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『群神物語U〜玉水の巻〜5』 ... ジャンル:リアル・現代 ファンタジー
作者:玉里千尋
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あらすじ・作品紹介
これは、神と人の世が混じり合う物語……。◎あらすじ◎ 二千年前。神の国、神の宝の伝説を信じて、大陸から、海を越え、オホヤシマに降り立ったニニギ。己が真に求めるものを探し、その魂は、八咫鏡の中へ。そして、周りの人間たちの運命もまた、急速に動いてゆく。……一方、現代日本。サクヤヒメの血をひく上木美子は、京都修学旅行中に、母のゆかりの地である眞玉神社を訪れたのち、深い眠りにつき長い夢をみる。その時、土居龍一は、霊視の仕事のため訪れた東京上野署で、息子を亡くしたばかりの浦山由布子と出会う。
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◎目次◎
一『夢、一』 二『課題』 三『夢、二』 四『伏流水』 五『水底』
【現代編】(第二章、第四章、第五章)
★上木美子(かみき みこ)初出第二章:萩英学園高校二年三組在籍。十七歳。O型。宮城県遠田郡涌谷町の自宅がなくなってしまったため、仙台市内の躑躅岡天満宮宿舎に居候中。特技は年齢あてと寝ること。
★ふーちゃん 初出第二章:ケサランパサランから成長した、金色の霊孤。現在は小型犬サイズ。美子の心のオアシス。
★土居龍一(つちい りゅういち)初出第二章:土居家第三十九代当主。躑躅岡天満宮宮司、萩英学園高校理事長兼務。二十六歳。A型。一見、物腰は柔らかいが、本心をなかなか明かさない。
★築山四郎(つきやま しろう)初出第二章:躑躅岡天満宮庭師、萩英学園理事長代行。六十一歳。A型。趣味の料理はプロ級。世話好きの子供好き。
★菊水可南子(きくすい かなこ)初出第二章:父は京都雲ヶ畑、眞玉神社宮司の秋男。職業は芸妓。二十三歳。B型。妄想直感型美女。
★菊水秋男(きくすい あきお)初出第四章:可南子の父。眞玉神社宮司。職業は書道家。
★初島圭吾(はつしま けいご)初出第二章:津軽の守護家、初島家の二男。バイクで日本中を回るのが趣味。退魔の武器は、自作のパチンコ。二十一歳。
★結城アカネ(ゆうき あかね)初出第二章:萩英学園高校二年三組在籍。美子の親友。B型。好奇心旺盛な女の子。
★田中麻里(たなか まり)初出第二章:萩英学園高校二年三組在籍。美子の親友。AB型。将来の夢はバイオリニスト。
★大沼翔太(おおぬま しょうた)初出第二章:萩英学園高校二年一組在籍。スポーツ推薦で入学した野球部のホープ。
★HORA‐VIA(ホラ・ウィア)初出第二章:仙台の学生に絶大な人気を誇る萩英学園軽音部の三年生バンド。タニグチ(谷口。ヴォーカル兼ギター)、ミヤマ(深山。ギター)、フウジン(風神。ドラム)、ヒムラ(火村。ベース)
★平本(ひらもと)、池川(いけかわ)初出第五章:上野署の刑事。
★綾戸(あやと)、濱野(はまの)初出第五章:東京地方検察庁特別捜査部の検事。
◎キーワード説明◎
★守護主(しゅごぬし)初出第二章:ヒタカミの流れを汲み、今なお東北に強力な結界をはり続ける土居家当主のこと。
★竜泉(りょうせん)初出第二章:土居家が、躑躅岡天満宮本殿にて守り、毎日の霊場視に使っている霊泉。
★東北守護五家(とうほく しゅご ごけ)初出第二章:守護主を支える五つの一族。津軽に初島家、北上に沢見家、出羽に蜂谷家、涌谷に上木家、白河に中ノ目家があり、それぞれの当主を守護者(しゅごしゃ)と呼びならわす。当初は四家のみだったが、四百年前に、土居家から上木家が分家され、五家となった。
★秘文(ひもん)初出第二章:魂の力を引き出すための言葉。唱える者の力量により神に匹敵するほどの力を呼ぶこともできる。「稲荷大神秘文(いなりおおかみのひもん)」により龍一が召喚する雷神が代表的。秘文を声に出さずに唱える方法を、暗言葉(くらことは)という。
★飛月(ひつき)初出第二章:伊達政宗が名匠国包に造らせた稀代の霊刀。三百年間、土居家と三沢初子の霊が護ってきたが、現在は美子が護持者となり保管。
★赤い石 初出第二章:美子の母咲子の形見。
五 『水底』
(五分の一)
◎◎
圭吾は、雲ヶ畑の菊水家で、その母屋と倉を、すでに十回は往復していた。秋男が次々と指示を出す。
「ああ、圭吾さん。それは硯が入っとるさかい、気いつけて運んでや。それからこれは全部季節が終わった着物やから、倉の上の段に上げといてくれますやろか」
そして秋男はというと、広間にある棚の上に、倉庫から出した様々な神具を並べていた。
「長雨が続きましたからな、ここいらで一ぺん虫干しせな、かびが生えてしまいますからな。圭吾さんがいてくれはって助かりましたわ。河原町から衣替えのくさぐさもようけありましたから、私一人ではぎっくり腰になってしまうところですわ……」
圭吾が、車から出した最後の段ボール箱を倉に運ぼうとしたとき、秋男が慌てて、言った。
「あ、それは茶の間に置いておいてくれますか。桔梗さんのお茶道具や。あと桔梗さんが来て自分で始末しはるはずやからな」
圭吾は言われたとおりに茶の間にそれを運ぶと、秋男に訊いた。
「桔梗さんって、可南子さんのお母さんですよね。桔梗さんも、今日こっちにいらっしゃるんですか?」
「夜遅うなると思いますがな。桔梗さんは水汲みがあるんで、私よりもひんぱんに雲ヶ畑に来はってるんや。今日私が雲ヶ畑に行くゆうたら、そんならいらん道具をついでに持っていってくれ、頼まれましたんや」
「あ、夜なんですね、来るのは」
圭吾は、ちょっとほっとした。桔梗は、仙台の勅使河原椿の三女だが、可南子よりもさらにぽんぽんとものを言う性格で、圭吾はいつも萎縮されがちだったからである。
秋男が圭吾に、冷たい井戸の水を汲んで持ってきた。
「圭吾さん。ありがとさんどした。もう終わりやよって、休んでおくれやす」
圭吾は、縁側に座って、冷たいおしぼりで顔や首すじをぬぐい、ほっと息をつく。
「先生。今、何時頃ですか」
「そやなあ。二時を回ったところですな」
秋男は、広間の掛け時計を見上げた。圭吾は、はずしておいた自分のダイバーズウォッチをポケットから出してつけ直した。
「美子ちゃんは、まだ店にいるんスかね」
秋男は、ほほほと笑った。
「すっかり寝入ってはるのかも知れんな。しかし、そろそろ起こしてあげな。夕方までに旅館に戻してやらんとあかんやろからな」
そう言って秋男は立ち上がり、料理屋に電話をかけに行った。圭吾は、空を見上げた。昨日までの梅雨空がうそのように晴れわたって、ところどころにちぎれ雲が小さく浮かんでいるだけだ。雲ヶ畑の集落はしんと静まりかえって、誰もいないかのようだ。耳を澄ますと、水音がどこからともなく聞こえる。雲ヶ畑ではどこにいても、水の音が聞こえるのだ。
秋男が困ったような顔をして、戻って来た。
「今、店に訊いたら、美子さんはもう出はったゆうことや」
「じゃあ、もうすぐここに来るでしょう」
「それが、一時間も前に店をあとにしたゆうことなんやが」
「そこら辺を散歩でもしているんじゃないですか。そうだ、ケータイにかけてみましょう」
圭吾は自分のリュックから携帯電話をとり出そうとしたが、秋男は首を横に振った。
「圭吾さん。残念ながら、ここらは電波がきておりませんのや」
「えっ」
圭吾は携帯電話を見たが、やはり電波は通じていなかった。圭吾は立ち上がった。
「それなら、オレが探してきます。そんなに遠くに行っていないはずだし、道に迷うってこともないでしょうから、すぐに見つかりますよ」
「そうしてくれはりますか。そんなら頼みますわ。私はタクシーを呼んでおきますよってな」
圭吾は、秋男の家を出て、美子を探しに出た。圭吾が最初に美子に言ったとおり、雲ヶ畑は川沿いにつくられた集落で、道も川沿いにしかないので、見て回る場所も限られている。だから、美子を探すのは苦もないだろうと思っていたのだが、案に相違し、三十分も歩き回ってもまったく見つけることができなかった。圭吾は、川べりのほうまでも気をつけてのぞいていたが、美子はどこにもいなかった。
(おかしいな。美子ちゃん、いったいどこに行っちゃったんだろう)
この上は、祖父川上流にまで足を伸ばしたか、京都の街へ戻る道を下っていったかくらいしか思いつかなかったが、とりあえずいったん戻って、秋男に報告することにした。
秋男は、ちょっと眉をよせた。
「もう一回、眞玉神社にでも行ったんちゃうやろか」
「あそこも、ちゃんと見てきましたけど、いませんでしたよ」
「そんなら、間違って、持ち越し峠のほうに、入ってしもうたんやないやろかねえ」
「持ち越し峠ですか? あえて行こうとしない限り、あの橋を渡るはずはないんですがね」
秋男は立ち上がって、縁側から下りて草履に足を通した。
「ともかく、私も探しに行きますわ。圭吾さんは料理屋の上のほうを見に行ってくれますか? 私はその下を見て回りますさかい」
「分かりました」
圭吾と秋男は二手に分かれて、美子を探しに行くことにした。秋男は最初に料理屋に立ちよってみたが、
「あのお嬢さんどすか。さあ、店を出はってからどっちに向かわれたんかは、ちょっと気づきませんでしたなあ。でも、何となしに、ぼおっとした感じどしたから、まだ眠気がぬけきらんやったんやないですか。あれ、まだ先生んとこに戻らはってないんですか」
「はあ、その辺を散歩してる思うんやけど、もし見かけたら私んとこに来るよう、言ってくれはりますか」
「承知しました。気いつけときます」
秋男はそのまま道を下った。するとまもなく、秋男の自宅の横を通る。
「ほんまに、間違えようのない、一本道なんやけどなあ……」
なおも下る。この辺は人家も少なく、山の木が黒々と影を落としているばかりで、昼でも寂しい場所である。そんな道を半ばほど行くと、右側に錆びついた橋が見えてくる。これが持ち越し峠につながる橋で、その先には細い山道が曲がりくねりながら山の中を縫うように延びていっているのが見える。圭吾の言うとおり、わざわざ美子が入りこむような場所とは思えない。しかし、ひととおりの場所は圭吾が探したはずであった。秋男は橋のたもとでちょっと佇んだ。
(行くべきか、行かざるべきか。それが問題やなあ)
そうして何かの気配を感じて、ふと足もとを見ると、狐のような動物と目が合った。
「おや。あんたは、確か、美子さんと一緒にいなさった、ふーさん、やったな」
秋男が言うと、霊孤は尻尾をさっと振って、下流に向かってとことこと歩き出した。秋男は迷わずそのあとを追った。
「ふーさん。よう考えたら、あんたが一番美子さんの居場所を知ってはるはずやものなあ。もしかして、私を案内してくれはってるんか? そうやったら、ええなあ。そろそろタクシーも着くころやしな。あんまり待たせたら、申しわけないやろ?」
霊孤は、秋男の歩調に合わせるように、時折、後ろを振り返り、立ちどまりながら進んでゆく。確かに秋男をどこかへ案内していくように見えた。そうして、やがてその後ろ姿は、道沿いの古ぼけた鳥居の奥へ消えていった。秋男は鳥居の奥に延びている苔むした石段を見上げた。
「ここは眞玉神社やないか。やっぱりここにいるんやろか」
霊孤はさっさと石段を駆け登っていってしまったので、秋男もゆっくりと段を上がった。上りきった先の境内には誰もいなかった。秋男は拝殿の裏の石畳の広場の中央に立って周りをぐるりと見わたしたが、美子も霊孤も、気配すらない。そこで、木立の裏を回って、小道を通り、本社に出た。社を眺め、その後ろに回って、泉を見る。秋男は喉の渇きを覚えたので、少し泉の水をすくって飲んだあと、独り言を言った。
「やっぱり、おらへんなあ。あとは、あすこしかないが……」
西向きに建っている社の、北側に回りこむ。泉からの流れは、本殿の社の床下を通り、石段とは反対側の木立の奥に消えている。小川の上には笹がいっぱいにおおいかぶさっており、向こうへの視界を遮っていた。
「うーむ。やっぱり道はなくなってしもうてるなあ」
秋男はやぶをにらみながら、うなった。以前は流れに沿って小道が通っていて、その先にある眞玉神社の倉庫につながっていた。倉庫を使わなくなってから十年以上も経ち、通り道もすっかり消えてしまっている。今では、この場所を見ても、この先に建物があるなどとは誰も分からないだろう。笹はぼうぼうと茂っており、最近人が踏み分けたあとはまったくない。
「この先に美子さんがいるゆうんは、万に一つもないはずやがなあ。……おーい、誰かいてはりますか? ふーさん、あんた、どこに行きはったんや?」
秋男は森の奥に向かって呼んでみたが、木霊すら返ってこない。秋男は意を決して、笹やぶの中に足を踏み入れた。
笹は、ぎしぎしいいながら、秋男の草履の下で反発する。秋男は着物の裾を片方の手で持ち上げ、片方の手で周りの笹をかき分けながら進んだ。
「はあ、えらいしんどいわ。やっぱり常日ごろの手入れが大事やなあ。咲子さんがいてくれはったときは、ここも土居さんとこみたいにぴしっとしとったんやが。そやかて、私も桔梗さんも、ここの掃除まではとても手が回らんしな……」
四苦八苦しながらようやくやぶをぬける。と、視界が開け、拝殿の場所と同じくらいの広さの土地が現れた。下には砂利が敷かれ、雑草はだいぶはびこってはいるが、まだ森の侵入には何とかもちこたえていた。倉庫は高床式で、下の拝殿ほどの大きさだ。泉の流れはその正面をかすめるように進んだのち、方向を変えて森の中に入っていく。そして山肌を伝って拝殿下の石段わきに出、それと沿うように山の一番下まで流れていくのだ。あとは舗装道の下をくぐり雲ヶ畑川に注ぐだけである。
朽ちかけた倉庫の正面に、これまたぬけそうな木製の階段があるが、秋男は思わずそれに向かって駆けよった。
「美子さん、あんた、大丈夫でっか」
階段の上に横たわるようにして、美子が倒れていた。秋男は、美子の顔を見、体をちょっと揺すぶってみたが、美子は固く目を閉じたままだ。口もとに手をあててみると、息はしている。秋男はとりあえずほっとしたが、しかし、美子はいくら声をかけても起きようとはしなかった。気づくと、金色の霊孤が、美子の体により添うようにして座っていた。
「ふーさん。やっぱりあんたが案内してくれはったんやな。おかげでこの人を見つけることができましたが、さて、これからどうしたらいいもんか……」
秋男は、今来た道を見た。相変わらずのやぶである。本当は圭吾を呼びたかったが、そのためには、だいぶ歩かねばなるまい。圭吾はどこまで行っているだろうか。美子を探しに、相当上流までさかのぼって行ってしまっただろう。むろん、携帯電話はつながらない。
「圭吾さんもいいかげんで戻って来るやろうけどなあ。そやけど、長い間、この子をここに放っておくのもためらわれるしな。虫にくわれてしまうがな。さて、しょうがない」
秋男は、よいしょ、と自分に声をかけながら、美子を背負った。美子は中肉中背だが、ぐったりしているので、ひどく重く感じられる。そうして、行きにひどく苦労したやぶの道を、二倍の時間をかけてまた戻った。ようやくにやぶをぬけて本社の場所に出ると、小川の石橋を渡って社の前を行きすぎ、森の中の道に入る。道の上にはいっぱいに枝葉がおおいかぶさり、暗くて歩きにくかった。道はこちらから見ると、向こう側で突然断ち切られているように見える。どんづまりにある大きな木をぐるりと回りこんで、石畳の広場に出る。そのあと、拝殿のわきを建物と木にぶつかりそうになりながら通り、今度は山の下へ向かって、そろそろと石段を下り始めた。石段につもった苔と落ち葉は、夕べまでの雨をたっぷりと含んで、踏むたびに草履が何度も滑りそうになった。さらに背中で、美子がしょっちゅう、ずり落ちそうになるので、秋男はその体を何度も揺すり上げなければならなかった。秋男はぶつぶつ言いながら、山を下った。
「ああ、ほんまに、帰ったらここの掃除を何とか考えな、あかん。危なくてかなわんわ。誰も来おへん思うても、世の中何かが起こるか分からへんもんなあ。……そういや、咲子さんがここに現れたときも、ずいぶんここが荒れとったときやった。あんときは、咲子さんは泉の前にいはったし、起こしたらすぐ起きはったから、よかったけどなあ。こら、眞玉の神さんが、掃除せい、ゆうてはるのかも知れませんなあ……」
舗装道に出たあとも、家まではしばらく上り坂である。前には金色の霊孤が歩いて行く。そのふさふさした尻尾を目印にしながら、一歩一歩上った。
「ふーさん。あんたがもう少し大きかったら、この子を背中にのせてもらうんやったけどな。そんなに小そうかったら、そうもいかんなあ」
霊孤は、ちょっと首をかしげて、秋男のほうを向いたが、また歩き出した。
「そうやな。もう少しや。がんばらなあかん」
秋男は、美子の体をおぶり直すついでに、袖口で額の汗をちょっとぬぐった。
そうして汗だくになりながらも、ようやく家に着いた。庭を通って、縁側から広間に上がり、そっと美子を畳の上に寝かせた。圭吾はまだ戻ってきていない。庭の隅にある井戸の水で顔や手足を洗い、手拭いでふいていると、車のホーンが二、三度鳴った。道路に出ると、呼んだタクシーが門の前に停まっていた。顔見知りの運転手が窓から顔を出す。
「先生、まいど」
「ああ、こら、困ったな……」
「何が、ですか」
秋男は、家と坂の上と、両方を見ながら、ため息をついた。一人は寝ていて、一人はまだ帰って来ていない。
「あんなあ、運転手さん。ちょっと十分ほど待っといてくれはりますか」
「そら、ええですけど……」
秋男は、急いで家の中に戻って、電話をかけた。しばらく呼出し音がなったあと、きびきびした声が受話器の向こうから聞こえた。
「はい、可南子です」
秋男は、その声を聞いて少しほっとしながら、言った。
「ああ、可南子さん。実は今、雲ヶ畑の家におるんやけどな……」
「そんなん、着信表示で分かりますがな。美子ちゃんや圭吾と一緒におるんやろ?」
