『悪魔の口癖』 ... ジャンル:リアル・現代 未分類
作者:三上                

     あらすじ・作品紹介
とある悪魔の、日常生活の話。

123456789101112131415161718192021222324252627282930313233343536373839404142
悪魔の口癖


 悪魔には、口にした言葉を現実にする能力がある。
 能力、というほど大袈裟なものではないかも知れない。人間に目と耳と手足と寿命があるように、天使に輪があるように、死神に鎌があるように、それはごく自然なものなのである。
 悪魔は瞬きするように言葉を行使する。しかし、その行為に全く理由はない。悪魔には寿命が存在しないため、あらゆる本能的行為に理由を持たないのである。
 ある悪魔は人の耳元に理解できない耳鳴りのような囁きを注ぎ、その人間が狂って線路に飛び込むまでを酒の肴に見守る。ある悪魔は、仲間と共に複数の人間を動かし、国と国を使ってゲームを楽しむ。天使の邪魔さえ入らなければ、そのゲームはどちらかの国が地図から消えるまで続く。長い生の、ささやかな楽しみである。
 ある悪魔も、同じように言葉を使う。その悪魔は、人間に面と向かってその言葉を言い、それに対する人間の感情の揺れと、その後の経過を楽しんでいた。


「あなたは死にます」
 悪魔に言われ、笑顔で丼を差し出した男は、不思議そうな顔をした。汗が滴る広い額に、奇妙な形の皺が寄る。彼の背後から立ち上る湯気が起こした幻聴だと思ったのかも知れない。
 カウンターの向こうから出されたラーメンを受け取り、悪魔はもう一度笑顔で言う。
「あなたは死にます」
 店内に客はちらほらといたが、カウンターに座っているのは悪魔だけだった。悪魔は油の染みついたテーブルに丼をおき、手近な箸立てから割り箸を取る。丼の中では、醤油色に近いスープの中でゆらゆらと麺が躍っていた。天井の明かりを弾くスープの油の上に、申し訳なさそうにチャーシューとネギと卵が乗っている。湿った湯気が悪魔の頬と鼻をくすぐり、香ばしい香りが全身の隅々まで行き渡った。
「お客さん、何言ってんだ」
 悪魔が見上げた男は、怪訝そうな顔をしている。汗が一筋、額から顎まで垂れた。
 悪魔は続きを言うべく口を開く。
「あなたは死にます。今から一月後の雨の日、あなたの自宅に一番近い河の中で亡くなります。亡くなる直前にあなたは心身共に大変衰弱しています。入院しているあなたの奥さんが、あなたの亡くなる一週間前に亡くなります。可哀想に。また、奥さんが亡くなった三日後に、あなたが父から受け継いだこの店が火事になります。放火です。あなたは心労と疲労に蝕まれて」
「出てってくれ!」
 悪魔の膝の上に、男がひっくり返した丼の中身がぶつかり、ジーパンと椅子を伝って床に濁った水溜まりが生まれた。悪魔の腹部より下から湯気が立ち上る。湿った湯気が悪魔の頬と鼻をくすぐり、香ばしい香りが全身の隅々まで行き渡った。床には崩れたスポンジのように麺がころがり、分厚い丼の欠片が水溜まりの中で島を作る。天井の明かりを弾くスープの油の上に、申し訳なさそうにチャーシューとネギと卵が乗っている。
 店内の、男の怒鳴り声を今まで聞いたことのない他の客が、驚いたように男を見る。男は顔を真っ赤にしてぶるぶると震えていたが、膝の上に麺と湯気を抱えている悪魔を見ると我に返ったのか、みるみる顔が青くなった。額の汗が冷水のように男の頭を冷やす。
 悪魔は椅子から立ち上がる。床に散らばった麺をぐしゃりと靴の底で踏みつけ、隣の椅子に掛けていたジャケットをとった。ジーパンの上で流れを作った液体がだらりと靴の中に侵入し、悪魔の靴に不自然な染みが生まれる。
 悪魔は笑って言った。「ごちそうさまでした」

 一月後、悪魔はだらだらと歯磨きをしながら、テレビでとあるニュースを見ていた。時刻は深夜に近く、室内の光源は、テレビの光と熱帯魚の暮らす水槽の青いライトだけである。カーテン越しの冷たい窓ガラスを、しきりに雨が叩いていた。
 悪魔はブラウン管の小さな画面を見つめながら、少し寂しそうに呟いた。
「あのラーメンは美味しそうだったなあ」



