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『ジョビネル・エリンギ3 第二話』 ... ジャンル:未分類 ファンタジー
作者:木沢井
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あらすじ・作品紹介
大きく分けて三つの流れに身を置く者達。集い、反発し、共謀し、裏切り、またそれらから身を置く者達。大きな流れに交わらず、小さな本流である者達。志は違えど、一時とは言えど、爪先を揃えた者達。これからは、そうした数多の人間が織り成す物語である。
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第二話 【その力は何のために】
ある所に、オオカミがいました。白い毛の、りっぱなオオカミでした。
オオカミは、自分が一匹でいるのが好きだと思い、ずっとそうしていました。
ある時オオカミは、たくさん傷のある、小さな子犬の女の子を助けました。
子犬は、一言もしゃべりません。にこりともしません。
みんな、そんな子犬が嫌いでした。だから、子犬は、ますますひとりぼっちでした。
オオカミは、子犬を「かわいそう」とはちっとも思わないふりをしました。ちょっとぐらいは助けてあげましたけれど、あまり近寄らないようにしていました。
だけど子犬は、そんなオオカミの、小難しいリクツなんて分かりません。ただじっと、オオカミのそばにいます。
オオカミは、こまりました。ほんとうはオオカミも、子犬を助けてあげたかったのです。
だから、オオカミはなやみました。本当に、なやみました。
子犬は、いっときもオオカミからはなれません。少しおかしくなった目は、ずっとこちらを見ています。
こまったオオカミは、とうとう根負けしてしまいました。
しかたがない、とオオカミは思いましたが、絶対に口には出しませんでした。
しゃべらないオオカミと、しゃべれない子犬のおはなしは、こうしてはじまったのでした。
1【月下に歩む】
頃合いは深夜。寝待月は天頂目指して弧を描きつつ昇り、星はその周囲で無数に輝く。雲という、余計な遮蔽物はどこにも見当たらず、天は眺めるに相応しい荘厳さ、静けさを呈していた。
ただ、皮肉にも地表はそうでもなかった。
月下に、家屋を震わせる咆哮が再び木霊した。
背中を頑丈な柵に託して、男は手にした長大な得物で振り下ろされる、太く毛むくじゃらな腕を薙ぎ払う。
次に上がった咆哮は、絶叫であった。
男も叫ぶ。血を流し興奮する『それ』に臆するどころか、息つく間も与えず跳躍し、右手から現れた三頭めの喉を掻っ切る。続けて、眼前のものを。
男の選択は正しかった。『それ』を相手に怖気づき、退くことは死に直結する。猛攻を掻い潜ってでも『それ』の懐へともぐり込み、彼らの腕では庇えぬ正中線を一撃で貫く以外に勝利はない。
男は迅速に――そして確実に、神業に等しい芸当を発揮し続けたが、当然そのようなものが長らく続けられようはずがない。男は人間であり、あくまでもその延長でしかないのである。
息が乱れる。膝から脹脛(ふくらはぎ)にかけて鈍痛がまとわり付き、何度か横殴りの一撃で吹っ飛ばされていた体は軋む。
限界に近いと訴える体を無理矢理に動かし、男は真っ直ぐに背筋を伸ばし無言で正面の森を睨み付ける。
ここで疲労を気取られてはいけない。肉食獣は油断した獲物から襲う。――そんな理屈ではなく、本能的な直感から男は理解し、実践していた。
次が来る。やはり体力が回復しきっていないことを見抜かれていたらしい。
眼前に迫る五頭が牙を剥き、咆哮を上げて猛進する。
得物を握り締め、男も負けじと髪を振り乱し咆哮する。
“化け物”は、果たしてどちらか。
●
平原を越え三つの丘を通り、湖を迂回した先に広がるのは、周囲の宵闇よりも黒々と聳えるブルカン山脈。
ジィグネアル東南部から東北部を貫き、リグニアを東西に二分する最大の山脈を数里ほど前に、ジークは足を止めると鋭過ぎる視線を彼方の山脈にやる。
「む……」
長身で余分な肉のついていない、理想的な体格。マントの下には一度取り替えられた、それでも古ぼけた旅装、左手にはずだ袋、腰から下げているのは標準を二回りほど上回る一振りの長剣。簡素な装備だが、銀髪と眼帯という特徴的な要素を持っており、どこにいてもひどく目立ちそうであった。
(今日はこの辺りで野宿した方が無難だな)
(肯定)
(登山危険)
と、分割された自身からの同意を耳に入れつつ、ジークは背後の少女に「ミュレ」と呼びかける。
「……ん」
藍色の前髪から眠たげな同色の瞳をジークに向け、異様に長い二房の三つ編みを有した少女――ミュレは一文字、吹き抜けていった秋風の音にさえ掻き消されそうな声を発する。
ミュレの背丈はジークの肩ほどしかない。起伏に富んだ体とは裏腹に、足首まで届く滑らかな髪に包まれたあどけない顔は、街中を歩けば見る者全員が振り返らずにはいられないのだろうが、ミュレのからは無機質な面立ちはジーク以上に愛想が感じられず、人形か、精巧な肖像画のように見える。
この少女がとある町で“化け物”と恐れられ、迫害と評するのも生温い扱いを受けていたなど、誰が想像できただろう。
「今日はこの辺りで野宿する。適当な場所を探すぞ」
「……ん」
了承したのか拒んだのかはさて置き、どうにか返答を聞くと再びジークは歩き出す。煉瓦で舗装された道路に、ジークの足音に少し遅れる形で、ミュレの足音が彼の足音に混じり始めた。
秋の夜ということもあってか、涼しげな虫達の声が所々から聞こえてくる。無音ではないのだが、虫の音も風にそよぐ草葉の擦れる音も全てが入り混じっていて、やはり静けさを覚える。
二人の間に、会話はない。仲が悪いからではない。互いに話しかける気がないだけなのだ。
ある意味当然と言えば、当然のことだった。
「…………」
実利主義、合理主義者を標榜するジークにとって、不要なやり取りをすることに価値を見出すことができない。話したとしても、先刻のように最低限のものだけである。
「…………」
加えて、諸々の事情からミュレは積極性という語の対極に位置している。先ほどのようにジークが話しかけたりしない限り何もせず、彼が歩く時以外はずっと影のように彼の傍で佇んでいる。
それでいいのか、というか思いがジークの中にないわけではないのだが、現時点ではこれといった問題がないので、気に留めないことにしていた。
(先憂)
(同意)
(ゆくゆくは教養も情緒も豊かな人間に育てるようにしてやればいいさ)
(同意)
(むぅ)
分割思考内でも分かれるミュレへの扱い。それら無機質な声の中で唯一能弁を振るっている『二番』と名付けられた声が、ジークの抱える悩みを浮き彫りにさせる。
ミュレの保護者――それが、今のところジークに追加されている肩書きである。
十日ほど前に立ち寄った町で、ジークは不本意ながらも、当時の彼女を取り巻く環境から解放はすると約束し、そして約束を違えなかった。
その後、厄介払いの意味も含めてジークは別の町でミュレと別れようとしたのだが、そこでまたしても不本意な誤算が二つほどあって、結局うやむやのままにミュレを同行させることに(少なくとも彼女の中では)なっていた。
ミュレを引き剥がすことが現時点では不可能だと悟ったジークは次善の策として、二番が言うほどではなくとも、自分がジークから離れなくてはならないと理解できるだけの最低限の知識と、どんな職業でもこなせる振る舞い方だけは教えておこうと考え、仕方なく身元に置くことにしたのだが、
(前途多難)
(むぅ……)
あまりにも簡潔で的確な七番の表現に、ジークは唸るしかなかった。
ミュレを同行させる最大の理由の一つである、彼女の語彙の乏しさは予想以上のものであった。
幾らか会話して分かったが、ミュレは身近な名詞や動詞は幾らか覚えているようだったが、最低限の挨拶すらも知らなかったか、使えずにいたのである。
これにはさしものジークも頭を抱えた。ミュレの現状は、ジークの思惑から何もかも遠過ぎるのだ。
(一朝一夕では何も身につかん。今奴に必要なのは時間だ)
(同意)
短時間で物事を終わらせる秘訣は、楽をしようと考えないことである。焦って手を抜くよりも、多少時間がかかっても手堅く積み重ねていけば、最終的には望ましい結果を手中に収めることも不可能ではない。
そうしたことを由とするというジークの趣向もあったが、どの道それはミュレと早く別れてしまいたい、誰かに世話を押し付けてしまいたいという意図に他ならない。
「ミュレ」
そうした事実は全て隠し、ジークは傍らに佇む少女へと声をかける。
その手が示すのは、川べりに僅かほど広がる、草の生えていない剥き出しの地面でできた空き地。
「あそこだ。あの場所で休むぞ」
「……ん」
帰ってきたのは、相槌とも呼べなさそうな、微かな発音であった。
空き地の地面は、雑草が疎らに見えるだけで、思っていたよりも固かった。きっと以前に他の誰かが野宿に使って以来、ずっと使われているのだろう。半ば砕けつつ、小さく重った薪の燃え残りなどの焚き火跡が、それを物語っていた。
川を注視してみると、昼間に迂回した湖に向かって不自然な直線を形成している。舗装された道路にしても、商業大国リグニアが建国時から継続させている利便性への飽くなき情熱が、こうした形でも現れていた。
同時に、数日前に見てきたこの国の暗部も、ジークには見えていた。
(水の心配はいらんな)
(同意)
しかしジークはそれ以上気に留めず、川の水を手で掬うと口に含んだ。秋の夜とはいえ、歩き通しで火照った体の中を流水が通り抜けていくのは気持ちがよかった。明朝に出立する前に汲んでいこうとジークは考えた。
「ミュレ」
「…………」
呼びながら手招きすると、ミュレは距離を縮め、互いの肩が触れ合いそうな所まで寄ってきた。
「水を飲んでおけ。疲れが取れる」
「……ん」
緩慢な仕草で身を屈めるミュレを背に、ジークは野営の仕度を始める。
だが、
「む?」
不意に聞こえた水音に、ジークの眉根が寄る。
聞こえた水音は、明らかに人間ほどの質量を持った物体が着水した時のものだったのである。
(まさか)
(不吉)
嫌な予感に突き動かされて、ジークは振り返った。
その先にミュレの姿はなく、川面は乱れて月明かりを散り散りに跳ね返していた。
(上体を傾けた際、乳房の重みで重心を崩したものと推測)
(可能性大)
(たしかにあの大きさだと転倒しやすそうだな)
といった分割思考のやり取りも無視し、ジークは闇夜に隻眼を凝らす。
「む」
見つけた。
「…………」
背中を揺らめく水面に覗かせながら、ミュレは川下に向かって静々と流されていた。身動き一つしないその様子は、傍から見れば完全に溺死体そのものである。
「ミュレ」
名前を呼ぶと、少ししてからミュレは川の底に足を付け、体中から水滴を垂らしながら立ち上がった。まだ川べりの方だったからよかったが、もしも流れの中ほどであったら足が届かない可能性があった。
(どうやら無事のようだな)
(む)
水を掻き分け川を遡りながら近寄ってくるミュレに、一応ジークは「ミュレ、大丈夫なのか?」と尋ねた。彼女は全くと言っていいほど自己主張をしないので、何かあればその度にジークが逐一状態を確認してやらなくてはならないのだ。
岸に引き揚げると、簡単な視診と触診を行う。ミュレの体には水や沈殿物による痣や外傷は見られない。念には念をと口腔内や鼻腔も確認したが、そちらも問題はないようだ。
「……次からは、川に落ちんよう気をつけろ」
「……ん」
ミュレが頷いた頃には、既にジークは火を起こす準備を整えていた。
●
そうした一連の様子を、ジークらのいる川岸とは反対側の岸でじっと息を殺しながら身を隠し、覗いている子どもがいた。
年の頃は十になったばかりか。小柄な体つきに相応しい、あどけない顔立ちをしているが、その表情だけが不自然なまでに緊張感に満ちていた。
(……も少し、近寄っても大丈夫かなぁ?)
子どもは、ジークとミュレを観察していたようだった。
いや、子どもに与えられた役目を考えれば『監視していた』と言うべきだろうか。
子ども――幼くして【翻る剣の軍勢(レ・コンキスタ)】と呼ばれる組織に身を置くヴィルは、ディノンという大男からジークらを追跡しつつ、途中経過を報告するようにとの命令を受けていた。
(でもあのジークって人、結構カンがよさそうだもんなぁ。ヘタなことはしない方がいい気がする)
少ないながらも隠密行動や密偵を任されてきたヴィルは、師匠にして恩人でもある、尊敬してやまないディノンの期待に応えられるとあって張り切った。ディノンやレオーネから一人前だと認めてもらえるためなら、馬車に轢かれかけようとも怖くなかった。
(……流石に、死にかけたけどね)
と、ヴィルがどこか遠くを見るような顔をして眺めていた時であった。
「?」
ジークが、何やら気にかかる動作を始めたのである。
慌ててヴィルは、特徴的な瞳孔をした眼を凝らす。力では兄貴分であるスミスや、尊敬するディノンには及ばないが、こと眼に関しては闇夜に眠る烏さえ見分ける自信があった。ましてや、今夜は月も星も出ている。見逃すはずがないのだと、ヴィルの内心は子どもらしい自尊心でいっぱいになっていた。
ジークは手近な大きさの石を拾うと、ずだ袋から小さな壷状の物品を取り出した。
(何だろう? どこかで見たような気もするけど……)
ヴィルが記憶を引っ張り出そうと頭を抱えて悪戦苦闘している間にも、淡々とジークは奇妙な作業を進める。
大きなずだ袋から、燃料となる火口らしき道具を出したのは分かった。その辺にある薪の焼け残りを集め、火口をそこに敷き詰めたのも分かった。
(んー……?)
問題となるのは、その先である。
火打石を出すのかと思われたが、何を思ってかジークは先ほどの石を放り投げた。ただそれだけのはずなのに、
(――っええ!?)
ヴィルは利口だった。声が出るより一瞬早く、理性が口を塞ぐ。
(な、ななな何やったの!? 今さっき、石を投げ込んだだけでしょ?? なのに何で――)
明々と、炎はジークを照らし、ヴィルに向かって黒々とした影を伸ばしていた。
●
「服は脱いでおけ」
というジークの問題発言に眉一つ動かさず、ミュレは身に着けていた衣服をぎこちない手つきで脱いでいく。途中で異様に長い三つ編みが邪魔になったが、それはジークの手を借りて事なきを得た。
下着も脱ぎ捨てられ、下から現れたのは、もはや芸術の域に達していると言っても過言ではない、若々しくも成熟した肢体。川の水に濡れた髪がまとわり付く様子は、月光の下で見ると神々しく、一層ミュレが人ではないように思えた。
(脱げと言っておいて何だが、やはりあっさりと脱ぐな)
(体調を崩された方が面倒だ。今回はそうも言ってられん)
(同意)
羞恥心について教える際、どこまでを最低限に設定するかと考えつつ、ジークはマントを外した。
「乾くまでの間、これでも着ておけ。冷えるぞ」
いつもと変わらぬ口調でジークは告げると、相も変わらずぼんやりとしているミュレにマントを渡す。
「……ん」
渡されたマントとジークの顔を何度か交互に眼球だけで見比べていたミュレは、「ジーク」と前触れもなく言った。
「む?」
「あ り……」
何度もミュレは、口を動かす。時折止まるが、暫くするとまた動き出した。
ジークは何も言わずに、そうしたミュレを真っ直ぐに見つめていた。
「……ありがとう」
「む」
正しく発音できたことを確かめると、ミュレの頭を撫でてやる。
「……いい?」
「む」
確認してくると、もう一度、今度は少々乱暴に、掻くように撫でてやった。犬の躾に近い感覚でやっていることなのだが、何も言わずに受け入れているので続けてみた。
(……何をやっているんだ、俺は)
(同意)
急に馬鹿らしくなり、十秒ほどでやめたジークは、ミュレにマントで体を拭いておくように伝えると、火口と壺らしき物をずだ袋にしまい、その代わりにまたしても風変りな物品を取り出した。
ジークが取り出したのは、彼の足首から腰ほどの長さを持った二本の棒と、麻縄。マントと組み合わせて簡素な天幕を作る時の部品だが、別の使い道もある。
焚火から適当な距離にある所に棒を突き立て、それぞれの上端に麻縄の両端を結び付けた。即席の物干しである。
「ミュレ」
少女の藍色の瞳から意思の光が感じられるようになると、ジークはミュレに、己の周囲に散乱している衣服をこちらに渡すようにと言った。自分で拾い集めてもよかったのだが、これもまた教育の一環と内心で嘯いていた。
「……ん」
ぎこちない動作で立ち上がった矢先、滑らかな肩からマントがずり落ちてしまった。巻きつけ方が緩かったのだろう。
「ミュレ、動くな」
「……ん」
彫像のように中腰の姿勢で静止するミュレの体に、ジークは今度こそずり落ちないようしっかりとマントを巻き付け、結んでやる。
「こうやって結ぶのだ。分かるか?」
と確認するのだが、ミュレは無反応であった。
(条件)
(む)
分割思考に言われて、ジークは思い出す。ミュレは自分の名前が呼ばれないと、話しかけられていると認識しないのだ。
「ミュレ」
「……ん」
案の定、ジークが名前を呼ぶと、ミュレは数秒ほど間を空けただけで反応を示した。この辺りも、ジークの頭痛の種である。
嘆息しつつ、ジークはマントの結び目を解き、「よく見ていろ」と念を押した上で再度巻き付けてやった。
「こうすれば、マントは落ちん。分かるか?」
「……ん」
十秒ほど沈黙していたミュレは、糸が切れてしまった操り人形のように頭を垂れ、ゆっくり戻してジークを見つめる。
「む、そうか」
本当に理解したのか分りかねたが、今はそれほど追及するつもりもないので、ジークはミュレの衣服を拾い集めて即席の物干しにかけると、またもやずだ袋から何かを取り出す。こうして物を無駄なく詰めるよう計算するのも、分割思考の役割の一つである。
出てきたのは、ジークの顔ほどの大きさの、質の悪い紙に包まれた半円のパンを取り出した。二日前に、ミュレを押し付ける予定であったパン工房で買ったものである。大きさの割に安かったので、その分味もないことに目を瞑って買った代物である。
「……む」
「…………」
呼んだ覚えもないのに、いつの間にかミュレはジークの傍に座って、じっとパンを見つめていた。何を考えているのか把握しきれていないが、食欲だけは人並みかそれ以上にあるらしい。
「ミュレ」
そんなミュレの鼻先に、ジークはパンを突き付けこう言う。
「これは、何だ?」
「…………」
小首を傾げたミュレは、そのまま固まってしまう。
ジークは何も言わずに、ミュレが答えるのを待つ。肝心なのは、すぐに答えもパンを与えてしまわないことである。
暫くは薪の爆ぜる音や、虫の音ばかりが聞こえていたが、そこにやっと、か細い少女の声が混じる。
「……パン」
「む」
まずは、一つ。
「では、どのようなパンだ?」
続いて、掘り下げさせる。
「…………?」
ミュレは首を傾げて固まっていたが、二十秒経過しかけた時に変化が起きる。
「……しろ」
音の連続にしか聞こえない口調で紡がれたのは、色彩の一種を表す名詞。
「む」
昨日に初めて試みた時は三十秒近く経過していた。それと比較すれば、十秒近くも縮めてきている。『餌』に釣られてとはいえ、それなりの学習能力を持ち合わせているらしい。
「ではミュレ」
折角なので、その学習能力をもう少し使ってもらおう。
「このパンは、どのような形をしている?」
「…………」
今度は、口も開かなかった。念のためにもう一度だけ問いかけるが、それでもミュレは何の反応も示さない。
(まだ無理があったか?)
(それならそれで構わん)
咄嗟の閃きを、ジークはためらわずに実行する。
「答えられんなら、俺が全て食う」
「…………」
例によってミュレはすぐに反応を示さないが、それこそがジークの狙いである。
食物に関してはそれなりの速度で反応するミュレのこと、目の前で『もらえるはずの』パンを食われれば、少なくとも何かしらの行動に出るはずである。
「…………」
はずだった、のだが、
「む」
「…………」
ミュレは食べるそぶりを見せるジークの眼前、パンの下端辺りに小さな口を開けて齧り付こうとしていた。
「……ミュレ」
「……ん」
口を開けたままという間抜けな姿のまま、ミュレはか細い声で応えた。
「お前の分は、ないぞ」
「…………」
炭の爆ぜる音が、やけに大きく聞こえた。
「……ない?」
「む」
二十秒ほど経ってから発された問いに、ジークは容赦なく頷いた。
「言っただろう、答えられなければ、俺が全て食うと」
「……ん」
表情一つ変えずに、ミュレは頷いた。本当に異存ないのか単に何も考えていないのか、表情からは判断できない。
(後者である可能性大)
(七番に同意)
(同意)
(同意)
(……む)
最も低い確率を反転させ、『最も高い可能性』として扱う三番にまで同意されていた。
「よってお前に今夜食わせるパンはない。以上だ」
手早く言い切ってミュレから離れると、改めてジークはパンに齧り付いた。作られてから日が経っている上に味付けをしてから食べるパンなので味など最初からないのだが、腹の足しになればジークは気にしない。必要な栄養は丸薬にして携帯しており、後で摂取すれば済む話である。
「…………」
強いて問題を挙げるとすれば、先ほどから向けられている一対の視線ぐらいだろう。
「……ミュレ、言ったはずだ」
口に含んでいた欠片を嚥下し、ジークは冷たく言い捨てる。
「答えられれば食わせる約束だ。よって、お前に食う資格はない。それは、分かるな?」
「……ん」
微かな声量で答えるも、視線は未だにパンとジークを映している。
「睨んでも無駄だ。お前はこのパンの形を答えられなかった。答えられん者には、俺はパンをやらん」
そう言ってジークがパンを食べている間も、ミュレが動くことはなかった。
「……む」
パンの残りが四分の三から半分にまで減った時、ジークは重ためのため息を一つ吐いて「ミュレ」と呼ぶ。
「よく聞け。そしてよく見ろ」
ジークはひとまずパンをずだ袋に乗せると、指先で地面に円、三角形、四角形と、順番に描いていく。
「これは、円い」
円を示し、ジークはゆっくりと、ミュレが聞き取りやすいように言う。
「ミュレ、言ってみろ。『これは、円い』」
「…………」
木炭の爆ぜる音が聞こえる中、首を傾げているミュレは口を半ば開いた状態で固まっていた。その視線は相も変わらずジークに向けられており、図面に興味を持っていないことは明白であった。
「ミュレ」
「……ん」
ミュレの眼に焦点が見える間に、ジークは指示を出したりパンを地面に近付けるなどして、ミュレの意識を足元にある図面へと向けさせる。
「これが、円だ」
「……えん」
この一単語を言わせるだけのことで、ジークは早くも心労を覚えずにはいられなかった。
「む、それでいい」
他所の焚火跡から、また新たに拾ってきた木炭を放り込む。炎は炭化した薪を飲み込むと、生き物であるかのように勢いを取り戻す。
「ミュレ」
「……ん」
「『円』とは、『円い』という意味だ」
「ま る い」
かつて謝辞を教えた時と同じく、ミュレの言葉は独立した発音の連続にしか聞こえない。意味あるように聞こえても、本人がその意味を理解していないのである。
「……いい?」
「む」
じっとこちらを見つめてくるミュレに、ジークは頷いた。合格と評するにはほど遠いが、無反応に比べれば充分ましであると言える。
もう一度だけ言わせてみて、答えられたなら褒めてやってもいいとジークは考えた。
「ではミュレ、この三つの中で『円』はどれだ?」
「…………」
視線を俯けたミュレは、三つの図形を前に再度固まる。
(成功すれば言うことはないが……まあ、失敗しても飯抜きを施工するだけか)
(む)
他人事のような物言いの二番に対し、ジークは適当に相槌を打っておく。
どの道、ミュレの成否でジークに損害は発生しないのだ。
「これ……まるい……いい?」
薄く色付いた柔らかそうな唇が、微かな声量で途切れがちに言葉を紡ぐ。
ミュレがジークとの離別を結果として拒み、旅に同行するきっかけとなったあの時と同じで、これが今のミュレの精一杯なのだろう。
「……ミュレ」
「……ん」
滑らかな藍色の髪を梳くように撫でてやりながら、ジークは彼女の眼前に半分ほど残ったパンを見せる。
「このパンは、どのような形をしている?」
「…………」
藍色の宝玉のような瞳にパンとジークを移し、ミュレは首を傾げた。考えているのかいないのか、絵画か彫刻のような無表情からは何も読み取ることはできない。
ゆらゆらと、火影がミュレの顔の上で踊っている。光と影が互い違いに入れ替わる様子は幻想的と言っても差し支えないものだったが、生憎とジークには芸術を解する心はない。
「……ミュレ」
痺れを切らしたジークは、焚火に木炭を突っ込むと地面に描いた円を見せる。
「これは、何だ?」
「……えん」
十秒ほど経ってから、ミュレは答えた。
「円とは、何だ?」
「……まるい」
二十秒ほど費やしてから、ミュレは答えた。
「それでは、これは?」
「…………」
ジークの持っているパンを見つめていたミュレの、半開きだった口がようやく動いた。
「……えん」
「む」
一応の進歩を見せたミュレの頭にジークは手を乗せ、五分の一ほどを千切って与えてやる。五分の一と言っても元が元なだけにそれなりの大きさなのだが、外見に反して食の太いミュレなら何の問題もない。
早速、小さく開けた口に黙々とパンを詰め込むミュレに、ジークは忘れず問いかける。
「ミュレ、人から物をもらった時はどうするんだ?」
「……あひ、がほふ」
飲み込まずに喋っているのか、ミュレは聞こえにくい声量に加え、聞き取りづらい喋り方で述べた。
「……物を食いながら喋るな」
「……、ん」
パンを齧りながら頷くミュレに、ジークは自身の額に手をやる。
(やれやれ、だな)
(言うな)
教えなくてはならないことがまだまだ山積しているのだと、ジークは改めて実感した。
●
煌々と月が照らす夜の街道を、一台の巨大な馬車と巨大な馬が、もう一組の男女を乗せて走っていた。
「なあ、姉ちゃん」
御者台で手綱を執っていた少年が、隣に腰掛ける姉に話しかける。
年の頃は十代の半ば。浅黒い肌に栗色の髪で、瞳は鳶色。中肉中背に麻と木綿の上下という、凡そ面白みも特徴もない外見だが、一つだけ不審な点があった。
ベルトによって左肩から右脇にかけてある、鞘に収められたい本の片手剣である。どうやらこの少年が、馬車の護衛役を兼ねているらしい。
弟に話しかけられた姉は、眠たげに両の目を擦りながら「んん?」と応じた。
「どうしてさ、あの二人連れをあれだけのお金で助けようと思ったんだ?」
弟が言う『あの二人連れ』とは、二日前に姉が殆ど気紛れに(安く)協力してやった逃亡者達のことである。
姉が決定したことなので深く考えていなかったが、外見もさることながら、大柄な銀髪の剣士と小柄だがふくよかな体つきの少女という組み合わせも、それぞれが漂わせている雰囲気も、全てが奇妙と言えた。
「さて、どうしてだったかねぇ」
後頭部でまとめた髪を乱雑に掻きながら、姉ははぐらかすように言う。朝の弱い姉のため、きれいにまとめてやってるのだが、ああやって掻くから昼過ぎには台なしにしている。
「予感がしたから、かね」
「予感?」
話が飲み込めていない弟に、姉は簡潔に頷いた。
姉の方は、弟よりも一回りくらい年上に見える。二十代の半ばかそれより上だろう。髪や瞳の色は弟と同じだが、切れ長の目は眠たげながらも利発そうな光を宿しており、弟とは一線を画す風合いがあった。身に着けているのもゆったりとした黄色い丈長の長衣を腰から腹の辺りで、幅広の帯を用いて留めていたりと、かなり個性的ないでたちであった。
「ま、そんだけだよ」
「へぇ」
どうにも引っかかる物言いであったが、弟はそれ以上追及しなかった。姉の言動の裏には必ず何かしらの理由や目的があるのだろうし、そのことを下手に訊きまくると殴られる虞があった。触らなければ、神に祟られることもないのだ。
「あの兄ちゃん、今頃どうしてんのかな」
「どっちかっていうと、あんたの目当てはあの巨乳っ娘なんだろ、ルーカス?」
「!?」
気管に入った水で噎せながら、ルーカスは懸命に口をもごもごとさせるのだが、口でも姉に勝てないと教えられてきた身分として大人しく諦めた。
「やーれやれ、図星かい? あんたもまだまだ青いねぇ」
当然、そうした内情をしっかりと把握している姉は底意地の悪そうな笑みを浮かべて追い討ちを仕掛けてくる。
「ま、気持ちは分かるけどねぇ」
「な、何だよ、悪いのかよ」
嫌な笑みを浮かべている姉に、ルーカスはつい反応してしまう。
「別に悪かないさ。ただ、よく大っぴらにできたもんだねぇとは思ったけどね」
「……ぐ」
ししし、と歯の隙間から息を漏らすような笑い方。機嫌がいい時に出る、姉の癖だ。
「ま、ボケーっとしてなきゃ何だっていいよ」
じゃ、おやすみと姉は手を振り、馬車の片隅に固定されたベッドにもぐり込んでいった。
