『アウトブレイク』 ... ジャンル:SF 未分類
作者:気まぐれ猫                

     あらすじ・作品紹介
少年はいつものように日常を過ごしていた。昔、色々とやんちゃしていたこともあったが今は落ち着いている。別に現状に満足しているわけでも不満なわけでもない。ただ平和に楽しく人生を送りたい、そう願っていた。いや、正確に言うならばそんなことを意識して願っているのではない。きっとそうなるだろうという無自覚な確信の中にいた。己の中で狂気が育っていることも知らずに。狂気は連鎖し、感染する。

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 季節はまだ春だというのに太陽には時間という概念が無いのだろうか、燦々と輝き人々に一足どころか二足も三足も早い夏の暑さを提供していた。
 学校への通学途中、通勤ラッシュのおかげで喧騒漂う駅前を、学ランのポケットに手を突っ込み、歩いていた長野貴大(ながのたかひろ)の耳に唐突に悲鳴が届いた。
 思わず声が上がった方角へと顔を向ける。
 ニット帽を被った男が貴大に向かって走ってくる。顔にピアスを付けていて、いかにも小さな悪事を働いてそうな風貌をしている。
 脇に薄いピンクの女性物のカバンを抱え込んでいる。
 さっきの悲鳴と合わせて考えみれば引ったくりだと一目瞭然だ。
 その人を捕まえて!―― 悲鳴と同じ声が周りの人間――当然貴大も含まれる――に訴える。
 大概の奴らは関わりたくないという気持ちからか、その男を見て見ぬ振りをしていた。
 貴大も周りの人間にならって無視を決め込もうとするが、やはりそこは善良な学生の良心が働いたのだろう。
 今まさに目の前を走り去ろうとしたニット帽の男の着地点に足を差し出す。
 彼の意図した通り、男は顔から地面に倒れ込んだ。
「てめえ、何しやがんだ!」
 男は顔面をしたたかに打ち付けたようで、鼻を押さえる手からは血が滴り落ちている。
 男を嘲るような笑みを浮かべ、言い放つ。
「スイマセン、偶然足が引っ掛かって」
 あからさまな挑発の言葉に男の顔はみるみるうちに紅潮していく。
 さらに貴大は男を煽る。
「あれ? それ女物のカバンですか。もしかしてアナタこっちの人?」
 言いながら右手の甲を左頬に当てがう。
 男は度重なる侮辱にとうとう我慢の限界を迎える。
「ブッ殺す!!」
 おもむろにに懐からナイフを取り出し、貴大めがけて振り下ろしてきた。
「やべっ」
 完全に予期せぬ出来事だったのだろう、そんな言葉が貴大の口をついて出た。
 しかし、完全にキレてしまい、男は周りが見えていない。その動きは、単調で貴大は一歩引くことで簡単に回避する。
 貴大は重心を低くして両の拳を顔の前に構え、次の襲撃に備える。
 やたらめったらに振り回されるナイフは、空を切るばかりで、なかなか標的を捉えることができない。男は痺れを切らし、一際大きな動作で斬りかかる。
 その隙を見逃さず、貴大は刃が振り下ろされる位置よりもさらに前、男の懐に踏み込み、男のみぞおちに拳を打ち込む。
 一瞬、男の動きが止まった。
 その隙に手首を捻り上げナイフを奪い取る。
 貴大は男を手首を捻り上げたままの状態で、地面に倒し、奪ったナイフを喉元に突き付ける。
「ねえ、お兄さん。そのカバン、お兄さんのカバンじゃないよね? 持ち主に返してあげ――」
 貴大の視界に突然、影が落ちる。
 青い制服を着た公務員が二人、貴大を見下ろしていた。
「ああ、お巡りさん。ちょうどよかっ――」
 警官は貴大の両腕を掴み一言。
「署までご同行願いますか?」
 と警官らしい一言の後、貴大を引きずって行く。
「ちょっと待ってくれ!? 俺は何もしてない! ひったくりはあの男だ!」
 そう言って、拘束から逃れ今まさに立ち上がって逃げ出そうとする男を指差す。
 片方の警官が呆れた顔で冷たく言い放つ。
「人にナイフ突き付けといてなに言ってんだ。嘘を吐くならもう少しまともな嘘を吐け」
 貴大の手にはしっかりとナイフが握られていた。これでは強盗に見えても仕方がないだろう。
