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『機械的な愛の世代』 ... ジャンル:リアル・現代 恋愛小説
作者:uonome
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あらすじ・作品紹介
誰でも一度は考える「愛とはなんなのか?」そんな命題を抱え、真剣に愛について思索する「僕」はテレビゲームの中から愛についての数学的モデルを探そうと試みる。その試みはとても機械的に、機械的な世代に生まれた「僕」たち特有のプロセスを踏んで進んでゆく……
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序章
「表の反対は、裏だよな。じゃあ、愛の反対はなんだと思う?」
僕がまだ高校生だった頃、東京から帰省していた先輩は呟く様にそう言った。彼は大学を卒業し、大学院へ進学が決まっていた。そのとき、僕たちは国道沿いのコンビニエンスストアの駐車場に居て、お互い缶ビールを飲んでいた。缶ビールを飲み終わるまでに、六十台もの車が法定速度を無視して、走り去っていった。
僕たちは空になった缶を国道へ放り投げると、そのまま何も言わずに別れた。
その二ヵ月後、先輩は下宿で首を吊り、死んだ。僕は先輩の死自体には特別なにも思わなかった。ただ、先輩の言葉だけが、いつまでも心の奥底に染み付いていた。僕は勉強の最中も、彼女とのデートの最中も、風呂に入っているときでさえ、その言葉の持つ意味をひたすら考え続けた。
気が付くと僕は、大学に入学していた。
*
大学には多くの夢を持つ少年達が集っていた。僕は彼らと親しくなり、人生について様々なことを語った。でも、人生だとか、生きる目的を語る場合、もしくは議論する場合に注意すべきことがある。ひとつは妥協しないこと、もうひとつは自分に嘘をつかないことだ。それらを怠ると、妥協し、自分に嘘をつく人間になる。当たり前のことだ。
残念なことにしばしば、彼らの多くは妥協し、自分を欺いた。本当の望みをはるか遠くの海へ放り投げ、黙りこくり、嵐が落ち着くまでじっと身を縮めながら、耐え抜く方法をとった。
僕はそうした、閉じてしまった貝殻を無理やり力ずくでこじ開けるのが大好きな少年だったから、色々と顰蹙を買った。それは後悔になり、反省になり、いつしか妥協へと代わっていった。そして、僕は次第に自分に嘘をつくようになり、最後には、人生を語ることなどしなくなった。そのように大学最初の一年は過ぎていった。
*
僕は酒というものをよく観察し、注意深く飲むことを三ヶ月続けた。そこから得られたものは膨大な量の情報だった。それは自他を含む人の内面についての情報がほとんどだった。当然、人が何かを得るときには、代償は付きものだ。酒量は二次曲線のカーブを描いて増加し、アルコール中毒の警告を何度も受ける羽目になった。三ヶ月目がくると、僕は酒を人並み程度に飲むように変わった。
「どうしたんだ? あんなに酒がすきだったじゃないか」
そういわれると、僕は答えた。
「どうしてか考えてみろよ。『なぞなぞ』ゲームでもしようじゃないか」
僕はその問答をとても気に入って、同じ問いかけには、いつもそう答えた。気が付けば、友人の数が半分くらい減って、一人でいる時間が倍に増えた。
*
次の三ヶ月、僕はドラッグというものを観察していた。それは今までの人生の中で最も熱心な活動だったかもしれない。柄にも無く勉強したほどだった。多くの書籍を読み漁り、インターネットで情報を集め、ドラッグに詳しい知り合いから手ほどきを受けた。それらの数パーセントは違法行為だったが、それらの九十パーセントは、違法なのか合法なのか、検討がつかなかった。少なからず、依存性を感じ始めた頃、つがいのハムスターを飼い始めた。それがきっかけで、ドラッグをやめることにした。
*
残りの半年を、僕は大学へ行かずに、テレビゲームをして過ごした。
・ウィザードリィ
・ファイナルファンタジー
・ロマンシング・サ・ガ
・俺の屍を越えてゆけ
これらのゲームをクリアした後、僕は再び大学に通い始めた。それからはあまりテレビゲームをやらなくなった。これは不思議な経験のひとつだ。
この半年を振り返ってみて、僕はひとつの後悔をしていた。
どうして、ドラゴンクエストをやらなかったのだろうか、と。
そして、僕は大学三年生になった。
*
二年間を振り返る。
様々な人間が、僕の脇を無言で通り過ぎていった。
その大半は無神論者だったので、別になにも思わなかった。
一章
世界初のコンピューターゲームは『スペースウォー』というゲームだ。このゲームが作られてから、程なくして家庭用テレビゲームが生まれた。
テレビゲームなんてつまらないと思うだろうか。
僕はそう思わない。なぜなら、テレビゲームには多くの貴重な情報が埋もれているからだ。もしかしたら、愛についての情報も、埋もれているかもしれない。
*
「暗闇の中にいると、敗北的な気分になるね」
ユリは布団の上に体育座りをしてテレビを見つめたまま、そう言った。テレビでは八十年代の制作費十億円を投じたアニメ映画が流れていて、馬鹿でかいアンプからは、気の滅入るアンビエントミュージックが部屋全体を揺らしていた。
深夜だった。僕たちは光が入ってこないように雨戸を締め切っていて、十五ミリグラムの合法ドラッグを摂取してから四時間が経っていた。ユリは素肌の上に真っ白いシャツを着て、その上に毛布を巻きつけていた。時折その隙間から細い腕をテーブルに伸ばし、焦げ付いた煙草を吸った。
「時代は変わる、なんてよく言われるわ。でも私はそう思わないね」
「そう」
「うん。時代は変わってないわ。確かにファッションや映画の技術や、アイドルはめまぐるしく変わっていくけど、時代は何も変わっちゃいないの。相変わらず、昔から退屈で苦痛でやってられない時代のままじゃない」
ユリは灰皿に煙草を押し付けた。フィルターの焦げた匂いが六畳間に漂う。
「退屈なのは、君がそう感じる感覚を持っているからだと思うよ。世界に要求する前にまず、自分が変わらなくちゃいけないんじゃないのかな。時代や環境のせいにする発言は客観的にみて、見苦しいと思うけど」
僕は僕で、テレビに映るアニメーションを網膜に焼き付けていた。真っ暗闇の部屋で、唯一、テレビの中に原色の世界が広がっていた。
「それは、思考停止に過ぎないと思うわ。最悪な場所で、どんな最高のことをしても、気分は最悪に決まっているわよ。ゲロまみれの部屋でセックスしても気持ち良いはずがない。それと、同じことよ」
「いや、わからんよ。それは」
「あんたがそう感じるのは、あんたが変態だからよ」
僕はビールを飲んだ。ユリもビールに手を伸ばし、布団にこぼしながらも飲んだ。
アニメはいよいよ佳境に差し迫っていた。
人工衛星から地上に降り注ぐ断罪の光、巨大な臓物、真っ赤なバイクに乗る英雄。年老いた少年少女。そして、宇宙の始まり。
「ああ……」
「どうした?」
ユリを見ると、膝の間に顔を沈めていた。
「最悪だね。あんたも、私も、この時代も」
確かに、と僕は言い、再びビールを飲んだ。
*
僕が始めてユリの言葉を聞いたのは、彼女が自己紹介をした時だった。
「わたしは『ありがとう』と『さようなら』を言わないことにしているの」
そのとき、僕は大学の友人たちと、とある女子大学の女学生たちと、居酒屋で酒を飲んでいた。彼女はその女学生の一人だった。
ユリの自己紹介はひどく不自然だった。普通の女の子ならば、二十歳にもなってそんなことはいわない。僕はすぐに彼女を『特別な女の子』として気に入った。
でも、今になって僕は思う。彼女の自己紹介は、他人に対するパブリックイメージの構築手段のひとつであって、彼女はいつも寂しく、人と関わりあいたかっただけなのかもしれない。現に彼女はいつもナイフと鍵を一緒に持ち歩いている。良い証拠だ。
居酒屋を出て、僕は皆から離れ、飲み屋街を彩るネオンサインを見つめていると彼女は僕の傍に来て、唐突にポケットティッシュを取り出し、差し出してくれた。
「どうしてポケットティッシュを?」
「涙を拭きたいんでしょう?」さも当然のようにユリは言った。
僕はかなり驚いたが、冷静なフリをした。
「君の方が拭きたそうだぜ?」
「ええ。私も拭きたいわ。ティッシュを返して」
彼女は僕の手からティッシュを受け取ると、鼻をかんだ。
「それで? あなたはこの後、どうするの?」
「家に帰ってテレビゲームをする。ラスボスの手前でセーブしているんだ」
「何のゲーム?」
「俺の屍を越えてゆけ」
「へえ。職業は?」
「当主が大筒士、その他は薙刀士と槍使い」
「いい構成ね」
「そう?」
「どうしてそんな時代遅れのゲームをやっているの?」
彼女はそう言って、もう一度鼻をかんだ。別に寒くはなかった。
「まず題名が良いね。『俺の屍を越えてゆけ』だもの。今の僕はそんな風に思えないほど若造だから、まずそれで興味をもった。あと、時代背景が平安時代という点も気に入ったんだ。僕は日本の昔話が大好きでね。たとえば、古事記に出てくる日本神話とかそういう類だな。十束の剣をもったタケハヤスサノオノミコトがヤマタノオロチをやっつける話は大好きだね。それと育成ゲームが好きなんだ。それが高じてハムスターを飼っているくらいだし」
「あんたがハムスターを飼っているの? 何匹?」
「つがいで二匹。名前はぐりとぐら」
「いいね」
「そう思う?」
「まずまず、そう思う」
それから僕たちは皆に気づかれないように二人だけで僕の家行くことにした。そして『俺の屍を越えてゆけ』のラスボスをやっつけた。彼女はハムスターにひまわりの種をあげたり、雑誌を読んだりした後、そのまま僕の布団で寝てしまった。
彼女が寝てしまった後、携帯電話が鳴った。友人から『うまくやりやがって』というメールが届いた。
しかし、実のところ、なにもうまくいってなかった。
*
八十年代の中頃に僕は生まれた。
遠い記憶を探ってみると、テレビでソ連が崩壊している様子をようやく思い出せる――そんな世代だ。
また、僕たちはファミコン・ブームには乗り切れなかった世代でもあった。その代わりに、小学校に上がるときスーパー・ファミコンが発売された。このスーパー・ファミコンブームに乗らねばと躍起になったのは僕だけではないだろう。
僕は親にねだってスーパー・ファミコンを買って貰った。当時、友達が必ず持っていたゲームソフトは『スーパーマリオワールド』だった。当然、僕もスーパーマリオワールドが欲しいと、親にねだったが、なぜか親父は『超魔界村』というゲームソフトを買ってきたのだった。だから、超魔界村について書こうと思う。
初めてのスーパー・ファミコンのゲームソフトだったものだから、僕はその超魔界村をやりまくった。とても熱中した、ではない。『やりまくった』のだ。
主人公はアーサーという。
銀色の鎧を纏った騎士だ。デフォルトの武器は投げ槍だった。
ある日、お姫様が魔物にさらわれてしまう。アーサーは姫を助けるために全八ステージの長い長い、冒険の旅をはじめるのだ。敵はゾンビや、ゴースト、レッドアーリマン、などなど多彩な魔物たち。難易度もかなり高く、僕は七歳にして、何度も何度も死ぬ経験をする羽目になった。
何千回と死んだあと、僕は黄金の鎧を手に入れ、魔法を駆使し、遂にはラスボスをやっつけた。ラスボスは股間から青い破壊光線を出す、破廉恥な巨人だった。
全ステージをクリアしたとき、僕は始めて感動という気持ちを理解した。自らの手で何かをやり遂げるということの大切さを知った。
僕の世代は、皆すべからく、そういう少年達ばかりなのだ。
*
勇気と諦めない心。
この二つさえあれば、どこだって生きていける。それも立派に。
「それはどうだろうね。眉唾だね、俺に言わせりゃ」
ユキオは机に麻雀牌を並べ、積み込みの練習をしていた。僕はユキオの背を見ながら、壁にもたれ『優しいサヨクのための嬉遊曲』という本を読んでいた。とても淡く、優しい恋愛物語だった。
「確かに勇気と諦めない心は大事だ。でも、度胸も必要だぜ。それと冒険心」
「僕たちには足りないものだらけだね」
「あったりまえよ」
ユキオはそういって、積んだ山から牌を引いてきた。それらを並べると、対子が六つすでに出来上がっていた。
「どうよ? 俺の七対子爆弾」
「積み込みしてまで、七対子か。貧乏臭いね」
「はっ。小さな役の積み重ねが大事なんだよ。コツコツと点棒を拾っていき、最終的には勝つ! これもひとつの教訓だな。『継続は力なり』っていう……」
「全自動卓だったらどうする?」
「それは、お前……」
少し考えた後、ユキオは何も言わずに麻雀牌を崩した。
この世の中が全自動卓だとしたら――
どんな小さな積み重ねも、すべて無駄になってしまう。僕もユキオも、そのことに気付き始めていた。でもきっと、僕たちの世代の少年少女たち皆が、気づき始めているのではないだろうか。
彼らの多くは発狂するか、大泣きした後で、すべてを受け入れるように変わっていく。でも、そのうちの何パーセントかは、いまだに発狂しているか大泣きしているはずだ。そのようなマイノリティ達は、これから、どこへ行けばいいのかを何よりも大事に考えている。積み込みの練習をしながら。
「あの女は元気か?」
「ユリのこと? 多分、元気だろ」
「この前、あいつが俺の家に来たよ」
「へえ。それで?」
「空のペットボトルを持って、こうさ。『日本酒を一合わけてくれない?』」
少しの沈黙の後、僕たちは笑った。
「相変わらずだね」
「さすがの俺も生まれて初めてだったよ。そんなこと言われたのは」
「それで? 君は分けてあげたのか?」
「ああ。一合きっかりな」
そんな話をしていると無性に酒が飲みたくなった。しかし何分、金が無かった。
再び僕は本を読み始め、ユキオは積み込みの練習を始めた。ほどなくして、家から少し離れた場所にある高校の始業チャイムが鳴り始めた。
それを契機に僕は閉め切っていた雨戸を開けた。
まぶしい太陽が部屋一杯に降り注ぎ、世界は朝になっていることを知った。
*
「君はどうしてテレビゲームをやめてしまったんだ?」
「なぜだと思う?」
僕とユリは、僕の住んでいる街で一番安い食堂で、瓶ビールとアタリメをつまんでいた。すでにあたりの店は閉まり始めている時間だった。
「質問に質問で返すなよな」
「わかった。じゃあ、あんたが一番期待していない回答をするよ。『飽きただけ』」
「それは……」
たしかにそれは、僕が一番期待していない回答だった。
「頼むよ、ユリ」
「じゃあ、質問に答えて『なぜだと思う?』」
僕は考え込む――フリをしながら、なんとかユリの本音を聞き出せやしないかと頭をひねった。
「ねえ、あのさあ。僕は君からの、いま僕が尋ねているような、質問にはきちんと本音で答えているつもりなんだけれど。それを考えると、いまこの状況は非常にフェアじゃない気がするんだけれど」
「私はフェアじゃない女だからね」
サディスティックに彼女は笑った。すこし、頭にきた。
「じゃあ、僕もフェア精神をくず入れに放り投げるとしようか。ここの支払い。誰が払うんだっけ?」
その一言でどうやら、ユリも頭にきたらしい。
「この外道」
ユリはそう吐き捨てて席を立ち、便所へと歩いていった。残された僕は、やれやれと思いながら、さきほどのユリの質問についてようやく考え始めた。
なぜ、ユリはテレビゲームのやめたのだろうか。一般的に考えてみよう。子供達は大きくなるにつれ、テレビゲームよりもやらなきゃいけないことが増えてくる。大抵、そのどれもがテレビゲームよりも教養的であるとは言いがたいけれど、そういう傾向にあるのは確かなことだ。また、子供達はテレビゲームを大きくなってもやるということに一種の恥ずかしさを覚えるようになる。それは、群れから離れた子羊のごとく、ひどく心を脅えさせる。そして、もうひとつ。単にテレビゲームが嫌いになってしまう子供達もいる。テレビゲームごときでは、自身の欲求を満たすことが出来ないからだ。それは例えば、友情や恋愛だ。それらは傍観者であるゲーム・プレイヤーでは味わうことの出来ない、自己の経験だからだ。
「どう? わかった?」トイレからユリが帰ってきた。
「君はゲームの世界、そのキャラクターになりたかったんだろう?」
「はあ?」
「君は心躍るゲーム世界の出来事を自分の事のように体験したくなった。それを体験するにはテレビゲームから離れて現実世界で自ら冒険しなくてはならない」
「……まあ、そんなとこかな」ユリは席に座った。
「私はね。愛を知りたいのよ」
そういって、ユリはグラスに残ったビールを一息に飲み干した。
「私って、魅力ないでしょう?」
「そんなことない。僕はとても感じてる」
「そう? これでも、私自覚しているのよ?」
「どうしてそんなことを思うんだい?」
「誰も、私を愛してくれないから。私の愛し損で終わるの。いつも」
「ふむ」
「あんたも私を愛していないのでしょう?」
確かにそうだった。でも、それは僕のケースだ。他の男は彼女を、いわゆる『愛して』もおかしくは無かった。彼女は少し微笑み、空になったコップにビールを注いだ。
「私、昔から本当に望んだものを、得ることなんて出来なかったわ」
彼女はそう言って、ビールをもう一本、注文した。
*
授業が始まる前の教室で、イールズの『ビューティフル・フリーク』を聞いていた。それもCDプレイヤーで聞いていた。それも目をつぶって聞いていた。
良い音楽を聴くと、世界が変わる。
暗闇の中で僕の魂は、大学の教室から爆撃後の廃墟に誘われる。灼けるような太陽が廃墟に降り注ぎ、遠くで子供の泣き声が聞こえる。辺り一帯は瓦礫の山。四角いビルは半壊し、各階層が外から見ることが出来る。二階はオフィス。三階は会議室、会議室にある熊が鮭をくわえた置物ですら見ることが出来る。壊れた水道管から水が吹き上げ、惨めな人々は汚れたコップを手に集まっている。僕は茶色い水の溜まった風呂に入っている。天井は最初の爆撃で吹き飛んでいた。
青い空が見える。
白い雲が流れる。
そこで僕はつぶやく。
「今日も空が青い、と」
突然、イヤフォンがはずれ、驚いて目を開けるとユキオが隣に座っていた。
「おい、完璧にトリップしていたな」
「なにするんだ」
「まあまあ、怒るな。ちょいと、話があるんだ」
ユキオは鞄の中から、数十ページほどのコピー用紙を取り出した。
「なんだよこれ」
「シナリオ。来週までに読んでくれよな」
「またヘッポコ自主映画でも撮るのか?」
「ヘッポコとはきついね。まあ、撮るつもりさ。今度のヒロインが激マブでさ」
「死んだ言葉を使うなよ」
「それが俺のポリシーだからな。まあ、読んでくれ」
ユキオは勝手に、僕の鞄にシナリオを詰め込む。
「今回の映画のテーマは何なんだい?」僕は尋ねる。
「愛だよ」
ユキオは答えた。
*
ユキオはとても楽しい男だ。
彼と話していると、世の中も悪くは無いと思ってしまうくらいだ。
友情に厚く、義理を忘れぬ男。彼に百円のコーヒーを奢ったら、五百円のランチを奢ってくれる。そんな男だ。
しかし、彼の書くシナリオや小説、落書きの類を読むと彼という人間が偽りのものだと言うことがしみじみとよくわかる。よくわかった。
彼は誰よりも残忍で、狡猾で、非常識な人間なのだということが。
「君は本当にひどい男だね。女の子にあんなことをさせるシナリオなんて、僕には書くことが出来ないよ」
シナリオを読み終えて、返す際に僕はそう言った。
ユキオはシナリオを鞄にしまうと、煙草に火をつけた。
「そうかい? 俺はただ、見ている人がきっと望んでいるであろう事をシナリオにしただけだぜ?」そういうと、ユキオは濃いセブンスターの煙を空へ吐き出した。
「視聴者が『あれ』を望んでいるだって?」
「ああ。なにより、俺が望んでいるね。正味の話」
ユキオが映画のシナリオでは、ある女の子が彼氏に愛されない理由として自身の性器が未完成なせいだと思い込んでしまう。彼女は色々と考えた挙句、自身の性器を広げようとメスで切り込みを入れてしまう。血が噴出し、その血は、彼女の生理の血と混ざり合う。その混合された血を納豆にかけて、監禁している彼氏に食べさせるのだった。
「君は頭がおかしいんじゃないのか?」
「お前ほどじゃあない」
ユキオは煙草を投げすてた。
その投げ方は『ファイトクラブ』のタイラーを真似ていた。
僕たちの世代は、何かを真似たり、何かのフリをしたりする傾向にあった。
*
表の反対は裏だ。
では、愛の反対は?
