『蒼い髪 第10話』 ... ジャンル:ファンタジー 未分類
作者:土塔 美和                

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 午後からは職人が入った。
「何か、あるのですか」と、キネラオ。
「明日、お客様が見えるのです。それで謁見の間を少し改造しようと思いまして」
「改造ですか」
 もう直、我々と一緒にこの館を発つというのに。
「ええ、彼らは面白いのです。あなた方と同じように箸を使い、椅子は使わず、床の上に直接座るのです」
 それはボイ人の生活様式と同じだった。
「彼らと言いますと?」
「母の故郷の村の人々です。明日、見えます」
「それで殿下も箸が使えるのですか」と、ボイの二人は納得する。
 最初に会ったとき、ボイ語を話すのにも驚いたが、箸を器用に使うのにはもっと驚かされた。あそこまで使えるようになるには、十日や二十日では無理だ。それに今まで会ったネルガル人は箸を使えなかった。この館で初めて箸を使うネルガル人を見た。
「母の方がもっと私より器用に使います」
 それにナオミの部屋には畳みの間がある。書き物をしたり読書をするときは、ナオミはいつもその部屋にいた。椅子に座るより落ち着くと言う。
 結局ルカは、職人に指示をするために謁見の間に行くことになった。その間、ボイ人たちは果樹園を見せてもらうことにした。
 暫く行くと、園で昼寝をしている守衛に出会う。
 こんな所でさぼっているのかと思いきや、ボイ人たちの心を察したのか、
「さぼっているように見えますか。これでも見張りをしているのですが」と言いつつ、彼は置きだした。
「何を見張っているのですか?」
「頭の茶色いネズミですよ。今日は来ると思ったんだけど、まだ来ない。遅いな」
「頭の茶色いネズミですか」
 キネラオはどんなネズミなのだろうと首を傾げる。
 ホルヘの方は木を見上げ、
「実がなっているのですね」と、尋ねる。
「あっ、それはそのままでは食べられないぜ。もっともまだ青いからよけいだけど」
「ほんとだ」と、キネラオもその木を見上げた。
 守衛は自慢げに説明し始める。
「それは渋柿っていうやつでな、赤くなったら皮を剥いて十日ぐらい干しておくんだ。そうすると粉をふいて甘くなる。そうでもしないと食べられない。もっとも罰ゲームにはうってつけだが」
「罰ゲーム?」
「そう、お前さんらがこの館に来る前に、殿下に誓いを立てさせられたんだ」
「誓いですか」
 どんな。とボイ人たちは興味津津に訊く。
「そうさ。お前さんらに嫌な思いをさせた奴は、この柿を三個、完食するって。その渋さときたら、水なんか飲んだぐらいじゃ、どうにもならないんだぜ。まあ、聞くより試した方がよくわかる。一個食べてみたらどうだ。ただし口の中の保障はしないぜ」
 そういうと守衛はまた草の上に寝転び目を閉じる。
「何、しているんだよ。こんな所でさぼりやがって」
 別の守衛が見回りがてらやって来た。
「だから、ネズミの番」
「ネズミ?」
「お前こそ、何しに来たんだ。ここはさっき別の奴が見回りに来たばかりだ」
「俺はな」
 やはり思うことは同じようだ。
「遅せぇーな、今日は来ると踏んだのに」
 その時。壁をよじ登るような音がしたかと思うと、上の方から人が飛び降りてきた。
「ほらね」と、「やっと来たか」と、二人の守衛の声が重なった。
 確かに髪の毛の茶色い少年が。
 だが少年もボイ人を見るなり、
「どっ、どうしているんだ。昨日じゃなかったのか謁見は」
 挨拶より、その一声だった。
 少年はくるりと向きを変えると、せっかく飛び降りた壁に、また登ろうとした。
「あれ、せっかく来たのに、帰っちゃうのですか」
 それで初めて少年は守衛がいることに気づく。
「昨日じゃなかったのか」と、少年は守衛に訊く。
「そうですよ」
「じゃ、どうしているんだ?」と、ボイ人たちを指し示しながら。
「殿下の語学の練習のため、残ってもらったんだ」
 少年はきょとんとした顔をして二人のボイ人を見る。
 それで初めて自己紹介になった。
「こちら殿下のご友人のカロル君。クリンベルク将軍のご子息です」
 こう紹介した方がわかりやすい。カロルでは何の反応もしなかったボイ人も、クリンベルク将軍の名前を出したとたん、態度を変えた。身が引き締まったようだ。
 だが守衛はそれにはお構いなく、
「こちらはキネラオさんとホルヘさん。通訳を担当しているそうだ」
「あっ、初めまして」と、カロルはぺこりと頭を下げた。
「こちらこそ」と、ボイ人は丁寧に返礼する。
 カロルは二人のボイ人を交互に見、
「兄弟か」と、訊く。
「はい、そうです」
「もしかして、一卵性双生児?」
「いいえ」
「でも、それにしては瓜二つだな」
 よく見れば肌の色も姿も違うのだが、ネルガル人には見分けがつかない。それと同様、ボイ人にもネルガル人の見分けはつかないようだ。
 目が慣れてくれば多少、顔の輪郭の違いはわかる。特に黒子などで。
「さてと、ネズミは捕らえた」
「はっ?」と、カロル。
 そうだったのかとボイ人は納得する。
「しかし、何故クリンベルク将軍のご子息ともあろう方が、こんなところから?」と、ボイ人は流暢なネルガル語で話しかけてきた。
「へへぇー」と、カロルは頭を掻きながら、
「ここが近道だからだよ。わざわざ正門まで迂回するのは面倒だろう。それより、奴は?」
「ただ今、来客中」
「来客って?」
 ボイ人より大切な来客が、他にいるのか?
「職人が見えているんだ」
「職人って、今から改造してどうする気だ」
「あす、奥方様の故郷の人たちが来るのです。それで少し」
「へぇー」と、カロルは興味ありげに。
「奥方様が故郷に戻られるのに、迎えに来てもらったそうです」
「そうなんだ」
 そこまで言うと、守衛は黙り込んでしまった。
 暫しの沈黙の後、思いつめたように一人の守衛が言い出す。
「あの、その、ボイの王女様が、この館にお嫁に来るというわけにはいかないものなのだろうか」
「来てくれたら俺たち、王女様を大切にするよ。フォークやナイフより重いものは絶対持たせないし、寂しいというなら話し相手にでも遊び相手にでもなるよ。そのためならボイ語も習うしボイのゲームも覚える。退屈だというなら町の散歩にも付き合う。欲しいものがあるなら何でも買ってやる。ネルガルはその点じゃ便利なところだから。金さえあれば何でも買える。だからお嫁に来てはもらえないものだろうか」
 突然の話に誰もが黙り込んだが、
「それは、駄目だ」と言ったのは、カロルだった。
「どうして」
「あいつは、ボイ星へ行って王になるんだ。ここではボイ星の王女を妻にもらっても、ボイ星の王にはなれない」
「殿下は、王になどなりたいなんて思っちゃいないぜ、きっと」
「俺もそう思う」と、もう一人の守衛。
「だから、嫁に来て欲しい」と、守衛はボイ人に頭を下げた。
「でも、駄目なんだよ、政治とはそういうものだ」
 二人の守衛は憤慨したようにカロルを睨めた。
「どいつもこいつも、ガキのくせに生意気いってんじゃねぇー」
 殿下も坊ちゃんも、もっと素直になったらどうだ。
 だが素直になったところで、何一つ変わるものはない。
「親父が言ってたぜ」
「将軍が?」
「あいつは生まれながらに王たる素質を全て身につけて来たと。このままいけばネルガルの皇帝にもなれるだろうって」
 守衛たちは驚く。
「だが、唯一つ足りないものがある」
「それは、何だ」
「さっきお前らも言っただろう、本人にその気が無いって。そう、本人に玉座を狙おうとする意思がないんだ。本人にその気さえあれば、奴は確実にネルガルの皇帝になれる」
「嘘だろう。もうネルガルにはジェラルド様は無理としても、アトリス王子もネルロス王子もいる」
「ああ、これから生れる王子も、全て奴より血筋は上だからな。その内、奴等の間で皇位継承簒奪戦がおこるだろう。だが奴等がやれるのは高が知れている。大した内乱にもならず、その内落ち着くところへ落ち着く。だがあいつが玉座を狙うときは違う。内乱どころでは収まらないだろうって」
 また暫しの沈黙。
「どうして、そうなるんだ。殿下は、玉座なんか望まないぜ。殿下は争いごとが嫌いだからな。俺たちが喧嘩しても嫌がる」
 そのくせ自分はカロルと大喧嘩してきたようだが。
「ああ、奴は望まないだろうよ、あれで割りとものぐさだからな。だが周りが望まないとも限らない」
「周りが? それ、どう言う意味だ。俺はそんなもの望まないね、殿下は今のままでいい」
「俺もだ」
 カロルは笑う。
「お前らが望むぐらいなら簡単だ。今ここで、俺がお前らを打ち殺してやる。二度とそんな野望を抱かないようにな」
 死んでしまったら野望を抱けるはずもないのだが。
「坊ちゃん、そりゃないぜ」
「冗談だよ。でも、親父が言うんだ。そうなったら、俺は奴の敵だ。親父が奴の敵になるんだから、仕方ない」
「クリンベルク将軍を敵にまわして、勝てるはずないだろう」
「それは常識的な考えだ。奴が玉座を狙うときは、既にそのこと自体が常識の枠から外れているんだ。だから常識は通用しない。アリだってライオンを倒せるんだぜ、まして竜じゃな」
 また暫く沈黙が流れた。
「だから奴はボイ星へ行った方がいいんだ。親父もほっとしているよ、いい厄介払いが出来たと。この星にいたら、力をつける前に殺される。現に、毒を盛られているじゃないか」
「あれは、某夫人の僻みからだ」
「どうして人は僻むか知っているか。自分より相手の方が勝っていると認めた時だ。女性はそういうことに敏感だそうだ。だからまだ芽の内に排除しようとした。その内男も、遅ればせながらとそれに気づくだろう。だが男たちが気づく頃には奴はかなりの力を蓄えてきているだろう」
「そんな」
「隷属したくなければ、排除するしかないだろう」
「そんな、殿下は人を支配しようなんて一度も思ったことはないはずだ。現に俺たちに威張り散らしたことはない」
「そうさ、それがいけないんだよ。少しは威張り散らせばいいんだ。俺は王子だと、お前らとは違うんだと。そうすりゃ他の王子となんら変わりないのに」
 そうすりゃ、親父だってあんなに警戒しなかった。ハルメンスの野郎だって。
「坊ちゃん、よくそういうことが言えるな。さんざん他の王子の悪口言ってて、殿下にもそうなれってか。坊ちゃんは殿下の数少ない友達の一人だろうに」
 カロルは壁にもたれ掛かると、
「まあ、俺だってこんなことは言いたくなかったよ。何でクリンベルク家になど生れたんだろう」
 クリンベルク将軍は青年たちの憧れだ、常勝将軍として。そしてそのクリンベルク家は、令嬢たちの憧れでもある、お嫁に行くならあの館だと。クリンベルク家の子息だと言うだけで、花嫁候補は引く手数多だ。そんな家に生れたカロルの感想。
「守ってやりたい奴は守れず、どうでもいい奴の盾にならなきゃならないなんて。お前たち、俺の身にもなってみろ。馬鹿馬鹿しくって命なんか張っていられるか」
 そこへルカが侍女と一緒に現れた。
 カロルは声を潜めると、
「おい、今の話、ここだけだからな。こんなことが情報部の耳にでも入ったら、奴も俺も反逆罪で処刑される」
「何が、馬鹿馬鹿しいのですか」
「なんでもないよ」と、カロルはふて腐れたように言う。
「何で、いるのよ」と、侍女はカロルを睨め付けて言う。
「いちゃ、悪いか」
「悪いわよ。おかげで賭けに負けちゃったじゃないの。もう、午前中の内に姿見せないから、絶対今日は来ないと思っていたのに」
 カロルは来るときは朝から来て、一日中入り浸る。
 侍女はフグのように脹れた。
 ルカは楽しそうに、
「私の勝ちですね」
「馬鹿カロル。百ドット、殿下に払っといて。負けたのはあんたのせいなんだから」
「いきなり、馬鹿はねぇーだろー。それに、何で俺が払うんだ」
「あんたが今頃のこのこやって来るからよ」
「では、そういうことで」と、ルカはカロルの方に手を出す。
「何か、筋が通らないような気がするが」と言いつつも、カロルはポケットの財布を取り出す。
「何ぶつぶつ言っているのよ、負けたのだから、さっさと支払いなさいよ」
「だって、おかしいだろう」と、カロルは必死で抗議する。
「弱い頭であまり考えないほうがいいと思いますが」
「はぁっ?」
「そうよそうよ。さっさとしなさいよ、まったく男のくせに、往生際が悪いんだから」
 すっかりカロルは払うことになっている。
 この光景を見てボイ人は、おかしいと思い、隣の守衛に耳打ちした。
「おかしくないさ。これがネルガルのルールだから」
「こいつになら負けてもいいかと思った方が、負けなんだよ」
「まあ,逆を言えば、相手にそう思わせた方が勝ちかな」
 カロルは、何か理不尽だと思いつつも、財布の中からワン・コイン出しルカに支払う。
「もうけ」とルカ。
「何か、すげぇーく損した気がする」
「気のせいですよ」と、ルカはあっさりと言う。
「そうそう」と、侍女も首を立てに振る。
 賭けをやっていたのは誰なんだ?
 ルカはそのコインを見ながら、
「でも、やっぱりこの賭けはあなたの勝ちですか」
「どうして?」
「私は、午前中に来ると思っていたのです」
「それでこいつを、見張りにここに立てておいたのか」
 実際は寝ていたのだが。
「見張り? とんでもない。私は見張りを立てた覚えはありませんよ」
「こいつ、ここでずーと俺を待っていたんだぞ」
「へへぇー」と、守衛はバツ悪そうに頭をかき、
「坊ちゃんのことだから、今日は絶対来ると思っていたんだ、昨日のことを訊きに。どうだった。なんて言いながら」
 侍女は笑う。
「やだぁー、皆同じこと思っていたんだ」
「まったくこの館の奴等は」
 すっかり自分の行動パターンを読まれて、カロルは頭に来た。
「いいではありませんか。こんなに皆に待ちわびられているなんて」
「とんでもねぇー、どうせ笑いのネタにされるのがオチだ」
 ルカは侍女にコインを差し出すと、
「午前中ということでははずれたので、これはやはりあなたのものですね」
「あれ、午前と言うことは言ってなかったわ。でも、くれると言うならもらっておくわ」
「ちょっと、待ったー」
 タイムをかけたのはカロルだった。
「そもそもそれは、俺のものだろう。どうしてお前がこいつにそれをやるんだ?」
「あれ、私にくれたのではなかったのですか」
「そうよ」と、侍女も意気込んで。
「私がもらったものを、私がどう使おうと、それは私の自由です」
「まあな」と、カロルは納得しかけたが、否、どこかおかしい。
「ありがとう」と、侍女は礼を言ってルカの手からそのコインを受け取る。
「ちょっ、ちょっと待てぇー」
「何、百ドットぐらいで騒いでいるのよ、せこい男」
「なっ、なんでそうなるんだ」
 守衛は笑いながら納得しかねているカロルの肩を軽く叩くと、
「諦めろ、既に賭ける前から坊ちゃんは負けていた」
「俺は、賭けなどしてない」
 そうだ、ここら辺から何かおかしいんだ。
 守衛は話題を変えた。
「しかしここの所、誰かしら殿下の傍に付いているんじゃないか。それじゃ、おちおちトイレにも入っていられないだろう」
 守衛に言われなくとも、ルカもそれは感じていた。もともとルカは侍女を必要とはしない。自分のことは大概自分でやってしまう。ナオミにそうしつけられたから。だがここ数日、まごまごしていると服まで着せられてしまう有様。
「それはそうよ。だって、もう会えなくなるんだもの。だから代わり番に殿下を独占しようと言うことになったの、くじ引きで番を決めて。もう少したったら交代しなければならないの」
「そっ、そうだったのですか」と、ルカは初めて知った。
 そしてこのうっとうしさも理解した。やはり四六時中誰かに傍に居られるのは、他の館の王子ならともかく、ルカには経験がなかった。
「お邪魔だった」
「いいえ」と、ルカは答える。
 侍女は寂しそうに俯くと、
「王子なんてつまらないわね、平民の方がよっぽどまし」
「どうして?」
「だって、そりゃ、食うにも事欠くような生活でも、好きな人と結婚して、嫌いになれば喧嘩して別れることもできるのよ。王子では、好きでもない人と結婚して、別れると戦争になるんでしょ。そんなの。それに奥方様とも二度と会えないんでしょ。ボイ星に行ったら、戻ってこられないんでしょ。そんなの、寂しい」
「そうでしょうか」
「殿下は、そう思わないの?」
「好きになれば、いいではありませんか」
「でもっ」と、侍女はルカの言葉に驚く。
「会ったこともないのに?」
「誰でも最初は会ったことがありませんよ、あなたも私も。でも、好きになれる」
「それはそうだけど、でも、もし、ボイの王女様がオルスターデ夫人のような女だったらどうするの」と、侍女は具体的な名前まで出した。
「もし彼女のようだったら、私、一生かかっても好きになれそうもないわ。あんな鼻持ちならない」
 ルカはそれを聞いて微かに苦笑すると、
「シナカさんは、そのような方ではないと思いますよ」
「シナカさんって?」
「ボイ星の王女様のことです」
「そうじゃないって、どうして言えるの。それこそ会ったこともないのに」
「家臣を見ればわかります」と、ルカは二人のボイ人の方へ視線を向けると、
「この方々の主なのですよ、きっとすばらしい人です」
「えっ!」と、侍女は驚くと、恐る恐るボイ人を見ながら、
「そっ、それって、私たちの態度が殿下の品格を下げたということにもなるよね」
「さあ、どうでしょう」と、ルカは笑う。
「ちょっ、ちょっと待ってよ。そう言う事って、最初に言ってくれない」
「言えば、どうにかなりましたか」
「まあ、言ったところでどうにもならないだろうな」と、答えたのは守衛。
「一日や二日で品格を身に付けようということが、土台無理だ。ましてこいつの辞書には、上品という文字がない。否、女と言う」
「もー、言わせておけば」と、侍女は守衛の足を思いっきり踏みつけた。
「痛てぇー。だから言っただろう、下町育ちは所詮、下町だよ」
 上手のようなお嬢様にはなれない。
「あんただって、そうじゃないの」と、侍女は脹れる。
「まあまあ、私にも半分は平民の血が流れているのですから、でも逆に私は、それを誇りに思っていますけど。あなた方を見ていると、強いなとつくづく思います。どんなことがあっても、全て笑いに変えてしまう」
「そりゃ、頭がたりねぇーから出来るんですよ、殿下」
「もう、覚えておきなさい。後で」と、侍女は捨て台詞のように言い残すと歩き出す。
「おお、怖っ」と、守衛は首を縮めながらも、「おい、どこへ行くんだ?」と訊く。
「交代なのよ、次の人と。来ないから呼んでくるわ」
「そう言う事になっていたとは知りませんでした。でもこうやってひとりひとり話をすると、いろいろな話が聞けますね」と、ルカは侍女たちの提案を楽しんでいる。
 次に現れた侍女は、無口で大人しい娘だった。年の頃は二十歳前後、印象の薄い、確か、母上の身の回りの世話をしていてくれたような。何度か母上の所で見かけたことがある。
「ほら」と、先程の侍女に突き飛ばされて、彼女はルカの前へ出た。
「あのー、私はお話しすることもありませんので、いいと言ったのですが」
 順番だと言われて押し出されたようだ。
「では、私の方から話してもいいですか」
