『さんたっ!……な俺と神様と悪魔の関係 第2章まで【旧:俺と神様と悪魔の関係〜サンタクロース誕生譚〜】』 ... ジャンル:ファンタジー お笑い
作者:せんだいかわらばん                

     あらすじ・作品紹介
天上界をも支配できるといわれる『賢者の石』。その保有者(ホルダー)である女神プリムラを『地獄の大総統』の異名を持つ魔族:ハーゲンティがつけ狙う。プリムラは、魔族でも侵入可能な地上界に身を寄せているために常に闘いを強いられているが、圧倒的戦闘力でこれを退けてきた。賢者の石をどうしても奪取できないハーゲンティは、魔界随一の腕利き暗殺者『リリム』を招聘して地上界へと放ち『賢者の石』奪取を命じる。そのリリムの魔の手がさん太や聖夜に忍び寄る……。

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【ご留意事項】〜プロローグ・第1章をお読みになっている方へ〜
 題名変更に伴い、主人公の名称を変更しています。旧主人公名→『黒須圭一』新主人公名→『黒須さん太』です。ご注意ください。


プロローグ

 雲一つない漆黒の夜空に、満月はその偉容を誇示しながら妖しい光を放っている。
 月の光は静まり返った灯《あかり》のない家々のシルエットをくっきりと映し出していた。
 時間が止まり静寂に支配される街中にあって、中空では街中とは対照的に数十の異形のシルエットと人型のシルエットが一つ、めまぐるしい展開を見せていた。それが『戦闘』であると言うことは誰の目でみても明らかだった。
 異形のシルエットは、獣のようなモノ、蛇のような大きいモノ、獣の口のような丸味を帯びたモノと様々で、たった一つの人型シルエットを包囲周回し、機を見るや襲いかかっている。が、人型シルエットの動きはそれら異形のモノを凌駕しており、捕捉することができないようだ。
 一方人型シルエットは絶え間なく激しい動きを見せているため、それが男なのか女なのかは勿論、人間かどうかさえも判別できない。しかし繰り出す腕の長さから、一切の武器を使用していないであろうことは想像できた。
 人型シルエットの動きは、まさに疾風迅雷であった。異形のモノ共とは明らかに次元の違う動きを見せている。狙いを定め一度《ひとたび》異形のモノへと襲いかかるや、一瞬のうちに交叉し、それが肉を切り裂く鈍い音を生み出し、断末魔の叫びと共に一塊の水が瞬時に蒸発するかのように異形のモノが霧散していく。

 どれ位の時間が経過しただろうか。いつしか敵対するモノ全てを消滅せしめた人型シルエットは、空中で停止してそのまま佇《たたず》んでいた。そしてそんな姿を妖美に輝く月の光が映し出す。

 ――少女であった。

 身に纏う朱色で統一されたコートやタイトスカート、そしてロングブーツ、更に臀部《でんぶ》にまで届く長い真紅の髪が、妖光によって凄艶なきらめきを放ち、黄金率を保持したプロポーションを引き立たせる。
 しかし、色褪せている純白のマフラーが妖精のような透き通った肌と同化し、それが切れ長の目と真紅の瞳、そして可愛いらしい小さな薄桃色の唇を一層際立たせいる。その容貌がまだ幼さの残る十代半ばのものであると証明していた。
 幼さを残す少女の容貌とこれに反比例する見事なプロポーションとのコラボレーションは、見る者によっては違和感を感じさせるものだ。しかしこの少女にあっては、そのようなものを一切感じさせない神秘的な魅力を秘めていた。
 そんな中空で静止する少女に話しける者がいた。――ただしそれは、人体の声帯の振動によって言語化した『言葉』によるコミュニケーションではない。心に直接訴えかける精神感応《テレパシー》による『言葉』だった。
『今日は随分と苦労したな? ――プリムラ』
『…………天佐具女命《あまのさぐめみこと》ね? 諜報を司る女神が何の用です?』
 周囲には誰もいない。しかし気配は感じる。プリムラと呼ばれる少女は不快感を露にし、無愛想に吐き出した。天佐具女命《あまのさぐめみこと》は、姿を現すことなく語りかける。
『フッ、嫌われたものだな。 ――用件は分かってるだろう? 貴様の天上界への帰還の件だ』
『その件ならもう何度もお断りしたはずです。私は帰りません』
『…………。十年前の事件……か?』
『………………。――答える必要を認めません』
 プリムラが一瞬躊躇を見せた、その一瞬の空白の意味を天佐具女命《あまのさぐめみこと》は理解したのだろう、いたわりの心事をこめて言葉を続ける。
『……そうか。――当然だろうな。……確かにあれは不幸な出来事だった』
『…………』
『気持ちは分かる。――私も正直、気が引ける。…………しかし、だからといって天上界全体の危機と引き換えにして良いというものでは……』
「くどいっっ!」
 精神感応《テレパシー》による会話を止め、天佐具女命《あまのさぐめみこと》の言を怒声で遮るプリムラ。そして、首に巻いた純白のマフラーを固く握り締め、キッと無人の上空を睨みつけた。
「私は天上界には帰りません! 絶対に! この気持ちは変わらない!」
『………………。――また来る』
 すうっと天佐具女命《あまのさぐめみこと》の気配が消えていく。プリムラは様々な想いが去来しているのか、その視線は遠くを見据えてる。そして……
 ――私は帰らない。必ず守って見せるわ! この私の命に代えても!
 プリムラの紅い瞳が決意に漲《みなぎ》り、やがて闇に溶け込むようにその姿を消していった。
 この時、プリムラが佇む更なる上空で一連の状況を監視していた蝙蝠羽《こうもりばね》をばたつかせて浮遊する目玉鬼《モノアイ》の存在には気付いていない。

★★★★★★★★

 妖気漂うおどろおどろしい雰囲気を醸し出す中世の城を思わせるとある一室。その部屋には明滅する蝋燭などの人工的な明かりは存在しない。部屋の中央付近にある円卓の真中に据えられた水晶から発せられる青白い光のみがその部屋を照らす光源であった。青白いほのかな光が周囲をぼんやりと照らしている。
 髑髏《どくろ》のマークをふんだんにあしらった椅子。
 その椅子に深く腰掛ける者。
 照らし出す光が弱すぎてその者が何者なのかわからない。わかっているのは、頭からフードを被り全身を覆い隠しているということだけ……。
 その者がただジッと光の水晶を覗き込んでいた。
「やはり下級魔族の手には負えなんだか……。さすがは『賢者の石』の保有者《ホルダー》、天上界でも名高いプリムラといったところか」
 目玉鬼《モノアイ》を通して水晶に映し出されたプリムラの戦闘を見て呟く。
「――しかし、なぜ貴様も行かなかった? この日のためにわざわざ呼び寄せたのだぞ。今日仕掛けることは連絡してあったはずなのだがな?」
 苛立ちを見せながら後方で控える者に問いかける。その控えの者も暗がかりの中、フードを全身で覆っているためにどのような風貌の持ち主なのか確認できない。
「ごめんねー、ですの。ちょ〜っと確認したいことがあった、ですの」
 非難にも似た問いかけに、控えの者が軽口で謝罪する。いや、謝罪というには程遠い、幼さのある薄っぺらでこの場に似つかわしくない口舌だった。
「――ふん。随分と余裕だな? で、何を確認した?」
「魔界にも伝えられている古い伝承では、『賢者の石』の保有者《ホルダー》は戦いにおいて伝説の秘剣『レヴァンティン』を振るったとある、ですの。それなのにプリムラは素手で戦っていた、ですの」
「…………。なるほど、プリムラが保有者《ホルダー》かどうか確認したかった訳か。――フム。確かに今の戦闘では剣を顕現させていなかったな。……ということは、彼奴《きゃつ》は保有者ではないということか?」
 控えの者が人差し指を立てて『チッチッチ』と左右に軽く振って見せる。
「プリムラが『賢者の石』の保有者であることは多分間違いない、ですの。――だって」
 ボクの探知能力がそれを証明している、ですの。
 ――と、頭部にかかるフードを少しずらすと、異様に長い一房の針状の髪がピンと立って不規則に動き回っている様子を見せた。薄暗い部屋の中にあって、その様相は頭上に何かの生き物が蠢いているように見える。
「ず、随分変わった探知機だな……」
 突拍子もない出来事に驚いて一瞬身を仰け反らせるが、軽い咳払いで気持ちを落ち着かせ、先を促した。
「ゴホン。――では、闘いの相手《下級魔族》が弱すぎて手を抜いた、と言うことか……」
「そんなことは無意味、ですの。『闘い』ってのは、護らなきゃいけないものが大きければ大きい程、全力でぶつかっていくもの、ですの。相手が強い弱いは関係ない、ですの。それが『賢者の石』なら尚更、ですの」
「――では何故『レヴァンティン』を顕現させなかった……?」
「それはわからない、ですの。でも、地上界に留まる理由は何となく分かった、ですの」
「それは何だ?」
「普通に考えれば『賢者の石』を護るなら天上界が確実、ですの。それなのにプリムラは地上界にいる、ですの。――魔族も出入り可能な地上界に、ですの。危険を冒してまで地上界に留まらなければならない理由があった、と考えるのが自然、ですの」
「そんなこと位は分かっておる。――で、その理由は?」
「女が命を賭けてまで留まる理由、とくれば相場は決まってる、ですの」
「馬鹿にしているのか、貴様? その理由を聞いておるのだ、儂は!」
 もって回った言葉に思わず怒気を発し、声を荒立たせる。
「もうちょっと女を勉強したほうがいい、ということ、ですの。――ハーゲンティ様」
 口の端をつりあげ、ニイッと悪戯っぽく笑みを浮かべる控えの者。これ以上の詮索は無意味であることを悟る。
「……まあ良い。――で、『賢者の石』は奪えるのだな?」
「それは任せて欲しい、ですの」
「よかろう。貴様に一任しよう。どのような手段を使っても彼奴《きゃつ》から『賢者の石』を奪ってさえくれれば儂としてはそれでよいのだからな」
「物分りが良くて助かる、ですの」
「フン。魔界随一の暗殺者と言われる貴様の手並み、とくと拝見しよう」
「見事『賢者の石』を奪ってみせる、ですの。――その代わり、ですの」
「ああ、わかっておる。――貴様の望み、何でも叶えよう」
「ありがたい、ですの。――じゃあ、早速とりかかる、ですの〜」
 じゃあね〜という軽薄な言葉を残し、スウっと暗闇に溶け込むように姿を消していく。
 後に残ったハーゲンティはしばらく一人物思いに耽るが、やがて含み笑いを始めた。
「クックック……。使いようによっては天上界さえ支配できるという『賢者の石』……。――それがもうすぐ儂の手に――! 儂の望みがもうすぐ叶うのだ……。フ……フフ……フハハハハハハハハ――!」
 邪気のこもる高笑いがいつまでも鳴り響いていた。





第一章

 ――逃げて、さん太くんっ!
 絶望にも似た少女の叫び声がこだまする。
 はっと気付いて後ろを振り返ろうとしたが遅かった。
 俺の背中に衝撃と激痛が走り、血飛沫《ちしぶき》が空を舞う……

