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『蒼い髪 第11話』 ... ジャンル:ファンタジー 未分類
作者:土塔 美和
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壮大な送別会が済むと、二人のボイ人はいよいよルカ王子を迎え入れる準備のため、仲間の宿泊しているホテルへと戻って行った。
そして二日後、ルカはナンシー一世一代の礼服に身を任せた。
今回の式服の全ては、ナンシーがルカに仕える最後の思いを込めたものだ。自分が今まで磨いてきたセンスの全てを出し切った。
「やはり殿下はモスグリーンがお似合いですね」
紅い髪がよくはえる。襟や袖口をかざる金モール。肩から胸にかけての刺繍は、派手すぎず地味すぎず。本来腰には陛下から拝領の剣を差すのだが、まだ殿下には長すぎる。代わりに小剣をと思ったのだが、殿下はいつもの様に笛を差した。それが不思議と様になるので、これでもよいかと言うことになった。代わりに拝領の剣は背後で控えているリンネルが持つことになった。
正装したルカが皆の前に現れる。
侍女たちはそれをうっとりした顔で眺めた。
「やっぱり、王子様の中では殿下が一番きれいだ」
侍女たちは王宮に行ったことはない。よって王子と呼ばれる人たちと会ったこともない。せいぜい何かの機会にスクリーンで見るのが関の山。
「でも、ジェラルド様もなかなかでしたわ」
そう言えば一度だけ、王子と呼ばれている者が遊びに来たことがある。
「駄目よ彼は、こっちが」と、一人の侍女が自分の頭を指した。
「そうね、容姿じゃ殿下に引けをとらないけど」
「あと十年たてば」
「ハルガンはもとより、ハルメンス公爵だって太刀打ちできないわ」
ハルガンのいる前で堂々と言う。ボイまで同行することになっている守衛たちは全員、軍服だった。肩章には軍旗である白竜の紋章。これはこれで様になり、いつもの守衛とは段違い、男前なのだが、やはりルカの凛々しさにはかなわない。
「ほんと。ご成人なされた殿下の姿を、人目見たかったわ」
侍女たちは思い思いのことを口にする。
「遊びに来てください。その頃までには片道ぐらいのお金は溜まるでしょうから」
「あっ、そうよね。十年もあれば、どうにかなるかも」
「私もその頃にはすっかりボイ人らしくなっていると思います」
侍女たちは何を勘違いしたのか手足や首がボイ人のように長くなったルカを想像した。
えっ、首が長くなっては。
環境が違うと、そうなる可能性もあるのだろうか。いや、それでは困る。なんじゃないかんじゃない言っても、ネルガル人にはネルガル人の姿が一番見慣れているせいか、この宇宙でこの体系の比率が一番美しいと思っているし、他の宇宙人もネルガル人の姿が一番美しいと思っていると思っていた。まったく自分勝手な感想だ。だが人は得てしてそう思いたがるものだ。
ルカは生活習慣のことを言ったつもりなのだが、侍女たちの答えは、
「あまりボイ人らしくならないで下さい」と言うものだった。
「殿下、お車のご用意が」
ボイへの供をできない守衛たちは、これが最後とばかりに任務に専念している。
「そろそろお時間です」と、リンネルが背後から声をかける。
身の回りの品や軍旗は既にきれいにたたまれ、前日には船に積み込まれている。和平が決裂しこの軍旗に簀巻きにされて戻ってこなければよいがと、誰もが思っていた。会えないのは寂しい、だが向こうの星で王女と末永く幸せになって欲しい。和平が、ネルガルの方から断ち切られることを、今ルカを送り出す者たちは誰も知らない。
ルカは今まで世話してくれた館の人々に向かい、深々と頭を下げた。
「では、行って参ります。と言うのもおかしいですか」
そう、もう戻ることはないのだから。
「それでいいんじゃないの。他にどういう挨拶があるの?」
「さようなら。じゃあまりにも寂しすぎるもの」
「そうよね」
「いろいろお世話になりました」と、ルカはもう一度丁寧に頭を下げた。
「お幸せにね」
「お金が溜まったら、ぜったい遊びに行くから」
「ええ、お待ちしてます。その時までには、ボイ星をガイドなしで案内できるようにしておきます。では」と、ルカは皆に背を向けた。
涙は禁止と言われていても、鼻をすする音がしだいに増えていく。
ルカはその音を聞かないように足早に車に乗り込んだ。
ルカが車の中からもう一度皆に頭を下げると、上げる頃には車はなめらかに滑り出していた。
侍女たちが最後の別れを惜しんで後を追う。
「スピードをあげてもらえませんか」
別れはあそこまでと言っておいたのに。ルカの目も潤んでいた。
「着きました」
鷲宮のロビー。そこには既に宮内部を始め、外務、内務、国防の役人が出迎えていた。
「こちらです」と、ある広間に通された。
そこには数名の貴族がいた。年の頃なら十代後半。一番年かさでも二十五前後のようだ。ルカに随行する公達。言うなればルカの遊び相手。ルカの年齢から自ずと十代の者たちが選ばれたようだ。
通された部屋の豪華さもさることながら、その貴族たちのきらびやかな衣装に、ルカに随行してきた守衛たちは驚く。今回は殿下の衣装もかなり派手だと思っていたが、上には上がいるものだと。
王宮の噂は聞いていた。だがこれほど豪華だとは想像だにしなかった。ルカの館の比ではない。銀河のありとあらゆる星の宝石を集めて作ったであろうと思われる装飾品の数々、少しでも傷つけようものならその賠償金額は天文的だ。彼らは芸術性より金銭的な気配りには長けていた。守衛たちの態度は自ずと慎重になった。守衛たちは既に王宮の門を見た時から、場違いなところへ来てしまったとおののき始めていた。俺たち平民が来るようなところではない。やはり先に宇宙港へ行って待機していればよかったと。それを王宮が見たいがために、殿下の護衛だと嘯いて付いて来た。
「こちらがご一緒にボイ星まで行かれる」と、ひとりひとり紹介が始まる。
これと言って感慨はない。だがルカは丁寧にひとりひとりに挨拶をしたが、かえって来る返事はそっけないものだった。
親が蔑視していれば、教えずとも子も同じ態度をとる。
それを見かねた守衛の一人が口を出したのがまずかった。
「お前ら、殿下が丁寧に挨拶しているんだ。他にいい様がねぇーのか」
貴族たちはその言葉使いに驚き、
「何ですか、この下郎は」
まるで汚い珍獣でも見るかのように守衛たちを見た。
「何を間違えてこのような所へ?」
「ここはあなた方のような者が来るところではない、さっさと出て行け」
これには守衛たちも頭に来た。そもそも口より先に手が出る者ばかりだ。
「なっ、なんだとー」
男は怒って腕を捲り上げると拳を振り上げ、その貴族めがけて殴りかかろうとした。それをルカが止めようとするより早く、隣にいた男がはがいじめにし、男の耳元で呟く。
「止めろ、トリス。殿下が言われたことを忘れたのか。黙って立っているなら付いてきてもよいと」
貴族たちは珍しいものでも見るかのようにトリスを眺めると、
「あなたのペットですか」
あの野郎、もう許さねぇー。離せ、ロン。
ロンはもがくトリスを必死で押さえ込む。
「申し訳ありません」と、ルカはその貴族に丁寧に謝った。
「鎖で繋いでおくとよろしいのでは」
「ほんと、二本足で立って歩くだけでも恐れ多いというのに、人語まで喋るとは」
貴族たちは笑う。
「貴様ら」と、トリスはロンの腕を払おうとする。その腕に力を込めてロンはトリスを部屋の隅へと引きずって行く。
やっとトリスを落ち着かせてロンは彼から手を離した。
「俺は、人間だ」と、トリスは小さな声で呟く。
親のいないトリスは、今までにもスラム街でさんざん馬鹿にされて来た。兵士に志願しルカの館へ配属になって、初めて人間らしい扱いを受けた。
「奴等は、貴族以外は人だと思っておらんよ」
一方ルカの方では、ねちねちといびりが始まっていた。
「やはりあなたの体の中に流れている血の半分が、ああいう者たちを呼び寄せるのですね」
「ほんに、獣は鼻がいいですから」
貴族たちは勝ち誇ったように笑う。口元を扇や手で隠してはいるもののその姿は醜い。
ルカは何も抗議せず黙って聞いていた。
それを部屋の隅で見ていたトリスは口惜しく思い、仲間に言う。
「殿下らしくもない。あんなこと言われたらいつもの殿下なら」
「トリス、よせ。そもそも、お前が原因だろう」
「そうだよ、黙っているという約束だったじゃないか」
ルカはルカで心の中で溜め息を吐いた。やっぱり、連れてくるべきではなかったと。
「殿下は知っておられるんだよ、抗議しても無意味なことを。相手が俺たちのように少しでも脳味噌のある獣ならまだしも、繁殖しか脳のないバクテリアじゃ、何言ったって無意味だろう」
そう言ったのは軍医のオリガーだった。下級貴族階級出身、若いが腕はいい。反骨精神旺盛なのがたたった。彼も上司に睨まれ左遷された口だ。貴族よりも重症の平民を先に治療したのが気に入らなかったようだ。
「繁殖しか脳のないバクテリアか。そりゃいい」と、トリスは大声で笑う。
どことなく仇を取ったような気がした。
しぃー。とネボは人差し指を自分の唇にあてて、静かにするように指示する。
「あまり目立つ行動はするなよ。俺たちの行動は全て殿下に返るんだ。見ろ、また何か嫌味言われているぜ。相手はバクテリアなんだ、寄生されないように気をつけろ。俺たちが殿下の免疫剤にならなくてどうするんだよ」
「わかった、人間だと思うから頭に来るんだ。寄生虫だと思えば」
「見た目は俺たちより派手だがな」
「まあ、派手な毛虫ほど刺されると痛いというからな」
ルカの守衛にかかっては公達すら、バクテリアにされたり寄生虫にされたり毛虫にされたりと大変だ。守衛たちこそ、ほとんど相手を人間扱いしていない。
「他の奴等にもそう伝えておいてくれ。ボイ星で奴等とのもめ事だけは避けたいからな」
それでなくともこれからは、思想も習慣も違うボイ人と付き合わなければならない。郷に入れば郷に従えと殿下は言うが、その郷が俺たちの耐えられる範疇ならよいが。とにかく馬鹿なネルガル人とのもめ事だけでも避けておきたいものだ。
そこへリンネルがやって来た。
「どうした、こんなところへ固まって」
部屋は広い。控えの間とはいえ、ルカの館の謁見の間ぐらいはある。それなのにいつの間にか守衛たちは隅の方に固まっていた。
「へへぇ、ちょっと打ち合わせ」と、守衛の一人が頭を掻く素振りをする。
リンネルはやれやれと思いながらも、
「本来ここは、平民が入れるような場所ではない」
そのぐらい誰しもが知っていた。だからこそ、ルカに付いて来たのだ。ネルガルを経つ前に一度見ておこうと思って。
リンネルの身分ですら王子の侍従武官という役職がなければ立ち入ることが出来ない。ましてこれから入る広間は、武で名をあげても絶対に入れない部屋だと聞いている。
「もう少し、言葉と態度を慎め」
「それは奴等に言ってくれよ、大佐」
リンネルはやれやれという顔をして、
「外で待っているか」
「ここまで来て」
「なら、大人しくしていろ。お前らの振る舞いいかんでは殿下が笑われるのだぞ」
その忠告、既に遅い。
それだけ言い残すとリンネルはルカの方へ戻って行った。
「申し訳ありません、きつく言っておきましたので」と、リンネルは部下が無礼を働いた貴族たちに詫びを入れる。
「あんな者たちと同じ空気を吸っているのかと思うだけでも吐き気がする」
「申し訳ありません。私の館には貴族はあまりおりませんでしたので」
必然的に従者は平民が多くなった。彼らはこの星に残されたところでまともな生活はできない。ならいっそボイへ行って一旗あげようというところだ。
「本当にナオミ夫人は何をお考えだったのでしよう。ご自分が平民だからと、あんな者たちばかりをお傍に置いて、これでは王子のご教育も」
公達の夫人も一緒に見えていた。
母の悪口を言われるのだけは、ルカも耐えがたかった。だが、私の教育はともかくとして、確かに彼女たちが言うことも一理あると思った。何も知らない平民たちに、貴族と対等に渡り合えるだけの教養と礼節を身に付けさせたナンシーやリンネルの苦労は、並大抵のことではなかっただろう。いざという時の守衛たちの規律は見事だし、侍女たちの立ち振る舞いもそこら辺の貴族に劣るものではなかった。
王宮では卑しい身分と蔑まれても、館ではリンネルを始め、自分が思っている以上に皆から大切にされていた。別れて初めて知ったような気がする。
誰もいらない。この者たちがいてくれれば、ボイでもやっていける。
ルカはリンネルを見上げた。
「どうかなさいましたか」
「いや、随分今まで世話になったと思いまして」
「これからですよ。まだ私はあなた様にお仕えして四年ですから」
「そうですね。まだこれからの方が長い。随分苦労をかけることになるかもしれませんね」
リンネルは微かに笑うと、
「これが私の仕事ですから。それにこれは自分で選んだのです。苦労しても殿下のせいではありません」
本当の苦労はこれからだ。殿下のボイ星行きは和平のためではない。布石に過ぎない。言うなれば捨石。少しでもこの方に長く生きていただくように、もし自分の命で代えられるのならそれでもよいとリンネルは思っていた。
その時である。
「さっきから聞いていればてめぇーら」と、聞き覚えのある声。
見ればカロルが今にも公達に殴りかかろうとしている。
こちらは列記とした上流貴族。クリンベルク将軍のご子息。言葉が少しぐらい悪かろうと、態度が暴力的でも公達には何も言うことが出来ない。身分は対等でも役職から言えば彼の父親の方が遥かに上だから。
「坊ちゃん」
リンネルは慌てて止めに入った。
「どうやって、ここへ?」
ルカは落ち着いたものだ。
「ここには子供は入れないと思いましたが」
カロルはまだ元服していない。よってこの部屋には入れないはずなのだが、それはクリンベルク将軍の息子。近衛たちには顔が利くのだろう。
「てめぇーも、子供だろうが」
「でも、私は今日の主役ですから」
こいつと話したところで言葉で敵わないことを知っているカロルは、ルカにくるりと背を向けると、敵う相手、つまり公達に先程の喧嘩の続きを始めた。
「てめぇーらより、こいつの方が身分は上だろうが」と、カロルは自分の肩越しに背後のルカをさして言う。
ルカは苦笑した。
カロルにすれば一生懸命説教しているつもりなのだろうが、おそらく聞かされている方も納得しないだろう。王子をこいつ呼ばわりする者から説教されても。