 ルカにそう言われて、侍女は少し緊張気味に「ええ」と答える。
「お父上はお元気で。戦場で足を失くされたと聞きましたが」
「ごっ、ご存知だったのですか」と、侍女は驚く。
「母が気にしてましたから」
 ルカはナオミの部屋で何度かその話を聞いたことがある。
「奥方様からお医者様も紹介していただきまして、今ではすっかりよくなりました。義足までいただき、仕事ができるようにもなりました」
 侍女の顔は明るくなり、声もはずんだ。
 やはり家族が健康を取り戻すということは何にも増しての喜び。
「そうですか、それはよかった」
「それで母も随分楽になりました。奥方様にはなんと感謝してよいやら」
 今までは父の看病と仕事の両立だった母も、やっと休みが取れるようになった。
「確か、兄弟もいましたよね」
「ええ、弟が二人。上は十歳で下は七歳になります。丁度殿下と同じ年です」
 でもこうやって話をしていると、殿下の方が遥かに年上に見える。
「弟さん、学校は?」
「奥方様が町に建てて下さった所で学んでおります。将来は軍人になるそうです」
「軍人に。お父さんが酷い怪我をしたというのに」
「ええ。あそこで働くよりも軍人になった方がよい暮らしができますから。あそこに居る者たちは、男も女も皆そう思っています。軍艦から降りてきた人たちの話は面白いですもの」
「でも、あなた方は軍人になれば、前線に送られます」
 後ろの方で高みの見物というわけにはいかない。貴族ではないのだから。
「ええ、そうです。だから出陣の度に誰かしら欠けて戻って来ますけど、それは運が悪いだけです」
「そんな」と、ルカは唖然とした。
 人の命は、運で片付けられるようなものではない。
「どうせ死ぬなら、好きなことをやって死にたいのですよ。あそこでだらだらと生き長らえても、何の夢もありませんから。私も父の看病や弟の面倒を見るようなことがなかったら、船に乗っていたと思います」
 ルカは黙ってしまった。暫し考えた後、
「あそこで惨めな生活をするよりも、人殺しの方が楽しいですか」
「それは違いますよ、殿下。誰も人殺しなど好みません。ただ、あそこで生死をさ迷っているよりも、船に乗って死ぬまでの間、自由を満喫した方がいいだけです」
 あそこで幾ら収入を得ても、全て税金として吸い上げられる。
 何のための税金か。あなた方貴族の生活を支えるため。とは彼女は言わなかった。言わなくとも既に殿下は知っているから。
「手元に残るのは、一家が生活できるぎりぎりの金額なのです。あれでは弟たちを学校にやるどころか、病気になっても医者にもかけられません」
 そのこともルカは知っていた。税の重さ。だが、ルカ一人の力ではどうにもならない。
「軍人はいいです。美味しいものをたらふく食べ、休日には好きなところに遊びに行けるし、綺麗な服も着られる。ただ、いつまで生きられるかわからないだけで。でも軍人の友達が言っていました。長生きしたければ、強い指揮官の下に付くことだと」
「あなたは、この館を出たら?」
「いろいろと私たちの行く末を配慮して下さったそうですね。そのことに関しては心から感謝しております。でも私は軍人に志願するつもりです。できればぱっと散れる宇宙艦隊に」
「そうなのですか」と、ルカは寂しそうに言う。
「軍人になれば、かなりの支度金が出るそうです。それで弟たちを士官学校に上げてやりたいと思っております。同じ軍人でも士官学校を出た者と出ない者とでは、後々かなりの差がつくそうですから」
 結局、弟のためなのだ。
「女性としての幸せは?」
「軍人になったからと言って、ないとは言い切れません。誰か素敵な将校さんでも見つけたら、声をかけてみます。もっとも私では無理かもしれませんが」
 意外だった。この館では無口で大人しい少女としてのイメージが強い。
「こんなに話をしたのは始めてです」と、侍女は明るい顔で言う。
 まるで死などに臆していないようだ。
 侍女はルカと視線を合わせるためにしゃがみ込む。
「殿下は殿下で幸せになってください。私は私で、出来るだけ長く生きられるように努力しますから。この館でのことは、よい思い出になりました」
「戦場は、あなたが思っているようなところではありません」
「わかっているつもりです。父は、M8星系へ行ったのです。その最前線で戦っておりました」
 M8星系と聞いてカロルは顔色を変えた。確かあの星から、ウィルフ王子の首が届いたのだ。
「父はたまたま足を失くしたもので、命を失くさずにすみましたが、父の部隊は壊滅状態だったそうです。敵も必死ですので仕方ありません。その悲惨さは父から聞いております」
「それでも」
 侍女は頷いた。弟のため、家族のため、私が一人犠牲になれば一家は食える。
 ルカは黙り込んだ。
 本当はこの星に居て、こういう人たちをどうにかしてやりたい。
「そんな顔をしないで下さい。勝てば生きて帰れるのですから」
 彼女は時計を見る。
「少し早いのですけど、交代して来ます。王子様と直に話をしたことがある。と言うことも、下級軍人の間では自慢できるのですよ。私の知人など、某貴族に声をかけられたと言うだけで自慢しているのですから。お体を労わって下さい」
 そう言うと彼女は立ち上がった。
 決意は強そうだ。もう何を言ったところで。
 彼女が去ってから少し経つと、別の侍女がやって来た。
 少し早い交代なんだけど、と言いつつ。
「何か、あったの」
 侍女はこの場の少し暗い空気を読んで。
「いいえ、別に」と、ルカは答える。
「彼女、無口だからあまり話すことなかったのかしら。私もこの仲間に入れてもらえたのよ。本当は二十代までと言うことらしいの、だけど私、年齢ごまかしちゃった」と、侍女は軽く舌を出す。
 ここら辺、どう見ても三十を越しているようには見えない。
「あなたは、この館を出たらどちらへ」と、ルカの方から訊いて来た。
「クリンベルク将軍の所でお世話になることになりました。殿下が口添えして下さったお陰です」と、侍女はカロルを見る。
「カロル坊ちゃん、お風呂、一緒に入りましょうか」
 カロルはドッキとした。
「俺は、一人では入れる」
「背中ぐらい、お流ししますよ」
「ルカ、お前」 いつまで侍女たちと一緒に風呂に入っているんだ。と言おうとして、そうだ、まだこいつ七つなんだと思う。
「そんな、遠慮しなくてもいいですよ」と、侍女は楽しそうに笑う。
 カロルは完全に侍女にからかわれていた。
 ルカはその会話には反応せず、
「彼女を誘ってはいただけなかったのでしょうか」
「誘ったわよ、何度も。でも断られた。他に当てがあるみたいで」
 彼女は軍人になることは、誰にも言っていないようだ。
「本当よ。本当は、彼女を必要としているのは私たちの方なの。ああ見えても彼女、何でも知っているのよ。以前、どこかのお屋敷に勤めていたことでもあるのかしら」と言いつつ、侍女は考え込む。
「違うわ」と、侍女はいきなり言う。
「何がです?」
「彼女自身がどこかのお嬢様だったのかもしれない」
「お嬢様?」
「そうよ、どこか地方の豪族の娘なんだわ。それなら辻褄があうもの」
「辻褄といいますと?」
「彼女の父親が戦場で怪我をしたと言うことは、知っていますか」
「ええ、片足を失くしたとか」
「それで私、奥方様に頼まれて、一度だけ彼女のアパートにお見舞いに行ったことがあるの。その時感じたんだけど、彼女の両親って、本当は実の親ではなんじゃないかって。きっとあの人たち、以前は彼女の家臣だったんじゃないのかなって」
 ルカは驚いて侍女を見上げる。
「どうして、そう感じたのですか」
「だって普通、親が子供に敬語使わないでしょ。弟が二人いるって言っていたけど、本当はその下に妹もいたらしいの。でも戦下を逃げる途中、流れ弾にあたって死んでしまったそうよ。何時撃たれて何時死んだのかもわからなかったって、逃げるのに夢中で。気づいた時には既に死んでいたそうよ」
 ルカは唖然としてしまった。
「それで私があの時感じたのは、上の弟と彼女が姉弟で、下の弟とその亡くなった妹というのが今の両親の実の子じゃないかと。きっとそうよ、地方では地方で、小競り合いが起きているというから。彼女の一族もその中に巻き込まれたのではないかしら。それで今の
両親が彼女たちを連れて、ここまで逃げてきたのよ。彼女、一度だけ話してくれたことがあるの。着の身着のままで逃げてきたんだって。それで彼女、何でもできるんだわ。楽器も演奏できればダンスもできる。学校にも行っていたみたいだし、言葉や礼儀作法もきちんとしているし、だから奥方様も重宝して、彼女を傍に置くんだわ。彼女のお屋敷もきっとここと同じだったのね。使用人に優しかったのよ。でなければ、軍人に志願してまで、主の子を学校へ上げようなんて思わないもの」
 ルカは言葉を失う。
「どうしたの、殿下?」
「私は、私は彼女に失礼なことを言ってしまった。謝らなければ。知らなかった、皆さんの人生がこんなにいろいろだったとは」
「十人、十色と言いますからね」
「もっと早くにこの企画を考案してくれればよかったのに。私は、あなた方と話しているようで、本当は何も知らなかったのですね。いつも傍にいてくれて、私の面倒をみてくれていたのに」
「知らなくって当然よ。誰もこんなこと殿下に話す人いないもの」
「どうして?」
「話し辛いでしょ」
「私にそういう雰囲気があるのですか」
「それは違うわ。私たちと殿下とでは、身分の差があるでしょ。だからつい、こんなこと言ってはと思ってしまうのよ。この企画も皆、うまくいくはずないって言っていたのよ。殿下は忙しそうだし」
 ルカは黙り込む。皆からいろいろな話を聞きたくとも、変なところで身分が邪魔をする。
「どうしてこの企画ができたか、殿下、ご存じないでしょ?」
 それはそうだ。この企画の存在すら知らなかったのだから。
「殿下がボイ星へ行くと決まってから、ルイが一日中しょげててね。それで彼女を元気付けようとして。ルイ、殿下のこと好きなのよ。あっ、言っちゃた。聞かなかったことにしてね。ルイに知れたら一大事だから」
「ルイって?」と、カロル。
「ほら、さっき私と賭けをした人です」
「彼女が。どう見てもしょげていたようには見えないがな」
「そう言えば殿下、彼女に何か差し上げたのですか。彼女、とても喜んでいたわ、一生の宝物にするんだって。彼女っていつも賑やかでしょ。だから彼女が塞ぎ込んでいると、周りが暗くなってしまうのよ。でもこんなにうまく行くとは思わなかったわ。最初は一人ずつ、殿下の傍に居るだけでいいということだったのに、こんなに話をしてもらえるとは。それに、殿下は意外に私たちのことをご存知だったのですね」
「母上が皆さんのことを気にして、時々口にされていたことがありましたから」
「そうだったのですか、でも皆、喜んでいましたよ」
「しかしあいつがな。そんなに落ち込んでいるとは」と、カロルはつくづく考え込む。
 人を馬鹿呼ばわりしておいて。宇宙広しといえども、兄貴たち以外に馬鹿呼ばわりされたのは初めてだった。
「人は見かけによらないものだ」
「私たちもっと気兼ねなしに話をすればよかったのでしょうけど。殿下は誰の話でも真剣に聞いて下さるのですもの」
 でも自ずと身分はそこに壁を作ってしまう。本人が意図しなくとも。
 侍女は話しついでにという感じに、
「殿下や奥方様には申し訳ないと思っているのですが、私は殿下がボイ星へ行ってくださることを、大変感謝しています。それで一つでも戦争の火種が消えるなら、彼女も内乱などなければ、今頃何一つ不自由のない生活を送っていたのでしょうね。妹はまだ一歳だったそうです。彼女が無口なのは地獄を見てしまったから。ここへ来た当初、笑うこともなかったのですよ、黙々と仕事をして。やっと近頃笑うようになったのです。これも奥方様のお陰です。奥方様は人を変えることができる。星同士の戦いにでもなれば、彼女のような笑わない子がいっぱいできてしまう。それが少しでも防げるなら、本当に殿下や奥方様には申し訳ないのだけど」
 侍女は少し黙り込む。
「ご免なさい。自分たちの幸せのために、殿下の幸せを奪ってしまって」
「そうでもありませんよ」と、ルカはあっけらかんに答える。
「何もボイ星に行ったら不幸になるとは限りません。それでは彼らに失礼です」と、ルカはボイ人たちの方を見る。
 侍女は彼らがいたことをすっかり忘れていた。
 やだー。と思いながら、ホロをする。
「殿下がボイへ行って友好が結ばれれば、観光も今以上に自由に出来るようになるよね。そしたら皆で遊びに行こうかな、奥方様も誘って。奥方様も、もうただの人になるのだから、一般人として何処へでも自由に行けるもの。でも、旅費がね」と、侍女は暫し考えると、
「皆で少しずつお金をためて、代表が行けばいいのよね。それも片道だけ。ボイ星での宿泊と帰りの旅費は殿下持ちということで。これいい考えね、皆に」と侍女が言いかけた時、
「おい」と、カロル。
「そういうのって、本人の承諾を得てから皆に言った方がいいんじゃないか」
「それもそうね」と、侍女はルカの方をみると、
「大丈夫よね」と念を押してきた。
 だがルカにもはっきりした返事はできない。ボイでの生活がどのようなものかわからないから。
 返事に窮しているルカに代わって答えたのはボイ人だった。
「それはよい考えですね。星へ着たら役所に声をかけてくだされば、もっともルカ様のお名前では不審がられるかもしれませんが、私か兄の名前を出せば、取り付いてくれるはずです。そしたら私が直に迎えに出向き、邸を案内いたしましょう。無論、宿泊代も帰りの旅費も私の方で持たせていただきます」
 これには侍女も驚いた。
 ボイ人とは二日接しただけだが、挨拶程度で会話をしたことはない。だからどのような考えを持っているのは知らなかった。
「本当ですか」
「はい。約束いたしましょう」
「よろしいのですか、そんな安請け合いして。宿泊代と帰りの旅費がただになると聞いては、この館の者たちのことです、図々しい事この上ないですから押しかけますよ」
「でっ、殿下! それは酷い。そりゃ、ただ酒に目のない奴もいますが」
「そうだな、この館の連中は、たちが悪いからな」
「もう、カロルさんまで」
 だが侍女はそんな二人を無視して、ボイ人たちの方を見ると、
「有難う御座います。実は今まであまりお話しなかったもので、ボイの人はどのような方なのかと思っておりましたけど、今の言葉を聞いて安心しました。殿下のことをよろしくお願いいたします」
 侍女はペコンと頭を下げると、時間なのかさって行った。
 次に現れたのは別の用件の者たちだった。
「殿下、ここでしたか。部屋の方が出来上がりました、少し見てくれませんか」と、守衛。
 ナオミは経費を節約するため、下僕をあまり置いていない。そのため力仕事の大半は守衛たちが兼ねることになっていた。
 守衛がこんなにいては、下僕は要らないでしょう。というのがナオミの考え。
「部屋と言われても、私は何もわかりませんよ。母上は?」
「奥方様でしたら、今、料理長と打ち合わせをしております」
 困ったな。といいながらもルカは謁見の間に向かう。その後に続くカロルと守衛を見て、二つの言葉が重なってきた。
「あれ、坊ちゃん、何時の間に?」と、
「おめぇー、今まで何処にいたんだ?」
「まったくさぼりやがって、俺たち大変だったんだぞ。なんだか知らねぇーが、干草みてぇーので作った板、運ばされてよ」
「あれが結構重いんだよ。それなのに女どもときたら、あっちへ持って行けのこっちへ持って行けのと、威張って指図しやがって。威張るぐらいなら最初にどこへ置くか決めとけってんだ」と、ぶつぶつ言う守衛に、
「諦めろ、この館は女の方が強ぇーんだ」と、開き直る守衛。
 くたくたで口を利くのもおっくうがっているものもいる。
「本当だな、この館の女性は強い」
「坊ちゃんも、そう思いますか」
「いや、お前らとは別の意味でな」
「別の意味と言うと?」
「どんなことがあっても、めげないということさ」
「それは、母がそうだからですよ」
「ナオミ夫人が?」
「ええ、どんなことでも経験の内、で済ませてしまうのです。人生の土台の一つにはなるでしょうって。土台がしっかりしていないと家は直ぐ流されてしまうそうです」
 村では家が潰れるとか崩れるとは言わない。全て水神様の罰。悪いことをすると流されると言う。
「ですから土台の数は多いほどよいと。例えその土台がその時はあまり役に立たなそうに見えても、そういうものほど後々役に立つことが多いと。それが母の口癖ですから」
「そうなのか。やっぱりナオミ夫人は凄いな。俺なんか、お前がボイ星へ行くと決まったら」
 自分の人生が終わったような錯覚に陥った。
「そうでしたね。あれも土台の一つですか」と、ルカは笑うと改まり、
「あの時は悪いことをしました。私も聖人君子ではありませんから、虫の居所の悪い時もあります。自分の気持ちにピリオドを打つのに苦労していた時、私のせいにして怠けている者を目の当たりにして、ついカッとなって」
「やっぱり、お前でも悩んだのか」
「最初から、かっこいい結論はでません」
「それで安心した」とカロル。
 やっぱりこいつは人間だ。神などではない。
「それで取っ組み合いの喧嘩ですか」と、守衛。
 ルカが体どころか顔まで痣だらけになって帰って来た時には、館中の噂になった。
「相手は、誰だ?」と。
「王子にこれだけの怪我を負わせるとは、ただではすまないだろう」と。
 それからまもなく、クリンベルク家からルカが持参した名刀以上のお詫びの品が届いた。
 犯人は坊ちゃん。
 守衛たちは呆れたような、感心したような。だが何よりも、坊ちゃんの身を案じた。
 だが何事もなく済んだ。ルカが転んで怪我をした。の一辺倒だったから。
「あのな、俺は噛み付かれたんだ。未だに歯形が残っている」と言いつつ、カロルは腕を捲り上げる。すると二の腕のところに。
 守衛たちは笑った。
「かなり、お互い本気だったんだ」と、感心する。
「仕方ないだろう」と、ルカは開き直る。
「これだけの体力差があるのですから、私が噛み付いたのはルール違反ではありません」
「あっ? そういう理屈、成り立つのか?」
「まあ、殿下の言うことにも一理あるな」と、守衛たちはルカとカロルの背を見比べながら。
「あのな、こいつの下僕だからって、こいつの肩を持つなよ」
「家臣と言ってくれませんか、坊ちゃん」
 もっともこの館では家臣イコール下僕のようなものだが。
「以前は坊ちゃんの家臣でもあったのですがね」
「しかし、見てみたかったな、二人の取っ組み合い。ところで、どっちが勝ったんですか」
「そんなの、どっちでもいいだろ」と、カロル。
「そうですよね、本来、坊ちゃんは殿下を守る立場なのだから」
「それは言うな、いまさらぶり返えしたくない。さんざん姉貴に言われたんだから」
「シモンお嬢様にですか。そりゃ、きつかったでしょう。シモン嬢は、お美しい方だけど、言葉がきついからな」
「そう言えば、坊ちゃんの唯一の天敵ですからね」と、守衛たちは笑う。
 誰の言うことも聞かないカロルだったが、シモン嬢の言うことだけはピタリと聞いた。
 お座り。と言えば座る犬のように。
 カロルは脹れる。
 ルカは笑っていた。

