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『暑さも寒さも彼岸まで 第八話〜第十話』 ... ジャンル:お笑い 未分類
作者:月明 光
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第八話 マネージャーになりたくて
明草高校将棋部一同は、今日も部活に勤しんでいた。
放課後の空き教室で、いつも通りの過ごす一同。
「王手。これで詰んだな。堀は、良くも悪くも堅実過ぎる。穴熊だけで充分堅いんだし、攻めあぐねている隙に派手に攻めた方が良いんじゃないか? 守るのが遅いのに攻めるのも遅いんじゃ、と金攻めや地下鉄飛車で突破されるのが先だぞ」
「何勘違いしているんですか……僕の手は、まだ終了していませんよ!」
「いや、どう足掻いたって、もう詰んでるだろ」
「いえ、まだです。僕の編み出した秘策……これです!」
「……何で、お前の手に二つ目の玉があるんだ?」
「盤上の玉は影武者! 本物はここです!」
「暴力で決着を着ける気か、お前は」
奇策を弄する堀に、藤原は翻弄されていた。
二人が技を高め合う一方で、秋原は携帯ゲームをしていた。
将棋のゲームならばともかく、ギャルゲーでは藤原も黙っていられない。
「秋原、余ったからってそれはないだろ。副部長なんだし、詰め将棋でもしてろよ」
備品として購入したハリセンで堀を殴り倒し、秋原に注意する藤原。
しかし、秋原はどこ吹く風だ。
「ふっ、判っておらんな。俺は現代美術研究部の部長でもある。粒揃いの同志達の陣頭に立つ、リアル将棋の日々を送っているのだぞ」
「だったら辞めろよ……」
無茶な理論を振りかざす秋原に、藤原は頭を抱えた。
そんないつも通りの日々に、新しい彩が加えられて、しばらく経つ。
「お兄ちゃん、見て見てー!」
その一つが、この部に入り浸るようになったアリスである。
部員でもないのに居座り、対局の邪魔をしたり、備品で遊んだり、真琴を引き寄せたりと、堪ったものではない。
アリスの呼び声に、藤原はやむを得ず彼女の方を向く。
そこには、嬉々とした表情で立っているアリスがいた。
ルールを憶えさせるべく、初心者向けの本を読ませていた筈なのだが……。
呼んだ理由を訊こうとした藤原だが、わざわざ尋ねるまでもなかった。
アリスの周りには、四十枚の駒が浮かんでいる。
「ファンネル!」
そして、得意気に叫ぶアリス。
どうやら、魔法で駒を浮かべている様だ。
「ほう、アリス嬢はニュータイプであったか」
言葉も出ない藤原に代わって、秋原が反応する。
藤原は、手に持っていたハリセンで、アリスのどや顔を軽く叩いた。
「うわぁ!?」
アリスが驚くと同時に、駒が一つ残らず床に落下する。
プラスチック製の駒は床で弾け、四方八方に飛び散った。
「ふむ。長時間は活動出来ない辺りが、本家に忠実で結構だ。安物の駒故に量産も可能であろう」
妙なところで感心する秋原。
「ひ、ヒドいよお兄ちゃん! ウケたら良いなって思って、一生懸命練習したのに!」
「他人に認められない『一生懸命』なんて、単なる自己満足だっての」
頬を膨らませるアリスを、藤原は溜息混じりに往なした。
こんな事に一生懸命になられても、この部に何のメリットも無い。
第一、万が一他の人に見られたら、どうするつもりなのだ。
この程度であれば適当に誤魔化せるであろうが、軽率なのは考え物である。
真琴と一悶着あった事も、すっかり喉元を過ぎてしまったらしい。
「ったく……ルールも憶えないのに、入り浸るなんて許さないからな」
「ボクはマネージャーだから、対局しなくて良いんだもん」
「マネージャーでもルールくらい知っとけよ。第一、お前をマネージャーと認めた事なんて無いぞ。どうしてもそうだと言い張りたいなら、マネージャーとしてお前が今まで何をしてきたか、言ってみろよ?」
「う……そ、それは……」
痛いところを衝かれ、アリスは言葉を詰まらせた。
「ま……マスコット……かな」
胸の前で両手の人差し指同士を何度も付けながら、若干俯いて答えるアリス。
その直後に、頭にハリセンの一撃が決まる。
「うにゃ!?」
「この先、一回ボケる毎にツッコミ十発な」
「貿易摩擦!?」
思わぬ宣告に、戸惑いを隠せないアリス。
ツッコミにハリセンを持たせただけで、こんなに危険な存在になると、誰が予想しただろうか。
「ち、ちょっと待って。マネージャーの仕事、マネージャーの仕事……」
復唱しながら、アリスは部室を出て行く。
一抹の不安を抱きつつ、藤原は待つ事にした。
このままドアの鍵を閉めてしまえば万事解決するのだが、流石にそれは後が怖い。
数分後、アリスが部室に戻ってきた。
その手には、薬缶とハンドタオルを携えていた。
「お兄ちゃん、お疲れ様!」
「運動部でやってこいよ……」
自信満々にそれらを差し出すアリスに、藤原は頭を抱える。
「まあ良いではないか。薬缶とタオルと労いの言葉。これぞマネージャーの王道であろうに」
「将棋部に必要な要素が殆ど無いんだけど」
秋原は寛大だが、彼の基準を当てにしてはいけない。
萌えれば何でも良いという危険思想に頼れば、この部は二分で崩壊するだろう。
「じゃあ、藤原先輩は、マネージャーに何をして欲しいんですか?」
「そもそも、この部にマネージャーなんて要らないだろう」
堀の問いに、藤原はきっぱりと言い放った。
元々この部にマネージャーはいなかったし、雑務は部長である自分が全てこなしている。
試合への参加申し込み、備品の購入、顧問に将棋とチェスの違いを教える……。
一部を除き、先代から続いている伝統を、今更変える必要も無い。
「まあ、確かに藤原にマネージャーは必要無かろう。何を持って来たところで、先代部長には代わるまい」
「!?」
秋原の言葉に、藤原の背筋が凍りついた。
開いてはいけないアルバムが、こじ開けられる音がする。
「それってどーゆー事、アッキー? 『センダイさん』って誰?」
「僕も知りたいです。僕が入部する前の将棋部って、どんな感じだったんですか?」
「良かろう。ここは一つ、藤原の痛し恥ずかし黒歴史を」
「待て待て待て待て待て待て待て待て!」
三人の間に、叫びながら割って入る藤原。
こういう事があるから、秋原に弱みを握られるのは怖い。
油断すると、勝手に回想に突入されそうだ。
こんなスリルを生涯味わなければならないと思うと、溜息すら出ない。
「判ったよ。簡単な試験を出すから、それが出来たらマネージャーとして認めてやる」
「やったぁ!」
どうにか話の軌道を戻し、アリス達の注意を逸らす事が出来た。
代わりに、余計な仕事が増えてしまったが。
「じゃあ、俺とアリスが平手で対局するとして、二人分の駒を並べてくれ。言っとくけど、これは最大限の譲歩だからな。出来ないなら、しばらくは下積みだ」
「ふふん、ボクだって遊んでばっかりじゃないもん。これくらい……」
アリスは、意気揚々と駒を並べ始めた。
「結局追い出したりはしないんですね。流石は先輩」
「五月蝿い」
堀と藤原は小声で会話しながら、秋原はアリスの一挙一動に萌えながら、それを見守る。
藤原の懸念は、飛と角、もしくは王と玉を逆に配置してしまう事だ。
間違いやすい上に、特に前者は致命的である。
一応、駒を置く順番も無くはないのだが、ルールではないので、学生の将棋で求める事でもないだろう。
――まさか、龍やと金が並んだりしないだろうな。
何だかんだで心配しているうちに、アリスが最後の駒を置く。
「出来た! どう、お兄ちゃん!?」
「お、これは寸分違わぬ……金矢倉だな」
斜め上を行く展開に、藤原はツッコむ事すら出来なかった。
盤上では、本に載っている通りの金矢倉が睨み合っている。
確かに囲いは大切な技術だが、出題を無視しては元も子もない。
「不合格」
「え!? 何で!?」
「訊きたいのはこっちだ。何でこれが出来て、最初の配置が出来ないんだよ」
「えーっと……将棋の本読んでて、この辺が出題されるかな〜って思って」
「どういう山の張り方だ。第一、ルールに山も何もあるか」
不真面目な学生の様な事を言い出すアリスに、藤原は溜息を吐いた。
「あと、王と玉が逆だぞ。将棋が上手い方や、目上の人が王なんだ」
「あ、そーなんだ。ボク、てっきり男女で決めると思ってたよ」
「新しい発想だな。何で男が玉なんだ?」
とてつもなく嫌な予感がするが、敢えて藤原は尋ねた。
『言わなきゃダメ?』とでも言いたげな視線と表情で、予感が的中した事を察する。
「だって、女のコに『玉』なんて無いもん」
「堀、野球部でバット借りて来い。出来れば金属で」