しかし面白いものだ。悪気のない態度は、どんな振る舞いをされてもかわいく見える。それに対し、悪意に満ちた態度は、どんなに丁寧にされても無礼にしか受け取れない。
「てめぇーらがどんなに逆立ちしたところで、こいつの身分にはなれないんだ」
「確かに私たちの体の中には王族の血は流れておりません。しかし、平民の血も流れておりません」
「そんなに平民の血が」
カロルの言葉を遮るように、
「カロル様もそうでしょ。列記とした貴族の血筋です」
「それが、なんだって言うんだ」
今は貴族と言っているが、数千年前はどこの馬の骨が知れたものではない。
「それこそが大事なのです」
「てめぇーら」
自分のことで沸騰しかけているカロルを見かねて、ルカは言う。
「王族の血と平民の血を足して二で割るわけにはまいりませんか。そうすれば私はあなた方と同じになる」
公達は笑う。
「お聞きになられたでしょう。所詮平民はこのようにしか物事を考えないのです。混じっているということ自体が汚らわしいのに」
カロルは奮い立った。殴りたい衝動を下腹に力を込めどうにか押さえ込む。
お前ら覚えて置けよ、今言った言葉。こいつの平民の血がお前らを追い詰めていくということを。
ルカは爆発寸前のカロルの肩の上にそっと手を置いた。その噴火を抑えるように。
貴族たちは笑ってその場を離れて行く。
やっと落ち着いたカロルは自分を取り戻し、
「お前、あんな奴等と一緒で大丈夫なのか」
ルカのボイ星での生活が心配になる。
「あれでも私の命は大事にしてくれるでしょう。私が病気や事故で死ぬようなことになれば、和平が決裂した時、私の代わりに自分の命を差し出さなければならなくなりますから」
カロルは絶句した。
「私は和平のためにボイ星へ行くのではありませんから。ネルガルの準備が整うまで、ボイ星との戦闘を引き伸ばすために行かされるのです。今ネルガルは三つの星と戦っている。ここへボイ星まで加われば、いくらネルガルの宇宙艦隊が強いといえども限度がある」
だが逆を言えば、今ならネルガルに勝てる好機。だがそれにしては余りにもボイ星の軍事力は貧相すぎた。
「そうだ、そのために親父たちは休みがない」
「後何年でしょうか、今の戦闘が落ち着くのは」
既に一つの星とは決着が付きつつあった。後二つ。
「後五年ぐらいでしょうか」
ルカは自分で問い、自分で答えた。これはケリンたちが情報部から抜き出したデーターを基にルカが計算したものだ。
「それまでにボイ星は国内の産業を育てなければなりません。そしてネルガルに隙を見せないこと。どんな嫌がらせにも耐えて行かなければなりません」
そう言う意味では、ルカの王宮での経験は役に立ちそうだ。ネルガルより軍事力を付けるまでは、とルカは心の中で呟く。
「どれだけボイの国民がそれに耐えられるか、それが私の寿命ですね。でもボイ人はネルガル人より温厚で紳士的ですから」
「どうしてそんなことが解る?」
カロルは怪訝そうにルカを見た。
「先日、二人のボイ人が私の館に泊まって行ったでしょう。私はボイ語を習うというよりも、ボイ人とはどのような人物なのか観察したかったのです。たった二人からボイ人全てを推察するのは危険ですが、ネルガル人より時間の使い方がゆっくりだということは感じました」
「お前、そのためにあの二人を」
「あちらも私の観察をしていたはずです。どう思われたかは解りませんが、出来るだけありのままをお見せしたつもりです」
カロルは呆れたという顔をしながらも、
「五年したら、ボイ星との間に戦争が起きると、お前は考えているのか」
「起こさせません。起こしたら私の寿命はそこで終わりですから」
いくら人のよいボイ人だとしても、耐えられない程の嫌がらせと屈辱を受けては、私に同情するほどの余裕もあるまい。おそらくボイが戦争に突入するときはそういう状況だし、ネルガルはそういう状況を作り出す。
カロルは黙り込んでしまった。
一通りの顔合わせが済むと、いよいよ玉座の間へ通された。重厚な扉が開く。天井は見上げるほど高く、天井からは支配下に置いた惑星で一番美しいと言われている宝石で作られたシャンデリアが、それぞれの星の色合いを出してぶら下がっている。そしてこのシャンデリアは星を一つ隷属させるたびに一つずつ増えていく。今、幾つあるのだろうか。そしてこの中にボイの星で取れた石で作られたシャンデリアが何時の日か。ルカはそこまで想像して軽く首を振った。そうはさせない。
中は少しざわめいていたようだが、ルカたちの姿が見えると静まり返った。ルカを先頭に一団は中へと入って行く。無論守衛たちも最後尾に付いて来た。
この部屋こそ、平民には永久に縁のない所だ。おそらく過去に一度も平民は入ったことがないはずだ。それを殿下に、「私の側近がひとりも居ないと言うのもなんですから、出席してみませんか」と、軽く言われたのが曲者だった。見たいと言う好奇心も手伝い、こちらも軽く返事をしてしまった。後悔先に立たず。
こんなに威圧的なところだとは思わなかった。いや、察しはしていたが。
重量感のある色調でまとめられた部屋の遥か前方中央には、現皇帝陛下のシンボル(これはネルガルの国旗でもある)大鷲の軍旗が掲げられ、その前、壇の中央には重々しいほどの真紅の玉座が置かれてある。その玉座の下まで続く紅い絨毯。その上を今、俺たちは歩っている。
壇上の両サイドには、元服した王子や王女を始め、名だたる貴族が列席していた。軍人もいるが皆爵位を持ち、階級も将官クラスだ。その中にクリンベルク将軍とその長子の姿もあった。大佐で出席しているのはリンネルのみ。尚且つリンネルは貴族でも爵位は持っていない。だがリンネルは王子の侍従武官ということで許されている。では、俺たちは?
「俺たちの来るような所ではなかった」
そして誰でもが思い出したのは、俺たちの仲間で唯一上流貴族と言えば、
「ハルガン曹長」
「そういえば、曹長は何処だ?」
守衛たちはきょろきょろする。
確か王宮の門を入るまでは居たような気がするが。
「レスターもいないぜ」
彼がいないのはいつものことだから気に留めるものはいなかったが、
「曹長だったら今朝早く、花を摘んでいたぜ。花は朝露が消えないうちに摘むのが一番だとかなんとか言って」
「この期に及んで女のところか」
「曹長なら、やりかねない」
「式典、すっぽかしてかよ」
式典も式典、これはルカのために催されたものだ。
誰もが呆れると同時に、唯一頼りにしていた曹長の姿がないことを知り、守衛たちは動揺し始めた。動揺するとそれは態度にも現れる。浮き足立った歩き方は次第に会場の笑いを集め始めていた。
「どうするんだよ」
「ただ、立ってりゃいいんじゃん」
「隣の真似すりゃ」
「隣って、俺たちしかいねぇーだろーが」
彼らが部屋の中央に差し掛かる頃には会場から笑いが漏れた。どうやら今まで我慢していたのがいっきに噴出したようだ。
「軍人らしく、どうどうと歩け」と、レイが叱咤した。
そう言われてもな。そう言えば今まで影うすだったが、こいつも貴族なんだよな。と思い当たるものが現れた。
レイは今までリンネルの副官に徹して、余り目立たない存在だった。だがリンネルが多忙の時は、いつも彼が指揮を取っていた。
「こういう経験も二度と出来るものではなかろう」
「それもそうだ」と、一人が開き直ると、そこは仲間意識の強い連中だ。
「そうだよな、何こそこそしてんだろ俺たち。何も悪いことしてねぇーじゃねぇーか」
だがいつもの癖は恐ろしい。何も悪いことをしていなくとも上官の前に立つと、怒鳴られることばかり気になる。今回の上官は、上官も上官、皇帝陛下だ。
「皇帝陛下ってよ、殿下の親父なんだよな」と、誰かが言う。
「そうだ、親父だ。皇帝陛下だと思うから悪い、殿下の親父だと思えばいい」
開き直れば肝も据わってくる。
上官がなんだ、貴族がなんだ、皇帝は殿下の親父じゃないか。別に声にした訳ではないが、彼らの呟きは直ぐ前をあるっている公達に唸り声か歯軋りのように聞こえたようだ。
「静かに」と、前の公達に忠告された。
部屋の中央よりやや後ろで、守衛たちは待機することになっていた。それから先はルカとリンネル、それに公達。壇上の下で陛下が現れるのを待つ。
待つこと暫し。その間、貴族の間でルカの批評が始まる。
ルカの母は平民の出。上流貴族の出なら自ずと館同士の付き合いもあるのだが、ルカにはそれがなかった。ルカはほとんどを自分の館の中で過ごし、他の貴族にその姿を見せることはあまりなかった。七歳になったルカは一段とその美しさに磨きがかかった。ナンシーの見立てた服は、ルカの紅い髪と翡翠のような瞳を引き立たせ、シミ一つない(胸に一箇所だけ痣があるが)白い肌は、女性が羨むほどに木目が細かい。
「噂には聞いていたが、噂以上だな」
ルカを最初に見たものは誰しも一度はいう台詞だ。
「神の化身だという噂もあるようですな」
「やはり神が宿っているのか、あの美しさは人間離れしている」
「まさか」
そこに前触れがあった。
ルカとリンネルは公達より一歩前に出て、そこへ跪く。それと同時に背後にいた者も跪いた。無論守衛たちもレイに倣った。
会場が静まり、皇帝が側近を従えて現れた。
今まであったさざ波のようなざわめきが一気に消え、広間は厳粛な雰囲気に包まれた。
皇帝が玉座に付くと、皆が立ち上がる。
まず行われたのは階級の授与だった。ボイ星へ婿入りする前に、軍人としての階級を与えておこうというところだ。階級は王族なら少将から始まる。だがこれを平民が授かろうとすれば優に十年はかかる。ルカは七歳で少将となった。これはギルバ帝国始まって以来の最年少の少将だ。既に軍旗を十歳にならずして拝領したルカはその時点で他の貴族から妬まれていた。
小さなルカの胸に、少将であることを示すタグが付けられた。
ルカは一礼して皇帝陛下からの言葉を待った。
ルカは皇帝から父親らしい言葉を一度も掛けてもらったことはなかった。門閥貴族の母を持つ王子なら、ときおり陛下が館に遊びに来ることもあるようだが、ルカの館にはルカが生れたときに一度だけ来ただけだ。確認に来た。何を? 胸の痣をか? 陛下は私のことをどこまで知っておられるのだろう。そんなに私を忌み嫌うのなら、何も母をさらってまで私を産ませることはなかったものを。
「ネルガル人として、恥ずかしくない振る舞いをしろ」
いざ処刑される時は、見苦しく騒ぐなということらしい。
「恥のないように振舞います」
ルカが答えたのもそれだけだった。
皇帝は立ち去る。
ルカは頭を下げてそれを見送る。
その頃ハルガンは花束を持ち、王宮の庭園にいた。
「やっぱりここにいたか」
庭園の一画、一対の洒落た丸テーブルが置いてあるところにクラークスの姿を見つけ近づいて行った。無論そこにはジェラルドも一緒。
やぁ、と挨拶をすると、ハルガンは空いている椅子を引き寄せ、そこに座る。
「いいのか、式に出なくて」
「それは、こちらの台詞でしょう。あの式は、あなたの主のために催されているのですよ」
「死ぬ前に一度その顔を拝んでおきたいってか。物好きな貴族どもが集まっているらしいな。いつもより数が多いとよ」
そう言いながらハルガンは目の前のジェラルドを見る。彼は仕切りと角砂糖のようなクッキーをテーブルの上に並べていた。ところが丸テーブルには縁があり、その縁まで行くとその先に並べようとするので全てテーブルの下に落ちてしまう。それをクラークスが見かねて並べる方向を変えてやると、またそのまま一列に並べ反対側の縁で同じように下に落とし続ける。
「わからんな」
「何がですか」と、クラークスはまたクッキーの方向を変えながらハルガンに訊く。
「そいつだよ」と、ハルガンはジェラルドのことを顎でさす。
「あいつはこいつを随分高く評価しているんだがな」
ハルガンにかかっちゃ、自分の主であるルカ王子も王位第一継承者のジェラルド王子もあいつにこいつ扱いだ。
「ルカ王子がですか」
「ああ、ギルバ帝国を継げるのはこいつしかいないってよ」
何を根拠にルカがそう言うのか、ハルガンには疑問だった。見る限り、
ジェラルドは先程から同じことを繰り返している。もういい加減学べよ。テーブルの端に行って折り返さなければ、下に落ちるのは決まっている。いつからこんなことをやっているんだ。見ればテーブルの下にはかなりのクッキーが落ちていた。
ハルガンはふっと溜め息を漏らすと、別に俺はこいつの馬鹿さ加減を見に来たわけでもない。クラークスに用があって来たんだ。
これから重大なことを話そうと思っていたのに、ジェラルドのこの仕種を見て、話す気も失せかけそうになったが、ここはやはりこいつにしか頼めない。気持ちを入れ替えると、できるだけジェラルドの方は見ないようにして話に入った。
「実は、お前に頼みがあって来た」
「花束を持ってですか」
ハルガンの何時にない真剣さに、クラークスは少しからかいを入れた。
ハルガンはむっとしながらも花束を後ろに置くと、体を乗り出し、
「マジな話だ。奴は二度とネルガルの地は踏まないと思っているようだが、俺は俺の命に代えても奴をここへ戻すつもりだ」
クラークスは驚いたようにハルガンを見る。
「問題はだ。俺も一緒に戻れればよいが、万一、奴だけだったら、悪いが陰ながら奴を見守ってくれないか。特に宮内部の奴等から。ハルメンスは放置しておいてもいい。ハルメンスの扱いは、奴の方が上だからな。だが宮内部は」
まだルカには手ごわすぎるとハルガンは感じていた。
ハルガンはそれだけ言うとニタリとした。ハルガン独特の笑いだ。口は笑っていても目は据わっている。こういう時のハルガンは何を企んでいるか知れたものではない。そしてこれは、長年付き合う親友だからこそ解る。
「ハルガン」
「俺の心配はしないでくれ。軍人になったからには何時かは戦場で散る。どうせ散るなら出来るだけ自分の納得するような散り方をしたい。奴の身代わりなら、それもいいかと思ってな。奴だけは必ず生かしてここへ帰す。だから後を頼む。あれで人の言うことなど訊かんからな。ただ見ててやってくれればいい。奴のことだ、自分で動く」
ボイから帰った奴が、どういう形に動くかは俺も保証できない。出来ることなら俺もそれを見たいものだ。ネルガルに対する復讐なのか、それとも王位争奪戦か。まあどちらにしても、生き抜いて協力したいものだ。
「頼む、もし俺が戻れなかったら、奴のことを」
そう言うとハルガンは、クラークスに代わってジェラルドのクッキーの方向を変えてやる。