 謁見の間に着くや否や、
「どこまで探しに行っていたの!」と、侍女の怒声。
「どこまでって、庭までに決まっているだろう」
「もう、さっさとしてよ。まだ運ぶもの、沢山あるのよ。夕方までに仕上げないと」
「後、何運ぶんだよ」
「テーブル」
「テーブル?」
「早くしてよね、あっちに置いてあるから」
「はいはい、わかりました。ご主人様」と、守衛は大げさに侍女たちを仰ぐように返事をすると、
「お前も来い!」と、今までさぼっていた守衛のことを引っ立てて外へと出て行った。
 残こされたのはルカとカロル、それにボイ人の二人。
「何、しているのですか」
 ルカは侍女たちが懸命に働いているところへ、のどかに訊いてきた。
 見れば侍女たちが白い布を持って畳みの上を這って歩いている。
「拭いているのですよ、足底が汚れないように」
 答えてくれたのはよいのだが、そこには邪魔だからあっちへ行ってという韻を含んでいた。だがルカはそれにめげずに、
「足が?」
 ルカは靴のまま上がっていた。
「殿下、靴、脱いでくれませんか」
 そう言えば皆、裸足。
 ルカは慌てて靴を脱いだ。カロルもそれに習う。だがボイ人たちだけは、既に靴を脱いでいた。
「この上は靴では歩かないのです。だからああやって布で拭いているのです」
「では、これはどうするのですか?」
 ルカは脱いだ靴を持ち上げて、
「入り口にロッカーを用意いたしましたから、そちらへ」
 ルカもこの経験は初めてだったが、そう言えは、母上の奥座敷は靴を脱いていたことを思い出す。あれは物心付く前からの習慣だったから意識していなかったが。
「テーブルですが、どのように置いたらよろしいのですか?」
 畳を引き詰められた謁見の間に、テーブルが運び込まれて来た。
「これ、どうするのですか」と、ルカ。
「ここで食事を取ってもらうそうです」
「食事って? せっかくダイニング用の広間があるのに」
 シャンデリアの下がっている豪華な広間だった。椅子もテーブルも、ここぞとばかりに洒落込んだ。
「椅子は、使わないそうですよ」
「何人ぐらい、見えるのですか」
「四十人ぐらいですか」
 今回は以前来ていた時の倍だった。
 四十人。それでも真ん中にこそっと言う感じだ。謁見の間は結構広い。優に三百人は入れる。まして今は余計なものがないだけ、いっそう広く感じる。
「別の部屋の方がよいのではありませんか、ここでは広すぎる」
「私たちも最初そう申し上げたのですが、駄目なんですよ、ここでないと。あの軍旗が」
「軍旗?」
 威厳のある謁見用の台や椅子は片付けてしまったわりには、軍旗だけはきちんと残っていた。
「おい、いい加減にしてくれよ。テーブル、どこへ置くんだ」
「あっ、悪い。どうしましょう、殿下」
 ルカは暫し考えると、
「そこら辺に四角くですか」
「いや、軍旗の前を開けて、コの字にした方がよいと思います」と、言ったのはボイ人だった。
 そこへやって来たのはナオミ。
 既に四角く置き始めたテーブルを見て、
「だめよ、それでは。これでは水神様にお尻を向けてしまうことになるわ。神様にお尻を向けるようなことは、彼らはしないわ」
 結局ナオミは、ボイ人が言ったようにコの字になるようにテーブルを並べさせた。そして両角のところを一人分、通れるように開ける。こうすれば給仕や酌が簡単にできるから。
「母上、水神様と申されますが、これは」と、ルカが言いかけると、
「そう、軍旗ですよ。水神様には似ても似つかない。でも、一瞬見た感じはそう見えますから。彼らは軍旗の意味は知りません。私も説明するつもりはありません。誤解は誤解のままにしておこうと思っています」
 花と花器、それに台座が運ばれて来た。
「奥方様、これはどちらへ」
「向こうと、こっちへ置いてくれますか」
 ナオミは軍旗の両サイドにそれらを置くように指示する。
「本来は三つでワンセットなのですが、真ん中に生けてしまったら水神様が隠れてしまうでしょ。ですから真ん中のはやめました」
 そう言うとナオミは左の方から取り掛かった。
「久しぶりに生けますから、腕がにぶってしまったかも」と言いつつも、ナオミの部屋の畳の間は、いつも花が生けられていた。
「よかったわ、ヤヨイ様と一緒に習っておいて。こんな所で役で立つとは思いもよらなかったわ」
「ヤヨイ様って?」と、カロルはルカに訊く。
「母が仕えていた邸の娘さんだそうです。母と同じ年だと聞いています」
 カロルは暫し無言でナオミの生け花を見ていたが、
「おもしろい花の生け方するんだな」
 カロルの館も花は生かっている。侍女たちが毎朝丹念に新しい花と取り替える。だがその生け方は、侍女たちが庭の花を束ねて取ってきてはただ壷に入れるだけ。
「何だ、あの痛そうなたわしは?」
「さあ?」と、ルカは首を傾げた。
「へぇー、お前でも知らないものがあるんだ」
 ナオミは左側が終わると右、最後には出口の方へ行って花を眺め、形を整えた。
「何か、異世界だな」と、カロル。
 本来謁見の間にあるべき威厳のある椅子も卓もなければ、段すら片付けられていた。そして今は膝ぐらいの高さのテーブルと座布団がならんでいるだけ。
「私も、そう思う」と、ルカ。
 するとルカの背後からくすくすと笑う少女の声。
 どうやら今度は彼女のようだ。
「嫌ねぇー。奥方様の故郷の様式なのでしょ。それを異世界だなんて」
「でも、私は母の故郷には一度も行ったことがありませんから」
「だいたい床の上に座るというのが少し抵抗あるよな」と、カロルは敷き詰められた畳を片手で叩きながら。
「でもそれでしたら、ボイ星も同じですよね」と、ルカは二人のボイ人を見る。
「そうですね、私たちもあまり椅子は使いません。直接、床や地面に座ります」
 なんか野蛮。とカロルは思ったが口には出さず。
「箸を使うんだって?」と、カロルはボイ人に訊く。
「はい」
「同じだな」と、カロルはルカに言う。
「同じと言いますと?」と、ボイ人は訊き返す。
「彼らはナイフやフォークは使わない。箸だけなんだ」
 これにはボイ人も驚いた。
「なんか、あの村って、ボイ人の生活様式に似てないか。もしかするとボイ人の子孫だったりして」
「何で、そうなるの」と、侍女はカロルに訊く。
「だから、例えはさ。昔、ボイからの船が磁気嵐にでもあって遭難してあの村に不時着したとか」
 ルカたちがなんやかんやと想像しているうちに、部屋はすっかり出来上がり、後はお客様を待つばかりとなった。
「皆様、どうも有難う御座いました」と、ナオミは侍女や守衛たちを労う。
 なんとなく部屋が殺風景な感じがする。
「これで、よろしいのですか」と、侍女たちは訊き返す。
「ええ。後は明日、料理を並べてくだされば」
 皆が引き上げると、いっそう部屋はがらんとした。
 ナオミはルカの方へ歩み寄ると、
「ボイの方々は、今宵はどうなさるのですか」と、訊く。
「明日お邪魔になっては申し訳ありませんので、今日はこれでホテルの方へ」と、言いかけた時、
「明日、居て下さってもかまいませんよ」とナオミ。
「何か、あなた方の生活様式と私の故郷のそれとはよく似ているそうで、よろしければ村の者たちと会って行って下さってもかまいませんが、ただ、おそらく彼らは異星人を見るのは初めてだと思いますので、嫌な思いをさせてしまうかもしれませんが」
 ナオミの提案に、ボイ人二人は顔を見合わせた。
 ナオミはカロルの方に向きをかえると、
「カロルさんは、今日は泊まって行かれるのでしょ」
「泊まってもいいのですか?」と、カロルは顔に万遍の笑みを浮かべた。
 いつもなら約束以外の日に来た時は、ルカに追い出されるのが関の山なのだが。
「私は明後日、村の者たちと一緒にここを発つことになっております」
「えっ!」と、カロルは驚く。
 そんな話、一言も聞いていない。
「この子がそうしろと言うものですから。しかし、私がここを発ってしまえば、この子がここに一人になってしまいますので、しばらく泊まって下さると」
「母上」と、ルカが言いかけた時、
「おいルカ」と、カロルはいきなりルカの肩を小突くと、
「俺はそんな話、一言も聞いていなかったぞ」
「訊かれなかったから、言わなかっただけです」
「てっ、てめぇー」
 だがルカはそんなカロルを無視して、
「母上、私のことでしたら心配いりません。リンネルたちがおりますから」
「それはそうですけど」と、ナオミは寂しそうな顔を一瞬したが、
「無理しなくていいのよ、できたらの話しで」と、カロルに声をかけると、まだやりのことたことがあるのか、足早にその場を去った。
 次第にルカの身の回りが片付いていく。
 こいつは、後数日もすればこの星からいなくなるんだ。
 ルカは侍女に何か耳打ちし、この場を一時去ってもらったようだ。
「カロル」
「何だ」
「今日だけは、泊まってくれなすか」
「お前から泊まってくれと言われたのは初めてだな。奥方様に言われたからか。あんなに心配そうな顔をして言われちゃな」
「違います」と、ルカはカロルの言うことをはっきりと否定した。
「じゃ、何だよ。まっさか、一人じゃ、怖いってか」
 お化けが出るから。
「そうです」
 えっ! と驚くと同時に、こいつがそんなガキだとは思わなかった。
「どうしたんだよ、お前らしくもない」
「怖いのです。明日、彼らに会うのが」
 怖い。の意味が違った。
「私はボイ人に会うより彼らに会う方が、よっぽど怖い」
 カロルは不思議そうにルカの顔を見た。
「データーがないのです、彼らには。ネルガル星に何千年も住んでいながら、今の今までその存在すら知られていなかった」
 否、知る者はいた。極わずか。あの広大な砂漠に住んでいる民族がいるということを。ときおり、砂漠で取れたとは思えないほどの瑞々しい野菜や果物を売りに来るから。だが、彼らの村があの砂漠の何処にあるかは誰も知らない。
「彼らにはその気になればいつでもこちらと係わることが出来るのに、こちらからは彼らと係わることが出来ない。気味が悪いと思いませんか」
「確かにそうだな、だが緑の綺麗な村らしい。陛下が大変気に入って何度か使者を使わしたが、あの村にたどりついた者はいないと。最新のナビをもってしても気づくと元居た場所に戻って来ているとか」
「まるでポークのようですね」と、ホルヘ。
「ポーク?」
「カワウソのような動物です、泳ぎのうまい。ただ、人を化かすと言われています」
「へぇー、ボイにもそういう動物がいるんだ。ネルガルにもいるんだぜ、人を化かす動物が」
「それは、人の恐怖が見せる錯覚です」と、ルカは動物が人を化かすことを否定した。
 自分は白蛇に化かされているというのに。もっともあれは動物ではないか?
「まったく、お前はつまらん奴だ」と、カロルは舌打ちする。
 これから話を面白くしてやろうと思っていたのに。
「お前には、夢やロマンというものがないのか。全て科学的に割り切って。知らないぞ、王女に嫌われても」
 えっ! と、今度はルカが驚く番だった。
「やはり、この性格、まずいかな」
 母からも言われていた。自分でも仕方ないと諦めていたのだが、シナカさんに好かれないとなると話は別だ。
 ルカが真剣に考え込んでいると、ボイ人が笑う。
「嫌われたりしないと思いますよ。私は、あなた様のそのご性格、好きですけど」と、ホルヘ。
「本当ですか、こんな性格でも好いてもらえるでしょうか」
「ええ、大丈夫です」と、今度はキネラオが保証。
 ルカはほっと安心する。だが、
「でも科学的に割り切れないことがあるのも事実です。それが、明日起こる」
「明日起こるって?」
 何が?
「私の正体です」
「私の正体って、お前はネルガルの王子ルカだろう」
「それだけなのでしょうか。彼らがここへ来るのは、母上を連れ帰るだけではないような気がします。おそらく私も」
「お前、あの村に行きたいのか?」
「いいえ」
「じゃ、彼らが連れ帰ろうとしても」
「拒めなかったらどうします」
「拒めないって?」
「もう一人の私が、帰りたがっていたら」
 そう、私の体内にいると言われているもう一人の私、エルシアが。
「多重人格か、お前?」
 そう言えばこいつ、以前、そんなことを言っていたな。
「彼らは私の秘密を知っているのです」
「秘密って?」
「私も知らない秘密です」
「お前、自分のことを自分で知らなくってどうするんだ」
「では、あなたは自分のことを知り尽くしているのですか、カロル。もし、あなたの父はクリンベルク将軍ではないといわれたら」
 カロルは顔の前で軽く手を振ると、
「それはない。俺もDNA鑑定は受けているんだ」
 まあ、ネルガルの女性なら、夫が戦場に行っている間。ということはありえるから。
「では、あなたの魂がネルガル人ではないと言われたら?」
「はぁ?」
 カロルは一瞬呆けた。
「ちょっと待て、どういう意味だ?」
「そういうことなんです、だから怖いんです。私にも意味がわからない。私の魂は何者なのか。今のネルガルの科学力では彼らの話を実証することはできない」
 母も私の魂はと言う、おそらく村の人たちも。自分の魂の実体を知った時、私は今のままの私でいられるだろうか。科学的に実証できないものは全て迷信だと信じて来た。それが自分の精神を安定させる唯一の方法だったから。ルカが科学に固守するのは、ここら辺に起因があったのかもしれない。だが、
「明日、長老がお見えになるそうです。母の親代わりであり、村の言い伝えを全て知っている方だそうです。お歳は九十に近いそうですが、その老体を押してまでやって来るそうです」
 おそらくルカを連れ帰るために。
 ナオミはその長老のために疲れたらいつでも横になれるようにと、謁見の間に夜具も用意した。
「私はこの館で、村の言い伝えどおりに育てられたのです。笛を習い、水を好み、侍女たちにはよく注意されました、池や風呂で泳いではいけないと。しかし母は、そのことに関しては一度も注意したことがありません。それどころか、竜は水を好むので大目に見てやってほしいとまで言ったそうです。私は人なのでしょうか」
 私の魂はネルガル人なのだろうか、それとも竜? 竜の魂というものが存在するのだろうか。
「お前」と、カロル。
 次にどういう言葉をかけてやればよいかわからなかった。
 おそらくこいつがこんなふうに考えるようになったのは、あの毒の件からだろう。本来なら、助かるはずがなかった。科学に長けているこいつのことだ、そのぐらいのことは誰よりも詳しい。おそらく結論は、人間なら死。否、あの毒にかかっては生物なら生きているはずが無い。だが奴は生きた。つまり人間でない、否、生物でないことをも意味する。後残るは、奥方様が言われる竜神。神なら毒など通用するはずがないから。人外の力。
「今頃になって、何言ってんだよ。生れたときにDNA鑑定はされているはずだぜ、他の男の種ということも考えられるからな。陛下の子だという場合は特に厳密だ。それで確かにそうだという認定証が出たんだろ。違えば違うとその時に言われる。遺伝的に欠陥があれば、可哀想だがその場で処理される。王家には遺伝的奇形は、生れることが許されないんだ」
 確かにそうだ。それで闇から闇へ処理された新生児は数え切れない。
「心配するな、明日、俺、いてやるよ」と、カロルは軽くルカの肩を叩く。
 ボイ人たちもいることにした。将来の自分たちの主がどのような人物なのか、できるだけ知っておきたいから。それに自分たちと生活習慣の似ている村。それに水神。自分たちも水神(竜神)を祀っている。
 しかしこの館へ来て、ネルガルのイメージはがらにと変わった。この館の人たちが本来のネルガル人なのか、それとも今までに会った人々が本来のネルガル人なのか、一色にネルガル人と言ってもいろいろな性格の人々がいるものだ。少なくとも私たちの星へ来てくださる王子は、まだ幼いが話せばわかる人物ではないか。