愛という記述は、しばしば、安易に使われる。それは聖書でさえもだ。愛の前になにか言葉がつくこともある。それは例えば、家族愛や友情愛、同胞愛、自由に言葉を加えることができる。しかし、その実体はわからない。辞書? 引いたところで、何になると言うのか。
孤独を癒してくれるのは、誰かの存在?
いつまでたってもわかりあうことの出来ない人間の、淡い希望。
現実的な問いかけに答える前に、まずこれらの物事に対して、自分なりの答えを見つけ出す必要がある。そうしなければ、たとえ現実とうまく折り合いとつけてやっていけたとしても、いつかきっと、後悔する日はやってくる。この世の理を考えもしない人間は、理性的とは言いがたい。欲望を刺激されて、快感に浸るただのオートマトンのようなものだ。入力と出力。ただ、それだけ。
意識はどこへいった?
*
大学の昼休み、僕はとても孤独な時間を過ごすことがほとんどだ。周りには多くの学生達が集い、共に食事をしたり、話し合ったりしている。僕はそんな情景を横目に一人パンを齧り、空を見上げ、鳩に餌付けをする。昼間の太陽は馬鹿みたいに暖かく、そのことだけが唯一の救いだ。
午後一時になると、皆、教室へと戻っていく。昼休みはあくまで昼休み。本業は勉強なのが学生だ。そして僕もそのはずなのに、いまだに鳩に餌をやり続けている。どうして僕は餌をやり続けているのかを考えてる。でも、よくわからない。きっと、十年後、皆があくせく汗を流して働いている間も僕だけが取り残されて、ここでこうして鳩に餌をやり続けているのかもしれない。最近、そんなことばかり考えている。
孤独な昼が終わり、夜が忍び足でやってくる。忍び足で僕の心の隙間に寂しさが募る。こういう夜にこそ、誰かに会いたい。本当に会いたいと願うと、それは意外にも叶ったりする。ユリが僕の部屋にやってきたのだ。
「あんた、ひどい顔ね」
「そう?」
「抗がん剤でも飲んでるの?」
「君はジョークがうまいね」
「鏡をみてごらんなさいよ」
僕はユリに言われるまま、バスルームへ向かい鏡を覗き込んだ。頬がこけ、髪はバサバサで薄くなりつつあり、眼の下には真っ黒い隈が出来ていた。
「どう? ジョークじゃないでしょ?」
「うん」
「どうしたの?」
「わからないんだ」
僕は部屋で戻り、布団に寝転んで、読みかけていた小説のページを再びめくった。ユリはひとつだけある座布団の上に腰をおろし、鞄の中からピル・ケースを取り出した。
「今日、どう?」ユリはピル・ケースを指でトントンと叩く。
「あまり、気分が乗らないな」
「そう。つまんないわ」
「僕もだよ」
ユリはうらめしそうにピル・ケースを鞄の中へ仕舞い込むと、山積みになっている僕のノートブックの山から一冊のノートを取り出し、ページをめくった。
「あんた、シナリオなんて書いていたの?」
「昔ね」
「ユキオみたいなこと、してたのね」
「同じサークルだったからね」
「やめたの?」
「ああ」
「どうして?」
「シナリオを書けなくなったんだよ」
「それはまた……いつごろ?」
「そうだね。僕がお酒をよく飲んでいた時期だね」
「ふうん」
ユリはノートブックを山に戻し、体育座りをしながら僕を見つめた。僕は彼女の視線に気づきながらも、まさに今、クライマックスを迎えようとしている小説に意識を集中していた。ユリは窓の外を見たり、天井のしみを見上げたり、そわそわしながら、何かを待っているようだった。
「ねえ」
「なんだい?」
「小説、読むのやめてよ」
「どうして?」いまだに僕は小説に眼を落としていた。
「今日はいろんなことを話したいの」
「僕と?」
「そうよ」
「君が?」
「当たり前でしょ」
僕は小説を閉じた。そして彼女を見つめた。彼女の顔を良く見ると、少しそばかすが増えていた。
「じゃあ、話そうか」
「うん」
「今日なにしてたの?」
「今日はね。大学に行ったわ。授業に出たの。工学基礎演習とアルゴリズム理論、あとプログラミング運用演習っていうのも。その後、学食でご飯を食べたわ。チキンから揚げとハンバーグ。安いのよ。それから、喫茶店にいって、サリンジャーの『バナナフィッシュにうってつけの日』を読んだの。でも、意味がわからないのよ、あの小説。だから、セブンスターを一箱吸い切る羽目になったわ。それでも結局、意味がわからなくて、あんたの家にきたの」
そんな調子で彼女は深夜遅くまで話し続けた。彼女の話に僕は聞き疲れ、彼女は話し疲れ果てて、朝日が上ると共に眠った。
*
『ソウルブレイダー』
僕のフェイヴァリットを挙げるとするなら、このゲームをはずすことはできない。
エニックスが発売した、スーパーファミコンソフト。ジャンルはアクションゲームになるだろうか。
このゲームにはすべてが詰まっている。ゲームにおけるすべてとは、次の通りだ。
・文学性
・エンターテイメント性
・感動
・見た目の美しさ
・虚無感
これらすべてが備わっているゲームは売れない。売れるゲームとはエンターテイメント性と感動、そして見た目の美しさが備わっていれば良いのだ。文学性と虚無感が備わっているゲームは一部のユーザにしか支持されない。
ソウルブレイダーの主人公は、天空の神が遣わした救世主。その頃、地上では悪魔が人や物の魂を抜き取り封印していた。その結果、地上は何も無い荒野と変わっている。主人公は人々や草や建物の魂を解放し、装備を整え、魔法を手に入れ、悪魔の親玉を退治する旅に出るのだ。
このゲームで最も良い点は、すべての物に命が宿っていると言う世界観だ。人々はもとより、草、花、建物、機械、そのすべてに魂が宿り、主人公はそのすべてと会話することができる。なんとも文学的な世界観ではないだろうか。
そしてエンターテイメント性。当時としてはアクションが多彩だった。以前、パソコンのエミュレータで再プレイをしたが、驚いたことに、当時の感動とまったく同じ感動が、クリア後の僕にやってきた。エニックスは本当に素晴らしいゲームを作ったんだ。
ソウルブレイダーをクリアした後、どっ、と虚無感が押し寄せてきた。ソウルブレイダーの世界と、現実の世界の違いに僕は落胆し、途方に暮れるからだ。
ゲームにおける虚無感とはそのようにしてやってくる。
*
「ゲームセンターでデートとは泣けてくるわね」
それでも、僕はユリに合わせてやりたくも無いUFOキャッチャーをやっているのだった。なのに、彼女は不満気だった。
「女の子を誘うのなら、もっと気の利いたところを選ぶべきよ」
「とはいっても、僕には君の好きな場所なんて見当もつかないよ?」
彼女は『はぁ』とひとつ、ため息をついてから煙草をもみ消すと、僕に一般的な恋人達のデートプランについてレクチャーを始めた。それはデートプラン以前の、女の子を誘う男側の心理、心掛けといった基本的な部分も考慮されたものだ。
「いい? まず、女の子の好きなところがわかっていれば、当然、そこへ誘うべきなの。あんたの言うとおり、『だって、僕は君の好きな場所なんて知らない』のは、ある意味において当たり前のことよ。デートをする前に知らないのが前提なのよ。それでも、あんたは女の子を満足させなければならないのよ? わかる? そして、女の子も、それでは男の子に気の毒よね? だから、たとえ自分の好きなデートスポットでなかったとしても、男の子が頭をひねって考えたような場所ならば――女の子は許容してあげなければいけないわ。私はその点、許容しようという気はあるのよ。でも、ゲームセンターはさすがに許容範囲外よね。わかる? この話」
彼女はいちいち『わかる?』と言葉を挟みながら説明をする。それははっきり言って、僕を苛立たせた。僕は彼女の話を聞きながら、『わかる?』が彼女の口癖にならないように、と祈っていた。
「……うん。大体、わかるよ」
「よろしい」
「ひとつ、言ってもいいかな?」
「いいわよ」
「汚い言葉だよ」
「構わないわ」
「糞食らえ」
そうして、僕たちは結局、UFOキャッチャーで熊のぬいぐるみを手にいれ、メダルゲームを心行くまで堪能し、帰路に着いた。雨が降っていたらしく、とても冷える夜だった。きらきらとダイヤモンドの様に路面が黒く光り、僕は彼女の存在を感じながら、その路面を見つめていた。コンクリート・ブラック・ダイヤモンド。そんな感じだった。ユリはゲームセンターから出ると、すぐに煙草に火をつけた。僕は煙草を切らしていた。
「悪かったわ」
「何がだい?」
「さっきのこと。デートについて私が垂れた講釈うんぬんについてよ」
「なにも悪くないよ。むしろ勉強になった」
「でも――私、ゲームセンターで、かなり楽しんだわ」
「そりゃそうさ。ゲームセンターってのは楽しむべくして作られた場所なんだから」
「私の負けね」
「変な表現」
「でも、事実私の負けよ。今度、また誘ってくれないかしら」
「いいとも。今度は君のありがたい講釈の通り、頑張って場所を考えるよ」
「もし、次誘うとしたら、どこへ連れて行ってくれる?」
僕は指を顎の先にあてて、考えるフリをした。そして、考えるフリを充分に演じた後、改めて考え始めた。
「そうだね。今度、僕は君を――」
言葉を言おうと口をあけた。白い息が流れた。
「裁判所へ連れて行くよ」
「どうして?」
「二人で一緒に傍聴席に座るんだ。そこへ様々な容疑者達が連れてこられるだろ? 僕たちは二人で息を飲んで、裁判の様子を覗う。時には、有罪になってしまえって思う男もいれば、無罪になってくれって思う女もいる裁判所を出て、僕たちはそのことについて話し合うんだ。僕たちはそうやって、お互いを分かり合えるんじゃないだろうかな」
「……ふうん。私の評価を聞きたい? 今、あんたが考えたデートスポットについて」
「ぜひお願いするよ」
ユリはコンクリート・ブラック・ダイヤモンドの上に煙草を投げ捨てた。
「最高よ」
「よかった」
*
僕はこれまでの人生で四回、セックスをしたことがある。
初めての相手は商売女だった。僕は彼女の生い立ちも、本名も、趣味や特技など履歴書に書く項目は何も知らずに、セックスをした。唯一知っていたのは、彼女を買うには一万五千円が必要であるということと、彼女がこの国の人間では無いということだった。
行為を終えた後、勇気を出して彼女に尋ねてみた。
「君は幸せなのかい?」
いま思い返してみると、僕は青かったのだ。
彼女が日本語をあまり理解できず、僕の言葉の意味を理解できないことが幸いした。
仮に僕の言葉が彼女に届いていたなら、彼女は死んでいただろう。もしくは僕が殺されていただろう。僕はそんな危険な言葉を吐く年頃だった。
二回目と三回目のセックスは同じ相手だった。しかし、相手はやはり商売女だった。
彼女はとてもこの国の言葉を勉強していた。僕は彼女と色々なことを語りあった。そして、僕は彼女に、もう一度勇気を出して言葉を紡ぎ、彼女にプレゼントした。
「君は死なないでくれよな」
「え?」
「君は死なないでくれよな」
「誰か、死んだの? アナタの大事な人?」
「誰も死んじゃいないよ。ただ、僕は君に死なないで欲しいと思っているだけさ」
「どうして?」
「だって、君は優れた人間だから」
「あなたは大学生でしょ」
「大学生なんてものは、この世で最も劣等な生き物だよ」
「そんなこと」
「今、この瞬間で最も尊い人間は君なんだよ。わかるだろ? この意味?」
「私を口説いているのね?」
「そう思ってもらっても構わない。でも本質は違う」
そして、僕は彼女とセックスをして、別れた。そして、再び会いに行った。
彼女は以前と比べて、少し痩せていた。
「どうして今日はセックスをしないの?」
「今日は君と話をしに来ただけだよ」
「それはダメよ。アナタお客さんなんだから」
「いいんだよ。僕は」
「ダメなの。私が怒られてしまうわ」
「でも、君生理だろう?」
彼女は生理だった。もちろん、だからセックスをするのが忍びないという訳でなかった。僕ははじめから、彼女と話がしたくて、やってきたのだった。
「君、宗教かなにか、入っているかい?」
「私? 何も入っていないわ」
「そう。じゃあ、神は信じる?」
彼女は少し考えた後、微笑みながら首を振った。
「よかった。僕も同じなんだ」
その後、彼女はセックスしないとマスターに怒られると何度も言った。仕方ないので、僕は口元を血だらけにしながら彼女の性器を舐め、それを『セックス』とした。
四回目のセックスは、ユリとのセックスだった。
彼女はある土曜日、突然連絡もせずにやってきた。
「良い合法ドラッグが手に入ったんだよ」
それは、いつも使っているものとは違い、長時間効く優れものだった。
「土日を潰すことになるな」
「いやなら、持って帰るけど」
もちろん、嫌なわけがなかった。むしろ小躍りしたいくらいだった。
僕たちは新聞紙を切り取り、その上でドラッグを選り分け、目分量で二十五ミリグラムの結晶をオブラートに包み、ウイスキーで胃に流し込んだ。合法ドラッグとアルコールの組み合わせは絶対にやってはいけないと、インターネットに書いていた。その組み合わせは効果を飛躍的に上昇させてしまう。致死量に満たない分量でも、ドラッグとアルコールと混ぜてしまうと、死に至る可能性があるからだ。その頃、僕たちは毎日ドラッグで遊んでいたため、効き目が薄くなっていた。だから僕たちはルールに反し、いつもアルコールで流し込んでいた。効き目を上げるのと同時に、単に僕たちは『ルールに反した』事をしたかった。なぜなら、僕たちはまだまだ子供だったからだ。
ドラッグを飲んでから、数十分ほどして、記憶が無くなった。きっと、彼女も記憶がなくなったに違いない。気が付いたとき、すでに土曜日は過ぎ去っていた。僕たちは一緒に裸で布団の中にいた。彼女の体の上に覆いかぶさるようにしていた僕は、枕元にあったミネラルウォーターを飲んだ。彼女は仰向けになって眠っていた。彼女の下腹部には僕の精液がこびりつき、僕はそれをティッシュでふき取った。
後日、彼女は生理がこなくなり、僕たちは一緒に産婦人科に行く羽目になった。
「生みたかったけど、あなたに愛されない子供なのよね」
彼女は無表情でそう言った。僕には何も言えなかった。
どうして、彼女は僕の子供が欲しいのだろうと、尋ねてみたかった。
子供を堕ろした彼女は、いつもと変わりない様子だったが、僕は生まれて始めて深い罪の意識を感じた。しかし、その罪悪感は僕の意気地無しと、子供を生みたいという彼女の意向を無視したちっぽけなものだった。勇気と諦めない心、そのどちらも僕は持ってはいなかったのだ。
四回経験したセックスのどれもが、僕には自慰行為と変わらぬものだったと思う。僕は自己満足を達成しただけであり、誰かを満足させたわけでなかった。むしろ、誰かを傷つけようとしているだけだと気づいたとき、僕は愛について疑問を感じざるを得なかった。それは愛があれば、誰も傷つけないという保障はどこにあるのか、という疑問だ。
*
終電を逃した僕とユキオは、大学から家までの道のりを黙々と歩いていた。酒が抜けきっていないために足元がおぼつかなかったが、意識ははっきりしていた。
「おい、教会があるぜ」
ユキオの指差した先には、古ぼけた教会があった。
「不法侵入してみるか?」ユキオの目は本気だ。
「やめようぜ。不法侵入するんだったら皇居とかにしよう。教会じゃ面白みが無い」
「馬鹿者! エンペラーの住いに侵入するなんて、恐れ多いだろ!」
そういって、ユキオは皇居のある方角に向かって、敬礼をした。
「そういえばさ。RPGとかで、教会に祈らないとデータセーブできないよね? それって、どうしてなんだろう?」
「開発者に聞け」
「おい。元も子もないこと言うなよ」
「ドラクエ3じゃ、王様に話さないとセーブできないぜ?」
「そうだけどさ」
「しかし、面白い疑問ではあるな。ドラクエでは毒を治療するのも教会だ。レベルが上がれば、あの呪文……なんだっけか。解毒の呪文。……キアリー、だっけか。キアリーを覚えるから問題ないんだろう。でも普通に考えると、毒の治療は教会じゃなくて、病院でやるものだよな」
「教会の神父がキアリーを使えるんだろ」
「お前こそ、元も子もないこと言ってんじゃねえか」
「確かに」
僕たちは笑った。
*
人と人とが知り合い、友達になり、親友になり、愛し合う仲になる過程を考える。これらはすべてベクトル量であり、ベクトルの向きは『好意』という軸と平行であると考える。つまり『好意』の量の増加により、ベクトルの名称は変化する。
下らないことかもしれないが、数学的に置き換えることにより、物事はより明確になり、簡素化される。この試みはひとつの大きな危険を伴っているが、それには目をつぶって考えてみることにする。
「どうしたんだい? こんな落書き、僕に見せて」
ユリはコーヒー牛乳パックから飛び出たストローを口にくわえていた。
「君が書いたのか? この文書を」
「うん」ストローを加えたまま、彼女は言った。
「どうしてこんな文書を書いた?」
「授業があまりに退屈だったから」
今日、彼女は大学の授業に出て、バイトをサボり、僕の家を訪ねてきたのだった。
「それで? 続きは書かないのかい?」
「うん。こんな出だしじゃ、書けないと悟ったからね」
「だろうね」
僕はルーズリーフの切れ端に書かれたその文書を丸め、くず入れに放り投げた。
「どうしたの? いつもの君らしくないよ?」
「あんたに関係ないことよ」
「じゃあ、どうして僕の家にきたんだよ」
ユリは黙りこくったままだった。僕は脳の隙間から泡のように浮かび上がってくる苛立ちを押さえながら、ペットボトルに入ったミネラルウォーターを飲んだ。
「あんたはどうなのよ?」
ユリは僕に向き直ると、そう言った。
「何を訊いているんだ?」
「だから、あんたはどうなの?」
「なにが?」
「わかっているくせに」
「……なにもわからないよ。いつか言いたかったんだけど、君の話す言葉には情報量が少なすぎる」
「愛のことよ」
彼女はそう言って、机に手を伸ばし、僕のミネラルウォーターを飲んだ。
実のところ、僕には彼女がそう問いかけてくることは、彼女の書いた文書を見たときから、予想できていた。
「愛……か」
「そう。語ってよ。あんたの考える愛を」
彼女はそう言い、もう一度ミネラルウォーターを飲んだ。そして、鞄の中からカートンのセブンスターを取り出し、袋を雑に破ると、僕に二箱放り投げた。
「長くなるでしょ。それ、吸ってもいいから」
僕はため息をつき、愛について、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
*
たとえば、僕の考える愛とはこういうものだ。
その村は、旧くからの慣習を堅く守って人々は生活していた。地方の小さな村さ。