寝息が聞こえてくるまで、さして時間はかからなかった。姉は寝起きが悪いが寝つきはいいので、このまま朝まで平穏な時間が続く。
「……やれやれ、やっと静かになった」
取り付く島もないないほど理不尽な姉の言葉に、ルーカスはため息を吐きながら苦々しい表情を作っていると、いつの間にか馬車が止まった。
馬車馬のギデオが首だけで振り向いていて、月下でも黒々とした眼をこちらに向けていた。
理解すると同時に、ルーカスは腕を伸ばして姉弟の愛馬の背を撫でてやる。ブルル、とギデオは鼻を鳴らすとルーカスを再び見つめる。
「お前だけだよなぁ、俺のことを慰めてくれんのは」
「あんたが妙ちきりんな空気を出してっからだろーに」
ギデオの健気さに熱くなりかけていたルーカスの目尻は、馬車の中から放たれた姉の心ない一言によって一気に冷え固まった。
「……いつ起きたんだよ、姉ちゃん」
「ハン、こんな時におちおち寝てられっかいね」
弟の背後から鼻を鳴らした姉は、「見な」と言って街道を指す。
いつの間にか、街道の舗装が灰色のものから黒っぽいものに変わっていたのである。
「蹄の音が変わったと思ったら……やっぱり当たりだ。ここからはアルトパじゃない、別の地方だよ」
暫くの間、馬車の中で物音がしたかと思うと、姉は一枚の地図を持ってルーカスの隣に座った。
「ほれ、ここさね」
「どれどれ……」
姉が見せていた地図は、リグニア南部のものであった。姉の指が示す先には『エタール地方』と、アルトパ地方の隣に書かれていた。
「あたしらが今いんのは、山沿いの『聖ジョーンズ第四街道』。月の位置と地図を見比べりゃ、こっから一番近い村は――」
姉の指先が、今度は街道から少し外れた方角、方位にして南を指し示す。
「……んー?」
ルーカスが目を凝らすと、緩い丘と黒々とした山の間に月と星明り以外に一つ、赤々とした点があった。ルーカスの距離感に狂いがなければ、ギデオの足で半刻もかからないはずである。
「あふ……っ、コナーの村だとさ」
欠伸をかみ殺しながら、姉が補足する。
「村かぁ……宿、開いてるかな?」
「でなけりゃ叩き起こすまでさね。あちらさんよりこっちの事情だよ」
「へいへい」
呆れた様子で返したが、ルーカスは姉の意見そのものに関しては異を唱えない。言動は滅茶苦茶だが、姉のやることが正しかった場合が多いのだ。
「よーしギデオ、あすこまで頑張ってくれるよな?」
ルーカスがそう言葉をかけてやると、ギデオは鼻を鳴らして右前脚で地面を軽く掻いた。頑張れる、という意思表示である。
無理するなよ、といった心配が必要な間柄ではない。互いに固い信頼で結ばれていると分かっているルーカスは手綱を打ち鳴らし、それを受けたギデオは再び駆け出した。
しばらくは虫や蛙、時に街路脇で獣が草むらを揺らす音を次々と背後に置いていった馬車は、いよいよ村の全体が見えそうな所にまで辿り着いていた。
遠目には分からなかったが、村は黒々とした山を背景に、小高い丘の上に策を造ってあった。
「そーいやさ、姉ちゃん?」
「んん?」
姉の寝起きの悪さを嫌というほど心得ている弟は、彼女が寝てしまわぬようにと話題を提供する。
「村の明かりってのは分かってんだけどさ、門の所だけ明かりがちょっと強過ぎやしないか?」
村との距離が縮まってきているのだろう。最初に見えた村の光以外にも策の向こうから見える、弱々しい光が少しずつ増えてきて、小さな星のように瞬いているのだった。
「ふぁ……あ、なんだい、ありゃ篝火じゃないのさ。守衛か何かが焚いてんだよ」
「こんな時間に?」
「こんな時間だからこそ、さね」
「?」
ルーカスが首を傾げていると、ったく、と姉は弟の出来の悪さに露骨なため息を吐く。
「夜更けに仕事をしてんのは、どんな輩だい?」
「貧乏人」
その直後、姉による鉄拳制裁という名の教育が施される。
「っっ〜〜〜!」
「……で、他には?」
脅しつけるかのように掌をひらめかす姉を前に、ルーカスは脂汗混じりに「と、盗賊とかか?」と、ようやく姉を満足させる答えを搾り出した。
「ほれ、守衛っぽい連中も見えてきてんだろ?」
そう言って姉が示す先、二十日の月に照らされた村の入り口らしい場所には、光をくり抜いたかのような人影が二つ、篝火の脇で杖か槍らしき物を持って立っている。
「ああ、あれ」
「そうさね」
他人事のように眺めていたルーカスは、一つの案件を思い出した。
「そーいやさ、姉ちゃん」
「んん?」
「このまま行って、俺達怪しまれないかな?」
起きていても眠気には叶わないのだろう。半眼でルーカスを睨む姉の形相は、どう控えめに形容しても穏やかなものではない。
「そん時ぁ、あたしが何とかするさね」
「了解っス」
そんな姉にも慣れている弟は、いつものように相槌を打つ。
髭面と豚面の守衛は、真っ直ぐにやってくる馬車を見据えていた。
「停まれ」
髯面の守衛が言った。
「こんな時間に怪しい奴らだ。名を名乗れ」
姉弟の想像していたものと一字一句違わない、お決まりの問いかけであった。平然と姉が、こう答えた。
「あたしらは行商人さね。アルトパで国境を抜けて、ドルトムントから来たのさ」
二人の守衛は顔を見合わせた。ドルトムントとは、リグニア西方と隣接するヴァンダル帝国の一地方都市である。
「ヴァンダルから来たと言うなら、証拠を見せろ」
「ついでに積荷もだ」
当然、この姉の言葉だけでは信じる訳にもいかない。武器を持っていない左手を突き出す豚面に、姉は勿体つけるように馬車へと引っ込み、一枚の板切れを携えて出てきた。
「ほれ、これが通行手形と許可証。積荷は……ま、こいつで勘弁しとくれな」
「なに? 何を訳の分からんことを――!」
許可証と手形の最後の欄、許可を受けた人物の名前に目が行った時、豚面、髭面の順に目を丸くした。ちょっと間抜けで面白いな、とルーカスは表情には出さずに思った。
「か、カミューテル? お前らがあの『カミューテル姉弟』だってのか!?」
「てことは、あんたがレナイア・カミューテルか?」
「そうともさね」
興奮気味に自分達の名前を口に出されたことに気をよくし、姉――レナイアは得意げに胸を逸らしてみせる。
「じ、じゃあ熊を素手で殺したって本当なのか?」
「口先だけでヴァンダルの都市一つを丸々支配したって噂は?」
豚面と髭面が口にした内容に、さしものレナイアも眉間にしわを寄せた。
「ちょ、何だいそりゃ? ンなの全部根も葉もないっていうか、そもそもどっから来たんだいその噂は!?」
「ははは、でも結構ちゃんと伝わってるほ――ぅぐぇ!?」
「うるっさいよ!!?」
躊躇遠慮なく下顎を撃ち抜いてくる姉によって、ルーカスは危うく舌を噛みそうになった。
豚面と髭面が、呆れ顔からようやく苦笑いに変わったのは、崩折れていたルーカスが目を覚ましてからであった。
●
衣服や下着が乾くまでまだ時間がかかりそうだったので、ジークはミュレにマントは借りたままでいいから寝るようにさせた。
「……ん」
短く、というか一つ発音で頷いたミュレは、現在ジークの傍で背中を丸めて寝ている。すぐ近くにいるにもかかわらず、寝息が殆ど聞こえないことに驚いたのは、一昨日の晩の話である。
「む」
火が少し弱まってきたので、焚火に木炭を追加する。
危険性などの理由から、ジークは野宿の際は明け方近くになるまで決して眠らない。今はミュレがいるためしないが、普段は一晩中焚火の加減を見たり分割思考を磨いたりするだけでなく、剣術を磨いたりもする。
赤々と照らされるジークの相貌には黒々とした、眼帯をも塗り潰す影があった。
(……思い出しているのか)
主格たるジークに、二番が訊いた。
(……ああ)
隻眼に炎の揺らぎを映しながらも、ジークはそれ自体を見てはいなかった。
映っているのは、あの日の記憶であった。
焼け落ちる家々。
次々と上がる、聞き慣れているはずの人の声。
轟々と猛る炎の向こうには、幾つもの黒い影。
それら全てから、逃げた。父の言葉を守り、振り返りたくなる気持ちを抑えて、必ず護れと言われた少女の手を握り、逃げた。
(――「ぁ」――)
その先に、漆黒の影が待っていることも知らずに。
五歳に満たぬ少年に抗う術などあるはずもなく、影は少女を奪い、他の影を伴って炎の中に消えてしまう。
(――「セネアリス!」――)
その声も空しく家の爆ぜる音に掻き消されてしまい、炎の向こうどころか自身の耳にも届かなかった。
それら忌まわしい十数年前の記憶を、ジークは燃え盛る炎の中に見出すようにしていた。
決して忘れてしまわぬようにと、決意が揺らいでしまわぬようにと。
自身が『鉄の柱』であるようにと。
「……む」
気付かない中に、ジークは手の中の木炭を握り潰していた。手に残る破片を払い落した手も、炭で汚れてしまう。
そうやって両掌を凝視している間でも、ジークには焚火の中で強く弾けた炭の一部を掴み取ることは容易い。
手に付いている炭や煤を洗い落しに行こうと腰を上げた時、ジークは視線をミュレに向ける。
「…………」
案の定、上半身だけを起こしていたミュレは、常と変らぬ無表情のままジークを見つめていた。眼窩いっぱいに満たしているとしか思えない瞳の藍色は、揺らめく炎にも染まらずジークを映している。
「……じぃく、ぃる……」
「む?」
寝起きだとさらに舌が回らなくなるらしいミュレが何と言っているのかは、ジークにも分からない。
「ミュレ、いいから早く寝てしまえ」
「ん……」
緩慢な動作で頷いたミュレは、再び冬眠中のヤマネかリスのように背中を丸めて、ジークのマントに包まるのだった。
「……む」
ミュレの衣服が既に乾いていることに気付いたジークは、ミュレを起こしてマントを返すように言うべきか考え、結局やめることにした。
(要確認)
(む)
ジークは注意深く耳を澄まし、ミュレが眠っているかどうか確かめる。普段は反応が鈍いくせにジークが物音を立てれば、それがどんなに小さくとも反応するミュレである。寝息の有無を確認するだけでも一苦労であった。
(……む)
たしかに、眠っている。
ここまで経って、ようやくジークは足音を立てぬよう細心の注意を払って岸辺まで行き、手に付いていた炭の破片や煤を洗い流すのであった。
ふと、ジークは分割思考に洩らす。
(ミュレに進歩があったな)
(同意)
(同意)
一日で反応速度が十秒ほど縮まっていた――こう表すと、何やら恐ろしく感じるが、実際の所はやっと人並みに近付き始めた程度である。ジークの目標である、ミュレが自分の許を離れられるという段階にはまだ遥に遠い。
(明日からは、もう少し語彙を増やさせるか。今日教えた語をどの程度まで扱えるのかも、確かめねばならん)
(要把握)
計画を練る前に、ミュレの能力を確認しておくべきだろう、と三番以下の奇数分割思考を管理する七番が言う。
今のところ、警戒を要するほどの気配は感じない。普段は周囲への警戒や観察に時間を費やしている分割し高だが、今なら減らしても構わないだろう。
油断からではなく、合理的判断から結論を出したジークは、警戒役を五番を除いた五つの分割思考とミュレの教育方針についての話し合いを始めたのだった。
まず最初に意見を述べたのが、ミュレを最も遠ざけようとしている六番であった。
(対象は語彙貧弱。よって語彙の拡充を優先し、意思伝達を容易に運べるように勤めるべき)
(内容には同意するよ。だがそのためにも、まずはリグニア語の基本的な発音を少しずつ教えていくべきではないか?)
それを受けて、ミュレの同行には寛容な態度を見せる二番が慎重な意見を出す。中立派の三番と四番が、二番に同意していた。
リグニア語を公用語とするリグニア王国は、世界を動かす五大国中でも屈指の商業大国で、後押しを受けている多くの商人達が様々な交通手段を介して他国との貿易を営んでもいる。つまり、リグニア王国以外でもリグニア語は少なからず通用するのだ。その辺りも含めての発言を、ジークも妥当だと思っていた。
それを受けて、六番が三番と四番を非難する。
(三番、四番。軽挙禁物。対象を一刻でも早く我々より離別させることこそ最優先事項である)
(急いても結果は出んぞ、六番。軽挙もだが、拙速もいかんぞ)
(対象は我々にとって害悪以外の何物でもない。害悪は早急に除外すべき)
(それも状況による。今は急くべきではない)
論争の主題が逸れかけているのを見て、ジークが一旦切り上げる。
(……さて、リグニア語の発音を教えることについての意見は?)
(羞恥心の設定)
簡潔に述べたのは、『想像からの創造』――不測の事態を想定し、最も起こり得ない確率を逆転させて扱う役目を担う三番であった。
(対象を社会に適応させるには、不可欠の要素と判断)
(反駁。対象は圧倒的に語彙欠如。よって能力が現状維持のままでは充分な意思伝達はなし得ない)
これに対しては、六番以下五つの分割思考も反論した。
(対象の精神的成熟度は、肉体的成熟度とは対照的に未熟と言って過言ではない)
(羞恥心を仕込むに分には適しているとは言えるだろうが、そもそも具体的な方法が確立していない現時点では優先的に取り組む必要はないな)
四番と二番が、それぞれの観点からも批判する。
(当面延期?)
(む)
この他にも意見を募ったが、出てくるのは二番の意見を補強したものが殆どであった。
(飴と鞭、か)
(肯定)
(補強案としては悪くはないだろう? 人から褒められる喜びを知れば、ミュレだって自ら学ぶようになるだろうさ)
とは二番の言だが、心理的な観点から鑑みればそれなりの効果を見出せそうであった。
(問題点となるのは、如何にして褒めるか――その着眼点)
(む……)
自発性を促すための手段にまで議題が及びかけていたので、一旦ジークが閑話休題を申し出る。
(新たな課題は決まった。その過程で次に繋げる要素も決定した。今日の方針会議は終了だ)
(了解)
二番以外の分割思考が応え、またそれぞれの役割に戻る。一時的に狭まっているように感じていた視界も、再び広々としたものに戻る。
「…………、」
「……む」
ジークの鋭敏な聴覚は、炭の爆ぜる音に混じってミュレが何事か洩らしたのを聞き取った。
ジークと、微かな声量で。
「…………」
変わらぬ仏頂面のまま、ジークはミュレの傍らに腰を下ろした。
自分から引き離すために面倒を看ていたのだと知った時、この人形のような少女はどんな表情をするのだろうか。
ジークは考えかけたが、すぐにやめた。
2【カミューテル姉弟】
*アルバート・フレッチャー著『ジィグネアル地理史T』より、冒頭部を一部抜粋。
公暦一一三六年の五の月。偉大なる若き探険家にして我が知己たるジェームズ・ロビンソン率いる『知恵持てる獅子号』の面々が、遂にベイザントにおける最後の航海より帰還し、数々の調査結果と武勇譚を私にもたらしてくれた。年甲斐もなく興奮し、私は暫く眠れない日さえ続いた。
彼らによる十年がかりの世界一周の業績は大きい。何故ならば、彼らの弛まぬ努力と勇敢なる冒険の日々により、我らの住まう世界は一続きの、想像上の如何なる物より広大で、巨大という表現の相応しい陸地だと判明したのである。
時の五大国の長達はリグニア王都にて彼らの結果報告を耳にし、私達が提出した最新の『世界地図』を目にしたことで、さしもの宗教大国を束ねるウォールゼン卿も納得された。これもまた、偉大な業績として記録に残り続けるであろう。
公暦一一三九年九の月、私達の十年に亘る研究と冒険の日々は、ヴァンダル皇帝オースティン・A・K・ヴァンダルとフェリュースト公国における最高権力者、『聖者』ベリス・S・ウォールゼンの両名によって名付けられた我々の『世界地図』に与えられた名前という形で結ばれた。
当書物の名前ともなっているジィグネアル――これこそが、我々の住まう『世界』の名である。
●
天蓋に鏤められている宝石のような星々は消え、ブルカン山脈の向こうから薄紫色を伴い陽が昇っていた。
頃合いは早朝。夜露に濡れているのは足元の土ばかりではなく、水気を吸って重くなった草の葉木の葉から水滴が零れ落ちる音が聞こえそうなほど、辺りは静かな空気に包まれている。
夜が明けて間もなく、ジークはミュレを伴い、ブルカン山脈に連なる聖ジョーンズ山の麓を登り始めていた。秋の山の空気はしっとりと湿っていて、深く息を吸い込むと口の中に水気が感じられた。林の奥の方では、薄く霧が漂っている。
ジークが目指す場所は、リグニア東端に位置する第二王都セント・リグーノ――海を臨む一大商業都市である。
無論、その道のりは決して短くない。最短距離はブルカン山脈を貫いて造られた、細く険しい未舗装の道を通ったとしても最低三週間。山脈を迂回して南端を経由すれば、約二月は要するのである。
最短距離であるブルカン山道が未舗装のままで半ば放置されているのには、幾つかの理由がある。
主な原因が、ブルカン山脈の天候が度々変化して不安定であること。そのために煉瓦などの舗装材を運搬することは元より、道を切り拓くことさえ困難なのである。
次に、ブルカン山脈には『とある事情』により、十人並みの承認や旅人が用意できる武装では太刀打ちできない脅威が存在すること。これは道の開拓や舗装材の補修にも関係しており、ブルカン山脈に道を造ることをより困難なものにしている。早い話が、リグニア政府にとってブルカン山道を造ることは手間に対して採算が合わないということが判明しているのである。
しかし、そうした判断が下されて数十年が経過した現在も道は踏み固められ、時折現れる開けた空間には、焚火の跡が見られる。
巨大な利権が絡む以上、ましてや他の五大国よりも資本が絶対的な力を持つリグニアである以上、政府が下した判断が必ずしも全体としての総意となり得ない。追われる者と追う者、命を懸けてでも東西へ進まなければならない者――近代に至り、ヴァンダルやフェリュースト、北限を行き交う定期船が増えた現在も、ブルカン山道を使わざるを得ない者達は決して少なくない。
かく言うジークもその一人であり、アルトパに着く頃までは日程を少なくとも二週間程度であると見積もっていたが、この見積もりは大幅な変更を余儀なくされる。
「…………」
現在、ジークの斜め後ろを無言で歩く、ミュレによって。
「――む」
何かに蹴躓いたような不穏な音を耳にするや否や、ジークは素早く背後を振り向き、今にも倒れそうなミュレの腕を掴んだ。
「ミュレ、足元に気を付けろ。転ぶぞ」
「……ん」
例によって微かな声量でミュレは応えるが、ジークは一抹の不安を隠せずにはいられなかった。
いかにミュレがジークの歩調に遅れず付いてこれているほどの健脚であるとはいえ、これから進むのはブルカン山脈に連なる山々である。これまでの平坦な街道とは違い、急な上り下りや。未舗装の道や壊れたままの道が残る危険な道はなるべく避け、本来ジークには必要のない余分な休息をとることを余儀なくさせられる場合も増えるだろう。
(面倒だが、厄介事がこれ以上増えても敵わん。効率を考えれば、現時点での最善の選択はこれだ)
(同意)
(理解)
他の分割思考がジークの決議案に同意を示したのに対し、六番だけが『理解』を示す。合理性は認めるが、それだけであるという意思表明である。
本来ならば多数決に則り、この六番の意見は『修正』しておく必要があるのだが、ジークはこの案件に限り、それをしない。
何故ならば、いずれ彼女をどこかに押し付けることは最早決定事項と言って過言ではないからである。
(そのためにも、早々に学習能力を高めねばならんな)
(同意)
と短く取りまとめ、ジークは早速『教育』にかかることにした。
「ミュレ」
「……ん」
背中越しにジークが呼びかけると、ミュレが僅かに反応を示す。
「疲れたら疲れたと言え。分かったな?」
「……ん」
帰ってきたのは、やはり極小の発音。
「む」
早速ジークは、飴と鞭の使い所を見つけた。
「ミュレ、『ん』では駄目だ」
歩調は全く緩めず、淡々と進みながらジークはミュレの語彙の不備さを指摘する。
「『分かったな?』と訊かれたら『分かった』と返せ」
「……ん」
しかしミュレは、再び一音で返すのみ。
「……ミュレ、『分かった』と言ってみろ。『分かった』」
「ん……」
僅かに語調が変化したことを、分割思考は見逃さなかった。
「『分かった』、だ」
「わか った」
発音がおかしいのは、この際目を瞑るべきか。一瞬考えたが、二番と六番から意見が出る。
(我々は過去の前例から理解できないこともないが、これでは少々問題ではないか?)
(同意。禍根は全て断つべき)
(む)
六番は相変わらず遠慮会釈のない棘を言葉の端々に含めてくるが、その辺りは無視してジークは根気強く、諭すように言い聞かせる。
「もう一度だ、ミュレ。『分かった』」
「……わか、った」
一度目よりは一般的な発音に近付いていた。この調子なら覚えるのも近いだろう。
「『分かった』」
「わかった」
「む、それでいい」
まだ発音が平坦だが、及第点は与えてもいいだろう。
「これからはそう答えるんだぞ、分かったな?」
「ん」
「…………」
とりあえずジークは、撫でていた右手でミュレの頭を軽く叩いた。
「…………」
一方のミュレは、どうして自分が叩かれたのか分からなさそうに、じっとジークを見つめていた。
●
(変な人達だなぁ)
林の中で身を隠しながら、ヴィルは山葡萄を頬張りつつ胸の内で思った。秋の山は色々と果物があって助かる。その分熊や猪に遭遇する可能性も高いが。
(……そういえば、この辺りって巨猪が出るんだっけ?)
思わず怖くなって、ヴィルは視線を周囲の茂みにやる。気配を察知することには慣れているが、それでも万全とは言い切れない。向こうもこちらと同様に――あるいはそれ以上に――察することはできるだろうし、ややもすれば気配を消して近付いてくることだって考え得る。
慌ててヴィルは、首を横に振って恐怖心を追い払う。
(ほんと、嫌だなぁ――あ)
何か喋りながら歩いていた二人の姿が視界から消えそうになったので、ヴィルは慌てて、しかし必要以上に音を立てないように後を追う。
木の陰から木の陰へ、対象との間に遮蔽物を作りつつ移動する傍らに、ヴィルは再び考える。
(あの人、わざわざこんな山道を行ってるみたいだけど、何でなんだろう)
昨夜ヴィルは、二人の会話からそれとなく目的などを聞き取ろうとしていたのだが、あの二人にはパンの形に関係した会話以外に会話と呼べるようなものが殆どないため、望んでいた情報は一切得られなかった。
(もう! あのミュレってお姉ちゃんがたくさん喋りかけてくれればいいのに)
自分の与えられた役目がなかなか思い描いたように進められないことに、ヴィルは幼い心を苛立たせる。
(……でないと、ボクはディノンさんに恩返しできないんだよぅ)
心に思い浮かべた憧れの『英雄』を胸に、ヴィルは別の木へと移り隠れる。
その前に、もう一房の山葡萄を取って。
●
頃合いは朝。陽はブルカン山脈に連なる聖ジョーンズ山を越えて、コナーの村に燦々と陽光を降り注がせる。
「くぁ……っ」
これといった特徴のなさそうな少年――ルーカス・カミューテルは、寝台の上で大きくのびをすると寝癖だらけの頭を掻きながらのそのそと下りた。やはり地面の上と違い、寝台で寝ると目覚めもいい。
しかし何故か、下顎が痛い。
「あー……そっか、姉ちゃん……」
一人でぶつくさと呟きながら、ルーカスは窓を開け、陽の光を一人用の、やや狭い部屋へと取り入れる。頭の方はまだ眠気を訴えていたが、とある習慣が染み付いている体はルーカスを着替えさせ、宿の裏手にある井戸へと向かわせた。
階段を下りながら、ルーカスは昨日の一件を思い出す。
昨晩は気絶から覚めて早々に、守衛へと食ってかかる姉を止めなくてはならず、おかけで二発目の一撃を顎にもらってしまった。
「……顎が痛いっのて、そーいうことかよ」
はは、と乾いた声で笑うルーカスだが、そこに姉への怨嗟や怒りの響きはない。事実を確認し、その結果として自分に対して生じた苦笑いだけである。
井戸のある場所は、この宿――『ティルナの泉』に泊まる際、姉が訊いていたので問題なく見つけられた。コナーの村に来る前に立ち寄った町で見た物と違い、苔むした石造りの井戸の周囲には四つの、人の形をしたモノが上下に分かれた切り株らしき物を持っているという、見たことのない模様が彫られてあった。
「へぇ、随分と古そうだけど立派なもんだな」
ルーカスが顔を洗うのも忘れ、その独特な絵柄に見入っていたその時、
「それ、『ダグダン棍棒』といってね、井戸ン水が枯れないようにするためのおまじないなンよ」
少し訛りのある、小太りの女性の声が、ルーカスの好奇心を補足する。
「ほら、そン模様、上と下に枝分かれしてるっしょ?」
「え? あ、ほんとっスね」
ルーカスが目を凝らして見ると、なるほど井戸に描かれている模様は、太い中心部分から枝のような物が九本ずつ上下に分かれているように見える。内心でルーカスは、この模様が切り株か何かと思っていた自分を恥ずかしく思っていた。
「上の部分が生で、下の部分が死を司っているんだってさ。だからどっちも持ってるわけで、それで井戸を枯れないんだって」
「へぇ、物知りっスねぇ」
ルーカスが女性の博識ぶりに感心していると、不意に女性は「やだなぁ」と笑った。
「別にわたしが調べたわけじゃないよ。ちょっと前にここへ来た、フレッチャーって人ンお仕事を手伝った時に聞かせてもらった話なんだから」
「いやいや、それでも充分立派っスよ」
女性が笑うのにあわせてルーカスも笑っていたが、急に真面目な表情を作りこう尋ねた。
「……ところで、俺はルーカスっていうんスけど、あんたは誰?」
今更ながらの質問ではあったが、女性は嫌な顔一つせずに名乗った。
「わたしン名前はブリジット・フィン。そこン宿ン若女将、ってとこかな」
そう言ってブリジットは、自分の背後にある宿屋を指さす。
直後、ルーカスは「あ」と声を洩らし、顔色を青くした。
どこからか、時間を知らせる鐘を打ち鳴らす音が聞こえてきたのだ。
「姉ちゃん起こすの忘れてた……!」
「? どうしたン?」
「すんません、俺ちょっと急ぎますんで!」
不思議そうにしているブリジットに頭を下げ、ルーカスは慌てて宿屋に駆け戻る。
殆ど会話は噛み合わないが、それでも一礼は欠かさないのがルーカスのルーカスたる所以である。
(やばい、完璧に忘れてたぞ……!)
姉――レナイア・カミューテルは、恐ろしく寝起きが悪いと同時に、恐ろしく寝汚い。起こさずに放置しておけば半日は眠り続ける。
このこと自体はさほど問題はない。あるとすれば、その後である。
必死になって階段を駆け上がる。顔を洗ってからの爽やかな気分はとっくに消えてなくなり、諸々の汗が代わりに途轍もない不快感を感じさせてくる。
部屋は廊下の奥――つまり最も階段から遠い位置にある。その間に生じる時間は、可能な限り削がねばならない。
床板を踏み抜きかねないほどの勢いで廊下を駆け抜けたルーカスは、息を整えつつも神妙な面持ちで取っ手に触れる。やはり用心深い姉らしく、施錠は怠っていない。
「…………」
この先において起こるだろう出来事に腹を括利、難なく事を済ませることを諦めたルーカスは握った拳で力いっぱい扉を叩く。
「姉ちゃん! 姉ちゃーん! もう朝っスよー!?」
他の客に迷惑をかけてはいないかと機を配りながら声を張り上げるが、案の定これしきで姉は目覚めない。
「…………」
ルーカスは、唾を飲んだ。
本来ならば従業員にでも頼むべきこの仕事を、ルーカスは必ず自らやってきていた。手間賃を惜しんでのことでなければ姉を独占したいからでもない、姉による被害をできるだけ小さくしたいからである。
ルーカスは姉と違って勘が働く方ではないが、この件に関してのみ、誰よりも予測に秀でていると自負していた。
その自負と周囲に迷惑をかけたくないという責任感から、扉の前に立ったルーカスの選択肢はただ一択しかなく、ルーカスは二度三度と繰り返し戸を叩きながら姉に呼びかける。
すると、ルーカスの無謀としか言いようのない行為が五度目に及んだ時、
「おーい、姉ちゃ――んご!?」
扉が開いた直後、姉の拳が今まさに振り下ろされんとしているルーカスの腕を縫うように交差し、奇跡的にルーカスの上唇の溝――人中を撃ち抜いたのだった。
「いっぺん呼んだら分かるって、いつも言ってんでしょーに、ったく」
「……うっス」
殴って赤くなっている右手をひらひらとさせながら、レナイアは欠伸交じりに毒吐いて寝台に腰掛けた。
据わった目つきのままで「あー……」などと唸りながら、レナイアは解けてぼさぼさになった髪を適当に手櫛で整えようとしていた。その様子は、まるで親父臭い猫のようでもある。
「っと――げ……っ」
「?」
何故か扉の傍に落ちていた枕を拾ったルーカスは、彼女の特徴とも言うべき黄色の長衣や肌着やらは寝台脇に脱ぎ捨てられており、彼女はほぼ全裸であることに気付いた。
初めてではないのであまり驚きはしなかったが、十五歳という非常に微妙な時期にあるルーカスは複雑な表情で姉に説得を試みる。
「……姉ちゃん、俺部屋の外で待ってるからさ、頼むから服着てくんない?
