『銀淵のユエ 下』 ... ジャンル:リアル・現代 アクション
作者:祠堂 崇                

123456789101112131415161718192021222324252627282930313233343536373839404142
 




 第四幕     月と夜の境界、踊らされる視えない影





 それは、激動の数日間であった。
 成瀬結依の取り巻く世界が、いかにちっぽけなものかを思い知らされる戦い。
 魔術師。
 結依が存在するこの世界を【ハイエンド】と呼び、違う次元から訪れた異能の使い手達。
 その魔術師ですら警戒する程の魔力の絶対量を持つが為に狙われた結依。
 青年、ナユタ。
 成り行き上で結依を護る事になった彼は他世界の魔術師との戦闘に勝利し、結依は救われた。
 異常でしかない自分でも、正常な世界に存在しても良いのだと、結依は認識出来た。
 血で血を洗う世界を怖いと思う反面、心のどこかでは嬉しくもあった。
 そこに自分が居る事が、悪ではないという事実を見つけられた。
 結依はナユタに感謝した。
 自分を忌避すべき者のように扱わず、真正面から見てくれたことを。

 だが、結依はまだ気付けなかった。

 総てが終わった訳ではないことを。
 この事件の悪が何者であるのかを。
 そしてこの先に待ち受ける選択に、
 疑念と真実が渦巻く新たな戦場に、
 結依は、希望を断たれる事を。





 激戦から僅か半日。
 その日の学業を平然と終えた結依は帰りのショートホームルームを受けた後、一人帰路に着く。
 正直、違和感のようなものは大いに在る。ほんの数時間前に凄まじい戦いが目の前で起きていたというのに、学園に居た者達は誰一人その事実を知らず変わらない一日を過ごす。結依だけが世界の表裏を行き交っていた事への奇妙な新鮮味に、心の何処かがスッと欠けるような感覚を味わう。
 だが、世界は変わらぬ速度で廻っている。
 ナユタの話では結界とは擬似的に創られた空間での戦闘によるものであるために、結界の消失と共に情報はリセットされるらしい。さすがに取り残された者の命まで蘇らないが、いくら暴れても結局はここ≠ニは違う場所。元の空間には一切の影響はない。
 結依にとってはありがたい話だ。
 己が学び舎が戦場の傷跡を負うのは気が引けたし、何より人目についてはならない事も重々承知している。
 こうして情報は隠蔽され、【ハイエンド】は真実を見失う。
 恐らくそうやって、彼ら魔術師達はこの世界の均衡を保っていたのだろう。
 真実から外れた世界。
 洩れ出るような異質の残滓を後にする。
 不謹慎だとは思う。
 それでも結依は、何事も無く正門を抜け出る事への開放感から、ほっと安堵の吐息を零した。
 水伽橋に差し掛かったところで、ふと結依は橋の中腹にて欄干に背を預けているナユタに気付く。
 結界の消失後、事後処理を済ませたナユタはボロボロにされた服を替える為に成瀬宅に置いたままのバッグを取りに一度戻っていた。ティーシャツの上にジャケット、ジーンズと相も変わらず黒一色に統一されている。傷一つ無い相貌は結依に限らず、橋を通る老若男女が必ず一瞥してから去ってゆく。
 ぞっとする程の端正な顔立ちを不機嫌そうに歪めて、結依を見る。
 美貌と怒っているような睨み、その両方からドキッとした結依はおずおずと橋を渡る。
「……ナユタさん」
 ナユタの前で立ち止まり上目遣いで見上げる結依を、つまらなそうに見てから歩き出す。結依もとりあえず追従する。
 特にお互い何も言わず、人気の少ない社宅の方を選ぶ。公園に入った辺りで、口を開いたのはナユタだった。
「これからの事だけどよ」
「は、はい……っ」
 何を緊張してんだ? という視線を一度向けるが、気にするのも馬鹿らしいとナユタは続ける。
「もう少し此処に居る事にした」
「そうなんですか?」
「あの女がそう簡単に引き下がるか分かんねぇ。それに組織間の問題に発展するとなりゃ、報復が待ってる」
「報復……」
 何気なく言われたのだが、結依にはずっしりと重く圧し掛かる単語だった。
 またさっきのような戦場が繰り広げられるのかと思うと、正直気が気じゃない。
「つってもすぐ帰るけどな」
 立ち止まり、振り返るナユタ。
「考えてみりゃ、お前が原因ならもっと早くから狙われてるはずなんだよ」
「え……?」
「我ながら気付くのが遅ぇもんだよ……そもそもお前が襲われたのって、俺が来てからじゃねぇか。一応は秘密裏に【ハイエンド】へ潜り込んだはずなのに、あの女とあそこまでピタリとかち合うなんて不自然だ」
「どういう事ですか?」
 一度考え、やがて結依の隻眼を見据えて答える。
「……情報が洩れてる。あの女が、まるで俺がこの町に来るのを待ってたみてぇだった態度もそれなら辻褄が合う」
 ナユタは結依から返して貰った携帯電話を出して日付を確認する。
「様子見も兼ねて……そうだな、あと二日はお前の周囲を見張っとくのが妥当か」
「二日……」
 携帯を仕舞い、ナユタは不機嫌そうに顔をしかめる。
「お前……さっきから何をぼーっとしてんだ」
「えっ?」
「え、じゃねぇよ。オウム返しばっかしやがって……衝撃的過ぎて放心してんのか?」
 う、と結依は呻いた。
 正直、図星だ。ここ連日続いた緊張が一気に解けて、考えや悩みなど吹き飛ぶほど頭が真っ白になっている。
 常人なら大概がこうだろう。それが分かっているナユタは溜息混じりに呆れる。
「しゃきっとしろっつっただろ。全部終わったなんて俺がいつ言ったよ?」
「は、はい……」
 しゅんと肩を落とす結依。
 これが世の終焉という訳ではない。異常(たたかい)が終わっただけであって、彼女にはまだ新たな正常(たたかい)が待っている。
 結依は俯き加減にペンダントを握り締め、大丈夫、と口の中で呟いて顔を上げた。
「……ありがとうございます、ナユタさん」
 どこか疲れが見える、しかし満面の笑みを湛えた結依から視線を外し、ナユタは変わらぬ表情で答えた。
「俺は俺のやる事をしただけだよ。お前の気持ちなんて別に何とも思ってねぇ」
 さっさと歩き出してしまうナユタに微苦笑を浮かべ、結依も着いてゆく。
 腕を頭上へ上げて大きく伸びをするナユタ。
「さーって……これからどうすっかな。二日ってぇのもまた地味に嫌な長さだぜ。野宿すんのもキツいし、いい加減腹が減った」
 愚痴に近い独り言に、結依はぱっと顔を輝かせてナユタの傍に駆け寄る。
「そ、それでしたらナユタさん! 私の家に泊まりませんか……?」
 それを訊いたナユタは顔だけ振り向く。目に見えて鬱陶しそうな表情をしている。予想外に張り切られたと思う反面、『やっぱり言うと思った』という一種の諦めもその目つきに凝縮されていた。
「何で俺がお前の家で……」
 しかし、妙案だと言わんばかりに人の話を聞いてない結依は口元に手を当てて色々と考え出す。
「よくよく考えてみれば私、ずっとナユタさんのお世話になりっぱなしですし……せめて二日間のご飯ぐらいは御馳走しなくては」
「だから何で俺がお前の家で……」
「それにナユタさん、あのバッグに洋服はそんなにいっぱい入らないでしょうし、洗濯した方が気持ちも良いでしょうし」
「確かに二着しか持ってこなかったからこれ洗濯したら着る服が……」
「うん、そうしましょう。お礼ぐらいはしないと、申し開きが出来ないというかですし」
「おいっ、人の話聞いて――」
「ナユタさん!!」
 いい加減殴ろうかと思って左手を上げた瞬間、結依がバッと顔を振り向かせた。
 切って落とすカウンターを放たれ、不意を衝かれたナユタの腕が止まる。
 彼女の隻眼には、たった一つの行動に滾る興奮だけが全面的に映っている。
「もし良ければ是非お礼がしたいのですがいかがでしょう!?」
 空回りし過ぎる熱意は、増せば増すほど他者の打ち水などもろともしなくなる。
 断りどころを失ったナユタの表情は、一言では言い表せない。





 成瀬宅。
 時刻は午後七時を回っている。
 何してるんだろう、とナユタは思った。
 キッチンで嬉しそうに料理をしている結依が、ではない。リビングテーブルで空の食器を前に頬杖を突いて待っている自分に、だ。
 ちらりと見る。
 ジュワーッ、という肉の焼ける耳障りの良い音と匂いがキッチンから流れてくる。菜箸でつついて中身の焼き加減を見ながら、ふと結依がナユタの視線に気付くと、熱気に健康的な汗を掻きながらにっこりと微笑む。
 もうじき出来ますよ、と言いたいらしい。
(俺は本当に何をしてるんだろう……)
 【ハイエンド】に潜り込んで以来、この状況が一番ナユタには理解不能だった。徐々に鬱になってきそうで怖い。
 魔術師の存在を確認し、単身異世界に訪れて護衛だの激戦だの繰り広げ、勝った御褒美に夕食を待つ。
 あえてもう一度言おう、理解不能だ。
 大体何故、擁護していた相手は張り切って夕食作りをしているのだろう。敵に平然とトドメを刺そうとした男のために。
 第一、肉を焼いているのがおかしい。数時間前に人体が裂けたり穴が開いたり血が流れたりしたのを、顔を青ざめ体を震わせて見ているはずなのに。何故よりによって肉を使うのかと。しかも使命感丸出しの真摯な面持ちで。ひょっとして忘れているのだろうか。
 家に着いてから数えるのも億劫になるほどの溜息を再び吐き、ナユタは次々と湧いて出る疑念を忘却するよう徹した。
「お待たせしましたっ!」
 スリッパをぱかぱかと鳴らしながらフライパン片手に結依がキッチンから出てくる。
 何とも言えない表情のナユタの眼前で、何故か楽しそうに調理したものを盛り付けてゆく結依。トマトケチャップで味付けしたハンバーグにスパゲティ、レタスにブロッコリーにポテトサラダと野菜方面もしっかりカバー。平たい皿に白米をよそいで、飲み物は牛乳。
「どうぞお召し上がりくださいです!」
 さあ! とばかりに促す結依。
 目の前で湯気を漂わせる料理を、半ば睥睨するような視線で見下ろすナユタは、やがて観念するように溜息を零す。
「……まぁ、いい。失血だけは構築再生(リジェネイト)じゃどうしようもねぇし、食って増やすって事にするかよ」
「はい?」
「何でもねぇよ」
 人の気も知らずにナユタの傍らに立って待っている結依を無視して食事を開始する。
 こうなったら食うもん食って家の外を巡廻するとでも言って抜け出るのが得策だろう。この際二日越しに同じ服を着っぱなしなのを耐えるだけでいい。うっかり風呂なんか薦められて洗濯されたら終わりだ。理由は簡単だ、結依は一人暮らしなのだから。
 全く気付いていない結依を尻目にナユタが手元のナイフを掴んだ。
 ジュウ……! と肉の焼ける音が手の平から発せられた。
「いってぇ……!」
「ふぇっ……!?」
 パッとナイフから手を離し、苦悶の表情を俯かせるナユタ。何が起きたのか分からない結依がおどおどとしていると、顔を上げたナユタが呟く。
「つぅ〜……俺とした事が気付かねぇとはな。つぅかお前、このナイフ銀製かよ……」
「え? えっ?」
 意味が分からない結依をじろりと睨み、伏し目がちに右手をぶらぶらと振る。結依からは見えないように手の平を覗くと、手の平に横一線に肉が爛れて水脹れが出来ている。火傷痕のようになってしまった右手を握り締め、不安そうに首を傾げる結依に答える。
「……俺の体は特殊でな。高い魔力が込められた銀はそれだけで俺と反発する。普通の銀製のモンならなんてことはねぇんだが……迂闊だった。考えてみりゃお前がずっと触るもんだしな、食器なんざ……」
 あえて詳細は伏せたが、魔と夜を司るフェンリルの血族であるナユタは『銀』に弱い。正確には、拒絶されるというのが正しいだろう。触れた箇所が火傷したように爛れているのも、細胞そのものを強く拒絶された結果、壊死しかけたのだ。
 本人も言ったようにただの銀ではこうはならない。彼にとって危険なのは、不純物の限りなく無い純銀をさらに聖水で洗い精錬し、数人がかりの魔力注入によって出来上がる『物質として昇華された銀』のことだ。機械でさっさと加工してしまっている銀製ナイフでは高濃度の魔力を宿せるだけの純度が足らない。
 ただ、失念していた。結依の魔力の絶対量はアーティファクトから介入して結界をパンクさせる程だということを。
 一瞬掴んだだけであれだ。日常的に使っている銀に込められる魔力の量は計り知れない。
 内心、その事実にナユタは驚いていた。反発したということは、純度の足らない銀製ナイフを反発させられるまでに昇華した≠ニいうことだ。術的な必須要素を無視し、強引に魔力を叩き込んで鍛え上げたということ。
(分かってねぇんだろうなぁ……なんつぅ奴だよ、本当に)
 ナユタではもう触る事も適わないが、使い方次第でそこらの名刀を遥かに凌ぐ破壊力を秘める可能性が在る。と、そこまで考えるに至り、つまりはこの家の物の大半は量産品のアーティファクトを上回る性能を持っているんじゃないかという仮説も立てた。
 恐らくナユタは今、【ハイエンド】で最も危険な火薬庫の中に居るのかも知れない。
(『警報迎撃(スタンサーチャー)』、さっさと片付けといて良かった。こいつが触ってなくても暴発してたかも知んねぇ……)
 魔力が決して魔術師にとってプラスに働くだけではないという、いい手本だった。
「おい、銀製じゃないのは無ぇのかよ? せめて持つとこがプラスチックならそれでもいい」
 箸で食べるのは気が引けた。スパゲティがあるからだ。口元をケチャップ塗れにして食べる姿なんて、人に見られたくはない。
 上手く状況が飲み込めていない結依だが、要求するということはそれなりの理由があるのだろうと察してキッチンへ引っ込む。
「えっと……」
 かちゃかちゃと食器棚の引き出しを漁る音が聴こえる。しかし結依は申し訳なさそうにリビングへ顔を向ける。
「あの……すみません、この家に来た時にまとめて買ったので……多分、全部銀製、かもです……」
「こないだも訊いた気ぃすっけどさぁ……お前って本当に一人暮らし?」
 呆れ半分苛立ち半分で刺々しい言葉を放つナユタ。銀製の食器しかない一般家庭というのも変にアンバランスだ。しかし肩肘を張った金の使い込み方をしているようには見えない。妙な所が貧乏臭く、妙な所が富豪めいている。
 というより銀製ナイフを纏め買いしようと気軽に思える店ってどんな店なんだ、と不思議に思った矢先、明るい表情をした結依がナイフとフォークを握り締めてキッチンから出てきた。
「ありました! 持つところがプラスチックのものがっ」


 時間にして、僅か数秒しか経っていない。
 しかし、体感時間は優に数分経っているような気がした。

 ナユタの両手に握り締められた、幼児用の小さなナイフとフォーク。

 それが原因であった。
「……」
「……」
 異様なまでに静かだ。壁掛け時計の規則的な音が耳に痛い。
 しかし、二人とも何も喋らない。喋る気力も無い。
 リビング中を満たす重たい気配。擬音で表すなら、『ずーん……』というのが相応しいだろう。
 ナユタの斜め後ろという位置で立ち尽くす結依は、凍りついた空気に顔が青ざめている。椅子に座るナユタの表情は窺い知れないが、纏う何かが物語っていた。自分のしたことの愚かさを今になって痛感させられた。
 この俺に、幼児用の食器で物を食えと……?
 背中はそう言っている。いや、言っているという確証は無いが、結依にはそう感じた。
 ある意味、誰も責められないのだ。結依が強引に誘ったとはいえまともな料理を出してくれたわけであり、同じ屋根の下での様子見は手軽だし万が一の緊急時にも素早く対応できる。むしろ客観的に捉えるのならナユタは『食べさせて貰う立場』になる。それに食器の取っ手は確かにプラスチックなので持つ事に差し支えは無い。これならまず間違いなく食事が出来る。わざわざケチャップを気にせずともスパゲティは食べれるし他の食材もまた然り。欲を言えば一掬いごとの量が少ないので回数をこなさないと食べられない事だがまず食べられなくはない事に違いは無い。実用性の観点で言えば何の問題も無い。そう、問題はまったくもって微塵に無い。
 ただし、幼児用。
 ごくり、と唾を飲んだのは結依だった。微動だにしないナユタが怖い。人はこのような状況をこう例える。嵐の前の静けさ、と。
 ハンバーグとスパゲティの組み合わせが、だんだんお子様ランチに見えてきた。どうしてこの献立にしてしまったのだろうか。
 その時、ナユタの両手がゆっくりと動きだした。急な稼動に思わず結依がビクリとする。
 ゆっくりと。ゆっくりと。
 何も喋らず。何も訊かず。
 黙々と、それこそ手術でもするかのような緩やかな動きでハンバーグを切り分ける。
 その一切れにフォークを刺し、持ち上げる。口に入れやすい大きさに対してフォークがあまりに小さいので、持ち上げる、だ。
 心臓の高鳴りがもどかしい。自分の受験番号を探している時以来のざわつきを胸に、祈るようにペンダントを握り見守る結依。
 フォークを持つ左手がプルプル震えている。
 味。そう味だ。味で勝負しようと結依は思考の切り替えを行った。今日のはなかなかに力作だ。ケチャップが濃すぎず、薄すぎず。肉くずれしない絶妙なバランスで焼いたそれは綺麗な楕円形を保ったまま。一口入れれば溢れる肉汁と仄かな酸味が絶妙なハーモニーを奏でるはず。食べてさえくれればチャンスはあるかも知れない。美味いとまでいかなくとも、機嫌を損ねるほど不味くはきっとないはずだ。食べて欲しい。とにかくその一切れを口に入れて欲しい。まだ、勝負は終わっていないんだと彼を信じたい――!
 が、結依がいかに味で勝負しようと食べる以前の問題が唯一にして最大の難関となっているナユタには関係無いわけで。
 開いた口にハンバーグの一切れが入る数センチ手前。
 爆発した。
 やっぱり耐えられなかったらしい。
「出来るかぁぁああああああああああああああ―――――――っ!!」
 両腕を振り上げて放棄するナユタ。
 結依は遠い彼方を眺めるような目で、まだ優しい返答だと思う事にした。
 テーブルごとひっくり返されたりはされなかったのだから。
 ところで腕を振り上げたことで宙を舞い、やがて襲いくるハンバーグの一切れが刺さったフォークを避ける技量が結依には、無い。





 風呂って大事なんだという事に結依は気付いた。
 女としてではなく、ハンバーグを避けられない人間として。
 風呂にあがった結依は眼帯を外したまま、首に掛けているバスタオルで髪を拭きながらリビングの扉を開ける。
「ナユタさん、お風呂はどうされますか?」
 足を組んでソファに背を預け、リモコンを押してテレビのチャンネルをぽちぽちと変えていたナユタは振り向く。
 その時、不覚にも結依とナユタは双方して完全に油断していた。
 より正確に言えば、油断すべきではないのはナユタであったのに。
 どうしようかと何気なく結依と目を合わせたナユタは、
「――、っ!?」
 結依の銀色の瞳をした左眼を一瞬見た直後、凄まじい形相に顔を歪めて立ち上がった。
 物凄い速度で顔を手で覆い立ち上がったため、持っていたリモコンが床に落ちる。裏蓋が外れ乾電池が飛び出る。
 急に立ち上がるナユタに目を見開いて驚く結依。
「ど、どうしたんですか……!?」
「……隠せ」
 小さく呟く。聞き取り損ねた結依が、え? と言った瞬間、顔を逸らしたままナユタは大声で叫んだ。
「早く眼帯で眼を隠せ!!」
「はっ……は、い」
 突然の怒号に怯えた結依は、言われるまま脱衣所に駆け込む。洗面台の脇に置いておいた医療用眼帯を左眼に着ける。
 鏡で位置を整えてから、首に提げたままのロケットペンダントを握り締め俯く。
 心臓が高鳴っている。さっきのような面白おかしい緊張やら風呂上りなどとは違う――恐怖に対する鼓動。
 着ければいいのだろうか。これなら問題は無いのだろうか。
 募る不安を抱えながら廊下に出る結依は、早足に玄関へ向かうナユタの背を発見する。
「な、ナユタさんっ……!?」
 慌てて結依はナユタを呼び止める。
 ブーツを履いて立ち上がったナユタは玄関のドアノブに手を掛け、振り返らずに言う。
「……少し出てくる。風呂は、いい……」
 返事を待たずドアを開け、出てゆくナユタ。
 閉まる音を耳に、何が起こったのか分からない結依は呆然と玄関を見つめ続けた。


「はぁ……はぁ……」
 成瀬宅の玄関から早足どころかほぼ小走りに近い状態で歩くこと数分。
 夜の神凪町は人気が無く、外を出歩いている姿はナユタの他にない。
 暗い町並みを進みながら、顔を手で覆ったままのナユタが毒づくように呟く。
「くそったれ! もう少しで壊れる≠ニころだった……あいつマジでなんつぅ眼ぇしてやがんだ……っ!」
 不意に、うなじから後頭部にかけて、気持ちの悪い感覚が這い上がってくるのを感じて立ち止まる。
「ぐっ……! う、ぁ」
 腐った果実をぐじゅりと潰すような嫌な音が耳に這い寄る。
 ナユタは歯を食い縛る。
「黙れ……」
 ぞわりと頭の中を満たそうとするその気配に、吼える。
「テメェは出てくんじゃねぇよ! 引っ込んでろっ……!!」
 すると、首筋の辺りで再びぐじゅりと音を立てるような気配が、ゆっくりと下がってゆくのを感じた。それでもまだナユタは苦痛を顔中に表し、何かに耐えるようにして深い呼吸をする。
「……、」
 やがて静寂が染み渡る。
 吐き気がしてきた。土色気になった顔で空を仰ぐと、空には半月が少し膨らんだ形で闇夜に照らされている。
 遠い目で月を見上げ、疲れたような声でナユタが自嘲する。
「やばい……まだ、満月でもねぇのに……こんなに早く『兆候』が……出る、なんて……っ」
 震えるように吐息を零した矢先、また首筋に気配がざわつく。
 顔を俯かせてぐっと堪えるナユタ。
 ふと、前から誰かがやってくる。
 手を離し顔を上げるナユタ。
 家のブロック塀の曲がり角。
 そこから、ハイヒールらしき乾いた靴音が近づいてくるのが分かる。
 ざわつきは収まらない。
 ゆっくりと顔を手で覆う。
 塀の影から姿を現した。
 指の隙間から捉えたその姿に、
 ナユタの口が開かれる。
 覗く犬歯は、白く鋭く、口の端から獰猛に剥かれる。


 ◆


 両手にコンビニ袋を提げたアルフレッドはドアを器用に開けて中へ入る。
 派手さのない、しかし高級感の漂う豪奢な内装を一面に見せるホテルの一室。
「ただいま戻りました」
 アルフレッドは自分のベッドの上に荷物を置き、中の物を取り出しながらちらりと窓の方を見る。
 一人掛けの小さなソファに座り、右脚を折り曲げてそこに肘を当てて頬杖を突きながら、ミルネスカはじっと窓の奥に広がる夜景を見つめていた。
 全身に手当てを施してあり、特に顔の左頬は大きな湿布を貼ってある。そこにはいずれの感情も無く、ひたすら茫然としている。
 すぐ脇に折りたたみ式のカウンターテーブルが組み立ててあり、その上には傷んだ帽子と綺麗に拭いたゴーグル、二挺拳銃『ティンカーベル』と長細いケースがそれぞれ無造作に置かれている。アルフレッドが買出しに出て暇になったので手入れでもしていたのだろう。
 ただ、彼はテーブル上に置かれているケースが気になった。強化プラスチック製の赤い箱で、細い革のベルトで封をしてある。
 勿論、中身が何であるかは知っている。むしろ知っているからこそ、そこに置かれているのが気になったのだ。
「ミルネスカさん……」
「……何よ」
 窓の外をじっと眺めたまま、気だるげにミルネスカは口を開く。
「これから、どうするんですか?」
 その問いに、ようやくミルネスカは振り向いた。
 少し不機嫌なようで、見つめるというより睨んでいるような視線に耐えかねたアルフレッドは思わず目を逸らす。
「それ≠出して……まだ何かあるんですか?」
「あるに決まってんでしょ」ミルネスカはあっさりと頷いた。「あの男がこの町を静かに出るまでは、アタシも此処に居るわ」
「どうしてですか……?」
 はぁ、とミルネスカは疲れたように溜息を零す。
「ほんっとバカね、アンタ。あの眼帯の子が【ハイエンド】の人間だったとして、アタシ達は別に初めからあの子を狙ってた訳じゃないのよ? どういう思惑でフェンリルの血族があの子を護ってたのかは知らないけど、護るきっかけを作ったのはアタシ達が知らずにあの子を狙ったから。フェンリルの血族にとってあの子を護ったのはあくまで小目的に過ぎない≠フよ」
 成程、とアルフレッドは納得した。
 同時期に【ハイエンド】で侵入したのなら、まず互いに相手の動向を見定める事から始める。そして接触した際に思わぬ第三者の介入で話が拗れ、その結果として数時間前に決着が着いてしまった。考えてみれば、決着が着いたのは拗れてしまった話の方だ。あの男が【ハイエンド】に侵入した、そもそもの目的とは関係ない。
「本当の目的が、在ると?」
「……もしかしたらアタシ達を潰すのが目的かもと思ったんだけど、違うわね。アタシ達を待ってたにしては、対応が即席過ぎる」
 ミルネスカはテーブルから二挺拳銃を拾い上げ、天井に向けて構える。
 アルフレッドは不安に駆られた。
「まさか、また戦うつもりなんですか?」
「必要と在らば、ね……」
「そんな無茶ですよっ! 相手は月の満ち欠けで魔力の絶対量が変動するあのフェンリルの血族ですよ!? 日を跨げば今日より強く……っ」
「それでもやんなきゃなんないのよ! 分かってんでしょ!?」
 鋭い一喝で黙らせるミルネスカ。アルフレッドは押し黙る。
 その通りだ。初めこそ増援をと思ったが、個人として敗走した今仲間を呼べば、組織による報復と見なされる恐れがある。たとえそれで勝てたとしても《反抗勢力(レジスタンス)》が【ハイエンド】内にて公式化されていない武力行使を強引に行ったという観点からいくつもの組織に敵視される事になってしまうだろう。《反抗勢力(レジスタンス)》は和平を理想論としているが、過程の段階では戦争や殺し合いで成り立っている組織だ=A言い逃れは出来ない。
 かといって、無視できるかどうかは別の問題だ。これが【ミッドガルド】や【アスガルド】なら諦める事も出来る。
 しかし、ここは【ハイエンド】。真実から遠ざけた、他次元の世界総てにとっての安全弁である。万が一均衡が崩れるようなことがあれば一人の責任では済まないし、何より自分の上司の顔に泥を塗ることになる。
 衝突の有無はどうあれ、黙らせるにはミルネスカ一人にしか出来ない。
「やっぱり、戦うんですか……」
 当然とばかりに首肯する。
「その為の切り札でしょ?」
 顎で示す。テーブルの上に置かれた、例の赤いケースだ。
「今日ので通算三度目の死に損ないが、今さら生き恥曝して逃げる訳にはいかないわ」
「ミルネスカさん……」
 拳銃を下ろし、天井を仰ぎ見ながら呟く。
「アンタは帰りなさい。これ以上、他人に迷惑かけて死ぬのは嫌」
「何言ってるんですか、水臭いですよ」
 呆れるようにアルフレッドは苦笑する。
「僕はこんなだから、ミルネスカさんのように戦士みたいな誇りなんて語れないですけど……でも先輩を見捨てて帰れませんよ」
 尻目に見ながら、呆れとも嘲りともつかない乾いた笑みを零すミルネスカ。
「何よ戦士って……御伽噺の読みすぎよ、バッカみたい」
「そんな……僕は真剣に言ってるんですよ!」
「アタシよか年上のくせして、とんだ坊やねアンタ」
 白銀の拳銃をアルフレッドに突きつける。
 躊躇い無く眉間を狙われて怖気づくアルフレッドに冷たい視線を向ける。
「いいこと? アンタの言う戦士サマに自分もなりたいって思うなら、経験者の鉄則を忘れないことね」
 そして黒銀の拳銃は自分のこめかみに突きつけて、彼女は言った。
「『生きたいならカッコつけるな。死にたいなら殺させるな』」
 その眼は、アルフレッドが初めて見る類のものだった。
 その道の達人然とした、『割り切る』事に特化した♀痰フ色。事務的で、機械的。人間味の在る生き方を知っては出来ない眼つき。
「自己主張を飾り付きで押し付けて粋がろうとすると死亡フラグしか立たない。そんな無理を無茶に変えられるのは、殺されたぐらいじゃ死なない♂サけ物じみた連中だけよ。アタシら凡人が真似してもろくな事にならない」
 白銀の拳銃の撃鉄を上げる。
「けど矜持を見失って死ぬのは、誰よりも自分が許せない。だからアタシは、アタシを殺す意味を持つ者に負けた時以外は絶対に殺させない=B周りから無様に見えようと、アタシの矜持はアタシにしか殺せない事を証明し続ける」
 次いで黒銀の拳銃の撃鉄も上げる。
 他者を殺せる。自分も殺せる。異常な状況を作っても尚、ミルネスカの眼に揺らぎはない。
「分かる? アンタがアタシから見出そうとしてる戦士(りそう)は、そういうもんだってこと」
 優しさなど無い。
 綺麗さなど無い。
 華々しさなど無い。
 汚くて、不定形で、凍てついていて、ぐちゃぐちゃに歪んだ原形にしかなれない、誰も理解されようとは思わない。
 壊れた正常さ=B
 未来など語らない、脆くなるまで研ぎ澄まされた自我。
 自分勝手で――だからこそ、強い。
「ここから先はアタシ個人の判断よ。死にたくないならとっとと帰りなさい」
 あるいは、死なせたくないなら、という意味も含まれる言葉。
 しかし、アルフレッドは引かなかった。
「……それなら、僕は?」
「なんですって?」
「僕の気持ちは無しにするっていうんですか?」
 ミルネスカは眉根を寄せる。
「確かに僕は入りたての下っ端で、後ろから見てるだけしか出来ない能無しかもしれないですけど……だからって、僕の意見は初めから聞く耳持たないって決めつけて、一緒に【ハイエンド】へ連れてきた訳だって言うんですか?」
「アルフレッド……」
「見損なわないで下さいよ! 僕の理想論だって僕の勝手じゃないですか!!」
 悲痛な面持ちで叫ぶアルフレッド。
 怒りではなく、悲しみの表情。
「そんなに使えないですか!? そんなに足引っ張ってますか!? ミルネスカさんの戦いに僕は邪魔でしかないんですかっ!?」
「うっさいわね! だったらアンタも一緒に死ねる覚悟が在るっていうの!?」
「生きる為にですよ!!」
「……っ!」
 ミルネスカの表情に、戸惑いが混じる。
「ミルネスカさん言ってたじゃないですか! やらなくちゃならない事があるって! それまでは絶対に死ねないって!! それ放って簡単に死にに行くみたいな事言わないで下さいよっ!! 生きる為にドロ臭い事しなくちゃならないなら、僕だって手伝います!」
「うるさい……」
「雑用でも何でも……いっそ盾にしてくれたって構いません!! 僕の憧れはアルベルさん達じゃなくて、ミルネスカさんだから――」
「いちいちうるっせぇのよ! こっ恥ずかしい!!」
 ミルネスカは足元に転がっていたバックの紐に足を掛けて思いっきり振り上げた。
「――へ?」
 完全に不意を衝かれたアルフレッドが間抜けな声を上げ、視界が皮製の茶褐色一面に覆われた。
 ちなみにその中には大破したノートパソコンや破損して使えなくなった銃器類をバラした鉄屑などでいっぱいになっている。
 ゴシャアッ!! という凄まじい音が部屋中に響き渡り、頭部が後ろへ弾かれるように吹っ飛ぶ。絨毯の上を二転三転して壁に後頭部を強打し、顔を覆い痛みに耐えるアルフレッドから視線を窓の外へ移したミルネスカは、虫の居所が悪いふうに怒鳴る。
「もう知らないっ!! 好き放題コキ使われて勝手にのたうち回ってろ! このバカフレッド!!」
「は、はは……」
 荒々しく二挺拳銃をテーブルの上に叩きつけてそっぽを向くミルネスカを空笑いしながら、アルフレッドは考えた。
 結果オーライ。ただし良い方向に転んだようにはあまり思えない、色々な意味で――と。