「玉だけにバット、ですか」
「誰が上手い事言えっつった」
「しかも、『金』の付く『棒』とは卑猥な」
「秋原、アリスの次はお前だ」
ハリセンでは済まないボケの連発に、藤原は爆発寸前だった。
神聖な部活をこうも汚されては、先代に合わせる顔が無い。
それとも、先代ならば、笑って見ていただろうか。
「でも先輩。これからは、こういうのもありではないでしょうか」
「はあ?」
またもや頓珍漢な事を言い出す堀に、藤原は心の底から呆れながら訊き返した。
「試合が始まる前から始まっているのが勝負です。相手の情報を得て、対策を練り……その中の一つに、予め囲いを作っておくという手があっても良いと思うんです!」
「そういう話は、将棋連盟に直訴した方が良いんじゃないか?」
将棋のルールを根底から覆す提案に、藤原は気だるげにツッコむ。
囲いと称して相手の玉の頭に金でも置くようになれば、既存のルールでは勝負にならないだろう。
これでアリスの不合格は決まった……と思った時、部室のドアが開いた。
「こんにちは、皆さん。……あれ、何しているんですか?」
現れたのは、補習を終えた夕だった。
夕が担当する補習は、生徒からの人気が非常に高く、ダフ屋が発生する程である。
授業が解り易い事や、夕が担当するクラスの成績が伸びた事が話題を呼び、担当していないクラスの生徒が殺到するのだ。
美人教師の居残り授業というシチュエーションや、今宮に強制されるコスプレに魅せられた者も多いが。
余りの人気に、『西口先生の個人レッスン』なるDVDが職員室から発売され、しかも予約の段階で完売してしまった。
「アリスがマネージャーになりたいって言うから、入部試験をしたんだよ。結果は散々だけどな」
「それで、望月さんはマネージャーになれないんですか?」
「まあ、勉強くらいはして貰うつもりだけど」
藤原の答えを聞くと、夕は軽く溜息を吐いた。
「藤原君。入部のハードルを上げるのは、余り良くないと思いますよ」
「それはそうだけど、こいつが真面目に活動するか?」
「これから指導すれば良いじゃないですか。今までは入部していなかったんですし。藤原君も、初めから将棋が上手かった訳ではないですよね。ルールすら知らなくて、誰かに教えて貰った頃があるんじゃないですか?」
「そ、それは……」
夕の問いに、藤原は言葉を詰まらせる。
確かに、誰もが最初はルールすら知らない。
入部前から熱心とは限らない。
それを理由に弾き出していては、誰も集まらない。
自分が将棋を始めたのも……。
――教えてあげるね。将棋の指し方も、面白さも、全部。
「そもそも、部活はエリート集団を作る場所ではありません。活動を通じて友情を培ったり、自己を高めたりするのが本懐ではありませんか?」
「ま、まあ、そうなんだけど……」
珍しく部活で教師らしい一面を見せる夕に、藤原はたじたじだった。
普段は、クイーンが無いだのナイトと桂馬がどうだのと、迷惑ばかりかけているのに。
夕の言葉にも一理あるし、何よりも……。
――藤君と秋君が入部してくれたら、もっと楽しくなると思うの!
「部長の方針には逆らえない、か」
入部した当初の事を思い出し、藤原は自嘲気味に言う。
「判ったよ。今日からアリスは、正式にうちのマネージャーだ」
「やったぁ! お兄ちゃん、今日から毎日イチャイチャしようね!」
ついに公認マネージャーとなり、アリスは飛び跳ねた。
――これで良かった、かな。
抱きついてくるアリスにハリセンを決めながら、藤原は先代の事を偲んでいた。
今のこの部は、先代の思い描いた部とは違うのかも知れない。
しかし、先代の一番の願いは、きっと実現出来ている筈だ。
いつか先代と会えた時に、胸を張ってこの部を見せたい。
その為に、藤原は今日も部長としての職務を全うするのであった。
「ゆーちゃん、ありがとう! 流石はナイチチ同志!」
「な、ないちち……」
藤原が入部届けを調達しに行き、アリスは夕に飛び付いていた。
当の夕は、複雑な気分の様だが。
「でも、本当に良かったんですか? ルールも知らないのに入部させて」
ルール無視の行為を頻発する堀が、夕に尋ねる。
「ルールを知らないからこそ、ですよ。望月さんがいなくなったら、その分私が怒られる時間が増えてしまいますから」
「あ、そっか。ゆーちゃん、未だにチェスと混同してるもんね」
「そういう事です。お互いが弾除けになって、怒られる時は一緒。あわよくば、顧問の権限を利用して、望月さんと一緒にこの部をチェス部に……」
「時に西口先生。聞かれては困る話は、背後を確認してからの方が良いぞ」
「え?」
秋原の言葉に、夕は首を傾げながら振り向く。
そこには、入部届けを持った藤原が立っていた。
笑うでも怒るでもない表情が、却って重圧を与えている。
「……あれ?」
その日、ハリセンの快音と夕の悲鳴が止む事は無かった。
第八話 完
繋ぎ 哲也秋原のあじきない話
秋原が次に出した数字は、三だった。
「物が飽和した現代社会に於いて、不必要な物が存在するのは致し方ありません」
「また哲学的な切り出し方だな……」
小難しい話を始めた棗に、藤原は思わず呟く。
棗は残っていたココアを飲み干し、ガラスのコップを音を立てずに置いた。
残った氷が、照明に照らされ、宝石の様に儚く輝く。
「例えば、此の無意味な程に多い氷。アイスココアと云えど、冷やすのに此処まで必要ありません。明らかな嵩益し。見栄えの為丈に在る、云わば無用な存在です。……紫さん、何時もの。お願いします」
通りかかった店員のトレイに、空いたコップを置き、追加注文する棗。
店員を名前で呼び、『いつもの』で通じる辺り、このメイドカフェの常連らしい。
「ふむ。要するに、堀の様な存在、という事だな」
「な、何で僕なんですか!?」
「ふふ、理解して戴けた様で何より」
「合っているんですか!?」
「なるほど、解り易い喩えだな」
「藤原先輩まで!?」
こうして、堀は『飲料の無駄に多い氷程度の価値』の称号を手に入れた。
「必要無いと言えば、街頭のビラ配りも要らないよな。朝から五月蝿いし、ビラ貰ったって、その店に行ったりしないし」
「其は云えてますね。ビラが両面印刷ですと、メモにすら使えませんし」
藤原の喩えに同意する棗。
ビラをメモ代わりに使う辺り、なかなか庶民的である。
物書きなので、尚更紙が欲しいのだろう。
「堀。実は俺の知り合いが、人手不足に喘いでおってな」
「僕に何を配らせるつもりですか」
不名誉な称号を手にした手前、堀は警戒していた。
秋原を振り払うべく、堀は藤原の話に乗っかる。
「でも、ティッシュ配りはありがたいですよね。わざわざ買う手間が省けますし。貰い物で殆ど賄えるお陰で、家計に優しいですよ」
「然し、其はティッシュが有難い丈であって、本懐である宣伝は果たせていませんね。……どうも」
追加注文のココアが届き、棗はそれを受け取る。
「じゃあ、何を配れば宣伝になると思います? ……あ、お冷下さい」
立ち去ろうとした店員を呼び止め、水を頼む堀。
あくまでも、この店で水しか飲まないつもりらしい。
「流石に其は、店に依るでしょうね。少なくとも、ティッシュさえ配れば宣伝に成るという考えは革める可きでしょうけど」
「逆に、ティッシュ配ったら宣伝になる店ってどんな店なんだ?」
「然うですね……ティッシュが手元に在る事で行きたくなる店、或いは欲しくなる物、でしょうか」
藤原の問いに、棗は腕組みをして少し考え込み、少し迷いつつも答える。
ティッシュの使い道といえば、鼻かみが殆どだが。
果たして、そこからどう宣伝に繋げるべきだろうか。
三人が頭を悩ませていると、秋原が話し始めた。
「この前、いつの間にか貰っておったティッシュが、テレクラの宣伝でな。もしや、あれは店で」
「言わせるかよ!」
結末は明らかなので、藤原は躊躇い無く言葉を遮る。
下手に沈黙すると、秋原を喋らせてしまうから恐ろしい。
「ふっ、まあ良い。必要無い物の典型は、やはりネット上の利用規約であろう。特に、基本プレイが無料のネトゲで、わざわざあれを読む者はおるまい」
「慥かに、チートやマクロを使わない善良な利用者には、無縁の内容ですからね」
藤原の睨みが効いているからか、秋原はまともな話題に戻った。
棗も同意しているという事は、恐らく読み飛ばしているのだろう。
「ネットゲームと云えば、広告をクリックすると飛ばされるディザーサイトも必要ありませんね」
「それもそうだな。大人しく公式サイトを表示させて欲しいものだ。……ふむ、こうして考えると、ネトゲには不要な物が多いな」