「うん、それがなあ、一緒にいるといえるかどうか……。ちょっと困ったことになりましてな。あんたの知恵を借りたい思いましてな」
「困ったことって、なんやの」
「うん、それが、まず、美子さんが行方不明になりましてな……」
「えっ!」
可南子が驚いた声を上げた。秋男は、慌てて、加えた。
「……すぐに見つかったんやけども」
可南子の声が、怒ったようになった。
「驚かさんといてや、お父さん。美子ちゃんは、無事やったんやろ? 怪我はなかったんか?」
「そう、それそれ、確かに怪我はどこにあらへんかったんや。いや、私なんかは手足にいくつもすり傷がでけてもうたんやけど、まあ、私のことはどうでもよろしいがな」
可南子が、冷たく言う。
「ほんまに、お父さんのことはどうでもいいわ。なら、美子ちゃんに電話を代わってくれへん?」
「うーん。それが、でけへんのや」
「なんでやの」
「美子さんは眠ってはりますのや」
「眠っている?」
「そうや。眞玉神社の倉庫の前で私が見つけたんやけど、そのときから、ずうっと眠ったまんまで、さっぱり起きへんのや。今も広間で死んだように眠ってます。いや、死んではおらへんのは確かなんやけど、とにかく眠り続けているんや。どないしたらええかな? 呼んだタクシーは来はるし、圭吾さんは美子さんを探しに行ったまままだ戻ってこおへんし、美子さんは学校の修学旅行中やからそろそろ京に戻してやらんとあかんやろ? 進退きわまって、こうして可南子さんに電話させてもろうたんや。どうしたら、ええかな?」
どうしたらいいかと訊かれても、可南子もすぐには判断できなかった。
「ほんまに、美子ちゃんに怪我はないん? 頭でも打ったんとちゃうん? そもそも何でまた、神社の倉庫の前なんかにおったんや。あそこへの道はふさがってしもうてたやろ」
「ほんまになあ、どうやって倉庫に行きはったんかも、分からんのや。怪我はない様子やったけど。お医者に連れて行ったほうがええかな? 単にすやすや眠っているようにしか見えへんけど、でも起こしても起きんゆうんも、おかしなもんや。雲ヶ畑に病院はあらへんから、下の病院まで連れて行くしかないかな。ちょうどタクシーも来とることやし」
「…………」
可南子は、唇を噛んで、考えた。美子が本当に頭を打っているなら、むやみに動かすのはよくないだろう。ちらりと時計を見た。三時だった。美子は旅館に、六時の夕食までに帰ればいいことになっている。秋男に、言った。
「お父さん。美子ちゃんはあんまり揺すったりしないで、そっとしといて。タクシーもそのまま待たせておいて。私、ちょっと龍ちゃんに連絡をとって、相談してみるわ」
秋男の声が明るくなった。
「ああ、そら、ええ考えや。龍一さんならどうすればいいか、分かりはるやろ。そんなら、任せましたで」
「うん。すぐにかけ直すからな」
可南子は、電話を切ると、すぐにまた別の番号にかけた。躑躅岡天満宮の庭師小屋の番号である。築山がすぐに出た。
「はい。躑躅岡天満宮でございます」
「築山さん。私、菊水可南子です」
築山のほがらかな声が響く。
「可南子様。お久しぶりでございます」
「龍ちゃんに代わってほしいんやけど」
「申しわけございません。龍一様は、ただ今出かけておられまして、今日の夜遅くにしかお戻りになりませんが」
「えっ……」
可南子の狼狽した様子に、築山の声も心配げになった。
「どうかなさいましたか?」
「築山さん。どうにかして龍ちゃんと連絡をとられへんかな。至急の用件なんや。あの子はまだ、携帯電話を持ってないん?」
「はい。でも、連絡をとることはできると思います。今の時間であれば、東京の上野警察署におられると思いますので」
可南子は、それを聞いてびっくりした。
「東京の警察? いったい、どういうことや、それは」
「霊視のお仕事ですよ。通常はどんなお客様でもこちらに来ていただくのが原則なんですが、今回はどうしてもというご要望で。しかも、本当は昨日の予定だったのが、突然変更になりましてね。いったんはお断りしたのですが、最終的には、龍一様が、行くとお決めになりして、先ほど昼ころに出発なさいました。もう着いている時分かと思います。警察署なら電話してもつなげていただけるでしょう」
「そんなら、お願いします。私は京都のマンションにおりますので」
可南子は、電話を切ると、部屋のソファに座って、電話が折り返されてくるのを待った。目の前の棚をぼんやりと見る。中国風のかざり棚だ。明の時代の様式を模しているが、むろん本物ではない。その上に、以前龍一からもらった龍の根付も置いてある。
(美子ちゃんは、大丈夫なんやろうか。龍ちゃんはつかまるやろか)
電話は、なかなかかかってこなかった。可南子は携帯電話で、雲ヶ畑に電話をかけた。十五コールほど鳴ってから、ようやく秋男が出た。
「ああ、可南子さんか。広間におったんで、出るのが遅うなって、すんませんでした」
「美子ちゃんの様子はどう?」
「さっきと変らへんよ。圭吾さんは戻ってきましたが」
「そんならな、お父さん。一応、お医者さんに診てもろうたほうがええと思うんや。でも、やたら動かすのもうまくないやろうから、往診に来てもらってや。ほれ、上賀茂神社の近くに、往診もしてくれはる先生がおったやろ?」
「ああ、鹿田(しかだ)先生やな。あの先生は、古くから雲ヶ畑にも通って来てくれはったお人やけど、もうずいぶん年やから、まだ開業しはってるかな? まあ、迎えに行ったら来てくれはるやろ。まさか、まだあの世からお迎えは来てないやろうと思うけどなあ」
秋男の、ほほほ、という笑い声の途中で、可南子は電話を切った。そうして、またじっと龍を見る。
そのとき、部屋の電話が鳴ったので、可南子は飛び上がって受話器をとった。
「もしもし、菊水です」
龍一の声が聞こえた。
「可南子か?」
「ああ、龍ちゃん」
可南子は、受話器を持ったまま、ソファに座りこんだ。
「どうしたんだ?」
龍一の落ち着いた声に、可南子は泣きそうになった。秋男の話しぶりにいらいらした割に、自分でもどういうふうに話し始めたらいいか、分からなかった。
「あの、美子ちゃんがな、今、雲ヶ畑にいるんやけど、なんや様子がおかしいらしんや。ちょっといなくなったあと、眞玉神社の倉庫の前でうちのお父さんが見つけたんやけど、そのときからずうっと眠ったままで全然起きようとせんのやて。一応お医者は呼ぶようにしたんやけど、怪我はどこにもないらしいし、どうしたんやろ。私、心配で。美子ちゃんは六時までに旅館に戻らなあかんやろ。でも、今はそれどころやないし。学校の先生にも連絡を入れたほうがええやろか?」
龍一は、しばらく黙っていた。後ろで、ざわざわと人の気配がする。警察の事務室の電話でも借りているのだろう。一分ほどして、龍一が言った。
「美子は大丈夫だ。そのまま雲ヶ畑に寝かせてやっておいてくれ。明日には目覚めるだろう。旅館には私から連絡をしておくから」
可南子は、ちょっと呆然とした。
「でも、大丈夫って、どうして分かるん? 見てもいないのに」
「今、みたよ。美子は眠って、夢をみているだけだ。夢をみ終われば、自然に起きる。大丈夫だ。去年、私もそんなことがあっただろう?」
「東京から、雲ヶ畑の美子ちゃんを、みたん? みえたん?」
龍一は、霊視のことを言っているのだ。
「ああ」
「夢をみているって? ……龍ちゃんも、あのとき、夢をみてたんか」
「いや。私は夢はみなかったけれどね。美子はみているみたいだ。もともと夢をみやすいたちなんだろう」
「美子ちゃんがどんな夢をみているかも、龍ちゃんには分かるん?」
「そこまでは分からないけれど、美子に悪い影響を与えるようなものではない。しかし、雲ヶ畑や眞玉神社を訪れたことで、影響されたんだろうな。美子には霊媒の体質があるようだから」
「私が、雲ヶ畑行きをすすめたんが、悪かったんやろうか……」
「そんなことはない。可南子が言わなくとも、美子はいつかは、あそこに行くことになっただろう」
土居先生、そろそろお願いします、という男の声が、龍一の背後から聞こえた。龍一はそちらに向かって返事をすると、可南子に言った。
「じゃあ、もう切るよ。美子をよろしく頼む。しかしあまり心配するなよ。明日の朝になれば、けろっとして起きてくるさ」
「そうなら、ええんやけど。……あ、お医者の先生を呼んでしもうたんやけど、それはどないしよ」
「診てもらうなら、診てもらったらいいさ。そのほうが菊水先生も、安心するだろう」
そう言って、龍一は電話を切った。
◎◎
上野署の平本は、龍一が受話器を置いたのを見て、近くにより、声をかけた。
「先生。よろしいですか」
龍一は、もう一度受話器をとり上げると、プッシュホンのボタンを押しながら、平本に言った。
「すみません。もう一本だけ、電話をかけますので」
そうして、電話がつながると、受話器に向かって、話した。
「ああ、私だ。可南子には連絡をしたよ。雲ヶ畑で美子が熱を出して寝こんでしまったらしい。明日の朝には治るだろう。今夜はあそこで寝かせるから、京都の美子の旅館に連絡して、その旨を断っておいてくれないか。……よし、頼んだよ」
そうして、電話を切り、平本のほうを振り返った。
「お待たせしました」
「では、こちらへ」
事務椅子から平本は立ち上がると、そのまま龍一を事務室から署の玄関のほうへ案内した。廊下を歩きながら、平本は、龍一に訊いた。
「……大丈夫ですか?」
龍一は、ちょっと微笑んだ。
「先ほどの電話の件ですか? 大丈夫です。家の者がちょっと寝こんだようで。しかし、すぐによくなるでしょう」
「もしかすると、あのお嬢さんですか。神社におられた……。いえ、ちょっとお話ししているのが、聞こえたもので」
「ええ。うちで預かっている子なんですが、修学旅行先の京都で熱を出してしまったようですね。周りの者が心配して連絡してきたのです」
「そりゃ、ご心配ですなあ。でも、たいしたことがなくて、よかった。去年私たちがあちらに伺ったとき、あのお嬢さんに部屋まで案内してもらったんですよ。なかなかしっかりした娘さんですね」
「しっかりしているようでも、まだ子供なんでしょうね。旅先で疲れがたまったんでしょう。念のため医者も手配しましたし、若いからすぐに元気になると思いますが」
「そうですか。私にも一人、小学生の娘がいますが、やっぱり、しょっちゅう熱を出したり、怪我をしたりで、気の休まるときがありません。まあ、ほとんど女房に任せきりですが、そうとはいえ、いちいち心配しますのでね。しかし、そうやって子供というのは大きくなっていくもんなんでしょうな。心配も親の仕事の一部ですね」
「そうなんでしょうね」
ロビーに出ると、同じ上野署の刑事である池川が待っていて、二人の姿を見つけて歩みよってきた。池川も、去年躑躅岡天満宮に平本と同行しているので、龍一とは顔見知りである。
「やあ、先生。お久しぶりです。その節はお世話になりました。平本さん。車の準備はオーケーです」
「よし、すぐに出発しよう。もうあまり時間がない」
建物を出た目の前の場所に白の四ドア車が停めてあり、池川は鍵を開けて、その後部座席に龍一を乗せた。そして池川が運転席、平本は助手席に乗る。池川はすぐに車を発進させた。
平本は、大きく息をついて、ちょっとネクタイをゆるめた。今日はひどく蒸し暑い。冷房を少し強くする。そうして、後ろの席の龍一に声をかけた。
「先生。暑くないですか? 今、エアコンが効き始めますので」
「大丈夫ですよ」
龍一は、きちんとスーツを着こんで、逆にそれが涼しげだった。淡いグリーンのネクタイがよく映えている。
池川が、親しげに話しかけた。
「前にお会いしたときは、いかにも神社の宮司さんという格好でしたが、スーツもなかなかお似合いですねえ。そうしていると、丸の内街のビジネスマンといってもおかしくないくらいですよ」
龍一は、にこりと笑った。
「ありがとうございます。……ところでこれから、丸の内に行くということでしたが」
平本から連絡を受けた時は、上野署に来てほしいということだったのだ。それで龍一は仙台駅から東北新幹線に乗り、上野駅で降りたのだった。
平本が答える。
「ええ。最初は上野署でお願いする予定だったのですが、色々事情が重なりまして。まず一つは、今日、ご一緒させていただく者、これが上野に来る予定だったのが都合により難しくなりまして、結局、四時に丸の内署で落ち合うことになりました。こちらから上野と指定したのに、申しわけないのですが、なにぶん、その連絡が来たのがつい一時間ほど前でして、躑躅岡天満宮にすぐに電話したのですが、当然ながら先生はもう出られたあとということでした」
「そうでしたか」
「それから、もう一つの事情としては、今回の遺体の発見場所の管轄が、そもそも丸の内署の管轄だったということです」
「発見されたのは、千鳥ヶ淵とお聞きしましたが」
「ええ。千鳥ヶ淵を横断する都心環状線のちょうど真下辺りで、おとといの朝、浮いているのが発見されました。地理的には麹町署のほうが近いのですが、お堀を含めた皇居全体の管轄が、丸の内署ということになっているのです」
「一緒に立ち会われるというのは、どんな方ですか」
池川はちらっと平本のほうを見た。平本は、頭を手でくしゃくしゃとかき回した。これが平本の癖なのだった。充分に髪の毛が乱れたところで、龍一に答えた。
「そうなんですよね。今回、先生にわざわざ来ていただくことになったというのは、その連中のせいでもあるんです。連中というは、二人でして、……実は、警視庁の人間です。ぜひ先生の霊視に自分たちも立ち会いたいということなんですが、そのために仙台に行くことはできない、ということなもので。まあ、なかなか忙しい人たちらしいのですが、そりゃ、誰だって忙しいんですがね」
「すると、今回の事件には、上野署、丸の内署、警視庁、三つの警察が関わっておられるということですか?」
「関わっているというか、もともとこれは上野署が追っていたヤマなんですよ。
ええと、先生にはお話しても構わないと思いますし、むしろお話すべきだと思うので申し上げますが、千鳥ヶ淵で、水死体で発見された男は、報道ではまだ身もと不明となっておりますが、ほぼ特定されております。それは、上野で税理士を開業していた新沼浩貴(にいぬま ひろき)、三十五歳です。新沼は主に中規模企業の顧問税理士として、税務相談や経営コンサルタントをしていたのですが、どうも脱税まがいの指示を、顧問会社にしばしばおこなっていたようですな。それで管轄の税務署がひそかに調査していたらしいです。
一方で我々には別のタレこみが入っておりまして、不動産業者が地元暴力団組織と結託して、脅迫、あるいは詐欺まがいの地上げをしているらしい。また、高齢者所有の不動産を、本人が知らぬうちに名義を書き換えたりもしているらしいということです。そして、この不動産業者が親しくつき合っていた経営コンサルタント会社の経営者が、新沼なんですよ。新沼は、その連中に不動産売買で得た利益の経理上の操作なんかのアドバイスもほどこしていたようなんです。それで、上野税務署と我々上野署はお互い協力し合って、脱税容疑と、恐喝、詐欺、公正証書原本不実記載罪、もろもろで奴らを検挙しようと準備しておったのです。
ところが、逮捕状が間もなく請求できる段階だ、という直前で新沼がこつ然と姿を消したのです。生きている新沼を最後に目撃したのは、新沼の事務所の事務員で、それが先週の金曜です。その日新沼は、上野駅前の自分の事務所に少なくとも夜十時まではいたといいます。そのあと、事務員自身は帰ってしまったので、実際に新沼が何時まで残っていたかは分かりません。そして新沼は、翌週の月曜日になっても出勤してきませんでした。新沼は未婚で、北千住のマンションに一人暮らしだったので、週末の間に、誰も行方不明に気づく者がいなかったのですな。結局月曜の夕方になって、事務員がようやく上野署に捜索願を出しました。
むろん我々は最初、新沼が逮捕を察知して逃げ出したのだと思いましたよ。しかし、事務所やマンションに行ってみると、脱税関係の証拠資料はそのまま残されているのです。その上、まとまった現金、通帳、車の鍵なども置かれたままです。これはちょっと妙ですよね。ただ、なくなったものもありまして、新沼がいつも持ち歩いていた書類カバン、財布、鍵、免許証などはありませんでした。しかしこれは当然、事務所を出る時、新沼が持って出たのでしょう。それから、事務所から、新沼のノートパソコンもなくなっていました。もちろんやはりこれも新沼自身が持ち出したということも考えられますがね。
ところがちょっと気になることがあって、新沼の事務所では自働の警備システムを使っていたのですが、その警備記録によると、事務所はいったん、金曜の夜十時半に施錠されています。ところが、翌日午前一時半ころ、また解錠されています。新沼がまた戻ってきたのか、それとも第三者が侵入してきたのかは、分かりません。
さて、新沼は先ほども申し上げましたとおり、捜索願が出された翌日の火曜の朝に、千鳥ヶ淵で発見されました。発見したのは千鳥ヶ淵をボートで漕ぎまわっていた学生カップルでした。朝っぱらから元気なことですな。すぐに引き上げられたのですが、名前がしばらく分からなかったのは、スーツ姿ではあったのですが、ポケットのどこにも身もとを推測できるようなものが入っていなかったせいです。ただ、『和光吉次(わこう きちじ)』という人物の名刺一枚だけが、背広の内ポケットに入っていました。
和光というのが、実は新沼と一緒に我々が追っていた、不動産業者なのです。月曜の夕方に新沼の捜索願が出されたとき、我々はすぐに和光の居場所も確認しようとしました。ところが和光も、そのときにはすでに上野から姿を消してしまっていたのです。それで上野署では、月曜の夜に、新沼と和光、両方の捜査協力要請を、東京の各警察署にファックスで流したばかりでした。そのため丸の内署では、身もと不明の水死体のポケットから和光の名刺が出てきたことを、すぐに上野に連絡してきてくれたのです。
