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『にはん!(2部 4.25)』 ... ジャンル:異世界 リアル・現代
作者:あかば
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あらすじ・作品紹介
「――ちょいとそこらでお耳を拝借」にほんと限りなく似通った世界、にはん。然しそこに住む人々はネジも線もにほんよりも一本足りない!恋に破れたばかりで自殺を考える少年、小遣い稼ぎに麻薬の密売を目論見る青年のグループ、彼らの前に現れたのは………?さあ、耳を預けてみませんか?
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このお話は「にはん」のお話です。
どこか遠く遠く、もしかしたら私たちと平行線にあるかもしれない。
また、もしかしたら私たちのすぐ近く、交わるような場所にあるのかもしれない。
誰かが見ても口を閉ざしているだけなのか、信じてもらえないのかは別としまして。
「にほん」に限りなく近い、だけど線が一本足りない、ネジも一本くらい足りない「にはん」のお話。
東京特許許可局局長だっていますし、生麦生米生卵だってそこらに転がっていますとも。
ちょいと、そこらで、お耳を拝借。
――ちょいとここらでお耳を拝借。
わたくしはしがない文字書きで御座いますが、最近奇妙な出来事に出会いまして。
生まれてこの方平々凡々に何事も出来る限りこなしては親たちに愛情を注いできたわたくしでございますが、この齢になって思わぬ出来事に出くわしてしまいました。
といいましてもわたくし、未だ高校生という青春を謳歌する甘酸っぱいお年頃でございまして、つい先日、想い人に別れを告げられたばかりで御座います。
全てが全て上手くいくなどと誰が言ったのか、いいえ誰も言っていませんとも。然し人間とは心のどこかに淡い期待を抱いてしまうものでありまして、七年思い続けていた女性にもう顔さえ見せられないとおもうと恥ずかしくて恥ずかしくて、ああこの人生生きている意味はあるのだろうかと。若しかしたらもう誰もわたくしを見てはいないのではないかと孤独な思いに駆られたわけでございます。
今もそのような気持ちから抜け出せたわけではありませんが、何故か心はスッキリと晴れ渡って、嵐か台風が去っていったような心地で今を生きております。
決して美しいといえる光景ではありませんが、少し想像してみてくださいな。
雲が吹っ飛んだように青い空、樹齢何百年にも関わらずついに無残に折れてしまった木、歴史の欠片も感じさせないごみ箱の傍に転がる壊れたビニール傘。ああ虚しく然し痛快。
少々話がズレてしまっていた様です、申し訳ありません。
だがしかし文字に書いているにも関わらず話がズレたことを修正していないということは、これがわたくしにとっての本当に文章にしたい形ということをわかっていただければ幸いと思います。
わたくし只今興奮しておりまして、ああ、ああ、手が頭に浮かぶ文章についてこないことが腹立たしい限り。
兎に角わたくしは奇妙な出来事に出会ったのです。奇妙な御仁に出会ったのです。
これは限りなく現実に近づけて書いたものであり、字を書く者にあるまじき、脚色をしないということを目標としております。いいえ、寧ろ脚色をするところがないのです。
何故かといわれれば答えは一つ、脚色をせずともまるで一つの物語のようにそれは流れてゆくのですから。
それはわたくしが恋に破れ打ちひしがれていたときのことでございました。
――ぼくは今日、恋に破れました
――ぼくは七年前、恋に落ちました
――ぼくは今日、地へと落ちます
虚ろな目をした少年はふらふらと行く当てのない足をあちらへこちらへと向けてゆく。
あたりは見渡す限り人しかおらず、少年がふらふらと歩けば勿論何度も何度も見知らぬ人とぶつかった。
はて、それは見知らぬ人だったのか。それ自体少年にはどうでも良いことと成り果てていた。
まだ垢の抜けない幼い顔、見る人すべてに「自分は無害ですよー」と言いふらしているような大人しそうな見た目と雰囲気を纏っており、一度も染めた事のない真黒で落ち着いた髪の毛がバランスとして重く、少しばかり暗そうな印象も残る。
少年は誠也と言う。苗字は伏す。
見た目どおり目立たず大人しく、問題を起こす事もないような少年であった。今年高校二年生になったものの、青年という風ではない。
敢えて特徴をあげるといえば、周りの人より少し身長が低く、目は真黒というよりも茶がかかったような色をしていた。
別に突出した特徴ではないので、彼のそっくりさんを探せば全国に何人といることだろう。
誠也は今日、七年間想いを寄せ、付き合っていた幼馴染に振られたばかりだった。
理由は、「やっぱり幼馴染以外には見れない」というもので、ならば何故付き合ったのかと問い詰めたい気持ちに駆られた少年であったが、最近先輩との交際が噂になっていたので、本当の理由はそれなのだろう。
悲しい、虚しい、寂しい、様々な思いが心のなかを飛び交い、蚊取り線香をたかれた蚊のようにひゅるひゅると地に落ちていった。
確かにその幼馴染は誠也とは違いモデル体型であったし、顔も中の上、母性本能をくすぐられるだのと彼女は誠也にフォローをしてくれていたが、つりあわないといえばつりあわないのだ。
デートというには程遠い”おでかけ”を長年何度も繰り返した。
――だが誠也にとってはそれほどのことであり、それ以上はのぞまないほどに、彼女が好きだった………のだと思う。
誠也にはそれさえ曖昧だった。
胸をさすような痛みが絶え間なく続くし、鼓動の早さがもとに戻らない。
これが本当に彼女を愛していた証だといったら、そうなのだろうが、それは本当だろうか。
思春期を終えたばかりの繊細な心のなかに疑問は浮かび項垂れる。
誠也の足は徐々に近づいてゆく。
向かう先はビルの屋上、それ以上は何も望まなかった。
ところかわって とあるビルの屋上へと続く階段
時は過ぎ行き あたりは何時の間にか真っ暗に
カツーン カツーン と一歩一歩不安定な階段を登る音が響くのみだった。
最近は「お声はかけません! 」などという看板をたてた無人ビルも多く、それは誠也のようなこれからの終焉を望む人にとっては好都合であり、寂しくもある。
頭に浮かんだ考えを、誠也は首をぶんぶんと振って消し去った。寂しくもあるだなどと、何をいっているのだと。
だが思えば思うほど、その考えは膨らんでゆく。誰かが止めてくれないのが寂しい等何を考えているのだ、いや誰かが止めてくれないかとはなんだ、自分は今から死ぬのだ、誰にも止められなくていいはずではないか、忘れるんだ。
カツーン 階段をのぼる足が少しゆっくりになる。
その階段が死への階段、考えれば恐ろしいことだった。
カツッ カツッ カツッ ガン ガン ガン !
誠也ははっとして俯いていた顔を上げた。それが誠也の足音ではないことなどすぐにわかるのだ。
だって誠也の足は今――確かに止まっていたのだから。
それに腹立たしさを感じながらも、階段を蹴って歩くような足音に誠也は心がキュウ、と小さくなるのを感じた。
「おい、テメェなんでここにいんだよ」
「ここ、俺たちのグループの場所って知ってたかなァ、坊ちゃん」
「夏目漱石か」
「ぶははぁっ! 」
誠也は振り向かなかった。否、振り向けなかったが正しい。
元々そういう人たちと、縁の欠片もなかった少年だったのだ。
荒々しい言葉に、視線の端に見える金髪は少年を怯えさせるのに十分だった。
「てか、さっさとそこどいてくれるゥ? 」
「今だったら何もしないからさぁ、ね。言う事ききまちょーねー」
馬鹿にするような男の言葉に、それを笑う男たちの嘲笑の声。
普段だったらすたこらと間を抜けて逃げてゆくのだが、死というものに立ちどまっていた彼に追い討ちをかけられるようなその状況に、誠也は完全に立ちすくんでいた。
動かない足に感じたのは腹立たしさではなく恐怖。
――どうしよう、鉄バットで殴られたら どうしよう どうしよう どうしよう
かんかんと金属の階段を、少年を急かすように鳴らす。
――どうしよ う 殴られたら 顔はれて 頭から血がでたら いや い やだ
――ころ、 こ ころ ころされ るの いやだ ころ ころされる
行過ぎた恐怖が、実際は言われてもない事をどんどんと想像で膨らませてゆく。
「おい、聞いてんのかよ」
「シカトっすかー」
ぐいっ
完全にすくんだ足を階段から引っぺがすように、男の一人が誠也の襟をつかみ、よろけた足をもう一人がつかんだ。
まるでブランコやゆりかごを揺らすような動きでゆらゆら ゆらゆらと
そして勢いのついた誠也の体を――彼らは無情にも手放した。
小さな体は固く冷たい壁に打ち付けられて、べちゃんと音をたてて地面に落ちた。
このとき彼の体には二つの不幸中の幸いが訪れていた。
一つは、 この階段がさほど長いものではなく、誠也の立っていたすぐ後ろに開けた地面があったこと。
誠也は鼻をおもいっきり打って鼻血を出したものの、それ以上転がることはなく、ズキズキと痛む体をゆっくりと起こした。
何が起こったのかを理解していないのか、彼の顔は至って平然としていて、ただ感じる痛みに顔を顰めた。
もう一つの幸いは、 彼が先ほどまで立っていた場所をどいていたことだろう。
だって、先ほどまで彼が立っていたところ………今男たちが歩いていた階段に、屋上の扉が丸ごと飛んできたのだから。
「うるさいよぉ、落ち着いて眠れもしないじゃないか。全くホームレスに優しくない時代だねぇ。これだから最近の若者は困るんだ」
ぶつくさと文句を言う人物は、その声からして男だろうと誠也は判断した。
今の位置からでは何も見えない、逃げ出せば良いものの、なぜか心のなかの僅かな好奇心を擽られ、誠也はゆっくりと立ち上がり、鼻血をたらしたままの顔を上に向けた。
声が渋かったし、言葉からしてついつい中年男性を想像していたが、そこに立っていたのはスタイルの良い三十前後の男だった。
本人はああ言っていたがどこからどうみてもホームレスには見えない柄物のスーツに、黒いカウボーイハット、ごつい指輪に繊細な細工のアンクレットを何故かズボンの上からつけていた。
格好からして奇妙な男だったのだが、その格好のなかでも特に際立つ奇妙さが彼の胸にあった。
自らの手を、己を抱きしめるように組んで、赤い布とガムテープでぐるぐるぐるぐると強く巻いてあったのだ。
それはミイラを連想させるようなポーズ、一体何がしたいのかわからなかったが、兎に角頭が可笑しい人なのだと誠也は一目で判断した。
別に彼は状況判断力に優れていない。それだけ、男の姿が異常で奇妙でいかれていたのだ。
「やあこんにちは青年諸君。教育の行き届かない哀れなゆとり世代の君たちに私が最高の贈り物をしてあげようじゃないか」