「ま、ネットゲーム自体、コミュニケーションと引き換えに、クリアという目標を失ってしまいましたからね。周回要素の無かった世代たる我々からすれば、エンドロールの無いゲーム抔、異文化に等しい代物です」
「ならば、クリアが存在するネトゲが良いという事になるのか」
「其は其で難しいでしょうね。ネットゲームの特徴を殺し兼ねません。やはり、据え置きとの住み分け、差別化の徹底によって、独自の地位を築く必要があるでしょう。健全な業界で在る為に、所謂廃人を生み出さない仕組みも作らねばならないでしょうし、クリックのみの単純作業化も……」
「盛り上がってるところ悪いけど、ネトゲ業界の展望を話すのは別の機会にしないか?」
すっかり二人だけの世界を構築している棗と秋原に、藤原が割って入った。
四人で会話しているのだから、除け者にされるのも困る。
校内の腐女子の餌食になり、大変な事になったのは忘れていないだろうに。
「えっと、僕が思う要らない物はですね」
「貴方自身が最も不要でしょうに」
話を変えようとした堀を、棗が一撃で沈めた。
「では、本題に戻りましょう。私が思う無意味な物は、『店長のお薦め』ですね」
「確かにあれは要らないよな。買いたい物くらい、自分で決めるっての」
棗の話に、藤原は素直に同意した。
あの手のものは、元々人気のある物か、在庫を片付けたいだけとしか思えない物にしか付かない気がする。
「店員が要りもせぬ解説を付けておる事もあるな。自分の性癖は、自分が最も理解しておるというに」
「誰が卑猥な同人誌に限定しましたか」
勝手に性的な話に切り替えようとする秋原を、棗が冷たくあしらう。
「ちなみに、俺は和姦が好きだが、『嫌がりつつも体は正直』なシチュエーションも好みだ」
「訊いてない!」
頼んでもいないのに性癖を暴露し始めた秋原に、藤原と棗が同時に叫ぶ。
ここで止めなければ、こちらにまで飛び火するに決まっている。
これ以上の介入を避けるべく、棗はさっさと話を進めた。
「行き付けの本屋がありましてね。小さい割に珍しい本を揃えているので、重宝しているのですが。其処の店主……御歳を召した翁ですが、彼が中々の曲者でして。私が敢えて店長のお薦めを避けている事を知った途端、店中の本をお薦めに挙げて下さいました。御丁寧に、一冊毎に書評まで付けて」
「何て店だ……」
店主の執念に、藤原は呆れながら呟いた。
そこまでして、自分が薦めた本を買って欲しいというのか。
わざわざお薦めを避ける棗も大概だが、彼一人の為に労力を惜しまない店主にも脱帽である。
「御令閨に先立たれ、本人も棺桶に片足を突っ込んでいるのに、見上げたものですよ。その前からずっと、『藪の中』の推理を競い合っていますし。私の説の方が正しいに決まっていますが、彼の説も、まあ、聴くに値する程度ではあります」
まるで仇敵の様な言い回しだが、彼の話をする棗は、どこか楽しそうでもある。
意地っ張り同士、何だかんだ言って仲が良いのだろう。
宿敵と書いて『とも』と読む、という言葉が相応しい。
「ついでに、その店主が体調を崩した時、棗が献身的に看病した事も補足しておこう」
「な!? あ、あれは違います! 彼自身ではなく、書店が潰れる事を心配して……」
お約束とも言える棗の『デレ』を秋原が暴露し、棗は耳まで赤くなる。
必死に弁明するが、逆効果である事は言うまでもない。
「はっはっは。なっちゃんはこうでなくてはな。さて、次の話だ」
「僕は……僕の存在は一体……」
堀の傷が癒えるのも待たず、秋原はサイコロを振った。
to be continued
第九話 その胸をよしとする
「はあ……」
放課後の職員室で、夕は溜息を吐いた。
部活や職員会議が始まる前の、教師が一息吐く一時。
それには似つかわしくない、深い溜息だ。
難しい本や書類が積まれたデスクに肘を突き、遠い目をしている。
「どうしたんですか、西口先生?」
隣の席でプリンを食べている梅田が、夕に問いかける。
事件を起こして以来持ち込み禁止となった生物及び水槽の代わりに、そのデスクにはお菓子が散乱していた。
その内の一つを差し出すが、夕は見向きもしない。
最後の一口を頬張ると、梅田は夕の方に身体を向けた。
「何か良くない事でもあったんですか? そういう時は、ミジンコを観察すると良いですよ。私も合コンは五十連敗くらいしてますけど、ミジンコが支えになってますから。すっごく小さくて可愛くて、とっても癒されますよ! 餌の植物プランクトンは、日当たりが良ければ勝手に増えてくれますし、飼う手間も殆ど……」
「ち、小さい……!」
梅田の言葉の一部に反応する夕。
ミジンコの話に夢中になっている梅田は、それに気付かない様だ。
夕は椅子ごと梅田の方を向くと、獲物を見付けたヤゴの様に両手を伸ばす。
夕の両手は、梅田のささやかな――それでも夕よりは大きい――膨らみを鷲掴みにした。
「ひゃうッ!?」
突然過ぎる夕の行動に、梅田の身体がビクンと震える。
「に、西口先生!? 私、そういう趣味は……ひゃあぁんッ!」
「……分けて下さい」
「ま、まだ誰にも触られた事なんて……ふぇ?」
「私よりずっと背が低いのに、胸は大きいなんて非科学的です! 一センチで良いから分けて下さい!」
梅田の涙目を見据えて、夕は叫んだ。
これは好機と言わんばかりに、カメラの準備を始める男性職員達。
「だ、ダメですよ! そんな事したら、私の方が小さくなっちゃうじゃないですか! 身長と胸の大きさが正比例する訳じゃありませんし、第一分けるなんてどうやって……ひゃぁああああああああッ!?」
「はいはい、その辺にして下さい」
夕の行為がエスカレートし始めたところで、天王寺が止めに入った。
男性職員達の間から、舌打ちが聞こえる。
貧乳とロリの貴重な組んず解れつに眉一つ動かさない事から、妻帯者の余裕を感じるのだろう。
「西口先生、堂々とセクハラをするのは止めて下さい。仕事だって終わってないんですから」
「皆に『貧乳先生』って呼ばれる事が、私の仕事なんですか!?」
「そ、それは……その……は、はは……」
思わぬ反撃を受け、天王寺は言葉を濁す。
実際、生徒や教師の間では、その呼び方で通用しているのだ。
教師間では、本人には直接言わないようにしていたのだが、どこからか聞きつけたのだろう。
「胸の大きさの差が、女性の魅力の差という訳じゃないですよ」
「そんな事言って、桜さん結構あったじゃないですか」
「そりゃあ、西口先生基準なら誰でも……」
目に映りそうな程の殺気を夕から感じ、天王寺はその言葉を飲み込んだ。
とりあえず、これ以上梅田が狙われないようにしなければ。
「西口先生、この国は累進課税を採用しているんです。持つ者から持たざる者へ、が原則なんですよ。西口先生が梅田先生からバストサイズを奪おうとするのは、無い者同士の奪い合あべしッ!?」
夕と梅田からビンタのサンドイッチを食らい、天王寺は倒れた。
所帯持ちでありながら勇敢に散った彼に、職員達は敬礼する。
彼の活躍によって、夕のセクハラで分かたれようとしていた二人の仲は守られたのだ。
共闘を経て通じた絆は、容易には絶てないだろう。
「ふふ。その理屈だと、『持つ者』は私なのかしら」
これ見よがしに胸を強調しながら、今宮が現れる。
白衣を身に纏った、明にも劣らないその身体は、まさに保健の先生を体現していた。
明のそれが母性を感じさせるのに対して、今宮のそれは情欲を煽り立てる。
「今宮先生なら判りますよね!? どうすれば胸が大きくなるんですか!?」
説得力のあるアドバイスを受けるべく、夕は今宮にすがり付いた。
「どうすれば、と訊かれても困るけど……。西口先生の歳なら、まだ充分成長の余地はあるわね。仕事や勉強を頑張るのは結構だけど、成長を阻害しない為にも、健康は大切にしないと」
「せ、成長……ですか」
歯切れの悪い反芻をし、夕は梅田を見る。
百五十をどうにか超えた程度の身長に、気持ち程度の膨らみ。
車でも運転しようものなら、至る所で職務質問されそうだ。
「い、今、哀れみの視線を感じたんですけど!?」
察しの良い梅田が、思わず胸を隠しながら涙目になる。
胸だけでは済まないからこそ、尚哀れなのだが。
「梅田先生くらい極まれば、逆に需要がありそうじゃない。ほら、携帯電話やパソコンだって軽量化の一途を辿ってるし」
「どうせ私はコンパクトな女ですよ! うわぁああああああああんッ!」
今宮に止めを刺され、梅田は泣きながら理科室へ走っていった。
いつも通り、ミジンコに愚痴るか、人体模型に泣きつくのだろう。
「医食同源という言葉もある。健康も成長も、食事を見直す事が第一だ」
梅田と入れ替わる様に、鶴橋が現れた。
