『『夜半のフモト』 第二章』 ... ジャンル:恋愛小説 ファンタジー
作者:こーんぽたーじゅ
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序章 茨木童子
昔々の平安の御代の頃のことでございます。水尾村というところで十六ヶ月という妊娠期間の末にとある若い夫婦の間に産まれた男の赤子がおりました。
十六ヶ月という本来なら考えられない期間中に、赤子には歯が生え揃い、馬の子供のような早さで産まれて間もなく立って歩き出したそうな。
それを見た母親は、この世のものとは思えない地獄の底から響くような断末魔をあげて、狂い死んでしまいました。赤子の存在がもはやこの世のものとは思えないので、狂ってしまうのも無理はなかったのかもしれません。
残された父親は、それでもその赤子を大事に大事に育てましたが、歳が五つになり赤子から子供へと成長したころには背丈が大人を越すほどまでになってしまいました。
村人からは「鬼の子、鬼の子」と父子が出歩くたびに石を投げつけられました。時には汚物を投げつけるものもおりました。
度重なる嫌がらせに耐えかねた父親は、寝ている間にそのあまりに大きすぎる息子を荷車に乗せて村から遠く離れた九頭神(くずかみ)の森の中に捨ててしまいます。
それからは石を投げられることも、蔑まれることも日に日に減って、父親には以前の平穏が取り戻されました。しかしそれでも、我が息子を捨てたことに対する罪の呵責は失せるどころか日を追うごとに高まり、ついには自らの喉を断ち切って命を絶ってしまいました。
その頃、捨てられた子供はというと近くに住む床屋の主人に拾われておりました。床屋の主人夫婦は長らく子宝に恵まれず、半ば諦めていたところに捨子を見つけたものですから「天恵!」と子供のように走り回って喜びました。そこに普通の子よりも体がとてつもなく大きいことなんて全く意に介しませんでした。
二人は子供を我が息子のように大事に育てました。息子もそんな二人のために精一杯孝行に励みました。
拾ってから三年の年月が流れたある日、主人は拾ってきた子供に自らの仕事である散髪の仕事を教えました。とは言っても教えたのは剃刀の扱い方だけです。
剃刀の扱い方を覚えた息子に主人は客の髭剃りを担当させました。息子の背丈は拾ってきた五つのときから全く変わらないこともあり、それ以降もこれ以上高くなることはありませんでしたので、夫婦は養子の青年であると客に嘘をつきました。
息子の髭剃りは、客からの評判も良く「これほどまで完璧な髭剃りは見たことが無い」と賞賛されました。これに関して主人夫婦は「良い息子に恵まれたものだ」としみじみと感心しました。
それに答えるように息子は日に日に髭剃りの腕を上げていきました。
しかし、「猿も木から落ちる」とも「河童の川流れ」とでもいうのでしょうか、確実な髭剃りの技術を見せていた息子にも失敗の二文字が訪れました。
それは、息子が十七のときのことでありました。その日の前の晩、息子は珍しく夜更かしをしてしまいました。自らが使う剃刀の手入れに思いのほか時間がかかってしまったからです。息子の髭剃りはその頃には店の目玉にもなっており、休むわけにもいかなかったので眠気眼をこすりながら仕事に取り掛かりました。
仕事をしていると、自然と眠気は吹き飛んでしまっていましたが、とある客の髭剃りをしているときにふと大きなあくびをしてしまいました。その時に手元が狂ってしまい、客の顎に小さな傷を作ってしまいました。
客は「誰でも失敗はあるさ」と寛容に息子の失敗を笑って吹き飛ばしましたが、初めての失敗に慌ててしまった息子は「すいませんでした、すいませんでした」と必死で謝りながら傷口からたらりと流れる血を手でこれまた必死に拭いました。
その客が最後まで息子を励まし続けた甲斐もあって、その客が帰っていく頃にはすっかり立ち直っておりました。
「そうだ私にはまだ待っておられるお客様がたくさんいるのだ。このようなことでくよくよしてられない」と仕事に戻ろうとしましたが、手に付いた血が気になりました。手を洗いに行っている暇があったらその分まで仕事がしたくて仕方が無かった息子は、手に付いた血液をぺろりとなめてその場をしのぎました。
不幸なことに、この時息子の心の奥底の箍が外れてしまいました。
次の客の髭剃り中に、息子は妙な胸騒ぎが抑えられずにいました。「きっとさっきの失敗をまだ引きずっておるのだ」と気にかけませんでしたが、作業を進めるごとにその気持ちは高まっていきました。
そして息子は信じられないことに、自らの意思で客の顎を剃刀で傷つけてしまっていたのです。
なぜ、そんなことをしてしまったのか分かりませんでした。しかし傷つけた客の血をなめるとその胸騒ぎは元から無かったかのようにさっぱりと消え失せていました。
主人夫婦はきっと疲れているのだ、とその日は息子の仕事を早めに切り上げさせました。
翌日になって、息子は主人夫婦にもう大丈夫だ、と伝えて仕事に復帰しました。しかし実際は大丈夫などではなく、「あの」胸騒ぎにうなされて一睡もしてなかったのです。
そう、息子は血の味に目覚めてしまったのです。再び血を味わうため、仕事に復帰したのです。
さりげなく、隠すように小さな傷を作ってはなめをはじめのうちは繰り返していましたが、そのうちに少ない量では満足できなくなり、ついには剃刀で客の首を切り裂いて浴びるように血を飲みだすという行動に出ました。
店内は血の海と化し客は皆青ざめ、目を背け、泡を吹き、倒れ、死体の横で狂ったように血を飲み続ける息子の姿を背に我先にと店から離れていきました。
主人夫婦は目の前で起こったことが理解できず、ただ呆然と変わり果てた息子の姿を眺めていました。実際にはその目には何も映っておりません。映すことを拒んでいたのでしょう。
息子は客の血を飲み干してもそれでも飲み足りず、真っ赤に血走った目に恍惚の表情を浮かべ、体を痙攣させ、ふらつかせながら主人夫婦のもとににじり寄りました。いいえ、もうそこに存在していたのはかつての息子ではありません。血を欲するだけの鬼です。たまたま舐めた血が、生まれしより魂に秘めた鬼を覚醒させたのでしょう。
一歩、また一歩と鬼は近づいてきます。それでも主人夫婦は逃げ出すそぶりを見せません。彼らは現状の代わりに幻覚を見ていました。そこに出てくる息子は、あの血に目覚める前の親孝行な自慢の息子の姿でした。
二人は立ち上がり、両手を広げてあまりにも大きな息子を抱きしめようとしました。
しかし、鬼はそんな二人の喉を剃刀で切り裂きました。まるで今までの絆を全て断ち切るかのように。自らが「人」から決別するように。
夫婦は苦しむ間もなく、そして現実を受け止められないまま、あの世へと旅立っていきました。果たして現実を受け止めるべきだったか否か、それは誰にも分かりません。
二人の血を腹一杯に飲み干した鬼は、そのまま二人に拾われた九頭神の森に向かって駆け出していきました。
その後の鬼の行方は杳として知れぬままであります。
第一章 乙女の顔は朱に染まりて
どうして、という僕の問いに答えるように彼女はカシャン、と小さな金属音をたてた。
僕の立っているすぐ十メートルほど先に彼女が立っている。対峙する僕たちの表情は正反対だ。呆然とし表情を失った僕と、舌なめずりをするように赤い目を爛々と輝かせ悠然と立ち尽くす彼女。
普段とは違った重い空気の路地の中で、特に彼女の周辺だけ密度が濃いように感じられた。それはまるで彼女から水飴のような空気が発せられ、あらゆるものをからめとっているような――事実、彼女の周りだけ空気が澱んでいるようにも見える。しかし彼女自身はその澱んだ空気に浸食されることなく、むしろ明瞭に輝いているようでさえあった。
途端、僕の思考を読みとったかのように彼女の手のあたりから光が放たれた。その正体は澱んだ空気までも切り裂くような、研ぎ澄まされた刃だった。それが地面まで一直線に伸びている。金属音の正体はこれだったのだ。そして、この路地において彼女を異様たらしめているのもこの刃だった。
比喩などではない。実際に彼女の指と同化して刃が伸びているのだ。左右五本ずつ、計十本の得物は一本一本が名だたる名刀のように鋭く、銀色の刀身は彼女の意志に従って揺れる度にカシャン、カシャンと不気味な音を立てる。
また一歩近づく。彼女の方へ。鋭い牙の顎門の中へ。それを見た彼女は僕に合わせるように揺れるような歩調で僕に近づく。
あの刃は危険だ。誰が見たってわかる。分かっていて近づく僕はたぶん、彼女が「あの人」かどうか確かめたいんだと思う。そして「あの事件」と関係があるのかを知りたいのだろう。ただ、それさえも不確かだ。
一歩近づく。
カシャンと音が響く。
一歩。
カシャン――
一歩――ドンッ
奇妙なリズムの中に、一瞬の不協和音が混じる。それは僕の足下から聞こえた。砂袋を蹴飛ばしたような感触――何だろう?
彼女の姿ははっきりと見えるというのに、足下のそれは闇に紛れて何か判別できなかった。そっと顔を近づける。サッカーボール大のそれは――――犬の首だった。
「うわあっ!!」
思わず後ろに飛び退くと、その先は水たまりだった。お尻から突っ込み、手を突き、そこにある冷たい感触を確かめる――ことはできなかった。
「血……」
ぬめりとした感触は確かに血液だった。ぞっとするほどの生温かさが背筋をなでる。ぐっとせり上がるような嘔吐感を押さえながら、水たまり――血溜まりを目でたどる。
箱の二重底が外れるように視界がクリアになる。
そこにあったのは、犬や猫の死骸の山だった。累々と積もる肉塊には頭を無惨にも潰されたものや、脚が奇妙な方向にねじ曲がったものから、それ自身がかつては生命を持っていたとは判別できないものまで様々であった。
引き裂かれた腹部から飛び出す桃色の臓器や、切断面からのぞく白骨が、彼女やその周囲の空気の夢幻を打ち消した。
「うわあああああああああああああ!!!!」
僕は弾かれるように立ち上がった。
張り詰めた緊張の糸が切れるように、叫ぶ。頭の中が真っ白になった僕はあろうことか、彼女の方へ向かって走り出していた。十メートルの差が急速に縮まっていく。
間違いない! あの犬猫たちは彼女に殺されたんだ。あの、刃で。目の前の限りのないリアルが今になって僕の心拍数をあげ、胃をさらにせり上がらせる。懐疑的な思考は霧散した。
でも、どうして彼女が?
そんな疑問が脳内を支配する。彼女は「あの事件」とはもっとも縁遠いと思っていたのに、なぜ? それに彼女はなぜあのような異形の姿をしている? 彼女はどうしてあんな楽しそうに笑っている? 口元に付着した血をどうしてあんなに恍惚とした表情で舐め取ることができる? 彼女は、どうして――――?