「お前はいいな、狂ってしまえば何も悩むことはない」
ジェラルドはクッキーを並べながら、
「ルカは神だから、天しか見ていないんだ。きっと天のおうちへ帰りたいのだろう」
はぁ? と、ハルガンはジェラルドを見る。
「実は私もそう思うことがある。彼が一人で遠くを見詰めている時。最もこの王宮では彼は仲間はずれですから」
ルカと親しく話をするような貴族はいなかった。ルカが一身に門閥貴族の妬みを買うようになってから、他の下級貴族への嫌がらせは減った。
ハルガンはルカのここでの様子は知らない。
「ふと、何処を見ているのかと思う時があるのです。焦点はこの地上にはないような」
「神か、神ならもう少し利口な生き方を選ぶんじゃないのか」
そしてハルガンは落ちても落ちてもそこにクッキーを置こうとするジェラルドを見る。
「何か、奴みたいだな」
髪は紅、瞳はグリーン。母親が違うとは言えルカとジェラルドは兄弟だ。似ていてもおかしくない。
「何がですか」と、クラークスはジェラルドのクッキーの向きを変えてやりながら問う。
「そうやって無駄なことをするところさ。奴なら人に言われたからって素直に並べかえないぜ。落ちても落ちてもやり続ける。その内クッキーの山ができて、そこに一個置けるようになる。と言ってな」
ルカとはそういう人物だ。
ハルガンは腕の携帯を見て立ち出す。
「あまり長居はできない」
「行くのか?」
「ああ、これが最後になるかも知れないからな」
花束を掲げる。
「律儀だな」
「俺は女には優しいんだ。彼女がああなってしまったのには、俺にも責任の一環があるからな。二度とあんな王女も王子も作りたくない。彼女にしてやれなかった分、奴にしてやろうと思っている。守り抜いてみせる、宮内部の手から。私利私欲に走り人を道具としか見ていない奴等の手から」
ハルガンは立ち出すと、花束のなかから三本花をちぎり、ジェラルドの胸ポケットに挿してやる。
「奴が好きな花だそうだ。奴が会いたがっている。お前は何も解らんだろーが、顔だけでも見せてやってくれないか。最後になるかもしれない」
それはジェラルドに言ったのかクラークスに言ったのか。
「じゃ、悪運があったらまた会おう」
式はものの数分、あっさりしたものだった。今思えば、待たされる時間の方が遥かに長かった。
終わって控えの間に戻る。守衛たちが玉座の間から出て最初にした行為は、大きな深呼吸だった。
「なっ、なんでぇー、あれだけかよ」と言うものの、その間呼吸をしていた記憶がない。式がもう少し長かったら窒息死していたかも。
「ああ、あんなものだろう」
「でも父親なんだぜ、もう少し言いようがあるだろう」
「親父の前に、皇帝陛下なんだろー」
緊張から解放された守衛たちの前にルカがやって来た。
「ご苦労様」と、声をかける。
ルカはいつもと変わりない。
「ガキはいいよな。緊張するということを知らない」
リンネルがルカの背後で咳払いをする。
「あれ。私はあなた方こそ、緊張という言葉に縁がないと思っておりましたが」
「わりぃーな。そりゃ思い違いだ。俺たちに縁のねぇー言葉は、敬意と敬語という言葉なんだ。そのデーター、直しておいてくれ」
「これは偉い勘違いをしておりました。申し訳ありません」と言って、ルカは笑う。
それに釣られて守衛たちも笑う。これでやっと普段の調子が戻って来た。
そこへ近づいて来る二人の人影。衣装から遠目にも上流貴族と直ぐにわかる。周りの貴族たちの雰囲気も変わった。仕切りと彼らを気にする。狂っているとはいえ、彼の所作は皆が気にするようだ。
「あっ、ジェラルド」
「王子を付けろ、この馬鹿」と、ジェラルドのことを呼び捨てにした男の頭を別な男が背後から殴る。
「いっ、痛てぇーな」
たった一度だけルカの館に遊びに来た王子だ。だが、誰もが記憶に残していた。
守衛たちは自ずと場所をあけた。
クラークスはさり気なさを装い、式典に出られなかったことを詫びる。
「いいえ、来てくださっただけで」と、ルカは嬉しげに言う。
「結婚、おめでとう」と言う音量の制限のないジェラルドの言葉に、周りにいた貴族たちが笑う。侍従にでもそう言う様に教わったのかと。
「ありがとう御座います、兄上」
「まだ、お時間はあるのでしょ?」
「ええ」
「では、少し庭でも歩きませんか。花籠の作り方を教えていただければ」と、クラークスは誘う。
「ええ、いいですよ」と、ルカとジェラルドたちは庭へと出て行く。
数人の守衛が遠巻きに護衛に付いた。
花の咲いているところへ来るとそこへ座り込み、花を摘み始める。
「兄上には、誰か好きな人、おられるのですか」
そう問われても、ジェラルドは何も答えない。
「実は私には、好きな人がいたのです。その人の前に行くと話もいつものように出来ないし、その方を見ているだけでとても幸せな気分になれるのです。ましてその方に見られていると思うと、胸がドキドキして。こういうのって、初恋っていうのでしょうか」
クラークスはほんのりと笑みを浮かべると、
「そうかもしれませんね。よかったら、お相手のお名前を」
ルカは驚いたようにクラークスを見ると、
「言えませんよ、そんな。カロルさんに知れたら、何いわれるかしれたものではありませんから」
ハルガンとクラークスが互いを意識するように、ルカとカロルも互いを意識しあっていた。
「内緒にしておきますよ。ですから私だけに」
ルカは少しためらった。今まで誰にも打ち明けたことはない。だが心の底にしまっておくには苦しかった。これから別な女性のところへ行かなければならないのだから。
ルカはぐっと二人に顔を近づけると、本当に内緒ですよ。と言って、
「シモン嬢」
思わずクラークスはジェラルドと顔を見合わせてしまった。
かなり性格がきついことで有名な。
「シモン嬢と言われますと、あのクリンベルク将軍のご令嬢?」
ルカは恥ずかしそうに頷く。
「かなりご気性の強い方だと聞き及んでおりますが」
ルカは顔の前でぜんぜんという感じに片手を振ると、
「弟思いの、とても優しい方です。実は将軍の館に遊びに行くと、一目でいいから彼女の姿を見てから帰りたいと、いつも思っておりました。カロルさんには悪いのですが」
カロルがいい出しに使われていると思うと、クラークスはおかしくなりつい笑ってしまった。
ルカは体を乗り出すと、
「そこで頼みがあるのです。もしまだ兄上に好きな人がいないのでしたら、シモン嬢を好きになってはもらえませんか。兄上なら、彼女を大切にしてくださいますから」
これにはクラークスは驚いた。
「ルカ殿下」と、クラークスは諭すように話し出す。
「殿下もご存知の通り、結婚相手は宮内部が決めるのです。我々の一存では。それにいくらジェラルド様が彼女を大切にしたところで幸せにしてやれるとは限りません。この方のところへ嫁ぐということは継承者を生むということなのです。その道具としてしか扱われません。彼女にその覚悟があるでしょうか」
ルカはクラークスを見た。
「一般の貴族に嫁がれた方が、遥かに幸せになれると思います。彼女でしたら引く手数多でしょうから」
誰もがクリンベルク将軍の力を欲している。
「そっ、そうですね」と言うと、ルカは黙り込んでしまった。
そこへカロルの声。
「やっと見つけたぜ」
庭のドーム一杯響き渡るような声。
野戦で号令をかけるにはもってこいの声量。
カロルは勢い良く走り込んでくると、前こごみになり両膝を両手で押さえ呼吸を整えてから、
「よかった、もう船に乗り込んでしまったかと思ったよ」
そう言いながら、また息を整えると、今度ははっきりルカを見て、
「まったく姉貴がぐずぐずしているから。そのくせ言うことが頭に来るぜ。お前先に行って、足止めしておけって。こうきたもんだ」
それでカロルは何処からだか知らないが、ここへ走り込で来たようだ。
「会えなかったら、ただじゃすまないって」
常日頃恐怖を味わされているカロルは、姉の命令だけは絶対だった。
「シモンさん、ここへ?」
ルカの顔が明るくなった。
「ああ。姉貴は子供じゃないから、本当は式典にも列席するつもりだったようだが、お前が変なプレゼントねだるから」
「変な?」
ルカには心当たりがなかった。
私からも記念に何かと訊かれた覚えはあるが。
「縫いぐるみだよ」
ルカは、あっ。と思った。
「お前から縫いぐるみを所望されるとは、予想だにしなかったからな」
本当に意外だった。
「姉貴もさんざん迷っていたぜ。お前がどういうのが好みなのかって、俺に訊くし。だから言ってやったよ、キーボードの縫いぐるみでも買ってやればって」
「そんな、酷いですよ」
「とにかく、お前が何処にも行かないように足止めしておけって言うのが、我が鬼司令官の厳命でな」
そうこう言っている内に、シモン嬢が侍女を従えて現れた。腕には五十センチぐらいの茶色い縫いぐるみ、透明の袋に入れ青いリボンを付けていた。
さんざん悩んでいたようだが、結果的に一番ありきたりな物になってしまったようだ。
「遅くなりまして申し訳ありません。ほんとうはもう少し早く来るつもりでしたのですが、気に入っていただければ」と言って、シモンはルカの視線までしゃがみ込んで縫いぐるみを差し出す。
「有難う御座います。一生の宝とします」
「そんな、おおげさだわ」と言って、シモンはほんのりと頬を赤らめた。
カロルにはまだ大人の心の動きは理解できないようだ。
「まったく、いつもの姉貴らしくない。いつもならぱっと決めちまうのに」
「無理なことを言ってしまいましたか」
ルカは自分の言葉がシモンを悩ませてしまったことを詫びる。
「いいえ」と、シモンは軽く首を横に振ると、
「実はブレスレットでもプレゼントしようと思っていたのです、最新のジャイロ内臓の。父が重宝しておりますので」
「俺が言ったんだよ、そういうのがいいんじゃないかって」と、カロルは自慢げに言う。
本当は自分が欲しいのかも。
「それでしたら、既に将軍より頂いております」
「いつ?」と、カロルは驚いて問う。
親父がこいつと接触する時間はなかったはずだ。
「先日のお詫びの品の中に」
シモンは顔を赤らめた。
「そうか」と、カロルは納得する。
「そうか。ではありません」と、シモンはカロルを叱る。
いきなり姉貴が怒ってきたのを牽制するために、
「だってよ、こいつが生意気なんだよ」
「カロル、立場をわきまえなさい」
シモンのいつもの叱責の声。
カロルは慌てて首を引っ込めた。また、平手が飛んでくるのではないかと警戒しながら。
「ご免なさいね。いつも言い聞かせているのに、最後の最後まで」
「いいえ」と、ルカは首を軽く横に振ると、気まずい空気を消すために今しがた作っていた小さな花籠を差し出す。
「これ、差し上げます。ボイへ行って落ち着きましたら、きちんとしたお礼をいたしますので、それまで」
「いいのよ、お返しなんて」
「でも」と言いつつ、その花籠をシモンの手に渡そうとした時、花籠が小さすぎだ。手と手が触れる。ルカは慌てて手を引っ込めたがそれだけでも嬉しかった。
「すてきね、有難う」
「ボイへ着いたら送ります」
「いいのよ、気にしないで。それよりお体を大切にね」
ルカがさよならを言う前に、シモンは侍女に合図すると立ち上がり去って行った。
ルカは暫しその後ろ姿を見送る。一瞬触れた手と縫いぐるみを思い出に。
ボカンとしているルカに、
「おい、ルカ」と、カロルは声をかけた。
「優しい方ですね」
「どこが。姉貴な、俺の頭をうっぷん晴らしの道具にしか思っていないんだ。お前がいたから殴らなかったものの、いなかったら」
ルカはくるりとカロルの方へ振り向くと、
「それは、カロルが悪いからです」
「はぁ?」
「お姉様の愛の鞭です」
「あのな」と、カロルは言いかけてやめた。姉貴に対するこいつの感覚は、どこかおかしい。
クラークスは可笑しかった、ものは取り様だ。
「ところで、ハルガンは?」
カロルは話題を変えた。こっちの方が肝心。
「女性のところではありませんか。皇帝の顔ならディスプレーを付ければいつでもアップで見られるから、わざわざ見に行くこともないと言っておりましたから」
「言っておりましたからってお前、じゃ、レスターは?」
奴等、二人の姿がない。
「さあ?」と、ルカは首を傾げたが、
「彼のことです。近衛にでも成りすまして式に参列していたのではありませんか。敵を殲滅するには敵の中に入った方が早いと言っておりましたから」
カロルは呆れたような顔をしながらも、
「あのなお前、軍は規律が第一なんだ。そんなかってなことさせておいて、大丈夫なのかよ」
「軍の規律はリンネル大佐の範疇ですから、部外者の私が口を出すことではありません」
「部外者と言うが、お前の親衛隊なんだぞ、奴等は。お前には、いざと言うとき頼りにするのは奴等しかいないんだぞ。しっかり規律を身につけさせておかないと」
一番規律を身につけていない奴に言われたくないと、彼ら二人が聞いていたら思ったことだろう。
ルカがボイへ行ってしまっては、カロルには何もしてやれない。頼りの奴等がこうもばらばらでは。
そこへ守衛のひとりが駆けて来た。
「大佐が、広間でお待ちかねです」
「わかった、今、行く」
そう言うと編み掛けの花籠を小さいながらも作り、ジェラルドに渡した。
「では、兄上。お体をいたわり下さい」
それからカロルを見る。
「俺、広間まで行く」
カロルはルカの後に従った。ジェラルドも付いて来る。
広間ではリンネルが近衛たちと待っていた。
その近衛を見てルカはカロルに耳打ちする。
「リンネルの左、二番目にいる近衛はレスターですよ」
「えっ!」と、カロルは驚く。
「どうしてレスターと解るんだ」
変装した彼は仲間内でもわからない。
「どうしてかな、勘です」
そう言うとルカはリンネルの方へ歩み寄る。
「待たせましたか」
「いいえ」
「まだ少し時間がありますか」
リンネルは時計をチェックすると頷く。
ルカは縫いぐるみをケリンに渡すとジェラルドの方へ近づき、腰に下げている巾着を差し出した。毒を盛られて以来、ナオミがずっとルカに持たせているものだ。中に竜木の葉の粉末が入っている。
「これを。食事を取る前に料理にかけてみてください。耳かき一杯で大丈夫です。危険な食物でしたら粉が溶け出すように色が変わりますので直ぐにわかります。無くなりそうになったら侍女たちに言ってください。直ぐに作ってくれるはずです。侍女たちは大半がクリンベルク家におりますので」
ルカはそう言うとカロルを見た。
カロルは頷く。
「お体を大事に」