 ◆


 仰ぎ見るそこには、夜空が広がっている。
 オフィス街から来る建物の明かりによってあまり星を見る事が出来ない町だが、澄んだ空に浮かぶ月が淡い蒼を静寂に漂わせる。
 二階ベランダから梯子を上って屋根に座る結依は、膝を抱えながらぼうっとした顔で宵闇を見上げていた。
 そうして十分ほど経つ頃。
 ふと梯子がギシギシと規則的に軋む音がして、結依は首を回してそちらを見る。
 ベランダから顔を出したのは、ナユタだった。
「あ……」
 小さく呟くが、居た堪れなくなって萎縮する。
 不機嫌そうな顔のナユタはじっと結依を見ていたが、やがて無言で梯子を上りきって屋根の上を伝う。
 結依の近くまでやってきてから一度だけ、結依が何を見ているのかと空を見上げ、顔を向け直す。
「んな格好で寒くねぇのかよ」
「あ、はい……コート羽織ってれば大丈夫です」
 苦笑混じりに結依は答えた。パジャマの上から厚手のコートを肩に掛けているが、この季節の夜はまだ肌寒い。
 ナユタは何も言わず、結依の傍らに腰を下ろす。
 家々の明かりを遠く見つめるナユタをちらりと見て、視線を彷徨わせ、空を見て、月を眺めてから手元をもじもじとさせ、やがて口を開く。
「あの……さっきは、その……すみませんでした」
「何でお前が謝るわけ?」
 特に辛辣な問いではなかった。むしろ疲れたように力の篭らない声だ。それでも結依は怯えたように口篭る。
「えっと……その、なんだかこの眼は見たくないようなのに、ついうっかりして見せちゃったみたいで……」
 あはは、と苦笑いをしながら眼帯を指でなぞる結依に、ナユタは苛立たしそうに睨んだ。
「お前、何言ってんの? 見せるなって俺がいつ言ったよ。勝手に自分のせいみたいに自己完結すんじゃねぇよ、うざってぇな」
「あ、その」
「謝んなっつってんだろ。その場凌ぎの意味無ぇ謝罪ならやめろ、鬱陶しいんだよ」
「は、はい……」
 肩を竦めて俯く結依。
「わ、私……昔から駄目なんですよね」
 そう呟く結依を、ナユタは尻目に見る。
「どん臭いって言うんでしょうか……何やっても上手くいかなくて、言おう言おうと思ってもなかなか口に出せなくて……決心がついたつもりでも、その人の顔を見るとどうしても言えなくなってしまって……」
 目立たない風体や性格。それは総て、誰かと関わることで傷つけたりしないように。
 干渉しようとしない心。それは総て、己が心の鋭利な部分が向いたりしないように。
 遠目に見ているだけで良かった。
 好かれて壊してしまうよりは、嫌われる方が気が楽に思えた。
 怖くて、
 恐くて、
 顔を見て何かを言うことさえ出来ない。
 まるで、『それ以上言うな』と釘を刺されているかのようで。
「お前――」
「ナユタさん!」
 口を開いたナユタを遮るように、結依が明るい表情で振り向く。
「ナユタさんには、お友達はいらっしゃらないんですか?」
 それを聞いたナユタは少しきょとんとし、すぐに自嘲気味の暗い笑みを浮かべた。
「……冗談だろ? 俺と友達になんざなろうなんて奴は一人も居ねぇよ」
「え?」
「いや、関わろうとする奴は少なからず居たな。どいつもこいつも俺を利用しようとするか、あるいは殺そうとするかさ。家族だって知らない。気がついた時から俺は独りだった。仲間だの友達だの……俺には作れないし、作りたいとも思ってねぇ。第一、俺と友達になっても碌な事にはならねぇ」
 その言葉に、結依はどこか違和感を覚えた。
 どこか、経験論を口にしているような。そんな確定された失敗談を聞かされている気分になる。
 伏目がちに答えるナユタを見て、結依はぽつりと呟いた。
「……私と一緒なんですね」
 一緒。
 その言葉に苛立ちを覚えたナユタが睨もうと振り向くより先に、結依は空を見上げて言った。
「私も知らないんです。両親のこと、何も……」
「――、」
 あっさりと結依は言った。
 あまりにも簡単に、それこそ他人事のように言うものだから、振り向いたままナユタは黙り込んだ。
「一番古い記憶にはもう、孤児院に居ました。小学生の頃までそこに住んでて、水伽学園に合格したのをきっかけにして、この町に引っ越してきました」
 結依はナユタと眼を合わせる。
 その表情は、酷く明るい表情をしていた。
 微苦笑を誘う、明るい話題をしているような顔で。
「でも、孤児院に居る時とあまり変わった気がしないんですよね……何が変わらないのかが、よく分かってないんですけど」
「……」
「……自分でも、よく分からないんです。一人が嫌で孤児院を飛び出したのか、一人になりたくて無理矢理引っ越したのか……」
 左眼の見えざる呪い。
 常識に囚われた世界で生きるには、その存在はあまりにも異常過ぎる。
 視えるはずのないモノが視え、触れる事も関わる事も出来るその力は、そういった異質な存在が視えないのが当然となってしまったこの現実では枷でしかない。制御の利かない力は窺知し難い存在として恐れられ、本人の意思などお構いなしに拒絶される。
 どうする事も出来ない呪い。人とは違うという、異物感。
「考えたんですよ? どうすれば良いのかって……」
 今度は結依が町並みの明かりを遠く遠く眺めて、続ける。
「丁寧な言葉遣いだとどうだろう、ですとか……出来るだけ背筋を綺麗に見せよう、ですとか……他にも、見てくれが駄目でもこんな性格してるんですよってアピール出来る何かを探したりですとか……他にも色々……沢山、沢山探してみました」
「見つかったのかよ?」
 ナユタが問いかける。
 結依はゆっくりとペンダントに手を掛けた。
「見てください、これ……」
 ロケットペンダントの蓋を開けて、中を見せる。その中身を見たナユタは、怪訝な表情をした。
 ――何も、無かったからだ。
 写真も何も入っていない。ペンダントの裏面が無意味に覗くそれこそが、ナユタの問いに対する答えだった。
「空っぽなんですよね、結局は……」
 あはは、と苦笑いをする結依。
 入れるモノなど、何も無い。
 両親も、友達も、信じられる仲間も、誰も居ない。
 だからそのペンダントは、虚無でしかない。
「お守りでも何でもないんです。孤児院に預けられた頃から首に提げていたみたいで……」
 ペンダントの蓋を閉じて、両手で包み込んで握り締める。
 その手つきは、祈りを捧げるようにも見えた。
「もしかしたら、これは誰かとの絆の証なのかも知れない……そう考えていた時期もありました」
 でも、違った。
 握り締めて、祈っても、祈っても、祈っても、意味が無い。
 今となっては、ただ自分を繋ぎ止めるためだけの、逃げ道でしかない。
「今はこのままで……いつかきっと……そう思って、どうしても捨てられなかったんです」
 たとえ逃げ道でしかなくとも、失えば結依は完全な無でしかなくなってしまう。
 何のために生きているのかも分からず、とりあえず∴齔l暮らしをしているだけの結依は、寂しく、そして虚しい。
「でも、無いんですよ……」
 意味が、
 価値が、
 過去も、未来も、そのペンダントには無い。現在(いま)を保つためだけの、哀しい安全弁。
「満たしたかったです……色々な想いを詰め込んで……このペンダントが、きっと誰かとの絆の証になるって……」
 それだけ言って、結依はペンダントを握る両手を口元に寄せて、祈る。
 誰のためでもない、自分のための祈りを。
 大丈夫だと。
 それしか言えない自分を殺し、そして――、

「くっだらねぇ話だな、さっきから」

 ナユタの言葉が、突き刺さった。
 目を見開き、ばっと顔を上げる。
 空を見上げていたナユタは、不機嫌な顔で結依を見据えた。
「くだらねぇんだよ、お前の言ってる事は」
「ぇ……」
「つぅか何? それでお前は何が言いたいわけ? 何がしたくて、何をして欲しいんだよ?」
「何、が……?」
 ぽかんと口を開けたまま呆ける結依。
 ナユタは何の捻りもなく、さらっと答えた。
「それが分からねぇから、お前が何考えたって伝わらねぇんじゃねぇのか? そいつらにしてみりゃよ」
「!」
 結依は驚いた。同時に慄く。
 あまりに簡単に出たその答えに、気付けなかった自分が恥ずかしかった。
 そうだ。
 怖くて、
 恐くて、
 だから遠ざけた。俯いた。何も言わなかった。
 言って欲しいと、誰もが思っているわけではない。
 けれど、言わなければ何も始まらない。
 ナユタはそう結論付けたのだ。
「被害妄想なんだよ、それ。要するにビビッてんのはお前の方じゃねぇか。『言ったらどんな顔するだろう』。『言わなければ不快な思いさせないだろう』。『だから黙っていよう』。相手の事考えてるようで、結局は自分が傷つかないで済むようにしてるだけじゃねぇか」
「そんなこと……っ」
「だったらどうして『嫌だ』って言わなかったんだ?」
 喉が焼け付くような感覚に襲われた。
 息が出来なくなりそうになる。
 佐伯千佳。クラスメイト。周囲の人々。
 多くの者から詰られ、罵られて、虐げられて、
 結依は何をした?
 何を言った?
「言ったら余計叩かれるかも知れないって、断定した訳でもねぇ可能性にビビッて引け腰になってる分際で、よくもまぁつらつらと不幸自慢出来るな。何なの? 慰めて欲しかったのか? 『お前は悪くないんだよ』って頭の一つでも撫でてやりゃそれで良いのか? ……甘えてんじゃねぇよ」
 何もしてないくせに。
 何も言わないくせに。
 空っぽだとか抜かしやがる。
 ナユタはようやく気付いた。結依を見ていると何故か苛立つのは、どうしてなのか。
 結依は誰も見ていない≠フだ。
 嵐が過ぎ去るのを縮こまってやり過ごそうとする。
 怖くても、
 恐くても、
 傷つくのを承知の上で立ち向かおうとしないのだ。
 だから俯く。
 ペンダントを握って俯いて、祈りを捧げる自分の姿に満足している。
 それは、あの屋上でナユタに向け言い放った綺麗事なんかとは比べる価値も無い、最低の選択だ。
 双方から言葉で叩かれても、戦場の真ん中で両腕を広げたあの勇気を無碍にする、最悪の行為だ。
「お前言ったじゃねぇか。『命を奪ってしまっては声は届かない』って。『この人に死んで欲しくない』って。『綺麗事が叶う可能性はないのか』って。あれ全部その場凌ぎのでまかせだったのかよ?」
 違う。結依は強く首を振って否定する。
 死ぬ事しか相手に選ばせない戦場を、結依は許せなかった。許したくなかった。それは本当のこと。本心から言ったことだ。
「気付いてねぇのか知らねぇけどな……お前、言えてんじゃん」
「え……?」
「自分の意見だよ。嫌なら嫌って言って良いんだよ。状況にも寄るけどな、お前の言った事は俺らからすりゃ正しいのは確かだった」
 結依のしたことは、ナユタの選択肢を一つ増やしただけに過ぎない。
 しかし、その一つを、ナユタは選んだ。結依が【ハイエンド】の人間であり、ここが【ハイエンド】であるという状況も助けたのが本音だが、それでも結依の口から言われたからこそ、ナユタは手を引いた。気まぐれや肩透かしではなく、ナユタは結依の言葉を聴いた上で考えて諦めた=B真っ直ぐと自分の意見を言えた結依を、ナユタは疑う必要が無いと考えられるようになれた。
「あ……」
 ようやく気付いたらしい結依は口元に手を当てて小さく声を漏らす。ナユタは溜息を吐いた。
「何度も言ってんじゃねぇか、しゃきっとしろって。言いたい奴には好きなだけ言わせときゃ良いんだ。それでどうしてもムカつくことを言われたら、言い返してやれ。『テメェに言われる筋合いねぇんだよ!』って。いっそ一発ぶん殴って黙らせろ」
「え、えぇっ?」
「いいか? 周りはお前がビビッてるって思ってる。まぁ実際そうなんだけどよ」
「あぅ……」
 冷徹に図星を突かれた結依が落ち込むが、ナユタは気にも留めない。
「けどな、蓋を開けてみりゃ案外ビビッてんのは向こうだったりすんだよ。だから腹ん中に溜め込んでるもん全部ぶちまけてみろ。九十九人がドン引きしたって、一人でも何くそって食い付いてくりゃ僥倖だ。相手の不満を両手の指じゃ数え切れないほど言って、向こうからも言われて、他に言いたい不満が無くなったらお互い残ってんのは良いトコ尽くしだ。そういうのに気付けるのが、友達ってヤツなんじゃねぇのか?」
 沈黙する結依。じっとナユタを見つめ、抑揚の無い声で訊ねる。
「……できるんでしょうか」
「あん?」
「私にも、そんなふうに言える時が、来るんでしょうか……」
 ナユタは目を瞬かせ、つまらなそうに答えた。
「来るのを待ってんじゃねぇよ。自分から行くんだよ」
 月を仰ぎ、ナユタはこう続けた。
「何が正しいかは誰にも分からねぇ。だったら自分が正しいと思う事を貫くだけだ……取りたいと思ったのなら、それがお前の行動だ」
 結依は月を見上げるナユタの横顔を見て、それから、ペンダントを見下ろす。
 何も入っていないロケットペンダント。
 だが、何も入っていないのなら、これから何でも詰め込める可能性がある。
「……、はい」
 その希望を抱いた結依はもう一度ペンダントを両手で握り締めて口元に当て、目を閉じた。
 祈るのではなく、願うために。
 ふん、と。ナユタが不機嫌そうに目を逸らす気配が聴こえた。
 等しく流れる時間の中。
 月の眩い夜の下で、二人はその流れゆく時間の中を静かに過ごす。
 今はただ、静かに。





 翌日。
 今日も快晴。
 朝の陽光が斜に差す廊下を、スリッパを踏み鳴らして結依は欠伸を噛み締めた。
 いつものように洗面台で顔を洗い、髪を梳かしてから眼帯を着け、二階へ向かおうとする。
 ふと、物リビングから物音が聴こえ、全てがいつも通りではない事を思い出した結依はリビングのドアをゆっくり開ける。
 テーブルに肘を突いて、優雅に足を組み携帯を弄っているナユタはドアの音に気付いて振り返る。
 不機嫌な顔で睨んでくるナユタに、結依はおずおずと会釈した。
「お……おはよう、ございます……」
 ナユタは数秒結依を見つめ、溜息混じりに視線を手元へ戻した。
「いいから着替えて来い」
「あ、はい……」
 結依はドアを閉めると早足で二階へ上がってゆく。
 ナユタは携帯を折り、シャツの胸ポケットへ仕舞い、苛立たしげに目を閉じた。
「……誰も急げなんて言ってねぇだろ」


 制服に着替えた結依はエプロン姿で朝食を用意する。
 皿の上にベーコンエッグを乗せながら、ナユタに恐る恐るといったふうに訊ねる。
「あの……本当によろしいんですか?」
 ナユタは頬杖を突いてつまらなそうに断った。
「要らねぇよ、夜更け頃にコンビニ行って済ませた」
 一人分の朝食を用意しながら、申し訳なさそうにエプロンを椅子にかけて座り、両手を合わせる。
「いただきます……」
 ナユタは特に席を立つという事もせず、頬杖をついて明後日の方角を見ている。
 何となく気まずい空気を感じ取ってしまった結依は、早く食べてしまったほうが良いのかと箸を進める。
 一人の食事に慣れるのも考え物だと結依は思った。カチャカチャという何気無い音ですら気持ちが強張ってしまう。
 無言の静けさがだんだん耐え難くなってきたので、恐る恐るリモコンを取ってナユタに訊ねる。
「あ、あの……テレビ、つけてもいいですか?」
「好きにしろよ」
 二の句も継げさせない冷たい物言いでナユタは答える。そもそも許可を得る必要自体ないが、結依はしゅんとしながらテレビを点けた。
 ニュース番組のチャンネルで手を止め、リモコンを置く。
 ナユタも渡りに船とでも思ったのだろうか。丁度テレビのほうに体を向けていたのも助けてか、視線は液晶画面に向く。
『――そうですね……去年の犯罪件数に対して、認知統計は一千件にも満たないという過去最低の記録を出してしまった訳ですから、警察側の捜査技量の疑いはなかなか払拭されない事でしょう』
 着いた番組は結構重い議論に熱弁を振るっていた。
 う、と内心で困る結依。変えたい気分なのだが、さりげに見入っているナユタが気になって変える勇気も出ない。
 仕方なくリモコンを置いて箸を進めることにする。
 画面に映る政治家の話を聞きながら、ナユタがつまらなそうに呟く。
「相変わらず【ハイエンド】は物騒なんだな。認知されてるだけでも一千件って充分多過ぎだぜ」
「【アスガルド】ではこういった事件は少ないんですか……?」
「地域にもよるけどな。事故の方が多い場所も在るし……つぅか、単に認知件数が少ないだけで実際はかなり起こってんのかも知んねぇ。【アスガルド】の文明レベルは場所によって極端だが、まず機械的ネットワークがあまり存在しねぇ。電子メールより手紙の時代だからな。電話はそれなりに普及してんだけどよ」
「へぇ……あれ?」
 ふと、結依は気になった事を訊ねる。
「携帯電話も【アスガルド】では普及しているんですか?」
「してねぇよ」
 テレビを観たままナユタはあっさりと答えた。
「念の為にこっちで買ったんだよ。使ったのは昨日が初めてだけどな」
「そ、そうですか……」
 携帯電話で初めて利用したのがアラーム機能というのも、勿体無い気がする結依は苦笑いをした。
『――とりわけ重要視しなくてはならないのが、連続殺人のような同一犯の事件でしょうね。この件も警察の素早い対応に期待したいところです』
(この件……?)
 気になった結依は食事を続けながら、ちらと画面を観る。
 モニターの前に立つ美人キャスターが、フリップを立てて説明する。
『東京首都から郊外を抜けて、「神凪町」へと続く連続殺人は四件目となってしまいました』
「――!」
 驚きに瞠目し、結依の手が止まる。
『昨夜も神凪町の居住区と呼ばれる住民が密集する場所で同町にお住まいの銀行事務員、山中明恵さん二十五歳が、何者かに刃物によって刺された、失血死による殺人が起きました。死亡推定時刻は午後八時頃。携帯していたバックの中身を物色された形跡はなく、以前三件の現場状況と類似している事から同一犯の犯行と見ている模様です。警察からの詳しい情報は追って公開されるようです』
「この町に、通り魔さんが来ているようですね……学園でも一人で帰るなって言われました」
 募る不安からぽつりと言う結依。
 ところが、返事が返ってこない。気になった結依が視線を向けると、ナユタは食い入るように画面を見つめている。
「……」
「あの、ナユタさん……?」
 呼ばれたナユタはようやく気付き、はっとした顔で結依へ向く。
「ど、どうかされましたか……?」
「……、何でもねぇよ」
 伏目がちに目を逸らし、ナユタは黙り込んだ。
 その表情が何を考えているのか窺い知れない結依は、不思議そうに首を傾げた。





 登校時。
 学園へと続く桜並木の端を一人歩きながら、結依は思慮に耽る。
 朝のナユタの表情が、どうしても頭から離れなかった。
 何かを知っているような。あるいは、何か思い当たる節があるのを、隠したような。そんな気がした。こういった違和感は左眼で直接見た時の方が顕著だが、眼帯を着けていても時折右眼の方で感じる事がある。
 違和感。そう呼ぶべきなのかは定かではない。しかしそれが何なのかをはっきりと認識出来る訳ではない。結依にとってその違和感は、魔力乱流の中において『エッダの詩文』の効果を阻害されているナユタと対峙した時と似ている。
 『言葉』と『声』が必ずしも同じとは限らないという、ぽっかりと欠けたような感触だ。
 例えば感情一つ取ってしてもそうだ。それが喜怒哀楽のどれに当たるかは分かっていても、それらの感情に至る経緯や要因までは分からない。結依は人の心の動きや揺らぎを感じ取る事は出来ても、人の心が読める訳ではない。
 ただ、結依がそういった違和感を覚えるのは、決まってよくない事が起きる前兆である事が多かった。
 嫌な予感がする。
 それが、結依の胸にさらなる不安を募らせた。
(なにか、忘れているような……)
 大事なことを忘れている気がする。大きな出来事に掻き消された、小さな事実を。
 正門を潜り、下駄箱で上靴に履き替える。
「なーるっせさん♪」
 体を起こそうとしたところで、甘ったるい声が耳に入る。
 佐伯千佳はサブバックを肩に掛けたままで結依を待っていた。何を考えているのか予測がつかない微笑を浮かべている。
 結依は咄嗟に引き攣った顔を向けた。その表情を見た佐伯千佳の顔に嬉しそうな笑みが零れる。
 恐怖の対象となっている事に対する、愉悦感だ。
「さ、佐伯さん……」
 佐伯千佳はゆっくりと近づき、結依の目の前に立つ。
 校舎へと続く生徒の波は奇異の視線を向けながらもその二人の周囲から遠ざかるようにして進む。結依を拒絶しているのか。はたまた佐伯千佳に遠慮しているのか。どちらにせよ逃げ場が無くなったことは結依にも容易に分かった。
「ねぇ成瀬さん。昨日トイレに行った時、どうして急に居なくなっちゃったの?」
「あ、その……えっと……」
 結依は当惑する。『空間の裏側に連れ去られていました』なんて答えられる訳がない。
 どう答えようかとおろおろしている結依を見て、佐伯千佳は周りに聴こえない程の小ささで舌打ちをした。
「成瀬さん、もしかして千佳のこと、嫌いになっちゃったの……?」
「え、っと……」
「千佳、悲しいなぁ」
 すっとさらに結依に近づく。途端に結依の顔が苦痛に歪んだ。
 結依の足を微かに踏んでいる。だが、結依の感じる痛みはただ踏まれただけのものとは明らかに違った。
 まるで、針で刺さされているような――。
 はっとした結依が顔を上げる。間近にある佐伯千佳の顔には、色の無い表情。
「つっても千佳も成瀬さんのこと大っ嫌いだけどね……」
 耳元で囁く声に、結依はぞっとする。
 ようやく気付いた。
 あろうことか佐伯千佳は自分の上靴の底に画鋲を刺し、靴底越しに飛び出ている針の先で結依の足を踏んづけているのだ。ほんの少ししか針は出ていないが、それでも体重をかければ上靴の生地を貫通し、結依の足に薄く突き立つ。
 ぐりっ、と佐伯千佳は踏んでいる足を捻る。甘く鈍い痛みに、結依は思わず声が出そうになった。
「ぅ……くっ……」
「どうしたの? 成瀬さん、具合でも悪いの?」
 白々しいことこの上ない。不安げな顔を覗かせる佐伯千佳の視線から目を逸らし、結依はただ黙って耐えた。
 しばし見上げていた佐伯千佳だが、やがて興が冷めたのか足を上げて踵を返す。
「無理しないでね。苦しかったら保健室に行ったほうがいいよ」
 それだけ言って、佐伯千佳はおはようと言ってくる何も知らない男子生徒達に笑顔を振り撒いて自分の教室へ向かっていった。
 立ち尽くす結依。
 右足の甲から、薄く赤い点のような染みが出来る。
 それでも俯き、青ざめた顔で立ち尽くすことしか出来なかった。