「――うわああああああああああああああっっっ!」

 清冷な空気に満たされた閑静な住宅街の平穏な朝が、絶叫によって破られる。十二月も半ばの、肌を突き刺すような寒い日だった。
 声の主である俺、黒須さん太《くろすさんた》は、ベッドから跳ね起きてそれが夢であったことをようやく知る。全身大粒の脂汗が滲み出て、パジャマ代わりのTシャツは汗にまみれていた。
「ま、また同じ夢……」
 何度同じ夢を見ただろう? 全てを覚えている訳ではない。悪夢にうなされ目を覚ますと大半は忘れてしまっている。確実に覚えていることといえば……
 ――場所が公園であるということ。
 ――俺が小学校低学年であるということ。――そして……
 ――敷き詰められた雪の絨毯で、無残に殺される……ということ。
 どういうわけか、毎年十二月に入ると同じような夢を見てしまう。最初は何かの前触れかと思ったが、それは漫画やアニメの世界。現実ではそんなことが起こるはずもない。しかし、こんな夢を一六歳になった今でも見続けている。もう十年来の付き合いだ。
 ――事故による後遺症のせい。
 最近ではそう思うようにしている。俺は、未だに心の奥底で燻《くすぶ》り続ける不安感を抱きつつ、額の真ん中にある紅い痣《あざ》に掌《てのひら》を当てた。
 長さは三〜四センチ位だろうか。その痣は細長い長方形に三角錐のシルエットがくりぬかれた模様をしている。今ではトレードマークとして結構気に入ってたりする。
 ちょっと見はインドで信仰的な意味合いが強い『ティラカ』に似ているかもしれない。別にヒンズー教を信奉する敬虔《けいけん》な教徒を演出するために施している訳ではない。単純に幼少の頃、崖から落ちた時に負った大怪我の傷跡がそのまま痣となったものだ。
 ……と、両親から聞いた、と姉貴が言っていた。又聞きの又聞きで何とも奇妙な話だが、両親は俺が物心つく前から海外を飛び回っているというから確認のしようがない。かく言う俺自身、当時から逆のぼっての記憶を思い出すことができないでいる。どうもあやふやなのだ。だから事故のせい、と思うようにしている。
 まあ、今は別に気にしちゃいないんだけどな。でも――
 いつまで見続けるんだろうなぁ…………この夢。
 鬱が若干入ってるせいか、思わず言葉を突いてしまい、溜息を漏らす。
「また例の夢?」
 ベッドから抜け出そうとした時、俺のすぐ傍《そば》から慈愛に満ちた透き通った声が耳に滑り込んできた。
 全くの自然だった。その声はまるで森の中で囀《さえず》る小鳥のようで、声をかけられるのが当たり前のように……
 俺はごく普通に返事を返そうと、声のあった方へと視線を落とし――
「ハハ……。別に今に始まったことじゃ……ってわああああああああっ!」
 心臓が口から飛び出る程仰天し、全力で後ずさった。壁に後頭部を強打するが、そんな痛みなど感じる暇さえない。
 断っとくが、傍《そば》にいないはずのものがいたから驚いているのではない。傍にいないはずのものが傍にあるなどという状況は、俺の経験値として既に刻み込まれている。問題は、傍にあるものの状況、っつうか状態だ。――そう。傍《かたわ》らには俺にとっての…………

 ――天使のような小悪魔がいた。

「せせせ、せっ、聖夜! お前また! それにその格好!」
「ん〜〜? だって寒かったんだもん」
 この小悪魔、もとい、聖夜《せいよ》は純白のブラジャーとレースをあしらった際どいショーツだけを身に纏《まと》うあられもない姿で片肘をついて横たわっていた。何という扇情的なポーズだろう。
「そんなら服を着ろ! 服を! ――って、ば、バカっ! 抱きつくな!」
 聖夜《せいよ》は俺の頸《くび》に腕を回し、ギュっとしながら『ムフフ……。圭兄ぃあったかい〜』と嬉しそうに猫なで声を上げ目を細めている。
 俺の脳内では早速、己の理性がレッドゾーンに突入したことを告げる高音域のアラートが鳴り響く。マシュマロの感覚が俺の胸から脳髄へと伝播し、甘美と官能の世界へと誘おうとする。
 こいつは『乙女桜聖夜《おとめざくらせいよ》』。俺の幼馴染兼従妹で、同じ高校の一年生で一五歳だ。聖夜の両親が海外で暮らしているためウチで預かることになり一緒に暮らすようになった。
 勿論、俺と聖夜の二人暮らしなどという設定ではないぞ。俺と姉貴、聖夜の三人暮らしだ。
 ま、それはさておき、どれ位一緒に住んでいるのかは憶えてない。が、物心つく前から一緒に過ごしてきたというんで、まあ妹のような存在といえる。こいつも俺に懐いてたしな……
 そんな訳で昔はよく一緒に寝たもんだ。中学に上がるまで、だけど。
(それにしても困ったヤツだよなあ。こいつの行動原理が分からん)
 と、俺はチラッと抱きつく聖夜に視線を走らせた。ほんのり桜色に染まった肌と不自然に盛り上がった胸の谷間が何とも艶《なまめ》かしい。
 俺は慌てて視線を逸らし、聖夜の核兵器並みの破壊力にドギマギしてしまった。
 後ろ髪の毛先だけ真紅に染め上がった黒いサラサラとした長い髪は、甘い香りを撒き散らして俺の鼻腔をくすぐる。妙な艶《つや》やかさを感じさせ、俺の煩悩を急速浮上させる。
 少しつり上がった目は妖艶な魔女を連想させ、更にその漆黒の瞳が上品さと神秘性をアクセントとしてアピールしている。そのためこいつに見つめられると、まるで女性の秘奥へと誘われるかのように、劣情の深遠に陥ってしまう感覚に囚われてしまう。
 中学に上がってからは、みるみる『女の子』から『女性』へと変わっていく聖夜をこんな風に意識するようになったものだから、理性を保持するためにも、寝る前には必ず部屋に施錠しているのだが―― 何故かベッドに潜り込んでくる。
 どうやって部屋に入ってくるんだろう?
 そんな脳内検証をしているうち、聖夜の抱きしめにキュッと力が入り、胸が更に押し付けられる。ベッドからは『キシッ』という掠れた音。妙に生々しい。
 うわあ、たまらんっ! 
 ――ってかこれ以上はヤバイ! 男子的な意味で!
「は・な・れ・ろ〜〜っ!」
 俺は聖夜を引き剥がしにかかる。……が、ビクともしない。
 ――こいつ、なんて力してんだよ!
「フフフ……。だーめ。もうちょっと一緒に寝よ、さん兄ぃ♪」
 何なんだよ、この『♪』は? 意味不明っ! てか、完全に俺を玩具にしていやがる。
 それにしても凄い膂力《りょりょく》だ。全力で引き剥がしにかかっているのに……!
 そういえば昔からこいつと喧嘩して勝った試しがなかったっけ……って、違〜〜うっ! こんなこと考えている場合じゃない――っ!
 そんな俺に、今度は足を絡ませてくる。聖夜との密着度が数ランクレベルアップし、俺の心臓の鼓動が跳ね上がる。
「マジでっ! これ以上は洒落になんないって!」
「ムフ。往生際が悪いゾ。逃げちゃ駄目だよ、さん兄ぃ♪」
 俺は脳内メーターが振り切れそうになるのを自覚しつつ、蛇のように絡み付いてくる聖夜に必死の抵抗を試みる。すると、
 どすん!
「キャッ!」「うおっ!」と、バランスを崩してベッドから滑り落ち、足を絡ませた聖夜に俺が覆いかぶさるという体勢になってしまう。
 聖夜の甘い吐息が俺の耳朶をくすぐる。
(ヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイッ!)
 もがけばもがくほど身動きがとれなくなる無間地獄のような展開…………
 そして、焦りまくる俺と、幸せそうな笑みを浮かべる聖夜の視線が交差した時、俺は聖夜の瞳の奥底に潜む、あるものを見出した。それは……

 ――獲物を狙う『獣』の眼、だった。

「いーーーーーーやーーーーーーーーっ!」
 ライオンに追い詰められた兎が必死で逃げるように、死に物狂いで抗《あらが》いまくる俺。
 とんでもない勘違いだった。先程から脳内で響き渡るレッドアラートの警告音は、俺の男子としての理性限界音の到来を警告するものではなく……

 ――未経験者《チェリーボーイ》喪失の危機!

「わ〜! ばかっ、離れろーーーーーーっ! 俺たち兄妹なんだぞーーーーーっ!」
 情けなくも泣き叫ぶ俺。聖夜はどこ吹く風と言わんばかりに妖しく頬をつり上げ「よいではないかよいではないか」と更に締め上げ、今度は俺の唇と自分のそれを重ね合わせようと「ん〜」と突き出してきた。
「さあ、観念しなさい、さん兄ぃ。――痛くしないからぁ〜〜♪」
「わーーーーーーー! 犯されるーーーーーーーーーっ!」
 そんな危機的状況にある中で突然、
 ――バン!
 勢いよく部屋の扉が開かれた。
 おお、神よ! わが身を救い給うたことに感謝します! ……などと心の中でむせび泣いたのも束の間。
「やかましいぞ、さん太! 何を騒いでいる! さっさと着替えて飯《メシ》を食いに降りてこ……ん……か…………」
 入り口には俺の実姉、黒須探女《くろすさぐめ》(年齢不詳)が完全氷結で凝視する姿があった。
 どう見たってハタからみれば『間男』のようにしか見えないこの状況。――さてさて、どうしたものか。
 ――おはよう、探女姉《さぐめねえ》。ビッとした黒のリクルートスーツにエプロン姿。かっこ可愛くていいなあ、タイトなスカートとしっかりマッチしてる。若奥さんみたいだよ。しかもお玉を持った姿が女らしさを加速させてる。とても俺を子供の頃から育ててくれたなんて思えないよ。
 などと本能では思っているが、所詮現実逃避でしかない。
「何をやってる、さん太?」
「あ、いや、その、これは……」
 探女姉の身体がワナワナと震え、含みのある落ち着いた声で言葉を噛み締めるように問うてくる。――恐ぇぇ〜……。
「…………」「だ、だから…………その……」
 別に俺が悪いわけじゃないから非難される謂《いわ》れはないが、この体勢はさすがにまずい! ……ような気がする。脳内は必死に言い訳を考えているものの、模範解答が見つからない。
「だ、だから…………その……」
 しどろもどろで同じ言葉をループさせている俺。おい聖夜、何かフォローしろよ!
 聖夜に視線を投げかけると、いきなり俺の胸に足を押し付けて蹴飛ばした。『わあッ』と、もんどりうつ俺。本日二度目の壁への後頭部強打。俺はそのままへたれ込んでしまう。そして聖夜はといえば……『わあっ!』と錯乱状態で探女姉にすがりついた。涙ながらに。
 ――何でこいつが泣くの? 
 あっけにとられている俺を他所に、おびえた表情で探女姉《さぐめねえ》に抱きついている聖夜。
「朝起こしてあげようと思ったら――」
 あ、今、聖夜の目『キラーン』と光った……ような気がする。
「さん兄ぃがいきなり私を押し倒して、○▲○を××して×■×◎されて! そして、お兄の○×○を×××してきたのーーーーっ!」
「…………ふ」
 ふざけんなあああああああああぁぁぁっつつつつっっ!
 記載不可能な放送禁止用語を連発して、もうお嫁に行けないと泣き崩れる聖夜。
 言うに事欠いて何ちゅうこと言うんだっ!
 謂れのない言動に慌てた俺は、聖夜を問いただそうと四つんばいで駆け寄ろうとした。
「おおお、お前何を言って……。――ブッ!」
 が、遅かった。軸足に対して直角に脚を振り上げる探女姉《さぐめねえ》のミドルキックが俺の顔面を直撃していた。際どいラインまで切れ込みのあるタイトスカートから、美しい乳白色の脚がニュッと伸びていたのが俺の脳内に焼きついている。
 ――探女姉《さぐめねえ》、脚上げ過ぎ。見えるよ〜。今日のパンツは黒かあ。それもヒモパン。朝からラッキー♪ これって勝負下着じゃないよな? とても俺を子供の頃から育ててくれたなんて――以下略。
 しっかりと確認して現実逃避しながらも、またもや壁まで吹き飛んで、本日三度目の後頭部強打。俺は何も悪いことはしていないのになぜ?
 そんな俺の思いなどお構いなく、恐怖の大魔王と化した探女姉がポキポキ指を鳴らしてにじり寄る。マジ怖いですお姉さま。
「さ・ん・た〜〜、朝っぱらから聖夜《せいよ》を襲うなんていい度胸してるじゃないか、ん?」
「ち、違う……。た、頼むから落ち着いて。は、話せば分かる、人類皆兄弟……」
「獣は人類じゃねええええ! いっぺん死ねやぁぁーーーーーっ」
「ギャーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」
 魂の叫びと共に『ドス、バキ、ベシ、ボキ』と身体のあらゆる部位が破壊される音が町内中に響き渡った。