「これは、あなたの方が必要なのではありませんか」とクラーラス。
「ボイ人はそんな卑怯なことはしません」
そう言うとカロルの方を見る。
「じゃ」と、ルカが言いかけると、
「さよならは言わない」
ルカは頷く。
「行きますか」と、リンルネへ。
船に乗る前に細かい打ち合わせがあるようだ。
リンネルはレイに後を頼むとルカと供に歩き出す。その周りを護衛するかのように近衛が数人取り囲んだ。実際は、王子の気が変わって逃げるのを防ぐためだ。
「みえみえなんだよ、あの奴ら」
だがその中の一人はレスターだ。ルカがその気になれば。
ルカが去ると広間に空洞が出来てしまったようだ。実際は式典に出席した上流貴族でにぎわっていたのだが。その穴を埋めるかのようにルカの守衛たちが動き出した。なにしろ彼らにとってここは禁断の領域。平民の身分では決してはいることが出来ない。そこに来て、何も大人しくしていることはない。
「ようよう姉ちゃん、いい尻してんな」
いつもの調子で近くにいるご婦人の尻をさっと撫でる。
悲鳴が上がった。それも一箇所ではない。
「色気がねぇーな、もう少し尻振って歩けよ。こういうふうに」と、見本を示す守衛までいる。
そして最悪のケース。一人の紳士が剣をぬいた。
「下郎!」
だが守衛たちは誰もが前線の経験の持ち主。貴族の腰を飾る剣では太刀打ちできなかった。守衛は素手で相手の剣をへし折りおまけにパンチまで食らわせてしまった。貴族は仰向けに倒れこむ。
「なんでぇー、ひも付きか」
守衛は乱れた服を直す素振りをしながら、
「姉ちゃん、こんなチンケな紐より、俺の方がデカイぜ」
そこへ近衛たちが駆けつけて来た。
「何事だ」
「正当防衛だ」
だが平民の言うことより貴族の言うことの方が重要視されるネルガルでは、倒れている貴族が違うと言えばそれまでだ。その貴族と互角にやり合えるのはここではカロルだけ。だがここでカロルが下手なことを言えば、今度はクリンベルク家に災難が降り注ぐ。しかしカロルはじっとしていられなかった。カロルが守衛の弁護に回ろうとした時、ジェラルドが折れた剣を持ち出し振り回し始めた。
「剣だ、剣だ、かっこいいだろー」
「ジェラルド様、危のーございます」
慌てて止めるクラークス。
だがその時には既に遅く、ジェラルドは左手の袖口を切り、そこから血が滲んでいた。
近衛の医者を呼ぶ声。
それでその場の雰囲気は一転してしまった。
血を見たジェラルドは悲鳴を上げ、痛い痛いと泣き出す。
医者が呼ばれ治療が始まる。傷はかすり傷だった。おそらく右手で剣を振り回している間に左手が刃に触れてしまったのだろうということだ。だが事はそれだけでは収まらない。なにしろ怪我した相手の身分が悪い。狂人とはいえ王位継承第一人者だ。周りに他の貴族たちも集まって来た。
「誰だ、この剣の持ち主は」
近衛隊長の叱責する声。
貴族の顔は見る間に青ざめていった。
クラークスが近衛隊長に言う。今日はルカ殿下の門出であり、傷も大したことなかったのですから穏便に済ませて欲しいと。剣を振り回し自分で自分を傷つけたなどと言うことが知れ渡ったら、またジェラルド様が笑いものにされてしまうと。
クラークスは折れた剣を近衛から受け取ると、それをレイに渡した。
レイもこの好機を逃がすような人物ではない。
その剣を貴族の所へ持って行くと同時に、ここで何もなかったことを誓わせた。
私も黙っておりますから、あなたも。
貴族は逃げるようにその場を去って行った。それと同時に、周りの貴族も係わらない方がよいと感じたのか散った。
レイは守衛たちにさっさと宇宙港へ行くように指示する。ここは妓楼ではないと。
守衛たちは大きな溜め息を吐いた。せっかくこれからだというのに、まだ船に乗り込むには時間がある。
「船でおとなしくしてろってか」
カロルは頭にきていた。これからルカを守ってボイへ発つというのに、この様では。
「てめぇーら」
「心配はいりませんぜ、シモンお嬢様にだけは手はだしませんから」
こいつら何、勘違いしてんだ。だがそう言われれば、姉貴も女だ。
「てっ、てめぇーら。姉貴に手を出したら」
守衛たちは一斉に顔の前で手を振った。とんでもないと言わんがごとくに。
「坊ちゃん。俺たちだって馬鹿じゃねぇー。命は欲しい」
カロルはむっとした。それじゃなんかい、俺の姉貴は、モンスターか。
そりゃ、少し手は早いがこいつらに比べりゃ、遥かにか弱い。と俺は思う。いや、実のところそうあって欲しいと思っているのかも知れない。
だいたいこんな愚連隊と比べること自体がおかしいのに、カロルは本気で比べていた。シモンが知ったらどうなることか。
「坊ちゃん、何か勘違いしてねぇーか」
「そりゃ、シモン嬢は少し性格がきついが、あれでいい女だぜ。べっぴんだしよ。俺が貴族ならほっとかねぇーよ」
「じゃ、どういうことだよ、命が欲しいとは」と、カロルはむっとしながら訊く。
「すげぇー紐が付いてんだよ」
「紐?」と、カロルは首を傾げた。カロルには見当も付かない。
シモンは美人だが、性格のきつさゆえ、王宮でも浮いた話がない。
「何だ坊ちゃん、知らなかったのですか。殿下ですよ殿下。ありゃ絶対シモン嬢のこと好きですぜ」
「やっぱ、お前もそう思っていたのか。実は俺も」と、別の守衛が話しに乗ってきた。
「嘘だろー」と言うカロルに。
「だってよ、坊ちゃんの所へ遊びに行くときは大変なんだぜ」
「そうそう」と、別の守衛が相槌のように首を縦に振ると、
「ナンシー嬢なんか呼び付けてよ、おめかししてよ。坊ちゃんと遊ぶだけならそんな必要ないじゃないですか」
「そうだよ。ああ見えて殿下はわりとずぼらで身なりには無頓着な方だから」
「もったいねぇーよな、あれだけの美貌を持ちながら」
「馬鹿だな、きれいだからこそ許されるんだ。俺たちがパジャマのままでいてみろ、それこそナンシー嬢に生ゴミ扱いされるぜ」
「そりゃ、間違いねぇーや。ダストホールに突っ込まれたりして」
守衛たちは自分たちをゴミ呼ばわりして笑っている。
言われれば確かにそうだ。朝起きて、一日中パジャマで過ごす時もある。どうせ夜はパジャマになるのだから、着替えるのがおっくうだ。と言って。特にキーボードの前に座った時など。
「そっ、そうだな。でも人様の館に行くのだから少しは」
めかすだろう。俺だってルカの所へ行くときにはそれなりに。
「でもよ、ハルメンスの所へ行くときなんか、そのまんまだぜ」
「ハルメンスって、あれほど」
カロルは奴には近づくなと忠告しておいた。
言った守衛は慌てて口を手で塞ぐ。
「まあ、もう過ぎたことなんだから、そう怒らないで」
確かに過ぎたことだ。もう誰と付き合っていたかなど関係ない。
「そういう事で、坊ちゃんの所へ遊びに行くのは、シモンお嬢様がお目当てだったんだよ」
「間違いねぇーな」
「下手に手なんか出してみろ、この銀河に住めなくなるぜ。殿下はそこら辺の力のねぇー貴族とは訳が違う。うまく軍部を丸め込み、何処に隠れようと艦隊を差し向けてくるぞな」
「ああ、殿下ならやりかねねぇーな」と、守衛たちは笑う。
「一途なところがあるからな」
「ある意味、そういう形で俺たちも守られてきたんだよ、殿下や奥方様に」
自分に係わった者たちを大切にするという奥方の方針。それはルカにも受け継がれていた。
「どっちが護衛なのかわかりゃしねぇーな」
「俺たちスラム街出身の者はよ、どこへ行っても馬鹿にされて、まともに人間として扱われたこともないんだ。学校も出てねぇーから字も読めねぇーし、馬鹿にされても返す言葉もわかんねぇー」
「初めてなんだよ、人間として扱われたのは。字も教わったし」
「最終的に俺たちが殿下の護衛に残されたのは、身内がいないからなんだ。ネルガルに残っても前線に送り込まれて死ぬ。なら、ボイ星へ行って死んでも同じだろって」
「知らねぇー司令官の功績のために死ぬぐらいなら、殿下の役に立って死んだ方がよっぽどいいからな」
「お前ら」
「殿下のことは任せてくださいよ」
「あの二人を見た限りボイ人は温厚だから、バカな真似はしないと思う」
「もっとも最初から俺たちみたいな気の短い奴を使者には立てないだろうから、そうとうここのいい奴が来たのだろ、選ばれて。尻尾を出さないような奴らが」
守衛たちもボイ人全てが、キネラオやホルヘのような人格だとは思っていない。
「もしボイ人が俺たちが思っているような人種でなかったなら、その時はボイ人皆殺しにしてでも、殿下は連れ帰るから」
こいつら。だがこいつらが戦うのはおそらくボイ人ではないだろう。
彼らはネルガルの内情までは知らない。だが和平が決裂した時の結果は知っていた。
「まあ、殿下は俺たちとここがちがうから」と、守衛の一人が自分の頭を指して言う。
「彼らとうまくやって行くと思うぜ」
おそらくルカならうまくやるだろう。だがネルガルの目的は対等の取引ではない。あくまで主と従の関係だ。
他国を隷属させるには相手の国の内情によって三つの方法があると父は言っていた。その第一は、政治が安定している国、これには傀儡政権を作る。第二は政情不安の国、これには軍部にクーデターを起こさせこちらの思う人物を立てる。第三は旧勢力が絶大な権力を握っている国、それを打倒する解放軍として乗り込む。建前はどれを取ってもきれいだ。だがその真の目的はネルガルによる支配。そしてボイ星は、第一の方法の変型判だ。傀儡政権を作るにはあまりにも指導者がしっかりしすぎていた。そのためルカを婿として送り込み傀儡政権を樹立させる。だがそこにネルガルの計算違いがある。ルカは人の言うなりになるような大人しい人物ではない。
「奴を頼む」
「ああ、任せておけ」
頼もしい言葉だ。ばらばらなようで実際は硬い団結がある、ルカを中心とした。
「じゃ」と言うと、彼らは背を向けて歩き出した。
相変わらずヒューヒューと指笛を吹いては婦人達の気を引きながら。
レイはジェラルドの前に軍人らしく跪くと、
「助けていただきまして、有難う御座います。このご恩は一生忘れません」
ジェラルドはきょとんとした顔でレイを見る。目には先程の涙がまだ滲んでいる。
レイは深々と頭を下げる。
タイミングがよすぎるのです。あの方は狂ってなどおりません。
殿下の言葉が思い出される。あの時ジェラルド様が剣を振り回していなければ。
「アイリッシュ少尉」と、クラークスが声をかけた。
「主が尊敬している方を私も尊敬したに過ぎません」
そう言うとレイは立ち上がり、もう一度二人に頭を下げると踵を返して彼らの後を追った。
ここは皇帝の控え室。
「暫く見ぬまに大きくなったものだ」
月に一度の会食にはルカは欠かさず顔を出していた。だが遠方の末席に座っていたルカはテーブルの花で隠れ、容姿はもとよりその背丈までは計り知れない。
「幾つになった」
「確か、七つに」
「そうか、少し早かったな」とは言うものの、神なら生きて戻って来るだろうと内心思っていた。その時はお前を神と認めてやってもよいか。そこには二度と生きてネルガルの地を踏むことはないという確信めいたものがある。
控え室の様子がモニターに映し出されていた。モニターの中央にルカ。彼を取り囲み守衛たちがなにやら楽しそうに話をしている。
「笑うこともあるのだな」
自分の前では一度も笑ったことのない子だった。
「平民とは、お気がお会いになられるようです」
「所詮、平民の子は平民。幾ら陛下の血をいただいたところで、貴族にはなれないのです」
皇帝はモニターを消した。
ルカはリンネルと供に宇宙港へ向かう王族専用のシャトルの発着港へ来た。既に守衛たちを乗せたシャトルは発車したとみえ、このゲートのシャトルはルカを乗せる豪華なシャトルが一台だけとなっている。そこにケリンとレスター、そりにカロルが待機していた。
ここが一番話しが出来る、やっと二人きりで。宇宙港へ行ってしまったら、あそこは式典の延長線のようなものだ。ルカを送り出す関係者でごったがいしている。
カロルは時間を少し割いてもらい、ルカと二人きりになった。
「おめでとうと言うべきだったのだろうな、その階級」
「これか」と、ルカは胸のタッグを摘み上げ、
「欲しければくれてやろうと言いたいところですが、無理ですね。私にはその権限はない。まあ、頑張れよとしか言えないな。私は血のおかげでいきなり少将だけど、あなたは違いますから」
「そうだな、お前に追いつくように努力する」
士官学校を出てもよくて准尉だろう。
ルカは微かに苦笑した。
人殺しに専念すれば階級が上がる。これが軍人の世界だ。カロル、お前にはそうなってもらいたくないのだが軍人の道を歩む以上、この言葉は口にはできない。せめて殺されていく者たちの苦悩も、少しは理解してやって欲しい。誰も好きで戦いに身を投じるものはいない。そこには何がしかの理由がある。自分の魂の生存をかけた。
「じゃ」と言って、今度こそシャトルへ乗り込もうとする。
「それだけか」と、カロル。
永遠の別れになるかも知れないのに、あまりにもさっぱりし過ぎている。
「他に挨拶のしようもないしね」と、ルカは視線を宙に漂わせると、思い出したかのようにカロルを見、
「今度、あなたが学校をさぼっても、殴る人はいませんから、安心してさぼってください」
「ああ、そうだな。だがさぼる口実も作れなくなった、お前がいなくちゃな。お前が病気だなどと言えば、姉貴などけっこう心配してよ、俺が学校さぼっても多めに見てくれたぜ、お前のところへ見舞いに行くなら」
見舞いに行くのを口実に、カロルはときおりつまらない授業の時は抜け出していたようだ。だがルカの館へ遊びに行くのは月に二回と決められていた。それ以外の時に行けば、どんなに門を叩いても、塀を乗り越えても、守衛に見つかり摘み出されたものだ。そこら辺はルカは徹底していた。一度決めると曲げないようだ。
発車合図のブザーが鳴り始める。
カロルはルカに駆け寄ると、ルカの手を握った。自分よりはるかに小さい手。まだこいつは七つなんだ。
「元気でな」
ルカは頷く。
「カロル様」と、近衛にシャトルから離れるように促された。
ケリンは先程の縫いぐるみをルカに手渡すと、ルカを促すようにシャトルに乗り込む。続いてリンネル、レスターが乗り込む。
シャトルのハッチが静かに閉まり、そのままシャトルはネルガルの軌道上にある宇宙港へと向かう。
「危険ですので待合室の方へ」
カロルは近衛に付き添われシャトルから離れる。
シャトルは静かに上昇を開始した。
見送りはここまでだ。これ以上は。宇宙港まで行こうと思っていた。だが。
涙が頬を伝わる。