筋骨隆々なその肉体が、言葉に圧倒的な説得力を付与している。
今宮と同じく、判り易過ぎる程の体育教師だ。
「今時の女は、体重ばかり気にかける。もっと肉を食え!」
「そんな事言って、次のコンパを焼肉屋にしたいだけじゃひでぶッ!?」
鶴橋の本心を見抜いた天王寺は、鶴橋の踏み台になった。
そのまま倒れていれば良かったのに、と誰もが思う。
「その台詞、娘にも言ってあげたらどう? 見ているこっちがいたたまれないじゃない」
「あいつは別だ。体質的に、無理に食べさせられん」
「それだけの問題じゃないから、こっちは尚更手を焼いてるのよね……」
鶴橋の答えに、今宮は溜息を吐いた。
「まあ、確かに肉類の摂取は必要ね。胸は脂肪で出来てる訳だし」
「私、食事はちゃんと取っている筈なんですよ。時々、作るのが面倒になって、簡単に済ませる事もありますけど」
「そういえば、お昼も自分で作って来てたわね。若いのに偉いわ」
梅田の昼食――チョコとクッキー――を見ているだけに、今宮は感心しきりだった。
夕は、週の半分は明と過ごしているが、残りの半分はアパートで一人暮らしである。
明の料理を手伝う一時の為に、一人の時にも練習を欠かさない。
明に褒めて貰う事が、現在の夕の原動力である。
「高い肉と安い肉の違いは、運動させるか否かにある。安い肉は、餌代を切り詰める為に、運動出来ない狭い場所で育てるからな。人も、運動せずに健康を保つ事は出来ん。食事と運動のバランスだ」
「う、運動……ですか」
またも歯切れの悪い反芻をする夕。
今度は、梅田に対するばつの悪さではない。
「私、運動は苦手なんですよ」
「その歳で運動不足は良くないわね。ジョギングでも始めてみたら?」
「今宮先生……私の百メートル走のタイム、知ってますか?」
「知らないけど、ギャンブラーとして、山勘で答えてみるわ。そうね……苦手だって言うなら、二十秒くらいかしら」
少し考えて今宮が出した答えは、中学生女子の平均より三秒程遅い。
「この前、賭けに負けた私に、体操着で授業させましたよね。あの後、流れで体育の授業に参加させられて、タイム計ったんですよ。その時のタイム、鶴橋先生が計って下さったんですけど……」
「五十メートル辺りでリタイア。記録なしだ」
「運動する体力すら無いって事? 面倒ね」
予想の斜め上を行く答えに、今宮の予想は見事に外れた。
百メートルを完走出来ない十代など、誰も想定出来ないだろうが。
「西口先生も今宮先生も、ひど過ぎると思わない、マッケンジー? 私だって、こんなちんちくりんに生まれたくなかったのに……。この前の合コンなんて、相手の第一声が『どちらのお子様ですか?』だって。その前も『最近は規制が厳しいから』って……私は小学生じゃないもん! 付き合っても犯罪じゃないもん! はぁ……マッケンジーだけだよね、私に何もかも曝け出してくれる男性って……結婚出来たら良いのに……」
「お兄ちゃん、梅ちゃんが人体模型相手に何かしてるよ?」
「いつもの事だ。放っておいてやれ」
「あらあら、何の話かしら?」
部活の準備を始めた鶴橋と入れ替わるように、職員室に戻ったばかりの寺町が加わった。
締まったウエストに、少し控えめな胸。
長い髪とスカートを靡かせる美術教師と聞いて、誰が男性だと思うだろうか。
『偽りの熾天使』とは、よく言ったものだ。
「寺町先生! どうして男性なのに胸が大きいんですか!?」
早速寺町に泣きつく夕。
このまま、自分より胸の大きい人全てに訊いて回るつもりなのだろうか。
寺町は少し戸惑うが、事情を察したのか、柔らかく微笑む。
「ふふ……体の性別は問題じゃないのよ。大切なのは、その人の心。西口先生が乙女の心を忘れなければ、いつかきっと、体も乙女になるわ」
「お、乙女の心、ですか。私、心理学には疎くて……」
「心配しなくても、ここにあるわよ」
そう言って、寺町は夕の胸に手を添える。
平たいとは言え、女性の胸を触ってもセクハラにならない男性は、寺町くらいだろう。
その優しい振る舞いが明を髣髴とさせ、夕の顔が上気する。
「あの、心は脳ですから、頭だと思うんですけど」
「西口先生は、ちょっと真面目過ぎるわね。そういうところも可愛いけど」
そう言って、寺町は上品に笑った。
「例えば、そうね。西口先生は、誰かの事を考えるだけで、胸がキュンってなったりしない?」
「は、はあ……」
寺町の問いに、夕は首を傾げた。
寺町が問うているのは、心因性の動悸の事だろうか。
別に、体調が崩れる程ストレスを感じる相手はいないが……。
とりあえず、知っている人の事を順繰りに考えていく。
同僚にしろ生徒にしろ、全員が親切にしてくれるので、寺町が言う様な感覚は覚えない……筈だった。
――あれ?
「あ、あの、寺町先生」
「どうかしたの?」
「一人だけ……一人だけですけど、考えると胸が苦しくなるんです。嫌いじゃないのに、寧ろ大切な人なのに、どうして……!? それに、私、まだ動悸や息切れに悩まされる様な歳じゃ」
「そう。それは良かったわ」
体調が不安になる夕とは対照的に、寺町は安心した様だった。
「若い身空で教師になって、ちょっと心配してたんだけど、杞憂だったみたいね。大丈夫よ、西口先生。貴女はもう立派な乙女。だって、貴女は今、恋をしてるんだもの」
「……はい?」
「だから、こ・い。大切な人の事を考えて胸が苦しくなるなら、それは恋よ」
「こ、ここここ恋!?」
思わぬ言葉に、夕は面食らってしまった。
そんな事、一度も考えた事などなかった。
夕の顔には、そう書いてある。
「そういえば、この前食べた鯉の子造りは美味しかったわ……安い専門店知ってるから、次のコンパはそこにしない?」
「そっちのコイじゃありませんって」
むず痒くなりそうな展開に聞いていられなくなったのか、今宮は無関係な話を天王寺に振っていた。
男性職員達は、夕の恋人疑惑にどよめいている。
「恋と言われましても、私はまだ未熟で、誰かの伴侶だなんてとても……」
「あら、今のは流石に聞き捨てならないわ」
あたふたと答える夕の両肩に、今宮が手を置く。
夕は思わずびくりと身体を震わせ、そのまま固まった。
「果実を青いうちにもぎ取って、自分の手で熟れさせたいのが、男って生き物なの。十代の恋は十代の特権! 二十代、三十代になってからやっても、見ててイタいだけよ」
「は、はあ……」
とりあえず頷いたが、夕には意味が良く解らなかった。
今宮の目はあくまでも真剣なので、体験談も込みなのだろう。
後で、藤原にでも訊いてみるとしよう。
「それに、こんな話を聞いた事あるかしら?」
そう前置きして、今宮は夕に耳打ちする。
始めは意味が解らないといった様子だったが、見る見るうちに顔が紅潮する。
「えぇえええええええええッ!? そ、そんなまさか……」
「これでも、医学的根拠はあるのよ。試してみる価値くらいはあるんじゃない?」
「そ、そう言われましても……」
言葉を詰まらせる夕。
とてもじゃないが、まだ心の整理が追い付かない。
この気持ちが本当に恋なのか、それすらも解らない。
教師としての使命感と、姉への憧れ、追い付きたいという思い。
それが、それだけが、今の自分を動かしていると思っていたのに。
「恋は乙女を綺麗にするのよ。西口先生の胸だって、きっと大きくなるわ。思い出すなぁ……修学旅行の夜に、憧れの男子に一服盛って、人目の付かない場所で……」
夕の初心な反応に、寺町は過去の自分を重ねているようだ。
何やら、色々と物騒な台詞が混じっていた気がするが。
「結局、寺町先生みたいに胸に詰め物をたわばッ!?」
禁句に触れてしまった天王寺が、開いている窓へと放り投げられ、見えなくなった。
廊下側へ飛んでいったので、死んではいないだろう。
「思い切って告白してみたら良いんじゃない? 運動不足も解決するわよ」
「もう、今宮先生! あんまり乙女をからかっちゃダメですよ」
「あら、失礼。さて、そろそろ仕事ね」
今宮達が仕事に戻った後も、夕はずっと考えていた。
この気持ちが本当に恋ならば、自分はどうなってしまうのだろう。
こんな事が、世間で認められるのだろうか。
恋した相手が……梅田から聞いた『あんな事』を頼む相手が、自分の姉だなんて。
その日の夜、夕は藤原宅に帰宅した。
心の整理はまだ済んでいないが、今日行く事は既に伝えている。
三人分の食事を用意してくれているだろうから、勝手な事は出来ない。
「お帰りなさい、夕」
「ただいま、姉さん」
メイド姿の明が、笑顔で出迎えてくれる。
――姉さんみたいな人が、男の人の理想なんだろうな。
そんな考えが、夕の頭を過ぎった。
誰もが和やかになる、柔らかな物腰。