「いーよ、別に減るもんでもなし……だいたい、面倒くさい」
そっちか。そう言いかけるが、ルーカスは言葉を飲み込む。口でも手でも、ルーカスがこの理不尽が服を着て歩いているような姉に敵う道理はないのである。
「はいはい、分かりましたよっと」
適当に相槌を打って白旗を振り、ルーカスは姉の髪を整えようと机の上にある櫛も片手に姉へと歩み寄る。
「あんまり手でやらないでくれよ。そのうち禿げるぜ?」
「いいんだよ。あたしの髪なんだから」
軽口にも満たないやり取りを経てからルーカスが作業にかかり始める。流石に長年やってきているということもあり、その動作は手馴れたものであった。
「ところでルーカス、今はどれくらいなんだい?」
時間帯のことなのだろうと、ルーカスはおおよその見当をつける。今の時分に姉から訊かれる『どれくらい』で、他に思い当たるものはない。
早い話、ルーカスの命運尽きる時が来たのである。
「……鐘、六つぐらいっス」
鐘六つとは、リグニアやフェリューストといった五大国による、第一の生産を担う農民を効率よく管理するための政策の一環として制定された、櫓や教会などの鐘を用いた時間の単位である。アルトパのように農業を精力的に行なっていなかったり、面積や痩せているなどの理由で収穫高が望めないような土地にまでは普及していないが、いずれは世界規模での標準単位にしていこうというし、且つその先駆けとならんという思惑が各国にあるらしい。
そして、金銭と同じくらい時間についてもうるさい商人達も、この制度を利用しているのだった。
「……ふーん」
そうした知識や薀蓄はルーカスにないが、とりあえず眼前の姉が拳を握り固めた理由が、行商人として致命的な『遅い目覚め』にあることだけは重々承知していた。
「で、他にあたしに言うことは?」
「……起こすのが遅れて申し訳ねっス」
「ん、よろしい」
この日のカミューテル姉弟の一日は、ルーカスが二発殴られるという、とりわけ珍しくもない出来事から始まるのだった。
●
鐘一つ分は遅れたということもあって、一階部分を丸ごと利用した宿の食堂は閑散とし、薄暗くて人気がない。まるで御伽噺に出てくる、一夜にして人が消えた町のようだった。
「ったく! もー少し早く起けりゃ、他の連中から何なっと聞けたかもしんないってのに」
「ぐ……っ」
聞こえよがしな愚痴に扮したレナイアからの非難を、ルーカスは反論せず、正面から受け止める。しつこく謝罪を繰り返したからといって、姉が得られたかもしれない儲けを補填できる訳ではないからである。
(ああ、こりゃまた何かやらされるんだろうなぁ)
ルーカスは少年らしからぬ、どこか自分の運命を受け容れた老人のような眼差しで弱々しい秋の朝陽を眺めつつ、次に時分を待ち受ける現物支払い(肉体労働)が如何なるものかと他人事のように考えていると、
「よいせっ、と――ほぉー! あんた達があンカミューテル姉弟かー。噂には聞いてるが、本物は初めて見るな」
食堂の奥にある通路から、恰幅のいい丸顔の男が、朝食と思しい大きな丸パンと水差しと二人分の杯、そして正体不明の干し肉らしい塊とナイフを、一つの盆に載せて現れた。
「や、俺はギネス・フィン。ここン料理番を任されてるよ」
ギネスと名乗った男は机に盆を置くと、笑顔で右手を差し出した。「ああ、よろしく」とレナイアは返し、にやりと挑みかかりそうな笑みを見せた。
直後、二人の周囲でだけ空気が変わるのをルーカスは見逃さなかった。
「斧や鋤や鍬じゃない、よくよく包丁を握ってる手だ。料理番ってのは嘘じゃあないね」
「あんたこそ、指ンとこン関節が肉刺だらけだ。ただ後ろン小僧を顎で使ってるだけじゃあないな」
沈黙。二人で醸造している空気がルーカスに机上のパンに手を伸ばすことを躊躇わせていることなど気に留めるはずもなく、ただただ睨み合っている。
「……っふ」
返したギネスと睨み合っていたのも数秒のことで、同時に二人は本当に笑い出した。
「いいモノ持ってんじゃないかい。気に入ったよ」
「俺もさ。あんたみたくすぐさま分かる奴はそうそういなかったよ」
互いの言葉に一切嘘偽りがないと即座に見抜き合った二人は、改めて固く握手を交わす。
「あたしゃレナイア・カミューテル。親しい間柄の奴にゃあレニィって呼ばせてるよ」
「はっは、それは光栄だな――あー、レニィ」
どんな時でも変わらないのだろう、胸を張って堂々とした姿でレナイアは名乗った。
姉が自分の通称を呼ばせたことに、ルーカスは内心で料理番だという男の評価を改めた。仕事絡みでレナイア・カミューテルが価値を見出すことは、そうそうない。
レナイアは、最初に握手した時、ギネスの手の感触や握る時の形、自分の手に触れた指先に至る全ての情報を読み取るという、ルーカスにしてみれば未だに理解しきれない、姉にしてみればより良質な品を選ぶための必須技能に過ぎない技術を披露して見せたのである。
そして同時に、レナイアが見抜いたギネスの料理番としての微妙な感覚が、彼女が紛れもなくレナイア・カミューテルだと証明してみせたのだった。
(どっちも手が命なんだろうな)
と結論付けてから、ルーカスは水差しに手を伸ばして中身を確認する。
白い液体。おそらく牛乳だ。姉の苦手なものではないので、飲ませても大丈夫だろう。
「そうだ」
「んん?」
早速レナイアがルーカスに水差しで牛乳を注がせていると、まだその場に残っていたギネスが話しかけてくる。
「? どしたんだい?」
「なあレニィよ、あんたンとこに塩ってないか?」
「塩、ねぇ……まあ、ないこともないけどね」
突然ギネスから切り出された話題に対し、レナイアは表情一つ変えずに受けながらパンを咀嚼していた。
コナーの村のような内陸でも更に奥の土地になれば、塩が貴重品になることは珍しくない。一部の地域では岩塩が採掘されることもあるが、そうした品もリグニアお抱えの大商人やフェリューストの貴族らが抜かりなく抑えているために、流通しているものの大半はひどく高価で、およそ辺境に生きるギネスには手が届かない。
そこでギネスは『特定の商会に属せず、ジィグネアル各地を遍歴する』という噂も流れているレナイア・カミューテルに目を付けたのだろうということは、ルーカスもおぼろげながらも理解していた。行商人の弟でも長く続けていれば、町や村の人々が行商人に求めているもの想像することぐらいはできる。
もっとも、求められているからといってその全てに応える義理はないし、ましてや彼女は生粋にして折紙付きの守銭奴たるレナイア・カミューテルである。ギネスはそれ相応の額を要求されることも想定しつつ、虚勢の笑みを浮かべて言葉を続けた。
「実は、ここ数日ばかり長居してるお客が増えててな、肉や魚をたっぷりと振舞わなくちゃならないんだが、ただ焼いただけ、煮ただけってンは、どうも一料理番として嫌でなぁ、何とか頼めないかな?」
「ふーん」
大きな干し肉の塊を齧っていたレナイアは、二杯目の牛乳を注がせながらルーカスに声をかける。
「たしか今、塩はどんくらいあったかね?」
一瞬だけ交わった視線の意味を考えるまでもなく、ルーカスはそ知らぬ顔で姉に合わせた。
「んー、たしかリグニアの大麦袋で三つぐらいはあったっけなぁ」
比較的具体性のある情報だった。リグニアは物の質や量、またそれらに関する金額に関しても厳しく設定しており、袋一つとっても可能な限り均一に作っているかを調べるための専門の調査機関まで存在しているとの噂である。
ギネスは、胸の内でだけ顔を綻ばせることを自分に許した。たとえ親しく振舞う相手だとしても、仕事絡みならば内情を明かさないのは鉄則である。
「……実際に、見せてもらえるかな?」
与えられた情報だけで品に飛びつくのは商人のみならず、料理人としても失格であるとギネスは考えている。何よりも己の五感と五体を信頼しているのだ。
「んっぐ!? ……ああ、ありがとねルーカス。で、ギネス、塩ならこれの後で見せるよ。後でルーカスに呼ばせるから、それまで待っといてくんな」
ルーカスからもらった牛乳を飲み干すと、すっきりとした様子でレナイアは申し出る。
「楽しみってやつは、長けりゃ長いほどいいってもんだろ、んん?」
●
食事を終えた姉弟は、首を伸ばして待っていた様子のギネスを伴って、裏の宿のすぐ傍にある、他の二、三台ほどある馬車よりも二回り大きな馬車の入り口の前にまで来た。一頭だけでこの馬車を牽引できる頼もしい雄馬のギデオは、現在厩でのんびりと飼料を食んでいることだろう。
「――っと、そーいやギネス」
「?」
一足先に馬車へ入ったルーカスに続き、自身も境目に足をかけていたレナイアが、こう言ってから身を滑り込ませていった。
「後でここの当番に、ギデオをこの馬車に繋いどくよう伝えといてくんな」
「? おお」
ギネスはレナイアの言葉の真意を探ろうかと思ったが、今はやめて自分も馬車に乗り込むことにした。
「――ほぉ」
中に入ってすぐ、ギネスは感嘆の声を洩らした。
ギネスの第一印象は、『小さな子どもが喜びそう』というものだった。
「んん、びっくりしたかい?」
変な意地を張っても仕方ないので、正直にギネスは頷く。
馬車の内部は固まって配置された、三つの棚と四つの大きな箱が床の面積の大半を占めており、壁は壁で大小無数の袋や網が自炊用と思しい幾らかの鍋とともに鉤で吊るされている。
(本当に、これが馬車の中なのか……?)
一見すると無秩序のようだが、その実無駄なく全てが収まっているところといい、匂いが入り混じらないようにとの工夫からか、入った時からそこはかとなく漂っている臭い消しの香が立ち込めているところといい、まるで魔法使いか魔女の動く屋敷である。
薄暗いのでギネスには確信がなかったが、おそらく棚や箱などには、彼女らが扱っている品の数々が収められているのだろう。
つまり、塩も。
「おっと、あんまりジロジロと見ないでくんな」
無意識のうちに奥へと足が進みかけていたギネスの前に、レナイアが彼の視界を遮る形で立ち塞がった。彼女の背後の延長線上には、普段彼女が使っている寝台があったのだが、遮られているギネスには知る由もない。
「あんたは客だから邪険にしたかないけど、こっちにもそれなりの事情ってもんがあってね。悪いけど、ここで大人しくしててもらうよ」
「お、おお……」
そう言って自分の足元を指さしたレナイアは、肩越しに背後で四つの箱と格闘している弟に声を飛ばす。
「ちょいと、まーだ見つかんないのかい?」
「い、いや、どこ探しても……」
そう言ったきり、どうも要領を得ないルーカスの手際に、基本的に気の短いレナイアは怒りと不満の声を上げる。
「だーかーら! 奥から二個目の、右上の隅の三袋でしょーが!?」
「そ、そんだけ具体的に覚えてるなら自分でやれば――」
「あたしゃ面倒くさいのが嫌いなんだよ!」
あまりにも理不尽な姉の怒声に声を荒げることもなく、「へーへー」と生返事で応えたルーカスは黙々と姉から指示された場所を探し、やがて一つの袋を持ってきた。
「こいつだろ、姉ちゃん?」
「んん、よろしい」
まるで指揮官か何かのように胸を反らして一つ咳き込んだレナイアは、手のみの合図でルーカスに袋の口を開かせる。
直後、ギネスは言葉を失いかける。
薄暗いながらも分かる。ルーカス少年の腰ぐらいまである大きな袋いっぱいに詰まった、真っ白い砂のような『それ』は――塩だ。
「ま、こいつだけだけど、好きなだけ見てくんな」
「お、おお……」
蝋燭の明かりに引き寄せられる蛾のように、ギネスは塩の詰まった袋へと近寄り、膝を折って中身を確かめる。
震える手を塩の中に伸ばし、掬い取ったそれらを袋の中へと零していく。ギネスは数少ない塩を手にした時の記憶と照らし合わせていくが、袋の中身の感触は、そのどれとも全く違わない。
「……舐めてみても、いいか?」
「どーぞ」
塩をほんの一撮み、人さし指と親指で口に運んだギネスは、ゆっくりと舌先に乗せて味わう。
(おお……)
舌先から全体にかけて広がる独特の味わい。そればかりではない、唾液に混ぜて飲み下しても尚口の中に残る風味に、ギネスは深く頷いた。
紛れもない。塩だ。それも、上質な部類に入る。
「――ちなみにだが、袋一つで幾らする?」
意識を現実に戻したギネスは、手合わせがてらに言い値を訊いてみる。
「七五〇〇クラン。ちなみに負けてやる気はないね」
金額にも顔色を変えず、ギネスは冷静に吟味する。相場としてはまずまずだが、これをそのまま受け入れる訳ではない。不自然なまでに安価な金額を提示されないだけ、安心できるが。
いかに安くいい品を手に入れられるかも、料理番の仕事。そこは己の矜持にかけて譲れない。
「あんた達だって、どうせなら美味い料理が食いたいよな?」
「そりゃそうさね」
揺さぶりと知ってか知らずか、レナイアはあっさりと頷く。
「だったら、そのためン投資を考えてみないか?」
「あたしとしちゃ、余計な投資は控えたいとこだけどねぇ」
またしても涼しげな顔でレナイアが返すも、ギネスは食い下がろうとした。
「そこを――」
「ま、気持ちは分からなくもないけどね」
出鼻を挫かれるやら先を読まれているのではと疑心暗鬼に陥りかけるやらで思わず閉口してしまったギネスを他所に、レナイアは肩をすくめてこう言った。
「あんたの熱意にゃ負けたよ」
「! じゃ、じゃあ……!」
表情を輝かせているギネスの前に、レナイアは二本の指を見せる。
「三〇〇〇クラン。ただし条件付だけどね」
来た。条件がどのようなものか、想像力の足りないギネスには想像しかねるが、レナイアも利益が目的で付け加えるのだから、そうそう無茶な要求はしないはずだ。
「言ってくれ。まずはそれからだ」
「そう焦りなさんなって、今から教えるよ」
そう言って、レナイアは順番に二本の指を折り曲げていく。
「一つは、単純に先払いで欲しいってこと。んで、もう一つが、一度はあれを使った料理を必ずあたしらに振舞ってくれってことさね」
「ああ、ああ! 任せてくれ。約束は守る」
三度目の固い握手。今度は打算や読み合いなどではない、純粋な契約成立の証。
「品は後で用意するから、今支払ってくれるかい?」
「構わないが、こっちも一筆書いてもらうぜ」
ギネスの要求は当然のものであった。それなりに有名人であろうと初対面の人間であることに変わりはないのだ。注意に注意を重ねても過ぎるということはない。
「ああ、結構結構。それくらいなら何とでもしてやるさね」
二つ返事で快諾してのけたレナイアが右手を差し出すと、ギネスも快く頷いてその手を握る。
「あんたとは――いや、あんた達とは今後とも上手くやっていきたいもんだよ、レニィ」
「あたしもさね、ギネス。――それと、約束は反故にしないどくれよ?」
「勿論さ。折角ン儲け話を無駄にするつもりはない」
握手を解いた二人は取引は今日の夕方にと決め、宿で金を受け取ると、一度別れることにした。
●
「姉ちゃん」
陽がコナーの村のどの建物よりも高くなった頃、一際巨大な馬車は村の中央にあたる広場に姿を現していた。他の行商人らも彼女ら姉弟と同じことを考えているようで、露天商が出している看板があちらこちらに見える。
「いいのかい? あんなに塩安くしちゃって」
「んん?」
馬車の中から出してきた『万屋カミューテル』という看板の立ち具合に首を傾げていたレナイアは、御者台に腰掛けている弟からの一言に眉を寄せた。
「塩だよ塩。せっかく姉ちゃんが苦労してあのハゲ男爵出し抜いて買ったやつだろ? 三〇〇〇クランなんかであの人に売っちゃったら損しないか?」
「……なんだ、そんなんかい」
ルーカスにすれば善意からの忠言だったというのに、姉が返したのは、むしろ憐憫に近い声音での、つまらなさそうな言葉であった。
「あんた、何年あたしの弟やってんだい?」
「え? えーっと……」
と生真面目に指折り数え出した愚弟に、レナイアはため息を漏らす。
作業の合間を縫うように、レナイアはルーカスに商人なら心得ていて当然の鉄則を語る。
「買い手ってのは、売り手が買い手だったなんて考えることは殆どないよ」
レナイアは、馬車の側面に作られてある、縦開き式の木戸を開けた。頑丈な蝶番に支えられるそれは、まさしく窓口であった。
「そりゃ運び代だの手間賃だのは多少含むし、そこら辺は皆心得てんだろうがね」
看板の位置を再度微調整。今度こそ意に沿う角度になったのか、得意げな表情で頷く。
「たとえあたしらが危ない橋を渡って手にしようが、一から全て作ろうが、そんな身の上話なんか誰も耳を傾けやしないよ。あたしらにとって大事なのは距離と仕入れ賃、後は運ぶ時にかかってる手間賃くらいだよ。親しい間柄を作ろうってんなら、尚更私情は挿まないもんさ……?」
背後の気配がおかしいことに気付いたレナイアは、肩越しに弟の顔を覗いた。
案の定というか何と言うか、ルーカスは間の抜けた表情のまま突っ立っており、先刻のレナイアの私見は二割三部ほどしかは入っていなさそうであった。
「……っで!?」
「ま、どーせ理解できてないとは最初っから分かってたけどねぇ」
弟の鼻先を丸めた人さし指で弾いたレナイアは、鼻を鳴らして看板に手を伸ばした。
「ご、ごめん……」
「いーよ。大事なことなんて一個か二個くらいしかないんだから」
殴られるとでも思っていたのか、硬い表情で身構えていただけに、ルーカスは「ルーカス」とだけ呼びかけてきた姉に――こう言えば確実に殴られるのだろうが、少々拍子抜けしていた。
「あたしが必要な時以外で他人様の思い通りになったことってあったかい?」
「……覚えてるだけで、三回くらい」
「だろ?」
最後はどうでもよさそうに結ぶと、振り返ったレナイアは、遠巻きにこちらの様子を窺っているコナーの村民ら全員が聞き漏らさないようにと、大声を張り上げた。
「さーいらっしゃい! 万屋のカミューテル! カミューテルが皆さんの村まで参りました! 農具から食料、衣類に武器も揃えてます! どうぞ、どうぞ足を止めてお立ち寄りを!」
腹の奥底から発される、レナイアの大音声が、コナーの村の広場に心地よく響いた。
●
秋の日差しはいよいよ高く昇り、肌寒さすら覚えていた秋の空気が一変して汗ばみかねないほどの熱気を帯び始めていた。
頃合いは昼頃。昇り始めた当初は、どこか薄暗さの残っていた聖ジョーンズ山にも陽の光が遍く降り注ぐようになり、少し目を凝らせば木々の奥まで見通せそうであった。
もっとも、現在聖ジョーンズ山道を歩く二人には、そんなものを見ようともしないが。
「む」
その一人、ジークは自分のマントが何ものかによって軽く引っ張られていることに気付く。
分割思考が、即座に過去の経験と現状をい比較し、該当する可能性の高い人物名を算出していたが、それよりも早く、ジークはその『該当するであろう人物』に話しかけていた。
「ミュレ、どうした」
「……する」
藍色の、異様に長い二股の三つ編みを踵近くまで垂らした少女から返ってきたのは、一音ではなく一単語。
「……む、分かった。行ってこい」
「ん」
ミュレはジークから許可を得ると、ジークの指さす先、道端の茂みへと姿を消した。
「む……」
反対側の道端に立ったジークは、小さく唸った。
最初にジークを悩ませたのが、排泄などの、所謂『下の世話』だった。“化け物”と呼ばれ、恐れられていたミュレも、生き物であることには変わりないのだ。
(だからといって、そこまで面倒を看てやる気はないがな)
(同意)
ミュレを旅に同行させるにあたり、ジークは真っ先に排泄関連の質問をした。
質問のし方も内容も最悪の一言だったが、ミュレの無関心さが今回ばかりは幸いし、最低限の躾は受けいているという回答を得た。
(褒める機会を失い、残念だったか?)
(手間が省けた分、助かっている)
(同意)
(同意)
二番のからかうような言葉を蒸しし、ジークは再びミュレのことに頭を巡らせる。
ふと考えたのは、昨晩可決した二番の提案――その補強案である、『飴と鞭』に関するもの。
(……そういえば、ミュレの何を褒めたものだろうか)
(同意)
(疑念)
全く思いつかないというのは望ましくないので、ジークは思いつく限りのミュレに関する情報を羅列していった。
何を考えているのか分からない。
何事においても受動的である。
いつも付いて回る。
言葉の覚え方がいい加減。
理解力は微妙。
記憶力は平均値。
食い気だけは旺盛に示す。
小柄である。
瞳と髪の色は藍色である。
髪が長い。
無口である。
無表情である。
殆どの物事に対し無関心である。
意外に脚は早い。
実は両利き――もしくは『利き手』に該当するものがない。
人並み以上の容姿である。
女性としての発育は豊かな方である。
体重は推定でリグニア製大麦袋いっぱいで二つ分。
最低でも一ヶ所以上の社会で迫害の対象とされてきた。
売春行為を強いられていた――
この他にも、出会った当初からの十日あまりの間に集めたミュレに関する諸々の情報が次々とあがっていたが、ジークは途中でやめさせた。
(疑問)
(今はこれ以上出す必要はない)
(同意)
理由を求める分割思考に、ジークは淡々と答える。
(列挙された情報群にもあるように、ミュレの理解力は我々が求める水準を下回っているのは明らかだ。現段階で多角的に褒めることは混乱に繋がりかねない)
失礼といえば失礼だが、ジークからすれば客観的且つ具体的な評価を感情で曇らせる方が遥かに失礼であり、そもそも内心での評価である以上、自由に表現できると考えているので分割思考も意見しない。
「む」
「…………」
ふと視線を感じたので目線を下げると、その先には無言でジークを見上げているミュレの姿があった。半開きの口が、ちょっと間抜けそうに見えた。
「……ミュレ、いつからそこにいた」
と問いかけてもミュレは答えることなくじっと見上げているので、ジークはもう一度、喋る速さを落として粘り強く訊いた。
「ミュレ。いつからお前は、そこにいる?」
「…………」
首を僅かに傾けて再び動かなくなったミュレは、十秒ほど経ってからやっと半開きの口を動かした。
「……さっき……いい?」
「む」
もう少し具体的な回答をジークは内心で望んでいたが、今のミュレの語彙でこれ以上の出来は高望みとなりかねないので、これまで通りに一つ頷いて頭を撫でてやる。
(なんだ、探せばあるじゃないか)
(同意)
(……そのようだな)
否定したい気分だったが、吝かではないのでジークも二番に同意しておいた。
「――じき昼だ。飯にするぞ」
「ん」
二つ返事で頷いたミュレは、そのまま腰を下したジークの傍に座った。
「ミュレ」
ジークの声に反応を示したミュレは、直後にジークが彼女の眼前に出した丸パン――既に四分の三が失われ、円形とは呼べなくなっている―ーに視線を移した。
「これは、何だ?」
「……パン」
「どういうパンだ?」
微かな声量での回答に、すかさずジークは更に問いかけた。
「…………」
沈黙。ミュレは首を傾げたまま動かない。
昨日の記録は二十秒台。壁を超えられるのか否か、ジークはミュレと大差のない無表情の下で彼女の動向を観察していた。
まもなく二十秒が過ぎようとした時、ミュレの口が微かに動いた。
「しろ……ま るい……いい?」
「む」
及第点、ということにしておこう。
「ミュレ」
「……ん」
頭を撫でてやりながら、ジークは間違っていた部分を訂正してやる。
「色は間違っていないが、この形は、円くない」
「……ちが、う」
「む」
また一つ正解したので、パンを端ではなく、面の部分からちぎって与える。
「これは『三角形』と言ってだな――」
再び地面に幾つかの図形を書き出したジークは、ミュレに何度も鸚鵡返しに練習させる。
――会話の中で質問に答えられた場合、必ず褒める。
以上の項目が、ジークの中で密かに加えられた。
●
「こ、こりゃ塩か!? い、いくらじゃね!?」
「二五〇クランだね。お一人様につき一袋だから、まだ余裕はあるよ」
目の色を変えて尋ねてくる老人や後続らを捌きつつ塩の小袋も売り捌き、
「魚はないンか? さっき誰かに売ってたろ」
「毎度っ、一尾一九〇クランだよ」
物珍しさから訊いてきた子連れの女性に海魚の干物を三尾ほど売り、
「傷薬が欲しいんだが」
「あんた運がいいねぇ。お徳用が今なら五三五クランであるよ。早い者勝ちだよー!」
木彫りの猿みたいな面相の旅人にはそう言って購買欲を刺激し、
「……蝋燭、ないかな? できるだけたくさん……たくさん欲しいんだ」
「ああ、そうさね……悪いけど、今はないんだよ」
見るからに怪しげな初老の男性に対しては仕事用の笑顔を崩さずに切り抜け、
「武器と言っていたが、どのような品があるかね」
「悪いけど、ウチにあるのは護身用だけなんでね、それでもいいかい?」
強面の男性と大人しそうな赤毛の少女の、おそらく流れ者の傭兵だと思われる二人連れにはそう説明しと、レナイアが八面六臂の活躍をしている間に、鐘の音は十一度目を数えた。
その時分になると、人々は食事や休憩を求め、またあるいは供給しようとし、自然とカミューテル姉弟の馬車から姿を消していった。
そうした客足の減衰に伴い、カミューテル姉弟は立ててあった看板を裏返して『準備中』とし、自分達も昼食をとることにした。
「――はいよ、お待たせ」
朗らかというより陽気な笑顔を浮かべて、レナイアは自分達の馬車の御者台に腰掛けている弟に木の葉包みの大きな品を差し出した。
「さっき食堂脇の屋台で売ってたんだ。美味かったよ」
「…………」
しかし何故か、無謀にもルーカスは姉の手から包みを受け取ろうとはせず、ぼんやりとした様子で御者台に座ったままであった。
「んん? どうしたんだいルーカス?」
「……ね、姉、ちゃん、か――」
ルーカスは振り向こうとしたのだろう。まるで錆び付いた鎧でも着込んでいるかのようなぎこちない動作で首を動かしたルーカスは、そこから急に横倒しになったのである。
「ちょ、ちょいと!? どうしたんだいルーカス!」
「い、いや、飯、食わせて……」
そう懇願した直後に、レナイアは抱き起こそうとしていたルーカスの襟首を掴み御者台に投げ倒した。腰から上までの力しか使わない素人の投げ方ではなく、体全部で投げているあたりが恐ろしい。
「紛らわしいんだよ、っとに!」
「いやでも、姉ちゃん『すぐ戻る』って――」
「問答無用!!」
結局、諍いどころか口論にすら発展することもなく、勝利の栄冠は姉の頭上に輝くのであった。
「ほれ、とっとと食っちまいなっ」
「……うっス」
改めて包みを投げて渡されたルーカスは、ひっくり返ったままという情けない状態からようやく起き上がり、少々乱暴に包みを開ける。
中から出てきたのは、コナーの村どころかリグニア王国では珍しくも何ともない、ただの白い円パンを二つ重ねたものだった。鼻を近付けてみると、そこはかとなく匂いは感じるが、何なのかまでは分からない。
「姉ちゃん、これ何?」
「ま、食ってみなよ」
怒り顔から一転し、悪戯っ子のような含み笑いを浮かべて早く食べろと促してくる姉に経験則から不審さを覚えつつ、ルーカスは重ねられた円パン、その上から順に食べようと手を伸ばした。
「ああ、違う違う。そうじゃなくて、二つ重ねて食うんだよ。こう、ガブっと」
「え、そうなの?」
わざわざ食べ方まで指定するということは、姉のことだ、何か裏でもあるのかもしれない――という疑念はあったが、今の空腹を抱えたルーカスに細かいことを考える余裕などない。一寸の躊躇の後、大きく口を開いて齧り付いた。
「ん……?」
最初に感じたのは、微妙な温かさ。続いて、柔らかいようで硬い、奇妙な食感。どうやら肉らしいのだが、それ以上の情報は掴めない。齧って千切れた面を覗いてみると、焼いた肉と思しい、平べったい塊がパンに挟まっていた。
「……これ、中身何? 舌?」
「牛の舌だとさ。他にも野菜を挟んだやつとかあったけど、どーせなら肉の方がいいだろ?」
「まあなぁ」
しげしげと齧った箇所を眺めてから、もう一口。こうした『出会い』もあるから、旅はやめられないのだ。
因みにルーカスは、牛の舌以外の舌も経験済みである。
「そーいえばさ」
「んん?」
豪快な食べっぷりを見せる反面、控えめな様子でルーカスが尋ねる。
「はぐ、今日はさ、……んぎっ、どこらへんを、見て――ぇぎ!?」
「物食いながら喋ってんじゃないよ!」
喋りながら料理に口を付けようとした矢先に、ルーカスはレナイアから見事な手刀を脳天に喰らい、危うく舌を噛みそうになった。牛の舌はともかく、自分の舌を食うなんて冗談にもならない。
「で、何だって?」
「……あ、あのさ、今日はどこを見て回ってきたのかなって思ってさ」
睨みの利いた視線に恐々としつつ、ルーカスは自分が抱いていた疑問というか、好奇心からの質問を口にする。
「そうさねぇ」
レナイアは、指折り挙げていく。
「武器屋だろ、薬屋に仕立て屋、あとは鍛冶屋に、そうそう、山の方の畑とか、村長の家なんかも見に行ってきたねぇ」
「へぇ」
えらくまとまりがないんだな――そんな安直な感想が口を衝かない程度には、姉のことを理解しているという自負がルーカスにはあった。
「それで、“臭い”は見つかったのか?」
「当然さね」
自身も売り物たる干した果物を齧りながら、レナイアは豪語する。
「儲けの臭いはどこにでも。ってね。昼から忙しくなるよ、ルーカス」
「うっス」
軽く応じて、ルーカスは最後の一口を詰め込んだ。
●
満腹、とはいかないまでも一応の満足感を得たルーカスと馬車を伴い、レナイアが最初に赴いたのは鍛冶屋と隣接した武器屋であった。
「あれ? ここって、さっきも来たんじゃないのか?」
「そうともさ」
弟からの質問への回答は皮相的な部分に留め、レナイアは武器屋の扉に手をかける。
「それじゃ、行ってらっしゃい」
「お――は!?」
いつものように即答しかけたが、咄嗟にルーカスは感付いた。
「え、俺一人で行くの!?」
「そうだよ。……ほれ、さっさと行く!」
何故か小声の姉が強引に押してくるので、ルーカスは必死になってその場で踏ん張る。
「だいたい、俺に何しろってんだよ?」
「決まってるじゃないかい、武器を買いたいって言えばいいんだよ」
全くもってわけが分からないが、抵抗を試みる前にレナイアの勢いに呑まれ、結局ルーカスは渋々武器屋に入るのだった。
「こ、こんちはーっス」
ルーカスが扉を開けて入ると、鈴が鳴って静かな店内に一斉に音が生じる。
狭くも奥行きのあるそこには、二人しかいない。
「……おい、お客だよ」
「ん? おお、いらっしゃい」
台に肘をついて喋っていた、熊のような髭を生やした男がルーカスに気付かされると、気さくな表情で挨拶する。傍らで椅子に座り、聞き役に回っていた白髪白髯の老人は、手にはめた頑丈な手袋と手にした金槌から察するに、隣の鍛冶屋なのだろう。
「えっと……武器、探してるんスけど」
「……ふむ」
武器屋の親父のぎょろりとした眼が、ルーカスを映した。
「並、だな」
「たしかに、そんな感じがする」
「……へ?」
武器屋と鍛冶屋の言っていることが何のことか分からず、ルーカスは間の抜けた声を上げる。
「悪くない、悪くないが、かといって抜きん出てるとも言い難い。見事にまあ並な奴だな」
「ある意味、珍しいというか……お前さんみたいな奴もいるもんなんだな」
「は、はぁ」
出会いがしらに理由も分からず批評された理由を求めるべきか否かで悩んでいるルーカスを、更に混乱させる事態が発生した。
「悪いが、あんたにゃ武器は売れねぇよ」
「え?」
ため息交じりに武器屋から聞かされた突然の言葉は、追求を拒むかのように短く、それだけに必要以上の中身を持っていない。
そうと分かっていながらも、ルーカスの舌は自然と言葉を紡いでいた。
「それって、どーいうことなんスか?」
「別にあんたは悪くないさ。ただ……なあ?」
「ああ、さっきの威勢のいい女といい、本当に日が悪い」
視線を受け取った鍛冶屋が、武器屋と同じく嘆かわしそうに頷いた。
「?? どーいうことなんス――」
「あれま、ここにいたのかい」
ルーカスの疑問も男達の疑問も、何もかも真っ二つに両断するかのような勢いで扉が開き、レナイアは堂々とした様子で入り込んでくる。
「おや、あんた達顔見知りかい?」
「まあ、ちょいとね」
鍛冶屋と姉の親しげな様子に、ルーカスは疑問を覚えた。
「え、姉ちゃんな――っか!?」
「ほれ、もう時間さね。とっとと帰るよ」
全く事情が飲み込めないルーカスの鳩尾へと男らからは見えない角度で肘を打ち込んだレナイアは、弟に反論の余地を与えないまま店を出てしまうのだった。
「……んん、やっぱりだったね」
「何だったんだよさっきのは!? しかもさっき二度って!?」
不本意極まりない『並』発言然り、まったく飲み込めない状況然り、さしものルーカスも今回ばかりは姉に真意を問う。
「いんや、それで問題ないよ」
ところがというかやはりというか、レナイアは弟の剣幕に全く動じず、それどころか独り得心顔で頷いているのだった。
「ねえ――」
「ルーカス、あんたのお蔭であたしゃ納得したよ」
「え……そ、そう?」
いきなり褒められるとは思っていなかったようで、照れ臭そうにルーカスは頭を掻いた。褒められるのに慣れていないのだろう。
「さて、そうと分かりゃ次行くよ、次!」
「う、うっス!」
威勢のいい姉と引っ張られがちな弟を乗せて、巨大な馬車は次なる目的地へと進むべくコナーの村を緩く駆ける。
「あ、また」
その道中に、御者台から村のあちこちを眺めてルーカスが思ったのは、コナーの村が意外にちぐはぐな景色をしているということだった。
『ティルナの泉』のような古そうな建物はルーカスが井戸で見た、独特の模様を施したものが殆どなのに対し、広場やその近くで見かけた幾つかの新しい家々や店は白っぽい石造りのもので、屋根にも赤茶色の煉瓦を使うなど、本当に真新しい印象を受けると、このように完全に二種類に分かれているようだった。
(どういうことなんだろ?)
