『聖域』 ... ジャンル:リアル・現代 リアル・現代
作者:鈴村智一郎
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プログラムの八番は徒競走だった。僕らはあと二時間もすれば、走らねばならない。だが、僕と陽彦は一学年下の、学校中からプチ・アイドル扱いされている女子生徒を追い込んでいたのだった。僕ら二人は体操服姿のまま、裸体にした彼女を南校舎の後方で囲んでいた。彼女は逃げられない。僕と陽彦も、彼女を逃がさない。ここまで書いた句読点の数だけの大粒の涙を、既に彼女は落としていた。僕らはそれを見て、まだ笑うことができたのだった。
「こんな卑劣なことをして、ゆるされるわけがない」
そう彼女は涙目で僕らを睨めつけながら叫ぶようにいった。僕は無表情で彼女の頭蓋に金属製のスコップを猛烈な速度で叩き落した。スコップがへし折れるほど殴ったので、彼女は目を白黒させて泡を吹いた。陽彦が、失神寸前の彼女を背後から抱きかかえた。そして、両手両足を綱引き用の縄で縛り上げた。
「な、なんで……なんでこんなことを……するの? 」
「敬礼しろ! 」
陽彦が厳しい眼差しで彼女に宣告した。彼女は驚愕し、目を丸くさせながら必死で軍人のように敬礼しようともがいた。彼女の顔は、悲鳴を出せば殺されることを悟っているのか、泣きたくても泣けない苦悩で歪んでいた。
僕は続いて、運動場の砂場から砂を運んできた。ビニール袋に入れている砂を彼女の両目に塗せるためである。僕は陽彦に砂を半分渡した。僕が左目を破壊し、陽彦が右目を破壊するためである。僕ら二人の少年で、たった一人の無垢な少女の身体を半分ずつ壊す。僕らが何故このような行為をしているのか、それにはある理由が存在する。
「ゆるぢで……」
彼女はこれから何をされるか知っていた。涙腺の毛細血管の一つ一つに、砂の細かくて鋭敏な粒子が配置される。それは信じ難い激痛に相違ない。僕らは「痛み」を知っているのである、だからこそ、この儀式は完璧に実行されなければならない。いかなるミスも容認されない。決定的に重要なのは、彼女が死んでからなのだ。僕らは初めから彼女を生かすつもりではない。彼女が死んだ後で、彼女の兄であり、僕ら三人トリオの一人である隼人が、一体いかなる顔をするのか、僕らはそれを見たくて見たくて仕方ないのである。
隼人は美しい少年だった。僕らは一体どれほど、隼人の影で彼の光に嫉妬してきたことであろうか。彼は美しかった、何故なら、彼は言葉を話せなかったから。僕らは五年間同じクラスで彼と過ごしてきたにも関わらず、一度も彼の声を聞いてはいない。それは、あってはならないことなのだ。隼人にとって、声が出せるということは彼自身の存在に不完全さを齎すことなのだ。それ故に、隼人の「来るべき声」は神聖なものであった。それは耳にしたことがないが故に、常に僕らの想像を掻き立て続けるものなのである。
隼人から沈黙を奪取する、それが僕らの発案した最大の計画である。隼人の泣いている声、自分の妹を蹂躙されたことで噴出する爆発的な怒り、猛烈な憤慨の渦、殺意に目覚めた動物的な瞳、僕らはそういう雰囲気を帯びた生身の彼の声を欲していたのである。取り返しのつかない代償と引き換えに、僕らは隼人の「来るべき声」を希求した。それほどにも、彼の声は僕らにとって圧倒的な重さを持っていたのである。
「たずげてぇ……おにいぢゃん……」
両目を失明させることに成功した僕らは、虫の息のようになって静かに口腔を閉じたり開いたりしている物体を見下ろしていた。この物体、丸裸で、僕らのように屹立可能なペニスを持たず固く閉ざされた貧弱な桃色の割れ目の奥に萎れたタンポポの茎の如き畸形のペニスを包み隠して花畑を飛翔する銀色の紋白蝶に象徴化された理想のメルヘンチックな王子様にその赤白く鬱血した亀頭をペロ・ペロペロ・ペロ舐めて貰うのをひたすら待望しているかのような、この愚昧なる阿呆の死に損ない人形。僕らは無表情に、まるで無造作に転がっている曲がったペットボトルを観察するような冷静さで絶命寸前のまだ微弱ながら呼吸を繋いでいる少女を見つめていた。
「はる、こいつどうやって殺そうか? 」
僕は校舎の屋上から洩れる眩しい夕陽を手でかざしながらいった。陽彦の栗色の髪が、夕陽で赤く染まっている。
「お腹を二人で踏もうか? 」
陽彦がポケットからチューインガムを取り出しながらそういった。僕も一枚貰い、二人でクチュクチュしながら秘められた甘味を口の内部で吸い上げ続けた。