どこか引きつった笑いを彼は隠そうともせず浮かべ、少し怒りの篭った声で高々とそう言った。
そういうやいなや、彼は壊れたドアを足にかけた。
次の出来事は、誠也には理解できなかった。
わかることは、何時の間にか誠也の前に扉に押しつぶされる形で山積みになった何人かの男たちの姿があったということだけだった。
上からひょこりと先ほどの男が顔を出し、にやりと不適な笑みを浮かべた。
「今の私………最高に良かったよね? 」
最早何が良いのかもわからないし、大体何が起こったのかもわからないのに良し悪しなど判断できるか、と誠也は心の中で叫んだ。
そんな少年が驚愕のなか、精一杯に振り絞った声は、「うわぁ」というドン引きの声だった。
まあ、そんなこんなで彼はわたくしに”何故か”死ぬ気をなくさせてくれたわけでして、そういう意味では命の恩人に値するのでしょう。お礼を申し上げたい。
わたくしがそれを見て何故死ぬ気がなくなったかというと、彼の姿を見たら自分等まだまだ普通だなぁと安心できたからで御座います。
きっと彼や彼に関わった人はわたくしに理解しがたい不幸や異常を抱えている事でしょうね。
単純に申し上げるのならば、死ぬのが馬鹿らしく面倒くさく思えたので御座います。
時は少し遡り――
柄もののスーツにカウボーイハット、ごつい指輪にアンクレット、極めつけにぐるぐるの布。
そんな男、――神宮司 神治(じんぐうじ かんじ) は、究極の”ナルシスト”である。
恐ろしいほど神々しい名前はともかく、神宮司は兎に角自分のことが大好きだ。
大好きと言う表現では物足りないかもしれない。彼は自分のことを愛している。
どれほど愛しているか分かってもらうには、てっとりばやく彼の腕を締め付ける布の理由が良いだろう。
神宮司が己の腕をミイラのように交差させて布を巻いているのは、”二十四時間己を抱きしめていたいから”だ。
己の存在が好きだ、触らずにはいられない、だから布を巻いて固定しているのだ。
これをナルシストと呼ばず誰をナルシストと呼べばいいのかわからないほどのナルシストだ。
確かに見てくれは悪くない。
アイドルだといわれれば頷いてしまうような人に好かれる見た目をしているし、髪の毛はオールバックだが痛んではいない赤茶色。筋肉もそれなりについており、スタイルだって良い。
声は聞くたびに痺れるような低く渋い声をしていて、見た目と違い若さの欠片を感じさせない。
しかし彼のまわりに人がきゃいきゃいと集まる事はない。
それは何故かといえば性格に問題があるとしかいえないのだ。
それでも彼は自分を愛し続けている。限りなどないほどずっと、永遠に。
神宮司は住む場所を決めていない。あるときはビルの屋上、あるときは人の庭、あるときは釣堀で。
彼はどこにいても自分は映えると思っているので、どんなにボロいところだろうと関係はないらしい。
無意識のうちに人の命を一つ救ったなど、こんな男が知るはずもない。いや、知ったとしても「さすが自分」と己を褒め称えることで全てを解決させるだろう。
神宮司は――つまり、そういう男だった。
そんな歪んだ男ではあるが人間には変わりなく、日々何かを求め生きているわけである。
彼が求めているのは己の美しさ――と思いきや、実はそうではない。
ならば何かに向かっての復讐か――いや、そうでもない。
彼は自分を愛することを一番にしているが、彼が”たった今”求めることに決めたものは、今しがた通りすがったワゴン車であった。
神宮司は善人だ。偽善者であろうが、常に人にとって良いことをする。
そしてそれが自分にとって良いことになると信じ込み、それをすれば自分がより美しくなると信じている。
だからこそ彼は”とあるグループ”に所属しているのだ。
それは善人グループとはいえない非公認のものだったが、自分が思う良いことはできるので満足して居ついている。
「発見、発見、素晴らしい私の観察能力で密売人をはっけぇん」
ピ ピピッ
『了解 引き続きそのくだらねぇ精神で観察を続けてろよ。俺もすぐに行こう』
無線機のようなもので会話が続けられる。神宮司は心底楽しそうに双眼鏡のレンズでワゴン車を追っている。
どこかのアメリカ兵のようにくちゃくちゃとガムを噛んでいた男だったが、ふと顔を顰めた。
扉の向こうからカツンカツンと大人しい、震えた足音が聞こえたからだった。
このあたりは有名ではなくとも自殺スポットとなっていたのは知っていた神宮司は、さて立ち去ろうかどうしようかと考えた。
彼は今決して来る人を引きとめようとは思っていない。引き止めろといわれれば引き止めるが、飛び降りるのは人の自由。
人が自由でないことは最も哀れなことだと、神宮司は考えていた。
最後に花くらいふりかけてあげようかとポケットに入った小銭を確認して腰をあげた。
遠くに未だ白いワゴンが走っているのが見える。そうだ、マークしていなければならないのだ、神宮司は思い出した。
黒いアルファベットが目印のワゴンの行き先、それくらい調べておかなければ”拾ってくれた”グループに申し訳が立たない。
残念だが今からこの世を去る人に手向けの花すら渡せないようだ、と神宮司は悲しそうに溜息をついた。
ピピッ
『神宮司、居場所はわかったか 今すぐ手前まで来ている』
「はぁい。今向かっているところを見ますとぉ、場所は――」
神宮司がそれを告げ終わると同時に、がんっと扉の向こうから何かがぶつかる音がした。
ぎゅっと目を瞑り肩を竦めるというオーバーなリアクションをしてから、神宮司は口をひん曲げて文句をいいたそうな顔を浮かべる。
それから無線に向かって呟いた。
「すんませんメアリー、ちょっとばかり遅れての美しい登場をしそうです」
『あーそうか、ぶっちゃけテメェいなくても良いから勝手にしててくれ』
無線の向こうの相手は無愛想に返事を返して一方的に無線をきってしまった。
それに益々神宮司の顔は不機嫌になり、ビルの屋上で彼は夜風に吹かれた。
顔をあげれば人気はなく暗いものの、遠くには絶景の夜景が広がっている。頬を掠める風は多少冷たく、木のさざめきの代わりにビニールが転がる音をたてた。
数秒、見とれるように神宮司はぼうっとそこに立ち尽くした。
全てを飲み込むような暗闇に、遠くに広がる夜景に、灯りのないビルのシルエットに、そのすべてよりも美しい己自身に。
風が髪を弄ぶ。と、心のうちで比喩する間もなく、扉越しに聞こえた卑しい笑い声に、神宮司のなかのなにかがブチリと切れた。
つかつかと靴を鳴らして金属製の扉に近づくと、扉を思い切り蹴りつけた。
がぁんと激しい音をたてて扉は開いた――いや、違う。吹っ飛んだのだ。
バランスを崩すことなく、足だけで、片足で蹴った扉が、一メートルほど先まで吹っ飛んだ。
「うるさいよぉ、落ち着いて眠れもしないじゃないか。全くホームレスに優しくない時代だねぇ。これだから最近の若者は困るんだ」
ゆったりとした口調、和やかな渋い声で神宮司はぽかんとこちらを見上げる男たちを見下した。
そのなかに一人どう考えても彼らのカモにしかなりえないような少年が混ざっていたのだが、神宮司はそれには特に興味なく視線を逸らす。
先ほどの扉が一人の背中にのしかかっているらしく、未だぷるぷると震える扉の姿があった。
それを見た神宮司はちっと舌打ちをして、引きつった笑みを浮かべ高らかに演説をするように述べる。
「やあこんにちは青年諸君。教育の行き届かない哀れなゆとり世代の君たちに私が最高の贈り物をしてあげようじゃないか」
そしてそのまま 扉に飛び乗った。
身軽に跳ねて、言葉通りその扉の上に乗って器用に足を絡め、扉は波に乗るように男達を突き飛ばしてゆく。
本来ならば神宮司も転げ落ちるのではないかと思うのだが、神宮寺はこんなこと屁でもないといったような余裕の笑顔で扉に跨っていた。
そして扉が地面につき止まった反動でひっくり返りそうになるのを、手すりを掴み足をついて留める。
重力も理屈も無視をしたような行動だった。
神宮司は心底興奮したような顔で、ほんのり頬を紅潮させてほうと息をつき、カウボーイハットのしたから見えた少年のほうを見る。
兎に角誰でもいいからこの興奮を吐き出したい、そんな気持ちを抑えられず扉の淵から滑り出すように顔を出して笑う。
「今の私………最高に良かったよね? 」
「………うわぁ…」
気の弱そうな少年は、イカれた男についていけないというように拒絶の声をあげる。
その後すぐにはっとして口を塞ぐが、神宮司が気にする様子はなく、高鳴る鼓動を落ち着かせはじめた。
神宮司という男にとって、人が自分をどう思おうと如何でも良いことだったのだ。自分が自分を美しいと、格好良いと、可愛らしいと思えればそれで良い。
――いや、可愛いと思うかどうかはわからないが、気持ち悪いと思ったとしても究極のナルシストという時点で最早気持ち悪い。
「あ、あの………」
「ん? ああ! ああ!! ごめんよ、君のために花を買ってあげようと思ったんだけどね、お仕事を先にしてたからさぁ」
「花、ですか? 」
訳がわからないと顔を顰めて少年は神宮寺を見つめた。
すると彼はすばらしいほど柔らかな笑顔を浮かべて、首をたてに振り肯定の意志を示した。
「そう、花。最近近くの店で菊の花を見かけたからね」
「ッ!! な、なに、な、え、えっと」
少年が目を白黒させて慌てふためていているのを余所目に、神宮寺は扉から降りて一人の黄色いシャツを着た男の背中の上に着地した。
「ぎゃっ」
うめき声をだす男のことなど気にせず、神宮寺はぼろぼろの革靴をはいたまま、男の背中の上で右向け右をした。
体育の授業で習うような、ぴしっとした綺麗なものだった。
ぎゅうっと男の背中の皮がねじれ、下にいる男は先程よりも弱弱しく抵抗するように声を吐き出した。
「さっさと行きなさいよ、私が引き止めておいてあげるからね」
「え………あの…えっと…」
神宮司はすうっと腕を伸ばして、扉の消えた屋上への入り口を指差した。
少年は気づく、この人は”自分が今から何をしようとしているかわかっている”のだ、と。
軽く寒気すら感じ、入り口を見上げると、先ほどまで気づかなかったが、中々強い風がびゅうびゅうと吹きぬけていた。
「う、あ、………あああ! 」
ヤケになったように叫んだ少年が向かったのは屋上への入り口ではなく、下へ降りていく階段だった。
死ぬのが怖くなったのかと聞かれれば首を縦に振るだろう。男が怖かったのかと聞けば首を縦に振るだろう。
「少年! 」
神宮司は慌てて躓きながら走ってゆく少年の背中に呼びかけた。
少年は振り向かず走り続けたが、それでも構わず神宮司は言葉を続ける。
「今のは死から逃げたんじゃぁねぇよお! 現実っつーもんと恋してんだ! 」
少年がふと視線だけを神宮司のいる上に向ける。
何階も上の手すりの間から顔を覗かせた神宮司が、それに満足そうに微笑み続けている。
それは世の中の全てを受け入れたような、見下したような、愛しているような、卑下しているような。
