『ジィグネアル短編集(完結)』 ... ジャンル:異世界 未分類
作者:木沢井                

     あらすじ・作品紹介
異世界ジィグネアル。五つの大国と無数の小国で構成された巨大な大陸。そこに住まう人々の暮らしとは、いったいどのようなものだろうか。

123456789101112131415161718192021222324252627282930313233343536373839404142
1『極寒の魔法使い』


「何故、何もかもを捨てると言うのですか?」
 表面上は落ち着き払った口調で、ただし内容からは糾弾の色をにじませ、貞淑な雰囲気をまとった婦人が問う。
「貴方の実力でしたら、師もわたしも十二分に心得ています。ゆくゆくは十天使にも名を連ねることも不可能ではないでしょう。だというのに――」
「すまんが、マリア」
 マリアの言葉を遮って、やっと男は自らの胸中を語る。
「我輩の道は、既に決まっておる。故に今ある土地も、金も、人も、地位さえも過ぎたるものと我輩は断じたまでである」
 清々しさすら感じる男の断言に、それでも尚「しかし」と食い下がらんとしたマリアを、男は視線一つで縫い止める。
「我輩への評価、甚く感謝しよう。だが、今の我輩には何の意味も持たん」
 そう言い残し、男は振り返らずにマリアの横を通り過ぎていった。
 『学院』の窓から、白銀に埋め尽くされた景色が望める。


 五つの大国を包含する巨大な大陸ジィグネアル――その北の果てに、ベイザントは位置している。
 正式名称はベイザント連合国。英雄の子孫らが凍土と高山で覆われた国土の覇権を巡って終わりのない紛争を続けるこの土地の、特に年間通して降雪量の多い海辺の村に、いつからか奇妙な噂が流れるようになっていた。
 曰く、村はずれのある小屋には、老人が一人で住んでいる。
 曰く、その老人は人を食べるらしい。
 曰く、その老人は特に若い子供を好んで食べるらしい。
 曰く、その老人がいつからその小屋に住み始めたのかは誰も分からないらしい。
 曰く、その老人は魔法使いらしい。
 曰く、その老人が明け方近くに空を飛んでいる姿を見た者がいるらしい。
 といった、物騒なものから眉唾ものの噂がその村――ではなく、近隣の村や他所の地方で実しやかに囁かれているのだという。
 そうした理由から人口の端に上る件の小屋へと元気よく駆けていく少年と少女の姿があった。どちらも暖かそうな服を着込み、頬は寒さと走っていたことで生まれた熱で真っ赤だった。
 二人とも、手には木の皮で編んだ籠を持っている。よほど大事な品であるのか、時折どちらともなく立ち止まっては蓋を開けて中身を確認している。にっこりとした笑顔は、中身が無事である証拠なのだろう。
 やがて、海鳴りがすぐ傍で聞こえるようになった頃、二人は小屋の前にいた。
 小屋は、眼下に海を望める村の外れに、ぽつねんと建っている。貴重な材木の端切れを建材にしているのだが、意外と隙間なく組み合わさっており、海から吹きつける風を受けても少ししか揺れない。
 二人は示し合わせて思いっきり息を吸い、海鳴りに負けじと大音声を飛ばす。
「せんせー! ご飯持ってきたよー!?」
「だから早く開けてよぉー!」
 何度も二人が声を張り上げていると、甲高い音をたてて扉が奥へと開いていく。
 先生なる人物に許可を得た二人は、道中と変わらない笑顔で小屋へと駆け込んでいく。
 部屋の大半を占める、用途不明の器や道具、それらに追いやられているかのような配置の家具で埋め尽くされた小屋に、場違いなほど明るい声が響く。
「おはよー!」
「おはよーせんせー!」
「そう声を張り上げんで宜しい」
 陰気な声が兄妹の振る舞いを咎めるが、しかし二人はそんなことは気にした様子もない。
「……まったく、一度外から呼べば分かるというのに、人を老輩の如く扱いよる……ああ、忌まわしい……」
 ぶつぶつと一人洩らしているのは、少年とさほど背丈の変わらない、ひどい猫背の老人だった。年齢相応の扱いに愚痴をこぼすその面立ちは、厳しいというよりは、神経質そうな印象を受ける。
 彼の名はアレクサンドル・ゴルィニシチェ。優れた学者であり、魔導師でもあった。
「はいこれっ、母ちゃんがせんせーにって!」
「……ふん。まあ、受け取ろうか」
 しわと斑点で覆われている枯れ木のような老人の手が、手袋に包まれた若芽のように小さく瑞々しい子どもの手から籠を受け取ると、アレクサンドルは小さく鼻を鳴らして籠の中身を確認すると、何故か彼の顔が陰鬱さを増した。
「ナデズダめ……我輩がこれらを好まぬことを知っておりながら……まったく……」
 首を傾げて独り言を拾い上げようとする二人に「お前達は気にせずともよい」とアレクサンドルは釘を刺してから、覚束ない足取りで暖炉へと向かった。
 石を組み合わせた簡素な暖炉は真ん中の辺りで仕切りが作られており、その仕切りの上部には底の焦げた水差しが乗せられていた。中からは、絶えず水蒸気が吹き出ている。
「……ここに来たせいで体を悪くしたとナデズダ――貴様らの母に文句を言われても敵わんのでな、茶でも飲んでいきたまえ」
「え!? いいの?」
「ありがとせんせー」
 二人して喜色を湛え、アレクサンドルに促されるままに彼の寝台に腰掛けて待つ。この部屋には椅子が一台しかなく、またその椅子は例の用途不明の器具で埋め尽くされた机の傍にあるため、座るのは元より、近寄ることさえ禁じられていたのである。
「せんせー! 新しい絵ってあるのー?」
 最初は大人しく待っていた兄だったが、さして時間も経たないうちにそんなことを言い出した。妹は妹で、アレクサンドルの返答を心待ちにしているようである。
 アレクサンドルは、机の上にあった、もう一つの水差しで暖炉の中にある方の水差しに中身を継ぎ足しながら、枕元にある絵が二人の目当ての品であると教えた。見れば、古ぼけた枕の脇に、丸めた羊皮紙が二つ置かれていた。
 獲物に飛びかかる仔猫のように、我先にと羊皮紙を掴んだ二人は、それぞれの手に渡った羊皮紙に描かれるものを食い入るように見た。
 それは、語彙の乏しい彼ら兄妹でなくとも表現に困りそうな、直線で構成された結晶の模写であった。
 あるものは五角形に、別のものは木の葉のように、角柱のようにと、それぞれ異なる原石を職人が研磨したかのような結晶が、酷く背中の曲がった老人によって精巧に再現されていたのであった。
「せんせー! これは何の雪なのー!?」
 ちょうど、水差しの中身を小さな二つの杯に入れて持ってきたアレクサンドルに、また少年が臆面もなく訊いた。
「む? おお、それであるか。第五種の雪、と我輩は呼んでおる。……そうよな、あすこに見える雲よりも、もっと高いところから降ってきた雪である」
「へー」
 天井に開かれた窓を見上げ、兄は相槌の声を上げる。ただ、その実態はあくまでも中身のない感嘆であって、決して理解していたわけではない。
 アレクサンドルと兄の間に入り込んだ妹が、羊皮紙を持って割り込んだ。
「せんせー、こんどはいつ絵を教えてくれるの?」
「うむ、そういえば約束しておったな」
 アレクサンドルは皺に埋没しかけた目を細め、あってないような予定を思い返す。
「そうよな……今日、昼食を終えたら来るがよい。
「ほんと!? 約束だよー」
「せんせーっ、俺も! 俺も!」
 二人の兄妹は笑顔になって、難しい顔のアレクサンドルにすがり付いた。
 アレクサンドルは顎鬚に手を伸ばしたくとも伸ばせないことに気付き、「退きたまえ」と言った。


 正午が近づき、一つしかない窓から陽光が差し込むようになった頃、第二の訪問者がやって来た。
「先生ぇ、いらしゃいますかー!?」
「む、ナタリー君かね?」
 軽快な足音が近づいてきたかと思うと、慌ただしい声音とともに一人の若い女性が家に飛び込んできた。息が弾んでおり、この辺りの地域では珍しいことに、額に汗を浮かべていた。
 女性にしては上背があり、アレクサンドルよりも頭二つと半分ほど背が高い。粗末な衣服から僅かに除く肌は雪のように白いが手入れが行き届いているとは言えず、うなじの辺りで束ねている髪も無造作に絡まっていた。
「あのっ、先生、ピョートル君が、ピョートル君がまたなんです……っ!!」
「落ち着きたまえ。要領を得られんであろう」
 小うるさそうに手を払いながら、アレクサンドルはナタリーに向き直る。
「ピョートル。村の北に住んどるイワンの息子かね?」
「はいっ」
「また熱が出たのかね?」
「はい」
「この前の薬はどうしたのかね?」
「あの、もうなくなったとかで」
「ふむ、では、今ピョートルはどうしておるのかね?」
「……ぇと、今は、ベッドに寝かせておくように言っておきました。それで、ここまで」
 アレクサンドルが淡々と質問を重ねるにつれて、ナタリーの言動は落ち着きを取り戻していく。
「ふむ、理解した。ナタリー君、我輩の外套を用意してくれたまえ」
「はいっ」
 気持ちのいい返事とともにナタリーは踵を返して、戸口の脇に吊された、海豹の革製の外套を取ってくる。アレクサンドルはアレクサンドルで、大人の頭ほどの箱を抱えていた。「先生、どうぞ」
「うむ。それが終わり次第、屈んでくれたまえ」
 これに関しては手際よく済ませたナタリーは、小柄であるとはいえ、老人を背負って勢いよく小屋を飛び出していった。


「先生、うちのピョートルは、息子は大丈夫なんですかね?」
 アレクサンドルのものより多少広い程度の家の一室、粗末なベッドで苦しげに息をしている息子を傍らに、父親のイワンが容態について問いかけてくる。
「ふむ……」
 少年の喉から胸の辺りを指先で触れながら幾度か頷いていたアレクサンドルは、薄く閉じていた瞼を開いた。
「肺を病んでおるな」
「……この前と、同じやつですかい?」
 イワンが、自身の胸に手を当てながら訊いてきた。息子と同じ病を、彼もまた経験したことがあるのだ。
 そうなる、と端的に相槌を打ったアレクサンドルは、傍らに控えるナタリーに水を汲んでくるように命じた。
「桶にして二杯ほどだ」
「は、はいっ」
 静かに急かされたナタリーは、イワンの妻とともに部屋を出る。
 やがて、老魔導師の許に要求された品が集うと、誰からともなく口をつぐんで彼の背中を見つめた。
 魔導師は、自らの異能の力を自然の理を理解するためだけに用いる者が大半を占めており、その延長として人体を研究対象とする者もいた。
 アレクサンドルもその一人であり、畑違いにもかかわらず、幾つかの分野では優秀な成績を修めていた。
 骨ばった手を擦り合わせていたアレクサンドルは、静かに精神を統一する。
 自らの周囲に満ちる水――その、途轍もなく巨大な存在感を感じ取る。幾度となく繰り返し続け、最早体の一部であるかのようにすら思うほどに馴染みのある感覚の中で、アレクサンドルは自らの何処とも呼べぬ深奥から魔力を管のように伸ばし、巨大な存在感の中に突き通していく。
 管を通り、巨大な存在感から一筋の大きな力が流れ込んでくるのを感じる。
 一筋の大きな力は、あらゆる『力』の代替たり得る代物。人智を超えた理さえ、容易く実現させる純粋な『力』そのもの。
 そういった『力』――魔力が全身に満ちるのを感じながら、アレクサンドルは自らの内包する『主観的な現象』を再現すべく言葉を紡ぐ。
 発された言葉は、空気を伝う『震え』、『言葉が言葉として持つ力』の二つに分けられ、『主観的な現象』の器として『力』を流し込まれ、
『“ 天の恵み(ベネディクション)”』
 通常の言語とはどこか響きの異なる、『力』のある結びの言葉によって形を現す。
 ――変化は、唐突に起きた。
 牛の目玉ほどの『水滴』が、彼の眼前に生じたのである。
 水滴は、宙に浮きながらも球形を維持していた。その表面は滑らかで、しかし絶えず流れるような動きがあった。
 変化は、絶え間なく連続する。
 アレクサンドルが水滴の上に手をかざすと、水滴が動いた。それでも水滴は、形状を失わない。
 すかさずナタリーが、ピョートル少年の口を大きく開かせる。苦しそうに繰り返される少年の哀れな呼吸の音が、より鮮明に聞こえてきた。
 その口目がけ、水滴が落ちた。氷柱の先から落ちるように、寸分の狂いもなく落ちた。
 変化はまだ終わらない。
 水滴を飲んだピョートルは、暫くすると目に見えて落ち着きを取り戻していった。さっきまでは絶えなかった咳も、全くない。
「先生、うちのせがれは……」
「応急処置は済んだ。後は薬よりも、牛乳などの滋養のある食物を与えれば落ち着くのである」
 息子が生き延びることに喜びを見出したイワンの顔色の隅には、しかし薄い影があった。
 当然といえば当然だろう。これでイワンの家は、暫く牛乳の蓄えを減らさなくてはならないのだから。
 大変だと思わないわけではないが、アレクサンドルは箱に入れてある道具と材料で薬を調合すると、それを皮袋に移してイワンに渡した。
「なくなったらまた事前に呼びたまえ。それと、以前の袋を返してもらおうか」
「あ、ああ」
 安らかに寝息を立てる息子は妻とナタリーに任せ、イワンは部屋を出た。そこに何故か、アレクサンドルも続く。
 そこに気付いたナタリーが、どうしたのかと呼び止める。
「あの、先生、帰りは……」
「いらん。我輩は歩いて帰る」
 宣言するアレクサンドルにナタリーは抗弁せず、彼を見送った。アレクサンドルは理屈づくめでしか動かない人間ではないが、無意味なことをする人間でもないと知っているからである。
 イワンから、前に渡していた薬の袋を受け取ると、アレクサンドルはそのまま外に出た。イワンの「いつもすまねぇ」という謝辞には、軽く頷いただけであった。
「む……」
 寒さが、老骨の芯にまで染み入った。数年ほど前から痛みを抱えた右肘をさすりながら、アレクサンドルは一人来た道を歩く。
 ――相変わらず、寂れた村だとアレクサンドルは思う。
 人口はおよそ五十人程度。辛うじて半農半漁の形態を維持しているが、作物はお世辞にも外に回せる余裕はなく、当然だが行商人など来ない。
 イワンの家に限らず、この村に住む人間は皆貧困であると言って過言ではない。本来はアレクサンドルに運ばれてきた食事でさえ、彼ら村の人間にとっては身を削るような思いで供したものなのである。
 東ジィグネアルの華と謳われるフェリューストでも『空中都市』とまで呼ばれるクテシフォンに比べてしまえば、このような村など噂に聞く最下層民と大差ないに違いない。
 そういった感想を初めてこの村を訪れた時に抱いたアレクサンドルは、文字通り一般階級と呼ばれる人々とは住んでいる世界が違う人間だった。
 大小合わせて五十余の貴族が分割統治し、更にそれを十人の代表者らが統括するという支配形態を持った、五大国第二の版図を誇るフェリュースト公国でも屈指の実力を持った家の生まれ――早い話が、人口六百万人の大国を左右できるほどの地位に就くこともできた人間なのである。
 しかし、アレクサンドルは自らその道を捨てていた。
 元来、富や地位への執着が弱く、貴族に求められる経営者、為政者としての能力を高めようとしなかった彼は、学生時代にある一つの存在に心を奪われた。
 それが、雪であった。
 最初は雪の結晶には幾つもの形態が存在することを知り、それぞれの形態へと変化するための条件を調べることから始まり、いつしか彼の興味はより根本的な現象、即ち降雪へと向けられるようになった。
 ただ、雪を『造り出す』だけなら簡単であった。近似した事例は数多く存在するし、それらを魔術をもって再現できるだけの能力をアレクサンドルは有していた。
 だが、降雪そのものについての研究資料も、研究した者も、彼の調べられる範囲内には存在しなかった。そもそも、彼が学んでいたシュマルカルデン院――通称『学院』は、魔術を己の研究成果を確認するための手段としてのみ捉えており、『学院』外で行うような研究を忌避する傾向にあったからだ。
 『学院』がいよいよ狭く感じられるようになった時、アレクサンドルの道は自ずと決まってきた。
 一年を通じて国土を氷雪が覆うジィグネアルの北の果て、ベイザントへの移住である。
 当然、家の人間は反対した。彼らはアレクサンドルと違い、地位や権力の向上に邁進する、まっとうな(、、、、、)貴族だったからである。
 しかし、アレクサンドルは躊躇しなかった。反対する父祖や弟妹らに離縁状を出すと、彼らにしてみれば僅かばかりの金銭と資料だけを持って姿を消したのであった。
 それから四十数年後、若き魔導師アレクサンダー・カーティスはアレクサンドル・ゴルィニシチェと名を変え、貧富の格差が激しいベイザントでも最貧と呼べる地方の村に住んでいた。
 村人達とは、必要に応じて助け合うこともあった。揉め事も決して少なくはなかった。その中で、幾つもの生き死にに立ち会ってきた。今この村に住んでいる人間で、アレクサンドルがやって来た日を覚えている人間は、一人か二人しかいない。
 研究こそ進展は乏しいが、アレクサンドルはこの寂れた、発展とはおよそ縁のない村が、不思議と嫌いではなくなっていた。
「よォ、先生じゃねーか」
「うむ、イゴールかね」
 すれ違った漁師のイゴールが、銛を片手に挨拶してくる。海獣を相手に深手を負った過去を持つ傑物だが、子供にも好かれるような好人物であった。
「この前はありがとよ。先生のおかげでまた漁ができるってもんだぜ」
「……我輩は怪我は治せども、貴様の死にたがりまでは治せん。せいぜいその辺りを履き違えぬことである」
「たはー、こりゃ手厳しい」
 全く遠慮会釈ないアレクサンドルの舌鋒になす術のないイゴールは、額に手をやって大げさに仰け反った。
「っと、今から親父と仕事なんだよ。それじゃな先生、またナタリーに魚を持ってかせるよ」
「ふむ、左様かね」
 アレクサンドルとはどこまでも対照的に、若々しく活力に溢れた漁師の青年は、分厚く頑丈な掌を振って老境の魔導師につかの間の別れを告げた。


 言うことを聞かない足を引きずるようにして村外れの自宅まで歩いてきたアレクサンドルは、しわに埋もれかけた瞼を更に細めた。
 家の前で彼を迎えたのは今朝の幼い兄妹ではなく、似通った衣服に身を包んだ、三人の男達であった。
「お久しぶりでございます。“魔法使い”殿」
 先頭に立つ、紅色に染められた衣服を着込んだ男が、アレクサンドルに気付くや声を張り上げる。畏まった姿勢や言動の随所に、老練な魔導師とは別種の、厳粛な空気を漂わせている。
 これらの服を着た男達の正体を、アレクサンドルは知っていた。
 この村を内包するリトアニア王国――その軍人達である。
「また貴様らか」
 冷徹な声音と視線を男らに向けたのもつかの間、アレクサンドルは男達を殆ど無視して家に入ろうとした。
「退きたまえ。我輩の邪魔になっているのである」
「待っていただきたい、“魔法使い”殿!」
 紅色の服を着た男の背後に控えていた、藍色の衣服を着た二人がアレクサンドルの前に立ちはだかる。
「“魔法使い”殿に、是非聞き入れて頂きたい願いがあって参上致した!」
「是非、我らが軍に――いや、我らが国のため、協力して頂きたいのです!」
 男達の言葉は硬いが、たしかに真摯な響きを伴っていた。
 紅色の服を着た男が、懐から小さな、だが豪華な拵えと意匠の施された筒を取り出した。それを藍色の衣服を着た男の一人に渡した。
 筒を手渡された男は、中から一巻きの羊皮紙を取り出すと、恭しく捧げ広げて読み上げる。
「えー、『“魔法使い”アレクサンドル・ゴルィニシチェに告ぐ。右の者は直ちにこの国書を携えしリトアニア王国軍第五旅団長ニキータ・エフィモヴィチの指示に従い王都ヨガイラまで出頭することを命じる! なお、これは依頼ではなく、我が国王としての権限により管せし勅命である。よって如何様なる理由があったとして、これを拒むことは能わぬものとする。第六代リトアニア王国国王、アナトリ・ヴィンセントローヴィチ・アントン三世』」――と、なっております!」
 長々と、且つ居丈高に読み上げ終えた部下に頷きを示すと、紅色の軍服を着た男――ニキータは勝ち誇った表情でアレクサンドルに尋ねる。
「貴殿が如何に栄誉に浴することができているのか、ご理解いただけますか?」
 その書状の意味するところを知りながら、しかしアレクサンドルの返事は変わらなかった。
「陛下はこの国書には書かれませんでしたが、貴殿を王宮付の“魔法使い”として――」
「何のことだか、さっぱり分らんのである」
 無視を決め込む。これ一択である。
「“魔法使い”殿、今何と?」
「我輩は、路傍の石の如き世捨て人である。そなたらが探す石は、斯様な海辺の辺境ではなく、山中にて求められるがよかろう」
「我らにとって、貴殿こそが求めるべきお方であります! どうか我らに協力していただきたい!」
 アレクサンドルが遮ろうとも、藍色の軍服を着た二人は扉の前からどこうとしない。
「話は全て終わってはおりませんよ、“魔法使い”殿」
 依然として背を向けたままのアレクサンドルに、ニキータは執拗に言葉を繰る。
「“魔法使い”殿、貴殿のお力を望んでいるのは、何も我らだけではございません」
 ニキータが、アレクサンドルの背中越しに語りかける。
「既に何度かご説明したとおり、現在我らリトアニア王国は、かの佞姦邪知なるキエフと交戦中です。国力こそ我らが上回っていることに疑いの余地はありませんが、狡猾な連中は卑怯な策ばかりを講じて立ち回るばかり。決定的な攻め所を見出せず、徒に糧秣や人材を浪費しているというのが現状です」
「それは貴官らが無能の証左であろう。そんなものの尻拭いとして駆り出されるなど、我輩は御免である」
「それは――」
 紅色の軍服は言葉に詰まる。どう言葉を選んでも、結果的にアレクサンドルを押さえ込むことはできない。
「帰りたまえ。そもそも我輩には、人を殺める力など微塵もない」
「“魔法使い”殿、どうかお話だけでも! 是非我々の訴えをお聞きになられたい――」
 熱意と語勢で押し切ろうとする部下を押し留め、ニキータは努めて平静な声を出した。
「その気になれば、我々はこのような村、いとも容易く消すことができるのですよ。聞けば“魔法使い”殿、貴殿は我らのみならず、かのキエフや、他の国々からの干渉も受けられているとか」
 直後、ニキータは握り締めた拳を振って声を張り上げる。
「これは大罪ですぞ! リトアニア王国民であるなら、その身一片に至るまでを己が国の勝利に捧げるべきではないのですかな!?」
「ふむ……大罪、かね」
 腹の底まで響く、威圧とは別の圧を感じさせる大声を前に、ただアレクサンドルは笑っただけであった。それも大笑ではなく、小さな冷笑を漏らしただけである。
「な、何を笑われているのです!?」
「いや、すまん。ただ、あまりにも滑稽なもので、つい笑ってしまったのである」
 言葉の端々に笑気を滲ませながら、アレクサンドルはこう続けた。
「貴官も腹芸が下手になったものであるな。左様な陳腐なる脅し文句を用い出すということは、いよいよ膠着状態がこの国そのものを圧迫させ始めているのではないかね?」
 瞼としわに覆われたその奥、僅かに垣間見える年老いた魔導師の眼が、ニキータを映す。あらゆる知識を秘め、時に世の理をも紐解いた隠者の眼差しが。
「それに貴官、この村を消すのは容易いと言っておったが――」
 男達は、急に肌寒さを覚えた。
 まだ日が出ているにもかかわらず、男達の感覚は真冬の夜の空気を感じ取っていた。
「――我輩が人を骸に変えるのも容易いということを、忘れてはおらんかな?」
『…………!』
 男達は、動けなかった。
 三人は、酷寒の戦場で幾度となく生き延びてきた歴戦の士であった。アレクサンドルのような、死に体の老人の眼光に怯むほど弱い人間ではない。ましてや、血の臭いすら感じられない老人のものであるなら、尚のこと。
 だというのに、彼らは四重に防護している肌が粟立つのを克明に感じ取り、息苦しさを覚えていた。
「……っ、今日のところは、失礼致しますっ! お前達、引き上げるぞっ」
『はっ!』
 指示を仰ぐ二人に下がるよう素早く命じたニキータは、踵を返してアレクサンドルから遠ざかっていく。
 そこへ今度は、軽快な小走りの音が聞こえてくる。
「せんせー、さっきのおじさん達ってだぁれ?」
「だれー?」
 瞳を輝かせて見上げる兄妹に、しかしアレクサンドルは真実を語らなかった。
「……ああ、気にすることはないのである。それより、早く中に入るのである。お前達が患うようなことがあれば、結局我輩が面倒な思いをせねばならないのである」
「えー? 教えてよぅ」
「教えてよぉー」
 それでも口を尖らせる兄妹を促して、アレクサンドルは小屋の中へと入っていった。


 弓取り月の十四日、天気は曇天。しかし気圧はやや低い。
 今日はセルゲイとアンナが朝食を運んでくる。相変わらずの賑々しい二人だが、それも大事無い証拠であると考えれば、多少なりと怒りの情も薄らぐというものである。朝食の中身はライ麦のパンに魚の塩漬けと、野菜のミルク煮。ミルクは苦手だが、暖かさが沁みるのである。
 村の北に住まうピョートル少年(六歳)の肺病が再発す。これまでに集めた資料によって病状の悪化は我輩の医薬と魔術で抑制できているのだが、やはり根源的な病魔の根絶には未だ至らず。あの一家が肺を患いやすい血筋であることは、最早疑いないようである。
 ……そろそろ、ナタリー君にも本格的に我輩の持つ薬学の知識を伝授せねばならないかもしれん。材料となる植物類が多く得られんので直接的指導は行えないだろうが、我輩の作業を見て、そこから覚えていってもらうとしよう。もっとも、彼女にその気があることが前提であるが、まあ、この命が続く以上は、研究の傍らではあるが尽力するとしよう。
 また、都から軍の人間が秘密裏に我輩の許を訪れる。村の連中に警戒されているという自覚は、どうやら持ち合わせているようであった。徴兵の兆しは、今のところこの村にまでは及んでいないようである。
 戦か、愚かな真似をしでかすものである。
 やはり、この国にも――いや、ジィグネアルに在る国々の全て、人々の全てには、芯となるモノが要る。あらゆる法を、信念を超えて人々の心の下層に刻印されるべき、真に尊い、神の教えが。
 セルゲイとアンナに、絵を教える。アンナはまだ幼いということもあるが、セルゲイは素質を感じさせつつある。……彼がフェリューストの都市に住んでおれば、彼の将来も変わったのであろうが。
 ウォールゼン翁、そして彼女が、一刻も早く彼らから戦の火種を吹き払わんことを祈り、今日はここで筆を置く。
 明日もまた、尊き神の恵みあれ。


2『戦場に慟哭ス』


酷寒の大地に、男達の怒号が木霊する。
戦闘であった。
東西に分かれた両軍の指揮官が号令を発する度に部隊は縦横に動いて激突し、引き込み、草原を埋める白雪を散らす。
膠着状態に近かった戦闘も、終わりが見え始めていた。
東から攻めていた一軍が、徐々に後退を始めているのだ。
 西から攻めていた一隊は、必要以上に追撃を行うことはなかった。
 体の芯まで凍えそうな風が、白く染まり始めていたのだ。
 猛吹雪が、すぐそこまで迫っているのである。


 ベイザント連合国。
 ジィグネアル最北に位置し、英雄の血を継ぐという三十余名の氏族によって分割された五大国では、ある時は自らこそが直系の子孫であることを証明せんと、ある時は豊富な鉱山資源を巡ってと、一年通して内紛が絶えない。
 東軍キエフと、西軍リトアニアの戦争も、これまでのものと何も変わらなかった。
 人間の欲望に限りはない。
 二国間を南北で分ける山脈で、偶然金が採れたという話を両国の守備隊が報告した途端、両国は我先にと鉱山へ出兵し、互いに牽制しながら金を採掘していた。
 落盤事故によって、両国の調査隊が全滅するや、事の顛末を知った両国間で議論という名の責任のなすり合いが行われ、次第に苛烈さを増し、遂には最も簡潔で、且つ相手国を苦しめられる手段――
 戦争へと、発展したのだ。