「お腹にジャンプしてみる? 」
僕が微笑みながらそう陽彦に尋ねた。直後、陽彦は全速力で後方まで下がり、彼女に狙いを定めた。そして、猛然と走り出し、あっという間に彼女に飛び上がって腹部に着地してみせた。およそ人間の幼い時期には出せない、老婆のような声で彼女は「う」といった。僕らは欠伸をしながら拍手喝采した。
陽彦はしかし、まだ不確かな面持ちで首を傾げていた。彼は僕よりも完璧さにおいて一貫している。やがて彼は近くのジャングルジムまで彼女をズルズルと引きずり始めた。彼女は口から血液の混じった粘液の塊のようなものを垂らしていた。引きずられていよいよ殺されゆく裸体の少女の最後の視線が、僕を捉えた。
僕は衝撃に胸が震えた。彼女のあの、だらしなく垂れ下がり、生きることを諦めた瞳。僕はいつの間にか胸が高鳴り、半ズボンの奥深くのむさ苦しい肉のまたその地下水脈で、やがて飛び出てゆくであろう精子たちが灼熱の坩堝を痙攣させながら小躍りしているのに気付いたのであった。陽彦は冷酷かつ卑猥な少年司祭のように、彼女をジャングルジムの下、すなわち平穏な休み時間の死刑執行台へと運んでいく。地面に落ちていた縄を偶然のように必死で掴み、引きずられまいとあがいている何気ない彼女の動作に、僕は強大な「美」を見出した。
彼女は声を出せなかった。失明しているので何をされるのかも判らない。陽彦はいつの間にかジャングルジムの頂上まで登っていた。そして、はっと覚醒したように僕を睨みつけた。
「おい、先に目を潰さない方が良かったよな」
「なぜ? 」
僕がそう訊き返しても、陽彦は怒った顔をしたままだった。そして、怒っているそのままの顔で彼は「や」と叫んで飛翔した。彼はまるで、黒い翼を生やした巨躯な禿鷲のようだった。僕は彼が飛び上がった刹那、頭部を発狂したように震動させながら空を飛ぶイメージに取り憑かれ、彼が地面に横たわる被造物の欠片ではなく、より高い天空に対して圧倒的な敵意を抱いているのを本能的に感じ取ったのであった。
陽彦は彼女の腹部へと優雅に着地した。彼女は全身を痙攣させながら、反動で何度も上体だけ起き上がるような動作までしてみせた。だが、すぐに止まった。よく見てみると、両目、鼻、口といった顔面に存在する全ての陥穽という陥穽から、ダラダラと情けない血液を安堵したように微笑みながら流していたのだった。
「死んじゃった」
僕らは見つめ合い、まるで互いのペニスに秘められた接吻を交し合った後のようなこそばゆい満足感に酔い痴れた。僕らはそれを大きめのビニール袋に入れて折り畳んだ。そして、木に吊るして「HAPPY BIRTHDAY! 」と書いたメッセージカードを貼り付けた。今日は、隼人の誕生日であった。
やがて陽彦が隼人を呼びに向かった。もうすぐ徒競走なので、隼人はもしかすると既に列に並んでいるかもしれない。僕はビニールの中ですっかり暗い瞼を閉じてしまった少女と二人で、彼らが来るのを静かに待っていた。音がしない。生徒も、保護者もこの神聖な領域に気付いてはいないのだ。吊るし上げた袋には、たっぷりと先刻まで呼吸していた少女の血液と透明な粘液たちが混濁し合って沈殿している。ビニール袋の底で、乱れた髪を鼻腔の奥にまで貼り付かせながらこれでもかというほど醜く顔面を寄せ付けて「いーだいーだ」の顔をし続けている少女は、およそ人間ではない別種の動物のようだった。僕は地面に落下している枝で、彼女の鼻腔の部分をグリグリと押した。くしゃみするだろうか? 否、もうそれをしないのである。ダンゴ虫をライターで炙ると一瞬でキュッと縮小して白くなる。だが、今回はこれまでの殺戮とは何かが異質であった。僕には違いが判らない。
遠くで、低学年の少年少女たちの笑い声が響いてきた。辺りはこの瞬間が永遠に続くかのようなセピア色の夕景に沈んでいる。僕は、この場所を二度と忘れない。校舎の裏の影、吊るしたビニール、その中で口を大きく開けたままの逆さまの女子生徒、そして、僕は掌の生命線を何故かじっと観察していた。
やがて陽彦が隼人を連れてきた。僕は息を呑んだ。隼人はいかなる表情を浮かべるだろうか? そして、どれほど悲痛な声色で嗚咽し、妹の名を声に出すだろうか? 僕らはこの時のために一個の命を世界から消し去った。それに見合うだけの「来るべき声」を、僕らは必然的に隼人に期待して然るべきである。