喩えようもない笑顔だったが、少年は不思議とそれに見とれる自分がいることに気づく。
結局そのままビルを出てきてしまったのだが、どうにも気になって少年は入り口から屋上を見上げた。
勿論神宮司の姿はないし、あったとしてもここからでは見えないだろうと思う。
遠くに車が走る音やクラクションの音が響いている。
「あ、そっか」
無意識のうちに少年は微笑んでいた。清々しい気持ちだった。
あんな人でもきっと人を好きになるのだろう、愛するのだろう、失恋するのだろう、同じ人間なのだろう。
ああ、死ぬなんて、馬鹿らしい。
ところは少々変わり――同時刻
ケースを何個も持った男………というには少々若い、青年たちがげらげらと笑いあっていた。
輪をつくり、ガラの悪いことを話しながら彼らは来るべき人を待っていた。
それが誰か、なんという名前か、どういう人か、彼らは知らない。
これはそういう”商売”なのだ。
それはお互いに分かりきったことであり、今更相手のことを探ろうとも思わない。
ただ、そのケースの中身を彼らが高値で引き取ってくれる。
青年たちがその中身に手を出すことはしていないようだが、十分犯罪と呼べるものであったが、彼らが気にすることはない。
………と、言いたいところだが、気にしているからこそ人目につかない場所を選んでいるのだろう。
それを引き取った先から届く代金は、汗を流してバイトをするよりも、小遣いに縋るよりも、よっぽど楽で大きな金額。
彼らが目当てにしているのはそれなのだ。
「つかさ、遅くねー? 今日の取引相手さん」
「確かに、テメェのクソする時間よりなげぇや! 」
「ンだとてめぇ」
どっ 再び笑い声が湧き上がる。
「ちょっと俺外見てくるわー、もしかしたら場所がわかんねぇのかも? 」
「あー。このあたり廃ビルとか廃工場多いもんなー、てかてめぇズボン破れてるし、うけるし」
「うおっ! しまった、マジだわ………」
けらけらと笑いながら一人のフードを被りピアスをした青年がへこんだ鉄製の扉に向かう。
重たい工場の取り付けの悪い扉をこじ開けるように開くと、青年は一気に目を見開く。
そこにいたのは自分と同じくらいの背の、しかし”黒”い人だったのだから。
にこり
その人は聖母マリアのような優しく美しい微笑を浮かべて青年を見た。
実際、その人が身に纏うのは教会のシスターたちが切るような装いで、胸元で指を組んでいた。
シスターの服から僅かに垣間見える金糸のようなブロンド、女性のように長い睫毛と栗色の柔らかく輝いた瞳。
――そう、女性のように。
彼女のシルエットから女性らしい丸みを帯びた体は見受けられない。
だが青年はそんなことにも気づかぬほどに彼に見惚れた。
ざぁっと風が吹き、彼の顔が黒いベールに一瞬隠される。
そこでようやく青年は彼の笑顔から解放され、同時にゆらりと後ろに倒れた。
「な、なんだ!? 」
急に倒れた己らの仲間の姿に、いくらか離れた位置にいたグループがどよめく。
倒れた向こう側に身を低くかがめたシスターの姿。
青年たちの位置からでも分かるほど、先ほどとは全く違う雰囲気を纏って。
「おいおい、シスターさんよぉ、なにしてくれてんだ?」
「………」
シスターは彼らを一瞥すると、人が変わったようにニィっと口元を歪めるような笑みを浮かべた。
同時に栗色の瞳が殺気を帯びたものに変わり、ざわめくグループに走ってゆく――恐らく。
恐らくをつけたのは、もしかしたら彼が超能力者かもしれない、そんな予測からだ。
もしかしたら彼の足にブースターがついているのかもしれない、いやそれが人の体で持つのかわかったものではないが。
そう思っても不思議ではない、ということだ。
シスターは地を蹴ったかと思うと、見る間もなく青年たちの背後に”いた”。
移動したというよりも、そこにいたのだ。
息もあげず、鋭い眼光と歪んだ口元だけを青年達に向け、残りの全ては黒に包まれたような姿で。
先ほどの面影などあったものではない。
青年達はホラー映画で主人公がゾンビに襲われているような恐怖を感じ、悲鳴をあげることなく息をのんだ。
「こ、ここここっ、この罰当たりヤローが………! そ、そんな服着て悪行なんてしたら、お前」
ここで青年が罵倒する言葉もなかったのか無茶苦茶な言いがかりをつけた。
声が震え歯が噛み合わず、はじめて自分が恐れを抱いていることに気がつく。
青年の手に持った金属バットがぎゅうと強い力で握られた。曲がった。
「え? ええ、ちょっと、ま」
青年自身、そこまで力をいれた覚えはないし、力を手に入れた覚えもない。
戸惑いながらもははっと笑って、脅しのようにシスターにそれをつきつける。
「は、ははははは! ほら見ろ! お前の骨をこんなふうにされたくなかったら」
シスターは口元を歪めたまま、青年を嘲笑うようにはっと息をついた。
手に引きちぎれたバットの大部分を持ったまま。
「え、え? 」
「罰当たりね、チンピラにンなこと言われるの初めてだわ。おもしれーな、お前」
「ええええ、え、あああ」
「あ? わりぃ、なんていってんのか分かんねぇ。もうちょっと」
言葉が一度途切れる。
青年は顎の下に冷たい空気が流れるのを感じて、ばっと慌てて下を向く。
ひんやり、冷たいものが顎に置かれている。バットは他の仲間に近寄るなというサインか、工事現場のロープのようにシスターがグループに突きつけている。
――ならば、顎の下に置かれているこれはなにか。
青年それが理解できず、全身から汗がぶわっと噴き出ていることだけを感じた。
「近くでいってくれねぇかな? 」
”引き金”にシスターのすらりと細く白い指がかけられ、シスターは先以上ににぃっと笑う。
「う、たすけああああああ!! 」
「助けてと聞いて飛んできました! ぱぴぷぺぽーんと登場したのは、私ッ 神宮司でぇす! 」
渋い声だが間の抜けた声。 そんな声がその場一体に響き渡った。
同時にシスターの口元から笑みが消えうせ、殺気がすぅう、と引いてゆく。
引いたと共に瞳に浮かんだのは柔らかな色ではなく、嫌悪感溢れる心底暗い色だった。
「ぱぴぷぺぽーんて………テメェどこの宇宙人だ、ああ? 」
「いやぁ、お仕事は薬の回収なのに変なことしようとしているド阿呆さんがいたもんですからぁ、張り切っちゃったんですう! 」
「ですう、じゃねぇし。きめぇし、萎えたし、死ねし」
神宮司が立っていたのは工場の機材の上だった。バランスをとる両手は胸の前にまきつけたまま。
「あ、大丈夫大丈夫。お仕事っていっても、実際仕事じゃないし。ただ今夜それを渡すヤツがちょーっと厄介だから、善意ゆえに! 」
青年達ににこりと呼びかけて、神宮司は身軽に機材から降りた。
「出来れば自主してほしいですけど、別にそれは人の自由。自由でない人間は哀れだ! ………ということでありまして、ケース、渡してくれますよねぇ? 」
今の彼らに断る権利は与えられていない。
「おい、てかテメェ来ただけで何にもしてねーじゃねぇか。さも自分が決着つけたような言い草しやがって」
「メアリーは短気すぎるんですよ、私が何かをしようがしなかろうが私が格好良ければ良いと思いません? 」
「黙れ変態ナルシストクソ紳士」
「あっはぁ! ちゃんと最後に紳士をいれてくれるあたりが好きだねぇ、メアリー」
ケースを片手で担ぐシスターは未だ不満が解消せず、それはもう不服そうな表情を浮かべていた。
神宮司はかろうじて解放されている手首から上を器用に動かしカウボーイハットのずれを直した。
「てか、それどうにかなんねぇの? きもちわりぃな」
「心外心外。メアリーこそ、修道服のまま罰当たりなことするのやめなぁ」
「っは!! そりゃさっきもチンピラに言われたぜチンピラ紳士」
彼――黒崎メアリーは狂信者である。
罰当たりなことをしているように見えて、実は神のことを何よりも信じている存在である。
神は実在する、死んだら神のもとへゆく、本当にそう思っている。
――ただ一つ、異常を覗けば単なる宗教者なのだが。
「神様はいつだって俺を優遇してくださってんだよ! だから俺が誰を殺そうが殴ろうがお許しになる! 俺を贔屓してくださっている! ああ有難う神よあなたに今日も祈りを捧げます! 」
もう一度言おう、彼――黒崎メアリーは狂信者である。
メアリーという女の名前、女のような顔つきからついつい本当のシスターと思い込む人も少なくない。
実質本人はそのつもりだ。牧師ではなくシスターのつもりだ。
それはブラザーなのではないかと思うかもしれないが、彼はあくまで自分をシスターだと言う。
「あんたさぁ、昔から宗教関連で戦争してきた方々に謝ったほうが良いよ」
「るっせぇ」
だからこそ彼は己の中心である神ではなく、己を中心としている神宮司を気に食わない。
ピピッ
『おい、君たち今どこにいるんだ!! おーい! 』
「ただいまぁ、工場の前にい」
『わかった、わかったからもう喋らなくて良い。 今日はボスの”高校の入学祝”だっていったろうが! 』
聞いた二人はきょとんとした顔で互いを見た。
頭のなかの記憶を引っ張りに引っ張り出し、ようやく見つけた一つの記憶に二人は同時に頷いた。
――基本的に頭をつかうタイプでないこの二人は、はっきりいって馬鹿という部類に入る。
「すみませーん、今から美しく登場しにいきます」
『神冶ぃ、君はもうワイヤーをつかうなよ! 窓を割るなよ! 分かったら帰ってくる! ………明日には”彼女”も帰ってくるんだから! 』
無線の向こうの人物は怒りを含んだ声で二人に対して怒鳴りつける。
それが騒がしく感じたのかメアリーは神宮司から無線をとり乱暴に電源を押した。
「ったく、うるせぇなぁ」
文句をぶつくさというメアリーに神宮司がぐっと親指をたてにこやかに笑っている。
メアリーはそれに笑い返すこともなく、腕を頭の後ろで組んではーっと息をつく。
「帰ってくるのかぁ、あいつ」
「あー…、メアリーの元カノだったねぇ、そういえば」
遠い昔のことを思い出すように、二人は揃って暗い空を見上げた。
メアリーは神宮司の言葉に頷き、もう一度息をついた。
「やっぱり憂鬱? 」
「いや、別に。ショックっちゃぁショックだったが………」
「あれ、結局どっちが振ってどっちが振られたんだっけ? 」
「あっちが振って俺が振られた。でなきゃこんなに落ち込んでるかよ」
がくっと項垂れたメアリーに、神宮司はかっかと心底楽しそうに笑う。
「そりゃ結構です。ご愁傷様」
笑いながら軽く目を閉じてメアリーに辞儀をすると、メアリーはいくらか高い神宮司の頭を手に持った”モデルガン”で殴った。
がん、と渇いた音が響き、しかし音から感じるものほど重症ではないらしく、神宮司は軽く涙目になっただけだった。
腕が伸びないので頭をおさえることも出来ず、じんじんと痛む箇所を振り払うようにぶるっと頭を振った。
「大体よぉ、それメシ食うときどうすんの」
