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『けれど、二人は今も』 ... ジャンル:恋愛小説 リアル・現代
作者:雨竜椿風・千鞍
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あらすじ・作品紹介
過去に別板で掲載した作品です。
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「どうして裏切ったの? どうしてあの子を死なせたの? ねぇどうして?」
涙ながらに問い質す彼女の瞳を直視することすら今の俺には出来なかった。
第一章 反抗する時間
綺麗な君の声 美しい君の声
なんという希有な響きだろう
音は聞こえるけれど、言葉は聞こえない
森博嗣『魔的』より
1
変わった夢を見た。少女になる夢だった。夢の内容には秘めたる思い、深層心理が影響すると聞いたことがあるだけに、あまり嬉しい話ではなかった。自分には性転換願望も幼女愛好の気もないはずだ。この点については深くは考えたくない。時には見たことも聞いたことも考えたことすらもないことが夢に出るものである。
夢の中で少女は入院していた。歳は多分十三・四辺りの色の白い娘だった。それこそ病的なほどに体は細い。俺は俯瞰するでも傍観するでもなく、少女本人になった感じで夢を見ていた。そこが今までの夢と違ったところである。やたらと意識がハッキリしていたことも珍しかった。あくまで主観的に、少女の視界が捉えたものしか見ることは出来なかったから、年齢の予想などは完全に当てずっぽうだ。彼女が寝ていた病室には鏡がなかったので顔すらわからない。ただ直感的に、少女となった今の自分はこれくらいの年齢だ、と思った。
部屋は個室で酷く寂しかった。別に自分自身がが寂しかったわけではない。いや、確かに寂しいと感じたのは自分なのだけれど、そう、高橋秀輔がそれを感じたわけではないのだ。夢の中の少女が寂しいと思い、こちらはその感情を共有したに過ぎない、と言ったところか。現実の自分は一度も入院経験が無く、せいぜい六個も八個もベッドが並んだ部屋で数時間点滴を行ったくらいだ。あんな個室は何かメディアを介してでも見たことがあるかどうか怪しい。少女は広い個室のど真ん中で一人横たわっていた。
真っ白の両腕からはチューブが伸びていて透明と薄い黄色のよくわからない薬を体内に送っていた。
ベッドのそばに置かれた机には一輪の花が飾られていたが、それ以外に入院患者が身の回りに置くような気を紛らわすためのもの、例えば本だとか編み物道具だとかは一つもなかった。なるほど寂しい。面会者もいなかったが、それは時刻が夜中だったから当然かも知れない。
窓から差し込む月の光以外にろくな灯りはなく、目が慣れてくるまでは鮮やかな色をした花の存在すらわからなかったほどだった。眺めるものは月か花かで、しばらくは窓の外に視線を向けていた彼女もついに天井とにらめっこを始めてしまった。
起きあがってみようと思うものの、体は動かない。妙にリアルな夢の中で、自分の意志とは関係なく物事が展開していくことだけが夢らしいと言えば夢らしかった。しばらくは少女に付き合ってやるつもりで大人しく天井を見上げていたが、次第にいい加減覚めてしまわないだろうかと思い始めた。あまりにも居たたまれなくなったからだ。
少女の感覚神経が、彼女の頬が熱く濡れている事を知らせたのだった。寂しい、という思いが一層強まる。胸が締め付けられるようで苦しかった。まだこの夢は続くのだろうか、頼むから早く目を覚ましてくれ。一度強くそう望むと案外あっさりと朝が来た。
制服に着替えて一階に降りる。両親は二人とも既に出社していて家には自分一人だ。あるいは、そもそも昨日は家に帰ってきていなかったのかも知れない。息子が寝てから帰ってきて起きる前に出ていく、息子に何も言わず何日も家を空ける、どちらもざらな話だ。
