『SHOW ME!』 ... ジャンル:リアル・現代 恋愛小説
作者:まりか                

     あらすじ・作品紹介
中学三年生のへいすけ君は、生まれて初めて恋というものを知りました。

123456789101112131415161718192021222324252627282930313233343536373839404142
 中学三年生の夏。生まれて初めて、恋というものを知った。

 身長173p、体重50kg、緩くパーマをかけたこげ茶色の髪に、犬か猫かと言われれば犬顔らしい愛嬌のある顔。加えて成績優秀で、スポーツも大抵難なくこなす。 それが今現在の、俺のステイタスだ。付け加えるならば付き合った女子の数は今現在も含めて5人で、童貞とやらもとっくの昔に卒業していたりする。
 そんな自分を「中学生」という狭い範囲で見たのなら、まぁかなりのハイスコアを取得しているのだろうと自分でも思っているし周りからもそう思われている俺で。 (まぁそのおかげで「ヤリチン」だの「節操なし」だの「付き合ったら傷つけられる」だの、この年にしてよろしくない噂も立っているわけだが) クラスではつとめて明るくふるまっているので、教師受けもまぁまぁだし友人も多かったし何よりモテていたけれど、どことなくつまらないと感じるのが本音だった。
 人より勉強も運動もできて、人より目を引く外見をしていて男女ともに人気があって、まあ他人がうらやむような生活をしているのは解っていたけれど。 それでもそれがこんな「中学生活」限定でのステイタスだというのが解っていたので、なんだか自分のことも他人のことも心から好きになることは出来なかった。愛着も持てやしなかった。 つまりは、自分を取り巻 くすべてが当たり前すぎて飽き飽きしていたのである。授業もつまらないし、友人も、もちろん本当のところさほど好きでもない彼女もつまらない。
 じゃあ何故そんな生活を続けいるのかといえば、そんなの簡単だ。「中学生」とやらでいることが、今のこの日本で義務だからである。 そしてそんな義務の中を不真面目に生きるほど俺は馬鹿ではないから、それなりに今後のことを考えて努めて先生受けする明るいキャラを作り、且つ成績も良好に保ち、 私生活ではまぁ教師の目に留まらないような上手さでやんちゃをしつつ、友人、そして彼女とやらの相手をしているわけだ。……なんて、バカみたいだ。
 なんやかんやとゴタクを並べてみたところで、所詮は俺自身が本気で夢中になれる何かを見つけられずにいるだけなんだって、解ってはいるのだけれど。
(……退屈すぎて、死にそうだ)
 何もRPGの主人公のような、劇的な変化を求めているわけではないけれど。それにしても今のこの状況じゃあ、ただ毎日呼吸をしているのと変わりはない。つまり、無意味だ。 ぼんやりとそんなことを考えながら、まだまだ明るい空の下、学校を後にする。何の部活にも所属していない俺は、いつも他の生徒より帰るのが早い。 かと言って頻繁に誰かと遊ぶわけではないし、もちろん早々と帰宅して勉強するなんてこともしない。じゃあ何処で何をするのかというと、行きつけの店に行ってダラダラするだけだ。
 その店は学校から歩いて20分、俺の家からは歩いて10分程の場所にある個人経営の小さな居酒屋で、小学生のころから行きつけの場所だった。 元は俺の母親がよく友達と飲みに行っていた場所で、そのうち俺も連れて行かれるようになり、店長とも顔なじみになるうちに気づけばなんとなく居心地が良くて、学校帰りに遊びに行くほどなじみの場所になっていた。 それが信じられないことに中学三年の今まで続いて、店長には「ここは子供の来る場所じゃないんだけどなぁ」なんて呆れられながらも、今じゃあ当たり前のことになっていて。 それでも唯一の決まりごとといえば、場所が場所なので学生服姿でお店に遊びに来ないことだったけど、俺自身帰りに補導されるのはいやだったので了承していた。
「店長ひさしぶりー」
「おーう、へいすけ。お客いるから静かになー」
「いっつも静かにしてるし」
 今日も着替えてから、連日の雨のせいで四日ぶりの訪問となった「居酒屋・食事処 五光行(ごこうあん)」の木製の扉をあけると、見慣れた店長と二人の客がいた。 五光行は夜は居酒屋だけど、昼間はランチタイムなんかもある飲食店なので、この時間にもちらほらお客がいるのは珍しくなく、しかもその大半がもはや見慣れた常連客だった。 今日来ている二人ももう何度も見掛けている奥さん方で、注文の品を見ても抹茶白玉とクリームあんみつな当たり、三時のおやつに遊びに来たのだろうと思う。
 ぼんやりとそんなことを考えて一人笑いながらも、お決まりの指定席に座って厨房で夜の仕込みをしている店長を眺めてみた。 30代半ばで、背は高く、おっさんにしてはなかなかのイケメンだ。鼻が高く、どことなく堀が深くて、短髪に紺色のバンダナをしている。お店の制服は店長の趣味で紺色の和服だ。 何度も見慣れているけれど、なんだかこの人は年を取るごとに格好良くなっている気がするなぁと、素直に感心してしまう。男の魅力は三十代から、という言葉の良い模範だと思う。
 だけど実はトレーディングカードを集めるのが好きで、おまけにかなりのゲーマーだった。アニメも詳しい。そのせいで歴代のアルバイト達が密かにドン引きしていたのを俺は知っている。 だけどお客に対してはサービス精神旺盛だし、こんな中坊の相手も毎日してくれる当たり、すごくいい人だと思う。本人には決して言ってやらないけど。
「……店長、今日飯食ってっていい?」
「んー ?いいけどー。今日も母さん仕事遅いのか?」
「うん。たぶん夜中になるって」
 そう言えば、「そうか。じゃあ食いたいもの考えとけ」といういつも通りの言葉が返ってきて。それを聞く前にメニューを広げて、今日は何にしようかと頭をひねった。
看護師の仕事をしている母親の帰りは大抵いつも遅い。それでも俺が小学生の時は早く帰ってくるようにしていたようだけど、 中学生になって俺が割と一人で何でもできる性格なのだと知ってからは、すまなさそうに「今日帰り遅くなるから」と言って早く帰宅することは少なくなった。 まぁそれでも別に困らないし、どんなに遅く帰ってきても俺より早くに起きて朝御飯を作ってくれるから、全く不満はないのだけれど。(むしろ良くできた母親だと思う)
 だからそんな母親を四年前に捨てた父親は心底馬鹿な奴だと思う。それとも、母さんに見る目がなかったのかどうかは分からないけれど。
 そんなことを考えながらメニューを眺めていたのだけれど、結局食いたいものが浮かばなかったので、毎度の如く「店長適当に作って」と頼んでおいた。 そんな無茶ぶりに「またかよ」と不平を洩らしつつも、ちゃんといつもおいしいものを作ってくれる店長が好きだなぁと思う。この人が父親ならよかったのに。
 それからしばらくすると、先にいた奥さん方も勘定を済ませて出て行ったので、店長と他愛もない話をしたり宿題をしたりして過ごした。 連立方程式なんて何の役に立つんだろうか、なんて思いつつも、それをやるのが義務なのだから仕方がない。文部省もまったくバカなものだ。
 そうしていると、不意に視線を感じて顔をあげると、何故かまじまじと俺を見ている店長と目があった。
「……なに、じろじろ見て。きもちわりぃ」
「ばかやろーなんだその言い草は」
「見物料取るよ。俺モテるから」
「……だろうなぁ……」
 その返答に、はて? と首をかしげる。いつも俺をバカにする店長が俺の言うことを認めるなんて、まったくもってめずらしいことだからだ。 訝しがりながらも、もう一度「なに?」と問うと、「いやぁ別に何でもないんだけどさー」なんてわけのわからない答えが返ってきて。
「……ただ、お前もでかくなったなぁと思って」
「……173pあるけど」
「マジかあ。最初は俺の腰くらいじゃなかったっけ?」
「もっと小さかったかも。俺小3の時だし」
「へぇえ。もうそんな経ったのか。へいすけ今いくつ、14? 15か? 中3だもんなー。すげー。俺そんなにこの店営業してるのかー。ひえー」
 なんだか一人で喋って一人で自己解決をし始めた店長を横目に見ながらも、確かにここに来てもうそんなに経つのかと自分自身驚いてしまった。 母さんに連れられて初めてこの店に来た時、俺はほんの子供だった。チビだったし、頭も悪かったし、友達と外で遊びまわる事が一番大事な子供だった。 そのころは確か、店長が話してくれるアニメやゲームの話、それに店長のコレクション(カード)にも目を輝かせながら夢中になっていたと思う。
 あのまま育ってれば、勉強はできずとも素直な子供に育っていたんだろうなぁと思う。ひょっとしたら、夢中になれる何かを見つけていたかもしれない。 別に今の自分が嫌なわけではないけれど、もしそうだったのならもう少し今の生活に満足できていたのかもしれないな、とは思う。今更言ったって仕方がないけれど。
「へいすけさー。今彼女いるんだっけ?」
「んー。でも多分もう別れるよ」
「は?」
「もともと好きじゃなかったし」
 そう言えば、目玉かっぴらいて間抜けな顔をしながら店長が俺を凝視して。その顔に、やっぱり俺は大人が望まない子供に育ってしまったのだなぁと少し残念に思った。 しばらくして正気に戻ったらしい店長が「最近の中学生は怖いなぁ……」とつぶやいたけれど、多分違うよ。滅多にこんな奴居ないから安心してほしい。
「……てんちょう、」
「んんー?」
「…………なんでもないわ」
「……なんだお前」
――人を好きになるって、どういうことを言うの。――
 そう問いかけようとして、やめた。聞いたってどうせ人それぞれなのだ。それに俺は母さんと店長のことはちゃんと好だから、きっと本当に解らないわけじゃあない。 多分、きっと、今付き合っている友達や彼女はそこまでの存在だってことだ。本気で好きになれるほど、大事にする気もないってこと。だったら考える必要もない。
 そう答えを導き出して、思った。俺って本当に、いつからこんなにひねくれたやつになってしまったのかなぁ、と。 そして何よりも残念なことが、このひねくれ具合を見破っている人が周りには少ないってことだ。愛想笑いをしているうちに、本心を隠すのがすっかり上手くなってしまった。 どんなに何かやらかしても誰かを傷つけても、「あいつは気紛れだからなぁ」なんて可愛い言葉で済まされてしまい、心のうちの悪意も無関心さも誰にも伝わらないのだ。 便利といえば便利なのかもしれないし、こういうのを世渡り上手といえるのかもしれないけれど、なんだか空しい気持ちになってしまう。
(……めんどうくせぁなぁ……)
 15歳のうちからこんなことを考えている自分は、将来どんな風になるんだろう。っていうか俺、本当に15歳なんだろうか。 中身は店長と同じくらい年食ってるのかもしれない。いや、もしくはカードゲームにときめかない点では店長より上なのかもしれない。なんて、バカな想像だけど。
 それからダラダラダラダラテレビだのなんだのを見ていると、いつの間にやら店内の掛け時計が4時40分過ぎを示していた。 それに気づいて、「何もしなくても時間は経つものなんだなぁ」と当たり前のことに感心していると、不意に店の扉が開いた。 夜のお客にしては随分早いなぁと思いながら入口に目を向けると、そこには一人の女が立っていて。若い女性客が1人で来るなんて珍しい、と思っていると、 その人は俺を見るなり何故かぺこりと一礼して、それから早足で店の裏……つまりは、従業員専用の部屋へと消えてしまった。 その後姿を見て、「あぁ客じゃなくてアルバイトの人だったのか」と思い至りながらも、店長に声をかけた。
「やっと新しいアルバイトの人はいったの?」
「んー? あぁ、言ってなかったっけ。うん。今週の火曜日からだから、お前丁度来てなかったもんな。大学1年生だって。美人さんだよ」
「ふーん」
 美人さんねぇ。さっきは向こうも急いでいたみたいだし、こっちもあんまり興味がなかったから見ていなかったけど、店長が言うからには本当にそれなりの美人なんだろう。 確かにちらりと目に入った服装はお洒落だった気がするけれど。これから頻繁に会うことになるだろうから、まぁ嫌われないように努力しようとは思う。
「アルバイト入って良かったね。前田君やめてもう一か月だっけ?」
「んー。それくらいかなぁ。まぁ前田君はしゃあないわなぁ」
 以前五光行で働いていたのは今大学二年生の前田君という男の子で、高校時代野球をしていた事もあって色黒でガッチリとした体格の気さくな人だった。 笑顔がすごく似合っていて、仕事もできるし愛想がいいから客にも人気で、まぁ俺とも仲が良くて好きだったのだけれど、つい先月バイトを辞めてしまったのだ。
 だけど「なんで辞めるの?」って聞いたら「一年間居酒屋で働いたから、次は他の所で働いてみたいんだ。何でも挑戦できるのって、今だけだろう?」 っていうもの凄くアクティブなものだったから、辞めてほしくなかったけど「寂しくなるから辞めないでくれ」とは言えなかった。 むしろ、必死に色々なことを経験して模索している彼が格好良く見えて、羨ましいと思えた。今の俺にはそんな言葉、言えやしないから。
「前田君ほどの逸材はいないな」
「お前が言うセリフか。まぁ確かに前田君はよくできた子だったよ。お前と違って」
「うるせー」
 そんな感じでぐちぐちと言い合いをしていると、奥の方から物音がして、どうやら作業着に着替えたらしいアルバイトの女の人が現れた。 どれどれ店長の言う美人さんとはどれほどのものかと視線を向けて、そして、目を見開いた。
「店長おはようございます」
「――……、」
 生まれて初めて、ドクリ、という自分の心臓の音を聞いたのだ。
「おはよー渋谷さん。食器洗って小上がりの掃除してくれるー?」
「はーい」
「…………」
 返事をするなり渋谷とよばれたアルバイトは厨房で食器を洗い始め、そんな彼女の後姿を見つめながら俺はあいた口がふさがらなかった。 彼女の姿が頭の中でリフレインする。大学生にしては珍しい黒髪は顎下くらいのショートヘアで、色が白くて、猫みたいに釣り上った大きな目をしていた。 鼻筋が通っていて、唇は小さくて薄くて、だけど口角がきゅっと吊り上っていて。あぁ確か、向かって左側にほくろがあったっけなかったっけどうだっけ。
 とにもかくにも顔は小さいし色は白いし目はでかいし口は小さいしちょっとだけ聞いた声は澄んでるしなんだりで、確かに店長の言うとおりのべっぴんさんだった。 そして、あぁ、なんていうことかなんていうべきかむしろこれが現実なのかもうとにかく色々信じられないんだけど。

