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『雨の中のプラン 第四章まで』 ... ジャンル:恋愛小説 サスペンス
作者:浅田明守
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あらすじ・作品紹介
雨の降る夜にあった一つの事件と一つの出会い。すべてはそこから始まった。そして翠色の髪を持つプランと隠れメイドマニアの礼二との出会いが彼らが住む街で起きた事件をより複雑にしていく……
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第一章 二つの事件と一つの出会い
<T>
雨降りの早朝、木々が生い茂る山の中、あたりの民家から隔離された場所にある研究所に藤間茂樹はいた。
藤間は今現在酷く不機嫌だった。その理由は二つ。一つは昨日の夜から降り続けている雨、そしてもう一つは……
「藤間警部……いらしていたんですか」
研究所に近づくと若い警察官が藤間に話しかけてくる。
「ああ、警視総監殿じきじきの嫌がらせだよ。なんだって有給中の朝っぱらに呼び出されなきゃならんのだ。それも人死にで」
イライラしながら藤間はタバコに火を付けようとするが雨でしけったのかなかなか火がつかない。結局火を付けることなくタバコを胸ポケットに入れると八つ当たり半分に声をかけてきた若い警察官にさっさと現場に案内しろと怒鳴りつける。
若い警察官はあからさまに機嫌が悪い藤間に苦笑いしながら藤間を研究所の一室に通す。
「よおシゲさん。休日出勤お疲れ様」
藤間が部屋に入るとくたびれた上着を着たゴリラ顔の中年の男が親しげに声をかけてくる。
「ゴリさんか……この間定年退職したんじゃなかったのか?」
「退職した三日後には現場復帰することになったよ。どうも最近の若造は使えないらしい」
人懐っこい笑みを浮かべてゴリさん、遠藤昌造が藤間に何か書いてある紙の束をバインダーごと投げてくる。
「それが今のところわかっていることだ。こう見えて忙しいんでな。それ見てわからないことがあったら後でまとめて聞いてくれ」
そう言うと年老いた捜査官はどこかへと速足で歩いていく。若干猫背ぎみの後ろ姿からは遠藤の疲れをありありと窺える。事実、遠藤は昨日まで不眠不休で別の事件を追っていたのだ。それが終わってようやく眠れると思った先の呼び出しだ。たとえ遠藤がまだ若かったとしてもその疲れは隠しきれるものではなかった。
「遠藤さん、ここ数日まったく寝てないそうなんです。昨日も別の事件現場で調査してましたし……なんでも警視総監が直々に仕事を回しているらしいですよ」
「あの若造は何を考えているんだ……」
若い警察官の耳打ちに藤間が苦々しい顔で若い警視総監に対する不満を呟く。今回に限ったことではなく、基本的に今の警視総監は現場の人間との折り合いが悪かった。何事にも論理と効率を優先する若いエリート族と現場での経験や勘を重視する現場の人間ではそもそも折り合いをよくしろと言う方が無理があるというものだが。
イライラしながら遠藤から渡された調査報告書に目を落とす。
『ガイシャは三島由紀夫(52)三島植物研究所第二研究室にて変死体として発見。死因は窒息死。ガイシャの首にひもか何かで絞めつけた跡が残っていることから絞殺された可能性が高い。死亡推定時刻は昨夜未明から今朝にかけて。司法解剖を行えばもう少し詳しい時間がわかると思われる。第一目撃者はここで働いている清掃業者で、今朝4時半、この研究所のゴミ出しをしようとしたがゴミが外に出ておらず、中にいるガイシャに確認を取ろうとしたところ第二研究室でぐったりと動かなくなっているのを発見。ガイシャは体中にツタを巻きつかせていた。遺体の側には『我はメイドへ誘う物なり』というメッセージが植物の花弁で書かれていた。研究所からは三島が研究していたとされる人工知的植物が盗まれていた。もっとも人工知的植物がどのようなものかは不明。三島の専門が植物と人間とのコミュニケーション手段の探索だったことから、人間のコンタクトに対してなんらかのリアクションをとる植物と思われる』
いろいろとツッコミどころ満載な報告書に頭を痛めながら一緒に挟まれていた写真に目を移す。と同時に苦虫をかみつぶしたような顔になる。
「……これは、あまり見たいものではないな」
藤間は現場で30年近く働いたベテランの刑事だ。長い勤務歴のうちに目も当てられない現場をいくつも見てきた。悲惨な現場を見て吐き気を催したのは一度や二度ではない。その藤間ですらこのような酷い吐き気を感じたことはなかった。
そこに映っていたのは体中にツタを這わせ、毛むくじゃらの足とちらちらと胸毛がのぞく胸元をあらわにしたメイド服姿の52歳男性だった。写真の隅に小さく「追伸.ガイシャはメイド服を着ていた。ガイシャの寝室にこれと同様のメイド服、およびメイド服を着た女性のフィギュアが大量にあったことからこれは事件とは関連性はなく、ただのガイシャの趣味と思われる」と書かれている。
「謀ったなゴリさん……」
あからさまな追伸に作為的なものを感じ、藤間はゴリラ顔の捜査官の八つ当たりじみたいたずらに苦笑いしながら疲れているくせにこういうことは抜かりなくやるのかと呆れため息を吐きながら捜査に加わった。
<U>
一之瀬礼二は雨が好きだった。より正確に言えば雨が傘を叩く音が、手に伝わる感触が好きだった。そのため雨の日はいつも遠回りをして学校から帰ってくる。
一日中雨が降り続けているその日も礼二は散歩がてら学校の近くにある公園の方を回って家に帰ろうとしていた。ちなみに公園を通る帰り道は礼二がひそかに気に入っているコースの一つだ。
礼二がその女性を見つけたのはご機嫌の鼻歌なんかを歌いながら雨の中を歩いていた時だった。
「あれは……?」
礼二の視線の先は公園の砂場に固定されていいた。正確に言えばそこに佇むショートヘアーの女性にだ。
歳はおそらく20代前半。雨の中、人気のない公園に佇む女性には異様な雰囲気を持っていた。
その女性が異様な雰囲気を持っていた理由の一つは彼女の綺麗な翠の髪にある。その色はそれだけで見ると深い森林を思わせ、人が自然に生まれ持つものとは思えない美しいものだった。しかしその女性の髪はあくまでも自然で、染めたものではなく生まれ持ったものであることが窺える。彼女がなぜかイギリス女性給仕の制服、つまりメイド服を着ていたのも彼女が異様な雰囲気を持つ理由だろう。だがそれ以上に彼女が傘も差さずに歌を歌っているからというのが大きいだろう。
「――――」
それは歌詞のない歌。甘く切なくどこか悲しい旋律は礼二の心を強く揺さぶった。
歌声に引っ張られるかのように翠髪の女性に礼二が近づいていく。礼二が目の前まで来てようやく女性は礼二の存在に気付いたかのように顔をあげて、
「あ、あの……」
おずおずと声をかけてきた礼二に静かに笑いかけてきた。
礼二は自分の体温が上がっていることに気が付いていた。そしてそれが目の前にいる女性によるものだということも自覚していた。つまり、
「父さん、母さん、事件です。俺はどうやら一目惚れをしてしまったようです」
視線を女性の顔に固定しながらぽつりと呟く。そうしているうちに礼二の行動を不審に思ったのか、女性が小首を傾げながら礼二の顔を覗き込むようにする。
ちなみに礼二より女性の方が若干背が高い。そのため礼二の顔を女性が覗きこもうとすると少し前かがみになる必要がある。女性の顔に視線を固定していた礼二は、彼女の顔が動くのに合わせて視線を動かす、つまり少しではあるが視線を下に動かすことになる。そうするとどうなるか。当然視線を下にずらしたために女性の胸元がそのつもりがなくとも礼二の視野に入ってくる。ちなみに女性はこの雨の中、何時間も傘を差すことなくここに立ち尽くしていたようで、つまるところ女性が来ている服はもはや本来の機能をなさぬほどに濡れ濡れすけすけになっているわけで、
「っ!?」
鼻に熱い液体が込み上げてくるのを感じて鼻を押さえながら反射的にその場から飛びずさる。
指と指の隙間から見える赤い何かに興味を持ちつつも女性がそれ以上礼二に近づくことはなかった。
「え、えっと……とりあえずここで何をしているんですか?」
「――――♪」
鼻を押さえているせいでおかしな感じになった礼二の声にころころと笑いながらも女性は彼の問いに答えようとはせず、再び歌詞のない歌を歌い始める。
今度の歌はさっきとは打って変わってアップテンポの楽しげな雰囲気の歌で、女性もどこか楽しそうに足でリズムをとったり雨の中をくるくると回ったりしている。
「あ、あの!」
このままではキリがないと思い礼二は少しだけ声を張り上げて女性に近づく。
女性は礼二の声に驚いたのか、びくりと身体を震わせると怯えたような目で礼二を見る。
「ご、ごめんなさい。驚かす気はなかったんですけど……と、とりあえずこれ」
出来るだけ女性の身体を見ないように女性に自分が来ていた学ランを羽織らせる。
「風邪、ひくからさ。よかったら家でシャワーでも……」
礼二は気恥ずかしさのためかそっぽを向いたまま鼻の頭を掻く。そんな彼の様子を見てその女性はくすりと小さく笑うと誰にも聞こえない小さな声で「ありがとう」と呟くのであった。
大小様々な、それでいてどこか統一性があるものが所狭しと積まれている部屋で礼二は頭を抱えていた。なぜこんなことになったのか、俺はどうすればいいのか、そんなことばかりが礼二の頭の中をぐるぐると廻っていた。否、どうしてこんなことになったのかはわかっている。ただどうしてあのときあんなことを言ったのかがわからない。
「親がいない家に女性を招き入れてあまつさえシャワーを……いや、問題はそこじゃなくて」
ぶつぶつと同じようなことを呟きながら部屋の中をぐるぐると歩きまわる姿はどことなく鬼気迫るものがある。
両親揃って実の子供を残して単身赴任中で祖母が事あるごとに様子を見に来るとは言え、礼二は実質一人暮らしをしているようなものだった。そんな家に異性を招くと言うのは確かに問題と言えば問題だが、礼二が頭を抱えているのはそこではなかった。
礼二が直面している問題、それは彼が今いる部屋にあった。
そこには礼二が何年にも渡ってこつこつと集め続けたお宝が所狭しと飾ってあった。右半分には1/1スケールの大きいお友達向けの深夜アニメヒロインのフィギュアを始めとして大小様々なメイド服姿なお人形。左半分にはメイド服な女性の写真集を始めメイド服な各種同人誌の山。そしてクローゼットには大量のメイド服。オタク色全開のこの部屋に異性を招けばどうなるのか、それは知識としても経験的にも礼二は文字通り痛いほど知っていた。
「と、とにかく……どうしよう……」
微かに聞こえてくるシャワーの音が礼二から冷静な判断力を奪っていく。焦れば焦るほど答えから遠ざかる状況の中、礼二は完全に混乱していた。そのために礼二は根本的な問題に気づくことが出来なかった。異性にシャワーを貸すことになった原因、そしてそれに伴うであろう問題に……
「シャワー、ありがとう」
「ちょっ、まっ……て……」
いつのまに風呂から出たのか、後ろから声をかけられてようやく礼二は女性の存在に気がつく。
そしてとっさに振り向いた礼二はそのまま思考停止状態に陥った。
そこにいたのは風呂上がりの女性。ただしその身に纏うのはバスタオルのみ。よくよく考えればわかることだが、そもそもこの女性は雨に濡れていたがために風呂を借りたのだ。当然ながら服はびしょ濡れ、しかも礼二の家に彼女が着れるようなものがあるはずもない。ともなればこの結果は十分予想できるものであり、その予想を立てることが出来なかったのは単に礼二が自分の部屋のことで頭が一杯だったからである。
「あ……そ、その……とりあえず、これでも着る?」
体感時間で一時間、実質時間でおよそ十秒の間、礼二はタオル一枚その身体に巻きつけただけの女性の姿をしっかりとその眼に焼き付けたのちに開けっぱなしになっていたクローゼットを指差してようやくそれだけの言葉を絞り出すことが出来た。
「あれ……?」
礼二が指差す方、大量のメイド服が山積みされたタオル一枚の女性は不思議そうな視線を向ける。その視線でようやく礼二は自分が今何を言い、何を指差したのかに気付く。しかし女性が着られそうなものがそれくらいしかないのもまた事実であることに思い至り、礼二は半ばやけくそになっていた。
「ご、ごめんね。家には女物の服とかなくって、"あんなもの"しか貸せそうにないんだけど……。この部屋もキモいよね……で、でも今まで着てた服が乾くまでの辛抱だからさ」
しかし、そんな若干自虐的な礼二の言葉に対する女性の返答は予想だにしないものであった。