 多少の弁論や抵抗を試みるが、結果は同じだった。





「えーXの値がこの数の時Yの値が――」
「すいません! 遅れました!」
 初老の数学教師の声が、授業中の二年三組の教室に飛び込んできた何者かに遮られた。
「もう昼だぞ。何してたんだ長野?」
 当然のように教師からの糾弾を貴大は受ける。
「警察署で取り調べを受けてました」
 この少年はそんなことを平然と教師に報告する。
「またか、まあいい。お前のことだから巻き込まれただけだろうし」
 そう言って教師は席に座るように促す。
 貴大は窓際の一番後ろの席に腰を下ろした。
 突然の乱入者によって、一時的に中断されていた授業が再開される。
 しかし、席に着いた途端、取り調べの疲労のせいか眠気という名の悪魔が貴大を襲う。
 授業に遅れて来た上に居眠りとあっては、再び教師の糾弾を受けることは避けられないだろう。
 それは彼も重々承知しているが、とうとう眠気を振り払うことができずに、意識を手放した。直後、横から飛んで来た教科書が横顔を直撃した。
「ほぶっ!」
 強制的に意識を連れ戻された貴大は、その代償として机から滑り落ち、醜態をさらすこととなった。
「何ふざけてんだ長野」
 床に間抜けな格好で倒れ込んでいる貴大に、不機嫌を顔に貼り付けた教師が迫る。
「い、いや、そのー。顔に何かが」
 なんとかその場を取り繕おうとするが上手く言葉が出てこないらしくモゴモゴと口を動かすばかりだ。
 「もういい、早く座れ。何言っとるかまったくわからん」
 教師は半ば呆れ顔で、教壇へと帰還していった。
「なによ『ほぶっ』って。変な声出さないで」
 机の下から脱出し、着席した貴大に向けて慈悲の欠片もない言葉が投げ掛けられる。
「やっぱりか。気持ちはありがたいが、やり方を考えろバカ」
 彼の視線の先、正確に言えば彼の右隣には髪を肩の辺りまで伸ばした女子生徒、幼馴染みの椎名湊(しいなみなと)がいた。
「素直じゃないねえ? お礼ぐらい言えないの?」
「いや、我が家では無礼には無礼で返せと言われている」
 貴大は顔を黒板に向けたままだ。
「誰が無礼なのよ!」
 湊が食って掛かる。
「お前だ。お、ま、え」
 貴大も負けじと皮肉たっぷりに言い放つ。
「言ったな、この!」
 湊は再び教科書投げつけようとする。
「さっきから騒がしいぞお前ら! 特に椎名! 教科書は投げるためにあるんじゃない!」
 教師の言葉が二人の耳に届いたときにはすでに貴大の顔に教科書がめり込んでいた。
 教師はまだ何か言いたげだったが授業の終了を告げるチャイムによって遮られ渋々といった様子で教室を出ていった。





 待ちに待った休み時間、生徒達は人気のパンを手に入れようと購買へと急ぐ者、自前の弁当を持っていつもの場所へ友人と会話を楽しみながら向かう者、教室で一人寂しく弁当をつつく者。学校の風景というものは生徒一つ取ってもその姿は三者三様だ。
 そんな昼間の喧騒漂う中一人、中庭で食パンとコーヒー牛乳のパックを片手に昼食を摂っていた。
 この学校は外観にかなりの力を入れており、校舎はまるでオフィスビルのよう、学校を囲む外壁は全て赤レンガで構築されている。当然の如く中庭も整備されており噴水が中央に設置されている。
 貴大はその中庭の一角にあるベンチにいた。
 もさもさと食パンを口に入れては口内の水分を根こそぎ奪われ、それを補充するためにコーヒー牛乳をすする、その動作を延々と続けていると突然隣に誰かが腰掛けた。それは湊だった。
「どうしたんだよ」
 貴大はぶっきらぼうに尋ねる。
「アンタまたそんなもん食べてんの? いい加減飽きない? その組み合わせ」
「用がないならさっさと帰れ」
 貴大は空になったパックを多少強めに置く。
「何? まだ怒ってんの? まあ、そんなにつんけんしなさんなって。面白い話持って来てあげたんだからさ」
 湊はおどけた様子で肩をすくめる。
「興味ねえよ」
「それでさ最近この辺りで怪事件が起きてるらしいのよ」
 貴大に興味があろうとなかろうと関係ないとでも言わんばかりに勝手に話し始めた。
