-
『黒猫と魔女』 ... ジャンル:ファンタジー 未分類
作者:七色人
-
あらすじ・作品紹介
魔女という存在が社会に台頭し始めた時代…偉大すぎる母を持つ少女とどこにでもいる黒猫のお話。何が正しく、何が間違っているのか。身分とは何か、人は一体何をする権利を持っているのか。少女の苦悩と黒猫の悲劇を描いた、ファンタジーテイストの社会暗喩物語です。
123456789101112131415161718192021222324252627282930313233343536373839404142
鋭利な雷によって切り裂かれた大空の割れ目から、まるでこの世界を浄化するかのように、深々と雨が降り注ぐ。上流貴族の屋敷にも、貧困街の裸足の少年達にも、等しく恵みを振り分けるそれは、この世界に残された最後の聖者ではないだろうか。
そんな詩的で、どこか哲学的な思考がアメリア=エルスタットの頭を掠めたのは、ちょうどある夏夜の嵐の日だった。まだ十五歳という年齢ながら、こういった年寄り染みた思考が過ぎるのは、きっと母からの遺伝のせいだ、アメリアは苦笑しつつもそう思うことにしていた。
窓の外に目を向ける。思えばあの日もこんな天候だった。重い風の旋律に乗せられた、陰鬱な雨。混沌とした音階により不協和音が当然のように奏でられ、余計に気が滅入ってくる。手持ち無沙汰になったアメリアの右手の人差し指が、自然と何かをさするように動いた。いつになっても消えない癖。ゆっくりと、まるで美しく繊細な花に触れるような手つきだ。
アンティークの古机が、わずかな振動を見せた。雨に打たれて軋む窓の音に共鳴したのか、いやそうではない。アメリア自身の左手が強く何かを堪えるように、震えていたのだ。
それは、後悔と懺悔の記憶。誰もが経験し、忘れゆく思い出。されど今もどこかで起きている、他愛のない日常の景色であり、遠い過去への憧憬だった。今日くらい回想に浸るのもいいだろう。なにせ外は陰鬱な雨なのだから。
アメリアの母であるミネス=エルスタットは、世間で知らぬ者がいないほどの高名な魔女の一人であった。代々黒猫を使い魔として用いるエルスタット家の中でも、数少ない秘蹟を成し得たミネスは、魔術の才に恵まれた上に類稀なる努力の才をも持ち合わせていた。膨大な知識と数々の実験を繰り返し、彼女はどんな病も完全に癒してしまう万能薬『エアドロップ』の開発に成功したのである。奇病難病が蔓延していたこの時代の貴族達はミネスの努力の結晶ともいえるこの薬を、大金をはたいて買収し、ミネスに対して爵位を与えたのだった。
それは、これまで奇異な目で見られていた魔女達にとっての歴史を変える瞬間であったという。その時まで人間達の迫害から身を隠していた魔女達が次々と台頭し、人間社会へと様々な恩恵と知識をもたらした。つまりアメリアの母、ミネスこそが今現在の魔女社会の第一人者であったのである。
しかし一方で、アメリアにとって母ほど理解しがたい存在はいなかった。彼女は自らが辿ってきた軌跡とその現在の立場ゆえに、どこまでも厳格な母であり続けたからだ。自らが知りえるあらゆる知識を彼女はアメリアに注ぎ続けた。幼いアメリアの思考領域をすべて埋め尽くすほどに膨大な世界の知識、その譲渡。それが彼女にとって唯一許された純真無垢な一種の愛であったのだろう。そして他方でそれが時代の先駆者としての義務だったのだ。
「あなたはエルスタット家の長女なのですから、これくらいの勉強は当然です」
「でもママ、私と同じ歳の子達はみんな……」
「マスターと呼びなさい、アメリア=エルスタット。今は師と弟子の関係、礼儀をもって応じなさいとあれほど言っているでしょう。それにあなたは他の子と違う特別な存在なのです。周りのことは忘れなさい。あなたは今必要なことをすれば、それでいいのです」