「"あんなもの"じゃない。あれはメイド服。もともとはベルギーの民族衣装が起源であり、それがヴィクトリア時代にメイドたちの作業着として盛んになった。メイド服本来の目的としては主従の区別がある。これは女主人が使用人の女性を連れ立って歩いている際後ろを歩く女性使用人、つまりメイドに声を掛けてはいけないと言うマナーがあったためである。なお、あそこにあるものの半数はメイド服ではなくゴシック&ロリータ・ファッション、ゴスロリと呼ばれるもので、メイド服とは似て異なるものである。なおゴスロリとメイド服の区別基準として――」
隠れメイドマニアである礼二の知識をも遙かに凌駕する情報を無表情で淡々と流し続ける女性に礼二は茫然とした。
「く、詳しいんだね……」
若干引き攣った顔の礼二を見て女性は一瞬表情を強張らせ、次に青くなり、そして赤くなりと忙しなく顔色を変え、最終的には何とも言えない表情でそっぽを向くと、
「……きっと幻聴」
何もなかったことにしようとする。
「いや、だってさっき」
「精神科、あるいは耳鼻科への検診を勧める」
「でも……」
「脳の方に問題があるのかもしれない」
あくまで何もなかったことにしようとする女性に思わず苦笑いする礼二。礼二としても誤魔化して何事もなかったことにしたい気持ちはわからないでもなかった。アニメが好き、ゲームが好きというならともかく、メイド服が好きというのは確かに他のマニアと比べれば若干恥ずかしいものだ。
「この部屋見てくれよ」
でも、だからこそ、
「俺は男のくせにさ、こういうのが好きなんだよ。最初はあっちにあるようなフィギュアやアニメで満足してたんだけどさ、そのうちにそれだけじゃ満足できなくなってさ。気づいたらあんなメイド服とかも集めるようになってたんだよ」
礼二は同じ趣味を持つ者にはそれを隠して欲しくなかった。数少ない同士には隠し事はなしにして欲しかった。
だからこそ、礼二は恥ずかしげもなく自身の趣味を彼女に話すことにしたのだ。
「だから同じ趣味を持つ者として、隠し事はなしの方向でいこう。君はこの部屋を見てもキモがったりはしなかった。笑ったりはしなかった。だから俺も君の趣味を笑ったりしない。って、年上の人になに偉そうなこと言ってんでしょうね、俺……忘れてください」
恥ずかしそうに礼二は鼻の頭を掻いてそっぽを向いた。
そんな礼二をきょとんとした瞳で女性が見つめる。それは不思議なものを見るような、ありえないものを見るような瞳だった。それが純粋な瞳であるが故に、彼女がいままでどのような環境にあったのかが窺える。
「プフランツェ・K・アオスタオシャン」
「え?」
彼女のぽつりとした呟き。何を言っているのか理解できずに思わず礼二は聞き返していた。
「私の名前……プランでいい」
そう言って二コリと笑う女性、プランに礼二は再び自分の体温上昇を感じた。それが礼二とプランの初めての出会い、そして礼二の短い恋が始まった瞬間でもあった。
「父さん、母さん……俺は本格的にこの人のことが好きになってしまったようです」
熱にうかされた病人のうわごとのような呟きを洩らし、礼二はそのまましばらく動かなくなってしまった。きっとだからであろう。彼女が上手く話題をすり替えたことに気付かなかったのは……
「…………」
プランと名乗る女性がじっと自分を見つめていることに礼二が気付いたのはそれからしばらく経ってからだった。
なぜ自分が見つめられているのかわからず、必要以上に顔を赤くする礼二だったが、どうにかして「な、なに?」とだけ言葉を絞り出すことに成功する。
「名前……聞いてない」
「あ、ああ……俺は一之瀬礼二。呼び方は……まあ好きに呼んでくれればいい」
「……わかった、レイジ」
一度こくんと小さく頷くと何を思ったのかプランはそのまま礼二に抱きつき、
「えっ!? ちょっ、い、いいいきなり、だだだ抱きつくなんて……ま、ままま待って、こころ、こころの、こころの準備……が?」
あまりに理解できない+嬉し恥ずかしすぎる現状に耳まで真っ赤にしてあたふたする礼二。しかしピクリとも動かないプランにようやく違和感を覚え、冷静に状況を見極めると微かにすーすーという寝息が聞こえてくる。
「ね、寝てる……?」
自分に抱きつきながら安らかな寝息を立てるプランに礼二は身動きが取れないまま「これからどうしよう」と呟くのであった……
<V>
太陽が沈もうとしていたころ、藤間は警察署の外にある喫煙所でイライラとタバコを吸っていた。
一言で言えば欲求不満。まだ調査中の現場をWPRMと名乗る団体に追い出され、そのうえどういう訳か上からの命令で現場に近づくことさえ禁じられたこの状況は、現場百遍を信条とする藤間にとっては苦痛以外の何物でもなかった。
わかっていることは鑑識から報告があった三島の死亡推定時間と死亡原因、そして研究所から三島が研究していた植物が何者かによって盗まれていたということだけ。現場は森に囲まれた山奥で目撃証言も期待できない。その上現場から犯人の痕跡を見つけ出す前に近づくことを禁じられた現状では犯人を絞り込むことすら出来ない。
この警察署では藤間は感情と表情、そして行動が見事なまでに一致している人間として有名だった。鬼のような形相で練り歩く藤間がいる喫煙所に近づいて無事で済むような人間はこの警察署にはほとんどいない。
「そんなイライラしなさんな。それにタバコの吸いすぎは体に毒だ」
そんな藤間に近づいて気安げに声をかける数少ない例外、遠藤の顔は藤間とは打って変わってどこか楽しそうだった。
「タバコも吸いたくなるさ。どうして警察が一般人に殺人現場を追い出されなきゃならんのだ」
「一般人、ではないな。WPRM、世界植物研究機関の人間ならそれぐらい余裕でやってのけるだろうよ」
WPRMはここ数年のうちにメキメキと力をつけてきた研究機関のことだ。アマゾン奥地に存在する未確認植物の研究から遺伝子操作による新たな植物の開発まで、植物に関わることすべてを生業としている団体で、昨年には団体の一人が放射能を吸収し、無害なものに変換する植物を創り出してノーベル賞を受賞していた。その一方で政治家への賄賂や脱法麻薬の取引など、黒い噂が絶えない要注意団体でもある。
「上の連中は一体何をやっているんだ。賄賂か、それとも弱みでも握られているのか」
「まあまあ、ここで騒いでも何も変わらんて。これでも読んで頭を冷やすと言い」
あたりかまわず暴れそうな藤間に遠藤がA4サイズの紙の束を藤間に投げよこす。
藤間はとっさに投げられたものを受け取る。角の一角だけをホッチキスで簡単に止めただけの紙の束。その表紙には『人間、植物間のコミュニケーション手段の可能性』と書かれていた。
「……これは?」
「三島研究所で盗まれたブツに関する資料だ。少し気になってな、ちょっと調べてみたんだ。もっとも研究所に近付けない以上あまり大したことはわからなかったがな。盗まれたブツについても結局どういう形状のものなのかはわからず仕舞いだったしな」
研究目的、仮説、研究過程、その成果に至るまでこと細やかに調べられた紙の束に藤間はひとしきり目を通す。そしてその最後の一枚に張り付けてある他とは明らかに違う黄色く変色し始めた紙に目を留めた。そこには何か書いてあるようだがそれがなんなのか藤間には理解できなかった。
「これはなんだ? 見たところ英語ではないようだが」
「ドイツ語だよ。『Die Pflanze kann austauschen』日本語に訳すと『交流可能な植物』ってとこだな。三島研究所から唯一押収出来た三島直筆のメモだ」
「三島のメモか……」
若干右肩上がりになっている筆記体の文字。一般より細かな文字が三島の神経質な性格を表しているようだった。
「今回の事件、誰がやったと思う?」
あさっての方向を向いて遠藤が呟く。その目はどこか遠くを見ているようで、一瞬藤間は遠藤の考えがわからなくなり言いようのない恐怖を覚えた。
「普通に考えればWPRMの連中が怪しいだろう。あそこは三島の研究成果を欲しがっていた。しかし三島はあそこに所属せず、それどころかあそこの団体を毛嫌いしていた節がある。だからこそ、WPRMは三島を殺してそれを手に入れるしかなかった。そう考えるのが自然だ」
淡々と語り続ける遠藤の声からその心の内を推し量ることは出来なかった。
しかし藤間はどうしてか、感情を感じられない遠藤の目に死の兆しのようなものを見た気がした。
「でも俺は今回の件はそんな簡単なものじゃないと思っているんだ。長年この仕事をやってきた勘ってやつだ」
そう言ってからようやく視線を藤間に戻す。その目は先ほどまでの感情の抜け落ちたものではなく、大きなヤマを持った刑事のものだった。
「少し気になることがあるんだ。調べるのを手伝ってくれないかシゲさん」
「気になること?」
「盗まれた三島の研究物に関してだ」
藤間は先ほど読んだ三島の研究物に関する資料を思い返す。
『人と交流可能な植物』
人間とコミュニケーション可能な植物を創り出すことを目的とした研究。もしこれが成功すれば人類は植物の未だ未知な部分に関する知識のほとんどを補うことが出来るだろう。
「人と交流可能な植物か……考えれば考えるほどWPRMの連中が欲しがりそうなものだな」
「問題はそこじゃない。その研究の副産物としてその植物は日光がない状態でも太陽光の代わりに空気中の窒素を使って光合成を行うことが出来るそうだ。もっとも、どういう仕組みなのかは理解できないがな」
植物が人とコミュニケーションをとるためには相当な量のエネルギーが必要となる。それを解決するための太陽がない状態での光合成だ。しかしそれはもう一つの可能性を示している。
「……気圧低下に伴う呼吸困難か」
「あぁ、その植物を閉め切った三畳ほどの部屋に置いておけば計算上30分もあれば部屋中の窒素を使いきって気圧は半分にまで下がることになる。そうなれば多少酸素濃度が上がっているとはいえあっという間に高山病になって訳もわからないうちにお陀仏だろうよ」
遠藤の話を聞いて改めて藤間は背筋が凍るような思いをした。
置いておくだけで人を簡単に殺すことが出来る植物。しかも警察ですらそれがどのようなものなのか把握できていない。もしそれがそこらにある植物となんら変わりのないようなものであったら、それこそいとも容易く換算犯罪を成立させることが出来る。
「ゴリさん……もしかしてあんた」
「もし仮にこれがWPRMとは無関係な、研究以外の目的をもった人間によって盗みだされたものだとしたら。シゲさんはそいつの目的は一体何だと思う?」
藤間は遠藤の問いに答えることは出来なかった。
答えてしまえば、それが現実になってしまうかのようで……
「一体誰が三島を殺したんだろうな」
ポツリとした遠藤の呟きは藤間の心に重くのしかかった。
第二章 メイド服愛好会と強化合宿
<T>
礼二は朝に弱かった。超低血圧の夜型人間で目覚ましの音はBGMくらいにしか感じていない類の人間だ。それは前日にいろいろと非日常的な体験をした上になんだかんだで年上の美人をしばらくの間自宅に泊めることになったとしても変わりようもないものだった。もっとも、前日に限って言えば夜遅くまで起きていたのは極度の緊張によるものではあったのだが。
そんな礼二を毎朝起こしに来るのが彼の隣人であり、幼馴染である大道寺渚の日課であった。
「…………」
今朝もいつものように礼二を起こしに来た渚であったが、そこで見たのはバスタオル一枚を体に巻きつけただけの緑髪ショートヘアーな女性の巨と爆の狭間くらいの大きさがある乳に頭を埋もれさせて呼吸困難になりつつある幼馴染の姿だった。
体中をぴくぴくと痙攣させてどうにかこの状況から抜け出そうとしている辺り珍しく礼二は起きているようだが、プランががっしりと礼二の頭を抱きしめているためにどうにも抜け出せないらしい。
「……お楽しみ中のところ邪魔したか?」
そんな礼二をあくまで冷静に見つめてその場を立ち去ろうとする渚。昨日礼二が見知らぬ女性を部屋に連れ込んだのは目撃していたし、その後女性が礼二の家から飛び出してこなかったところから意気投合したらしいということは礼二とは付き合いの長い渚は何となく察していたが、さすがの渚でもこのような状況になっているとは思いもよらなかった。
「ま、待て……とりあえずタスケテ」
あくまでクールに接する渚に必死(文字通り必ず死にそう)な声で礼二は助けを求めた。そんな幼馴染の姿に呆れを越して若干の憐みを感じさせるため息を吐きながら渚はプランの腕を礼二の頭から外して息も絶え絶えになっている礼二を引っ張り起こした。
「とりあえず弁解させてくれ」
死の淵から生還した礼二が最初に発した言葉がそれだった。理由は簡単。自分を死の淵から救いあげてくれた幼馴染は基本的にクールで無口な割に噂話、とくに自分の幼馴染を陥れるようなものが好きという矛盾を抱えた人物だったからである。弁解したところでどうなるという訳ではないが、少なくとも弁解しなければろくなことにならないことを礼二は経験的に知っていた。
