の方たちは? エリスさんも会ったことあるんでしょう?」
「ああ。何せ私は“顧問”だからな。顧問は顧問するのが仕事なのだよ。具体的には王子と王女相手に哲学講師を勤めたりしたものだ。王子は十八、王女は十六。お年頃というやつだな」
「ふうん、王子様って十八なんだ。私の一個上かあ。ぴったりじゃない。ねえねえ、王子様のこともっと詳しく教えて」
「いや、私は単に哲学の講師というだけだったからな。それほど詳しいわけではないのだ」
 そう言ったエリスの目が一瞬泳いだのをリィナは見逃さなかった。見逃さなかったが、それ以上追求することはしなかった。
「ねえ、エリスさん……」
 リィナは少し不安そうな声でエリスに語りかけた。改まって神妙な態度を取るリィナに一瞬だけ戸惑ったが、エリスは「なんだい」と言葉の続きを促した。
「前に話したでしょ。あの、結婚のこと。なんかお相手の人が明日にでもうちに来るらしいの。それで、要するにお見合いってやつをやらされるみたい」
「そうか。それで、君はどうするつもり?」
「分かんない。ほんとは嫌だけど、とりあえず会うだけ会えって言われちゃってるから。もちろんお見合いするだけしたら即お断りするつもりよ。お断りするつもり、なんだけど」
「何か、不安でも?」
「ううん。具体的にどうこうってわけじゃないの。なんでか分からないけど、嫌な予感がしてて……」
 リィナは両手でカップを抱えて、ミルクを口にする。小さくげっぷして、照れ笑いをしてみせた。
「心配しなくていい」
 エリスのまっすぐな断言にリィナは驚いた。エリスの顔を見て、ほんの少しだけ胸がうずく。
「心配しなくていいって、どうして」
「君は意思の強い女の子だ。だから自分の未来も自分の力で掴み取れる。見合いのことはそれほど難しく考える必要はない。知らない男とほんの少し挨拶を交わす程度だと思えばいい。それに……」
「それに?」
「いざとなれば私が君の力になってやるさ」
「え、それって」
「私が君を王宮に連れて行ってあげよう、と言っている」
 リィナは顔を真っ赤にしてうつむいてしまった。エリスはその様子を、何か考え込んでいるのだと受け取った。実際にはリィナはあらぬ妄想をたくましくし、心臓は破裂しそうな勢いで脈打っているのだった。
 今のってやっぱりあれですか、告白ってやつですか。君と一緒にならどこまでもってな感じのやつですか。ああどうしよ心臓がつぶれてしまいそうだ。どうしよう、まだ会って数日しか経ってないのに駆け落ちだなんて。
 などとリィナは思考が空を飛んでいたがもちろん考えすぎである。エリスは単に道案内をしてあげようという程度のニュアンスで言ったのだ。
 エリスは論理の輪の中で一日中回っていることに幸せを感じる変人であった。ゆえに男女の機微に疎く、世情に疎い。そのせいで王宮追放となったわけだが、そうした弱点は未だに改善されていないのだった。

2010/12/12(Sun)03:56:22 公開 / プリウス
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■作者からのメッセージ
 『論理哲学論考』1、『詭弁論理学』1、アステカ神話1、『狼と香辛料』1、その他ファンタジー要素1、作者自身の思いつき95にてこの物語は練成されております。書き方は三人称。登場人数は従来に比べて抑え気味。注意深く読めば気づく主人公の矛盾はご愛嬌。論理論理言ってますが、そこまで厳密にはしていません(笑) ゆっくり書いていきますので、お付き合いのほどよろしくお願いします。

2010/7/16
久しぶりの更新。もう少し話を進めたかったのですが、書きたいことが多くて断念。短い文章に色々と思考の断片をつぎはぎしたので、汲み取ってもらえると嬉しいです。
2010/7/17
ちょっとずつ、エリスやリィナの個性を出していければいいな、と。
2010/7/31
05 投稿。物語の進展には不必要な会話パートですが、キャラの個性を定着させるのには良いかと思いまして。
2010/12/12
久しぶり過ぎて、色々と思い出すところから始めました。話の助走的位置づけ。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。