小さい頃の母は優しかった。抽象的な感情だが、記憶の奥底に眠っているその欠片がアメリアを締め付ける。生まれた時から厳しい母ならば、きっと彼女は耐え忍んだに違いない。だがミネスは変わってしまった。その立場故に変わらざるをえなかったのである。
そんなアメリアの不満がついに爆発したのが、よりにもよって十歳の儀式の日だった。魔女は十歳を迎えると一人前として認められ、正式に家系にしたがった使い魔を持たなければならない。使い魔はいわば主人を守る従者であり、魔女自身の身分を表すものであり、魔術そのものでもあった。
今や豪華絢爛になった母の屋敷に呼ばれ、アメリアはその日一匹の黒猫をミネスに与えられた。
「これが今日からあなたの使い魔です、アメリア=エルスタット」
どこまでも他人行儀で冷静な声で言い放つ。人間でいう成人式以上の意味をもつ儀式でありながらも、ミネスは顔色一つかえず、ただ赤い立派なカーペットの上に神妙な面持ちでかまえる黒猫を杖で指した。
周囲には貴族の中でも著名な人物が、己の権力を見せ付けるかのように着飾っている。ミネスに並ばずとも劣らない高名な魔女達が次の時代を背負うであろうアメリアを、期待を込めた目で見守っている。そんな中、これまで自分の感情を全て胸の奥に鍵をかけてまでしまいこんでいた彼女が、鋭い槍で突き刺すように言い放った。
「いやよ、自分の使い魔くらい自分で決めるわ」
大広間が愕然とした空気に包まれる。何かの聞き間違いだろうという動揺のざわめき。そのうち、あちらこちらで不平不満の声があがりだした。しかし、アメリアは動じなかった。むしろ彼女にとって周囲など風景に過ぎなかった。ただ、対峙する偉大すぎる母だけが全てだった。
「やめておきなさい、アメリア=エルスタット。今ここで儀式を行わなければ、あなたは必ず後悔するでしょう」
「しないわよ、そんなの。絶対にね。マスター、これは私の人生であってあなたの者ではありません。私の生き方くらい私が決めるわ」
皮肉たっぷりにマスターと呼んだアメリアの胸中に渦巻くのは、えもいえぬ達成感だった。初めて『世界』に対して反逆を成し得たかのような、充足感。そこに一変の不安も躊躇も持ち合わせてはいない。いや、本当は根底の部分にあるその感情を、偽りの色で塗りつぶしてしまっていたのだろう。
アメリアは重苦しい空気の中をつっきって、嵐の夜の街へと繰り出した。このときほど無心で、されど鮮明に残っている記憶はない。そうアメリアは今になって振り返る。これこそが錆びつきはじめていた歯車を、決定的に瓦解させた出来事なのだから。
屋敷に残されたミネスの顔に残っているのは、ほんの欠片ほどの喜びと、それを大きくもって上回るほどの悲しみだった。自立心がアメリアに芽生えるのは――それは良いことなのだ。今まで散々束縛してきたから、ある意味この行動は当然だとすらミネスは思っていた。だが、よりにもよって今日、なぜ今日なのだろうか。せめて儀式だけは無事に行わせたかった。そうでなければ、言葉の通り本当に彼女は後悔するだろう。
しかし、そんな願いを大衆の前で口に出して言うわけにもいかなかった。彼女は常に凛として、毅然とした振る舞いをみせなければならない。なぜなら彼女の名はミネス=エルスタットであり、全ての模範たる存在であらなければならないからだ。よってただミネスは淡々と冷静な面持ちを装って、会場の乱れつつある空気を沈めるのだった。僅かに震える右手の拳を強く握り締めて。
緑色のローブを身に纏った魔女が、煉瓦造りの壁が続く一等地から誰もいない真っ暗闇の市場を横断する。広場の噴水は噴出す水と雨が干渉しあって、なんとも滑稽なオブジェへと成り下がってしまっている。横風が強かろうが、どれだけ雨が彼女の小さな身体を打とうが関係なかった。アメリアの身体は薄い光の膜に守られており、小さな障害は全てその膜が消し去ってしまうからだ。