こうした疑問に対し即答できるだけの頭を持ち合わせていないルーカスは、例によって傍らの姉に答えを求めた。
「なあ、姉ちゃん」
「んん?」
腕を後頭部で組み、独りぼんやりと細くたなびく雲を眺めていたレナイアは、弟からの呼びかけに視線を僅かに動かすことで応じた。
「この村ってさ、えー……家とか、古いのと新しいので結構違うよな。ほら、俺らの宿とそこの家とかさ」
「……ああ」
視線をルーカスから後方に流れていく家へと移していたレナイアは、さしたる間も空けずに教える。
「ありゃあリグニア様式――それも、かなり最近流行ってたやつだよ」
顔全体で『?』を作る弟に心底嘆かわしそうな表情でため息を吐き、「ったく」とぼやきながらレナイアは記憶を掘り起こさせる。
「ほれ、前に行ったヴァンダルの港町……ティルス、だったかい? あそこにもリグニア商人の家が幾つかあったろ? あれと同じ造りなんだよ」
教えられてから十数秒後、ルーカスは「ああ!」と納得の声を上げ、両手を打ち鳴らそうとして、危うく手綱を落としかけた。
「あれかぁ。言われてみれば、結構似てるよな――ぁて!?」
「似てるんじゃなくて、同じ様式なんだっての」
レナイアは、笑いながらこちらを向いている注意力散漫な弟の鼻を丸めた指先で弾くと、呆れ顔から思案顔へと瞬く間に切り替える。
「ま、ごっちゃ混ぜになってる理由はそのうち教えるから、今はしっかりギデオに指示出しな」
「いてて……分かってるよ、分かってるってば」
未だに痛むのか、鼻を押さえているための鼻声でルーカスは首肯した。
「……さて、と」
後頭部で適当にまとめ括られた髪を弄りながら、レナイアは再び顔を秋空へと向ける。
少し曇り始めた空の向こうに彼女が求めるものがあったのか、その表情からは窺い知れない。
●
頃合いは夕暮れ時を過ぎて夜。昼間には雲は見えなかったが、いつの間にか流れてきたのだろう。おかげで月も星も見えず、聖ジョーンズ山道は真っ暗に近かった。
虫の鳴く声が強まる一方で陽射しが弱まったように感じたので、ジークは立ち止まると顔を上げて太陽を探す。
木々は未舗装の山道のみならず、頭上までも互いの枝葉を天蓋のように重ねて覆っていたために苦労したが、どうにか右手の向こう、堂々と枝葉を繁らせた橅(ぶな)の機の先に見つけることができた。
(これ以上、先へ進むべきではないのかもしれんな)
(同意)
夏を過ぎると、陽の傾きはそれまでよりもずっと早くなる。まだ陽が見えると思い、油断したために危険な場所で野宿をせざるを得なくなるという事態だけは避けておきたい。
それに対し、三番が意見を述べた。
(体力的には問題皆無)
(同意。刻限を考慮した場合、多少の足枷には目を瞑ってでも進むべき)
(三番、六番に同意)
(三番、五番、六番は危機感に欠ける)
(七番に同意。気候不安定。計測結果では降水確率六割弱)
(この先は未舗装地帯が多いからな、雨が降った場合を想定するなら、今日はこの辺りで野宿すべきじゃないか?)
(む)
といった議論を分割思考と行い、導き出された結果を意味の有無は別としてミュレに告げる。
「ミュレ、今日はじき野宿だ」
「……ん」
囁き声よりもか細い応答を得るより早く、ジークは最適な野宿の場所を求めてもう少しだけ先に進む。
聖ジョーンズ山道も半ばを過ぎつつあった時、山の中腹に沿って続く山道に、ジークの足を止めるものが出現した。
「む」
ジークは、少し距離を置いてそれを眺める。
かつてはどれほどの大きさから始まったのだろうか、育つのにどれだけの歳月を要したのか、想像もできないほど巨大な樹が一本、宿木を無数に蔓延らせながら、山道の半分近くにまでせり出ていた。
(悪くないな)
(む)
(同意)
他の木々に比べて張り出した枝は太く、また広げる面積も広い。いざという時の雨除けとして期待できるだろう。しっかりと張った根は地面を確固として掴み、地盤が緩むこともないはずだ。
(焚火の際に気を払わねばならんが、その程度ならばどうにでもなるな)
(同意)
(同意)
そう結論付けたジークと分割思考は、大樹の根元にずだ袋を置くとミュレに声をかけて袋の傍に座らせ、弥栄の準備を始めた。
「……む?」
その際、奇妙なことに気付く。
宿木の枝が、一部切り取られているのだ。
(動物が原因である可能性は?)
(低いと推測される)
(同意。切断箇所は、刃物ないし鋭利な金属片を用いなければ際限不可能)
(旅人が無事を祈って宿木を切り取るという話も聞かんし、探せば付近に集落があるのかもしれんな)
(同意)
(否定。悪意ある何者かが、我々に対し脅迫の意図を込めて切り取っていった可能性有)
(いずれにしても、今日突き止めることは無理だ)
三番を抑え、宿木の件は五番あたりに任せておいたジークは、思索を巡らせながらも抜かりなく支度に取り掛かった。
「……む」
枯れ枝と枯葉に火が点いたことを確認すると、ジークは先ほどから挙がっていた案件に意識を向ける。
(要食糧確保)
(現状のままだと、あと三日もせずに食料が底を尽く。特に水と塩気は必ず補給できるようにしておくべきだろう)
(二番に同意)
(む)
幸いにして今の季節は秋。誰もが豊かな実りを食み、来るべき冬に備え蓄え始めるこの頃なら、採取も狩りも難しくはないだろう。
(案件有)
(……む)
すかさず出された六番の意見を、ジークはその『案件』に目をやることで同意する。
「ミュレ」
「ん」
すぐ傍で僅かにミュレが反応を示すと、ジークはゆっくりと噛み砕いて説明する。
「俺は、今から少しの間だけ、ここからいなくなる。分かったか?」
「……ん」
操る糸の切れた人形のような動作でミュレは頷く。その頭に手を伸ばし、ジークは続ける。
「ミュレ、お前はその間、そこの火が消えてしまわないよう、ここで見守らなくてはならない。……分かったか?」
「ん」
再び頷く。一度目よりも間が短くなっていたことを知ると、撫でる動きを少しだけ大きく、掻くようにしてやる。
「む、ならばいい」
「……いい?」
首を傾げるミュレに「む」と今度はジークが頷く。
ジークはミュレの肩にマントをかけてやると、静かに立ち上がる。
「では、行ってくる」
「……ん」
背後で遠ざかる少女からの返事を、たしかにジークは聞き取っていた。
●
放たれたのは、木の葉くらいの大きさと厚みしか持たない小刀。始末屋な鍛冶屋に作らせた一品は静かな秋の夜の空気を裂いて、獲物の喉笛を貫いた。
「……む」
地面に縫い止められ、細長い体を激しくのた打ち回らせている獲物――ジークの背丈より少し短いくらいの蛇を見て、ジークは「むぅ」と唸った。その左手には、少なくとも十匹近い蛇――しかも頭を斬り落としたものばかり――が握られていた。
(また蛇か)
(通算十七匹目)
(有毒種の判別は?)
(任せておく)
(失敗していないだけましとはいえ、こうも続くとなぁ)
のた打つ蛇の頭を別の小刀で斬り落とすと、ジークは血が噴出さないよう断面を押さえながら分割思考と言葉を交わす。
できることなら兎か、もっと欲を言えば猪あたりでも狙いたいジークなのだったが、そのあたりを狩るには罠を仕掛けたりしなくてはならず、山中を探し回ろうにもミュレの待つ場所からあまり動く気にもなれず、したがって木の実か蛇を狩らねばならなかった。
(ミュレなら、これらを見ても驚かないとは思うがな)
(……だろうな)
(同意)
頭の中でミュレが驚き声を上げる様を無理に想像しようとしたために眉間にしわを寄せるその様子を、茂みの中で声を殺して見つめる人物がいた。
(な、何であいつがこんな所にいるんだ!?)
年はまだ若く、着ているものはみすぼらしい。一見すると乞食か旅人にしか見えないが、その全身からは彼らとは一線を画す、日の下を歩けない人間特有の雰囲気が漂っている。
何を隠そうこの男、十日ほど前にジークを相手に惨敗し、命からがら聖ジョーンズ山中に逃げた山賊の一人であった。
(やべぇ、あいつってたしか、マイクさんとかを全部素手で片付けてた奴じゃん)
密かに憧れていたナイフ使いを含む仲間達をいとも容易く屠った――実際には生きている者も数名いるのだが、この男は知らない――“化け物”を目にしてしまい、蛇に睨まれた蛙よろしく硬直している男の視界の端に、小さく揺れる黄色い物体があった。
(……黄色?)
好奇心で恐怖が薄れたのだろう。男はちょっとずつ首だけを動かして、謎の黄色い物体の正体を見定めようとした。
(……何だ、あいつ?)
意外にも、暗闇に紛れる黄色の物体の正体は、小さな藪に全身の殆どを隠している、少年とも少女とも判別し難い年頃の子どもであった。
そう、ヴィルである。こちらは偶然の遭遇ではなく、前々からずっとジークとミュレの動向を窺っていたのである。
(うわ、やっぱりあの人怖いな)
男に見られていることにも気付かず、ヴィルは再び何かを藪の中に打ち込むジークの様子を背筋が凍るような思いで覗き見ていた。
「……む」
その時、不意にジークが視線をこちらに向けたかと思うと、すぐ傍で風を切る音が一瞬だけ聞こえた。恐る恐る藪の中で振り向くと、背後にあった木の幹に小刀は鋭く突き刺さっていた。
「――っ!!?」
反射に次ぐ反射で、ヴィルは動いた直後に出そうになった声を口元を押さえて殺した。
(今のアレが、ボクに直接刺さってたら……!)
昇天は間違いなかっただろう。
失禁しかねない恐怖を体感しているヴィルの存在など露知らず、ジークは先ほどの投擲の結果について頭の中で議論していた。
(手応えがないな。外れたか?)
(微妙)
(気配は未だ健在)
(命中していれば、何かしら反応があってもいいはずだが)
(要確認)
(こっちに来てる……!!)
ジーク本人にしてみれば、単に不自然な投擲の結果を確かめる程度のものだったのだが、どの道ヴィルには堪ったものではない。見つかってしまえばそこで任務は強制終了、その後は何事もなかったかのようにヴィルの後任者が選ばれて、再びジークを追跡するだけである。
(え、えとえとえと、どうしよ)
尊敬する人物のためとかいった理由は咄嗟には浮かばず、当面の保身に走るヴィルは、近寄る足音に半ば混乱しつつも視線を巡らせていたその時、
(あれ? あのおじさん、誰だろう?)
そこでヴィルは、初めて自分を見ている男の存在に気付く。
(お、あいつこっちに気付きやがった?)
一方の男も、ヴィルが気付いたことに気付くと、焼け石に水ほどの意味もないが僅かに身を屈めて姿を隠そうとする。
「…………!」
「…………!」
その動作がきっかけとなり、直感的に二人は感じ取った。
自分達が、理由はどうあれ全く同じ状況下にあることを。
(逃げる?)
(べきだよなぁ?)
言葉を用いずとも、二人は簡潔な動作のみで意見の一致を確認すると、合図もなしに同時に動いた。
「む」
左右二方向、瞬時には選択しかねる方向へと遠ざかる気配に、ジークは低い声音で呟いた。
「気配からして猪か兎の類かと思ったが……逃げられたか」
その声音は、どことなく残念そうであった。
●
いつの間にか雲の向こうで陽は沈み、焚火の光が届かない場所は塗り潰されたように真っ暗になっていた。焚火の中で枯れ枝が爆ぜる音以外には何も聞こえず、ミュレに人並みな感覚があれば少なからず心細さを覚えただろう。
「…………」
焚火の爆ぜる音に足音が混じると、ミュレは風に流されるかのような動作でそちらに目をやった。
「……む」
藪を掻き分け、山道に歩み出たのは、左手に二十匹近い首なしの蛇を、右手に兎を一羽掴んだジークであった。あの後、どうにか一羽だけ捕まえられたのだ。
「ミュレ、待ったか?」
「……ん」
ジークの顔を真っ直ぐに見上げながら、ミュレは僅かに顎を引く。頷いたのだ。
「む、そうか。ではすぐ支度を始める。……見たくなければ、向こうを向いておけ」
後で考えて付け加えた一言にどれほどの効果があるのかは知らないが、形式上の警告を済ませた以上、ジークはもしミュレが覗いてしまったとしても、ここからはミュレの責任であると思い、気にせず蛇を未使用の小刀で魚のように開いていく。
そして、
「む……」
ある意味、最も面倒な食材――兎の番がやってきた。
(気にするな。ミュレならこの程度で驚きはしないだろう)
(……む)
二番から指摘されるという失態も相俟って、ジークは内外両方で押し黙ったまま兎の処理にかかる。
まず、兎の首元にある血管に小刀を入れ、天幕を張るための麻縄で少し離れた位置に吊るして血を抜いておく。その間に鉄の串を数本取り出し、そこへ同じく皮を剥いでからぶつ切りにした蛇の肉を刺して焚火に突っ込んだ。頃合いを見誤らねば、香ばしい焼けた匂いが漂ってくることだろう。
兎の血が抜け切ったことを確認すると、今度は先ほど小刀を刺し込んだ辺りから毛皮を剥いでいく。肉だけではなく、内臓も利用しておきたいが、今は手間をかけたくないので腸は最低限のものだけ残しておき、それ以外は毛皮に包んで後で捨てる。焚火があれば、獣は恐れて近寄ることはそうそうあるまい。
もっとも、何事も例外はあるので気は抜けないが。
(宿木を切り取った存在が出現する可能性有)
(反駁。安易な空想は禁物)
(よし、できた)
(む)
未だに注意を促し続ける三番の相手は五番に任せ、ジークは程よい具合に仕上がった蛇の串焼きを焚火の中から手早く取り出すと、木の葉で拵えた即席の更に移す。鉄製の串はあまりにも熱く、長く持っているのは望ましくなかった。
「ミュレ」
「……ん」
なのでジークは、せめて串が冷えるまで待つようにと言いかけたのだが、それは意味を成さなかった。
「む、待てミュレ、それにはまだ――」
ミュレの細く、そして硬さのない小さな指先が、未だ熱気を含んだ串を摘んだ。
「む……!?」
言葉の理解が追いつていなかったか――思考の一隅ではそう考えながら、ジークはミュレから串を取り上げ、彼女の指先を診る。ジークでさえ、取り出す際に串に触れた時間は一瞬である。下手すれば皮膚が火傷でめくれてしまうこともあるのだ。しかも、応急処置に必要な水は、あまり使えない。
(六番、今はそんなことを考えている場合ではないだろう)
(否定。物事を考える際、常に予見的思考を念頭に入れるのは当然)
二番と六番の仲裁は七番に任せ、ジークは三番とミュレの患部の診断を続行する。三番には『想像による創造』とは別に、人体に関係のある知識も管理しているのだ。
(熱傷を確認。しかし、軽度のものであり、現段階で処置を施せば問題なし)
(む……そうか。六番)
(……了解)
ジークはひとまず安堵すると、処置法を六番に調べさせる傍ら、無表情のままで握られた手を見つめているミュレへと、低い声音で問う。
「ミュレ」
「……ん」
ミュレの頭を、ジークは叩いた。掌で軽くではなく、拳で強く。
「ミュレ、痛いか?」
「……ん」
表情を歪めることもなく、ミュレはジークの顔を見ながら頷いた。
「それは、お前が悪かったからだ」
今度は反応がなかった。まだ理解できていないものと仮定し、淀みなくジークは説明していく。
「あの串は、まだ熱かった。だから触るべきではないと、俺は言おうとした」
ジークは、ミュレの左手を加減しながら持ち上げる。
「その前に触れた結果が、これだ。分かるな?」
「ん」
ミュレが頷いたのを確認して、ジークは空いた手で彼女の頭を撫でてやる。
「次からは、俺が『いい』と言うまで、物に手を付けるのはいかん。分かったな?」
「ん」
再び頷く。本当に理解しているかは分割思考をもってしても怪しいのだが、現時点では見極めるだけの判断材料が欠けているため、保留しておく。
(何はともあれ、まずは治療か)
ジークは薬袋を取り出すと、そこから六番が調べておいた、火傷に効く薬草をす種類選び取り、薬研を使って原形を失うまで擂り潰した。
(何だかんだ言って、しっかり面倒看ているじゃないか)
(……俺の注意不足も少なからず遠因として含まれていることは否定せん。それだけだ)
(二番の意見は甚だ不本意)
二番の物言いを六番と一緒になって受け流すと、ジークはミュレをもう少しだけ傍に来させる。火傷のある手を取り、薬研の底に溜まった、枯草色の薬を適量、患部に塗る。口に入れると危険なのと、塗った箇所が痒くなるのが難点だが、火傷には抜群の効果がある。
「俺がいいと言うまで、ここに触れてはならん。分かったか?」
「ん」
この類の問いかけにはまずまずの反応だが、視線はジークから既に離れ、残った串焼きと焚火の方に向いていた。
「む」
そういえば、まだ一度も食べていない。
「さて、そろそろ食べても構わんだろう」
そう言って放置されかけていた蛇の串焼きを手に取る。今なら少しは串も冷めているので、ミュレに持たせても問題はあるまい。
「……いい?」
「む」
ミュレが、首を傾げて訊いてくる。早速現れた教育の成果にもう一度頭を撫でてやると、二本の串を渡してやる。
串が刺さらないようミュレに注意して、いよいよジークは兎を大きく二つに裂いて串に刺す。焼けるまでの間に、自分も蛇の串焼きを齧る。
「む……」
臭みとしか言いようのない、相変わらずの独特な風味だったが、五年も旅を続けるジークにとっては馴染みのある味であった。時には血を飲むために生で食べたこともある。
そういった過去をふと思い出す傍らで、
(ミュレは……む、まだ何もしでかしてはいないな)
(肯定)
ジークは、ミュレがまた何か面倒事を起こすのではと、内心気にかけていた。
(昨日の川に落ちた件といい、あいつは不注意過ぎる)
(同意)
(まあ、否定はできんな)
即座に分割思考も同意する。
(補ってやれるのならそうすべきだが、個々人の性質にまで問題が及ぶとなれば難しいな)
その後に、二番がそう付け加えた。
(むぅ……)
ほどよく焼けてきた兎の腿肉を取り分けながら、ジークは胸の内で唸る。
ジークにしてみれば、ミュレは見ていて歯痒いことこの上ない。
注意力が足りない。羞恥心が足りない。言葉が足りない。自発性が足りない。知識が足りない。意思表示が足りない。およそ人間が自律し、自立して生きるのに欠かせない要素の殆どが足りない。
かといって、捨て置くこともできない。このまま放置したところで、ミュレは何も考えずに付いてくるのだろう。それが一番、ジークの望まぬ状態だった。
苛立って仕方がないのだ。突き放すためにはミュレを歩み寄らせなくてはならない、この状況が。
ジークは、そうした感情諸共に掴み取った兎の骨肉を噛み千切り、砕いた。柔らかく、鶏肉や牛肉よりも臭みの少ない上質な肉も、ジークの気分を晴らすには至らなかった。
「ミュレ、お前も食え」
「……いい?」
首を傾げて問いかけてくるミュレに「む」と返して、もう一方の腿肉をくれてやる。その際に、思い出したことをそのまま口に出してみた。
「ミュレ、人から物をもらった時はどうするんだ?」
「……あ りがとう」
無表情のままで、しかも極めて平坦な言葉ではあったが、小さな口に肉を詰め込んでいるミュレの頭に手を伸ばしてから、ジークは適当な枯れ枝か枯葉を探しに腰を上げた。
(――警告)
(む?)
真っ暗な山林の中を歩きながら、血塗れのままだった小刀と調合を終えた薬研の事後処理について二番と言葉を交わしていたジークは、七番の報告に耳を傾ける。
(湿度が上昇しつつある?)
(肯定)
言われてみれば、口に含む空気にも、そこはかとなく水っぽさが感じられた。夜露とは別に、樹皮や小刀もうっすらと濡れ始めていた。
(……雨、か)
ジーク達の予感は、見事に的中した。
「……む」
何処ともつかないが、ジークの耳が拾い上げた音は、紛れもなく水滴の跳ねる音。
そこかしこで聞こえ始めた水滴の音は、ついにはその数を数え切れない所まで増えていた。
「いかん、雨だ」
枯れ枝をしっかりと抱え、ジークは漆黒の道ならぬ道を駆けた。隻眼ではあるがジークは夜目が利くし、何よりも四番――空間把握に長けた分割思考があった。
望ましいことではなかった。体力は奪われるし荷物の一部が駄目になってしまう可能性もあるが、何より火が使えないのは辛い。
(仕方がない)
ジークは急いで戻ると、兎を吊るすのに用いていた麻縄を枝から外すと、そこに広げたマントと、小刀を利用して焚火の上に即席の天幕を作る。ジークのマントは、長身で肩幅のあるジークに合わせて作られているので、広げればある程度の面積があるのだ。
「これで少しはましになるだろう」
聞こえよがしに呟いて、ジークはミュレに視線をやる。
そしてすぐに、頭痛を覚えそうになった。
ミュレはいつもと変わらぬ様子で座ったまま、勢いを増した雨に打たれていたのであった。
「……ミュレ、こっちへ来い」
「……ん」
雨に打たれること十数秒、ようやく天幕の下に入ってきた時には、ミュレはすっかり濡れていた上に手や膝ばかりか、長大な二房の三つ編みまでが泥で汚れていた。
(不衛生)
(むぅ……)
六番が言うほど過敏に捉えてはいないが、濡れたままだと体温を著しく損なうため無視してはおけない。
(昨日の一件といい、こいつはよくよく水に縁がある)
(……だから何だ)
愚痴をこぼしても仕方がないと自分に言い聞かせて、とりあえずジークはミュレに服を脱いでおくように言った。昨日よりはひどくないので、焚火に当てておけばすぐにでも乾くだろう。
(その間に、奴の髪なりと洗浄させておくか)
(同意)
雨の程度や降っている状況にもよるが、折角なのでジークはミュレ――下穿きを残し、ほぼ全裸である――に告げた。
「……ん」
下穿きを脱ぎ捨て完全に全裸となったミュレは、自らの完熟しつつも若さ故の張りを保った肢体を惜しげもなく焚火の明かりに照らさせながら天幕の外、降り始めた時からは想像もできない雨量で降り頻る雨の中に歩み出た。
ミュレの衣服に火が燃え移らないよう注意しながら枝に吊るすと、ジークは大樹の幹に背を預けた。
(若い内から枯れているというのは、由々しき事態だと思うがな)
不意に二番がそんなことを言い出したので、ジークは眉をしかめさせた。
(何のことだ?)
(我々の立場を考えれば自重すべき発言だが、あまり“親”に徹するのも考え物ではないか、ということだ)
ジークは、しかめた眉の根に、深いしわを作る。知識と記憶を共有し、単独にして複数の思考を有するとはいえ、全てを把握しきるのはジークにも難事なのである。
(そもそも、俺は奴の親代わりになった覚えはない)
(そうか?)
二番の言葉に、捨て置き難い響きが加わった。もしも表情があるのなら、途轍もなく腹立たしい笑いを浮かべているのだろう。
(ここ数日のお前は、彼女を甲斐甲斐しく世話を焼いていたように記憶しているがな)
(お前にだけ情報伝達に齟齬が生じていただけだ。後で七番から訂正してもらえ)
(そうか)
真面目に考えれば恐ろしく空々しい軽口がすぐ傍、ジークの中で繰り広げられていることなど知るはずもなく、ミュレが気配もなく戻ってきた。
「ミュレ、焚火の傍にいておけ。……む、そこだ。その辺でいい」
「……ん」
やはり一糸纏わぬ姿を厭うこともせず、ミュレはジークの顔を凝視すること数秒、覚束ない動作で焚火とジークの間に腰を下した。
(この雨なら、小刀と薬研を洗浄できるのでは?)