その村では、知恵遅れが生まれても、迫害したりせずに大事に大事に育ててきた。今の社会と比べたら天と地の差さ。でも、知恵遅れの子を大事に育てるのには理由があった。小さな村では小競り合いがおきると、大変なことになる。なぜなら、人口が少ない分、人々は他人との関わりを大事にしなきゃいけないし、義理も尽くさなきゃいけない。だから、小競り合いが起きたら大変なんだ。異端を眼の敵にする、保守的な村というわけさ。そんな中、人々は小社会の掟に従うことにストレスが溜まっていく。そこで知恵遅れの子が必要となってくる。大きくなったら村人達のストレスを発散する役割として、彼は育てられる。要は村公認のいじめられっこさ。村長が言うんだよ。「ムシャクシャしたらこいつを殴れ。俺が許す」ってね。そう考えると、現代よりも状況は悪いかもしれない。でも、実際、彼は手厚く育てられた。彼の名前を敢えて言おうとは思わない。これは彼の話でもあるけれど、主人公は彼じゃない。
タミ子という、女が主人公なんだ。
*
タミ子はとても虚栄心の強い女だった。ついでに頭も結構悪かった。そしてなにより、不細工だったんだ。見られたものじゃない、って程じゃないけれど、彼女は醜かった。
彼女の同年代の女たちは、皆次々と嫁いでいった。彼女も、もう二十五だ。今の時代じゃ手遅れじゃないと思うかもしれないが、村では早くて十六、遅くて二十二までには、嫁いでいくのが当たり前だった。
彼女は焦っていた。若かりし頃、同年代の女たちと花畑でよく話し合ったもんさ。『私は将来、良い旦那をもらって、贅沢をする』だのそういう話さ。この村の女達は良い旦那をもらうことしか考えていない無垢な女たちなのさ。タミ子も御多分に漏れず、良い旦那をもらうことを夢見ていた。彼女はその夢を誰よりも強く願っていた。
そんなある日、タミ子の元に縁談の話がやってくる。タミ子はその話を聞いて、それはそれは喜んださ。念願の花嫁になれるんだから、当たり前だよ。そして、父親から相手を聞いたとき、彼女は愕然とした。相手は先ほどの知恵遅れだったんだからね。知恵遅れはすでに三十歳になっていて、家の牧場で牛や馬、羊なんかを育てていた。彼の家は山を持っているそれなりの資産家だった。タミ子の家は貧しかった。もうわかると思うけれど、タミ子の両親は知恵遅れの資産しか見ていなかった。タミ子の仕合せを考えていなかった訳じゃない。でも……それは……いや、その辺りについては僕もわからないね。言わないことにしておくよ。
*
ともかくタミ子の結婚相手は知恵遅れだった。タミ子は、それはそれは、ひどく反対したよあんな人に嫁ぐのなら、自殺するとまで言いだした。同年代の女友達からも陰で笑われるのは目に見えていた。タミ子は将来、私の旦那になる人は見た目もよく、体もがっしりしていて、智恵もあり、優しい人であらねばと思っていたんだ。それだけを願って、花嫁修業も文句ひとつ言わず、こなしてきたんだから反対するのは当然だよね。
しかし、親の言うことには逆らえないのが、村の掟だった。もちろん、時代のせいでもある。結局、タミ子は知恵遅れと結婚することになった。タミ子が結婚してから、タミ子の両親が太りだしたのは言うまでも無いね。
知恵遅れはタミ子を見て、まったく表情を変えなかった。何を思っているのかまったくわからない。タミ子はそう思った。結婚式を終えてからも、知恵遅れとタミ子は、その結婚生活において一言も話さない夫婦となっていた。
ある日、タミ子は街で同年代の女達と会った。彼女達はタミ子よりも早く結婚していて、またタミ子よりも良い旦那をもらっていると自負している女達だった。彼女達とタミ子は喫茶店に入り、そしてタミ子はひどく辱められた。彼女達がタミ子をあからさまに軽蔑していることが見て取れたからだ。
タミ子は死にたい気持ちを抑えて、家に帰った。旦那は黙々と、牛乳の油脂を取り除く作業をしていた。知恵遅れは強い意志を持っていた。決して仕事は休まない、真面目な男だった。しかしタミ子は、真面目に働く旦那の無言の背中を見て、旦那を殺したくなった。彼女は知恵遅れの旦那のことをこれっぽっちも愛していなかったんだ。
*
ある夜、タミ子の寝室に知恵遅れがやってきた。彼は興奮した目つきでタミ子を見つめていた。タミ子は叫びだし、逃げようとしたが知恵遅れに捕まってしまった。タミ子は全力で暴れたが、知恵遅れは筋肉隆々だ。逃げられるわけが無い。知恵遅れは硬直した自身のモノを取り出し、タミ子に見せた。
タミ子は知恵遅れのモノを見た。
タミ子は驚いた。知恵遅れのモノは、それはそれは――巨大で、猛々しく、まさに名刀の品格が備わっている風情だったのさ。これにはタミ子の性欲も抑えなくなった。タミ子は興奮する知恵遅れの体を覆いかぶさり、生まれて初めての性交を知った。タミ子はよだれを辺りに撒き散らし、恍惚の表情を浮かべて、初めての性交なのにもかかわらず五回も絶頂を経験した。彼女の子宮は、知恵遅れの精液で満たされ、そしてタミ子も知恵遅れと結婚して初めて満たされた。
しかし、タミ子は知恵遅れを好きになったとか、愛すようになったとか、そういうことは無かった。相変わらず、タミ子は知恵遅れを軽蔑していたし、憎んでさえもいた。でも、夜になると、タミ子は知恵遅れが望んでいようが、望んでいまいが関係なく性交を強要させた。満足するのはタミ子だけさ。
ところで、知恵遅れは彼女に逆らうことを恐れていた。嫁であるタミ子の要求を断ると、タミ子が何処かへ行ってしまうと思っていたんだな。知恵遅れはタミ子を手放したくなかった。タミ子はそんな知恵遅れの想いに気づいていたのさ。だから、毎晩毎晩、彼女は知恵遅れを強制的に部屋に呼び、毎晩毎晩、絶頂を感じた。イキまくったんだな。破廉恥な女さ。
ほどなくして、タミ子と知恵遅れの間に子供が生まれた。まあ必然の結果だよね。タミ子はその子供が知恵遅れだったら、どうしようと真剣に悩んでいたが、子供は健常者として生まれた。子供が生まれるとタミ子は――ここで初めて知恵遅れとの『昼の結婚生活』で満足を味わった。タミ子は子供をたいそう可愛がった。もちろん、知恵遅れも相当、溺愛した。
*
彼らの結婚生活において、子供は十人生まれた。十人目が生まれたとき、タミ子の歳はすでに四十を数えるほどになっていた。十人の子供達の中に知恵遅れは一人もいなかった。彼らが父親から受け継いだものは、強靭な肉体と強い意志だけだったんだ。一番上の子はすでに、牧場を手伝うほど大きくなっていた。親孝行の立派な青年に育っていた。
程なくして、知恵遅れは死んだ。過労だった。若い頃から一日も休まず、真面目に働いてきたツケが回ってきたんだね。彼の葬式には、村人全員と、村以外の人間も駆けつけてやってきた。知恵遅れだろうとなんだろうと、皆は知っていたんだ。彼が働き者で、真面目で、そして情にも厚い男だということがね。タミ子は彼の人徳がこれほどまであったとは、まったく知らなかった。もちろん、そのことを知って感動したわけじゃないぜ。タミ子はタミ子だ。忘れないでくれよな。
旦那が死んだ後、困ることは特に無かった。牧場は息子達が働いてくれるし、家事は娘達が切り盛りしてくれる。彼女の十人の子供達は皆、親孝行者だった。タミ子は何もしなくてもよくなり、子供達と笑いあう仕合せな生活を送ることとなった。
ある日、街へ出ると偶然、タミ子と同年代の女たちと出会い、喫茶店に入った。そこで、皆、タミ子を羨ましく思っていることを告げられた。彼女達は皆、不幸だった。彼女達世代で仕合せだったのは、タミ子だけだったんだな。
知恵遅れが死んでから、タミ子は絵を描き始めた。え? 唐突だって? そんなことは無い。タミ子はやることがもうなかったからね。息子や娘たちに感謝して、お小遣いをあげようとしても、遠慮される。だったら、絵を描いてプレゼントしようと思うのは、タミ子にしては良い思い付きじゃないか?
タミ子は油絵の具を隣の街から取り寄せ、旦那との寝室をアトリエに変えた。そして一日中、その部屋にこもって絵を描いた。子供達は、寝室をアトリエに変え、父親である知恵遅れとの思い出に浸っているのだと感動していたが、もちろんそんなことは無い。タミ子は寝室が、不要な部屋だったからアトリエに変えただけに過ぎないよ。
タミ子は、息子達が牧場で働く絵、娘達が笑いあっている絵、村の風景画、そんなものを次々と油絵に仕立て上げていった。それらは好評で、タミ子の描く絵は村でも人気になった。タミ子は、村で家事以外のことをした始めての女になったんだよ。
*
月日は流れ、タミ子にもとうとう死期がやってきた。
子供達は泣き崩れタミ子の病床に集った。タミ子は優しく子供達に微笑み、負担にならないように、心配かけないように子供達を逆に励ました。若い頃のタミ子には考えられないだろう? それほどまでに彼女は仕合せだったんだ。
ある日、タミ子の友人がやってきた。タミ子は喜び、病室に招き入れ、懐かしい昔話を語り合った。そこで、友人はタミ子に訪ねた。
「あなたは、あの知恵遅れの旦那さんと結婚したわよね。結婚当初、あなたはよく離婚したいなんて言ってたわ。でも、今となっちゃ、あなたの結婚は成功でしょう。どう? 自分の結婚生活を振り返って、あなたはどう思う?」
そういわれて、タミ子は考えてみた。知恵遅れとの結婚生活についてさ。長い長い、まるで旅のような道のりを彼女はひとつずつ、ゆっくりと思い返していった。
「どう? タミ子さん?」
友人が再び、問いかけるまで長い時間、タミ子は考え込んでいた。
そして、タミ子は上品な微笑みと共に友人に答えた。
「仕合せ――だったわ」
その三日後、タミ子は子供達と、友人達に囲まれ、天国へと還っていった。
*
話はここで終わりにしたいが、まだ続くんだ。アトリエの片付けをしていた長男が、倉庫の奥に一枚の油絵を見つけたのさ。その油絵は未完成で、下書きの段階だった。長男はそれをみて、思わず涙を流したよ。なぜかって? 兄弟の中で、彼だけが唯一、知っていたのさ。タミ子が父親を愛していないってね。長男はずっと、それが心配でならなかったのさ。いつか、母親が父親を愛してくれる日がくると、心の奥底でずっと願っていた。そして、ついに彼は発見したんだ。
その下書きの油絵には、タミ子と知恵遅れが二人、仕合せそうに笑っている様子が描かれていたのさ。描いたのは誰かって? それは、もちろん……わかっているんだろ?
これが、僕が語る愛のかたちだ。
偶然、誰かがそれを発見しなければ決して見つからなかったであろう、愛のかたち。
そして、愛とはそういうものだと思うんだよ。
それではご清聴有難うございました。
僕の愛の物語。これにて終了させてもらうよ。
*
僕はユリからもらった、二箱目のセブンスターのパッケージを破り、火をつけた。
ユリを見やると、彼女は仕合せそうに微笑んでいた。
まるで、僕の御伽ばなしの、彼女のように。
「僕のいいたいこと、わかってくれたかい?」
「卑怯よ」
「どうしてさ?」
「そういう問いかけをされて、あんたの期待通りの回答をしないと、私は馬鹿だということになるじゃない?」
「……ごめん。そういう意味で訊いたんじゃないんだ」
「いいのよ。あんたに悪意の無いことなんて、子供を堕ろした時からわかってるから」
彼女はそういうと、少し考えを巡らし始めたようだった。
「じゃあ、言うわよ。私の思ったことを。これはあなたの愛について応える行為にもなると思うの。だから、すごく怖いの」
「構わないよ」
「あんたは、愛とセックスを完全に分けて考えている。正確に言うなら、愛と性欲、つまり理性と本能を完全に分離させているわね?」
「……」
「どうなのよ?」
「いちいち途中で、イエスかノーか答えなくてはいけないのかい?」
「……意地悪」
「何をいまさら」
「まあいいわ。あんたが愛と性欲を分離して考えているのは……きっと愛に対する畏怖のようなもの。愛を神聖視しすぎなきらいがあると思う。でも、確かにその姿勢が正しいことなのかもしれないけれど」
「ふむ」
「愛というものが、全面的な人格肯定ということかしら? 外見や、他人の目。つまり愛とはあくまで、心の範疇でなければ決して認めないという姿勢に立っている」
「すこし外れてきたね」
「愛とは、自分ですら気が付かない間に育まれているもの。気づいたときに、とても大きな存在になっているのは愛。自己が知覚出来ない部分も含めて愛。でも、この考え方はただの願いに聞こえるな。あんたは雄でも雌でもなく、中性的な愛、絶対不変な愛を求めているんでしょう?」
「……君はすごいね」
「そう? これでも、あんたを一番、誰よりも理解していると思っているのよ」
「残念だけれどそれは違うな。僕を一番理解しているのは僕と……」
「母親?」
「だろうね」
僕は煙草を灰皿に押し付けると、ユリからもらった二箱目のセブンスターの、二本目の煙草を銜えた。
「あんたはマザコンなの?」
「自分がマザコンかどうかなんて、自分にはわからないよ。マザコンっていうのは、自分がマザコンであるという事なんて、認めたくないものだと思うよ」
「マザコンでしょう?」
「多分そうだね。それも重度だ。きっと」
僕は動揺していた。その結果、煙草の煙をユリの顔に向かって吐き出してしまったほどだった。動揺を誰かに知られるのは恐怖だ。
「でも、君なら許せる気がするな」
「そう? 私もあんたの敵かもしれないのに」
「敵なのかい?」
「まさか」
ユリは僕の目を見ていた。それは僕を見ているのか、僕の眼球をみているのか、わからなくなるくらの強い意志を秘めた眼差しだった。
「私、あんたの愛の考え方、好きよ」
「君は本当に……ユリ、君なのかい?」
「どういうこと?」
「君は僕と完全に違うものだと思っていた。共感してもらえるなんて」
「あんたが好きだからね」
「軽薄だよ、それは」
「愛について、私もあんたと同じような考えよ。どうして軽薄なの?」
「君が共感できても、君の世の中はきっと退屈だろう? 結局、何も変わっちゃいないんだぜ」
「あんたに『好きだ』と言うと、私がそのための努力を怠るようになるとでも?」
「きっとそうなる。だから僕は……」
「誰も愛せないのね」
「ああ。これはきっと、病気みたいなものなんだ」
「まさに病気ね。愛されたことがあまりに少ないのね」
「君はどうなんだ? 愛された経験があるかい?」
「あんたの言う愛された、は難しいわ。私にとっては」
「そうさ。だから、愛なんて信じられない。でも、それで泣いているほど、僕は馬鹿じゃない。袋詰めされた愛だって、甘んじて受け止める覚悟も持っている」
「じゃあ、受け取ってくれるの?」
「構わないよ。僕が受動的な態度でよければ」
「嬉しいわ」
二章
スマートは嫌いだ。
スマートな態度。スマートな言動。そういうものが嫌いだ。
泥まみれの言葉にこそ、真実はある。
悲痛な叫びにこそ、真理が宿っている。
*
青葉が生い茂っていた時代について書く。
それは僕がまだ、愛というものを優しく扱っていた時代のことである。
僕はこれまで女の子に対し、多くの意識を払って生きてきた。そんな中、僕の周りを何人もの魅力的な女の子が通り過ぎ、もしくは僕に声をかけ、そしてごくたまに、付き合ってきた。でも、付き合った女の子とセックスをしたことは一度もない。
そのことを考えると、僕は多くの時間を割いて、ある種の夢想をせざるを得ない。
理想的な人との付き合い方。これは相手が友人、つまり男についても当てはまる。
友情の在り方。
コミュニケーション能力。
相手との距離感。
キーワードはいくつも浮かぶ。
しかし、そのどれにも実体はなく、確固たる保障もなく、手探りで人生は流れていく。人々が死というものに憧憬を抱くのは、実体の無い相手に対し、究極的な実体として死が想起されるからであろう。事実、僕は祖父を亡くした時、そういう意味で涙を流した。その涙は悲しみを由来とするが、トリガーは実体を突きつけられたからに他ならない。想像力の問題だ。僕よりも想像力の強い人間は地球の裏側に住む貧しい人々の死にも涙を流す。それだけのことなのかもしれない。
しかし、それでも死以外に大きく実体を感じる存在。それはきっと、愛すべき存在であると僕はひとつの仮説を立てていた。
そして、現在、その最も愛すべき存在として僕はユリを定義している――でも、それ以前、ユリと出会う前にも愛すべき存在はいた。
それは、僕が酒をよく飲んでいた時期だった。
彼女の名前はアヤといった。しかし、僕にはそれが彼女の本名かどうか、いまだにわからない。彼女は身分証明書を持っていなかったし、当時の僕も身分というものが、愛の目前において、不必要だと考えていたからだ。まるっきり、この国がしてきた教育の犠牲者だったと言うわけだ。
アヤと出会ったのは、ロマンチズムのかけらもない、駅のプラットフォームだった。僕はどこかで、誰かと、たくさんの酒を飲み、プラットフォームのベンチで酔いつぶれていた。電車が去り行く轟音に眼を覚ました僕は、誰もがそうするようにあたりを見回した。すぐに家から最寄りの駅だとわかり、僕は身を起こして、大きく背伸びをした。
「ゆっくり眠れましたか」
僕はぎょっとして、後ろを振り向いた。僕が寝ていたベンチの反対側に、一人の少女が座っていた。それがアヤだった。
「あなたが起きるまで待っていたんですよ」
「……ええと」
その状況に理解なんて出来るわけも無く、僕の頭の回転数は上昇する一方だった。そんな僕を無視して、彼女は僕に向き直ると、笑顔を見せた。
それは、今考えてみても、僕の人生の中で最も美しい笑顔だった。
僕たちは一緒に駅を出て、一緒に僕の家まで歩いていた。彼女の荷物は大きなリュックサックと、コーヒーの入った魔法瓶。そして、よく喋る口だった。
「泊めてくれますよね?」
「構わないよ」
「やった」そして彼女は再び、笑った。
*
アヤが僕の家を拠り所にして、一週間ほどが過ぎた。それまでに彼女についてわかったことは、アヤという名前と、家出してきたことと、まだ未成年なことだった。そして、好きな本や音楽、映画、その他の趣味が、僕とかなりの割合で一致していることがわかった。彼女が一番好きな作家は高橋源一郎で、その中で最も好きな本は『さようなら、ギャングたち』だった。
「いいよね。あの小説。僕もすごく好きだよ」
「うん。でも、中々売っていないのよね」
「そうだね」
「『虹の彼方に』っていう本が欲しいのよ」
「見つけたら、買っておいてあげるよ」
「本当?」
「ああ」
僕の家で、彼女はいつも布団に中にもぐっていた。布団の隙間から顔だけ出して、僕と色々な話をした。僕も眠くなってくると、彼女はまるで自分の布団のように、困ったような顔をしながら、僕を迎え入れてくれた。僕はいつも彼女のぬくもりで温まった布団で眠った。
*
僕たちはすぐに友達になり、すぐにお互い惹かれあった。僕は彼女を天から降ってきた天使のように思っていたし、彼女は僕と結婚したいとまで言ってくれた。
*
僕が家に帰ってくると、いつも彼女はシチューを作って待っていた。
いつも、必ずシチューだった。
彼女はシチューしか料理を知らないわけではなく、きっとシチューを嫌いな人間なんていないだろうと本心で思っていたに違いない。正直なところ、僕はシチューなんて見たくもないくらい食傷気味だったが、それでも彼女の笑顔と言うスパイスがあれば、シチューでもなんでも食べることが出来た。
「美味しい?」
