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『ネコとトラックとヒッチハイク』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:浅田明守
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あらすじ・作品紹介
トラック運転手の男は突然現れたネコに驚いて事故を起こしそうになる。恐る恐る目を開けた男が見たのはネコではなく美しい銀髪を持つ少女だった。男はヒッチハイクで旅をしているという少女を乗せて三瀬川という場所に向かうことになった。その道中、少女から様々な話を聞くことになる……
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第一話『車と雪山とコンビニの話』
空が白ずみ始める早朝、車通りの少ない山道をトラックで爆走する。
今このトラックに積んである荷物を降ろせば今日の仕事は終わり、つまり久々の休日になる。
「プレゼント、買わないとな……何にしよう」
そして今日は恋人の誕生日。俺たちが付き合い始めてちょうど3年の記念日。そして彼女が俺の恋人から婚約者になる日。つまり俺は今日、彼女にプロポーズをするつもりなのだ。
実のことを言えば結婚の話はもう随分前からあった。二人とも結婚の意思はあり、互いの両親にも紹介済みだし同居もしている。ただ金だけがなかった。プロポーズをするにも金がなければ指輪が買えない。
彼女は変なところだけ形式こだわる節があって、曰く『お金はなくても幸せな家庭は築けるけど相手に送る指輪がなければプロポーズは成立しない』とのこと。そのために指輪が買えるだけの金が貯まるまで彼女は俺のプロポーズを頑として受け付けず、結果的に俺たちの婚約は曖昧なままになっていたのだ。
でも、それも今日までだ。誕生日プレゼントとは別に指輪はすでに買ってある。後はきっちりプロポーズして、そして彼女の答えを待つだけ。
少しでも早く仕事を終わらせたい。そして彼女の元へ駆けつけたい。そう気持ちが焦ってどうしてもアクセルを強く踏み込んでしまう。
とは言ってもこの時間、こんな田舎の山道に警察が張っているわけもなく、通行人がいるはずもなく、道を外れない限りよほどのことがなければ事故るようなことはない。もっとも、昨夜から降り続いていた雨も明け方には止んで視界は良好、道幅もそこそこあるから居眠りさえしなければ道を外れるなんてこともないが……
「ふぁ……眠い」
指輪を買う資金を貯めるためにいろいろと無茶をしすぎたせいか、さっきから欠伸を噛み殺してばかりいる。
恋人に会いに行く前に事務所で少し仮眠をとった方がいいかもしれない。さすがにこれからプロポーズだと言うのに眼の下に隈を作っていては格好がつかない。
何度目かの欠伸を噛み殺しながら今日の予定を頭の中で作っていく。
その時、
――チリン
どこからか鈴の音色が聞こえてきた。
「なっ!?」
そしてネコがいた。美しい銀色の毛並みをしたネコ。さっきまで道路にはなにもいなかったのに、まるで最初からそこにいたかのように、ネコが道路のど真ん中に座っていた。
とっさにブレーキを強く踏み込みハンドルを切る。しかしハンドルを切った先はガードレール。そしてその先は崖。タイヤがスリップしたのか車のスピードは一向に落ちる気配がない。
ガードレールが目の前に迫ってくる中、もう駄目だと目をきつく瞑る。そして、
――カシャン!
確かにトラックがガードレールにぶつかるような音を聞いた。その時俺は確かに自分の死を覚悟した。
しかし、
「…………?」
いつまで待っても来るはずの衝撃が来なかった。
恐る恐る目を開ける。見えたのは崖の下、ではなく目を瞑る直前まで見ていた光景。つまり崖の上。
ガードレールを突き破り崖下に落ちているはずのトラックはガードレールに当たるか当らないかのすれすれのところで止まっていた。
「は……はは……き、危機一髪ってか」
自分が助かったことが信じられずに引き攣った笑いが顔に張り付く。自分の身体に何度も手を這わせて、時に頬を抓ったりなんかして、自分がきちんと生きていることを確認する。
ひとしきり確認し終わったところでこうなった“原因”を思い出す。
おそらくはもういないだろうなと思いながらも道路の方を見る。
もし死にそうな思いまでして助けようとしたネコが轢かれてしまっていたらさっきの恐怖はなんだったんだってことになるよな……。そんなことを考えながら。
「…………」
結論から言えば道路にネコはいなかった。
ネコはいなかったが代わりに道路には女の子が立っていた。銀色の長い髪の少女。
「えっと……」
何が何だかわからない。寝惚けていてネコと女の子を見間違えたのか? そこにいたのは最初から女の子で、それをどうしてだかネコだと思い込んだ……なんてことあるはずがないか。
普通に考えれば轢きそうになったネコはとうに逃げた後で、この女の子はついさっきここに来て事故りそうになったトラックを見つけた。そう考えるのが妥当だ。もしかしたらあのネコの飼い主かもしれない。随分毛並みの良さそうなやつだっし、よく見えなかったが首輪をしていた気がしないでもない。
「大丈夫、ですか……?」
少女がおずおずと言った感じにトラックに近寄って来る。何が怖いのか、少女の顔は今にも泣きそうなものだった。
「大丈夫……みたいだな。ガードレールにもぶつからなかったみたいだし」
一度トラックから降りて確認する。本当にガードレールすれすれのところでトラックは止まっていて、傷の一つも付いていなかった。
「えっと……君はこの辺の子かな? こんな早くにどうしたの?」
なんとなく場つなぎに出た質問。
でもよくよく考えればこの少女はこの場において明らかに異常だった。
こんな時間、しかもこんな山道に女の子が一人来るものか? たとえさっきのネコの飼い主だったとしてもなにかおかしい。ネコの行動範囲はそんなに広くないはずだ。ここから一番近い町でも車で30分はかかるし、こんな場所に家があるとは思えない。
「私は……」
そこで少女は言葉を詰まらせる。
少女の反応は何かを悪いことを隠そうとしている子供のものだった。
「もしかして……家出か?」
疑問形で聞いてはいるが俺の中ではこの子は家出少女で決定だった。というかそれ以外にこんな早朝、こんな場所にこの年齢の少女がいる理由が思いつかない。
しかし、
「い、家出なんかじゃありません」
俺の予想を少女はあっさりと否定。
それが嘘でないということは何となくわかる。言葉に迷いがないし、なによりまっすぐこちらの目を見ている。人間だれしも嘘をつけば目が泳ぐもんだ。
「それじゃあやっぱりこの辺の子なのか? こんな山中に民家なんてないと思ったんだけど」
「いえ、そうじゃなくて……え〜っと……そう、バックパッカー? です。あのヒッチハイクして旅をする」
「ヒッチハイク? 日本で?」
外国だとよくあるらしいが、日本でヒッチハイクをする人は聞いたことがない。
少なくともトラック運転手として働いて何年かが経っているがヒッチハイカーなんて見たことがない。
「私、ハーフなんです。母が日本人で、家はロシアなんですけど母がよく日本の話をしてくれて、それで一度自分の目で見たくなって」
「それで一人で日本に来たのか」
確かにそう言われれば無理矢理ではあるが納得できる。少女の綺麗な銀髪が彼女が言っていることの信憑性を高めている。
「はい。それでもしよろしければ……」
「いいよ。乗せてけって言うんだろ?」
「いいんですか?」
「ああ、構わないさ。さっきから眠くてね。話し相手が欲しかったんだ」
半分は本当に話し相手が欲しかったから、半分は一人で日本に来たという少女への興味で俺はそう言っていた。
「あ、ありがとうございます!」
そう言ってはにかむように、とてもうれしそうに彼女は笑った。
「そういえば日本語、随分上手だね」
「はい。父が日本のことが大好きで、いつもうちでは日本語を使っていたんです」
少女を乗せて再び山道を走る。行き先は三瀬川という場所らしい。そこがどこにあるのかは知らないが道は彼女が知っているらしく、俺は彼女のナビに従うことにした。
恥ずかしがりなのか彼女はあまり自分から何かを話すということがなかった。