一目ぼれってほんとうにあるんだなぁと、そう思った。

「…………、」
 抱いてしまった感情に自分自身驚きをかくせなくて未だに何も言えずに、だけど口も閉じれずに呆然と彼女を凝視していると、不意に鋭い視線を感じて目をそらせば、眉間に深くしわを寄せた店長と目があって。 ハッとしていつもの表情に戻したけれど、随分と長い付き合いだ。たぶん、おそらく、嫌絶対俺の思考回路は店長にバレているだろう。 それどころか痛々しく突き刺さる視線からは「うちの新しい従業員に手ぇだすなよ中坊が」という念がひしひしと伝わってきて。
 ごまかすみたいに鼻で笑って見せたけれど、多分内心で反抗しているのも伝わっていると思う。生まれて初めて店長が厄介な存在だと思ってしまった。
(……渋谷、なんていうんだろう。大学1年生ってことは、18か19だよなぁ……)
慣れた手つきで食器を洗っている彼女の後姿を眺めながら、なんだか自分の日常が変わりそうな気がして、胸が高鳴ったのを俺は感じていた。


※ ※ ※


次の日。学校を終えていつものように着替えてから五光行にいくと、俺を見るなり店長があからさまに嫌そうに眉を寄せた。だけどその表情の理由は十分わかっていて。 だって、顔に書いてある。「お前、渋谷さん目当てで来たんだろ」って。まったくもって心外だと思う。俺がここに来るのはガキの頃からの習慣だって言うのに。
いやまぁ、もちろん、彼女に会いに来たっていうのも大きな理由の一つだけど。でも誰だってそこに美人がいると知れば見たくなるものだろう?なんて心中で言い訳をしてみたり。
「てんちょう、そんな顔するなよ。俺まだなんにもしてないだろ?」
「何かされてからじゃあ困るから、こんな顔してるんだよ。頼むから変なことにならないでくれよ」
「なんだよそれ。俺が最低な奴みたいにいうなよ」
「そうは言ってないよ。お前はただのガキだから」
「はぁ?」
そう言うなり、店長はやれやれと溜め息をつきながらも仕事に取り掛かって。まったくなんなんだ失礼な、と思いながらこちらも溜息をついた。
(どうすっかなぁ……)
昨日は結局、一度も彼女と話すことが出来なかった。聞いたのは「いらっしゃいませ」「おまたせしました」「ありがとうございました」等の業務的な言葉だけ。 本当ならもっと個人的な話をしたり彼女のことを聞いたりしたかったんだけど、何故か昨日に限って客足が絶えず、忙しかったようで。(いつもはたいして客来ないのに) どこの大学に行っているのかとか、好きな音楽は何かとか、そんな下らないことでもいいから聞きたかった。そしてあわよくばメルアドなんかも交換したい、なんて。
だけどそれよりなによりも、俺はまだあの人の名前すら知らないのだという事実が何だか歯がゆかった。
(渋谷……なんていうんだろ)
 店長に聞けばすぐ教えてくれるだろうけれど、(……いや、教えてくれないかもしれない)だけどやっぱり自分で名前を聞きたい。そして自分の名前も彼女の頭に刻みつけたい。
 だけど正直なことを告白すると、今まで自分から誰かを好きになったことやここまで興味を持ったことなんてなかったから、どうやったらうまく立ち回れるのか解らなかった。 まず「中学生のくせに、がっつく奴だなぁ」とは絶対に思われたくない。だって、まずはごく普通に、ナチュラルに仲良くなりたいから。純粋に綺麗な彼女を知りたいのだ。 あと「こいつ、色恋以外は何も考えてない奴だな」とも思われたくない。要するに俺は、彼女にただの「カス野郎」と思われたくないのだ。
 だけど、そう思われたくないけれど、今の自分では「自分はそんな奴じゃないんだ」と胸を張って言える気もしなくて何だか項垂れた。
「……やっぱ、ガキかぁ……」
 ポツリとつぶやいた言葉は当然店長にも聞こえただろうけれど、店長はチラリと俺を見ただけで何も言わなかった。
「店長、昨日俺が帰ってから、あの人俺のことなんか言ってなかった?」
「言ってなかった」
「くそっ、即答かよ」
 その返事に「あー」と頭を抱えつつも、いやいや店長のことだから、俺にウソをついておちょくっているのかもしれない、となけなしのプラス思考を働かせて見せる。
 ……だって、ふつう少しは気になるものじゃないか。とても成人には見えないような子供が一人でこんなところにいたら。「あの子店長のお知り合いですか?」位にはさ。 でさ、「知り合いの中学生だよ」って言われて、「中学生なんですか?」みたいな。ついでに「なんていう子なんですか?」くらいにはさ。なのにそれもなかったわけ? そんなに俺魅力ない? 興味ない? 存在感ない? いやいやそんなまさか。馬鹿なことを悶々と考えてみても、まぁ落ち込むばかりで。本当に、普段の自分からは考えられなくて笑えもしない。
 そこまで考えて、なんとなぁく、これまでに俺に言いよってきた女の子たちの姿が頭をよぎった。可愛い子だったりそうでもないこだったり、元カノだったりそうでなかったり。 彼女たちはいつも、何も用事なんてないこと丸わかりの内容のないメールをしてきたり、「作りすぎちゃったからあげる」なんて言い訳をつけたして手作りのお菓子を渡してきたりして。 そんな子たちに俺は今まで角が立たないような、特別な感情のない当たり障りのない返事と笑顔で返してきたけれど。そしてそんなことを続けていく過程で、自然と恋人になってきたけれど。
 今思うと、そんなことをされていた彼女たちは(今の彼女も含む)満足していたんだろうか。それなりに楽しめてはいただろうけれど、満たされていたんだろうか。 そしてそれ以上に、俺の本心を垣間見る瞬間は、なかったのだろうか。もしなかったのなら、彼女たちは本当に馬鹿でかわいそうだ。嘘っぱちを信じて笑ってるんだから。
 考えて、考える。もし俺がこれからあの人に同じことをされたとしたらどうしよう、と。そしてもしも彼女たちのように、嘘に気付けずに満たされたとしたら……。 それ以上に恐ろしいことはないと思う。そんな風に、たった一人の人間に溺れたくない。だけどそれと同じくらい、彼女になら溺れてしまいそうな自分も感じていて……。そこまで考えて、ふと思う。
(……俺、馬鹿じゃねぇの?)
 相手は何にも知らないやつなのに。それどころか、昨日初めて会ったばかりの年上の女だ。いいや、「会った」とも言えない。それなのにこんなの馬鹿げてる。そうだ、馬鹿みたいだ。
 急に頭から冷水をぶっかけられたようにハッとして、思わず一人瞬きを繰り返してしまう。パチリパチリと、まるでパズルのピースみたいにいつもの自分が戻ってくる。
(……ただ、めずらしかっただけ……?)
 突然現れた年上の美女。そうだ、そんな魅力的な設定にただ戸惑って、惹かれてしまっただけだ。退屈な生活を実感していた俺の前で、彼女はただただ珍しく、綺麗だったから。 だから興味をひかれたのだ。まるでハリウッド・スターが目の前に現れた時のように。でもそれは、ただ単に珍しいことだったから惹かれただけ。 だからあの綺麗な彼女も、見慣れれば今までの日常にあふれている人たちと同じように見えてくるのかもしれない。(もっともハリウッドスターを見慣れるなんてこと、ないだろうけど。)
 要するに、ただ今はこんな風に未知数な女って言うだけで魅力的に特別に見えているだけで。あぁそうだ、そうだ。そうに決まってる。だって、そうじゃなきゃ……
(あまりにも、俺がバカだ……)
 だいいち、今まで散々物事を客観的にみてきた俺がこんなにも取り乱すことなんて、ありえないのだ。そんなの野球素人がイチロー相手にボールを投げるようなものだ。 そんで打たれて点取られた揚句に「なんで打たれたのか分からない」なんて首をかしげてるのと同じくらいありえない話。だけどそんなありえない経験を、俺がするわけがないのだ。
(……そうだ、きっと、気の迷いだ。これから毎日通ってあの人のこと見慣れれば、自然と落ちつくはずだ)
 そうすればまたいつものように、つまらないながらも安定した生活に戻れるはず。誰に乱されることもなく、淡々と日々を過ごして、うまくやり過ごしていけるのだ。 つまらないけれど、それが自分には一番合っているのだということは分かっている。なんでもそつなくこなしてこその俺なのだ。たった一人のせいで取り乱したりしない。
 導き出した答えはあまりにも自然に胸になじんで、さっきまで悶々としていた自分が恥ずかしく感じてしまい、思わず頭を振った。 そんな俺を見て店長がいぶかしげに眉を寄せたようだけど、あぁ、もう大丈夫。さっきみたいに馬鹿なことをいうことはないから安心してくれと、思わず笑った。