「その必要はない。全部わかっている」
「いや、是非ともさせてくれ。お前のわかっているは信用できない」
「問題ない。ちょっとネット掲示板に書き込むだけ」
「学校中に流すとかいうレベルですらないのな」
それが当然のことであるかのようにとんでもないことを言ってのける渚に礼二は思わず深いため息を吐く。こうなった以上どうあがこうとも渚を止められないことは経験的に嫌というほど礼二は知っていた。
「礼二が女性を拉致って手籠めにしたと……」
「オネガイダカラカンベンシテクダサイ」
とんでもないことを言い始める少女の足元に恥も外見もなくしがみつく礼二。それを見て満足したのか、渚は礼二の手を優しく取ると、
「お代はそこにあるメイド服でいい」
無情に礼二のお宝である特注のメイド服を請求するのであった。
何かと酷い扱いを受けながらも礼二が渚との付き合いを続けているのはここにある。つまり、渚は礼二の数少ない理解者であり、同士であった。もっとも礼二のような無差別な収集家ではなく正統派(ゴスロリではない)メイド服限定のコスプレイヤーではあったが、何れにせよ礼二の趣味にひくことなく付き合ってくれる数少ない同胞であることに変わりはない。
「礼二が変態なのは今に始まったことじゃない。それより時間。遅刻するよ」
「それはわかってるんだが……見知らぬ人を家に残すってのも……」
「それこそ今更な話だ。いいから早く行くよ」
バスタオル一枚で寝入るプランが風邪をひかないようにしっかりと肩まで布団をかぶせてやると、彼女を心配そうに見る礼二を渚は無情にも引きずっていく。
そうして礼二の部屋には静かに寝息を立てるプランだけが残された……
私立二階堂学園。ゲーム部門を始めとし、数多くの娯楽業界に強い影響力を持つ二階堂グループの総帥の伊達と酔狂によって造られた私立高校であり、「やる気、勇気、ヤル気」をモットーとした生徒の主体性に重きを置く学校である。阿藤竜司はそんな学園の廊下を珍しく難しい顔をしながら歩いていた。向かう先は部室。自分の兄の様子が昨晩からどうにもおかしいことを相談するべきかどうかを迷っていたのだ。
部活動を始め学園行事に至るまでその一切の運営を生徒の総意である生徒会に任せていることで有名なこの学園では少数精鋭の名のもとに多種多様な奇抜な同好会が存在している。
阿藤竜司が所属しているメイド服愛好会もその一つだ。部員は実質4人。竜司と中学の時からの腐れ縁である礼二、その幼馴染の渚、そして愛好会発足人である金髪ポニテドリルなお嬢様、伊妻美鈴である。
竜司は愛好会のメンバーを全面的に信用していた。礼二や渚は長い付き合いを通して、美鈴はこれまでも勉強を始めとした自分が引き起こしてしまう様々なトラブルを解決してもらった経験から、彼らが信頼できる仲間だと言うことは十分に理解していた。何よりも彼らは自分よりもずっと賢く、馬鹿な自分がうだうだと悩むより彼らに相談した方がずっと早く問題が解決することも竜司は嫌というほど知っていた。
しかしそれでも竜司はこのことを相談するべきか迷っていた。
竜司は礼二とは違い「メイド服萌え」ではないが、それでも日々の活動をそれなりに楽しんでいた。それは彼らが誰からも恐れられる自分を受け入れてくれた数少ない仲間だったからだ。だからこの関係を崩すようなことは竜司は絶対にしたくなかった。そしてこの相談は自分たちの関係を大きく変えてしまう。理由はわからないがそんな予感が竜司の頭から離れなかったのだ。
唸りながら廊下を歩くうちに部室に着いてしまう。ドアには『メイド服愛好会 メイドに興味がない人間は入室禁止』とでかでかと書かれた張り紙が張り付けてある。
「さあ! とっととちゃっちゃと洗いざらい隠し事なしですべて話して楽にして差し上げますわ!!」
「待て、いろいろとツッコミどころが多いがとりあえず近い! 顔近い!」
「そうやって誤魔化すつもりですのね?! その手には乗りませんわ!」
部室に入ろうとドアに竜司が手を伸ばした時、中からヒステリックな少女の声と明らかに動揺している腐れ縁の声が聞こえてきた。
聞こえてきたやり取りは竜司がメイド萌えでもないのに愛好会に留まり続けるもう一つの理由、メイド服愛好会の名物だった。
彼らの声を聞いた瞬間、竜司は自分が今まで悩んでいたということをすっかりきっぱり忘れていた。
「おぉ、やってるやってる♪」
ドアの向こうには竜司が思っていた通りの光景、否それ以上の光景が広がっていた。
鬼の形相をした金髪ドリルポニーの少女にキス寸前のところまで顔を近づけられ、その上胸元には少女の豊かな胸を押しつけられて耳まで真っ赤になっている短髪の少年。部室内の椅子という椅子はあらかた倒されるか壊されるかしていて、それでもなお残った貴重な一つには自分の癖っ毛を弄りながら無表情に二人を眺めている少女。
「今日も楽しそうだな。んで状況は?」
こういった状況は竜司にとっては『いつものこと』であり、いつものように猛禽類を思わせる鋭い目を無表情な少女、渚に向けて状況説明を求める。ちなみに「てめぇ教えなかったらぶっ殺すぞ」と思っているわけではない。竜司の目つきが悪いのはただ単に遺伝的なものでしかなく、本人としては目の前に広がる光景をただ面白がって笑っているつもりである。
「礼二が見知らぬ女性を部屋に泊めた」
渚も先天的に凶悪な顔をしている竜司に慣れているのか、これといって怖がる様子もなくいつものように淡々と応える。
「なるほど、あいつにもとうとう女が出来たか……」
さらに顔を近づけてしつこく問い詰めてくる美鈴から逃げながらも感慨深げに頷く竜司にいちいち「いや、違うから」とツッコミを入れている辺り意外と礼二も余裕なのかもしれない。
「もう、キリがないですわ! いい加減諦めて認めてしまってはどうですの!!」
「認めるも何もそういうのじゃないって言ってるだろ」
白熱する不毛な会話。追及と否定の無限ループを断ち切ったのは渚の呟きだった。
「礼二、家いいの?」
「……あっ」
今までそのことを追及されていたのにもかかわらず、礼二は完全にプランのことを忘れていた。渚の指摘でようやくそのことを思い出し頭を抱える。
別にプランのことを信用していないと言う訳ではない。そもそも昨日会ったばかりの人間を信頼するしないというのもおかしな話ではあるが、礼二は直感的に彼女が悪い人間ではないと確信していた。このサークルの会則にもある『来るものは拒まず、メイド好きに悪はなし』が礼二の心身にしみ込んでいる証拠である。
しかしいくら信用しているとはいってもよく知らない人間を一人自宅に留守番させておくというのは何となく不安に感じてしまうものである。
「すまん伊妻、そう言う訳だから俺は帰るわ」
「お待ちなさい! そう言って逃げるつもりでしょうが、そうは問屋が卸しませんわ!」
机の下敷きになっている自分の鞄を引き抜いてその場から離脱しようとする礼二の服をがっしりと掴み逃がすものかと踏ん張る美鈴。その手をどうにか振り払いこの場からさっさと逃げ出そうとする礼二。先ほどとは趣の違う無言の争いが二人の間で勃発しようとしていた。
「ん〜……ってかさ」
それを遮ったのは竜司の一言である。
ちなみに阿藤竜司は不良ではない。それどころか類い稀なるお人好しである。もっとも変人かお人好しでもなければ自称隠れ、実質オープンなメイド服マニアである礼二と付き合うのは不可能とも言えるが。
とにかく阿藤竜司は不良ではない。しかし不良ではないが馬鹿ではある。具体的に言えばテストで全科目赤点だったり生理中の女子生徒に「男の俺にはわからないけど生理も大変だなぁ」と"大声で"同情するくらいに馬鹿だ。
しかし馬鹿は馬鹿であるがゆえに常人がなんらかの問題に直面した時に思わぬ解決策を提示することがある。すなわち、
「そんなに気になるんなら礼二の家に行けばよくね?」
その瞬間、部室にいた全員が唖然とした顔で固まった。数瞬の間をおいて渚は面白そうに、美鈴はそんな単純なことに気付かなかった自分を恥じるように、そして礼二は苦々しく、動きを止めたまま竜司を見つめる。
竜司は動きを止めて自分の方を見つめる仲間を見て「俺なんか変なこと言ったか?」と首を傾げた。
「……グッジョブ」
そんな竜司の肩をいち早く回復した渚がぽんと叩き、いつもの無表情を笑いで今にも崩しそうになりながら親指を立てるのであった。
<U>
現場への出入り禁を喰らってイライラしながらも藤間は地道な調査を進めていた。とりあえずは今現在唯一の手掛かりとも言える消えた植物を中心として街の住民を始め三島の知人を片っ端から当たっていったのだ。
しかし結果は芳しいものではなかった。
まず第一に三島には友人と呼べる人物が限りなく少なかった。なにせ一年のうちのほとんどを研究室で過ごしているのだ。一応自炊はしていたようだがその材料もほとんどがネット注文で入手していた。その上人嫌いの気でもあるのか、荷物の受け取りも窓口から判子だけを押して荷物はその場に置いておくようにと言って直接荷物を受け取ることもしなかった。そんな人物だったせいか、街の住民に聞いても知人に聞いても「三島は変人だった」という情報以外が入ってくることはなく、三島の研究について詳しく知っている人間は一人もいなかった。
それでも粘り強く調査を進めるうちに三島の家を訪ねた時に女性の声で応対されたという話を聞くようになった。
しかしこの情報によって捜査陣はより一層混乱することとなった。
資料を見る限りでは三島に配偶者は存在せず、聞き込みから家族親類がここ数年彼の研究所を訪ねたことはないということもわかっている。清掃業者を呼ぶことはあっても女中を雇っていた形跡はなく、また研究所へと続く登山口はどこも人目がある場所にあり、夜ならまだしも昼の時間帯に誰の目にも留まらずに研究所へ行くということは困難だ。
明らかにこの女性は事件となんらかの関係がありそうであったが、しかしどれほど調べてもこの女性の身元が分かることはなかった。誰一人としてこの女性の姿を見たことがなく、事件後の消息も形跡も一切掴むことが出来なかったのだ。
「どう思うゴリさん」
昼食もとらずに歩き回ったせいで棒のようになっている足をさすりながら藤間が遠藤に問いかける。あえて『何を』を言わなかったのは自分自身なにが聞きたいのかわからなかったからである。
「そうだな……まあ地道にやるしかないさ」
それがわかっているのか、遠藤はあえて何をとは聞かずに答える。その答えを聞いているのか聞いていないのか、藤間はイライラとタバコに火を着ける。
長年刑事を続けてきた二人でも今回ばかりは戸惑うしかなかった。今まで現場に近づくことさえできない事件なんてものに出会ったことがなかったからだ。
「目撃者はゼロ、犯行に使われた凶器も発見できない、殺された三島が引き籠りだったせいで人間関係も限りなく狭くて盗まれた研究物に関して知っている人間もなし。わかっていることは死亡推定時刻と三島のけったいな趣味だけ。これでどうやって事件を調べろってんだ」
「犯人からのメッセージもあるぞシゲさん」
「『我はメイドへ誘う物なり』ってやつか? あれからどう犯人を特定しろって言うんだ」
犯人が残したとされる花びらで作られたメッセージ。問題はその花びらから指紋を採取する前に現場から追い出されたことだ。
「メイドってたぶん冥土のことだよな」
「おそらくは……普通に考えればそうなるな」
二人とも口ではそう言いながら頭の中では全く別のものを思い浮かべていた。三島の着ていたものがものだけにどうしてもカタカナで書くヨーロッパ女中の姿が頭から離れなかった。
「もし女中の方だったら三島が着ていたメイド服に関しても少し違った見解が出てくるな」
「どの道その辺りを調べようにも現物がない以上どうしようもないがな」
不機嫌そうにタバコを揉み消して空を見上げる。どんよりと重たい雲が太陽にかかり今にも雨になりそうな天気だった。
「ひと雨きそうだな」
「雨にまぎれて研究所に忍び込むか?」
「そりゃいい案だ。俺があと十年若かったらそうしているだろうな」
やり切れない思いで呟きながら藤間は新しいタバコに火を着けるのであった……
<V>
実質礼二しか住んでいないせいか意外に整然とした廊下。雨で冷やされた冷たい空気が雨にぬれた身体から体温を奪っていく。
そんな中、礼二は自室の前で固まっていた。
後ろからは「寒いから早くしろ」、「いい加減覚悟を決めろ」など急かす言葉を投げかけられているがどうしても礼二は部屋のドアを開けることが出来なかった。
家の戸締りはしっかりとしてあった。玄関も窓にも鍵がしてあった。つまり、プランはまだこの家にいると言うことだ。しかしだからと言って安心できるという訳ではない。
部屋の中はどうなっているのか。そんな不安が礼二にはどうしても振り払うことが出来なかった。