コーヒーメーカとトースタをセットして出来上がるまでの間に顔を洗い歯を磨いた。一部屋一部屋が広いせいで移動に時間がかかる。キッチンに戻る頃には決まって既にトースタから茶色い頭が覗いていた。こんな無駄に広い家はいらないから早く一人暮らしをさせてくれと何度も提案したが父は耳を貸さない。その気になれば二桁の人数が暮らせるような屋敷に毎日一人で生活する虚しさは夢の少女の寂しさと近いものがあるかも知れないと思った。本人の性格や気丈さには関係なく、例えすっかり慣れてしまっていたとしても時たま何かが迫ることがある。自分が溜息をつくのと同じくらいの頻度で、彼女は涙を流しているのだろうか。もう夢は覚めきっているのに、そう思うとまた胸が痛かった。
学校までの道のりも、どこか沈んだ気持ちを抱いて自転車をこいだ。それでも、教室に入ってからはいつも通り明るく振る舞った。習慣というか惰性というか、無意識のうちに顔は笑顔を作る。あるいは、自分よりも遙かに暗い顔をしている友人見てしまったためかも知れない。自分まで落ち込んではいられないぞ、などと自然に気が引き締まる。
「おはよう佐富」
「……ああ」
「お前な、挨拶ぐらい出来ないと良い大人になれないぞ」
無愛想の校内代表である友人は例のごとく至極素っ気ない。暗い顔は何か負の感情に苛まれているとかいうわけではなく、デフォルト、彼の標準だった。幼少時の教育に何かが欠けていたのではないかと勘ぐりたくもなる性格だが、協調性や社会性がないわけではなく、単に愛想がないだけなので皆あまり気にしない。周囲は本人の意志を尊重してあまり彼に関わらないようにしていた。それでも彼はあくまで無表情で、決して寂しそうではなかった。多分、現状が彼にとっての需要と供給の均衡点なのだろう。むしろ馴れ馴れしく話しかけた時の方が不機嫌だった。
そんな友人、佐富達也のおかげで気持ちはいつもの調子に戻ったと思ったが、その判断はホームルーム後の休み時間に早速否定された。
「高橋君、今日なんか落ち込んでない?」
そう指摘したのは隣のクラスの平瀬咲紀だった。彼女は佐富の幼馴染みで、自分とは高校になってからのつき合いだ。
佐富は、彼女にだけは打ち解けた態度を示す。彼を少しでも知る人間なら誰もが驚くが、なんと笑顔も見せる。初めは二人が幼馴染みだからだと思っていたが、最近になってその考えは違うと気が付いた。物心つく前から一緒だったという理由だけではなく、平瀬という人間そのものが彼に心を開かせていると今では踏んでいる。稚拙な表現だが、彼女は優しい。知り合ってすぐにそれがわかった。そんな彼女が、とりわけ佐富には母性愛じみた優しさを向けている。例え佐富がどれほど無愛想でも、彼女を無下にすることは出来ない。
流石に思ったことの一割も半分も口にしない佐富の相手を長年してきただけあって、平瀬はとても察しが良く、よく気が付く。隠していたわけではないが、見破られてしまった、という言葉がしっくりきそうな気持ちがした。
「ああ、ちょっと今日見た夢がね」
悪夢を見た、とは言えなかった。不適切だと思ったからだ。
「良くない夢を見たんだ?」
心配そうに平瀬が訊くが、頷けない。返事に窮していると、佐富が口に挟んだ。
「そんなナイーブな人間だったか?」
平瀬が傍に来ると途端に饒舌になる人見知りの激しい飼い犬のような佐富。そんな比喩を思いつくと、途端に彼が年下の子供のように可愛らしく見えて怒る気もしなかった。自分が平瀬のように彼に影響を与える時が来るだろうか。まるで投資や子育てのように(と言ってもどちらも経験したことがないが)未来を期待して、今は彼と付き合っている。
「なにをニヤニヤしてるんだ」
怪訝そうに佐富が眉を寄せる。
「いやぁ、平瀬がいるとお前はホントによく喋るなあ、と思って」
佐富は口を斜めにして黙った。彼は図星をつかれるといつもこうして黙りこくる。それが不満や不機嫌の現れなのだ。嘘をついて誤魔化したり口汚く相手を罵ったりはしない。根が素直な人間だからだろう。
「マイナスになりたくないから、ゼロを選んじゃうのよ、達也は」
以前平瀬がそう言っていた。時間の無駄という言葉がある。自分とのコミュニケーションは時間の無駄になる可能性があるから、佐富は黙るのだ。周囲の人に有意義に生きて欲しくて、無愛想に振る舞う。腹が立った時や不快な時も、相手を傷付けるような言葉を吐かないために押し黙る。不器用な話だった。
ふと見ると、平瀬が愛しい息子を見るような目で二人のやり取りを眺めていた。
