『no reply』 ... ジャンル:リアル・現代 未分類
作者:belong XXX                

     あらすじ・作品紹介
僕は窓に薄ら映る自分とにらめっこしていた。ため息をつくと、暖房がついていたのに息が白んでいく。燻られた窓の向こうの僕の目は、心の阻喪を助長する様に切れていた。(本文抜粋)崩れていく眼前に伸ばされた手が君には見えるか。本当に一人ぼっちの人間なんてこの世には存在しない。人生を強く歩む勇気をくれるかもしれない無駄にシリアスストーリー。だと思います。

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 NO REPLY
              
 タイル張りのトイレの壁が、蝉の声で響いている。午後なのに此処はまだ涼しい。
 校内幾多のスピーカーが、5限の予鈴前に吐いたのは、自分の呼び出しの事務報だった。
"1の3朽木くん事務室まで来てください"
 ゆらりと重たく足を運ぶと、掃除したての床がピチャピチャと水で鳴いた。そうか。水撒くから涼しいんだ。
「あ。朽木くん。電話だよ。」
 おもむろに受け取った受話器は、僕に母の声で、父との離婚を伝えた。家族の決裂とか、離縁とかの悲報が"欠損を望まれた構成員"を指す場合、必ずしも悲報とは呼べない。実際僕にとって、それは限りなく朗報だった。
 家に帰ったと思えば酒を飲み腐し、暇さえあれば賭博に通う彼の姿は、まさに人間の零落の極みだったように思う。ほかの家の主の様子なんてよく知らないけど、彼の姿は「父」と呼ばれる者として、異質であったに違いない。顔が受話器を置いたとたん、安堵に解けるのが分かった。
 放課後、担任の及川先生と僕とそれから母さんとで、面談が開かれた。先生からは、
「大丈夫?」
と一言もらっただけだった。先生の言い様だと、果たして僕の顔が胸中の全てを物語っているようには、見えてないんだろう。

僕は、家に帰ってからもあまり口を開かない母さんがよく解らなかった。
あの人が酒に溺れて以来、ずっと待ち望んだ未来が今じゃないのかな。これから1人で僕を育てることを、不安に感じているのだろうか。あの人が家にお金を入れたり子どもにかまったりしたことなんて、ひとつもないのに。

「母さん...」

何か話そうと思ったけど、言葉が出てこなかった。うつろな目が僕に向いたけど僕がうつむいてしまっていたから、目が合うことはなかった。
 家の戸のすりガラスが、昼のトイレみたいに蛙の声で響いている。
 父の荷物が運び出されたがらんどうの家には、家族の団欒はおろか僕も母さんも、どこにも存在し得なかった。
 
 夕べは酷くシリアスな雰囲気だった。あんなにも時計の刻む音に精神が尖ったのは初めてだ。今朝でさえ、沈黙を痛覚で感じそうなほどに母さんの顔は生気に乏しかった。秋山先生がどんな気持ちであの言葉をかけたのか今ならわかる。けど手放しに心配されるのは癪だから学校ではずっと素知らぬ顔をしていよう。第一父親が視えなくて悲しいのではなくて母さんの沈鬱に痛嘆していることを勘違いされたくない。
学校の予鈴も、正午の町内時報も、最終放課のチャイムも、時を知らせる数多の物が、夕べの僕らの心境を嗤うみたいに、壮麗に響いて流れた。
友達は僕の様子を不思議に思っていたらしいけど、そこまで折り入って訊かれることはなかった。そういう気を使われていたところをみると、もしかしたら、僕の軟だと思われたくない抵抗はあまり表現できてなかったのかもしれない。