 綺桐弥生が異変に気付いたのは、六時限目の体育の時だった。
 基本的に男子と女子は別行動を取る事が多く、男子はグラウンドでサッカー、女子は体育館でバスケット。女性体育教師である彼女は当然、スラリと伸びた健康的なモデル体型を深緑のジャージで包み、体育館で笛を口に咥えて女子生徒達を指示していた。
 授業が始まって二十分程経った頃だっただろうか。
 準備運動が済み三人ずつに分かれて試合をする頃合いになって、退屈そうに生徒を眺めていた弥生の目に気になる生徒が留まった。
 日頃から左眼に眼帯をしている栗毛髪の少女――成瀬結依だ。
 このクラスの女子は十八人居るので三人に分ければ割り切れるはずなのだが、成瀬結依はぽつんと一人佇んでいる。というより、成瀬結依の周囲に女子が誰も寄ってこないのだ。おかげであぶれた二人の女子はどこかに補欠要員でもいいからと混ぜて貰おうと頼んでいる。
 成瀬結依の孤立は今に始まった事ではない。それは弥生も気付いている。むしろそんな事すら気付けないようなら教師を辞めるべきだ。
 こういった問題はかなり難しい。偏差値の低いバカ学校なら遣り様はいくらでも思いつくが、水伽学園はそれなりに水準が高い。つまり、『いじめの遣り方』というもの自体の水準も必然的に高くなる。狡賢く、陰湿で、見定めがつかない。手の込んだ手法を行うという意味でもそうだが何より厄介なのは、彼等はいじめの重さを理解した上で行っている≠ニいう事だ。一口に『いじめは良くないからやめろ』と言った所で、それが良くない行為だという事は重々承知している。頭の良い人間のいじめというのは、結局の所そういった正論の隙間を縫うようにして画策する。そもそも『いじめは良くない』という理屈も、要は周りの目を主体にした言い分だ。『だったら、周りには普通に見えるよう追い込めば良い』。そう考える屁理屈なバカが生まれてしまう。しかも、どうすればいいか、案をきちんと考えて強かに実行に移せる素敵な大バカばかりだ。
 弥生にとっても、いじめは何よりも毛嫌いしている。勿論、厄介事としてではなく、犠牲者が出る事に憤慨してのことだ。ただ、やはり最後の最後で要するのは、いじめを受けている本人の意思が無くてはならない。嫌な事は嫌だと言わなければ、誰も共感しないし、共闘しようとは思わない。成瀬結依が悪い訳では決してない。しかし、切り出さなければならない所で俯いてしまうあの癖は何とかしなくてはならないだろう。こればかりは、弥生でもどうする事も出来ない。
 そういった理由から、不本意ながらも弥生は黙って成瀬結依を傍観していた。
 ところが、今日は違った。
 結局誰とも組む事が出来ず、邪魔にならないように体育館の隅に移動しようとした成瀬結依の、歩き方が気になった。
 常人の目には気にもならないほど、些細な変化。
 右足を庇った歩き方をしている=B
「……」
 弥生はほとんど無意識に足を動かしていた。
 壁まで辿り着いた成瀬結依が腰を下ろそうとする直前、腕を掴んで引き寄せる。
 成瀬結依は振り返る。その表情は驚きに目を見開いていた。
「え……?」
「成瀬……お前足ぃ怪我してんのか?」
 この時、弥生は予想が外れるのを前提の上で、ほとんどカマをかけたつもりで訊いた。
 だが、やはりというか成瀬結依は予想通りの反応を示した。ほんの一瞬、こちらを見上げた顔が引き攣ったのだ。
 確信に至った弥生は近場に居た女子に声を掛ける。
「神代、ちょっと外すからこいつらの面倒見といてくれよ」
 唐突に声を掛けられた女子委員長の神代に声を掛け、成瀬結依の腕を引いて体育館を出る。
「あ、あの……っ」
 戸惑う声が背に当たるが、構わず弥生は引っ張ってゆく。
 廊下を曲がりきった所で、ちらと人の気配が無いのを確認してから立ち止まり、流れるような動きで成瀬結依を担ぎ上げた。
「きゃ……っ!?」
 お姫様抱っこをされた成瀬結依は目を瞬かせて硬直する。至近距離でその顔を見た弥生はじろりとねめつける。
「一日中知らん振りするつもりでいやがったのかよ成瀬……ったく、このバカ」
「あ、そ、その……これはですね……」
 顔を赤らめてもごもごと口篭る。
 担いだまま弥生は一階へ降りる。保健室の前で彼女を下ろし、ノックして返事も待たずに戸を開ける。
「ちーっす千歳ぇ、急患連れて来たぞ急患」
 デスクの前で美脚を組んでコーヒーを楽しんでいた保険医は椅子を回転させて振り返る。
 白いワイシャツにタイトスカート、その上から白衣を着た美人保険医――相楽千歳(さがら ちとせ)は溜息を吐く。
「はぁ……またお前運搬の急患か。今度はどんな軽傷を連れて来た?」
「なぁに言ってんだよ。怪我人のケアは保険医の仕事だろぉがよ」
「よく言う……こないだは肉刺が剥けて痛いとぼやいただけの男子を連れて来ただろうが。あれは運搬ではなく連行だ」
「ばっか千歳お前、皮膚破れたら痛ぇだろ。すっげー沁みんだぞ?」
「明らかに自分で剥いて悪化させた出来方だったがな。馬鹿につける薬は無い。自業自得の傷を手当てする私の身にもなれ」
 コーヒーを一啜りし、テーブルに置いて席を立つ。
 成瀬結依の姿を見た千歳はウェーブがかったセミロングの髪を揺らし、長椅子を顎で示す。
「右足か。そこに座って上履きを脱げ」
 言われた成瀬結依は驚き半分の表情をしたが、「早くしろ」と催促されて慌てて長椅子に座る。弥生は口笛を吹いた。
「相変わらず一目見て何処が怪我してんか分かっから凄ぇよなぁ……保険医なんてしてねーで医者やりゃいいのに」
「見てくれなんて大義名分に過ぎん。大事なのは実力と、患者の運だ」
「うへぇ……こういう人間に医師免許渡すのってどうなんかね、実際」
「私に言わせればお前のような人間に教員免許を渡す奴の気が知れん」
 軽口の応酬をしながら千歳は屈み、成瀬結依の足を診る。
 上履きを脱いだ右足の甲には、黒い靴下に薄く染みのようなもの広がっている。
 その染みの中心に、注視しなくては分からない程の小さな穴が開いているのを見つけた千歳は、弥生を一瞥する。視線に気付いた弥生は成瀬結依に感付かれないほどの最小限の動きで、首肯した。
 千歳が眉根を寄せて苦い顔をした。『本当の患者≠連れてくるなら毎回にしろ』という、非難めいた表情だ。
「……何かが刺さったようだな、上から物でも落としたか=B成瀬、消毒するから靴下も脱げ」
 あえて原因が分かっていない風を装った千歳は棚を開けて消毒液と綺麗な洗浄綿を取り出す。
 言われるまま靴下も脱いだ成瀬結依の足をそっと掴んで、屈んで自分の太股の上に乗せて患部をよく見る。突起物で浅く突き刺したような軽傷だが、恐らくこの傷は負ってから大分時間が立っているのだろう。靴下や上履きで擦れて傷口周辺の皮が少し膿み始めている。何度か血を拭いているようだが、間違いなくハンカチを水で適当に濡らして払拭したのだろう。むしろよく我慢していたものだと呆れる。
 千歳はピンセットで挟んだ洗浄綿を消毒液で潤わせ、傷の周りから血を拭き取り始めた。
 沁みる痛みから足がピクンと揺れたが、成瀬結依は下唇を噛んで声すら漏らそうとしない。
 ゆっくりと傷口中心の膿みを取りながら、千歳は口を開いた。
「おい、成瀬」
「は、はい……」
 その声にどこか苛立たしげなものでも感じ取ったのだろうか。唐突に口を開かれた成瀬結依は怯えたように返事をする。
 しかし千歳は患部だけをじっと見下ろしながら言った。
「今度から怪我をしたらすぐに来い。黙っていれば治るような傷じゃなぞ、これは。分かったな?」
「……、はい」
 意図をようやく知った成瀬結依はしゅんとなりながらも全身の力を抜いた。
 消毒を終え、手早くガーゼを貼り軽く包帯を巻いて千歳は顔を上げた。
「これでいい……風呂に入る時は右足をビニールで覆え。風呂上りにガーゼを外して消毒だけして、新しいガーゼに替えて包帯を巻け。歩くぐらいなら何とかなるだろうが、走る程の酷使は当分はするな。完治は四日から五日ぐらいだろう」
「はい……ありがとう、ございます」
 物憂げに頭を垂れ、成瀬結依はジャージの袖を捲って靴下をゆっくり着ける。
 その間ずっと黙って見ていた弥生へ、白衣のポケットに両手を入れて千歳は振り返る。
「弥生、どうせ後は掃除とショートホームルームぐらいだろう? この際だから早退させたらどうだ」
「早退だぁ……? 一人で帰せってのかよ」
「この時間帯なら人の往来は充分に在るから問題なかろう。日暮れ時まで居させるよりは安全だ」
「確証が無ぇのにそんな言い方すんなよ、何ならあたしが送って――」
「馬鹿もん」
 弥生の言葉を遮るようにして、抑揚の無い叱責が放たれた。
 疲れたように溜息を吐いてから、千歳は弥生を真っ直ぐと睨んで言う。
「だから、この際≠ニ言ったんだ」
「……、」
 はっとした弥生は視線だけを横に向けた。
 ようやく靴下を履き終え、上履きに足を入れている成瀬結依を見て、頭に手を当てて弥生は小さく頷いた。
「……分ぁったよ」
「懸命だ」
 千歳はデスクに戻り、弥生はヤンキー座りで屈んで成瀬結依に苦笑いをする。
「悪ぃな成瀬ぇ。そういう訳で、今日は早めに帰れ。こっちは上手く言っとくからさ」
「はい、分かりました……」
 何か言いたげだったが、二人の会話から雰囲気を察して頷いた。
 立ち上がり、「ありがとうございました」と千歳に向けて御辞儀をし、弥生へ振り向く。
「では、支度をしてきます」
「おう」
 扉を開け、もう一度御辞儀をしてから扉を閉めていった。
 たっぷり十秒は経ってから、ゴキンという鈍い音がした。
 弥生が左手の関節を鳴らした音だ。
「此処の備品を壊すなよ?」
 少し冷めてしまったコーヒーを一口啜り、冷静に千歳は呟く。苛立たしげに舌打ちをした弥生は頭をガシガシと掻く。
「ったく……マジで教師なんて無能が多いな」
「自虐出来るだけ余裕の証拠だ。関与したい気持ちも分からんでもないがな、今回ばかりは場合が場合だ」
 弥生は千歳を見る。コーヒーの残りを全て胃腑へ流し込んでから、千歳は答えた。
「画鋲だな。あの傷の浅さは素足に刺したんでは、ああはならない。上履きの底と、成瀬の上履きと靴下分の厚さを利用して深い傷を負わせないようにしたんだろう。褒めるつもりは毛頭無いが、上手く考えたもんだと思う」
「つぅことは……」
「事故による傷の出来方じゃない。明らかに誰かにやられた出来方だ」
 それを聞いた弥生は天井を仰いで深い吐息を零し、疲れたように目を閉じながらぽつりと呟いた。
「……佐伯か」
 千歳の表情が険しくなる。
「呆れた……心当たりが在ったのか」
「見て見ぬ振りしたんじゃねぇよ。さっきのお前の理屈と同じさ」
 いじめ。
 一口にそう結論が出てしまえば、対処法自体はいくつも在る。現に弥生の目には主犯が佐伯千佳だという事は見抜いている。
 ただ、それでどうすれば良いのかが分からないのだ。安直に佐伯千佳を糾弾したところで、既に燻っている火種に油を注すだけでしかない。最悪の場合、成瀬結依が密告したとして報復を受ける可能性が出てくる。今までのような限りなく間接的であった嫌がらせとはレベルが違う、本当の地獄が待っている。
 だがそれ以上に弥生が苦悩している理由は、成瀬結依の身近に味方が一人も居ないという現状だ。
 教師と生徒では出来得る事にも限度が在る。最大の刺激になるのはやはり同じ年代層の人間からの、理想を言えば数人グループによるあからさまな佐伯千佳への糾弾だ。立場上が要らない友好関係は成瀬結依にとって充分な強みになる。弥生のような教師以上に成瀬結依と密接に関われる人間さえ居てくれれば、何とかなったかも知れない。
「くそが……歳食っても良い事なんて一つも無ぇ」
「同感だ。無駄に経験だけ積んでも、活きない場所ではとことん活きない」
 他人事のように千歳は席を立ち、持っていたマグカップに新しいコーヒーを注ぎにコーヒーメーカーの前に向かう。
「これからどうするつもりだ?」
「あん?」
「成瀬の精神力ははっきり言って異常だ。ここまで味方一人居ない状況でのいじめに対して、学園にはきちんと登校しているし、お前や私には平然とした態度を取っている。普通ならとっくに登校拒否になっていてもおかしくはない」
 コポコポと音を立てて湯気を放つコーヒーを、二つのマグカップに注ぎながら千歳は続ける。
「だが、彼女はあくまで人間だ。いくら図太かろうがあの環境は苛酷過ぎる。いずれ心が折れる可能性は容易に想像出来る……そもそも彼女のあの反応がまずい。恐怖しているのは明白にも関わらず、一切抵抗しようとせん。あの態度こそが、その佐伯とかいうガキの下らん嗜虐心をくすぐっている要因だろう。学園に居る奴の九割方が性根の腐ったクズばかりなのも悪いのかも知れんが、まず成瀬自身が動かなくては同じ事の繰り返し……最悪、いじめの定例が起こるぞ」
「『いじめがエスカレートするのは自然な流れ』、ってか……」
「言っとくが私がどうにかしてやれる事は無いぞ。あの手の人間にカウンセリングは通用しない。自分を繋ぎ止めている何かが一応は在る人間に=A気休めの同情は焼け石に水だ。逆に『そういう心配をさせてしまう』と遠慮して余計疎遠になるのがオチだ」
(自分を繋ぎ止めている何か……)
 弥生は視線を彷徨わせて成瀬結依の姿を思い描く。
 気になる点など一つしかない。あの、いつも着けているロケットペンダントだ。
(……あれか)
 きっと、あれが彼女の支えだと弥生は考える。
 誰かと対話したり、教室へ戻って来たときの成瀬結依は、決まってあのペンダントを一度握ってから動き出す。
 しかし、繋ぎ止める何かというのが『物』でしかないのが、現状を生み出している要因の一つであるのかも知れない。
 それでもやはり最大の原因とは、成瀬結依という相手を理解出来る人間が居ない事だ。
 確かに成瀬結依は弥生からしても、一種独特な存在感を放っているのが窺える。
 それはカリスマ性だの友好性といったものではない。例えるなら、白いカンバスに赤い絵の具を一滴垂らしたような、違和感≠セ。周りに人が居れば居るほど、成瀬結依の存在は違和感として浮き彫りになってゆく。その違和感が何かまでは分からないが、得体の知れないモノは基本的に避けて通るのが人間の性。一人が彼女を避けだしたのをきっかけに不可思議な恐怖感は伝播してゆき、成瀬結依を忌避するようになってしまった。
 そして、恐怖感に慣れた人間が次に抱く感情こそが――嫌悪感。
 今の、現状だ。
(子供だけじゃなく、大人まで寄って集って『成瀬結依には近づくな』かよ……ぶっ飛ばして解決すんなら速攻でしてるとこだ)
 目の前にマグカップを差し出された弥生は、それを受け取る。
「どうするかはお前の手に掛かってる。分かっているだろうが、楽観視はするな。最悪の状況は時間の問題かも知れんぞ」
「なんだって?」
「分野外だが心理学についてはそれなりに齧っている」
 デスクに戻り、脚を組んでコーヒーを一啜りしてから千歳は答えた。その視線は何も追っていない、過去を反芻する顔付き。
「さっきの成瀬を見て私が内心で思った第一声は……『まずいな』、だ。この意味が分かるか?」
 問われた弥生は滅多にしない顔をした。これ以上ない程の怒りと殺気が入り混じった、葛藤に煮え滾る表情だ。
「心が折れるだけなら良い、登校拒否も立派な自衛行為だ。だが、ギリギリまで蓄積された圧迫感が限界を超え堰を切った時に、まずい事になるかも知れん」
 一呼吸置いてから、千歳は弥生を見て宣告した。
「心が壊れたら、救う手段は無い」
「――!」
 その言葉を聴いた弥生の体がピクリと動いたのを見透かした千歳が釘を刺す。
「行ってどうする?」
 弥生の動きが止まる。
「自覚しているんだろう? 彼女はお前を支えにはしちゃいない。もしそうならとっくにお前に不満も愚痴も零している。そうしないのは、成瀬は全て自分一人で抱え込むつもりでいるからだ=B大丈夫だと笑って見せるという事は、成瀬は無意識にお前を拒絶しているという事だ。全て自分一人で抱えて、抱え切れなくなったら誰にも迷惑を掛けずに潰れよう。そう考えているんだぞ。それを踏まえた上でもう一度訊こう……行ってどうする?」
 弥生は唇を噛んで押し黙った。千歳の言っている事は正論だ。
「……それも心理学だってのかよ」
「舐めるなよ体育教師。私は保険医だ、今までありとあらゆる傷を診てきたんだぞ……」
 コーヒーを啜り、表面に浮かぶ朧気な自分の顔を覗き込みながら、呟くように言う。
「外も……内も、な」
 その一言に、弥生は動き出した。
 手に持っていたマグカップを口に寄せ一気に傾けた。中にはまだ湯気が失われない熱湯。しかし意に介さずに、ゴクゴクと喉を鳴らして飲み干し、マグカップを洗面台に置いて振り向き、千歳を睨んで怒鳴った。
「うっせぇな! 成瀬はあたしの教え子だ! 壊れるのが恐くて腫れ物触るみてぇに扱ったら、成瀬の心は何処に行きゃあいい!?」
 大気を奮わせるような怒号を放ち、そのまま保健室の扉を開け放つ。
「何処に行く気だ」
 振り返り様、もう一度怒鳴った。
「体育館だよ!! あたしゃ体育教師なんだからなぁ!」
 それだけ言い残し、荒々しく閉めていってしまった。
 足音が遠のくのを耳に、千歳は溜息混じりに一人ごちる。
「お前もまだまだ若いな、弥生……」


 ◆


 制服に着替え、鞄を手に取った結依は席を立つ。
 その場に立って足の具合を確認する。包帯の優しいざらつきを肌に感じ、教室を見回す。
 今はまだ体育の授業のため、誰も居ない。がらんとした空気の中をしばし眺めた結依は、目を伏せて俯く。
 グラウンドから聴こえる男子生徒達の声と気配が、遠く届く。
 結依は学生鞄と弁当の包みを手に取り、教卓の前に立つ。教卓に敷かれているクリアカバーの下に一枚のメモを挟んだ。
 メモを一瞥し、結依は踵を返して教室を後にした。





「おらぁー、ホームルームやんぞー。さっさと教室入んなー」
 チャイム手前。掃除から帰ってきて廊下にまだ居る生徒を追い立てながら、弥生は教室へ入る。
 教卓の前に立ち、全員が教室に入ったのか確認する振りをしながら一つの机を見た。
 その机の主は既に早退していて、空席だ。
 続いて、流れるような視線が次に見遣るのは、空席の机の右手やや後方の位置にある机に座る、佐伯千佳。
 彼女は頬杖を突いて窓の方をちらと見ていた。視線の先は当然、空席の机。
 弥生が眉根を寄せて見ているのを感付きもしない佐伯千佳は、色の無い表情で数秒見つめ、視線を床に落とし、それから顔を前に向けて自分の机の中に両手を突っ込んで持ち帰る物をサブバッグに入れ始めた。
 いつまでも睨んでいると苛々が増す気がした弥生も視線を手元に落とす。
 ふと、クリアカバーの端っこに見慣れない紙切れが二つ折りに挟まっているのに弥生は気付く。
「?」
 クリアカバーを捲って紙切れを指先で器用に開き、中身を見る。
 とても女の子らしい、少々丸みを帯びた綺麗な文字で、たった一文。
 ――『それではお先に失礼します。心配して下さってありがとうございました。それではまた明日。』
(成瀬……)
 弥生は苦笑しながら、メモをジャージのポケットに突っ込んで顔を上げる。
 無力の自分が情けない。
 しかし、それでも自分は一教師として顔を上げなくてはならない。
「よーし。んじゃぁショートホームルーム始めっぞー。まず、今日のニュース観てる奴ぁ分かっと思うけど、また神凪町内で事件が――」
 全員が座りこちらを見る中、弥生はただ教師としていつも通りに振舞った。


 ◆


 帰宅途中の結依は、水伽橋を差し掛かったところだった。
 足の具合を気にしながら少しずつ歩くせいで、いつもの倍近い時間が掛かってしまっている。
(もうちょっと早く歩いても、大丈夫でしょうか……)
 欄干に手を添えながらそう思う結依は、橋を渡りきってから何の気はなしに右へ曲がる。
 どうもここ最近の出来事のせいか、社宅群のルートを選んでしまう習慣が出来始めている節がある。別にそれがまずいという危機感は、今の結依にはなかった。ほとんど茫然とした思考で、人気の無い道に入り込む。
 歩きながら、結依は右足の事をどう説明しようか悩んでいた。
 勿論、ナユタにだ。
 いや、説明は不要かも知れない。彼のことだ、きっと説明なんてする前に察するだろう。
 どんな反応をするのか。それが気掛かりで、何故か帰り道の足取りは重く感じる。
 怒られるだろうか。
 呆れられるだろうか。
 思わず苦笑が漏れた。
(駄目だなぁ……私)
 徐々に空は赤らんできている。
 地面に伸びる影を踏みながら、結依は俯いた。
(昨日、ナユタさんにあんなにも励まして貰えたのに……)
 自然と、悔しさは無かった。
 もしそんな感情が結依に在ったのなら、きっともっと違う自分になれたはずだ。
(何も、全然……できませんでした……)
 恐かった。
 佐伯千佳が、ではない。
 周囲の視線が、ではない。
 先生の眼差しが、ではない。
(ナユタさん……)
 ただ、自分が否定されるのが恐かった。
 拒絶され、目を背けられるのが恐かった。
 ぽっかりと欠ける感触。熱が抜けてゆく感覚。
 言葉を投げかけられる度、
 視線を投げつけられる度、
 それが結依の存在を決めつけられてゆくのが、ひたすら恐かった=B
 分かるから。
 理解は出来ないのに、心の色は鮮明に結依の魂に突き刺さる。
 明確な違和感が、誰かとの間を隔てる溝を深めてゆく。
 ああ、この手はきっと届かないんだ。そう思い知らされるのが恐くて、
(私、何も言えなかったです……)
 哀しかった。
 痛みに慣れてしまった自分が、まるで客観視するように哀しかった。
「……駄目ですよねっ」
 呟き、立ち止まりそうになる足を無理矢理前に出して歩き続ける。
 俯いていた顔を空に向け、夕焼け前の淡いオレンジを遠く眺めながら、結依は笑ってみせた。
「ちゃんとしなきゃ、駄目ですよね……?」
 誰にともない問いかけで恐怖を殺し、歩く。
 それが、結依に今出来ることならば。
 逃げ出してはならない。
 全てを放棄してしまっては、彼はきっと怒りも呆れもしてくれなくなるだろうから。
「……御夕飯、何が良いでしょうか」
 今度は箸で食べられるものを作ろう。
 今日は腕によりをかけて沢山作ろう。
 せめて、結依を真っ直ぐと見てくれたたった一人の為に。
 精一杯のお礼をしよう。
 それが済んだら二度と会えなくなるのは分かっている。
 でも、スタートラインをくれた彼を、信じてゆこう。
 転んでばかりだけれど、それは決して悪いことではないから。
 転んだのなら、後は立ち上がるしかないと教えてくれたから。
 結依はそう誓い、小さな公園に入って献立を思い浮かべながら、眩く輝く夕日を見上げた。

 見上げて、そして足が止まった。

 息が出来なくなる。
 頭が真っ白になり、その一瞬は何も考えられなかった。
 あまりにも唐突。
 あまりにも意外。
 だから、結依はそこに居る異質な存在を、茫然と立ち尽くすことしか出来なかった。


 ◆


 下校する生徒達。
 横断歩道を渡る者は男女に関わらず、好奇の視線でその美貌を一瞥し、そのまま過ぎ去ってゆく。
 電信柱に背を預けて、ナユタは取り出した携帯で時刻を確認する。
 既にショートホームルームは終わり、本来なら来るはずの姿が一向に見つからない。
 不機嫌な顔を帰路に向け、心の中で無感情に呟いた。
(……遅ぇな)
 不思議に思いながら待つナユタ。
 夕暮れは始まっている。
 まばらな人波の中に、探している姿は無い。


 ◆


 結依の視線の先には、小さな公園が広がっている。
 アスレチックの類もさほど多くない。
 砂場と腰の低い鉄棒。少し錆びたブランコ。色褪せた滑り台。中央に気持ち程度のジャングルジムが在る。
「予想通りなのが逆に呆れるわ……まさか同じルートを一人で歩くとはね」
 そのジャングルジムの天辺に腰掛け、こちらを見下ろす影。丁度夕日と重なって黒いシルエットでしか分からないが、帽子にスカート、腰に巻いた二本の分厚いベルト。そして何よりその声が結依に悟らせる。
 忘れられるはずがない。
 昨日のことである以上に、結依にとって非日常側の人間の声なのだから。
 蘇る銃声と爆音。嘲笑。怒号。こびり付いて離れない声。
 やがてその影はジャングルジムを一跳躍に降りる。
 夕日から外れたことでようやく姿が見えるようになり、結依はごくりと唾を呑んだ。
 紅蓮の服と髪を持つ少女。全身に手当てが施されており、左頬には大きな湿布が貼ってある。それでも風貌は凛々しく、荒野に一匹気高く生きる狼のような、野性味と神秘性を纏う雰囲気が滲み出ている。燃えるような色合いが、夕日の背景と綺麗に混じり合っていた。
 赤い魔術師――ミルネスカ=ランフォードが視線を向ける。
 こちらを向いた事に肩を竦めた結依が一歩後ずさると、ミルネスカは気だるげな語調で口を開いた。
「待ちなさい。今のアタシはもう、アンタに危害を加える意思は一切無いわ」
 酷く落ち着いた声音に、結依は鞄を抱き締めてビクビクと窺う。
「念の為に人払いの簡易結界を敷いたから誰かに聴かれる事も見られる事もない」
「……っ!」
「結界って言ってもその領域自体に簡単な『意味合い』を付け加える程度、心配しなくても出てく分には何の影響も無いわよ」
 思い出す。ナユタは女子トイレの扉に術符を貼って人の出入りを封じていた。確かあれは人の意識を他所へ逸らす一種の催眠暗示のようなものだと言っていたのを記憶している。きっと公園の周囲に巡らせ、『この公園には近づく気になれない』と思わせているのだろう。
「もう一度言っとく、アタシはアンタに一切危害は加えない。ただアンタと話がしておきたかっただけよ」
 ミルネスカは親指を立てて道を譲るように指し示す。
「聞く聞かないはアンタの自由。好きなように出て行っても構わないわ」
 結依は身を硬直させ、視線を彷徨わせて震えた声を絞り出す。
「な、何も……話すことはない、と……思いますっ……」
 そそくさと歩く。刺激すると強攻策に出るかも知れないとは思ったが、それ以上に此処から立ち去りたい恐怖感が勝った。恐る恐るミルネスカの前を横切り、早く公園から出てしまおうと思った矢先、その背にミルネスカは言い放った。
「あの男の事だとしても聞かないで良いのね!?」
 それを聞いた結依の足が、再度ピタリと止まった。
 数秒その言葉の意味を噛み砕き、やがてゆっくりと振り返る。
「……あの男、って……ナユタさんのことですか?」
「ふぅん……ナユタってゆうんだ、アイツ」
 上手く誘導尋問に乗せられた事に気付いた結依の顔が赤く染まる。
 一方、カマかけのつもりすらなかったミルネスカはつまらなそうに首筋を掻く。
「ま、別にアイツの素性なんてそこまで知りたかないんだけどね。ただ一つだけ質問しときたかったのよ、アイツの事でさ」
 意図が読めない結依は逡巡し、彷徨わせていた視線をそっとミルネスカに向ける。
「質問って……何ですか?」
 背を預けたままのミルネスカは薄く笑う。
「難しい事じゃないわ。あの男、まだこの町に居るみたいだけど、いつまで居るつもりなのか聞いてない?」
 一瞬答えそうになったが、ぐっと堪えた。
「それ、は……教えられません」
 さすがに結依でも分かることだ。ナユタが未だに滞在している理由は、結依の身辺が落ち着くまで様子を見ているから。勿論、様子を見るその理由こそが、目の前に居るミルネスカを警戒してのこと。ナユタが居なくなってから何か企んでいる可能性を考えると、いつ居なくなるのかを教えてしまうのはあまり良くない気がした結依は、伏せようと思った。
 だが、素人相手の誘導尋問には手馴れているのか、ミルネスカは吐息で前髪を浮かして遊んだ。
「『教えられない』ってことは、少なくともあと数日は居るつもりなのを知ってるってワケね」
「え……!?」
「隠す気なら知ってる事を悟られちゃダメ、そんな時は逆に訊き返すぐらいがベストよ。『どういう事ですか?』ってな感じにね」
 結依は頭が真っ白になったままで、言葉が上手く見つからない。
 ミルネスカは一度視線を逸らし、考え込むように呟いた。
「……成程ね、やっぱりあの男だけは見過ごせないわね」
「……?」
 その呟きが耳に入ってしまった結依が顔を上げる。
 驚きに目を瞬かせる彼女を見て、ジャングルジムから背を離したミルネスカは真正面に向き直り、結依を見据えて言った。
「この際だからはっきり言っておくわ。あの男と一緒に居るのはやめなさい。あの男は……危険よ」
 忠告とも警告とも取れる、しかし結依にとっては悪い冗談とも取れる、そんな物言いだった。
 何を言っているのか、よく分からなかった。
「……どういう、ことですか?」
「その様子だと、アイツの正体までは聞かされてないようね」
 ミルネスカは歩み寄るでも距離を取るでもなく、あくまでそこから一歩も動かない事で結依に余計な恐怖感を与えないよう徹する。
「あの男は【アスガルド】では禁忌とされている血繋種族……月の凶獣、魔狼フェンリルと人間との間に産まれたハーフよ」
「きん、き……?」
「本来、魔狼フェンリルは存在しない伝説上の凶獣とされていた」
 滔々とミルネスカは語りだす。
「実在が確認された試しが無いんですって。だからフェンリルと人間のハーフなんて与太話でしかなかった」
 ところが、と。その事実を彼女は否定した。
「唯一、その仔がフェンリルの血を継いでいるという事実が立証されたのよ。フェンリルが月の凶獣と言われた所以は、『月の満ち欠けによって魔力の絶対量が変動する』という従来の魔力を持つ者達には在り得ない特性が存在したから」
 結依ははっとした。
 ――……まぁ、例外は居るけどな。
 あの時、魔力の絶対量が変動する事は在り得ないと言いながらも、例外が居ると呟いたナユタの意味が、ようやく理解出来た。
「でも……ナユタさんはどこからどう見ても人間に……っ!」
「そうだと言い切れる?」
 ミルネスカは結依の抗議を即座に切り捨てる。
「フェンリルの血族である可能性が高まる類似点は他にも在るわ。例えば高い魔力の込められた銀に弱いってところとか」
 ギクリとする。
 結依の保有する膨大な魔力によって昇華されている銀製の食器はナユタを拒絶した。
「……その顔は心当たり在りって顔ね」
 探るような視線に我に返る結依は、鞄を抱き締める両腕に力を込めて訊ねる。
「で、でも……それが何なんですか?」
 何が言いたいのか分からないのが、結依に不安を募らせた。
 ナユタがその凶獣と人間のハーフという事実を聞かされたからといって、結依にはそれが何を意味するものなのかは知らない。真実から遠ざけられた世界の人間に、【アスガルド】の伝説などという話は衝撃を受けるにはあまりにも幻想的過ぎる。
 結依にとっては、粗暴で、つっけんどんな態度で、納得してしまう程の自信を纏い、時折優しい。
 そんなナユタしか知らない。
 それがナユタだと信じてる。
「……そう」
 俯く結依をしばし眺め、ミルネスカは溜息を吐いて肩を竦めた。
「本当に、何も知らないのね……」
 顔を上げる結依。
 ミルネスカは言おうか迷い、しかし結依を見据えて言い放った。