『光の防御壁』は魔女ならば誰もが最初に習得すべき魔術だった。当時五歳のアメリアにとっても、初めてミネスから習った魔術がこれだった。初等魔術書には、この光が母親の手で抱きしめられたような温かさを生み出すと形容してあることに、ミネリアは困惑した覚えがあった。それは今でも変わらないが、少なくとも雨の冷たさだけは理解できると思った。
しかし今、彼女はそんな英雄ともいえる母を振り切って一人闇夜を駆けている。あては特に無かった。ただ、どんだけ走ってもこの胸の狂気ともつかない熱気は消えないのではないか。そんな一抹の不安がようやく、胸の奥から滲み出てきた時だった。
雨音に紛れて、どこかからか細い声が聞こえた。
いつの間にか辿り着いていた貧困街は豪奢な貴族の屋敷とは対照的だった。湿気がなんとか異臭を覆い隠そうとしているが、それでも鼻につくような腐臭が亡霊のように漂っている。それは貴族による蹂躙の結末であり、この国の真実だった。
ダンボールの家で雨風を防ぐ五歳ほどの少年が、暗闇よりも曇った目でアメリアを見つめていた。淡い光に包まれたアメリアを黒い羨望の眼差しで、ただ凝視する。この感情をどう表現すればいいのか、アメリアには分からなかった。ただ『苦しい』。心の中の黒い部分を、的確に指されるような感覚。彼女は耐えられなくなって魔法を解いた。当然のことながら雨に打たれるが、少年の視線が消えたことで罪悪感に打たれることはなくなっていた。
そうして雨に冷まされた頭で、ようやく現実があらわになってくる。僅か五分走っただけでどこまでも変わる世界。煉瓦は瓦礫へ、暖かさは冷たさへ、そして幻惑の達成感は明確な不安へ。それでも、彼女は僅かに聞こえるの声の元へ、ただ足を向けていた。
「こんばんは」
アメリアは雨音よりも僅かに勝る声で、そう言った。瓦礫にまみれた街路の一角、薄汚れた小さな箱に入れられた三匹の子猫を見つめて。
「にゃぁ」
焦りだったのだろうか。アメリアは振り返るといつでもそう思う。不安に押し潰されそうな、雨に自分が溶かされてしまいそうだったから。そうではないと思いたかった。もしそうならば、それはあまりにも利己的で、身勝手で、自分を許せなくなりそうだからだ。
だから、アメリアがその中の唯一の黒猫を家に持ち帰ったのは、きっと一目惚れであって、そして運命であったのだと。彼女は自分に言い聞かせるしかなかったのである。
雨をたっぷりと吸収して重くなったローブを脱ぎ捨てる。貧困街からほど遠くない、いわゆる中流階級が住む木製の一軒家は簡素ではあるが、アメリアのお気に入りだった。本棚にはありとあらゆる魔術書が置かれているが、一方で昔は決して許されなかった十歳にふさわしい小物が置かれているからだ。中でもお気に入りは、まだミネスが優しかった頃に買ってくれた黒猫の人形だった。そいつはいつも本棚の上から、鋭利な凛々しい瞳で窓を見下ろしている。
純白のタオルで、ローブにくるんで持ってきた黒猫の身体を拭く。一見どこにでもいそうな黒猫だが、アメリアの両手ほどの大きさしかないのに目は何かを秘めているような、赤い瞳だった。それはまるで、今も窓の外をじっと見つめる人形ナーシャそっくりだった。つまり、これは運命だったのだ。アメリアは自分にそんな魔法をかける。その瞬間、この愛らしく勇敢な黒猫の名はナーシャになったのである。
「ナーシャ、寒くない?」
黒猫がぶるぶると体を震わせると、近づいたアメリアの顔に水しぶきがかかった。その様子に思わず彼女から笑みがこぼれる。外は鬱そうな雨。けれどこの小さな家は、少なくともこの時だけは光と笑みで満たされていた。