(それもそうだな)
分割思考からの提案を受けて、ジークは小刀と薬研を片手に天幕の外へと身を乗り出す。
雨音で想像はしていたが、豪雨と呼べそうなほどに雨量は増していた。この様子では、明日になっても降っているかもしれない。
(目下計測中)
山の天候が変わりやすいことも計算に入れ、頭を張り巡らせる。その間に、すべきことは終わってしまう。
「む」
水滴を丹念に拭き取ったジークは、小刀を懐にしまう。薬研はずだ袋の中だ。
振り向くと、焚火の傍ではミュレが膝を抱えて座りながらジークの方を見つめていた。重たげな乳房が膝に下から押し上げられて形を変えていて、まるで別のもののように見えた。
「どうした、ミュレ」
問いかけるが、返事はない。ただ、その藍色の瞳はたしかにジークを映している。
その意味を、ジークは違えなかった。
「……どうした?」
「しゃべる」
返されたのは、微かで、儚くて、単一での発音の集合体にしか聞こえない、ミュレの要求。
「……いい?」
「む……」
少し考え、ジークは頷いた。
「まあ、いいだろう」
「……いい」
ジークを真似てか、小さな口は承諾の言葉を繰り返した。
●
外では雨の降り出す気配があったが、酒場を兼ねた『ティルナの泉』の食堂はそんなこととは無関係の大賑わいだった。
喉を見せ付けるかのように勢いをつけて杯の中身を干し、その勢いのまま空の杯を机に叩きつけた。
「おお!? 姐ちゃんすっげー飲みっぷりじゃねーか」
「いいンか、そんな勢いで?」
レナイアを取り囲む男達――雨が降るのも木に留めない常連客や、雨が降っているので外出する気になれない宿泊客らは、口々に彼女を囃し立て、また一方で心配した。
「はン、このくらいであたしが酔っ払うわきゃないだろ? んん? んんー??」
「ぃよーっし! 次だ、次の酒もってこーい!」
「よっしゃ! 任しときなよお前ら!?」
そしてレナイア・カミューテルという女は、そんな坩堝のような雰囲気が嫌いではなかった。酒が入ってますます饒舌となった彼女に周りの男らの熱気が合わさって、誰にも止められそうにない空気を作り出していた。
そうした姉を囲んでの宴会を、ルーカスは喧騒の届かない食堂の隅で独り、皿にも杯にも手を伸ばさずに眺めていた。心持ち不貞腐れているように見える。
(結局、何だってんだよ)
あの後、姉は目的を語ってくれることなく、自分とギデオを連れて村中を巡っただけであった。
その挙句が、姉が見知らぬ男らに次々と話しかけたことに端を発するこの宴である。
(そりゃ、儲けの情報をそうそう喋るわけにはいかないってのは分かるけどさぁ)
曲がりなりにも、自分は弟なのである。嬉しいことも辛いことも、喜びも悲しみも全てが等分とは言わなくとも、分け合ってきたはずだった。
少なくとも、自分の中では。
(こう、分かってても何もできないあたりが未熟なんだろうな、俺って)
と、僻みから自己嫌悪に意識が移りかけたその時、
「四遇の一角に男は在り。片田舎に咲く大輪の花を見詰める其の視線は嫉妬か、或いは渇望か……といった所かね?」
「!?」
何の前触れもなく、正しく唐突に生じた声と気配に、ルーカスは愕然となって振り向いた。その右手は、背中に負った剣の柄に伸びていた。
「……ふっ、悪くは無いな」
長身痩躯の影のような人物は、動じるどころかルーカスを前に微笑んだ。
「あ、あんたは……?」
その人物は、背中まで伸びた黒髪から先の尖った革靴まで、つまり文字通り、頭の天辺から爪先までの衣装と装飾の全てを黒で統一していた。髪と襟の間にある顔と首、そして袖から伸びた細い両手の肌だけが、病的なまでに白い色を持っていた。
そして、美しかった。
面長だが、小さくまとまりのある面貌はすっきりとして品があり、育ちのよさを感じさせる。切れ長の眼に収められた黒瞳は底知れぬ輝きを秘め、酷薄そうな笑みを形作る唇と相俟って妖しさを際立たせる。
ついしげしげと魅入ってしまったルーカスに、その人物は微笑みの度合いを強めた。
「ああ、そう気を張らずとも結構。此の美し過ぎる私を唐突に目の当たりにし、動転せざるを得ない状況に陥る者達を、私は此れまでに数多見てきたのでね。君の気持ちは解るが、落着き給え」
「??」
長々と、しかも回りくどい言い回しを唐突に聞かされて、ルーカスは何のことやら分からないままに「はぁ」と生返事をした。
「私の名は必要かね?」
「は? ……あ、すんません、お願いするっス」
またもや唐突な質問だったために不躾な対応をしたことを慌てて謝る。幾ら突然だったとはいえ、流石に今のは失礼過ぎた。
「宜しい」
一方、ルーカスの狼狽ぶりにも表情を崩すことなく、その人は両手を大きく頭上で広げ、まるで自身が舞台の主演でもあるかのような振る舞いを交えて名乗り出した。
「私はユフォン、ユフォン・カテドラル。つい先刻、今日の夕方に此の地へ訪れたる、美しくもしがない芸術家……と、いう事にしておこうか」
「は、はぁ……」
ユフォンなる人物の、胡散臭いことこの上ない自己紹介を受けてとりあえず分かったのは、この男か女か、性別もよく分からない人が、姉とはまた違う種類の変わり者なのであるということぐらいであった。
「――ルーカス、そっちの兄ちゃんは誰なんだい?」
「え?」
そこへ、杯を片手にレナイアが戻ってくる。顔は真っ赤で足元が覚束なくなっているが、眼の光だけは普段と変わらぬ輝きを秘めていた。
「ユフォン・カテドラル。しがない、美しい芸術家とでも名乗ろうか。詳細は弟君にでも訊いておいてくれ給え」
「ふーん」
横目でルーカスを見ながら、レナイアはユフォンを値踏みするような目で見ながら名乗る。
「レナイア・カミューテル。そこの盆暗の姉で、行商人だよ」
「ふむ、此れは御丁寧に」
ユフォンはつっけんどんなレナイアの対応にもその美貌を歪めさせることなく微笑み、恭しく一礼する。
「訪なった初日に商人と知り合えるとは、私は美しさ以外にも恵まれている。明日にでも、御伺いしても宜しいかな?」
「勿論、客はいつだって歓迎するよ」
レナイアはユフォンと握手を交わす。
「では、明日の昼に」
「あいよ」
レナイアとユフォンは、言葉少なく互いに一時の別れと次なる出会いを告げていたかと思ったが、レナイアは握手していた方の掌を難しい顔付きで見つめていた。
「姉ちゃん?」
返事がない。即座に反応するだろうと思っていただけに、ルーカスには意外に思えた。
「……だね、あいつ……んん、どうしたねルーカス?」
独り呟いていたレナイアは、そこで初めてルーカスが怪訝な表情をしていることに気が付いたようだった。
「え、いや、なんか姉ちゃん、ボーっとしてたし、どーしたのかー、って思ってさ」
「……ああ、そーゆーことかい」
や、何でもないよ、と言って手を振ってみせる姉。酔っているのか、頬は朱が混じり動作も普段より大げさだった。
まさか、ごまかされているんじゃないだろうか。
そう思ったルーカスは、姉の鉄拳制裁を覚悟した上で口を開きかけるが、今回は再び閉じざるを得なかった。
「すみません」
従業員と思しい男が、姉弟に言葉少なく告げた。
「ギネス料理長がお呼びです」
姉の目がぎらついたのを、ルーカスは見逃さなかった。
●
ギネスに呼ばれた姉弟は、彼の私室と思しい、簡単な家具しかない殺風景な部屋に入る。
「悪いな、他に適当な部屋がないんだ」
照れ臭そうに言って、ギネスは机越しに、一枚の羊皮紙を渡した。
「誓約書だ。よく確認しておいてくれ」
「ふーん」
返答とは裏腹に、レナイアは真剣な眼差しで目を通す。
そこには、要約すると次のように記載されていた。
[私、レナイア・カミューテルは、ギネス・フィンに大麦袋二つ分の塩を三〇〇〇クランで売ります。万が一、この取引において両者の間で意見の食い違いが生じれば、私が責任を負います]
最後の箇所には日付と、彼女の名前を書くためと思われる欄があった。
「質問があれば聞くが」
「んにゃ、ないね。――ルーカス」
「? ……ああ」
すぐさま意図を理解したルーカスは、姉の耳打ちに意識を傾注する。
「……と、あとはこの間……やつ、急ぎ足だよ」
「え〜? 何で俺が――ぁぎぇ!?」
「とっとと行く!」
手刀一閃、弟が気絶しない程度の加減で顎に一発浴びせたレナイアは、ギネスに向き直ると今しがた弟から受け取った物を見せる。
「んじゃ、あったにも一筆書いてもらおうかね」
「?」
「もしもの備えってやつだよ。あんたが誓約書を失くしたりしてもいいように、ってね」
なかなか頭の回る女だ。だがそれだけの強かさがなければ、女一人弟一人で行商人なんてやってられないのだろう。
そんなことを考えながら、ギデオはレナイアの用意した契約書とやらに注意深く目を通していく。
文章は、次のようなものだった。
[私『ティルナの泉』の料理番ことギネス・フィンは、『万屋カミューテル』に代金として三〇〇〇クランを納めます。また、ギネス・フィンが所有する誓約書と当誓約書、計二つの誓約書には一切の矛盾が生じないことをここに認めます]
(なんだ、普通じゃないか)
ギネスが見たところ、不備も怪しい点も全くない。本当にただの契約書の文面である。
殆どためらわずに羽ペンで自らの名前を署名したギネスは、これから得られる品に早くも顔を綻ばせながら契約書を差し出す。
「こいつでいいかい?」
「んん、毎度」
署名を眺めること数秒、レナイアは一つ頷いた。
「じきにルーカスが、あたしの言ったものを持ってくるよ。それまでは、まあ寛いどきなよ」
ああ、とギネスが力強く頷いたちょどその時、ルーカスが外から帰ってきた。
「お待たせっス」
「いやいや大丈――ぶ?」
大麦袋いっぱいに詰まった塩が運ばれてくることを期待していたギネスは、ルーカスの持っている物に目を丸くした。
ルーカスの右手にあるのは、彼の掌より少し大きいぐらいの、何の変哲もない羊皮紙であった。
「き、君、ちょっと見せてくれるか?」
やや乱暴に羊皮紙を手に取ったギネスは、そこに書かれた見たことのない文字を前に固まった。
「こ、これって……??」
「? 猪の骨とかからスープを作るための調理法っスけど」
震える声と指先への返答は、味気ないものだった。
レナイアの真意を理解したギネスは、彼女に食って掛からんばかりの語気で問い詰める。
「さ、三〇〇〇クランって、塩ンことじゃないンか!?」
「骨とかから味を引き出す時にゃ、塩っ気も多少混じるからねぇ。必然的に塩を買う必要性も減ってくるだろうさ」
レナイアは平然と切り返して、ギネスの手から古紙を取るとそれを見せ付けるようにしながら続ける。
「あんたは気に入ってなさそうだけど、これはあたしらが昔会った狩猟民族から聞いた、塩っ気を摂るための方法に手を加えた特別製でね。この界隈で知ってんのはあんただけさ」
「…………っ」
あんただけ――魅力的な言葉だが、同時に最も危険な言葉に、ギネスはレナイアへの警戒心を強める。
「そんなことを言って、俺を騙そうとしてないか?」
「昨日今日あったばっかのあたしに対して情ないねぇ。ま、そこんとこも分かるけど」
人の心を見透かしているような笑みを浮かべて、レナイアは続ける。
「別に利益が出りゃあたしゃ構わないよ? あんたが得しようと損しようと、ちっとも関係ないんだしね」
「……そうきたか」
内心を察せられまいと、ギネスは苦笑いを装ってみせる。ここで激情を見せるのは若造のすること。今は挽回の機会を窺わねばならないのだ。
「レニィ、あんたにしてみればそれでいいンかもしれんが、こちらには誓約書があるんだぞ?」
「知ってるよ。あたしゃそこまでボケちゃいない」
髪の結び目あたりを乱雑に掻きながら、レナイアはこれもまた平然と言い返す。
「あたしは、調理法を三〇〇〇クランで売った。あんたは、それを買った。今回はそれだけのことさね」
「は……?」
暫し思案したギネスの顔から、急激に血の気が引いていく。
「――っあ!?」
「分かってくれたかい」
やれやれ、とレナイアは肩を竦め、種を明かしてやる。
「誓約書に従い、あたしがあんたに塩を大麦袋二つ分売る時があれば、三〇〇〇クランにしてやるよ」
まあ、そんな時はそうそうこないだろうけどね、と言葉を結ぶレナイアに、ギネスは呆然とした表情でその場にへたり込んだ。
まんまと一杯食わされた。やはり美味い話が転がっているわけないのだ。
「……はぁ、まんまとやられたよ」
「ま、作り方だったらルーカスが覚えてるしね、後で詳しく聞いておきなよ」
笑顔で応じたレナイアは、手を差し伸べてギネスを立ち上がらせる。
その際、こう付け加えて。
「ただし、ヴァンダル語の翻訳料は別途で頂戴するけどね」
「…………」
金の亡者め――と言いかけて、ギネスは口を閉じた。
ここまでの流れで、レナイア・カミューテルという女性に頭が上がりそうにないことを、彼の料理番としてはそこそこ優秀な頭脳は認めてしまっていたのだった。
●
自分達にとっては何の価値もないとまで断言できる紙を三〇〇〇クランで売りつけることができた。汚いと言われればそれまでだが、綺麗なだけでは生きられないのは魚だけではないのだ。
「ギネスさんには悪いことをしちゃったかな――ぁぶぉ!?」
寝る前の日課として姉の髪を梳きながら、ルーカスが洩らしていると、鳩尾に強烈な一撃が打ち込まれた。
「なに甘えたこと言ってんだい」
レナイアは、わざわざ弟が立ち直るのを見計らってから肩をすくめてみせると、人さし指を立てて語る。
「いいかい、たしかにお人好しってのは倹約と同じくらいの美徳だろーよ。けどねルーカス、その美徳か否かを決めたのは商人じゃない。んでもって、あたしは商人だ。時には人を、商人相手だろうとそれ以外だろうと、騙すことも考えなきゃなんない」
「けど――」
「分かってるよ」
ルーカスの唇に立てていた人さし指を軽く押し当て、レナイアは笑ってみせる。
「いかに他人様を出し抜くかが商売の肝なら、いかに他人様と信頼関係を結ぶのかも商売の肝。どっちかが欠けてもダメ。両方をちゃんとできて、初めて一流の商人になるのさ」
「あぁ、そっか」
と呟くルーカスを見て、レナイアは露骨にため息を吐いてみせる。
「……ったく、何べん教えりゃ分かるのかねぇ」
「はは……すまねっス」
頭を掻き掻き、ルーカスは己のもの覚えの悪さを恥じる。
「ま、そうそう簡単に分かられても困るし、何より――」
レナイアは身を翻し、ルーカスの手を掴んだ。
「人にゃ、その人に割り当てられた役割ってものがあるって、あたしゃ思うんだよ」
「え……」
「ま、さしずめあんたは、あたしの世話役ってとこかね!」
そう言って呵呵大笑する姉に手を握られたまま、ルーカスは引きつった笑みを浮かべる。
「ほれ、さっさと続きをやっちまいな」
「お、おう」
握った弟の手に落ちていた櫛を握らせ、レナイアは強制力を大いに含んだ笑みを浮かべた。
そんな笑みを向けられては、ますますルーカスは断れなかった。
●
ただ、一色だけだった。
黒だったかもしれない。あるいは白だったかもしれない。その一色だけが、全てだった。
『お前さえ、いなければ』
その一色を構成しているものは、同じく一つの感情。一方向に向けられた強い感情。
単一でも複数でもない感情から生まれた一色が、ミュレの見る夢を塗り潰していた。
――ミュレにも、記憶はある。
あらゆる不安も悩みもなく、小さくも全てが自分を愛し、全てを愛した記憶もあった。
だが、そうした記憶は今やどこにもない。忘却とも違う、森の地面が降り積もる落ち葉に、倒れ伏した獣の死骸で形作られていくように、彼女の記憶の大半は、新たに生まれた傷で埋め尽くされていった。
迫害され、故郷を追われ、慕情は叩き潰され、恐怖は快楽に塗り潰され、感情は摩滅し、安らぎに満ちた記憶は残滓とも呼べぬほどに失われていった。
――否。失わなくてはならなかったのだ。
与えられた幸福が僅かであるほど、過去の幻影と現在との間に軋轢が加速するほど、幸福は――幸福だったという記憶は、辛さを生み出してしまうのだから。
中には、そうした環境に屈することもなく、過去を過去として割り切って乗り越える者もいるのだろう。
だが、そんなものは稀だ。玉が砂利石の中でこそ際だって輝くように、強者を強者たらしめるのは常に大多数の弱者であり、ミュレはその大多数の中に含まれていた。
そしていつしか、ミュレは幸福だったことを忘れたことも忘れ、現在に至る。
彼女の見る夢は、そうした過去の象徴だった。
叩き潰され、擂り潰され、塗り潰された記憶によって心に刻まれたものの意味を知ることもなく、かつては鮮明な像を結んで襲ってきた記憶はその形を失い、単色となってミュレの周囲を塗り固める。もしも夢がその者の記憶だというなら、正しくミュレの記憶はただ一色に塗り潰されていることとなる。
立っているのか、座っているのか、五体の状態も定かではないままに続く一色の夢は、彼女が目覚める時になってようやく消える。
「…………」
雨の音。焚火は消え、光はなく、闇。
そのような中でも、ミュレの眼は探す先を違えなかった。
大樹に背を預け、自分と離れた位置で眠る者の存在を。
「ん……」
ジークの傍で、ミュレは再び眼を閉じる。
次に彼女が見たのは、いつもと変わらぬジークの仏頂面であった。
3【Highlander's land】
明け方が近付くと、ジークの意識と体は僅かな眠りから目を覚ます。
野宿をする際、ジークは周囲への警戒のために睡眠を殆どとらない。明け方が近づき、夜と昼とが入れ替わり始める、限られた時間の中で仮眠をとるだけであった。
首を捻ると、大きな音がした。座したまま眠っていたから、体が固まっていたのだ。
と、脇に目がいく。
「……む」
そこには、背中を丸めて眠るミュレの姿があった。
(いつの間に)
(推測容易)
(人肌が恋しいんじゃないか?)
(可能性有)
ジークが仮眠を取る時間は決まっている。ミュレが傍へと移動してきた覚えがないということは、仮眠をとっている間に動いたのだろう。
(昨晩はマントを貸してやれなかったしな)
(そんなものか)
鼻を鳴らし、ジークは言葉短く告げる。
「ミュレ、起きろ」
反応は、数秒後にあった。
瞼を縁取る柔らかな睫が、微かに震える。
「ん……」
微風にも掻き消されそうな声を洩らしながら、ゆっくりとミュレが瞼を開く。
そこから更に十秒ほどの時を経て、ミュレは枝のように細い腕の、肘から上だけを支えに上体を起こすと、暫く視線を彷徨わせた末にジークで固定する。朝陽が木漏れ日となって降り注ぐ中、危ういほどに無防備ではかなげな少女が銀髪の剣士を見上げるという構図は、さながら童話の再現であった。
「む」
そうした情景の主役たる二人は、
「ミュレ、とりあえず服を着ろ」
「……ん」
全くの自覚もないままに、淡々と各々の作業にかかる。
枝に吊るしていた衣服をミュレに投げてよこしたジークは、縄を片付け、マントを振って湿気をある程度は飛ばしてしまう傍らに、ふと顔をしかめた。
「……む」
案の定というか、またもやミュレは長大な二房の三つ編みを襟の辺りで引っ掛けたまま固まっているのだった。しかも下穿きからではなく、何故か上の方から着ようとしているので、非常に滑稽な絵面だった。
(またか)
(面倒)
ジークは怜悧な外見以上に冷淡な言葉を胸中で呟き、ミュレに近寄る。
ただでさえ基本的に動作が鈍い上に大き過ぎる乳房があるというのに、この髪であった。これで何も問題がなければジークも愚痴めいたものを洩らすこともないのだが、残念なことにミュレはこれまでにも、そして今からもジークに迷惑をかけるのだった。
(いっそのこと、切ってしまうか)
そう思い、実行に移しかけたこともあったのだが、何故かミュレはその度に無表情ながらも拒否の意思を示す。
なされるがままの人形かと思っていたが、執着心のようなものは一応持ち合わせていたらしい。
(ならば好都合というものだ)
一片でもミュレが『自分』というものを持っているのなら、ジークにとって願ってもないことだった。ジークは、ミュレに接することを計画上已むなしと判断していたが、本心としては彼女が必要以上に自分の影響を受けることを望ましく思っていないのだから。
ミュレに最低限の教育を施しているのは、そもそも自分と別れることを理屈で分からせるためなのだ。下手を打ったがためにミュレを自立させる機会を損ない、ますますこちらに寄りかかられても困るだけである。
(歯がゆいが、この件に関しては不問とする)
そういった血の通わぬ合理性の下、ジークはミュレに教育を施す。
「ミュレ、脱がすぞ」
「……ん」
この二人の間柄を知らない者が聞けばかなりの問題発言であったが、生憎付近にそうした輩はいない。
ジークは慣れた手つきでミュレの三つ編みを一度脱がしやすい状態にまで持っていくと、髪を巻き込まないように手早く脱がせた。
ミュレの真っ白な背中が露になる。木漏れ日を浴びて白く輝き、黒に近い藍色の髪との対比でますます色が抜け落ちているように見え、生物というよりも一個の生々しくも美しい芸術作品とさえ言えるほどであった。
「ミュレ、お前はすぐに頭から着ようとする。それは駄目だ」
「……だ、め」
「む」
そんな見慣れた背中にさして表情を動かすわけでもなく、ジークは淡々と髪だけを服の内側から襟に向かって通し、続けてミュレの頭を、最後に大きく飛び出た乳房を収めさせて作業を終える。いつもならば。
「ミュレ」
虚ろな無表情でこちらを見つめているミュレに、ジークは新たな課題を与える。
「今度は自分だけでやってみろ。それまで朝飯はない」
そう言ってジークは、またミュレの服を脱がしてしまう。
「……ん」
いつものように、頷く。理由は問わない。服を脱がされることに文句も言わない。仮面のように眉一つ動かさないで顎を引き、少女は与えられた課題に黙々と取りかかる。
その間に、ジークはずだ袋の中を探り、昨夜の夕食の残りを取り出す。開いて焼いた蛇は、最早魚と殆ど変わらない形をしていた。
ジークがその中から適当に選んだ一匹を口に運び始めた頃、ようやくミュレは自分の髪を通すことに成功していた。
「む」
ひとまずの成長に、ジークは頷くことを自分に許した。
三つ編みの一房を通し終えたミュレは、続けてもう一房も通す。
ここまでくれば気に病むこともなかろうとジークが思っていた矢先、
「……む」
ミュレは、やってくれた。
服の向きが、前後逆なのだ。
(修正?)
(む……いや、構わん。とりあえずは経過を見よう)
何故か歯がゆいような心境になるが、ジークは気にせずに朝食をとることに徹した。
「む?」
肘に、僅かな重みを感じる。そちらに目をやれば、ミュレが無表情で袖を掴んでいた。三つ編みは通せたようだが、残念ながら服の向きは逆のままであった。
「……いい?」
「む……そうだな、よくできている」
まずは、褒める。そして目に見える結果として、蛇の開きを与える。食べ終えた頃を見計らい、教育的指導を施す。
「だが、服の向きが駄目だった」
「……だめ」
こちらを見上げたまま、ミュレは復唱する。光のない藍色の瞳は、木漏れ日に照らされても輝かない。
「そのことについては、後で教える。今は食ってしまえ」
「ん」
僅かに顎を引き、ミュレは頷く。視線は既に、昨夜の残りへと向けられている。
●
朝露で光る草の上で滑らぬよう、細心の注意を払って足を運ぶ。
雨が降るのは予想外だった。昨夜には帰るつもりだったのに、おかげで野宿することになってしまった。
(でも、おかげでいいものが採れた)
大事そうに、肩から提げた袋を撫でる。村の周囲では最近採れなくなってきている、樫に生えた宿木であった。
(祭司様も、これならきっと喜んでくれる)
今度のお祭りでは、もっといいお告げを聞かせてもらえるかもしれない。そう思うだけで、自然と足は軽くなる。
(急いで帰ろう! このままだと枯れてしまう)
気持が逸り、駈け出してしまう。
それが、凶となる。
「っ!?」
足が、滑った。
「あ、宿木が!?」
足元は坂になっている。態勢を整えようとする。無我夢中で手を伸ばすが、勢いが止まらない。
その先は、崖。
「――――っ」
浮遊。体を支えるものは何もない。ただ、背中から強い風を受けている。
叫んだ。どうなるというわけでもなかったが、何かしなくてはという気になっていた。
衝撃。右足首と、背中。
「っは、ぅ……!」
あまりの痛さに、一瞬だけ目の前が真っ暗になった。
●
カミューテル姉弟が朝食を済ませて部屋へ戻ろうとしていた時、思わぬ人物と出会った。
「あら、おはようさん」
小太りの女性――ブリジット・フィンは、姉弟の顔を見るなり笑顔で歩み寄ってくる。姉弟も、それぞれブリジットに挨拶する。
「ギネスから聞いたよ。あんた達、上手いことあの人を出し抜いたんだって?」
「んん?」
意外そうにレナイアが片眉を上げてみせると、ブリジットは説明した。
「だってあン人、あたしン旦那だからね」
「え、そうだったんスか?」
それに対し、意外そうな反応を見せたのがルーカスだった。
「んん? どうしたんだい?」
「え、あ……いや、何でもないよ、うん」
と言葉を濁したきり、ルーカスは口を開かないので、レナイアは怪しげに横目で睨みつつも、ブリジットに気にせずともいいと言った。
「そうそう! それで話があったンよ。いやー、思い出せてよかったわぁ」
そんな中で、突然ブリジットは手を叩いて伝える。
「うちン旦那――あ、ギネスじゃなくて、ここン宿ン人がね、あんた達とそンことについて話がしたいんだってさ」
「は、話っスか?」
眉根を寄せたルーカスは、慌てて姉に歩み寄る。
(ど、どーするよ姉ちゃん? あれって完璧に夕べの――っとと!?)
「ああ、了解。で、あたしらはどこに行けばいいんだい?」
心配から耳打ちしようとしてくる弟を受け流して倒すと、レナイアはブリジットに案内を頼んだ。
「ほれ、何やってんだい。さっさと行くよ」
「う、うっス……」
頭を掻き掻き、ルーカスは姉とブリジットについていく。
耳打ちしようとする弟に足払いをかける姉も姉なら、そこから流れるような動作で起き上がる弟も弟であった。
「――ああ、そうだ。ルーカス、あんたブリジットさんと先に行っといとくれ」
「え?」
唐突に言われて面食らったルーカスだったが、姉の日頃の言動や行動を考えれば不思議はないと思い、彼女を見送ったのだった。
「君ンお姉さん、なかなか変わってるねぇ」
「……あ、やっぱりそうなんスね」
至極的を射たブリジットの感想に、ルーカスは苦笑いすることで暗に同意した。
「ちょっと、普通の人には分かりにくいっつーか、こう……人と違う部分なんかもあるんスけどね、小さい時からずっと俺の面倒看てくれてたし、やっぱ根はいい人なんスよ」
「え?」
ルーカスが自然に洩らした一言を、ブリジットは聞き逃さなかった。
「小さい時からって、どういうこと?」
「え? ……あ、やば!?」
ブリジットに指摘され、ルーカスは目に見えて狼狽する。触れてはならない話題だったらしい。
「や、な、何でもないんスよ! ただ、口が滑ったっていうか、その、まあ、冗談! さっきのは冗談っスよ!」
「ふぅん」
動揺が過ぎるあまりにブリジットを追い越してしまうという無意味な行為をしているルーカスの背中を、ブリジットは意味深な視線で追うと、
「こらこら、どこへ行く気なンさ」
そのまま何事もなかったかのように、追い抜いた。
そんな二人にレナイアが合流したのは、それからほどなくのことであった。
●
昨晩とは別の部屋に通された姉弟を待ち受けていたのは、見知った顔と見知らぬ顔の、二人の男達であった。
「俺は、ここン宿ン主人だ」
見知らぬ顔の大柄な男が、居丈高に名乗る。その背後に、見知った顔の男――ギネス・フィンがいるという構図であった。
「俺が知らん間に、こンギネスを騙して大金をふんだくったそうじゃねぇか? えぇ?」
主人は、そう言って袖を捲る。毛むくじゃらの、太く立派な腕だった。レナイアの返答いかんでは、私刑もあり得るということなのだろう。
(……これって、まずいんじゃないのか?)
ルーカスが、男らに気付かれないよう腰を落として構えを作る。いざとなれば、姉を護るための戦いも辞さない覚悟を決めていた。
「そうさね」
「え?」
そうした男達の思惑を知ってか知らずか、レナイアは堂々と、まるで自分の手柄を誇るかのような態度で言ってのけるのだった。
呆気にとられたのはルーカスばかりではない。宿屋の主人とギネスも、二人揃って悪魔に騙されたような顔でレナイアを凝視していた。
「ね、姉ちゃん……」
「今は嘘吐いたり黙ってても仕方ないさね。だったら、後はどうするかくらい分かるだろ?」
ルーカスが狼狽を隠せないでいると、レナイアはどこまでも普段と変わらぬ振る舞いを見せる。
落ち着け、隙を見せるな――そう姉が言っていることは、よく分かっている。伊達に護り護られを続けてはいないのだ。
「い、言ってくれるじゃねぇか。商人まがいの、ペテン師女のくせによぉ」
「その“商人まがいのペテン師女”とやらに、あんたンとこの料理番はまんまと騙されちまったってわけだ」
主人の剣幕に、レナイアは一歩も退かない。その様子は、ルーカスよりも被害者であるはずのギネスが心配しそうなほどであった。
「てめ……っ」
「落ち着きな」
案の定、怒りを露にしかける主人を、レナイアは冷ややかとさえ言える声音で制した。先刻までの飄々さは、ない。
「商人っていうのは、騙し騙されの職業だ。そんな奴を相手に、たとえ一筆書かせても、どっかで疑うのが筋ってもんさ。あたしはそれが間違ってないって思ってるし、今回のギネスの一件もそれに則って騙した。それだけのことさね」
「ひ、人の情ってもんがあるだろうが!?」
「情だァ? 笑わせないどくれ、そんなもん、鐚銭一枚にもなりゃしないよ」
堪りかねたのか、思わずギネスは主人の背後から叫んだが、レナイアの切り返しにあっさりと言葉に詰まった。
「――と、血も涙もないだけの輩なら言うだろうね」
『?』
レナイアの言に、ルーカスを含む三人は二度も言葉を失う破目になった。
「ところがどっこい、あたしはそんじょそこらの盆暗どもとは違うのさ」
そう言って、レナイアは腰から吊るしていた、重たげな皮の袋を手に取る。
袋の中身が立てる鈍くも澄んだ音は、紛れもなく貨幣同士のぶつかり合う音である。
「昨日、あたしらがあんたから受け取ってた三〇〇〇クラン――そっから調理法と、あんたへの『授業料』を差し引いた残りさ」
「おいおい、待ちやがれ。何だそン『授業料』ってぇンは? そりゃお前、ギネスから巻き上げた金だろうが」
「分かっちゃいないねぇ。あたしゃ、ある意味この宿の恩人になるかもしんないってのに」
レナイアはぬけぬけと言い放つと、
「ギネスだけど、そいつは目利きの割に想像力が足んないね。例えば、一度でも信用しちまったら、自分がそいつに騙されるなんて全く思わなくなっちまう」
違うかい? とおどけた口調でレナイアが問いかけると、ギネスは視線を下げた。自分のどこかにそういう一面があるのではと考えた結果であった。
「ほれ、ギネスは自分でも認めてるよ。人からあれやこれやと言われるよりか、実際に自分で気付いた方がよっぽど効き目があるものさ」
「だが、お前は――」
「おっと旦那さん、またしても騙したとか卑怯者なんて言い草はなしにしとくれよ。あたしゃ同じ奴相手に二度三度と同じことを言うのが嫌いなんでね。……ああそうだ。この金、いらないんなら別にいいがねぇ」
「な……誰もそんなこと言ってないだろ!?」
「んん? そうかい。んじゃ、余りはお返しするよ」
ほれ――そう言って、レナイアはギネスに金の詰まった皮袋を投げてよこす。狙い違わず、袋は弧を描いてギネスの手に収まった。
袋の中身がクラン硬貨であること、その金額が支払いの半分程度であることを確認したギネスは、疑ぐるような視線をレナイアに向けた。
「……随分と物分りがいいじゃないか」
「お客から不満が出ちまったんだ。ゴネたって一銭の得にもなりゃしないよ。……っと、こりゃあ嘘じゃないよ。あたしの本心さね」
またもや平然と言い返して、レナイアは堂々とした笑みを見せる。自身の言動に全く負い目を感じていない人間の笑みであった。
「――ま! これでギネスも調理法を手に入れた上に二度と騙されまいって考えるだろうし、あたしはあたしで利益が出たから言うことなし! どうだい、形としちゃあ両得だろう?」
そんなレナイアを見て、主人とギネスは顔を見合わせると同時にため息を吐いた。
たしかに、感情から離れて見れば得はしているのだろうとギネスは思う。塩が貴重なこの付近一帯において比較的容易に塩気を得られるということは、それだけで他所よりも優位に立てるだろうし、自身の至らぬ点を自覚できたということも将来の損失を未然に防げたと考えれば間違いなく得したと言っていい。
だが、
「……なんか、納得しきれねぇ話だな」
「そりゃあんたが、そんだけ若いってことさね」
そう言って、レナイアはまた笑った。
●
頃合いは昼前。陽は高くなりつつあるが、それでも空気は肌寒く、擦り切れた舗装路から茂る草にも、吸い込んだ空気にも、水気が含まれていた。
聖ジョーンズの山頂は、既に過ぎていた。あと二つも同じような山を越えれば、アルトパ程度の小都市がある。
距離にすれば、三日もかからない――そう胸中で己を奮い立たせるジークと、それに付き従うミュレが聖ジョーンズ山道の終わりにさしかかった時、
「!」
『それ』は崖の上から低木の枝葉を貫いて、勢いよく藪の中に落ちてきた。
「む――」
ジークは、ミュレを背後に庇う形で身構えると、『それ』の動向を窺った。既に分割思考は、目まぐるしく動いていた。
『それ』から悪意は感じない。だがそれだけで警戒を解く理由にはならない。
(賊か?)
(分からん。ただ、一当てしてみる必要はある)
決して最低限の緊張を緩めず、ジークは恫喝の意を込めた低い声音を発する。
「何者だ」
問いかけにも、応じない。
「ミュレ、お前はここにいろ」
「……ん」
獣の類かと考えつつ、じりじりとジークは『それ』のいる藪との距離を詰める。
藪越しに、何かが見える。
「む」
長剣の柄に手をかけ、ジークは藪の中でうずくまる『それ』を注意深く観察する。
「ウ、ゥゥ……」
呻きながらうずくまっているのは、人だった。十二、三歳程度の背恰好で、獣皮でできた上着と腰巻を身に着けていた。甲高い声から察するに、年若い少年か、少女なのだろう。右足首を庇うような仕草をしているということは、何かの拍子に挫いたのかもしれない。
(見慣れない衣装だな。……まさか、奴らか?)
(不明)
二番の危惧する『奴ら』とは、時のリグニア政府がブルカン山道を『採算が合わない』と判断する原因の一つとなった蛮族のことであった。
彼らは、恐ろしいほどに山岳戦に長け、リグニア王国軍が派兵されるもその度に姿を隠し、あるいは。追い返すことに成功している。そしてブルカン山道を往来する人々を激しく嫌っていた。
眼前の何者かが、その一族に属する者であるという可能性は充分にあった。
(いずれにせよ、警戒すべきだな)
(ああ)
単独で頭上からの脅威を警戒していた三番を除いた四番以降の分割思考が、状況の把握と最善の行動について議論している間に、ジークも単独で状況への考察を巡らせる。
(頭上……そうだ。確かに奴は、あの崖の上から落ちてきていた)
ジークはつかの間、崖に目をやった。
(四番)
(計測の結果、対象の落下地点は、垂直に落下する際の抵抗によって生じる誤差の範囲内にある。よって質問への回答は肯定)
(む)
空間把握と計測に長けた四番の言である。少なくとも、間違っている可能性は低いと見ていい。
(結論は急がない方がいい。まだ全ては仮定の中だ)
(む、分かっている)
(承知済み)
二番の指摘は、迅速且つ多角的且つ洗練された思考の展開を旨とする分割思考の欠点だった。『想像による真実の想像』を役割とし、それに特化している三番でさえ、予備的に機能しているだけに過ぎない。
頭脳の回転も、過ぎれば身を滅ぼしかねないということだ。
(五番)
(了承。『戦闘時における敵性個体の対処法』より『矮躯・非武装の敵性個体の無力化』の提示。平行して三番と伏兵の可能性に備える)
落ちてきた人物との戦闘を視野に入れたジークは、五番に最適な動作・戦術を求めさせる一方で、藪の中でうずくまる何者かに接触を試みる。仮にこの、少年だか少女だか分からない何者かが自分に対し敵意を持っていたとしても、しかるべき処置をとるだけである。
「おい」
「…………っ!」
試しに声をかけると、何者かは弾かれたようにこちらを見上げ、顔を何かしらの感情で歪ませていた。
(む?)
(どうやら警戒しているようだな)
(可能性供述。対象が我々の様相に恐怖を覚えている)
(可能性供述。対象が我々と異なる言語体系に属している)
(可能性供述。対象が我々を警戒している)
(結論から言えば、我々の立ち居振る舞いが対象に威圧感を過度に与えていることが、警戒に繋がっているものと推察)
(七番に同意)
(むぅ)
七番が下した結論に、ジークは渋い表情を作る。それにも何者かは、しっかり反応していた。
右手を上げてみる。それだけでも何者かは、露骨に怯えた仕草を見せる。
(警戒を継続?)
(む?)
