『キミと共に歩むために 第四章』 ... ジャンル:ファンタジー アクション
作者:チェリー                

     あらすじ・作品紹介
 事件から数週間後、夏休みに入った冬慈達は戦いの無い平穏な日々を過ごしていた。とある日、ラヴアと街中で会うと妙な話を聞く事になる。神の力が関与されている可能性があるため冬慈とルウはラヴアと共にある人物の尾行をする事になるが、新たな戦いが静かに呼吸し始めた。

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 第三部


 私にとって宗司朗は全てだ。
 夏休みに入ったというのに宗司朗は今日も学校へ行って勉強をするらしい。
 あの子は賢いからね、私も鼻が高い。自分で言うのもなんだけれどこれでも私は学校で優秀なほうである、宗司朗はきっと私より優秀になれるでしょう、いや、なれるに違いない。
 でも気を抜いてはいけないわ。
 あの子には私が愛情を注いであげないといつ躓いてしまうやら。父も母も幼い頃に亡くなって、親戚の所を転々としてたのだから家族の愛情をあの子は知らない。恵まれた家庭に育った子はきっと幸せを得ているでしょう、その幸せの差を私が埋めなくては。
 朝食だって昼食だって夕食だってうんと美味しいものを、あの子が欲しいものはなんでも、あの子が幸せに過ごせるのならば私はこの身を粉にしてでも与えてみせる。
 去年から私はアルバイトも始めた。あの子が欲しいものは何でも買ってあげるためにね。今は親戚の勇さんが生活の面倒をみてくれてるから勇さんに言えば買ってくれるけど、私が買ってあげたほうが嬉しいんだもの。
 宗司朗は私を気遣って自分もアルバイトするなんて言ってたけどそんなことさせたら夜も遅くなる日が続くし、勉強もおろそかになってしまうでしょう? それに自分の時間が削られるのだからあの子にはアルバイトなんかさせたら駄目だわ。帰りが遅くなればきっと夜道を歩いているだけで悪い誘惑に唆されるかもしれないし、夜道っていうのは危険が溢れてるから一人では帰らせたくないものね。
 しかし生徒会長に就任したのは失敗だったかもしれない。
 おかげで帰宅時間が遅くなるわ、やることが多くて面倒なのよね。宗司朗の事を考えている時間さえ削られるのは私の命の源を経たれるような気分になってしまう。
 いくら前生徒会長の頼みで生徒会に入ったとはいえ、今年になって生徒会長に任命されるとは思ってもみなかった。断ろうとはしたけど成り行きでね……。
 でも生徒会長権限というのは素晴らしいものだと実感できる事が一つあったわ。
 説得するのに時間は掛かったけれど、宗司朗を生徒会に私の権限で入れられたのだからね。生徒会長の推薦となれば誰も文句は言えまい。これで宗司朗と一緒に帰れるわ、宗司朗とより良い学校作りを一緒に出来て、一緒に帰れる。私の学園生活というのは今着々と充実感を積み重ねているに違いない。
 今年は宗司朗に生徒会の活動を一から教え込んで生徒会長になれる人材として育て上げていこう。宗司朗が生徒会長に就任すればきっとこの学園は素晴らしいものになるでしょう。想像するだけで実に楽しみだわ。
 さて、宗司朗が来るまで図書室で本でも読んでいようかしら。今日私が学校にいるのは別に宗司朗が行くなんて言ったからからではなく友達と夏休みの宿題を一緒に勉強するためにいるわけで、あくまでも宗司朗に合わせたわけではないのだけれど、運命さえ私達を引き合わせているに違いないわ。
 図書室で友達を待ちつつ、そこへ宗司朗が来て「ついでに勉強を見てあげる」なんて言えば一緒に勉強できるわ、うん、私の計画は完璧。
「生徒会長!」
「あら、どうしたの?」
 図書室に入ろうとしたところへ、見慣れない生徒が一人私に声をかけてきた。一年生か二年生かな。同級生では見た事は無いし、私のことを知っているのなら学校の生徒会長を把握している事は好意を抱くわね。でも異性には宗司朗以外興味が無いの、ここで私に愛の告白でも叫ばれたら私はきっと「三百六十五日を五回ほど繰り返して私の事がまだ好きならもう一度声をかけて」と言うでしょうね。
 でもずいぶんと荒々しい声でそれに廊下で叫ばれると反響して耳を塞ぎたくなるほど大きい声、これは愛の告白を前に緊張して声が荒々しくなったというわけでは無いかな。なんでしょうね……焦り、危機、そんなものでしょうか。
 それに服装も運動着、どうやら今日は部活動で学校へ来たようね。嗚呼、運動着も悪くないわ。宗司朗に部活動を勧めればよかったかしら、いえ……部活動は駄目ね。
 彼は何か焦って転んだのか、膝には擦り傷があるし、もし宗司朗がこんな姿をしてたら私は卒倒でもしてしまうわ。
「呼吸を落ち着かせなさい、ゆっくりと話して」
 随分と興奮してるようで私は一先ず彼の精神状態を安定させることを優先した。
「落ち着いてられませんよ! 生徒が頭から血を流して倒れてるんですよ! 生徒会長が今日は学校に来てるっていうから今知らせに来たんですけれど、と、とにかく大変なんですよ!」
 それは随分と物騒な話を知らせてくれたわね。
 今日は学校に教師の姿もあまり見なかったし、どうやら生徒達の間で混乱状態になっているようでどうすればいいのかわからないから私の元へやってきた、という事かしら。
 場所は中庭、図書室から出て廊下にある窓を見下ろせばすぐに現場は見える。
 私は窓から見下ろして覗くと生徒が数人、それに誰か倒れているけれども生徒達に囲まれて見づらくて判別できない。
 ふと、この廊下で開いている窓が一つあった。
 そのすぐそばの床にはシャープペンシルが一本。考え事をしていてあんなのが落ちていたなんて気づかなかったわ。でも、どこかで見たことのあるシャープペンシルに、少しだけ……そう少しだけ嫌な予感が脳裏を掠めた。
 きっと生徒は何らかによって窓から中庭に落ちて倒れたところを部活動の生徒が発見したのでしょう。一階には部活動の休憩に水道を利用する生徒が多々見られるから生徒が落ちた瞬間も見ていたに違いない。
 ここは三階、落ちたら運が良くても重症以上死亡以下。
 私は一階へ急いで向かった。
 嫌な……胸騒ぎが終始心臓の鼓動を刺激して気分が悪い。階段を駆け下りる足が一歩一歩進めるたびに重くなっていくのはどうして? 冷や汗が額から、頬を滴り通り過ぎて、そして背筋には悪寒。
 妙に手が震えた。
 私はその手をぎゅっと握り締めて、手の平を見ると汗が滲み出ている。しっかりして、何を私は恐れているのよ!
 一階には生徒が多数、どうしていいのかわからずにあたふたとして避けるのが大変だ。ようやくして掻い潜って、ぴちゃりと何かを踏んで視線を床に落としてみると朱色が中庭の雑草を染めていた。
「どきなさい!」
 怪我人を見かけたら先ずは状況の把握、救急車を呼んで怪我人の応急処置、この混乱している野次馬よりはてきぱき動ける自信はある。今日は保健室に行っても無人、教師も誰がいるか把握しているし大丈夫、私なら出来る。
「せ、生徒会長……」
 倒れている生徒にようやく辿り着いた。
 先に見つけたのでしょう、すぐそばにいた体操着の生徒は不安げに私に視線を送ってくる、どうすればいいのですか? そんな視線。
「職員室の先生にこの事は?」
「ま、まだです……」
「早く言ってきなさい! それと救急車も呼んで! 他に手が空いてる生徒は職員室から保健室の鍵を持ってきて救急箱を!」
 倒れていたのは男子生徒だった。
 制服を着ていたことから部活動目的で学校には来ていなかったようね、血痕の飛び散り具合を見る限りやはり三階からの転落事故。あのシャープペンシルの持ち主で間違いないでしょう。
 他には、勉強道具が所々に落ちているわね。学校へ……勉強をしに来た……?
 顔を見るのが怖い。
 それは、もしも頭から転落した場合による酷い怪我を負っていたらという不安では無く。
「宗……司朗……?」
 どうして、嘘、そんな……。
 どうしよう、どうすれば、そうだ、救急車……あ、もう呼んでるんだ、どうしよう、どうすれば……。
 もう自分で何を考えているのかすらわからない。思考が、上手く循環しない。手が震えてる、止めれない、止まらない、止めて、そうだ、応急処置、救急箱はどこ? だれか、持ってきて、早く!
 ようやくして救急箱を持ってきた女子生徒は倒れている彼の顔にべったりとついた血をガーゼで拭う、けれども頭部からの出血は止まらず只管に彼の顔を染めていく。
「宗司朗!」
 応答は無く、目も開くことは無い。
 鼻からも出血している、口からも血を吐いている、僅かに呼吸はしてる、まだ生きてる、助けなくては、でも私にはどうすればいいのかわからない、どうしよう……。
 今は救急車を待つしかない、でも待てない、今すぐにでも宗司朗を担いで病院まで運んでしまおうか、いや、怪我人は動かさないのが一番、解ってる、解ってるわ。
 それから十分ほど経過して、救急車がようやく到着して、その後の事はよく覚えてない。
 言われるがままに私はついていって、何かを聞かれた気がする、何を聞かれたのかな、何でもいいわ。


 気が付いた時には集中治療室という場所の前に立っていた。
 そうだ、宗司朗がこの治療室の中にいるんだ。この時間だと勇さんは来れないでしょうし、私一人でただただここで待っていないと駄目だなんて気が狂いそう。
 壁の時計だけがコチコチと音を立てる中、私は両手を重ねて祈った。
 特に神様なんて信仰心は塵ほど無いが、こういう時だけは都合良く神様に祈ってしまう。神様も都合良く祈られてはたまったものではないでしょうけれども、もしも宗司朗が助かったら私はきっと毎日空にでも向かって神様に感謝するでしょう。
 それから時針が十二を刻んでしばしの時を刻み始めた頃に、手術は終わった。
 手術を担当した医師が出てきてマスクを取ると、表情は思わしくなく嫌な予感が冷や汗と共に溢れだす。
 今夜が峠、よくドラマなどで聞く言葉だけれども実際に聞くとは思わなかった。
 希望と絶望を混ぜて突きつけられたような気分、手も足も震えて立っているのがやっとで、しばらく動けなかった。医師は何か説明をしていたけれど私の耳には何も入ってこない。宗司朗が運ばれていく、呼吸マスクを付けられて。
 今日はずっと宗司朗のそばにいよう。
 目が覚めるまでずっといよう。
 室内は時計の音と、心電図の音が交互に聞こえるだけ。微風を維持したクーラーの音が耳を澄ませばなんとか聞こえるくらい、室内は夏だというのにおかげで快適な環境を築いてくれている。電気代をケチっている学校とは大違いね。
 宗司朗は静かに呼吸していた。
 頭部には包帯、右手右足にはギプスがなされている。落下は主に右側から、さすがに三階――およそ十メートルはある高さの落下となれば衝撃も相当だったのでしょう。でもどうして落下したのかが私にはわからなかった。
 廊下を歩いていて、開いていた窓から落下なんて、もし何かに躓いて体のバランスを崩したとしても果たして窓から落ちる? 宗司朗の運動神経は悪いほうでもない、私が保証する。だから何かあったくらいでは窓から落ちるなんて事は絶対に無いはず。
 私の想像では誰かに突き飛ばされて落ちたとしか思えない。
 でも、夏休み中だから生徒は少ないしその可能性も薄いけど……そうとしか思えない。
 ……考えるのはよそう。今は宗司朗が目を覚ましてくれることを祈るだけ。
「あ……」
 宗司朗の手をぎゅっと握り締めて、いつの間にか眠っていたらしい。
 窓の外はすっかりと日が暮れ始めて橙色が空を、雲を染める時間。看護士が様子を見に来ていたのか、私の肩には純白の掛け物がされていた。いけない、宗司朗の目が覚めるまではずっと起きていようと思ってたのに。
 宗司朗を見るとやはりまだ目を覚ましていなかった。このままずっと目を覚まさなかったらどうしよう、いや、そんなこと考えたくない。
 そうだ、勇さんに電話しないと。
 でも今の時間はまだ仕事中かな、勇さんはいつも忙しくて帰ってきても夜中の八時過ぎが主でその時間は私が勇さんの分の夕食を作る時間でもある。きっと勇さんが帰ってきて私がいなければ心配するでしょうね、事前に連絡してここに来てもらわなければ。でも病院にはいつまでいられるのかしら、面会終了時間があるはずだからあとで聞かなくては――嗚呼、でも今夜が峠って言っていたし今日はずっと居られるはず。
「宗司朗……」
 眠っていても私はずっと宗司朗の手を握っていたようで、温もりが手と手の間を包んでいた。
 暖かい、生きている証。
 いつ以来かな、こうして手を繋ぐのは。
 幼い頃なら宗司朗はいつも「お姉ちゃん」と呼んで二人で歩く時には必ず手を繋いで歩いていた。私達は唯一の家族。父も母ももういないから、手を繋いでくれる人はいないから、宗司朗と手を繋いでた。年を重ねていくうちに宗司朗は恥ずかしがって手を繋いでくれる数も減ってちょっと寂しいと思ったりもしたけど、宗司朗が大人になっていくんだなと思うと嬉しさもあって、寂しさと嬉しさは半々って感じかな。
 宗司朗が目を覚まして退院する日がきたら手を繋いで帰りましょう。いいでしょう?
 勇さんと三人で手を繋げば恥ずかしくは無いわ、周りからは家族に見えるはずだもの。あ、でもお父さんにしては勇さんは若すぎるかな。細かいことは気にしちゃ駄目よね。
 その時だった。
 心電図から発せられる音が徐々に早くなっていく。
 宗司朗の手が痙攣するように何度か動いて、苦しそうに私の手を握った。
 危険――私はすぐにナースコールを押した。
「宗司朗!」
 どうしよう、宗司朗が死んでしまう!
 音がさっきよりも早い、いけない、宗司朗、駄目よ!
 医師と看護士はすぐにやってきた。
 その時には刻むように鳴っていた音は一つの音として繋がって、それが宗司朗の心臓がどういう状態なのかをその場にいた全員に知らしめる。
 電気ショックをするらしい、私は看護士に連れられて宗司朗の手を離してしまった。暖かいぬくもりがまだ残っている、私はそれを握り締めるように両手を重ねた。
 先生、看護士さん、神様、誰でもいいから宗司朗を助けてください――
 程なくして、室内は静かになった。
 時計の針がコチコチと音を立てる、さっきのように。
 でもさっきと違う。
 室内にはもう誰もいなかった。私と、宗司朗以外、誰も。
 宗司朗の顔には布が被せられていた。
 息苦しそう、外してあげないと。
「宗司朗、大丈夫?」
 宗司朗は眠っていた。安らかな寝顔だ。まだ起きないかもしれない、静かに話そう。
「宗司朗、目が覚めたら夕食作ってあげるからね」
 頬に触れてみた、なんていうか、宗司朗に触れたい、そんな気分。
 頬を撫でるように、優しく、そっと。
 ――温もりは無く、冷たい。
 少し室内がクーラーで冷えてきたのかしら、看護士さんにクーラーの電源を切るように言わなくては。
 涙が溢れてくる。
 どうしてかな、涙が止まらないわ。
 どうしてかな、手の震えが止まらないわ。
 どうしてかな……。
 うん、わかってる。
 わかってるけど、そんな自分が嫌。認めたくない。
 こうしていても宗司朗はもう目を覚まさない事も、もう二度と宗司朗と一緒に夕食も食べれない事も、一緒に学校へ行くことも、一緒にテレビを見て笑う事も、何もかもが終わりを告げた。
 私にとって宗司朗は全てだ。
 宗司朗が死んでしまったら、私の人生は何も残らない。
 生きていても、死んでいるようなもの。私の人生で唯一の支えとなってくれた存在、辛い時には宗司朗の顔を思い浮かべて、あの子のためにもって頑張ってきた。でももう何のために生きるのか、希望は無くなってしまった。
 もういっその事死んでしまおうか。これからの人生、生きていくほうが辛い、辛すぎる。天涯孤独、そう唯一血の繋がったこの子は死んでしまったのだ。たとえ勇さんがずっと慰めてくれたって私の心には何も届かないでしょう、今まで心を満たしていたオアシスの源は宗司朗なのだ、宗司朗が死んだ今、私の心は枯れていって、廃れていって、消えるしかない。
 明日から毎日、目が覚めるたびに宗司朗のいない世界と直面して生きなければならない。三百六十五日、三百六十五回、私はきっと毎日理解しなければならない。
 宗司朗は死んでしまった、と……。