シャトルの巻き上げる風が髪を乱し、うまい具合に目元を隠した。
戻って来い、生きて。
宇宙港では既にボイ星行きの船は準備が整っていた。
婿入りの船団は、水先案内としてボイ星の船が三隻、花婿と従者を乗せる船が一隻、婿入り道具と儀式を執り行うための官僚や役人たちを乗せる船が二隻、それとそれらの護衛の船が五隻、これらは足の速い巡洋艦が三隻に戦艦が二隻という内訳になっていた。
ルカに同行する者は、守衛たちがリンネル以下二十五名。ルカは極力守衛の人数を絞った。前途ある者たちを一部の金の亡者たちの犠牲にしたくなかったから。とは言え、ネルガルに置いていっても結果は同じなのだろう。出来るだけ軍人ではない道を歩んで欲しいのだが。
それとルカのボイ星での建前は遊び相手、本音はルカの監視役として、先程皇帝陛下の前に跪いた貴族が七名。それぞれに十名以上の身の回りの世話をする従者を従えている。
かなりの人数だ。これだけの者を食わせるのではボイの王家も大変だろうと、ルカは思った。まして彼らが質素な生活を送って来た者ならよいが。
まずはそこら辺からもめ出すのは必定。
挨拶もつかの間、ルカと従者たちは婚礼用の船に案内された。白一色に統一された全長五百メートルの葉巻型のこの船は、軍艦ではない。だが身を守るための最新鋭の兵器は備えられている。そして内装は豪華絢爛、まるで鷲宮をそのまま宇宙船に組み入れたようだ。
既にこの船で過去数名の王族の血を引く者が嫁いでいる。その内の数名は死体で戻り、中には遺体すら返してもらえない者もいた。また他の数名は廃人や狂人と化した。つい最近ではルカの異母姉であるグレナ王女も、先方で余程の恐怖を味わったと見え、美しい朱色の髪は色が抜け真っ白になって戻られたと聞く。だが中にはうまくやっている者もいた、その星の上層部と手を組。一部の上層部の権益を守る代わりにネルガルに服従させる。よってネルガルと手を組んだ者は潤うが、その星の住民は酷い生活を強いられる。何故、上層部の者は自分の利益のみを考え同星の人々の生活を考えないのだろうか。最も考えるようならネルガルのやり方に反対しそこで反乱が起こる。嫁いでいった王子や王女がまず無事にネルガルに送り返されることはまれだろう。
船の前では艦長を始め船員が全員整列して出迎えていた。
ルカは宮内部や外務、内務の官僚や閣僚、事務官に付き添われ、船まで続く紅い絨毯へと導かれる。
これでネルガルともお別れだ。そう思ってルカが一歩踏み出そうとした時、一人の守衛がルカの肩を押さえ耳元で囁く。
「殿下、俺たちこう見えても、あのぐらいの船なら操縦できるんですぜ。殿下さえその気になれば、俺たちいつでもあの船を乗っ取って反転してみせますぜ」
リンネルが咳払いをする。
ルカは船の方を見たまま、「頼もしいですね」と一言添えた。
そして思い切り踏み出す。シモンからもらった縫いぐるみをぎゅっと抱きしめて、もう後には戻れないことを覚悟で。
その後に公達や従者が続いた。
見送りの者たちが遠巻きに手を振る。彼らもそれに答えながら手を振って歩む。
「奴等はどこまでこの婚礼を理解しているのだろうか」と、ケリン。
「どんなことがあっても、自分たちの命は大丈夫だと思っているから安心していられるのさ」
いざ和平が決裂すれば主も従者もない。ネルガル人は全て敵だと思われることを、戦場の経験のない者は知らない。
「奴等、本気で殿下の首だけを持ってネルガルへ帰れると思っているのかな」
「本気で思っていなければ、従者にはなるまい」と、ハルガンは笑う。
艦長たち一同は、ルカの姿を見ると全員敬礼した。
ルカは艦長の前で歩みを止めると、
「一月ですが、御世話になります」と挨拶をする。
艦長はあまりに小さな花婿に戸惑い気味だったが、
「こちらこそ、何かと行き届かないところも御座いましょうが、精一杯、御世話をさせていただきます」と、敬礼をする。
ルカは頷くと歩き出す。
まだ七つか。縫いぐるみを抱きしめて歩く王子の姿は、孫を彷彿させる。そう言えば娘の子も、今度七つになるはずだ。やはり男の子だが縫いぐるみの好きな子だ。片や母の膝の上で甘え、片や何一つ不自由ないとは言え、国のためと言われ知らない星へ送り込まれて行く。どちらが幸せなのだろうか。
ルカは船に姿を消す前にタラップで見送ってくれる人々に手を振った。行って来ますという感じに。
ルカが船に乗り込むと、「こちらです」と、軍服をきちんと着た年の頃ならナンシーぐらいの女性が、個室まで案内してくれた。
ルカは自室として与えられた部屋を見て呆然とした。天井は高く船の中とは思えないほど部屋は広々としている。ルカが今までに見たどの館の部屋よりも豪勢だ。天井には神々や大自然の絵が描かれシャンデリアが垂れている、そして壁にも。おそらく地上の王宮でもこれほどの部屋はないのでは? もっとも皇帝の私用の館に行ったことはない。そこに行けるのは正室とその子、ジェラルトとその妹のみだ。
「すてきなお部屋でしょう。皇帝陛下の私室を小さくした作りになっております」
女性は先立って部屋の中に入ると、ルカの方へおもむろに振り向き、
「申し送れました、私はマニュエラ・ディム・ムストレと申します。この船のご案内と一月ですがこの船での殿下のお世話を言い付かった者です。不調法者ですが、よろしくお願いいたします」
マニュエラは一言そう言うと、さっそく部屋を案内し始めた。
「バス、トイレはこちら、寝室はあちら、リビングはこちらに、隣は書斎になっております」
日用品は既に所定の場所に収納されているようだ。服からなにから新品の物が取り揃えられてある。だが普段着だけは、ルカは常備着用していたものをバックに詰めて乗船させた。この方が動きやすいからと。それとボイの王女からいただいた服と。
「まずは、お寛ぎください。直に艦長が挨拶に参りますので」
「他の者は?」
「それぞれの部屋に案内しております。落ち着けば挨拶にお見えになるでしょう」
「そうですか」
ルカは縫いぐるみをソファーに大事そうに座らせると、リビングの隅にあるパソコンを立ち上げた。すると正面の壁に掛かっていた絵が消え、その額の中には今現在の外の様子が映し出されている。
「なるほど、あの絵がディスプレーになっていたのですね」
画面はかなり大きい。だがパソコンは一般家庭に普及しているものよりもは少しましな程度だ。だがルカにすればこれでは物足りない。しかし仕方ない。ルカの部屋にあったパソコンの方がおかしい。あれはパソコンと言うよりもスパコン。言うなればどこかの軍事基地が所有しているものと同じ性能。
マニュエラはルカが部屋に入るや否やパソコンを立ち上げるのを見て、殿下も年頃の子供と同じ、やはりゲームに夢中なのだろうと思い、
「皆さんが落ち着くまで、ゲームでもやられますか」と、ゲームソフトのリストを画面に出した。
さすがに娯楽用のパソコンだけあり、ゲームのソフトは揃っている。
「いや、いいです。それより、服を着替えたいのですが」
マニュエラはクローゼットの方へとルカを案内する。そこにはルカが常用していた服もきちんとハンガーに掛けられていた。
ルカはそれを取り出すと、一人で着替え始めた。
慌ててマニュエラが手を貸そうとすると、
「一人で出来ますので」と、その手を遮る。
マニュエラは驚いた顔をした。
ルカは最後にズボンのベルトに笛を差し込むとリビングに戻る。
テーブルの上に飲み物が用意されていた。
この香り。
「これは」と、ルカが走り寄る。
モリーがにっこりと微笑んだ。
「皆がもたせてくれたのです、殿下の好物ですから」
竜玉のまだあかるまないものを氷砂糖で漬け込んで作った奥方様秘伝のジュース。生った竜玉をすべてあかるませるわけには行かない。それでは木が老いてしまう。そのためほどよく間引くのだ。その間引いた実で作る、甘酸っぱいジュース。あかるんだ実ではこの酸味は出ないらしい。もっとも竜玉はあかるんだらそのまま丸かじりするに限る。
「よろしかったら、マニュエルさんもいかがですか」と、ルカはモリーにグラスをあと二つ持って来るように指示した。
モリーが持って来たグラスにルカ自ら氷とジュースを入れ水で割る。
「アルコールで割ってもおいしいそうです。母の自慢のジュースなのです」と、マニュエラに差し出す。そしてもう一つはモリーに。
「皆で飲んでは直ぐになくなってしまいますよ」と言うモリーに。
「ボイにも竜木はあるそうです」
えっ! 驚くモリー。
「ホルヘさんが言っておられました。無論、このジュースも。少し甘みが違うそうですけど」
マニュエルは不思議そうな顔をしてルカとモリーを見た。
今まで船の中でいろいろな王族に仕えてきたが、主と侍女がこのように親しく話すのを見たことはない。そして自分に対するこの態度。まだ子供だから、主と従の区別がよくできておられないのか。
「モリーの部屋はどこですか」と、ルカはジュースを飲みながら。
「私の部屋はこの奥になります」と、モリーはリビングの奥を指し、
「ご用の時はいつでも声をお掛けください」
「どうせ、ベッドとバス、トイレしかないのだろう」
主の部屋に備え付けられている侍女の部屋がそうであることをルカは知っていた。
「なら、ここでレースを編むといいですよ。そうすればいちいち呼ぶこともないですから」
「まぁっ」と、モリーは言ったものの、「お邪魔ではありませんか」
「別に、こんなに広いのですから。それより誰もいない方が寂しい」
「それではお言葉に甘えまして」
マニュエルは不思議に思った。そう言えば他に侍女はいない。他の公達は十人以上もの侍女を従えて乗り込んでいると言うのに。
「他の方々は?」と、マニュエルはルカに尋ねた。
侍女はかなり乗り込んでいた。まさかあれらが全て公達の方へ。
「私の侍女はモリー以外には誰もおりません」
モリーはナオミが後宮に入って直ぐに付けられた侍女だった。そしてルカが生れると同時にルカの乳母となった。だがルカはあまり乳母を必要とはしなかった。ほとんどが奥方様の手で育てられたためだ。ときおり畑が忙しい時だけ、モリーが代わって母親代わりをしてくれた。
「それではご不自由でしょう」と問うマニュエラに対し、
「彼女がいれば充分です。それにいざとなれば守衛たちも手伝ってくれますし。あれでなかなか料理など作らせるとうまいのですよ」
戦場では、めいめいが炊事をすることになる場合もある。人が作ってくれるのを待っていたのでは食い損なう時があるからだ。
変わった王子だとは前もって伺っていた。平民の母親を持つから下品だとも。確かに変わっているところはおありだが、しかし見る限り下品という感じは受けない。容姿の美しさがすべてを隠して余りあるのか。
ルカはジュースを飲み干すと、外の様子を映し出しているディスプレーをじっと見詰める。
まだ船は、動き出していないのか、画面は先程から見送りに集まった人々と報道陣を映し出している。
グレナ王女はこの様子をこの豪華な部屋で眺めていたのだろうか、何を思って。彼女も私のように自分が布石だということを知っていたのだろうか。
ルカはぐっとシモンから貰った縫いぐるみを抱きしめる。
人生の最後だから、ボイ星へ着くまでは贅沢しろと言わんがごとくの船だ。
ルカは抱きしめた縫いぐるみを両手で持ち上げると、話しかけるようにその縫いぐるみと視線を交わす。
君が、僕を助けてくれる。
その様子を自分の荷物の片付けが終わってやって来た守衛たちが見て、小声で言う。
「殿下って、ああいうキャラだったっけ?」
「あれ、シモン嬢からもらったらしいぜ」
「シモン嬢って、クリンベルク将軍の鬼姫?」
「他にいるかよ」
「しぃー」と守衛の一人が首を引っ込めるようにして辺りをうかがいながら、口の前で人差し指を立てる。
「坊ちゃんに聞けたら」
「まっさか、ここまで追っかけてきやしねぇーよ」
そうだと言わんばかりに皆で頷くと、
「あれ、知らなかったのか。殿下、シモン嬢が好きらしいぜ。もっとも俺たちの憶測だが」
部屋に入るやこそこそと話している守衛たちをルカは訝り、
「何か、私に用ですか」と訊く。
「あっ、あのー、こっちは片付いたので、何かお手伝いすることないかと思いまして」と、バツ悪そうに尋ねる。
だがその中の一人が、すばやく話題を変えた。
「しかし、凄い部屋ですね」
守衛たちはきょろきょろする。
「船の中とは思えねぇー」
「私の方は大丈夫ですよ」
「じゃ、交代で二人ぐらいずつ、護衛に付いた方がいいんじゃないかと言うことになったのですが」
「その必要もないでしょう。それよりこの船にはバーもあるそうですから、そっちの方が私の部屋にいるより楽しいですよ」
「そりゃ、そうなんだけど」
言わずもがだ。だが自分たちの任務は守衛、主をほったらかしにして。上官の命令は聞かないくせに、やたらへんなところに責任感がある。
「大丈夫ですよ、この船の中では何も起こりませんから。ゆっくりできるのも今だけだと思います。ボイに着くと忙しくなりますから、今のうちに羽を伸ばしておいてください」
「じゃ、お言葉に甘えて、さっそく行ってみるか」
言われなくとも交代で行くつもりではいたのだが、公認ともなれば強い。
「おい、まだ出航してないのにか」
艦長たちは今、出航の準備で忙しい。乗船してまだ時間もそんなに経っていない。緊急発進でもない限り行き成り出航することはない。最後にもう一度各部の点検をしているのだろう。既に推進装置は作動し始めている。ただその振動もハム音もここまで聞こえないだけだ。
一方ハルガンは、ケリンの部屋を訪ねていた。彼ら守衛たちの部屋は一画に集められている。大佐であるリンネルとその副官であるレイをはぶけば、ルカのリビングの十分の一にも満たない。ベッドとちょっとした空間があり、その空間にはロッカーと一人用の椅子とテーブルがあるだけ、風呂もトイレも共有。個室であるだけましか。下手をすれば六人相部屋とか。三段ベッドが両壁に置かれている場合もある。軍艦などはみんなそうだ。
ケリンはバックから服を出し、ロッカーの中に掛けていた。
情報部はネルガルの機密が持ち出されるのを恐れ、ルカたちが船に持ち込む荷物は全て点検した。特にハルガンとケリンの荷物は厳重なチェックを受けた。
「まったく、ぐしゃぐしゃだよ」と、文句を言いながらケリンは服のしわを伸ばしながら一つ一つハンガーに掛ける。
特にケリンに至っては、義手や義足まではずされ調べられた。
「こんなことしても意味ないのに、俺の脳味噌を破壊しない限り」