敵性存在であることに疑問を覚える六番に継続を命じて、ジークは自分がとるべき行為について分割思考を巡らせていた。
(放置しておくか)
(だが、あれはあまりにも怪しいぞ)
(二番に同意)
(同意)
(反駁。怪しいが故に現在地点から離脱する必要性有)
(七番に同意)
分割思考は、怪しいからこそ捨て置けないという意見と、怪しいからこそこれ以上かかわるべきではないという意見の二つに分かれていた。
答えに至るまでに、随分と時間を要したように感じたが、実際はミュレが反応するのに要する時間と同程度のものであった。
(ミュレみたいな奴は、一人で充分だ)
(同意)
(同意。単体でも厄介至極)
優先順位を考えれば、とるべき選択肢は一つ。
この、ただ怯えている、何者かも分からない人物を、無視して通り過ぎるだけ。
「……ミュレ、行くぞ」
「ん」
ミュレは、気が付けばすぐ背後にいた。途中から傍にいたのか、それとも最初からだったのか、確かめることはできただろうが、ジークは今となってはどうでもいいと片付けた。
背後に人形のような少女を伴い、ジークは再び旅路を往く。怪しい現れ方をした、名も知らぬ人間のことなど、既に五番が警戒しているだけに過ぎない。
その時であった。
「――逃げて下サい!」
「む!?」
少女の声、藪を掻き分ける音の直後に、風を切って何かがジークに飛んでくる。
僅差で、ジークの直感の方が素早かった。ずだ袋を放ると身を屈めて飛来する物体――おそらく、石か何か――をやり過ごし、即座に五番を中心とした分割思考を戦闘態勢に切り替える。
(四番)
(投擲の軌道算出は完了済み)
四番は、全ての計測を終えていた。暫定とはいえ、敵の居場所が分かれば対処は格段に容易となる。
(警告)
(む――)
右斜め前に進む。左肩の脇を鋭利な刃物が通り過ぎる。身を翻す最中に奥足であった左脚を曲げて抱え、
「――――っ!?」
躊躇いなく、背後で長柄の武器を突き出していた男の腹へと爪先を打ち込んだ。
前に進まんとする者に合わせて威力を絞り込んだ一撃である。新たに現れた何者かは声にならない声を上げて武器を取り落としかけるが、
「む」
拾い上げる勢いを利用し、一瞬ではあるがジークに間合いを詰めさせなかった。
そのままミュレと少女を挟んで、何者かと対峙する。躊躇なく、ジークは長剣を抜き放っていた。
長柄の武器を手に構える敵の正体は、少女の服とよく似たものを纏う、刺青の目立つ男であった。
目線はほぼジークと同じくらいだが、体つきはジークよりがっしりしており、雄々しく力強い。髪は肩まで伸びていて、それが方々へ好き勝手に伸びているために顔はよく見えなかった。
「ミュレ、お前は俺の後ろにいろ」
「……ん」
ミュレがジークの言葉を理解し、行動に移るまで待つほど、男は悠長な人間ではないようだった。
「ッシャ!」
武器を構え直し、男が猛然と突き進んでくる。
ジークは右足を下げ、左肩を突き出すように半身を切る。まずは敵の無力化を図り、すぐ傍にある柄に手をかけ、更に勢いを加えてやる。案の定、不意に勢い付けられた男は殆ど体格差のないジークに苦もなく引っ張り倒される。
しかし、男も粘るもので、容易く地に伏さなかった。刺突を繰り出す際の基点とならなかった脚を支えに辛くも姿勢を崩すだけに留め、そこから形振り構わぬ下段蹴りを放ってくるのであった。
そのまま、ジークと男による一騎打ちは二合、三合と続いていく。
その最中にも、分割思考による情報収集と対策は行われ続けていた。
(できるな)
(む)
(同意)
ジークが以前矛を交えた女竜騎士と比べれば動作は洗練されておらず、戦いの組み立て方も一つ一つが荒いのだが、兎に角貪欲に攻めてくる。
(さて、どうする)
男の武器は、長柄の両端に曲刀を取り付けたもので、間断なく攻撃し続けられるという厄介な代物であった。
(だがそれは、熟練した使い手である場合――)
四合目。陽動も何もない、純粋にして獰猛な男の一刀が、ジークの長剣と噛み合う。そこから男は柄の握りを順手から逆手に替え、反対側の刃をもって切り上げようとしてくる。
軌道は三番、四番、五番の連携によって既に把握してある。後は放たれるのを待ち、しかるべき形で迎撃するのみ。
(お前の捌きでは、俺を止められん)
男が動いた。愚直なまでに躊躇いのない、真っ直ぐな刺突から跳ね上がる一撃。
紙一重で跳ね上がる刃を見切ったジークの一刀が、無防備な男の横腹に吸い込まれる刹那――
「アシュレイ!」
「む?」
突然少女が、うずくまったまま凛とした声を上げる。
状況を把握すべく、ジークは斬撃に急制動をかけ、素早く男――アシュレイというらしい――との距離をとる。アシュレイは、少女の一声のみで、目に見えて動揺し出しており、余計に不明瞭な言葉を口走っていた。
「アシュレイ! ――――――――、―――――――――――!?」
「―――、―――――――――」
「――――――――――!!」
そこから二人は、ジークそっちのけで、聞いたことのない言葉で口論を始める。詳しい内容こそ分からなかったが、口数の多さや言葉の勢いから、少女がアシュレイとやらを圧倒していることは分かった。
「……グ」
どうやら、決着がついたらしい。
アシュレイはこちらと少女を交互に見やっていたが、やがて踵を返し、藪の中に姿を消した。
「アシュレイ! ……スみまセん、彼が危ない真似を……」
「む……」
長剣を収めたジークは、両者が口論している間にまとめておいた疑問を発する。
「リグニア語が、分かるのか?」
「はい。少シ、でスが」
聞き取りづらい語調ではあったが、藪の中の少女は頷いた。
余計な遮蔽物がなくなったことで、その面立ちをはっきりと見ることができた。花を模した耳飾りからも、どうやら女であうことに間違いないらしい。意外に目立つ睫毛の奥には警戒の光が見えるも、真っ直ぐにこちらの顔を映している。
「お前の、名前は?」
「リュリュ、でス」
ジークが少女を手で示しながら問うと、彼女――リュリュは自らの胸に手を当てて答えた。蛮族とは思えないほどの、礼儀正しさであった。
(というか、あれはリグニア東部の風習ではないのか?)
(肯定)
二番の疑問に、七番の補強が入る。無視できない事項ではあったが、現時点でその疑問の解決は優先順位が低いと結論付けたジークは、作法に則りミュレの分も合わせて名乗っておく。
外見は幼いながらも物覚えは悪くないようで、リュリュはすぐにジークとミュレの名前を覚えた。
そういった情報も記録しつつ、ジークは次の問いにかかる。
「あの男――アシュレイと、言ったか。お前とは知り合いのようだが、奴は何者だ?」
「は、はい、あの、でスね……」
まだアシュレイの去った方角に目をやりつつ、リュリュは何か考えているような仕草を見せる。
「……やっぱり、言えないデす」
「む、どうした。答えなければ何も分らんぞ」
そう言ってジークが促すも、リュリュは口を開かない。
(よほど言い難い事情が、あのアシュレイとやらにあるようだな)
(同意)
(可能性有)
リュリュの沈黙からさえも情報を引き出さんとしている分割思考はそのままに、ジークは次の対応に出た。
「答えんのであれば、別に構わん。このまま俺は奴を捕らえ、直接聞き出す」
「!」
先刻までとは打って変わり、リュリュは藪の中から身を乗り出した。明らかに動揺している。
「駄目でス! 危ないでス!!」
「危ないとは、どういうことだ?」
「アシュレイは……ソの、サっきので、ジークサんとミュレサんを敵思ってマス。ここから、わたし達の山。アシュレイ、好きにできマス」
拙いながらも、リュリュの言葉は真に迫っていた。それだけに、眉唾物であるという解釈もできた。
(……彼女の言、どう捉える?)
(リュリュの言葉全てが真実とは思わんが、この先々で奴とやり合うのは面倒だ)
(同意)
(同意)
三番が打開策として迂回路を示しているが、ジークと五つの分割思考は否定する。ミュレという荷物も考慮に入れた上で考えられる最短経路が聖ジョーンズ山道からの道なのである。アシュレイ一人のために無駄な選択はしたくない。
(とはいえ、奴が我々を完全に敵視しているのは事実だし、この先でどのような妨害を謀るかも想像に難くない)
それは、ジークも懸念していることであった。
先刻の一件で、アシュレイが直情的なきらいがあると見ていいのだが、リュリュの『地形を知り尽くしている』という発言が引っかかる。
(疾風の猟犬や 世界を見渡す秘匿の鳥を一々使うのは非合理的だ)
となれば、結論は決まっている。
「アシュレイが俺の敵であるならば、捕らえるのではなく、奴を斬らねばならん」
リュリュの顔色から、今度は血の気が引いていくのが見て取れる。
「ソんな、駄目でス! ジークサん、アシュレイと戦う、駄目でス!」
「だが、奴は俺を敵視したままだ。敵は、殺さねばならん」
リュリュによる必死の抗弁に対して、ジークはどこまでも冷徹だった。
「ミュレサんも、何か言ってくだサい!」
ミュレによる介添えを恃むも、リュリュの訴えは、ジークが予想していた結果と全く変わらない。ジークでさえミュレを動かすのに言葉を選ばなくてはならないのに、リュリュの曖昧で聞き取りづらい言葉が伝わる道理はなかった。
ジークの傍で沈黙したままの少女から、リュリュは視線を戻した。
「……どうシても、駄目でスか?」
「奴が敵である以上はな」
とジークが答えた途端、リュリュは俯き、沈黙する。
「む?」
様子のおかしい彼女をどうすべきかジークが分割思考と話し合っていると、いきなり顔を跳ね上げたリュリュが話しかけてくる。
「あの、敵じゃなかったら、いいんでスね?」
慎重に挑みかかるような言葉にジークが頷くと、リュリュは顔全体を輝かせて「だったらわたし、頑張りマス!」と訴える。
「わたしが、アシュレイとジークサんとミュレサん、仲よくできるようシマス! ソシたら、みんな大丈夫でス!」
まだ足が痛んでいるはずなのに、興奮気味に身振り手振りを交えて自らの案を語るリュリュからはそういった部分が見当たらなかった。
「ソうでショう、ジークサん?」
「む……」
(提案)
ジークが返答しようとした矢先に、六番が意見を持ちかけてきた。
(交友の確立)
直後、ジークは眉をしかめた。ちょっとリュリュが不思議そうにしていたが、気にしないようにと伝えておく。
六番は、リュリュを梃子に蛮族との交渉の場を設け、ここから先の安全性を確保しようと言うのだ。
(そう上手くいくとも思えんがな)
(同意)
三番なら同意するだろうが、ジークを筆頭とする分割思考の大半はその可能性に疑念しか持っていなかった。
(対象とする蛮族は、我々と共有する言語、文化ともに希薄である可能性大。無用な危険は避けるべき)
(同意)
(しかし、口実にはなるだろう?)
(……む)
二番の物言いに含まれているものは、分からなくもない。
(彼女の提案を受け容れてやれば、少なくとも我々の望む『最善』に近づけよう。となれば、道は一つだ)
(最善、か)
胸中で、ジークは呟いた。
『最良』ならずとも、『最善』――現実性を全く伴わない、理想の選択肢ではなく、あらゆる角度から検証を重ねた結果、確たる輪郭を持つに至った選択肢を見出すことも、分割思考の重大な役割の一つであった。
「……そうだな。そうだと言える」
暫くの沈黙を経て、ジークは同意する。リュリュの表情が、これまでにないほど輝いていた。
(疑念)
(言うな、分かっている)
意見を挟もうとする四番を、ジークは制した。
二番と六番の意見は、間違いなく理想論であった。そこへ至る労苦も艱難まで考えているとは言い難い。
(……とも、言って入られんか)
ジークは、今も背後にいるであろう少女に隻眼を向けた。
リュリュの全てを信じるつもりは今もない。アシュレイは囮で、彼女こそが自分やミュレを罠に陥れようとしているのかもしれないのだ。
(危険性は、可能な限り排除する方向でいかねばならん。特に今回は、アシュレイという個人が相手ではなく、蛮族の長との交渉を視野に入れる)
(なるほど、そういう考え方もあるな)
二番がそう冷やかすも、ジークは無言を貫いた。
一方リュリュは、いつの間にかミュレと二人で両手を繋ぎ――というか、ミュレはただ手を掴まれ、リュリュのなすがままになっているだけだが――ながら飛び跳ね、意気揚々と宣言する。
「いっぱいいっぱい、頑張りマショウ! ソシたらきっと、わたし達――っきゃ!?」
「……まずは、その足を治さねばならんな」
と言って、ジークは放り投げていたずだ袋の中から薬研と薬草を取り出し、泣きそうな顔をして足首を擦っているリュリュの許に赴いた。
ジークが最終的に選び取った『最善』の選択肢は、猜疑と懸念と――ほんの僅かではあったが、ミュレへの配慮の上に成り立っていた。
●
果たして、ユフォン・カテドラルは現れた。
「御機嫌よう、額に汗する姉弟らよ」
顔と、衣服の裾から覗く手足以外を黒で塗り潰した美丈夫は、相変わらずの芝居じみた挙動と台詞回しでもって二人に挨拶すると、白皙の容貌に微かな笑みを添えた。
これだけで、太陽の光がくすんだような錯覚を覚え、それまでカミューテル姉弟の馬車を訪れていた人々はユフォンに対して自然と道を譲り、遠ざかっていく。過ぎた美しさは、時として人に畏れを植え付けるのである。
「んん? ああ、来たのかい」
ユフォンの姿を確認したレナイアも小さく笑って返した。
「それで、今日は何をお探しだい?」
「剣を、探しているのだ」
「剣ィ? 悪いけど、ウチにゃあ護身用の武器しかないよ」
「護身用で結構。私は武器の扱いなど不得手でね、虚仮威し程度で充分なのだよ」
「ふーん、そうかい。……ルーカス、店番任せたよ」
ユフォンの言にレナイアは肩をすくめて了承すると、馬車の内部に足を踏み入れさせた。
「ふむ……存外、散らかっているものだね」
「ジロジロすんのはいいけど、勝手に触らないどくれよ」
ユフォンが馬車の内部に視線を巡らせていると、木箱の中にまとめて保管された武器の中から適当なものを探しつつ、レナイアが釘を刺す。それを何気なく行った彼女に苦笑したユフォンは「注意しておこう」と返す。
「ところで、あんた手持ちって幾ら持ってんだい? それによっちゃ、こっちも出すものは変わってくるよ」
レナイアは、あえて金額を提示しなかった。この質問への返答から、ユフォンの金銭感覚や人柄、使い手としての資質を見抜こうとしているのだ。
「ふむ、金か。生憎と私は放浪に次ぐ放浪の根無し草でね、御覧の通り、華は有っても金は左程無いのだよ」
「……つまり? 具体的に金額で言ってくんな」
ユフォンの言い回しは鼻につくが、それを隠してレナイアは精度の高い回答を促した。
「ふっ、そう焦らずとも構わん。今はただ只管に、私が求む品を探して呉れ給え」
「ああ、そうかい」
釈然としない気分ではあったが、ひとまずレナイアは適当な品を探すことに集中した。
それから暫く経ち、何人かの来客をルーカスがぎこちないながらも対応し終えた頃、レナイアが一本の剣をユフォンに突き出した。
「こいつなんてどうだい? 値段も質もそこそこだけどね」
それは、これといった細工も施されていない、細身の剣であった。元々は貴族が使うものを真似て造られたものらしいが、この剣を造った鍛冶師はあくまでも実用性に拘っていたため、刀身が若干肉厚にできているのが特徴である。
手渡された剣を鞘から抜くと、ユフォンはしげしげと眺め、思い出したように呟いた。
「ふむ、良い」
「ああ、そりゃどーも。そう言ってもらえると、日ごろから手入れしてる甲斐があるってもんだよ」
レナイアは、愛想笑いの比率を五分程度にまで落とした。ユフォンはどこかしら胡散臭い人物であったが、自分の商品を褒められて悪い気はしなかった。これで品に見合う金額を払ってくれれば、の話であるが。
「少々、振っても構わんかね?」
「やるんなら外で頼むよ」
言われなくとも、とユフォンは返し、一人馬車の外に出る。柳のように細く、およそ戦いには向いていないように見えるユフォンが剣を構える様は、どちらかと言えば模造剣による剣舞か、演劇の類にしか見えない。
しかし、
「ふむ――」
ユフォンが無造作に一振りすると、風を立ち割ったような涼やかな音が聞こえた。
レナイアは、眼前で起きているものに唖然となった。彼女の感想は、ある一点に関してのみ、間違ってはいなかったのだ。
斬る、突く、薙ぐ――それら、武骨で殺伐としているだけの行為は、どこまでも洗練されていて、まさに舞踊のような優雅さ、しなやかさに溢れていた。
レナイアには、剣という、商品に関する良し悪しへの知識はあっても剣術の心得も、剣術に対する造詣もない。だから、この動作が実戦においてどれほどの効力を持つのかは想像さえ難しかった。
もしも、これをルーカスや、数日前に出会った銀髪の剣士が見ていれば――
「此れで好い。実に気に入った」
レナイアは、ユフォンのその一言で我に返った。いつの間にか、彼の剣舞に見入っていたのだ。
「んん? ……あ、ああ、そうかい」
早くも解れかけてきている後頭部の髪を弄ってごまかしながら、レナイアも馬車から下りた。何をおいても、代金の請求だけは忘れてはならないのだ。
右手を突き出し、レナイアは剣の代金を求めた。
「三〇〇クラン。びた一文負からないよ」
「うん? おや、此れはいけないね」
苦笑を見せたユフォンは、レナイアの眼前に掌を翳した。
切れ長の眼に填った漆黒の瞳が比喩ではなく、実際に妖しく輝いた。
「私は、君を知らない。ならば、君が私を知らないのは当然の事――違うかね?」
「ん、んん……ああ、そうさ、ね……そういうことに、なるね……」
不可思議なユフォンの言葉に応じるレナイアの声は、まるで寝言のようだった。瞳も、どこか焦点が合っていない。
「ふむ、其れで結構。――では、私は此れで失礼するよ」
「……ああ……」
剣を携えて踵を返したユフォンを、レナイアは朦朧とした目のままで見送ってしまう。
「――あれ? 姉ちゃんそんな所で何やってんのさ」
「……ああ――んん?」
弟に呼びかけられたレナイアは、首を捻りながしきりに何事か呟いていた。
「? おーい、姉ちゃ――んぎゅ!?」
「おっかしいねぇ……」
ルーカスの顎に裏拳を叩き込んでからも、レナイアは考え事をやめなかった。
「何か忘れてるよーな気がするんだけど……気のせい、いや、それはあり得ないはず……っああ! イライラするねぇ!」
「ぎゃ!?」
苛立ちに任せて踏み下ろした足で、見事に立ち直りかけたルーカスの爪先を踏んでしまう。
「ったく、ワケが分かんないね」
「……お、俺も同意見っス」
顎と爪先を丹念になで擦りながら、ルーカスがこっそりと付け加えた。
●
頃合いは昼過ぎ。雲が多く出ているが、中天にある日差しはまだ温かい。本格的な冬の寒さがリグニア南部に訪れるのは、まだ先のことだろう。
昼の鐘が三度鳴る最中、コナーの村では一際大きな一軒に、二人一組みながらも騒々しい客が訪れていた。
「ち、ちょっと貴女――」
「まま、今は待っとくれ。……あんたらも、変な真似はしない方が賢明さね」
困惑する村長夫人を片手で制し、突然の不審者に身構える刺青だらけの男らには挑発めいた言葉をかけ、堂々たる様子で玄関に立つ女の正体は、レナイア・カミューテルであった。
「……何が目的なんだ」
男らを代表するかのように、両肩をむき出しにして刺青を誇示する男が口を開いた。
「そうさねぇ」
言葉を探すふりをして、レナイアは男を観察する。
何者かと問い詰めないということは、用件を訊くことよりも自分達を取り押さえる隙を窺っているのだろう。無表情を装いつつも周りの仲間に目配せしている。一人に関しては、明らかに頷いている。
それらを知っている上で、レナイアは佇まいを崩さず男に言葉を投げ返す。
「何と答えりゃ、あんたは満足するんだい? んん?」
「な……っ」
「お前、俺達を馬鹿にしてンか!?」
悪びれた様子のないレナイアに対して色めき立った男の一人が彼女目がけて詰め寄ろうとするが、
「!」
それまで姉の背後に控えていた弟、ルーカスが姉との間に立ち塞がった。常の、どことなく気の抜けた表情ではない。一歩も退かぬという気迫に溢れていた。
「てめ――」
「よしな、ルーカス」
男とルーカスの間に生じつつあった剣呑な空気を払ってのけたのは、意外にもレナイアであった。
「ルーカス、あたしらは喧嘩を売りに来たんじゃあないんだ。大人しくしてな」
「……分かったよ」
男には一言もなく、ルーカスは再び姉の背後に戻る。
しかし、男らの方はそれで治まらない。
「ふざけんな!」「元は手前ンせいだろーが!?」「舐めたマネしてっと殺すぞ!?」
そうしたルーカスの態度も含め、男達は口々に怒鳴りつけながら各々の得物に手を伸ばそうとするが、
「およしなさい」
今度は、彼らの側から制止の声が上がった。発したのは、カミューテル姉弟と最初に出くわした村長夫人だった。
「貴方達もお下がりなさい」
年を経た者にしか出せない、柔らかくも凛とした一声に男達は声もなく従わされる。
「さて」
男らに向けられていた、不思議な迫力を伴った視線が、次はカミューテル姉弟へと向けられる。
「今の言葉、偽りはありませんのね?」
「勿論さね」
レナイアは村長夫人と相対しながらも怯むことなく、自らの主張に一片の虚偽もないと主張する。
二人の女傑はそこから一言も発さずに睨み合い(レナイアは余裕のある笑みを浮かべていたが、形式としてはそう表現するより他なかった)、玄関を息苦しい沈黙が支配する。
いつになれば終わるんだ――男達の殆どがそう感じ始めて幾許か経った頃、
「――分かりました」
最初に口を開いたのは、村長夫人だった。
「お、奥様――」
「わたしの判断に、何か問題でも?」
その言葉とともに視線に射竦められ、口を挿もうとした男はあっさりと黙らされる。
再び姉弟に向き直った村長夫人は、「わたし、は貴女を信ずるに足る方と判断します」と告げた。
「貴女が何者であるか、それはこの場において問いません。全てはあの方よりお聞きしましょう。――ケヴィン?」
「はい」
ケヴィンと呼ばれた男が、一歩進み出た。
「こちらのご婦人を、応接間に案内なさい」
「……はい」
一瞬の逡巡の後、ケヴィンは頷いた。村長婦人と彼らの力関係が如実に現れた瞬間だった。
「ただし」
夫人の目が、レナイアのみをさす。
「村長の許に行くのは、貴女だけです。それがわたしから出せる、最低限の条件です」
その言葉に真っ先に喰らい付いたのはルーカスだった。
「っおい、そんなの納得――」
「ルーカス!」
大喝一声。レナイアを知らないはずの男達でさえ、彼女の声に怯んだ。
「商売の真髄は『騙すこと』と『信じること』ってね」
その直後とは思えないほどに、レナイアの笑みは魅力的であると言えた。
●
「お前はここで少し待て」
そう言い残し、男の一人は部屋を出た。レナイアの背後に、まだ二人の男がいる。
「やれやれ、あんたらも難儀だねぇ」
「お前は黙っていろ」
男の一人が遮る。レナイアは肩をすくめ、独り部屋の全景を眺める。
レナイアが案内されたのは、今までに見てきたコナーの村の様子とはかけ離れた内装の部屋だった。
第一印象としては、地方の貴族か大商人の書斎に近いものがあった。広い部屋には面積の半分近くを本棚に埋められており、残りが部屋の中央にある小さな机だの手の込んだ造りの執務机や調度品が幅を利かせている。足元には金糸で細かに縁取った赤紫の絨毯があり、板張りの壁には幾つかの絵画が掛けられていたりと、およそ片田舎の村長の部屋とは思えない。
「ふーむ……」
値踏みするように視線を隅々に向けながら、男らに促され、たので中央に置かれた机の、入り口側にある椅子に座る。
半眼になって、考えを巡らせる。
本人の趣味なのか、あるいはこういった用意をする必要性があるのか――いずれにせよ、儲けの“臭い”が鮮明になったようにレナイアは感じていた。
「いやはや、お待たせしてすみません」
背後から、年老いた男の声。落ち着きと深みがあるが、同時に警戒心を掻き立てる声だった。こういう声を出せる人種は、確実にもう一枚の舌を持っている。
そんな声の主は、ゆったりと、硬い靴音を聞かせるような足取りでレナイアの横を通り過ぎ、悠然とした挙措で対面の席に着いた。
頬骨が浮かんで見えるほど痩せた、壮年の男だった。部屋の内装と同じく、不似合いなほどに垢抜けた服装をしており、白髪の多い金色の髪と髯も上品に整えられている。目の奥には油断のできない柔らかな光を湛えている。
「レナイア・カミューテル。ケチな行商人さね」
「これは、ご丁寧に。私はこの村の村長を任されています、リチャード・グレグソンと申します」
握手。横柄な態度とは裏腹に、先に手を伸ばしたのはレナイアであった。
「ふむ、カミューテル……ええ、思い出しました。女性の身でありながらも、その辺りの男より大した高名を持っておられる」
「そりゃどーも」
あくまでも泰然と構えているグレグソンの手前、レナイアも笑みを崩さなかったが、内心は警戒心に満ち満ちていた。事は、慎重且つ大胆に運ばなくてはならないのだ。
企みを悟らせないためにも、レナイアは明るい表情を装って用件を切り出そうとする。
「今日、ここに来た理由ってのは――」
「おお、忘れていました」
レナイアの言葉が聞こえていなかったかのように、グレグソンは優雅な動作で手を打ち鳴らす。部屋の外にいたらしい下女が入ってくると、グレグソンはレナイア越しに「紅茶を持ってくるように」と告げ、再び何事もなかったかのように笑みを湛えてレナイアに向き直る。
「私はどうも、喉が弱い質でしてね。長々と喋る際は、どうしても飲み物が欠かせないのですよ」
「そうかい。そりゃぁ難儀だねぇ」
相槌は淡白になるよう努めたが、内心では苦虫をまとめて何匹か噛み潰したような表情をしていた。
出鼻を挫かれる。主導権を握り、こちらを完全に御すべく狙いすましていたのだろう。
(はん、やってくれんじゃないかい)
下女に紅茶を淹れさせているグレグソンに気付かれないように睨みながら、レナイアは密かに闘志を燃やしていた。
「どうぞ」
そうした思惑とは無関係に、下女がレナイアの眼前に、朱色とも琥珀色ともつかない色の液体を満たした杯を置いた。
「サンドラ王国は西部の島々にて発見された一品です。……もっとも、関税等の関係で私には国内で栽培された安物しか入手できませんが」
「いいや、これで充分さね」
杯の横から片方にだけ突き出た取っ手に指をかけて持ち上げてみせると、レナイアは中身を少しばかり匂いを嗅いでから口に含んだ。独特の香りと味が口と鼻から広がっていく。
こちらを見ていたグレグソンが、同じく紅茶を口に含んでからこう言った。
「紅茶は初めてのようですな。これまでに振舞って差し上げた方々と同じ反応です」
ただの世間話ではない。『お前のことを事細かに見ているんだぞ』という、グレグソンからの牽制である。
「ああ、そうかい。そりゃ恥ずかしいねぇ」
警戒していることは悟らせない。仕事用の笑みを貼り付けたレナイアは、自分自身もただの世間話に興じているかのように振舞った。グレグソンの眼が僅かに細まる。自身の演技が見破られていることも含め、こちらの思惑が伝わったのだろう。
互いに互いを欺いていると知りながら、決して表出させずに笑みを刻む。
これを、暗闘というのかもしれない。
「そろそろ、喉も潤ったかい?」
レナイアが徐に口を開く。いつまでもグレグソンに場の流れがあるのは好ましくない。主導権を得ようと焦っているのではと勘繰られる可能性もあったが、そこから慢心が綻びとなって付け入る隙を見出せるかもしれない。いずれにせよ、守勢で利益を得られるほど商売は甘くない。
「ええ、お蔭様で」
柔らかな笑み。だがこれを頭から疑ってかかるのは二流の証。必要以上に信用せず、与えられた情報を吟味し、全体像を自らの手で作り上げなくてはならないのだ。
「それじゃ、早速用件に入らせてもらおうかね」
仕切り直し。グレグソンによって一度は奪われたことに目を瞑り、最初から自分が取り仕切っているかのような態度でレナイアは告げる。
「最近この村に、山賊か何かが出てるんだろ?」
切り出したのは、商人が持ち出すには不自然な話題。グレグソンの表情を一瞬だけ通り過ぎた動揺を見ると、不意打ちはまずまずの効果があったようだが、漂わせる雰囲気は伊達ではなかった。
グレグソンは、何らかの隠し事を看破されたにも拘わらず、何事もなかったかのように微笑みを浮かべていた。構図としては、先ほど自分が図った行為と同じである。
「……さて、何の――」
「答えに至る鍵はたくさんあったよ」
「ことかは……ふむ、まずはお聞きしてからに致しましょうか」
その証拠に、グレグソンはあくまでも話題の提供を自分がさせているかのような態度を見せている。
しかし、そう易々と流れを戻させはしない。
レナイアは、突き出した握り拳に指を一本立てる。
「まず一つ。こんな村にゃ不自然なくらい防備を固めていること。まあこの時点で対外的な脅威がいるのは分かるけど、賊なのかどうかは分からないね」
そこで言葉を一旦切ったレナイアは、挑みかかるような視線をぶつける。これにもグレグソンは涼しい顔で「どうぞ」と返しただけであった。
「で、次に一つ。あたしらン所に武器を買い求める客が何人もいたこと。この村にだってちゃんと鍛冶屋も武器屋もあるはずなのにって思って調べてみたらあんた、奴さんらは武器を蓄えてんじゃないかってあたしは推測してね。そいつと一つ目を合わせて考えてりゃ、自ずと武器が必要な相手――人か、魔物かってことになるけど、この辺で魔物が出たなんて話は一つも聞かない。ってことは、最近になってどっかから山賊か盗賊でも流れてきたんじゃって結論が出たのさ」
「……ふむ、たしかに辻褄は合っていますな」
グレグソンは、顎に手をあてながら微笑を深める。人を手放しで賞賛するものではない。嘲笑するための前置きである。
「しかし、聊か疑問は残りますな。まず第一に、『不自然なくらいの防備』と貴女は言うが、彼ら自警団が自分達の村を護るためならば、熱を上げるのは当然のことではありませんかな? 賊や魔物はおらずとも、獣の類が里に下りる頻度はこの時期ともなれば多少は増えます。となれば、自警団の熱意がそれに比例するのは自明の理ではありませんかな?