 最後の戦闘から三日後。リトアニア王国軍の最前線駐屯基地は未だ猛吹雪に見舞われており、まだ昼日中だというにもかかわらず、夜中のようであった。
「今日は危なかったな、セルゲイ。もう少しで吹雪に遭っちまうとこだったぜ」
「ああ、まったくだよな」
 獣皮と木材だけでできた兵舎の一つ、第五旅団所属ディミトリ歩兵部隊の兵舎で、黒の歩兵装束に身を包んだ二人が、靴の裏にこびり付いていた氷を削り落としながら軽い会話を交わしていた。
 兵舎には彼ら以外に人はなく、二つの人影が、兵舎の中央で明々と燃える焚火によって大きく小さく揺れる。
 ふと、兵舎に冷たい風雪が入り込んできた。
「……ああ寒い寒い」
 兵舎の出入り口、入念に張り合わされた幕を開けて、一人の男が入ってきた。先の二人と同じ物を着ているので、彼らと同じ立場の人間だと分かる。
 男は、顔を除いた頭を覆う帽子を脱ぐと、帽子や体中の雪を払い落としながら、先の二人には目もくれずに背後へと甘ったるい口調で話しかけた。
「まったく。こういう日は、酒でも腹に入れてさっさと美女と枕を並べるに限るよ。……そう思わないかい、イリナ?」
「さあ……わたしは、別に」
 遅れて入ってきた、イリナと呼ばれた少女は、愛くるしい外見とは裏腹に無愛想な口調で返した。彼女もまた、三人の男と同じいでたちである。
 彼女の反応には慣れているのか、男は肩をすくめただけで、すぐに衣服や体中に着いた雪を払い始めた。
「……やれやれ、春は遠いねぇ。やあ、セルゲイ君にイワン君、僕とイリナは、つい今しがた歩哨から戻ってきたばかりで寒いんだ。早く火をもっと強くしてくれないと」
「だったらその燃石代、ヴィクトールさんが出せよな」
「そうだぜ。これで燃石が全部なくなったらどうするんだよ。次の支給は三日後だぜ」
 イワンと呼ばれた少年が年上だと思われるヴィクトールに毒づき、セルゲイがそこに合わせた。
 ヴィクトールはもう一度肩をすくめると、いそいそと焚火へ当たりに行く。遅れてイリナも、ヴィクトールから距離をとりながら温まり始める。
 セルゲイより早く靴裏の氷を掻き落としたイワンが、至福の表情で温まるヴィクトールに話しかけた。イリナは異性ということもあるが、大体において無愛想を貫くからである。
「ヴィクトールさん、隊長は?」
「んー、治療所までは一緒だったんだけど、その後で大隊長に呼ばれてたね。まだ来ないんじゃないの?」
 細いが節くれた指を大事そうに温めながら、ヴィクトールは帰還してまでの一件を思い出して語る。
 それを受けて、イワンが嬉しそうに立ち上がった。
「そっか。じゃあ今のうちに、何か腹に入れとこうぜ。こんなクソみたいな吹雪だ、敵さん方も今頃震えてるはずさ」
「お、賛成」
「そうだねぇ。腹が減っては何とやら、だ。どうだいイリナ、お互い満たされようと思わない?」
 イリナは何も言わずに、独り兵舎の隅で支給された干し肉をかじり始めた。その様子は栗鼠のような可愛らしさがあるのだが、俯いて食べるその表情は暗い。ヴィクトールは一時諦めた様子を見せたが、すぐさまイリナに隣に座ってもいいかと声をかけ始めた。
「好きだねぇ、ヴィクトールさんも」
「だよな。あんな女のどこがいいんだか」
 確かに顔はいいけど、と更に小声で付け加えてから、セルゲイは大口を開けてパンを噛み千切った。食感も味も、未だに慣れていないイワンに比べて、セルゲイは最初の一口からこの料理を気に入っていた。
 北国ベイザントでも更に北部に位置するリトアニアでは、麦も卵も極めて貴重な品なので、イワンとセルゲイの二人も入隊するまでは『パン』の存在を知らず、専ら麦粥を食べていた。
「……しかし、これ美味いよな」
「そうか? 俺はいつも食ってた麦粥の方が好きだな」
「何言ってんだよ、この味、この食った感じ、あんな飯よりよっぽど美味いじゃねえか」
 そう言ってセルゲイは、再びパンを噛み千切ると美味そうに飲み込んで噎せた。持っていたパンは勢いよく彼の手から離れ、兵舎のむき出しの地面の上に落ちた。
「おいおい、好きなのはいいけど喉に詰まらすなよ?」
「うっ、せぇよ」
 と尚も噎せながら毒吐き返しながら、セルゲイは腰を上げてパンを拾いにかかる。
「――整列!」
 突如として兵舎全体が震えるような野太い声が響いた。全員が居住まいを正して敬礼し、これから訪れる人物を出迎える。
「よしよし、残るはキリルだけか」
「はっ。左様であります」
 ゆっくりと幕が開くと、額に矢傷のある小柄な男が、岩のような大男を従えて入ってきた。堅い雰囲気はないが、この男は自然体で構えていても全身からただ者ではないと思わせる凄みを持つ人物であった。
 イワン達をまとめるディミトリ部隊隊長、ディミトリその人である。
「ああ、楽にしてて結構。次の作戦に関する説明は、全員に漏れなく伝えなくてはならないんでな」
 そう言ってディミトリは、大男を従えて兵舎の奥に置かれてある折り畳み式の椅子に腰を下ろす。大男は石像のように姿勢を崩すことなくディミトリの傍らに控えていた。
 暫くして、一人の少年が戻ってきた。彼もまた、イワン達や他の大人と同じ軍服を着ていた。
「あ、たいちょー、遅れてすみませんでしたっ!」
 威勢よく頭を下げ、ディミトリに謝った少年の名はキリル。ディミトリ部隊に限らず、おそらくリトアニア軍最年少と思われる少年兵だが、人懐っこさもあってか方々で噂話を拾ってくることがある。
「ん、よし。それでは始めようかな」
 立ち居並ぶイワン達の顔を見回し、ディミトリは口を開く。
「今日、ドミニクの土竜が犯った紐野郎、こいつを一人前にするって話だが……オレグ、地図を」
「は」
 ディミトリの口調は、それこそ宴の最中であるかのように軽妙なものであったが、オレグ以下六名は真剣な面持ちだった。
 ドミニクの土竜とは、ドミニク隊長率いる第五十二塹壕部隊を示す暗号であり、以下の台詞は全て作戦内容を表していたのである。
 塹壕での戦い――イワン達の胸中は、概ね不安に基づく嫌悪で一致していた。
 戦場において、塹壕とは最前線に造られるものであり、必然的に死の危険性は格段に上昇する。ましてや今は、年間通して雪が降ることすら珍しくないベイザントでも、連日吹雪の絶えない冬である。何もしていなくても死に得る可能性は十二分にある。
 そもそも、塹壕自体が危険なのである。
 リトアニア軍において塹壕は物資の補給と敵軍騎馬隊の進撃を阻害するために用いているために、優先的に狙われる場合が多々あった。矢や火の点いた松明が氷雨のように投げ込まれることもあるし、場合によっては頭上から突破しようとした人間や馬が落ちてくる危険性もあった。
 生と死が隣り合うのが戦場の常であったが、塹壕という場所は輪をかけて危険な場所だったのである。
(補給の連中ならまだいいけど、あんな場所で戦うなんて、俺は真っ平だよ)
 心の中でイワンが毒吐いていると、
「ところで隊長、東の魔法使いの話ってどうなったんですか?」
 ヴィクトールが、唐突にそんな話題を切り出していた。
「魔法使いって、何なんですそいつ?」
 イワンがディミトリに尋ねると、キリルが「知らないの?」と茶化すような口ぶりで口を挿んでくる。
「有名な話だよ。一番北の、氷ばっかりの海辺に住んでてさ、人を食べるとか、空を飛ぶとかって言われてるんだけど、誰も姿を見たことがないんだって」
「本当かよ。そんな奴いるんですか?」
 とセルゲイがディミトリに尋ねるが、ディミトリは「さァな」と言って肩をすくめただけであった。
「さっきも言ったが、俺も詳しいことは知らんのだ。だが、ニキータ旅団長が“魔法使い”をこの軍に迎え入れようと、あれこれ画策してるって話を大隊長らが話していたあたり、どうも実話らしいな」
「え? それじゃあやっぱり本当にいるんですか?」
「しかも旅団長って……その“魔法使い”、そんなに凄いのかねぇ」
 キリルの横で、ヴィクトールが感慨深そうに呟いた。
 イワン達をまとめているディミトリの地位は『部隊長』で、その上には『大隊長』と呼ばれる、三〜五の部隊を統括している役職があり、更にこの大隊が三つほど合わさったものが『旅団』で、その長が旅団長である。将軍とも呼ばれ、配下の軍に関してあらゆる権限を持つ他、国王の戦術的戦略的な政策とも密接な関わりを持っている。そもそも、リトアニア王家に連なる者でなければなることのできない役職なのだ。イワン達は言うに及ばず、ディミトリにとっても遠い世界の人間である。
 そんな人間が獲得に向けて動いているということは、国がその“魔法使い”の重要性を認めていることに他ならない。
 そうした理屈までは分かっていないものの、イワンは溜息を一つ吐いた。
「残念ですね。そんなすっげー奴が協力してくれたら、あっという間に戦なんて終わっちまいますのにね」
「……その頃には、貴様は死んでいるだろうがな」
 間髪を入れずに呟かれた辛辣な言葉に、兵舎の温度が下がった。
 石像のようにイワンの視線を受け止めているのは、オレグであった。
「どーいう意味だよ、え?」
「何のことはない」
 最初の一言と同様に、オレグは淡々と告げる。
「自らの力量に依らず、不確実なものに頼ろうとするなど、軍人のすべきことではない。恥を知れ」
「軍人だとぉ?」
 額に青筋を浮かべ、椅子代わりにしていた木箱を蹴立てて、イワンは立ち上がった。
 事態を重く見たセルゲイが、慌ててイワンを宥めにかかる。ディミトリはそれら一連の流れを見ていながら、推量り難い表情で眺めているだけであった。
「おい、よせよイワン」
「うるせぇ、黙ってろセルゲイ。こいつにゃ一度言ってやらにゃなんねーんだよ」
 止めようとするセルゲイの腕を振り払い、イワンはオレグに向かって一歩踏み出す。
「だいたいよぉ、俺達だって好き好んでこんな血生臭ぇ場所に来てんじゃねーんだよ!」
 間髪入れずに、イワンはオレグを罵倒する。
「あんたらが戦争おっぱじめたせいで税金は跳ね上がるし、おかげで俺の家はますます貧乏になって――っぐぇ!?」
「ならば貴様は軍を辞めろ!」
 オレグは、拳に付着したイワンの血を拭いもせずに怒鳴る。
「国王陛下の御志も、この国の未来さえも慮らぬ小僧など、この軍には――」
「オレグ」
 事態を静観していたディミトリが、初めて口を開いた。
「……頭を冷やしてきます」
「ああ、そうしておいてくれ」
 オレグが敬礼し、真っ直ぐな足取りで兵舎を後にすると、ディミトリは視線をイワンに移す。
「――イワン」
 自然と、イワンの背筋が伸びる。
「今の言葉、然る手続きを踏まえりゃ国家反逆罪として軍法会議にかけられてもおかしくないものだ」
「!」
 イワンは、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
 軍法会議――基本的な知識しか与えられていないイワンにも、この言葉の持つ意味は分かる。
「分かるな? どんな経緯があろうと関係ない。お前はもうリトアニア王国軍籍で、お前の言う『国民から巻き上げた金』で生きている身だ」
「ですが、でも、俺は、元々――」
「元々は、だろう? そう言ってる時点で、お前は今の自分の立場を認めているようなものだ」
 口ごもるイワンに、ディミトリは首を傾げる仕草だけで『違うかな?』と追い打ちをかけた。
 言い返そうとする気概があっても、学のないイワンには、ディミトリに反論するための言葉も論理性も持っていない。
「……それに、だ。オレグが言いたかったことも、少しだけでいいから分かってやりなさい」
「……は?」
 今度こそ、イワンは何も対応できなかった。ディミトリはディミトリで、そんな彼の様子に拘泥せず話を続けた。
「戦場ってのは、そりゃ敵と味方に分かれるもんだが、味方はいつだって味方でいてくれるわけじゃない。助けてくれるわけじゃない。最後に頼れるのは自分自身だ」
 つまり、とディミトリは要諦に入る。
「困っている時、いつも誰かに頼れるとは限らないんだから、なるべく自分自身の力で何とかできるよう普段から心がけなさい――あいつの言いたいことは、まあ大体こんなところだな」
「……はぁ」
 と、まだ呆けた様子のイワンに、ディミトリは隊長として、また年長者として、自らの殻の中で燻る少年に言うべきことを言っておく。
「仲良くしろだなんて俺は言わないよ。だがあいつは、悪意だけであんなことは言わないし、やらない。それだけは必ず、覚えといてやれ」
 返事は聞かず、ディミトリは全員に聞こえるよう表情も声音も変えて告げる。
「作戦内容の通達は以上だ。質問がある場合は規定の時間内に済ませておくように。――解散!」


 ディミトリ部隊の実態は、二名の正規兵と一般民衆から徴集した義勇兵による混成部隊である。
 リトアニア王国は戦端を開くや否や、電光のような速度で南下し、キエフ領の一部を抉り取ったのだが、そこから先がまずかった。
 国力に関しては全くの互角、しかも両方とも貧しい小国であるためリトアニアは決め手を持つことが出来ず、キエフは自国領からリトアニア軍を一掃することができず、その上に国主が正義は我にありと互いに一歩も引けぬと意地を張っているため、数ヶ月に亘って泥沼のような戦争を繰り広げていた。
 その煽りをまともに受けたのが、生産、加工、流通を担う一般国民達である。
 軍備拡充のための増税、徴収によってリトアニア・キエフ間戦争は物資を際限なく呑み込み、国民の生活を最貧のものへと貶めたばかりか、遂には戦争や国も支える国民そのものをも呑み込み始めた。
 イワンは、リトアニアの片田舎で農家を営む貧しい家の次男坊であり、家や財産を継ぐことができない身であるが故に徴兵令を唱えるリトアニア軍に差し出され、養成訓練所での僅か一ヶ月足らずの教習を受けて最前線に投入されたのた。
 セルゲイやヴィクトール、イリナ、キリルも例外ではない。イワンは知らないが、彼らも近似した境遇を経てディミトリ部隊に身を置いている。
 もちろん、我が身を削ってまで戦争を続けんとしてるのは、リトアニアと同程度の国力を有するキエフも同じである。
 こうした現象は、ベイザント内に限れば異常ではない。
 この両国は――いや、ベイザント内に存在する全ての小国が、長らく戦を常とする体制に慣れきってしまっているのだ。
 ベイザントという国が生まれ、初代国王クドリャフカ一世が崩御してからの約千年で、国王の血を継ぐ子孫達は自らの正統性を証明すべく始祖の土地を、そしてそれ以外の国をも巻き込んでの戦争を始めたのである。
 その中で、幾つかの氏族が戦争を通じて力を蓄え、国土の主だった部分を抑えるようになっていくと、いつしか戦争という手段を目的として捉える者達が現れるようになった。
 彼らは、時に外国と手を結んで勢力を伸ばし、またそれ故に勢力を殺がれることもあった。
 ベイザントとは、全てが戦争のためにある国なのである。政治も、技術も、経済も、人も、何もかもが他の氏族を、彼らの国を滅ぼすために費やされているのだ。
 たとえ、末端ではどういった思いがあろうとも。


 幾度目になるのか、もはや当人達にさえ分からない攻防戦が夜明けとともに始まって、半日を過ぎた。
 半日である。
 宵の頃に駐屯地を発ち、夜が明けると同時に作戦が遂行されている間に太陽が雲の上に昇り、吹雪と吹雪の合間に鈍い曇り空を覗かせるまでの間に、イワン達の心神は限界に達しようとしていた。
「……さむい、さむい……!」
「ささ寒い、寒いぃ……畜生ぉ、痛ぇ……」
 セルゲイの隣で、噛み合わない歯と歯とをカチカチ鳴らしながら、イワンは真っ赤になった手の甲で鼻水を拭って毒吐いた。半ば凍りかけた鼻水は、手に食い込んで彼に痛みをもたらしていた。
 イワンは生まれも育ちもベイザントはリトアニアであったが、この吹雪の中とあっては話は別となる。
 防寒着はとうの昔に雪で濡れて著しく体温を奪い、顔も手もそれで赤くなっていたのだ。この半日で寒さ冷たさに対する感覚は鈍って痛みばかりが暫く続き、今やその痛みさえ怪しいものとなっていた。
 塹壕は風を防ぐための役割を殆ど果たさず、絶え間なく風雪が舞い込んでくる。
(このままじゃ、敵さんに殺される前に……)
 イワンは、眼球だけ動かしてセルゲイとは反対側に目線をやった。
 そこには、紫色に変色して横たわっている、イワン達と同じ種類の軍服を着た兵士があった。ディミトリ隊とは別隊のようだが、イワンは誰かは知らない。
(……嫌だ! 俺は死にたくない……生きて、生きて故郷に帰って、兄貴達とも仲良くやって……それで何とか、生きてやるんだ!)
 寒さと空腹と極限の緊張から途切れそうになる意識の手綱を離すまいと、イワンは己の手の甲に思いきり歯を立てた。隣の『彼』と同じ紫色になりかけた手は痛みを伝えず、代わりに、痺れにも似た奇妙な感覚を伝えるばかりであった。
 僅かに、イワンの歯は肌を破ったらしい。二日前にも味わった血の味が口の中に広がると、半ば以上朧げだった彼の脳裏に、一つの言葉が蘇る。
(――「自らの力量に依らず、不確実なものに頼ろうとするなど、軍人のすべきことではない。恥を知れ」――)
 絶え間ない寒さと空腹に喘ぐ気力さえも残っていなかったイワンに、火が点った。
(俺みたいな奴が死ぬって? 冗談じゃねぇ!)
 イワンは噛んでいた手の甲を離すと、歯を食いしばり寒さに耐え始める。
 オレグへの怒りを糧に、イワンは生と死の境界線でもがいていた。


 イワン達ディミトリ部隊に与えられた任務は、早い話が待ち伏せである。
 正規兵の数がが減少しつつあり、それ故に急遽補充要因として徴集されてきたイワン達は当然練度が低く、元々戦力としては一切見做されていない。まともな兵装こそ与えられていたが、その役目はよくて塹壕掘りや調理、死体処理といった雑用全般、悪ければ伏兵や陽動役として死兵に近い使い捨ての駒扱いが待っている。イワン達の場合は、後者に近いと言える。
 ディミトリの話では、現在リトアニア王国軍の主力たる第五旅団麾下の騎馬隊や軽歩兵隊は、イワン達のいる塹壕から数里ほど離れた雪原からイワン達のいる地点に向かい主戦場を移動させ始めている途中ということになっていた。順調に事が進んでいれば、じきに合図が本陣から彼らに届くのである。
「――来た」
 イワンやセルゲイが寒さに震えている中にあって、ディミトリは平静と変わらない語調で部下達に告げる。イワンら出来合いの兵と違って、彼は歴戦の勇士であった。
 寒さで思うように動かし辛い首を動かして、イワンはディミトリの示す先、西の方角に意識を向けた。
 微かに聞こえる地鳴り。人の喚声と馬の嘶き。大勢の人馬がこちらに向かっていることが、耳のみならず肌でも感じ取ることができた。
 ディミトリ隊以外の部隊も、各々が武器を構え、更なる指示を待った。
 彼らに与えられた武器は、木製の長槍。この作戦のために突貫で近隣の森から切り出してきた木で造った急拵えの品々だけで、後は護身用の最低限の装備だけである。万が一白兵戦へと発展すれば、当然勝ち目は薄い。
 そのことを知ってか知らずか、イワンの手は自然と震え始めていた。
 何度も訪れた、人と生き死にを競う瞬間。まだ場数を践んでいないため、一つ一つを忘れられぬ、殺人への恐怖と緊張。
(もうじき連中は、こいつへ自分から刺さりにやってくる)
 そう思うと、イワンの手は少しだけ震えが治まったようになり、木製の長槍を握り直した。
 怒号はみるみる近付いている。男達の、一人一人が叫ぶ声や武器の音、馬が蹄で乱打する音が、耳よりも肌に伝わってくる。人の声など、幾つかは中身までが聞こえてしまうほどだった。
「――構えっ」
 ディミトリの、抑えられているがよく通る声による号令が下された。
「――――っ、」
 寒さと緊張で固まりかけた身体に満身の力を入れ、イワン達は槍を塹壕の外へと一斉に突き出した。
 ――痺れるような衝撃と、降り注ぐ生温い雨。
 別の場所では槍が折られたり塹壕ごと突破された者もいたらしく、塹壕周辺はたちまち阿鼻叫喚の地獄と化した。
「各自槍を捨て、白兵戦に移れ! 頭上には注意しておけよ!?」
 素早く剣を抜き早くも二人を斬り斃したディミトリは、早口で指示を飛ばすとわざとらしく大声で名乗りを上げた。
「我が名は部隊長ディミトリ・パブローヴナ! 勲が欲しくば、俺の 首級(しるし)を奪うがいい!」
 キエフ軍人の目が怪しく光った。勲功への欲望は、どこの軍も変わらぬものであったようだ。
「隊長!」
「いらん!」
 加勢しようとするオレグを、ディミトリは壁を背に戦いながら、一言で止めた。
「お前は、今度こそ護ってやればいい! 俺のことは気にするな!」
「……了解!」
 流石に目に見える形での敬礼はできなかったが、剣を手にオレグは別の味方を助けに向かう。
 ディミトリのような人間が敵と味方の間で活躍している一方で、イワンのような人間もいた。
「……っ、はぁ、はぁ……」
 塹壕の端で覚束ない構えでイワンは剣を握り、一人の兵士と対峙していた。
 相手は、先ほどイワンの頭上から落ちてきた馬に騎乗していた少年兵である。不格好と呼べるほどに背丈に合わない鎧や震える切っ先、ひどく緊張した表情――
「ぅああああああっ!?」
 奇声を発し、少年兵が大上段で斬りかかってくる。イワンは直前まで反応できず、慌てて身を引いてしまう。
(やべ――)
 遅れは取り戻せない。
 大振りの一刀であったために辛くも負傷こそ避けられたのだが、仰け反るような態勢になってしまっているイワンは、あらゆる動作への繋がりを失っていた。
 少年兵が、更に前へ前へ出でんと一歩進んでくる。構えはまたもや大上段。イワンを軽侮しているのか、それしか知らないのか、いずれにせよ悲壮なまでにその表情は気迫に満ちていた。
 しかし、幸運はイワンにあった。
「危ねえ!」
 イワンの眼前――直立時であれば頭上――を越えて、一本の矢が少年兵の喉に突き刺さった。
「大丈夫だったか、イワン!?」
「……おう」
 弓手は、セルゲイであった。家の近所で狩猟もしていたという彼の腕前は、正規兵のそれにも劣らないと評判であった。
「悪いな、助かったぜ」
「馬鹿、今はそんなこと言ってる場合じゃねえだろうがよ」
 再び矢を番え、セルゲイはキエフ兵の一人めがけ矢を放つ。
「……よし、っと。いつまでもボケっとしてらんねぇ。早く行こうぜ」
 と言って促すセルゲイと二人、泥沼のような戦場へと戻る。
 その折、イワンは背後を少しの間だけ振り返った。
(……悪いな、俺だって死にたくねーんだよ)
 イワンは、確信していた。
 セルゲイの矢を受けて死んだ彼が、自分と同じ境遇なのであったと。


 結果から言えば、リトアニア軍は勝利を収めた。
 塹壕と伏兵による罠は誘導されたキエフ軍の一部を掻き乱し、統制が緩んだところを大隊長率いる騎馬隊が衝き、遂にキエフ軍は潰走、多くの捕虜がリトアニア軍によって捕獲されることになった。
 必要な情報を持った捕虜とそれ以外を選り分ける(、、、、、)作業に移るべく、正規兵のみで構成された大隊が捕虜の集団を広大な雪原へと連行していった。ディミトリ隊はその中に含まれておらず、塹壕近辺に留まり散乱した物品の回収を命じられていた。
「油断はするなよ。一応戦闘は終了したって形になっているが、まだ敵が残っている可能性はあるからな」
 と釘を刺すディミトリの指揮の下、イワン達三十人余は足元に散らばる『元』人間の鞄や武器など、めぼしい品々を手に手に持って集めていくのであった。
「お互い、生き残れてよかったな」
「おう」
 死体から手際よく装備を剥ぎ取りながら、イワンとセルゲイは言葉を交わす。
「明け方から吹雪いた時はどうなるのかと思ってたけどよ、まあ何とかなるもんだな」
「まったくだ……」
 相槌を打ちながら装備を探すイワンの手が、止まる。
 剣を振りかざした姿勢のまま、喉から矢を生やした少年兵の遺体であった。顔はあの時と同じ、かっと目をみはったままである。
「? どうしたイワン」
 セルゲイに訊かれても、イワンは友の顔を見ないで「ちょっとな」しか言わない。
(苦しまずに、死んだのか)
 イワンは声に出さず話し掛けた。じっと閉じることのない眼は、見ているだけでイワンの原の底を冷たくさせた。
「――おい、何をしている」
 背後から、野太い男の声が飛んできた。イワンは腹にあったものを胸にしまうと、無表情を装ってから振り返る。
 オレグは薄気味悪いほどに硬い表情で「手を休めている暇があるなら、さっさと済ませてしまえ」と無情に告げる。
「お、おいイワン」
「分かってるさ」
 肩を掴んでくるセルゲイの手を払い、イワンは眼前に立つオレグへと一歩二歩と、少しばかり歩み寄る。
「どうだい、俺は死ななかったぜ」
「……は?」
「……む」
 呆気に取られるセルゲイの隣で、イワンは得意げな表情で言ってのけた。
「俺みたいな奴ってのは、あっさり死ぬんじゃなかったのか、え? オレグさんよ」
「……ふん」
 表情一つ歪めもせずに、オレグはこう言い返した。
「偶然に命を救われた者は偶然に死ぬ――次の戦でも同じ醜態を晒さんことだ」
「…………!」
 オレグの言動に、セルゲイはある一つの予感をせずにはいられなかった。
(やっぱり、この人――)
 ――その時、死体の山が動いた。
「な――」
「下がれ!」
 咄嗟の出来事に戸惑っている二人へ、オレグが叱声を素早く飛ばす。
 最初は僅かにしか動かなかった死体の山は、徐々に動きの振幅を増してゆき、やがて内側から爆ぜるように何かが飛び出した。

 肉を貫く二つの音。止まる時間。

「……仇は……とった、ぜ……」
 首の辺りを深々と斬られたキエフ兵は、そう言い残して仰向けに倒れた。彼が自らの命と引き換えに放った一刺しは、オレグの左胸に深々と突き刺さり、斃れる際に引き抜いた。
 ゆっくりとオレグが左胸から血を流しながら天を仰ぐように雪原に倒れた時、イワン達は弾かれたように駆け寄った。ヴィクトールら、離れて作業していたディミトリ隊の人間も慌ててその場に加わる。
「オレグ!?」
「畜生、死体に隠れてやがったのか!?」
「オレグ!?」
「オレグさん!?」
 各々が支給されている応急処置用の包帯や傷薬を取り出そうとしている中、イワンだけが違った。
「オレグ、しっかりしろよオレグ!?」
 朦朧とした様子のオレグに向かって、イワンは何度も話しかけていた。
 オレグのぶ厚い瞼の奥に、僅かだが光が戻る。岩のようなひびだらけの唇が、懸命に言葉を紡ごうとする。
「イ、ワ――っごふ……!」
「オレグ喋るな! 血がまだ出てんだぞ!?」
 悲鳴じみた怒鳴り声。他にどうすればいいのか、イワンには分からなかった。
「おい、急いで担架を……いや、板でも何でもいい、急いでこいつを運ぶ物を持って来い!」
 遅れて駆け寄ったディミトリが、その場にいる部下や別隊の兵士達に指示を下すが、
「……隊長、もう……けっ……こう……です」
 それを遮ったのは、先ほどよりも幾分か口調の落ち着いたオレグ本人であった。
「そ、それより、奴を……イワンを……」
「俺か!? 俺がどうした!?」
 正規兵の一人に教わって必死に血止めを行う傍ら、イワンはオレグに声をかける。
「わ、私は、もう、助からん……」
「オレグ……嘘だろ!?」
 血が完全に止まらない。ベイザントは極寒の地であるが故に溢れ出た傍から血は凍り始めるのだが、水と違ってオレグの血は熱く、傷口が塞がるよりも先に次々と流れていってしまう。
「あんた、俺にあんなこと言っといて、そんなあっさりと死んじまうのかよ!?」
「イワン、き、聞け……」
「喋るなオレグ! 今すぐ――」
「聞け……!」
 震える声で、オレグはイワンの言葉を遮った。青ざめた顔の中で、眼だけが強烈な光を放っていた。
「これが、戦というものだ……っごふ、いいか、これは……これ、は……」
 震えるオレグの手が、イワンの手を掴んだ。溢れ出る血はとても熱いのに、オレグの手は悲しいほどに冷たい。
「お前の、すぐ傍にあるものだ」
 腹の底から、魂の底から汲み出されたかのような言葉が、イワンの耳を貫いた。
「……聞け、甘さを捨てろ。僅かな気の緩みが……仲間を、友を……忘れるな、お前も、リトアニア軍人の、ひと……」
 オレグの瞳から、光が失われる。
混濁した意識の中、支離滅裂になった言葉はその大半を伝えきれぬまま途切れ、
 イワンの手からも、命の温もりが失われていった。
 今度こそどこにも敵のいない戦場に、慟哭が響き渡った。