 第一章 西尾宗司朗

 ようやくして本格的な夏を報告する太陽はここ毎日青空の中を優雅に光り輝いていた。
 光り輝きすぎて清々しいなんて言葉などよりも暑苦しいという言葉のほうが似合うだろう。
 誰もが待ち望んで向かえた夏休みは輝く太陽の下、青い砂浜でわいわいする事も無く、初日から一週間経っても家からほとんど出ずにこうして青空を見ながら額から滴る汗に嫌気を差して溜息をつくことしばし。南雲や米崎は何をしてるかな、遊んでいるのだろうか。俺から遊びの誘いなんてすることは無いからあいつらから連絡が来ない限り滅多に連絡はしない、というかまだ夏を満喫する気持ちには完全になれなかった。夏休みだというのに、随分と勿体無い時間を過ごしているけれどもそれもまあ……俺らしくていいだろう。
 精神食らい以降、日常は思いがけないほど平和に、平凡に流れていた。
 敵も警戒しているだろうし今回はあいつらは動きすぎたためにしばらくは何もしてこないだろう、とルウは言う。このままでは学生にとって一年で思い出を作れる最高の時期である夏休みも精神を張り詰めて警戒しながら過ごさなくてはならないのかと思っていたが、こうして心ここにあらずと過ごせるのが嘘のようだ。遊ぼうぜ、とか連絡が来ないのは寂しいところだけど。
 今までの日常から安らぎや憩いなんて言葉は遠ざかっていく中、普通では無くなったはずの日常が今は帰ってきているような気分。ずっとこのまま時間の無駄とさえ感じてしまうくらいに空をゆったりと眺めたり、冷たい飲み物に食べ物、そうだな……冷麺とかを食べながら風鈴の音を聞いて過ごしていきたいものだ。これぞ夏と言わんばかりに延々と満喫したいものではあるが、世の中というのは上手く事が運ぶ訳も無い。
 今はこうしていられてもいつか必ず敵は現れる。それはいつになるかなんて解らない、解らないけれどもしかしたら今日かもしれないし、明日かもしれない。心のどこかにはいつどこで何をしていても警戒だけはしまっておかなくてはならないだろう。
 正義の味方はもしかしたらこんなことをいつも考えていたのかな。給料なんて無いのによく続いたものだ。
 まあ、この状況を喩えるならばと俺が今想像しているのはよく特撮に登場するものなのだが世の中にそんな奴はどこを見回したって居ないし、身近な正義の味方と言えば警察。その警察も非現実的な存在までは取り締まれないもんだから正義の味方なんて死語にさえ思えるね。
「冬慈、あいすくりーむが食べたい」
 ルウは夏休みに入ってから少し我儘になった気がする。
 今まで自由気ままに我儘できる日々など無かったからか、こうしてゆったり出来る時間を彼女はよくテレビを見て、よく甘い物を食べて、よく冷たい物を飲み、何でもない寛ぎさえ充実しているように感じた。
 あの頃に戻ったようだ。時子と過ごしていたあの頃に。
 とはいえ一応今も時子と過ごしている、中身は違うけどね。
「なら街に行こう。うちにはジュースしかないしたまには外に出ようよ」
「うーむ、仕方ない」
「仕方なくない」
 いや、なんていうかこいつは怠け者にまでなったのではないかな。
 一つ一つの行動には快活なんて言葉は程遠く、まるでスロー再生でもしているかのように動くルウには何とも溜息が出てしまう。ここ数日のルウといえば、起きたらテレビ、食べる、テレビ、食べる、テレビ、食べる、テレビ、寝る。そんな単純作業みたいな行動しかしていない。おかげで彼女は人間界の食べ物にはかなり詳しくなって、俺に食べたい食べたいと毎日何かと注文してくる。母さんが通帳に生活費を振り込んでくれているおかげでお金には困ってないけど。
 ルウ曰く人間の生活をよりよく知るためにとか言っているが俺には一日中ごろごろしたいんじゃないの? なんて言いたくなる。いざとなった時に彼女は頼りになるが毎日こんな怠け者生活を続けられると頼りなんていう言葉が頼りなく感じるけど。
 ゆったりと俺が渡した服を引きずりながら廊下に出て、欠伸を一つ。
 凛子は不在。きっと女友達と遊んでいるに違いない。いいね、凛子は夏を満喫して。俺も誰かに連絡をしてみようかな、いやしかし、今まで遊びに誘うなんてしたことなかったから今一どうすればいいのかわからない。とりあえず今日はルウと過ごしていよう、その内考えよう。
 それにもしも敵と遭遇したら、なんて考えると遊ぼうなんて気持ちが沸かない。
 ルウは少し寝癖のついた髪をそのままにして床を這いずるように進行している。溜息を呼び起こす呪文ならやめて欲しい。
 これでも一応神なのだから苦笑いもの。とはいえ俺は笑うのが苦手だから口元が少し緩むくらいしか出来ないけれど。
「それにしても平和だ。なあ冬慈?」
 家を出てから数歩、彼女は安堵混じりの溜息と一緒に空を仰ぎながら言う。
 平和すぎてしかもこの暑さじゃ溶けてしまいそうだ。平和だ、なんてルウはよく言うようになった気がする。まるでこうしている日々を惜しむかのように。
「こうしている限りは平和だけど、平和なんて口にするだけ気休めの上塗りだけどね」
 俺から言わせれば世の中は常に危険だ。
 政治的なものもあるけれど、危険の遡源を巡らせれば神という存在が何より先に思い浮かぶ。一般的には神は心の拠り所、日本ならば仏様ってところだが俺は仏様より先にルウや、恐ろしいものを見てきた。あんな存在がこの世界にいると想像するだけで、世界は紙一重な平和を運よく保っているに過ぎないと思わざるを得ない。
「良いじゃないか。気休めを二重三重と上塗りしていけばゆったりと骨休めでも出来そうな気がするぞ?」
「骨休めねぇ」
 そう呟いて凶器にも見える太陽を見つめて目を細めた。
 今年の夏は何をしようと思っていたのだろう。時子と一緒にどこか海にでも、それとも山へピクニックか、街へのショッピングなんて計画していた気がする。今隣にいるのは時子の姿をしていても中身はルウ。海、山、街、このどれかに乗り気で行くつもりもあるはずも無いだろうね。いや、街へは今行くところだがアイスクリームを買うぐらいで。
 骨休めなんて……何時何処で敵と遭遇するかもわからない現状が無意識に心を縛り付けていたのか、ただただ夏休みという貴重な学生のバカンスを家でぶらぶらしている日々が続くばかりで、しかし特に遊びたいわけでもなく、ルウと一緒にいられればそれで他に望みは無いとまで思う。こうして二人で歩いているとなんら日常は変わっていなかったと、時子は隣にいるのだと思いたいだけなのかもしれないけど。
 今はこうして過ごしていられれば何も要らない。
 いや、でもそれなりに夏は満喫したいけど。
「それにしても相変わらず喧騒以外見当たらない街で困る」
 街についてからのルウは眉間にしわを定着させては重い足取り。視線の先には道路を直走る車両、まだ早朝からそれほど時間は経過していないためにこの街は車両による長蛇の列が絶えない。
 平輪街は都市開発も進み多くの企業が高層ビルを建てた結果、企業拡大によって交通量も増えるわ、道路建設も成されてここ数年で目まぐるしく街は変わっていったのだ。今日もどこかで工事の音。道路をまた拡張しているのかもしれない。渋滞問題が以前から囁かれていたし。
 若者に人気な店舗も平輪街に進出して活気付いてはきて、発展は嬉しいことだけど彼女の言葉には一理ある。
「世の中ってのは日々喧騒の中で成長を見せてるものなんだよ。まあこれほど忙しそうな街にはあまり足を運びたくないものだけどね」
「なるほど、よのなかというのはそういうものなのか」
「そういうものなんだよ」
 かれこれ半年近くか、ルウがこの世界にやってきてからは。
 過ごしていくうちに彼女の興味は一つ、二つと増えて質問の回数もそれに比例して増えていった。
「あれが車だな? おお、これが自転車だ。あっちが……」
「トラック」
「そう、それだ」
 最近ではよく道路を走る車両などに興味を持っては、外に出るたびに確認のように一つ一つ当てていくのが彼女の習慣になっている。簡単なものならばもうすでに覚えており、しかし特に役立つというわけでも無いがルウは常識的なものくらいは理解したいらしい。
「空を飛ぶものが飛行機、だな?」
「そうだね。飛行機だ」
「何故人はあんなものに頼るのだ?」
「そりゃ、遠くへ行けないから飛行機を利用してるんだよ」
「ふむ、人間は面倒事があったら何でも作るのだな」
 言われてみればそうだ。
「我々のように進化を求めればいいのにのぉ」
 かつて地球が誕生してから以来ではかなり人間は進化したとは思うけど。
「いつか空を飛んだり出来ないのか? 羽根が生えたりとか」
「それはきっと無理だと思うね。頑張って気合で羽根が生えるわけでもないし、君達の世界なら在り得るかもしれないけどさ」
 誰しも空を飛んでみたいなんて一度は思うだろうが、現実という壁は高く分厚く聳え立つもの。ふん! と気合を入れても羽根が効果音と共に生えるはずもなく、幼い頃はスーパーマンにあこがれてえい! なんて右手を空にかざして跳ねたところで着地するわけで。現実はよく人の希望、願望、妄想を裏切ってくれる。
 それにしてもルウと会話していると何だか時子を思い出す。別に顔が同じというわけではないさ、この天然少女のようでロマンチックを求める感じが時子を感じさせる。
 その中で抱くことは、時子は死んでいなかったんだ――なんていう現実逃避で、繰り返し俺はこの現実逃避をかき消す脳内回路を生み出しているわけだ。
「冬慈。私を時子と思いたいのもわかるが、所詮それは願望でしか無いのだよ」
 じっと彼女の顔を凝視していたからか見事に考えている事を当てられて、というよりも、
「心を読んだ?」
「嗚呼、いつになく無愛想な顔だったから」
 彼女は記憶を司る神、人の記憶を読むことは朝飯前であるわけだ。
「いや確かに無愛想かもしれないけど、いつになく無愛想な度に心を読まれるのは困るな」
「別にいいじゃないか。お前が不必要と感じた記憶ならば私の空腹を満たす飯になるのだしな、よければ思い出したくない過去の記憶なども私が食べてもいいぞ?」
「一つ気になることがあるんだけど、君に記憶という餌を渡したとして君はその記憶を見ることは出来るだろうけど、見ないことも出来る?」
 質問の真意はこうだ。
 誰にも知られたくない記憶があったとしよう。そう、例えばの話。幼い頃にお漏らしをしたとか、躓いて鼻をぶつけて鼻から血を流して泣いて帰ったりとか。
 そういった、例えばだよ、例えばの話だからな、彼女はその記憶を見ることなく食すことが可能なのかという事が気になる。
「いや、私が食す前に記憶は嫌でも見ることになるな」
 聞いてはみたものの、別に思い出したくも無い秘密も……無いし、彼女に記憶を食べてもらうのはしばらく無さそうではあるが。
「一つ気になる事があるんだけど、ルウはいつも記憶を食べているのか? うちでご飯は食べてるしそれで十分じゃないのか?」
「食べているとも。普通の食事では体が満腹を感じても心からの満腹は感じられないからな」
 なるほどね、別腹みたいなものか。 
「生物でなくてもいいのだ、物質にも記憶が定着するから私はいつも物質の記憶を食べているよ。面白いものも見れるしな。食べ物にも記憶が定着しているために普段の食事も私の本当の食事と重ねて食することも出来るから私はいつも凛子の作る食事はきちんと食べるのだよ」
「でもピーマン食べないよね?」
「……」
 話しているうちに横を通るのは目的場所とは違うもアイスクリームが売っている店。
 街中では小さいほうの店ではあるが客の入りは上々。質を求め、お菓子などを主軸として販売しているため若い層や子供を持つ家庭の層には人気の店、らしい。米崎が以前にアイスクリームを食べながらそう説明してたのを思い出す。
 安さを求めてスーパーへ行くのも悪くは無いがこの暑さ、少し歩数を増やさねばたどり着けないスーパーよりも目の前にあるこの店へ入って、先ずは冷房の効いた空間へと飛び込んだほうが無難と俺は判断した。だってこの暑さだ、スーパーに辿り着いた頃にはきっと俺達は汗だくになっているに違いない。
 ルウも口では言わずとも暑さが引き寄せた倦怠感が表情に満ちている。
 お財布としばしの相談の後、すでに店内へと足を運んだルウを追いかけて、もしもルウがこの店を気に入ったら食費に響くかもなんていう不安を抱きつつもその不安は店内を流れる冷風と漂う甘い香りにかき消され、しばらくその余韻に浸って考えるのを止めた。
「おお、この茶色いのは? それにこの赤いのは?」
「チョコレートにストロベリーだよ」
「うむ、頂こう!」
 ガラスケースの中にびっしりと並ぶさまざまな種類のアイスクリームを指差して俺の許可無く店員にすぐさまルウは注文し、店員は言われるがままにアイスクリームの段数を増やしていく。
「あとこの黄色いのとかもいいな、これも頂こう! それと――」
「ちょっと待ってくれ」
 さすがに段数が増えるとそれは焦る。
 店員もアイスクリームを重ねる作業に慎重さが現れ始めているし、値段も比例しているわけで。
 あまりお金は持ってきてないし、俺が食べる分のお金が無くなってしまったら何のためにここまで来たのか解らなくなる。
「ルウはそれで終わり、反論は受け付けない」
「待て冬慈、これはだな。もっと食べ物を知るための行為であって私には重要な事なのだよ」
 目を輝かせながら涎を拭って言わないでほしい。
「残念だけど俺の財布はそれ以上に重要な事態になりかねないんだ」
 ようやくして店を出て、ルウの片手には三段に重なったアイスクリーム。
 俺の片手には一つしか乗っていないアイスクリーム。
 一段分けてくれたら同じ量を食べれたのにと思うもにんまりと一口食べるたびに満足げな表情をするルウに何も言えず、しばしの歩数を重ねて自宅へ向かうべく踵を返した。
「探しましたよ」
 ふと、背後から聞き慣れた声が聞こえる。
 振り返ると青のTシャツにふりふりのスカートを履いた若者に見られる今流行りのファッションを着こなした金色の髪の少女ラヴア・ノスチーティルがいた。
 意外――心臓の鼓動が少しだけ脈動する。
 藍色の瞳は彼女の魅力を引き立てて、すれ違う通行人の誰もが彼女に視線を奪われつつも歩数を進め、俺自身、視線を奪われたその一人だった。
 それに、だって、ほら。今までは見慣れた制服とか、あとは彼女が仕事? とかでいつも来ている黒い軍服をアレンジしたようなノースリーブの服装だったからこんなに可愛らしい服装でいたら誰もが見入ってしまうだろう。男性の本能というか、そうだね、言い訳しない。
「私の顔に何か付いていますか?」
「あ、いや、なんでもない」
 しかし、スカートなんて履くんだなあ。細くてすらりとした白くてなめらかな肌の柔らかそうな手、足。モデル並みの体系だ。それに顔立ちだって、綺麗な卵形の顔のラインにつぶらな瞳、それも藍色。整った目鼻の配置、ふっくらとした唇。
「視線がいやらしい気がします」
 彼女はスカートをぎゅっと握って目を吊り上げた。
「何? 冬慈はいやらしいのか?」
「いや、その、違う! なんか意外だったから、つい……」
「意外? 何が意外なんですか?」
 言い寄るラヴアの眉が不機嫌そうに曲がり、訝しげな目線が心をずぶりと刺してくる。
「なんていうか、可愛らしい服装を着てるからびっくりして」
 本当は露出度の高い服装であるために曝された素肌に視線を奪われたなんて言えず。
「か、可愛らしい服装ですか? それはありがとうございます、でも少しショックです。貴方にとって私は日常でも制服か軍服でも着てるとお思いになっていたのでしょうか。そうだとしたら私は少しショックから、すごくショックになります」
 図星、それを隠し切れずに後ずさりしてしまう。
 彼女は小さな溜息を漏らし、俯いてさらに大きな溜息をつく。
「私は今すごくショックになりました。この心の傷を癒すにはそうですね、暑さを吹き飛ばすようなものが食べたいです。あ、食べたいというだけであって、別に貴方には何も期待はしていません。どうせ私は制服か軍服の似合う少女ですから、貴方にとってそんな少女はおそらく軍隊から支給されたようなものしか食べないとお思いでしょうけど。私には毎日三食カロリーメイトを頬張るのがお似合いですよね、では買ってこようと思います。この暑さですから喉はカラカラになって、でも私は貴方が一方的に決め付けた印象を貫かなければならないんですよね、すごく酷な話ですが頑張ります。カロリーメイトは栄養にもいいですし」
 彼女は小さなポケットから少女には似合わない渋い皮製の財布を取り出し、小銭を鳴らして「あれって意外と高いんですよね」と呟いた。
「誰とは言わないが最低な奴がいるようだ、ラヴアが可哀想で仕方が無い」
 ルウまでラヴアについたようだ。
 ラヴアは俯いて肩を震わせて、顔が伺えないけれども泣いているような、それほど俺は酷い事をしただろうか? 
 二対一、勝ち目が無い。いや一対一でも勝ち目なんてあるもんじゃない。周りの通行人も「あいつ女を泣かせてるぜ」「あんなに可愛い子を泣かせるなんてよっぽどの遊び人だね」「女の子が隣にいるしさ、絶対浮気がばれたんだよ」「三つ巴? いや、違うね。隣の女の子も呆れてるからあいつ終わったな」「どっちにも見捨てられるね、間違いない」と嫌な批評しかこない。
「わかった! わかったから! ごめんなさい! ラヴア、アイスクリーム食べたくないか? 言っていたよな? 暑さを吹き飛ばすようなものが食べたいって! ほら、偶然にもアイスクリーム売ってる店がある! 俺が買ってこよう、もちろん俺の奢りだから気にしないでくれ!」
「そう……ですか。私はストロベリーが食べたいです」
「わかった!」
「三段ほど積み重なっていれば私は幸せになれると思います」
「そうだね、そうに違いない!」
 とても痛い出費だった。
 たとえ母さんから生活費が振り込まれていてお金には困っていなくても、お金の管理は凛子がしている。当然月々の小遣いも決められたので無駄遣いをすれば言わずとも苦しい月末を迎えることになるが、今はそれどころでは無い。
「とても美味しいです、ありがとうございます。貴方は良い人ですね」
 アイスクリームを舌でぺろぺろと舐めるラヴアの表情は満面の笑みだった。
 その一方で、お財布がすっかりと寂しくなって俺の表情は顔面蒼白だった。
 心は満身創痍でしばらく立ち直れそうに無い。女性不信にさえなりそうだ。涙を武器にしてずるいね、本当にずるい。それに顔をあげた彼女は普通そのもの、嘘泣きだったようで彼女は悠々とアイスクリームを食べている。
「それで、探してんだろう? 話は何だよ」
 ちょっと不機嫌になる、からかっただけですよとか言われてもしばらく俺は不貞腐れてこの一段しか無いアイスクリームを食べて黙って話を聞いた。
「先ずはですね、本題よりも先に貴方達を探していた事についてなのですが。冬慈さん、貴方に携帯電話の番号をお教えしましたよね?」
 それはかなり前の話。
 最初の、神無月の事件での事だ。確かに電話番号を交換した記憶がある。一度もラヴアから連絡は来なかったし、こっちから大して話題も無かったので連絡はした事はなかった。
「それがですね、実は私、無線機は使った事があるのですが携帯電話は使った事が無いのです」
「つまり?」
「携帯電話の使い方がわかりません」
「そのために探してたの?」
「そういうわけではありません」
「とりあえず使い方から教えればいいのかな?」
 是非、と彼女は携帯電話を取り出した。
 最新機種のようで初めて見た。そういえばCMでこの携帯電話の宣伝をしていた気がする。欲しいなあなんて思いつつ結構な値段だし先ず何より俺は携帯電話をそんなに活用しない。アドレスだって南雲と米崎と凛子ぐらいで、他は母さんか。携帯電話に詳しいほうか、と問われたら俺はどちらかというとそんなに詳しいわけではないけれど単純な操作ぐらいならわかると答えるだろう。
 今彼女に欠けているのは携帯電話の細かな操作方法では無く単純な操作であるため俺は胸を張って教えられる。
「なるほど、簡単ですね」
 新たな知識を得て一回り大きくなったつもりなのかラヴアはふふん、と鼻息を鳴らして携帯電話を空に掲げた。空に掲げたところで電話は出来ないのはご存知だろうか。
 ルウはその様子をまじまじと観察して「冬慈、私もそれ欲しい」なんて駄々をこねては俺の服を引っ張り始めた。俺の小遣いで携帯電話を買うには実に三ヶ月ほどお金を使わずに過ごさなければならないわけで、返答に困る。というか、ルウは俺の家に同棲してるんだから携帯電話なんて必要ないだろう? 友達にでも電話をしたいのか?
 学校でルウは何人か俺の知らない女子生徒と会話をしている様子を見たことがあるが彼女達と電話でもしたいというのならば考えてはみるけど。
「助かりました、これで貴方の家まで行く手間が省けました」
「家まで来たの?」
「ええ、担任の……なんていうんでしたっけ。ああ、そう、夏木教師に聞いたら親切に教えてくれました」
 個人情報保護法という言葉を夏樹先生は知っているだろうか。
「それで貴方の家に行ったら貴方の妹と名乗る女の子に丁度ばったり家の前で出くわしまして街へ向かったと聞いて現在に至るわけです」
 すると携帯電話に一件の新着メールが。
 凛子からだ。噂をすればなんとやらってか。
『同棲してるのに浮気はどうかと思うんだよね』
 ラヴアは俺を陥れようとしているのでは無いだろうか。
「凛子になんか言った?」
「ふむ、凛子というのですか。可愛らしい妹さんですね。私はただ怪しまれないように今日は夜の営みを築く日だと告げてきました。ほら、アダルトな話題はしつこく何も聞かれないでしょう?」
 女の子を殴りたいと思ったのは初めてだ。
 でもここは我慢して、俺はタイミングを見計らって彼女がアイスを食べると同時に頭へチョップした。
「んふっ! ア、アイスが……」
 べったりと顔一面にストロベリーのアイスがひっついて俺はその顔を見て心が僅かに晴れた。
 本当は関節技でも決めたいところだけどこれで許してやろう。
「と、冬慈! 暴力はいかんぞ!」
「時には許される暴力があるんだ、勉強になったろ?」
「そ、そうなのか……人間界とは奥が深いな……」
 自分も頭を叩かれるのではないか、ルウは一歩二歩と俺から距離を取る。
 心配しなくても叩かないよ、今は。
「早く本題を離してくれ」
 ラヴアは取り出したハンカチで口元を拭い、小さな文句を漏らしてはようやく本題に入った。
「それがですね、最近妙な事件が起きていまして。神が関係しているとしか思えないのです」
 事件は夏休みに入ってまもなくの事、とある公園で四人の少年が一人の少年を囲んでいたらしい。
 数人の少年はその少年に対してしばらく話をしていたところ、暴力を加えては所持金を奪い――所謂カツアゲをしていたという。すると少年達は途端に倒れ始め、暴行を加えられていた少年は恐ろしくなって逃げたところでカツアゲを見ていた目撃者の報告を受けて現れてた警察が保護。死体となった少年達も発見された。
 カツアゲを受けていた少年の名前は西尾宗司朗、事情聴取をした限りでは凶器も持っておらず、また死亡した少年達には外傷が見られないため西尾宗司朗が殺害したとは考えられない。むしろカツアゲの被害者と断定されたが謎は加害者の少年達はどうして死に至ったのかという事。
 明確な死因は不明。なんらかによって心停止したと考えられるが心臓に持病も無く少年達は皆健康体であり、何故死に至ったのかがまったくわからないという。被害者の話を聞けば突然倒れだした、つまり突然加害者の少年達は全員一斉に心臓の機能が完全に停止して即座に脳死へと繋がったなんていう結論に至るわけだが当然そんなもので納得されず、彼女の所属する組織にこの事件が回されたらしい。
 さらに事件は収まることは無く、この二日間で五人の男女が死亡している。
 事件はまだ公表されず、マスコミには規制をかけているためしばらくは表向きに事件が放送されることはないようだ。
 ラヴアの報告は以上。
「うむ、神の匂いがぷんぷんする」
 ルウはアイスを食べ終えて腕を組みながらそう言う。
「もうすでに九人亡くなっています。本部のG.o.dも事件を回された以上早期解決を私達に懇願してくるわでお手上げですよ」
「G.o.d?」
 以前はG.o.tと言っていた気がするが、本部と言っているし彼女の所属する組織は複数あるのか。
「嗚呼、G.o.dは本部であって私の所属はG.o.t――言うならば地方支部なのですよ。支部は全国に二十五ほどあります」
 へえ、それほど大きな組織なのか。
 とりあえず警察よりは役に立つ組織という事は理解できるね。
「そんなことはどうでもいい。問題は神が関係しているのかはっきりさせようではないか」
 ルウの表情がいつもとは違う、凛としたものに変わる。
 神が絡んでいるとなると彼女の雰囲気は突如として一掃された。
「もしも神の力を持っているとすれば西尾宗司朗だ。自分は被害者としてまず誰にも犯人と思われない、一番の安全席に居座れるのだからな」
 それに間近で死に至るのを見れる、もしそうならば下衆な野郎だ、とルウは付け加えた。
「一応私も調べてみましたが、妙な結果が出てきました。西尾宗司朗は夏休みに入った初日に学校へ勉強をしに行っていたのですがそこで転落事故を起こしたらしいのです。話によれば三階から落ちたとか、それなのに彼は数日後には平然と生活して、事件に遭遇。彼が担ぎこまれた病院も調べてみましたが彼を担当した医師は行方不明、病院のカルテも一部消失。実に妙な話です」
 学校の生徒や病院の看護士の証言しか取れず、しかし確かに彼が転落事故を起こして重症だったのは事実。
 ラヴアは最後にそう言って顎に指を当てた。
 確かに妙だ。三階から落ちて重症を負ったはずなのにどうしてカツアゲなんかされているのか、まず歩けるはずも無い。
「姿喰らいかもしれんな、しかし体の怪我は治るわけでは無いし……時間喰らいか」
 まだ神の正体は判断できないようで、ルウは口ごもりながら呟く。
「西尾宗司朗には監視がついていまして、今日は街へ出向いると報告を受けましたので貴方達も一緒に来て欲しいのですがよろしいですか?」
 それは別に構わない、むしろ神が関係しているのならば断る理由は無いだろう。
 ただ一つ虚しくなるのは夏休みだというのに最初の誘いが神と思われる人物の尾行だなんていうわけで、もしも夏休みの日記提出なんてあったら隠滅せざるを得ないだろうね。まあ高校生には日記提出なんてあるわけが無いので安心ではあるも高校生になって最初の夏休みがこんな形で進展するとは、予想は少ししてたけど期待なんてしていなかったね。
 ラヴアはポケットから黒くてごつい、なんと表現していいかわからないけど、そうよく映画で出てくるような無線機を取り出した。
 部下にでも連絡をしているようだが、せっかくの携帯電話はいつ使うのだろう。
 無線機でしばしの話をした後にラヴアは辺りを見回し、
「すぐ近くのようです」
 踵を返す彼女に俺達はついていった。
 
 