「ええ! もしかしてメアリー私がずっとこれ外さないと思ってる? のんのん、ぶっぶー、不正解ー」
「ああ゛!? 」
「で、振られた理由は? 」
がんっ 今度はもう先程よりどれだけか強い力で。
それにすっきりしたのかメアリーは痛がる神宮司を横目に話をつづけた。
「それがもっともあいつらしい振り方でな――………」
歩く 歩く
異常な二人の姿も遠くにあればただの人影。
そして彼らにとってはそれが平常である。
二人の声は次第に街の音にかき消され、埋もれてゆく。まるでその言葉を隠すように。
いや、それ以前に彼らははたして異常なのだろうか。
異常とはいえば異常かもしれない、ただそれが私達の主観であったらどうだろうか。
主観、主観、主観。
全ては主観というもので出来ているにすぎない。
客観的という言葉があるが、自分が客観的だと………たとえば人がどう思っているかを考えたとしよう。
それはもう既に主観ではないのだろうか。
自分がその人がどう思っているかを考える、それは主観と大差ないものだと私は思う。
だから若しかすると彼らは異常ではなく、私が異常なのかもしれないし、彼らも私も平常なのかもしれない。
それを知る術などどこにも転がり落ちてきちゃくれない。
だからこそ人は 歩く 歩く 誰もかれも、足がない人だって変わりなく人生を歩んでゆく。
逃げ出すことも歩いた人生 立ち向かうことも歩いた人生。
――ちょいとここらでお目も拝借。
このお話は「にはん」のお話です。
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むかしむかしの話でした。
それは私にとってはずうっとむかしからのお話で、けれども世界からみるとほんの一瞬の出来事でした。
私には何もかもが馬鹿らしく、愚かで、自分よりも――いいえ、自分すらゴミのように見ていた、今から思うと大変小っ恥ずかしい考え方でした。
思い出すだけで全身がむず痒くなってきます。
――しかし、私はその考えを捨ててはいません。
一定の時代に誰かに言えば言うほど孤立してゆく自分。馬鹿にされる自分。浮き立ってゆく自分。
そんな自分を封印したくて、私は口を閉ざすようになりました。
口を開くと相手の悪口とか、世間への愚痴くらいしかでてこない私の口を誰かに塞いで欲しかった。喉をつぶしてほしかった。
ああ、殺したい。殺したい、殺したい、殺したい!! 昂ぶりは消えません。
最初は蟻でした。次は魚でした、次は小鳥、次は犬、その次は――。
世間の声を聞くだけで苛々する。
けれど、”それ”をしているときは、干した布団に潜るように心地良い。
全てを鋭い切っ先で貫き、重く固い鈍器で殴り、遺体をバラバラにして埋めてやりたい。
これを聞けば人は鼻で笑います。皆さんも馬鹿らしいと思うことでしょう。
だからこそ私は口を閉ざすようになりました。
どうせ「殺す」としかいえない口ならば、開く必要などなかったのです。
言葉で人を傷つけることを怖れているわけではありません。鋭い切っ先で柔らかな心を傷つけることを拒んでいるわけではありません。
私が望むものはそれではない。
はい、いいえ、わかりません。 それだけで渡り歩ける世間すら、私は馬鹿にしています。そんな私のことを世間も馬鹿にしています。
ある種の相思相愛なのかもしれないなぁ、なんてくだらないことを考えても、私を見下す目を私は見下します。
私は理解していました。
私は分かっていました。
私自身が”異常”な存在だということに。普通の人の日常はおくれないということを。
周りとは違うのです。周りが普通だから、私は浮くのです。
私は異常です。周りの全てを殺したいと思っています。
私は異常です、私は異常、異常、異常、異常異常異常異常異常異常異常異常異常異常異常異常異常異常です。
以上です。
ところはとあるバー
決して暗い顔ではなく、だがそこまで派手でもない、清潔さを感じさせる顔を女は俯かせた。
薄い唇は今しがた飲んだ水の入ったコップで濡れていて、それを被ったのではないかと思うほど濡れたような艶を魅せる髪がさらりと頬にかかる。
丸い穴が開いたみたいな黒い目で空になったコップを見る。
耳についた金色のピアスがきらりとバーのライトに反射した。
染めてはいないし、清潔感ある顔つきだが、別に清純とは思わない。ピアスはその理由の一つかもしれない。
先ほどから水しか飲まない彼女に、少なからずバーテンダーの何人かは不満そうな顔を向けていた。
然し虚ろな瞳で一点を見つめ、水のおかわりばかりを頼むという”異常”な彼女に、誰も声をかけたがらないのが事実だ。
「あははぁ、そんでねぇ、そんでねぇ! もう、ちょっと聞いてるのますたぁ」
「いえ、お客様、私はマスターでは………」
「良いから黙って聞きなさいよぉっ! 」
一方、彼女の隣では顔を赤くしてお酒を飲み干す、少々派手な女性が座っていた。
今にも眠りそうなとろんとした瞳をしながら、楽しそうにバーテンダー相手にくだらない話を語りに語っている。
染めたのがわかるようなくすんだ金髪と、左手の薬指にはめた高そうな指輪が印象的だった。
「ちょっと」
その席から一個あけて、少々ぶかいスーツを着た男がバーテンダーを呼ぶ。
優しそうな声とは裏腹に鋭く細い目をしていたが、それでもにこぉっとした柔らかく朗らかな空気が厳しさを感じさせない。
隣の席に座った外国人らしい、カウンターにうつ伏せになってしまっている女性を指差して苦笑した。
すーすーと規則正しい寝息を立てるキメ細やかなブロンドの髪の毛の持ち主だったが、顔が隠れてしまっているので特徴は述べない。
「少しだけ空調の温度、さげて貰っても構わないかな」
「はい、宜しければ毛布もお持ちしますが」
「本当? じゃあ頼むよ」
参った、参ったと若くはない皺の入った目元をあげる。
「これじゃ悪いし、なんか適当に高いカクテルをお願い。時間つぶしに飲むから」
「はい」
高圧的な態度でもなく優しく接する男に、店のほうも悪い気がしないらしく、にこやかに頷く。
カウンターに座っているのはその四人だけで、あとの客はテーブルについたりしている、決して賑っていないわけじゃない。
切れ目の男が女性にそうっと毛布をかけて、ぽんぽんと軽く叩いた。起きる気配はない。
それを見て再び苦笑いを浮かべて、運ばれてきたカクテルに口をつけた。
「奥様ですか? 」
「いや、違うんだ。幼馴染で今日日本に帰ってきたばっかりなんだけれど………。そう見えるからやめようと言ったのに」
呆れたようにふるふると首を振った男に、バーテンダーはふふと上品に笑う。
他のバーテンダーよりも若い雰囲気を漂わせる青年で、ぱっとみた感じでは線が細いと思う。
それでも見習いではないらしく、今男の飲んでいるカクテルを作ったのも彼だった。
齢のわりにしっかりとした真面目な青年に見えるが、矢張り笑顔を見ると子供らしさが垣間見える。
細身の体とは裏腹にごつごつとした手を見た切れ目の男は、元々細い目を更に細めた。
「………手が、気になりますかね? 」
「えっ、いや、まあ、わかっちゃうかな? 気にならないっていうのは嘘だけども」
「いえ、よく言われるものですから、気づいてしまうだけです。お気になさらず」
にこっと愛想の良い笑みを浮かべた青年は、異様にごつごつとした”左手”を胸元にもってゆく。
悪いと思いながらも歪な形の左手をついつい視線で追ってしまい、男はハッとした。
「幼いころ、酷い火傷をしてしまいましてね。それの痕ですよ」
色々な色の肌がつぎはぎになったような手だった。茶色っぽかったり、ピンクっぽかったり、ぼこぼこ。
そんなボコボコの手の薬指にキラリと金属が反射した。
それに目を留めて、青年の顔に視線を持ってゆく。二十代前後に見える青年は、ちょっとだけ恥ずかしそうにはにかんだ。
照れる青年を見た男は、細い目を目一杯に見開いて自然と笑顔を浮かべる。
「えええっ、おめでとう! いやぁ、いつ!? 」
「戸籍をいれたのはつい一週間前で、結婚式は一ヵ月半くらいあとなんです」
「幸せいっぱいじゃないか、おめでとう! 」
「ありがとうございます」
暫くの間おめでとうを連呼する男だったが、暫くして落ち着きを取り戻したらしく、ふう、と息をついてグラスに口をつけた。
高そうな指輪ではなかったが、幸せそうな彼の手についているというだけでそれは輝かしく見える。
そう思えば独り身の己が虚しく思えたのか、もう一度溜息をつく。
「いやぁ、駄目だね。三十路になったっていうのに、まだ良い人の一人もいない」
「そんなことありません。人が付き添える人と出会うというのは、運に近いものもありますし」
「運、ねぇ、僕に向いてくるかな。ちょっと不安だよ」
肩を竦めて男は苦笑した。
「運気は根気と言いますよ」
つられて笑う青年は左をおろして空っぽになったグラスを失礼します、といって下げた。
ぱりん
ガラスが割れる音。男はてっきり青年が落としてしまったのかとにこやかに微笑をたたえ視線を向ける。が、そこにはきょとんと目を見開く青年の姿。
青年は慌てて黒髪の女のもとへ小走りで近寄り、「大丈夫ですか」と声をかける。
黒髪の女は何一つ言わずに”手の中にあるガラス”をぱらぱらとカウンターの上に落とした。
「だ、大丈夫ですか! すみません、グラスにひびでも………」
「いいえ」
「お怪我は………ああ、今救急箱を」
「いいえ」
小さくとてもとっても細い声だったが、真の通った凛とした声で彼女は同じ言葉を繰り返す。
いや、普通ガラスが掌から零れたら心配するだろうと男がちらりと彼女のほうを見る。
――そこで男は再び、違う意味で目を見開く。そして同時に納得もしてしまった。
彼女はグラスを自ら”握り潰し”たのだ。だが、今彼女の手に傷は一つとして入ってはいない。
強いて言うなら何かを強くあてられたような赤い食い込んだ痕だけが残っていた。
黒いワンピースに白いカーディガンを羽織った彼女は無愛想に口を開く。
「あんまりに隣の方が五月蝿くて、つい力が入ってしまったの」
「ふぇええ? あたしぃ? あたしはねぇ、えへへ」
へらへらと口紅の塗られた唇をにやつかせる金髪の女性を黒い目が睨む。
しかし金髪の女性が怯む様子はなく、うふふふふ、と不気味に笑った。
「あーあぁ、女って怖いなぁ」
男はその二人を一歩はなれた位置で眺めながらも苦笑いを崩さなかった。
特に驚きも何もしないのは”彼ら”のおかげかな、と心の中で己の友たちに感謝を告げる。同時に口では絶対に礼などいってやるものかとくだらない意地も張った。
「あああ、あのう、お客様方」
すっかり戸惑ってしまったバーテンダーの青年を同情の顔で見るも、彼も仕事上相手をしなければならないのだから仕方ない。
溜息をついて首をぼりぼりと掻いていると、こちらにまで怒声が飛んでくる。
「あなたも、先ほどから少々五月蝿いですよ」
びくっと男の肩が揺れて、彼は項垂れた。
――五月蝿い、五月蝿い五月蝿い五月蝿い!