「悲しいか、イワン」
「……はい」
 印となるもののない、剥き出しになった地面を見つめて、憔悴しきった声でイワンは応じた。彼の手袋は、凍土を掘り返したために濡れ汚れていたが、それ以上に先刻触れた戦友――その亡骸は冷たかった。
「今夜の夜番は俺が代わっておいてやるが、今日だけにしておけ。……分かるな?」
 背中をこちらに向けたまま、イワンは頷いた。
 ――戦場で人が死ぬのは当然のこと。たった一人の同僚の死をいつまでも悼んでいれば、十人、百人と人が死ぬ。
 養成所で最初期に叩き込まれる言葉である。それをここで明言するまでもないと考え、ディミトリは一人兵舎へと足を運ぶ。
 ディミトリは、この青年兵の心理をよくよく心得ていた。もし彼でなければ、無神経にこの心身ともに未熟な青二才を怒鳴りつけ、また無意味に一兵を失っていただろう。
 その証拠に、ディミトリは己の部下全員にイワンに接することを禁じていた。
 今のイワンに必要なことは、素早く涙を拭い、再び自力で立ち上がること。
 自ら死を経験することは、誰にもできない。だからこそ、身近な者の死を『感じる』ことが肝要なのである。
 恐れを知らぬ者は蛮勇の果てに滅びるが、恐れを知る者には臆病者と英雄の道が用意される――それが、ディミトリの持論であった。
「……雪、か」
 再び視界をちらつき、やがては足元の全てを埋め尽くすであろうそれらに、ディミトリは小さく洩らした。
 風の具合からして、吹雪くのは時間の問題だった。じきに戦場を、そこに斃れた兵士達を、イワンが掘り返した地面も白一色で埋め尽くされるのだろう。
 そしてまた、掘り返すことになるのだ。
 その時、長らく自分に付いてきた部下に続くのが果たして自分になるのか、自分以外の人間になるのか、ディミトリは考えないようにしていた。
『完』


3『自称勇者! ドン・ガラド』


 ドン・ガラドは、勇者に憧れる少年だった。英雄にではなく、勇者にである。 余人はその違いなどさして分からないが、彼は気にせず勇者を目指して邁進、もとい迷走してきた。
 東に怪物が出ると聞けば錆びた剣だけを片手にひとっ走りし、
 西に勇者の物語を知る者がいると聞けば言って全て聞き出し、
 南に病床の老人がいると聞けば無理矢理背負って山を三つと越え、
 北に伝説の剣があると聞けば赴いて一悶着起こした末にへし折り、
 気がつけば、彼は老境の域に達していた。


 やがて、ヴァンダル帝国の町の一つに定住を決めたドン・ガラドは、町の片隅に『勇者道場』なる大きな看板を掲げた、小さな道場を開いた。自警団の強化という建前の下に、彼が勇者人生(自称)で培った技術や人生論について語る道場である。たまに料理や裁縫を教えることもある。
「番号ぉ!」
 今日も今日とて、夜も明けきらぬ早朝から、ドン・ガラドのがらがら声が彼の自宅前から町中に木霊する。
 六十を過ぎて肉体は未だ衰えを見せず、小柄ながらも岩のような重厚さを感じさせる。相貌も平たい顔を、深いしわ、広く短い髯が覆っており、苔むした岩のように見えるのだが、残念ながら頭髪は一本もない。
「十八!」
「十七」
「十六!!」
 点呼の際に数字が大きい順から始まるのは、全員が揃っているかをすぐに判断できるようにとドン・ガラドが考案したからである。
「四!」
「三!」
 点呼はここで途切れた。つまり、二人が来ていないこととなる。
「うーむ。またしてもカールとワルターどもか。まったく世話が焼けるわい。お前達はいつも通り心練より始め、体練で締め括っておれ。わしは、ちっとばかし奴めらを探してくる」
 そう言って返事も聞かずに、ドン・ガラドは帽子を被ると手ぶらで道場を後にした。


 ドン・ガラドが向かった先は、店が並んだ大通りの一つ裏、昼夜を問わず薄闇に覆われた不気味な場所である。
「カール! ワルター! ここにおるんじゃろう!?」
 そんな場所などものともせず、ドン・ガラドは道場と違わぬがらがら声を張り上げた。
 すると、
「……うっせぇなァ」
「頭に響くんだよっ、……ってェ」
 路地の陰から粗末な装いの青年が二人、それぞれ頭を押さえながら姿を見せた。
 二人とも、人並みの財産を持っているようには見えない。服装よりも彼ら自身が漂わせている雰囲気が、どこか荒んだものを含んでいた。どう見ても、社会から転落した人間の類である。
 にもかかわらず、ドン・ガラドは怯んだ様子も一切見せずに堂々とした態度のまま二人を叱りつける。
「何じゃい、二日酔いとはだらしのない! わしならば樽で飲んだとしてもそうはならんわっ」
「あんたと一緒にすんなよ……っててぇ、まあ俺ら、こんなだからよ、稽古は昼から行くよ――ってぇ!?」
 容赦なくワルターの頭上に拳を振り下ろしたドン・ガラドは、彼と青ざめた顔のカールの襟首を掴むと、まとめて持ち上げた。老人とは思えない膂力であった。
「酒に溺れとるようでは勇者になれんわ! ほれっ、さっさと立たんか!」
 と言って無理矢理に立たせたドン・ガラドは、拳骨を振り回して牧羊犬のように二人を追い立てる。
「ほれっ、何をやっとる、道場までは駆け足じゃ」
「げ、マジかよ……」
「マジだろうぜ……」
 二日酔いとドン・ガラドにげんなりした顔のカールとワルターは、小突かれ、どつかれながらも町外れの道場へと走らされる。
 その道中、大通りに出ると、ドン・ガラドの頭上から声がかかった。
「おっ、ドン・ガラドじゃねえか。おはようさん」
「む、お前さんは牧場のヨゼフではないか。おはよう!」
 カールとワルターは走らせたまま、ドン・ガラドは足踏みを繰り返しながら、窓から上半身を覗かせる、ヨゼフなる男を見上げて応じる。
「相変わらず元気が有り余ってんなぁ」
「うむ。勇者たる者、常に鍛練は欠かせぬわい!」
「ははは、そうかい。なら今日の昼から、また馬達の世話を頼めるかい? 礼ならいつもの出すからよ」
「うむ、任せておくがよい! ――カール! ワルター! 誰が歩いてよいと言った!?」
 と早朝から“商談”を取りまとめると、ドン・ガラドは牛のようにのんびり歩いているカールとワルターに向かって怒鳴った。


 ドン・ガラド達が住んでいるヴァンダル帝国とは、ジィグネアル西部から北部にかけてを支配する、最大の版図と人口、そして軍事力を世に誇る『鉄と人馬の国』である。
 人口はおよそ一千万人を超え、その一割が職業軍人として皇帝の令の下に日夜支配の維持と防衛に励んでいる。また、彼らはヴァンダル独自の実力主義を取り入れた評価方法と鍛練により精強を誇り、吟遊詩人達に『三倍からの兵(つはもの)を以ってしてまだ互角』とまで歌われている。
 その思想は軍に及ばず、軍馬や兵糧を畜産している牧場に始まり、武具を生産する職人や、鉄工石を採掘する採掘工、これらを流通させる商人に、全てを管理している貴族にまでも波及しており、商業大国であるリグニアに比べれば多少は劣るものの、それでも隆盛を謳われる五大国筆頭の座に長らく君臨し続けているのは伊達ではない。
 ドン・ガラドの住む町、ハーナウも例には漏れず、優秀な軍馬の名産地として栄え、また南東の商業都市ドルトムント、北部の鉄鋼都市ノイシュタットを繋ぐ中継地点としても機能していた。
 それだけに一つの牧場で飼われている軍用馬の数は非常に多く、繁忙期には一人でも多くの人手を必要としていた。
「カールにワルター! 誰が休んでいいと言ったかっ!?」
 冊にもたれて寛いでいた二人に目掛けドン・ガラドの怒鳴り声が飛ぶ。あまりの声量に、軍用馬達さえもが驚きと警戒を態度に表していた。
 それを無視できなかったのは、ドン・ガラドに仕事を頼んでいた牧場主であった。
「お、おいおい、そんなに大声出したら馬が驚くだろ!?」
「カッ! 何を言う、馬も大事じゃが、奴らを乗せる人間も大事じゃろうに」
「いや、ここの馬はヴァンダル軍の……」
「軍人よりも勇者じゃわい!」
 相変わらず表面上でしか会話が成立しないドン・ガラドに、牧場主は苦笑しか出ない。呆れるという反応は、三年ほど付き合った時点で虚しく思い、やらなくなった。
「ところでじゃが、他に何か、知っておる勇者の物語はないのかね? 語り部でも構わんが」
「……またかい。だから、前に話したやつぐらいしか俺は知らないんだって」
「そんなことはあるまい。あれから何か一つは話を仕入れたじゃろう?」
「いや、そんなことしてないって」
「カッ! 非協力的な奴じゃのぅ。友ならば少しは協力せんかい」
 と、ドン・ガラドがしつこく物語の提供を強要するのには理由がある。
 ドン・ガラドには、もう一つの顔があった。
 意外や意外、童話作家なのである。
 詳しい経緯は町の住民にも分からないのだが、本人よると各地で物語を集めて本にすることも、『立派な勇者の使命』らしく、時には自分の知らない物語を求めて数年ほど旅に出ることもあった。
 建国以来実力至上主義の風潮強く、領土の各地から文武に秀でた人材を数多く集めていたヴァンダル帝国である。それだけに英雄譚や伝説も、文字通り人の数だけあった。
 しかし、ドン・ガラドが求めていた『原作』は、彼が見つけた作品中の、半分程度しかなかった。
 何故なら、ドン・ガラドが探しているのは『勇者』の物語であって、英雄譚には皆無と言っていいほどに興味を示さないのだ。
「うむむ、これではわしの勇者としての使命が滞ってしまうではないか!」
「いい、いやお、おおお俺にいい言われても……」
 理不尽な理由から襟元を掴んで揺さぶられた牧場主は、咳込みながらも反論に出る。
「だいたい、あんたは既に何百……はいかなくても、何十も物語を書いたりとか作ったりとかしてるじゃないか。どうしてそれで満足しないんだ?」
「カッ! 相変わらず分からん奴じゃのぅ」
 と露骨に悪口を吐きつつ「しょうがない」とドン・ガラドは嫌味ったらしく肩を竦めるや、頼まれているわけでもないのに高々と手を掲げて語り始めた。
「勇者とは、ただ一人のみを指して勇者だと称するのではない! 種々の資質を以って勇者の本懐を遂げた者をこそ、勇者と呼ぶのである!」
「……はあ」
「なんじゃい、つまらん奴じゃな」
 牧場主の反応に、ドン・ガラドは声と表情と態度の三面で露骨に非難した。


 牧場から道場に戻るや、ドン・ガラドは素早く門弟らを一列に並ばせた。
ドン・ガラドの『勇者塾』には、四種類の鍛練が存在する。
 肉体を鍛える『体練』。
 技術を研磨する『技練』。
 知識を蓄える『智練』。
 心構えを身に付ける『心練』。
 この四種類を早朝と昼、夜の、それぞれ仕事の合間に行うのである。
「ぅおっほん! さて、今日の技練じゃが、組み打ちを行う!」
 ドン・ガラドの、偉そうな咳払いとともに放たれた内容が、何人かの門弟らの表情に暗い影を落とした。
 『組み打ち』とはドン・ガラドが技練の中で行っている鍛練方の一つであり、早い話が実践的な模擬戦である。
 基本的には一対一であること、使用する武器は簡素な木剣と他の技練で習った体術に限ると、ある程度の制限はあるのだが、実戦を想定しているので生半可な戦い方は許されず、怪我人の絶えない鍛練方でもある。
「カッツ、ワルター! 前に出よ」
 威勢よく返事をした少年と、どこか曇った目をした青年が、ドン・ガラドと他の門弟らとの間で対峙する。
 双方、言葉はない。ただ張り詰めた静かさだけが、両者の間に漂っていた。
「――っ始めぇ!」
 ドン・ガラドのがらがら声が沈黙を破ると同時に、カッツとワルターは動く。
 最初に仕掛けたのはワルターであった。
 構えは下段。短い呼気に乗せて斬り上げる。カッツよりも手足が長いことの利を活かそうとしての行為であったが、経験においてはカッツがワルターを上回る。下段からの一刀を素早く見極めるや、斜め前に足を運びそれを回避、続けざまに膝から腰、上半身への順に体を使い、そこに重心の移動を加えて強烈な威力を持った胴斬りを打ち込んだ。
「勝負ありじゃ!」
 ワルターが床に倒れたのを確認して、ドン・ガラドが高々と宣言する。
 このようにして二組目、三組目、四組目と続いたのだが、六組目だけが違っていた。
「ロベルト、ヴォルフガング!」
 門下生達は喋るでもなく、ただ互いに顔を見合わせた。
 向かい合っているのは、一々比べるのが馬鹿らしくなりそうなくらい対照的な二人であった。
 ロベルトと呼ばれた青年は、大柄で肩幅も広く、手足が長いという立派な体格をしており、顔と言わず全身から自信を立ち上らせていた。
 一方、ヴォルフガングと呼ばれた少年は、ロベルトに比べて惨めなものである。
 背丈は彼の胸までしかなく、小柄な部類に入るドン・ガラドよりも更に低い。また、まだ幼いためか肩幅も狭く、体格で見れば大人と子供である。
 そして何より、ロベルトとヴォルフガング少年とを区分したのは、目であった。
 ロベルトは過剰とまでも言えるくらいに自信を充満させた目をしているのに対し、ヴォルフガング少年の目は強い怯えを含んでおり、闘志など微塵も感じさせなかった。
 つまるところ、
「勝負ありじゃ!」
 ヴォルフガング少年は、戦う前から負けていたのであった。


 夕刻ともなれば、市場は違った顔を見せる。
 昼は客を相手に働いていた物売りや職人達が一転して客となり、それまでは町のどこかで過ごしていた宿や酒場などの客引きが次々と躍り出て、彼らを夕暮れ時の市場から一夜の夢へと連れていく。
 そうした賑わいとは無関係な場所で、ドン・ガラドはほくほく顔であった。
 牧場の手伝いで得た牛乳と乾酪(注)に加え、知人の商人から先月の童話の売上金が支払われたのである。その金額に、厳めしい顔を綻ばせていたのだ。
(これだけあれば、久しぶりに旅に出ることもできるわい。見知らぬ土地に、人々、魔物に財宝、物語……くうぅっ! 勇者としての血が騒ぐわ!!)
 早くも次の冒険へ思いを馳せながら、ドン・ガラドは人で賑わう夕方の市場を時折小躍りして歩いていく。
「あの」
「権威を憎み剣を振り……む?」
 市場の端でドン・ガラドが自らを讃える歌を高らかに歌っていると、後ろから声がかかった。
 振り返ると、黒く煤けた姿の、気弱そうな炭鉱夫が立っていた。
「おお、あんたはヴォルフガングの……どうなされた?」
「いや、この辺りじゃ言い難いことなんですがね……」
 声をひそめ、ヴォルフガングの父だという炭鉱夫は用件を切り出した。
「息子が、家に帰ってないみたいなんですよ」
「……なんじゃと?」
 俄かに目つきが変わったドン・ガラドは、炭鉱夫に尋ねる。
「友と遊びに出掛けているとかではないのか?」
「いえ、そう思って嫁が心当たりのある家に行ってたらしいんですが、どこの家も同じとかで」
「町から出たという話も聞かんのか?」
「ええ、兵隊さんにも念のためにと訊きましたが」
 その時点で、ヴォルフガング少年が町の外にいるという可能性が消えた。
 他国に比べて実力主義、実績主義の傾向が強いヴァンダル帝国において、軍部は時に貴族をも上回る力を持つことが代々の皇帝の下に許されている。
 しかし、それゆえに将校から末端に至るまでの管理は厳しく徹底されており、職務を怠ることはそのまま進退にも影響する。ヴァンダル帝国地方駐留軍の主な役割は防衛であるが、所轄内の地域住民が被災した際の救助活動や犯罪・事件の抑制も含まれているのだ。
 ましてや、ハーナウは軍用馬の名産地、即ちヴァンダル帝国にとって最も重要な拠点の一つとも言える町なのである。詰め所にいるだけではなく、兵士達は絶えず警邏で街中を見回っている。
 余談であるが、実はドン・ガラドも何度か軍の詰め所で一夜厄介になったことがある。
「あの、協力願えますかね?」
「ふーむ! あい分かった!」
 時折、唸りとも頷きともつかない声を洩らしながら聞いてたドン・ガラドは、無理矢理片手を空けると大きく胸を叩いてみせた。
「人助けは勇者の使命! このドン・ガラドが、己と勇者の名にかけて、必ずやヴァンダル軍より先んじて捜し出そう!」
「あのいや、別に見つかれば……行っちゃったよ」
 荷物を抱えて走り去っていくドン・ガラドを見て、炭鉱夫は感嘆ともつかない呟きを洩らした。


 件のヴォルフガング少年は、思っていたよりも早く見つかった。更に言うなら、ドン・ガラドは探してもいない。
「ほ、ここにおったのかね」
 道場の隅、ちょうど月明かりの届かない辺りに蹲っている小さな影に、荷物を抱えたドン・ガラドは話しかける。
 しかし、小さな影は膝の間に顔を埋めたまま反応を見せず、ドン・ガラドは言葉を選び直した。
「家はどうした? もう夕飯時ではないか」
「……帰りたくない」
 くぐもった反論が、今度は帰ってきた。
「ふむ、そうかね」
 と頷いたドン・ガラドだが、
「――っえ、わ?」
「ならば早速、特別鍛練を始めるとしようかの」
 彼の行動は、相変わらず余人の理解が及ばない。
「あ、あの」
「さあ! どこからでも打ち掛かってくるがよい!!」
「え、いや」
「ぬぉ―――――――――ッッ!! 手加減無用じゃぞッ!」
 話をしようにもドン・ガラドは聞き入れてくれそうにないので、ヴォルフガング少年は諦めた。しかし、覚悟はできていない。


「好きな勇者はおるかね?」
 散々打ちのめされて、立ち上がる気力すら尽きてしまったヴォルフガング少年を見下ろしながら、ドン・ガラドは息も乱さず訊いた。
「……こ、コボルト……」
「ほう! 『山の勇者コボルト』か」
 ドン・ガラドは目を丸くしてみせた。彼の知る中で、最も人気のある勇者といえば、『銀髪剣士物語』の主人公である、隻眼の少年であったからだ。
「コボルト、彼奴の物語は書き手であるわしの心を何度も何度も……ああいや、そのようなことはどうでもいいとして、コボルトの、どんなところが好きかね?」
 ちょっと苦笑いをしてみせると、ドン・ガラドは意外にも優しそうな口調で尋ねた。
 ヴォルフガング少年は少しばかり考えるそぶりを見せると、やがてゆっくりと口を開いた。
「やっぱり、勇者だから強いってのもあるけど、小さくても勇気があって、怖い人食い熊から女の子を助けるとこかな」
「ほほう、そんなところがか」
 ドン・ガラドが髯を撫でながら呟くと、ヴォルフガング少年は上体を起こして反論に出た。
「そんなことって、全然『そんなこと』じゃないよ!」
 気弱な表情はそのままに、目に僅かながらの力を込めて、ヴォルフガング少年は言葉を連ねる。
「だって、僕ならきっと怖がって何もできないかもしんないのに、コボルトは逃げないんだよ! ちっちゃなナイフと石の盾だけで熊に挑んで、それを見たコボルトの仲間もみんな助けに来て、それで……」
 ヴォルフガングの言葉から、最後の力が抜け落ちる。
「僕なんかと、全然違うから……」
「……ふぅむ」
 ドン・ガラドは、自慢の髭を扱くと一つ訊いた。
「お前さん、コボルトが何故物語の中で『勇者』と呼ばれておるのか、考えてみたことはあるかね?」
「え?」
 戸惑うヴォルフガング少年を他所に、ドン・ガラドは彼の傍に腰を下ろした。
「ちょうどよい機会だ、考えてみるとしようではないか」
「う、うん……」
 ドン・ガラドに流されるまま、ヴォルフガング少年は言葉を探し始める。
「それは……強い、から?」
「ほう? それでは強いコボルトを何度も苦しめておった熊、あやつも勇者なのか?」
 やっと発言できたヴォルフガング少年だったが、ドン・ガラドの指摘によってあっさりと言葉に詰まる。
 少々意地悪な質問をしたドン・ガラドは、髭を撫でながら「難しく考えることもあるまいて」と諭した。
「コボルトの何に対して、お前さんが『勇者』と感じ入ったのか、それをのみ考えればよい」
「僕が、かぁ……」
 一人呟きながら、ヴォルフガング少年は懸命にコボルトのことを、思いつくままに考えてみた。
 小さくて、でも強くて勇敢な男の子。困ったことがあれば、いつでも誰でも助けにいって、力を合わせ頑張って――
「あ」
 取り留めの無い思考の中から見つかった閃きに、ヴォルフガング少年の表情が輝いた。
「……絶対に、コボルトは逃げないことだ」
 殆ど確信を持って、ヴォルフガング少年は呟いた。
「コボルトは、絶対に逃げたり、諦めたりしないんだ。コボルトはどんなに相手が自分達より強くても、大きくても、剣を手に戦って、みんなを励まして、一緒に戦って、それが僕、すっごくかっこいいなって思って……」
 車輪が下り坂では勢いを得ていくように、ヴォルフガング少年は言葉を紡いでいくと、
「それで僕は、コボルトが好きだったんだ……」
 やがて、一つの答えに行き着いた。
 それら様子をじっと横で見ていたドン・ガラドは「そうか」と呟き、ヴォルフガング少年の頭に手を乗せた。
「どうやらコボルトも、無事に勇者の役割を果たしてくれたようじゃのぅ」
「え?」
 ドン・ガラドは立ち上がるや、道場の窓から見える三日月に向かうかのように高々と述べる。
「勇者とは、強い者のことではない! 秀でた知恵を持つ者のことでもない! ましてや、勇猛果敢なる者を指し表したものでも、ただ一人の誰かを指すわけでもない! そのことを、忘れてはならんぞ」
「……はい!」


 正午過ぎ。ドン・ガラドの道場は、今までにない熱気に包まれる。
「さて、今日の技練は二人一組での組み打ちじゃ!」
 目の前に並ぶ弟子達を右から左へ順繰りに見渡して、ドン・ガラドは次のように続けて開始を告げる。
「組み合わせはわしが発表する。各々、いつ呼ばれてもいいように備えておくがよい。まずは――カール、フリッツ! 前に出よ」
 そうして次々と組み合わせが発表されていき、遂に残った二人が名を呼ばれた。
「ヴォルフガング、ロベルト!」
「…………!」
 来た――そう思っただけで、ヴォルフガングは胸が熱く、頭が痺れるような気分になった。
「……ったく、お互いツイてねぇよ」
 木剣を持っていない方の手で頭を掻きながら、ロベルトは相槌を求めていない呟きを発した。
 しかし、ヴォルフガングの頭にはそんな言葉は全く届かない。聞いている余裕がないのだ。
(……僕は、できる、なるんだ……!)
 不思議だった。
 昨日の晩から何度も物語を読みながら胸中で繰り返し呟いていたこの言葉が、胸の熱さ、頭の痺れをそのままに、何か別の、大きなものへと変えていく……!
「……ま、どうでもいっか」
 いつもとは違った意味で力の入ったヴォルフガングを疑わしげに見ながらも、ロベルトはいつも通り大柄な体躯をより大きく見せるかのように歩幅を広げ、剣を上段へと振りかざす。
(まるで熊だ……)
 対峙したこの時、ヴォルフガングは初めて――本当に初めて、ロベルトの顔を、剣を構える姿を見た。
 自分とは違った、堂々とした構え。大きな木のようにどっしりとしていて、熊のように力強い。あたかも恐れを知らないかのようなその構えは、勇者と呼べなくもない。
(でも、いいんだ)
 あの晩にドン・ガラドがくれた言葉を思い出し、ヴォルフガングは自らの心を燃え上がらせる。
「はじめぇ!!」
 開始の声。同時にヴォルフガングは下がり、ロベルトは一歩も動かずに構えたままである。
(はっ、こんなチビ、さっさと片付けるか)
(僕なんか、いつでも倒せるって顔だ)
 ロベルトの顔――特に目を見て、ヴォルフガングはそう推測する。
(でも、もう平気だ)
 ロベルトと対峙したまま時が流れる。周りの声は、聞こえているとも聞こえていないともつかない。
(僕に大事なことは、ロベルトに勝つことじゃない。立ち向かうことなんだ)
 強ければ勇者なのか?
 賢ければ勇者なのか?
 勇敢ならば、勇者なのか?
 ――ドン・ガラドは、違うと言った。
(逃げちゃいけないその時に、ちゃんと勇気を出せる人――それが、勇者なんだ!)
「――ぉあっ」
「何ィ!?」
 ヴォルフガングが、前に出た。
 咄嗟のことではあったが、ロベルトは上手く対処できた。真っ直ぐに突き出された木剣の切っ先を、構えを崩さずに移動して回避するや、体重を乗せていない前足を鋭く放ち、空いているヴォルフガングの脇へと打ち込んだ。
「うぐ……っ!?」
 ヴォルフガングは気付いていなかったが、柔らかい肉のみの腹ではなく、ある程度骨に護られた箇所であったために、行動不能とまではならなかった。
(まだ動ける!)
 今のヴォルフガングには、それだけが大事であった。
「っく……」
 しかしそれでも、痛いことには変わりない。鈍く熱い痛みを送り付けてくる脇腹に右手を添えながらヴォルフガングは苦痛に耐える。
「もうやめろチビ!」
「お前じゃロベルトに勝つのは無理だって!」
「お前よく頑張ったから! もう降参しろ!」
「――黙らんかい!?」
 口々に負けを認めるようにと言い募っている弟子達へと、ドン・ガラドの叱声が飛ぶ。
 それまで一切口を開かずに動向を見守っていたドン・ガラドは、自らの短躯を突き破らんばかりの怒りと気迫を漲らせて怒鳴る。
「檄を飛ばすのならばいざ知らず、負けを認めろなどと……貴様ら! それでも勇者の卵か!?」
「……し、しかし師匠、奴はどう見ても負けて」
「負けている? お前さんには、あのヴォルフガングが負けているように見えとるのか?」
 弟子の反論を封じ込め、ドン・ガラドはヴォルフガングに目をやる。
 脇に蹴りを受けてから、ヴォルフガングは防戦一方であった。善戦しているとはいえ、相手は体格、技術、経験、才能――あらゆる点で差をつけているロベルトなのだ。弟子達には、ヴォルフガングの勝ち目など一切見えない。
 にもかかわらず、ヴォルフガングはロベルトが打ち込んでくる時、眼光鋭く彼の顔を見上げるのであった。
「あれは、諦めた男の顔ではない。断じてだ」


 ドン・ガラドの言葉を裏付けるかのように、ロベルトの胸中で本来生まれ得るはずのない感情が滲み出ていた。
 焦りと、苛立ちである。
(このチビ、何でブッ倒れねーんだよ!?)
 圧倒しているのはこちらの方である。手数も威力もヴォルフガングのそれを大きく上回っている。
「おらぁっ!」
 大喝。両断の一刀は眼前の少年には当たらず、空を斬った。
(っまた外しやがった! クソ! クソッ!)
 焦りを自覚できていないロベルトには、勝負を急いだ自らの一刀が踏み込みの浅いものだったと気付けない。
 苛立ちを自覚できていないロベルトは、自らの目が曇っていくことが分からず、平静を大きく欠いていった。
 ロベルトにとっての奇妙な出来事は、他にも起きていた。
 いつしか、ロベルトへの声援も、ヴォルフガングへの野次も消えていたのだ。道場には異様な熱気が立ち込めているくせに、不気味なほど静まり返っている。
(クソが……!!)
 何か好ましくないことが起きている――そう直感的に悟ったロベルトは勝負を急がんと焦り、また苛立ちに身を焦がしていく。
 組み打ちの相手が兄弟子のカッツや師匠のドン・ガラドであれば冷静さを失うまいと努めたのだろうが、ヴォルフガングを格下だと完全に侮っていたことが大きな枷となっていた。
(この俺が、何でこんな奴を相手に――)
 その時だった。
「そのまま、負けるつもりなの!?」
『!』
 ドン・ガラドを除き、ロベルトを含めた全員が息を呑んだ。
 声援の主は――ヴォルフガングであった。
「そうやって、怒って我を忘れて、僕なんかに負けるの!?」
「てめえ……!」
「――ロベルト!」
 感情に身を任せようとして、しかしロベルトは師匠の声に踏み止まった。まだむらがあるとはいえ、彼の実力は決して低くはない。
 この組み打ち中、初めて場内に声を放ったドン・ガラドは、髭の中から豪快な笑みを見せてこう言った。
「遠慮はいらん、やったれぃ!」
「……うっす」
 頷いて、大きく深呼吸。首と肩を回したロベルトには、先刻までの猛牛のような苛烈さは感じられない。
 何故なら、彼は人間で、またドン・ガラドの門弟、勇者の卵だからである。
「……てめえがそう言うんなら、こっちもそれ相応にやってやるよ!!」
「っ来い!」
 真剣味を帯びた二人は、再び木剣を構えて激突する。
 歓声が弾けたのは、その直後であった。