 But、だが、しかし。数時間後、この考えはやっぱり間違いだったのだということに気づかされて、俺はうなだれてしまった。
 幸か不幸か、その日夕方から突然天気が崩れ始めて、店内にはくだらないバラエティ番組の音と、ザーザーという強い雨の音が響き渡っていた。 雨が降ると、五光行にはお客が来ない。それはもう昔から決まり事のように確かなことで、今日も例外なくお客は来なかった。(店長はうなだれていた)
 そしてこれがまた幸か不幸か、珍しく店長は明日の仕入れの電話や近々来るらしいお客さんからの予約の電話が殺到していて、ずっと裏で電話の対応に追われていて。 つまり店内のホールには、俺と彼女の二人きり。どうすればいい? なんて、そんなこと知れてる。抱きかけた恋心を一時の気の迷いにするために、俺は彼女を知らなければならない。
「……ねぇ、ちょっと、いい?」
 眺めていたテレビから目を離し、振り返って話しかけると、同じく暇そうにテレビを眺めていた彼女が俺に視線を移した。目が合うのは初めてだ。もちろん、話しかけるのも。 猫みたいな目がゆっくりと瞬きをした。茶色い目だ。睫毛が長くて、綺麗にカールしている。いつだか彼女がデートでしてきた、ひじきみたいに固まった不自然な睫毛じゃない。
 一瞬タメ口で話しかけたことに対して嫌悪感を覚えられるかな、と心配したけれど、彼女は気にした様子もなく「なに?」と小首をかしげた。可愛い。思わず思った自分に舌打ちをする。
「俺、高倉へいすけっていうんだけど」
「昨日、店長から聞いたわ」
「え?」
 店長から聞いた、だって? 彼女の言葉に、頭の中で思いっきり店長に右ストレートを食らわせた。やっぱり、嘘ついてやがったのか。どこまで俺を信用してないんだ。 そんなことを思いつつも、それ以上にやっぱり、抱いてはいけないはずの喜びが胸の中に広がって。心臓が、跳ねる。
「俺も昨日、店長に聞いたんだけど。渋谷さんでしょ? 下の名前は?」
「………………こう」
「こう?」
「紅って書いて、紅。でも呼ばないでね。自分の名前、嫌いだから」
「……」
 紅と書いて、こう、だって? 思わずポカンと、開いた口がふさがらなくなる。容姿端麗で、名前まで特徴的って、どういうことだこの人。どんだけ第一印象凄まじい人なんだ。
 呆然としていると、自分の名前を馬鹿にされたと思ったらしい彼女が眉間に皺を寄せた。その様を見て慌てて「じゃあ渋谷さんって呼ぶ」と返せば肩を竦められて安心した。 ほっと息をつきつつも、いやいや話はこれだけじゃないと必死に思考回路を取り戻す。まだまだ彼女をリサーチしなければ。
「大学どこ行ってるの?」
「……すぐそこの、H大学」
「へぇえ、頭いいんだ。学部は?」
「英語」
「いいね。じゃあやっぱり、洋画とか、洋楽とか好きなの?」
「好きよ。日本人より、ずっと好き」
「ふうん……」
 外人好きかよ。勝ち目ねぇよ。瞬時によぎった考えに、内心二度目の舌打ちをした。このままじゃ本当に、馬鹿直行だ。取り戻せ、自分を。自分に語りかける。
「俺は、俳優ならラッセル・クロウが好きだよ。シンデレラマンとグラディエーターは名作だ」
 何気なくもらした言葉に、彼女は眼を見開いた。茶色い目がこぼれおちそうで、思わずこっちがギョッとする。だけど続けさまに来た言葉に、俺は卒倒しそうになった。
「私、ラッセル・クロウのこと好きすぎて死ねる」
 俺は驚きすぎて死ねそうだ。
「―――……、」
 彼女の言葉に言葉が出ずに、だけど口も閉じれずにただただ固まっていると、なんとまぁ間が悪いのか、電話ラッシュが終わったらしい店長がバタバタと音を立てて裏から戻ってきて。 終いには明らかに嫌がらせとしか思えないような大きな声で、「ごめん渋谷さん、ホールのテーブルふいといてくれる!?」なんて言いやがって。 おいおいおいおいおい、このおやじ! と思って店長をにらみつけると、やっぱり嫌がらせだったらしくふんと鼻を鳴らされて。なんて人だと愕然とする。良い大人が、まるで子供の悪戯だ。
 「はい」と返事をしながら布巾を取りに厨房へと入って行った彼女の背中を見つめながら、俺は確かにショックを覚えていて。せっかく、せっかくいいところだったのに。と店長を呪った。
 そしてそれと同時に、否定していた感情への確信が生まれて愕然とする。
(……気の迷いにするなんて、無理だ)
 俺は彼女に、出会ってたった一日の年上の女に、間違いなく一目ぼれをしてしまったようだ。


 あれから。店長によって渋谷 紅との会話を邪魔されてしまった俺は、どうにもこうにも突然たまらなく恥ずかしい気持ちになってしまって、どしゃぶりにも関わらず傘も持たずに店を飛び出してしまった。 その行動には流石の店長も驚いたようで、慌てたように俺を呼ぶ声が聞こえたけれど、構わずに雨のなか爆走して。パンツまでびしょびしょになりながら誰もいない真っ暗な家に着いたところで、ようやく俺は落ち着いた。
(……靴の中がぐしゅぐしゅ言ってやがる……)
 玄関の電気をつけて、水の吸いすぎで脱ぎにくくなった靴から足を引っこ抜くと、靴底にたまっていたらしい水が当たりに飛び散った。まるでぬれ鼠だ。身体にまとわりつく衣服が気持ち悪い。
 溜め息をつきながらバスルームへ向かおうとすれば、歩くたびに廊下に水たまりができて、母さんが帰ってくる前に廊下をふかなきゃ怒られるな、と更に溜め息が漏れた。 雨の日は嫌いではなかったはずだけれど、なんだかこうも濡れてしまった自分を見るとたまらなく惨めな気持ちになってしまう。にもかかわらず、未だに外はどしゃぶりのようで。
(……あの人も、濡れて帰るのかな)
 なんて、気を抜けば何気なく頭に浮かぶのはあの綺麗にもほどがある女の姿で。きっと濡れてもきれいなんだろうな、なんて、バカなことを考えてみせた。
 水を含んで体にまとわりつく服は脱ぐのも大変で、悪戦苦闘していたらどっかの糸が切れたらしく「ブチリ」と不吉な音がした。気に入っているTシャツなだけに軽くショックだ。 だけどなんとなぁく、この脱ぎにくい服が自分の中のあの人への感情と似ている気がして、あぁもうなんだ、アホらしい、バカだ、俺は。
 浮かんだ考えをかき消すように勢いよく風呂場の扉を開けてシャワーを浴びれば、ものすごい勢いで冷水が出てきて心臓が縮みあがった。やっぱり馬鹿だ、俺は。
(あー……くっそー……)
 生まれて初めて、なんて自分は格好悪いガキなんだと項垂れた。

 次の日。学校を終えていつものように五光行に行くと、俺を見るなり店長が驚きに目を見開いた。何故かと言えば、俺の左頬が赤く腫れあがっていたからである。
「……お、っまえ……なしたの、その頬。喧嘩でもしたのか?」
「元カノに殴られた」
「は?」
「好きな人ができたから別れよう、って言ったら、もう、パーンって」
 いてえのなんのって。熱を持っている左頬をさすりながら呟くと、店長は一瞬あんぐりとまぬけな顔をして、それからハッとしたように「ちょ、おい、」なんて意味のない言葉を発した。
しかしながら、今まで何人もの女の子を振ってきた俺だけど、流石に殴られたのは初めてで。しかも今回に限って女子バレー部のキャプテン、なんていうアグレッシブな相手だったから、本当に半端なく痛い。 多分あいつ、アタックを打つのと同じ要領で俺の頬を殴ったと思う。そしてもし本当にそうだったとしたら、あいつはバレーの度に俺を思い出すんじゃないだろうかと思う。
「お前、ちょ……好きな人って……」
「うん。渋谷 紅さん」
「…………かんべんしてくれよぉ……」
 お前ほんとめんどくせぇ……。ガクリと肩を落としながら呟く店長に、いやいや全くその通りだ、と自分でも納得してしまった。なんだか今日の店長は幼く見えて笑ってしまう。
「…渋谷さんは、大学生だ」
「うん」
「美人で」
「うん」
「お前より大人で」
「うん」
「…………美人だ」
「店長、同じこと言ってるよ」
 とにもかくにも、お前に勝機はないからあきらめろ、と言いたいのだろう。まぁ当然だと思う。そしてそれと同時に、店長の優しさでもあるのだと理解している。 …………だけど、なぁ……
「…………昨日、さぁ……」
「んん?」
「思ったんだよ」
 冷たいシャワーを浴びて頭を冷やそうと努力したのは誰のせいか。ベットの中で眠れなくてもがいたのは誰のせいか。元カノに思いっきりぶたれるほどの別れをしたのは誰のせいか。 散々な目にあった自分に呆れながらも、考えるたびに浮かぶ女の姿に「それでもいいや」と思ってしまう自分を、どうするべきなのか。考えて、考えて、考えて。
「それでも、俺は、あの人のこと考えてる」
「――、」
「……人のことこんなに考えるのは、生まれて初めてだ」
 そしてそんな思考回路に戸惑い呆れつつも、決していやだとは思えなくて。そして忘れようとしつつも、忘れることを拒否する自分がいるのもわかっていて。だったらもう、どうしようもない。
「……まぁ、なんていうか……」
「……」
「出来る限り店長には迷惑をかけないように努力をしますので、渋谷さんを好きでいることを許していただきたい」
「……はぁあああああああああ…………」
 俺の申し出に、店長はどんだけ二酸化炭素吐きだすんだ、っていう位盛大にため息をついて。その様に思わず笑いそうになって必死にこらえてしまった。だけど続いた言葉に、笑いを隠せなくなってしまって。
「……俺よりも、渋谷さんに迷惑かけないようにしろよ」
 たぶん無理だろうけど。ぼそりと呟く声に、俺は盛大に、笑った。
「あ、でも今日渋谷さんバイト休みだから」
「このくそ店長」
 この恋はまだまだ道が見えなさそうだ。