「アンタ、このままだと……アイツに殺されるわよ」

 薄っすらと冷え始める空気が、公園に吹いた。
 植えられた木々がざわめき、耳が遠くなるような感覚に陥る。
 重力が、崩れるような。
 足から倒れ込んでしまいそうな、空白とも言える奇妙な虚無感。
 ほんの数秒。
 だが結依にとっては、まるで何分も過ぎたような気がした。
「―――――――、え……?」
 言葉が漏れた。
 本当に、彼女が何を言ったのか分からなかった。
 あるいは、信じたくなかったのか。
 ゆっくりと動き出す思考。
 叩き付けられたと表現しても違いない宣告を、結依は訊き返した。
「……ころ……され、る?」
「ええ」
 震える声を、あっさりとミルネスカは首肯した。
「……どういう、ことですか?」
 足まで震えだした。
 立っているのがやっとの状態で、しかし結依は頭のどこかで隙を見て逃げ出そうとしていた意思を、見失う。
「どういうことなんですか……!?」
 声が荒くなってしまった。いつもの結依らしからぬ強い語調に、ミルネスカは視線を足元に落として答える。
「何故……【アスガルド】でフェンリルは『凶獣』と云われているのか、分かる?」
 問いに対して、肯定があるとは思わない。
 眉根を寄せて困惑する結依に、一呼吸置いてから真意を導いた。
「当の本人でさえ、自分の魔力を制御し切れていなかったからよ」
 魔力の制御。
 その言葉に結依は不思議な違和感を覚えた。
「え……で、でも……魔力というのはその人それぞれの『資質』で、許容量以上の魔力というのは持てないはずなのでは……」
「案外、頭の回転は良いのね。その通り、本来の魔術師それぞれに定められた魔力の保有限界量は、『本人が保有し、尚且つ自由に扱えるだけの魔力量』の事を指す。これが魔力の絶対量と言われ、普通に考えて魔力を制御し切れずに暴走・暴発する事は在り得ない」
「では、どうして……」
「ちゃんと話聞いてた? アタシは今、本来の魔術師って言ったのよ。本来の魔術師は絶対量が変動するなんて事ないもの」
「……っ!」
 結依の目が見開かれる。
 ミルネスカが言わんとする事に、やっと気付いた。
「そう、あの男はフェンリルの血族。魔力の絶対量が日毎に変動する魔術師……月の満ち欠けによって絶対量がいちいち変わるって事は、定められているはずの絶対量の算出の仕方も変わってくる。つまり、そもそもあの男に『魔力の絶対量』なんて定義は存在しない事になる=v
 それが導く答えを、結依は何となく理解し始めていた。
 思い出す。魔力の絶対量というのは、人間の体で言うところのスタミナのようなもの。
 絶対量――魔力を保有出来る受け皿の限界が変わるという事は、ナユタにとって大きな矛盾を抱える事となる。
 何故なら、
「それが上がるということは……」
「?」
 ミルネスカが顔を上げる。
 結依はぽかんとした表情で、ほとんど無意識の内に問いかけていた。
「絶対量が上がるということは……ナユタさんは大丈夫なんですか=H」
 ミルネスカが絶句した。驚きに目を瞬かせる。
「驚いたわ……まさか言う前にそれに気付くなんて……アンタ結構、勘が鋭いのね」
 そう、魔力の絶対量が変動するフェンリルの特性。
 しかし、ナユタ自身は人間だ=B
 変動する絶対量に比例して、ナユタの体内を巡る経絡も影響を受ける。当然、経絡が影響を受ければナユタ自身にも影響が出る。芋蔓式に調和が乱れ、日が変わる度にナユタはその日ごとの魔力を肉体が順応出来るように制御しなくてはならない=B
 ミルネスカの見解では、満月の時に得られる魔力は並の魔術師を凌駕しているだろう。
 そうなれば、ナユタは並の魔術師を遥かに凌ぐ魔力の制御技術を強いられる。
 特に、月が満ちる周期の頃は。
 ――要らねぇよ、そこのソファ借りんぞ。
 ――横になって寝んの慣れてねぇんだよ。
 月の満ち欠けの境界線が何時なのかは知らない。
 だが恐らくナユタは境界線を跨ぐ度、強引に増える魔力を制御する為に常に気を張っていなくてはならなかったに違いない。
 横になって熟睡する事も許されないほどに。
「純血のフェンリルは月が満ちれば満ちる程に本来以上の魔力を得るせいで自我を失い、善悪に問わず数多の命を食い漁るという伝記に目を通した事がある。純血ですら制御出来ない魔力を人間が耐え切れるはずがない。何らかの手段で抑制はしてるでしょうけど、それでも限度は在るわ。まだ月は、完全に満ちていないもの」
「ナユタさんが、暴れると言うんですか……!?」
「在り得ないと思う?」
「そんなっ……信じられません! だってナユタさんは、全然っ……いつも通りで接してくれていました!」
「そうかしら?」
 他人事のように軽く否定された。
 結依は目頭が熱くなるのを堪えて、ミルネスカを見る。
 ミルネスカは、そう疑う理由を口にした。
「……最近、物騒になったもんよね」
「え……?」
「日が暮れる前に帰るよう注意とかされたんじゃない?」
 はっとした時には、もう遅かった。
「この町に、通り魔が出てるらしいわね」
 結依は今まで以上に大声で叫んだ。
「な、ナユタさんの仕業だと言うんですかっ!?」
「可能性が無いワケではないわ」
 やはりミルネスカは即座に切り捨てる。
 事務的に、結依に糾弾を図る。
「近隣の町で始まったこの連続通り魔。調べると最初の事件は今から一週間前。丁度アタシが【ハイエンド】に来た頃よ。神凪町に侵入したタイミングはほぼ同じのはずだから出来ない事はない。二件目は五日前、これもアタシが神凪町に侵入する前日。……裏付けられるのは神凪町内で起きている三件目、そして昨日の四件目よ。三件目の被害者はアタシとアンタが遭った日。死亡推定時刻は午後四時。四件目の死亡推定時刻は午後八時頃と断定されてる」
「それがナユタさんだという証拠は――」
 結依の言葉がそこで止まった。
 彼女の言い分が否定出来ない。
 三件目の午後四時は結依が公園でナユタと遭う三十分ほど前。
 四件目は結依の左眼を見たナユタが急いで家を出て行った後。
 どちらもナユタが一人で行動していた時刻だ=B
「でも、そんな……」
 胸の奥に疑念の火種が燻りだす。
 信じたい。けれど事実は事実。
「……アタシだってアイツだと断定してるワケじゃないわ。ただ、アイツだからこそ在り得る可能性が高いのよ」
「なんでですか……?」
「これはあくまで噂の範疇なんだけど……フェンリルの血族なら魔力の急激な増加による精神面の活性化が起こり得るそうよ」
 最も単純で、
 最も根本的な、
 動物であれば決して抗う事の出来ない最大の本能。
「――捕食欲求」
 ビクン、と。結依の肩が跳ねた。
「さっきも言ったようにフェンリルの血族の絶対量変動が及ぼす影響が、アタシの考えられる通りの原理だとすれば、精神面に掛かる負荷は尋常じゃない。むしろあそこまで冷静に振舞ってられるのが奇跡よ。絶対量の変動ってのがどんなもんなのか分からないけれど、学術的には相当キツいはず。ストレス溜まると遊んだり食べたりして解消するっていうじゃない? アレの次元が違うケースを考えれば良い。破壊と捕食、明らかに行ってはならない対象だからこそ、精神面のカバーが成せる。殺人への後悔や恐怖は募るでしょうけど、少なくとも今は自我を失わないで済むものね」
「そん、な……」
 愕然とする結依をじっと見つめ、ミルネスカは小さく溜息を零した。
「……ま、とにかくそういう理由諸々なんで、アタシはあの男が気になってたのよ。アンタと話せて良かったわ」
 ミルネスカは踵を返し、結依に背を向ける。
「アンタに特に何しろってワケじゃないの。アタシを信じる必要だってない。ただ、気をつけて欲しいのよ」
 肩越しに結依を見据え、
「あの男が【ハイエンド】の……ただの人間ではないってこと、精々忘れないことね」
「ま、待っ――」
「最後に一言、謝らせて頂戴」
 顔を前に戻しながら、どこか寂しげな声でミルネスカは結依に言った。
「知らなかったとはいえ【ハイエンド】の人間であるアンタを巻き込んだのは悪かったわ……御免なさいね」
 それだけ言い残し、ミルネスカは歩き出してしまう。
 出かかった言葉が途切れてしまった結依は伸ばしかけた手を彷徨わせ、やがて人影が無くなるのを見送るまで動けなかった。
 遠い何処かで、夕方五時の時報が流れだす。
 ただ一人残された結依は、足元を見下ろしたまま、悲哀と動揺の入り混じった顔を俯かせていた。










 第五幕     心の向かう先、魂が求める先





 ナユタ。
 思えばその人間の事を、結依は表面上にしか知らない。
 考えてみればそうだ。ナユタは訊いた事を律儀に答えているがその実、客観的な知識の補足しかしていない。
 一度だって、自分が何者であるかを口にした事は無い。
 魔術師。異世界の住人。世界の裏を暗躍する者。
 それらは総て、ナユタでなくともあてはめられる。
 紅蓮の少女にしても、他の者にしても。非日常に属する存在を総称する、結依目線で表現出来る言葉だ。
 結依は、ナユタがどんな存在であるかを、全く知らない。教えて貰ってなどいない。
 ほんの数日間の間に勝手に認識した、『結依にとって都合の良い予想』のナユタでしかない。
 しかし、
 ――ナユタは、【アスガルド】では生きた災厄と謳われた凶獣、魔狼フェンリルの血族。
 結依は、結依の知らないナユタを、知ってしまった。
 ――フェンリルの血族であるナユタは、日毎に内包する魔力に苛んでいる可能性が在る。
 信じられない事を、知ってしまった。
 ――強制的な制御に苦しむナユタの精神は非常に不安定で、今が最も危険な状態に近い。
 信じたくない事を、知らされてしまった。
 ――神凪町内で起こる連続通り魔の事件発生とナユタの単独行動の時刻が合致している。
 ミルネスカ=ランフォードの言葉が、結依の心に突き刺さる。
 ――このままナユタの近くに居続けるならば、結依の身が危険に曝されるかも知れない。
 信じたい。
 信じたくない。
 信じたほうが良いのか?
 何を信じれば良いのか?
 そもそも、自分は何を信じようとしていたのだろうか?
 ぽん、と生み出された自問を、結依は何一つはっきりと自答する事が出来ない。
 その可能性が真実であれ、虚偽であれ、結依がナユタをどうする事も出来ない。

 成瀬結依は、【ハイエンド】の人間。
 真実から置き去りにされた世界の者。
 干渉も、
 感受も、
 行動も、
 追求も、
 許されない。
 赦されない。
 成瀬結依は、ただほんの少しの間だけナユタと同じ歩幅で歩いただけの、赤の他人。
 孤独。
 結依に唯一在るのは、結依を愛してくれる冷酷なる隣人。





 そのまま家に帰宅した結依は、とぼとぼとリビングへと入る。
 テーブルの上に鞄と弁当袋を置き、放心した顔で虚空を見つめていた。
(ナユタさん、が……?)
 幾度となく繰り返される言葉。
 いくつもの意味合いを含むその問いで、結依は考える気力を奪われる。
 疑いの範疇。
 可能性止まりの憶測。
 なのに、結依は否定出来なかった。是非の確信が持てないのは、朝のナユタが見せたあの表情。雰囲気。そして、違和感。
(ナユタさんが……人、を……?)
 この時、結依は自身が過去の自分≠ノ逆戻りしている事に気付けなかった。
 衝撃的事実が為に、気付く暇もなかった。
 ぐらぐらと揺れる心情。人心に惑わされる精神。是非の選択に崩れる思考。
 独りで居たい。独りは嫌だ。
 矛盾を抱えた少女は『感じる』事を放棄して、ようやく今の『成瀬結依』を形成している。
 何も知らず、
 何も考えず、
 何も想わず、
 関わりを持たない事で『成瀬結依』を保ち続けていた彼女は、再び壊されつつあった。
 ナユタを知り、
 ナユタを考え、
 ナユタを想い、
 そうして裏切られる事に恐怖し、蓋をしたはずの欲望。
 ドロドロとした、まるで負の感情にも似た純粋な欲求。
 信じたい。
(ナユタさんが……人を、ころした……?)
 だが、その言葉は最早結依を苦しめる可能性しか生まない。
 不確定要素を否定しないのは他でもない、結依が原因なのだから。
 結依は本当のナユタを知らない。知らないのだから考えた所で意味は無く、外れた邪推は想えば相手を傷付ける。
(違う……)
 結依は、ナユタを信じ切れていない。
 本当は、結依も彼なのではないかという疑いが――、
「――違いますっ!!」
 咄嗟に叫んでから、自分の声にはっと我に返る結依。
 しん、と静かになるリビング。
 一人茫然とする結依は、両手で顔を覆い、うわ言のように呟き続ける。
「わたし……私は、なにを……何を、信じれば……信じ……」
 身を震わせ、俯き、ぐちゃぐちゃになってしまった思考を纏めようと必死になる結依に、

 カチャリ、と。
 リビングのドアが開く残酷な音が響く。

「――あ、てっめ……先帰ってんなら早く伝えろよ」
 苛立たしげな声音が、背中を叩いた。
 ビクン、と全身が強張る。
 結依は思考が定まっていないまま、ほとんど反射で振り返ってしまった。
 不機嫌そうに美貌を歪ませる青年を見て、結依は――。
「……、何だよその顔は」
 ナユタはじっと見つめてくる結依の表情を、訝しげに眺めた。
 固まったまま呆ける結依は数秒経って、ようやく動き出す。
「……あ。え、っと……」
 唐突に姿を現したナユタに狼狽し、思わず視線を逸らす。
「な、なんでもありません……だ、大丈夫です、よ……」
「何でも無ぇなら何が『大丈夫』なのか訊かせてくれよ」
 墓穴を冷静に指摘された結依はぐっと押し黙る。
 心臓の鼓動がうるさい。
 首から上が熱で火照るのに、全身は水の中に居るように冷えていて、奇妙な浮遊感で足に力が入らない。
 最早何を言えば良いのか分からない。何を言えば無難で、何を言ってはいけないのか。その判断を己に下す余裕が結依には無かった。
 口篭り、必死に平静を装う結依を見兼ねたナユタは疲れたように眉をひそめて溜息を零す。
「どうせ学園でまた何かされたんだろ? 今度は何言われたんだよ」
「ぁ、え……あ、その……っ」
 不自然な脂汗を額に浮かべ、虚ろに霞んだ隻眼を彷徨わせる結依に、不審に想ったナユタは前へと歩み寄った。
「お前、マジで大丈夫かよ。あれほどガツンと言ってやれっつったのに黙ってっからだ。おい、人の話聞いて――」
 思えばこの時、ナユタが出した手はそのまま伸びていれば頭の上に乗せられるだけのはずだった。
 頭でも掴んで軽く左右にシェイクしてやれば目でも回してアホ面曝すんだろう、と。
 たったそれだけの意味合いで伸びた手だった。
 結依に余裕が無くなっていたから。などというのは、所詮言い訳に過ぎない。
 しかし、この時の結依は心が沈み、答えを失い、目に映るモノの正否を判別する事も出来なかった。
 何の悪意もないはずの手が伸びてきた瞬間、
「――っ!!」
 ビクンッ! と。
 目を見開いた結依は硬直させていた身体を揺り動かし、後ろに一歩退いていた。
 恐怖の色に曇るその表情を目の前で見たナユタは、驚いて瞠目する。
 一歩退いた事の意味をゆっくりと理解した結依は、顔を上げる。
「……、」
 いつもの不機嫌そうな顔に戻ったナユタは伸ばしかけた手を少しだけ引っ込め、言葉を探している。
 結依は俯く。
 俯いて、ナユタが口を開こうとするより先に、ぽつりと呟く声に遮られた。
「……人、なんです……よね……?」
「あ?」
 一瞬、言葉の意味が分からなかったナユタが不思議そうに訊き返す。
「『人の話聞いて』、って……」
 咄嗟に刺激しないよう笑顔を向けようとして、無理矢理過ぎて引き攣った顔を上げた結依は、

 決して言ってはならなかった言葉を、その先に何が待っているのかも知らず、言ってしまった。
「本当に、人……なんです、よね?」

 五秒は待っただろうか。
 何時になっても返事が返ってこない事が気になった結依は、恐る恐るナユタの顔をちらと見た。
 そして、後悔した。
 なんと浅はかな事を、言ってしまったのかと。
 ちらと見てすぐに逸らそうと思った視線が、逸らせなかった。
 ナユタが、言葉では決して言い表せないような表情をしていたからだ。
 拒絶。疑心。不信。畏怖。
 図らずもそれらの意味が内包された、殺意とも取れる無防備な問いが、ナユタの心を深く抉っていた。
 人である事を否定された≠ニいう事実に対して、壮絶な空虚を纏った表情。
 絶望。
 そんな言葉が相応しい、表情だった。
「――何だよ、それ」
 呟きは、静かなリビングでは掻き消すモノも無く、否応なしに結依の耳に届く。
「本当に人なのか、だって……?」
 ナユタに滔々とした言葉を投げかけられる度、結依は足の力が抜けてその場にへたり込みそうになるのを堪えた。
 しかしその決定的な猜疑に余裕を奪われたのはナユタも同じ。
 ただ、彼が内に宿したのは、怒りと嫌悪だった。
「……テメェ=A何処でその知恵付けられた?」
「――っ」
 明らかな敵意を向けられたのだと悟った結依は竦み上がる。
 ナユタは自分から訊いておいて、瞬時にその質問の答えを自分で勝手に導いた。
 現状で結依と接触が可能で、ナユタがフェンリルの血族である事まで気付いている者なんて、一人しか出てこない。
「……、あの女と話してやがったのか」
 あるいは、それとは全く別の理由で、ナユタが到着するより早く学園を後にしたのかも知れない。一人の時間が出来てしまえば、接触する側が魔術師であれば容易なこと。むしろ結依とミルネスカ=ランフォードが接触する事自体はどうでもよかった。
 だがそれが弁解の材料になる訳が無いほど、ナユタが今一番許せなかったのは、
「俺がフェンリルの……災厄の凶獣だから危険だって話を鵜呑みにして、今の質問って訳か」
 ナユタの声量は変わっていない。しかし、尋常ではない威圧感を伴っている。しかも内容は正論で、核心を突くときた。そんな問いかけにただの人間でしかない結依がまともな返答を用意しているはずがなく、結依は恐怖に引き攣った顔で一歩後ろへ下がる。
 咄嗟に傍らにあったリビングテーブルに手を突く。支えていないと、崩れてしまう気がした。
 いつもの不機嫌そうな顔とは明らかに違う。
 完全に、結依に敵意を向けるつもりの、顔。
「その様子じゃ、月の満ち欠けで変動する絶対量の仕組みも……それが及ぼす心的症状も聞いた訳だな」
「ぁ、その……ナユタ、さ……」
 思うように口が動かない。謝ろうとする事も出来ない程に。
 もう、後戻り出来ない事にも、気付けぬ程に。
 ナユタはじっと結依を見つめ、眉間に寄せていた皺を解して視線を逸らした。ふぅ、と軽い吐息を一つ吐き、軽い口調で言った。
「要するに恐くなったって事か」
「え……?」
 急激な変化に戸惑う結依を尻目に、どこか優しく、どこか諦めたふうに、微苦笑を湛えてナユタは続ける。
「だってそうなんだろ? 何時人じゃなくなるかも分からない%zと、同じ屋根の下なんて耐えられる訳がねぇ」
「そ、そんなことっ……!」
「耐えられる訳がねぇんだよ、事実は事実だ。自分から言い出しといて今さら否定すんじゃねぇよクソガキ。喰い殺すぞ?」
 ぞくり、と背筋を奔る悪寒。結依は息をする事すら出来なくなり、俯く。
 穏やかに笑っているのに、
 口調はとても優しいのに、
 言葉が、
 気配が、
 冷たく、重たく、鋭利に突き刺さる。
 許さない、と。結依に殺意を向ける。
「……、恐いか?」
 弾かれたように顔を上げる結依。
 今度は怒りも悲しみも無い、真摯な面持ちで見つめるナユタ。
「俺が、恐いか?」
 絶世の美貌を持つ青年を見つめ返し、結依は恥ずかしげに視線を逸らしながら首を横に振った。
「こ、恐くは……ないで、す……ただ、あの人の事は本当なのか……ただ、訊こうと思っただけ、なん……です……」
「……」
 じっと結依を見続けていたナユタは、やがて舌打ち混じりに踵を返した。
「な、ナユタさんっ!?」
「気分悪ぃ……外で飯食ってくる」

 ――あの男が【ハイエンド】の……ただの人間ではないってこと、精々忘れないことね。

 どくり、と。結依の心臓が高鳴る。
 一人にするのか。
 一人で歩かせて良いのか。
 分からない。
 また、分からなくなる。
 なんと呼び止めれば良いのか。
 そうして口篭っている結依を放って、ナユタはリビングの扉を閉めて行ってしまう。
 取り残された結依は、自分の口元に手を当てて、床に座り込んでしまった。
「……私、……なんて、ことを……」
 青ざめた顔で、己が口にするべきではない言葉を口にしてしまった事を、深く後悔した。





 時刻は午後八時を回ったところ。
 リビングテーブルの前に腰掛ける結依は、何をする事もなくじっとしていた。未だに制服姿で、目の前には鞄と洗っていない弁当箱が袋に包まれたまま。あれから、結依はただじっとナユタの帰りを待っていた。
 コチ、コチ、と。壁掛け時計の無機的な音色だけが染み渡る部屋に居続ける結依は、疲れきった顔で茫洋と考えた。
(……どうして)
 言うべきではなかったことだったのに。
 言わなければならない感覚に陥ったと錯覚し、あるいはそれで自分を正当化しようとしたのだろうか。
 どちらにせよ、取り返しのつかないことになった。
 総ては、自分の浅はかさのせいで。
(どうして、あんなことを……)
 悔やんでも悔やみきれない。
 本当に人なのか、なんて下らない事を訊かれた時の、ナユタのあの表情が頭から離れない。
 驚きや、初めから悪意を持って接して来た相手への敵意ではない。
 結依は、あの表情を知っている。あの感情を知っている。
 誰よりも知っている。
 自分が、そうだったのだから。
 得ていたはずのものが、思いも寄らないタイミングで失われる絶望。
 信じていた者に裏切られる$笆]。
「――、っ」
 結依ははっと我に返り、椅子から立って振り返る。壁掛け時計は八時過ぎ。外はもう完全に夜に染まりきっている。
 虚空を見つめ、あの表情が絶望であることの意味を気付き始めた結依は、居ても立ってもいられなくなった。
 信じていた者に裏切られる絶望ならば、ナユタは結依を信じていてくれていた可能性が在るということ。
 それを、結依は……。
「……ナユタさんっ!」
 早足でリビングを出、玄関に向かう結依。
 革靴を履いて扉を開け、鍵も掛けずに門を開けて外へ飛び出した。


 春の柔らかな風が吹く町並みを、結依は当てもなく走る。
 何処へ向かえば良いのかは分からない。
 けれど、探さなくてはならない気がした。これは、その場凌ぎで自分が安心したかっただけとは違う、自分の意思。
 少し走って、闇雲に駆けずり回っては到底見つからないと思った結依はナユタの言葉を思い出す。
 飯は外で済ますと言って出て行った。居住区には飲食店が多数在るものの、結依の家が立っている地帯は民家が密集しているため、大通りの辺りまで行かないと店は無い。ここから近く、長時間居られる場所と言えば大通り沿いのファミレスだろう。
 結依は大通りへ向かうために細い路地を抜けて水伽橋の方へ向かう。夜に一人で社宅のルートを歩くのは、ここに綺桐弥生が居れば間違いなく大目玉を喰らっていたはずだが、結依にはそんな事を気にかける余裕はなかった。
 民家の密集する地帯を抜け、夜空にそびえ建つマンション群を目指す。
 この道筋に、ナユタが居る確証は無い。
 だが、胸騒ぎが強くなってゆく。走った事によるものとは違う、感触の不鮮明な鼓動が早鐘を打つ。
 マンション群の前まで来た結依は堪らず駆け足を緩める。家から既に五分以上は全力疾走をしている。膝に手を突いて荒い呼吸を繰り返し、たんまりと酸素を吸い込んでから歩き出す。
「はぁ……はぁ……、ナユタさん……」
 その名を繰り返しながら前へ進む糧とする結依は、街路樹の並ぶ三叉路を左に曲がり社宅の足元を過ぎる。
 数時間前に紅蓮の少女と出会ったあの公園に差し掛かった時、ぱたりと結依は足を止めた。
「……?」
 柔らかな風に乗って、気味の悪い臭いが鼻腔を掠めた。
 粘ついた鉄の臭い。生々しいその悪臭は公園の中からの気がした。
 どくり、
 心臓の鼓動が不自然に高鳴る。
 頭の中で激しい警鐘が鳴り響く。
 それでも、結依の足は無意識に歩を進めだしていた。
 嫌な予感がする。
 胸騒ぎは更に加速し、過呼吸に陥ったように間隔が縮まる。息がし難く、余計に思考を鈍らせる。冷静な判断が出来ない。
 公園に入り込む。
 なけなしの街灯が一つだけぽつんと立っているが、電球を覆っている笠が狭いせいか広範囲を照らしておらず、油断していると転んだり遊具にぶつかってしまいそうな程に、かなり薄暗かった。
 結依はゆっくりと歩き、ふとそこに人影が見えて足を止める。
 公園の中央の辺り。遊具に囲まれた砂利の場所に人影は動くこともなく立っている。やはり街灯の光は届いておらず、人影の輪郭は朧気でよく見えない。
 彼我の距離は十数メートルほど。意識もせずに息を殺した結依は、目を擦って暗闇に目を慣れさせる。
 細めた目が、その人影の輪郭をようやく視認出来るようになった時、人影が一つではない事に気付く。
 その人影の足元で、何かが地面に転がっている。ちょうど人が蹲ると出来るぐらいの大きさ。
 そして、その地面に転がる影を中心に、黒い染みのようなものが広がっていた。
 染みはかなり広い。いや、今も進行形で広がっている。じわじわと規模を膨らませる黒い染みは、結依の足元まで来ていた。
 やがてその染みは革靴に到達する。
 不思議そうな顔で、結依は思わず染みに触れた右足を一歩後ろへ下げた。
 にちゃり、
「――、」
 思考が、混濁した。
 水というにはあまりにも粘着性の強い液体。
 ざわりと結依の背筋に悪寒が奔る。
 嫌な予感が止んでくれない。
 ゆっくりと、
 ゆっくりと、
 顔を上げる。
 視線をなぞる様に、その人影へと向けてゆく。
 宙を漂っていた鉄の臭いは、むわりと、急激に鼻を刺激する。
 薄っすらとした熱を持つような生臭さに、嗚咽を催してくる。
 では、
 広がってくるこの黒い染みは、何?
 人影が、動く。
 ジャリ、と砂を踏んで振り返ったその人影を、やっと暗闇に慣れた目が捉える。
 半身振り返り、尻目にこちらを見ているのは、他でもない、
「ナユタ、さ――」
 淡い期待と、微かな不安を抱え、救いを求めるようにその名を呼ぼうとした結依は、

 遂に、総て≠見る。
 彼女の呼吸は、完全に、死んだ。

 血。
 紅い、血だ。
 鮮血が、広がっている。
 足元を、広がっている。
 結依の足に、触れて……。
「――ひっ」
 喉がひくついた。感触を知った脚から頭の天辺まで駆け上るように鳥肌が立つ。
 壮絶な気持ち悪さから逃れるように、結依は足元を侵食しようとする鮮血の池から、転びそうになりながらも後退する。
 まともに呼吸する事もままならない。ぜっ、ぜっ、という掠れた音を立ててかろうじて息を吸う。その度に、滑るような温かい気配が口腔を満たし、吐き気が留まることなく膨れ上がってゆく。
 眼の奥で、赤黒い火花が飛び散る。
 気絶したい衝動に駆られる。
 しかし、結依は顔を上げた。動物的本能が眼を背ける事を望んでも、顔を上げずには居られなかった。
 何が真実で、何が虚偽か。
 その判断すら分からなくなった結依は、自らの眼に現実を焼き付けて痛感させられなくては、総てを認識出来なかった。
 そうしなくては、張り裂けそうなこの胸がバラバラに砕け散るかも知れない恐怖に、耐えられなかったから。
 だから、見た。
 焦点を失った右眼が、ナユタを見た。見る事で後悔するとも気付けずに。
 ナユタは黙ったままこちらを見つめ返していた。
 その表情は驚愕に目を見開いており、何故こいつが此処に居るんだ、と言いたげだった。
 女の結依ですら綺麗だと思わざるを得ないその美貌は、片頬にべっとりと血を付けていた。腕は肘の辺りまで紅く染まりきっていて、指先からまだ凝固作用の始まっていない鮮血がぽたりと滴る。
 全身を血塗れにしたナユタを見て、結依は名を搾り出した。
「ナユ、タ……さん?」
「……、」
 問いかけにもナユタは応じない。驚いていた顔をすっと無表情にし、押し黙っている。
 結依はぐらつく視界を必死に整え、引き攣った笑みを浮かべた。
「うそ、ですよね……?」
 そうであって欲しい。
 願いは少女に虚ろな期待を抱かせ、まるで夢遊病患者のように前へ歩き出す。
 血溜まりの上を、にちゅり、と怖気が奔る感触も忘れて進む。
 一歩一歩、確かめるように。
 彼の心を、確かめるように。
「嘘ですよね……? ナユタさん……?」
 きっと違う。
 そう願う。
 それしか出来ないから。
 だから、
 願う。
「違います、よね……?」
 否定してくれる事を――。
 ナユタは自分の掌を見下ろし、しばし考え込む。
 やがて、
「……くく、」
 結依の足が止まった。
 結依の息が止まった。
 淡い期待を打ち崩すには、何よりの嘲笑。
 喉をひくつかせて、ナユタは血に汚れた手で顔を覆い、嘲りを噛み殺す。
「くっ、くくく……くくっ!」

 爆ぜた。

「あはははははははははははははははははははははっ――!!」
 高らかな爆笑が宵闇を抉った。
 結依の心の砕ける音と、伴って。
「……な、……ゆ、た……さん?」
 微かに洩れた声からは、一切の生気が失せる。
 肩を震わせ、人目も憚らず、狂ったように笑い続けるナユタ。
 壊れた音色のように響き渡る声はゆっくりと収束してゆき、ふぅ、と小さく吐息を零して沈黙する。
 そして、結依がまた一縷の望みを繋ぐ何かを求める暇も与えぬ内に、口を開いた。
「どうした? 何ビビッてんだよ?」
「ぁ、ぅ……」
「『ぁ、ぅ』じゃねぇよ。人間の言葉を遣えよ。人間なんだろ? 俺と違ってテメェは人間なんだろうが=v
 ナユタは一歩前に出る。遮るように立っていたナユタが退いた事で、足元に転がっているモノも結依は視認出来た。
 それが横たわる人間だと知り、更なる後悔が生まれる。長い髪を血溜まりの上に浮かべ、右腕と左脚が無い不完全な造形。
「嘘かだと? 違うだと? それが何だってんだよ。それを知ってどうする。テメェはどう答えられたら救われるんだ?」
 一歩、また一歩と真紅に弾けた砂利を踏み鳴らし、にちゅり、という耳障りな音を響かせてナユタは詰め寄る。
 対する結依は一歩も動けない。
 逃げたいという衝動は確かに在れども、ナユタから逃げたら、自分は本当に壊れてしまう気がした。揺り動く事で壊れる事に恐怖した。脚は震え、血溜まりの上に尻餅を突いて倒れてしまえば楽になれたのに、白濁とした思考はそれすら許してくれない。
「分かるだろ? テメェが立っているこの場所が、魔術師の見ている世界なんだよ=v
 彼我の距離を詰めながら、ナユタは嘲りに富んだ暗い笑みを向ける。
 獰猛にして、狂気。
 結依の知らない表情。
 決して理解出来ることはないだろう、表情。
「陰湿で、凄惨で、暴虐が荒れ狂う世界。力が無けりゃ、運が無けりゃ、誰だって死ねる世界。テメェはそこに立ってんだよ」
 血の池を指差す。
 日常からかけ離れた光景。網膜に焼き付ける一面の赤は、結依から言葉をあっさりと奪い取る。
 信じたい。
 馬鹿な願いだ。
 血に塗れ、
 死を創り、
 生を嗤い、
 正を哂い、
 フェンリルの血族は謳う。
「誰かが死んだからって、いちいち泣いてちゃ疲れる。俺が居るのはそういう世界だ。引き摺られたら#n鹿を見る世界なんだよ」
 【ハイエンド】などでは在り得ない程、あまりに近く『死』の寄り添う世界。
「詰まる所、そういう事なんだよ。俺の征く先はいつだって死人ばかりだ。テメェじゃ理解出来ない程、死人ばかり。右も左も、昨日も明日も、死人、死人死人死人……生きてもロクに生きられない連中しか居ない。死なないで良い奴ばかり、俺は死なせてゆく」
 捕食衝動。
 フェンリルの特性。
 未来永劫、人間に理解される事のない、本能。
「死なせてばかりなんだよ。そうして俺は死に損なってばかりきたんだ……」
 そして、ナユタの足が止まる。
 手を伸ばせば届く距離。
 頭一つ分は小さい結依を見下ろし、疲れたように笑ったナユタは、真摯な顔付きでぽつりと訊ねた。
「俺が、恐いか?」
 繰り返された質問。
 ようやく、あの時の言葉の意味を知った。考え無しに否定した事の愚かさを知った。
 見上げる結依は悲痛な顔をする。
 対するナユタの表情に、色は無い。
「恐くないとでも言うつもりか? 平穏を生きてきたお前に、死が当然の世界を知らないお前に、俺が理解出来るって言うのか? 知らない事が恐いと言ったお前は、知る事を後悔するほど恐いと思った事はないのか? 血の上に立ち、死を見て、それでも平気な訳か」
「ぁ……」
「恐いんだろう!? 理解出来る訳がないんだよ!! 俺を受け入れられる奴が居る筈がないんだよ!! そうなんだろう!?」
 唐突な怒号に竦み上がる。目に涙が滲み、何も言えない。答えられない。
 それを見たナユタは、口元に寂しげな嘲笑を浮かべ、結依を拒絶する。
「もう帰れよ……ウザいんだよ。迷惑なんだよ、お前。微温湯みてぇなこの世界で、ネチネチと嫌われて潰れてしまえばいいんだ」
「ナユ……タ、さ……?」