 組み打ちの結果だけを述べれば、本来の実力を取り戻したロベルトが、一太刀でヴォルフガングを打ち倒して終わってしまった。
「すげぇじゃんヴォルフガング!」
「あのロベルト相手に、ほんとよくやったよ」
「俺も感動したよ! お前あんなにすごかったんだな!」
「……うん、ありがとう」
 仰向けに倒れた自身を取り囲む同門達に戸惑いながらも、ヴォルフガングは恥ずかしそうに頬を掻きながら笑った。額の痣が痛々しいが、それ以外に酷い怪我は見られない。
「――おい」
 そんな集団の頭上から、居丈高な呼び掛けが聞こえる。
「ろ、ロベルト……」
「……ふん」
 向けられている視線など意に介さず、ロベルトは人垣を作る同門らの頭越しに「おいチビ」と言った。
「今日のあれは、してやられたよ。冗談抜きでな」
 ヴォルフガングは決して目を逸らさず、ロベルトの言葉を待った。
「まさかこの俺が、お前に励まされるとはよ」
「――え?」
 その場に居合わせた誰かが、驚愕と疑問をその一言に詰め込んだ。
「え、ロベルトが? いつだってんだよ?」
 同門達が困惑している中、ヴォルフガングは緊張の面持ちで、ロベルトをじっと見つめた。
 しかし、どういったわけか、ロベルトはいつまで経っても何も言わず、頭を掻きながら方々に目をやって「それでよ」と曖昧に言葉を繋いでロベルトは、何とか次の言葉を見つけ出すことができた。
「つ、次は! 今日と同じようにいくと思うなよな!?」
『……は?』
 訳が分からず、何人かが異口同音の声を上げた。
「てめえみたいなチビ助にできて、俺にできねぇ道理はないんだ。必ず俺も先輩に、いや――」
 言葉を溜めた直後、ロベルトは高々と宣言した。
「ドン・ガラド師匠にも、勝ってやるさ!」
 ヴォルフガングと戦って初めて、ロベルトは悟ったのだ。
 勇者に求められる重大な資質――少なくともその一つは、自らより強大な相手に挑まなければ手に入れられないと。
 そしてその道を見出だせたのであれば、躊躇わずに進めばいいのだと。
「……僕だって、同じだよ!」
 ロベルトへの返答として、ヴォルフガングは勝ち気な笑みを見せて告げる。
「君が師匠に勝つもより先に、僕が師匠に勝つんだ!」
「――ふむ、よう言ったなロベルト、それにヴォルフガング」
 その場の空気が、一瞬にして凍った。
 ロベルトの背後に立ち、彼らを見回しているのは、自称“勇者”の――
「その心意気やよし! 特別に今から二人には、わしに挑戦させてやろう! というかむしろ挑め!!」
『……はぃ!?』
 ヴォルフガングとロベルトは同時に驚き、そして戸惑ったが、ドン・ガラドは止まらない。いつの間にか持っていた木剣を片手で轟々と振り回しながら、若干殺気走った目をして二人に呼び掛ける。
「さて! まずはどっちからじゃ? 何なら二人まとめてでも構わんぞ!?」
 このままだと、この場にいる門弟全員を打ち倒しかねない――ヴォルフガングとロベルトはどちらともなく思うや視線を交わすと、その場にあった木剣を手に身構えた。
「さあ! 掛かってくるがよいぞ、ひよっ子どもが!」
 生まれたばかりの勇者の“雛”達を前に、ドン・ガラドは笑っていた。

注)乾酪……チーズ。具体的にはハードチーズ。

4『とある煙突掃除屋の恋』


 ジャックは、しがない煙突掃除屋の息子で、彼自身もまた煙突掃除屋であった。別に好きでやっているわけではない。彼の父や、顔も知らない彼の祖父もそうであったように、彼の家はその仕事にしか就けない家だからであった。
 彼の住むフェリュースト公国は、誰もが階層に分けられていた。
 切り株のような、石や煉瓦の寄せ集めでできた建物。そこから生えた茸のように取り巻いている土壁の家々。それらと比べるなら、天に向かって聳える上層居住区『ヴォワ・ル・シエル』は、まさしく大樹と呼ぶに相応しかった。
 フェリューストの都市群は、階級によって居住区を明確に区分されている。先述の上層居住区『ヴォワ・ル・シエル』には貴族階級を筆頭に、高級将校、大商人、といった社会的、経済的に優位な地位を有している人種(、、)が住んでいる。彼らは決して下に降りることを由とせず、常に贅を尽くした巨大な最上階層部のみを往来し、時に外部に造られた道を通って別の都市へ赴くのみで、上層と下層との交流を好まない。
 そしてこれらの考えは、外地から来た行商人や旅人達にも及ぶ。都市の入り口で中・下層階級だと判断されれば最後、何をもってしてもその人間は上層居住区へは入れなくなる。
 農民や難民、奴隷など総称して下層民と呼ばれる人々は、絶えず排泄物や残飯が投げ捨てられる地面の上での生活を強いられ、ことあるごとに上位階層の人間から金品の上納などによって許可を得なければ三階以上の階層に上がることはできない。
 かく言うジャックもまた、下層民の一人である。煙突掃除という仕事は、下層民に押し当てられた仕事なのである。
 そして今日も、ジャックは使い慣れた道具を片手に、屋根から屋根へと移りながら一本一本の煙突を綺麗にしていくのである。


 ジャックの朝は、意外にもそれほど早くない。
 日の出を過ぎ、活気付き始める下層街の様子を、ジャックは更に下層にある自分の家から見上げるのが日課であった。
 ああ、と藁とぼろ布で拵えた寝床の上で伸び上がりながら声を洩らすと、ジャックは弟妹の呼ぶ声に引っ張られるように居間へと向かう。
 ジャックの家は、三つの部屋でできた、縦長の集合住宅の一角にある。その一帯は全て煙突掃除屋達の大元締めが借り切っている場所なので、ジャックと家族は少しだけ安い賃金で住むことができていた。
 ジャックは三人兄妹だが、食卓を囲っているのは四人だけである。ジャックの父は三年前、まだ彼が十歳であった頃に肺を患って死んでいった。次は自分の番かもしれないとは、ジャックは考えないようにしている。
 朝食はパンとミルクと少々の野菜、具体的には薄く切った芋と菜っ葉。嘆息も出ないほどに、いつもの顔ぶれである。
 ジャックが席に着くことで、家族全員が机を囲んだ。
 誰からともなく目を閉じ、手を祈りの形に組んだ。静々と、定められた文言をジャックが述べる。
「神よ、日々の糧を得られることに感謝を」
『感謝を』
 本来の、司教から与えられた文言はもっと長くて重苦しいものだったが、食事にさして時間をかけられず、文言自体に意味の分からない箇所が多過ぎたため、いつの間にか彼の家ではこれが定型となっていた。
 味気ない食事と、当たり障りのない会話。今日の仕事場はどこか、そこの家は姑と妻が不仲で有名だ、今日も俺の夕飯はいらないよ――これらに時折、風が木の枝葉を通り抜けたような笑いが混じる。
 食事の分量も少ないので、朝食はすぐに終わる。ジャックと一歳しか歳の変わらぬ妹は、花売りのためにすぐさま家を出ていった。弟は幼いため、母と家に残る。
「ジャックや」
 ジャックが家を出ようとすると、母親が彼を呼び止める。
「何だい、母さん」
「ジャックや、必ず、今日も帰ってきておくれよ」
「分かっているさ」
 そう言って、ジャックは母を軽く抱きしめ、「母さんも、一日健やかでいて下さい」と返した。
「それじゃあ、行ってくるよ」
 玄関脇に立て掛けてある仕事道具を手に持って、ジャックは家を出た。


 花の通りは眠っている。花は花でも、この通りの花は夜にしか咲かないからだ。
 ジャックの住む最下層『カトル・シエル』は、色街を抜けて行かないと中層近くにある市場まで行くことができない。
 道は細く、建物と建物が互いに重なるように建っているため薄暗い。道端の溝は絶えず汚物が流れ、滞留している場所からは想像を絶する臭いが漂ってくる。
 だが、それでも最下層に比べればましなのである。
 上から下へと、滝のように川のように汚物や廃水が流れる先が最下層なのだ。偽りの華美さで飾る花街と違い、上層からは決して見えない最下層は汚物と悪臭が絶えず、疫病の発生すら珍しくない。
 花の通りを過ぎ、複雑に入り組んだ隘路を通って、下層の市場に出る。
 中層に近いほど空気が美味い――ジャックの同僚がよくそんなことを言っていた。
 本当にそうなんだろうか――言われるたびに、ジャックはそう思っていた。
(俺はよく、ばかだとか、そんな風に言われているが、もしかしたらそれで分からないのかもしれない)
 結局ジャックの考えは、そういったものに行き着いていた。
 鐘が鳴る頃になると市場はとっくに活気づいており、上を見上げれば煙突から幾筋もの煙が濛々と延びて、壁に沿って流れていく。
 中層や上層の建物は、全て橋が渡されており、そのために下層街はあまり日が当たらず薄暗いが、雨が降ってもさほど濡れないため、仕事が滞らないので、何もいいことがないとは言えない。
 どこにでも良し悪しがあるものだなと思いながら歩いていると、張りのあるしゃがれた声が彼の名前を呼んだ。
「よぉジャック、今から仕事かい?」
「やあアンリ、これから親方の所に行くのさ」
 顔見知りの乾物商と軽く挨拶を交わして、ジャックは遠くに見えているギルドへと歩いていった。
 この町の、下層と中層の一部で働く煙突掃除屋はシャルル親方の傘下に入っている。これも代々の煙突掃除屋達の中で取り決められてきたことであったらしく、以前には流れ者の煙突掃除屋だった男が行方不明になったこともある。
「……で、そんなことを考えながら歩いてたらギルドを通り過ぎて、ここに来るのが遅れたってわけか?」
「ええ、まあ」
 青筋を額に刻んで震えるシャルルを前にして、ジャックは朗らかに笑っていた。
 直後、ジャックの頭にシャルルの拳が落ちる。
「いったぁ……」
「馬鹿、そんなことを言ってる暇があったらさっさとポールの所に行ってこい。仕事先はポールに教えてあるからな」
 という言葉と共に受付から蹴り出されたジャックは、壁に立て掛けておいた道具を抱えて談話室の方に向かった。
 受付よりも建物の奥、人気のない談話室で、ジャックより一回り以上は年上の男が一人で寛いでいた。
 ジャックの相棒、ポールである。
「よぉ、遅かったな。案山子のジャック君」
「やあ、ポール」
 相変わらず嫌味の通じない相棒に、ポールは肩をすくめた。
「お前、相変わらず抜けてるよなぁ」
「はは」
 困ったように笑い、頭を掻いた。図星である。
 そんなジャックのとぼけた態度を熟知していたポールは、椅子から立ち上がると相棒の肩を叩いた。
「ほら、ぼけっとしてねぇで行くぜ、相棒」
「ああ、そうだな」


 煙突掃除は、主に秋頃に行われる。これは暖炉を使わなくなる春季から半年が経過する頃には煙突内部が乾燥し、掃除しやすくなるからである。
 ジャックとポールが与えられた本日最初の仕事は、市場を挟んだギルドの向こう側にある、集合住宅の一つであった。
 該当する家の玄関に立つと、ジャックは扉を叩いて名乗る。
「こんにちは、シャルル煙突掃除屋商会の者です。アンリ・ボードィンさん、仕事に参りました」
 三度ほど声を上げると、扉を押しのけるようにして痩せた女が顔を見せた。
「おや、今日はアンドリューとリュカの二人じゃないのかい」
「ええ、まあ」
 とジャックが曖昧に笑っているうちに女は扉の下端に石を置いて閉まらぬようにすると「さっさと頼むよ」と言って奥に引っ込んでしまった。
「ちっ、感じの悪い」
「まあ、いいじゃないか」
 舌打ちする相棒を宥めて、ジャックは集合住宅の側部へと回った。
 ジャックの役割は、屋根に上って煙突内部の詰まりを道具で取り除いていくことである。その間にポールは暖炉内の細かな部分の掃除をしたり、ジャックに指示を出すのだ。
「よっ、と」
 ギルドから持ってきた梯子を屋根にしっかり掛けると、手馴れた様子で上っていく。ジャックは痩せており、まだ子供ということもあって屋根に上る機会が多く、年齢的にはまだ見習いのジャックだが、ある程度傾斜のある屋根でも自由に歩くことはできた。
「今日は空もきれいだなぁ」
 家一件分高い所に上ったため、ずっと見通しがよくなった。最下層では見えかった空も、この辺りまで来ればよく見える。
 その一方で、視線を下の方に移すと、下層街の様子が全く見えないことがよく分かる。屋根あたりが辛うじて見えるだけで、町並みなどは遮られて見えないのだ。
「おっと、仕事仕事」
 久しぶりに見えた青空に暫く気をとられていたジャックだったが、頬を叩いて仕事に取り掛かり始める。
 今回の煙突は一般的な型のもので、子供のジャックなら入っていける大きさであった。
「てことは、また潜るのか……」
 分かっていることだとはいえ、ジャックは薄暗い穴を見下ろして呟いた。
「ジャック、さっさと下りてこい」
 ポールが急かしてくる。声が煙突の中で響いているため、おかしな具合に伝わってくることに笑みをこぼし、ジャックは煙突の縁に足を掛けた。
 いつものことだが、煙突の中は真っ暗で、明かりなど一切ない。下手に息もできないので、中を降りる時は細心の注意を払っていく。
 狭い煙突の中、ジャックは『案山子』と呼ばれるくらいに細い体を突っ張らせながら、道具を用いて内部を掃除しつつ降下していく。
 気は抜けない。落ちて死んだという同い年の少年のことを思い出す。背中から頬、掌も少しずつ汗ばんできた。
(落ちれない、よなぁ……)
 息苦しい。そろそろ限界だ。咳込むのを覚悟して、少し息を吸った。
「っ、ぐ……!」
 やはり咳込んだ。細かい咳が止まらない。
「おい、大丈夫か?」
 下からポールが、安否を尋ねてくる。
 大丈夫、とは声に出せないので、言葉の代わりに煙突の壁を叩いて合図を送る。
(――あ)
 滑り落ちそうになった。咳込んだせいで、体が突っ張りを失ったのである。
「お、おい、本当に大丈夫か!?」
 再びポール。心配いらないと言いたくて、今度は先程よりも強く叩いた。
「本当にやばかったら言えよ? ……え? あ、ああ、すみません、よくあることですから……はい、アンドリューの奴だってたまにはあるんですよ」
 ボードウィン夫人が何事か言っていたが、ポールが返事をして取り繕っていた。ジャックが落ち着くまで時間を稼いでくれているのだ。
 息を整えたジャックは、もう一度『大丈夫だよ』と叩いて合図すると、まだ掃除できていなかった箇所の汚れを丹念に落としながら降りていった。
 下から光が見えてきた。暖炉が近いのだ。


 朝から昼過ぎまで、全部で七つの家で煙突掃除を終えた頃には、すっかり二人は煤だらけになっていた。
「ねえ、ポール」
「あ?」
 市場を通って親方の許へと戻る途中、ジャックはポールに断りを入れると、脇道へと入っていった。
 下層街の東にある古びた集合住宅。その屋根である。
 壁にできた凹凸や窓枠に足を掛け、梯子を用いずとも器用に上っていった。
「……よい、しょっと」
 屋根の縁に片足を掛けて一気に体を引っ張り上げたジャックは、続いて道路を挟んで隣接した建物の屋根に飛び移っていった。高所に慣れた煙突掃除屋だからこなせる芸当だ。
 この時ジャックは、自分が鳥だと思っていた。
 人が通らない屋根の上、空を見上げどこまでもどこまでも走っていく。仕事のことも家族のことも忘れ、息を切らして立ち止まらずに。
 町が丘陵地帯に造られているためか、下層街の中にも他の建物より幾分か高い位置にあるものもあった。ジャックが辿り着いた建物(厳密にはその屋根)も、そうした場所の一つである。
「はぁ……」
 急ぎ足で『いつもの場所』に向かったジャックは、この時ばかりはのんびりと構えていられず、逸る気持ちを抑えるどころか反対側の斜面へと一直線に向った。
 ジャックにも、楽しみが一つだけある。
 東の外れにある、木賃宿の屋根の上。そこからは中層階級――もしくは『ヴォワ・ル・シエル』の住宅が、僅かに覗けるのだ。
 家自体はジャックにとって何の価値もない。問題なのは、その一部が窓であること、そこから見えるのが『花』であることだ。
「あ」
 と、ジャックの口を自然と言葉が衝いた。
 豪奢な窓辺に肘をつき、どこをともなく眺めているのは、柔らかな金髪に淡紅の色合いの衣装が映える、見目麗しい女性。
「きれいだなぁ」
 うっとりとした表情で見上げるジャックは、先程からそればかり呟いている。
 彼女を見かけたのは、偶然の出来事であった。
 仕事でこの宿の煙突を掃除しに来た時、中層階級の屋敷の一部が覗けることに気付いたのだ。
 最初は『カトル・シエル』では見かけない様式の建物を物珍しさから眺めていたのだが、ある日そこに顔を覗かせていた。
 きらびやかな衣装、洗練された外見。『働く女』しか知らなかったジャックにとって、窓辺に寄り添って空を見上げる彼女は、この世のものとは思えない存在であった。
「きれいだなぁ」
 一目見た時から変わらず繰り返される言葉。それ以外にはいらない。あの窓を見上げているだけで、心は満ちるのだ。
「よぉ、またここかよ」
「……あれ?」
 だからジャックは、声を掛けられるまでポールが後ろにいたことに気が付かなかった。
「おいジャック、お前また見てやがるのか?」
「……へへ」
 頬を掻いて、ジャックは照れ笑いを浮かべる。その脇で彼が眺めていた女性に目をやり、ポールは「お前も物好きだよなぁ、こんな場所からじっと眺めるだけなんてよ」と続けた。
「いいじゃないか、俺の一日の楽しみなんだからさ」
「ふーん。……あ、そうだ。ところでよ」
 とポールは言うなり、後ろからジャックの肩と組んできた。
「今晩、ちょいと付き合えよ」
「また飲むの?」
「またって何だよ?」
「だってポール、すぐに酔っ払うじゃないか。いつも家まで送るの大変なんだよ」
 といった態度とは裏腹に、ジャックは「まあいいけどさ」と返した。
 ポールは、死んだジャックの父親の友人で、仕事では恩人にあたるらしく、『その恩返し』だとかでジャックや家族の面倒を看てくれることもあった。食べ盛りのジャックをこうして夕食に誘うのもその一環である。
「店はいつもンとこでいいよな?」
「うん、どうせあそこしか行けないものね」
「手前、分かっててもそこは黙っとくもんだろうがよ」
 そう言って、ポールはジャックの頭を小突いた。
 ここからは見えない空の上から、鐘の音が聞こえてきた。


 夕刻を告げる鐘の音が聞こえる頃、花の通り道はそれまでの静けさが信じられないほど賑わい始める。
「よぉ、二人とも仕事帰りかい?」
「よぉジョゼかよ」
 下層街を通る途中、男がポールに話し掛けてきた。どうやら二人は顔見知りであるらしい。
「そっちのちびも掃除屋なのか?」
「おお、俺の恩人だった人のガキでよぉ、今から飯を食わせに行くのさ」
「へぇ、なるほどね」
「どうも、ジャックです。ジョゼさん」
 しげしげとこちらを見ていたので、ジャックはそう言って頭を下げた。ジョゼも歯茎を見せるようにして笑い、朗らかに「こちらこそ」と返した。
「幸運の証とも言われてる煙突掃除屋に今日は二人も会えた。それだけでも俺は幸せさ」
「?」
 それはどういうことなのかと訊きたかったジャックだが、ポールが「じゃ、そういうことで」と彼に先んじて会話を切り上げた。
「ポール」
「ジョゼ、今度は俺らだけで飲もうぜ」
「お、おう」
 口を尖らせ食い下がろうとしているジャックの背中を無理矢理押して、ポールは人込みへと分け入っていく。
「どうしたんだよポール」
「ま、いつか分かることだからよ」
「いつかって、いつだよ?」
「さぁ? 来週ぐらいじゃないかねぇ」
 何度問い掛けてもポールは質問をはぐらかそうとするばかりで、この繰り返しをしている間に目的の店に着いてしまった。
 酒場『パスカルの煙突亭』。ジャックの幼なじみが働いており、他の同業者達もよく飲みに集まる店である。
「いらっしゃい!」
 扉を開けると、客を迎える声、客同士の喧騒、中の明かり、食べ物と酒の匂いが混然となってジャックとポールに押し寄せた。
「……って、ポールさんとジャックじゃないの」
 ついさっき、威勢と愛想よく出迎えた少女の店員は、二人だと分かるや砕けた態度に戻った。その様子に、ポールが苦笑いする。
「やれやれ、相変わらずだねぇ、ロッテちゃんは」
「あらポールさんはこんな言葉遣いの私がお望みなのかしら?」
 ロッテと呼ばれた少女は雰囲気を一転、貞淑な口調に切り替わる――のだが、その直後に腹を抱えて笑い出してしまった。
「おいおい、どこでそんな言葉遣い覚えてくるんだ。びっくりしたぜ」
「あはは、冗談冗談。それよりさっさと入っちゃってよ。冷たい空気が入ってきちゃうじゃない」
 と、身も蓋もない台詞を残してロッテは店の奥へと引っ込んだ。
 彼女――ロッテことシャルロッテ・パスカルはこの酒場に残る一人の娘であり、ジャックとは幼い頃から互いに知った仲であった。少々人の話を聞かない時があるのが玉に瑕だが、明るく物怖じしない性格で誰とでも付き合えるためか、客の人気は高い。
「おい、ボケっとしてんなよ相棒」
「……ん? ああ」
 戸口でぼんやりと立っていたジャックは、頬を掻きながらこう呟いた。
「どうしてロッテがいつもと違うのか、気になっててさ」
「……今更かよ」
 相変わらずの“案山子”にポールは呆れつつ、ロッテの後に付いて席へと向かった。
 二人が通された席は、店の一番奥であった。左右それぞれの席には黒ずんだ顔と服装の男らが卓を囲んでおり、いずれも煙突掃除屋であると分かった。
 彼らから追加注文を受け終えると、ロッテはポール達にも訊いてきた。
「ポールさん、お酒はどうするの?」
「ああ、貰うよ。それと、いつものね」
 はぁい、と相槌を打ったロッテの明朗快活な声が、店内を通って厨房へと届いた。
 机の木目を指先で弄りながら、ポールが話題を切り出した。
「相変わらずロッテちゃんは働き者だねぇ」
「うん」
「あれでたしか、お前とは二歳しか違わないんだっけ?」
「そういえばね」
「言い寄る男も多いんじゃないのか? うちの連中もロッテちゃん気にしてるって噂だぜ」
「ふぅん」
 ジャックは何を言われても上の空といった反応しか見せず、ポールは頭を押さえて呻くように言った。
「なあ、ジャックよォ」
「ん?」
 隣の席で男達が白熱した腕相撲を繰り広げる様子をのんびり見ていたジャックは、やはり変わらない調子で反応するのだった。
「お前はよぅ、もちっと現実を見るべきだぜ」
「現実?」
「あの『窓辺の花』嬢のことだよ。分かるだろ?」
 と言って、ポールはジャックを自分の方に向き直らせた。
「俺達は『カトル・シエル』なんだぜ? お前その辺の分かってんのかよ?」
「まあ、そりゃね」
 腕相撲の勝敗の方が気になるらしく、ジャックはそちらに視線をやりながら生返事する。
 行き場のない感情を机に叩き付けたポールは、ぼんやりとこちらを見ているジャックを睨みながら続ける。
「身の丈に合った恋をしろって話だよ。人が道具に恋なんてするか? え、どうだよ?」
「いや、それは――あ、ロッテ」
「ったく、相変わらずねぇ二人とも」
 半ば呆れた口調で酒の杯と、芋と鶏の焼き物を配り終えると、ロッテは一転して疑り深そうな表情になった。こうした時の彼女は、しつこい。
「で、何の話? ていうか『ルフルール・フェネトル』っていうのは誰なのかしら?」
「いや、まあ……」
「『窓辺の花(ルフルール・フェネトル)』ってのは、俺が勝手に付けた綽名だよ。こいつの意中の人さ」
 そう言って、ポールは杯に口を付けた。自身の口元がにやつくのを隠すためである。
「こいつ、相当なご執心ぶりでよ。今日だって飽きずにまた『窓の花』嬢を見に行ってやがるんだぜ?」
「へへ……」
 鼻の下を指でさすりながら照れ笑いを浮かべるジャックとは対照的に、ロッテの表情は寒気を覚えそうなほど冷たい。
「……ねえジャック、いいかしら?」
「何を?」
「あんた、その窓云々って人のことを知ってんの?」
「いいや」
「どこに住んでんの?」
「東の方」
「年齢は?」
「知らない」
「家は何やってるの?」
「金持ちじゃないの?」
「……まさか、名前とか」
「だから住んでるところ以外、全く知らないよ」
 ここで、ロッテの堪忍袋が音を立てて切れた。
「〜〜っあんたねぇ、そんな誰だか分かんない女に惚れてるのっていうの!?」
「はは」
「ははっ、じゃないでしょーが!」
 ロッテは手にしていたお盆を振り上げるや、情け容赦なくジャックの頭頂に向かって振り下ろした。それも面の方ではない。縁側の方である。
「痛いなぁ、客に何するんだよ?」
「客とかどーでもいいわっ!」
 身も蓋もないことを怒鳴るようにして叩き返すと、ロッテは臆面もなくジャックの襟を掴んだ。
「あんたねぇ。身分とか以前に、よくもまあ見ず知らずの女に惚れる気になったわねぇ!?」
「いや、見てはいるけど」
「だったら余慶に悪いってのよ!」
 そこにもう一発追加された。頭を押さえて呻くジャックを余所に、ロッテは矛先をポールにも向け始めた。
「ポールさん、あんたからもこの馬鹿に言ってやってよ! いくらなんでも、これは目に余るわ!」
「そうだぜぇ、ジャックぅ」
 杯を片手に、ポールが呂律の回らぬ語調で周囲に構わず声を上げる。一杯目にして、早くも酔いが回っているのだ。
「俺達はぁ一生『カトル・シエル』だ。俺も親父もそのまた親父も、俺もガキもそのまたガキも、一生『カトル・シエル』なのさ! 何も変わんねぇ、何も変わったりしねぇさ……」
 そうだそうだ、と和する声も方々から上がり、ますます気分が高揚していったらしいポールは同じような内容を繰り返し繰り返し叫び、それに客達も喝采と拍手を送る。
 そうした一連の狂態に、ロッテは暫し呆然となった。酒場の娘故にこうした光景は見慣れているとはいえ、やはり自身は素面なので、この状態で直視するのは辛いものがあるのだ。
「……ほんっと、あんな下らないことで騒げるもんねぇ」
 同意を求めたはずの彼女の言葉は、しかし独り言のままで終わった。
 またしてもジャックは、片肘をついてぼんやりとしていたのである。
「どうしたのよジャック? またボケーっとしちゃって」
「……え、あ? ああ、うん、何でもないよ」
 ロッテに話しかけられていたことに気付いたジャックは、彼女に殴られてくしゃくしゃになった髪の毛を撫でながら、呟くように繰り返した。
「何でもないんだ」