片思い成立編―完―


――行動編―― 

 この世の中には、人に決して迷惑をかけない片想いというものは存在するのだろうか。落ち着いた動作でホールのテーブルを拭いている彼女を見つめながら、そんなことを思った。
 渋谷 紅。気づけば彼女と出会って10日余りが経過していたが、まったくと言っていいほど進展はなかった。しかしながらその理由もわかりきっている。俺が何も行動していないからだ。 数日前に「渋谷さんを好きになる宣言」を店長にしたはいいものの、俺は本当に、これっぽっちも何もできないでいた。もちろんある程度の会話はしていたが、あくまで「ある程度」のもの。 しかも彼女や店長の迷惑になるといけないから、決まって会話をするのは雨の日やお客が少ない日のみ。それも「今日は暇そうだね」とか、「雨強すぎだよね」なんていうくだらないものばかり。いつも同じ空間にいるって言うのに、全くもって面白みのない関係だと思う。
 そんなこんなであまりに俺が何もできていないからか、店長も若干拍子抜けしているように見えた。そのくせ話してたら話していたでまるで見張るように見てくるものだから、厄介としか言いようがない。まるで娘に悪い虫がつかないように見張っている父親のようだと思う。
(……俺って、チキン野郎だったんだなぁ……)
 自分から好きな相手に近づくことがこんなにも難しいものだったとは思わなかった。だけどそれを考えれば、今まで熱烈なアプローチをしてきた女の子たちに一種の尊敬ともとれる思いを抱いてしまう。 だってあいつらは自分の「好きだ」という思いを貫くためなら相手の迷惑を考えないのだ。想いを遂げるために甘いクッキーやケーキ、つまらないメールを一方的に送っては返ってきた返事に満足している。 はっきり言って、相当ずぶとい神経の持ち主としか言いようにない。だけどわかってる。世の中の片想いというものはそういうものなんだ、って。
 気のない相手を振り向かせるためには、自分が頑張るほかに方法はない。うまく行こうと行くまいと、相手の時間を自分のために使おうと努力しなければならないわけで。矢印を向かい合わせるために必死にならなければいけないのだ。
 だけど、俺は、それをして彼女に嫌われるのがとてつもなく怖い。だから考える。彼女に迷惑をかけずに、彼女の矢印を自分の方に向かせるにはどうすればいいのだろうか、と。だけど、まぁ、残念なことに。
(そんな方法あるわけないよなぁ……)
 導き出した答えにガックリとうなだれると、それを見ていたらしい店長が小さく苦笑していた。「中学生も大変だなぁ」なんていう嫌みは聞かなかったことにしようと思う。
(難しいなぁ……)
 例えばもし俺が彼女と同じ歳で、同じ大学に通っていたとしたら。そしてさらに、同じくここ五光行で働いていたとしたら。それはそれはスムーズ且つ自然に彼女と親しくなれたのだと思う。
 だけど現実はと言えば、理想には一つも当てはまらないもので。俺は彼女より四つも年が下で、彼女にとっては客ですらない。一言でいえば「店長の知り合いの子供」だ。 そんな俺が一体彼女に何をできるって言うんだろう。答えはただ一つ。何一つないのだ。むしろいつもいつも暇そうにしているクソ中学生なんて邪魔なだけなのかもしれない。
(……やっべぇ、泣きそうだ……)
 ここのところ定着しつつある、とことんマイナスな方向に傾く思考回路をごまかすみたいにくだらないテレビ番組に目を向けたけれど、これっぽっちも楽しくなくて更に落ち込んでしまった。 今人気のアイドルがきゃいきゃい喋っては周りが可愛い可愛いともてはやしているけれど、どこが可愛いって言うんだ。茶色いパーマのかかった髪、ピンク色に染まった頬、ぱっちりした目、ふりふりのワンピース。甘いばっかりで吐き気がする。 その上こいつらは自分がほかの人より上だって自覚したうえで「可愛くないですぅ」なんて謙遜するものだから、たちが悪いったらありゃしない。誰かわざとらしいんだよ、って突っ込めばいいのにといつも思う。
 わざとらしいものも作りもの臭いものも嫌いだ。だけど、嫌いな理由はちゃんと分かっている。自分がそうだからだ。わざとふざけて、わざと笑って、自分をよく見せるための最善策を知っている。それでいて嫌みじゃないのだ。 毎日毎日自分がやっていることだ。だからこそテレビの中の人物が同じことをしているのを見て、まるで自分を見ているようだとげんなりしてしまうのだ。そしてそれに気づいていない周りの人にも同じく嫌悪してしまう。
 正直に生きられたらいいのにと、そう思う。だけどこんな考えを外に出そうものならたちまち「お前はいやな奴だ」と罵声を浴びせられることは間違いないから、怖くて出来やしない。要するに、俺は上手に生きる臆病ものだ。
(……彼女は、)
 彼女は、どう生きているんだろうか。ふと思いついて振り返ってみると、とっくの昔にテーブルを拭き終えていたらしい彼女は店の入り口横に立って、全くの無表情でテレビを見つめていた。
 黒いショートカット。綺麗にカールした睫毛。ぴかぴか光る唇。ほんのり色づいている頬。白い肌。繕うための化粧をしていなくても、間違いなく彼女はきれいだ。テレビの中のアイドルなんかより、ずっと。 だけど彼女は自分の姿をどうとらえているんだろう。もし彼女も自分の美しさを自覚している上で謙遜する人間なのだとしたら、すごく残念だと思う。だって謙遜する必要がないくらい綺麗なんだから、胸を張っていてほしい。
 例えば永遠の妖精オードリー・ヘップバーンのように、自分の美しさを知っているうえで欠点も自覚しているのだとしたら、すごく素敵だ。本当に完璧だと思う。 だけどもし彼女もテレビのアイドルのような、もしくは俺みたいなわざとらしいものや作りもの臭いもので覆われた生活をしているのだとしたら、自分勝手極まりないけどそんな姿は見たくないと思う。ひどく残念だ。
 そこまで考えて、思う。俺はいったい、彼女に、渋谷 紅に何を求めているんだろうか、って。
 色々思いながらなおも彼女を見つめていると、流石に視線に気づいたらしい彼女と目があった。明るい茶色の目が俺を凝視して、それから訝しげに顰められる。だけど逸らす気にはなれなかった。 いい加減居心地が悪くなったのか、「何?」と綺麗な、でもいつもより少し低めの声で聞き返された。……店長はついさっき仕込みの電話をしに裏に行った。だから多分しばらくは戻ってこないだろうと思う。そこまで考えて、口をついた言葉と言えば――
「……渋谷さんはさ、」
「うん」
「自分がきれいだって、わかってる?」
 突然の問いかけに、彼女はあっけにとられたように目を見開いた。俺自身、なんてことを聞いているんだと思う。臆病者だのチキンだのと自分を言っていたくせに、とんでもない質問をしているんだから。 意味がわからない。いや、ていうか、なに聞いているんだろう俺は。これこそまさに彼女を困らせることじゃないか。あぁそうだ、俺、バカだ、なにいってるんだ?
 自分がとてつもなくあほなことを聞いたのを自覚して、「ごめん今の忘れて」となかったことにしようと思ったんだけれど。びっくりすることに、このおかしな質問への返事が返ってきて。
「わかってるわよ」
「……へ?」
「自分がきれいなことくらい、昔っから知ってるわ」
「…………、」
「だから毎日毎日、もっと良くなるように睫毛の角度だとか髪のツヤだとかカロリーだとかを気にしてるの」
 予想だにしなかった言葉に今度は俺があっけにとられる番で。開いた口がふさがらないとは正にこのことだ。だけどそんな俺に、彼女はまるで見慣れたものを見るように肩をすくめただけだった。 そんな彼女の姿に、ハッとしたように頭の中に一つのキャッチフレーズが浮かぶ。「21世紀のオードリー・ヘップバーン、ここにあり」バカみたいだと思うけれど、心からの本心だ。
 彼女はテレビの中の嘘にまみれたアイドルなんかとは違って、完璧な女優であったオードリー・ヘップバーンそのものだ。自分の美しさに対して謙遜なんかしないプライドに満ちた人種。 考えて、少しでも彼女を疑った数分前の自分を呪った。自分やそこらへんのアイドルといっしょくたにしようとした自分が恥ずかしい。彼女はそんなんじゃなかった。彼女はもっともっと、言葉一つじゃ表せないくらい、だけどだけど、
「……綺麗、だ……」
 ぽつりと小さく小さくつぶやいた言葉は、ガサガサと物音をたてて裏から戻ってきた店長のせいで消えてしまったけれど、それでも俺は彼女から目を離すことができなかった。目を離せない。もっともっと見ていたい。
俺が思うよりもずっとずっと、渋谷 紅、彼女はオリジナルで魅力的な人物だった。確信したと同時に、今のままではだめだと気付かされる。迷惑はかけたくない。迷惑をかけるのは怖い。だけど彼女を手に入れたい。 めちゃくちゃな想いで頭の中がいっぱいになる。だけどその奇妙さが、びっくりするくらい綺麗に胸に浸透していく。彼女を知りたい。彼女に触れたい。彼女がほしい。
(……あぁ、もう、駄目だ……)
 彼女の前で、上手に生きることなんか出来そうもない。
「今日のバイト帰り、一緒に帰ってください」
 突然の俺の発言に、店長や彼女はもちろんのこと、俺自身が盛大に驚いた。