そのせいかいつの間にか俺が彼女に質問をして、それに対して彼女が答えるという会話パターンが出来ていた。
「日本にはあとどれくらい?」
「ええっと……実はもうそろそろ帰らないといけないんです。両親が心配するので」
「そっか」
しかしそれも少女を乗せてしばらくすると行き詰まってきた。
「…………」
「…………」
何となく気まずい雰囲気が車内に充満する。どうにか会話の糸口を掴もうとしてもうまくいかない。というかネタ切れになる。
「あ、あの……」
そんな時だった。今までは俺の質問に答えるだけだった少女が自分から口を開いた。
「乗せてもらって何も話さないというのも、その……あれなので、もしよろしければ少しお話でもしましょうか?」
おずおずとした申し出。しかし気まずい雰囲気を持て余していた俺にとってはこれ以上ないものだった。
「ぜひお願いするよ」
「わかりました。こう見えてもあっちこっち旅しているので結構いろいろな話を知ってるんです」
そう言って少女はにこりと笑った。
「どんな話が好きですか? 面白い話、悲しい話、怖い話、なんでもありますよ」
「そうだな……じゃあ怖い話をお願いしようか。こう見えてホラーにはうるさいんだ」
「わかりました。ならとっておきのを一つ」
少女は思い出すように目を閉じる。
「そうですね……それでは、こんな話はどうでしょうか」
そして静かに少女は言葉を紡ぎ出した。
ある学生が四人でスキー旅行に行った時の話です。
仲のいいサークルの仲間で短い冬休みを利用して彼らはスキーに行くことにしたんです。みんな旅行をとても楽しみにしていて、実際そのスキー旅行はとても楽しいものになったそうです。
でもその帰り、彼らは運悪く吹雪にあってしまったんです。
その時彼らが使っていた車は仲間の一人が買った中古のもので、カーナビなどは付いていなかったそうです。
そのせいか視界の開けない吹雪の中、彼らは道に迷ってしまったそうです。
しかも運の悪いことに車のガソリンは切れる寸前。パニックになればなるほど自分たちがどこを走っているのかわからなくなり、そのせいでまたパニックに陥る。
そんな悪循環を繰り返すうちに車内の雰囲気は最悪のものになっていったそうです。
そんな時です。遠くにぼんやりと小さな光が見えたそうです。
「あそこのコンビニに行って道を聞こう」
誰かがそう言ったそうです。
四人は遠くに見える微かな光を目指して車を進めていきました。
吹雪で視野の狭い、暗い道を小さな光だけを目印にして。
しかし、どれほど車を進めても一向に光に近づく気配がない。
まるで車が進むのに合わせて光が逃げていくように、車と光との距離は縮まらない……
誰もが苛立ちを感じ始めたその時、仲間の一人が車に酔って気分を悪くしてしまい、彼らは仕方がなく車をいったん止めることにしたんです。
すると、
――ガチャン
車が何かにぶつかるような音と小さな揺れが車を襲ったんです。
四人は驚いて外に出ました。もともと視界のとれない道を進めていたので岩か何かに車をぶつけたか、あるいは動物を轢いてしまったと思ったんです。
でも、車を出た四人が見たのは岩でも動物でもなく、ガードレールにぶつかってその先の崖に落ちる寸前になっている自分たちが乗っていた車だったんです。
もしも仲間の一人が車酔いにならなかったら……
「……なんというか、地味に怖い話だな」
少女はひとしきり語るとゆっくりと目を開けて悪戯っぽく笑った。
「車で山道を走っている時にはちょっと不謹慎な話でしたね」
「まったくだ」
口ではなんでもないように言ってはいるものの目では無意識のうちに道路を凝視していた。
「でも怖い話と言うよりどっちかって言うとひやひやした話って感じだな」
「ええ、ここまでだとそうなんですけど実はこの話には少しだけ後日談があるんです」
「後日談?」
少女は再び目を閉じてゆっくりと語り始めた。
「四人はその後、無事に山道を抜けることが出来たんですけど、最後の別れ際に山道の話になったんです」
「そう言えばあの時コンビニで道を聞こうって言い始めたの誰だよ」
一人がそう言い始めたんです。
「あぁ、そう言えばそのせいで俺ら死にかけたんだもんな」
「ったく、誰だよ。そんなこと言い始めた馬鹿野郎は」
でも四人とも誰が言い出したと言うばかりで結局誰が『コンビニに行こう』と言い始めた分からず仕舞いだったんです。
「え〜っと……つまり?」
「コンビニに行こうなんて、誰も言っていなかったんです。少なくとも彼らの中には……」
車内の温度が二、三度下がった気がして思わず俺は身震いをした。
「どうでした? こんなので満足してくれればいいのですが」
「ははは……そうだな。夏でもエアコン要らずだ」
鳥肌の立った肌を擦りながら少女を見る。
……思いっきりいじめっ子の笑顔を浮かべていた。
「ごめんなさい。ちょっと意地悪しました」
そう言いながらも少女はくすくすと笑っていた。笑ってはいたが、不思議と腹は立たなかった。
「あっ、そこの角を右に曲がってください」
そうこうしているうちに山道を抜けたようだ。遠くに民家の明かりが見えてくる。
「……あれ、本当に民家の明かりですかね」
「…………」
にやにやしながら俺の顔を見てくる少女に無言でチョップを食らわせながらいつもとは少しだけ違う道を進んでいく。
まだ目的地は遠そうだ……
第二話『シスコンとテストとペンダントの話』
昔、家でネコを飼っていたことがあった。
名前はネネ。灰色というよりは銀に近い色合いの毛並みを持った猫だった。
ネネは雨の日に橋の下で弱々しく鳴いていたのを俺が見つけて拾ったネコだった。
人懐っこくていつも俺の足元に纏わりついていた。寝る時も俺の腹の上がお気に入りだった。ちょくちょく寝返りを打った拍子に押しつぶすような形になってあちこち引っ掻かれたっけ……
ネネはいつの間にか俺の前から姿を消していた。死んだという記憶はないし、誰かに譲ったという記憶もない。
もっともネネを飼っていたのは随分昔の話だし、子供の時の記憶は総じて曖昧なものだ。忘れているだけということも十分にあり得る。
もし仮に死別とかではなかったとしても十年以上前の話だ。さすがに生きていないだろう。
今まですっかり忘れていたネネのことを今更思い出したのは鈴の音を聞いたからか、あるいは隣で真剣な眼差しで地図と道路を交互に睨んでいる人懐っこい少女にネネの面影を感じたからか……
山道を抜けてしばらくすると細く入り組んだ田舎道に出た。
いつも使っている道からさほど離れていないのにまったく見知らぬ地を走っている気がするというのが面白い。
こんな時間帯でも郵便局や同業者の人間は活動している。時折すれ違う同業者たちの車に注意を払う必要があるためにしばらくの間はどうしても車内は静かになっていた。
入り組んだ道を少女のナビに従ってしばらく進むとやがて見晴らしのいい二車線の一本道に出た。
「あとはこの道をずっと行けば三瀬川に着くはずです」
「ここからどれくらいかかるんだ?」
「そんなにはかからないはずです」
そう答えると少女は小さく息を吐いた。おそらくナビに慣れていないのだろう。
俺も少しだけほっとする。はっきり言ってこのトラックで細い道をくねくねと曲がっていくのはかなり神経を使う作業になるからだ。
「それにしても随分安全運転なんですね」
「ま、まあな。ドライバーは安全第一だからな」
「そんなに私の話が怖かったですか?」
にやにやと少女は俺の顔を俺の覗き込んでくる。可愛くないわけではないがはっきり言って運転の邪魔だ。とりあえず額に軽くチョップをかまして助手席に押し戻す。
「痛いですよ」
「痛くしてんだ。運転中に顔を覗き込んでくるな」
この状況にもだいぶ慣れてきたのか、少女の口調も最初と比べて砕けたものになっていた。その分こっちも多少手荒い扱いも出来るのでやりやすいと言えばやりやすい。
「そう言えばヒッチハイクで旅をしてるって言ってたけど、どんなところを旅してきたんだ?」
興味半分暇つぶし半分で聞いてみる。
日本でのヒッチハイカーは珍しいというのも理由の一つだ。
「え〜っと、名古屋港から入ってここまで海沿いに」
「名古屋? また随分と遠いところから」
ここから名古屋までは新幹線を使っても2時間以上かかる。その距離を身一つで旅してきたのか……
そもそも名古屋港って泊まるのは貨物船の類ばっかりじゃなかったか?