別に部屋が荒らされているとかそういった心配をしている訳ではない。ただ何となく嫌な予感が礼二の頭にこびりついていた。ろくなことにならないという確信に近い予感が……
「じれったいですわね。なんなら私が開けて差し上げましょうか」
「いや、大丈夫だ。勘弁してくれ」
今にも本気でそうしそうな美鈴を若干涙目になりながら礼二が止める。
なぜか頭に浮かんで仕方がない美鈴にマウントを取られてタコ殴りになるという映像を頭から振り払ってゆっくりとドアノブを回していく。
ゆっくりとドアが開き中の様子が見えてくる。
床に高く積み上げられた同人誌の数々、1/1スケールの深夜アニメヒロイン、クローゼットからのぞく数々のメイド服。そしてそれらに埋もれるように敷かれた布団。
それは礼二が家を出た時と全く変わらない光景。つまり、
「も、もしかして……」
「……ずっと寝てた、と」
そこにいたのは布団の中で枕を抱きかかえてすやすやと寝息を立てているプランだった。
ちなみにこの地点で時刻は午後5時を回ろうかというところ。昨晩プランがこの部屋に入ったのがちょうど今頃だったことを考えると単純に考えてこの女性は24時間寝続けていたということになる。
「寝すぎだろ……」
素直な感想が礼二の口から洩れる。そんな礼二の呟きをどう解釈したのか、突然美鈴が顔を真っ赤にして礼二を糾弾しはじめた。
「……ふ、不潔ですわ! こんな時間まで寝てしまうような……い、いいいいいったい昨日の晩は遅くまで何をしていらっしゃったの?!」
「いや、意味分かんねぇよ! なんもしてねぇっての!!」
美鈴が想像した『ナニ』を想像して礼二も耳まで赤くなる。思春期な礼二にとって若干耳年増の気がある美鈴の言葉は刺激が強すぎたのである。
「とりあえず起こそうぜ。寝てばっかいたら馬鹿になるぜ」
「それ、阿藤が言う?」
「なんだよ大道寺。それどういうことだよ」
寝ているプランの横でギャーギャーと部室にいる時のノリで騒ぎ始める礼二たち。隣家から文句を言われてもおかしくない音量で話しているがそれでも彼女はうるさそうに眉を顰めるだけで一向に起きようとしない。
十分ほど騒いだ後にまだ眠り続けるプランに気付いた礼二たちは揃って顔を見合わせて苦笑いした。
「……横でこれだけ騒がれても起きませんのね」
「俺でもさすがにこれだけ騒がれれば起きるんにな」
「……出席簿で叩かれても起きないくせに」
「起きろー、これ以上寝たらさすがに身体に毒だぞー」
コントのようなやり取りをしている3人を傍目に礼二がため息を吐きながらプランの体を揺する。
それでようやく目が覚めたのか、プランはむくりと体を起こして「んみゅ〜……」とよくわからないことを呟きながら瞼をゆっくりと持ち上げる。
「んな!?」
「んまぁ!!」
当然そこに現れるのはバスタオル一枚の女性として十分に熟れたプランの身体。顔に似合わず初心なところがある竜司は鼻を押さえて硬直し、そう言うことに関しては潔癖な美鈴はそのような格好の女性と一晩を過ごしたと思われる礼二に対する怒りで肩を震わせていた。
ちなみに礼二はようやく目を覚ましたプランの方に意識が向いていて怒りに肩を震わせている美鈴には気づいていなかった。
それどころか(その胸の中で窒息死しかけたせいか)プランのそのような姿にある程度耐性を持っていた礼二だがようやく自分の身の潔白が証明されると安心しきっていて顔を緩ませていたものだからまさに火に油、この先一切の言い分を聞き入れられることなく一方的に私刑されるであろうことは明らかであった。
しかし唯一すべてを知る渚は目は無表情ながら口元だけさもおもしろげに釣り上げるという小器用なことをやるのみで、決して事情を説明しようとはしなかった……
「ようやく起きたか。さすがに寝すぎじゃ――」
「……ら」
背後で展開中の地獄に気付かないまま、安心しきった顔でプランに声をかける礼二。
しかし言葉の途中でプランが何事か呟き、思わず礼二は言葉を切って何を言ったのか確かめようとさらにプランに近づく。
その結果、
「うわっ!?」
何を思ったのか突然抱きついてきたプランを避けることが出来ずに礼二は3人の目の前で今朝の再現、つまりプランに抱きつかれてその巨と爆の中間に位置する彼女の胸に顔を埋められて窒息死しかけることになったのだった……
プランの巨乳トラップから礼二を全員で救出したり美鈴にマウントを取られた礼二を救出したり再び夢の世界に旅立とうとするプランを必死で起こそうとしたら礼二がまたプランのトラップに引っ掛かったりようやく彼女が未だにバスタオル一枚だということに気がついて慌ててとりあえずクローゼットに保管されていたメイド服の一着(黒のロングスカートバージョン。エプロンドレス付き)を着せようとしたりとエンドレスに繰り返すうちに時刻は6時を回っていた。その間に実家が飲み屋を営んでいる竜司は家の手伝いがあると途中で帰ってしまったが、家が隣で家族ぐるみの付き合いがある渚はもちろんのことながら、生粋のお嬢様である美鈴までもが事情を聴くまで帰らないとわざわざ代々伊妻家に仕える教育係である熊野智彦、通称ピエールと大口論をしてまで礼二の部屋に留まっていた。
ちなみに事情を説明しろと言われてもむしろこっちが聞きたいくらいだというのが礼二の本音であり、結果的に三者三様の表情で未だ眠たげな目を擦るプランと向き合っていた。
「えっと……目、覚めたか?」
緊迫した空気の中、おずおずといった感じで礼二が口を開く。
「ん……覚めた」
淡々とした口調で答えながら自分と向き合っている三人を見渡すプラン。その表情からは一切の感情を感じることは出来ず、さながらよくできた人形が動いているようで冷静沈着をモットーとするミス無表情の称号を持つ渚ですらどことなく不気味さを感じざるを得なかった。
「と、とりあえず……プランさん、でしたっけ?」
言葉の端々に不安と疑心が見え隠れする美鈴の言葉にプランは静かに頷いて返事をする。
その動作もどこか無機質な感じがして三人の不安を煽った。とくに礼二に至っては昨晩に見た彼女とのギャップが激しすぎてどうしようもなく混乱していた。
そんな礼二の様子を見て役に立たないと判断した美鈴が畳みかけるようにプランに質問を浴びせかけようとする。
「あなたは何者ですの? どうしてこんなところに? どこから来ましたの? 家は? そもそも――」
「……名前」
「えっ?」
そんな美鈴の言葉を遮るようにしてプランが言葉を重ねてくる。
その声は静かなのにどこか存在感があって、そして感情を全く感じさせない酷く冷たいもので、普段人(礼二)の話を聞こうとしない美鈴ですら口を閉ざしてプランを見詰めていた。
「名前、聞いてない」
プランはゆっくりと美鈴を指差して呟くように言った。
独り言のような酷く小さな呟きにもかかわらず三人の耳にはその言葉がはっきりと聞こえていた。プランの「名前」という一言によってそれだけ部屋が静まり返っていたのだ。
「わ、私の名前ですか?」
指を差された美鈴は当惑してギクシャクとロボットのような動きをした。それを見て思わず笑いそうになった礼二が顔を真っ赤にした美鈴に睨まれてギクシャクとしたロボットダンスを引き継ぎ渚に呆れたため息を無表情に吐かれていじけて部屋の隅にうずくまる、とコントのようなことをしているとそれまで無で固定されていたプランの顔がほんの少しではあるが確かに緩んだ。
「名前、教えて」
先ほどとさほど変わらないプランの呟き。しかしそこには先ほどのような冷たい響きはなく、温かな感情が微かに見られる心地よい響きとなっていた。
その声でようやく礼二の部屋に張り詰めていた緊張感がほぐれて礼二たちの顔にも幾分余裕、ゆとりが戻ってきた。
「私の名前は伊妻美鈴。美鈴、で構いませんわ」
「大道寺渚。家、隣だから……何かあったら」
「何かってなんだよ……」
若干緊張気味ながらも先ほどと比べれば随分と穏やかな顔でそれぞれ自己紹介をしていく。
「ミスズに……ナギサ……ん、わかった。Sehr erfreut」
指差し確認をしながら心に刻みつけるように小さく、しっかりとした声で二人の名前を呟くと、プランは音もなく立ち上がりスカートの裾を少しだけ持ち上げて優雅に頭を下げる。
その姿は一流のメイドそのものだった。部屋にいた誰もが思わず彼女に見とれてしまうような、それほど優雅な礼であった。
プランの姿に見とれている三人を余所に当の本人はなぜ三人が自分を見ながら固まっているのかわからずに小首を傾げていた。
「あっと……質問、していいか?」
こう着状態がようやく解けた礼二が再びおずおずといった感じにプランに訪ねる。
プランはそれに対し小さく首を縦に振って応える。
「そうだな……とりあえずプランさんは――」
「プラン、でいい」
「あ〜……了解、わかった」
比較的強い口調で言われたからか、あっさり、そうそうに礼二はプランにさん付けをすることを諦めて早々に知りたいことを質問を開始することにした。
しかし結果として礼二は彼女からまともに情報を引き出すに至らなかった。
どこから来たのかと問えばプランは山が見える窓の方向指差し「あっち」と答え、なぜ雨に打たれていたのかと聞けば「好きだから」と答える。どんな質問をしても要領を得ない答えしか返さない彼女に礼二は数分と経たないうちに頭を抱えてしまった。
そんな礼二をじれったく思ったのか、
「えぇい、まどろっこしいですわ! とりあえずプラン、あなた部屋を用意させますから家に来なさい。話はそれからゆっくりと聞きますわ!!」
ついに美鈴が爆発した。
もっとも、元来短気なところがある彼女が数分とはいえ爆発せずに我慢していたことが奇跡だったのだが……
「……?」
しかし状況をわかっているのかいないのか、プランは早口で捲し立てる美鈴に何を言っているのかわからないとばかりに首を傾げる。
「で・す・か・ら! あなたも"こんな部屋"に何泊もしたくないでしょう?」
それは美鈴にとっては何の気なしに口から出た言葉だった。
その言葉には別段礼二を貶す気も彼の趣味を汚らわしいと憎悪する意味は込められていなかった。
そのことは短いながらも美鈴と付き合いがある礼二や渚も理解していて、彼女が言った言葉に対して傷ついたり、ましてや怒ったりなどはしなかった。
しかしそれはあくまでも彼らが美鈴と多少なりとも付き合いがあり、彼女のことを理解していたからだ。
「……こんな部屋、じゃない」
そう呟くプランの声は先ほどまでの淡々としたものとは打って変わって言葉の端が震えていた。
顔の表情は俯いていたせいで窺い知ることは出来ないが、彼女から発せられる空気は明らかに重くピリピリとしたものに変貌していた。
その威圧感に気押されたのか、礼二は立ち眩みに似た眩暈を感じた。
「この部屋には……温かみがある。レイジの温かさを感じる。だから、"こんな"じゃない……」
顔を俯かせて声を震わせながら言い放つプラン。その声に彼女の本気を感じ取り、美鈴はそうそうに白旗を上げることにした。
きっと何があっても彼女はここを離れて自分の家に来ることはない。それをイヤというほど思い知らされる強さがあった。
だからこそ、美鈴は自身も身体を張ることにした。
メイド服愛好会会長として、そして一人の乙女として、美鈴はプランだけをここに残すことは許すことができなかった。
「じぃ! ピエール!! 私の着替えを大至急持ってきなさい! 五分以内!!」
手を二回大きく鳴らして天井に向かって大声でそんなことを叫び始める美鈴。するとどこからともなく「承知しましたお嬢様」という声が聞こえてくる。
どこからその声が聞こえてくるのかわからず目を白黒させている礼二にズビシッ、と音が出そうな勢いで指を差すと、
「このように無防備な女性をこんな野獣の部屋に一人宿泊させる訳には参りませんわ。これからしばらくの間、一之瀬礼二の監視を兼ねてここでメイド服愛好会の強化合宿を行いますわ! 異議申し立ては認めません!!」
と美鈴は高らかに宣言したのであった……
第三章 クイズ大会と微かな違和感
<T>
二階堂学園二年B組。早朝の教室は学生たちの声で賑わっていた。その理由は一つ、本日をもって梅雨明け宣言がされて本格的な夏に突入、それに伴って学生服も冬から夏へと変わったからである。
二階堂学園の夏服はこの学園の名物の一つである。私立であるという特性を大いに生かし、お洒落、それでいて学生らしさを損なわないという画期的な制服を採用している。特に女子の制服は形状こそ一般のセーラー服と大差ないものではあるが、ところどころに夏らしいワンポイントを各生徒が自由に付けていいことになっていて、これを目当てにこの学校に入学したという女子生徒も少なくない。そのためこの時期になると互いの制服を褒め合う女子と途端に華やかになった教室で鼻の下を伸ばして女子を見る男子で通常よりも早い時間に教室は賑わいを見せるのである。