「あなたは死にます」
 悪魔に言われ、カードを操っていた女性は、悲しそうに目を伏せた。カードを操る指は悪魔より細く、悪魔より白い。爪だけは悪魔より短かったが、鮮やかな桜色であるはずのその部分も、作り物を貼り付けたように白い。スーツも、頬も、目も、殆ど同じ色をしていた。顔色は何より白紙に近かった。
 女性が広げたカードを眺めて、悪魔はもう一度笑顔で言う。
「あなたは死にます」
 ショッピングモールの、最も人気の無い一角にある空間には、届くBGMも投げやりである。遠くの無人エレベータが信じられないほどうるさい。
 衝立で仕切られただけの空間だった。衝立には悪魔にとって見飽きたものである安っぽい飾り布と、一回千円と書かれた看板がぶら下がっている。端が黄ばんでおり、古そうな看板だ。カードを乗せているテーブルクロスは、元の色はきっと白かったのだろう。人の垢と紙幣のインクと慈悲のない照明に黒くなっていた。女性が少し俯けば、その表情を窺うのは難しいほど、絶対的に明るさの足りない空間だった。
 女性は目を伏せていたが、やがて悲しそうに顔を上げて、悪魔に言う。
「私には、あなたの言葉は本当になるであろうことが分かります。昔からそうでした。私は本当のことは、占わなくても分かるのです。私は、私は。いつ、どうやって死ぬのですか」
 女性が両手を重ねて握った拳は、性能の良い携帯のように震えていた。
 悪魔は続きを言うべく口を開く。
「あなたは死にます。今から二週間後、このショッピングモールの従業員用出入り口を出て右に曲がった、建物と建物の間の暗い隙間で亡くなります。亡くなるときあなたの身体は、風で飛んできた新聞紙やゴミが被さっており、腹部に包丁が刺さっています。可哀想に。あなたの恋人の、昔付き合っていた女性が自宅から持ち出した包丁です。あなたが亡くなった直後に、あなたの恋人がその場所にやって来ます。恋人は女性が刺したのであろう包丁を抜き取って、丁寧に指紋を拭った後、ゴミ袋に押し込みます。あなたの恋人は、あなたを刺した女性と頷きあって、他の県に引っ越します。あなたは暗い隙間で、三日後にようやく発見されます。その時のあなたは」
「ああ、あああ」
 悪魔の言葉の途中で、女性は顔に両手を押しつけた。べたり、と、仮面に白いこんにゃくが張り付いたようにも見える。
「ああああああああ」
 そのまま、今まで沢山の言葉を行使してきた悪魔にも分からない言葉を口から垂れ流した。彼女の口の中は何より暗い泥の穴で、彼女の声帯は重油に浸されたタオルだ。彼女の声が空間の琴線を掻きむしる。それでも、彼女の声は悪魔以外の誰にも届かなかった。ショッピングモールの、最も人気の無い一角にある空間には、届くBGMも投げやりである。遠くの無人エレベータが信じられないほどうるさい。
 悪魔は椅子から立ち上がる。きらりと光るグリーンの靴の尖った爪先をそろえると、そっと頭を下げた。頭を上げ、零れた横髪を耳に掛け直す。
 悪魔は笑って言った。「ありがとうございました」

 二週間後、悪魔はだらだらと爪にグリーンのマニキュアを塗りながら、テレビでとあるニュースを見ていた。時刻は深夜に近く、室内の光源は、テレビの光と熱帯魚の暮らす水槽の青いライトだけである。カーテン越しの冷たい窓ガラスを、しきりに風が撫で回していた。
 悪魔はブラウン管の小さな画面を見つめながら、少し不思議そうに呟いた。
「一回千円は高いよなあ」