 ここに一枚の写真がある。
 歳は同じくらいか、いや、同じだろう。童顔で中学生かと思ったが俺の学校で一年生が着用を義務付けられている制服には一年生用のバッジが襟についている。学校の帰りに撮られたらしく夕暮れの陽光が背景を染める中に彼――西尾宗司朗は立っていた。
 どこにでもいる普通の生徒。目立つほど整った顔立ちでもなく、それほど悪い顔立ちでもない。俺と同じ平凡な部類に入るね、けれども俺よりはマシかも。こんな無愛想な奴なんて下の下にに部類されるんじゃないかな。
「しかし、真面目だな。冬慈も見習ったらどうだ?」
 ルウはつまらなそうに目を細めては遠くを見つめて視線を仰いだ後に、溜息をついた。
 平輪街には図書館は一つしかない。この街が都市開発を優先しているからか、それは定かではないがその代わりに普通の図書館と違って規模は大きい。学校の図書室何個分か、考えるだけ無駄だね。あんな小さい図書室は本もあまり置けずに生徒達は調べ事をするとなれば確実にどんな本も置かれているこの平輪図書館を利用するだろう。
 利用するといっても、それはそれは俺のような勉強なんて知りませんつう頭脳の持ち主ではなく、たとえ片道三十分、自転車やバスを利用しなければ行けないような試練があっても勉強のためなら致し方無いつう頭脳の持ち主ぐらいである。
 周りには眼鏡をかけた老若男女が中心。
 その中に西尾宗司朗はいた。
 机に向かってシャープペンシルを走らせては左手で何やら本を開いている。かれこれ一時間、彼はその場から微動だにせず動くのは右手と左手、それに視線のみ。がり勉、第一印象はこれ。
 一応図書室とあって俺達も本を借りたのだが、ルウは“美味しいお菓子百選”、ラヴアは“携帯電話が完成するまで”。ある意味勉強家だなこいつらも。俺? ああ、俺は“飼い猫の躾け方”だ。我が家にはとんだ飼い猫がいるわけでこの本を読めばきっと躾け方を伝授できると思ったが、本を読みに来たのではなく宗司朗の監視のために来たので一ページ目から手は動いていない。
 俺はとりあえず本を立てて宗司朗を自然と観察できる姿勢へと移す。便乗してルウとラヴアも本を立てた。
 宗司朗を監視してから数分、一人の女性が現れる。
「ラヴア、あれは誰だ?」
「西尾環、彼の姉ですよ。それに知らないのですか? 平輪学園の生徒会長も務めていますよ?」
 そうか、思い出した。
 どこかで見た事があると思ったら入学してまもなくの朝礼で彼女が新入生へ生徒会長の言葉とか言って挨拶していたな。学校が始まってから一週間は毎朝校門で生徒達の服装チェックやら、彼女の前で廊下を走れば厳しく喝を与えられたりと厳格な印象が染み付いている。
 それにしても綺麗な女性だ。腰まで伸びる艶やかな黒髪、前髪は眉毛の下で綺麗に切りそろえられている。ちょっとツリ目だけどその奥に見える黒い縁の眼鏡もまた魅力的。容姿端麗、才色兼備が実に似合いそうな人だ。
「彼女は所謂ブラコンって人です」
「ブラコン……ねぇ」
 ブラザーコンプレックス、良い意味では愛情と捉えられる。
 凛子がブラザーコンプレックスだったらと思わず想像してしまう。あいつが俺に懐いた姿を想像して、いや、普段どおりで十分だなと想像を打ち消した。
「報告ではほぼ毎日弟と一緒にいるらしくて、以前から生徒会長のブラコン説はあったのですがここ数日から、むしろ西尾宗司朗が転落事故を起こした翌日から執拗にべったりですよ」
 こうしてみると、本当にやばい。
 何がやばいかっていうと、あの生徒会長が笑っているのだ。それもすごく可愛らしい笑みを見せている。見間違いかと何度か目を凝らしてみたがやはり笑っている。
 彼女の視線は手に持っている本では無く宗司朗を見つめて動かない。
 宗司朗はどこか表情が引きつっているように見えるのだが、気のせいか。
 しばらくして環さんは腕時計をちらりと見て、用事があるようで席を立った。宗司朗の顔に自分の顔を近づけて、何を求めているのやら。
 宗司朗は近寄ってくる彼女の顔を抑えて何やら言っている。キスなんかしないよ、かな。どうやら環さんはあろう事か接吻を求めていたようだ。
 頬を膨らませて彼女はその場を離れていったが、何だか見てはいけないものを見てしまった気分。
 結局のところ今日はただ宗司朗の勉強を見学しただけでまた夏休みを一日無駄に過ごしてしまった。
 念のため彼を自宅まで尾行しているが、この帰路は何を期待していいのやら。
 ルウは欠伸をして目を擦りながら歩いている。図書館でも監視なんて忘れて眠っていただろうにまだ眠いのか?
 そろそろ住宅街へ差し掛かるところ、宗司朗はティッシュ配りの女性にティッシュを貰って、ティッシュ配りの女性に何やら話しかけられていた。
「あら、あれはいけませんね。あのティッシュ配りの人、平輪学園の生徒ですよ。一年生のアルバイトは禁止されているのに」
 平輪学園の校則に“一年生のアルバイトは認められない”と書いていたね。とはいえ隠れてアルバイトしている生徒はいるだろうし、どうして一年生だけなんだという不満から逆に反抗心を抱いてアルバイトをする人もいるとか。一年生は先ず学校を優先するように、という理由でアルバイトは禁止と夏木先生が説明していたのを思い出す。
 しかしうちのクラスでは無さそうだ、おそらく宗司朗と同じクラスの生徒だろう。
 ティッシュ配りの女性は両手を重ねて懇願する様子、口止めというわけだ。口止め料がティッシュ三個というのは嘆かわしいものだけど。
 しばらく俺達は脇道から三人してその様子を伺う。
 談笑している様子でアルバイトはどうしたのか、どうにも真面目さの欠けた様子にも捉えられるがきっと宗司朗とは友達なのだろう。
 ようやくして話も終わって宗司朗はまた歩いていったので俺達も再開して後を追う。
 ティッシュ配りの女性にティッシュを貰っては懇願でもされるのかな、と思っていた時だ。
 女性の様子が明らかにおかしく、すぐに異変は起きた。
 覚束無い足元、空を仰いで手はふらふらと揺れて持っていたティッシュを落とし、倒れたのだ。
「な……!?」
 何が起こったんだ、と言おうとしたが現状に圧倒されて思うように言葉が出なかった。
 ラヴアはすぐに駆け寄り、脈を図り首を横に振った。
 宗司朗はすでにいない、そばの角を曲がってしまったが、彼がやったというのか。それに一体どうやって? 今まで目を離さずに見ていたがこの女性は何かされた様子も無かったし先ほどまで普通に宗司朗と話していたのだ。
「間違いない、神の力が関係している」
 ルウは死体となった女性に触れてそう言った。
 今までで一番最悪な夏休みを迎えたのを俺は掌から、額から、背筋から溢れる冷や汗と、悪寒と共に実感した。



 第二章 混沌闊歩

 目覚めはとても悪かった。
 寝汗が体全体を包み込んで倦怠感にまみれた身と心を洗い流すべくシャワーへと向かう。夏だからこんなに寝汗を掻いた訳ではない、昨日に見たあの死体が原因に違いない。何が起こったのかわからずに目を大きく開いたまま死に至った死体、彼女の表情が今でも脳裏をちらつく。夢にまで出てきたのだからしばらくは安眠さえ出来そうにないね。
 死因はこれまでに死亡している九人と同じく不明らしい。不可思議な事件に何も手がかりは掴めず、加えてマスコミへの対応もこれ以上は難しいと警察組織が嘆いている、ラヴアがそう呟いていた。
 ラヴアも俺達だけが頼りだと言うけれど、正直俺にはどうすればいいのかもわからないし、俺にとってはルウだけが頼り、ラヴアには悪いが俺達と括らないでルウだけが頼りと訂正してもらいたい。
 あんな光景を目撃してしまって、どうにもこうにも臆してしまった自分を認めざるを得ないな。
 時刻は朝八時を回ったところ。ルウはまだ眠っている。夏休みだからといって深夜までテレビを見ていたために目が覚めたら電源をつけっぱなしにしたテレビの前で眠ってるときた、それも体育座りで。……器用な奴。
 シャワーを終えて俺は居間へ行き、冷蔵庫から牛乳を取り出した。
 朝一番の、それもシャワー後の牛乳ってのはどうしてこんなに美味しいのだろう。コップ一杯分を五秒も掛からずに飲み干してほっと一息。
「……おはよう」
 声はルウかと思いきや凛子だった。
 妙に濁った声、重みとさまざまな負の念を混めた深みさえ声に上乗せしている。
 やけに不機嫌そうなのはラヴアのせいだろう。あいつのおかげで俺は遊び人とでも凛子に誤解されている。
 俺は一度振り返りつつも凛子の目が冷たく鋭すぎて直視出来ず、すぐに背中を向けたままおはようと呟いた。小さい声で、まるでテストで悪い点を叩き出して隠していたのに親に知られては怒られるのを恐れている小学生のように。
「なあ凛子。昨日のあの子はな、別に彼女とかじゃなくてさ、だから浮気じゃないんだよ」
 凛子にとってルウは俺の彼女で、現在同棲しているくらい恋が発展している仲と思われているのである。
 彼女だと紹介したわけではなく、最初の頃も事情があってこの家に居候させると言っていたのに凛子は「遠まわしに言わなくても」なんて言っていたために当時はもうこれで良いかななんて思っていたがこんなところでツケが回ってくるとは予想だにもしていなかった。
「え? じゃああの人は……。よ、夜の営みを築くだけの仲? ケ、ケダモノよ!」
 近くに置いてあった雑誌を投げられ、背中と心にも痛みを与えられてどう言い訳を……言い訳というのもおかしいが誤解を解くためにはなんと言えばいいのか考えているうちに凛子は居間から出て行ってしまった。扉を閉める音も、一つ一つの行動が轟音と化してその後の階段を上がる音、自室へ向かったようだ。
 朝ご飯、どうしようかな……。
 仕方なく食パンをオーブントースターで焼いてみるも朝はご飯派だから物足りず。しかもパンは少し焦げ気味。料理は得意じゃないし、どちらかと不得意なほうなのでフライパンを持とうとは思わなかった。俺が何か作ればしょっぱい、濃い、後味甘い、なんていう妙な料理が完成するので朝からそれを食べるには辛いね。調味料ってのは不思議な素材だ。
 ちなみに初めて料理を作った時、味見をした凛子は号泣したっけな。懐かしい、そして人をある意味で感動(涙を流すという面では同じである)させる料理を作れる自分が悲しい。
 テレビをつけると今日のニュースはやはり昨日の事件が注目されていた。
 変死事件というのはよく持ち上げられるものだが、これまでに九人もの男女が同じく変死しているとなると今までの殺人事件とは比べ物にならないくらいに騒がれていた。マスコミに全ての情報が流れてが露呈されたために新聞や週間雑誌などすべてこの連続変死事件で持ちきりだ。
 昨日の事件で死体の第一発見者としてマスコミに質問とか警察に事情聴取とかされるのかなと不安になったが、ラヴアが手を回してくれたおかげでそれは杞憂に終わって安心した。今日も静謐な朝を迎えられて感謝すべきではあるも凛子と冷戦状態に追いやられた事には恨むまであるね。
 パンを齧って焦げの味をかみ締めつつ耳を傾ける。
 ニュースではさまざまな推測が挙げられていた。
 先ず死者について、死者十人のうち六名が平輪学園の生徒であるために平輪学園と何らかの関係、恨みでもある人物による犯行では無いかという事。
「ふーん……」
 なんて溜息交じりに声を漏らした。
 でも参考にした所で常識など通用しない事件ではある。
 次に殺害方法について、警察の発表によれば死因は不明、外傷も無しというわけで頭部の毛が寂しい評論家は口篭る始末。特殊な劇毒でも用いたんじゃないんでしょーかなんて無責任な言葉を漏らすだけ。さすがに誰もわからないだろうね。
 尚、今日から平輪学園は部活動は禁止、学校への出入りも禁止。
 生徒は外出――特に一人での外出を極力控えるようにと連絡網が回ってきたので俺の夏休みは生きていた中で一番最悪な夏休みだとつくづく実感した。
 しかし溜息を積み重ねている日々を送るわけにもいかない。今は考える事に集中しよう。それぐらいしか出来ないわけだし。
 この事件の犯人は誰か、なんて予想してみる。
 すると俺の脳内では西尾宗司朗が先ず思い浮かぶ。これまでの死者の半数は宗司朗と接触しているのだ、彼には近づくことすら畏怖を覚えてしまう。
 けれども昨日、死亡した女性のすぐそばにいたにも関わらず神音が一切聞こえなかったのが気になる。神が力を発動した時に発せられる音、ルウは以前にそう説明していたがそれならばあの場所で聞こえたはず。宗司朗は神の力を持っていないのか、いやどうであれ確かめる術も無い。
 パンを齧り、俺はしばらくそれを口へ運ぶ作業を繰り返していると室内にチャイム音が鳴り響く。
 誰かが家へ来たようだ、しかしこんな朝早くから誰だろう。どうせ凛子は部屋から出ないし今日のところは俺が対応すべく玄関へ。
 二度目のチャイム音に、はいはい今行きますよと俺は玄関の扉を開けた。
 扉を開けると同時に三度目のチャイム音。目の前にいるよしつこいなもう。
「あ、おはようございます」
 そこには四度目のチャイム音を鳴らそうとしていたラヴアがいた。
 今から仕事でもするのか、それとも仕事中なのか、昨日とは違った黒いスーツの地味な服装。流石にこの暑さでは上着なんてまともに着れないようで上着は手に持って額から滴る汗をハンカチで拭うラヴア。
「……おはよう」
「貴方の言葉には不機嫌と不愉快が含まれているように感じますが気のせいとしましょう」
 そこは気のせいにしないでほしいな。
 誰のおかげで朝食はこんな惨めなパンを齧る羽目になったのか、さっきなんか凛子には何を言われたか教えてやりたいね。生まれて初めてケダモノと罵られたもんだから精神的なダメージは思いのほか大きい、慰謝料をラヴアに請求して突き付けるのはどうだろう。
「今日はこんな服装で申し訳ありません」
 何が申し訳ありませんなんだ、俺はお前が昨日のような可愛らしい服装ならば朝っぱらから頬を赤らめてにんまりするとでも思っていたのかい? 残念だが今の俺はたとえ目の前にエロ……魅力的な姿をした君がいても劣情など沸かず代わりに憤怒を沸かせて視線を投げつけるね。
「中に入ってもよろしいでしょうか?」
「その前に」
「何です――ふぐっ!?」
 頭にチョップ。
 これで俺のストレスは気休め程度ながらも解消された気がする。
「……もう、事件について話そうと思ってきたのに酷いです」 
 そうかそうか、朝っぱら俺の家庭を打ち壊すために来たのかななんて思っていたがそれならば仕方ない。
「……入れ」
 仕方なく、そう仕方なく中に入れて居間へ案内した。朝っぱらから元気な太陽の下で「用があるならここで話せ」なんても言えず、こいつが居間に居る間は凛子がずっと居間へ来ない事を祈る事にする。
 牛乳と麦茶、どっちがいいかと聞けば牛乳と即返答。
 こくこくと飲む彼女は半分ほど残した辺りで溜息一つ一息一つ。
「そういえばルウさんは?」
「まだ寝てるよ、昨日は夜更かししてたみたいだから。起こしてこようか?」
 学校がある日ならばもうすでに起きてはいるが今は夏休みだ。ルウが起きるにはまだ時間が掛かるだろうね。俺は休日でも学校に行く時間となれば目が覚めてしまう。習慣にでもなっているのかな、まあそれが一般的な学生には無遅刻無欠席を貫ける最大の武器ではあるんだが。
「お願いします。私は牛乳でも飲んでいますので。これは美味しいです、きっと最高級牛乳に違いないです」
「何を隠そう、最高級牛乳だ」
「ですよね! 私は今幸せです!」
 残念だがスーパーでよく売ってる一番安い牛乳なんだよねこれが。しかし知らぬが仏、彼女には最高級牛乳の味って奴に浸ってもらうとしよう。
 二階に上がり、凛子の部屋を気にしつつも俺はルウを起こしに行った。
 部屋に入るや、まだ体育座りを維持していた彼女には感服さえしてしまうよ本当に。どうしてこの状態で熟睡できるんだろう、ずっと座ったままでは尻が痛くなってしまうんじゃないか。
「ルウ、朝だよ。ラヴアも来てるし起きてくれ」
 ……反応無し。
 ぐっすりと寝息を立てて表情は何故か幸せそうだ。どんな夢を見ているのやら。
「ルウ、ラヴアが来てるんだ、起きてくれ」
 ……眉間にしわが寄った。
 反応有りだが、しかし不機嫌そうに表情が歪む。今起こしたらさぞご機嫌斜めなルウとご対面しそうだが起こさずにはいられない。
「ル……」
「んん……眠いのだ!」
 勢い良く開眼したと思いきや、右手を振り翳して俺の頬に一閃。
「……ルウ」
 一閃した勢いで体は横に流れてぱたりとルウは倒れ、そのまま再び寝息をたてる。
 どうしてこいつは夏休みに入ってからこんなに我儘を突き通すのだろう、少しは俺のために行動してくれたっていいじゃないか。簡単なことだよ、目を覚まして顔を洗ってラヴアの前に行って「おはよう」と挨拶をしては朝一番の牛乳でも飲んで話を聞けばいいだけじゃないか。
 それなのに何故俺の頬に涙を誘う痛覚と綺麗な赤い紅葉が咲くのか教えて欲しい、俺は正しい事をしていると自負しているのだがこの選択を打破する説明文を原稿用紙一枚分くらいは述べてもらいたいね。
 仕方なく俺はルウを慎重に抱きかかえて一階へ運ぶことにした。
 少しでも荒く運ぼうとすればルウの眉間にはしわが寄るために階段を一段一段下りる足取りは慎重にならざるを得ず、いつもなら五秒もあれば余裕で下りれるはずが五分は掛かったんじゃないだろうか。
 居間のソファにルウを横にさせて俺は大きな溜息をついた。純粋に疲れからの溜息だ。
 まだ眠っている彼女をラヴアはしばし見つめる。
「どうせならお前が起こしてやれ」
 そして俺を見て彼女は首を傾げた。
「しかしどうして、貴方の頬に紅葉マークが出来てるのですか?」
「うるさい」
 ラヴアも同じ目に遭ってくれれば俺の心はきっと炎天下の太陽の下でも暢気に口笛を吹いて清々しくしていられるね。
「ルウさん、起きてください」
 肩を揺らされて先ほどと同じく眉間にしわが寄り、不機嫌そうな表情に。心が躍るな、これから面白いものがみれると解っているとさ。
「ん……ラヴアか。おはよう」
「おはようございます」
 ……頬を擦ってみる。
 さっき俺は頬に平手打ちを受けたはずだよな。
 それなのに目の前では随分と平穏な朝を迎えているではないか。平手打ちも無いしにこやかに笑みを見せるラヴアに対して眠そうに瞼を擦りつつも笑顔を作るルウ、どうして俺の時にそう対応してくれなかったのか、そして先ほどの記憶があるならばどうして平手打ちなんかしたのか理由を聞きたい。
「歯磨きと顔洗って来い……」
「うむ、そうするとしよう」
 しばしの事、顔を洗ったにも関わらずまだ寝ぼけ面のルウを迎えて、ラヴアは口を開いた。
「実はですね、これまでの事件について妙な事が一つあるのです」
 最初の事件にて西尾宗司朗は男性四人に暴行を受け、男性四人は死亡。ここまでは以前にも聞いた。
 しかし付け加えられた情報は、その後の事件は全て女性であり共通点はおそらく全て西尾宗司朗と接触した者。目撃証言が少ないため推測の段階だがこれまでの事件で死亡したのは平輪学園の生徒が中心である事から十分に考えられる、との事。
 そこで彼女は言葉を止めた。
 上着の内ポケットに入れていた折り畳まれた一枚の紙を取り出し、開いた紙を見ながら再び口を開く。
「五人目の亡くなった女性と行動していた男性によりますと、西尾宗司朗と会話をした後に女性は突如倒れて死亡、六人目の街中で亡くなった女性は若い男性と話をしていた後、しばらく歩いた後にて死亡。男性が誰かは解らず。その後も同じ傾向が見られましたが、五人目以降は彼に危害を加えなくても女性なら見境無くという印象がありました」
 ならば女性の場合宗司朗と会話をすることさえ命の危機につながるという事なのかもしれない。
「けれども犯人は宗司朗だとして、動機がわからないな」
「むしろ西尾宗司朗が犯人だとしたら違和感すら感じます」
 そう、違和感を感じる。
 どうやらその違和感を感じていたのは俺だけでは無いようだ。
 まるで自分に危害を加える者以外は女性を選ぶような、それに会話をしただけで殺害なんて何を考えているのかすら理解できないし、これほど私は犯人ですと言わんばかりの犯行が引っかかる。本当に宗司朗が犯人ならばそんな犯行を重ねるだろうか。
「西尾環をどう思います?」
「ああ、宗司朗の姉さんか」
 ブラコンの人、すぐに思いついたのはそんな印象。
「ええ、こうは考えられませんか? 犯人は西尾宗司朗では無く、西尾環だとしたら。最初の事件は西尾宗司朗を守るために、その後の事件は宗司朗に近づく女性に対して、彼女の独占欲が引き金となったと」
「そう考えるとなんだか自然だね」
「うむ、宗司朗では無いかもしれん」
 先ほどの眠そうで気だるそうな表情などとうに消えたルウはいつに無く真剣な表情で言う。ようやく頭もお目覚めのようだ。
「神音が聞こえなかった事もあるしな。能力では神音を発しないものもあるらしいが、触れて記憶を読もうにも神の力が干渉していれば読むことは難しいし、いや……うーむ、やはりこの目で能力を確認しない限りなんとも言えん」
 神の力を発動しているところを現行犯逮捕でもしないといけないようだ。
「結局今のところどちらが神の力を持ってるかなんて確認は出来ないってわけか……」
「ですが西尾環も気になります、犯人である可能性も十分考えられるかと。……しかし西尾宗司朗も監視はしないといけませんし、無難に昨日と同じく行動するしか無いようですね」
 となるとこれからも一応犯人かもしれない宗司朗を見張る日々を送るわけでどうやら俺の夏休みは今後とも探偵紛いな日々を送るようだ。
 まあどうせこの事件のせいで学生達は遊ぼうとも思っていないだろう。平凛学園の生徒がもう何人も殺されているのにこれでも遊ぼうなんていう無謀な奴はいない、幸いうちのクラスでは死者が出なかったものの他のクラスでは亡くなった生徒の葬式も近々やるようだ。
「しかしどうしましょうか……」
 昨日のようにただ尾行するだけでは同じことの繰り返しになる、宗司朗か環さんに近づいて神の力を見せてくださいなんて言ったところできっと天へ召されるので悩んでしまう。
 環さんに近づくのは何よりも危険だとして、宗司朗には探りでも入れたい。
 ラヴアはそう呟いて牛乳を一口。
 これまでの死者は女性に集中しているのならばルウやラヴアは駄目でも俺なら大丈夫ではないか。ふとそんな事を考えてみる。
 実際に会って接していれば何か掴めるかも知れない、たとえ犯人が宗司朗で無くてもきっと姉の環から手がかりが出てくる可能性はあるに違いない。
「宗司朗と接触する女性は危険なんだな?」
「ええ……連続して同じような傾向で行われているので可能性としては言えますが」
「……なら俺が宗司朗に近づいてみるよ」
 唐突な提案に、二人は牛乳を同時に飲んでる最中でむせた。