結局、その後はいつものように一日が過ぎていった。気が付くと、夜が来るまで夢のことなど忘れてしまっていた。
夕食を食べ、風呂に入ってから階段を上りベランダへ足を運ぶ。
中学の終わりに周囲を海に囲まれた孤島で満天の星空を見てしまって以来、毎晩ベランダに出て星を眺めるのが日課になっていた。進学時に今の高校を選んだのも、天体観測部という希有な部活動があったからだ。
少しだけ厚着をし、子供みたいに膝を抱えて座り込んで夜空を見上げた。望遠鏡を使って星を見ることはあまりしない。一つ一つではなく、全ての星、夜空としての星が好きだった。望遠鏡では視野が狭すぎる。まるでテレビ画面を至近距離で見つめるようなものだ。美しくも何ともないドットだけがそこにはある。星空には、点描画のような芸術性が感じられた。ナイトブルーの空をカンバスとし、そこに乗せられた星全部に意味がある。全部で一つなのだ。とは言えもちろん、星単体ずつの知識も人並み以上に学んでいた。一度、語りすぎて佐富を辟易させたことがある。
夢のことを思い出した。それは夢にしてはあまりにはっきりとした記憶で、不自然なほどだった。一日中夢を覚えていたことなど今までに一度もない。今朝見た夢は自分にとってあまりにもリアルで、もしかしたらあの少女は実在するんじゃないかという無茶な想像すら微かに浮かんだ。空の星は、人間からはあまりに遠いところにいる。手を伸ばしても届かない、歩み寄ろうとしてもまさに天文学的な時間がかかる。例えばあの一つの星と、夢の中の彼女となら、どちらが自分の傍にいるだろうか?
秋も深まり夜風は随分冷たくなっていたけれど、割と寒さには強い体質だった。少し痛いくらいの風は、心地よいと感じる。うっかり朝まで眠ってしまったりしない限りは、風邪を引くこともないだろう。
そう思った途端、猛烈な睡魔に襲われた。腕時計を見ると、まだ信じられないくらい早い時刻だった。昼間なにか疲れることをしただろうかと考えるが、特に何も思いつかない。今日はここまでにしてとにかく室内に入ろうとしたが、体が動かなかった。瞼が強引に降りてくる。意識が遠のく直前、ああ、また彼女に会える、と何故か確信した。
3
あの日。俺が高熱を出して学校を休んだ、あの日だ。
あの日俺は結局、二人にハルのことを話さなかった。
「なんて言うか……。信じられないと思うけどさ……」
そこで言葉を切った俺は、何故か二の句が継げなくなってしまったのだった。その場は仕方なく、何でもないなどと言って茶を濁したが、二人が納得してくれたかどうかはわからなかった。何故、当時の俺が途中で話をやめてしまったのかは、今となっては思い出すことも出来ない。常識と、それに反することによって二人との友情を失ってしまうかも知れないという可能性に恐れをなしたのかも知れなかった。あるいは、ひょっとすると、織茂春などという少女は存在しないと、心の奥底ではわかっていたのかも知れない。なんにせよ、二人は理由を知ることもなく俺の数々の奇行を受け入れてくれていたのだった。その友情と二人の懐の深さには、感謝しなければならなかった。
三月から、俺は学校に戻った。その時も、二人はごくごく自然に俺のことを迎え入れてくれた。二ヶ月以上も欠席し続け遊びほうけていた男を、である。おまけに、二人は休んでいる間分のノートをすべてとっていてくれた。後々のことまで考慮してわざと男っぽく荒い字で書いてくれていた平瀬と、逆に丁寧すぎるくらい綺麗な佐富の字。それらを受け取った時、俺は柄でもなく涙が出そうになった。
あまりの欠席日数の多さに危うく進級不許可なところだったが、先生方の温情により山のような補講をこなすことでなんとか上に進むことが出来た。
織茂という名を俺が再び耳にしたのは、それから一年も経ってからだった。いつかと同じように、それは高橋未来の口から発せられた言葉だった。彼女とは縁があるらしく、進級しても二人は同じクラスだった。
「そういえば、秀輔君。確か去年、織茂さんを紹介するって約束、したよねぇ」
窓にもたれて校庭を眺めながら、思い出したように彼女は言った。思えば、彼女はいつも窓の向こうを眺めている気がする。