そんなことを考えているとそれを見抜いたかのように「伯父がそういう仕事をしているので無理を言って頼んだんです」と先立って答える。
「食事やら寝床はどうしたんだ? 見たところお金をたくさん持ってるってわけでもなさそうだし」
というか持っているのは小さなハンドバッグ一つ。よくここまで無事に旅してこれたもんだ。
「えへへ。実はこう見えてサバイバルは得意なんです。夜中にこっそり畑忍び込んだり果樹園に忍び込んだり、使われてない物置小屋にピッキングして忍び込んだり……」
「それはサバイバルではなく犯罪と言う」
じゃれ合うように互いを突き合い、軽口を言いあって顔を合わせて笑う。
それままるで十年来の親友と話しているような親密感があって、家族と話しているような安心感があった。
この少女と出会ったのはほんの少し前だというのに、俺は彼女に強く惹かれていた。
でもそれは異性としてではなく、かといって憧れのようなものでもなく、あえて言うなら言い方は悪いが自分にとって最高のパートナーになるであろうペットを見つけた時のような、そんな感覚。もちろんそんなことは口にできたものではないが……
「な〜に? 私のことそんなに見つめて……ロリコンですか?」
「誰がロリコンだ」
中途半端に察しのいい少女にまたチョップをくれてやる。今度は少しだけ強めに、だ。
だいたい俺はちゃんと大人な女性も好きなんだ。あんな『十より上は年増だろ?』とか平然と言ってのける変態集団と一緒にしないでもらいたい。
「ちなみに『ロリコンじゃない。ロリコンでもあるんだ』なんて答えはダメですよ」
「な、なにを言うかと思えば」
い、いかん。なんかすごいジト目で見られてる。ここは早急な話題の転換が必要だ。
と言う訳で話題を探して車内をきょろきょろと見渡す。
と、少女のハンドバッグが目に留まる。
「そう言えばサバイバルは得意なんだっけ?」
「畑荒しとかピッキングは冗談ですけどね。日本の山は意外と食料が豊富ですから頑張れば3日くらいは山で採ってきたものだけで生活できますよ」
自慢げにない胸を張る少女。
っと、失言。胸を見ているのがばれたのか少女のジト目が復活する。
まあそれは置いといて、ハンドバッグ一つで長旅をしてきたんだ。本当にサバイバルな毎日を送っていたのかもしれない。
でもそうなるといかんせんバッグの中身が気になってくる。さて、いったいなにが入っているのか……
「ならそのバッグの中にはナイフやら飯盒やらが入ってるのか?」
女性のバッグを勝手に覗くのはたとえフリだけだとしても失礼かと思いつつもついつい軽い気持ちで少女のバッグに手を伸ばす。
もちろん本当に覗くつもりはなかった。いくらなんでもそこまで無礼な人間になったつもりもないし、第一少女の持ってそうなものくらいは容易に想像できる。
なによりも、もしその中に生理用品でも入っていようものならその後気まずくなるのは目に見えている。そんな危険を冒してまでやるようなことではない。
彼女だってそれくらいのことは察しているだろう。だからこそ、
「触らないで!!」
彼女の予想外のリアクションに俺は運転を誤りそうになるほど動揺していた。
「あっ……ご、ごめんなさい。でもこの中にはいろいろ入ってて、あんまり見られたくないものとかも……」
「見ないから安心しろ。むしろ謝るのはこっちだ。冗談が過ぎた」
激しく気まずい雰囲気。ついさっきまでの細い道をくねくねと曲がっていた時の沈黙がピリピリとした沈黙だったとするならば、今流れているのはドロドロと纏わりついてくるような嫌な感じの沈黙だ。
何とかして状況を好転させようと口を開いても出てくるのは「あー」やら「うー」やらもはや意味をなす文章にすらならないありさま。
そんな状況を打開したのは俺でも少女でもなかった。
――ちりん……
どこからともなく鈴の音が聞こえてくる。あの時、事故を起こしそうになった直前に聞いたのと同じ音色。どこか懐かしい音色。
「この音……」
「たぶん……私の、です」
そう言ってハンドバッグを指差す。
確かにそこには小さな赤い鈴が付いていた。随分古いものなのかところどころメッキがはがれて地金の色が覗いている。
「大切な人に貰ったんです。ずっと小さい時に」
小さな鈴を少女は本当に愛おしそうに握る。彼女にとってそれが本当に大切なものだということがひしひしと伝わってくる。
「そうか……大切にしているんだな」
「……はい」
小さく答える少女の声はどことなく寂しそうで、悲しげなものに聞こえた。
「ごめんなさい。少し湿っぽくなっちゃいましたね」
「いや、気にするな。別に嫌じゃない」
「私が気にするんです!」
湿っぽいのはあんまり好きじゃないんですと言って少女は笑う。無理をしているのは明らかだった。その証拠に口は笑っているのに目は酷く悲しげだった。
それでもここはきっと気付かないフリをするべきところだと、喉ものとまで出てきた言葉を飲み込む。
あまり突っ込んだ話はしない方がいい。誰にだって言いたくないことの一つや二つはある。俺とこの子は赤の他人なんだからなおさらだ。
「と言う訳で今度は楽しい話をしましょう!」
「楽しい話? どんなんだ?」
無理に笑おうとする彼女に合わせて俺も楽しそうに、笑って対応する。正直ちゃんと笑えているかどうか自信はない。それでも少女は満足げに頷いているからきっとこれでよかったんだと、そう思うことにした。
「正確に言うと馬鹿話なんですけどね」
そう言うとまた前の時のように目を閉じて少女は深く息を吐いた。
これは日本にいる私の友人から聞いた話です。
私の友人が通っている学校には学校の名物と言われている三人姉妹がいるんです。長女の早苗さんは英語の教師、二女の久美子さんはその学校の三年生、末っ子の静香ちゃんは一年生。
早苗さんと久美子さんは一言で言うなら極度のシスコンなんです。静香ちゃんが可愛くて可愛くて仕方がない。それはもう孫を可愛がるお爺ちゃんのごとく。でもそのせいでいつも二人は彼女を取り合ってケンカばかりなんです。それこそ時と場所を考えずに家だろうが学校だろうが関係なく。それで付けられた通り名がシスコン姉妹。しかもこの通り名、学校だけじゃなくてその地域全域に知れ渡っていたって言うんですからもうどれだけ二人が妹のことが好きなのかがよくわかります。私には姉妹とかいないんですけど、きっと妹とか出来たらこの二人みたいに溺愛しちゃうんだろうな。あぁ、でもお姉ちゃんも捨てがたいかも。いっぱい私を甘やかしてくれる優しいお姉ちゃん。
ごめんなさい。話がそれちゃいましたね。
それである日、その日は久美子さんの誕生日だったんですけど、静香ちゃんが久美子さんに中に小さな写真を入れることが出来るペンダントをプレゼントしたそうです。久美子さんはとても喜んで次の日にはそのペンダントの中に静香ちゃんの写真を入れて学校で自分の友人たちに見せびらかしたそうです。
それを見た早苗さんは面白いはずもなく、「ペンダントなんて学校には必要がないものだ」って言ってペンダントを没収してしまうんです。しかも返すとまた学校で見せびらかすからと言ってペンダントを返すことなく常に持ち歩いていたそうです。要するに学校の先生と言う立場を利用して久美子さんからペンダントを奪い取って自分のものにしようとしたんです。
当然久美子さんは抗議するんですが、早苗さんの言っていることもあながち見当違いではなかったので、少なくともそれを学校で見せびらかしていたという事実がある以上あまり強く言うことは出来ないでいたんです。それでも返して欲しくて家だろうが学校だろうが何度も何度も早苗さんにお願いしたそうです。