ふーふーと息を荒くして黒髪の女、鴇崎 芽衣(ときざき めい)は割れて破片になったガラスを拳を叩きつけて更に細かく砕く。
しかし矢張り、彼女の手に傷がつくことはなかった――。
芽衣の体には痛覚がないというわけではない。怪我をしないというわけでもない。
ただ人より”少々”頑丈にできた体は、滅多なことでは血を流さない。
痛いのに、人と同じように痛いはずなのに。きっと、恐らくそうのはずだ!
不公平ではないか。
痛みを受けても誰からも心配されない自分が憎らしく、生きている物が憎らしく、恨めしく。
思えば思うほど怒りとなったそれは積もってゆき、彼女は全てを否定し、馬鹿にするようになってゆく。一種の八つ当たりといえばそうに違いない。
積もる、積もる。
それは彼女の親にも同じことだった。白い目を向けられる娘に段々と薄気味悪さを感じた。
まだ幼い子供だというのに注射をするとき、転んだとき、一度として泣きもしない。
口を開いたかと思えば、死ねだの殺すだの黙れだの、反抗期かとも思ったのだが、さすがに五歳から続く反抗期というのは早すぎ、そして長すぎやしないか。
親は彼女を嫌い傍に置かない。彼女も部屋からでようとしない。
芽衣の親が一日に一度夕食を彼女の部屋の前に置く。
寝る前になるとトレイにのった食器が扉の前につき返すように置かれている――はずだった。
ある日、
――そうよ、不公平よ
――私だけが痛いなんて不公平よ
――”異常”な私だけがいたいなんて ふこうへいよ
ある日、トレイに乗っていたのは食べかすの残る小奇麗な食器ではなく、鉄の匂いを漂わせる妙な塊。
怪訝に思った母親がそれを持つと、ぐにゃりとした感触に塊についた液体がぬらりと怪しく光り、慌ててそれを落とした。
”羽根”をもがれ”足”をもがれ原型を残さないそれが彼女の飼っていた小鳥の死体だと理解したのは随分あとの話だった。
自分が異常だと理解し、だからこそ異常を不公平だと考える。それが彼女、鴇崎芽衣という女だった。
今こそ大人しそうな女性の見た目をしている。それなりに顔立ちは整っているし、知的という風にも見える。
が、人と関わらず異常であったがゆえに彼女の頭の中はどうしようもなく幼稚で、子供。
覚えた単語を並べただけのような論理と思考、併せ持った丈夫さはただただ彼女を異常へと育て上げた。
あのねぇ、彼女がよく通る声で文句を述べ続けようとしたとき、背後からあーっ!と男の叫び声が聞こえた。
それは大分大きな声だったのか、それともバーというある種の密室のためか、場にいる人々が一瞬にして静まり返った。
カウンターではなく机に座っていたとても大きな黒いバッグを持った癖毛で縁の太いサングラスをかけた男がパンッと渇いた音をたてて手を合わせた。
「そうそう! 大変だ、忘れるところだった! 最近物忘れが激しいのだよな、もう」
彼はぶつぶつと大きな独り言を”叫ぶ”と、黒いバッグの中身をがさがさと探る。
先ほどの声の所為か、全員がその仕草に注目をした。
そして全員が凡そ同時に息をのむか小さな悲鳴をあげる。
「俺、銀行強盗しにきたんだった! 」
それはもう純粋無垢とも呼べる、無邪気な子供のような笑顔を浮かべて、彼は右手にもった小さな銃を真っ直ぐバーテンダーに突き出す。
「ぎ、銀行………? 」
切れ目の男がこの空気の中では浮くような愛想笑いを浮かべながら首を傾げると、癖毛の男があっと声をあげた。
「あっれぇ、そういやここ銀行じゃねぇ! どゆこと!? 」
恐怖に怯えていた人の目が、次第に怪訝なものを見る目へと変わってゆく。
中には頭の可笑しいほうの人かと呆れた視線も混じっている。
がしがしと癖毛の頭を掻きまわしたあと、にこおっと再び笑みを浮かべて、彼は告げた。
「まあ良いでしょう。銀行とバー、大した差もないじゃぁないか」
無茶苦茶なことを言いながら、彼は引き金をためらいもなく引いた。
それはもう純粋な笑顔で、純粋な気持ちで、不純な動機を持ちながら。
ぱんっ
渇いた音がその部屋に響き、ボトルが割れ酒が飛び散る。
傍にいたバーテンダーの青年が肩をすくめて、びくびくとしながらゆっくりと閉じた目を開く。
癖毛の男がきょとんと目を見開いて銃の先を見る。外したつもりはない、外そうとしたつもりはない。
ははっという笑い声が背後から聞こえて、ようやく癖毛の男は振り向いた。
「駄目だよ、ちょっと揺らしただけで外すなんて」
切れ目の男がにこやかに微笑む。
癖毛の男はサングラスの向こうの、男にしては少々大きめの幼い瞳を丸くさせた。外したことに対してではない。
体の位置がズレたのだから、外すことだってあるだろう。
問題は彼が己の体を揺すったこと、退けたこと、触れたことにさえ気づかなかった、ということだった。
ぞっと背筋に冷たい汗が伝い、癖毛の男は焦ったように後ろに銃口を向けた。
「………君は銃を使ったことがないだろ? メアリーじゃあるまいし、そんな人も少ないかもしれないけど」
「あ、ははぁ、よくわかったねぇ! まあそんなところなんだけどぉ」
ぴたっ、背後で癖毛の男の肩を掴んでいた手が固まる。
同時にあー、と彼は額をおさえ、癖毛の男は口元を歪ませた。
穏やかな笑みを浮かべながらもどうしたわけか男の顔は引きつっていた。
「残念無念また一昨日きやがれこんにちは! いくら俺がばかだからってぇ、一人で強盗はしないよ! 」
”背中につきつけられた銃”の、服の上からも心なしか伝わる冷たさに、冷や汗を流す立場は逆になっていた。
「それから、俺がつかうのは確かに銃じゃない」
切れ目の男は驚いて肩を少し震わせた。
空気の流れを遮るような相手の声は、先ほどのおちゃらけた明るい雰囲気とは正反対で、すうっと冷たく低い声。
彼の丸い目が全てを見下すような暗い眼差しになってゆくのを見て、顔を顰めて舌打ちをした。
「鈍器だよ、鈍器」
黒い鞄の中から取り出された、工作などに使うものよりは少々大きな金槌を見ながら癖毛の男はからっと笑う。
「だいじょーぶ、おじちゃん。天国で美人な天使様と仲睦まじく暮らせば良いんだ」
振り上げられる真っ黒にコーティングされた金槌は真っ直ぐに切れ目の男の額に振り下ろされようとする。
「あはっ! 俺ってば恋のキューピットじゃんね! 」
鈍い音がする。
金槌は確かに”少し柔らかな”手ごたえを、癖毛の男の手に与えた。
少し避けられたかと癖毛の男が顔をあげると、目の前にあったのは黒。
先ほどまでは対して目立ちもしないと思われた顔立ちは、凛とした眼力と少し歪められた口元で彩られ、生々しいほどに妖艶だった。
彼女の白い掌には金槌が”当たっていた”。別にそれを掴まれたわけではなく、切れ目男の額の位置に、彼女が手を置いているだけなのだ。
思い切り振りかざしたそれは確実に骨に当たった。現に目の前にいる女も少しばかり額に汗を浮かべて顔色が良いとは言えない。
「………誰かと思ったら、さっき騒いでた頭のイカれたお姉ちゃんじゃんね」
「私をイカれてると言うのならあなたも相当イってるわよクソが」
女らしい白い手がぴくっと動き出すのを感じ取って、癖毛の男は慌てて金槌を引いた。
「あら」
「お姉ちゃんなんかに金槌渡したら俺殺されちゃうからさぁ」
「当たり前じゃない。強盗なんて社会のゴミかそうでなきゃクズがやることよ。名を広めるつもりなのか単にお金が欲しいのか知らないけど、自分は許されるなんて甘すぎる考えを持つクズにくれる同情はないわ」
女性――芽衣の口調は次第に次第に早口になってゆき、そして強くなってゆく。
切れ目の男が芽衣に気をとられている背後の男の手を叩いて拳銃を落とし、体勢を立て直した。
明らかに不利になってゆく強盗の姿に、心なしか客の顔に希望が宿りはじめている。
しかしその希望は次の瞬間、隙を作ってくれた人の手で砕かれた。
「本当にクズ、クズ、クズ、てめぇみたいな奴がいるから全ての人間が汚くなってゆくのだわ! クズ、クズ、クズ! 死ね! 殺す!! 殺しましょう!!! 」
芽衣が声を荒げ始めた。
何が起きたかというのは芽衣の前にいる癖毛男にもわかっていないらしい。
まるで漫画に描いたような口調だった芽衣の言葉遣いは崩れ、最終的には一つの言葉しか口にしないようになった。
「クズ、殺す、クズ、殺す、殺す、殺す! 」
額に青筋を浮かべ目を見開いたまま彼女はそう言う。
助けられたはずの切れ目の男まで冷えた汗を止められなかった。
あくまで今彼女が睨んでいるのは目の前にいる強盗犯であり、彼ではない。なのに何故か心の奥に仕舞いこんだ幼いときの小さな罪さえ見透かされたような不安に陥る。
その声がギィという扉の蝶番が軋む音に重なった。
「皆さん! 今です、どうぞ外へお逃げください! 」