張り合って一月が経った。多分これから何カ月も経つと片親が欠けていることさえ日常になる。人間は鼻だって耳だって刺激に慣れるんだから脳だってそのうち案外腑に落ちる日が来るだろう。
毎日こんなことを考えてばかりいる調子だから、最近はあの授業の退屈もあまり気に障らない。
――――ある日の放課後。
僕の人生の中で本当に刹那に近い、たった一日。”人生の歯車が狂う”という言い方には語弊がある。歯車はもともと、自発的に回っているものじゃないから、僕がこの日を字で呼ぶならもっと根底の”発条が狂い始めた一日”になるのかも知れない。

僕は友達の家路を辿っていた。
またあいつがいつもの夕焼けを背景に背負うのを忘れてひたすらに鳴いている。
1年ほど前。標準なら「カラス」とまとまめられる枠を超えて、彼には僕等から名前が与えられた。人懐っこく目の前に降り立ったり、足に草を絡めて飛んだり、屋根の樋に足を挟めたり。僕らが一目でわかるくらいになった彼は、ついに「鴎のジョナサン」という英雄の名からもじった、「烏のジョー」という名前を得た。英雄にしちゃ間が抜けすぎだけど。
そんな彼がずっと僕の上で鳴いている。間の抜けた彼が僕に何かを伝えようとしているなんて微塵も思わなかった。今思えばそこで引き返すきっかけなんてゴロゴロあったに違いない。風は少し冷たかっただろうし空は暗かった。あのよく吠える犬も、いつも神社で遊んでいる近所の子供も、どこかみんな静かだった気がする。案ずるに、そういうのに気付いた人が、「虫の知らせ」とかいう言葉を作ったんだと思う。季節が秋に向かう町並みは、雲さえ流れるのを忘れているみたいだった。
自分家のドアに手をかけたのは、十八時半くらいだったと思う。家の様子が、今日の帰り道みたいにいつもと違う。普段毅然と感じる人の気配が、どこか払拭されている感じがする。目を泳がせた途端に、夕飯の支度をしているはずの母さんの手だけが廊下からだらしなく見えた。母さんを呼ぶより起こすより先に僕は電話を握っていた。そこからはよく覚えていないけど、僕は相当焦っていたみたいで、119を押したつもりが110番していたらしい。体中震わして救急車を呼んでからは、寝るのも忘れて放心していた。

母さんが逝った。死因は脳血管発作だと伝えられた。母さんが、父と離縁してずっと呆けていたのは、亭主の喪失に嘆いたからでも、息子を一人で社会に出す鈍色の重圧に項垂れていたからでもない。自身の近い未来に死を見た人が陥った当然の帰趨に、僕は最も近くにいながら、気づいてあげられなかった。
葬儀は、一人の人の人生が閉じたと思えないほどに坦々と進んだ。僕の居場所だって、僕の気の痞えを慮外にただちに決められた。葬儀を終えた祖母と伯父が僕の次の家へ運んで行く車内、僕は窓に薄ら映る自分とにらめっこしていた。ため息をつくと、暖房がついていたのに息が白んでいく。燻られた窓の向こうの僕の目は、心の阻喪を助長する様に切れていた。
 皮肉にも、あの人の家はそれほど遠くないアパートに在った。3人で叩いたドアからは、案の定あの人が出てきて、大人たちが三言くらい話したら、ぼくはその家に引っ張り込まれた。父以外に僕の知らない女性と、父くらいの背丈の若い男が見える。そこに荷物を置くところも、気を落ち着かせる場所も見つけることが出来なかったから、逝去した母さんを思い出す余裕も、ずっとこの煙たい空間に呑み込まれたままだった。
前の家では、自分の寝床に膝を立てるとすぐ星が見えた。別に、毎日色を変えるあの星や、焦点をずらさないと見えない怯懦なあの星の名前を知っていたわけじゃないのに、さびしい夜は、母さんが逝った夜だって、みんながもてなしてくれた。でも今夜は。これからの夜はずっと、彼らを仰ぐことは出来なくなった。大方、あの知らない人たちは僕が「義母さん」「義兄さん」と呼ぶべき人たちなのだろう。朝になったら、みんな元通りになってないかな。明日は日曜なのに、ひとつも心が浮かばない今も、すっかり忘れてしまうくらいに。