 心臓の鼓動がいつもよりも僅かに荒く脈動する。
 今の状況を説明するならば……そうだな、ここに何も変哲も無い食べ物があったとして「もしかしたらこれは毒かもしれないけど食べなさい」と強要された時に、おそらく俺は今と同じ気分に浸るだろう。目の前にいるのは普通の高校生だ。歳は俺と同じで外見は短髪の童顔でさわやか系とでも言おうか、無愛想だなと第一印象で必ずや思われる俺と違って可愛いと第一印象に必ずや浮かぶだろう西尾宗司朗は二日後にて図書館に現れた。
 事件からそれほど日が経っていないが、平輪学園の生徒は結構外出している者が多い。今日図書館へ行く道中でもちらほらと見かけた顔が通りかかっていたのを見たし、事件よりも夏を満喫って感じ。
 そのために教師と警察官が巡回を始め、一人で外出している生徒がいると容赦無く自宅へ帰される生徒もいるとか。平輪学園の生徒が立て続けに亡くなるとなれば、教師達も必死だ。夕方以降では完全に生徒を追い返しているとの話も聞いた。ちなみに米崎情報。
 そんな中でも、西尾宗司朗は以前と同じ図書館にいた。
 自分はどうせ殺されることも無いから安心だともとれる。
 今日は一人らしい、辺りを見回しても姉の環さんはいない。
「と、隣いいかな?」
 唇が僅かに震えて、家から持ってきた適当な教科書を持つ手に力が入る。
 大丈夫だ、自分にそう言い聞かせた。
 ルウとラヴアは俺の見える場所で監視しているし、ルウ曰く神約者イタカが俺の中にいるためたとえ何らかの神の力による攻撃を受けても一撃だけで死に至る事は多分無いと言っていたんだ。
 多分って言ってたけど大丈夫、大丈夫だ。といっても不安と恐怖が一掃されるわけもなく、クーラーの効いた図書館で額から汗を流しているのは俺くらいか。
 イタカがいるから大丈夫ったってイタカの奴は最近ちっとも反応してくれない、俺の精神の中は居心地良いからしばらく冬眠する(だが今は夏)とか言い出したきり何も返事をしてくれないとなると不安は膨らむばかりだ。もういっそこの不安を破裂させてどうでもいいやなんていう気構えで向かったほうが楽だね。自暴自棄とも言うけど。
「うん、いいよ。確か、五組の榊君だよね?」
「ああ、知ってたのか?」
 榊なんて呼ぶ奴は少ない、俺は冬慈で良いよと付け加えた。
 とりあえず会話が出来て一安心。
「五組には結構友達がいるから教室を出入りしたこともあるし、米崎さんとかも知ってるよ」
 へえ、米崎を知ってるのか。あの歩く怪奇新聞みたいな奴を。
 米崎はこの三日間、俺にかなりの頻度でメールをしてきて新手の睡眠妨害をしてきてだな、とりあえずあいつは現在起きているような怪奇漂う事件が大好物でこの事件についての感想を聞いてきたりと興奮中でね、ってまあそんな話は良いか。
「ちょっと暇つぶしに来てね、今の事件のせいで遊び相手もいないし困ったもんだ」
 どうせ事件が起こらずとも遊び相手はいないわけだが、悲しくなるので考えることを止めた。
「本当に怖い事件だよね。うちのクラスでも亡くなった人いるんだ」
 深い溜息には悲しみが含まれているように感じる。彼が殺したのならばこんなにも感情を込めた溜息をするだろうか、それとも演技か……? 
 続けて彼は溜息の終わりと共に再び口を開く。
「でも家にも居たくないしさ、どう言われてるか知ってる? 僕の姉さんの事」
「その……あれか、ブラ……コンとかいうやつ?」
 宗司朗は姉がどう噂されているかとっくに知っているようなので口には出してみるものの、この単語は些か抵抗がある。
「そう、それ。姉さんったらもう酷いんだよ、家に居ればいつも宗司朗宗司朗って集中出来ないから図書館に逃げ出したよ。事件で外に出るのは怖かったけどね」
「そりゃあお気の毒に」
 結構すんなりと会話は続く。というよりも話しやすい。今まで話した事がなかったから何を話せばいいかななんて考えていたものの彼は意外と自分から話をしてくれる。
 真面目で、明るくて、彼のその穏和な雰囲気を纏った性格にいつしか時間も忘れて話をしていた。
 お互い勉強の事なんてすっかり頭から離れて手に取っているシャープペンシルはただの飾りそのもの。宗司朗は話し相手が欲しかったのかもしれない、自分の心に溜め込んだものを吐き出すように彼の口は閉まることが無く、俺も彼のために耳をずっと傾けていた。
「ありがとう、話しかけてくれて」
 ふと宗司朗はそう言うと、刹那に瞳が悲しみを灯す。
「一人だと心細くて、寂しくてね」
 姉がいるじゃないか、と思わず言おうとしたがあの姉では一日中一緒にいれば俺ならきっと心労で倒れてしまうだろうね。凛子がもしも彼の姉と同じ性格だとしたらと考えると、鳥肌が立ってしまう。昨日なんて環さんは彼に接吻を求めてきたんだ、もし凛子が俺に接吻を求めてきたら俺は凛子を連れて精神病院に駆け込まなきゃならなくなる。
「お礼を言われるほどのことじゃないさ」
「それでも、僕はありがとうと君に言いたかったんだ。何のことの無い、独り言とでも思ってくれても構わないよ」
 宗司朗の笑顔は心から安心しているような、もしも彼が犯人でこれが演技だとしたら大したものだ。
「そういえば、君さ。学校で転落事故起こしたんだって? ちょっと小耳に挟んだんだけど」
 ここで話題を変えてみた。
 どう反応するか、それと気になったからね、彼の転落事故に関しては。
 宗司朗は一瞬、目を逸らしてしばらく俯き、再び視線を合わせた。その刹那の仕草には何か言いたくない事でもあったようにも思える。
「その……憶えてないんだ」
「憶えてない?」
 どういうことだろう。宗司朗はまた俯いてしまう。
「目が覚めたら病院で、僕はベッドの上にいたんだ。姉さんは泣いてて何がなんだかわからなかったよ。病院にいたのに僕は怪我なんてしてないしさ」
 記憶が無いというのは、何か隠しているのか。
 当時の話を聞くと夏休みが始まってすぐに勉強のために学校へ、三階まで上がったところで記憶が曖昧だという。気が付けば病院のベッド、右手右足にはギプスされているも骨折でもしたのかと思うも痛みは無く、普通に動かせたとか。医師に診られるも怪我など無くギプスも取られて即日退院。看護士には不思議な視線を送られたようだ。
 ここで一つの推測をしてみた。
 彼は神の力を得て怪我を癒しその力を使って殺人をしているのではなく、何者かが神の力を得て宗司朗を助けたのではないか。
 身近な存在、そう――環さんが神の力を得ていたとすれば。どうやって神の力を得たのかはわからないが重症を負った宗司朗を助けるために神の力を得て救ったと考えるのが自然ではないだろうか。記憶が曖昧なのは神の力がなんらかの影響を与えたのかもしれない。
 しかしその後の殺人は何を動機として行っていたのだろう。最初の事件では宗司朗が危機に曝されていたからこそ助けたのが妥当だがその後の事件は?
 注目すべきはやはりラヴアが言っていた、宗司朗に近づいて亡くなったのは女性ばかりということ。
 しかも話しかけただけで殺害などどう考えても動機がわからない。いや、動機なんていらないのかもしれない。環さんの宗司朗への執着は尋常では無いのだ、行き過ぎた愛情が宗司朗に話しかけた女性は皆敵に見えるのかもしれない。
 自分に置き換えて、例えば凛子に友達が自宅へ来たとしよう。友達が女性ならば特に気になどしないだろうけど、もしも男性なら俺は気になって様子見でもしたくなる。
 異性ならば会話をしていた様子でさえも、気にせずにはいられない。環さんならなおさら宗司朗が誰か女性と、そう特に歳が近い女性と親しく話をしていれば彼女はどう思うだろう。愛着、執着、そういった感情が普通よりも強く、さらに神の力を持っているとすれば、その力をどう利用するか。
 宗司朗が神の力を持っていれば今までの犯行は違和感が残るが、環さんならば考えられる気がする。
「どうしたの? 大丈夫かい?」
 宗司朗の声で我に返る。
 いけない、宗司朗の事さえ忘れて考えすぎていたようだ。悪い癖だ。
 一度何か考えれば深くまでずぶずぶと進んでは一人で推測に推測を重ねてしまう。俺が事件や探偵ものの小説を読んだ時なんか読み終わるまで何日かかるものか。読んでは考え、読んでは考えってね。
「いや、なんでもないよ」
 時刻はまだ午後を回って間も無くの頃ではあるも、事件によって物騒な時期になっているのだ。そのため日も暮れておらず帰宅には少し早い時間だが宗司朗は帰るらしく勉強道具を片付けていた。国語、数学、英語、俺の嫌いな教化ばかり。
 得意なの? そう聞けば「いいや、得意でも好きでも無いけど得意で好きになりたいから勉強してるんだ」なんていう生徒の鏡みたいな発言に眩しくて彼を見れないね、眩しすぎて彼の姿が生徒の神様のようにも思える。うん、自分で喩えて何がなんだかわからなくなってきたけど、こいつはすごいなあという感想が一番の表現。
 今日は自分なりに考えがまとまった気がする。ルウとラヴアには今日の事を話してみよう。
 宗司朗は神の力を持っておらず、事件の犯人では無いかもしれない。確証の無い推測だけど。
「「あ……」」
 図書館から出て、俺達は言葉を重ねて同時に表情を歪めた。
 いくら太陽を見るたびに文句を言うからって、今日は雲に隠れて雨を降らせるのは酷いだろう。
 午前中からわずかに雲が目立ち始めて怪しい天候を醸し出していたが、今日の降水確率はどうせ降らないのでもっとも低い数字でも挙げときますなんていう雰囲気だったし、何より家を出るときに外を歩く人々は誰もが傘を持っていなかった。まあ降らないよななんて呟いてたがどうやら今日の天候は天邪鬼らしい。
 雨が降ったのは数分前のようだ、まだ路面は完全に濡れておらず、もう少し遅めに降ってくれれば良いもののなんて今から文句を言ったってしょうがない。
「雨降ってるね……こりゃあ走って帰るしかないなあ」
 溜息混じりにそう言う宗司朗も傘を持ってこなかったようだ。
「気が滅入るよまったく……」
「僕の家は結構ここから近いしどうだろう。雨宿りでもしていかない? 傘も貸せるしさ」
 そういえば昨日の尾行で知ったのだが宗司朗の家はこの図書館から近い。歩いて十分、走って五分ってところか。思っているよりも時間は掛からないかもしれない。
「ああ……助かるよ」
 内心では宗司朗の家に行くことはつまり環さんと会うなんて考えれば心臓の鼓動が少しずつ脈動に脈動を重ねていくくらい、不安に包まれてはいるもののここで断るのも悪いし、何より口が勝手に動いてしまった。行くしかあるまい。
 ルウとラヴアはちゃんとついてきているだろうか、宗司朗の家には入れないだろうけど様子見ぐらいなら出来るだろう、何かあればきっと駆け込んでくれるはずだ。
 俺は宗司朗についていき、少しでも雨に当たらぬよう壁に沿って走る事数分。
「宗司朗、大丈夫? 濡れたでしょう? さあ、私の傘に入りなさい」
 雨に打たれて人ごみの中を駆ける最中、こちらへ駆け寄って現れたのは、環さんだった。
 傘を差してはいるがどうして一つしか持ってこなかったのだろう。
 ……考えるまでも無いか。彼女は要するに宗司朗と相々傘をしたかったに違いない。
 宗司朗はそんな姉を見るや、後ずさりしては苦笑いを浮かべた。
「あら……。そちらの方は?」
「と、友達の榊冬慈君だよ」
 声が震えてるぞ、頑張れ宗司朗。
 そう思いつつ、俺も環さんの登場には流石に心臓は跳ね上がり、冷や汗が頬を伝っていた。環さんが神の力を持っていたら、今俺は紙一重な状況に置かれているわけだ。
「友達? ふふ、冬慈君。貴方は光栄よ。宗司朗に友達として選ばれたという事は貴方の人生でもっとも素晴らしい経験を与えるでしょう。しかし、宗司朗の友達として相応しいものなのかは私もきちんと査定をしなくてはね。そうね……まずは」
 さ、査定だって? 査定次第で俺はどうなるのか、教えてもらいたいものだ。まさか成績が中の下っていうだけで即死って事は無いよな?
「姉さん! そんな事はいいから!」
「あ、そうね。それよりもまずは私の傘に入って一緒に帰らなければいけなかったわね」
「違うよ! ああ……もう、こうしてたらずぶ濡れじゃないか……」
「雨に濡れた宗司朗も素敵よ。こうして眺めていたいけど宗司朗が風邪を引いてしまうのはいけないわ、さあ、早く傘に入りなさい。……でも、宗司朗が風邪を引いたら私が看病するのよね。それも良いわ、すごくいいわ」
 どんな姉かは予想していたけど、その予想をはるかに上回るブラコン振りで俺が想像していたようなブラコンは最新のブラコン情報として書き換えられるだろう。 
 遠慮しなくていいのよ、なんて両手を広げてもはや傘に入るのではなく胸に飛び込んでこいという姿勢に宗司朗は長く深い溜息をついて環さんを無視しては歩き出した。
「宗司朗、傘に入ることで雨から避ける事も当然だけど、たとえ家が近くでもその短い距離、短い時間で私達の絆は育む事が出来るのだから遠慮しなくていいのよ」
 遠慮という言葉は環さんに授けたい。
 そうしている内に次第に強くなってきた雨は容赦無く服をずぶ濡れへと追い込んでいくわけなのだけれど。
「冬慈君、ごめん。服が濡れちゃったし傘と一緒に着替えを貸すよ。本当に……ごめん」
 最後の謝罪はとても悲しみに満ちていて、同情せざるを得なかった。



 そういえば宗司朗と俺は背を比べればどちらも同じくらいだったなと思いつつ、貸してくれたサイズぴったりの宗司朗の服に着替えて、ずぶ濡れになった服は現在西尾家自慢の乾燥機(らしい)にて乾燥中。
 そこまでしてくれなくても別に傘を貸してくれるだけでもありがたいのにと思いつつ、宗司朗曰くこれぐらいしないと申し訳ない気分なんだ、というわけでそれほど乾燥には時間が掛からないようだし宗司朗の部屋にて飲み物を頂いている。
「では次に冬慈君、友人と歩いている時に憧れの異性が来ました。気づかないふりをする、挨拶するだけ、自分から声をかける、お茶に誘うのうちどれでしょうか」
 そう、宗司朗の部屋に居る。
 テーブルには紅茶とケーキが一つ。クーラーが効いていて快適な室内は散らかった様子も無くどこをどう見ても整理整頓という言葉が似合う、俺のごちゃごちゃとした部屋よりすっきりしていて居心地が良い。
「さあ、どれ?」
 しつこいようだが、俺は現在進行形で宗司朗の部屋にいる。
 何度も自分で確認して目の前を見る。
「答えなさい」
 そこには宗司朗の姉、環さんがいた。
「自分なら、気づかないふりをする……と思います」
 何故宗司朗の部屋にこの人がいるのだろう、なんて思ってたらいつの間にか座り込んで俺に質問をしてはかれこれ数分、その間に質問の数などどれほどしてきたのかもはや数えてもいない。おそらくは心理テストなのだろうけれどこれが彼女のいう査定というやつなのか、答えの結果次第でどうなるのかを先ずは教えてもらいたい。もしも命に関わるのだとしたら俺は真剣に、いや、今でも真剣に答えているのだがきっと長く時間を使って答えるに違いない。
「なるほど。大体貴方の事は理解できたわ。貴方なら心配は無さそうね、でも一つだけいい? その無愛想な表情はなんとかならないかしら?」
「……努力してみます」
 査定はどうやら合格。
 合格したとはいえ寿命は縮まった気がする。
「姉さん、そこら辺でいいだろ? 自分の部屋に行ってくれよ」
 環さんは心外だとばかりに肩をすくめると、口を尖らせて隣に座る宗司朗の頭を撫でる。
 宗司朗は黙って撫でられるも、米神に血管が浮き出ている様子から心は怒りで充満してるようだ。
「宗司朗、いい? このテーブルには紅茶とケーキが三つあるのよ。つまり私はこの紅茶を飲み干し、ケーキを食べ終えるまではこの部屋にいる権利が与えられていると同じであって、そしてこの紅茶とケーキは私が事前に買っておいたもので本当は私と宗司朗と、あとは二人で一緒に食べる用としてでね」
 一緒に食べる用は不味そうだ。味というより状況が。
「勇さんの分は無いのかよ! 姉さん、ここは僕の部屋でこの部屋は僕の独立国家であって僕が権限は俺にあるの!」
 勇さんとは家族の人かな、家族にしてはさん付けなんてしないだろうし何か事情でもありそうなので聞かないでおく。
 それにしてもこうして見れば何気に二人は仲の良い姉弟。しかしどちらかが神の力を持っている。俺は環さんだと今のところ思っているが故に心臓は終始ゆとりを得てくれるような様子は無さそう。でも穏和な空気に包まれたこの雰囲気が僅かに心を落ち着かせてくれる。いいね、俺なんか今凛子と冷戦状態にあるっていうのに羨ましい。
「宗司朗、男二人の空間だと過ちが起こりかねないものよ?」
「姉さん、何を想像してるんだよ!」
「何って……? ねぇ?」
 環さんはどうして俺を見るのだろう。それも鋭い眼光で。
「もう! ケーキ食べ終えたら出て行ってよ!」
「照れなくてもいいのよ?」
「照れてない!」
 そんな会話がしばらく続いて、結局宗司朗は環さんを部屋から追い出せず環さんはケーキ一口をゆっくりと食べ始めるわで、食べ終えるまでどれほど時間が掛かるのか。
 宗司朗は痛そうに眉間を指で押さえて嘆息を漏らした。
 長居するはずは無かったのに、気が付けば時間は二時間ほど経過。
 その間はというと環さんによる宗司朗の今まで歩んできた素晴らしい人生ってやつを延々と聞かされて今夜は宗司朗の夢でも見そうだ。宗司朗は大変そうだな、環さんは別に悪いとかでは無く宗司朗に対して過保護な面を持っているようだけど俺に話をしてる間は宗司朗の頭を撫でたり、手を握ってきたりとブラコンの極みを見れた気がする。
 でも彼女が神の力を持っていたら、あの過保護さが宗司朗に近づく女性を敵と見なしていたら、恐ろしい凶器となるだろう。
 服も乾いて宗司朗は丁寧にも濡れないよう袋に包んで渡してくれた。そこまでしなくても、今着替えればいいと思うがどうにも宗司朗は環さんの振る舞いを見せてしまった事に罪悪感を抱いていたようで、彼の気遣いは遠慮せずに受け止めたほうが彼のためになると思い俺は何も言わず受け取った。
「今日は本当にごめん」
「いやいや、楽しかったさ」
 なんていうか、色々とね。
「それならよかった」
「暇な時は図書館に行くよ。夏休みの宿題も片付けないといけないしさ」
 宗司朗の家を出て豪雨に近い、雨水を傘で受けながら街へ向かった。
 歩きながら俺はメールを打った。相手はラヴアだ。
 ルウとラヴアはしっかりとついてきてくれたようだがさすがに宗司朗の家の仲間では監視できず、加えていつまで経っても俺が出てこないために近くの喫茶店で待っていたという。ここからは数秒とも掛からない。
 少しの間、環さんへした質問を思い出す。
『聞いた話によると宗司朗が夏休みに学校で転落事故を起こしたらしいけど、大丈夫なんですか?』
 宗司朗が乾燥機から俺の服を取り出すために部屋を出ている間、話題が夏休みの宗司朗の生活に移ったのでそこでなるべく自然に聞いてみたのだ。
 環さんはその時、
『……さぁ? そんな事あったかしら。憶えてないわ』
 感じたのは刹那の沈黙に妙な違和感、そして微かに空気が重くなった。
 環さんも宗司朗の転落事故に関して憶えてないなんてことは無いだろう。宗司朗の転落事故がきっと事件の始まりだったに違いない。神の力もその時に得たのだろうが、嗚呼、よくわからなくなってきた。
 あの転落事故によって出てくる矛盾、それは宗司朗が何事も無かったかのように過ごしている事。
 普通なら夏休み中はずっと病院にいてもおかしくないはず。ラヴアの話では三階から転落したというのだから怪我も重症、運が良くたって入院は免れない。その矛盾を環さんは無かった事にでもしたいかのような様子。
 でも起こった事実は隠せないのだ。転落事故については聞き込みでもしてみるか。
「そこの人」
 すると、雨の中でもよく通る声が聞こえた。女性の声、聞き覚えの無い澄んだ声だ。
 声のほうへ振り向くと、少女が一人。それほど幼い訳でもなく、それほど大人びてもいない外見。雨に打たれて長い黒髪がまるで砂浜に打ち上げられた海藻のようにだらりとして、少女の顔はそれに覆われて表情が伺えない。
 明らかにサイズが合っていない白地のTシャツとジーパンもずぶ濡れで、これはただ事ではないと俺は彼女に駆け寄った。
「だ、大丈夫?」
「気遣いはいらないの」
 差し出した傘を拒められ、少女はそのまま雨に打たれることを選ぶ。
「いや、でも……」
「しばらくは誰も死なないわ」
「え……?」
 聞き取れなかったのではない、言葉の意味が掴めなかった。
 彼女は視界を遮る前髪に手を添えて、ゆっくりと髪を横へ流す。
 ようやく顕になった彼女の瞳、鼻、唇。整った顔立ちは美しさと、僅かに愁いを帯びているように感じた。
 身長は俺より少し低いほうか、女性ならば背はそれなりに高い方と扱われそうだ。しかしこうして近くで見ても彼女は誰なのか、知り合いの中でこのような女性はいたかと脳裏を探ってみても誰とも一致しない。今初めて会い、初めて会話した。それなのに彼女は俺を知っているかのように話しかけてきている。
 彼女の視線がゆっくりと俺の瞳へと動く。
「あの子の愛情は落ち着いてる、大丈夫よ」
 唐突な話に何を言っているのか一瞬では理解できなかった。
 けれども愛情、その言葉がとある連想へと繋がる。
 彼女の話は、もしかしたら現在起きている事件の事についてでは無いか。今、何を話しているか、何を伝えようとしているのか、しかしその前に彼女が何者なのかを問い詰めたい。
「君は……」
「冬慈、遅いぞ」
 言下に背中からルウの声が投げかけられて振り返った。
 ルウとラヴアは一つの傘に二人して入って歩いて来ている。どうやらすぐ着くであろうというのにいつまで経っても俺が喫茶店へ来ないために迎えに来てくれたようだ。
「一人で何をしてるのですか?」
 ラヴアの問いにはっとして再び俺は振り返った。ルウ達よりも今気がかりなのはこの少女――なはずだがもうすでに少女の姿は無く、まるで幽霊にでも遭遇した気分。
「どうした?」
「いや、今女の人に話しかけられてて……」
「誰も居ないではないか」
 でも確かに少女はいた。
 しばらく曲がり角など無い直線の道だというのに、先を見渡しても少女の姿など無く、背筋がぞっとする。
 一体どこへ行ったのだろうか。しかしどこへ行ったとかそういう事よりも彼女が一体何者なのかという事を優先して考えたほうが良さそうだ。あの言い方、彼女はきっと事件について何か知っているはず。
 俺は帰路を歩んで刻む中、少女の言葉をもう一度振り返った。
 しばらくは誰も死なない……か。



 第三章 手帳とあざみと、時間喰らい

 白くぼんやりとした空間だった。
 目をこらしても辺りははっきりと見えず、視界は右へ映ると窓が並んでいる。
 窓からは校舎と中庭が見えた。学校の三階のようだ、となるとここは廊下。
 窓を開けて風を引き入れ、頬に流れて通るその感触が心地良かった。
 誰かが話しかけたようで、視界は右へ旋回。誰か立っている。制服から男子生徒のよう。身長はそれほど高くない、この視界が少し見下ろしているくらいだから。
 しばらく話をしているらしいけど、声はまったく聞こえない。それどころか、まったくの無音。
 肝心な顔も白で打ち消されて伺えず、でも不思議とその人物が怒りをぶつけているのは感じ取れた。
 男子生徒は肩を強く押した。
 視界が激しくぶれる。足がバランスを崩して上体が激しく傾き、見えたのは空。
 そうか、窓から落ちたらしい。
 最後に見たのは男子生徒が窓から覗いている様子。
 それと、今まで無音だったのに地面へ落ちた音、骨が砕ける音で視界は漆黒に塗りつぶされた。
 気がつけば見慣れた素朴な白、天井だ。
 どうやら夢だったらしい。
「嫌な夢……何なのよ……」
 窓を見るとまだ薄っすらとした青、深夜というにも明るく、朝というにも暗く。
 目覚まし時計はまだ四時を過ぎたばかり、眠気も解消されずに全身を気だるさが包み込む。これからもう一度眠ればそれほど心地が良い事は無い。
 でもあんな夢を見てしまったから妙に心細い。
 本当に嫌な夢、なんだったのかしらあれは。宗司朗があの時学校の窓から落ちたときのような……考えすぎかな。宗司朗のことばかり考えてたから夢に出てきてもおかしくないかもしれないわね。
 嘆息をついて目をこすりつつ私は部屋を出て宗司朗の部屋へ行った。
 物音を立てないようにそっと扉を開けて、宗司朗の寝顔を確認。
 うん、ぐっすり眠ってる。宗司朗も寝顔もすごく可愛いわ。
 私は慎重に布団を持ち上げ、宗司朗の隣へと寄り添って眠りについた。