「ねぇ、ナーシャ。私と契約してくれないかな? 使い魔の契約、私ね魔女だから。あなたの力が必要なのよ……だめ、かな?」
「……にゃぁ」
言葉が通じるはずはない。ミネスくらいの魔女ならば、無論動物とも会話(テレパシー)ができるのだが、アメリアはあくまで十歳の少女なのだ。身体も、もちろん心の方も。
床に使い慣れた赤のチョークで六芒星を書きつける。ナーシャはじっとアメリアを見つめたまま、それっきり鳴かなかった。それをアメリアは無言の肯定と解釈する。その瞳はチョークよりも暖炉の炎よりもずっと赤く、彼女の後ろの更に先にある何かを見つめているようにも思えた。ナーシャの小さな額に杖の先で触れると、部屋が光で満たされた。契約の儀式は一瞬のうちに終焉を迎える。ナーシャは決して瞬きをしなかった。
アメリアの後ろでは、窓が雨に打たれて軋む音をたてていた。
契約を果たしてから一週間、アメリアの日常はいたって平穏そのものだった。先日のミネス家での儀式から逃げ出した罰は特になかった。ミネスの力をもってうまく貴族達を言いくるめたのだろう。後日、私がまた儀式を受けさせます、とでも。
ここしばらくは、あの陰鬱な雨が嘘のように快晴が続いていた。アメリアは母から逃げた不安もあり、しばらくは家を出ないことにした。それに小さい頃からの習慣というものは幸か不幸かなかなか消えないもので、家で魔術についての研鑽をつむことは今ではそれなりに楽しいものになっていたのだ。魔女百まで研鑽忘れず、というミネスからの言葉はなるほど言い得て妙だと思う。
使い魔は一応もったけれど、ナーシャをどうにかすることなどない。もちろんコミュニケーションは関係の要であるから欠かさない。ナーシャはどうもお腹のあたりをこすられるのが好きなようで、アメリアは手持ち無沙汰になった時はいつも、右手の人差し指で彼のそこを撫でていた。ふもふもとしていて、絶妙なさわり心地だ。思わず「ふにゃぁ」という声が両方から漏れることもしばしばだった。
平穏無事な日々の中だが、一つだけアメリアには気になることがあった。それはナーシャの視線だ。彼はいつもアンティークの古机の端っこで丸くなって、窓の外を見ていた。赤い瞳に移りこんだ情景に何をとらえているのだろうか。
アメリアの小さな家に一通の手紙が届いたのは、そんなことを考えている時だった。送り主を見て、アメリアは若干の恐怖を覚えるが開けないわけにもいかない。魔女にとって手紙ほど重要な情報はないのだ。それに、魔法で厳重に封がされているのを見ればなおさらだった。
『アメリア=エルスタットへ。あなたも使い魔と契約を果たしたならば、国に貢献しなければなりません。それがこの世界の義務であり、魔女であるあなたの責務です。さて、あなたにはこれまで様々な魔術の知識について教授してきましたが、我がエルスタット家の秘薬「エアドロップ」の精製法について記します。私の代わりに、これからはあなたが受け継いでいくのです』
そんな書き出しから始まった文には、一寸の怒りすら見えなかった。まるでそれとは全く逆の、憐憫の情が文字から浮かんでくるようにすら見えた。アメリアは一字一句逃さぬと、文面を追っていき――そして凍りついた。
ミネスの言葉が頭で再生される。冷静で、どこまでも辛辣な彼女の最後の悲痛な叫びだったのだ。それを彼女は今になって理解した。
「今ここで儀式を行わなければ、あなたは必ず後悔するでしょう」
奇跡の万能薬、「エアドロップ」の主材料は契約した『黒猫の血』だった。
人間は異端を嫌う。しかし、『それら』が自らに役立つと分かれば、無い尻尾を生やしてでも振り、利用する存在でもある。だからこそ、ミネスは躊躇っていた。まだエルスタットの名が世に知られる前のこと、彼女はずっと前よりこの万能薬の論理を確立させていた。しかし、『こんなもの』を果たして世に出していいものなのか、そんな言葉をただ反芻させていたのだ。