ここまでされてはさすがに教師と言う対面がある以上、妹とは言え不当に生徒の持ち物を没収し続けることは出来ないので、早苗さんはペンダントを賭けて一つの提案をしたそうです。
その提案と言うのは明日やる英語の小テストで久美子さんが平均点以上だったらペンダントを返すというものでした。
もともと勉強は得意だった久美子さんはそれくらい簡単なことだと言ってその提案を飲んだんです。
そして次の日、英語の時間。
出されたテストの問題はたったの一問。
『シスコンとは何か。英語で説明しなさい』
当然そんな問題を解けるはずもなく、久美子さんの点数は悲惨なものになってペンダントは返してもらえなくなってしまったんです。
まあ最終的には静香ちゃんに怒られてペンダントは久美子さんに返されたんですけど、それをきっかけに二人の仲は以前より悪くなったそうです。
「たしかにそれは馬鹿話だな……というかそんな問題じゃ平均点自体がガタ落ちになって結局負けるんじゃないのか?」
それ以前にそんな問題テストに出す教師ってどうよ。よく学校に怒られなかったもんだ。
「ところが長女はきっちり賭けに勝ったんです。もちろん後で校長やら教育委員会からは怒られたんですけど」
「あ、やっぱり怒られたんだな……。それで? どうしてその早苗さんとやらは賭けに勝てたんだ?」
「簡単です。久美子さん以外のほとんどの人が百点だったからですよ」
「マジでか?!」
そもそもシスコンとは何かなんて問題、日本語でも答えられるかどうか怪しいもんだぞ。少なくとも俺は『妹、もしくは姉に対して異常な愛情を持っていること。シスターコンプレックスの略称』程度にしか答えられない。
「しかも百点だった人はみんな同じ解答だったんです」
「同じ?」
「はい。『It is the man who like Ms.Sanae and Kumiko.(早苗先生や久美子のような人のこと)』って」
第三話『戦争と人形と万年筆の話』
ネネは楚々とした顔のわりにかなりやんちゃなネコだった。
しょっちゅうタンスの裏だとか天井裏だとかを探検しては埃まみれになって戻ってきたり、家の屋根やら庭にあった柿の木によじ登っては降りれなくなったり。
おまけに悪戯好きでよくネズミやらゴキブリやらの死体を俺の枕もとにどっさり置いておいたりランドセルに忍び込んでいたり。そう言うときは必ず教科書やら筆箱やらがランドセルから抜き出されていたから授業中に非常に困ったことになったものだ。
そんなネネを落ち着かせるのに一番いい方法があの赤くて小さな鈴だった。
ネネはあの鈴が大好きで、あれを見せると他のことはそっちのけで鈴を手元で転がして遊び始めていた。
そうしてひとしきり転がして遊ぶと俺のところに鈴を持ってきてもっと鳴らせとおねだりしてくる。仕方がないので鈴を振って音を出してやるとネネは決まってウットリとした顔になるのだ。
あの鈴はネネにとってマタタビのようなものだった。
だからあの時、鈴が壊れて音を出さなくなってしまったあの日、音が鳴らなくなったそれをいつまでも転がすネネが酷く悲しげに見えた……
少女の馬鹿話でひとしきり笑った後、俺たちは自分たちの故郷の話で盛り上がっていた。
話題が尽きることはなかった。家のこと、通っていた学校のこと、家族のこと、友達のこと。
もっともほどんど俺一人が喋っているようなものだったが。
どういう訳か、少女は自分こととなると途端に口数が減る。それは今に始まったことではなくてこのトラックに乗り込んだ時からそうだ。聞かれたことは一応答えるが必要以上には話そうとしない。
俺が彼女について知っていることと言えば、彼女が日本マニアな父と日本人の母親を持つハーフで、ついでに伯父は貨物船関連の仕事をしている人で日本へは貨物船に乗ってきたこと。名古屋港からその身一つで半ばサバイバルな生活をしながらヒッチハイカーとして日本中を旅していること。そして唯一の荷物であるハンドバッグの中には人にはあまり見せたくない大切なものが入っているらしいということ。まあそれぐらいだ。
気にならないわけではないが聞かなければいけないことでもない。本人が言いたくないのなら別にわざわざ聞く必要もない。
そう言えば名前もまだ聞いていないな……。ここには二人しかいないから名前なんて知らなくてもどうとでもなるんだが……
「そう言えば俺の爺さまの故郷には変な風習があってな」
「変な風習?」
「爺さまは名古屋の方に住んでるんだけどな。まあ名古屋っても超が付くほどの田舎だったけどな」
家から見えるのは田圃と畑ばかり、高い建物なんて一つもなくて舗装されている道路が珍しいくらいの田舎。隣の家まで自転車で5分。田舎のくせに自転車登校禁止な小学校までは徒歩で小一時間かかる。ちなみにスーパーまでは車で三十分だったっけか。
「俺はその爺さまに引き取られてそっちの方に住んでいたんだ。たしか中学を卒業するまではあっちにいたんだっけ」
あれはたしか小学校の低学年の時だったか。親が転勤族でまともに友達も作れない俺をかわいそうに思った爺さまが俺を引き取ったんだっけ。それで高校に進学するときに家を出てそれ以来一度も帰っていない。
「あっちの方では菓子まきって言って結婚式の時に花嫁が菓子を文字通りばらまく風習があるんだよ。ほら、教会とかでも結婚式があると菓子を配ったりするだろ? あれのばらまき版だ」
正確に言えば菓子まきは岐阜や西濃などの美濃地方に根付いた風習だ。確か新築祝いの餅投げがルーツなんだっけか。
「その菓子まき? ってそんなに珍しいんですか?」
「まあ菓子まき自体もうほとんど消えかけてる風習なんだけどな。あそこじゃそれを未だにやってる上にばらまくものがまた変わってるんだ」
「どういうことですか?」
興味津々と言った感じに少女が身を乗り出してくる。なんとなくそのしぐさが可愛らしいしそれだけ反応してくれると話しているこっちもいい気分なんだが……はっきり言って例のごとく運転の邪魔だ。
とりあえず少女の額を軽く押して座席におとなしく座らせる。ちなみに今度はチョップではなく指で優しく押し戻す感じだ。
「菓子の代わりに花嫁が人形を投げるんだ。これくらいの大きさのやつな」
片手の親指と人差し指を軽く広げて見せる。だいたい15センチくらいか。
話しているうちにだんだんと思い出してくる。
たしか人形は市販のものでもいいがほとんどの人は自分で作ったものを投げてたっけ。人形作りが上手い花嫁の時だと女の子の間で取り合いが起きてたっけ。
一度だけその取り合いに巻き込まれたことがあって……あぁ、あの時のことはあまり思い出したくはないな。
そもそもなんで巻き込まれたんだっけ……誰かに頼まれて、無理をして人形を拾おうとしたら後続の女子に押されて倒れて踏みつぶされて……
「全治2週間だっけ……」
「全治って……怪我でもしたんですか?」
「いや、こっちの話だ。あまり気にしないでくれ」
どうやら口に出していたようだ。
少女は少しだけ不思議そうな顔をした後、急に懐かしそうな顔になった。
怪我になにか思い入れでもあるのか?
「人形で思い出したんですけど」
「あぁ、なんだそっちか」
「ふえ?」
「いや、これもこっちの話だ」
どうやらまたしても思っていたことが口に出ていた様子。おかしいな……俺はいつの間にこんな自分の心に素直な人間になったんだ?