それで我々が水死体を確認しに行きまして、まあ、だいぶ顔つきは変わっていましたが、何とか新沼だろうと判別することができました。ちなみに新沼は司法解剖の結果、直接の死因は溺死ですが、その前に大量の睡眠薬を摂取していたことが分かりまして、これが単なる事故ではないだろうということは、推測できます。死亡推定日時は、六月三〇日月曜の午後十時から七月一日火曜午前二時。つまり、水死体で発見される数時間前までは生きていた、ということです」
平本はそこまでを手帳を見ながら、いっきに話した。龍一が、言った。
「それで警察では、和光さんが、新沼さんを殺した犯人だと思っていらっしゃるのですか」
平本は、ボールペンでぽりぽりとこめかみをかいた。
「うーん。そうともみえる状況ですがねえ。でも、腑には落ちませんよね。第一、殺した相手のポケットに、わざわざ自分の名刺を入れておく馬鹿もいないでしょう。新沼と和光は数年来のつき合いでしたから、新沼が和光の名刺を持ち歩く必要性もないわけですしね。それに、たかがと言ってはなんですが、脱税や詐欺の証拠隠滅のために、殺人まで犯すこともないじゃないですか。起訴はされるでしょうけど、執行猶予になる可能性だって大きいわけですから。動機も方法も、いまいち納得いかんのです。しかし、和光が行方をくらましていることも、現として事実ですからね。重要参考人というところです」
「驚きましたね」
龍一は言ったが、その口調はそれまでまったく変らない、落ち着いたものだった。
「私は、和光吉次さんという不動産業者の方には二度ほどお会いしたことがあるんですよ。東京の方でしたので、おそらく、同一人物でしょう」
今度は平本が、本当に驚いて、思わず後ろを振り返った。運転している池川も、目をみはって、バックミラー越しに龍一の顔をのぞいた。
「和光に会ったって、それは本当ですか? いつです」
龍一は、平本の顔を見ながら、答えた。
「去年の春と、それから四年ほど前でしょうか。どちらも、うちの躑躅岡天満宮の土地を売る気はないかと訊ねて来られたのです」
「はっ、はー。まあ、和光は全国をくまなく地上げして回っていたらしいですから、そういうこともあるでしょうな。しかし、実に奇遇ですね」
「まったくですね」
平本はまた前に向き直ったが、じっと考えこんだ。池川はそんな平本の様子を横目で見ながら、言った。
「平本さん。もうすぐ丸の内署に着きます」
皇居をぐるりと囲むお堀を目の前に臨む場所にあるのが、丸の内警察署だ。署の前の駐車スペースに車を停めると、三人は署内に入った。事前に部屋を確保してもらっている。そのとり次ぎを池川が頼んでいる間、平本と龍一は立ってロビーで待っていた。やがて、女性署員の案内で、エレベータに乗り、五階の一室に通される。中に入ってみると、大きなソファもある、なかなか立派な応接室ふうの部屋だった。平本は龍一にソファをすすめながら、自分も腰を下ろした。そして、腕時計を見たあと、女性署員に向かって言った。
「ええと、あと二人、濱野(はまの)さんと綾戸(あやと)さんという人が来るはずなので、着いたら同じようにここに案内してくれますか」
「分かりました」
ドアが閉められると、部屋の中はしばらく、沈黙に包まれた。龍一は長い手の指をそっと合わせて、じっとその指先を眺めているようだった。平本はもう一度、時計を確認した。四時十分だった。
「先生、すみません。お待たせしてまして」
龍一が目を上げた。
「いいんです。いらっしゃるお二人は、ずいぶんお忙しいようですから」
「え、まあ、そうでしょうね、たぶん。しかし、先生もいつも大変お忙しそうじゃないですか。やはりその、こういう依頼は多いのですか」
「そうですね。今はほとんど予約でお願いしていますが、だいたいここ半年間分はすでに埋まっています」
池川は、驚いたようにひゅうっと息を吸った。
「そりゃ、すごいですね。地元警察からの依頼も、やっぱりあるんですか」
龍一は、にこりとして、池川のほうを向いた。
「ご依頼人のことは詳しくは言えません。しかしもちろん、民間の方のほうが、多いですよ」
「じゃあ、来ていただけることになった我々はずいぶんラッキーだったわけですねえ」
「お役にたてるかどうか、分かりませんが」
「いや、先生ならきっと大丈夫ですよ。実は、去年伺ったときは、半信半疑、いや、正直いうと八割五分くらい疑ってましたが、結果をみると信用せざるを得ませんでしたね。ねえ、平本さん」
「そうだなあ」
(五分の二)
◎◎
平本と池川は、昨年の春に初めて躑躅岡天満宮を訪れ、龍一に霊視を頼んだのだった。もちろん、警察として霊能力者に事件の協力を依頼するなどとは、公式にはあからさまにできるはずはないし、平本としてもできればそんなことはごめんこうむりたかった。しかし、担当している事件がいきづまり、何の力でも借りたいような気持ちだったことも確かだった。
当時平本と池川がとり組んでいた事件というのは、こうだ。
その前年の暮れころから、東京都二十三区内で、女子高校生の家出事件が頻発した。上野署管内でも同様だった。いや、最初は単なる家出だと思われていた。家出も事件には違いないが、正直、よくあることだし、警察も、そして親ですら、あまり重要とは考えてはいなかったのである。家出だと判断されたのは、彼女たちがいなくなってからも、その携帯電話から『心配しないでほしい』というメールが、定期的に親や友達に届いていたからだった。そのため、捜索願の提出も遅れがちだった。子供の外泊に慣れている親は、しばらくしたら帰ってくるだろうと、たかをくくっていたのである。
しかし、そもそも、いくらメールで連絡がとれるからといって、子供の居場所が分からないのを気にかけない親も親だ、と平本は思った。家に帰らなくなってから、二ヶ月も経って、署に届け出てきた女子高生の母親と話をしていて、平本はこの国が本当におかしくなっているのではないかと、不安に駆られた。
『なんで、もっと早くに探そうとしなかったんです』
平本が訊くと、母親は、口を尖らせた。
『だって、おまわりさん。こっちがメールをすると、ちゃんと返事が返ってくるんですよ。無事だって証拠じゃないですか』
『無事だからって、ずっと家に帰って来ないのは、おかしいとは思わないんですか』
『そんなこと言ったって、あの子はこれまでもしょっちゅう外泊してましたけど、いつかは必ず帰って来ましたから。今度もそうだと思っていました』
『そもそも、学校はどうしていたんです』
『学校は、行ったり、行かなかったりです。でもね、今回は冬休みにかかっていましたしね』
平本は、ひそかにため息をついた。
『で、結局、今回はどのくらいお子さんは帰って来ていないんですか』
母親は指折り数えながら、答えた。
『ええっと、どうだったかしらねえ。冬休みに入ってからですから、二ヶ月とちょっとかしら。冬休みは友達の家にずっと泊まるからって、メールがあったことを覚えています。そのあと、一月末に学校から連絡がありまして、新学期に入ってからずっと欠席しているけれど、どうかしたのかって。そんなことをいっても、私だって本人と会って話をしているわけじゃないし、どっちにしても首に縄をつけて連れて行くわけにいかないんだから、どうしようもないと言いましたよ。このままだと留年しますよ、って言われてもね。基本的には本人の自主性ですからね』
これは自主性の問題ではない、と平本は言いたかったが、こらえた。
『それでもね、メールは週にいっぺんはよこしてます。学校のことを書いて送ってやったら、しばらく休学したい、将来のことをゆっくり考えたいからって。そう言われれば、親としても無理強いはできませんでしょう』
平本のもの言いたげな顔を見て、母親は、まくしたてた。
『おまわりさん。あなたにお子さんがいるかどうか、分かりませんがね。でも、高校生になったら子供なんてもう、親の言うことなぞ、ききやしませんよ。私も最初は、泣いたり怒ったりしましたけど、最近じゃ、もう疲れました。あんまりうるさく言うと、今度はメールすらもこなくなります。そうなったら、本当に生きているか、死んでいるかも分からなくなってしまうんですから』
『わかりましたよ。それで、メールではなくて、電話で話すことはないんですか?』
『ないです。メールだけです。それも夫のものには返しません。私に対してだけです』
『メールは今でもくるんですか』
『ええ、きます』
そう言って、母親は自分の携帯電話をとり出した。そうして、受信メールの内容を平本に開いて見せた。そこには確かに、『心配しないで』『知り合いのところにいて元気だから』『もう少ししたら帰る』などの文字があった。母親は、愛おしそうにその画面をなぞっていたが、急に顔を上げた。
『このとおり、娘は無事なんです。それは分かっているんです。今日、ここに来たのは、主人がうるさく言うからなんです。あの人は、子育ては全部私に任せておいて、それで私の育て方が悪いなんて言うんです。どんなに私が一人きりで悩んで、苦労しているかなんて、分かろうともしないんですよ。ともかく警察に行け、こうですからね。娘は無事なんです。あの子も苦しんでいるんですよ。それがこのごろ、ようやく分かってきました。お互いに顔は見ていませんが、最近ではあの子は、メールで色々相談もしてくるんですよ。お母さんだけにはうち明けるけどって。恋愛の悩みや、将来のこととか。私たちは心が通じ合っているんです。ただそれが、主人には分からないんですよ』
平本は、黙ったまま、メモを走らせた。考えていることは、今は言わないほうがいいだろうと思ったからだ。ひととおり調書をとると、娘とのメールのやりとりの内容をコピーさせてもらった。
『じゃあ、お母さん。何か分かったら、連絡しますからね』
『あの、娘には、私が警察に頼んだって、言わないでくれますか。これはあくまで主人の考えなんですから。私は、あの子のことを信じていますから』
『わかりました』
母親が帰ったあと、平本は机の上に積み上げたファイルの中から一冊をとり出した。そうして、中を開く。そこには、ここ三ヶ月間に届けられた家出人の情報が入っている。
そして、その中の付箋をつけたいくつかのうちの一つを開いた。届け出は二月一日。今から一週間前だ。家出人は都内の高校に通う女子高生。その女子高生が家出したあとで親や友達に送ったメールの内容を開く。そして、先ほどの母親から写しとったものと並べてみる。文面など、ほとんどそっくりだった。最初は、もうすぐ帰る、心配しないで、という内容。相手が心配し始めると、将来を考えたいのでそっとしておいてほしい、とか、悩みを相談したりする内容になる。
このことに平本が気づいたのは、ここ半月間のことだった。共通性があると考えて、ここ三ヶ月分の中からピックアップしてみたものだけで、三人分はある。ほかの管内のものも探したら、もっとあるかも知れない。これは偶然だろうか。いや、そんなわけはない。
『……この上は、都内のほかの署とも連携をとって、一度家出人の詳細なデータを照らし合わせてみたほうが、いいと思います。もしかすると、背後になんらかの犯罪組織がからんでいるかも知れません』
『よし。じゃあ、それは平本と池川が担当しろ』
平本が報告すると、そう、簡単に上司は言った。さっそく平本は、都内百以上の警察署に連絡をとって協力を求めたが、反応はにぶかった。都内では年間何千件もの捜索願が出されており、警察で受けつけられた届出書のほとんどは、単にそのままファイリングされていくだけである。平本がメールの件を伝えても、そもそもそういった情報をもっているところは皆無だった。
『いらっしゃるのなら、届出書はお見せします』
そういうそっけない回答が返ってくるだけだった。平本と池川は手分けして各署をまわったが、得るものは少なく、靴がすり減っただけだった。
それではと、上野署に届け出られた一人一人の少女たちの捜索に手をつけたが、ここでも壁にぶちあたった。その壁の多くは、家出人の家族だった。捜索願を届け出た親たちは、平本の顔を見ると、明らかに迷惑そうだった。
『警察って、本当に捜査するんですねえ』
『あのあと娘からメールがきて、私たちも納得しましたから、もういいです』
『もうこれは家族の問題ですから、放っておいてくれませんか』
こんな返事ばかりが戻ってきた。それで池川はひどく憤慨した様子だった。
『なんですか、あの親たちは。自分で捜索願を出しておきながら、あの態度はないでしょう。平本さん。やっぱりこれは事件なんかじゃないですよ。ともかく、当人たちがそうじゃないと思っているんですから。言われたとおり、放っておきましょう』
平本は不承不承、うなずいた。自分自身では納得はしていなかったが、家族の協力が得られないのでは、無理やり捜査を進めるわけにもいかない。そしてやはり、家出少女たちからのメールは、定期的に家族に届いているようだ。それで、彼らはすっかり安心しているのだ。
池川がわきで言うのを、平本はぼんやりと聞いていた。
『それにしても、便利な世の中になりましたね。もうケータイのない生活なんて、考えられないですものね。今や小学生だって持ってますよ。そのほうが、親も安心するから、積極的に買ってやるんですね。情報化社会ってやつですか』
平本は、自分の携帯電話を眺めながら、考えた。
(情報? 確かに情報には違いない。しかし、それが本当に真実かどうか、誰が分かる?電波の向こうにある顔が誰のものなのか、その言葉が本物なのか、そういう情報は、何一つ伝わってきていないのだ。それなのに、彼らはそれにしがみついているのだ。それを信じたいから、信じているのだ)
そのままひと月がすぎ、家出人ファイルの枚数は増えたが、それだけだった。少女たちが帰って来たという話は聞かない。三月も末になり、異動の時期となって、それまでの上司がほかの署に移ることになった。
『課長。今までお世話になりました』
平本が挨拶をしに行くと、書類を整理していた課長は、顔を上げた。
『よう、平本か。まあ、異動といっても、同じ都内だ。いつでも遊びに来てくれよ』
『ありがとうございます』
『ところでなあ、ここを出る前にお前に伝えておかなきゃならんことがあるんだが』
そう言って課長はちょっと声をひそめた。思わず平本もかがみこむ。
『なんです?』
『実は上野署には、ほかの署にはない、ちょっと妙な伝統があってな。毎年一回、難問を抱えた刑事が、仙台の神社に行くことになっているんだ』
平本は、本当に妙な顔になった。
『どういうことですか、それ。お参りにでも行くんですか?』
『いや、もっと積極的な理由だよ。つまり、その神社の宮司がすごい霊能力のもち主で、人や物の在りかをぴたり、ぴたりとあてちまうんだ。それでこれまでにも解決できた事件がたくさんあるんだ。ほら、去年、時効寸前のホステス殺人事件の犯人を捕まえただろう? あれは実は、俺がその神社まで行って、奴の潜伏場所を訊きに行った結果なんだよ。名古屋で数年前に目撃されたきりだったんだが、結局都内にまた戻ってきてたんだな。その宮司は、地図でどの辺とまで指定したよ。しかもそれが、ずばり的中なんだからなあ。ま、表だっては言えないことだがね』
『うそでしょう?』
平本は呆れて言った。課長はにやにやした。
『まあ、誰しも最初はそう思うよな。しかし、上野じゃ、公然の秘密なんだ。二つ前あたりの署長から始まったことらしいがね。どうもその人が個人的にその神社のことを知っていたらしい。ほんとに妙なことを始めたもんだ。でもな、霊能力だろうが、占いだろうが、犯人が捕まえられれば、俺たちにとっては何でも構わないじゃないか? むろん、色んな証拠固めは俺たちがこつこつやらなきゃならん。そうやって、たくさんのピースを集めて、正しく組み合わせていって、あと一つあれば完成するのに、それがどうしても見つからない、そういう事件なんて、いくらでもあるだろう? そんな塩漬事件のうち、一つでも二つでも解決できるんだったら、そのきっかけが何でもいいじゃないか。……と考えたんだろうな、その署長は』
『はあ』
課長は、平本の肩をぽんぽんと叩いた。
『そんな顔をするなよ。ともかく、上野署では毎年一回、その神社をひそかに訪れて、お伺いをたててくるんだ。そして行ったら、次の年の予約もしてくる。というのは、その宮司の霊能力は、知る人ぞ知るという感じで、霊視の依頼客が引きもきらないらしく、数ヶ月待ちはあたり前みたいなんだ。だから、クリスマスイブに夜景のきれいなホテルを確保するのと同じように、来年誰がどういう内容で行くかは分からんが、ともかく予約だけは入れておくってわけさ。そして俺が去年予約を入れておいたのが、来月の二十八日なんだ。日曜だが、その神社は関係なくやっているそうだ。神社の名前は、躑躅岡天満宮。宮司の名は、土居龍一だ。今年は本当は、あの例の外国人窃盗団について訊きに行こうと思っていたんだが、幸い、先月に解決できたからな。今はあんまり重要事件ってないだろ? それで、お前が今年の初めにとり組んでいた、一連の家出事件、あのことでも訊きに行ったらどうかと思ってな。俺はもう異動になるから、お前、行って来いよ。池川も連れてさ。あれはまだ何ともなっていないんだろう?』
平本はしぶった。
『確かに解決はしていませんが、捜索願がとり下げられたものもありますし、今は捜査をしていませんよ』
『それじゃ、お前もやっぱり単なる家出だと思っているのか?』
『…………』
『納得していないんだったら、行って来い。経費はちゃんと出るから安心しろ。日帰りだけどな。時間は夕方の四時。神社は仙台駅のすぐ近くだから、半日で行って帰って来られる』
こうして、平本はまったく納得のいかないまま、躑躅岡天満宮に行くことになった。池川にこのことを話すと、案の定、不審顔であった。
『そんなことにお金を使うくらいなら、ほかの調査費に回してほしいですね。その宮司に払う礼金だって、署の予算から出ているわけでしょう?』
『しかし、それで実際に解決できた事件もあるっていうんだ』