機密資料は、全てケリンの脳味噌にインプットされていると言う感じだ。
「何処へ隠したんだ、例のやつ」
ハルガンはてっきり手足に組み込んだのかと思っていた。
しかしケリンはここまで調べられることを想定していたようだ。
「まあな」と、言って笑う。
「しかし面白かったぜ、俺の体を見た時の奴等の驚いた様。お前にも見せたかったな」
そりゃそうだろう。切断された手足を除けば、拷問された痕が一つ残らず消えている。そう思いながらハルガンも自分の腕を見る。白兵戦による傷跡。これもすっかり消えていた。当初は肌の色が違っていたが、今ではすっかり日に焼けて他の肌と馴染んでいる。
「だから、言ってやったんだ。竜神様を祀ってある池で泳ぐと肌が綺麗になるんだってな、殿下が綺麗なのもそのせいだろって。今頃、情報部の女どもであの池は賑やかだろう」
「そりゃ、欲しいことをしたな。もう少しゆっくりできりゃ、彼女たちをうちのオオカミどもに与えられたのに。ネルガル星最後の思い出としてよ」と、ハルガンは笑う。
だが奇跡が起きたのはあの時だけ。池が乳白色に輝いた時。そしてその奇跡を起こしたであろう張本人は、俺たちが傷を治す特殊な薬を持っていると信じて疑わない。
あれ以来、いくら考えてもあの池の現象は説明できなかったし、奇跡も二度と起こらなかった。まあ、それはそれとして。
「俺には教えても」
だがケリンは首を横に振る。
「俺にも言えないってか」
「秘密というものは、知る奴が少ないほど効果があるんだ」
「お前の口が堅いのは試験済みだしな」
こいつが言わないと言えば、どんなことをしても聞き出すことはできない。
テールとケリンで一晩掛かりで引き出したネルガルの極秘資料。そう容易に手放すわけにはいかないか。
ハルガンはその件は諦めたように話題を変えた。
「しかし、殿下も殿下だ。禁書を堂々と持ち込むとは」
ケリンは片付けの手を止めずに笑う。
ケリンの荷物は衣類などろくにないくせに、ガラクタはいっぱいだった。
「道具はボイにもあると思うが、やはり使い慣れた物がいい」と言いながら。
ルカが持ち込んだものは、魔の星イシュタルの書。ネルガルでは禁書だがボイでは禁書になっていないと言い張り、ボイに行ってから読むからと船に持ち込んだ。ここでの一悶着は大変なもので、ハルメンス公爵まで巻き込んだ。
「獲物を一つ捕らえれば、ハイエナどもは満足するからな」
「なるほど、そう言う事か。しかしこれで奴等も枕を高くして寝られるな。俺たちをネルガルから一掃できたのだから」と、ハルガンはニタリとする。
ケリンの部屋が落ち着いたところで、
「奴の様子でも見てくるか」
守衛たちと入れ違いにハルガンとケリンがやって来た。
ケリンは部屋に一歩踏み込むなり唖然とした。
「俺たちの部屋とは、月とすっぽんだな」
「まあ、こんなものだろう。主と使用人の違いさ」
ルカは縫いぐるみを小脇に抱えソファーに寄りかかり、自分が報道されているニュースを見ていた。
わりと落ち着いているようだな。とハルガンの感想。
「身の回りは片付きましたか」
ハルガンたちが声を掛けるより早く、ルカが訊いてきた。
「ああ、酷でぇーめにあった」
「そうらしいですね」と、ルカは笑う。
「あま、掛けてニュースでも見ませんか、私が出てますよ」
ルカが紅い絨毯を歩いて船に乗り込む様子が、幾度となく流されていた。
「もう少し、胸を張った方がよかったですか」
二人はそんなのどうでもいいという感じに答えた。
「それより他の連中は?」
「先程、見えましたよ」
だが部屋には誰もいない。護衛を置くことにしておいたのに。
「どこへ行ったんだ?」
「バーです」
「バーって、まだ出航もしていないのにか」
ルカは頷いた。
「何を考えているんだ、あいつら」
ルカはきょとんとした顔をしてハルガンを見詰めると、
「あなたと同じ事を考えていると思うのですが」
「俺と?」と言いながら、ハルガンは親指で自分の胸を指した。
ルカはにっこりすると、
「ボイへ着くと忙しくなるので、せめて船の中ではバカンス気分に浸ろう。リンネルの指示などくそ食らえだ。違いませんか」
ケリンは噴出した。
「ジュースでも用意いたしましょうか」と言うモリーの言葉に、
「いや、酒が不味くなるからいい」と、ハルガンは断る。
ルカとケリンは顔を見合わせた。
モリーは気を利かせてハルガンには酒を持って来た。
テーブルの上にお茶とアルコールがセットされた頃、ドアがノックされる。入って来たのは艦長を始め数人の船員だった。
艦長は王子の余りにもラフな服装にあっけに取られる。他の貴族たちはそれなりの部屋着に着替えているというのに。それに従者たちの態度。指揮官クラスでないものが堂々と王子と膝を交えているなど前代未聞。
ハルガンたちは慌てて立ち上がるとルカの背後に控え、形式だけは整えた。
ルカは艦長の気持ちを察して、両手を軽く広げると、
「部屋が豪華過ぎるのです。一人でいると寂しいもので、つい話し相手を」
それでしたら公達をと思ったのだが、ルカ王子の噂はさり気なく耳にしていた。一月余り仕えるために、粗相があってはならないから、ルカ王子に対する情報は一通り集めていた。
門閥貴族とはあまり仲がよろしくないとは本当のことなのかもしれない。
「殿下にも困ったものです、子供より大人との会話を好まれるものですから」と、モリーがその場をつくろう。
艦長は慌てて、
「失礼いたしました」と、頭を下げると、
「先程はお声を掛けていただき、光栄に存じます」と、正式な挨拶に入った。
普段あのような場所で声を掛けられることはない。まして王族の者たちに。
それから副艦長を始め操縦士、副操縦士、航海士、機関士、コック長と船のおもな責任者を紹介していく。コック長はルカの嗜好は既に提出されているのだが、その確認に来たようだ。そして最後に医者とマニュエラ。
「彼女は既に自己紹介済みと存じますが、この船のことでしたら何でも存じておりますので、彼女にお聞きください。私も船が軌道に乗りましたら手が空きますので、それまでは彼女が艦内の案内をいたしますので」
この船には一月の間退屈しないように娯楽施設が付いていた。プールを始めバーやダンスホール、スクリーン室、書斎、シストラン、ゲームセンター、体育館など、おちおち案内してくれるようだ。
艦長はテーブルの上をちらりと見ると、
「まだお酒の方は嗜われないとのことですので、バーにはジュースも用意して御座います」
今回の賓客は子供だということで、全てが子供の嗜好に整えられている。
「出航は、今から約一時間後になります」
艦長たちと入れ違いに、今度は外務、内務、宮内部の役人たちが入って来た。彼らがボイまで付き添い式の段取りをする。
ハルガンは嫌な顔をする。
「ご気分は如何ですか」
これから殺されに行くのに、いいはずなかろうとハルガンは胸の内で毒づく。
「ええ、素晴らしい旅が出来そうです」と、ルカは至って子供らしい感想を述べる。
「気に入っていただいて光栄です。この船は特別に陛下が御自身の宇宙漫遊のために造らせたものです。今回は異例の計らいで、殿下にとのことでした」
それでハネガンは納得した。グレナ王女の時、ハルガンは同行した。だがいくら豪勢とは言えあの時の船はこれほどではなかった。
こいつの棺にしちゃ、立派過ぎるな。
ルカもルカで納得したようだ。もう少し質素な船でもよかったのにと内心思いながら、
「では、他の王子たちは?」
他の王族たちはどんな船でこのネルガルを発ったのだろう。
「まだ一度も御乗船されたことは御座いません。この船は新しい船なのです。試運転を入れても航宙はこれで三度目です」
「と言いますと、一度?」
「はい。陛下がケルル空域を漫遊された時に一度、お乗りになられただけです」
「そうなのですか」
「よほど殿下は、陛下の目にかなっておられるのでしょう」
「そうでしょうか。ただの陛下の気まぐれではありませんか。あるいはこの船しか空いていなかったとか」と、ルカは子供のようにチャメてみせる。だが内心では。
今ネルガルは三つの星と交戦中だ。ネルガルの体勢いかんでは、敵に寝返る同盟星も出かねない。この際、婚礼用の船だろうと豪華客船だろうと船と付くものは全て戦艦に改造しているのでは。新しく製造していては間に合わない。ここでボイ星が交戦すれば、もしかすると勝てるかもしれない。だがそれはあくまでもボイにネルガルの半分ほどの軍事力があればの話だ。今のボイの軍事力では、宇宙艦隊を機関銃で撃ち落とすようなものだ。弾が届くはずもない。なんて平和な民族なのだろう。過去に他の星から攻め込まれるということを、一度も想定したことがなかったのだろうか。
そう言えば先程の艦長の話では、旅は一月余りになります。我々の船だけでしたら二、三週間もあれば付けるのですが、なにしろボイの船が先導では一月でも着くかどうか。
速度が遅い。それだけ取っても戦闘には向かない。
ルカは大きな溜め息を吐いた。
「どうなさいました?」
「いえ、何でもありません。ところで私はボイ星へ着いたら、まず何をすればよろしいのですか」
十歳年上の王女の元へ婿入りするとは聞かされているものの、それ以外は何も知らされていなかった。お相手のプロフィールすら。
「それはボイ星が近づいて来ましたらおちおちお話いたします。まずは暫し、船の旅をお楽しみください。宇宙にお出になられるのは初めてのご経験かと存じますが」
既に私など何度も経験があると臭わせながら言う。
「そうですね、これが最初で最後になるかもしれませんね」
それには役人たちは何も答えなかった。
「落ち着かれましたら、下の館の方へお越しください。生演奏が聞けますので。笛がお上手だそうで、彼らをバックにお聞かせください」
「わかりました。少し練習してから伺います」
一通りの自己紹介が済むと、彼らも去って行った。後にボイ人が二人残る。
「ご迷惑でなければ、少しお時間を」と、男の方が言う。
「もしまだ、お身の周りが片付いておられないようでしたら、後日もう一度お伺いいたします」と、女の方が言う。
ルカは両手を軽く広げると、
「私はもうすっかりくつろいでおりますので、何か話がおありでしたら伺いましょう」と、ボイ語で話してきた。
「兄から話は聞いておりましたが、本当にボイ語がお上手なのですね」
「兄?」
「はい。キネラオとホルヘは私の兄になります。男三人兄弟で私は一番下でサミランと申します。こちらは秘書のベニーです」と、サミランはボイ語で自己紹介した。
「キネラオさんの弟さんですか」
「はい。兄からこれを言付かりましたもので」と、サミランは綺麗な紙のカードを差し出す。
ふたつ折になったそのカードの中に閉じこまれていたのは一枚のチップ。
「これはシナカ王女様のプロフィールで御座います。何かの手違いがあったそうで、お手元には届かなかった御様子ですので、新たに星間通信を使って録画したものですが、何しろビームが悪いものであまり映りはよくは御座いませんが、王女様の人となりはおわかりいただけるのではないかと思いまして」
「有難う御座います」と、ルカはそのカードを受け取る。
「ところで、キネラオさんとホルヘさんは?」
「兄たちはネルガルの高速艇で一足先にボイ星へ向かわれました。あちらの用意もありますもので」
「そうでしたか」と、ルカは少しがっかりしたように答える。
船の中でボイ星の儀式や慣習をいろいろとあの二人に教わろうと考えていた。
「それで私たち二人が、ボイまでの道すがら殿下のお相手をさせていただくことになりました」
「そうですか、それではよろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
「それではさっそくこれを見せていただきます」と、ルカはそうそうにカードをケリンに渡しセットしてもらう。
「では、私たちはこれで」と、ボイ人たちが部屋を出ようとするのを、
「一緒に見てはまずいのですか」と、ルカは問う。
「ご一緒させていただいてもよろしいのですか」と、ベニーは言う。
「ええ、出来れば一緒に。わからないところをお聞きしたいものですから」と、ルカは二人に掛けるようにすすめた。それと同時にハルガンとケリンを二人に紹介し、彼らにも掛けるようにすすめる。
ハルガンとケリン、この二人が王子のブレインのようだとホルヘは言っていた。もっとも侍女たちに言わせるとろくな事しか教えないそうだが。
ルカの心配は杞憂に終わった。ルカは映像を見て驚く。
ボイの王女はネルガル語で話しかけて来た。それも流暢な言葉で。容姿はキネラオやホルヘと何ら変わりない。
「ネルガル語、話せたのですか」
ボイ人たちは微かに笑う。
「ネルガル語は、この銀河の共通言語的なイメージがありますから」
「そうですか。星間取引を行うにはネルガル語だということは聞いておりましたが。ネルガル人ぐらいですね、他の星の言葉を話せないのは」
「それは当たり前ですよ、王子様。ネルガル語で全て通用してしまうのですから、強いて他の星の言葉を覚える必要はありませんもの」
だから他の星のよさを理解できない。自由に使えるようにならなくとも、少しでも学べば、他の星人も自分たちと同じ感情を持っていることに気づくはずだ。
シナカは一通り自分のことをネルガル語で紹介した。
映像が切れる。
感想はと言えば、言葉をはっきり使う人だ。おそらく自分の考えをしっかり持っている方なのだろう。ただ美しいだけのネルガルの王女たちとは違う。
それからある疑問を思い、ルカはじっと二人を見比べた。
「あの、失礼ですが、女性ですよね」と、ルカはベニーの方へ手を差し延べた。
「はい」と、ベニーは答える。
「ボイ星では男女の服は余り違わないようですね」
王女もこの二人と同じような服を着ていた。王女と言うだけのことはあり、少しアクセサリーで着飾ってはいたものの、ベースの服はこの二人と余り変わりはない。顔の輪郭も体の線もネルガル人ほど男女差がない。これは困ったとルカが思案していると、
「どうなさいました?」
「失礼ですが、どうやって男と女を見分けるのでしょう。話をすれば声のトーンで多少わかりますが」
黙って立たれると、どちらかわからない。
二人のボイ人は微笑む。
「おかしな質問でしたでしょうか」
「いいえ、ネルガル人以外の星人にもよく言われます。ボイ人は個性が無く、男女も個人も見分けがつかないと。もう少し服装やら髪の形をかえたらどうかと」
ルカも内心そう思っていた。
ルカはほっとすると、
「よかった。私だけではなかったのですね、そう思うの」