 それから。俺の発言に意表を突かれたらしく、言葉を失っている店長より先に「いいけど……」と答えてくれた彼女のおかげで、彼女と帰れることになっていた。(その瞬間店長は、まるで親の仇を見るような眼で俺を見ていた)
 しかしながらとんでもないことになってしまったと内心ビクつきながら、10時で仕事を上がらせてもらい、只今裏で着替えている彼女を待ちながら俺は店長と向かい合っていた。 沈黙が痛い。目をそらせない。店長の顔はひきつっている。多分、俺もひきつっている。
「……迷惑は、かけねぇよ」
「…………」
「ただ、一緒に帰るだけだし。家の方向、一緒らしいし。夜道は危険じゃん」
「…………………」
「あーもー店長めんどくせぇっ」
「それはこっちのセリフだめんどくせぇっ」
 要するに、俺が彼女に対して何をしようと、店長は気が気でないということだ。それは俺が初めて彼女を見たときからわかりきっていたことだけれど、改めて思う。この人めんどくせぇ。
 そうこうしているうちに着替えたらしい彼女がやってきて、むっつりとにらみ合っている俺らを見て少々いぶかしんだようだったけれど、さほど気にした様子もなく「じゃあ帰ろう」と声をかけてきた。 その言葉に心の中で浮きたって、今までの仕返しとばかりに店長を鼻で笑ってやると、どうやら怒りが頂点に達したらしい店長にぽかりと殴られた。全くもって大人げない大人だと思う。そんなだから結婚出来ないんだ。
「店長お疲れさまでした」
「またあした!」
「渋谷さんまた明日! へいすけはもう来るな!」
「ばかやろう!」
 最後までぎゃいぎゃいしながら店を後にしたけれど、その間彼女は不思議そうに眼をパチクリさせるだけで、特に何も聞いてこようとはしなかった。
「夜なのに全然涼しくないね。あっちーのは嫌いだ」
 お互いの家まで歩いて10分くらいの道のりが、果たして吉と出るか凶と出るか。内心ハラハラしながらも、とりあえず当たり障りのない話題を振ってみると「そうね」というあたり前の返事が返ってきた。
 夜なのに「夏」だって言うだけで一つも涼しい要素がなくて、もわもわとした気持ち悪い空気で満たされてる。そんな中俺は水色に紺色のロゴが入ったTシャツにハーフパンツ、そしてビーサンという夏真っ盛りの服装をしていた。 そんな俺の横で渋谷 紅は白いタンクに黒いキャミソールを重ねて、スリムなジーンズに華奢なサンダルというシンプルなのにお洒落に見える服装をしていて。のぞいている鎖骨の窪みや細い腕に思わず釘づけになったけど、慌てて視線をそらした。
 にしても、こうして並んでみると彼女のスタイルがよく見える。背はとても高い。173pの俺が少し見下ろせば目が合うくらいだから、多分160p後半くらいなんだろう。そしてとても細い。まるで海外のモデルみたいに、余分なものがそぎ落とされたような体をしている。 もう少し肉をつけた方がいいんじゃない? と思うけど、そんなこと言ったら多分怒られるから一生言わない。だってさっき彼女は言っていた。「もっと良くなるようにカロリーを気にしている」って。彼女の中の理想の美しさがこの体系なら、俺は余計な口出しなんて絶対してはいけないのだと思う。
「……ねぇ、」
 考えていると、突然声を掛けられて内心心臓がはねた。ドキドキ言っている心臓を悟られないように、平静を装って「なに?」と答えてみたけれど、果たしく上手くいっただろうか。
「さっき、なんであんなこと聞いたの?」
 さっき。とは。自分がきれいだってことわかってる?という唐突な質問のことだろうか。いや、それしかないってわかってるんだけど。わかってて、戸惑っている自分がいる。なぜなら何と答えていいのかわからないからだ。 だけど、またまた口を衝いて出た言葉と言えば。
「きれいだなって、思ったから」
 ポカンとする彼女を見て、またもや「俺は何を言っているんだ」と後悔してしまい、慌てて「いや、変な意味じゃなくって」と無意味な言い訳を付け足した。 だけどそんな俺に向かって、彼女は「ありがとう」となんてことはないように呟いて。あぁこれだと、大いに感動する。綺麗だとほめる言葉に彼女は謙遜なんてしない。そんな姿が、たまらなくまぶしく見える。
「……ねぇ、渋谷さん一人暮らし?」
 抱いた感動を胸に残しながらも、せっかくのチャンスを無駄にしちゃいけないなと話題を切り替えると、彼女は一度俺を見て、それから静かに答えた。
「うん。実家は北海道だから」
「北海道!? 海渡ってきたんだ! 大変だったんじゃないの、受験とか部屋探しとか」
「んーん。いとこ一家がここに住んでるから、受験の時は泊らせてもらったの。それに、今住んでる部屋もいとこのお父さんのものだから」
「え、なにそれ、すげぇ」
「凄いのよ。ほんとに。お父さん実業家で。マンションとかアパートとかなんか色々持ってて」
「超金持ちじゃん……」
「おまけに奥さんが外人で元モデルでねぇ」
「!? じゃあいとこハーフ?」
「そう。すっごくかわいいのよ」
「ふへえええ、美形な一族だな!」
「そうね。今はいとこの隣の部屋に住んでるから、こっちに来てもあんまり困ってないの。バイトもすぐ決まったし、店長もお客さんもいい人だし」
 そうつぶやく彼女は見慣れない穏やかな表情をしていて、思わず俺まで表情が緩んでしまった。もっと笑ってほしいなと思う。いいや、違う。俺の力でもっと笑わせてみたいなと、そう思う。
 会話を楽しんでいると、公園が見えた。家までの距離があと半分だって言うことを告げる公園だ。10分という距離は思いのほか短いようで、もったいないなぁと感じたけれど不思議と焦りはなかった。
「今度いとこを五光行に連れてきたらいいんじゃない?」
「あぁ、そうね。言ってたわ、行きたいから場所教えてって。教えたら多分来るわよ。金髪だし騒がしい子だからすぐ解ると思うわ」
「へぇえ。渋谷さんとはま逆だね」
「うん。だからとってもかわいい」
 そういう彼女の顔は、今まで見たどんな表情よりも優しげで、いとこのことをこんなに好きになれる人って珍しいなぁと思った。それと同時に彼女にここまで「かわいい」と言わせるいとこの存在が大変気になってしまう。 母親が外人で元モデル。その血を半分受け継いで、金髪。騒がしい。どんだけ可愛い天使みたいな子なんだ。すげぇ気になる。でも多分、真横のこの女には勝てないだろうな、なんてバカなことを考えて。
 考えているうちに、どうやら彼女の家へと続く曲がり道に到着してしまったようで。立ち止まって、「私こっちなの」と言われ、流石にちょっと寂しい気持ちになった。
「一緒に帰ってくれて、ありがとーございました」
「いいえー。知らない年下の子と話すのなんてめったにないから、楽しかったわ」
 あ、ちょっと笑ってる。わずかな変化にもうれしくなってしまう俺をよそに、じゃあね、と彼女が背を向けた。華奢な後ろ姿が遠ざかる。後ろ姿まできれいだ。だけど、それ以上に思う事がある。
「――ねぇ!」
「、……なに?」
「……また一緒に帰ってくれる?」
 俺の問いかけに彼女は一度茶色い目を見開いて、それからしばらく考えるように首をかしげた。そのしぐさに「流石に迷惑だろうか」と俺は落ち込んだのだけれど、そんな俺に帰ってきた言葉はと言えば。
「10時に上がる時だけ、一緒に帰ってもいいわ」
 その言葉に、俺は心から、笑った。