杯を手にしたまま、グレグソンは明確な笑みを口元に飾る。
「武器についても同じことです。彼らが作り、保管していた武器の類は、自警団の品を管理していたものに過ぎません。僭越ながら、その程度の推測など商人に限らずとも容易いでしょう。いや、これでは推測とも呼べますまい――」
「話の途中でうるっさい人だねぇ」
空気が凍った。少なくともグレグソンら三人は、愕然とした表情になっていた。
「貴様……!!」
「よしなさい」
血気に逸る男を、グレグソンの落ち着き払った声が制する。俯きつつ眉間に右手をあてがっているのは、彼の癖なのかもしれない。
「……途中とは失礼しました。どうぞ、続けてください」
「前置きがちっと長過ぎたのはあたしが悪かったよ。だからさ、今度は最後まで聞いとくれよ?」
村の長に面会を申し立てた商人が、その長に向かって悪口を飛ばす――状況を知らないものが聞けば、神をも恐れぬ行為であった。
「そうせて、いただきましょう」
グレグソンは、杯に口をつけると、独り言のように応じた。苦々しい表情と胸中を紅茶のせいにしようとしているのだ。
その意図を見抜いていたレナイアは、「やっぱり苦いもんだねぇ」と揶揄しながら自身も紅茶を口に含んだ。
「んじゃ、三つ目の理由。こりゃ昨日あたしン所に来た客と、『ティルナの泉』って宿の酒場にいた連中の中から、旅人について調べた結果なんだがね、そこにいた連中にゃあ共通点があったよ」
「……共通点、ですと?」
訝しげに眉をひそめるグレグソンの眼前で、レナイアは彼の反応をよくよく吟味した上で続きを繰り出した。
「皆が皆、ここ数日の間にこの村に来ていること、目的地がこっから東に三日ばかし行った山中の町であること、の二つさね」
背後で男ら二人が話し合っているのを敏感に察しつつも、レナイアはあくまで自分が気付いた事柄をグレグソンに語る。
「ここに滞在してる奴らの中で、一番最初から留まっている奴が六日前から。それより以前に来ていた連中は皆旅立っている。ってことは、さっき言ってた山賊の類が現れるようになったのは少なくとも六日前からで、しかもその防備を村人がこそこそとやってるってことは――」
僅かな『溜め』。言われなければ分からないほどに小さく口元を笑みの形につり上げ、レナイアは『溜め』を開放する。
「あんた、村の連中と上手くやってないんじゃないかい?」
「……黙っていれば! 言葉を慎め!」
男の一人がレナイアに手を上げようとするが、グレグソンが片手を挙げて制する。しかし一人は納得していないのか、グレグソンに食い下がった。
「しかし、グレグソン様……!」
「この女、二度もグレグソン様を――」
「続けさせなさい」
グレグソンは男の抗議に肩をすくめるだけで済ませると、冷たく鋭い視線を差し向ける。
「何せ私は、こちらのお嬢さんのお話にもう少し付き合って差し上げねばならないのだよ」
「言うねぇ」
その視線を真っ向から受けて、尚もレナイアは臆しない。
「この村の連中のリグニア語の訛りと、入り混じってる建築様式から考えりゃ、ここも“統一運動”で組み込まれた場所ってのは分るさ。あんたと武器屋の連中がそれぞれどっちなのかっていうのは……まあ、あんたの流暢なリグニア語を聞けば一発さね」
「……ほぅ、口だけでなく、耳も侮れぬときましたか」
このレナイアの発言には、グレグソンは純粋な感嘆の意を洩らした。彼と妻はコナーの村出身ではなく、ここから東の果てにある都市圏の生まれであったのだ。
「まさか、そこまで見抜かれるとは思いませんでした。驚嘆に値する慧眼ですな」
「その言葉が、あたしが女なのにって考えに基づいてないんなら素直に喜んどくよ」
と釘を刺したレナイアのとび色の瞳が、怪しく光った。
「さて、あたしの本題ってのは他でもない」
「は――」
紅茶の杯を傍らに置いたレナイアは、勢いよく両手を机に叩きつける。
「貴様!?」
突然不審な行動をとったレナイアを、男らが両脇から取り押さえにかかるが、当のレナイアはそんな彼らなど眼中にもないかのようにグレグソンを真正面から睨み上げつつ、用件を切り付けた。
「あたしは、昨日と今日でここまで見抜き、最後まであんたに言い切った。この目と鼻、そして舌と頭を、一時あんたに売ってもいいと思ってる」
「……い、いったい何のことです?」
動揺が収まらないのか、グレグソンは少し舌がもつれた。
「取引だよ、取引。あたしがこの村の問題を何とかするから、あんたは成果に見合った代金を払ってくれりゃあいい」
取り押さえられているにもかかわらず、レナイアの眼光は対峙していた時となんら変わらぬ――いや、先刻よりも凄みを増していた。
「大事なことは、これからゆっくり、じっくりと話し合おうじゃあないかい。んん?」
「…………っ」
グレグソンは、唸った。
目の前の、自分の半分も生きていないであろう傲岸不遜な娘が、組み伏せられても意志を曲げることなく、あろうことか自分に尋常ではない威圧感を与えているとは。
(……だが、それが先刻の大言壮語の源ならば)
話す価値があるかもしれないと、グレグソンは頭の片隅で考える。考え抜く。
この娘の言動は、およそ真っ当な論理で考えれば無茶苦茶の一言である。
態度がなっていない。言葉遣いがなっていない。礼節が、振る舞いの一つ一つが、良識を欠いている。
(自らの知恵を自負するあまりに……というのなら、貴女はただの傲慢な娘に過ぎない)
頭の傍らで、冷たく評価する。
役人に唾を吐く――これは立派な犯罪行為である。罪状を少し弄れば、首を刎ねてやることも不可能ではない。
(それを承知でやっているのでしょうかねぇ……おや?)
皮肉が交えられる程度に落ち着きかけたグレグソンの目は、ある一つの事象を発見する。
取り押さえられ、それでも尚こちらへと挑発めいた視線を向けるレナイアの頬を伝う、一筋の汗を。
グレグソンは、軽度とはいえ驚きを覚えずにはいられなかった。あれだけの大言壮語を吐いているレナイアも、自らの緊張は隠せないのだ。
(つまり貴女にとって、この取引は大きな博打のようなものですか)
わざわざ持ちかけてきているということは、彼女の中ではそれなりの有効性を見出すことができるのだろう。しかし、何らかの観点において完全に信用することができずにいる――グレグソンは、レナイアの態度からそう判断した。
(そのようなものに力を貸すというのは、とてもとても)
付け入る隙を見出したグレグソンは、彼女にとって残念な結果を告げる。
「折角ですが、この件に関してはなかったことにさせていただきましょう」
レナイアの表情が、僅かに動いた。今は無視して続ける。
「貴女の慧眼は素晴らしいものと思いますが、対等な条件を希望しつつこの場に臨まれたのであれば、それは勘違いにも程があるでしょう」
己の優越性が回復したことを噛み締めつつ、グレグソンは言葉を続ける。
「突然の訪問も、先ほどの派手な演技や挑発めいた言動も、全て私の動揺を誘い、強引に自身の口車に乗せんとしたものだったのでしょうが、残念でしたな」
レナイアは何も言わず、ただこちらを見据えるだけ。その哀れな姿にせめてもの同情をと思い、彼女を両脇で抑える男らに声をかけておいた。
「二人とも、その手を放して差し上げなさい」
『はっ』
そう短く告げると、グレグソンは紅茶の杯に口を付けようとするが、そこで初めて杯の中が空になっていたことを知る。
新たに注がせる傍ら、グレグソンはまだ視線を逸らそうとしないレナイアに最後の一言をかける。
「貴女の破天荒ぶりには驚かされましたが、まあそれだけのことです。次があるのなら、もう少し落ち着きのある趣向で願いましょうか」
「ああ、そうさせてもらうよ」
短い返事。手短な礼を終えたレナイアは、最後まで堂々とした足取りで退室した。
グレグソンは、優雅に淹れたての紅茶を口に含む。
レナイアが最後に見せていた、獣が挑みかかるような視線を思い出しながら。
●
*アルバート・フレッチャー氏の手記から『エタール地方史作成にまつわる三十三の私見』の一部を引用。
公暦一一三二年六の月。私は政府の命を受け、久しく赴くことができなかったアルトパ・エタール地方の調査に向かう。年齢から鑑みるに私には不適であり、代役を立てよとの意見も多かったが、こればかりはと私は粘り、念願叶って最後の調査に乗り出す準備を進めている。
同年八の月。まずはエタール地方に赴く。“統一運動”による大規模な戦闘行為とその事後処理は既に終了しており、私が訪れた山沿いの村(現地に住む人々は『コナーの村』と呼称している)にはかつて私がフェリューストで目の当たりにした、倒壊した建物も、夥しい人の『山』もなく、不気味なほどに静穏であった。最初からそうであったように建っている当世風の建築様式に、私は、その静穏さの裏にあったであろう『事後処理』の内容を連想し、表し難い感情を隠せずにはいられなかった。
滞在初日。『コナーの村』の監督であるR・グレグソン氏と面会し、より村民に接触する許可を得る。立て続けに六人ほどから調査を始める。
数日の調査の結果、幾つかの興味深い事実を確認する。
彼ら(便宜上“ハイランダー”と命名す)は一個の絶対神を崇拝せず、自然の中に無数の超常的存在(観念としての“神”ではなく、現象そのものである)を見出し、信仰の対象としている他、埋葬された死者は地下にある死者の国に行くと考えており、そこには生者と死者を束ねる神がいるとしている。
滞在日数が月の巡りを迎えた頃、私はリグニア軍側の意見を粗方聞き出し終えた一方、看過できぬ情報の一端を掴む。
一つは、リグニア軍関係者が“統一運動”後、『コナーの村』付近の山中にてハイランダーと思われる武装集団を目撃し、直後に交戦したということ。残念ながら私は、どうやら軍事機密に該当するらしいこの情報に関し、これ以上の聴取を行うことは許されなかった。
もう一つは、『コナーの村』に在住するハイランダー達は、古来より現在のリグニア西部で生活していたようなのだが、一〇九九年にリグニアの西部進出、一一〇七年より五大国が熱狂した“統一運動”の影響を受けて、この地に辿り着いたらしいというのだ。
非常に興味深い情報であった。もしもこれが事実であれば、私はハイランダー達による、五大国にも匹敵し得る六番目の巨大な文化圏の存在を証明したことになるのだ。
私は興奮を隠せない。『コナーの村』に見られた特徴は、エタール地方に限らず“統一運動”以前のリグニア北西部、フェリュースト南西部にも見られたもので、おそらくこれら三ヶ所には、共通する文化乃至文明がある可能性が高いと私は見ている。
ただ、それだけにこの重大な謎の真相を永劫に確かめられないことが、私には無念でならないことをここに記しておく。
●
応急処置ではあったが、ジークが足の治療を済ませると、リュリュはひとまず自分の里へ行こうと提案した。
「む、里?」
「はい。わたし達の里、でス」
不思議そうに自身の足首に巻かれた布を撫でながら、リュリュは頷いた。
「……む」
ジークは少し考え、リュリュに問いかけた。
「リュリュ。その里は、俺やミュレのような、よそ者が来て大丈夫なのか?」
「……ええ、と」
リュリュは俯くと、ジークには意味が分かりかねる言葉で何事か呟いていたが、じきに顔を上げた。
「祭司様は、ジークサん達みたいな人を悪い人って言いマス。でも、『連れてくるな』とは言わないので、きっと大丈夫でスよ」
(それを大丈夫とは言わんだろう)
(……たしかにな)
(同意)
リュリュの発言を危ぶみつつ、ジークは「そうか」とだけ返した。
彼女に期待していた部分も多分にあったとはいえ、危険を承知で選択した以上、ジークは反省以外で振り返らない。
「それについては分かった。だが、お前はその足で歩けるのか?」
「はい、大丈夫でス。ほら、ちゃんと――っきゃ!?」
勢いがあったのは、返事だけであった。リュリュは両手を地に付け立ち上がろうとしたのだが、右足首の怪我は彼女が思っていたより軽くなかったようで、すぐに倒れてしまった。
どうやら、先ほどミュレを振り回しながら飛び跳ねていたことが、リュリュの足首にとどめを刺してしまったようだ。
「無理をしろとは言わん。お前が一生歩けなくとも構わんのなら、話は別だがな」
「……はい」
先ほどとは打って変わり、沈んだ声であった。意志は強いが、頑迷ではないのだろう。
「乗れ」
「え?」
リュリュが戸惑うも無視し、ジークは身を屈めたまま彼女に背を向ける。
「ソんな、悪いでス」
「俺はお前の足が治るまで待つ気はない。それだけだ」
迷惑をかけたくないと申し訳なさそうに断るリュリュであったが、時間を無駄にしたくないジークも譲らない。その結果、両者はミュレの目の前で同じ方向を向いたまま、押し問答を繰り広げるのだった。
「本当に悪いと思うのなら、大人しく背負われろ。それが俺にとって、一番望ましい」
というジークの言葉の前にリュリュは言葉を詰まらせてしまい、とうとう決着がついた。
「わたし……なのに」
「む?」
リュリュが何か呟いたようだが、ジークはさほど気に留めず、僅かに感じる重みを落とさないよう位置を定めると腰を上げた。
「ミュレ、その袋を持て」
「……ん」
ジークとリュリュの一部始終を傍でじっと見つめていたミュレは、普段ジークが肩に担いでいるずだ袋を手に取る。不安がないわけではないが、何もさせないという訳にもいかないのだ。
「む、それで――」
「あの、わたしが持ちマス」
「……いい?」
首を傾げてジークに確認を求めるミュレ。しかしながら、ジークの関心はそちらになかった。
「わたしばっかり、悪いでス。だからわたし、ジークサんの袋、持ちマス」
「む……」
健気といえば健気な発言に、ジークは眉をしかめた。
リュリュの言い分は間違っていない。間違ってはいないのだが、
「結局のところ、俺に負担がからないか?」
「あ!? ……ソ、ソうでスよね」
背後でますます萎縮するリュリュ。どうしたものかと思いかけたが、別にそこまで気を払う必要もあるまいと気にかけないことにした。
「……いい?」
「む?」
ミュレが二度目の確認を求めた時、やっとジークの意識はそちらに向いた。
「む、それでいいぞ、ミュレ」
「……いい」
平坦な声に頷き、ジークはミュレの頭に手を伸ばそうとしたが、リュリュを背負っているので不可能なことに気付いた。
(合理的に考えて、対象を背面より降下させる必要性皆無。今は早々に歩を進めるべき)
という六番の意見もあり、ジークはミュレを褒めるだけに留めて歩き出した。
十歩ほど歩いてから、もう一つの足音が聞こえてきたのを、ジークの鋭敏な聴覚は違わず拾っている。
それから暫く、三人は特に言葉を交わすこともせず、とりわけ歩く二人は黙々としていた。
「……あの、ジークサん?」
「む?」
出会った時からの、殆ど何も変わらない沈黙に慣れていた二人に対し、形として挟まれたリュリュは、そういった空気に耐えられなかった。
「二人は、何も喋る、シないんでスか?」
「今は喋る必要がないのだ」
リュリュの純粋な疑問にも、ジークはにべもなく断言した。
「今は……ジャあ、喋ると、何を?」
「む……そう、だな。特に決まってはおらん。喋るべきことを喋っている」
緊張からの発言であると察した上で、警戒から当たり障りのないと判断した内容を答えておいたジークだが、背後ではリュリュが神妙な顔をしていることには気付かず、もう視線も意識も前方へと戻していた。
その時であった。
「! 止まって下サいジークサん!」
「む」
突然、リュリュが声を上げる。ジークは立ち止まることができたが、ミュレはそのままジークの背中に一度ぶつかり、そこで彼の顔を見上げて立ち止まった。
「どうした、リュリュ」
「いけマセン、道、忘れてマシタ」
ひどく恐縮しながら、リュリュはジークに右手を見るよう促す。
「道、こっちでス。ここから里、行きマス」
「む……」
ジークは、唸りつつも納得した
「この林の中を、か」
「はい、林の中、でス」
リュリュが示す先にあったのは、どこまでも鬱蒼とした林であった。樹木の密度が高くて薄暗い分、地面から生える草の丈は低いのだが、木の葉の舞い散る木々の間隔は狭い。
(横列は禁物。縦列推奨)
(む)
即座に見立てた四番からの進言を受けたジークは、ミュレに必ず自分の後ろを歩くことを教えてから林の中へと踏み込んだ。
四番の推測通り木々の間は狭く、おまけに頭上を覆われて陽光を多分に遮られているために視界は薄暗く、足元を埋め尽くす落ち葉からは、昨夜の雨を思い出させる湿り気が感じられた。
「あ、あソこの木の後ろを通ってくだサい」
「む」
頷いたジークは、左手に見えてきた巨木へ歩み寄ると、脇の辺りを調べてみた。
「小サいでスけど、道、ありマス。……ありマシタ?」
不安げな一言が付け加えられる前に、ジークはリュリュの言うような、辛うじて人一人が通れそうな道を見つけていた。
「む、少し狭そうだな。藪に引っかからんようにしておけ」
「は、はい、大丈夫でス。はい……」
リュリュは、申し訳なさそうに身を縮ませながら繰り返し肯定する。先刻の、ずだ袋に関しての後ろめたさがまだ残っているのだろうか。
道は思っていたよりも急だったが、所々に平たい石が階段状に置かれており、そこを辿れば楽に下りられそうだ。
(石の表面より、靴跡と思しい痕跡を発見)
(表面の磨耗度合いから、十年単位の経過が推測される)
リュリュ達が、長らくこの抜け道とでも呼べそうな場所を利用していたという何よりの証拠だろう。
(確かに、これでは見つからんな)
と二番が感心している間に、ジークは抜け道の先に下りた。
少し開けた道が、彩られた木々の向こうまで続いていた。ジークにとって関心のないものではあったが、一幅の絵画のような情景であった。
「……む」
直後、背後から不吉な音が聞こえる。具体的には、重たげな荷物が斜面を転がり落ちる音である。
自らの予測が裏切られることを期待しつつ、ジークは背中のリュリュに確認する。
「……ミュレか」
「は、はい」
残念ながら、予測は覆されなかったようだ。
振り返れば、ミュレが仰向けになって倒れていた。背中を見れば、間違いなく泥だらけである。
(袋の中身が散乱しなかったのは不幸中の幸いだったな)
(まったくだ)
(先行き不安)
二番と揃って嘆息しつつ、ジークはミュレに言葉を放ってやる。
「ミュレ、立てるか?」
「……ん」
というミュレの返答があったのは、無言で立ちってジークの傍まで歩み寄ってからであった。やはり背中は泥だらけである。
「リュリュ、指示を頼む」
ミュレについての教育方針に関して思わず不毛な思考に走りかけたジークだったが、二番の一言で現実に立ち返ると、表面上は無表情に近いままリュリュを促した。
ジークの内心など知る由もないリュリュは、近寄ってきたミュレに微笑みかけながら次の道順を説明する。
「この道を真っ直ぐ行く、谷ありマス。わたし達の里はソの先でス」
「む」
簡潔に応じて、ジークは色鮮やかな中にも影の濃くなった林道を木の葉を踏みしめ歩く。
歩く傍ら、谷と言われたジークは、すぐさま分割思考に聖ジョーンズ山道の地図や太陽の位置と比較し、今自分がどの辺りにいるのかを割り出させた。
(結果報告)
(なんだ、本当に山道からあまり離れていないんだな)
(そのようだな)
聖ジョーンズ山道から見える谷は多くないし、リュリュの装備を考えれば一日かそのくらいで往復できる範囲にあることは想像に難くない。
(……となれば、行く先も容易に推測できる)
(同意)
(随時算出中)
地理の把握は四番と七番に任せる一方、ジークは周囲に気を配りつつ無言で道を進んでいた。
「……あの」
「む?」
そんな折、リュリュがおずおずと話しかけてくる。
「わたし、重くありマセンか?」
「そんなこともない」
以前、一度だけミュレを脇に抱えて走ったことがあった。たしかにリュリュもミュレも小柄だが、両者の体つきや状況を比較すれば、どちらが楽かは言うまでもない。
「お前はミュレより軽い。気に病むこともない」
「そ、ソうでスか……?」
質問への回答に対する反応は、なんとも意外そうなものであった。
「む、どうした?」
リュリュの態度が怪しかったので訊いてみると、リュリュは落ち着きのない口調で「ジークさん、ミュレさんを背負うこと、あったんでスか?」と尋ねてきた。
「む、そうだ」
特に否定する必要性を感じないので、肯定だけしておいた。その範疇に含まれるもの以外のことは、決して語らない。
「ソ、そうなんでスか」
「む」
これにも手短に頷き、ジークは再び黙々として歩を進める。
ジークの言動に慣れたのか、リュリュが話しかける回数はこれ以降減った。
●
村長宅を後にした姉弟は、肩を並べて舗装された広場への道を歩んでいた。ギデオと馬車は、宿に預けていたのである。
「……ってことは、姉ちゃんの思ってたことは全部当たってたのか?」
「ま、八割九割はね」
その道中、ルーカスはレナイアがグレグソンと話していた内容を(大幅に要約した上で)聞かされていた。
「それにしてさ、断られちゃったけどどうすんだよ姉ちゃん? 村長のことあてにしてたんだろ?」
「別にどうもしないさ」
目の前に垂れていた前髪を払うと、レナイアはどうでもよさそうに返した。その意外な反応にしばらく理解が追いつかなかったので少し間が生まれていたが、そこからルーカスは自然と言葉を重ねた。
「あの村長今ンとこ、あたしの申し出を聞き入れそうにないからねぇ。心変わりを期待するにしても一両日中に、なんてことはないだろうしね」
ルーカスの前に出たレナイアは、足元の小石を蹴る。小石は少し撥ねて、道端に転がっていった。
「ま、ぼとぼちやりながら付け入る隙でも探すさね」
そう言ってまた髪を掻き回している姉の後姿を見て、ルーカスはいつものことと分かっていながらも心配でならなかった。
(姉ちゃんのことだから、一度や二度の失敗でめげるなんてことはないと思うけど……)
いかに姉が非常識な人間だといっても、やはり少しは打ちひしがれるはずである。
(でもまあ、姉ちゃんの性格から絶対俺には言わないってのは分かるけど……あーもう! 何でこう肝心な時に限って姉ちゃんの役に立てないんだよ俺は!)
独り前を歩く姉の、普段は大きくて頼もしげに見えていた背中を見つめて、ルーカスは自分に憤った。
物心ついた頃からそうだった。何も知らない自分を庇い、時には鞭で打たれることさえあったにも関わらず、姉は自分を護り、ここまで育ててくれたのである。
自分は――つまり、姉はどうなのか知らないが――両親の顔を知らない。思い出そうとしても代わりに姉の顔が浮かぶばかりである。
だから一つ、心に定めた。
自分は、ルーカス・カミューテルは、そんな姉に報いなくてはならない。やっと夢に向かって歩き出せるようになった姉の力にならなくてはならない。
できることはまだまだ少ない。だが、
「それにしても、山賊っスか……」
姉の気を紛らわす目的も兼ねて、ルーカスが分かりやすく独り言を洩らす。
そういった連中がこの村に来ることをルーカスは理解したのだが、そこからどうするかといった具体的な考えまでは浮かばない。
(姉ちゃんは何か考えがあったんだろうけど、今は訊くべきじゃないよなぁ)
ルーカスとしては、訊いてみたいという好奇心はあるのだ。しかし、今の姉に不用意な話題提供をするわけにもいかず、結局中途半端な言葉しか浮かばなかった。
「どんな連中なんだろうな?」
「さぁねぇ。その辺のことも聞き出してやろうって思ってたからあたしにもさっぱりさ」
前を歩きつつ、レナイアは肩をすくめる。
「ただ、何日も経たないうちに旅人達を足止めしちまってるくらいだ、実力は押して知るべき、ってやつだろうね」
「そっかぁ」
考えなしに相槌を打って、ふとルーカスは違和感を覚えた。
村長宅へ赴く際には見えなかった山が、目の前にあるのだ。
「あれ? 姉ちゃん、こっちは宿と反対側だぜ?」
「それでいいんだよ」
という返答を受けて訝しがる弟に構わず、レナイアは意外な場所へと大股で踏み入っていく。
「! え、おい、姉ちゃん――」
「おーい、ちょいといいかーい!??」
慌てふためくルーカス。だがそれも当然と言えた。
何故なら、レナイアが歩み寄り、今まさに話しかけんとしている相手は、畑仕事に勤しんでいる、見知らぬ農夫とその妻と思しい女性の二人だったのである。
「……あ? 何だねお嬢さん。俺たちに何の用だって?」
「いや、だから物取りがあったっていう畑を見せてほしいんだよ」
既にレナイアは、農夫と何事か交渉を始めていた。
「しょうがないねぇ。ほれ、こいつでいいんだろ?」
「へ、へへっ、あんた話が分かるね。いいよ、好きにしな。ただし作物に直接手は、分かるね?」
ルーカスが意識した時には、既に交渉は終わっていた。
「ほれ、何やってんだい。さっさと行くよ」
「え?」
畑から離れていく夫婦を見送ったレナイアは、まだ事態を飲み込めていない弟に平然と顎で行く先を示す。先刻の夫婦が耕していた畑である。
「お、おお」
ルーカスとしては事情の説明を求めたかったのだが、動き始めている姉は止められないと知っているため、何も言わずに後を追った。
柵を跨いで通ると、ルーカスは畑の全景を見ようと視線を巡らせる。斜めに組まれた柵が囲む畑は、作物も含めどこにだってありそうなものであった。
「――あ」
ただ一箇所、無残に掘り返された跡のある場所を除けば。
「ここ、山賊の被害に遭った場所なんだ……」
「そういうことさ」
呆然と呟くルーカスをよそに、「よしよし」と頷きながらレナイアは掘り返された地面の周辺を見て回る。
「足跡はそんなに乱れてないね……んん? ああ、こりゃあさっきの……ってことは、肩幅がだいたいこのくらいだから……ふぅん」
「ね、姉ちゃん?」
怪しく――そう、妖しくではなく『怪しく』笑うレナイアに、ルーカスは腰が引けつつも声をかけることを試みたが、
「ルーカス、三人だよ!」
「あ、そうな――はぃ?」
唐突に姉の方から意味不明なことを言われてしまい、自身は話しかける機会を失ってしまったルーカスは、結局どうしたものか分からずに姉の言葉の続きを待った。
「この畑を荒らした連中の数は三人。こいつぁ被害に遭った奴の証言ともあたしの推論ともガッチリ噛み合うよ」
興奮気味に捲くし立てたかと思うと、レナイアは「ルーカス!」と声を張り上げて弟を呼び寄せ、その肩を掴んだ。
「今からあたしが言うこと、よーく聞いておくんだよ?」
「お、おう」
戸惑いながらも、ルーカスは返事だけはしておいた。
「どうやら、まだまだあたしらにもツキが巡ってるみたいだねぇ」
あたし、ではなく『あたしら』と言う姉を好きでいられる間は、まだこれでもいいのだろうと思って、ルーカスは頷く。
ずっと天辺にあるものと思っていた太陽は、少しずつ西へ、西へと傾いていた。
●
頃合は夕暮れ。見上げれば空が赤く燃え上がり、頬を撫でていく谷間の風は冷たい。
林道を抜け、徐々に岩肌を覗かせてくる山道を下った三人を次に迎えたのは、辛うじて四、五人ほどが並べる程度の幅を持った谷底であった。どこからか水の音が微かに聞こえるのは、水源が近くにあるのかもしれない。
そういった情報を収集しつつジークが歩を進めていると、不意にリュリュが耳元で「見えてきマシタ」と言った。
「む」
その言葉への理解を間違えることはなかった。ジークの隻眼も、陽がかげる谷間が終わる向こうに、建物の影と思しいものを幾つか確認しているのだ。
「あれが、わたし達の里でス」
「……む、そうか」
頷く一方で、ジークはリュリュの声に、並々ならぬ感情を感知した。
だが、それが何であるかは分からず、二番と七番に任せたまま、里の入り口が見える岩陰に辿り着いた。まだ陽が出ている以上、リュリュ以外の里の住人に見つかる可能性があるからだ。
そこから見た限りでは、里の周囲は緩い階段状に盛られた土で囲まれていた。防壁の役割も担っているのかもしれない。
(素材こそ違うが、アルトパにも近しい様式はあったな)
(同意)
分割思考が言葉を交わしている間に、ジークは自分が気にかかっていたことをリュリュに尋ねた。
「時にリュリュ」
「?」
「お前は兎も角として、俺やミュレがこのまま行くとまずいのではないか?」
ここに向かう途中、リュリュは『大丈夫』と言っていたが、どうしてもジークにはその言葉が信用できなかったのだ。
(最悪の場合を想定すべき)
(“” 世界を見渡す秘匿の鳥””の準備を行うべき?)
(む、任せる)
保険を用意しておきながら、ジークはリュリュに再度念を押す。
「どうなんだ?」
「あ、ソれなら大丈夫でス。わたし、見つからないやり方、知っていマスシ……家には、わたしシかいまセんから」
「……む、そうか」
意外に思っていたが、ジークはそれを表情に出すことなく「それはどういうものだ?」と必要なことだけ訊いた。現在も四番は、休まずに計測を続けている。
「あっちでス」
そう言ってリュリュは。正面から見て里の右側を指さした。話を聞くと、壁沿いに行けということらしい。
(疑念)
(分かっている)
彼女の思惑が分かりかねるという六番の意見を同意する形で受け流すと、ジークはミュレが不用意な行動をとらないかと気にかけながらリュリュの示す先へ進む。
「む」
その傍らに、黒い盛り土の状態を観察しておく。自分の背丈の倍近い盛り土はしっかりと固められていて、やはり防壁としても機能しているようだ。
(ということは、物見櫓のようなものがあるかもしれん)
(可能性有)
(要注意)
里の周囲にはこれといった身を隠せる場所はない。ジークは壁にぴったりと身を寄せ、可能な限り里の内側からは見えないように歩を進めた。
(魔術“世界を見渡す秘匿の鳥”の使用は?)