「女性は胸の膨らみが」と、ベニーは自分の服をさすって見せたが、それすら服のひだで隠れてしまう。
これでは差が無いも同じだとルカが思っていると。
「ボイの女性は身ごもると乳が膨らむのです。子供が乳離れするころには、また元に戻ってしまいます」
「そっ、そうなのですか」
ネルガル人とは違う。ネルガル人は年頃になれば女性は皆。
「困りましたね、せめて髪だけでも男女で変えていただければ」
「どうしてそんなに男女にこだわるのですか?」
ボイ人のこの質問はルカを驚かせた。いや、本当に驚いたのはルカよりハルガンだろう。彼は常に女性の視線を気にして生きているのだから。と本人はそう思っていないようだが傍から見ているとそうにしか見えない。
「どうしてって?」
これは後でわかったことだが、ボイ人は男女で生活に差がなかった。肉体労働も頭脳労働も家事も男女で同じようにこなす。男女を意識するのは結婚の時だけ、日常生活ではほとんど男女を意識していないようだ。特に下々の方は。上の方だと他の星との交流もあるためその星の影響を受け多少は意識するようだが。
「普段は意識しないのか」と、ハルガンがネルガル語でぽつりと言う。
「どうして意識する必要があるのですか」と、逆に二人に問われた。
ルカとケリンは笑う。
おそらくハルガンの思考ではありえない世界だろう。
ボイ人は一夫一妻。一度結ばれると半永久だ、他の異性を誘惑することはない。ただ相手を探すまでは少し意識するようだが。
それともう一つの疑問。ボイの美的感覚を知りたかった。
「このようなことをお伺いしては失礼かと存じますが、シナカ様は美人の方なのですか」
これには二人のボイ人は答えに窮した。実際ボイ星では、シナカは美人には属さない。
ルカ王子ははっきりと物を見るお方なので、何事もはっきりとお答えして差し上げた方がよいとは兄たちの言葉。
「はっきり申しますと、美人では御座いません。しかし人となりは大変お美しい方であらせられます」
外見より中身だとサミランは言った。
「ボイでの美の対象は、まず肌の色なのです。彼のように赤ければ赤いほど美しいとされます。それと瞳の色。これは黒ければ黒いほどよいとされます」
「そうなのですか」
ルカは自分を見る。肌の色も瞳の色も当てはまらない。
「実はキネラオさんたちがサミランにあなた様に仕えるように言ったのは、弟だからと言うこともありますが、彼がボイ人の美を象徴しているからなのです。丁度あなた様がネルガルの美を象徴しておられるように。王子の中では一番美しいと伺っております」
「さあ、それはわかりません。私はまだ子供ですから。それにボイでは私は死体のように見えるでしょう」
「確かに」と二人は答えてしまった。
答えてから口を押さえても遅い。
ボイでは白い肌は嫌われる、病人や死を意味するから。しかし不思議とこの王子は美しかった。目の錯覚なのだろうか、それとも王子のシミ一つない肌のせいなのだろうか。白もここまで極めれば美しいものだ。それに翡翠のような瞳。ボイ人にはありえない目の色。その瞳が御自身の紅い髪を映し、微妙な色合いをかもし出す。
思わずその色合いに魅入られ、不躾なまでに見詰めてしまったことに気づき、慌てて謝罪する。
「いいです。ボイ人からすれば珍しい色でしょうから」と、ルカは苦笑した。
ネルガルでは高貴な色と言われても、ここでは通用しない。
「王女様はどちらかと言うとホルヘさんに肌の色が似ております」
そう言われてルカは思い出した。そう言えば彼の肌はキネラオさんよりもはくすんでいた。それで侍女たちは二人を赤い人、黒い人と呼び別けていた。
「それであまり美人でないと」
「はい。ボイ人は肌の色を気にするのです、健康を表しますから。結婚相手を選ぶのでしたら健康な人の方がいいですから」
「なるほど」と、ルカが肌の色は健康のバロメーターなのかと内心つぶやく。
「それでこんな話があるのです。これは私の兄、ホルヘのことなのですが」
「ホルヘさんのこと」
ルカは体を乗り出した。彼とは数日しか接していない、だが何故か興味を駆り立てられる。彼のことならどんなことでも知りたい。
「ボイ人も異性を気にする年になると悩むのです、特に肌の色では。ボイ星では収穫祭は大きな祭りの一つです。こういう時に結婚の相手を見つけるために独身の男女はおめかしして繰り出すのです。私たち兄弟も。でもホルヘ兄さんが肌の色を気にして渋りまして、それで私とキネラオ兄さんで茜という木の実があるのですが、これを粉にして体に塗ると丁度私たちのような肌の色になるのです。そうして祭りに参加したのですが」
「へぇー、ホルヘさんでも外見にこだわるのですか」
知的な人だ。天から授かったものをどうのこうのと言うような人には見えなかった。
「それはまだ、王子様は小さくていらっしゃいますから、おわかりにならないのです」と、ベニーは言う。
人を本当に愛する年頃にならないと、自分の外見は気にしない。
「私には理解できないと」
「申し訳ありません」と、ベニーは恐縮したように俯く。
あっさり言ったのはハルガンだった。
「まあ、そうだろうな。ガキには理解できない」
ルカはむっとした顔をしてハルガンを睨む。
ハルガンはそんな視線は気にせず、それでと先を促した。
「そしたら、雨が降りまして。ボイでは珍しいのですよ、雨は」
その先は言わずと知れた。
「それは、お可哀想に」と、モリー。
モリーはボイ語は話せなくとも聞くことは出来るようになっていた。ボイ人にお茶を入れるとハルガンたちと一緒に話を聞いていた。
「でも女性はそんなことで男性を評価したりは致しませんでしょ」
「ええ、そのとおりです。兄に好意を抱いていた女性が数名来て、その粉を全部ふき取ってしまったのです。この方がずっとハンサムだと言われまして」
「そうでしょう」と、モリーは納得したように頷く。
どこの星でも同じ。と、ある意味モリーは安心した。外見で入るのは最初だけ、最終的には中身が勝負。その意味では殿下は負けないとモリーは自負していた。
「どこの星でも同じなのですね。あの方を数日しか私たちの館にお留め出来ませんでしたが、それでも大変ご立派な方にお見受けいたしました。通訳でいらしたそうで、あのような方をお使いになられる主とは、そうとうなお方なのでしょうね。ボイ星は人材が豊富だとお見受けいたしました」
この侍女も負けてはいなかった。下級貴族の出身。家計を助けるために幼くしていろいろな貴族の館へ奉公に上がっていたようだ。そして主を見る目を養ったのだろう。私の乳母にと館へやって来たのだが、母が全てをやってしまったので、彼女と話す機会はあまりなかった。今回も暇を出したのだが、もうこの年で他の館に仕えるのも苦痛ですし、女手が一人ぐらいは必要でしょうと言うもので、一緒に来てもらった。よくよく考えると母の陰になって私を仕えてくれていた。
「それは光栄です。ボイへ着いたらさっそく兄に伝えます」と、サミランは嬉しそうに言う。
モリーと同じことはルカも感じていた。
主を見れば従者もわかる。従者を見れば自ずとその主もわかる。
一通りの話が済むと、一旦ボイ人も自室へと引き上げて行った。
ボイ人が去るとハルガンたちも引き上げて行った。ハルガンなど公達の引き連れてきた侍女たちの顔を拝見してくると言って。
彼らが引き上げてからルカはモリーに礼を言う。
モリーが不思議そうな顔をすると、
「あなたのお陰で私の株が上がりました」
「差し出がましいことをしたと思っておりましたが」
「いいえ、本当に感謝しております」と、丁寧に頭を下げるルカを見て、モリーはほほえむ。
これからは奥方様に代わって私がお守りいたします。
その気概が控えめなモリーに先程のような言動を取らせたのかもしれない。
ルカはもう一度、王女のプロフィールを見直した。
美しいネルガル語だ。教養の高さがうかがえる。
「本当に私のような者でよかったのでしょうか」
ネルガルの大半の王女は深窓の美姫。世間のことは何も知らない。ただ王宮の館で大事に育てられるだけだ。下手をすれば王子ですら何も知らないで育ってしまう。ある意味、私は平民の母を持ったお陰でよかったのかもしれない。しかしボイの王女はそうではないようだ。
「殿下」と、物思いに耽っているルカにモリーは声をかけた。
「先方は、承諾されたのですから」
「仕方なしにね」と、ルカは軽く笑ってみせる。
ネルガルの軍事力と経済力をバックにせまられたのでは、否、とは言えまい。
「もう少し私が大人か、彼女が幼ければよかったですね」
十歳の年齢差はどうあがいても埋められない。肉体がどうにもならない。ハルガンには馬鹿にされるし。
「さぞや、可笑しな式になるでしょうね。彼女には気の毒です」
「殿下」と、モリーは声をかけた。
「王子としてお生まれになられたからには、お好きな方とのご結婚はご無理でしょうから、そこでお幸せになることをお考えになられるしかありません。奥方様も仰せであられました。王女を大切にするようにと。プロフィールを拝見いたしましたところ、とてもお優しい方では御座いませんか。後十年もすれば、年齢差など無くなります」
「後、十年か」と、ルカは豪華なシャンデリアが下がっている天井を見る。
それまでネルガルがおとなしくしているかだ。
リンネルがやって来ると同時に、出航の準備が整ったことが船内にアナウンスされた。
いよいよだ。
マニュエラが、モニターをお付けいたしましょうとディスプレーのスイッチを入れた。すると絵が掛けられていた壁全体に外の様子が映し出された。
『これより十二番ゲートへ移動いたします』
放送関係者や見送りの人々が室内に入るのが見える。それと同時に船はゆっくりと動き出した。
ルカはさっと立ち出す。
「どうなさいました」
「飛び立つところを見てみたい。こんなのではなく、操縦室で」
今にも走り出しそうなルカをリンネルは優しく止める。
「殿下、今のところは。船が軌道に乗りましたら、操縦室をみせてもらえるように艦長に頼みますので」
そう言うとリンネルはルカをソファーに戻す。
カメラは船の真正面に取り付けられているのか、閉まっているゲートを映し出した。船は一旦その前で止まる。ゲートが開くや、船は加速し始めた。どれだけ加速しているのだろうか、見る間にゲートが近づき、一瞬にして宇宙に放り出されたような感じだ。だが体には気圧は全然感じなかった。地上カーに乗っているよりも滑らか。否、ほとんど館に居るのと同じ。テーブルの上のジュースは波打つことすらない。
重力装置が作動しているからか。
『ただ今、無事に飛び立ちました』と言う艦長の声。
今度は後方に取り付けられたカメラが作動しているらしく、今しがた停泊していた月が次第に離れていくのが映し出されている。その月の背後に青と白と茶のコントラストの巨大なネルガル。
ルカは遠ざかるそれらをじっと見詰める。
「カメラを切り替えましょうか、同行する船が見えますよ」
マニュエラは右舷のカメラへと切り替えた。
既にそこにはボイ星の船を始め数隻の船が待機していた。ルカを乗せた船がそれに加わると、十一隻の船はボイ星を目指して動き出した。
「こういう感じに航宙するのですか」
「旅行のときは」と、マニュエラは答える。
戦闘の時はこんな数ではない。
船が軌道に乗ると艦長が現れた。
「ご気分はいかがですか」
初めての航宙、艦長は気を使ってくれているようだ。
「楽しく映像を拝見しておりました」
「さようでしたか」と、壁のディスプレーを見て、マニュエラに頷く。
「ご気分がよいようでしたら、ワームホールに入る前にお食事でも。そろそろお夕飯の時刻になりますので」
「えっ、もうそんな時間だったのですか」
今日は朝からなんやかんやと振り回され、すっかり時間の感覚をなくしていた。
「部屋に運ばせますか、それともレストランの方で」
ルカは考える。
「レストランで宮内部の方々の顔を見ながら食事をしても美味しくありませんし、かと言ってここで一人で食べても」
船にこれといった知り合いはいない。
艦長はにっこりすると、
「是非とも食事をご一緒したいと言う方がおられるのですが」
「私とですか」と、ルカは心当たりないと言う感じに首を傾げる。
「ロンブランド家のハルメンス公爵です」
「ハルメンス公爵! どうして彼が?」
ルカは口から心臓が飛び出すのではないかと思うほど驚いた。
「ボイ星見物だそうです。もっとも彼のことですからこれからの流れをかんがみ、商取引の下見にでも行かれるのでしょう」
彼がやり手のビジネルマンだということは、貴族の間では有名だ。もっともこれは隠れ蓑なのだろうが。組織の資金集めにも一役買っている。
「そうですか、でも私は艦長とご一緒したかったのですが」
「それは光栄です」
まさか王子の口からこのようなことを言われるとは思ってもみなかった。今まで王族たちの旅の供をしてきたが食事に招かれたのは初めてだ。
「宇宙の旅は一回や二回ではないそうで、その時の話をいろいろと聞きたいと思いまして。そう言えば、リンネルは何度か艦隊で出撃したことがあるのでしたね」
ルカは思い出したようにリンネルを見る。
「はい」
「では、その話も聞きたいな」
今まで地上にいて、リンネルが軍艦に乗っていたことをすっかり忘れていた。あの頃のルカは地上こそがこの世の全てだった。それも館とその周辺のみ。
「それはかまいませんが、私の様な者が同席しては、宮内部の方々が何と言われるか」と言ったのはリンネルだった。
既にリンネルには守衛たちの教育が行き届いていないという宮内部からの通達があった。ここは館とは違う。何をするにも彼らの目が光っている。
「その心配はないでしょう。この船では私が主なのですから。それに下手にだだをこねられて、帰るなどと言い出されては大変ですから、彼らも私の機嫌を取ることに専念するでしょうから」
それを逆手に取らない手はない。
「まあっ」とモリーは呆れたように言う。
しかしこう言うところが殿下の面白いところだ。
リンネルはやれやれと言う顔をする。そのしっぺ返しが私のところに来るのですよ。
ルカはそれを察したのか、
「私がもっとわがままに振舞えばよいことだ。お前にも手が負えないと言う感じに」
モリーはますます呆れた。
「畏まりました。そのように用意いたしましょう。それにこの船のことですが」と、艦長が言いかけると、
「父の船だそうですね」
「ご存知でしたか」
「先程、宮内部の方に聞きました。おそらく船が足らなかったのでしょう」と、ルカはあっさり片付けた。