   *    *    *

 
 一週間の時間が流れた。
 あの少女が言った通り事件によって誰かが命を落としたという報道も無くぴたりと止んで、日常は実に薄っぺらな平穏という時間を漂わせている。
 この一週間、俺は何もしていたわけでも無く以前に借りた傘と着替えを返すべく宗司朗に会っては一緒に飯でも食べたり、はたまた図書館に通って宗司朗と会話をしていたり、街で会った生徒とは宗司朗の転落事故について聞き込みもしていた。
 気になるのは皆転落事故に関しては記憶が曖昧であるのだ。
 宗司朗は夏休みに学校で転落事故を起こした? なんて聞けば皆「そんなことがあった気がする」「宗司朗? いや、わからないけど転落事故の話は聞いた」とかで、でも一応転落事故の事は噂になっているようだ。
 話の内容は人それぞれ、皆曖昧さを含んでラヴアが聞き込みをした時もそうだったらしいが、宗司朗の名前が多く出たために転落事故は宗司朗が起こしたと判断したようだ。その後の宗司朗がどうなったかなんて誰も知る由もなく、皆注目すべきは事件であり、外出の規制もされていたので宗司朗を見たという生徒もいない、これなら曖昧になっても致し方が無いのかも。
 しかしあの時に会った少女が気になる。
 ルウにも話したが見てもいないものに返答は難しそうで、神妙な面持ちと沈黙の末に「解らん」と一言言いつつ言下にはっとして今夜はかれぇが食べたいなんて言い出す始末。どう説明をしていいものやら。外見はびしょ濡れの女の子、それくらいしか説明する事も出来ずでもどかしい気分。付け加えるなら、綺麗な少女だったぐらいで。
 それにしても今日はやる事が無い。
 ルウは朝から姿が見えないし、ならば図書館にでも行って宗司朗に会おうかなんて考えて携帯電話でメールを送った。実はこの一週間で宗司朗とお互いのメールアドレスを交換しあう仲になっていたのだ。
 しばらくして返ってきたメール内容は、用事があるから今日は無理との事。どうやら夏休みなのに自宅でこうして麦茶片手に窓辺で外を眺めているぐらい暇そうな奴といったら俺ぐらいしかいないらしい。事件が起きて生徒の行動規制が行われていても律儀に守っている奴なんて真面目な生徒ぐらいで、それらが全体の一割だとしよう、残りの九割はおそらく海に行ったりお泊り会なんてし合ったりしているに違いない。
 考えるのも悲しくなる、特にやる事の無いこの状況で時間を潰せる行為は何かと辺りを見回した末に再び窓を眺める。
 良い天気、悲しくなる青、良い天気。なんてつまらない五・七・五。
「そこの人」 
 その時だった。
 いつかどこかで聞いた声。あの時は雨音に阻まれてはっきりとは聞こえなかったが、可愛らしい高めの、まだ幼さを僅かに残したような声は下から、つまりは俺の家の前辺り。
 見るとそこには少女が立っていた。あの時の少女、雨の中で出会った少女だ。一週間前と変わらぬ姿で少女はいた。今度はずぶ濡れっていうわけでもないけど。相変わらずサイズの合っていない服装で、少しだけ右手を上げて左右に振っている。
「君は……あの時の……」
 大慌てで俺は玄関へ。着の身着のままというのもまずいので上着だけは羽織る。
 何故あの少女は俺の家の前に? どうやって俺の居場所を知ったんだ、しかしわざわざ会いに来た理由は? 
 少女の言っていた通りあれから誰も死んでいない。また何かを伝えようとしているのか。
 俺は玄関のドアを開けて履き損ねた靴をだらしなく足に引っ掛けつつも家を出た。
「急がなくても私は逃げないの」
 少女は僅かに首を傾けて、柳眉を曲げていた。
 不機嫌そう、いやそうでもないか。そこはかとなく、どたばたとしている俺に何をしてるんだこいつとでも言いたげそうな表情。長い黒髪は視界さえも遮っているようで前髪を邪魔そうに彼女は耳へ流す。髪留めでも持ってはいないのだろうか、と考えるも彼女の外見から持ち合わせているようにも思えず。まあ着の身着のままっていう感じ。
 以前に会った時は雨も降っていたしよく見えなかったがこうして見ると可愛らしい少女だ。前髪の隙間から見られるまんまるの瞳に、小ぶりな唇。やや丸い顔の輪郭の中に、それぞれが品良く並んでいる。
「君の言ったとおり誰も死ななかった。君は一体……何者なんだ?」
 敵ならば事件が起こらない事をわざわざ知らせに来てくれるほど親切では無いだろうが、事件に関与しているとならば油断は出来ない。こうして今対峙して俺は何があってもすぐに動けるよう心構えはしておく。
「あざみ」
 彼女は一言そう呟いて、俺に背を向けては歩き出した。
 あざみ、花の名前だったかな。いやいやしかし彼女の正体が花っていうわけではあるまい。自分の名前を言ったようだが、俺が知りたいのは名前ではなくて君が何者かって事なんだけど。
「ついてきて」
「あ、うん」
 首肯してとりあえずはついていくものの俺の家まで迎えに来た彼女の目的は如何に。
 歩くたびに何か擦れる音がするなと彼女の足元を見ると、サイズがやや大きすぎるために地面を擦るズボンは随分と痛んでいた。おそらく男性物のズボン、ジーンズとかそういう系、てかよく見たらジーンズだけどズボンを買うお金が無いほど困っているのだろうか。衣服もしわが寄ってよれよれで髪は所々はねているし、それでも艶やかさを保っているために綺麗と思ってしまう。
「聞いていいかな?」
 疑問は増殖するばかり、一つずつ解消していかなければ頭の中は疑問で埋め尽くされてしまいそうだ。
「……どうぞ」
 彼女は一切こちらに視線を送る事も無くそのまま呟く。
「何故しばらく誰も死なないって解ったんだ?」
「私がそう感じただけなの」
 簡単に言ってくれるね。
「なら、君は知ってるんだね? 誰がこの事件の犯人なのか、神の力の事も」
 彼女は沈黙を返した。
 その沈黙が逆に、全て知っていると告げているようなもの。
 しばしの沈黙が流れる中、彼女の歩む道のりはどこか見覚えがあった。いつもなら毎朝同じ時間帯に俺も歩いている、そう、学校への道のりとまったく同じなのだ。次はどこで曲がるのか、予想がその通りになり彼女が学校へ向かっていると把握した。しかし学校へ何の用があるというのだ。
 おそらく平輪学園の生徒では無い、学校の全生徒を把握しているのかと問われれば俺は首を横に振るわけだが、彼女を一目見たらそれは忘れそうにも無いので平輪学校の生徒では無いというのは断言出来る。不安だけど。
 それに学校へ行くのもまずい。平輪学校は重要な用事でも無い限り学校への生徒の出入りは一切禁止とされているのだから。それ以前に一人での外出すら規制されてるし、とはいえここ一週間事件も起きず何事も無い。まあ大丈夫かな、結局学校へ行くのは大丈夫じゃないんだけどね。
 しばらくして予想通り平輪学校へ着き、彼女は入り口を探しているのか右へ左へと足をふらつかせては立ち止まる。
「中へ入りたいのか?」
「ええ、とっても入りたいの」
 学校への入り口は東西南北にそれぞれ一つ、南口正面から堂々と入るのはさすがによそう。西口か東口、まあ近い場所は西口なのでそこから。彼女のその口振りから学校への道のりは解っていてもやはり学校の生徒では無いようだ。
 西口を案内し、彼女は中へ入り右へ左へと悩みつつもしばらくそのふらついた足取りに只管ついていった。
 学校校舎に入り、静まりきった学校内は足音さえもはっきりと聞こえ、二人分の足音が廊下を流れていく。教師に見られたら何を言われるのやら、なんて考えると俺の足音は密やかになってしまう。ただでさえ今は学校に入れば怒られるというのに部外者まで入れているときた。教師はきっと今日も学校に来ているであろうし、たとえ職員室から現在居る場所は遠いといってもこの足音が耳に入ったら気づかれるかも。
「貴方は誰かを愛した事はある?」
 再び漂い始めた沈黙は彼女の言葉で打ち消される。
 唐突な質問に、戸惑いつつも俺は一応言葉を返した。
「まあ……あるよ」
 我ながら口にして少し照れたり。
「その愛のためなら人を殺せる?」
「さすがにそこまでは……」
「そうよね、そういうものよね」
 彼女は言下に溜息を漏らした。
 彼女が聞きたいのは別に俺の恋愛話とかではなく、もしも俺が環さんと同じ立場ならばどうするかとでも聞きたかったのだろう。俺は人を殺してまでという領域には達することなく平凡な愛を育む事を努力すると思うがね。
 同時に、この質問は彼女が環さんと宗司朗についてどれだけ知っているかを表しているわけだがどういう関係なのか。重要な質問には沈黙で返されるし、どうにか今は彼女についても探ってみたい。
「そういえば君は学校まで迷わずにたどり着いたけど学校の近くにでも住んでるのかな?」
「近くといえば近く、遠くといえば遠く。私は遠く感じるの」
 曖昧な返事だが学校より離れた場所に住んでいるということでいいのかな。
 しばしの歩数音が重なった後に、彼女の足取りは止まった。
 彼女の視線は廊下の窓、その向こうに広がる中庭。中央部には木々がいくつか、その中の一つは三階ほどまで延びる大木。平輪大木なんて呼ばれて告白の場所には最適だとか。俺は使う予定なんて無いけどね。ちなみにこの情報は南雲からだ。あいつなら何度も利用しそうな印象がある。
 彼女は強引にも窓を開けて中庭に飛び込んでいった。すぐ近くに中庭への出入り口があるっていうのに、僅かな歩数さえも省きたいのか。俺としては先生に見つかる前に学校を出たいわけなので助かるが、彼女の行動一つ一つが廊下を響き渡る音を発するために冷や汗も誘われるがね。
 仕方なく窓から中庭へ俺も入り彼女へ駆け寄る。
 窓から出てすぐに彼女はなにやらしゃがみ込んで両手で地面から生える雑草を掻き分けている様子。何か探しているようだ。
 俺も一緒に探すとしよう。何を探しているのかわからないけど。
「あった」
 しばしの事、彼女の手が止まり、立ち上がった。
 その手には見覚えのあるもの、そうだ、生徒手帳だ。
「それを探してたのか……?」
「そう、そして貴方に渡したかったの」
 差し出されて俺は受け取り、誰の物かと中を開く。
「西尾……環?」
 他にも足元には消しゴムや定規などが転がっている。どうやらここは宗司朗が転落した場所のようだ。という事はこの生徒手帳は環さんが宗司朗の元へ駆け寄った時に落としたのだろう。
 生徒手帳は所々乾いた血痕によって朱に染められ、触るとすぐに剥がれるほど乾いていた。かなりの時間でここに放置されていた事がわかる。生徒は落ちている事に気づかなかったのか、さすがに生徒手帳とかそれどころでは無かった様子が浮かび上がる。
「でも、どうしてここにあることを……?」
 彼女は何も言わなかった。
 むしろ聞いていなかったのかもしれない。
 彼女の向いている方向は上、空でも無く学校校舎の三階。並ぶ窓からは校内が伺える。まるで三階の窓から落ちたと言いたげな視線。
 ふと彼女は今までに無い俊敏な動きで地面に伏せ、そのまま匍匐前進をして腰辺りまで伸びている草木の中へと飛び込んでいく。何かと思いつつその動作に視線を奪われる事数秒。
「おい、榊。学校は出入り禁止だと連絡網で伝えたはずだぞ?」
 先ほど中庭へ入るために彼女が開けた窓、その奥の廊下には担任の夏木先生が立っていた、それも形相で。後で気づいた事だが、この時に俺は環さんの生徒手帳をポケットに押し込んでしまっていた。
「あ……えっと……その……」
 なんと言い訳をしようか、言い淀んでしまう。
 見知らぬ少女と出会ってついていったら中庭にいるわけでなんて説明すればおそらく夏木先生は現在片手に持っている教鞭を凶器と変えるだろう。
「伝わってなかったか? そうでは無いよな?」
 夏木先生は教鞭を肩にぽんぽん、と一定間隔で叩き、次第に教鞭が凶器へと変貌するのが見てわかった。
「ええ、そりゃあ伝わってました!」
「伝わってたのならば良い。だがしかし君がここに居るという事は学校へ来てはいけないと知りつつも来たわけだ。君は反抗期に入っているのかな? それとも生徒が問題を起こせば君の担任である私が校長に冷たい視線と言葉を送られるのを望んでいるということかな? 私への挑戦なら受け付けようじゃないか」
 バチンッ――教鞭の矛先は先ず窓辺へ。
 バチンッ――次は隣の窓へ。
 三度目はきっと俺が対象になる、間違いない。なんていったって夏木先生は窓から中庭へ入ってきたのだから。
「いや、挑戦とかそういうわけでは無いんですけど……」 
「そうか、挑戦では無いか。今の世代は挑戦と言わないのだな、喧嘩だな? 喧嘩を私に売るなら喜んで買おうじゃないか。これほどの特売品を見逃す私では無いぞ? ふふふ……ははは!」
 一歩二歩と近づく夏木先生は首を右斜め、左斜めへと傾かせて骨が鳴る音を俺へ危険信号として送ってくる。
 目の前に来るまで後ずさりさえ出来ず、夏木先生と対峙して冷や汗が額から頬へ伝う。
 教鞭を突きつけ、俯き加減だった俺の顎を教鞭で持ち上げられた。
「実は私な、英語を担当しているが学生時代は空手で全国優勝をした事があるんだ。どうだ、このギャップ。萌えてきたろう?」
 夏木先生は教鞭を振り上げ、三度目の教鞭攻撃を俺へ行うと思いきや、地面に投げるとそれは突き刺さり反動で左右へ揺れる。
 なるほど、教鞭は威嚇であって夏木先生が本来得意であるスタイルは空手らしい。
 全国優勝か。すごいな先生、そんな経歴があるなんて驚いたよ。普段の夏木先生から空手なんて結びつかないけど、しかしこのギャップから萌えるという要素まで結びつくには無理があるんです。
「先生、落ち着きましょう……そしてどうか殺さないでください」
「殺したら犯罪じゃないか。大丈夫、私は殺さずを心得ている。特に腹部への打撃は生き地獄を味わえるんだよ」
 夏木先生は体罰という言葉を知っているのだろうか。
 このままでは本当に危険だ。
 何かこの場を抑える言い訳を思い浮かべなくては。
 ふと木陰から恐る恐るこちらを様子見しているあざみ。地面に顎をつけて息を潜め、まるで戦場で敵の様子を探る偵察部隊のような雰囲気を醸し出していた。頭には枝や葉っぱをつけて擬態までしている。
「ん? どこを見ている」
 俺の視線を追って夏木先生が振り返るとあざみは音も無く俊敏な動きで木陰の中に消えていく。
 溜息をついて、夏木先生はこちらへ視線を戻す。
「もしかしたら今のは視線を逸らさせて隙を伺いあわよくば先制攻撃という戦術だったのかな? それならばなかなかの腹黒だな君は」
「違います、学校へ来たのは……そ、そう! 夏木先生に会いに来たんです!」
「……ほほう、続けなさい」
 あ、ちょっと嬉しそうに柳眉が動いた。
「実は夏休みの宿題を先生に教えてもらおうと思ってですね。先生の教え方はわかりやすいですし一緒にいるだけで幸せだと思うくらいで、ですのでわざわざ学校まで来たんですよ」
「なるほど、なるほど」
 腕を組んで頷く夏木先生は微笑みを見せて今まで放っていた怒気が薄れるのが見てわかる。なんとかなるかも。
「よしわかった! 先生が夏休みの宿題を教えてあげよう!」
「でも宿題のプリント忘れてですね、今日は帰ろうと思ってたんです」
 よし、俺は冴えてる。
 これでなんとか事なきを得られるな、と思っていた。
「いやいや大丈夫!」
 どうしたんですか、何が大丈夫なんですか夏木先生。
「予備のプリントがあるんだ。帰宅する時も私が送ってやるから何も心配はいらない、先生は嬉しいぞ。君がこんなに熱心だったとはな」
 教鞭を拾い上げて夏木先生はさあ、行こうかと俺の手を引いて、うふふの要素なんて皆無な個人授業を受けさせられるはめになった。口は災いの元、この言葉の重さなら個人授業を受けずとも良く理解できた。
 それから三時間くらいか。
 生徒指導室にて勉強を受ける事、そう三時間もだ。
 夏木先生は俺の言葉でご機嫌になってくれたようで、朝飯を食べてないために腹の虫が鳴ると夏木先生の奢りで冷麺を注文してくれたり麦茶をくれたりと最高の持成しに感激、夏休みというのにこの状況は最悪だけど。
 現在は休憩時間、冷麺と麦茶を頂いているわけだがこれからこれから午後も勉強は続く。雰囲気的に、夏木先生の機嫌から察する事流れ的にもうそんな感じ。
 夏木先生は鼻歌混じりに大量のプリントを用意し、俺と同じ冷麺を食べていた。
「おう、忘れてた。これもやるよ」
 夏木先生のポケットから出てきたのは栄養ドリンク。
 こいつは元気になるからお勧めだ、と俺に手渡し。
 うふふな流れだったら言葉に出来ないような妄想が膨らむわけなんだけど、俺が今この栄養ドリンクから連想されるのはこれから再び行われるであろう地獄のような勉強漬け。
 ふと俺はあることを思い出して夏木先生に聞いてみた。
「そういえば夏木先生、夏休みが始まって間も無くに学校で転落事故があったと聞いたんですが」
 宗司朗が転落事故を起こした時の状況、この情報収集はしておかないと。
 夏木先生もきっと耳に入っているだろうし、もしかすればその場にいたかもしれない。
「ん? そんな話があったのか? 私は聞いてないな、それに他の先生もそういう話をしていたわけでも無いし、その話本当か?」
「俺もただ噂として小耳に挟んだだけで、本当かなーなんて思って」
「ならただの噂だ。私も夏休みが始まってから忙しくて学校には毎日居たわけではないしなんとも言えないが」
 夏木先生もわからない……か。
 他の先生に虱潰しに聞くのも怪しく思われそうだし、しかし転落事故の話は詳しく把握しておきたいがこの状況を打破する方法が思いつかない。
「そんな噂に振り回されるよりも宿題を終わらせるほうが重要だろう? 喜びなさい、君の苦手としている国語、数学、英語のプリントも用意したから夏休みが終わった後で待っているテストもこれで解決だ!」
 ありがとうございます、俺の苦手科目まで把握しているようで先生の熱心ぶりには涙が出てきますよ。
 俺はなるべくゆっくりと食事をしてなんとか時間を稼ぐ作戦を実行するも、「あと十分したら始めるからなー」という夏木先生の言葉に挫折。
 冷麺を食べている間、思い浮かぶのは少女あざみ。
 今頃何をしているだろう、彼女は無事に学校から出られたかな。それに彼女には色々と聞きたい事があったのに何も解らないままで謎は深まるばかり。勉強なんて本当はしている暇など無いが夏木先生に帰りますと言ったら何と言われるやら。
「さあ、やるぞ!」
 これほど教師という職務に炎が宿った先生から逃れられる術など、考えるだけ無駄なのである。