ふと、目の前に僕の顔が見えた。
先ほどとは打って変わって絶望感に満ちあふれた惨めな表情をしていた。
そして、目と鼻の先の場所に彼女が立っていた。邂逅するまでにひどく長かったようにも、短かったようにも思える。しかし今はそんなことはどうだってよかった。
――僕の顔が映っているのは彼女の突き出した刃だった。
刃先からこぼれ落ちる殺意が僕の皮膚をちりちりと焦がす。走り、叫んで熱を帯びたはずの体は急激に冷めていった。ひっ、と情けない声が漏れる。
逃げだそうとしても叶わなかった。彼女の放つ圧倒的な恐怖が僕の靴を地面に縫いつけたのだ。僕はただひれ伏すしかないのだ。逃げ出すチャンスはいくらでもあったのに――愚かな自分を呪った。
「見られたからには、殺す」
彼女が言い放つ。
振り乱した髪の隙間から除く鮮血のような赤眼には何の躊躇いどころか、感情さえも宿っていなかった。自ら屠った犬猫の血液を舐めている瞬間の方が、むしろ人間的な表情をしていた。
人間的――――今の彼女は人間じゃない。
一言で表すなら鬼、だ。
鬼なんて存在するはずもないのに、そんなことを考えてしまうなんて僕はもうどうにかしてしまったのかもしれない。いや、むしろこの状況が異常なのか。異常ではあっても夢ではない、根拠のない証明が僕から血の気をさらに抜き取っていく。
彼女の刃が振りかざされる。冷徹に、機械的に。
死にたくない、そう言っても彼女は聞き入れてくれないだろう。僕は普通に暮らしていただけのただの高校生なのにどうして殺されなければならないんだろう。僕が一体何をしたって言うんだ! 自暴自棄になったところでもう遅かった。
だからせめて、僕は最期にもう一度彼女に問いかけた。
どうして、と。
別れの花を手向けるように、彼女の振りかざしてない方の刃が、カシャンと乾いた音を立てた――――――
○
上手くいったな、と僕――鮎川紘一郎(あいかわ・こういちろう)が拳を突き出すと、向かいの席に腰かけている武治は気障な表情を崩さぬまま静かに拳を重ねて答えた。
両手に抱えた戦利品を机の上に並べる。パンにおにぎり、サンドイッチ、ホットドッグまであらゆる種類のものが揃っている――今日は大漁だ。武治の分まで合わせると机から溢れてしまうほどで、とても二人で食べきれる量ではなかった。
「まさか二人とも成功してるとはな……どうするよ、この量」
「私もまさか『あの』紘一郎クンが成功するなんて夢にも思わなかったよ。私の考えはいささか杞憂だったようだね。おかげで買いすぎてしまったよ」
武治はチャームポイントの縁なしの理系メガネをくいと持ち上げながら僕を皮肉った。
僕は武治を無視して、彼の正面の席に腰かけると適当にパンを一つ取ってかぶり付いた。
僕は分かっている。親友であり幼馴染の穂積武治(ほづみ・たけはる)は昔からこんな人間だということを。頭脳明晰――特に理系科目では他に追随を許さないほどの成績を持つ武治はとことんプライドが高く、自尊心も強い。それは顔にも表れていて、シャープな輪郭に針金のように鋭い髪の毛と目つきはいかにも神経質な研究者然とした雰囲気を醸し出している。そのくせ中学時代はバスケ部のエースで運動も造作なくやってのける典型的な優等生キャラだ。性格には若干問題があるが。
「げ、ジャムパンかよ……。僕の質問、聞こえてたか?」
「無論だとも。普段なら転売するところだけど、今日は心配ない。むしろ数が多く手に入ったほうが私にとっては都合がいいからね」
「誰かから頼まれたのか? 篠原? それとも上橋?」
僕は適当にクラスメイトの名前を挙げた。篠原も上橋も教室にいないからだ。それにあの二人は弁当組じゃないから、武治に頼むということも十分に考えられる。
「いいや。フッ、それは追々分かるさ。それよりも早く食べてしまわないかい? ラーメンのように伸びることはないが、昼休みも残りが少なくなっている。それに今日の昼休みは少々立て込んでいてね」
ラーメンと聞いて僕は苦虫を潰したような気分になった。
先ほど武治が『あの』と誇張したこととラーメンは密接に関わっている。ていうかイコールだ。掻い摘んで説明すると、先週僕たちはラーメンを食堂で頼んだのはいいものの、僕のミスで席を確保できずに麺を伸ばしてしまったのだ。武治はそのことをずっとネチネチと責めているのだ。
しかし僕にも弁明の余地を頂きたい。何せ、僕が席を確保しようとしたところアメフト部の三年が束になって僕の行く手を阻んだのだから。奴らとまともにやりあってはいくら命があっても足りない。
それほどまでに食堂という場所は壮絶だ。戦場と例える者がいるほどに、だ。
想像してほしい。
僕たちの通う私立高校は中高一貫校で生徒総数は二千を優に超える。それなのに中学と高校で食堂は一箇所を併用のため、広さも生徒数から考えると心許ないものだ。そんな食堂に、四時間目の授業を終えて腹を空かせた食べ盛りの獣たちが教室という檻から飛び出し、荒野を駆ける駿馬のような勢いで押しかける。
生徒たちの多くは三人一組で徒党を組み、ある者は席を確保し、またある者は食券を買い(昼休みにならないと食券を売ってくれないのだ)、そしてそれを受け取った者が食料の受け取りに走るという役割の下、着実に食料にありつこうとする。中には一連の行為を一人でこなす「食堂の神」がいるそうだが、その姿を見たものはいない。
時に怒号が、時には慟哭がこだまする光景はまさに弱者が強者に駆逐される戦場の図、そのもの。今は夏前だがいいが、これがあと一ヶ月もすると食堂内の体感気温は外気温よりも勝ると言われている。僕も去年熱中症を起しかけた。
そんな地獄のような光景を戦場と呼ばずして何と呼ぶだろうか。
しかし、今日僕たちはその戦場を回避せざるを得なかった。理由な明快で、授業が延長になったからだ。数Uの須田は必ず授業を延長する。次回に持ち越しという概念を持ち合わせていないのだ。須田の教え方はいいが、そのせいで生徒間の評判はすこぶる悪い。
僕たちは授業が延長されると知るや否や、目標を食券から購買に定めた。この辺の連絡は授業中のアイコンタクトで完璧だ。しかし、購買は食堂に負けず劣らずの激戦区で、下手すれば戦利品を一つも手にすることなく昼飯を水道の水で済ます羽目になる。あの辛さは十二分に知っている。
しかし授業を延長した日の食堂に突撃するほど、僕たちは伊達に一年学校に通っていない。勇猛果敢に食堂に突っ込む一年の姿を見ると、去年の苦労を思い出して涙が出そうになるほどなのだ。彼らもいつか購買のほうが食料にありつける可能性が高いことを痛いほど思い知ることになるだろう。
――と、僕が変な感慨に浸ってる間にも武治は二つ目のおにぎりに手を伸ばしていた。
「どうしたんだい、紘一郎クン? 食が進んでないようだが」
「武治の悪だくみを暴こうと思ってね」
先ほどの婉曲的な表現で言葉を濁した武治の態度。あれは必ず何かを企んでいる証拠だ。金になるにもかかわらず食料を転売しなかった目的もそこに隠されているはずだ。しかし、あまりにも証拠が少なすぎて企図する内容までは分からないのがもどかしい。
「いやだなぁ! 紘一郎クンは。幼馴染である私のことを疑うのかい? 君はそこまで狭量な人物だったかい」
武治はオーバーに声を張り上げた。その仕草の一つ一つが嘘臭い。おそらく武治も分かっていてやっている。要するに、僕をおちょくっているのだ。
「僕だって残念だよ。武治君が親友に隠し事をする人だったなんて」
「隠し事? 何のことかね」
嘯いて武治はおにぎりをかじる。唇の端に付いたツナマヨが妙に不格好だ。
「武治君、口にツナマヨが付いてますよ? おやおや、武治君ともあろう人が僕の言葉で動揺してるんですか? らしくないですね」
「そういう紘一郎クンも嫌いなジャムパンの次もなぜか嫌いなウグイスパンをチョイスしてるじゃないか。猜疑心で周りが見えなくなってるんじゃないのかな?」
げ、見抜かれていたか…………ウグイスパンって訳がわからない。餡子なのに緑色なんて食欲を無くすじゃないか。餡子は黒に限る。白も却下だ。
僕たちはしばし目を見つめあうと「ふふふ……」と不敵に笑いあった。互いの額に汗がにじんでいる。どちらも図星なのだ。しかし、ここで引くわけにはいかないというのが幼馴染同士だけに通じる変なプライドというものである。
しかし予想外の出来事が起きた。ふぅ、と小さく息を吐いて武治が肩をすくめて見せたのだ。こんなに早く武治が折れるなんて――ますます怪しい。
「紘一郎クン、不毛な争いはやめにしないか。無駄な争いは疲れるし、遺恨も生みたくない。そうだ、停戦の印にこれを受け取ってくれないか?」
恭しく武治が差し出したのはガラス製の小さな容器だった。
「――――――っ!」
僕は思わず息を呑んだ。
「これどうしたんだよっ!」
容器の正体はプリンだった。透明なガラスの向こうに見えるガラスという衣に守られた繊細できめ細かいクリーム色の肌をした本体と、その最下層に広がる幾星霜の年月を経た琥珀を思わせる鮮やかな色彩のカラメル。一目で市販品でないと分かるそれは、この学校の生徒なら誰でも知っている、パティシエを志していたおばちゃんが全身全霊をかけて作った一日五食限定の幻のプリンだ! プロも唸るその逸品が今、僕の目の前にある。
「どうしたって、買ったに決まってるだろう?」
武治はくいと眼鏡を持ち上げながら、得意げに笑った。
「決まってるって……昼飯を諦めて特攻したとしても買えないと言われてるのに、お前、どんな悪い手を使ったんだ? 正直に白状してみろ」
「おや? 紘一郎クンはこのプリンを食べたくないのかい?」
すぅっ、とプリンが遠ざかっていく。
「……僕が悪かった」これもプリンのためだ。「本当に貰っていいのか?」
「くどいな。何度も言わせないでくれよ。これは普段私が迷惑ばかりかけてしまっている紘一郎クンのために買ったものさ。だから紘一郎クン以外の誰のものでもない」
言葉を聞くなり、パッケージを開きプラスチック製のスプーンを突き立てる。途端、背中に虫が這うような悪寒を感じた。顔をあげると、そこにはいやらしいまでに口端を歪ませた武治の姿があった。しまった。プリンに気を取られすぎていた。そうだ、武治は何かを企んでいたんだ。どうして忘れてしまったんだ。ちくしょう。
憤怒の表情で武治を睨むと、「もう遅いよ、紘一郎クン」と武治は無情にも告げた。
「まったく、ここまで計画通りにいくと込み上げた笑いが収まらないよ。フフッ、フフフフフフ……」
マッドサイエンティストのような笑みがここまで似合う男は地球上にそうそういないだろう。悔しいけど、そう思わざるを得ない。
「いい加減笑うのやめろ。で、何が目的なんだ。いい加減教えてくれたっていいだろう?」
「そうだったね。では……」
武治は真顔に戻ると、すうと一つ息を吸った。蛍光灯が眼鏡に反射して武治の瞳が一瞬隠れる。そして、深く吐き出すと同時にまるで箱の隠されていた二重底が外されるように現れた目と、合った。
「紘一郎クンは追坂麓のことが、好きなんだろ?」
「ゲホッゲホッゲホッ――――何だってぇ?!」
「まったく、紘一郎クンには本当に骨が折れるよ……鮎川紘一郎は、追坂麓のことを恋愛
対象として――」
「待った。二度も言わなくていい。つーか声でかすぎ」
「君が望んだことじゃないか」
「望んでない」
「まぁそれはどうだっていい。水掛け論は嫌いなんだ。しかし、その反応から鑑みるに図星のようだね」
「勝手に判断するな!」
「顔が赤くなってるぞ。それに、立場が悪くなったときの紘一郎クンは極端に口数が減る。これは長年の付き合いから導き出した推論だが、違うかね?」
武治はとどめを刺さんばかりに、僕の手に握られているガラス容器に視線を送った。なるほど、プリンは退路をふさぐための罠だったのか。
「分かったよ。認めればいいんだろ、認めれば!」
一瞬見直しかけた僕の感情を返せ、と言いたい。
僕は自暴自棄になってスプーンが突き刺さったままのプリンを一気に流し込んだ。数量限定? パティシエ? そんなものどうでもよかった。胃に入ってしまえば同じだ。
「で、知ってどうするつもりなんだ?」
「そんな怖い顔で睨まないでおくれよ。心配しなくたっていい、校内放送で発表のようなひどいことはしないさ。それに、私は嘘が嫌いなんだ。親友の紘一郎クンなら分かってくれるだろう? 私たちは純粋に紘一郎クンの恋を応援したいだけなんだ」
武治は胸に手を当ててあたかも舞台役者のように大仰にポーズをとった。こいつには羞恥心はないのか。その一連の行為が余計に嘘臭さと、明らかに遊んでいるようでいちいち癇に障った。
「って待て、今私『たち』って言わなかったか?」
「フッ、ようやくこの時が来たか……こっちだ」
口元にニヒルな笑みを張り付けて、武治は枝のように細くて長い腕を掲げた。相手のパスをカットする時のようなキレの良さはさすがというべきか。
ようやく企みの全貌がわかるのか、と思った矢先、目の前の武治の体がゆっくりと後ろに傾いた。スローモーションのように地面へと一直線の武治の体と、反作用するように空中へ投げ出されるピカピカの理系眼鏡。そして武治の額には――――上靴のスリッパが突き刺さっていた。
椅子から転げ落ちた武治は周りの机を巻き込みながら派手に倒れる。拍子に机の脚で後頭部を強打し、「ぐはぁっ」とカエルを踏みつぶしたような声が漏れる。
「おい、大丈夫か!」
僕はさっきまでのひと悶着も忘れて武治に駆け寄った。
「フッ、心配には及ばん……」
といつものように呟いたが、手を当てた鼻先にはシンボルの理系眼鏡は存在せず、前髪に隠れ、後頭部強打の衝撃で半開きになった目からは普段の怜悧な印象は消えうせていた。さらには上靴が直撃した額は赤く腫れていてよけいに不格好だ。
「大丈夫のようだな」
いっそのこと真人間に戻ってくれたらよかったのに。
でも、いったい誰が武治を?