『そんなの、偶然に決まっているじゃないですか。実際には警官の地道な捜査の結果ですよ。霊能力なんかで犯人を捕まえられるんだったら、それこそ世の中に警察なんていらなくなります』
平本は、逆に池川をなだめた。
『ま、上野の伝統だっていうんだから、仕方ないじゃないか。郷に入っては郷に従えというやつだよ。年にいっぺんきりだそうだから、これも経験と思って行ってみようじゃないか』
『平本さんがそう言うなら、いいですけどね。俺はまだ独り者でゴールデンウィークも何をするってわけじゃないし、そもそもその日は出勤日でしたから。でも、平本さんは二日間の連休をとろうと思っていたんじゃないですか? いいんですか、家族サービスは』
『どこかで振り替えをとるからいいよ。女房も、娘も慣れている』
そう言いつつ、平本はため息をついた。娘が生まれてから、どこかに泊まりがけで旅行に行ったことなどあるだろうか。今年こそはと思いつつ、もう何年も経ってしまい、今では娘も、期待すらしていないようだ。
四月二十八日、平本と池川は、上野駅から十四時二分発の下り東北新幹線に乗り、十五時三十七分に仙台駅に着いた。躑躅岡天満宮は、仙台駅東口から歩いて十五分ほどのところにあると聞いていたので、二人は地図を見ながら徒歩で行くことにした。少し迷ったあと、ようやく神社の前に着く。池川は長い石段を見上げた。
『へえ。なかなか立派な神社ですね。周りが木でおおわれていて、涼しげだ』
平本はハンカチで汗をいったんぬぐったあと、石段を上り始めた。池川もそれに続く。
上の境内につくと、真正面の門の向こうに大きな建物が見えたので、二人は近くによって中をのぞきこんだが、人の気配はなかった。
『平本さん。ここに扉がありますよ。ここから入るんじゃないですかね』
池川はそう言って、拝殿の片側にそびえて、境内を仕きっている長い板塀の途中にある朱色の扉を指した。しかし、押しても引いても、それはまったく動かない。
『鍵がかかっているみたいですね』
『ちょっと待て、池川。神社に電話をするから。昨日、確認のためにかけたときに、神社に着いたら一度連絡するように言われていたんだ。確か、築山さんという人が担当だった』
そう言って、平本は持っていたカバンを地面に置くと、懐から携帯電話をとり出した。集めた家出人のファイルを全部持ってきたので、カバンがぱんぱんになっている。池川も、自分の持っていたカバンを下に置いて手を休ませた。
電話をかけ終わった平本は、ちょっと変な顔をしていた。
『どうしたんです、平本さん』
『いや、何だか、女の子が出たんだ。宮司の娘かな』
『女の子? 巫女さんじゃないですか?』
『そうかもな』
扉の前で待っていた二人は、背中から声をかけられて、驚いた。
『お約束のお客様ですか?』
振り向くと、どうみても高校生くらいにしか見えない少女だった。ジーンズに、キャラクターの絵が描いてあるぴったりとしたTシャツを着ている。あまり巫女には見えない。生き生きとした大きな目と、肩先で鳥の羽のように跳ね上がったような髪形をしている。
平本は、《髪を染めていないのが、いいな》と思いながら、
『東京から来た、平本です』
と名のった。少女はテキパキとした様子で、後ろにいた池川に目をとめ、
『そちらの方は?』
と訊くので、平本は内心、感心しながら答えた。
『連れの池川です。あの、ここは躑躅岡天満宮でよろしいんですよね。築山さんは、どうしました? 昨日、お電話に出た方ですが』
『築山は、本日お休みをいただいておりますので、あたしが代わりにお通しすることになっています。どうぞお入りください』
池川は板塀の扉を振り向いたが、少女はそこには向かわず、何故か神社の建物の裏手のほうへ二人を案内した。背の高い塀が間近に迫り、日をふさいでうす暗い場所だ。そしてそこにも、さっき見たのと寸分たがわぬ朱色の扉があり、少女はそれを手で押した。がっしりとした重そうな扉は音もなく開く。
『うわっ』
その奥に長い石段がさらに続いているのを見て、池川が思わず声を上げた。両わきから樹木の枝がおおいかぶさっているので、先ほどの位置からは石段のあることが分からなかったのだ。少女がさっさと石段を登って行くので、平本と池川も慌ててそのあとを追う。
段を上りきると、真っ白な玉砂利が敷きつめられた広々とした境内に着いた。少女に案内され、そこに建つ建物のうちの一つに案内される。玄関を入ってすぐの和室に通され、座って待っていると、また少女がやって来て、冷たい緑茶を出してくれた。
『土居はすぐに参りますので、もうしばらくお待ちください』
平本と池川は思わす、深々と頭を下げた。平本は、何となしに少女に訊いた。
『あの、あなたは、ここの巫女さんですか』
少女は一瞬ちょっと驚いた顔をしたあと、おかしそうに顔をゆがめた。
『いえ。巫女じゃありません。ここに住んでいますけど』
『そうですか。もしかして、高校生?』
『ええ。今年入学したばかりです』
『いや、失礼しました。あんまりしっかりしていらっしゃるので』
少女は、にっこりした。
『ありがとうございます。でも、あたしもちょっと驚いちゃいました。名前を知っているのかと思って』
『名前?』
『はい。あたしの名前は、美子っていうんです。美しいに、子供の子で『みこ』と読むんです。だから、びっくりしました。名前を呼ばれたのかと思って』
そう言って、少女はくすくすと笑った。それで平本と池川も、笑った。
『では、土居を呼んできますので』
少女が部屋を出ていくと、池川はお茶を一口飲んだ。
『あっ、このお茶、すごく美味しいですよ。まったく苦くない』
そうして、一気に飲み干す。平本は、カバンの中からファイルをとり出して、中をもう一度確認した。今の少女と同じ年代の女子高生たちが、大勢姿を消しているのだ。そのうち、本来の家出とは違うのではないかと平本がひそかにあたりをつけているのは、都内で二十人ほどにもなる。いや、捜索願が出されていないものも多いはずだから、実際の数はこの数倍にも上るはずだ。確証はないが、平本の今までの経験が、《おかしい!》と言っていた。
《そうだ、駄目でもともとじゃないか》
手がかりがつかめれば、そのきっかけが何であろうと構わない。確かに平本もそう思い始めていた。
『お待たせしました』
しばらくして部屋に入って来たのは、宮司風の装束をきちんと着こんだ若い男だった。実際、池川よりも若いくらいだ。宮司は机の向かい側に正座し、丁寧にお辞儀をした。平本と池川も慌てて頭を下げた。宮司は二人の顔を順に眺めながら、
『土居龍一です。上野警察署にはいつも大変お世話になっております。さて、今年はどんなご用件でしょうか』
と言って、平本が机の上に広げたファイルに目をとめた。平本は池川が持ってきた資料も全部出させると、
『これは、今年になってから都内で出された捜索願でして、このうち、私が不審に思っているものには付箋をつけてあります。ほとんどが女子高校生なんですが、これが本当に自主的な家出なのかと疑われる点がありまして。……いや、これといった証拠はないのですが、どうも腑に落ちないんです。というのは……』
平本が話し続ける間、龍一はファイルをぱらぱらとめくっていたが、突然そこから書類を外し始めた。平本は驚いて、話をとめた。
『な、何をするんです?』
龍一は構わず次々と書類をばらばらにし、いくつかを抜き出した。それは平本が付箋をつけたものもあれば、つけていないものもあった。そして今度は、それらをいくつかの山にまとめ始めた。そのあとで、池川に向かって、言った。
『東京都の地図をお持ちですか』
池川は、ちょっとの間ぼんやりしていたが、すぐに気がついて、鞄の中から一枚ものの地図をとり出した。
『ありがとうございます。さて、この束、これを仮に一群と呼びますが』
龍一はとり分けた書類のうち、一つの山を指さし、
『この人たちは、現在は、この辺りにいると思われます』
と、地図のある場所に万年筆で丸を書き、その中に一、と書き入れた。平本と池川がのぞきこむと、それは足立区の梅島という場所だった。
『次にこの二群は……、おそらくこの周辺です』
二という数字が、今度は渋谷区のはずれ、笹塚の辺りに書きこまれた。次に、三が、板橋区大和町、四が、江戸川区西一之江、そして最後の五は、大田区北馬込だった。
部屋の中が、しいんとした。平本も池川も、龍一が、あまりにあっという間に終わらせたので、しばらく何と言っていいか、分からなかったのである。池川は、龍一がまとめた少女たちのデータをとり上げ、それをめくって見たあと、ようやく口を開いた。
『……都内五ヶ所に分かれて、この子たちが一緒にいるっていうことですか? そうなると、確かに単なる家出事件とは思われませんが、……しかし、いったいどういうことですかね。以前、ネットで知り合った者同士が集団自殺したっていう事件がありましたが、これもそのたぐいでしょうか』
『自殺?』
平本は、ぎょっとして池川を振り返った。龍一が言った。
『この人たちは、死んではいません。自主的にこの場に来た人もいれば、無理やり連れて来られた人もいるようです。どちらにしても、あまりいい扱いを受けていないようです。帰りたがっているのに、閉じこめられている場合が多いようです』
『監禁ですか!』
池川が声を上げた。平本は、くしゃくしゃと頭をかきまぜながら、なおもじっと地図を睨んでいたが、
『そうか!』
と言って、身を乗り出した。
『見てみろ。一見、これらの場所は、ばらばらに散らばっているようだが、全部環七通りのすぐ内側だ。そして、いずれも都内中心部から放射線状に延びる主要道路と交差する地点近くでもある。梅島は日光街道、笹塚は甲州街道、大和町が中山道、といったように』
『なるほど。都内と都外、それに互いの行き来にも便利ですね』
『すると、この五つは、組織的につながっている可能性が大きいな』
『でも、全部、上野の管外ですよ。所轄の協力は得られないでしょうし、どうやって調べるんですか』
『それは何とでもなるさ。一言断りを入れればいいんだ。上野で受けつけた家出人の情報が手に入ったとかなんとか言えば。……そうだな』
平本は一群の資料をめくった。
『上野の分は、一群に集中している。ということは、足立区梅島周辺ということだ。上野とは日光街道で一直線だ』
『見つかりますかね?』
『それは分からん。しかし、ここら辺は繁華街でもなく、昔からの住宅街だ。変な人間の出入りがあれば、誰かが気づいている可能性もある』
『駄目もとですね』
『そうだ、駄目もとだ』
龍一は、にこりと二人に微笑んだ。
『あとは、警察のお二人にお任せします。私はみたまま、感じたままを申し上げただけです。実際に人を救い出すのは、あなた方ですから』
その後、事件はいっきに急展開の様相をみせた。
結論からいえば、梅島にある一戸建ての住宅の中から、家出したと思われていた女性九名が発見された。ほとんどが十代から二十代前半の若い女性で、いずれも暴力を受けた跡があり、監禁され、売春行為やポルノビデオの撮影などに協力させられていた。彼女たちの携帯電話はとり上げられ、犯人たちの一人が担当となって、あたかも本人からのように、家族や友人にメールを送信し続けていたのだった。
梅島の事件が明るみになったことから、そのほかの監禁場所も芋づる式に発見された。そして、都内各五ヶ所、総勢六十名以上の女性が保護されるという、大事件に発展したのだった。裏にはむろん、暴力団組織が関わっていた。警察の手が伸びる前に逃げた者もいたが、買春やポルノ撮影に関係した者を含めると、二十名ほどの逮捕者が出る大捕り物となった。
驚いたのは、女性たちを監視していたのは、それぞれの監禁場所に一名だけだったということだ。見はりの男はナイフこそ所持していたが、銃も持たず、腕っぷしも大して強くなさそうな者ばかりだ。それでも、一度殴られたり、脅されたりした彼女たちは、すっかり抵抗する気力を失い、彼らの言うがままになっていたのだった。
池川は、事件が一段落したあと、署内の狭い喫煙室の中で、片手にたばこ、片手にコーヒーの入った紙コップを持ちながら、平本に話しかけた。喫煙者の肩身が狭いのは、警察も同じだ。
『なんで女性たちは、逃げようとしなかったんですかねえ。十対一だったら、いくら相手が男だからって、何とかなりそうなものですが。隙だっていくらでもあったでしょうに』
平本は、頭の後ろで手を組み、宙を見ながら、言った。
『そう思うのは、渦中にいない人間だよ。一度、恐怖に支配されると、そこからぬけ出すのは容易なことじゃない。身体的にじゃなくて、精神的にまいってしまうんだ。彼女たちの供述を聞いただろ? 監禁場所での生活はそんなに悪いものじゃなかった、行くところがない自分たちを受け入れてくれた、タレントになれると信じていたっていう子もいた。人間はあきらめを感じると、その環境に何とか慣れようとして、自分のおかれた状況をいいように感じ始めるんだ。精神的防御本能みたいなもんだろうな。そうして環境を自ら変えるという気すらなくしてしまうんだ。本当は、壁一枚先に、自由があるんだけどな』
『そういうもんですかねえ』
『恐怖によって、人間の尊厳を根こそぎにしてしまうのが、暴力なんだ。だから、暴力は憎むべきものなんだ』
ともかく、この大量女性監禁事件を解決に導くきっかけとなったのが、土居龍一の霊視であったことは、間違いない。都内のほかの監禁場所も、龍一が示した場所とほとんど一致していたのである。ほかの署にはいえないことだったが、平本は、近くに用事があったついでに、四谷署によった。そこには、上野から異動となった以前の上司、平本に躑躅岡天満宮のことを教えた課長がいる。
平本が事件の内情を報告すると、課長は、うなずいた。
『分かっている。最初に梅島のニュースを聞いたとき、ああ、やったな、と思っていたからな。もちろん、手柄の大部分は、お前らのもんだよ』
『しかし、驚きました。世の中には、あんな人も本当にいるんですね』
『確かに、俺たちには、計り知れない能力だよな。しかも、それを捜査に利用している警察が一方にいるわけだからなあ。科学捜査あり、霊能捜査あり、何でもありだ。……ところで、来年の予約はとったか?』
『はい。来年は、七月二日です』
課長は、自分の手帳にそれをメモして、平本に、にやりとしてみせた。
『上野署で使う必要がなかったら、俺に連絡してくれよ。四谷でも難問をいくつか抱えているんだ』
◎◎
次の年の上野は、事件が山積していた。平本も池川も、いくつもの事件を抱えて目が回りそうだった。
一月初め、初売りで賑わう秋葉原の電気街では、ネット上で爆破予告があり、界隈は一時騒然となった。結局それはテロではなく、愉快犯で、犯人はほどなく逮捕されたが、それまでの間、署員は総出で一週間、交代で秋葉原を巡回して回った。
東京芸術大学で客員講師が男子学生にナイフで刺されるという事件も起こった。講師の命に別条はなかったが、原因が一人の女子学生をめぐる三角関係のもつれというので、ワイドショーがさかんにとり上げた。『上野の森で、有名教授と美大生が、美人女子大生をめぐって痴話げんかの末の刃傷沙汰』などと、文芸の杜、上野公園も彼らの愛憎の舞台として紹介されたりして、平本たちをうんざりさせた。
もともと多い窃盗事件はさらに上昇傾向で、署員は前年からの繰り越し分を含めると、一人で数十件の窃盗事件を担当していた。平本はあまりに多忙で、池川が言い出すまで、躑躅岡天満宮のことをすっかり失念していた。
『ところで七月二日は、どうするんですか、平本さん』
六月中旬の夜九時の上野署内で、平本は山のような報告書作成にとり組んでいた。
『七月二日ってなんだ』
平本は、目をこすった。どうも最近、よく見えない。老眼だろうか。池川はちょっと辺りを見回した。部屋に残っているのは、二人きりだ。
『忘れたんですか? 仙台の霊能の先生ですよ。今年は七月二日が予約の日でした』
平本は、驚いて手帳を開いてみた。確かに次の月のページに書いてある。
『ああ、そうだったな。しかし、みてもらうような案件があったかな? みんな細かい事件で、足で追うようなものばかりだ』
『じゃあ、俺が担当している連続車上荒らし事件をみてもらってもいいですかね。新品のカーナビばかりを狙いやがって、すでに三十台も被害届が出てます。いい加減うんざりしてるんですよ』
『電気街に故買専門の店があるって噂があるだろう。そこにいくつか流れているんじゃないか。そこをあたってみたのか』
『まだ詳しくは調べていませんが、土居先生の霊能力で、いっきに解決できれば、それに越したことはないじゃないですか』
『ばか。検察官に、霊能力で犯人を見つけましたとでも言うのか。因果関係を立証できなきゃ、証拠品を押さえることもできないんだぞ。まず、証拠固めをしてからだよ。自分でできることを全部やった上で、最後の一パーセントがどうしても残ったときにそういうことは考えろ』
『じゃあ、平本さんは、頼むこと、何かあるんですか?』
『うーん』
『ほら、ないじゃないですか。せっかくの機会なのにもったいないですよ。あ、じゃあ俺自身を占ってもらおうかな。いったいいつになったら結婚できるのか。これこそ、これまで三十年間も努力を重ねても結果が得られなかったわけだから、もうあとは霊能力に頼るしかないとこまで、きてるんだけどなあ』
平本は、池川の言葉を無視して、また報告書を書き始めた。
『今年は、キャンセルしますか』
池川に、平本は上の空で答えた。
『本当になかったら、四谷署の課長に譲るさ。去年声をかけろって、言われていたから』
『四谷署? それもしゃくですねえ』
『まあ、あと半月ある。それまでに難事件が勃発するかも知れんよ』
『それも、勘弁してほしいですね』
◎◎
しかし、池川の願いもむなしく、事件は起こった。平本たちが追っていた税理士の新沼浩貴が殺され、仲間とみられる不動産屋の和光吉次の行方も分からなくなった。逮捕直前、自分たちの鼻先から容疑者が奪いとられて、平本も池川も、唖然とした。しかも、もっと悪いことに、その後彼らの捜査に妙な横やりが入ることになるのである。