 食事が済み、
「お風呂、一緒に入りませんか」と、ルカ。
「ああ、いいぜ」
 だがルカは、カロルだけではなくボイ人も誘っていた。
「ボイ星には公衆浴場などはありませんか。ネルガルには、下手に行くとあるのですが」
 上手はどの館もそれぞれに自慢の高級浴場を持っている。だから家族で入っても共同で入ることはない。だが下手では風呂のない家もあった。そのため公衆浴場があちらこちらにある。
「ボイにもありますよ。私たちは風呂が好きですから。殿下のお許しがいただけるのでしたら」
 だがボイは水の少ない星だった。水を節約するため風呂は公衆浴場しかない。
「では、一緒に入りましょう」
「ちょっ、ちょっと待てよ」
 タイムをかけたのはカロルだった。
 さすがに異星人と同じ湯船に浸かるのには抵抗があった。
「嫌ですか」
 こいつ、何の抵抗もないのか。と思いつつも、ノーとも言えず、
「まあ、男同士だからな」と、いやいやながら自分を納得させた。
 ここで否とでも言えば、こいつのことだ、では、お前一人で入れ。などと言われかねない。もう日がない。少しでもこいつと長くいたい。
 ルカの館の風呂は、広さとしては自分の所とあまり代わりはないのだが、半分がガラス張りになっていて、外の景色がよく見えた。風呂の直ぐ横に小川が引き込んであるのか、夏などはホタルが飛び交いとても幻想的だ。湯気がかかれば何処までが風呂で何処からが庭なのかわからなくなる。それに対し自分の所は、周りが磨かれた石で囲われ、鏡のように光ってはいるがどっしりとした重量感があり、この風呂に入るようになってからは圧迫さえ感じるようになった。広さも本来俺の館の風呂の方が広いはずなのに、逆に狭くすら感じる。素材や造りで空間は、その広さ自体を変えるのではないかとすらこの空間は思わせた。いや、実際変えているのではないか。
「あくまでも自然的なんだよな、奥方様の設計って」
 館は夫人の好みによって改築される。ナオミはあまり館に手を入れなかったが、ルカが幼少の頃に一緒に暮らす自分の部屋と水周りには気をくばった。ルカが村に戻っても、直ぐに村の生活に馴染めるようにと畳みの生活を送り、風呂や庭の池はルカの好みに改築させた。竜はこんな感じを好むという村の言い伝えがある。どうやら奥方様は村の池を縮小させてこの庭に造ったようだ。ルカは言い伝えどおり、池を好み、小川の見える風呂を好んだ。
「ああ、気持ちいい。こういう風呂もいいよな、頭を押さえつけられなくって」と、カロルが湯船の中で大きな伸びをした時、
「お背中、お流しいたしましょうか」と、品の良い女性の声。
 カロルはこの館にこんなおしとやかな女性がいたかなと思いつつ、湯煙の中、目をこらしてよく見ると、ズボンの裾を膝下まで捲り上げた侍女が二人飛び込んできた。
「なっ!」
 カロルは慌てて体を湯船につける。
「何だ、お前ら、変態か」
「何言っているのよ、背中流してやろうと、来てやったんじゃないか」
 一人は昼間途中で下がらせた侍女。と、もう一人はおそらく順番で。
「あのな、男が入っているところへ」と、慌てるカロルに対し、ルカは慣れた感じに、
「流してくれますか」と、湯船から上がると侍女たちに身を任せた。
「おい、お前。何とも思わないのか」
「いつも母と一緒に入っておりますから」
「ああそうか」と、カロルは右手で自分の顔を押さえた。
「お前、まだ七つだったんだよな」
 つくづくそうなんだ、こいつはまだガキなんだ。と、自分に言い聞かせる。
 ルカと七つ違うカロルは十四になる。十四と言うば思春期の始まり。
「ねっ、私たちも一緒に入っていいかしら」
「ええ、どうぞ。広いですから」
「ちょっと、待てぇぃ。お前ら」
 焦るカロル。
「俺、もう出る。ガウン、持ってきてくれ」
「何言っているのよ、ガキのくせに。冗談に決まっているでしょ。あちらの殿方に見られたら、いくら異星人とはいえ、やっぱり恥ずかしいわ」と、頬を赤らめる侍女。
「そうよね、あちらはご成人ですもの、こっちのお子ちゃまとは、格が違いますもの」
「わるかったな、お子ちゃまで」と、カロルは開き直る。
「どうするの背中、一人で洗えるの」
「馬鹿にするな、そこまでガキじゃねぇー」
「まぁ」と、侍女たちは顔を見合わせるとくすくすと笑う。
「いいから、さっさと出てげ!」
「カロルも洗ってもらえばいいのに」
 ルカは椅子に座り、背中を流してもらっていた。
「早く上がって来なさいよ」
「遠慮、しなくていいのよ」
「綺麗なお姉さんだと、恥ずかしいのよね」
「カロル坊ちゃんも、そういうお年頃なの」
 侍女たちは交互にカロルをからかう。
「煩せぇー。いいから、出てげ。」
 誰がおめぇーらなんか、綺麗だと思うか。やばい、のぼせそうだ。
「ありがとう」と、ルカは体を洗い流してもらったことに対し礼を言い、軽く目配せした。
 侍女たちは何も言わずにその場を去る。
 だが、脱水場で彼女たちの笑い声がする。
「まったく、俺のこと笑っているんだぜ、あいつら」
 カロルはそう言いながら、湯船から上がって来た。
「そうでしょうね。何も遠慮することなかったのに」
 カロルはむっとしてルカをねめつけると、
「お前も、もう少し大きくなればわかる、俺の今の気持ちが」
 相手は二十代の女性。いくら美人にはほど遠いといっても。
 だが実際あの二人は、口こそ悪いが美人の内だった。不思議とこの館の女性は綺麗だ。おそらく誰もが生き生きしているからだ。他の館のように主の視線を気にしておどおどする事がない。女性という生き物は、環境によってかなり変わるものだな。
「何をかっこつけているのですか、あなたも私と同じ子供だそうですよ。彼女たちからみれば」
 カロルはむっとし、お湯を引っかけてやろうと手を湯船に入れた瞬間、ルカはそれを察したのか浴槽に飛び込むと、潜水で向こうまで泳ぎ顔を出した。
 随分泳げるようになったな。と感心しつつも、
「おい、そういうことやっていると、またナンシー嬢に叱られるぞ」
「でも、母は叱りませんから。それに無くて七癖です」
「何が無くて七癖だよ。どう思う、浴槽で泳ぐの?」と、カロルはボイ人たちに振る。
 ボイ人たちは急に振られて一瞬答えに窮したが、
「私たちも、川ではよく泳ぎます」
「そうなんですか」と、ルカは嬉しそう。
「おい、川と浴槽は違う」と言うカロルの突っ込みを無視して、
「なんだかボイ星の方がネルガル星より住みやすそうですね」
 カロルは呆れたような顔をする。
 それから二人はいつものように水遊び、いや湯遊びを始めた。それに付き合いきれなくなったボイ人たちは先に上がらせてもらった。結局二人は、すっかりのぼせ上がり、裸のまま侍女たちに運ばれる始末となった。これもいつものことだが。
「まったく、何が恥ずかしい。のよ」と、侍女たちは呆れ果てる。
 とりあえずバスタオルを掛けてやり、涼しいところに二人の体を運び団扇であおぐ。
 ボイ人たちが心配そうに付いて来る。
「やはり、お声をかけ、一緒に上がればよろしかったでしょうか」
「いいのですよ。カロル坊ちゃんが来るといつもこうなんですから」
「みっ、みず」
 カロルが言ったのかルカが言ったのかわからないが、侍女たちは笑いながらも二人の口に水を含ませてやる。看病もまた、彼女たちにとっては楽しいようだ。
 何をやっても、この方は愛されるようだ。おそらく、それだけのことを主として使用人にしているから。
 侍女が二人にパジャマを着せようとした時、ボイ人は見た。痛々しいほどの痣。カロルにはない。どうやらネルガル人の全てにあるわけではないようだ。
 ボイ人の視線に気づいた侍女が言う。
「これは、神の証だそうです。私たちも最初に見たときは驚きました。とても美しい赤ちゃんでしたのに、この痣が痛々しそうで」
「でも奥方様は、これこそが神の証だと仰せになって」
 神の証か。それで全てが納得できる。ネルガルへ来てわかったことだが、ネルガルの王族に平民の血を引く者はいない。王位継承問題をできるだけ簡潔にするため、平民の女性の子は全て堕胎させている。生れたのはこの王子が始めて。神の子。こんなに文明の進んだネルガルでも神を信じるのか。ならまだ救いはあるとホルヘは思った、ネルガルの蛮行にも。
「明日、奥方様の故郷の村の人々が着ます。そうすればこの痣の意味も解けると思いますが」
「私たちも、同席とまではいかなくとも、お話は伺いたいと思っております。同じ水神を祀る者同士として」
「ボイでも、水神を祀られるのですか」と言うと、侍女はルカの枕元にある袱紗を取る。
「殿下の笛は聴かれましたか」
「いいえ」
「さようでしたか」と、侍女は袱紗の紐を解くと中から笛を取り出し、
「これが本物の竜神様です」と、笛に彫られている白い竜を見せた。
 背中の半分まで伸びる長い二本の角、それにも増して長く鋭い三本の爪。
 この紋章、ボイ人たちには見覚えがあった。
「これは」と、驚くキネラオにホルヘは軽く首を横に振って見せ、
「私たちの祀っている竜とは、随分雰囲気が違うと思いまして」とだけ言う。
「ボイ星の竜神様も、こういう姿ではないのですか」
 侍女たちは、竜は一頭だけだと思っていた。
「いいえ、違います」
「それではボイの竜はどのような?」
 ルカのことを団扇であおいでいる侍女が訊く。
「私たちの水神様は、角は一本で短く、爪は五本ですが、そんなに鋭く長くはありません。目も穏やかですし」
「なんか、聞いただけではかわいらしい竜神様ですね」
「はい、こちらの水神様と比べと、遥かにかわいらしく見えます」
「では、そちらがメスでこちらはオスなのかしら」
「いいえ、水神様は全て女性だと伺っております。全ての生命の源になる水の支配者ですから」
「そっ、そうなのですか」
 侍女たちは水神が女性だったとは知らなかった。あの軍旗のあらあらさからしても、連想されるのは男性、それもかなり猛々しい。殿下とは似ても似つかない。
 侍女たちは水神については何も知らない。ただ奥方様が池に祀っているだけで。侍女たちはそれに関して何かを強制されたことは一度もなかった。
「明日、村の人たちが来れば全てわかりますね。殿下の痣のことも、竜のことも」

 二人の意識がはっきりしたところで、ボイ人たちは宛がわれた自室へと戻った。
「しかし驚きましたね。こんなところであの竜を祀る人々に会えるとは」
「神の子とはどういう意味だ。まさか竜そのもの。竜は人に変化すると聞いたが」
「もしあの方が竜でしたら、ネルガル人が手放すはずはないでしょう。竜の力を借りれば何でもできるのですから。ましてあの竜でしたら、ネルガル人が望むこの銀河の支配ですら」
「そうだな。私なら手放さない」
「全ては、明日です」


 昼少し前、村人たちが到着した。男女合わせて四十名。王都は初めての者ばかりなので、大変なはしゃぎようだ。
「まるで御登り様だな」
 空港のロビーに出迎えていた守衛の一人が言う。
「ようこそ、お越しくださいました」と言うナンシーに、
「申し訳ありません。もう少し早く着く予定でしたが」
 珍しいものばかりでついつい足を止めてしまったようだ。なにしろ空を飛ぶのも初めてという者ばかり、中にはルカとナオミの食糧を年に二回運ぶため、荷物と一緒に飛んだ者もいる。だがそれらは貨物ターミナ軽由で例の区画に運ばれた。こんな賑やかなところを通ったことがない。
「さすが国際港、すごいな」
 そして次のロビーからは宇宙港とも接続している。ここまで来ると人種の坩堝。案内人がいなければ迷子になる。
「先程から奥方様がお待ちかねです、こちらへどうぞ」
 ナンシーは彼らを車の方へと案内する。