さすがに二度目で慣れたのか、少女は俺の言葉を気にかける様子もなく話を続ける。
まあ自分で気にするなと言っておきながらなんだが、これはこれで意外と寂しいもんだな……。
「私の故郷にも人形に関する風習があるんです」
どこか遠い場所、おそらくは自分の故郷を見るような目をする少女。
きっと寂しいのだろう。いくらしっかりしていてもまだ子供だ。両親からよく聞かされていたとはいえ知らない国を一人で旅する寂しさは並大抵のものじゃない。
そう考えると途端にこの少女が愛おしく感じられた。
「私の故郷では八月の最初の第一週の間、一対の男と女の人形を窓辺に飾るんです」
懐かしそうな少女の顔を横目で見ながら一対の人形が窓辺に飾ってある様子を思い浮かべる。
雪が深く積もっている道。そこに立ち並ぶレンガの家。そしてそれらの家の窓辺には一対の人形。どこか不気味でどこか神秘的な光景。それに……どこか懐かしい光景。
俺は……この光景を知っている?
「その人形には言い伝えがあるんです。子供たちの寝物語のような不思議で悲しい物語が……」
どうやら語りモードに入ったようだ。目を閉じて深く息を吐く。
その昔、まだ魔法が当たり前のように存在した時代。
とある田舎の小さな街に一人の魔法使いの青年と病弱な少女がいました。
二人は小さな雑貨を営んでいて、そこで調合した薬や便利な道具なんかを売りながら平和に暮らしていました。
ところがある日、二人が暮らす街が戦争に巻き込まれ、青年は兵士として戦争に行くことになったんです。
青年は病弱な少女を心配して家を出る時、少女に一本の万年筆を残しました。
それは魔法の万年筆。たった一つだけ、でもどんな願いでも叶えてくれるというものでした。
少女は街の人の手を借りながら青年が残した万年筆を胸に青年の帰りを待ちました。
でも戦争は長引き、青年はいつまで経っても家に帰ってきません。
そしてついに、少女は重い病に倒れてしまいました。
その病は当時の医療技術ではとても直せるものではなく、少女は日に日に衰弱していきました。
少女は迷いました。ここで万年筆を使うべきなのかどうか。病弱な少女にとって彼の残した万年筆は最後の手段だったからです。
もしもここで万年筆を使ってしまって、彼が帰ってくる前にまた重い病気になってしまったら。
彼女にとっては今の苦しみより愛する青年の帰りを待てないことの方がよほど恐ろしいものだったのです。
少女は悩んだ末に『自分を生ける人形に』と万年筆に願いました。
人形なら病気になることもない、どれほどの時間でも青年を待っていることが出来る。そう考えたんです。
しかしそれからしばらくして少女のものに一通の手紙が届いたんです。
そこには青年が戦死した旨が書かれていました。
その手紙を見た瞬間、少女の中で何かが、心が音を立てて壊れました。そして彼女は動かぬ人形になってしまったんです。
でも本当は青年は生きていたんです。戦死の知らせは少女を心配した青年が家に帰るために流したデマで、少女のもとに手紙が届いた次の日、青年は少女が待つ家に帰りました。動かぬ人形となった少女が待つ家に……
青年は動かなくなった少女を見て自分の過ちに気付きました。人形になった彼女を人間に戻すことはできても壊れてなくなってしまった彼女の心を戻すことは魔法使いの青年にも出来なかったのです。
青年は少女を優しく抱き抱えると窓際に座らせ、そして自分の身体も人形に変えて少女に残した万年筆で自らの喉を貫いて少女に寄り添うように息を引き取ったそうです。
翌日、街の人々に発見された二人、もとい一対の人形は多くの人々に見守られて静かに埋葬されました。
それ以来、その街では二人の死を悼んで窓際に二人をモチーフとした男女の人形を飾る風習ができたんです。
「まあなんで八月の第一週に飾るのかは分からないんですけどね」
「ちょうど二人が見つけられたのが八月だったんじゃないか」
微笑む少女に答えながら俺は頭を必死に回転させていた。
頭の中で何度もさっきの話を再生する。
別におかしいところはない。よくありそう……というわけではないが、まあ一般的なお伽噺のようなものだ。
それなのに、どこか引っ掛かる。さっきから少女の声とよく見知った少女の声とがどうしてだか重なって
聞こえてくる。
いつも一人で物静かに机に向かって物語を書きつづっている少女の姿がフラッシュバックする。
「正幸さん? どうしたんですか、車の運転中にぼーとして」
「……いや、なんでもない。ちょっと懐かしいやつを思い出していたんだ」
そう……懐かしい、俺の幼馴染。もう会うことはないであろう……
まて、なにかがおかしい。何がおかしいのかと聞かれると困るんだが……
「さっき……なんて言った?」
「さっきですか……? 運転中にぼーとしちゃ危ないって」
「その前だ」
「八月に人形を飾る理由はわからないって……」
「そうじゃない!」
俺の大声に少女がビクリと身体を震わせた。なんでこんなにイラついているのかわからない。何をしたいのか、何を聞きたいのかわからない。ただ酷くもどかしい。頭の中に靄がかかっているように考えが上手くまとまってくれない。
くそっ! 思い出せ。彼女はさっき俺に……
「……あぁ、そうか」
だから俺は……
「なんで俺の名前を知っている」
『正幸さん』かつて俺のことをそう呼んでいた少女がいた。
のほほんとした声でいつも俺に物語を聞かせてくれた少女。もう聞くことはないと思っていた響き。
「そしてなんで美咲の作った物語を知っているんだ」
少女が顔を歪める。
それはまるで悪戯がばれて今にも泣きそうになっている子供のようだった。
「答えてくれ」
一つ疑問に思ってしまうと次々に気になることが出てくる。
少女と出会ったのは空が白ずみ始める早朝。そして今も空は白ずんでいる。
結構な距離を進んでいるのに一向に変わらない景色。どこまでも続いていそうな一直線の道。
突然現れ、当たり前のように馴染んでいるロシアと日本のハーフだという少女。
そして彼女が話してくれるどこかで聞いたことがある物語の数々。
「お前は誰だ……なんなんだ」
第四話『雨とペットと忘れられた想い出の話』
幼い頃、小学校に入る前まで俺には友達と呼べる存在がいなかった。親がいわゆる転勤族で一年より長く一所に留まったことがなかったからだ。
幼心にそれを悟っていたのか、俺は爺さまに引き取られるまで友達を作ろうとしたことはなかった。もっとも、一所に留まるようになってからも友達が少なかったところを見ると俺の性格によるところが大きいのかもしれないが。
爺さまに引き取られてからも友達と呼べる存在はほとんどいなかった。いや、正確に言えば一人しかいなかった。
佐倉美咲。いつものほほんとしていて、俺のことを『正幸さん』とさん付けで呼んでいた少女。
彼女はとても変わっていた。
基本的に何を考えているのかわからない。行動は普通の人より必ずワンテンポ遅れる。目を離すとネコやら蝶やらを追いかけていつの間にかいなくなっている。学校でも俺以外の『人間』と話しているのを見たことがない。人間以外(主にネコ、たまに植物)となら会話しているのを見たことがあるのだが……
休みの時間は大抵机にかじりついて何かを、物語を書き綴っていた。学校からの帰り道、その日に書き綴った物語を俺に聞かせるのが彼女の日課だった。それは時に楽しい物語で、時に怖い物語で、ときに悲しい物語だった。
俺が彼女の物語を最後に聞いたのは中学校の卒業式の日。そしてその日以降、俺が彼女から物語を聞くことはなくなった。
理由は簡単だ。その理由は……
ひたすら走る。どこまでも、どこまでも、長い長い一本道を。いつの間にか辺りには濃い霧が立ち込めていて視界が全く効かなくなっていた。それはまるで俺の心を反映しているかのようだった。