「あなたは死にます」
 悪魔に言われ、フェンスを掴んでいた少女は、面白そうに首だけ振り向いて悪魔を見た。細い足が印象的で、青い空によく映える背中だ。裸の足裏は汚れたコンクリートを掴み、潤った眼差しは遠くの雲を掴んでいる。余裕のあるブラウスは風向きによっては少女の背中に張り付き、くっきりと形の良い肩胛骨を浮かび上がらせた。
 少女が遠くへ飛ばした靴を見送って、悪魔はもう一度笑顔で言う。
「あなたは死にます」
 平日の白昼、病院の屋上は意外なほど人が少ない。実際この平らな空中にいるのは少女と悪魔だけで、少女は平面の縁に殆ど足を引っかけているだけの状態だった。少女と悪魔の間には、悪魔が全力で走ってもいくらかかかるほどの距離がある。
 日差しは無責任な暖かさを内包していた。小高い丘の上にある病院の最も高い場所からは、どんな崇高な建物も、どんな美しい木々も、何かの蓋に見える。時々鳴く鳥は、時々吹く風に揺れて音を立てるのかも知れない。時々吹く風は、時々視界を掠める緑の葉っぱが欲しいのかも知れない。
「君、嬉しいこと言ってくれるね」
 少女が笑う。悪魔は首を傾げた。
「嬉しいこと?」
「うん」
「普通は嬉しいことではないと思うけれど。あなたは死ぬんですよ?」
「ほら、やっぱり。あなたは私を喜ばせる天才かも」
「どうして?」
「私は死という概念と言葉が好きなの」
「よく意味が分からないな」
「私には手を伸ばしたくても伸ばせないものだから。あなたのでまかせでも、興味があるわ」
「でまかせ」
「それで、私はどんな風に死ぬの?」
 悪魔は続きを言うべく口を開く。
「あなたは死にます。今から四時間後、病院のベッドで、麻酔をかけられて眠るように亡くなります。亡くなる四時間前あなたは、そこから一歩踏み出し、病院の四階の屋上から落ちます。途中にある木々がクッションになりますが、あなたは地面にぶつかり全身のあらゆる骨を折って、頭を強打します。可哀想に。ひしゃげたあなたを病院の関係者が発見し、誰もが全力で処置を施します。あなたは一度だけ意識を取り戻しますが、その時母親の顔を見て安心した後、瞼を降ろします。あなたにゆっくりと医師が触れて、そして」
「そして?」
「あなたは亡くなります」
「よかった!」
 少女が笑った。遠くで鳥が鳴いた。時々鳴く鳥は、時々吹く風に揺れて音を立てるのかも知れない。時々吹く風は、時々視界を掠める緑の葉っぱが欲しいのかも知れない。
「よかった?」
 悪魔は問いかけた。特に意識を込めない、純粋な問いかけの言葉だった。
 少女が笑った。
「私、痛いのも、苦しいのも、生き続けるのもダメなの。そんなに簡単に、しかも苦しめずに死ねるなら、私、幸せな気がする。しかもあなたの言うことは、本当になる気がするし。どうしてかな? 今日ここで初めて会った人なのにね」
 少女が笑った。悪魔は自分が驚き、あっけにとられていることに気付く。
 少女はずっと首だけを振り向かせて悪魔の方を見ていたが、やがて首の方向を真正面に戻した。悪魔は少女の表情が見えなくなる。少女はぐるりと肩を回すと、それじゃあ、と空に向かって言った。
「あなたの言葉は本当になりそうだから、責任とってね」
 それだけ言うと、少女はコンクリートの縁から、空中へ足を踏み出した。風が少女の背中を押す。時々鳴く鳥は、時々吹く風に揺れて音を立てるのかも知れない。時々吹く風は、時々視界を掠める少女が欲しいのかも知れない。
 悪魔はフェンスを掴み、肩で息をしながら、遠い地面を見下ろした。鮮やかな緑の葉っぱの蓋に阻まれて、地面は距離すら分からないほどに遠く、見えない。悪魔は自分の額と手に汗が滲んでいることに気付いた。カラカラに乾いた喉の奥が、悪魔の言葉を求めていることに気付いた。

 一時間後悪魔は病院内で、不治の病の少女が屋上から飛び降りたことを知った。少女は決して治ることのない病に冒されており、しかし決して死ぬことのない病であって、一生苦しみと痛みに苛まれる予定だったことを知った。
 悪魔は初めて、自分の言葉を訂正したくなった。人間の感情を見たくて言葉を行使していたのに、事後経過を何も想定せずに言葉を使ってしまった。これでは少女の感情を見、少女の死を見るどころではない、と思った。
 それでも少女が一番最後に空に向かって言った言葉を思い出して、思いとどまる。珍しく煮え切らない心中のまま、病院の自動ドアをくぐり外に出た。悪魔の裸足だけが、何も知らない人間の好奇の視線に晒されていた。


 五時間後、悪魔は膝を抱えて座りながら、テレビでとあるニュースを見ていた。時刻は日暮れに近く、室内の光源は、テレビの光と熱帯魚の暮らす水槽の青いライト、そして窓の外から滲んでくる出来の悪い水彩絵の具の夕陽だけである。カーテン越しの冷たい窓ガラスを、しきりに夕陽が温めようとしてていた。
 悪魔はブラウン管の小さな画面を見つめながら、薄く口を開く。
 一分ほどそのままの姿勢を保っていた。悪戯好きの子供なら、悪魔の顔の真ん中に生まれた隙間に、無垢な指を差し込もうとしたかも知れない。
 悪魔は少し唇に力を入れた。口の中で歯を噛み締めたり緩めたりする。
 ブラウン管から、泣き声が聞こえた。手しか見えないキャスターに、顎から下しか見えない人が答えていた。しきりにハンカチで口元を押さえている。
 悪魔はじっと、見えないはずのその人の瞳を見つめていた。薄く開かれた暗い口に、テレビの光が吸い込まれるようだった。
 やがて、顎から下しか見えない人は、何も言わなくなった。今まで沢山の言葉を行使してきた悪魔にも分からない鳴き声を、延々と引きずるように繰り返していた。どうしてこんなことに、という言葉だけ、悪魔に聞こえた。悪魔は自分の服の胸当たりを掴んだ。
 悪魔は開かれっぱなしの口の中に、酸素を放り込む。
 そのまま飲み込んでしまえたらいいのに、と、悪魔は口を閉じた。



END

2009/06/10(Wed)23:09:34 公開 / 三上
■この作品の著作権は三上さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
以前も何度かお邪魔させて頂いております。
今回は一度完結した作品ではありますが、どうしても納得いかず、推敲した上で皆様の意見を頂きたいと思いました。
個人的には、どうしてもラストのオチが弱く、どうにか上手に転を纏められないかと思っています。
ご意見よろしくお願いします。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。