 目が話しを聞くまで絶対にどこにも行かないと語っている。
「わかったよ、聞いてやるからさっさと話せ」
 湊の雰囲気に貴大の心が折れた瞬間だった。
 満足のいく返答に満面の笑みを浮かべ意気揚々と話し出す。
「それでさ、その怪事件っていうのは、人気の無い路地裏で頭と両手、両足がバラバラに引き千切られた変死体が見つかってたらしいのね」
 貴大の背中に悪寒が走る。
「そんな話し飯時にするなバカ。飯が不味くなるじゃねえか」
 かなりグロテスクな想像をしてしまった貴大はつい湊の話しを遮ってしまった。
「アンタが話せって言ったんでしょ」
「確かにそうは言ったが、時と場合を考えろって言ってんだよバカ」
 こんなことは常識だ、とでも言いたげな顔で溜め息を吐く。
「あっ、またバカって言った。バカって言った方がバカなんだ」
「お前はガキか」
 二人の言い争いは昼休みの終了を告げるチャイムが鳴るまで続いた。





 放課後、ホームルーム終了直後の教室は帰宅を急ぐ生徒が次々と教室を出ていく中、ただ一人貴大は机に突っ伏していた。
「どうした? 帰らないのか?」
 そう声を発したのは眼鏡を掛けた知的な少年だった。
 少年の名は倉修一(くらしゅういち)、貴大とは中学からの親友である。
「いや、今帰ると下駄箱が混んでるからな、少しゆっくりしてから帰るよ。それで用件は? 用があるから話しかけて来たんだろ?」
 倉は無駄な行動はほとんど取らない。彼が話しかけてきたのは何か訳があってのことだと貴大は推測する。
 長年一緒にいると人間の行動は読めてくるようになるものだ。
「駅前に新しくできたCDショップを知ってるか?」
 貴大は頷くことで肯定を示す。
「それでだ、どうせこの後暇だろ? 良かったら一緒に行ってみないか?」
 貴大は何か予定を探すように視線を泳がす。
「わかった、行ってみるか」
 結局、何も予定が見つからなかったようで貴大は彼の意見を承諾した。





 二人が店を出る頃には夕日が空を紅く染め、街行く人々は帰宅を急いでいた。
「すっかり遅くなっちまったな」
 そう言った貴大の手には、学生鞄と共にショップの袋が握られていた。
「そうだな、この後どうする? メシでも食べて行くか?」
「悪い、さっきので金なくなっちまってさ、今日は無理だ」
「そっか、じゃあ今日はこれで解散ってことで」
「おう、また明日な」
 二人がお互いにそれぞれの家に向けて、一歩踏み出そうとした直後。
「おい」
 唐突に背後から二人を呼び止める声が上がった。
(まさか、な。あり得ないだろ)
 嫌な予感が貴大の頭をよぎる。
 上半身を捻り、声の主を確認する。その予感はすぐに現実のものとなった。
 そこには今朝、貴大に絡んできたニット帽の男と、その仲間であると思われるガラの悪い男が数人、道をふさぐように立っていた。
「俺が注意を引き付けるからお前は逃げろ」
 倉にだけ聞こえるように小さな声で言う。
 倉は無言で頷き一言
「貴大……やり過ぎるなよ」
 それだけ言うと、人混みの中へと駆け込んでいった。
 チンピラの内の何人かがその背中を追いかけようとするが、それを遮るように貴大が一歩前にでる。
「今朝はどうも、ところで一体何の用? そんなに沢山お友達を連れて来て、なんか楽しいことでもあるのかな?」
 貴大としては、できるだけ相手を刺激しないように、配慮して言ったつもりだったが、余裕な態度が裏目に出た。その態度を挑発と受け取ったらしく、目が殺気立っている。どうやらすでに臨戦体制のようだ。
 ここで暴れられては周りの通行人を巻き込んでしまうことは必至だろう。
 一瞬の思考の後、貴大はチンピラ達とは逆方向へ走り出す。
「てめえ、待ちやがれ!」
 当然の如くチンピラ達は逃げ出した標的をそのままにする訳もなく、その背中を追う。
 数分間の逃走劇の後、貴大が足を止めたのは人の気配など微塵もない路地裏の行き止まりだった。
「これでもう逃げられねえぞ。『年貢の支払い時』ってやつだ」
 ニット帽の男はニヤニヤと勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「それを言うなら『年貢の納め時』だ」