そんな賑わった教室に目の下に隈を拵えた生徒が三人いた。彼らは皆それぞれ異なる思いを胸に深く思いため息を吐いていた。
礼二はため息を吐きながら頭を抱えていた。
渚が家に泊まるのは実際のところさして珍しいことでもなかった。幼いころから家族ぐるみで付き合っていて、おまけに家の両親は出張やら何やらで家を留守にしがちだったため、互いの家に泊まりに行くなんてことは珍しいことではなかった。さすがにここ数年はそう頻繁に泊まりに来るということはないが、それでも渚が夜遅くまで家にいることはしばしばあることで、その勢いで泊まる(またの名を寝落ちする)ことは何度もあった。
しかし美鈴までが家に泊まるということは礼二にとって想定外のことだった。それも二度にわたる伊妻家からの電話付きだ。一度目は初老の男性、ピエールから。「美鈴お嬢様を"くれぐれも"よろしくお願いします。なお当方にはあなたを社会的、精神的、肉体的に抹殺する用意があるのでそのおつもりで」とのこと。二度目は美鈴の実の母親から「家の娘をよろしくおねがいしめすね。お父様には内緒にしとくので安心してお励んでくださいね〜」と意味深な言葉を。
メイド服萌えでヘタレで常に女子メンバーの尻に敷かれ丸一晩美女に抱き枕にされても自分からは何の行動も起こせない根性無しとはいえ礼二は思春期真っ只中なお盛んなお年頃の男子高校生だ。ただでさえ両親がいない自宅に謎の美女、さらには性格に難があるとはいえ学園でも屈指の美少女が二人も泊りに、しかも監視という名目で同じ部屋で就寝を共にするという通常ではありえない状況で悶々とするなという方が無理がある。その上、片や命が惜しくば手を出すな、片やガンガン手を出していけと矛盾した電話をかけられ、礼二の緊張と葛藤は計り知れないものとなっていた。そんな状況下で眠れるはずもなく、さらにこれがこの先どれほど続くかわからないとくれば礼二でなくともため息の一つや二つは必然であろう。
その一方で美鈴は耳まで真っ赤になったを両手で覆いながら机に突っ伏していた。
まさに売り言葉に買い言葉。礼二とプランを二人きりにしたくない一心で合宿などと言ってしまったがそれは即ち自分が礼二と一つ屋根の下で夜を過ごすということで……
「いえ、これは合宿、メイド服同好会の活動の一環ですわ。それに大道寺さんだって一緒にいるわけですし……」
ぶつぶつと机に向かって呟く姿はもはや鬼気迫ると言っても過言ではなかった。
どんなに後悔しても一度口にした言葉はなかったことにすることは出来ない。不退転を信条とする美鈴にとって家に連絡までしてしまった今となっては「やっぱり合宿はやめ!」と言う訳にもいかず、合宿と言うからには少なくとも一週間は礼二と寝食を共にしなければならなかった。
しかしどれだけ覚悟を決めたとしても年頃の乙女が異性の家で寝泊まりするというのは口で言うほど簡単なことではなく、美鈴も例によって緊張で眠れぬ一夜を過ごした証しである大きな隈を吐くって深いため息を吐くのであった。
そして竜司は酷く悩んだ顔で窓の外を眺めていた。
その理由は二つ。一つは昨日(すっかり忘れていたせいで)相談できなかった部屋に籠りっきりになっている兄の件。二日前から始まった、そして昨日の真夜中にも聞こえてきた兄の独り言。「あれが見つからない」だの「あそこにあるはずなのに」だの。そして「何のために殺したのか」、「こんなはずじゃなかった」などの物騒な言葉が入り混じった兄の呟き。
その独り言が引き籠り特有のものなのか、あるいはまったく別のものなのか。竜司には判断することが出来なかった。
それが妄言の類であればそれで問題はない。竜司はここ数年の間、兄が真夜中に家を抜け出してどこかへ行っていることを知っていた。そしてこれが始まった日の夜、兄の部屋のドアノブに血が付着していたことを。
竜司を悩ませるもう一つの理由、何よりも竜司の心を動揺させたのは今日の朝に偶然耳にしたあるニュースだった。
あれさえ聞いていなければ竜司がここまで悩むことはなかっただろう。少なくとも、今朝礼二にあった時すぐに兄のことを相談していたはずだ。
しかし、そのニュースはそれが自分の悩みと直結するかを差し置いても相談をためらわせるだけのインパクトは十分にあった。
コケコッコー!!コケーコッコッコッコッコッ――
そうこうしているうちに始業のチャイムが鳴る。
ちなみにこの学校のチャイムは二階堂グループ総帥の意向により従来のような鐘の音ではなく鶏の鳴き声を使用している。総帥曰く「チャイムとは寝ている生徒を起こすためにあるものだろう? だったら鶏の鳴き声を使うのが道理というものだろう」らしい。
限りなく気の抜けるチャイムを聞きながら竜司は再びため息を吐いた。
その姿を無表情に渚が見つめているということも知らずに……
「皆さんの中の何人かはもうすでに知っているかもしれませんが、昨日の晩に栄綾商店街で殺人事件がありました」
教室に入るや否やの担任の第一声に教室内はざわめいた。
普通の学生にとって殺人事件というのはドラマか精々ニュースで見る言葉でしかなかった。所詮は別の世界での出来事に過ぎなかったはずのそれが自分の街、家を出てすぐそこで起きた。口で言うのは簡単のことだが、それが実際のものとなった時の衝撃というのは計り知れないものだ。
事実、担任の教師がそのことを口にして数秒後には教室内は興奮と不安と、そしてさまざまな憶測が飛び交いもはや収拾がつかない状態となっていた。
礼二たちもホームルームそっちのけで四人集まって顔を突き合わせていた。
担任が口にしたのは学校から見て礼二や渚、美鈴が住む家とは真逆に位置し、そして竜司の家があるそこそこに繁盛している商店街の名前だった。
「竜司、知っていたか?」
「……いや、うちとは場所が離れているみたいだ」
目の下に隈を作り、少し青ざめた顔で答える竜司。
自宅の近くで殺人事件があったと聞いて平然としている方が無理だろうと、礼二はそう理解してすぐにその話題を終わらせる。
「伊妻は? そんな話聞いていたか?」
「少しお待ちなさい。今確認しているところですわ」
美鈴の父親、伊妻敏明は超過保護で親バカで、その上警視総監なんて肩書きを持っている人間だった。
その立場を生かして(またの名を職権乱用とも言う)敏明は愛する娘に何らかの危機が近づいている時は真っ先にメールで知らせていた。つまり、そう言った事件があった場合は誰よりも先に美鈴が知っているはずだった。
「確認?」
「ええ。私、普段はお父様からのメールは迷惑メールと一緒に別のボックスに送っていますの」
「うわ……なんちゅう娘だよ」
「二つ離れた県で盗難事件があっただけでメールをよこされてみなさい。あなただってこうしたくなりますわ」
もっとも、その父の過剰な愛は娘には一ミリも届いていないようだったが……
「……ありましたわ。『町内で殺人事件。危険なので夜は絶対に出歩かない、学校の帰り道も一人では歩かないこと』とありますわ」
「……でもこれ、おかしい」
美鈴の携帯を横から覗き見ていた渚がポツリと呟く。
「おかしい? どこがですの?」
「……送信日」
担任が言っていた事件は昨日の夜起きたものだ。にもかかわらずそのメールは昨日の朝に美鈴の携帯に送られてきたものだった。
「確かにおかしいと言えばおかしいですけど……単に警察の発表が遅れたとかそういうのではなくて?」
「それはない。事件があったのは商店街。もし朝より前に事件があったとしたら昨日の朝の地点でもっと騒ぎになっているはず」
無表情で淡々と語る渚。その口調はまるで何かを知っているかのようだった。
「つまり、事件は一つじゃなかった。そういうこと」
何かに脅えるように、酷く動揺した竜司に冷たい眼差しを向けながら渚は言い放った……
<U>
「まったく、昨日の今日でまた殺しか……」
「現場調査が出来るだけ前の事件よりずっとマシだけどな」
栄綾商店街の一角。それなりの賑わいを見せる大通りから少し外れた場所にある寂れた細道。そこが事件現場だった。
被害者は尾久名幸久、35歳。死因はひものような細いもので首を絞められたことによる窒息死。そしてなぜかメイド服を着せられていて被害者が倒れていた近くの床には犯人からと思われるメッセージが。
前回の事件と違っていたのは犯人からのメッセージが「復讐は始まった。我々は我々から彼のものを奪い去った愚かなる人間を決して許さない」というものに代わっていたこと。そして絞殺した被害者の心臓に鋭い杭のような何かを突き立てた後、被害者の血をもってそのメッセージを書いているということ。
「血の匂いが酷いな……」
「今朝はもっと酷かったらしい。鑑識が何人か吐いたそうだ」
現場はすでにひとしきり検証を終えた後で、遺体は鑑識に血痕は洗い流された後だった。にもかかわらず現場には未だ酷い血の匂いが残っていた。
「これはやはりこの前の一件と同一犯と見るべきか……ゴリさんはどう思う?」
「そうだな……少なくともやっこさんは随分と変態趣味を持っている、ということはわかるな。俺にはどうにも男にメイド服ってセンスは理解できんな」
「いや、そっちじゃなくて……ゴリさんわかって言ってるだろ」
軽口を叩きながら誰もいない事件現場を調査する二人。
ルミノール反応を調べて指紋を採取して現場に怪しいものがないか徹底的に調べる。本来なら鑑識がやるはずの仕事を二人がやっているのは至極単純な理由によるもの、つまり捜査から外されて情報が全く入らなかったからだ。
しかし捜査から外された程度で調査を諦める二人ではなかった。有給まで取って鑑識から借りてきて"たまたま返し忘れた"鑑識道具を使って大したことはわからないと知りつつも現場調査をしていた。
「どこぞの警視総監殿に担当を外されなかったらこんな苦労はしなくて済んだんだがな」
「文句を言っても始まらんさ。事件担当から現場状況や鑑識の結果なんかを聞き出せただけでも儲けものだ」
「とは言ってもな……今更こんなところを調べて何が出るって訳でもなさそうだけどな……」
愚痴を言いながらも藤間の手が止まることはなかった。
黙々と現場検証を進める藤間の姿に遠藤はどこか満足げに頷いて鑑識から持ち逃げした資料を眺める。
「それにしても今回の事件、少し気になるな」
「気になる……三島と尾久名の関係か?」
尾久名は町内会長を務めていてほどで人望も厚く、人から恨みを買うようなタイプの人間ではなかった。ただし真面目過ぎるところがあり、なにかとルーズで常識に欠けるところがあった三島とは不仲ではあった。そのために三島との接点は皆無と言える。
しかし事件の手口は明らかに同一犯のものだ。これが無差別なものなら別だが明らかに犯人は何らかの目的を持って二人を殺している。
なぜこの接点を持たない二人が同一犯に命を狙われたのか。藤間がどれほど考えてもどうしても繋がらない。
「それもあるが……なんだシゲさん、気付いていないのか」
「相変わらず人が悪いなゴリさん。わかっているなら早く教えてくれ」
「まあ慌てなさんな。これを」
そう言って遠藤が藤間に投げ渡したのは一枚の写真だった。
通報直後に駆けつけてきた鑑識によって採られた現場の写真。尾久名が血の海の中に仰向きに倒れ、胸の中心部からどす黒い赤色の液体を緩やかに流している。あたりは一面血に染まり、その中で道路の一部分だけ明らかに人の手によって作り出された血の文字。「我々は我々から彼のものを奪った――」という犯人からのメッセージ。
「これのどこにおかしなところがあるんだ?」
確かに死後に胸を刺されているが、基本的に研究所のときと手口は変わっていない。そもそも殺した相手にメイド服を着せるなんて趣味の人間がそう何人もいるとは思いたくもない。
「よく見てくれシゲさん。今回は執拗に"我々"というのを誇張しているだろ。研究所の時は我としか書いていなかったにもかかわらず」
「確かにそうだが……たまたま、じゃないのか? あるいは――」
「あるいは何らかの理由により共犯者が出来たか」
藤間の言葉を引き継ぐように遠藤が声を重ねる。その表情はいつもの彼からは想像が出来ない酷く真面目で鋭いものだった。
最初の事件と二度目の事件で犯人の人数に変化がある。それが減少の方ならまだしも増加するなどということはあり得ないとは言えないがそうそうあることでもない。
「そもそも突然俺たちが担当から外されたことも気になる。何か俺たちがいるとマズイことになるのか、あるいは俺たちが上の連中にとって知られるとマズイことを知ってしまったか。そもそもなぜ第一事件の研究所には未だ立ち入り禁止状態で捜査をさせてもらえないのか」
考えれば考えるほど謎だらけの事件だ。何か確実に裏がある。そしてそれを探るカギは博士が研究していた植物にある。そこまでは遠藤にも藤間にもわかっていた。