★★★★★★★★

「そういつまでも怒るな、少年。さっき謝っただろ?」
「…………」
「そんなんじゃ女の子にモテないよ」
「…………」
 紺のブレザーとスラックス、濃緑のネクタイで身を包み、包帯と絆創膏の完全装備の出で立ちで憮然とする俺に、ご機嫌伺いの文句をいい連ねる二人がいた。今は俺と聖夜、探女姉の三人が揃って翠明《すいめい》高校へと登校している最中である。
 学校は繁華街を抜けた高台の頂上部にあり、自宅から徒歩二十分位の距離だ。今はまだ繁華街に差し掛かる前の、自宅からも程近い住宅街を歩いている。探女姉《さぐめねえ》と聖夜が肩を並べ、俺が後ろからついていく格好だ。
 俺と聖夜は同じ一年生でクラスメート、探女姉は国語の教師をしていて、俺らのクラスの担任でもある。大抵は一緒に登校している。
 ちなみに探女姉は身長一七五センチ位で俺とほぼ同じである。女性としては高身長の部類に入ると思う。私服を着て俺と探女姉が肩を並べれば、恋人同士に見られるかもしれない…… などとちょっと考えてしまう。そして聖夜は、俺よりも顔半分くらい低いので、一六〇センチ位である。聖夜と肩を並べても絶対! 誰が見ても兄妹にしか見えない! と、普遍的確信を持っている。
 聖夜は長い髪を後ろに束ねたボニーテール(いや、アップテールか)をしていて、活動的な印象を受ける。丈の短いスカートという点を除けば俺と同じ制服だが、白いマフラーを軽い感じで巻き込んでいるので、清純なイメージも併せ持っている感じだ。しかし、黒のニーハイソックスを履いたスラッと伸びた細い脚がやけに眩しく感じるのは気のせいだろうか。
 探女姉は弾力のある黒くて長い髪をなびかせ、先程と同じ黒のリクルートスーツで身を固めている。外見的には怜悧なキャリアウーマンという心証でカッコいい。今はベージュのコートを羽織っているので中身までは見えないが、コート越しからでも卓越したプロポーションの持ち主であることは容易に想像できる。
 この探女姉《さぐめねえ》、実は我が校の『美の双璧』と謳《うた》われている。一方で『氷の女』という異名も持ち、一部の男子生徒からは絶大の人気を誇っていて『鞭《むち》でぶって欲しい』とか『足蹴《あしげ》にして欲しい』とか、うんたらかんたら……。とても俺を子供の頃から育てくれているようには見えない。二十代前半に見える。年齢は不詳。聞いても教えてくれないからよくわからん。
 ちなみに双璧の片割れは聖夜である。非常に不本意ではある……が。
 そんな、相も変わらず苦虫を噛み潰して無言を貫いている俺に、二人がくるりと身を翻し足を止めた。何とも優雅で自然な振る舞いだ。
 探女姉はカッコよく、思わず憧れを抱いてしまうさりげなさを感じる。
 聖夜はといえば―― 一言で言えば……可愛い。短いスカートと束ねた髪、そして純白のマフラーが動きに併せてフワリときれいな弧を描く。
 そんな聖夜に思わず見とれてしまう俺。――ちくしょー、心奪われた感じで何か悔しい。
 二人はニコッと優しい微笑を浮かべ――
「今晩はお前の好きなおかずを作ってやるから、いい加減機嫌を直せ、さん太。――な?」
「男らしくないなぁ。いつまでもそんな顔しないの。今晩好きなおかず作ったげるから」
 とありがたくもお言葉を頂いた。
(探女姉《さぐめねえ》、優しい。しかも俺以外には絶対に見せない微笑み。嬉しいけど何か恥ずかしい)
(聖夜、うるせえ。いつか殺す。絶対殺す。末代まで祟ってやるから覚悟しやがれ)
 などと思っても、決して口にはしない。一度口にしたものは引っ込めることが出来ないのが人間関係。何気ない一言が人の心を傷つけてしまうのだ。だから考えてよく吟味してから言葉を発しなければならない。それが人間関係の難しさといったところか。――俺も大人になったもんだ、えらいえらい。
 というのは建前。ホントは報復が怖いだけだったりするのだが、悟られてはいけない。特に聖夜には。そんな訳で腹の虫が収まらない部分はあるものの、心の広いところを見せねばなるまい。
「わかったよ、もういいって」
「ほんとに〜?」
 ズズイッと顔を近づけ、覗き込む。――聖夜、顔近いぞ。
「大体、こんなの日常茶飯事だろ? いつまでも根に持つ程狭量じゃないよ、俺は」
 ん〜〜、えらい、えらい。――満面の笑みを浮かべ、頭をなでなでする聖夜。兄貴の尊厳などあったものではない。ちくしょう、完全に子供扱いだ。我慢、我慢……と。
「ん? いかんな、もうこんな時間か。悪いが先に行くぞ。お前達も遅れるな」
 腕時計に目をやった探女姉《さぐめねえ》が、話し込んでいた俺達二人を残し、『会議に遅れる』と足早に去っていく。
 俺と聖夜も探女姉に呼応してゆっくりではあるが繁華街へと足を向けた。

★★★★★★★★

 住宅街を抜けて繁華街まで進むと急に人込みが増えてきた。
 この辺りでは唯一と言ってよいほど栄えている場所だ。繁華街というよりは商店街といったほうが良いかもしれない。一般的な商店街とはイメージが異なり、近代的イメージ漂う飲食店や百貨店、それに雑貨店といった建物が、歩行者用の大きな通りの両側に建ち並ぶ。通りの中央には、等間隔に植えられた木々があり、これら木々を挟むようにベンチが据えつけられている。頭上にはガラス状のアーケードが展開され、日光浴を楽しめるよう配慮されていた。アーケードは可動式で、晴れの日などは風を取り込めるようになっているが、冬の期間中は防寒対策で閉じられたままである。祝日などは家族連れで賑わいを見せるのだが、今は朝のラッシュのせいで、会社勤めのサラリーマンやOL、また、フリーター、学生と思しき人々がいそいそと通行しているだけである。
 俺と聖夜は通りの中央付近を歩いていたが、そんな時、アーケードを交差する道を横切っていく小学生の通学風景に出くわす。友達同士、キャッキャ騒ぎながら登校している。何気ない、ごくごく平凡な朝の風景だ。
 聖夜はそんな小学生達を見て目を細める。
「ね、ね。かわいいね?」
「ん? そうかあ?」
 ――とまあ気のない返事。はっきり言って興味がない。何かの伏線か?
「んもう! ――あ、あそこの二人見てみてー?」
 聖夜に倣《なら》って俺も視線を走らせた。せわしなく通行する人達の中にあって、前方の等間隔に並ぶ木々を挟んだベンチ脇で立ち止まっている男の子と女の子に目が留まった。男の子はいかにも気弱といった感じだが、女の子の方は男の子とは逆に随分気の強そうな印象を受ける。雰囲気からしてどうやら喧嘩をしているらしい。小学校四〜五年生位だろうか。
 男の子が一生懸命弁明している様子が伺え、女の子は腕組みをしてそっぽを向いてる。雑踏による様々な音が混じっているせいで彼らの会話は途切れ途切れでしか聞こえないが、どうも男の子が女の子との約束を破ってしまったことが原因らしい。男の子がしきりに掌を合わせて謝っている。
 そんな様子を、往来する人々が興味深げに視線を走らせ通り過ぎていく。しかし、登校する小学生達は二人のことをよく知っているのだろう。『またか……』といった感じで無関心を装い、素知らぬ顔で大通りを横切っていく。
 しばらくすると突然女の子が男の子を張り倒し、容赦のない蹴りを入れ始めた。男の子の『ごめんなさいごめんなさいごめんなさいもうしません!』という哀願の叫びが聞こえる。とてつもなくシュールだった。まるであの|男の子《コ》、俺の小さい時を見ているようで……いやいや! 俺の小さい頃はもっと毅然としていたはず。
「はあ。いいわあ」
 うっとりと溜息を漏らし、羨望のまなざしで熱い視線を送る聖夜が呟いた。
「は?」
 突然何を言いやがりますかね、こいつは?
「あの女の子、男の子のことが好きなのね、きっと。なんてストレートな求愛行動なのかしら! 羨ましいわぁ……」
「いやいやいやいやいや! 違うだろ! あれは苛《いじ》めてるだけだろ、どう見たって!」
「相変わらず女の子の『機微』というものを理解してない人ね、さん兄ぃは。――いい? あれは照れ隠しなの! 女の子はね、自分の好きな人には意地悪をしたくなっちゃうものなのよ。だから叩いたりするの。わっかんないかなー?」
 いやいやいや、叩いてない! あれは殴ったというんだ! しかも蹴り入れてるし!
 それに逆だろ! 普通は男の子が女の子に対して行う愛情表現であって(スカートめくりとか)、女の子がするもんじゃないだろ!
 俺は確かに『女の子』の機微なんてわからんがな、お前は『人間』の機微というものをもっと理解すべきだと思うぞ! 俺にはどう見たって、女の子が男の子を苛めているようにしか見えん。
 ――聖夜の愛情表現って一体……?
 どう考えても屈折した愛情を有しているとしか思えない俺は、聖夜との付き合い方を考え直そうと、こっそりと思うのであった。
 突っ込みどころ満載で、訳の分からないハートマークの視線を投げかける聖夜にあきれつつも、再び子供に視線を向けた。
 女の子は踵《きびす》を返してアーケードを交差する道へ歩き去ろうとする。学校へ向かおうというのだろう。男の子が泣きながらその姿を追っていく。
 情けない。男ならもっとビシッと言ってやれ! と、心で呟いた時、

 ――ドクン!