その疑問は一瞬にして晴れた。
扉の前に、投球モーションを終えた後の投手のポーズをとる人がいたからだ。
紺のプリーツスカートに、白のブラウス――夏服の制服を羽織っているのはもちろん女子生徒だ。女子生徒は武治が倒れたことを確認するや否や猪が如く駈け出した。たむろする生徒や乱雑に並べられた机をものともせず、こちらに向かってくる。三国志の英雄のように勇猛果敢なこの女子生徒を僕は嫌というほど知っている。
「武治ッッッッッッ!!!」
女子生徒が叫ぶ。そして同時に天井に頭が届くほど高くジャンプし――空中で体を横にひねり、脚を鞭のように突き出しながら――ローリングソバットを起き上ったばかりの武治に食らわせた。上靴の直撃とは比べ物にならないような鈍い音を立てて、武治は再び床に後頭部から倒れこんだ。
昏倒する武治に女子生徒は容赦なく馬乗りになり、胸ぐらをつかみながらぶんぶんと振り回す。
「なにが『計画は小春が御手洗いに行っている間には完了する』よ、この似非理系野郎! 私がいったい何回トイレと教室を往復したと思ってんのよ! 十一回よ! 十一回!! どんだけ私に手を洗わせれば済むわけ? ねぇ、答えなさいよッ!」
武治は答えない。否、答えられない。
「おーい、東雲。それくらいにしないとヤバいんじゃ……」
それにわざわざ教室―トイレ間を往復しなくてもよかったんじゃないか?
「文句あんの?」
「申し訳ないです……」
断わっておくが、僕は決してヘタレたわけではない。命を守るための必要最低限の防御なのだ。それほどまでに東雲小春(しののめ・こはる)という人間は恐ろしい。
東雲と僕、そして武治は家が近所の幼馴染だ。彼女の小柄な体格と、活発そうな印象を与える栗色のショートヘアーに、しなやかな跳躍を生むすらりとした手足、リスのようにくりくりとした瞳からは小動物的な印象を受けるが、それは大きな間違いだ。
その証拠に、僕の部屋には小学生の時に東雲が拳であけた大穴が壁に二つあるし、中学時代に武治の家で勉強会をしたときは、勉強部屋がデスマッチのリングと化した。あのときの惨劇は武治の右腕に残る傷跡に克明に刻まれている。ボールペンは字を書く道具だという概念が一瞬揺らぎかけた瞬間だった。
根は優しくて面倒見がよく、誰からも慕われるやつなのに、機嫌が悪くなると誰にも手が付けられなくなる。東雲小春はそんな女だ。
「武治ッ! 武治ッ! 武治ッ!」
東雲の怒りは収まらない。
ぐわんぐわんと揺さぶられる武治の顔は徐々に青ざめていって、腕もぐったりと垂らしたままだ。眼鏡は東雲の膝の下で原形を失っていた。しかし。
(すまん、武治。僕にはどうしようもない)
目を閉じ、合掌しようとしたその時だった。
息を切らしながら教室に飛び込んでくる女子生徒の姿があった。
それはあまりに突然のことだった。衝撃に一瞬息が詰まる。しかしここにいるのは不思議ではない。すべての辻褄が合うからだ。僕は妙に納得しながらも、踏み出しかけた足が語る夢現のような光景にしばし我が目を疑った。
彼女の背丈は小柄な東雲よりも少し高いくらいの平均的なものだ。しかし白のブラウスと紺のプリーツスカートの夏服から覗く手足は本当に食事をしているのだろうか、と疑問に思うほど細く頼りない。肌もチューブから出した白の絵の具を直で塗ったように白いが、病的というわけでもなく程良い血色をしている。今は走ったせいかほんのりと頬が上気していて、僕はその姿に一瞬くらりとした酩酊感を覚えた。
さらに彼女は、シャープで切れ長の吸い込まれるような黒い色の瞳を持っている。しかし、気が強そうだという印象は一切抱かせないほど孕んだ空気はおっとりとしている。さらに時折、瞳の奥からはアンニュイとした物思いに耽るような感情が時折垣間見ることができ、その度に胸がくすぐられるような気分になる。息を整えるたびにちらりと覗く歯も恐ろしく歯並びがよく、しかも歯磨き粉のコマーシャルに出られそうなほど真っ白だ。
しかし彼女の一番のチャームポイントと言えば肩まで届く黒髪だ。つむじから毛先の一本一本まで一切の乱れを知らない調律された髪は彼女の歩調に合わせて共に踊るように揺れ、色も彼女の瞳の色よりもさらに深い黒で光の加減によっては青みがかって見えるほどだ。切りそろえられた前髪と、そのすぐ下にある瞳とのコントラストは綺麗を通り越して美しいとさえ思える。
彼女がそう、追坂麓(おいさか・ふもと)である。
「待ってよー、小春ちゃん」
壁に手をつき、肩で息を切らしながら追坂さんは小さく叫んだ。もちろん東雲の耳には届いていない。東雲は今もアブナイ目をしながら武治を揺さぶり続けている。
膝に手を置いた追坂さんがよろよろと僕たちのほうへ向かってくる。
「あ、えと……大丈夫?」
僕は若干しどろもどろになりながらも追坂さんに話しかけた。
「うん、大丈夫、小春ちゃんが、お手洗いから、すごい勢いで、走って行くから、急いで、追いかけたけど、私、運動が、そんなに得意じゃなくて、たはは……」
追坂さんはにかっと笑うと、手に持っていたペットボトルの水をぐびぐびと飲み始めた。半分以上もあったボトルの中身が一瞬にして空になる。最後の一滴を飲み干し、「ふぅ」と柔らかな吐息を洩らす。息切れは止まったみたいだ。
「東雲のやつ、廊下から武治の声が聞こえてたのかよ……どんだけ地獄耳なんだ」
「そりゃ、小春ちゃんは穂積君のことなら何でも分かると思うよ?」
「え、どういうこと?」
追坂さんは信じられない、といった表情をした。
追坂さんのその言い方や態度だと、まるで武治と東雲が恋人同士みたいじゃないか。ないない。僕たちは幼馴染で親しい間柄だけど、恋愛感情とは完全無縁に過ごしてきた。追坂さんだっておそらく幼馴染だから、ということを言いたかったに違いない。
「鮎川君知らないの? 小春ちゃんと穂積君は付き合ってるんだよ。半年くらいになるのかな……結構長いよ?」
「冗談?」
嘘でしょ?
「ほんとだよ」
…………さいですか。
「えーーーっ!?」
こんなに驚いたのは久しぶりだった。超合理主義で完璧主義人間の武治と、超感覚主義で本能の思うままに行動し、細かいことは一切気にしない東雲がカップル……美女と野獣ほどじゃないけど、ほとんど正反対じゃないか。意外すぎる。いや、正反対だからこそくっついたのか? 僕にはその辺の経験が浅すぎた。
見ると、追坂さんは頬をハムスターのように膨らませていた。純粋に可愛かった。
「そんなに驚いたら二人に失礼だよ! 確かに鮎川君は二人と幼馴染だけど――って普通鮎川君が一番初めに気づくよね!? 鈍感すぎるよ。ありえません。まるで鯛焼きをお腹からかぶりつく人くらいありえないよ!!」
「た、鯛焼き?」
なぜ今ここで鯛焼きが?
戸惑う僕に追坂さんは、自信満々に胸を張ってみせた。その時、彼女の豊かな部分が強調されて、僕は一瞬目のやり場に困った。
「鯛焼きって尻尾から食べるものでしょ? だって頭やお腹から食べちゃったら最後に何も詰まってない尻尾だけが残るでしょ? それって空しいと思わない?」
「俺は別に頭から食べるけど、尻尾を空しいと思ったことはないよ。むしろ口直しにちょうどいいくらい」
確か東雲や武治も同意見だったはずだ。
僕の言葉に追坂さんは鳩が豆鉄砲を食らったような表情をした。
「たはは……鮎川君にも同じこと言われちゃったよ。黒餡と尻尾は譲れないんだけど……変なのかな、私」
僕はすかさずフォローを入れた。
「あ、でも僕も黒餡は譲れないよ!」
「へっ? ホントに? 白餡とうぐいす餡は?」
「邪道だね」
目尻を下げて困りきっていた追坂さんの表情がぱぁっと明るくなる。何となく僕は救われたような気持ちになった。やっぱり追坂さんには笑っていてほしいからだろうか。
このとき、僕は初めて追坂さんと普通に会話できてることに気づいた。しどろもどろにならずに、自然と、だ。自慢じゃないが僕は今日のこの瞬間まで追坂さんと口を利いたことがなかった。機会がなかった訳じゃない。話せなかったのだ。好きなのに――好きだから尚更、か。だからこの瞬間が、実はとてつもなく幸せな時間なのではないかと遅蒔きながら気づき始めていた。
「鮎川君、そろそろ危なくないかな。あれ」
追坂さんの指さす方を見ると、そこでは未だに東雲による独壇場が繰り広げられていた。もちろん武治に意識はない。
「おーい、東雲。今自分が何をやってるか気付いてるか」
「小春ちゃーん。いい加減にしないと警察のお世話になっちゃうよー」
僕たちはあくまで慎重に、まるでライオンの檻に近づくように声をかけた。その辺は追坂さんも重々わかっているらしい。
「あ、ふもっち。もう来たんだ。え、下? …………いやああああああっ! 武治ッ!!」
最後の一撃が見事に武治にクリティカルヒットした。
四人が無事(?)食事の席に座った時には昼休みは残りわずかとなっていた。
僕たちは机を四つ並べて、僕の横には武治が、その正面には東雲が、そして僕の正面には追坂さんが腰かける運びとなった。パンやおにぎりのパッケージを開ける音が教室に小気味良いリズムでこだまする。
「武治、これがお前の考えていた作戦なのか?」
僕は食べ終わったパンのパッケージを畳みながらさりげなく武治に尋ねた。
「無論だ。……おや、そこのお姉さんどうしたんですか私を手招きして。こっちに渡ってこいと? 断る。他人に命令されるのは嫌いなんだ……どうしたのかね、鉱一郎クン」
と、この世とあの世を行ったり来たりする奴もいるが概ね大丈夫だろう。
「……浮気したの?」
東雲が赤い染みの残る拳を掲げたので僕と追坂さんは必死になって止めた。
「あ、あー! そろそろ期末テストだね! 追坂さん!」
「そそそ、そうだね! あと一週間しかないのに私ぜんぜん勉強してないよ! たはは……大変だなー」
「フッ……二人とも甘いな。定期試験は二週間前から勉強を始めて然るべきものだぞ。日々の予習復習ももちろん必要だがね」
僕たちに武治も便乗する。しかしやはり眼鏡をしていない武治はどこか頼りないし、事実眼が泳いでいる。しょうがない、自分自身の命がかかっているのだから。
そんな僕たちの必死さが伝わったのか、東雲の眼が獣から人間のそれへと戻っていった。
「え? あと一週間しかないの? 知らなかった」
「フッ、正式に言うとあと八日だけどね」
「別に変わんないじゃん」
「馬鹿を言うな! 学生にとっての一日というのはだな……」
「はいはい、説法はもうこりごりよ」
完全に東雲の興味が逸れるのを確認すると、僕は小さく息を吐いた。見ると、武治の額にはうっすらと汗がにじんでいた。続いて追坂さんに目を向けると、息が合ったのかつぶらな瞳と目が合った。僕が小さく肩をすくめると、彼女は口元を手で覆いながらくすりと笑った。
「ふもっち、どうかしたの?」
察知した東雲が尋ねる。
「ううん、何でもないよ。ね、鮎川君?」
「え、あ――おう」
急に振られたものだからしどろもどろな返事になってしまった。武治は何かを悟ったのか、存在しえない眼鏡を持ち上げるポーズをしながら「フッ」と気障に笑った。東雲も武治の言動を見るや否や、「ふーん」と僕をスーパーで新鮮な野菜を品定めするような目つきで見た。
「あれれ、二人ともどうしたの?」
「どうしたんだろうな……」
嘯いた僕に追坂さんは「たはは……」と苦笑した。
「全然分かんないや。――そうそう、鮎川君。さっき穂積君と『作戦』とか言ってたみたいだけど、何を考えてたの?」
「え――――」
今度こそ僕は完全に凍りついた。聞こえないように耳打ちしたのに、聞こえていないはずなのに――――アイコンタクトで武治に助けを求めたが、カップル揃い踏みで腹を抱えて笑いに耐えていてそれどころじゃなくなっていた。心の中で舌打ちをしながら追坂さんに目線を戻す。彼女は小首をかしげて僕を見ていた。
「と、特に何もないよ……追坂さんにはあまり関係のない話だし」
嘘をつくのも嫌だったので僕は「あまり」とお茶を濁した。
「むう、怪しい」
「べ、別に怪しいとこなんて」
追坂さんはしばらく僕の目をじぃっと覗きこんだが、しばらくして「そうですか」と事もなげに呟いた。視線を逸らすまいと、目を見張っていた僕の瞼がゆっくりと弛緩する。
「怪しいと思ったんだけどなぁ。良かったら今度聞かせてくださいね。アルパカみたいに首を長くして待ってます」
「あ、うん……でもこういうときって普通キリンじゃないの」
「キリンじゃ首が長すぎます」
「そ、そうだね……」
思ったんだけど追坂さんはすごく変わってる子のような気がする。東雲に目を配らせると、横隔膜を痙攣させながら「やっと気づいたか」と肩をすくめた。しょうがないだろ、今日初めて喋ったんだから。しかしだからといって、僕の気持ちが変わることはないのだけれど。
「あと一週間でテストなんだよね。それじゃ、紘一郎の家で勉強会しよっか。もち四人で」
沈黙の間が訪れそうな絶妙なタイミングで東雲が話を差し込んだ。それはありがたいが、どうも聞き捨てならない単語がいくつか混じってたような気がするのは僕だけ?
