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『青い影』 ... ジャンル:ファンタジー 未分類
作者:kanare
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大嵐が過ぎ去った、十月の、ある夕暮れのことでした。
私は街を歩いていました。ただ街を歩いていました。あんなに猛々しく輝いていた太陽もあの川の向こうに消え去ってしまいました。あとには凄涼な風が吹き荒れるばかりで、私の心を寂しくさせました。
寂しい。
そんな言葉をどう表現したらよいのでしょう。夜がやってきます。血の様な赤い空の悲鳴が聞こえてきます。宵闇が、暗黒が、わたしのすぐ後ろまで迫っています。わたしはどうしようもない気持ちでした。重く冷たい空気が、細い街路樹の根元を這いまわり、真上の空には巨大な鯨が泳いでいて、真っ黒な霧を吐き出します。霧はすぐさま世界を覆います。わたしの中にもその黒い霧が侵入し、充満して、わたしをますます憂鬱にさせるのでした。ふと目を遣れば、川の向こうの隣街には怖気を催すほど大きな、黒い身体の害虫が寝そべっていて、その毛ばりの先一つ一つに小さな灯りが浮かんでいます。それらが集まって、害虫の身体をなし、まるで細胞のごとく動いている。暗澹たるこの世界。冥界のごときこの街。
ああ、世界がわたしを拒絶するのは、わたしが悪い子だからでしょうか。わたしがいけないのでしょうか。
そうして、わたしが、ちょうど街と街との境界に流れる川に架かった橋の上に差し掛かったときのことです。灰色の橋の上です。孤独に苛まれ、惨めな姿のわたしがたたずむ橋の上に、台風が過ぎ去ったあとの、うら寂しい風が吹き荒れます。わたしは立っているのさえ辛くて苦しくて、橋の欄干に手をかけました。わたしの髪も、スカートも、靴も、すべて舞い上がっていってしまいました。それはもうわたしの手には戻りません。
すると、橋の向こう側に誰かが立っているのが見えました。不気味で、青くて、恐ろしい影が、じわり、じわり、とこちらへ近寄ってきます。
それは男の影でした。
男が立っています。青鉛色の肌をして、黒い衣に身を包んだ男が。
不吉な死の影を纏った男の姿は、決してわたしの見間違いなどではありません。突如やってきた予感。その残酷な青い影に、わたしは打ち震えました。
男は、ただジッと、凍るような瞳でわたしを見つめています。そして、静かな調子でわたしの元へとにじり寄ってきます。男が歩みを進めるその一瞬一瞬が、わたしに、まるで死刑執行を待つ囚人のごとき無力さをもたらすのでした。男は何やら口を動かしています。男はわたしに何か呟いているのです。そう、何かを……わたしにはそれが聞こえません。でも、確かに何かをわたしに語りかけているのです。そして、男がわたしに言わんとすることが、わたしにはわかるのです。残忍な月が輝いて、冷酷な訪問者の青鈍の影がどこまでも伸びていきます。
ああ、なんて……なんていうことでしょう。
わたしの脳裏に過ぎったのは、可哀相なあの人のことでした。画家だったあの人。悪魔に祝福され生まれたあの人。スカンジナビアに生まれたあの人は、夕暮れ時、橋の上で不安と絶望の叫びをあげました。彼は孤独でした。プシケーが憐れな彼を見捨てたように、暗黒の空の裂け目から舞い降りた天使は、わたしを拒絶するのでしょう。わたしに、呪いの言葉を浴びせるのでしょう。
青い影の男は、いよいよわたしの目の前までやってきました。
男はなおも何かを呟きます。ああ、お願い。何も聞きたくない。聞きたくないのです。
しかしそんなわたしのささやかな願いも、すぐさま無残に打ち砕かれていきました。男はついにわたしの目の前に立ちふがりました。男の青い影が、わたしの中へ入り込んで、わたしを侵していきます。
「なんとでも言って」わたしは精一杯叫びました。
一陣の風が、すこしばかりの沈黙を与えました。でも、それも一瞬のことでした。
男はいらえました。
「あなたを知っています」
わたしを知っている。男がはっきりそう言ったのを、わたしは聞きました。
嘘よ!
知っているはずがない、知っているはずが……わたしの、わたしのこんな惨めな……。
男はなおもいらえました。
「あなた運命を知っています」
そのとき、一層凄涼な風が辺りを吹き抜けていきました。わたしは烈しい眩暈に襲われ、その場にへたり込みました。もうこれ以上どこにも行けません。どこにも行くことなんてできないのです。わたしの生まれたこの街がわたしのすべてでした。そして、そんなことは最初からわかっていたのです。
暗黒の川の淀みがわたしを呼んでいるようでした。
「あなたの言いなりにはならないわ」
わたしは思い切って、橋の欄干に身を乗り出しました。底のない深淵がわたしを手招きしていました。わたしは一瞬躊躇いましたが、強い南風が吹いて、すぐに世界は反転しました。
一切光の届くことない暗黒の淵が、わたしの身を抱きました。わたしはどこまでも、どこまでも闇へ、水の世界へ、吸い込まれていきました。いずれわたしの小さな身体は水を吸い、ふやけ、腐り果て、ばらばらとなって、魚や微生物やそういった生物のえさとなるのでしょう。わたしの意識も、直に粉々に砕け、水に溶け、小さな、目には見えない粒子となって、世界中に運ばれることでしょう。ああ……ようやくわかりました。最初から世界は闇で、わたしと世界はひとつだったのです。
最後の瞬間、男は笑っているようでした。やっぱり、男は知っていたのです。わたしのこの惨めで、残酷な、運命のことを。
すべてが過ぎ去った後、橋の上にはもう誰もいませんでした。
ただ、誰かの孤独な呟きが、びょうびょうと、風に乗って聞こえてくるだけです。
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2009/10/30(Fri)11:42:02 公開 / kanare
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