しかし現場に入れない以上、ここから先にどうしても進めない。盗まれた植物の行方を探ろうにも手がかりがない状態ではベテラン刑事二人の手をもってしても不可能だ。
「あの研究所は電気を自分のところで賄っているそうだ。そのせいで今現在あの研究所には電気が通っていない」
空を見上げたまま突如として話し始める遠藤に藤間は不審に満ちた視線を送る。
ついにボケたか、あるいはストレスで頭が逝ったか。そんなことをぼんやりと考えながら目で先を促す。
「電気がないからあそこの警備は山の登山口のみで研究室自体にはほとんど警備の人間はいないそう――」
そこまで言われてようやく藤間はある考えにたどり着いた。
事件の中核は研究室にあり、研究室は出入りが出来なくなっているがその警備は実質研究所へと通じる登山口のみ。そして明日は――
「そう言えばシゲさん知ってるか?」
遠藤が空を見上げていた視線を藤間に移していつもの悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「明日は新月なんだ。よく言うじゃないか。新月には泥棒にご注意をってな」
<V>
学校から帰宅し、自室のドアを開けた礼二は目の前に広がる光景に思わず唖然とする。
部屋の中にあった様々なメイドグッズがきれいさっぱり姿を消し、その代りとばかりに部屋の中央によくわからないものが設置されている。具体的に言えば右から順に赤、青、緑、黄色のどこぞのクイズ番組で見たような早押しボタン付きの小さな椅子付きの台と台に取り付けられた早押しボタンと連動しているそれぞれの台と同色のランプ付きヘルメットだ。
「これ……なんだ?」
「……頑張って運ぶの手伝った」
プランが無表情にも誇らしげに胸を反らす。
そんなプランをため息交じりに見ながら礼二はそれをこの部屋に運び込んだ主犯であろう人物を横目で睨みつける。
「そ、そんな目で見ないでくださいまし。えぇ、これを運ばせたのは私ですわ。せっかくの合宿ですもの、普段とは違う活動をしなければ面白くありませんわ」
礼二に睨みつけられてなぜか頬を赤らめながら美鈴が説明を始める。
「見ての通り、ここにあるのはクイズの解答席ですわ。今日の活動は合宿初日ということで皆さんの知識を試させてもらいます。これから私がメイド、およびメイド服に関する問題を出していきますので皆さんはそこの解答席に入っていただき、私が出す問題に早押しで答えてもらいます。最終的にもっとも得点が高かった方を優勝者とし、私から商品として特別に造らせた銀の呼び鈴を差し上げます。逆にもっとも得点が低かった方にはそれなりの罰ゲームを用意しているので心して臨んで下さいまし。なにか質問はございまして?」
それだけのことを一息で説明すると美鈴はポカンとしている礼二たちを見渡す。
「あ〜……二つほど気になることがあるんだが」
「なんですの一之瀬さん。異議は認めませんわよ」
とてもさっき質問はないかと聞いてきた人間の言い草とは思えない口調だがいつものことなのか礼二はさして気にする様子もなく気になっていたことを美鈴に聞くことにした。
すなわち、
「お前が問題を出すんだよな? なら解答席がなんで四つあるんだ?」
メイド愛好会のメンバーは美鈴を除くと三人。対して解答席は四つ。つまり解答席が一つ余ることになる。
これは一応メイド愛好会の活動である以上なりゆきでこの家に居候しているプランは関係ないはずだった。ならば余った一つに座るのは一体誰なんだと言う話になるのは至極同然とも言える。
しかしそんな礼二の質問に美鈴はあっさりと、
「プランが座るに決まっていますわ」
とんでもないことを言いながら一枚の紙を礼二に付きつける。
そこに書いてあるのは『入部届け』の文字。そして名前を記入する欄に書かれた見知らぬ国の言葉。
「プランも今日付けでこのサークルに入りましたの」
「……頑張る」
例によって無表情に胸を張るプランとどうだとばかりに踏ん反り返る美鈴に礼二は思わず頭を抱える。
プランは何を考えているのかわからない、美鈴は一度言い出したらそれを取り消すことは絶対にしない。何の冗談か理事長の判子まで押してある入部届けまである以上、礼二に美鈴を止めるすべはなかった。
別にプランがこのサークルに入ることを拒否している訳ではない。ただ……
「……わかった。まあそれはこの際いいとしよう」
不満も呆れもツッコミも諸々の葛藤もすべて飲み込んで諦めた声で礼二は項垂れる。この地点で礼二は優勝を完全に諦めていた。なにせ一昨日の晩の地点ですでにプランの豊富な知識を垣間見てしまったからだ。
ならばこの勝負、以下に勝つかではなく、いかに負けないかというのが重要になってくる。なぜならば解答席を見る限り問題はすべて早押し。ともなると全問プランに正解される危険性があるわけで、そうなった場合、一問も答えることが出来なかった人間に美鈴がいったいどんな罰を与えてくるのか、まったく見当もつかないからだ。
「一応聞いとくが、最下位への罰ってのは?」
「それはなったときのお楽しみですわ」
にやりと不敵に笑う美鈴に悪寒を感じてとっさに礼二は逃げようとするが瞬時に美鈴に襟首を掴まれて取り押さえられる。
「逃げれもいいのかしら。大切なコレクションがどうなってもよろしくて?」
「くっ……それが聞きたかったんだ。俺のお宝をどこにやった」
「私が預かっておりますわ。あれがどうなっても構わないとおっしゃるならこの部屋を出て行っても構いませんが」
美鈴のしてやったりといった感じの笑みに苦い顔をしながら礼二はしぶしぶと美鈴から視線を外して解答席がある方を向く。見ればすでに他の三人は右からプラン、竜司、渚の順に席に着いていて、文字通り三者三様の表情で礼二を見つめていた。
プランはいつものごとく何を考えているのかわからない無表情だが、礼二にはそれがどこか楽しそうにしているよう見えた。事実、ぱっと見ではわからないが、ほんの僅か、よほど近くまで近づかないとわからないほど僅かではあったが確かにプランの口元は笑みの形に吊り上っていた。もちろん礼二の眼にその微妙な動きを目視できるほどの視力はなく、微かな雰囲気だけで相手の気持ちがわかるほどお互いをわかり合っている訳でもない。それでも礼二がプランの微かな感情を感じ取ることが出来たのはまさに惚れた強みというやつだった。そしてその限りなくわかりずらい微笑みはこの家に来てから初日の一件を除くと常に無表情で何の感情も表わそうとしなかったプランが初めて見せる表情でもあり、なんとなく礼二は救われる思いをした。少なくとも大切なお宝を押収され自分の部屋にこんな訳のわからないものを勝手に設置されただけのことはある、そう思うことが出来た。
いつもならノリノリで真っ先に礼二を挑発してくるはずの竜司は今日に限ってどういう訳か何も言わずただいつもの猛禽類を思わせる瞳を細め、口元を不気味に歪ませていた。それはいつも通りの無駄に迫力がある竜司の笑い顔だった。それなのにどうにも礼二にはその自称笑顔がいつもとはどこか違っているような、どこか引っ掛かる違和感を覚えていた。ただどうしても確証が得られない。そのために戸惑うばかりで礼二は何も言えずにいた。
そして渚は例によって無表情な瞳で口元だけ悪意に満ちた笑みに歪めていた。その笑みは礼二に寒気を感じさせるには十分すぎるものだった。
昔から渚は礼二を陥れるためには自身の損得を無視する気がある。なにせ礼二への嫌がらせをするために未遂とはいえ遺書付きでリストカットをしようとしたほどだ。
何を思ってそんなことをするのかは礼二に理解できるものではなかった。それでも長い付き合いの賜物か、たった二点だけ礼二にもわかることがあった。
一つは渚が美鈴が言う罰ゲームを恐れていないということ。そしてもう一つは渚がこのクイズをまともに受ける気がないということだ。それを示すかのように礼二が座る解答席と渚の解答席が異様に近く設置されている。自分の勝敗より礼二の妨害に集中してくる。そんな確信に近い予感が礼二にはあった。
確実にろくなことにならない。そんな予感をひしひしと感じながら礼二は解答席につくことにした。
「さて、皆様席に着きましたわね。それでは早速始めたいと思います」
全員席に着いたのを確認した美鈴がどこからともなく紙の束を取りだす。
「それではまずは基本中の基本からいきますわ。第一問はメイド服のパーツに関して。早押しでこれの名称を答えてもらいますわ」
そう言って美鈴が取りだしたのはマンガなどで描かれるメイドがよく頭に付けているひらひらの付いてカチューシャのようなもの。メイド服愛好会と銘打っているだけはあって全員一斉に行動を開始した。
ポーン――
ランプが付いたのは礼二、ではなくプランが被っているヘルメットだった。
ちなみに礼二は渚の妨害、具体的に言えば被っているヘルメットを渚の手によって前にずり降ろされたために問題となるものを見ることすらできなかった。
「ヘッドドレス。それはカチューシャ型」
「正解ですわ。少し簡単すぎましたかしら」
当然のように正解。プランの解答席に取り付けられたモニターに10という数字が表示される。
「ちょっとあなたたち。新人に後れを取ってどうしますの。もう少ししっかりなさい」
「そう思うんならこいつをどうにかしてくれ」
ずり落ちたヘルメットを被りなおしながら抗議するが当然のようにスルーされ、礼二の訴えが美鈴に届くことはなかった。
「それでは第二問いきますわよ。今度はもう少し難しい方がいいかしら」
もったいつけながら紙の束を何枚かめくって美鈴は次の問題を吟味している。その間にも礼二と渚の間では激しい攻防が繰り広げられ、それを竜司が囃し立てる。そこにあったのはいつもの部室と同じ光景だった。
プランはそんな光景を無表情ながら楽しそうに見つめていた。
「……楽しそう」
そんなプランの呟きは周りの喧騒にかき消されて他の四人に届くことはなかった。
クイズ開始から小一時間が経過した。
礼二の予想通り、クイズはプランの独走状態となった。より正確に言えばこれまでのところすべての問題をプランにあっけなく取られている状態である。
「あ、あなたたち一問も答えられていないじゃないの! それでも誇り高きメイド服愛好会の一員ですの!!」
美鈴が癇癪を起したように紙の束を握りしめて地団駄を踏んでいる。
美鈴にも愛好会会長としての意地がある。今回のクイズはプランの入会テストも含めている。問題の難度も簡単なものから相当に難しいものまで用意したつもりだ。それをすべていとも簡単に答えられては美鈴の面子も丸潰れだった。
「第24問、メイドのタイプに関する問題ですわ。19世紀前半のアメリカ開拓時代におけるスタイルを答えなさい」
「アーリー・アメリカン・ルック。フリル付きのエプロンドレス、ゆったりとしたフレアースカートにショールといったスタイルであり、素朴さがウリである」
「第25問、エプロン部分にしばしばアクセントとして使用されるウエストや腰に巻く飾り帯の名称を答えなさい」
「サッシュ」
「第26問、日本で唯一のメイド関連事業者として設立された団体の名前を答えなさい」
「日本メイド協会」
「第27問、ヴィクトリア時代における女性使用人の賃金水準は一般男性使用人と比べてどれほどだったか答えなさい」
「半額から20分の一。これらの理由により男性でないと出来ない仕事以外はすべて女性使用人によって賄われていた」
「むきー!! つ、次の問題ですわ!」
美鈴が出す問題にプランは次々に答え、その度に美鈴は悔しそうに地団駄を踏む。
竜司はとうに答える気を失くし、礼二の執拗に礼二の妨害をしていた渚ですら感心したようにプランを見つめていた。礼二だけは一問でも答えようと悪戦苦闘しているがボタンに触れることすら出来ずにいる。
美鈴が考えうる限りの難しい問いを次々に出し、礼二がプランから解答権を奪おうと悪戦苦闘し、そんな礼二を傍目にいつもの無表情でプランが次々に問いに答え、その様子を竜司と渚が面白そうに眺める。
いつの間にか趣旨が変わっているが、それに気付いているのは渚だけ。そして唯一気付いている渚もそれをあえて指摘するようなことはなく、合宿一日目の活動は間違った方向にどんどんとヒートアップしていくのであった。
そんな時、
――ピピピピピピピピ
「あら、私の携帯ですわね」
美鈴の携帯がメールの着信を知らせ礼二、美鈴、プランの間違った三つ巴の戦いは一時中断となった。
携帯を取り出し差出人と件名を見て美鈴は凍りついた。
差出人は美鈴の父親、伊妻敏明。件名は絶対に家から出るな。
「……大変ですわ」
敏明のメールに書かれていたこと。それは、
「また……人が死にましたわ」
『南奈津橋付近で変死体が見つかった。犯人がこの町に潜んでいる可能性が高い。学校の行き帰りも可能な限り母さんに送ってもらい、一人で出歩くことがないようにしなさい』
第四章 連続殺人事件と小さな亀裂