七月一日の午後、平本と池川はぐったりして大学病院から上野署に戻ってきた。その日の朝に丸の内署管内の千鳥ヶ淵で発見された水死体が、新沼であることを確認してきたのだ。主要容疑者二人の行方不明が判明した翌日、うち一人の死亡が確認された。自分たちの事件は完全に暗礁に乗り上げた形となった。
平本と池川が腐っているところに、課長から平本に呼び出しがあった。これは今年の春に異動してきた新しい課長である。机の前に行くと、課長は、目の前の保留中の電話機を指さした。
『東京地検の特捜部から、お前に電話が入っているぞ』
『地検? 特捜? 何の件ですか』
『新沼殺害の件らしい。早く電話に出ろ』
『何で、新沼の件で、特捜が連絡をよこすんです』
『さあな。担当刑事と直接話をしたいと言ってきている』
平本は、わけが分からぬまま、電話に出てみた。
『平本ですが』
相手は、ひどく早口だった。
『東京地方検察庁特別捜査部検事の濱野といいます。今朝早くに千鳥ヶ淵で発見された水死体の検分をした方ですね』
『そうです』
『あれは、上野の税理士、新沼浩貴に間違いありませんでしたか』
『はい、たぶん』
『和光吉次の行方は分かりましたか』
『いえ。和光がいなくなったと分かったのも、つい昨日でしたから』
『今後の捜査方針は、どうなっていますか』
『今後と言われましても……。上野税務署との共同捜査でもありましたので、あちらとも相談してからでないと、何とも。まあ、ともかく和光の捜索は続けるようになると思いますが』
『確か上野署では夕べの段階で、和光の手配を都内各署に協力要請済みでしたね。我々のほうでは、先ほど、都内だけでなく、全国の都道府県警に手配を済ませました。都内にも重ねて警視庁の名前で要請してあります。容疑は、一応、詐欺及び公正証書原本不実記載罪ということになっています』
『一応?』
『別件があるということです、むろん。私たちが関わっているということでお分かりと思いますが』
『和光や新沼が、さらなる重大犯罪に関係しているということですか』
『そのとおり。しかし、どのような犯罪にどのように関係しているかは、今は申し上げられません』
平本は、濱野という検事の話し方に、だんだんいらいらしてきた。
『で、われわれにどうしろというのです。あなた方に協力しろということですか』
すると濱野が、
『あなた方は、明日七月二日に、仙台の躑躅岡天満宮へ行く予定になっていますね』
と言ったので、平本は仰天した。
『何で、それを知っているんです』
『上野署が毎年あの神社に行っていることくらい、警視庁も知っていますよ。公費が出ているもので、把握していないものはありません』
『それをやめろと言うんですか?』
濱野はそれに答えず、こう言った。
『躑躅岡天満宮へは、今年は何の事件について訊きに行くつもりでしたか』
平本は、とっさに思いついたことを口に出した。
『今回の新沼と和光の件について訊こうと思っています。いえ、和光の行方についてですね。人や物の在りかをあてるのが、あの先生の得意とするところですから』
これに対し、濱野の答えは意外なものだった。
『なるほど。では、それにうちも立ち会わせてください。私ともう一人、綾戸という検事ですが』
平本はだんだん頭が混乱してきた。
『検事が、その、霊視の場に立ち会われるというんですか?』
濱野は淡々した口調で、言った。
『和光の行方をすぐにでも知りたいのはこちらも同じです。新沼が殺害された今、和光の確保が最優先事項になっているのです。土居という宮司の霊能力は、上野署の折り紙つきというじゃありませんか。今は、和光の手がかりなら何であっても欲しいというのが、本音です。大いに興味がありますね』
『興味……』
『明日の十六時が約束でしたね』
『え? はい。検事たちも新幹線で行かれますか?』
『いや。私たちは予定がつまっていて、仙台まで行くのはちょっと難しいのです。申しわけないですが、宮司にこちらに来てもらうように頼んでもらえますか? 夕方ならこちらも何とか時間を調整できますので。場所は上野署で結構ですよ』
平本は、濱野の一方的な言い方にむっとして言い返した。
『ちょっと、それは難しいと思いますよ。あそこは出張はしないようですし、土居先生もあなた方に劣らずお忙しい方ですからね。なにせ予約は数ヶ月先になるのが普通のようですから』
すると濱野は、ちょっとなだめるような口調になった。
『そこをなんとか、お願いしてもらえませんかねえ。もともと予約は入れているわけですし、仙台からなら二時間で着くでしょう。少しなら時間をずらしても構いませんよ』
『そう言われても……』
『とにかく、頼んでみてください。捜査協力ということで。なお、宮司には、私たちのことは警視庁の人間だとでも言っておいてください。私たちの事件はまだ公表段階にないので特捜部の存在は知られたくないのです。あ、それから今回の経費は全部警視庁のほうでみてもらうように手配しておきましたから。この点はそちらの署長にも連絡済みです。それではよろしく』
そうして濱野の電話は切れた。平本は憮然とした表情のまま、受話器を置いた。わきで話を聞いていた課長が訊ねた。
『どういうことだ?』
平本は、腕組みをしながら、答えた。
『どういうことか、さっぱりですよ。はっきりしているのは、新沼と和光が、地検特捜部のヤマの重要参考人でもあるっていうことと、特捜の検事が、土居先生の霊視にやけに興味をもっているっていうことだけです』
課長は呆れたように、大きく口を開けた。
『検察もついに霊視に頼るようになったのか?』
新課長も、当然上野署の伝統については聞いて知っている。平本はそれに対して、あいまいに首を振った。そして、自分の席に戻ると、一度大きくため息をついたあとで、手帳を見ながら、電話機のボタンを押し始めた。
(五分の三)
◎◎
丸の内署の五階応接室では、濱野と綾戸が来ないまま、さらに十分が経過していた。自分から来いといってこれだ、と平本は腹だたしく思ったが、目の前の龍一は、特にいらいらした様子もなく、わずかな笑みすら浮かべて端然と座っているので、平本はほっとしていた。
七月一日の夕方に躑躅岡天満宮に連絡をして、明日は上野署まで来てほしいと言ったときは、龍一もさすがに困惑した様子だった。しかし、しばらく考えたあとで、こう言った。
『明日はどうしても伺えません。直前まで別の来客があるものですから。しかし、あさってなら都合はつきます。三日の三時に上野署にお伺いするということではどうでしょうか』
結局それを検事たちも了解し、三日に龍一が東京に来ることになったのである。しかし、またもや検事の都合で、三時に上野署というのが、四時に丸の内署となり、さらに彼らは遅刻してまだ来ないという事態になっているのだった。
(検事と約束など、二度としないぞ)
と、平本は手帳をにらみながら、思った。池川が沈黙にたえられないように、話しかけた。
「それにしても、け……警視庁の人間は遅いですねえ。土居先生にもこのあとのご都合があるでしょうに」
龍一が、顔を上げた。
「いえ。私は今日の予定はもうありませんので、気にしないでください。それに、今日ここには、私もぜひ来たかったのです」
「ここって、丸の内署にですか?」
龍一が、ちょっと笑って、
「そうとも言えるかも知れませんが……」
と言ったので、池川は、驚いた。
龍一は、首をかしげながら、ゆっくりと話した。
「おとといお電話をいただいたとき、これは必ず東京に行かなければいけないだろう、と思いました。何故かは、そのときは分かりませんでしたが、行くべきであるということは、はっきりしていました。その理由は先ほどようやく分かったのですが。つまり、私は和光さんのことを探さなくてはならなかったのですね。私でなければ、和光さんを探すことはできないのです。少なくとも、必要な時までに探すことは。
そして、今から来られるお二人にも、私は会う必要があるのです。ですから、やはり私のほうが東京に来るべきだったのです」
平本は、口を開こうとしたが、その瞬間、部屋のドアが開いて、二人の男が入って来た。ネクタイこそしていないが、二人とも、糊のきいた白いYシャツと、ぱりっとしたスーツ姿で、いかにも高級官僚といった雰囲気を漂わせている。
年下のほうの男が平本に目をとめて、挨拶した。平本と池川は慌てて立ち上がった。
「やあ、上野署の平本さんですね。遅くなってすみませんでした。私がお電話した濱野です。こちらが綾戸。どうぞよろしく」
平本は、明らかに自分よりずっと年下の男に向かって頭を下げた。まだ、三十代前半といったところだろうか。
「どうも。私が平本です。こっちが同じ署の池川。あちらにおられるのが、躑躅岡天満宮の土居宮司です」
池川が体をずらしながら、綾戸と濱野に向かって声をかけた。
「お二人とも、こちらへどうぞ」
綾戸という五十歳くらいの男は、腕組みをすると、壁にもたれかかりながら言った。
「いやいや。我々は、ちょっと同席させていただくだけですから、ここで結構。さ、時間ももったいない。さっそく始めてください」
そうして綾戸は、眼鏡の奥から、興味深げな目つきで、龍一を鋭く眺めた。
「そちらが高名な、霊能力者の先生ですか。ずいぶんお若いので驚きましたよ。ま、上野署には何度かお力添えをいただいていると聞いておりますので、今回もぜひお願いします」
平本は、ちょっと顔を赤くしながら、龍一のほうへ、
「あ、では、和光が自宅や事務所に残した所持品をいくつかここに持ってきましたので、お見せしましょう。和光の写真もあります。おい、池川」
「はい」
池川は、
「和光は、身の回りのものはちゃんと持ち出したようで、財布や鍵などはありませんでした」
と、かばんの中から、写真やペン、腕時計などをとり出し、机の上に並べた。
龍一は、机の上に置かれた品物をさっと一瞥すると、ドアの近くに立っていた濱野に向かって、言った。
「あなたが持っていらっしゃるものも、見せていただけませんか」
濱野は、ぎょっとして龍一を見たあと、綾戸のほうを振り返ったが、そのうなずいたのを確認すると、背広の内ポケットからビニールに入った一枚の紙を、とり出し、龍一に手渡した。
「新沼が発見されたとき所持していた、和光の名刺です」
「ありがとうございます」
龍一は名刺を袋ごと受けとると、じっとそれを見た。そうして、そのあと、目をつむり、そのままの姿勢で、口を開いた。
「和光さんは、ずいぶん、南にいます。そう、とても暑いところです」
平本と池川は顔を見合わせた。龍一が二人の考えに答えるかのように、続けた。
「国外ではありません。……島ですね。比較的大きな島。沖縄本島だと思います」
「沖縄! なんでまた、そんなところに」
平本が思わず声を上げた。龍一は、閉じていた目を開けた。
「どうしてなのかは、分かりません。しかし、確かに和光さんの気配が今現在もそこにあります。沖縄本島の……そうですね、南よりです」
「じゃあ、和光はまだ生きているんですね」
平本は、ほっとして言った。新沼に引き続き、和光にまで死なれたら、今までの苦労が水の泡だ。龍一は、厳しい目つきで、平本を見た。
「はい、生きています。でも、急いで和光さんを探してください。できるだけ早く」
「それは、またどこかに逃亡を図っているということですか?」
「いえ。和光さんにも、新沼さんと同じような危険が迫っているということです」
「和光も殺されるというんですか!」
龍一は、暗い顔をして、今度は綾戸のほうを見た。
「和光さんは、自分でも身に危険が迫っていることを感じています。しかし、自分ではどうしてよいのか分からないでいます。あなたなら、すぐにでも和光さんを探しあてることができるでしょう。これからすぐにでも、手配してあげてください」
綾戸は、ちょっと眉を上げた。
「何故、私なら、すぐに和光を探せるというんです?」
龍一は、綾戸の目を真っ直ぐに見て、答えた。
「あなた方は、警視庁のほうからきた方々なのでしょう? であれば、沖縄の警察も、すぐに動かすことができるだろうと思ったのです。……ところで、警視庁の建物がある場所も丸の内署の管轄なのですか?」
綾戸も、龍一の目を見つめ返した。
「ふむ。あなたは、少し勘違いしておられますよ。警視庁の管轄は東京都内。ほかの都道府県警察と性格は同じなのです。その上にあって、全国の警察を指揮監督しているのは、警察庁です。それから、警視庁がある場所は、管轄で言うと麹町署です。しかし我々がここにいるのは、管轄の問題のためではなく、単に丸の内署管内で新沼の遺体が発見されたからなのですよ」
龍一は、ちょっと微笑んだ。
「そうですか。それでは、私の間違いでした。失礼いたしました」
綾戸は、濱野に視線を送った。濱野は了解したように、うなずくと、少し前に出た。
「ところで、土居龍一さん。和光が今、沖縄に潜伏しているというのは、本当ですか? どうやって、あなたはそれを知ったのですか」
平本は、驚いて、濱野を見た。龍一は、濱野を見上げながら、答えた。
「あなたにお借りした和光さんの名刺を通して、和光さんの霊波を追ったのです。これは、本当の和光さんの名刺のようですね。しかし、同時にこれは、新沼さんという方の本来の持ち物ではなかったようです。誰かが、自分の持っていたものを新沼さんの服にまぎれこませたのでしょう」
濱野は、またちょっと綾戸を見たあと、続けて訊いた。
「ほう! つまりこの名刺は、和光が別の人間に渡したものだったというのですね。霊視とはそこまで詳細に分かるものですか? まったく不思議なものですね」
「もし私が、以前に和光さんに直接会ったことがなかったら、そこまで分からなかったかも知れません。和光さんは、新沼さんと親しかったとお聞きました。和光さんは私にも、いいコンサルタントを紹介する、とおっしゃっていましたが、たぶん、それは新沼さんのことでしょう。和光さんはそのコンサルタントをとても信頼していた、そしてそのことは、あの当時の私にも感じることができたのです」
濱野の目が光った。
「和光があなたに、新沼を紹介すると言ったんですか? それは面白いですね。それで、その紹介を受けたのですか?」
龍一は、面白そうに濱野を見返した。それで濱野は、ちょっとむっとした表情になった。龍一はすぐに真顔に戻った。
「いいえ、お断りしました。うちにもすでに顧問税理士がおりましたので」
「ふうん……」
濱野は不審げな顔になった。龍一はそれに構わず、机の上に置いた和光の名刺を見ながら、説明するように、ゆっくりと話した。
「信頼していたり、親しみを感じている人に渡す物には、その物自体にも、あげる人のそういった心の残像が残るものです。気持ちをこめる、という言葉があることでも、お分かりかと思います。しかし、この名刺には、和光さんのそのような気持ちが感じとられません。そして、相手に渡してからあまり時間も経っていないようです。この中にあるのは、不信、恐れ、焦り、そういったものです。そしてたぶんそれは、今現在、和光さん自身が感じている気持ちとほぼ同じものです。それだから、私も和光さんの居場所を比較的簡単にみつけることができたということもあります」
濱野は、思わず龍一の向かい側に腰を下ろした。
「この名刺を受けとった人間は、いったいどんな人間か、分かりますか? そいつが、新沼を殺したんでしょうか」
龍一は、手の指を組み合わせた。
「どうでしょう。そこまでは分かりません。ただ、和光さんは名刺を渡した相手に、恐れと同時に、敬意をも感じていたようです。ですから、おそらくその人間は、和光さんより目上の存在なのだと思います」
濱野が、はっと息を呑んだ。平本はちらっと濱野と、そして綾戸のほうを見た。綾戸の表情は動かない。
龍一は、一つ大きく息をつくと、組んでいた指をはらりと離し、手のひらを上に向け、膝の上に置いた。そして、目の前の四人を順に眺めた。
「……私に分かるのは、ここまでです」
綾戸が組んでいた腕をほどき、壁から体を起こした。
「いや、土居さん。大変参考になりました。和光が沖縄にいるかも知れないというお言葉も、承りました。実際の捜索はあちらの地元警察と、上野署がおこなうことになるでしょうが、むろん、我々も協力すべきところは、できる限り協力いたします」
龍一は、さっと立ち上がった。綾戸は背の高い龍一を、見上げる形となった。
「綾戸さん、とおっしゃいましたか。和光さんを救ってあげてください。一刻を争うのです。機を逸しないでください」
綾戸は、胸をそらした。
「それは、我々も充分に分かっております。機、とおっしゃいましたな。まさしく、この事件は、機をみることが重要なのです。では、申しわけありませんが、お先に失礼しますよ。次の予定が控えておりますので」
綾戸がくるりと体の向きを変えドアのほうへ歩き始めると、濱野も証拠品の名刺をとり上げ、さっさとそのあとに続き、二人は足早に部屋を出ていった。
平本と池川は、立ち上がってそれを見送ることも忘れ、座ったままぽかんとして彼らの後ろ姿を眺めていた。ばたんとドアが音をたてて閉まり、部屋はまた三人きりになった。
平本は、はっと気がついて、龍一を見上げた。龍一は、にこりと平本に笑った。
「終わりましたね」
平本は、立ち上がった。
「いや、何とも……。色々、不愉快な思いをされたかも知れませんが、ご容赦ください。あの人たちも忙しすぎるのか、どうも愛想に欠けるところがあるようで、失礼しました」
龍一は、池川が机の上に広げた品々を片づけるのを眺めながら、言った。
「いいえ。なかなか面白い人たちでした。非常に緊張した日々を送っているようですね。そして、自負心が大変強い。自分の仕事にとても誇りをもっているのが分かります。
でもそれは、私も同じなのです。私の仕事によって、あの人たちの仕事も動き出すでしょう。それでこそ、私がここへ来たかいもあるのです。……時の流れというのは、不思議なものです」
平本は、それに対して何と答えていいか、ちょっと分からず、言葉を探すように、龍一の顔を見た。
そこへ、先ほど部屋に案内してくれた女性署員が、顔をのぞかせた。
「上野署の平本さん、いらっしゃいますか?」