 泥酔したポールを自宅に送り届けたジャックが家に帰る頃、夜はすっかり更けていたのだが、居間には小さな明かりが一つ、頼りなく揺れていた。
「……ああ、ジャックだね、お帰り」
 母である。暖炉は使わず、膝掛けとスカーフだけで息子の帰りを待っていたのだ。
「ただいま、母さん。遅くなってごめんなさい」
「いいよ。今日はポールさんのお世話になる日でしょう? だったら仕方ないわ」
 腕を広げて迎えてくれる母としばし抱き合っていたジャックは、懐から小さな袋を取り出した。ジャックの財布である。彼の小さな掌に収まるそれは、見た目に反してずっしりとした音を聞かせた。
「すまないねぇ、お前達にばかり苦労をさせて」
「いいんだよ、母さん」
 去年よりもしわの増えた母の手に財布を握らせて、ジャックは微笑んだ。
「父さんがいないんだし、母さんも働けない。だったら、俺達はこうすることが一番いいんだよ」
「ジャック……」
 母の顔に、堪え難い感情が浮かぶのを察して、ジャックは「おやすみ母さん」と残して自室に向かった。程なくして、居間から女が啜り泣く声が聞こえてきたが、聞こえないふりをした。
(やっぱり、俺はばかだ。本当は母さんのそばにいてやるべきなのに)
 痛んだ良心と一緒に胸を押さえ、ジャックは自室に戻るや寝床に倒れ込んだ。
(こういう日は、さっさと寝れたらいいのに……)
 瞼は一向に重くならず、頭は今日あったことを次々と思い出していく。
 煙突の中で滑り落ちそうになったこと、今日も『彼女』はきれいだったこと、給金がいつもより安かったこと、ロッテに怒られたこと、
「俺達は『カトル・シエル』、か……」
 ポールが何度も繰り返しながら言っていた、あの言葉。
 泥酔していたポールは、酒臭い息を吐きながらジャックにこう言っていた。
(――「俺達は一番底の人間だ。なかなか人とは見られねぇ、酒も好きな場所じゃあ飲めねえ……」――)
 ジョゼという男が言っていた『幸運の証』というのも、元は煙突掃除屋が煤塗れになっていることが『その家の不幸を煙突掃除屋が背負っていくから』というよく分からない解釈が根底にあるからだと言って、ポールは憤慨していた。
 ジャック達のような、下層で生活している人々は、一般的に『カトル・シエル』――“四分の一だけの空”と呼ばれている。空の殆どが壁で覆われて見えないことを揶揄したものである。
 中層から上層の一部の人々は、『デミ・シエル』と呼ばれている。“二分の一だけの空”、即ち『カトル・シエル』の人々よりも上位にあることを示した名称である。
 そんな彼らとは対照的に、領主やその血縁者といった貴族らは、頭上を遮るもの――即ち彼らよりも上位は存在しないという意味を込めて『ヴォワ・ル・シエル』と呼ばれている。
 ポールが言うには、ジャック達煙突掃除屋とは『カトル・シエル』の中でも更に下の方として扱われているらしい。
「だから、ポールはあんなに言ってたんだな」
 天を衝くような建物群の上と、薄暗い町の底。二つの差は果てしなく、決して埋まらない。
果てしなく遠い
(はは、本当にすごいんだな)
 声もなく、笑った。笑うしかなかった。
 月の光さえ届かない下層街の夜は、更にその下に埋もれているものを覗かせることもなく、静々と明けていく。


 煙突掃除屋にも休日はある。仕事のない日があれば、その日の稼ぎと引き換えに休みとなるだけであるが。
 本物の花が薄く香る花の通り道を、肩を並べて歩く二人連れがいた。
「もう! 何であんたは一々ボケーっと立ち止まるわけ!?」
「はは」
 半ば無駄と諦めつつも、ロッテはのんびりと構えるジャックの頭を思いっきり強打する。
「……痛いなぁ」
「文句があるならさっさと歩く!」
 ロッテはジャックの苦情など一切聞き入れず、彼を引きずるようにして歩いていく。それに合わせようと、ジャックも歩調を速めた。
 まだ腹の虫が治まらないらしいロッテは、ジャック目掛け更に愚痴を投げ付ける。
「ほんとにもう! 『付き合え』なんて言うから何かと思ったら鍋を買うための下調べとか言うし、おまけにわたしの話を全く聞いてないし、あんた何がしたいわけ?」
「いやぁ」
 などとやらかすものだから、再びロッテは拳を握る。その先は言うまでもない。
「……ま、あんたにしては賢い判断だと思うけどね」
「はは」
「ははって、他に何かないわけ?」
「何が?」
「だから……あーもう! 知らない! 今度こそ知らない!」
 変わり映えのない会話に嫌気がさしてか、今度こそロッテは肩をいからせ、ジャックを振り切るかのような勢いで先に行ってしまう。
 彼女の背中が見えなくなるまで見送ると、ジャックはぼんやりと天を仰いだ。
「今日もいい天気だなぁ」
 ジャックはそう呟いたが、そこに見えるものは四分の一の空と、四分の三を占める壁ばかり。
 何故そんなものを見上げているのか、それを彼に問う者はここにいない。ただ淡々と、時間ばかりが過ぎていく。
 ――足音。ひどく急いでいるのか、小刻みに聞こえてくる。
 昼間の花の通りに、いったい誰だろうと悠長に構えていると、その足音の主に思いっきり殴られた。しかも今回は頬である。
「ろ、ロッテ?」
「……あんたねぇ、いくらなんでも、あたしがそこまで薄情だと思ってるわけ?」
 ていうかねぇ、とロッテは前置きをするや、深く息を吸う。
「あたしのことを追いかけたりしようとか、ちょっとくらいは考えないわけ!?」
「……ああ!」
 この言葉が、ジャックの全てを物語っている。
 感情に任せてあれやこれやと言おうとしていたロッテは、わざとらしく大きなため息を吐いて肩を落とした。嫌味ではなく、本心からの行為であった。
「……もういいわ。なんかあんたを見てると、あたし一人で怒ってるのがバカらしくなるわ」
「……へへ」
 この期に及んで間の抜けたような笑いをするジャックに、しかしロッテはこれまでとは違った形で手を出した。
「ん」
「……へ?」
 握り拳でも平手でもない、開かれた掌。
「ほら、ぼさっとしないの。またあんただけ置いてくと面倒だからよ」
「……ああ、なるほどね」
 早口で囁かれた説明にとりあえず納得し、ジャックは差し出されている掌に自らのそれを重ねた。
 ――鐘の音が響く。
 空高くから地上へ、降り注ぐかのように。
 鐘の音が響く。
 荘厳なる音階を連ね、神を讃え、人々へ時を知らせるべく。
 鐘の音が響く。
 それは覆り得ぬ権威と、支配の象徴。


 ――フェリュースト公国における地位と出身、血統の差異は絶対である。
 フェリュースト建国の祖となった『始祖聖女』ジャンヌは元々、過去の大戦によって荒廃した人心の救済と調和、不戦を望み、東ジィグネアルの果てで自分と従者達を中核とした教団を創り出した宗教家であった。
 寄る辺を失い、取りまとめる法も指導者も失った人々は、彼女達と彼女達の作った教義に迷いもなく縋り、教えを説く者と説かれる者との絶対的な立場の差を一も二もなく受け入れた。
 聖女ジャンヌを頂点とし、彼女の従者、多くの信徒達の中から新たに説教師として選ばれた者、そして選ばれなかった、彼女達の生活を支える人間という階層社会は、救世の英雄達によってジィグネアル全土で動乱が治まりゆく中で新たに形成されていった政治思想や手法を取り込んで変化を繰り返し、やがて貴族という、絶対的存在を示す肩書きが現れるようになった。聖職者と貴族は、当初混在した存在であると認識されていたのだ。
 信仰が政治と結びついてきたこの国で、下層階級の人間が上層階級に反意を抱くことはおろか、同じ位置に立つことも長く大罪とされてきた。
 少年が抱いた淡い恋心は、綺麗なものに対する憧憬のまま、終わりを迎えた。
 同じ空を、見上げることも叶わずに。

5『穴蔵に集う土竜たち』


 フェリュースト公国。後の国教[神の属性]によって興り、支配者と被支配者の垣根が厳然と存在するこの五大国には、もう一つの顔があった。
 五大国中で唯一、『魔導師』と呼ばれる異能の力を秘めた人々を公的に教育し、また軍事力として保有している、魔導師の国でもあるのだ。
 フェリューストの人口およそ六百万人の内、魔導師はその中の一割強も占めていると言われている。この数字は数十万人に一人とも言われている他の五大国における魔導師の人数比と比較すれば、際立った数字であると言える。
 無論、この飛び抜けた数字は、一切の手を加えられることなく成り立ったものではない。
 長らく絶対的な『教えを説く者と請う者』の関係を維持し続けてきたフェリュースト特有の制度、即ち魔導師となるべき人間を養成するための二つの機関――通称『学院』の存在である。
 この魔導師を養成する『学院』は、大別すると二種類ある。
 魔導師の素質ある者は始祖聖女ジャンヌに選ばれた騎士であるとし、彼女の興したフェリュースト公国の守護と繁栄を双肩に担っていくべしとするテリオン学派。
 一方、魔導師とはこの世界の理を解き明かし、新たな技術や知識を求めていく研究者、探究者であることが本懐であるとし、魔術とはその際の手段に過ぎないのだと主張しているシュマルカルデン学派。
 今回の物語は、後者のシュマルカルデン学派総本部から始まる。
 シュマルカルデン学閥の総本部は、フェリューストの南部にある、巨大な山を削って建てられた、壮大な学舎でもある。
 細く長い石段を上り切ると、最初に目につくものは砦と見紛うばかりの堅固な城壁。未来の魔導師を養成する場であると同時に貴族の子弟を預かる場でもあるため、常時武装した守衛が外壁を巡視している。当然ながら、入口も屈強な男達が守りを固めている。
 それら威圧感の漂う正門をくぐれば、壮麗な庭園に優美な建築物と、外壁の様子からは想像もつかない景色が広がっている。
 学院の敷地内の最奥、高所に聳え立つのは、シュマルカルデン院を統治し、且つフェリューストにおいて政教軍事の一切を取り仕切る最高指導機関『 十天使(じってんし)』の一人、“ラグエル”のルナリエ・クルツハルトの館と講師らが起臥する職員棟が連なっており、学院を睥睨するかのように聳える。
 続いて、学院の中央にあり、全ての建物に通じる大食堂。建築様式から食器に至るまでの全てが洗練された上質な代物であり、この総本部の象徴でもあった。ここから南北に延びる通路を通れば男女それぞれの講師と生徒が起臥する寮がある。
 そして最後に、実験棟と教科棟という二つの校舎。正門と庭園を抜けると最初に見える建物であり、多岐に亘る分野の解明を目標として日夜取り組んでいるのだ。

○一人目、若き講師のシャハトナー○
 実験棟の一室、火竜の第三室は、文字通り火の属性に関係のある実験を執り行うための部屋である。収容可能人数は、私が記憶している限りでは五十人強、いや、五十八人だった。
 特にこの教室は着火や、その際の発光といった……端的に述べるのであれば、『発火』という現象及びそれに関連する、または関連性があると考えられている現象の中でも基礎的な分野に関する実験を行う場所というわけだ。
 それで、他に質問は?
(フランシス・シャハトナー、学院案内時の説明より)



「お早う諸君。私の名前はフランシス・シャハトナー。これから十ヶ月間に亘り熱の働きと利用方について教えていく。極めて基礎的な単限ではあるが、諸君が今後選択していくであろう科目と密接な関係にあるので謹聴するように」
 例年通りの挨拶と通達を終え、私は早々に授業を開始する。
 この単限でまず私が黒板に列記しなくてはならない事柄が、魔術を用いる上で欠かすことのできぬ、『その事象が起きるに足る』条件――この場合は発火するに到る条件である。
「諸君は最初期の魔術学を履修する過程で理解しているだろうが、この場を借りて再三通達しておこう」
 前置きとともに私は踵を返し、生徒らを睥睨する。「魔術とは、絵空事に記述されるような荒唐無稽な代物ではない。神が定めたる世の理を解し、緻密な数式と法則の掌握により物事の真実に近付く技であると共に、それらを創造された神の偉大さを知るべく我らに授けられし階なのだ」
 こちらを凝視する生徒の中には、怪訝な表情をしている者が数名いた。やはり触れておいて正解であったか。
「理解を深めたまえ。これから諸君がなすべきことは、目の前にあるものから目に見えぬ事象までを把握する力だ」
 そう言葉を結び、私は実験の開始を告げる。
 静かな賑わいが、実験室を満たしていく。生徒らが黒板に私が板書しておいた手法に則り条件を理解し、次々と詠唱を紡いでいくのだ。
「――師シャハトナー」
「何かね、ルイ・オリヴィエ」
 当然、私の職務にはこうした生徒からの質問に解答の手ほどきを教授することも含まれている。
「発火に至る過程の理解が不完全なのか、魔術の発現が起こらないのですが、この場合はどうすべきでしょうか?」
「ふむ……」
 ルイ・オリヴィエ。魔術の技術は下の上だが座学では優秀であると聞き及ぶ。分からないなりに分析するのは噂には違わぬ証ということか。
「もう一度、再現してみたまえ」
「はい」
 私が促すと、ルイ・オリヴィエは半眼になり呼吸を整え、詠唱となる言葉を口に乗せた。
『我、オリヴィエの血脈に連なる者が命ず。力の根源、其は焔を生む礎となれ――』
 精神の昂揚と意識の方向付けである詠唱自体には、さしたる意味はない。問題はルイ・オリヴィエを取り巻く力――魔力の流れだ。
 明らかに、引き込むための力が足りていない。ただでさえ他の生徒よりも魔力の劣る彼が、十数人もの生徒らが一度に実験を行おうとしているこの教室で、この方法は正しくない。
 結果を確かめるまでもなく、私はルイ・オリヴィエに注力不足であると指摘する。
「君のやり方は君には合わない。ジョルジュ・モローの技法ではなく、より詠唱時間を多く取るギョームの技法で臨みたまえ」
「はい、分かりました」
 好感の持てる返事をしたルイ・オリヴィエは、再び実験に取り掛かり始めた。
 これこそが、評価すべき生徒の姿勢だ。魔力が乏しい、才能が劣る者であろうと師である私の言葉を柔軟に聞き入れ、一意専心に取り組む。素晴らしいことではないか。
「諸君も、ルイ・オリヴィエの――」
 直後、私の背後から耳を劈くような爆音が轟き、私は完全に予測不可能であったがために爆風をまともに受けてしまい、気が付けば俯せの姿勢で床に倒れていた。
 ……私が知る範囲内で、このような暴挙をやってのける生徒は一人しかおらず、実際に別の生徒が告げた名前は予想に違わぬものであった。
「師シャハトナー、またメイアー・ブライアンです」
 舌打ちと苦虫を噛み潰して、私は嵐の目を見やった。
 焼け焦げた机と爆散した器具の中心にいるのは赤毛の娘。眼力の備わる吊り上がった眦は、この娘が傍迷惑など省みぬ、頑強な意思を持っている証左となっていた。
 この娘が、『学院』始まって以来の問題児としてその名を轟かせるメイアー・ブライアンである。
 無駄であろうと半ば予見しつつ、私は彼女に事態の説明と反省を求めた。
「メイアー・ブライアン、何か釈明はあるかね」
「こっちの方が威力が高そうだからやっただけよ。他に理由なんてあるわけないじゃない」
 しおらしい態度の一つでも見せれば酌量の余地ぐらい考慮してやろうかとも考えていたが、この娘は一切の悪びれた様子も見せない。
「……いいかねメイアー・ブライアン、今回の授業の要諦は、発熱と発光の両現象における共通点の確認と考察だ。魔術はその際の手段ではあっても主眼とはなり得ないのだがね?」
「そんなの後で適当にまとめて出しとくからいいでしょ? あたしは魔術そのものの研究がしたいんだから」
「そういった行為は魔術学で行いたまえ。現在君達は発熱と発光の両現象における共通点の確認と考察、この作業に専心励まねばならん」
「あんな座学に興味なんてないわ。あたしはね、魔術を使うことにしか興味ないもの」
 ……怒るな、フランシス。
 確かにこの娘は、シュマルカルデンの理念を真っ向から否定している旨の発言をしてはいるが、そこには机上の空論を由とせぬ思想があってのことであろう。
「……なるほど。君の言い分にも是とし得る点は見受けられよう。しかしだ、メイアー・ブライアンよ。今はあくまでも基礎を学ぶ授業なのだ。私の指示に従わず、生兵法を試みた結果が現在の君を取り巻いている惨状であり、そのことへの反省を周囲にしめすべきだと、そうは思わんのかね?」
「これっぽっちもないわね」
 ……怒るなフランシス。君は今年で三十歳という人生の節目を迎えたばかりだろう。
 聞き分けのない生徒には、それ相応の方法を以って接するのが基本じゃないか。
「……失礼するよ、メイアー・ブライアン」
「は?」
 曲がりなりにも少女であり、信じたくもないがこの学院の生徒でもある彼女に一応の断りを入れて、私は彼女の片手を取る。
「ちょっと、あんた何すんのよ?」
「諸君は実験を一時中断した上で待機したまえ。私はすぐに戻る」
 返事は聞く必要がない。残る問題は、私の手元で騒々しく文句を垂れている彼女を時間内に連行することだ。
「メイアー・ブライアン、君は私と共に来たまえ。文句ならその後聞こう」
 授業初日から指導室へ足を運ぶ破目になろうとは……この先が思いやられるものだ。

○二人目、気位の高いルイ・オリヴィエ○
 指導室を知っているか? あの教科棟と実験棟の、それぞれ奥にある部屋だよ。
 ああ、馬鹿げた話だろ。目上の方々にふざけた態度なんかとれるはずもない。はっきり言って無意味な代物でしかなかったと先輩もおっしゃっていたよ。
 ……さあね。噂じゃあ、苦言を呈されたどなたかの制服を燃やしたとかで連行されたらしいけど、僕も人づてに聞き入れた話だからな。
 まったく、どんな奴だか一度そいつの顔を拝んでやりたいものだよ。
(ルイ・オリヴィエ、入学から一ヶ月後の会話より)



 出てきた。奴だ。
「今年に入り、通算五度目の指導室送り……見上げた成績だねぇ、ブライアン」
「うるさい」
 僕が指導室から出てきたばかりのブライアンに一声掛けてやると、奴は羽虫が纏わり付いているような顔をした。
 ……ブライアンのくせに。気に入らないな。
「師アルマンドが常々僕に仰っていたよ。『メイアー・ブライアンは魔術の技量に増長するあまり、年を下るごとに傲慢さを増すであろう』とね。……いやはや、いったい僕は、師の慧眼を称賛すべきか、君の単純さを嘲笑うべきか、どちらだと思う?」
 返事は声もなく投げ返される。奴は例の、猫のように吊り上がった目でこれ以上ないくらいに僕を睨みつけていた。
「何だその態度は。問題児の疫病神が、僕にそんな口をきいて許されると思っているのか?」
「黙りなさいよ、ルイ」
 おお怖い怖い。僕は身をすくめる素振りを見せ、「……耳が悪いのかい?」と訊いてやった。
「ああ、本当に悪いんだっけ。でなければ、先生や先輩方の度重なる注意に耳を傾けないなんて愚かな真似はできないものねぇ」
「もう一度だけ言ってあげるわ。黙りなさい」
 ブライアンは、今にも飛び掛かりそうな顔をして僕を睨みつけている。
 悪いね。だけど折れてやるものか。
「もう一度言ってやろう。口の利き方には気を付けたまえ、ブライアン」
 血に飢えた獣のように瞳をぎらつかせているブライアンに、敢えて僕は近付いてやる。奴のことを恐れていないぞと印象付けることと、もう一つの狙いのためにね。
「つくづく、君も愚かな人間だよ。天分を弁えず強情を貫くなんて世の理に反しているよ。風や水、土や火も、人も含め全てのものは上から下へ、有から無へと転じていくものじゃないか。その当たり前の理から外れるようなことをしていて、何が魔導師だ」
 ブライアンは言葉も出ない様子だ。流石の問題児も、理屈で責めてやれば自然とやることは見えてくる。
「黙れって言ってるのが聞こえないわけ!?」
 襟を掴まれた直後、僕は少女とは思えない奴の力で強引に引き寄せられた。
「あんた――」
「調子に乗るなよ、メイアー・ブライアン」
 可能な限り冷ややかで、威厳を感じさせる声を出して、僕はブライアンに言ってやる。
「たかだか、火を点けるのが上手い、物を壊すことが上手いだけの奴が、軽々しく僕に触れるな。この――」
 この先を、僕は続けることができなかった。
「っあんたなんかに、何が分かるってのよ!!?」
「はぅ……ッ!?」
 落雷だ。母様、落雷が僕の股間に……!!
「この、――――!!」
 僕が床に蹲っている間に、ブライアンは何事か吐き捨てて教室の方に戻っていった。
「……おのれぇ、ブライアン……こ、この恨みは……必ず、晴らしてやるからなぁ……っ」
 と、とりあえずその前に医務室に行かないと……くぅ。

○三人目、爆発娘のメイアー・ブライアン○
 食堂までの廊下って大っ嫌いなのよね。一々無駄に長いし、おまけに隅っことかその辺にカビみたいに固まってる連中の話してる内容のつまんなさときたら! 機会があったら何が楽しくて一日過ごしてるのか訊いてみようかしら? しても無意味だと思うけど。
 何よあんた、あたしに何か言いたいことでもあるわけ!?
(メイアー・ブライアン、ある日の愚痴より)



「あーもう! ほんっとにムカつくったらないわ!」
 あの石頭のシャハトナーも、いけ好かないルイも、あたしのことをちっとも分かっちゃいない。ほんと、これっぽっちも!
 あたしがやりたいのは、あんな使い道のなさそうな地味〜な実験なんかじゃなくて、もっと弾けるような魔術の実戦なのに、ここの連中ときたら、やれ加熱の具合がどうだのってしょーもないことしかやんないんだもの! 自分のやりたいようにやってくしかないじゃない。
 だいたい、あたしはとっくに魔術の基礎なんか最初っから理解してるっていうのに、何でまた他の素人――しかもルイみたいないけ好かない奴なんかと一緒に授業をやんなきゃいけないのって話よ! どうしてこの学院にはめんどくさい学年をすっ飛ばしてくれるような制度がないのかしらね。
 あーもう! また思い出したらイライラしてきたわ! ルイの奴、今度実験の時に会ったら髪でも燃やしてやろうかしら。流石に爆発させるとあたしが悪者扱いされかねないし。
 そんなことばっかり考えてる間に実験棟の廊下は終わって、食堂の前にある悪趣味な置物が見えてきた。どうして貴族って、こんな嫌味ったらしい調度品とか好きなのかしらね。ルイにしてもそうだけど、ほんっと理解できないわ。
「……ひっ!?」
 入れ違いに食堂から出てきた上級生が、あたしの姿を見るなり血相変えて逃げてった。人を化け物か何かでも見るような目で見るなんて、失礼な奴ね! だいたい、公衆の面前で制服を燃やされたのだって、ネチネチとあたしに絡んできたのが原因じゃない。逆恨みも大概にしてほしいものだわ。
 ……そんなに、貴族じゃない奴が入学したのが気に入らないのかしらね。
 露骨に視線を避ける奴はいない。気付いた奴らは気付かなかったふりをして、急に声をひそめて喋り出す。
 我々に飼われている一族のくせに。
 分を弁えろ。
 何故父上が退学させないのか分からないね。
 恐ろしい野蛮人。
 ……笑っちゃうわね。それで人を怒らせようっていうんだもの。
 それとも、まさかほんとに燃やされたいのかしら?
 あたしが本当に入学したかったのは、シュマルカルデンなんかじゃなくって、魔術を武器とだけしか見ず、ただひたすら有効な扱い方を学んでいくテリオン院の方。
 戦いに優れた魔導師は、大半がここの系列に属しているって話だもん。そこにあたしは入って、何ものにも負けない力を手に入れたかったのに!
 魔術の才能は充分にあった。体だって毎日欠かさず鍛えている。他の受験者の中で抜きん出て――ううん、一番だったかもしれなかった。
 なのにテリオンは、このあたしを拒んだ。
 悲しみや絶望より、怒りが何よりも強かったことは、よく覚えている。あたしは、受け入れさせる条件を充分にたたき付けた。後は首を縦に振らせるだけだったのに、最後の最後であたしを撥ねたテリオン院が、何よりも腹立たしかった。
 普通の人ならそこで諦めるのかもしれないけど、あたしの決意と情熱は簡単に鎮火しない。ダメだったらさっさと別の方法でやるのがあたしの流儀だもん。
「ヒヒ、お待ちしとりやした、お嬢様」
 嫌になるくらい大きな食堂の隅。いつの間にかあたしの『指定席』になってた場所で、背中の曲がった男ができたての料理と一緒にあたしを待っていた。

○四人目、食堂勤めのメルヴィル○
 へへ……捨てる神あれば拾う神ありと言いやしてな。こんな山奥の、それも糞餓鬼の召使なぞせにゃならんのですぜ。幾らだって人は足りんのでやしょう。
 そのお陰で、私みたいな僂し男が仕事にありつけたって話でやす。
(メルヴィル、ある日の会話より)



 燃える炎みたいな髪の毛を逆立てて、お嬢様は今日もやって来なすった。
「ヒヒッ。お嬢様、今日はいつもに増してご機嫌斜めでごぜぇますな?」
「ほっといてよメルヴィル」
 どっかと椅子に腰掛け、お嬢様はやはり不機嫌顔。いつもならば二言三言、言い返してくるものだが……こりゃあ何かあったな。
 とはいえ、おいらの仕事はまだ途中。ちと冷めちまったかもしれんが、お嬢様にゃあしっかり味わってもらわんと。
「失礼しやす、お嬢様」
 ひん曲がっちまってる背中でも何とかお嬢様の首に布巾を巻いて、おいらは次に今日の品々を説明する。
「今日の品々は……えー、蜂蜜を練りこんだパンに、春野菜の塩揉み、鶏肉とジャガイモのミルク煮、そして果物でやす」
「ふぅん」
 おいらの説明なぞ、半分も聞いてないって顔をして、お嬢様は一口目を放り込んだ。
 どんな顔してても美味い物を食ったら表情が変わるってのは、やはりお嬢様も年頃の娘さんだということか。
「いかがでございましょ?」
「……うん、まあ、美味しいわ」
 よしよし、ちょいと綻びなすったか。
「ヒヒッ、流石はお嬢様、心得てらっしゃる。今日の品々は、ちょいと冷えたくらいからが美味いそうでしてな。せかせかと来られとった方々は……ヒヒヒッ、ちょいと損なさるようにできとりやす」
「そうなの? よくできてんのねぇ」
 ミルク煮を一匙掬ったお嬢様は、そいつをしげしげと眺めなさる。おいらは、さっきのが全部嘘だなんて余計なことは言わず、今は食事を進めなさるよう促しておいた。
 数々の料理が、お嬢様のほっそりした腹に収められていく間に、おいらは空の皿や器を片付けていかないとならない。何せそいつがおいらの本当の仕事だ。
 暫くして、お嬢様の食事があらかた片付いたのを見計らい、おいらはあのことをお尋ねする。
「そういや、今日はいつもより遅うごぜぇやしたが……何ぞ、ありましたかね?」
「……ああ、それね」
 物憂げな口調から一転、お嬢様は拳を机に叩き付けなさった。他の餓鬼めらも驚かれたようだが、出所がお嬢様だと分かるとすぐに談笑に戻られた。
「ほんっとに腹が立つわ! 頑固者のシャハトナーもルイの馬鹿も、どいつもこいつもあたしのやることにケチを付けるんだから……!」
 次から次へと流れ出るお嬢様の愚痴は、いつものと同じ先生方と御学友のことであった。というかこの方の愚痴の殆どがそれで、残りは日々の天気だったり、美味かった食い物の話だ。
 ま、どんな形でもきちっと腹ン中身を吐き出せてるんだ。お嬢様は今日もお元気でいらっしゃるよ。
「ふむふむ……なるほど。そいつぁひどい話でごぜぇやす」
 お嬢様の愚痴が一段落したのを見計らって、おいらは相槌をを打った。三年もこちらでお世話してりゃ、自然と会話の呼吸ってやつも身に付くものさ。
「お嬢様もでやすが、その方々も不憫なもんですねぇ」
「……どういうことよ?」
「ヒヒッ、器の小さい輩にゃ、器の大きい人間は理解できぬもんだと言いやすからね。お話に出てきてたお二人にゃあ、お嬢様がなさろうとしてることを理解するのは少々辛いんでしょうよ」
「そんなもんかしらねぇ」
 お嬢様は頬杖ついてぼやかれる。だが顔色は満更でもなさそうなんで一安心だ。
「そんなもんでごぜぇますよ。何かでっかいことをやろうって方は、だいたいがそういった理解のできない輩や、それに取り組む奴を妬む輩に阻まれるものでやす。人間の醜い部分でごぜぇますよ」
 お嬢様のために林檎の皮を剥いて差し上げながら、おいらは思いつく限りの世辞を並べる。
「それも全て、お嬢様のなすってるものが立派過ぎるがため、あの御人らにお嬢様を推し量る力がないため。そうでごぜぇましょう?」
「……うん、まあ、そう言えないことも、ないわね」
 ちょいとばかし頬を引っ掻いて、お嬢様は笑って下すった。ちょいと恥ずかしそうだが、おいらにゃもったいないくらいの笑みだ。
 いいねぇいいねぇ。カッカしてる時の方がお嬢様らしい気もするが、やっぱり年頃の娘さんは笑ってる方がずっといい。
「剥けやしたぜ、お嬢様」
「ん、ありがと」
 皮が嫌いだっていうお嬢様は、おいらが剥いて差し上げると嬉しそうになさる。そんな姿を見てると、ついつい年甲斐もなく二つ、三つと剥きに掛かりたくなっちまう。
「メルヴィル、あたしはそんなにもいらないから」
「おっと、こいつぁすみませんや」
 皮を剥く手を止め、おいらは頭を掻いた。
 ――お嬢様は、おいら達の希望だ。
 たしかに口は悪いが、決して威張らねえし性格も腐っちゃいない。あれで中々利発なところもあるし、それに……まあ、美人でもあるしな。
 そして何より、お嬢様は本当に貴族じゃねえらしい。
 嘘か本当かは分んねえし、もしも本当なら大事だと糞餓鬼どもは囁いてたが、おいら達にしてみりゃそっちの方がよっぽどいい。
 だから、ってのもおかしな話でやすが、おいら達下働きの人間ってのは、だいたいがお嬢様の味方だ。惚れ込んでると言ってもいい。
「話、聞いてくれてありがと。……じゃあね! メルヴィル」
「ヒヒッ、また夕飯時にお会いしやしょう」
 手を振って下さるお嬢様に一礼して、おいらは手前の仕事に戻る。
 あのお嬢様だったら、おいら達にも貴族どもにも想像できねぇような、何かでっけぇことをやってくれるって気になっちまう。そう思っているのはおいらばかりじゃねえ。