 国語はみっちりと勉強しないとな。
 よっしゃ、休憩しようか……なんて思わせといてここで数学だ。
 五分休憩だ、次は英語をやるぞ。
 日が暮れ始めたな、小テストをやって終わろう。
 昨日そんな流れ、思い出すだけで地獄。
 すっかりと日が暮れるまで勉強漬けにされ、夏木先生の車で送られるも車内での会話は「次の英文を訳せ」と夏木先生が言い、俺が苦しみつつも答えるの繰り返し。
 ようやく帰ってこれたのに、凛子の機嫌は斜めもいいとこときた。
 夕食はテーブルに置かれていて、ご飯一杯の上に梅干が一つ。泣きそうになったね。
 そして目が覚めて凛子の機嫌など忘れて食卓へ行くと昨日とまったく同じようにご飯一杯、そして梅干。
 そうか、凛子はまだ機嫌が悪いのかなんて欠伸しつつ頭を掻いた。
 とりあえず今日は図書館に行こうと思う。
 特に大した用は無い、宗司朗に会うだけ。そんでもって世間話でもしつつ宗司朗と一緒に勉強したり。途中で俺が止めて、というか集中できずに挫折して帰るわけなんだけどね。
 ルウは寝てるかな、家に帰れば俺のベッドで寝息を立てているわで昨日はどこに行ってたか結局聞けず、俺も心身共に疲れて居間のソファで眠ってしまった。
「冬慈……おはよう」
 目を擦りながらまだ睡魔に襲われているルウが安定しない足取りで居間へやってきた。時刻は十時を回ったところだというのに、早寝早起きならぬ遅寝遅起きがすっかりと体に染み付いてしまったようだ。
 夏休みが終わったらきちんと早起きして学校に通えるか心配になるね。
「おはよう、昨日は何処に行ってたんだ?」
 ルウはコップに牛乳を半分ほど入れて一口喉へ通してから口を開いた。
「キスイに呼ばれてな、最近妙な魂の流れを持った奴がうろついてるとか。それでそいつを探しに行っただけさ」
 そういえば、キスイはどうしてるのだろう。
 赤い二つの角に白髪、目は黒目と白目の配色が普通の人とまったく逆、見た目から誰もが鬼と判断できる。でも中身は大食いの女の子。口調は年季を感じるけど。
 最近はまったく会っていない、まあキスイが夜行性って事もある。
 魂喰らいとの戦闘で負った怪我もすっかりと治ったと一度報告しに来たくらいか、それも深夜にね。
「へえ、それでそいつはなんだったの?」
「いや、見つからなかった。だが心配も無いだろう、あんなぐうたらな生活をしているキスイに察知されるくらいだ。そこらの弱い神でも迷い込んだに違いない」
 ぐうたらね、その言葉をそのまま君に返したいんだけどどうかな。
 一先ず服を着替えて出かける準備をしようと俺はポケットに入っている携帯電話を取り出した時、指に何か当たってようやく思い出す。
 昨日夏木先生に見つかった時、そういえば無意識にポケットに突っ込んでたななんて振り返りつつ取り出した。
「ん? なんだそれは?」
「昨日学校で拾ったんだ、それに以前話したあの少女にまた会ったよ。名前はあざみだって」
 あざみ……ルウはそう呟いて記憶を巡っているようだった。
「聞き覚えは無いな」
 まあそりゃそうだよね。
 あの手帳の在り処を知っていた彼女は、事件に関係している事は確かなのだが結局聞けず仕舞いだ。何者なのか、どうして手帳の在り処を知っていたのか、そして何故俺に教えてくれたのか、質問と謎は一切消費されずに増えるばかり。
「ルウ、とりあえずこの手帳を宗司朗に返してくるよ。あ、そうだ。この手帳から何か解らない?」
 物体にも記憶が定着する、ルウの言葉を思い出して手渡した。
「ふむ、やってみるか」
 ルウは手帳を受け取り、静かに手を添えた。
 一応食事中という事、彼女が記憶を喰う様子など今まで見ていなかったから……考えてみれば手を置くぐらいの動作など何度も見ていたがその中に記憶を喰っていたという動作が含まれていたのかもしれない。手が光るとか、そんな現象も見られないし神音も耳を澄まさなければ聞こえないほどだ。
 過去に一度くらいかな、神無月綾香の記憶を喰べた時だけだと思う、光を放って喰べた光景を見たのは。記憶を喰らうにも力を使うが力の使用量によって光や神音も大きくなるらしいので、こういう僅かな記憶を喰らう時はほとんど光も出ないし神音も聞こえないとか。
「……駄目だ、神の力の干渉が強すぎて読み取れん。妙だな……敵は学校内で力を使ったようだ。そのために近くにあったこの手帳にも神の力が影響を受けた、もしくは手帳自体に力を使ったのか」
「でも手帳に力を使うぐらいならそのまま放置もしないし、ならやっぱり学校で力を使ったのかな」
「そういう事だろう。目的は解らんが」
 手帳をそっと俺に投げて、ルウは腕を組んだ。
 手帳自体にはそれほど重要性など無いのかもしれない。学校で力を使ったという事、そちらのほうが重要だ。あざみは、環さんが学校で何故力を使ったのか、それを伝えたかったのかな。
 でも手帳を持っていても仕方あるまい。
「今日は宗司朗に会ってこれを返してあとは世間話でもしたりして帰るつもりだからルウは家に居ていいよ」
「気をつけろ。まだどちらが敵かなど明確には判別できのだから安心は出来ないぞ」
 しかし、宗司朗よりも環さんのほうが犯人として自然と考えられる。むしろ俺はもう心の中で事件の犯人は環さんだと思っているし宗司朗と会うぐらいなら安全だとは思っていたり。
 それに環さんと接触しても俺は死ぬ事も無くこうして生きていられている。
 あの人は俺に危害を加えるつもりも無いようだ、わざわざ寝起きで頭がぼんやりとしてるルウがついていく必要も無い。本当は一人での外出は極力控えるようにと夏木先生に釘を刺されているが図書館に行くだけ、これくらい構わないだろ?
 今日の天候は探せども雲ひとつ無い、憎たらしいほどの晴天。
「やあ冬慈、相変わらず無愛想だね」
「おう冬慈、相変わらずだるそうだな」
 溜息で返したくなる言葉が背中を突く。誰だろうなんていう詮索はする必要など無い。聞き覚えのある声と台詞はあいつらしかいないのだから。
 振り返るとそこには予想通りの米崎と南雲。二人して片手にジュースを持っては暑そうに余った左手で扇いでいた。
「なんだお前らか」
 溜息の後にて俺は返答。
「なんだとは酷くないかな? こうして暇を持て余しているというのになんだ呼ばわりさえされるとさすがに僕の乙女心は耳障りな効果音を出して傷つくよ?」
 そうだな、もうどこからどう見ても暇を持て余してて、偶然通りかかった俺を見つけてとりあえず話しかけようなんていう雰囲気を醸し出しているもんな。
 それ以前に女性であるにも関わらず自分の事を僕と言うちょっとした男混じりな米崎の口から乙女心なんていう言葉が出るなんて意外だ。
「一人で何やってるんだ? こうして俺達は暇人同士肩を並べあってるっていうのにさ。お前も暇人なんだろ? 暇すぎるんだろ? な? な?」
 結局二人でもやる事が無いから、なら俺を誘ってみようじゃないかなんていう空気が流れているがそれは受け流しておこう。米崎と南雲のにこやかな笑顔も見なかった事にしたいね。
「図書館に行くんだよ」
 刹那に、激しい陽光と肌を煮るような微風が流れる中、冷たい空気がそれらを弾いて包み込んだ。
 まさか本気で言ってるのか?
 大丈夫かなこいつ、この暑さで頭がやられたか?
 そんな言葉を乗せた視線が痛いくらいに突き刺さる。
「なんだよ……?」
「冬慈、勉強なんて言わないよね? 僕はそんな単語が出てきたら真っ先に君を病院へ連れて行く義務が生じるんだけど」
 なあ米崎、お前にとって俺は何なんだ?
「冬慈、早まるな。いくら夏でも図書館に絶世の美女はいない」
 南雲、お前も変な考えは早まるな。
 どうして俺が図書館に行くなんて言っただけでこうも心配をされなければいけないのかな。友達に心配されるのは良い事だ、なんていうけどこの心配は俺にとってあまり嬉しくない。
「別に図書館で宗司朗と会って渡すものがあるから、用事が済めば一応暇ではあるよ」
「意外だね、君が宗司朗と知り合いだなんて」
 まあ夏休みに知り合ったからね。
「あ、それで思い出した。転落事故だっけ? なんかあったんだよな?」
 ふと南雲がそう言った。
「ああ、宗司朗の事か」
「宗司朗だっけ? 環さんじゃなかったか? まあ俺も詳しくは聞いてないし、気になって後で聞いたらそいつ憶えてないなんて言うしさ」
 どうやら噂は流布しているようだが内容は曖昧のようだ。
「それよりも、今の事件どう思う? こうも立て続けに怪死事件が起きるなんて僕の興奮は収まらないよ」
 米崎はなんとも不気味な笑みを見せつけてくる。
 本当にこういう話となると怖いなこいつは。
「今回のは死亡した人全員の死因が不明らしいね。それも平輪学園の生徒が多いとか、犯人は平輪学園に何らかの恨みでもある奴かもしれないし、もしかしたら平輪学園の生徒かも、それにどうやって殺害したのか、特殊な劇薬? いやまさかの超能力、なんていう想像をするだけで僕はたまらないね、物凄くたまらないよ」
 話が長くなりそうだ。
「その話はまた後で聞こう」
「いやいや、聞いてくれよ! メールでは伝え切れなかった事がまだまだあるんだから!」
 先ずは宗司朗優先にすべく俺の手を掴んで離さない米崎にしばし離せ、離さないと会話の往復と格闘の末に何とか逃げ切った。去り際に南雲が「学校の近くにある喫茶店で待ってるぞー」と言っていたので行こうと思う。折角の夏休み、一回くらいは遊ばないとね。
 しかし……無駄に汗を掻いたじゃないか。暑い日に体を動かすなんて愚行だね……愚行は言いすぎか、というか怠け者の台詞っぽくてなんだか今嫌な気分に浸ってしまった。
 図書室は外と違って涼しい空気に包まれていて、中へ入ると同時にもう外に出たくないなんていう気持ちになるくらい居心地が良い。それに静粛。
 ここは入り口の扉を入るとすぐにまた扉があり、それが外部からの音と外から流れる熱風さえ遮断してくれるために静粛と清風保っているのだ。
「よう、宗司朗」
 宗司朗は机の上に教科書を数冊、ノートは文字でびっしりと埋まっており、いつ見ても生徒の鏡としか言いようが無いね。まあ、俺も昨日なら生徒の鏡だったんだが、それは強制的なわけで好き好んで勉強している宗司朗とは大違いだな。
「やあ、冬慈君。ふふ、勉強しかやる事が無い僕に会いに来るなんて君も物好きだね」
「まあ暇人なんだよ俺は」
 宗司朗の隣に座り、俺は勉強観察。
 俺も勉強しようかなと思ったところだが、今更になって勉強道具を忘れた事に気づく。まあ良いさ、昨日あれほど勉強したんだ。
「昨日さ、学校で夏木先生に会って勉強教えられて散々だったよ」
「へえ、それは良い事じゃないか。うらやましいよ」
 宗司朗にとってはうらやましいようだが、俺にとっては拷問だったね。
 さて、今日は手帳を渡さなくては。会話に没頭してたら忘れてしまいそうだ。
「そうそう、学校でこれ拾ったんだ」
 宗司朗に環さんの生徒手帳を渡した。
 手帳の在り処を教えてくれた少女あざみ、宗司朗に一応聞いたほうがいいか。
 宗司朗は生徒手帳を開き、
「……姉さんの手帳か」
 手帳を閉じて、しばらくその手帳を眺めていた。
 血痕は微かに残っている。ポケットの中に突っ込んだりして擦れてしまってるけれど。
「あざみって子が教えてくれたんだ、この手帳の落ちてた場所」
「あざ……み?」
「知ってるか?」
「……いや、解らないな」
 宗司朗も知らないとなると益々少女あざみが何者かという大きな謎に突き当たる。彼女の正体さえ解ればこの事件の進展、いや解決もあるとは思う、多分。きっと彼女は事件に関係していて、何かを伝えようとしているのはわかってる、わかってるけどどうしてもその場で足踏み状態って感じがなんとももどかしい。
 それからはいつもどおりの世間話。
「それでね、姉さんったらさ。朝目が覚めたら僕のベッドの中で寝てるんだ、考えられないよもう……」
 宗司朗の口からは必ず姉の話が出てくる。
 これが意外と面白い。
 しばしの会話の後、宗司朗は今日は用事があると言い俺達は早めに解散した。
 いつもならもう一時間は会話して、昼になれば一緒に昼食を摂るのだが用事があるのなら仕方が無い。
 宗司朗の背中を見送って、米崎達の所へ行こうかと思ったがこの涼しい空間に入り浸るのも悪くない。少しの間俺は図書館にて時間を消費。それに調べたい事もあったのでインターネットコーナーへと足を運んだ。
 ニュースの欄や記事などを中心に俺は指を走らせた。
 事件についての推測は飛び交い、事件が収まったこの一週間はその推測も加速。結局のところ行き詰るのは殺害方法。どうやって殺害したのか、ネット住民達は皆これに注目しては面白がって話を広げていた。ウイルス、超能力、まあこれらに関しては彼らが好きそうな話題だ。
 しかしどうせ調べてもこの事件について一番良く知っているのは自分。こんな事、意味無いなと俺は席を立った。
「えーっと……冬慈君だったかしら?」
 心臓が一瞬、これ以上縮まりませんと泣き叫ぶくらいに萎縮した気がする。
「ど、どうも環さん」
 振り返ると同時に、俺はパソコンの電源を切った。大丈夫、見られてない……多分。
「手帳、ありがとう。そこで宗司朗と会ってね、受け取ったわ」
「あ、いえいえ偶然見つけただけで」
「どこで?」
 彼女の言葉が冷たく鼓膜を突いた。
「学校で、です」
 冷風によるものでは無い寒気。
 緊張、畏怖、不安、それらが一度に襲い掛かる。
「へえ? 学校で? そう」
 環さんは手帳をポケットから出し、撫でるように見つめると俺に視線を向けてくる。
「あ、あの……どうかしました?」
「強いて言うならば、私が生徒会長である事を貴方は知ってるのかな? ってね」
「ええ、そりゃあ当然知ってますよ」
「つまり、貴方は生徒会長である私に、学校への出入りは禁じられているのに学校へ行きましたと公言したわけだけど」
「あ……」
 言われてから、口を覆うも出てしまった言葉は消えることなんて無く。
「夏休みが明けたら貴方の担任へ伝え、貴方は校内放送で呼ばれ、生徒会室へ行って私から処罰を言い渡されるという事に関しては何か異論はあるかしら?」
「……いえ、すみませんでした。あ、でも夏木先生に見つかってですね、処罰と思える勉強などをみっちり受けたわけでして」
「あらそう、一つ言いたいのだけれど私は不愉快」
 つり上がった鋭い目つき、眉間にしわが刻まれ口に出さずとも不愉快そうなのは伝わる。
「貴方わかってる? 学校周辺は人通りもそんなに無いのよ? 今の事件の犯人が貴方を狙うかもしれないわ。普段でも街へ出るなら行動する人数は二人以上、夕方前には帰宅が義務付けられてる。それほど緊迫した時期だというのに貴方は犯人に殺してくださいとでも言いたかったのかしら?」
「いえいえ、滅相も御座いません。申し訳ありませんでした」
 環さんこそ一人じゃないですかと言いたい所だが、臆してしまい反論も出来るわけ無く、改まって謝罪に加え深々と頭を下げた。
「まあいいわ。その話は後ほど。また会いましょう」
 環さんは背を向けつつ手を振り、図書館を出て行った。
 わざわざ手帳の事と俺の処罰についてでも聞きに来たのだろうか。
 手帳は何か重要なものを秘めているのだとしたら、環さんの殺人衝動の引き金を引いたかもしれないという不安が襲ってくる。手帳にはどんな意味があったのだろう。嗚呼、駄目だ。不安が心を乱して何か考える事さえ難しい。
 俺、まさか殺されないよな?
 しばらくその場から動けず、しかし何も起こらず。
 ほっと胸を撫で下ろして俺は図書館を出た。
 米崎達の待つ喫茶店へ向かおう、楽しい事を心が求めてる。ホラーの特番を見た後の気分だ。
 喫茶店へは街を突っ切るよりも住宅街へ入ったほうが近道。
 無駄に信号機という妨害に阻まれるよりもそりゃ住宅街を進んだほうが早いさ、人ごみも少ないし多少道を左右行ったりするけどね。
 住宅街に入って数歩、ここらは昼間でも人通りは少ない領域。街と反対方向に行けばイタカの居る廃墟ビルの目立つ領域にもいける。住宅街といっても空き家が目立つ場所でおそらく街で一番静かな場所。公園も無いし商店街も無く、寂れたって感じだけど。
 妙な事に気づいた。
 まだこの住宅街に入って間もない。
 すぐそこには喧騒を生んでいる道路も見える、車両も幾つか走っている。
 それなのに。
 それなのに、だ。
 音がまったく聞こえない。
 おかしいな、耳でも悪くなったか、耳を掻いてみるも効果無し。
 自分の呼吸音ははっきりと聞こえる、辺りが静かすぎる。
「ん……?」
 目についたのは僅か一メートル上。
 黒い物体が宙で止まっている。
 何かと目を凝らして見てみると、何のことも無い鳥だ。雀かな。
 でも、何のことも無くなかった。
 だって、その鳥は宙で止まっていたのだから。
 すぐ近くには空き家の庭から木が生えている。そこから飛び立ったようだ。
 その木からは僅かに葉が落ちているも全て宙で止まっている。
 まるで映像を一時停止したような、そんな状態。
 背筋が悪寒で染められ、冷や汗が額から頬へ、頬から地へ。
「くっ……!」
 突如として襲ったのは息苦しさ。
 何かが首を絞めているのかと喉に手を回して見るも何も無い、けれども呼吸が何かに遮られている。
 一瞬、視界が歪んでいるのが見えた。
 何かいる、目の前に。でも息が出来なくて、視界がぼやけて、手足にも力が入らなくなってどうしようもできない。
 まさかとは思うが、環さんの仕業かこれは。そうだとすれば、今まで殺された人達はこうして死んでいったのか。
『とうじ! しっかりしろ!』
 声が聞こえる、知っている声だ。頭の中に直接話しかけられていて響く。
『刀を出せ!』
 そうか、イタカだ。俺の中に居る神、イタカの声。
 刀、嗚呼――刀か。
 俺はすでに力の入らない右手を僅かに動かして集中した。
 手が光り刀が形成されていくのが妙に冷たいような、そんな感覚によって解る。
 するとその感覚が全身を伝い、一気に楽になった。
『私の力を全身に流した。これで大丈夫だが、何があった? 攻撃されたぞ?』
「わ、わからない。俺もいきなりで何が何だか……」
 呼吸できる、手足も動く。
 改めてイタカに感謝する。
 いつもは眠っていて俺の心の中にいるようだけど、呼んでも反応無いし敵と遭遇したらちゃんと刀を形成してくれるのかと心配したけれど、いざという時に頼りになる奴だ。
『敵はまだ近くにいる、これは結界か……時間喰らいだな?』
「時間喰らい?」
『ああ、これは時間喰らいにしかできない結界だ』
 後方に一瞬だけ視線を配る。遠くでは車両が普通に走っているため結界はそれほど大きいものでは無いようだ。
 視線を戻すと僅かにまだ、周りの空間が歪んでいた。
 目に見えないが、空間の歪みでその透明な何かが何となく形として位置が解るものの、目を凝らさなければ見失ってしまうくらい。その形はよく見れば人の形を成していた。
『あれは時間喰らいの能力が形を成してるようだ』
 俺は刀を構えて距離を取った。
 少し離れればそれなりに周りの空間との違いがはっきりと見えてやりやすい。
「ならあれは時間喰らい本人では無く、能力の塊?」
『そういう事、やけに静かなのは……この無音こそが奴の神音なのだろう。詳しい事は知らんが』
 ではこいつは環さんが操っているとすれば、近くにいるかもしれない。
 人型は透明から少し黒く染まっていった。ようやくしてはっきりと見えるが凹凸も無い男子体型のマネキンのような形。様子見でもしているのか、動かない。
 距離を取りつつ、なんだか顔の部分が傾いて俺の刀を見ているような動作。そして、ゆっくりと近づいてきた。
 どうやら攻撃を仕掛ける気なのであろう、両手がさらにどす黒くなり、鋭さも兼ね備える。
『くるぞ!』
 敵は傍らにあった電柱に尖った手の爪を勢いよく振り、電柱の一部が砕ける。
 電柱は折れるものの落下中に静止して倒れない、宙で止まってしまっている。この結界内では物体の時間が止まるようだがまだはっきりと断定も出来ないな。
 砕けた破片をそいつは手に取り、勢い良く俺に投げつけた。
 刀を振って先ずは大きな破片を片付ける。一振り、二振り、縦に斬るより薙いだほうが良い。
 細かい破片は防ぎきれないので目に入らぬよう気をつける。
「痛っ……」
 頬、両腕、太ももを掠り、僅かな痛み。でもいける、ただの掠り傷だ。
 どうやらこの空間では止まっている物でも、あいつが触ったものなら動くようだ。それを利用しての攻撃。結界内では全ての物体が停止状態、あいつが再生ボタンとでも思えばいいか。
『刀の使い方は考えるようになったようだな』
「それはどうも」
 誉められて嬉しがっている場合でも無く、簡単な言葉で返す。
 その僅かな間、目の前に敵が居ないことに気づき俺は辺りを見回す。
 右に旋回したときにはすでにそいつは尖った右手を振りかざし、慌てて刀で振り下ろされたその手を防ぐも体は簡単に浮き、塀に押し込められた。
 体がめり込んでいく音が耳に伝う、ついでに痛みもだ。
 敵は残った左手で俺の腹部を狙い、俺は苦し紛れに脚でそれを防いだ。
「くそ……!」
 たれーって言いたかったがさすがに必死。
 なんていったって刀では防いでいるものの数センチ先には尖った爪。
『私も人型で戦いたいがそうすれば刀の精度が落ちる、辛抱してくれ』
 辛抱ったって、今までルウがいてくれたからいいけど一人での戦いは慣れてない。刀を振ったりトレーニングなどはしているが、実戦なんて簡単に出来ないわけで、こうして防御ぐらいしか出来ないとさすがに危うい。
「どらあ!」
 どっこいせとおらあ! を組み合わせたようなそんな感じの気合で押し返す。
 体全身の力を込めて、なんとか敵を離したはいいものの、攻撃へと繋げる事が出来ない。
 ビビってる。
 怯んだ敵に今攻撃すれば一撃を与えられたかもしれない。
 俺は今ビビってる。
 走って刀を振るって、なんていう頭の中で再生されたイメージを忠実にこなせなかった。
『――とうじ!』
 イタカの声。
 逆に、自分が襲われて大怪我を負う嫌なイメージ、それが一瞬の隙を生んでしまった。はっとして、途切れかけていた集中を敵に戻した時にはもう遅い。
 敵の尖った爪、右手だ。すでに目の前に迫っている、辛うじてそれを防いだが防御が完全に遅れていた。
 ――左わき腹に強力な痛み。
 ミシッ、とわき腹が悲鳴を上げる。
 蹴られたのか、気づかなかった。
 幸いな事に横からの攻撃のため背後にある壁に激突はしなかったもののかなり吹き飛ばされた。
「うぐ……」
 こんな事なら普段は見ない格闘技の番組を見ておけばよかった。凛子が興奮して居間でテレビを見ながら拳を振るってる姿が思い浮かぶ。あいつは部屋にテレビが無いから居間で……って今はそんな事考えてる場合じゃないな。
 わき腹を押さえると痛みが走る、けれど折れてはいないようで打撲程度か。痛いには変わり無いけど、折れてたら今頃激痛に立つ事すら危うかっただろうね。
 息が荒い、呼吸を整えようとしても心臓が激しく脈動して、頭が今一現状についてこれずにいる。
『とうじ、落ち着け』
 わかってる、わかってるけど心と体が一致しない。
 呼吸を整えようと思っても、荒くなる一方。
 震える手足を抑えようと思っても、震える一方。
 なんとか立ち上がったが、なんとか構えたが、戦うしかないのに“どうすればいい”って思ってる。この刀も何の活用も出来ずにただの棒っきれ同然だ。
 あの時も、精神喰らいとの戦いの時もビビってた。
 結局刀を振るったのは一回だけだった気がする。
『力の持ち主を叩かなければ意味は無いが、この場を切り抜けるにはあいつを倒して消す必要がある』
 ああ、わかってるよ。
『あいつは今力を使っている』
 そりゃ、当然だ。
『つまり力を使えば使った分、補充しなければならない』
 補充……?
『即ち今ここであいつを倒さなければ、あいつは誰かの時間を喰らって補充する。便利な餌といえば人間だ、人生という時間の塊だからな』
 そうか、イタカの言いたい事はよく伝わった。
「……戦う」
 俺は小さく呟いた。
『聞こえない』
 イタカは冷たく答えた。
「戦うさ!」
 俺は大きく吼えた。
『よし』
 刀を構える。
 竦んだ足には力を入れて、両手は刀を思い切り握って兎に角力を入れて集中。余計な力は入れないほうがいいけど、こうして力まなければ今は上手く動けない気がした。
 敵はゆっくりと距離を詰めてくる。
 宙で静止している葉は敵に触れると動き始め、地に落ちる前にまた静止。
 やはり奴が触れたものだけが動くようだが、それも数秒って所か。先ほどのように投げつけた行為は止まる前に俺に当てる必要があったために違いない。事実、俺に投げつけた電柱の塊、小さな破片は先ほど俺の居た場所の宙で止まっていた。
 俺のすぐそばには斜めに傾いたまま静止している電柱。
 これも今は時間が止まっているために頭上すれすれにはあるものの落ちてくる事は無い。
 俺は前に出た、右足を一歩、左足も続く。
 地を蹴って、思い切り前へ出た。
 刀を思い切り、その瞬間だけは何も考えずに振るった。
 敵は左手の爪で防ぎ、右の爪は攻撃へ。
 余った手は必ず攻撃に転じてくるのは当然の事、腰を引き、爪を避けて左へ迂回。
『良いぞ、動けてる』
 敵の体型はそれほど大きくは無い、俺と同じくらい。
 そのために爪の差を含めても攻撃のリーチは短い。
 その差なら刀を持っている俺が有利だ。
 先ほど敵が触れて落ちた葉が俺の足元にあった、それぞれの立ち位置がそのまま入れ替わったのだ。
 俺はまた前に出た、やられる前にやる。今出来る簡単な戦法だ。
 刀を一閃、当然敵はそれを避ける。
 右から一閃すれば左へ、すかさず俺は左からの一閃へと切り替え徐々に敵を防御へと回らせる。
 敵は焦らずに一つ一つ避けては、時折爪で刀を防く。
 その時に、俺はわざとゆっくりと動いた。
『とうじ!』
 躓いた振りをして刀を下ろし、敵に攻撃させるために。
「わかってる!」
 その攻撃を受けるのではなく弾くために。
 爪めがけて思い切り刀を振り上げた。
 その先にあるのは、宙で止まっている電柱。
「触れれば時間は進むはずだ!」
 爪が電柱と接触。
 電柱は再び動き出し、敵に向かって倒れた。
 先ほど見ていた時に解った事だ。落下中である物体が宙で停止状態ならば、敵が触れると落下の速さも変わらず動き出す。
 当然、電柱は重さゆえにその速さもあるのだ。避けられる余裕など無い。
 ガガン、と敵諸共倒れていく。
「よし……!」
『考えたな』
 だがまだ気を抜く場面では無い。
 最後まで油断せず、決して視線は逸らさず、敵の動きに集中しなくては。
 敵は両手の爪で地を削り、圧し掛かる電柱から逃れようとしているようだが、そうはさせまいと俺はそいつの背中に刀を突き刺し、止めを刺した。
 刺された部分から、黒々としていた敵の体は色を失い動く事さえしなくなり静かに消えていく。
 チチチチ……と雀が可愛らしい鳴き声と同時に羽ばたくのが見えた。
 次に、目の前では轟音と同時に粉塵を撒き散らす電柱。
「結界が無くなった……?」
『そのようだ。敵も能力を引っ込めたのだろう、あれほどの攻撃を加えられては力の消耗で能力の具現化も維持できまい』
「なら消耗した力の補充のためにまた誰か襲われるんじゃないのか!?」
『いや、我々の力を知った今、さすがに人間の時間を喰らう行動は避ける。具現化が出来ないほどであれば直接本体が動かなければならない。となれば下手に動いて見つかりたくもあるまい、物質や動物などの時間でも喰らって身を潜めるかもな。何より我々の存在が奴への警告となる』
 なるほどね……。
 俺はほっと安堵の吐息。
 刀を消してなんだか轟音を聞きつけて騒がしくなったこの場にいるのもまずいので一先ずはここから離れた。
 何があったかなんて聞かれたら答えようが無い。
「痛っ……」
 歩くたびにわき腹が悲鳴を上げていた。 
 蹴られただけで良かった、本当に。もしもあの爪がわき腹へ攻撃していたらどうなっていたやら。打撲程度では済まなかっただろう、あの戦闘を経てこうして歩いていられているのが幸運だ。
『さて、私はもう一眠りする』
「また寝るのかよ、まあ敵もすぐに襲ってこないだろうしいいけどさ」
 寝るのが好きな奴だなこいつは。
『力を消耗したとき、お前の心の中で眠る事で力は回復するからな』
 それなら仕方が無い、というかイタカの力はそうやって補充してたのか。
 普段眠っているのは力の温存のためのようだ。
 ただ眠っているだけだと思っていたのか? なんて言下に付け加えられて図星だけど、いやいやそんな事は無い、わかっていたさなんて強がってみたり。
『また何かあれば私は目を覚ますから心配するな』
「ああ、わかった。頼りにしてるよ、おやすみ」
『おやすみ』
 イタカは就寝。
 今日のところは米崎と南雲には悪いが帰らせてもらおう。
 さすがにわき腹が痛いし、ルウに早くこの事を話さなくては。ああ、米崎からきっとまたメールの嵐が到来するだろう。あいつは話し足りない時の相手といえば俺だ、それなのに俺は今日あいつらが待っている喫茶店へは向かわず自宅への帰路を沿っている。一応行けないとメールしようと思うが、それは家に帰ってから打撲した場所に湿布でも張りながらで。
 こんな事ならルウをつれてくればよかった、なんて考える反面いつまでもルウに頼ってばかりでは今日のように戦闘中ビビってしまって駄目になるなと反省。
 俺も男だ、いつかはルウを助けられるくらいに強くなりたい。今日だってイタカに支えられて奮い立たされたからこそ勝てたようなもの。強くならなきゃな……。
 わき腹の痛みもあるため深呼吸を兼ねた溜息をついた。