「あの時、秀輔君織茂さんに妹がいるか、って訊いたでしょ? その時私、確か可愛い名前の下の子がいたって答えたの、覚えてるかな。あれね、勘違いだったの。確かに織茂さんには下の子がいたけど、それは男女の区別の付きにくい名前の弟さんだったの。だから、多分妹さんはいないと思う。いたとしても、私は聞いたことがない」
彼女のセリフはすべてが今更だった。織茂春などという少女の存在を信じていたかつての俺ならば少なからず驚きもしただろうが、今となっては何の不思議もない。何もかも、ただの偶然だったのだから。
「私ね、秀輔君と約束した後すぐにそれに気付いたの。よく考えてみたら、織茂さんは確かに癖っ毛だけどそれは私が合宿なんかで寝起きの織茂さんを知ってるからわかることであって、いつもはちゃんと癖を直していたから秀輔君がそんなことを知っているはずもないし。だから、きっと秀輔君は人違いをしてるんだろうと思って、ずっと織茂さんにも話さなかった」
俺は既に、彼女の話に興味を無くしていた。愚かだった昔のことを思い出しても、気分が悪いだけだった。
「ところがねぇ、この前織茂さんにあった時、適当に笑い話にしてそのことを話したら、彼女血相変えちゃってねぇ。どうしてもっと早く言わなかったんだって怒っちゃったりして、びっくり」
未来は苦笑する。こっちだってびっくりである。一体、どういう事だろうか。
「それで、これを秀輔君に渡してくれって頼まれてね」
手渡されたのは一枚の小さなメモ書きだった。どうやら俺は呼び出されたらしく、メモには日時と場所が書かれていた。その内容に、俺はびっくりでは済まないほどの衝撃を受ける。何故自分がこんな物を手にしているのか、理解が出来なかった。あり得ない、と心中呟く。
二月二十四日。
場所はあの、東北の小さな町の大きな病院、その中庭だった。
4
何をしているんだろうかという思いはあった。再びここを訪れるとは思ってもみなかった。この場所のはもう、夢の名残以外何もないのだから。
この場所は相も変わらず神々しく、世界中でここだけは時の流れから解放されているのではないかと思えた。あの頃から既に一年もの時の洗礼を受けてしまっていた俺は今度は迷うことなく芝生を踏みしめ中庭を進んだ。細かい指定はされていなかったが、自然と足は桜の木の方へ向かった。
そして俺は、目を疑うほどの景色に出会う。
この時期にもかかわらず、既に満開の桜。
その下に佇む、一人の女性の姿。
少し霞んだ空気の向こう、すべてが幻のようだった。
「……ハル?」
唇が震え、言葉がこぼれ落ちる。
否定などしなくとも、それが間違いであることは承知していた。
一歩一歩、ゆっくりと確かめるように近付いていく。そうすることによって、幻想は拡散し、空気中に溶け、そして二度と手の届かない彼方へ遠ざかる。もう、戻りはしない。
「……貴方が、高橋秀輔?」
そう尋ねる声にも、そしてその顔にも、俺は覚えがあった。
静かな戸惑いが、広がり、深まっていく。
「一度だけ、見たことがあるわね。あれは高校の駐輪場だったかしら」
眉を寄せる彼女は、確かに夢の中で見た織茂春の姉と同一人物だった。けれど黒のレディーススーツを纏ったその姿は俺が知るよりも遙かに大人びていて、さらに髪は短く癖もなかった。
一瞬鋭い痛みが走り、自分が頬を張られたのだと認識するまでには数秒がかかった。
混乱の波紋が、じわり、じわりと俺を浸食していく。
「……ごめんなさい。こうでもしないと、冷静に話せる自信がないの」
「貴女は……」
「ハルの姉よ、未来さんから聞いているでしょう。それに、貴方が本当に高橋秀輔なら顔を見たことが何度もあるはずよね」
感情を押し殺した声でそう言うと、彼女は背を向けてはらはらと泣く桜を見上げた。
「貴方、今日が何の日だか、知っている?」
そのままの体勢で彼女は訊いた。
今日は、一年前にここを訪れたのとまったく同じ日だ。だからこそ、信じられなかった。場所も、時間も、すべてがあの時と同じだったのだ。何もかもがただの夢、そして偶然に過ぎなかったとすれば、何故彼女はそれを知っている? 彼女は本当に、あのハルの姉なのだろうか。どうして彼女は、当たり前のように俺と言葉を交わす? 一年前に過ごしたあの日々は、夢だったのか、それともやはり現実のことだったのだろうか?