僕がシチューを食べていると、きまって彼女は呪文のようにそう問いかけた。僕はその質問に八割『美味しいよ』と言い、残りの二割は『最悪の味だ』と言った。だから、彼女は二割の確率で台所まで駆けて行き、味を確かめた。普段と同じ味だと判明すると(つまり、美味しいシチューだと確かめると)彼女は再び戻ってきて、『いじわる』と可愛らしく怒った。
よく彼女は僕に『愛してるわ』と言った。僕に対して、決して好きとは言わなかった。その理由を尋ねてみると彼女は応えた。
「だって、愛してるは好きよりも強い意味だからだよ」
それは確かに正しい事であると思った。だから、僕も彼女に対して同じ言葉を用いた。その言葉が僕たちの間に、ある程度、積み重なった時に僕たちは初めて肌を重ねた。それはまるで、男の子と女の子が裸で抱き合うようなものだった。事実、僕は彼女の中に入り込むことはなく、ただ彼女を近く――それもごく近くで感じていたに過ぎない。
彼女の体温はとても心地良く、彼女の息はとても甘い匂いがした。二人の寝床である万年床を僕たちは体液で濡らした。僕が指を入れると、彼女は血を流した。彼女の痛みを分かち合いたくて僕は唇を強く噛んだ。その行為に彼女は朝起きると『ばか』といい、唇を重ねてくれた。
*
突然、彼女は消えてしまった。買い物をしてくると言って部屋を出て行ったまま、彼女は二度と帰ってくることはなかった。
彼女がいなくなってから二日後、一人の男がたずねてきた。男はパリッとした黒いスーツを着ていて、髪はきれいに整えられ、強い意志を秘めた眼を持っていた。彼女の荷物を受け取りにきたと男は玄関先で言った。
「彼女はどうしたんです?」
「彼女はまだ未成年です。こんな所にいつまでも居るわけにはいきません」
「彼女は何者なんです?」
男は無表情を崩さす、冷静に応えた。
「それをあなたに言う権限を私はもっておりません」
「それはあんまりじゃないですか。僕とアヤは――」
男は鋭く僕を睨んだ。僕はその眼差しに言葉を失ってしまった。
「私は――いえ、私どもは、あなたの彼女に対する親切を聞いております。だからこそ、これは彼女の要望でもありますが、いざこざを起こしたくないのです。どうか、素直に彼女の荷物をお渡しください。あなたがそれを拒否するというのなら――私は彼女の父親にそのことを報告する義務があります。そして、彼女の父親はあなたを――どのように処置するか、それを考えてください。単純に法に訴えることも可能ですし、彼女の貞操を奪ったあなたに対し、彼女の父親はかなり憤慨しておりますから、もっと原始的な方法を取る可能性もあります。重ねていいますが、私には何の権限もありません。ただのメッセージボーイに過ぎないのです。ただのお使い、と考えてくださっても結構です。そして、私を遣わしたのは他でもない、彼女です」
「彼女は何者なんです」僕は再び聞いてみた。しかし、男は何も応えなかった。僕には少なくとも、彼女は僕と一緒に居るべきではない家柄か、階級の人間のように思えた。そしてきっとそれは事実だった。
「お願いします。彼女の荷物をお渡しください」
僕は部屋へ入り、彼女の荷物を取りに行き、男に手渡した。大きなリュックサック。そして魔法瓶。そして、彼女のよく喋る口も同時に手渡した。
「ありがとうございます」
男はそういって、スーツの内ポケットから封筒を取り出した。僕にはその中身がなんなのかわかり、顔をしかめた。男は僕の表情を察すると、黙って内ポケットにその封筒を仕舞いこんだ。
「ひとつ、望みがあります」
「なんでしょう?」
「彼女に言いたいことがあるんです。伝言を」
「わかりました」
僕は言葉を選び、男に伝言を託した。男は『きっと伝えます』と約束し、足音も立てずに去っていった。
その後、彼女から何の連絡も無く、僕は風呂一杯分の涙を流した。大学の食堂のメニュー表にある『シチュー』の文字を見ると、必ず彼女を思い出すので僕はそれきり食堂には顔を出していない。
僕の部屋にある万年床には、今でも彼女の血の痕が残っている。それは次第に神聖化されてゆき、甘い思い出となった。僕はいまだに布団のシーツを変えられないでいる。
*
男に託した彼女宛のメッセージは次の通りだ。
『もし、君が僕を愛しているのなら、それを証明して欲しい。そのとき、僕もそれを証明したいと思う』
*
「出演してくれるよな?」
「断る」
ユキオの誘い、それは映画出演の誘いだった。もちろん、僕は変態の作る変態な映画に出るつもりなんてこれっぽっちもなかった。
「どうしてだよ? いいじゃねえか。友達だろ? 俺ら」
「友達と、映画の出演は関係ないだろ」
「なんでだよ。ヒロインはユリだぜ?」
僕は驚いて、ハムとチーズのサンドイッチを地面に落とした。
「君はユリに依頼していたのか?」
「違うんだよ。まあ、聞けよ。以前、依頼していた激マブの娘がな、シナリオを見せたら音信不通になっちまったんだよ」
「そりゃそうだよ。何も言ってなかったのか。ロックンロールな野郎だな」
「そうともさ。当たって砕けろの精神で、見事砕けてしまったわけよ。それで、ユリにシナリオみせたら二つ返事でオーケーをもらったんだ」
「それで、何で僕に?」
「だから! ユリが裸になるんだぞ? 相手はお前しかいないじゃないか」
これはユキオなりの配慮、というものなのかもしれない。ユキオから見れば、僕とユリはそういう関係に思えるのだろう。知らない男の前でユリが裸になる。それは正直、気持ちの良いものではなかった。
「……わかったよ。付き合うよ」
「やりぃ」
でも、ひとつだけ聞いておきたいことがあった。
「……納豆にかける血は偽物なんだろうな?」
「え? ああ。もちろん。食紅とココアの混合液さ」
どちらにせよ、最悪の食い物を口に運ぶ事になりそうだった。
*
しかし、アヤが本当に僕を愛していたのなら、きっと僕に手紙を書いたはずではないだろうか。それくらい、彼女の親も許してくれるはずだ。もしくは電話のひとつでもかけてくれればよかったのだ。そのおかげで僕はこんなにも悩むことになっているのだ。
彼女のせいにする姿勢は見苦しいが、当時の僕はの心は、それほどまでに暗黒に染まっていた。いまでも、その暗黒が心の奥底に澱んでいる。
*
『ウィザードリィ』について話す。
あまりに有名なゲームなので、僕ごとき若輩者がウィザードリィについて語るなんておこがましい。それほどまでに、テレビゲームの歴史において、このゲームは重大な位置を占めている。ドラゴンクエストやファイナルファンタジーには、このウィザードリィから着想を得ているシステムが多くある。ロールプレイングゲームの祖、といっても過言は無いのではないだろうか(それでも、コアなユーザは『ローグだ!』と声を大にして言うかもしれない)
僕がウィザードリィで最も気に入った点。それは魔法である。それもマカニトという魔法だ。これはレベル8以下の敵グループを即死させる魔法である。このマカニトがあるおかげで、僕はウィザードリィをやり遂げることが出来た。それほどまでに痛快な魔法なのだ。現実にもマカニトのように、悩みごとを一掃できる魔法のようなものがあればいいと切に願う。
*
ところで、テレビゲームについて何かを話すという事だが、それには意味が無い。テレビゲームを実際にプレイすることには重大な意味がある。しかし、テレビゲームの様子を伝え聞いたところで、そこには本来テレビゲームが秘めている要素は全くといってよいほど、無いはずだ。
つまり、テレビゲームの感想などに意味を求めても、そこにはぼんやりとした無限の広がりがあるだけで、文書をそのまま眼にいれ、脳を通し、記憶の奥底にあるくず入れに捨て去ってしまうべきである。
*
「あんた、テレビゲームに逃げているのね」
本当のことを言われ、そしてそれが言われたくないとき、人は硬直する。
「人と付き合っていくのが、そんなに恐ろしいことかしら」
「ああ、恐ろしいね。特に女の子はね」
彼女は僕の冷蔵庫を開け、ビールを二本取り出し、一本を僕の目の前においた。僕は寝転んでテレビゲームをしていた。彼女はハムスターと遊びながら、僕の様子を観察しているのだった。
「この布団の染み……生理でしょ?」
「違うよ」
「じゃあ何でしょう? まさか鼻血じゃないわよね?」
「君と出会う前に、その布団には女の子が住んでいたんだ」
「そう。ロマンチックね」
「ああ。とてもロマンチックだった」
「でも、いまあんたはロマンチックじゃないわね」
僕は身を起こし、ビールのプリングをあけて、彼女を見つめた。彼女はそんな僕を無視して、ハムスターを弄んでいた。
「ユリ、そいつはどういうことだい?」
「思ったことをいったまでよ」
「テレビゲームをすることがなぜ、悪い?」
「少なくとも、ロマンチックじゃないわ」
「テレビゲームがロマンチックじゃない?」
「そうよ。人と人が恋愛する方がよりロマンチックだと思うわ」
僕は一息にビールをあおった。なぜなら、怒りで頭に血が上っていたからだ。
「よし。じゃあ、テレビゲームがなぜ、ロマンチックではないか、話してもらおうじゃないか」
「むしろ、あんたが説明すべきでしょう?」
「よし」そして、僕は再び、ビールを飲んだ。
「はっきり言おう。僕は恋愛だとか、恋人だとか、そういう物に対するこの世界のイメージは糞食らえだと思っている。なぜなら、それらは偽物だからだ。美しいモデルを提示して、人に服や指輪や、その他のものを買わせる目的ならまだ許せるよ。この国は資本主義だし、そうやって社会は廻っている。それは善ではないけれど、いわゆる必要悪だ。しかしね、愛というものをそのように軽んじて扱っていいのかい? 僕はそうは思わないね」「それが、テレビゲームをする理由?」
「そうさ。テレビゲームをすることによって、僕はこの世界とは別の……作られた世界から物事を学ぼうとしているんだ。それは虚構であることには間違いないよ。でも虚構の世界をつくるのは人間だ。つまり、僕は人から色々なことを学んでいるんだ。テレビゲームは学びだよ。それも楽しく学べる」
「全然、話が見えないわ。結局、何なの?」
確かに僕にも、自分の話していることがよくわからなくなっていた。
「僕は――」
それきり、言葉が出なくなった。彼女は僕を見つめていた。次の言葉を待っているのだ。でも、僕は――テレビゲームをする理由を考える。どうして僕はテレビゲームをしているのだ? それはアヤとの出来事があって、それから再び、僕は……。逃げてなんかいない。探しているんだ。僕は数学的なモデルを探しているんだ。過不足無く説明してくれる優しいモデルを。
気が付くと、僕の頬を涙が伝っていった。部屋は静寂が支配していた。彼女は僕を見つめ、僕は布団の血の染みを見た。その瞬間、大粒の涙がぼろぼろと――こぼれてきた。鼻水が言葉を曇らせ、呼吸が不規則になり――。
「彼女を――愛していたんだ」
ようやく、それだけ言うことができた。
ユリは微笑んで、僕の頭を強く抱きしめてくれた。
*
大学では、期末試験が開始された。そして気が付けば終わっていた。
夏休みがやってきて、期末試験を振り返ってみると、僕は何の勉強をし、なんの試験を受けたのかまったく覚えていなかった。御多分にもれず、僕も多くの大学生と同じ劣等な大学生であった。
夏休み初日の朝、僕は六時半に眼が覚めた。
布団から起き上がると、まず最初に自慢のオーディオ・システムでピンク・フロイドの『クレイジー・ダイヤモンド』をかけた。次に、冷蔵庫から冷えた缶ビールを取り出し、窓を開け放った。初夏の太陽は、まだ柔らかい春の属性を保ち、部屋一杯に早熟の香気が満たされるのを見て取ると、缶ビールのプリングを開けて、一息に飲んだ。
その後、洗濯機の中に一週間分の衣服を放り込み、陰干し用洗剤を適量入れて、スイッチを押した。全自動洗濯機なんてもう当たり前の時代だ。洗濯機が順調に音を立てて廻っている音を聞きながら、冷蔵庫から二本目のビールを取り出し、ゴム手袋をつけて風呂掃除を始めた。小さなユニットバスなので、それほど時間がかかるわけでもない。洋式トイレの蓋を閉めて、その上に缶ビールを置き、僕はアルカリ性洗剤をスポンジにしみこませ、丹念に風呂桶の垢と格闘した。
三本目のビールを冷蔵庫から取り出したとき、すでに洗濯機は止まっていた。洗い終わった衣服をとりだし、窓の外の物干し竿に次々と衣服を干していった。襟元がよれよれの衣服は、洗濯バサミで止める。
その後、ずっと読みかけのままになっていた『カラマーゾフの兄弟』の上巻を一から読もうと思い、僕は缶ビールを持ち、窓際の座椅子に座り、ページをめくり始めた。
昼下がりになり、昼食にスパゲティを茹でているときに、ユリがやってきた。
チャイムも鳴らさずに、ユリは部屋にはいってきた。フルフェイスのヘルメットをかぶって入ってきたので、強盗かと思った。
「どうしたんだ? そのヘルメット」
「バイク買ったの。ニーゴーのバイク」
「免許は?」
「大学一年の時、取ったわ」
初耳だった。
「喉、渇いたわ」
「ビールがある」
「私、バイクで来たのよ?」
「そうか」
僕は冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップに注いだ。ユリは少し、口に含み注意深く飲み干した。ユリはTシャツの下に白いブラジャーをつけていて、汗でぬれたTシャツの上から、うっすらとブラジャーの模様が浮かび上がっていた。左手首にはザ・ハイロウズのリストハンドをつけていた。
「スパゲティ、食べる?」
「いただくわ」
「ソースはどうする?」
「何があるの?」
「そうだね。まず、ペペロンチーノは出来る。あと、アサリの缶詰を使ったボンゴレ。それと、一昨日作ったチンジャオロースーの残りがタッパに入っているから……中華風味のチンジャオ・スパゲティー」
「ペペロンチーノでいいわ」
「チンジャオは?」
「遠慮」
「そうか」
僕は彼女のために、ペペロンチーノを作り、自分にチンジャオ・スパゲティーを作った。チンジャオ・スパゲティーを作るために、ペペロンチーノを作る時間の三倍を無駄にした。ようやく出来上がったチンジャオ・スパデティーを僕は一口食べ、ビールのつまみ以上の味にはならないとすぐに悟った。食事のあと、僕たちはお互い、黙って煙草を吸った。
「また妊娠したわ」
「嘘つけ。今度はちゃんと避妊したじゃないか」
「あら。避妊具をつけていても、可能性はあるのよ」
ユリは楽しそうに笑って『嘘よ』と付け加えた。僕は少なからず、安心した。
「これからの予定はあるの?」
「まず皿を洗う。それも二枚」
「一枚は私が洗おうか?」
「今日は、天気も良いし散歩がてら競馬場に行こうと思っていたんだ」
「あんた、競馬やるの?」
「今日は平日で競馬を見に来る客もいないよ。ただの散歩さ。競馬場付近は緑が濃くて、空気もうまい。この時間なら、暇な大学生のカップルが居たり、近所の主婦がベビー・カーに子供をのせて散歩していると思う」
「それ、いいわね」
「ああ。僕はベビー・カーの中にいる赤ん坊をすれ違いざまに覗き見る、というくらい好きなものはないんだ」
「重度のロリコンでいらっしゃるのね」
「三歳までの赤ん坊には、性欲を覚えるね。正味の話」
「マザコンにロリコン。なんでもありね。次は何コンになるおつもり?」
「ベトコンにでもなるかな」
「じゃあ、ナイフ術を学ばなきゃね」
「まったく」
僕は四本目のビールを開けた。
「ところで、今日の予定を全部、キャンセルしてくれないかしら」
「構わないけれど、どうして?」
「海を見に行きましょ」
「君のバイクで?」
「そう」
「君の運転で?」
「そうよ」
「僕が後ろに乗るの? 君に捕まって」
「その通り」
「僕はヘルメットを持っていないよ」
「バイクにもうひとつ、繋いであるわ」
彼女は僕の言葉をあらかじめ予想し、すべての物事において先回りしていた。
「嫌なの?」
「ああ、嫌だね。君は男のプライドについて何の勉強もしていないのかい?」
「プライドなんて、あんた持っていたの?」
「ジョークじゃないよ。男が女の運転するバイクのケツに乗るということの、男の心がわからないのかい?」
「割と俗な考え、持っているのね」
「俗とか、そういう問題じゃない」
「じゃあ、どういう問題なの?」
「ビールを持っていく必要があるじゃないか」
「だから、私、バイクよ?」
「近くの旅館にでも泊まればいいじゃないか。そうすれば向こうでも酒が飲める」
「……それもいいわね。明日も暇だし」
「そうだろう。ビールの無い小旅行なんて考えられない」
「でも、旅館に泊まるのなら、わざわざビールを持って行く必要なんてあるのかしら。現地で買えば良いじゃない。コンビニくらい、どこの田舎にだってあるわよ」
僕はビールを一口飲んだ。
「君はやっぱり、何もわかっちゃいない」
僕はなるべく、道化にならないよう真面目なフリをして言った。
「僕にとって必要なんだよ。そうしないと僕のプライドはズタズタになる」
ユリはくすくすと笑い、『あんた、小物ね』と言った。
*
僕とユリが海へ行くにあたり、準備したものは次の通り。
・ビール(一ダース)
・ラジカセ
・カセットテープ
・ザ・ビートルズ
・ビリー・ジョエル
・ザ・ブルーハーツ
・超獣戦隊ライブマンのテーマ
・日本昔話
・下着(二人分。トランクスとTシャツ)
・双眼鏡
・浮き輪
*
僕たちが海に着いたとき、すでに太陽は沈み始めていた。肌寒い風が吹き始めた砂浜には子供たちがサッカーをしているだけで、他には人影は誰もいなかった。僕とユリは落胆し、来たばかりの防砂林の遊歩道を抜けて、駐車場にあるカフェに腰を下ろした。
「手遅れだったね」
「あんたがチンジャオ・スパゲティーなんて作るからよ」
「そうかもしれない」
カフェには、僕たちのほかに客はいなかった。店員も文庫本を読んでいたし、アイスクリーム販売機には『本日の営業は終了しました』と書かれたプラカードがぶら下がっていた。何もかも手遅れな時間だった。
「ともかく宿を探そう」
「……そうね」
うんざりした表情でユリは腰をあげた。僕もリュックサックを背負い立ち上がった。彼女の頼んだブレンドコーヒーは手付かずだった。冷えたブレンドコーヒーの如く、ユリの心も冷え切っているのだった。
僕たちは海沿いの道をバイクで走り、宿を探した。彼女の要求は『海の様子をいつでも見ることの出来る部屋』で、僕の要求は『和室で、大きな灰皿がある部屋』だった。運良く、僕と彼女が要求する条件の整った旅館が見つかった。空室だらけだった。
チェックインを済ませ、僕たちは部屋に案内された。十二畳ほどの小さな部屋だったが、僕はその部屋をとても気に入った。取り替えたばかりの畳の香りが素晴らしかった。茶色い木のテーブルの上には、古びたポットと湯飲みが二つと、品の良い急須、そして石英で出来た大きな灰皿が置かれていた。ユリは黙ったまま、窓際へ歩み寄り、小さなガラス製のテーブルをはさんで、二つある座椅子の片方に腰を下ろした。
「お茶、いれようか」
「うん」
ユリは窓の外に見える海をただじっと見つめていた。古びたポットから出るお湯は、とてもぬるいものだった。