※ ※ ※ ※

 それから一週間がたって、残念ながら彼女ともう一度帰る機会はなかったけれど、以前よりはずっとずっと距離が縮まったのを感じて俺は毎日浮足立っていた。女の子は恋をすると変わるっていうけれど、多分男だってそうだ。毎日が明るく感じて自然と笑顔になる。
 そしてどうやらその心境の変化は中学校生活でも表れているようで、前以上にやることなすことすべてがうまくいっているように感じる。(例えば今日の体育のバスケの試合でなんて、一人で3Pを連続四本決めるという快挙を成し遂げた。おかげで三井寿のようだと拍手喝采を受けた) まぁそのせいで以前にもまして言いよってくる女の子が増えてきたのだけれど、今じゃあもう彼女らに告白されたってノリで付き合うなんてことは絶対しないと断言できる。むしろ、きっぱりと言ってやれる。「俺好きな人いるから無理」って。
 そんな感じで毎日毎日五光行に通うのが楽しみになっていたのだけれど。今日、俺はここで、笑う悪魔に出会うことになるのだった。
「ハロー! こんばんはー! お客一名です!」
 時計の針が6時を少し過ぎたころ、突然ものすごい勢いで店のドアが開いたかと思うと、それと同時にばかみたいな陽気な声とともに金髪の外人が現れた。 幸い早い時間だったからほかにお客はいなかったけれど、もしたくさんの客がいたら大迷惑極まりない。ずいぶんと無神経な外国人だなぁ、と思いながらもはたと思う。それにしてもやけに日本語の上手い外人だなぁと。
 スラリと伸びた手足。すこし癖のある、綺麗な金髪。堀は深いけれどひとなつっこそうな顔。あぁ、大変な美形だ。ぼんやりとそんなことを思いながら不躾なほどその外人を眺めていると、バタバタと厨房から足音が聞こえてきて。 ふり返れば、信じられない、というように目を見開いた彼女がいて。普段では決して見られないその表情に「はて?」と首をかしげる俺に対して、彼女は一言。
「太郎! 来るなら連絡してよ」
「きゃー!! こーう!」
 彼女の姿を見るなり、その外人はこともあろうに、まるで大型犬が飼い主に飛びつく時のような勢いで彼女に抱きついて。
(!!!!!?????)
 驚いて言葉をなくしている俺と同じように、様子を見に来たらしい店長も目の前の光景に絶句したらしく、ポカンと口をあけていて。しまいには俺とその二人を何度も何度も見比べるものだから、ばかやろう比べるなと頭の中の冷静な一部分が突っ込みを入れてしまった。
 そんなこんなでしばらく呆然としながら、ぎゃいぎゃいとたわむれている? 二人を見ていたのだけれど、不意にふと一週間前の、彼女と一緒に帰った時の記憶が思い浮かぶ。「金髪で騒がしい」いとこがいるといっていた。そしてそのいとこは五光行の場所が解ったら来てみたいと言っていたらしいではないか。 ………つまり、だ。
(……いとこって男かよ……!?)
 そりゃあないぜ、渋谷 紅……。思わずガクリと項垂れてしまったけれど、いやいやまぁ、そういえば「女」だとは言っていなかったなと思い出す。彼女はただ「かわいい」と言っただけだ。 そしてまぁ、大変言いにくいし認めたくないが、目の前の彼女にきゃいきゃい戯れている金髪の男は、確かに可愛く見えなくもない。例えるならばゴールデンレトリバーみたいなでっかい犬のようだ。そう思わないでもないけれど、それでも目の前の光景はあまりにも衝撃的で。
「……渋谷さん……?」
 しばらくして、唯一状況を全く理解できていない店長が若干ひきつりながらも彼女に問いかけた。すると未だに抱きついてこようとしている男を平手で払いのけながら彼女が答えた。(物凄く乾いたいい音がした)
「あぁ、ごめんなさい。この子いとこなんです。太郎っていうんですけど、私彼のお父さんに色々お世話になってて」
((太郎!?))
「田中・ワトソン・太郎です! よろしくっす」
(ださっ!)
 せっかくのミドルネームが日本一ダサい名字と名前で挟まれてやがる!(全国の田中さんと太郎さんには申し訳ないが、俺の本心だから許してほしい) 突然のことに、自己紹介されてなお店長は「あぁあ、はい、こちらこそ」なんてらしくもなくどもっているけれど、いやまぁ、無理もないんじゃないだろうかと思わず目の前の店長が不憫に思えてしまった。 だけどすぐに気を取り直したようで、「好きな席にどうぞ」なんて営業モードに戻り、おしぼりを出したり荷物を預かったりをしていたからたいしたもんだと関心してしまう。その反面、彼女はといえば、突然の知り合いの訪問に居心地が悪そうに困った顔をしていた。 でも確かに、知り合いがいきなり自分のバイト先に来たら戸惑うだろうなぁと思う。しかも彼女の場合、相手は慣れ親しんだいとこだ。部屋まで隣ってことは、へたすりゃ毎日顔を見合わせているんだろう。 そんな相手に普通の客と同じように接客しろと言ったって、やっぱり相当気まずいだろうなぁと思う。だけど目の前のこの金髪男はといえば、そんな周りの戸惑いなんて関係なく、こともあろうに俺の隣に腰かけ初めて。思わず固まる俺に、そりゃあ明るい声で一言。
「ヨロシク! 中学生!」
 なんて、言ってくるものだから。内心では「この男が俺のことを知っているということは彼女の口から俺の話題が出ていたということだ」という事実に感動しながらも、あまりの出来事に「……よ、ろしくっす」とちぐはぐな日本語を返すことしかできなかった。 だって、見てみろ。この男、満面の笑みで笑ってるように見えるけれど、目の奥の奥で笑っていない。緑がかった見慣れない色の瞳が光の下で俺のことを威嚇しているのだ。それは普通の人なら気付かない偽りだろうけれど、俺には分かる。俺も同じような笑顔を浮かべ続けていたからだ。
 その笑顔を見て、思う。俺の敵は店長なんかじゃない。この目の前で限りなく本物に近いうそっぱちの笑顔を作ってる、この男だと。思わず一瞬、くっ、とつばを飲み込んだけれど、不意に頭の中がクリアになって、自然と脳がこの状況に対しての最善策を導き出した。
「太郎さん、よろしく。ハーフなんだってね。マジ美形でうらやましーっす。あ、俺は高倉 へいすけっていいます」
 そしてその導き出した答えはというと、目の前のこのクセモノと同じように、限りなく本物に近いうそっぱちの笑顔で返答することだった。
 そんな俺の反応を見て男は一瞬あっけにとられたように目をぱちくりさせたけれど、すぐに俺の中の反抗心に気付いたのか、今度は大変挑戦的にニッと笑った。人懐っこい顔がまるで獲物を見つけた狼みたいに野性的になる。どうやらこの男は大変頭の回転がいいようだ。つまりは、厄介だ。 どうしたものか、と思いながらも、生まれて初めて今まで他人に対して上手に生きてきた自分に感謝した。だって、純粋になんて生きていたら、到底この男の裏っかわには気付けなかっただろう。そして気付いた時には打ちのめされてる、なんて悲惨なことになりかねなかったはずだ。
(……厄介ないとこ持ちやがって……)
 内心で舌打ちをしつつも、まぁそんなことしていても仕方がないわけで。気を取り直して、とりあえずこの隣に座っている男をどう攻略すべきかと全神経を総動員させたのだけれど。
 予想に反して、この金髪野郎は心の奥底の見えない部分をのぞいたら大変愉快で気のきく男なようで、始終店長に話しかけたり彼女に話しかけたり、そして俺に話しかけたりと場の雰囲気を良くすることに専念していて、大したものだと思わず感心してしまう。 男の口から少し高めの声が流れ続ける。それは店長の料理がおいしいだとか今はやりのドラマについてだとか新作の映画が見たいだとか、はたまた男の家族についてだとかとりとめのないものだったけれど、決して聞いていて不快になるものではなかった。思わず俺が引き込まれてしまうくらい、男は話し上手だ。 それが身体の中に流れている半分の陽気な血の影響なのか、はたまたついさっき彼の口から出てきた才能がありつつも茶目っ気のおおい愉快な父親の遺伝子なのかは分からないけれど、にしても大変ユーモアのある人間だと思う。純粋に感動してしまう。
 だけど時計の針が八時を指し、一通り注文したものを食べ終えて、店内に客がちらほら増えて店長と彼女が忙しそうにし始めたころ、スッと男の目が細められた。人懐っこそうな犬みたいな目が今度は猫のように狡猾になる。犬だの狼だの猫だの、忙しい人間だと感心してしまう。 そして当然のごとく、その表情の変化は俺に向けられたもので。今まで男の会話に幾分か心がほだされていた俺も現実に戻されたように表情を消してしまった。
「……さーて、混んできたし、おいとましよっかな」
――へいすけはどうするの?――
 続いて問いかけられたその言葉に、なるほどそう来たかと思わず笑ってしまった。まぁどんな言葉がこようともうたじろいだりはしないけれど。
「じゃあ、俺も帰ろうかな」
「よし、じゃあ一緒に帰ろう。家は同じ方向らしいし?」
「そっすね」
 バチリ。もし俺とこの男が漫画の中の人物だったのだとしたら、確実に今、俺たちの視線の間には鋭い稲妻が描かれていただろう。

 外に出ても相変わらず夏の夜の空気はむしむししていて大変気持ちが悪い。それに加えて横の男がポケットから煙草の箱を取り出したものだから、あぁもう全くよぉと眉間にしわを寄せてしまった。
「こうには一応内緒ね。可愛い天使はタバコなんて吸わないから」
「猫かぶり野郎」
「おたがいさまじゃんか」
 にっと悪戯っぽく笑う男は、到底彼女が言っていた「かわいい」だけの男には見えなくて、人差し指と中指の間に挟まれたたばこが大変よく似合っていた。 男の口から吐かれる煙が夜の空に白く浮かぶ。並んで歩きながらぼんやりとその光景を眺めていると、「ねぇ」と声をかけられた。視線を合わせるために少しばかり見上げなければならないのがすごく悔しい。全く恵まれた容姿だ。
「こうは、綺麗だろ?」
「…………あんたは、あの人のこと、好きなの?」
「好き?」
 はて、と首をかしげる男の真意がわからない。堀の深い、だけどまぁるい綺麗な目が不思議そうに俺を見る。この目にどれだけの人が騙されてきたんだろうと、今まで男とかかわってきたであろう人間が不憫に思えてくる。 いや、でもまぁ、俺も人のことは言えないのか。楽しい話で場を和ませて、笑いたくなくても笑って、とりあえず上手くいくように立ちまわる。そう思えば目の前のこの男は俺にそっくりだ。どっちが格上かは分からないけれど。
 だけど、男の口から出てきた言葉といえば。
「俺たちは、子供のころから相思相愛だよ」
 その言葉に、悔しいことに俺は眉間にしわが寄るのを止められなかった。だけど目の前の男はと言えば、自分が言ったことに特別の意味なんてないように間の抜けた顔をしていて。真意が、掴めない。 言葉を紡ごうにも、予想だにしていなかった返答のせいでまるで砂を飲み込んだように喉の奥がざらついている。だけど身体に反して脳みその方は意外に冷静で、「まさかこいつらは付き合っているのか?」と彼女と目の前の男を頭の中で並べてしまう。
 そういえば、恋人がいるかどうかは聞いていなかった。なんとなぁく彼女のそぶりから恋人はいないのだろう、と踏んではいたけれど、実際はどうなのだろう。もし目の前のこの男が恋人だったら? それはそれは、心から、悔しい。 だけどそんな俺の思考回路を見通しているかのように、見た目によらず狡猾な男は笑った。
「あぁ、付き合ってないよ?」
「……」
「だって、俺たちの間じゃあ、付き合うことに意味なんてないもん」
 ……付き合うことに、意味なんてない? 男の言葉を復唱する。一瞬こいつは何を言っているのだろうと不思議に思ったけれど、あぁそういえば、と思い当たる節があって半分納得した。 そうだ。今までの俺にとっては、こいつの言うとおり付き合うことに意味なんてなかった。だって好きでもない女の子と付き合うことができていたんだ。愛も優しさも物語も皆無で、俺にとってはステイタスにもならなかった。 だけど多分、彼女たちにとっては違ったのだろう。俺が彼氏であることは彼女たちにとってはステイタスにもなるし、偽りの優しさや愛に気付かない分満足もできただろうし、有意義だったはず。
 付き合うことの意味。俺は今まで、それを実感できずに生きてきた。その理由は明白で、俺が愛情とやらを相手に抱かなかったからだ。だから「恋人」」なんて言葉はただの名目で、意味なんて一つもなかった。 だけどもし、俺も相手のことをちゃんと思うことができていたのなら。それはちゃんと意味のあるもので、得るものも満たされるものもたくさんあったんだと思う。
 でも、この男は違うという。自分と彼女は相思相愛だと言っておきながら、付き合うことに意味がないなんて、それってなんなんだ?(いやまぁ、付き合われたら困るんだけど) 短い時間でいろいろ考えていると、またしても俺の脳内を読んだらしい男がニッと笑った。
「……熟年夫婦みたいなもんだよ」
「は?」
「キスもセックスもない。でもお互いがお互いを一番大事に想ってるって確信してる。空気みたいに当たり前なんだ。だから俺たちは付き合う必要なんてないわけ」
「…………」
「プラトニックとはまた違うんだろうけど。……まぁ、わかんないか、他人には」
 そうつぶやく男は悔しいことにものすごくカッコいいというか、触っちゃいけない芸術品みたいに一種の神々しさみたいなものが見えて、俺はただ、唇を噛んでしまった。
 熟年夫婦。お互いがお互いを大事に想ってる、空気みたいに当たり前。頭の中に蘇る声。そしてその言葉が嘘じゃないってことは、一緒に帰った時の彼女の口調や表情を思い出せば明白で。 悔しいと、そう、正直に感じて。この男に対しては、今現在の俺は確かに敗北者なんだと生まれて初めて打ちのめされた気がした。……だけど。
「それでもあの人には、あんただけじゃない」
「は?」
「……俺もなってやるよ。熟年夫婦とやらに。」
「…………」
 むしろその上を行ってやる。色ごとを含めたうえで、それでも居心地のいい関係を彼女と作り上げてやろうじゃないか。そう一つ胸に誓って、とりあえず今日は完全に打ちのめされたことに対する腹いせに男の尻を思いっきり蹴り飛ばして俺は走り出した。(その後、運動神経も抜群らしい男につかまり大乱闘になったのは彼女にも店長にも言えるわけがない)
(負けてたまるか。俺は、あの人が好きだ)