だが現実、エルスタット家は困窮の日々を送っていた。当時の魔女は大抵貧困街に隠れ住み、ただ忌み嫌われる存在でしかなかったのだ。ミネスは娘のために最低限の食事のほかには、人形一つしか与えられない現状を悔やんだ。されど、倫理を破ってまで幸福を得るべきなのか。そんな不自由な二択に板ばさみにされていた。
そんな彼女に決断を下させたのは、ほかならぬアメリア=エルスタットである。それは子供ながらの残酷で、そして悲痛な現実の言葉だった。
「ねぇママ。パンってどんな味がするの?」
そうしてミネスは決断する。倫理など、娘の幸福に比べるべき対象ではない。きっと私の判断は、私と同じ境遇の彼女らを救うだろう。彼女はただそう魔法をかけるように言い聞かせる。後悔はないと思いたい。後悔すれば娘さえも否定していまいそうになるから。
かくして黒猫の血液を用いた『エアドロップ』は奇跡の秘薬となり、数は少ないながらも貴族の間で流用された。社会はミネスと同じような魔女たちを厚遇し、魔女社会が創世されたのである。
ミネス=エルスタットは知っている。人間は貪欲で、そのくせ残酷な生き物であるということを理解している。魔女が社会に台頭したと同時に、新たな法律を引いたのがその顕著な例だろう。
第一項に高位攻撃魔法の封印(ただし他国と交戦中は解除)、そして第二項には各家の義務の履行など、詳細多岐にわたる法の檻だ。わずか千人ほどの魔女の存在を利用しつつも、やはり異端をどこかで恐れているのだ。そして、『使えない』異端は排除するという冷徹な意志がどこまでもはっきりと現れている。
悲劇は連鎖する。血は受け継がれ、家と名も無論受け継がれる。だが人生だけは受け継がないでほしい。ミネスは心からそう願う。自分の地位がもう雪山の頂ほどに高くなり、滑り落ちれば全てを巻き込んで雪崩となって、世界の破滅すら意味する自分を追わないで欲しい。だが、社会はそれを許さないのだ。アメリアは知らず知らずのうちに、先が見えない雪山を、命綱一つつけずに登らされていくだろう。
ミネスは手紙を書き綴る。残酷な、おそらくアメリアにとって悲劇の文書。しかし、それが社会の、法で定められた義務であり、ミネス自身の責務である。アメリアがエルスタットという名を持つ限り、アメリアがこの社会で生きる限り、決して逃れられない呪縛なのだ。
屋敷には他の権力者の息がかかった使用人もいる。緊張の糸は絶え間なく体中に張り巡らされ、決して人前で切れることがない。それが切れるときはおそらく、彼女が魔女をやめるときなのだろう。しかし、今は私室。彼女以外決して入ることができない魔法がかけられている。だから、せめて感情を込めて書こう。娘なら、私と同じ道を選ばないという期待を文字の端に小さく添えて。
魔女としての最初の仕事、きっとそれが生涯を通しての生業になるであろうエアドロップの精製。その最初の納品の期限が一ヶ月後に迫っていた。今のアメリアにとって日を重ねることは、今や処刑台に一歩ずつ近づいていくことと同義であると言ってもいい。魔女の義務不履行は重大な社会との契約違反だ(無論、どこまでも一方的な契約ではあるが)。
母の名誉を傷つけてはならない。英雄の娘である自分が契約を蔑ろにしてはならない。全ての人間が『自分』に期待している。――そんな様々な無言の重圧がアメリア自身に強くのしかかる。