 貴大はそれに負けないくらいの余裕を見せる。
 それを見るやいなやニット帽の男はさっきまでの笑みを完全に消し去り、今は怒りに顔を歪めていた。
「ぶっ殺してやる」
 ニット帽の男が指示を出すと同時に、他の奴らが貴大を円状に取り囲むように広がる。
 敵の数はニット帽の男を含め六人、普通の人であればまともに戦って勝てる戦力差ではない。
「まあ、待てって。ここでやり合ってもお互いにメリットなんてないだろ? ここは俺が悪かったってことにして、謝るからこれで終わりにしないか?」
 ここにきて貴大は平和的解決を提案するが、人生はそう甘くないことをすぐに思い知らされる。
「ふざけんな! 今さらんなことで済まされると思ってんのか? こっちはお前を殴らないと気が済まねえんだよ!」
「だよな……」
 貴大は深い溜め息を吐き、困ったような表情を浮かべる。
「警告はしたからな!」
 貴大は相手が動く前に右側に大きく踏み込み、一番近くにいた男の顔面に肘を打ち込む。
 嫌な音を立てて男の鼻がへし折れ、そのまま鼻血を吹き出しながら背中から倒れ込んだ。
 一瞬の内に仲間の一人が倒されたことに、チンピラ達に動揺が走る。
「かかって来いよ。俺を殺すんだろ?」
 貴大は冷たく微笑む。
「らぁぁぁぁ!」
 正面と左から二人、己を奮い立たすように、声を荒げ貴大に迫る。
 顔面に向けて放たれた正面からの拳を紙一重で避け、その腕を掴むと遠心力を味方につけ、左から迫ってきた奴に向けて投げ飛ばす。
 すでに拳を引き、殴る体制に入っていた奴は、対応できずに投げ飛ばされた仲間と衝突し、壁に叩き付けられる。
 その際打ち所が悪かったのか、二人とも地面に崩れ落ちたまま起き上がってこない。
 残り三人。





 彼らは焦っていた。六対一、負けるはずのない状況。いつものように標的を痛め付けて、地面に這いつくばるのを笑って眺めている光景が、ほんの十秒前まで脳裏に浮かんでいた。
 しかし、今現実としてそこにあるのは地面に這いつくばる標的ではなく、呆気なくやられてしまった三人の仲間とただ立っているだけのはずなのに、強烈なプレッシャーを感じさせる一人の男の姿。
 今でも数では彼らが、絶対的優位に立っている事実は変わらない。だが、それを理解していても一歩づつ迫ってくる貴大に、知らず知らずのうちに後退りしてしまっていた。
 その時、唐突に身体が変調を訴えた。燃えるような熱さが、身体の奥から沸き上がって来る。
 熱さから何とか逃れようと激しくもがくが、身体に付いた火を振り払うのとは訳が違う。そんなことをしても熱さから逃れることはできない。
 それでも、もがき続けずにはいられない。意識が遠のいていく。必死の抵抗も虚しく意識を手放した。





 貴大の瞳には戸惑いの色が浮かんでいた。
 彼ら六人の内三人を片付け、同様に残りの三人も倒すべく歩を進めていた。しかし、数歩近付いたところで突然ニット帽の男が苦しみ出した。
それに続くように他の二人も苦しみ出したのだから。
 貴大はそんな彼らの姿にどうすることもできず、ただ成り行きを見守る。
 彼らが苦しみ出してから数十秒が経った。貴大はそこで信じられない光景を目にする。
 もがき苦しんでいた一人の男の動きが止まったと思った次の瞬間、四肢と首が千切れ飛んだ。
 断末魔の叫びさえもない。それほど突然だった。
 生々しい断面からは四肢が吹き飛んだ直後だからか、まだ活動を停止することなく動いている心臓から吐き出され続ける鮮血が吹き出す。
 それを追うようにもう一人も、四肢と首が千切れ飛ぶ。二つの肉塊は、赤い水を撒き散らすスプリンクラーとなって、辺りにドロリとした水溜まりを形成する。
 水溜まりは吐き気を誘う悪臭を辺りに撒き散らす。
 あまりの光景に貴大は言葉を失い、ただ立ち尽くす。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
 ただ一人、他の二人とは違い肉塊になることのなかったニット帽の男が突然、悲鳴にも似た雄叫びを上げた。