平本は手をちょっと上げた。
「私です」
「上野から、お電話が入っています。そこの電話で外線四番をおとりください」
そう言って、彼女はすぐにまたドアを閉めた。
それで平本は、壁際に備えつけられている電話機の受話器をとった。
「もしもし。平本です。……ああ、課長ですか。ちょうど終わったところです。今から署に戻ります。……ええ。土居先生も一緒です」
そうして、龍一に声をかけた。龍一は部屋の窓から、皇居の堀を眺めていた。
「先生。これから、どうされますか? どこかに行かれるなら、ついでにお送りしますが」
龍一は、後ろ手を組んだまま、振り向いた。
「もし、もうご用事がなければ、新幹線ですぐに帰るつもりです。東京駅から乗りますので、ご面倒でなければ八重洲口で降ろしていただけると、助かります」
「分かりました。……あ、課長。先生は東京駅から新幹線に乗るそうですので、上野に戻るのは我々だけですよ。……えっ? 何です? 和光の件はちゃんとみていただきましたから。……はい。連中も同席しましてね、もう今はいなくなりましたけど。……いや、ですから、先生は東京駅から……。はあ、ではちょっと、訊いてみますよ」
平本はまた、受話器から口を離すと、龍一に話しかけた。その声は若干戸惑っている響きがあった。
「あのう、うちの署に、先生にお会いしたいという女性が来ているようなんですが、お心あたりはありますか? 浦山由布子(うらやま ゆうこ)さんという方みたいですが」
「いや。知らないようですね。そもそも、今、私が東京にいることは、天満宮の者しか知らないはずですが」
「もしもし。課長。先生は知らないと言っています。何かの間違いじゃないですか? ……ああ、今朝の事故の人ですか。そりゃ、お気の毒ですが……。うーん」
平本は疲れたような顔で、また龍一に向き直った
「どうしても、先生にお会いしたいといって、署の窓口でがんばっているらしいんですよ。実は、今朝ほど、上野公園内の不忍池(しのばずのいけ)で水難事故がありましてね。男の子が亡くなったんです。どうもそのお母さんらしいんですが……。申しわけありませんが、ちょっと上野署までご一緒願えませんか。話を少ししていただければ終わると思うんですが」
龍一は、うなずいた。
「承知しました。私に会いたいという理由はよく分かりませんが、ともかくその方にお会いしてみましょう」
平本はほっとして、課長にその旨を告げ、電話を切った。
◎◎
上野署に三人が着くと、待ちかねていたかのように、平本の課の課長が飛んできた。その顔には明らかに安堵の表情が浮かんでいた。よほど手こずっていたらしい。課内にいる署員も、こちらをちらちらと見て、龍一がどんな顔をしているのかを確認でもしているかのようだった。
課長は笑顔を浮かべ、龍一のもとへ来て、挨拶を述べた。
「いやあ、先生。いつもうちの署員が大変お世話になっているそうで。私は四月からこちらにきたのですが、前任の課長からお噂はかねがね聞いておりました。今年は無理に出張もしていただいたそうで、すいませんでした。えー、それでですな……」
課長はここで急に声を落とし、事務室とつづきになっている部屋のほうをさした。
「平本から話をお聞きになったと思いますが、今朝早く、不忍池という池で、浦山明(うらやま あきら)君という五歳の男の子が溺れまして、すぐに病院に運ばれたんですが、つい先ほど死亡が確認されました。これは、純然たる事故でして、そこに異論はありません。で、こちらもそのように処理したのですが……、先ほどになってお母さんが急にいらっしゃいましてね、土居龍一という人がこちらにいるはずだから会わせてほしいと。いませんと申し上げたんですが、会うまで帰らないなどというものですから、仕方なくあの部屋でお待ちいただいている次第です」
「そうですか。では、さっそくお会いしてみましょう」
龍一が隅の部屋のほうへ歩いて行き、ドアノブに手を伸ばそうとすると、課長は慌ててそれを遮った。
「あ、先生」
「はい」
龍一は、ちょっと手をとめて振り返った。課長は、龍一に耳うちするように、言った。
「何かあったら、すぐに人を呼んでください。かなり興奮している様子ですから。お子さんを亡くされたばかりで無理もありませんがね。それに、男の子が溺れたとき、一緒にいたのが、実はお母さんなんですよ。ちょっと目を離したすきに池に落ちたらしいんですが、そんなこともあって、今朝はほとんど半狂乱の状態でした」
龍一は、うなずくと、ドアを開けて、部屋の中に入った。
◎◎
浦山由布子は、びくりとして顔を上げた。目の前にスーツを着た男が立っている。自分よりも少し年下に見えた。男は、頭を下げて、言った。
「初めまして。土居龍一と申します」
その声は、低く深く響いた。龍一は、由布子の向かいに腰を下ろすと、少し首を傾げた。由布子に心あたりがあるかどうかを、考えているようだった。
由布子は、ハンカチを握りしめて声が震えないように気をつけながら、話した。
「初めてお目にかかります、浦山由布子です」
龍一は、何も言わずに、じっと由布子を見つめていた。由布子の中では、それまでの間、様々な言葉があふれ出てきていたが、今は気持ちがのどに大きくつかえているようで、なかなか話し出すことができなかった。しかし、ことは急を要するのだ。意志に反して、ひっく、という音が喉の奥から飛び出たあと、由布子は口を開いた。
「先生にお願いがあって参りました」
「何でしょう」
その言葉を聞いて、由布子はもう我慢ができなかった。どっと涙があふれ出し、のどははじいた弦のようにぶるぶると震えた。
「明を、明を助けてください。もう、先生に頼るしかないんです」
そう言って、床にひざまずき、龍一の足もとにとりすがった。龍一が驚いて身じろぎするのが分かった。由布子は龍一のスーツの裾を押さえ、強く引っぱった。
「明は今、この近くの病院にいます。すぐ近くです。私と一緒に来てください。ほんのついさっきまで生きていたんです。心臓も動いていたんです。先生なら、あの子を生き返らせることができるはずです。桔梗先生から伺っていたんです。日本一の霊能力者がいるって。その先生なら、できないものはないって。それを病院で思い出したんです。それで、桔梗先生に さっき電話して連絡先を教えてくださいと言ったら、上野にちょうどいらっしゃるっていうんです。これは神様のお導きです。明は先生に助けていただく運命なんです。さあ、行きましょう、先生。明が待っています」
由布子は、龍一の腕をつかんで立ち上がらせようとした。龍一は座ったまま、由布子の手を持って、その顔を見上げた。由布子は、困惑したように、龍一を見下ろした。
「浦山さん。私にはできません」
由布子はまた床に座りこんだ。そして、無意識にきょろきょろと辺りを見回した。早く、早くしなければ、明が遠くへいってしまう。
「どうしてですか、先生」
龍一は、由布子に届くように、ゆっくりと言葉を区切って、言った。
「亡くなってしまった人を、ふたたび、この世によみがえらせることは、できません。それは、たとえ神であっても、できないことです。それが、私に、どうしてできるでしょう。私に、そんな力はありません」
「でも、先生は、日本一の霊能力者なんでしょう? 試してみていただくだけ、お願いできませんか」
「試してみなくとも、分かるのです。明君の魂は、もう私たちの手の届かないところにいってしまったことが、私には、みえるのです。しかし、もしよろしければ、病院には一緒に伺いましょう。明君のために、鎮魂の祭詞を奏上させてください。明君の魂が、穏やかに、次の世界にいけるように」
それを聞くと、由布子は顔色を変えた。
「鎮魂ですって? 次の世界ですって? 冗談じゃありません。私が先生にお願いしているのは、明をもとに戻していただくことです。いつものあの子が私の腕に帰ってくることです。先生。お金ならいくらでも用意します。いえ、私の命と引き換えでも構いません。それならどうですか? あの子はまだ五歳なんです。五歳でどうして死ななきゃいけないんです。とってもいい子なんです。死ななきゃならない理由なんて、これっぽっちもないんです。私が、私があのとき、あの子の手を放したから、目の届かない場所においておいたから、私が全部悪いんです。あんなところに連れていくなんて」
由布子は、わっと泣いて、床にうずくまった。指はくすんだオレンジ色のカーペットをかきむしるようにつかみ、その爪には泥がいっぱいにつまっていた。
その時、部屋のドアが開いて、平本が入って来た。
「先生、大丈夫ですか!」
そう言う平本の後ろから、三十をちょっとすぎたくらいの男が割って入って来て、由布子のもとに駆けよった。
「由布子! こんなところで何をやっているんだ。明を放っておいて。あちこち探したんだぞ」
「浦山和也さん。由布子さんのご主人です」
平本が、龍一に説明した。和也は泣き続けている由布子の肩をそっと抱えて、ゆっくりと立ち上がらせた。
「さあ、由布子。行こう。明が待っている……」
そうして、由布子を部屋の出口へと連れ出しながら、平本と龍一に向かって、
「大変お騒がせしました」
と、頭を下げた。
龍一は、立ち上がり、それに向かって深く礼を返した。和也は由布子の肩を抱きながら、龍一にちょっと向き直った。その顔は、今朝からの疲労で青ざめていたが、髪型や服装はきちんと整っていた。おそらく身支度のあとに事故を知ったか、あるいは常の習慣が衝撃にうち勝ったか、そのどちらかだろう。
「あなたが、土居先生ですか。由布子が京都のお茶の先生から、あなたのお噂を聞いていたようです。この度は、大変ご迷惑をおかけしまして、申しわけございませんでした。いずれまた、正式にご挨拶させていただきますが、今はこのとおりたてこんでおりますので、日を改めさせていただければと思います。今日はこれで失礼します」
そうして和也は、ふらついている由布子を抱きかかえるようにして、部屋を出ていった。
二人の姿が見えなくなると、平本はため息をついて、龍一を振り返った。龍一は、目を伏せ、じっと足もとを見ていた。
平本は、ひきたてるように龍一に声をかけた。
「いやあ、先生。大変な人にひき合わせてしまいまして、すみませんでした。隣にいても、あの人の声が少し聞こえましたよ。子供を生き返らせてくれとか、なんとか。それはいくら先生だって、無理ですからねえ。まあ、気になさらないことです。警察にはああいったおかしな人がしょっちゅう来るんです。もちろん、あの人は、大変気の毒な事故に遭われたということは、ありますが」
龍一は、床に手を伸ばすと、落ちていたハンカチを拾った。由布子が持っていたものだ。繊細な刺繍の入った薄い麻布の高級なものだったが、由布子の爪と同じく泥で汚れていた。平本はそれを龍一から受けとった。
「あの奥さんが落としていったものですね。忘れものとしてうちで保管しておきましょう」
「ずいぶん、汚れていますね」
平本は気の毒そうに顔をゆがめた。
「今朝は、あの人のほうがもっと泥だらけでしたよ。子供は不忍池の蓮池の中に落ちたんです。あそこは、水深は深くありませんが、池の底には泥がいっぱいたまっていましてね。おまけに今は季節で、水面には蓮の葉が生い茂って水の中はまったく見えないんです。お母さんは、事故に気がつくと、すぐに池の中に飛びこんで、泥の中をかき分けて子供を探し出したんです。通りかかった人が救急車を呼んでくれたんですが、かわいそうに、結局助からなかったんですね。聞けば、その子の肺には泥水がいっぱいにつまっていたそうです」
「そうですか……」
平本は急に、目の前にいる背の高い青年の肩を抱いてやりたい衝動にかられて、我ながら驚いた。龍一は、真っ直ぐに前を見て、何かこれという特別な表情を浮かべているわけでもなかったが、しかしその様子がまるで、世界でたった一人というふうに、ぽつんとしているように、平本には見えたのだった。
「駅までお送りしましょうか、先生」
龍一は、気がついて、平本のほうを振り返り、微笑んだ。いつもの宮司の微笑みだった。
「ありがとうございます。ですが上野駅ならすぐですから、歩いて行きますよ。お世話になりました」
龍一はそう言って、礼儀正しく平本に頭を下げた。
◎◎
龍一が上野署を出て行ったあと、先ほどまで由布子が待っていたのと同じ部屋で、平本は池川とともに、課長へ丸の内署での顛末を報告した。
課長はひととおり聞いたあと、言った。
「すると、和光は沖縄にいるというのか」
「土居先生の霊視では、そうです」
課長は腕組みをした。
「和光の出身はどこだった?」
「新潟です」
「沖縄との関連は?」
池川が資料をめくりながら答えた。
「今のところ不明です」
平本が言った。
「しかし、どうも和光の逃亡を手助けしている者がいるようなんです。新沼のポケットに入っていた和光の名刺は、和光が別な第三者に渡したものだという先生の言葉があたっているとすれば、新沼殺害と時を同じくして起こった和光の失踪事件の両方に、そいつらが関係している可能性は大きいです。そして、そいつらが和光の沖縄行きを指示したのかも知れません」
「そいつら?」
平本は頭をかき回した。
「いや、犯人は一人かも知れませんし、数人かも知れません。和光が名刺を渡した相手と、新沼を殺した犯人は、同一人物なのか、そうでないのか。しかし、これはちゃちな中小企業の脱税事件とはまったく違いますよ。それは確かです。地検の特捜が内偵しているぐらいですからね。奥が深いですよ。おそらく巨額の金も動いているでしょう。そうであれば、関わっている人間だって、一人や二人じゃないはずですから」
「一つ気になったことがあるんですが」
「なんだ、池川」
「特捜は、土居先生が以前から和光と顔見知りだったということを、あらかじめ知っていたんじゃないかという気がするんです」
平本も大きくうなずいた。
「どういうことだ」
課長が訊いた。平本が代わりに答えた。
「私もそう思います。特捜は、先生の霊視を見たかったんじゃありません。先生自身を見たかったんです。おそらく、調べを進めていく中で、和光が仙台の躑躅岡天満宮の地上げをしようとしていたことも知ったんでしょう」
「土居宮司が、特捜の事件に関係しているっていうのか?」
平本はまた頭に手を伸ばそうとしたが、思い直した。
「いや、そこまでじゃないんじゃないですか? そうなら、もっと本格的に色々訊くはずですからね。濱野検事が電話で『興味がある』って、言っていましたけど、確かにあれは、ちょっと興味をもっているって感じでした。
おそらく特捜も我々と同じで、捜査の途中で新沼が突然殺されたんで、ふっつりと糸が途切れてしまったんじゃないでしょうか。そこで和光に方向転換しようとしたが、和光も行方が知れない。特捜の動きは早かったですよ。我々が新沼の死亡を確認した直後には、もう和光の全国手配を終わらせていましたからね。
我々以上に焦っているんですよ、彼らは。どんな手がかりでもつかみたい、これが本音だったんじゃないでしょうか。霊視を頼りにしているわけではないにしろ、万が一にも土居先生から和光の行方のヒントを聞ければいいと思って、同席を望んだんじゃないですかね。濱野検事は、一年前にうちが土居先生を予約した日時まで知っていましたよ。新沼と和光の件で、上野署も隅から隅まで調べ上げられていたようですね。確かに、彼らは半端な捜査はしていないようです」
「そこまで緻密な網をくぐり抜けて、和光はいなくなってしまったってわけか」
「緻密な網というのは、言い方を変えると、組むのに手間と時間がかかるってことです。それに証拠固めが煮つまってくれば、当然対象者に気づかれるリスクも大きくなる。特捜は相手に近づきすぎたのかも知れません」
課長は、腕組みをしたまま、ぐっと体をそらした。
「で、平本。これからどうする気だ」
平本は、ちょっと肩をすくめた。
「上野の伝統を遂行しますよ。土居先生のご神託どおり、沖縄県警に和光の捜索依頼をかけます。沖縄本島の南よりというので、とりあえず那覇市内のホテルを重点的に捜査するように頼んでみましょう。それにいざというときは、警視庁だの、特捜だのの名前の入った印籠をかざしてお願いすれば、最優先事項で沖縄も協力してくれるでしょうよ」
(五分の四)
◎◎
その日の夜遅く。日比谷公園を見下ろす検察庁の大きなビルも、電気を消し暗闇に沈んでいる窓も多くなり始めた。しかし、まだ眠りを知らぬように煌煌と明かりを点している部屋も依然としてあるのだ。
最近の省エネ運動のため、中央官庁も冷房の設定温度が高めとなり、窓を開けているところも多い。夜になって東からの涼しい風が出始めたので、濱野はほっとした。窓をいっぱいに押し開ける。
「やれやれ。こっちはただでさえオーバーヒートしそうなのに、冷房まで切られちゃたまらないですね。これで我々の事務効率が下がったら、よっぽど国の損失につながると思いますが」
濱野は綾戸の部屋に来ていた。夕方からの会議がようやく終わり、綾戸との共同捜査をすることになった事件のうち合わせのためだった。
綾戸づきの事務官が、隅の机で書類の作成をもくもくとしている。この事務官は、いつも、いるのかいないのか分からないくらいに影がうすい。が、その事務処理のスピードと正確さは、大勢いる地検の事務官中、トップレベルだった。余計な口もきかず、事務官としては最高である。
濱野は、中央の大きな机の前に座っている、綾戸を振り返った。
「で、綾戸さん。今日の夕方の丸の内署でのこと、どう思われました? あの土居という宮司の話ですが」
綾戸は、ペンで机を叩きながら、答えた。
「和光が沖縄にいるという件か? まあ、それが本当かどうかは間もなく分かるだろう。あのあと、上野署が沖縄県警に捜査を要請したようだから」
濱野は、綾戸の前にあるソファに座った。
「宮司は、事件について何かほかに知っているんですかね? 沖縄に和光がいるなんて、どうも嘘くさいじゃないですか。犯罪者の逃げるところ、北か、南の果てなんて、サスペンスドラマ並みですよ。和光の本当の居所を知っていて、我々の目をごまかそうとしているんじゃないですか?」