自分の損得を二の次にする、献身的な性格。
花に似た香りがする、絹の様なロングヘア。
そして、控えめな彼女の性格とは対照的な、二つの膨らみ。
それすらも、身勝手な自己主張はせず、母性のみを感じさせる。
「今、夕食を作っているところなんですけど……。先にお風呂にします? 夕食まで待ちます?」
「私も手伝うよ。お風呂は、後で一緒に入ろ」
「わかりました。手洗いうがいは、ちゃんとして下さいね」
「はーい」
いつものやり取りを済ませて一旦部屋に戻り、着替えてから洗面所へ行く。
どうやら藤原は、自室で将棋の本を読んでいるらしい。
一応、手伝いは自分がするから、と伝えておいた。
これで、邪魔が入る事はない。
一人きりの洗面所で、夕はぼんやりと考えていた。
出したままの水が、手を伝って落ち、排水溝へ流れていく。
「恋……か」
誰にでもなく呟く夕。
あれからというもの、それ以外の事を考えられなかった。
恐らく病気ではないであろうが、何となく額が熱い。
試しに顔を洗ってみても、冷めてくれない。
どことなく夢心地で、地に足が着かない様な感覚を覚える。
難しく考え過ぎてしまい、知恵熱でも出したのだろうか。
「何で、女性の胸は大きくならないといけないんだろ……」
そもそもの原因を責める様に、夕は呟いた。
もちろん、仮に答えが返って来たところで、どうする事も出来ないのだが。
学術的な答えならば、自分でもある程度出す事が出来る。
乳腺の保護だとか、猿だった頃の尻に代わる性的アピールだとか。
そんな答えが欲しくて、こんな事を考えたのではない。
哺乳類の中でも特に胸が大きくなる人類に生まれた事が、そして自分がそうならない事が、恨めしいだけ。
結局、『何故胸が大きくならないのか』を、遠まわしに嘆いただけだ。
より厳密に言えば、自分でない誰かの所為にしたいだけ、とも言う。
自分の胸が、他の女性と同じ様に……せめて、この身長に吊り合うだけでも大きくなれば、こんな事で悩まなかった。
だからこそ、明に頼まなければならない。
今宮の話を信じる事が、自分の胸を大きくする為に残された、数少ない手段なのだ。
胸さえ大きくなれば、コンプレックスは解消出来る。
明に『あんな事』を頼むのも、所詮それまでの間の事。
この動悸も、時間が解決してくれるだろう。
タオルで手と顔を拭き、夕は台所へ向かった。
台所では、明が料理の最中であった。
鼻歌交じりに、てきぱきと野菜を切り分けている。
「今日は掻き揚げと……お肉も揚げてしまいましょうか。夕は牛蒡を笹がきにして下さい。水を張ったボールの上でやると、灰汁抜きも……」
「姉さん」
「はい?」
夕が声をかけると、明は手を止めて振り向いた。
――ちゃんと、頼まないと。
そう思って自分を奮い立たせようとするが、ここにきて覚悟が定まらない。
迷えば迷う程、更に迷いが生じる。さながら蟻地獄だ。
よくよく考えてみれば、何も今すぐ頼む必要はなかった。
わざわざ、夕食の準備で忙しい今を選んでしまうなんて。
一緒に風呂に入ったり、適当に理由を付けて一緒に寝たりと、二人きりになる手段はいくらでもあったのに。
次の言葉が出ない所為で、明は怪訝な表情を浮かべる。
とにかく、このまま料理に戻られては、意気地の無い自分では、もう頼めまい。
「一つだけ、お願いしたい事があるの。こんな事、姉さんにしか頼めないから……」
もしかしたら、明に嫌われるかも知れない。
そうでなくとも、今のままではいられないかも知れない。
今宮に提案された時、自分は『この人は何を言っているんだろう』と思った。
明も、そう思うに違いない。
自分は、まだまだ教師としての自覚が足りない。
例えどんなに生徒に慕われようとも、明一人を失うだけで、立っていられなくなりそうだからだ。
そして、その明を失いかねない行動を取ろうとしている。
この胸を、せめて人並み程度に大きくしたいからだ。
自分が人と違う事に、耐える事が出来なかったからだ。
そんな弱さを明に晒け出す行為を、自分はしようとしている。
そう思えば、肌を晒す事など、大した問題ではなかった。
「夕!? 一体何を……!?」
驚き、戸惑う明。
耳まで赤くなっている事を自覚しつつも、夕は服を脱ぎ捨て、ブラも外した。
腰から上を覆う物が無くなり、辛うじて女性である事が判る胸が露わになる。
「私の胸を……姉さんの手で……揉んで……大きくして下さい……!」
ついに、言ってしまった。しかも、何故か敬語で。
達成感の数十倍に及ぶ後悔が、夕を襲う。
恥ずかし過ぎて、明の顔を見る事が出来ない。
これで断られたら、自分は何もかも終わりだ。
もう二度と、この家の敷居を跨ぐ事など出来ない。
しかし、もしも引き受けられたら……。
そうなった時の自分と明を想像するのも、同じ位に耐えられない。
何で、こんな馬鹿な事を頼んでしまったのだろう。
「し、正気ですか、夕!? 一体何があったんです!?」
表情は見ていないが、驚いている事は容易に判る。
明の質問は、至極真っ当だ。
自分が明の立場でも、同じ事を尋ねるだろう。
「職場で教えて貰ったの。好きな人に胸を揉んで貰うと、大きくなるって。好きな人って、私にはまだ解らないけど……姉さん以外に、こんな事頼めないし」
「そう言われましても、私は按摩師ではありませんし、女性同士、それも姉妹でそんな事……。そんな事をして胸が大きくなって、夕は満足なんですか? 誰も、胸の大きさなんかで夕を蔑んだりは」
「姉さんには解んないよ!」
思わず、夕は明の言葉を遮ってしまった。
それと同時に顔を上げ、明の驚いた顔が目に映る。
――こういうのを、日本では『逆ギレ』って言うんだっけ?
自分でも理不尽な行為である事は理解しているが、溢れ出す感情を止める事は出来なかった。
「姉さんはすぐに大きくなったから、どうせ私の気持ちなんて解らないよ。私は思い知ったよ。人と違う事が、どれだけ世間に受け入れて貰えないか。この歳で教壇に立つ為に、必死に戦ったから。懇意にしている教授は、もうしばらく研究室に居ないかって声をかけてくれたけど……。年齢の所為で、能力も、志も評価して貰えないなんて、悔しいじゃない。でも、本当に心細かった。味方なんて居なかったもの。私は世間と違う。普通じゃない。そんな葛藤が、ずっと纏わり付いてた。何度も諦めそうになったけど、最後まで戦って、こうして教壇に立っているの」
話しているうちに、教師になる前の自分が、脳裏に浮かんだ。
実力だけで評価してくれた大学と、世間のギャップ。
その溝を埋めるには、当時の自分は若過ぎた。
誰かに頼りたいと願うも、それを叶えてくれる人はいなかった。
毎晩の様に枕を濡らし、朝が来れば再び戦う。そんな毎日だった。
将来、明草高校の教壇に立てる事など、当時の自分は決して信じないだろう。
「今は、職場の人達は良い人ばかりだし、仕事も本当に楽しいと思ってるよ。……でも、私には、もう一つ、普通じゃない箇所があった。それが、この胸。身長が高いからこそ、胸が小さい事が尚更目立つの。望月さんとは訳が違うの。確かに、姉さんくらい胸が大きくなれば、それはそれで悩みもあると思うよ。でも、胸が小さいのはもっと深刻なの。女性としては死活問題なの。だって、男女を区別する一番簡単な方法って、間違いなく胸でしょ? 人類が二足歩行を始める過程で、性的アピールの方法を尻から胸に変えた事は、かなり有力な説なの。だからこそ、男性は女性と会った時、真っ先に胸を見るんだと私は思うの」
自分の悩みを理解して貰う為に、出来る限り丁寧に説明する。
人間の女性は、他の動物と比べて胸が大きくなる事を。
胸が大きくなる事による悩みは、人間として普通の成長を遂げた証拠である事を。
その胸が膨らまないという事は、人間である事すら否定されている様に感じる事を。
「その点私は、背は職場の女性の中でもかなり高い方なのに、胸はAになったばっかりで……一番小さいの。その所為で、皆は陰で私の事を『貧乳先生』とか『洗濯板』とか『バキュラ』とか呼んでて……。今はその程度で済んでいるけど、いつか、私は排除されるかも知れない。私は、普通じゃないもの。普通じゃない人は排除されるのが、この国のルールだもの。年齢は時が経つのを待てば良いけど、この胸は、恐らくそうはいかない。私と同世代で私より胸が小さい人なんて、校内には望月さんくらいしかいないもの。成長は絶望的だわ。だから、普通じゃない私は、例え普通じゃない手段だろうと、それにすがる他に無いの! 私を『普通』に……『女』にして、姉さん! お願いだから……!」
夕は両膝を突いて、明にすがり付く。
――何やってるんだろうな、私。