 第四章 錯誤

 目が覚めると同時に襲うわき腹への激痛は、寝不足がちな朝に鳴る大音量の目覚まし時計よりも強烈だった。
 昨日病院へ行こうと思ったけれども、敵に襲われた場所から病院へ行くにはかなりの距離で、歩くたびに電流走るわき腹に長時間耐えなければならないならば、病院よりもはるかに近い位置にある家に帰って湿布を貼ったほうがいいかなと妥協した結果にて激痛という名の目覚まし時計以上の刺激を受ける羽目になったわけだ。
「痛たたたた……」
 わき腹を押さえつつ上体を起こしてベッドから降りる。
 掠り傷はすでに血も止まってるし、ひりひりする程度。問題はやっぱりわき腹だな。湿布でどうにかなるほど軽い打撲ではなかった。わかっていたけど、一日中冷やしていれば少しは楽になるかななんていう淡い希望に縋りついた結果に後悔する。
 人生でも初めての衝撃、激痛。大きな怪我なんて今まで一度もしたことがなかったから死んでしまうんじゃないかってくらい痛い。
 昔に凛子と喧嘩した末に受けたローキックの何倍か、なんていう計算は愚問である。むしろ凛子は直接攻撃よりも精神的な打撃が得意。いや、別に真剣になって考える事では無いのだけれど。
「ルウ……起きてるのか」
 夏休みの早朝、自室にて珍しい事もあるもんだ。
 目が覚めたら必ずと言っていいほど、いや、夏休みに入ってからは必ずだったな。目が覚めればルウはテレビの前で寝てたり、体育座りを維持したまま寝てたり、大の字になってだらしなくへそを出して寝てたり、エトセトラ……なんだけど今日は俺よりも早く起きているのか、部屋には居らず。
 居間へいけば神妙な面持ちをしたルウが一人牛乳を飲んでいた。凛子はまだ部屋にいるようだ。ちょっと鼻を刺激する食欲を誘う香りから、凛子は朝食をすでに作って食べ終えたようだが、俺の朝食は何処? まあいいけどさ。
「今日は早起きだな」
 昨日からルウの表情は思わしくない印象を受けられる。
 俺が襲われたと知ってから、酷く不機嫌な様子が続いていた。環の所に行って話をつけてくるなんて飛び出そうとするのを止めに入ったりで何かとわき腹の打撲が悪化する原因を作ってしまった気がする。
「狙われた理由はやっぱり手帳が原因かな?」
「わからん……。しかし神の力に塗れたあの手帳、学校で拾ったとか言っていたな? それにあざみという少女にも会ったと」
「ああ、そうだ。でも彼女は俺に手帳の在り処を教えて何をしたかったのかな?」
「そいつ自身が神か、神に関与する者か、神に逆らう者か。どうであれ敵ならば、手帳の在り処を教えてわざわざ環に襲わせるという遠まわしな行為も妙だしな、手帳が学校にあったという事実だけを伝えたかったのかもしれんが……」
「「うーむ」」
 そこで俺達は同時に腕を組んで首を傾げた。
 まとめよう。
 環さんは神の力を持っていて、俺は環さんの手帳を少女あざみによって教えられ、宗司朗に会うついでに手帳を返したらその後環さんに会って、帰り道にて時間喰らいに襲われた。
 考えるまでも無く時間喰らいってのは環さんなわけで、考えなければならないのは少女あざみの目的、そして正体。
 しかしながら、
「私はキスイの所に行ってくるよ、今日は安静にしていろ、家から出るのではないぞ」
 ルウに釘を刺されて、俺はソファで横になりながら見送り。
 暇つぶしにテレビをつけて久しぶりにゆったりしてみるとするか。
 目覚めたばかりで喉が渇いたため、俺はあまり動きたくは無いが致し方無いと台所まで行き、冷蔵庫から麦茶を取り出してコップに注いでまたソファに戻った。
 一口含み、ゆっくりと喉に通して安堵の溜息。
 しばらくはこうしていようと思っても、どこか落ち着かない。
 事件が気になる、環さんが気になる、あざみが気になる。こうしている間にも環さんは物質や動物の時間を喰らって力を蓄えているかもしれない、そんな事を考えると麦茶なんか飲んでる場合ではなく、何かしなければという焦燥に駆られるわけで、でもルウに家から出るなと釘を刺されてるわけで。
 カチャリ、その時玄関の扉が開く音が聞こえた。
 おかしいな、ルウはもう出て行ったというのに、また戻ってきたのだろうか。
 忘れ物でもしたのか、持っていくものなんて無さそうだけど。
 玄関を覗いてみると、玄関の扉は半開きでその隙間からは誰かが顔を覗かせていた。
「そこの人」
 その顔は少女あざみだった。
 俺と視線が合うや、顔を引っ込めて扉を閉めた。
「あ、待って!」
 着替えもしてない、朝食も摂ってない、寝癖もそのまま、でもそんなの関係無い。先ほどルウに言われた事など頭の外に放り出して俺はすぐに靴を履き、痛むわき腹に表情を歪ませつつも飛び出した。
 外を出ると、少女の背中は忙しそうに遠くへ行ってしまっていた。意外と足が速い、でもすごく走りづらそうだ。サイズの合っていないジーンズが地を引きずってしまい誤って踏めば転んでしまうだろう――
 なんて思っていたら彼女は転んだ。
「大丈夫!?」
 駆け寄ろうとすれば、彼女は慌てて立ち上がり、また走っていく。
 昨日は「急がなくても私は逃げないわ」なんて言っていたくせに、今日は全力疾走もいいとこ。
 こっちは走るたびにわき腹はその振動で悲鳴を上げてる状態なので、終始表情は歪んだまま。痛みで冷や汗さえ出てくる。
 どこへ彼女は向かっているのか、そんな事も考えずに只管追いかけた。
 街は通らないようで、ずっと住宅街を走る彼女。このままずっと突き進めば昨日時間喰らいに襲われた場所までたどり着く。もしかしたらそこへ向かっているのかと思いきや、彼女の方向は些か違うようで辺りは空きビルが目立つ路地へ。
 ようやく追いついた時には廃墟と変わりない三階建てのビルが目の前にあった。確かにここへ入っていたのは見たが、どうにも入っていいものか悩むね。まあ、入るしか無いのだけれど。
「はぁ……はぁ……。おーい!」
 声が反響する。
 追いついたはずだったのに、中へ入ると彼女の姿を無い。特別暗いわけでも、窓から漏れる光が床、天井、壁、全てを照らしてはっきりとその素朴な荒んだ白を見せてくれるくらいなのだ。それなのに、見失った。
 キスイが住んでいる空きビルと同じような構造。そのために室内は隅々と見渡せるのだが、彼女の姿は無し。
 すると奥に見える階段から足音が聞こえた。さすがに音が反響するためなかなかはっきりと聞こえるものだ。階段を駆け上がる音は駆け足のようで刻まれる歩数の間隔が早かった。
 俺は階段を駆け上がり、二階へ。
 辺りにはゴミが散らかっていて、どこか生活観が見られる。彼女はここに住んでいたのだろうか。キスイと同じような生活をしているようだが、彼女の姿は無い。
 三階建て、そうだ、まだ上の階がある。
 耳を澄ましても足音は無い。もうすでに階段を上がって三階についたのかもしれない。
 また階段を上がった、わき腹も痛むし彼女は三階にいる事がわかっているので歩調は急ぐ必要も無くゆっくりと。呼吸も整え、額から頬へ伝う汗を拭う。さすがに真夏の中走るってのは酷、それも怪我人なら尚更だ。
 三階へ行くと、ようやくあざみの姿を捉えることが出来た。
 窓辺に立って、外の風景を眺めているようだ。といっても、眺めるものなど無さそうではある。ここらはキスイの住んでいる場所に近い。空きビルや廃墟、そんな感じのものを集めた場所。流石に俺が見失うくらいの全力疾走をしたのだ、肩は上下に揺れて疲労感が背中からにじみ出ている。
「もう無理」
 彼女は呟いた。
 俺から逃げる事を諦めての一言か、それならば何故逃げたのかを先ず聞きたいね。
「止めてもらおうと思ったの、でも止められない。貴方では止められない、あの子は止まらない」
 ……いや、違う。逃げる事からの諦めでは無い。
 止めてもらおうと思った? 何が言いたいのか今一ぴんとこない。手帳の在り処を教えてもらったぐらいで、何を止めてもらおうだの、止まらないだの、どうか一から説明してもらいたい。それにあの子って……環さんの事だとすれば、やっぱり彼女は何か知っている。
 言葉から推測してみると、彼女は俺に手帳の在り処を教えて、その手帳によって環さんが、止めるというのはおそらく誰かの時間を喰らう事としなくなると考えると、手帳は環さんが時間を喰らうのを止めるって事だとすれば昨日襲ってきたから止まらないって言いたいのか?
 如何せん、手帳で環さんが時間を喰らうのを止めるっていう結論は少々解りかねる。
「あの手帳、何だったんだ?」
「今の言葉で理解したようね、貴方の思考は実に良い循環をしてるようで私は関心せざるを得ないの」
「お褒めの言葉ありがとう」
「あの手帳は罪と罰の形なの」
「罪と罰?」
 彼女はこくりと頷いて、ようやく窓から視線を俺へと向ける。
「抑止力になると思った。でも、止まらない。あの子は全てを無かった事にしようとしてるの」
 どうやら手帳には大きな意味があるようだ。少なくとも、手帳を返した事でその手帳が抑止力を伴い環さんは殺人を止めるとあざみは思っていたようだが、結論として手帳を受け取ったその数分後に俺を襲ったのだ。
 でもどうして彼女は直接手帳を返さなかったのだろう。簡単な事だとは思うんだが。
 まあおかげで俺は環さんの標的にされたんだけど。
「まさか俺に手帳を返させた理由はもしもの時に自分の身が危うくならないようにとか言わないよな?」
「ごめんなさい、あの子が貴方を襲うなんて考えもしなかったの」
 環さんに会った時の様子から、俺は考えまくりだったんだよね。
「それに私はあまり街に出る事は出来ないの。貴方に渡してもらう他なかったわ」
 何か事情がありそうだ。
 このビルに住んでいる時点でそりゃ事情があるだろうけど、こそこそ過ごさなくてはならないほどの事情なのか。そういえば、ここへ向かうにも街を避けたような、かなり遠回りをしていた気がする。
「それで、逃げた理由は?」
「あそこでは、騒ぎになるの」
「騒ぎになる?」
「ええ、騒ぎになる。絶対なるの」
 彼女はこちらへ近づいた。ゆっくりと、快活とも思えるその足取り。
「これ以上、あの子の殺人衝動が働かないために、私は現在殺人衝動の矛先となる対象を抹消し、あの子にそれを報告して、あの子と共に歩もうと思ってるの」
 彼女は右手を天井へ翳した。
 黒い煙のような、昨日の戦闘を思い出させるようなものが、彼女の右手を包み込む。
「ま、まさか……」
「私のもうひとつの名は時間喰らい。理解した? 理解したなら、その身に死を刻んで死んで欲しいの」
 彼女の右手は黒に染まり、爪を形成すると構えた。時間喰らいで違いないがしかし、解らない事が一つ。
「でも、時間喰らいが君なら……」
「貴方の疑問は良く解る。これでは時間喰らいが二人存在するって言いたいんでしょ? でも簡単なことなの。私は時間喰らいという本体。あの子には私の力の使用権利を共有させてるの。だからあの子は私という媒体を通して力を使う事が出来る、貴方も同じはずよ?」
 この言い回し、俺とイタカの関係を知っているのか。
 俺はイタカと神約した事で彼女の力を刀として具現化する事が出来る。これが彼女の言う、使用権限の共有ってやつなのだろう。
 彼女は人差し指を立てて、思い出したように言葉を付け加えた。
「ちなみに昨日襲ったのは私じゃないの」
 なら実際の交戦は初めて、か。でも彼女は見ていたようだな。
 緊張感、緊迫感、それに加えて肌を刺すような空気。
 これが、彼女の放っている殺意なのだと実感し俺は刀を出した。
『力を消耗しているとはいえ、本体が直接攻撃してくるとなると力による身体能力の上昇も加わり動きもまったく変わる。気を抜くなよ』
 イタカはすでに起きていたようで、現状には把握している様子。
 どう戦うべきか考えあぐねる中、距離だけは取っておく。
 室内の広さはそれほどでもなく、縦横目測十メートルってところかな。距離を取るといっても立ち回るべき方向を誤れば角に追い詰められてしまう。逃げ道は背後の階段のみだが逃げたところでこの戦いを回避できるわけも無い、むしろ彼女の機嫌を逆撫でする行為。
 逃げたところで愚策、良策は彼女を倒す事だ。
 彼女を倒せば環さんに備わっている時間喰らいとしての能力も失われるはず。
 だが倒すという意味はこの場合、彼女の命を絶たねばならないのか、彼女を叩きのめしてしまわねばならないのかとまた考えあぐねた。殺すと倒すでは、意味が全然違う。
『殺しにかかっている相手に殺すか殺さずで悩むほどの余裕など無し。むしろどう戦えばいいという質問には殺す気で攻めろと私は回答する』
 それ以前に彼女を倒せるかすら自信が無いわけだけど。
 痛むわき腹が俺の動きを鈍くさせている。受けたのは左わき腹部分、利き腕である右手を動かすに関してはわき腹への肉体運動がそれほど掛からないため痛みはそれほど無いものの、刀を振り上げたり、敵の攻撃を受けたりすれば両腕で防がねばならないためにその都度体が悲鳴を上げるに違いない。
 攻めも、守りも右手を中心で受けなければな。
「攻めてこないの?」
 あざみは構えを解いて両手をだらりを垂らした。
「なら、私から――」
 刹那、黒い右手で床を削る。
「いくの!」
 その行為は、どんな意味なのか考えるまでも無く目の前で起きた。
 瞬間移動、彼女は目の前に現れ、咄嗟に振り下ろされる右手を俺は刀で防いだ。鋭利な右手の爪は刀と交わり、火柱さえ散る。
 彼女は時間喰らい、それを理解してなければ防御は遅れていた。おそらく床を削ったのは、床には攻撃する直接の意味など無く、俺と彼女との距離を削るという意味が正しい。
 俺との距離を詰めるには数歩とも無いが、数歩のためには数秒の時間が当然掛かる。この数秒を彼女は削り、俺との間の床を彼女の爪が削る事で彼女がそこへ足を踏み入れれば、今のように瞬間移動が可能のようだ。
 刀で押し込められる爪を弾き、さっと後方へ三歩下がり刀を構えた。
 僅かに足元の埃が舞うも、宙で静止。
 結界は張られているが昨日のように電柱を利用したりなんて出来る環境条件には置かれていないため、どう攻めていいものか。
「どうしたの? 戦わないの?」
 出来れば戦いたくなどない、彼女が時間喰らいだといっても外見は女の子だ。
 それに彼女なら神約を解除する事が出来るのではないか。距離も取ったし刀は前方に突き出していつ襲われても対処できるようにし、俺は質問した。
「なあ、君が時間喰らいとしての神約を解除する事は出来ないのか? そうすれば俺達は戦わずに済むと思うんだ」
 環さんが力を失えばこの事件は無事に治まるはず。
「無理なの。神約解除の権利も彼に委ねてるの」
 彼女は俯き加減に言った。
『奴を倒しても、環とやらの能力は失われないかもしれん。環に委ねられている権利が多いほど、媒体との独立が働いて環自身の能力として所謂一人歩きの状態になっているならば、そうなると環自らが能力を放棄する以外方法は無い』
「まだ話してるの?」
 イタカの話を聞いている暇も無いようだ。
 こうしている内に彼女は爪を振りかざした、その矛先は天井へ、壁へ、床へ。
「くっ……! 粉塵か!」
 天井、壁、床には亀裂が走り、その破片全てが宙へ舞い散りそして静止する。
 普通ならばしばらくすれば薄れる粉塵も、この結界内では薄れる事も無い。時間喰らい本人が物体に触れなければそれは常に静止状態。つまり俺が手で振り払っても、砂場に広がる砂を掻き分けるようなもので視界が開ける事は無い。
 しかし彼女が攻撃してくるとなれば当然粉塵の時間が進むはず、粉塵の変化に集中すれば捕らえる事は可能だ。
 この場合四方からの攻撃を警戒するよりも、壁を背にしたほうが警戒する位置も一つ減らせるため俺は壁を探した。
 一応警戒して左右へ動きながら、なるべく光の届いている所がいい。
 自らの逃げ道も制限されるが致し方が無い。
 すると、何かが頬を掠り壁に突き刺さった。
 それを見て、背筋が凍る。
「これ……」
 刺さっていたのはガラスの破片。俺の血が付着した、ガラスの破片だ。
 現在崩れかけて静止している建物、当然ガラスも粉々になって、窓側にいた彼女の傍で静止していたとなれば、自らの能力を理解し優位な立場に立つためなら誰もがそれを利用するだろう。
 頬に触れてぬるりとした感触に、これから再び起こり得る攻撃に、全身の血液が音を立てて引いていくのを感じた。
 俺はその場から駆け出した。左右、どちらでも良い、無意識に右へ。
 ガラスの破片は俺がいた場所の壁に二つ、三つと突き刺さり、俺を追うようにさらに飛んでくる。
 おそらく彼女はすぐそばで俺の位置を把握しようとしている、ガラスの破片が静止せずにいられる距離。でもこの粉塵が視界を遮り、さらにこの粉塵さえ静止しているために風の流れも捉えられずどこからガラスの破片が飛んでくるのかさえ解らない。
 昨日の戦い方とは似ているも、力の使い方に違いがある。結界によって粉塵を静止させて視界をいつまでも遮り続け、自らの攻撃を悟られないためにそれを利用した遠距離攻撃。
 俺は壁沿いに走り続けた。
『とうじ、この粉塵から離れよう』
 ああ、そのつもりだ。
 一度この粉塵の中からは離れて、彼女が探しに来たところを迎撃……出来ればいいけどこの限定された室内では手段も絞られる。
 俺は唯一の逃げ道である階段を目指した。二階へ降りるための退路も確保でき、尚且つ彼女が追ってくる進路も把握できる。
「残念だけど、そっちも行き止まり」
 あざみの声は背後まで迫ってきている、心臓の鼓動が激しくなり、暑さよりも焦りから生じる汗が頬を伝う。
 彼女の言葉通り、ようやく見つけた階段はすでに瓦礫によって塞がれていた。
「くそ……」
 先ほどの天井、壁、床への攻撃。
 あれは粉塵を作るに加えて、階段も瓦礫で塞ぐ行為だったようだ。静止しているとはいえ、人が通れるような隙間も無い。粉塵でそれすら気づけず、彼女の策略に嵌っている事に気づいたのは攻撃を受けてからの事。
「逃げ道を探すのも予定通りなの。だから――」
 声は、すぐ傍。
「そこにいるのはわかってるの!」
 静止していた粉塵が動きを見せ、彼女の姿が確認された時には黒い爪が胸を切りつけた。動きが速過ぎる、考えれば彼女は時間を喰らって動いているのだから、目で追いつけるはずも無い。
「痛っ……!」
 いつでも防御できるよう、刀を前へ出していたのが幸いした。刀がそのまま盾の役割をしてくれたために深く爪で体を斬られる事は無かった。
 反射的に刀を振るうが、彼女はすぐさま粉塵の中へ消えてしまい攻撃へ転ずる事が出来ず。粉塵はある程度宙を漂うも、すぐに静止。いつまでも視界を遮り続ける粉塵がこれほど脅威だとは予想外だ。
 粉塵を刀で振って少しでも薄れはしないかと試みるも効果は無し。
 彼女の位置は音で判断するしか無い。
 耳を澄ませば、彼女の足音というか、歩調と重なる亀裂の音が微かに聞こえる。
 きっと亀裂の走った床の上を彼女が歩いているために、静止している状態から時間が再生されているのだ。静止しては再生が繰り返されているので床が崩れる事は無いが、そう長くはもたないかもしれない。
 もたなくても、即座に大打撃を与えて終わらせる戦いではなく、先ほどのように軽く攻撃を仕掛けては粉塵へ逃げるという戦い方から考えると、彼女は俺をこの空間から閉じ込めて時間稼ぎをするのが目的のようだけどね。
 こうして粉塵に紛れて攻撃しつづけていき俺の体力と時間を消費したところで結界を解き、建物に止めの一撃を与えて俺ごと建物を崩す。彼女の計画は大体そのようなものだと思われるが、気になるのはこんな長期戦を求めるような戦い方よりも今すぐ建物を崩さないのは何故かという事。
 何か躊躇っているように思える。何を躊躇っているのか、それは解らないけど彼女はきっと躊躇っている。この粉塵の有様だ、今すぐ建物を崩されたら逃げ道もわからない俺は建物共々崩れるに違いないのだ。何を……躊躇ってる?
 しかし考えている暇など無い。
 あざみは音も無く粉塵から現れ、俺は刀で受け止めて反撃しようとすれば彼女の姿はまた消えてしまい、終始俺は攻めあぐねた。
「戦う以外に……方法は無いのかな……?」
『あれば有り難いね』
 少しでも粉塵の少ないほうへ駆け寄って壁を背にまた構えた。
 室内はそう広くないが、移動しつつ彼女の攻撃をかわして彼女が粉塵へと消えるという行為を繰り返しているとある程度彼女の位置も把握できる。無論、彼女もこちらの位置を把握できるわけだが。
「そこっ!」
 予想していたところからガラスの破片が飛んでくる。俺は速やかに身をかがめてそれを避けた。ガラスの破片は細かすぎて刀で防ぐ事も出来ない。むしろ刀で防ごうとすれば砕けた破片が肌を突き刺しそうだ。
「なあ、あざみ。君はそれでいいのか?」
 移動しつつ、彼女に問いかけてみる。
「何がなの?」
 彼女は返答した。声からして、かなり近い。彼女も追いかけるようにして移動しているようだ。
「君が俺を殺してあの人のために殺人衝動を抑えたとしても、また新たに殺人衝動が生まれたら? 君はまた変わりに手を下すのか? その繰り返しを君は喜んでいられるのか?」
 すると、言葉の代わりに帰ってきたのはガラスの破片。
 長く喋りすぎた、折角移動したのにもう位置を特定されたと思う。
 止む攻撃、漂う沈黙、張り詰める空気。
 息苦しささえ覚える時間が数秒続く。部屋の角に追いやられぬよう動いて、粉塵が薄いところで俺は一度移動を止めた。彼女の足音も聞こえず、先ほどの質問の返事も返ってこない。ガラスの破片は飛んできたけど。
 もしかして彼女はもう動いていないのかも、いやしかし油断は禁物。
 数分にさえ、数十分にさえ、数百分にさえ思える数秒。元々、この空間内では時間の流れというものは存在しないらしいけど、強いて言うならば体内時計で感じている、といったところか。自分のリズムを刻むために、落ち着くためにもこういう場合はよく頭の中で時間を数えている。
 現在十秒過ぎた。
 動きは無し、音も無し、粉塵が動く気配も無く。
 彼女はこの室内のどこかにいるという気配だけは辛うじて感じられる。張り詰めた空気が俺を敏感にさせたのか、まだ心のどこかで臆している感情が危険信号として敏感にさせたのかは定かではない。
 冷や汗が額から頬へ伝った瞬間、視界は大きく変化を見せた。
 覆っていた煙幕が薄れていき、突如として室内の全て、見える物質に亀裂が入ると共に騒音。建物が崩れるかと危惧して天井を見上げるが、よかった……亀裂が入っただけでそれほど大きな損傷は無い。床も崩れてない、けれども激しく動けば崩れてしまいそうな不安定さは残している。
 この様子を見る限りでは結界が解かれたようだ。
 解いたという行為は俺へ攻撃を仕掛けるというのならば何時でも迎撃できる体勢にしておかなければ、と考えるも攻撃は未だに来ない。
 むしろ室内に流れ始めたのは、鼓膜を擦るような泣き声。
 声の元を辿ると窓際にあざみがいた。攻撃するつもりなどもう無いのか、彼女の腕からは黒い爪など消え去り、その手は涙を拭うためだけに利用されていた。
「ぐすっ……もう、わからないの……」
 徐々に彼女の涙は激しさを増し、泣きじゃくる彼女をしばらく見続ける事しかできなかった。
 戦闘を止めたのは、きっと今自分のやろうとしている事が果たして本当に良い方向へと導くのか、俺を殺したところで果たしてこの先何か変わるかという彼女の不安が、今まで塞き止められていたのに戦っている内にその心の防柵が崩れたのだ。
 ようやくして落ち着きを取り戻した彼女は、ゆっくりと口を開いた。
「私が目覚めた時は……びょういんという場所だったの」
 それならば宗司朗の転落事故がやはり彼女と環さんが出会ったきっかけ。事件の始まりとも言える。
「でも、貴方なら私が時間喰らいであると明かした今、説明しなくても大体は解ってると思うの」
 ようやく辻褄が合わさる心地を得た。
 転落事故で宗司朗は大怪我を負い、病院へ運ばれて彼女と環さんはそこで出会い、時間喰らいである彼女は宗司朗の怪我という時間を治した、そんなとこだろう。
「神約をした理由は、人間に今まで接した事が無いからどういう時間を喰らうべきなのかを知るためにも人間という媒体を通す必要があった。それに私は目覚めたばかりで力が無いから、力を送ってくれる媒体が必要だったの」
「……その後の事件は、君の力を蓄えるための犠牲だったのか?」
 彼女にとって人間とは時間の塊に過ぎないのか、何人もの人間が亡くなっているのに彼女はどう思っているのかが俺は気になった。
「……そう」
 罪悪感を抱いたような重みを含んだ返答。
 彼女は俯き、しばらくこちらを見ようとはしなかった。
「君の意思ではなかった……のか?」
 彼女はこくりと頷く。
「死の時間を生の時間で上塗りするには力を多く使うの。そのために私は力の消費に限界になって昏睡に近い状態になってたから、気がつけば膨大な時間を与えられてたの」
「君が目覚めたのはいつ?」
「五人分の時間を与えられた頃」
 夏休みに入って間も無くってとこか。その時に目覚めてたのならばきっと俺達が宗司朗を見張っていた事も知っていたに違いない。彼女が俺に直接話しかけたのは、俺が事件を嗅ぎまわっていると知っていたから、そして少なくとも彼女は止めたいと思ったからこそ俺に助言をしてくれたのだ。
「手帳の意味は何なんだ? どうしてあの手帳が殺人衝動を止めるほどの抑止力を秘めてると君は思ったんだ?」
「私の口からでは言いづらいの……。でもあの手帳を見せれば、きっと全て止めてくれると思ってた」
「期待とは裏腹に、手帳を拾った俺を殺そうとしたってわけか」
「そういう事なの」
 でも、考えてみて引っかかる事がひとつ。
 ――あの子の愛情は落ち着いてる、大丈夫よ。
 彼女と初めて出会ったときの会話。
 あれは環さんが宗司朗に対しての愛情が治まったからだと思ってた。けれど聞けば、あざみの力を蓄えるためにだというのだから愛情という言葉が引っかかった。
「愛情って言葉、あれが良く解らないんだけど」
 刀を消して、俺はまだ痛むわき腹を押さえて壁に凭れた。
 もう彼女と戦う事も無い。
「貴方に出会う前、人間一人分の時間をあの子は送ってくれたの。私はすっかり元気になって、あの子はもうしばらく十分と判断して私と一緒に過ごすと言ったの、私を愛してるからと」
 話が見えなくなってきた。
 えっと……彼女と会う前日には確かに一人亡くなってる、時間的に考えるとその夜に環さんは彼女に一人分の時間を注いで十分と判断して……環さんが彼女を愛して……あれ?
 待て待て考えるんだ、と俺は腕を組んで、
「あの子……宗司朗は」
 その言葉に、思わず凭れた壁からずり落ちて尻餅をついた。