 唐突に一際大きな心臓の鼓動が俺を襲った。
 立っていられない程の目眩に見舞われ、思わず傍《かたわ》らのベンチの背もたれに手を突く俺。聖夜は俺のそんな異変には気付かず、先程の子供達を羨ましげに見つめている。
(なんだ……?)
 全身から脂汗がドッと吹き出し、そのまま昏倒するのではないかという不安感に苛《さいなま》まれる。身体全体が疲労感で満たされ、身体の奥底から徐々に湧き上がってくる熱い塊のようなもの。喉の渇きを潤したいという渇望感にも似た想いが肥大化していく。伏線の回収か? などとふざけている場合ではない。
 ――ドクン!
 再び心臓の鼓動。思わず片膝を折ってしまう。行き交う人々の奇異な視線など気にする余裕もない。
(これ……は……?)
 更にこみ上げてくる熱いもの。それが喉までこみ上げてきた時、俺はその正体をはっきりと認識した。
 これは、喉の渇きなんかじゃない……っ
 ――純粋な破壊衝動!
 なんで……っ?
 今日の今日まで平々凡々と過ごしてきた俺にとって、このような衝動が心の内にあること自体がショックで、自分で自分を恐怖した。――そして
 ――こいつは危険だ! 表に出してはいけない!
 と直感し、薄れ行く意識を繋ぎ止めようと歯を食いしばる。
「? ――さん兄ぃ……? ――どうしたの!」
 ここで始めて聖夜も気が付いたのか、慌ててしゃがみこんで懸命に俺の背中をさする。聖夜から見れば、さぞかし蒼白な表情をしていることだろう。
 ――駄目だ! 俺から離れるんだ、聖夜っ!
「だっ、大丈夫? ねえったら!」
「…………う……あ……ッ…………グ………………」
 俺の異変に尋常ならざるものを感じたのか、聖夜は血相を変えて悲鳴にも似た叫び声を上げて寄りすがる。
「ねえ! やだ! ちょっとっ! さん兄ぃっっ! しっかりしてよーーっ!」
 逃げろ! と必死に言葉を紡ごうとするが声が出ない。もどかしさがこみ上げてくる。
 ――ドクン!
(ヤ、ヤバイ……ッ! い、意識が……遠…………のく)
 張り詰めた糸が切れかかる寸前、突然に荘厳に満ちた透き通った声が脳内でこだまする。

『鎮めよ!』

(――え?)

『鎮めよ! ――我があるじよ!』

(――何だ? どこから?)
 脳内から身体の隅々へといきわたる声に戸惑いながら、必死にその声の主を探そうと混濁した意識を強引に引き戻し集中させる。
 不思議なもので、その声を聞いて意識を集中した途端、スウッと気持ちが落ち着いて意識がはっきりとしてくる。
「あ……れ……?」
 いきなり身体が軽くなった。先程までの疲労感と抗《あらが》い難い衝動が嘘のように解消される。俺は何事もなかったようにスッと立ち上がった。
「ちょ……っ、さん兄ぃ、大丈夫なの?」
 膝を落としたまま、すがるように俺を見上げる聖夜がいる。よほど心配だったのだろう、瞳が涙で潤んでいた。
 一体全体何が起こったのだろう? 子供を見ていたら急に……。――それにさっきの声。あれは俺の頭に直接話しかけてくる感じだった。どうしちゃったんだ?
 ――いや、今はそんなことよりも…………。
「アハっ、あはははは!」
「え?」
「なーーーんてな! やーーーい、騙されてやんの!」
「は?」
 悪戯っぽく頬をつりあげ、してやったり! と会心の笑みを浮かべる俺。我ながら下手糞な演技だと思う。しかし、聖夜には効いたようだ。しゃがみこんだまま俺を見上げ、絶句して目をパチクリさせている。
「――ほら、朝の仕返しだよ。し・か・え・し! 今朝、あんな目に遭わせられたからさあ、どっかで仕返ししなきゃと思ってたんだ」
「…………」
「お? ひょっとしてマジで心配した? そっかぁ、そいつは悪いことしたなぁ。いやあ、悪かった、悪かった」
「…………」
「――ハハハ。まさかこんなにうまくいくとは思わなかったよ! お前ってば、ホントーに騙されやすいのな! いや、でも俺の演技がうまいから騙せたのか。――うーむ、そうすると俺の演技も捨てたもんじゃないな。俳優にでもなっか?」
「…………」
「あ、でも、俺に惚れちゃいけないぜ! 俺とお前は血は繋がってないとはいえ兄妹なんだからさ、その辺の十八禁のインモラルもどきの行為に走るのはご法度だ」
 ワハハ! と大口開けて笑いながら、まくし立てるように自分勝手に話していたが、聖夜の反応がイマイチなのに気が付く。見ると下をうつむき、小刻みに震えていた。
 ヤベッ、泣かせちまったか? ちょっと調子に乗りすぎた。
「あ、あの…… 聖夜?」と少し気まずい思いで話しかけると、聖夜はスッと腰を上げた。
「……さん兄ぃ………………の…………」
 何を言っているのか分からず、耳をそばだてる俺。
「……ん? 今何て言った?」
「バカーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!」
 ギャンッ!
 避ける暇などない。問答無用で殴られた! 思いっきり殴られた! 頭頂部を! それも鞄の角でっ!
 頭から血を噴出しながら尻餅をついてしまう俺。コンクリートの地面に食い込むかと思った。それにしてもなんちゅう馬鹿力だ。俺でなきゃ絶対死んでたぞ! 
「おまっ! いきなりなにしやがる!」
「馬鹿っ! バカ兄なんか死んじゃえ!」
 顔面を真っ赤にして沸騰させながら捨て台詞を吐くと、俺を残してさっさと学校へと行ってしまう聖夜であった。
 ――あ〜あ、怒らせちゃったか……。だけど分かりやすいヤツだよなー、あいつ。
 しかし、聖夜の涙なんてどれ位ぶりだ? いや、俺が泣かせたのは初めて……だよな?
「…………」
 ま、仕方がない。後でたこ焼きでも買ってやって、機嫌を直してもらおう。
 ――でも、さっきのは一体何だったんだ?
「…………」
 当然のことながら、考えたところで答えなど見つかるはずもない。俺は、付きまとう不安感を頭《こうべ》を振って拭い去り、慌てて聖夜を追いかけた。

 そんな俺と聖夜のやりとりの一部始終をアーケードのガラス越しから見下ろしているヤツがいた。無論、俺が気付くはずもない。
 そいつは身長一三〇センチちょっとの小柄な体型をしているが、フードを全身からすっぽりと被っているので容姿は分からない。ただ、薄気味悪い笑みを浮かべていた。
「フフフフ……プリムラのこだわり|&《アーンド》『賢者の石』見ぃ〜っけ、ですの!」