「もう――必要無いんだよ、お前」

 止めの一撃が、ざくりと心を食い潰した。
 緊張し切って強張っていた身体から、ふっと力が抜けた。脱力した腕がだらりと垂れる。
 何を信じ、
 何を求め、
 何を想い、
 途方も無い矛盾の中で、ただ必死に生きる為の理由だけを探し続けた。
 終着に、何も無いと、考えたくはなかったのに。
 『もっと』とは言わない。ただ、ほんの小さな光で良い。自分の終わりは光に満たされているんだと、希望を抱きたかった。
 ただ、それだけだった――。
 結依は何も言わなくなった。
 どこを見ているのかも分からない。あんなにも綺麗に澄んでいた瞳は、もう見る影も無い程にくすんで、濁っている。
 完全に死んだ′笈ヒへ、ナユタは右手を伸ばす。
 血に塗れた腕が近づいてくるというのに、最早結依は何の反応もしない。ただ茫然と伸ばされる腕を見つめている。
 やがてその手が、結依の首に届く。
 その直前に、結依の身体が横へと姿を消した。
「――!?」
 腕を半端に伸ばしたまま、ナユタの視線がギロリと追尾する。
 立ち尽くしていた結依の腰に腕を回し、掠め取るようにナユタの手から解放したのは、灰銀の髪の男。
「ふぅ、ギリギリセーフだったみたいですねぇ……」
 まるで眠り姫のように抱き抱えられた結依は、至近距離でほっとしている男の顔をぼーっとした顔で見上げる。
(こいつは……!!)
 まさかと思い至ったナユタは伸ばしていた腕に黒い霧を纏わせ、屈んでる男の後頭部目がけて振り抜く。
 気配に気付いた男は慌ててその場から離れる。
 結依を抱き抱えたままでは素早く動けなかったためか、肩を掠る。黒いスーツを裂いて血が弾けたが、表情に苦痛はない。腕の中で茫然自失とする少女を、ナユタから距離を離すことだけに専念した表情だ。
 距離を開けた男はナユタを見ながら、頬に伝う汗を手の甲で拭う。
「あ、危なかった……って言ってもあまり状況は変わってないんですけど」
「“魔弾の射手”の連れか……」
「いえいえ、通りすがりの者ですよ」
 強がりというより、どこか小馬鹿にしたような言い方だ。ナユタの表情が薄い怒りに曇る。
「あ、あはは……う、ウケませんかね……?」
 苛立つナユタの右腕が黒い霧に覆われ、獣の腕を形成する。
 ぎょっとし、男は懐から術符を取り出す。
「マズいなぁ……僕、戦闘向きじゃないんですよね……ど、どうしましょうか」
 困った顔で勝機を探す男の後ろから、怒号が轟いた。
「アルフレッド!! 結界を張りなさい!!」
「!」
 男は振り向くよりも先に、持っていた術符を投げる。四方へ飛んだ術符は滑り台や鉄棒などに貼り付き、公園の内側で正三角形を作る。
「――Exclusion.」
 男が呟いた瞬間、場の空気が一変する。公園の内と外とで、温度差が違うような奇妙な感覚。人払いの簡易領域結界だ。
 次の瞬間、男の上を弧を描いて跳び越えた紅蓮の姿。滑るように奔る銃口がナユタを捉える。
 ナユタはすかさず横へ飛び退いた。
 銃弾が虚空を穿つ。宵闇に銃声が轟くが、もうこの公園に誰かが来る事はない。
 血溜まりに手を突いて体勢を低く構えたナユタを、紅蓮の少女は着地しても銃口を離さず、ナユタと対峙する。
 ミルネスカ=ランフォードは、ちらと視線だけを動かし、地べたに転がる無残な亡骸を一瞥した。
 そして視線を戻し、激しい憤怒の表情をナユタに向ける。
「ここまで下種だったとわね……っ!」
「何言ってやがんだテメェ」
「うるっせぇ!! それ以上喋んじゃねぇわよクソッタレがぁ!!」
 力任せに両手を合わせる。ぶわりと透明な輪郭が爆発的に色を得て、サブマシンガンを出現させる。
「ぅえ!? ちょっとミルネスカさん!! 公園でそれはマズいんじゃ……っ!?」
 隔離結界と違い、壁の役割を持つモノで包囲されていない現状でサブマシンガンなんて掃射したら公園の外に流れ弾が跳んでゆく事を尤もな意見で止めようとしたアルフレッドだったが、制止も虚しく怒り心頭の彼女は聴いちゃいない。
 むしろアルフレッドの意見に賛同するように、苦虫を噛んだ顔で舌打ちをしたナユタは異形の右腕を乱雑に振るう。膨れ上がった黒い気流がミルネスカの掃射を全弾防いだ。
 残っていた弾数を総て使い切り、ミルネスカが次の兵装を出そうとする隙を衝き、ナユタは黒い気流で足元を撫ぜるように奔らせる。足元の鮮血を多分に含んだ気流が辺り一面を覆い尽くし、ミルネスカは咄嗟にゴーグルを装着する。
「ちっ、綺麗にしたばっかだってのに……何回汚せば気が済むのよ」
 紅い霧が付着するゴーグルを袖で拭い、ミルネスカは踵を返す。
 緩やかな風に薙がれた霧が消え、そこにはもうナユタの姿は無かった。
「逃げた……んですか?」
「そうみたいね。後片付けは人に押し付けて、さっさと逃げやがったわ」
 弾切れを起こしたサブマシンガンが色を失い虚空に消える。
 微かに付着した血をどうしようかとキャップを脱ぎながら、ミルネスカはじろりとアルフレッドを睨んだ。
「……で?」
「はい?」
「何時までセクハラしてる気なのかしら?」
 言われてようやく、抱えたままの結依を思い出したアルフレッドは慌てて離れる。
 支えを失った結依は血の上に膝を突いて倒れるが、その瞳は鮮血の生温い感触に怯える様子も無い。
(ったく……よりによってこの子に見せるなんて、あのクソ野郎……)
 内心でナユタを嫌悪し、ミルネスカは血に汚れる結依の腕を引っ張って立たせようとする。
「立ちなさい、一旦家に連れてったげる。アルフレッド、ここの処理しときなさい」
「え……ぼ、僕がやるんですか?」
「何言ってんのよ。アンタから電話が有ったからアタシは此処に来たワケよ? 先に発見したんだから責任持ってやんなさいよ」
「は、はい……」
 術符を取り出して作業に向かうアルフレッドを尻目に、ミルネスカはそこで結依がブツブツと呟いているのに気付いて顔を向けた。
 俯き加減で表情は分からない。だが、耳をそばだててみれば、彼女はたった一つの言葉をずっと繰り返している事が分かった。
「……私は、……必要ない? ……私、は……もう、必要……ない?」
 ただそれだけを呟き続ける結依を、ミルネスカは黙ったまま哀しげな表情で見下ろす事しか出来なかった。


 ◆


 公園を飛び出したナユタは、左肩に激痛を覚えて駆ける足をよろつかせる。
 マンションの壁に身を預けたナユタは、自分の肩を診る。どうやらサブマシンガンの弾を全て防ごうと意識し過ぎたのは失敗だったのか、一発被弾していたようだ。ジャケットを食い破って赤黒い穴が開き、そこからとろとろと鮮血が流れていた。
 荒い呼吸を落ち着かせ、目を閉じて頭の中で構築を形成する。
 全身の経絡を巡る魔力の流れを変え、肩から魔力が洩れ出ている穴に集約させる。破損した細胞を魔力で満たし、止血を始める。
 瞬間、ずぐり、という気味の悪い音がうなじの辺りから聴こえた。這い上がる不快感は明滅するかのように経絡を不自然に巡り、ナユタの意識下での統制を無視して暴れだす。唐突な制御負荷に、文字通り体躯が暴れようとするのをナユタは抑え込む。
「ぐぁ……っ!? あ、が……ぅ」
 歯を食い縛ってその不快感を押し戻そうと苦悶の表情で耐える。時折、ビクリと痙攣する身体は少しずつ収まってゆく。
 這い上がる不快感を押し留めつつ、再び止血を始めようとする。が、傷の奥の方で魔力の流れが乱調を来し、上手く練れない。下手に抵抗したのが災いし、弾丸は貫通せずに体内に残っていたのだ。
 自分の右手を見下ろし、それを握ったり開いたりする。浅く短い呼吸を繰り返してタイミングを計る。
 機は熟した。
 ナユタは、傷口の中に突き刺すように三本の指を突っ込んだ。
「がぁあああああっ……!!」
 獣のような呻き声。咄嗟に声を押し殺し、眼の奥でバチバチと上がる火花に耐えて傷口を弄くる。
 三本の指は熱い肉の感触の中に、硬い異物感を見つけ出す。さらに指を挿し入れ、弾丸を摘んで一気に引き抜いた。
 一際強い痛みが脳に叩きつけられる。懸命に声を我慢したナユタは掠れた呼吸で弾丸をしばし眺め、足元に落とし踏み砕く。
 ぜぇぜぇと荒い息を繰り返す。再びの失血と魔力・体力の消耗、加えて精神的なダメージ≠ェ積み上げられ、老若男女が振り返る程の美麗さを持つはずのナユタの相貌は、酷い顔色になっていた。玉のように噴き出す汗を拭いもせず、ナユタは笑い出す。
「く、はは……!」
 それは、自虐的以外の何物でもなかった。
 獰猛に口元を歪め、冷めない不快感を頭の中から押し退け、疲れた眼で闇を睨んで嗤う。
 狂ったように、
 狂ったように、
 嘲笑う。
 己を。
 彼女を。
 『総て』を成すこの世界を。
「こんなもんだよなぁ……分かりきってた事じゃねぇか。誰が信じようが疑おうが、俺がフェンリルの血族だって事は変わらない」
 壁から身を剥がし、ふらふらと歩き出す。
「皆、みぃんな死んじまうのさ……! 屍ばっかりだっ! だから俺は此処に居るのさ=I ははっ……はは、はははははっ!!」
 満ち切ってはいない月を眺め、抑えなければならない嘲笑を惜しげもなく夜の彼方まで響かせた。


 ◆


 家に辿り着いた結依は、玄関に立ち尽くしたまま俯いていた。
 それもそうだろう。むしろ辿り着いたというより、ここまでミルネスカに半ば引っ張られるようにして強引に来させられたのだ。最早自力で帰路に着くだけの気力すら、彼女には無かった。
 玄関のドアを閉め、ミルネスカは振り向く。靴を脱いで上がることさえしない結依の背中に、眉根を寄せた。
「……上がんなさいよ。早く洗濯しないと落ちないわよ、それ」
 制服の袖やスカートにべったりと着いた血を指してミルネスカは催促する。歩いている内に血は固まっており、真っ赤に染まった両手からも力が入っていないのが見て取れる。
「上がりなさい。ここは自分の家よ? 上がっても良いの」
 ミルネスカは背中にそっと手を当てて耳元で囁くように言い聞かせた。力尽くは出来ない。彼女は【ハイエンド】の、こんなにも血塗れになる事が非日常となる世界の人間だ。下手な刺激は魔術師としては非効率であり、同じ人間としても惨い気がした。何よりミルネスカのように人付き合いの上手さを自負する人間の目から見ても、上辺だけの優しさでは接する事に気が引けるほど、精神的な疲弊が憐れに思えた。
 決して突き放すのではなく、あくまで促すような力加減で背中を押された結依は血に汚れた革靴を脱いで上がる。
 逡巡したが、ミルネスカも上がる事にした。放っておけないのと、帽子とゴーグルだけ水洗いさせて貰おうと思い至った。
 ふらふらと覚束無い足取りでリビングに入り、家を飛び出したままの状態で斜めにこちらを向いている椅子を引き、リビングテーブルの前にすとんと座り込む。両腕はだらりと垂れていた。顔も俯いていて見えない。
 相当な姿にミルネスカは伏目がちに帽子とゴーグルをテーブルの上に置き、キッチンの方へ向かう。
「冷蔵庫、勝手に開けるわよ」
 了承の返事はない。あまり期待もしてなかった。冷蔵庫を開けると、食材は殆どがタッパーできちんと整理されていた。冷蔵庫の中身は人の性根を表すという言葉をどこかで聞いた事が有るが、ミルネスカはもっともだと納得した。彼女が綺麗に整理整頓出来る物と言えば、経絡にストックしている兵装と装填する分の弾薬ぐらいのものだ。
 扉の棚から牛乳パックを取り出し、冷蔵庫を閉める。それを片手に今度は茶箪笥から簡素なグラスを一つ取り、結依の傍に立つ。
 テーブルにグラスを置き、パックの口を開けて牛乳を注ぐ。目の前で静かに行われる所作を、相変わらず結依は見ていない。俯いて垂れた髪が表情を隠しており、こっそりと顔を覗き見ようという魂胆も少なからずあったミルネスカは断念する。
 なみなみと注がれたそれを顎で示しながら、ミルネスカははっきりと言った。催促半分、命令半分の言い方だ。
「……飲みなさい。少しは落ち着くわ」
 テーブルに尻を当てて寄りかかり、腕を組んで待つミルネスカ。
 結依は、動かない。
 数秒の沈黙が続き、小さく溜息を吐いた。
「ずっとそうやってても意味無いわよ?」
「……」
 一向に結依は動き出さない。さすがに苛立ってくるが、それを抑え込んで、優しく接しようと心がける。
 だが、再三に渡る催促は、結依の抑揚の無い言葉に遮られることになった。
「いいから飲みなさい。黙ってても何にも――」
「初めからそうだったんですか?」
 思わずミルネスカは振り向いた。声に抑揚は無い。だが、部屋の静けさも助長したのか、ぞっとするほどはっきり聴こえた。一瞬、彼女の口から出た声なのかと疑ってしまいそうになったぐらいだ。
 俯いたままの結依が、もう一度言う。
「初めから……意味がなかったんじゃないんですか?」
「……、」
 虚ろな視線は何処かを見ていて、何処も見ていない。
 しかし問い掛けるその言葉は、違わずミルネスカに飛んでくる。
「私がただの人間だと分かってもらえたってことは、私はもう関係なくなったってことですよね? 私はただ勘違いで巻き込まれただけで、赤の他人でしかなかったんですよね? 私は知っただけ≠ナ、知ることに意味はなかったんですよね?」
 疲れ切って生気は無いのに、はっきりと耳に入ってくる声。ミルネスカは押し黙る。
「私は必要なかったんですね? 初めから……私が『そこ』に居ることは、全然、何も……なかったんですね?」
「……、」
「……どうして答えてくれないんですか?」
 ようやく結依は顔を上げた。
 垂れた髪で遮られている彼女の顔は、無残なものだった。
 あの日の屋上で見た時とは別人だった。土色気で、目を合わせているはずなのにそんな気がしない。向けられた右目は、焦点が合っていない。咄嗟にこちらが目を逸らしてしまいたくなる。
「私はどうして皆さんを知っているんですか? 皆さんと関わっているんですか? ……それも、無意味だったんですか?」
 口元だけは、笑っていた。引き攣った笑み。まるで、救いが欲しいと言わんばかりの表情。
 これ以上の絶望はきっと彼女を殺せると悟るには充分な、壊れかけた笑顔。
 だがミルネスカは顔を背け、少しだけ間を置いてから、きっぱりと答えた。
「……そうよ」
「――、」
 見開かれた右眼から光が消える。
 それでもミルネスカは撤回しなかった。
 せざるを、得なかった。
「アンタが巻き込んだ事を非難するのなら、その借りを返せと訴えるのなら、出来る限りの事はするわ」
 彼女は【ハイエンド】の人間で、自分は【ミッドガルド】の魔術師なのだから。
「でも、それでもアンタは関係ないのよ=B本来なら記憶の隠蔽措置を取る事だって当然なの。ただアタシが自分の手でしたくはないのは、周りのルールを言い訳にして貸しまで忘れて欲しくないからっていう個人的な意地なんだけど」
 組んだ腕の中で、手の爪が二の腕に食い込む。
 耐えなければならない。詮索も干渉も、互いに許されない立場なのだ。
「……関係、ない?」
「そうよ」
「……意味が、ないんですか?」
「ええ」
「……どうしても、ですか?」
「くどいわ。それは変わらない……変えていいもんじゃ、ないのよ」
 今となっては押し問答ですらない。ミルネスカの徹底的な全否定に、言葉を失う結依。
 やがて結依はまた正面を向いて俯く。
 納得してくれたか、とミルネスカがゆっくりと息を吐く。
 結依が、ぽつりと言葉を落とした。
「私はもう、要らないんですね……」
「……」
 ふぅ、とミルネスカは溜息を吐く。

 次の瞬間、結依の胸倉に掴みかかっていた。

 バタン! と椅子が倒れ、テーブルが揺れてグラスが落ちた。割れる乾いた音と共に床に白い液体が弾ける。
 胸倉を掴んだまま壁際まで押されてゆき、勢いよくぶつかる。強かに背中を打ち付けられた結依の喉から「かはっ」と短い悲鳴が洩れたが、ギリギリと締め上げるミルネスカはまともに息を吸う事を許さなかった。
 怒りに満ちた表情で、至近距離の愚者に向けて怒号をぶちまけた。
「いい加減にしなさいよ!! 下手に出てりゃここぞとばかりに被害者振りやがって! 何様だ!!」
 鼻先で凄まじい形相を目の当たりにした結依の目が怯える。
 今まではゴーグルを着けているせいでよく分からなかった。彼女の眼は色素が薄く、ぼんやりと紅い。中性的な顔付きは麗しく、振り返らない男はそうそう居ないだろう。
 そんな表情を怒りに染め、ミルネスカは有りっ丈の叫びを結依に叩きつける。
「アンタは、【ハイエンド】の人間なのよ!! 真実から置き去りにされた世界の住人! 真実を知らないからこそ得られる安寧を、真実を知るからこそ護らなければならないのが魔術師! そうやって裏の裏で暗躍し続けてきた!! これまでも! これからも! 自分らの為に安全弁を確保しようってだけじゃないのよ!! 力を持たない人間に理不尽に力を振るっていい道理が無いから、アタシはこうやって戦ってる!! 遣り方が間違っててもそれはナユタって男も分かってるはず!!」
 一つ一つの言葉を区切りながら、何度も何度も結依の身体を引いては壁にぶつける。魔術師としての力は一切使っていないにも関わらず、背中が熱を持つ程の痛みを覚え、結依の顔が苦悶に歪む。それでもミルネスカは止まらない。
「【ハイエンド】の人間達が、魔術師と深く関わりを持つって事が既にイレギュラーなのよっ!! どうしてあの男を引き止めた!? 警告したってのに……! どうして首を突っ込みやがった!? どうなのよ! ただの平凡な人間サマよぉ!!」
 勢い余って後頭部が壁に当たった。
 キン、と頭の奥で甲高い音が鳴り、一瞬だけ重力が無くなるような感覚に陥った。
「何の為に無力だ≠チてのよ、アンタは!! 知って欲しくないからアイツも隠してたんでしょ!? 蓋をした感情を無理矢理こじ開けて掻き回したのはアンタじゃねぇのかしら!? 悲劇のヒロイン振りやがって……! アンタの勝手な我侭がアイツを狂わせたんじゃない! 一歩引いて関わって綺麗さっぱり忘れれば、そんな辛い思いしなくて済んだんじゃない! 自業自得で追い込まれて、逃げ場が無いみたいな顔してんじゃねぇわよ!! アンタにそんな資格は無い! そもそもアンタに逃げ場なんて無い! 初めから、アンタは壇上に上がってる役者なんかじゃないのだからっ!! アンタが生きる理由を探す場所は『こっち側』なんかじゃないわ! 【ハイエンド】なのよ……この場所なのよっ!!」
 最後の一撃に、結依は声一つ上げなかった。
 既に全身が脱力しており、胸倉を掴んでいるミルネスカの手だけで支えられているも同然の状態だった。
 激昂が冷めてゆくミルネスカは、最後に小さく掠れた声で言い足した。
「……真実を知る事が、必ずしも正しいとは限らないのよ」
 そう言ってミルネスカが手を離した矢先、結依は壁に背中を引き摺りながらずるずると座り込んだ。
 何も言わない彼女を見下ろし、ミルネスカは僅かに首を振ってから、言葉を落とした。
「あの男は許されない。けれど、同じ魔術師としてアイツの代わりにアタシが言うわ」
 言わなくても分かっていただろう。
 それでも、息の根を止めなくてはならない。
 彼女をこの世界から引き離す為には、例えどれほど残酷であっても、宣告しなくてはならなかった。
 魔術師に課せられた、魔術師たる為の、矜持。
「これ以上は関わるのをやめなさい。アンタは、アンタの世界を生きなさい。それはきっと、あの男も願っているはずだから……」
 結依は床を見下ろしながら、動じない。
 やがて足音が一度離れ、それからすぐ横を過ぎ去る。カチャリとドアが開き、閉まり、足音は遠のいてゆく。
 最後に、玄関の扉が閉じる音が微かに聴こえ、音が死んだ。
 しん、と。静まり返ったリビング。
 床に散乱する白い液体と割れたガラス。
 壁掛け時計の規則的な音色が、痛い。
 ピクンと、指が動き出す。
 結依は、
 総てを知り、総てを知らず、そして総ての得るべきではなかったモノを失った少女は、ゆっくりと顔を上げた。
 見渡す。
 無残な光景。
 無情な静寂。
 そこには、何も無い。
 何も、無かった。
「……、」
 放心状態で結依は首を横に向ける。
 リビングのドアは閉まっている。ついさっき、閉まる音がした。
 居なくなった。帰ったのだろう。
 最後の繋がりが、消えたのだろう。
 あまりにも呆気ない、幕引き。
 思考なんて、今の彼女にはない。
 ただ、真っ白に染まった頭の中に、ゆっくりと、ゆっくりと、事実を刻んで確認してゆく。
 終わったのだ、と。
 もう何も無いのだ、と。
 一つ一つ、
 まるでパズルを始めるように、
 ただひたすらにゆっくりと、結依は心の中に巣食う非日常の残滓を、殺し始める。
 それしか許されていない。
 ならばそれしか出来ない。
 魔術師の願いを。約束にする為に。
 結依は淡い期待も、冷たい希望も、総てを常温のまま溶かすように、殺し始める。
 僅かに動いた手に、力は、まだ入らない。










 一人の少女が暗い絶望の淵に沈んでも、陽はまた昇る。
 彼女を嘲笑するように、
 彼女を無視するように、
 彼女を慈愛するように、
 決して誰にも変える事の出来ないまま煌きだす曙光は等しく神凪町を照らし、肌寒い風に冷えた地を暖める。
 そうして新しい一日は始まる。
 時間も、希望も、得るべきではないモノを殺し続ける少女を一人残して。
 優しさも、哀しさも、得てしまったモノを殺し尽くす少女を一人残して。
 今日も穏やかに、世界は回ってゆく。
 くるくると、
 くるくると、
 止まらずに。










 居住区。
 大通りに面した場所に店を構えている、洒落たオープンカフェにミルネスカは居た。
 テラス席の一つに腰掛け、脚を組んでコーヒーを一口啜る。テーブルの上には上品に切り分けられたサンドウィッチとフライドポテト。その横にノートパソコンが置かれているが、長く触っていない為か休止状態に入り、画面は真っ暗だ。
 時刻はちょうど昼頃。平日という事もあって客はまばらだが、テラス席に座る他の客はおろか道行く者達ですらミルネスカを奇異の眼差しで一瞥してはそそくさと視線を逸らす。
 紅い髪と眼、服装のカラーも同色という徹底した出で立ちが、落ち着いた雰囲気のテラスでは明らかに浮いているのだ。
 さらに、『脚を組んでコーヒーを一啜り』と言っても、別に優雅に見える訳ではない。背もたれに体重を預け、左腕は背もたれの向こう側に投げ出した体勢なので、どちらかというと気だるげなイメージが先行してしまっている。しかも今日は金曜日。平日の真昼間から堂々と店に居座る少女と在れば、手当てをしてある風体も助けて不良なんじゃないかと周りに思わせてしまっている。警官が通れば間違いなく補導されているところだ。
 そんな中、コーヒーの入ったカップを片手にテラス席へ入ってきた一人の若い男が、テーブルの合間を縫うように歩きながら彼女の傍まで辿り着く。こちらも灰銀の猫っ毛髪に黒いスーツ姿、加えて耳や指に銀製のピアスやカフス、指輪などでチャラチャラとデコレートしたいかにも遊んでいそうな糸目の男で、奇異の視線は更に強まる。
 統一されたパラソルの下に潜り込み、ミルネスカの向かいに腰を下ろす。
「ふぅ……何とか終わりました。ちゃんと創れてます?」
 アルフレッドはコーヒーを啜ってからテーブルに置き、ミルネスカに訊ねる。
 だがミルネスカは不機嫌な顔でぼそりと呟いた。
「黙らせて」
「はい?」
「周りがウザいわ。鬱陶しい視線をチラチラチラチラと……ややこしいったらありゃしない」
 あぁ、と納得の声を漏らし、アルフレッドは素早い動きで懐から一枚の術符を取り出し、テーブルのど真ん中に貼り付けると同時に唱えた。
「――Unconfirmed.」
 流れるような声色でアルフレッドが言葉を口にした途端、今まで逢引だ援交だと二人に視線を投げかけていた者達は一斉に視線を逸らす。ある者は何気無い談笑を弾ませ、ある者は彼女らを路傍の石のように気にも留めず過ぎ去る。
 二人が座るテーブルとその周囲一メートル内での会話は、周囲には認識されない。声を消音にするのではなく、言動の中身を認識出来なくする♀ネ易結界。『あの席の誰かが何かを喋っている』、『けれど何故か内容を知ろうとは思わない』、『むしろそのテーブルには誰かが座っているのだろうか』といった具合に、結界内に存在する者の言動を不確定な情報に書き換えて不鮮明に誤認させる魔術だ。『エッダの詩文』が無いと他世界の人間はその言語を認識出来ないという欠点そのものを主軸に応用開発されたもので、二人の会話を周りは聴いているが理解していない¥況に創り変えた事になる。
 もう喋っても大丈夫ですよ、と言いたげな満面の笑みを浮かべるアルフレッド。が、こちらからはヘラヘラ笑っているようにしか見えないミルネスカはイラッとしたのか、特に意味は無いがテーブルの下で思いっきり脛を蹴っ飛ばした。驚きと激痛に「い゛っ!?」と短い悲鳴を上げながらアルフレッドの身体がビクリと動き、少しだけテーブルを揺らす。釣られてカップが揺れ、甲高い音を立てた。
 勿論、カップの揺れる音も悶絶するアルフレッドも誰一人気にしない。素知らぬ顔でミルネスカはコーヒーを啜った。
(うぅ……あの子の家から帰ってきて以来、やけに御機嫌ナナメみたいなんですよねぇ……)
 染み渡る痛みをじんわりと解かしてゆくアルフレッドには目もくれず、ミルネスカはノートパソコンのタッチパッドを人差し指で幾度か擦り、休止中だった画面を立ち上げる。画面には神凪町の地図が表示されていた。最近開発され、姿を変えやすい現時点での地図≠リアルタイムで画面化する情報収集用の新型軌道衛星『すみれ』から送られたデータを元に、神凪町の地図を簡易的にパソコン内で作成しているのだ。倍率次第では真上から見た景色だけではなく、一つ一つの建造物の情報も素早く手に入れる事が出来る。二人が今居るカフェもそれで探したのだ。建物の形状から現在地からの最適ルート・所要時間や店内の商品リストに金額、更には今週のおすすめケーキといった客目線での情報など、そんじょそこらの機器とは比べ物にならない利便性を誇っている。【ハイエンド】やるなぁ、日本やるなぁ、などと以前から興味深そうに色々と調べては脳内散策を繰り広げて暇を潰していた。
 もっとも、付属するコード越しに繋げた長方形の機器から別途受信したデータを入力して魔術的に用いている時点で、【ハイエンド】としての遣い方をしているとは言い難いが。
 表示されている垂直撮影による地図には、神凪町の居住区と学園領にいくつもの光点がある。それらはきっちり六箇所。線で結べば六芒星が出来上がるようになっている。術符ではなく大きなモニュメントを触媒にした巨大な結界を創り出すつもりだ。
 ただし、包囲や隔離のための効果が主体の結界ではない=B
「ミルネスカさん、本当にやる気なんですか……?」
 恐る恐るといったふうにアルフレッドが訊ねてくる。無理も無い。もしこの結界が発動された場合、ミルネスカは【ハイエンド】に大きな傷跡を残した大罪人として認定されること間違いなしの結果を生む。
 即ち、領域内の消滅。
「あくまで警告よ。初めから起動するつもりはない。というより、起動は出来ない程度に留めるつもりで設置したんだから」
 ミルネスカは落ち着いた態度で返した。事実、この結界は完全に出来上がっている訳ではない。六芒星というモチーフだけでは『魔術としての基盤』は形成出来ても、『何の魔術なのか』までは確立されていない。魔術的結界創造における『意味合い不足』なのだ。これから補助に当たる小規模結界をいくつも創り結界を完成させるのだが、ミルネスカは誤作動を起こさない為にも予め意味合いが足りないスカスカの術式を組んで発動出来ないが、しようと思えば出来るように見せる≠ツもりでいる。賢しいあの男の事だ、間違いなく気付くだろう。
 警告の内容は脅迫ではなく、宣戦布告であると。
 アルフレッドはそれが一歩間違えれば暴挙となる事を悟り、気を引き締めた。
「ですが、それで彼が来るでしょうか?」
「来るわ」
 ミルネスカは即座に断言した。
 誘いに乗る理由が在るからだ。
 カップを受け皿の上に静かに置き、ミルネスカは嘲笑を浮かべた。
「どうしてあの男が、自分がやってる事をアタシ等に見られるまでこの町に潜伏し続けてると思うのさ。バレれば当然邪魔されるのは見え透いてるんだから、普通ならいちいち場所を変えるでしょ? 同じ町の中で何度もするなんてリスクだけが高い真似、あの男がするとは思えないわ」
「それは、彼女を――」
 テーブルの下で、再び脛に爪先が鋭く突き刺さる。「ぅごうっ!?」という珍妙な悲鳴と共に沈痛な面持ちで上半身を平伏させて悶えるアルフレッドのリアクションを無視し、涼しげな顔で返す。
「それはあくまで小目的でしょうが。それが本当の目的だったってんなら、【ハイエンド】の人間を¢_い違えたってアタシ等自身が分かった以上、ここに留まる必要なんて無いじゃない」
「で、すがっ……逆を言えばその必要性の無さは僕等にも当てはまるのでは? 彼がそう思っているとしたら……」
「ならどうしてあの時、アタシにトドメを刺さなかったのよ」ミルネスカの一言が可能性を否定する。「言葉一つに対する気の迷いで手を止めるぐらいだったって事は、アタシの生死は別にどうでもよかった≠チて事じゃない」
 涙目で顔を上げるアルフレッドから視線を外すミルネスカ。その視線は町並みのどこかを射抜くように見定めている。
「そもそもあの男の本当の目的にアタシ等は関係無いのよ=Bだから連れを寄越さない。単独で行動する事にあそこまで執着するのは、人に見られたくない行為をしているから。そして現にアタシ等に邪魔されても失敗したふうには見えなかった」
 ここで問題、とミルネスカは嘲笑めいた顔でアルフレッドに訊ねる。
「人は関係ない。でもその場所には留まる。さて、目的は定かではないにしろ、彼の狙いは一体なんでしょう?」
 あ、と。小さくアルフレッドは声を出した。
 結論に至った彼を面白そうに見ながら、答えを導く。
「――土地よ。あの男の狙いはこの神凪町なのよ=v
 テーブルの上に人差し指をコツンと当てて、ミルネスカは今度は反吐が出ると言いたげな顔をした。
 神凪町の地脈に流れている魔力の量と濃度は異常だ。何の変哲も無い土地が神佑地に成り上がるという事は確かに事例が存在するが、【ハイエンド】で、しかもここ数年の間に急激に神佑地級の魔力を地脈が持つというのは一度としてなかった。神佑地とは、邪念――つまり人間の手の届かない不変の空気に満たされた場所に魔力を供給するだけの道筋、その他多くの現象が連なった状況を数年から永い時は数百年もかけて神域化していったものの事を指す。そういった意味では、人と機械と歴史が綯い交ぜになって形成に至ったに等しいこの町が神佑地になる事自体、所要歳月を抜きにしても在り得ない。
 しかも恐ろしい事に、文明としての機能レベルはかなり高い先進的なこの町の地脈だというのに、保有する魔力が純粋過ぎるのだ。まるで高山の雪解け水をろ過して抽出したかのように、一切の濁りが無い。むしろ、不自然過ぎる程濁りが無さ過ぎる=B有名な各所に存在する神佑地でもここまで純度の高い魔力を持つ土地は無い。
 在り得ない場所に、在り得ない純度と濃度。
 神佑地にはならないだろう場所に、神佑地としては最高峰クラスの神域性。
 この時の二人は、それがたった一人の少女によってもたらされたモノだとは思いもしなかった。これ程まで土地が昇華されるような事態を自然なものとは考えられない以上何者かの手によるものだと断定は出来ても、そんな所業、神通力に等しい力の持ち主でも二桁も三桁も頭数が居なければ成し得ない事であると推測してしまったのだから当然だろう。たとえ彼女達でなくとも考える程、その知られぬ事実は非常識極まりなかった。
「目的は神佑地狩りですか……!?」
 アルフレッドの問いに驚きが強いのも無理は無い。町の消滅も相当だが、神佑地である事を承知の上で利用しようとする事はそれ以上の悪意を孕んでいる。そもそも魔術師にとって『神佑地』と呼ばれる場所は目的次第で善悪が変わりやすいとはいえ、総じて危険度としては大事件と見なされる事項の多い¥齒鰍ネのだ。使い方一つ間違えれば人を英雄にすることも巨悪にすることも容易に出来てしまう。だから誰も無闇に手を出そうとはしない。無理をして関わろうとしても、敵対組織に神佑地狩りと難癖を付けられるのがオチとなる事が目に見えている。
 ただし、あくまで強行であるのなら話は別だ。こういった事態は意外と少ないとはいえ無くはない=Bアルフレッドが驚いた理由はある意味、【ハイエンド】で神佑地そのものに単独で関与しようとする者はさすがに一人も居なかったからだ。
「常軌を逸してるわよね。でも敵の考えをいちいち知る必要はないわ。それに知った所で理解出来るとは限らない」
 フェンリルの血族が神佑地を狙う理由は分からない。むしろ神佑地狩りが本当だと断定している訳でもない。
 しかし、現状考えられる中での『最悪』は、やはり神佑地しか思い浮かばない。逆を言えばこれさえ死守してしまえばフェンリルの血族が他に行動を起こしても所詮は悪足掻き程度に落ち着いてしまう事になる。本当の目的は知らない。ならば、フェンリルの血族の目的を『最悪』で設定した方が行動しやすい。そういった意味では、ミルネスカの思考はネガティブどころかむしろポジティブであると言える。
 何より、町の消滅というハッタリを行うことで相対するフェンリルの血族が動揺すれば=Aそれは確信に至る。
「大博打も承知の上。恥も外聞もないわ。【ハイエンド】の安寧を護らなくてはならない魔術師が、ここで引き下がっていいワケないじゃない。必ず止めてみせる。あの男の凶行も、あの男の息の根も、総てをね」
「ミルネスカさん……」
 ミルネスカは俯いて反芻する。未だに焼き付いて離れないあの表情を、湧き起こる感情を押し殺してから顔を上げる。
「さ! そうと決まったら今度は補助用術式の組み込み始めるわよ」
「えっ! ま、まだやるんですか!?」
「当然でしょ? 基盤組んだだけじゃ起動出来そうっぽく見えないじゃないのさ」
 ミルネスカは予めプリントアウトした地図に赤ペンで印を作り、それをアルフレッドに渡す。
「アタシ頑張ってるわよねぇ? 命がけで頑張ってるわよねぇ? まさか雑用までアタシにやらすワケないわよねぇ?」
 たおやかな笑顔を満面に浮かべてはいるが、その声はかなり威圧感を放っている。
 はは……、と。アルフレッドが虚ろな空笑いをした。逃げられない事は既に悟っていた。
「ちょっとは休憩してきなさい、それ飲んだらまた町中奔走よ。分かってるでしょうけどあの男に見つかんないでよ」
 はっとしたアルフレッドは視線を手元にちらりと落とす。
 休憩時間を指し示すコーヒーカップの中身は、もう殆ど無い。