「待て、なんで東雲が勝手に決める」
「決めちゃ悪い?」
「そうだぞ、紘一郎クン。中学時代はよく君の家で勉強会をやったじゃないか。よもや私たちの友情が褪せてしまったわけではあるまいな?」
武治の口元はいやらしく歪んでいた。つまりは僕で遊んでいるのだ。それに東雲も確実に共犯だ。協力するというのは建前で――確かに人の色恋沙汰は面白いが、当事者としては迷惑極まりない。
「それとこれとは話が別だろ」
「聞いた話によると紘一郎クンは今回の数学と古典がピンチだと聞いているが?」
「っ……!」
間違いではない。僕はこの期末試験は優等生・武治の力を借りないと真剣に危ないのも事実だ。補習で夏休み返上は辛いが、回避のための対価も安くはない。
第一に追坂さんを家に呼ぶなんてできるわけがない。言葉にはできないけれど、好きな女の子を部屋に上げるなんて――二人きりではないにしろ、気が気ではない。第二に東雲と勉強をしたくない。壁のカレンダーやポスターが果たして何枚増えるか想像しただけで恐ろしい。武治も自分の古傷のことを分かって言ってるのだろうか。最後に、二人の策略に乗るのが嫌だ。これだけそろえば十分だろう。
「紘一郎のママさんの焼くチーズタルトが絶品なんだよー。当然ふもっちも行くよね?」
「チーズタルトは関係ないだろ。っていうか本人にそれ、絶対に言うなよ。つけあがるんだから」
僕の母親は正直言って僕たちよりも精神年齢が低い。顔立ちも四十過ぎには見られないというのが本人の自慢らしい。それは皮肉だということをいい加減に気付いてほしいがそれは到底無理だろう。僕にとってはただの無駄な若作りにしか思えない。
「でも、小春ちゃんは穂積君と勉強するって言ってなかったっけ? 二人の邪魔しちゃ悪いし、鮎川君も嫌がってるし……最近、物騒だし」
「なーに言ってんのさ。二人で勉強できなかったくらいで関係がギクシャクするような私たちじゃないって! それにみんなでやったほうが確実にたのしーじゃん」
「ま、まあ強ち追坂にも関係がないわけではないしな。っていうか恥ずかしいことを言わないでくれよ、こはるん」
「…………こはるん?」
「「なっ――――!!!」」
見ると、武治の顔がしまった、とだんだん青ざめていくのが分かった。珍しい武治の狼狽が伝染したように東雲の表情も驚愕一色に染まっていく。なるほど。
「おやおや、アツいねぇお二人さん」
さっきの意趣返しだ。
「そういえば小春ちゃんだって穂積君のことを『たっくん』って呼んじゃう時があるもんねー」
「ちょっとふもっち! それは言わない約束でしょ!」
東雲とは昔から男友達同然に付き合ってきた間柄だから、こんな女の子らしい一面を見るのは何とも新鮮だった。それに、なにより二人の間に漂う何とも形容しがたい甘い雰囲気が羨ましくてたまらなかった。
「たっく……武治も変なこと言わないでよねっ。ばか」
と、先ほどの猛牛っぷりはなりを潜めて体を乗り出し、武治をぽかぽかと殴っている。「すまない」と謝る武治も嬉しそうだ。
「ところで鮎川君」
「ん?」
「さっき、穂積君が『強ち追坂にも関係がないわけではない』って言ったけどどういう意味なのかな」
「えっと」
この騒動に紛れていたけど、そうだ武治がそんな余計なことを言いやがったような記憶が。そうなってくると「こはるん」発言も、この会話を誘うための隠れ蓑のようにも思えてくる。けどまぁあの反応からしてマジ失言だったんだろう。
僕の答えを待つ追坂さんは顎に指を当てながら「んー」とミミズクのように首をきょろきょろとさせている。
「さあ。『たっくん』はワケの分からんことばかり言うからな。気にしなくてもいいんじゃないかな」
今度武治にも「たっくん」と呼んでやろう。
「ん、そうだよねー。そ、れ、と、鮎川君もあんまり二人をからかっちゃだめだからね。小春ちゃんの親友として追坂麓が許しません」
「お、おう」
怒っているような台詞でも全然怒っているように見えないのが不思議だ。それどころか頬を少し膨らませる仕草なんてものすごく可愛らしい。
「にやけてる」
追坂さんが半目で僕をじぃと見る。
「は、話はちゃんと理解できてるんだ。これはその……ふざけてるワケじゃなくて」
追坂さんが可愛くて無意識ににやけたなんて言えるわけがない。
「うーん、ホントかなぁ」
「ホントだってば」
僕を訝るような目。
「じゃあね、約束の握手しましょう」
「え、あ、おう」
追坂さんと、握手?
突然の提案に思わず承諾してしまったが、言葉の意味を理解するとかぁっっと顔が熱くなった。気がつくと追坂さんの手はさっそく俺に向かって差し伸べられていた。後に引ける状況ではもうすでに無くなっていた。僕はズボンでこっそりと手をごしごし擦り、差し伸べられた手におずおずと自分のそれを重ねた。
目は、合わせていられなかった。合わせた瞬間、僕は僕でいられる自信がなかった。ただでさえ、手に伝わる温もりに心臓が止まりそうだというのに。
ほっそりとした外見とは裏腹に、追坂さんの女の子らしい小さな手は、びっくりするくらいふにゃふにゃしていて柔らかい。僕の手の骨と追坂さんの手の骨がぶつかるその感触も恐ろしいほどリアルだ。肌も絹織物のようにすべすべで、今にも透き通ってしまいそうなほどだ。
そしてなにより、あったかい。
六月になって暑さも顔を出し始めた時期にも関わらず、いつまでも握っていたい、そんなあたたかさをはらんでいる。女の子と付き合ったらきっとこの感覚をたくさん味わうことができるのだろうな、と思うとこそばゆくもあり、恥ずかしかった。
「はい、約束完了ーっと」
ふふふ、と追坂さんが微笑んでぱっと手を離した。
何となく、いや、ものすごく口惜しかった。
「でも、ほんとに鮎川君ちにお邪魔しても大丈夫なのかな?」
「あー、それはたぶん大丈夫じゃないかな」
抵抗はあるけれど、ここまでやってきてしまったら、断るに断れない。
「よかった、小春ちゃんは強引なところがあるから心配してたんだー」
「慣れっこだよ」
追坂さんはふふっ、と笑い「楽しみだねっ」と弾むような声で言った。
「僕も楽しみだよ。……あー、そういえば追坂さんはさっき『このごろ物騒』って言ったけど、何かあったの?」
「やれやれ、鉱一郎クンそんなことも知らないのか」
「鮎川は『いろいろ』遅れてるねぇ」
余計なお世話だ、と東雲を睨みつける。
僕以外の全員が知っているということはそんなに有名な話なのだろうか。全く耳に入ってこなかっただけに驚いた。一応朝と夜にニュースを見て、新聞も見出し程度には読んでいるはずなのだけど。それともあまりにローカルな事件なのでメディアが報道しないだけなのか。
追坂さんが言葉を選びながら話す。
「えっと、たしか最近市内で大量の野良犬や野良猫が何者かに殺されるっていう事件が起きてるの」
「話じゃ結構エグい殺され方らしいよ。首が引きちぎられたり、内蔵がぐちゃぐちゃに飛び出てたりさ」
「やめてよ、小春ちゃん」
追坂さんが耳をふさいで肩をすぼめる。
「でも、小春の言ってることは嘘じゃないことは確かだ。事実、この学校にも現場を目撃した生徒が結構いるらしいからな。まぁ、犯人は犬猫を殺すことに快感を求めているような人間だ。いつ人間を襲うようになるかわからない。最悪の事態が起こる前に早く警察につかまってほしいものだ」
「なるほどな」
そんな危険人物がこの街にいたなんて信じられなかった。話を聞いてみてから僕は、そういえば街の雰囲気が普段とは違っていたような気がしたように思えてきた。僕は警戒心を微塵も抱かずに生活していたことが急に恐ろしくなってぞっとした。
「でも、そんな変な人がいるのは不気味だよね」
「そうだな、警戒するに越したことはないだろうね」
「まっ、ふもっちのことは私が守るよっ」
そういうと東雲は追坂さんに抱きついた。追坂さんは目をぱちくりさせて「ちょっと、小春ちゃん」と、頬を赤らめた。その様子を見た武治はあたふたとしながら、
「お、おい小春っ……そ、そんな危ない事を私は認めるわけにはいかないからな……」
「ふふっ、穂積君って彼女思いだね」
追坂さんが冷やかすとカップルは揃って赤面した。
やがて予鈴のチャイムが鳴り、自然と昼食はお開きとなった。パンは依然として机の上に残っていて、僕はその中の二つほどを鞄に入れて、武治と相談した上で腹をすかした誰かに転売することに決めた。
追坂さんと東雲が自分の席に戻っていくのを見計らってから、僕は後ろの席で授業の準備をする武治にこっそりと告げた。
「今日はその、サンキューな」
「フッ、礼には及ばないさ。それに鉱一郎クンと追坂がカップルになってくれればそれはそれで面白い」
やっぱり遊んでいやがったか。
「しかし鉱一郎クン、私たちにできることは微々たるものだ。あとは鉱一郎クンの努力次第だ。がんばれよ」
「ああ、分かってるさ」
淡々と受け答えする僕だったが、その感謝は計り知れない。何せ、昨日までろくに会話すらしたことも無かったのだ。そう、これからなのだ。少々強引な手もあったが、それも許せてしまえそうだった。
「まっ、これから鉱一郎クンがどうして追坂を好きになったのか、それを聞くのも楽しそうだ。覚悟しておくことだね」
「お前には死んでも話さねぇよ。ところで、何で僕が追坂さんを好きって知ってるんだよ」
一番の疑問だった。僕は誰かに喋った記憶なんて無いからだ。
「そんなの紘一郎クンを見ていれば自ずとわかることじゃないか。クラス内で言うと、そうだな……『犬猫惨殺事件』くらい有名な話かもしれないね。フッ、知らないのは紘一郎クンと肝心の追坂くらいじゃないだろうか」
本鈴の鐘の音が僕の背筋をつぅっとなぞった。
○
つい数時間前の光景が走馬灯のように流れていった。最期の瞬間を迎えるにあたっての儀式のように、もしくは僕をこの世に留めておこうという何者かの放った糸がすぅっと伸びていくかのように。しかし、僕がどれだけ後悔と怨嗟の言葉を並べても、次の瞬間は訪れない。
僕が目を閉じてから相当な時間が経過している。僕は一瞬、目を開けてみようかという好奇心に駆られた。しかし、目を開けた瞬間そこに何が広がっているのか想像するとすぐに恐ろしくなった。目を開いたそこは死後の世界かもしれないのだ。もしそうだった場合、僕は無抵抗に殺されたことを嘆くべきだろうか、それとも痛みを感じることなくこの世と袂を分かてたことを喜ぶべきなのだろうか。そしてもしも目を開けた先がまだこの世であるならば――僕はまた彼女の姿を網膜に焼きつけなければならないのだ。好奇心と恐怖の相剋。逡巡し、せめぎ合う間にも死は僕の肩に手を置いている。
その刹那。
「ようやく無辜の民を襲う刻がやってきたか! まつれぬ鬼よ!」
威勢の良い声が聞こえた。声の質からして女性の声だった。しかし放たれた鬨の声からは女性らしからぬ勇ましさがにじみ出ている。
目を閉じている先の世界で、僕の目の前から死が遠ざかったような気がした。
キイィン――――
突如響いた金属同士を激しく打ち合った音に僕は思わず目を開けた。
目の前の世界はやはり数分前とは変らぬ世界だった。しかし、あのこびりつくような空気は様相を変異させていた。それはそう、まるで灼熱の炎で焼かれたようだった。今は燃えかすのように空気の残滓がかすかにそこに残っているだけだった。