<T>
立っているだけで少し汗ばむ気温の夕暮れ時、その場所は何重にもなる人垣に取り囲まれていた。ある人は興味津々な顔で、ある人は不安な顔で、ある人はどこか迷惑そうな顔でその場所を覗き込んでいた。
「またか……こりゃもう隠しようがないな」
その人垣が注目する場所のほど近い場所、そこで遠藤はここが注目される原因を見て吐き出すように呟いた。
藤間も呟くことこそないが険しい表情で現場を眺めていた。
夕日が水面に反射して川が煌めいていた。鮮やかな夕日の赤は他の色を侵食するように、圧倒的な赤で辺りを一色に染め上げようとしていた。
しかしそこにある赤だけは夕日によるものではなかった。ただ唯一、橋の上だけに夕日とは違う赤が存在する。
そこにあったのは胃がムカつくような密度の濃い鉄錆の臭い。そして橋を染める濁った赤色の出どころである異形の花々。
大きいものが二つ、それより若干小さめなものが一つ、そしてサッカーボール程度の大きさしかないものが一つ。胴体を土台にして四つの花弁は人の手足、その中心には頭。その"人であった肉"からは血液がすべて抜け出たのか、肌はおぞましいほど青白く、死後硬直により花弁になっている手足は不自然な形で固まっていた。ただ唯一、切り落とされたパーツの断面だけが痛んだ肉のように黒っぽく変色して、青白い花にアクセントを添えていた。
「人を解剖して花に見立てる、か……いよいよもって猟奇じみてきたな」
橋の上に咲く四つのかつては人間だったものを見て遠藤は眉を顰めた。
「今度のガイシャは家族連れか……身元はわかっているのか?」
「はい。被害者の男性のものと思われる鞄から免許証が、女性の鞄からは母子手帳が発見されました。そこから察するに被害者はこの付近に住む桐山一家と思われます」
藤間の問いに現場検証をしていた若い警察官が答える。
若い刑事が手渡ししてきたビニール袋には確かに男のものと思われる運転免許証と女性のものと思われる母子手帳が入っていた。
「第一発見者は真柴隆俊、ここの近くに住むサラリーマンです。遺体を発見したのは午後の6時ごろです」
「通報は6時半になっているが?」
「パニックを起こして携帯電話を川に落としてしまったため、とのことです。それと思しき携帯電話も発見されています」
若い警察官が差し出す袋に入ったずぶ濡れの携帯電話を藤間は一瞥した。
時計機能が壊れたのか、携帯電話のサブディスプレイが示すデジタル時計は六時十分で止まっていた。
「遺体の状態から見るに、死亡推定時刻は今日の十四時から十六時にかけて、といったところか。これも前の二件と同一犯によるものだと思うか?」
「どうだかな。今回は例のメッセージは残っていないからな。もっとも、単に血だまりの中に埋もれてしまっただけという可能性も捨てがたいがな」
「今回の件は不自然な点が多すぎる」と、吐き出すように呟いて藤間はその場を離れる。
遠藤も数瞬だけ現場を睨みつけると藤間の後を追う。
そもそも二人はつい先日、今回の事件から担当を外され調査の一切に関わることを上司から禁じられていたのだ。そのため今この場にいることがばれてしまえば二人にとって面白くないことになる。
通報からすでに三十分が経過している。もう少しすれば正規の担当者が現場に到着するだろう。その前に、二人は現場を離れなければならなかった。
「この橋は普段それなりに人通りがある場所のはずだ。それなのになぜ遺体発見がこんなに遅くなったんだ」
「偶然、と切り捨てるにはあまりに出来過ぎているが……まあそれはおいおいわかるだろうよ」
現状を苦々しく思う藤間は、その苛立ちを隠そうともせずに叩きつけるかのように誰に、というわけでもない問いを発する。
一方で遠藤は、藤間の問いに悩む風もなく、それどころかどこか楽しげに鼻歌交じりの返答を返す。
「人死にを見て鼻歌か。不謹慎だな、ゴリさん」
鼻歌を歌う遠藤を見て藤間は露骨に苦い顔を表する。
しかしそんな藤間に対しても遠藤は笑うだけで応えようとはしなかった。その代り、
「テレビドラマとかで警察もグルになっている陰謀ってあるだろ? シゲさんはああいうの、どう思う?」
そんな遠藤の唐突な問いに藤間は怪訝な顔をして考え込んだ。
藤間の経験上、こういうときにこの老いた捜査官が言う言葉には必ずと言って裏があった。例えばそれは二人の間でのみ通じる何らかの暗号であったり、あるいは事件の核心に近づくためのキーワードであったり。
だからこそ、藤間は内心戸惑っていた。
「なにか、証拠でもあるのか?」
「おいおい、何言ってんだ。俺はただドラマの話をしていただけだ。そうだろ?」
そう言って遠藤は声だけで器用に笑って見せる。その一方で目は真剣で、藤間にしか見えない位置で指で後ろを指している。藤間も不自然にならない程度に目だけで遠藤が指さす方を見て、そして苦い顔をする。
遠藤が指差した方にはペンチに座って新聞を読んでいる男がいる。しかしよく見ればその男の懐が微妙に膨れ上がっているのがわかる。
それだけではない。二人が行く先々に懐を膨らませた二人を監視する無数の目が存在していた。
「そうだな、ドラマの話だったな。そうだな、主犯は警視総監ってとこか?」
「さあ、それはどうだろうな。ドラマではああいう役は色々と怪しすぎるからな。逆に犯人じゃなかったりするんだよ」
遠藤に合わせて会話を繋ぎながら藤間は神経を張り詰めてあたりの様子を探る。
ベンチに一人、木の上に一人……二人。全部で3人か。
瞬時に藤間は自分たちを見張る目の位置を把握し、それらから死角なる場所でメモを取り出しさっとペンを走らせる。
「じゃあゴリさんはどう思ってるんだ?」
『RPRMか?』
「そうだな……警察側は何らかの理由で犯人を捕まえられない、とかどうだ?」
『おそらく。だが確証はない』
「言っている意味がよくわからないんだが」
『例の植物関係だろうな。せめてデータだけでもあればいいんだが』
「それを調べるために主人公が無茶をするんじゃないか。例えば、夜中にこっそり事件現場に忍び込んだり、ね」
遠藤の返事を聞き、藤間は煙草を付ける振りをして先ほどのメモを処理する。
「確か今日は例のドラマがやる日だっけな」
「ああ、だからビールでも買って早く帰らなきゃな」
にやりとにたり。二人の男は口元を歪めて"ドラマを見る"準備をするために帰路を急ぐのであった。
<U>
伊妻父のメールから小一時間が経過した。時刻はとうに七時を超えているにも関わらず家の手伝いがあるはずの竜司すらそこから出ていこうとはせず、部屋の中は異様な緊張感に包まれていた。
南奈津橋は昨晩の事件現場のすぐ近く、それこそ竜司の家から目と鼻の先にある小さな橋だ。礼二も竜司の家に遊びに行く際、何度か通ったことがあった。
「南奈津橋……だんだん近づいてきましたわね」
美鈴の若干空気の読めていない呟きはその部屋にいるメンバー共通の不安だった。
この部屋にいて唯一現状を理解していないであろうプランすら、すこし非難の色を含んだ視線を美鈴に送りながらも何も言わずに表情を硬くしていた。
一度目の殺人は、どこで起きたものなのかは礼二たちは知らないが、二度目の事件は栄綾商店街の外れ、そして今度は竜司の家の目と鼻の先にある橋。事件の現場は着実に竜司の家に近づいていた。そしてそれが示すものは――
「まだ……近くにいるのかもしれませんわね――」
「伊妻、不謹慎だ」
美鈴の不謹慎な呟きに礼二が制止に入る。美鈴は一瞬、不機嫌そうな顔をするが、あちこちから非難がましい目線が向けられていることに気がついて気まずそうな顔で押し黙る。
再びの沈黙。それも先ほどより一層重苦しい、息が詰まるような沈黙。
美鈴の呟きは確かに不謹慎極まりないものだったが、その部屋にいる誰もが懸念していることだった。事件の犯人はまだ竜司の家の近くに潜んでいて、次の殺人はもっと竜司の家の近くで、それどころか竜司やその家族が狙われるのではないか、そんな嫌な想像が礼二たちの頭の中を駆け巡っていた。
偶然、と言ってしまえばそれまでだ。普通に考えれば考えすぎだと笑われてしまいそうなことでもある。しかし立て続けに二度も竜司の家の付近で人が死んでいる。それをごく一般的な高校生でしかない四人に意識するなという方が無理というものだ。
礼二は難しい顔で押し黙り、美鈴は気まずそうな顔で口を紡ぎ、プランですらどこか暗い顔をしていた。
誰しもがまともな精神状態ではなかった。だからこそ、いつもならこういう時には無意識的に、時には率先して、明るくバカなことを言ってみんなを笑わせる竜司が酷く思い詰めた表情をしていたことを咎める者は誰もいなかった。たった一人、そんな竜司をじっと見つめていた渚を除いては……
「何か隠してる」
渚の一言に竜司がピクリと反応する。
「阿藤、今朝からずっと変。悩んだ顔をしたり、さっきだって心ここにあらずだった。なにより今日はまだ一度もバカなこと、言ってない」
「……気のせいじゃね? そんなに変だったか、俺」
「隠し事はよくない。嘘は礼二の始まり」
「いや、それどういうことだよ」
こんなときでも自分への嫌がらせに抜かりない渚に半ば呆れながらも礼二は竜司に向き合った。
渚に言われて初めて礼二は竜司の様子がおかしいことに気付いた。しかしそれも、自分の身近で人死にがあったことに対する動揺、その程度の認識でしかなかった。ならば必要以上の詮索はしないでおこうと言うのが礼二が考える常識であり、その辺りは渚も礼二が知る限りでは同意見であったはずだ。そもそも渚は普段からして必要以上の言葉を発しようとはしない性格であり、だからこそ礼二は竜司の様子よりもむしろ渚のいつもとは違う行動に若干の戸惑いを感じていた。
「まああれだ。誰だって隠し事の一つや二つはあるだろ。竜司が言いたくないなら俺は無理に聞くつもりはないよ」
本当なら色々と問い質したい気持ちで礼二の中は一杯になっていた。しかしこの状況でそれは余計な混乱を招くであろうことがわかっているために礼二は本心をぐっと押しとどめて、勤めて普段通りの口調で言う。
そしてその一言が、竜司の心を大きくグラつかせていた。目の前にいる、どこまでも優しい友人たちにこれ以上ウソをつくことに戸惑いを感じ始めていた。
もともとが礼二たちに相談しようかどうか迷っているうちについ先延ばしになってしまった話だ。もしあの時さっさと相談していればここまで悩むことはなかっただろう。ここまで事件が大きくなってしまった今となっては、もはやそう簡単に口にできることではなくなっている。馬鹿だ馬鹿だと言われていてもそれくらいのことを判断する頭くらいは竜司にもある。このタイミングで自分の兄の様子がおかしいなどという相談はそれこそ自分の兄が事件と関わっているかもしれないと、そう言っているようなものだ。
一方で今抱えている悩みがもはや自分一人ではどうにもできなくなりつつあることも竜司は理解していた。毎晩毎晩、兄の狂ったような呟きを聞き続けるのは竜司にとっては苦痛以外の何物でもなく、家の手伝いがあるにもかかわらずこんな時間になっても帰ろうとしないのは、家にいるであろう兄と会いたくないから、というのもあった。
「…………」
結局のところ、竜司はどうすればいいのかわからず、黙って俯くしかなかった。
言うも苦痛、言わぬも苦痛。それはまさに拷問に等しい時間であった。
せめてここにいるのが腐れ縁の礼二だけであったら、そうであれば少しは楽に話せたかもしれない。そんなことをついつい考えて竜司は恨めしそうな目で周りを見渡した。
「外、行ってくる」
不意にそう呟き、プランが突然席を立って部屋から出ていく。
「…………」
「ちょっ、ちょっとなんですの大道寺さん? 無言で迫られると……きゃっ! や、やめ、服が伸びてしまいますわ!」
プランが部屋を出たのを合図に渚も無言で立ち上がり制服の襟首を掴んで美鈴をずりずりと引きずりながら部屋を出ていく。
「……あとでアイス、宇治抹茶味で」
余計なひと言に苦笑いしながらも礼二は心の中で二人の気遣いに感謝した。
礼二も、そして美鈴以外のここにいたすべての人間は先ほどの竜司の視線に気がついていた。そしてそれから、竜司の隠しごとが皆に知られたいものではないと言うことも勘付いていた。だからこそ、こうして席を外して礼二と二人きりにさせたのだ。
しばらくぽかんとしていた竜司もやがて二人の気遣いに気づき、気まずそうに苦笑いをしながら礼二と向き合う。
「……悪いけど、このことは大道寺や伊妻には」
「わかってるよ。渚もそのつもりで伊妻を連れていったんだろうしな」
『こういうときはあのお嬢様は空気読めないからな』と、男二人、顔を突き合わせて再び苦笑い。
「あんまり、驚くなよ」
そんな前置きから竜司の告白が始まった……
「……やっぱり」