 唖然としていた貴大はその雄叫びで正気に戻る。
 そして視界に飛び込んでくるのは身体が肥大し、三メートル近い大きさになったニット帽の男。人間の形を成してはいるが、筋肉が異常なまでに発達し、腕や脚は貴大の胴体ほどもある。
「マジかよ……」
 思わずそんな呟きが口をついて出た。
 もはや原型のわからなくなった怪物は、有り余る筋力に任せて振り上げた拳を貴大に向けて振り下ろす。
 貴大は脚に渾身の力を込めて右に飛ぶ。
 拳は左脚を掠めただけで貴大を捉えることなく地面に突き刺さった。凄まじい力は、コンクリートを砕くだけでは収まらず、地面の隆起を起こさせる。もし、直撃すれば死は免れないだろう。嫌な汗が額から頬を伝っていく。
 ニット帽の男の変貌に貴大は完全に勝機を逸した。
 勝ち目のない闘いと死への恐怖から逃走を図ろうとする。しかし、目の前の怪物はそれを許さない。
 貴大の前に立ちふさがり次々と拳を繰り出す。
 どの拳もギリギリで回避するが、だんだんと行き止まりへ追い詰められていく。
 再三死の危険を回避した貴大だったが、その命運もついに尽きた。
 ニット帽の男だった怪物によって、隆起させられた地面に脚をとられた。
 急いで起き上がろうとするが時すでに遅し。眼前に迫った拳は止まらない。
 貴大はかたく目を閉じる。
 死……それはもうそこまで迫っていた。
 だが、覚悟したはずの死は一向にやってこない。
 代わりに音が聞こえた。それは、刃物が肉を切断する音と怪物の叫び。
 もう光を見ることはないと、閉じていた目をゆっくりと開ける。
 最初に瞳に写ったのは、腰の辺りにまである長い髪を風にたなびかせる少女の後ろ姿だった。
 彼女の出で立ちは一言で表すなら黒、風でなびくワンピースも髪も瞳も全てが漆黒。
 その手に握る日本刀さえ刀身は漆黒。
 日本刀は血にまみれ鈍い光を放ち、まるで血を吸っているようにも見える。
 服装とは真逆の白く透き通った顔には、返り血であろうか、赤い斑点がいくつもついている。
 少女は貴大と怪物の間に割って入る形で立っていた。すぐそばには怪物の腕が転がっている。
「あ、あの……助けてくれてありがっ――」
「邪魔!!」
 言い終わる前に少女は貴大を蹴り飛ばす。
 華奢な体躯からは、考えられないほどの力で、蹴り飛ばされた貴大は壁に叩き付けられる。
 さっきまで貴大がいたところには、怪物によってポッカリと穴が空けられていた。
「ボーっとしてないでさっさとどこかに隠れて! じゃないとアンタ死ぬわよ!」
 凛とした声で少女は言う。
 唯一の逃げ道は怪物の巨体によって塞がれている。この路地裏を出ることはできない。
 少女の蹴りと壁との衝突で痛む身体に鞭を打ち、少女に言われるままに、近くにあったドラム缶の後ろに隠れ様子を伺う。
 少女は刀を肩に担ぎ、あの怪物を真正面から睨み付けていた。
「お前に恨みはないけどそうなってしまった以上……殺す」
 肩に担いでいた刀を正面に構える、いわゆる正眼の構えというものだ。
 怪物は残った腕で少女を叩き潰そうとする。
 拳が眼前に迫って来ても少女は、避ける動作はおろか微動だにしない。
「バカ! 逃げろ!」
 貴大はたまらず叫ぶ。
 その心配をよそに少女はまったく動く気配がない。
「必要ない」
 静かに冷たい、凛とした一言が響く。
 拳が届く前に漆黒の刀身が怪物の足元に伸びていく。
 気付いた時には怪物の膝から下が無くなっていた。
 支えを無くした巨体は、その場に静止できるわけもなく、重力に従って落下する。
 怪物は巨体をくねらせ、ただ一つ残された片腕でもがき、抵抗する。
 そんな怪物を欠片の温かさも感じさせない、凍てついた瞳で少女は見下ろす。
「消えろ」
 少女の瞳と同じ、冷たい刀身が怪物の眉間に突き刺さる。
 断末魔の叫びと共に、巨体は消滅した。後に残ったのは眉間を地面に縫い付けられて、絶命してるニット帽の男。
 今や路地裏は鉄の臭いが充満し、無惨に命を散らした男たちが、散らばっていた。貴大が気絶させた奴らも、怪物によって絶命させられていた。
 少女はニット帽の男を縫い付けていた漆黒の一振りを引き抜く。