夢と現実との境界は、一体どこにある?
「今日はあの子の……、ハルの誕生日よ」
俺が黙りこくっていると、返事も待たずに彼女は自ら答えを告げた。振り向いた顔にはそんなことも知らないのかと書かれていた。そんなことも知らなかった俺は、そう言えばそういう当たり前の情報交換はむしろ少なかったなと、再び織茂春という少女の存在を信じ始めていた。けれど、それでは説明の付かないことが多すぎる。そして、手放しで信じ直せるほど、かつて受けた傷は浅くない。
風が吹く。
柔らかな香りを伴い、桜色のカーテンが目の前の女性を隠してしまおうとする。
口惜しそうに、彼女は言った。
「そう、今日はあの子の誕生日。……同時に、今日はあの子の命日よ」
「……え?」
思考が止まる。
呼吸も止まった。
軽い目眩がして、血の流れる音が聞こえた。
ぐらりと体が揺らいで、胸元から彼女の方へ引き寄せられる。
「そのとぼけた顔は何? 信じられないとでも、言うつもり?」
目の前に迫った瞳は、血走っているのか、涙ぐんでいるのか、上手く区別が付かなかった。
「貴方のせいでしょ? 貴方がハルを殺したんじゃないっ!」
彼女の叫び声は周りの病棟に反響し、しばし責めるように俺を包んだ。引きずられるようにして桜の裏手側に回らされた俺は、力任せに突き飛ばされて地面に倒れる。跪くような体勢になった俺の鼻先には、一つの小さな墓石があった。丁度木の陰になって正面からは見えなかった位置だ。
織茂春。
墓石には、そう、刻まれていた。
とくり、と、
一度だけ、心臓が大きく跳ねた。
それを境にして、まるで空の裏側のように、まるで宇宙の片隅のように、俺の心は静まりかえった。
おもちゃ箱をひっくり返したみたいに、頭の中に沢山の場面が展開する。その中の幾つかは、選りすぐって集めると一つの物を形作ることが出来た。
消えた繋がり。
聞こえなくなった声。
現れなかった少女。
そして、石に刻まれた少女の名前。
「一年前の今日、ですか……」
一年前の今日、ハルはここに現れなかった。現れることが、出来なかったからだ。賭の勝敗を知ることもなく、彼女はこの世を去った。だから、声も聞こえなかった。だから、俺は夢をみなくなった。
いや。
しかし、それでは説明が付かないこともある。
織茂春という入院患者はいない、とあの日受付の女性は言った。それはどう説明する?
まだだ、まだ認められない。
一度組み上げた形は、バランスを崩してあえなく瓦解した。
「……貴方何を言っているの?」
眉を寄せ、理解出来ないものを見る目で彼女は俺を見下ろした。
「ハルが死んだのは、三年前よ」
5
「あの子が貴方のことを話したのは、三年前の昨日の夜だった。母も、当時高一だった私も、その頃は毎日片時も離れずにあの子に付き添っていたわ。もう、別れの時が近かったから」
彼女は俺の隣にしゃがみ込み、その白い指でそっと、石に彫り込まれた文字をなぞった。先程までとは違う、弦楽器のような悲壮な声だった。
「高橋秀輔という名の男の子と、私は夢で繋がっている。私の夢が彼にとっての現実で、彼の夢は私にとっての現実なんだ。消え入りそうなか細い声で、あの子はそう説明した。正直言って、そんな話は到底信じられなかったわ。夢が繋がるなんて事はあり得ないと思ったし、高橋秀輔なんて男はいないと思った。ハルの頭は、どうかしちゃったんだって、私は思った。母も、病院の人達も、きっとそう。……でも、そんなことは言えなかった」
しばらく同じ場所を行ったり来たりしていた彼女の指もやがて止まり、ただ桃色の花びらばかりが視界を通り過ぎていく。
「眠らなくなる薬をうって欲しいって、あの子は言ったわ。明日、中庭の桜の前で高橋秀輔と待ち合わせをしているから、起きていなくちゃいけないんだって。当然、みんなとめた。あの子はもう、そんなことが出来る体じゃなかったの。……だけど結局は、あの子の望むままにしてやることになった。あの子は、最後の時まで貴方を待っていた。けれど、貴方は現れず、あの子は一人で死んでいったわ」