 それから。相も変わらず俺は五光行に通って、店長に邪魔をされたまにくる天敵太郎に悩まされつつも、以前よりはずっとずっと彼女と親しくなることができていた。 といっても、それはこの五光行だけでの話で。週に一度あるかないかの一緒に帰るとき以外に彼女と外で会うことはなかったし、未だにアドレスも聞いていないので連絡手段もない。 だから酷い雨の日や母さんが早く家に帰るとき、そして店の定休日である日曜日は一日中彼女に会うことができなかった。だけどどうしてか、当初のようにアドレスを聞きたいとも思わなくて。
 だって、考えてみればアドレスを知ったところで何ということはないのだ。彼女が働いている間は大抵一緒にいるのだから直接話していればいいし、バイト後はメールをゆっくりする時間なんてないだろうし。 そして午前や午後はお互い学校なわけで、そう考えてみればメールなんてさほど役には立たないし、何より返事が返ってくるか来ないかで一喜一憂するのなんて御免だ。だから必要ない。今のところは。(やっぱり俺はチキンだ)
 もしこれからデートの約束を取り付けられるくらいの中になったのだとしたら、それはまぁ、メールも電話も必要になってくるだろうけれど。でもまだ多分先の話だと思うし、不思議と焦りはないから今の状況でもいいやと思えていた。
 そしてこの日は大変珍しいことに母さんの仕事が休みで、それに加えてどしゃぶりだったから、俺は五光行に行かずに家にいることになっていた。 学校から真っすぐ帰宅すると、リビングから明るいテレビの音とそれに混じって母さんの笑い声が聞こえてきてなんだかほっとする。今日仕事が休みだということをだいぶ前から教えてくれた母さんが暇をしないように、昨日のうちに俺が借りておいたDVDを見ているのだろう。 洋画だのお笑いのDVDだの感動モノだの、合わせて6本くらい借りてきた気がするけれどどれだけ見ただろうか。かなり吟味したから、多分全部楽しんでもらえてると思うけど。
 そんなことを思いながら傘をたたんで、濡れた鞄を玄関先で軽く払ってからリビングへむかい、ただいまと声をかけると、テレビに夢中で気付かなかったらしい母さんが少しびっくりしたように目を見開いた。
「へいすけ、気付かなかったわ。お帰りなさい。凄い雨だったでしょう、今タオル持ってくるね」
「あぁ、いいよ。自分でやるから、母さんテレビ見てなって」
「そう? DVDありがとう、どれもすっごく面白くって、ずっと見てたの」
「うん。選ぶのにかなり悩んだからね」
 笑いながら言うと、母さんも笑いながらもう一度ありがとうと礼を言ってきた。朝以外のこんなに明るい時間に会話をするのは久しぶりだ。いつぶりだろう。 なんだかなつかしい気持ちになりながら着替えを取りに行って、濡れた制服をハンガーに掛けてからまたリビングに向かうと、何もしなくていいよと言ったにもかかわらずテーブルにはホットミルクが用意されていて。 全く気の利きすぎる母親だと思って肩をすくめていると、しまいには手作りのケーキまで出てきて目ん玉ひんむいた。本当に血が繋がってるとは思えないほどよくできた母親だ。
「……何作ったの……」
「ケーキ。コーヒー味よ。ずっとテレビ見てたら流石に疲れちゃったから、気分転換に作っちゃった。食べるでしょ?」
「……食べるよ。でも、それなら昼寝してほしかったよ」
「元気だもの、寝なくても平気」
 どこが元気なんだよ。思わず突っ込みそうになったけれど、それを言っても母さんを困らせるだけだってわかっていたから、ぐっと言葉を飲み込んだ。
 綺麗な淡い茶色のケーキとフォークを受け取り、ホットミルクを片手に持ちながら母さんが座っていたソファの隣に腰かけると、同じくケーキを持った母さんが隣に座ってきた。 多分中学三年の男と母親が仲良くソファで手作りケーキを食べながらテレビを見る光景なんてそうそうないんだろうな、と思いながらも、全く恥ずかしいだとか不快な気持にはならなかった。 俺が唯一この世界で本気で心配する相手は母さんだったし、また見返りもなにも求めずに、ただひたすら心から感謝や大事にしなきゃって思うのも母さんだけだったから、なんら恥ずかしいことではない。
 自分のために必死に働く母親が心から誇らしいと思う。だけどそれと同じくらい、もっと自分自身のことも考えてくれたらいいのに、と残念に思ってしまう。俺のせいで母さんは色々な物を捨てているのだ。 ほろ苦いケーキは凄く美味いし、甘いホットミルクは身体をあっためたけれど、なんだか少しのせつなさとやらは消えなくて、ごまかすみたいにお笑いDVDを見て笑って見せたけど母さんにばれてなきゃいいなぁと思う。
 それからも二人でDVDを見ながら他愛もない話をしていたのだけれど、ふと気づけば白い壁に掛った時計の針が6時を指していて。慌てたように母さんは立ち上がった。
「どうしよう、晩御飯の支度なんにもしてなかった!」
 ごめんへいすけ! と物凄く申し訳なさそうな顔で言われたけれど、あぁもうそんなのどうでもいいから休んでくれ、と内心思ってしまう。(まるで逆親ばかだ。マザコンでは断じてない)
「いいよ。適当にあるもの食べようよ。カップ麺でもいいし……」
「だめよ、せっかく一緒なのに、そんなもの食べさせたくなかったのよ。いつもちゃんとご飯作ってあげられないし……」
「よく言うよ。夜中にカレー作って朝出したりするくせに。母さん今日くらいはがんばんなくたっていいんだってば」
 呆れながらそう言うと、でも、とまたもや反論されそうになったものだから、じろりと睨んでやった。そしたらぐっと言葉をのんで、それから母さんは静かに言った。
「……じゃあ、今日は外に食べに行く?」
「いいよ。どこに行きたいの」
 そう問えば、母さんは少し悩むように首をかしげて、それから少し楽しそうに、だけど控え目に言った。
「……久しぶりに、五光行に行きたいんだけど」
 でもへいすけは毎日行ってるから、他のところがいいよね。そう言う母さんに、俺は思わずナイスチョイスとガッツポーズをした。喜びを必死で押しとどめながら「いいよ、行こうよ」と言うと母さんはうれしそうに笑った。 そういえばそうだ。多分離婚して以来、仕事ばっかりで母さんは五光行に行っていない。店長とはずいぶん仲良しだったからお互いに会ったら楽しめるんじゃないかなぁと思う。多分店長なんてデレデレだ。母さんのこと、好きだろうから。
「今日雨だし、客いないだろうから暇してるよ。店長の相手してやんなよ」
「ふふ、なにそれ。あ、じゃあ着替えてこなきゃ。母さん化粧もしてないから、ちょっと待ってて。三十分でしたくするから!」
「急がなくていいってば」
「あ、ねぇ、ケーキもってったら喜んでもらえるかな? いつもへいすけお世話になってるし、手ぶらなのもね……」
「喜ぶよ。あ、二人分用意してね。アルバイトの子の分も」
「うん、わかった!」
 バタバタとあちこちを走り回る母さんを見ながら、どうしてか初デートの女の子が出かける前ってこんな感じなのかな、なんて思ってしまった俺はおかしいんだろうなぁと思う。 なにはともあれ、いけないと思っていた五光行に行けるのは大変うれしいことだ。昨日何気なく確認したら、彼女は今日バイトだって言っていたし。母さんも行くなら間違いなく店長の気は母さんにそれるから、俺は彼女とゆっくり話してられる。
(マジ母さんナイスチョイス)
 心から母さんに感謝しながら、今度は大きくガッツポーズをした。
 車でいったら母さんが酒を飲めなくなってしまうので、どしゃぶりのなか傘をさして二人で五光行まで行ったのだけれど、いやいや雨が降っていてよかったと思う。予想通り、店内には客一人いなくて、店長と彼女が暇そうにテレビを眺めていた。 そんな中ガチャリと扉が開いて現れたのが俺と母さんだったものだから、これまた予想通り店長は驚きに目を見開いていた。その視線が俺じゃなくて母さんに向けられてるものだから俺は笑ってしまう。
「うっわー、わ、菜緒子さん! お久しぶりです、いらっしゃい!」
「ほんとに久しぶり。いっつもへいすけがお世話になってごめんなさい」
「いやいやいや、あ、好きなところ座ってください。今タオル持ってきます」
「ありがとう」
 礼を言いながら母さんは昔よく座っていた席に腰かけたけれど、俺はわざといつもの席には座らず、母さんから離れた席に座った。すると状況を理解できずにきょとんとしている彼女と目があって、笑いながら手まねきをする。 近づいてきた彼女に小声で「俺の母さんなんだ」と言うと、大変びっくりしたように目を見開いていた。でもびっくりする理由はわかってる。母さんはこんなでかい子供がいるとは思えないくらい、若く見えるから。
「お母さん若いのね。それに、すごく綺麗」
「俺23の時の子供だから、多分店長とそんなにかわんないくらいの歳だよ。そこらの38歳より綺麗だしね」
 看護学校を卒業した母さんはすぐに今の病院に就職して、それから間もなく元父親と結婚し、俺が生まれてから育児休暇を取るもその後仕事に復帰した。働いたり子育てしたり離婚したりと苦労が絶えないはずなのに、まぁ本当に若く見える人で。 それに、実の息子が認めずにはいられないくらい綺麗だ。(まぁ、俺が美形だから母さんがきれいなのは当たり前なんだけど。ちなみに認めたくないが、クソ親父も美形だった。俺は母さん似だけど)
「元親父と離婚する前は母さんよくここに来てたから、店長と凄い仲いいんだよ」
「あぁ、だからあなたがここに来てるのね」
「うん。居心地いいっていうのもあるけど、それ以上に母さんが心配するんだよ。俺が家に一人でいるの」
「……中学生の男の子を?」
「そう。一人で家にいて、寂しい思いさせたくないんだろうさ。寂しがったりしないっつーのに」
 実際に真意を聞いたことはなかったけれど、多分そうなんだと思う。共働きの両親を持った母さんは小さいころから家に一人でいることが多かったらしく、俺が一人でいるとその時感じたさびしさを思いだしてしまうんだろう。
 一度母さんに楽させてやろうと思って、家に帰ってから掃除洗濯、夕飯の支度に風呂の準備なんかをして待っていたことがあったのだけれど、その時予想に反して大変ショックを受けたような顔をされてしまったので、それ以来素直に五光行に来るようになっていた。 全くそんなに心配しなくても寂しがらないんだけどなぁと思うのだけれど、まぁそんな母さんの過保護さのおかげで彼女と知り合うことができたから、結果オーライというべきか。