「現実なんて、こんなものよね」
僕はユリの真向かいに腰を下ろし、湯呑みをテーブルの上に置いた。ガラスと陶器がぶつかる乾いた音が部屋に響いた。それはとても憂鬱な、現実的な音だった。
「現実なんて、こんなものなのかしら」再び、ユリはそう言った。
「そうだよ」
「テレビの中では、まぶしい太陽が照り付けて、人々は楽しそうに海水浴をしたり、釣りをしたり、バナナボートに乗ったりしているのに」
「仕方ないだろ。出発する時間が遅かったんだから」
「私がテレビと同じ経験をしようと思って行動しても、いつも何かとケチがつくよ」
「チンジャオ・スパゲティーのこと?」
「それも含めてね」
これ以上ユリと話しても憂鬱になるだけだった。僕は持ってきた荷物の紐を解き、ラジカセを取り出した。いくつかあるカセットテープの中から、『超獣戦隊ライブマンのテーマ』をラジカセにセットし、再生ボタンを押した。ラジカセからは軽快なアニメ・ミュージックが流れ出した。僕はすっかりぬるくなったビールのプリングを開けた。バイクに揺られたビールは勢い良く噴き出した。
「やめてよ。そんな曲」
「どうして? 最高だよ」
「だって、そんな……」
「とても……その、理想的な曲だと思うよ」
『超獣戦隊ライブマンのテーマ』のサビは次の通りだ。
光輝けライブマン♪
明日に向かって♪
生きている 素晴らしさ 教えてやらぁ♪
*
「ああ。江ノ島なんだ。来られるかい?」
旅館のピンク電話から、僕はユキオに電話をかけていた。自分の携帯電話は家においてきてしまったし、ユリの携帯電話も電池がきれてしまっていた。こんなとき、アドレス帳をもってきたことが幸いした。僕は携帯電話が切れてしまったときに誰にも連絡できなくことを見越して、アドレス帳をジーンズに付ける小さなバッグに入れていた。普段はバッグなんてジーンズに付けていないのだけど、今回は家を出発する際、ジーンズにバッグを付けて来たのだった。なんとも幸運な偶然だ。
「なんで俺が、お前らの旅行に付き合わなきゃいけないんだ?」
「だって、今日雨だろ?」
今日は雨だった。
窓から見える砂浜はまるで忌み嫌われた土地のように、誰も居ない。
『明日こそ、海水浴もバナナボートもきっと出来るよ』
昨日の夜、そう言ってユリを慰めたのだが、今日の朝、眼が覚めて窓の外を見ると、最悪の天気だった。いま、ユリは部屋に閉じこもって中島らもの『アマニタ・パンセリナ』を読んでいる。ユリは完全に腐っていた。
「なあ、頼むよ。実のところ、かなり退屈なんだ」
「海水浴も出来ないのに、なんで江ノ島にいかなきゃいけないんだよ」
「それは……」
そうなのだった。無理を言っているのは百も承知だ。
「そこをなんとか、頼むよ」
「……まあ、仕方ないな。今から発つから、着くのは昼過ぎになるぞ」
「サンキュ」
「今度、酒おごれよな。それと飯と……女も。絶対な」
憎まれ口を叩きながら、ユキオは電話を切った。
部屋に戻ると、ユリは布団の上に横たわり、相変わらず『アマニタ・パンセリナ』を読んでいた。浴衣の帯が崩れ、浴衣の隙間からブラジャーとトランクスが見えた。ラジカセからはザ・ブルーハーツの『皆殺しのメロディ』が流れていた。ユリは本に目を落としたまま、僕が居るにも関わらず、放屁した。確かに我々人類は馬鹿みたいだった。
「調子はどうだい?」
「何の調子よ?」
「その……トランクスの履き心地はどうだい?」
「グッド」
「そう」
ユリはつまらなそうに、湯飲みに残った冷えた茶を飲み、あくびをひとつ漏らした。
「いま、ユキオを呼んだよ」
「本当?」
「ああ。退屈すぎて、死にそうだからな」
「うん。誇張じゃなく、今は本当にそんな感じよね」
僕はユリの隣に腰を下ろし、古びたポットからお湯をだして、二人分のお茶を淹れた。机の上には、恨めしそうに浮き輪がひとつ、置いてあった。僕が電話をしている間に、ユリが空気を入れたのだろう。
「シンナーって怖いのね」
彼女は『アマニタ・パンセリナ』のシンナーの章を読んでいるらしい。
「ああ。お勧めできない」
「あんた、吸ったことあるの?」
「昔だけどね」
「ふうん。テレビゲーム以外にも造詣がおありの様で」
彼女は僕の言うことのいちいちに憎まれ口を叩かずにはいられない様だった。しかし、元はといえば、この旅行計画を持ち出したのは、僕なのだから仕方の無いことだ。でも、そんな彼女の態度は僕をずいぶんとうんざりした気持ちにさせた。
「ねえ」ユリは文庫本を閉じ、僕に向き直って言った。
「なんだい?」
「ユキオが来るまで、まだ時間があるんでしょう?」
「ああ。昼過ぎにつくからね。まだ、三時間はかかる」
ユリは僕の腕に自分の腕を絡ませた。彼女のCカップが僕の二の腕に当たった。
「セックスしない?」
「断る」
「どうして?」
「まだ、朝だよ」
「また、そういう事を」
「それに、まだ朝飯も食べていない」
「私は欲情してるのよ?」
「僕は欲情していない」
彼女はむくれて、『あーあ』と言葉を吐いて、布団の上に寝転んだ。
「つまんない」
「そんなの、わかりきったことだろ?」
僕がそう言うと、彼女は勢い良く起き上がり、僕を睨んだ。そして、一語一語、はっきりと、僕に言い聞かせた。
「『あんたと一緒にいるのにつまんない』なんて耐えられないって言ってるのよ?」
彼女の眼には、涙が溜まり始めていた。僕は重大なミスを犯しているのだった。僕は彼女を引き寄せ、強く抱きしめた。
「そういうことなのか」
「そういうことよ」
「いま、僕たちは二人きりでいるんだものな」
「そうよ。私達、一人きりじゃないのよ」
僕たちはお互いの耳に対して囁く様に話した後、僕たちはセックスをした。昼までに三回のセックスした後、布団の中で彼女は言った。
「私とのセックスにも愛は感じない?」
「君は感じてるかい?」
「わからないわ。でも、あんたに必要とされているのは、わかる」
「確かに僕には君が必要だ」
僕は服を着て、お茶を一杯飲んだ。無性に喉が渇いていた。
「……やっぱり、愛してない?」
「ごめん」
「いいのよ。あんたの愛は複雑怪奇だもの」
「僕もそう思う」
「待つわ」
「ありがとう」
*
その日の夜、雨が上がった江ノ島の町へ僕たちは繰り出した。適当な食堂を見つけ、腹ごしらえをした後、適当なバーに入った。そのバーはこぢんまりとしたバーだったが、店の雰囲気はとても素晴らしかった。僕たちのほかに、客は一人しかおらず、またその客が白髪の老人だったものだから、ユリは興奮していた。ユリ曰く『まるで、絵に描いたような理想的なバーね』とのことらしい。
僕たちはひとつきりしかないテーブル席を陣取り、ビールを三つ注文した。ほどなくして出されたビールは、僕がいままで飲んだビールの中で最高の物だった。
「しかし、お前達はまるで蝋細工の人形のように、脆く儚いね」
ユキオは僕とユリにむかって、そう言った。
「そうかしら?」
「俺に言わせりゃ、そうだね」
僕は二人の会話を聞きながら、ピスタチオの殻を剥くのに必死になっていた。
「プラトニックなのかい? お前達は?」
「いいえ。ユキオが来る前に三回もしたわ」
ユリは言わなくていいことをペラペラと話す。ユキオは上機嫌になった。
「そうか、そうか。やることはきっちり、やっているのな」
「彼、すごいんだから」また言わなくてもいいことを言う。
ユキオは喉を鳴らして笑い、ビールを一口含むと、背を伸ばして僕たち二人をまじまじと見つめた。
「しかしなあ。生きるという、強い意志がお前達からは感じられないな」
「同感よ。逆にユキオからは、生きる意志を感じるわ」
「それでも、ユリはまだ良いさ。問題はこいつだね」
ユキオは僕の方に向き直った。丁度そのとき、ピスタチオの殻を剥く事が出来た。
「お前はいい加減、現実を見つめたらどうなんだ?」
「見つめていないかね、僕は」
「見つめていないねぇ。俺に言わせりゃ」
「というと?」
「お前は世の中すべてに対して、何の興味も抱いていないように見えるぜ」
「そんなことは無い。テレビゲームに対しての興味は、ユキオにも負けないさ」
「あのなあ」
「それとビールも。世界中を旅行して、最高にうまいビールを探し出す旅に出かけたいくらいだ」
「あ、それ私も一緒にいく」
ユリは僕の腕を大げさに掴み、ドイツははずせないだの、ギネスは嫌いだの、そういうことをぽつりぽつり語った。なんだか明日にでも、成田から出発するような勢いだった。僕たちの様子をユキオはなんとなく、満足げに見ていた。その視線はユリも感じていたことだろう。
「そうかそうか。ともかく俺は安心だよ」
「なにがだい?」
「いや。お前らのことさ。俺のことじゃない」
ユキオはそう言うと、旨そうにビールで喉を鳴らした。
「ところで、宿に帰ったら何をするんだ?」思い出したようにユキオは言った。
でも、それは僕もユリも考えていなかった。三人で何かをやるといっても、思いつかない。トランプも無いし、麻雀も無い。部屋にあるのは浮き輪とカセットテープ、そして僕の精液の溜まったコンドームが机の上に置いてあるくらいだ。
「明日は晴れるのかしら」
ユリはそれだけを心配しているようだ。天気予報は明日晴れるといっていたが、いつも天気予報に裏切られているのが、ユリだった。
「じゃあ、仕方ないな。予行演習でもやるか」
「なんの予行演習だい?」
「映画だよ。え・い・が! まさか……お前ら、忘れていないだろうな?」
僕とユリはきょとんとして、顔を見合わせた。
*
ユキオの映画の題名はその名も『クリトリス』だった。英語で表記しているのだが、果たしてそれが正しい綴りなのか、どうかは僕にはわからない。そもそも『clitoris』で合っているのかどうかなんて、辞書を引く気も起きない。
僕は役者名の注釈に則って言えば、『先天的異常者』だった。こんな注釈を書かれても、いったいどういう人間を演じれば良いのかなんて、まったくわからない。
ちなみにユリの注釈は『気の滅入るほど俗な異常者』だった。結局、僕とユリのどちらも異常者なのだ。先天的だとか、気の滅入るほど俗だとか、不要ではないかと尋ねてみても、ユキオに言わせれば、その度合いが重要だとかどうとか、そういう事らしい。
物語はまるで、人形劇の様にコミカルに進んでいく。お姫様が怪物にさらわれました。そして、勇者はお姫様を助けるために旅に出ました。……ついに魔王を倒し、お姫様を助け出しました。その後、二人は幸せに暮らしました――まさにそんなテンポだ。
僕たちは偶然、出会うことになる。
「はい。じゃあ、シーン三、カット一、スタート!」
ユキオの気の抜けた声が部屋に響き渡る。僕とユリは、ユキオの持ってきたシナリオを手に珍奇な三文芝居を演じることになった。
「やあ。君はとても美しいね」僕は言う。
「そんなこと無いわ。あなたの方が美しい」ユリは棒読みだ。
「こんなところじゃ、なんだから、ちょいとそこのカフェにでもどうだい?」
「うん。いいわ。さよなら」
異常な台詞だった。論理性が欠如している。しかし、これが後半になるにつれて、一種の味とでもいうか、慣れてくるのだから、ユキオの筆力は圧倒的だった。僕にはこんな荒唐無稽な物語を書くことは出来ない。
「ねえ、もうやめたいんだけど」
ユリはこんな茶番を演じるのは耐えられないようだった。僕はどういうわけか、それなりに愉しんでいた。
「なんだよ。じゃあ、なにやるんだよ」
「それは……」
「やめるんなら、いま、この部屋で、しかも三人で、何が出来るか考えろよな」
「でも、なんであんたのシナリオを今、演じなきゃいけないの?」
「それはお前、俺が監督だからだろう」
ユリは反論できぬまま、役者を演じるしかなかった。僕たちは朝まで一通りシナリオを演じた。それはとてつもなく長い作業だったが、やり遂げたあとの達成感はまるで、テレビゲームをクリアしたときのそれと同じものだった。
ユキオのシナリオで、とても美しいと思った部分は次の通りだ。
*
○夜、路上
「僕は君を愛することは出来ない」
「どうして? 私はこんなにも貴方を愛しているのに。貴方が毎朝、家を出るときも五百メートル離れたビルの屋上から、高性能カメラで貴方の写真を撮って、それを日々のオナペットにしているのよ?」
「そんなことは僕には関係ない」
*
○同、公園
「私を殺しても良いから、愛して頂戴」
「どうして僕が君を殺さなきゃならない? 第一、それは非常な手間だし、殺したあと、死んだ君は、君の死体を片付けてくれるのかい?」
「じゃあ、私の右腕を切り取って、ホルマリン漬けにして貴方に贈るわ」
「いらないよ。部屋に飾るなら自分の右腕の方が良い」
*
○同、アパート、彼女の部屋
「僕をくくりつけて、君は何をするつもりだ」
「あなたを私のものにするの」
「どうして?」
「大好きだからよ」
「僕はいま、不幸だぜ」
「私は最高に幸せよ」
*
○朝、アパート、彼女の部屋
「貴方の排泄物、もう三リットルも溜まったわ」
「そりゃあ、豪気だね」
「でしょう? 感じるわ」
「メス豚」
「そうよ。そして、私は貴方の物なのよ」
「嬉しいね」
*
○同、アパート、彼女の部屋
「痛くなかった?」
「すごく痛かった」
「僕のために痛みを我慢できたのかい?」
「そうよ。でも、モルヒネが欲しいわ」
「納豆は好きだよ」
「本当? 私も好きよ」
「ご飯が食べたいな」
「いますぐ、炊けるわ」
「コシヒカリ?」
「ササニシキ」
*
○夜、アパート、彼の部屋
「私、いまとっても幸せよ」
「そう」
「うん。ようやく、わたしは貴方の物になったのね」
「……ひとつ、言っても良いかな?」
「なあに?」
「君は自分の性器をメスで切り裂いたけれど……」
「うん」
「ぼくは、そのことで君になにか特別な感情をまったく抱いちゃいないんだよ」
「……」
「それでも、君は僕が好きなのかい?」
*
○昼、花畑
「手をつないでも良いかい?」
「……ええ」
「きれいな花だね」
「……そう思うわ、すごく」
おしまい
*
想像出来るだろうか。
僕に、僕とユリに足りないもの。それらのいくつかが、ユキオの映画の中に埋まっていた。僕たちは宝物を見つけたのだ。しかし、それを掘り抜くためには、ある程度の準備と、体力が必要だった。今は、その衝撃的事実に僕とユリは参ってしまいそうになっていた。そして、次の日、僕たちは空虚な気持ちで帰路についた。
三章
ユキオが作ろうとしている映画の予行演習は、僕とユリとの間に大きな変化をもたらした。それは変化というよりは、変容に近いかもしれない。どのような変容かということを直接言語化して語るのは、難しい。僕特有のたとえ話で言うと、次のようになる。
僕とユリを遠くから双眼鏡で見れば、きっと恋人同士に見えることだろう。でも、顕微鏡で僕たちをみると、それはまるっきりの他人なのだった。電子顕微鏡でもない限り本質が見えないところまで状況は変わっていた。それは微々たる変化だ。魂の震え。心の機微。刹那の絶望。そのような微細な変化量は、時として大きな流れを狂わす力を持ち得る。
電子顕微鏡は神様しか持ち得ない神秘の道具のようなものだ。人間程度では――当初は僕たちでさえ――その変化に気づきはしなかった。
症状が進んできて、そのことに気づいたときはもう遅かった。どうにもならない状況を見て、僕は大分焦っていた。だから、テレビゲームの電源をつけて一日中部屋に閉じこもった。こんな状況では誰にも、無害で善良なガスの集金人にさえ会いたくなかった。そして、なにか僕の弱い心に付け入る物の怪の類が、侵入してこないようにアパートのドアにチェーン・ロックをかけた。チェーン・ロックは気休め程度の効果しかなかったのだが、それは僕を安心させ、心行くまでテレビゲームの世界に浸ることが出来た。
今度のテレビゲームは今までのテレビゲームとはちょっと違った。なぜなら、僕はユリとの関係が引き起こした数々の難解な問題を抱えているからだ。僕はテレビゲームにその答えを捜し求めていた。もしくは、現状の僕たちを過不足無く、エレガントに当てはめることが出来る数学的モデルを、テレビゲームのドット絵のビット・パターンレベルで見つけ出そうと試みた。
しかし、そのような、半ば狂人じみた試みはうまくいくはずが無く、僕は一週間でダウンした。鏡を見ると、眼は黒目以外はすべて朱色になっていて、座布団の上には髪の毛が大量に抜け落ちていた。ハムスターに餌をやることも忘れていたため、ハムスターは狂ったようにケージの鉄棒を前歯で噛み続けていた。そして、ユキオがドアをノックした。
僕はドアごしにユキオに話しかけた。
「やあ。どうしたんだい?」
「どうしたじゃないだろ? 連絡しても音沙汰ないんだから」
「ちょっと考え事をね、していたんだ」
「そりゃまた長い考え事だな……ところで、家には入れちゃくれんのか?」
「ちょっとまって。チェーン・ロックをかけているんだ」
「そんなもの、はやく取れよ」
「そうもいかない」
「なんでだ?」
「指が震えて、思うようにいかない。ちょっと待って」
チェーン・ロックをはずすまでにたっぷり、十分の時間がかかった。チェーンが絡まり、中々はずすことができなかった。それに加え、僕はかなり衰弱していた。ようやく開錠しおわると、ユキオは恐る恐るドアを開いた。外は昼で、眩しい太陽光が充血した眼に刺さり、涙が溢れてきた。
「いったい全体、どうしたんだよ?」ユキオは驚嘆していた。
「元気かい? ユキオ」
「お前、マトモな顔じゃないぜ?」
ユキオは僕の肩を支えながら、部屋に入り僕を布団に寝かせてくれた。続いて、ユキオは閉め切った雨戸をあけた。
「こんなカビ臭い部屋、現代社会でお前の部屋くらいのものだぜ」
「悲しいね」
「飯も食ってないのか?」
「食べているよ。そこらに転がっているだろう」
机の上には、ここ数日に食べ散らかしたチョコレートスナックと麦茶の紙パックが乱雑に置かれていた。それを見てユキオは深いため息をついた。
「ユリはどうしたんだよ?」
「なにがだい?」
「お前ら、付き合っているんだろう? つまり、連絡くらい取るんだろう? こんな状況になるまで、あの女はお前をほうっておいたのか?」
「僕とユリは普段、連絡なんかとらない」
「おかしいねえ。おかしいよ。あの女は冷たい女だな。お前がこんな状態でいるのに……というか、そもそも心配すらしないのか? ふざけんな」
ユキオは何に怒っているのか、まるっきりわからなかった。ただ、怒りの対象はユリに対してだということはなんとなく、理解できた。
「でも、ユキオ。僕は思うんだけれど」
「何だ?」
「きっと、ユリも僕と同じような状況だと思うよ」
*
僕はユキオの買ってきたコンビニ弁当を食べた後、風呂に入り、髭を剃った。髪の毛は思っているほど、抜けていなかった。風呂から上がると、ユキオは洋服箪笥から、汚れていないマトモな服を適当に見繕ってくれていた。僕はそれらを着てから、一本煙草を吸い、ユキオの車に乗り込んだ。
「どこへいくんだい?」
「ユリのところに決まっているだろ?」
「そうか」