暗闇の向こうに人らしき影が二つ見えた。ぼんやりとした輪郭が徐々にディファインされていく。一人には見覚えがある。
地面すれすれをたゆたう、指先から枝木のように伸びた十本の刃。漆黒の闇を突き刺す、爛々と輝く赤い目。人外のなりを支えるのは、それにはあまりには心もとない少女の肉体だ。紅く血に染まった白のブラウスの奥から映し出される、ほっそりとした肩口やしなやかな腰付きのシルエットは、動物を屠るにはあまりに頼りなかった。
しかし、彼女は実際に動物たちを惨殺している。僕はその現場を見ていないが、この死骸の山と彼女の勝ち誇るような、殺戮を恍惚と悦ぶ表情がそれを証明していた。僕に向けられていた残酷な好奇心はもう一人に向けられている。
そのもう一人の姿は闇にまぎれて正体が判然としない。おそらく着物を着た、小柄な人物ということだけしかわからなかった。それにしても、こんな場所へ赴くなんて一体何者なのだろう。警察ではないとは言動で即座に分かった。僕はこの非現実すぎる光景に順応してきたのか、恐怖を通り越した冷静な視線で着物の人物を見ていた。
「幽世の者か。待ちわびたぞ。その様子だと、<契約者>はまだいないようだが……それで私をどうにかできるとでもまさか思ってないだろうな?」
僕の見知った声が、僕を非現実のさらなる深淵へと誘う。
しかしその声の中に数時間前の彼女――追坂麓はいなかった。
はにかむような笑顔も、鯛焼きについて語る時の熱っぽさも、越冬前のリスのように頬を膨らます姿も――何も残ってはいなかった。今、僕の目の前にいるのは殺戮者だ。非現実に毒されつつある思考の中で、「どうして」という彼女への疑問は未だに解けていなかった。
「見くびるな、茨木童子! 貴様など妾一人の力でどうにでもなるわ」
着物の人物が叫ぶ。
次の瞬間、常闇のようであった世界が太陽を取り戻したように明るくなった。着物の人物の右手から炎が放たれていたのだ。灼熱に燃える炎は、まるで飼いならされた猟犬のように彼女の手の中で自在に揺れていた。
「出でよ、<灼華炎槍>!!」
猟犬が放たれるように、着物の人物の手から炎が伸びる。火柱はみるみる彼女の背丈を超え、やがて炎の向こう側から手品のように一振りの刃が姿を現した。
暗闇の中でも明瞭に輝く槍は、その刀身を窶していた炎のような色をしていた。刃先から柄まで紅蓮の色を身にまとった得物は、まるで空気を焼いた炎が現実に具現したかのようだった。
あり得ない光景だった。もしかすることこれは夢なのかもしれない。追坂さんが異形の姿をした「連続犬猫惨殺魔」で、手の中から炎を出しさらにその奥から槍を取り出し鬼、やイバラキドウジなどと言いながら槍をかざす正体不明の人物と対峙している。こんなのどれだけ考えても現実ではありえない。ただ、僕の五感を刺激する感覚が夢にしてはあまりに出来過ぎていることが、やはり僕を混乱させるのだ。
着物の人物が「追坂麓」に矛先を向ける。それが合図だった。
弾かれたように着物の人物は「追坂麓」の懐に飛び込む。人間にしては考えられないほどの瞬発力とスピードだった。「追坂麓」は油断していたのか防御が少し遅れ、矛先が制服の腕を切り裂き、紅い血が飛び散った。
僕は思わず目をそむけた。目の前で好きな女の子が切られたのだ。しかし、目の前にいるのは本当に僕の知っている追坂麓と同一人物なのだろうか。もしかすると同じ顔をした別人や、追坂さんは誰かに操られているということは考えられないだろうか。追坂さんとは一日しか話したことがないけれど、とても「犬猫惨殺魔」だとは信じられない。着物の人物も追坂さんのことを名前で呼ばず、鬼やイバラキドウジなどと呼んでいるではないか。それにあの長く伸びた指先が彼女との同一感を曖昧にしていた。希望的観測なのだろうか。
「追坂麓」は自身に刻まれた傷を見て嬉しげに笑った。舌で滴る血液を舐め取ると、十本の刃で着物の人物に襲いかかった。
蛇のように自在に揺れながら襲いかかる十本の刃はとても一本の槍では防ぎきれる量ではなかった。しかし、着物の人物は襲いかかる一手一手を器用にはじき返していく。両者とも相当な手慣れだった。
しかし、一手を弾いても次の一手が上下左右四方八方から雨あられのように浴びせられては、防御するにも限界というものがある。「追坂麓」の放った一撃が着物の人物の太ももに深々と突き刺さった。
着物の人物は痛みに表情を歪めながら膝から崩れ、「追坂麓」は肉を貫く感覚に酔いしれた。
「追坂麓」がとどめを刺さんと右手を大きく振りかぶる。
その時。
着物の人物の表情がさらに歪んだ。痛覚から、何かを確信した笑みへと。
「宴に酔いしれるにはまだ早くはないか? 茨木よ」
「それは負け惜しみか? 酒の肴にでも聞いておこう」
「それはどうかな」
大口を開けた五本の刃が着物の人物に降り注ぐ。瞬きする間に彼女は犬猫と同様に屠られる――はずだった。着物の人物が消えたのだ。いや、よく見ると彼女はいつの間にか「追坂さん」の背後に回り込んでいた。
それには「追坂麓」も驚き、
「いつの間にッ」
「だから盃を傾けるには早いと言ったろう? 酔った目では妾がこの槍を使って駒の如く一回転したことに気づくことはできるはずがあるまい」
着物の人物は小さく息を吐き捨てた。
「どれ、一つ酔い覚ましといこうか!」
携えた槍を構えなおすと、蜂のような速さで矛先が「追坂麓」の腰を捉えた。しかし、どれだけ深く突き刺さっても「追坂麓」は表情一つ変えない。
「ほう、この期に及んで躊躇ったか? 腰を刺された程度では私は倒れないぞ。よもや私に情が移ったわけではないだろうな。敵を見くびると、そのツケは死をもって返されることとなることを貴様が知らないこわけはあるまい」
「口が達者な奴だ。油断しておるのは貴様のほうではないか? 茨木。妾のことを忘れたとは言わせんぞ!」
憤怒の表情を浮かべながら、槍を「追坂麓」の腰から引き抜く。
「え……?」
僕の口から思わず言葉が漏れる。
引き抜かれた緋色の槍が引き連れてきたのは大量の血液ではなかった。炎。「追坂麓」の傷口からは炎が溢れだしていたのだ。まるで血液を燃料に燃やしているかのように燃えさかる赤黒い炎は、たちまち「追坂麓」の全身を包んだ。
「そうか……その炎、ようやく思い出したぞ。貴様は『あの男』の隣に立っていた――」
全身を焼かれ、限界を迎えた「追坂麓」はゆっくりと崩れていく。しかし指先から伸びる刃は依然として着物の人物に向けられている。
「気付くのが遅い。愚かな鬼よ」
着物の人物が「追坂麓」につかと歩み寄る。射抜くような視線と、血に濡れた緋色の矛先はあらゆるものを貫くような鋭さを孕んでいた。両手で構えた槍が振りかざされる。駄目だ。僕はとっさにそんな言葉を放っていた。
途端。山おろしのような突風が路地を吹きぬけた。魔物が慟哭するような強風から身を守るため僕は小さくうずくまった。
「あなたに計画の邪魔をさせるわけにはいかないわ、メノウ」
轟く風音の中に、聞き覚えのない声が聞こえると同時に風がやんだ。まるでエアコンのコンセントをいきなり抜いたように世界は一瞬にして元の無風状態に戻った。不思議なことにあれだけの強風に見舞われたにもかかわらず、僕の立つ路地の光景は何一つとして変ってなかった。ただ一つ――「追坂麓」の姿が無くなっていたのを除いて。
「くそっ、逃したか!」
着物の人物――風の中に紛れて聞こえた声からは「メノウ」と呼ばれていた少女は舌打ちをしながら灼炎の槍を地面に叩きつけた。槍は派手な音を立てると、小さな火柱を立てながら消えてしまった。
怒りが収まらないのか、メノウは僕を睨みつけると、大股で僕まで近づいてきた。
「おい」
ドスの利いたハスキーな声で地面に座る僕を呼ぶ。咄嗟に僕は身構えた。
異形の姿をした「追坂麓」をねじ伏せてしまうような者だ。それに炎を操っていたのだから普通の人間ではない。鬼。そう、彼女も鬼なのかもしれない。とどめを刺そうとするところを邪魔したから腹いせに僕を――
「あの女はお前の知り合いか?」
メノウは不機嫌そうに僕に訊ねた。攻撃する気は毛頭なさそうだった。
僕は小さく頷く。頭が混乱しすぎていて言葉が全く出てこない。メノウはきっとすべてを知っている。僕は彼女に聞きたいことが山ほどあるはずなのに、肝心の質問を何一つとして向けることはできなかった。
「心配するな。あの女は何も知らない。何も殺していない。鬼に心を囚われているだけだ――<破門の衆>によってな」
ハモンノシュウ? メノウはずっと僕の聞いた事のない単語ばかりを口走っている。ケイヤクシャ――契約者だろうか――だったりシャッカエンソウだったり…………そもそも彼女が敵なのか味方なのか、何者なのか判然としていないのだ。
それにメノウの言葉を信じるならば追坂さんは何も知らないということになる。ということは僕の見ていた「追坂麓」は一体何者なのだろう。鬼、と言っているがそれは何かの比喩なのだろうか。
「まだ釈然としてないようだな。しょうがないといえばしょうがないが――それにしても」
メノウが僕の顔を覗き込んだ。僕は初めてメノウの顔をじっくりと眺めることができた。
少年のような顔立ちの少女だった。きりっとした目鼻立ちに、薄い唇は美少年と言っても通じる。薄紅色の――ちょうど名前の通りのメノウのような色の髪の毛をおかっぱ頭にしているのと、黒地の振袖が微かに少女としての矜持を保っていた。
「この男子が妾の<契約者>となるのか……ふむ、線は細いが頼りないわけでもない。及第点と言ったところか。それよりも早くせねば時間がない」
メノウはさっきからまじまじと僕のことを観察している。それにまた<契約者>という単語を耳にした。しかも文脈からするとどうやら僕がその契約者らしい。勘弁願いたい。僕は早くこのわけのわからない状況から解放されたいのだ。こんな非日常とは早く袂を分かちたい。
メノウはやれやれと肩をすくめると、いきなり左腕の袖を捲し上げた。現れた白い腕は器用に槍を振り回せるとは思えないほどほっそりとしていた。メノウはその玉のような肌に爪を突き立てた。深々と突き刺さった爪は皮膚を優に貫通し、忽ち赤い血が傷口からあふれ出した。
メノウはゆっくりと目を閉じると小さく言葉を紡いだ。
――――冥王の名のもとに我が血潮を以て汝に操を捧げ、ここに盟約を結ばん。是を以て汝は我が主となれり――――
メノウが愛おしそうに傷口から滴る血液を口に含む。そして、傷口から口が離れると蟲惑的な表情で僕を見つめた。思わず心臓が拍動を強める。
メノウと正面で目が合った。瑪瑙色の水晶体の中に僕の姿が映っていた。ひどくこわばった表情をしていた。しかしその姿もメノウが目を閉じると見えなくなってしまった。
メノウの顔が迫る。僕は一歩後退する。逃がすまいとメノウが僕の頭を抱いた。僕は身動きが取れなくなった。そして――――メノウはたっぷりと血液を含んだ唇で僕の口を塞いだ。
血液の鉄さび臭い味が僕の口内を支配していく。歯に染みわたり、舌の上を滑り、喉の奥へと泳いでいく――。血液の感覚はどこまでもリアルなのに、触れ合ってるはずのメノウの唇の感覚が異常なまでに乏しい。僕が目線を泳がせると、真っ白と思っていたメノウの肌が実は透明に透けていたことに気付いた。