いつの間にか扉まで移動していたバーテンダーの青年がバーの扉を開き、客を誘導していたのだ。
切れ目の男がさて自分も出なければとブロンドの髪の女性の頭をすぱんっ!と綺麗な音を立てながら叩く。
しかしすーすーと規則正しい寝息が乱れる様子はなく、温厚な笑みを彼は引きつらせる。
「ほら、起きなさい! 起きなさいってば、もう ”ディーナ”! 」
気づけば彼の周りには誰もおらず、バーにいるのはバーテンダーの青年と、黒髪の女性、くすんだ金髪の女性、強盗犯だけになっていた。
時は幾日遡り ところもかわって――
「で、振られた理由は? 」
がんっ 今度はもう先程よりどれだけか強い力で。
それにすっきりしたのかメアリーは痛がる神宮司を横目に話をつづけた。
「それがもっともあいつらしい振り方でな――………」
メアリーは不機嫌そうにモデルガンを懐へ仕舞いこみ、舌打ちをして頭を掻いた。
ベールの下の長い金髪がくしゃくしゃになる。
「”ディーナ”らしい? っていうと、やっぱり、そういう? 」
「ああ、大体想像通りだと思うぜ。いっぺん、俺がいる目の前であいつ告白されてよぉ」
「えぇ? もしかしてメアリーよりも美青年ん? そりゃ………あ、でもありえる」
「おいこのクソナルシー殺すぞ。少なくともテメェよりは好青年だったさ」
「それはありえない、のんのん、ナンセンスなギャグは滑りますよぉ」
人差し指をたて、縛られた狭い範囲で振ってみせる。その行動のすべてがメアリーを苛立たせ、彼は浮く青筋を抑えきれないまま引きつった笑みを浮かべた。
嫌味すら通じない彼の脳内には何を言っても無駄だと判断したらしく、メアリーは言葉を紡ぐ。
「いや、実際そうでもねぇ。目立たねぇ地味野郎で、なんでディーナに惚れたのかもわからねぇくらい平々凡々だった」
「ディーナの趣味だったんじゃぁなくて? 」
「あいつがそんな女じゃねぇこと知ってるだろ。 俺がいるのを見て、あいつ俺にこう言ったんだ」
「………」
耳を次にくる言葉に傾けた神宮司。それを見て、何度か言うのを戸惑うように口をぱくぱくとさせた。
「あー…」
「なんですかぁ、さっさと言ってくださいよ」
「なんつったっけ
”今二人を見比べた所、こちらの方を振ることは彼の未来にあまりに酷です。もう二度と付き合ってくださる方など現れないかもしれません。あなたは放っておいても恐らく集まりますから、これからは一人でお願いします”」
そういって一呼吸置いたあと言った言葉は、見事に神宮司の言葉を重なった。
『私は同情を抱いてしまいました』
時は戻り 現在
「愛華! どうして逃げないんだ! 」
バーテンダーの青年がへらへらと笑うくすんだ髪の女性に怒鳴った。
その姿にバーテンダーとしての姿はなく、ただの一青年として彼は女性の細い手首を引いた。
「えぇ〜、だってぇ」
「だってじゃないよ! もう、君は何時もそうだ! 」
「コウが心配しすぎなんだよぉ」
「普通強盗犯がでたら誰だって心配するだろ!? 」
「お店ではバーテンダーとお客さんっていったのはコウじゃんかぁ」
「それはっ………、ああ、もう兎に角違うだろ! 早く逃げよう! 」
すっかり耳まで赤くなってしまった女性――愛華の腕を強く引っ張り、店の外に連れ出そうとする青年、晃(コウ)。
あれだけの騒ぎがあったというのに未だ酔いがさめていないのか、それともこれが巣なのか、へらへらと笑い続ける己の新妻に、晃は頭を抱えた。
いや、正しくは抱えようとした。その手は何か強い力に引っ張られて、そしてその手の先から激痛が走る。
「………っあ! 」
「ここのバーテンダー? 悪いが仲間があんな状況でな、できれば金の在り処教えてくれるとありがてぇんだが」
元々形の良いとはいえない左手があらぬ方向に曲がっている。
大きく悲鳴をあげることすらできず、晃は痛みに顔をゆがめる。
先ほどまで切れ目の男に銃を突きつけていた人だ、遠目に光景を見ていた青年はその人物を把握していた。ゆえにすぐ理解した。
癖毛の男と同じく、縁は細いがサングラスをかけた、だが彼とは違い年は二十は確実にこしているように見えた。
「い、あ、あ」
涙を流すつもりはないのに目元まで溢れる涙を、青年は必死にこらえた。
「な? 教えてくれれば逃がしてあげるし」
その言葉が嘘なのだと、一瞬でわかった。
ここまで顔を見られた人物を逃すとは思えない。何より彼の貼り付けたような作り笑いは、カタギのものとは思えないほどに穏やかだった。
「ねぇ」
女性の声が響く。真剣な声をしているせいで気づきにくいが、間違いなく愛華のものだった。
”早く逃げるんだ”青年は口パクでそう告げる。
それを無視して、額に汗を浮かべながら愛華はサングラスの男をにらみつけた。
「あたし、お金の場所しってるよ」
「ばかっ! なにを言い出すんだ」
「えっ、あ、あたし馬鹿じゃないもん」
「わかった、わかったから早く………! 」
晃の手に再び痛みが走る。先程より痛みはないが、確かに走った激痛が晃の言葉を遮った。
芽衣と対峙する癖毛の男、晃の手を掴む男、それらに反抗する人々の顔に緊張が走る。
てっきりこのまま戦闘でもするのではないかと、お思いの方もいるのではないだろうか。
間違いなくその流れだ。小説に漫画に映画、全てにおいてこの後自分の信念を守る芽衣と、愛する人を守る二人のハラハラなアクションがはじまるのが筋書き。
恐らくこの場に彼女がいなければ、確実に。
ブロンドの髪を揺らしてゆっくりと顔をあげるディーナは、絵画でも見ている気分になるほどに”美しい”。
芽衣のような生々しい妖艶さではなく、一枚の絵に描かれた女性のように、欲情を抱かせない美しさを持っていた。
それを本当に美しいと思うかどうかは個人の観点として、それほどにすっきりとした顔立ちだった。
真っ白でキメ細やかな肌と金糸のような髪、その髪と同じく色素の薄い長い睫毛に隠れていた青い石をそのままはめ込んだような丸い目。
愛らしい、という部類には入らない大人びた顔だった。
「良かった…、ディーナやっと起きた………」
「ハァイ、ユウジ。グッモーニング」
「はいはいグッドモーニング、さっさと行くからね」
如何見てもアメリカというより北欧のほうの顔立ちをしているのだが、彼女は”カタコトで”英語を話した。
業とらしいディーナの姿に勇二(ユウジ)――切れ目男――は溜息をつき、彼女の襟首を掴んだ。
「待って、待ってよ、ウェイト。何故彼らはいがみあっているのかしら」
「だから君は英語圏じゃないだろう………ああ、ちょっとね」
「ちょっと? ちょっとって何ですか。いやぁん、痛い痛い、耳つねらないで」
「君が関わると修理代やらなにやら面倒なことになるんです。わかったら行くよ」
「いやぁよ、どうせ今頃ジンが自分のヘアスタイルについて駄々こねてる時間でしょ」
「そんな時間君が寝ている間にとっくに過ぎたよ」
受け答えしつつ襟首を引っ張ろうとするのだが、強く否定するように彼女はその場から動かない。
「………ディーナ? 」
「なにが、あったのですか? 」
「ディーナ」
「何故あの青年は怪我をしているのです? 何故その連れは銃を向けられているのです? 何故金槌を持った男が女性を襲っているのです? 」
動かない、それよりも動かせない。
真剣な目をした彼女の顔に訴えられたということもあることにはあるが、物理的に、力で動かせないのだ。
男は特別力がないわけでもない。なのに彼女はその場からびくともしないし、表情も崩さない。
”幼馴染”だけあって、ディーナのことには慣れているのか、勇二は気にしない風を装い手を離した。
「………あのね、ディーナ。君は…」
「ユウジ、お願い」
表情は崩れないのに、もう頼るものがないような懇願するような、そんな声に勇二の顔がぴくりと動く。
有島勇二という男は、幼いころからディーナのこの声に弱かった。
それを知ってか知らずか弱みを握るディーナは、更に。
「お願いよ」
涙に声を震わせるような声で、けれど表情は一度も動かさないままに。
勇二は細い目をぎゅっと細くして、カウンターに呆れたように手をつく。
「………僕、メアリーに殺されるかもしれないよ」
「だって仕方がないことなのです、私は…同情を抱いてしまいました」
有島勇二は知っている。
知っているからこそ、彼はこんな状況でもなお落ち着いていられるのだ。
幼馴染を利用しているような気もするが、それは彼女も同じこと。彼女は勇二がいるからこそ隣で眠る。
メアリーと付き合っていたときも、ちょっとだけ思春期のときも、何時も何時も。
ディーナという女性が普通ではないことを、知っている。
時はディーナが起きる少し前まで遡り