ひんやりとした手が頬に添えられ、俺の顔は彼女の方へ向けられる。気の強そうな瞳には、もう、涙以外何も映ってはいないだろう。
「たった一日でも病室を離れたら死んでしまうって、それをわかっていてそれでもあの子は待っていたのよ。……最後の、願いだった。一生のお願いだって、それさえ叶えばもう十分だって、そう言ってあの子私たちに泣いて頼んだの。本当はやめさせたかった。むざむざ命を捨てさせるようなマネ、したくなかった。途中で何度も連れ戻そうとしたわ。だけどあの子は、貴方は絶対に来るって言ってきかなかった。――来るはずがないって、私たちにはわかってた。だってそんな相手が存在するはず無いんだから」
とん、と小さな音をたて、彼女の拳が弱々しく俺の胸を打つ。声も、体も、震えていた。
「……辛かった。叶うはずのない願いに最後の命をすり減らしていくあの子のこと、私たちがどんな気持ちで見ていたかわかる? あの子が死んでから、申し訳なさで気が狂いそうになったわ。あんな馬鹿なマネ、どうしてやめさせなかったんだろうって。自分たちはあの子を無駄死にさせたんだって……。まさか本当に高橋秀輔なんて男が存在するだなんて思わなかった。ずっと、あの子は死の淵でおかしくなってしまったんだと決めつけていたのに。ねぇ、どうして来てくれなかったの? あの子、信じてたのよ。信じて信じて、本当に心の底から信じて、命まで懸けて貴方のこと待ってたのよ。ねぇどうして? どうして裏切ったの? どうしてあの子を死なせたの? ねぇどうして?」
涙ながらに問い質す彼女の瞳を直視することすら今の俺には出来なかった。
自分とハルが辿った、あまりにも残酷な運命。
その真相を、理解してしまったからだ。
6
去年島の別荘に行った日のことを、俺は思いだしていた。あの時ハルの起床に合わせて昼過ぎには眠りについた俺は、しかし自分の目覚めはハルに左右されることなくかなりの長時間眠り続けた。そういうケースは、あまり多くなかった。
二人の繋がりには、一つだけルールがあった。それは、起床睡眠のタイミングはすべてハルが主導だということだ。ハルが起きるタイミングに俺は強引に眠りにつかされ、ハルが眠ると同時に俺は目を覚ましていた。そうすることによって、常に自然と夢と現実の一対のペアが維持されていたのだ。どちらかが目覚めている時は、必ずもう片方がそれを夢としてみていた。
しかし、そのルールにも例外が二つだけあったことに俺は気付いた。それは、ハルが発作の苦痛により気絶してしまった時と、俺が自らの意志で夢みることをやめてしまった時である。前者の場合は、ハルは眠っているのではなく気絶している状態で、俺は彼女の現実から追い出され普通に眠っている状態。後者の場合、ハルは俺の夢としてではない現実を過ごし、俺は夢をみない純粋な睡眠をとる。その二つのタイミングだけは、どちらも夢をみていないのである。しかし二人の繋がりは、あくまで夢を主としての繋がりだった。つまりこの例外時だけは、二人の間に何の繋がりも存在しなかったのである。
おそらくハルは、俺よりも先にこの仕組みに気が付いていたのだろう。そしてそれを利用して、逢瀬を成し遂げようとした。
具体的にはこうだ。まず、夜に自分の中から俺を出て行かせ二人の間の繋がりを消し、影響力の関係を無くす。そこで自分に睡眠を妨げる薬を投与し、夢をみなくする。そうすることによって、いつもはハルが俺の起床以前に夢をみる体制を整えることで自然と帳尻が合っていた夢と現の関係が崩れ、二人は完全に別々になる。朝になって俺が目覚めれば、晴れて二人は同時に起きて行動し中庭で逢うことも可能になる、というわけだ。賭だとか願いだとかは、冗談だったということである。
ハルの計画は成功し、見事二人は同じ場所に立つことが出来るようになった。
けれど、二人が出会うことは決してなかった。
二人の繋がりが、運命が、それだけは許さなかったのだ。ただ、それだけは。
二人の夢が越えたのは、空間や体だけではなかったのである。
「……二年の時を、越えた」