 べっとりと付いた血を振り払うと、貴大の元へと向かってくる。
「いつまでも隠れてないでそろそろ出てきたら?」
 貴大は安全を確認するように辺りを見渡し、ゆっくりと姿を表す。
 そして溜め込んでいた思いを爆発させる。
「アンタは何者だ? どうしてアイツはあんな姿になった? 他の奴らはどうしてあんなことに!?」
 沸いてくる疑問を次々と目の前の少女にぶつけていく。
「うるさい」
 少女はうんざりした顔をして、何か変なものでも見るような目を貴大に向ける。
「これは最近起きてる事件と関係があるのか?」
 軽いパニックに陥っている貴大は、少女の声を無視して質問を続ける。
「うるさいって言ってるのがわからない? 死にたいの?」
 少女は刃を貴大の喉元に突き付ける。
 一筋の汗が頬を伝い地面に斑点を作る。彼女の目は、怪物を見ている時のものと同質のものだった。
 貴大は一瞬にして冷静にならざる得なかった。
 そうしなければ漆黒の刃が喉元を切り裂き、自分は死ぬと知ったから。
 己の命を守るため、貴大は口を閉じる。
 少女は喉元から静かに刃を引くと、無表情のまま無言でその場を去っていった。
「何なんだよ、一体」
 路地裏には貴大の悲痛な声だけが響いていた。





 翌朝、貴大の目覚めは最悪だった。当然のことだ。あんな体験をしておいて、目覚めが良いのは頭がおかしいか、相当なオカルトマニアのどちらかだけだ。
 寝間着として着用していたTシャツが汗で体に張り付いて不快感を助長させる。
もしかしたら昨日の出来事は全て夢だったのではないか、という考えが頭をよぎる。しかし、現実は無情だ。脚には怪物の拳が掠めた痕がはっきりと残っていた。
 故に彼は半強制的に現実逃避をすることを許されなかった。
 何気なく、真っ白な壁に掛かっている丸時計に目をやる。おそらくそうすることが習慣化しているのだろう。時刻は五時半を指していた。
 微かに開いているカーテンの隙間から外を覗く。多少明るくなってきてはいるが、まだ少し暗い。街灯も点いている。
 再びベッドに身体を預け目を閉じる。
 しかし、どうしても眠れないのかすぐに起き上がる。それを三度ほど繰り返すと、諦めたのか朝の支度をするべく自室のある二階から、一階へ移動する。
 一戸建てのこの家は、一階はリビングを中心とした生活スペースが、二階には貴大の自室と父親の書斎、両親の寝室がある。
 一階のリビングは寂しいもので、中央に据え置かれている四人掛けの長方形の食卓の他には、テレビと合成革の安いソファーぐらいしかない。そのわりに広く、かなりのスペースをもてあましている。
 父親は貴大が中学校に入学すると、仕事の関係ですぐに海外へ行ってしまった。現在、父親との交流は毎月の仕送りだけだ。
 母親は貴大を産んだ直後に死んだ。彼は写真でしか母親を見たことがない。
 故にこの家には今貴大しか住んでいない。
 そのことが余計に部屋を広く見せていた。
 昨日は帰って来てすぐに寝てしまったので、無造作に脱ぎ捨てられた制服がソファーに床にと散乱している。
 こんな時間なので辺りは物音一つしない。
 ソファーに放り投げてあるリモコンを手にとり、テレビの電源を入れる。
 画面に女性のアナウンサーが映し出される。淡々とニュースを読み上げる姿は、まるで眠気を感じさせず、今が早朝だということを忘れさせる。
 台所に行き、冷蔵庫から未開封のミネラルウォーターを取り出し、半分ほどを一気に飲み干す。続けて、食パンと卵を取り出して簡単な朝食を作る。
 しかし、作ったはいいもののなかなか喉を通ってくれない。水で流し込むようにして食べているとテレビに見覚えのある光景が写し出された。
 それは昨日の路地裏だった。
 路地裏には早朝にも関わらず、大量の野次馬と報道陣。現場にはお馴染みの黄色いテープが張り巡らされ、その奥はブルーシートで覆い隠されている。
 レポーターが少し興奮気味に現場の状況を伝える。
「現在、警察による現場検証が行われています。被害者は六名。いづれも死体の損傷が激しく、所持品も身分を証明するものがないため身元は未だ不明です」