○最後に、院長ルナリエ・クルツハルト○
 ……そうですね。やはり大きな理由としましては、生徒らの日々励んでいる姿を、この拙宅の、(わたくし)の部屋から見ていたいからなのでしょう。大いなる貴方様の下、彼らが未来のフェリューストがために研鑽する姿を想像しているだけで、私は替え難い幸福を覚えますので……あら、私はそんなに可笑しなことを申しましたか?
(ルナリエ・クルツハルト、学院内別邸の落成祝い時の会話より)



 そろそろ就寝時間となりかけている時分に、扉を叩く音が聞こえてきた。
 私は執務の手を止め、扉の向こうにいる来客に名前を求めた。
「どなた?」
「シャハトナーです、マダム」
 おはいり、と告げて、私はフランシスを招き入れる。
「珍しいわね。貴方がこんな時間にやって来るなんて」
 業務日誌は既に全員の分を受け取っていたし、彼の性格を考慮すればだいたいは想像つくけどね。
「……何か、相談事でもあるのかしら?」
「はい、マダム」
 やっぱりね――私がそう口にするよりも先に、フランシスは用件を切り出してきた。
「メイアー・ブライアンは、可能な限り迅速に退学処分とすべきです」
「メイアー・ブライアン……ああ、あの三年生の」
「はっきりと申しまして、彼女は我らが学院の品位を著しく損ねています。講師の話には一切耳を貸さず、実技に至っては危険極まる方法を勝手に試みて器物を破壊する始末。その上……」
 この後も、延々とメイアー・ブライアンが学院に相応しくないかと語り、最後にフランシスはこう付け加えた。
「これだけの被害損害が列挙されているにも拘わらず、何故マダムはメイアー・ブライアンに退学処分を下されないのですか?」
「……フランシス」
 どうして貴方が、そんなことを言うのかしら。
「私が、メイアー・ブライアンという人物についての理解を違えていると、本当に思っているのかしら?」
「……神ならぬ我らならば、目が曇られることもありましょう」
 一瞬だけ躊躇いを見せたけど、フランシスは言い淀みなく返してきた。眼差しだけはあの頃のまま、とても真っ直ぐに。
「……そうね。私も省みれば、何処かしらで間違いを犯したかもしれないわ」
 フランシスの狙い通りの気弱な台詞。そこに私は、「だけど」を加える。
「私は、私自身が選択した道を後悔したことは一度としてないわ。勿論、公私を問わずね」
「……しかしながらマダム、貴女様の価値判断が、必ずしも学院の利に繋がるとは――」
「それについては貴方にも言えることね、フランシス」
 と返したついでに、少しだけ意地悪。
「こと、メイアー・ブライアンの件に関して、貴方は大きなことが言えないのではなくて?」
「…………っ」
 予想通り、フランシスは表情を強張らせた。
「ま、マダム、それは――」
「関係ない、とは言わせないわよ」
 と私が言っても、フランシスは食い下がろうとする。
「私の時とは状況が違います。メイアー・ブライアンという娘の危険性を、貴女は真に理解されていないのです」
「危険というのは、何を指して危険というのかしら?」
 苦しい論理を出してきたわね、フランシス。
「この学院の秩序を、あの娘は破壊しようとしているのですぞ」
「そうかしら? あの子は自身の目標に向かってひたすらに努力しているようにしか見えないけど」
「その姿勢に問題があるのです。講師を講師とも思わず、一切の反省の態度を見せることもない。そんな娘を、どうして――」
「フランシス・シャハトナー」
 少しだけ、言葉に力を込めた。
「メイアー・ブライアンを捨て置くべきではないという貴方の目と忠節は好意的に評価しましょう。ですがそれまでです。この学院の全てを統括する者として、メイアー・ブライアンには現時点では退学処分以上の罰則は下しません」
「……それが、貴女様の結論なのですね?」
 既に諦めの色が見える顔のまま、フランシスはそれ以上の食い下がりも反論も見せずに踵を返した。
「フランシス」
「……失言はお詫びします。失礼致します」
 私が止めるのも聞かず、フランシスは退室してしまった。
「……貴方も変わったみたいね、フランシス」
 フランシスの言いたいことはよく分かる。合理的に多くの人を動かすことを考えれば、メイアー・ブライアンのような反骨心の強い生徒は必ずどこかで統制を乱す原因でしかなく、したがって採るべき選択はこの学院からの排除というものになるのだろうけど、本当に考えなくてはいけないことは、果たしてそれだけでいいのだろうか?
 彼の時もそうだったけど、十で構成された集団の中で一の異物は、強烈な違和感を放つ。その異物は思想であったり、能力であったり、時には若さであることもあるけど、その一つを極端に嫌う性質は、未だになくならない。
 ――貴方も、そうした九と戦ってきた人間でしょう、フランシス。
 入学当初から才を示し、見る間に頭角を現していった彼が、自らの研究の正当性を証明し、同時に広く喧伝すべく教職を志したのは必然だったのだろう。
 卒業を目前に控えた彼を教職に就かせるか否かで、学院は一ヶ月近く、私を始めとする容認派と職員の殆どで構成された否定派に割れた。ただでさえ年功序列の風潮が強い学院、それも本部であるこの学校では、彼のようにある程度の実力と由緒ある家名を持っていたとしても若さで阻まれるから。
 死傷者こそ出なかったけど、数名の職員が学院を退職していくという事態も発生していった末に、彼は今の立場にいる。
 その結果、フランシスは異質性を排除しようとする九との戦いを忘れ、畑違いとはいえ彼に近似したメイアー・ブライアンを排除しに掛かっていた。
 ――歴史は繰り返す、ということかしら。皮肉なものね。
 三十と数年前にあの御方がこの学院を去って以来、講師も学生達も新たな研究や実験への探究心を忘れ、今は誰も彼もが旧来の実験に携わるのみとなっていた。まさしくあの御方が残した言葉そのままの姿となって。
 このままでは、学院に課せられた責務を果たせているとは言えない。
 だからこそ私は、メイアー・ブライアンという少女に期待している。私の手による強制ではなく、集団の中から変革を促す者となることを。
「そのためにもフランシス、貴方には是非とも協力していただくわ」
 私達シュマルカルデンに属する者の使命――それは大いなる神の名の下にこの世の理を全て解き明かすこと。そこに至る者の一助となること。老人や教師の牽制争いに気を取られている暇はないのだ。
「カーティス様、貴方の無念は私が晴らします」
 しかし道は、未だ遠い。

6『日々の黄金と冒険と』


 サンドラ王国とは、有名無実の代名詞であると人は言う。
 リグニア王国、ヴァンダル帝国、フェリュースト諸公国、ベイザント連合に比肩する、ジィグネアル南方の大部分を支配する五大国なのだが、どの国とも深い交流はなく、五大国の国主による議会の記録にも殆ど記述がないため一般的には五大国の一角である以上の認知はされておらず、ともすれば全く知らない内にその生涯を終えていく者も少なからずいるだろう。
 それもそのはず、サンドラ王国という国は、国土の大半が、およそ人間の足を以って到達できるとは思い難い土地によって占められているのだ。
 ヴァンダル帝国領南部と接している北部は、およそ生き物が住める土地だとは思えぬ広大な砂の大海原が洋々としており、生半可な装備では、一日として持ち堪えることも難しい地獄が口を開けているのだ。
 そこから南に下っていけば徐々に森が増え始め、死の世界は一転して鬱蒼とした大森林地帯となるのだ。砂の海からそこに至るまでの道程は人の手が一切加えられておらず、間違っても人の住める場所ではない。
 そう、人が住むための世界では。


 サンドラ南西に鬱蒼と広がる大森林――それを構成している巨大な樹木の一部に、不自然なものが見受けられた。
 取っ掛かりと呼べる物などない幹の、地面からは遥かに遠い枝の上。大樹の枝と、蔦と葉で、こさえた小屋が七つ八と並んでいた。隣の樹にも目を移せば、やはり同じ小屋がある。
 しかし、どちらも階段、梯子はおろか蔦もない。
 そんな高所にある小屋の、一つに大きな翼を持った、壮年の男が羽ばたき舞い降りた。
 その男は、人界ではおよそ目に掛かれぬ姿をしていた。
 天井近くにまで届く長身に、腰巻き以外は露になっている筋骨隆々たる体躯。赤茶けた髪は肩の辺りで乱雑に切られてあり、風貌は猛禽のように鋭い。
 それら身体的な特徴を抑え、男を異常たらしめているものこそが、男の肩甲骨辺りから生えている一対の、男の髪と同じ赤茶色の翼であった。
 壮年の男が睨む先には、剽悍な体躯の男が立っている。翼や装いこそ入ってきた男と同じものであるが、表情には全く力がなく、両者の力関係を浮き彫りにさせていた。
「あ、長――」
「アニルの奴、まだ見つからんのか!?」
「は、はいっ」
 大喝。脳天に響く怒鳴り声に、部下と思われる男は身を竦ませつつ頷いた。
「まったく。あの小僧にはほとほと呆れて物も言えぬ。あれでわしの子だというのだから頭も痛むわ」
「それだけ文句も言えるのでしたら、大丈夫では――」
「何だと?」
 慌てて男が口を噤むと、長と呼ばれた男は再び声を荒げて、身振り手振りを交え胸中の不満を吐露する。
「他の者どもを見よ! 皆相撲や速飛びで互いに腕を競い合っておるというのに、アニルの馬鹿は側女を連れて森中を意味もなくうろつき回っとる! 長として、父として、これ以上情けないことがあるか!? あるなら言ってみろ、直ちにお前の舌を捩じ切ってくれるわ!!」
「な、ないです……」
 男が首を横に振って同意すると、長は鼻息も荒く男に厳命する。
「兎に角、お前さんは手の者に命じて奴を探しに行かせい! そしてわしの前まで連れてくるのじゃ。よいな!?」
「はいっ!」
 裏返った声を上げた男は小屋を文字通り飛び出していく。その様子を眺めること数秒。長は怒気の入り混じった嘆息を洩らす。
「アニル、どこに行ったんじゃ……!」


 緑の天涯が頭上を覆っている。
 汗ばむような熱気と湿気を切り裂いて、大きなものが二つ、緑の天涯をかすめていった。
「アニル、待って……!」
 必死の形相で追うのは、薄茶色の翼を懸命に羽ばたかせて飛ぶ、気弱そうな少女。
「お前が急げよカマラ!」
 それを悠然と後続としているのが、アニルと呼ばれた赤茶色の翼を持った少年。カマラなる少女とは対照的に、全くと言っていいほど疲れた様子は見えない。
 二人の差は一向に縮まらず、むしろアニルは更にカマラを引き離し始めていた。
「アニ、速いから……もう……」
「あー? 何だもう疲れたのか?」
 振り返り、いよいよカマラの表情が限界を示していることに気付いたアニルは、はばたかせていた翼の動きを変える。それまで風を切っていた翼は落下しないよう大きく緩慢に空を打ち、安全な高度まで下降させた。
 直後、カマラもアニルの隣に着地する。
「はぁ……はぁ……」
「すぐヘタれるなぁ、カマラは」
 はかなげな風貌に玉の汗を浮かべて辛そうに肩で呼吸をしていたカマラは、対照的に涼しげな面持ちのアニルにこう言った。
「……アニルが、勝手にどこかに……はあ、行かなかったら……こんなに、疲れなかったよ」
「ったく、またその話かよ」
 頭の後ろで手を組み、アニルは嫌そうな顔を作るが、そうした態度を気に留めず、カマラは続けた。
「ねえ……どうしてアニルは、他の男の人達がやってる遊び、しないの?」
「分かってないなあ、カマラは」
 小馬鹿にしたようなアニルの物言いに、カマラが小さく眉根を寄せていると、アニルは大きく伸びをし、緑の天蓋から漏れる日差しを眺めて答える。
「俺がしたいのは、冒険なんだよ」
「冒険……?」
「そう。ここにいたんじゃ見られない景色とか生き物とか、兎に角そういったものに会ってみたいんだよ。何て言うかさ……あんまり上手く言えないけど、俺、カッとなりたいんだ」
「……かっと?」
 物言いが抽象的なために伝わりきらず、首を傾げてしまっているカマラにアニルが口を尖らせようとすると、
「!」
「わ、わ……っ」
 何の前触れもなく、地面が震え出したのである。
《ブギ! ブギィ〜〜〜〜〜〜!!》
 木々の間を地響きとともに走り抜け、二人の前に現れたのは、アニルとカマラの伸長を優に上回る、猪の頭部と下半身、ヒトの上半身を持った生物であった。棕櫚の葉を蔦で縛っただけの、簡素な腰巻を穿いている。
 獣人と呼ばれる、人界では滅多に見ることのできない生物を見上げ、アニルは朗らかな笑みを浮かべる。
「プラブフも来たか。これでいつもの面子が揃ったな」
《ブギ!》
 プラブフが、鼻を鳴らして胸を叩く。言葉による会話はできないが、彼やその一族はこうして自らの意思を伝えてくれることがある。
「……やっぱり、今日も行くの?」
 というカマラのささやかな制止が届くはずもなく、アニルとプラブフ、そして嘆息するカマラという組み合わせによる森の探索が始まった。


 人界でも共存し合う鳥と猪がいるように、アニル達ヴァユの一族とプラブフの一族ヴィマルは、お互いに協力し合って生きていた。
 空を飛ぶ翼と優れた眼を持つヴァユはヴィマルに獲物や危機を報せ、強靭な肉体と優れた嗅覚を持つヴィマルは住居の建築やヴァユの狩りに協力するなどの相互協力の歴史は長く、アニルの父の代には既にあたりまえのものとなっていた。
「……ねえ」
「あ?」
 大樹が幾つも密集する森の中、道なき道を迷わずに歩いていくアニルに、カマラがおずおずと話し掛ける。彼女はどれだけ大きくなっても、アニルにはどこか怯えたような態度を見せていた。
「今日は……どこまで行くの?」
「行けるところまでだけど、今日は『暴れ河』の向こうまで行ってみるかなぁ」
 暴れ河――アニルがそう言った途端、カマラの顔色が青くなった。表情も強張りがある。
「『暴れ河』……行くの?」
 ヴァユによって物々しい名前を冠された長大なる大河は、最も暴威を振るう秋季に限らず、奇怪な現象を度々起こしている。その不可解さを恐れたヴァユ達が、その感情を率直に表す名前を冠したものが、先述の『暴れ河』なのである。
「あ、危ないよ……?」
「まあ、そう言われてるなぁ。……あ、プラブフ、それって美味いのか?」
《プギ!?》
 プラブフが、倒木から何か抜き取って食べていた。それに気付いたアニルは、カマラの注意をすり抜けるようにプラブフへと歩み寄り、彼が二人に隠れるようにして食べていた物を覗き込もうとするが、プラブフは頑なにそれを阻止しようとしていた。
 そんな様子を、カマラは暫くの間何もしないで見ていた。絶句していたのではない。言いたいことに対して、口の回転が追いついていないのだ。
 とりあえず、話だけでも聞いてもらおうと口を開きかけた時、カマラの耳はとある音を聞き逃さなかった。
 複数の男の声、羽ばたきの音、そして地面を揺らす、重大な足音。
「アニル……!」
「落ち着け。プラブフ、お前も木の陰に隠れるんだ」
 同じく状況に気付いていたアニルとプラブフは、それぞれ大樹の陰に身を低くして隠れた。
「アニル様ー! どちらにいるんですか、アニル様ー!」
「アニル様―! どうかお返事を!」
「スーリア、お前もアニル様の匂いをしっかりと探してくれよ!」
《プギ!》
 聞こえてきた話し声は四つ。ヴァユの一族が三人に、ヴィマル族が一人加わっているようだ。
「プラブフ、お前ちゃんと追っ手は撒いたんだろうな?」
《ブギ!?》
 アニルが念を押すように確認すると、プラブフは落ち着きなく首を前後に揺すりながら目を逸らした。
 失念していたことを長年の付き合いから見抜いたアニルは、プラブフの手を握って落ち着かせる。
「ま、仕方ない。まさかヴィマルにも頼むなんて俺も思ってなかったよ」
《ブギィ……》
「ははっ、いいっていいって。それより今は、逃げる方法と――」
 そこで言葉を切ったアニルは、視線を背後に移した。
「アニル……?」
「カマラ、怖いならお前だけ帰ってもいいんだぞ」
 アニルがそう言うと、カマラは頬を僅かに紅潮させ、口をもごもごと動かし始めた。カマラが必死になって言い返そうとする時に出る癖である。
「い……っ」
「い?」
「い……行くよ……」
「誰が? どこに?」
「……わ、わたしも……アニル達と行くの……!」
 それまで伏し目がちであったカマラが、真っ直ぐにアニルを見詰めた。朱の入ったはかなげな相貌は、切なさを覚えるほどに思いつめているように見えた。
 今度はプラブフが、アニルの肩に手を置いた。鈍重そうな外見とは裏腹に、この男は他人の感情に対して非常に敏感で、時にはアニルとカマラの喧嘩を仲裁したこともあった。
《プギ……》
「分かってるよプラブフ」
 自分の肩から手を放すようプラブフに伝えたアニルは、素早くプラブフの右肩に飛び乗った。
「ほら、カマラも」
「……え?」
「一緒に行くんだろ? ほら、プラブフの肩はまだ空いてるから」
 そう言ってアニルが指示を出すと、プラブフは身を屈めてカマラに左腕を差し出した。それを土台にして登れ、と言いたいのだろうと推測したカマラは、プラブフの剛毛が覆っている腕を恐る恐るよじ登っていき、彼の手助けもあって左肩に何とか腰を下ろすことができた。
 無事にカマラが座れたことを確認したアニルは、プラブフに合図を出す。
「よーしプラブフ、まずはあいつらから逃げ切るぞ」
《ブギ!》
 二つ返事で頷いたプラブフは、アニルの示す先――大樹と大樹の間を目指して一直線に走り出した。
 飛んでいる時とは異なった、大きな塊に何度もぶつかっているかのような揺れが襲う。
「! いたぞ、追い駆けろ!」
 当然、プラブフの鈍重な足音は追っ手にも伝わっていた。それまで見当違いの方向から聞こえていた話し声や羽ばたく音が、急速に接近し始める。
「アニル……!!」
「大丈夫だ。俺とプラブフを信じろ」
 信じろと言われてもカマラには容易に受け入れられず、自然と背後からの声は大きく聞こえてきた。
 固まっているよりは、三人それぞれで逃げた方がいいのではないか――カマラがそう考えない時はなかった。本当はアニルも同じことを考えていて、じきに『別々に逃げよう』と言い出してくれるのではないかと期待していた。
「……よし、いいぞプラブフ。その調子だ」
《プギ……ッ!》
 アニルに応じたプラブフは、呼吸こそ僅かに乱れていたが、脚にはまだ乱れを生じさせていなかった。巨体の割には過小に見える蹄は、苔むした地面や小さな岩を力強く踏み締めていく。
《プギ?》
「……うん、まだ結構遠くにいる。そろそろだな」
 そろそろ、とアニルが行った直後、カマラの胸が高鳴った。アニルどころか、他の人達に比べても飛ぶのが下手な自分は邪魔になったりしないのかと、不安にもなる。
「カマラ、しっかり掴まってろよ」
「え?」
 戸惑いはあったものの、アニルの言葉にただならぬ真剣味を感じ取ったカマラは、とりあえずプラブフの肩にしがみ付いた。
「走れ、プラブフ!」
《ブギィ〜〜〜〜〜ッ!!》
 頭上の木の葉すら落とすほどの雄叫びを上げて、プラブフは密林を駆け抜けていく。


 結果から先に述べると、アニル達は追っ手から逃れることに成功した。
 勝因は、大きなもので三つあった。
 一つ目は、今回の逃走劇が大樹の密集している森であったこと。空を飛べるヴァユとはいえ、流石に障害物の多い森の中は飛び辛く、追跡は容易くなく、大柄なヴィマルの一族が走って追うには厳しい環境だったのである。
 二つ目が、プラブフが追っ手のヴィマル族よりも若く、小柄なために上記の条件を逆手に取れる要素を持っていたこと。大き過ぎるために追っ手では通れなかった木々の間も通れるプラブフならば、自然と直線に近い場所を選んで通ることができたのである。
 そして最後が、それらの状況を把握し、即座に最適な選択を組み立てたアニルと、即座に実行したプラブフとの絆である。
 アニルだけでは逃げ切ることはできず、プラブフだけでも追っ手を出し抜くことはできなかった。全ては、この二人が揃っていたからこそ成し得たのだ。
「……まあ、そういうことなんだ、いい加減に機嫌を直せよ」
「……別に」
 プラブフの休憩がてら、大樹の根本に腰を下ろして逃げ切れた理由を説明していたアニルに、膝を抱えて座るカマラは、どことなく冷ややかな態度をとるばかりであった。
「別にって……どう見ても怒ってるじゃないか」
「……ない。アニルの気のせい」
 頑迷としか言いようのないカマラの応答に、アニルは頭を掻くより他なかった。
 さっきからカマラはこればかりであった。アニルが何を言っても機嫌を損ねたような態度を見せるだけで、理由に関しては全く触れようとしない。
 かといって、
「じゃあ、お前だけでも帰るか?」
「……いや」
 アニルが戻るように促そうとすると、これでもかと言わんばかりに視線に非難を込めて送ってくるのだ。
「なあカマラ、俺って何かお前に悪いことでもしたのか?」
「……別に」
 またもや堂々巡り――というのはアニルも好ましく思っていなかったので、腰を上げるとプラブフに視線をやった。アニルやカマラよりも大きな体には不似合いなほどにつぶらな瞳は、同情しつつも非難しているような色を宿しているように感じられた。
「……どういうことなんだよ、プラブフ?」
《プギィ……》
 さあな、と質問をはぐらかしたプラブフは、アニルの背後を指差した。剛毛に覆われた指の先には、未だに膝を抱えてこちらを見ているカマラの姿があった。
「えーと、カマラ?」
「……なに?」
 伏し目がちに、そして恨めしげに見つめてくる側女にアニルは歩み寄って手を差し延べた。
「立てよ。一緒に来るんだろ?」
 他に言葉が浮ばなかった。あまりカマラの顔色を窺うのも癪だった、ということもあったが。
「……うん」
 カマラが表情を和らげてアニルの手を握り返したことで、プラブフは安堵した。何かとアニルの『冒険』に加わることの多い彼だが、本来の役割はアニルの面倒見兼護衛役なのである。護るべき相手にして大切な友人が
 この後、プラブフが危惧した以上の問題は起きず、一行は遂に轟々と音を立てる濁流へと到達したのであった。
 河の水は水溜りのように澄んだものとは違い、濁っていて底が見えない。此岸と小さく見える彼岸との間の所々で白い渦がとぐろを巻いていて、そこへ枝葉や流木が入り込むと、あっという間に中へ引きずり込まれて見えなくなってしまった。
「これが、『暴れ河』……?」
 あまりの威容に呆然と呟いたカマラに「いや、違うと思う」とアニルは否定した。
「本物の『暴れ河』は反対側の岸が見えないんだって父さんが言ってたし……たぶんだけど、『暴れ河』の子どもみたいなものじゃないかな」
「子ども……これが?」
 本物はもっとすごいのだと言われても、カマラには想像がつかない。目の当たりにしているこの河でさえ、水ではない別の生き物のように見えているというのに、まだ大きな河があるのだと言われると、怖さしか覚えなくなってしまう。
「……カマラ?」
「……何でもない」
 何の前置きもなく手を握ってきたカマラをアニルは不思議がったが、また彼女は何も答えなくなってしまったので、仕方なくアニルはそのまま『暴れ河』の支流を探検することにした。
「プラブフー、そっちは何か見つかったかー!?」
《プギー!》
 こっちもまだだ、とプラブフが返してくると、カマラが傍から控え目に話し掛けてきた。
「……帰る?」
「駄目だよカマラ、ここで帰っちゃったら冒険じゃなくなるじゃないか!」
 折角父の手を振り切って訪れたのだ、『暴れ河』そのものではないとはいえ、すぐに帰ると言い出したカマラにアニルは少し腹が立った。
 それが伝わったのか、カマラは何か言おうとして、しかしすぐに謝ったのであった。
「あ……ごめん……」
「いいよ。だからカマラも何か探して」
 自分から離しそうになっていたカマラの手を握り直して、アニルは探検を再開した。
「……アニル、おひさま」
「……うん」
 どれだけの時間が過ぎたのだろう。いつのまにか日差しは和らぎ、赤味を帯び始めていた。
 アニル達ヴァユには、致命的な欠点があった。遥か先をも見通す眼は、夜になると途端に何も見えなくなるのである。
「もうちょっとだけして、何もなかったら帰ろう」
「……うん」
 アニルは、カマラが安堵の息を漏らしたのを聞き逃さなかった。
 どちらかといえば臆病なカマラである。プラブフもいるとはいえ、流石にここで夜を迎えるのは心細いのだろう。
 しかし、事態はカマラの希望通りにはならなかった。
《プギ! プギィ〜〜〜!》
 プラブフが、何かを見つけたのである。
「プラブフ、どうしたんだ!?」
《プゴッ、プギ!》
 興奮した口調でプラブフは『こいつが河辺に引っかかっていたんだ』と言って、掌の中身を見せた。カマラも横から首を伸ばして覗き込む。
「? 何、これ……?」
 プラブフが見つけたものとは、アニルやカマラの手には少し余る程度の大きさの袋であった。口を細い蔓か何かで縛れるようになっており、そこが緩んでいるため中身が見えた。
 薄くて丸い形をした、金色に光る幾つもの物体である。その一つを摘んだアニルは、裏返したり陽光に当てたり、更には表面の細かい模様を指先で擦ってみたりと弄り回した。
「何だろうな、ピカピカしてるけど」
「おひさまみたい……」
 陽光を反射する様子を見て、カマラはうっとりと呟いた。
「……おひさまの、こども?」
「似てないけどなぁ」
 笑いながらアニルが軽く答えると、カマラの頬が赤らんだ。本気で言っていたらしい。
「まあ、俺も何だか分かんないし、もしかしたら本当かも」
「……別に、いい」
 またもや機嫌を損ねそうになるカマラ。最近ちょっと難しくなったなぁと内心でこぼしつつ、手元にあったカマラ曰く『おひさまのこども』をもう一度眺めようか、思い切って対岸まで行ってみようかと考えていた時、アニルの眼は捉えた。
 対岸で、ヴァユによく似た何かが動いたのだ。
「プラブフ、カマラを頼む!」
《プギ!》
「え……!?」
 抑えきれない衝動に駆られ、アニルは勢いよく飛び出した。
「アニル……!?」
《プギッ》
 心配ない、とプラブフはカマラを宥める。
 好奇心の強いアニルだが、危機感を全く欠いているわけではない。それに君まで行けば万が一の時、護れなくなる――その意全てを理解したわけではないが、落ち着き払った瞳にカマラは気持ちを少しだけ落ち着けた。
 でも、少し面白くないとも思う。
「……プラブフは、何でも知ってるね」
《プギィ……》
 羨望と何かが混在する一言に、プラブフは一抹の気まずさを抱えつつ、アニルの背を目で追った。
 対岸に着いたアニルは、自身を迎えた結果に愕然となった。
「いない……?」
 アニルは、懸命に視線を巡らせた。
 胸の内から焦りが次々と湧き上がってくる。
 そんなはずはない。確かにこの目で見たのだ。影。辺りは暗くなり始めている。時間がない。見えなくなり始めている。
 ここでアニルは、カマラとプラブフのいる岸を見た。闇に滲み始めた視界の中で、カマラが不安そうにこちらを見ていた。
 手の内の『おひさまのこども』を、アニルは強く握った。