「本当にお前の言うとおりなら、あいつもお前と同じような状況なんだろう?」
「きっと、そうだよ」
車のエンジン音がシートを心地よく揺らした。ユキオはサングラスをかけた。
「まるでシャア大佐だ」
「違うね。この頃はまだ、少佐だろう」
「ねえ、ユキオ」
「なんだ?」
「どうして、こんなことをしてくれる?」
ユキオは運転に集中していたのか、僕のほうを振り返らずに言った。
「お前らに厄介が起きると、映画が撮れなくなっちまう」
車は新宿方面へ走り出していた。
*
「俺はもう帰る。後はお前達の問題だ」
僕は見る影もなくなったユリの肩を抱き寄せ、彼女に牛乳をストローで飲ませていたところだった。彼女は全裸で、体中擦り傷だらけだった。
「ユキオ」
部屋を出て行こうとしていたユキオを呼び止め、僕は言った。
「ありがとう」
ユキオは笑って『今度飯おごれよ』といい、音を立てないようにドアを閉めた。
ユリは必死にストローを吸っていた。彼女の頬はこけていて、骸骨のようになっていた。肌も荒れていて、吹き出物がおでこ全体に広がっていた。部屋の隅のくず入れには、彼女の嘔吐物がたまっていて、蝿とゴキブリがたかっていた。おまけに彼女は生理で、畳には血の塊が散在していた。
「大丈夫かい?」
彼女は応えず、黙々と牛乳を飲んでいた。僕はもう少し力をいれて、彼女の肩を支えた。彼女の肩は骨の上に皮が張っただけのような感触だった。
牛乳を飲み終えたユリは、続いて幕の内弁当をものすごい勢いで食べ始めた。僕は麦茶を汚れていないコップに注いで彼女に手渡した。彼女は麦茶も猛スピードで飲み干し、弁当を食べ続けた。その最中、彼女は二回、放屁した。それはひどく匂った。
「どうだった?」彼女は弁当から眼を離さず、そう言った。
「別に。何もわからなかった」
「そう(彼女は昆布を食べていた)」
「ユリは、なにかわかったのかい?」
彼女は幕の内弁当を食べ終えると、続いて麦茶を飲んだ。そして僕に向き直り、病的に微笑みながら言った。
「わかったわ」
「ほう」
「人間はご飯が大好き」
「そりゃあ、結構なことだね」
「そして、私はあんたが大好き」
「ふむ」
僕はユリに風呂に入るように薦めたが、彼女はまだ立つことも覚束なかった。仕方ないので、僕は服を脱ぎ、お互い裸になってシャワーを浴びることにした。僕は彼女の肩を支えながら、慎重にバスルームまで歩いた。
ユリの家もユニットバスなので、大人二人が同時に入るにはさすがに狭かった。仕方ないので、彼女を便器の上に座らせて、僕は風呂桶の中にはいった。僕は彼女に熱い湯のシャワーを浴びせた。
「熱いわ」
「そのくらいじゃないと駄目だよ。君、臭いよ」
「だって、ずっと」
「シャワーを浴び終わったら、君は部屋の隅っこで黙って座っているんだ。僕はこのあと、君の部屋の片づけをしなくちゃいけないからね」
「くず入れの周りにゴキブリがたくさんいるの……私、あいつら苦手よ」
「僕だってそうさ」
*
「私が助けてあげる」
僕とユリが良く遊ぶようになってから、ユリはたびたび、そう言った。
彼女は僕を助けたいと思っている。でも、彼女が僕を助けたい、と思うとき僕はたいてい、助けて欲しくないときであり、むしろ僕が彼女を助ける必要があるときであることが多い。そして、僕が本当に助けて欲しいと思うとき、僕の目の前にはユリも誰も、ユキオでもさえもいない。いなかった。
僕は僕を助けて欲しい。だから、ユリを助けるのだ。
善いことをすれば、報われるという願いを持って。
*
ユリの部屋を掃除し終わるまで三時間かかった。その間、僕は四十五リットルのゴミ袋を三つ、ゴミ捨て場に運んだ。畳には血の跡が残ってしまったが、どうせ引っ越すときに全部取り替えることを考えると、問題はないと思われた。部屋の隅にある彼女の嘔吐物の入ったくず入れの内側の壁一面に羽虫の卵がこびりつき、そのうち半分は孵化しているようだった。僕は心を鬼にして、キンチョールを散布した。
そして、彼女の部屋が元通りになったと同時に、彼女も元通りになっていた。血色の良くなった彼女の顔は、何かに恐怖しているようだった。
「ユリ、どうしたの?」
「わかっているんでしょう?」
「うん?」
「私達が異常だって、あんたもわかっているんでしょう?」
「……人から見ればね」
「異常とはそういうことよ」
「でも、ロックンロールは僕にこういった。お前はお前の好きなようにやれ、ってね」
「ロックンロールは神様じゃないわ」
「仮にロックンロールが神様だったら、僕は唾を吐き捨てるよ」
「じゃあ、あんたは何を信じているの?」
「信じる? そうだな、君と母親を最も信じているかな」
「じゃあ、最も信じないものは?」
「自分。正確に言うと、自分の思考」
「狂っているわ。なにもかも」
彼女は精神的にかなり参っているようだった。僕は彼女を安心させ、ゆっくりと眠れるような話をすべきだと思った。
「あのさ、ユリ。僕はね、生を受けてから色々なことを考えてきた。小学校で字を教わり、中学校で人との距離の置き方を見につけ、高校で自分を表現する危険性を学び、いま大学生になっている。もちろん、これは僕が身をおいてきた環境の羅列であって、それら環境から学んだことなんて微々たるものさ。人は人からしか物事を学べない。これまでの人生をわかりやすく簡単化して、僕は言ってるんだよ? そして、いま僕は大学生だ。君もね。そこで僕は思う。僕の思うところの大学生とは、いままでの物事の再整理、そして、再認識。新しき挑戦と内面の模索。これに尽きると思うんだよ。共通のテーマは『個』なんだ。ここでいう『個』というのは自分と、自分が最も行為を抱いている対象だ。僕にとって見れば、それは君に他ならないんだけれどね」
「難しいわ」
「オーケー、例えば、人々はいろんなことを考えている。お金のことや、将来のこと、映画のことや、テレビゲームのこと。でもね、本当にそれらは大事なことなのかい? 人生において最も大事な問いは、どうして我々は生きているのか、どうして我々は死ぬのか、死んだらどこへいくのか、そして愛とか何なのか、そういうことじゃないのかな。これらのことは誰しも本当は気づいているんだ。人生で最も大事な問いだって、皆知っているんだ。でも、禁句なんだ。敢えてこういう事を話す者は異常者なんだよ」
「哲学じみているわ」
「哲学というものが、そういうものなのかどうかは僕にはわからない。でも、僕が思うところの大学生とはそういうものなんだ。だから、どうか、気を悪くしないでくれよ」
「でも、異常よ。そういう考えそのものは異常だわ」
「異常なんだよ。僕も君も、ユキオも。自分が人間であることを疑問視する馬鹿がどこにいる? もっとも、そういう疑問が哲学というものなのかもしれないが……ナンセンスだと思わないかい?」
「じゃあ、自然体に生きろってこと?」
「自然体というものが僕にはわからない。それは本能のままに生きろと言うことかな? だとすると、僕は否定的な考えを持たざるを得ない。理性を持つ人間が理性を手放すことは、ただの逃避だよ。人間は考える葦だ。考えることに意味がある。そういう生物なんだ。ハムスターなんかは別さ。彼らは生殖が生きることの義務だからね。僕たちは違うよ。絶対に違う」
「だからといって、愛を複雑に考える必要があるの?」
「それはどういうこと?」
「もっと単純に……セックスを愉しめば良いのよ」
「君、本当に参ってるんだね。マトモな君ならそんなこと、言うわけない」
「そうよ。私は参ってるわ。そして、あんたは何か『問い』のようなものに夢中で、相当狂ってるわ。まるきり狂人よ」
「かといって、その問いを考えなくなれば、僕は僕でなくなってしまう」
「あんたがあんたでなくなれば、あんたは私を愛してくれるの?」
「きっとそうなるね。でも、そのとき僕はもう僕じゃないよ」
「あんたがあんたじゃなくなると、私はあんたを愛さないわ」
「僕はそれを恐れているんだ。だから、僕は僕をやめるわけにはいかない。君のためにも、僕のためにも。そして、問い、の為にもね」
彼女は少し、安定してきたみたいだった。言うことはまだまだ、不安定だったけれど、彼女の眼にはみるみる、生きる意志みたいなものが宿り始めていた。彼女の脳に再び、論理的思考が蘇ってきたようだった。
「私達っておかしいわね」
「違うよ、君はずっとまえに自分で言っていただろう」
「ああ。そうか」
「うん。この世にあまねく全ての事が、どこかおかしいんだよ」
「だから、テレビゲームを?」
「そうかもしれない」
僕はユリの傍にそっと近寄り、頬に口づけをした。口づけ自体には意味はなかった。その後にユリの眼を見つめるために、口づけが必要な動作だという、意味があった。
「ユリ。ユキオは僕たちの救世主だよ。彼のシナリオを僕たちが見事、演じることが出来れば僕たちは変わることができるんじゃないだろうか」
「私もそんな気がするわ」
「出来損ないの御伽ばなしが、僕たちには似合っている」
「同感」
「あのシナリオのような、素晴らしい二人に僕たちは」
「なれるかしら」
僕はユリと手を繋いだ。それには様々な意味が込められていた。
*
僕はボストン・バッグの中に三日分の衣服と、お気に入りの本、そしてユキオのシナリオを入れた。続いて、ハムスターの餌箱に三日分の餌を入れ、水を取り替えた。時計の針は十一時を指し、そろそろユキオが迎えに来る頃合いだった。
ユキオの映画を撮影するために、僕たちは遠くの土地まで移動しなければいけなかった。そこは人もいないので撮影にはうってつけで、なにより白い砂浜が広がっているということだった。僕はユキオに丸め込まれ、制作費として二万円支払っていた。しかし、この映画で演じられることは、二万円分の価値が十分にあった。
外でクラクションが鳴るのが聞こえ、僕は家を出た。アパートの前には、ユキオの白いハイエースが停まっていた。運転席にユキオが乗っており。助手席にユリ、そして後部座席に、もう一人見知らぬ女の子が乗っていた。彼女の名前はシズクといった。
「はじめまして」
僕の挨拶にシズクさんは一言も返さなかった。その代わりに、何か嫌疑のような視線を僕に浴びせ、注意深く見ないとわからないくらいの会釈をした。
「悪いな。こいつ無口なんだ」
「そんなんじゃないもん」僕は彼女の声を、そこで始めて聞いた。
「とにかく乗ってくれ。すぐに出るからさ」
僕は後部座席に乗りこみ、車は一路、遠くの土地を目指して動き出した。
*
道中の車内はなんとも、異様な雰囲気が立ち込めていた。それは、オーディオから流れるナンバーガールのせいなのか、はたまた僕たちの組み合わせが悪いのか、わからなかった。上機嫌なのはユキオだけだった。
僕は隣に座っているシズクさんを注意深く観察した。彼女はとても美人だった。もしかすると、ユキオが当初、予定していたヒロイン役の娘かと推測したが、まさかわざわざ撮影に付き合うことは考えられなかった。ユキオの彼女かという邪推もしてみたが、それもどうもしっくりこなかった。ユキオはともかく、彼女がユキオを愛するという構図がどうにもうまく、イメージできなかったからだ。
「シズクちゃん、食べる?」ユリが助手席から、彼女にポッキーを差し出した。
「あ、大丈夫です」シズクさんは丁重に断った。代わりに僕がポッキーを受け取った。
「あの後、大丈夫だったのか?」唐突にユキオが口を開いた。
「ああ、おかげさまで」
僕はポッキーを食べながら言った。ユリは黙ったまま、手元の本を読んでいた。
「お前らは本当に、良い研究対象だよ」
「どういうことだい?」
「これから先、お前らのような人間に出会うことはまず、無いだろう」
「それは僕も同じさ」
「シズク。お前、こいつをどう思う? 惚れそうか?」
何を言っているんだ、と思った。そして、僕は思わずシズクさんを見てしまった。シズクさんはユキオの問いかけに困っているようだった。彼女は赤面し、僕も赤面した。
「何てこというんだ、ユキオ」
「まあ、いいじゃねえか。シズク、どう思う?」
車内は一気に気まずい雰囲気になった。というより、僕は非常に気まずかった。次に何かを話さねばいけないのはシズクさんだった。ユキオの問いかけに対し、適切な回答をしなければ、この後の車内はますます窒息しそうな雰囲気になることは眼に見えていた。
「……素敵だと思います」
シズクさんはそう答えたのち、しばしの沈黙が車内を支配し、その後、爆笑の渦がやってきた。笑っていなかったのは、僕とシズクさんだけだった。
「いいね。いいね。シズク、お前最高だわ」
「よかったね、あんた」ユリも笑ってそう言った。
僕はなんだか、非常に不愉快になった。シズクさんを見やると、彼女はまだ赤面し、そして僕を見ていた。僕が笑いかけると、彼女もそれに応えた。
*
撮影現場に到着したとき、すでにあたりは真っ暗だった。そこは手付かずの海辺で、あたりには家も何も無かった。今日はここにテントを張って泊まるという事実を聞いたとき、家に帰りたくなった。
「まあともかくテントを張ろうや」
ユキオはそういい、テントを車のトランクから運び出した。テントは二つあった。
「おい。どうしてテントが二つなんだよ?」
「なんでって……お前とユリ、俺とシズクだろうがよ」
ユキオとシズクさんが一緒のテントになるということの意味を、僕は邪推した。つまり、そういうことなのだろうか。僕は思い切って尋ねてみることにした。
「シズクさんって、君の何なんだ?」
そう言った瞬間、ユキオは僕を睨んだ。でも、すぐにいつもの眼差しを整えて言った。「俺の妹だよ」
「妹?」
「ああ。撮影協力ってやつだな」
「そうか……」なんだか、予想がはずれてしまったようだ。
「そして、さっき言ったのは冗談だ。二つのテントのうち、ひとつには俺とお前、もうひとつにはユリとシズクが寝るんだよ」
「それ、いいね」
「それとも、ユリと一緒が良いか? 青姦でもやる気か」
ユキオは笑いながら言い、僕は、まさかと応えた。
テントを張り終えると、車の脇ではユリとシズクさんがバーベキューの準備をしていた。二人はとても仲良くなっていて、僕は驚いた。
僕はそっと、車の傍に置いてあるキャンプ用の椅子に腰掛け、煙草をふかしながら二人の会話を盗み聞きした。向こうからこちらは見えなかった。
「かぼちゃは薄く切りますか?」
「そうだね。薄く切ったほうが火の通りがいいし」
「ユリさんは、大学生なんですか?」
「そうだよ」
「兄と同じ大学?」
「違うよ」
「あの人の彼女なんですか?」
「……違うよ」
あの人とは、僕のことだろう。
「私、シナリオ読みました。あの人の前で裸になるんですよね?」
「そうよ」
「いいんですか?」
「ええ」
「どうして?」
「わたしたち、セックスはしてるのよ?」
ユリはくすくすと笑った。僕はそれを聞いて一人、赤面してしまった。僕は二人に気づかれないように、椅子から立ち上がりテントへと向かった。罪人のような気持ちだった。
*
僕たちは晩御飯を食べたあと、特にやることも無いので早々に寝ることにした。当初の取り決めどおり、僕とユキオは一緒にテントにもぐりこんだ。
「俺のケツを触りやがったら、ぶん殴るからな」
「そんな真似するわけないだろう」
「いや、わからんぞ。お前が寝ぼけて俺をユリと勘違いした場合、それは起こりうる」
「君の想像力には負けるよ」
僕たちは寝袋から上半身を出しながら、薄暗いランプの下でシナリオを読んだ。明日撮影するシーンの簡単な打ち合わせだ。ユキオが説明する描写を僕は完璧に演じねばならなかった。それが終わると、ユキオは鞄の中からウイスキーを取り出した。
「用意が良いね」
「そうだろ? カティ・サーク好きかい?」
「もちろん」
僕は紙コップを用意し、ユキオは半分ほどウイスキーを注いだ。
「ところでユキオ、聞きたいことがあったんだが」
「なんだ?」
「どうして彼女を連れてきたんだ?」
「シズクのことか?」
「ああ。撮影に妹を連れてくるなんて、よく考えるとおかしいじゃないか」
「お前におかしいといわれるなんて、思いもよらなかったよ」
「茶化すなよ。どうしてなんだ?」
ユキオは一息にカティ・サークを飲み干し、再び注いだ。
「あいつが望んだことだ」
「彼女が? 本当に純粋に、撮影を協力したいってことか?」
「それはわからん」
そのとき、テントの外に気配を感じた。ユキオはテントの入り口のジッパーを引くと、ユリが立っていた。
「どうした?」
ユリは困ったような顔つきで笑っていた。
「あの……わたし、今日こっちで寝てもいいかな?」
ユキオはユリの言葉を理解すると、僕に向き直った。ユキオは呆れたような笑みを浮かべていた。僕もまったく同様に、呆れていた。
「まったく……これだから困るんだよ。お前達は」
「ユリはルールを破るのが得意なんだよ」
「仕方ない。交代しますか。そのかわり、このテント。汚すなよな」
ユキオはそう言うと寝袋から抜け出して、外にいるユリと軽快に手を叩いた。バトン・タッチ。そういう事だ。ユリはそのままユキオの寝袋に入りこみ、ユキオの飲みかけのウイスキーをあおった。
「どうしたの?」僕は尋ねた。
「あら? 来ちゃいけなかった?」
「ああ。ルール違反だ」
「そう。でも、ルール違反もたまには必要よ?」
「僕たちにとって?」
「私達以外にとってもね」
僕たちは何かを話し、何かで笑い、何かで議論し、そして眠った。
*
ユキオの映画撮影は順調に進んだ。僕は慣れない演技に多少の戸惑いを感じつつも、なんとか演じきっていった。この間の江ノ島で、ユキオが言い出した予行演習、その効果は如実に現れていたはずだ。演じるということは恥ずかしさとの対面。克服。そういうものだと何となくわかった。
昼過ぎに予定していた撮影が終了した。
ユキオとシズクさんは砂浜を散歩しに出かけていってしまった。
僕とユリは時間を持てあまし、車を走らせ街へと出かけることにした。
「どこへいく?」
「見知らぬ街」
「了解」
僕はエンジンをかけた。ユリと二人きりのドライブだ。
来たことの無い街、見たことの無い道。僕はユリと二人、車を走らせた。それはとても新鮮で刺激的だった。周りは全て手付かずの自然だ。右手には青葉で覆われた丘。左手には広々とした海岸線。そして正面には道路の白線が地平線まで続いていた。
街について、僕たちは郊外のデパートに車をとめた。
デパートで、何かを買う予定があるわけではなかった。ただ、他に行くべき場所がどこにも無かったというだけだった。
デパートから道路を挟んで、向かい側に大きな運動公園があった。公園沿いの道にはランニングをしている人や、テニスラケットを肩にかけた高校生が見て取れた。
デパートの中は、この街の人々皆が集まっているのかと思うくらい、意外にも混んでいた。僕とユリはレストランでアイスクリームを食べた。それは牛乳を贅沢に使った、まろやかなアイスクリームだった。
「この後、どこ行くの?」
「ユリは?」
「私はそうねえ……CDショップでも覗いてくるわ」
「じゃあ、僕は本でも見てるよ」