 館では、ナオミはナオミで普段着、それもかなり地味な服装でエントランスで待っていた。ナンシーには奥で待つように言われていたのだが、長老自らがお見えになるというのに、奥で控えているわけにはいかない。そしてルカもナオミの隣にいた。やはりこちらもナオミがエントランスで出迎えているというのに、自分だけ奥で控えているわけにもいかないから。本当はもう少し心の整理をつけてから彼らに会いたいのだが。そしてルカの隣には約束どおりカロルがいた。
 高級車に先導されたバスが入って来る。
 バスはナオミたちの前でゆっくりと止まった。
 ドアが開き、数名の若者が降りた後、杖をついた老人が彼らに支えられるようにして降りた。年の頃は九十前後。だがその足取りはしっかりしていた。
「庄屋様」と、ナオミが声を掛ける前に、
「これはナオミ様、お変わりないようで」と、長老はナオミに対し深々と頭を下げた。
 ナオミの着ている服は普段着とはいえ、ここは王宮、それでも一般の人々がそうは着られる品ではない。だがその中身は昔のままだった。
「嫌だ、庄屋様。頭をお上げください。ナオミでいいのよ」
 そういうとナオミは長老のところへ行き、懐かしそうに手を握る。
 平民として王宮に上がりさぞや苦労しただろうと思うのに、その苦労の影が微塵もない。ナオミは庄屋の知っているナオミだった。
「こちらがルカ様ですか」
 ナオミが頷くのを見て、
「初めまして、オウスと申します」と、長老はルカに対しても深々と頭を下げた。
 すると村人たちも一斉に頭を下げる。
 ルカは一瞬驚いたが、ルカもそれに答えて頭を下げる。
 ルカがゆっくり頭を上げると、
「似ておられる、幼少の頃のレーゼ様に」と、長老が言う。
「ああっ、そうか。庄屋様はレーゼ様の子供時代を知っておられるのですよね」
「よく一緒に遊びましたあの池で。白い蛇を捕まえるから手を貸してくれと言われまして。随分あの白蛇様にはからかわれておられたようで、でも成人されてからはからかわれることもなくなられたようです」
 まぁっ、今のルカとカロルみたい。とナオミは思った。ヨウカさんって毎回このパターンだったのね。
(わるかったのー)
 どこからかヨウカさんの声がしたような気がした。
 それから長老はルカの隣の少年を見て、
「カロル君ですね、いつもルカ様がお世話になっております」と頭を下げた。
 何で俺のことを知っているんだと思いながらも、カロルも軽く頭を下げる。
 ナオミは長老の背後を見回してから、
「ヤヨイ様、ご一緒では?」
「ヤヨイは三人目ができてな、まだ日が浅いもので」
「そうでしたか、それはおめでとう御座います」
「その代わりと言っては何だが」と、長老は自分の後ろに隠れている子供を前に出した。
「ヤヨイの子だ。私のひ孫でもある」と、自慢そうに言う。挨拶するようにうながす。
 子供は恥らいながらも、
「初めまして、ナオミ」
 その後、どう続けたらよいか迷っているようだ。
「小母さんでいいわよ」
 子供はもう一度言い直した。
「初めまして、ナオミ小母さん。シシンと言います」
 ナオミは子供の目線までしゃがみ込むと、
「お母さんは元気ですか」と訊く。
「はい。赤ちゃんができたのです」
「そう、お兄ちゃんになったのね。シシン君は幾つになるの?」
「四つ」と、指を四本立て、自慢そうに言う。
「そう、上手に挨拶できましたね」と、ナオミは男の子の頭を撫でる。
 男の子は誇らしげに胸をそらした。
 一度、話しをすると自信がついたのか、シシンはルカの前へ行くと、
「ねっ、神様」と、声をかけた。
 ルカはシシンにそう呼びかけられ、どう答えてよいか一瞬迷ったが、
「私はルカと申します」
「うん、知ってる。ねっ、ルカ様。おねぇーちゃんはどこにいるの?」
「おねぇーちゃん?」
「うん。神様が連れて行ったという僕のおねぇーちゃん。ここ、竜宮でしょ」
 ヤヨイの一番最初の子だ。
 シシンは、おねぇーちゃんは竜宮にいると聞かされて育った。だが、ルカには話の意味がわからない。
 長老は慌てた。ルカに深々と頭を下げると、シシン。とひ孫を呼ぶ。
「リリを連れて行ったのはルカ様ではない。もう一人の神様だ」
「もう一人の神様って? 僕はここへ来ればおねぇーちゃんに会えると思っていたのに」
 それであんなにはしゃいでいたのか。と長老。
「だって僕、おねぇーちゃんに会いたいんだもの」と、半べそをかきそうになっているシシンに、困ったという顔をしながらも、
「リリは、お前が立派な大人になったら村に帰って来る。そうその神様と約束したから」
「本当に僕が立派な大人になったら」
 長老は頷く。
 それでシシンも納得したのか、おとなしくなった。
「お父さんは?」と訊くナオミに、
「お父さんは、お母さんと一緒に村でお留守番」
「お留守番?」
「みんなで空けてしまうわけにはいかないからな、それで。その代わり」と、長老は少し離れた後方の方に視線を送った。
 そこには。
「カムイ!」
 それと兄のテールがいた。
「やっと許可がおりた、それで」
 今までカムイだけは王都に入ることを禁じられていた。
 ルカもナオミの視線の先を見る。あの人が、本来なら私の父になるはずだった人。
「奥方様、立ち話もなんですのでお部屋の方へ」と、ナンシーが促す。
「そうね、懐かしさのあまり話しが先立ってしまったわ」
 迎えに来てくれた村人の大半は見覚えのある顔だった。
 ナオミは長老の足元を気づかいながら歩き出す。エントランスロビーの中央奥にある階段を上がると控えの間がありその奥が謁見の間だ。ロビーといい控えの間といいレリーフの施された壁に絵画や彫刻がかざられている。階段には重圧な紺の絨毯が敷き詰められ、手すりの金細工が映える。天井からは幾つもの眩いばかりのシャンデリア。光の芸術だ。
「凄いですね、さすがはお妃の館」
 村人たちはきょろきょろしながら歩く。
「たいしたことないのよ、ロイスタール夫人やオルスターデ夫人の館に比べれば、彼女たちの館はここの十倍も百倍も凄いのよ」
「奥方様は、改築なさろうといたしませんので」
「だって、これでも私には充分過ぎますもの。これ以上広い館はいらないわ」
「そうね」と、村娘が頷く。
「掃除も大変そうですし」
「掃除は私どもでいたしますので」
「そうなの、下手に手伝おうとすると、かえって邪魔扱いされるのよ」
「そんな、奥方様。私たちがいつ」と、ナンシーは困った顔をして問いかけてきた。
 確かに邪魔にしたことはあるが、それはここでの仕来たり。奥方ともあろう方が侍女たちと一緒になって掃除をするなど。だがいつしかナオミのペースにはまり、ナオミと一緒に掃除をするようになっていた。
 謁見の間、扉を開けたそこには。
「神様だ!」と言う子供の甲高い声。
「おお」と言う大人たちの歓声。
 一通りのざわめきが過ぎると、誰もが軍旗に向かって頭を下げていた。
「これはすばらしい、村に欲しいぐらいです」
「お社の中にこれを飾れば、お社ももっと立派に見えるな」
「その必要はありません」と、ナオミ。
「竜宮はとても美しいところです。おそらくこの王宮のどの館よりも。あの竜宮にかなう建物はありません」
 ナオミのあまりにも稟とした言い方に、村人たちは、そうなんだ。と頷くしかなかった。
 竜宮はそれは大変美しい所だと聞いてはいても、実際見たことのない者にはそれを想像すら出来ない。湖上の邸。あの池では高が知れていると思うのだが、実際竜宮に行ったことのある者は、あの池が何処までも続き果てがないような錯覚に陥る。
「さあ、席に着いてください」
 自ずと長老を先頭に上座から席が決まっていった。ナオミたちは下座の出は入り口に近い所。主催者なのだからそれが当然。だが侍女たちには違和感があった。奥方様たちをこんな下座に。一般の謁見なら奥方やルカが壇上。客は階下に跪くのがルール。しかし前もって注意されていた侍女たちは違和感を持ちながらも、黙って奥方の指示に従った。
 村人たちが席に着くと料理が運ばれ酒が出てきた。何に乾杯なのかは知らないが、その乾杯の音頭で酒盛りが始まった。
 座敷の中央、侍女たちが次々と料理を運んでくる。酌をする者もいる。
「なるほど、そのために真ん中ががら空きだったのか」と、カロルは今更ながらに感心する。
 テーブルまたは立食でのパーティーしか経験のないカロル、ルカもそうだが、二人にとっては初めての光景だった。
「ちょっと、酌して来ます」と、ナオミは銚子を持ち立ち出した。
 代わりに目の前に座ったのはテールだった。片手にジュースを持っている。
「やあ、お久しぶり」と、ジュースを差し出す。
 それをコップで受けるのは、隣の人の様子を見ればわかる。もっとも隣の人は酒だが。
「覚えているかな、俺のこと」
 伯父さんだということは、通信の画像から知っていた。
「あの時は、まだ赤ちゃんだったからな。覚えているはずないか」
 テールは自分で問いかけ自分で答えていた。
「伯父さんは、ここへ来たことがおありなのですか」
「ああ。君が生れて最初の謁見が許された時にな」
「そうだったのですか」
「それより」と、テールはルカに顔を近づけると声を潜め、
「あの壁際に立って、さっきっから俺をじっと見ている奴は誰なんだ?」
「えっ!」と、思いつつルカは振り返る。
 ケリンと目が合う。
 それでルカは、はっ。と思った。そう言えばケリンは、一度伯父に会いたいと言っていた.
「ケリンです」
「もしかして、俺のコンピューターにちょっかい出している奴か」
「さあ、それは知りませんが、後で私の部屋へ来て下さい。面白いものをお見せできると思いますので」
 知らないはずがない。
 どうしても入れないと言って、一度キーバードを叩き壊されたことがある。なにしろケリンの手は義手。制御を失えばかなりの力が出る。
 それから数名の者が酒、いやジュースを注ぎに来たがそれ以上のことはなかった。神だからと言って、特別扱いする風はない。もっとも特別扱いするようなら、下座になど座らせないだろう。
「かわってんな、こいつら。お前のことを神だ神だと言うわりには」
「そうですね」と、ルカ。
 だが一番肝心な人が来ない。こちらから行くべきなのだろうかと、彼の方を見ると、そこではナオミが楽しそうに酌をしていた。
「カロル、足、しびれませんか」
「俺、もうとっくに限界」
 既にカロルはテーブルの下に足を投げ出していた。
「トイレにでも行く振りして、外に出ませんか」
「それ、いい案だ」

 控えの間をぬけ回廊にでるとボイ人がいた。
「お昼は、いかがいたしました?」
「別室でよばれました」
「そうでしたか、申し訳ありません」
「いいえ、居たいと言ったのはこちらの方ですから、お気を使われなくとも」
 ルカは足を撫でる。今になってジンジンしてきた。
「しびれましたか」と、キネラオ。
 彼が足に触れようとした瞬間、ルカは彼の手を押さえ、「ええ」と答える。
「それではここへ足を伸ばして座ってください」
 ルカが言われた通りに通路に座ると、キネラオは靴を抜かせルカの足の指を反り返した。
 痛っー。と言いつつも。
「どうですか、少しは楽になりましたか」
 言われれば、触れないほどのしびれは取れた。
「ええ」と、ルカは不思議そうにキネラオを見ると、
「今度立つ時は、一度親指を立て、その上に重心をのせてから立たれた方がよろしいですよ。さもないと転びます」
 そう言えばボイ人も座敷の生活なのだ。
 やっと足のしびれも取れ、立ち上がり塵を落としているルカの前に、一人の男が立ち塞がる。肉体労働でもしているのか、がっしりした体格をしている。同じような体格でも、リンネルやハルガンとはまた違った印象を持っている。おそらく大自然を相手にしているせいだろう。天然の太陽で焼けた肌は浅黒く黒光りしていた。
「お前が、エルシアか?」
 シシンと言う男の子も一緒だ。彼は怯えたようにその男の影に隠れる。どうやら私の背後にいるボイ人を恐れているようだ。無理もない。あの村では異星人を見ることはこの王宮よりないだろうから。
「カムイ」と、男の手を引く子供を無視して、男はもう一度問う。
「お前が、エルシアか?」
 だがルカにはそのような人物の心当たりはない。
「いえ、違いますが」
「では、エルシアは何処だ?」
「そのような者は、この館にはおりませんが」
 ルカはあえて彼の存在を否定した。多重人格。もう一人の自分がエルシアと名乗っているのは知っていたが。
「お前の名は?」
 男の横柄な態度を見かねてカロルが忠告する。
「おい、失礼だろう」
「私は、ルカと申します」
 ルカがそう言った瞬間、
「惚けやがって、じゃ、やっぱりお前がエルシアじゃないか」
 言うが早いか、男はルカの胸元を握り締めていた。
 だがそれよりカロルの動きは早かった。
「下郎、その汚らしい手を離せ」
 カロルはいつの間にかプラスターをぬき、男の眉間に標準を合わせていた。本領発揮だ。
 だがもう一つ、ルカの首元を押さえている男の手の肩のあたりに、赤いレーザーが標準。それを視線で追うと、そこにはリンネルのプラスター。回廊の端から確実に狙っていた。だがルカが何よりも警戒したのは窓の外。はるか庭の奥、立ち木の中からこちらを狙っているプラスター。
 レスター、止めろ。ルカの心の叫びが聞こえたのか、その殺気は消えたような気がした。
「これが見えないのか。その手を離せ。さもないと」と、カロルが警告する。
 カムイは手を離した。自由になるや否やルカはカロルに駆け寄るとそのプラスターを天井に向ける。
「よせ、カロル。この人は本来なら私の父になるはずだった」
 カロルは驚く。どういうことだ?
「さすがに王子ともなれば、大した護衛がついているものだな」
 ナオミや長老が慌ててやって来たが、それより早くカムイの影に隠れていた子供が前に現れ、
「ご免なさい」と、頭を下げた。
「カムイは乱暴だけど、悪い人ではないんです。ただ神様に会ったら、一回は殴らないと気がすまないと言うんです。僕は、そんなことしたら罰が当たると言っているのに」
 子供はカムイを守ろうと懸命なのだろう。怖さのあまり半分泣きそうになっていた。だがそれでも後に下がろうとはしない。
「坊ちゃんは、庄屋様の所に行ってな。俺はこいつと話があるんだ」
「駄目」
 それは強い口調だった。
「だって僕はお母さんに言われたんだもの。カムイが神様に乱暴しないようによく見張っているようにと」
 それを聞いてナオミはくすくすと笑い出した。
 場違いの笑い声。緊張は一気にほぐれた。
「さすがはヤヨイ様ね、しっかりしたお目付け役を付けて下さったのね」
 カムイはむっとした顔でナオミを睨む。
「無理よ、何を言っても、ルカは知らない」
「知らないって、俺のことは知っていたぞ」
「ええ、それはあなたのことは私が話したから」
 ルカはナオミが村へ戻ってからの生活を心配していた。だから私にはカムイという許婚がいることも、今でも彼が待っていることも。
「エルシア様のことは何も知らないわ」
「話さなかったのか?」
「その必要はないからだ」と言ったのは長老だった。
 それから長老は改まってボイ人の方を見ると、
「失礼した。私はこの村の長でオウスと申す」と、自分の立場を説明した。
「カムイはわし等の村の者ではないので、いまいちわし等の村の仕来りがわからないようなので、許してやって欲しい」と、深々と頭を下げた。
 それからカムイの方へ向き直ると、
「お前も謝るのだ」
「俺は謝らない」
 カムイはがんとして言い放つ。
「こいつは、俺の女房を取ったのだ」
 長老はやれやれという顔をすると、
「ルカ様は何もご存知ではない。それでよいのだ。レーゼ様も息をお引取りになる直前まで、ご自身のお名前を知らなかった。古より、神がご自身の名前を知ることは災いの基とされている。だから母親は知っていてもその名前を御子様に教えることはなかった。今回ばかりは少し違ってしまったが。普通、父親が神のお名を知ることはないからな」
 カムイは長老を見る。
「言ってしまったことは仕方がない。わしもお前が神の名を知っているとは思いもよらなかったからな。知っておれば前もって忠告しておいた。村でも神の名を知る者は極わずかで、前の神の臨終に立ち会った者だけなのだ。そして村の者たちはその言い伝えを知っているから、強いて神の名を知ろうとはしない。知れば誰かに話したくなるのが人の常だからな。それで村に災いが降り注げば自分の責任になる」
 シシンは不安げな顔をして長老を見る。
「カムイは神様に名前を教えてしまった。村に災いが起きるの?」
「さあ、それはこれから」と、長老が言いかけた時、
「迷信です」と、ルカははっきり否定した。
「そんなことありません」
「でも、村ではそう言うんだよ。僕だってそのぐらい知っている」
「何故、神が自分の名前を知ると災いが起きるのだ」と、カムイは率直に長老に問いただした。
 ルカもそこが知りたい。
「いや、知ると災いが起きるのではないのかもしれない。災いが起きた時、神は初めて目覚めてご自身のお名を知るのだろう、その力を行使するために。それを我々人間の側から見れば、神がご自身の名を知った時、災いが起きたように見えるのだ」
 ルカは暫く黙って長老の話を聞いていたが、
「偶然ではなかったのですか」と、問う。
「偶然と仰せになりますと?」
「たまたまあなた方が竜神と祀っていた人物が取った行為と、おそらくは天変地異のたぐいだと思いますが、それが収まったことがです。笛を吹いたぐらいでそれらの事が収まるとは、私には到底考えられません。それよりもは天変地異だろうと、そう何時までも続くものではありません。地殻のエネルギーがなくなれば自ずと静まります。こう考えた方が自然ではありませんか」
 まさか神からそのような言葉を聞こうとは思わなかった長老は、暫し言葉に詰まった。村でお育て申し上げれば、このようなお考えには至らなかったであろう。ご自身のことがわからずとも、自分は普通の人間ではない、この村の守り神なのだという意識の基にお育ちになられたはずなのに。だがここでは致し方ない。誰もがそのようなことを信じない者ばかりなのだから。ナオミを攻めるわけにもいかない。
「では、全て迷信だと?」
 長老の問いに、ルカも返答に困った。
「確かに子守唄と言うのですから、何かを鎮めるのでしょうが」
 こんな笛では、泣く子を黙らせるのが関の山だ。
 長老は少し考えた末に、
「竜を、どのような生き物だとお考えですか?」
「この世には存在しない架空の生物ですか」
 ルカは自分の考えを率直に述べた。
「では、何に似ていると思われますか?」
「蛇ですか」と、ルカは池の白蛇を思い出し答えた。
「稲妻に似ているとはお思いになられませんか」
 稲妻。それで心当たりがあった。雷が鳴ると、時々母はその音と光に怯えて騒ぐ侍女を尻目に、窓際に椅子を寄せよく眺めていたものだ。
 綺麗でしょう。あれが竜です。竜は雲をはらみ雨を呼ぶといいます。もう直、大量の恵みの雨が降ってきますよ。
「竜とは、生き物を模ったものではなく、わしが思うに、自然界のエネルギーを生き物の形に表したものではないかと。つまり古代の人々は自然界のエネルギーを竜という生物に現し祀ったのです。これでしたら竜の存在も納得なされるでしょう」
 ルカは頷く。
「確かに、エネルギーは存在しますから。しかしそれと私と、どういう関係になるのでしょう」
 ここが一番の問題点。
「あなた様は、そのエネルギーをコントロールできるのです。否、コントロールまではいかなくとも、抑えることができるのではないかと」
 ここら辺になると、長老もはっきりしない。何しろここ数千年というもの、村に天変地異が起きたことがないから。ただ言い伝えが残っているだけ。
 長老の背後にいた男が口を開く。
「とにかくあなた様は村の守り神なのです。村に戻っていただかなければ」
 やはりこれが長老が老体を押してまで来られた要因だった。
「いや、違うのだ」と、長老は大きく首を横に振ると深い溜め息とともに真実を語り始めた。
「村の守り神ということになっているので、村だけと錯覚してしまうのだが、本当はネルガルの守り神なのだ」
 これにはカロルも驚いた。村の守り神とは以前から聞いていたが、ネルガルの守り神とは初耳だった。ネルガルには太陽神アパラがいる。膨大なエネルギーを地上に降り注いでいるという点では神的存在だが、我々が何か頼んだからと言ってそれを聞き届けてくれるとは、絶対に思えない。これがカロルの信仰心だ。
 そっそうか、こいつら、どうしても俺たちがルカを手放さないもので大きく出てきたな。ネルガルの守り神だと言えば、皇帝の気も変わると思って。甘い。そんなことでネルガルの参謀本部が決めたことがそう変わるはずがない。
「偉くでかく出たものだな、ネルガルの守り神とは」
「誤解がないように前もって言っておきますが、このお方がお守りするのはギルバ帝国では御座いません。村の言い伝えはそれより古い。ギルバ帝国誕生より遥か以前からこのネルガルを守り続けてこられたのです。現に村の言い伝えでは、過去に一度、消滅寸前のネルガル星を救っておられる」
 長老はそこで一息入れると、
「ボイ星に行かれること、もう一度熟考されてはいただけないものでしょうか」
 ナオミも初めて聞く話のようだった、唖然としている。しかし過去に一度、ヨウカがそのようなことを漏らしたようなことがある。
 だが長老の背後にいた数名の村人は完全に度肝をぬかれているようだった。
「どういうことなのでしょうか」と、長老に向かって聞き返す者もいる。
 長老は苦笑すると、
「今まで必要なかったから、言わなかっただけだ。だが我が家に伝わる古文書には、最初にその言葉が記されている」
 それを信じるしかない。と、長老は深く溜め息をつく。
「おそらくそうなのでしょう」
「なっ、ナオミ様」
 長老の言葉に同意するナオミに村人は驚く。
「私は以前、一度だけ、その話を白蛇様から伺ったことがあります。詳しいことはエルシア様に訊け。と言われましたが」
 そう言ってルカを見る。村人たちも一斉にルカを見た。
 だがルカは、
「私は、何も知りません」
「知らなくて当然だ。その時が来るまで知る必要はないのですから。それより、このことも考えに入れてくださって、もう一度」
「無理です、もう和平条約は結ばれてしまったのですから」
 ボイの使者たちが来て、まっさきにやったのは和平条約の締結とそれに伴う条約の締結。どれもこれもネルガルに有利な。
「後は私が行くだけです」
 ルカの背後にいるボイ人が迎えの使者だということは誰の目にもはっきりしていた。
 長老は彼らに視線を移すと、
「いかがでしょう、あなた方の王女様をこちらへお迎えするということでは。それでも和平は成り立つと思いますが。なにしろ小さな村です。大したことはして差し上げられませんが生活にご不自由をかけるようなことだけは」
「その案も、無理でしょう」と、ルカは言う。
「どうして」と、長老の背後の男が苛立たしげに問う。
「強要されているのはむしろ彼らの方なのです」
 ボイの人々にどうこう言う権利は既に無くなっていた。
「彼らは仕方なしに私を受け入れるのです」
 ボイ人はルカのその言葉に対し俯いた。
「仕方なしにって、だったら何も」
「そうしないと戦争になるからです」
「どういう意味だ?」
 ルカは黙ってしまった。ボイ人の前で参謀本部の本音を話すわけにはいかない。おそらく彼らも気づいてはいるだろうが、
「私にも参謀本部の考えはわかりません。ただ、王子として生れたからには宮内部の指示は絶対ですから」
 長老の背後にいたもう一人の男が問う。
「ルカ様。あなた様はボイ星とネルガル星と、どちらが大切なのでしょうか。今の話をお聞きした限り、あなた様がボイ星へ行かれれば二星間の戦争はなくなる。しかしあなた様を失ったネルガルは近いうちに消滅することになる。そうすればボイ星は、戦う相手がいなくなるのだからそのような条約、結ぶ必要がなくなる」
 男が話ししている途中に、居ても立ってもいられなくなった男が叫ぶ。
「どうして、今になって我々をお見捨てになられるのですか。我々はあなた様のために一生懸命」
 田畑を耕し、年に二回は必ずルカとナオミが不自由しない以上の食糧を王都に運んでいた。ナオミに不要と言われても、古からの約束は守った。
「それなのに」
「ヤヌス!」と、長老は強い口調で男を黙らせる。
「ルカ様にそれを言ってもせん無いこと。ルカ様は何もご存知ないのですから。願わくば、エルシア様と直接お話がしたいので御座いますが、七歳にもなられては、もうエルシア様が表に出ることもあるまい」
 長老はほとほと困り果てた。どのように説得とても、もう手遅れなのだろうかと。
「庄屋様」と、気落ちしている長老にナオミは声をかける。
「エルシア様は村を見捨ててなどおりません」
「そう言ったって、現にこうやってネルガルを離れようとしているではないか」と、ヤヌスは既に喧嘩腰だ。
「ヤヌス、少し落ち着け」
「しかし、庄屋殿。これが落ち着いて」
「エルシア様は、あの湖底から外に出たことは一度もないのです」
 えっ! これにはさすがの長老も少し驚いた。
「どういうことかね、現にこうやってルカ様は池どころか村を出ておられる」
「これは白蛇様から聞いた話なのですが、ルカもレーゼ様も、エルシア様の魂の一部に過ぎません。エルシア様ご自身は、今も湖底におられます」
 これには村人たちは顔を見合わせてしまった。
「おそらく今までの神もエルシア様の魂の一部だったのです。ですからお亡くなりになればその魂はもとの魂のところに戻る、つまりあの池の底へと帰って行かれるのです。おそらくどこで亡くなられても結果は同じ。エルシア様は村を見捨ててなどおりません。今もあの池の底におられるのですから。旅立つのはエルシア様の一部、ルカなのです」
「では、何のために旅立たれるのですか」
「それは、笛の少女に会うためだと思います。レーゼ様もその少女に会いたがっておられましたから」
 晩年、ナオミが笛を吹いてくれるようにねだった時、そのようなことを口にしたことがある。
「ボイ星へ行かれればお会いできるのですか、その少女に?」
 それにはナオミは首を傾げた。
「ボイ星行きは、成り行きでそうなってしまったようです」
「それでは」と、言いかけた長老をナオミは軽く止めて、
「ですが、ボイ人の生活習慣と村の生活習慣はよく似ているのです。しかもこの人たちは水神様を祀っておられる。おそらくエルシア様はその少女に関する手がかりが欲しいのではないでしょうか。ボイ星へ行けば何かあるのではないかと」
 長老たちは黙り込んでしまった。
 ナオミの話をどこまで信じてよいものなのか。神がずっと湖底に居るという言い伝えはなかった。ただ死ねば湖底に戻るという言い伝えはあっても。
「白蛇様が、そう仰せになられたのか」
 ナオミは頷く。
「少し、お待ちください」
 彼らの話を断ったのはルカだった。
「私は普通の人間です。そんな誰かの魂の一部だなんて」
 そんな感覚は自分にはなかった。
 それからルカはナオミに対峙すると、
「母上。私の中にエルシアという別人格が存在しているようですけど、私は一度も自覚したことはありません。母上の話から推測しますと、私は多重人格なのかもしれません。一度精神科医に診てもらったほうがよいのかもしれませんね」
 ルカは自分のことをそう科学的に分析した。既にルカは精神科医にも診てはもらっていた。結果は正常。歳相応の子供と何ら変わるところはなかった。ただ知能が高いだけで。
 長らく村に居て、少しずつだが竜神の存在を認めつつあるカムイはむっとし、
「何だこの高慢ちきなガキは。全然かわいくない。村へ戻れば俺が親父にならなきゃならねぇーと思い、下手に出ていれば」
 最初カムイはルカの存在を認めていなかった。だがもしルカが村に戻ってくれば、必然的にカムイと暮らすことになる。カムイとナオミは村公認の夫婦なのだから。そのため村人たちは暇さえあればカムイに父親としての自覚を植えつけていた。半ば洗脳的に。ルカ様がいつ戻られても、親子の生活ができるように。
「カムイ」と、長老は注意する。
 いくら自分の養子となるとは言え、相手は神だ。そこら辺のところはわきまえてもらわないと。
 しかしカムイは、
「こんな鼻持ちならねぇーガキ、村になど戻って来なくともいい。俺はお前の親父になどなる気はねぇー」
 ナオミは笑う。
「何が、おかしい」
「カムイには無理だとはなから思っていたわ。もしこの子が村に戻ると言い出したら、庄屋様にでも頼もうと思っておりました」
 カムイはますますむっと来る。
「おもしろいではありませんか、試してみるには」と、ルカは唐突に言う。
 ルカは何事も科学的に割り切るタイプだ。実験してみないことには気がすまない。
「今までの話を推測すれば、私の魂は今でもその池の底にあり、私が死ねばまたそこへもどる。この笛に乗って」と、ルカは腰にぶら下げている笛を取り出し言う。
「しかしそれは、神がお亡くなりになれば、その笛と一緒に神のご遺体を池に沈めるからであって、笛がボイ星にあったのでは」
 どうやってここまで戻って来るのだ。
「試してみるのも一興。もし戻ったら、その時はあなた方の話を全面的に信じましょう」
 カムイは鼻を鳴らした。
「馬鹿か、信じるも信じないも、その時はお前は生きていないだろう」
「そうでしたね。でもその方がよいのではありませんか。私のような可愛げのない者を我が子と呼ばなくて済むのですから。今度はもう少し可愛げのある子を母上に作ってもらうといいですよ」
 ルカがそういい終わらないうちに、
「貴様!」と、カムイはルカの胸倉を鷲づかみにすると、ナオミの止めるのも聞かず突き飛ばした。
 カロルが慌ててルカを支える。
 ナオミはルカの方へ視線を向けると、
「ルカ、言葉が過ぎるでしょ、謝りなさい」
 だがルカにもどうしてこのようなことを言ってしまったのかよく解らなかった。ただ、カムイはあまり好きではない、男として。
 カムイは胸に下げていたペンラントを引きちぎるとルカに投げつける。
「俺は、少しはそういう生活を夢見ていたんだからな」
 踵を返すと皆のいる謁見の間へと戻って行ってしまった。
 広間では宴会もたけなわ、異常なほどの盛り上がりをみせていた。歌うもの踊るもの、ときおり歓声なのか怒声なのか解らないような声が聞こえてくる。
 長老たちも、ここはひとまずと思ったのか、カムイの後に続いた。
 気まずい後味が残る。
 ルカは投げつけられたペンラントを拾い開いてみる。そこには赤子の自分を抱いているナオミとカムイの写真が合成されていた。まるで一つの家族のように。
「兄が、作ってくれたのよ。カムイは本気であなたの父親になろうと思っていたのよ」と、ナオミは言う。
「どうしたんだよ、お前らしくもない」と、カロル。
「私は、彼が好きではない。母を取られるような気がする。本当は謝るべきだったのだろうが」
 心のどこかで抵抗があった。エルシアなのだろうか、彼は母を愛しているんだ、きっと。
「おい、ルカ」
 棒立ちになっているルカにカロルは声をかける。
 ルカは少し自分の感情に戸惑っていたようだが、
「今聞いた話を、もう一度分析し直そう」
「それでこそ、お前だ」
 いつものルカに戻っていた。