陽彦が木にぶら下がっているビニール袋を隼人に示した。隼人は、「うお 」と愉しそうな声で口を開いた。僕らはそれを聞いて耳を疑った。「うお 」といったのは隼人だった。陽彦が焦燥したような面持ちで、木から隼人の妹だった物体を落とした。水と柔らかい肉の柔毛が悦びで弾けるような鈍く低い音がした。僕らは二人でビニールを丁寧に開けて、顔面を隼人に見せ付けた。
「隼人、これが誰かわかるか? 」
陽彦が理知的な音を感じさせる微笑を浮かべながら隼人にそう尋ねた。僕らの額には脂汗が湧出し始めていた。何かがおかしい、何かが妙なのだ。
「ゆか 」
隼人がそう自然にいった。断っておくが、僕らは五年間付き合ってきて初めてこの時彼の声を耳にした。それも、あまりにも明晰かつ幼い乳離れすらしていないような声色である。だが、それ以前に、隼人は死体の身元が自分の妹であることを認識しつつ、全くそれに動じていなかったのだった。僕らにはそれが不可解だった。
「隼人、お前の妹は俺らが殺したんだ」
僕がそう明言した。しかし、隼人は首を嬉しそうに縦に何度も振って、「うんうん、うんうん」といった調子なのである! 僕はその時、初めて僕らが悪夢を創造していたのではなく、これは白昼夢に生起するある謐かなセピア色の神話であることを知った。隼人は、まるでこの時、この瞬間を持っていたとでもいうかのように、輝かしい瞳で僕らを見ていた。
「隼人、何故泣かないんだ? 哀しくないのか? 」
陽彦が無表情にそういった。この儀式に完璧さを求めていた彼には、初めから結末が見えているのである。妹の死に衝撃を受け、絶望的な声で涙を流しながら小猿のように奇声を発しつつ襲い掛かる、五年間培った友情は脆く崩れ去り、隼人は人間のものとは思えない声でこう絶叫するのだ、「赦サナイ」と。だが、隼人は笑ったのである。涙一つ見せず、彼は僕らに素直なやさしい笑窪を覗かせた。陽彦の唇は歪み始めていた。
「何がおかしい! 」
陽彦が深刻な面持ちでそう隼人に叫んだ。彼は隼人の胸ぐらを掴み、声をほとんど恐怖に震わせながらこういった。
「自分の妹だぞ? 俺らが殺したっていってんだ。それで何故笑える? 」
「わらう 」
不意に、隼人がそういって陽彦ではなく、僕の方を見つめた。僕はその目を見て震撼した。彼は知っていたのだ、僕は彼がただ笑っていたわけではないことにようやく気付き、膝が震え始めたのだった。彼は耐え忍んでいたのである。そこに浮かんでいた表情は、理性によって意図的に笑顔を作り出しながら、必死で泣き出すのを堪えている忍耐と憤怒を滲み出させた少年の異様極まる顔だった。それは、老人のように窶れ果てた悲痛な顔だった。
「おしえて 」
隼人がやがて、切実な面持ちで僕らを直視しながらそういった。
「おしえて。ぼくはどうやってわらえばいい? 」
隼人は泣きそうな顔で、そういった。陽彦は何か得体の知れないものに出会ったような恐怖に襲撃されて、隼人を突き飛ばした。僕は茫然自失して隼人を見つめていた。陽彦の足は凍死する直前の子鹿のように痙攣していた。
その直後であった。陽彦が腹筋に強靭な力を宿したような断続的な声を発しつつ、地面で海老のように回転し始めたのだった! 彼は泥と汗で塗れながら、必死で海老が鉄板の上で生きたまま焼かれる映像を自らの魂に上書きしたかのように、奇妙な動作を繰り返し続けた。僕には彼のその動作の意味がよく判らなかった。隼人は泣きつ笑いつしながら、僕と陽彦を交互に見つめていた。晴彦は海老になっていた。海老になり、焼かれる苦しみを担い始めたのである。
僕はどうすればいいのか判らずに、ただ立ち尽くしていた。隼人は陽彦の行為を見守っていた。陽彦は気が狂わんばかりの速度で、猛烈に海老の死を擬似的に探求している。彼の顔は多量の砂粒と彼自身の凄まじい汗水に塗れていた。彼は甲殻類であった。僕はジャングルジムに、喪服姿の少女たちが一つ一つの正方形の空間に幼虫のように嵌まり込んで、互いに息を潜め合っているような気配を感じた。彼女らの顔は、皆隼人の妹に限りなく類似しつつ、そのどれもが異なった傷口を負っていた。この運動会の小さな片隅の聖域が、一体どれほど僕らの生に変換を迫るのであろうか。僕にはそれが判らない。一つだけいえることは、僕らにはもう安眠することなど絶対に赦されない、ただそれだけであった。
2010/05/23(Sun)18:29:03 公開 /
鈴村智一郎
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