 ◆


 びくんっ! と肩を竦ませ、浅い眠りから覚醒した結依の顔が上がる。
 辺りを見回す。自分が何処に居るのかもよく分からなくなっていた。
 自宅のリビング。フローリングの上に三角座りで俯くように眠ってしまっていたらしい結依は、時計を見上げる。
 時刻は午後三時半を過ぎたところ。
(がっこう……)
 完全に起きていない脳がそんなことを思い出したが、彼女の顔にはなんの表情も見出せなかった。どこか睨んでいるような気だるげな眼つきで時計を見上げたまま、あれからほぼ丸一日ずっとここに座り込んでいたという事実にようやく辿り着く。
 やがて結依は、鼻を突く生臭さに顔を前へ向けた。
 フローリングの上に割れたグラスと、陽を浴びて腐ってしまっている牛乳が広がっている。
 掃除しなきゃ。結依は力の入らない身体をゆっくりと動かし始める。活力が戻った訳ではない。最早惰性に近かった。
 立ち上がろうとして、視界が暗転しかけた。立ち眩みを起こして足取りがふらつく。壁伝いにキッチンへ入り、空腹と喉の渇きを覚えた結依は無作為ともいえるような覚束無い手つきで冷蔵庫を開け、すぐに食べられる物はないかと探す。
 タッパーできちんと整理された食材の中からキュウリの漬物を見つけた結依はそれを取り、蓋を開ける。仄かに酸っぱい香りが空腹を刺激する。まるで吸い込まれるように生唾を呑みながら、指で一切れ摘んで口の中に入れた。
 ――血塗れの指で摘んだモノを。
「……、っ!!」
 タッパーを足元に落とした。中身が飛び散り、それを見下ろした結依は自分が着ている制服にも血がこびり付いているのに気付き、足先から昇る悪寒に鳥肌を立てる。
「ぅっ……お、えぇ……っ!」
 途端、腹の底から火が付いたような吐き気を催し、慌てて流し台に飛びついた。
 嗚咽と堰を繰り返す結依。当然、空腹の胃から吐き出せる物などなく、何に対しての嘔吐なのかすら分からずに苛む。
 蛇口を捻り水を濁流のように目一杯に流し、そこに両手を突っ込む。固まってなかなか取れない血を必死に洗い落としながら、再びせり上がってくる吐き気に目をぎゅっと瞑って堪えた。
 閉じた瞼に蘇る記憶。
 脳裏に焼き付いて離れない、真紅。
 爆ぜた赤闇の上に佇む青年の姿が、狂ったような殺意が、蛇のように全身をのた打ち回る。
 ふらふらとリビングに戻り、向かう先の定まらない視線が宙を泳ぐ。傍から見れば情緒不安定で病院を薦めるほどだ。しかし、憔悴しきった頭は正常な判断など下せず、結依はさっき何をしようとしていたかも忘れて、夢遊病患者のように歩き出した。
 否、目的は定まっていた。
 目的を探すこと=B
 それが彼女の望み。
 しなくてはならないこと。
 この世界で、絶望に喘ぎ、理解に苦しみ、たとえ壊れると分かっていても、
 この世界で、生きる。
 それだけが、彼女の約束。
 二階に上がり、制服を脱ぐ。汗と鉄錆のような臭いが鼻腔を掠める。シャワーを浴びたい衝動はあったが、気力はなかった。
 淡いブルーの楚々としたワンピースを着て、結依は制服を床に放ったまま部屋を出た。
 階段を降り、そのままの勢いで革靴を履いて玄関を開ける。
 午後の麗らかな陽気の下で、結依は当ても無くただ歩き続ける。


 南風が暖かく吹いてゆく。
 居住区を歩く結依は、そのまま真っ直ぐ大通りを目指さず、彷徨うような足取りで迂回してゆく。
 特に意識した訳ではなかった。平日の三時過ぎ頃なんて居住区をうろついている人間はそれ程ないにしろ、やはり大通りへ出ると人の往来はそれなりに在る。本能的に人ごみを避けた結依は社宅へと向かってしまった。
 公園に辿り着いた結依は生気の無い顔を上げる。
 そこには、何も無かった。
 夜の下に広がっていた血も、死も、狂気も、拒絶も、何も無い小さな寂れた公園でしかなかった。
 まるで、初めから夢であったかのように。
 結依はゆっくりと公園へ入り、拓けた砂利の場所で立ち止まる。
 ちょうど、ここだった。
 真実を知ったのも、
 理想を失ったのも、
 始まりであり終わりであるこの場所で、結依は何も出来ないまま、輪から外された。
 きぃ、と。風で軋んだ音が耳に入り、そちらを見る。風雨によって錆び付いたブランコをじっと見つめ、何を思うという事もなく無意識にブランコに座り込む。
 冷たい鎖を握り締め、俯く。地に着けた足でブランコを前後に少しだけ動かし、ロケットペンダントが胸元で揺れる。
 時間帯もあって人気の全く無い公園に居続けて、十分以上になるだろうか。
 革靴を見下ろしてただただ沈黙し続ける結依の視界に、影が差した。
 ついと顔を上げた。
 淡い期待。拙い罪悪。
 入り混じって矛盾と成す色の無い感情を胸に反射的に顔を上げた結依を見下ろしていたのは、

「……こんにちは、お嬢さん」

 灰銀の猫っ毛を温かい風に揺らす、糸目の優男だった。


 ◆


 見上げたそこに、一人の男性が立っていた。
 灰銀の猫っ毛髪。黒いスーツ姿。ピアスにカフス、指輪やチェーンなど全て銀で統一した、サラリーマンというよりホストを思わせるような軽薄な印象を与える風体。
 糸目の優男は力無く反射的に顔を上げただけに過ぎない結依の虚ろな隻眼を見て、気まずそうに微苦笑を浮かべた。
「御会いするのは、これで二度目ですね」
 結依はふと思い出した。
 そう、会うのは二度目。
 忘れられる訳がない。
 払拭する事の到底出来ない記憶。
 暗い公園。
 死が撒き散らされた場所。
 総てが拒絶された場所。
 希望を断たれた場所。
 脳裏に今も焼き付いたままでいる。
 あの時、無音の殺意を纏ったその腕を伸ばしたナユタから救い出した者。
「ああ、申し遅れました。旅団≪反抗勢力(レジスタンス)≫構成員、アルフレッド=リンバーです」
 アルフレッドは卒のない動きで会釈した。見た目と違い気品を感じるあたり、プロ目線で言えばミルネスカより諜報向きの性格だ。
 見上げるばかりで一向に変化を見せない結依を見つめ、頬を掻いた。
「……あまり、彼女を悪く思わないであげて下さいね」
 その一言に、結依はほんの一瞬だが不思議に思った。
 今の発言にミルネスカを擁護する気配は感じなかった。誰を味方とするような雰囲気ではなく、中立を重んじた優しい言い方だったからだ。
 アルフレッドはまるで独り言のように続ける。
「ミルネスカさんも本当は貴女に辛い思いをして欲しくないんだと思います。巻き込んでしまった事を過去にしたくない、非常に義理がたい方なんですよ」
 ただ、とアルフレッドは結依を見て、言う。
「それは何もミルネスカさん一人に言える事ではありません。彼もまた同じだと僕は思っています」
「え……?」
 初めて結依は声を出した。
 彼、というのが結依の思い到る人物であるのなら、それは大いに意外な言葉だった。
 やっと反応してくれたと嬉しそうに眉をひそめるアルフレッドは空を見上げて答える。
「……案外そんなもんですよ? やれ仕事だ、やれ私情だと言い訳したところで行動は行動。皆、傷付いていいはずがない人を傷つけない為に戦っているんです。彼の思惑がどういったものかは見当も付かない所詮は憶測ですが、本当に貴女を障害と思ったのならあの時確実に仕留めていたはずです」
 結依は、はっとした。
 あの時、ナユタは結依を嘲笑い、拒絶の言葉で嬲った。
 必要在るだろうか?
 これから殺すつもりの人間に、わざわざ線引きを強調して突き放す理由が、そこまで要るだろうか?
 それは一つの可能性。
 ナユタの拒絶は、本当に結依を傷つける為だけのものだったのだろうか=B
 距離を作り、
 壁を作り、
 結依を遠ざけた。
 何から?
 何処から?
 血に汚れた世界に居るべきではないと嘲笑ったナユタは、果たして悪でしかないのか=B
「――、あ」
 ことり、と。
 ピースの嵌まる音がした。
 収束するしかないと自らに言い聞かせていたパズルに、思いも寄らなかったピースが落とされる。
 利用するのに線引きする意味はない。
 あの時ナユタがそうしたのは、ただ結依にだけは知って欲しくなかったから。
 真実を。
 その裏に潜む爛れた血痕を。
 たとえ生温い世界を窮屈に思っていたとしても、結依にはただ――、
「言いたかったのはそれだけです。御時間を取らせてしまい済みませんでした」
 アルフレッドはもう一度会釈した。
「どうしてもそれだけは忘れないであげて欲しかったんです。……では、これで」
 踵を返すアルフレッド。
 結依は爆発的に膨れ上がる、言葉では形容の出来ない感情に後押しされるように立ち上がった。
「待って下さい……!!」
 カシャン、とブランコの鎖が擦れる音が響き渡る。
 足を止めて振り向くアルフレッドに、結依は訊ねる。
「どうして、それを言いに来て下さったんですか……?」
 敵ではない。だが味方では決してない。
 そんな曖昧な関係でしかない結依に、何故言葉をかけたのか。
 嵌まるはずのないピースを落としたのか。
 それが、分からなかった。
 アルフレッドは視線を彷徨わせてしばし考え、苦笑しながら答えた。
「いやぁ……他人事には思えなかったんです」
 何に対してか分からない結依が小首を傾げると、アルフレッドは遠い彼方を見上げ、途方もないといったふうに滔々と言った。
「信じて貰えないってのは、辛いもんですよねぇ……僕も結局、補佐以上の感情は持ち合わせて貰えてないみたいですし」
 頬を掻き、そんな事をぽつりと呟いたアルフレッドは不意に真摯な面持ちで結依を見据えた。
「お嬢さん、これだけは忘れないで下さい」
 軽薄そうだった表情はもうない。結依は咄嗟に身構える。
 そしてアルフレッドは言った。
「一つの事柄に対し、それが正しいか正しくないかは胸三寸で決まってしまうもの。大切なのはそれを許すのか、許さないのか」
 どうあっても、事実は事実のままでしかない。
 しかしそれに直面した者が、総て同じ結末を望むとは限らない。
 想いというものは、テストの問題とは違う。流れに身を任せた無難な答えが正解である必要はない。
「思い出して下さい。一つ一つの事実を。一綴りの結果論ではなく、一つ一つの過去を」
 誰と出遭い、
 誰が戦い、
 誰に想いをぶつけ、
 誰は答えを導いたのか。
 それぞれに感じた一喜一憂が、その結末をどう望んでいるのか。
 本当にこれでいいのか。
 終わるしかないのか。
 答えを出すには、結依はまだ何も、何も考えていない。
 踏み出す一歩は、思い出に在る。
「どうぞ苦しんで下さい。迷い、惑い、絶望の彼方まで、落ちる所まで落ちて下さい」
 まるで殺すような言葉。
 だが、アルフレッドの最後の一言は、
「落ちる事が出来なくなったら、後はもう……上を見上げるしかない」
 結依の、真実へ到る点(クリティカルポイント)へと繋がった。
「そしたら――ほら、そこには希望しか見えないでしょう?」


 気が付いた時、そこにはもう彼の姿はなかった。
 静かな公園に、紅蓮の陽光が差し照らす。
 一人残された結依は、ペンダントを一度だけ握りしめた。
 強く、
 強く、
 握りしめた。
 そして、顔を上げる。
 覚束無い足取りで、公園を後にする。
 帰る場所など、一つしかない。





 家に辿り着いた結依は、荒い呼気を抑えて上がり込む。
 その焦燥が何であるかは本人も分かっていない。しかし家路を進む足は次第に速くなり、息も弾み、汗ばむ。
 それらを気にする余裕も無かった。
 結依は早足でリビングへ入った。
 しん、と静まり返った部屋。フローリングの上には割れたコップと広がる腐りかけの牛乳。
 はぁ、はぁ、と息をするが、それとは違う理由から鼓動はどんどん早くなってゆく。
 静まり返った部屋。
 その静けさの意味を、結依は頭の奥底へと刻み込む。
 何の為の理解。
 結依は意味を探した。
 早まる鼓動は一体どこから来るのか。
 日常に無い世界はどこから来たのか。
 結依はゆっくりと瞼を閉じた。
 闇に染まる視界に映し出されるのは、結依が『非日常』と認識してきた、数々の情景。
(私は……)

 夕焼けの迫る公園。
 出遭い、逃げ、辿り着いた場所に現れた紅蓮の魔術師。
 異形の姿から変わったのは、黒い流麗の青年。
 火花散る攻防。留まる事の無い判断。逃走。停滞。驚きよりも呆気に取られた一言。
 ――それが、始まり。

 真実を聴かされた。
 幾重にも存在する他世界。真実を持つモノと持たないモノ。交錯する孤我の意識と集団の思想。
 解き明かされても理解が追い着かない頭を、目の当たりにした光景で肯定した夜。
 ――それが、きっかけ。

 日常に食い込む非日常。
 潜む策略を打破する為の目晦ましとなった登校。
 水面下の嫌悪。嬲られる心。震える脚は逃げる事も出来ない。
 悲哀に曝される身を案ずる間もない、空間反転。
 ――それが、異変。

 死と血を纏った人無き学園。
 弾雨の爪痕。銃声。爆音。言葉にも似た届かない声。戦いの最中に行われてゆく脆い賭け。
 非日常ですら異常である光の見える世界。流れ往く魔力の渦。
 掴み、壊し、創り替えられ、魔術師と魔術師による壮絶な一騎打ちは幕を下ろす。
 一人の愚かな少女によって、幕を下ろされる。
 ――それが、曲折。

 あの夜、掛けられた言葉は忘れない。
 突き放すように。
 けれど優しく撫でるように。
 真っ直ぐと見つめるようなあの言葉を、決して忘れない。
 たとえペンダントは慰めの虚空であっても、心の何処かが満たされた屋根の上の些細な会話。
 ――それが、救い。

 信じられなかった自分を、恥じた。
 赤闇に塗れた拒絶。怒号で殴る叱責。何よりも痛かった静寂。在るべき静寂。
 【ハイエンド】の人間。その責任。重く、冷たく、圧し掛かってくる幕引きのカーテン。
 無力の意味を理解出来ず、あがいた。その爪が彼の最後の心を傷つけている事にも、無知故に気付かない。
 日常にとっては唐突に。
 非日常にとっては当然に。
 ツケを払わされる痛みに耐えられなかった心は、流れ往く結末を受け入れる道を選んだ。
 ――それが、終わり。

 失意。
 絶望。
 行き着いた逃げ場で揺らぐ、選択する余地など無かったはずの道に突き刺さる標。
 選択。
 微かな光。あるいは白濁色の、闇。
 それでも、確かにそれは見えたのだ。
 ――それが、

「私は……」
 一つの感情が、少女には在った。
 それは、恐怖。
 得る事に恐怖した。失う事に耐えられるわけがなかったから。
 見る事に恐怖した。世界は綺麗ではないと知ってしまうから。
 想う事に恐怖した。返ってくる言葉はいつも冷たかったから。
 ペンダントを握った。せめてもの拠り所が欲しかった。
 意味が無くてもよかった。そうする事で立っている自分の姿に*梠ォしたかった。
 やがて彼女は『拒絶』を最善と見切ってしまった。
 世界を見限れば、失わないで済む。
 視界を閉じれば、見えないで済む。
 相手を避ければ、逢わないで済む。
 殻に閉じ篭った罪を知らないで居れば、これ以上の痛みを感じないでいられた。
 重く、冷たく、自身を満たす泥のような闇の中が、少女の望んだ最低限の痛みだった。

 ――『しゃきっとしろ間抜け。お前に戦えとは言わねぇ。ただ、今出来る事を一つ一つクリアしてけばいいんだよ』
 どうして、あの言葉を信じられなかったのだろう。
 あんなにも綺麗だったのに。

 ――『来るのを待ってんじゃねぇよ。自分から行くんだよ』
 どうして、あの言葉を考えられなかったのだろう。
 あんなにも強かったのに。

 ――『俺が、恐いか?』
 どうして、あの言葉を認められなかったのだろう。
 あんなにも真っ直ぐだったのに。

 あの言葉は、
 ――『もう――必要無いんだよ、お前』
 あんなにも、優しかったのに。

「――ぅ……あ、ぁぁ……っ!」
 漏れた嗚咽は止まらない。
 頬を伝う涙は止まらない。
 自分が悲しんでいる事にすら、気付かない。
 大切な事に気付いたからだ。
 結依は口元に手を当てて、崩れるように座り込んだ。
 違った。
 嗚咽も、
 涙も、
 悲しみじゃなかった。
「うぅ……あぁぁっ!!」
 悔しかったのだ。
 無力が、
 無知が、
 彼を傷つけた。
 それ以上に、
 彼は、それを許してくれたから。
 嘲って尚、拒絶してくれたから。
 此処はお前の居る場所じゃないと、優しく突き放してくれた。
 今になって気付いた事が、悔しかった。
 謝りたい。
 でも、彼はもう歩き出してしまった。
 彼が孕む闇へ、歩き出してしまった。
「あ、あぁっ……ナユタ、さん……!」
 その名を呼ぶ資格が無い事を、結依は知る。
 それでも、呼びたかった。
 届くはずのない願いを、弾ける心のままに泣き叫びながら。

「うわぁぁぁあああああああああああああああああああ――っ!!」

 お願いです。
 信じなかった私を、どうか許さないで下さい。
 考えなかった私を、どうか許さないで下さい。
 認めなかった私を、どうか許さないで下さい。
 そして、
 道標の下で望んだたった一つの我が儘だけは、許して下さい。
 それが、私の最後の願いです。





 予備の制服に着替えた結依は、ネクタイを結ぶ。
 新品特有の匂いを身に纏う。
 何故この服を選んだのかは分からない。
 ただ、かっちりとしたこの服装が、今の決意を後押しするような気がした。
 はっきりとした理屈は無くてもよかった。
 ベッドの上に転がるロケットペンダントを首に掛け、部屋を出る。
 階段を降り、洗面所へ向かった。
 電気を点け、眼帯を外して蛇口を捻る。流れる水を両手で掬い、顔を洗う。
 二度三度と繰り返した結依は蛇口を止めて顔を上げる。
 鏡に映る顔は最悪だ。泣き腫らした目元は赤く、何度も噛んだ唇は薄く傷が出来ている。しかし、青褪めた肌を珠のような水滴が流れてゆくその悲惨な顔色を、結依は見ていなかった。
 映る銀。
 この世界には在るべきではない力を宿し、視えないモノを見通す異質の瞳。
 じっと見つめる結依の表情は変わらない。
 悲哀も、後悔も、絶望も無い。
 臆さずに真っ直ぐと見つめた事のなかった左眼は、揺らぐことなく見つめ返してくる。
 答えを望むその眼は、間違いなく自分のモノであるのだと、結依は再確認した。
 水気を拭って眼帯を着けた結依はふと、半開きのドア越しに見えた割れたグラスが見えて足を止めた。
「あ……」
 呟いた結依は、何となくリビングへ入る。
 ゴミ箱と雑巾を手に取った結依は、割れたグラスと散乱する汚れを片付けてしまおうと思った。
 自分でも驚くほど、心は穏やかだ。
 どうして片付けておこうと思ったのかは分からないが、どうしてもやっておかなくてはならない衝動に駆られた。
 割れたグラスに手を伸ばす。
「――痛っ」
 遠近感が定かではない手元が狂い、指先を切ってしまう。
 人差し指を口に含み、じわりと広がる血の味がフラッシュバックを起こす。
 それでも、結依の表情に恐怖は無かった。
 指に宿る痛みは、結依が負うべきもの。
 あの優しい拒絶を背負うと誓った結依は、もう恐れない。
 結依は患部を診ながら絆創膏を探してキッチンへ入る。
 そこで、苦節三年の結晶となる成瀬家流キュウリの漬物も投身自殺している事に気付いた結依は衝撃に身を震わせた。


 一通りの掃除を終わらせた結依は玄関に座り込んで革靴を履く。
 さすがに革靴の予備は無く、所々赤黒い染みがこびり付いてしまったそれしかないと結依は靴べらのように指を突っ込んできちんと履きながら、まるで登校前の気分で一つ一つを口に出して確認してゆく。
「えっと……戸締りよし。ガス栓よし」
 そこで、本当に登校前の気分で口にした言葉に、
「宿題の用意も――」
 ピタリと静止した。
 静寂の中で、やがて稼動を再開する結依の額から脂汗が出始める。
 悪い顔色をさらに青褪めさせ、最早土色気となった顔で、結依はすっかり忘れていた事を思い出した。
「こ、古文のプリント……っ」
 提出期限は確か、一昨日。
 しかも今日はズル休み。明日明後日は休み。
 月曜日には古文担任のネチネチとした小言が待っている。何よりも宿題を忘れるような事態そのものが、結依にとっては最悪以外の何物でもなかった。成績はあまり良い方ではないが、宿題の提出を怠った事は一度もなかった。そんな結依は高等部入学早々から皆勤賞を棒に振るった事をやっぱり忘れている。一つずつしかショックを受けていられない妙な要領の悪さがいつもの結依らしかった。
 頭を抱えて、月曜日謝ろう、提出しながら謝れば小言も短縮されるかも知れないと淡い希望を抱く。
 これから大事な問題に首を突っ込みに行くというのにやるべき事も忘れていた自分が情けないと嘆くほろり涙の女事情モード成瀬結依は立ち上がって玄関のドアノブに手を伸ばした。

 ぞくり、と悪寒が奔った。

「――、」
 ドアノブに触れる寸前で手が止まる。
 結依はじっと自分の手元を見つめ、それからゆっくりと背筋に感じた寒気の意味を探した。
 ドアを開けるのを躊躇った。
 浮上した確証の無い可能性。
 もしかしたら、この家には帰れないかも知れない。
 そんな気がした。
 何故かは分からない。
 ドアを開けた先に待ち受けるものが何であるか。結末はどうなるのか。
 分からない。
 けれど、もう止められない。
 止まりたくなかった。
 彼は待ってなどいてくれてはいない。
 それでも、結依は行きたいと望んだ。
 唯一やり残した事をする為に。
 たとえその結果、自分がどうなるか分からなくても。
 結依は振り返る。
 自分の家。
 帰る場所。
 見慣れた光景を遠く遠く眺めて、
 結依は、
 生まれて初めて、その言葉を口にした。
「……行ってきます」
 ドアノブが落とされる。
 玄関が開き、ゆっくりと閉まる。
 そして鍵の回される音が静寂を叩き、家は無音に染まってゆく。
 置き去りにしてしまうかも知れない、箱庭。
 結依は掛けた鍵を引き抜き、重く閉じた瞼を開く。
 鍵をポストの足元に転がる植木鉢の裏側に嵌め込み、門を開ける。
 空は群青に染まっていた。強い輝きを持つ星がちらほらと見える。
 夜が降りてくる。
 見上げていた結依は踵を返し、歩き出す。
 一歩一歩を確かめるように踏みしめ、
「ナユタさん」
 口にしたその言葉に、迷いは無い。
 総ての罪を背負い、
 悪であっても選択をした結依の隻眼は、
 ただひたすらに、真っ直ぐと『世界』を見据える。
「どうしても分からない最後の疑問を、答えてもらいに行きます」

 結依の進む先。
 決戦の始まりを告げる、強い風が吹いた。










 第六幕     決戦





 夜が始まる頃合い。
 ここ連日の事件のせいで夜間外出が殆どなくなった居住区は、宵に染み渡るように街灯の明かりが等間隔に並ぶ。
 居住区でも有数の広さを持つ姫路中央森林公園も、同じように人気は無い。
 唯一、小高い丘の上に悠然と立つ紅蓮の魔術師だけを除いては。
 ミルネスカ=ランフォードは一人、吹き抜ける風を一身に受けている。瞼を閉じ、揺蕩うように全身の力を抜いている。
 そうして、どれだけの時間が経っただろうか。
 やがて彼女の耳にイヤリングのように着けられていた術符を介して、男の声がノイズ混じりに聴こえてくる。
『……ル、……カさん……ミルネスカさん、聴こえますか?』
 ミルネスカは一呼吸置いて、目を閉じたまま緩やかな口調で答えた。
「……雑音が混じるわね」
『術式が大規模ですからね。居住区のほぼ全体を巻き込んでますから、陣形同調の余波で魔力の流れは大分乱れてます』
 魔力にも流れは存在する。というより、魔力の流れというのは大切なファクターでもある。特に土地が内包する魔力は絶えず循環する事で介入してくる不純物の混じった魔力をゆっくりと消してゆく造りになっており、人体と血液の関係に近い。
 結界の術式はそういった自然な流れの中に異物を混ぜるようなものだ。術式を構築する魔力は、その術式の為だけの新しい流れを創る事になる。大きな渦の中にいくつもの小さな渦が出来れば、全体の魔力は当然狂う。といっても、神凪町は広大な土地でありながら非常に純度の高い膨大な魔力を血としている場所だ。人為的な術式如きで土地全体の魔力が流れを見失うほど乱れる事はない。
 ただ、今回は術式に組み込んでいる内容が内容だ。
『「支柱」の形成区域周辺の魔力は殆ど死ぬ≠ニ考えて下さい。起動したら区域から離れないと通信も途絶えます』
「……そうね」
 呟くように顔を上げて深呼吸したミルネスカ。
 そしてゆっくりと飽和するような感覚の果てで、瞼を上げた。
「始めるわよ」
『了解です』
 短い応酬。
 途絶える通信。
 大気の渦が唸りを上げて乱れてゆく。
 掻き集められた魔力が一気に集約し、