 村人たちの宴会は何時までも続いた。
「もうとっくに日は落ちたというのに、いつまで騒いでいるんだ」と、カロルはすっかりあきれ果てたように言う。
「タフな人たちだ」と、ルカは感心する。
 ドンちゃん騒ぎが止む気配はいっこうにない。
「あの村じゃ、あんなことぐらいしか娯楽がないんだろーな」
 だが彼らの知的水準は高い。この王都の平均的な者たちより。彼らはどんな仕事をしている者でも高水準の会話ができる。村の成人は男女を問わず王都で言うならば大学レベルの知識を持っている。それぞれに専門分野を持つようだが。と言うより趣味で勉強しているらしい、仕事とは関係なく。ルカはそれが面白いと思った。そう言えば彼らは午前中しか働かないと母から聞いたことがある。午後はまるまる空き時間なのだ。スポーツをするもよし勉強をするもよし。田畑を耕しているだけなら、これほどの知識はいらないと思うのだが。彼らと話をしていると飽きない。ただ自分が神と言われない限りは。
 侍女たちがせっせと酒や肴を運ぶ姿を目にしたルカは、彼女たちに声をかける。
「あなた方も何時までも彼らに付き合っていては体を壊します。交代にして休んで下さい」
「ええ、奥方様にもそう言われておりますので」
「でも、結構彼ら、面白いのよ。私たちの知らないことを何でも知っているの」
 それは少し本を読めば、あなた方があまりにも知識を知らなさ過ぎるだけ。ルカはそう思ったのだが口にはしなかった。なぜなら低所得の彼女たちには勉強する機会はなかったのだから。そういう点では、あの村は裕福だ、物はここより少ないようだが。
「お前はいいのか、奴等のところへ行かなくって」
「私はどうも彼らは苦手です。下に見られるのも辛いですが、上に見られるのも何か」
 しっくりいかない。
 ルカはこの王宮で、王子でありながら身分の卑しい者として扱われてきた。それはそれでもう慣れたが、今度は神だ。こちらはまだ馴染めない。
「私の身分は両極端で、中間と言うのはないのでしょうか」
 カロルは笑った。
 ルカは立ちだす。
「どこへ、行くんだ?」
「少し、一人で考えたいのです。皆さんは先に休んで下さい」
 そう言うとルカは、ペンラントを片手に池の方へと下りていった。
「ネルガルの守り神か」と、カロルは呟く。