芽衣と癖毛の男はお互いに、いや芽衣が一方的に敵意をむき出しにして睨んでいた。
癖毛の男は何をするでもなく、飄々とした態度を見せる。大分彼女の態度に慣れたのか、先ほどより動揺は見られない。
「大体、さっきからクズクズって言うけど、社会に適応してない君が俺のこと言っても説得力ないよね」
「あなたみたいのとは違うわ、私は私を受け止めている、異常であることをわかっているもの。人を傷つけないために人と関わらないことの何が悪いの」
「うぬぼれんなよクズ」
「ああああああ、イライラするわ! イライラする! なんでこんなクズが世の中に生きているのよ! 私は普通に暮らせないのに! 」
「うぬぼれんなよ、クズ」
挑発するように笑いを含んだ言葉が癖毛の男の口から紡がれてゆく。
相手を見下したようにも、世間を見下したようにも見える冷たいサングラスの奥の瞳がただ笑う。
「異常を異常とわかっている? 本当に? 違うね、全くもって違う、はずれだよ」
「五月蝿いわ、五月蝿いわ、誰か耳栓を頂戴、お願い、お願い」
癖毛の男は笑ったままだった。
その光景は実に奇妙で滑稽で不気味なものだった。といっても、誰も見ている者はいないのだが。
麻薬中毒者のようにくしゃくしゃと頭を掻き叫ぶ女性に、笑いながらそれを見下す男。
男の手にはひん曲がった使い物にならない銃が握られていて、それを握る手には引っかき傷。
反対の手にしっかりと金槌を握り締めている。
「君は異常ということを理解していない、だから今もそうして耳を塞ぐんだね? 」
嘲笑を含む男の声など届かないように女性は耳を掻く。
掻きすぎた耳が赤くなっていて痛々しい。
「もう、もう、もう、黙ってよぉおおおおおおっ! 」
芽衣が反応しているのは彼の言葉ではない。あくまで彼が”発している”言葉に反応しているのだ。
彼女のなかの世界はどうしようもなく幼稚で、子供で、無知な世界なのだ。
悪いことをしている人は悪い人でありこの世にいるべきではない、のうのうと生きる悪人が同じ場にいるべきではない。
何時だって孤独で異常な正義の味方というものが平穏に育つために、生きるために、彼らがいるべきではないのだ。
芽衣は叫ぶと同時に足を踏み出す。一度ゆらりと動いた影はとどまる事をしなかった。
「いらないのよね、いらないのだわ、だって悪人がいなくなっても悲しむ人はいないんだもの、しにましょう」
歩き方を喩えるのならば、ホラーゲームかなにかで暗闇から襲い掛かってくるゾンビのようだった。
ふらふらゆらゆら、だけど確実に男へ向かっている。
「異常じゃないよ、君は。異常じゃなくて」
「しにましょう、ころしましょう」
「ただ狂っているだけだ」
癖毛の男は動かない。わかっていたからだ。彼女は確かに怯まないし、攻撃をしてきくかはわからないが、向こうからの攻撃は大したことはないということを。
特別格闘技をやっているわけでも人殺しに慣れているわけでもない芽衣の動きなど読めると思っていたからだ。
「気がふれちゃってるだけだよーん」
ぱんっ 渇いた音が空気を振動させる。その場の空気が固まった。
全員がその方向を見た。晃も愛華も芽衣も勇二もサングラスの男たちも。
「………かわいそうに、こんなに赤く腫らしてしまって」
癖毛の男の頬を思い切りはたいた白い手が再び、今度は優しく頬に触れた。
自分で叩いといて何を言うんだと反論したくもなるのだが、癖毛の男にその発言は許されない。
それを口にする前に今度は反対の頬が思い切り強くはたかれたのだから。
ぱんっ ドラマの効果音に売りつければ中々使えるのではないかと思うほどに演技のような音だった。
「かわいそうに」
ぱんっ
「かわいそうに」
ぱんっ
「かわいそうに」
ぱんっ ぱんっ ぱんっ
あんぐりと口を開けたのは芽衣だった。
芽衣の手に持っていた、今まさに叩かれている男に投げつけるつもりだったガラスの破片が、芽衣に背を向けている女性の背中にまばらに刺さっていた。
血がじんわりと服越しに滲んできていて、決して無傷ではないということを知らせている。
なのに彼女がたたえているのは嘲笑ではなく微笑み、悪魔ではなく天使。
「かわいそうに、かわいそうに、ああかわいそうに。貴方は自分のした愚かささえ気づかないのですね」
真っ赤に腫れた癖毛男の頬をなでてから、動けない体をぎゅうと抱きしめた。
「でももっと可哀相なのは貴方が今呼吸をした所為で進んだ温暖化で海面が上昇して家のなくなってゆくツバルの子供達」
「か、はっ」
「貴方が今吸った酸素で生き延びられる寿命の減ってしまった遠い遠い未来の人々」
「や、め………ろ」
ぴくぴくと動く癖毛の男の指が次第に青白くなってゆく。
それでも手を離さないディーナの背中に一つ声がかけられる。
「………おい」
「はい」
「そのどうしようもねぇ同情心、こいつらにも向けてやったらどうだ? 」
声をかけたのは、晃の手を思い切りねじり折ったもう一人のサングラスの男だった。
「そいつを仲間だとはこれっぽっちも思ってないが、あんたがいると色々めんどうくせぇ」
ディーナはにこにこと笑ったまま微塵も表情をかえる気配はない。
「………此処にいるカップルの頭ぶっとばすぞ」
その発言が出たとき血相を変えたのはバーテンダーの青年、晃だった。
彼は一度さーっと血の気がうせた顔をすると思えば顔を赤くしてサングラスの男に訴える。
「どういうことだよ! おい、その手をはなせ、俺が人質になる」
「晃! 」
ぐいっと愛華を掴んでいた手を掴むと、男はぎろっと晃を睨む。
「もう片方の手もひんまげるぞ」
「構うもんか、折るならさっさと折れよ」
真っ直ぐと男を睨み上げる晃の瞳に恐れがないわけではない。ぷらん、として動かない左手への恐怖が残っている。
だがそれ以上に怖かったのは男の横にいる自らの恋人が、いや妻が傷つくこと。
エゴかもしれなくても、かっこつけかもしれなくても、それは自分自身が許せないことだったから。
「そうか、じゃあ」
然しその純粋さは時に相手を挑発していることに気づかない。
サングラスの男の手に握られたそれはゆっくりと愛華のこめかみへと持っていかれた。
「なっ! 」
驚愕の声を出した晃は慌ててディーナのほうを振り向いた。
懇願するような顔をして必死に訴えかける声は、もし彼女でなければ心を動かしていたかもしれない。
「頼む、助けてくれ! 同情でも良い! お願いだ、彼女のいない世界なんて考えられないんだ、傷つくだけで死んでしまいそうなんだよぉっ! 」
ディーナは癖毛の男を手放した。その体は骨がすべて抜けてしまったようにずるりと地に落ちた。
だが彼女の姿が動く様子はない。
「残念だったな、同情してもらえないようで」
絶望した晃の手がかたかたと震えた。そして唇も震える。震える。震える。
「………そ、くそ、くそぉおおっ! 」
震えて震えて震えて、いつしか恐怖は無謀へと化す。
無謀と勇気を履き違えるなと人は言うが、彼の無謀は勇気と同等のものをもたらした。
愛華と拳銃の間に無理やり割って入った晃だったが、勿論目の前にあるのは銃口。晃、と自らの名を呼ぶ愛する人の声ももう届かない。
全ての時間が止まったかと思った。
「私ね」
晃の耳に届いたのは愛する人の声ではなかった。だが確かに、どこかできいたことがある声だった。
あまりに雰囲気が違ったから気づかなかった。先ほどまでがなる、怒鳴る、叫ぶことしかしていなかったから。
その声の本質を活かしたような凛とした、だけど優しさを含んだ声を聞いたとき、誰だかわからなかった。
「私、ね」
晃は己の頬につめたいものが落ちる感触を感じた。
先ほどまで突きつけられていた冷たく無機質な固い銃口ではなくって、もっと柔らかい、液体のような。
そして次の瞬間、どうと目の前の影が地面に倒れていた。
「人のために行動をする人を見たの、はじめてなのよぉ」
凛とした声を残して、芽衣は地面に倒れこんだ。
無理やり標的を変えたのか、幸い怪我をしているのは頭ではなくわき腹のようだ。血が流れているのに彼女は息の一つも乱さなかった。逆にとっても安らかな顔をして、口元も緩んでいる。
「あー、痛いな、痛いなぁ。よかった、私でもやっぱり銃は痛いよ」
所々で鼻をすする芽衣。仰向きになった彼女の顔を見て初めて晃は頬にあたったものが涙だったのだと知る。
黒くて、まるで眼の部分にぽっかりと穴が開いたような瞳からぽろぽろと涙が出てきている。
微笑みながら彼女は満足げに涙を流す。今から死ぬのだと言いたそうに。
「ちょ、ちょっと、ねぇ、大丈夫? ち、血がでてる、どうしよう、ごめんなさい、あたしが………」
「暴言吐いてごめんなさい、覚悟してた貴方の顔、すごく、綺麗だったの」
――庇ったのか? 俺を?