本当に、俺はあまりにも、この場所に辿り着くのが遅すぎた。
「……え?」
自分の頬が熱く濡れていることは先程から理解していたが、それが涙だと気付くには少し時間がかかった。胸が痛くなり、息が苦しくなり、やりきれなさばかりが果てしなく降り積もっていく。
「嘘よ。……そんなの、酷すぎる」
同じ答えに行き着いてしまったのだろう。隣から死んだような呟きが聞こえた。けれどそんなものはすぐに遠ざかり、意識は過去に飛び、懐かしい、愛しい声ばかりが蘇ってきた。
『消えないでっ』
『じゃあ、平瀬さん私のライバル』
『あぁ、もお。困った心の同居人さん……っ』
『シュウ。私にとっては、シュウが……』
『心を理屈についてこさせるっていうのが、一番難しくて辛いと思うよ』
『死んじゃってるなんて、信じられないよね。こんなに綺麗に輝いてるのに』
『お涙頂戴のこんなありがちなシナリオ、嫌だよ。格好悪くても良いから、生きていたい』
『強い子でしょ、私。褒めて、褒めて』
『私が奥さんだったら、やだな』
『私、シュウに逢いたい』
『シュウ……。私、信じてるから』
涙は後から後から溢れ出し、枯れるということを知らなかった。
「……ハル」
時の止まったような空間にしばし二人の泣き声だけが響き、それを見守る満開の桜はあたかも貰い泣きするようにいつまでもほろりほろりと花びらを零し続けた。
7
十年が過ぎてもこの場所は相変わらず神聖な雰囲気を保っていて、もうここまで来ると例え年に一度のことでも訪れた時の感想は久しぶりを通り越して懐かしいに近い。穏やかな空気も今までと同じで、ただ自分ばかりが年老い変わっていく。来る途中に、妻には毎年ここにやって来る理由を白状していた。
「綺麗」
妻は素直に感嘆した。彼女がいつも纏っている柔らかな雰囲気にはどこかこの場所と似通った物があった。今年も、二月にして早ここの桜は満開だ。
桜の下には、既に先客がいるようだった。ゆっくりと木の裏側に回り、言葉をかける。
「早いですね。お姉さん」
「妻子持ちの男にお義姉さんだなんて呼ばれる筋合いはないわ」
いつものように棘のある声で突っぱね、彼女はこちらに見向きもせずに墓石の前で手を合わせ続けた。そんな彼女を見て、妻が不思議そうに呟く。
「あれ、織茂さん?」
「あら。この人の奥さんって、貴女だったのね」
ちらりと妻に視線を向けた織茂は驚いた声をあげた。どうやら俺の知らないところで二人の間に面識があったらしい。少し畏まって、深々と頭を下げる妻。
「……高橋の妻です」
「そういうのは、やめてあげて。この子の前では」
切なげな表情をする織茂。
「佐富君は、今はまだアメリカ?」
尋ねられると、妻は俯き黙ってしまった。色々複雑みたいね、と織茂は深くは追求しようとしなかった。
そう、確かに、俺達三人の間には色々あった。今だって、きっと何も解決はしていない。けれど、彼女の言うようにこの場所でだけはそのことについて考えたくなかった。
織茂とは入れ替わりに石の前に跪き、持ってきた花を供え、手を合わせる。しばらく無言でそうしていると、背後から女性二人のやりとりが聞こえてきた。
「ここの桜はね、病院の院長先生が趣味で研究して品種改良した桜で、もの凄く早咲きなの。余程条件が悪くない限り、毎年この時期には大体満開よ」
彼女の言葉通り、俺が二月二十四日にこの場所を訪れて桜がまだ蕾だったことはただの一度しかない。そう、ただの一度きりしか。
「最近って、医療が発達して、延命技術もかなり進歩したじゃない。死ぬ前に桜が見たいって思ったら、騙し騙しにでもどうにか春まで生き延びるわ、今だったら。だけど昔は違った。延命技術なんて無い大昔は、必死になって桜の方を早く咲かせようとしたのよ。周りの人が神様にお祈りしたりしてね。そういう医学とは対極の気持ちが込められているんだって、この早咲きの桜には」
五分ほど経ちようやく目を開け立ち上がると、妻たちはただぼうっと桜を見上げていた。風が吹き、花びらが舞う。その中の一枚が、差し出された妻の掌の中にそっと収まった。彼女は優しく手を握り、大事そうにそれを胸に抱く。