 池の縁に佇む。ふと背後の気配に振り向くと、そこにはリンネルが立っていた。
「お前もボイへ行くそうですね」
 その声はルカではなかった。子供にしては低い。
「クリンベルク将軍がお前のことを大層欲しがっていたのに。何も私に付き合わずとも、出世がないどころか、今度は命も保障できませんよ」
「お言葉ですが、はなからあなた様に命を保障していただこうとは思ってもおりません。そもそも私はルカ殿下の侍従武官ですから。その任を受けた時から、私の命はルカ様に差し上げております」
 エルシアは苦笑した。
「ルカには悪いことをした。今回はそう長くも生きられないようだ」
 エルシアも半ば死を覚悟しているところがある。もっとも彼の場合はまた転生すればよいのだから、我々とは死の感覚が違うかもしれないが。
「神なら、どうにかならないのですか」
 エルシアはリンネルをまじまじと見詰めると、
「あなたも、私をそういう目で見るのですか。私は人間です、神などではありません」
「しかし」と、戸惑うリンネルに、
「前世の記憶ですか。誰でも持っているのですよ、子供のころは。成長するにともない現世のいろいろなことを記憶しなければならないため、次第に記憶回路の奥のほうに押し込まれ、なかなか出てこなくなってしまうだけなのです」
「それでは私にも」
「あります。一、二歳の頃から意識して何度もその記憶を思い出していれば、忘れることはありません」
「一、二歳と言われましても」
 現世のその頃の記憶すら自分にはない。
「ネルガルではそういう教育はしていませんからね」
「では、あの村では」
 村人全員が前世の記憶を持っているのか。
「いいえ、あの村でもそのような教育はしておりません。前世の記憶はない方がいいのです。せっかく肉体も新しくなったのですから、記憶も白紙からやり直した方が」
 下手に記録に残すから憎しみが何時までも消えない。人間には過去の傷を和らげるという機能があるというのに。
「では、どうしてあなた様は?」
「消したくとも消えない記憶もあるのです。火災で亡くなった人が火を怖がるように、水死した人が水を怖がるように。私には消せない記憶があるのです」
 だが火の恐怖も水の恐怖も年月が解決してくれると言うのに、私のこの記憶だけは何千回転生してもいっこうに癒えない。
 エルシアはそういうと胸に手を当てる。そしてじっと水面を眺めた。
「リンネルさん、すまないがナオミを呼んで来てはもらえませんか」
 リンネルは一礼するとその場を去った。
 少しするとナオミがやって来た。酒がほどよく入っているのか陽気だ。
「昼間は申し訳ありませんでした。あれは私の気持ちです。ルカのせいではありません。嫉妬です」
 ナオミは微かに笑うと、
「なんとなくそんな気がしました。ルカはあのようなことを言う子ではありませんもの。いえ、まだ理解する年頃では」
「ばれていましたか」
 ナオミは近くの石に座るとエルシアを招く。
「実は私にも嫉妬というのか、コンプレックスというのか」
「ヤヨイさんのことですか」
「ええ、どうしてあなたがヤヨイお嬢様ではなく私を選んだのかって。村の人にもさんざん馬鹿にされるし兄なんか」
 ヤヨイお嬢様の服を借りて行ったから間違われたのではないかとまで言った。
「それは確かにヤヨイお嬢様より私の方がヨウカさんには似ていますが」
 以前エルシアに同じことを訊いた時、ヨウカに似ているからだと言われた。
「実は私もお淑やかな女性の方が好きです。ですが何故か私の周りにはそのような方がいないのですよ。極めつけはヨウカで、何千年も付きまとわれれば痘痕も笑窪に見えてくるものです」
「ひっ、ひどい。では私はあばたと言う訳」
「そんなことは言っておりません」と、エルシアは懸命に否定したが、既に遅い。
「いいえ、そう聞こえました。ね、リンネル」
 リンネルは少し離れたところで二人の話を聞くともなく聞いていたのだが、いきなり振られて答えに窮した。しどろもどろながらも、
「今の言い方ですと」
 リンネルが完全に答える前に、
「すまなかった。では言い直します」
「いまさら、遅い!」と、ナオミは脹れる。
 これがネルガルを守る神なのか。とリンネルは思った。嫉妬もすれば強い女性の前ではたじろぎもする。まるで人間。
 エルシアが困っているのを見かねて、リンネルは助け舟を出した。
「奥方様、エルシア様がお好きなのは奥方様お一人なのですから」
「嫌だ」と、ナオミは酒が入って赤くなっている顔をいっそう赤くした。
「リンネルさん、また悪いのですけど、今度はカムイを呼んで来てもらえませんか」
「カムイ氏をですか」
「彼の方で私に話があると思いますので」
 リンネルはその場を去る。背後で二人が寄り添う気配を感じながら。
 そしてカムイを連れて戻って来た。
 リンネルが声を掛けるより早く、
「エルシアか」
「ああ、そうだ」
 今度は男同士の話し合いだ。
「ナオミは君に返すよ」
「当然だ。ナオミはもともと俺の女だ」
「カムイ」と、ナオミは敵意丸出しのカムイをなだめ様と声をかける。
 だがエルシアはその言葉を無視し、池を眺めながらカムイに言う。
「兄弟が欲しいな、男でも女でもいい、三人ぐらい」
「お前に言われなくとも作る」
「そうか、余計な心配だったな」
「それよりいつ戻るんだ、ネルガルへ」
「もう二度とネルガルへ戻ることはないだろう」
「じゃ、どうするんだよ、本当に村を見捨てる気か」
「見捨てはしない。私が死ねばまたネルガルへ戻る。この肉体で戻ることはないと言っただけだ」
 カムイは少し黙り込んでから、
「ボイ星に彼女はいないのだろう、なら」
「運命には逆らえないだろう、私は人間なのだから。君が運命に逆らえなかったのと同じだ」
 俺が? そうか、こいつにはレーゼの記憶もあるのか。だが、俺はまだ運命に屈したつもりはない。機会さえあれば。
 カムイは夜空を見上げた。空には今にも消え入りそうな細い月。だが消えまいとして必死に輝いているようにすら見える。今の俺と同じ。
「運命か」と、カムイは拳を握り締める。
 だがカムイのそんな気持ちとは違いエルシアの運命に対する考えは、
「向こうから来るものを左右することはできません。せいぜいその中で幸せになろうと努力するだけです。ここの生活も楽しかった。よい仲間に囲まれ、よき友達も得られた。願わくは私がここを去った後も、彼らが幸せになってくれればと思います」
「エルシア様」
「ナオミ、あなたも幸せになって下さい。私もボイで幸せをつかみます。庄屋様に伝えてください。決して私は村を見捨てたわけではないと。笛は私が死ねば何処で死のうと必ず村に戻ります。なぜなら、あの村にこそ私の魂があるのですから」
 そう言うとエルシアは暫し黙り込む。
「誰かが来ます。もう私も表に出ることはないでしょう。こうしてルカの意識を抑え込んでいるのも大変になって来ました。これからどんどんルカの方が強くなります。この肉体はそもそもルカのものなのですから」
 エルシアは消えた。代わりに、
「あれ母上、どうしてここへ」
 カムイも一緒なのに気づいて、ルカは疑問に思う。
「酔いさましよ、少し飲み過ぎました」
「ナオミ様、こちらでしたか。急にいなくなるものですから探しました」と、村人。
「ご免なさい。心配かけましたか」
 だが村人はカムイの姿を視界に捉え、
「これは、野暮なことをしたかな」と、頭を掻く。
「そうだな」と、カムイは半ば脅すように言う。
「失礼しました」と、村人はすごすごとその場を去った。
 その後姿を見てカムイは声を立てて笑う。
 それからルカの方へ視線を合わせると、
「風呂にでも入らないか」と、誘う。
 村の言い伝えなら、風呂は好きなはずだ。
「遠慮しておきます」と、ルカはしかと断る。
「なに、ガキのくせに気取ってんだ」
 言うが早いかカムイはルカの腕を取ると肩に担ぎ上げてしまった。
「降ろせ、危ないだろう」
「俺はお前の親父だ。親父に対してその言い方はなかろー」
「私はあなたを父親と認めてはおりません」
 だがルカの手の中には先程のペンラントがしっかりと握られていた。
 ルカはルカなりにナオミからカムイの話を聞いた時から、それなりの父親像を描いていた。もしネルガルの皇帝ではなく彼が私の父親だったら、私の人生も。だが理想と現実のギャップは激しい。ルカは貴族の父親像は想像できても、田舎の父親像は想像できなかった。
「なら、今認めろ」
「そんな」
 ルカは担がれて行きつつ、リンネルの方へ視線で助けを求めた。
 だがリンネルにはこの野蛮な男から私を助けようという意思はなさそうだ。こうなれば自力で、
「放せ、降ろせ、噛み付くぞ」
「やってみろ」
 ルカはおもいっきり男の太い腕に噛み付いた。
 カロルの腕とは違う。浅黒く筋肉で盛り上がった腕には、ルカの歯など役に立たない。
「なんだ、その程度か。それじゃ、せんべいも食えんぞ」
 母上は母上で笑っているだけだ。
 結局、母とカムイ、それに私との三人で風呂に入ることになった。
「背中を流してやるから」
「いいです」
 だが逆らってもさっきの二の舞だった。
 湯船からすーとすくわれると無理やり椅子に座らされ、がしっとした大きな手が肩を押さえたかと思うと、ごしごしと擦り始めた。まるで背中の皮が一枚どころか、四、五枚剥けたような気がした。
「痛いです」と、ルカは体をよじる。
「もう少し、力をぬいて下さい」
「何言ってるんだ、男のくせに。このぐらい力を入れないと、垢は落ちんぞ」
「少し手加減してやりなさいよ、この子の肌はあなたの肌とは違うのですから」と、ナオミが助け舟を出す。
「ちゃんと、外へ出して育てたのか。まるでもやしみたいじゃないか。これじゃ、木にも登れんだろう」
「木登りならできます」と、ルカはすかさず切り返した。
「ほー」と、カムイは感心すると、桶で湯を汲み、乱暴にルカの背にかけた。
 擦られた背中がひりひりと痛む。
「じゃ、交代だ」
「交代?」
「当たり前だろう。今度はお前が俺の背中を擦る番だ」
 タオルを投げるようにルカに渡すと、カムイはくるりと向きをかえた。
「ほら、早くしろ」
 ルカはタオルにシャボンを付け擦りだす。
「なんだ、その擦り方は。もう少し力が入らないのか」
 ルカは立ち上がり力を加えた。
「そうだ、まだ弱い。もっとしっかり擦れ」
 ルカは足を踏ん張り全体重を両手にかけて擦った。
「そうだ、うっ、気持ちいい」
 広い背中だった。擦り終わるころにはルカは全身汗だくになり息が切れた。
 少し休もうと力を抜くと、
「なんだ、もう終わりか」
 ルカは片腕で額の汗を拭く。
「少し、休ませてください」
 男は一人で湯を背にかけると、すーと立ち上がる。
 ルカの二の腕を掴み、半ば吊り上げるような状態で湯船へと運ぶ。
「まったくひ弱な男だ。飯、ちゃんと食っているのか。坊ちゃん(シシン)の方が重いぞ」
「食わせてますよ」と、ナオミが反論した。
 ナオミはゆったりと体を洗っている。
「まったく女手だけで育てると、ろくな男にならんな」
「腕力だけが男の全てではないですよ」
「何を言う。男は体力が資本だ。家庭を守るのに体力以外の何もいらん。いくら頭がよくても、病弱でひいひい言っているようじゃ、かえって居ない方がましだ」
「まあっ」と、ナオミはあきれたように。
 ルカは思う。おそらくこの男には病気の方が遠慮するに違いないと。
 男はのんびりと湯船に浸かっている。ルカの方はのぼせて来ていた。上がろうとすると、
「よくあったまれよ」と、男の手がルカの肩を押さえ込む。
 ルカはその手をやっとの思いで掻い潜り風呂の縁へ腰掛けた。
 なんで風呂に入るのにこんなに疲れなければならないのだ。疲れを取るどころの話ではない。
 ぼーとしているルカを見て、
「上がるか」と、男は背を叩いてきた。
 脱水所へ出ると、ルカはどっと疲れを感じた。擦られた背中はひりひりと痛むし、体は鉛のように重い。立っているのがやっとなぐらいだ。
 男はバスタオルで自分のせおを取ると、そのバスタオルをルカの方へ被せてきた。
 疲れきってぼっとしているルカのせおを、男はしゃがみ込んで取ってやる。
「自分で出来ないのか?」
 いつも侍女に全部やってもらっていたのか。とカムイは思った。
「できます」と、ルカは力なげにそのタオルを掴もうとすると、
「いいから、俺がやってやる」
 男は乱暴に頭から拭き始めた。
 目の位置がちょうど胸の痣のあたりで止まる。
「痛くないのか?」
 ルカは色が白いだけに痣がよく目立つ。神の御印。
「いいえ」
「それならいいが」と言いながら、カムイは胸や背中をおおざっぱに拭く。
「面白いところにあるもんだな。神は皆そこにあるのか?」
 カムイは痣のことを言っているようだ。
「知りません」と、ルカ。
 現にルカは自分のことを神だと思っていないし、他の神に会ったこともない。
「ここは急所なんだ。ここをナイフで刺せば、ほぼ即死だ」
「カムイ」と、ナオミはカムイの言葉を止めた。
 そんなこと言うものでは。だがルカは、
「知ってます。私も不思議に思い、この痣のことは調べてみました」
「そうか、知っていたのか。俺の親父は軍人だったから、戦場のことを時々話してくれたよ。仲間が死に切れないで苦しんでいる時、そうしたんだってな。お前は以前、誰かに殺されたのか。それがそうやって痣になって」
「知りません」
 ルカは本当に現世のことしか知らない。
「そうだな、お前は何も知らないんだったな。エルシアならきっと何か」
 パジャマに着替えると、
「寝るか」と、カムイはルカの腕を引く。
「少し待ってください。私は、今日はカロルと」
「奴には言っておいたよ。今夜は三人で寝るからって。今夜が母親と寝るのは最後なんだろう」
 確かにそれはそうなのだが、では、何故この男が。
 カムイはルカの腕を引っ張るとナオミの寝室へと向かった。
 ルカを中央にカムイとナオミは横になる。
「まったく、これじゃ布団が柔らかすぎて寝られねぇー」
 ルカはルカで隣の男が気になって、やはり眠れなかった。
 何度となく寝返りをうつルカに、
「眠れないのか」と、カムイは今までにない優しい声で話しかけてきた。
「俺はお前が生れたと聞いた時から、ずっとこうして寝るのが夢だった。早く戻って来ないかとずっと待っていた。ナオミだけでなくお前のこともだ。戻って来たら野良仕事を教えてやろうと。レーゼとかいうお前の前世も、若い頃は野良仕事をしていたそうだ。俺が知っているレーゼはかなり歳を取っていたからな。もう野良仕事をするほどの体力はなかった。だが村の者からは尊敬されどんな相談ごとにも丁寧に答えていたな」
 これがカムイのレーゼに対する印象だった。
「俺は、お前と一緒に働けるのを楽しみにしていたんだ。家に帰るとナオミが待っていて、冷たいお茶なんか出してくれたりして。いいと思わないか」
 カムイはカムイで父親像を作っていたようだ。
 お互い自分の経験を基に親子関係を想像しているのだから、それが合う事はない。だがその優しさだけは伝わった。
(カムイは乱暴だけど、悪い人ではない)
 シシンの言葉が脳裏に過ぎる。
 皇帝より遥かに優しい父。この人が父親だったら、私の人生はまた別のものだったのだろうか。

 その頃ケリンとナオミの兄であるテールは、ルカの部屋でハッカーごっこに勤しんでいた。どちらが早く情報部の最機密資料を持ち出せるか。
 そしてカロルとシシンは、ルカの寝室でシミュレーションゲームに明け暮れていた。カロルはシシンとベッドに仰向けになると、さっそく天井のスクリーンを操作する。
「すっ、すげぇー、これが宇宙かよ」
 そして二人のボイ人は、
「不思議な方だ」と、ホルヘはベッドに横たわり天井を見詰めながら言う。
「何がでしょうか」
「ネルガルに着いた当時は、酷い王子を宛がわれたものだと思ったが」
「王宮でのあのお方の評判はあまり芳しいものではありませんでしたからね」
 ホルヘは苦笑する。
「だが本人に会って話せば、七歳とは思えないほどの人格」
「そして今宵の村人たちの話」
「どれが彼の本性なのでしょう」
 だが一番気になるのはあの笛の竜の紋章。あれは確か。


 宴会が何時幕を閉じたのかは誰にもわからなかった。謁見の間は酷い有様だった。酒の臭いなのか異臭が漂う。村の建物は周りが襖なので全て開け広げてしまえば、大概の臭いはいっきに吹き飛ぶ。だが王宮の館はそういうわけにはいかなかった。いくら空調機をフル稼働させても、排出される臭いの量は限られている。元を断たなければ。足の踏み場もないというのはこのことだろう。アルコールが入り、体が火照ったせいか服はあちらこちらに脱ぎ捨てられており、男女かまわずそこら辺にごろ寝をしている。あげくの果てにはこの館の使用人たちまでもが一緒になって。中には真っ裸の者もいる。
 なるほど、これでは寝室の用意はいらないはずだ。
 侍女たちが客人の寝室を用意しようとした時、ナオミは、「四人部屋を三つも用意すればよいでしょう」と言った。
 向こう見ずな軍人たちの中で育ったカロルも、これには暫し呆然としていた。
「こりゃ、ひでぇー」
「鼾が聞こえなければ死体ですね」と、ルカはボイ人たちの方へ振り向くと、
「あまり見せたくありませんね、ネルガル人が全てこうだと思われるのも困りものです」
 そこへ夜勤のため仲間に加われなかった守衛たちがやって来た。
「何だこりゃー、足の踏み場もねぇー」
「少しご婦人のドレスを直して差し上げてください」
 守衛たちはルカに言われ中に入ったが、寝ている彼らを避けようとすると、酒瓶に足を取られバランスをくずすことになる。
「殿下、畳み、どうします」
 村人が帰る時に、ここの畳みも持って行ってもらうことになっていた。トラックに積み込みたいのだが。
「まだ、無理でしょう」
 皆さんが起きてからでないと。
 やれやれと思い辺りを見回す守衛の視界に、
「ハルガン曹長」
「いないと思ったら、こんなところに」
 彼も夜勤のはずだった。
 始めは村人の行動に馴染めなかったハルガンはいつしかその中心になっていた。さすがに女たらしという異名を取るだけの事はある、ハルガンの周りは侍女たちをはじめご婦人ばかりだ。
「曹長、起きてくださいよ、曹長」
「もっ、もう飲めない」と、ハルガンはじっと自分を揺すり起こした守衛を見詰め、
「なかなかおわゆい手だ」と、その守衛の手に愛撫すると、そのままくずれるように寝込んでしまった。
「そっ、曹長」
「駄目だ、こりゃ」
 そこへシシンがやって来た。どうやらこういう光景は見慣れているのか、全然気にも留めず、
「お早う御座います」と、元気よく挨拶して来た。
「夕べは、よく寝られましたか」
 数人の者はきちんと寝室を使って寝ていた。
「はい。カムイは?」
「母と一緒です」
「そう」と、少し寂しそうな顔をした。
 一晩だけルカに貸してやったつもりなのだろう。どうやらシシンはカムイが好きなようだ。
「よかったら、私の部屋に来ませんか。あげたい物があります」
 それでシシンは昨日のことを思い出し、断りもなくゲームをいじったことを謝ろうとした。
「実は夕べ」
「知ってますよ。カロルさんに聞きました。楽しかったですか」
 うん。とシシンは頷く。
「あれ、全部ルカ様が作ったの?」
「プログラムだけね。それにルカでいいですよ」
「でも」と、シシンは困った顔をする。
 神様を呼び捨てにするわけにはいかない。
「では、お兄さんですか」
「えっ、兄貴って呼んでいいの」
 ルカは頷く。
 村ではお互いが信頼関係を持つと、親兄弟として呼び合う慣わしがある。
 神様から弟として認められるのは光栄なことだ。
「じゃ、僕のことはシシンでいいよ、弟なんだから」
「じゃ、シシン」と、ルカが右手を出すとシシンは嬉しそうにその手を握った。
 先程の寂しそうな顔はどこへやら。
 ルカは男の子の後ろに控えている女性に視線を向ける。おそらくこの子の母親の代わりに付いて来たのだろう。女性は軽く頷いた。ルカはそれを許可と取った。
「こっちへ」と、男の子を促す。
 そしてボイ人たちには先にダニイングルームへ行くように頼んだ。
「兄貴、何ですか、僕にくれたいものって」
 ルカは男の子を自分の部屋へ入れる。
 そこにはケリンとテールがまだいた。
 二人がかりで一晩やれば、盗み出せない情報はない。
「集められるだけ集めておいたぜ。さすがに相棒がいいと仕事も速い」
 だがテールは不安げな視線をルカに送った。
 全てを知ってしまった。ルカのボイ星行きの真の目的も。
 ルカはその視線をさけるようにして、
「心配には及びません。リンネルを始めケリンやハルガンも一緒ですから」
「ナオミはこのことは」
 ルカは首を横に振った。
「そうか。俺にしてやれることがあるかな」
「母を、頼みます」
 それは頼まれなくとも、テールはケリンの方を見ると、
「君の力は充分に見せてもらった。ルカ様を頼めるかな」
 ケリンは一緒に行くと名乗りを上げた段階で、既にそのつもりだった。
「少し、休みますか」と、ケリンはテールを誘う。
「ああ、そうするか。肩が凝った」と、テールは交互にうでを回しながら、二人は部屋を出て行った。
「何やっていたの、あの二人」
 カロルはまずいという顔をしたが、ルカはいけしゃあしゃあと、
「ゲームを作っていたみたいですよ。まだ完成していないようですけど」
「もしかして、あのベッドのような」
「テール伯父さんなら、あのぐらい作れますよ」
「ほんと!」
 シシンは嬉しそう。村に行ったらさっそくねだりそうだ。
 ルカは部屋の片隅に飾ってあった戦艦のレプリカに手を伸ばす。
 あっ。というカロルの顔を無視して、
「これ、あげるよ」と、ルカは男の子にそのレプリカを差し出す。
 それはカロルからもらったレプリカだ。
「これは、戦艦フレイアですよね」
「そうですよ、知っていたのですか」
「だってこの船は戦艦の中でも一番綺麗だといわれているんですよ」
「別名、銀河の貴婦人だそうです」
「うん。ちょうど神様みたい」
 どうしてもこの子には私が神に見えるようだ。
「シシン、さっき言いましたよね、兄貴でいいって」
「う、うん。じゃ、兄貴」と、シシンは照れくさそうに。
「僕、兄貴を始めて見た時、綺麗な人だなって思ったもの。カムイもそう言っていた」
 ではカロルもそう思って、この船を。そんな思いでカロルを見ると、カロルは別な所に視線を逸らしていた。怒っているのか?
 シシンはレプリカを受け取ると暫く眺めていたが、
「本当にいいの、もらって」と、再度確認すると、礼を言って皆のいる所へと戻って行った。
 早く皆に見せて、自慢したいのだろう。
 男の子が去ってから、ルカはカロルに訊く。
「怒っているのか」と。
「いや、別に」
「では何故、視線をそらした?」
「あの子も俺と同じことを感じていたんだと思って。お前にやるよりあの子にやった方がレプリカも喜ぶだろう。大事にしてもらえそうだからな」
「別に私は、粗末に扱った覚えはないですが」
 本の間に挟んでおいてか。と言いたいところを、
「俺からのものだから、捨てるに捨てられなかったんだろう」と、言い換えた。
 どことなく本音を突かれていた。
「これからはお前には果物を送るよ。その方が喜ばれそうだ」
 これからがあるなら。
 ルカは果物が好きだった。それも木からもぎってそのまま食べる。上品なのか原始的なのか、両極端が混在するのがルカだった。だが、かぶりつくその姿すら品良く見えるのだから始末に悪い。