 ミルネスカが背負うその先に、巨大な光の柱が噴き出した。


 ◆


「――!」
 ざわりと肌を撫でた不穏な風に、ナユタは振り返った。
 遥か彼方で闇を切り裂いて天へと昇る、煌々と輝く光の柱。
 細い一条の光は空を突き破るように伸び、やがて収束していった。
 途端、大気が一気に崩れ、静寂の中に視えない感触を纏わせる。
(魔力の奔流……遅延起動式の結界か)
 ナユタは首筋から感じるざわつきを押し殺し、その場へと疾駆した。
 幸い、距離は遠くない。自分も居住区に居たのは運が良かった。
 南下して大通りから外れ、光の柱が出現していた場所を予測しながら進む。細い路地に入り、徐々に人気は無くなってゆく。この先は古くなって人の住まなくなった建造物が多く、廃屋もちらほらと目立つ寂れた区画となっていた。
 誰も居ないのをいい事に塀の上に飛び乗りショートカットしながら、昼はまだ人が多いはずの通りに出る。
 まるでゴーストタウンのような静けさを醸し出す通りに至り、ナユタは足を止めた。
 気付く。前方に霧のようなものが広がっていた。
 白い霞は萎む事も広がる事もなくその場に留まるように漂っている。
(聖域化だと? あの女、なんつぅ結界を展開してやがる……)
 通常、結界は大きくて三種に分類出来る。
 反転結界のように、あらかじめ創った別の空間に対象を引きずり込むタイプ。
 人払いや情報の伝達阻害などの元在る空間の一部を変質的に操作するタイプ。
 そして現在ナユタの眼前に広がっている、先の二つのタイプを合わせた混合結界の計三種類。
 この混合結界は第一次空間――つまり今居るこの空間――にそのまま敷居を設け、内側をその状況ごとに適した様々な効果で満たす手法だ。膨らませた風船を想像すれば分かりやすいだろう。外側と内側を薄いゴムの壁で遮り、中身をヘリウムガスで充満させているイメージだ。完全に切り離した空間ではないため侵入や脱出は容易なものも少なくなく、また人払いのように指定した対象以外の者を除外出来るものは少ない。
 しかし、ナユタに限らず大半の魔術師はこの混合結界に警戒する。
 答えは簡単。結界に使用される魔力の供給源が、魔術師ではなく土地だからだ=B
 混合結界の正体は地脈を媒介とした空間創造――それが『聖域化』と呼ばれる。
 ある意味ではナユタの魔力構築術『テュールの右腕』と原理が似ている。ナユタは経絡から発散された魔力を体外に流れる魔力と結合、凝縮して『物理的干渉を可能とする魔力』に創り変えて操る。地脈から吸い上げた魔力を大気へ放出し、飽和した魔力に満たされた空間内に効果を与える。結界というより領域と呼称する方が適切かも知れない。
 聖域化された空間内に満ちる魔力の濃度は絶大だ。何せ供給した魔力を運用せずに大気へ放つこの手法は、事実上半永久的に地脈と大気とを循環し続ける事になる。術式を組み込まずそのまま放置すれば、それだけでも魔術師の能力は跳ね上がる。『構築』が魔術戦闘の要となっているナユタなら尚更だ。
 ただし、それはあくまで聖域化した空間にそれ以上の手を加えない場合に限る。わざわざ聖域化までさせたのなら、運用を行い自分にだけ有利に働く効果を付与するのは至極当然だ。
(よりによって神佑地を媒介にしやがって……何考えてんだ、あの女)
 十中八九、罠だろう。
 それでもナユタは臆する事なく歩を進めた。
 聖域化は隔離した空間を支配下に置く通常結界等とは違い、主導権の取り合いも発生し得る中立的な魔術だ。
 それ以上に、行かなくてはならないだろう。
 聖域化した空間の発生をナユタに見せるという事は、明確な宣戦布告を意味する。
 『逃げれすればどうなるか分からないぞ』、と。そう言っているようなものだ。
 突き進むナユタの身体を霧が包み込む。構わず歩くナユタは五感が異常に研ぎ澄まされてゆくのを肌に感じ、目的地を目指す。
 通りを抜けると霧が晴れた。内側はさほど変わっていないが、満ちた魔力の濃度は相変わらずだ。
 ふと、通り沿いの広い公園の中から、白い光が淡く輝いている。
 見つけた。
 ナユタは散歩でもしているかのような緩やかな足取りで公園に入り、柔らかな芝生を踏みしめてゆく。
 そして、立ち止まった。
 顔を上げる。小高い丘の上で、紅蓮の魔術師が見下ろしていた。
「……来たわね」
 短く言ったミルネスカ=ランフォード。ゴーグル越しの視線は逆光もあって窺い知れない。
 ナユタは不機嫌な顔でミルネスカをねめつけた。
「どういうつもりだ、結界の隔離じゃなくて聖域化なんざしやがって。此処が神佑地だと分かってやってんのか?」
「よく言うわ……先手を打ったまでよ」
 吐き捨てるような返答をしながら、ミルネスカはゆっくりと丘を降り始める。
 目を細め、ナユタはさらに顔をしかめた。
「正気か? こんな真似して、他世界の連中が黙ってる訳がねぇ」
「構いやしないわ。どの道、アタシに残された選択肢は栄誉在る死か犬死によ」
 丘を下り、ミルネスカはナユタを少し見上げるようにして立ち止まる。
「それでも、アンタを野放しにするのだけは許されない」
 ナユタはしばし黙り込んだ。言葉が出ないのではなく、どこか探るような表情で見つめた後、ぽつりと呟いた。
「……邪魔すんじゃねぇ」
「何を? 何故この町に来たのか。アンタは一体何者なのか。それを教えもしないで『邪魔するな』? 虫が良すぎる」
「テメェには関係無ぇ事だ。失せろ」
 途端、ざわりと首筋に殺意を感じるナユタ。
 語気を強めたミルネスカの視線が、それだけで射抜くようにナユタを捉える。
「弁解の余地を自分から捨てたわね、犬っころ……!」
 ミルネスカの手が伸びた。赤いキャップをくるりと回し、つばを後頭部に向け、ゴーグルを直した手をだらりと下げた。即ち、腰のホルスターに提げられた二挺拳銃へと伸び、薬指が銃把に触れる。それに呼応するように微動だにしないナユタの右手がビキビキと音を立てて脈動し、爪が尖り手首から先が硬化しだす。
 互いに殺気を放ち、沈黙する。
 心地よい風が吹く中、不穏な静寂が続いてゆく。
 沈黙が二人の気持ちを前へ前へと押し上げる。
 ジリジリと迫る殺意が膨れ、

 ゴゥン……!
 重々しい音と共に神凪町居住区全体に巨大な結界が展開される。

 そこに在った世界に果てしなく類似した擬似空間に引きずり込まれた。
 春風が死に、
 気配は消え、
 正常は失せ、
 ――そして火蓋は切って落とされる!

 ホルスターから拳銃が抜き放たれた。
 銃口が奔り、眼前に向く。
 獲物を探し求める対銀色の二挺拳銃が水平に構えられた時には、凄まじい勢いで飛び出したナユタを捉え損ねた。両腕の真ん中に体を滑り込ませナユタは一気に距離を殺した。ズドン! という踏み込む音が遅れて耳に入る。
 銃使いにとっての死角内で静止したナユタの右腕が振り上げられる。血管が浮き彫りになった獣の如く鋭い爪から黒い軌跡を描き、正確にミルネスカの眉間を貫かんと飛ぶ。
 ミルネスカは冷静に首を横に振って避ける。すかさず二撃目の左手が槍のように襲い掛かるが、その頃にはもう両腕が折り畳まれて引き戻されている。胸元で交差した拳銃の砲身に防がれ、火花が散る。
「うっ、らぁああっ!!」
 両腕を一気に広げるミルネスカ。弾かれて一歩後ろによろけたナユタの眉間を、今度はミルネスカの銃が狙う。
 引き金を絞る。ナユタは舌打ち混じりに右手を開いて上へ振るった。腕から噴出した黒い霧状が五本の爪痕を闇に穿ち、奔流となって連射される銃弾を削り落とした。
 黒い霧の中を突っ込んで再度距離を殺そうとするナユタ。
 霧の晴れた先に見えたのは、紐で肩に提げて撃つには大きなライフルの銃口だった。
 だが予測済みだったナユタは頭を下げるようにさらに一歩踏み込み、砲身の脇に身体を寄せた。一足遅く弾丸が発射され遥か彼方の街路樹の幹に直撃し、腕ほどの細さしかない街路樹が中腹から崩れる。
 ミルネスカの動きが硬直する一瞬を見逃さず、傍らのライフルを右手の五指で撫ぜた。爪から流れる黒い軌跡が鉄を切り裂き、ライフルをバラバラに分断する。
 そこでナユタは、はっとした。
 バラバラになったライフルの中から、護身用程度の小さな拳銃が出てきたからだ。
(ライフルはただのブラフ――!)
 鉄屑の中から現れた拳銃をキャッチする手。腕ごと捻り、回避出来なかったナユタの太股に銃弾が放たれた。パンッ! という軽い銃声。しかし至近距離で喰らったナユタの右太股に赤黒い孔が刻まれた。
 ナユタは二発目を撃とうと体を向けてくるミルネスカの脇で全身を捻転させ、全身に黒い霧を纏わせる。
 まずい、と感じたミルネスカは咄嗟にナユタから遠ざかった。途端に黒い霧が竜巻のように捻れ、大気を殴るように膨張した。寸でのところで逃げ切ったミルネスカが握っている拳銃の弾を総て撃ち尽くして迎撃するが、黒い霧の余波が弾いた。
 左手で黒い霧を払い、ナユタが振り向く。その顔はいかにも涼しげで、とても脚を撃たれたようには見えない。
 ミルネスカの手から拳銃が零れる。地面に落ちず、落下しながら光の残滓となって虚空に消えた。
(……近接距離でも平気で相手しやがった。『テュールの右腕』にビビってねぇ。成程、ちゃんと復習済みかよ)
 ライフルの砲身内に拳銃を仕込むなど、即席のようだが二手三手先で活きる大胆な戦略考察(ファイトプラン)を迷わず実行する勇気は賞賛に値する。彼としては見切りを付けていると言うべきなのだろうが、驚くほど冷静だ。
 ただ、ミルネスカもポーカーフェイスの裏では苦虫を噛む思いをしている。
(ちっ、大した事ないって顔しちゃってまぁ……破壊力がないと駄目ってワケね。あるいは脳か心臓に風穴空ければさすがに再生が利かないかも知れない。結構がむしゃらだったから脚撃っちゃったけど、避けられるの覚悟で眉間を撃ち抜いとくべきだったわ)
 ミルネスカは逡巡した。兵装召還師(アームズストレージ)が一度にストック出来る兵装の数は有限だ。言わば魔力の絶対量と保有量の関係と同じであることから従来の魔術師と殆どその辺の仕組みは大差無い。魔力のみで構成された物質錬成は特殊な経絡を持つミルネスカには出来ず、アルフレッドのような補佐役が行うには時間があまりなかった。
 ここ連日続く戦闘で、残り弾数も底を突き始めている。
(ここいらが使い時かしらね……)
 ナユタに悟られぬよう、腰に提げている赤い強化プラスチックの箱の存在を確かめるミルネスカ。むしろこれは切り札というより秘密兵器と言える代物だ。限界の状況下で使うのではなく、出来れば使わずに終わらせたい=B
 そうこうしている内にナユタの太股に黒い霧が纏わりつき、傷口を埋めるように集約される。
「構築再生(リジェネイト)……厄介な魔術師も居たもんね」
 プッ、と唾を吐いて心底嫌そうに顔をしかめるミルネスカ。
 ナユタは傷を治しながらふと口を開こうとした。軽口に、軽口を返すつもりだった。
 その時、
 ぐじゅり、と。
 腐った果実の潰れるような感触で脳が埋め尽くされた。
「がっ……!」
「――!?」
 不意に周囲を規則的に流れていた黒い霧が、ぐにゃりと崩れた。それと同時にナユタの表情が色濃い苦痛に染まり、左手で顔を抑えて身体をくの字に折る。右手はさらに血管を浮かび上がらせ、所々から血が噴き出した。
 ビグン! と身体を不自然に震わせて、ナユタは呻き声を上げる。
(ちく、しょう……っ! これ以上の『構築』は、肉体も……精神がっ、が、ぁああ!)
 首筋へと競り上がるぞわぞわとした感触に、ナユタは左手で自分の首を絞める。
 爪を立て、血が滴ろうとも握力を込め、歯を食いしばって耐え続ける。
(駄目だ! 駄目だ、駄目だ駄目だ駄目だ……! 『グレイプニル』が、壊れる! 保て、なくな、る……っ!!)
 獣のような声を上げて苦しむ姿に、ミルネスカは一歩後退した。
(まずい、フェンリルの血が暴走する!)
 銃口を向けず、咄嗟に腰の赤いプラスチック箱に手を掛ける。
(これ以上は出し惜しみしてらんない! 動きを封じて、確実に息の根を止めてやる!!)
 意を決したミルネスカが双拳銃『ティンカーベル』を引き抜こうとした。

 その時だった。

 その存在が視界に入った時、二人の時間は停滞した。
 優雅に、
 自然に、
 まるで散歩の最中かのように、二人の間に割って入った一人の少女。
 信じられなかった。外から此処へ来ることは、聖域化と反転結界の二重の包囲を突き破るということだ。
 だが、在り得ない話ではなかった。ナユタは思い出し、そう確信した。
 聖域化とは、土地が保有する魔力を吸い上げる。
 では、その土地の魔力は一体何処からやってきたものなのか=B
 たった一人の少女の魔力による恩恵。
 この土地の魔力は彼女の物なのだから、そもそも聖域化された空間との適合率は誰よりも合致する。
 その聖域化した空間に満ちた魔力を用いて結界を創ったのなら、創造主たる彼女の侵入は拒めない=B
 恐らく、本人はそれを知らないだろう。聖域化も、結界によって隔離された空間だという事も。
 だからこそナユタもミルネスカも、予想外だった。
 彼女が此処に来れた事が、ではない。
 彼女は、此処に来る理由を奪われたはずの人間だったのだから。

 少女は二人を遮るように合間に立ち、足を止める。
 彼女は振り向く。
 ナユタへ。
 その隻眼には恐怖が無く、迷いが無く、後悔が無い。
 表情に色は無く、しかし確かな意志を持って。
「――ナユタさん」
 成瀬結依。
 ただの人にはなれず、ただの人に貶められた、憐れな罪人は黒き獣を見つめる。
 そこに、救済を求める姿は見当たらない。


 ◆


 風が死んだ場所に、結依は立っていた。
 激しい銃声。虚空を薙ぐ猛威。巻き込まれれば、何の力も持たない彼女など簡単に命を落とせる、凄絶なる世界。
 そこに、結依は立っていた。
 戦慄を纏う二人の魔術師を遮るように。
 だが、心にざわつく気配は欠片も無い。
 波紋一つない水面のような澄んだ気持ちで、結依は振り返った。
 思えば、此処に来れた事は結依にとって幸運だったと言わざるを得ない。
 確証が有って探していた訳ではない。たまたま闇に立つ光の柱を発見し、白い霧の中を突き進んだ。途中、ふわりと何かが全身を包む感触がしたが、確かめる為に足を止めることはなかった。
 幸運に次ぐ幸運に自覚もなく、結依は確証を持たないまま辿り着いた。
 それでも、迷いはしなかった。
 辿り着けると自信が有ったわけではない。
 ただ、目の前で視える総てを信じなければ、答えは出ないと思っていた。
 振り返った先に、彼は居た。
 確証は要らない。
 自信も要らない。
 彼女は魔術師ではないのだから。
 無力な人間だからこそ、願うのは一つ。求めるのは一つ。
「――ナユタさん」
 自分でも驚く程、自然とその名を口にする事に何の恐怖も感じなかった。
 暗闇は果てしなく。
 狂気は淀んでいる。
 今、結依に確証も自信も在る唯一の事実と言えば、
 きっと自分は、許されない事をすること。
 そしてそれを彼は、許してくれないこと。
 それでも、良い。
 ただ、伝えれば良いのだ。
 後悔だけはしないように。
 救われなくても良いから。
 せめて、信じられるのなら。それで良いと、彼女は本当にそれだけを望んだ。


 ◆


 目の前に佇む少女を、ナユタもミルネスカも沈黙したまま見つめること数秒。
 名を呼ばれたナユタが先に我に返り、嫌悪に満ちた表情で結依を睨んだ。
「テメェ……どうして此処に来たっ……!?」
 首筋に爪を立てたまま、ナユタが怒鳴る。
 鋭い眼光に射抜かれても尚、結依は動じない。いつもの不機嫌そうな顔を向けただけでびくびくとしていた彼女は、感情の読み取れない顔付きで、黙ったままナユタを見据えている。
 結依の背後。彼女を死角にしたミルネスカは音を立てないように銃把に手を伸ばす。
「――待って下さい!!」
 突然、背を向けていたはずの結依が大きな声を出した。
 か弱いイメージしか持っていなかったミルネスカは不意を衝かれて手が少し離れた。
 結依は半身振り向き、隻眼をミルネスカに向ける。
「少しだけ、時間をくれませんか?」
「……、」
 ミルネスカは否と答えようとして、口を噤んだ。
 見つめてくる結依の眼に、あの日に見た闇が無かったからだ。
 戸惑いに行く先を選べない視線。
 絶望に光を失って濁りきった瞳。
 結依の眼をミルネスカが間近に見たのは二度。だが、今の結依の眼はそのどちらにも属していない。
 恐ろしいまでに澄み切っていて、恐ろしいまでに底が見えない。
 これ程の決意を宿した眼に、果たして常人が成れるものなのだろうか。
 纏う気配があまりに激変した少女に躊躇するミルネスカを見ていた結依は、ゆっくりと視線を戻した。
「ナユタさん……」
 結依はどこか哀しげな表情でナユタを眺めるように見る。
 その顔に苛立ちを覚えたナユタが口を開こうとするが、首筋に伝う感触が膨れ上がって息も出来なくなった。黒い霧は最早彼の意思とは別に跳ね回り、少しでも意識を失えば暴発するのが見て取れた。
 呻きながら顔に手を当て、指の隙間から結依を睨むナユタは振り絞るように叫んだ。
「気安く俺を呼ぶんじゃねぇ!!」
 殺気すら内包する声に、さすがに怖くなった結依はびくりと肩を竦める。
 内側から食い破るような悪意を必死に押し殺し、ナユタは理解出来ないと言いたげに彼女を罵る。
「何なんだよ!? 何なんだテメェは!! 何のこのこと首を突っ込んでんだよ!! 馬鹿じゃねぇのか!?」
 叫ぶ度、発露する怒気に呼応するように黒い霧は膨れたり萎んだりを繰り返す。
 己の精神を抑え込むだけで精一杯のナユタに、結依の知る余裕と自信に満ち溢れていた姿は無い。
 まるで追い込まれた獣のよう。本能が発する感覚に忠実に、暴力的に言葉を吐き続ける。
「今すぐ消えろ!! 目障りなんだよテメェはっ!! テメェを見てると、俺が俺じゃなくなってゆくんだ……っ!! テメェの弱さが! テメェの脆さが! テメェの居るその世界が俺を狂わせる……!! それ以上俺に見せるなぁ……!!」
 ビリビリと大気が戦慄く。
 呑まれそうになった結依はペンダントを握り、眼を閉じる。
 すぅ、と息を吸い、臆する事なく顔を上げた。
「ナユタさん」
「呼ぶなっつってんだろ!!」
 突き放される結依。だが、ぐっと堪えて叫び返す。
「私の話を聞いて下さい……!」
 すると、蠢いていた黒い霧がピタリと止まり、ナユタの動きも同じように止まる。
 指の隙間から覗く殺意に塗り潰された視線を受け、結依は言う。
「私は……確かに無力だと思います。皆さんの戦いに関わる事は、皆さんを傷付ける事だと、思い知りました」
 語りだす結依を、ナユタは黙り込んでじっと見つめる。
 ミルネスカも同じ。いつでも拳銃を抜ける体勢でありながら、動く機会を完全に見失っていた。
「どうあっても皆さんの……ナユタさんの邪魔になってしまうのなら、元の世界に戻るのが正しいのかも知れません」
 でも、と結依は俯けていた顔を力強く上げた。
 俯いてしまっては、言葉は届かない。
 怖くても目を合わせて、言わなくてはならない。
 信じなければ、結依は一生、総てを信じられなくなってゆくから。
「一つだけ……! どうしても知りたいたった一つの事を教えて欲しいんですっ!」
 ナユタは返事をしない。黙って、その質問が何であるのかを待っている。
 結依は覚悟を決めた。
 傷付けるのは、これで最後。
 せめて、真実を知るまでは、終われない。
「ナユタさん。貴方が此処へ……【ハイエンド】で来た本当の理由を教えて下さい」
 その答えが、総てを物語る。そう結依は、確信していたから。
 瞠目したのはミルネスカだった。見落としたと言えば否定は出来ない。ミルネスカにとってはナユタの凶行に対し、対処のみを考えてきた。その凶行が何をもたらすのかを、ミルネスカは考えようとはしなかった。所詮、凶行は凶行。止めるのは至極当然のこと。事実ナユタは【ハイエンド】の人間を殺している。どんな理由が在ろうと許されない。
 だが、結依は違った。
 ナユタが何を思って手を掛けたのか。この期に及んで、その真実を知りたいなどと言い出した。
 拳銃を抜いて結依の背中にぶっ放したい衝動をミルネスカは抑えた。結依はそれだけの悪意を口にしたのだ。
 無残にも殺された人間達の存在も、
 世界の均衡を保つ魔術師の存在も、
 それら捨て去るべきではない存在を放棄し、結依はナユタの凶行の『先』に何が在るのかを訊ねた。
 成瀬結依は、あんなにも死と血を撒き散らして嘲笑った男の凶行を許した事になる。
 なんという冒涜だろう。これを劣悪と呼ばずに居られるのか。
「アンタ……! 自分が何言ってんのか分かってんの!?」
「……はい」
 少しだけ考える素振りを見せたが、その間とは裏腹に声に迷いはなかった。
 凛とした表情をミルネスカに向ける結依。
「お願いします。もう少しだけ、私の我が儘に付き合って下さい」
「駄目よっ!! アンタが知る必要なんて……!」
「いいえ。これは、きっと……はっきりさせておかなくては、いけないことだと思うんです」
 ミルネスカは押し黙った。
 頭ごなしに否定し、戦闘に持ち込もうと躍起になる事が正解ではないと、暗に告げていた。
 確かに、結依の言い分は理に適っている。冷静に考えれば、これは結依個人に留まる事ではない。
 ナユタの行動の真相を知るという事は、現時点でのミルネスカを代表とする真実を知る世界にとってその後の行動を明確なものに出来るチャンスでもあるからだ。ある意味、結依はミルネスカの手助けをしているとも言える。
 ただし、同時にそれは危険でもある。ミルネスカが止めようとしたのはそこだ。
 成瀬結依が【ハイエンド】の人間である以上、彼女の行動は暗黙の不可侵を破っている事に他ならない。結依が干渉してしまうだけでも、非常に不安定な状況下に陥ってしまう。結依が少しでも関与していた時点で既に危険極まりなかったのだ=B
 最早それは、ナユタの返答次第でどうこうなる問題をとうに過ぎてしまっている。
 どう転んでも結依本人に害が及び、どう転んでも魔術師側は立場が危ぶまれる。
 ミルネスカは戦慄せざるを得なかった。
 彼女がその事実を知っていて行動に移したとは思えない。もしも知った上であえてやっているのだとしたら、並大抵の決断力ではない。正に今、結依は綱渡りをしている最中ということだ。一歩間違えれば破綻に繋がる、魔術師ですら恐れる事態を。
 高過ぎるリターンに、高過ぎるリスク。そしてそれを是とする常軌を逸した決断。
 結依は振り向く。
 ナユタをじっと見つめ、希うようにもう一度言及する。
「教えて下さい。貴方は何の為にこの町へ来たのかを。そしてあの夜の出来事は、何だったのかを」
 何が本当なのかは、やはり本人から知らされなければならない。
 虚実の視えない嘘。それを結依は違和感として感じ取る術を持つ。彼女に誤魔化しは通用しない。世界の均衡をすら破りかねないこの危険な賭けを相手に、ナユタも易々と嘘を吐ける状況ではないと思い知らされていた。
「……」
 ナユタは未だに手で顔を覆い隠している。時折脈動する黒い霧を纏わせたまま、鋭い眼光でずっと結依を睨み続けていた彼は、長い沈黙を破った。押し殺していた敵意を、隠そうともせずに口にした。
「教えると思ってんのか?」
 世界の均衡も、
 結依の想いも、
 非情なまでに薙ぎ払うような一言だった。
 結依の表情は変わらない。だが、ナユタは続けて答えた。
「馬鹿じゃねぇのか、テメェ……陽だまりみてぇなあの世界を放って、知りたい事ってのはそれか。そんな事の為にこんな所まで首を突っ込むテメェが理解出来ねぇよ。何が我が儘だ。抜け抜けと関係ありますみてぇな顔して、此処に立ってる事がそもそもの間違いなんだよ。テメェが此処に居るだけで魔術師も、【ハイエンド】も、何もかもが迷惑なんだよ。何もせず、何も生まない。そうしなきゃテメェは何にも護れない世界に生きてる≠だよ。それがどうだ? 俺はあれだけ突き放したんだぜ。その女にも釘刺されたんじゃねぇのか? 見ろよ。テメェが理解しようったってな、この世界はテメェに優しく廻ってはくれないのさ。運の無い奴の首に輪を掛けて、引き摺り回すしか能の無ぇ世界なんだよ。けど、そんな微温湯で誤魔化してるクソみてぇなこの世界でも、誰かが居なきゃ成り立たない=B選ばれたのさ……お前は。お前はただ運悪く、外れクジを引かされたんだ。その眼が、その魔力が、その異端さこそがお前に与えられた首輪だ! お前はその首輪を着けられたまま、一生生きるしかないんだよ!! 壊しちまったら、誰かがお前の代わりをしなきゃならねぇ!! お前に救いなんてないんだよ!! 救ってくれないこの世界に愛されて、本当の終わりが来るまで潰され続けるしかないんだよ!! 魔術師の世界にお前は要らない! 在ってはいけない!! 世界の為に死に続けるしかないんだよ……! それがお前のやるべき事だ!! それが、お前の生き方でしかないんだよっ!!」
 滔々とした呟きは最早、捲くし立てるような悲痛な怒号に変わってゆく。
 この世界は優しくない。
 この世界は救われない。
 でも、結依は生きなくてはならない。
 今日の為に明日に死ねる生き方をしなくてはならない。
 干渉が許されない。人間として、魔術師は叫ぶ。
「消えろ!! 魔術師の世界にお前は必要無い!! 優しく壊される世界を愛して――」
 そして最後には、萎むように、押し殺すように、哀しげに言った。
「――お前はお前の世界を、生きろ」
「……ナユタ、さん」
 結依の顔もまた、悲壮に染まった。
 痛みも、苦しみも、結依の得たものは計り知れない。
 目の前の男は総てを闇の中へひた隠す為に、結依が求めてはいけない希望を砕いたのだ。
 痛いだろうに、
 苦しいだろうに、
 背負おうとしている。
 冷たく、
 そして、
 なんて……優しい傷なんだろう。
 音の無い世界に、沈黙が下りる。
 何もかも吐露したナユタ。俯いて何も言わない結依。行く末を見届けようとするミルネスカ。
 三者三様の想いは、永遠に交わることのないものでしかない。
 沈黙は、それを克明に表していた。
「……ナユタさんの仰りたいこと……よく、分かりました」
 静寂を破った結依の呟きで、二人の視線が彼女に重なる。
 俯いたままの結依は肩を震わせ、搾り出すように言った。