   *    *    *


 まさか冬慈君があんな力を持ってるとは、予想外だった。
 手帳を見つけられたとはいえ、手を出さなければよかった。様子見するべきだったのに、やっぱり焦ってて判断力が欠けてたな。それに姉さんがわざわざ冬慈君に会ったりするからだ、いつも僕の思い通りにならない……姉さんは。
 今日は図書館に行くのは止めておこう。何か感づかれたら困るし、顔を合わせる気分にもなれない。
 あざみさんへの力も十分に注いだ、しばらくは補充する必要も無いし、冬慈君との戦闘もあったんだ、今は密やかに動かなくてはいけないけど、あざみさんに会いたい。
「宗司朗、朝早くからどこに行くの?」
 こっそりと家を出ようと思ってたのに、どうして姉さんは僕が外出する時になると必ず感づくのやら。
「散歩でもして時間を適当に潰したら参考書でも買いに行こうと思ってるんだ」
 姉さんは寝起きのようで、まだパジャマ姿。起きてまだ間もないのはわかるけど、尚更何故僕が外出すると感づいたのかが不思議だ。
「そう、私もついていこうかしら」
「いや、姉さんはまだ寝てていいよ」
「いえいえ、そう言わずね。宗司朗の今日のラッキーアイテムはきっと私だから連れて行くと何か良い事があると思うわよ」
「絶対無いと思うから姉さんは回れ右して階段を上がってベッドに飛び込んだほうが良いと思うんだ」
 姉さんはしばし何やら考え始めた。嫌な予感。
「あ、私も参考書を買おうと思ってたの」
 どこまで姉さんは僕についていきたいんだよ。
「姉さん、昨日参考書買ったでしょ」
「あれね、買い間違えたの」
「嘘つかないでよ」
「そ、宗司朗には嘘なんてつかないわ!」
 視線を逸らされた。
「いや、今僕の目の前には嘘をついた姉さんがいるんだけど」
 なかなか引いてくれない。姉さんも今日は暇なのは解るけど僕はあざみさんに会いたいんだ、姉さんを連れて行くわけにはいかない。というか休み中に姉さんと一緒に歩いてるところを誰かに見られたらまたブラコンの噂が広がるじゃないか。
「や、やるわね宗司朗……!」
 嘘を見破った事を言ってるのならそれはちょっと姉さんに駄目な点があったと思うんだ。
「昼までには帰ると思うから何かご飯作ってくれて待ってると嬉しいな僕」
 こういう時の姉さんのあしらい方は、姉さんが自宅に居てご飯を作って待ってるっていうシチュエーションを作れば良い。
「そうね、今日は何が食べたい? 洋食? 和食? パン系? ご飯系? それとも私?」
 何だか色々と突っ込みたい選択肢。
「えっと……最後のは却下で。ご飯系でお願いします」 
「さ、最後のは無いのね……」
 残念そうに言わないでよ。僕が悪いわけでもないのに申し訳ない気持ちになるじゃないか。
「それじゃあ、行ってきます」
「あ、宗司朗。行ってきますのチュ――」
 僕は姉さんの言葉を最後まで聞かずに家を出て行った。
 どうせしょうも無い事だ、何より姉さんがいつも通りだったので安心。
 手帳の事を気にして詮索しようなんて思ってでもいたらどうしようかと思ってた。あれは姉さんも、誰も知ってはいけない。だからこそ冬慈君は……いやいや、駄目だ。もう二度とあんなこと考えちゃ駄目だ。けれど、学校で拾ったと知られたのは少々まずい。姉さんにも知られたのも。
 これから考えるべき事は、やっぱり冬慈君が何者かという事。彼のあの力……神かもしれないし、別の神と神約したのかもしれないけど、僕に近づいたのは事件を調べてるからかな。
 大丈夫、そうだ、大丈夫。完璧に僕は演じきった。僕が事件の犯人だとは考えないはず……。今まで時間を喰べた人達を調べたであろうし、その事から冬慈君が犯人は誰かと考えるならば姉さん以外思い浮かばないと思う。
 このまま姉さんを調べてくれれば当然何も出ない、つまり事件は行き詰る。きっとそうなってくれるはずなんだ。
「暑……」
 家を出てすぐに直面したのは肌を刺すような陽光と、肌を焼くような熱風。今日は一段と暑い。でもあざみさんがいる隠れ家は意外と涼しいから、それまでの僅かな間耐えれば良いと思えば苦にもならない。何よりあざみさんといればこんな猛暑なんてどうでもよくなる。
 嫌な事は考えないようにしよう。
 事件はきっと行き詰る。証明も出来ないんだ、全てを知ってるあざみさんが誰かに言うぐらいでしか公にはならない。あざみさんも隠れ家にずっといるんだ。絶対に大丈夫。
 今はじっと時が過ぎるのを待てばいい。


 *   *   *


 どうやら根本的に間違えていたようだ。
 いや、騙されていたというのが正しいか。
 宗司朗への過剰な愛情によって引き起こされた殺人、そう考えていた。けれども、そう考えるというのを逆手にとって利用し自ら犯人という筋を外すのではなく、外させる事で違和感無く俺は宗司朗が犯人ではないと思わせられていた。
「あの子はいつも冷静で、だからこそ最も冷酷なの」
 そうだ、俺が宗司朗と出会ったときはすでに九人もの男女が亡くなっている。
 宗司朗と初めて会った時、彼は平然と話をして、平然と俺に演技をしてみせたという事になる。普通ならば外に出る事さえ罪を犯した重圧で出来ないと思われるが、如何せん俺は人を殺した事が無いのでなんとも言えない。
 ただ、ぞっとする。彼が俺と出会う前に殺人を犯していたのなれば。
「ふむ、探していた奴がまさか時間喰らいだったとはな」
 強打した尻を押さえつつ、立ち上がったところで声が聞こえた。
 ルウの声。その言葉を聞くに、随分前から話を聞いていたのかもしれないが、とはいえ彼女は室内には入れない。階段は瓦礫に塞がれているのだ。隙間からは僅かに彼女の目が見えて目線が合った。
「記憶喰らいね?」
「うむ、そうだ」
 胸を張って言ってるような口調だが、残念ながらこちらからでは君の瞳しか見えないわけなんだよね。
「結界を解く前にここから出る事をお勧めするの」
「そうだね、出ようか」
 彼女は、この建物を隠れ家と称していた。
 隠れ家といっても見た目はただの空きビル、いや廃墟といったところだが結界を解くとものの数秒でそれは隠れ家とも、ビルとも呼ぶ事など出来ないくらいに崩れて、あえて言うならばコンクリートの山、瓦礫。
 そんな瓦礫となった隠れ家を見つめる彼女の姿は、そこはかとなく哀愁が漂った。
「キスイはいないのか?」
「あいつは人を頼るくせに、自分では動かん」
 頬を膨らませて不愉快そうに腕を組むルウ。
 想像してみて、何か食べながらゆっくりルウを待つキスイの姿が思い浮かぶ。今現在キスイはきっと俺の想像通りに過ごしている事だろう。食べる事しか基本、頭に無さそうだし。
「見つけたらどこかに移させろと言われただけだしな、一先ず場所を変えるぞ。今の音を聞きつけて人がやってくる」
「でもここにいれば彼はきっと来るの」
「そんな事言っている場合ではない、少しは世間ってやつを考えろ」
 ルウの口からそんな言葉が出るとは思わなかったが、彼女の言うとおりだ。さすがにビル一つが騒音を生んで倒壊したのだ、妙に辺りが騒がしくなってきている。それに倒壊と同時に舞う粉塵、これらが目印。ここを人が囲むのも時間の問題だね。
 いくら宗司朗が来るとはいえここにいたら面倒な事になりそうだし、何より人が集まれば宗司朗は近づくはずもない。
 俺達はキスイの住んでいる空きビルへと場所を移す事にした。ここからは歩いて数分、意外と近い。
 キスイと会うのは久しぶりだ、もう二ヶ月近くは会ってなかったかもしれない。
「おお冬慈、冬慈よ、相変わらずの無愛想じゃな」
「うん、ちょっと傷ついた」
 最初の挨拶で無愛想と言われると俺の心は大打撃を与えられるわけなんだけど。
 キスイも相変わらず何も変わって無い。予想通り、片手には備え付けられてるように食べ物を持ってるし。しかしおにぎりか、これは鬼がおにぎりを持っているというギャグを狙ってるのかな。
「キスイ、言われたとおり探してやったぞ」
 ルウは時間喰らいの頭を突きながらキスイに見せる。時間喰らいはちょっと不愉快そうに眉間にしわを寄せていた。
「むむ……」
 なんて声を漏らしたキスイは苦い顔をしてそそくさと階段を駆け上がっていく。
 俺達、いやきっと彼女――時間喰らいを見るのが嫌だったのかもしれない。魂の流れを感じ、それを見れるといっても俺にはピンと来ないし、でもキスイの様子から察するに見て気分の良いものでも無いのか。それとも、ただ単にキスイは彼女が嫌いなのだろうか。
「ルウ、連れて来いとは言っておらん!」
 階段の奥からキスイは声を出した、少々荒々しく。
「成り行きでこうなった」
「なんだか申し訳ないの」
「ならば去れ! こんな奴、見るのも嫌じゃ。堕ちた神め……」
 随分と毛嫌いしている。神や鬼なんていう次元での話では彼女達がどういった存在であるのかさえ解らない俺には、堕ちた神という意味もキスイが時間喰らいをこれほど毛嫌いする理由も解らない。
 ひょっとしたら、以前ルウが話していた事が関係しているのかな。
 ずっと前の話だ、そう、ルウと最初に会った頃の。
 以前に戦った魂喰らい、精神喰らい、そしてこの時間喰らいは言わば彼女達の世界――神海の犯罪者。人間でも犯罪者というレッテルを貼られるだけで世間からは冷たい目を向けられる、キスイは時間喰らいに対してこれと同じ扱いをしているのか。
「まったく、困った奴だ。どうしようか」
「どうすればいいの?」
「うーん、どうしよう」
 別に時間喰らいから話を聞くだけ、それならば場所はどこでもいいと近くにあるキスイの空きビルへ足を運んだのだが、キスイの機嫌は斜めもいいとこで二階から降りてこず、このまま居座るのも気まずいので表へ出る事にした。
 随分と騒がしい。
 先ほど倒壊した空きビル周辺はすでに野次馬やら警察やら諸々。まさか俺達が空きビルを倒壊させたなんて考えるはずは無いがしかし、騒ぎになるまで発展させてしまった事と手数を掛けさせた事への罪悪感が足へ重石を乗せるような気分に浸らせる。
「仕方ない、どこか人の居ないところに行こう」
 ここらは空きビルや放置された工場などが多く残っている地区。
 歩いていれば必ずや見つけられるはず。とはいえ空きビルの場合、シャッターが閉められて中へ入れないところもあるわあまりにも亀裂が入って今から壊れますと言わんばかりの建物もあるので意外と歩数は増した。
 空腹に腹の虫が鳴き始める時刻十二時を回った頃、俺達は小さな工場へ入った。キスイの場所からも、先ほど倒壊させた空きビルからは近からず遠からずで丁度いい場所、それに街までも結構近い。
 なんでも、時間喰らい曰くこの工場は暇な時に良く遊びに来るんだとか。空気は埃っぽく、辺りはさまざまな機械が置かれているも全て埃に塗れて随分と使われていないようだ。
 所々で聞こえるのは鳥の囀り。
 きっと巣を作っているのだ、街からの騒音もこの工場の中ならば届かないし鳥達には絶好の立地条件といったところか。
 まあ人はどこにも居ない、誰もこんなところへ近づこうとは思わない。聞かれたくない話をするならここらでいいな。奥には些か進むのは埃やら、光が差し込まず昼間なのに薄暗いその雰囲気に抵抗があるため入り口の光が届く辺りで俺達は足を止めた。
「時間喰らい、聞きたい事は山ほどある。特に、どうやって目覚めたかがな」
 早速時間喰らいへ駆け寄り、ルウは腕を組んで質問の返答を待った。
「魔女、そういえば貴方はきっと解るの」
「魔女……なるほどな」
 やはりルウは俺達が交戦を終えて話をしていた頃から聞いていたようだ。近くに居たなら助けて欲しかったなあなんて思いつつも階段は瓦礫で塞がれていたので仕方ない。いざとなれば瓦礫ぐらい壊して参戦出来そうだけど今は聞くまい。
 気になるのは、彼女達の会話で飛び交う魔女という単語。今頭の中で想像している魔女は黒い帽子を被り箒に跨って空を優雅に飛ぶ少女、なんだけど想像とは違うだろうね。彼女達、神が話す内容ってのはきっとこの魔女も神の一種、かな。
「魔女は模倣犯<<コピーキャット>>で肉体喰らいの能力を引き出して私の体を再び具現化させたの」
 随分と内容が濃くなってきた。
 コピーキャット。聞くだけではコピーという単語から力を真似る様な印象を受ける。彼女の話から察するに、どうやら神の力を引き出せるらしいが、こういうのには疎いために後でルウに詳しく聞こうと思う。ここで一々俺が疑問を解消するために横槍を入れるのは会話妨害もいいとこであるし。
 肉体喰らいってのは言葉からはなんとか理解は出来る。要するに彼女は力の塊であり、肉体は無かったが肉体喰らいの力で体を再び得る事が出来たという事。
 そして肉体喰らいの力の犠牲となったのはおそらく病院のカルテと共に消失した医師。大体話は繋がった。
「コピーキャットは記憶喰らいの力も取り込んでるから、事実を歪曲させるには十分だったの。魔女は宗司朗にコピーキャットを委ねて、さまざまな場所で使ってたと思うの」
「ふむ、この街で力を使う機会は多かったからな。コピーキャットに力の残り香を収集されたか」
 少なくとも生徒や夏木先生が転落事件について記憶が曖昧なのもコピーキャットが影響しているようだ。でも事実とは転落事故の事を指しているとしたら、よくわからない点がある。
 すでに散り散りとなった噂、隠し切れない転落事故。それをどうしてコピーキャットを用いてまで隠そうとしたのか、だ。
 ここは聞いてみよう。
「なあ、宗司朗はどうして自分の転落事故を隠そうとしたんだ?」
「違うの」
「違うって?」
「宗司朗じゃなく、環が転落したの」
「え……? も、もう一回言ってくれないか?」
「環が転落したの」
 聞き間違えでもないようだ。
 どうやら俺は根本的に間違っていたと先ほど思っていたが、それよりも更に根本的な領域で間違えていたようである。
「ふむ、では環の転落事故を宗司朗が隠したというのならば、何故奴はああも隠したがるのだ? 時間喰らい、貴様なら知っているだろう?」
「その……うぅんと……」
 言いよどむ彼女を見て、手帳を思い出した。
 あの手帳は転落事故に深く関係した物だ、環さんが転落事故を起こして手帳が中庭にあった。それは繋がったが結局どうして転落したとか、何故転落事故の事実を隠そうとしたのかという部分は結局解っていないので気になる。
 彼女の様子から、質問攻めをしたところではあるもまた言いよどむのは明らかだ。
「埒が明かん。宗司朗に聞いたほうが早いな」
 しかし素直に話してくれるだろうか。
 もう既に俺達は宗司朗が時間喰らいの力を得ている事も、事件の犯人であると知った上で話を持ちかけるわけだ。宗司朗は俺達を消そうと戦闘になるかもしれない、かもしれないっていうよりも確実になる気がする。
「あら? 冬慈君じゃない」
 唐突に、俺の名前を呼ぶ声。
 こんな話をしていたのだ、いつもよりも敏感に俺は反応して声のする入り口へと視線を向けた。
「環……さん?」
「こんなところで何をやってるのかしら?」
 それはこちらの台詞。
 あざみは咄嗟に俺の背後へと隠れ、俺の隣に並ぶルウは声を潜めた。
「こいつが環か。何故ここにいる……?」
 言葉の対象は、あざみへ。
「さあ、わからないの」
 早い話、目の前にいる本人に聞いた方が良いわけで、こそこそと喋っていても推測が飛び交うだけ。ここは俺が環さんと話をしてみよう。
「いえ、ちょっと散歩していてこの工場を見かけたので暇潰しにと入ってみただけですよ」
 咄嗟に何か嘘をついて誤魔化さなくてはと口には出してみたが、考えてみると一応、まるっきり嘘という訳ではない言葉。
「ふぅん。まあいいわ」
「環さんはどうしてここに?」
「いえね、宗司朗のために美味しい炒飯を作ろうと思ったのだけれど、卵が無くて買い物に出かけたら宗司朗を見かけてね」
「宗司朗を……?」
 胸騒ぎ、それと妙な悪寒。
「ええ、どこに行くのかなって気になって追いかけてみたのよ。すぐそこで見失っちゃったけれど、近くにこの工場があったから中を覗いてみたってわけよ」
 その時、工場内で度々聞こえる鳥達の囀りが一斉に止まった。



2010/03/04(Thu)03:10:23 公開 / チェリー
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■作者からのメッセージ
 どうも、チェリーです。第四章です。最近色々と忙しくてですね、秋田へ出向いたり、稲庭うどんを食べるって話になっていざ店の中へ入ったら【\そ ば 専 門 店/】だったりでええ、色々と大変でした。さてさて次で最終章となりますが第四章はそのための助走期間といった話。そして現在筆が進まず、とりあえず漢字検定の勉強をしてたり。うん、ちみちみ魑魅魑魅頑張っていきたいと思います。あとすごく心配事があってですね。うちのノートパソコンさん、作品が200枚越えるとすっごく重たくなるのです。フリーズもしたりでこれを更新したら自分の作品に編集できなくなるのではないかという不安があったりしますがうん、まあなんとかなるかな……。それでは、読んでくだされば光栄です、ではでは。

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