自身の体たらくに、夕はそう思わずにいられなかった。
明が家を出てから、自分なりに努力し、進路を選び、仕事に就き、大人になったつもりでいた。
明と再会し、これからは対等な大人同士として、彼女を支えていこうと思っていた。
明が普段誰にも見せない、脆い一面を知っているから。そんな明の妹だから。
だが、結局はこの様だ。
自分が普通でありたい為に、明に普通ではない事をさせようとしている。
自分の胸が普通でないばかりに、明まで普通ではない人間に堕するかも知れないのだ。
並外れた……普通ではない頭脳で、数多の賞賛を浴びた報いが、この胸なのだろうか。
思えば、この頭脳があったばかりに、普通ではない経歴を抱える事になってしまった。
全ての始まりは、この頭なのかもしれない。
だとすれば、この上ない程に皮肉な話だ。
「夕……ごめんなさい。貴女がそこまで深刻に悩んでいる事に、気付いてあげられなくて」
最初は驚いていた明だが、やがて、優しく声をかけた。
夕と同じ体勢になり、目線を合わせて、両肩に手を置く。
明の優しい目が痛くて、夕は明の胸に顔を埋めた。
疎ましい筈の大きな胸だが、今は不思議と安心感を覚える。
母に抱かれていた頃の記憶が、心の片隅にでも残っているのだろうか。
「ですけど、夕。貴女が心配する事は、何も無いんですよ。貴女の悩みは、要するに、仲間はずれにされるのが怖いという事。だから、他の人と違うその胸が嫌で、皆と同じになりたいんですよね?」
明の胸の中で、夕は小さく頷く。
「貴女は、胸が小さい人の悩みを、大きくなるのが普通だから、胸が大きい人の悩みよりも深刻だと言いました。ですが、胸が大きい人の悩みも、やはり深刻だと思いますよ。確かに、人は成長して、背が伸びたり、女性なら胸が大きくなるのが普通です。でも、極端に背が低い人が注目される様に、極端に背が高い人も、やはり注目されますよね? どちらも、普通ではないという点では同じなんです。もちろん、胸だって同じですよ。重くて大きくて、その癖異性の目を引く程度にしか使えないのですから、実生活での悩みは、大きい方が多いかもしれません。これは、あくまで私の……胸が大きい人一人の感覚に過ぎませんけど」
やんわりと、それでいて的確に反論され、夕は何も言えなかった。
明の言う通り、胸が小さい事で、実生活で困る事は無い。
男性が、胸が膨らまないばかりに生活で支障をきたした、などという話も聞かない。
乳腺の保護も性的アピールも、結婚や育児といった、限られた状況でしか意味を持たない。
その時以外は錘でしかないのだから、普段は邪魔なのだろう。
その上で、胸が大きい事も、胸が小さい事と同じくらい普通ではないと言われては、返す言葉も無い。
「普通でありたい、皆と同じでありたい、仲間はずれにされたくない……。人間ならば、誰もが心のどこかでそう思っています。一人で生きる事が出来る人間なんて、存在しません。ですが、生まれも育ちも異なる以上、誰もが何かしら普通ではない一面を持っています。貴女と同じ悩みを抱えた人は、星の数程いるんです。貴女は……貴女の悩みは『普通』なんですよ」
思わぬ切り口での反論であった。
普通になりたいという悩みに、その悩みこそが普通であると返されるとは。
「誰一人として普通ではない……いえ、『全ての人に個性がある』から、世の中は回っているんです。貴女は教育者として、『普通ではない』生徒達を尊重し、導く義務があります。一刻も早く、『普通ではない』を、『個性がある』に置き換えなければなりませんね」
更に、教師としての未熟さまで指摘されてしまった。
人に教える立場の人間が、形無しである。
勉強がどれだけ出来ても、年の功には敵わない、という事か。
顔を上げると、明は慈しむ様な笑みを浮かべる。
「もしも、その胸だけを理由に貴女を蔑む人がいるなら、その人とは縁が無かったんです。頭が良くて、教師として一生懸命だけど、胸が小さい事で悩んでしまう、一介の少女に過ぎない貴女を慕ってくれる人は、きっとたくさんいますよ。少なくとも、ここに一人。私は、世界に一人だけの貴女の姉として、貴女の全てを愛していますよ」
「あ、あい……ッ!?」
最後の十文字程度が、夕の薄い胸を貫いた。
頭から爪先に至るまで、電流が走ったかの様な感覚に陥る。
――そんな……こんな、こんなにあっさり……!?
強烈なフレーズが、何度も頭の中で再生される。
一体、自分は何をあんなに悩んでいたのだろうか。
こうも堂々と言われては、先程の自分が馬鹿馬鹿しく思えてくる。
「胸こそ控えめな方なのでしょうけど、身体のラインは綺麗ですし、和服なら夕の方が間違いなく似合うでしょうね」
当の明は、先程の言葉を何とも思っていないらしい。
この温度差は何なのだろうか。
自分も、『世界に一人だけの貴女の妹として、貴女の全てを愛して』いるのだが。
恐らく、昨日までならば、臆面も無くそう言えただろう。
だが、今は言えない。考えるだけで心臓がパンクしそうだ。
そんな事を考えているうちに、明が頭を撫で始める。
幸せな筈なのに、胸がどぎまぎして、息が苦しくなってくる。
――そうか。だから『心』は胸にあるんだ。
数時間を経て、ようやく寺町の言葉を少しだけ理解した夕であった。
明の一言で、普通になりたいと悩んでいた事は、すっかり吹き飛んでしまった様だ。
「……ところで、夕」
「はいッ!」
膝の上の猫の様な、ぽやぽやとした気分に浸ったまま、どのくらい経ったのか、夕には判らない。
数秒の事だったのかも知れないし、数分に及んだのかも知れない。
明に名前を呼ばれ、夕は脊髄反射的に返事をする。
「ずっと違和感を感じていて、ようやく気付いたんですけど……」
「な、何!?」
また殺し文句を言われたら、今度こそ冷静ではいられない。
心臓の高鳴りを抑えられないまま、夕は心の中で身構える。
「胸を揉んで欲しいだけなら、わざわざ裸になる必要は無かったのでは?」
「…………あ」
最初の数秒、夕は明の言葉の意味が解らなかった。
そして、ようやく理解する。
自分が如何に恥ずかしくて、尚且つ無駄な事をしてしまったか。
これ以上無いと思っていたにも拘らず、更に顔に血液が集まるのが判る。
「あぁああああああああああああああああああああああッ!」
顔の熱量を発散するかの様に、夕は叫んだ。
羞恥と後悔を、まとめて吹き飛ばすくらいの勢いで。
「な、何だ!? 夕、大丈」
その声を聞いた藤原が、すぐさま二階から駆けつける。
上半身裸の夕と、彼女と対峙している明を目の当たりにした瞬間、藤原の動きが止まった。
夕は、最早声を出すことすらままならない。
そのまま数秒が過ぎて……。
「まあ、その……TPOを考えて、な」
そう言い残して、藤原はリビングを去っていった。
声、表情、足音、そのどれをとっても、非常にくたびれた様子であった。
第九話 その胸をよしとする 完
繋ぎ 哲也秋原のあじきない話
秋原が次に出した数字は、五だった。
「やっと出たか……」
思わず呟く藤原。
十一回目にして、ようやくの五である。
ここまで特定の数字が出ないと、何か作為めいたものすら感じてしまう。
「で、五は誰が話すんだ? 俺達は四人しかいないけど」
「五は、読者から送られた葉書の内容に沿って、会話を行う」
「葉書!?」
「ラジオ番組みたいですね」
思わぬ展開に、藤原は思わず声を上擦らせる。
一方棗は、秋原と付き合いが長いだけあり、至って冷静だ。
ひとまず落ち着いた事を確認すると、懐から一枚の葉書を取り出す秋原。
「今回は、予め募集しておいた葉書を読み上げるとしよう。ラジオネーム『女子のスカート捲ったら裁判沙汰になったでござる』君、九歳からのお葉書だ」
「本当にあり得そうだから怖いな……」
生々しいラジオネームに、思わず呟く藤原であった。
アリスも、そろそろ真琴を訴えても不思議ではない。
「『秋原さん、藤原さん、棗さん、その他の皆さん、こんにちは。突然ですが、僕の悩みを聞いて下さい。僕の学校では、トイレで大きい方をすると、クラスを挙げての大事件になってしまいます。先立っていったクラスメイトの末路を思うと、怖くてトイレにも行けません。何か、安心して大きい方が出来る良い方法はないでしょうか』追伸、棗さん、僕と結婚して下さい」
「勝手に付け加えないで下さい」
「……もしかして、僕の事ですか? 『その他の皆さん』って」
棗は追伸に即答し、堀は挨拶に落ち込む。
「ふむ。確かに、小学校では、大きい方をすると祭り上げられるという謎の風習があるな」
「下ネタが一番面白い世代だからな。仕方ないと言えばそうなんだけど」