こんなときこそ母を頼りたい。しかし、当のミネスにはもう使い魔がいなかった。あのアメリアが逃げ出した儀式で彼女の前に添えられた黒猫は、元々ミネス自身が長年つれそった使い魔なのだ。黒猫と魔女が契約を一度解除すれば、同じ黒猫との二度目の契約はありえない。しかし偉大なる魔女は愛する娘のために、自らの使い魔と契約を解除し、アメリアに与えようとしたのである。手紙に綴られたそんな一文を読んで、アメリアは絶句するしかなかった。ミネスは己が立場故に親の愛を抑圧されていたのだ。本来なら、もっと優しく接したかっただろう。だが、それを言葉なくして伝えるには、アメリアはまだ幼すぎたのだ。
そして事実、ミネスの従順な黒猫ならば、主の命令に逆らわず全てのことをやってのけることができる。主のために死ぬことを厭わない。ましてや主のために血を流すことなど容易に遂行するだろう。いつもミネスの傍に控えていたこの黒猫を、アメリアは機械のような生き物だと思った。だが、この危機的状況の今ならば分かる。それが『正解』なのだ。
今のアメリアにどうやってナーシャに血を流させることができるだろうか。元々野良猫の彼に命令を下す術などもっていないのだ。あのミネスでさえ、従順な使い魔に調教するのに五年の年月を要した。それをまだ見習いという言葉がとれたばかりの半人前が、どうにかできるはずもなかったのだ。
キッチンにあるナイフに目がいく。手が少しそちらに動きそうになる。残虐な思考が脳裏を往来し、しかし一方でそれを理性の刃が切り伏せていく。
「何考えてんのよ……できるわけ、ないじゃない……」
相変わらずナーシャは主の意志を汲むでもなく、ただ窓の外に目をやっている。先ほどまで雲ひとつなかった空には、徐々に雨雲がたちあらわれ、間もなく雨が戸を叩き始めた。そっとお腹をさすれば痛いほどに分かること、まだナーシャは猫としても使い魔としても未熟なのだ。
自分自身を含めた社会、名誉、家族全てと、拾ってきたばかりの小さな黒猫を両天秤にかける。愚直な行為だ。結果は明確、そんなことはもちろん分かっている。しかし、そこまで非情になりうる術もアメリアは持っていなかった。
だからせめて、ナーシャが今何を思っているのか。それを知りたい。それが分かれば、もしかすると一ヶ月の間に、何か打つ手があるかもしれないのだ。やれることは全てやってみせる。その意志はエルスタット家の、母であるミネスの精神そのものだった。
気がついたら雨に打たれていた。特にそれを不快だとも思わない。なぜならそれは彼にとって当たり前の日常で、享受する以外なかったからである。だから不幸ではない。幸福を知らないのだから。
その黒猫には親がいなかった。もちろん以前はいたのだろうが、記憶にない。そもそも親という概念すら彼には存在せず、ただあるのは瓦礫と雨と――仲間だった。
茶色の毛並み、蒼い瞳のまだ赤ん坊の子猫。白くて薄黒い瞳のちょっとだけ自分より大きい猫。黒猫はちょうどその二匹に挟まれるような存在だった。兄貴分と弟、二匹は彼にとってそんな関係だった。
生活に不自由はない。貧困街を根城にしているが、市場には食料調達に頻繁にでかけていたからだ。その度に白い兄貴分は店主に追いかけられ、よく怪我をして帰ってくる。二匹はそれを心配そうに見るのだが、兄貴分はなんてことない顔をして身を削って得た食料を分ける。
三匹が何気なく一緒に暮らし始めてから、日はまだ浅い。それでもたくさんの出来事が思い出として、黒猫の頭には残っていた。ある時は、一番小さな茶色の子猫が他の野良猫に襲われた。またある時は、黒猫が病気にかかった。そして時には、喧嘩もした。
血も何も関係しない三匹だが、けれどそこには一種の絆があったのだとおもう。誰かが困っているときは、身を挺して助ける。それが当たり前の関係で、自分だけ得をしてはならない。利益は皆で平等に、そんな原則が何の考えもなく存在していた日常。
しかし、ある嵐の夜にその均衡がいとも簡単に崩落した。魔女が現れたのである。小さな魔女、顔は笑っているが心で号泣している魔女。黒猫は選別され、そして連れて行かれた。二匹は呆然とする。だってそうだろう。これまでの平穏でずっと続くと思われた日々がこうまで簡単に消失してしまうのだから。