案の定、昨日と様変わりしない今朝、ダイニングテーブルに書置きがあった。
「朝ごはん作って出ます。お昼は冷凍庫の親子丼を温めなさい。美」
読点(。)のはじめが、左下から縦に長く入っているから彼女は多分、母さんと同じ左利きだ。
美とは、義母さんの名だと思う。このアパートに入る前に見た吉高美里(みさと)・影春(かげはる)の表札は記憶に新しい。しかし奇妙だ。皿は流し台に二枚、テーブルに一枚、居間の炬燵に一枚、すべて食べ終わっている。僕は普段、朝ごはんなんてまともに食べないから、その場は気にせず、テーブルの皿を一枚流しに運んで顔を洗いに洗面所に出た。そこでもまた、奇妙なものを見つけた。封を切ってない新品の歯ブラシが、据え置きの小さなゴミ箱に捨てられている。家の至る所に散乱した、歓迎と疎外の混和。顔を洗った後もしばらく考えていたけど、どうも解せなかった。
「邪魔。」
居間から歩いてくる義兄さんの姿が鏡に映っていたから、それほど驚かないつもりだったのに、そのドスの利いた声に厭に畏縮してしまった。
「あ。はい……」
洗面所から出ると、テレビがついているのに気づいた。朝起きた時には静かだったから、炬燵で寝ていた義兄さんが起きてつけたのだろう。片時つっ立ったままで、つまらないワイドショーを観ていると、後ろからあの声で、
「何踏んでんの?それ。」
と耳に入るや否や、「ああ、ごめんなさい」と口を開き、足を上げる間もなく、胸座を彼の拳が襲った。僕の左足の小指は、義兄さんの物と思しきTシャツを捕らえていたらしい。そりゃ僕だって、男友達との喧嘩で胸座を掴み合った事ぐらいはある。でも、問答無用にとんできた彼の拳は、そんな幼い競り合いを知らないみたいに、突如に、力任せに、僕の胸部を殴ったのだ。寸時、肺が呼吸を受けつけてくれない。
「きったねえ。洗い直さなくちゃ。」
殴られた鈍い音も、炬燵の天板に残った皿が割れた音も聞こえなかったのに、その低い声はしっかり聞き取れた。何言ってんだ、この人。鮮血迸る傷口を映す目も、追って赤く充血していく。
「お前、名前何だっけ。」
長く垂れた曲の強い前髪の隙間から、彼の嘲た目と視線が交錯した。言葉を交わす気なんてなかったのに、喉に突きつけられた皿の砕片に、黙殺の選択肢を掻き消された。
「朽木……。――朽木秋明(くつきあきら)。」
「そうか。よろしく。僕の奴僕くん。」
”ぬぼく”の言葉の意味は知らなかったけど、奴隷とか、そんな感じだと彼の顔に書いてあった。今の僕はもしかしたら、いや、もしかしたらじゃない。確実に”不可侵の虎口”で住まう危殆に瀕してしまっている。

彼は出て行った。帰ってこなければいいと願っているのに、帰ってきた時にまたあの眼差しが向くと思うと、体は皿と居間の片付けに動いた。割れた黒い陶器に張った水に映った僕は、ここに来る時、窓の向こうに見た僕と同じ顔をして揺らいでいる。自分は、親が離婚したことで、これからのあらゆる苦境に順応できる気がしてたんだけど、それは大きな誤算だったみたいだ。考えてみると、母さんは「苦境から逃れる為に」離婚を選んだのだ。僕らにとって朗報だったその事態に、心配そうにしてたのはいつも周囲の人らだ。。世間の、片親無き「不憫な子」という主観が僕自身の思う立ち位置まで歪めたんていたんだ。



2010/03/01(Mon)22:38:34 公開 / belong XXX
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