「くだらない話ですね、さっきから」

 結依が、
 本当に彼女が言ったのか、二人は一瞬、疑ってしまった。
 ミルネスカはぽかんと口を開いたまま硬直している。
 ナユタも、言葉を失った。
 俯いていた結依が、上目遣いにナユタを――睨みつけた=B
 あの、結依がだ。
「くだらないんですよ、ナユタさんの言ってることは」
 目に涙を溜めて、赤く染めた頬を濡らし、結依は言う。
「何にもないって、分かってましたよ……私には何もないって、ずっとずっと分かっていました……!」
 震えた声で、
 怖いと言わんばかりの表情で、
 それでも言葉は、ナユタの心を突き刺す。
「でも、それがなんだって言うんですか……? 私に何をしろと? ……私に、何をさせせたいんですか!?」
「何、を……?」
 呆然とするナユタの呟きに、結依は息を吸い込んで、目一杯に叫んだ。
「それは分からなければ伝わらないと怒ってくれたのは、ナユタさんじゃないですか……!!」
「――!」
 結依は忘れない。
 あの日、屋根の上で交わした言葉。
 冷たくて、優しくて、大切にしたいと思った、あの言葉を。
 世界の為に死なせるなんて、絶対に、出来ない。
「すり替えてるだけじゃないですかっ! 言わなくてはいけない事は隠して話題を逸らして、自分のことはちっとも話してくれないじゃないですか!! 『言ったらどういう顔するだろう』。『言わなければ不快な思いさせないだろう』。『だから黙っていよう』。……相手の事考えてるようで、結局は自分が傷つかないで済むようにしているだけじゃないですか!!」
 指の隙間から見える結依の姿が網膜に焼き付く。
 喉が干上がる感覚に襲われたナユタの声が、掠れる。
「うる、せぇ……」
「言ったら自分も許せないって、断定した訳でもない可能性が怖くなって逃げて、どうして本当のことを言ってくれないんですか!? 何ですか? 見限って欲しかったんですか? 『もう信じられません』って、私も突き放したらそれで良かったんですか……!? ……見損なわないで下さい!!」
「うるせぇ、うるせぇよ……っ!」
「言ってくれたじゃないですか! 『しゃきっとしろ』って。『言いたい奴には好きなだけ言わせときゃ良いんだ』って。『どうしてもムカつくことを言われたら、言い返してやれ』って。言いたい人が勝手に逃げたら、何も伝えられないじゃないですか!」
「やめろぉ!!」
 一際大きな声でナユタが黙らせる。
 ぐっと言葉を呑みかけた結依は、それでも引き下がらなかった。
 この胸に巣食う熱は、もう、燻ったままではいられなかった。
 涙を流しながら、肩で息をして尚も言う。
「言わせてくれないんですか……?」
「……?」
「溜め込んでるものを全部ぶちまけさせてはくれないんですか? 九十九人がドン引きしたって、一人でも何くそって食い付いてくれば良いんだって教えてくれたのは、ナユタさんです……ナユタさんがっ、その『一人』にはなってくれないんですか!?」
「やめろ! もうそれ以上喋んじゃねぇ!!」
「来るのを待ってるだけは、もう嫌なんです!!」
「っ……!」
 ナユタが言葉に詰まる。
 結依は叫んだ。
 もういい。
 許してくれなくても、いい。
 失うぐらいなら、いっそ嫌われてしまえ。
 後悔だけはしたくないから。
「忘れたくありません!! ナユタさんと一緒に過ごしたあの日々を、忘れたくありません!!」
 結依は、選んだ。
 己の進むべき道を。
 一緒に居られないのは、終わりを意味する。
 孤独に慣れた結依が何よりも怖かったもの。
 それは、ナユタを失いたくないという想い。
 孤独の苦しみを知る彼を、失いたくない。
 だから、
 伸ばした手を掴んでくれたなら、それが、結依の望んだ道。
 ナユタは顔を手の平で覆い尽くして、視線を逸らす。
「やめろ……もう、救いは要らねぇ」
「ナユタさん……」
「もう沢山だ! どうせ本当の俺を知れば誰だって怖くなるのさ!! 生きたいと請う奴等を、俺は傷付けてきたんだ!!」
 フェンリルの血が在る限り、ナユタに安らぎは許されない。
 寄る辺も、
 温もりも、
 人の心も、
 フェンリルの血は総てを喰らい、壊してゆく。
「もう……救われたくなんて、ない……!」
 罪過に押し潰されそうになりながら、必死に悪意を受け入れて罪を背負い、大罪の原形と呼ばれ続けてきた。
 救えないなら、
 護れないなら、
 要らない。
 許されたいと願う心など、
「もう、要らない……」
 蚊の鳴くような声を洩らすナユタ。
 結依はじっとその姿を見て、一度だけ深呼吸をし、左手を顔に持っていった。
「……本当に、それで良いんですか?」
「うるせぇ……それしか、俺は生き方を知らねぇんだよ」
「……、ナユタさん」
 そして、結依は罪を背負おうと誓った。
 たとえその先に何が起ころうと、
 ナユタよりも悪になってしまえば、良いと。
 ただ、それだけが思いついたから。
「ナユタさん。本当にそう思っているのでしたら……ちゃんと私を見て言って下さい」
「……」
 ナユタはついと顔を上げた。
 何度でも言ってやろうと思った。
 こんな生き方しかないのなら、誰かに否定なんてさせはしない。
 拒絶しかないことを伝えようと、ナユタは結依の顔を見た。

 眼帯を外し、瞼を上げようとしている結依の顔を。

「――、っ!!」
 すっと開かれようとしている瞼の裏から覗く銀の瞳。
 瞬間、全身からマグマのように湧き上がる猛烈な殺意の塊。
 制御する事など絶対に出来ないその感覚を抑え込むため、ナユタは全霊を掛けて剥がすように視界を逸らした。
 ミルネスカが咄嗟に動こうとするが、結依が手を挙げて制止を促す。
 刹那にも等しい時間。しかし魔力干渉の源から叩き込まれた膨大な魔力が、ナユタの眼を介して全身に巡る。身に纏わせていた黒い霧が、凄まじい勢いで噴き出し、不規則な流れを作ってのたうち回る。
「が、ぁ……!」
 激痛とは違う、腹の奥底から這い上がる気味の悪い感覚。反吐が出そうな感触。
 それらを抑え込みながら、ナユタは眼を逸らしたまま結依を怒鳴る。
「やめ、ろ……! その眼を見せるんじゃねぇ!!」
「嫌です」結依は切って捨てるように即答した。「貴方が私を見て、もう一度仰って下されば諦めます」
 銀の瞳を片時も離さずナユタに向け、結依は一歩前に出た。ナユタはびくりと身を硬直させ、一歩後ずさる。
「卑怯ですか? 貴方を追い詰めようとしている私を、許せませんか?」
 右眼から涙を流しながら、結依はナユタを見つめ続ける。
「こんなことをする私が、憎いですか?」
「うるせぇ……! うるせぇ、うるせぇ……うるせぇんだよ!!」
「それでも私は、貴方の傍に居たい!!」
 暴れる黒い霧に抱かれて苦しむナユタに、叫ぶ。
 たった一つの我が儘。
 一緒に居たい。
 ただそれだけが叶うのなら、どうなってもいい。
「私は貴方を信じたい……私の見ているナユタさんがどんな姿だったとしても、私は……貴方を信じたいんです!!」
 たとえ自分を犠牲にしてもいい。
 今ならきっとそう、言えるから。
 何もかもを吐露し尽くした結依を、ナユタは俯いたまま喋らない。
 やがて、ナユタの肩が小刻みに揺れだした。
「……く、くっははは、ははは……!」
 込み上げる笑いは一気に膨れ上がり、天を仰いで叫び返す。
「もう、いい。もうどうでも良くなっちまった……テメェのせいで全部壊れちまった!! もう要らねぇ。何も要らない! 全部をだ!! 目に映るモノ、耳に入るモノ、指に触れるモノ、肌で感じるモノ……何もかも壊れてしまえ!! 全部壊れちまえば良いんだっ!! はは、は……はははっ! アハハハハハハハハハッハハハハハハハハハハハハハハアハハハハハハハハハハハハ――っ!!」
 声に宿る感情は、暴力的なまでの、憎悪。
 顔を覆う手を下げ、ナユタは顔を下げる。
 俯くのではなく、正面を。
 結依がやっと見ることの出来たナユタの表情は、
「そんなに知りたけりゃ見せてやる。眼を逸らすな――」
 哀しみと狂気が入り混じった、悲痛の嘲笑だった。
「――これが、お前が欲した答えだ」
 二人の視線が重なる。
 銀の瞳がナユタの眼を射止めた瞬間、ナユタの意識は真っ白に染まった。
 高濃度の魔力を有した銀=B
 干渉によってフェンリルの血は、制御出来ない魔力を叩き込まれ、それは一瞬でナユタの全身の経絡に殺到する。
 交わる。
 銀が呼び起こす。
 血を。
 力を。
 そして破壊という名の本質を。
 満ちる。
 滅びの警鐘が鳴り響く。
 それは本当に一瞬。
 溢れそうになっていた狂気は、呆気ないほど簡単に溢れた。
 壊れて、
 壊れて、
 壊れて、
 ナユタは、人を捨てた。
 黒い霧が、
 爆ぜる。
 自身を包み、包み、包み、完全にナユタを覆い尽くす。

 ォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ―――――――ッ!!
 凄まじい咆哮が大気を震わせた。
 空を見上げ、
 弓なりに身を反らせ、
 吼える。
 人でなくなったモノが叫ぶ。
 歓喜を。
 殺意を。
 慟哭を。
 ありとあらゆる感情が其処に在り、ありとあらゆる精神が其処に無い。
 一切の矛盾も無く、
 ただひたすらに『それ』は人でなくなった。

 ミルネスカが叫んだ。
 結依は小さく呟いた。
 何も聴こえない。
 何も届かない。
 何も、
 無いのだから。
 戦慄く『それ』の首に、白い六芒星の魔方陣が浮かび上がる。
 首の上下を断つが如く浮かぶ六芒星の周囲に、数珠繋ぎの小さな円が囲っている。
 まるで、首輪。
 黒きヒトカタを保っていた、最後の理性。
 途端、周囲の小さな円が砕け散って虚空に消える。
 続いて白い六芒星までもが崩壊を始める。
 亀裂が入る。
 罅は広がり、綺麗な円の形は跡形も無く、瞬く間に崩れてゆく。
 そして、
 六芒星が、砕ける。
 粉々に。
 繋ぎ止めるものが、失われる。
 その瞬間、
 黒い霧が収縮し、爆発するように膨れ上がった。
 その中で、悲鳴のようなものが聴こえた気がした。


 ◆


 黒い霧が膨れ上がり、人であったモノを覆い尽くす。
 闇を侵食して肥大してゆく霧は直径にして五メートル以上あり、渦を描いて流れる。
 その霧はやがて霧散し、大気に掻き消える。
 そこから現れたのは――、
 絶望。
 結依の願いは、届かない。
「ナユタ……さ、ん?」
 結依は、霧の晴れた先に見えた姿を信じられなかった。
 猜疑心ではなく、現実味の帯びぬ感覚に陥るほど、予想などしなかった。

 ――白銀の狼が、其処に居た。
 全長はおよそ五メートル以上。結依の身の丈を遥かに超える巨大な狼。
 艶やかな毛並は一切の穢れを知らないような純白で、闇に淡い色を滲ませている。
 金色の瞳。瞳孔は縦に割れ獣のそれだ。まるで満月の如く、射抜くような視線は虚空を貫く。
 覗く犬歯も、地に突き立てられた爪も、放つ存在感すらが鋭く、獰猛。
 流麗にして汚濁。
 神秘にして獣性。
 儚くもあり、強くもあり、遥か彼方のような存在で、路傍の石のような存在。
 矛盾と真理を体現など出来ない『人間』とは違う、絶対的な力。
 そう、それは力。
 総ての意を内包し、同時に拒絶した力が降りる。
 魔と夜を司りし、災厄の凶獣。
 フェンリル。

 結依はその姿に、言葉では言い表せない感情を覚えていた。
 綺麗だと、
 汚らわしいと、
 どちらともつかぬ感情を。
 荘厳だと、
 恐ろしいと、
 表裏一対にもなる感情を。
 頬を流れる涙は枯れ、ただ結依は呆然とその姿を見つめることしか出来なかった。
「これが、フェンリル……」
 後ろから聴こえたミルネスカの声も、感嘆なのか畏怖なのか予測がつかない溜息混じりのものだった。
 白い獣――フェンリルは一度身を震わせ、全身を丸めるようにして吐息を零す。口から漏れた息は白い霧を吐き出していた。その霧は決して体温と気温の差異によるものとは明らかに違う。
 白い、魔力。
 ミルネスカが背筋を凍らせた事に、結依は気付かない。
 構築による産物でもないただの吐息が魔力そのものと化している事の意味≠ネど、分かるはずもなかった。
 高い保有量と高い純度。
 正に魔力というエネルギー一つだけで構成されたような、魔術師にとっては異形の存在。
 巨大な爆弾も同然の怪物を相手に、結依は一歩前に出た。
 恐る恐ると近づき、一言だけ呟いた。
「ナユタ、さん……?」
 その獣にはもう、いつかの日のような青年は見当たらない。
 端整過ぎた顔立ちも、
 不機嫌そうな表情も、
 強く誇り高い嘲笑も、
 何処にも見当たらない。
 それでも結依は無意識の内に歩み寄り、必死に探した。
 たとえ姿形が変わろうとも、ナユタである事に変わりはない。
 信じなければ、ナユタの心は沈んだまま取り戻せなくなる。
「ナユタさん」
 だから呼びかけた。
 必死に。
 ただ、その名を呼んだ。
「ナユタさ

 気付いた時には、目の前で爪が振り落とされていた。

「――、え」
 一本が結依の腕ぐらいはある五指の爪が、白い軌跡を描いて頭部を砕かんと降って来る。
 理解が追い着かなかった結依の身体は一気に横に吹き飛んだ。
 横合いから踏み込んだミルネスカが、タックルをかますように結依に抱きついて横へ倒したのだ。
 顔のすぐ横を過ぎ去る白い軌跡。僅かに触れた左腕から等間隔に三本の赤い筋が刻まれ、血が爆ぜた。
 次の瞬間には、後方で凄まじい音が響いた。
 倒れてから結依が顔を上げると、胸倉を掴んで引き寄せたミルネスカが怒鳴っていた。
「何ボサっとしてんのよ!! 死にたいワケ!?」
「ぇ、ぁ……」
 状況がまだ把握出来ないでいる結依は、腕の痛みも忘れて音の鳴り響いたほうを振り向く。
 地面をごっそりと抉り取った左腕を地面に叩きつけ、唸り声を撒き散らすフェンリル。
 結依はミルネスカの腕の中で、膝を突いたまま声を張り上げた。
「ナユタさん!!」
 だが、フェンリルは痛みに悶え苦しむように涎を垂れ流して頭を振る。
 ミルネスカが苦虫を噛んだような顔で、口元を引き攣らせて暗い笑みを浮かべた。
「最っ悪だわ……本当に暴走するとはね」
 そう呟く彼女の声からは生気が感じられない。
 まるで諦めがついたようなその態度に、結依は眉根を寄せる。
「あれが、ナユタさんなんですか? ……本当に――」
「見りゃ分かんでしょうよ! アンタがやったんじゃないのさ!!」
 苛立たしげにミルネスカは叱責を飛ばす。
「あれ≠ェそのナユタって男の、本来の姿よ! 月の放つ魔力と強引に同調(リンク)して力を得る魔獣っ!」
 唸り声を上げ、擡げていた首を天へと向ける獣。
 結依の左眼には、はっきりとそれが見えた。
 見上げる月から降り注ぐ細かな白い塵が降り、フェンリルの全身に纏わり付いている。
 月光が持つ、人間を介さない純粋な魔力を供給し、力を得ている。
 そして口元から吐き出される吐息は、その白い塵と同じ色。つまり、吸収した魔力を利用しているということ。
「満月の夜でもないのに、殆ど魔力と同化し始めてる……これじゃまるで意志を持つ魔力そのもの≠カゃないのさ」
 ミルネスカは戦慄に粟立つ鳥肌に身震いして言い放った。
「化け物め……っ!」

 ガアアアアァァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア―――――――ッ!!

 膨大な魔力を孕んだ咆哮が、天へと奔った。
 大気をビリビリと震わせ、二人はびくりと肩を竦める。
 恐い。
 本能的に感じたその感情を体現する獣は、勢い良く振り返った。
 大木の幹の如き腕を地面に叩きつけ、その反動で弧を描くように跳躍し襲い掛かる。
 ミルネスカは結依の脇に腕を回して飛び込むぐらいのつもり避ける。地面に五本の傷跡を刻んで着地した直後のフェンリルに目がけて、倒れざまに空いている右手で拳銃を引き抜いて撃鉄を起こす。
 銃声が響く。こちらに顔を向けようとするフェンリルの肩に、赤黒い孔が開く。
 短い呻き声を洩らすフェンリルだが、周囲に漂う白い霧が物凄い速度で傷口に殺到し、一瞬で修復する。
(なんて快復力……人間の演算能力で出来る処理速度じゃないっ!!)
 最早、『構築』という一つの魔術理論ですら説明の出来ない現象をあっさりとやってのける。
 目の前に居るのは魔術師ではない。この獣に常識も情緒も存在しない。
 ミルネスカはそう悟った。
 結依を置き去りにして横へ跳ぶ。宙で両手に握った双銃を構えて撃つ。
 フェンリルは素早く反応し、その場から弾かれるように回避し、横合いから突進してくる。
 大きく開かれた顎が襲う。ミルネスカは軸足で静止して反動を上に向け、高跳びの要領でフェンリルの頭上すれすれにてかわす。グルリと捻転させて振り向き様に弾丸を二発、フェンリルの背中にぶち込む。
 銃創を穿たれたフェンリルは唸り声を上げて立ち止まり、傷の修復に取り掛かる。
 着地したミルネスカは、その様を眺め、ゴーグル越しの眼つきを険しくした。
「……これが、アンタの選んだ路ってワケね」
 その言葉にどんな意味が含まれているかは定かではない。
 分かる事と言えば、声にどことなく諦めるような気配が感じられたことだろうか。
 ミルネスカは銃把に掛けている人差し指と中指を、腰元の赤いケースに伸ばした。ケースに巻き付けられている細いベルトをなぞると、小気味良い音がしてベルトが引き千切れる。
「悪いわね。アンタ達がどんな想いだったとしても、アタシは引くワケにはいかないのよ」
 そしてケースの蓋を指先で弾いて開ける。カラン、と蓋が落ちる音が響き、フェンリルが振り向き牙を剥く。
 ケースの中身は、弾丸だった。総て同じ口径の弾丸だが統一性が在るのは形状だけで、弾丸の頭部の色がそれぞれ違う。赤、青、白、黄、緑と様々で、暖色系から寒色系へ綺麗に整理されているのがまるで絵の具箱のように見えた。三列に並んでおり、色彩豊かな弾丸二列に、下の段は灰色だが筒の部分にLやSなどの記号が刻まれている。
「本当に悪いわね」
 おもむろにミルネスカは両手を軽く上げて双拳銃のシリンダーを倒して排莢した。まだ空薬莢も未使用の薬莢も構わず地面に撒き散らし、ミルネスカははっきりと口にした。
「切り札、使わせて貰うわよ」
 次の瞬間、フェンリルが踵を返して駆け出す。
 銃把で弾丸を引っ掛けて宙に飛ばし、両腕を蛇のようにうねらせてシリンダーの中に込め、手首を返してシリンダーを戻す。
「『ティンカーベル』、術式射出機構展開」
 撃鉄を上げ、唱えるミルネスカ。
 それに呼応した双銀の二挺拳銃、『ティンカーベル』の銃口に虹色の魔方陣が燈る。僅か数センチの小さな魔方陣で、銃口の先に固定されたように後を追う。
 跳躍しようと全身を低めたフェンリルに、狙いを定めた。
「水流(ウォータ)、固定(ロック)」
 左右一発ずつ、同時に撃つ。
 二発の弾丸はフェンリルの眼前で互いに衝突し、
「――フローズンショット」
 破裂音と共に白い飛沫を広げた。
 ビキビキと乾いた音が鳴る。浴びたフェンリルの前足は瞬時に氷を纏い、動きが止まった。
「火炎(ファイア)」
 さらに黒銀の銃を撃つと、銃口の先に展開されていた虹色の魔方陣は赤く染まり、眼前で一メートル程の大きさになる。
 くるりと捻転して白銀の銃を赤い魔方陣に突きつけ、
「拡散(スプレット)」
 呟きながら撃鉄を親指で上げ、射線上のフェンリルに唱えた。
「――ブレイズショット」
 引き金を絞る。
 ドン!! と銃声が轟き、弾丸が赤い魔方陣に直撃する。その魔方陣は輝きを増し、次の瞬間には紅蓮の炎と化して前方に在る総てを焼き尽くした。足を凍らされて身動きの取れないフェンリルを飲み込む。
 炎上する大地に咆哮が響く。
「寒そうだから温めてやったけど、お気に召さなかったようね」
 口の端を吊り上げ、ミルネスカはシリンダーを傾けて排莢。ケースの中から幾つもの弾丸を放り、再び宙で鮮やかに弾込めをする。まるで踊るようにして振り回す両腕で最後に円を描き、銃口の小さな魔方陣が虹色の軌跡を彩る。
「血式魔術――」
 虹色の軌跡の中心で踊る魔術師は、己が真名を体現する必殺の名を告げた。
 魔術師、“魔弾の射手”だけが手とする力。
「――『魔女の絵画展(マギステルパレット)』」
 基本の属性を複数で干渉させる事で同調(リンク)させ、複合的な効果を生み出す魔術。
「浮気性で御免なさいね? アタシ、属性魔道師(エレメンタラー)でもあるのよねぇ♪」
 舌なめずりしながら暴力的な冷笑を浮かべるミルネスカは、手の内で拳銃をくるくると回し、虹色の軌跡を纏う。
「紫電(スパーク)、増強(プラス)」
 唱えながら白銀の拳銃を炎のカーテンに向けて撃つ。魔方陣は黄色に染まり巨大化。円が凄まじい回転をすると共に周囲にパチパチと蒼い静電気を放ち始める。
 黒銀の拳銃を向けると同時、炎の奥からフェンリルが飛び出してくる。
「濡れた身体にはよぉく利くわよ?」
 水気を帯びた艶やかな毛並のフェンリル目がけ、引き金を引いた。
「――サンダーボルトショット」
 魔方陣に着弾。幾重にも節くれ立った閃光が朱に照らされた闇を切り裂き、遅れて轟音が響き渡った。ドオオォン!! という腹に響く音が耳に届いた時にはもう、高圧の電流が空気の壁を貫いた。自身が濡れて絶好の的と化したフェンリルを体内から焼き焦がす。
 ビクビクと痙攣を起こし、顔から倒れ込むフェンリル。
「ナユタさん……っ!」
 思わず駆け寄ろうとした結依。通常の弾丸を素早く込めたミルネスカは結依の足元を狙い撃ち、踏み込んだ右足の僅か数センチの所に着弾した。結依は驚きと恐怖から足がもつれ、へたり込む。
「来るんじゃないよ!!」
 一喝したミルネスカは片方の拳銃をフェンリルに突きつけ、片時も眼を離さずに怒鳴る。
「コイツはもうアンタの知ってる男じゃない! 制御を失ってフェンリルの血に呑まれ、肉体はおろか自我すら剥奪された魔力という産物の成れの果て≠ウ! 誰の言葉も届いちゃいないわ……ただ本能のまま、肉を喰らい血を啜り死を貪る破滅の化身よ!!」
 結依はそれを聴いて、血が急速に熱を失う感覚に陥った。全身から力が抜け、立ち上がる気力すら無くなる。
「そんな……」
「一体何があって暴走したのかは知らないけどね、アンタとんでもない事やってくれたもんよ! これじゃもう魔術師同士の陣取り合戦ですらない……世界を護るなんて御託で埋め尽くして存在を全否定する、一方的な獣狩りだ!!」
 急に、手が震えだした。あるいはとっくに震えていたのを今になって気付いたのか。
 怖くなった。
 自分のやった事の重大さや、ナユタを追い詰めすぎた原因が自分にある事の責任などではなく、
「ナユタさんは……元に戻らないんですか!?」
「知らねぇわよド素人がっ!! フェンリルの血族の暴走なんて見るのはこれが初めてだっつぅのよ!!」
 途端、地面に倒れ込んでいたフェンリルは前足を突いて身を起こし、高らかに咆哮を放った。大気を戦慄かせ、ミルネスカに再び襲い掛かる。舌打ちをしながらミルネスカはそれをかわし、七色の弾丸を素早く銃に込めて放つ。目の前で起こる様々な現象と圧倒的な殺意の猛攻がぶつかり合うその光景を眼にし、座り込んだまま呆然と見つめる結依は動く事すら出来なかった。
 ほんの少し力を込めれば、立ち上がれるはずなのに。
 結依はその微々たる力すら失って、動けなかった。
 今までの中で、結依がかつて感じた事の無い程の、絶望がそこに在った。
 結依の求める真実の為に、払わねばならない代償。
 たとえそれが命であったとしても、結依は迷わなかっただろう。
「どうして……」
 呟く。
 もう、遅い。
「どうして、ナユタさんなんですか……?」
 誰にともなく呟くその声は、誰も答えてくれず、誰の耳にも届かない。
 遅すぎた問い。
 誰のためにもならない、愚かな問い。
「私じゃなくて、どうしてナユタさんが苦しまなくてはならないんですかっ……!?」
 見るのも耐えられなかった。
 瞼をきつく閉じ、耳を塞いで蹲ってしまいたかった。
 逃げてしまえば、どれだけ楽になれただろう。
 後悔して生き延びてしまえば、きっとその方がまだ幸福なのかも知れない。むしろ、確信に満ちたものすら感じた。
 けれど、目は離せなかった。
 背ける事を許してはくれなかった。
 フェンリルは己の命を狙う赤い色の人間を殺そうと、ただひたすらに殺そうと、それだけをしている。
 笑って、
 怒って、
 短い間しか見なかったけれど、人間としての多くの表情を見せてくれた彼は、
 結依のせいで、
 結依のために、
 人間を捨てた。
 庇うように、犠牲となった。
 結依が何よりも恐れた結末だなどと、欠片も思わずに。
 ただひたすらに生かすため、ただひたすらに殺すのだ。

 いつか誰かに殺されるまで。

「ナユタさぁああああああああああああああん―――――――っ!!」
 叫ぶ。
 それしか出来ないのなら、結依は叫ぶ。
 せめて祈るように。
 せめて願うように。
 戻ってきて欲しいと、結依は

 ガアアアアァァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア―――――――ッ!!

 それでも響き渡る咆哮は止まらない=B
 結依の言葉は決して届く事などない=B

「ナユ……タ……さ、ん……っ!」
 何度だって出せると信じていた声は、容易に掠れた。
 何度だって呼べると信じた名前に、意味は無かった。
 もう、届かない。
 フェンリルの暴走は止まらない。
 たとえ今、此処でミルネスカが斃せず死に至ったとしても、第二第三の魔術師達がフェンリルを止めるだろう。
 世界のために、きっとフェンリルは殺されるのだろう。
 結依のせいでナユタは死ぬだろう。
 結依のためにナユタは死ぬだろう。
 ナユタはもう、救われない。
 初めて生きて欲しいと希った人は、世界の果てで消えてしまう。
 不要な真実ごと埋もれるようにして、ナユタの生きた意味は残らない。
 愚かだと、浅はかだと、今さら自分を罵ったところで、この選択はもう誰にも止められない。
 結依は俯いてしまった。
 目を背けてしまった。
 してはならないとあれほど自分を戒めるようにして誓った事すら、もう出来なくなってしまった。
 目尻から垂れた涙が地面に落ちても奇跡なんてとっくに起きない事を思い知らされた結依は、ただ、取り戻す事の出来ない現実に打ちひしがれて無価値の涙を流す事しか出来なかった。

 襲い掛かるフェンリルに向け、ミルネスカは二挺拳銃を同時に突きつけ引き金を引く。
「火炎(ファイア)! 水流(ウォータ)!」
 赤と青の魔方陣を通過して発射された弾丸は虚空で互いにぶつかり合う。
「――フォッグショット!」
 着弾した弾丸から大量の水蒸気が噴出し、周囲を濃霧が包み込む。
 目晦ましの空間に飛び込んだフェンリルは一度足を止めたが、すぐさま霧の先の標的に狙いをつける。
 地を蹴って霧から抜け出たフェンリルが視界に捉えたのは、新緑色の弾頭。
「アタシが兵装召還師(アームズストレージ)でもあるってこと忘れてんじゃねぇわよ」
 肩に構えたロケットランチャーから、オレンジ色の軌跡を描いて弾頭が射出され、不意を衝かれて避ける暇も無かったフェンリルの眉間にぶち当たった。
 爆風が吹き荒び、霧を払拭する。
 撃ち終わったロケットランチャーを天に向けて様子を見るミルネスカ。
 頭部は吹き飛ばされ、赤黒い肉を覗かせる首の無い狼は力無く横に傾き倒れようとする。
 だが、寸でのところで前足を大きく開いて、頭部を失ったはずのフェンリルは踏み止まる。
 ミルネスカは舌打ちした。魔力そのものと化しているに等しいのなら、物理的な破壊が決定打となるとは限らない事は最早予測の範疇だった。
 フェンリルの周囲から急激に噴出された白い霧が傷口に殺到。白い霧が光となって頭部を象ると、瞬く間に光が塵となって虚空に消え、そこに頭部が元通りに形成される。
「頭ふっ飛ばしてもあっさり治しちゃってまぁ……化け物もここまで来るとゾッとしないわ」
 苛立ちと呆れの綯い交ぜになった嘆息と共にミルネスカは銃把を離す。ロケットアンチャーが光の粒子となって掻き消える。
 後の心配はしていないミルネスカだが=A内心ではかなり悩んでいた。ただでさえストックしている兵装の装弾数が尽きかけていたのに、相手は頭部を破壊されても外界魔力を食い散らかして復活する怪物ときた。消耗戦に持ち込むには最悪の状況だ。
(残り少ない手札でジョーカーを負かせって言ってるよなもんよ……こりゃ刺し違えても勝てないかもね)
 しかし、投了する訳にもいかない。
 此処で自分が死んだところで、フェンリルは確実に誰かが抹消してくれる。
 ただ、だからといって諦めて終わりに出来るほど人生を全うしてはいない。
 やらなければならない事の為に生きるミルネスカにとって、せめて切れる手札は総て切り尽くしてから死にたい。
「魔術師だもの。タダでは喰われてやんないわよ?」
 ミルネスカは口元に笑みを浮かべながら、楽しそうに次の手を考える。
 ところが、フェンリルの動きが急変した。
 突然身体を身震いさせながら、口元から鮮血を吐いたのだ。
(……! これって、まさか……)
 ミルネスカがはっとした顔で一歩前に出ると、フェンリルはぐるりと身を捩って公園から出ようとする。
「なっ、待ちやがりなさいよ!!」
 まさかの逃走を計るフェンリルに銃を向けるが、脅しを認識しているはずのないフェンリルは変わらぬ勢いで公園を囲う生け垣を薙ぎ倒して飛び出してしまった。
(やばい! あんな魔力素体の塊みたいなのが突っ込んだら、結界だって突き破りかねない……!!)
 歯軋りしてミルネスカは拳銃を腰のホルスターに仕舞い、一度だけ振り向いた。
 結依は肩を震わせて蹲ったまま動かない。
 ミルネスカは睨みつけるようにしてしばし見つめ、興味も無いと言わんばかりに前を向いて駆け出した。
「アルフレッド! アルフレッド!? ダメだ、ノイズが酷すぎる! 応答しなさいアルフレッド!!」
 張り上げる声が徐々に遠ざかってゆく。
 人気の失せてゆく公園で一人泣き続けていた結依は、地面に突いた手を砂利ごと握り締める。
 顔を上げる。
 泣き腫らした顔で、ミルネスカが駆けて行った方を真っ直ぐと見つめ、ただ一言だけ、弱く呟いた。
「ナユタさん……っ」
 異質だらけに塗りたくられた夜の街に、避ける事の出来ない戦いが始まる。
 賽は投げられた。
 もう、誰にも止められない。

2010/06/16(Wed)20:12:41 公開 / 祠堂 崇
■この作品の著作権は祠堂 崇さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
長くなってきたので分割。
とりあえずあとがきの書き替えは最後まで終わってからに致します。



第六幕・Cパート追記。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。