黒猫は最初、魔女を恨んだ。ローブの中でもがき続けるが、身体が小さな黒猫のその行為は、魔女に抵抗とさえも受け取られることはなかった。
そうして、魔女の家に連れてこられた黒猫は知ってしまう。幸福というものを知ってしまう。お腹を優しく撫でられる快感を知ってしまう。この魔女は仲間だということを知ってしまうのだ。
けれど、どんな幸福の時を享受しても決して仲間のことが頭から消えなかった。快楽に全てを委ねてしまうことはできなかった。黒猫にとって初めての感情がわきあがる。
魔女のことは嫌いではない。むしろ好きだと言える。彼女は優しい手つきで黒猫のお腹をさすってくれるし、危険なことをせずとも毎日同じ時間においしいご飯を与えてくれたから。
しかし、同時に自分だけがこうあるのは不公平であるという、罪の意識に駆られる――罪悪感。魔女が家の扉を開けたら、すぐに戻ろう。そう思い、かつての家の方に目を向ける。この窓から目をそらすことは、仲間を完全に裏切ってしまうことだと、黒猫はそう思った。
だが魔女は家からなかなかでなかった。毎日朝から晩まで本を読みふけり、そして黒猫を可愛がった。幸福と快楽に身体が染め上げられていくのが、黒猫には分かった。委ねてはならないと知りつつも、身体がもはや言うことをきかなくなっていた。果たして、今の自分がかつての場所に戻ることができるのだろうか。あの雨の冷たさに、耐えることができるのだろうか。
日常の崩壊から一週間が過ぎると、魔女の顔は日を追うごとに険しく、そしてやつれていく様に見えた。彼女は一体何を思い悩んでいるのだろうか。気づけば黒猫は魔女のことばかり考えていた。それでも窓を見る。どうして窓のほうを見ていたのか、よく分からなくなっていた。何か大切なものがあったのはでないか、そう回想するがうまくいかない。過去は快楽に上塗りされていく。黒猫にとっての日常が入れ替わり始めていたのだ。
それからしばらくして、魔女は決意を固めたように顔を引き締めた。溢れるばかりの悲しみを覆い隠し、黒猫がいつも見つめていた窓を開け放った。外は豪雨で、風が強い。それはまるで黒猫と魔女が出会った日の再現のようだった。
雨風が家に侵入し、綺麗に掃除された木床を濡らす。しかし、魔女はただ黒猫の顔をじっと見て、待つだけだった。「行きなさい」と、そんな言葉を投げかけるように。
黒猫は首を傾げる。外は寒いし、濡れてしまう。どうして自分が出て行かなければならないのだろうか。そんな思考が頭を掠めると、魔女の顔が険しくなった。彼女は怒っていた。嗚咽と漏らしながら、大粒の涙を溢しながら怒っていた。
「早く……早く戻りなさい! あなたは……ここにいるべきじゃないのよ!」
言葉は届かない。しかし心は届いたのだろう。黒猫は『ここ』にいてはいけないのだと漸く理解する。窓を飛び出す。雨に打たれる。行くあてなどないはずなのに、足は勝手に進んでいた。
貧困街、その瓦礫と雨。ここが黒猫にとってかつての家だったのだと、理解する。思い出す。そして、付随するように仲間の顔が脳裏に再生された。懐かしい、決して忘れてはならなかったはずの仲間の存在。嗚呼、なぜ忘れていたのだろう。あれほどまでに思いやっていた仲間だったのに。
それは懺悔に似た感情。冷たい雨に打たれた、彼らは小さな箱の家で倒れていた。悲しい顔。この世界に対する絶望さえも垣間見させる死に顔。それらが自分に向けられたものだと黒猫は自覚していた。今なら分かる。これが不幸というものなのだ。
黒猫は、かつての仲間の横で一緒に眠る。雨がやけに冷たく感じられた。暖炉の炎はあんなに暖かいのに、なぜ雨は冷たいのだろう。