「桜の花びらを捕まえられたら、願い事が叶う」
妻が呟いた。
「誰に聞いたの? それ」
俺は尋ねた。
「私が自分で考えたの、ずーっと昔、小学生くらいの頃に。それ以来いろんな人に教えてきたんだけど、中には本当に願いが叶った人もいると思う。その人はきっと、この迷信を信じてる。――迷信で願いなんて叶いやしないって、心の底ではみんな知ってるけど、願いは信じること自体に救いがあるんじゃないかな?」
そう言って、妻はふわりと微笑んだ。彼女の言葉に、俺は目眩にも似た、頭を後ろに引っ張られるような感覚を覚える。
「お姉さん。最近また髪が長くなりましたね」
「本当はね、もともと長い方が好きなのよ。十代の頃も、ハルが死んじゃうくらいのショックを受けない限りは絶対に切らない、とか言っていてね」
結局、本当に死んだら切っちゃったんだけど、と彼女は自嘲気味に笑った。そうですか、と俺も笑った。もう、胸が痛くなったりするほど二人とも若くはなかった。時がだんだんと俺達を癒し、そして確実に、時が二人からハルを奪っていく。その抗いがたい流れにそれでもどうにか逆らいたくて、俺は今でもこの場所を訪れる。悲しいくらいに時の流れが穏やかな、この場所に。
ここに来れば、ひょっとするとまだ何かを見つけることが出来るかも知れない。つい見落としてしまっていた、ハルという少女に関わる何かが、桜色の絨毯に隠れてどこかに落ちているかも知れない。そんな思いを抱いて、俺は毎年この中庭へ足を運ぶ。
そして今、織茂の言葉に、俺はハルの最後の想いを見つけた気がした。
高校時代に一度、駐輪場で俺と会ったことがある。と確か織茂は言っていた。
『この中には今はもう死んでしまっている星もあるかも知れないんだね』
『私ね、考えたんだ。……どうしたら、ハッピィエンドを迎えられるんだろう、って』
つまりは、そういうことなのだろう。
それが、彼女の意志だった。彼女の選んだ最後だったのだ。
一体どんな気持ちで、彼女はこの桜を見上げていたのだろう。
かつての俺は、「必ず行く」とハルに告げた。その言葉は彼女にとってどんな意味があったのだろうか。彼女に救いはあったのだろうか。
俺は、彼女の想いにほんの少しでも応えられたのだろうか。
裏切ることしかできない約束など、交わすべきではなかったのだろうか。
どの問いに対する答えも、今の俺には知る由もない。
彼女はもう、いないのだ。
今更どれほど望んでも、俺はもう彼女になにも与えてやれない。
彼女の声を聴くことも出来ない。
二人の繋がりは、途切れてしまった。
もう、何年も前に。
「貴方、いつもそれよね」
俺が供えた花を指さし織茂は苦笑する。
「浅ましいですか」
「貴方らしいんじゃない? 二月二十四日の誕生花でしょ、それ。クロッカス。花言葉は、私を信じて」
けれど、最近になっても俺は、時々変わった夢を見る。
少女になる夢だ。
少女になった俺は桜の木をスケッチしている。その木の下にはいつも、一人の女の子の姿があった。色の白い、儚げな女の子だ。
彼女の傍らには、長髪を後ろで纏めた少年が静かに佇んでいる。
風が吹くたび二人の髪が揺れ、花びらが優しく舞った。
確かに、俺とハルとの繋がりは失われてしまった。もう、彼女との日々は戻らない。
けれど。
けれど、二人は今も。
夢の中で二人は今でも、はらりはらりと桃色の涙を零す桜の下で幸せそうに微笑みあっている。
(終)
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2009/09/24(Thu)20:14:32 公開 / 雨竜椿風・千鞍
■この作品の著作権は雨竜椿風・千鞍さんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
おもしろかったでしょうか。
感想、お待ちしております。
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。