やっぱり人間じゃないんだ。メノウも「追坂麓」も……自然と僕はその現実を受け入れていた。まるでメノウの血液が僕の全身に行き渡っていくように。疲れた。そうだ、僕は疲れてしまった。色んな事が起きすぎてもう非現実的な事象に驚いたり、反証を述べる余裕は残っていなかった。
おそらく命が助かったことと、追坂さんが僕の知っている追坂麓のままでいてくれるということが緊張の糸を切ったのだと思う。山のように残る疑問はその二つが隠してしまった。たぶん、次に目覚めたときに宿題の残る夏休みの最終日みたいに懊悩するのだろう。
メノウの唇が離れる。その瞬間に一瞬だけ唇の感触が伝ったような気がした。メノウの輪郭もずいぶんとはっきりしたように見受けることができた。
ゆっくりと意識が遠ざかっていく。目を閉じたらその先は僕の部屋のベッドの上かそれとも教室の机の上なら面白いだろうな、と思った。
メノウの表情が瞼をこじ開けるように網膜に焼き付いて離れない。すぐにでも目を閉じてしまえるはずなのに、僕はどうしてこんなに名残惜しそうに目を閉ざそうとしているのだろう。
「――――ごめんなさい」
僕の視界が闇に閉ざされる寸前に、メノウの唇がそう紡ぎだしたかのように見えた。
第二章 流転
リノリウムの廊下を抜けると、開けた場所に出た。三階まで吹き抜けの構造になっているその場所には大勢の人が集まっていて、静寂としていた廊下とは違い靴音が響かない程度の賑やかさに包まれていた。外来受付には小さな列ができていて、整然と並べられたベンチには今か今かと待ちわびる人たちが各々の時間を過ごしていた。平日の夕方にも関わらず予想外に人が多い。さすが市内一規模の大きい病院だと感心はするけれど、これでは見つけられないじゃないか。
僕が目覚めると、そこは病院のベッドの上だった。白い天井に白いシーツ、点滴台から伸びるチューブは腕につながっていて、その腕にも真っ白な包帯が巻かれていた。あまりの白の多さに一瞬茫然自失となった。
母さんは僕が目覚めるのを待っていたように、ソファーからむっくりと起きだし、目覚めた僕を確認するや否や幼子のようにぼろぼろと涙を流した。驟雨のように涙を流す目はすでに腫れ上がっていて、僕は母さんを泣き止ませながら小さく「ありがとう」と言った。
気を失っていたこと以外には小さな擦り傷と打ち身しか無かったから病院の先生からも軽い問診程度で退院が許可されたし、警察の事情聴取もたいした時間はかからなかった。
そう、僕は世間を騒がせている「連続犬猫惨殺魔」に襲われその場で気を失っていたのだ。しかし僕は目覚めたとき事件について何も覚えていなかった。いや、記憶が抜け落ちたのではない。事件についてのすべての光景にモザイクがかかってしまったように、記憶が判然としないのだ。だから事件の顛末は覚えている。何者かが僕を襲い、殺されかけたところを誰かが助けてくれた。しかし犯人や命の恩人の容貌はまったく思い出せない。そこだけ空間が切り取られてしまったようにまったく「見る」ことができなくなっているのだ。だからどれだけ警察に話しても彼らにとって何も有益な情報は含まれていないし、主治医からも「事件のショックが強いようなので」とストップがかかったせいで事情聴取も早く終わったのだ。同様にほとんど記憶の無い僕にマスコミが寄り付くことも無かった。しかし、僕にはPTSDのような強いトラウマは何一つとして刻まれていなかった。繰り返しになるけれど、僕には事件についての肝心な記憶が無いから。
問診も済んで怪我の程度も軽かったのでもうこの病院にとどまる理由はない。けれど僕は母さんの乗るタクシーに一緒に乗って帰らなかった。なぜ、僕は病院にとどまっているのか。それは一通のメールが原因である。
送り主は悪友・穂積武治だった。彼は手短に「中央外来で待っていてくれ」という文面をよこしたのだ。しかもタイミングが僕の問診が終わると同時だったため、また何かよからぬ策略の香りがしたため電話してみたが一向に通じず、しかしかといって無視するのも信条に反するため、こうして中央外来へ足を向けたのにも関わらず武治の姿は一向に見当たらない。僕は軽い苛立ちを覚えた。
ベンチに座る人たちをまじまじと見つめる。水筒のお茶を分け合って飲んでいる老夫婦に、松葉杖をついた大学生風の体格のいい男、泣きじゃくる子供をあやす母親――そして、僕はその中に一人だけ見知った顔を見つけた。
「追坂さん?」
僕は近づいて彼女名前を呼んだ。
「ふぇ? あ、鮎川君!? どうしてここにいるのっ?」
追坂さんは目を回し、しどろもどろになりながら僕を見た。
「どうしてって、ここに入院してたからだけど。一日だけだけどね。追坂さんこそどうしたの? 病院にいるってことはどこか悪いの?」
そういえば僕が声をかける前の追坂さんはどこか定まらない視線を宙に浮かせていたように見えた。本当に体調が悪いのかもしれない。僕は少し心配になった。
「いや、そうじゃないの……」
「誰かのお見舞い?」
「えっとそうでもなくて……あっ、いや、えと、その、あながち間違ってないけど……たはは……」
追坂さんはさらに眼をくるくる回しながら歯切れの悪い返事をした。
「あ、聞いちゃ駄目だったかな」
誰にだって話せない秘密はある。僕は不躾にもそこに踏み込もうとしていたのかもしれない。それなら僕は今すぐここから立ち去るべきだろう。僕は軽く挨拶をして、踵を返そうとした――そのとき。追坂さんは小さく声をあげて僕を呼びとめた。
「ち、ちがうのっ!」追坂さんは僕の腕をくいと掴んだ。猫に甘噛みされたような感覚が伝わり、一瞬頭の中が真っ白になった。「あ、鮎川君に関係のない話じゃないのっ」
喋り終えると、追坂さんは「たはは……」と照れたように笑いながら腕を引っ込めた。その拍子に彼女の肘が、脇に置いてあった紙袋に触れて、中身が床に散乱した。
アルミニウム製の容器の中からのぞく薄黄色と茶色とほんの少しの黒のコントラスト。ガスバーナーによって適度に表現されたその色彩は見るだけで製作者の情熱と技術の高さがうかがえる。パリパリの表面ととろりとした内面のギャップを楽しめるうえに、苦すぎず、かといって甘すぎないテイストはまさに大人への過渡期の高校生の姿を彷彿とさせる。そう、紙袋からこぼれ出たのは僕が死ぬ前に食べたいプリントップ三に選ぶ、駅前のケーキ屋さんの特性プリンだった。
「はわわわわ……」
「プリンなら無事みたいだぞ。衝撃に耐えられるくらいの頑強さを備えながらも口当たりはシルクみたいに滑らかなのがこのプリンの特徴だから」
久々にお目にかかったせいか余計な講評までしてしまった。
僕は転がったプリンをすべて紙袋に仕舞い、追坂さんの手に握らせた。しかし、追坂さんの動揺は収まらない。ついにはがくっと項垂れて、頭を抱えてしまった。
「落としてしまった手前で申し訳ないんだけど」顔を上げた追坂さんがぼそぼそと口ずさむ。「これは、その……鮎川君のプリンなのです」
「僕の?」
「はい。快気祝いです」
僕はその時何者かの視線を感じた。目を凝らすと、柱の陰に夏服を着た男子高校生と女子高生が見えたような気がした。一人はやたらと気障な眼鏡野郎で、もう一人はしきりにガンを飛ばす栗色の髪の女子に見えたのは気のせい、ではないようだ。すぐに隠れるあたりが怪しすぎる。追坂さんは気付いてないようだけど。
「本当は、鮎川君の後ろに忍び寄って後ろから冷たいプリンを首筋に当てると鮎川君は喜ぶ――って小春ちゃんが言ってたからやろうと思ってたんだけど、たはは、失敗しちゃいました」
「ほほう、なるほど」
バカップルの潜む柱をもう一睨みする。気配は消えていた。逃げ足の速い奴らめ。
これですべてが繋がった。
武治がここに僕を呼びだしたのは追坂さんと鉢合わせさせるためで、追坂さんが初め歯に何かが挟まったような話し方ばかりしていたのは、東雲が馬鹿なことを追坂さんにけしかけたからだ。しかし事は奴らの思うようには進まなかった。それはそれで清々しかったが、僕には一つ腑に落ちないことがあった。
「鮎川君。表情が何だか怖いよ……?」
「馬鹿なことを考えて追坂さんを巻き込んだ大バカップルにどうお灸を据えてやろうかと考えてるだけだよ」
そう、僕は追坂さんに会えた事を喜んでいる。まさか学校外で会えるとは思っていないから心なしか緊張もしている。けれど、こんなあからさまな形での対面はだれも望んでいない。高校から病院まではそれなりに距離がある。暑い中、ここまで来るのは骨だっただろう。僕のために何かをしてくれる武治たちの気持ちはありがたいけれど、追坂さんに迷惑がかかるようなことだけはしてほしくなかった。
「たはは……そんなことしなくていいよ」
「でもっ」
「私だって鮎川君のお見舞いに来たかったもん。昨日あんなに楽しく話した人が病院に運ばれたって聞いたら、心配になるでしょ? 私は私の意志でここまで来たんだよ。巻き込まれたんじゃなくて、巻かれに行ったんだよ。だから、だいじょうぶ。ありがと」
「そ、そうなんだ……」
僕はこれ以上何も言えなかった。僕を見る追坂さんの瞳。そこには確かに強い意志が宿っていて――後ろめたいと考えていた僕の弱さを照らすかのようだった。一本芯の通ったその態度が、温かさが無機質で味気ないリノリウムの病院では眩しくて仕方がなかった。
そして――
「でも、失敗しちゃいました。たはは……小春ちゃんに怒られるな」
「追坂さんは怒られないよ」
「どうしてです?」
「東雲は行動に失敗した追坂さんよりも先に、失敗するようなずさんな計画を立てた武治をボコボコにするだろうから。だから、追坂さんには危害は及ばない」
追坂さんはくすりと笑った。
「たしかに、たしかにそうかもしれないね」
追坂さんはベンチからひょいと立ちあがった。プリーツが軽やかに踊り、僕たちの視線はほんの少しだけ近くなった。それだけで、僕はクーラーの設定温度をほんの少しだけ下げたくなった。
追坂さんが僕に両手を突き出した。その手に握られているのは――プリンの入った紙袋。
「改めましてっ、退院おめでとう。鮎川君」
そして――
そして僕は、微笑んだ彼女の睫毛からこぼれ出す、飾り気のない純粋な優しさにますます惹かれているようだった。
「ありがとう」
僕は紙袋を受け取った。その拍子に、悪戯な紙袋の把手が僕たちの指を触れ合わせた。ほのかな熱源。機能的に整えられた病院に、不確かな僕の鼓動が反響する。前言撤回、もう少し、もう少しだけクーラーの温度を下げてもいいだろうか。外はたぶん、もっと暑いのだろうけれど。
再びリノリウムの廊下を抜け自動ドアから病院の外に出ると、ぬっとした暑さが僕たちを包んだ。空調の効いた病院内とは大違いだ。梅雨も最終楽章に突入しつつあり、湿気を含んだこの暑さも期末テストが終わるころにはからっとした暑さに変わることだろう。もっとも、その分気温は上がるのだけれど。一瞬、病院の中に引き返そうかと思ったのは僕だけではなかったようだ。
「ヒートアイランドを恨みます」
「恨んでも仕方ないよ。早くバスに乗ろう。それよりも、プリン痛まないかな。せっかくみんなから貰ったのに駄目にしたら申し訳ない」