俺の心には黒い靄がかかっていた。何が正しいのか、何を信じていいのかわからない。一度疑ってしまったら、なにも信じられなくなってしまう。
「教えてくれ……お前は誰なんだ」
「ただのバックパッカー……と言っても信じてもらえないですよね」
観念した顔で小さくため息を吐くと静かに目を閉じた。
「一つ、話をしましょう。忘れられた物語、悪意あるものによって消し去られた物語を……」
目を開いた時、彼女は明らかに違う存在に変貌していた。
無邪気で人懐っこくて、どことなくネコっぽい少女の姿は何処へと消え、代わりに現れたのは冷酷で仕事をこなすためなら人の死すら厭わない、そんな冷たい目をした人外の存在だった。
「いったい……なんなんだ」
思わずそんな言葉が口から洩れる。それほどまでに今の彼女の存在は圧倒的だった。
「あなたは思い出さなければならない。なにが正しくて、なにが間違っているのか。あなたの帰りを待っているのは誰なのかということを」
少女は朗々と言葉を紡ぐ。
「思い出して下さい。あなたを真に愛している人のことを……」
混乱する俺の頭に彼女の言葉は不思議なことにスルリと浸透していく。
「始めましょう。ここがすべての始まりです」
それは霧のように細かな雨が降るじめじめとした夕方のこと。辺鄙な田舎を流れる川、そこに架けられた申し訳ない程度の見すぼらしい橋の下に一匹の子猫がいました。
『拾って下さい』そう書かれた紙が張り付けてある段ボールに入れられ、弱々しく鳴いている子猫。生まれてすぐに親兄弟から引き離されてよりによって人気の少ない橋の下に捨てられた哀れな子猫。彼女の命はまさにその雨の晩に尽きようとしていました。
しかし、そんなネコに差し出される二本の傘がありました。どことなく勝気な顔の少年とのほほんとした顔の少女。
「お前……一人なのか?」
優しく抱きあげる少年にネコは弱々しく返事をしました。それは子猫の最後の救いの言葉でした。
「正幸さん、拾ってあげましょうよ」
「また美咲はそうやって呑気なことを……誰が育てるんだよ」
「でも見捨てる気はないんでしょ? 正幸さん優しいから」
ネコの頭を撫でながら少年の顔をじっと見つめる少女に「うるさいな」と言いながら少年は懐に優しく、しっかりと子猫を入れました。
それが彼とネコの出会い。これから始まるすべての物語の始まりです。
ネコは彼の家で温かい寝床とネネという名前をもらいました。
ネネは彼女を拾ってくれた少年にとてもよく懐いていました。何をするにもネネは少年と一緒。遊ぶのも一緒、お風呂も一緒、もちろん寝るのも一緒。ネネと少年は兄弟のように育ちました。ネネは少年が心を許せるもう一人、もう一匹の存在になったのです。
少年はいつも少女のことネネに話していました。今日はあいつからこんな話を聞いた、今日あいつはこんなものを追いかけて行方不明になった、今日あいつがこんなものを見つけてきた。そしていつも最後には「まったく、だからいつも目を離せないんだ」と少し恥ずかしそうに、そして嬉しそうに俯きながら言うのです。
ネネはそんな少年を見て育ったためか、いつの日にか少年と同じくらい少女のことを大切に思うようになったのです。
そんなある日、いつものように少年と少女とネネが二人と一匹で遊んでいた時のこと。少女がまた
「止めろ……止めてくれ!!」
思わず俺は叫んでいた。
少女が語ったのは俺と美咲とネネの物語だった。俺と美咲しか知らないはずの物語だった。
そして俺は知っている。この話の先に待つものがなんなのか。この先に待つ残酷な運命を。
それは夏のある日のことだった。俺とネネ、そして美咲はいつものように連れだって冒険(美咲曰く散歩)をしていた。その日は確か家の近くに(直線距離で3キロ以内)にある山にカブトムシを探しに行っていた。
山の仲を歩いているうちに例のごとく美咲が行方不明になっていた。山はいつもの通学路と比べて美咲の目を惹くものが大量にあり、同時に危険なものも大量にある。だからこそ本来はいつも以上に美咲に気をつけなければならなかった。でもその日の俺はここのところ美咲の不思議行動が減っていたために完全に油断していた。蝶を捕まえようとしているネネに目を奪われていて美咲から完全に目を離していた。その隙にいなくなったのだろう。
俺は懸命に美咲を探した。運悪く雨も降り出し、空に黒雲がかかっているために視界もすこぶる悪い。地面も次第にぬかるんできて一歩進むごとに足が地面に沈み込むような錯覚が俺を襲う。
そして、俺は聞いた。犬の鳴き声、そして美咲の悲鳴。懸命に駆けた先に俺が見たのは口の周りを血で濡らした野犬と赤い服、いや服を赤い血で濡らした美咲が倒れていた。
「に……げて……」
それが俺が聞いた美咲の最後の言葉だった……
「それは違う。よく思い出して……あなたの本当の記憶を」
まるで俺の考えていたことを読んだかのような少女の言葉。でもなにを言いたいのかがわからない。
違うってなにが違うんだ? 俺の記憶か? それとも彼女が話そうとした話は俺たちの物語ではないということか?
「少女は死なない。死ぬのは彼女じゃない。そうでしょ?」
少年とネネは少女の悲鳴を聞いて雨降りでぬかるむ山道を走りました。
そしてその先で見たものは今にも野犬に襲いかかられようとしている少女の姿でした。
「み、さき……」
少年は少女を助けようとしてしました。しかし山を駆け回った疲れと、そしてなにより恐ろしさで足が動かなくなっていました。
「くそっ! 動け、動けよ!!」
焦り、戸惑い、自分の足を何度も何度も少年は叩きました。しかしそれでも少年の足は動こうとしませんでした。
少年が足を竦ませている間にも野犬はジリジリと少女ににじり寄っていきます。少女の悲鳴と少年の出現に野犬はすっかり興奮してしまった様子で、ちょっとやそっとのことでは止まりそうになくなっていました。
そんな中、少女と野犬の間に割り込む影があったのです。
それはネネでした。小さな体を精一杯膨らませて、自分より遙かに大きな野犬に対してこれ以上近づいたらただでは済まさないぞと言わんばかりに威嚇をしていたのです。
「ネネ危ない!!」
「だめ……逃げてネネちゃん!」
二人は自分の身の安全を考えずに、ただひたすら自分たちの"家族"を助けたい一心でそう叫んでいました。
しかし時すでに遅く、野犬の興味は座り込む少女から自分の前に立ちふさがる小さなネネに移っていました。
それがわかっているかのように注意が再び二人に戻らぬうちに野犬を引き連れて森を駆けて行ってしまったのです。
少年と少女はネネが駆けて行った先をただ茫然と見るしかありませんでした。
翌日、街の住人総出で行われた山狩りで見つかったのは体中を引っ掻かれ傷ついた野犬一匹と全身血まみれで冷たく動かなくなったネネの姿でした。
「これが私が知っている真実の物語です」
すべて語り終えると少女は静かに目を閉じた。
少女が語った物語。俺が知らない俺たちの物語。
違う。そんなはずがない……俺は確かに美咲が死ぬ瞬間をこの目で……
「思い出して。あなたの、私たちの本当の物語を」
思い出せと言われてもな……。何を思い出せと言うんだ。
俺の記憶が間違ってるとでも言うのか? 自分の幼馴染が目の前で死んでいったあの光景が……
「よく思い出して。あなたが少女の物語を最後に聞いたのはいつ? あなたが彼女の死を見たのはいつのこと?」
俺が最後に美咲の物語を聞いたのは……
――なさい
何かが頭の中でフラッシュバックのようにちらつく。
――ごめん……なさい。ごめんなさい、ネネ……
それは血まみれのネコを抱きかかえて涙する少女の姿。
服が血で汚れるのも厭わずにネネを抱きしめて大声で泣く美咲の姿。
そうだ……なんで忘れていたんだろう。ネネは俺たちを守ろうとして……
じゃあ美咲は……?