 そんな話をすると、彼女は「見かけによらずあなたっていい子なのね」と大変心外なことを言われて、思わず笑ってしまった。どっからどう見てもいい子だろうよと返すと、面白そうに笑われた。
 そうこうしているうちにタオルと酒とお通しを持ってきた店長が、俺には目もくれず母さんへと一直線に向かって。いつもよりずいぶん楽しそうな声で「今日は何食べます?」なんて聞いていて、思わず鼻で笑ってしまう。 俺が彼女に話しかける時よりも浮足立ってやがる。そしてその普段とは違う様子に彼女も気づいたようで、横から「店長楽しそうねぇ」という声が聞こえてきた。全くもってその通りだ。 注文を聞かれた母さんが「へいすけ何食べたい?」と聞いてきたから、母さんが食べたいもの頼みなよと答えると、来るまでにいろいろ考えていたらしい母さんは次々に料理の名前を言っていた。 多分昔来ていたころのお気に入りのメニューを言っているんだろう。そういえば、お酒もよく見慣れたものだ。いつの間に注文したのか、それとも覚えていた店長が気を聞かせて持ってきたものなのかは解らない。(多分後者だ。) おいしそうにお通しを食べる母さんを見ながら、なんだかホッとしてしまう。久しぶりに他人と楽しそうに話している母さんを見た。職場以外の人と外で会うことはあるんだろうか。多分ろくにないだろうなと思う。
「……ここだけの話だけど」
「うん?」
 同じく母さんを眺めていた彼女に、ごくごく小さな声で話しかける。母さんにも店長にも聞かれたらまずい話なので、耳打ちする要領で彼女に話しかけると、彼女も顔を寄せてきた。 普段なら決してない距離に思わず胸が高鳴ったりしたりしなかったりだけれど、そんなときめきとやらを一時おいといて言葉をつなげた。
「もし母さんが独身だったら、間違いなく店長は母さんに惚れてると思うわけ」
「…………」
「つうか実際さ、まぁ五分五分な感じだけど、惚れてると思うわけ」
「……私的に、そんなこと言われても返事に困るって感じだけど」
「いや、俺だってそうだよ。実際気まずいよ。でもさ、あの店長の気持ち悪さったらないしさぁ……」
「……まぁ、言いにくいけど、デレデレよね」
「うん」
 こそこそとそんなことを話している間にも、厨房から顔をのぞかせている店長とホールの母さんは会話に花を咲かせているようで、お互いに仕事の様子だとか俺についてだとかを楽しげに話していて。 そしてそんな二人の様子を眺めて万が一どちらも独身だったとしたら、それはもう店長とお客と言うには仲がいいというか、まぁ、そういう感じに見えるわけで。でも多分、当の本人たちは気付いていないんだろうなって思う。
 しばらく彼女とその光景を眺めていたのだけれど、ふいにいつだかのあの男の言葉が思い出された。「お互いがお互いを一番大事って確信してる。空気みたいに当たり前なもの」って。実際そんな風に過ごせている恋人や夫婦はこの世界にどれくらいいるんだろう。 意外に多いのかもしれないし、少ないのかもしれない。少なくとも、かつての父親と母さんはそうではなかった。お互いに仕事で忙しかったのもあるだろうけれど、息子から見ても不自然な夫婦、名目上のそれにしか見えなかった。
 だけど、もし、この二人だったらどうなんだろう、って。安易に想像しちゃいけないものだろうけど、思ってしまうのだ。俺の父親になるとかどうのとかは関係なく、店長と一緒にいるときの母さんはどんな気持ちでいられるのだろうか、って。 本当のことを言うと、その疑問はずいぶん昔から思っていたものだった。母さんの前では店長はことさらいい人だったし、店長の前での母さんはいつもより華やかに見えていたし何より楽しそうだったから。 だから世の中っていうものの難しさがわかってきている今でも、変わらずそんなことを考えてしまうのだ。
「再婚すればいいのに」
「…………」
 思わずつぶやいた言葉に彼女が困ったように眉を寄せてしまったから、すぐさま「今のは冗談」と訂正したけれど、多分上手くいかなかっただろうなぁと思う。
「……ねぇ、そういえばさ、だいぶ前に太郎君と一緒に帰ったんだけど」
「あぁ、次の日二人して青あざつくってたわね」
「……不良にからまれてさ……」
「へえ。太郎は電柱にぶつかったって言ってたけど」
「……あぁ、なんかもう、大変だったんだよ。とにかく。厄日だったんだよあの日は」
「まぁいいけど」
 適当についたウソはもう一人のアホのせいで台無しになったようで苦笑いしかできなかったけれど、まぁよしとしよう。(それにしても電柱にぶつかったとか、どんだけ頭弱いんだあの男) 思わずひきつった笑みを浮かべながらも、本当に聞きたいこと話したいことはたった一つで。心を落ち着けようとひとつ息を吐いて、静かに言った。
「あの人は、大事な人?」
 問いかけた言葉に、まさかそんなことを聞かれるとは思っていなかったらしい彼女はきょとんとしたように幼い顔をした。茶色い目がこぼれおちそうなくらい綺麗だと思う。 じっと見詰めながら返事を待っていると、しばらく考え込んだ彼女は言葉をつづけた。返された返事は、聞きなれたものだった。
「というか、居て当たり前みたいな存在よ」
 彼女はこれまで北海道に住んでいて、あの男は東京にいたり、母親の実家、つまりは海外で暮らしていたりしていたから、実際に会うのは年に数回しかなかったそうだ。 それにもかかわらず、たくさんいる親せきの中、どうしてか二人は当然のようにいつも一緒にいたようで。祖父母やその他の親戚に会うよりも先にお互いの姿を確認しては二人で過ごしていたのだという。 そしてその理由がなぜなのかは分からないそうだ。ただなんとなく、気付けば頭に浮かぶのがお互いの姿で、何をするわけでもないのに一緒にいて。
 そうして気付けば東京の大学に通う自分のために、あいつの父親は部屋を用意して、その部屋っていうのがまたあの男の隣だったということで。なんだかそれを聞いた俺の頭にはいつだか本で見かけた「ソウルメイト」という言葉がよぎった。 魂同士がひきつけあう存在。悔しいけれど、本当に理屈ではないものが二人を呼び合わせているのかもしれないって。そしてそれを聞けば、なんとなぁくあの男の言っていた言葉も理解ができるわけで。
 悔しいなぁと、思う。俺はあの日、あの男の言うような、彼女にとって空気みたいな当たり前の存在にとどまらないもっと上の存在になりたいと思った。恋人でも親友でもないちゅうぶらりんな関係なんかよりも、もっとちゃんとした、だけど居心地のいい関係になりたいとそう思った。 だけど目の前の彼女の表情とあの男の表情を見比べると、今のこの関係がお互いにとってとても居心地のいいものなんだって言うことに気付かされて。気付かされたところで、俺にはまだ何もないわけで。
(居て当たり前の存在か……)
 彼女にとって、俺はどんな存在なのだろう。未だに店によく来る店長の知り合いの中学生だろうか。それとも彼女の個人的な知り合いにまではランクアップできただろうか。友達ではないだろう、間違いなく。
 そこまで考えて、笑った。彼女にとったら俺が一番ちゅうぶらりんだ。知り合いにしてはおかしな存在で、友達と言うには年が離れていて、恋人って言うには身の程知らずもいいところで。 難しいなぁ、と思う。どうやら俺は恋愛というものを全く理解していなかったようだ。色々とうまくやりぬけてきた気でいたけれど、知らないことはまだまだたくさんあって。
「……どうしたの?」
 随分と俺は考えごとにのめりこんでいたのか、彼女にそう問いかけられて現実に呼び戻された。頭の端っこで「とりあえず状況を聞かれるくらいには彼女の意識の中に俺の存在はあるらしい」なんてバカなことを考えてみたけど、だからなんだっていうんだと一人で笑ってしまう。 気を取り直して、目の前の茶色い目を見つめてみた。今日もきれいに睫毛がカールしていて、まぶたはキラキラ輝いている。この人もどちらかと言えば堀の深い外国人寄りの顔をしているなと思う。。俺を見つめ返す目が、すごくきれいだ。
「……ねぇ、」
「なに」
「アイツ以外にも、そんな風になれるかな」
「……そんな風?」
「渋谷さんにとって、居て当たり前な存在にさ」
 内心ドキドキバクバク言っている心臓を差し置いて、またもや俺の口からはそんな爆弾発言が飛び出していて。どうやら邪魔ものがいないときの俺は強気発言をする傾向があるようだ。 だけどそんな俺に対して、彼女は考えるように細っこい首をかしげて、それから少し笑って「今のところそんな人はいないわね」って呟いた。その言葉に俺もつられて笑ってしまう。
 今のところ、か。というのは、過去にもいなかったということだろうか。まぁ居てもいなくても関係ないのだけれど。だって俺が本当に知りたい答えは、俺が彼女にとってそうなれるかどうかってことだけだ。 だけどそんなことを目の前の彼女に聞いたところでどうしようもないし、なにより楽しくないっていうことはわかっていて。どうしようもなくこの恋に戸惑い怯えているくせに、同じくらいスリルのようなものも求めているのだと自分に呆れてしまった。
「……ねぇ」
「うん」
「近々、そんな人が現れるかもしれないね」
「…………そう?」
「うん」
 そうかしら。もう一度怪訝そうにつぶやいた彼女に、絶対そうさ、と心の中でつぶやいた。俺が、そんな人になってやろうじゃないかって。自身も根拠もないし、未来も見えないけれど、それでもそう思った。ばかみたいだけど。 それから他愛もない話をして、母さんの席で出てきた飯を食べたりなんだりして過ごし、時計の針が10時を過ぎてそろそろ帰ろうかってなったときに。不意に彼女が、俺に問いかけた。
「あなたはどうなのかしらね」
「は?」
「そんな人、いるのかもしれないでしょ?」
 あんた以外にいらないよ。すぐさま浮かんだ答えをぐっと飲み込んで、ただ俺は笑った。




2010/03/21(Sun)11:28:40 公開 / まりか
■この作品の著作権はまりかさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
中学生と大学生というキチガイな関係にしてしまったので、色々模索しながら書いていこうと思います。毎度の如くチキンガールなので、ご指摘はオブラートとほんの少しの労わりをもってお願いいたします……。

三月二十日追記。段々とキャラ事情が複雑になってきて大変です。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。