どうやらプリンを買うのを提案したのは東雲だったようだ。さすが腐れ縁。僕の趣味を嫌というほど理解してるじゃないか。もっとも、追坂さんは未だに東雲と武治は「用事」があって病院まで来れなかったというのを信じているようだけど。
「そんなに美味しいの?」
「まあね。語り出したら日が暮れるほどに」
「そ、それはすごいね……」
それから僕たちはちょうどよく到着したバスに乗って駅前を目指した。そこから自転車だと十五分のところに僕の家はある。しかし今日は徒歩なので、歩くには少し時間がかかるかもしれない。高校までバスで通う僕は、市内のバスのことは大方知っている。もしものときはバスで帰っても迷うことはないだろう。けれど、追坂さんはどこに住んでいるのだろう。僕たちの高校は私立なので県外からも通学が可能である。しかし僕のお見舞いに来られるだけの余裕があるということは同じ市内か、もしくは近隣の市なのかもしれない。僕はそれをそれとなく訊ねてみようかと思ったが、何となく憚られたのでやめた。
平日のこの時間のバスはがらんとしていて座席が選びたい放題だった。これがもう少し時間が経つと、通勤ラッシュですし詰め状態になる。通学の時も同じ苦杯を味わっているので、空っぽのバスは何となく拍子抜けた感じがした。
「私、一番後ろの座席が好きなんだけど、それでもいいかな?」
僕はそれに快く頷いて、窓際に追坂さんが、少し間隔をおいて僕が隣に座った。座れるだけ万々歳だ。僕たち以外に数人の乗客を乗せたバスは滑るように病院を後にした。
数分ぶりに久闊を叙したエアコンの風が僕の髪の毛をそよぎ、頬を撫でた。心地よさに目を閉じるが、あまりに何も聞こえないので眠ってしまいそうになり目を開けた。追坂さんがいる手前、おいそれと眠るわけにはいかない。
聞こえるのはエンジン音と、エアコンのファンが微かに唸る音。通勤客の独り言も、ヘッドホンから漏れる音楽もない。毎日憧れるバスの光景のはずなのに、僕はひどく落ち着かない気持ちになった。今の季節、悩ましい汗のニオイもない。届くのはエアコンに乗せて運ばれてくるシャンプーの香り。シャンプー? そうだ。僕はぼんやりと追坂さんの横顔を見た。
追坂さんは窓にもたれかかって静かに寝息を立てていた。恐ろしいまでの早業だ。
繊細な黒髪が、風に揺られ真っ白な玉のような肌の上を滑る。さらに時折、閉じられた瞼から伸びる長い睫毛の弦をかき鳴らすように揺らした。奏でる音色はすぅ、と可愛らしく唇から漏れる吐息。上下する胸と肩、微かに動く指先。あまりまじまじと見つめてはいけないと分かっていても、僕は追坂さんの寝顔に釘付けになっていた。そして僕は不思議なことに、追坂さんの寝顔を見てドキドキしたり、眠ってしまったことを残念に思うことは無かった。月並みにも、僕は追坂さんを一種の洗練された絵画を眺めるように見ていたのかもしれない。
がたん。鑑賞の時間は終わりを告げる。市バスというものは須く揺れるものである。それを快感か不快かと考えるかは別の話として、揺れた拍子に窓にもたれかかっていた追坂さんの頭がごちんと鈍い音を立てた。
「いてて…………」はっと顔を上げた追坂さんが僕を見る。「も、もしかして私寝てたのかな?」
「ぐっすりと」
僕が答えると追坂さんは顔を真っ赤にした。
「ご、ごめんなさいっ! そのですね、バスの程よい揺れが何とも心地よくってですね……それで、つい、揺りかごの中にいるときのことを思い出してしまったのです。うー……」
「あっ、だからあんな寝言を言ってたんだな」
「寝言っ?!」
いやああああっ、と追坂さんがさらに真っ赤になって顔を必死で覆う。僕はもう少し追坂さんをからかってみたい衝動に駆られた。
「あれは何て言ってたかな……」
「い、言わなくていいよっ!」
追坂さんが腕をぶんぶんと振り回す。
「宇治金時に、ティラノサウルスに……フェルマーの最終定理、だったかな」
「私の夢の中ってどうなってたのっ?!」
「最後はライオンにチョークスリーパーをお見舞いしてたみたいだね」
「ええっっ!?」
「嘘だよ」
「はい?」
追坂さんがきょとんとした目で僕を見る。ざ、罪悪感が……。
「ええと、追坂さんは寝言を一言も言ってないよ。全部僕の嘘です。少しからかってみたくなってやりました。今は反省しています」
「たはは……そんな犯人の証言風に言われても……。でも! 嘘は良くないと思います!」
追坂さんが指をぐっと立てて僕ににじり寄る。その目には、嘘をつかれたことに対する怒りよりもむしろ、僕の単純な冗談に引っかかってしまった悔しさがにじみ出ていた。
「下げた頭が上がらない思いです」
もう少しからかってみたいという気もしないではなかったが、これ以上やると本当に嫌われそうなので僕はぺこりと頭を下げて反省の意を示した。会話を続けるための冗談で、嫌われてしまっては本末転倒だ。僕はきっと一生後悔してもしきれなかったであろう。
「女は執念深い生き物なのです。私は嘘つきの鮎川君を絶対に許しません」
僕は思わずはっと顔を上げた。心がどこか手の届かない深遠まで落ちていくような錯覚を覚えながら。しかし、目の前にあったのは追坂さんのにぃと笑う表情だった。え?
「嘘だよ」くくくっ、と追坂さんが笑う。「目には目を、歯には歯を、嘘には嘘を、です! これは嘘をついた鮎川君へのささやかな罰ですよ」
僕は一気に脱力した。それを見た追坂さんはさらにおなかを抱えて笑った。僕は少し恥ずかしい思いをしながらも、なんだかこれでもいいかなと思った。
「そういえば、追坂さんは病院でもぼうっとしてたみたいだけど、どうしたの? 寝不足?」
追坂さんはううん、とかぶりを振った。
「毎日八時間は寝てるはずなんだけど、最近よく眠たくなるの。だから授業中も目を歌舞伎役者みたいに見開いてるんだけどやっぱり眠たくて……おかげで弱肉強食のサバンナに放り出されても通用するほど気配を消して眠ることができるようになったよっ」
「それは極めすぎだって! つーか、無理はしすぎないほうが良いよ。しんどかったら保健室に行って寝かせてもらえばいいんだし」
「たぶん大丈夫だから」追坂さんは僕の目をじっと見て、ふっと瞼をほころばせた。「でも、心配してくれてありがと」
「べ、別に……。あ、どういたしまして」
制服を着ているにもかかわらず、追坂さんがあまりにも大人っぽく映ってしまい、返事が遅れてしまった僕は思わず恭しく頭を垂れてしまった。追坂さんは悪戯っぽく笑いながら「いえいえ」と返した。まるで商談成立のようだ。
それから他愛もない話を続けているうちに、バスは目的地である駅前に到着した。
「私はあのバス停から乗って帰るんだけど、鮎川君はどのバスを使うの?」
「えっ、僕もあのバスだ。もしかして、近所?」
でも、追坂さんとは中学は別だったはずだ。
「鮎川君たちとは隣の中学校だったからね。それに、私が住んでいる場所って出身校よりもむしろ鮎川君たちの中学校のほうが近い場所だったから。たはは……通学は大変だったよ」
「確かにあの中学はただでさえ上り坂が地獄らしいからね。あそこ出身の生徒は脚が競輪選手並みになるっていう都市伝説もあるしさ」
「私は電動自転車だったから坂道もへっちゃらだったよ!」
追坂さんが得意げな顔でVサインを高らかと掲げる。
「でも、さっきまで大変って言ってたよね?」
追坂さんが小さく狼狽した。Vサインも一瞬にしてしおれてしまったようだ。
「そ、それは言葉の綾でして……私は基本的に二の腕もふくらはぎもぷにぷになのです。たはは……だから文明の利器を借りても基本スペックが低いのですよ」
「元陸上部としてその軟弱さは看過できないな」
「ううっ、運動系はさっぱりなの……許してくださいな」
わざとらしい泣き真似を浮かべたかと思うと、追坂さんは狐のようにひょいと翻した。スカートのプリーツが揺れる様は、まるで舞台女優のようだった。
「しかしそこまで言われると追坂麓の名が廃ります。歩いて帰りましょう!」
追坂さんは素早くまくしたてると、人ごみの中をずいずいと進んでいった。
あれ? 拗ねてるのかな、あれって。たまに彼女は頑固だ。
「……さっきは暑さで死にかけてたのに、大丈夫なのかな」
独りごちて、僕は追坂さんの背中を追った。
追坂さんはそれでもって計画的だった。彼女がまず目指したのは駅前の商店街。アーケードが良い具合に日差しを遮ってくれるし、入り組んだ路地を上手いように選べば時間短縮にもなるのだ。地元民の知恵である。
横を歩く追坂さんは終始無口だった。口は固く結んでいる風であったが、怒ってるわけでもなさそうだ。意固地になってる、と言ったほうが正しいかもしれない。彼女の陶器のような肌の上を玉の汗が滑る。それを彼女は丁寧にハンカチで拭き取っていく。水分補給も忘れない。徹底している。あまりの必死っぷりに僕は早くも脱帽した。
しかし彼女が「ぷにぷに」と自称した筋肉は嘘をつかなかった。すぐにエネルギーを切らしてしまい、結局長い長いアーケードのゴール地点まで辿り着けなかった。
「むぅ」
鯛焼き屋の軒先のベンチに腰掛けた追坂さんは少し不服そうだった。
「言わんこっちゃない」
僕はペットボトルを空にしてしまった追坂さんに近くの自販機で買ってきたスポーツ飲料を渡した。「ありがと」とくぐもった声で目を合わせずに答えると、追坂さんはぐびぐびとペットボトルを傾けた。ヤケ酒のようだ。それでも様になってるのだから女の子という生き物はつくづく恐ろしい。
「ぷはあっ!」
なんとスポーツ飲料を一気飲みすると、追坂さんは水を得た魚のような声を洩らした。
「だから無茶は駄目だって言ったじゃないか」
「反省してます」追坂さんはスポーツ飲料のペットボトルを手の中で弄びながら、小さく項垂れた。「私、昔から負けず嫌いで、周りが見えなくなっちゃうの」
「すごい気迫だったよ」
「ううっ、恥ずかしいところを見られちゃいました。それに、鮎川君は怪我人のはずなのに……」
追坂さんはもう一度ごめんなさい、と言った。頑固さはなりを潜めていた。
「そうだ、ジュース代……」
「いいよ、追坂さんを煽ったのは僕の責任でもあるんだし」
僕は追坂さんの言葉を待たずに立ち上がった。そういえばここは市内でも有名な鯛焼き店だ。大正の創業のころから製法を一切変えてないらしい。餡子も最高級品を使っているにもかかわらず値段は昔ながらの百円だ。それで店が成り立っているのもひとえに店主の涙ぐましい努力と地元民からの愛だろう。僕はメニューをしげしげと眺めて、一つの商品に目が止まった。
僕がその商品を注文すると回復しきった追坂さんがひょっこりと覗きこんできた。
「こっそり注文しようと思ってたのに」
「私を出しぬけると思ったら大間違いだよ」
「サバンナで気配消して寝られる人だしね。忘れてた」
追坂さんは小さく笑った。
「何を注文したの?」
「プリンのお返しでもしようかなって。何が出てくるかはお楽しみ」
追坂さんは少し不思議そうに店の奥で作業をする店主のおじさんを眺めた。ほほう、という呟き声とうむ、という声が交互に聞こえる。手慣れた手つきで光のような速さで鯛焼きを作るおじさんの動きは誰にも分かるはずもない。