晩餐の用意が整うと、マニュエラはルカをレストランへと案内する。そこはかなり広い空間だった。この船の乗員全員が一同に食事が取れるのではないかと思えるほど。その一画に豪華なステージがあり、プロの楽団により優雅な曲が演奏されている。そしてその旋律がこの広い空間を満たしていた。そのステージがよく見えるところに、これまた豪勢なテーブルがセッティングされ、ルカの席がもうけられていた。そしてそのテーブルには、ハルメンス公爵とクロード男爵、それにリンネルと艦長の席も。
ルカはやはり思った通り、この船の中ではある程度のわがままが利く。と思いつつ、用意してくれた席に着く。
「同行されておられるとは思いもよりませんでした。やはり私の式の確認ですか」
「いいえ、私は役人ではありませんから」
「それでは、何故?」と、首を傾げるルカに、
「ボイ星へ行きたいと言いましたら、この船に乗せてもらえたのです。さすがは陛下ご愛用の船ですね、何から何まで行き届いている。これだけの豪華客船は初めてです」
ハルメンス公をして、そう言わせるのかと、ルカは思った。
「ボイには何のご用で?」
「まあ、何の用と言われても。あなたが行くから、ちょっと行ってみたくなっただけです。一通り見物したら帰ろうと思っております」
「そうですか」と、ルカは少し俯く。
帰れる者は羨ましい。
「美しい方だそうですね、知的で」
「誰に、聞かれたのですか」
まだあのプロフィールを見たものは少ない。
「ハルガンに。彼の女性を見る目は一流ですからね、彼が素晴らしい女性だと言うならまず間違いないでしょう。一度お話したいのですが、殿下のお許しがあれば」
女たらしの悪癖。だがそれもこの人のカモフラージュに過ぎない。
「そんなことされたら、私の立場がありません」
銀河の全ての女性を引き付ける魅力。
「それは、私には敵わないということですか」
ルカはちょっと脹れたように黙り込む。あまり負けを認めたがらない性格。
ルカがときおり見せる子供っぽい仕種を見、
「心配にはおよびませんよ」と、ハルメンスは笑う。
王宮での環境のせいかルカはあまり表情を表に出さないが、見慣れてくるとわかる、彼の微かな表情の変化。
「ボイの王女はネルガルの王女とは違い、しっかりした方です。間違っても私など選びません。あなたが成長するのを待ってくれますよ。あなたには待つだけの価値と魅力がありますから」
こう言う自分も、ルカの成長を待っている者の一人だった。いや、過去形にはしたくない。
それからは宇宙の話になった。いろいろな星のいろいろな人種。惑星の様子やそこでの人々の生活習慣、思想、政治のあり方。ルカはそれらの話を食い入るように聞いていた。ハルメンスは商取引でいろいろな星に出かけているので、話には事欠かなかった。それに彼の知性が話をいっそう面白くした。
「羨ましいですね、皆さん。私もいろいろな星に行ってみたかった」
全てが過去のような言い方。
「殿下はまだお小さいですから、これからですよ」と、艦長。
「そうですね」と、ルカは明るく答える。
だがこれは慰めにしかすぎない。
「食事が済みましたら、天文台の方に案内いたしましょうか。そこは直に星を見ることができるのです。今ならまだネルガル星も見えますよ」と、艦長はルカを誘う。
艦長の提案で、食事後は天文台の方に飲み物を用意してもらった。そこでゆっくりと星を眺める、どころではなかった。やはりそこは好奇心旺盛な子供、天文台に入るや否や、周りがぐるりと強化ガラスに覆われている中に駆け出し、ガラスに取り付けてある手摺のところまで行くと、
「すごい星の数だ!」と感嘆する。
大気や人工灯が邪魔しないだけよく見える。
周囲をよく見ると、少し離れたところに同行している仲間の船の影を見ることができた。
「船団とは、こういう感じに宇宙を移動するのですね」
リンネルの話してくれた艦隊運動が目に浮かぶ。
ルカの声は興奮のあまり弾んでいた。
ルカにすれば全てが初めての事ばかり。
「あれが、ネルガル星です」と、艦長は一つの星を指差す。
暗い宇宙の中、かなりの大きさで青く光る星が一つ。まるで魔の星のようだ。魔の星も青く光るらしい。
ベッドの中では立体映像にして何度も見ていた光景だ。だが肉眼で見るのは初めて。
ルカはじっとネルガル星を見た。もう二度と見ることのない星。
母上、幸せになってください。
思わずそう呟いていた。
「どうなさいました」と言う艦長の言葉に、
「星の大きさや寿命からすると、人間は本当にちっぽけな生き物なのですね。あの星のどこら辺に私は住んでいたのでしょう」
人の姿はおろか、自分の館、否、人工的な物は何も見えない。なのにネルガル星はこんなにも堂々としている。くだらないこんなちっぽけな生き物が一体何をしようと蠢いているのだ、あの美しい星の中で。
「いいですね、宇宙は広くて。こんな広々とした中にいると、地上での事などどうでもよくなってしまいそうです」
「殿下」と、リンネルは忠告気味に言う。
「わかっています。暫く眺めていてもいいですか」
それは一人になりたいという意味だった。
周りの者はそれを察して、その部屋から出て行った。
「ルカ王子は何もお知りではないのでしょうか」と、艦長はまるで外遊でもするような雰囲気のルカを見て言う。
何度か婚礼船を指揮したことのある艦長は、その船内の雰囲気を知っていた。楽しんでいるのは周囲の者ばかり。主役である王子や王女は、知らない星へ行くというので誰もが悲しそうな顔をしていた。だがルカ王子は違った。まだお小さいのでそのようなことをお感じにはならないのか。ボイ星へ行くのを楽しんでいるようにすら見受けられる。
「何も知らないはずがない。今までの王子や王女より知り尽くしている」と、ハルメンスは艦長の言葉を否定した。
「全てを知ったうえでこの件を承諾したのだ。最も拒否はできないが」
「そうですよ」と、クロード。
「殿下はネルガルを発たれる前に私たちに仰せになりました。私の血もあの玉座を赤く染める塗料の一滴になるのだと」
艦長は思わず二人を見た。
「それは、どういう意味なのでしょうか」
艦長も知らない。和平がネルガルの方から壊されることを。
ハルメンスとクロードは顔を見合わせる。
「あの方はどんな時でも幸せを見つけるのがお上手な方だ。自分が卑屈になったら負けだということをよくご理解なされている」
「だから私は来たのだ。彼がこのままおとなしくボイ星に居るとは思えない」
「しかし、何をするにもこの婚礼は早すぎた。元服なされてからでしたら、軍部の中に仲間を作ることも出来たでしょうに」と、クロードは溜め息を吐く。
「それが怖くって、彼らは早めに手を打ったのではないでしょうか」と、ハルメンスは薄っすらと笑いを浮かべた。
器の小さな人間の考えそうなことだ。こんな子供を相手に。
折角見つけた人材だった。会えば会うほど彼以外に適任者はいないと確信した。出来ることなら助け出したい。だがそれは無理だ。宇宙海賊に襲撃させるという手もなくはないが、今皇帝と事を構えるには我々の組織も余りにも小さすぎる。全てが早すぎた。まったく欲しい人材だ。諦めきれずボイ星まで着いて来てしまった。自分の身の危険も顧みず。
暫くしてリンネルはルカを迎えに来た。
ルカはまだ星空を眺めて居る。
「殿下」と声を掛けだが様子がおかしい。
リンネルははっと気づいた。
「エルシア様ですか」
ルカ、否、エルシアは星を見たまま軽く頷いた。
「地上の雑念が取り払われると、宇宙がよく見える。先程、彼女が生れました。今度こそ、丈夫に育って欲しい。ニーナ、頼みましたよ」
エルシアは思念を飛ばす、一万光年彼方にあるイシュタルへ向けて。
「彼女? ナーニ?」と、リンネルは疑問に思う。
エルシアはゆっくりリンネルの方へ振り向くと、
「私の主です。私はあとどのぐらい生きられるのでしょうか。出来ることなら彼女に会いた」
エルシアの意識が消えると、ルカの意識が現われた。
「皇帝は、この星全てを支配するおつもりなのでしょうか」と、ルカはまた満天の星に視線を移して。
「何のために?」
「生きていくためです」と、リンネルは答える。
「ネルガルはサメのようなものです。動いていないと呼吸が出来ないのです。市場の拡張を止めた時、それはネルガルの死を意味します」
「膨張するだけ膨張して、最後にはパンクしますね」
既に内部の人材は稀うすになってきた。無理もない、いい若者はみんな戦場で散ってしまうのだから。それまでボイ星をもたせることが出来れば反撃するのはたやすい。既にネルガルの内部は腐り始めている。あのスラム街。内戦や外戦で住処や親を亡くした子供たち。まともな教育どころかその日の生活すらおぼつかない。そういう者たちが軍隊に志願しても愛国心などない。軍隊の質は以前より遥かに落ちている。もう少しだ、もう少しでネルガルは内部から瓦解する。
「殿下」
ルカは今の考えを頭から振り払うように首を振った。
母が居る星だ。攻撃するわけにはいかない。
「どうして拡張しなければならないのでしょう」
一部の者たちのマネーゲーム。飽くなき利潤追求。
昔、鉄の玉を弾いて穴に入れ、出た玉とお金を交換するというゲームがあった。まるであのゲームと同じ。一度フィーバーを経験した者は次を期待する。だが次は同量の出玉では納得しない、より多くを。子供はネットゲームに熱中し、大人はマネーゲームに夢中になる。そしてそれに負けた者はその欲求を満たすために弱い者に当たる。これが今のネルガルだ。脳と心を休める暇がない。いったんこのゲームにはまると抜けられない。まるで泥沼、本能だ、大脳が求める、命が続く限りの。
貨幣を考え出したのが全ての元凶なのか。貨幣は便利だ。何処へ行っても何にでも交換できる。だが便利なものはそれを利用することによる弊害も大きい。貨幣は貯めることができる。物々交換ならいくら欲張っても限度がある。物は置き場に困るし維持管理も大変。食物などは腐ってしまう。腐らせて捨てるぐらいなら隣人に分けてやった方がいい。その方が喜ばれるから。見返りも期待できる。
「部屋へ戻りましょう」
船内のバーは賑やかだった。
「よっ、なんでアパラ星系を出るのに、アパラ恒星の方へ向かって飛んで行くんだ」
「あれおめぇー、宇宙船乗ったことねぇーのか」
「馬鹿なこと言うな、俺はこれでも三回出撃しているんだ、クリンベルク大将率いる艦隊の巡洋艦で」
守衛たちは不思議な顔をする。
「それで、ワームホールの位置を知らないのか」
「知るはずねぇーだろう。俺はいつも船の奥の方でビーム砲の整備をしていたんだ。ワームホールから抜ければ直ぐに攻撃開始だからな」
ワームホールをくぐれば敵地。いつでも攻撃できる状態にしておかなければ、迎撃される。生きたければ攻撃せよ。そんな状況で外など眺めている余裕はない。
こんな所で酒を酌み交わしながらネルガル星が小さくなって行くのを見たことなど一度もなかった。
「習わなかったのか、学校で」
「あのな、俺は学校へ行ったことねぇーんだ。殿下の館で字を教わるまで、字なんか読めなかった」
「それって、自慢することじゃないだろう」
「しかたねぇーだろー」
孤児だった。食うのがやっとだった。
「じゃ、教えてやるよ」と、元巡洋艦の操縦士は言う。
「空間は恒星の質量で歪んでいるんだ。アパラの質量による歪みと、ボイ星があるM6星系の質量の歪みがシンクロした時、そこにワームホールができるんだよ。その穴を見つけて飛び込めば、いっきにボイ星まで行けるということさ」
「うじゃなんかい、他の星系へ行く穴もあるのか」
「そりゃ、あるだろう」
「うじゃ、もし間違ってそこへ飛び込んだら?」
「その星系に行くしかないな」
「アパラの周りって、穴だらけなのか」
今更ながらに知ったという感じにトリスは言う。
「アパラだけじゃない。恒星の周りはみんなそうなっているんだよ」
大事なのか、こいつ。と仲間たちは思う。よくこれで巡洋艦に乗れたものだ。
「だが、恒星の数だけ穴が開いていたら、どれがボイ星へ行く穴だかわからないだろう」
「それを計算で導き出すのが航宙士の仕事だろうが。それに穴は常備開いているわけじゃない。シンクロした時だけだ」
「そういうこと。それを逃がすと次の穴が開くまで待たなければならない」
「いつ?」
「そんなの俺にわかるか、航宙士に聞け」
「それにな、ワームホールに入っている時は、俺たちの体、原子のレベルまで分解しているらしいから、出た時にきちんと組み立ったらなかったら大変なんだぞ」
トリスは今までそういう原理は知らなかった。だからワームホールへ入る危機感も持っていなかった。ちょうどトンネルを潜り抜けるような感覚で居たのだが、今の話を聞いた瞬間、頭の中で何かを想像したのだろう、
「もし、組み立たらなかったら」
「永久にこの世からおさらばさ」
「まだそれならいいさ、組み立ってもうまく組み立たらないと、その壁やこのカウンターにめり込んでいる時もあるぜ」
壁と人間の融合。
「お前、少し離れろよ。俺、お前のようなバカとは融合したくない」
「あのよ、一メートルぐらい離れたところで、かわんねぇーんじゅねぇーのか」
この守衛たちの会話を少し離れたカウンターで聞いていたハルガンとケリン。
「大事なのか、あいつら。あれでネルガルとの戦闘になった時、使えるのか?」とハルガンは、絶望に近い溜め息を吐く。
「まあ、早めに訓練しておいた方がいいですね」
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2009/09/06(Sun)22:49:55 公開 / 土塔 美和
■この作品の著作権は土塔 美和さんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
今日は、ここまでお付き合いください有難う御座います。いかがでしたか。ここで注解。私の宇宙船はアインシュタインの原理では動きませんので、あしからず。とりあえず、舞台は銀河系。私達が住む天の川銀河ですら直径が10万光年はあると思います? よって光速以上の速度が出ないと物語が進展しませんので、物理にうるさい方、許して。では、コメントお待ちしております。
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
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