 サンドラに数多住む亜人の中には、火を用いる者達も決して少なくない。ヒトと同じく、森の中では非力な者達にとって、身の危険を払うための恰好の手段であったからである。
 ヴァユの一族においてもそれは同じであった。昼間であれば比肩し得るものなしと彼らが誇る眼も、夜になれば途端に無力となる。それ故に火を使用し、昼夜を問わず鼻の利くヴィマルの一族を盟友としているのだ。
「よくぞ戻ってきたな――この、大馬鹿者が!!」
「い……っ!?」
 家に戻るなり、アニルの頭上に雷が落ちた。
「こんな時間まで、いったいお前はどこをうろついていたというのだ!?」
「どこって……さあ、どことも」
 いつもながら、他の一族の者なら震え上がるばかりの怒声を浴びせ掛けられて、それでもアニルは平然としていた。父への慣れが、それを可能にしているのである。
「今日はほんとにどこかも分からない所に行きましたからね。幾ら訊かれましても――」
「そういう問題ではない!」
 アニルの言葉を強く遮り、長は激烈な雷を落とす。
「アニルよ、お前の好奇心はいずれお前の身を滅ぼす。悪いことは言わん、せめて他の者らに交じるようにせい。お前ほどの男なら、それだけで長になれる」
 怒りに満ちた声音は、次第に哀願に似たものへと変わっていった。
「アニルよ、分かるか? これだけわしが口うるさくするのも、全てはわしが長だからではなく、お前の、アニルの父だからなのだ。息子であるお前の、幸せを願っているのだぞ。それだけは、忘れてくれるな」
「分かってますよ」
 その言葉を聞いただけで、長はアニルの両肩を強く掴んだ。
「痛いよ、親父」
「今の言葉、嘘ではないな?」
「こんなことで嘘吐いてもしょうがないでしょ?」
「おお、そうだった、そうだった……」
 頑ななまでに拒み続けてきた息子の翻意に、長は落涙も辞さないほどの喜色を満面に湛えていた。
「……遂に、遂に、わしの願いが叶う時がきたのか。おお、おお、これほど嬉しいことはない……」
 暫くの間、アニルには涙を見せまいと長は息子の肩を抱いたまま俯いていたが、やがて充血した眼を息子に向けた。
「こ、怖いってば親父……」
「なに、心配ならいらん。じきに何とでもなる」
 それより、問題は明日だと言って、長はアニルから離れ、逞しい翼をひと打ちする。
「明日?」
「そうだ。何しろヴァユの者全員にお前の力を示さねばならんのだ。全員だぞ、顔を付き合わせてとなれば、男だけでも一日はかかるはずだ」
 既に壮大な計画を打算し始めていた長に、アニルは呆気に取られつつ退室の意を告げた。
「何じゃ、もう寝るというのか?」
「ええ、まあ、明日のこともあるし、今夜はもう寝てしまおうと思って」
 アニルが言うが早いが、長は破顔一笑、快く息子の申し出を受け入れてしまった。彼の父としての、また長としての喜びは、平時ならば持ち得た冷静さを大きく損ねていたようだった。
 おやすみ、と最後に一礼して退室したアニルの、殆どが闇に埋まった視界へといきなり飛び込んできたのは、長年の幼なじみのはかなげな顔であった。
「カ……っむぐ!?」
「……静かにして」
 アニルの口を掌で塞いで黙るように指示したカマラは、アニルが落ち着いたのを確認すると、下に下りるよう手の動きで告げた。
「行けば、分かるから……」
 アニルは不審に思いつつも、カマラの言葉に従って地面へと舞い下りた。
「! プラブフもいたのか?」
《ブギ!》
 大人達によって切り取られていた天蓋の下、月光が照らす薄闇の中、馴染みのある位置に小さく輝く点が二つあった。紛れもなく、プラブフの眼である。
「……いつもの面子……でしょ?」
 背後から、カマラの囁くような声が聞こえた。アニルの聞き間違いでなければ、どこか誇らしげであった。
「カマラ、これはどういうつもりなんだ?」
「だって……わたし達も、アニルと……同じだから」
 カマラは殆ど言いよどむことなく、はかなげな相貌に微笑みを加えた。月の光に照らされて浮かび上がる姿は、まるで彼女ではないようだった。
「……行くんでしょ? 『暴れ河』に」
「あ、ああ」
 妙に落ち着かない気分になりながらも、アニルは頷いた。
「……ここに戻ってから、プラブフと話したの。アニルなら、明日の朝くらいに……抜け出すかな、って」
「流石だね。その通りだよ」
 惜し気もなくアニルが褒めると、プラブフの荒い鼻息が聞こえてきた。カマラと同じく、喜んでいるようであった。
「……でも、朝はみんなに見付かっちゃう」
「ヴィマルだけじゃなくて、親父達ヴァユにまで見付かるかもしれないからな」
 そう、と頷いたカマラは、殊更得意げに薄い胸を張り、円く切り抜かれた天蓋を指差した。
「今は……夜。みんなは寝てるし……ヴィマルのみんなも、いっぱいじゃ、ない」
 実行に移すならば今しかない、とカマラは言いたいのだろう。
 これに近似したものはアニルも考えていたのだが、夜目が利かない自身の体質や監視の目をくぐってプラブフやカマラに接触することの難しさから空論としていたのだ。
 しかし、今アニルの目の前には、その二人がいるのである。
「よく考えたなぁ、カマラ」
「……全部、プラブフが考えた」
《プギ!》
 カマラが指差すと、プラブフは鼻を大きく鳴らす。見た目には殆ど変化はないが、彼も得意げになっているのである。
「……よし、いつもの面子も揃ったことだし」
「冒険……だね」
《ブギッ》
 月明かりの下、三人によるささやかな――しかし、間違いなく壮大な冒険が始まろうとしていた。


 緑の天蓋から陽射しが差し込み始めていた頃、三人はプラブフが二人を抱える形で、大樹の下の繁みに身を隠して休んでいた。
「アニル……お日さま」
「……ほんとだ」
 どれだけの時間、走ってもらい続けただろう。
 里から完全に離れるまでは見張りのヴィマルに見付からないよう、プラブフに慎重に進んでもらい、それからは走れるだけ走って休むという行程を繰り返し、夜の闇ばかりが支配する森の中をひたすら駆けた。
 そして、闇の中には恐るべき脅威も存在していた。
 寝物語程度にしか思っていなかった、“夜の森をうろつく大蜘蛛”に“大樹を二巻きもできる蛇”、更には“夜にだけ咲く悪魔のような花”といったような、夢にも見たことのない怪物達と遭遇したアニル達は、その時その時に応じて、力と技と智恵を駆使して切り抜けていったのである。
 それら激闘と追っ手への警戒で、プラブフやアニルのみならず、カマラまでもが消耗を見せ始めていた。
「カマラ、お前だけ寝ててもいいんだぞ?」
「……ううん、大丈夫」
 アニルからそう言われても、カマラは首を横にしか振らない。少し細まった眼の下には、薄く隈ができていた。
「……アニル……」
「何だ?」
「森……すごかったね」
「……ああ。あんなの、嘘の中にしかいないと思ってたよ」
《プギ!》
 既に遠い昔のように感じ始めていた苛烈な記憶への感想に、プラブフも同意した。彼など夜通し走り続けているようなものであるが、虫や低木に実った果物を食べて少し休むだけで殆ど元気を取り戻していた。その様子を見る度に、アニルはプラブフらヴィマルの一族と仲よくなったことが間違いではないと思った。
「プラブフ、お前もあまり無茶はしないでくれよ」
《プギィ!?》
 何を今更!? とプラブフは憤慨した。目的の『暴れ河』はすぐ近くにまで見えているのである。ここまでくればもう一ふんばりこそすれ、何故楽にする必要があるだろうか――というのが、プラブフの大まかな意見であるらしい。
「分かったよ。それじゃあもう一頑張り、頼むぜ?」
《プギ!》
 激しく頷いたプラブフは、立ち上がるなりアニルとカマラを抱え上げ、両の肩に乗せて再び走り出した。あまりに唐突な行為であったため、カマラに至っては何が起きているのかさえも分かっていないようであった。
「……あれ? アニル……わたし、飛んで……」
「プラブフの肩にいるんだ。だからちゃんと掴まってろよ?」
「……うん、そう、す……」
 答え切る前に、カマラの体から力が抜けていった。本人にそのつもりはなくとも、やはりカマラには夜通し起きているのは辛かったようだ。
「……プラブフ、できたら静かに走ってやって」
《……プギィ》
 寝息が聞こえ始めると、プラブフも力なく頭を掻いた。


 太陽が中天に上がりきる前には、昨日訪れた『暴れ河』の支流まで辿り着いた。
「……あっちに、誰か?」
「うん。ヴィマルかもしれないし、もしかしたらもっと違うものかもしれない。でも。何かいたんだ。それだけは嘘じゃない」
 ふぅん、と相槌を打ったカマラは、じっと対岸を眺めた。その右手は昨日と同じく、アニルの左手を握っている。
《プギ?》
「河の上流に? ……そうか、その手もあるよな」
 カマラの命名した『おひさまのこども』は、河の中で見つかったのだ。ここから上流へ行けば、何か新しい発見があるかもしれない。
「プラブフ、お前はここから行けるところまで上流に行ってみてくれるかい?」
《プギッ?》
「俺なら大丈夫だよ。いざとなったらカマラ一人なら護れるから」
 そう言ってアニルは、力瘤を作ってみせた。それでも不安を瞳に映すプラブフであったが、渋々といった様子で河沿いに歩き出した。
「それじゃ、俺達も行くよ」
「……うん」
 一度手を離した二人は、『暴れ河』の支流を飛び越える。
「……大きいね」
「うん」
 轟々と流れる大河を眼下に、アニルとカマラは短く言葉を交わす。多くを語らなかったのは、その前に対岸に着いてしまったからである。
 すぐに対岸に降り立たず、二人は大樹の中程ぐらいの高度を保ちながら素早く視線を巡らせた。
「何かいた?」
「……ううん。アニルは?」
 俺もだよ、と相槌を打ったアニルは、愚痴をこぼす代わりに頭を掻いた。
 やはり気のせいだったのかもしれない――そう思った頭を強く掻いて、アニルは気弱になりかけた自分を叱咤する。
 “夜の森をうろつく大蜘蛛” や“夜にだけ咲く悪魔のような花”は実在したのだ。あの時見た影も必ずいるに違いないと決意も新たに、アニルは河岸に程近い森の中を探し続けた。
「アニル、アニル……!」
「うん?」
 不意に、小声でカマラが呼び掛けてきた。
「アニル、いた……!」
「ほ――本当!?」
 大声を上げるのもどうかと思い、アニルは声量を抑えて訊き返す。
「あっち、樹の下に……!」
 カマラの示す先へ、アニルは真っ直ぐに飛んだ。
 昨日見失ったのが不思議なほど、ヴァユと思われた影の主は見つかった。
 大樹の下、茂みに身を隠すようにして、誰かが蹲っていた。
 見た目は、ヴァユの男性に似ていたが、髪や髭の色が違うし、首から下を見たこともない服で覆っていた。
 そして何より、
「羽が……ない!?」
 男の背中には、翼と思しいものはどこにもなかったのである。
「ア、ゥ……!?」
 男は男で、アニルやカマラの容姿に驚いていたようだ。印象深い両の眼を限界まで見開き、二人を凝視していた。
「ヴァユじゃ……ない?」
「たぶんね。どこか違う縄張りから来た人なんだ」
 男とは一定の距離をとりながら、アニルは上ずった口調で私見を述べる。怯えるカマラの手前、取り乱すわけにはいかないとは思っても、やはり年若いアニルには興奮と緊張を隠し通すことは難しい。
「……クィモノ……」
「は?」
 何と言ったのか分からず、アニルはカマラに視線を向けた。彼女も同じであったらしく、俯いて首を振るばかりであった。
 男は熱心に何事かを伝えようとしているのだが、どうにも聞き取りづらいために全くはっきりしない。
 自分の言葉が通じていないことを悟ったらしい男は、大樹の根元に力なく倒れた。何やら小声で洩らしていたが、そちらは完全に何を言っているのか分からない。
 アニルの背中越しに、カマラが囁き掛けてきた。
「……どうするの?」
「……敵ではないみたいだし、話せそうなら話してみよう」
 目の前の男が敵意を持っていないことを察したアニルは、まず意思疎通ができるか否かを試すことにした。
「アニル」
 自分の胸に手を当て、名前を名乗ったのである。
 彼なりの自己紹介をどのように解釈したのか、男は自らの指でアニルを指すと、たどたどしく真似てみせた。
「……あ、に、る?」
「そう、アニル」
 何とか希望を見出したアニルは、続いて男を指差してこう言った。
「貴方は?」
「じぇ……ジェームズ」
「じぇーむず? じぇーむず?」
 アニルが繰り返すと、男は次第にはっきりと頷くようになった。どうやらこの男の名前は『じぇーむず』というらしい。
「……じぇーむず……」
 アニルの背後で、カマラがぽつりと「変な名前」と呟いた。アニルにしても、全く聞いたことのない名前であった。
「……でも……ちょっと、お話しできたね」
「うん」
 僅かばかりだが貴重な前進だと実感したアニルとカマラは、思いつく限りの質疑応答を行い始める。
 ――アニル達は知らなかった。
 彼らが出会った男こそが、後に初の世界一周を成し遂げた『知恵持てる獅子号』の船長、ジェームズ・ロビンソンだということを、自分達ばかりか、一族の未来をも左右する男だということを。
 今、三人は歴史のうねりへ、広大無辺なる未知の世界へと足を踏み入れる。


7『ある御者の災難と幸運と、はじまりへ』


 リグニア王国はアルトパ地方の西の端、レングスとグレンウッドを行き来する馬車があった。
 個人でのものではない。レングスに居を構える乗り合い馬車の組合に所属しているうちの一台で、御者台の外側には組合を表す印が大きく描かれてあった。
「えー、間もなくぅ、グレンウッドに着きますよぉ、っと」
 十人も乗れば手狭に感じる馬車の中で押し合いへし合いといった様子の客達に、顎鬚を生やした御者は間の抜けた調子で告げると、欠伸を一つやって周りを見る。
 季節は秋の始まり。この辺りでは『祝月(いわいづき)』という異名が通っていることからも分かるように、街道沿いに洋々と広がっている畑は全ての作物が刈り取られており、すぐ近くにまで見えている谷と森に挟まれた町、グレンウッドからは煙とともに楽しげな声や、祭当日のために太鼓を打ち鳴らす音が聞こえてきていた。
 祭日が近付いてきているということは、御者達にとって嬉しくもあり苦しくもあった。グレンウッドの収穫祭は、この地域では最大の娯楽と見做されており、一足先に農閑期を迎えた近隣の人々がグレンウッドへ足を運ぼうとし、乗り合い馬車組合は彼らを絶好の客として駆けずり回るのだ。組合の記録帳によれば、時に二千を超える人々を運送したこともあるという。
(あの雲、この前食ったパンに似てやがんな……)
 そうした事柄にはさして関心を示さず、御者は先程から鳴り止まぬ腹の処遇について考えていた。
 彼の名前はフレデリック。実に取るに足らない男であった。


 グレンウッドに到着し、客を降ろしたフレデリックがまず向かうのが、アルトパ乗合馬車組合の本館である。
 グレンウッドの中央通りの一等地、人や物が多く行き交う道路に面した場所に建っている本館は、宿屋と見紛うばかりの立派な二階建てで、組合の威厳を示すためでもあったが、実際に組合員が寝泊りするための部屋もある。
 フレデリックは本館に入ってすぐに見える受付へ向かう。机と仕切りを挟んだ向かい側には、背筋の真っ直ぐな女性が座っていた。
「フレディっす。レングスから九人、五十四クランです」
「ええと……あ、はい、分かりました」
 女性は背筋を伸ばしたまま、机上にある組員名簿とフレデリックの報告を照合して不備がないかを確かめた。
「今日もご苦労様です。では今日の運賃を納めて下さい」
「へーい、っと」
 フレデリックは懐から銅貨の入った汚い袋を取り出すと、それを女性に手渡した。毎回この時、フレデリックは言葉にしきれない疑問を抱くのだが、今のところ口には出してない。
「それじゃ、お疲れさん。――あ、あんたも収穫祭に行く?」
「ええ。もうすぐベンが帰ってくるから、楽しみなのよねぇ」
(ちぇっ、売約済みかよ)
 溜息混じりに語った女性に、フレデリックは内心で毒吐きながら、当たり障りのないことを言って二階に上がった。
(あーあ、今年も一人で飲むかなァ)
 親戚筋に当たる親方の許で乗合馬車の御者として働けるようになってから早三年、仕事は覚えたが女との付き合い方は全くといっていいほど身に付かなかった。
(こういう時思うけど、もしかして俺って女との巡り合わせでも悪いのか?)
 そうしたことにも気付かず、無意味な考えを捻くり回していたフレデリックの前に、一人の男が立ちはだかった。
「おうフレディ、今年も寂しそうな顔をしてんなぁ!」
「あ?」
 大柄で肩幅のある巨躯に剛毛、岩のような厳めしい顔立ちと、豪快さを絵に描いたようなこの男は、フレデリックの同僚である。彼にとって信じ難い話だが、つい先日この町でとある女性と結婚している。
 そのあたりの妬みも含めて、ついフレデリックはぶっきら棒な態度をとった。
「うるせェなあ、どうだっていいだろ?」
「おう! どこまでも寂しい奴だぜお前は」
 しかし、同僚はそんなフレデリックの心ない一言に対して腹を立てるどころか、豪快に笑い飛ばした。
「おうフレディ! お前も結婚したらどうだっ!? 嫁はいいぞぉ。辛さは倍だが、幸せはそれ以上だ!!」
 そう言って、地鳴りのような笑い声を響かせる同僚は会談を下っていった。
「……っけ!」
 返す言葉が見つからなかったフレデリックは、自分が割り当てられている部屋へ戻ると、酒代だけを引っ掴んで本館を出たのであった。
(何だよ。自分はたまたま結婚できただけのくせによぅ)
 理屈とは関係なしに不平や不満は蓄積されるもので、フレデリックは何度も何度も同じ内容をぼやいていた。
(運だ。俺だって運があれば、すぐにだって……)
 全く根拠のない話であったが、フレデリックにとってそこは大した問題ではなかった。気が紛れたらそれでよかったのである。
 そうして覚めやらぬ鬱憤を抱えたフレデリックが、酒場が軒を連ねる一角にまで来た時、事件は起こった。
「お待ち下さい、お嬢様!」
「お断りします!」
「……へ?」
 いきなり飛び込んできた台詞を、フレデリックは訝しんだ。あまりにも場違いだったので、すぐ近くで祭りの催物の一つが行われているのかと思ったぐらいであった。
 しかし、街角から姿を見せた集団は、そんなフレデリックの想像を超えたものだった。
「――うぉ!?」
 フード付のマントで身を隠した何者かと、その人物から更に遅れて現れた、見知らぬ装いの男達である。
(え、何こいつら? 新手の役者? やっぱり祭の出し物とかか?)
 あまりにも見慣れない光景であったために、フレデリックはつい頭の中でそう片付けた。
 その矢先、そんなフレデリックの考えを裏付けてしまう出来事が起こった。
「そこの方!」
「へ?」
 マントの人物(声からして女性らしい)が、突然フレデリックに話し掛けてきたのである。
「お願いです! お助け願えないでしょうか!?」
「はあ……?」
 芝居がかった口調、馴染みのない服装――それら現実味を感じさせない要素が揃った状況に、フレデリックは深く考えずに「こっちでさ!」と、『彼女』についてくるよう促した。
「ひとまず、ついてきて下せえ!」
「ええ!」
 そんなフレデリックに女性は勘繰った様子も見せず、建物と建物の間にある路地裏に身を滑り込ませた。
(それにしても、やたらと真に迫った芝居だな……)
 背後から聞こえてくる罵声を聞き流しながら、暢気にフレデリックはそんなことを考えていた。


 土地勘を武器に、フレデリックは入り組んだ路地を巧みに逃げ回ったフレデリックとマントの女性は、ほうほうの体で本館に逃げ帰った。
「危ないところを、ありがとうございました」
「いや、まあ……」
 深々と頭を下げている女性に『所詮は芝居なんですし』とは言えず、フレデリックは曖昧な態度をとった。額に浮かぶ汗は、散々走って疲れたからというのと、もう一つの理由があった。
(やばい、どうしよう。芝居だからっつっても、つい勢いで部屋まで連れ込んじまった……)
 何をどう切り出せばいいのかも分からず、マントの女性をベッドに座らせたままフレデリックは思案顔であった。
「あ」
「――はぃ!?」
 突然女彼女が声を発したので、思わずフレデリックは心臓が縮み上がった。
「あの……何か?」
「そういえば、申し遅れました」
 そう言って、女性は目深に被っていたフードを脱いだ。
 露になった彼女の素顔を見て、思わずフレデリックは言葉を失った。
 結い上げられた絹糸のように艶めいた金色の髪に、殆ど陽に焼けていない白い肌、秋空を映し込んだような青の瞳と、小さくて印象的な朱色の唇。それらが合わさってできた顔を持つ女性は、非常に理知的な面立ちをしていた。
「わたしの名は、クラリッサ・ニューフィールド。アルトパ地方西部を治めるヘンリー・ニューフィールドの娘で、現在は追われる身です」
「へ? ――ええっ!? ってことはあんた、いや貴女様は、貴族ってことですかい!?」
 役者どころか、生まれて初めて見た『貴族』に、フレデリックは気が動転していた。彼が落ち着くのを待って、自らを貴族の子女と名乗る女性――クラリッサは肯定した。
「そ、そそんな方が、どうしてまた追われてるんです?」
 落ち着きを取り戻したフレデリックは、そもそもいるはずもなければ来るはずもない
「……グレンウッドのお祭りを、たった一度でいいから見てみたくて……あの」
「はあ」
 嫌な予感――とは言い出せず、フレデリックはクラリッサが言い出すのを待った。
「……何も聞かずに、わたしを案内していただけませんか?」
「は……ぇえ!??」
 半ば予想通りだったクラリッサの申し出に、フレデリックは反射的に一歩後退るのだが、そこへクラリッサが立ち上がって詰め寄った。
「いざという時の責任はわたしがとります。お代は今すぐというわけにはいきませんが、必ず用意立てします。だから、どうか聞き入れていただく訳にはなりませんか?」
「そ、そう言われましてもですね……」
 たしかにクラリッサは美人であるし、できることならお近付きになりたいが、それにもまして面倒なことに巻き込まれそうになるのでは、という予感がしてならないのだ、
 そうした思惑を読み取ったのか、クラリッサは肩と視線を落とした。
「……駄目、でしょうか?」
「う……っ」
 フレデリックは、見てしまった。クラリッサの目尻に一筋の光る雫を。
 どこまでも弱々しく、頼りなさげに見える今のクラリッサは、最初に会った時に比べて庇護欲を激しく掻き立て、断ることに罪悪感を感じさせてくる。
「……わ、分かりましたから!」
「本当、ですか……?」
 目元の涙を拭い、クラリッサはフレデリックの心を探ろうとするかのように覗き込んでくる。そんな様子にすら、フレデリックは心奪われそうになる。
「……あ、案内、すればいいんでしょう? 分かりましたよ、引き受けますよっ」
「……ありがとうございます」
 泣き顔から一転、クラリッサは嬉しそうに微笑んだ。
「う、は……っ」
「?」
 最後の一つがフレデリックに止めを刺した。容貌ばかりでなく、言動にまでも可愛らしさを感じさせるクラリッサに、フレデリックは完全に心奪われた。
(これが、運ってやつか……!)
 嫌な予感はどこへやら、すっかりフレデリックは浮かれた気分で『出かけましょう!』と言い出すのであった。


 まずフレデリックとクラリッサが向かったのは、町外れにある古着屋であった。
「あの連中、貴女の着てる服を覚えてるでしょうからねえ。とっとと着替えちまいましょう」
 そう言ったフレデリックは、物珍しそうにしているクラリッサを促して店内に入った。
「……これは」
 自然と零れ落ちた驚嘆の呟きが、店内の様子を物語っていた。
 今にも倒れそうな店構えには不似合いと思われるほどに、中は広かった。老若男女種々雑多、様々な服が兎に角所狭しと棚に並び、壁に吊され、一種異様とも言える林立が視界を埋める。
 クラリッサが呆気にとられている横で、フレデリックは大きく息を吸い、声を張り上げた。
「……おーい、おっちゃーん!」
 返事はなかった。代わりに算盤が一つ、唸りを上げて飛んできた。それは二人に当たりはしなかったが、壁にぶつかって埃を降らせた。
「気をつけてくれよ! 危ないなぁ」
「うるせぇ黙れ。ここは俺ン店だ」
 至極真っ当な非難をしたフレデリックに口汚く言い返したのは、店の奥から足を引きずって現れた、意外にも身なりのいい老人だった。足の縺れの原因は、右手に握った酒瓶だろう。
「ったく、折角の祭だから飲んでるってのによぉ……ホ? 何だあんた、そこの甲斐性なしのコレかい?」
「は、はぁ……?」
「い、いや! 何でもないですから……ちょっと、ハワードのおっちゃん、変なこと言わないでくれよな!?」
「ああ、やっぱり違ったな」
 老人の言葉と仕草の意味が分からず首を傾げるクラリッサ、やたらと狼狽えるフレデリックを見て、ハワード老人はつまらなさそうに言った。
「で、何の用じゃ?」
「何のって……そりゃあんた、古着屋に来たら服買うぐらいしかないでしょ」
 ハワード老人の『やっぱり』という一言を受けて密かに傷つきながら、フレデリックは老人にクラリッサのために服を買いたいと告げた。
「……ほほぉう?」
「な、なんだよ。祭なんだからいいだろ?」
 ハワード老人が下卑た笑みを浮かべながら顎を撫でさすっていると、フレデリックは無理矢理にごまかそうとするのだが、ハワード老人はフレデリックの肩に手を回すと、クラリッサには聞こえないように囁いた。
「あの娘さん、貴族の令嬢だろ?」
「――――!」
 どうしてそれを――言葉のみならず、顔全体でそう言いかけるフレデリックの口の前に、枯れ枝のような指が一本立てられた。
「ワケありだか何だか知らねえが、貴族の娘たァお前もやるじゃねぇか」
「い、いやまあ……」
 本当は単なる成り行きだったんだけど、と本当のことは言えず、フレデリックは曖昧に留めた。
「――よし! 商談成立だぜお嬢さん、あっちに姿見と衣装部屋があるから好きに選んで着てみな。あんたなら安くしてやっからよォ」
「あ……はい、ありがとうございます」
 そう言ってクラリッサが服を選び始めている脇で、ハワード老人は拾った算盤を素早く弾いた。
「言った通り、服代はまけといてやるが、代わりに口止め料としてクラン銀貨三枚はもらうぜ」
「……え?」
 したたかに笑うハワード老人に、フレデリックは自分がまだまだ若造であることを思い知らされるのであった。