美鈴を礼二の家の外まで引きずり出したのち、手の平サイズの黒い金属製の箱のようなものを耳に押し当てていた渚は誰にも聞こえない小さな声で呟いた。顔に浮かぶのは微かではあるが焦りの表情。それを敏感に感じ取ったのか、プランが無表情な顔を渚に向ける。
「ちょっと、忘れ物。家に戻る」
「忘れ物ですか? なら私も――」
「問題ない、すぐ戻る」
ついてこようとする美鈴の言葉を遮るようにして言い残し、渚は自宅へと向って歩き出した。
徒歩で十数歩、さすがに窓を乗り越えて部屋に入るほどではないが、渚の自宅は本当に礼二の家の目と鼻の先にあった。両親は共働きで、この時間には家には誰もいない。
渚は玄関のカギを開け、静まり返った家の中を静かに歩いて行く。
「……ふう」
慣れ親しんだ自分の部屋に着くと思わず渚は深くため息をついて脱力をする。
渚は日ごろ感情を表に出さず誤解されがちだが、感情がないというわけではない。
こんな事件が身近に起きて、しかもそれに少なからず自分の友人が関わっているかもしれないというこの状況を普通の女子高生が平然と受け止められるはずもない。
そして何より、先ほど聞いた竜司の告白。それが指し示す意味を渚は、渚だけはきちんと理解していた。
竜司が何か隠し事をしている、ということは今朝の地点で気がついていた。そしてそれが事件に関わることであるということも、何となくではあるが勘付いていた。だからこそ、あんなものを仕掛けて話を盗み聞きしたのだ。
あんなことを、盗聴器なんてものを仕掛けておくべきではなかった。考えた末の行動とはいえ、渚は深く自身の行動について後悔していた。
パソコンを起動してメールを起動させる。受信ボックスに入っているメールのほとんどは迷惑メールの類だ。しかしいくつかのメールだけが別フォルダに分けられて大切に保管されている。
そのうちの一通を開く。そこに書いてあるのは見せたいものがあるから是非近いうちに家に遊びに来てくれ、というもの。そして差出人は『三島由紀夫』とあった。
「どうする……」
何度もメールを読み返し、そして再び深くため息を吐く。
机の上に放りっぱなしになっていた携帯電話を取り上げ、そして固まった。指は1と0の間を行ったり来たりして、何度も何度も番号を打っては消していた。
時間はあまりない。そもそも忘れ物をしたと言って部屋に戻ってきたのだ。あまり長く迷えばきっと怪しまれる。かといって急いて選択を誤れば自分だけでなく友人たちにも迷惑をかける。
「迷ってる時間は……ない」
小さくため息をついてゆっくりと3つのボタンを押す。2、3のコール音の後に事務的な女性の声が聞こえてくる。
「……三島由紀夫殺人事件に関して、私が知っている事実を話します」
一呼吸置いて渚は静かに語り始めた。仲間には言うことのできなかった、自分だけが知る事件を解く鍵を。
「…………」
そんな渚の様子をこっそりと覗き見する影があった。渚は影に気付くことなく離し続ける。自分の部屋ということで安心したのか、渚の声は秘密の暴露にしては大きな声で、覗き見をする影にもしっかりとその内容が聞き取れていた。
「阿藤……そう、それが……なら、私は」
小さく呟き影は静かにその場を去った。その目に浮かぶのは微かな焦りと怒り、そして悲しみが入り混じった複雑な感情。
「急がないと……」
影の小さな呟きは、圧倒的な静寂に押しつぶされて誰の耳にも届くことはなかった……
<V>
薄暗い山に沿った小道を藤間と遠藤の二人は歩いていた。
二人の手には黒の軍手がはめられていて、その手に持つのは黒塗りのペンライト。さらに黒いコートに同じく黒い帽子を目深に被った二人の姿は棟目から見れば闇の中に溶けているようにも見える。
二人の間に会話はなく、どちらも不安と緊張と、そして期待が入り混じった表情をしていた。
やがて茂みが少しだけ切れたけ獣道の前で二人は静かに足を止めた。
「ここからなら入れるな」
「舗装してない道を歩くなんて何年振りだか。腰を痛めなきゃいいんだがな」
これから行うことに対して若干緊張した声の藤間に対してどこまでも気楽な様子の遠藤。言葉だけを見ると真逆な二人だが、その顔に浮かぶ表情はどちらも真剣そのものだった。それがわかっているからこそ、藤間は苦笑いすることこそあれ遠藤の軽口に苦言を漏らすことはなかった。
二人は小さく頷き合うと辺りに人がいないことを確認して慎重な足取りで獣道をかき分けて山の中へと入っていく。その足取りはまるで罠を警戒しているようだった。実際、このあたりのもともとの所有者である三島の変人ぶりを考える限り、ここに罠が張られていても何ら疑問はないと言うのが二人の共通意見だった。
鬱蒼とした森の中をかき分けながら二人はある想いに取りつかれていた。こうして半ば勢いでここまで来たのはいいものの、ごく短い時間とはいえそう言ったことの専門家がダース単位で一度検証している場所を事件から時間が経った上に第三者に荒らされている可能性がある状態で調査したところで新事実が見つかるかどうか。楽天主義な遠藤の考えを藤間が知ることは出来なかったが、藤間自身は何か新しいことがわかる可能性は決して高いものではないと考えていた。
そうしてしばらく荒れ放題な茂みをかき分けて進んでいくと不意に開けた土地に行き当たった。電気もなく月明りもなかったが、以外にも星に照らされて薄ぼんやりとではあるが辺りの様子を窺える程度にはそこは明るい。そこには白い立方体の中身を刳り抜いて入口を付けただけ、といった感じの飾りはおろか窓の一つすらない建物がポツリとあるだけだった。
藤間は遠藤に目配せをすると慎重に辺りを窺いながら建物に入っていく。建物の中は外からの星明かりもさすがに届かず、手を伸ばすと指先が見えなくなるほどの真っ暗闇に包まれていた。
ペンライトの光を最小に細めて藤間は辺りを照らしだす。
三島の研究所は基本的にがらんとしている。以前ここに二人が足を運んだ時も、一部の研究室と三島の書斎こそごちゃごちゃと雑多なものが床に積まれるがままにされているが、それ以外の部屋はせいぜいが寝室に簡易ベッドがあるくらいで、物が全くないと言ってもいいほどだった。また三島は極度のものぐさだったらしく、まともに部屋は掃除されておらず、所々に埃の塊が転がっていた。
しかし今は閑散としているのは相変わらずではあるが、床に積っていた埃のほとんどが綺麗になっていて、その代り大小さまざまな足跡で汚されていた。それはこの研究所に多くの人間が出入りしたという証拠であり、そこに事件解決の鍵が残されている可能性はほとんどない、ということを表していた。
「人気は……ないようだな」
ひとしきり辺りを確認し終えると藤間はほっとしたように少しだけ肩の力を抜く。
「まあ最初からわかっていたことだがな。それじゃあ早速捜査を開始しますか」
いつもの軽口を残して遠藤が研究所の奥、三島の書斎の方へ歩いていく。
残された藤間は遠藤の軽いノリに苦い顔をしながら研究室を調べることにした。
研究室は以前に来た時とは比べ物にならないほど閑散としていた。以前来た時、床に積まれていた雑多なもののほとんどは証拠品として押収されていて、床に残されていた花弁のメッセージも当に片付けられている。事件とは直接関係がなさそうな植物の鉢や肥料も押収されているという念の押しようだ。
さらに研究室も多くの、おそらく後から来た例のWPRM関連の人間のものと思われる足跡で荒されているところを見ると、例によって"たまたま返し忘れた鑑識道具"を使ったところで大した結果を得られそうにもない。
それでも一欠片の希望を胸に根気強く調査を始める。ゆっくりと部屋の中のものを動かさないように部屋を調べる。研究データやサンプルを始め、ほんの少しでも可能性がありそうな場所を幾度も調べ、指紋がないか、せめて例の人工知的植物のデータがないか、微かな希望にすがりつくように念入りな調査を続ける。
しかし結果は芳しいものではなかった。研究データはすべてなにものか、おそらくはWPRMの人間の手によって持ち去られていた。指紋を採取しようにも、部屋中にWPRMメンバーのものと思われる指紋が無数に存在し、とても犯人のものだけを特定することは出来そうになかった。
その部屋の光景は藤間にとって悪夢以外の何物でもない。予想していた最悪の展開だ。来ても無駄だと思う一方で、心のどこかではここに来れば何かが見つかる、そんな希望を抱いていた。しかし、ここにきてそれも裏切られてしまった。振り出しに戻るどころかあてがなくなった分だけ後退した気分を藤間は感じていた。
「この調子じゃあゴリさんの方も似たようなものだろうな」
そう呟くと藤間は早々に研究室の調査を切り上げて遠藤が調べている書斎の方へと歩いて行こうとしたその時、
「そいつを捕まえろ!」
奥の部屋から遠藤の怒鳴るような声が響いてきた。同時に奥からドラゴンズの野球帽を目深に被った茶色いロングコートの男が駆けてきた。
しかし藤間はとっさのことに態勢を崩してしまい、男に押しのけられて尻もちをつくように倒れてしまう。そんな藤間を見て遠藤は一瞬迷うように男が走り去った方に目をやるが、追いつかないと判断したのかゆっくりと藤間に近づき手を差し伸べる。
「すまない。俺がしっかりしていれば」
気まずそうに差し出された手を取る藤間に遠藤は仕方がないと笑いながら藤間を引き上げる。
「今の男は……聞くまでもないか」
「犯人は現場に戻ってくるとはいうが、まさかどんぴしゃで当たるとはな。来て正解だっただろ?」
得意げに言う遠藤に藤間はなんとも複雑な顔を藤間は返すしかなかった。せっかくの手掛かりを自分がふがいないせいで取り逃がしてしまったのだ。
しかし遠藤はそんな藤間に対して怒るどころか逆に楽しむように言う。
「それに安心しろ。手掛かりならもう二つほどあるんだ。というかぶっちゃけた話、さっきの男もどこの誰なのかあらかた予想できているんだ」
「手掛かりって……」
遠藤はにやにやとした笑みを浮かべながらもったいぶった様子でポケットの中から一枚の紙を取り出す。
そこには三島が書いたと思われる走り書きで人の名前、阿藤正也という名前と『植物における空気清浄化機能について』というメモが記されていた。
「もう一つ、署の古馴染みからさっき連絡がきたんだ。三島の事件について、有力な情報が入ったって。もっとも上層部はなぜかいたずら電話だと断言して取り合おうとしていないらしい」
そう言いながら携帯電話を取り出して藤間に投げ渡す。
『三島の事件について。本日十九時ごろに本署に電話。三島研究所に最近では入りしている男がいるとのこと。名は阿藤正也。阿藤は事件の夜以来、毎晩おかしな呟きを洩らしている模様』
遠藤から投げ渡された携帯電話のディスプレイには、そう簡潔に書かれたメールが表示されていた。
三島研究所に出入りしていたという阿藤という名の男。そして三島の書斎に残された走り書きのメモに書かれた阿藤正也という名前。
偶然の一致、というには余りにも一致しすぎている。
「今一番クロに近いのは、阿藤正也だ。そしてもしその情報が正しければ、さっきの男も」
藤間は遠藤の話を聞きながら男が逃げ去った方向を睨みつけた。
そこにはなにもない闇が在るだけだった。
『悔しかったら捕まえてみろ』
まるでそう、藤間を嘲笑っているかのように……
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2010/05/23(Sun)12:26:47 公開 / 浅田明守
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■作者からのメッセージ
こんにちは、あるいは初めまして。テンプレ物書きの浅田明守と申します。
前回更新から一ヶ月以上が経ってしまいましたが、ようよう第四章を後悔、もとい公開することができました。
今更ながら思うこと。さ、サスペンスものめんどくさ! というか現実を舞台にする話、めんどくさ!!
いやはや、今までは「何でも書く」と言いつつも、基本的にファンタジー系の話を中心に書いていたせいか、いろいろ調べながら小説書いていくのが酷く億劫なのですorz
かといって調べないといろいろ矛盾してしまうし……あぁ、神よ。私はどうすればいいのでしょうか!
もっとも私は神様は信じていない無神教者なのですがww
最後になりましたがここまで根気強く読んでいただいた皆様には感謝の言葉もありません。拙い文章ですがこれからもがんばっていきたいと思いますので、なにとぞ今後も温かい目で見守ってやってください。
それではまた次回更新でお会いしましょうノシ
10.03.10 第一章初版公開
10.03.26 第一章微修正
第二章初版公開
10.04.03 第二章微修正
第三章初版公開
10.05.23 第四章初版公開
第三章微修正
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。