やがて黒猫は夢をみる。幸福で暖かな家。家には小さな魔女がいて、彼の二匹の仲間もそこにいる。皆が魔女にお腹を撫でられ、幸せを享受する。目の前にいる魔女はいつも笑っていて、『今』のように泣いたりしない。ただ自分は幸せそうな彼らを、今度は黙って棚の上からでも見ているだけでいい。だって黒猫はもう十分生きる快感を得たのだから。
黒猫の目から大粒の赤い雫がおちる。綺麗な虹色に輝くそれは、まるで生命の光のようだった。
魔女は泣いている。堪えることなどできるはずがない。それでも、『自分の責務』は果たさなければならない。
手でそっと、その輝きを掬う。雨も涙も、黒猫の雫は全てを跳ね除けていた。
何が正しいのか、そんなものを議論する気は毛頭ない。しかし、アメリアにとってあの行動は間違いなく悪であったし、きっと世間が知れば許されることではないのだと思う。
こうなることは分かっていたのだ。しかし、使い魔の思考を読む術を学び、ナーシャの心の底を知れば、偽善であっても窓をあけずにはいられなかった。
思えば、どうして最初出会ったとき、『他の二匹』に目を向けなかったのだろうか。理由は言葉にすれば容易なことだ。彼女にとって必要なのはあくまで黒猫だったからだ。たとえ平常の精神状態であっても、きっとアメリアは黒猫だけを選別し連れ帰っただろう。
それはいわば、社会の構造となんら変わらない。生まれた時から決まった一定の地位は覆されず、それこそがこの地に貴族街と貧困街が並列して存在する理由なのだ。交わることのない両者。それを運命という安価な言葉で片付けてしまうには、あまりにも非情な事実だった。
アメリアの罪は、そんな社会に属し、そして屈したこと。見事精製に成功した「エアドロップ」は世間で褒め称えられ、魔女アメリア=エルスタットの地位は大いにあがるだろう。ミネスはそれを表面で喜び、内面で悲しむに違いなかった。
机の上の「エアドロップ」は儚く、アメリアを慰めるように輝きを魅せていた。
あれから五年の月日が経った現在、彼女は優秀な魔女として社会に名を馳せていた。ミネスの黒猫と契約を果たし、母である彼女の役割を完全に受け継いだのだ。
黒猫は優秀だったが、もはや生き物ではなかった。だからアメリアは彼に名前をつけることすらしなかったし、もちろん撫でてやることなどしたことがなかった。
そして、社会は明日大きく変遷する。それは魔女だけが知っている事実、予言でも何でもない、しかし確実に起こり得る事象である。
アメリア=エルスタットは上位魔法の封印を解き放った。法に触れようが関係ない。明日はその法を構築した人間と争うのだ。
間違っているだろうか。このまま社会に隷属しているほうがいいのだろうか。否、アメリアはもう決心したのだ。それは贖罪であり、自分への断罪。後戻りなど、する気はない。彼女は今や千人の魔女を率いる者なのだ。
この魔女社会に終止符を打つ。それが正しいことなのだと、彼女はそう自分に魔法をかけた。
雪山の頂からの眺め、その絶景を楽しむ暇などない。彼女はただ不安と力に押し潰されないように、足元に注意し続けるだけの存在だ。それでも、明日は自らの身を廷じよう。そして自らの力で雪崩を起こそう。それがアメリアに許された、最後の抵抗なのだから。
だが、今日。今日だけはもう少し窓の外を見ていよう。棚の上から広い世界を見下ろす、人形のナーシャと共に。
(了)
-
2010/06/17(Thu)20:30:41 公開 / 七色人
■この作品の著作権は七色人さんにあります。無断転載は禁止です。
-
■作者からのメッセージ
昔書いたファンタジーです。
稚拙な文章ではございますが、感想いただければ幸いです。
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。