第二章

 ――さん兄ぃのバカッ! ほんっとバカ! ホントムカツク!
 怒りの冷めやらない聖夜《せいよ》は、胸の内で罵倒を浴びせつつ小走りで学校へと向かっていた。
 繁華街を抜けると車が通行する大通りが横切っているのだが、そこを渡ると高台の頂上へと続く一本道の緩やかな坂がある。坂は幾重にもカーブを描きながら頂上へと続いており、登りきると聖夜たちが通う翠明《すいめい》高校がある。ちなみにこの坂、高台の反対側へと抜けられられるのだが、反対側には自然公園が壮大に広がっている。
 車の通りへと近づくにつれ、同じ制服を着た生徒達の姿も目立ち始める。聖夜はようやく速度を緩めてゆっくりとした歩調で横断歩道を渡り、高台の坂を上っていく。
「聖夜、おはよう」
「おはよう、乙女桜さん」
「オッス! 乙女桜」
 聖夜に人気があるのか、肩を並べる生徒達からの挨拶が男女を問わず飛び交ってくる。聖夜は「あ、おはよー」と、一人一人明るい挨拶を返していく。
 しかしそんな挨拶とは裏腹に、やはりさん太のことが気にかかるのだろう。苦しみで顔を歪める姿を脳裏から消し去ることができない聖夜だった。
 ――あんなさん兄ぃ、初めて見た。
 普段は、冗談好きで人を気遣う心を持った優しい少年『黒須さん太』。そんなさん太に接していると、何となしに心穏やかな気分に満たしてくれる。何気ない仕草がちょっと子供っぽくて、ついつい苛《いじ》めたくなってしまう。決して童顔ではないのだが、聖夜にとってはなぜか母性本能をくすぐられてしまう不思議な存在がさん太であった。
 ――そんなさん兄ぃが顔を引きつらせ、苦悶に喘いでいる…………。
 聖夜はそう思うと表情を曇らせ、心に痛みを感じてしまう。
(なぜあんなに突然? これまでこんなことはなかったし、異常もなかった…………)
「…………」
 高台の頂上へと続く一本道をゆっくりと上りながら、憂いに満ちた思いで溢《あふ》れてしまう聖夜。盛り上がっている胸にまで垂れ下がった純白のマフラーを思わず握り締めた。
 前方に続く長いカーブを曲がりきれば校門が見える所までさしかかった時、すぐ後ろから声をかけられた。
「おっはよ、聖夜ちん♪」
「!」
 明るい、屈託のない響きを持った、聞き慣れた女子の声。振り向かずともわかる。こんな時の聖夜にあまり話しかけられたくない存在――
(――いいタイミングで話しかけてくるわね)
 心の中で舌打ちした聖夜は、さん太を一旦頭の隅に追いやった。
 少女はそのまま聖夜と肩を並べると聖夜の歩調に合わせた。一緒に登校する気らしい。
「あ、おはよう、沙霧」
 聖夜は、沙霧と呼んだ少女に顔を捻って素っ気無く挨拶を返す。
 傍《かたわら》では眼鏡をかけるどんぐり眼をしたショートカットの少女『天野沙霧《あまのさぎり》』……が、かわいらしい笑みを浮かべていた。片側の髪の毛の一房をゴムで束ね、それがピョンと横に突き出ているのが印象的だ。いかにも活発そうな少女だった。
 天野沙霧は、聖夜やさん太とはクラスメートで中学時代からの付き合いである。聖夜と同じ位の背の高さだが、その体型は聖夜と違ってスレンダーなタイプだ。リスのような愛くるしい雰囲気を持つ一方、一年生ながら新聞部の部長という肩書きを持つ。ゴシップネタが大好きな少女で『キングオブピューリッツァー』(自称)と言われて? いる。
 沙霧は聖夜とは親友とも言える間柄だが、同時に聖夜にとって『警戒すべき対象』ともいえた。
 というのもこの沙霧という少女、悪い人間ではないのだが、ネタを拡大解釈して妄想をめぐらすという独りよがりな傾向を持っていた。少しでもゴシップネタの匂いを嗅ぎつければ、蛇のように食いついて決して離すことがなく、持ち前の妄想癖と新聞部部長という立場を駆使して何でもかんでも記事にしてしまう。
 そのバイタリティは敬服に値するが、沙霧の毒牙にかかった者の数は高校入学以来僅か九ヶ月で百を超えるという。中には沙霧によってトラウマをインプリントされ、退学した者もいるとか。『歩くゴシップメーカー』と呼ばれ、全校生徒から恐れられている存在だった。
「なんか今日は元気ないぞお〜。黄昏入ってる。――何かあった?」
 無表情を装いながらも歩き続ける聖夜だが、早速ゴシップの匂いを嗅ぎつけたのだろうか? 危機感を募らせる聖夜にお構いなく横から覗き込み顔色を伺う沙霧。
 聖夜は長年の付き合いからこの少女のスペックを経験値として熟知していたので、高校に入学してからは被害を被ったことはない。被害に遭いそうになったことはあるが……、数え上げればキリがない。――しかし、その経験値から、
「別に何もないわよ」
 ――と前を見据え、何事もないように素っ気無く返答した。が、しかし、
「あ、さんちんと何かあったんだ?」
 ――見破られてしまいました。
 ゴシップの匂いを瞬時に嗅ぎ分ける沙霧のポテンシャルの高さに思わず苦笑いをこぼしてしまう聖夜。――だが、あくまで平静を装う。
「何で? ある訳ないじゃない」
「嘘だー」
「何でそう思うのよ?」
「だって、聖夜ちんがその白いマフラーを握り締めている時は大抵、さんちん絡みで悩んでる時だから。――ちなみにあたしの予想確立で九八・五%」
「あ……」
 聖夜は自分でも気付かなかった癖を指摘され、慌ててマフラーから手を離すが、時既に遅し。沙霧は何かを感じ取ったのか、放たれた矢の如く、瞬時に聖夜の前に回りこんで足を止め、いずこからか取り出したメモ帳代わりのノートとペンを携えて好奇心旺盛な面持ちでずずいっと身を乗り出した。
「――で、何があったの? さんちんと」
「…………うっ」
「んんん〜?」
 眼鏡の奥が光を放っていた。鬼気迫るものを感じる。さすが新聞部部長、というか『キングオブピューリッツァー』(自称)、いや『歩くゴシップメーカー』といったところか。実に鋭い嗅覚を持っている。校内情報は、どのような些事でも見逃す気はないらしい。
 別に聞かれても困る話ではないので話をするのはやぶさかではないのだが、沙霧の雰囲気に気圧されてしまった聖夜は、言葉に詰まってしまった。
「う、そ、その……さん兄ぃが――」
「――む! まっまさかっ、聖夜ちんっ!」
 聖夜の言葉を待たずして突然、稲妻が走ったように愕然とする沙霧。「えっ? な、なに……?」と虚をつかれた聖夜は次の言葉を待つしかない。
「――無理やり×○△を突っ込まれて×○△◎されて、ご懐妊しちゃったっ、とかっ!」
「ぶっ!」
 眼鏡を軽く支えながら真剣な表情で指摘する沙霧に、聖夜は絶句する他はない。上ってきた坂から転げ落ちそうになるのを踏みとどまるのが精一杯だった。
「そっかあ。聖夜ちんにもついに春が来たかぁ。良かったね、良かったね、良かったね! おめでとー。……っと、忘れないうちにメモメモっと」
「………………………………」
 実に心のこもっていないお祝いを述べ、絶対凍土で数万年保存されたマンモスのように固まる聖夜を他所に、沙霧はいそいそとペンを走らせ始める。校内新聞の原稿を考えているのだろう。通学途中であることもすっかり忘れているようだ。さすが『キングオブピューリッツァー』(自称)――以下略。
 固まっている聖夜など目もくれず――
「――え〜、十二月某日未明、翠明高校一年B組、乙女桜聖夜(一五歳)さんは、新聞部部長天野沙霧との会談においてロストバージンしたという衝撃の事実を語った。お相手は何と、同じクラスの黒須さん太君(一六歳)。二人は幼少期より共に生活を営んでおり、周囲からは恋人同士なのではないかと囁かれていた………… うーん、これじゃイマイチ、パンチ力がないわね。やはり、読者が食いつくような内容にしないと……あ、そうそう、その前に見出しを考えなきゃ……。――そうだ。こんなのはどうかしら? ――翠明高校『美の双璧』は穢《けが》れの象徴? 乙女桜聖夜(一五歳)が語る、エロの帝王『黒須さん太(一六歳)』のヤリまくり人生の実態に迫る! ―― ……うんうん。――いいわねいいわねいいわねーっ! そそるわそそるわー! キタキタキタキタキターーーーッ!」
 校内新聞とは思えない三流ゴシップ記事のような見出しを口にして、ふっふっふと不気味に笑いつつ、何かに取り憑かれたように異様な眼光を発しながら一心不乱に書き綴っていく沙霧。
 聖夜はとてつもない脱力感に襲われながら薄ら笑いを浮かべるしかなかったが、己に降りかかるであろう災難に思いを巡らせるや、ようやく我に返った。
(このままでは明日から学校に行けなくなる!)
 そう思った聖夜は、バッターボックスでバットを構えるが如く鞄を両の手で握り締め、
「――いい加減に…………せんかーーーーーっ!」
 バッコーーン!
 と、本日二度目の鞄攻撃。――バックスクリーンへと伸びるサヨナラ弾……をかっ飛ばし、会心の音がこだまする。『あーれー』と叫びながら大空の彼方へと消えていく沙霧であった……。
 というのはさすがに言い過ぎではあるが、それ位聖夜にとっては乾坤一擲《けんこんいってき》の一発であったといえる。さすがにさん太に対してとは違い、鞄の『角』ではなく『面』による攻撃だったが……。中学時代から幾度となく謂れのない捏造記事で公衆の面前に晒されそうになってきた聖夜としては、それが友人に対するせめてもの配慮…… ――いや、報復であった。
 聖夜の妄想はここまでとして、実のところ沙霧は眼下に広がる町並みを背に、落下防止用のガードレールに激突し目を回していた。しまらない口をあんぐり開けて「ハラホレハレ……」と訳のわからない言葉を漏らしている。『バカ』以外何者でもなかった。
 そしてそんな沙霧に聖夜がいつの間にか滑り寄り、沙霧の行手を遮るようにそびえ立つ。沙霧は正気を取り戻して聖夜を見上げるや『ハッ』と息を呑んだ。そこには最早『美の双璧』などという象徴的な存在などいない。――いるのは冷酷に薄ら笑いを浮かべる一匹の『般若』のみ。
「さ・ぎ・り〜……。――あんたぁ、事実を歪曲して報道するのたいがいにしなさいよ。あんまりふざけたこと言ってると…………死・な・す! わよ〜」
『死・な・す』という言葉に怨念を乗せ、静かな口調で迫る聖夜のドアップ。
 ――ゾゾゾォ〜
 沙霧は生きた心地がしなかった。本当にしなかった。聖夜の怒った顔は見慣れている沙霧ではあるが、これまでで最上級の相貌に感じた。過去、同じような突っ込みを入れた時の反応に比べると、必要以上に過敏に反応しているようにも思える。それだけにスキャンダルの強烈な匂いを感じる沙霧であったが、それよりもあまりの聖夜のド迫力に慄然とし、顔面をこわばらせながら「や、やだなー、聖夜ちん。じょ、冗談に決まってるじゃな〜い」と、言うのが精一杯だった。
「あんたのは冗談で終わらないから恐いの」
 般若の相を解除し、腕組みをする聖夜。
 許してくれたのか? と、まだ少し緊張気味の沙霧。それ位聖夜を恐ろしく感じたのだろう。――それならば最初から言わなきゃ良いのに、と思うのだが……。
「……ま、まーまー。今のは朝の軽〜〜い冗談ということでぇ……」
「どうだか」
「いやー、ホントホント」
「まあいいけど……」
 どうやら聖夜は怒りの矛を完全に収めてくれたらしい。「急がないと学校に遅れるわよ」と、促している。ほっと安心する沙霧だが、これに懲りないのもまた沙霧だ。
「――でも本当にさんちんに襲われたりとか、何かされちゃったりとかは〜……」
 恐る恐る追求を試みてみたりする。この諦めの悪さはさすが『キングオブピューリッツァー』(自称)――(もう一度)以下略。
 ――しかし、『ギン!』という聖夜のガン見で完全戦意喪失、しりすぼんでしまう。沙霧はここでようやく二度とこの話題には口にすまいと諦め――
「そっ、そうよねー! そんなことある訳ないかぁ〜(チッ! 折角の面白いネタが……勿体無い)」
「あん? 何か言った?」と沙霧の心を見透かして再びガン見。懲りないヤツだった。
「いえいえいえいえいえ! 何でもありませぬ。――そっ、そうよねー! いくら何でもさんちんに聖夜ちんを襲うなんて度胸ある訳ないもんね〜〜! アハハハハ……何言ってるんだろうねー、私ってば」
 今度こそ本当の本当にこの話題から完全撤退してくれたのだろう。
 そんな沙霧に内心ホッとする聖夜であった。確かにさん太の異変は心配ではあるし、その話題に触れる分には全く問題はない、が。しかしことエロ系に関しては――
「(確かにさん兄ぃは私を襲うなんて度胸はないと思うけど……)私にはさん兄ぃを襲う度胸はあったりするんだよね〜、これが。――あれは惜しかったなあ……(ボソ)」
 朝のさん太にキスを迫っていた時の自分を思い出し、思わずにやけてしまう聖夜。
 沙霧は自分の身を起こしてスカートや膝の埃を払っていたが、聖夜の声を聞いたような気がして何気なく聞き返す。
「え? 何か言った? 聖夜ちん」
 ――ギクーーーッ!
 しまった! いつの間に口にしていたんだろうと慌てふためく聖夜。
「いやいやいやいや! 何も! これっぽっちも! 全然っ! ありえないくらい! 何も言ってませんっ!」
「――?」
 全身全霊でもって完全否定する聖夜を不思議に思う沙霧だったが、あまり気にしていないようだ。今度こそ盛大に安堵する聖夜であった。そして、話を逸らすかのように「そ、そろそろ急がないと本当に学校に遅れるわ」と促したところで、
「――あ、ちょっと待って。忘れてたわ」
 聖夜を引きとめ、おもむろに鞄に手をやる沙霧。何やら探し物のようだ。
「?」
「あれ? どこにやったかしら?」と、ゴソゴソ鞄をあさっていたかと思うと――
「――あ、あったあった。…………はい、これ。苦労したんだからねー」
 聖夜に差し出したるは一枚の茶封筒。「何? それ?」と、怪訝な顔をして小首を傾げながら受け取り、中身を伺う。紙切れのようなものが二枚入っていた。
「ほら。――前に頼まれてたヤツ。――ようやく手に入ったのよ。苦労したんだからね」
「――! これは……!」
 中身を確認した聖夜は、花開いたようにパァッと明るい笑顔を見せる。
「ありがとう、沙霧」
「二枚だったわよね? 学校で渡そうと思ってたんだけど、丁度、聖夜ちんの姿を見かけたから……。――それをどうするかは想像つくから聞かないどいてあげるわ。――頑張ってね、聖夜ちん♪」
 ウィンクを投げかけニッコリと微笑む沙霧には、新聞部部長としての『キングオブピューリッツァー』(自称)でもなく、また興味本位な『歩くゴシップメーカー』でもない。ただ同じ年頃の女子として、そして友人としてのエールの気持ちが少しだけ込められていた。