ダメだ。思い出そうとすると頭がひどく傷む。考えがどうしてもまとまらない。頭にかかった霧がどうしても晴れない。
「思い出して……誰が生きているのか、誰が死んでしまったのか」
誰が生きていて……誰が死んでいるのか……
少しずつ頭の中の霧が薄れていく。でもまだわからない。
あと少しと言うところで指の間からすり抜けていってしまうような、酷くもどかしい感じ。
「お願い思い出して……じゃないとあなたは……っ!?」
――ちりん
また聞こえた……鈴の音色。少女がもっている鈴の音。
鈴の音と共にもどかしい気持ちも、頭の痛みもどこかへと消えてしまった。何をそんなに考えていたのかもわすれてしまった。どうでもいいことのような気がして思い出す気にもなれない。
不思議な音色の少女が持つ鈴。地金が見え始めている古い鈴の音色。
でも……本当にそうなのか? あの音は少女の鈴から聞こえてくるものなのか?
俺にはどうにもこの音が耳から入ってきたものだと思えなかった。
自分でも何が言いたいのかわからない。ただ……さっきからこの音色が俺の頭に直接響いているように思えて仕方がない。
「彼女に気付かれた……違う。でも時間の問題か……今はとにかくあの場所に」
表情を焦ったものに一変させて少女がぶつぶつと呟く。
「とにかく、今は急いで三瀬川に向かって下さい。彼女に捕まる前に、早く!」
「まあ、あれだ。いろいろとツッコミたいところはあるが……まあ一つだけにするか」
彼女の話を聞いて以来ずっと気になっていたこと。
「お前は……美咲なのか?」
「……」
少女は静かに瞳を閉じて答えなかった。ただほんの僅か、少女の顔に悲しみの色が見えた気がした。
「今はまだ……でも必ず、あの場所に着いたらきっと答えます」
「……わかった。今はそれを信じることにする」
アクセルを限界までふかして霧の立ち込める道を走る。
さっきより霧は薄れてきたが、それでもまだ先が見えるほど薄らいではいなかった。
第五話『ネコとトラックとヒッチハイクの話』
先が見えない道。定かではない記憶。何を信じればいいのか、何を信じたいのか。
ここは夢か現か、どこに向かえばいいのか。
声が聞こえる。必死で、泣きそうで、そのくせどこかのんびりとした、聞きなれた声。
俺の名前を呼ぶ声。ひどく懐かしい……
寒い。力が抜けていく。
俺は今どこにいるんだ? 俺は今何をやっているんだ?
俺は……どこへ向かっているんだ……
ひたすら霧の立ち込める道を走り続ける。どれほどの時間走り続けているのかわからない。どれほどの距離を走っているのかわからない。時間の感覚があやふやになっている。
少女はさっきから一言も言葉を発していなかった。それは俺も同じ。頭に言葉が浮かんでは口を開こうとするたびにこぼれ落ちる。
非常に気まずい感じではあるが不思議とさっきまで感じていた不安や混乱はなかった。視界の利かない道を走っているにもかかわらずどう走っていけばいいのか不思議とわかっていた。それに自分がどこへ向かっているのか、それがおぼろげながら理解出来てきた。
「生き物は……死んだらどうなると思いますか?」
少女の言葉で沈黙が静かに破られた。
死んだ命はどうなるのか。それは大切なものを失くして以来幾度となく考えたことだ。そしてその答えは未だ出ていない。
「さあどうだろうな。俺は死んだことがないからわからないな」
「現実的なんですね」
何がおかしいのか少女がくすくすと笑う。嫌な感じはしないがどことなくこそばゆい。
「命は死ぬと魂となって肉体を抜けだして光の輪を通り死者の国へと行くんです。そしてそこで指導者たちに自分の人生を振り返らされるんです」
「どこかで聞いたことがある話だな」
「化け学、退行催眠術を用いた魂の研究です」
退行催眠術……あの糸の先に五円玉を括りつけて、
「そんな眉つばものじゃありません。カウンセリングとかに使う科学的にも立証されたちゃんとしたものです」
「……俺の心を読むのは止めてくれないか?」
「読まなくてもわかります。正幸さんがわかりやす過ぎるんです」
読まなくてもって……ほんとに読めるのかよ。半ば冗談で言ったつもりなんだが……
「話を戻しますね。基本的に魂はそうして死者の国へ行き次の人生を計画するのですが、まれに死してなおこの世を離れようとしない魂があります」
「幽霊ってやつか?」
「幽霊だけじゃなくて守り神とか守護霊と言われるものも、ついでに妖怪と言われるものも元をたどれば生き物の魂がこの世に長らく留まって変化したものです」
なんだかよくわからない展開になってきたな……というか何の話だ?
「少しだけ昔話をしますね。あまり上手く言葉に出来ないかもしれないけど……」
そう言って目を閉じる少女。語りモードに入る合図だ。
これはとある絶えた命の話。この地に留まり一人の少女の守となった魂の物語。
その命は本来はこの地に留まるものではありませんでした。本来ならばその命は満ち足りた気分で死を迎え、この世に未練を残さず逝くはずでした。しかしその命は魂となった後もこの世に留まりました。
それは一つの約束のため。自らに課した自らを縛りつけるたった一つの約束のために命はこの世に縛られたのです。
たった一つの約束。それはある少女を守ること。大切な少年の思い人を悲しませないこと。
そして魂は少女の守となり、この世に長らく留まることとなりました。
時は流れ少女は大人になり一度は離ればなれになった、かつて淡い恋心をよせていた少年と再開しました。
少女の少年への恋心は未だ残っていました。しかし少年にはすでに恋人がいたのです。
少女は二人の幸せを願いながらも心のうちでは少年への想いを諦めることはできませんでした。
そんなある日、少年の恋人が不慮の事故で亡くなってしまったのです。
少女は少年にどう接すればいいかわからなくなっていました。恋人を失った少年を励ませばいいのか、そっとしておくべきなのか。アプローチをするべきなのか、しないべきなのか。
一方で少女の守となった魂も少年の周りに不穏な空気を感じていました。魂は少年の周りに黒い靄のようなものが纏わりついていることを感じ取っていたのです。
それは死してなお少年に未練を残した女の霊。彼を見守るのではなく、彼を自分と同じ側に引きずり込もうとする悪意ある者の霊。守の魂がそれに気付いたのは少年が事故に遭って意識不明の重体となった少年を目の前にした時でした。
動かなくなった少年の周りには依然黒い靄が纏わりついていました。それは彼を生死の境に追いやったのが悪意ある霊の仕業であること、そして同時に未だ少年を自分と同じ側に引きずり込もうとしているということを示していました。
「よかった……ちゃんと着いたみたいです」
「えっ?」
不意に途切れる少女の語り。霧でわかりにくくなっているが確かに景色は今までの一本道のそれと変わっていた。
道のすぐ脇を流れる大きな川、一面に広がる花畑、そしてなぜかこじんまりとした駐車場が一つ。
ここが三瀬川なのか……?
「あそこの駐車場に止めてください」
「あ……あぁ」
示された場所に車を進める。
ピッピッピッ……
慎重に切り返しを繰り返しながら車を止める。
駐車場が狭いだけに非常に停め辛い。
ピッピッピッ……
ここが三瀬川。少女が目指した地。
彼女はここですべてを話すと言っていた。彼女の正体、俺の過去、忘れられた記憶。
だが俺は本当にそれを知りたかったのか? それを知って本当に後悔しないのか?
ピピピピピピピピ……
そもそも彼女が本当のことを話しているとは限らない。彼女の言葉が正しいとどうして言える?
彼女がもし悪人だったら? そもそも彼女はこんなところへ何をしに来たんだ?