 謁見の間はやっと二日酔いの者たちが目覚め始めたところだった。その中を元気良くはしゃぎまわる子供。
「ねぇっ、見て見て、神様にもらったんだ」
 やっぱり神様に戻っていた。もっとも村人に言うのなら、こっちの方が話が通りやすいのだろう。
 ルカは、私は普通の人間なのにと半ば諦めつつ、はしゃぎ回るシシンを眺めていた。
 もう二度と使えないのではと思えるほどに散らかり異臭を漂わせていた部屋も、昼過ぎには塵一つないほどに片付いていた。畳みもきれいに上げられ、もとの威厳のある壇や椅子が据え付けられている。おまけにこの香り。良く見れば部屋の片隅にお香がたかれてあった。
「いいでしょう、この香り。朽ちた竜木なのよ」
 竜木はこんなふうにも使えるのか。
「ええ、心が落ち着きます」
 母の部屋からもときどき香っていた。
「立つ鳥跡を濁さずですからね」
 畳は小型のトラック五台に積み込まれていた。
「いいのですか、全部もらってしまって。トラックまで」
 農作業をするのにあれば便利と言って、ナオミはわざわざ小型のトラックを数十台用意させた。
「いいですよ、畳は使いませんから」
「村に戻ったら、まずお社の畳から入れ替えるね」と、シシン。
「そうだな」と、長老も同意する。
 ナオミの荷物もほぼ積み終わったようだ。こちらはカムイが頑張っていた。荷はあっさりした物だった。大半は侍女たちに形見分けしたか換金して従者たちに分け与えた。こんなもの着ていたら野良作業はできないからと。
 荷造りが済むと村人たちは謁見の間に集まって来た。今朝とはがらりと雰囲気が違った部屋と人々。湯浴みをしたせいか誰もがこざっぱりとしている。
「夕べは、ご馳走様でした」
 それはナオミにではなくルカに対して言っているようだ。
「いいえ、大したお構いもできずに」と、ルカは返した。
「兄貴は、一緒に村へ戻らないの」と、シシン。
「陛下のお許しがいただけないので帰れないのだ」と、長老が諭すようにシシンに言う。
「陛下?」
「皇帝陛下のことだよ」と、別の村人が教える。
「神様より偉いの?」
「さあ、わしにはわからん。わしは神様のほうが偉いと思うのだが」
「庄屋様、あまり迷信的なことを子供に教えない方がいいと思いますが」と、ルカはさりげなく長老に忠告する。
 長老は微かに笑うと、
「皇帝陛下はご自身のお創りになった王朝は守れても、ネルガル星を守ることは出来ないからな。そういう意味では神の方が偉いだろう。ネルガル星がなければ今の王朝もありえないのだから。それに村の子供たちは小さな時から神様を信じて生きていく。神様もまた、村のことを一生懸命に考えて下された。だから村の者たちは神様を疑ったことはない」
「すみません、私は」
「よいのです。今回は異例のことばかり、何かあるのでしょう。エルシア様は昨夜カムイに仰せになられたそうです。村を見捨てたわけではないと。そのお言葉を信じましょう。神は一度も我々に嘘を付いた事は御座いませんので」
 エルシアが昨夜? ルカには記憶がない。何時? 一緒に寝ていた時か。
「何時です、何時、彼は現れたのですか」
「池に佇んでいた時だ」
 答えたのはカムイだった。
「でも、あの時は私も」
「あいつには時間という感覚がない。いつもあいつと話をする時は時間の感覚がずれる。俺には五日も十日も経ったような気がするのだが、実際の時間はたったの一、二分しか経っていなかったりする。昨夜も奴とは暫く話したような気がしたのだが、実際には一秒ぐらいだった。この間、お前の意識がなかっただけだ。だからお前は気づかない」
 一秒ぐらいのブランクでは、連続した記憶の流れに流されてしまう。
「もう、表に出ることもないだろう。と言っていた」
「どうしてですか?」
「お前の魂がしっかり肉体に根付いてきたからさ。そうなるとお前の意識を落として表に出るのは難しくなるらしい。昨日ももっと話したかったようだが、あれが限界のようだった」
「彼には時間が存在しないのですか」
「全然ないわけではないな」と、カムイは暫し考え込む。
 この感覚をどういえばルカに伝えることができるのかと。
「そうだ、ちょうど夢みたいなものだ。夢って自分の一生を見ても、一晩だったりするだろう。あんな感じだな」
「私は、彼に会うことはできないのでしょうか」
 カムイは腕を組み考え込んでしまった。
「お前自信だからな」
「でも母は、彼と話すようにというのです」
「ナオミが。じゃ、その内どうにかなるんじゃないのか」と、無責任に答える。
「竜宮へ行かれれば会えます」と、ナオミ。
「竜宮?」
「あなた自身の人格が集まっているところです。言うなれば前世のあなたが」
 魂は一つではない。数十、数百、あるいは数千の人格が集まって一つの魂となり一人の人間として誕生してくる。だから一人の人間がいろいろな面を持っているのは当然。時として自分でも気づかないほど。
「村の社のことですか」
「違います。あなた自身の体内にある世界です。本来誰でも大なり小なり持っているそうです。魂の力の強い者は、そこへ他の魂を招くことができるそうです。私もカムイもそこへ呼ばれ、そこでカムイにそっくりなあなたに会った」
 それがエルシア。だが実際エルシアはカムイになど似ていない。今はルカが成人した時の姿で現れる。
「どうすればその竜宮へ?」
「それは私にもわかりません。気づくとそこにいるのですから」
 ルカは考え込む。
 ナオミは申し訳なさそうな顔をした。もう少し傍に居て、この子の力になってやりたかった。
「そろそろお時間です」と、侍女。
 宮内部の方から迎えが来たようだ。
 エントランスホールには既に皆が集まっていた。
「母上、お体に気をつけて」
「あなたもですよ。命を大切にしてください。私が与えた命なのですから」
「はい。私は転生など信じてはおりませんから」
 まぁ。とナオミはこの期に及んでもそんなことをいうルカに呆れた顔をして見せたが、
「そうね、その方がいいわね。その方が命を大切にしますもの」と、逆に納得してしまった。
 それからナオミはボイ人の方を向くと、
「わがままな子ですが、よろしくお願いいたします」と、丁寧に頭を下げた。
「母上、ご心配にはおよびません。私はきちんとやれますから」
「そうね、あなたならきちんとやるでしょう。でも時には寛容も必要です。細かいことにこだわり過ぎず、おおらかな心で」
「わかっております、母上」
 ルカには時々几帳面すぎることがある。もう少しずぼらな方が、下で仕える者には仕えやすいのだが。私がずぼら過ぎたのかしらと思いつつ、
「ほんとうかしら」と、疑ってみせる。
 ナオミには幼すぎる我が子を手放すのは心苦しい。自分もまだ未熟だが、それでもルカより経験は豊富だ。そこから学んだことを、もっと沢山この子に教えてやりたかったのだが。
「ボイの民に好かれるような王子になるのですよ」
 ナオミはぐっとルカを抱きしめた。このまま村に連れ帰したい心境に駆られる。それをぐっと押さえ込み立ち上がると、もう一度ボイ人たちに頭を下げた。
「そろそろ参りましょうか」と、長老。
「ええ」
 村人たちは既にそれぞれの車に乗り込んでいた。
「みなさんに可愛がってもらうのですよ。それと王女様を大切に。こちらが心を尽せば、必ず相手も答えてくれます」
「わかっています、母上。ほら、皆が待ちわびていますよ」
 ナオミは後ろ髪引かれる思いで車に乗り込んだ。泣くまいと思っていたのに涙がこぼれる。
「元気でね」
 ハンカチを目頭に当てる。
「母上こそ」
 ルカは泣かずに見送った。だが車が見えなくなるとカルロたちの居るところから姿を消した。
 暫くして池で泳いでいるルカを見つける。
「まぁ」と言う侍女。
 だがこの時だけは誰も注意をしなかった。
 ルカは侍女たちのところへ泳いでくると、
「夕食は皆で食べよう。母のいないテーブルで食べるのは寂しいから」
 目が赤い。だが池の水のせいだと、ルカは自分に言い聞かせていた。
「そうですね」
 それで結構夕食は賑やかになった。
「あなた方はどうするのですか?」
「私たちは殿下がこの館を出るまでおります」
「そうか」
「一人減り、二人減りでは寂しいでしょ。ですから皆でいっせいに去ろうということにしたのです」
「では最後に、壮大な送別会をやろう」
「それ、いい案ですね」

 ナオミが去り、ボイ星への出航まではまだ数日あった。ルカはその間を自室にこもり、シナカへのお礼の贈り物を作り始めた。
 丁度、作品ができ、ケリンとハルガンに手伝ってもらい試し撮りをしているところへ、
「何をお作りなのですか」と、やって来たボイ人。
「民芸品では手先の器用なボイの人たちにはかないませんから、テクノロジーで」
 それはホログラフィー付きメモリーボックスだ。
 箱のふたを開けると、美しいオルゴールの調べとともにシナカからもらったブラウスを着たルカの全身像が立体映像で現れる。そして挨拶。
「どうですか」
「これはなかなかおもしろい」
「王女様もお喜びになりますよ、きっと」
 そこへ侍女たちがやって来た。
 そのボックスを見つけるや、
「まあ、すてき。これ、ボイの王女様への贈り物」
「ええ」
「それじゃ、私たちのことも映してよ」
「そうよ、殿下はこれからずーと王女様とは一緒なんだから、それより私たちは会うことも出来ないのよ、私たちにこそ映される権利があるわよね」
「ボイの王女様に挨拶しておきたいわ」
 それもそうだな。と思ったのが運の尽きだった。
「じゃ、貸して」と言うが早いか、一人が皆を呼びに部屋から駆け出して行く。
 その間、残った侍女たちは装置の扱い方をケリンから教わる。
 暫くすると侍女たちがやって来た。
「じゃ、撮るから。あなた方は出て行って」
「えっ、別にここで見ていても、よいではありませんか」
「駄目!」と、強い口調でルカの言葉を封じると、
「さっさと出て行きなさいよ」と、男たち全員を追い出した。
 あげくの果てには、扉にロックまでかけられてしまった。
「なっ、なんなんですか?」
 ルカの非難の声。だがそれは扉の中までは届かない。
 ボイ人たちも面食らったような顔をしていた。結局彼らも、男だというだけで追い出されてしまった。
 ハルガンは腕を組み、顎の下に片手をあて考える。
「俺が思うに、お前の悪口でも吹き込むじゃないのかな」
「俺も、そう思う。あいつらならやりかねない」と、ケリンは頷く。
「そんな、酷いですよ。まだお会いしてもいない方に、そんなマイナスのイメージ吹き込まれたのでは」
 ルカは慌てて扉に駆け寄り、おもいっきり叩いた。
「開けてください」
 だが何の返事もない。
 それもそのはず。重厚な扉は外でちょっとやそっと叩いたり蹴ったりしたところで、その音を中に入れることはなかった。無論、インターホンを押したところでそのスイッチは切られているようだ。
「ケリン、ロックを解除してくれませんか」
「断る」
 ケリンは即答で答えた。
「断るって、どうして。君の腕ならこんなロックぐらい」
「そう。だから断る。俺、やりがいのない仕事はしないんだ」
 はっ。と言うルカに、
「それに解除したところで開かない」
「どうして?」
「彼女たちだって馬鹿じゃない。外に俺がいることは知っている」
「まあ、ガスビンにでも開けてもらった方が早いんじゃないか」
「そんな、彼に頼んでは扉を繰り剥かれてしまいます」
 それほどの腕力を彼は持っていた。体型もがっしりしている。身長に至っては二メーター五十もあり、マルドック人と並んでも引けをとらない。
「わかりました。皆で私が王女に嫌われさっさとここへ戻ってくればいいと思っているのでしょう。私が解除します」
 そう言いながら守衛所へ道具を取りに向かった。
 ケリンはやれやれと両手を広げて肩をすくめた。
「まあ、言い出すときかないからな」と、ハルガンたちもルカの後を追う。

 守衛所にいたのはニルスだった。ボイ星行きのリストから落とされた彼は、ここのところ塞ぎ込みだ。
「殿下」
「あっ、ニルス。道具箱ないかな」
「殿下、お話が」
 思いつめたようなニルスの顔を見て、じっくり話をした方がよいなとルカは思った。
「そこへ、座ろうか」と、テーブルを指差す。
 ニルスとルカはテーブルを挟んで向かい合わせに座る。
「殿下、妻の許可も、子供たちの許可も得てきました。私があなたの供をすることを反対するものはいません。それどころか行ってくるようにと進められたぐらいです」
 ルカは暫しニルスのことを見詰めていたが、その視線をそらさないまま、
「それでも駄目です」と、ニルスのボイ星行きを断った。
「まず、子供を育てるのが先です」
「しかしその子供たちが、ボイへ行って殿下の役に立つようにと」
「それは、父親のいない寂しさを知らないからです」
 ルカは何一つ不自由なく育った。だが父と呼べる人だけはいない。
「殿下」
 ルカはテーブルの上に手を組むと、
「ネルガル人はネルガル人である前に、生物であることを知らなければならない」
 それさえ知っていれば、必要以上に自分の生活圏を広げることはなかった。相手の生活圏を奪ってまで。
「生物と無生物の違いは、子孫を残せるか残せないかの違いです。生物である以上、子孫を残すことは遺伝プログラムに組み込まれていることなのです。そのため他のどんなものとも代替することができない。金でも地位でも名声でも、これらのものがどんなにあっても子供がいないという寂しさを埋め合わせることが出来ないのです。あなたにはあんなに素晴らしい子供たちがおります、奥さんも。それらをないがしろにしてはいけない。あの子たちを立派に育ててください。自分がしっかりした父親になれば、異星人たちにも家族があることを理解できるようになります。そして彼らも父親として家族を守っているのだと。そしてそれを子供たちに教えて欲しい。これは私を守るより遥かに大切で、かつ難しいことです。私はこの任務をあなたに遂行するように命じたいのです。ボイで落ち着いたら手紙を書きます。あなたも任務の遂行度合いを報告してください」
「殿下」
「以上です。これが私のネルガルでの最後の命令です」
 ニルスはルカの手を握った。
「この命令、受けていただけますか」
「必ず」
 殿下の理想とするような子供たちに育てます。
「無理をしないでください。子供は右を向けといったところで素直に右を向くものではありませんから。そこら辺は奥さんの方が上手でしょう。カリンさんに任せるといいかも知れませんね」
「子供は思うようにはなりません。それは殿下がよい見本ですから」
「私が?」
「ええ、ときおり奥方様がぼやいておられたのを耳にしたことがあります」
「何て?」
「さあ、忘れました。私は今の殿下で充分ですから。奥方様は高望みをしすぎます」
「母上には、私はまだ物足りないのでしょうね」
「殿下、わたしはそんなつもりで言ったのでは」
「わかっています」と、ルカは微笑む。
「お体にお気をつけて、気候や食べ物が変わりますから」
「ありがとう。でもそんなに心配いりませんよ、ボイの人たちは親切そうですから」
 ニルスは少し離れて立っているハルガンたちを見た。その中にボイ人が二人。少なくとも彼らに会った限り、ボイ人に対する印象は悪いものではなかった。
「そうですね、あの二人はとてもいい人だ」
「彼らがずっと、ボイでの私の面倒を見てくれるそうです」
 ニルスは立ち上がって彼らに頭を下げた。それから、
「道具箱でしたか」と言い、日曜大工の道具箱を出す。
「ではなくて、通信機器修理用の」
「それでしたら殿下の方がいいのを持っているではありませんか」
「それが、部屋から閉め出されてしまいまして、ロックを解除しようと思い」
 えっ。と言うニルスに、ハルガンが肩をすくめてみせる。

 それから数日後、メモリーボックスを完成させた侍女たちは、守衛たちに気づかれないようにしてボイ人の部屋を訪ねる。
「何か、御用ですか」と言うボイ人に対し、三人の侍女はいかにもお茶をお持ちしましたという風情で中に入った。
 テーブルの上にお茶盆を置くと、
「実は、これをボイのお姫様に」と言いつつ、お盆の上の紙で包みリボンをかけた箱を差し出す。
「これは?」
「殿下の取扱説明書です」
 あっ? 言うボイ人に対し、
「この間のメモリーボックスです。殿下には内緒にして、そっと姫様にお渡しください」
「くれぐれも殿下には見せないでください」
「これは女同士の秘密なのですから。ボイの姫様も女性。これを見れば私たちのことをきっと理解して下さいます」
「殿下の取扱説明書ですか?」
「ええ、私たち侍女一同が苦心して作ったものです」
「姫様には絶対お役にたつものですから、ぜひとも」
 そう言うと侍女たちはネルガルのお茶を点て出て行った。
 ボイ人は暫しその包みを眺めていたが、髪の毛で封印までされていては開けるわけにもいかない。そのまま預かり姫様のところへ持っていくことにした。無論、ルカには内緒で。


2009/08/09(Sun)22:46:43 公開 / 土塔 美和
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■作者からのメッセージ
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等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
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