(ミュレやリュリュの手前、迂闊に使用するわけにもいかん。四番は現状維持。七番は、四番の欠員による不具合の補填だ)
(了解)
急に視界の一部が不明瞭になる。四番が完全に視界の補正から離れた証である。こういったことは初めてではないが、やはり不便に感じる。
「む……」
「? ジークさん、疲れてマス?」
途端にリュリュが、気遣わしげに窺ってくる。意外と侮れない少女に「大丈夫だ」と答え、ジークは再び歩を進める。
どれぐらいの時間が経過しただろうか。里の正面から見て裏手にあたる場所にさしかかった時、リュリュが「止まって下サい」と口を開いた。
「む?」
「ここでス。ここから入れマス」
そう言ってリュリュが示したのは、何の変哲もないように見える黒い盛り土の壁であった。
(注目)
(む)
ジークは、リュリュの言わんとすることに気付く。
「足場があるのか」
「はい」
盛り土の壁には、手足をかけるのに適当な小穴が、一定の間隔を保って空けられていた。壁が黒土であること、不自然な影が生じないように角度が工夫されていたりと、かなり念の入ったものである。
「あの、ジークさん大丈夫でスか?」
「む、俺は問題ない。問題は――」
「…………」
ずだ袋の口を握り、ミュレは無心でジークを見上げていた。ちょっと首を傾げている姿は可愛らしいと言えるが、この姿は特に疑問を表しているわけではない。
「こいつだ」
「……はあ」
リュリュは何も言わなかった。最早ジークが全てを語らずとも分かってしまうようだ。
「ジャあ、こうしマショウ。まズジークさんがわたしを運びマス。ソシたら、次はミュレさんです」
そのためか、すぐに代替案を出してきた。
「お前の家は、ここから近いのか?」
「はい。ここを登る、わたしの家、スぐでス」
「本当だな?」
この問いかけに真っ直ぐ答えたリュリュ。ジークは彼女の声音に含まれている『揺らぎ』や『間』から真偽を見極めんとし、その結果からリュリュを信じることにした。
「ミュレ」
「……ん」
ジークが呼びかけると、ミュレは数秒ほど経ってから反応を見せる。彼女に何かを言い含めるのであれば、ここからである。
「今から、俺はこれを登る。このリュリュと一緒にだ。分かるか?」
「ん」
噛み砕いて説明し、念を押すとミュレは僅かに顎を引いた。本当に理解できているのか否かはさて置くとしても、意識はこちらに向いている証拠である。
「ミュレ。お前は、ここで待つんだ。この場所でな。それも、分かるな?」
「ん」
二度目の首肯。本来はここで褒めるのだが、今回のジークは少し手を加えてみる。
「ではミュレ、お前は何をするんだ?」
それは、質問による内容の確認。ただし今回は、ジークが内容を述べるのではなく、ミュレに述べさせるのである。
「…………」
首を傾げたミュレは、口を開け閉めさせてはいるのだが、肝心の言葉は一切出てこない。
(まだ、念押しされて頷くだけか)
(そのようだな)
憤慨も嘆息もなく、ジークはミュレの現状を淡々と評する。言われたことを理解するところまではできるのだが、自分が理解した内容を『説明する』段階にはまだ到達できていないようだ。
「――リュリュ、案内を頼む」
「え? あ、はい」
ミュレにはそれ以上話しかけず、ジークは薄暗さの増していく中で盛り土の壁を登っていく。穴はジークと同じかそれ以上の体格の人間に合わせられており、両手でリュリュを支えられないこと以外に不都合もなく登ることができた。
(なあ)
ふと、二番が話しかけてくる。
(もしかしてこの穴――)
(今は余計なことを詮索せんでいい)
(同意。当該事項は三番が専任すべき)
リュリュに同行することにした本来の目的は、蛮族の長との交渉である。アシュレイも懸案事項に含まれてはいるが、優先順位は低い。二番の役割を考えれば、時間の浪費としか言いようがない。
ジークは二段目を登りきり、そして最後の壁の上に立つと、そこで里の全景を眺めることができた。
夕闇に沈みかけた里は、ほぼ円形の盛り土の壁に囲まれていた。柄の短い茸のような形をした、天幕にも似ている住居が微妙に距離を置いて並んでおり、小さな畑や小屋と一緒に丈の低い柵が一つひとつの家を囲んでいる。凡そではあるが、東にあたる方向には一際大きな建物があり、そこに権力者が住んでいるのではと思わせる。
「お前の家は?」
「真下でス。一番ここに近い家、あれでス」
そう言ってリュリュは、ジークの肩越しに眼下に並ぶ家々の一つを指先で示した。
推測ではあったが、ジークは見当がついた。
「あの、屋根の作りが雑な家か?」
「……はい」
そしてその見当は間違っていなかった。物言いには大いに問題があると言えたが。
「あの、こっちに下りれる……ええと、アシバ、ありマス。……ありマス?」
「む……あった、問題ない」
登る際の間隔から判断すれば、発見はさして困難ではない。問題があるとすれば、次は下りる時だろうとジークが述べると、リュリュは――表情は見えないのだが――緊張した様子でこう言い出した。
「わたしだけで、下りるのがいいでスか?」
「……一度、降りてみろ」
リュリュの容態と薬の効能とを考慮に入れようと、ジークは提言する。
「…………っ」
心もち身を固くしつつ、リュリュは何度か足を下ろしては戻すという行為を繰り返した。おそるおそる、という表現が、これ以上ないほどに似つかわしい。
「……あ」
暫く一連の動作を繰り返していたリュリュは、やがて静かに足を壁の上に下ろした。
「痛みはあるか?」
「いえ、大丈夫でス」
軽くつま先を立てたりしながらリュリュは答える。表情や声音からは虚偽は感じないということは、ある程度治癒しているのだろう。
「む、では先に家に向かっていてくれ。俺はミュレを連れてくる」
そう言ってジークは身を翻し、登った道を下る。
やはりというか、ミュレは、先刻と全く同じ姿勢で立っていた。不動のまま夕日を背に受け、二房の三つ編みを秋風になびかせている様子は非現実的で、それだけに幻想的だった。
「む、よく待っていたな。いいぞ、ミュレ」
「……いい」
首を傾げ、ミュレは復唱する。滑らかな藍色の髪を、無骨な指が乱雑に梳る。
「ミュレ、お前の持っている袋を返せ」
「……ん」
間を空けての返事から更に十数秒後、ジークはミュレからずだ袋を受け取り、確認する。袋の底は土で汚れ、ちょっとした解れも見られたが、袋自体にはそれ以上の損傷はなく、中身も少々雑多になっている以外は無事であった。
(さて、問題は彼女をどうやって運ぶかだ)
(同意)
ミュレはジークよりずっと小柄で、しかも少々鈍いところがある。そんな彼女が、無事に壁を登りきれるとは到底思えない。リュリュは背負うこともできたが、今度はミュレだけではなく、それなりに体積も重量もあるずだ袋も付くのだ。
(往復?)
(いや、流石にそれは時間がかかる。夜ともなれば、見張りの一人や二人は想定すべきだ。できれば完全に夜になる前に、彼女を運んでおきたい。そうだろう?)
(む)
三番の意見に対し、二番がジークの主だった考えを述べる。
ミュレにこの足場を登れるとは思えない。しかし、往復で時間を費やすわけにもいかない。
(となれば、方法は一つか)
(……そうなるな)
胸中で嘆息しつつ、ジークはずだ袋を地面に置くと、
「――――」
ミュレを背後から腰に手を回し、抱え上げたのであった。
「ミュレ」
「……ん」
ジークの逞しい両腕で抱えられていることにも頓着せず、ミュレはいつものように反応を示す。「俺が支えておくから、お前は段を上がれ。できるな?」
「……ん」
ミュレが頷くのを確認して、ジークはミュレを壁の傍まで近づける。完全に四肢を脱力させ、ジークのされるがままになっている姿は等身大の人形にしか見えない。
「ミュレ、手を伸ばせ……む、違う、俺にではない。向こうだ、向こうの壁に手を伸ばすんだ」
ジークの身長の倍近い高さの壁にミュレを登らせようというのだから、ジークの苦労も並ではない。腕を盛り土の縁にかけるところまでは問題なかったのだが、そこからどうも脚が上手く上げられないので、結局ジークが徐々に下の方を持って押し上げていくという方法をとった。
(登る時はこれでいいが、下りる時はどうする?)
(……むぅ)
結局、ジークとミュレの二人がリュリュの家の前に下りた頃には、月が顔を覗かせていた。
●
ジークとミュレのやり取りを、密かに藪の中から観察している子どもがいた。
(あの二人……あ、三人かな? あんな所から忍び込んでるけど、どうしたのかな)
そう、ヴィルである。
ジークとアシュレイの戦いから現在にまで、危ういながらも尾行してきたのだが、ここにきて問題が発生した。
「……そういえば、ボクもあそこを登らないといけないのかな?」
森の中であれば追跡も身を隠すのも不自由しないが、人目の多い町中や里の内部では隠れられる場所が限られるので、受ける制約が大きくなるのだ。
(うーん、向こうっ側に入れないこともないんだけど面倒は嫌だし……うう、でもそれじゃあディノンさんの言いつけは果たせないし、どうしよっかな……)
自分も入り込むか否か――この二択を前に思考が止まり、完全に日が沈んだ今も動けずにいたのだった。
(……あ、なんかいい匂い。美味しそうだなぁ……っは!?)
「な、何やってるんだボクは……」
ここ数週間の食生活により、おそらくというかほぼ間違いなく壁の向こうから漂ってくる食べ物の匂いに夢見心地になりかけていたヴィルは、我に返るなり無性に悲しくなってきた。
(この仕事が終わったら、絶対みんなと美味しいものを食べよう……うん、そうだ)
小さな拳を握りしめ、ヴィルは心の中で高らかに宣言する。
(ボクは、一刻も早くこの仕事を終わらせて、美味しいものを食べる!)
情熱と一緒に妙な決意を胸に宿したヴィルは、藪から出ると大きな影から影へと素早く移りながら盛り土の壁に張り付く。日が沈み、月と星の光しかなくなった今、黒土は影と入り混じり、途轍もなく大きくて黒い何かのように見えた。
「え、と……」
先ほど、ジークらが壁を登る際に使用していた窪みを探す。見つかりにくいように工夫されているようだったが、ヴィルの眼は新月の夜でさえ遠くまで見通すことができるのだ。
(あった、これだ!)
案の定、窪みはすぐに見つかった。一つ目から高い位置にあるので足をかけるのに苦労したが、これぐらいなら問題はなさそうであった。
(よーし、行――っ!?)
「ッシャァァアァアアァア!!!」
背後からの大喝。怖気が背筋をむちゃくちゃに駆け回っているのを全身で感じながら、ヴィルは躊躇いなく体を前方に投げ出す。振るわれた長柄の武具の先、反りのある刃が盛り土の壁へ食い込んでいた。
(なな、何だこいつ!??)
必死で態勢を整えながら、ヴィルは月光に照らされる男を睨み上げる。
ぼろぼろの、獣の皮でできた服。顔や腕にある刺青。伸び過ぎていて、顔を隠してしまう髪。
(そ、そうだ! たしかこいつ、昼間にあの二人を襲ってた奴……!)
記憶の中から男――アシュレイを拾い上げると、ヴィルは身を堅くする。ヴィルもまた、アシュレイがジークと戦っているところを見ているのだ。
「……逃がしては、くれないみたいだね」
今にも泣き出してしそうな内心をひた隠しにしながらも、ヴィルは眼前の男に精一杯の挑発を送った。
アシュレイが唸り声を上げ、跳躍する。
●
中へ入ると、リュリュの家はますます殺風景という印象をジークに与えた。
内部は部屋ごとに区切られてはおらず、大きな一つの空間となっていた。中央に煮炊きと照明、暖房を兼ねた炉がある以外には、幾らかの木箱と農具、他には部屋の隅に吊り下げられた野菜や肉と思しい塊があるばかりであった。
リュリュは、そうした空間の中央で鍋の中身をかき混ぜていた。彼女の体格と比較すると鍋が大きく見え、どことなく微笑ましくもあった。
もっとも、ジークは彼女のそういった部分など眼中になく、自分が今いる場所が、小さな家というよりは大きな小屋と呼んだ方が適当かもしれないと評価しているだけであった。
「あ、ジークさんミュレさん、大丈夫でシた?」
二人に気付いたリュリュは、家の中央で鍋を掻き回す手を止めた。鍋の中からは、野菜と牛乳に穀物、そして僅かだが肉の匂いが漂ってくる。
ジークが先刻の問いかけに肯定の意を返すと、リュリュは「よかった」と言って笑いかけてきた。なまじ悪意や下心の感じられない笑みであったため、ジークはむしろ表情を僅かにしかめさせた。
「ご飯、できマス。もう少シ。二人とも、大丈夫でスか?」
「む。ミュレは……どうやら、問題ないようだ」
「ソうなんでスか? じゃあ二人は、座ってて下サい。もう少シかかりマスから」
「む」
一つ頷いて、ジークは炉に傍に腰を下ろした。少し遅れて、ミュレがジークの左隣にちょんと座る。心なしか距離が近いように感じるのは、彼女もやはり寒さを感じるからだろうか。
(少なくとも、空腹は感じていないようだな)
ミュレは空腹になると、分かりやすい反応を示す。それがないということは、まだ空腹にはなっていないのかもしれない。
(今日は昼飯を食っていないというのに……よく分からん奴だ)
(甚だ同意)
(同意)
例によってミュレに否定的な六番と、戦闘以外の物事に関しては無頓着な五番が口を揃えて同意してくる。放っておくとまた益体もないミュレ排斥論に時間を費やしかねないので、ジークは七番に二つの分割思考の管理を任せておくと、自分はリュリュの家の中を観察することにした。
触れてみなければ断言できないが、壁の材質は外の防壁と同じく、固められた土が使われているようだ。天井部分には木材を用いており、これが内側から支えているのだろう。更に目を凝らせば、木製の枠が用いられた天窓まである。
(建築に関する発想、知識も我々と差異は感じられず)
(こういった建物を造ろうと思ったら、複数の世帯が職人と協力せねば造れないはずだ。やはり蛮族という我々の認識は誤りのようだな)
空間把握に長けた四番は、二番と討論を重ねていた。翌日には、何かしらの有用な知恵を導き出していることだろう。
「……ミュレ」
風に押しやられたかのように鍋に近寄るミュレを、ジークは言葉少なく呼び止める。
「それは、まだ食うんじゃない。いいな?」
「……ん」
ジークを見つめて頷いたミュレは、しかし視線をリュリュがかき混ぜる鍋へと戻した。空腹ではなくとも、食べ物には関心を持つようだった。
「む……」
「まあまあ、スぐにできマスから、大丈夫でスよ」
唸るジークに、リュリュが微苦笑を浮かべながら取り成す。幼いながらも、こういった経験があるのだろうか。
「……あの」
「む?」
ジークがミュレに謝る時の言葉を教え込んでいた時、妙に緊張した面持ちでリュリュが話しかけてくる。
「どうした」
「わたし、ジークさんに訊きたいこと、ありマス。……駄目、でスか?」
リュリュが躊躇いがちに訊いてくる。ジークは僅かに分割思考を巡らせて、「……答えてやれる範囲でなら構わん」と簡潔に述べた。
「本当でスか? よかったでス」
ジークの返答に、リュリュは緊張を綻ばせる。そして朗らかな口調で、
「ジークさん、ミュレさんのお父さん、でスか?」
「違う」
質問を口に出した途端、底冷えするほどの口調で、ジークは情け容赦なくリュリュの好奇心を否定する。その、冷たく燃え盛る怒りに大人気なさを指摘できる者は、ここにいない。
ジークの威圧を受けて気が動転しているためか、リュリュは更にとんでもないことを口走った。
「ち、違うんでスか? わたし、ミュレさんはジークさんの、娘さんと思ってマシタ」
「そんな関係ではない」
またしても斬り捨てる。一方でミュレはジークとリュリュのやり取りには興味がないのか、そもそも二人の会話の内容が理解できていないのか、じっとジークと鍋を交互に見つめているだけであった。
「では、どういう関係なんでスか?」
何故かリュリュは、今度は折れない。むぅ、と唸るジークに、控えめだが眼を輝かせたリュリュが迫る。
何と答えたものか、リュリュが二度瞬きをするまでの間に分割思考を総動員したジークは、ごく平然と口を開いた。
「前に立ち寄った町で色々あってな、いつの間にかしばらく面倒を看ることになった」
「はあ……色々、でスか」
気にはなるが踏み込むべきか迷う――そうしたリュリュの思惑が、ジークには手に取るように分かる。この里のように閉塞された環境では、外部からの情報は何ものにも勝る価値を有している場合があるのである。
(面倒な話だ)
(同意)
六番と嘆息する半面、ジークは隻眼をミュレに向ける。
(俺からすれば、こいつは道中の荷物に過ぎん)
心中ということもあり、ジークの下す結論にも容赦はない。
(……だが)
光のない、無限の奥行きを持っているかのような藍色の瞳が、ジークの相貌を映し出している。
(こいつの目に、俺は――)
と、その時だった。
「――ッシャァァアァアアァア!!!」
「む……!?」
唐突に木霊する雄叫び。ジークは長剣の柄に手をかけ、家の外に出ようとするのだが、
「駄目でス!!」
それをリュリュが、鍋の中身をかき混ぜるのに使っていた匙を持ったまま止めに入った。
「今外、危ないでス! ここにいて下サい!」
「……どういうことだ?」
低く、冷厳な声音。鋭い隻眼を持ったジークの面相と相俟って、並の男なら怯むだけでは済まないであろうジークの一声を受けたリュリュは、しかし小さい唇を引き結んだまま真っ直ぐに睨み返した。
(む――)
ジークの内心で、再びリュリュへの疑惑が湧き上がった。利用価値を見出したことで傍に置いていたが、内心では一度として油断したことはない。
出会った当初からジークがリュリュを疑っていた最たる理由が、彼女の頑ななまでの黙秘であった。
虚偽ではなく、拒否。真実を歪めることを否定する一方で、彼女は口を閉ざすことで真実を語ることも否定しているのである。
(面倒な真似を……五番)
(了承)
それを受けて、五番も動き出す。この分割思考が司る分野は戦いに関係のあるものが殆どであるが、それを応用しての『人を適度に苦しめる』ことにも長けている。
(尋問? 拷問?)
(状況によってはそれもある。やり方はお前に任せるぞ)
(了承)
物騒な会話を終えたジークは、続けてリュリュに問う。外ではまだ、大きく動きまわる気配が一つあった。
「あれは、アシュレイで間違いないんだな?」
リュリュは引き結んだ唇を解こうとはせず、ジークを見据えたまま頷いた。
「だとすれば、奴は外で何をしている?」
「…………」
この問いには、リュリュは頷かなかった。
(強情な奴だ)
(その点に関しては同意)
(尋問開始?)
四番が部分的に同意し、五番は既に準備が整っていることを暗に報告した。
(周囲に不穏な気配は感じられん。彼女が隠し事をしている事実は兎も角として、今は早急に結果を求めるべきではないのではないか?)
(二番に同意)
(同意)
二番と六番、七番が、口を揃えてジークに強攻策をとらぬよう進言する。
(目的を誤るな、我々は無意味な人殺しのためにここへ来たわけではあるまい。思い出せ、我々のとるべき最善の選択は何だ?)
(否定。我々はまず現状を完全に把握しておくべき)
(手段にもよる。五番の手法は過剰)
(む……)
ジークの中で、理性が衝動を駆逐していく。長剣の柄から手は離れないが、その思考はとるべき選択肢を指示し、違えさせなかった。
「……そういえば最初に訊いた時、お前は答えなかったな」
激情を分割思考が発散させたのだろう。幾分か険の取れた声音でジークはもう一度、あの質問を差し向けた。
「教えてくれるな? 奴が、アシュレイが何者なのか」
長い沈黙が、二人の間に下りた。外からは、アシュレイの声が依然として聞こえてくる。
遠くで、人の声が聞こえた。アシュレイのものかは不明だが、それを耳にした途端、リュリュの肩が震えたのをジークの隻眼と分割思考は見逃さなかった。
リュリュが無言のまま顎を引いて見せたのは、アシュレイの叫ぶ声が聞こえなくなってからであった。
「アシュレイ、“ニール”です」
「ニール?」
聞いたことのない単語であった。ジークが説明を求めると、リュリュは少しだけ沈んだ声で、それでも表情だけは明るさを維持しようと努めながら語った。
「ニール、里を護りマス。ニール、悪い人をやっつけマス。ニール、わたし達の上でス」
要するにニールとは『戦士』という意味を持った語であるようだ。しかもリュリュの言葉から類推するに、アシュレイはある程度の地位を持っていることになる。
「……では、アシュレイが最初に戦いを挑んできたのは」
「ジークさんとミュレさん、悪い人と思ってマシタ」
と、深い考えなしにリュリュは答えたようだが、そのことが却ってジークに疑問を持たせた。
「奴が俺やミュレを外敵と捉えるのは自然な流れだ。しかし、それよりも気になることがある」
「?」
「本来は里を守るためのニールの一員であるはずのアシュレイが、何故里から離れてまでお前のことを陰から見守っていたのか、そして何故、一般階級であるはずのお前がニールのアシュレイを止めることができたのか、ということだ」
リュリュは、呆然とこちらを見つめている。一息で喋ってしまったこともあるが、先ほどの言には彼女の語彙にはないリグニア語が多数含まれていたのかもしれない。そう思ったジークは、数秒費やした要約を告げる。
「リュリュ、本当はお前自身も、俺達に何か隠しているのではないか?」
リュリュの表情に、明確な動揺が浮かび上がる。その動揺をジークは、『後ろめたさ』であると捉えていた。
(む、罪悪感?)
(疑問)
(懸案事項に回すべき?)
(ああ、ではそのように頼む)
動揺の表れた時間が一瞬であったので、さしものジークと分割思考でも時間を要するとの結論が出た。そのままジークは、意識の焦点を内側から外側に戻す。
リュリュからは、先刻までの危うさを覚えるほどの強さが感じられなくなっていた。表情にも、どこか力が抜けている。
「まあ、答えにくい問いではあるか」
現段階でこれ以上情報を引き出せないと見切りをつけたジークは、話題の転換を図る。
「それより、鍋は大丈夫なの……む」
「え? ……あ」
ジークが唸ったことに疑問を覚えたリュリュは、すぐ真実に至った。
鍋の中身はいつの間にか空になっていて、最初からそうであったかのようにジークの傍で座っているミュレの鼻から顎にかけては食べ滓と思われる穀物や野菜の切れ端が付着していた。
「……ミュレ」
「ん」
ミュレが反応を示すと同時に、ジークはミュレの脳天へと手刀を振り下ろした。鈍く重い音こそしたが、ミュレは特に堪えた様子もなく首を傾げていた。
「すまんな。こいつが勝手に全て食ってしまって」
「い、いえ、大丈夫でス。あの、それよりミュレさん、大丈夫でスか?」
「む。こいつは思いの外頑丈でな、以前も似たようなことがあった」
「は、はあ……」
何と言っていいのか分からず、リュリュは曖昧に頷いた。彼女としてはミュレの頑丈さよりもジークに対する怯えと畏怖が強かったのだが、ジークには知る由もない。
●
もう一度鍋を作るというリュリュの厚意に甘んじることを由としなかったジークが食材の提供を申し出て、結局その日の晩は蛇の切り身と兎の干し肉を中心としたものになった。
「へ、蛇も、美味シいでスね……」
そう感想を述べたリュリュの口元が若干引きつっていたのは、ここだけの話である。
食事の最中に明日の大まかな行動についてジークとリュリュの二人で話し合った結果、食後は後片付けを済ませればすぐに寝ることとなった。ジークはリュリュを背負って半日近く山道を歩き続けていたし、リュリュはリュリュで足首が完全に治癒しているわけでもない。
「このまま一晩待てば、明日の朝には完治しているはずだ」
「はあ……」
自分の足首に巻かれた白い布をしげしげと見つめながら、リュリュは「ありがとうございます」と言って笑った。つい先刻にあった確執などなかったかのような笑顔である。
(警戒怠るべからず)
まだ“起きて”いる五番が、リュリュの危険性と強攻策を訴える。ジークがリュリュやアシュレイへの疑念を心の底で燻らせている証拠であると本人は自覚しているようで、
(七番)
(了承)
ジークは七番に五番の抑制を指示しておいた。『修正』ではなく、あくまでも強く表出するのを抑えておくだけである。
(同じ鍋の飯を食った仲だろうに、そろそろ信じるだけでも始めたらどうだ?)
(リュリュの性格は幾らか掴んだが、それでも信じるには値せん。ここは奴の土地だぞ)
二番が苦言を呈するも、ジークは平然と押し返す。それを受けた二番は、
(お前こそ強情だよ)
と皮肉めいた台詞を言った。
「……ジークさん?」
リュリュは首を傾げた。ジークは薬研や余った布を片すと、いきなり立ち上がったのである。
「あの、どうしマシタ?」
「寝る時に使う道具はあるのか? ならば持ってくるが」
「い、いえ! ソんな……あ、やっぱりお願いシマス」
リュリュの最初の拒否は遠慮によるものであったが、自身の脚の容態を考え、素直にジークを頼ることにしたのだった。
「あの箱、大きい布が三つありマス。二つは使って下サい」
「む」
リュリュの言うように、隅に固められた木箱を順に探していくと、確かに人ひとり分の毛布になりそうな獣の皮が三つ出てきた。
(ふむ…… 巨猪とは違うようだが、いずれにしても、これだけの大きさのものを仕留めるとは流石だな)
(同意)
ジークは、二番の観察結果に耳を傾けながら少女らに獣皮を渡していく。小柄だが、一部分だけ突き抜けたミュレでも丈が余るのだ、十歳を過ぎているのかも分からないリュリュなど、おそらく三人は包めることだろう。
「む?」
そういった下らない計算をしていた四番を咎めていた折、ふとジークはミュレに目が行った。
「ミュレ」
「……ん」
「何故お前が、俺のマントを使っている?」
いつの間にかミュレは、ジークが脱いであったマントに身を包んでいた。それだけでも気にかかる話なのだが、ミュレが身に着けているマントは、彼女が巻いたとは思えないほどしわが少ない。
「え? ミュレさん、普通に着ようとシてマシタ。違うでスか?」
(犯人はお前か)
と内心でリュリュを睨みつつ、ジークは「ミュレ、マントを俺に返せ」と言うのだが、
「む?」
「…………」
何故かミュレは、マントの端を握り締めたまま、微動だにしない。
「ミュレ、どうした?」
「……わたし、いる」
耳をすまさないと聞き逃してしまいかねないほど声量でミュレが言ったものは、紛れもない自己主張。
どうやら、ミュレは自分が寝る時はジークのマントで眠るものだと覚えてしまったらしい。
「む、違うぞミュレ。これは寝るための物ではない」
「……ち、がう」
ジークが教えても、ミュレはジークのマントを掴んだまま離そうとしない。
「ミュレ。手を、離すんだ」
「…………?」
ジークが言ってもミュレは首を傾げるだけで、それ以上のことは何もしない。
(まあ、そう言ってやるな。彼女が物事に執着を見せ始めていると考えれば悪くないだろう)
(時と場合と物による)
(同意)
ジークにとって、ミュレが自分以外の物事に関心を持ち、最終的に離れることが最良の結果なのだが、そのためには壁が一つ立ちはだかる。
(ミュレの行動全てを肯定すれば、奴はこのまま俺への依存を続けるだろうし、かといって奴の行動全てを否定すれば、結局奴は俺から独立しようとしない……)
(隔靴掻痒)
何とも言えない歯痒い気分を端的に言い表したのは七番。この時ジークは、初めて分割思考への明確な怒りを抱いたのであった。
「……分かった、それを使っていて構わん」
「ん――」
「ただし、だ」
何もかもを手放しでは認めるつもりのないジークは、交換条件をミュレに突きつける。
「明日、俺が起きてすぐ、マントを返すんだ。分かったな?」
「……ん」
頭からジークのマントに包まったミュレは、いつものように音と声の中間のような呟きを洩らすと、ジークの傍で背中を丸めた。
「む……」
瞼を閉じているのかと思いきや、じぃっとこちらに視線を向けているミュレに『目を閉じておけ』と言って、ジークは自身もその場に身を横たえさせる。彼女と反対側の方から、リュリュが小さく笑う声が聞こえてきた。
「む、どうしたリュリュ」
「やっぱりジークさん、お父サんみたいでス」
「……むぅ」
反論したかったが、おそらく何を言っても効果はあるまいと、ジークは半ば眠気に浸り始めた頭で考える。
(明日は……リュリュを梃子にこの里の……必要があればアシュレイを……そうだな、そのためにも……)
考え事がまとまる前に、ジークの意識は闇に落ちた。
月の光を取り入れる窓の向こうから、涼やかな笛の音が聞こえてきた。
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2009/12/15(Tue)23:27:41 公開 / 木沢井
■この作品の著作権は木沢井さんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
初めての方にははじめまして。それ以外の方々にはTPOに則った挨拶をば。三文物書きの木沢井です。
拙い上ばかりか遅筆なくせにとんでもない長編ばかり書きたがるので、所々至らぬ点はありましょうが、そこはもう容赦なしにお願いします。
ふってわいた衝動に負けての寄り道など多々ありましたが、何とかこちらに集中できそうです。
今回は前回より短く、およそ1〜5くらいを想定しています。
*分割思考早見表
二番:唯一個性が口調に(如実に)現れている。他の分割思考に比べて雄弁。ある意味、一番のジークの理解者。
三番:最も低いと思われる可能性を最も高い可能性として(つまり予想に反する事態に備えて)扱う思考。他にも、人体に関する知識も扱っている。
四番:空間や図形などの、視覚的イメージを専門的に扱う思考。ジークの数少ない死角である、左目の視界を補助する役割を専任としている。
五番:剣術や体術などの戦闘関連の知識や記憶を扱う。基本的に他の分割思考に同意しているか、過激な発言が多い。
六番:三番が人体の構造などに通じているのに対し、医術や薬学、解剖学など、生物や生命「関連の」知識を蓄えている。分割思考の中では最もミュレを嫌っている。
七番:ジーク(一番)や二番のサポートや三番以下の管理を行なっている。
当拙作もいよいよ半ばを過ぎましたので、主だった面子だけでも紹介したく思います。というか、そうしないと際限なく増えてしまいますので。
●ジーク 17歳
本編の主人公。銀髪隻眼の剣士。セネアリスという人物を探している。現在、ミュレを一日でも早く独立させるべく教育に明け暮れている。
●ミュレ 十代半ば(ジークの推定)
ジークの旅に同行する少女。肉体と精神が対極の状態にある。幼い頃から“化け物”と呼ばれ、迫害と陵辱の日々を送っていたためか、人形のような雰囲気を漂わせている。
●レナイア(レニィ) 25歳
主にジィグネアル南部を巡る女行商人で、カミューテル姉弟のよく殴る方。現在、コナーの村にて一儲けを企んでいる。ちなみに、ジークとは面識がある。
●ルーカス 十五歳
レナイアの弟にして、護衛兼肉体労働係兼家事担当の少年。カーミュテル姉弟のよく殴られる方。
数日前に出会ったミュレのことが忘れられないらしい。
●ギデオ
カミューテル姉弟の馬車馬。人物ではないが、立派な相棒である。名馬でも駿馬でもないが、どんな悪路も物ともしない体格と根性を持つ。牡馬。
●リュリュ 十二歳前後?
ジークとミュレが道中に出会った少女。幼いようだが意外に芯は強く、また物怖じしない性格である。
●アシュレイ
ジークとミュレに襲い掛かった謎の男。一時はジークと互角に戦ったほどの腕前だが、リュリュには逆らえないらしい。
●ダレン
コナーの村付近に根を張る一団の首領。ジークに並々ならぬ恨みを抱いている一方で、自分たちに喧嘩を売ったコナーの村の面々に報復を企む。元々は亡国の兵士長。
●アナバ
ダレンの片腕。一団の頭脳担当。頭の切れ具合と人望はまずまずだが、外見は「皮膚病の鼠」。
●ユフォン・カテドラル ??歳
???
この他、気になられる設定などございましたら順次用意いたします。
8/3 続きを更新しました。
8/13 20081130にてユーレイ噺を更新しました。
8/15 続きを更新しました。
8/25 続きを更新しました。
8/31 加筆修正しました。それと、ユーレイ噺を更新しました。
9/7 ユーレイ噺を更新しました。
9/16 続きの一部を更新しました。それと、ユーレイ噺が完結しました。
9/27 2を更新しました。
11/7 続きを更新しました。また、サブタイトルが追加されました。
11/9 加筆修正しました。
11/14 誤字訂正しました。
12/04 加筆修正と3の残りを更新しました。
12/15 加筆修正しました。
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。