 これ以上見ているとまたあの光景が蘇りそうになる。
 テレビの電源を切り、立ち上がる。椅子と床が擦れて不快な音が上がった。
 のろのろした動きで洗面所へ向かう。洗面台の正面に取り付けられた鏡には、当然のごとく貴大の顔が映し出されている。いつもより多少顔色が悪い上に顔にはいくつか擦り傷があった。
 蛇口をひねり、出てきた冷水をすくっては顔に浴びせる。
 不安を振り払うように何度も何度も、力強く。
閑散としたリビングに戻り、散らばっている制服を拾い上げる。ハンガーにも掛けず、放置していたため制服にはシワが目立つ。
 丁寧にシワを伸ばすと、手早く着替えを済まして、玄関に向かう。
「行ってきます」
 彼以外誰もいない空間に声が響く。その余韻が消え去らない内に貴大は玄関を出た。





 川沿いの土手を貴大はゆっくりと歩いていた。
 彼の住む町は一本の川によって、東西に分断されている。西側には主に駅や彼が通う学校などの都市機能を担う市街地が、東側には住宅地が広がっており、貴大の自宅もこちら側に建っている。
 ここ最近、夏のような暑さが続いていたとはいえ、暦は五月な上にまだ日も昇っていない早朝、空気は冷たい。
 自然と手はポケットの中に逃げ込み、背中は丸くなる。
 一人寂しく、校庭のど真ん中を突っ切って昇降口へと向かう。
 金属製の下駄箱の戸は、開けると同時に、金属特有の摩擦音を響かせる。慣れた手つきでスニーカーを上履きに履き替える。
 貴大の所属する二年三組の教室は三階の一番奥にある。そのため、その日の科目によって移動に、かなりの労力を要することになる。幸い、今日は比較的使用する教科書が少ないので、そこまでの体力を消費することなく教室にたどり着くことができた。
 しかし、そうは言っても実際のところ教科書が詰まった鞄はなかなか重い。机の両脇にあるフックの内、右側のものに鞄の紐を掛ける。紐は教科書の重量に悲鳴を上げるように軋み、限界までその身を伸ばす。
 貴大は席に着き上半身をだらしなく机に投げ出す。そのまま顔だけを横に向けて、ガラス越しに空を流れる雲を眺める。雲はその姿を様々に変えながら、一定の速さで行き過ぎていく。
 小一時間ほど、そんな状態で呆けていると、ドアの開閉音とともに誰かが教室に入って来た。貴大は反射的に顔を上げて、来訪者を確認する。
 そこには、無愛想をそのまま具現化したような表情を整った顔に張り付けて、腰の辺りまである、ストレートの黒髪を無造作に垂らす少女が立っていた。
 貴大はこの少女にどこか見覚えがあった。彼は同じクラス以外の生徒は、あまり覚えていない。少年がどこで会ったか、思考を巡らせていると、いつの間に移動したのか少女は少年の前に立っていた。
「えっと……俺に何か用?」
 貴大の前に立っている時点で、彼に用事があることは自明だが、礼儀として一応、尋ねてみる。
「貴方に話しがある。休み時間に中庭に来て」
 それだけを言い残すと少女はさっさと教室を出ていってしまった。返事をする前に当人がいなくなってしまったため、貴大はその場に立ち尽くすしかなくなってしまった。
 それから十分ほど経つと、教室は登校してきた生徒で賑わい始めていた。大抵の生徒は友人との雑談に華を咲かせているが、貴大はそれに加わることなく、再び空を眺めていた。
 突然、後ろから肩を叩かれ、貴大は振り返る。そこには眼鏡のよく似合う少年がいた。
「なんだ、倉か」
 貴大は少年を一瞥すると再び窓の外へと視線を移す。倉はその多少素っ気ない態度に顔をしかめながら、上の空の友人に話しかける。
「珍しいな、遅刻の常習犯のお前がこんな早くに来てるなんて」
「俺だってたまにはそうそう気分になるんだよ」
 倉は皮肉のつもりで言ったのだが、貴大は視線を固定させたまま、当たり障りのない返事を返す。
 彼の態度は素っ気ないというよりも、意識が遠へ行ってしまっているようだった。






2009/04/25(Sat)14:09:09 公開 / 気まぐれ猫
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