やっとのことで自分がまだ生きていることを実感した晃は慌てて倒れこむ女性の傍に駆け寄る。
「死ぬ、のか? 」
「コウ、変なこといわないで」
「俺のせいで、君は死んでしまうのか? 」
恐怖への震えとはまだ違った震えが体を包んでゆくのがわかった。痛みの残る手とまだ無事な手でそっと彼女の肩をつかむ。
「変なこといわないでよ! あ、あたし達を、助けてくれたのに………」
愛華の甲高い声が次第に涙声になってきて、コウもつられるように涙が浮かぶのをとめられなかった。
「大丈夫、私は、異常だから………」
芽衣は一度微笑み、そして首を先ほど目の前にいたディーナのほうを見ようとした。
が、ディーナは既に先ほどの場所におらず、気がつけば芽衣の前に堂々とした態度で立っていた。
その様子を見た芽衣は、照れくさそうにはにかんだ。
「異常っていうには、足りないかもしれないけど」
「悠長なことをいっていないで、怪我の治療をしてお逃げよ。救急車は呼んだから」
勇二がこつんと靴をならして、晃の手をそっとどけてカーテンを破いたものを彼女の傷口に当てた。
それをぐるぐると巻いた後、晃に向かって掌を差し出す。
「折角指輪が映えてるんだから、大事にしないと。………手も、命も」
晃は申し訳なさそうにぷらんと垂れたままのやけどを負った左手を差し出した。
きらっとエンゲージリングが光った。
勇二は”まるでもう何もなかった”ような顔をしている。というか、もう何もおこらないだろうと確信したような顔だ。
「………にしても」
「え? 」
「いいや、なにも」
遠くから救急車とパトカーのサイレンが聞こえてくる。その安堵感からか、糸が切れたようにへたれこむ愛華。
「やっぱり良いね。僕もほしいよ、そういう人」
「運気は根気といいますよ」
晃がそう言った瞬間、背後から物凄い騒音が響く。 晃はそれに肩をすくめ様子を見ようとするが、勇二に首を振られた。
――ところは変わり時は進んで
「ぼーすぅううう」
ぎゅうっと長身の男の影が大きいとはいえない成長過程の青年の体に寄りかかる。
それを受けた青年は慌てふためく――様子はなく、苦笑いをしてからそっと体を押し返した。
長身の男、もとい神宮司神冶という神々しい罰当たりとも思える名前を持つナルシストはそれに対して軽く拗ねた様子を見せた。
「そっけないですねぇ、折角高校生活はじまっての感想を聞きにきたのに」
「いや、頼んでない………というかなんというか、昨日お祝いにこなかった人たちに言われても希薄なかんじが………」
青年は至って普通の容貌をしていた。
本当に至って普通。あどけなさの抜けない少年交じりの顔に真っ黒な顔真っ黒な目。
真面目すぎて普通すぎて、恐らく彼が犯罪を犯したら「大人しい子ほどキレたら怖い」と言われそうな気もする。
大人しそうな顔だったが、浮かべる明るい笑顔を浮かべている所為かその雰囲気は打ち消されている。
頬や手に異常なまでに絆創膏が多いが、なんとなく喧嘩じゃなさそうだなー、と思ってしまう。
青年はぱちんぱちんと足の爪を切りながら目の前に座っている二つの影を見た。
かたや自分を抱きしめるように腕を巻きつけた長身の男、かたや女のように見えるが性別的には男のシスター、ちなみに彼は今日ミスマッチにもほどがある安い土産屋で売ってそうな剣のネックレスをはめていた。十字架のかわりだというのなら随分ちんけだ。
「そんなこといわれても」
「忘れてたんだから仕方ねぇだろうが」
「だよね………」
がくしと項垂れた青年は今か今かと”帰り”を待ちわびていた。
一応彼らの上についているという自覚はあるものの、彼らを扱えるかといえばそれは別の問題だった。
とある組織のとあるリーダー、彼がここにいるのは至って単純で簡単で阿呆らしく、しかし本気でもある。
理由は今は伏せるとして、ともかく、組織を”作った”のは軽い気持ち半分本気半分だったのだ。だから一人ずつ声をかけていったその努力も無駄ではないと思っている。
”普通の社会”に適応できない人、”社会”では軽蔑される人、畏怖される人、そういう”噂”を引き起こす人たちを調べては勧誘した。
『好きなことをして良い』
その一言を添えて。
組織としては”何でも屋”ということにしておいた。
目的は別にあったとしても、何時もは何でも屋として過ごすことにした。迷子の猫探しや麻薬の引き取り等、本当になんでもいいということに”しておいた”。
そうすれば噂が噂を呼び、それにひきつけられて向こうからくることも少なくはないし、彼らもなにもないときに暇なことはなくなるから。
社会不適合、そのレッテルを貼られた彼らに働きというものを与えることは、予想以上に大きな意味をもたらしていた。
彼にとって集めた人々は目的を達するための駒でもあり、踏み台でもあり、自らを運んでくれる大切な仲間でもある。
「そういえば二人とも、暦(レキ)が怒ってたよ。まだ窓割って入った! って」
「そりゃ、ドアが開いてないから窓から入ったんですもん」
「ノックしてよ」
「ノックしたらあの潔癖症キレるじゃねぇか」
もっともだ、と言葉を返したいのは山々だったが、矢張り窓を割るのもいかがかと思う。
そう思って青年が口を開いたとき、がちゃりとドアが開いた。
「あ………! 」
青年の顔に光が灯る。
一つは、彼らを押さえつけてくれる………正確にいえば苦労を押し付けている人物が帰ってきたこと。
そしてもう一つは――
「はぁい、アムトー! 」
「あむとじゃないし………何時になったら名前を覚えてくれるの? 」
「ンん? アムト? アルト? アトム? 」
「ごめん、全部違います」
苦笑いを浮かべたままでいると、扉を開けた人物はけらけらと笑い出した。
「ごめんなさい、ヤマト。わざとよ、わざと」
「うー………うん………? 」
青年――大和が首を傾げたのは、彼女の服が何故かぼろぼろで、背中には無数の滲んだ血が見えたからだった。
それでも何一つ変わらずただ笑顔を浮かべつづけるディーナの顔を見て、まあ後で治療すればいいかと言及はやめた。
兎に角、今言うことは一つ。
それを言い終わったら彼女の土産話でも聞きながら薬を塗って包帯でも巻こう。彼女のことだからきっとすぐ取ってしまうだろうけど。
「お帰りなさい、ディーナ」
一方メアリーのなかで何かがキレる音が聞こえて、扉の前に立っていた勇二に詰め寄り続け――ということがあったのだが、それはまた別の話。
別の話、 別の話、 別の、お話。
――芽衣の体には痛覚がないというわけではない。怪我をしないというわけでもない。
ただ人より”少々”頑丈にできた体は、滅多なことでは血を流さない。
痛いのに、人と同じように痛いはずなのに。きっと、恐らくそうのはずだ!
不公平ではないか。
痛みを受けても誰からも心配されない自分が憎らしく、生きている物が憎らしく、恨めしく。
思えば思うほど怒りとなったそれは積もってゆき、彼女は全てを否定し、馬鹿にするようになってゆく。一種の八つ当たりといえばそうに違いない。
積もる、積もる。
それは彼女の親にも同じことだった。白い目を向けられる娘に段々と薄気味悪さを感じた。
まだ幼い子供だというのに注射をするとき、転んだとき、一度として泣きもしない。
口を開いたかと思えば、死ねだの殺すだの黙れだの、反抗期かとも思ったのだが、さすがに五歳から続く反抗期というのは早すぎ、そして長すぎやしないか。
親は彼女を嫌い傍に置かない。彼女も部屋からでようとしない。
芽衣の親が一日に一度夕食を彼女の部屋の前に置く。
寝る前になるとトレイにのった食器が扉の前につき返すように置かれている――はずだった。
ある日、
――そうよ、不公平よ
――私だけが痛いなんて不公平よ
――”異常”な私だけがいたいなんて ふこうへいよ
ある日、トレイに乗っていたのは食べかすの残る小奇麗な食器ではなく、鉄の匂いを漂わせる妙な塊。
怪訝に思った母親がそれを持つと、ぐにゃりとした感触に塊についた液体がぬらりと怪しく光り、慌ててそれを落とした。
”羽根”をもがれ”足”をもがれ原型を残さないそれが彼女の飼っていた小鳥の死体だと理解したのは随分あとの話だった。
自分が異常だと理解し、だからこそ異常を不公平だと考える。それが彼女、鴇崎芽衣という女だった。
今こそ大人しそうな女性の見た目をしている。それなりに顔立ちは整っているし、知的という風にも見える。
が、人と関わらず異常であったがゆえに彼女の頭の中はどうしようもなく幼稚で、子供。
覚えた単語を並べただけのような論理と思考、併せ持った丈夫さはただただ彼女を異常へと育て上げた。
そういう設定が良い、そういう設定にしよう。
考えてた。異常だと思い込めば、異常だと思えば、自分は本当に異常になれるのだと。
世界の全てなんて知らなかったことにしよう。私は正義のためだけに生きることにしよう。
魔女が死んで喜ぶような、敵が谷に落ちて嬉しく思えるような、そんな風になろう。
思い込んだら良い。私のこの異常な体質を活かす設定はそういう風が良い。
――私には、生まれたときから両親なんていない
気がつけばドブの中の食べ物を拾うような生活をしている叔母と共に生きていたし、何かを破壊したい衝動なんてなかった。
味気ない自分の生活が嫌になって勝手につけたスパイスだった。
本当はそんなこと思っていない。けど確かに心のどこかで悪人を嫌う部分があった。
人の心とは怖いもので、『そうである』と思い込むと、どこまでも思い込んでゆけるものだった。
鴇崎芽衣という名前で、ちょっとヒステリーな、気の狂った女の人だと。
あのとき流した涙は嘘ではない。
初めて人のために動く人をみて、芽衣という人物の心は揺れ動いた。でなければ助けはしない。
衝動的にあの人たちは死なせたらいけないと思ってしまったから、庇ったのだ。
だが然し、それはあくまでも鴇崎芽衣の心の中だった。
彼らの前では鴇崎芽衣という人物が出来上がった。それで良い。
それで良いではないか。
芽衣は私に言い聞かせる。このままちょっとずつ変わってゆく人生で良いじゃないかと。
私はどこかそっぽを向いて適当に相槌を打った。
私は私を私で私。
名もない少女は目を開けると、白い病院の天井を見上げて、あー、と声を出した。
これは誰の声なのだろうという疑問を己にぶつけながら。
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2010/04/25(Sun)01:53:38 公開 / あかば
■この作品の著作権はあかばさんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
わたくしはしがない文字書きで御座いますが―。
こんにちは、初投稿のあかばと申します。
異世界とリアル・現代というジャンルを同時につけてしまい、しかしこれが一番作品にあっているのではないかと放置しています。
最初舞台は日本で現代にしようと考えたのですが、日本の知識で間違えたものがあったとき、異世界だったら言い訳が聞くからなんて安易な考えで舞台を変え、書き出しに恐ろしいほど苦労しました。
まだまだ未熟ですが、作品に愛情をこめていきたいと思います。
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。