ユリは二階へ続く、エスカレータをあがっていった。僕は彼女の姿を見送ると、本や雑誌の売っているコーナーに入った。店内を見渡すと、客は一人もおらず、さらに店員の女の子は椅子に座りながら、雑誌を顔に載せ、居眠りをしていた。田舎のデパートとはこういうものなのか、と僕は感心した。
本棚を見渡しながら、歩いていると、僕は一冊の本を見つけた。
それは、『虹の彼方に』という本だった。
僕はその本をレジに持っていき、店員に声をかけた。彼女は飛び起きて、よだれを服のすそで拭うと、寝ぼけ眼で立ち上がった。
「あ! すみません。いらっしゃいませ……あ、この本、面白いですよね」
彼女は僕を見た。
僕だって彼女を見た。
僕たちはそのまま、互いの眼を見つめながら固まってしまった。
まさか――まさか、こんなところで出会うとは思わなかった。
「……アヤ」
僕の声は震えた。実に二年ぶりの再会だった。
*
デパートから、撮影場所へ戻った僕とユリは、ユキオたちと合流し晩御飯を食べた。二日連続、バーベキューとビールだ。当分、二度とバーベキューはしなくてもいいと思った。深夜、僕は音を立てないように、こっそりとテントを抜け出した。隣ではユキオがいびきをかいて寝ていた。僕はアヤと約束をした場所へと車を走らせた。
*
僕はデパートの駐車場に車を止め、隣の運動公園まで歩いていった。公園の入り口にある地図を見て、『希望の広場』の場所を確認すると、僕は暗闇の中を歩き出した。木で作られた遊歩道は乾いた軽快な音を立てた。あたりに茂った木々からは、得体の知れない物音がした。
視界が開けてきて、明るい電灯の光が見えてきた。その広場には、ベンチと灰皿と、自動販売機があった。地面には大理石が埋め込まれ、煌びやかに光を反射していた。
ベンチにはアヤが座っていた。僕に気づくと、彼女は立ち上がった。僕は少し駆け足で彼女に歩み寄った。彼女に近づくにつれ、心臓の鼓動が早くなっていくのがわかった。
アヤは希望の広場で、笑顔を作って僕を迎えてくれた。
「やあ」
「……ちゃん」
彼女は、二年前と同じ呼び名で僕を呼んでくれた。
「正直、驚いたよ」
「わたしも……とても驚いたわ」
「君の故郷なのかい? この街は」
「……ええ」
「とにかく座って話をしよう。僕はこの二年間、ずっと君に会いたいと思っていたんだ。申し訳ないんだけど、話したいことはたくさん、ある。時間は大丈夫かい?」
彼女は笑顔でうなずき、僕たちはベンチにそろって腰を下ろした。僕はまず、呼吸を整えるために煙草に火をつけた。その煙草を吸い終わるまで、彼女はずっと僕の顔を見つめていた。僕はそれに気づかないフリをしながら、何を話すべきが頭の中で整理した。
「アヤ」
「はい」彼女は従順な伴侶のように、優しく答えた。
「会いたかった、それもずっと」
「私も」
それだけ言うと、僕は再び、何を話そうか考えた。僕は緊張していた。でも、それを悟られないフリをしなければいけない状況だったし、彼女に悟られたくはなかった。まごまごしているうちに、アヤの方から僕に質問が投げられた。
「どうして、この街に?」
「ああ。映画の撮影だよ。友人の」
「そう。シナリオ書いていたよね、確か」
彼女が僕の家に居た頃、僕はまだシナリオを書いていた。そして、青臭い夢物語を彼女によく言って聞かせたものだった。
「もう書いていないんだ」
「どうして?」無邪気な問いかけだった。
「書けなくなってしまったんだよ。その理由はね……まあ、いいじゃないか」
「……私のせいよね」
彼女の頬に一筋の涙が伝った。僕は慌てた。
「泣かなくてもいいんだよ。確かに君が居なくなってから、シナリオを書けなくなった。でも、それは君のせいじゃない。僕の問題だよ?」
僕は彼女が元の笑顔に戻るように、精一杯の慰めを行った。いくつかの試みの末、彼女の顔に再び、笑顔が戻った。
「それよりも、僕は君に色々聞きたいんだ。いいかな?」
「うん」
僕は深く息を吸い込み、吐いた。そして、彼女の顔に向き直った。
「どうして、僕の前からいなくなってしまったんだい?」
「それは……お父さんが」
僕は家に訪ねてきた男を思い出した。馬鹿なことを聞いてしまったと思った。
「ごめん。そのことはいい。忘れてくれ。それよりも……君の荷物を取りに来た男がいただろう?」
「うん」
「彼に僕は伝言を頼んだはずなんだ。君に対してのね。アヤ、君はそれを彼から聞かなかったのかい?」
「……聞いたわ」
「ふむ」
僕は二本目の煙草に火をつけた。
「とても、嬉しかった」
「そう」
「だから、私、誓ったの。いつか必ず、会いに行くって」
「僕に?」
「そうよ、だから私、あのデパートでアルバイトしているの」
「それは……どういう意味なんだい?」
「いつか、東京にいくためのお金」
彼女は僕の胸に頭を預け、僕の体に腕を回した。それはとても強い力で、僕も彼女の肩に手を回した。彼女は顔を僕へ向けた。二年前と変わらず、彼女の瞳は力強く生き生きとしていた。
「私……ひとつ、質問してもいい?」
「いいよ」
彼女は充分な時間、待ってから言った。
「まだ、私のこと、愛してくれていますか?」
強い風が僕たちの間を通り抜けた。それは何か重大な意味を含んでいるように思えた。世界がそのような風を、意図的に僕とアヤとの間に送り込んだのは間違いなかった。
「私、まだ愛してる。……ちゃんのこと、すっごく好きだよ。二年間、一日も忘れたことなんてないわ。すぐにでも、飛んでいきたかったくらいよ。……あれからも、何度も家出をしようとしたんだけど、その度にお父さんに捕まってしまうの」
彼女は僕に寄りかかったまま、話し続けた。その間、僕は戸惑っていた。先ほどまでの緊張感が嘘のようになくなっていたからだ。彼女の言葉は作り物のように僕の耳に届き、彼女がまるで知らない女の子のように思えてしまった。
『まだ、愛してるよ』
『すっごく、好きだよ』
彼女の、それらの言葉に対し、僕はまるきり現実性を見出すことが出来なくなっていて、彼女の温もりすら、わからなくなっていた。
「ずっと、ずっと会いたかったよ」彼女は再び、涙を眼に滲ませていた。
「アヤ、僕は……」
「ずっと会いたかったんだから……」
彼女は僕の胸に顔をうずめて、泣いていた。僕は彼女の頭に右手を乗せた。
「僕は……」
それ以上、言葉が出なかった。何か言うべきことがあったはずだった。しかし、それは霧散していまい、いまでは何も残ってはいない。そして、頭の中にユリの顔が浮かんだ。僕はとても居心地が悪くなってしまった。
それでも――僕は何かを言わなければいけない。それは、今の僕を表現するということで、それはアヤにとってどう響くかは……わからない。
「アヤ」
彼女は顔を上げた。
「僕はもう、君を愛していない」
僕は彼女を見ることが出来なかった。眼をつぶり、僕は語った。
「君の存在のおかげで、僕はなにか過度の期待をしたり、甘い夢を抱いたり出来なくなってしまったんだ。でも、それは僕がタフじゃなかっただけだ。だから、きみのおかげで……っていうのは、言葉のあやに過ぎないんだけど」
「うん」
「君と……逢えたのは正直、嬉しい。君は僕が始めて好きになった、本当に好きになった女の子だからね。でも、それはやはり、二年前のことだ。こんなことを言うのは、野暮だと思うけれど、時間が経ち過ぎたんじゃないかって思う。君と出会って、すごくそう思う。僕はもう、あの頃と同じステージには居ない」
「私は……あの頃のままだよ?」
「わかるよ……だから、とても辛い。けれど、僕はもう、君の言葉が真実だとしても、心がまったく震えないんだよ」
「……他の好きな人が?」
「うん」
「……そう」
「でも誤解しないで欲しいんだ。今、僕に好きな人が居たとしても、君の気持ちに対して、何の感動もしないこととは、まったく関係性は無いんだよ。今、僕に好きな人が居ることと、今、僕が僕であることはまったく別の問題なんだ。どちらかというと、今、僕が僕であることは、むしろアヤ、君の影響が大きいんだ」
「……ちゃん」
「なに?」
「お願いがあるの」
「いいよ」
「もう少し、このままで……」
「……うん」
彼女の涙が僕の服を貫き、シャツをも貫いて、僕の胸を濡らしているのがわかった。彼女は声を殺して泣きながら、より強く僕の体を締め付けた。
「そうだアヤ、これを」
僕はジーンズのポケットから『虹の彼方へ』を取り出した。
「君に買ってあげる約束だったろう?」
彼女は何も言わずに、僕の胸で泣き続けた。知らず知らずのうちに、僕の眼一杯にも涙が溜まり、どこか遠くで犬が鳴いたと同時に、頬を伝って流れ落ちた。
*
一時間後、僕はデパートの駐車場に戻り、車に乗り込んだ。そのまま道路へ出て、撮影場所に向かって車を走らせた。
「ユリ」
「なに?」
「僕はこれでよかったのだろうか?」
「……」
「彼女は僕を……今でも愛してくれていた。もちろん彼女なりの愛し方で、だけどね」
「それが普通の人間じゃないかしら?」
「そうだけれど。二年間も同じ思いを持ち続けるなんて」
「ユキオも二年間、映画を撮り続けてきたわ」
「それと同じ次元なのかい?」
「真剣な気持ちとは、そういうものよ」
「そう」
「そうよ」
「つまり、僕には真剣な気持ちが足りないのかな?」
「そんなことは無いわ」
車は海岸線へと躍り出た。等間隔に並ぶ街灯の光が時速五十キロのスピードで後ろへと流れていく。
「私は安心したわ」
「なにが?」
「あなたが彼女を選んだら、私、自殺してたわ」
「本当?」
「ええ。海に飛び込んでね」
「それが君の真剣な気持ち?」
「そうよ」
ユリは煙草を僕に口にくわえさせ、火をつけてくれた。その煙草はやけに肺の隅々まで広がって、ひどく染みた。
「ユリ、僕はね」
「なに?」
「きっと、もう壊れてしまってる」
「うん」
「そんな僕に対して、君はまだ何か期待をしているのかい?」
「ええ。しているわ。でも……」
対向車がすごいスピードで僕たちの車の脇を通り過ぎた。
「私が望むものは」
「手に入らない、って?」
「そういうことね」
「ごめん」
「謝るくらいなら……」
「それは無理だよ」
「うんざりね。まあ、いいけど」
僕たちは撮影場所に戻り、車を出た後、長い長いキスをした。
その後、僕はテントに入り、寝袋にもぐりこんで、ぐっすりと眠った。
アヤは結局『虹の彼方へ』を受け取らなかった。
アヤと別れる時、彼女は無理をして笑顔を作り、夜闇に消えていった。
*
翌朝、早くに僕は目覚めた。ユリはまだ眠っていた。
四人で朝食食べ、片づけをしていたとき、僕はゴミ袋の中に精液の溜まったコンドームを見つけた。この三日間、僕とユリはセックスしてはいなかった。
僕はそれを心の底にしまいこみ、何事も無かったかのように残りの撮影をこなした。
帰りの車の中は僕にとって、行きよりも辛いものとなった。僕はユキオも、ユリも、シズクさんも、誰とも視線を合わすことが出来なかった。
窓の外では相変わらず、退屈な世界が広がっていた。
四章
偉大なる(偉大といわれている)哲学者がいる。僕が知っているのはカントとウィトゲンシュタインだ。彼らの業績を僕はインターネットで調べ、知っている。知っているだけで、理解はしていない。なぜなら、彼らを理解するためには膨大な勉強が必要だし、それこそ哲学者は現在進行形で理解しようと日々、研究を積み重ねている。結局、カントもウィトゲンシュタインも僕には理解できないし、研究者達の行動も理解できない。
問い、がある。大きな問いが世の中の至るところに広がっている。僕たちは言語を駆使し、その問いを理解しようと試みる。そして答えを模索している。言語は数学的モデルで説明され、もしくは科学的直観力で補強され、徐々に色彩豊かに力を帯びる。テレビゲームの中でも同様の事件が起こっている。僕はテレビゲームを見て、触り、感じてきたこの数年間を振り返ると、僕は何も理解していないことを理解した。
僕の持ちうる言葉は、無色のモノクロームのような、取るに足らないものだ。
*
数年前、故郷に帰ったとき、旧友が僕に言った。
「お前の元彼女、組合の金を横領して警察に捕まったってさ」
その言葉の内に秘めた、猛毒性に僕は一ヶ月も痛めつけられ、自殺にまで追い込まれた。強く締め付けられる頭の中で考えていたことは、もし僕が死んだら『言葉によって殺された男』と墓に刻んで欲しいということだけだった。その後、僕は運良くユリと出会うことが出来たから良かったものの、出会わなければ僕はどうなっていたんだろう。
ユリに出会ってからは、優しい言葉だけが僕を取り巻いている。
*
僕と再び一緒に住み、愛の生活を送ることのみを望みとしてきた女の子がいた。僕は彼女のその思いを打ち壊した罪人だ。彼女はこれから何を糧に生きていくのだろう。
そして、同時に僕は何を糧に生きてゆけばいいのだろうか。
やはり、愛だろうか。
それとも、テレビゲームだろうか。
はたまた、今と同じように孤独を糧にするしか出来ないのだろうか。
そして、これは僕が、僕自身の最も嫌な性格と感じる部分であるが、アヤのこれからを心配するフリをしてみても、結局自分の心配事ばかりを考えてしまう。
僕は異常者ですらない。ただの卑怯者だ。
*
僕とユキオは、その日、夕方四時に駅の改札前で待ち合わせていた。
僕は十分前に到着し、ユキオは十分後にやってきた。僕たちはそのまま、ユキオの部屋へと移動した。僕たちは議論をするために集ったのだった。
議論というのは、互いの意見や考え方が食い違うときに、自然発生的に生じる。特にそれが、友達同士ならば、なおさらのことだ。
僕たちは議論を始める前に、テーマを決めた。議題と言い換えても良い。
そして、それは『近親相姦』という議題だった。
議論を始める前に必ず、バックボーンを説明しておかねばいけない。
「俺とシズクは、異母兄妹ってやつさ。俺が五歳の時、二歳のシズクが俺の家にやってきた。妹が欲しかった俺はとても喜んだよ。俺が十八歳のとき、シズクは十五歳だった。当然、俺は彼女を愛していたし、彼女は俺以上に、俺を愛してくれていた」
「だから、撮影に呼んだのか?」
「違う。彼女が来たかったんだ」
「それで、君は彼女とセックスすることに抵抗は感じなかったのか?」
「ああ。もう数え切れないくらいしている」
「いつから」
「だから、俺が十八歳の時からだ」
「それはつまり……」
「彼女が自分の性器にメスを入れたからだよ」
「彼女だったのか」
「そうさ」
「君は……彼女が『それ』をするまで、彼女を愛さなかったのか?」
「愛せるわけが無いだろう。だって妹だったんだぜ」
「今でもそうだろう」
「今も妹には変わりは無いよ。ただ、世間で言うところの妹と少し違うだけだ」
僕はため息をひとつ漏らした。ユキオは『ある問題』から逃げようとしていたのはわかりきっていたし、彼ほど誠実な男なら逃げることなく、打ち明けてくれると思っていた。少なからず、僕は彼に落胆していた。
「君は花畑をみて、きれいといったのかい?」
「言っていないね」
「じゃあ、ハッピーエンドじゃない」
「そうなるな」
「いいかい。ユキオ。僕が君に言いたいことはね、彼女を愛しているのかってことだよ」「さっき愛しているっていったよ」
「それは十八歳の君だろう。今はどうなんだ」
ユキオは黙ってしまった。僕は買ってきたビールを飲んだ。ユキオはまったく手をつけていなかった。
「彼女のことは好きだ。妹だとしてもね」
「思っていることをただ、口にするのは簡単だよ」
「あのなあ。俺はお前のルールの元で話しているんじゃないんだよ。俺は妹が好きだし、愛していると思っているさ。でも、それはお前の愛とは違うものだし、俺は愛なんかいちいち深く考えたりしない。そのかわりに、俺は妹を慰めて、一緒に時間を共にしたいんだ。わかるだろ? 難しいことを考える暇があったら、単純明快にセックスをするね。そして、それが愛を知る一番の近道なんじゃないかと思うぜ」
「君が妹さんを慰めているだって? 慰められているのは君のほうだろう?」
「それでも構わないだろう。彼女はきっと、それを望んでいるだろうし」
僕はもう一度、深いため息をついた。そして、ビールをひとくち、口に含んだ。
「では、言うよ。僕はね、君が愛というものについて思索をしなければ、君と妹さんの関係の終着点が見えないんじゃないかということを、とても危惧しているんだ。それは早急に見つけださなきゃいけない問題だし、君はもちろん妹さんだって、考えなければならないと思うよ。このままじゃ、先に見えているものは不幸の綾瀬だ」
「不幸は嫌いじゃないぜ」
「不幸は悪だよ」
「俺はデカダンスが好きなんだ」
「妹さんを巻き込むのか」
「彼女もきっと、そう望んでいるよ」
「それは祈りにも似た願いに過ぎない」
「じゃあ俺はどうすればいい?」
ユキオは改めて、僕に向き直り言った。
「愛について考えるだって? 考えて、答えが出なかったらどうする? 哲学をやりたいわけじゃないんだぜ。いいか? 俺とシズクはもう、始まってしまっているんだ。俺が十八の時からな」
ユキオは手付かずの缶ビールのプリングをあけて、一息に飲み干した。気管に入り咳き込んだ後、ユキオの眼には涙が溜まっていた。ユキオは俯き、ただの一言も発しなかった。僕はユキオが言葉を発するまで、長い間待ち続けた。
「……悲しい」
「え?」
「悲しいさ」
ユキオは言葉を無理やり作り出して、ついに口を開いた。
「破滅的結末が待っていることくらい、わかっているんだ。でも、俺には力がない。俺は自分の気持ちを誰にも表現することが出来ないんだよ。妹にでさえ。だから、それらの思いを今回、映画にぶつけたんだ。でも、そんな試みは無駄だということはわかっている。結局、うまくいくことなんてあり得ない。現実と向き合っても、やはり駄目だよ。数万人単位のマインド・コントロール。それが出来なければ、破滅的結末は変わることはない。そして、そんなことは絶対に不可能だ。今も、昔も……俺は悲しい気持ちで一杯だった。妹も、きっと」
「僕が言うのもおかしいけれど。眼をそむけていちゃ、答えは無いぜ」
「答えはあるのか?」
「わからない。ただ、すくなくとも暫定的な答えはすぐに見つかる」
「妥協にならないかな?」ユキオは涙をトレーナーのすそで拭った。
「妥協もひとつの真実じゃないか」
「しかし……」
僕はユキオに言った。
「何を恐れているんだ。なんなら、僕がひとつ妥協するよ。見ていてくれ。僕とユリを。僕は暫定的な、ひどく卑怯な方法をひとつ、取ろうと思うんだ」
事実、僕にはその方法しかなかった。
なぜなら、その時点において、真実に近づく方法は妥協から生まれる以外、論理的に考えられなかったからだ。
*
こんな問いを持ち出しても、仕方の無いことはわかっている。
でも、ユキオのために今一度、僕は世界に問いかけたい。
愛することと、愛されること。そして、愛を見つめること。また、愛を発見することと、愛と愛を戦わせること。
それらはいったい、何なのだろう。よほど意味のあることなのだろうか。
そして、愛があれば、誰も傷つけないという保障はどこにあるのか。
それらの答えは――つまり、落とし所は――あるんだろうか?