「そんな下らない風習の為に、健康を阻害される筋合いは在りませんね」
「そういえば、この前テレビで見たんですけど……」
目立つ為か、堀が真っ先に手を上げる。
積極的に前に出る姿勢は、さながら若手芸人だ。
もちろん、大抵は秋原や棗によって潰されるのだが。
「手洗いを全部個室にして、この問題を解決した小学校があるそうですよ」
「なるほど。小便器を無くせば、大か小か判るまい」
「ま、学校を工事する権限が、此の小学生に有るとは思えませんけど」
秋原は納得するが、棗が現実的な意見をぶつける。
この案では、問題に直面している少年を救う事は出来ないだろう。
「そう考えると、女子は羨ましいよな。全部個室だし」
「言われてみれば、この手の祭りの被害者は、男子ばかりであった記憶がある」
「其は、男性である貴方達から見た側面に過ぎません。女性は女性で、音抔に結構気を遣いますからね。其の癖、御手洗いには友達同士で行かなければなりませんし」
藤原と秋原のやり取りに、棗が異議を唱えた。
その堂々とした振る舞いに、暫しの沈黙が訪れる。
そして、秋原が口を開いた。
「貴様の意見は解った。確かに、女子が必ずしも楽とは言えまい。しかし、一つだけ、貴様に尋ねなければなるまい。……何故、貴様は女子の事情に詳しい? まるで実体験の様に語っておるが」
「え!? い、いや、それは、その……」
秋原に突っ込まれ、棗は目を泳がせる。
これまでも何度も突っ込みどころを晒してきた辺り、反省という言葉を知らないのだろうか。
ココアを一口のみ、平静を取り戻して一言。
「人伝に聞いた話です」
かなり苦しい言い訳である。
そもそも、最初のリアクションがあれでは、如何に上手く取り繕っても無駄だ。
こういうところが、彼の人気の所以なのであろうが。
流石に見ていられないので、藤原が助け舟を出す。
「俺の所は、普段あんまり使われない手洗いがあって、そこにこっそり行ったりしたな」
「ほう、その手があるか。確かに、教室から最も近い手洗い以外は、余り使われん。どの学校にも、一箇所くらいは、穴場と化している手洗いがあろう」
どうやら、上手く話を逸らす事が出来たらしい。
棗が方を撫で下ろしている事が、容易に判る。
「しかし、だ。昼休みの様な長い休憩時間ならばともかく、短い休憩時間は、皆が教室にいる事が多い。その様な状況で、長い間消息を絶つのは、疑われかねんと思うのだが」
「僕も藤原さんと同じ手段を使いましたけど、大丈夫でしたよ」
「貴様は欠席したとて気付かれまい」
最早定番と化した、堀への強烈な一撃が決まる。
「まあ、その辺りは、もう仕方ないだろ。朝行っとけば、昼休みまでは大丈夫なんじゃないか?」
「ならば、朝のうちに確実に手洗いに行かねばなるまい」
「朝食を食べなければ、腸は眠った儘という話を聞いた事があります」
「ふむ。話をまとめると、『ちゃんと朝食を食べ、朝のうちに手洗いに行き、昼休みに穴場へ行く』という事か」
秋原がまとめに入り、反対する者はいない。
――この面子でも、案外議論になるんだな。
今まで散々、話をあらぬ方向へ飛ばしてきただけに、藤原は少し驚いていた。
「裁判沙汰の少年、これが我々の答えだ。胸に刻むが良い」
「勝手に略すな」
反射的にツッコむ藤原。
ラジオネーム自体に問題があるとはいえ、秋原の略し方も大概である。
「葉書が採用された貴様には、粗品を送ろう。こっそり手洗いへ向かうのに役立つ、スパイ御用達の段ボールだ」
「余計目立つだろ」
再びツッコむ藤原。
配達は大抵段ボール箱に入ってとどくが、まさか箱自体が贈り物とは思うまい。
粗末どころではない粗品である。
「とまあ、こんな具合に我々が語るのが五なのだが、そのテーマを、感想欄にて募集する。内容は自由だが、必ずしも採用されるわけではない事を、予め了承して頂きたい」
「……本当に募集するのか?」
無茶な振りが来ない事を願う藤原を余所に、秋原はサイコロを振った。
to be continued
第十話 望月家の一族
日曜日の昼下がり。
真琴は、日課の散策に励んでいた。
散策と言っても、目的はある。
平日は幼稚園や保育所、小学校に通っている子供達の姿を、カメラに収める事だ。
プライベートの彼らを記録に残し、あどけない姿をいつまでも楽しむ。
正義を自負する者にとって、これ程の至福が他にあるだろうか。
新しい生活に期待と不安を募らせる春。
瑞々しい肌を惜し気もなく晒す夏。
学芸会に精を出す秋。
雪と戯れ、靴下に願いを込める冬。
四季折々の彼らを記録と記憶に留める事が、自分の使命なのだ。
悲しい事に、最近は公園で遊ぶ子供が少ない。
子供を狙う卑劣な魔の手には、日々憤りを覚える。
確かに、性を知らぬ彼らの身体に、第一の刻印を刻みたくなる気持ちは理解出来る。
しかし、子供は国の宝だ。
個人の欲望で汚す事など、許されるはずもない。
それらを脳内で済ませてこそ、真に子供を愛でる者である。
出来る事なら、それを理解しない愚か者共に自ら鉄槌を下してやりたい。
自分に任せてくれれば、あらゆる操を蹂躙して、二度と勃たなくしてやるのに。
そんな事を考えながら、被写体を探していた時。
子供の……それも幼女の気配を察知し、真琴は路地裏に身を隠した。
彼らの自然な姿を撮る為に、陰から狙うのは基本だ。
足音から、十歳前後の幼女一人であると予想する。
塀に張り付きつつ覗き込むと、歩いてきたのはツインテールの幼女。
黄色いワンピースが目に映え、何とも可愛らしい。
スカート部分の裾を掴んで、胸が見えるくらい捲り上げて「あんたバカぁ!?」と涙目で罵られたい。
そのか細い腕は、葉書の束を抱えている。
まだ年賀状の季節ではない筈だが……。
――って、望月さん!?
思わぬ形で、クラスメイトに出会ってしまった。
きっとこれも、清く正しい自分への思し召し。
やはり、自分とあの合法ロリは、結ばれる運命にあるのだろう。
身内と判れば、遠慮は無用。
とりあえず一枚撮ってから、真琴はアリスの前に躍り出た。
「望月さん、こんちはっス!」
「うわぁ!? ま、マコちゃん!?」
アリスは思わず後ずさり、そのまま尻もちをついてしまった。
その姿勢が誘っているとしか思えず、勢いで押し倒す真琴。
「こんな所で何してるんスか?」
「それこっちの台詞だよね!? 何するつもりなの!? ナニするつもりなの!? うわぁあああああああああッ!」
「……つまり、この葉書は全部懸賞で、これから出すところだったんスね」
「何事も無かったかの様に振舞わないでよ」
着衣の乱れを直しつつ、敵意の眼差しを向けるアリス。
真琴は、そんな彼女の目線にすら萌えていた。
魔法まで使われて抵抗されたので寸止めであったが、これだけで絶頂すら覚える。
葉書を見ると、どうやら漫画雑誌のアンケート葉書のようだ。
アンケートに答えた人の中から抽選でプレゼント、といったものだろう。
雑誌に一枚しかついていない葉書を、これ程集めるとは。
「えへへ、ボクが好きな漫画家のサインが当たるから、張り切っちゃった。この人の漫画って、読んでるこっちまでドキドキしてくるんだよね。絵は綺麗だし、女のコの気持ちを丁寧に描いてるし、いつも次回が気になる終わり方するし」
アリスは夢中で漫画家への賛辞を述べる。
話の内容からして、少女向けの恋愛漫画だろうか。
――恋に恋するおしゃまな幼女……堪らないっス!
ませた小学生に対するそれの様な感情を、真琴は抱いていた。
「特に、今月の濡れ場はスゴかったなぁ。今思い出しても興奮しちゃうよ。ボクもいつかはお兄ちゃんと、頭がフットーする様な、あんな事やこんな事を……」
真琴が思い描いたそれとはまるで異なる思いを吐露するアリスであったが、先に妄想の世界へ旅立った真琴には届かなかった。
「……あれ? 望月さん、これ……」
我に返った真琴が、ある事に気付く。
「この葉書、宛名の『宛』を『御中』に直してないっスよ。これも、これもこれも……まさか全部?」
「オンチュウ……『Want you』?」
「あべしッ!? ……き、求愛じゃないスよ。『宛』を斜線で消して隣に『御中』って書くのがマナーっス」
英語での求愛に胸を撃ち抜かれ、真琴は鼻血を抑えながら説明した。
興奮と失血で、頭がクラクラする。
惜しむらくは、予想外過ぎて録音し損ねた事か。
「そうなんだ。じゃあ書き直さないと……はぁ、これ全部だなんて、いつ終わるんだろう……」
書き直しが必要な葉書の束を見て、アリスは溜息を吐く。
これ程の葉書を用意するだけでも大変だったであろうに、更に一手間増えたのだ。溜息の一つも漏れるだろう。
――ティンときたっス!
その時、真琴に電流走る――!