 古着屋をあとにしたフレデリックは、落ち着かない気持ちでクラリッサに尋ねた。
「ええと……あの、収穫祭に来たのって、初めてなんですかね?」
 話し掛けられたクラリッサは、肩から金紗のような煌めきをこぼして振り向いた。
 再び、フレデリックの心臓が早鐘を打つ。
 フード付のマントで全身を隠していたために分からなかったが、クラリッサは非常に洗練された、麗しい容姿の娘だった。
 丁寧に結い上げてあった髪は解かれても滑らかに広がり、一片の曇りも摩耗もしていない相貌を美しくも清らかに彩ってあた。彼女には時代遅れに見えているであろう古着は彼女の手によって見事に着こなされ、星や月のように仄かな光を放っているように見えた。神々しいとまで言えるその姿にフレデリックは心奪われていたが、同時に貴族の令嬢というものが、如何に違う世界に住んでいる存在かということを思い知らされてもいた。
「ええ。だからお恥ずかしい話ですが、とても楽しみなんです」
「そ、そうですかい……」
 そうしたフレデリックの心境を計る術もなく、クラリッサは照れたようにはにかんで答えた。その無防備な様子がフレデリックの見慣れた娘や女達と重なって、また心臓に早鐘を打たせる。
 偶像の如き令嬢と、人間味を持った少女――それら二つの境界に立っているクラリッサは、そこで揺れ動くたびにフレデリックの心に漣を、あるいは大波を引き起こす。
 随分と、歩いた。道路は剥き出しの地面からいつの間にか石畳によって舗装されたものへと変わり、客達を乗せた馬車がその上を駆けていく。
「? どうしました?」
 不意に、クラリッサが視線を傾けた。彼女にしてみれば無慮の仕草であったが、それが一際大きくフレデリックの心臓を鳴らした。
「い、いいいいや? 何もありゃしませんぜ……?」
 明らかに怪しい態度を見せるフレデリックだったが、クラリッサはそれほど気に掛けているわけではないらしく、暫く彼を伏し目がちに眺め、「そうでしたか」と言葉を結び歩き出した。
 心もち、クラリッサは先ほどに比べて早歩きになっているようだった。その原因は、フレデリックにもよく見えた。
 村の広場で轟々と立ち上る、納屋一つ分はある篝火である。
 丸太と藁で作られた巨大な篝は、太陽のように広場を照らしながら天に向かって炎を伸ばし、周囲で踊り回る人々へと火の粉を散らしていた。踊る人々の影は周囲の家々に映り、不気味だが幻想的な光景を生み出していた。
「この祭の目玉ですよ。この辺じゃ一番でかいらしいんですけど、すごいでしょう?」
「ええ……」
 驚嘆に声を滲ませるクラリッサを横目に、フレデリックは胸を張って「じゃ、行きましょう」と促した。
 踊りには村人のみならず、外からやって来た人々までもが入り混じり、村祭りとは思えない人数が広場に犇めいていた。彼らはめいめい好き勝手に踊りながら、しかし歌だけは、次のように歌っていた。

 麦は実りて頭を垂れる

 嫁は元気で子だくさん 家は狭いが寒かない

 これほど嬉しいことぞなし
 これほど嬉しいことぞなし

「豊作を祝っているんですね」
「ええ。だから、ここら辺じゃ祭のある月を『祝月』なんて呼んでるんですよ」
 いわいづき、と繰り返したクラリッサは、楽しそうに踊り狂う人々を羨ましそうに見ていた、
「踊りましょう。わたし達も!」
 かと思うと、突然そう言い出した。
「お、踊りですかい?」
「ええ!」
 妙に息巻いたクラリッサは、フレデリックを置いて広場の中央へと向かう。呆気にとられて棒立ちになっていたフレデリックは、頭を振って慌てて追った。
 広場には人が密集しており、残念ながら中央にある篝火にまではたどり着くことができなかったが、いたる所で踊りは行われているので、クラリッサとフレデリックも適当な輪に加わることにした。
「おう! 来たかフレディ!」
「あれ、お前もここにいたのか?」
 そこには、夕方に別れた同僚もいた。彼の傍らには、つい先日結婚したという女性が控えている。
「今頃、酒場にでもいるんじゃないかなっとこいつと話してたんだが、なんだやっぱりお前も来たんだな」
「いや、まあな……」
 口が歪むのを堪えつつ言葉を濁したフレデリックは、傍にいるであろうクラリッサに目をやるのだが、そこに彼女の姿はなかった。
「あ、あれ……?」
 戸惑いつつ視線を四方にやったフレデリックは、世にも稀なるものを見た。
 篝火に照らされ、明暗が入り乱れている中で軽やかに踊り、楽しそうに笑っているクラリッサの姿を。
「おぅ……大した別嬪さんじゃないかよ。フレディ、誰だか知ってるのか?」
「あ、ああ……まあ……」
 寝物語に聞いた妖精達のようなクラリッサにまたも心奪われかけていたフレデリックは、正直に答えようとして思い止まった。彼女の正体は、明かせないのである。
「か、観光客だよ。初めて来たからってさ、祭の案内を頼まれたんだよ」
「彼女、独り身か?」
「ま、まあ――っいでぇ!?」
「おう! そりゃア好都合じゃねーかよ!」
 豪快にフレデリックの肩を叩いた同僚は、「そりゃいい、今夜にでもヤっちまえよ」などと言い放ったのであった。
「や、ヤヤヤヤヤヤヤヤ!??」
「あんた」
「おうフレディ、あそこを見てみな」
 免疫がないために激しく取り乱すフレデリックと夫を窘めようとする妻を無視した同僚は、踊り回る一団を指差した。
「あの彼女、すっかり周りの奴らの心を掴んじまって離さねえ」
「あ……」
 同僚の言葉が間違っていないことを、フレデリックは認めざるを得なかった。
 クラリッサを取り巻いている男達は、誰も彼もが夢心地というか、魂が抜けてしまったかのような顔つきになっていた。
「見たかよあいつらの顔、さっきのお前と全く同じ顔してるぜ」
「……本当かよ?」
 反発したいフレデリックだったが、クラリッサの幻想的な姿を見せられては反論も浮かばなかった。
 悔しくて仕方なかったが、やはりクラリッサは住む世界が違うのだ。誰もが憧れ、羨んだところで手には入らないのだ。
「分かったなら急げよ? まだお前に分があるうちによ」
「……ああ」
 お前に何が分かる。
 煮えた鉛のような感情を胸に、フレデリックはそう大声で怒鳴りたかったが、それを遮ったのは朗らかな呼び声であった。
「――まったく! 貴方はいつまでわたしを待たせるのですか?」
「へ?」
 繊細な外見には不似合いな大股で詰め寄ってきたのは、紛れもなくクラリッサであった。今まで踊り通していたからだろう、額には珠のような汗が浮かんでおり、真っ白だった顔は薔薇色に染まっていた。
「あ、あの――」
(わたくし)、貴方に一緒に踊りましょうと言いましたね?」
 軽く息を弾ませながら、やはりクラリッサは朗らかに難詰する。考え方によっては彼女の視線を独占していることに気付いたフレデリックは、状況と相俟って余計に言葉を詰まらせてしまう。
 傍にいる男達からすれば、そうした様子でさえも仲睦まじくしている風に見えてしまうのだろう。直接的行動に出ることは無理なので、不穏な視線を送る者、拳を鳴らす者、傍らの女性に暴行を受ける者、様々な男が見守る中、クラリッサとフレデリックとによる、不格好な踊りが始まる。
「まずわたしの右手を取って、次は左足を……そう、大丈夫です」
「あ、はい……左で、次は……」
 夢だ。これは酒場か自分の部屋で見ている夢だ――フレデリックは、そうだとしか思えなかった。
 いつも独りで、遠くから見ていた広場の篝火。そこで夜通し行われる踊りに、自分が、それもクラリッサと一緒に加わっているのだ。現実として受け入れるには重く、大き過ぎたのである。
「駄目ですよ。踊りは笑顔が大事なんですから」
「いぇ、はっ、お……!」
 クラリッサの意見は貴重だったが、ただでさえ頭の中が彼女の笑顔や踊り、そして仄かな香りでいっぱいいっぱいになっているフレデリックには笑顔など不可能に等しかった。
「おう、何とも様にならねえなぁ」
 幻想的な光景の中で華麗に踊るクラリッサと不格好に踊るフレデリックを見た同僚は、呆れ半分、笑いが半分といった表情で両肩を竦めた。


 フレデリックが踊り疲れてしまったので、二人は広場から離れることにした。
「あんなに楽しく踊れたのは久し振りです」
 フレデリックが露店で買ってきた腸詰焼きを齧りながら、クラリッサは楽しげに語った。もう一口、豪快に齧った姿は貴族らしからぬものであったが、心から愉快そうにしている彼女の姿を見て、くたびれていたフレデリックも釣られて笑顔になった。
「へへっ、それじゃあ、他に何か面白いものを、と……お、ありましたぜ。こっちです」
 そう言って、フレデリックはクラリッサを人垣へ案内していく。
「はいはい、ちょっと失礼、っと……」
「あの、通していただけてありがとうございます」
 フレデリックが要領よく人垣を進んでいったこともあるが、何よりその傍らにいるクラリッサの美貌が功を奏して、二人は人垣の殆ど最前列にあたる椅子を確保できた。
「まあ、これって舞台ですね。何が始まるのかしら?」
「なーに、じきに分かりますぜ」
 とフレデリックが言ったように、舞台袖から複数の人々が上がってきた。
 それは、奇抜ないで立ちに大仰な造りの仮面で顔を隠した、五六人ばかりなる集団であった。
 腰の曲がった者もいれば十にも満たぬと思しい者もいた。彼らは木箱でできた即席の舞台に立ち、ある者が別の者を追い、それを他の者らが楽器を弾くなり、身振り手振りを駆使したりと客席を盛り上げていた。
「不思議な人達ですね」
「仮面劇の連中なんでさ。この辺からヴァンダルまでを回っていて、秋になるとこの祭のために来るんですよ」
 とフレデリックが得意げに説明している間に、次の演目が始まった。何人かの役者は、衣装や仮面が変わっている。
「見て下さい。剣や槍を持ってる奴もいます。ありゃきっと勇者だとかの劇ですよ」
「まあ……」
 クラリッサが見ている前で、隻眼の男の面を付けた役者が、他の武器を持った男達を率いて一人の役者と対峙した。足首までを隠すマントを身に纏い、動物を模した仮面を被っているということは、魔物のようなものを表現しているのかもしれない。
「怪物退治みたいですぜ。あの片眼の男が、あの怪物相手に戦うんですよ」
 というフレデリックの推測は正しかった。
 まるで激しい舞を踊っているかのように互いの位置が入れ代わり、その度に剣や槍が閃いた。
「あ、また一人やられやがった! おいおい、残ってるのはもうあの男だけじゃないか」
 いよいよ劇は佳境に入る。舞台に立っているのは隻眼の男と怪物だけで、彼らは激しい戦いを繰り広げていった。
「いいぞ! そこだ、もう一息――」
 一進一退の攻防に大興奮のフレデリックであったが、傍らにクラリッサがいたことに気付き、恥ずかしげに頬を掻いた。
「……はは、俺だけで盛り上がっちゃってて、何だかすみません」
「……いえ、わたしも楽しんでいますので」
 そんな御者の子供っぽい一面にクラリッサは薄く微笑みを浮かべ、彼が昇天しかねない一言を告げた。
(わわ、『わたしも』ってことは、『わたしも貴方と一緒ですよ』ってな感じのことだよな? つまりそれって、『わたしも貴方と同じ気持ちです』とかそーゆう……いやいや落ち着けよフレディ、そんな美味しい話がいやしかし、だったら脈もなしに笑い掛けてくれねーよな? じゃあやっぱそーゆーキモチから笑ってくれたってことでいいのか? いいんですか神様ー!? いたら返事して下さいよ神様ー!!)
 そうして独り答えのない自問自答を繰り返すフレデリックの隣で、クラリッサは舞台上で整列している役者達に惜しみない拍手を贈っていた。
「え、あ! もう終わっちまったのか!?」
 そりゃねぇよぉ、とフレデリックが哀れっぽい声で役者達に文句を言っても、会場は未だに割れんばかりの拍手が充満しており、彼一人が叫んだところで何の意味もなかった。
「まあまあ、途中までとはいえ、とても楽しむことができたではありませんか」
 露骨に残念がる御者に、クラリッサは彼女なりの慰めの言葉を掛けて、やっとフレデリックは立ち直りを見せた。
「さあ、次は何を見せて下さるんですか?」
「……そ、そうですねぇ、次は何が――」
「見つけましたぞ! お嬢様!」
 観衆達の喝采を貫いて、鋭い男の声が飛んできた。それにまずクラリッサが、遅れてフレデリックも反応する。
「おお、クラリッサお嬢様……!」
「服を替えるとは、してやられましたぞ!」
 衆人環視の外縁から詰め寄ろうとしている男達は、紛れもなくクラリッサを追っていた連中であった。
「そんな、どうして……」
「古着屋が裏切ったんですよ! 畜生、あの犬面の爺め!」
 フレデリックは、口汚くハワード老人を罵った。
「奴さん方に喋ったんですよ。くっそ、幾ら握らせたと思ってんだよぉ……!」
 幸いにして、周囲は客が密集しており、容易く接近されることはない。それはフレデリックとクラリッサも同じであったが、向こうは彼らを怪しんだ客達に道を阻まれ、先へ進むどころか押し返されようとしていた。
「い、今のうちに逃げましょう!」
「でも、どこへ――」
「こちらへ!」
 舞台から声が聞こえたので二人がそちらへ目をやると、隻眼の男の仮面を被っていた人物(やはり男であった)が、大きく手招きをしていた。
「早く! こちらへ!」
 男の言うことは怪しかったが、同時に間違ってもいなかった。
 周囲は密集した人垣で、しかも徐々に混乱と狂騒が支配し始めていたのである。このままここに留まるのは好ましくなかった。
「……行きましょう!」
 自信はなかったが、兎に角フレデリックは舞台上に向かって走るよう促した。クラリッサも一瞬躊躇いを見せたが、頷いて彼に続いた。
「こちらへ!」
 隻眼の仮面を外した男に導かれ、二人は舞台の裏を通り、とある宿屋へと駆け込んだ。
 中に入るとすぐ、入口脇の広間で寛いでいた老人が跳ね起きた。
「旦那!? これはいったい、何が」
「この二人が追われているようだ。手を貸してやるぞ」
 説明もほどほどに、旦那と呼ばれた男は驚く老人に二言三言告げて廊下の奥に走らせると、二人には更に付いてくるよう言った。
 あまりにも急過ぎる展開に頭が追い付かず、今まで呆けていたフレデリックはやっと「あの」と切り出した。直後に『旦那』は、待っていたかのように答えた。
「私には、君らが悪い人間に見えなかったからだ」
「……あの、どうしてそのようなことが?」
 クラリッサが不思議そうに訊くと、『旦那』は微笑んでみせた。
「なに、私も役者の端くれでね。長らく人を見てきたつもりだよ」
 つまるところこの男は、自分の直感だけで見ず知らずの人間を助けようとしているらしい。驚き呆れると同時に、フレデリックは目の前の男が大きく見えた。
「……ありがとうございます」
「いや、どういたしまして……来たか」
 寛大な態度でフレデリックから謝辞を受け取った『旦那』は、廊下から戻ってきた老人を確認すると、彼が持っている物を二人に渡した。
「これって……」
「急いで着替えなさい。君は手前の部屋、そちらのお嬢さんは一つ奥の部屋だ」
 舞台用の衣装と思われる品を渡され戸惑うままに、二人は『旦那』に促されてそれぞれの部屋へと行かされた。
「うひゃあ、こりゃ凄い」
 客室は、丸ごと衣裳部屋になっていた。内装はそのままになっているが、床には大形の箱が幾つも置かれており、隙間から布切れが覗いていることから衣裳箱と推測できた。
 フレデリックが呆然と部屋を見渡していると、寝台に腰掛けていた禿頭の男が立ち上がり、歩み寄ってくる。小柄だが目つきは鋭く、妙な凄味があった。
「旦那から話は聞いてるよ。さっ、急いで着替えた着替えた」
「え、は、はあ……」
 まだ半分も状況を理解していないままフレデリックが着替えを始めると、禿頭の男は喋り出した。
「うちの旦那、中々変わってンだろ?」
「え?」
「いや、着替えながらでいいから。……あの人、昔っからお人好しっつーか、困ってる人を見たら後先考えずに動くんだがな、言い出したら聞かねーンだよ。なんかさ、『人を見る目』だけには自信があるらしいんだけど」
 勘弁してくれって言いたくなる時もあるよ、と笑いながら男が喋っている間に、フレデリックは渡されていた衣裳に着替え終えていた。
「お、終わりました」
「ん、よし。それじゃあ、あんたはここで連絡があるまで待っててくれ」
「へ?」
 男は、フレデリックの頭から爪先までを見回して、彼が違和感なく衣装を着こなしていることを確認すると、続いてほんの先程までフレデリックが来ていた衣服に着替え始めた。彼も役者なのか、驚くべき早さであった。
「へ? あ、あの……」
「それじゃ、幸運でも祈っててくれよな」
 止める間もなく、フレデリックの衣装を着込んだ男は部屋の外に飛び出していった。
 いたぞ、待てっ、という怒鳴り声に、けたたましい足音。それらが嵐のように通り過ぎた後には、拍子抜けするほどの静寂が残った。
「――上手くいったよ」
 そう言って入って来たのは『旦那』であった。その隣にはクラリッサもいる。彼女もまた、舞台用の衣装らしい服を着ていた。
「あ、あの……! いったい、何がどうなってんですか!? どうして俺らを助けてくれたんですか!? 俺の服を着てった人は大丈夫なんですか!? てか、あんたはいったい何者なんですか!?」
 冷静さが帰ってくると、フレデリックの中には疑問が幾つも湧いて出てきた。それを思い付くまま、勢いに任せて喋りまくると、『旦那』はフレデリックをじっと見つめて「そうだな」と呟いた。
「じゃあ、まず最初にだが、彼らなら平気だよ。こうした無茶には慣れてくれてるから、適当なところで囮だって種明かししてくれるさ」
 快活な笑みを交えての回答であったが、囮などという不穏な単語を聞かされたフレデリックは気が気ではない。
「あの――」
「さて、説明を続けよう。こうしたことは順番にやらないときりがない」
 更に問いかけたフレデリックの言葉を押し切って、『旦那』は続ける。
「どうして私が、追われていると思しい君達を悪者ではないと判断したか。それは先程にも答えたが、私が役者の端くれだからさ」
 これには、フレデリックばかりかクラリッサも首を傾げた。『旦那』は苦笑いして、「役者とは見られるだけじゃない、見る者でもあるのさ」と付け足した。
「私達の演技に喜ぶ者、白ける者、その他に感情を入れ込む者――演じながらにして、私達はそれの気持ちを正しく読み取る目を養わなくてはならない」
 一息にそこまで喋ると、『旦那』は「そうして培った目が、私に告げるんだよ」と語る。
「君達は、追い詰められてはいるようだったが、かといって悪人から感じてきたような卑しさは感じない。理由としては、そんなとこかな」
「……それだけ!?」
 あまりにもあっさり断言する『旦那』に、フレデリックは反射的に叫んだ。
「それだけだとも。他には何もいらないよ。何せ私は役者で、君達は私達の芝居を楽しんでくれた客だ。これ以上ない最高の関係じゃないか」
 最後に残った『質問』にも答えた『旦那』は右手を胸に、左腕を腰の後ろに回して恭しく一礼すると、飄々とした口上を述べた。
「さぁ、芝居は一先ず幕。役者も客も帰る時間です。衣装は、まあ明日あたりに返して下されば結構です」


 不思議な劇団に助けられたフレデリックとクラリッサは、再び組合へと戻った。ただし、正面からではなく、裏側から。
「……不思議な方々でしたね」
「……ええ」
 部屋に戻ったことで、一気に力が抜けてしまったのだろう。二人は揃って床にへたり込むと、暫く扉に背を預けて黙っていた。
「あの……」
「何でしょうか?」
 フレデリックが、恐る恐る話題を切り出した。
「本当に、帰るんですか? その、あの連中のところへ」
 クラリッサは、少しの間だけ視線を彷徨わせると、やがて「そうですね」と諦観を滲ませる声で答えた。
 ごくりと、フレデリックは喉を鳴らした。緊張の汗が拳を湿らせる。
 俺が一緒に逃げましょうか――フレデリックはそう言いたくてたまらなかった。
(ああ畜生、そうできたらどんなにいいだろう!)
 最初は、きっと辛い生活になるだろう。見知らぬ土地へと行けば、自分は組合員ではなくなるし、幾ら庶民の暮らしに抵抗がないとはいえ、やはり貴族である彼女も戸惑うことは目に見えている。
 でも、そこに愛があれば――
「……あの」
「はぃ!?」
 独り悦に入っているところに話し掛けられ、フレデリックは心臓が高鳴った。
「わたし……四日後に、結婚するんです」
 フレデリックは、自分の体温が下がったことを自覚した。
「……え?」
 衝撃のあまり何も言えず、何もできず、呆然となっているフレデリックを他所に、クラリッサは続けた。
「相手は、ヴァンダルに住んでらっしゃる貴族の方だということ以外、わたしは何も知りません。ただ、二度とこちらへ帰れないことだけは、何となく分かっています」
 クラリッサは、笑みを浮かべていた。フレデリックの目にも、虚勢を張っていることは明らかであった。
「ですからわたしは、最後ならばと思い、この祭りを目に、心に、最後に、焼き付ける、ために……」
 その先を、クラリッサは言えなかった。立膝に顔を埋めて丸まった背中は、小刻みに震えていた。フレデリックは見て見ぬふりをしようと「ほ、星がきれいだなぁ」などと真っ暗な部屋の中でこぼした。
 そうした意図せぬ滑稽さが功を奏したのか、クラリッサはクスリと笑みを漏らし、目元を手の甲で拭いながら謝った。
「……すみません。変なところをお見せして」
「いや、まあ……いえ、気にしちゃいけませんよ」
 これ以上のことをフレデリックは言えず、クラリッサには寝ることを勧めて部屋をあとにした。
 兎に角、今の顔を彼女にだけは見られたくなかったのだ。


 思いつめた夜も泣き腫らした晩も全て通り過ぎて、無情の朝がグレンウッドに訪れた。
 朝靄の漂う朝の街角に、フレデリックとクラリッサの姿はあった。借りていた衣装は、今しがた返してきた。
「ありがとうございました。他に言葉は見つかりません」
 同じ服を着続けることには慣れていないのだろう、着心地を確かめようと体の各所を見ながら歩いていたクラリッサは、真摯な眼差しでフレデリックを見ると淑やかに一礼する。
 今、フレデリックが相対しているのは逃げ出した少女ではなく、貴族の礼状なのであった。
「お名前、そういえばお尋ねしていませんでしたね」
「あ、ああ、そういや」
 乾いた笑い声が、束の間街角に響いた。そしてすぐに、気まずい空気が代わりに充満し始める。そうした空気にだけは敏感なフレデリックは、状況を変えようと兄貴分から教えてもらっていた笑い話を思い出そうとした。
「今更でしょうが、名前を教えていただけませんか?」
「……え? え、ええ、そりゃ勿論、喜んで」
 喉元まで出かかっていた馬の笑い話を慌てて飲み込むと、フレデリックは『旦那』の仕草を真似て不恰好な一礼をした。
「フレデリックです。フレデリック・ウッド。仲間内じゃあフレディ、なんて呼ばれてます」
「フレディ……」
 クラリッサは、噛んで含めるように、何度も名前を口にし続けていた。
 思わず、『はい』と返事をしたくなった。そして願わくば、『やっぱりわたしを連れて逃げて下さい』と言ってくれないだろうかとフレディは思うのだが、
「フレディ、貴方のことは決して忘れません」
 どのくらい繰り返していただろうか。鶏の鳴き声も聞こえ始めている中、クラリッサが右手を差し出してきた。
 自然と、フレデリックは手を握った。暖かくて柔らかい、今まで触れたことのない感触だった。
「それでは」
「……ええ」
 挨拶とも呼べぬささやかなやり取りを経て、フレデリックの手を離した彼女は、朝靄の中に姿を消した。
「行っちまったなぁ……」
 すり抜けていったものを思い、フレデリックはぼんやりと感触の残る手を見て呟いた。
 彼女の手。真っ白で柔らかい、温かな手。
 彼女の横顔。涙の滲んだ、悲しそうな横顔。
 彼女の笑顔。炎に照らされ、心から愉快そうな笑顔。
 彼女の目。好奇心に溢れた、子供のような目。
 彼女の――
「……いい女ってのは、どうして罪作りなんだろうなぁ」
 いつまでも記憶に焼き付いて離れぬクラリッサの幻影に目頭を手で覆いたくなるフレデリックであったが、しかし天は彼にたそがれている暇を与えてはくれなかった。
「おい、そこの」
「へ?」
 低く、重みのある男声が、フレデリックに振り向くことを強いたのである。
「その馬車は、レングスまで向かうのか?」
 朝靄の向こうから現れた、深く落ち着いた声音の主は、フレデリックよりも長身の、銀髪と眼帯の目立つ男であった。着古した旅装と腰に下げた長剣が、彼の職を物語っている。
 即ち、自由騎士か傭兵、或いは賊の類である。
 下手に刺激するのはまずいと判断したフレデリックは、腰の低い態度で応対に臨む。
「え、ええはい、確かにこいつは、こことレングスを行き来してますがね」
「む、それは好都合だ」
 抑揚に欠ける声であった。声音は精力に満ち溢れた若者の張りと、歳月を経た者特有の深みを持っていたが、それらを抑制しようとしているように聞こえた。
「俺も、レングスに用がある。乗せていけ」
 今すぐこの場でどうにかされる恐れはないと知り、フレデリックはひとまず安堵した。
 しかし、最初は親しげな態度をとっていたが、人気のない場所まで来た途端に豹変し、金品や――人命までをも奪う輩がいるというのも有名な噂話である。
 間違っても、この男と二人きりになるというのは好ましくなかった。
「そ、そりゃあ構いませんが……もうちっと、そうですね、他にもお客人が来るまで、ちょいと待っていてもらうことになりますぜ?」
 青年の隻眼に気圧されて、フレデリックは舌を噛みそうになった。何を言ったわけでもなければしたわけでもないのに、妙な貫禄と威圧感を青年は漂わせていた。
「む、構わん」
 そう言って、青年はフレデリックに許可を求めずに馬車へと乗り込んだ。
 青年が馬車に乗り込んだ後、収穫祭を満喫してきたと思われる人々が次々とやってきたため、フレデリックはそちらに頭を回さなくてはならなくなった。
「それじゃあお客さん方、レングスに向けて出発しますぜ」
 というフレデリックの言葉に鞭の音が続き、幾人もの乗客を乗せた馬車はゆっくりと走り出す。


 人から人へ。人から物、物から人へ。
 全てが一つに繋がっていることを誰も知らなかった時代、人々はそれぞれの物語を紡ぎ続けていた。
 しかし確かに、物語は土地を、国を、時代を越えて繋がり、いつの日か、より大きな物語の縦糸と横糸となっていく。
 ジィグネアルという、一つの巨大な舞台の上で。


【予期していなかった次回予告】
 銀行で順番待ちをしていたその時、アイディアは閃いた。
 広大無辺の異世界ジィグネアル。探せばまだまだ描き足りない部分は多かった!
 騎士に怪物、魔術学院にあの氷原の死闘! レベルと敷居の高い読者諸賢を相手に、三文物書きはどこまで足掻けるのか!? それはその時が来るまで分からない!
 【ジィグネアル短編集U】、現在鋭意構想中!

【密かに温めていた次回予告】
 かつて、世界を初めて一周した男達がいる――
 本編が始まる以前、この世の空白を埋めんとする男が一人の少年と出会った時、壮大な海と冒険の物語は始まった。
 荒れ狂う怒涛と化して襲い掛かる大海。
 ヒトの理が通じない密林と砂漠の世界。
 そして、最果てに残る氷と戦争の世界。
 その全てをくぐり抜け、男は英雄への道を往く! それにしても、こんな大風呂敷を広げていいのやら!?
 【ジィグネアル冒険記】、ただいま準備中!

【密かに温めていた次回予告2】
 満を持して、あの『勇者』が帰ってくる!?
 鋼鉄の体と熱過ぎる血潮と不屈の根性を引っ提げ、勘違い中年が大暴れ! 奴を止める手段はないのか!?
 笑い(冷笑)あり、(あくびの)涙あり、感動(たぶん)ありの三拍子揃った勇者(自称)の活躍を片手で目隠ししながら楽しんでいただきたい!
 【自称勇者!? ドン・ガラドの回想】、絶賛構想中!



2010/07/24(Sat)10:01:50 公開 / 木沢井
■この作品の著作権は木沢井さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
はじめましてか、もしくはTPOに則った挨拶をば。三文物書きの木沢井です。
 当拙作は、とあるお二方の影響を受け、現在私がこちらの隅の方で細々と投稿させていただいている拙作『ジョビネル・エリンギ3』の世界観を元に、本編とは無関係の部分にスポットを当てた、七つの短編を一月ごとに作っていこうと思って投稿したものです。なので本編を知らない方でも、問題はないかと思われます。
(7/24)
 若輩ゆえに拙い部分も多々あったでしょうが、お蔭様で、無事に短編集も完結となりました。
 自身の作品の設定を固めると同時に幾らかの実験的な試みも含めて半年ばかり投稿させていただきましたが、やはり私はまだまだ至らない部分(長編と短編におけるフォームの違いだとか)が多いということが改めて分かりました。この半年間の貴重な経験を土台に、また新たな気持ちで取り組んでいきたいです。
 当拙作群に触れて、本編に興味を持っていただけたのなら無上の幸いです。ここまでお読み下さった皆様、改めてありがとうございます。


2/23 二を投稿しました。
3/26 三を投稿しました。
4/28 四を投稿しました。
5/31 五を投稿しました。
7/2 六を投稿しました。が、無念……。
7/24 七を投稿しました。これにて一時閉幕です。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。