こんな人気のないところにきて次の車をどう捕まえる気だ。そもそもここはどこなんだ。明らかに不自然なこの場所、ここは本当に現実の世界なのか……?
霧が濃くなる。何も見えなくなる。右も左も、前も後ろも真っ白で、どこへ行けばいいのか、どちらを向けばいいのか……
ピピピピーーー……
――しん……し! ……さーじ……でっ!!
「っ!? なんだ、今のは……」
何か聞こえた……人の声? なんて言っていたんだ……?
「話の続きをしましょう」
少女が静かに語り始める。
彼女の顔は濃い霧で見ることが出来ない。語っているのは果たして少女なのか、俺がトラックに乗せたロシア人ハーフの少女なのか……?
悪意ある霊によって重傷を負った少年でしたが、それでもまだ彼の魂は現世にありました。それは彼の帰りを待つ少女がいたから。彼の心を現世に繋ぎ止めている少女の存在が彼の心の中にあったからです。
そこで悪意ある霊は少年の記憶に干渉することにしたのです。少年の記憶から心を繋ぎ止める少女を消し去り、死んだはずの自分の記憶を植え付ける。そうすることによって少年の心を現世から切り離そうとしたのです。
何の話をしているんだ……? 記憶を書き換えた……?
「正幸さん、一つだけお聞きしてもいいですか?」
俺の心を見透かすような目に思わず背筋を凍らせる。まるで俺を品定めしているような、見極めようとしているような冷たい瞳。
「あなたが失った人の名前は本当に"美咲"というのですか?」
――正幸さん!
「っ!? 今のは……」
声が聞こえた。今度ははっきりと、聞きなれた少女の声が……
「あの川を渡ってください。まっすぐ、決して足を止めることなく」
少女が川を指差す。対岸が見えないほどの大きな川。
「あなたはここにいてはいけない。正幸さんが帰るべき場所はあの向こうにあるはずです」
「俺が……帰るべき場所……」
ふらふらと川の方へと足が動く。未だ霧の立ち込める中、川に向かってゆっくりと歩いていく。
あの先、川を渡った先に待つ人を……俺は知っている。
――お願いです、目を……覚ましてください……
川の向こうから俺を呼んでいる悲しげな声を俺は知っている……
あの声は……
――正幸……こっち、こっちよ……
何か思い出しかけたその時、背後から声が聞こえてきた。今一番聞きたかった人の声。俺の恋人の声……
足が止まりそうになる。振り返って声がする方へと駆けていきたい。
でも……
「止まっちゃダメです!」
少女の必死な声が聞こえる。
俺はどちらの声を信じればいいんだ……
――ちりん……
鈴の音が聞こえる。その音色は後ろから。
幾度となく聞いた音色。最初に聞いたのは少女と出会う前、事故の直前。二度目に聞いたのは車の中、少女の鈴を見せてもらった。そして三度目は霧が立ち込める道で、耳にした途端に懐疑で頭が一杯になった。
彼女から古い鈴を見せてもらった時は、この音色は彼女が持つものだと思った。霧の中で聞いた時、鈴の音に微かな違和感を覚えた。
普通ならこの鈴の音は彼女が持つあの古びた鈴から聞こえるものと考えるのが妥当だ。
でも……もし、
「一つだけ教えてくれ。君は一体誰なんだ?」
もし俺の予想が当たっているのならば、
「……知っていますか」
少女がハンドバッグから赤い革製の何かを取り出す。
ほどよく使い古された赤い首輪。
「人に懐いたネコは、決してその人から受けた恩を忘れないんです」
彼女が持つ鈴は、ネネの鈴は決して鳴ることはない。
――正幸さん!
光が見えた。川の向こう、辛うじて見える程度の弱々しい光。
でも、今の俺にはそれで十分だ。
「行って下さい! あの光の方へ」
「お前は……行かないのか?」
「はい。私は……もう死んでいますから」
少しだけ寂しそうな、そのくせどこか誇らしげな少女の声を背に、俺は川を駆けて行った……
光が俺を包む。温かな光。どこか懐かしい温もり。
ゆっくりと目を開ける。まず目についたのは病的に白い壁と天井。最初に感じたのは目を刺すような太陽の光と病院特有のなんとも言えない臭い。
「ここは……病院?」
どうやらここは病院で、俺はベッドの上で寝ているらしい。
身体を起こしてあたりの様子を見ようとする。
が、まったく身体が動かない。よくよく見ると体中が包帯だらけになっている。
そしてもう一つ。
「……美咲?」
ベッドで横になっている俺のちょうど腰のあたりに抱きつくようにして眠る見知った少女の姿があった。
「ん……まさ、ゆきさん……? おはようございます……」
「……今更だけど相も変わらず呑気なやつだ」
「ええ、それだけが……わたし、の……取り柄ですから」
顔を鼻水と涙でぐちゃぐちゃにしながらのほほんと笑う少女。
「器用に笑うんだな」
「正幸さんの……せいですよ」
辛うじて動く左手で美咲の頭を撫でようとする。
そこで初めて自分が何かを握っていることに気付く。
「これは……」
古びた鈴。ところどころメッキが剥げて地金が見える赤い鈴。
そうか……あれは夢じゃなかったんだな。
「私……不思議な夢を見たんです。一面花畑で、目の前には大きな川があって、その向こうに正幸さんがいるんです」
「あぁ、知っている」
「私、自分でもびっくりなほど大きな声で正幸さんのことを呼んだんです」
「ちゃんと聞こえていたさ。おかげでこうして戻ってこれた」
「それで、目が覚めたら……」
「あぁ、心配掛けたな」
静かに涙を流し続ける美咲の頭をぎこちない手つきで撫でる。目の前の愛おしい少女を。
「お詫びと言っては何だが、少し話をしてやろう。そうだな……ネコとトラックと、ヒッチハイクの話だ」
そうして俺は語り始める。山道で出会った奇妙なロシア人ハーフの少女と、彼女との短い旅の話を……
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2010/03/03(Wed)01:07:20 公開 / 浅田明守
■この作品の著作権は浅田明守さんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
皆様こんにちは。次の作品を青春ものにしようかバトルにしようかギャグにしようか迷い中の浅田明守です。
ついに最終話までたどり着けました。これも皆様の温かい声援があってのものです。
まずはここまで付き合っていただいた感謝をば^^
それでは予告通りこの作品についての裏話をさせていただきたいと思います。
・其の壱 可哀想なキャラクターたち
この作品は行き当たりばったりで作られたところが多く、とくに3話以降は初期から大幅にシナリオを変更した箇所があります。それに伴って何人かのキャラクターたちが非常に可哀想なことになっているのです。
まずは第一話登場のネコ。書き始め当初ではネコ=少女だったのですがいつの間にか存在そのものが忘れ去られることに……
そして一番かわいそうなのが主人公の恋人(美咲じゃない方)
最初は普通に生きている予定だったのに美咲の登場によっていつの間にか死んでいることに。そのうえ悪役……orz
・其の弐 三瀬川
第五話でいきなり三途の川っぽい情景が出てきてびっくりした方もいるかもしれません。
しかしこれについては実のところをいうと第一話からきちんと伏線が張ってあったのです!
少女が目指していた三瀬川。実はこれ、三途の川の別名なんです。気づいた人、いるかな……?
・其の参 明守の欲望
実はこの作品、とくに第五話を書いている最中についつい悪い癖が出そうになって……
悪い癖、つまり物語をヤンデレで終わらせること。個人的に大好きなんです、ヤンデレw
実は死んでいるのはやっぱり美咲の方で、ネネの言葉を信じて川をわたったら……とか
さすがに自重しましたが、もしリクエストがあったら書くつもりです。合言葉は「ヤンデレサイコー」でww
それでは長らく駄文につきあっていただき誠にありがとうございます。
いつかまた次の作品でお会いいたしましょうノシ
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。