綾戸は、苦笑いした。
「おいおい。それこそ、ドラマの見すぎだ。我々の捜査が、あんな霊視の結果に左右されるなんて、向こうも思っちゃいないよ。報道はされてはいないが、警察内部ではすでに和光は全国に手配されているし、特に、やつが立ちよりそうなところ、出身地である新潟、過去に仕事をしたことがある場所、それにもちろん、今回関係している人間や会社の周辺は重点的に捜索がかかっている。沖縄がそれに一つ加わっただけだよ。それにな、和光が沖縄にいるかも知れないというのは、案外可能性が大きいんだ。さっき資料を見直して気がついたことだが」
「どういうことです?」
「和光のクレジットカードの支払記録を見ると、毎年必ず夏に同じホテルからの引き落としがあるんだが、それが那覇市内のホテルなんだ。仕事の線では沖縄は浮かんでこないから、プライベートで毎年沖縄に旅行に行っていたようだな」
濱野は、身を乗り出した。
「同行者はいないんですか?」
綾戸は、分厚いファイルをめくった。
「ホテルに確認したところ、いつもシングルで予約して、連れはいないらしい。たいてい盆あたりの一週間滞在して、チェックアウトする際は、来年の分を予約していくそうだ。今年の夏も予約が入っている。来月だがね。しかし、夏以外に姿を見せることはないそうだ。今回上野から姿を消したあとに、そのホテルに和光が来た形跡はない」
濱野は首をひねった。
「夏の沖縄に一人旅行ですか? いったい和光は毎年何をしに行っているんでしょうね。ゴルフでしょうか」
濱野は、写真で見た和光の日に焼けた顔を思い出した。
「ゴルフだったら、那覇市内のホテルに泊まるのは不便じゃないか? まあ、しかし分からん。あっちに知り合いがいるのかも知れんしね。親戚は調べた限りいないはずだが」
「愛人ですかね」
「だが、送金している様子もない。それに、和光は未婚だ。今までに結婚歴はない」
「和光は、まだ生きてますかね」
「…………」
綾戸は、無言で前を見ていた。こつこつというペンで机を叩く音だけが、室内に響きわたる。濱野は自分の質問のくだらなさを反省した。生きているか、死んでいるか、ここで問うてどうするのだ。綾戸は無駄な会話はしない。
濱野は、自分の資料ファイルに目を落とした。綾戸が調べた、和光の過去の仕事内容の記録の中に、二〇一〇年と、二〇一三年に宮城県仙台駅周辺の地上げにたずさわっていたことが記されている。最初のものは小規模なマンション建設計画、二度目は仙台駅東口におけるオフィスビルをいくつか含んだ大規模な再開発計画で、東京の大手デベロッパーがその建築主となって進めようとしていたものだ。いずれも躑躅岡天満宮がある区域がその予定地となっていたが、二〇一〇年では結局、駅の南側の土地が地上げされ、すでにマンションも建築済みだった。昨年に和光が関わっていた仙台駅東口再開発計画は、何筆かの土地の地上げに成功し、名義書き換えが済んだものもあるものの、途中で建設業者の資金繰りが悪化したため、計画はそのままたち消えとなり、地上げ済みの土地も転売されていた。
「こうしてみると、和光も不動産業者としてはなかなか優秀だったみたいですね」
濱野が言うと、綾戸はうなずいた。
「確かにな。不動産屋としてはプロだよ。行動力も一定の知識も備えており、人脈もある」
「土居宮司は、シロとみていいんでしょうか」
「君は、どう思う?」
濱野は、肩をすくめた。
「私は霊能力なんて信じちゃいませんですからね。あの宮司は、あまり宗教家には見えないし、一見するときちんとした青年のようでもありますが、やっぱり霊視を売りものにしているような、うさんくさい人間のうちの一人なんでしょう。……でも、今回の事件に関わっているようには思えません」
「濱野君は、すると、超能力の存在は否定するんだな」
「超能力って、スプーン曲げみたいなものもですか? 確かに世の中にはそういうこともあるのかも知れませんが、結局は科学的に証明できていないものについて、考えても仕方がありませんよ」
「そうだ。我々が考えなくてはならないのは、その事実があったのか、なかったのか、ある者がそれを知っていたのか、知らなかったのか、それら事実の因果関係が証明できるのか、できないのか、ということなのだ。法廷で証明能力がないものは、我々にとって存在しないのと同じだ。しかし、証拠となり得る事実以外の事実というものも、実際には存在する。それは、法廷に提出はされないが、ある印象を我々に与えるものだ。君が土居宮司をシロとした論理的理由は何かね?」
訊かれて、濱野は、返事に窮した。
「理由ですか? そうですね……。彼は犯罪に手を染めるようなタイプに見えないし、それに今回の事件で何らかのメリットを受けるような立場にもいないでしょうし……」
綾戸は含み笑いをした。
「ずいぶん、あいまいな答えになってきたな。君は、今日の昼までは、土居龍一という人間に対する知識は私の資料からしかもっておらず、どちらかといえば、怪しい人間だと疑ってかかっていた。しかし、実際に彼に会ってみて、その言葉の真偽のほどは分からないが、ともかく犯罪者ではなさそうだと判断した。それが、印象というやつだ。心証とまではいかないがね。
この君の印象がどこからきたのかをいくつか、私が指摘してみよう。
まず、宮司は、新沼の死体と一緒にあった和光の名刺を君が内ポケットに入れているのを、ずばり指摘して、君を驚かせた。しかしこれは、名刺を我々が預かっていることを、上野署から事前に聞いていたのかも知れん。その後、宮司は和光が沖縄にいると霊視し始めて、君はまた彼を疑い始めた。しかし、さらに宮司は、名刺は比較的新しいものであり、新沼の所有物でもなく、和光が別の者、しかもあまり親近感をもってはいないが目上の人間に渡したものだと言ったので、君の印象はまたプラスに傾いた。何故なら、私の調査では、和光はついひと月ほど前に名刺の印刷業者を変えていて、そのデザインや紙質が以前とは微妙に違っており、新沼の背広の中にあった名刺も、この新しいほうのものであることが分かっていた。そして、和光より目上の者と聞くと、君はすぐに袋原のことを思い浮かべた。袋原の存在は、上野署もまったく知らないことだ。こういったことを、資料を事前に読んでいた君は知っていたから、全体として宮司の言葉に真実性を感じ、結果として彼をシロと印象づけたんだ」
濱野は、自分の心理状態を事細かに分析され、ちょっと顔を赤くした。
「では、綾戸さんは、宮司がまだ疑わしいと思っていらっしゃるんですか」
綾戸は軽く首を横に振った。
「いや。私も君と同じく、今回のことに宮司は無関係だと思っている。まず一つは、さっき君も言ったとおり、宮司が事件に関わることの利益が現在のところ見出されない。それから……」
綾戸は、濱野ににやりとした。
「私は、特異能力というものの存在を、頭からは否定しない立場なんだよ」
濱野は、驚いて綾戸を見た。
「宮司が、私に向かって言った言葉を覚えているか? 彼はこう言った。『警視庁の建物がある場所も丸の内署の管轄なのか』と。警視庁舎は麹町署の管轄だ。しかし、ここ、検察庁のビルは、丸の内署の管轄なのだ」
「あ!」
濱野は、思わず声を上げた。
「上野署の人間は、我々を警視庁の者だと紹介しているはずだ。しかし、宮司は明らかに我々を検察から来た者だと知っているふうだった。そう宮司が思った理由が、彼のもつ能力のおかげなのかどうかは分からないがね。しかし、このことによって私が、彼のほかの言葉に真実性を感じたことも、また事実なのだ」
濱野の目は、ちょっと衝撃を受けたようにみはられていた。綾戸は、ペンを両手で持ちながら、しばらく宙を見ていたが、ふたたび口を開いた。
「事件というものは、無数の事実のファクターによって構成されている。法廷に提出されるものは、そのほんの一部だ。しかし、当事者自身は、第三者には見えない、分からない事実こそ、真実を現しているものと感じていることも多いのだ。刑事事件に関わる我々は、そのことを念頭においておくことも、事件理解のためには必要なんだよ。……一つ、私の経験を話そう。
私が、まだ司法研修所を出たばかりで、駆け出しの検事のころだった。そのときはまだ特捜部に配属されておらず、地検に上がってくる通常事件を日々こなしていた。
あるとき殺人事件が起こり、私が担当することになった。妊婦が殺害され、被疑者はその夫だった。今井というその被疑者は、犯行事実を全面的に認めており、起訴には何の問題もないようにみえた。
今井は当時四十歳。五年前に結婚した妻と二人暮らしだった。子供はなかったが、夫婦仲は良好だった。二人のアパートは都内にあったが、今井は優秀なとび職人で、全国の建築現場を飛び回る生活だった。大規模な工事にたずさわったときは一年以上もその現場で仕事をすることがあったが、今井はひと月に一回程度は都合をつけて妻のもとに帰るようにしていた。
警察から送られてきた自白調書によれば、今井はある日、遠方の現場から妻のいるアパートにひと月半ぶりに帰って来た。そして妻と口論になり、いったん家を出ると、近所の金物店で文化包丁を買い、またアパートに戻ると、妻をめった刺しにして殺した。妻はこのとき妊娠二ヶ月だったが、今井はこの事実を知っていた。事件の通報者は、同じアパートの隣の部屋に住む主婦で、回覧板を渡そうと今井の部屋のドアを開けてみたところ、血の海の中に今井が呆然と座りこんでいるのを見て、仰天して一一〇番通報したという。
私がひととおり取り調べても、警察の調書からはずれるような事実は何も出てこなかった。私の質問に対し、今井はすべて『間違いありません』とのみ答えた。通常、罪を認めている被疑者は、検察官の前では、さかんに反省の言葉を述べたりするものだが、今井はそういった態度もなく、ただ淡々とうなずいているというふうで、私は少し拍子抜けする気持ちだった。
二回目の取り調べの最後に、私は今井に対して、『ほかに事件について何か言うことはないか』と訊いた。すると今井は、それまでずっとうつむいていたのだが、ふと顔を上げ、こう言った。
『検事さんは、ずいぶんいい煙草を吸っていますね。キューバからの輸入物でしょう』
正直、私は面食らった。
『それが、事件と何か関係があるのかね?』
『……検事さんは、警察の人よりも、ずっと私を丁寧に扱ってくれましたので、お話ししようと思います。おそらくとても信じられないでしょうが、世の中にはこういう人間もいるのかも知れないと、頭の片隅にでも入れておいてもらえればよいのです。
私は昔からほかの人にはない能力がありました。私は非常に匂いに敏感で、あらゆるものの匂いをかぎ分けることができます。人間がもつ体臭、風の匂い、木の匂い、水の匂い、そこいらにある日用品のたぐいにだって、それぞれ違う匂いがあるのです。そのように何百種類もの様々な匂いが、この瞬間にも私には匂っているのです。ですから、検事さんが愛用なさっている煙草のこともすぐに分かったのです』
確かに、私はキューバ産の煙草を吸っている。内心、驚きを感じたが、それは口に出さずに、今井に訊いた。
『そんなふうに、いつも色々な匂いを感じているのは、苦痛じゃないのかね』
『検事さんは、目を開けていて、ひっきりなしに視界に入ってくる無数の色や形が邪魔だと感じたことはありますか。私の嗅覚についても同じです。何百何千という匂いが漂ってきていますが、それに慣れきっているので、大変だとか、疲れるとか、思うことはありません。様々な匂いは、私にとって、流れさる景色と同じようなものなのです。犬だってたぶん、匂いに関しては私と同じように思っているんじゃないですかね。この能力のいいところは、目をつむっていても、開けているときと同じように周りのことが分かるってことです。ですから、暗闇の中にいたって、私にとっては、日の光のもとにいるみたいなもんです。しかしこのことは、友達の誰も知りませんし、妻の幸恵(ゆきえ)にも教えていませんでした。親は知っていましたが、もう二人とも亡くなっています。私が誰にもこの能力を隠していたのは、理由があるのです。私は、物の匂いだけでなく、相手の感情や考えも、匂いで分かるのです』
『いったい、どういうことだ?』
『検事さんは、隠しておられますが、今、確かに驚いていらっしゃる。なぜなら、私があなたの煙草の銘柄をあてたからです。その驚きの感情が、匂いで分かります。しかし、まだ半信半疑ですね。キューバの煙草の匂いはきついですからね。少し嗅覚の鋭い者なら、かぎ分けることも可能です。もう一つ、あててみましょう。検事さんは結婚されているか、同棲されていると思いますが、一緒にお住まいの女性は今、妊娠なさっています』
私は、ぎょっとした。妻に子供ができたことは、私ですら数日前に知ったことで、職場にもまだ伝えていなかったからだ。私の顔色を見て、今井はうすく笑った。
『妊娠中の女性の体からは、花のような甘ったるい匂いがします。検事さんの周りからその匂いが漂っているので、そうと分かったのです。……幸恵の体からも、同じような匂いがしていました』
『やはり、被害者が妊娠していたことを知っていたんだな』
『はい。お腹に子供がいると分かって、幸恵と一緒に殺しました』
『自分の子を殺すことにためらいはなかったのか?』
『あれは、私の子ではありませんでした。別な男の子供です』
私は、多少驚いて、資料をめくり返した。警察の調べの段階で、今井がそのようなことを供述した部分はなかった。
『何故、そんなことが分かる?』
『医者に言われたのです。結婚してなかなか子供ができないので、二人で病院に行って検査をしてもらいました。すると、私は無精子症といって、精子をつくる能力がもともとなく、子供をもつことは絶望的ということが分かりました。幸恵はがっかりしたようでしたが、でも二人きりでも仲よくやっていこうと言ってくれました。
……検事さん。私のように、人の心がある程度分かってしまうという人間にとって、結婚が、どんなにためらわれることか、ある程度想像していただけるとは思います。それまで何人かの女を好きになり、つき合ったことも何度かありましたが、結婚にまではとても踏みきれませんでした。人は本当の感情をあからさまにするものではありませんからね。表面上は機嫌がよいようでも、実のところはイライラしていたり、私をあなどっているだろうということが分かるのでは、とても夫婦になろうとする気にはなれません。
三十半ばまでは、私は、自分は一生結婚できないだろうと思っていました。しかし、幸恵は違いました。驚くほど裏表のない女で、子供のように純粋な心をもっていました。四国の現場で働いていたときに知り合ったのですが、あんなにいい匂いをもっている女に出会ったことはありませんでした。それは幸恵のきれいな心と、私を好いてくれる気持ちが合わさった匂いでした。私は、この女を離したくないと思い、そこでの仕事が終わると同時に、幸恵に結婚を申しこみました。幸恵は承知してくれました。
幸恵との結婚生活で、私は始めて心の底から安らげる場所をみつけました。もちろんたまには喧嘩もありました。しかし幸恵の心はいつも私を愛してくれていましたし、多少の喧嘩などは問題になりませんでした。あの最後の日の直前まで、私はずっと幸福だったのです。
しかし、あの日、アパートに私が戻ると、そこはそれまでの私の部屋とはまるきり違っていました。別な男の匂いがぷんぷんしていました。私は幸恵に言いました。
『俺の留守中に、誰を入れたんだ? どこの男だ?』
幸恵はそ知らぬ顔をつくりながら、そんな男など存在しないと答えました。しかし、幸恵の心ははっきりと、嘘と裏切りの匂いを放っていました。それからもう一つ、信じられないようなことも分かってしまいました。
『お前が嘘をついていることは分かっているんだ』
私は、泣きながら幸恵を問いつめました。
『そしてお前は、その男の子供を身ごもっている。どうしてそんなことをしたんだ? 二人でやっていこうと言ってくれたじゃないか』
そう言って、幸恵の体を乱暴に揺さぶると、彼女はやめてと叫びました。
『どうしても子供が欲しかったの。子供を欲しがっちゃいけないの? 私の中には赤ちゃんがいるの。新しい命が宿っているのよ。お願い、この子を産ませて。私一人で育てていくから』
幸恵の決意は固いようでした。私は茫然として、部屋を出ました。そうして五時間ほど外をうろうろしたあと、途中で包丁を買って、またアパートに戻り、幸恵を殺したのです』
今井の話はそこでぷつんと切れた。
『外に五時間いた間に、被害者を殺そうと計画し、そのために包丁を購入した。そして殺すために部屋に戻った、ということだな』
ところが今井はこう答えた。
『私が幸恵を殺そうと思いついたんじゃありません』
『じゃあ、いったい何だというんだ』
今井は、細かく震える手で、顔をおおった。
『匂いですよ、検事さん。私は幸恵を心から愛していました。幸恵がほかの男の子供を身ごもったからといって、殺そうなどという気はまったくなかったのです。部屋を出たのは、幸恵が私と別れたがっていたからです。幸恵はもう、私と一緒にいても幸せではなかったのです。子供のことだけを考えていました。私のことは邪魔だったのです。だから私は、幸恵を一人にしてやるために、家を出たのです。二度とあの部屋に戻る気はありませんでした。
私はどこへ行くあてもないまま、ひたすら歩き続けました。とにかく遠くへ行きたかったのです。幸恵とすごしたあのアパートから少しでも離れたかったのです。しかし、歩いても歩いても、あの幸恵の匂いが体から離れませんでした。あの、甘ったるい匂いが。ああ、検事さんには分からないでしょう。子供はまだこの世にも生まれていないうちから、幸恵の心も体も独占し、私から引き離したのです。私にとって幸恵はこの世でたった一つの糧でした。唯一、信じられる相手であり、愛し愛される相手だったのです。幸恵を失うことは、私の心を失うことでした。検事さん。心を失ったら、そのものはいったい、まだ人間と呼べるでしょうか?