「あいよ、二人前お待ちどうさん。さっさと食えよ」
数分後、熊のような両手に鯛焼きを握った店主のおじさんが野太い声を散らしながらやってきた。
「おうおう、コウちゃんにももうステディな女の子がいる歳かよ。まったく、オレも歳を食っちまったなぁ……」
「ただのクラスメイトですよ」
僕とおじさんは昔からの顔なじみだ。幼稚園のころから母さんに手を引かれてここの鯛焼きを買いに来ていた。そういえばおじさんは僕が幼稚園児のころから一切変わっていないような気がする。五十は過ぎているはずだけど、今も年齢不詳だ。おじさんは今でも僕のことを「コウちゃん」と呼ぶ。恥ずかしいけれど、おじさんなら許せる気がするのだ。
「そそそ、そうですよ! 鮎川君とはクラスメイトですっ!」
追坂さんは顔を真っ赤にしながら動転していた。そんなにおじさんの話を本気にする必要はないのに。おじさんの話の七割は冗談で二割は下ネタ、後の一割は仕事のことなのだ。
おじさんはがっはっはと豪放磊落に笑った。
「よぅし、そこの胸の大きな彼女に免じてお題は一人前で結構だ!」
「はうっ!」
追坂さんは完全にショートした。
「おじさん、それ以上言うとセクハラですよ」
僕は百円玉を毛むくじゃらの手に握らせた。すまねぇな、と言うおじさんには全く反省の態度は見れなかったが、それでもおじさんの言葉は鯛焼きの餡子のようにしつこくもいやらしくも感じないから不思議だ。
「お幸せにな!」
エンパイア・ステート・ビルから身を乗り出すキングコングのように手を振るおじさんに軽く挨拶して僕たちは店を後にした。
追坂さんは僕から受け取った鯛焼きをまじまじと見つめている。歩くたびに覗く耳がまだほんのりと赤みを保っていた。おじさんのあの手の話は慣れてない人には確かに厳しいかもしれない。
「おじさんの言うことなんて気にしなくていいよ」
「いや、そうじゃないの」
追坂さんは鯛焼きから目線をはずさない。
「これはどっちから食べるべきなのかな」
ああ、と僕は唸った。
追坂さんの言ってるのは、昨日の食堂での会話のことだ。追坂さんは鯛焼きを尻尾から食べるけど、僕は頭から食べるという話だ。追坂さんいわく、僕の食べ方だと尻尾が残って空しいらしい。
「どっちでもいいんじゃない? そうだな、それじゃあ僕は今日は思い切って尻尾から食べてみるよ」
僕が尻尾からかぶりついたのを見て追坂さんが目を丸くした。
「ず、ずるいよ……そんなことしたら私だって頭から食べなくちゃいけなくなるよ」
僕はあえて追坂さんに返事をしなかった。そのまま追坂さんがかぶりつくのを待つ。彼女の手の中では鯛焼きが頭と尻尾が交互に天を向いている。まるでイルカショーならぬタイショーのようだ。少し逡巡した揚句、追坂さんは頭からかぶりついた。途端、彼女の眼に疑問符が浮かぶ。
「つ、冷たい……?」
追坂さんは断面を確認すると、ああと頷いた。
「夏にはちょうどいいでしょ」
僕が買ってきたのは鯛焼きアイスだ。途中までの製法は鯛焼きと一緒だが、餡を入れる際にバニラアイスを入れるのがポイントで、そこからいかにアイスを溶かさずに仕上げるかがおじさんの腕の見せ所である。
「だからこっそりと買おうとしてたんだね。鮎川君はいじわるです。私がもしも知覚過敏だったら道端でのたれ死んでいるところでした」
「ちょっと驚かせたかったんだよ」
「これはこれで美味しいのでオールオッケーです。気に入ったから今度小春ちゃんとも食べに来ようかな……」
やっぱり女の子は甘いものに目が無いのかもしれない。追坂さんは僕よりも早くに鯛焼きアイスを食べ終えてしまった。
「頭から食べるのも悪くなかったかも……いやいや、でも私はやっぱり尻尾からだなぁ、うん。でも尻尾の先まで餡が詰まっていたら尻尾から食べる必要が無くなるわけだし……むぅ、それでもやっぱり私は尻尾から食べる。決めた。決めました」
横でぶつぶつと独りごちる彼女はやはり少し意地っ張りのようだ。
それからしばらく歩くとアーケードを抜けて複雑な路地に差し掛かった。右折左折を繰り返すうちに僕たちは見慣れた場所に出た。そろそろ家の近所だ。それなりに長い道のりだったけれど誰かと話しながらだとその時間も短く感じられた。ましてや横を歩いているのが僕の好きな女の子ならばその時間は一瞬にも永遠にも思えるものだ。
追坂さんは僕の家の前まで送っていくと言って聞かなかった。やっぱり頑固だ。方向もあながち外れてはいないので僕は了承した。そして少しでも長く歩いていられることに、心の中では小さくガッツポーズをしている自分がいた。
「怪我人の鮎川君を見送るのが私の使命だから、全うしないとね」
「途中、置いてけぼりにされかけたけどね」
「たはは……あれだけは忘れてほしいな」
日は地平線の彼方に沈んでいこうとしていた。こんな街中では地平線なんて見えないけれど、僕は何となくその地平線を見てみたいと思った。夏の夕焼けは綺麗だ。秋の澄んだ空に浮かぶ橙も捨てがたいけれど、赤、橙、群青、紫――縁日のスーパーボールすくいのプールを思わせる夏の夕焼けが僕は好きだった。
しばらく歩くと僕の家の前まで到着した。「また明日」とお互いに挨拶をする。僕は踵を返そうとする追坂さんの背中に「気をつけて帰れよ!」と声をかけた。下校中に襲われ、入院するはめになった僕の経験がある。今は記憶が抜け落ちていても、襲われた事実は変わらないし恐ろしい。追坂さんが同じ目に遭ってしまうのではと考えるだけで僕は心配で仕方が無くなってしまった。本当は僕が追坂さんを送り届けるべきだったのかもしれない。
そうこうしている間に追坂さんは路地の向こうへと遠ざかっていく。だんだんと小さくなっていく彼女が僕に振り向いた。追坂さんは「だいじょうぶ」と手を振った。揺れるか細い腕が蜃気楼のように熱気を孕んだ空気の中に溶けていく。とくん――。夕日を背に佇む彼女の姿に僕は不思議な既視感を覚えたような気がした。その正体を掴もうとしたときには、追坂さんの姿はすでに見えなくなっていた。
「気のせいかな」
もしくは僕はこの別れが惜しかったのかもしれない。また明日会えるのだ。過度に惜しむ必要はない。
門を抜けて玄関に上がると、リビングのほうから母親の四十過ぎとは思えないほどの甘ったるい声が聞こえてきた。今日はパーティーらしい。すしとピザを既に注文したらしい。何を大げさな、と一瞬思ったけれど、病院の寂しいリノリウムの白を肌で感じた後ではそれがすごく温かいものに感じられた。わざわざ玄関まで駆けてきた母さんに礼を言い、武治たちからもらったプリンを預けると二階の自分の部屋に上がった。
母親は僕の返答がそっけないと思ったのか、泣きだしそうな声でわめき出した。あれは酒が入ってるに違いない。早く父さんに帰ってきてもらわないと、酔った母さんは僕の手に余る。
階段のギシギシとした感覚も変に懐かしい。階段を上った突き当りが僕の部屋だ。ドアノブを握って中に入った――途端。
部屋の奥。ベッドの上に見慣れない人物が座っているのが見えた。驚きのあまり頭の中が真っ白になって身動きが取れなくなる。
ベッドの上に腰かけていたのは若い女だ。歳は僕と同じくらいかそれ以上。透き通るような肌に、目鼻立ちのはっきりとしたかんばせは博多人形のような凛とした美しさを醸し出している。髪の色は茶色に、赤褐色、赤、灰色とまるで瑪瑙石のように縞状で層のような変わった色合いをしている。脚を投げ出したまま、挑発するように僕を見る瞳もよく見ると同じ色をしていた。その現実離れした容姿は人間ではないのかもしれない、と変なことを思ってしまうほどだ。さらに彼女の身にまとっている黒地に同じく瑪瑙石のようなマーブル状の模様の入った着物もまた、この部屋における彼女の異質感を際立たせている。僕は当然ながらこの女とは知り合いではない。だからこそ混乱しているのだ。
女がふわりとした足取りでベッドから降り立つと、ゆっくりと僕のいるドアのほうへ向かう。そして、僕との距離が一メートルを切ったあたりで女は恭しく跪いた。
「長らくお待ちいたしておりました。されども、逢えぬ時間が長引くほど出逢えた瞬間の喜びは増すものでございます――おかえりなさいませ、我が主」
すっと澄ました顔で、女は平然と言った。
【続く】
2010/06/29(Tue)05:09:47 公開 /
こーんぽたーじゅ
http://blogs.yahoo.co.jp/re_cornpotage
■この作品の著作権は
こーんぽたーじゅさん
にあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
久しぶりです、こーんぽたーじゅです…………と言って分かっていただけるでしょうか? 不安になるくらい登竜門に顔を出すのは久しぶりです。人生の一つの「戦争」に赴くに当たって執筆を断念していたのですが、それもひと段落つき晴れて復帰となりました。古参の方から新鋭の方まで実力派の揃う登竜門で、こんぽたの席が果たしてあるか不安ですが(汗)、徐々に登竜門に馴染んでいけたらいいなと思います。
さて、この作品は以前に登竜門で連載させていただいていた「血の海で舞うは鬼の魂(未完成)」をプロット段階から作り直した作品です。なので所々見覚えのあるシーンがあるかもしれませんが、完全なる新作として扱っていただけたら幸いです。一番難しかったのがジャンル選択です――正直五個ぐらい選びたかったです(笑)。アクションあり、ファンタジーあり、コメディーあり、歴史ありと……わがままな作品ですが「恋愛小説」を軸に展開していきたいと思うのでよろしくお願いします。
誤字脱字、作品へのアドバイス等がありましたら感想に書いていただけたら嬉しいです。
六月二十八日。第二章の一部をアップ。深夜です。死にそうですw
今回は追坂さんと紘一郎の恋愛をメインに書きました。今までの僕の作風に近づけたのかな? それとも過去の自分は失ってしまったのかな? それが不安で筆が止まることもありましたがなんとか仕上げました。追坂さんもなかなか厄介な子でして書くのに苦労しましたが、拗ねるシーンあたりは何となくキャラが掴めてきたような気がしました。やっぱりメインヒロインなので可愛く書きたいので……
次回更新からは本格的な世界観に入っていくことになるでしょう。中には退屈な説明の描写も増えていくので、そこをいかに皆さんに読んでいただけるかを錯誤しながら書こうと思います。
最後に読んでいただいた皆さんに最大限の感謝を送りつつ、今回の更新の挨拶とさせていただきます。ありがとうございました。
【Information】
四月二十八日:鋏屋さんのアドバイスにより本文を修正しました。
六月二十八日:第二章アップ。ミノタウルスさん、羽堕さんのアドバイスにより本文の修正と誤字訂正を行いました。
六月二十九日:本文に不備を見つけたため、補強しました。
ではでは、
作品の感想については、
登竜門:通常版(横書き)
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2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。