★★★★★★★★

「はあはあはあ……」
(この調子だと始業ギリギリか……?)
 包帯や絆創膏などで完全武装していた俺は今や完全復活を遂げ、聖夜に追いつくべく全力で長い坂を走っていた。辺りには生徒の姿も見当たらない。口元からは白い息が不規則に吐き出される。寒空の下とはいえ、全力疾走をするとやはり身体が急激に火照ってくる。正直、暑い。暑苦しいので邪魔な包帯とかは途中で剥ぎ取った訳なのだが――。
 重症に近かった俺がなぜこんな短期間で怪我の痕も残さない程復活を遂げられたのか? ……などいう野暮な質問はしないで欲しい。やっぱりほら、これはラノベだから……。

 聖夜はかなり早足だったようで、校門へと続く最後のカーブを曲がりきったところでようやくその後姿を確認した。その隣には沙霧もいるようだ。
 俺はスピードを落し、その間に呼吸を整えながら二人に近づき、肩を並べたところで歩調を合わせた。
「あ、さんちん。おはよー」
「――お、おう」
 沙霧が明るく挨拶をし、俺もそれに応える。
 ――俺は正直、沙霧が苦手だ。……ってか、『歩くゴシップメーカー』として悪名を馳せているこいつを得意とするヤツがいるのだろうか? しかし何故か聖夜とは気が合うようで、俺的には七不思議の一つとしてランクインしている。
 中学時代から類稀な美貌をもつ聖夜に言い寄ってくる男子は数え切れない。話題性としては十分な素材である聖夜を、沙霧が放っておくはずもなく『取材』と称してかなり強引に付きまとっていたし、それは高校に入ってからも変わっていない。――いや、むしろ『美の双璧』などと言われるようになってからは、その激しさを増したような……。それなのにそんな沙霧を聖夜は疎ましく思っていないようで、むしろ楽しんでいるようにさえ感じられる。色々な相談ごともしているようだ。――だから『七不思議』なのだが……。
 俺はそんなことを考えながら、沙霧の向こうで俺と肩を並べる聖夜に視線をよこした。聖夜はそんな俺に気付いたのだろう。
「――何よ?」
「い、いや。――別に」
「あっそ。包帯がもう取れているなんてゴキブリのような生命力ね? ――相変わらず」
「それ言っちゃかわいそうだよ。――それ『だけ』がさんちんの取り柄なんだから」
 さりげない棘のある聖夜の言葉と『キャハ♪』とカワイ子ぶる沙霧の容赦のない追い打ちに軽い殺意を抱く俺だが、気になるのはやはり聖夜だ。
 ――まだ繁華街での出来事を根に持っているのか? 何て心の狭いヤツ。
(ま、でも、さっき泣かせちまったからなあ……。――仕方ないか)
「いや〜、ほら、お前に追いつこうとして走ったからさ。暑くて――。はは……」
 聖夜にご機嫌を伺うように頬を少しつり上げて極力優しく言ったつもりの俺。笑顔がぎこちない。ご機嫌取りなど俺の趣味ではないのだが、これで少しでも機嫌を直してくれれば――。と思っていた。……が、
「別に一緒に行こうなんて頼んでないもん。――バカみたい」
 ――あ、むげな言い方。ちょっと頭にきたぞ。
「まださっきのこと根に持ってるのかよ? 謝ったじゃんか? いい加減機嫌直せよな?」
「謝った〜? ――あのふざけた言い方が、謝った? ――ふーん。あれで謝ったなんて言うんだ〜? ――じゃ私も返すわね。――『さんにぃ、きげんわるそうなかおしてわるかったわね。ごめんなさい』……これでいい?」
 ほっぺたを膨らませて嫌味ったらしく感情のこもらない言葉を並べ立てる聖夜。さすがの俺も語気を強めた。
「――む。いくらなんでもそんな言い方しなくても良いだろう? 大人気ないことすんなよな!」
「誰が大人気ないよ? 最初に言ってきたのはさん兄ぃの方じゃない!」
「何おう!」「何よ!」と沙霧を挟んで角を突きつけあう俺と聖夜。
 納得のいかないものが多分にあるが、このやり取りが学校におけるお馴染みの夫婦《めおと》漫才……というのが沙霧評で、沙霧本人は珍しくも何とも思っていないようだ。むしろ『また始まった』的で俺達のやり取りを眺めている。が、校門のところで人だかりができていることに気が付き「あら?」と首を傾げた。
 そんな沙霧に気が付いた俺も聖夜との夫婦喧嘩……もとい、口喧嘩を中断して同じ方向へと視線を走らせた。
 始業チャイム間際の時間帯にしては確かに珍しい。校門で十人以上の男子生徒が取り囲むように小さな人垣を作り、そこだけ異様な熱気を放っている。太っているヤツとか、なよっとして眼鏡をかけたヤツとか……。いかにもオタッキーなやつらばかりが取り囲んでいるように見受けられる。脂ぎった異様な匂いが漂ってきそうだ。そしてそんな人垣からは『おおおお〜〜!』とか『きゃわいい〜〜!』とか『萌えーーーーっ!』とか訳のわからないことを口走っているのが時々耳に入ってくる。――まるでどこかのアイドルがお忍びでやってきた所をファンに気付かれて取り囲まれてたような……そんな感じだ。
 沙霧は何か感じるものがあったのだろう。「何かな、何かな? 何の騒ぎかな?」と、瞬く間に人垣の中へと身を投じていった。さすが『キングオブピューリッツァー』(自称)――(くどいようだがもう一度)以下略。面倒だから。
 俺と聖夜は不思議に思いつつ歩を進め、何気なく人垣の傍《そば》を通り過ぎようとした時……、
「そこの二人、ちょっと待ちなさい、ですの!」
 ――と、カナリヤの囀《さえず》るような甲高い声で呼び止められた、ような気がした。うん、気のせいだろう。聖夜も気が付いていないみたいだし。
 そういう訳で何食わぬ顔で校舎へと向かう俺達。……だったが、
「待ちなさいってのが聞こえないの、ですの!」と再び声。
 気のせいではなかったようだ。俺と聖夜は足を止め、人だかりへと視線を向けた。
 誰が呼び止めているのかはわからないが、人混みの中から「ちょっと通して欲しい、ですの」とか「邪魔、ですの!」といった狼狽の声が滑り込んでくる。どうやらその声の主が俺達を呼び止めたらしい。
「……………………………………………………………………………………」
 何者かは知らないが、一向に現れる様子がない。
 マジでチャイム鳴るんだけど……。
 俺自身があの人だかりを押し分けることも考えないでもない。しかし、いかにも汗臭そうな連中がたむろっている輪の中へ入って行くのはさすがに気が引ける。っつうか、正直嫌である。
「――行くか」
「――そうね。行こ、さん兄ぃ」
 顔を見合わせお互いの意思の一致を見るや、二人揃って人だかりに背を向け、校舎へと足を向けた。すると、
「あーもう! 待てというのが……分からないの、ですのーーーーーーーっ!」
 ――と、渾身の怒声。『ピカ』っと俺達二人の背後から強烈な閃光が降り注がれ、何かが落下した轟音が響き渡る。同時に男子連中の暑苦しい悲鳴が耳朶を打つ。俺と聖夜は、そんな異変に反射的に振り返った。