世界は万能のはずだった。しかし、世界は気まぐれで、世界はいま、退屈にしている。僕たちは声を揃えて懇願する。世界は横目をその様子を見つめる。
『世界よ。どうか、退屈ではなく、もっと楽しく笑ってくれないか?』
しかし、世界は沈黙する。彼は気まぐれ屋なのだ。不敵な笑みをひとつ漏らし、いまだに退屈なフリをしていた。僕らと同じ世代の、世界。
*
いくつかの非現実的な――とはいっても、それらは現実で起こりえた――物語の中で僕は結局、諦めにも似たひとつの答えを導き出すに至る。それは僕が僕でなくなる瞬間であり、彼女を愛することが可能になるよう、僕自身が変身するということに他ならない。
愛とは、誰かを必ず傷つける。
しかしながら、多くの愛すべき人間たちは傷つけられるのを心待ちにしているのだ。
この答えはもうひとつの真理を浮き彫りにする。
愛なんて、無い。もしくはあっても、何の役にも立たない。これは思考停止であり、僕が僕を捨て去ることと同じ意味を持つ。
変身した僕は、新しい朝を相変わらずの朝だと感じた。世界は何も変わっちゃいない。僕が変わったのにもかかわらず、だ。
ユリは何世紀も昔から、そのことを的確に予言していた。
彼女は現代の預言者であり、僕の救世主だった。
*
日曜日の夕方、僕はあるものを見た。
それが愛の形だとか、真実の属性をもつ何かだとか、そういうことを言いたいわけじゃない。ただ、それを見て、網膜に焼付け、記憶に封印したというだけだ。
その並木通りでは、日曜日と言うだけあって、多くの人々が行き交っていた。大勢の人々を乗せたバスが駅へと向かい、スーパーの前では大売出しをやっていて、主婦たちが子供の手を引き連れながら、きゃべつやにんじん、トマトやスイカを手に取ったり、店員に質問したりしながら、夕焼けが沈んでいく、街のひと時を彩っていた。僕は禁煙区域にもかかわらず、煙草を吸いながら人々の流れをぼんやりと見ていた。そして、夕焼けが作り出す、人々の淡い影を、熱心に見つめていた。
そこに母親と子供が現れた。その母親は五歳くらいの小さな子供の手をしっかりと繋いでいた。子供は何も考えていないような顔をしながら、ウルトラマンのビニール人形の足を、まるでガムを噛むように何度も齧っていた。そんな二人が僕の前を通り過ぎていった。僕はそのとき、母親が提げているスーパーのビニール袋を見た。
・にんじん
・じゃがいも
・りんご
・カレーの素
・豚肉
・フルーチェ
・長ねぎ
今夜はカレーライスのようだ。そう思い、僕はタバコを足でもみ消して、駅へ向かって歩き始めた。今夜はカレーライスを食べる母親と子供だ。父親が帰ってきて、三人で食べるのだろうか。そこに小学五年生のお姉さんが塾から帰ってきて、四人で食べるのだろうか、結局わからない。けれど、僕とは別次元の、いつか来るともわからぬ、不安なる幸せを感じざるを得なかった。
駅前に来ると、悲しい顔をした人々が群れを成していた。僕は気を引き締め、その中へ身を投じた。
*
「どうしたの? こんな時間に」
深夜、僕はユリのアパートを訪ねた。僕はユリに言わなければならなかった。寒い夜だった。ユリはエアコンの温度を二度上げ、暖かいココアを淹れてくれた。僕はまず、いつものように煙草に火をつけた。僕も彼女もヘビー・スモーカーだったから、人の家に上がり、最初にすることは『煙草を吸う』ことだった。
「君はユキオとシズクさんの関係、知っていたんだな?」
僕は尋ねた。それだけは聞きたかった。ユリは少し微笑みながら言った。
「ええ。教えてくれたわ。シズクちゃんが」
「だから、あの日、僕たちのテントにやってきたのか?」
「そうよ? 妹さんからの、熱烈なラブ・コール」
「なあ、ユリ。汚い言葉を使っても良いかい?」
「どうぞ」
僕は息を吸った。
「糞食らえ」
「ふうん。それで? 今日はなんのご用?」
僕はいまだに踏ん切りがつかなかった。彼女に言うべき言葉を慎重に考えねばいけない。ここで手を抜くと、大失敗してしまう。
「あら? 糞食らえ、って言いに来ただけなの?」
ユリの挑発は、僕を――非常に――不愉快にさせた。もう、言葉なんて考えるのはやめることにして、さっさと用件を切り出してしまおうと思った。
「大事な事を言わなきゃいけないんだ」
ユリは布団に入っていて、顔だけを出して僕を見ていた。僕がそういうと、上機嫌にサディスティックなフリをしていたユリの表情がいつもの表情へと変化した。
「大事なこと?」
「ああ」
「まさかとは思うけれど……」
「なんだい?」
「もう君とは一緒にいられない……とか?」
「最終的にはそうなるかもしれない」
僕はココアを飲んだ。ユリは布団から抜け出すと、煙草に火をつけて、ゆっくりと吸い込み、白い煙をまた、ゆっくりと吐き出した。時間はたっぷりとあった。
「言って」
僕は全ての神経を集中させて言った。
「君を愛してもいいかな?」
それから、僕たちは二十分、黙りこくった。その間、ユリは煙草を五本吸い、僕はココアを全て飲み干した。外では強い風吹き、部屋全体がかすかに揺れていた。
「お別れね」
「そうなる」
「これでいいのかしら?」
「いいんじゃないかな」
「私と別れたあと、あんた何をするの?」
「テレビゲーム」
「そう。私はどうしようかな」
「よかったら、僕と一緒にテレビゲームをやらないか?」
「それもいいわね」
「今度はテレビゲームに、何か意味を求める必要も無いよ」
「愛にも?」
「だから、僕は君を愛するよ」
「でも、わたしは」
「わかってる。だから、テレビゲームしかないんだろ?」
「……うん。でもあんたが、私を愛してくれるんなら」
「愛しているよ……本当に……本当、なんだよ」
僕はなるべく明るい声でそれを言おうとした。でも、すでに僕の眼には一杯の涙が溜まっていたし、鼻水も顎の先までだらしなく垂れていた。
だから、僕の声は、とても情けない声だったんだ。
「世の中は」
「もういいよ。それを言ってみたところでなにも」
言葉すら、すでに無力だった。
*
ユキオは映画制作を断念した。それは賢明な判断だったと思う。なぜなら、ユキオにとって、この度の映画撮影は自分の口にショットガンをくわえて引き金を引く行為だったからだ。彼はまだ、やらねばいけないことがたくさんあるし、世の中からいなくなるわけにもいかない。僕は約束どおり、彼に飯を二回奢り、酒を奢り、そして女を奢った。僕の預金通帳は一気に減ったが、ユキオからは減ったお金分よりも多くの恩恵を受けていた。どうということはない。
ユリは毎日、必ず僕の家にやってくる。そこで僕たちはテレビゲームをたっぷりとする。二人でよくやるゲームは次の通り。
・ぷよぷよ通
・カルドセプト
・いただきストリート
・ストリートファイター
・聖剣伝説2
テレビゲームの後は、決まって僕たちはセックスをする。朝方まですることもあるし、三十分で切り上げることもある。愛という概念はセックスに形を変えてしまった。そしてセックスは愛になった。愛は相変わらず、解明できなかった。そのおかげでセックスの意味も、性欲の発露以外になにか重要な意味を持ちはじめた。そして僕たちの間で交わされる言葉はどこか、空虚なものとなり、僕たちの感覚は鈍くなっていった。昔、遠くから聞こえてきた潮騒も、今ではもう聞こえなくなっていた。
夏休みはいつの間にか終わってしまい、慌しい日常へと変わっていった。
ある日、ユリが手製の紙芝居をもってやってきた。クレヨンで書いた素敵なものだ。
「大きいね。君が描いたの?」
「ええ。じゃんけんで負けた方がナレーター役よ」
僕はじゃんけんに負けた。仕方なく僕はナレーター役を引き受け、ユリはワインをコップに注いでから、手を叩いた。
「はじまり、はじまり」
「それは、僕が言わなきゃいけないんだろ?」
僕は出来損ないの紙芝居を演じた。登場人物は鉄の鎧を纏った泣き虫の騎士、世の中に愛想を尽かしているお姫さま、厳しい両親の元、鬱屈している絵描き、そして白い猫を抱いている少女の四人だった。
紙芝居を終えた後、ユリはつまらなそうに、コップの残ったワインを飲み干した。
「やっぱり、私じゃ駄目よ」
「何が?」
「こういうものは、作れない」
「そうかい? 傑作なストーリーだったけど」
「違うのよ。私じゃ、うまく表現できないの」
「表現……って」
僕は嫌な予感がした。彼女が続いて何を言うのか、なんとなくわかってしまった。
「ユリ、頼むからやめてくれよ」
「あら? 気づいた?」
「ああ。頼むから蒸し返さないでくれ」
「でも、ロックンロールはなんていったの?」
ここまでくると、僕は答えないわけには行かない。
「お前はお前の好きなようにやれ、だね」
「うん。そうよね。だから私も好きにしても良いのよね?」
「そうなる……けど」
僕が言い終わる前に、ユリは言った。
「私はあなたを愛します」
その福音はようやく固まっていた僕を再び溶解して、僕は彼女を愛することが事実上できなくなってしまい、僕の魂を真っ暗闇の岩戸の奥へと再び誘った。僕の魂はまた、大きな問いに直面せねばならなくなり、それを考えると大分、具合が悪くなった。
「君はひどい人間だ」
「なにをいまさら」
数日後、僕は頭を回転させすぎて、知恵熱を出した。そのまま、半狂乱した後、しかるべき医療機関の元へ運び込まれた。僕の完全敗北だった。
愛と、ユリの絶対的な勝利だった。しかしながら、ユリは僕の味方でもあった。
*
僕の病室にやってきたユリは、椅子に座り、唐突に説明した。
「キャリアセンスレベレが高いと、隠れ端末問題が起きるのよ。逆に低いと晒され端末問題が生じるわ」
あまりにテクニカルな内容過ぎて僕には理解できなかった。でも、ユリは言った。
「私達の関係を当てはめるのに、これほどよいモデルは無いわよ」
*
ユリはなぞなぞゲームを始めた。
「問題です。単位でキロというのは千倍のことです。では、一キロビットは何ビットでしょう?」
「千ビット」
「はずれ」
僕はそうして、ようやく、少しずつ更正していくことができた。
終章
最後にふたつの文章の塊を書いて、この物語を終わりとしたい。
*
僕は健康を取り戻した。でも、何も得てはいないし、うまくいっていることもあまり無かった。うまくいっていることなんてのはせいぜい、僕の食欲が旺盛になり看護婦を大いに困らせたということだけだろう。おかげで体重が二キロも増えた。
ある晴れた日曜日、僕はユリと公園を歩いていた。公園には、何組もの親子連れが暖かい太陽のもとで遊んでいた。親達は三歳くらいの子供相手にフリスビーを投げたり、犬をけしかけたり、小さなテニス・ラケットの使い方を教えていたり、それはそれは、心休まる光景だった。
僕の右手には、彼女の左がしっかりと握られていた。彼女の毛細血管を流れる血液の鼓動が僕の右手を通して僕の心臓へ伝わっていた。彼女との一体感をこれほどまでに感じたのは、初めてだった。僕は日本神話の国生みの話を思い出し、イザナキとイザナミのセックスとはこんな感覚だったのだろうかと、思いを馳せた。
僕とユリは小高い丘の芝生に座り、幸せな人々を見下ろしていた。よく考えると、僕たちにそんな資格はないのではないかと思えた。その事を口にする前にユリは言った。
「今日くらい、神様が許してくれるわ」
「今回は唾をはき捨てたりせず、言うことを聞いてみようか」僕は応えた。
その後、喉が渇いたので公園の喫煙所にある自動販売機でポカリスエットを買った。そして、ベンチに座り、僕たちは煙草をくゆらせながら、ポカリスエットを飲んだ。
「甘いね」
「それがいいのよ」
ベンチのすぐ近くに、遊具がいくつか置いてあり、子供達が遊んでいた。その中に珍しいジャングル・ジムがあった。一本の鉄軸が中心を通っていて、ぐるぐると回転するジャングル・ジムだった。子供達は泥だらけになりながら、ジャングル・ジムを回していた。ジャングル・ジムに登っている子供は楽しそうに声を上げて、回転する世界を楽しんでいる様子だった。
「私、あれ乗りたいわ」
ユリはとても、乗りたそうにしていた。ポカリスエットもすでに飲み終わっていて、僕たちは苦い煙草の煙ばかり吐いていた。
「乗ってきなよ」僕は煙草をもみけして、彼女に言った。
「あんたも一緒にいこうよ」
「いいよ。僕はここで待っている。君ひとりでいってごらんよ」
「……うん」
ユリはそのまま駆け足でジャングル・ジムまで歩み寄り、途中で引き返してきた。
「どこにもいかない?」
「まさか。今の僕は君だけが頼りなんだよ?」
「……そうよね」
再び、彼女はジャングル・ジムへと駆け出していった。子供達と二言、三言なにかを話し、彼女はジャングル・ジムによじ登った。子供達は彼女に『いーい?』と聞いた。彼女は『レッツゴー』と可愛い声をあげた。そしてジャングル・ジムは回り始めた。
そのとき――僕は全てを一瞬にして理解できたような気がした。
今では何を理解したのかはわからない。でも、その瞬間、彼女が『レッツゴー』と言った瞬間に、僕は確かに、きっと、全てを、愛の全てを、理解したのだった。
そして、突然激しい雨が降り始めた。それは夕立だった。子供達は母親の元へ走り去っていった。ユリはずぶ濡れになりながらも慣性で回り続けているジャングル・ジムの上で空を見上げていた。彼女は微笑んでいた。遠くの空に、彼女もきっと僕と同じものを見つけたに違いない。
僕たちは多分、同時に愛を知った。僕たちの間の、この距離感、回転する彼女を遠くから眺めている僕、その状況で初めて理解できることがあったのだ。もちろん、走り去っていった子供達も、きっと重要な役割を担っていたに違いない。世界の奴は気まぐれだから、僕たちに一瞬だけ、ほんの好意で愛を見せてくれたに違いなかった。気まぐれ屋の世界は、本当に嫌な奴だった。それでも、僕は感謝せずにはいられない気持ちになった。
僕はベンチでずぶ濡れになりながら、彼女が遠くの空を見つめている様子をじっとみていた。そのうち、夕立は通り過ぎ、僕たちはそろってくしゃみをした。
*
『俺の屍を越えてゆけ』というテレビゲームについて書く。
都を脅かす朱点童子という鬼がいた。ある日、一組の夫婦が朱点童子の住まう大江山に乗りこんだ。しかし、彼らは朱点童子に敗れてしまう。朱点童子は彼らの子に二つの呪いをかけた。それは『短命の呪い』と『種絶の呪い』だ。その子は人の何倍ものスピードで成長し、二歳までしか生きることができない体にされてしまったのだ。そして、人間と交わり子供を生むことが出来なくなってしまった。
その子は、人と交わらず、神々を交わり、子孫を残していく。いつの日か、朱点童子を討伐し、悲願を果たすことが、彼ら一族の望みだ。
親は子を産み、子を愛し、そして死ぬ。
単純なことだ。子は成長し、親となり、子を産み、子を愛し、死んでいく。
僕のような、機械的な愛の世代には、愛の意味を理解することがとても困難だった。そんな中、このテレビゲームは僕に、あるヒントを与えてくれた。
僕たちは生き続けなければならないという、ヒントを。
*
約束を破ってしまうが、最後にもうひとつ文章を書く。
現在、僕とユリは、二人でなんとか踏ん張って、生きている。
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2009/05/25(Mon)00:44:35 公開 / uonome
■この作品の著作権はuonomeさんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
某コンテストに応募してから一年が経過したので、再度ネットに投稿して皆様の意見を聞きたく思います。
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。