私の周りにはかつてないほどの濃厚な匂いがたちこめていました。それは最初、幸恵の匂いでした。しかしやがて、別な匂いも混じってきたのです。それは、私の前方から漂ってきているのでした。それは太い道のように私の前に延びていました。私はその匂いを追って歩き続けました。どんな匂いかというと、ひどく金臭いのです。ええ、金臭いとしかいいようがない匂いでした。
気がつくと、私は一軒の店の前にいました。刃物がたくさん並んでいました。私はその中の一本を買いました。しかし、金臭い匂いはやはり別なほうからきていたのです。さらに濃く、強くなって、私に来るようにと急かしているようでした。私は、ほんとはそちらに行きたくなかったのです。匂いはまったく嫌な感じでした。しかし匂いは私よりもずっと強い意志をもっていて、私に有無をいわさず命じていました。私の手足はぎこちないロボットみたいに操られているようでした。そうして、匂いの命ずるままに、私はまた幸恵のいるアパートに帰って来ました。
私の姿を見て、幸恵は驚いていました。その顔には恐怖すら浮かんでいました。幸恵にとって、私はすでに忌まわしい存在でしかなくなっていたのです。金臭い匂いは、幸恵の腹の中から、発せられていました。私が、どうして幸恵の腹に刃を突き立てたのか、自分でもうまく説明できません。しかし、そのときは、そうする以外にありませんでした。たぶん、匂いから幸恵を切り離そうとしたのだと思います。幸恵はあんな金臭い匂いをたてるべき女じゃないのです。しかし、切っても切っても、匂いはますます強くなるだけで、いっこうに消えませんでした。
そうして、ようやく私は気づいたのです。金臭い匂いは、血の匂いでした。部屋の中は、幸恵の血の匂いでいっぱいでした。幸恵本来の匂いも、花のような匂いも消えていました。ただ、血の匂いだけがありました』
そう言って、今井は、自分の両手を見、ぶるっと震えた。
『その匂いは、まだ私とともにあります。たぶん、私が死ぬまで消えないでしょう……』
私は、今井の精神鑑定をすべきかどうか、迷った。今井の話しぶりは尋常で、高い知性すら感じさせるものだったが、そうであっても、犯行当時に幻覚や妄想に支配され、心神喪失状態であった可能性もある。それで一応、精神科医に簡易鑑定を委嘱した。しかし今井は、医者に対して、私にしたような話をいっさいしようとせず、単に、妻は自分の意思で殺した、と繰り返すだけだった。私は、今井に訊いた。
『今井。何故、あの匂いの話を、医者にもしないんだ?』
今井は暗い目を私に向けた。
『検事さんこそ、なんで医者なんか呼んだんです』
『それは、お前の精神状態を検査してもらうためだよ』
『つまり、私の気が狂っているかも知れないってことですか』
『まあ、そうだ』
今井は自分の手の匂いを嗅ぎながら、言った。
『検事さん。正義って、いったい何です? 私の気が狂っていれば、私は死刑にも懲役にもならなくて済むっていうのが、正義なんですか? 私が二つの命を奪ったことは、まぎれもない事実です。私を罰しなければ、私を救うことになるとお思いでしたら、それは間違いですよ。
ねえ、検事さん。最近私は分かってきたんです。罪人っていうのは、どうしたって、永久に救われないんだって。殺人者が、心から反省すれば真人間に生まれ変わることができるなんて、嘘っぱちですよ。そんなふうに考えるのは、その人が罪を犯していないからです。罪は匂いみたいに目に見えませんが、その人間の心にも身体にも染みついて、一生離れやしないんです。自分で忘れたって思ってもね、ふとした瞬間に匂ってくるんですよ。
それにね、ほんというと、私は忘れたくもないんです。私は確かに、すでに正気を失っているかも知れません。でも、思い出だけは失いたくない。幸恵を愛したこと、幸恵の匂いを感じたこと、匂いに導かれて幸恵の命をこの手で奪ったこと、どこからどこまでが現実で、どこからどこまでが幻想だっていうんですか。私にとっては、全部が現実に起こったことですよ。そのどの一部分が欠けたって、本当じゃありません。
匂いは確かにありました。そして今も私とともにあります。それが、真実なのです』
私は結局、今井を故意の殺人罪で起訴した。国選弁護人がついたが、弁護人は今井の妄想の件についてはいっさいふれなかった。たぶん、今井が話さなかったか、否定したのだろう。
弁護人は情状弁護に終始し、犯行は計画的なものではなく、妻との口論でカッとなった上での衝動的なものだったと主張したが、部屋をいったん出てから五時間後の犯行であり、凶器も外から調達しているため、その説得力はあまり強くなかった。
判決は求刑どおり無期懲役と出て、控訴されずにそのまま確定した」
「するとその今井は、現在も服役中ですか」
濱野が、綾戸に訊ねた。
「判決が確定した翌日に死んだよ。拘置所の布団を切り裂いて作ったロープで首をつったんだ」
濱野は重いため息をついた。
「特殊な能力をもった者の悲劇か。超能力というのも、あまりいいものじゃありませんね」
綾戸は、肩をすくめた。
「絶対的な真実というのは、実際には存在しないのか、あるいは逆にいくつも存在するのかも知れないな。我々は、そのうちの相当程度に客観性があるものを選択していくしかない。
……ちょっと脱線が長すぎたな。ともかく、土居龍一の件は、今のところこれ以上検討する必要はない。しかし、手もとに引きよせられる材料は、どんな小さなものでも確認すべきだったからね。
では、今回の事件についての本格的なうち合わせに入るとするか。私の資料には目を通したかね?」
濱野は気をとり直したように、目の前にある分厚い資料のファイルを開いた。
「ええ。佐久間事務官にも、おおよその説明はしてもらいました」
濱野は、綾戸の事務官を親指で示した。濱野は、先週まで別の事件にかかっており、今週になって初めて綾戸に協力するよう、命じられたのだった。
そして、緊張した口調で、綾戸に訊ねた。
「基本的には、排出枠設定にからむ汚職事件とみてよろしいのですか」
◎◎
(五分の五)
◎◎◎◎浦山由布子は、まだ朝もやのたちこめる不忍池のほとりにいた。蓮の花を見に来たのだ。
蓮の花は早朝に咲き始め、日が高くなると閉じてしまう。
今朝、急に思いたって、五歳になる息子の手を引いて、散歩がてら歩いてここまで来たのだ。
◎◎
由布子は世田谷で生まれ育ち、現在も世田谷区内の一戸建てに住んでいるが、上野公園には何回も来たことがある。たいていは、博物館や美術館に行くためであることが多い。そのついでに、公園内を散策することもしばしばだが、一つ道路を隔てた不忍池付近にはあまり来たことがなかった。
上野へは、夕べから来ていた。
夫の和也は日本橋にある老舗の呉服店の長男で、いずれ五代目として店を継ぐことが決まっている。現在は、四代目の社長のもとで、専務として会社の経営にたずさわっていた。
今日から浅草公会堂で、都内の各老舗呉服店が所有する、江戸時代から明治時代にかけて作られた着物やかんざしなどの小物を、いっせいに公開する展示会がおこなわれることになっている。和也はこのイベントの責任者の一人になっていたので、今日の朝からの展示準備に対応するため、昨日から上野のホテルに泊まっているのだった。
老舗といっても、今はきちんとした会社組織になっていて、社長と和也以外は、従業員はみな一族以外の者である。由布子も、和也の嫁になったからといって、特に会社の手伝いをしなければいけなくなったというわけではない。むしろ今の社長の方針は、昔からいる実力のある社員を大事にするというものだった。
それで由布子は、老舗の看板にわずらわされることなく、実家に近い場所に建てた家の中で、のんびりと専業主婦業を楽しんでいるのだった。和也とは見合い結婚だったが、夫婦仲はよかった。
和也はきちんきちんと毎日家に帰って来て、由布子が作った手料理を、親子三人で食べることが何よりの楽しみのようだった。
『君が家庭をしっかり守ってくれるから、僕も安心して店の仕事に打ちこめるよ』
などと言ったりした。由布子は、心から幸せだった。
二日前、和也が家に帰って来て、由布子に言った。
『明日は、家に帰って来られないよ』
『あら、どうしたの?』
『あさってから、浅草公会堂でむかし着物てんじ会≠ェあるだろう。その準備で、明日の夜まで、日本橋と浅草を往復しなきゃいけないし、当日も朝からホールに行かなきゃいけないから、上野のホテルに一泊することになったんだ』
由布子はちょっと考えて、言った。
『私も、明と一緒に泊まりに行こうかしら』
『君も? でも、僕は夜遅くにしかホテルに戻れないと思うよ。夕食も呉服商組合の人たちととることになっているし、来てもつまらないんじゃない?』
『あなたが忙しいのは分かっているし、私たちのことは気にしないで。実は、ちょうど上野には行こうと思っていたの。国立博物館で茶の美術展≠やっていて、ぜひ見たいと思っていたところなのよ。だから、あさっての午前中は、博物館に行こうと思うわ。明も二時間程度ならおとなしくしていられると思うし。着物の展示会は、午前中はご招待のお客様方がいらっしゃるから無理でしょうけど、午後になったら私たちもちょっとのぞいてみるわね。お義父さまとお義母さまはいらっしゃるの? できればご挨拶もしたいのだけれど』
和也は、にこにこした。
『父さんも母さんも、初日は顔を出すと思うよ。父さんは店があるからそんなにはいないと思うけど、母さんは明の顔を見て喜ぶと思うな。ちょっと、待って』
和也は、立ち上がって、電話をかけ始めた。
『やあ、母さん。あさっての展示会だけど、午後から来るって言っていたよね。何時ころ来るの? 由布子も明と一緒に行くって言っているんだけど。……あ、そうなの。……え、父さんも? 店は大丈夫なの? ……分かった。じゃあ、由布子に伝えておくよ』
そうして、電話を切ると、振り向いた。
『明も来るって言ったら、母さんだけじゃなく、父さんも半日店を開けて出てくるって言うんだ。たぶんその夜は、僕らとあっちとで、夕飯も一緒に食べることになると思うけど、いいかな?』
由布子は、にっこりした。
『もちろん、構わないわ。明も久しぶりに日本橋のおじいちゃんとおばあちゃんに会えて喜ぶでしょう。ねえ、明。日本橋のおじいちゃんとおばあちゃんに、もうすぐ会えるわよ』
由布子のそばに座っていた明は、嬉しそうに笑った。
『ほんと? やった。ぼく、人形焼がまた食べたい! あとね、前いった、おすしやさんも!』
和也は、明を抱き上げた。
『前に行った鮨屋って、美よし鮨≠フことだろう。あそこは高いぞ。父さんも、こんな小さい子をあんなところに連れていかなくてもいいのに』
明は得意そうに言った。
『おじいちゃんは、小さいうちから、ほんものの味を知っておけって、言っていたよ』
和也は由布子の顔を見て、笑った。
『やれやれ。これは先が思いやられるな。こんな年から口が奢ったんでは』
由布子もくすりと笑った。
『あなたに怒られるかもしれないけれど、明日の夜は、明と二人で伊豆榮≠ノ行こうと思っていたの。久しぶりにあそこの鰻を食べたくて』
『ええっ。君もかい? こら、明。明日は鰻、あさっては鮨なんて、贅沢すぎるぞ』
『じゃあ、いいよ。ぼく、つぎの日からは、ずっとおちゃづけにするから』
『ずっとお茶漬か? それもあんまり栄養がなさすぎるなあ。それにそうすると、お母さんは、お前だけじゃなく、お父さんにもお茶漬しか出してくれないだろうし、それも困るな』
『じゃあ、やっぱりおとうさんだって、ぜいたくなほうが好きなんじゃない!』
『ははは。そうかもな』
そうして和也は幸せそうに、明の頬に顔をすりよせた。
◎◎
橋を渡って、中之島に渡り、弁天堂の左側に広がる蓮池を眺める。美しい蓮の花を期待していた由布子はがっかりした。ほんの数個のつぼみが生い茂った大きな葉の間から見えるだけで、咲いているものは一つもない。花の季節には少し早かったらしい。
明が背伸びをして池の向こうを見わたそうとしながら、言った。
『おかあさん。花ってどこにあるの?』
『まだ咲いていなかったみたい。残念ね』
『なあんだ』
明はそれきり興味を失ったように池から離れた。そうして弁天堂に近よる。
『おかあさん。これ、お寺?』
由布子は弁天堂の前にかかげられている由来書を読んだ。
『そうねえ。これもお寺なのかしら。弁才天というから、水の神様をお祭りしているのね。……あら、不忍池って、琵琶湖に見たてられていたのね。初めて知ったわ』
明は今度は、お堂の手前にある石碑を見上げて、指さした。
『おかあさん。見て! さかながいるよ』
由布子がそちらに行ってみると、確かに魚の形をした石造りの彫像が建っている。
『まあ、ふぐの供養塔ですって。明、これはふぐという魚よ』
『ふぐ?』
由布子はくすくす笑った。
『明には、ふぐはまだ食べさせていなかったわねえ。毒があるけど、美味しい魚なのよ。ふぐの料理屋さんが建てたんですって』
『ふぐふぐふぐふぐ……』
明は、口の中で何回も繰り返した。そうして、弁天堂の周りをゆっくりと回り始めた。由布子は声をかけた。
『明。池のそばに近よっちゃ、だめよ』
そうして、自分も弁天堂のそばをぶらぶらと歩く。
『ずいぶん、石碑が多いのねえ。あら、今度はすっぽんだわ』
明の回る声が大きくなったり、小さくなったりしながら聞こえる。
『ふぐふぐふぐふぐ……』
由布子は、だんだんめまいがしてきた。
『ふぐふぐふぐふぐ……』
たくさんの石碑が由布子を見下ろしていた。包丁、まん丸い球、分厚いめがね。
明が歌い始めた。
『かーごめ、かごめ、かーごのなーかのとーりーは、いついつ、でやる、よあけのばんに、つーるとかーめが、すーべった、うしろのしょうめん、だあれ』
大きな翼を広げた雄鶏が、由布子をにらんでいた。由布子は思わず立ちすくんだ。真っ赤にふくらんだトサカが、怒ったように天を突いている。
気がつくと、明の声が聞こえなくなっていた。由布子はきょろきょろと辺りを見わたした。
『明?』
周囲は、しんと静まり返っていた。
『明! どこなの?』
由布子は弁天堂の周りを回った。明の姿はどこにもない。
『明!』
ポンっという音が響きわたった。由布子はびくりとして池を振り返った。
鮮やかな桃色の蓮の花が、一つ、大きく開いていた。大きな柳の木の枝が、風もないのにふらりと揺れた。
『明……』
由布子はおそるおそるそちらに近づく。足が何かにねばっているように重い。
柵の向こうをのぞきこむ。
作りものめいた濃い緑の蓮の葉が、大きく波うちながら、池全体をおおいつくしている。
わずかに見える水面に、一つ、あぶくがたち、底から小さな青い靴が浮かんできた。
『明……』
由布子は池の中に入って、靴を握りしめると、蓮の葉をかきわけて、明を探した。
動くたびにもうもうと泥が湧きたち、何も見えない。
由布子は流れ落ちる涙をぬぐいながら、水中を探った。
泥水がまつげからしたたり落ちる。
探しながら、由布子には分かっていた。明がもう死んでいることを。
(私が明を殺したのだ)
由布子は考え続けていた。
『お前が、明を殺したのだ』
由布子の後ろで、雄鶏も、そう告げていた。
(私の手は汚れている)
『お前の手は、汚れている』
(私の血は穢れている)
『お前の血は、穢れている』
(私は罪人だ)
『お前は、罪人だ……』
ひどく甘ったるい匂いがした。見ると、先ほど開いたばかりの蓮の花から匂いがたっているのだった。
花の上に一つ、大きな露がのっていた。花の色を映して、紅い真珠のように輝いていた。
ひどく紅かった。花びらよりも、ずっと紅かった。
そうだ、これが露であるはずがない。
血だ。明の最後の血の一滴だ。
その色は、由布子を責めるように、濃く、赤く、こちらを凝視していた。◎◎◎◎
◎◎
由布子は目を覚ました。
涙がひっきりなしに流れ出ていた。
そして、サイドボードの上から、果物ナイフを取り上げ、その刃を左手首に深く切りつけた。
六『玉水』につづく
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2012/03/04(Sun)09:25:39 公開 / 玉里千尋
■この作品の著作権は玉里千尋さんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
明鏡の巻に続く第二巻目となりますが、一巻目を読まない方でも大丈夫なように(一応)したいと思っております。
二重カッコが気になると思いますが、今巻は現在と過去が入り交じる構成になっているため、区別の意味で、過去の部分は、全部二重カッコを使わせて頂いておりますので、ご了承ください。
超長編になる予定ですが、多角立方体のように、世界は、見る角度で様々な姿をもっていると思っているので、一つ一つのエピソードが互いにつながりながらも、やっぱりそこに固有の物語がある、というふうに書いていけたら、と思っております。
つたなく読みづらい点が多々あるかと思いますが、よろしければ目をとおしていただき、ご感想・ご批評などいただけると、大変嬉しいです。
よろしくお願いいたします。
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。