 理解不能な状況だった。地面は円形状に何かの焦げ痕を残し、先程まで取り囲んでいたむさ苦しい男連中(俺的にむさ苦しい沙霧も含んでいる)が全員倒れ伏している。制服はボロボロで焦げ痕のようなものが散見され、煙がくすぶっていた。まるで人間バーベキューの様相だ。その中には沙霧もいて、目を回しながら『ハラホレハラ……』と訳のわからないことを口にしている所をみると、どうやら全員気絶しているだけのようだ。
 せめて沙霧だけでも荼毘《だび》に付してくれれば地球環境の改善に寄与すると言うものだろうが、それはさておき。そんなバーベキューになったやつらの中心にいるのが……、何とも場違いな格好をした人形のような少女、というより幼女……か?
 白のフリルやレースをふんだんにあしらった黒い服。プラス、カチューシャ……いやヘッドドレスというのか――? ――を装着した頭部に、異様に長いツインテールを施した紺碧の髪。少女の背中に蝙蝠羽を生やしたリュックサックのようなものを背負っているために多少の違和感を感じるものの、場所が場所なら間違いなく大人気満員御礼間違いなしのキャラスタイル――。
 ゴスロリ少女……がそこにいた。
 正直ドン引きだが、男連中が群がる気持ちはほんの少しだけど理解できる、などということは断じてない。しかし、ごく一部の連中にとっては間違いなく『絵』になる存在だろう。
 紺青《こんじょう》の瞳に褐色の肌。――それに女性的な表現が全くもって似合わないペッタンコな胸。身長も一四〇センチは間違いなく切っているだろう。年齢は一〇歳位か? このような少女を斜め横の視線で観賞する一部の者の気持ちなどはわかりたくもないが、普通に見れば、ああいう子が妹なら可愛がりたいと誰しも思うことだろう。これが『萌え』という感情なのだろうか? ――よくわからんが。
 そんな少女が『はあはあ』と息を切らせ、眉根を曇らせながら俺と聖夜に鋭い眼差しを向けている。
 ――よほど取り巻き連中がウザかったんだろうな。
 このような少女に知り合いはいないし、どのような用件なのかさえもわからないが、とりあえず何か言いたいようだ。俺は若干の憐憫《れんびん》の情を込めた視線を投げかけ、少女の言を待つことにする。
 ――だって可哀想じゃないか。このような小さい子が何かを伝えたいのだから。
 一方で聖夜は無言を維持し、ポーカーフェイスを保っているので心の内までははわからない。今までの聖夜を知る俺としては大変珍しい反応といえる。まあこのような状況だから、どのようなリアクションをすればよいのか困惑している、と言ったところだろうが。
 少女は一旦俺と聖夜の二人を眺めた後、聖夜に視線を定めたようだ。突き刺すような視線を浴びせている。この視線、俺から見ると小さな子供が怒られた時に見せる『自分は悪くない』といった眼差しに見えて、何となく心をくすぐられてしまう気分になる。
 少女は一歩一歩踏みしめながら俺達に歩み寄り「――女。お前がプリムラ……」と言いかけた。――が、途中で足を引っ掛けたのか「ぶひゃっ!」とカワユイ悲鳴をあげて顔面が地面と激突、スッ転んでしまう。――何とも痛々しい……。
 俺はといえば、ほとんど条件反射的に身体が動いていた。
 聖夜は「さん兄ぃダメ!」と制止するようなことを叫んでいたが、放っておけるはずがない。俺は慌ててその少女に駆け寄った。
 少女は女の子座りで「痛いの〜」と目にうっすらと涙を浮べて座り込んでいる。
 ――ヤバイ! めちゃ可愛い。これが「お兄ちゃん『萌え』」というやつか?
「大丈夫か?」
 俺は少女の前で膝を落して手を差し伸べた。
 少女は少し驚いたように顔を上げ、俺の顔をまじまじと見ていたかと思うと急に顔を真っ赤に染め上げ俯《うつむ》いてしまう。コケたのが恥ずかしかったんだろうな、やっぱり……。
「どこか怪我とかしてない?」
「…………」
 俺は無言の少女の両脇を抱えて立ち上がらせると、少女の膝や洋服についた泥を落してあげた。『パンパン』と軽い音が響く。
「――良かった。怪我とかはしてないみたいだけど……、どこか痛むところはない?」
「…………」
 精一杯優しく問いかけたつもりなのだが……。少女は相変わらず俯いたままだ。顔だけじゃなく、耳までまっ赤っ赤。そんなに転んだのが恥ずかしかったのか?
 ――すると、
「――あ、あの……、ありがとう……ですの」
 膝を落している俺に頬を染め上げ、上目遣いで感謝の言葉。目元は潤み、何故かモジモジと身体をくねらせている少女であった。
 この子、マジで可愛いわ――
 素でそう思ってしまう俺。勿論変な意味ではない。――念のため。
 俺的に断じてロリコンなどではないはず……なのに、このドキドキは何なのだろう? しかしいくらなんでもこの可愛さはレッドカードモノだ。一度で良いからこんな子に『お兄様♪』などと呼ばれてみたいものだ、などとついつい思ってしまう俺。
 そんなことを脳内で考えていると――
「あ、あの……ボクはリリム。――お兄様は?」
「へっ?」
『お兄様』って呼ばれた『お兄様』って呼ばれた『お兄様』って呼ばれた『お兄様』って呼ばれた『お兄様』って呼ばれた『お兄様』って呼ばれた『お兄様』って呼ばれた『お兄様』って呼ばれた『お兄様』って呼ばれた〜〜〜っ!
 お・ま・け・に!
『ボク』だって『ボク』だって『ボク』だって『ボク』だって『ボク』だって『ボク』だって『ボク』だって『ボク』だって『ボク』だって『ボク』だって『ボク』だってーーーーーっ!
 二つの単語が俺の脳内を乱舞し、甘美なリフレインとなって脳髄を刺激する。完璧に舞い上がっている俺だった。
 ――あ〜、もうロリとでも変態とでも好きに言ってくれ。この気持ちは、ダイナマイト級の可愛さをもつ少女から『お兄様』などと呼ばれた者じゃなきゃわからん!
 ただし! 再度断っておくが、俺は断じて、断じて! ロリコンなどではないっ! ましてや変態でもないっ! 俺のこの感情は、いわば父親が娘から『パパ』と初めて呼ばれた時の感情と同義であるということをご理解いただきたい。――以上。
「俺の名前かい? 『さん太』って言うんだよ。『黒須さん太』」
 俺は辛うじて正気を保ち、リリムと名乗る少女の問いに答えた。すると頬をほんのり桜色に染め、はにかみながら「さん太お兄様かぁ……」と眦《まなじり》を下げて小声で呟く。そしてさん太に背を向け、さん太達がやってきた方向、――繁華街とは反対の方角―― へと小走りで坂を下っていく。何度も何度も天使のような笑みを浮べて振り返りながら手を振るリリムと名乗る少女。そして振り返るたびに「ありがとう、さん太お兄様♪」という言葉を繰り返している。
 この『♪』いい……。すごくいい! 心地よいです、リリムちゃん。
(それにしても、あの少女は誰だろう? あんな子に知り合いいたっけ? ……それに結局何しにきたんだ? 俺と聖夜に用があったみたいだけど)
 笑顔で少女を見送っているものの、今更ながら疑問が浮かび上がる。が、考えるのを止めた。
 ――まあ、どっちでも良いか。それにしても良いものを拝ませてもらいました。あの子可愛かったなあ。あんな子に『お兄様』なんて呼ばれたら誰だってにんまりしてしまうよなぁ。いや、でも、まさかこの俺があんな少女になあ……。もしかしたら俺って――
「何をやっているか、このロリコン」
 そうそう、俺はロリコン……ってちっがーーーーう!
「誰がロリコンだっ!」
 俺は背後から指摘された内容を真っ向から反論すべく首を捻った。――が、一瞬で血の気が引く。
 肩越しに映った人物。――それは……
 仁王立ちしているカッコ可愛い女性。翠明高校一年B組の担任――。翠明高校の女王様……。――すなわち、
 探女姉《さぐめねえ》だった――。
「校門の前で、しかもチャイムが鳴っているにも関わらずあんな年端も行かぬ少女と逢引か? 良い度胸をしているな。――え? 黒須。いつの間に淫行に走るようになった?」
 ヤバイ! マジで怒ってる!
 探女姉が目を細めて口元が緩んでいる時は激怒している時である。しかも今回はこめかみに青筋までたてている。初めて見せる探女姉《さぐめねえ》の表情だった。どのようなお仕置きが待ってるかなんて想像できるはずもない。
 しかも校門に残っているのは俺だけで……。聖夜は勿論、沙霧と一緒に目を回していた連中もいつの間にか姿を消していた。
(裏切り者共め! 後で絶対仕返ししてやる!)
 ……と恨み節を唱えつつも、今はこの状況を切り抜けねばなるまい。……とは言え、
 ――確実に死んだ……
 俺の直感はそう告げていた。っていうか怖すぎる! 俺は腰を抜かしながらも必死に後ずさる。探女姉がそんな俺を逃がすまいと間合いを詰め、ポキポキと指を鳴らしている。不本意ながら、毎度お馴染みの光景だった。
「い、いや……、あ……の……だから……話せばわかるって。――人類皆兄弟……」
「だからな――、さっきも言っただろう?」
 ニコッと笑みを浮べる探女姉。天使の笑みだった。
「え? 何でしたっけ?」
「――獣は人類じゃねええええええええええええええええぇぇぇっっ!」
 ばっこーーーーーーーーーん!
「オーーーーマーイガーーーーーっ!」
 探女姉《さぐめねえ》のパンツを垣間見る余裕すらなかった。探女姉が俺の顎を豪快に蹴り上げ、俺の身体は大空の中へと溶け込んでいく。俺の魂の叫び声と共に……。