「望月さん! 是非! 私に手伝わせて欲しいっス!」
「え、良いの? こんなにあるけど大丈」
「大丈夫っス! 問題無いっス!」
「そこまで言うなら、手伝って貰っちゃおうかな。ボクの家で良」
「もちろんっス!」
アリスが言い切る前に返事をする真琴。
余りの剣幕に、アリスは少したじろぐ。
「そ、そう……。日曜なのにボクの為にありがと、マコちゃん。持つべきは友達だね」
お礼と共に、アリスは屈託の無い笑顔を見せた。
それだけで、真琴は早くも昇天寸前だった。
――自宅……合法……望月さん……侵入……ハァハァ……!
「マコちゃん、何か、顔がスゴい事になってるだけど……おーい……」
かくして、真琴は望月家の敷居を跨ぐ事に成功した。
携帯で電話していたアリスが、少し残念そうにそれをしまう。
「お兄ちゃん、今日は出掛けてるんだって。手伝って貰おうと思ったんだけど……ま、二人で良いかな。最悪、一人で全部やる事になってたかも知れないし。マコちゃんがいてくれて良かったよ」
――私も良かったっス……藤原先輩がいてくれなくて。
一番の邪魔者の不在を知り、真琴の影がニヤリと笑う。
初めてのお宅訪問に、真琴の期待は止まらない。
ここに来るまでの間に、三度脳内シミュレーションをし、その全てベッドインした程だ。
そしてついに、アリスが家のドアを開ける。
「ただいまー」
アリスに続き、真琴は恐る恐る一歩を踏み出した。
――ついに……ついに、望月さんにお持ち帰りされたっス!
興奮の余り、真琴の思考回路はショート寸前である。
達成感に浸っていると、家の奥から足音が近付いてきた。
スリッパを履いているらしく、ペタペタとした音だ。
「アリスちゃん、おかえりー」
出迎えた足音の主は、かなり小柄な女性。
辛うじてアリスよりは大きい程度で、小学生と間違われても不思議ではない。
髪はアリスと同じダークブラウンで、肩の辺りで切り揃えられている。
「あれ、お友達? アリスちゃん、先に部屋片付けないとダメでしょ。置きっぱなしだったよ、ロー」
「ももも望月さん! この小さくて可愛らしい人は誰スか!? 妹スか!? 姉スか!? 攻略して良いスか!?」
「ボクのお母さんだよ! 娘の前で不倫宣言する気!?」
女性の声すらも遮る剣幕で、真琴はアリスに迫る。
幼女の家に遊びに行ったら、更に幼女が現れたのだ。
真琴にとっては、鴨が葱を背負って来た様なものである。
「お母さん!? 望月さんの!? こんなに幼いのに!?」
「アリスちゃん、聞いた? マリアの事、若いって! このコってば上手ねぇ」
「お母さん……似てるけど、意味は全然違うよ」
真琴の頭の中は、一面の花畑であった。
アリスを娶れば、彼女を『お義母さん』と呼べるのだ。
義理とは言え、この愛らしい幼妻の娘になれるなんて。
藤原は、アリスの家族構成も知っている筈なのに、何故アリスの求愛を受け入れないのだろう。
自分なら、二つ返事で嫁入りでも婿養子でもOKするのに。
「とりあえず自己紹介しないとね。アリスちゃんの母のマリアです。いつもアリスがお世話になっています」
「わ、私は新谷真琴っス! 望月さんとはクラスメイトで、えっと、その……」
半ばパニックに陥っている真琴は、言葉を少し詰まらせ、
「毎晩お世話になっているっス!」
「ボクで毎晩何してるの!? ナニしてるの!?」
とんでもない事を口走っていた。
「大丈夫大丈夫。アリスちゃんも、毎晩妄想の光君で」
「止めて! マコちゃんにだけは言わないで! しかも何で知ってるの!?」
「かく言う私は、実物のダーリンと毎晩」
「お兄ちゃん、助けてぇええええええええええええッ!」
ツッコミ不在の中、アリスの声が虚しく響く。
どうにか騒ぎも落ち着き、真琴はアリスの部屋に通された。
「あ! ち、ちょっと待って!」
室内に一歩踏み込んだ途端、慌てたアリスに押し戻された。
アリスは部屋の物を急いで拾い集め、クロゼットに無造作に押し込んだ。
ライトノベルでは名前すら出せない代物もいくつかあった気がするが、追及するのは止めておこう。
改めて部屋に通され、真琴は室内を見まわす。
机もベッドも、あらゆる家具が一回り小さいので、部屋が広く見える。
部屋の装飾は全体的に女の子らしく、ピンクを筆頭に暖色が占めている。
「飲み物は紅茶で良いかな? 淹れてくるから、適当に座って待っててね」
真琴を残して、アリスは部屋を出て行った。
言われた通り、真琴は適当なスペースを見つけて座る。
――ここが、望月さんの……幼女の部屋……。
改めて、真琴は今いる場所を認識する。
到る所に、幼女の指紋が、手垢が、残り香が存在する場所。
自分にとっては高校球児の甲子園にも等しい、夢の様な場所だ。
だからこそ、何から始めるべきか迷ってしまう。
少し考えてから、とりあえず深呼吸をした。
鼻から幼女の匂いをたっぷりと吸い込み、口から吐き出す。
アリスのそれに似た、甘い香りがした。
――これだけでご飯三倍はいけるっス!
それを二度三度繰り返すと、何だか心が洗われた気分になる。
さながらマイナスイオンの様な癒し効果だ。
ふと足元を見ると、フローリングの床に、ダークブラウンの長い髪が落ちていた。
高確率でアリス、もしくはマリアのものだろう。
『玩具』の片付けも出来ていなかった部屋に、掃除機が掛けられている筈もない。
真琴はそれを摘み上げ、長さを確認する。
肩までしか伸ばしていないマリアに比べ、アリスは腰まで伸ばしている。
長さから考えて、アリスの物と見て間違いあるまい。
真琴は、貴重なアリスの体の一部を、ひとまず財布へしまった。
――ふふふ、ご利益ご利益っス♪
金運のお守りよりも、余程効果がある気がする。
一本見付けると、更に欲が出てくる。
携帯用、部屋に飾る用、保存用、とりあえず身体に巻いてみる用と、四本は欲しい。
あわよくば、マリアの髪も揃えたいところである。
恐らく、ベッドにも抜け毛が残っているだろう。
そう考えてベッドの傍に移動すると、案の定、数本の抜け毛が見付かった。
その上、アリスが抱き枕を使用している事が判明する。
枕のカバーこそ無地だが、藤原を投影しているのは明白だ。
――それにしても……。
一日の四分の一を過ごす場所だけあって、アリスの 匂いがより強く感じられる。
寝汗が染み込んでいるのか、果物にも似た甘酸っぱい匂いだ。
その匂いを嗅いでいるうちに、顔が熱っぽくなってくる。
――こ、これは……理性が……もた……!
色欲を煽るその匂いに、真琴は堪らずベッドに倒れ込んだ。
普段、アリスが最も無防備に身を預ける場所で、自分も同じ事をしている。
そう思うと、何ともむず痒い気持ちになった。
そして、抱き枕に腕を回す。
これが『藤原』だと思うと嫉妬してしまうが、アリスは普段これに抱き着いて寝ているのだ。
これに自分が抱き着けば、間接ハグになる。
直接抱き着けば済む話ではあるのだが、間接という響きが何とも初々しく、それでいて淫靡で魅力的なのだ。
アリスの分身とも言えるそれに脚を絡ませ、自分の胸に押し付ける。
背徳感すらも心地良く思え、呼吸を通じて匂いを嗅ぐ程、夢の底へと沈んでいった。
――望月さん……望月……さん……望……月……。
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2010/11/20(Sat)01:24:43 公開 / 月明 光
■この作品の著作権は月明 光さんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
久方ぶりの加筆が、変態淑女のやりたい放題を書いただけって……。
第八話
タイトルの元ネタは、プリンセス・プリンセスの「パイロットになりたくて」です。
将棋部のアイドル(?)たるアリスがメインの話にふさわしいタイトルを、と考えたのですが、結構難航しました。
新しい話を書く上で消化しなければならないエピソードの一つでしたので、上手くまとまって安心です。
そして、ハリセンの汎用性の高さに気付きました。流石は古より伝わるツッコミアイテム。
繋ぎ
私自身の、ネトゲに対する愚痴になった気もしますけど、気にしない事にしましょう。
第九話
青春だの恋愛だのジャンプ三大原則だのとは無縁なコント小説を書いてきたつもりでしたが……。
いつの間にやら、夕がちゃっかり青春してますね。教師なのに。貧乳なのに。
教師総出でコントした前半、夕と明の百合(?)がメインの後半、どちらも楽しく書けました。
繋ぎ
あらゆるメタが許される繋ぎでこそ出来る事を、を考えた結果、こんな募集を始める事になりました。
世間ではこれを、ネタの丸投げと言います。
第十話
ありそうでなかった、アリスと真琴メインのお話です。
タイトルに反して、逆立ちで死んだりするような展開は一切ございませんので、ご安心下さい。
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。