★★★★★★★★

 高台を挟んだ街側とは反対の方角、――翠明高校のすぐ裏手―― には国定公園が広がっている。
 高校に隣接する公園の入り口を入っていくと、そこは駐車場を兼ねた展望台となっているのだが、その駐車場の突き当たりの最奥部まで進むと、目の前には突如、奥深い山々が連なる大自然が広がり、視界は壮大な景色で埋め尽くされる。
 この国定公園、自然や生態系保護のため一般の人間が足を踏み入れることができないのだが、人口構造物が全く存在しないというわけではない。山々の間をぬうようにライフラインを結ぶ中継施設として変電所などが点在する他、高台の裾野では『県民の森公園』として一般開放されており、四季折々の景色が楽しめるようになっていた。
 その公園の展望台で、眼前に迫る大パノラマを眺める少女――リリム――がいた。
 このリリムという少女、外見は人間そのものだが、魔族――すなわち悪魔――である。ハーゲンティと呼ばれる悪魔に招聘されて地上界へと降臨してきた。ハーゲンティは天上界を支配できるといわれる『賢者の石』の奪取を望んでおり、これまで何度もその保有者である女神プリムラに挑んできたが、どうもうまくいかない。そこで、魔界きっての暗殺者であるこの少女『リリム』を雇い入れ、賢者の石奪取を依頼した。成功した暁には、リリムの望みを何でも叶えるということを条件に。
 ――で、プリムラは意気揚々と地上界へとやってきた訳であるが……、大自然を見つめるその眼差しは、暗殺者特有の冷酷で躊躇のない残忍なものとは程遠く、どこまでも虚ろで焦点も定まっていない。
 実際のところリリムの脳内はさん太で埋め尽くされていた。脳裏にはさん太の優しい笑顔が浮かんでは消え、消えてはまた浮かんでくる……。――そんなことの繰り返しだった。それは、恋した少女が抱く止めどない『ときめき』の連鎖であった。さん太を思うと幼い面《おもて》は紅潮し、切ない想いで満たされ『キュン』と胸が締め付けられてしまう。
「……はあァ。ス・テ・キ♪ さん太兄様……」
 少女の愛くるしい唇から漏れるのは、切ない溜息と「さん太」という名前のみ。展望台の手摺の下部に張り巡らされている鉄格子越しに遠くを見つめる様子は、ただの恋する少女以外何者でもない。
 そんな状態の少女を見守る奇異な物体がいた。この物体、小鳥が宿木に留まるように、展望台の手摺の上にちょこんと身を寄せている。生き物であるが、勿論地上には存在しない。リリムと同じ魔族である。大きな眼球に蝙蝠羽を生やしただけの存在だ。先程までリリムの背負っていたリュックサックだったもので、リリムの世話係を生業とする使い魔であった。
「――まったく。かれこれ三時間もこの状態……。いい加減にしてほしいですぅ」
 蝙蝠羽を生やした眼球が、口もないのに盛大な溜息を漏らす。名前を『メダマ』という。作者のひねりなど微塵も感じさせない、外見通りの名前である。
「うるさい、ですの。あなたみたいな使い魔にわかってもらおうなどとは露ほども思っていない、ですのよ? メダマさん。――微妙に傷つきやすい乙女心をね、ですの」
 リリムは『無粋なヤツ』とでも言わんばかりに白眼視する。
「そのリリム様の高尚な乙女心にケチをつける気はないですけどぉ。あれじゃ何のためにプリムラの前に姿を現したのか判りませんよぉ。――大体、あの場で闘いを挑み、すぐにでも『賢者の石』を回収するんじゃなかったんですかぁ? ――人前で闘いを挑めば、女神は必ず人間をかばおうとする。隙が出来るからそっちの方がやりやすいって……そう言ってましたよねぇ、リリム様? ――それなのに何にもしないでぇ……! 結局何しに行ったんですぅ?」
「あっあれは……その……、盲点だった、ですの」
 不平不満を漏らすメダマの言葉に、急に口ごもり身体をモジモジとさせるリリム。そんなリリムに容赦のないメダマの追及。
「盲点って何がですかぁ?」
「だ、だって……女神の男があんなにいい男《ひと》だなんて思わなかったんだもん、ですの。――はあ〜……さん太にい様♪ あの方を思うだけで、ボクは……ボクは!」
 更に激しく身をくねらせるリリムに比べ、白け切った視線を浴びせるメダマ。
「ただ、ドジ踏んでスッ転んだリリム様を抱き上げてくれただけじゃないですかぁ」
「ち、違う! ちゃんとお話もしたんだもん、ですの」
「交わした言葉が『ありがとう』って単語と、『お名前は〜?』って短文だけで会話したって言えるんですかぁ?」
「ううううううるさい、ですの! 緊張してたんだから仕方ない、ですの!」
「はあ……。それであの人間の虜《とりこ》になってしまったとぉ……?」
「虜じゃないもん! 一目惚れしただけだもん!」
「それを虜になったと言うんですぅ」
「う……」と、返す言葉もなく黙り込んでしまうリリム。
「――全く、魔界でも腕利きの暗殺者と恐れられているリリム様が……。嘆かわしいことですぅ。……あの程度の男など、魔界でも大勢いるでしょうにぃ」
「あんなに優しい人なんかいないもん、ですの。魔界じゃ、さん太にい様みたいに話したヤツなんていなかったんだもん、ですの」
「……そういえばそうですよねー? ――魔界じゃ『ちょっといいかな〜♪』なんて思う男は全て暗殺のターゲットでぇ、瞬殺してきましたからねぇ、リリム様は……。それにぃ、魔界の皆さんは殺すだ犯すだ何だと超過激ワイルドの世界で生きてますからぁ、あのような草食系はリリム様には初体験かもしれませんねぇ」
「でしょでしょでしょーーーーーっ! あの笑顔がたまらないですのーーーーっ!」
 我が意を得たりと、嬉々とするリリムであった。――が、そんなリリムとは裏腹に、
「でもでもォ、街中じゃ暗殺ターゲット以外の男にもいっぱい声をかけてましたよねぇ?」と、波紋を投げかけるメダマ。更にメダマの言葉が続く――
「ああ、でも確か『幼児に興味はない』とかで全員に振られてましたっけぇ……。――で、結局頭に血が上ったリリム様は片っ端から瞬殺っと……。――リリム様ってばぁ、魔界でも最古参の『四五億歳』のくせにぃ、いつまでも『幼児』体型だから『結婚できない』んですよぉ。だから『バージン』なんですよぉ。『恋人』すら『出来ない』んですよぉ」
 やけに強調する単語が多い。恐らく誰もが想像できるかとは思うが、メダマがリリムの傷をえぐっている。しかしメダマ本人は全く意識していないようだ。さすが化け物、ていうか使い魔である。案の定、リリムはこめかみに見事なまでの血管を浮かび上がらせていた。……更に更にメダマの言が続く――
「まあ、もう少し身体の一部、特に『胸』の辺りとかが『成長』すればぁ、日の目をみると思うんですけどぉ。――だいたい偏食のし過ぎがいけないんですよぉ、リリム様。『好き嫌いはいけませんよ』っていつも言ってるじゃないですかぁ。。背が小さいのはともかくぅ、やっぱりぃ、特に『胸』のあたりが『つるっぺた』なのが問題だと思うんですよねぇ、わたし的にぃ。――あ、でもでもぉ、地上界には『ロリコン』っていう種族がいるらしくてぇ、こいつがまた背が低くて『胸』とかが『つるっぺた』な『幼児』体型を特に好んでいるらしいんですぅ。その意味じゃリリム様も地上界に来て良かった…………」
「つるっぺたつるっぺたゆーーーーーーなーーーーーーーっ!」
 ――べしっ! と、リリムの見事な後ろ回し蹴りがピンポイントでメダマの後頭部に炸裂し、メダマは地面に叩きつけられた。そして、眼を回しているメダマを掴みあげて――
「あんた、わたしの使い魔ですのよね? そのあんたが主人をそこまで悪し様に侮辱するようなこと言っていいと思ってんの、ですの?」
「は、はぁ、ですが全て真実……ギャンっ!」と、今度はリリムのゲンコツ。
「い・い・と・お・も・っ・て・る・の・か? って聞いている、ですの、わたしは!」
 魔界にもいたようである。般若の相を具現化できる者が。――いや、魔界だからこそいて当たり前、といったところか……。そして、それを恐れるのもまた万国共通らしい。
「おおおおおおおおお思ってません〜〜! はい〜っ、それはもう魔界で結婚式を挙げるくらいあり得ないですぅぅ!」
 泣いて詫び入れするメダマをようやく解放するリリムであった。
 地面に足をつけ気持ちも落ち着いたところで、メダマは今後の方針について確認を始めた。
「――で、これからどうするんですぅ、リリム様?」
「――ふ、安心しなさい、メダマ。既に手を打ってます、ですの」
「『手』ですかぁ? ――どのようなぁ?」
「フッフッフ……、ラブレターよ」
「…………………………………………。――は? すみません。――今何と?」
 斜め横をいくリリムの思考についていけず、メダマは眉根をひそめ、蝙蝠羽を器用に折り曲げて考え込む。……いや、実際は目玉だけの魔物なのだから、そのようなことが出来るはずもないが、客観的見地からこのように見えたとご理解いただきたい。――ともかく、仕事と『ラブレター』がどのようにリンクするのか全く理解できないメダマであった。
「だから、こんなこともあろうかと、私が事前に書いておいたラブレターをさん太兄様の懐に忍ばせておいた、ですの」と、ありもしない胸を精一杯張って自信満々に言うリリム。
 ますます理解に苦しむメダマであった。
「……あの、リリム様? もう一度確認しておきましょう。――リリム様はハーゲンティ様に招聘されて地上界に降臨されたぁ。――『賢者の石』をプリムラから奪う代わりにリリム様の願望をかなえることを条件にぃ。……ここまでは間違いないですよねぇ?」
 フムフム間違いない、ですの。と、頷くリリム。
「それで先手必勝で今朝闘いを仕掛けましたがぁ、あえなく自爆ぅ。――そんなときに女神の男である『黒須さん太』に助けられて、一目惚れしてしまった、と」
「さん太兄様を『女神の男』と断定するのはちょっと……」と、変なところでこだわりを見せるリリム。
「ま、ま。細かいところは気にしないでくださいぃ。――で、リリム様は、その黒須さん太に自分の想いを伝えるべく、ラブレターを彼の懐に忍ばせたぁ、とぉ?」
 リリムは顔面まっ赤っ赤にして、身をくねくねとくねらせて頷いた。
「――で、その黒須さん太にお付き合いを断られたらどうするんです?」
「その時はさん太兄様を拉致って魔界に連れ帰るに決まってる、ですの。――そして、あんなことや、そんなことを……ってキャーもう! 私ってば何を言ってるのかしら、ですの!」と、更に激しく身悶えするリリム。
「……………………あのぉ。もう一回お尋ねしますぅ。リリム様の目的はぁ?」
「――さん太兄様の拉致監禁っ!」
「アホかあああああぁぁっ! あんたの目的は賢者の石奪取だろうがあああぁぁああっ!」
 ばしっ! とメダマがジャンプして自身の翼でリリムの後頭部を殴打。
 おお、凄いジャンプ力だ。メダマはそのままリリムの目線を浮遊する。
「なっ、何するですの? 痛いですの!」
 痛がるリリムはメダマを睨み付けるが、それ以上の形相でメダマはリリムを睨み付けた。
「いいですかぁ! そんなことだから私のお給金も半年以上滞ってしまうのですぅ! いい加減にしませんと怒りますよぉ! 今度の仕事の重要性がわかっているのですかぁ? 天上界を支配できるというあの『賢者の石』の奪取ですよぉ! 賢者の石ぃ! 報酬も相当なものですぅ! 今度こそ耳揃えて払ってもらいますからねっ!」
「――う…………」メダマの迫力と、理路整然とした言動にグウの根もでないリリム。
「今まで散々リリム様の我侭に付き合ってきましたがもう限界ですぅ。今度失敗したらお暇を頂きますからねぇっ!」
「何ですって?」と、急に鋭い視線を投げつけるリリム。
 メダマはといえば――
「被雇用者として当然の主張ですぅ! 今日という今日はもう勘弁できません。失敗したら本当にリリム様のお世話係を辞めさせて頂きます」と、毅然とした態度でリリムの視線を跳ね返した。
「……………………」
「…………」
「……………………」
「…………」
「……………………」
 一人と一匹の間で無言の応酬が繰り広げられて周囲に緊張感が漂う。メダマの気持ちはどうやら固いらしい。険しい表情のリリムだったが、
「ぬぬぬぬぬ〜〜っ! 一介の使い魔の分際で主人に対しての罵詈雑言! 許せない、ですの!」――と、更に眉根を逆三角につりあげるリリム。
 そして突然『くわっ』と瞳を見開いて、こう述べた。
「お願いですから捨てないでくださいいいぃ〜〜〜っ、ですのーーーー」
 ――メダマにすがりついて懇願するリリムであった。
「メダマさんに捨てられたら、ボクは……ぁ、ボクはぁ〜…………明日からどうやって生きていけばいいですのおおお?」
 鼻水を垂らしながらワンワンと泣くリリム。そんなリリムを
「え〜い、はなれてくださいぃ〜!」と翼をばたつかせても一向に離れる気配がない。
 リリムが七〜八歳で、メダマがリリムの親なら微笑ましさを感じて思わず抱きしめてしまうシーンだ。確かにビジュアル的には絵になっている。……が、泣いている当の本人は四五億歳。本来ならよぼよぼのばあちゃんを通り越して干からびたミイラである。ビジュアル的にははともかく、実際の中身を知るメダマにとってはとてもそんな気にはなれない。……ていうか蹴りを入れたくなってくる。しかし、ここでブチ切れたところで何も解決しないのも確かだ。――ていうか、己の半年分の収入が手に入るかどうかの瀬戸際である。ここはグッと我慢して有効な打開策を講じるのが懸命というものだろう。それに、リリムという悪魔、腕は確かなのだがどうも頼りない。
 ここは私がしっかりして良き方向へリリム様を導かねばなりますまいぃ。――それに、
 給金半年分っ! とりっぱぐれてなるもんですかぁっ!
「ま、まあ、私も少し言い過ぎたようですぅ。見捨てたりしませんから今後の対策を立てましょう。――よろしいですねぇ、リリム様?」
 メダマは張り倒したい気持ちを必死に抑え、湧き上がる闘志を胸に秘めるのであった。

2010/07/04(Sun)13:48:55 公開 / せんだいかわらばん
■この作品の著作権はせんだいかわらばんさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
ご無沙汰しています。環境が変わって、筆のスピードが完全に落ちている今日この頃です。
題名についてご指摘いただいたので、題名を変更しました。またそれに伴い、主人公の名前も変更しました。加えて情景描写が判りにくいなどのご指摘を受けましたのでこちらも修正しています。前回よりは判りやすくなっているかと……。
まだまだ序章の域を出ませんが、第三章から少しづつ全貌を見せていこうかと思っています。実は、新章で本作のテーマである「サンタクロース」の中身を少しだけ見せようかと思ったのですが、あまりにも地の文が多くなってしまいましたので、思い切って削除し「テンポ」を重視させました。ご感想とまではいいませんが、足跡だけでも残していただければ嬉しく思います。よろしくお願いします。

【投稿履歴】
2010/06/16 俺と神様と魔族の関係〜サンタクロース誕生譚〜(仮題)
      プロローグ・第1章投稿
2010/07/04 さんたっ!……な俺と神様と悪魔の関係 第2章まで投稿
      〜第1章変更箇所〜
       1)題名変更(旧:俺と神様と悪魔の関係〜サンタクロース誕生譚〜)
       2)題名変更に伴い主人公の名前を変更。
       3)プロローグ及び第1章の情景描写・会話文追加

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
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2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。